自己決定や共感はしてもしなくてもよいものか 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士(mito) 自己決定しなけりゃいけないの?  いまの時代状況をどんな言葉で表せばよいのか。  生涯学習、ボランティア、地域活動における自己決定の重要性(西村『癒しの生涯学習』学文社、97年)を授業で述べたとき、ある男子学生が「mitoちゃんは、本気になって人生には自己決定が重要だと思っているの? そんなわけないでしょう?」とぼくに言った。彼は、親の願うことだからある採用試験を受けるという。ただし、どうしてもそこに入らなければ困るというわけではないから、一生懸命、受験勉強をするというつもりはない、試験を受けさえすれば親も納得してくれるだろうというのだ。たしかに、その後も親元にいてあげて、あくせくせずにそれなりの仕事をして暮らしていけば、親も本人もそれで幸せ、ということかもしれない。  先日、短大1年女子学生から次のような出席ペーパーが提出された。  自己決定自体、しても、しなくても、どちらでもよい。ただ、迷惑をかけたり、かけられたりするのはいやだけど。  (思春期の少女の摂食障害のビデオを見て)私は彼女たちのことを可哀相とは思わない。本人はつらいとかいっているけれど、本人の願いどおり体重が激減しただけのこと。ビデオで彼女たちもいっていたとおり、「病気になって、かまってもらいたかった」からそうなった、つまり自己決定なのだから。  ぼくはこの文章自体には誤りはないと思う。自己決定は権利であって、しなければいけないというものでもないし、また、現代社会においては、自己決定しても通らない、かえって損をするなどということがあまりにも多すぎる。だから自己決定すなわち自立をめざして周りに波乱を巻き起こすよりは、迷惑をかけないようにおたがいが気遣って生きるほうが大切、ということになる。ほかの学生の中には「自己決定活動の中に癒しなんかがあるはずがない」という者さえいるのだ。しかし、一方、それは、おたがいが縮こまって生きているという現代の状況をも生み出す結果にもつながっている。 共感は義務ではない  次に、「可哀相とは思わない」である。文面上は、これもかなり正しいと思う。自分の行為が失敗したからといって、「同情」されるのはいやなものである。  しかし、そもそも、これらの思春期の逸脱行動さえも自己決定に含めてしまってよいのか。さらには「自己決定、つまり、自分で決めたことなんでしょ」と突き放してしまってよいのか。ぼくは、自己決定とは、選択の自由だけでなく、撤退、無為を含めて3つの自由の前提のもとに、過去や他人のせいにすることなく、「やりたいから」「自分のために」自分の行動を決定することだと考えている。そして、さらには、そうできない事情がある他者に対しては(じつは自分自身にも自己決定できない事情はいつまでもいくらでもあるはず)、同情ではなく、相手の枠組で相手を理解しようとすること、つまり、共感すること、人の痛みを知ることがとても重要だ。  だが、もう一度ひっくり返させてもらおう。たとえば教師には生徒に対する共感的理解が必要だといわれるが、それは教師の義務としてなのか。共感が義務だなんて、ちょっとおかしい。  先のペーパーに対して、ある社会人女子学生から、次のようなレスポンスのペーパーがあった。  私は以前まで共感ということができない人間でした。心の中では共感していないのに、表面だけは共感しているようなフリをしてずっと過ごしてきました。私が「共感」を実感できるようになったきっかけは、勉強のために行ったエンカウンター(注・ホンネの出会い)のグループによる体験学習です。その特殊な環境の中で、情動を激しく揺さぶられ、初めて他人の考えを、感情を、感じられたことがありました。でも、その時は初めての体験だったのでよく理解できなかった。  ところが、そのあと、3年ぐらいたったら、人に「共感」できる自分がありました。自分とは違う枠組を認められるようになったっていうか。そうしたら、他人にイライラすることも少なくなって、いわゆる社会的に「いい人」ではない自分のことも好きになれるようになりました。  今日、紹介された「可哀相とは思わない」という人は、もしかしたら以前の私と同じように、共感の体験をもっていない人なのでは、と思いました。 鬱の時代のなかで  たしかに、人に迷惑をかけることはいけないことといわれている。これに対して、自己決定や共感は、しなければいけないというものではない。しかし、社会人の彼女の場合は、共感体験によって社会性のほか、自己受容や自信までも獲得することができ始めている。このように、自己決定の人生を歩きたい、自他を信頼し、共感しあって生きていきたいという願いは禁欲できない潜在的願望であるはずだ。それを「してもしなくてもよいもの」と割り切ってしまおうとする時代の心理の奥底には、何か暗澹たる敗北感が流れているように思える。  先日、ある青少年施設の運営会議で、現代の時代の気分を「鬱」とする論議があった。躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽きてしまっているのではないか。そういう時代に人々が求めている自己決定活動とは、大騒ぎできる華々しいイベントなどではなく、一人ひとりの「個の深み」(西村『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社、91年)と静かに対面し、出会いの体験を味わうことのできる「癒しのサンマ」(時間・空間・仲間の三間)なのであろう。 注:「癒しのサンマ」については、自著『癒しの生涯学習 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、一九九七年)を見ていただけるとうれしい。 【ACCESS】 E-MAIL:mitochan@ppp.bekkoame.or.jp