若者が癒され認められる教育を  昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士  快楽殺人、超異常犯罪など、とんでもなく悲惨な事件を、いま、一部の若者たちが引き起こしている。大多数の若者は、これに対して「ばかなことをするものだ」という程度に思っているのだろう。共感もしないけれど、批判もしないというところか。しかし、多くの大人は、とくに青少年に関係する大人たちは、このままでは世の中は大変なことになると危機感を募らせていると思う。だが、ぼくは、こういうショッキングな出来事に対しては、少し距離を置いて、なおかつ現代のふつうの若者たちの、あるいは大人たちの、一人ひとりの心の中にゼロ・コンマ・何%かは共通するかけらがあって当たり前だというぐらいの冷静な感覚で、これらの異常な出来事を見つめていく必要があると思う。  若者も大人も、自分にとって大切な実感をどこかに置き忘れて、自分自身に気づかないまま、「今の若者はけしからん」、「警察はもっとしっかりしろ」、「いや、学校が悪い」、「いや、今の家庭がだめなのだ」などと、自己の本当の痛みにさえも気づかず、ヒステリックに叫びあう姿こそ、現代のぼくを含めた一般多数の人たちの不幸を表していると思うのだ。異常者はどんな世の中になっても、確率的に何人かは出てくるはずなのだから、「誰が悪かった」という犯人探しのようなことはあまり意味がない。それよりも、そういう「例外的な」人間による悲惨な犯罪の発生を最小限におさえるために、家庭、学校、地域、社会のたくさんの人たちが力を合わせることのほうが緊急に必要なことなのではないか。  さて、現代人はそんなことを近いうちにできるようになるだろうか。これはなかなか難しいことだと思う。ここに、現代の青少年育成活動のより根底的な問題があるのだ。突出的に悲惨な犯罪が起こるたびに対処療法的な方法を求めて右往左往することよりも、多様な価値観の渦巻くなか、奇妙に画一的に進みつつある一般多数の人びと同士の関係のなかにごくふつうにぽっかりあいた空虚こそ、ぼくたち自身が真正面から見つめて寄り添っていかなければならない人間的、時代的真実なのだ。その点では、悲惨な犯罪の行為に対しては厳しく糾弾しながらも、それを起こした「例外的な」犯人の若者に対しては、ぼくたちのゼロ・コンマ・何%かの共通するかけらから共感的に理解しようとすることこそ、実感に立ち戻り、本当の自分に気づき、ひいては今後の共生社会の創出につながることなのだと思われる。異常犯罪は、一般多数のぼくたちの影の部分の極端な象徴にすぎない。  先日、ある研修会の講師として「幸せの瞬間」を出し合うゲームを行ない、ぼくは100%共感可能性を主張した。100個の幸せが出されたとする。ぴんとこないものがあっても、「どんな気持ちなんでしょう?」と聞こうとするだけの相手をわかりたい気持ちと、許された時間さえあるのならば、100個のうちの99個ではなく、100個のうちの100個すべてを、時空間をともにするすべての人が「ああ、そうか」といって共感することができるのである。しかし、ある人が出席ペーパー(講師に対して何を書いてもよいというシステム)に「100%というのは、99.9%の間違いではないのか。なぜなら、超異常犯罪者が『人を殺しているとき』と言ったとしたのなら、私たちは共感できないだろうから」と書いてきた。その日のディスクジョッキータイム(ぼくから出席ペーパーを紹介し、コメントする時間)で、ぼくはこの人の「人を傷つける喜びには共感したくない」という気持ちに共感を覚えながらも、「殺人犯に対してでさえも、だれでも本当は共感できるものをもっているのではないか」と答えた。「人の不幸は蜜の味」というではないか。写真情報誌だって、他人のハッピーな様子よりは、失敗や不幸の様子を覗き見る楽しみが満たされるように編集されている。むしろ、問題は、そういうわれわれに共通する「悪の部分」を見て見ぬふりをして、すなわち自己抑圧をして、社会の物差しにあわせるための無理な「信念」を貫こうとするところにあるのではないか。この「信念」によって実感や共感がないがしろにされてしまっているのだ。  本当は、悪への共感さえ、恐いことではない。なぜなら、共感とは1%あるいはゼロ・コンマ・何%以下の一致や理解であって、一人ひとりにはもっと異なる楽しいかけらもいっぱいあるからである。青少年の育成や教育は、善と悪の入り交じった一般多数の若者たちのアンビバレンツ(両面価値)な実感を共感的に理解しつつ、とくに彼らの「人の不幸は蜜の味」ではない方のかけらを探し出し、大いに認めようとする営みにほかならない。ただし、100%の理解には到達しえないという宿命については、「そんなものさ」とあきらめておいたほうがよい。このことをぼくは「無知と非力の自覚と受容」と呼ぶ。「男と女の間には暗くて深い河がある」という。相手の岸辺にはいつまでたってもたどり着けないのである。そればかりか、自分自身についてだって、わからないことがいっぱいあるではないか。100%の真実や自己理解に到達してしまうことが万一あるとしたら、かえって、生涯学習だって面白くないし、その後の生きていく意味だって見失ってしまうのである。  一般の若者たちをはじめとする一般多数が、無自覚にせよ、深く傷ついた状況のなかで、いま何を求めているのか。それは「かまってもらうこと」であろう。人間は、かまってもらえなければ生きていけないという社会的存在なのである。これに関連して、多くの若者たちが支持し、一世を風靡したアニメ「エヴァンゲリオン」の基本的テーマは、「ヤマアラシのジレンマ」だとぼくは思っている。これは、寄り添いあいたいが、かといって、お互いの針で傷つけ合いたくはないというジレンマのことである。コミュニケーションをすることは確かに恐い。それなのに、やはりかまってもらいたいのである。  ぼくは、東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)に年間をとおして講師として関わっている。狛プーでは、プータローの自由な精神をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。そのメンバーの一人が「狛プーは、あるがままの自分が、両手を広げて歓迎される場だ」と言ったことがある。変容(成長・発達)するためには受容(承認・癒し)が必要不可欠である。若者の「人の不幸は蜜の味」ではない方への変容のためには、地域のあらゆるところにそういう無条件肯定ストロークをやりとりできる「癒しのサンマ」(サンマとは時間・空間・仲間の3つの間)が必要なのだ。そこでの体験からどんな自己変容が期待できるか。ぼくの答は「人の幸せが蜜の味」という人生の生産的構えへの変容である。これが社会的存在である人間が幸福になるための必須条件なのである。  人びとを癒されない状態に追い込む上下同質競争社会において、このようにして水平異質共生という「もう一つの価値観」の居心地のよさを提案する仕掛け人の存在は非常に重要である。ぼくは、これを、教師、職員、有志指導者(ボランティア)などの指導者の現代的な役割だと考えている。彼の存在に対して、肯定的に関心をもち、共感的に理解しようとして対話し(ダイアローグ)、彼に対して理解できたことについて伝えることによって存在を承認し(ストローク)、その上でこそ、上下同質競争の不当性に気づかないままそのなかで苦しんで生きている彼と本音でぶつかりあって(エンカウンター)、水平異質共生に向かった気づきを促すのである。教育という仕事、あるいは指導者の仕事は、彼らの「個の深み」に水平に出会えるこのようなチャンスがあふれているはずだ。  ぼくは、教育=学習支援、またはぼくの言葉では教育=幸福追求支援、の等号には暗くて深い河が流れていると思う。ぼくは、まず、この暗くて深い河の存在を伝えていきたい。つぎに、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人がいる。たどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿なのではないか。 筆者紹介 西村美東士  学生や職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。1953年生まれ。東京都社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て、現在、昭和音楽大学短期大学部助教授。関心は、生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報提供、学習相談など。著書に『生涯学習か・く・ろ・ん』『こ・こ・ろ生涯学習』『癒しの生涯学習』(ともに学文社)がある。狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師など、社会教育現場で意欲的に活動している。総務庁青少年対策本部や本協会中長期構想策定委員のほか、県生涯学習ボランティア活動推進委員、県保健医療人材確保対策推進委員、厚木市社会教育委員、横浜市港南区役所まちづくり塾運営委員会委員など、県内の各種委員も数多く務めている。 写真説明 1 狛プーの富士五湖キャンプにて 2 狛プーと網走の青年団体との交流会(筆者は左一番手前)    (中央のネクタイ姿は狛プー担当職員の岩崎さん      連絡先 狛江市中央公民館 03-3488-4411)