社会教育関係者にとっての電子メールの存在価値  −自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権の誕生−  昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 1 N対Nのコミュニケーションの「道具」としての電子メール  インターネットというとホームページばかりが脚光を浴びている印象がある。しかし、いにしえの(!?)パソコン通信(略称パソ通)マニアのぼくとしては、そして、10年以上前から(当時東京都社会教育主事補、現在社会教育主事課程担当教員)、生涯学習社会への移行のために市民発信型のパソ通のパワーを導入しようと提案し、少なくともそのときは果たせなかったぼくとしては、ここで、ぜひ、社会教育関係者に電子メールの活用を呼びかけたいのである。  もちろん、そこには、電子メールが郵便よりも早くて便利であるという理由もある。しかし、それだけだったら、ここで力説するほどのことではないとぼくは思う。便利だと思う人が使えばよいからである。実際、ぼくなどは、その逆に、青年教室での青年とのつきあいなど、最近はオフラインでの出会いばかりに夢中で、パソコンのメールボックスをたびたびあけるのが面倒くさく、せっかくメールを送ってくれた人たちが業を煮やして「早く読んでレスポンス(反応)をください」と口頭で伝えてきたり、別途、郵便で送ってきたりするなど、かえって迷惑をかけまくっている有り様なのだ。  ぼくがここで呼びかけたいのは、N対N(不特定多数同士)のコミュニケーションツール(道具)としての電子メールの活用である。N対Nの電子メールは、全世界に直接通じているなどのプラスアルファをおいても、パソ通の過去の「電子掲示板」(BBS)や現在の「電子会議室」と同様に、現代社会のディス・コミュニケーション状況の打破のための強力なツールになりうる。  ちなみに、すべての通信技術は、あくまでも通信内容のための合目的的なツールであって、即目的的な価値そのものではない。道具に価値をおいてしまうことは、物神化、物神崇拝として批判される。ここでの本当の神(価値)は、道具にではなく、コミュニケーション内容にある。あるいは、通信内容の背後にある「自己への気づきと癒し」、あるいはひとことで「愛」にあるといってもよいかもしれない。  なお、ぼくは、「電子掲示板」という古き呼び名がどちらかというと好きだ。今では、この言葉は、一方的通知の場合に使われることが多いようだが、そんなに限定的に使用する必然性はあるまい。誰かが、通りや公園の掲示板に勝手に自分の意見を貼り出す。すると、その意見に関心をもった人が、その横に支持や批判のレスポンスを貼り出す。その経緯を楽しみにして読んでいるだけの人もいる。これは社会教育が今まで求めてきた住民の自由な自己教育、相互教育の姿と一致するではないか。 2 社会教育職員のメーリングリストの活用  その事例として、東京都及び東京都特別区の社会教育主事を中心とするメーリングリストの活用を紹介する(研究会通信オフライン版特別号の写真)。現在は、社会教育の雑誌などで、「社会教育関係職員や研究者ばかりでなく、幅広く会社員、編集者、教員、団体職員等」にも参加を呼びかけている(全日本社会教育連合会「社会教育」1997年2月号)。ぼくもこれに入れてもらった。主宰者の新宿区社会教育主事の吉田嘉秀さんの自由に愛を受発信する公務員としての生き方に共感したからである。コミュニケーションとはそんなものであるとぼくは思う。  加入して1週間後にメールボックスをあけてみると、メンバー間のメールのやりとりで、あっという間にボックスがいっぱいになっている。今までぽつぽつとしかメールをもらっていなかったぼくとしては、そのときはなんだか仲間が増えた感じで嬉しかったが、実際に全部のメールを読んだら1時間以上もかかってしまった。はっきりいってぼくは恐れを感じた。「ぼくはこれに全部つきあわなければいけないのか。でも、加入した以上、積極的に参加するのがネットワーカーとしての責任なのではないか・・・・」。そうしたら、吉田さんから「タイトルを見て、好きなものだけ読めばいいんです。あとは自分のボックスからはどんどん削除していいんですよ」というぼく宛のメール(1対1のメールもそれなりの意味がある!)がきて、ほっとした。このグループでは、現在は、「相槌を打つだけのレスポンスは、メーリングリストには載せないようにしよう」、「種別をいれるなど、題名をわかりやすくしよう」などのネチケット(ネットワークのエチケット)が確立しつつある。  ただし、吉田さん自身は、このようなフォローを含め、朝晩の自宅からのアクセスに加えて、パームトップ(掌上サイズの)マシンと携帯電話とのコネクトによる昼休みのアクセスも考えているほどである。ボランティアやネットワークの本質は「自分のため」であるとはいえ、世話人になるのならそのぐらいは覚悟して、それを楽しいと思っておいたほうがよい。というより、電子メールネットワークにおいては、そのネットワークのどこ(垂直方向ではなく、水平方向)に自分が位置するかを自己決定すればよいのである。世話人をやってくれる人がいない場合はどうすればよいか。あきらめるか、正規の職務(研修扱い)として認めてもらうか、のどちらかだと思う。少なくとも、「だれもなり手がいないから、仕方なしに自分がやる」という自己犠牲の精神は、ボランタリーなネットワークにはなじまない。  なお、テーマからはやや外れるが、現在、多くの自治体で構築が進んでいる生涯学習情報データベースについて提言を述べておきたい。そこでの担当者の悩みは、アクセスが少ないことだ。なぜ、多くの人が利用しようとしないかというと、それは、先述のような選択に迷うほど魅力的なデータがたくさん入っているという状態にはなっていないからである。ガイドブックですむぐらいのデータ数ならコンピュータなんか面倒くさい。ぼくも、システム構築のお先棒を担いだ人間の一人であるから責任はある。だが、ここでいいたいのは、学習者発信型のN対Nの双方向コミュニケーションの魅力(神!)と、それによるアクティブな反復利用者(リピーター)の拡大とデータ数の等比級数的増大、そして、その自然な結果としての利用拡大である。ぜひ、市民発信型の生涯学習情報システムにしてほしい。 3 水平異質共生の出会いによる気づきと癒しの仮想的コミュニティ  現代社会は残念ながら学歴偏重など、画一的な物差しのもとに、同質の価値観をもつものが上下に競いあう「上下同質競争社会」であるとぼくは考える。しかし、だからこそ、社会教育は、従来から暖かみのあるコミュニティ意識の涵養というかたちで、突出的サンマ(時間・空間・仲間)を創り出そうとしてきたのだ。  しかし、これから求められるコミュニティとは何なのだろうか。ぼくが年間講師をしている狛プー(狛江プータロー教室、狛江市中央公民館主催の青年教室)が2年目を迎えるときだったか、やっとメンバーが定着し、よい関係ができ始めたときだったので、ぼくは従来のグループの形成過程の理論に則って、新メンバーを募集するのを控えて現在のメンバー間のより深い信頼関係を築こうと提案したことがある。すると、キーパーソン(鍵になる人物)の一人、保健婦のM子が、「もっとたくさんの人と出会いたい」といって、チラシを積極的にまくよう主張したのである。しかも、彼女は、数年後、かねてからあこがれていた小笠原に異動になって喜んで行ってしまっている。  彼女は、今までの青年活動のリーダー像とはかなり異なる。「みんなのため」「団体のため」というお題目が彼女の内側にはまったくないといってよい。そして、自分らしさを大切にすると同時に、マス(人のかたまり)よりも一人ひとりの異なる個との対等な出会いを大切にする。また、その個に対しても、「団体の維持・発展のために活発に活動しているかどうか」より、他者の個そのもの(ぼくの言葉では「個の深み」)に関心をもつのである。彼女が求めているものは、水平異質共生の出会いといえるだろう。その出会いには、ピアコンセプト(同質の仲良し仲間を求める意識)を切り捨てることによるネットワーク独特の淋しさもあるが、それゆえに、社会教育が本来追求してきたはずの自立に向かう気づきがあり、教育が忘れがちであった「あるがままの自他を両手を広げて歓迎しあうサンマ(時間・空間・仲間)」による本当の癒しがあるのである。  今、自立した市民が求めるコミュニティとは、このようなネットワーク型の水平異質共生の出会いによる癒されるコミュニティなのではないか。そして、メーリングリストには、そういう交流を可能にする仮想的コミュニティとしての特性があるのだとぼくは思う。  その理由としては、ぼくは次のように考えている。平成3年4月『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』(学文社)においては、N対Nのパソコン通信のMAZE(迷路)における新しい知が、以下の特性をもっていることを主張した。@ボランタリズム化、Aアマチュア化、B個別化、C雑多化、D民主化、E非体系化。集団的な特性については、@撤退する自由がある、A個人主義が障害にならない、Bバーンアウト(燃え尽き)が、むしろコミュニケーションの成熟化につながる、を挙げた。平成5年3月『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません』(同)においては、トランスペアレンシー(ツールの透明感)というパソ通の成熟したコミュニケーションが、ストローク(相手への認知の伝達)の自由と恐怖を純化して味わえる重要な機会であることを指摘した。また、パソ通などの「書き言葉メディア」(しかも、話し言葉的な気楽さを兼ね備えている!)がもつ可能性を訴えた。平成9年3月『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』(同)においては、ネットワークの「指導」という困難な課題に対して、シンパシー、ストローク、エンカウンターの3要素のもつ可能性を追求している。この3要素の営みが、@双方向的、A即時的、B空間超越的、C検索可能、D蓄積可能、E端末処理自由(前掲『かくろん』)という特性のもとに、かつ水平にやりとりできるのがパソ通であり、現在のメーリングリストなのである。  さらに、このパソ通の電子掲示板的特性に、今日のインターネットとしての特性を付加して考えるならば、ユニバーサルアクセスの可能性とともに、インターネットという言葉のとおり、さまざまな大小ネットワークが水平に結ばれることの可能性に注目したい。すなわち、インターネット以前の情報システムがどうしても中央集権的なヒエラルキー(上下階層制度)の呪縛から抜け出せなかったのに対して、ネットワークがあちこちでボランタリーに勝手につくられても、必要なときはインターネットすればよいのだから困ることはないということから、本来のネットワーク型の権限移譲の情報交流が可能になったのである。 4 自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権  そうはいっても、最初に述べたような市民発信型(または職員個人発信型)の電子的コミュニケーションについては、行政側の抵抗感や恐怖心は並み大抵のものではない。行政は撤退してしまって、ボランティア個人や非営利組織、または営利組織の責任でシステムを運用した方が結果としてはよいものになるという思いさえもぼくにはある。しかし、共生社会創造のための現代の行政独自の役割を考えた場合、社会教育行政や生涯学習推進行政が先頭を切って、市民が自由に発信する電子的コミュニケーションのための条件整備に乗り出すことは本当は行政としての責務とも思えるのだ。  ぼくが社会教育職員としてこれを提案した当時は、「パソコンをもっていない人に対して不公平ではないか」、「信用できない情報も入れられてしまうのではないか」、「人権侵害や猥褻な書き込みをされたらどうするのか」などの反対理由が多かった。最近、自治体の委員会などで行政関係者がこの提案に対して心配するおもな事項は、上に加えてプライバシーと著作権である。たしかに、行政の公平性、信頼性はもちろん重要だし、プライバシーや著作権の保護などについては、現代社会全体においてはむしろお寒い状況である。ぼくも、行政職員はもっとこれらのことに神経質になってもなりすぎることはないと思っている。  では、どうすればよいか。パソコンをもっていない人にも、公共施設などに自由にさわれるインターネット端末を配置して、コンピュータリテラシー(読み書き能力)の習得を援助する必要がある(公平性)。困った書き込みをしてくる人もいるかもしれないが、自由なネットワークのなかだからこそ、批判され、相互教育が可能になる(ネットワークの教育力と自浄作用)。また、受信者の側も、行政依存型の態度をあらため、行政の運用する情報システムに対し、自分自身の批評的な目と主体的な判断で接するべきである。ただし、行政側の運用自体に問題があると思えば、率直に批判し、よりよい対案を提起するのがネットワーカーとしての責任であろう(市民と行政の本来の信頼関係に基づく協働)。さらに、プライバシーや著作権については、発信者の意思を今まで以上に尊重する態度が必要である。このような能動的な対応こそが、情報化の望ましい進展のために求められる行政の役割なのである。  その到達点のもうひとつ先の段階に、生涯学習社会の移行途中の今日、突出的空間として見え隠れしている水平異質共生のコミュニティがある。それは、「私はこれだったら得意だから、みんなに教えてあげるよ」という生涯学習ボランティア、「こういうことを考えたからアップロードしておきます。よかったらぜひこれをほかにもどんどん紹介してください。著作料(財産権)はいりません。でも出所は私であることは明らかにしてくださいね(氏名表示権)」という情報ボランティア、そういう人たちが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界である。アマチュアによる知的生産や情報発信にはそういう強みがある。ぼくは、これを、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼んでいる。上下同質競争に飽き足りなくなって、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが、突出的水平空間においては生まれつつあるのだ。  こういう自立した市民同士の人間交流こそ本当の癒しを与えてくれる。そういう個人と社会の望ましい好循環の関係に対して、行政が最大限の関心をはらうことは当然のことである。本来の地縁的コミュニティの回復にもつながることさえ期待できるのだから。ただし、そこでのコミュニティ回復とは、従来型の上下同質競争のヒエラルキーとしてではなく、未来型の水平異質共生のネットワークとしてのものである。