グループ活動はなぜ楽習か  昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士(mito) 楽習と共育  学習は苦虫をかみつぶしたような顔をして行うもの、教育は上の者が下の者に一方向的に教え育てるものというのは、誤った考え方ではないか。そんなことから、学習を、自分が楽しいから行う、すなわち「楽習」としてとらえ、教育を、教える人も教わる人から学ぶ、あるいは教えあう、学びあう、すなわち「共育」としてとらえようという考え方が出てきている。「楽しく習う“とも育ち”」というわけである。生涯学習も「学びたいことを、学びたい手段で学ぶ」という自主性、主体性の世界であるから、この楽習と共育の考え方がぴったり当てはまる。  なかでも、この世に多様に展開されているグループ活動においては、ほかでは得られないような出会いと気づきの学習機会があふれている。それは、本号に収録された活動事例を見るだけでも実感を伴って読み取ることができるだろうが、ここでは、ぼくは、グループ活動がなぜ代表的な楽習の場になりうるのかということについて考えてみたい。 自己決定や共感が失われつつある現代  先日、短大1年女子学生から次のような出席ペーパー(自由記述)が提出された。  自己決定自体、しても、しなくても、どちらでもよい。ただ、迷惑をかけたり、かけられたりするのはいやだけど。  (思春期の少女の摂食障害のビデオを見て)私は彼女たちのことを可哀相とは思わない。本人はつらいとかいっているけれど、本人の願いどおり体重が激減しただけのこと。ビデオで彼女たちもいっていたとおり、「病気になって、かまってもらいたかった」からそうなった、つまり自己決定なのだから。  切ない話である。たしかに、自己決定は権利であって、しなければいけないというものでもないし、また、現代社会においては、自己決定しても通らない、かえって損をするなどということがあまりにも多すぎる。だから自己決定すなわち自立をめざして周りに波乱を巻き起こすよりは、迷惑をかけないようにおたがいが気遣って生きるほうが大切、ということになる。しかし、一方、それは、おたがいが縮こまって生きているという現代の状況をも生み出す結果にもつながっている。  生涯学習、ボランティア、市民・地域活動の3つの社会的活動を、ぼくは自己決定の活動ととらえる(西村『癒しの生涯学習』学文社、97年)。一方、強制されたために、あるいは、本人に自己決定能力が欠けているために「自己決定」した行動については、これを自己決定とは呼ばないことにしている。なぜなら、たとえばやむなく奴隷になることを「自己決定」した人に向かって「あなたが奴隷になったのも自己決定なのでしょう」ということは不当だと思うからだ。これに対して、グループ活動は、当然、メンバー一人ひとりの自己決定活動でありたい。そこにさわやかさと潔さが生ずる。  自己決定についてもう少し詳しくいうと、選択の自由だけでなく、撤退、無為を含めて3つの自由の前提のもとに、過去や他人のせいにすることなく、「やりたいから」「自分のために」自分の行動を決定することだとぼくは考える。そういう者同士のあいだに自己とは異なる他者への共感も生まれるのだが、さらには、そうできない事情がある他者に対しても(じつは自分自身にも自己決定できない事情はいつまでもいくらでもあるはず)、同情ではなく、相手の枠組で相手を理解しようとすること、つまり、共感すること、人の痛みを知ることが、とても重要だ。  自己決定や共感は義務ではない。しかし、自己決定の人生を歩きたい、自他を信頼し、共感しあって生きていきたいという願いは禁欲できない潜在的願望であるはずだ。それを「してもしなくてもよいもの」と割り切ってしまおうとする時代の心理の奥底には、何か暗澹たる敗北感が流れているように思える。  先日、ある青少年施設の運営会議で、現代の時代の気分を「鬱」とする論議があった。躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽きてしまっているのではないか。そういう時代に人々が求めている自己決定活動とは、大騒ぎできる華々しいイベントなどではなく、一人ひとりの「個の深み」(西村『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社、91年)と静かに対面し、出会いの体験を味わうことのできる「癒しのサンマ」(時間・空間・仲間の三間)なのであろう。これがグループ活動における楽習を創り出すのだ。 信頼と共感の活動を  信頼は、信じて用いる信用とは違い、「欠点だらけでごめんね」、「いいよ。でも、これは頼むね」、「ああ、いいよ」といって、信じて頼りあうことである。ぼくはこれを「さわやかな依存」と呼んでいる。共感は、同じ枠組で同じように感じる同感とは違い、自分の枠組(判断基準)で相手を推し測ることなく、自分とは異なる相手の気持ちで相手を理解することである。実感が疎外され、各人の物差しが画一化(同質化)されがちな現代においては、かなり困難な課題といえるが、これにより異質のひと同士の水平な、癒される、自立のネットワークが実現する。  その点、グループ活動のような生涯学習時代における自己決定活動は、「自分のためにやっています」という人たちの実感あふれる癒しと成長の出会いである。そこでは、人々のあいだに基本的信頼と共感的理解が根づいてゆく。そのことは、社会的にいえば、上下同質競争社会から水平異質共生社会への望ましい転換を促す先駆的、突出的な要因になる。  そのためには、グループ活動は支持的風土のネットワークであることが大切である。  生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピアコンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識にもつながりがちなのである。現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と出席ペーパーでぼくに怒りをぶつけるように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。  ピアコンセプトは、ヒエラルキー(階層構造)の支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだが、ピアだけでは残念ながら、癒され、自分らしく生きることのできる関係にはならない。かえって、現在のたての人間関係(ヒエラルキー)を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくったりするだけの結果に陥ってしまう。ピアコンセプトはネットワークへの情的動機の一つであるとは考えられるが、ネットワークにおいては、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心を嗤うとともに、そのような自己の内なるピア意識をも意識的・理性的に乗り越えなければならないのである。  もちろん、ここでのネットワークは冷たいこころのものではない。むしろ、ほんとうの意味での信頼の関係といえる。これを支持的風土ということができる。それは、みせかけの同調をすることではない。仲間に同調しない場合もそれを安心して示すことができる。人間はもともと無知であり、非力であるのだから、それを自覚してもなおかつそれを受容してこそ(無知と非力の自覚)、自他への信頼と共感が生まれるのだ。ネットワーク型のグループ活動は大いなる癒しのサンマ、楽習のサンマになりうるのである。 注:「サンマ」のあり方については、自著『癒しの生涯学習 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、一九九七年)を見ていただけるとうれしい。 にしむらみとし 1953年生まれ。東京都社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て、1990年から昭和音楽大学短期大学部助教授。担当は社会教育主事課程。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。 〈著書〉 ・『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』1991年 ・『こ・こ・ろ生涯学習 −いばりたい人、いりません−』1993年 ・『癒しの生涯学習 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』1997年 (ともに学文社)