論文 ボランティア指導者を「指導」できるのか  ー(財)埼玉県県民活動総合センター「市民講師ゼミナール」の講師として  昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 1 ボランティアコーディネータは    ボランティアを「指導」できるのか  平成7年1月17日の阪神大震災の救援ボランティアに全国の若者たちが駆けつけたことから、「日本の若者はしらけており、ボランティアの風土はない」という論調は崩されたといえよう。むしろ、せっかくボランティアをしたい人がいるのに、社会がそれを需要と結びつけるコーディネート機能をもたないことこそ問題であることが明らかになった。ボランティアコーディネータとは、ボランティアをしたい人と必要とする所をつなげる者という意味である。全国ボランティア活動振興センターでは、ボランティアコーディネータの業務内容に、学習の援助及び場の提供、相談・助言などを入れているが、それらの役割が社会教育指導者の役割と大きく重なっていることは興味深い。  一方、生涯学習ボランティアについては、生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(平成4年7月)が、@ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習になる、Aボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための学習として生涯学習があり、学習の成果を生かし、深める実践としてボランティア活動がある、B人々の生涯学習を支援するボランティア活動によって、生涯学習の振興が一層図られる、の3点を生涯学習とボランティア活動との関連の視点として指摘している。ボランティアそのものが学びであり、ボランティアするために学び、その学びを生かすためにボランティアがあるということである。ただし、狭義の生涯学習ボランティアとは、Bの人々の生涯学習を支援するボランティアのことをさす。本論でもこれを前提とする。ただし、その場合でも、ここで挙げる市民講師などの「指導的な活動」のほかに、会場整備などの「お手伝い的な活動」も、その意思が尊重されるべきである。  さて、今回取り上げた市民講師のような生涯学習の指導的なボランティア(若干の謝金程度の収入はあるかもしれないが)の独自な学習要求や学習必要に対して、生涯学習推進行政や機関等は、学習機関・場所、支援・育成プログラムなどの提供を十分に行なっているかどうか。「やるだけのことはやっている」と答えるとしても心許ない。生涯学習ボランティアをコーディネートすることは難しいことだからである。なぜ難しいのか。ボランティアも生涯学習も、自己決定の活動だからである。ボランティア活動とは、お金をもらうためではなく、自分から進んで、だれかの役に立とうとする活動のことであり、また、生涯学習活動とは、学びたい手段を自ら選んで、自らが学びたいことを学ぶことである。  ぼくは、自己決定の社会的活動として、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つを挙げている。それ以外の社会的活動(たとえば職業)には、純粋な自己決定の場は見当たらないのだ。ところが、自分が自分の人生を決めたいとは誰もが思うことである。だからこそこの3つは、現代社会における「もうひとつの生き方」として、現代人の普遍的課題となりつつあるのだ。そういう自己決定の本質を損なうことなく、生涯学習ボランティアを支援するということはできるのか。しかも、ここで挙げる支援対象は、市民講師という専門的な指導者であり、ここで挙げる支援方法とは、その人たちに講師の「指導」を通した学習機会を提供するということである。つまり、本論は、ボランティアコーディネータが自己決定のボランティアを「指導」できるのかというアポリア(行き詰まりの難問)に挑戦しようとするものである。  ここで、とりあえずひとつだけ、その答の糸口になるとぼくなりに思うことを提示しておきたい。自己決定であるはずのボランティアや生涯学習の場が、自己決定ではないこともあるのだ。ある市の公民館事業の市民企画委員会(これも生涯学習ボランティア活動である)の研修の講師に行ったとき、「○○をやりたい」という新人委員に、ベテラン委員が「婦人教室で趣味の講座をやるのはだめです。必ず女性問題を学習するという、先輩委員たちが蓄積してきた民主的伝統があるのです」といっているのに出くわしたことがある。ぼくは、さっそく、「女性問題をなぜやりたいのか、あなた自身の意見を述べたらどうですか」と横ヤリを入れた。自分の意見ではなく、「民主的」とか「蓄積」とか「経緯」とかの「言葉の権威」を盾にするのはフェアではない。自己決定の発言というリスクを背負っていないからだ。このように、自己決定で生きること、自立すること、は簡単ではない。完全な自己決定の世界とは、現在の到達段階でも、近い将来の到達目標でもなくて、主体性をともに獲得していく共育の営みの到達し得ない最終目的なのである。 2 「個の深み」と出会うコーディネート  そんなことを考えていたぼくに、(財)埼玉県県民活動総合センターから「市民講師ゼミナール」の事業計画が持ち込まれ、プログラムの企画から、全5回分のすべての講師まで含めて、全面的に関与してほしいという依頼があったので、喜んで引き受けた。案の定、県全域から集まった市民講師29人はとても楽しい人たちで、ぼくにとっても「意味ある他者」のそれぞれの「個の深み」(『かくろん』p4)との意義深い出会いを得ることができた。  支援内容(目標を含む)は次のように多彩である(、以下の並列はマルチタレント等の一個人を意味する)。油絵、デッサン、水彩画。水墨、墨彩、囲碁、太極拳。着付け。社交ダンス。陶芸指導。木彫り。俳句クラブのボランティア講師。市の案内人(ガイド)。書道、絵画の部長。読書会リーダー。読書グループをつくりたい。絵本の読み聞かせ。シニアリーダーとしての成人との対話。シニアの仲間づくり支援講座準備中。福祉ボランティア。女性史、女性問題。女性の生きがい探しの会代表。女性に関する何でも学習会。今の生活にあきらめやがまんをしている主婦に生き方を変えられることを身をもって示すことができるようになりたい。カラオケ教室。生涯学習のコミュニティづくり。地域の生涯学習推進・支援見習い中。余暇生活支援、ライフプラン設計。行政のイベントコーディネータ、地域イベントプランナー、地域人間マップ作成中。自己表現トレーニング。老人会会長。生活クラブ生協班活動。心の健康等のソフトボランティア探し中。成人男子に生涯学習を勧めるため見習い中。会社人間からの脱皮努力中。コーディネート能力習得中。自分で何ができるか探検中。自己開発学習サークル会員。自己開発スキルのチュータをめざしている。吃音を克服した芸能人であり、体験発表の場をつくりたい。何にしぼるか検討中・・・・。  従来から行政はリーダー研修等は行なってきた。しかし、それがややもすると、団体の「ヘッド」を集めて組織力を強めようとするヒエラルキー的な性格の強いものになってしまうきらいもあった。そんなことでは、地位・肩書きなどの制度的権威への執着を嗤い、「経歴を捨てて、経験を生かせ」とするせっかくのボランティア精神は無に帰されてしまう。社会教育団体においても、ネットワーク型経営のためには、会長職を、制度的権威ではなく、ひとつの役割としてとらえる思考様式を広めなければならない。そうすれば、せっかく適任だと思われるのに、「私なんかが」といってリーダーになるのを固辞する人に対しても、「もっと肩の荷をおろしていいんですよ」というアピールになるだろう。  今後の研修は、ヘッドシップ型からリーダーシップ型への、ヒエラルキー型からネットワーク型への、転換を図る必要がある。それは、生涯学習支援が組織的動員から個人的支援へと、ぼくの言葉でいえばマス(かたまり)から「個の深み」との出会いへと、転換することと軌を一にしている。その面からも、生涯学習ボランティアのコーディネート機能は、必要性も実現性も高い(リーダー研修等の既存予算をそのまま活用できるから)といえる。とくに県などにとっては、それが広域行政の新しい役割として重要であると同時に、そこで出会うボランティアの「個の深み」は、支援行政自体にも新しい風を吹き込み、市民感覚の行政を育ててくれる。 3 アダルトティーチングのための    ティーチング  ぼくは企画にあたって、アダルトティーチング(成人の教え方)のあり方をアダルトに教えることが、このゼミナールの最大の目標だと考えた。そんなことが、このぼくに可能だろうか。自信なんかないのに、一方でぼくは、日頃から、双方向教育は双方向教育システムをうまく使えばだれにでも可能であると公言している。「指導者や『先生』になるには、『器(うつわ)』であることが必要である」という考え方を否定したいからだ。  すでに多くの自治体で、市民講師や生涯学習施設での支援活動、講座・イベントの支援や手伝いなどをする希望のある人を登録して、リスト化し、需要に対して情報提供等を行うボランティアバンクというシステムがつくられているようだ。だが、次のような問題点もある。@バンクへの問い合わせ自体が少なく、せっかく登録し、研修なども受けたのに、お呼びがかからないというクレームが多い。A学習者のニーズにあわない教育内容・方法(たとえば「今のだらしない若者に説教したい」など)での活動を希望する者もあり、生涯学習社会への移行をむしろ阻むような結果にもなりうる。B教育委員会などが実施すると、そのお墨付きを得ることを目的に登録する人がいて、生涯学習に権威主義を持ち込む結果になる場合がある。Cその逆に、水平異質共生(異なる枠組をもつもの同士が対等に共存と共有を行う関係)の生涯学習に向いている人が権威をきらったり、遠慮したりなどの理由から登録してくれないことが多い。  ぼくは次のように考える。@については、最近は、その人の顔や、息遣いの聞こえるような詳細なアピール文、さらには、その人の提供できるプログラムの具体的な姿など、リアリティの感じられるバンクにするための工夫が模索されている。また、ボランティア自身も、待ちの姿勢ではなく、積極的に社会に出てニーズを探し出し、そこで自分をアピールすることが望ましい。Aについては、学習者のニーズにあわない人を無理に排除するのではなく、アダルト・ティーチングの習熟のための研修等を通じて、その人自身の気づきと態度変容を促す配慮が必要である。Bについては、市民の権威依存のうえに運営されてきた行政自体のほうからも、体質改善しなければならない。それは行政改革の重要な一環である。Cについては、生涯学習における学習者と支援者の関係が上下関係ではなく、「学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人」という水平な交換関係にあるという認識を、生涯学習の町づくりをとおして町の風土として広めていく必要がある。生涯学習ボランティアは「先生」である必要はない。もし、「自分は先生の器であり、教える自信がある」などという人がいたら、その人はあとに述べる「無知と非力の自覚」のための態度変容から始めてもらわないと、かえって生涯学習社会への移行の妨げになる。  このように、生涯学習ボランティアの自覚に求められるものは多い。なかでも、望ましいアダルトティーチングのための資質と能力は重要である。その本質は、自己の生涯学習とボランティアのなかでの自己決定と同時に、学習者側の自己決定をともに大切にして歓迎するネットワーク型の「水平異質共生」の心である。  このようにしてこそ、学習者も市民講師も自己管理型学習(self-directed learning)とその支援に近づくことができる。そもそも成人の学習は、その計画、実施、評価に至るまで自律的(self-directed)に行なわれうるという。よって、成人教育に携わる者は、成人のすべての学習プロセスに対して双方向的に関わる必要がある。こういう教え方を、ペダゴジー(子どもへの教授法)に対するアンドラゴジー(大人への教授法)という。アダルトティーチングはアンドラゴジーの考え方に基づかなければならない。そして、双方向教育システムの導入によって、どんな講師にもそれは可能になると思う。ただし、講師自身が、他からの強制によってではなく、そのシステムを取り入れようと自己決定した場合においてのみであるが。 4 態度変容の研修の必要性  本ゼミナールのプログラムのほとんどは、表に示したようにワークショップ型、体験学習型の態度変容の研修方法によって構成されている。  一般的に研修には、@知識習得、A技能向上、B態度変容の3つの目的がある。講師は目的を絞り、意図的、意識的に研修を進める必要がある。生涯学習の指導者のための研修のうち、現在とくに欠けているのはBの態度変容目的の研修であろう。しかし、アダルト・ティーチング(大人への教授)を志す者にとっては、態度変容のための学習がもっとも重要だと思う。「現在の態度がよくないから」という理由ではない。それでは、あとに述べるように自他の否定になってしまう。態度変容は、学習の本質である「枠組の変容」の象徴であり、それらが生涯にわたって充実して進められることこそ生涯学習のそもそもの楽しみだからである。  たとえば、校長退職者が市民講師になってくれたとする。しかし、その人が制度的権威にすぎない「校長」という過去の経歴にこだわるとするならば、大人同士の水平的な出会いとしての生涯学習は望めないだろう。「過去の経歴に比べて遇されていない」という不満をもつかもしれない。そういう場合、過去の立派な経歴より、これまでのすべての自己の教職や管理職としての深い経験こそを、あるいはその結果としての今の「個の深み」こそを、アダルトティーチングに生かそうとする態度に変容することが第一である。こういう態度変容は学社融合の思想的基盤としても重要だ。  しかし、ここまで書き進めたところだけみると、mitoちゃんでしかないぼくなのに(本誌1995年5月号「先生という言葉をやめてみよう」参照)、講師の態度変容を「指導」するなんて、とてもおこがましいことをいっているような気がする。これについては、まず、ぼくは「自己受容こそが望ましい自己変容につながる」(『癒しの生涯学習』p.48)と考えていることを明らかにしておきたい。  ぼくは、ある県の看護職員の継続教育のための検討委員会に関わっているが、委員会での調査項目に、「個人の態度変容」「人と人のつながり」の研修への期待を入れてもらった。すると、その調査結果としては、病院総婦長に飛びぬけて積極的肯定が多かったのである(ともに75%、その他の看護職員は45%)。また、この点について、部会長の医師からは「血の通った研修を」、他の医師委員から「厚みのある人間性に基づいた専門性を育てる研修を」などの的確な表現をいただいた。しかし、ある看護関係の委員から「態度変容は研修の根本である。しかし、短期間の研修成果だけでそれを評価してしまうのは酷ではないか。態度変容についてはもっと長い目で評価すべき」という指摘を受けた。ぼくはそれを聞いて、まったくそのとおりだと感じた。そこで、態度変容の研修のあり方について、看護職員の継続教育を例にとって次のように補足しておきたい。  態度変容は、その看護職員の職務や全生活をとおして、生涯にわたって自律的に行われるべき営みである。しかし、継続教育がこれに対して無関心であるということがあってはならない。なぜならば、組織として取り組んでいる看護の全体を客観的にとらえた場合、人と人とのつながりや、そのほかの個人の望ましい方向での態度変容の促進が、現代社会においては非常に重要な教育的事項になっているからである。 5 受容と共感の態度変容  しかし、それは、けっして上から無理に押し付けるものであってはならない。むしろ、看護職員を現代社会の一員でもあるとしてとらえた場合、本人自身の顕在的、潜在的関心として、仕事のなかで自分らしさを守り、育て、発揮し、働きがい、生きがいをもちたいという気持ちが存在するはずである。そういう本人の自発的な意向を尊重してこれを援助するという考え方が継続教育の側に求められているのである。そのことによって、教育を受ける側にとっては、教育が自己受容にもつながるものになり、「自分にとっての意味ある学習」という能動的な受けとめ方が可能になる。  そのためには、学習方法としては、従来の知識詰め込み型の受動的学習から問題解決型の主体的な学習への転換が必要になる。また、学習内容としては、従来の専門分野ごとのたてわりの内容だけではなく、看護全体にわたって必要な、さらには本人の生産的な構えや人間関係全般にとって必要な資質と能力を高めるような学習内容が必要になる。その根底には、人間存在に対する基本的信頼(自分への信頼=自信を含む)と共感能力に基づいた望ましい社会性の獲得が必要である。これを実現する具体的な学習方法・内容としては、コミュニケーションやカウンセリングマインド、グループワークやチームワークのトレーニングが考えられる。  そして、効果的な態度変容のためには、それらの研修が体験学習として、あくまでも楽しく、感動にあふれたものであることが望まれる。つまり、人と人とのつながりや、そのほかの態度変容のための看護職員の卒後教育は、まず第一に、日頃の看護の精神的な疲れやストレスを癒し、組織の中で閉ざされがちな心を解放してくれるような「生涯学習=楽習」の一環でなければならないということである。  ボランタリーな市民講師活動については、職務として行われる看護とは本質的に異なるところがあるだろうが、両者とも他者への援助の活動であり、しかもそれが組織的な取り組みであることが多いという点で、その態度変容の研修の必要性とあり方についてはほぼ同様のことがいえるだろう。すなわち、学習が「楽習」になり、自己受容にもなり、それゆえ、「自分のため」、「楽しいから」、「自分が学べることだから」という主体的態度で研修を受ける結果につながるということが態度変容の研修の要件なのである。  たとえば、3日目の午後のブレーンストーミングは「幸せの瞬間」で始まる。ブレーンストーミングとは発想法のひとつで、そのルールは、批判禁止、自由奔放、質より量、結合便乗の4つである。ぼくは授業でもこの「幸せの瞬間」のブレーンストーミングを行なっているが、まったく違ったそれぞれの人の「幸せの瞬間」を聞いていて、「これはまったく共感できない」などと感じたものは今まで一つもなかった。たとえば、「ジェットコースターで一番てっぺんまで登りつめて、これから落ちようとするとき」というのがあったが、お金を出してまでジェットコースターに乗るわけのない高所恐怖症のぼくでさえ、彼の表情を見ながら彼のその言葉を聞いたとき、「ああ、なるほど」と思えたのである。自分とは異なる他者の幸せの枠組に出会い、自然なかたちで「うんうん」と共感的、受容的に受けとめ、だから楽しく、しかも、自分の枠組を否定することなしに、自分の幸せの枠組がきのうまでより少しだけ大きくなっている(自己拡大)のである。これによって期待できるのは、生産的な構えの獲得という態度変容の学習である。  ただし、知的水平空間であるはずの生涯学習の場においては、ブレーンストーミングの「批判禁止」さえも超えて、批判されても傷つかない、批判しても傷つけないような、自分と相手への信頼と共感にあふれた自立した者同士の支持的風土の形成を、次の段階での目標として設定しておくべきだろう。 6 受講者事前アンケートの意味    ー1%の批判  態度変容の研修にとってもうひとつ重要な要素は、受講者の関心に基づいて出発し、また、少数者の批判といえども受けとめることである。ぼくは、今回、各回のそれぞれのテーマについて、「あなたの課題」「あなたの期待」を書いてもらった(全体的傾向についてはグラフのとおり)。これに対して、「セミナー開講前にアンケートが送られてきたのは初めての体験です。講師のこの講座に対する意気込みが伝わってくる感じがする。講師から余すことなく吸収しようと、今から予定しているところです」という回答もいただいた。これは嬉しかったが、ほんとうは喜んではいられない事態なのである。学習者は、つまり、少なくとも開講前には講師側から今まで置き去りにされ続けてきたということなのだ。  ぼくの場合も、事前の学習ニーズ調査をするほど講師としての講座への主体的な関わりができたのは、正直にいうと今回が初めてだ。しかし、アメリカでは、講師が自分で研修のねらいを訴え、学習者一人ひとりのそのねらいに関する学習ニーズを尋ねる手紙を受講予定者全員に送ってくることもあるという(岸恒男『あなたも名講師になれるパートU』日経連広報部)。アメリカでは講師業で身を立てるのも大変だ。日本でも、講師がそれをやらないのならば、主催者側が事前アンケート結果を講師に送っておくなどのことをしたらどうか。このようにして、講師依頼側は講師のアダルトティーチングをサポートする役割がある。ぼくはこれを学習支援者による「講師教育の役割」と呼んでいる。今回の場合も、じつは、当センターのほうで送付、受け取り業務をやっていただいている。  受講者の学習ニーズ調査については、1つには、「1%の批判を歓迎せよ」といいたい。たとえば、4日目の「先輩・関係者から学べ」については、消極否定がいないのに、積極否定の人が1人いた。その人は「シニアの視点より新しいアイデアのある講師に巡り合っていないし、企業の方が地域より進んでいるのであまり期待していない」(定年後のシニアへの市民講師活動をしたいという会社員)と回答している。こういう「1%の人の実感」は、他の99%の多数派の一人ひとりの実感のなかに必ず同じように1%ずつ存在していて、共感できるものがあるはずである。  2つには、「潜在的学習関心を信頼せよ」といいたい。藤岡英雄はNHK学習関心調査から、学習行動を海面上の頂点とする「学習関心の氷山モデル」をまとめている。海面下に隠れている大きな部分は、顕在的学習関心と潜在的学習関心の2つによって構成されている。「関心ある学習項目」のうち、個人面接や自由回答で得られたものが顕在、調査票の学習項目を見てから得られたものが潜在である。後者は「外からの刺激や手がかりが与えられてはじめて意識される」ものである。しかもこれが一番大きい未知の部分というのだ。たしかに私たちはせっかくのワンダーランドのうちのごくわずかにしか出会わないまま寿命が尽きることになる。しかし、せめて生涯学習の指導者は、学習者の潜在的学習関心まで含めて本人の可能性を信頼する姿勢をもちたい。  受講者事前アンケートには、潜在的学習関心を顕在化する作用がある。すなわち、これは、事前教育の一環でもあるのだ。 7 偶発的学習による態度変容    ー毒と薬の両面価値の真実  ぼくは、平成3年4月、『かくろん』において、遊び型学習の支援を提唱するため、偶発的学習の意味について次のように述べた。  「ここで、注目しておきたいことは、それらの遊びは、ある意識的な学習目的に対する効果的な学習方法として行われているのではないということである。このような学習目的のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つがじょうずに遊ぶ能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える望ましくない遊びを禁止することよりも、望ましい遊びの素材を提供することなのである」。  たとえば、3日目のビデオフォーラムなどは偶発的要素が強い。視聴者は映像の切り取りのどこを見ようが、何を感じようが自由だからである。そこに個別で多様な気づきがある。  2日目のロールプレイ「成人がもつ講師への不満」も、ぼくはそういう学習機会として展開した。じつは講師としては恐かった。市民講師からどんな「学習者とのトラブル」が提起されるか予想がつかないからだ。だが、実際には、「ほかの市民の方々も、もっと自発的に生涯学習活動に取り組んでほしい」という市民講師側の実感と、その言葉にたじろいでしまう一般市民側の実感に基づいたリアルなやりとりができた。指導者側の予想しえない展開であるだけに、真実により近づくことができるのである。始まってしまえば、あとはロールチェンジ(役割交換)などをしながら多様な個性がどんどんと発揮される。これを「臨床の知」(中村雄二郎)の一種ということもできよう。  これらを「教育内容不定の偶発的学習」と呼んでおく。このような学習を仕掛けるために、指導者には、「真実は毒と薬のアンビハレンツ(両面価値)であるのだから、最終的には学習者側がどちらでも好きなものをとればいい」という潔さが求められる。禁欲または諦観ともいえようか。このようにして「学習者側が選択する」と思えるようになれば、「先生」としての余計な気負いもゆるんで、こういう「教育内容不定の偶発的学習」を「指導」するときも、少しは気が楽になる。  もうひとつは、パーティーなどの「教育意図不在の偶発的学習」のプログラムである。2日目の番外編の意味はここにある。まさか「教育的パーティー」などとはだれもいわないだろう。そんなことをいってしまったら、来る人も来なくなる。しかし、そういう「非教育的パーティー」のなかでこそ、たとえば、「潔い撤退」や「来るものを拒まず、去るものを追わず」のネットワーク精神などを参加者は偶発的に学びとるのである。実際、このパーティーには、前回の「親父の会」のサラリーマン講師が地ビールならぬ自ビールをもってきて、学習仲間として参加してくれた。まさに「教える人は学ぶ人」である。ついでにいうと、パーティーには、「祭りのあとの空しさに耐える」(『癒しの生涯学習』p.46)という現代社会の幸福追求にとって必須の「生きる力」の教育作用までおまけについてくる。  『かくろん』において、ぼくはパソコン通信における偶発的学習を例に引いて「パーティー型学習」の意義を述べた。じつは、ぼくは、公民館で一つの部屋をオープンスペースに確保して毎晩パーティーを開いておき、一人でもファミリーでも夕食後にふらっと遊びにこれるようにするという夢を以前からもっていた。  教育内容不定の偶発的学習については、適正な教育的意図の媒介によって、より効果的に促進することができるだろう。また、あぜ道を散策していてよい思考がひらめいたとすれば、これは教育意図不在の偶発的学習だが、行政がそういう市民の散策のための配慮から、その道を舗装せずに土のまま整備するとしたら、それは生涯学習推進事業の一環として高く評価されるべきであろう。 8 ネットワーカーとしての態度変容  ぼくは、ネットワーカーになるためには、ヒエラルキー意識からの脱却とともに、同質の仲間を求めるピアコンセプト(仲間意識)の逆機能の克服も必要になると考えている。そのためには、異質同士の交流と共生(「共生=共存+共有」とぼくは定義している)の面白さと心地よさ(または癒し)を味わう体験をすることが一番である。  たとえば、1日目の人間関係づくりのバズ・セッションのときに「第一印象ゲーム」(坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』日本生産性本部)を行った。これは「相手は何色が好きか」などの印象を当てあうゲームで、過去の文化遺産を比べあうみじめな態度の従来の自己紹介を革新し、自分らしさと相手らしさの出会いを促してくれる。ぼくは、これによって、氷のような人間関係の緊張を解き、自分とは異なる他者が存在することを楽しく面白く感じることができるようになることをねらった。番外編のパーティーなども同様の効果が期待できる。 9 成人学習者としての態度変容  学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人だという。アダルトティーチャーはアダルトラーナー(成人学習者)でもある。  ぼくが考える主体的学習の条件の1つは、「主体的関与」である。すべてのグループワークの発表は、原則として「バナナの叩き売り方式」で行うこととした。これは、グループごとに他のグループの「自分たちの売りの部分」の叩き売り(成果発表)を聞きにいき、双方向(当然だが)の対話をし、また、すべてのメンバーが少なくとも1回は、他のグループに対して1人で叩き売りをするという趣向のものである。これは、あらたまった全体発表をするのとはひと味違ったおもしろ味があり、学習者の能動的参加やプレゼンテーションの意欲を高めてくれる。  2つは、「異質の枠組との出会い」である。2日目のグループワークの最初は、価値観ゲームで始めた。これは前掲坂口『実践・教育訓練ゲーム』を参考にしたもので、健康、愛、富、奉仕、自己実現、正義に、地位を加え、一対比較法で各人の結果を出してグループ内で発表しあうものである。一対比較法とは、すべての組み合わせを一対一で比較して集計して順序づける手法である。これを授業で結婚相手の選択基準について行ったところ、短大女子のほとんどが容姿を最下位(第7位)としたが、まれに上位とする女性もおり、その理由を聞くと実際にはうなずいてしまう。どちらの価値観にも共感はできるのである。このような異なりとの出会いをとおした自己の価値観への気づきによる枠組の変容は、本来の学習のあり方のひとつだといえる。つまり、異なる枠組をもつ他者から自己を学ぶのである。  3つは、「対話」である。対話はソクラテス以来、教育の原点である。1日目のインタビューダイアローグは、ぼくがインタビュアーになって、地域活動をするサラリーマンとダイアローグ(対話)を行うというものである。「仕事だって忙しいのになぜやるのか?」、「奥さんは怒っていないか?」などの対話によって、その人の生き様から、たんなる事実ではなく真実の姿勢を学びとろうとするものである。また、2回目から毎回実施した出席ペーパーシステム(ディスクジョッキータイム)は、受講者とのダイアローグである。ぼくはこれによって、一方通行の教授者としての宿命的な不安からかなり免れている。これらの対話のなかから、シンパシー(共感的理解)、ストローク(相手への認知の伝達)、エンカウンター(異なる枠組との出会い)が生まれる。ぼくは、これを、指導の本質的3要素と考えている。 10 ボランティアとしての態度変容  「市民講師ゼミナール」には、「目立ちたい」、「有名になりたい」と堂々といってのける参加者もいて、とても楽しい。人びとの最近の社会貢献志向のひとつは、こうした自然で健康的な欲求から発しているのではないか。  また、本事業では全回を通して市民ビデオサークルの中高年の方々が記録をとりに来てくれている。そして、その記録は、参加者の振り返りに役立つばかりでなく、この研修に参加できなくて残念に思う全県、全国の人に学習成果を「おすそわけ」するのにも役立つだろう。  一般的に、社会教育・生涯学習は市民の自由な私的行為であることが多いが、その記録作りを行政が振興することは、私的行為のもつ公的存在価値を高める作用を及ぼすことになる。とくに、上司からの勤務評定をあまり受けない専門職員などは、自己の事業等をしっかり記録して、市民から広く評価を受けようとする態度が望まれる。そして、自分たちの学習記録を広く配布したいという受講者の気持ちは、先の社会貢献志向と原点を同じくするものである。行政は大いに奨励すべきだ。  ぼくはこれを「自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権」と呼び、現代社会のプライバシーや著作権の保護思想の徹底の次の段階に見えている展望ととらえている。これは、今のところ、生涯学習ボランティアなどの自己決定の突出空間にしか存在しないとぼくは思う。  本事業には「個の深み」たちが集まって、自立と社会貢献に向かう受容的雰囲気を醸し出している。この雰囲気が、「ボランティアするための元気のもと」として、参加者個人個人にまた戻っていく。この突出空間の社会的価値は大きい。 11 無知と非力の自覚と受容    ー「ましなろくでなし」であればよい  最後に、ぼくは市民講師の方々に何を「指導」したかったのかについて述べる。それはひとことでいえば、「無知と非力の自覚と受容」である。たとえば、アダルトティーチャーにとっては、「バカになれる」ということがとても重要だとぼくは思っている。今の若者たちは、公式の場になるとなかなかこれができない。上下同質競争社会の価値観に侵されて、「笑われたらいやだ」、「変だと思われたら困る」などとびくびくしているからだ。だから、ぼくの授業や講義は、あまりアカデミックではないが、そういう引込思案の人たちからは「肩の荷がおりた思い」という評価を受けることはよくある。ぼくは、アダルトティーチャーにも、まっさきに「カッコつけなくていいんですよ」と伝えていきたい。  人間はどうせ「ろくでなし」だとぼくは思っている。世や自分の無常や有限性に不安を感じ、不幸を過去やひとのせいにして苦しむことが多い。しかし、そういう弱い人間存在自体を否定 Personal Data 西村美東士  昭和音楽大学 TEL 0462(45)1055          昭和音楽大学短期大学部助教授。東洋            大学講師。学生や社会教育職員は、          mitoさん、mitoちゃんと呼          ぶ。生涯学習、社会教育、青少年教育、          学習情報提供、パソコン通信、パソコ          ン活用などに関心をもつ。 主な著書 『生涯学習か・く・ろ・んー主体・情報・迷路を遊ぶ』、『こ・こ・ろ生涯学習ーいばりたい人いりません』、『癒しの生涯学習ーネットワークのあじわい方とはぐくみ方』(ともに学文社) ACCESS  (財)埼玉県県民活動総合センター 生涯学習課   担当 小野塚 通子  〒340 埼玉県伊奈町小針内宿1600 TEL 048(728)7111 FAX 048(728)7130 してしまうのではなく、ひとの痛みに無関心な「ただのろくでなし」から、せめて痛みを分かちあおうとする「ましなろくでなし」になろうとすることこそ大切なことなのではないか。そのためにも、「一瞬も怠ることなく学問に励みなさい」などの「悩みのない先生の言葉」や空しいスローガンを繰り返すような「アダルトティーチング」は、もうやめにしたい。学習の場を、もっとふつうの実感と臨床的な真実に根ざした言葉が行き交う解放された場にしたい。  実感を捨象した「信念」という罠は、生涯学習やボランティアの世界にも「真偽の不毛な勝負」を持ち込んできた。この罠から抜け出すためには、発問または自問によって無知と非力を自覚することが必要である。生涯学習ボランティアの態度変容のための「指導」とは、この目標を「指」さし、それにいたる過程を示すことによって「導」くことではないか。そこでとくに重要になる指導者の働きかけとは、「ゆさぶり発問」である。「あなたはなぜそう感じたのでしょうね」とか、「なるほどそうですねえ。でも、こういう場合はどうでしょうか」とかの発問によって、たとえば「勤勉でなければならない」、「だれにとっても正しいと思えることをいわなければならない」などという「信念」に揺らぎを与えるのである。  市民講師は水平異質共生の生涯学習社会の創造主体の一員である。そういう市民講師を支援するための教育プログラムのあり方とは、共感と伝達のうえでの異なった枠組の提示である。そして、そこでもっとも高い価値がおかれる学習とは、楽しく癒される態度変容の学習である。これが生涯学習ボランティアのコーディネータの指導的役割のあり方に関するぼくなりの答えである。 mito ボランティア指導者を指導できるか 1997_4 社会教育 1