国立教育会館通信 原稿(案) 23字×65行 生涯学習と癒し 徳島大学大学開放実践センター助教授西村美東士  ぼくの著『癒しの生涯学習』(学文社、1997年4月)について、東京都青少年センター専門員の伊藤学は、その特異性を評価しつつも、「自分が癒されたいときにはバイブルとなる」が、「それを"お仕事"としていくことで、プラス面に作用しなくなること」という「警戒」を表している(全日本社会教育連合会「社会教育」1997年8月号)。  癒しの語感は、一般的にはたしかに後向きだ。それが理由で、多くの生涯学習援助職員にとって、癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)に取り組むことに抵抗があるのかもしれない。  しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、つねに前向きであれとする無茶な態度を排しながらも(そこが従来の教育と違う点である)、結果はむしろ前向きになるはずのものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク的態度のことである。  伊藤は、カウンセリングやガーデニングのブームなどを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い」ので、教育者はその当然の欲求を無視できなくなっているとしている。  伊藤の論は正当だと思う。しかし、ぼくの提起したかった「癒しの生涯学習」は、そういう若者の顕在化したニーズを重視する議論とは発想が異なる。  ぼくの「癒しのサンマ」という言葉は、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのよい関係づくりによって、癒し、癒されようとする志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの授業が一番疲れるとか辛いとか訴える人が例年、出現するのだろう。彼らの批判は、関係者にありがちな「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」という批判より、いっそう的を射ている。生涯学習のような自己決定活動とは異なる学校教育の場においては、そういう学生にぼくが言えるのは「無理して出席しないで、元気になったらぼくの授業に出ておいで」ということぐらいである。  ここまでくると、「そんな教育の、どこが癒しなんだ」といわれそうである。しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質がある。つまり、ぼくが進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う現代社会「一般」からの逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃がれようという場ではない。むしろ、人との信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容のサンマを創り出すことによって癒されようとする、なかなかやっかいで突出的な営みなのである。学習が即癒しであるような学習中毒のほうがよっぽど楽だ。  しかし、このような「出会いの努力」を本人が自己決定しない限り、本当に癒されることはないとぼくは思っている。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の拝「癒し」、没主体の事態に対して、本当に癒される人間関係のあり方を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざす個人の自立や、望ましいコミュニティおよびネットワークの形成などはできようがない。