全日本社会教育連合会『社会教育』99年3月号原稿  特集テーマ;『公民館の21世紀モデル』 癒しの公民館  −新しき伝統−   徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士 1 癒される場としての公民館    −寺中構想の再評価  寺中作雄の公民館構想(寺中構想)は、昭和24年の社会教育法より一足早く、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実し、公民館の普及に大きな役割を果たした。この通達では、@公民館は、町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である、A公民館は、町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある、B公民館は、町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である、C公民館は、町村民の民主主義的な訓練の実習場である、D公民館は、中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所、E公民館は、全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する、F公民館は、郷土振興の基礎を作る機関である、と述べた。  Aの「社交機関」については、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」とし、Bについても、「性別や老若貧富で差別することなく、自由な討論と他人の意見への傾聴」などとされている。「民主主義的訓練」だけでなく、戦時の暗く傷ついた人々の心を、社交や自由な雰囲気によってなんとか癒そうとしたものと考えられる。  これに対して、社会教育法では、「実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与する」とされ、法的根拠が与えられた。このことについて、「あまり明確ではないが、(寺中構想の)郷土復興・町村自治振興機関という性格はうすれ、(社会教育法では)社会教育施設という性格が強まったといえる。その設置主体は、公民館が地域を基盤としその地域内の住民全員の参加と支持と協力とにより成り立つものであるという建前から、市町村および公民館設立を目的に結成した法人−部落・字の公民館−に限定された。当然のことながら、その公共性、公益性が前面に出されたのである」(碓井正久編「戦後日本の教育改革10−社会教育」東京大学出版会、カッコ内は引用者)などというように、一定の進歩としての評価をするほうがふつうである。  しかし、ぼくは、公民館の公共性とか教育機関としての性格とかいうものは、人々が心傷ついた現代社会においては、むしろ寺中構想の「伝統」を基盤にした方がよいのではないかと考える。正確にいうと、ネオ・トラディショナル(新しい・伝統)だが。  今日、癒されない現代社会において「癒されるコミュニティ」を創り出そうとするならば、社会教育機関として「純化」される前の、今でいう自治公民館のもつ「社交機関」のような性格の意義が再認識されるべきではないか。なぜならば、生涯学習、ボランティア、地域市民活動という3つの社会的自己決定活動においてこそ、この現代社会においてさえ人が人によって癒される「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)」創出の可能性があるからである。そして、むしろ、社会教育法に則った公民館のほうこそ、自治公民館以上の教育的、公共的役割として、サンマの支援に力を傾けるべきである。  さらに、全国公民館連合会「公民館のあるべき姿と今日的指標」(昭和42年)では公民館の理念を、@公民館活動の基底は、人間尊重の精神にある、A公民館活動の核心は、国民の生涯教育の態勢を確立するにある、B公民館活動の究極のねらいは、住民の自治能力の向上にあるとし、その役割を、@集会と活用、A学習と創造、B総合と調整の3点とした。いわゆる「つどい」「まなび」「つなぐ」である。  もちろん、ここでは心のつながりなどの要素も意識されてはいたはずだが、公民館の現場では、表面的に受けとめられ、個人の学習課題の解決(生涯学習)と、それによる住民としての自治能力の向上ばかりが叫ばれ、そのスローガンが不信と孤立の一般社会において空しく響いているだけのようにぼくには感じられる。「公民館活動の究極のねらい」として、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」としての「社交機関」が現代的に転化した形での「癒される居場所づくり」の役割を自覚すべきである。 2 血縁・地縁から問題縁へ    −水平異質共生のコミュニティ  本誌1997年5月号で斉藤学は、「今、第四の領域といって学校、家庭、地域それら以外の領域も大切ではないかと言われだしているんですが」というインタビューに答えて、次のように述べている。  「ある家庭教育についての懇談会があって、すぐ父親参加をいうんです。でも、父親を集めようとしたって集まりませんよ。団地とか新興住宅地くらいですよ。妻にそむかれて一人になったシングルファザーの会だとか、家庭内暴力におびえている母の会といったら、すぐ集まります。こういうのを問題縁というんです。  今は地縁というのはないことを前提に考えた方がいい。学校は強制された地縁みたいなものですね。もう一つの縁は家庭です。家は血縁でしょ。血縁というのは、それ自体危ないんです。さっきから言っているような理由で。血縁、地縁もあまり頼るなといいたいですね。これからは、問題縁ですよ。私は、魂の家族と言っている」。  ぼくは、こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにぼくらのワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。  たしかに、斉藤のいうように、血縁・地縁による暗黙のうちの強制の伴う人間関係には、多くの現代人が傷ついてきた。しかし、公民館は、戦後から一貫してそういう縁とは異なる近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきたはずではないか(戦後の新生活運動を想起していただきたい)。  問題縁に希望があるというが、コミュニティを貫き通す問題縁は存在しないのか。もし、存在しないとするなら、地域活動・学習の総合的拠点としての公民館のすべきことなどもはやないといってよいだろう。しかし、個々人の抱える依存やハンディキャップの「種類」によって分断されたグループ(それが不要ということではないが)だけでなく、「地域でさえ癒されない。そういう今の地域を自分らしくいられる癒される地域にしたい」という「問題縁」は、潜在的には多数の住民に存在するはずだ。  幸い、地域での人間関係には「間(マ)」が存在している。その間を尊重しながらであれば、あるがままを認め合う水平異質共生(自著「癒しの生涯学習」学文社)の地域創造は可能なはずだ。ここが寺中構想とは異なるネオ(新しい)の部分だ。  現実の公民館には「癒しのサンマ」がふんだんにある。斉藤は同記事で「有能なリーダーなんていらない。自分たちで集まって、自分たちの言葉で語る。語るものは、体験しかないんです」、「単に地域だからといって、母親集めたって烏合の衆です。子育てに悩む母親だったら集まる意義がある」と述べているが、少なくとも「リーダー」としての公民館主事は、住民が安心して「自分たちの言葉で体験を語」れるようにするために仕事をしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけの、ごく当然なケースがたくさんあるだけの話だ。 3 住民の自治能力を向上させることよりも、まず大切なのは癒しと安心    −過去の学校のような集団づくりはもうやめよう  ぼくの関わっているメーリングリストで、多くの講座が次のような学級講座の運営方式をとっているという話題があった。@班にわけ、班長を決め、役員を決め、委員長を決める。A当番を決め、準備等の役割を決める。B連絡網を作る。C学級日誌をつける。D講座が終われば、編集委員による「まとめ」の作成。Eそして、自主グル−プの結成へ。住民の自治能力や民主的能力の育成という眼目のもとに取り組まれてきたのであろう。しかし、そのような役割をやらされるのはごめん、という住民が増えてきたというのだ。連絡網にしたって、最近の住民はプライバシーの観点から、強制されることをいやがるという。  こういう「公民館側の悩み」に共感するリーダーは多いと思う。しかし、ぼくは、逆に、現代社会においてはそういう住民のほうがむしろ当然だと思う。ここも「ネオ」な部分といえる。ぼくが年間講師として関わってきた狛江市中央公民館の青年教室(狛プー)には、半年ほども躊躇した上で、ボロボロになったチラシを握り締めて、やっと教室に入ってきた若者がいる。「学校の教室のようだったら絶対いやだったから」というのである。また、狛プーでバンガローに泊まり、最後の撤収の朝、ある若者が裏のほうで貸し布団まで干していた。それをたまたま見かけたぼくたちメンバーは、みな感心してしまった。役割分担は、このように自発的、流動的であるべきである。固定的になってしまったら、自立と共生をめざす公民館の教育的機能は薄れる。  @からEまでずらっと並べると、生涯学習時代以前の学校教育でさんざんやらされてきた「縦社会づくり(委員長、役員)」「固定的役割分担(当番制)」「みんな仲良く(連絡網)」の再来でしかないのではないかと感じる。学校教育の教科だけではなく、あの暗黙のうちの強制の匂いのする集団主義に心からはついていけないのである。「ここはまさか、学校みたいなことはさせられないだろうな」と思って、おずおずと、しかし、勇気をふるって参加した人に、いきなり、「ここはみなさんが主人公として活躍する学習の場です」というとしたら・・・、これは残酷な話だと思う。DとEは、もしやりたい人がいたら公民館がどんどん支援すればいい。Cも、買って出てくれる人がいる場合は、その人にやってもらうのならいいだろう。ただ、Dについては、公民館の講座は自主グループではないのだから、公民館主事ができるだけ講座の中味にも参加して、質の高いリーダーシップを発揮し、きちんとした記録を作ってほしい。  いずれにせよ、住民は生涯学習という自己決定活動の一環として学級講座に参加してくるのだ、ということを公民館側は再認識しなければいけない。この世知辛い現代社会なのにわざわざ自己決定で参加してきた住民に対して、公民館が、即、自治能力向上などの名のもとに集団主義を押し付けるのは、アダルトティーチングとしての教育的センスに欠けているといわざるをえない。  公民館は、自治能力向上等の公的課題(=現代的課題)の教育的意図を参加者にフェアに明示しつつ、まずは「ここは自分らしくいられる場所である」と安心してもらえるように心がける必要がある。 4 「地域社会に役立っている私」という住民の存在確認    −コミュニティに癒しを広げる公民館の公的役割  最後に、公民館側が意図的に提起している公的課題の学習と、それによる「住民の自治能力の向上」は、どのように個々人の癒しとつながるのかを述べておきたい。  生涯学習は個人の「どこまでも知りたい」という内発的動機に基づくもっぱら自己実現の行為といえよう。しかし、その自己実現は、社会的認知・承認の欲求の充足なくしては、ほぼ達成不可能である。その点では、マズローが社会的欲求を、自己実現の欲求や自我欲求よりも前のレベルに位置づけたことは現在でも通用する。  ただし、現代社会においては社会的欲求こそ一番満たされにくく、それゆえ多くの個人にとっては最高次の欲求にまで高まっているのかもしれない。本論も、この現代の欲求に応える公民館経営を提起しようとしたものである。  もちろん、社会的承認は、先述の3つの自己決定活動以外にも、本来、家族や職場への帰属意識などによって満たされるはずのものである。しかし、そこに頼りすぎることがむしろ病理を生み出しているのが現代である。これに気づいた一部の市民たちが自己決定活動に踏み出しているのだろう。そこで得られるのが、社会的役割の遂行と、それによる社会的承認を実感できる社会貢献のチャンスである。そして、公的課題の学習も、公民館が地域の総合的な教育施設であるがゆえに、学習者がその学習成果を社会貢献につなげていく条件を十分に備えている。  今日、多くの若者が「自分は社会において意味のある存在である」と胸を張れない状況がある。そういう人たちに対して、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居心地よいサンマにおける癒しだけにとどまらず、さらには「地域社会に役立っている私」という究極の癒しのチャンスまでをも提供する公民館であってほしい。今後の公民館活動の「究極の」ねらいは、「住民の自治能力の向上」ではなく、学習者一人一人にとっての、その二つの癒しにおくべきではないか。 西村美東士プロフィール  平成10年4月から徳島大学大学開放実践センター助教授。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員、昭和音楽大学短期大学部助教授を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師などを務めたのち、現在は、同センターの公開講座『私らしさのワークショップ』で張り切るかたわら、徳島市学遊塾運動やヤングフェスティバル等で人々との「癒しのサンマ」づくりに励んでいる。著書に、『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』(平成3年4月)、『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません』(平成5年3月)、『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』(平成9年4月)。いずれも学文社。 旧版 癒しの公民館  −新しき伝統   徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士 1 癒される場としての公民館    −寺中構想の再評価  寺中作雄の公民館構想(寺中構想)は、昭和24年の社会教育法より一足早く、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実し、公民館の普及に大きな役割を果たした。この通達では、@公民館は、町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である、A公民館は、町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある、B公民館は、町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である、C公民館は、町村民の民主主義的な訓練の実習場である、D公民館は、中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所、E公民館は、全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する、F公民館は、郷土振興の基礎を作る機関である、と述べた。  Aの「社交機関」については、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」とし、Bについても、「性別や老若貧富で差別することなく、自由な討論と他人の意見への傾聴」などとされている。「民主主義的訓練」だけでなく、戦時の暗く傷ついた人々の心を、社交や自由な雰囲気によってなんとか癒そうとしたものと考えられる。  これに対して、社会教育法では、「実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与する」とされ、法的根拠が与えられた。このことについて、「あまり明確ではないが、(寺中構想の)郷土復興・町村自治振興機関という性格はうすれ、(社会教育法では)社会教育施設という性格が強まったといえる。その設置主体は、公民館が地域を基盤としその地域内の住民全員の参加と支持と協力とにより成り立つものであるという建前から、市町村および公民館設立を目的に結成した法人−部落・字の公民館−に限定された。当然のことながら、その公共性、公益性が前面に出されたのである」(碓井正久編「戦後日本の教育改革10−社会教育」東京大学出版会、カッコ内は引用者)などというように、一定の進歩としての評価をするほうがふつうである。  しかし、ぼくは、公民館の公共性とか教育機関としての性格とかいうものは、人々が心傷ついた現代社会においては、むしろ寺中構想の「伝統」を基盤にした方がよいのではないかと考える。正確にいうと、ネオ・トラディショナル(新しい・伝統)だが。  今日、癒されない現代社会において「癒されるコミュニティ」を創り出そうとするならば、社会教育機関として「純化」される前の、今でいう自治公民館のもつ「社交機関」のような性格の意義が再認識されるべきではないか。なぜならば、生涯学習、ボランティア、地域市民活動という3つの社会的自己決定活動においてこそ、この現代社会においてさえ人が人によって癒される「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)」創出の可能性があるからである。そして、むしろ、社会教育法に則った公民館のほうこそ、自治公民館以上の教育的、公共的役割として、サンマの支援に力を傾けるべきである。  さらに、全国公民館連合会「公民館のあるべき姿と今日的指標」(昭和42年)では公民館の理念を、@公民館活動の基底は、人間尊重の精神にある、A公民館活動の核心は、国民の生涯教育の態勢を確立するにある、B公民館活動の究極のねらいは、住民の自治能力の向上にあるとし、その役割を、@集会と活用、A学習と創造、B総合と調整の3点とした。いわゆる「つどい」「まなび」「つなぐ」である。  もちろん、ここでは心のつながりなどの要素も意識されてはいたはずだが、公民館の現場では、表面的に受けとめられ、個人の学習課題の解決(生涯学習)と、それによる住民としての自治能力の向上ばかりが叫ばれ、そのスローガンが不信と孤立の一般社会において空しく響いているだけのようにぼくには感じられる。「公民館活動の究極のねらい」として、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」としての「社交機関」が現代的に転化した形での「癒される居場所づくり」の役割を自覚すべきである。 2 今の地域はジェンダーバイアスの宝庫? 女同士の監視の牢獄?    −女の癒し、男の癒しを地域に求めて  先日、徳島で、国際婦人教育振興会徳島セミナー「メディアの中の女性−ネットワーク・21世紀に向けて」が行われた。ぼくはそこで「チイキから発信する女たち−メディア・ジェンダー・コミュニティ」というメッセージを掲げて「地域社会分科会」の助言者として参加した。  分科会では、事例発表者の元小学校長で現在、市の公民館主事のTさんに、思いきって本音で発表していただいた。彼女は、地域の女性のエンパワーメントを掲げたまちづくり事業を進めているが、彼女の発表は、冒頭から「地域はジェンダーバイアスの『宝庫』である」という言葉で始まった。さらには、女同士でも監視しあう牢獄のような要素が地域にはあるという。異質を歓迎しあう水平交流にはまだまだほど遠いのが地域一般の実態なのである。公民館が、そんな癒されないコミュニティを「回復」してしまってはいけないだろう。  彼女が公民館主事になったときの感想は、「学校では学習者が自分の話を聞いてくれて当たり前だったが、社会教育では聞いてもらえるようになることから始めなければいけない」ということだ。そういう出発点から、地域のエンパワーメントに取り組んだ。そうしたら、若い子育てママの一人が、イベントのチラシをごっそり持っていって、スーパーのレジの前で配り出したという。チラシを受け取った人とはおしゃべりをし、ちゃっかり、連絡先まで書いてもらっていた。スーパーの店長だって、おいそれとは禁止できないのだろう。Tさんは、「元教員の私が彼女たちから学ぶ喜びを教わった」という。  さらには、「男社会」の象徴のような従来の地域団体をも巻き込み、盆踊りの練習をしたあとに地域の子育てトーキングをするなどの地域活動を展開している。彼女は、「地域にいてもジェンダーに縛られている男たちはかわいそう」という。彼女がめざしている公民館の地域活動は、女だけではなく、男たちにも、ジェンダーフリーの水平交流によるこのような癒しを与えるものといえよう。 3 血縁・地縁から問題縁へ    −水平異質共生のコミュニティ  本誌1997年5月号で斉藤学は、「今、第四の領域といって学校、家庭、地域それら以外の領域も大切ではないかと言われだしているんですが」というインタビューに答えて、次のように述べている。  「ある家庭教育についての懇談会があって、すぐ父親参加をいうんです。でも、父親を集めようとしたって集まりませんよ。団地とか新興住宅地くらいですよ。妻にそむかれて一人になったシングルファザーの会だとか、家庭内暴力におびえている母の会といったら、すぐ集まります。こういうのを問題縁というんです。  今は地縁というのはないことを前提に考えた方がいい。学校は強制された地縁みたいなものですね。もう一つの縁は家庭です。家は血縁でしょ。血縁というのは、それ自体危ないんです。さっきから言っているような理由で。血縁、地縁もあまり頼るなといいたいですね。これからは、問題縁ですよ。私は、魂の家族と言っている」。  ぼくは、こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにぼくらのワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。  たしかに、斉藤のいうように、血縁・地縁による暗黙のうちの強制の伴う人間関係には、多くの現代人が傷ついてきた。しかし、公民館は、戦後から一貫してそういう縁とは異なる近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきたはずではないか(戦後の新生活運動を想起していただきたい)。  問題縁に希望があるというが、コミュニティを貫き通す問題縁は存在しないのか。もし、存在しないとするなら、地域活動・学習の総合的拠点としての公民館のすべきことなどもはやないといってよいだろう。しかし、個々人の抱える依存やハンディキャップの「種類」によって分断されたグループ(それが不要ということではないが)だけでなく、「地域でさえ癒されない。そういう今の地域を自分らしくいられる癒される地域にしたい」という「問題縁」は、潜在的には多数の住民に存在するはずだ。  幸い、地域での人間関係には「間(マ)」が存在している。その間を尊重しながらであれば、ジェンダーフリーの宝庫、監視しあわないあるがままを認め合う水平異質共生(自著「癒しの生涯学習」学文社)の地域創造は可能なはずだ。ここが寺中構想とは異なるネオ(新しい)の部分だ。  最近、コギャルを卒業した若い女性たちや、普通のサラリーマンたちなどが、ヒーリング(心と体の癒し)とともに、家や地元でゆったりと過ごし、ジモティ(地元)の仲間とジモティの店で過ごす傾向を見受けるようになった。こういう一般の人たちに、人による本当の癒しを与える公民館であってほしい。人は人によって傷つくが、人によって癒される(富田富士也)という。  現実の公民館には「癒しのサンマ」がふんだんにある。斉藤は同記事で「有能なリーダーなんていらない。自分たちで集まって、自分たちの言葉で語る。語るものは、体験しかないんです」、「単に地域だからといって、母親集めたって烏合の衆です。子育てに悩む母親だったら集まる意義がある」と述べているが、少なくとも「リーダー」としての公民館主事は、住民が安心して「自分たちの言葉で体験を語」れるようにするために仕事をしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけの、ごく当然なケースがたくさんあるだけの話だ。 4 住民の自治能力を向上させることよりも、まず大切なのは癒しと安心    −過去の学校のような集団づくりはもうやめよう  ぼくの関わっているメーリングリストで、多くの講座が次のような学級講座の運営方式をとっているという話題があった。@班にわけ、班長を決め、役員を決め、委員長を決める。A当番を決め、準備等の役割を決める。B連絡網を作る。C学級日誌をつける。D講座が終われば、編集委員による「まとめ」の作成。Eそして、自主グル−プの結成へ。住民の自治能力や民主的能力の育成という眼目のもとに取り組まれてきたのであろう。しかし、そのような役割をやらされるのはごめん、という住民が増えてきたというのだ。連絡網にしたって、最近の住民はプライバシーの観点から、強制されることをいやがるという。  こういう「公民館側の悩み」に共感するリーダーは多いと思う。しかし、ぼくは、逆に、現代社会においてはそういう住民のほうがむしろ当然だと思う。ここも「ネオ」な部分といえる。ぼくが年間講師として関わってきた狛江市中央公民館の青年教室(狛プー)には、半年ほども躊躇した上で、ボロボロになったチラシを握り締めて、やっと教室に入ってきた若者がいる。「学校の教室のようだったら絶対いやだったから」というのである。また、狛プーでバンガローに泊まり、最後の撤収の朝、ある若者が裏のほうで貸し布団まで干していた。それをたまたま見かけたぼくたちメンバーは、みな感心してしまった。役割分担は、このように自発的、流動的であるべきである。固定的になってしまったら、自立と共生をめざす公民館の教育的機能は薄れる。  @からEまでずらっと並べると、生涯学習時代以前の学校教育でさんざんやらされてきた「縦社会づくり(委員長、役員)」「固定的役割分担(当番制)」「みんな仲良く(連絡網)」の再来でしかないのではないかと感じる。学校教育の教科だけではなく、あの暗黙のうちの強制の匂いのする集団主義に心からはついていけないのである。「ここはまさか、学校みたいなことはさせられないだろうな」と思って、おずおずと、しかし、勇気をふるって参加した人に、いきなり、「ここはみなさんが主人公として活躍する学習の場です」というとしたら・・・、これは残酷な話だと思う。DとEは、もしやりたい人がいたら公民館がどんどん支援すればいい。Cも、買って出てくれる人がいる場合は、その人にやってもらうのならいいだろう。ただ、Dについては、公民館の講座は自主グループではないのだから、公民館主事ができるだけ講座の中味にも参加して、質の高いリーダーシップを発揮し、きちんとした記録を作ってほしい。  いずれにせよ、住民は生涯学習という自己決定活動の一環として学級講座に参加してくるのだ、ということを公民館側は再認識しなければいけない。この世知辛い現代社会なのにわざわざ自己決定で参加してきた住民に対して、公民館が、即、自治能力向上などの名のもとに集団主義を押し付けるのは、アダルトティーチングとしての教育的センスに欠けているといわざるをえない。  公民館は、自治能力向上等の公的課題(=現代的課題)の教育的意図を参加者にフェアに明示しつつ、まずは「ここは自分らしくいられる場所である」と安心してもらえるように心がける必要がある。 5 「地域社会に役立っている私」という住民の存在確認    −コミュニティに癒しを広げる公民館の公的役割  最後に、公民館側が意図的に提起している公的課題の学習と、それによる「住民の自治能力の向上」は、どのように個々人の癒しとつながるのかを述べておきたい。  生涯学習は個人の「どこまでも知りたい」という内発的動機に基づくもっぱら自己実現の行為といえよう。しかし、その自己実現は、社会的認知・承認の欲求の充足なくしては、ほぼ達成不可能である。その点では、マズローが社会的欲求を、自己実現の欲求や自我欲求よりも前のレベルに位置づけたことは現在でも通用する。  ただし、現代社会においては社会的欲求こそ一番満たされにくく、それゆえ多くの個人にとっては最高次の欲求にまで高まっているのかもしれない。本論も、この現代の欲求に応える公民館経営を提起しようとしたものである。  もちろん、社会的承認は、先述の3つの自己決定活動以外にも、本来、家族や職場への帰属意識などによって満たされるはずのものである。しかし、そこに頼りすぎることがむしろ病理を生み出しているのが現代である。これに気づいた一部の市民たちが自己決定活動に踏み出しているのだろう。そこで得られるのが、社会的役割の遂行と、それによる社会的承認を実感できる社会貢献のチャンスである。そして、公的課題の学習も、公民館が地域の総合的な教育施設であるがゆえに、学習者がその学習成果を社会貢献につなげていく条件を十分に備えている。  今日、多くの若者が「自分は社会において意味のある存在である」と胸を張れない状況がある。そういう人たちに対して、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居心地よいサンマにおける癒しだけにとどまらず、さらには「地域社会に役立っている私」という究極の癒しのチャンスまでをも提供する公民館であってほしい。今後の公民館活動の「究極の」ねらいは、「住民の自治能力の向上」ではなく、学習者一人一人にとっての、その二つの「癒し」におくべきではないか。