青少年問題研究会『青少年問題』45巻11号原稿 癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)と若き旅人たち  −地域若者文化のはぐくみ方−  西村美東士 はじめに  −癒される地域文化創出の可能性  まわりの大人や友達に対する「いい子ちゃん」も「淋しがり屋のタカビー」も、いま、癒されようとして必死の「努力」をしている。ヒーリング(癒し)のための音楽を聴く、オイルやハーブを買う、イルカと泳ぐ、クジラの鳴き声を聞く・・・・。しかし、それだけでは根本的には癒されるはずはないであろう。  ここでは、文化としてのコミュニケーションやその他の文化活動がどのようにあれば、そういう現代の若者たちに心からの癒しを与えられるのか、そして、そのことによって、文化の継承や建設的な対抗文化としての役割を若者文化が果たせるようになるのか、考えることにする。その際、地域だからこそ期待できる可能性とは何なのか、ということが重要になる。  従来の教育は、ややもすると対抗文化の発展を妨げる一方、青少年個人には成長・発達ばかりを期待してきた。しかし、学校歴偏重、上下競争主義の弊害がここまできた今日、非効率的に見えようとも、癒しや安らぎを得ることのできるサンマを広げていくことに力を入れることの方が先決である。  サンマとは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが、今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けていると提起したときの言葉である。しかし、若者や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。「癒しのサンマ」の概念を絵にしたものが図1である。  このことについて、自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(平成9年4月、学文社)では、癒されるためには、@自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はないと主張した。そして、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つの自己決定の集団の人間関係がもつ癒しの機能の重要性を訴えた。  地域は、その実態はともかく、本来的には縦よりも横の関係が基調になる場である。それゆえ、文化活動においても、上からの命令ではない自己決定と、対等な人間的交流が基盤になり、文化創造を含めた上の3つの自己決定活動の主人公として活躍する余地の大きい場の「はず」である。だとすれば、地域文化は「癒しのサンマ」に支えられ、そのサンマをより確かな信頼と共感に基づくものにしてくれる「はず」だろう。  「はず」であるのに、地域の実態がそうではないとすれば、今の若者を責める前に、地域自体の意識的な変革によって、これを少しでも、あるいは突出的にでも、改善していくことが大切ではないか。以下、サンマの視点に基づいて、そのための提案をする。 1 地域に囲い込もうとしないで  −若き旅人たちの巣立ちの場  ぼくが関わっていた東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)では、他市、他県からも若者がやってくる。彼らは、よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる若き旅人である。主催者側は、そういう旅人を、ゆめにも、門前払いするようなもったいないことをしてはならない。  その旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江っていいところだよ」とまんざらでもなさそうだ。実際、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。しかし、彼らとて、また、いつ巣立ってしまうかはわからない。  地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元するための活動を」という地域からの若者への押しつけである。相手の若者だって憲法で居住、移転及び職業選択の自由(22条)が保障されている国民の一員なのに、視野の狭い地域主義に凝り固まった大人の御都合主義が若者の巣立ちを引き止めようとする。  地域自身がオープンマインド(開かれた心)を取り戻す必要がある。 2 ノリを押しつけないで  −鬱の時代の「個の深み」  東京都青少年センターの運営会議で、ぼくがあるにぎやかなイベントを提案したところ、同じく委員をしていた狛プーの前衛芸術の女性講師から、「西村さんね、いまの時代の気分は『鬱』なのよ」と言われた。たしかに、躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽き飽きしているようだ。  ぼくのメーリングリスト(インターネットを利用したグループ内での手紙のやり取り)に参加しているある若者の発言(概要)を聞いてほしい。  「実行委員とかいう言葉には、なぜか拒絶反応がでるんですよ。どうも、大学の時の学園祭実行委員会(≒自治会)のイメージが強烈で…。なんというか、単一のノリしか認められないような感じとでもいうんでしょうか。結局、今の自分のノリがその集団のノリとあうような人じゃないと定着しないんですよね。そしてますますその集団内部で閉じた世界ができちゃって、強化されていく。その最悪なところは、彼らのノリでの参加を強要されてしまうということです」。  このように個を大切にする現在の若者が求めている出会いとは、一人ひとりの「個の深み」(自著『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社、平成3年4月)と静かに対面し、しみじみと体験を味わえるサンマでの出会いなのだろう。  ノリは、結局は「視線」を獲得するための行為につながっているようだ。それはそれでよい。しかし、鬱の時代には、もっと意味を込めた「まなざし」こそを求める若者が増えているのではないか。ノリに無理して付き合うことなく、かといって乱暴にならずに自己の鬱を大切に扱って生きている若者に対して「まなざし」を投げかける地域や文化であってほしい。 3 個人としてとらえて  −学習は個人的事象  同じメーリングリストから。  「以前、大阪にいる頃はハードロックバンドを組んでライブハウスを回っていました。今の仕事を始めてからは音楽から離れていたのですが、最近またバンドを組み、ギターも習いはじめました。ゴキゲンな毎日です。団体行動は苦手。でも楽しいお酒は好きです。仲良くしてください」。  ぼくは次のようなレスポンス(反応の投稿)を出した。  「そうなんです。このメーリングリストでもそういう人が多くて・・・。でも、ここはイベントバリバリの人たちも水平に交流するという特異な場だと思います。なんだかおもしろいですよね」。  指導者は、表面的には集団を相手にしていても、心底そう思いこむようになったら大間違い。学習は本質的には個人的事象であり、教育はその異なる学習者一人一人に働きかけていく営みである。文化活動もそうだろう。「みんな違ってみんないい」(金子みすゞ「わたしと小鳥とすずと」)のである。 4 大人や紳士淑女としてとらえて  −青年は保護や管理の対象ではなく、自己決定主体  子どもは子どもと呼べばいい。しかし、青年を、青年と呼ぶか、若者と呼ぶか、ぼくは現在、ほかのメーリングリストで論議中だが(一応のぼくなりの結論はひらがなの「わかもの」である)、少なくとも中学生を過ぎたら、どう呼ぶかは別として、「まだ子ども」ではなく、「もう大人」として接し、「若い大人」すなわち「ヤングアダルト」としてとらえるよう主張したい。  「子ども」と呼ばれるのではなく、「知る権利」などを保有し、よって責任があるという意味での「アダルト」と呼ばれることによって、そう呼ばれた人自身が、保護と管理のもとに置かれ続けすぎた「子ども」ではなく、自己決定する「成人」になることができる。場合によっては、子どもに対してだって「紳士淑女」として扱えばいいではないか。 5 後向きを否定しないで  −積極・消極の自己決定の尊重  よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己決定できていないとさえいえるかもしれない。  自己決定活動のエネルギー消耗について、ふたたびメーリングリストから。  「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。  人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。  この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。  違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。  「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。  後向きになっているときも個人にとっての「文化」の契機なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは建設的な生き方のひとつなのである。 6 教育っぽくないのが好き  −双方向ライブこそ教育や地域若者文化の姿  ある青少年センターの若手スタッフが、違うメーリングリストで次のように発言していた。  「よく利用者や関係職員には『教育っぽくなくていいよね』とか、『なんでそんな事業ができるの』っていわれることがあります」。  ぼくは次のようにレスポンスした。  「センターの事業は教育じゃないからなんでしょうね。社会「教育」の世界のぼくとしては悔しいです。でも、教育に対する固定観念に安住している人が教育をやっていると、マイナスとしての『教育っぽさ』が生ずるのであって、ほんとうは教育は『教育っぽい』ものではないと思います(矛盾した表現!)。  たとえば、校長が朝礼台に立つのは、数百人もの子どもたちから見えやすいようにという配慮であるはずであって、もし、これが過疎の村の数人の学校でも同じようにやっているとしたら、教育者としての見識が疑われるわけです。幸いにもそんなに小人数なら、子どもたちの視点まで降りていって、まさに双方向リアルタイムのおしゃべりをすればよい。そういうライブ(生演奏)感覚こそがほんとうは『教育っぽい』姿なのだと思います。  それにしても、朝礼って、なんだか教育の代表的存在みたい。あれって、やられるほうはコケにされてるみたいでたまらなく嫌なものですが、やっているほうはめちゃくちゃ快感感じてるんでしょうね。ずるいよねえ」。  同じ彼が次のように、ふたたびレスポンスしてきた。  「私個人の話で恐縮ですが、私が中学校の教壇に立ってたときより、今の仕事の方がおもろいです。なぜか? ある意味、無責任だから楽なんでしょうねえ。マイナスとしての教育っぽさ=説得、というイメージがあるんでしょうか」。  ぼくは次のように返した。  「説得じゃないでしょうね。だって、ぼくだったら、いっしょうけんめい包み隠さずに、真正面からぼくを説得しようとする人がいたら、その人の言葉を少なくともよく聴きたいとは思うもの。ただし、最後に決めるのは自分ですけど。  マイナスとしての教育っぽさ=説得、ではなくて、=説教、なんでしょう。自分の本音や心配事は隠しておいて、なんの痛みや悩みも感じてないふりをして、とくとくと朝礼台から語られることを聞く側の苦痛、というか馬鹿馬鹿しさ、これが、マイナスとしての教育っぽさなのだと思います」。  以上は教育についての話題ではあるが、文化活動、とくに地域文化においても、まったく同じことがいえるのではないか。文化を享受する側が個人として大切に扱われる。ときには双方向の参加が可能である。決まりきったことを上から押しつけられることだけでは、けっして個人は我慢できないのである。 7 中高年みずからが地域文化を楽しまなくっちゃ  −「今しかここだけしか」から「今ここで」へ  狛プーで紙芝居教室をやったとき(狛プーは月替りメニューである)、講師の紙芝居屋さんのおじいさんの態度がとても魅力的だった。参加者が一人一人順番にアドリブで紙芝居(本物の)をやっているときさえも、講師本人は自分の紙芝居の準備に熱中している。もちろん、言葉少なげに的確な専門的アドバイスをしてはくれるのだが、基本的にはそのおじいさんは「好きでやっている」だけなのである。だから、太極拳だかなんだか、関係ないけれど自分がいま関心を持っている話題については一生懸命しゃべる。こういう「自然体」で「ほんもの」の生き方に、若者は憧れるのである。  地域の心ある大人たちが危機感に駆られて、しかめっ面で「滅びゆく地域文化を継承しなければならない」と訴えたとしても、多くの若い旅人たちは自己決定してまではついてきてはくれないだろう。失礼な言い方で恐縮だが、その言葉に「うそ」が混じっているように感じられるからである。  それよりも、少しでも多くの中高年たち自身が、地域文化をみずから楽しみ、地域の横のつながりによって生ずる癒しのサンマにみずから癒される思いをもてるようになることこそ大切なのではないか。  「今ここで」あるいは「今を生きる」という言葉がある。学歴などの過去の文化遺産を比べあったり、「次の世代のために」と演説したりすることより、「今ここで」の自他の個の深みとの出会いこそ、若者も中高年も心の奥底では求めていることなのだろう。「今ここで」は文化の本質でもあろう。  しかし、現代文明がここにまで至って、「今ここで」ではなくて、「今しかここだけしか」(どうせ将来は自己決定の生き方など無理だから)という絶望的な時代の気分が高校生などの若者たちを支配しているように思える。地域文化創造の主人公になるなどという意識が芽生えないのも無理はない。  そういうとき、中高年こそ、「落ち込んでいる自分自身に飽きて」、いわば居直って、「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」の生涯にわたる「今ここで」の文化の楽しみ方を示すことができるのではないか。地域文化活動等の横のつながりによる自己決定活動に限っては、主体的、意識的な営みさえあれば、それはすぐ手の届くところにあると思う。そういう中高年たちが地域にいれば、若者にとってはたまらなく魅力的な姿に映ることだろう。 (にしむら みとし 徳島大学大学開放実践センター 助教授)