心を育てる・・・ええっ、なんということを −成人教育の視点から「心を育てる」をとらえ直す−  徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士(図表●) 1 わたしたち大人自身の心に問題がある  中央教育審議会は、1998年4月、「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機−(中間報告)」を発表した。  「ふむふむ、そうだよな。今の子どもたちの心は問題あるからな」ですませてしまう人(素朴肯定派)、ちょっと待ってほしい。  一方、「ええっ、なんということを。だから、教育は押し付けがましくていやなんだよ。まあ、わたしたちは大人だから、教育から自分の『心を育てられる』なんてことはないからいいけど」と感じる人(教育懐疑派)、まあそういわずに、心を育てる教育や指導の意味を、この際、あらためて考え直す機会にしてほしい。もしかしたら、本当の「心を育てる教育や指導」にあなた自身が出会ったことがないだけの話なのかもしれないのだから。  ぼくは、今回の中間報告の副題の「次世代を育てる心」という言葉に注目する。これは、もっぱら今のわたしたち大人の心を指していて、それが危機だといっているのである。実際、第1章のテーマは「未来に向けてもう一度我々の足元を見直そう」であり、「我々大人が、大人社会全体、家庭、地域社会、学校の足元を見直し、改めるべきことは改め、様々な工夫と努力をしていこう」といい、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝えようとしない大人、子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人、子どもを育てることをわずらわしく感じる大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、我が国の抱えている根本的な問題である」とまでいい切っているのである。  たしかに、青少年問題に関する文献においても、最近数年の傾向として、現代社会における大人自身の不幸に言及する論調が増えてきている(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年度末発行)。  ここまでくると、「素朴肯定派」は、「だけど、大人は、子どもと違って心の教育なんてできないからな」といってすませようとし、「わたしたちは大人だからいいけど」と思っていた「教育懐疑派」の人は、「大人まで教育しようなんて余計なお世話だ」と反発を強める人が多いのではないか。あるいは、ここまできてもなお、「たしかにひどい大人はいるから」といって他人事にしようとするか、「わたしはすでに責任のある指導者だから」といって、少なくとも自分だけはそういう「教育対象」であることから免れようとする人もいるかもしれない。そういう一般的と思われる状態と比べれば、ぼくは、「教育懐疑派」の最初の「ええっ、なんということを」という直感こそが、かなり本質を突いたものだと思う。「自分の心まで教育されてしまうことへの抵抗心」、これを大切にしたい。  以上の前提のもとで、「子どもの心を育てることのできる成人」の心を育てることはできるか、という問題に進むことにする。結論だけいっておくと、先に述べた「抵抗心」の尊重にもかかわらず、ぼくの答えは「できる」である。なぜなら、公民館はじめ成人教育の場で、現に、当たり前のように大人が生涯にわたって成長し続けているのだから。 2 用語の言い換えだけでは問題は解決しない  ぼくが参加しているあるメーリングリスト(インターネットによるグループ内での手紙のやり取り、以下MLと略す)において、先日、次のような問題が提起された。  図書館での「指導サービス instruction service」について、アメリカの図書館界では普通に使われているようなのに、日本の公共図書館の司書の中には「市民に奉仕するべきサービスの現場で『指導』などという思い上がった考えは絶対にいけない」という拒否反応を示す人が相当数いたということなのである。  たしかに、大人(この場合は市民)に対して「指導」という概念を用いることは、最初、ほかのメンバーにも、ぼくにも抵抗があった。ぼくも、最初、次のように「教育懐疑」的なレスポンス(返事)をしていた。 ・指導という言葉を聞くと、引きこもりの若者たちのカウンセラー富田富士也さんが、ぼくがある「青少年指導者」の講座のメンバーを引き連れて話を伺いにいったとき、「指導したい人はこの世にたくさんいるでしょうけど、指導されたい人なんているんですかね」と強烈過ぎる一言を穏やかににこやかに発せられたことを、いつも思い出します。 ・市民に「あなたを指導しますよ」という言葉は使わないんじゃないかなあ。 ・市民に使わない業界用語、役所用語は、内部でも避けたほうがよいのでは。 ・(メディアリテラシー教育について)問題は、(援助ではなく)instruction(指導)の方になるのかな。メディア活用技能についてはinstructionはあっても、メディアリテラシーにおける主体性の涵養においてのinstructionは、「ちょっとおまえ、そんなにえらいのか」という感じですよね。  しかし、問題提起者(仁上幸治(ルビ=にかみ・こうじ)さん/ 早稲田大学図書館)の緻密で丁寧なリ・レスポンス(返事に対する返事)によって、指導という言葉を単純に忌避するだけであれば、次のような問題が生ずることが明らかになってきた。 ・広報サービスや案内サービスとは異なる次のレベルの専門性の高いサービスとしての指導サービスが、案内サービスのレベルと同等になるおそれがある。 ・大学では「卒論指導」などという言葉があるけれど、誰も抗議しない。市民には控えるべき言葉づかいが、学校や大学では堂々と罷り通っているということになる。 ・学校や大学や企業では「指導」という用語を使い、社会教育の現場でだけ別な用語を使う場合、生涯学習の観点からは、議論のための共通の用語を失うことになる。 ・指導はダメで、英語のインストラクションならいいということなら、逆に、指導という言葉にこびりついている日本的なマイナスイメージを上回るプラスイメージを押し出して、ふつうに使える言葉にすればよい話なのではないか。  今回の問題提起のおかげで、とくにテクニカル(技能的)な、初歩から専門までの知識と技能のハウツー伝授の場合は、指導という言葉は問題ないだろうという、本ML内での一応の「収まり」は見えてきたように思う。しかし、その「指導呼称容認」の結論は、あくまでも問題提起者の仁上さんが明瞭に述べたように、「いかに生きるべきか」というような人生論や主体性論とはまったく別のものとして切り離した場合、という条件付きのものである。  それでは「心を育てる」という場合はどうなるのか。ぼくは、この「収まり」に関して次のようにコメントした(軟弱なコメントではあるが)。 ・そういわれても、教育の主要な目的は人間形成ですからねえ。最近は「生きる力」とかもいわれてる。そして図書館も社会「教育」施設だし(その法的位置づけには昔から司書の反対運動があったようですけど)。それに情報リテラシー教育の主眼は、なんといっても、テクニカルな面ではなく、あふれる情報に対して主体的に取捨選択するという「態度形成」の問題でしょう。 ・やっぱり、学校教育や社会教育は文字通り教育であり、指導者は文字通り指導をする人なのでしょう。国民が主人公という建前の社会教育においても、教える側に立つ講師という「教育者」はいますし、さらには社会教育の理想郷(生涯学習社会)に至るまでの長い過渡期間においては、「社会教育する」専門職員、「指導する」指導者がいて当然でしょう。でも、これは学校教育でも同じなんですが、「教える人は(学習者から)学ぶ人」であり、指導者は指導される人の自発的動機に依拠して指導するんですよね。それから大切なのは、やっぱり、教育者側、指導者側の、「無知と非力の自覚と受容」(後述)なんだと思います。 ・(言葉の言い換えですまそうとする問題について)生涯教育を生涯学習に言い換えることによってだけ「国民主体」になったような雰囲気をつくろうなんて、なんだか姑息ですよね。もともと、生涯学習を支援する社会の教育的諸機能全体が生涯教育なんですから。 ・問題は、「態度変容の学び」において、教育や指導という言葉が成立するかどうか、そして、その「手の内」を学習者側にどういう言葉で(内部で本当に使うのだったら、外部でもそのまま使え、というのがぼくの意見)表現するかということでしょう。 3 大人に対する心の教育や指導は可能か  繰り返しになるが、この章の問いに対するぼくの結論は、可能、である。教育懐疑派のようにすべての人の単純な自己教育しか認めない人が不可能と答えるならともかく、子どもにだけは可能だが大人には不可能という素朴肯定派の答えは、絶望的ともいえる大きな問題をはらんでいる。その人がふと我に返ったとき、「だったら、子どもにとっても地獄のような教育や指導なんだろうな」と気づくはずではないか。それでも、一部の体育会系のように「自分も我慢してきたんだから、今の子どもも社会のために我慢しろ」というのか。  やはり、ここで「心を育てる」学校教育や社会教育をめざす場合、今までわたしたちが思い込んできた教育の姿とは異なる「もうひとつの教育」の姿を探し出し、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝える」(中央教育審議会)ような自信をもって、楽しげに、できる!、と答えたいのである。ただし、それは「できる」であって、「できている」では決してない。あとで述べるように(無知と非力の自覚)、「できている」などという大それた自信はぼくにもない。  大人の心を育てるという教育の可能性を考えるにあたって、ここではあえて、最も抵抗が強いと考えられる大人に対する教育的指導のあり方について踏み込んでみることとしよう。  指導は「指さし導く」と書く。  何を指さすかというと教育目標(=学習の到達目標)であろう。だから、自分には教育目標があるのにそれを学習者側には秘密にしておくような指導は、本当の指導ではないということになろう。次に「心を育てる」などといわれても、そんな面での教育目標なんかおこがましくてもてないという指導者もいるだろう。そういう人は、指導者としての資質がかなりあるとぼくは思うが、先に述べた「もうひとつの」教育や指導の存在の可能性をも考えて、これ以降のぼくの文も読んでほしい。  次に、導くということは、その教育目標の方向に手を引いてあげることであり、これも大変なことだ。自分だって健全(まったく欠け目なく異常がないこと)な心をもっているはずがないのだから。だが、先のMLでは、大学でのゼミの教師が「教えない教師をめざす」といっていたという発言もあった。これも上手な導き方のひとつなのかもしれない。そして、「不完全な自己への自覚」さえあれば、これから述べるような導き方ならできるはずだとぼくは考える。  なお、これから述べる「大人に対する(心の)指導」のあり方は、じつは子どもにとっても、「地獄ではない、もうひとつの教育や指導」のあり方を示すものなのではないかとぼくは思っている。 @ 非日常的な相互関与を意図的に深める。  徳島大学大学開放実践センターの研究会で、ぼくは、センターのこれからの役割として「情報提供を乗り越えて相互関与へ」という文脈で提起したことがあったのだが、今回のMLでの議論を同研究会で紹介したところ、「指導に代わるいい言葉」として、その「相互関与(interaction)」にヒントがあるのではないかという指摘があった。その指摘を受けて、指導の本質は、とくに心を育てるという場面においては、指導者と学習者の相互関与を非日常的な深いものにして、学習者の気づきのあるものになるように、意図的に行為することなのではないかとぼくは思った。たしかに、これができれば、すばらしい指導といえるだろう。  小児精神科医の河合洋は、今日の子どもたちのぎりぎりの状況をふまえて、「ほざくんじゃねえ」と訴えている。子どもにではなく、子どもを取り巻く親や教師などの大人に対してである。他人の痛みがわからない大人たちから発せられる、感情を伴わない意味のない言葉の洪水(ほざき)に、子どもたちはSOSを発しているというのである。「意味のある言葉」をたくさん受けるために生まれてきたはずの大人たちに対して、ほざきの連続の不幸な日常のなかで、もし、指導によって日常では得られない学習者との深い相互関与が実現できるのなら、その指導はこの社会における突出的な意図的行為といえるのではないか。  公民館では、それができるのではないですか? A 指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する。  「私は真、あなたは偽」と思い込んで(信念に凝り固まって)いる人にとっては「自分がわかっていないことに気づくこと」(無知の知)が重要である。わからなくなることによって、答を出すのを保留して問い続けるという生産的な構え(交流分析では、幼児期に親とのふれあい等によって培われた人間と人生に対する態度を「基本的構え」といい、基本的信頼に基づく構えを「生産的」とする)に戻ることができるのである。では、わからなくなれない人はどうしたらよいか。わかっていないということをその人に自覚させるような学習指導者からの質問が有効である。これを「ゆさぶり発問」という。そういう指導者がいない場合は、あとは自問という手段しか期待できない。こういうゆさぶりを経て、無知と非力の自覚が生まれ、「まあ、いいか。これから少しずつやっていこう」という自他の欠点や弱点をも抱え込んだ受容につながり、自信(自分への信頼)と他信(他者への信頼)が形成される。(図表●)  以前、「ちょっとおしゃれな教授法」という音楽大学での演習で、ぼくが「目玉焼きの作り方」という「模範授業」を行ったとき、あるまじめな学生が「mitoちゃんは私たちよりも目玉焼きについてよく知っているんですか」と聞いてきた。ぼくは「ふたをした方がおいしくできあがることなど、目玉焼きの作り方に関して伝えたいことはあるけど、学習者側より知っているかどうかはわからない」と答えた。すると、彼女は「そんな人が教える側に立つこと自体、いけないことなのではないか」といったのである。たしかに彼女は、自分よりはるかに優秀な先生から音楽を習うことに慣れているから、そういう「いい加減な指導」に抵抗を感じたのだろう。この場合は教授法のシミュレーション(模擬訓練)であったが、ぼくは、たとえ本番の教授活動においてもそういうことがあってもよいと思っている。指導者側に無知と非力の自覚さえあれば、双方向教育などによって、むしろ結果的にはより効果的に学習者側の主体的な学習を支援することにつながるかもしれないのだ。  上の2段は自著『癒しの生涯学習』から引用した。ぼくの授業を受けている学生のなかには、「無知と非力の自覚」というぼくの言葉を聞いて、「無知と非力を自覚してしまったからこそ、私はつらいのに」と反発してくる者がいるが、ぼくがいいたいのはそういうことではない。前段は学習者の無知と非力の自覚と受容のための指導のあり方について触れたものだが、その場合でも、指導者側自体が自己の無知と非力を認めて、受け入れようとしないままで、学習者にだけはそのような気づきを援助するなどということができるわけがない。 B 教育と学習の間に流れる暗くて深い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。  教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、以下のように情緒的な表現になってしまうことをお許しいただきたい。教育=学習援助の等号には暗くて深い河が流れているとぼくは思う。ぼくは、まず、この暗くて深い河の存在を伝えていきたい。次に、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この「上下同質競争社会」の同時代に命を燃やしている。ぼくはたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい。  上も『癒しの生涯学習』からの引用である。先に述べたように、学習者の「自分の心を教育されることへの抵抗心」を尊重しつつ、学習者主体の指導を試みようとする指導者にとっては、つねに自己の指導の有効性が疑わしいものに思えてくることだろう。「ところで、自分のほうの指導者としての主体性はどうなってしまうんだ?」というわけである。逆に、学習者からのねぎらいや感謝のちょっとした一言でささやかな自信がもてたりするときもあるだろう。とくに「心を育てる」教育、ぼくの言葉でいえば学習者の態度変容のための指導においては、厳しいいい方になるがその繰り返しであってほしいと思う。男と女の間にも、最終的には理解し合えない「暗くて深い河」が流れている。しかし、だからといって、ふてくされてしまって、相手という彼岸に向かって舟を漕ぐことさえしなくなったら、その人の姿はもうかわいくない。 4 おわりに−わたしたちはどんな心をもちたいのか  本稿の最初に述べたように、中央教育審議会の中間報告は、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝えようとしない大人、子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人、子どもを育てることをわずらわしく感じる大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、我が国の抱えている根本的な問題である」といっている。  じつは、ぼくには、この表現が今ひとつしっくりきていない。わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか(そう思ってしまうところが「根本的な問題」のひとつだという人もいるかもしれないが)。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたいのである。むしろ、潔くそのように「自分のため」と思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。  以前から、親の期待に沿おうとして過剰な努力をしてしまう子どもたちの苦しみが問題になっているが、最近気づいたことだが、同様に、親だって、子どもの期待に沿おうとして過剰な努力をするなんて本当はまっぴらごめんのはずだ。  「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」というものが、教育を受けるものにとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、これは指導行為など成り立つわけがない。空しく響くだけだ。極端にいえば、人々から本音のところではいやがられてきた教育や指導の再来ともとらえられかねない。  本来なら、そこまでいうためには、報告の各論にわたって逐次的に検討しなければならないところだろうが、今回はその余裕がないことをお許しいただきたい。たしかに、たとえば、名実ともに一体感あふれる「コンテナー家族」から、個の人格の存在を認識し合って意識的にコミュニケーションを行う「ネットワーク家族」への転換の提案ともとらえられるところなど、現代社会の動向に敏感に対応した部分は数多く認められる。それらは十分評価されるべきである。しかし、全体的にはこの報告の趣旨からいって仕方ないことかもしれないが、題名どおり「危機対応型」で、「子どものため」を主体とした提案が多いのである。ぼくは、少なくともこの報告が基調とする「新しい時代」や「未来」のためという言葉は、やや「感情を伴わない意味のない言葉」のような感じがするということを指摘しておきたい。  もっと、子育てを含めた大人の幸福追求全体にとって、「今ここで」の実感から「夢を語り」、それが結果として「未来を切り拓く」ことにもつながるという「楽習」の展望を指させないのだろうか。もっとも、それは、中央教育審議会の役割なのではなく、公民館をはじめとするわれわれ社会教育現場の役割なのかもしれないが。  そこで、ぼくが、この春、音楽大学を去るにあたって、大学の授業の締めくくりに、2年間お付き合いいただいた短大2年生に「mito的授業の印象」に関する自分個人にとってのキーワードを一人一人出してもらってまとめた図を掲載する(図表●)。図を見て気づくように、そのほとんどが、態度や雰囲気に関することである。  さらに単位認定に結びつかない狛プー(東京都狛江市中央公民館青年教室)においては、なおのこと、これらの「心」に関することがぼくの存在の意味だったといえるのではないかと思う。無知と非力のぼくではあるが、それだからこそ現代社会の、そして人間存在の、孤独な宿命のなかで、ぼくなりに大学教師や公民館講師という「指導者」として役に立つことができたのだと思いたい。そこでのぼくは、わずかながら、いわばネットワーク型の指導者の役割を果たしたのだといえよう。それはあとの表に示すように、@初めの一歩を励ます、Aミニ・ヒエラルキーを早めにつぶす、B潔い撤退を促す、の3点だと考えている。  さらに、 神奈川県藤沢市青少年協会の若者たちが、ぼくが「指さそう」としたサンマ(時間・空間・仲間)のあり方について、絵にしてくれたものがあるので、これを紹介しておく。(図表●)  しかし、本稿においてさえ、指導という用語自体を学習者に対してオープンにし、積極的に使うかどうかは保留の状態である。じつは、本稿の基調となっている自著『癒しの生涯学習』の副題も、「ネットワーク指導論」とする予定であった。しかし、若者たちが、「指導論」はどうも感じが悪いというのである。ただ、「自己決定活動の『指導』とは何か」という「まとめ」の簡単な表はその本の巻末につけておいたので、最後にこれを掲載してまとめの代わりとする。(図表●)  「大人の心を育てる」指導のあり方については、公民館関係者のみなさんと、逃げず、急がず、これからもじっくりと考えていきたい。 ホームページ http://ha5.seikyou.ne.jp/home/mitochan/ 電子メール  mitochan@ias.tokushima-u.ac.jp 自宅ファックス(終日可) 0886-26-8007 参考文献 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』学文社 西村美東士『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人いりません』学文社 西村美東士『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』学文社 ※本稿で取り上げた「ML」の詳細については、個人的にお知らせします。