癒しの生涯学習   Lifelong Learning for Healing −ネットワークの   あじわい方とはぐくみ方− 本 書 の 特 徴 この本は、教育、社会、心理のそれぞれの学の成果を援用しつつも、従来の学にあまりこだわることなく、現実社会においての癒しと成長と、その援助のあり方について、経験的、臨床的にまとめたものである。 ◇自己決定の世界のマインドを知る  本書では、おもに、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動という自己決定の世界に気持ちよく関わるためのマインド(心)を追求する。 ◇癒しのサンマのコツを知る  本書の主題である癒しについては、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答の一つが「癒されること」であるという気持ちで本書を書き通している。しかし、同時に、本書では、癒されるためには、@自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はないという主張もしている。ただし、それは、「自分のために」「面白いから」であり、本書ではそう思えるためのコツを探ろうとした。 ◇臨床的記述  本文においては臨床的な記述が中心である。それ以外にいい方法が見つからなかった。mito的授業と同様にライブ感覚の記述をめざしている。 ◇息詰まる知的水平空間  途中から、出席ペーパーとそれに対するmitoのコメントというかたちで、学生との仮面のない息詰まるやり取りが続出する。mito的授業で、知的水平空間をめざし、毒にも薬にもならない社交辞令を捨てた結果である。「読んでいて息苦しくなる」という人もいる。無理して読む必要はないかもしれないが、指導者や指導ということに対して真正面から対面し、その意味を再認識するためには、できれば不快感をこらえて読み通してから意見を聞かせてほしい。 ◇従来のシドウに対する疑義  自己決定の世界において、その指導者とはいったい何なのか。あるいは、「者」という特定の人物へ の固定までいかなくても、機能としての指導だったら存在しうるのか。ぼくは本書では水平異質共生における「共育」という概念でそれを説明している。指導者には、自他への基本的信頼が求められる。 ◇問い続ける問題解決型の研究  それぞれの節の表題の右隣には、テーマに関わるぼくなりの問題提起を書いた。かなり本質的なアポリア(行き詰まりの難問)が多く、よって、必ずしも文中に完璧な解答があるわけではない。たとえば「なぜ人は学ぶのか」という問いがあるとしたら、それに対してただ一つの最終的な答というものは存在しないだろう。ぼくとしては、たくさんの人にたくさんの答を出してもらいながら、問題解決型でともに考えていきたい。また、本文自体も、同様に、問いを重視した内容になっている。 ◇単刀直入な◆生涯学習用語解説◆  生涯学習関係者のあいだで使われる用語、および本文中に使用した用語で補足説明が必要なものについて、生涯学習用語解説において、なるべく簡潔な解説を心がけた。途中、差し障りのありそうな部分もあったが、思い切って単刀直入に表現した。これは現場ではむしろリアリティになりうると期待している。なお、紙面編集の都合から必ずしも章の内容と対応していないので注意してほしい。 ◇拾い読みしやすい工夫  拾い読みをしたり、あとから必要なところを探し出したりしやすいように、左欄にキーポイントを抜き出してある。また、索引もなるべく詳細にした。 ◇コンパクトな紙面  やや活字が小さいかもしれないが、なるべく一覧性の便利さと凝縮した情報としての役割をねらったためである。その分、コンパクトになっているので、携帯して自己決定のサンマなどで引用や批評に活用していただければ幸いである。  注 mitoとは筆者のことである(パソコン通信のハンドル)。 サンマとは時間・空間・仲間の3つのマ(間)のことである。 <○○はパソコン通信で○○が発言したことを示す記号である。 『かくろん』は自著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』をさす。 『こころ』は自著『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』をさす。 もくじ 本書の特徴・・・・・・1 もくじ・・・・・・・・2 トラブル・シューティング・・・5 まずは頭の体操を・・・6 はじめに  ぼく(mito)の双方向高等教育システムと、この本の意味・・・・・8 第1章 癒されない3つの病理 1 家族関係の病理・・・・・14 2 教育システムの歪み・・・・・22  −ぼくたちはいったい何のために学んでいたのか− 3 自分自身の内なるピアコンセプト・・・・・30 第2章 癒しと貢献の自己決定入門 1 事実よりも真実・・・・・34 2 合格はラッキーではなく不幸なのか・・・・・38 3 奴隷の覚悟を決める・・・・・40  −積極的積極性と消極的積極性− 4 空しさに耐える・・・・・44 5 自己受容による自己変容・・・・・50 6 自罰と他罰のデリケート・・・・・54  −淋しがり屋のタカビー− 7 指導者としての責任のもち方・・・・・58  −共感的理解は義務なのか− 第3章 気づきと癒しのネットワーク心得  −自他否定と仮面演技の上下同質競争から、     基本的信頼と共感的理解の水平異質共生へ− 1 あんた世間なめてんじゃない?・・・・・62 2 見返りを押しつけるな、見返りが期待できるような行為をせよ・・・・64 3 「ましなろくでなし」であればよい・・・・・66 4 枝葉としての幸福追求・・・・・70  −積極的積極と積極的消極の連動− 第4章 知的水平空間における指導批判の方法 1 権力にしっぽを振るな・・・・・74  −教師の葛藤より学習に重大なもの− 参考資料 「先生という言葉をやめてみよう」・・・・・77 2 教える側の義務の限定と、学ぶ側の批判範囲の限定・・・・・78 3 「ヒハンのペーパー」の存在価値・・・・・82 第5章 癒しのサンマのつくり方 1 チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?・・・・・92  −未来型生涯学習支援サービスをめざして− ◇学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?…◇若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか…◇新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス 2 出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法・・・・・98 ◇ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」…◇自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定…◇アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物…◇プータローの自由のつらさ…◇撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」…◇出入り自由の淋しさを受容する…◇よその地域の青年たちの意味…◇キャンプは夜だ…◇若者が自分のお金を払う時…◇空白のプログラム…◇善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心…◇狛プーはスムーズな自己開示のネットワークである…◇男と女の出会いのための公的サービス…◇いい男、いい女さえ支援すればよい…◇「おうち」としての狛プー(狛プーの公的・現代的意義)…◇癒しと成長、受容と変容の好循環 第6章 生涯学習時代における大学の役割 1 高等教育の根底的転換・・・・・118 ◇現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として…◇市民の多様化・高度化する学習ニーズへの対応を…◇市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を…◇高等教育の制度等の柔軟化と個性化を…◇市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を…◇市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を…◇学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を…◇他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を…◇生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を 2 高等教育内容7つの転換・・・・・128 ◇転換1−自己決定・自立支援型にする…◇転換2−双方向・水平交流型にする…◇転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする…◇転換4−おもしろ・感動型にする…◇転換5−課題提起・解決型にする…◇転換6−生きがい創出型にする…◇転換7−信頼・共感・癒し型にする 参考資料 「生涯学習の再定義」・・・・・・・131 第7章 ボランタリズムのシドウ 1 大人社会の御都合主義批判・・・・・134  −楽しい生涯学習施設経営と楽しいボランティアのために− 2 おわりに−ボランタリズムとその指導・・・・・140  −アンビバレンツな人間存在と、善と悪の真実を追求する方法− 『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』目次・・・・・・・148 『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』目次・・・・・・・150 目で見る生涯学習・・・・・・・152 さくいん・・・・・・・153 自己一致  52 地域の教育力   97 自己管理型学習  13  交流分析 リーダーシップ 発達課題     21  基本的構え 公民館   117 生育歴  問題解決学習  57 青年教育 家庭教育  カウンセリングマインド  61 集団学習 信頼       36  登校拒否と引きこもり 公的課題の優先 生涯学習 37  学習交換  65 学校開放   126 生涯教育  ストローク 定型的教育  127 社会教育  アガペ 大学の自己点検・自己評価 社会教育行政  mito的授業  69 継続高等教育 癒しのサンマ  ヒエラルキー  73 ボランティア・コーディネータ 学校歴より学習歴 39  ネットワーク 成功のシンボル   132 研修の目的    48  ピア 幸福追求権 体験学習 49  ボランティア 潜在的学習関心  133 準拠枠組  レクリエーション  81 ボランティアバンク 共感的理解  社会教育指導者 自己決定  エンカウンター  対話(ダイアローグ) 生涯学習ボランティア 139 価値観ゲーム  3化け  96 ワン・オブ・ゼム論 自己受容     52 コミュニティ 97 協働 トラブル・シューティング つぎのような問題が生じた場合は、順序にこだわらずに→以下のページを参照してください。 Q 私は著者が結局何をいいたいのかを最初にわからないと、安心して読めない性格です。  なるべくひとことで教えてください。 A ぼくのいいたいことは「現在の上下同質競争社会のなかでも、突出的に癒しと成長のネットワークをつくることができる。その突出的時間・空間・仲間は今後の水平異質交流の共生社会の先駆けである」ということです。(→p9の図表1「癒しと成長のサンマ」) Q これからの生涯学習のあり方について、筆者のオリジナルな見解を手っ取り早く知りたいのだが……。 A 社会教育の雑誌にごく簡単に紹介したことがあります。本書でもこれを資料として収録しておきました。(→p131の参考資料「生涯学習の再定義」) Q 今の若者(生徒・学生、部下)に媚びず、かつ、支持的に対応するための示唆がほしい。 A この本は、学生の出席ペーパーへのぼくの実際の対応にもとづいて編まれています。  出席ペーパー(小さい字の部分)をまず読んで、ご自分だったらどう対応するかをお考えになったうえで、ぼくの対応の仕方も参考にしていただければと思います。  (→たとえばp82「ヒハンのペーパーの存在価値」) Q 理屈はもういい。実際にどうしたらネットワークをつくったり、楽しんだりできるかを知りたい。 A ネットワークには癒しや楽しさと同時に、「出入り自由の淋しさ」など、個人に自立を求めるという点で厳しさもあります。狛プーの運営方法が参考になると思います。  (→p98「出入り自由のこころのネットワークの運営法」) Q 他者や社会のことなんかより、何をしても癒されない思いの自分がどうしたら癒されるのかを私は知りたかったのだ。 A 「この人、いい生き方をしているなあ」と思える人とのいい出会いを豊かにもつことができないと、結局のところ人は癒されないとぼくは思っています。  (p27「フリースペースの意義」、p62「あんた世間なめてんじゃない事件」など) Q 教員採用試験などの就職試験に役立てたい。 A 知識だけを問う○×などのペーパーテストにはあまり役立たないと思いますが、本書全体が自己管理型の思考と、それによる「個の深み」に最高の価値をおいて書かれていますので、小論文や面接などには予期せざる大きな効果をもたらしてくれるかもしれません。  (→p12「就職3条件」、p38「合格はラッキーではなく不幸なのか」) Q 自分は別に癒されなければならないなどとは思っていない。元気にやっている。「癒しの生涯学習」なんて余計なお世話だ。 A ぼくの専門は社会教育や生涯学習ですので、どちらかというと、むしろそういう「一般的な」人びとの交流の世界に関心があって、この本を書いたのです。ですから、「フツーの人びと」のよりよき自他受容と自己変容を支援するための本だと考えてください。ぼくは、自己否定による変身願望などについては、かえってマイナスの結果をもたらすと考えているぐらいなのです。(→p50「自己受容による自己変容」) まずは頭の体操を……何がそうで、何がそうではないのか。  生涯学習・生涯教育や社会教育(p37)、ボランティア(p73)とは何なのか?  じつはいろいろな説がある。まずはぼくなりの見分け方を提示しておきたい。 1 社会教育であるのに生涯学習には含まれないという学習はない。 2 生涯学習ではあっても社会教育とはよばない学習はある。  生涯学習活動の範疇に入る事例 一方、社会教育は  偶発性 = 人や自然と出会い、感動して、自分の何かが変わった。←→意図的行為  個人性 = 就職のため、ひとりで参考書で受験勉強をしている。 ←→相互作用  反社会性= 自分は立派なヤクザになるために修行・研鑚している。←→社会性  学校教育= 学校教育は生涯学習の基礎・基本づくりである。 ←→非公式教育 3 しかし、つぎの留意点は生涯学習でも社会教育でも共通である。  自主性・自発性の尊重 =学習者の学習関心から出発する。  娯楽性の重視=学習者が楽しかったと思って帰ってもらえるようにする。  個人学習の重視=学習者をつねにマス(集団)としてしかとらえない悪癖を改める。  教育行政以外の一般行政のもつ教育機能の重視=タテ割り的発想を改める。  企業や民間営利事業のもつ教育機能の重視=単眼的な執着から複眼的なゆとりへ。 4 ボランティアは自分のために自らすすんで他者を利する行為である。  自発性×内申書による評価に有利なボランティア活動を探して、その活動を始めた。     ○人淋しさのあまり始めてみたが、いつのまにかやめられなくなった。  無償性×生涯学習施設でボランティアをやっているが、職員並みの手当がほしい。     ○その施設への往復の交通費が支給されるので、私費を出さずに活動できる。  公共性×ある人のためには死をもいとわない。(これが悪いという意味ではない)     ○家の前を掃いていて、ついでに隣の家の前まで掃いておいた。 5 迷惑ボランティアにならないためには、相手の気持ちや結果も重視する必要がある。  偽善  ×お年寄りが「けっこうです」といっているのに、無理に席を譲った。  自己満足×みんなが喜ぶだろうから、カラオケのマイクを独り占めして歌ってあげた。  偽悪  ×ボランティアをやっている人たちは偽善者だから、私はやらない。  潔い撤退○ボランティア以外のあることに夢中になっているので、私はやらない。 6 社会教育や生涯学習の活動は、ほとんどがボランティア活動そのものである。  成果発表○市民祭りで、自分たちの手芸サークルの作品を展示した。  教える ○社交ダンスサークルで、初心者にステップを教えてあげた。  地域活動○公民館主催のわが町の開発計画についての学習会に参加した。 7 ところで、遊びや「放電」行為まで生涯学習と呼んでいいのですか? 一人ひとりが個性的な異なる考え方をもてばそれでよいと思うが、本書では、当然、 上の考え方にもとづいて議論を展開する。  癒しの生涯学習 はじめに  ぼく(mito)の双方向高等教育システムと、この本の意味  癒しとは何か。また、癒しを求める現代人に対して、従来の一方通行の教育では、どうして力をもちえないのか。かといって、教育システムが双方向であるということだけでは学習者に癒しを与えることができるとは限らない。なぜ双方向なのかを、教育や指導の本質にもとづいて考え直さなければならないのではないか。  ここで癒しとは、心の傷をなおすことである。英語でヒール(heal)という。  ある学生が卒業後もぼくに「出席ペーパー」(後述)を渡し続けてくれている。そこには人間疎外の現代に生きる心を的確に表すたくさんの真実の言葉がひしめきあっている。「私は夜中一人で動き出すおもちゃです」。自分は自分らしくありたい、他者によって取り替えることのできない自分の人生を実感したいと思ったとき、昼間の世界の仮面や演技に耐えられなくなって、夜中の一人ぼっちの世界で自己のアイデンティティを見つけようとするのだ。しかし、彼女はこのようにも書いている。「放っておいてほしい、でも、気にかけてほしい」。落ち込んでいたいときには一人で落ち込んでいたい。自分のことをよくわかってくれていない人からの中途半端な慰めや、現代の競争主義にはまりこんでいる人からの優越感を伴った励ましは、かえって自分がみじめになるだけだ。だが、もし本当にだれもかまってくれなくなってしまったら、それでは人は淋しくて生きていけなくなってしまうということなのだろう。  引きこもりのカウンセラー富田富士也は「人は人によって傷つき、人によって癒される」といっている。また、「個は他者と関わることによってより深まる」という言葉も真実を感じさせる。ぼくの提唱している「個の深み」の味わいも、このような他者との出会いと自己への気づきのなかで肯定的に味わうことができるものだ。しかし、同質の者たちが画一化した価値基準のままに上下競争に追いまくられる現代社会(学校歴偏重社会)においては、人とのせっかくの出会いが仮面や役割演技に侵食されて、彼女のようにかえって苦しみ、個性を自己抑圧する結果を生じがちである。  このようにして現代人は癒しを必要とする状態に落ち込む。それゆえ、癒しとは、傷ついた心がもとの状態に戻ることをいう。今までの教育がつねに成長や生涯にわたる発達を第一義としてきたのに対して、癒しとは回復やいっときの安らぎしか表さない。そんな癒しの観点を後ろ向きだと批判する教育関係者もいるだろう。しかし、イルカと泳ぐ、水晶玉を買ってきて見つめる、など、若者たちが癒されようとしてさまざまな工夫をし、なおかつ癒されていない今日、彼らが後ろ向きだろうが何だろうが、彼らの幸福追求の営みにとって有効な、かつ、社会的にも望ましい結果が期待できるような支援の手を社会から差し伸べる必要がある。あるいは、「社会に適応するために成長、発達ばかり追い求め続けること自体が空しい。生きる意味をあえてあげるならば癒ししかないのではないか」と考えることもできる。  ぼくは、人びとを癒されない状態に追い込む「上下同質競争社会」において、癒しを提供する「水平異質交流」を生み出す時間・空間・仲間(3つの間でサンマという)が突出的に存在していると考えている。それは、自己決定のサンマとしての@生涯学習、Aボランティア、B地域活動(市民活動)の3つである。そこでは、「仕方ないから頑張る」などというぼくたちのいつもの奴隷の習性などはいらない。そういう人がいたらかえって邪魔になる。自立した者どうしが相互承認しあい、あるがままの自他を肯定的に受け入れあって(自他受容)、のびのびと異なった個性を育くみ、発揮しあうというところがサンマの魅力なのである。さらには、そこで、他者や社会に貢献できる有用な自己を再発見し、また、他者からその認知を受けて自他への信頼を深め、個を深めることができる。そこでは図表1のような好循環が成立する。本書では、このような現代のリアリティを探りたい。  図表1 癒しと成長のサンマ(時間・空間・仲間)  受容を促す契機   素のままの自分が両手を広げて歓迎される。  変容の理由   人生の風景を味わって生きていきたい。  自己決定する動機   どこまでも知りたい、癒されたい。  本書では、学生の「出席ペーパー」(出席証明の代わりというほどの意味)と、大学教員としてのぼく(mitoと称している)との双方向のやりとりがたくさん出てくる。「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつはつぎのとおりである。数年前に社会教育の仕事をやめて、初めて教壇に立ち、学生の注視を一身に受ける立場になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。しかし、多人数の学生のなかで仲間意識(ピアコンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。  その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下のほうに書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられたのだ。学生のほうも、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」という不合理な思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためにかなり役立ったようである。  このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。そのへんの事情は最初の著『かくろん』(『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』)に詳しい。  出席ペーパーに対する「mito的コメント」は読んでいてじつに面白い。所々にユニークなフレーズが出てきて、言葉遣いそのものとしては思わず「ハハハ・・・」と笑わせられるのである。しかし、そのユニークさの一方では、このうえもないほど的確に問題の核心を言い当て、バッサリと切り裂いているのである。さすがは「ビートたけしに勝つ」(これなんかもまさにそう!)ことを目標にして授業を展開しているだけのことはあるといえよう。(失礼しました!?)  「ビートたけしに勝つ」は、すべての授業の最初の回に学生に宣言するぼく流の大ぼらであるが、それによって自らに心地よいプレッシャーをかけることにもなる。ぼくは、高等教育も生涯学習と同様、ワンダーランド(ドキドキワクワクする世界)でなければ意味がないと考えているのだ。また、時空間を共有した双方向システムにおいては、能力的にはビートたけしにとうてい勝てないぼくでも、ビートたけしのテレビ以上のワンダーランドを提供できるときがある。もしそういう瞬間がまったくないとすれば、学生はわざわざ教室に足を運ぶ意味がなくなるのである。学習を自己決定の場にするためには、こういう教師みずからへのプレッシャーも必要である。  ぼくが編集委員を務めている雑誌「社会教育」(全日本社会教育連合会)の「お便りごっこ」の連載で、ぼくの「手紙」に対して、作詞家の山田とも子さんがつぎのように書いてくれたことがある。  「なんで生きてるの?」 まずここでドキン。で、このQに対して咄嗟にAを見出せずにドキンとしてしまった自分に気がついてドキン。あれ、これって今までさんざん考えてきたことじゃなかったっけ。ある時はルンルンと、またある時はフンフンと、それなりに自分なりに答えをだしていたつもりだったのに・・・、そう言えば長いことこんなこと考えていなかったわねえ。流されていただけなのかしら。それとも年のせい??? アッいけない、いけない。ここへ逃げ込んだら老け込んでしまう。そうよ、ウキウキワクワクでなくっちゃあ。  「なんで生きてるの?」も「ビートたけしに勝つ」と同様、授業の初回でのぼく流の発問である。ぼくが答をもっていたり自信をもっていたりするわけではないので、「せっかく信じたのに・・・」とあとでがっかりする学生もいるかもしれないが、それが双方向高等教育システムの特徴だと思って面白がってもらうほかない。その答を探し続けることが学問である。  つぎに、なぜぼくはこの双方向高等教育システムに燃えているのか。それは、まず、職業としてとはいえ、自己決定の生涯学習やボランティアと同じく「自分のため」である。そちらの方が一方通行の授業をするより自分自身が楽しいから、気づくことができるからなのである。しかし、その場合の楽しさ、気づきの本質は何だろうか。  就職活動が一段落した秋口に初めてぼくの授業に出てきた4年の男子大学生が、こう書いてきた。「ぼくは来年は就職浪人することが決まった。なぜなら、@大企業であること、A残業がないこと、B転勤がないこと、のぼくなりに決めた就職3条件にあう企業に採用されなかったからだ。こういう就職浪人のぼくを世間は差別の目で見るだろう。そういう差別される者の痛みは、先生のように差別されたことのない人にはわかるまい。しかし、先生はぼくが知りたいと思っている差別のことについて話しているようだ。だから、あと1回ぐらいはこの授業に出席しようと思うので、ぼくの期待に応えてほしい」。  ぼく自身、じつは、就職浪人をしたことがあり、しかもそのときは差別の目で見られる辛さより、自立できずに親に迷惑をかけることの方が申しわけないと思ったものだ。だから、正直いって、最初はこの文章に馬鹿馬鹿しさや憤りを感じた。そのほか、知に対する安易な態度、世間を甘く見ていることなどの彼の欠点を指摘して、教師の立場から彼をへこますことはできるかもしれない。しかし、そんなことが何になるのか。彼の主体性の増大や態度変容につながらないことは明らかである。そんな説教は、教師が学生より上位者であることを確認して安心する行為にしかならないのではないか。しかし、今までの教育は意外に平気でそんなことを繰り返してきたように思う。  教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、以下のように情緒的な表現になってしまうことをお許しいただきたい。教育=学習支援の等号には深くて昏い河が流れているとぼくは思う。ぼくは、まず、この深くて昏い河の存在を伝えていきたい。つぎに、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この「上下同質競争社会」の同時代に命を燃やしている。ぼくはたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい。  たとえば、先の就職浪人が決定した彼に対して教師はどう対応すればよいのだろうか。ぼくは、指導の要素をシンパシー、ストローク、エンカウンターの3つと考えている。まず、彼の存在に対して、肯定的に関心をもち、共感的に理解しようとする態度が必要であろう(シンパシー)。考えてみれば、彼の就職の条件の@は安定した収入、Aは自由時間、Bは家族の安心を求めるもっともな願いであり、だれもそれを責めたりできないはずだ。それよりも、世間から差別の目で見られるだろうから辛いという言葉を彼なりの真実としてとらえ、そうとらえたことを伝えることのほうが大切だ(ストローク)。その上でこそ、「上下同質競争社会」に気づかないままそのなかで苦しんで生きている彼と出席ペーパーへのコメントという形で真正面から対話し、本音でぶつかりあって(エンカウンター)、自己と現実社会との関係の客観的認識(「奴隷の覚悟」<mito)と、彼自身のもっている内なる差別の存在や社会の画一的価値観の内面化への気づき(「批判の刃を自己にも向けよ」<mito)を促すことができるのである。これが、本当の意味での「自分を否定しなくてもよい」「そんなに頑張らなくてもよい」という自己受容につながり、さらには、「差別されたことのない人にはわかるまい」という絶望感を乗り越えて、「人間は共感しあうことができる」という他者受容と肯定的関心につながるかもしれないのだ。自己防衛的な就職浪人の彼は、このような癒しのプロセスを経てこそ、生きていて社会に意味を与えることのできる自己を発見しようとする元気が出てくるのではないか。(注 <はパソコン通信の発言者を表す記号の借用)  ぼくが双方向高等教育に夢中になっていることも、この本を書きたいと思っていることも、以上の事情による。このような癒しと貢献の生涯学習が、そしてその「指導」が、現代人が不信と絶望に苦しむ上下同質競争社会において、突出的とはいえ水平異質交流の共生社会を創り出すとしたら、また、そのためにこの本がごくわずかでも役に立つことができるとしたら、それはすなわちぼくにとってのうれしい「癒しと貢献」でもあり、ぼくがこの世に存在する証拠にもなる。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 自己管理型学習 英語でself-directed learning という。成人の学習は、その計画、実施、評価に至るまで自律的(self-directed)に行われうる。よって、成人教育に携わる者は、成人のすべての学習プロセスに対して双方向的に関わる必要がある。これをペダゴジー(子どもへの教授法)に対するアンドラゴジー(大人への教授法)という。ぼくは、これに加えて自己管理型人生の重要性を提唱したい。 第1章 癒されない3つの病理 1 家族関係の病理  家族は言葉にしなくても気持ちが伝わる安心できる場であってほしいとは思う。しかし、それなら、なぜ児童虐待が起こるのか。子どもに孝行心を教える、というだけでは解決しないだろう。交流分析では「生育歴が人生の脚本を決定している」という。これからの家族には意識や理性による努力の営みが必要なようだ。  個人を癒されない状態に追い込む現代社会の要因として、出席ペーパーなどからぼくが感じているのは端的にいえばつぎの3つになる。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピアコンセプト(仲間意識)。@の家族関係については、「子を持って親になる」という状況が崩れ始め、「子を持ってもまだ大人になれない、なりたくない」という親たちが出現している。 1週目  家族のなかで、いつも私を「おまえはこういう娘になれ」と強制的な言い方をする人がいた。彼が私のことを「人間的に薄っぺらい」と言っているのを立ち聞きしたときは悲しかった。「彼にとってOK」になることはできず、苦しい毎日だった。顔を見れば否定語がとんでくるという恐怖があった。  私はいい子ちゃんできた子です。なので自分を語調も荒く批判してくる人の言葉を受け流すことができず、まに受けて傷つくことしかできません。でも、mito先生の授業中にいくつか気づいた。私は友だちや恋人に目に見える形での「優しさ」や愛情を求めているということを。 2週目  以前、父に私の存在を非難されました。「おまえなんかいなくたっていいんだ」などなど。書いていったらきりがないのですが・・・・。私が自分の考えをもつことに不満を覚えてきているのかどうか、進学についても反対され、受験勉強のできない環境を作られっぱなしでした。  親の不仲+父親の態度、そればかりでなく母親から聞かされる話。子どもに聞かせるべき内容じゃないものばかり。誰にも言うことのできない話なので、私が聞いてあげなければならないのですが、私は母の話を聞いていると、母に言ってはならないこと、「なぜ私を産んだの? 苦しい思いばかりさせて!」ということを言いそうになるのです。でも、それを言ったら母を壊してしまうことになります。私にはそれよりも自分ががまんすることで母を守ることしかできません。  でも父に対してはまったく別になっています。今ではお父さんと呼べなくなっています。以前は言われたことに傷ついていましたが、今は、自分の子どもをそういうふうにしか見れない父をかわいそうな人だと思っています。  つぎの授業(3週目)で、このペーパーに対してぼくが何とかコメントできたことは、一つは、「わたしのことが心配で離婚しないのなら、そんなことは心配しなくていいよ」、もう一つは、「わたしはお母さんと違って幸せになるからね」という二つのことをお母さんに言ってあげたらどうかということであった。その学生の娘としての自立と幸福追求を願って、また教育というものの現代社会でのあり方を考えて、多くの学生の前で(匿名だが)コメントできることは、せいぜいそれぐらいだ。だが、結果的にはそれでよかったようだ。 3週目  コメントありがとうございました。今までの私の行動は間違いではないと自信がつきました。母にはもう「離婚していいよ」と(私の方が強く願っているのですが)言ってあります。しかし私には弟がいます。まだまだ精神年齢が子どもで、離婚家庭になったらかわいそうだと思ってたんです。弟も別れないことを望んでいました。  でも、今ではあんな父親(この前書いたことばかりでなく、もっともっとひどいこと、人間としてはやってはいけないことをしている)の姿を見せたくない。私の味わったような気持ちを味わわせたくないんです(それがあったからこそ今の自分があるんだと思うと、あんな父でもそういう意味では感謝してますが)。  私は母に「私は幸せになるよ。お母さんが味わえなかった幸せまで手に入れてみせる」と言いました。母は喜びました。私は母から聞きたくない話をされても母を愛しています。母もです。今では姉妹のような友だちのような母子です。私の幸せは、ただ好きな人と結婚して新しい家庭をつくることなのではなく、「母と一緒に二人だけで暮らしたい」というのもあるのです。父のことで悩んでいても、そう未来を考えるだけで幸せです。それに私には両親以上に私を思ってくれている、おじ、おばがいます。友人もいます。自分だけが不幸なんだと思ったことはありませんが(これ、本当なんです)、今あらためて自分は幸せなんだと思いました。  ただ、mitoちゃんが言ったように、トラウマは残るでしょう。でも、プラスにもっていきます。そのために私は教師をめざします。ちゃんとした動機じゃないかもしれません。きれいごとかもしれない。でも・・・・。  私は中学生のころから父のことで悩んでいました。それがいろんなものにどんどん感染し、毎日が余裕のない心でした。今の子どもたちにも、そういう子たちが多いと思う。私は話を聞いてあげたい。解決できなくても、軽くしてあげたいんです。教師になることに不安があるなんて言っときながら矛盾ですね(笑)。  子を持っても、なお、親である自分自身が家族や他者から愛されているかどうかのほうが不安なために、大人として、あるいは親として、子を愛することができない親が増えているのである。「子どもがかわいく思えない」という追いつめられた状況のなかで、親から子への暴力や、性的虐待などさえ起こりうる。その具体例を一つひとつここで紹介するわけにはいかないが、親の日常的な不機嫌や夫婦間の不和などのレベルであれば、もっと一般的な状況として蔓延している。  mitoちゃんの言っていた「親の不機嫌は子どもに対する暴力」についてほんとうに同感です。私は毎週レッスンに連れていってもらう車のなかで、母の機嫌が悪く、いつも私にあたっていました。私はその時間がとても苦痛で気分がすさんでしまって、せっかく練習していっても、先生のところでまったく弾けなくなってしまうのです。私が帰ってきて、上手に弾けなかったため一人で泣いていると、その姿を見た父が直感的に母が私に何か言ったのだろうと感じ取り、夫婦でけんかが始まるのです。私が一人暮らしをした理由は母から離れるためでした。でも、またいつか家に帰ると同じことになるのではと思っています。 −−−−×××−−−−  (授業で聴かせた子育ての歌の歌詞の)「お母さんに聞かせて」というところがいいですね。私の母なんか、いっつも「なんで?」とか「正直に言いなさい」とか問い詰めるようにしか言わない。「言いなさい」と言われると逆に言いたくなくなっちゃって、ついうそついたりしてしまう・・・・。でも、最近は、なんだかどんどん母親が子どもに見えてくる・・・・。でも、わかんない。これ以上はうまく書けないけど、今日はあてはまることだらけで何か良かったです。 −−−−×××−−−−  朝、起こしに来るときの母さんと父さんの違いに気がつきました。  母さん 「いつまで寝てるのー。毎朝、毎朝、いーかげんにしなさい!(とにかく怒る) なんにもしないで。(関係ないことまでついでに怒る) 本当、起きたためしがない。(一度もしたことないように言う。私はこれに切れます)」  父さん 「おーい。(40すぎの男が娘に、おーい、ですよ) 2回目だぞー。遅れるぞー。大丈夫かぁー。(心配されたらがんばりますよ) 起きれるかぁー。がんばれよー。(ごめんね父ちゃん、と素直に言える) 歯みがきしちゃうと少しはラクだぞー。(思わず笑っちゃいますよ。ありがとってカンジです) 10分後にまた来るから。(これもとてもうれしい。次来たときは起きてようと思う) がんばっとけー!(もうほとんど起きてる。不思議と・・・・)」  どう思います? ちなみに私は父が好きです。母とは風呂に入りたくないけど、父ならいいです。父のならパンツだってたたんであげる。ファザコンじゃないけど…。上の会話は、妹を起こしに来る両親の声を部屋で聞いたものです。そして妹は父の2回目の声がけのあと、起きてきました。でも、下へ降りて母にまた「遅い!」と怒られました。とうとう朝からけんかです。父さんの努力のかいなし。チーン。  子どもとしては、そういう家族関係のなかで、どのように癒され、安心することができるというのか。先の「おまえなんかいなくたっていいんだ」(p14)といわれた娘のペーパーについて、他大学で、つぎのようなレスポンス(反応)が返ってきた。  (酒とギャンブルにあけくれ、「おまえなんかどうにでもなれ」と言うサラリーマンの父について述べたうえで)ちなみに、私も自分が不幸な境遇だなんて思わない。むしろラッキーかもしれない。だって、その分、いろんな心の痛みが手に取るようにわかるから。それに底辺を経験しちゃえば、あとは上がるだけだし。私はこんなことで負けてられないと、いつも自分を奮い立たせています。 −−−−×××−−−−  (酒びたりで、自分の受験を邪魔していたのに、いざ進学校に受かると、自分の手柄のようにまわりの人に自慢していた離婚前の父について述べたうえで)最近では、両親が仲良くなかったりして悩んで愚痴をいっている友達の苦痛がわかるようになってきた。その子たちが私の苦しみを完全に理解できないように、私も彼女たちの苦しみを完全には理解できない。当たり前ですよね。おたがい違う人間なんですから。だから、少しでもわかってあげようとすることはできるとわかりました。  これらについて、さらにつぎの2通りのペーパーが返ってきた。  家庭での不和を苦しんだのだろうが、「私は不幸ではない、ラッキーかもしれない」、「苦しみを知っているがゆえに、ひとの苦しみを理解できる」というそんなとらえかたができてとてもすごいと思う。すごいなどという言葉で相手を見るのは軽率かもしれませんね。私自身はどうなのだろうか。絶望や困難に向き合い、自分の生き方をとおして主題を追求していく。そんな人生を歩んでいきたい。そんなことを、片意地はらず、自然に思っていきたい。 −−−−×××−−−−  不幸は不幸でしょ。「それでも自分は不幸だとは思わなかった」というセリフが気になる。気に入らない。「○○のために」幸せになるというようなセリフも気に入らない。まず、自分が一番幸せになろうとしてほしい。自己中心的な意味ではなく。  上下競争の現代社会においては、後者のペーパーも悲劇的だが真実である。「ぼくがもし宇宙で一人で生きているのなら、もっと自分らしさを守れるのに」というペーパーも前にあった。あるとき、過労死をテーマにして、現代社会において主体的に自己を主張し、家族関係や夫婦関係を守ることについて考えるという授業を行ったところ、つぎのようなペーパーが提出された。  (過労死について)他人事。どうでもいい。俺に関係ない。自分の親父だったらかなり泣けてくると思うが。でも、過労死だとか登校拒否だとか、そういった他人事について大勢の人間で考えるみたいなところが、この授業の嫌いなところです。ある日、ふっと一人で心のなかで考えたり感じたりするのが人間だと思う。大勢の前で口にするなら、それらをすべて証明して、すべて背負ってくれ。たのむ。過労死だって夫が選んだことだ。嫌なら仕事をやめればいいだろう。それなのに死んだのだから、私はそれでいいと思う。笑ってやれよと思われる。子どもはおまえ(「残された妻」のこと)が支えろよ。でなきゃ、やめちまえと思われる。日本のせいにするなよ、自分が頑張れよと思われる。  ぼくは、これに対して、「この学生も、自分一人で頑張るなんてことはしなくてよい。どんな人もそれぞれの事情があって生きているのだ。自分の今の気持ちを自分自身が本当の意味で認めてあげられるようになると、優しくなれるのでは」とコメントした。しかし、この学生は、そのコメントではきっと満足しなかったと思う。上下競争のなかで、ガンバリズム(「頑張らなくてはいけない」という精神風土)に毒され、しかし、それだけではとうていどうにもならないという客観的事実に直面し、その事実を認識するための自己客観視(ここでは自己の現代社会のなかでの位置づけ)を避けて、またガンバリズムという不幸な思考方法に戻って、自分の悩みに無理に決着をつけようとする。そんなことの繰り返しの回路だから、「他人事だから俺には関係ない」という排他的、閉鎖的な傾向がますます強まっていく。  安心できる家族関係の回復のために、ぼくがひとつ考えているのは、「真偽の勝負からの脱却」である。3人称の関係であれば「どちらも一理ある」としてあきらめて終わることでも、「私とあなた」の1人称と2人称の家族関係だと、あきらめきれずに、「私のいうことが真で、あなたのいうことは偽」と互いに主張して譲らない不毛な争いを延々と続けることになる。なぜそれが不毛かといえば、たとえ正反対のことを感じたとしても、どちらの実感にも「間違い」などというものは存在しないからである(アンビバレンツな真実)。ただし、いつも大酒を飲んで帰る夫がたまにしらふで帰ってきたとき、@大いに肯定的に反応するか、A明日また飲むのではないかと不安になって肯定できないか。そのどちらも妻の実感から生ずる真の反応なのだが、どちらが生産的かというと当然前者の@ではあろう。  間違うとすれば、「であるべき」「であるはず」「みんなそうしているのだから」などという不合理な思い込みや信念のレベルにおいてである。そういうもともと歪んだレベル同士で真偽を争うとしたら、これは気が遠くなるような不毛な争いである。ところが、「思い込みや信念のレベルでも自分は正しくなければいけない」などという客観的には明らかに無茶なことを考えるものだから、相手が偽であることの証明に執着しがちになる。本当は、「あなたはあなた、私は私」(p72)こそが人間関係の真実の姿であり、実感レベルでは、どちらも理があり、真であるということに気がつきたいものだ。  たとえば、「さぼりたい」「がんばりたい」「がんばりたいけど、さぼっちゃった」などのおおもとの気持ちはおおむね真である。ところが、「がんばらなければならないのだから、がんばりたい」や「がんばりたいけど、がんばれないから、さぼりたい」は、偽である。なぜなら、前者は客我(がんばらなければならない社会の客体としての自分)と主我(がんばりたい主体としての自分)とを混同しているし、後者は主我のなかで「がんばりたい」と「さぼりたい」が矛盾しているからである。人間はややもするとこういう混同や矛盾に陥る宿命にあるが、そういう自分の滑稽さに本当に気づけばやっと解放の笑いが出てくる。ちなみに、「がんばらなければならないのだから、がんばろう」、「がんばれないから、さぼろう」とすると真になる。 図表2 真偽の勝負から無知と非力の自覚へ 正しくなければいけない ↓ 自分は正しい ↓ 真偽の勝負 ↓ ゆさぶり発問(または自問) ↓ わからなくなっちゃった ↓ そんなこと、わかる自分ではまだない ↓ 適正な自己評価 ↓ 無知と非力の自覚と受容 ↓ 自己と他者への基本的信頼  たとえば、部屋を掃除するか、ほうっておいて遊びに行くか、どちらが真かという議論は不毛だ。感情交流を伴うコミュニケーションをして、そのときどき現実生活のレベルで折り合いをつけるしかない。  そのためには、「私は真、あなたは偽」と思い込んでいる人にとっては「自分がわかっていないことに気づくこと」(無知の知)が重要である。では、わからなくなれない人はどうしたらよいか。わかっていないということを自覚させる学習指導者からの質問が有効である。これを「ゆさぶり発問」という。そういう指導者がいない場合は、あとは自問という手段しか期待できない。こういうゆさぶりを経て、無知と非力の自覚が生まれ、「まあ、いいか。これから少しずつやっていこう」という自他の欠点や弱点をも抱え込んだ受容につながり、自信(自分への信頼)と「他信」(他者への信頼)が形成される。  自信をもつためには、この点が重要である。指導者にとっても、もちろん謙虚さは大切だが、「わたしは指導者の器ではない」と規定するところまでいってしまうと、それはじつは「指導する人とされる人の固定的役割分担」という上下同質競争の価値観の非主体的な内面化の表れにすぎず、非生産的な自己否定(p50)に陥る。ぼくはこれを過剰反省と呼ぶ。これは大勢の前でしゃべるときにあがるという問題についてもいえることである。「みんな、じゃがいも」と思うより、個の深みを感じてある程度は緊張するほうが当然だし、いい結果も出よう。問題は過剰緊張である。指導者はカウンセラーのような完全な自己一致(p52)よりは、むしろ「ちょっと反省する」ぐらいの態度が必要だ。そのコツは「今の自分よりちょっと上」をつねにめざすということである。そのためには、自己卑下でも自信過剰でもない適正な自己評価(主体の3要素、認知、行為、評価のうちの一つ)が必要である。さらに、不安傾向の高い人に共通な思考様式の特徴に、「失敗の原因を、どうにもできない事項(幼児期の環境等)や、どうにもできないと思われる事項(根源不安等)に求める」がある。これに対し、不安傾向の低い人は「失敗の原因を、自分の対処の仕方の間違いに求める」のである(生月誠『不安の心理学』講談社)。どうにもならない「自分そのもの」を否定するのではなく、今後は正せる「自分の行為」をちょっと反省すればよいのではないだろうか。  そもそも、宇宙の概要を知り尽くしたうえで、地球に生きている人など誰もいないし(無知)、過去や他人を正当な手段で自由に変えることのできる人など、一人もいないのである(非力)。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 発達課題 R.J.ハヴィガーストによれば、人間の生涯のそれぞれの時期において学習することが望ましい課題。これに失敗すれば、その後の課題の達成は困難になるといわれ、生涯学習の必要性を表す。だが、逆に、「気づいたときから始められるのが生涯学習」という見方もなければ淋しすぎる。 生育歴 交流分析では生育歴によってその人の「人生脚本」が書かれてしまっていると考え、問題解決のためにそれを書き直そうとする。「三つ子の魂百まで」の魂の書き直しである。最近は、臨床の研究などから、ほとんどの社会的不適応の原因を幼少期からの家族関係に求める議論も多い。スイスの思想家アリス・ミラーは、大人が子どもに加える侮辱や暴力、管理は子どもの人生を深く傷つけると警告している(『魂の殺人』)。その指摘は重要だが、男女間の固定的役割分担の解消、教育システムの問題などのマクロな社会的視点での検討、個人の自己変革主体としての可能性の評価なども別途必要だ。 家庭教育 親が子どもに対して行う教育。不定型教育(informal education)のひとつ。子どもにとっても生涯学習の一環であるが、「子育ては親育ち」というように親自身の自己への気づきの場でもある。社会教育行政は、家庭教育の振興にかなり力点をおいている。しかし、義務教育と違い、学習者の自発性・自主性に任されるので、学んでほしいと思われる親ほど参加してくれないという皮肉な実態がある。そこでわれわれが考えなければならないことは、親の学習の義務化ではなく、その親自身が夫婦・親子関係における不幸に気づき、幸福追求にみずから向かおうとするように仕掛けることである。 2 教育システムの歪み  −ぼくたちはいったい何のために学んでいたのか−   教育は個人の社会化を促すためにある。しかし、学校歴偏重の教育システムを内面から受け入れて、「自信たっぷり」に人を差別する人たちまでいる。さらに、若者たちはそういう差別者を「彼なりに努力したのだから」といって許してしまう。私たちは、あるいは社会は、差別主義者に対してどう対処すべきなのか。  差別の話について。「東大卒、元弁護士」と差出人の自分の名前の前に書いた手紙に対して、先生はそんなことを書くのはくだらない人だとおっしゃったが、それは先生の東大卒の人に対する差別なんじゃないですか?  世界中に自分一人しか人間がいなければ差別はおこらないと思うが、複数の人間が存在すれば、人間の心のなかに差別の心は必ずあるものだと思う。人によって差別の大小は極端に違うとは思うけれど。  この話題は、ぼくもパネラーとして参加したS市の生涯学習大会における作家のN氏の話を聴いて、その一部をぼくが引用して授業で紹介したものである。N氏の出演する子ども向けのラジオ番組のなかでのN氏の挨拶の仕方がなっていないというクレームの手紙が、未知の人から寄せられ、その手紙の終わりの差出人の名前の前に「東大卒、元弁護士」と書いてあったというのである。N氏は、普通の人は手紙に学歴や元の肩書など書かないだろう、きっとこの人は暇を持て余しているのだろうと言った。ぼくも授業でN氏の発言を支持して、手紙にそんなことを書くなんてくだらない人だと発言した。  ぼくの言ったことは、「東大卒の人に対する差別」ではないと思う。ぼくは、東大卒の人にはくだらない人が多いと言ったわけではないからだ。実際、東大卒の人のなかにもおもしろい人はたくさんいると思っている。ぼくは、手紙の自分の名前に過去の学歴や肩書を添えるなんてくだらない奴だと言っただけだ。この手紙の主は、自分に与えられた地位や肩書を自分そのものの価値のように錯覚して、その与えられた権威に頼って他者を糾弾しているのであり、そんなことは、それを見た人まで赤面するほどの差別的な行為であることを知るべきだということだ。この手紙の主の過剰なCP(批判的な親心)による権力志向の行為は、現実の社会に生きていくために(保身)ぼくたちが履歴書に学歴や肩書を記入することなどとはまったく質の異なる重大な問題をはらんでいる。しかも、この「くだらない人」という判断は、ぼく自身の実感と思考によってつくりあげられた物差によるものであり、人を比べて序列をつけて差別するために社会からあてがわれた物差による差別とは質が異なると考える。それでも、特定の人を否定することにつながるのだから、ぼくのこの言動は差別だといわれるかもしれない。それならそれでもよい。差別を嘲笑するという意味をもった差別なのだから。  それよりも、学歴や肩書に頼ることの愚かさを指摘することまで差別だとしてしまうとすると、結局は愚かしい(非主体的な)差別を許容してしまうことにつながるのではないか。ちなみに、「複数の人間が存在すれば、人間の心のなかに差別の心は必ずある」というペーパーの後段の言葉は、事実の一面を表しているのかもしれないが、ネットワーク型の水平空間の創出に対する敗北主義でもあると思う。そこには、社会的抑圧に対するAC(従順な子ども心)(<交流分析、p53)の働きによる無理な過剰適応の傾向が感じられる。  しかし、敗北主義的で悲観的な傾向もたしかに差別の実態の一面を表している。ぼくも、自分自身のなかに教師の役割にかこつけた権威主義的な傾向(CP)を秘めているのだろう。それは、教師としての職業病といえるかもしれない。「批判の刃を自己にも向けよ」ということだ。ただし、その職業病は、「自分自身が偉い」あるいは「偉い人でなければならない」と本気で思い込む先生病ほどには愚かではないと思う。その差は、学習者側からの批判を大切に受けとめ、きちんと受けて立つ姿勢があるかないかというところにあると思う。このようにして、双方向性さえ確保できれば、先生病という重大な病いには至らないのではないか。  わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。  今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいと言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。  人には、その人に見合った世界があって、その世界のなかでの上をめざすことはかまわないけど、その上の世界をめざすのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。  私は、そんなものなの? と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。  そういう過去の遺物のような人間に対してのぼくの基本的なスタンスは、「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」である。だから、ペーパーの書き手に対するアドバイスとしては、ひとことでいえば、「ケッ」と言って笑い飛ばす能力が大切であるということになる。まあ、心配しなくても、その手の「アパルトヘイト」(南アフリカ共和国の1989年以前の人種隔離政策)みたいな、唯々諾々と「頑張ってきた」だけの人たちは、社会ではいずれ挫折するだろう。たまたま出世するかもしれないけれど(本当は管理職には適していないのだけど)、ひとの痛みを知らず、人間としての厚みがないため、他者からの信頼や愛情という人間の生活や仕事にとっての肝心の財産を獲得することができないまま生きていくことになるからである。差別された者も、このことを知らないと負け犬になってしまう。  学生が一流企業をめざすこと自体は、けっして不合理なことではない。ぼくだって、「生活の安定をめざすならば、可能なら大企業にぶらさがれ」と学生にいっているぐらいだ。しかし、そういう自己保存のための作戦の部分だったはずのものが、たまたま成就した事実があったからといって、本気になって、「自分は上の世界の人だ」と思い込んでしまう人間がいるというのにはびっくりしてしまう。自己の合格・不合格などは、客観的にはちっぽけな事実にすぎないのに……。上下同質競争、学校歴偏重社会の価値観の個人的な精神世界への侵略は、目に余るものがあるのだなあと思う。  例の友人は、AC(従順な子ども心)とCP(厳格な親心)ばかりで生きてきた人なのだろう。そういう人たちの幸せのためには、なるべく早いうちに挫折を自覚して、「ただのろくでなし」(平気で差別したり迷惑をかけたりする人たち。自称「成功者」たちの差別や、頑張って授業には出てきてしまう自称「被害者」たちの私語など)から「ましなろくでなし」(そのほかの、しかし「不完全」な私たち)として立ち直る機会が訪れるよう祈るばかりである(p66)。  ところでこのペーパーについてつぎのようなレスポンス(反応)があった。それによって、このトピックスに関する考察は、もう一段、ぐんと深まることになる。出席ペーパーシステムは、このように、教師の能力を超えた自動増幅機能を内包している。  一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。「ケッ」と思う気持ちや、(注=彼らに対して)負け犬にならないということは大切ですが、いきなり「ばか」と切り捨ててしまうことの方が、ある意味では「負け犬」なのではないでしょうか。(注=合格・不合格の)つまらない事実であっても、わたしはその事実は事実として認めるべきだと思いますし、その人の努力の結果には敬意を表したいとも思います。その上で、自分は自分なりのものをつくりあげ、それに自尊心をもてばいいと思うのですが。(あ、時間がない……。)  フリースペース、その時間、わたしは授業ですので、ちとキツイです。出たいとは思うのですが……。わたしも酒好きですし(笑)。  ぼくは、「馬鹿という言葉は、少し違うなあ」とは感じながらコメントしていたのだ。しいていえば、「あほ」という言葉のほうが適切だったかもしれない。つまり、嗤う(ばかにしてわらう)という感じである。庶民が「ばか殿様」を笑い飛ばす、あの感じである。  さて、このペーパーによって、「その人の努力」に対する評価のあり方が問題として焦点化されてきた。これは、このペーパーの書き手一人にとどまらず、「心優しい」現代青年の普遍的な傾向であると思うのだが、「そんなこと言ったって、その人なりに努力してきたのだから」とか、「がんばってきたのだから」とかいって、客観的にはその「努力」が不当であることを感じながらも、個人の主観的なストーリーとしては容認してやろうとしてしまうのである。  例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる人類の幸福追求の敵としての役割を果たすからである。  このような客観的には不当なこと(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張ったのだから」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」の滑稽さを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだ。  それでは、なぜ、ほとんどの人が高校まで通えるようになった現代青年までもが、そういう「人類への裏切り者」を許そうとするのかというと、それはおたがいに「頑張らせられてきた」学校歴偏重社会の被害者としての仲間意識が根にあるのだとぼくは思う。これこそ、まさに、ピアコンセプト(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)の逆機能といえよう。ヒエラルキー(階層制度)の上位にあって下位の自己を抑圧する相手に対してまで、「同じ苦労をしてきた」(ただし、相手は「成功」した!)という思いから、批判することを回避している。これは、自称「上の世界の人間」もそうでない人も、「(受験勉強はいやなのに)頑張らせられてきた」という意識・無意識の被害者意識を、社会を良くする主人公としての自尊心に転化するに至らないまま、自身の根っこの問題として引きずっていることの表れといえるのではないか。つまり、端的にいえば、負け犬同士が傷をなめあっている姿ではないか。どちらの側も、学校歴偏重の上下競争の価値観を内面では蹴飛ばしきれていないからである。  さて、ぼく(mito)自身はどうなのか。「やっぱり負け犬の一種でしょうね。そりゃあ、こんな社会に生きていて、あるいは人間存在の空虚さという本質から、まったく敗北主義にならないというほうが、かえって不思議ですよ」。こういって、ぼくは、そういう自分の「ろくでなし」の部分を、「まあ、事情が事情なんだから、今までのことはしかたないよ」という感じで許してやっている。しかし、「せめてましなろくでなしになりたい」という気持ちで打ち出しているのが、つぎの3つのテーゼである。  「今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーのなかで演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて」(『こころ』p106)。  「ばか殿様」からも、それを反面教師とすることによって、学ぶことはできる。しかし、自分が元気に学び続けるためにそれより手っ取り早いのは、さわやかに生きていく力をもっている人、「ああ、この人が生きてくれていてよかった」と自分までうきうきしてしまう人との出会いを多くすることである。そのことによって、自分もさわやかに生きていく力をもつことができる。「大人になりたくない」などという青少年が多いが、それは、たまたま、いいモデルとしての大人にめぐりあったことがないからか、あるいは、本人がそういう出会いから逃げようとしているからかのどちらかであろう。  ぼくがフリースペースを個人的にも楽しみにしているのは、「おお、いいなあ」と心からあこがれてしまうような他者の生き様と出会い、癒され、こちらまで元気が出るからである。相手は学生ではあるが、ぼくなんかよりよっぽどかっこいい潔い自己決定の生き方や、自分に厳しい深い生き方をしていて、教師のぼくが思わず尊敬してしまうような学生もごろごろいるのである。こういう人との出会いを避ける手はない。このペーパーの書き手にも勧めたい。フリースペースは、参入も撤退も自由のネットワークの場である。「1年に1回だけ来てもメンバーだ」。何回も来なくてもいいが、授業が休講のときなど、1回ぐらいは来る価値はあるだろう。  蛇足だが、その自称「上の世界の人間」が実際に学生としてぼくに接してきたとしたら、ぼくは教師として「どう受けて立つか」を述べておきたい。教師は学習者の援助者であるから、今まで述べたようなことはそのままの形ではいわない。教育効果(変容)が期待薄だからである。今まで述べたことは、客観的には自分にも迷惑をかけている「ただのろくでなし」をさえ、「頑張っているんだから」といって認めてしまおうとする「心やさしい人びと」への忠告であったのだ。  自称「上の世界の人間」の本人に対しては、ぼくは嫌悪や嘲笑を押さえて、本人の過剰で屈折したガンバリズムの悲しい事実を探り出し、本人の目の前に提示しようとするだろう。そうすれば、遠い先にあった挫折の自覚が早く訪れる結果になってしまうかもしれないが、その場合の挫折は現実体験というより本人の理性的認識によるシミュレーションに近いものであり、それゆえ本人の「自己決定」の要素が比較的大きいと思われるからである。個人の幸福追求への援助のためには、教育は本当はそうあらねばならないのではないだろうか。 (注=自分をワガママだと批判していた彼氏が、最近やけに自分にまとわりついたりプレゼントをしたりするので「あやしい」という前置きがあったあと)たぶんわたしの夜遊びのせいだと思う。わたしの夜遊びははんぱじゃなく、男友達5、6人とギャーギャーさわぐ。朝まで激論を交わすことも多い。激論のテーマは人種差別、宗教、音楽などだが、二日酔いをともなうとっても充実した朝を迎える。かれらは愛すべき Friendsである。わたしの友達はブラックが多いので、人種差別についてはすごくきびしく、わたしは日本代表としてせめられている。  それ(注=ほかの男友達との「夜遊び」)が彼には気に入らないらしく(わたしがそのことを楽しそうに話すらしい。だって、ほんとうに楽しいんだもん)、また、わたしがあんまり彼と遊ばなくなったので不安らしい。「おまえが離れていくような気がする」のだそうです。わたしはそうでなくても離れていくのよ、と思ったけどね。プレゼントがなんぼのものじゃい。アパルトヘイトを知らない彼にもっと勉強してもらいたいと思う。彼はマンデラがどこの国の人か知らなかった……。  ほら、こんなに「雄々しい」いい女がやっぱりいるんだ。このペーパーには「雑談」という彼女なりのマークが付いていて、それにしてはこういう深い内容であり、そのことだけでも彼女のその「潔さ」にぼくはうれしくなってしまう。だけど、知らないということは仕方のないことだから許してあげてほしい(マンデラはアフリカ民族会議議長で、のちの南アフリカ共和国大統領)。問題は、差別やその他の社会の不当性、人間存在、芸術表現などの事実を知っているかどうかよりも、その本質(真実)の追求自体にそもそも関心があるかどうかだ(生きる力や個の魅力としての関心・意欲・態度)。ここからは、「彼」本人からの話を聞かないまま論を進めるので、実際の彼の姿を推測するものではないということをお断わりしておく。  きっとあなたの今までの彼は、そういう関心そのものがまだ育ってないのではないか。世の中には、大人になってもそういう「ガキ」状態にとどまっている男が(女も!)かなりいる。社会や自己の姿をなるべく正確にとらえようとする「大人心」を使い慣れていないのである。そういう人は、相手に「自分のために生きてほしい」と一方的に依存してくるし、自分勝手に独占的な愛を求めてくる。それは、他者(社会)との関係のなかでの自己を客観視できていないからであり、つまり、自立できていないということなのである。遊んでくれなくなると「離れていくような気がする」と相手に自己の不安だけを訴える姿は、その淋しい気持ちもわからなくはないが、彼がまだ自己を主観だけでしかとらえられず、他者から見た自分の姿を推察する能力が育っていない証拠ともいえる。あなたのような大人の女には、そういう自立できていない男は残念ながら似合わないのだろう。  世の中には、あなたとの「激論」に耐えうる「いい男」がいっぱいいるのだから、いい女になりつつあるあなたが、過去のそんなつまらないつきあいにあまりとらわれすぎるのはもったいないことだと思う。ぼくはそんなに雄々しい男ではないけれど、そんなぼくだって、このペーパーを読んで、「ああ、彼女みたいな人と『激論』するのは楽しいだろうな」と思う。そうは思えずに、「社会や人間のことなんかことさら考えなくたって」と思う男は、同じように思っている女とつきあって満足していれば、それで世の中は安泰だろう。  「わがまま」には2つの種類があると思う。「わたしの人生はわたしが歩きたい」という「良いわがまま」と、「あなたの人生をわたしのために曲げて歩いてほしい」という「悪いわがまま」の2つである。自分の力で自立を実現して大人の「いい女」になるためには、前者のわがままであるのなら必要なことである。ただし、後者の「悪いわがまま」も愛にとっては残念ながら不可避のようだが……。  この微妙な状況のなか、ぼくが「癒しの教育」を追求していることについて、あるペーパーで、「宗教や神秘主義によって現在の自己を肯定して癒す」のと、mito的授業の「知的水平空間、地域的連帯などによって精神的疲れを癒す」のとは、同じ「癒し」という言葉を使ってはいるが、違う意味なのではないか、という指摘があった。たしかに違う。後者は、@現代社会の上下同質競争のヒエラルキーに直面して、それを強く意識し、Aそこから逃げ出そう(逃避)とするのではなく、突出的水平空間や文化的孤島などにいったん避難(回避)し、B仮面や演技のない「個の深み」との出会いと気づきを味わうというものである。さらには、それらの到達点の先には、C結局、自己決定のサンマでの積極的積極と、それ以外での積極的消極の自己管理にしか、癒しはないのだという、諦観と希望の見通しが広がっているのである(p70)。これがほかの世界での癒しと異なるmito的授業での癒しの意味なのだ。今後の教育は、発達・成長だけでなく、指導者それぞれのの個性を生かして、突出的な癒しと水平異質共生の世界を創り出すことによって、社会全体の教育システムに生涯学習社会への移行のための楔(くさび)を打ち込むことが期待される。 3 自分自身の内なるピアコンセプト  ピアコンセプトとは仲間を大切にする意識のことである。そこには連帯感や役割意識などの肯定的側面もあり、ふつうはいいことのように思える。しかし、実際には、ピアは個人の主体性を自己抑圧する否定的側面としても機能している。なぜ、そんな逆機能が起こるのだろうか。そして、本当はどうすればよいのか。  「みんなのために」とか「みんなだって」とかいう認識が、みずからの個の発現を自己抑圧する結果につながっている。こんなペーパーがあった。  先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読み上げてほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな?  ぼくはつぎのようにコメントした。そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということがあなたにとって重要である。実際、あなたの希望とは逆に、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。もともと匿名であるにもかかわらず「みんなの前で読まないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなたがそのように潔くできるのならば、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。  生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピアコンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識(卑屈な自己疎外!)にもつながりがちなのである。  現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と出席ペーパーでぼくに怒りをぶつけるように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。ちなみに、学生の授業中の私語も、ぼくは仲間意識の悲しい表れであるととらえている。熱心に授業を聞いている他の学生への迷惑よりも、仲良しの友達への同調が優先されるからだ。また、まじめな学生が、他者の私語を「やめてくれ」といえないでいるのも、「主張することによって仲間から浮き上がりたくない」というピアコンセプトの表れである。これではまさに「みんなぼっちの世界」だ。  このようなピアコンセプトによる卑屈な自己疎外の事例は、今日の生涯学習の場でも無数に出現する。ピアコンセプトは、ヒエラルキーの支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだろうが、ピアだけでは残念ながら本質的な問題解決にはつながらない。かえって、現在のたての人間関係(ヒエラルキー)を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくったりするだけの結果になってしまうのだ。ピアコンセプトはネットワークへの情的動機の一つであるとは考えられるが、ネットワーカーたちは、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心を嗤うとともに、自己の内なるピアコンセプトをも意識的・理性的に乗り越えなければならないのである。ヒエラルキー、ピア、ネットワークの相違を表に示すとつぎのようになろう。 図表3 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ ヒエラルキーの側面図  ピアの平面図 ネットワークの平面図 (個の抑圧)      (個の規制)      (個の発揮)  もちろん、ネットワークは冷たいこころのものではない。むしろ、ほんとうの意味での信頼の関係といえる。それは防衛的風土とは反対の支持的風土にもとづいている(J・R・ギッブ)。これらの2つの風土の特徴はつぎのとおりである。  支持的風土=@仲間としては、自信と信頼がみられる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。A組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。B目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。  防衛的風土=@仲間としては、恐れや不信がみられる。例えば、自分がこの集団に適応していないと恐れ、律法主義になり、枝葉末節にこだわり、かばいあう徒党が互いにせめぎあい、一方ではやたらに同調性がみられる。A組織としては、統制と服従が強調される。例えば、権威に頼る一方では、統制に対して敵対心があふれ、主導争いがみられ、地位や権力に異常なほど関心が強い。B目標追求に関しては、操作と策略が多い。例えば、トリックが多く、秘密主義であり、上から下へのコミュニケーションばかりで、参加度が低く、画一的な押しつけの評価が多く、仕事ぶりは規則に縛られ、保守的である。  片岡徳雄は、ギッブのこの分析を紹介したうえで、前者の風土は非定型の集団、後者は定型集団に多いと述べている(放送大学テキスト「学習と指導−教室の社会学」)。  ここでいうように、「支持的風土」とは、みせかけの同調をすることではない。人間は無知であり、非力である。それを自覚(無知と非力の自覚)してもなおかつそれを受容してこそ、自他への信頼と共感が生まれる。自分が、あるいは、特定の人物だけが、真実を完璧に把握しているというはずはないのだ。だから、せっかく思い切って発言したのにネットワークの仲間たちが聞き入れてくれなかったからといって不満をもつのも潔くないと思う。自分の話をほかの仲間が心から聞いてくれたのならば、それをもって良しとしなければならない。  ヒエラルキーがツリー(樹木)であるのに対して、ネットワークはリゾーム(地下茎)になぞらえられる。しかし、ネットワークの全体を幹と考えれば、やはりネットワーカーの一人ひとりは「枝葉」にすぎない。そこでのネットワーカーの「枝葉」としての存在確認とは、どれだけ自分の納得のいく提案の仕方を自分ができたかどうかということであり(幹と枝葉)、それが満足できるものならば自分の胸のうちにはさわやかな風が吹き抜けているはずなのである。ぼくは元気がなくなると、元気に活動している人とおしゃべりして、元気をもらう。そこで気づいたことは、彼らがたまたま枝葉としての不運な目に会っていないから元気、ということではないという事実である。彼らは幹を変えられたからではなく、変えようとして行為できた自分に満足するのである。これが枝葉同士のピアコンセプトとは異なるネットワーク型の支持的風土をつくりだすための心構えであるといえよう。 図表4 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ 側面 項目 ヒエラルキー ピア ネットワーク 関係性 基本的関係 上下同質 水平同質 水平異質 相互関係 支配と服従 仲良し・われわれ 自立と連帯 交流パターン 役割遂行と役割演技 人格的・仮面的交流 流動的役割遂行と共生 関係維持の方法 差別的同一化 共同的同一化 異質の交流と相互受容 経済関係 従順さへの報奨 見返りを期待しない ギブ&テイク 友達への態度 同調または否定 同調または内面的排除 共感と自己主張の統合 個の扱い 上からの抑圧 自己抑圧 個の深みの発揮 現実への姿勢 勤勉主義 敗北主義 積極と消極の自己管理 個の安定 制度的安定 主観的永続 変化の受容 新規参入の条件 競争 排他 開放(個人の自発意思) 個人的意味 撤退の状況 敗北 異質化・分派 潔い撤退 依存の心理状態 一方向依存・共依存※3 相互の甘え 相互のさわやかな依存 要請される資質 厳しさと従順さ 優しさと協調性 自他への基本的信頼感 行動目的 組織と秩序の維持 自己保存 自己実現と社会的承認 行動原理 現実原則 快感原則 共生欲求からの自己決定 学習動機 成長(上昇) 癒し(停滞) 成長と癒しの統合 自分らしさ 規制と喪失 渇望と挫折 現在の受容と今後の変容 社会的意味 文化の性格 支配的文化 下位文化 対抗文化 集団風土 防衛的 支持的に見えて防衛的 支持的 社会的教育体制 学校歴偏重社会 教育制度の忌避 生涯学習体系 注1 この表は、現実の組織や集団の実態よりもそれぞれの概念的な特徴を重視して整理したものである。 注2 斜体は筆者がつくったレトリックである。(『こころ』参照) 注3 共依存とは、依存する他者を支配することによって充実感をもつ人と、他者を心配させることによってその人を心理的に支配する人との硬直した関係をさす。 第2章 癒しと貢献の自己決定入門 1 事実よりも真実  なぜ人は学ぶのか。受験勉強で知識を詰め込むだけでは感動がない。また、他人の出世の程度について嗅ぎまわって詳しくなっても、それでも「学習」なのかもしれないが、みじめで情けない。生涯学習は「学びたいことや学びたい手段を自己選択、自己決定して」という。でも、何を、なぜ、学びたくなるのだろうか。  人びとが生涯学習などの自己決定の世界を求め続けるおおもとの動機は何なのか。ぼくはそれを感動だと考える。感動するからこそ、きのうまでの自分の枠組が変化するという本来のダイナミックな学習(自己変容)が成立するのであるが、本人にとっては学習になっているかどうかなどはほとんどどうでもよいことである。それよりもワクワクすること(ワンダーランド・・・・これが生涯学習なのだが)と出会いながら人生を過ごしたいという自然な欲求に貪欲なだけのことなのだろう(生涯学習の即目的的本質)。  もちろん、感動を生み出すのは他者の「個の深み」との出会いばかりではない。事実を伝える情報も大切だ。事実に気づいて感動するようなこともあろう。しかし、それらの気づきの本質は、自己の「個の深み」への気づきといってよいかもしれない。そういう種類の事実や「個の深み」などの、その人の人生にとってほんとうに意味のあることがらを、ぼくは事実と区別して「真実」と呼びたい。  起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、どこまでも知りたいという自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、そのどこまでも知りたいという場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」ということである。事実の積み重ねに終わるのでは、「深い感動」(駒田、p36)もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかで社会教育の知識が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」という自己決定のワンダーランドとしての学習が根底から疎外されているからである。  もちろん、なかには、枠組は変えないままその枠組に知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じる、だからそれも自己決定だ、という人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識だけが豊富になった人に対するときと同様の、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。  ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だってあるだろう。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。  魯迅は差別を受けつつ学んでいた日本で、つぎのようなフィクションを書いている(小説『藤野先生』)。  わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。  じつは、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年に開設されたのだ。また、当時、仙台医学専門学校と同じ構内にある第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているそうだ。この魯迅のフィクションについて、駒田信二はつぎのように述べている。  事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。(中略)同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。  つまらない事実(ときには虚偽である)を詰め込むためにぼくたちは生きているのではない。だが、今までの学歴偏重の上下競争社会では、社会から与えられたカギカッコ付きの「権威」(地位、肩書)や、その権威を代弁するマスメディアが大量放出する「事実という権威」にぼくたちの内面はややもすると従おうとしてきた。しかし、他方で古くから人びとが愛してきたこの魯迅の著作などに見られる小説的真実や、パソコン通信のなかでの「善と悪」の入り交じったコミュニケーション内容は、そういう「権威」に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)として、学歴偏重社会の価値観に異議申立てをしている。すなわち、これらは生涯学習社会への転換を進めるためのカウンター・カルチャー(対抗文化)としての役割を果たしているのである。  このように心から感動できる真実と出会うためには、ぼくたち自身が、ヒエラルキーが依拠する制度上の権威に惑わされずに「ケッ」と言って笑い飛ばし、自立的な価値を有するもの同士で水平に交流しようとするネットワークマインド(対等な考えや態度、p73)を身につけることが必要である。そういえば、パソコン通信で外側から与えられた地位や肩書きを振り回す人は、江戸時代の馬鹿殿様や、部下を従えてふんぞり返って大蔵省の廊下を歩く幼稚なエリート官僚たちと同様、物笑いのタネだ。これに対して、知的世界に遊ぼうとする人は頭が柔らかく(エッグヘッド)、権威主義者をからかってジョークを飛ばすネットワーカーのはずである。そもそも、学問だって、世俗の権威を超越した世界になければいけない。宴会の席順を争い合うような研究者がいたらお笑いぐさだ。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 信頼 信用が確かだと信じて人を用いることであるのに対して、信頼は信じて人に頼る(頼り合う)ことである。互いに欠点や弱点をもっており、無知で非力であることは前提のうえである。後者の信頼にもとづく人間関係こそが、現実的であり、ギブ・アンド・テイクとしてのネットワークや「さわやかな依存」(<mito)に裏打ちされた自立を可能にすると考えられる。しかし、上下競争の学校歴偏重社会において、人間が本来もっているこの基本的信頼能力が失われつつあるようだ。このことからも、学歴偏重社会から生涯学習社会への転換が人類史的にも急務であるということができる。 生涯学習 「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」という言葉に示されるように、人びとが生涯にわたって学びたいことを、その手段をみずから選んで学ぶこと。そこでは自発的意思が尊重され、その範囲は学習・文化・芸術・スポーツ・レクリエーションさらにはボランティア活動まで幅広くとらえられる。また、昔から「一瞬も怠ることなく学問に励みなさい」などというような類似の考え方はあるが、今日いわれる生涯学習は、現代社会の急激な変化やさまざまな歪み、危機の表れを意識した現代的かつ社会的な理念としての意味のほうが大きい。 生涯教育 生涯学習を支援する社会のさまざまな教育的諸機能。そこでは、統合(integration)の概念が重要だ。統合には、生涯各時期にわたる時系列的な垂直的統合と、社会のあらゆる場のさまざまな教育機能の空間的な水平的統合との2つがある。後者においては、学校や地域、行政全体、企業等のもつ教育機能がすべて含まれる。たとえば学校に関しては社会教育との連携(学社連携)を超えて融合(学社融合)の重要性が叫ばれるようになるなど、統合に関する実質的な深化・発展が始まりつつある。 社会教育 大正10年以来、公けにこの名で呼ばれるようになったが、現在いう社会教育は、戦前の国民教化の歴史を反省し、戦後の住民、国民を主人公とする公民館活動などの蓄積にもとづくものである。教育基本法7条では「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育」とされている。社会教育法2条では「学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動」とされている。ここで重要なことは、生涯教育と違って学校教育は除くが、それ以外の公共、民間、企業、教育産業等の教育活動はすべて社会教育の範疇に入るということである。狭い範囲でのいわゆる「社会教育行政」の事業だけが社会教育なのではない。 社会教育行政 一般的には、上に述べた広い範囲の社会教育を促進・援助するための、しかもそれを専門に受け持つ行政をさす。社会教育法3条では、国及び地方公共団体の任務として「社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない」とされている。社会教育行政には、学習者自身の学びのための環境醸成、条件整備者として、学習者の自主性を侵害しないような禁欲と諦観が求められているのだ。 癒しのサンマ サンマとは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが、今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けていると提起した言葉である。たしかに、今の子どもたちは、与えられた課題をこなす時間の過密化による自由時間(時間)の不足、冒険できる場(空間)の不足、群れて遊ぶ友達(仲間)の不足にあえいでいる。しかし、青年や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。ぼくはそこで現代人が求めているものを「癒しのサンマ」と呼ぶ。サンマであるから、日常の家庭、学校、職場のすべての時間を癒しの時間に当てようというわけではない。せめて1週間に1回くらいはサンマがあって、「ああ、○曜が近づいてきたな」と思えるだけでも、その1週間は元気に暮らせよう。サンマが癒しとして機能するための条件としては、相互承認、自他受容、支持的風土、水平異質交流などが考えられる。 2 合格はラッキーではなく不幸なのか  事実は小説よりも奇なりという。入学試験や採用試験などでも、努力や実力とは異なった結果(事実)が出てしまうことがある。そんな「奇」のために頑張り、「奇」に左右されながら生きていくというのは、自分の人生としては許せない気がする。本当の自分はどこにあるのか。いったい事実をどう考えればよいのか。  学生の就職戦線においても、事実と真実の峻別は重要である。採用試験などは、「人間万事塞翁が馬」の代表格であり、また、事実(合否)と真実(実力)は必ずしも一致しないものだ。そういうとき、みずからの真実を大切にする生き方こそ、この上下同質競争社会において、客観的にはもっとも幸福を追求する生き方といえるのである。  この事実と真実の対応を示した図表5について、授業で「Vは問題ないよね」と軽く流そうとしたところ、ある学生から「個の深み」あふれるレスポンス(反応)が「ちょっと待った方式」(授業中いつでも勝手に反論してよいというシステム)で提示されたことがある。  男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたのだ。Vとは受かる実力もないのに、事実としてはたまたま運良く(?)受かってしまった場合だ。彼がいうには、採用された後、自分の力不足のために仕事の相手や仲間に迷惑をかけ続けることになり、劣等感も刺激され、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、他の学生も、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達に申し訳なくて会うことができなくなるし・・・」という。  このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまった。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決め込む敗北主義としてぼくは批判していたが、それだけでは現代青年のもつ傷と繊細な深みはとらえきれないことに気づいた。  そこで、Vについてのぼくの意見をあらためてまとめて学生に提示した。もし採用試験に、はからずも(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで正当な劣等感や罪悪感をもつこと(真実)は本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた役割遂行ができるようになるかもしれない。  生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習を社会的活動に入ってから継続(リカレント学習)できる人なのかどうかのほうが重要になる。思うにこれは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということだととらえられる。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その「自己への厳しさ」という持ち味(真実)を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうるのだ。 図表5 事実よりも真実を追求する受験態度 真実 事実 受験主体としての感覚 真実を大切にして生きるためのコツ T ○ ○ 自信と報われた感覚 自己の真実と社会のもつ真実の側面を肯定 U ○ × 不公平感または充実感 自己の内なる真実の肯定と社会の事実への諦観 V × ○ 幸福感または罪悪感 「今ここでの自分」により罪悪感を止揚 W × × 敗北感または充実感 挑戦した自己の真実と社会の真実の側面を肯定 注 真実の○×は実力、事実の○×は合否結果を表す。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 学校歴より学習歴 急激に変化・進展する現代社会においては、適応ばかりでなく組織や社会に対して主体的に個性を発揮できる人材や、卒業後も自己開発を続けられる人材が求められるようになってきた。そのため、若い頃に完結する学校歴より、どのように学び続けてきたのかという学習歴が重視されるようになった。大学入試の合否は「小説より奇なる」事実にすぎない。その人がどう学んできたのかというプロセスにこそ、その人の真実がある。たとえば貧乏海外旅行などの「体験学習」も高い評価に値する。ところが最近は、高く評価されたいがために貧乏海外旅行に行くという逆転現象も起きている。さらには、過去の文化遺産としての「歴」にではなく、「今、ここで」(<交流分析)の私とあなたの出会いにしか真実はないとも考えられる。他者の真実を評価すること自体、大切だが難しいことなのだ。 3 奴隷の覚悟を決める  −積極的積極性と消極的積極性−  自分らしく生きたい、自分らしさを大切にしたい、とは誰もが思う。だが、他者や社会がそれを邪魔する場合もある。「したくないことはしない」と突っ張っているだけでは、この世では結局は自分らしさを守りきれないようだ。自分を中心にしては回ってくれない現実社会のなかで、私たちはどう生きればよいのか。  「もう一つの自分」や「ほんとうの自分」を見つけたい、あるいは「自分らしさを大切にしたい」という現代人の自分さがしの願望はかなり真剣である。この願望は生涯学習の大きな動機にもなっている。その場合、教育は本人のもつ無限の可能性を信じて援助するだろうし、社会学は現代社会において個がいかに疎外されているかを唱えるだろう。しかし、ここではこうした現代人のもつ「個の深み」が葛藤するいくつかの事例をとおして、教育学にも社会学にもこだわることなく、その臨床的リアリティにもっと近づいてみることにしよう。  大人になってくると、この世が思い通りにはいかないことに気づいてくる。これを楽園追放という。  (「自分とはなにかを考え、アイデンティティ=自我同一性を獲得することは青年期の重要な発達課題である」という授業において)人間の短い寿命のなかで、「どうすれば自分を見つめたことになるのか」について私は考える気はありません。「思い切り貪欲でありたい」という欲求に忠実でありたいというのみです。  以前、街頭で心理関係の会社の人に声をかけられ、話をしたとき、「きらいなものはしない」と言い切った私に、彼は勝ち誇ったように「きらいなものはしないというのは子どもです」などとのたまわったのです。こんな話題で悦に入る人のほうがよっぽど子どもではないでしょうか。その方は、「世の中すべて愛ですよ」とおっしゃいました。彼は自分の得たものをかたくなに他に主張して、自分を肯定したがっているだけではないでしょうか。「時間がありません」という私に彼はなおもお説教し、私は待ち合わせに遅れてしまいました。  ぼくの答はこうだ。「いやだけれどもやる」という消極的積極の行為は彼女にとってきらいなことかもしれないが、現代社会で生きるためには必要でもある。この消極的積極の説明の前に、彼女の「街頭説教事件」に関するコメントをしておきたい。  さわやかな自己主張のコツは「私は今は」である。「私は今はあなたの話を聞きたくありません」ということにでもなろうか。これを自他への信頼に満ちた生産的構えということができる。人によっては、「なんで自分だけがわざわざそんな主張のための努力をしなければならないのか」と感じ、その努力を「きらいなもの」に思ってしまうかもしれない。しかし、他者や社会との関係のなかで「きらいなものは(なるべく)しない」という態度を貫くためには、結局は、「きらい」でも、このような生産的構えを自らの内面にはぐくむしかない。  とはいえ、この人の「きらいなものはしない」(積極的消極性)という気持ちの潔さの部分は、現代社会において自我やアイデンティティを守るためにはとても重要なことである。しかし、逆に、「きらいだけれどもがんばってやる」という「消極的積極性」は、社会においては仮面・戦術の必要性として不可避でもある。ただし、大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、あるいは、基本的信頼を基調とする仲間、恋人、家族の関係などにまで持ち込まないようにする必要があるということだ。言い換えれば、「消極的積極性」の本質的な問題は、心から自己の仮面と戦術の奴隷になってしまってアイデンティティを見失い、自他に対する信頼感を失う危険に陥ることにあるといえる。だから、「きらいなものはしない」というこの学生の大切な思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すと、いっそう正確でリアルな思考になるとぼくは考える。  ついでにいうと、街頭説教の彼の「世の中すべて愛ですよ」という言葉は、「世の中すべて愛か憎しみか無関心か、ですよ」というと正確に言い直すことができると思う。彼の発言のままだと、この学生の指摘するように「自分の得たものをかたくなに他に主張」する子どもっぽい主観にすぎない。真実はもっとアンビバレンツ(両面価値)である。アンビバレンツを受容せずして真実には接近できない。 図表6 「積極的積極性」の行為としての生涯学習 主体 外見 勤勉度 自己決定 決定要因と動機 特徴と変化への姿勢 T 積極的 積極 中 大 したいからする 自己決定(生涯学習) 逃避せずに挑戦 自分のためにする 変化を歓迎 U 消極的 積極 大 小 せねばならないからする 仮面・戦術(受験勉強) 不安からの逃避 ひとのためにする 変化を受け入れ V 消極的 消極 小 小 せねばならないけどできない 敗北主義(被害者意識) 自己嫌悪・不安 ひとのせいでできない 変化を恐怖 W 積極的 消極 無 大 しないことをあえて選ぶ 自己決定(無為・潔い撤退) 危険だから回避 自分のために、無理しないようにする。 変化を取捨選択  さて、「消極的積極」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極(仮面・戦術)や消極的消極(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の覚悟)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」ということはできないだろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定ではなく、社会的存在としての人間の宿命なのである。  つまり、賃労働に代表されるような職業的な役割遂行においては、潔く奴隷の覚悟をする消極的積極性が必要になるということになる。これには例外はある。貧乏な芸術家などがそうである。また、過労死の問題を授業で扱ったとき、「プロボクサーになろうとしていたときの自分は充実していた。そのときには死をも賭していた」というペーパーがあったが、これなどは職業であるのに積極的積極(死んでもいいからやりたい!)であるという好事例であろう。  だが、これらの例は一般的ではない。たとえば、作品が少しでも売れ出した芸術家などは、バイヤーやユーザーなどの他者からのなんらかの社会的しがらみに縛られ始めてしまうのである。売れなくてはいやだが、縛られたくもないというのでは、ただの他者の存在や痛みに気づかない人にすぎない。まして、一般的な職業においては、働きがい(積極的積極)とともに「働かなければならない」(消極的積極)も不可避である。だからこそ、一般人(ぼくたち)にとって、そういう職業的役割遂行とは異なる自己決定の行為としての生涯学習活動やボランティア活動の独自の魅力が鮮明になるのである。  ぼくが奴隷の覚悟という言葉をいい出したのは、最近の賃労働の過酷な実態を卒業生からたびたび聞き、暗然たる気持ちになったからである。第一、サラリーマン(賃労働者)になることもままならず、せっかくのモラトリアムの時期を学生食堂でリクルートスーツに身を固めて飯をボソボソ食べている学生を見ると、「夢のある仕事を探そう」などという無責任なことはいえなくなってしまうのである。  死をも賭しているプロボクサーが「自分さがし」のために別に生涯学習やボランティアをするということは、あまり考えられないだろう。問題は、奴隷の自覚に欠けたサラリーマンが、家族や市民の一員としてのもうひとつの自分を見失い、職業だけを頑張りすぎてバーンアウト(燃え尽き)や過労死をしてしまったりすることである。あるいは、若者たちが、「本当は何をやりたいのか」という自分への気づきを経ないまま、サラリーマンになるのは既定の事実だからという理由で、奴隷の覚悟をしなければいけないと思い、しかしやっぱりそこまでは覚悟できないこともある。たしかに、まともな神経なら、そんな精神状態で奴隷の自発的覚悟なんてできるわけはないだろう。しかし、実際には、奴隷候補者が、支配される世界とは別のもうひとつの自己決定の世界をもたないまま、もう社会に出る歳なんだからといって奴隷になる覚悟をしようとする姿と、そのように適応できずに落ち込んでいく姿は、ともにあまりにも悲しい。これらの問題については、冷酷なようだが、現代社会における生きる主体性の喪失、すなわち、積極と消極の自己管理能力の欠如の問題としてとらえられる。  主人が「したくないことはしない」という立場であるのに対して、奴隷は「したくないこともする」立場である。それは主人−奴隷のヒエラルキー的関係にもとづいている。奴隷の覚悟とはすなわち、自己の個が抑圧されることがあっても「負け犬」にならずに、頑張っているふりをしたり(消極的積極)、やり過ごしたり(積極的消極)できることである。そのことによって「自分さがし」にとって大切ないざというときに(たとえ賃労働のなかでも)自ら進んで個を発揮する(積極的積極)ことができる。つまり、奴隷の覚悟をすることによって、逆に、自己決定の要素の強い場面などでは、「やりたいからやる」という自己の人生の主人の立場(=主人公)にもなれるのだ。「いつでもわけもわからず頑張っていればいつかは報われる(他者の主人になれる?)」という今までの主観的なガンバリズムだけでは、自己決定の幸せな生き方はできない。  この論議については、次には積極的消極の重要性を中心として、p70の「枝葉としての幸福追求」においてさらに展開していきたい。本項では上下同質競争社会のヒエラルキーの歯車にならざるをえない場合の、個人の自己実現と役割遂行のコツとして「奴隷の覚悟」をあげた。しかし、じつは水平異質共生のネットワークにおいてさえも、個人は全体という幹に対しては枝葉にすぎないのである。ネットワークでうまくやっていくポイントは、ヒエラルキーでの「奴隷の覚悟」に対する「枝葉としての潔さ」とでも表現できるかもしれない。 4 空しさに耐える  「祭りのあとの空しさ」という言葉がある。だとすれば、私たちは祭りさえも心からは楽しむことができないのか。昔から「教養のある人たち」はこの世に無常感を感じていた。どうも空しさは人や世の真実の姿のようだ。そんな現実のなかで、ぼくの体験学習に参加することなんかに、どういう意味があるのか。  (奇数日の)ゲームの日に出席しないのは、多分に私のワガママです。性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからないという・・・・。グループのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲームをやるときのメンバーがいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲームを「こなす」という感じで終わってしまうんですよね。それはけっこうみんなそうじゃないのかなあ? で、そういう「中途半端な」楽しさは、すぐに空しさ(寂しさ)に変わってしまうから、それが嫌なんですよ。そういうわけで、ゲームの日は完全にパスさせてもらっています。  この授業では、ゲームを奇数日に行うこととし、体験がつらい人には奇数日を潔くパスするよう勧めている。ぼくは、授業自体も、生涯学習の「学びたいから学びたい手段で学ぶ」という「自己管理型」で行おうとしているから、とくに奇数日には、このような「潔い撤退」に類した例はたくさんある。『こころ』にも書いたとおり、基本的には「元気になったら出ておいでよ」という対応でいいのだと思っていた。しかし、今回のこのペーパーは、体験学習という擬似的時空の空虚さを鋭くついたものであり、そういうペーパーに対しては、「無理して出席しなくてもいいんだよ」とぼくが対応することは、教師としての責任逃れにもつながりかねないと思われる。そこで、少し立ち入って考えてみたい。  このペーパーは、じつは4枚にわたる「長編」で、いま引用した部分は、その追記である。本文では、偶数日の「講義型学習」を含めて「あまり得るものがない」、他の学生の出席ペーパーも「面白そうだね」というものはあるが、「まあ、時間に余裕があれば」という程度で、それよりは、この授業をパスして他の授業で出された課題などをこなすことが多い、などという自己の状況を述べたうえで、「(そういうふうにパスすることも)先生の方針ではOKになるんだと思いますが、それで一年間終わってしまったら、何のためにこの講義を取ったのか、何も残らないと思いませんか?」と穏やかな口調ながら、学習権者としてぼくを厳しく追い詰めている。  しかし、これだけであれば、ぼくは、「履修要覧やテキストを読んで、ぼくやぼくの授業が自分にとって必要かどうかを判断して、出席するかどうかを自己決定せよ」と答えればよいと考える。ところが、この学生はどちらも読んでいるという。また、最初の3回目の授業まではきちんと出席もして、「お試し期間」も活用している。 (高等教育においては)基本的にはどの科目を取るか、それを決めるのは学生側の「権利」として与えられているわけですよね。そして、判断のための情報として、「履修要覧」があり「お試し期間」があり、それでも足りなければ、直接、担当の先生のところへ質問しにいくことだってできるわけです。それだけのものを与えられていながら、あとから文句をいうような選択しかできないというのでは、学生側がなかば選択権を放棄しているようなものだと思うわけです。たしかに、私も選択したあとで、「あっ、これはハズレだったな」と思ったものもありました。でも、そういうときでも、せっかく高いお金を払って買ったんだから、テキストだけは一通り読んでみようとか、講義の「おいしいところ」だけはある程度頂戴しておいて、そこから「独自路線」を展開しようとか考える。そうして、それなりに、この講義を取ってよかったなというものを作ってきました。  立派である。ところが、その彼が、ぼくの授業だけは、履修要覧や教科書からは「見えない」「読み切れない」というのである。  ぼくは、いつも、授業のシラバスを、大学当局から与えられた字数制限いっぱいに書いて提出している(内容はともかく)。ボリュームばかり多くてひんしゅくものではないかと不安を感じるぐらいだ。授業スケジュールなどは、一字も余らせないなどのノイローゼ的なまでの記述をしている。ただ、この大学の場合は、許された字数が非常に少ないので、この学生がほかで指摘しているように、よくわからない代物になっているとも考えられる。これについては、次年度から、もっと詳しいシラバスを、初回の授業に別途配るようにした。  それにしても、このペーパーの主張は、その程度のことでは本質的には解決しえない深い問題を提起している。この学生のように主体的に自己決定をした場合であっても、「学びたいから学ぶ」という自己管理型学習がうまくいかないことがあるということを示しているのだ。それは、書き言葉メディアとは異なる話し言葉メディアとしての授業(ぼくは、mito的授業がそれをねらったものであることを公言している)の特殊性の表れであるともいえよう。教師への無条件的信用をしない、この学生に代表される「正しい学習態度」の主体的学習者にとっては、かえってその学習結果が恐ろしくて、「話し言葉メディア」としての授業には踏み込みずらいということになる。とくに体験学習の場合は、よく吟味したうえで「よし、参加しよう」と自己決定した場合であっても、「出なければよかった」と後悔することが多々あるだろうからである。この学生のいうような「中途半端な楽しさが、すぐに空しさに変わってしまう」などという事態は、日常茶飯事でさえある。「結果が恐ろしい」どころか、「恐ろしい結果」(空しさの逆襲)をすでに何回か味わっているのである。  しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。この学生はつぎのように書いている。「性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからない」、「グループのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲームをやるときのメンバーがいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲームを『こなす』という感じで終わってしまう」。その気持ちはよくわかるが、現代社会の山アラシジレンマに立ち向かうためには、その空しさはあえて受け入れなければならないのではないか。祭りのあとの空しさというではないか。祭りを楽しんだとしたなら、祭りが終わったあとは、その空しさをじっと受けとめなければならない。それが祭りの定めであり、人間関係の宿命なのだ。そこから逃避しようとして「いつも同じメンバー」に固執したとしても、そういうピアコンセプトで感じるだろう空しさは、これと同質、または、それ以上のものかもしれない。  それゆえ、社会教育の援助者に求められるコミュニケーションや組織化援助のための資質・能力についても、今後重要になるのは、特定の住民とべったりつきあったり、「教祖様」になったりすることなく、ときには、情報提供や一過性の学習者へのサービスなどのちょっと間をおいた援助、あるいは間接的な援助をしなやかに行えることである。そういう仕事の仕方では、従来の社会教育の直接的援助や「指導」の魅力に固執する援助者の目には、まさに虚業(空しい仕事)に映り、不満を感じるかもしれない。だが、こういう虚業に近い仕事を「自分(の気づきや出会い)のためにやっています」とさわやかに言える発想の転換がこれからの援助職員に求められるのである。そのためには、人間関係のための洗練されたセンスが必要になる。  しかしそのうえで、自己管理型学習、とりわけ自己管理型体験学習には、空しさの予感と恐怖に耐える力が学習者にも求められているといえるのではないか。だから、このペーパーの学生のような、かなりの自己管理ができている学習者に限っては、ぼくは「潔い撤退」への肯定的態度を変えてみたい。「いや、だまされたつもりでもいいから、とにかく出てみたらどうだろうか」といおうと思うのである。そういう自己管理型の人にとっては、他の「自己管理ができている」ほかの授業への出席や宿題をさぼってでも、mito的授業のような自己管理のしずらい授業に出席することのほうが、自己成長にとって有益だと考えられる。そうしないと、せっかくの彼の自己管理型学習は、書き言葉メディアを中心とする自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組を変化させる本来の意味での学習、つまり革新型学習につながらなくなる恐れがあるのだ。ちょっと余計なお世話かもしれないが……。もちろん、ぼくが出席を勧めることになったとしても、「学生が自己決定して参加する」という原則はつねに貫かれなければならないと思う。ぼくは「出席しないと単位を出さない」などの強制につながる行為をする気にはとうていなれない。  たしかに学習の究極の姿は独学だろうし、活字からだと思う。しかし、ではなぜソクラテス(p81)以来、話し言葉メディアの対話(授業)が、書き言葉とは別に存在してきたのか。それは、すぐれた対話には、自己管理を超えた学びがあるからだろう。書き言葉メディアは拾い読みができるがゆえに、学習者の認知構造や構えの強化、自動化という逆機能をもつのに対して、よい授業は、学習者に絶え間なく「ゆさぶり発問」(p20)を与え続けることができるのである。  そこで、つぎに、同日に提出されたほかの人のペーパーを、もうひとつ紹介しておく。ここには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表されている。  (前回の授業で行なった、グループで無言でパズルを解くゲームについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲームでは、カードを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャーしたりしてはならないということだったけれども、たかがカードの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。  奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲームを始める前、このゲームでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグループになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。  7月ぐらいまでは、ゲームに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥をかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。  この前のパズルゲームのときと、その前のゲームのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。  エンカウンターグループは、日常の人間関係とは離れた文化的孤島で行われなければならない。だからこそ安心して本音をいったり、自己開示したりできる。奇数日の授業もこれに似て、「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけ」、「この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうのだから、恥をかいてもいいや」という積極的な意味があるのだろう。また、引っ込み思案の克服方法のポイントのひとつは、結果を恐れるな(自他への不信から結果を先回りして勝手に決めつけるな)である。この言葉も参考になると思う。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 研修の目的 研修には@知識習得、A技能向上、B態度変容の3つの目的がある。講師は目的を絞り、意図的、意識的に研修を進める必要がある。現在の生涯学習指導者のための研修のうち、とくに欠けているのはBの態度変容目的の研修であろう。アダルト・ティーチング(成人教育)の指導者であろうとする者は、無知と非力を自覚し、かつ受容するための態度変容の学習が必要不可欠である。 体験学習 野外活動、グループ活動、社会参加、勤労体験、困難克服の活動など、自然、人間、社会と出会う自らの体験をとおして学習すること。「出会いと気づき」とも言い換えられよう。そもそも、教育されたい人、指導されたい人はいるのか。この教育への根底的疑義に対する答は体験学習にあるだろう。山を見てきのうまでの自分と変わるというような偶発的学習を含めて、みずからの感動、納得を伴う学習こそ誰もが望む「ワンダーランドとしての生涯学習」であり、その促進のために教育や指導者が存在するといえる。講義型学習も同様でありたい。 準拠枠組 英語でframe of referenceという。さまざまな考えや複雑な感情をとらえる場合の、その人の認識、評価、判断の枠組。互いの準拠枠組の理解や共有から相互理解が可能になる。他者を理解するということは、出会いと気づきをとおして、その人の準拠枠組ごと、共感的に理解することである。 共感的理解 ロジャーズは、そのカウンセリング理論において、カウンセラーが患者に対して共感的理解をどこまでできるかを中心の一つにおいた。共感(シンパシー)とは、相手の言葉等を、その背後にある相手の準拠枠組ごと理解することである。それは「あたかも」相手と同じように感じることであって、自分の今までの枠組と「事実、同じだ」というときの同感とはまったく異なる。指導者は薬物依存の青年に対して、自分までいっしょに薬物を試みることによって彼に同感しようとする必要はないが、意識的な傾聴などによって共感的に理解しようと努力する必要がある。これによって、指導者自身の準拠枠組も相手とともに拡大、変化することになる。これが自己拡大であり、教育の根底的な目的でもある。すなわち、共感的理解のための意識的な努力によって、指導者も共に育つ(共育)のである。 エンカウンター 遭遇。仮面や演技ではない出会いを意味する。そこには異なる枠組や価値観をもつ他者との出会いがある。自己疎外、人間疎外の現代社会においては、そういう出会いを意図的・意識的に創り出し、回復しようとする動きが見られる。これがエンカウンターグループである。そこでは、組織の奴隷としての時空間から離れた一時的な「文化的孤島」(1週間の合宿など)をメンバーの同意にもとづいて人口的に設定し、本音で出会うための構成的または非構成的なプログラムが提供される。しかし、自己決定の生涯学習、ボランティア、地域・市民活動においては、文化的孤島をことさら人口的に設定しなくても、メンバー同士のエンカウンターが期待できる。また、そういう自己決定のサンマの指導者には、毒にも薬にもならない仮面の社交辞令で無難にこなす技術よりも、共感的理解の努力のもとにエンカウンターする態度と意識が求められる。 価値観ゲーム ネットワークの担い手になるためには、他者が異なる多様な価値観をもっていることに気づき、認め、さらには面白がる態度が必要である。坂口順治は『実践・教育訓練ゲーム』(日本生産性本部)でつぎのような価値観ゲームを紹介している。@価値の序列づくり=健康、愛、富、奉仕、自己実現、正義。A一対比較法=地位、時間、収入、評価、保障、人間関係、仕事。B同(結婚相手)=容姿、人柄、資産、愛情、将来性、健康、経歴。一対比較法とは、すべての組み合わせを一対一で比較して集計して順序づける手法である。Bで短大女子のほとんどが容姿を最下位(第7位)としたので意外だったが、まれに上位とする女性もおり、その理由を聞くと実際にはうなずいてしまう。どちらにも共感はできるのである。このように異なる価値観を相互受容する体験によって共生能力が培われる。 5 自己受容による自己変容  母親が「あなたはだめな子ねえ。もっとしっかりしなさい」と子どもに言ったとする。子どもはそれを機にしっかりするようになる努力をするだろうか。つまり、自己変容するだろうか。どうも無理なような気がする。なぜだろうか。それでは、自己変容はどうしたら可能になるのか。変容を促す指導のコツはあるのか。  ぼくは、今まで、枠組自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組を変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。その(認知説に?)偏った考え方には変わりがない。急速に発展・変化する生涯学習社会において、枠組を変えないまま、固定化した枠組のなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと考えるからだ。  しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、ぼくのこの学習論への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。ぼくにとっては、それが逆に不思議だった。そこで、ぼくは「じゃあ、ぼくは自分を変えたいのか」と自問自答してみた。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。どちらかというと妙に落ち着かない嫌な気持ちだ。  もともと、ぼく自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での「学習をしたい」と同義)というとき、楽しいわくわくするイメージとして「変えたい」という語を使っていた。ぼうっと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人とたまたま出会ったとき、その人の枠組のよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときに自己充実感を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「変わっていくのって面白い」という程度の軽い気持ちなのだ。例の「どこまでも知りたい」(練馬区生涯学習推進構想、p34)という生涯学習の原始的欲求の一種と考えてもよい。ただし、例にあげたのは偶発的学習だが……。  ところが、ちょっとマイナーな気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみた。すると、とてもみじめな感じになることに気づいたのだ。それはそうだろう。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを制度的権威の側(この場合は教師)から「自分自身を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうがむしろ健康的である。  「自分を変えたい」という欲求は、じつは、つぎの2つに分類できるのだろう。 図表7 受容と変容の生涯学習 欲求の種類 欲求の動機 T 自己否定としての変身欲求 今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。 U 自己受容による変容欲求 今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。  ぼくが今まで提唱し続けてきた「枠組自体を変化させる生涯学習」というのは、当然、Uということになる。最近の臨床心理関係者の嗜僻などの話を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラーが、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ってと、自分を大切にとの2つをいうことは意味があると思う」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたはぼくの胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。ぼくの言葉で言い直せば、自己客観視と自分のために生きることの大切さの2ついうことになろうか。Tだけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組のまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍を引き起こした自らの生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容に有効に結びつくのである。  このことから、「自己の枠組自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。よくやってきた。でも、わくわくすること(ワンダーランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということである。交流分析では「I am OK, You are OK」を理想的な基本的構えとしているが、それは、このことを表しているのだろう。そのための援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「まだまだこんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 自己受容 自分をあるがままに受け入れること。その特徴は、@欠点や弱点もあることを認めてのうえであること、A人より優れているという比較の意識ではないこと、Bそれでも、なお、自分自身に対して積極的な肯定的関心をもっていること、の3つであるとぼくは考える。つまり「今の自分が好き」という状態である。自己受容から他者受容が始まり、そういう指導者のもとで、学習者自身も肩の荷をおろして安心して自己受容に向かうことができる。 自己一致 自分があるがままの自分でいられること。自信のある状態。現代社会では、家庭教育、学校教育などの影響などにより、「こうあらねばならぬ」という不合理な「信念」(<論理療法)が、現実の自己と理想の自己との乖離を生む。平木典子は『カウンセリングの話』(朝日選書)でつぎのように述べている。「自己一致とは、理想と現実の自己が一致することではなく、一致していないことをありのまま認め、受け入れることであろう」。たとえば、講義が退屈な場合、なるべく興味がもてるように主体的に聴こうとする努力はするが(現実を理想に近づける)、あくびがしたければ無理に噛み殺すこともしない(退屈したという現実のとおりにいる)ということなのだろう。ただし、壇上から「生涯にわたって学ぶべし」という「指導者」の言葉はさぼりたい自他の心を受容できていない空虚な言葉だ。 交流分析 英語でtransactional analysys=TAという。1950年後半、アメリカのバーンが開発し、1970年代から日本に広がった。その理論は5つの基本概念で構成される。@ストローク、A自我状態(3つの私)、B交流パターン、Cゲーム、D人生脚本。Dでは、幼児期に親から与えられたメッセージをきっかけとして、その後の対人関係によって強化され、「してはならぬ」「ねばならぬ」という禁止令に縛られて、あるテーマを繰り返して生きるようになるという。これを「自動化」と表現することができる。交流分析は、その解釈にとどまらず、人生脚本を理想的な基本的構えをめざして意識的、建設的に書き換えようとする実践的な学問である。 基本的構え 交流分析の理想的な基本的構えとは、「私はOK、他人もOK」である。これは、自他への基本的信頼にもとづいた人生態度である。しかし、上下同質競争の現代社会において、そういう構えが自然に身につくとは考えられない。そこで、交流分析では、そうでない自分に気づき、意識的に取り組むことを大切にする。同様の意味で、「気づいたときから始められる生涯学習」の意義がそこにある。生涯学習などの自己決定のサンマは、各人の理想的な基本的構えの獲得の場にもなりうるのだ。 図表8 交流分析=人間の3つの心   マイナスに働くとき プラスに働くとき    非難・叱責  きまりや約束を守る    偏見 CP  文化・伝統を重視    威圧的    理想の追求 P    過保護・過干渉  思いやり・愛情    おせっかい NP  支持的    えこひいき  養育的    打算的  冷静・沈着    人間味に欠ける A  情報の収集    数字優先  合理的・客観的    自己中心的  天真らんまん    わがまま FC  好奇心・積極性    衝動的・本能的  創造性・直感力 C    主体性がない  協調性    消極的 AC  素直    ひねくれる  我慢強い  福間笙子「望ましい人間関係をもつために」より         (ガールスカウト日本連盟『リーダーの友』1993.12)  [CP]    [NP]    [A]     [FC]     [AC]  クリティカル ナーサリー アダルト フリー アダプティッド   ペアレント  ペアレント  チャイルド  チャイルド  批判的な親心  保護的な親心  大人の理性   自由な子ども心  適応する子ども心  がんこ親父   マリアさま   コンピュータ  自由人      いい子ちゃん 注1 最下段は、それぞれの特徴を誇張してmitoが呼んだ言葉である。 注2 CPをFP(父性的)、NPをMP(母性的)ともいうが、最近はあまりにも実態がかけ離れているためか、FPやMPが使わているのをあまり見たことがない。 注3 ここでのACは、最近話題のAC(アダルトチュルドレン)とは異なる。 (『こころ』p222参照) 6 自罰と他罰のデリケート  若者や学生を見ていると、いろいろに傷つき悩みながらも、そういう自分の「デリケートさ」をいつまでも大切にしたいと思う人が増えているように思う。これも「自分らしさを大切にしたい」という流れなのか。だが、自己と他者・社会との関係に気づかずにムカツクようになると、それは滑稽だし社会の迷惑にもなる。  このところ、この授業に出るのが嫌になって、あまり出ていませんでした。それは、授業のなかでもふれられていたように、授業のなかで出てきたことに突きつけられて、これまでの自分のまちがっていることを認めるのが嫌だったからだと思います。そこへきて、自分の自罰的傾向(「ちゃんと現実を見すえなくてはいけない」「逃げてはいけない」)や自信のなさ(「自分にはこの授業を受けるだけの包容力や人間性が欠けているのではないか」「他の受講者が自己変容しているあいだに、自分は低いところで堂々めぐりをしているのではないか」)があるものだから、事態は深刻だったといえましょう。  しかし、今日、ある意味ではたまたま、この授業に出て、本当によかったと思います。もともと自分は、社会教育主事資格ほしさとはいえ、好きで(=主体的に?)この授業をとったのでした。そうならば、そういう自分を受容して、そして自分を変えていけばよい(どこまで変われるかは別として)わけです。だから、今後は、もっと積極的に出席して、自己変容や自己管理につなげていければと思います。自罰しすぎないように、自分に自信をもてるように(しかし、肩で風を切ったりうぬぼれたりしない程度に)していければと思います。  この学生のようなデリケートさ(本人は自罰傾向と分析しているが)は、本人の個の深みのひとつであり、そういうデリケートさが欠けていると自覚するぼくは尊敬する。彼は人生を真剣に生きている、あるいは、自己評価や自己への要求の水準が高いと思うのである。そんなぼくがかれらに何かいえるとしたら、つぎのようなことである。「批判は歓迎せよ、否定は受け流せ」。  ここでは、それよりも、最近ぼくが気になっているもうひとつのデリケートの傾向について述べておきたい。それは、自罰傾向のデリケートに鮮やかに対比される他罰傾向のデリケートである。たとえば、恋愛問題にしても、相手が自分だけを愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないというのである。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際しようとしている。だが、そこまではまだいいのだ。見方によっては、そういう生き方も本人がそれで納得して生きているならたくましくていいじゃないかとも思う。別に他人であるぼくが気にかける必要はない。ところが、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。自分自身については甘やかしておきながら、相手は罰している。現代社会において、幸福追求の援助者として教育が存在しようとするのならば、こういう場合はどう対処すればよいのか。これは、すなわち、他罰のデリケートに対する援助のあり方の問題である。  授業中の私語の問題は、今や当たり前すぎて陳腐な話題だとぼくは思っている。授業中の感動の私語はむしろ歓迎し、これを積極的に授業に組み込むこと(「つぶやきの組織化」、その象徴的な表れは「ちょっと待った方式」)、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は双方の自由を保障するために、おしゃべりをするための中途退室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、おしゃべりをやめさせるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。先日、50人くらいが受講する授業で、男性2人だけが小声でひそひそしゃべっていて気になってしかたがないことがあったが、しばらく我慢しているとその人たちは荷物を置いたまま自発的に退室してくれた。そして、あとで戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。  しかし、そううまくはいかない場合も多い。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば、その授業とは無縁の余計な私語はそういうほかの学生に迷惑をかける結果になることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ(ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の学生は、その人の学習の自由を保障するために、退室しないままの余計な私語を禁欲せよ」という考え方である。念のため)。人間は何か迷惑行動を起こすときでも、自分の心のなかではなんらかの形でその行為を「正当化」しているはずだ。私語学生はどのように退室しないままの自らの私語を正当化しているのだろうか。  ここに、「他罰のデリケート」のロジック(論理)またはレトリック(詭弁)が適用されているのではないか。「ほかの人は、私みたいな(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな嫌な授業をまじめに聴いていられるのさ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、内面で他者を罰して責めることによって、他者に迷惑をかけている自分を許しているのではないか。つまり、自分が傷つくことばかりに対してデリケートだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向、すなわちピアコンセプト(仲間意識)の表れにすぎないのだが、それを、「おしゃべり仲間をちゃんと大切にしている自分」「友達からのおしゃべりを聞いてあげている自分」として逆に正当化してしまっている。この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピアが介在していて、個の発現を抑圧しているのは社会そのものではなく、じつはピアコンセプトであり、すなわち、その人自身の内なる認識なのである。  電車のなかで迷惑行動をしている人の顔つきを見ても、かれらはけっして楽しそうな顔をしていない。股を大きく開いて3人分ぐらいの席を占有している人も、「3人分の着席の幸せ」を奪っているのに幸せそうではなく、むしろ辛そうな疲れた表情をしている。社会や他者に対して、何か不愉快なことがあるのだろう。これをぼくは「加害者の被害者ヅラ」と呼んでいる。そういう例は、いやというほど身の回りで見かける。だが、よく考えてみれば、そういう加害者たちが幸せになれるのだったら、本当の被害者たちにとっては報われないし、たまったものではない。水平なネットワーク社会(ぼくはそれを学歴社会に対する生涯学習社会だと考えている)における「してあげる、してもらう」のストローク交流の関係しか、自分自身も幸せになれる方法はないのだという嬉しい確認ができたと考えればよいのだ。  ただ、そうはいっても、援助者としての社会的役割の遂行が期待されている人は、そういう「他罰のデリケート」の人たちの自己変容に対する援助のあり方を考えなければならないだろう。そこで、つぎの図表9のようにデリケートの種類を分類して整理してみた。図表では、上のどちらでもない「個の深み」そのものともいうべきデリケートを入れてある。知的水平空間や出席ペーパーの世界においては、実際には、このVが多い。しかし、TやUにも深いものがある。 図表9 3とおりの「デリケート」 種類 不安のきっかけ 基本的な悩み T 自罰的デリケート 相手を傷つけたかも? 相手を愛していない? U 他罰的デリケート 相手に傷つけられた! 相手から愛されていない? V 個の深みのデリケート 人間や宇宙は有限である 存在や愛の確証はない  もちろん、確信犯的な迷惑行動と、私語程度の何気ない迷惑行動とを同一に論ずることには危険性がある。が、ここでは、程度の差はあれ、すべての人が、「自罰・他罰」「デリケート・たくましさ」「大・小」のどちらの要素ももっているという前提で論を進めたい。実際、自罰のデリケートの行き着く先が他罰であるということは、よくある話である。すなわち、「自分はこれだけ真剣に自分について悩んでいるのに比べ、悩んでいない人はなんて鈍感で無責任な人なんだろう」という思考様式に陥りがちなのである。  さて、ここで問題にしたいのは、Uである。社会的に客観視した場合は論ずるまでもなく「不当な態度」として処理すればよいのだろうが、その人は主観的には「本当に悩んでいる」。すなわち「問題があることを自覚している」のである。学習が問題の自己解決の行為(問題解決型学習)の一環だとして、教育はそのための援助だとすると、本人が主観的には問題をかかえているということ自体は、援助の唯一の拠り所として非常に重要なポイントになりうる。  ぼくは「淋しがり屋のタカビー」という言葉をつくった。タカビーとは高飛車な人という意味の流行語である。自分の都合にあわせて相手を生きさせようとしたり、支配したりすることが多い迷惑な人のことだ。当然、愛されないから淋しくなり、ますますタカビーになる。このようにしてタカビーと淋しがり屋の素質は、悪循環を繰り返して強化、自動化される。しかし、そうい人たちが淋しいという気持ちを感じていることは、指導者にとっては援助の強力な手掛かりである。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 問題解決学習 学校教育でも、子どもたちの関心・意欲・態度(<「新しい学力観」)を養う観点から、主体的な問題意識をもち、解決に向かうプロセスを重視する問題解決学習が取り組まれつつある。これに対して、大人の学習はそもそもが問題解決型である。だが、学習が問題意識を失ったまま目的化し始めると、学習していること自体が麻薬のような役割を果たすことになる。これを学習中毒と呼べるだろう。その学習は自由だが、公的社会教育が優先して支援すべきものでもないことは確かだろう。 7 指導者としての責任のもち方  いじめや不登校が問題になる今日、教師に対してもカウンセリングマインドが要請されるようになってきた。たしかにそれが重視する共感的理解は、指導者にとっては必要不可欠と思われる。しかし、共感なんかしたくないという人や、「共感できない」という実感をもつ人もいる。そういう人はどうすればよいのか。  授業中に共感的に理解することをねらいとして、登校拒否(不登校)や拒食症(摂食障害)のビデオを視聴しても、なおかつ、一部の学生から「かれらは甘えている」、「共感できない」というペーパーが出されるmito的授業の実情について、「援助者としては不適応症状の人を共感的に理解してあげなければいけないのではないか」、それなのに「十分に症状を理解できるだけの情報を与えないまま、VTRで不十分な情報を流して、共感的理解ができない結果を生み出すのは、教師として無責任ではないか」とぼくに鋭く抗議するペーパーがあったのだ(「非公開希望」だったので全文の紹介はできない)。  まず、言明しておかなければならないことは、ぼくの勉強不足におおもとの原因があることである。ただし、ぼくの教師=学習援助者としてのスタンスは、「与えられた学習課題に関連して、ぼくが、いま、もっとも関心をもっていることを伝える」ということだ。そこさえ責任をもって役割遂行すれば、あとは学習者がそれをどう受け取って取捨選択するかについてはぼくの援助者としての責任の範疇ではないと考えている。毒を飲むか、薬とするか(p108)は学習者の自己責任でないか。たとえ、学習者側のなかに、その問題に関してぼくよりすぐれた知識・見識をもっている人がいても、ぼくは平気でそのテーマについて「教授」するだろう(p80)。あとは、ぼくが、批判を受けて立つ、指摘を受け入れるという覚悟さえ決めておけばよい。  しかし、それにしても、一部の学生の「かれらは甘えている」という発言は、たしかに他罰的な傾向を秘めていると思われる。そこで、このことについて考えてみることにする。  第1に、「(不適応の人たちは)甘えている」という判断は、他罰的ながらも「1%の真実」を表している。「甘えている」と書いた学生たちはただ単純に「甘えている」と書いているのではない。かれらがこれまでのみずからの人生を生きていくなかで、@社会やひとに甘えてはいけない、それが自立だ、A家族やまわりのひとが自分にしてくれたことに感謝したい、あるいはそういうひとたちの期待に沿いたい、Bいやなことでも頑張ってやっていかなくてはこの世ではうまく生きていけない、などの価値観を身につけ、自分とは異なる不適応のひとたちを「甘えている」と判断すること(他罰)を選択することによって、今までそういうふうにがんばってきた自分の生き方を否定しないですまそうとしているのである。  つまり、社会的不適応を起こして「本当の自分を大切にする」というだれにとってもそれなりに「魅力的な生き方」の、その魅力に打ち勝つためには、不適応行動を「甘えている」といって切り捨てることを選ぶしかないのである。不適応が現代社会における自己保存のぎりぎりの選択行為だとすれば、そういうひとたちを「甘えている」と切り捨てることも、現代社会においてはそれなりに自己保存のためのぎりぎりの選択行為なのである。その証拠に、かれらは不適応に対して共感「できない」、共感「したくない」と書いてくる。価値中立的に共感「しない」とは書いてこないのである。他者を共感的に理解したいという要求は潜在的にはだれにでもあるのではないか。ただ、それと自己保存本能(ホメオスタシス)とが、現代上下同質競争社会の疎外状況のなかでは不可避的に対立してしまうのである。  このように考えると、不適応を「甘えている」といって切り捨てて現代を生きていこうとする戦術は、だれにとっても、まったく意味のないこととはいえないだろう。同時代の他の99%のそれぞれのひとが少なくとも1%ぐらいずつは共感できる「1%の真実」を表した生き方のひとつなのではないか。問題は、シロかクロかではなく、シロ何%かクロ何%かなのであり、出席ペーパーの場合は、もっと根本的には、シロまたはクロの深みをどれだけ表しているかなのである。  第2に言いたいことは、援助者側(教師)は、「他者を共感的に理解できるようになることが、どれだけすてきなことなのか」ということを、その方法論とともに提案する責任はあると思うが、自分にできる範囲で一生懸命にそれを提案した結果、学習者側がそれを受け入れなかったとしても、そこには何の問題もないということである。ひとそれぞれなのである。教育意図を学習者に提示し、その目標に沿って授業を進めても、なおかつ、相手が自分の思うように変化してくれなくても、それはそれでよいのだ。援助者側にも学習者側にも問題はない。援助者側が「学習者を変えられない」という問題に執着するとすれば、それは相手の人生をしょいこもうとする「熱血先生」の傲慢さとさえいえるのではないか。  ぼくは、共生の要素を@共有(価値や文化の共通点を探ったり創ったりすること)とA共存(価値や文化の異なりを受容しあうこと)の2つだと考えている。共感は、この場合の@に当たり、「相手の人生をしょいこまない態度」は、この場合のAに当たるのである。  共に生きること(共生)とは、ひとつには共感などによって何かを共有することであり、もうひとつはたがいに異なる文化や価値観の存在を認め合うことである。ヒエラルキーの関係においては、ピアコンセプトとセクショナリズムがマイナスに働くため、共有と共存の2つの関係が相互排他的に進められて最後には必ず分裂して破綻することになる。これに対して、ネットワークにおいては、異なりが障害にならずに歓迎されるわけだから、この共有と共存とは最初から一連のものとして統合的に進められるのである。また「折り合いをつける潜在的能力」ものびのびと発揮(外在化)されるだろう。  この世のだれも宇宙の全体像を把握していないのだ。しかし、それでも人間は生きている。生きているから真実を知りたいと思う。真実に接近するためには、十人十色、百人百様のたくさんの答を安心して行き交わすことのできる支持的風土を必要としている。さらに、その風土のうえでも「あなたはあなた、私は私」というネットワークなりの事実は厳然と存在する。しかし、その事実を肯定的に受け入れたうえでさわやかに必要な依存ができることこそ自立の姿であるし、それが異なる自立した価値どうしの交流を可能にし、共生社会創造の基盤をつくりだすのである。信頼と共感にもとづく人間のネットワークの本質的なあり方はここにあるといえよう。だから、ネットワークのつくり方をひとことでまとめるとするならば、「いばるな、へつらうな、そして、同質の仲間を求めるのではなく異質の他者を歓迎せよ」ということになるだろうか。  ただし、これは原則論であって、ぼくの場合は、その学生の指摘するとおり、教材研究をもっとしっかりやっておけばさらによかったのではないかとは思う。つまり、それは、ぼくが自分にできる範囲にまでも到達していなかったということであり、その面では、十分には責任を果たしていなかったというべきである。このことについては自分もいま関心をもっているので、いっそう深く考えていきたい。  第3には、「(不適応について)共感的に理解しなければいけない」ということを最優先する立場は、ぼくはとっていないということである。ぼくは「共感的に理解できたらいいね」といっているのである。「共感しなければいけない」といわれたのでは、なんだかそれまでの自分が共感的理解能力に欠けた冷血人間としての烙印を押されたようで消極的ないやな気分しか残らないではないか。ぼくは「よりいっそう他者を共感的に理解できるような自分でありたい」というみずからの動機を自分のなかに探りながら、授業を進めているだけだ。だから、学生に対しても、一人ひとりのなかに「他者を共感的に理解したい」という顕在的・潜在的欲求が存在するであろうことを基本的には信頼して、その欲求に訴える授業を組み立てようとしている。もちろん、共感的理解能力の発達は、信頼・共感・自立の人間関係の創出やその援助のためには不可欠な要素だと思っているからである。「〜しなければならない」という押しつけではなく、「〜するほうがすてきだ」という提案を行うことこそ、ネットワーク型の知的水平空間における援助者としての個の発揮の有効な方法なのだと思う。  教師といえども、社会という幹に対する枝葉にすぎない。その枝葉が自己実現と社会的承認のために果たすべき責任とは、自分の考え方を押しつけたり、その結果、幹がそのとおりに変わってくれなかったからといって不平を言ったりすることではなく、自分の生きてきた範囲でできることを実際にどれだけ幹(この場合は学習者集団全体)に提言できたかを、たとえば「先週は授業で何回、どのように提言できたか」などと、なるべく客観的に自己評価することなのである。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ カウンセリングマインド カウンセリングは一つずつのケースから学ぶ臨床の学である。指導者も同様に、世界に一人だけの取り替え不能な学習者一人ひとりと向き合う。そこから、共感的理解による援助を中心とするカウンセリングの精神を学ぶことの重要性が生ずる。指導者はややもすると学習者集団というマス(かたまり)と向かい合っているような錯覚に陥りがちだが、マスのうちの一人にすぎない平面的な人間など、じつは一人も存在しない。個の確かな存在を嗅ぎ取るとき、さらには共感の瞬間が訪れるとき、指導者の仕事は俄然面白くなる。登校拒否と引きこもり 登校拒否の事例において、学校に行くべしという価値観を押しつけるのではなく、本人を信じて内面的成長を見守ることが大切という認識は幸いにも共通のものになりつつあるようだ。しかし、引きこもる若者たちのカウンセラー富田富士也は、彼らが同世代からの置き去り感、社会や親からの見捨てられ感のなか、就職もできないでいることを訴えている。これこそ「行っても行かなくてもどっちでもいい」ではなく、すべての若者が人間への基本的信頼感を取り戻して社会参加できるよう、社会が責任をもって方策を考えるべきことだ。 第3章 気づきと癒しのネットワーク心得  −自他否定と仮面演技の上下同質競争から、    基本的信頼と共感的理解の水平異質共生へ− 1 あんた世間なめてんじゃない?事件  現代社会には、信頼能力に欠けた、人の心を傷つけずには生きていけない悲しい人たちがスパイのように配置されている。どうしたらそういう人たちから自分の身と心を守れるのか。また、そういうスパイがうようよいる現代社会で水平な共生のネットワークをつくることは、可能なのか。それはどんな意味をもつのか。  アイデンティティの獲得のためには、自己の可能性を実現するとともに、他者が認知してくれることが必要だ(自己確立=自己実現+社会的承認)。だが、学歴偏重社会では、むしろたがいに競争相手として、傷つけあう者同士として、存在しあっているかのようである。つぎの事例も傷つける人、傷つけられる人の痛みを如実に表している。  高校を卒業して初めて行ったバイト先で、同じバイト先の大学生に、とてもひどいことを言われたんです。「進学するの?」って聞かれたので、「音大に行く」って答えたら、「音大に行って何するの? アイドル歌手にでもなるの?」って言われました。ムッとしたけど「教師になりたいの」と答えました。そうしたら、その人は「あんた世間なめてんじゃない?」って言ったんです。  きっとその人は、音大という所は遊んでいても卒業できると思っているんでしょう。それで私が教師になりたいなんていったから、そういうことをいったんでしょうね。でも、私は、小学校からの夢をそんなふうにいわれて、とてもくやしかったし、悲しくて涙が出そうになりました。この人の他にも、やっぱり、「音大に何しに行くの? アイドル歌手になるの?」って言われます、ちょっとバカにしたみたいに。  一生懸命頑張って入った学校なのに、なんかそういうふうにしか言われないなんて淋しいです。だけど、人は音大がどういう所か知らないから仕方がないですよね。人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば、それでいいと思います。  そのバイト先の大学生のように、相手に言えないはずのことを言う人が、世界中にスパイ(または暗殺者)のように配置されている。さわやかでない、攻撃的な自己主張しかできないタイプの人である。「私は(世間がつらい)」と主張できずに、「あなたは(世間をなめている)」と相手の人格を見抜いたふりのようなことしかできないのである。そういうスパイみたいな人のつらさを共感的に理解して受容できるような超人的なレベルに到達するまでは、なるべくそういう人の感情には巻き込まれないようにしたほうがよい。  ぼくがなぜそういう人たちをスパイ呼ばわりするかというと、映画のスパイのように世界に配置されていて、逃げてくる人を待ち受けているからである。スパイから逃げ切ることは考えても無駄である。日本がいやだからといってアフリカに逃げても、そこにもやはりそういう人が待ち伏せしている。だから、スパイから逃げ切ることではなく、スパイから自己防衛する方法を考えるしかないのである。  もう一方で、「人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば」という願望を自分一人で実現することも、人間にとっては残念ながら困難である。人間は自己実現だけでなく社会的承認も得て、初めて自己を確立できるからである。そのためには、音楽を志す自分の生き方を支持してくれる他者、「ああ、この人が生きてくれていてよかった」といえる人を見つける必要がある。  ネットワークにとっては個が重要である。しかし、その個は他者と関わることによってより深まる。上の事例のように傷つけあい、非生産的構えを身につけつつある個人にとっても、同様である。  そこでの癒しのポイントは共感である。共感はシンパシーというが、同感とは異なる。異なる枠組をもつ他者と心を響かせあう。共感は感動に、そして学習につながる。他者と出会い、同質化することなく自己の枠組を変容させる。そのことによって、自他両方への基本的信頼感が高まり、ほんとうの自立が可能になる。異質が水平に交流するネットワークには、こういう共感のチャンスがみちあふれている。  ただし、一方では、「あなたはあなた、私は私、出会わなくても仕方ない」(p72)という真実の一面からも逃げられない。先のデリケート問題(p54)で、ある学生が「ある意味ではデリケートになりたくない。傷ついたり、傷つけたりせずにすむなら、それがいい。デリケートな部分は、詩や小説でも書くところで使えばいいんでしょう」と書いてきた。相互理解不能の出会いなど、よくあることだ。そういうときは、このような諦観があってこそ、実現可能なものへの自然な流転、あるいは芸術表現活動などのより高いレベルへの昇華もある。 2 見返りを押しつけるな、見返りが期待できる行為をせよ  恋の告白ができないという相談を友達から受けたときなど、私たちは、「見返りを求めずに!」などとアドバイスして相手を勇気づけたつもりになっている。でも、自分自身は今までどうだったのか。告白などのときの、自分の行為に見返りがほしいという気持ちは、はたして本当にいけないことなのだろうか。  気をつかうということは、今の自分に無理をしている状態で、気がきく人とは、つねにいいことをしてあげようとしていて、人に与えることができる人なんですね。今、私は彼に与えることをしていないような気がします。でも、自分がこの人に何かをしてあげるんだ、なんて思ってしまうと、なんだか見返りを求めてしまいそうです。よくわからない文章になってしまいましたが、コメントください。  ストロークの基本は、自分と相手を信頼することである。たとえば、このペーパーの言葉を使えば、「いいことをしてあげよう」としている今の自分の気持ちはけっして非常識ではないというように自分を信頼(自信)し、そういう自分の行動を相手は好意的に受け入れる力をもっているだろうというように相手を信頼(他信)することである。だから、相手のためにしてあげるある重大な行為について、受け入れてもらえるという自信や他信がまだもてないときに、「自分がこの人に何かをしてあげるんだ」と頑張って無理にその行為をしてしまうことはかえって危険だと思う。  まだ不安な場合は、相手に「どう?」と聞いてみればよいではないか。眉を動かすだけでもいい。聞いてみることも信頼にもとづくストロークのひとつなのである。あるいは、小さなプレゼントをたびたびあげるなどして、少しずつ信頼関係をつくりあげていく手もある。ディスコミュニケーションの現代社会においては、「気がきく」というのは、自分勝手に判断することではなく、相手に聞けることである。信頼関係ができるということは最初からあることではなく、少しずつつくりだせることである。  さて、「見返り」についてであるが、以上の趣旨から、「見返りを期待しない一方的な好意と行為」こそが、コミュニケーションのない自分勝手な思い込みに陥る危険性をもっているということが理解されよう。ここで見返りとは、打算的、実利主義的なものとは違い、もっと精神的で微妙な見返りである。これは、最近、ボランティア活動の魅力についてもそういわれているところである。しかし、もう一方で、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない、あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」(ゲシュタルトの祈り、p72)という人間関係の真実がある。@「自分のために自分の人生を生きている」といえること、A自分の期待を相手に押しつけないことの両方が必要なのである。そこで、ぼくは、このようにまとめておきたい。「見返りの期待を相手に押しつけることはできない。しかし、好意をもつ相手からの見返りが期待できるような行為を自らがすることは、自己決定によってできることである」。過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられるのである(<交流分析)。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 学習交換 英語でlearning exchange、学習ネットワーク(learning network)とも呼ばれる。アメリカの成人教育の取り組み。三浦清一郎は『比較生涯教育』(全日本社会教育連合会)で、「特定の知識や技術を教えたい人とそれを学びたい人とを電話によってつなぐ仲介機能を果たしている」と紹介している。この「交換」の発想こそ、ネットワークのギブ・アンド・テイクを体現するものと考えられ、インターネット等の今後の情報・通信技術の進展も活かした生涯学習での活用が望まれる。 ストローク 交流分析の用語。「私はあなたの存在に気づいていますよ」と伝える行為。自分の時間を相手に与える愛の行為ともいえる。身体的(スキンシップ)、言語的(挨拶、励まし等)、非言語的(まなざし、うなずき、傾聴等)の3種、肯定的、否定的の2種、条件付、無条件の2種がある。ストロークなしでは生きていけないのは万人共通だが、その受け方、与え方にはそれぞれ特有の癖があるといわれる。また、「貧しいものはさらに貧しく、富めるものはますます富を増す」という言葉もあり、ストローク経済の法則と呼ばれる。ストロークは、上手な、あるいは悪い、ほめ方や叱り方にもつながるという意味からも、親や指導者にとって大切だが臨床的で難しい問題でもある。どんな種類のストロークがよいのかは一概にはいえないのである。「おまえなんかいなくたっていいんだ」(p14)などの無条件否定のストロークについては論外だが……。 アガペ 西欧において、性愛のエロスと対照の、精神的な愛を意味するキリスト教の言葉。アガペは、自己犠牲的な無私の愛である。問題は、学生などが見返りを期待しない行為へのあこがれというかたちで、このアガペ的な愛の姿を、宗教的な背景なしにやみくもにあがめているということである。しかも、実際生活においては、自分からよりも先に相手から与えられたいという、一方向かつ受け身の都合のよい主観的物語に埋没している。それはネットワークにおけるギブ・アンド・テイク、気持ちのよいストロークのやりとり(相補的交流という)、さわやかな依存(<mito)などの力を獲得するにあたっての内的阻害要因になっている。また、学ぶことやボランティアなどの活動が本質的に「自分のため」であることの理解をも阻んでいる。ぼくが交流分析という臨床の学を援用するのは、そういう埋没状況に対して自己客観視の機会を提供するためである。 3 「ましなろくでなし」であればよい  人間はすべて無知で非力だ。欠点や弱点も多い。残念ながら自分もそうだ。最初から明らかなもの(自明)などはない。そういうなかで、ネットワーカーとしてのプライドをどのように持つか。たとえば、自分は全然面白くないのに、少数の学習者が興味深く聴講している学習の場で、友と話したいときどうするか。  神経症もちなので先週のゲームはけっこう辛かった。偶数日だけ出席しようかと思う。講義を受けていても手は震えるし、思考力もものすごく鈍っている。きたない字ですが、本人はものすごくゆっくりていねいに書いているつもり。耳をとがらせてでもよく聴いて、いろんな情報を聞いたり考えたりしたいと思っています。本当は奇数日も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか。  ぼくは、この学生の真摯な人生と学習の態度に敬意の念を感じる。ぼくの授業では無理をしないようにしてもらいたいし、すでに学生には初回に公言してあるとおり、出席、入退室はすべて自由であり、ぼくにはきがねなく自己決定してほしい。  mito的授業、とくにこのゲームのような態度変容をねらいとする体験学習においては、つぎのような参加の仕方が考えられる。これらを、自分で選択して行動するということが大切である。@欠席する(授業より有意義なことをする、ボーッとしているなど。その時間の使い方を総括するレポートが翌週に提出されれば出席扱い)、A出席するけれど、出ていきたくなったら出ていく(出席扱い)、B参加したくなかったら、どいてしまって、授業を観察している(高みの見物)、C参加するけれど、発言したくないときはパスする(しゃべりたくないことはしゃべらない権利の行使)、Dバカになって参加する(非力の自覚と開示)、E批評的に参加しつつ、あとで批判する。最後のEは、体験学習においてはそれを体験してからの話である。そうでないと批判にならない。また、@からCまでの行動は、ネットワーク型社会において求められる「潔い撤退」にもつながる可能性がある。  ここで困るのは、撤退をしながら撤退仲間(ピア)とこの授業の無意味さを確認し合って満足している態度である。ぼくは、それをただのろくでなしの行為と呼んでいる。撤退は自由なのだが、残留者はその人なりに自分にとっての意味を見つけてこの授業に参加しているのである。残留者のことがどうしても気になるのなら、その残留者と率直に意見を闘わせればよいではないか。  以前、6月中旬という時期につぎのように書いてきた学生がいた。「私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのかわかりません。しかし、他の授業の様子(注・西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに『変に理解しあってしまう』という理由からぼくの授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです」。個人の事情で欠席していたことはかまわない。しかし、「真剣に」「興味深く」参加している他者について勝手に推測したりする権利にはつながらないはずだ。ぼくは、「この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて『真剣に』受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう」とコメントした。こういう学生の行為を、潔くない撤退、または、ただのろくでなしと呼ぶことができると思う。生涯学習やボランティア、地域・市民活動の団体においても、撤退したはずのメンバーや元リーダーのような人が、いつまでも「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみついて、現在の変化しつつある団体運営に干渉して団体の自主性と活力を損なっている例があるが、これなども「潔くない撤退」なのである。  「ただのろくでなし」には、もうひとつのタイプがある。途中退出が認められ、実際に何人かがそうしている状況のなかで、また、せっかく授業を聴くのを楽しみにしているのに私語がうるさくて聞きずらいという学生のペーパーを読み上げているのに、なおかつ、おしゃべりばかりしていて退出してくれない学生がいるのだ。あるいは、熱心に受講している学生を冷やかに笑っていてくれればよいのに、それさえもできない。これは、まわりの人への迷惑よりおしゃべり仲間との「つながり」を優先するピアコンセプトの表れであり、かといって、他の学生に迷惑をかけてでもそういう学生の学習から落ちこぼれたくないから退出しておしゃべりを続けることもできないという、非常に惨めで情けない破廉恥なピアコンセプトの表れなのだと考えられる。  このように考えると、「本当は奇数日(体験学習の日)も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか」という学生の言動との質の違いは明白である。すべての人間は、ピアコンセプト(仲間意識)などの自己の内面的要因や現代管理社会による外部からの抑圧などのなかで、他者の目におびえるがゆえに、潔く参加や撤退ができなくなる弱者としての存在である。すなわち、ろくでなしである。しかし、それは、「ましなろくでなし」なのであって、そこで葛藤して自己解決に向かっている姿は、「ただのろくでなし」とはずいぶん違うのだと思う。「ただのろくでなし」の存在は事実であってもくだらなすぎて小説のネタにもならないが、「ましなろくでなし」の葛藤は小説でも追求しているメインテーマなのであり、人間的真実そのものなのである。  私語の話はやめにしていただきたい。せっかく仕事を終えてメシも食わずに教室に駆け込んでくるのに、何回も私語の話などというクダラナイ話で時間を潰している。こんな話で時間を拘束されるのであれば、「これから20分、私語の話をしまーす」と宣言してほしい。その間、寝るなり、学食へ行くなり、有効に時間を使えるではないか。  ぼく流に、この学生の言いたいことを翻訳すれば、「ただのろくでなしのことなど、そもそも関心がない。そんなやつらのことなどほっておいて、もっと本質に迫る話をしろ」ということだと思う。主体的な学習者の態度として、これでよいと思う(こんな評価は、彼にとっては余計なお世話かもしれないが)。学習者は本質的に「自分のために学習する」のである。自分の学習のために無益であると思えば、彼のように教育側を批判することによって、この学生のように「メシも食わずに教室に駆け込んできた」自らの学習権を行使すべきである。なお、いずれにせよ、私語の話はmito的授業の初期のころにする話であり、中盤以降はほとんど話題にならないから安心してよい。  ぼくが私語の話をするのは、ひとつには、おしゃべりする学生の自由を認めたうえで(退出して廊下などでおしゃべりをしてよいことになっている)、自由を欲していて、しかもその自由を認められているのにおしゃべりしている自分こそが、他者の自由(学習したい者の学習権)を侵害しているのだという事実を知らせ、「相手が悪い(授業がつまらない)からそのせいでしゃべっているのではなく、おしゃべりしている自分がろくでなしなのだ」という真実に気づかせ、他者や社会のせいにできない状態に追い込むことによって、「ただのろくでなし」の状態でいる人に自由の恐怖を味あう機会を提供し、自由の行使の大切さを認識させるためである。  それでは、ほかの「ましなろくでなし」である人たちにとって、私語に関する話は無益であろうか。普通なら無益なのかもしれない。たった一度しかない人生を、つまらない人の生き方やつまらないことがらとつきあってわざわざ無駄にすることはないからである。しかし、この授業は教育学の一環なのである。現代人の主体性獲得への援助者、指導者としての力量を身につけるためには、この「ただのろくでなし」の問題を本質的にどうとらえ、どう対処すべきかということが重要になる。援助者にとって大切なのは、「ただのろくでなし」に対する否定ではなく、共感的理解である(ちなみにけっして同感したり同情したりする必要はない)。「ただの」か「ましな」かは違っても、同じ「ろくでなし」の部分を共有しているのだから、理屈のうえでは共感は可能なのである。とくに、自らの「個の深み」や主体性を発揮するときの阻害要因としてのピアコンセプトについては、「ましなろくでなし」の人にとっても思い当たる節が多いのではないだろうか。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ (ここではmito的授業について) mito的授業 双方向システムにより学生の主体的な学習態度を培おうとするぼくの授業を、自分で勝手にそう呼んでいる。双方向システムのしかけはいまのところ4つある。@出席ペーパー、Aシグナルカード、Bちょっと待った方式、Cパフォーマンスタイムである。Aは、学生が、退屈や反感を感じたらレッドカード(警告)、言葉が難しいなどの技術的問題があればイエローカード(教育的指導)を授業中に個人で掲げる権利を認めたもので、あまり意味のないグリーンカード(賛成・共感)を入れれば信号機(シグナル)の3色になる。カードを振れば指名され、意見も発表できる。Bでは、個人の判断でいつでも授業を止めて意見を述べる権利を与えている。これがときどきあるが、ほかの学生まで面白がったり、ぼくの話よりちょっと待ったをかけた学生側に共感したりして聞いている(漁夫の利<mito)。あまり発言が長くなって授業の進行にさしつかえる場合は、お願いして途中で手短かにまとめてもらえばよい。Cは、学生が教壇から受講者に意見の発表やサークルの宣伝などをしたいとき、授業の最初の何分間かを相談のうえで決めてその学生に与えるというものである。これらの双方向システムは、「教師には何をいっても聞いてもらえないから」といういつもの逃げ口上の道をふさぐことによって、自由の恐怖を味わい、学習権を使いこなす主体として成長するよう支援する意図をもっている。 4 枝葉としての幸福追求  −積極的積極と積極的消極の連動−  すでに、積極的積極や消極的積極の必要性と、これに対応する奴隷の覚悟の重要性は述べてある(p40)。しかし、できれば自己決定の積極的積極だけで生きていきたいと思うのが人情だ。ところがネットワーカーでさえ、そうもいかないときがある。そんなときはどうすればよいのか。さわやかな撤退のコツはあるのか。  授業で「積極的積極と積極的消極は連帯できるのではないか」と言ったところ、つぎのようなすばらしい勘違いのペーパーが提出された。  (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」と前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。mito先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定や潔さが持てるのだと思います。  ぼくが言ったのは、Tの人はUの人とではなく、Wの人と連帯できるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは自己の内部で連動関係にあるということである。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということなのだ。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人は「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がない。それよりも、「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会において、この学生のいうように撤退の権利をさわやかに行使する根拠になるということにこそ、この4パターン分類の意義がある。  この「潔い撤退」については、現実の人間関係においてはさらに複雑な様相を示すことになる。なぜなら、自己決定できるのは自分の行為についてであって、他者の行為についてまでは決定できないからである。それが「枝葉」としての個人が決定できることの限界である。ネットワークにおいて枝葉は他の枝葉に対してどのようにふるまえばよいのか。つぎの事例をとおして考えてみたい。  狛プー(5章参照)は木曜日に開かれる。木曜の夜が「狛プー曜日」だ。ところが最近ずっと出られなくなってしまったあるメンバーから、「自分の職場では木曜は恒常的に残業が続くことになってしまった。狛プーの曜日を、社会一般でいわれているノー残業デーの水曜などに変えてほしい」という提案が狛プーにされたのだ。狛プーは「1年に1回来ればメンバーだ」という方針でやっているから、いつでもだれでもふらっと参加できるように、なるべくなら数年間問題なく続いている今までどおりの木曜にやりたいという気持ちがほかのみんなにはあった。また、もちろん、残業を恒常化させる賃労働のあり方という社会の問題もあるし、狛プーお得意の「この指とまれ方式」の番外編で自分の都合のいいときに人を集めるという手もある。しかし、彼は本番の狛プーに出たいのだ。さあ、どう考えればよいか。  提案した彼は「自分でメンバー全員に電話アンケートをするので任せてほしい」という。これが枝葉にできることだ。みんなも賛成した。ただ、「その結果をみて、責任もって自分が曜日を決めるから任せてほしい」とも言った。これはいけない。最終決断をするのは、残念ながら自分一人ではなく、あくまでも狛プー全体の意思という、ネットワーク的であるほどやっかいさの増す正体不明の幹なのである。  ところで、彼の提案には2つの動機がある。「自分の職場では」と「社会一般では」だ。ぼくは前者の動機を支持した。後者は、中小・自営などの多くの青年にとっては関係ないことで、「社会一般では」などという言葉は意外に当てにならないのだ。それよりもみんなに電話するなら、「自分は木曜日に出られないのが残念だから曜日を変えてほしい」と率直に言って同意を求めた方がよいだろう。ぼくがそう言ったところ、メンバーからあっさり総すかんを食らってしまった。「一般の青年たちにも都合がいいというならともかく、そんな個人的な事情じゃ、ただのわがままだよ」というのだ。ぼくが「ほかのまだ見ぬ人の心配なんかする必要ないよ。今ここで『来たいのに来れない』と言っている人とみんなとで折り合いをつけられないかなあ」と切り返すと、「だって、1年に1回来てもメンバーなんだから、そういうたまにしか来ない人たちのことも考えなきゃいけないわ」という声。ぼくは「あれっ、へんだぞ。『ここにはいないあの人のために』というのはネットワーク的じゃないぞ」と思ったが、みんなから相手にされず、時間も押していたので、それまでとなった。  ぼくたちは、「わがままであるな」「ひとに迷惑をかけるな」「自分勝手に主張する前に、みんなはどうなのかを考えてみよ」などの禁止令を受けすぎていて、主張したり依頼したりする力を去勢されているのではないか。そして、「紳士淑女」になってしまった分、ひとが本来持っていた折り合いをつける能力を失いつつあるのではないか。  「枝葉」の人生だって、本人にとってはとってもだいじな人生だ。自分の人生は大切にていねいに生きたいと誰もが思う。狛プーは、その人生のなかで出会っただいじなネットワークだ。そのネットワークがいらない人は、撤退すればよい。また、たまたま狛プーと出会えなかった人の心配までする必要はない。そんなことを心配するよりも、今ここで、たまたま出会った者同士がなんとか折り合いをつけようとすることの方が大切だ。その双方が支持しあう温かい努力をしたあとで、よい結果が出なかったときこそ、片方が「しかたない」とあきらめて「潔い撤退」をすべきなのだ。  枝葉としてのネットワーカーの心構えはつぎの詩に集約されよう。  私は私のことをする。  あなたはあなたのことをする。  私は、あなたの期待に沿うためにこの世に生きているのではない。  あなたも、私の期待に沿うためにこの世に生きているのではない。  あなたはあなた、私は私である。  しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい。  もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである。                    (パールズ「ゲシュタルトの祈り」)  これは決して投げやりなコミュニケーション放棄の詩ではない。「あなたはあなた、私は私」という自立の厳しい真実を受けとめたうえで、出会いのために自分が可能な範囲での最大限の努力をした者の、しかもそれがどうしてもうまくいかなかった場合の、諦観のあり方を示した詩といえよう。このように、過去や他人のせいにすることなく、自分のできることをできる範囲でしようとする生産的な構えが枝葉としてのネットワーカーに求められているのだ。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ ヒエラルキー ピラミッド型に組織された階層組織。位階制。階層制。ヒエラルヒーと発音するが、一般にはヒエラルキーと呼ぶ。原理的には価値秩序とは無関係であるが、実際には、官僚制などに見られるように上位に権限が集中し、支配−従属関係を生み出す。本書では、ピラミッド型の上意下達機構を意味する用語として、一般的な言葉でヒエラルキーと呼んでいる。ここではとくに、ヒエラルキーの上位から下位までにわたって、じつは異質の価値を排し、同じ価値観が貫徹されていることに注目したい。本書ではこれを上下同質競争と名づけて、ネットワークの水平異質共生と対比して批判している。 ネットワーク 網状組織。同じ目的をもった人などの連帯組織。従来からのピラミッド型の組織形態(ヒエラルキー)への「対案」としての意味をもつ。ただし、最近の市民の自発的なネットワークなどを「組織」の一形態と解することには異論がありうる。今日いわれるネットワークとは、組織であることへの拒絶なのかもしれない。いずれにせよ、そこでは、自立的価値(スタンドアロン)をもつもの・物・者が、それぞれ自律的に連帯・連携・依存しあう。パソコンが1台でもスタンドアロンとして汎用的なのに、他のパソコンとネットワークすることによって、個としての価値をいっそう発揮する様子になぞらえることができる。ネットワークにおいては、生涯学習、ボランティア、地域活動に見られるように、地位や肩書きにしがみつく人を軽蔑する傾向がある。同時に、「みんなもぼくと同じだね」というピアコンセプトの精神的安定をも蹴飛ばし、一人ひとりの異なる個性や役割発揮を承認しあう。これを本書では水平異質共生と呼ぶ。ネットワークにはかなりの潔さが必要とされる。それでもきわどい流動性のもとにあり、その淋しい宿命は避けられない。 ピア 同輩、仲間。公式の集団・組織内の正式な関係よりも、「われわれ意識」による非公式な関係を重視する志向にもとづく。ピーア(peer)と発音するが、世間一般ではピアと呼ぶことが多いようだ。ピアグループは、個人の社会化の促進の場としても機能するが、逆に、個性の獲得や発揮をみずからが抑圧する場としても機能する。本書では、ヒエラルキーが解消されて、単純にネットワークに発展するのではなく、その重要な介在項としてピアが存在することを強調したい。とくに、そこでのピアコンセプト(仲間意識)が、仲間から変に思われたくないなどの現代人の強烈な不安のなか、協調の名のもとに個性の発揮を自己抑圧するというみじめな逆機能の結果に陥っていることを力説しておきたい。しかも、それは、同輩や仲間に協調しようとすることにとどまるものであって、現実社会に歯向かう力にもならなければ、かといってヒエラルキーに適応してうまく個性を発揮する結果にもつながらないという皮肉な実態があることも指摘しておきたい。 ボランティア ボランティア活動の3原則は、自発性、公共性、無償性である。自主性・主体性、社会性・連帯性、無償性・無給性などともいわれる。ほかには、先駆性、開拓性、創造性などがあげられる(東京ボランティア・センター)。ぼくは、とくに重要なのは自発性(ボランタリズム)だと考える。ボランティアという言葉は、従来は狭い意味での社会福祉の活動に限定して使われていたが、生涯学習や町づくりなどにおいてもその社会的な重要性が認識されるようになってきた。社会教育・生涯学習や地域・市民活動などの自己決定活動は、そもそもボランタリズムにもとづくボランティア活動そのものである。生涯学習の学びは、充電としての学習にとどまることこそ(学習者の自由だが)まれであり、ふつうは、仲間に教えてあげたい、地域をよくしたいなどの社会的関与に結びついて行われてきたのだ。 第4章 知的水平空間における指導批判の方法 1 権力にしっぽをふるな  −教師の葛藤より学習に重大なもの−  学問にとっては批評精神がいのちである。指導者は、地位や肩書きが自分より下の人からの批判でも、その批判が主体的であれば真剣に受けとめるだろう。面白がって心から歓迎するかもしれない。これをぼくは知的水平空間と呼ぶ。しかし、どういう批判のしかたが、知的世界になじむ主体的な批判といえるのだろうか。  (注−初めてmitoの授業を受けて)もう少し静かに話してほしいと思います。私は少し疲れてしまいました。私は先生のことをmitoちゃんなどと呼ぶことに抵抗を感じます。ニックネームはだんだん親しくなってから、こちらから親しみをこめてつけて呼ぶものだと思うのです。  教師の声が小さく聞きずらくて疲れるというのはよくありそうだが、この人のように教師が大声のために学生側が疲れるということもあるのかもしれない。そういえば、ぼくの授業を「けたたましい」と評するペーパーも過去にあった。また、「疲れる」という言葉は、子どもから大人まで現代では「心が疲れる」という意味でよく使われている。しかし、この言葉をあまり無意識に使っていると、自己暗示のような作用が働いて、自分や他人に対する不信感が自己の内面に無自覚のまま広がってしまう危険性があるように思う。無意識に言葉を使っているうちに、その言葉の暗示にかかってしまうのである(予言の自己成就)。そういう意味で、「疲れる」という言葉には、過剰なAC(従順な子ども心)の挫折から生じた敗北主義の傾向があると思う。もっと堂々と教師の授業内容を批判したほうがよいのだ。  呼称については、ぼくに親しみを感じていない場合は、もちろん無理をしてmitoちゃんなどと呼ぶ必要はない。「先生という尊敬語で呼ばないと申し訳ない」という教師に対する学生側の遠慮を捨ててもらうために提案しただけのことである。以前にぼくのことを「ただのおっさんとしか思えない」と書いた学生がいたが、それなら「おっさん」と呼べばいいのだ。ぼくに嫌悪を感じるときは「あなたは」とか「おまえは」とか書いて批判してもよい。ここは学生自身が学習主体である知的水平空間なのだから、一般社会のように仮面をかぶる必要などない。そんなことよりも、この授業を、自分の背後の気持ちまで伝えるコミュニケーションの訓練の場としてとらえるように提案したい。教師としてのぼくには、それを受けて立つ義務がある。  (注−2回目の授業で、上のペーパーとは違う人である)大声だからうるさいんではなく、自分の意見を押しつけるかのようにしゃべるのがうるさいんです。言葉の暗示ということを言っていましたが、それは私たちだけでなく、自分にもあてはまっていることがわかってますか? 学生の前で教壇に立って授業をするという時点で、その「言葉の暗示」を使っていると思います。  それから私たちの話題の中に「先生」(この場合はただの先生)のことも出ますが、自分たちから見ていい先生は「○○先生」ですが、嫌いな先生は「○○」と呼び捨てです。中高生の場合は、生徒の間だけの通称、ニックネームで呼んでいました。だから、生徒が教師のことをどう呼ぶかは、生徒の判断です。「mitoちゃん」という提案は余計なものです。  まずは、このペーパーの批判精神を評価しなければならない。たしかに、押しつけるしゃべり方は、聴く人にとっては不愉快である。たとえ、1%の人だけがそう感じたのだとしても、ぼくはその批判をしっかりと受けとめる必要がある。  しかし、同時に批判の刃を自己にも向けよということがいえる。すなわち、「押しつけている」と受け取らざるをえなかった学習者自身に、逃げや責任転嫁はなかったかどうかということである。つまり、ぼくの言い方自体は客観的には押しつけがましい言い方ではなかったのに、ぼくの言葉の内容自体が、その人にとっては、内面に踏み込まれ、触れられたくない部分に触れられてしまったと感じたから、「押しつけている」という非難の言葉を使っただけなのではないかということも考えられるのである。ぼくの問題提起の内容に反発したのなら、その内容こそを書けばよいはずだ。たしかに、教師による「言葉の暗示」という側面はあるかもしれない(レトリックの効果と問題点)が、それなら、そのぼくの「暗示の言葉」を具体的に指摘して批判すればよいのである。ぼくは「すべて受けて立つ」と言っているのだから、学生は、この授業を自らの批評精神の絶好のトレーニングの場ととらえてもよいのではないだろうか。  「mitoちゃん」という呼称の提案は、本来は尊敬語である「先生」という呼称を学習者側が仮面をかぶって指導者側に使う必要があるのかという問題提起として受けとめてほしい。つまり、これは知的水平空間のあり方を考えるためにいったことであって、「生徒の間だけの通称やニックネーム」についてまで、ぼくが希望を述べたわけではない。この人にとってはぼくが「嫌いな先生」なのなら、学習権をもっている学習者側のほうから仮面をかぶる必要はないのだから、学生同士の会話においてだけでなく、授業やペーパーにおいても自分の背後の気持ちを呼称に投影してくれてよいのだ。「おまえ」ではひどいから「あなた」ぐらいでどうか。しかし、少なくとも「先生」などという尊敬語を使う必要はない。  正直にいうと、このペーパーを読んで、ぼくに葛藤が生じなかったわけではない。「自分にもあてはまっていることがわかってますか?」などという表現方法は、エラソー(CP)に感じてしまうし、ぼくの思考まで指図する押しつけがましさも感じる。言葉の暗示の問題がぼくに「あてはまっていること」はその人の想定にすぎないのに、「わかってますか」によって既定の事実として押しつけられているように感じるのだ。ディベートで勝つためのアンフェアーなレトリックにすぎないのではないかとも思う。また、たとえば、実際に20歳も年下の学生に呼び捨てにされたとしたら、葛藤を禁じえないだろう。でも、この学生のいうように陰で呼び捨てにされていることを知ったら、それもやはり、それが自分に対する拒否感にもとづくものなのかどうか、教師としては気になるところであろう。知らせないことが相手の幸せのためということですませてしまってはいけないと思う。  このような私的な葛藤のため、ぼくの内部の攻撃性(ぼくが教師をやり始めてから、やや増大しているのかも=教師の職業病?)が、皮肉な言動や表情、ほめているようでいてじつはけなしているダブルメッセージ、ある行動をしないことを非難しておきながら、それをしたとしてもやっぱりケチをつけるダブルバインド(二重拘束)などの屈折した形をとって、ぼくの言動に(この学生に対して個人的にということはぼくはしないが)表れるかもしれない。しかし、そういうぼくの葛藤は教師の役割とは離れた私的なものにすぎないのだから、その屈折を授業のなかに見つけたら批判してほしい。そういう批判も受けて立つ、つまりきちんと受け答えすることはすでに約束してある。  その約束まで破るようになったら、それはすでに教師の職業病という域を越えて、もっとみにくく罪深い先生病ということになる。先生病とは「自分は尊敬語で『先生』と呼ばれるべき人物である」と思い込む病気である。自分を尊敬してくれない人を責めたり罰したりする。先生病は職業病と違って、その病気の責任はおもに本人にある。 参考資料 「先生という言葉をやめてみよう」 (社会教育「くえすちょん あんど あんさー」全日本社会教育連合会、1996年5月号より)  ぼくは社会教育の仕事を13年やってから、いまは大学の教員をやっているところです。どちらもとても楽しくやらせてもらってきましたが、ときどき「先生」と呼ばれることがあって、そんなときは、「あっ、そんなに立派な人物ではありません」と言い訳したり、こそこそと逃げ出したくなったりして、そして、なんだかうしろめたい気持ちになります。よっぽどやましいところがぼくにあるのかもしれませんが。ああっ、たしかにあったりしますけど・・。  そこで、ぼくは、授業や社会人研修などで「mitoちゃんと呼んでね」とお願いしています(まあ、ぼくは残念ながらそんなにかわいらしい外見ではないですから、実際には「mitoさん」ぐらいのところが多いですが)。学生なんかはそれを聞くと、「mitoちゃんだって! キャッキャッキャッ」と笑っています。出席ペーパー(自由なコメントのシステム)に「40過ぎても、ハタチ前のわたしたちにmitoちゃんと呼ばれたいなんてずうずうしいわね〜。でも呼んであげる、mitoちゃ〜ん」と書かれたりもします。  しかし、なかには教師を先生以外の呼称で呼ぶことにマジで反発する学生もいます。あるペーパーに(mitoちゃんという呼称は)「押しつけだ」と書かれていたので、翌週の授業で、「まあ、軽い提案ぐらいの気持ちで受け取ってください」とコメントしたら、「その提案が余計なのです」としぶとく食い下がられたことがあります。彼女のペーパーによれば、「わたしたちが先生、先生なんて言っているのは表だけで、友達同士ではイヤな先公なんか『あのジジイ』と呼んでいる。それは先生なんかは知りたくても知ることのできない世界なのです」ということでした。コノヤローという気もしましたが、ナルホドーとも思いました。「先生」という言葉は、本来は「教師」という意味ではなくて尊敬語なんだと思います。でも、むしろ現実には自分たちのこころから教師をシャットアウトするための言葉として使われているのかもしれません。このひとにも尊敬できるところがあると感じる前から相手をセンセイと呼ぶということは、奴隷が使用者を「御主人様」と呼ぶのと同じことで、かえって信頼を放棄する結果になっているのではないでしょうか。  ぼくは、先生という言葉をつぎの3つに分類しています。 @尊敬先生=「○○先生はぼくにとって大切な先生なんだ」 A便利先生=「(あっ、名前忘れちゃった・・)センセエ、こんにちは」       「(キャバレーのホステスさんが)社長さん、センセエー」 B皮肉先生=「ほら、うわさをすれば影だね。大先生がいらしたぞ。くわばらくわばら」  だから、まあ、言葉はそれなりに妥当に使われているのだともいえなくはないのですが・・。  しかし、せめて、学校では、教師が自分のことを「ぼくは先生です」と言ってしまったり、職員室でお互いに先生、先生と呼びあったりすることをやめるようにちょっと気をつけたら、学校はもっと居心地がよい世界になるのではないでしょうか。また、とくに、「一斉承り学習」の打破をめざす社会教育としては、学習者の前で講師や社会教育主事の名前を「先生」付けで紹介することは、社会教育の将来にとっても(!?)よくないことではないかと思います。  学生などのなかには、「mitoちゃん」のほか、「mitoちゃん先生」という人もいれば、「西村さん」「mito氏(これを音読したら呼び捨てだあ)」「mitoティーチャー」などと書く人もいます。怒って書く人は「あなたは」と書きます。各自、工夫のあとが見られるのです。その人たちには面倒な思いをさせて恐縮ではありますけれど、「教師への呼称などというどうでもいいことで言葉さがしに苦労するのも、たまにはいいことだよね」とも思うのです。 mito 2 教える側の義務の限定と、学ぶ側の批判範囲の限定  教職志望の学生で、「自分は教師になれるような器ではない」という理由で希望を断念する人がいる。生涯学習ボランティアの振興においても、そういう「謙虚さ」が邪魔になることが多い。指導とはそんなに難しいことなのか。また、学ぶ側は、教授者や指導者に対してどこまで役割と資質を求めることができるのか。  あのさ、(注ーゲームの説明におけるmitoの)「ルール説明はヘタです。あなたたちはもっとうまくなってください」の発言は違うと思う。ヘタを認めるのは一見潔さそうだけど、それは自分を正当化した逃げだと思う。こちらだって説明のヘタな人がいる。その人たちは、先生ができないことがぼくたちにできるわけないと考える。うまくなりたいと思うのではなく、プレッシャーとしてうけとる。説明が少なくとも先生より上手にできるかもしれないと思っている側から見れば、ヘタだといった奴がごちゃごちゃ期待するなと思ってしまう。ヘタだと認めた以上、自分がうまくなりたいという姿勢を見せてほしい。ヘタだというカラに閉じこもらず、こういう所がヘタだから、こうしたいと思っているという発言を期待したい。  明らかにぼくの言葉が足りなかった。この人をイライラさせてしまって申し訳なく思っている。体験学習の時間を確保するために、ぼくの言いたいことを無理して象徴的に集約して発言してしまったのだ。タイムキーパーとしての教師の職業病であるとともに、この言葉の背後に「そんなのはヘタでいいじゃないか」という居直りの気持ちがあったのをぼくは認めざるをえない。そういう気持ちはぼくは自己受容している。しかし、教師の意図することを自分の頭のなかだけでなく、学習者側にきちんと言葉にして表さないと、教師の独善というそしりを免れないのは明らかである。  ぼくは、あのとき、ゲーム説明が上手というイメージとして、ベテランのレクリエーション・リーダーのようにあざやかに説明するというイメージを頭のなかで描いていた。そういうあざやかさは、この授業の教育目標からいえば必ずしも必要ではないし、そもそもぼくの持ち味とは異なると思っている。ゲームの説明と実践を通じて学習者側の主体性の獲得の援助ができれば、ぼくの教師としての役割は十分果たされると考えているのだ。だから、「ゲームの説明がわかりにくい」というあるペーパーの指摘に対して、「あざやかさを求める人は、ご自分で努力してください」という意味を勝手に込めて発言してすませてしまったのだ。そんな発言は、非生産的な皮肉にすぎなかった。このペーパーの書き手は、その皮肉を敏感に感じとってしまったのだろう。だから、もしかすると、イライラして、「あのさ」のあとは心にもないことを一気に書いてしまったのかもしれない。その場合は、以下のぼくのコメントは、一般論として聞き流してほしい。  「説明の下手な人」が「先生ができないことがぼくたちにできるわけない」と考え、プレッシャーとしてうけとること自体に、ぼくは「それは学習者側の主体性喪失の表れである」として異議を申し立てたい。権力に弱いAC(従順な子ども心)に支配されているのではないか。また、「説明が少なくとも先生より上手にできるかもしれないと思っている人」が、「ヘタだといった奴がごちゃごちゃ期待するな」ということについては、「あなたたちはもっとうまくなってください」という期待の言葉を選択してしまったぼくが一番悪いとはいえ、それを聞いてイライラしてしまうというのは、少しCP(批判的な親心)が強すぎるのではないかとも思う。「ごちゃごちゃ期待するな」などと目くじらを立てずに、「無責任なことを言ってやがる」と言って、教師を笑って許してしまう手もあるのではないか。  そして、「ヘタだと認めた以上」という言葉もひっかかるがそれは筆の勢いだとしても、なぜ他者に対して「ヘタだというカラに閉じこもらず」「自分がうまくなりたいという姿勢を見せる」ことをこの人は要求するのだろうか。よけいなお世話ではないか。ぼくの授業から上手なルール説明の仕方を学びたいという学習要求をもっていて、それをぼくに表明したのなら話は別だが、それよりも、この人はぼくの姿勢そのものに反発を感じたのではないかと思われる。ぼくは、『こころ』の冒頭を、いきなり、「ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる」で始めているぐらいなのだ。なぜ、自分の教育目標としては考えていないことにまで、「こういう所がヘタだから、こう努力したいと思っている」などと発言して、みずからが頑張る姿勢を表明することを学習者側から要請されなければならないのか。説明が流暢ではなくても、ヘタウマ(へたのように見えるけど、あとからよく考えてみるとうまかった)ということだってある。学習者側にとってはわかりにくい説明であっても、かえって学習者をその気にさせ、ルール以外の何かを伝え、結果として学習者の主体性の獲得を有効に援助できる場合だってあるのだ。主体性の獲得の援助方法については、この授業で、教育目標をあらかじめはっきり提示することなどによって、一貫して追求し続けているとおりである。  この点に関して、以前、「ちょっとおしゃれな教授法」と名づけた演習で、ぼくが「目玉焼きの作り方」という「模範授業」を行ったときのことを思い出す。あるおとなしい女子学生が、突然、意を決したように「mitoちゃんは私たちよりも目玉焼きについてよく知っているんですか」と聞くのである。「ふたをした方がおいしくできあがることなど、目玉焼きの作り方に関して伝えたいことはあるけど、学習者側より知っているかどうかはわからない」と答えた。すると、彼女は「そんな人が教える側に立つこと自体、いけないことなのではないか」という趣旨のことをいったのである。たしかに彼女は、自分よりはるかに優秀な先生から音楽を習うことに慣れているから、そういういい加減な指導に抵抗を感じたのだろう。この場合は教授法のシミュレーション(模擬訓練)であったが、ぼくは、たとえ本番の教授活動においても、教授者が学習者より知識・技能が劣るということがあってもよいと思っている。指導者側に無知と非力の自覚さえあれば、双方向教育などによって、むしろ結果的にはより効果的に学習者側の主体的な学習を支援することにつながるかもしれないのだ。  つぎに「先生」という用語についてである。前から言っているとおり、ぼくは学習や主体性獲得の援助者としての教師の役割を果たさなければならないとは思っているが、その役割は、必ずしもぼく自身が尊敬語で呼ばれる先生としての高い人格をもっていなくても遂行できると思っている。居直りといわれても仕方ないが、だいたい、自分が尊敬されるべき人物としての先生であると思い込んでいる人の存在を想像してみるだけで、ぼくはおぞましくさえ感じる。自分自身がそんな人間になるなんて、絶対にいやだ。だから、このペーパーで「先生」と書かれると、それだけで違和感や、「ちょっと違うよ」という感じや、迷惑なプレッシャーを感じてしまうのだ。もし、このぼくの文章を読んで「先生のくせに」と感じている人がいるのなら、それは「〜のくせに」と他者を批判する行き過ぎたCP(批判的な親心)の表れだと思う。「教師の役割として」と言い替えてぼくを批判し直すことが必要である。そうすれば、ずいぶん感じが変わると思う。つまり、あくまでも自分の学習を援助すべき立場にある者としての教師を批判するということである。また、これは、「自分のために生きる」や「さわやかな自己主張」などのレトリックと関連している。  ただし、教師として、いますでに立派な人格であるとうぬぼれることは論外として(先生病)、つねに自らの人格形成をめざしていくという姿勢は、学習援助の専門的役割遂行のための基本的条件として必要不可欠なのであろう。「ともに育つ」ということをつきつめて考えると、この問題にぶつからざるをえない。この点については、わたくしごとながら、CPが低すぎるぼくにはそれなりの問題があるのだと思う。「まあ、いいか」と自分を許してしまうからである。これに対して、他人にも厳しいかわりに、「自分は先生と呼ばれるのにふさわしい人格をもっていなければならない」と自分をも厳しくコントロールしようとするCPの強い教師は、当面は本人もつらいかもしれないけれど、その自己批判を生産的な方向に向かわせることができれば、ぼくには望みえないありえない「個の深み」をもつことができるのだと思う。このようにCPについてまで、肯定的にとらえるとするならば、『かくろん』で展開した個の深みの考え方は、交流分析などによる個人的な問題解決の志向よりも、メタ・レベル(一段階高い次元)の理念だといってもよいのではないかと恐れ多くも思っている。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ レクリエーション 戦後、占領軍は日本の民主化のためにグループワーク理論を持ち込んだ。そこではレクリエーションが、ディスカッションなどとともに重視された(ションション社会教育)。その後、レクリエーション指導の三種の神器としてゲーム、ソング、ダンスが定着した。社会教育指導者にもその能力は必要不可欠だと考えられてきた。しかし、現在、生涯学習時代への移行をめざし、レクリエーションも質的な転換を迎えつつある。それは、ワークショップ(参加者主体の参加・体験型の学習)などの現代社会の人間の回復のためのプログラム提供の役割の発揮である。上下同質競争の価値観にもとづく教祖的なレクリエーション指導は今や必要ない。 社会教育指導者 民間指導者としては団体指導者、施設指導者、講師、各種委員(社会教育委員、各種運営審議会委員等)、行政職員としては社会教育主事、社会教育施設職員、非常勤指導員など。また、一般行政職員や民間企業、ボランティアなども広くとらえておく必要がある。そのいずれの人であっても、アダルト・ティーチングに求められる態度を自己確立していく必要がある。加えて、水平異質共生の生涯学習社会創造の阻害要因になるような非主体的な学習や権威主義的な態度を学習者に促す結果に陥るとするならば、その指導はむしろマイナスであるといいたい。実際にそんな「指導者」も多いのだ。指導者は学習と教育の間に横たわる深くて昏い河をいつも意識しておくことが大切だろう。 対話(ダイアローグ) ソクラテスは対話によって相手がみずから真理(子)を生み出すように手助け(助産)をした。これは助産術といわれ、教育の原点でもある。そこでは、発問しても結論に至らないときがあるが、それよりも考える過程を重視する。 3 「ヒハンのペーパー」の存在価値  学習は自分の枠組自体の変容を伴う。mito的授業ではとくに態度変容のきっかけを提供することを重視している。しかし、そこでは、「今までの自分が崩されてしまう」ことへの抵抗も生ずる。指導者はこのもっともな抵抗にどう対応すべきか。その個人への個別な対応は、他の受講者にはどんな意味があるか。  あるとき、つぎのような大変厳しい出席ペーパーが提出された。  今日の授業はこじつけでした。御自身でもそうおっしゃっていたようですが。夫婦や性のVTRが、どう大人の指導につながるのでしょう。まず、(mito注・今回の教育目標の)(3)大人に「幸福を配る」とは何ですか。自分の勝手な思いあがりを見つけるんじゃなかったんですか。先生の授業は社会教育のために私たちに自己発見させようとするものだと解釈していましたが、最近わかりません。今日の夫婦のVTRの「相手」と「自分」を大人という共通点で学習者にあてはめるんでしょうか。大人に「幸福を配る」自分とは、その人たちにとって子どもととらえられてしまう自分なのですか。どこに社会教育としての自分の存在を位置するかわからなくなります。それくらい考えるべきですか。いや、先生がヘタです。学生にわかりやすい材料を使っているつもりかもしれないけど、ただ先生が使いたかっただけ。性のビデオとか、先生は何を使ってもいい権利をもっているわけですから。使ってみてから批判されるまで。少なくとも、社会教育としてのVTRとのとっかかりくらい説明してみなさい。VTRの内容だけやりたいのではと言われたくないのなら。それは個人によって得るものが別、などと逃げるな。  少なくとも私は、社会教育の知識をこの授業で得ることを要求している。方法の自由が、先生には与えられているのですよ。私だって、先生の授業において、余談のような、人生について考えられる話は面白く聞いている。しかし、それは「得した」という程度のものだ。もしかして、VTRと社会教育とは、ひと〜〜つも関りがなかったのかしら。もしそうなら、「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。  ヒハンする前に、先生の答を正答としてしまう人もいる。先生は問題を提起した以上、答える義務はあるのでしょうが、それを選ぶかどうかは、その人次第ですものね。私は先生にも変わってほしい。その押しつけがましさから抜け出したいと感じてしまうときもある。影響を与える人ならば、影響を与えられる人になれ。そのためのペーパーだとも思い、感心もしますが(いや、自分のやりたいこと[意図すること]のためということもあるでしょう)、そのすべてに答えようとする姿勢は、悩んでしまう人と共通するものがあるのでしょうか。先生は悩みそうもない。それで、悩む人にはカリスマならぬ変なカリスマ(妥当な言葉が見つからない)になるおそれだってあると思うよ。気になる所だけふれられ、ふれたくない所はふれない人になれば楽でしょうが、そんな人間は人生の発達・成長において困るし……。  まとまらないけれど、わかりますか、伝えたいこと。また書きます。  授業で読み上げてもいいけど、勝手に実物投影機で人の字を出さないでください(「人の字=名前と同じ」という注釈あり)。○月○日によく考えて読んでください。  先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにもかかわらず続ける根拠は?  このペーパーは、毒にも薬にもならない社交的な仮面の会話を捨てて、mito的授業の本質を否定的側面からずばりと突いたものだと思う。それだけに、ぼくはかなり動揺してしまった。このペーパーの出たその日のすぐあとの授業で、ほかの学生からさっそく「早く内部葛藤を解決して、いつもの自信にあふれた授業に戻ってください」と注文を受けたり、あるいは、数日後のS大の授業で話題にしたときも、「今日、出席ペーパーのことを話してるmitoちゃん、すごいこわいとか思っちゃった。それじゃあ、受けて立ってるんじゃなくて、ただその女の人に文句を言ってるだけだよ。それじゃあ、mitoちゃんのこと、よくわかんないと思うよ」と書かれたりしてしまった。かなり冷静を装おうと努力はしたのだが、ぼくの内部の自信喪失がマイナスに反映してはいけない授業という公的な場面で、実際にはかなり反映してしまったのだ。そのことで、そのときの授業を受けた学生にも不快な感情を与えてしまったと思う。しかし、それより、「教師は劣等感を刺激される職業である」と聞いたことがあるが、「ああ、このことなのかもしれない」という気づきがぼく自身には大きかった。こういう場面では、教師は、学生と対等な立場なのではなく、学生の踏み台として利用されるべき立場なのである。「他人が入り込むべきじゃない所までペーパー書いた人が入り込んじゃっているから、途中から読むのがいやになってしまった」というS大学生のペーパーもあったとおり、たしかに、ふつうの対等な人間関係であったら「あなたとは出会わなかったことにしよう」とぼくはこの人にいってもよいのだろう。そして、自己抑制がきかずにこのようにしてすぐ葛藤してしまうぼくが、「暴力とセックス以外の申し入れはすべて受けて立つ」と宣言していること自体、身の程知らずの無謀な話なのかもしれない。  しかし、この学生は「また書きます」といってくれている。これは、ぼくにとっては、細いけれども一本の糸がまだつながっているのだという救いを感じさせてくれる一文であった。知的水平空間における批判は相手への基本的信頼にもとづく肯定的ストロークの一種(批評的ストローク<mito)だとぼくは前からいっているが、それはぼくの強がりにしかすぎないのかなとも思うときもあったが、やはり知的水平空間における他者批判は、相手の存在の否定とは異なる大きな可能性をもっていると思った。また、批判の刃(やいば)はそれが研ぎ澄まされれば、自然に自己にも向いていくものなのである。ペーパーによるこれらの批判をきちんと受けとめることによって(当然、それは批判に無原則的に同調することではない)、「本人の主体性の獲得を他者が援助できるのか」という教育の本質的難問(アポリア)に挑んでいくのもなかなか意義深いことではないかとも思う。  ある男子学生が、この批判のペーパーやその他のmito的授業への共感や批判のペーパーとぼくのコメントを読んで、「教師との信頼関係も、それが濃密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに拘泥しているどころではない」とし、出席ペーパーシステムに対しても、「出席ペーパーは感想であってもよいことになっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達のために感情を吐き出すためのものではないと考える。感情の吐露に低迷するのは、ストローク(人は信頼しうるものだとする試み)においては有効であろうが、自らが求め学んでいく学生の時期に休息を得てしまって、本当に先々個人という主義を担って生きていかれるのかと危惧の念を抱く」と書いてきた。授業への共感を書くことも、批判を書くことも、ともに感情を表現することにつながっており、それは依存を助長し、主体的な学習をむしろ阻害してしまうのではないか、ということであろう。教育のアポリアとはこのことである。しかし、ぼくは、こう考える。たとえばこの批判のペーパーを書いた彼女は、これを書いたことによって今までの彼女の主体性を減ずることになっただろうか。そんなことはないだろう。ゼロかプラスかのどちらかであろう。また、批判のペーパーのやりとりを見守っているほかの学生の学習にとっては、漁夫の利もあるだろう。それなら教師は教育のアポリアにチャレンジしてもよいのではないか。  それでは、彼女の批判にひとつずつ対応していきたい。  ぼくが自分で「こじつけ」といったのは、むしろ「社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識」についてである。ぼくにとっての本命はあくまでもVTR「教えます、心を伝える会話術」である。上映時間は15分だ。夫に自分の心を伝えられなかった妻や、妻を「おのれの妻」としか認知していなかった夫が、地域活動や社会教育(父親学級)での対等な人間関係のなかで業務連絡ではない感情の通った夫婦の会話ができるようになったという映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。しかし、そういうふうには学ばないという学生がいてもかまわない。「得したという程度のもの」でも、それを意味あるものと受けとめる学生がいたっていいだろう。  この批判のペーパーを読んで、4年越しにぼくの授業にもぐりで出席しているある女子学生がつぎのように書いてきた。「mitoちゃんの持ってくるVTRは必ずしもわかりやすいものではないと思う。むしろむずかしいのではないかと思うこともある。(中略)VTRのなかの主体性をなくしてしまっている(そうでない場合もあるけれど)人の状況を見ながら、どんなことが契機になって主体性をとりもどすことができるのかということを考えることも意義があると思っている。VTRのなかの人びとが自分とはまったく考え方が違うとしたら、私はこの人たちの考え方のどの部分は共感ができて、どの部分に反発を感じるのかと考えることによって、いまの自分自身がどんな価値観をもっているのかを知る機会にもなると思う。他人の主体性獲得を援助するためには、援助する側の主体性も大切なのはもちろんのことだと思うし、いろんな人のいろんな事情やちょっとした弱さをそっとわかってあげる(変な言い方)やさしさ(?)も大切ではないかと思う」。  これに対して、ミニ知識のほうは、このときは「ペダゴジーとアンドラゴジーとの違い」についてであり、これは、ぼくでなくても、他の研究者も注目しているところである。むしろ、これを深く研究している研究者の書いた本を読んだほうがよいだろう。ミニ知識は、学生が教科書を出発点とするなどして書き言葉メディアから学べばよいことであり、ぼくがしゃべらなくてもよいことかもしれない。ただ、彼女に限らず、「社会教育の知識を学びたい」という学生も多いので、折り合いをつける形で、さらっと、ただしぼくの評論をまじえて説明しただけなのである。だから、時間がない場合は、ミニ知識の解説を省略して項目の紹介だけにとどめることさえぼくの授業では多い。  「大人に幸福を配る」ためには、「自分の勝手な思いあがりを見つけること」(ぼくの言葉でいうと「援助者側の無知と非力の自覚」)が最低必要条件になる。「大人に幸福を配るとき」も「子どもに幸福を配るとき」も、同様に援助者が「上位の大人でありたい」、「上位の大人でなければならない」という思いあがりを捨てることが必要になると思う。それが、社会教育(の援助者)の存在位置である。なお、このペーパーを読んで、ひとつ、ぼくの説明もれに気づいた。配るという言葉は、役所や社会教育施設に座り込んでしまって学習者を待っている社会教育職員の受動的な姿勢にたいするぼくなりの批判を表している。待つのではなく出前せよということだ。このあたりは、今までずっと説明を忘れていたぼくのミスである。ぼくがそれに気づいたのは、この批判のペーパーのおかげであり、また、他の学生にとっては漁夫の利といったところであろう。  性のビデオなど、ぼくは何を使ってもいい権利(教育権)をもっているわけだが、それを行使するにあたって、ぼく自身が教師としての自分に与えられた役割と自分なりの教育意図を確認するとともに、「批判されるまでは、使ってみる」という姿勢も学生に示している。また、学生から批判されても、ぼく自身がそのVTRを使う自分の教育意図を肯定できるのなら、使い続けることだってあるだろう。しかし、教師が「学生からの批判を受けて立つ」以上に学生(不快を感じている数%の学生)に配慮をするとしたら、いったい何を配慮しろというのか。「社会教育としてのVTRとのとっかかり」を説明することの要求はわからなくはないが、彼女はそれに「少なくとも」という言葉をつけているのである。また、「社会教育にどう関りがあるか」ということについても、ぼくが説明したほうがよい範疇もあるし、学生が自分で考えたほうがよい範疇もある。そして、「個人によって得るものが別」というのは、ぼくが逃げのために使う言葉でもあるかもしれないが、学びの真実を表した言葉でもある。援助者側の価値観とは違う多様な受けとめ方が学習者側に存在してよいではないか。ぼくは「VTRの内容だけやりたいのでは」といわれたっていいのである。なぜなら、そういいたい人は、「出席ペーパー」や「ちょっと待った」や「パフォーマンスタイム」で批判を行う自由をぼくは保障しているからである。今回だって、そういわれたから、このVTRを選択した教育意図を(再度)説明したのだ。学生からの批判や質問にきちんと答えていく双方向性の確保さえ行えれば、教師はそんなに完璧な計画を立てたり説明をしたりしなくても、あるいは完璧であったかどうかを非生産的にくよくよ悩まなくても、高等教育や社会教育ではそれなりに役割が果たせるのだと思う。知的水平空間は、援助者と学習者の協働によってつくりだされるものなのである。  教育学には人文系としての側面があると思う。社会教育の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである。だとすれば、人生を考えるためには、mito的授業という知的水平空間などを利用しながらも、本質的には学習者が自己管理型で「自己教育」するしかないのだ。  ぼくだけが、「大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場」ではない。げんに彼女もこのように出席ペーパーで問題を提起しているし、そのほか、パフォーマンスタイムを使って(その使用時間についてはぼくと相談のうえだが)、学生は自分なりの個人的問題を提起することだってできるのだ。ぼくの問題選択に不満な人がいるのなら、その人は、ぼくの「立場」に期待するのではなく、自分に与えられた批判の自由をこそ使いこなしてほしい。  mito的授業について「人を崩していくやり方」と書かれているが、崩れるのを恐れなければいけないほどの素晴らしい枠組をすでに備えてしまっている人などいるのだろうか。もちろん、それは、学習者の今の枠組を否定しようというのではない。ぼくは、教育の役割は概念崩しであるとする論には疑問も表明している。どちらかというと、ぼくの表現は、学習者本人の枠組の変容への援助である。  ぼくの授業がつらいという人はたしかにいる。それは知っている。ぼくはそういう人には「無理しないで元気になったらおいでよ」といっている。それ以上のことをいおうとしたら、相手の人生をぼくが背負込んでしまおうとすることと同じになってしまう。学習者が、自分ではなく、ほかの学習者のなかから、「ヒハンができなくて崩れていってしまう人」や「落ちる人」や「教師に信頼度が高くなる人」や「そーだんにきたりする人」や「教師の答を正答としてしまう人」が生まれることを推測して心配することも、同様の「背負込み」の行為だと考える。その人たちにとっては余計なお世話なのではないか。たとえばだれかに相談するという行為は、その人にとっては問題解決に向かう主体的な姿である場合だって多い。「自分のために学ぶ」のであるから、一般化して論じようとせずに、自分の主体的な学習にとってぼくの授業がどう無益であるかを訴えたほうがいいと思う。  「先生にも変わってほしい」とあるが、ぼくがどう変わるかは、ぼくが決めることだ。そして、学習者がどう変わるかは、学習者が決めることだ。変化の願望は自分にしか向けられない。たしかにぼくは、「影響を与える人」としての教師の立場にいるとは思う。しかし、情報化社会において情報に対する主体的能力(情報リテラシー)が求められるように、マスプロの大衆化した高等教育を受けている学生だからこそ、主体的な授業の受け方が求められているのである。  出席ペーパーには、比べられるために書くという被抑圧体験から、書きたいことを書くという解放体験への転換という態度変容の教育意図が明確に存在している。しかし、彼女の「自分のやりたいこと、意図することのため」というぼくへの分析には、そのことへの不快感が表明されているのであろう。現代学生には、学生に対する教師の教育意図が存在すること自体に抵抗感があるようだ。そういう抵抗感も大切だろうが、それを教育意図の内容に対する抵抗感に止揚することが必要なのだ。また、大学教員には研究という役割もあり、ペーパーを研究成果に結びつけるというほかの意図もぼくにはある。しかし、そうだとしても、学生がそれに目くじらをたてることもないだろう。  彼女がほかの一部の学生を「悩んでしまう人」とレッテルを貼っていることに対しては異議を申し立てておきたい。彼女は他者にそういうレッテルを貼ることによって、「悩んでしまう人」と共感的な出会いをもつことから逃避しようとしているのではないか。レッテルを貼ることによって安心してその後の主体的思考を停止してしまうことをラベリングという。また、「先生は悩みそうもない」という言葉に対しては、「ぼくはそのことについては今は話したくない」という応じ方がぼくにできる最善の対応であると考えるが、どうか。  カリスマ性については、ぼくは、「授業で退屈させる教師」のつぎに悪い教師像として、「学習者の依存的学習を増大させる教師」という規定をしてきただけに、かなり自信を失い、考え込んでしまった。そこで、自信の回復方法として、信頼している人たちに聞いてまわるという手段があるのだが、それを実行した。フリースペースで学生にこのことを聞いてみたのだ。すると、意外にも「カリスマ性がたしかにある」というのである。「でも、尊敬を感じてしまうのだから、いい意味でのカリスマじゃないですか」という。ちょっと面映かったが、それどころの話ではない。理論的には、教育のアポリアのうちの否定的側面の証明になってしまうではないか。尊敬されているから嬉しいと教師には感じられても、学習者にとっては主体性の獲得の阻害要因になってしまう。しかし、もう一人の学生がこういってくれた。「mitoちゃんにはたしかにカリスマ性を感じるけど、依存させてくれないカリスマだと思うよ」。これを聞いて、「ああ、それなら大丈夫だ」とぼくは安心し、自信を回復することができた。  たとえば、今まででもぼくは、学生が「そーだんにきたり」しても、「ぼくはカウンセラーとしての専門性をもっているわけではないんだから、カウンセリングはできないよ」と自制を表明している。そして、「社交的な会話ではない真実の話を聴けることは、ぼくにとっても興味深いから聴いている」という姿勢を示しているし、学生とは異なるぼくの枠組を伝えたいとぼく自身が思ったときは、遠慮なくエンカウンターしている(ゆさぶり発問、p20)。そういうとき、ぼくはとても充実している。ぼくにとって、これは、水平な出会いの至福が感じられるかなり大きな楽しみなのである。だいたいは、「ああ、この人もこの人なりの理由と事情をもって生きているんだなあ」という実感をしみじみと味わう結果になる。だから、カリスマというよりも相互依存に近いのかもしれない。一回限りの人生のなかで、人と人とが立場や肩書を越えて「同じ人間」という感覚を確かめながら、本当の気持ちが出会うことなど、何回あるのだろうか。また、ぼくは、ほかの学生をシャットアウトして個人の相談にのるということは原則的にはしていない。フリースペースなどで相談を受け、そこにいる人たちで話に加わりたい人がいれば自由に加わるという社会教育的、たまり場的な方式なのである。そして、ぼくが専門性をいかして行っている相談者に役立つための社会教育的な情報提供としては、フリースペースや青年学級などのサンマの意義と所在の紹介が多い。  教師は、このようにして、カリスマにならないままで学習者からの信頼を獲得するということができるのではないか。その信頼の特徴は、カリスマとは違って「唯一の絶対的な信頼」にはなりえないところにある。だとすれば、教育のアポリアは解決のための生産的な方向に一歩近づいたと解釈できるのである。  実物投影機で人の字を出すのは、ほかの学生の学習の便宜のためである。「人の字=名前と同じ」というのは、ここでそんなに一般化して断じるほどのことでもないだろう。彼女が「私は自分の名前がほかの学生に知られてしまう危険を感じるので映さないでください」と書いておけばいいだけの話なのである。いや、投影拒否の理由さえも書かなくてよい。「禁投影」というマークを堂々とつけておけばよいだけの話だ。逆に「自分に著作権があるのだから氏名を公表せよ」(著作権の一部としての氏名表示権)と要請する人がいてもよいだろう。「非公開」でもかまわない。自分の著作物に限っては、すべて自分の管理下に置いていいのである。なお、投稿などの場合には、「自分の文章の改竄はするな」とはいえるが、「自分の文章を必ず公開(採用)せよ」とはいえない。しかし、mito的授業においては、「公開せよ」と書いてよい。さらに、それに、「禁コメント」とつけ加えてもよい。これらは知的水平空間を実現するためという特殊な事情によって、現行の著作権よりも強い権利を学習者に認めたものである。  もっと先の突出的空間として見え隠れしている水平異質共生の世界もある。それは、「私はこれだったら得意だから、みんなに教えてあげるよ」という生涯学習ボランティア、「こういうことを考えたからアップロードしておきます。よかったらぜひこれをほかにもどんどん紹介してください。著作料(財産権)はいりません。でも出所は私であることは明らかにしてくださいね(氏名表示権)」という情報・通信ボランティア、そういう人たちが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界である。アマチュアによる知的生産や情報発信にはそういう強みがある。ぼくは、これを、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼んでいる。現段階としては、全般的にはいまだプライバシーと著作権の保護を叫ばなければならない状況だが、さらには、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが、突出的水平空間においては生まれつつあるのだ。  「先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにもかかわらず続ける根拠は」というのは、「こんな批判は数多く受けているはずなのに、そういう批判を聞いているのにもかかわらず続ける根拠は」という意味だと思う。ぼくは、いまの教育に欠けていることは、学習者に管理や保護を与えることではなく、自由を与えてそれに恐怖する機会を提供することだと考えている。そのことから(批判の)自由を行使する主体性が学習者自身のなかに育つだろう。まずは、学習者(=自己)が批判したからといって教育側(=他者)がそれにあわせて変わってくれるとは限らないという現実を知ったほうがよい。批判の自由が保障されて、保護され管理されてきた自分にはその自由がなかなかやっかいなものだという現実をまのあたりにして戸惑い、そこから気を取り直して、その自由を使って他者に通じるように自己の思考を表現できるようになることこそ、今後のネットワーク型社会が現代人に求めている主体性なのだとぼくは思う。これは「枝葉としての幸福追求」や「潔い撤退」に通ずる課題である(p70)。  こういうペーパーに葛藤しながらも、なんとか対応しようと夢中になっている自分にふと気づくとき、ぼくはぼくの自我が紆余曲折しながらも拡大しつつあるのを実感することができる(自分の枠組は変わらないまま異質な他者の存在という事実だけを詰め込む自己肥大かもしれないが)。批判的ペーパーとの出会いは、ぼくにとって意味ある他者との意味ある出会いの重要なひとつなのである。そういうことから、最大の「漁夫の利」を得たのはぼく自身だといえる。つまり、指導者が学習者の主体的学習の援助を志向するならば、その援助は、結果としても指導者自身の「自分のため」であったということになるのである。職業的学習指導者の活動は自己決定活動そのものとは異なるが、そうではあっても、内的動機としては「奴隷の覚悟」とは異質な側面があるのは、この予感があるからであるといえよう。 第5章 癒しのサンマのつくり方 1 チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?  −未来型生涯学習支援サービスをめざして−  地域に根ざす教育、地域の教育力、生涯学習の町づくり、そしてコミュニティ意識の高揚など、生涯学習でも地域を重視することが多い。しかし、地域は上下同質競争社会の延長という側面ももっている。私たちは、新しいもう一つの未来型支援サービスの視点から、地域主義の意義と展望を見出す必要がある。 図表10 現代的課題の学習(1992.7 生涯学習審議会、図式化はmitoによる) ◆学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?  悲観的な言い方をすれば、たしかに、現代は、学校も職場も家庭も社会も、そして、地域も病んでいるといえる。「地球規模の歪み」ともいえよう。このような社会の急激な変化のなかでの社会性、公共性、現代性、緊急性に満ちた学習課題を、文部省生涯学習審議会「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)」(平成4年7月)は現代的課題と呼んで、それを学習課題として積極的に取り上げるよう提言している。また、ぼくは、『かくろん』において、「公的課題の優先(プライオリティ)」を主張している。  地域教育力の弱体化も、いうまでもなく現代的課題のひとつである。しかし、病んでいる学校、職場、家庭、社会が、みずからが病んだまま、地域にだけは救世主のような教育力を期待するのはどうみても滑稽だ。受験地獄といじめに窒息する学校があり、家族を省みさせない過労死の職場があり、不和と暴力の家庭があり、不信と争いに支配された社会がある。地域教育力の弱体化も、その現代社会の不幸の反映であるにすぎない。そのみずからの不幸には口を拭っておいて、青少年だけは地域のなかで幸せにさせてやろうとするのは、気持ちはわからないでもないが、そもそも虫が良すぎる話なのだ(逆に、現代社会にも当然ながら幸福の部分もあろうが、ここではふれない)。  大人たちが「自分はともかく、せめて青少年には幸せを」といって、批判の刃(やいば)を自分たち大人に向けないまま地域教育力に期待を寄せるとき、そこで想定される地域は「善」ばかりの、現実感に欠ける空想の産物でしかありえない。このようにして、地域教育力の回復という言葉は、空しいスローガンになり、空念仏と化すのである。うそくさい空念仏をいったんやめにしてみないか。  それでは、そのとき、ぼくたちは地域をどうとらえればよいのか。ぼくは地域を「善と悪」や「毒と薬」の混じりあうアンビバレンツ(両面価値)の場としてとらえる。これが地域の現実であり、そこには同時代の現代人の生きざま、真実の姿が渦巻いている。だからこそ地域はおもしろい。地域には、現代社会のヒエラルキーによる秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。そういうなまの出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。  他者がきれいに整理した事実を、自己の思考の枠組のままにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。なまの出会いによって、真実にふれた思いがして、自己の枠組自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達しえないが、それをどこまでも知ろうとする。これが生涯学習の本当の姿であろう。つまり、事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を、ということである。  この「(真実を)どこまでも知りたい」という自然な人間の欲望が触発され、充足され、際限なく広がる場のひとつが、地域なのである。もちろん、学校、職場、家庭、社会のそれぞれにおいても、このようなワンダーランドとしての側面を強めていきたい。善だけ、薬だけの空念仏や、事実だけの一方的注入はもう飽き飽きした。それよりも、空念仏の虚偽や上っ面を拒絶して、果てしない真実追究に向かう一貫した姿勢のもとに、地域教育力は解釈されるべきなのである。 ◆ 若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか  ぼくは、東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)に年間をとおして講師として関わっている。狛プーでは、プータローの自由な精神をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。狛プーはぼくにとっても一週間に一回は必ず回って来る癒しのサンマである。  そこには、東京、神奈川はもちろん、埼玉や千葉からも若者がやってくる。かれらは若き旅人である。よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる。余談だが、主催者側は、そういう旅人を、夢にも、門前払いするようなもったいないまねをしてはならない。その旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江って、いいところだよ」とまんざらではなさそうだ。実際、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。  地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元するための活動を」という地域から若者への押しつけである。相手の若者だって憲法で居住、移転及び職業選択の自由(22条)が保障されている国民の一員なのに、視野の狭い地域主義に凝り固まった大人の都合で若者の巣立ちを引き止めようとする。過保護・過干渉の教育ママみたいだ。これを御都合主義と呼ぶ。御都合主義の発言も、空念仏と同様、うそくさくて、第三者だったら聞いてらいれないはずだ。  狛プーの活動も四年目に入り、キーパーソン(鍵になる人物)であった何人かが狛江から巣立っていった。T子は、ワーキングホリデーでニュージーランドの牧場に働きにいってしまった。保健婦のM子は、昇進試験に合格し、希望どおり、かねてからあこがれていた小笠原に異動になった。残ったぼくらは淋しさを感じないわけではないが、会いたくなった人は会いにいけばよい。実際、会いにいったメンバーもいるが、それでいい。少なくとも、彼女たちが「狛江を見限った」ことを責める若者はいない。「責めない」なんて当たり前のことのようだが、居住している地域で永続的に活動することを必然としてしまうような御都合主義は、えてしてその逆の非常識なことをやってしまう。  若者にとって地域は巣立ちの場である。自分で空を飛べるようになるまで、いっとき、その地域という巣で、若い羽を育てたり癒したりする。そういう若者が巣から飛び立つとき、大人の人は定住型が多いので、空しさや淋しさを感じるのかもしれない。しかし、巣(地域)の維持のために鳥(若者)があるのではなく、鳥の自己成長のために巣があると考えたいものだ。巣にずっととどまって癒され成長するも良いが、巣から飛び立っていくのも良し、なのである。地域自身が、若者の巣立ちの場としての自己の存在をあるがままに良しとして受け入れることができる(地域の自己受容)ということが重要である。これこそ、ほんとうの地域のプライドの持ち方といえよう。 ◆ 新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス  さきほど紹介した保健婦のM子は、仕事でアルコール依存症の人の家庭などを訪問した日の夜は、しばらく寝つかれないときがあると、ぼくにいっていた。だから、狛プーでは、そういうことを忘れてのびのびと過ごしたいともいっていた。彼女は、ほかのところ(職業)でも、自他の人間存在の真実の悲しみと重さに向き合って生きているのである。だから、それからいっとき逃れて、安心できる仲間のなかで癒されようとすることもある。彼女は一度しかない人生をあるがままに、自然体で、そして大切にていねいに生きようとしているのだ。  彼女は、今までの青年活動のリーダー像とはかなり異なる。「みんなのため」「団体のため」というお題目が彼女の内側にはまったくないといってよい。そして、マス(人のかたまり)よりも一人ひとりの個との出会いを大切にする。また、その個に対しても、「活発に活動しているかどうか」より、個そのもの(ぼくの言葉では「個の深み」)に関心をもつ。実際に提案することは軽やかで、花火大会見物など、自己の嗜好にもとづいている。仕事の忙しさもあってか、狛プーへの出席率も皆勤というほどではない。しかし、そういう彼女が狛プーのキーパーソンのひとりであり、ほかのメンバーも、自然で自発的な支持を彼女に寄せていたのである。ぼくは、これを、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という従来型のグループ運営やリーダーシップとの対比から、「あなたはあなた、私は私」(p72)タイプの新型キーパーソンの登場とみている。  狛プーのメンバーが「狛プーは、あるがままの自分が、両手を広げて歓迎される場だ」と言ったことがある。変容(成長・発達)するためには受容(承認・癒し)が必要不可欠である。若者の「ましなろくでなし」への変容のためには、地域のあらゆるところにそういう無条件肯定ストローク(ストロークとは交流分析の用語で相手の存在に気づいていることを伝える行為、p65)をやりとりできるサンマが必要なのだ。 図表11 求められる3つのちから  相互否定・上下同質競争の魔のトライアングルから、相互承認・水平異質共生の癒しのネットワークへ 上下競争 自他否定 同一化演技 敗北主義 癒しのサンマ 水平共生 自他受容 共感的理解 自立の連帯  従来の青年教育には、娯楽性が重視される一方で、歯を食いしばってでも、頑張って成長・発達し、自己を充実させ、組織や地域に貢献するというガンバリズム(勤勉主義)を奨励する傾向も強かった。これは、戦後の後期中等教育の代替えの場としての青年団や青年学級の位置づけの影響があるのだろう。それらの存在価値は軽視できない。しかし、今の時代に、青年教育について、「高校や大学に行けない人のために、それを補完するような教育をめざす」などと主張する人はいないだろう。現に、高等教育ではない生涯学習の場としての青年教育に大学生が参加する時代なのである。地域の青年教育は、青年補習教育という過去の発想とはすみやかに決別しなければならない。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 3化け 昭和46年の社会教育審議会答申では、生涯学習を必要とさせる社会構造の急激な変化として、人口構造の変化、家庭生活の変化、都市化、高学歴化、工業化などをあげているが、情報化、国際化、高齢化は、一般的にもとりわけ重要な変化とみなされている。これを俗に3化けという。平成4年7月の生涯学習審議会答申でも、これに科学技術の高度化を加えて、現代的課題の学習の必要性が提起された。ここで注意すべきは「化」という接尾語である。量的変化だけなら「化」とはいわないだろう。質的にはどう化けるのか。生涯学習の観点からいえば、情報化は価値がモノから情報に交代すること、国際化はアイデンティティが異文化受容によってしか確保できなくなること、高齢化は現役から引退したあとも生きがいづくりや自分さがしが求められるようになることなどが大きな転換といえようか。 コミュニティ 地域共同体。地域性と共同性の2つが成立の要件。社会教育はもともとはコミュニティにおいて展開されてきた。地域住民は戦後の公民館で地域の共通課題の解決のための学習を続けてきたのだ。しかし、都市化のなかで過去のコミュニティはほとんど崩壊し、町づくりなどの観点からその回復が叫ばれるようになった。社会教育ではコミュニティ意識の涵養、生涯学習推進においては生涯学習の町づくりを進めることは、今や各自治体の常識である。しかし、昭和61年、『社会教育の終焉』(筑摩書房)を書いて全国の社会教育(行政)を震撼させたのは、コミュニティ論者の憲法学者、松下圭一である。松下は「教え育てる」社会教育のあり方を痛烈に批判し、市民文化活動への転換を主張した。そして、指導系職員のいる公民館を嫌い、住民の自主管理によるコミュニティセンターへの転換を訴えた。これが全国自治体の財政当局による社会教育財政締め付けの理論的武器になり、社会教育関係部署に深刻な影響を与えたのである。しかし、そのお陰で、社会教育は、コミュニティ創造の主体としての市民と、それを学びの側面から支援する主体としての社会教育行政という協働の重要性にあらためて気づくことにもなった。今日、そのときの気づきを財産として大事にする必要がある。万一、社会教育行政が「コミュニティ意識の涵養」という名目のもとに住民を「啓蒙」しようとするならば、社会教育は松下のいうとおり終焉するのが望ましいということになってしまう。しかし、これに反して、とくに都市部などでの社会教育の現状は、少なくとも子育てや環境等の公的課題解決のための「テーマコミュニティ」などの学習の支援に関してはかなり有効に機能していると評価できる。ただし、いわゆる旧住民の本来のコミュニティ活動にはあまりうまく機能していないようだ。生涯学習社会にはなじまないヒエラルキーの側面が本来の地縁的コミュニティにはあるからなのだろう。また、それとは逆に、農村部のなかには、結果的には従来の地縁的コミュニティの上下同質競争の性格の存続・強化のために「貢献」してしまっている社会教育まであるかもしれない。いずれにせよ、今後は、テーマコミュニティなどの新しい生涯学習社会に向けた活力を、旧住民を含めた本来の地縁的コミュニティ形成に無理のないかたちでどう生かし、つなげるかが、コミュニティ形成に資する社会教育の課題になるといえる。 地域の教育力 地域には学校だけでなく、公共施設、民間施設などの施設・設備があり、自然がある。また、ソフト面では、文化があり、人がいる。これらのもつ意図、無意図の教育機能の活用の重要性が叫ばれている。また、子どもにとっては、地域は、自治や異年齢交流を体験できる場である。しかし、そういう期待に反して、地域の現実は青少年の人間形成にとってむしろ危機的状況にあるといわれる。地域が青少年にとってそのような居心地の悪い場だとすれば、それは大人にとっても同じことのはずだ。支持的風土にあふれた生涯学習の町づくりをめざすことこそ、子どもにとっても大人にとっても地域教育力の根底的回復につながるのだろう。 リーダーシップ 制度的権威に依拠するヘッドシップ(ボス、会長など)と異なり、メンバーが自発的に支持を寄せる人格的権威に依拠する。ゆえに、本質的にネットワーク型であり、さまざまなメンバーが流動的かつ多様にリーダーシップを発揮する。 2 出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法  前項でも述べた狛プーのもっとも大きな特徴はネットワーク型運営である。しかも、その癒しのサンマは、公民館の青年教育事業として、公的なかたちで運営されている。そこでの癒しのサンマづくりの実践的な各論を探りたい。また、人びとの自己決定の癒しのサンマを公(おおやけ)が支援する根拠は何なのか。 ◆ ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」  今日までの学歴社会では、多様な人間存在を、偏差値や学校歴などの画一化した物差しで上下に並べて比べる。それは、個性による逸脱を外からも内からも抑制する同質化の圧力として作用する。そして、この上下同質競争の価値観を前提とする社会システムと、その価値観を蹴飛ばせずに内面化してしまった私たちとが、社会全体としてのヒエラルキー存続に貢献してきた。そこでは、上下関係による支配と服従、多様な異質の価値の排除などがますます強化される。しかも、それは、たとえば企業活動においても大企業病等の停滞を及ぼすなど、政治、経済、社会、文化のすべてにわたってネックになりつつある。  これから期待される生涯学習社会においては、一人ひとりの異なる個性が認められ歓迎されるはずだ。人間関係においても、ヒエラルキーの上下関係のなかでの地位・肩書きや制度上の権威などよりも、水平関係のなかでの異なる個性(個の深み)との出会いが求められる。しかし、そういう生涯学習社会を気持ちよく生きるためには、私たち自身に、内なるヒエラルキーと闘い、自由な遊び心をみずから取り戻すことによって、無知で非力な自己を受容し、自己とは異なる他者と共生しようとする精神あるいは主体性(認知、行為、評価)が求められる。狛プーがめざすプータロー精神とは、そういうことである。  初年度の狛プーのチラシの呼びかけ文はつぎのとおりである。  プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。  私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。  狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。  この呼びかけ文の第2段落は、ぼくとしては、ヒエラルキーの人間疎外について批判的に書いたつもりである。しかし、意外にも、このぼくの思いは、メンバーから共感できないといわれることが多い。メンバーのなかには、仕事や学業だってそれなりに個性を発揮しながら楽しんでいきたいと考えている人が多いし、実際に、ヒエラルキーのなかでの「ゲーム」を自由な遊び心でそれなりにこなしてしまう人も多いのだ。あるいは、仕事や学業については、「自分の人生」そのものとは切り離して考えている人もいるかもしれない。その場合は、本人が自覚しているかどうかはともかく、自分の人生のうちで精神的に大切な部分は「ヒエラルキー以外のところで」と考えているのだろう。後者だとしたら、社会と自己の関係のさらなる客観視という課題が、狛プーの今後のテーマとしてあげられる。  狛プーの番外編で、自発的で自然発生的な勉強会が運営されていたことがある。通常の狛プーのプログラムとは別に、メンバー同士でじっくりおしゃべりしてみたいというのである。これなどは、現実社会における仕事や学業に対する他者の姿勢や意見に、自然なかたちでふれる機会として期待してよいだろう。  そこで重要なことは、公民館の職員や講師が直接発問したり、教えたりすることではなく、それぞれの自己と現実社会との関係が受容的・共感的雰囲気のなかで語り合われるということである。勉強会は、公民館の担当専門職員が夜間勤務のときの夜に不定期に行われた。そこでの職員の役割は、非指示的であり、不定形である。これは、学級・講座での司会業や講師代行業などと悪口をいわれるような、現代化しすぎて型にはまってしまった社会教育的支援を、もう一度、本来のなまの人間的な営みに戻すという意味ももっている。 ◆ 自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定  自己の「仕事や学業」についての狛プーの認識の現段階は以上のとおりだが、それよりもメンバーから今日まで強烈な支持を集め続けているのは、「かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために」というフレーズである。この言葉は、コマーシャルなどのふつうの世の中の感覚では当たり前すぎると感じられるかもしれないが、青年活動や青少年教育・青少年行政の世界ではけっこう目新しいことだったようだ。今でも、狛プーの限界としてミーイズム(自己中心主義−利己主義とは異なる)を指摘する青年教育関係者がいる。社会変革の主体形成のための自己教育・相互教育にならないというのだ。  しかし、ぼくはつぎのようにいいたい。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」と思うことがミーイズムだとしたら、ミーイズムのどこが悪いのか。狛プー=ミーイズムでけっこうである。自分の人生を大切にていねいに生きたいからこそ、学習する、仲間を見つける、社会参加する、社会変革をめざすなどに、多様かつ自発的に発展するのであって、参加した一人ひとりが、そのどこに向かって発展しようとかまわないではないか。リーダーやボランティアでさえ、「自分のためにやっている」といえることがさわやかさの条件なのである。  あるいは、つぎのように心配する関係者もいるかもしれない。「ミーイズムが昂じて占星術や新・新宗教、偏狭な自己啓発セミナーなどにはまってしまう場合もあるのでは……」。それだって、もし本人の主体的な自己決定の一環として行われるのであれば、援助者側がその結果にまで責任を負おうとするのは、むしろ傲慢である。あとで「自分の人生をていねいに大切に生きる」につながらないと本人が考えるようになったら、そのとき本人が軌道修正を自己決定すればよい。  何がよくて、何が悪いのかなど、具体的に教えられるものではない。私たちができることは、本人みずからの気づきのチャンスをなるべくふんだんに提供することだけなのだ。これに比べて、従来の多くの青年活動や青少年教育・青少年行政においては、援助者としての潔い諦観(「非力の自覚」または禁欲)が欠けていたのではないか。 ◆ アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物  なんといっても、狛プーのチラシの一番の魅力は、メンバーたちが作る訳のわからないプログラムだ。毎月、いろんなことを、スキゾ的(分裂的)にやってしまう。過去に各地で行われていた青年学級も、今日の一般的な青年教室のようにテーマを絞って目的的に追求するなどということをしないで、高校に行かない青年たちのための総合的な学習カリキュラムを提供していた。狛プーのプログラムは、それに似てはいる。ただし、狛プーでは、メンバー個人個人が、あくまでも自分の関心・興味からバラバラなアイデアを出すのである。  でも、それはバラバラながらも、ちゃんとほかの青年たちに通用するものである。通用しそうもないものも出るには出るが、担当職員やぼくが「えっ、それはどうかな」と言うまでもなく、発案者自身が「あっ、これはだめだな」と言って引っ込めたり、ほかの青年から「〜だから、うまくいかないんじゃない?」と言われて、発案者も「やっぱり、そう? 私もそういうふうにも思ったのよね」とか言って引っ込めてしまうことが多いのである。  むしろ、つね日頃は自らの常識的な枠組を打ち破りたいと思っているのになかなか打ち破れないぼくなどにとっては、「なに、それ?」と思われるようなものの中に、話をよく聞いてみると、「いやあ、やっぱり面白そうだな」と心変わりしてしまうものが多かった。そういうアイデアは、とくに光っていた。「紙芝居」のアイデアが出たときは、ぼくは最初は、「そんなもの、今の青年がやりたがるものか」と内心では思っていた。しかし、あっという間に、「自転車に『狛プー紙芝居軍団』というのぼりを立てて、市民祭で練り歩こう」という所まで話は発展していて、そのときにはぼくも、すでに積極的な支持派に回っていた(ぼく以外に紙芝居反対派はいなかった)。あとになって、この「紙芝居」は、青年たちにとっての、そしてぼくにとっての、素晴らしい自己変容のチャンスのひとつになったのである。  そのことから、ぼくは、「グループによる発想法などが企業などで研究されているけれども、そんなテクニックなんかあまり使わなくても、一人ひとりの心が解放されていて、メンバー間に受容的な雰囲気さえあれば、若者たちはいくらでもアイデアを出せるものなのだ」と思うようになった。それぞれのアイデアは素晴らしい宝石である。しかも、そのひとつひとつが色も種類も異なる宝石だ。 ◆ プータローの自由のつらさ  話を戻そう。ぼくは、呼びかけ文を書いたとき、つぎのように考えていた。「現代青年がいまもっとも求めているものは、自分たち一人ひとりがそれぞれの個性と役割を発揮できる場と、そういう場を創り出すあたたかい仲間関係なのではないか。それは支持的風土の集団ということもできるし、サンマということもできる。狛プーでなぜネットワークをつくるかといえば、本当の理由はこれではないか」。  だが、そういうネットワークの場は、本人にとって最初はかえってつらいものになるときがある。自分の責任でその自由を行使しなければいけないからである。今まで、保護されたり、管理されたりしたことはあっても、自由になったときの恐ろしさは味わったことがないのだ。自由のつらさはプータローの宿命である。だが、このようにして苦しみながらも自由を行使したことがないと、結局は、「保護が足りない」「管理が悪い」などと言って、いつまでも社会や他人のせいにして被害者を演じて生きていく人生の構えが身についてしまう。狛プーは、一人ひとりの個性をできるかぎり尊重することによって、青年が自由の楽しさとともにその怖さを体験し、自己の非主体的な思い込みから自らを解放できるようにするためのサンマなのである。 ◆ 撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」  「いったん集団に入って役割を果たすことになった以上、そこから抜けることは無責任である」、ぼくにはこういう言葉が「不幸の手紙」(同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもの、チェーンレター)のような不幸の分かち合いとして感じられる。他者に対して自分や自分の帰属する集団に同一化するように迫る、ピアコンセプト(p73)の逆機能(否定的側面)そのものではないか。  狛プーは出入り自由のネットワークとして運営されている。だから、「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」と新規参入者(ニュー・カマー)を歓迎するだけでなく、来なくなってしまった人には、「元気? たまには顔を見せてよ」と呼びかけることはあっても、撤退したそのことについての責任を問うことはしない。つまり、反復参加者(リピーター)になることを強要はしないのである。  突然の撤退によって抜けた穴でも、残った人で何とかなるものだ。担当職員は大変だろうけれども、それは学習者の自発性を重んじる社会教育の職員の根源的なつらさである。まあ、役割分担があるのに抜けたくなった場合は、連絡ぐらいすることはネットワークのエチケット(ネチケット<パソコン通信)と思う。このようにしてルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそなのだ。  このように、撤退の自由がなければ、本人がそこに参加しているのもお義理になり、自発性阻害の要因になるのだから、ネットワークには撤退の自由が不可欠であるといえる。しかし、ネットワークは、撤退者にもネチケット以上のネットワーク的資質を要請する。撤退したはずの人がその後の運営に介入したり(OBによる現役支配)、現役への個人攻撃をしたりするなどの「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為をよく見かけるが、ぼくは本当に嫌だなあと思う。自分の未練を他人に押しつけるのは、プータローの自由な精神に反する「悪いわがまま」だ(p29)。ネットワークに撤退の自由の許容を求めるとともに、撤退する個人には潔い「良いわがまま」を求めたい。  ちなみに、ある市の男子成人のグループF会(仮名)の「守っていること」を紹介しておきたい。@政治・宗教を持ち込まない(議員メンバーは複数いる)、A会長をおかない(対外的にはおくときもある)、B会費をとらない、C職場の肩書、社会的地位、過去の経緯を持ち込まない、D来るのも去るのも拒まない、Eさん付けで呼びあう、F多様性を尊ぶ(排他的にならず、少数意見を尊重する)、G集まるときは、自分で作ったツマミと自分の飲み物を持参する。  このようないわゆる「親父の会」が現在、増えつつある。職場での自分だけではあき足らず、地域で他の親父たちとのまさに水平異質交流と友達づきあいを求め、そこで自分らしさの発見や町づくりなどの社会貢献の楽しみを味わうのだ。F会の「守っていること」には、メンバーの親父たちの潔さと、それゆえの楽しさがにじみ出ている。 ◆ 出入り自由の淋しさを受容する  話を戻して、狛プーのメンバーたちも、その辺のところは大丈夫のようだ。撤退するときは、内心は淋しいのかもしれないが、ニコニコして去っていく。適度のおとな心を持ち合わせているからだろう。キャンプだけ参加してあとはまったく出てこない人もいるが、その人などは最初から「みんなでキャンプに行くのが好きだから、それだけ参加します」と言って、キャンプ場では常連のように振舞っていた。  問題は、残された仲間たちの淋しさである。これをぼくは「出入り自由の淋しさ」と呼ぶ。一人ひとりがこの淋しさとうまくつき合えないと、いつまでたってもピアコンセプトの逆機能は乗り越えられないし、ネットワーク型のコミュニケーションを創り出す主体性を身につけることができない。ところが現代青年は、へたに交流することによって相手を傷つけたり自分が傷ついたりすることを極端に恐れている。これは良い意味での自他への優しさでもあるが、その優しさは、「だからコミュニケーションしない」という敗北主義の象徴のような「山アラシジレンマ」(接近したいが、かといって、お互いの針で傷つけ合いたくはないというジレンマ)にも彼らを陥らせるのだ。  狛プーで「出入り自由の淋しさ」を感じながらもその淋しさを受容することは、「結果を恐れるがあまり、したい交流もしない」から、「したい交流はするが、自分の期待どおりに交流してくれない他者の存在も受け入れる」人間に自己変容することにつながっていく。これがネットワーカーとしての資質である。そして、これこそが「山アラシジレンマ」を突破するための唯一の方法なのだと思う。 ◆ よその地域の青年たちの意味  狛プーの「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」の精神(ネットワークマインド)は、当然、狛江市外から、なかには一時間以上もかけて通ってくる青年たちの参加を増やす結果につながっている。これは「地域に根ざす社会教育であれ」というスローガンを平面的にしかとらえようとしない関係者には、好ましくない現象として映るかもしれない。「自分の地域でやればいいだろう」というわけだ。  しかし、ちょっと待ってほしい。狛プーは、今や、現代都市青年にとって、アジールのひとつとしての役割を果たしている。アジールとはもともとは「(自治的な都市などの)不可侵の領域」という意味だが、いわば駆け込み寺であるとして理解しておけばよいと思う。職場や地域の上下同質競争の「正統派」からはじきとばされた人たち(プータロー)は、そんな自分が受容されるサンマを感覚的にかぎつけてアジールに集まってくる。そこでは、活動に加わらずにぼうっと眺めていることだって許されるが、そういう所からこそユース・カルチャー(若者文化)が生まれ、カウンター・カルチャー(対抗文化)として社会の「正統派」の文化に影響を与えて時代を進展させるのだ。だから、狛プーがアジールであるとすれば、それを擁する狛江はユース・カルチャーの発信基地のひとつと呼べるようになるわけである。これは、市全体の風土に若々しい息吹を吹き込んでくれるだろう。  たとえば、狛プーの紙芝居は、市民祭で市内の多くの子どもたちに、そして、その親たちに歓迎された。しかし、ほんとうは、たった一カ月の練習でプロ並みの腕ができあがるわけがない。紙芝居の面白さにはまってしまった気持ちが、狛江市民の気持ちと触れ合って、市民祭の場で共感的な世界を創り上げたのである。 ◆ キャンプは夜だ  過去の青年教育においては、サークル等の目的集団に対する青年団等の生活集団の意義が叫ばれたことがある。そこでは、生活に根ざした総合的な人間交流の意義があらためて評価されていた。もし、そういう人間交流が可能になるならば、それは上下競争社会の一端に風穴を開け、人間解放のユートピアを実現することに近い。しかし、これといった具体的な到達目標を持たずに、生活のなかでの人間交流そのものを目的とする試みなどに現代青年が関心を持つだろうか。私たちのそういうためらいに答えを出してくれるのが、キャンプであり、キャンプの夜であり、キャンプの夜の「空白のプログラム」なのである。  そこでは、気楽なおしゃべりや打ち明け話のなかに、一人ひとりの生活文化が自然にしみだしてくる。共通の文化の確認も楽しいが、異なる文化との出会いは「えっ、君っておもしろいねえ」という感じで、よりいっそう刺激的である。仲間とのつきあいの楽しさとは本当はこういうものである。キャンプは、過去の青年団活動に匹敵する新しい生活集団としての新しい教育効果を発揮してくれるのである。  過去の青年教育にも、日中の正式のプログラムが終わって、夜、寝床で昼の議論の延長戦を行うことを寝床分科会と呼んで、その意義が注目されていたことがある。本音の交流ができるからである。この寝床分科会の意義も軽視できないとは思うが、狛プーのキャンプは分科会の延長でさえもありえない。「寝床分科会だね」なんて言われても、狛プーのメンバーはきょとんとしてしまうだろう。キャンプにつき物のカレーライスではなく、汚いロッジの中だが、ちょっとおしゃれなフランス料理やスープをつくり、ワインなどで盛り上がる一方、個人がそれまで持ってきた「文化」や「生活」そのものがポツリポツリと出される。思いもしなかった他者の枠組に出会って、自分の枠組との違いに驚き、「おもしろい奴だなあ」と感じ、しかも、「そうか。わかる、わかる」と、それなりに共感してしまうのである。  人間は仕事や学業に追われる昼間より、夜のほうが自然体になりやすい。だからこそ、夜になると悪いこともしてしまうのだろうが、それはある意味では人間らしさの表れでもある。「人間らしさ」とは善と悪の混合体である。夜はそういう魔力があるから魅力的なのだ。 ◆ 若者が自分のお金を払う時  大学生でさえ、教科書をなかなか買ってくれない。貧乏なのかなと思うと、彼らどうしの飲み会では割り勘で気前よく払っている。正直言ってコノヤローという気もするが、巷にあふれる若者たちの飲み会は、天から降りてきたクモの糸のようなものなのだろう。ただし、そのわりには、一気飲みや瞬間芸など、それぞれの本心は大切に隠しているような、背中を向け合った淋しい飲み会のほうが主流のようだ。  しかし、狛プーの飲み会は、それとは違っている。狛プーの終了後は、ほとんど毎回、ある飲み屋に流れていく。用事のある人や飲みたくない人は「バイバイ」と帰っていくが、酒を飲めない人でもこれを楽しみにしてジュースで参加する人もいるし、すごいのは、狛プーの終了時刻にぎりぎりにしか間に合わないので、公民館ではなく、その飲み屋に直行して待っているという人がけっこういるということだ。  狛プーの飲み会だってお金はかかるが、それ以上の魅力があるのだろう。ぼくは、これを、飲み屋での自己解放と相互解放ととらえている。ぼく自身も、その飲み屋で、「ここにいるときが一番mitoさんらしい」とメンバーによく言われる。解放されているのだ。依存しているのかもしれない。まあ、たがいに、公的社会教育の参加者や援助者という社会的位置づけから解放されているからであろうが、もうひとつは、おたがいに自前の金を払っているからではないかと思う。 ◆ 空白のプログラム  狛プーのキャンプの魅力が空白のプログラムにあることは先に述べたが、通常のプログラムにもそのような仕掛けが配置されている。というと聞こえはよいが、ようは計画がいい加減ということなのである。しかし、いい加減はよい加減でもある。何をやるかきっちりと決まっているからこそ参加してみようかという気になる、という人たちは多いが、それでは実際には参加者は「やらされている感じ」になってしまう。過剰適応の若者などは、そういう集まりにまでうまく自分を合わせようとしてしまうので、見ていて痛々しいぐらいだ。  これに対して、たとえば、狛プーのプログラムの中の「温泉に行こう」だの「連続お別れパーティー」だのという月は、じつは何も決まっていないに等しい。そのほか、月の切れ目、切れ目も「よい加減」に運営している。たとえば、メンバーの一人が玉乗りのプロであると知ると、さっそく翌週のプログラムは玉乗りの練習にしてしまったり、「正月だからカルタとりをやろう」と一人が言い出すと、「やろう、やろう」ということになって、言い出しっぺが百人一首を持ってくる。そのいい加減さが、参加者をその気にさせるのである。  「せっかく来たのに、予定と違うなんて、どうなっているんだ」と目くじらを立てる人はまずいない。今の若者とはそんなものだ。狛プーのような自由な場では、現代青年でも自由を使いこなせるのである。ぼくはこれをフリースペースの治癒力・教育力だと考えている。  ぼくは、狛プーの通年講師として、ある反省をしたことがある(講師をやっていると反省することはけっこう多い)。記録集のまとめの部分を作っていたとき、ぼくは早く完成させようとやっきになっていた。担当職員がいつものように無駄話的な茶々をしばしば入れていた。ぼくは、「おいおい、早く片づけちゃおうよ」と言った。そうしたら、その夜の飲み会で、ある女性メンバーに、「mitoさん、焦ってるんじゃない? ○○さん(担当職員)のペースのほうが私はいいわ」と言われてしまったのだ。彼女にその理由を聞いたところ、「今日は、プログラムが何も決まっていなかったから、久しぶりに飲み屋さん以外でも、おしゃべりのためのおしゃべりができると思って楽しみに来たのよ」と言う。それで、ぼくは反省したのだ。  たしかに、効率的にまとめができあがったからといって、それが何になるのだろう。プログラムを自分で設定して、その設定に沿って参加者を楽しませる、そんな過去の社会教育の枠組に、ぼくのほうこそ縛られていたのだ。逆に、担当職員の「職員らしからぬ言動」は、彼の本領発揮、面目躍如の行為であり、さらにはユースワーカーとしての社会教育主事の存在意義そのものであったのだ。もちろん、彼は一方で、市内のすべての独身寮を調べ上げて、自転車でチラシを下足入れにまきにまわるなど、広報等のための最大限の努力はしている。  フリースペースの創造のための職員や講師の働きかけのあり方は、簡単そうで難しいし、難しそうで簡単だ。ぼくは、狛プーで、そういう意味でもおもしろい体験をさせてもらっている。 ◆ 善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心  狛プーにはこれといったスローガンがない。あるとき、狛プーでキャンプに行くとき、担当者が子どもの野外活動向けの事業の文書を使ってしおりを作ってくれた。そこには「来たときよりも美しく」というキャンプ生活のうえでのスローガンが書かれていて、それを読んだぼくらはいっせいに吹き出してしまったのだ。いつもの狛プーの風土からは、そういうスローガンはかなりのミスマッチだ。  狛プーのいつものペースだとつぎのようになる。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。ぼくなどの気の利かない幾人かの者は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べてふとん干しをしている者までいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかでは感動する。もちろん、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。  つまり、狛プーというところは、善導とかスローガンとかの言葉とは無縁の時空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーが大切にする言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そういうなまの言葉は、受け取る相手によって、薬にもなり、毒にもなる。どちらにするかは、聞く側の自由であり、自己決定に任される。  では、なぜ、狛プーのメンバーはそういう真実の人間存在との出会いを共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(ミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自己を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が自分を写し出す鏡になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることが魅力的なのだ。  2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組が、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これは、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間存在が発する根源的な欲求であるといえよう。  3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さが、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかで「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると評価することができるのである。 ◆ 狛プーはスムーズな自己開示のネットワークである  ぼくが大学のある授業で、人間の偶像崇拝的なある行為について依存の表れであると批判したところ、ある学生に「先生は傷ついたことがないんですか」と書かれてしまった。「それを信じてその人が幸せになれるのならいいではないか。だから、批判すべきではない」というのである。批判しないで、つまり批判事項だけ除いて交流するコミュニケーションの何と空疎なことよ。あるいはまた、あるボスを偶像崇拝するファシズムが表れても、ぼくたちは「その人たちが幸せになれるのなら」と言って批判を避けなければならないのか。社会とはそんなに個人がばらばらに生きていけるものではない。しかも、その優しさのわりには、自称「傷ついた人」は、ぼくが触れられたくない過去に傷ついたかどうかまで問うてくる身勝手さをも兼ね備えている。  人間は、親に全面的に依存できる時期を過ぎて、現実原則を働かさなければいけない社会に出ていく。それを楽園追放という。そのときに、すでに、痛みは不可避的に生じるのである。痛みを経験していない人などはいない。気づかないようにしている人は、たくさんいるかもしれない。しかし、そういう痛みをつらくて乗り越えられないでいる人が、深みをもっていることを証明された人間のようにほかの人を見下し、責め、結局はなんだかかえって威張っているような今日の状況に、ぼくは異議を申し立てたい。「個の深み」とは、痛みの大きさによるのではなく、その人が自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているかによるのではないか。  この事例にぼくは現代青年のもっている変な思考回路を感じる。快適なコミュニケーションのためには相手に心を開くこと(自己開示)が不可欠であるが、だからといって、開きたくない心まで無理に開くことはないし、また、逆に、「心を開かせることが必要だから」といって、相手の人格にまで立ち入って論じたり、過去を詮索したりすることなどは誰にもできないはずだ。その双方の暗黙の合意なしには、心を開くコミュニケーションなどできるわけがないし、山アラシジレンマに陥ってしまうことも目に見えている。若者たちの多くが、心を開きあうコミュニケーションや完全な相互理解を非主体的にでありながら、憧れすぎているために、その結果、実際には安心して自己開示できないという皮肉な結果に陥っているのではないか。  傷ついた若者たちがもっている敗北主義は、現在、被害者を演じようとする思考回路にはまっていて、それがそれなりの自分勝手な安定感を生み出し(自動化、p52)、本当は癒されたいのに、このようにニッチもサッチもいかない状況になってしまっていると思われる。そういう現代社会において、狛プーの青年たちが培ってきたネットワークマインドの朗らかさと潔さは、とても重要な役割を果たすことができよう。ぼくは狛プーでの若者たちの自然なコミュニケーションを見ていて、つぎのように考えた。「開きたい心を開きたいときに安心して開くのが、自己開示のコツである」。狛プーの存在は、自他への信頼を失いつつある現代青年にとって、基本的信頼感を回復するための、スムーズなコミュニケーションのサンマとして機能している。 ◆ 男と女の出会いのための公的サービス  狛プーは狛江市中央公民館の青年教室事業として、つまり、公式の青年教育の一環として行われているものである。そういう場合、主催者側は、公金を支出したり専門職員等を配置したりしているのだから、その公的根拠をきちんと示せるようにしなければならない。社会教育活動自体の主人公は住民の側にあり、その自由は最大限に保障されるのだが、社会教育行政の側には、公金を支出してその事業を行うことがどんな公的意味をもつかを明らかにする義務がある。  たとえば青年教育の場合、青年期特有の課題として、望ましい恋愛や結婚の相手を見つけるということが今まで重視されてきた。そのための援助サービスも、必ずしも一概に税金の無駄遣いと非難することはできない。それは青年期の不易の課題だし、これによって個人の幸福追求などに資することができるだろうからである。しかし、青年教育が結婚相談所やたんなるお見合いパーティーの場になってしまっていいのかという疑義は残る。個人レベルの問題解決にはとどまらず、社会創造の意義などにまで発展するからこそ、公的社会教育は他の民間サービスとは異なる独自の教育的役割を発揮できるのだから。  狛プーの場合にも、メンバーのあいだに恋愛関係が生まれることがある。しかし、そのとたんに二人は狛プーの活動から遠ざかってしまうなどという、ほかでよく見られる「くだらないミーイズム」の現象はまったく起こらない。むしろ、その二人がますます「番外編」の仕掛け人として活発に活動したりしている。二人だけで過ごす時間も大切にするけれども、狛プーのなかで二人としての価値を発揮する時間も大切にする。みんなと過ごす時間も、二人にとってはそれはそれで充実していて楽しいからだ。これこそ「報われるミーイズム」の姿である。さらには狛プーには若い主婦だって参加している。「主婦業だけに埋没するのはいやだ。まだまだ青年として、たくさんのいい仲間たちと出会っていきたい」という彼女の参加動機は、きっとよりよい妻や、よりよい母としての自己成長という望ましい結果にもつながるだろう。それは、会社人間であった男たちの最近の変化としての家庭復帰や自分さがしと同様の意義をもっている。つまり、自分を○○さんの奥さんや○○ちゃんのお母さんと呼ばれるような固有名詞のないばらばらな存在としてではなく、ひとつの統合された自分自身(アイデンティティ)としてとらえたうえで、家庭・地域・職場でのそれぞれの自分の存在価値をバランスよく発揮しようとするのである。  今日の社会においては、恋愛や結婚は、基本的には二人だけの幸せや不幸せの問題として自己完結しがちである。ところが、狛プーにおいては、男と女がいつのまにか一対一で出会っていると同時に、ネットワークのなかでの二人の役割発揮を味わう。反面、恋のさやあても起こりうるが、それは仕方ない。ここでいう仲間を社会に置き換えて考えてみれば、狛プーの場の提供という公的サービスが、ほかの行政分野では遂行困難な役割を実現していることが理解されよう。  このように心地よい男女関係を実際にこの現代社会において創り出しているということは、上下競争一辺倒の学校歴偏重社会から、異なる他者をたがいに受容しあってともに生きようとする生涯学習社会に転換するという社会的課題を、ここでは男女の出会いの面から実質的に達成しつつあるということになる。それは、現状否定や告発だけに終始するような他者依存的な運動とは違って、提案型のネットワークであるといえる。ただし、もちろん、青年教室という公的社会教育に支援された突出的時空間において、という限定付きであるが……。 ◆ いい男といい女さえ支援すればよい  それにしても、恋愛問題をはじめとして、このように「いい男といい女」が期せずして狛プーに集まっているのはなぜだろうか。その積極的理由としては、狛プーが最初に述べたような「自分の人生をていねいに大切に生きたい」という彼らの心に呼びかけ続けていることと、彼らが「自由への恐怖」を突きつけられるなかで、みずからの内なる差別意識や被害者意識と闘い、たくましく自己成長し続けてきたことがあげられる。そして、本項ではつぎのことをいいたいのだが、逆に消極的理由としては、いい男やいい女ではない人、あるいはそうであろうとする気がまだわいていない人がいるとしたら、そういう人は狛プーから自然に「排除」されていくということなのである。  たとえば、今の世の中の風潮では、「人を傷つけてもいいから、自分の傷を癒したい」という不幸な認識をもっている人たち(スパイ)は残念ながら多い。現実社会では、そういう人が幅をきかせたりしている。たとえば、相手の女性が傷ついてでも、自分のナンパが成功すればよいなどという男性は、たくさんいる。狛プーに来ている人たちは、そういう現代社会の人間関係がいやで狛プーに来ているのだから、上下同質競争社会からの「スパイ」が入ってきては困るのである。ところが狛プーでは出入り自由が原則だ。スパイの新規参入も自由なのである。そういうとき、担当の職員や講師のぼくに、そういう人の排除を頼むメンバーもいる。しかし、その排除行為をぼくらが請け負ってしまったら、狛プーの存在価値はなくなるとぼくは思う。ネットワークの支援ではなく、ファシズムになってしまうからである。  やはり、望ましいのは、「いやだ」と思った人が「あなたの○○という行為は、私はいやだ」とさわやかに自己主張することなのだ。その人から電話がかかってくるのがいやだったら、「あなたからの電話はほしくない」ときちんというべきなのだ。ちゃんとそういうふうに主張できる人も狛プーにはいる。これが自立したネットワーカーの態度である。そのことによって、スパイたちは狛プーから自然に排除されていく。相手には弱みにつけいる隙がなく、これ以上関わるとかえって自分の内面にダメージを受けることに気づくからである。つまり、ここでの排除とは、規制や規則などによってではなく、さわやかな自己主張などをとおして個々人が内面的に排除することである。  だから、逆にいえば、狛プーのメンバーが狛プーのサンマ以外の場でもこの世でたくましく生き抜いていくためには、スパイが単純なナンパ目的などで少しは入ってくれるのも、人びとがいがみあう現実社会のなかでどう生きるかという現実原則を学ぶ絶好のトレーニングの機会になるのだ。それに、さわやかな自己主張ができれば、それは基本的信頼を示す行為の一環でもあるのだから、もしかしたら、スパイにとっては生まれて初めてのいい体験になり、「イヤなヤツ」から「いい男いい女」への自己変容の可能性さえなくはない。人間は無限の変容の可能性をもっているのだから。どちらにせよ、いい男といい女だけが狛プーに残るという同じ結果になる。  ここで、「いい男いい女」の定義は、まだしていない。p110に「自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているか」と書いたが、そのほか、「人に傷つけられることよりも、人を傷つけてしまうことを心配する人」、「被害者意識に陥らず、さわやかに主張できる人」、あるいは、「いやなときは、潔く撤退して静かに微笑んでいる人」などと定義ができるかもしれない。どの場合でも、もともと弱い存在としての人間が、それほどの徹底したいい男いい女になれるわけがないとも考えられる。人間はだれでも「ろくでなし」であることにはかわりない。だから、実際には、いい男いい女になりたいと思って生きている人、つまり変容等の対象を自分自身に向けている人たちのことを「いい男いい女」というべきかもしれない。  学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、「人が多様な個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、他者を打ち負かすことを目的にした資格取得などばかりが評価されて非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に資するものとはいえない。狛プーなどのネットワークでは、イヤなヤツが得する目にあうのではなく、いい男やいい女こそが報われる関係を自然に創り出す評価システムを内包しているのである。  社会教育の全国的状況からみても、前項で述べた公的サービスの存在意義を考えると、よっぽどの人的・財的余裕のない限り、いい男いい女になりたいという意思のないスパイやイヤなヤツに追従するようなサービスをする必要はないといえる。そんな余裕があるのなら、本来は社会からいい男いい女として評価されてよいはずの一部の青年たちが、現代社会では癒しのサンマを味わうことなく疎外されて生きている現実を、関係者はもっと深刻にとらえて、せめて「何とかしたい」ぐらいには思うべきである。現実には、全国の青年教育の場で、いい男いい女が集まってくれているとは思う。ただ、行政側や担当者が、「行政の公平の原則」を機械的に適用してしまって、参加者が少ないなどの理由からその事業に消極的になったり、表層的な事業展開をしたりしがちであり、そのためにせっかくのいい男いい女の参加を生かしきれていない結果に陥っていると思うのだ。いい男いい女や、そうなろうとしている人をこそ、行政は支援すべきである。 ◆ 「おうち」としての狛プー(狛プーの公的・現代的意義)  先日、見学者との交流会で、ある狛プーのメンバーが「狛プーはおうちだ」と言った。学校や職場も、疲れるときはあるけれど、それなりに楽しい。充実している。しかし、狛プーはそういう「外の世界」の延長ではなく、それらの外の世界から帰ってきて、また外に出かけていくための安心できる足場、つまり「おうち」のままであってほしいと彼はいいたかったのだと思う。  そして、少なくともその交流会では、狛プーのメンバー全員が、「狛プー自体が全体でボランティア活動などによって社会に参加することになるとしたらいやだ」と言っていた。狛プーに関わりはじめてから、多くのメンバーが自信と元気を獲得し、自分にあったそれぞれのかたちでの多様な社会参加を、いつのまにか、ちゃっかりと、したたかに始めている。それにもかかわらず、狛プーについては「おうち」のままであったほうがいいというのだ。  ぼくには、最初、これが意外だった。人間は元気がでてきたら社会にも主体的に関われるようになる。もうすでに何回も述べたとおり、癒しのサンマとしての狛プーの、しかも公的社会教育の一環としての意義はぼくもつくづく感じていて、狛プーが開かれる毎週木曜日の夜をぼく自身も楽しみにしているぐらいだ。しかし、「狛プー自体は社会参加しないで」というかれらの気持ちに「えっ」と思ってしまったのだ。それは、まず癒される、そうしたら次に社会参加(ボランティア、地域活動、市民活動)に発展するというような過去の社会教育指導者にありがちな固定的で図式的な思考と、狛プー自体も社会参加に発展しないかという期待が、ぼく自身のなかにもあったからだろう。  その抑圧されてこりかたまったぼくの思考が、「狛プーはおうちだ」という言葉によってするすると解き放たれていった。そういえばおうちというのは、どんなに大人になってもいつまでも必要なものなのだ・・・・。おうちにとどまっていては発展がないというのではなく、おうちも外の世界への参加も、どちらも同時進行的に癒しと変容のサンマになればよいというだけの話なのだ。  以前、狛プーの女子学生メンバーが、自分が受講している大学の社会教育系のゼミで狛プーの実践を発表したら、他の男子学生から「癒しのようなそんな私的なことだったら、公民館や社会教育主事に頼らずに、自分たち自身でやるべきだ」と言われたといって考え込んでいたことがあった。彼女からそれを聞いて、ぼくもその男子学生の発言が頭に引っかかっていたらしい。そのため、狛プーのメンバーの何人かが自発的に各様に社会参加するという「いまの到達段階」だけではなく、狛プー自体が社会参加して地域や社会に対して公共的役割を果たすようにならないか、などと勝手なことを思っていたのだろう。  しかし、いま考えれば、その男子学生は、社会教育のいう「自主性の尊重」の意味をまだ生半可にしか理解できていなかったから、そして、現代社会に生きる人びとの癒しへの願望の正当性を十分には支持し得ていなかったから(私的であるという理由で!)、さらには公的社会教育がそもそも私的である個人の成長をなぜ支援するかを自分の頭で主体的にはとらえていなかったから、そんな発言をしたのではないかと思う。いまのぼくなら彼にこう言うだろう。「現在の公民館や社会教育、青年教育というのは、しかめつらをしないでもっとのびのびと楽しみ、安らげるところになりつつあるんです。そして、そういうサンマをつくることこそ、現代社会に生きる人類の幸福追求のために行政が優先して支援すべき緊急な公的課題なんですよ」。  ひとは「おうち」すなわち癒しのサンマがあるからこそ、「外の世界」すなわち社会に出かけ、また帰ってくることができる。だから、だれにだってそういうおうちが必要である。もちろん、もしそういう居心地のよいおうちをつくれる環境を、いまの社会が十分に提供できているのなら、おうちづくりなんか自分たちで勝手にやれと突き放してもいいだろう。だが、不信と孤立の現代社会の状況を考えると、そんなに楽観的なことはとうていいえない。「自分たちでやれ」と突き放した人自身だって、現代社会では実際には不十分なおうちしかもっていないはずである。「おうち」は緊急に整備が要請されている心のインフラストラクチャー(社会的基盤)なのである。  逆に、むしろ社会に関わる運動こそ自主的に、つまり自分たちで勝手にやるべきではないか。また、行政側が、青年や市民の一人ひとりに対して、ちゃんと社会参加につながったかどうかを気にすることも、考えてみればちょっと余計なお世話だ(行政が行政効率の向上の面からそうしたくなる気持ちはよくわかるが)。社会参加をする、しないは、ごく個人的で微妙な決断に委ねられるべき事項だからである。そんなことよりも、全国民がおのずから社会参加することを自己決定したくなるような、元気が出る自他受容と自己変容のサンマ(図表1、p9)をあちこちにつくることこそ、公的社会教育が責任をもってその社会的基盤づくりのための条件整備をし、参加者主導で進めていくことが、いま強く求められているのではないか。 ◆ 癒しと成長、受容と変容の循環  上下同質競争社会におけるキャッチアップ型教育(追い付け、追い越せの教育)は、学習者の成長・発達ばかり重視してきた。しかし、本人が生きる意味としては、本音の部分では、癒し・安らぎという要素も、成長・発達と同様に大切だ。それはなぜか。  孔子の「川上の嘆き」はつぎのとおりである。「子、川の上に在りて曰わく、逝者は斯くの如きかな。昼夜を舎かず」。通釈は「孔子が、川の岸辺に立って言った。昼も夜も、一瞬もとどまることなく流れ続ける、この川のように、学問もまた、そうでなければならない」。ところが、駒田信二は、この通釈の後半部分をつぎのように批判している(『論語−聖人の虚像と実像』岩波書店)。  川のほとりにたたずんで自らを嘆く孔子の姿には、人間的な大きなひろがりがある。だが、時はこの川の流れのように過ぎてゆくものゆえ、瞬時もおこたることなく学問にはげみなさい、などと教訓を垂れる孔子の姿には、それがない。「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」(伝、朱子「偶成」)という、口やかましく窮屈な、しかめつらしい顔をした、しかし、なんのなやみもなく自分の言葉に満足している先生の姿があるだけである。なんと魅力のない聖人像であろう。孔子がそんな小さな人であるはずはない。  宇宙や人間が有限なゆえに、また愛や存在の確証がないがゆえに、宿命としての無常観や、現代社会による個の抑圧にさいなまれている人間に対して、癒しを捨象したうわべだけの教育は非力(善導やスローガンという虚偽)である。その逆に、非力(無常という真実)を自覚した教育こそが現代人に癒しをもたらす可能性をもつのである。  開きたい心を安心して開くことのできる水平異質交流の突出的なネットワーク(p110)によって癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向でもスムーズに作用する。ひとことでいえば、受容と変容は好循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組を自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善する(変容)ことができるのだ。これが潔い自己決定につながる(図表1、p9)。ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容は必ずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う。また、ここでの癒しのサンマは、きたるべき社会やコミュニティのあり方の予言者であり先駆者である。そういう意味から、狛プーが追求しているものは、まさに、公的課題であり、現代的課題であるといえるのだ。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 公民館 戦後、当時の文部省社会教育局社会教育課長、寺中作雄の公民館構想(「寺中構想」)は昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実した。この通達では、公民館の運営上の方針としてつぎの7つがあげられている。@町村民が相集まって教え合い、導き合い互いの教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である。A町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある。B町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である。C町村民の民主主義的な訓練の実習場である。D中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所である。E全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する。F郷土振興の基礎を作る機関である。上の7つから、公民館の職員が上から住民を「教え育てる」(松下圭一)などという発想はもともとはなかったといえる。町村民主体の相互学習の場だったのだ。その後の公民館にそういう発想があったとすれば、その後の行政や職員のセンスの欠如や勉強不足の問題なのだろう。 青年教育 戦後の社会教育の主要事業の一つであった。団体活動においては青年団、学級講座においては青年学級である。しかし、高度経済成長などの社会の急激な変化のなかで地域青年団は減少の一途をたどり、青年学級にも若者が集まらないようになった。当時の青年教育担当者は、青年にはほかに楽しく遊べる場がいっぱいあるのだ、まじめな学習なんかしたくないのでは、といって青年教育から撤退していった。たしかに、婦人、高齢者など、講座を開けば来るという人を対象にした事業のほうが住民ニーズに沿っているようにも見える。しかし、「集まらない青年」に責任転嫁する前に、みずからの企画が時代の青年のニーズや社会的要請に応えているのかという自己点検の努力が必要だったのではないか。集団学習 集合学習のうち、団体活動や学級・講座など、学習者どうしの相互教育が期待される学習方法。集団というと全体主義的なマイナスイメージもあるが、社会教育では民主性が重んじられてきた。そして、現代社会に生きる人びとが求めているのは、人間関係がゆるやかに連帯するネットワークによる癒しのサンマという「集団」なのだと思われる。 公的課題の優先 平成3年4月、『かくろん』においてぼくが提案した概念。翌年7月には、生涯学習審議会答申が、ぼくの趣旨には近いが、もっと高い視点から洗練されたかたちで「現代的課題の学習」の提言を行っている。しかし、ぼくの提案の場合は、市民の自由な生涯学習を支援するための学習プログラム提供において、行政がなぜ、何を根拠に、学習課題を取捨選択するのかという、公的社会教育の存在理由を問う、よりどろどろした問題意識から発していた。そこでの「公的課題の優先」の論旨はつぎのとおりである。生涯学習のネットワークは自治というよりも「個治」であり、どの学習課題も差別されない。それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政職員の個人の意図によってではなく、行政課題の遂行という責務のもとに行動を決定する。そこでは、たとえ市民の自由な生涯学習のネットワークに対する援助や問題提起であっても、その学習課題に優先順位がつけられていく。まずは、行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先すべきである。ただし、私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としている。だが、これを操作概念として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられる。なお、これはあくまでも「優先順位付け」(プライオリティ)の問題であって、市民の自由な生涯学習に対する選別行為とは無縁のものである。 第6章 生涯学習時代における大学の役割 1 高等教育の根底的転換  最近、大学がますます大衆化し、さらには今後の生涯学習時代に向かって、「継続高等教育」すなわち大学を本格的な生涯学習機関としてとらえなおす動きがある。しかし、他方、それが大学入学者人口の激減を目前とした大学側のただのサバイバル戦略にすぎないとしたら今までの大学の存在価値まで失うことになる。 ◆ 現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として  いまや高等教育(大学・短大)においては、学生の恒常化した私語によって授業が妨げられる、大学生なのに知的に幼稚であるなどのことから、大学の授業が存在する意味さえ疑う教員もいるほどだ。こういう高等教育の権威失墜が生み出された社会的背景としては、@従来の学歴偏重(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を評価することはできないという社会的な認識が普及しつつある、A逆に学校歴偏重(どこの大学のどの学部の卒業か、など)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしている、という2つの理由があげられよう。だから、ごく一部の大学・学部の「自他ともに認めるエリート予備軍」を除いた大多数の学生が、「賢明にも」学士になるだけのための教育には、過大な期待や、その受け手としての自負をあまりもたなくなっているのだ。  そういう状況の一方で、現役学生を含めた多くの現代人のなかで、生きがい創出、自分さがしなどの自己実現や、職業、ボランティア活動などの社会的役割遂行のための切実な学習欲求が、急激な広がりと深まりを見せている。これらのニーズ全体が、生涯学習社会形成に向けた社会創造のパワーとしてふくらみ始めているのである。そのふくらみは、革新のない過去の高等教育が色あせていく道程と、あたかも反比例するかのような目覚ましさである。生涯学習関連事業の実施のなかでそういう人びとの猛烈な学習欲求に接している大学のほうも、新しい出会いと気づきの体験による自己革新をしている最中である。  こういう大学の革新によってこそ、従来の学歴偏重社会のエリートを育てる方向ではなく、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」(学校教育法第52条「大学の目的」、短大は若干異なる)という本来の方向での高等教育の根幹部分の進化・発展も可能になる。つまり、大学の枝葉の役割としての狭義の生涯学習関連事業だけでなく、高等教育全体のあり方が生涯学習社会の形成というフレームのなかで考え直されなければならない時期にきているのである。 ◆ 市民の高度化・多様化する学習ニーズへの対応を  生涯学習あるいは成人の学習の特徴として、自己管理型学習(self-directed learning)であるということがあげられる。すなわち、みずからが学びたいと思うこと(欲求中心の即目的的学習)や学ぶ必要があると思うこと(課題中心の問題解決学習)を、学びたい手段で学ぼうとするのである。大学の生涯学習関連事業もそれに対応しなければならないのは当然であるが、その場合、これらの市民の学習ニーズの高度化、多様化に留意する必要がある。  たとえば大学公開講座では、その生成期においては、「一般市民のため」という名目のもとに、市民に対しては高等教育としてのレベルを根本からないがしろにしたり、「教員の公平な分担」という名目のもとに、テーマの焦点化されていない総花的で非体系的なプログラムに陥ったりする傾向があったようである。しかし、最近の公開講座は、高度化する市民の生涯学習ニーズに応えて、本来の高等教育機能の拡張としてのレベルの高い公開講座を志向する大学が増えている。  今後も、学習者層の拡大のためには、入門的で広い範囲の親しみやすい学習内容の提供が必要ではあろうが、大学側がそれだけに甘んじていて、市民の高度化、多様化する学習ニーズに対しては、人がたくさんは集まらない、手間がかかる、などの消極的な理由から対応できないままでいると、その事業を大学が行っているからこその魅力を失い、よって、深い意味での学問の楽しさをも失って、いずれは市民から見離されることにもつながりかねない。 ◆ 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を  数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。  市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。  そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。 ◆ 高等教育の制度等の柔軟化と個性化を  過去の学歴偏重社会においては、固定的な年代や時期の、固定的な一定期間の、固定的な場で行われる高等教育に重きがおかれ、それ以外の学習や卒業後の学習には比較的、関心が払われてこなかった。しかし、今後の生涯学習社会においては、社会の変化や進展に応じて、卒業後も繰り返し教育の場に立ち返って学習(リカレント学習)を進めることが求められていることから、大学の側もそういうニーズにいっそう柔軟に対応していく必要がある。これが継続高等教育機関としての大学の役割である。  このことに関連して、2つの重要な生涯学習の観点を述べておきたい。それは、@人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、なるべくその時期を逸しないようにして、それぞれの時期の課題に適した学習を行うことが望まれるという観点、A人間は一生のあいだ、さまざまなかたちでつねに変化・発達を続けることが可能な存在であるのだから、生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができるという観点、である。従来、とくにあらたまった論議などでは、ややもすると@ばかりが強調され、生涯の各時期における発達課題が固定的に受けとめられてきてしまった傾向があったのではないか。大学側が本音のところではそういう前者の考え方だけに固執しているのだとすれば、せっかく大学の扉をたたいてくれている社会人や大学既卒業者は救われない。「思い立ったが吉日」「人生、すべて勉強」などのごくあたりまえの庶民感覚を大切にしなければならない。 ◆ 市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を  現在、欧米では大学拡張と呼ぶより継続高等教育と呼び、生涯学習機関としての自らの役割への自覚をますます高めている。大学の生涯学習関連事業においても、学習者中心のサービス姿勢を徹底することが今後の重要な課題となろう。いまや多くの大学が施設開放を行っており、大学の市民への開放性の高まりを感じさせるが、その開放性がどれだけ市民の実際のニーズとマッチしているかについては、まだまだ覚束ない大学のほうが多いのではないだろうか。「大学教育に支障のない限り、自由にご利用ください」という姿勢も発展のひとつだろうが、生涯学習の時代はそのつぎの段階への発展を大学に求めているのである。それは、届ける、触発する、という姿勢である。  校舎や体育館やグランドなどの施設はまさか「届ける」というわけにはいかないが、大学を訪れたいと思った市民がどれだけ容易に目的地に到達できるか(アクセシビリティ)を配慮する精神が求められる。車のない人はどうか、お年寄りはどうか。また、車椅子でも、大学の玄関から2階の開放している図書館に上れるだろうか。さらには、バス停を降りてから大学の玄関までの歩道はどうなっているか。居合わせた自校の学生は、お手伝いするだろうか。こういう心配りをすることをオープンマインド(開かれた心)というのである。全国的にもエクステンションセンターの名称などで、市民開放用の施設を大学の立地とは別に街中に設置する同様の動きが見られるが、最大限のアクセシビリティのための試みとして評価できる。 ◆ 市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を  とくに「きびしい生涯学習」については、どうしても高等教育の過去のイメージを引きずってしまい、市民側も大学側もともに、教える側の制度化された権威が至上のものになりがちである。そして、「学びたいから学びたいことを学んでいる」という自己責任の原則が忘れ去られ、市民側の学習態度を依存的なものにしてしまうのである。これでは、生涯学習も、過去の教授者主体の「一斉承り型学習」とあまり変わらない非主体的な学習という結果になってしまう。  もちろん、大学卒業資格や単位の取得という学習結果の存在意義を全否定することはだれにもできないだろう。しかし、生涯学習社会への転換において大切なことは、そういう資格・単位の認定に関わる制度的な改善をも含めた評価の適正化である。学校歴に偏ることなく、学習歴を問わなければならないし、また、単位や資格の取得を争う大人同士の受験地獄にしないためには、学習結果としての学習歴にも偏ることなく、一人ひとりの多様な個性と持ち味のある学習の経過をも尊重しなければならない(p39)。  さらには、学習成果の評価についてのより本質的で積極的な意義としては、何よりも学習者本人がつぎの学習行動を主体的に決定するために不可欠であるということがあげられる。それゆえ、適正な評価のためには、アンドラゴジー(p13)の考え方に則り、ガイダンスやコンサルティングなど、学習者と援助者との相互的な営みが必要になる。したがって、生涯学習関連事業においてなされるべき学習成果の評価のあり方を検討することは、従来の高等教育は学生の主体的な学習能力の向上を本当に評価できていたのか、社会教育は市民みずからのもっていた学習目標の講座修了時の到達の成否に関心をもっていたのか、というように、自らの教育姿勢への鋭い問い直しにもなるのだ。  以上に述べた学習成果の評価にならんで、大学教育への評価も重要である。今まで学習者側からはほとんど批評を受けることなく過ごしてきた高等教育にとって、学習者主体の生涯学習とその支援の理念は、自己評価の充実の面でも大きな契機となるだろう。18歳人口の激減を目前にして、多くの大学でサバイバル(生き残り)をめざして自己点検・自己評価活動の取り組みが行われている。しかし、もし18歳人口が減る見込みがなかったら、そういう活動をしなかったのか。それも、「大学の自治」の名のもとに。大学の自治とは、ときの権力の干渉を許さず、しかし、学習者や世間の評価も参考にして、教員が厳しく自己点検・自己評価を行うという前提があるからこそ成り立つことではないか。大学は自己評価することを自己決定すべきである。  もちろん、たとえば、「○○先生はやめたほうがよい」と一人に書かかれたからといって、必ずしも、つぎの事業からはその○○先生を依頼しないようにするということではない。学習者からのこういう事業評価に対して事業者は、「少なくとも、この回答者はそう感じた」という事実を逃げずにありのままに受けとめ(受容)、そのうえで主体的に判断すべきなのである。とくに、大学の授業を学生に評価させる場合などに教員の抵抗が強いのは、相手からの評価のこういう受けとめ方について、まだ理解が十分には広まっていないからなのではないか。教育側と学習側の相互の批評は、否定ではなく批判であり、主体的な両者の基本的信頼にもとづく協働の知的共生活動なのである(批評的ストローク、p84)。このように、市民や学生からの評価を率直に受けとめてこそ、大学の主体的な自己評価は可能になる。  学習側が教育側を批評するということは、自己管理型の生涯学習にとっても非常に重要なことである。学習者が事業評価や授業評価をするということは、学習者が学習者自らの責任を果たすということである。かれらの否定ではない批判は、主体的な学習態度の一環であり、ともに生きる(共生)ための信頼と共感にたどりつくまでのプロセスである。その批評を誠実に積み重ねることによって、学習者の主体性もいっそう確かなものに育っていく。つまり、事業・授業評価は、大学と市民・学生がともに育つための共育活動の一環なのである。 ◆ 学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を  学内の推進組織自体は大がかりでなくてもよいが、大学の総合的な経営のひとつとして専門的に関われる位置づけをする必要がある。企画や調整というラインのひとつとしてか、あるいは、いずれかのセクションの下に置くのであれば、そのラインからやや外れて独自の実行機能をもち、ほかのセクションに対しても全体的に調整力を行使しうるスタッフ機能として位置づけたほうがよいと考えられる。  学内の生涯学習推進組織または窓口をどう整備するかということは、来たるべき生涯学習社会に向かっての大学経営全体の基本的・総合的理念を表すものであり、企業のCIに匹敵するほどの大学のアイデンティティそのものに関わる重要なことがらなのである。 ◆ 他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を  大学どうしで、あるいは行政等の他機関と、さらには地域社会全体と、ネットワークを形成することが生涯学習推進事業を行おうとする大学には必要である。まずは、さしあたり、他大学、放送大学や専修学校との単位互換を考えるべきであろうし、研究や生涯学習推進の面などでの企業との連携も考えられよう。そもそも大学が市民にも目を向けるということは、基本的にはこのような他大学、他機関、地域社会に対して自信にあふれたネットワークマインドをもっているからこそのことである。  ネットワークの特性のひとつは、自立と依存の統合的発展(『かくろん』p168)であると思われる。大学としての独自の存在意義をもっているからこそ、異なる自立的価値をもつ他者と対等に連携することができるのだ。また、そういうネットワークにおいては一方的な関係ではなく、相互のギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。たとえば、大学は行政や地域に対して有益な学園都市の資源としての存在価値を発揮し、行政や地域はそういう大学を信頼し支えようとするのである。このような双方が対等で主体的な協働の関係が、大学の生涯学習ネットワークには求められている。 ◆ 生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を  今まで述べてきたことをもとにして、「生涯学習時代における大学の役割」をぼくの生涯学習に関する基本的な主張を交えて簡潔にまとめていうとすれば、つぎの3点になる。 @ 生涯学習社会を担う学生を養成する役割    −学内で生涯学習を学生に−  現代青年としての学生は、生きる主体性の喪失の危機に瀕している。保護と管理ばかりを学校、家庭、社会から与えられ続けてきたことによって、学習やコミュニケーションなどにおける自己決定、自己管理、自己責任の能力がかなり損なわれているのだ。生涯学習の観点に立って学生の主体的学習を支援し、自己管理能力の向上を促すことによって、かれらを今後の生涯学習社会を担う人材として養成することがこれからの大学には求められている。 A 社会の変化を先取りし、リードする役割    −学内の高等教育を学外に−  急激に変化する現代社会は、つねに自己革新を続けて時代を先取りするリーダーとしての役割を大学等に求めている。とくに職業人は、知識・技術等の急激で高度な発展のなかで、学校卒業後も繰り返し教育を受けて今日の到達点を学び直すリフレッシュ学習の必要を感じている。また、高等教育とは別の形態としての生涯学習関連事業においても、時代のつぎの方向を示す役割が大学・教員に求められている。 B 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割     −学外の生涯学習を学内でも−  成熟化する現代社会においては、人びとの関心はモノからココロに移りつつある。そこでは地位や財産をもつ(have)ための学習より人間らしくある(be)ための学習に価値がおかれる。そのため、癒しと発達の両方が求められる。その学習は、生涯にわたって行われるリカレント学習である。これに対する大学の支援が大いに期待されるとともに、そういう市民の生涯学習との出会いは、大学にとっても学内に吹く「生涯学習の新しい風」として重要である。  多くの大学で生涯学習関連事業が積極的に取り組まれつつある。しかし、その努力が、迫りくる18歳人口の激減に対しての大学サバイバルのための対処療法的な延命策としてだけに終わってしまう大学があるとすれば、それはたんなるサバイバル・ノイローゼの一過性の症状でしかなく、生産的な結果につながらないことは容易に想像できる。もっと、何のための大学か、何のための大学拡張なのかという、大学の本質的な存在確認から事業を発想する必要があるだろう。  ゆえに、大学の生涯学習化(生涯学習理念にもとづく自己革新)の成否は、学内の教員と職員の意識変革にかかっているといってもよい。「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的な守りの経営や、過去の最高学府という空洞化した「権威」への依存から脱却して、主体的学習の支援という大学の社会的な役割を、より時代にあったかたちで遂行し、そのことによってみずからもその役割を味わい、喜ぶ、積極的な攻めの経営に転換する必要がある。これが大学の経営革新の姿である。  最近のまともな企業は、収益を上げるだけでなく、その他の社会貢献活動(フィランソロピー)や文化支援活動(メセナ)などにも積極的に取り組むようになりつつある。これに対して、大学においては、教育(学習援助)をとおした社会貢献や文化支援という活動は、幸せにもそもそも本来的責務である。だからこそ、私学に対しても、やや貧弱とはいえ、国民の税金が支出されているととらえるべきだろう。ただし、そういう大学の新しい責務の遂行とそのための革新は大学の自己決定によるべきものであるし(大学の自治、p127)、それゆえ、惨めなサバイバル・ノイローゼなどとは異なる、自信に満ちた営みでなければならない。大学の変容も、個人のレベルでの学習行為と本質的にはまったく同じ経緯をたどるものであり、自己管理型の生涯学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくできる世界)と出会うのと同様に、大学も自己管理型の生涯学習化のなかで自己変容という本来の学習の楽しみと出会うことができるのである。  自己決定活動の真の動機は「自分のため」である。たとえ指導者が研修を受ける場合でも、「学習者のため」ではなく、「自分のため」といえる人が、学ぶことの意味を知るよい指導者である。また、ボランティアについては7章で述べるが、他の人から「えらいですね」とか「奇特な方ですね」といわれると、嫌な気持ちになるものだ。そういうときは「自分のためにやっています」と答えればさわやかでいられる。自分で「ボランティアをやっています」と言い切る人はあまりいない。それよりは、「こういう活動をやっている」と具体的にいうだろう。ボランティア活動は、ボランティアになるためではなく、何かをするために自己決定したものなのだ。ただ、ボランティア活動をしているある学生が、あまりつきあいのない友達に、自分が何をやっているのかを手っ取り早く答えるためには、ボランティアは便利な言葉だといっていたが……。いずれにせよ、人目ばかり気にする横並び意識や自己卑下のサバイバルと違って、自己決定・自己管理型の自己変容は人間にも大学にも気持ちのよいものである。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 学校開放 学校の施設等を住民による生涯学習等の活用ために提供すること。社会教育法44条には「学校の管理機関は、学校教育上支障がないと認める限り、その管理する学校の施設を社会教育のために利用に供するように努めなければならない」とある。ここで学校の管理機関とは教育委員会等であるが、実際に事故が起こると校長に責任が発生することが多い。学校開放を進めるためには、保険制度の整備のほか、住民やマスコミ等の何でも校長に責任を転嫁するという依存的な悪習を改める必要がある。また、住民によって学校の備品がこわされた場合など、正規の教育課程に支障がないように、教育行政は即日修繕をするなどの優先的措置が大切だ。現在、「余裕教室」(生徒数が減ったため使わなくなった教室)などの増加のなか、学校施設の生涯学習での活用方策を早急に立てることが望まれている。さらに、学校開放には、以上の「施設開放」のほか、教師を始めとする教育・研究機能を住民のために提供する「機能開放」というものがある。公開講座などがその例だ。これも最初は子ども人口の減少や財政削減のなか、「このままだと学校がつぶれる」「教師がクビになる」という危機意識から、「負担は大変だけど仕方ないから」としぶしぶやられてきた。しかし、なかには、自治体によっては「コミュニティ・スクール」などと称して、毎日、住民の生涯学習機関の一つとして本格的に稼動している小・中学校もある。そこでは、先の「学校教育上支障がないと認める限り」という消極論を乗り越えて、「生涯学習する地域の大人たちと生徒を交流させたい」という学校も現れ始めている。そういう学校の校長や教師たちは、自分たち自身の生涯学習をも楽しみ始めている。善も悪も入り混じった地域の真実のなかに「生きる力」としての学習があるからだ。学校の教育施設・教育機能は、地域住民の生涯学習にとっての「宝の箱」であるといえよう。 定型的教育 すべての学習(Total Learning)は、定型的教育(Formal Education)と非定型教育(Non FE)と不定型教育(In FE)、そして偶発的学習(Incidental L)からなる。これを、TL=FE+NFE+IFE+IL という式で表すことができる。成人教育、企業内教育などの非定型教育(NFE)が、多様性、現実性、自主・自発性、評価(フィードバック)の可能性、(社会の諸活動の教育的側面としての)統合性などが豊かであるのに比べて、大学等の学校教育による定型的教育(Formal Education)は、ややもすると杓子定規なつまらない内容になりがちだ。最近はカリキュラムの柔軟化などが叫ばれているが……。しかし、そもそも、高等教育などは学生の自己選択、自己決定の学習としての要素が強く求められていたはずだ。それなのに、なぜ、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動などの「学びたいから学ぶ」という自己決定活動なども参考にして、もっと早くから自己変革ができなかったのか。それは、自己革新の困難という定型的教育ならではの宿命があるからなのだろう。たとえば、ある教員が、つまらない授業を何の工夫もせずに毎年繰り返していたとしても、猫の首に鈴をつけるネズミがいないのと同じように、大学事務局だろうが、教員仲間だろうが、受講学生だろうが、だれも自分からはクレームをつける人がいないのである。だから、定型的教育のシステム自体の変容をねらうのも一つの手である。それは、学生の市民講座(NFE)への参加、ボランティアやアルバイト先(IFE)での体験学習、そして海外放浪体験(IL)などの学習を正規のFEとしての評価に取り込んでしまって、FEとしての高等教育の風土自体の変化を期待するということである。 大学の自己点検・自己評価 平成3年2月、大学審議会は「大学教育の改善について(答申)」を行った。そこでは、「大学が、教育研究活動の活性化を図り、質の向上に努めるとともに、その社会的責任を果たしていくためには、不断の自己点検を行い、改善への努力を行っていくことが必要である」として、教育理念・目標等、教育活動、研究活動、教員組織、施設設備、国際交流、社会との連携、管理運営・財政、自己評価体制などの自己点検・自己評価が求められた。なぜ「自己」かというと、学問の自由(憲法23条)に根拠をもつ「大学の自治」が尊重されるからである。よって、教育・研究の高度な専門性をもつと期待される大学教員は、自治を侵されない代わりに、当然、自己の責任において自己の教育研究活動を適正に自己評価する義務がある。また、評価は、選抜のための評価を除けば、そもそもが主体性の構成要素であって、本質的には本人の自己評価を意味する。ところが、大学教員のみならず、社会教育の指導系専門職員も含め、他者から勤務評定されにくい職種の人たちさえ、実際にはこの自己評価を怠りがちな実態がある。もちろん、制度的権威に迎合して、それからの評価を唯々諾々と受け入れる必要はない。しかし、適正な自己評価をするためには、たとえば学習者側に評価してもらったり、職員・教員間でシビアに批評しあったり、年間の事業・授業の実施記録を出して部外者も含めて広く批判を仰ぐなどの自己努力をすることは義務であるといえる。そうすることこそ、共に育つ姿勢であり、自己評価が前提の、やや自己決定に近い指導者というまれなる職業の面白さを楽しむ方法でもある。 継続高等教育 19世紀後半のイギリスを源流とする大学拡張(university extention)が、市民に対する周辺的なサービスとして「高等教育」を提供するというイメージがあるのに対して、その後いわれ始めた継続高等教育(continuing higher education)は、コミュニテイ・カレッジ・ブームなどを背景とし、成人継続教育の本来的な場として「高等継続教育」を提供しようとする言葉だといえる。 ボランティア・コーディネータ ボランティアをしたい人と必要とする所をつなげる者。全国ボランティア活動振興センターでは、その業務内容を、@ボランティア活動推進のための調査・企画・実施、A情報の整備及び提供活動、B学習の援助及び場の提供、C相談・助言ならびに需給調整、Dボランティアセンター機能と他機関・団体との連携、としている。これが社会教育主事の役割とかなり重なっていることは興味深い。平成7年1月17日の阪神大震災の救援ボランティアに全国の若者たちが駆けつけたことから、「日本の若者はしらけており、ボランティアの風土はない」という論調が崩された。むしろ、せっかくボランティアをしたい人がいるのに、社会がそれを需要と結びつけるコーディネート機能をもたないことこそ問題だったのである。 2 高等教育内容 7つの転換  上下同質競争の頂点をめざすための「最適な手段」としての過去の陳腐な教育内容はそのままで、それを少しだけ市民にも開放するという程度の改革だけにとどまるならば、大学は生涯学習社会の形成には貢献できない。教育内容自体が転換されるべきだ。しかし、時代は高等教育内容にどんな転換を求めているのか。 本提案は、この図に示されたぼくなりに考える生涯学習の観点のもとに述べられている。  図表12 生涯学習の再定義(p132参照) 現代の生涯学習 成長だけでなく癒しも 事実よりも真実を 積極的積極性とともに積極的消極性を ◆ 転換1−自己決定・自立支援型にする  成人の学習の本質は自己管理型学習である。高等教育もこれに習い、「学びたいことと学びたい手段を自分で決定して学ぶ」という原則をできる限り取り入れる必要がある。  ぼくの授業では、出欠、遅刻、早退、途中入退室、そしてもぐりも、すべて自由ということにしている。個人には個人の事情と個人のレディネス(準備性)があるからである。ぼくの責任は魅力的な授業をすることであり、他の用事をさしおいてもその授業を選ぶかどうかは、ぼくの責任ではなく学生が自分の責任で決めることではないか。  私語の問題ひとつをとっても、教育が学習者に自己決定をさせてこなかったがゆえの学生の主体喪失状況は背筋が寒くなるほどである。これ以上、学生に「こんなつまんない授業なのに、出席ばかり厳しくとるんだから」などと思わせてはならない。それは、結局、他者や社会のせいにして安定しようとする学生を、内面から許し、甘やかせていることになるのだ。教員は授業にいっそう勝負をかけて着席を自己決定する学生を増やし、そのうえで、退室の自由を行使できないままおしゃべりする学生に、その不行使が本人の自己決定以外のなにものでもないことを知らしめなければならない。 ◆ 転換2−双方向・水平交流型にする  教員の楽しみは学生一人ひとりの「個の深み」との交流にあると、ぼくは思っている。とくに、学生が自由に書く出席ペーパーのおかげで、授業がかなり刺激的な仕事になっている。過去の一方通行の講義型授業だけでは、教員も学生も手応えに欠ける。  大学の自己点検・自己評価の動きのなかで、学生に教員の授業を評価させる試みがいくつかの大学で生まれている。よいことだとは思うが、それがたんに人気度や教育技術を数字で表すだけのものであるなら高等な教育とはいえないだろう。社会教育・生涯学習がアマチュア学習者とプロフェッショナル学習援助者との相互的関与や共育をめざしているのと同じく、高等教育でもたがいに触発しあって、現在の研究水準の一歩上をめざす必要がある。大学教員が過去の研究業績という遺産だけで食っていける時代は終わろうとしている。学歴偏重社会から生涯学習社会に移行する段階で、教員の方も自己の文化遺産を急激な社会進展や学生の学習ニーズの時代的変化にあわせてリフレッシュしなければいけない時代になっているのだ。  そのためには、自らの教育内容についてまで学生に自由な感性と実感にもとづいて授業評価させ、大小の批判も含めてすべて受けて立つことが効果的であるし、また、それは刺激的で楽しいことだ。ただし、その場合、教員は授業で学習者のように「学びたいことを学びたい手段で」学んでいるわけではないのだから、教員が学生集団のワン・オブ・ゼムであってはならない。そんなことでは学習援助者としての存在意義がなくなる。教育意図をもち、その意図する内容を公にすべきである。受けて立つということは、学生のニーズに追従することではないのだ。専門分野に関する過去の文化遺産や、現在の鋭い問題意識をフルに働かせて当たる必要がある。しかしながら、教員としての権力に頼ってもいけない。教員から学生への双方向教育は、ネットワーク型の異質間の水平交流でありたい。 ◆ 転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする  生涯学習の理想主義的なスローガンとして「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」がある。大学でもこれをめざすことができないだろうか。  日本のある大学が米国に分校を開いたときの日本人学生向けのキャッチコピーは「アメリカ全土が君たちのキャンパスだ」というようなものだった。それならば、国内の大学においても学生に「君たちが学べる場は日本全土だ」といってよいはずだ。  また、米国の大学の「履修要覧」には各教員のオフィスアワーが載っているものがある。オフィスアワーとは、何曜日の何時ころにはいつもその教員が研究室にいるから、学生が個人でも質問や議論をしにきてよいというシステムである。このようなオープンマインド(学習者に対して開かれた心)が教員に求められている。 ◆ 転換4−おもしろ・感動型にする  前述のように、ぼくは授業を勝負の場ととらえている。私たちは、雇用対策で大学当局に雇われているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会は、テレビや出版などによって、おもしろくて役立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業が、メディアの流すそれらの情報より何らかの意味で勝っていなければならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思にもとづくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。だから、選択に堪えるものでなければならない。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。 ◆ 転換5−課題提起・解決型にする  学校での学習への導入が科目中心なのに対して、成人の学習は課題中心であるという(M.ノールズ)。初等教育などでも、同様の課題中心の教育がかなり普及しつつある。心と体の病いを治すのを援助してくれるのはお医者さんであっても、実際に治しているのは本人である(自己治癒力)のと同様に、課題を認識してこそ主体的な学習が成り立ち、それが自己教育力の発揮につながるのである。学生の課題意識を呼び起こさないままに教え込むのでは教育効果が薄い。  さらに、そこで呼び起こそうとする課題自体も、日常生活の事実に埋没するなかでは気づきそうもない、真実にふれる感動と気づきを与えるような深みのある課題でなくてはならない。  授業も社会教育でいうと学級講座のような集合学習(p117)である。そこでは、せっかく時空間を共有するのだから、同時代性のある授業でなければ、集合する意味がないし、学生も教師もおもしろくない。そのためには、学生に追従するのではなく、同時代に生きる者が直面している共通の課題を鋭く抉り出して提起する教育内容が求められている。生涯学習審議会答申の提唱する現代的課題の学習も、そういうことを意味しているのだろう。 ◆ 転換6−生きがい創出型にする  高齢化にともなってライフプランづくりのための学習が盛んになっている。その学習は、より賢い生き方のためでもあり、より充実した生きがいのためでもある。時代がそういう学習を求めているのだ。また、学校教育でも、道徳教育はすべての一般教科に共通する課題だといわれる。しかし、自己の人生の内容とは遊離した過去の高等教育に慣れ親しんだ「まじめな」学生などからは、「人生を考えさせる授業」は反発を受けることがある。しかし、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである(p82)。「生きることを学ぶ」内容をめざしたい。 ◆ 転換7−信頼・共感・癒し型にする  生涯学習時代は人びとの「モノからココロへ」という価値観の転換の反映でもある。また、学問の世界においても、経済学者がボランティア活動の意義を先頭切って論ずる時代になってきた。ぼくは、そもそも知的水平空間自体が本質的に支持的風土としての性格をもっていると考えている。学歴社会が崩れようとしているいま、大学の授業を受けようとする学生の本音のところでの動機自体も、出世競争から幸福追求へと変化しているようだ。大学の授業をこういう「こころの時代」に対応させる必要がある。そういう授業のなかで生まれる信頼と共感の癒しのサンマこそが、真に自立した学習者を育てるのである。 参考資料 「生涯学習の再定義」 (社会教育「くえすちょん あんど あんさー」全日本社会教育連合会、1996年7月号より)  1つめは、「発達だけでなく癒しも」です。人間、日々発達しているのを実感するのもうれしいことですが、実際には、それだけじゃなく、「癒されたい、安らぎたい」という欲望もあるのが自然だと思います。発達や成長だけを声高に相手に押しつけるのって「ウソだな」と思うのです。  2つめは、「事実よりも真実を」です。学習というのが、つまらない事実の集積に圧迫されることであるようなマイナスイメージが、小学校以来、ぼくたちにありまして、これがワンダーランドとしての生涯学習への接近を妨げている。ほんとうのところは、事実なんかはおもしろくない。ぼくたちは、事実のインプットのためではなく、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、出会い、生きているのだ。事実は、その集積が真実に近づくときだけおもしろいのだ。と、このように思うのです。だって、ともこさん(本掲載の「お手紙ごっこ」の相手、作詞家)だって、ご自分の歌詞を「事実と違うわね」といわれたって「当たり前でしょ」と思うだけでしょうけど、もし、「真実とは無縁ね」などという失礼なやつがいたら、「どうしてよ」となりますよね。歌詞も、人間存在の真実に接近するすばらしい虚構のひとつなのだと思います。  3つめは、「積極的積極性とともに積極的消極性を」です。「誰からでも何からでも学びたい」という積極的な生き方をするひとを見ていると、じつは、撤退せざるをえないような場面の多いこの世の中で、積極性発揮の一方で、他者のせいにすることなく、さわやかな撤退をどこかでじょうずにしている。ぼくはこのような自己決定・自己管理型の「潔い撤退」を「積極的消極性」と呼んでいます。生涯学習や人間交流のような「積極的積極性」の行為は、この「積極的消極性」と連動関係にあると思うのです。この2つに対して、「消極的積極性」(やりたくないけど頑張っている)、「消極的消極性」(被害を受けているからできないでいる)の2つが、ワンダーランド発見のネックになっていると思います(じつはぼく自身のことですが)。  遅ればせながらの自己紹介のようになってしまいました。 mito ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 成功のシンボル 人は、なぜ、大学にまで行こうとするのか。「人生に成功するため」という答え方もあろう。ジェイムス・ロバートソン『未来の仕事』(小池和子訳、勁草書房)によると、成功のシンボルの変化は次とおりである。過去…名声、知名度、高収入、高級住宅、セカンドハウス、住み込みの使用人、役員としての地位、毎年の新車、頻繁な世界旅行。未来…自由時間、創造的人間としての認知、仕事と遊びの一体化、金銭より尊敬と愛情で報われる、大切な社会コミットメント(社会参加)、よく笑う人・涙する人、愛情行為、自我とのふれあい。 幸福追求権 教育を受ける権利は、一般には、憲法26条の「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」が根拠とされる。しかし、ぼくはあえて13条(個人の尊重)の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」に規定された「幸福追求権」に、生涯学習活動と、その公的支援活動等の根拠をおきたい。ぼくは、学校教育についても同様にとらえる。もちろん、社会が「平和的な国家及び社会の形成者として(略)心身ともに健康な国民の育成を期して」(教育基本法2条)、つまり社会に望ましい形で貢献できる人を育成するために教育を行うという側面があることは明らかである。しかし、人類史や自然史がここで途絶える危険さえ内包している現代社会において、そういう「心身ともに健康な国民」という楽天的な見通しは、一人ひとりが少なくとも潜在的には「幸福追求」の願いをもっているのだという再確認と、社会がそれを尊重し、実現できるよう支援することこそ社会のためにもなるのだという確信なしには成立しえないと思う。たとえば、「学校は社会のためにあるのであって、君たちのためにあるのではないのだ。学校に対して甘い期待はするな」と生徒に言ってのける教師もいる。その正直さは賞賛に値いするとしても、その教師の職業人としての自己卑下と、そういわれた生徒たちの落胆を、まずは何とかしたい。だからこそ、ぼくは、「教育は学習者一人ひとりの幸福追求を支援するためにある」と強弁するのだ。また、指導者研修の講義などでは、「みなさんは幸福配達人です」といっているのである。 潜在的学習関心 藤岡英雄はNHK学習関心調査から、学習行動を海面上の頂点とする「学習関心の氷山モデル」をまとめている。海面下に隠れている大きな部分は、顕在的学習関心と潜在的学習関心の2つによって構成されている。「関心ある学習項目」のうち、個人面接や自由回答で得られたものが顕在、調査票の学習項目を見てから得られたものが潜在である。後者は「外からの刺激や手がかりが与えられてはじめて意識される」ものである。しかもこれが一番大きい未知の部分というのだ。たしかに私たちはせっかくのワンダーランドのうちのごくわずかにしか出会わないまま寿命が尽きる。しかし、せめて指導者は、学習者の潜在的学習関心まで含めて本人の可能性を信頼して援助することが大切である。 ボランティアバンク 市民講師や生涯学習施設での支援活動、講座・イベントの支援や手伝いなどをする希望のある人を登録して、リスト化し、需要に応じて情報提供等を行うシステム。問題点はつぎのとおりである。@バンクへの問い合わせ自体が少なく、せっかく登録し、研修なども受けたのに、お呼びがかからないというクレームが多い。A学習者のニーズにあわない教育内容・方法(たとえば「今のだらしない若者に説教したい」など)での活動を希望する者もあり、生涯学習社会への移行をむしろ阻むような結果にもなりうる。B教育委員会などが実施すると、そのお墨付きを得ることを目的に登録する人がいて、生涯学習に権威主義を持ち込む結果になる場合がある。Cその逆に、水平異質共生の生涯学習に向いている人が権威をきらったり、遠慮したりして登録してくれないことが多い。@については、最近は、その人の顔や、息遣いの聞こえるような詳細なアピール文、さらには、その人の提供できるプログラムの具体的な姿など、リアリティの感じられるバンクにするための工夫が模索されている。また、ボランティア自身も、待ちの姿勢ではなく、積極的に社会に出てニーズを探し出し、そこで自分をアピールすることが望ましい。Aについては、学習者のニーズにあわない人を無理に排除するのではなく、アダルト・ティーチングの習熟のための研修等を通じて、その人自身の気づきと態度変容を促す配慮が必要である。Bについては、市民の権威依存のうえに運営されてきた行政自体のほうから、体質改善しなければならない。それは行政改革の重要な一環でもある。Cについては、生涯学習における学習者と支援者の関係が上下関係ではなく、「学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人」という水平な交換関係にあるという認識を、生涯学習の町づくりをとおして町の風土として広めていく必要がある。生涯学習ボランティアは「先生」である必要はない。もし、「自分は先生の器であり、教える自信がある」などという人がいたら、その人はまず「無知と非力の自覚」のための態度変容から始めてもらわないと、かえって生涯学習社会への移行の邪魔になる。 自己決定 ぼくは、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つをあげている。それ以外の社会的活動には、純粋な自己決定の場は見当たらないのだ。だが、自分の人生は全体として自己決定でありたい、つまり、自分が自分の人生を決めたいとは誰もが思うことである。だからこそ上の3つは、現代社会における「もうひとつの生き方」として、現代人の普遍的課題となりつつある。ただし、自己決定の場でも、自己決定ではないこともある。ある市の公民館事業の市民企画委員会の研修の講師に行ったとき、「○○をやりたい」という新人委員に、ベテラン委員が「婦人教室で趣味の講座をやるのはだめです。必ず女性問題を学習するという、先輩委員たちが蓄積してきた民主的伝統があるのです」といっているのに出くわしたのである。ぼくは、さっそく、「女性問題をなぜやりたいのか、あなた自身の意見を述べたらどうですか」と横ヤリを入れた。自分の意見ではなく、「民主的」とか「蓄積」とか「経緯」とかの「言葉の権威」を盾にするのはフェアではない。リスクを背負っていないからだ。 第7章 ボランタリズムのシドウ 1 大人社会の御都合主義批判  −楽しい生涯学習施設経営と楽しいボランティアのために−  ボランタリズムはすべての人がもっている資質であり、願いである。人はみな自己実現と社会貢献によって癒され、成長し、かけがえのない自分を確認しようとするからだ。しかし、現代社会は、このあたりまえの願いを押しつぶす方向でも機能する。さらに、ボランタリズムを阻害する心の要因についても探りたい。  ボランタリズムの指導などという自己矛盾ともいえるテーマに立ち向かう前に、まずはこれまでの生涯学習やボランティアに関する本書での議論を、この2ページを使って補足しつつまとめておきたい。  ぼくも起草に関わった栃木県佐野市の生涯学習推進基本構想(平成5年4月)では、「私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野」というキャッチフレーズのもとに、「楽しい生涯学習=楽習」を大切にと呼びかけている。そして、「何からでも学び成長する私(わたし)」を基本として自発的意思のもとに自由に進められている市民の生涯学習活動がよりよいまちづくりにもつながると述べている。  なぜ人びとが生涯学習をするのかといえば、その大きな理由のひとつは、生涯学習が楽しいからだ。それでは、どこがどのように楽しいのか。そのヒントは、今日の人びとのボランティア志向のなかに見出すことができる。生涯学習の活動も、佐野市の構想がいうように「私のためにやっていること」がよりよいまちづくりにもつながるという意味で、ボランティア活動と共通の楽しさをもっているのである。  ボランティア活動とは、お金をもらうためではなく、自分から進んで、だれかの役に立とうとする活動のことである。これを、自発性、無償性、公共性の原則という。また、生涯学習活動とは、いつでも、どこでも、だれでも、なんでも、学びたいことを学びたい手段で学ぶことである。生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(平成4年7月)では、生涯学習とボランティア活動との関連の視点として、@ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習になる、Aボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための学習として生涯学習があり、学習の成果を生かし、深める実践としてボランティア活動がある、B人びとの生涯学習を支援するボランティア活動によって、生涯学習の振興が一層図られる、の3点を指摘している(p139)。  さらに、ボランティアと生涯学習の2つの活動がとくに最近人びとから関心をもたれるようになった理由としては、自分のこれまでの枠組を変化・成長させる楽しさ(自己実現)と、自分の存在が他者に受け入れられる楽しさ(社会的認知)の2つがあげられる。人間は一度しか生きられないわけであるから、一人ひとりはこのようにして自分自身の存在価値や生きている証明を見つけ出そうとする。それらの活動は、外からの抑圧をみずからの内面に取り込んで仮面をかぶって交流する現代の状況下においては、自己確立、あるいは、自分さがしのための懸命な幸福追求の姿としてとらえてよいのかもしれない。  ぼくも起草に関わった東京都練馬区生涯学習推進懇談会提言「土とみどりとひとと自分に出会えるねりまをめざして」(平成6年2月、p34)では、「この提言で何か生涯学習の理想像を描き、それに向かって進まなくてはいけないということになるとそれは一つの心理的圧迫になるだろう。これまでいわれ続けてきた、発達すべし、成長すべし、という強迫観念に追い回されるのはもうやめよう。こうした圧迫になる要素をすべて捨て去ったとき、私たちは地域社会に何を求めるのだろうか。それは、個人として尊重される場であり、自分をすなおに出せる場であり、あたたかな人間関係をもてる場であり、疲れた心を休める癒しと安らぎの場であり、生きていることを実感できる場である」として、どこまでも知りたいという発達や成長の欲求とともに、癒されたい、安らぎたいという欲求を生涯学習への志向として大切にしようと提起している。  生涯学習の世界は、「教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人」「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」という混沌とした世界である。「受信」や「充電のための学習」ばかりでなく、学習成果を他者に伝えたり、発表したりする学習成果の「発信」や「放電」によって、「学ぶ」と「教える」が水平に双方向で行き交うのである。そこでは、権威を振りかざしたり、権威に従属しようとしたりして上下の関係に引きずられることはくだらないことと嗤われ、「してあげる」と「してもらう」の相互の働きかけが水平にスムーズに交流する。それは、いつ裏切られるかわからないとおたがいにびくびくしている現代の人間関係のなかでは、ボランティア活動とならんで、なかなか得難いホッとできる時間・空間・仲間関係でもありうる。これを癒しのサンマと呼ぶことができる。生涯学習やボランティアは、生涯にわたる発達・成長とともに、癒し・安らぎをも提供するのである。  生涯学習施設が、そういう生涯学習活動の拠点として、サンマのなかでの交流を支援しようとすることは当然の役割である。施設ボランティアを導入することの意義もそこにある。その形態は、簡単なお手伝いから、かなり高度な見識を要する専門的支援活動にいたるまで多様に考えられるが、いずれにせよ、そのなかで、生涯学習施設ボランティアはつぎのような3つの他者との水平な出会いをもてると考えられる。@ボランティアと施設利用者、Aボランティアどうし、Bボランティアと施設職員。そして、これらの他者や、その生涯学習施設が固有にもっているそのほかの学習資源との出会いをとおして、ボランティアは人間としてもっている自分自身の無限の可能性のいくつかに出会うことができるのである。このように、生涯学習施設では出会いのチャンスにあふれたサンマをつくりうるのである。  「そんな理想社会のようなことが現実社会で実現するわけがない」という人もいるかもしれない。たしかに、ここでいうサンマは、施設側が意識と理性を働かせないでも自然に形成されるというような代物ではない。しかし、それは、働きかけ方の問題でもある。たとえば、ぼくは授業で何回か「幸せの瞬間」というブレーンストーミングを行っている。ブレーンストーミングとは、「無礼講の話し合い」のような発想法の一種で、ルールは、@ひとのアイディアを批判しない(批判禁止)、A変わったアイディアでも自由に出す(自由奔放)、Bできるだけ多くのアイディアを出す(質より量)、C出されたアイディアを改良するようにアイディアを出す(結合便乗)、の4つである。このルールによって、いくらかは安心して「自分らしさ」を出すことができ、自由な発想のきっかけになるのである。「物差しで比べられること」に反発を感じながらも、そのあてがわれた物差しを内面に受け入れてしまって非生産的に自己を抑圧している私たちではあるが、それをみずから解放することも、まったく不可能なこととは言い切れないのである。ぼくも、まったく違ったそれぞれの人の「幸せの瞬間」を聞いていて、「これはまったく共感できない」などと感じたものは今まで一つもなかった。たとえば、「ジェットコースターで一番てっぺんまで登りつめて、これから落ちようとするとき」というのがあったが、お金を出してまでジェットコースターに乗るわけのない高所恐怖症のぼくでさえ、「ああ、なるほど」と思えたのである。このブレーンストーミングのような仕掛けはほかにもいろいろと考えられる。さらには、生涯学習施設においては、ブレーンストーミングの「批判禁止」をも超えて、批判されても傷つかない、批判しても傷つけないような、自分と相手への信頼と共感にあふれた自立した者同士の支持的風土(p32)にまで発展できるかもしれない。  むしろ、問題は、生涯学習施設側の姿勢にあるのではないだろうか。ぼくが生涯学習施設ボランティアの導入を「出会いの拡大」として支持する立場からある県でパネルディスカッションの司会をしていたところ、その司会のやり方に対して県内のある図書館司書から批判を受けたことがある。それを大学の授業で紹介したところ、一人の学生がつぎのように出席ペーパーに書いてきた。  先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的だといわれたと思いますが、私は司書さんがいったことがわかるような気がする。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思う。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。  この出席ペーパーに対して、翌週の授業で、ぼくはつぎのようにコメントした。  生涯学習施設へのボランティアの導入は、市民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。その図書館司書がそうでないと思うなら、そう批判すればよいではないか。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは、労働者としての自己客観視を忘れた御都合主義といわざるをえない。  専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で代行できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。現在のその仕事は、ボランティアコーディネートやその他の、より専門的な仕事に純化すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は当局側の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずなのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。しかし、だとすれば、その図書館司書は、住民の幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。  幸福とは自然に達成されるものではない。生涯学習援助職員の場合も、学習者の幸福追求への意図的、意識的な援助の営みのなかで、自らの幸福も確認できる。そのためには、自己の保護や安定だけ求めて自分の都合に理屈を合わせる御都合主義ではなく、自分が働いている意義を自負できる自律的な精神が求められる。これが職員としての現実原則に即したプライドの守り方、育て方である。 図表13 行政課題・行政改革としての生涯学習推進  主体の3要素  1 (自分のあたまで)認知する我  2 (自分の決定で)行為する我  3 (自分で適正に)評価する我 生涯学習推進事業 市民の主体性 私の楽習 職員の主体性 行政課題 行政の主体性 行政改革  以上のように、ぼくは、生涯学習施設ボランティア活動を阻む施設側の要因として、2つの御都合主義が問題だと考えている。「出会いの援助よりも、従来の仕事の安定的な存続を優先する御都合主義」と「出会いの援助よりも、経費や人員の削減を優先する御都合主義」の2つである。前者に対しては「それなら、失業対策事業とどう違うのか」と問いたいし、後者に対しては「それなら、現在、公金を使って施設を運営し、しかも、専門職員まで配置している理由をどう答えるのか」と問いたいのである。  日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べている。国民の幸福追求の重要な営みとして認識されるべきボランティア活動に対して、生涯学習施設がその援助者としての役割の自負と喜びを主体的に意識することができるかどうか、そこで生涯学習施設の将来が決まるといっても過言ではないだろう。  そもそも、生涯学習施設職員が、現代の上下同質競争の価値観を乗り越えて、学習者や施設ボランティアとともに水平異質共生の突出的サンマをともに創造する営みに本気で、そして本務として関われるようになれば、それは職員自身にとっても至上の幸福といえるはずである。じつは、ぼくは、生涯学習施設へのボランティア導入は、一般の利用者との関係以上に、職員にとっての自分らしさや相手の「個の深み」と出会える楽しいものになるのではないかとうきうきしながら予想している。生涯学習が楽しい活動であるのと同様に、生涯学習の支援も楽しい活動であってほしいものだ。 ◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆ 生涯学習ボランティア ボランティアそのものが学びであり、ボランティアするために学び、その学びを生かすためにボランティアがある。ただし、狭義の生涯学習ボランティアとは、人びとの生涯学習を支援するボランティアをさす。市民講師などの「指導的な活動」のほかに、会場整備などの「お手伝い的な活動」も、その意思が尊重されるべきだ。 ワン・オブ・ゼム論 職員や指導者のあり方を考える際、「住民(メンバー)の一員のつもりで働きます」という人がいる。ぼくはこれを「ワン・オブ・ゼム論」として批判する。住民の上には立てない、立ちたくないという謙虚さは立派だ。しかし、ネットワークにおいては、住民と行政のそれぞれが異なった自立的価値と役割を発揮する必要がある。住民のなかにも、自分たちの団体の活動で必要になった作業まで職員にやってもらおうとし、やってくれる職員を「いい職員」とする人もいるが、ぼくはそれを「市民の側の腐敗構造」と呼んでいる。本当のネットワーカーであれば、公務員に対してむしろ全体の奉仕者としてのいい仕事をするように要請するだろう。また、「ボランティアを導入すると私たちの仕事がなくなる」という専門職の発言は、謙虚さの表れではなく、じつは自己卑下にほかならない。ボランティアは自己決定の世界だが、それを職業的に支援するのが専門職の役割である。たとえば、情報提供、相談、研修プログラムの提供、ボランティアの適正配置、スーパーバイズなど、専門的資質・力量を要する仕事は、ボランティア導入によってむしろ増えるだろう。ただし、ルーティンワーク(決まりきった仕事の繰り返し)が増えるのではなく、ボランティアをはじめとする学習者とのより深い出会いや専門的助言など、生涯学習の専門的支援者としての仕事に純化することになるのである。それは専門職にとっても、仕事の楽しみとプライドが増すことにつながる。職員はボランティア集団のなかのワン・オブ・ゼムになってはいけないのである。 協働 ぼくも起草に関わった平成6年5月の神奈川県生涯学習審議会答申「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」では、行政と県民との関係を考えるにあたって「協働」をキーワードにした。そのポイントは、@役割の違いをふまえた上で施策や事業の推進を協力しあうという意味での「役割関係の重視」、A県民が客体(対象)ではなく、一方の主体としてとらえられるという意味での「県民の主体的参加の重視」、の2点である。双方に主体性の発揮が求められるのである。 2 おわりに−ボランタリズムとその指導  −アンビバレンツな人間存在と、善と悪の真実を追求する方法−  なぜ、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動などを、人はわざわざ自発的(ボランタリー)に行うのか。その人が暇なら別だが、若者だったらもっと欲や希望に燃えてやるべきことがあるだろう。この問いにどう答えるか。そもそも、自己決定の世界であるボランタリズムを「指導する」とはどういうことなのか。  (障害者の妻に支えられながら、訪問看護の活動をし、「欠点をさらけ出して本音で生きる」という内容の)ビデオを見る前、別に関係ないね。見た後、まったく関係ない。こういう内容のものはとくにきらいです。この用紙を出すのは最初なんですけど、授業は3回目です。最初の授業で自分にとても合わないと思い、そのとおりでした。過去2回もすべてが役立たずで、何も得るところがないです。とにかくあたりまえのところでしかない。今回のことについては、主人公のやりたいようにしているのでいいんじゃないの、と思った。それだけだ。  こういう根底的な問題提起が出ると、空虚な「あるべき論」などいっぺんに色あせてしまって、いきなり「さあ、どうすればいいんだ」という本質論に迫ることができる。  ぼくはつぎの授業で、このペーパーで気づいた2つのことを述べた。1つは、「あたりまえ」といいながら、「いいんじゃないの」と距離を置いていることの矛盾である。ぼくの授業は、他者に対する共感的理解の努力を社会教育主事(または支援者一般)になるための必須要件としている。これに対して、「各人それぞれでいいと思えばいい、共感しようなどというのは余計なお世話だ」という反対意見が出て当然なのである。ただし、その場合、明らかにぼくの授業内容に対する反論であって、「あたりまえ」という批判は妥当ではない。もし、ぼくの主張があたりまえすぎてつまらないならば、ぼくの授業を勝手に卒業してしまえばよいのだ。その際の単位は保障している。それとは反対に、卒業後ももぐりを数年続けていた人なのに、あるときmito的授業からの卒業宣言をしてフリースペースだけ来ている人がいる。「mitoちゃんのいう意見に同感だからつまらない」というのだ。他者の枠組と出会う共感ならワンダーランドになりうるが、自己の枠組と一致することを喜ぶ同感の場合は、依存的な学習態度になってしまうし、同一化志向のピアコンセプトになってしまう。そういう「自主卒業」までは、大いにぼくとの異質性を探ってほしい。  2つは、「すべてが役立たずで、何も得るところがない」という点についてである。これは教授者に対する学習者からの非常に重要な異議申立てである。教育提供者側の契約違反にもつながりかねない問題だ。ただし、ぼく自身にとっても答えるのが難しいかなり高等な問いを発しさせてもらうならば、「それでは自分は何を求めているのか」というところまで願わくば書いてもらいたいということである。そのことによって、批判を受ける側も、する側も、ともにいっそう真実に迫ることができる。他の受講者さえもが漁夫の利を得ることができるのだ。これを、ぼくは、「批判の刃を自己にも向けよ」というレトリックで表している(『こころ』p152)。  批判的なメッセージに対するmitoちゃんの対応について。私は正直言って、その出席ペーパーに腹が立った。そして、今の(偏見かな!)若者はこんなにしらけている。こんなにどうでもいいと思うなら来なければいいと思ってあきらめてしまう。しかし、先生はそれをとても重視し、よい刺激になると受けとめている。どうしてプラス思考できるのだろうか。これらは、ものごとのとらえ方の違いなのかもしれないが、私は感情のほうが先走り、怒る。反面、自分が教師であれば、どのように反応するだろうか。「どうでもいい、あたりまえのこと」という言葉に反論して、相手の間違いを正そうとするかもしれない。それは自分の価値観を押しつけようとする以外の何ものでもないように思う。そして、不快の感情で終わらせてしまう。mitoちゃんの反応を見て、まずは人の言っていることを様々な見方をして、肯定的に受け入れてみることにしよう。  彼女のこの気づきが、ぼくのいう漁夫の利である。このように出席ペーパーシステムをとおして、授業はワンダーランドに変身する。しかし、ぼくは、「来なければいいと思ってあきらめてしまう」は別として、不快の感情をぶつけ、相手の言葉に反論して間違いを正そうとすることについては、そういう教師があってもいいと思う。ただし、教師という制度的上位者が、知的水平空間における双方向の対話の状況を創り出そうとするならば、という前提のもとにである。ぼくが葛藤を押さえたのは、ぼく自身が自己の葛藤自体に自信が持てなかったからともいえるのだ。ぼくは、指導の究極的本質とは、@シンパシー(共感する)、Aストローク(認める、認めたことを伝える)、Bエンカウンター(出会う)の3つだと考えている。基本的には対話から@が始まり、Aを発信する。Bは、ここでは、仮面を越えた異質の枠組の出会いを意味する。人間に対する肯定的関心のマインドさえあれば、この3つにたどりつく道はいくとおりもあるはずだ。  (企業ぐるみのボランティア活動が、自立した個人のボランティア活動の補助器になるというビデオを見て)企業だからできることだと思う。サラリーマンは給料でるから。それは個人的なものではないのである。ボランティアでは食えない。個人でボランティアをやっているのはバカである。ある程度のゆとりがあって、やることである。これから何かをやろうとしている若者等にとっては、とっても無駄な時間である。自分の欲を満たさずしてどうする。  さきほどの彼の翌週のペーパーである。とても重要な指摘である。もちろん、多くの他の学生からは「企業ぐるみということが個人を抑圧するのでは」という健全な反発のペーパーが提出されており、ぼくは力量の範囲内でその当然予想された批判に応えていこうと思うが、このペーパーはそのまた裏をかく現代人の真実の叫びのようにぼくには聞こえる。実際、このペーパーを他の短大の授業で紹介したところ、「そういう自分を隠さずに書けるなんてすごい。えらい」という賞賛の声の方が多数派であった。上下競争の現代社会に生きる人間の真実の側面なのである。ここで、まず、ぼくの基本的スタンスを振り返っておきたい。それは、p9で述べた@生涯学習、Aボランティア、B地域(市民)活動の3つの自己決定の活動は、他者を利すること(利他的利己主義という)、または、他者とともに生きること(共生という)であり、「そうあらねばならぬ」ではなく、「そうありたい」という自発にもとづく行為であるということである。言い換えれば「自分のため」の行為なのである。これに反した、生涯にわたって学ばなければならぬ、自己犠牲の精神をもたなければならぬ、地域や社会の一員として貢献しなければならぬ、などという空虚な言葉は、まったく無力である。その認識なくして、彼のペーパーを上回る真実を提示することはできないだろう。  わたしたちは、まず、彼のペーパーから、生涯学習等をしない自由を保障することがいかに大切かを再確認しなければならない。つぎに、「ある程度のゆとりがあってやること。これから何かをやろうとしている若者には無駄」という発言をどう受けとめるかである。彼のさきほどの「いいんじゃないの」という距離は、正当にもここから発していたのだ。たしかに、若者などの人間が、地域ではなく巷でさまよったり、ひとりぽっちの思考の世界にはまり込んだりすることは、社会的活動と並んで濃密な時間の過ごし方ではあると思う。しかし、先の3つの自己決定の活動以外で、「これからやろうとする何か」というべき社会的活動は存在するのだろうか。ぼくは、少なくとも、現代社会における社会的な自己決定活動については、上の3つ以外には基本的にはありえないと思う。だからこそ、ぼくは3つを上下同質競争社会のなかでの突出的水平異質共生のサンマと呼んでいるのだ。  この点については過去に学生から例外が提示されている。「ぼくがプロボクサーをめざしていた頃は、それで過労死してもよいと思っていた」というものである。その頃の彼に、生涯学習やボランティアを勧めるというのはたしかにどうかと思う。また、売れない(売るために迎合しない)芸術家であれば、自己表現活動そのものが癒しや自己の存在確認そのものになるであろうから、同様である。しかし、そういう場合でも、もし、異質の他者との水平な交流の機会がなく、これを本人が求めるならば、上の3つの存在は情報提供する必要があろう。先日、狛プーで招聘した前衛芸術の講師が、その飲み会において、「こういう場が社会全体にあったらいいのに」と言っていた。「何かをやろうとしている」ためにほかにゆとりのないはずの人でさえ、そういう場を求めるということもあるのである。  話を戻して、スポーツ選手、売れない芸術家、そのほか、脱サラの第一次産業従事者などを除いて、とくに、賃労働者への道をあえて選択する場合について考えたい。これは選択自体は自己決定ではあるが、その後の働き方は本質的には「消極的積極」に属するものであり、ぼくはむしろ「奴隷の覚悟」をすることによって、そのあとから自己決定による個性の発揮の可能性が獲得できる世界だと考えている。そのため、自己決定の社会的活動からは除外して取り扱っている。この世界に対して、「これから何かをやろうとしている若者が、自分の欲を満たそうとして」立ち向かうとすれば、それは客観的には筋違いの部分があり(もちろん、主観的、および結果的には、偶然に「正解」になる場合もないとは限らないが)、自らの事実誤認に対するしっぺ返しが予想されるのである。なお、ぼくは、ペーパーの彼については、賃労働はめざしていないような気もしており、この部分は実在しない「一般的現代青年像」を念頭に書いている。  以上のようなことから、空虚なスローガンとしてではなく、現代人の真実の叫びとしての「自己決定の社会的活動」への希求が明らかになっていく。それは、同時期に出されたつぎの2つのペーパーに表れている。これらは、さきほどのペーパーとは逆の、あるいは表裏一体の、人間の真実のもう一つの側面を表している。1つめは、男女共同参画型社会においては、「性の商品化をしてはいけないからしない」のではなく、男女の間の深くて昏い河をわたる共感があるからこそ「したくない」という真実である。また、2つめは、ボランティア活動はえらいから、あるいは、悩みがないからするものではなく、自分の命や時間を意味の充満したものにしたいという切なる願いがあるからこそ続けていくものだという真実である。  私は今年、就職しません。就職できなかったわけではありません。4月に内内定をある企業からもらったのですが断わってしまいました。中国への1年間の留学経験もあり、語学もけっこうできるという特技を生かした仕事がしたいというのが、その頃の私の希望でした。その会社は中国の○○に工場を進出するという計画をもっていたので、まさに渡りに舟とばかりにセミナーに行きました。会社の人事部長も私のことを気に入ったのか、この不景気のご時勢だというのに、私を飲みに誘ったりしてくれて、ほとんど噂に聞くバブル時代の学生のようでした。自分が高く評価されたと感じた私はとても感激してしまいました。私の内内定が決まった夜、会社の人に例によって飲みに誘われました。最初の飲み屋を出たあと、「面白いところに連れていってやるから」と、私は薄暗いバーに連れていかれました。そこはタイ人バーでタイの女の子がいろいろ「サービス」をしてくれるという所でした。そこでの盛り上がり方はひどいものでした。気の弱い女の子ならば失神しかねないくらいでした。詳しくは書けませんが、性的な「サービス」をタイ人のホステスに強要して、会社の人たち数名が盛り上がっていたのです。私もそれに巻き込まれました。正直いって嫌悪感と怒りで気が変になりそうでした。吐き気がしてトイレに駆け込み、本当に吐いてしまいました。  何が嫌だったかといえば、女性に性的「サービス」を強要することも嫌といえば嫌ですが、それはある意味では仕方ないでしょう。しかし、そこにアジア人、外国人を見下した差別の匂いが充満していたからです。私は中国に留学していました。留学中にさまざまなトラブルが起きましたが、そのたびに中国の方々に助けていただきました。私はどう考えても彼らアジア外国人を差別的な目で見ることはできません。きれいごとでも何でもなく、これだけは譲れないと主張して、その会社の内内定をけりました。  これについては、後日、タイ人バーの女性は自己決定ではないか、いやだったら日本に来なければいいではないか、というほかの青年からの反論があった。そのことについてのディスカッションも必要かもしれない。しかし、ぼくは、そのディスカッションよりも前に、この学生の真実の共感の思いに対して共感できる自分のかけらの存在に気づいたことを喜びたい。ぼくはおかげさまでいい友をもっている!  ボランティアをしていると、「他人のために時間を使うことができるなんてえらい」とか、「べつに悪いことをしているわけじゃないからいいじゃん」など、いろいろ言われる。養護学校でまったく反応がないまま自分の世界にいる子どもと接すると、つぎの日まで落ち込むことが多い。その子どもたちは常に奇声を発している。排泄は調整できない。ぼくが抱いても、親が抱いても、ほぼ同じ反応(じたばたあばれる)をする。はっきりいって、人間として対応することができない。親は人形を扱っているようにぼくには見える。子どもがほとんど違いのない行動をとっているにもかかわらず、「あっ、○○ちゃんも喜んでいるわ」、「あら、この子はおこっているのかしら」などと「自分勝手」に判断しているように思える。この子のためというのが何なのか。何がしてあげられるのか。また、ぼくがその場にいても、いなくても、その子にとって何も問題ないような気がする(食事、排泄介助を除く)。ボランティアをやっていると、自分のとった行動に相手が反応してくれることにいかに自分が期待していたかを反省する。その反応が、だっこしたら落ちないように体重移動をしてくれたというようなものでも。相手のための利他的行動とは、相手に恩着せがましくない、純に相手のためを考えてする行動だとは思う。しかし、相手からは反応がないし、自分がいても問題ない。「相手のため」なんか見つからない。これは相手のためだと思ってとった行動でも、メガネをふっとばされるほどの平手打ちで返ってきたりする(一応、反応があったと思ってうれしいのだが)。  養護学校にボランティアに行って気づいたことは、自分は他人に対してできることなんてたいしてないんだなということである(食事、排泄等の生理的機能に関しては別)。自己顕示欲というのだろうか、相手に反応を期待しすぎていた。「思いやりをもって相手に接する」……。うーん、あの子たちにぼくの優しさ、思いやりはわかっているのだろうか。このように考えること自体、相手を尊敬していない思いやりのない考えなのだろうか。ボランティアはぼくを変えてしまった。  書くのを忘れてしまった。ボランティアは楽しいし、心あたたまることがたくさんある。悩みながらもぼくは続けていきたい。  これらのペーパーから表出された「個の深み」に対しては、ぼくのほうこそ「指導者」としてどうしたら存在価値を発揮できるのか、その重みに不安になるほどだ。しかし、ぼくがあるNPO(民間非営利団体)の研修に講師として行ったとき、その団体のタイでの少女買春反対のボランティア活動に参加している女子高校生が、先の「やりたいようにしているのでいいんじゃないの」というペーパーに対して、ほかのメンバーが「共感はできないが、ふつうは隠すことを言えるという点はすごい」などと評価するなか、「ペーパーの人はボランティアのいい世界を知らないだけだと思います」という反応をあっさりと返してくれた。彼女の言葉はぼくには新鮮だった。そうだ、先生ではない無知と非力のぼくであっても、3つの社会的自己決定活動の幸せを配ろうとすることはできるし、それはとても大切なことだと自負していいのだ。現に、ぼくの「ボランティア活動はえらいから、あるいは、悩みがないからするものではなく、自分の命や時間を意味の充満したものにしたいという切なる願いがあるから続けていくもの」という先述の言葉を、上の養護学校ボランティアの本人が、「自分が表現し得なかった自分の思いにぴったりの言葉」と称賛してくれた。書いているうちに自分の力量を越えることを書けるときがある。ぼくはこれを神がかりの一瞬と呼ぶ。うれしいことだ。  しかし、一方で、「そんなにいい世界があるなら、ぼくの目の前で見せてくれ。そうでないとぼくは」というところでとぎれてしまったmito的授業を受講した学生からの出席ペーパーや、「それではどこで何をしたらよいのか、もっと具体的な受入れ先を教えてほしかった」というぼくの講演を聴講した年輩者からのお叱りを受けることもある。だが、突出的水平異質共生なんてものは、質的には突出的とはいえ、量的にはこの上下同質競争の渦巻くまちなのにごろごろところがっているほどで、「目をむけてみよう」という気さえあればいくらでも見つかるものだ。その人の主体的な意思によって、そのときから外的世界自体が違って見えてくるのだ。ぼくの授業や講義に欲求不満を感じる人には、いったん謝ったうえではあるが、そう答えるしかないことに気づいた。もしかしたらこの本の読者も同様の不満を感じたかもしれないが……。  突出的水平異質共生は自己決定の世界であり、最初の一歩の選択においても「選択の自由の恐怖」を感じるぐらいたくさんある。しかし、ボランタリズムの本質はここにある。たとえば自分にあいそうなNPOの門をたたいてみるのもよいかもしれない。でも、べつにNPOではなくてもよいのだ。「自分が学びたい内容を学びたい手段で学ぶ」のが生涯学習である。だから、ぼくがある具体的な内容と手段を望ましいものとして提示するとしたら、それ自体に疑義がある。それはある音楽を「こう感じましょう」とシドウするようにナンセンスなことだ。具体的な情報提供をするのだったら、たくさんの「いい世界」を提示して、本人に選択を任せればよい。指導に関するぼくなりの今の考え方をつぎのようにまとめて提示して、この本の終わりとする。 図表14 自己決定活動の「指導」とは何か(まとめ) 項目 @ A B 現代社会の病理 だれか助けてよ! 家族関係の病い 不毛な真偽の勝負 教育システムの歪み 画一的物差の内面化 ピアコンセプト みんなの目が恐い 生涯学習の再定義 自分らしく生きたい 発達とともに癒しも=あるがままの自分 事実よりも真実を=ワンダーランド 積極的消極性も大切=立つ鳥跡を濁さず 個の深みと出会う開かれた心の持ち方 内容の専門家=指導主体 方法の専門家=支援主体 人生の専門家=学習主体 個と出会えない閉ざされた心 教条主義=事大主義 御都合主義=合理化 敗北主義=消極的消極 今後のトレンド ビジネスも成立?! 癒しのサンマの提供=無条件相互肯定 社会貢献の提供=フィランソロピー MAZEの提供=スキゾなプロセス 他者の幸福追求援助 3大スキル 対話とシンパシー 個の深みとの対話 ストローク 存在の認知の伝達 エンカウンター 異なる枠組と出会う 社会教育における自己決定の指導の発展 集団動員→個の尊重→個の回復(主体) 上下同質→水平同質→水平異質(共生) 行政主導→市民主体→公民協働(共育) ネットワーク型の指導者の役割遂行 初めの一歩を励ます=開きたい心を開く ミニ・ヒエラルキーの形成を早めにつぶす 潔い撤退を促す=積極的消極の潔さ (増補)『癒しの生涯学習』その後 1 3つの学歴社会を打破し、水平異質共生社会へ  ぼくは本書で「従来の学歴偏重(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を評価することはできないという社会的な認識が普及しつつある」としつつ、「逆に学校歴偏重(どこの大学のどの学部の卒業か、など)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしている」とした(p118)。この「最終卒業大学」偏重が、本項でいう学歴社会の1つ目の要素である。  つぎに、学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、 「人が多様な個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、他者を打ち負かすことを目的にした資格取得などばかりが評価されて非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に資するものとはいえない」ともしている(p113)。学校卒業後の資格取得、これも実質的には学の歴ということだから、偏重すれば、生涯学習的とはいえども、学歴社会の2つ目の要素になりかねない。  そこで、ぼくは、これに対して、「狛プーなどのネットワークでは、イヤなヤツが得する目にあうのではなく、いい男やいい女こそが報われる関係を自然に創り出す評価システムを内包している」として、癒しの生涯学習の意義を主張したのである。  リカレント教育の場合、皮肉っぽくなるが、社会人の(2つ目の)学歴社会適応対策という性格があるのだろう。ただ、それが、人生の早い時期に決定してしまうのではなく、「気がついたときからいつでも始められる」という点では救いがある。だが、将来のためだけに生きることよりも、「今ここで」の「楽習」としてのリカレントこそ意図的に広めていくべきではないかとは思う。  一方、ぼくは、最近、人が将来に有利になろうとして頑張って受験勉強をすること自体は、それはそれで偉いことではあるのだろう、と思うようになってきた。なぜなら、有利になろうとして頑張る、などという努力をまったくしようとしない人間(それはそれで「潔い撤退」ならば、その人のよい面でもあるのだが)が多いなか、結果として、「異質の価値」を社会に提供することになりうるからである。「今ここで」の楽しみ、あるいは「今ここだけ」の悲観的な楽しみも含め、そういう誘惑の多いなか、これをあえて振り切って頑張る人は、それはそれで立派なことなのだろう。  問題は、結果が思わしくなかった場合に、諦観、自己評価基準の適正な修正、そして立ち直りというプロセスをたどれるかどうかである。また、頑張りもしなかった人が、上下競争の結果がだめだったという理由で、世間に対して不平ばかりいっているのは、ぼくにもその側面はあるが、もっと醜い姿だと思う。ようは、積極的消極、潔い撤退の重要性ということであろう。  学歴社会の3つ目の要素として、ぼくは、学校、とくに高校の卒業を最低資格要件として問うような職種の存在を挙げておきたい。「高校ぐらい出ておかないと不利になるから」という理由で行きたくもない高校に通う若者たちは、この高校中退者続出のなかで、かわいそうだと思う。ある職種において、たとえば世界史の教養が必要というのなら、養成施設への入学時にその試験をする、あるいは現職研修に組み込むなどの工夫を社会の側も考える必要があるといえよう。  このように、「癒しの生涯学習」のためには、個人の価値観の転換だけではなく、社会の側も、価値基準の大きな転換が求められていることを、増補の最初にあたって述べておきたい。 2 自己決定や共感はしてもしなくてもよいものか  いまの時代状況をどんな言葉で表せばよいのか。  生涯学習、ボランティア、地域活動における自己決定の重要性を授業で述べたとき、ある男子学生が「mitoちゃんは、本気になって人生には自己決定が重要だと思っているの? そんなわけないでしょう?」とぼくに言った。彼は、親の願うことだからある採用試験を受けるという。ただし、どうしてもそこに入らなければ困るというわけではないから、一生懸命、受験勉強をするというつもりはない、試験を受けさえすれば親も納得してくれるだろうというのだ。たしかに、その後も親元にいてあげて、あくせくせずにそれなりの仕事をして暮らしていけば、親も本人もそれで幸せ、ということかもしれない。  短大1年女子学生から次のような出席ペーパーが提出された。  自己決定自体、しても、しなくても、どちらでもよい。ただ、迷惑をかけたり、かけられたりするのはいやだけど。  (思春期の少女の摂食障害のビデオを見て)私は彼女たちのことを可哀相とは思わない。本人はつらいとかいっているけれど、本人の願いどおり体重が激減しただけのこと。ビデオで彼女たちもいっていたとおり、「病気になって、かまってもらいたかった」からそうなった、つまり自己決定なのだから。  ぼくは彼女の文章自体には誤りはないと思う。自己決定は権利であって、しなければいけないというものでもないし、また、現代社会においては、自己決定しても通らない、かえって損をするなどということがあまりにも多すぎる。だから自己決定すなわち自立をめざして周りに波乱を巻き起こすよりは、迷惑をかけないようにおたがいが気遣って生きるほうが大切、ということになる。ほかの学生の中には「自己決定活動の中に癒しなんかがあるはずがない」という者さえいるのだ。しかし、一方、それは、たがいが縮こまって生きているという現代の状況をも生み出す結果にもつながっている。  次に、「可哀相とは思わない」である。文面上は、これもかなり正しいと思う。自分の行為が失敗したからといって、「同情」されるのはいやなものである。  しかし、そもそも、これらの思春期の逸脱行動さえも自己決定に含めてしまってよいのか。「自己決定、つまり、自分で決めたことなんでしょ」と突き放してしまってよいのか。ぼくは、自己決定とは、選択の自由だけでなく、撤退、無為を含めて3つの自由の前提のもとに、過去や他人のせいにすることなく、「やりたいから」「自分のために」自分の行動を決定することだと考えている。そして、さらには、そうできない事情がある他者に対しては(じつは自分自身にも自己決定できない事情はいつまでもいくらでもあるはず)、同情ではなく、相手の枠組で相手を理解しようとすること、つまり、共感すること、人の痛みを知ることがとても重要だ。  だが、もう一度ひっくり返させてもらおう。たとえば教師には学習者に対する共感的理解が必要だといわれるが、それは教師の義務としてなのか。共感が義務だなんて、ちょっとおかしい。  先のペーパーに対して、ある社会人女子学生から、次のようなレスポンスのペーパーがあった。  私は以前まで共感ということができない人間でした。心の中では共感していないのに、表面だけは共感しているようなフリをしてずっと過ごしてきました。私が「共感」を実感できるようになったきっかけは、勉強のために行ったエンカウンター(注・本音の出会い)のグループによる体験学習です。その特殊な環境の中で、情動を激しく揺さぶられ、初めて他人の考えを、感情を、感じられたことがありました。でも、その時は初めての体験だったのでよく理解できなかった。  ところが、そのあと、3年ぐらいたったら、人に「共感」できる自分がありました。自分とは違う枠組を認められるようになったっていうか。そうしたら、他人にイライラすることも少なくなって、いわゆる社会的に「いい人」ではない自分のことも好きになれるようになりました。  今日、紹介された「可哀相とは思わない」という人は、もしかしたら以前の私と同じように、共感の体験をもっていない人なのでは、と思いました。  たしかに、人に迷惑をかけることはいけないことといわれている。これに対して、自己決定や共感は、しなければいけないというほどのものではない。しかし、社会人の彼女の場合は、共感体験によって社会性のほか、自己受容や自信までも獲得することができ始めている。このように、自己決定の人生を歩きたい、自他を信頼し、共感しあって生きていきたいという願いは禁欲できない潜在的願望であるはずだ。それを「してもしなくてもよいもの」と割り切ってしまおうとする時代の心理の奥底には、何か暗澹たる敗北感が流れているように思える。  先日、ある青少年施設の運営会議で、現代の時代の気分を「鬱」とする論議があった。躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽きてしまっているのではないか。そういう時代に人々が求めている自己決定活動とは、大騒ぎできる華々しいイベントなどではなく、一人ひとりの「個の深み」と静かに対面し、出会いの体験を味わうことのできる「癒しのサンマ」なのではないか。 3 生涯学習と癒し=内なる敗北主義から抜け出す方法  癒しの語感は、一般的にはたしかに後向きなのであろう。そういうことが、多くの生涯学習援助職員にとって、癒しのサンマの提供を仕事として取り組むことへの抵抗感となっているのかもしれない。  しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、後向きの価値観を最初から排除することはしないものの(そこが従来の教育の価値観と違うところである、後述)、結果としてはむしろ前向きに終わるはずのものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク型の態度を指す。  「『癒しの生涯学習』(本書)を考える」(伊藤学、全日本社会教育連合会「社会教育」、1997年8月号)は、たとえば、カウンセリングやガーデニングのブームを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている」ので、そういう当然の「欲求」を、「教育者は無視できなくなっている」としている。  伊藤の若者の現実のニーズから立脚した論旨はぼくの本などよりもよっぽどわかりやすい。しかし、じつは、ここに、現代社会における一般的な「癒し」と、ぼくが提起する生涯学習における「癒し」との決定的な違いがあると思う。  そもそも、ぼくは「癒しのサンマ」と表現している。このサンマという言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの「自由なはずの」授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。このような学生の批判は、「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」というような関係者にありがちな批判より、ずっと的を射た抵抗だと思う。生涯学習のような自己決定活動とは異なる学校教育の場においては、そういう学生にぼくが言えるのは「無理して出席しないで、元気になったらぼくの授業に出ておいで」ということぐらいである。  ここまでいうと、「そんな教育の、どこが癒しなんだ」とも言われそうである。実際、心優しい人なのだろう、ある市民講座の受講者の主婦が、この本をさっと眺めて、「教師が弱い若者たちをやりこめているだけのような気がする」と出席ペーパーで訴えてきたことがある。しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質があるのだ。つまり、ぼくが進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う一般的な現代社会からの「いい男、いい女」のための逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃げてしまおうという場ではない。むしろ、人と信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容の突出的なサンマを創り出すという、なかなか面倒な営みなのである。しかも、自助グループが「自分だけではなく、みんなも同じ悩みをもっているのだなあ」という気づきを促すものだとすれば、それとも異なり、ピアコンセプト(p30)さえも乗り越えて、「あなたはあなた、私は私」というネットワーク型関係への気づきを促そうとするものである。考えてみれば、学習することが即目的であるような学習中毒のほうがよっぽど楽だ。  しかし、このような「出会いの努力」を本人がしない限り、本当に癒されることはありえないだろうとぼくは思っている。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の「癒し」志向の事態に対して、本当に癒される人間関係を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざすべき個人の自立や、望ましいコミュニティ形成、ネットワークづくりなどはできようがない。 4 自己決定の人生と生涯学習  ぼくは教育の根拠を憲法13条の「幸福追求権」においている(p132)。法学の世界では、この13条が「自己決定権」との関連で論議されるようになってきているそうだ。  ぼくは1998年3月まで昭和音楽大学で社会教育主事課程を教えていた。  チエちゃんという学生は、短大に入学してすぐのぼくの最初の授業で、講義が終わったとき、ぼくのところに来てこう言った。 「mitoちゃん(ぼくのこと)、わたし、いい女になるつもりだからよろしくね」。  ぼくは、これはすごい人が入学してきた、と思った。大人の女でも、ふつう、どこかにいい男がいないかしら、となるものである。それに対して、18歳のいわばまだ「小娘」であるはずのチエちゃんが、きちんと自分自身の成長に希望を持ってまっすぐに目を向けているのである。このように自分にきちんと目を向けられる人は強い。思ったとおり、彼女は声楽家の卵としてもずば抜けた成長を示し、現在、憧れのオペラの舞台を目指して一生懸命生きている。  チエちゃんが2年になったとき、また、「ねえ、mitoちゃん、わたし、すごいこと思いついちゃった」と呼びかけられた。こういうことは、青年期真最中の多くの学生にとってよくあることなので、ぼくはいつものように「なあに」とふつうに応じた。  彼女がそのとき言ったのはこういうことである。きのう、おうち(この場合は下宿先)に帰る途中、これって人生みたいだな、と思った。おうちが「死」であるとすると、それに向かって歩いていくのが人生だ。  彼女も青年期真っ只中だから、やはり生きることとは、とか、死ぬこととは、とか、まともに考える時期なのだなあ、とぼくは思った。しかし、彼女の話は次のように続いた。  おうち=死に向かって帰るとき、二つの帰り方がある。ひとつは、おうちだけを目指して、寄り道もしないで、まっしぐらに効率よく歩く帰り方だ。そういう人たちをあざ笑ったり、ましてや責めたりする気持ちはまったくない。でも、自分自身はもうひとつの帰り方をしたいということに気づいたのだそうだ。それは、友だちのところに会いに行ったり、途中の森に入り込んで散歩してみたりして、「人生の風景を味わいながら帰る」という帰り方である。  ぼくはこれを聞いて、それが大きな発見であることを認めた。まさに自己決定の人生のあり方ではないか。そして、生涯学習やボランティア活動、市民活動などは、そういう「自分がやろうとしてやる」自己決定の活動である。ほんとうに自己決定で生きることができている人は、たしかに、そうでない人がいるからといって、干渉したり、とやかく言ったりしないものだ。そういうことまで、ぴったりと説明しきれている。多くの人がそうありたいと思っている当たり前のことだが気づかない「自己決定」のあり方を、チエちゃんははっきりと示してくれたのだ。  ぼくは、その後、ちゃっかり、この話を授業やいろいろな講演などでしゃべらせてもらっていた(もちろんチエちゃんの話という前置き付きで)。青年教室にときどき顔を見せていたチエちゃんが、それを聞いて、ある日、二次会の席でぼくにこう言った。「mitoちゃん、わたしの話、ほかの人にどんどん話していいわよ。でもね、私がそのとき言ったことで一番大事なことを、mitoちゃんは忘れてる」。すなわち、「エネルギーを使うけど」という前置きの言葉を、「人生の風景を味わって生きていきたい」という言葉の前につけていたはずだ。それが大切な発見だったのに、とぼくは注意されたのである。  そうだ。自己決定の活動をしようとすると、「効率よく生きる」のとは違って、多大のエネルギーを消費する。自分がやろうとしてやり始めた生涯学習活動なのに、人と出会うことによってかえって自分自身が傷ついてしまったり、専門の世界を散歩しているうちにさ迷い込んでしまって、自分がその世界のどこを歩いているのだか見当がつかなくなってしまったり・・・・。自己決定の人生や、自己決定の生涯学習活動というのは、「エネルギーを使うけど」という前提も含めて自己決定することなのだろう。  ぼくの追加意見も述べておきたい。ぼくはチエちゃんみたいな人たちから、たくさんエネルギーをもらって生きているけれど、それでも元気がなくなるときもままある。そういうときに思う。人には「エネルギーを使うけど」という前提そのものがしんどいときがある。そういうとき、自己決定活動の場合なら、潔くお休みさせてもらえばいいのだ。それは、自己決定活動が元気にできている人からは、けっして非難されたりすることはないだろう。そのことはチエちゃんの言葉が保障してくれている。 5 レスポンスの獲得方法  パソコン通信あるいはインタネット利用のメーリングリストにおいて、その発信内容の質が問われることが多い。ぼくは、電子的コミュニケーション全体においては、「濃い議論」も「峠の茶屋」もどちらもあっていいと思う。ぼんやりとした全体の流れは自然に出てくるだろう。読んでいるだけ(ROM)の多くの人たちも、実際にはそんなところだ。だからアクティブな人の発信に対して、あえてレスポンスするまでには至らないことが多い。「濃い議論」が行き交うことはいや、という人は、ごく少数だと思われる。読まずに捨ててしまえばいいだけの話だからだ。  一方、「濃い議論」をアクティブに発信する人にとっては、レスポンスをもらえないことを淋しがる気持ちになることが多い。なんといっても、「レスポンス至上主義」(『かくろん』p133)だからである。しかし、レスポンスを獲得したいと思うのなら、相手側の義務感や協調心ではなく、自発的にレスポンスしたいと思わせ、その自己決定を促すような発信をしなければならない。「フェア」に発信することによってレスポンスをもらうのである。ということは、「○○についてどう思いますか」などという一方的なアンケート調査のような発問では効果がない。自らが「こういう理由から関心をもっている」「こういうふうに困っている」、そして「こういう考え方はどうかとは思っている」などと、まずは自分の手の内をさらして自己開示、自己主張し、あとの結論はそれに基づいて発言した人(「枝葉」としての自分を含む)の議論の流れにまかせるという潔い態度が必要になるのだ。 6 後向きを否定しないで=積極・消極の自己決定の尊重  よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己管理できていないから、とさえいえるかもしれない。  自己決定活動のエネルギー消耗について、ぼくの関わっているメーリングリストから。  「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。  人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。  この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。  違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。  「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。  後向きになっているときも個人にとっての大切な時間なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは生産的な生き方のひとつだといえよう。 7 受容と共感の態度変容の支援方法  学習援助、とくに態度変容のためのそれは、けっして上から無理に押し付けるものであってはならない。たとえば、看護職員の現職研修において、職員を現代社会の一員でもあるとしてとらえた場合、本人自身の顕在的、潜在的関心として、仕事のなかで自分らしさを守り、育て、発揮し、働きがい、生きがいをもちたいという気持ちが存在するはずである。そういう本人の自発的な意向を尊重してこれを援助するという考え方が教育の側に求められているのである。そのことによって、教育を受ける側にとっては、教育が自己受容にもつながるものになり、「自分にとっての意味ある学習」という能動的な受けとめ方が可能になる。  そのためには、学習方法としては、従来の知識詰め込み型の受動的学習から問題解決型の主体的な学習への転換が必要になる。また、学習内容としては、従来の専門分野ごとのたてわりの内容だけではなく、看護全体にわたって必要な、さらには本人の生産的な構えや人間関係全般にとって必要な資質と能力を高めるような学習内容が必要になる。その根底には、人間存在に対する基本的信頼(自分への信頼=自信を含む)と共感能力に基づいた望ましい社会性の獲得が必要である。これを実現する具体的な学習方法・内容としては、コミュニケーションやカウンセリングマインド、グループワークやチームワークのトレーニングが考えられる(『こころ』参照)。  そして、効果的な態度変容のためには、それらの研修が体験学習として、あくまでも楽しく、感動にあふれたものであることが望まれる。つまり、人と人とのつながりや、そのほかの態度変容のための看護職員の卒後教育は、まず第一に、日頃の看護の精神的な疲れやストレスを癒し、組織の中で閉ざされがちな心を解放してくれるような「生涯学習=楽習」の一環でなければならないということである。  生涯学習ボランティアについては、職務として行われる看護とは本質的に異なるところがあるだろうが、両者とも他者への援助の活動であり、しかもそれが組織的な取り組みであることが多いという点で、その態度変容の研修の必要性とあり方についてはほぼ同様のことがいえるだろう。すなわち、学習が「楽習」になり、自己受容にもなり、それゆえ、「自分のため」、「楽しいから」、「自分が学べることだから」という主体的態度で研修を受ける結果につながるということが態度変容の研修の要件なのである。  たとえば、「幸せの瞬間」(p136)によって期待できるのは、生産的な構えの獲得という態度変容の学習である。 8 偶発的学習による態度変容=毒と薬の両面価値の真実  ぼくは『かくろん』において、遊び型学習の支援を提唱するため、偶発的学習の意味について次のように述べた。  「ここで、注目しておきたいことは、それらの遊びは、ある意識的な学習目的に対する効果的な学習方法として行われているのではないということである。このような学習目的のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つがじょうずに遊ぶ能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える望ましくない遊びを禁止することよりも、望ましい遊びの素材を提供することなのである」。  たとえば、ビデオフォーラムなどでは、視聴者は映像の切り取りのどこを見ようが、何を感じようが自由である。そこに個別で多様な気づきがある。ロールプレイも、ぼくはそういう学習機会として展開している。これは、講師としてのぼく自身、恐ろしい方法ではある。学習者側からどんなケースが提起されるか予想がつかないからだ。だが、実際にやってみると、実感に基づいた互いのロール(役割)のリアルなやりとりができるものだ。指導者側の予想しえない展開であるだけに、真実により近づくことができるのである。始まってしまえば、あとはロールチェンジ(役割交換)などをしながら多様な個性がどんどんと発揮される。これを「臨床の知」(中村雄二郎)の一種ということができよう。  これらを「教育内容不定の偶発的学習」と呼んでおく。このような学習を仕掛けるために、指導者には、「真実は毒と薬のアンビハレンツ(両面価値)であるのだから、最終的には学習者側がどちらでも好きなものをとればいい」という潔さが求められる。禁欲または諦観ともいえようか。このようにして「学習者側が選択する」と思えるようになれば、「先生」としての余計な気負いもゆるんで、こういう「教育内容不定の偶発的学習」を「指導」するときも、少しは気が楽になる。  もうひとつは、パーティーなどの「教育意図不在の偶発的学習」のプログラムである。まさか「教育的パーティー」などとはだれもいわないだろう。そんなことをいってしまったら、来る人も来なくなる。しかし、そういう「非教育的パーティー」のなかでこそ、たとえば、「潔い撤退」や「来るものを拒まず、去るものを追わず」のネットワーク精神などを参加者は偶発的に学びとるのである。ついでにいうと、パーティーには、「祭りのあとの空しさに耐える」(p46)という現代社会の幸福追求にとって必須の「生きる力」の教育作用というおまけまでついてくる。あるいは、これからは、全体の盛り上がりなどより、「鬱の時代」に対応した「しみじみ系」のパーティーが求められるようになるのかもしれない。どちらにせよ、すばらしい偶発的学習の契機になる。  『かくろん』においてパソコン通信における偶発的学習を例に引き、「パーティー型学習」の意義を述べた。じつは、ぼくは、公民館で一つの部屋をオープンスペースに確保して毎晩パーティーを開いておき、一人でもファミリーでも夕食後にふらっと遊びにこれるようにするという夢を以前からもっていた。  教育内容不定の偶発的学習については、適正な教育的意図の媒介によって、より効果的に促進することができるだろう。また、あぜ道を散策していてよい思考がひらめいたとすれば、これは教育意図不在の偶発的学習だが、行政がそういう市民の散策のための配慮から、その道を舗装せずに土のまま整備するとしたら、それは生涯学習推進事業の一環として高く評価されるべきである。  この認識方法は、生涯学習推進をすべての行政セクションを越えた全行政的課題として貫徹するための重要な視点だとぼくは認識している。ちょっとした路地裏の整備でさえも、ただたんに無機的にきれいにするというだけでなく、「偶発的学習」(思索のための散歩など)がスムーズに起こりうるように、という教育的、文化的配慮をもって設計するということなのだから。少し古い言葉になるが、これこそを行政の文化化というべきなのだろう。 9 成人学習者としての態度変容  学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人だという。アダルトティーチャーはアダルトラーナー(成人学習者)でもある。  それを実現するためにぼくが考える主体的学習の条件の1つは、「主体的関与」である。グループワークの発表は「バナナの叩き売り方式」で行うとよい。これは、グループごとに他のグループの「自分たちの売りの部分」の叩き売り(成果発表)を聞きにいき、双方向(当然だが)の対話をし、また、すべてのメンバーが少なくとも1回は、他のグループに対して1人で叩き売りをするという趣向のものである。これは、あらたまった全体発表をするのとはひと味違ったおもしろ味があり、学習者の能動的参加やプレゼンテーションの意欲を高めてくれる。  2つは、「異質の枠組との出会い」である。価値観ゲーム(p49)のような異なりとの出会いをとおした自己の価値観への気づきによる枠組の変容は、本来の学習のあり方のひとつだといえる。つまり、異なる枠組をもつ他者から自己を学ぶのである。  3つは、「対話」である。対話はソクラテス以来、教育の原点である。たとえばインタビューダイアローグでは、ぼくがインタビュアーになって、地域活動をするサラリーマンとダイアローグ(対話)を行ったとする。「仕事だって忙しいのになぜやるのか?」、「奥さんは怒っていないか?」などの対話によって、その人の生き様から、たんなる事実ではなく真実の姿勢を学びとろうとするのである。また、出席ペーパーシステム(ディスクジョッキータイム)は、受講者とのダイアローグである。ぼく自身、これによって、一方通行の教授者としての宿命的な不安からかなり免れている。これらの対話のなかから、シンパシー、ストローク、エンカウンターが生ずる(p141)。ぼくは、これを、指導の本質的3要素と考える。 10 大人に対する心の教育や指導は可能か  「人の心を育てることは可能か」という問いに対するぼくの結論は「可能」である。これに対し、教育懐疑派のようにすべての人の単純な自己教育しか認めない人が不可能と答えるならともかく、子どもにだけは可能だが大人には不可能という素朴肯定派の答えは、絶望的ともいえる大きな問題をはらんでいる。その人がふと我に返ったとき、「だったら、子どもにとっても地獄のような教育や指導なんだろうな」と気づくはずではないか。それでも、過去の一部の縦社会のように「自分も我慢してきたんだから、今の子どもも社会のために我慢しろ」というのか。  やはり、ここで「心を育てる」学校教育や社会教育をめざす場合、今までわたしたちが思い込んできた教育の姿とは異なる「もうひとつの教育」(『こころ』p6)の姿を探し出し、自信をもって、楽しげに、「できる!」と答えたい。ただし、それは「できる」であって、「できている」では決してない。  心を育てるという教育の可能性を考えるにあたって、ここではあえて、最も抵抗が強いと考えられる大人に対する心の教育的指導のあり方について踏み込んでみることとしよう。  指導は「指さし導く」と書く。  何を指さすかというと教育目標(=学習の到達目標)であろう。だから、自分には教育目標があるのにそれを学習者側には秘密にしておくような指導は、本当の指導ではないということになろう。次に「心を育てる」などといわれても、そんな面での教育目標なんかおこがましくてもてないという指導者もいるだろう。そういう人は、指導者としての資質がかなりあるとぼくは思うが、オルタナティブな(もうひとつの)教育や指導の存在の可能性をも考えて、これ以降のぼくの文も読んでほしい。  次に、導くということは、その教育目標の方向に手を引いてあげることであり、これも大変なことだ。自分だって健全(まったく欠け目なく異常がないこと)な心をもっているはずがないのだから。だが、「不完全な自己への自覚」さえあれば、これから述べるような導き方ならできるはずだとぼくは考える。  なお、これから述べる「大人に対する(心の)指導」のあり方は、じつは子どもにとっても、「地獄ではない、もうひとつの教育や指導」のあり方を示すものなのではないかとぼくは思っている。 @ 非日常的な相互関与を意図的に深める。  ぼくは、本学大学開放実践センターのこれからの役割として「情報提供を乗り越えて相互関与へ」という提起をしている。その前に、メーリングリスト仲間と議論していた「指導」という言葉の是非を紹介していたのだが、「指導に代わるいい言葉」として、その「相互関与(interaction)」にヒントがあるのではないかという指摘があった。その指摘を受けて、指導の本質は、とくに心を育てるという場面においては、指導者と学習者の相互関与を非日常的な深いものにして、学習者の気づきのあるものになるように、意図的に行為することなのではないかと思ったのである。たしかに、これができれば、すばらしい指導といえるだろう。  小児精神科医の河合洋は、今日の子どもたちのぎりぎりの状況をふまえて、「ほざくんじゃねえ」と訴えている。子どもにではなく、子どもを取り巻く親や教師などの大人に対してである。他人の痛みがわからない大人たちから発せられる、感情を伴わない意味のない言葉の洪水(ほざき)に、子どもたちはSOSを発しているというのである。「意味のある言葉」をたくさん受けるために生まれてきたはずの大人たちに対しても、ほざきの連続の不幸な日常のなかで、もし、指導によって日常では得られない学習者との深い相互関与が実現できるのなら、その指導はこの社会における突出的な意図的教育行為といえるのではないか。 A 指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する。  これについては、すでに説明したところである。p20においては「不毛な真偽の勝負」を「無知と非力の自覚」によって克服するプロセスについて、p80においては教授者に「無知と非力の自覚」さえあれば、学習者より知識・技能が劣るということがあってもよいということについて説明した。  ぼくの授業を受けている学生のなかには、「無知と非力の自覚」というぼくの言葉を聞いて、「無知と非力を自覚してしまったからこそ、私はつらいのに」と反発してくる者がいるが、ぼくがいいたいのはそういうことではない。指導者自体が自己の無知と非力を認めて、受け入れようとしないままで、学習者にだけはそのような気づきを援助するなどということができるわけがない。 B 教育と学習の間に流れる深くて昏い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。  教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、p12では情緒的な表現になってしまった。  学習者の「自分の心を教育されることへの抵抗心」を尊重しつつ、学習者主体の指導を試みようとする指導者にとっては、つねに自己の指導の有効性が疑わしいものに思えてくることだろう。しかも、「ところで、自分のほうの指導者としての主体性はどうなってしまうんだ?」という最後の問いも残ったままである。逆に、学習者からのねぎらいや感謝のちょっとした一言でささやかな自信がもてたりするときもあるだろう。とくに「心を育てる」教育、ぼくの言葉でいえば学習者の態度変容のための指導においては、厳しいいい方になるがその繰り返しをするしか方法はないと思う。男と女の間にも、最終的には理解し合えない「深くて昏い河」が流れている。しかし、だからといって、ふてくされてしまって、相手という彼岸に向かって舟を漕ぐことさえしなくなったら、その人の姿はもうかわいくない。 11 わたしたちはどんな心をもちたいのか  最近の青少年対策の文献の特徴は、ここ数年の文献で散見された青少年育成に関わる社会や大人の責任を問う姿勢が普遍化してきていることである(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年発行)。また、中央教育審議会答申「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機」(平成10年6月)も同様の趣旨である。  青少年「対策」だけに終始していた時から比べれば、よいことだとは思う。しかし、じつは、ぼくには、その議論のなかにも、今ひとつしっくりこないものを感じることが多い。わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたいではないか。むしろ、「自分のため」と潔くは思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。  以前から、親の期待に沿おうとして過剰な努力をしてしまう子どもたちの苦しみが問題になっているが、同様に、親だって、子どもの期待に沿おうとして過剰な努力をするなんて本当はまっぴらごめんのはずだ。  「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」というものが、教育を受けるものにとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、これは指導行為など成り立つわけがない。空しく響くだけだ。極端にいえば、人々から本音のところではいやがられてきた教育や指導の再来ともとらえられかねない。もっと、子育てを含めた大人の幸福追求全体にとって、「今ここで」(p72)の実感からの展望をもちたい。  そこで、ぼくが音楽大学を去るにあたって、大学の授業の締めくくりに、2年間「mito的授業」に付き合ってもらった短大2年生に、その印象に関する自分個人にとってのキーワードを一人一人出してもらってまとめた図を掲載する。図を見て気づくように、そのほとんどが、態度や雰囲気に関することである(図表15)。さらに単位認定に結びつかない青年教室(p98)においては、なおのこと、これらの「心」に関することがぼくの存在の意味だったといえるのではないかと思う。  しかし、一方で、「自分は、親や恋人以外の他者にとっても意味のある存在でありたい」という願望そのものが感じられない若い人たちと出会うこともある。そこでは、社会的な自己決定活動を「自分のため」の「癒しのサンマ」ととらえようとする本書の議論の動機や前提自体が成立しない。しかし、ぼくは、「そういう願望のない人」をけしからんとは思えない。むしろ、時代の「悲惨さ」を感じる。その悩ましい願望がないとすれば、悩む必要もない分、報われて癒されるということも期待できないと思われるからだ。そういう人たちの「心を育てる」ことなどできるのか。人間は社会的存在でもあるのだから、本人も気づいていない願望、潜在的欲求としては、その願望があるはずであると信頼して接するしかないのだろう。まさに深くて昏い困難な課題である。  本稿においてさえ、学習者自身に対しては、指導という用語自体をオープンに示して積極的に使うかどうかは保留の状態である。じつは、この『癒しの生涯学習』の副題も、当初、「ネットワーク指導論」とする予定であった。しかし、まわりの若者たちが、「指導論」はどうも感じが悪いというのである。今まで指導という言葉が個人の幸福追求とはあまりにも対立的にとらえられてきたからなのだろう。ただ、「自己決定活動の『指導』とは何か」という「まとめ」の簡単な表はp147につけてある。 1991.4月 西村美東士『生涯学習 か・く・ろ・ん』 目次  −主体・情報・迷路を遊ぶ−        学文社 四六判上製カバー 1942円(税別) 第1部  「個の深み」への注目、そして、支援        はじめに −「個の深み」とは何か−            1 社会教育における組織と個人              2 講義型学習と社会教育、高等教育            3 「個の深み」を支援する講義技術            視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点          −西武ロフトがとらえた若者たち−         視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業        −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE−   視点3 「個人」がいきいきするしかけ               −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−     視点4 「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態                                第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして        1 現代都市青年と情報                   −ヤングアダルト情報サービスの提唱−            はじめに                         (1) 青年と情報環境                    (2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱−   (3) ヤングアダルトのための情報              (4) 青年とともに育つ情報サービス           2 パソコン・パソコン通信と青年              −成熟したネットワークとは何か−              (1) パソコンの急速な普及と未成熟性            (2) ネットワークを体現するパソコン通信          (3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」    3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか           (1) 「在来型の生涯学習」を支援する            (2) 「新型の生涯学習」とは何か              (3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ            (4) コミュニケーション型学習               (5) ネットワークによる知的生産             視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク           −AV−PUBのサロンで「私的」交流−       視点2 学習情報提供事業の企画と展開                −人間が学習情報を求めている−           視点3 学習情報提供の実際                                              第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために        1 子どもたちの団体活動                   −そこに秘められている大いなる教育力−            (1) 教育とは子どもがワクワクする営み            (2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動   (3) 少年団体活動には教育力があふれている          (4) 子どもにだって「個の深み」がある          2 地方自治体における学習プログラム作成の視点        (1) 知と健康のネットワークを支援するシステム          (1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義      (1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ         (1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起  (2) 年間事業計画の作成                     (2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる         (2) −2 学習要求をとらえる                (2) −3 「公的課題」の優先                (2) −4 学習課題を整理する              (3) 個別事業計画                        (3) −1 「学習ニーズ」の優先               (3) −2 参加対象をどう設定するか             (3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する  (4) 学習プログラム作成上の今後の課題            視点1 あたたかいディスコダンス              視点2 レクリエーション的な要求への対応          視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方        視点4 グループリーダーの新しい形             視点5 リーダー研修に望まれる内容             視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデン       ティティ −東京都足立区の生涯学習推進構想−   1993.3月 西村美東士『こ・こ・ろ 生涯学習』 目次  −いばりたい人、いりません−        学文社 四六判上製カバー 1942円(税別) 第1部 生涯学習するこころとは何か 1 フリーチャイルドの心をとりもどす  (1) ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる  (2) 人間らしい心を取り戻す  (3) フリーチャイルドの心で学ぶ  (4) 学習とは、自分が自分を変えること  (5) 学習とは、水平なギブ・アンド・テイクのネットワーク  (6) 何で生きてるの?  (7) 生きる力としての主体性をはぐくむ学習を 2 生涯学習理念はなぜ新しいのか  (1) あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町  (2) 傷つけあう関係ではなく、支えあう関係にあふれる町  (3) 人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町  (4) 一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町  (5) 地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町  (6) 一人ひとりの個性がのびのびと発揮される町 3 学校週5日制で問われる大人の主体性  (1) 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論  (2) 新しい土曜日の個別性  (3) 新しい土曜日が求める主体性  (4) ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ  (5) 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開)  (6) マニュアルを越えて 第2部 こころを開く態度変容の学習  1 こころを開いて交流できる仲間づくりの方法  2 授業の主体的な楽しみ方  (1) まじめな人の問題点  (2) 君の主体を問う  (3) 知のヒエラルキー vs ネットワーク  3 情報へのネットワーク型アクセス  (1) 過去の知の重力圏からの脱出  (2) 本の私有と共有の方法  (3) 電子化された情報・映像化された情報  (4) 情報とストロークの発信 第3部 主体的学習へのいざない方 1 学習相談がめざすもの  (1) 日常的相談でも、学習情報提供でもない  (2) 学習相談とは何か  (3) コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性  (4) 生涯学習の主体としての自立への援助  (5) ネットワークの中でともに育つ 2 保護や管理ではなく自由への恐怖を与える  (1) 自分は求めるけれど、人にはあげられない  (2) 現実原則の中でのストロークの自己管理を  (3) コミュニケーションの成熟化と無力化  (4) 管理や保護よりも自由を ボクと出席ペーパー   学校教育への恨み        強力な幸福願望と自分の幸せ   勤勉主義のごまかし       についての懐疑   授業は勝負だ          アイデンティティの喪失   ―ビートたけしに勝つ      今の自分や他人を判断したく   学習に対する強迫観念      ない気持ち   学生の敗北主義に対す      他人の「聞く耳」がこわい   る教師のエンカウンタ      人間不信の深み   身勝手な恋愛観         集団への帰属に対する拒否感   対等な人間関係の中での性的興奮 山アラシジレンマ   や快感を受容できない      自己表現の不器用さと解放   気をつかうな、気のきく人になれ 共感的理解の能力   教師や他人の自信を不快に    自分のために生きる   思う敗北主義          −ギブ・アンド・テイク   ヒエラルキーへの抵抗      仲間の撤退を許すネット   信用ではなく信頼を       ワークマインドを身につけよ  巻末資料1 社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識  巻末資料2 自分を知ろう−エゴグラム  巻末資料3 友だちとやってみよう−グループワーク  巻末資料4 mito的授業シラバス mito的授業の印象 癒しのサンマの図(A5に縮小) さくいん(フレーズ・レトリック) 「相手の幸せのため」ですませてはいけない 76 ◆あなたはあなた、私は私 72 19 60 95◆あるがままの自分が、両手を広げて歓迎されるサンマ 96 9 ◆あんた世間なめてんじゃない 62 ◆いい男いい女 112 28 ◆いい男といい女さえ支援すればよい 111 ◆いい加減はよい加減 106 ◆生きる意味をあえてあげるならば癒ししかないのではないか 9 ◆潔い撤退 70 44 47 102 ◆依存させてくれないカリスマ 89 ◆一年に一回来てもメンバーだ 94 ◆1%の真実 58 ◆1%の批判 75 ◆いばるな、へつらうな、同質の仲間ではなく異質の他者を歓迎せよ 60 ◆癒されたい、安らぎたい 135 ◆癒しとは傷ついた心がもとの状態に戻ること 8 ◆教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人 135 ◆「おうち」はインフラストラクチャー 115 ◆おまえなんかいなくたっていいんだ 17 ◆かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために 99 95 ◆過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる 65 ◆家族は意識や理性による努力の営み 14 ◆神がかりの一瞬 146 ◆「我慢して出席しなさい」では、忍耐心しか育てられない 130 ◆君たちが学べる場は日本全土だ 130 ◆教師は劣等感を刺激される職業である 84 ◆漁夫の利 141 69 85 ◆薬にするか毒として飲むかを自己決定せよ 108 ◆「くだらないミーイズム」と「報われるミーイズム」 110 ◆「ケッ」と言って笑い飛ばす能力を育てる 24 36 ◆権力・ヒエラルキーにしっぽを振るな 74 26 ◆この人が生きていてくれてよかった 27 63 ◆個は他者と関わることによってより深まる 63 ◆淋しがり屋のタカビー 57 ◆さわやかな自己主張 41 112 ◆3人分の着席の幸せ 56 ◆してあげる、してもらう 56 ◆指導したい人はいても、指導されたい人はいない 12 ◆市民の側の腐敗構造 139 ◆「社会一般では」は意外に当てにならない 71 ◆生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができる 120 21 ◆真偽の勝負から無知と非力の自覚へ 19 ◆真実の共感の思いに対して共感できる自分のかけらの存在 145 ◆信頼している人たちに聞いてまわる 89 ◆自己受容による自己変容 50 ◆事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を 93 ◆事実は小説よりも奇なり 38 ◆自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権 90 ◆自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているか 109 ◆自分の命や時間を意味の充満したものにしたい 144 ◆自分一人で頑張ることはない 18 ◆自分を知って、自分を大切に 51 ◆ジモティーはラッキー 94 ◆人生の風景を味わって生きていきたい 9 ◆スパイから逃げ切ることは考えても無駄 63 ◆スムーズな自己開示のネットワーク 109 ◆積極的積極と消極的積極 40 132 ◆積極的積極と積極的消極 70 29 ◆先生病は職業病と違って、その病気の責任はおもに本人にある 76 ◆相互否定・上下同質競争の魔のトライアングルから、相互承認・水平異質共生の癒しのネットワークへ 96 ◆「そのことについては今は話したくない」が最善の対応である 89 ◆その人はその行為を選ぶべくして選んでいる 51 ◆「ただのろくでなし」と「ましなろくでなし」 24 ◆「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為 102 ◆友達から変と思われたらもう終わり 30 ◆どこに向かって発展しようとかまわない 100 ◆どこまでも知りたい、癒されたい 9 ◆どこまでも知りたい 34 50 108 135 ◆奴隷の覚悟を決める 40 13 42 143 ◆なんで生きてるの 11 ◆熱血先生の傲慢 60 ◆ネットワークのなかでの二人の役割発揮 111 ◆発達だけでなく癒しも 131 ◆人は人によって傷つき、人によって癒される 8 ◆批判の刃を自己にも向けよ 75 13 84 93 141 ◆批判は歓迎せよ、否定は受け流せ 54 ◆開きたい心を開きたいときに安心して開く 110 ◆ビートたけしに勝つ 11 ◆深くて昏い河で舟を漕ぐ 12 144 ◆「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみつく人 67 ◆変化の願望は自分にしか向けられない 88 ◆放っておいてほしい、でも、気にかけてほしい 8 ◆ボランティアのいい世界を知らないだけ 146 ◆「ましなろくでなし」であればよい 66 113 ◆待つのではなく出前せよ 86 ◆見返りを押しつけるな、見返りが期待できるような行為をせよ 64 ◆幹と枝葉 70 32 43 61 ◆無知と非力の自覚 20 32 66 87 100 ◆良いわがままと悪いわがまま 29 102 ◆ルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそ 102 ◆わたしの人生はわたしが歩きたい 29 ◆私は夜中一人で動き出すおもちゃ 8 ◆私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野 134  さくいん(ワード) A 28  AC 23 79  CP 79 22 76 81  FC 36  NPO 146  VTR 85  haveからbeへ 124  mito的授業 69   −おしゃべりの自由 55   −ちょっと待った方式 55   −パフォーマンスタイム 87   −暴力とセックスの禁止 67 84  アイデア 100  アイデンティティ 111 8 62  アガペ 65  アクセシビリティ 121  アジール 104  アンドラゴジー 122  アンビバレンツ 108 19 42 93  エッグヘッド 36  エンカウンター 49 13 141  オープンマインド 121 130  オフィスアワー 130  カウンセリングマインド 61 58  カウンター・カルチャー 104 36  カリスマ 89 46 90  ガンバリズム 18 25 43 79 96  キーパーソン 95  キャッチアップ型教育 115  キャンプ 104  ゲーム 44  ゲシュタルトの祈り 72  コミュニケーション 72 46 109  コミュニケーション訓練 74  コミュニティ 97 92  サン(3)化け 96  サンマ 9  シミュレーション 27  シラバス 45  シンパシー 63 13 141  スキゾ 100  スタッフ機能 123  ストーリー 25  ストローク 65 13 84 96 141  スパイ 112  スローガン 107 93 116 143  セクショナリズム 60  ソクラテス 47  ダブルバインド 76  ダブルメッセージ 76  ツリーとリゾーム 32  ディスコミュニケーション 64  デリケート 54  ニュー・カマー 102  ネットワーカー 36 70 103  ネットワーク 73 31 33 56 60 72 98 102 123 129   −ギブ・アンド・テイク 123   −マインド 36 110 123   −自浄作用 112   −自立と依存の統合 123   −社会 91  バーンアウト 43  パソコン通信 36  ヒエラルキー 73 26 29 31 33 43 60 93 98  ピア 73 31 33  ピアコンセプト 30 10 26 56 60 67 102  フィランソロピー 125  フリースペース 27 89 107   −治癒力・教育力 106  ブレーンストーミング 136  プータロー精神 98  プライオリティ 92  ホメオスタシス 59  ボランタリズム 146  ボランティア 73 6 9 142  ボランティア・コーディネータ 127  ボランティアバンク 133  マス 95 6  マスメディア 36  マンデラ大統領 28  ミーイズム 100 108  メセナ 125  メタ・レベル 81  メディア 130  モラトリアム 42  ヤマアラシジレンマ 46  ユース・カルチャー 104  ライフプラン 131  ラベリング 89  リーダーシップ 97 95  リカレント学習 120 39 124  リピーター 102  リフレッシュ学習 124  レクリエーション 81 78  レディネス 128  ワン・オブ・ゼム 139 129  ワンダーランド 11 34 52 125  あ 愛 55 28  与えられた権威 22  甘え 55  安心できる足場 114  言い出しっぺ 106  生きがい創出型 131  異議申立て 36 141  異質性 141  痛み 109  いつ・どこ・だれ・なに 134 130  一気飲み 105  一斉承り型学習 120  意図的行為 6  居場所 92  今ここで 72  意味ある他者 91  癒し 8 29 63 115  癒しと貢献の生涯学習 13  癒しと成長の好循環 115  癒しのサンマ 37 9 92 98 110 115 116 131 135  受けて立つ 83 27 58 75 86  お試し期間 45  思い立ったが吉日 120  おもしろ・感動型 130  親父の会 103  折り合い 20 71  か 解放の笑い 19  加害者の被害者ヅラ 56  書き言葉メディア 46 86  革新型学習 47  過剰緊張 21  過剰適応 23 106  過剰で屈折したACとCP 27  過剰反省 21  家族関係の病理 14  課題中心 130  課題中心の問題解決学習 119  価値観ゲーム 49  家庭教育 21  仮面 135  仮面・戦術 41  空念仏 93  過労死 18  感情交流 20  関心・意欲・態度 28  感動 34  感動の私語 55  学社連携・学社融合 37 楽習 134  学習課題 92 58  学習経過 122  学習権 55 68 76  学習交換 65  学習しない自由 142  学習者の自己責任 58  学習者の責任 123  学習者の選択行為 130  学習者の不快 86  学習需要調査 119  学習ニーズの高度化・多様化 119  学生の主体性喪失状況 128  学問 36  学歴偏重 118  学歴偏重社会 34  学校開放 126  学校教育 6  学校歴偏重 118 22  学校歴偏重社会 24  学校歴より学習歴 39  聞いてみればよい 64  企業ボランティア 142  気づき 34 29 43 100  基本的構え 52  基本的信頼 84 41  共育 129 81 123  教育 22  教育意図 88  教育意図の明示 59 80  教育権 86  教育システムの歪み 22  教育のアポリア 12 84 89  教育批判 74 66 80 123 140 教育批判範囲の限定 82  共依存 33  強化 47  共感 58 63 85 89 104 136  共感的理解 49 58 69  教師の呼称問題 77 80  教師への無条件的信用 46  教授法 80  共生 60 98 142  教祖 46  協働 139 87 122  居住、移転及び職業選択の自由 94  禁止令 72  偽悪 6  擬似的時空 44  偽善 6  行政改革としての生涯学習推進 138  空白のプログラム 106 104  偶像崇拝 109  偶発性 6  偶発的学習 50  継続高等教育 127 118 120  結果を恐れるな 48  結合便乗 136  権威 36  研修の目的 48  健全な抵抗 51  現役支配 102  現実原則 109 112  現代社会の不幸 93  現代青年 38  現代的課題 92 116 131  公共性 6  孔子 116  肯定的関心 142  公的意味 110  公的課題 116  公的課題の優先 117 92  公的社会教育の意義 110 35 114  高等教育の権威失墜 118  幸福追求権 132 138  公平の原則 113  公民館 117  交流分析 52  個人学習 6  個人的問題の提起 87  個人の幸福追求 110  個人の幸福追求の援助 115 131  個人の事情 128  固定的役割分担 20  言葉の暗示 74  個の深み 81 8 34 38 40 95 109 129 146  個の深みのデリケート 57  駒田信二 116 35  御都合主義 137 94 108 125  娯楽性 6 96  さ 採用試験 38  作戦 24  佐野市生涯学習推進基本構想 134  差別 22 12 35  さわやかな依存 60  さわやかな風 32  さん付け 103  幸せの瞬間 136  私語問題 55 31 67 128  支持的風土 32 131  施設開放 121  自然体 95  質より量 136  指導 147 47   −提案型 52   −なまの人間的な営み 99   −非指示的 99   −不定形 99  指導者  −潔い諦観 100   −器 20 78   −虚業としての指導 47   −禁欲 100 37  −義務の限定 82   −屈折 79   −幸福追求の援助者 85   −傲慢 100   −至上の幸福 139   −施設職員の役割 137   −私的葛藤 76 83 141   −自制 89 109   −自転車で広報 107   −職業病 76 23   −上位者 12   −図式的思考 114   −制度的上位者 141   −背負込みの行為 88   −責任 58 44   −先生病 76 23   −専門職員 137   −存在位置 86   −タイムキーパーとして 78   −つらさ 102   −独善 78   −奴隷の覚悟との違い 91   −プライド 138   −役割 84 57 69 78 107   −らしからぬ言動 107   −枠組の変容の援助者 88  嗜僻 51  氏名表示権 90  社会化 22  社会教育 37 6  社会教育行政 37  社会教育指導者 81  社会教育的フリースペース 90  社会貢献 125 103  社会参加 114  社会的基盤 115  社会的承認 61  社会的認知 135  社会的不適応 59  社会変革 100  集合学習 131  就職3条件 12  集団  −新しい生活集団 105   −生活集団 104   −非定型・定型 32   −目的集団 104  集団学習 117  主我と客我 19  主体性 138 98  主体性喪失 43 124  主体性の阻害要因 89 69  主体的学習の援助 124  主体的な授業の受け方 88  出席ペーパー 88 10 129  主婦の参加 110  瞬間芸 105  昇華 63  生涯学習 37 6 9 70 142  生涯学習社会 34  生涯学習社会への移行 29  生涯学習審議会答申 92 134  生涯学習とボランティア 134  生涯学習の再定義 131 128  生涯学習の町づくり 92  生涯学習ボランティア 139 78  生涯教育 37  小説的真実 35 68  庶民感覚 120  真偽の勝負からの脱却 19  真実 34 42 93 130 142   −人文系の真実 87  信念 19 52  信頼 36 20 41  信頼能力の欠如 62  自己一致 52 21  自己開示 109 48  自己拡大と自己肥大 91  自己確立 62  自己管理型学習 13 47 55 87 119 123 128  自己管理型学習の困難 46  自己管理能力 43  自己管理能力の向上 124  自己客観視 18 28 39 51 61 99 143  自己教育力 130  自己決定 133 11 35 42 46 65 66 70 100 115 124 129  自己決定の生き方 27  自己決定の社会的活動 142 41  自己主張 72  自己実現 62 135  自己受容 52 13  自己責任 124  自己選択行為 59  自己卑下 21  自己否定 20  自己評価 54 61  自己への厳しさ 39  自己変容 103 56 125  自己保存本能 59  自己満足 6  自己抑圧 30  地獄の奇数日 44  自主性 6 114  自主卒業 141  自称「上の世界の人間」 26  自称「傷ついた人」 109  自信過剰 21  自信と他信 64 20  事実という「権威」 36  事実よりも真実 131 34  自尊心 26  自他受容 9  実物投影機 90  自動化 47 110  自発性 6  自発性、無償性、公共性 134  自発的意思 10  自発的撤回 101  自罰と他罰 54  自分さがし 135 40 111 118  自分に厳しい生き方 27  自分のため 88 11 51 65 68 91 95 125  自分らしさ 103 54  自由な遊び心 98  自由の恐怖 101 69 91 108  自由の行使 108 55 87 91 129  自由奔放 136  授業という公的な場面 83  受験 39  受験地獄の再現 113  受容 98 96 122  受容的・共感的雰囲気 99  受容と変容の好循環 115  準拠枠組 49  上下同質競争 98 29 92 104 128 143  情報提供 90  情報リテラシー 88  自立 72 15 28 58 60  人生脚本 14  人生の主人公 43  人文系の真実 131  人類の幸福追求の敵 25  水平異質共生 139 146  水平異質交流 63 103 129 135  巣立ち 95  生育歴 21 14  生活文化 105  成功のシンボル 132  生産的構え 72 41 56  精神的で微妙な見返り 65  成熟化 124  成長 111  制度化された権威 121  青年期特有の課題 110  青年教育 117  青年補習教育 96  潜在的学習関心 132  潜在的学習欲求 119  潜在的能力 60  戦術 41  川上の嘆き 116  善と悪 105 93  善導 116  相互承認 9  相談 89  双方向教育 129 8 87  た 体験学習 49 44  態度変容 82  対話 81 47  高みの見物 66  他罰的デリケート 109  大学  −アイデンティティ 123   −企業との連携 123   −教育主体としての大学 120   −教育内容の転換 128   −経営革新 125   −サバイバル 125 122   −生涯学習化 125   −自己革新 124   −自己点検・自己評価 127 122 129   −自治 125 122   −授業評価 129   −単位互換 123   −目的 118   −有益な都市資源 123  大企業病 98  団体運営 67  団体のため 95  地域主義 92  地域生涯学習推進計画 123  地域に根ざす社会教育 104  地域の教育力 97 93  地域の自他受容 95  地域のプライド 95  小さなプレゼント 64  地球規模の歪み 92  知的水平空間 74 84 90 131  著作権 90  ちょっとおしゃれな教授法 80  賃労働 42 143  疲れる 74  提案型 61  提案型のネットワーク 111  諦観 63 29  定型的教育 126  適度のおとな心 103  撤退の自由 66 102  出会い 108 29 63 89 95 136  出会いの拡大 137  出入り自由 102 112  出入り自由の淋しさ 103  登校拒否と引きこもり 61  同感 140  同時代 93  同時代性 131  道徳教育 131  独学 47  毒と薬 108 93  突出的サンマ 139  突出的時空間 111  突出的水平異質共生 143  突出的水平空間 29  届ける、触発する 121  な 内面的排除 112  なまの出会い 93  人間的真実 108 38 68  人間的真実のもう一つの側面 144  人間万事塞翁が馬 38  人間らしさ 105  認知・行為・評価 138 21 98  認知説 50  寝床分科会 105  練馬区生涯学習推進懇談会 34  飲み屋での自己解放・相互解放 106  は 背後の気持ち 74  敗北主義 109 38 42 103  発信 135  発想法 101  発達課題 21  発達段階論 120  話し言葉メディア 46  反社会性 6  反応・発展の個別化 10  被害者意識 26  卑屈な自己疎外 30  非生産的な皮肉 79  引っ込み思案 48  否定ではなく批判 122  批判禁止 136  評価 113  評価の適正化 121  不安傾向 21  夫婦間の不和 16  深い意味での学問の楽しさ 119  不幸の手紙 102  不合理な思い込み 10 19 102  不毛な争い 19  文化支援 125  文化的孤島 48 29  変身願望 51  変容 96  べき論からの脱却 135 34 61 140 142  放電 135  防衛的風土 32 30  暴力としての言葉 67  ま 負け犬 43 24  まちづくり 134  祭りのあとの空しさ 46 44  見返り 64  みんなのため 95  みんなぼっちの世界 31  無償性 6  無常観 116  無常という真実 116  空しさに耐える 44  空しさの逆襲 46  空しさの予感と恐怖 47  迷惑ボランティア 6  迷惑をかけるな 72 38  もうひとつの自分 43  持ち味 39  問題解決学習 57  や・ら・わ 山アラシジレンマ 103  ゆさぶり発問 20 47  余計なお世話 115 91  欲求中心の自発的学習 119  夜の魔力 105  楽園追放 40 109  履修要覧 45  利他的利己主義 142  流転 63  劣等感 38  魯迅 35  わがまま 71  枠組 50 35 82 88 108 140  私は今は 41  [著者のプロフィール]  徳島大学大学開放実践センター助教授。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員、昭和音楽大学短期大学部助教授を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。  生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報提供、パソコン通信、パソコン活用などに関心をもつ。現職のほか、総務庁、文部省、新国立劇場、千葉県などの情報システム関連委員、東京都、神奈川県、佐野市、桶川市、葛飾区、新宿区、中野区、練馬区、大和市などの生涯学習・社会教育関連委員、東京都青少年センター運営委員、神奈川県保健医療人材育成検討委員会委員、神奈川県青少年協会、横浜市港南区役所まちづくり塾運営委員会委員、全日本社会教育連合会月刊誌「社会教育」の編集委員、徳島市学遊塾運動アドバイザー、看護学校講師などを務める。また、狛江プータロー教室(狛江市青年教室)、練馬元気が出る講座(春日町青少年館)の年間講師など、社会教育現場でも頻繁に活動し、現在は大学公開講座「私らしさのワークショップ」等で張り切っている。 初出  本書は、授業での出席ペーパーとのやりとりを中心として構成されているが、ほかに、筆者が全日本社会教育連合会「社会教育」に数回にわたって執筆した論文も、かなり手を入れた上で組み込まれている。その他、5章の1「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」は、神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」(1995.9)、6章の1「高等教育の根底的転換」は、神奈川県「平成6年度神奈川の大学における生涯学習関連事業実施状況調査結果報告書」(1995.3)に寄稿したそれぞれの論文をもとにして書かれている。また、赤尾勝巳・山本慶裕編『学びのスタイル−生涯学習入門』(玉川大学出版部、1996.10)においても、筆者が「ネットワークのつくり方」という章を分担して執筆している。 癒しの生涯学習  −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方− 1997年4月5日 第一版第一刷発行 1999年3月10日 増補版第一刷発行  〒153−0061 東京都目黒区中目黒1−2−6 学文社  TEL 03−3715−1501 FAX 03−3715−2012