神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」原稿 情報化時代のコミュニケーション 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士 1 「新しい民主主義」としての情報化  現代青年にとって、本当は必要だが実際には一番遠い所にある情報として、地域や行政の情報があげられる。青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。非日常志向は、青年期の独自の発達課題の表れの一つでもある。しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そのためには、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれたワンダーランドであることに青年が気づくことができるよう援助する情報提供を実現したい。  そのうえで、@これらの情報が現代都市青年に充分には提供されていない現実を認識すべき、A今あるこれらの情報を、偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」に縛られない開かれたものに、B非日常としての魅力をもった地域情報、行政情報をと、ぼくは自著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』(平成3年4月、学文社)において提言した。  じつは、今日のインターネットなどの情報通信技術は、とくにAなどの提言をいやおうなしに実現しつつある。たとえば、去年から今年にかけてインターネットのホームページをもつ自治体が急激に増えつつあるが(財団法人AVCC『インターネットと生涯学習1997』より)、そこでは、該当地域の人たち、しかも、実質的には行政に関係する一部の市民だけが見てくれればよい、という馴れ合い的な広報の姿勢では明らかに見劣りすることになる。オープンマインド(開かれた心)のもとに、どれだけ全地球的視点、即時の柔軟な対応、市民参加型の双方向交流が盛り込めるかが勝負どころとなる。  そもそも、情報化の進展は、光の側面(影の側面も別にあるが)においては、専制国家がいくら情報を操作しようとしても、空(衛星放送等)などからほんとうの情報(?)が人民の上に降ってきてしまうという情報民主主義の性格を有している。この側面は十分活用するのが生産的だといえよう。 2 自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権  市民発信型の今日の通信は、どういう点でネットワーク的なのか。まず、「撤退の自由」がある。電子的仮想空間であるから、撤退しても生活に響かない。「親しくなりたいけれども、傷つけたり、傷つけられたりしたくない」という「山アラシのジレンマ」 の若者にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。年齢や外見なども知られずにすむ。さらに、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向と考えられる。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることができる。本来のフェース・ツー・フェースのコミュニケーションに向かっていく自信や意欲も、そこからわいてくるかもしれない。  さらに、情報化の進む現在、課題となっているプライバシーや著作権の保護の到達点のもうひとつ先の段階に、生涯学習社会の移行途中の今日、突出的空間として見え隠れしている水平異質共生のコミュニティがある。そのひとつは、「私はこれだったら得意だから、みんなに教えてあげるよ」という生涯学習ボランティア、「こういうことを考えたからアップロードしておきます。よかったらぜひこれをほかにもどんどん紹介してください。著作料(財産権)はいりません。でも出所は私であることは明らかにしてくださいね(氏名表示権)」という情報ボランティア、そういう人たちが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界である。アマチュアによる知的生産や情報発信にはそういう強みがある。ぼくは、これを、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼んでいる。上下同質競争に飽き足りなくなって、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが生まれつつあるのだ。こういう自立した人間同士の交流こそ本当の癒しを与えてくれる。 3 実感に裏打ちされた言葉を求めて  しかし、いまだに、この世の主流は、多様な価値を受容できない上下同質競争社会だ。そこでは、たとえば家族関係が病んでいく。病理とまではいかなくても次のようなことはごく当たり前に起こりうる。  3人称の関係であれば「どちらも一理ある」としてあきらめて終わることでも、「私とあなた」の1人称と2人称の家族関係だと、あきらめきれずに、「私のいうことが真で、あなたのいうことは偽」と互いに主張して譲らない不毛な争いを延々と続ける状況がある。なぜそれが不毛かといえば、たとえ正反対のことを感じたとしても、どちらの実感にも「間違い」などというものは存在しないはずだからである(アンビバレンツな真実)。間違うとすれば、「であるべき」「であるはず」「みんなそうしているのだから」などという不合理な思い込みや信念のレベルにおいてである。そういうもともと歪んだレベル同士で真偽を争うとしたら、これは気が遠くなるような不毛な争いである。ところが、「思い込みや信念のレベルでも自分は正しくなければいけない」などという客観的には明らかに無茶な考え方を植え付けられているものだから、相手が偽であることの証明に執着しがちになる。本当は、「あなたはあなた、私は私」こそが人間関係の真実の姿であり、実感レベルでは、どちらも理があり、真であるということに気がつきたいものだ(自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』、平成9年4月、学文社)。  今や、子どもや若者たちの頭上に、メディアが、学校が、親が、大人たちが、自分たちの実感を大切にしないまま、そして自分自身のことにほとんど気づかないまま、深い感情に裏打ちされることのないほとんど無意味な言葉を洪水のように浴びせかけている。青少年を取り巻く大人たちは、まさに「ほざいている」(小児精神科医河合洋の表現)だけの状況なのだ。 そこで悲鳴をあげている若者たちに、ぼくはこう呼びかけたい。「インターネットやパソコン通信に逃げておいで。そこで、自負をもって君の実感を語ろうよ」。また、青少年指導者の皆さんには、「ご苦労さまです」ではなく、「ラッキーなお仕事をされていますよね。一回しかない人生を実感を交流し、味わいながら生きていけるわけですから」といいたい。ぼくは、青少年や他者の「個の深み」との出会いを味わい、癒されるコツとして、次の3つをあげている。@対話と共感(シンパシー)、A共感したことの伝達(ストローク)、Bこちら側の枠組の開示(エンカウンター)。(前出『癒しの生涯学習』参照)