「生涯学習の未来像に関する調査研究」原稿  徳島大学大学開放実践センター 西村美東士 第U章 地域・公民館活動における現状と未来  −癒されるコミュニティの創出に向けて− 1 心を育てるということについて    −わたしたち大人自身の心に問題がある  とくに子どもの教育を考えるとき、家庭、学校だけでなく、地域の教育力が注目される。地域には、「心を育てる」あるいは「生きる力を育てる」教育力が強く内包されていると考えられるからだ(地域・団体の教育力については自著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』平成3年4月、学文社、P174〜185)。  中央教育審議会は、1998年6月、「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機−(答申)」を発表した。「そうだな、今の子どもたちの心は問題あるからな」ですませてしまう人(素朴肯定派)も、「ええっ、なんということを。だから、教育は押し付けがましくていやなんだよ。まあ、わたしたちは大人だから、教育から自分の『心を育てられる』なんてことはないからいいけど」と感じる人(教育懐疑派)もいるだろう。しかし、いずれにせよ、心を育てる教育や指導の意味を、この際、あらためて考え直す機会にすべきである。  ぼくは、副題の「次世代を育てる心」という言葉に注目する。これは、もっぱら今のわたしたち大人の心を指していて、それが危機だといっているのである。たしかに、青少年問題に関する文献においても、最近数年の傾向として、現代社会における大人自身の不幸に言及する論調が増えてきている(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年度末発行)。  ここまでくると、「素朴肯定派」は、「だけど、大人は、子どもと違って心の教育なんてできないからな」といってすませようとし、「わたしたちは大人だからいいけど」と思っていた「教育懐疑派」の人は、「大人まで教育しようなんて余計なお世話だ」と反発を強める人が多いのではないか。あるいは、ここまできてもなお、「たしかにひどい大人はいるから」といって他人事にしようとするか、「わたしはすでに責任のある指導者だから」といって、少なくとも自分だけはそういう「教育対象」であることから免れようとする人もいるかもしれない。そういう一般的と思われる状態と比べれば、ぼくは、「教育懐疑派」の最初の「ええっ、なんということを」という直感こそが、かなり本質を突いたものだと思う。「自分の心まで教育されてしまうことへの抵抗心」、これを大切にしたい。  以上の前提のもとで、「子どもの心を育てることのできる成人」の心を育てることはできるか、という問題に進むことにする。結論だけいっておくと、先に述べた「抵抗心」の尊重にもかかわらず、ぼくの答えは「できる」である。なぜなら、成人教育の場で、地域で、現に、当たり前のように大人が生涯にわたって成長し続けているのだから。 2 用語の言い換えだけでは問題は解決しない  ぼくが参加しているあるメーリングリスト(インターネットによるグループ内での手紙のやり取り、以下MLと略す)において、先日、次のような問題が提起された。  図書館での「指導サービス instruction service」について、アメリカの図書館界では普通に使われているようなのに、日本の公共図書館の司書の中には「市民に奉仕するべきサービスの現場で『指導』などという思い上がった考えは絶対にいけない」という拒否反応を示す人が相当数いたということなのである。  たしかに、大人(この場合は市民)に対して「指導」という概念を用いることは、最初、ほかのメンバーにも、ぼくにも抵抗があった。ぼくも、最初、次のように「教育懐疑」的なレスポンス(返事)をしていた。 ・指導という言葉を聞くと、引きこもりの若者たちのカウンセラー富田富士也さんが、ぼくがある「青少年指導者」の講座のメンバーを引き連れて話を伺いにいったとき、「指導したい人はこの世にたくさんいるでしょうけど、指導されたい人なんているんですかね」と強烈過ぎる一言を穏やかににこやかに発せられたことを、いつも思い出します。 ・市民に「あなたを指導しますよ」という言葉は使わないんじゃないかなあ。 ・市民に使わない業界用語、役所用語は、内部でも避けたほうがよいのでは。 ・(メディアリテラシー教育について)問題は、(援助ではなく)instruction(指導)の方になるのかな。メディア活用技能についてはinstructionはあっても、メディアリテラシーにおける主体性の涵養においてのinstructionは、「ちょっとおまえ、そんなにえらいのか」という感じですよね。  しかし、問題提起者(仁上幸治、 早稲田大学図書館)の緻密で丁寧なリ・レスポンス(返事に対する返事)によって、指導という言葉を単純に忌避するだけであれば、次のような問題が生ずることが明らかになってきた。 ・広報サービスや案内サービスとは異なる次のレベルの専門性の高いサービスとしての指導サービスが、案内サービスのレベルと同等になるおそれがある。 ・大学では「卒論指導」などという言葉があるけれど、誰も抗議しない。市民には控えるべき言葉づかいが、学校や大学では堂々と罷り通っているということになる。 ・学校や大学や企業では「指導」という用語を使い、社会教育の現場でだけ別な用語を使う場合、生涯学習の観点からは、議論のための共通の用語を失うことになる。 ・指導はダメで、英語のインストラクションならいいということなら、逆に、指導という言葉にこびりついている日本的なマイナスイメージを上回るプラスイメージを押し出して、ふつうに使える言葉にすればよい話なのではないか。  今回の問題提起のおかげで、とくにテクニカル(技能的)な、初歩から専門までの知識と技能のハウツー伝授の場合は、指導という言葉は問題ないだろうという、本ML内での一応の「収まり」は見えてきたように思う。しかし、その「指導呼称容認」の結論は、あくまでも問題提起者の仁上さんが明瞭に述べたように、「いかに生きるべきか」というような人生論や主体性論とはまったく別のものとして切り離した場合、という条件付きのものである。  それでは「心を育てる」という場合はどうなるのか。ぼくは、この「収まり」に関して次のようにコメントした(軟弱なコメントではあるが)。 ・そういわれても、教育の主要な目的は人間形成ですからねえ。最近は「生きる力」とかもいわれてる。そして図書館も社会「教育」施設だし(その法的位置づけには昔から司書の反対運動があったようですけど)。それに情報リテラシー教育の主眼は、なんといっても、テクニカルな面ではなく、あふれる情報に対して主体的に取捨選択するという「態度形成」の問題でしょう。 ・やっぱり、学校教育や社会教育は文字通り教育であり、指導者は文字通り指導をする人なのでしょう。国民が主人公という建前の社会教育においても、教える側に立つ講師という「教育者」はいますし、さらには社会教育の理想郷(生涯学習社会)に至るまでの長い過渡期間においては、「社会教育する」専門職員、「指導する」指導者がいて当然でしょう。でも、これは学校教育でも同じなんですが、「教える人は(学習者から)学ぶ人」であり、指導者は指導される人の自発的動機に依拠して指導するんですよね。それから大切なのは、やっぱり、教育者側、指導者側の、「無知と非力の自覚と受容」(後述)なんだと思います。 ・(言葉の言い換えですまそうとする問題について)生涯教育を生涯学習に言い換えることによってだけ「国民主体」になったような雰囲気をつくろうなんて、なんだか姑息ですよね。もともと、生涯学習を支援する社会の教育的諸機能全体が生涯教育なんですから。 ・問題は、「態度変容の学び」において、教育や指導という言葉が成立するかどうか、そして、その「手の内」を学習者側にどういう言葉で(内部で本当に使うのだったら、外部でもそのまま使え、というのがぼくの意見)表現するかということでしょう。 (注)態度変容の学びについて  一般的に研修には、@知識習得、A技能向上、B態度変容の3つの目的がある。講師は目的を絞り、意図的、意識的に研修を進める必要がある。たとえば生涯学習の指導者のための研修のうち、現在とくに欠けているのはBの態度変容目的の研修であろう。しかし、アダルト・ティーチング(大人への教授)を志す者にとっては、態度変容のための学習がもっとも重要だと思われる。「現在の態度がよくないから」という理由ではない。それでは、自他の否定になってしまう。態度変容は、学習の本質である「枠組の変容」の象徴であり、それらが生涯にわたって充実して進められることこそ生涯学習のそもそもの楽しみだからである。 3 大人に対する心の教育や指導は可能か  繰り返しになるが、この章の問いに対するぼくの結論は、可能、である。教育懐疑派のようにすべての人の単純な自己教育しか認めない人が不可能と答えるならともかく、子どもにだけは可能だが大人には不可能という素朴肯定派の答えは、絶望的ともいえる大きな問題をはらんでいる。その人がふと我に返ったとき、「だったら、子どもにとっても地獄のような教育や指導なんだろうな」と気づくはずではないか。それでも、一部の体育会系のように「自分も我慢してきたんだから、今の子どもも社会のために我慢しろ」というのか。  やはり、ここで「心を育てる」学校教育や社会教育をめざす場合、今までわたしたちが思い込んできた教育の姿とは異なる「もうひとつの教育」の姿を探し出し、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝える」(中央教育審議会)ような自信をもって、楽しげに、できる!、と答えたいのである。ただし、それは「できる」であって、「できている」では決してない。あとで述べるように(無知と非力の自覚)、「できている」などという大それた自信はぼくにもない。  大人の心を育てるという教育の可能性を考えるにあたって、ここではあえて、最も抵抗が強いと考えられる大人に対する教育的指導のあり方について踏み込んでみることとしよう。  指導は「指さし導く」と書く。  何を指さすかというと教育目標(=学習の到達目標)であろう。だから、自分には教育目標があるのにそれを学習者側には秘密にしておくような指導は、本当の指導ではないということになろう。次に「心を育てる」などといわれても、そんな面での教育目標なんかおこがましくてもてないという指導者もいるだろう。そういう人は、指導者としての資質がかなりあるとぼくは思うが、先に述べた「もうひとつの」教育や指導の存在の可能性をも考えて、これ以降のぼくの文も読んでほしい。  次に、導くということは、その教育目標の方向に手を引いてあげることであり、これも大変なことだ。自分だって健全(まったく欠け目なく異常がないこと)な心をもっているはずがないのだから。だが、先のMLでは、大学でのゼミの教師が「教えない教師をめざす」といっていたという発言もあった。これも上手な導き方のひとつなのかもしれない。そして、「不完全な自己への自覚」さえあれば、これから述べるような導き方ならできるはずだとぼくは考える。  なお、これから述べる「大人に対する(心の)指導」のあり方は、じつは子どもにとっても、「地獄ではない、もうひとつの教育や指導」のあり方を示すものなのではないかとぼくは思っている。 @ 非日常的な相互関与を意図的に深める。  徳島大学大学開放実践センターの研究会で、ぼくは、センターのこれからの役割として「情報提供を乗り越えて相互関与へ」という文脈で提起したことがあったのだが、今回のMLでの議論を同研究会で紹介したところ、「指導に代わるいい言葉」として、その「相互関与(interaction)」にヒントがあるのではないかという指摘があった。その指摘を受けて、指導の本質は、とくに心を育てるという場面においては、指導者と学習者の相互関与を非日常的な深いものにして、学習者の気づきのあるものになるように、意図的に行為することなのではないかとぼくは思った。たしかに、これができれば、すばらしい指導といえるだろう。  小児精神科医の河合洋は、今日の子どもたちのぎりぎりの状況をふまえて、「ほざくんじゃねえ」と訴えている。子どもにではなく、子どもを取り巻く親や教師などの大人に対してである。他人の痛みがわからない大人たちから発せられる、感情を伴わない意味のない言葉の洪水(ほざき)に、子どもたちはSOSを発しているというのである。「意味のある言葉」をたくさん受けるために生まれてきたはずの大人たちに対して、ほざきの連続の不幸な日常のなかで、もし、指導によって日常では得られない学習者との深い相互関与が実現できるのなら、その指導はこの社会における突出的な意図的行為といえるのではないか。 A 指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する。  「私は真、あなたは偽」と思い込んで(信念に凝り固まって)いる人にとっては「自分がわかっていないことに気づくこと」(無知の知)が重要である。わからなくなることによって、答を出すのを保留して問い続けるという生産的な構え(交流分析では、幼児期に親とのふれあい等によって培われた人間と人生に対する態度を「基本的構え」といい、基本的信頼に基づく構えを「生産的」とする)に戻ることができるのである。では、わからなくなれない人はどうしたらよいか。わかっていないということをその人に自覚させるような学習指導者からの質問が有効である。これを「ゆさぶり発問」という。そういう指導者がいない場合は、あとは自問という手段しか期待できない。こういうゆさぶりを経て、無知と非力の自覚が生まれ、「まあ、いいか。これから少しずつやっていこう」という自他の欠点や弱点をも抱え込んだ受容につながり、自信(自分への信頼)と他信(他者への信頼)が形成される(図表●)。  以前、「ちょっとおしゃれな教授法」という音楽大学での演習で、ぼくが「目玉焼きの作り方」という「模範授業」を行ったとき、あるまじめな学生が「mitoちゃんは私たちよりも目玉焼きについてよく知っているんですか」と聞いてきた。ぼくは「ふたをした方がおいしくできあがることなど、目玉焼きの作り方に関して伝えたいことはあるけど、学習者側より知っているかどうかはわからない」と答えた。すると、彼女は「そんな人が教える側に立つこと自体、いけないことなのではないか」といったのである。たしかに彼女は、自分よりはるかに優秀な先生から音楽を習うことに慣れているから、そういう「いい加減な指導」に抵抗を感じたのだろう。この場合は教授法のシミュレーション(模擬訓練)であったが、ぼくは、たとえ本番の教授活動においてもそういうことがあってもよいと思っている。指導者側に無知と非力の自覚さえあれば、双方向教育などによって、むしろ結果的にはより効果的に学習者側の主体的な学習を支援することにつながるかもしれないのだ。  ぼくの授業を受けている学生のなかには、「無知と非力の自覚」というぼくの言葉を聞いて、「無知と非力を自覚してしまったからこそ、私はつらいのに」と反発してくる者がいるが、ぼくがいいたいのはそういうことではない。前段は学習者の無知と非力の自覚と受容のための指導のあり方について触れたものだが、その場合でも、指導者側自体が自己の無知と非力を認めて、受け入れようとしないままで、学習者にだけはそのような気づきを援助するなどということができるわけがない。 B 教育と学習の間に流れる暗くて深い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。  教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、以下のように情緒的な表現になってしまうことをお許しいただきたい。教育=学習援助の等号には暗くて深い河が流れているとぼくは思う。ぼくは、まず、この暗くて深い河の存在を伝えていきたい。次に、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この「上下同質競争社会」の同時代に命を燃やしている。ぼくはたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい。  先に述べたように、学習者の「自分の心を教育されることへの抵抗心」を尊重しつつ、学習者主体の指導を試みようとする指導者にとっては、つねに自己の指導の有効性が疑わしいものに思えてくることだろう。「ところで、自分のほうの指導者としての主体性はどうなってしまうんだ?」というわけである。逆に、学習者からのねぎらいや感謝のちょっとした一言でささやかな自信がもてたりするときもあるだろう。とくに「心を育てる」教育、ぼくの言葉でいえば学習者の態度変容のための指導においては、厳しいいい方になるがその繰り返しであってほしいと思う。男と女の間にも、最終的には理解し合えない「暗くて深い河」が流れている。しかし、だからといって、ふてくされてしまって、相手という彼岸に向かって舟を漕ぐことさえしなくなったら、その人の姿はもうかわいくない。 4 わたしたちはどんな心をもちたいのか  本章の最初に紹介した中央教育審議会答申は、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝えようとしない大人、子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人、子どもを育てることをわずらわしく感じる大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、我が国の抱えている根本的な問題である」といっている。  しかしながら、じつは、ぼくには、この表現が今ひとつしっくりきていない。わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか(そう思ってしまうところが「根本的な問題」のひとつだという人もいるかもしれないが)。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたいのである。むしろ、潔くそのように「自分のため」と思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。  以前から、親の期待に沿おうとして過剰な努力をしてしまう子どもたちの苦しみが問題になっているが、最近気づいたことだが、同様に、親だって、子どもの期待に沿おうとして過剰な努力をするなんて本当はまっぴらごめんのはずだ。  「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」というものが、教育を受けるものにとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、これは指導行為など成り立つわけがない。空しく響くだけだ。極端にいえば、人々から本音のところではいやがられてきた教育や指導の再来ともとらえられかねない。この答申の趣旨からいって仕方ないことかもしれないが、題名どおり「危機対応型」で、「子どものため」を主体とした提案が多いのである。ぼくは、少なくともこの報告が基調とする「新しい時代」や「未来」のためという言葉は、やや「感情を伴わない意味のない言葉」のような感じがするということを指摘しておきたい。  もっと、子育てを含めた大人の幸福追求全体にとって、「今ここで」の実感から「夢を語り」、それが結果として「未来を切り拓く」ことにもつながるという「楽習」の展望を指させないのだろうか。もっとも、それは、中央教育審議会の役割なのではなく、公民館をはじめとする地域での生涯学習活動の役割なのかもしれないが。  そのためには地域における「癒しのサンマ(時間・空間・仲間)」が重要であるとぼくは考える。神奈川県藤沢市青少年協会の若者たちが、ぼくが「指さそう」としたサンマのあり方について、絵にしてくれたものがあるので、これを紹介しておく(図表●)。詳しくは自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』(平成9年4月、学文社)を参照されたい。 5 地域での癒される場としての公民館    −寺中構想の再評価  安原昇は『公民館−青少年が「地域に生きるカ」を育むために』(青少年問題研究会「青少年問題」45巻2号、p28〜33、平成10年2月)で、公民館の果たすべき役割について次のような趣旨で説明し、期待を述べている。  公民館は、住民の日常生活に必要な情報や交流の場と機会を提供し、住民相互の自発的な教育・学習と地域活動を支援し、その参加過程を通じて住民の自治能力の向上を図る多目的な社会教育施設であり、集会、学習、交流と情報の4機能を総合的螺旋的に発揮しながら住民の多様な要求に応える地域基幹施設である。  我が国の社会教育では、欧米の成人・継続教育に比較して、従前から学校補完的な青少年の学校外活動は成人教育と並立する二大領域であり、公民館も時代の要請に応じた対応を行ってきた。学校週五日制がはじめて導入されるようになった当初、地域に学校と類似の児童生徒のための「受け皿」が必要であり、地域にもっとも普及している公民館等がその役割を担うべきだとする学校外教育論もその文脈の中にあった。このような旧態依然とした議論が再燃する背景には、今日における学校外教育(社会教育)の発展に関する認識が浅く、地域に学校しかみられなかった時代の学校依存・学校万能観が見て取れる。  その後の学校教育は、自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる自己教育力(生涯学習能力)の育成を実践的課題とするなど自己変革を遂げようと務めている。このように学校自体が変化する時、社会教育としての学校外教育も変革され、学校と連携協力し、内容によっては学社融合の試みも必要となってくる。公民館が保有する地域資源や人的ネットワークがもっと活用されてよい。また、高度情報社会の子どもは、学校だけで学んだ私たちの時代とは異なり、学校でも学び、学校外でも学ぶマルチ学習の環境の中にいる。同様に子どもだけが大人から学ぶのでなく、大人も子どもから学ぶ相互学習が生涯学習の基本となる。公民館には、成人学習のみでなく子どもぐるみの地域活動の場と機会が用意される必要がある。公民館における「子どもがつくり地域が支える学校外活動」の実践こそ、「地域に生きる力」を子どもに育む。  掲載誌の性格からこの論は、もっぱら子どもにとっての公民館の教育機能について述べているが、ここでは大人にとって、公民館が地域の教育力の要(かなめ)の一つとして、どのように機能することが望まれるかを述べてみたい。  寺中作雄の公民館構想(寺中構想)は、昭和24年の社会教育法より一足早く、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実し、公民館の普及に大きな役割を果たした。この通達では、@公民館は、町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である、A公民館は、町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある、B公民館は、町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である、C公民館は、町村民の民主主義的な訓練の実習場である、D公民館は、中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所、E公民館は、全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する、F公民館は、郷土振興の基礎を作る機関である、と述べた。  Aの「社交機関」については、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」とし、Bについても、「性別や老若貧富で差別することなく、自由な討論と他人の意見への傾聴」などとされている。「民主主義的訓練」だけでなく、戦時の暗く傷ついた人々の心を、社交や自由な雰囲気によってなんとか癒そうとしたものと考えられる。  これに対して、社会教育法では、「実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与する」とされ、法的根拠が与えられた。このことについて、「あまり明確ではないが、(寺中構想の)郷土復興・町村自治振興機関という性格はうすれ、(社会教育法では)社会教育施設という性格が強まったといえる。その設置主体は、公民館が地域を基盤としその地域内の住民全員の参加と支持と協力とにより成り立つものであるという建前から、市町村および公民館設立を目的に結成した法人−部落・字の公民館−に限定された。当然のことながら、その公共性、公益性が前面に出されたのである」(碓井正久編「戦後日本の教育改革10−社会教育」東京大学出版会、カッコ内は引用者)などというように、一定の進歩としての評価をするほうがふつうである。  しかし、ぼくは、公民館の公共性とか教育機関としての性格とかいうものは、人々が心傷ついた現代社会においては、むしろ寺中構想の「伝統」を基盤にした方がよいのではないかと考える。正確にいうと、ネオ・トラディショナル(新しい・伝統)だが。  今日、癒されない現代社会において「癒されるコミュニティ」を創り出そうとするならば、社会教育機関として「純化」される前の、今でいう自治公民館のもつ「社交機関」のような性格の意義が再認識されるべきではないか。なぜならば、生涯学習、ボランティア、地域市民活動という3つの社会的自己決定活動においてこそ、この現代社会においてさえ人が人によって癒される「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)」創出の可能性があるからである。そして、むしろ、社会教育法に則った公民館のほうこそ、自治公民館以上の教育的、公共的役割として、サンマの支援に力を傾けるべきである。  さらに、全国公民館連合会「公民館のあるべき姿と今日的指標」(昭和42年)では公民館の理念を、@公民館活動の基底は、人間尊重の精神にある、A公民館活動の核心は、国民の生涯教育の態勢を確立するにある、B公民館活動の究極のねらいは、住民の自治能力の向上にあるとし、その役割を、@集会と活用、A学習と創造、B総合と調整の3点とした。いわゆる「つどい」「まなび」「つなぐ」である。  もちろん、ここでは心のつながりなどの要素も意識されてはいたはずだが、公民館の現場では、表面的に受けとめられ、個人の学習課題の解決(生涯学習)と、それによる住民としての自治能力の向上ばかりが叫ばれ、そのスローガンが不信と孤立の一般社会において空しく響いているだけのようにぼくには感じられる。「公民館活動の究極のねらい」として、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」としての「社交機関」が現代的に転化した形での「癒される居場所づくり」の役割を自覚すべきである。 6 今の地域はジェンダーバイアスの宝庫? 女同士の監視の牢獄?    −女の癒し、男の癒しを地域に求めて  徳島市内で、国際婦人教育振興会徳島セミナー「メディアの中の女性−ネットワーク・21世紀に向けて」が行われた。ぼくはそこで「チイキから発信する女たち−メディア・ジェンダー・コミュニティ」というメッセージを掲げて「地域社会分科会」の助言者として参加した。  分科会では、事例発表者の元小学校長で現在、市の公民館主事のTさんに、思いきって本音で発表していただいた。彼女は、地域の女性のエンパワーメントを掲げたまちづくり事業を進めているが、彼女の発表は、冒頭から「地域はジェンダーバイアスの『宝庫』である」という言葉で始まった。さらには、女同士でも監視しあう牢獄のような要素が地域にはあるという。異質を歓迎しあう水平交流にはまだまだほど遠いのが地域一般の実態なのである。公民館が、そんな癒されないコミュニティを「回復」してしまってはいけないだろう。  彼女が公民館主事になったときの感想は、「学校では学習者が自分の話を聞いてくれて当たり前だったが、社会教育では聞いてもらえるようになることから始めなければいけない」ということだ。そういう出発点から、地域のエンパワーメントに取り組んだ。そうしたら、若い子育てママの一人が、イベントのチラシをごっそり持っていって、スーパーのレジの前で配り出したという。チラシを受け取った人とはおしゃべりをし、ちゃっかり、連絡先まで書いてもらっていた。スーパーの店長だって、おいそれとは禁止できないのだろう。Tさんは、「元教員の私が彼女たちから学ぶ喜びを教わった」という。  さらには、「男社会」の象徴のような従来の地域団体をも巻き込み、盆踊りの練習をしたあとに地域の子育てトーキングをするなどの地域活動を展開している。彼女は、「地域にいてもジェンダーに縛られている男たちはかわいそう」という。彼女がめざしている公民館の地域活動は、女だけではなく、男たちにも、ジェンダーフリーの水平交流によるこのような癒しを与えるものといえよう。 7 血縁・地縁から問題縁へ    −水平異質共生のコミュニティ  全日本社会教育連合会「社会教育」平成9年5月号で斉藤学は、「今、第四の領域といって学校、家庭、地域それら以外の領域も大切ではないかと言われだしているんですが」というインタビューに答えて、次のように述べている。  「ある家庭教育についての懇談会があって、すぐ父親参加をいうんです。でも、父親を集めようとしたって集まりませんよ。団地とか新興住宅地くらいですよ。妻にそむかれて一人になったシングルファザーの会だとか、家庭内暴力におびえている母の会といったら、すぐ集まります。こういうのを問題縁というんです。  今は地縁というのはないことを前提に考えた方がいい。学校は強制された地縁みたいなものですね。もう一つの縁は家庭です。家は血縁でしょ。血縁というのは、それ自体危ないんです。さっきから言っているような理由で。血縁、地縁もあまり頼るなといいたいですね。これからは、問題縁ですよ。私は、魂の家族と言っている」。  ぼくは、こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにぼくらのワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。  たしかに、斉藤のいうように、血縁・地縁による暗黙のうちの強制の伴う人間関係には、多くの現代人が傷ついてきた。しかし、公民館は、戦後から一貫してそういう縁とは異なる近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきたはずではないか(戦後の新生活運動を想起していただきたい)。  問題縁に希望があるというが、コミュニティを貫き通す問題縁は存在しないのか。もし、存在しないとするなら、地域活動・学習の総合的拠点としての公民館のすべきことなどもはやないといってよいだろう。しかし、個々人の抱える依存やハンディキャップの「種類」によって分断されたグループ(それが不要ということではないが)だけでなく、「地域でさえ癒されない。そういう今の地域を自分らしくいられる癒される地域にしたい」という「問題縁」は、潜在的には多数の住民に存在するはずだ。  幸い、地域での人間関係には「間(マ)」が存在している。その間を尊重しながらであれば、ジェンダーフリーの宝庫、監視しあわないあるがままを認め合う水平異質共生(自著『癒しの生涯学習』学文社)の地域創造は可能なはずだ。ここが寺中構想とは異なるネオ(新しい)の部分だ。  最近、コギャルを卒業した若い女性たちや、普通のサラリーマンたちなどが、ヒーリング(心と体の癒し)とともに、家や地元でゆったりと過ごし、ジモティ(地元)の仲間とジモティの店で過ごす傾向を見受けるようになった。こういう一般の人たちに、人による本当の癒しを与える公民館であってほしい。人は人によって傷つくが、人によって癒される(富田富士也)という。  現実の公民館には「癒しのサンマ」がふんだんにある。斉藤は同記事で「有能なリーダーなんていらない。自分たちで集まって、自分たちの言葉で語る。語るものは、体験しかないんです」、「単に地域だからといって、母親集めたって烏合の衆です。子育てに悩む母親だったら集まる意義がある」と述べているが、少なくとも「リーダー」としての公民館主事は、住民が安心して「自分たちの言葉で体験を語」れるようにするために仕事をしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけの、ごく当然なケースがたくさんあるだけの話だ。 8 住民の自治能力を向上させることよりも、まず大切なのは癒しと安心    −過去の学校のような集団づくりはもうやめよう  ぼくの関わっているメーリングリストで、多くの講座が次のような学級講座の運営方式をとっているという話題があった。@班にわけ、班長を決め、役員を決め、委員長を決める。A当番を決め、準備等の役割を決める。B連絡網を作る。C学級日誌をつける。D講座が終われば、編集委員による「まとめ」の作成。Eそして、自主グル−プの結成へ。住民の自治能力や民主的能力の育成という眼目のもとに取り組まれてきたのであろう。しかし、そのような役割をやらされるのはごめん、という住民が増えてきたというのだ。連絡網にしたって、最近の住民はプライバシーの観点から、強制されることをいやがるという。  こういう「公民館側の悩み」に共感するリーダーは多いと思う。しかし、ぼくは、逆に、現代社会においてはそういう住民のほうがむしろ当然だと思う。ここも「ネオ」な部分といえる。ぼくが年間講師として関わってきた狛江市中央公民館の青年教室(狛プー)には、半年ほども躊躇した上で、ボロボロになったチラシを握り締めて、やっと教室に入ってきた若者がいる。「学校の教室のようだったら絶対いやだったから」というのである。また、狛プーでバンガローに泊まり、最後の撤収の朝、ある若者が裏のほうで貸し布団まで干していた。それをたまたま見かけたぼくたちメンバーは、みな感心してしまった。役割分担は、このように自発的、流動的であるべきである。固定的になってしまったら、自立と共生をめざす公民館の教育的機能は薄れる。  @からEまでずらっと並べると、生涯学習時代以前の学校教育でさんざんやらされてきた「縦社会づくり(委員長、役員)」「固定的役割分担(当番制)」「みんな仲良く(連絡網)」の再来でしかないのではないかと感じる。学校教育の教科だけではなく、あの暗黙のうちの強制の匂いのする集団主義に心からはついていけないのである。「ここはまさか、学校みたいなことはさせられないだろうな」と思って、おずおずと、しかし、勇気をふるって参加した人に、いきなり、「ここはみなさんが主人公として活躍する学習の場です」というとしたら・・・、これは残酷な話だと思う。DとEは、もしやりたい人がいたら公民館がどんどん支援すればいい。Cも、買って出てくれる人がいる場合は、その人にやってもらうのならいいだろう。ただ、Dについては、公民館の講座は自主グループではないのだから、公民館主事ができるだけ講座の中味にも参加して、質の高いリーダーシップを発揮し、きちんとした記録を作ってほしい。  いずれにせよ、住民は生涯学習という自己決定活動の一環として学級講座に参加してくるのだ、ということを公民館側は再認識しなければいけない。この世知辛い現代社会なのにわざわざ自己決定で参加してきた住民に対して、公民館が、即、自治能力向上などの名のもとに集団主義を押し付けるのは、アダルトティーチングとしての教育的センスに欠けているといわざるをえない。  公民館は、自治能力向上等の公的課題(=現代的課題)の教育的意図を参加者にフェアに明示しつつ、まずは「ここは自分らしくいられる場所である」と安心してもらえるように心がける必要がある。 9 「地域社会に役立っている私」という住民の存在確認    −コミュニティに癒しを広げる公民館の公的役割  ここで、公民館側が意図的に提起している公的課題の学習と、それによる「住民の自治能力の向上」は、どのように個々人の癒しとつながるのかを述べておきたい。  生涯学習は個人の「どこまでも知りたい」という内発的動機に基づくもっぱら自己実現の行為といえよう。しかし、その自己実現は、社会的認知・承認の欲求の充足なくしては、ほぼ達成不可能である。その点では、マズローが社会的欲求を、自己実現の欲求や自我欲求よりも前のレベルに位置づけたことは現在でも通用する。  ただし、現代社会においては社会的欲求こそ一番満たされにくく、それゆえ多くの個人にとっては最高次の欲求にまで高まっているのかもしれない。本論も、この現代の欲求に応える公民館経営を提起しようとしたものである。  もちろん、社会的承認は、先述の3つの自己決定活動以外にも、本来、家族や職場への帰属意識などによって満たされるはずのものである。しかし、そこに頼りすぎることがむしろ病理を生み出しているのが現代である。これに気づいた一部の市民たちが自己決定活動に踏み出しているのだろう。そこで得られるのが、社会的役割の遂行と、それによる社会的承認を実感できる社会貢献のチャンスである。そして、公的課題の学習も、公民館が地域の総合的な教育施設であるがゆえに、学習者がその学習成果を社会貢献につなげていく条件を十分に備えている。  今日、多くの若者が「自分は社会において意味のある存在である」と胸を張れない状況がある。そういう人たちに対して、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居心地よいサンマにおける癒しだけにとどまらず、さらには「地域社会に役立っている私」という究極の癒しのチャンスまでをも提供する公民館であってほしい。その関連を「社会貢献のチャンスとしての個人の学習課題」として図に示した(図表●)。今後の公民館活動の「究極」のねらいは、「住民の自治能力の向上」ではなく、学習者一人一人にとっての、その二つの「癒し」におくべきではないか。 10 地域は若者の居場所になりうるか  次に青少年、とくに若者にとっての地域がいかにあるべきかを考えたい。そこで注目すべきは、平成9年度の文献(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年発行)に目立って増えてきた「居場所」の議論である。  大下勝巳「新しい地縁社会の創造をめざして−一サラリーマンの地域体験活動から」(全日本社会教育連合会「社会教育」52巻5号、p22〜24、平成9年5月)の趣旨は次のとおりである。  おやじの会「いたか」は、父親たちの子育てをきっかけとした川崎のネットワークである。筆者は「新しい自分を発見し、開発する」と題し、地域参加方式である目的指向型の本会の活動の経緯について次のように述べている。1983年の発足以来、一貫して新住民サラリーマンのライフスタイルの構築をテーマに活動してきた。職業人であり父親であり同時に市民であることのバランスをとりつつ、一人の人間としてのトータルな生き方とは何かを模索してきた。個人としての「私」を取り戻して子どもに向き合い、大人のネットワークづくりを進めてきた。地縁はとはいっても、町内会・自治会の地縁よりはるかに広い。目的指向型のテーマ・コミュニティは、テーマと参加方式が明確であれば地域的な距離は問題ではなくなる。そして、地域社会における自分の居場所を確保できると、川崎都民から川崎市民へという意識改革、自己変革が起こる。  筆者は、最後に、「まちづくりは生涯学習の格好の素材」と題して、次のように述べている。昨年6月の父の日に、川崎市企画室の職員の参加を得て、おやじ連で「まちづくりフォーラム」を開催した。行政とのパートナーシップを今後も考えていきたい。そのとき問われるのは、行政の政策立案能力であり市民としての力量であろう。そのためにも、地域社会への参加の仕組みをつくり、参加のチャネルを増やし、だれもが気軽に地域に出ていけるようにする必要がある。それには、生きがい、自己実現、人間関係の増幅という三つの要素を内包した会の運営を心掛けたい。地域参加することが市民経験の蓄積となって、市民としての成熟をもたらす。そういうプロセスを大事にしながら参加の仕組みを考えたい。それを可能にしてくれるのは生涯学習である。まちづくりへの参加を通した生涯学習こそ、人々の生きがいと自己実現を充足させる有効な方法であり、ひいては地域社会の成熟と力量アップをもたらす。  父親たちの地域への関心と、それによる「地域社会における自分の居場所」の確保の意義が示されている。  萩原建次郎「若者にとっての『居場所』の意味」(日本社会教育学会「日本社会教育学会紀要」33号、p37〜44、平成9年6月)の趣旨は次のとおりである。  筆者は「居場所とはなにか」について、@存在が認められること、A自前で自分の位置をつくりだすこと、B生きられた身体として世界に住み込むこと、C「私」が住み込む場所を制限する「まなざし」、D「居場所とはなにか」と論じる。  その上で、「居場所の観点から見た青年期教育の課題」として次のように述べる。若者の居場所となりうるような場をどのように保障するか。これまでの検討から明らかなように、居場所喪失の問題は若者の自己形成の危機的状況を示している。そこから、次の課題が導かれる。@若者の居場所となりうる場のデザインの観点は何か。Aそこでの指導者(大人)はどのような役割を担うのか。Bそのような場における学習の内容・方法とはなにか。  これらの課題にたいして、筆者は留意すべき点を次のように指摘している。@そこが居場所になるか否かは、あくまで若者の側にゆだねられる。居場所はつねに流動する可能性をもっているため、大人が用意した場を必ずしも居場所にするとは限らない。A居場所になりうるか否かは指導者の在り方にかかわってくる。少なくとも若者の自己形成過程を、意図的操作的な教育意志によって教育過程に引き込んでいくことは、彼らの居場所を失わせる危険性をはらんでいる。多くの若者はそのような「教育的まなざし」に満ちた場には寄りつこうとはしない。そこにはすでに大人にとっての若者や人間についての意味づけや価値づけや方向づけが強く働いているために、その中で若者は居心地の悪さを感じてしまう。むしろ、若者たちにその場のデザインの自由をできるだけ保障することによって、彼らが生きられた身体としての「私」を住み込ませていく余地をつくることが大切になる。それは若者たちを一方的に大人の側から規定される存在としてではなく、大人と共に相互に規定し合う存在としてとらえることである。そのような関係性において若者の居場所は保障される。  筆者の主張する「大人と共に相互に規定し合う」双方向の関わりの重要性を確認するとともに、本章では「教育的まなざし」のあり方について肯定的に探ってみたい。  伊藤学「『癒しの生涯学習』を考える」(前掲「社会教育」52巻8号、p66〜67、平成9年8月)は、筆者の前掲自著『癒しの生涯学習』について論評したものであり、その趣旨は次のとおりである。  現在、筆者(東京都青少年センター専門員)が携わっている青少年施設や、それに係る職員の機能や役割を議論するとき、その示唆的なキーワードとして、「癒し」や「居場所」をよく耳にするようになった。また、「人はなぜ学習するのか」という、本質的で非常に難解な問いに対して私たち一人一人は、明確な答えを出すことはできないだろう。ましてや、生涯学習にたずさわるものとしては、行政の声高なかけごえにどこかしら疑問を感じつつ、この本質的な問題と実践との間でゆれ動いているのではないか。西村美東士の『癒しの生涯学習』は上の問いに対し、「癒されること」が有効な答えの一つだと述べる。自身の大学講義における「出席ペーパー」をこれでもか、というくらいとりあげてそれを臨床的に実証しようとしている。それらは現代の若者の多くが抱える、自己矛盾や「より良く生きるには」という、人間としての素朴な疑問を如実にあらわしている。  社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている。つまり、現代社会において心を癒したい、という欲求は当然のことであり、またそれが学習の目的になる場合も少なくない、ということを教育者は無視できなくなっている。これは、ラングランの提唱した生涯教育論とは、明らかに違うものであり、発達や成長を前提とした学校教育や社会教育の従来の理論に含まれないものである。こうしたことから、学会等においてもなかなか理解されないし、議論もされにくいテーマであるが、前述した状況などを鑑みれば、従来の論調ばかりでは将来的に教育全体が空虚なものになってしまう。本来保守的な営みである教育において、生涯学習社会に向けて様々な視点から、実践的な方法やシステムを検証し、再構築しなければならない。  その他、伊藤が述べていることについてはあとで述べる。  東京都生活文化局「中学・高校生の生活と意識に関する調査−子どもの健やかな成長を社会全体で支えるために」(平成9年12月)の趣旨は次のとおりである。  本調査は系統無作為抽出で回収数は2,200(43.1%)である。  「流行、アイテム」は次のとおりである。@中高生の間で流行している「プリント倶楽部」の交換・収集は、中学男子14.5%、中学女子81.2%、高校男子32.7%、高校女子89.5。A通学にルーズソックスを身につけている女子は、中学生の20.2%、高校生の44.0%。Bピアスをしているのは全体の8.8%で、昨年よりわずかに減少。C髪の毛を染めたり脱色している、いわゆる「茶髪」は22.9%で、全体では昨年をわずかに下回ったが、中学男子、高校男子、高校女子では増加。Dポケットベルの所有率は中学男子3.6%、中学女子9.2%、高校男子21.8%、高校女子48.3%。E携帯電話・PHSの所有率は、全体で18.0%、中学男子5.6%、中学女子6.5%、高校男子26.3%、高校女子28.3%と、昨年(全体で6.6%)をかなり上回った。Fテレクラなどに電話をした経験は、中学女子15.6%、高校女子31.5%で、昨年を下回った。  「自分の居場所がない」は次のとおりである。@「ない感じがする」と回答したのは23.9%。A「学校生活に息苦しさを感じる」者は47.9%。B「同じ学校に通っていないがよく遊ぶ友人」が「5人以上いる」者は46.8%。C「遊んでいて帰宅が午後9時以降になる」ことが「週に一度以上ある」者が、中学生では5.1%だが、高校生では18.8%。D学校の帰りに寄り道を「たいていする」者は21.1%。E「(学校以外で)友達とちょっとおしゃべりをする場所」として「友達または自分の家」とする者が20.5%いるものの、「路上・街頭」が30.3%と最も多く、次に「ファーストフード店」が21.4%。「コンビニの前」も6.0%いる。F「誰にも邪魔されずに一人で過ごす時間が欲しい」者が63.3%おり、「友人といるより、一人でいる方が気持ちが落ち着く」と回答した者は34.6%。「一日のうちで一番好きな時間」として「家の自室などで一人で過ごす時間」をあげる者が34.4%で最も多い。  彼らにとっての「居場所」は、ごくふつうに考えれば、「友達または自分の家」、「路上・街頭」、「ファーストフード店」、あるいは「コンビニの前」であり、「一日のうちで一番好きな時間」は「家の自室などで一人で過ごす時間」なのである。この役割を地域あるいは公民館等の地域の教育機関が担えるのかどうかが課題になる。  戸澤正行「児童青少年センターの取り組みから」(前掲「青少年問題」45巻 1号、p32〜37、平成10年1月)の趣旨は次のとおりである。  平成5年、児童福祉センターの移転改築が区の長期計画に取り上げられることとなり、センター職員で構成される「児童館の建設・運営の在り方」検討会が設置された。その報告の中で「中・高校生の居場所づくり」や「中・高校生の活動への支援」など中・高校生への取り組みが打ち出された。そのころ、杉並区の児童館全体にとっても中・高校生の利用促進が大きな課題となっていた。ジュニアリーダーやボランティアでなく、幼児や小学生と同じように、ひとりであるいは仲間とおしゃべりしたり遊ぶことが中・高校生にとって大切だと自分の経験から思っていた。また、彼らが自主的に何か活動しようと思っても利用できる公共施設は意外と少ない。こうした背景から、移転改築後、大型児童センターとして位置付け、中・高校生の文化的・体育的要望に応えられる設備を備えたものとする方針が出された。  開設までに建設と運営に関するアンケート調査を、それぞれ区内の中学校8校・高等学校4校の生徒全員を対象に実施した。職員への要望については、「細かいことを注意する先生はいらないけれど、専門的な技術を教えてくれたり、必要なときにアドバイスしてくれる大人はいた方がいい」という意見などが出た。平成6年、区では基本設計に先立って、関係団体推薦者や一般区民、学識経験者から成る「建設協議会」を設置した。そこで、区内在住の中・高校生に呼び掛け、「中・高校生委員会」を設置した。その委員会は、その後様々なところで評価され、これを受け「中・高校生運営委員会」が設置された。運営委員会は、区内中・高校生15名(現在は23名)により構成され、児童青少年センターの規則や運営事項、講座、大会等事業に関する意見、事業の企画を主な活動としている。中・高校生には、やりたいことを見つけ、そのやりたいことを共感できる仲間と一緒に実現できる、こうした施設がせめて各市町村に一つは必要なのではないか。  児童館が中・高校生に対して、「ジュニアリーダーやボランティアでなく、幼児や小学生と同じように、ひとりであるいは仲間とおしゃべりしたり遊ぶ」ための居場所を提供することの意義を認識し始めているのである。  茨木市青少年問題協議会「平成9年度青少年を理解するための講座集録」(平成10年3月)の中の「現代の若者が置かれている環境」の趣旨は次のとおりである。  千葉と大阪で不登校・就職拒否の若者たちの支援をしているフレンドスペース代表荒井俊は次のように述べている。まわりに合わせようとしすぎてしまう「過適応」の状態が長期になると、他人との関わりを拒否して自分の世界に引き込もる現象になる。その中には家族とは普通に会話している者もいるし、家族とは一切会話しない、顔も合わせない、一緒の家に住んでいるが子どもの顔を数年見ていない例もある。「過適応」の場合、自分が「こうしたい」という気持ちより、他人やまわりにいる人の意見をつねに優先させてしまう。自分も親になって「親ほど好き勝手をいうわがままな存在はない」とつくづく思った。自分が忙しい時は「早く食べなさい」と急がせるし、ゆっくりしたい時は「ガツガツ食べるんじゃない」という。多くの子どもは親の言葉を適当に受け流して成長するが、親の言葉に100%合わせようとする子の場合はパンクしてしまう。このようにして合わせることに疲れ切った若者が、家や自室にしか居場所がなくなる。このような若者たちや非行に走る若者たち、そして一般的な子どもたちが共通して大人に対して望んでいることは、「何も言うな。ただ黙って聞いてほしい」ということであり、それがわかりにくいがポイントになる。  先の東京都生活文化局の調査結果と対応して、「家や自室にしか居場所がなくなる」ことの問題点が浮き彫りになる。また、「何も言わずに、ただし、聞いてほしい」という言葉はカウンセリングマインドの重要性を示している。  国立オリンピック記念青少年総合センター「登校拒否等青少年の問題行動に関する調査研究報告書」(平成10年3月)の趣旨は次のとおりである。  本文献は、9名の学識経験者から構成される「青少年の問題行動に関する研究会」が、家庭・学校・地域社会の連携の在り方について研究を行うため、青少年の問題行動、特に登校拒否等を解決するために実施した全国悉皆調査の結果を報告書としてまとめたものである。  研究委員の一人である筑波大学教授飯田稔は、キャンプ療法の一目的である「学校復帰」について次のように述べている。登校拒否の初期の段階では、何とか学校に復帰させようとする親や学校関係者の願望が強く、このことが登校拒否を長期化、複雑化させる原因になっている。また、長期化した場合は、学校復帰とは別の解決手法を見出すこともある。キャンプ療法の目的は、「心の居場所」を確保し、社会で生きていくのに必要な社会性を身につけることであり、学校復帰は、その副産物としてとらえるのが妥当ではないか。しかし、本調査の学校等復帰への状況を見ると、不明を除く1,540人のうち910人(59%)が「状況が少しよくなった」と回答しており、学校復帰への改善が約6割に認められた。宿泊数別に分析してみると、日帰り(50.3%)、2泊以下(54.3%)、3泊以上(66.0%)となっていて、宿泊数が多ければ多いほど改善する率も高いという結果が得られた。筆者ら筑波大学の研究グループは、登校拒否中学生と一般中学生を含む、より長い10日間の統合キャンプを5年間実施した。その結果、精神医学的、心理学的、行動的側面の改善が認められ、登校拒否中学生51人中35人(68.6%)がキャンプ10か月後に再登校している。これは、本調査の結果よりも高い率である。キャンプや自然体験事業で改善された人間関係能力、自主性・自立性、その他のパーソナリティが、どのようなメカニズムで学校復帰に結びつくのかを解明する必要がある。自然体験やキャンプは登校拒否の問題解決に糸口を与えることは確かだが、参加すればすべてが解決するといった過信は禁物である。  「心の居場所」の確保について、不登校児の学校復帰のための一義的な目的としてしまってはいけないという指摘は重要である。  久田邦明他「子どもと若者の居場所−今、職員のできること」(東京都教育庁生涯学習部、平成10年3月)の趣旨は次のとおりである。  本文献は、平成9年度家庭教育に関する調査研究委員によって執筆されている。委員は次のとおりである。久田邦明(神奈川大学講師)、桜井通(足立区青年センター所長)、鈴木雄司(杉並区立高円寺南児童館館長)、佐藤章(世田谷区「ほっとスクール城山」職員)、伊東静一(福生市公民館白梅分館職員)。  久田は青少年の居場所の確保のために「期待される施策の方向」として、次のように述べている。@首長をはじめとする行政の責任者が、住民に向けて、若い世代のための施策の必要を繰り返し提起すること。若い世代がトラブルを起こすのは、当たり前のことである。トラブルが起これば、住民から苦情がもちこまれることになる。現場の職員だけに負担を押し付けないようにするには、行政の責任者による住民の理解を求める働きかけが必要不可欠である。A若い世代への支援には、とりわけ熱心な職員や、有能な職員を想定するのでなく、どのような職員にも可能な基準を設けて対応の方法や技術を工夫すること。施設の職員は、ほんの数年の在職期間で配置転換になる場合が多い。熱心な職員や有能な職員を想定した支援の在り方を想定するのは、現実的ではない。B熱心な職員や、有能な職員の活躍を妨げないよう、他の職員がそれぞれ可能な範囲で彼らの活動を支える仕組みをつくること。これまで、ともすると、少数の熱心な職員と、そのほかの職員とのあいだに溝が生まれる傾向があった。C民間(住民)とのあいだのパートナーシップづくりをすすめること。これまで行政が当てにしてきたのは、地元の地縁団体や世話役だった。しかしそれらは、地域共同体の解体とともに、十分に機能しなくなっている。これまでと同じような関係によっては行政施策の効果を期待することはできない。これまで地元の地縁団体や世話役が果たしていた役割を、今後はボランタリーな意志をもつ個人や団体に期待するようにしていく必要がある。  行政施設において「居場所」を確保するにあたって、熱心な職員や、有能な職員を支える仕組みづくりや、民間(住民)とのあいだのパートナーシップづくりの必要を考慮する必要があるといえよう。  あしたの日本を創る協会「子どもをすこやかに育むコミュニティづくり−平成9年度記録」(平成10年3月)の趣旨は次のとおりである。  本シンポジウムで、東京都立大学教授高橋勇悦は「子どもの心安らぐ場がない」として、次のように述べている。いま子どもたちがどこへ行って安らげる場を求めるかというと、コンビニの前、公園のベンチである。これらが第5の生活空間になっている。第1の生活空間は家庭、第2は学校、第3は地域、第4はマスメディアがつくる情報空間である。第5番目の空間として、特定の場所ではないのだが、自分たちの心安らぐ場を無意識のうちに求めて浮遊して歩く状況に置かれている。つまり、居場所がない。居場所は、自分の部屋とは違い、他の人との関係があるところに成立する。  「自主性、自立性の欠如」としては、次のように述べている。自立性とは、自分の行動を自分で決定し、その決定にしたがって行動するということである。社会性というのはその過程の中で人との係わり合いをもち、社会の一員として活動するということである。これが遅れている。自立の問題は大人の問題であり、日本人の問題である。調和が重視され、自分の意見を最後まで貫き通すということはなるべく控え、みんなに迷惑をかけないように同じように行動してしまう。そして、親の過度の保護が結局は子どもの自立性を損なってしまう。子どものために何かやるというのは親の自立心が足りないということではないか。  「子どもと大人とが協力して地域社会を創る」としては、次のように述べている。地域社会の中に居場所を、人々の触れ合いの場を確保できないか。地域社会の子どもは地域が育てるということである。地域というのは多様な人間の触れ合いができるという意味で一番勝っている。家庭や学校よりも地域には多様な人間が住んでおり、子どもたちの自立性、社会性を育成する場としてもっともふさわしい。今回発表された活動事例のように、ささやかながらでも子どもたちと一緒に大人がまちづくりをすることが触れ合いの場をつくるだろう。  高橋の「居場所は、自分の部屋とは違い、他の人との関係があるところに成立する」という指摘は、「居場所」の本質を指し示すものといえよう。  さて、前掲自著『癒しの生涯学習』について、伊藤学は、先に紹介した論文により、従来の生涯教育論とは、明らかに違うもの、発達や成長を前提とした学校教育や社会教育の従来の理論に含まれないものとして評価した。  しかし、同時に、伊藤は、「この本は、(引用者注・東京都青少年センターの専門員としての)一日が始まる出勤途中の電車の中では読みたくない。ただ、自分が癒されたいときにはバイブルとなる」とし、「自分自身の『癒し』はともかく、それを“お仕事”としていくことで、プラス面に作用しなくなること」への警戒を述べている。  ぼくも伊藤の言葉に共感する。癒しの語感は、一般的にはたしかに後向きなのであろう。そういうことが伊藤だけでなく、多くの生涯学習援助職員にとって、癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)の提供を“お仕事”として取り組むことへの抵抗感となっているのかもしれない。  しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、後向きの価値観を最初から排除することはしないものの(そこが従来の教育の価値観と違うところである)、結果としてはむしろ前向きに終わるであろうものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク型の態度を指す。  伊藤は、たとえば、カウンセリングやガーデニングのブームを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている」ので、そういう当然の「欲求」を、「教育者は無視できなくなっている」としている。  伊藤の若者の現実のニーズから立脚した論旨はぼくの本などよりもよっぽどわかりやすい。しかし、このような論旨だけでは、職員が本来の職務として援助するような代物ではないのではないかという「恐れ」が芽生えても不思議ではない。  じつは、ここに、現代社会における一般的な「癒し」と、ぼくが提起する生涯学習における「癒し」との決定的な違いがあると思う。  そもそも、ぼくは、生涯学習において「癒しのサンマ」と表現している。この言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。これは、「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」というような関係者にありがちな批判より、さらに的を射た抵抗だと思う。生涯学習のような自己決定活動とは異なる学校教育の場においては、そういう学生にぼくが言えるのは「無理して出席しないで、元気になったらぼくの授業に出ておいで」ということぐらいである。  ここまでくると、「そんな教育の、どこが癒しなんだ」と言われそうである。しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質があるのだ。つまり、ぼくが進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う一般的な現代社会からの「いい男、いい女」のための逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃げてしまおうという場ではない。むしろ、人と信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容の突出的なサンマを創り出すという、なかなか面倒な営みなのである。学習することが即目的であるような学習中毒のほうがよっぽど楽だ。  しかし、このような「出会いの努力」を本人がしない限り、本当に癒されることはありえないだろうとぼくは思っている。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の「癒し」志向の事態に対して、本当に癒される人間関係を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざすべき個人の自立や、望ましいコミュニティ形成、ネットワークづくりなどはできようがない。 11 癒される地域若者文化創出の可能性  まわりの大人や友達に対する「いい子ちゃん」も「淋しがり屋のタカビー」も、いま、癒されようとして必死の「努力」をしている。ヒーリング(癒し)のための音楽を聴く、オイルやハーブを買う、イルカと泳ぐ、クジラの鳴き声を聞く・・・・。しかし、それだけでは根本的には癒されるはずはないであろう。  ここでは、文化としてのコミュニケーションやその他の文化活動がどのようにあれば、そういう現代の若者たちに心からの癒しを与えられるのか、そして、そのことによって、文化の継承や建設的な対抗文化としての役割を若者文化が果たせるようになるのか、考えることにする。その際、地域だからこそ期待できる可能性とは何なのか、ということが重要になる。  従来の教育は、ややもすると対抗文化の発展を妨げる一方、青少年個人には成長・発達ばかりを期待してきた。しかし、学校歴偏重、上下競争主義の弊害がここまできた今日、非効率的に見えようとも、癒しや安らぎを得ることのできるサンマを広げていくことに力を入れることの方が先決である。  サンマとは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが、今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けていると提起したときの言葉である。しかし、若者や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。  このことについて、前掲自著『癒しの生涯学習』では、癒されるためには、@自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はないと主張した。そして、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つの自己決定の集団の人間関係がもつ癒しの機能の重要性を訴えた。  地域は、その実態はともかく、本来的には縦よりも横の関係が基調になる場である。それゆえ、文化活動においても、上からの命令ではない自己決定と、対等な人間的交流が基盤になり、文化創造を含めた上の3つの自己決定活動の主人公として活躍する余地の大きい場の「はず」である。だとすれば、地域文化は「癒しのサンマ」に支えられ、そのサンマをより確かな信頼と共感に基づくものにしてくれる「はず」だろう。  「はず」であるのに、地域の実態がそうではないとすれば、今の若者を責める前に、地域自体の意識的な変革によって、これを少しでも、あるいは突出的にでも、改善していくことが大切ではないか。以下、サンマの視点に基づいて、そのための提案をする。 提案1 地域に囲い込もうとしないで  −若き旅人たちの巣立ちの場  ぼくが関わっていた東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)では、他市、他県からも若者がやってくる。彼らは、よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる若き旅人である。主催者側は、そういう旅人を、ゆめにも、門前払いするようなもったいないことをしてはならない。  その旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江っていいところだよ」とまんざらでもなさそうだ。実際、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。しかし、彼らとて、また、いつ巣立ってしまうかはわからない。  地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元するための活動を」という地域からの若者への押しつけである。相手の若者だって憲法で居住、移転及び職業選択の自由(22条)が保障されている国民の一員なのに、視野の狭い地域主義に凝り固まった大人の御都合主義が若者の巣立ちを引き止めようとする。  地域自身がオープンマインド(開かれた心)を取り戻す必要がある。 提案2 ノリを押しつけないで  −鬱の時代の「個の深み」  東京都青少年センターの運営会議で、ぼくがあるにぎやかなイベントを提案したところ、同じく委員をしていた狛プーの前衛芸術の女性講師から、「西村さんね、いまの時代の気分は『鬱』なのよ」と言われた。たしかに、躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽き飽きしているようだ。  ぼくのメーリングリスト(インターネットを利用したグループ内での手紙のやり取り)に参加しているある若者の発言(概要)を聞いてほしい。  「実行委員とかいう言葉には、なぜか拒絶反応がでるんですよ。どうも、大学の時の学園祭実行委員会(≒自治会)のイメージが強烈で…。なんというか、単一のノリしか認められないような感じとでもいうんでしょうか。結局、今の自分のノリがその集団のノリとあうような人じゃないと定着しないんですよね。そしてますますその集団内部で閉じた世界ができちゃって、強化されていく。その最悪なところは、彼らのノリでの参加を強要されてしまうということです」。  このように個を大切にする現在の若者が求めている出会いとは、一人ひとりの「個の深み」(前掲自著『生涯学習か・く・ろ・ん』)と静かに対面し、しみじみと体験を味わえるサンマでの出会いなのだろう。  ノリは、結局は「視線」を獲得するための行為につながっているようだ。それはそれでよい。しかし、鬱の時代には、もっと意味を込めた「まなざし」こそを求める若者が増えているのではないか。ノリに無理して付き合うことなく、かといって乱暴にならずに自己の鬱を大切に扱って生きている若者に対して「まなざし」を投げかける地域や文化であってほしい。 (注)「個の深み」について  「個の深み」という言葉は、青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」(平成2年3月)の中で提起された。ぼくもその委員会のメンバーとして起草に携わった。そして、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するために、委員会は「個の深み」の概念を打ち出したのである。  そこでは、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した。このような確かな「個の深み」ともいうべきものが、これからの社会の中で育つ可能性があるとするならば、その獲得を尊重・助長するための教育技術のあり方について考察することは意義深いと考えられる。 提案3 個人としてとらえて  −学習は個人的事象  同じメーリングリストから。  「以前、大阪にいる頃はハードロックバンドを組んでライブハウスを回っていました。今の仕事を始めてからは音楽から離れていたのですが、最近またバンドを組み、ギターも習いはじめました。ゴキゲンな毎日です。団体行動は苦手。でも楽しいお酒は好きです。仲良くしてください」。  ぼくは次のようなレスポンス(反応の投稿)を出した。  「そうなんです。このメーリングリストでもそういう人が多くて・・・。でも、ここはイベントバリバリの人たちも水平に交流するという特異な場だと思います。なんだかおもしろいですよね」。  指導者は、表面的には集団を相手にしていても、心底そう思いこむようになったら大間違い。学習は本質的には個人的事象であり、教育はその異なる学習者一人一人に働きかけていく営みである。文化活動もそうだろう。「みんな違ってみんないい」(金子みすゞ「わたしと小鳥とすずと」)のである。 提案4 大人や紳士淑女としてとらえて  −青年は保護や管理の対象ではなく、自己決定主体  子どもは子どもと呼べばいい。しかし、青年を、青年と呼ぶか、若者と呼ぶか、ぼくは現在、ほかのメーリングリストで論議中だが(一応のぼくなりの結論はひらがなの「わかもの」である)、少なくとも中学生を過ぎたら、どう呼ぶかは別として、「まだ子ども」ではなく、「もう大人」として接し、「若い大人」すなわち「ヤングアダルト」としてとらえるよう主張したい。  「子ども」と呼ばれるのではなく、「知る権利」などを保有し、よって責任があるという意味での「アダルト」と呼ばれることによって、そう呼ばれた人自身が、保護と管理のもとに置かれ続けすぎた「子ども」ではなく、自己決定する「成人」になることができる。場合によっては、子どもに対してだって「紳士淑女」として扱えばいいではないか。 提案5 後向きを否定しないで  −積極・消極の自己決定の尊重  よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己決定できていないとさえいえるかもしれない。  自己決定活動のエネルギー消耗について、ふたたびメーリングリストから。  「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。  人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。  この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。  違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。  「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。  後向きになっているときも個人にとっての「文化」の契機なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは建設的な生き方のひとつなのである。 提案6 教育っぽくないのが好き  −双方向ライブこそ教育や地域若者文化の姿  ある青少年センターの若手スタッフが、違うメーリングリストで次のように発言していた。  「よく利用者や関係職員には『教育っぽくなくていいよね』とか、『なんでそんな事業ができるの』っていわれることがあります」。  ぼくは次のようにレスポンスした。  「センターの事業は教育じゃないからなんでしょうね。社会「教育」の世界のぼくとしては悔しいです。でも、教育に対する固定観念に安住している人が教育をやっていると、マイナスとしての『教育っぽさ』が生ずるのであって、ほんとうは教育は『教育っぽい』ものではないと思います(矛盾した表現!)。  たとえば、校長が朝礼台に立つのは、数百人もの子どもたちから見えやすいようにという配慮であるはずであって、もし、これが過疎の村の数人の学校でも同じようにやっているとしたら、教育者としての見識が疑われるわけです。幸いにもそんなに小人数なら、子どもたちの視点まで降りていって、まさに双方向リアルタイムのおしゃべりをすればよい。そういうライブ(生演奏)感覚こそがほんとうは『教育っぽい』姿なのだと思います。  それにしても、朝礼って、なんだか教育の代表的存在みたい。あれって、やられるほうはコケにされてるみたいでたまらなく嫌なものですが、やっているほうはめちゃくちゃ快感感じてるんでしょうね。ずるいよねえ」。  同じ彼が次のように、ふたたびレスポンスしてきた。  「私個人の話で恐縮ですが、私が中学校の教壇に立ってたときより、今の仕事の方がおもろいです。なぜか? ある意味、無責任だから楽なんでしょうねえ。マイナスとしての教育っぽさ=説得、というイメージがあるんでしょうか」。  ぼくは次のように返した。  「説得じゃないでしょうね。だって、ぼくだったら、いっしょうけんめい包み隠さずに、真正面からぼくを説得しようとする人がいたら、その人の言葉を少なくともよく聴きたいとは思うもの。ただし、最後に決めるのは自分ですけど。  マイナスとしての教育っぽさ=説得、ではなくて、=説教、なんでしょう。自分の本音や心配事は隠しておいて、なんの痛みや悩みも感じてないふりをして、とくとくと朝礼台から語られることを聞く側の苦痛、というか馬鹿馬鹿しさ、これが、マイナスとしての教育っぽさなのだと思います」。  以上は教育についての話題ではあるが、文化活動、とくに地域文化においても、まったく同じことがいえるのではないか。文化を享受する側が個人として大切に扱われる。ときには双方向の参加が可能である。決まりきったことを上から押しつけられることだけでは、けっして個人は我慢できないのである。 提案7 中高年みずからが地域文化を楽しまなくっちゃ  −「今しかここだけしか」から「今ここで」へ  狛プーで紙芝居教室をやったとき(狛プーは月替りメニューである)、講師の紙芝居屋さんのおじいさんの態度がとても魅力的だった。参加者が一人一人順番にアドリブで紙芝居(本物の)をやっているときさえも、講師本人は自分の紙芝居の準備に熱中している。もちろん、言葉少なげに的確な専門的アドバイスをしてはくれるのだが、基本的にはそのおじいさんは「好きでやっている」だけなのである。だから、太極拳だかなんだか、関係ないけれど自分がいま関心を持っている話題については一生懸命しゃべる。こういう「自然体」で「ほんもの」の生き方に、若者は憧れるのである。  地域の心ある大人たちが危機感に駆られて、しかめっ面で「滅びゆく地域文化を継承しなければならない」と訴えたとしても、多くの若い旅人たちは自己決定してまではついてきてはくれないだろう。失礼な言い方で恐縮だが、その言葉に「うそ」が混じっているように感じられるからである。  それよりも、少しでも多くの中高年たち自身が、地域文化をみずから楽しみ、地域の横のつながりによって生ずる癒しのサンマにみずから癒される思いをもてるようになることこそ大切なのではないか。  「今ここで」あるいは「今を生きる」という言葉がある。学歴などの過去の文化遺産を比べあったり、「次の世代のために」と演説したりすることより、「今ここで」の自他の個の深みとの出会いこそ、若者も中高年も心の奥底では求めていることなのだろう。「今ここで」は文化の本質でもあろう。  しかし、現代文明がここにまで至って、「今ここで」ではなくて、「今しかここだけしか」(どうせ将来は自己決定の生き方など無理だから)という絶望的な時代の気分が高校生などの若者たちを支配しているように思える。地域文化創造の主人公になるなどという意識が芽生えないのも無理はない。  そういうとき、中高年こそ、「落ち込んでいる自分自身に飽きて」、いわば居直って、「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」の生涯にわたる「今ここで」の文化の楽しみ方を示すことができるのではないか。地域文化活動等の横のつながりによる自己決定活動に限っては、主体的、意識的な営みさえあれば、それはすぐ手の届くところにあると思う。そういう中高年たちが地域にいれば、若者にとってはたまらなく魅力的な姿に映ることだろう。 12 支持的風土のネットワークを創る  上記のような「癒される地域」とは、すなわち前出高橋勇悦の「居場所は、自分の部屋とは違い、他の人との関係があるところに成立する」という指摘と深く関連している。  J.R.ギッブは、支持的風土の集団の特徴として次のように述べている(片岡徳雄『学習と指導−教室の社会学』放送大学テキスト)。 @ 仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。 A 組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。 B 目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。  ギッブのいう支持的風土と防衛的風土を対比すると次の表のようになる(図表●)。とくに、「仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができる」ことを信頼関係の表れとして肯定的にとらえている点が示唆深い。  本章の最後に、このような支持的風土のネットワークとしての「居場所」を「創る」ということについて、ぼくが委員長を務める「平成10年度東京都青少年センター運営委員会」において、関連する論議があったのでこれを紹介しておきたい。その論議の概要は以下の通りである。  青少年の「居場所」づくりについて、その意義を踏まえつつ、これが都内の関連行政においても広まりつつあることから、本センターでは東京都としての先導的役割に鑑み、青少年育成の視点から、さらに次のような意味での「居場所」の発展的展開を試みるべきである。  たまたまセンターを訪れた若者も含め、その一人一人が個性を再発見できる時間・空間・仲間関係を提供する。そこでは、居心地がよい、大人からの過剰な禁止、抑圧がない、という「居場所」としての条件整備に加え、若者一人一人が自分の頭でものごとを深く考え、さらには個性を輝かせて役割を発揮できるための配慮が必要である。  これが、若者たちの一般の「居場所」とは異なる、自立と社会性を意図的に育む東京都青少年センターとしての「居場所」の独自の役割と考える。  このように、他者との関係性があり、それが支持的風土に基づくものであること、さらには、そこで一人一人が「個性を輝かせて役割を発揮できる」ことが「居場所」の理想形であるといえよう。そして、そのためには、居心地のよい場所を提供するというだけではなく、支持的風土と個性的役割発揮にあふれた他者との関係性が失われつつある現代において、それを新たに「創り出す」という生涯学習支援の意識的な営みが、いま強く求められているのである。 第W章 ボランタリズムと官民パートナーシップとしての生涯学習活動の現状と未来  −ネットワーク型活動としての充実をめざして− 1 ボランタリズムを支援する地域施設  ボランタリズムはすべての人がもっている資質であり、願いである。人はみな自己実現と社会貢献によって癒され、成長し、かけがえのない自分を確認しようとするからだ。しかし、現代社会は、このあたりまえの願いを押しつぶす方向でも機能する。さらに、ボランタリズムを阻害する心の要因についても探りたい。そのことによって、地域における自発的な生涯学習活動や市民活動などのボランティア活動としての側面を支援する地域施設のあり方について明らかにしたい。  ぼくも起草に関わった栃木県佐野市の生涯学習推進基本構想(平成5年4月)では、「私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野」というキャッチフレーズのもとに、「楽しい生涯学習=楽習」を大切にと呼びかけている。そして、「何からでも学び成長する私(わたし)」を基本として自発的意思のもとに自由に進められている市民の生涯学習活動がよりよいまちづくりにもつながると述べている。  なぜ人びとが生涯学習をするのかといえば、その大きな理由のひとつは、生涯学習が楽しいからだ。それでは、どこがどのように楽しいのか。そのヒントは、今日の人びとのボランティア志向のなかに見出すことができる。生涯学習の活動も、佐野市の構想がいうように「私のためにやっていること」がよりよいまちづくりにもつながるという意味で、ボランティア活動と共通の楽しさをもっているのである。  ボランティア活動とは、お金をもらうためではなく、自分から進んで、だれかの役に立とうとする活動のことである。これを、自発性、無償性、公共性の原則という。また、生涯学習活動とは、いつでも、どこでも、だれでも、なんでも、学びたいことを学びたい手段で学ぶことである。生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(平成4年7月)では、生涯学習とボランティア活動との関連の視点として、@ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習になる、Aボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための学習として生涯学習があり、学習の成果を生かし、深める実践としてボランティア活動がある、B人びとの生涯学習を支援するボランティア活動によって、生涯学習の振興が一層図られる、の3点を指摘している。  さらに、ボランティアと生涯学習の2つの活動がとくに最近人びとから関心をもたれるようになった理由としては、自分のこれまでの枠組を変化・成長させる楽しさ(自己実現)と、自分の存在が他者に受け入れられる楽しさ(社会的認知)の2つがあげられる。人間は一度しか生きられないわけであるから、一人ひとりはこのようにして自分自身の存在価値や生きている証明を見つけ出そうとする。それらの活動は、外からの抑圧をみずからの内面に取り込んで仮面をかぶって交流する現代の状況下においては、自己確立、あるいは、自分さがしのための懸命な幸福追求の姿としてとらえてよいのかもしれない。  ぼくも起草に関わった東京都練馬区生涯学習推進懇談会提言「土とみどりとひとと自分に出会えるねりまをめざして」(平成6年2月)では、「この提言で何か生涯学習の理想像を描き、それに向かって進まなくてはいけないということになるとそれは一つの心理的圧迫になるだろう。これまでいわれ続けてきた、発達すべし、成長すべし、という強迫観念に追い回されるのはもうやめよう。こうした圧迫になる要素をすべて捨て去ったとき、私たちは地域社会に何を求めるのだろうか。それは、個人として尊重される場であり、自分をすなおに出せる場であり、あたたかな人間関係をもてる場であり、疲れた心を休める癒しと安らぎの場であり、生きていることを実感できる場である」として、どこまでも知りたいという発達や成長の欲求とともに、癒されたい、安らぎたいという欲求を生涯学習への志向として大切にしようと提起している。  生涯学習の世界は、「教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人」「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」という混沌とした世界である。「受信」や「充電のための学習」ばかりでなく、学習成果を他者に伝えたり、発表したりする学習成果の「発信」や「放電」によって、「学ぶ」と「教える」が水平に双方向で行き交うのである。そこでは、権威を振りかざしたり、権威に従属しようとしたりして上下の関係に引きずられることはくだらないことと嗤われ、「してあげる」と「してもらう」の相互の働きかけが水平にスムーズに交流する。それは、いつ裏切られるかわからないとおたがいにびくびくしている現代の人間関係のなかでは、ボランティア活動とならんで、なかなか得難いホッとできる時間・空間・仲間関係でもありうる。これを癒しのサンマと呼ぶことができる。生涯学習やボランティアは、生涯にわたる発達・成長とともに、癒し・安らぎをも提供するのである。  生涯学習施設が、そういう生涯学習活動の拠点として、サンマのなかでの交流を支援しようとすることは当然の役割である。施設ボランティアを導入することの意義もそこにある。その形態は、簡単なお手伝いから、かなり高度な見識を要する専門的支援活動にいたるまで多様に考えられるが、いずれにせよ、そのなかで、生涯学習施設ボランティアはつぎのような3つの他者との水平な出会いをもてると考えられる。@ボランティアと施設利用者、Aボランティアどうし、Bボランティアと施設職員。そして、これらの他者や、その生涯学習施設が固有にもっているそのほかの学習資源との出会いをとおして、ボランティアは人間としてもっている自分自身の無限の可能性のいくつかに出会うことができるのである。このように、生涯学習施設では出会いのチャンスにあふれたサンマをつくりうるのである。  「そんな理想社会のようなことが現実社会で実現するわけがない」という人もいるかもしれない。たしかに、ここでいうサンマは、施設側が意識と理性を働かせないでも自然に形成されるというような代物ではない。しかし、それは、働きかけ方の問題でもある。たとえば、ぼくは授業で何回か「幸せの瞬間」というブレーンストーミングを行っている。ブレーンストーミングとは、「無礼講の話し合い」のような発想法の一種で、ルールは、@ひとのアイディアを批判しない(批判禁止)、A変わったアイディアでも自由に出す(自由奔放)、Bできるだけ多くのアイディアを出す(質より量)、C出されたアイディアを改良するようにアイディアを出す(結合便乗)、の4つである。このルールによって、いくらかは安心して「自分らしさ」を出すことができ、自由な発想のきっかけになるのである。「物差しで比べられること」に反発を感じながらも、そのあてがわれた物差しを内面に受け入れてしまって非生産的に自己を抑圧している私たちではあるが、それをみずから解放することも、まったく不可能なこととは言い切れないのである。ぼくも、まったく違ったそれぞれの人の「幸せの瞬間」を聞いていて、「これはまったく共感できない」などと感じたものは今まで一つもなかった。たとえば、「ジェットコースターで一番てっぺんまで登りつめて、これから落ちようとするとき」というのがあったが、お金を出してまでジェットコースターに乗るわけのない高所恐怖症のぼくでさえ、「ああ、なるほど」と思えたのである。このブレーンストーミングのような仕掛けはほかにもいろいろと考えられる。さらには、生涯学習施設においては、ブレーンストーミングの「批判禁止」をも超えて、批判されても傷つかない、批判しても傷つけないような、自分と相手への信頼と共感にあふれた自立した者同士の支持的風土(p32)にまで発展できるかもしれない。  むしろ、問題は、生涯学習施設側の姿勢にあるのではないだろうか。ぼくが生涯学習施設ボランティアの導入を「出会いの拡大」として支持する立場からある県でパネルディスカッションの司会をしていたところ、その司会のやり方に対して県内のある図書館司書から批判を受けたことがある。それを大学の授業で紹介したところ、一人の学生がつぎのように出席ペーパーに書いてきた。  先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的だといわれたと思いますが、私は司書さんがいったことがわかるような気がする。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思う。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。  この出席ペーパーに対して、翌週の授業で、ぼくはつぎのようにコメントした。  生涯学習施設へのボランティアの導入は、市民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。その図書館司書がそうでないと思うなら、そう批判すればよいではないか。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは、労働者としての自己客観視を忘れた御都合主義といわざるをえない。  専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で代行できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。現在のその仕事は、ボランティアコーディネートやその他の、より専門的な仕事に純化すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は当局側の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずなのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。しかし、だとすれば、その図書館司書は、住民の幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。  幸福とは自然に達成されるものではない。生涯学習援助職員の場合も、学習者の幸福追求への意図的、意識的な援助の営みのなかで、自らの幸福も確認できる。そのためには、自己の保護や安定だけ求めて自分の都合に理屈を合わせる御都合主義ではなく、自分が働いている意義を自負できる自律的な精神が求められる。これが職員としての現実原則に即したプライドの守り方、育て方である。  以上に示したように、ぼくは、生涯学習施設ボランティア活動を阻む施設側の要因として、2つの御都合主義が問題だと考えている。「出会いの援助よりも、従来の仕事の安定的な存続を優先する御都合主義」と「出会いの援助よりも、経費や人員の削減を優先する御都合主義」の2つである。前者に対しては「それなら、失業対策事業とどう違うのか」と問いたいし、後者に対しては「それなら、現在、公金を使って施設を運営し、しかも、専門職員まで配置している理由をどう答えるのか」と問いたいのである。  日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べている。国民の幸福追求の重要な営みとして認識されるべきボランティア活動に対して、生涯学習施設がその援助者としての役割の自負と喜びを主体的に意識することができるかどうか、そこで生涯学習施設の将来が決まるといっても過言ではないだろう。  そもそも、生涯学習施設職員が、現代の上下同質競争の価値観を乗り越えて、学習者や施設ボランティアとともに水平異質共生の突出的サンマをともに創造する営みに本気で、そして本務として関われるようになれば、それは職員自身にとっても至上の幸福といえるはずである。じつは、ぼくは、生涯学習施設へのボランティア導入は、一般の利用者との関係以上に、職員にとっての自分らしさや相手の「個の深み」と出会える楽しいものになるのではないかとうきうきしながら予想している。生涯学習が楽しい活動であるのと同様に、生涯学習の支援も楽しい活動であってほしいものだ。 2 地方行政とコミュニティとのパートナーシップに向けて  ぼくも起草に関わった平成6年5月の神奈川県生涯学習審議会答申「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」では、行政と県民との関係を考えるにあたって「協働」をキーワードにした。そのポイントは、@役割の違いをふまえた上で施策や事業の推進を協力しあうという意味での「役割関係の重視」、A県民が客体(対象)ではなく、一方の主体としてとらえられるという意味での「県民の主体的参加の重視」、の2点である。双方に主体性の発揮が求められるのである。「協働」は「パートナーシップ」と言い替えることもできよう。そして、そこで問われているのは、ボランタリズムの支援の場合と同様に、双方の主体性である。地方行政と市民とのパートナーシップとしての生涯学習推進のあり方を図に示すと次のようになる(図表●)。 3 不幸の手紙からの脱却の方法−ネットワーク型活動への転換を  「いきいきどきどき徳島学遊塾運動」は、まち全体を学び舎として、市民のだれもが学ぶことができ、教えることのできる「共育システム」である。そして、その主体はつねに市民であり、市民自らの発想と実践によって運営されることが基本とされる。学遊塾推進本部や企画、広報等を担当する各専門部会は、公募による市民ボランティアが活動の中心となる。  もちろん、これに対して、徳島市(事務局は社会教育課)はできる限りの支援をしようとしている。しかし、だからこそ、そこで問われるのは市民参画の実体であり、官民パートナーシップの成熟度である。  ぼくは本年度から澤田順子さんとともに本運動のアドバイザーをやらせてもらっている。これは、ぼく自身にとってもボランタリーな活動である。澤田さんは6年目であったが、ぼくはまだ1年しか経過しておらず、まだまだ「実体」としての本運動を把握しているとはいえない状態だが、ぼくなりにいまの学遊塾が突き当たっている究極の問題点として感じている点を述べてみたい。  それは、参加・参画する市民の側にややもすると「不幸の手紙」と似た心理的状況が垣間見られ、そのことが市民参画や官民パートナーシップの阻害要因になっているのではないかということである。「不幸の手紙」とは、同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもので、チェーンレターの一種である。市民の自己決定活動の一環であるはずの生涯学習なのだが、とくにそういう活動のなかで役員などをやっている人は「なんで自分ばかりこんな苦労をしなければならないのだろう」という非生産的な気持ちにさいなまれることがあるのだ。これをそのままほかの人に訴えて協力を得ようとしても、相手だっていやな苦労はしたくないわけで、進んで協力しようという気持ちになれないため、「不幸の手紙」をもらったときのようないやな気持ちになるだけの非生産的な結果しか残らない。  もちろん、行政側にもこのような運動への対処の未成熟な部分も残っていて、それも阻害要因のひとつにはなっているとは思うが、市民の側に行政とのパートナーシップ能力が培われれば、それは市民の力で次第に解消されよう。  なお、本稿は問題点とその対処法を考察することを主眼としており、実際の学遊塾運動は、ほとんどの場面でまさに「いきいきどきどき」と運営されていることを念のため言明しておきたい。  1997年度の『1年間の活動報告』において、徳島学遊塾運動推進委員会委員長の山本忠男さんは、「学びたい人々はたくさんいる。また、自分のもっている知識技能を多くの人々に広めたいと思っている人も少なくないと思う。そんな人々の、共に教えあい学びあう場が学遊塾である。師弟とか金銭とかに関係ない、遊び心から学び心への共育であり楽習である。企画運営に当たる推進委員も、市民教授も、みんなボランティアであるのが特色で、理想的な市民手づくりの生涯学習」としつつ、「道いまだ遠しという感がする」と述べている。  澤田さんは、「互いに教え、教えられる双方向の関係に戸惑いを覚えたようだ。はじめは市民教授というと、特別な資格であると錯覚を起こした向きもあった」、「各部会や推進委員の意向が反映されてきているとはいえ、まだまだ主体性を持つところまでいっていない。『私にできることがあればお手伝いします』の域を越えないまま指示を待ち、事務局に頼る部分が多いようだ」と述べている。  共育と楽習は、ある意味で「わがまま」(わが思いのあるがまま)に積極的に関与する行為であり、しかもそれは「自分のため」の行為であるといえよう。だが、徳島の人たちの「控え目さ」ゆえにか、そういうとらえ方ができずにいる面がありそうだ。これはこれで徳島の人たちの味わい深さを表しているのかもしれない。げんに阿波踊りのときなどは身も心も大いに解放し、ハレの日を十分味わうことができる。ぼくも3日間踊りっぱなしであったが、とくに学遊塾の連で踊ったときは、超ベテランの三味線(これもボランティア)のメロディーというぜいたくな条件のもとで、下手も上手もごく当たり前にいっしょになり、地元の路地や、いつものなじみの盛り場や商店街を踊り歩くことができて、一番楽しかった。  しかし、日常の日々における「控え目さ」のほうは、それが何かの拍子に潜行するようなことがあると、先述の「不幸の手紙」のような非生産的状況に陥ることにもなる。「これだけ自分はやってきたのに、ほかの人がやってくれないのはおかしい」、「行政はこういう私たちにこそもっと面倒を見てほしい」というわけである。ややもするとそういう気持ちになることは無理もないこととは思うが、これが市民の自己決定活動という本質を歪ませ、市民参画や官民パートナーシップを難しいものにしてしまう。  ぼくは平成11年2月に本運動の市民教授研修会において「さて困った、大人への教え方」というワークショップを行い、引き続き推進委員研修会で討論と懇談会をさせてもらった。  「よそでたまったストレスを学遊塾で発散している」という元気な意見もあったが、「役員をやっているとストレスがたまることが多い」という訴えもあった。その理由は、まわりの人が協力してくれない、あるいはちゃんと理解してくれていない、会議でなかなか全体の意見がまとまらない、などである。高齢のため体がついていかないという人もいた。市民教授登録者からは、他県の例と同じく、講師としてお呼びがかからないという問題が大きかった。  一方、環境問題に関する活動をやっている人からは「活動を、自分の生きてきた証しだと感じている」、民謡の人からは「徳島の宝を伝えるお世話をしたい」などの意見もあった。このような「使命感としての生涯学習」という側面も忘れてはなるまい。しかし、それにしても学遊塾運動が本質的に市民の自己決定活動であり続けるためには、「不幸の手紙状況」からはなんとしても脱却し、「使命感」にしても「潔い使命感」が求められているといえよう。  そのときぼくは次のようにコメントした。 1 教授法の実際の様子がわかる「市民教授リスト」  市民教授のさらなる活用といっても、あまり関心がわかない人に講師を依頼するということがあるとしたら、それ自体が生涯学習活動としては好ましくない。ただの無機質なリストではなく、もっとその人の顔がわかり、メッセージや雰囲気が伝わり、どんな教え方をしてくれるのか、プログラムまでわかるリストが必要である。また、今後ますます重要になる学校教育への協力については、専門の分野についてだけでなく、教育についての見識をもち、学校側にもそれが伝わるリストにすべきである。 2 活躍場所の自己開発  町内会、婦人会など地域はだれもが主人公になれる場である。また、市民教授同士でチームを組み、市側にいくつかの会場を提供してもらって、自分たちでキャラバン隊のように各地域に教えてまわるということも考えられる。 3 自己決定活動はグループ活動  ボランタリーな活動は、実際にはそのほとんどがグループ活動として行われるものなのではないか。そういう意味では、まずは市民教授や役員同士が日常的に教えあったり学びあったりすることが楽しいと思う。 4 自分のための活動  いったん役員を引き受けたのならば責任を持って会合にも出席すべき、という感覚はそれが自分自身に向かっている限りは敬意に値すると思う。しかし、責任感以上に、そこに行けば歓迎される、だから仲間と会いたい、役員自身が学べる、おしゃべりできる、だから会合は楽しい、といういわば「自分のため」という感覚こそが大切なのではないか。欠席した人に「もっと責任をもって出席して」ではなく、「この前は来れなくて残念だったね」といえるような活動を目指したい。役員の会合であっても、学遊塾運動が自己決定活動の一環である限りはそういう活動にすることが大切である。 5 ネットワーク型の運営  大人はそれぞれの事情をもって生きているのだから、会合にたまたま参加できた人でそのときの合意を作り出せばよいし、該当する役員にはなっていなくてもメンバーはだれでも会合に参加でき、意見も述べられるということにしたらどうか。来るものを拒まず、去るものを追わずという自由で柔軟なネットワーク型の運営のための工夫が望まれる。  徳島学遊塾運動のような行政が支援する、あるいは行政が仕掛ける市民参画、市民主体の生涯学習事業には、市民の独立型の生涯学習活動とは異なる独自の困難が見え隠れしている。「不幸の手紙状況」に陥る危険性が大きいのである。しかし、その状況からの脱却に向けた市民と行政の努力は、問題が精神構造にまで及ぶというその困難さゆえに、もし成功すれば、きっと市民参画や官民パートナーシップの実体をより確かなものにすることになるだろう。 (付記)  本章のうち、「心を育てる」については、平成10年7月「月刊公民館」第494号(全国公民館連合会)、「癒される場としての公民館」については、平成11年3月「社会教育」第53巻7号(全日本社会教育連合会)、「癒される地域若者文化」については、平成10年11月「青少年問題」第45巻11号(青少年問題研究会)、「ボランタリズム支援」については、「癒しの生涯学習」(学文社)に発表したそれぞれの自論を基本にして執筆した。 【以下カット】  しかしながら、これを進めるにあたって、とくに地域の生涯学習関連施設職員が頭を悩まし、場合によっては無気力に陥るような難題も多い。そこで、「地方行政(生涯学習推進)の市民とのパートナーシップに関する課題」について図表で整理してみた(図表●)。右方に記したキーワードは、ぼくが考える解決の道筋であり、数字は次に掲げる参考資料「生涯学習と社会教育事業のあり方」で一番関連が深いと思われる◆の場所を示している。本参考資料は東京都社会教育主事会城北ブロック社会教育主事研修(平成8年10月9日)でのぼくの講義内容をまとめたものであり、文責はぼくにあるが、講義の文章化にあたっては、本研修会の担当の北区社会教育主事の石井達馬さんから多大な協力を得た。 【参考資料】 西村美東士「生涯学習と社会教育事業のあり方」  東京都社会教育主事会城北ブロック社会教育主事研修(平成8年10月9日)にて mitoちゃんといいます。よろしくお願いいたします。  それでははじめますが、途中でおかしいなと思ったら、指摘してください。ぼくの話はスキゾといいまして分裂的にいろいろな所に行ってしまうと思われるので、すみませんがあきらめるか、あるいはチェックしておいて指摘するかしてください。  それでは、さっそくみなさんの研究成果である資料のコメントをします。 ◆01 ガサガサした生活の学習の場を  保育室のことについては、ぼくは、今後赤ちゃんが泣いたり、小学生の子どもが室内や廊下を走ったりするなかで、生活臭さあふれる学習が進められるのは当たり前のことじゃないかと思います。保育室が学習の妨げになる子どもを預かる場ではないことを伝えるという今の到達点があると思いますが、これからは、ガサガサしたままでの賑やかな学習の場をつくっていけないものかと思っています。 ◆02 出席ペーパーに表れる個の深み  感想メモについては、これはぼくの関心ともとても近いです。ぼくは出席ペーパーと呼んでいますが、そういう書き言葉メディアの併用も通して、一般の世の社交辞令とは一味違う意見の相互交流ができると思います。パソコン通信はレスポンス至上主義の世界ですが、これはそういう世界に近いものだと思います。  それからレジメには個の深みと書いておきましたけれども、結局、生涯学習や社会教育において何が魅力かというと、その人が生きているということそのものと触れ合えることが魅力なのであって、例えば今日の家族関係の病理とかの現状がいろいろありますけれど、その中でも人間は少なくとも自分には関心をもち、自分は幸せになろうとして生きているわけです。どんな人でもです。だからこそ、関心を持ちすぎて自殺する場合だってあるわけです。それぐらい自己の存在の意味に関心を持っているということから、人間はとても深い存在であるとぼくは思っているわけです。私たちの世界では、そういう個の深みと交流できるんです。一方的な講義だけだとそういう所から離れてしまう部分が結構多いです。そういうことで、ここでいう感想メモの意義は、出席ペーパーシステムの意義に近いと思います。 ◆03 講義を双方向にするための職員の講師教育の役割  講義だけの一方通行にならないためにというのがありますが、これは重要です。しかし、ぼくには引っかかるところがあります。講義だけの一方通行にならないように主体的学習方法を入れるというのが、ちょうど地球的規模でいえば、大学がそろそろ気づきだしていて、イギリスのロンドン大学では教員を集めて教授法のトレーニングをしているのですが、その内容は、視聴覚機器の活用とかディスカッションの方法とかそういうようなものを大学教員を集めて、トレーニングさせるわけです。そのテキストの文面に、「講義型授業はやめた方がよい」という考え方が示されています。  ぼくはこれに対して、それは講義に対する敗北主義だと思います。講義というのはやりようによっては、それなりに大いに主体的な学習を組織できると考えております。社会教育の学級講座でいうと、お呼びした講師は「学習内容の専門家」ではあるけれども、職員はそれに対して手放しでお願いするのではなくて、例えば出席ペーパーシステムなどの双方向システムを導入するなどして、「学習方法の専門家」として主体的に関与すべきだというのがぼくの考え方です。それをぼくは講師教育と呼んでいるのですが、ロンドン大学の事例からも、講師を教育するのは職員の役割であると考えております。  ただ、実際に講師を呼んだときに、こういう内容についてはこの様な結論を出して下さいというようなことは良くないと思いますね。そのような意味で方法的な部分の専門家として関与するという自制の態度が大事だろうと思うわけです。  アダルトティーチングという言葉があるのですが、子どもと違って、まあ子どもも同じなのかもしれませんが、紳士淑女に対する教え方というのをちゃんと知っておかなければいけない。それを専門の講師を呼んだとしても、そういう意味での良い講義をしてもらえるようにやっていく必要があるだろうと思います。このように、講義の中で主体的学習を促進するということが重要です。 ◆04 テーマコミュニティから地域コミュニティへ  それから、次は、地域への広がりのことです。これは、せっかくの出会いを大切にしたいとこうことから発展していくわけですが、子育てとか環境問題とかの何らかの問題に応じて人が地域でつながる場合、それをテーマコミュニティーということができます。これはとても大切な動きですが、ただし、地域のコミュニティー形成は、テーマコミュニティーだけでは不十分なんだということを知っておいた上で、そのテーマコミュニティーを支援していく必要があると思います。テーマコミュニティーは社会教育の得意なところなんですが、行政職員として重要なのは、本来のベーシックなコミュニティー、これが現代社会の中で再構築できるのかということです。しかも、それは過去の農村型コミュニティの復活だけではなく、共生のコミュニティーというんでしょうか、これは同じテーマを持つ人の学習グル−プでは得意なところなんですけれども、それ以上の基本的コミュニティの場でどう共生を創り出すかということを、意識的に関わっていく必要があります。 ◆05 対象外の人の参加  次に女性教育への男性の参加のことですけれども、青少年の時にも問題になりますが、対象輪切り教育でいいのかどうかという問題です。ぼくは対象輪切り教育は必ずしも輪切りだから良くないとはいえないと思います、学習対象を少年、青年や高齢者などのそれぞれに焦点化した事業は必要でしょう。問題はたとえば青年教室としてやっているのにおじいちゃんが入ろうとしたときに、定員にあきがあるのに、定員というのも問題ですが、職員が参加を断わったなどというときに生じます。ぼくは、相手が知っていてそれでもかまわないからというのなら、受け入れてもまったくかまわないと思います。ですから女性教育をやっているのに、男性が入っても、それは原則的には同じで構わないというのが第一点です。  第二点はもし排除したければ排除してもかまわないということです。その時には排除する理由というのを、企画者側が持っていれば良いというのがぼくの考え方です。例えば青年の料理教室であれば、元気印の中年女性が入ったら、その人たちが料理を全部やってしまうからだめ、という理由があるのなら、断わってもいいでしょう。でも"?"を付けておいた方がいいですよね。「本当にそうだろうか?」と。かえって主婦と学生が交流することがとても良いことじゃないのかとか、いろいろ迷うべきです。もう一方の視点を持ちながら、そのときどき決定していくという複眼的な視点が大事です。 ◆06 ネットワーク型の市民企画制度を  資料の右側にいきます。この学習者の企画・立案への参加に関して、「主体的に学習していく過程(プロセス)が実は潜在する女性の能力を開く機会を提供する」という表現を、ぼくはじつは気に入っています。企画参加は、潜在する能力を開く機会であり、しかも、それは本人が主体的に参加した場合ということを表わしているのでしょう。  しかし、一方で、これについてはいろいろな問題も生ずると思います。まず第1に、ほかの人や行政もそれぞれの意見や役割の主体として関わってくるのです。例えば企画委員制度などでも同じことがいえます。一人ひとりが自分の個性でのびのびと発言すればよいのですが、「自分の意見が通らなければいけない」とか「前からこうすることになっている」などの無茶を言い出すと困るのです。そんな「悪いわがまま」を許すと、ネットワーク型の運営ができなくなります。「あなたはあなた、私は私」というのがネットワークの基本ですが、そういう厳しい寂しさを基本的に受容するしかないと思います。  第2に、学習者が主人公になって、職員はなるべく手を出さないということが職員の役割ということになれば、それは教育そのものがいらないということになるわけです。これは、教育に対する敗北主義ということになるわけです。 ◆07 学習と教育の間に流れる暗くて深い河  ただし、そういう基本的な疑問はつねにもちながら学習支援を進めていく必要があると思います。これは教育のアポリア、行き詰まりの難問といいまして、教育がなければもっと一人ひとりが主体的に学習できる、例えば子どもたちは学校がなければもっと主体的に学習できるようになるという「脱学校論」などもまともな議論のひとつなのです。そういう教育否定論の仮説を、ゼロまで否定してしまうとか、全くなきものにしてしまえるほどの強力な論拠はぼくたちはもっていないと思います。  ということで、教育は学習の支援でありたいと位置づけた場合に、じつは学習と教育の間には暗くて深い河が流れていて、この河というのは野坂昭如の唄にありますが、「えんやこら今宵も舟を漕ぐ」ということです。たどり着けないのに舟を漕ぐという姿が、つまり、自分たちのやっている社会教育というものが主体的な学習支援につながっていく実態をめざして舟を漕ぐ姿が、人間のあり方として可愛いあり方なのではないかと思うわけです。自己への気づきとか相互理解なんていうものは本当は百パーセントには到達し得ないものです。問題はそう知った時に、じゃあやめてしまうのか、それとも限りなく接近することはできるわけで、そうしていくのかというところが、ぼくたちに問われるのではないでしょうか。 ◆08 行政主導のリーダー研修会批判  次はリーダー研修会の必要性についてですが、なぜ「行政が」リーダー研修会という事業を提供するのかということを考えたい。そういう根底的な問いが今、欠けているのではないでしょうか。行政主催のリーダー研修の内容が、なんだかものすごく精神論的なものに陥ってしまったりするなどの状況に、ぼくは疑問を持っています。行政主催のリーダー研修会そのものの意義は否定できないかもしれないけれど、行政側の市民に対する行政主導型の姿勢の表れなのではないかという気もしていまして、この辺はぼくも"?"のままなのですが、少なくとも精神論だけでないものにする必要がある。たとえば、今とくに大事なのが、たとえば、発表の技術などの知的生産の技術に類するものなど、そして、アダルトティーチングの方法論でしょう。大人が自分が学んだことを大人の相手に伝えていくときには、自分が過去に習った学校教育のやり方を思いだしてやりがちですが、それはよい教授法ではないのだということを、それをティーチングの「技術」を通して納得してもらう必要がある。こういう技術的な研修というのが必要なのではないかと思います。それはリーダー以外からも強く求められていて、視聴覚機器の活用方法だとか、発表の仕方だとか、論文の書き方だとか、そういう専門的・技術的なものを参加者の活動内容や現在のポジションにこだわらずにどんどん提供していったらよいと考えます。 ◆09 広報は青年に対するストロークである  青少年については、ジュニアリーダーやサークルリーダーとしての研修だけではなく、つまり私たち大人が見えている既成の枠組みの中だけではなく、私たちの及び知らないインフォーマルな集団においてもさわやかなリーダーシップを発揮できる力、これが現代の若者たちにとって非常に重要だと思います。  例えば先ほどの成人式の企画委員募集のお知らせに、何パーセントにも満たない人数しか手を挙げてこない。そういう時に財政当局からは、郵送料がもったいないというように攻められるということですね。これは次のように当局に言ったらどうでしょう。企画委員募集のお知らせは、「あなたのことに関心を持っていますよ」と伝える行為(ストローク)です。すべての人はストロークを求めて生きています。つまり、これが社会的認知のひとつになるのです。行政側がその人を認知しているのを伝えるという意味で重要ですし、もう一つはこんなことをやっていますということが伝わるという意味でもダイレクトメールは重要です。そのためには、職員自身が見えている範囲や自分の企画に参加した人だけがサービス対象ではないのだということ、自分は全体の奉仕者なのであるということ、そういう自己確認をする必要があると思います。 ◆10 制度的権威に依拠しないリーダーシップ  リーダーシップというものはもともとヘッドシップとは違います。役割分担等が流動的で、例えば宴会の時のリーダーというのはまた別にいるわけでして、それが正しい意味でのリーダーのとらえ方なんです。会長、社長、校長などの制度的な権威に基づくものにも、これはこれで指導力が必要なんですが、そういう指導力はヘッドシップといいまして、帝王学の世界です。社会教育でやっているリーダー研修は、ヘッドシップの研修ではなく、本来の意味でのリーダーシップの研修をやっているのだということを自覚する必要がある。だから、必ずしもサークルの会長などの長を集める必要はないのです。 ◆11 つぶれるものはほっておけ  それから単位子ども会についてです。とくに青年団などになると、都会でいまさらそんな話をしても仕方がないくらいの衰退ぶりです。先ほどの話に当てはめていうと、子ども会の活動というのは都市部ではテーマコミュニティーとしてのに近いのだろうと思うんですけれども、実際には地縁という意味では、ベーシックなコミュニティーや生活集団としての性格もまだまだ色濃いと思うのです。この問題では、ただ単につぶれかけているものを何とか活性化させるとかして、持続させるというのは基本的には良くないという立場をぼくはとっています。なぜかというと、つぶれることによって次の新しい時代に適応した新しいグル−プ活動が生まれてくる契機になるわけだからです。むりに維持存続させることは、そういう時代の進歩を人為的に妨げることになってしまいますから、むしろ、つぶれる運命のものはつぶれた方がいいわけです。 ◆12 貢献主体としての青少年  そこでこれから求められるトレンドということで考えたいのです。そこでは、社会貢献とそれを通した存在価値のある自分の発見ということが重要であるということで、子どもでさえもそうだと考えたい。  例えばボランティア研修というのは、全国的には、青少年教育などの面で今しきりに行われています。これは現代的には大きな意味を持つと思います。なぜかというと、青少年は今まで「保護と管理」の対象でしかなかった。そうすると、いつまでたっても、自分は生きていて意味があるんだという存在価値の確証がもてずに、また、自信がもてずに生きているわけです。親や友達など、まわりの目を気にして、自分は生きていていいのだろうかというような悩みをもっている。そんなことの解決はほとんどは簡単なことで、子どもたちの世話でもして「おにいちゃんありがとう」などと何回か言われれば、すぐに元気がでてくると思います。「ああそうか、自分は生きていていいんだ」ということがわかるわけですから、とても簡単にできる社会貢献であり、体験学習です。本質的には、青少年をこのように「貢献」の主体として尊重する考え方が重要になってきていると思います。 ◆13 キーパーソンのネットワーク  次はB区女性学級のことですね。ここで意識されているPTA、母の会、町内会、婦人会、このあたりはかなりベーシックなコミュニティーに近くなります、PTAはともかく。何でこういう会に問題が多いのかというと、従来のヒエラルキー構造が多いからなんです。それはピラミッド型のものです。例えば町内会長の奥さんは婦人会の会長であることは自明、というような変な慣習もあります。だから新しい形での再構築をすることが重要です。そんなこと、ぼくたちが勝手にできるわけじゃないですけれど。  さて、そこでどうしても、女性学級の場合だと家庭の主婦が中心で、幅広い世代が集まらないということになりますが、ぼくもできれば幅広い世代が集まった方がいいと思いますが、レジメには3人で可と書きました。3人ぐらいキーパーソンが集まれば、あるいはネットワークできれば、あとは何でもその人がやりたいことはできるだろうと思っています。パソコン通信で言えば、一人アクティブな書き込みをよくする人がいて、それが人気のある人だと、背後には大体百人ぐらいは普通の読者がついてるといわれておりまして、3人を支援したということは背後の300人を支援したということにもなるのです。もしこのようにキーパーソンが頼りにしてくれる社会教育事業が成立するなら、全員を集めて一斉集団承り型学習をするというような学習形態は早晩古くなると思います。極端な話、集めるのは3人でもいい。ですけれど、2人ではやっぱりできないようですね。ここがまた面白いところなんですが。聞いた話ですが、イギリスのナショナルトラスト運動の発祥というのは3人で始まったというのです。これが地球規模にまでふくらんできたのです。大切な人が3人集まれば地球を救うことさえできるということだと思います。 ◆14 講師交渉は自分にとっての最高の学習形態  次に、講師交渉は学習者が行うということです。これはかなりすごいと思います。市民が企画をしても、講師交渉となると予算も絡みますから職員がやってしまうというところが多いのだと思います。でも、ぼくの本音をいえば、もしぼくがそこの職員だったら、やっぱりもったいない、渡したくないと思うでしょうね。講師交渉というのは、職員にとっての一番のうま味です。それは編集者は3日やったら辞められないということと同じです。講義を聞くのもいいのだけれども、じつはその前にその先生のところに訪ねていって、お茶でも飲みながらいろいろな話を聞いたり、質問したりというのが一番刺激的な学習形態なんです。「ソクラテスの対話」ということです。講師交渉をする人というのは、編集者に似ていて、そういう意味でやめられない職業なんです。ですから、本当に学習したい市民は、それが任されたら喜ぶでしょうね。 ◆15 自己規制よりはむしろ個性発揮  次は、自分たちの社会教育の事業を、一般行政や民間の成人対象の講座とどう違いをつけるかということです。よく企業などでもどう他の商品と差別化するかなどという形で出ていますが、学習プログラムなどが実態部分で競合するのなら、どんどん競合して良いのが勝ち残ればいいというのがぼくの考え方です。教育委員会や文部行政はなんだか禁欲的で、教育の分野をわざわざ狭めてそのなかで頑張っているのですが、例えば労働行政などがボランティア講座をやったり、ファミリー野球大会をやったり、などの根拠がよくわからないことを平気でやっているわけです。行政行政もそれぐらいあつかましくてもいいだろうと思います。そうすれば、いろいろな所で楽しいことをやっていて、住民はどこでも好きなところを選べるということになります。そこで各セクションに求められることは、自己規制よりはむしろ個性の発揮が魅力ということになります。どう個性を出すかということについては後で述べましょう。 ◆16 市民と行政がともにでしゃばる協働  次に協働ということですが、これはぼくの関わった神奈川県生涯学習審議会の答申で打ち出しました。たしかに、行政主導型というのはよくないわけです。それでは行政はなるべく関与しないで、施設だけ作っていればいいんだというぐあいに、行政が引っ込んでいくというような時代がこれまであったと思うんですけれども、あるいは引っ込むどころか、社会教育行政など全部なくしてしまえという議論もありました。これに対して、協働の考え方というのは、それぞれの固有の役割と主体性を発揮するということです。横浜市ではパートナーシップと呼んでいるらしいです。ぼくは協働という言葉の方が面白いと思っています。ぼくは、協働を、共にでしゃばろうとする行為だととらえるからです。これからは、行政は行政としての役割の発揮の面から、大いにでしゃばっていく必要があるという考え方を持っているわけです。市民企画委員方式ですとか、連携、役割分担というものは、その上で考えていく必要があると思います。 ◆17 虚偽の社交辞令ではなく、真実の言葉の交流を  次が、みなさんの作った資料へのコメントの最後になります。戦争を知らない世代に対して知っている世代がどう伝えるかという一面的な見方ではなくて、知らない世代の参加があってこそ双方にとって考える場になったとあります。実態はつねにこうだと思うんです。戦争を知らない世代でも学習の中でそれなりの役割があるということで、これは面白いと思いました。それは、現代という同時代に生きているという意味で、すべての人が真実のなかでいきているからでしょう。  でも、双方がディスカッションをやると、白熱してくると時間切れになるとあります。これはお決まりのパターンのようですが、それはそれで意味があると思います。ぼくが思うに、議論していて白熱すると、「よい企画でしたね」と喜んで帰ってくださいますけれども、そのディスカッションの内容によりますが、その白熱の種類というのでしょうか、じつはみんながそのようによかったとはいうんだけれども、それは社交辞令であって、誰も、その後、次の話し合いにまともに没入してこないということも結構多いですね。それは例えばディベートのように是か非かというような議論をした時、何かもう一つ大事なことが他にあるんじゃないかということです。これにふれたとき、つまりそこでふれたものが「真実」なんでしょうけれども、そういうときに心から感動し、また話をしたい、聞きたいということになるのではないでしょうか。ぼくたちは事実ではなくて真実を求めて生きているのではないかということを考えているんです。  さきほどプロセスという言葉が出ていましたが、プロセスを重視するというのもそういうことだと思います。例えば米軍基地は日本にあった方がいいのか、ない方がいいのか、どちらかに決めるという「正誤の争い」は当然政治レベルでは必要なんですけれども、学習の場においては、本質的にはそういう決着が求められているではないと思います。むしろ学習の場においては、どちらも実感レベルにおいては正しい、というよりけっして非常識ではないそれなりの情緒と思考で各人の最後の結論を出しているのでしょう。その人の正しさということ、その人の答の正しさではなくてプロセスの正しさを共感できることが共生社会の創造において大切でしょう。人はさまざまな事情があって生きているわけですから、それなりの個々人の正当性にどれだけ踏み込めるか、共感できるかということが重要です。  もちろん相手には閉ざす自由があるわけですから、相手の自由意思で「じつはね、自分は本当はこういう事で迷っている、困っている、悩んでいるんだよ」というようなことをいうとしたら、それは自分を開く、つまり自己開示ですが、そういう問わず語りの言葉にこそ真実があるのではないでしょうか。 ◆18 無知と非力の自覚と受容  これは最終的にはどうなるかというと、お互いに無知であり、非力であることの自覚と受容につながる。無知とは、たとえば、自分はどの位置に生きているのかを知りたくても、宇宙の存在自体がまだ未解明の部分がたくさんあるから、無知でない人はいないということです。自分は無知ではないと思い込んでいるために、本人はいっこうに現代社会の不正や人生の無常を悩む気配がない人、つまりくだらない人はいますが、これは論外です。非力というのは、たとえば、相手にこうあってほしい、こう生きてほしいと思っても、そのように都合よく相手を変えることのできる人はいないということです。本人が自己治癒力、自己教育力で自分自身を変えているのですから。他者である自分にできることは、援助することだけです。そういう無知と非力の自覚によってこそ、知の世界の面白さというものがわかってくるのではないかと思います。ですから、無知と非力の自覚とぼくがいう場合、自覚というのは自己の否定ではなくて、むしろ自他の受容、あるいは自信をもつということです。無知と非力を自覚することで、学歴偏重、上下競争の価値観から脱して、本当の意味での自他への信頼感を回復することができるとぼくは考えます。これが、学歴社会から生涯学習社会に移行するための市民の主体的必須要件だと思います。 ◆19 公的課題の問題提起者としての役割  アンケートの結果については、まとめ的にお話します。教育的な人間関係や学ぶ過程を重視することについては、これは社会教育の独自性と評価できます。それから、人権や平和の学習ということですけれども、公的課題を取り上げるということは重要でしょう。ただし、ぼくとしてはそれがネットワーク型の場合だからこそ許せるんです。これがもし、上意下達の行政主導型というか、協働ではない形で行政側から提起するのなら、過去の啓蒙主義と同じで、たとえ立派な公的課題をテーマにしていても、どんなに立派なことを職員がいったとしても、それはやらないほうがましだと思います。もっと、ネットワーク型の中での対等な、ただし住民とは異質の役割を担う問題提起者としての行政の役割を発揮しなければいけません。例えば核廃絶のためにはどうしようとか、オゾン層の破壊をどう食い止めるかということは、そういう地球規模の歪みやきしみのもとでは、行政職員が市民に対してむしろ率直に問題提起する必要があると思います。このような議論を『生涯学習か・く・ろ・ん』では述べているつもりです。その後、国の生涯学習審議会が「現代的課題の学習」を提起しました。それらの一般行政の各部署にまたがる公的課題を、学習という側面から部署横断的に取り扱うという意味で、社会教育の独自性というのは大きいものがあるのだろうと思います。 ◆20 組織の中での枝葉としての自己実現の方法  それから、「自分で直接担当していない事業について」という記述がありますね、ほかの職員などに立場上、助言ができないということでしょう。知らない人がこれを見るとなんて傲慢な人なんだろうなどと思うかも知れませんが、ぼくはなんだかすごくよくわかるんです。しかし、ぼくはここで「幹と枝葉」という言葉を書き入れておきました。ぼくたちは枝葉でしかない。これに対して幹というのは住民の総意であったりするわけで、区長でさえもある意味では枝葉でしかないと思うんです。いや、ちょっと太い枝あたりかな(笑)。職業の中で枝葉はどうしたら自己実現できるのでしょうか。幹が自分の思うとおりに変わらなければ自己実現できないと規定するとしたら、枝葉というのは幹にならない限り、最後まで自己実現できないということになってしまいます。ぼくは、枝葉の中にいるのに元気にやっている人たち、職員や若者と話をするのが好きです。その人たちから学んだことというのは、幹が変わってくれないからといって悩んでいない、むしろ明るく過ごしていることです。ぼくはこの点を不思議に思いました。そこで、楽しく話しを重ねることによってわかったことは、次のようなことです。例えば、先週、自分は機会をとらえて何回くらいさわやかに自分の意見を相手に言えたか、提案できたかということで、そういう自分の行動が満足できるものであれば、幹自体は変わってくれなくても本人は意外に幸せでいられるということです。例えば週に2回や3回は、みんなお茶でも飲んでいるという瞬間はあるはずで、そういう時にさわやかに自分の意見を「ちょっとしつこくてすみませんが」などといいながら、あつかましく、かつ、さわやかにいえてる人というのは、たとえみんなが「君、またその話か」などといっても、聞いてさえくれれば自分の胸には「さわやかな風」が吹きぬけているものなのです。ほかの枝葉が自分の思うとおりに行動してくれなくても、つまり自分が他人の人生の支配者にはなれなくても、自分自身に限っては十分幸せ、あるいは個性の発揮ができているんではないでしょうか。ですから、さきほどのようなことを書いた人には、ぜひ、さわやかな形でいろいろと自分の個性的な提言をしてほしいなと思います。 ◆21 自転車でまわるイメージ  自分たちの考えている理想を行政全体の価値に高めていくことが必要という記述に対して、ぼくはと「自転車で」と書きました。これは象徴的な表現です。図書館ではヤングアダルトサービスといいまして、チラシを作って自転車で学校をまわって中学生や高校生に学校から配ってもらった司書がいます。この「自転車で」というイメージが大切で、生涯学習時代のコーディネータとして社会教育主事が行くべき所というのは、まだまだたくさん残っていると思います。「リヤカーでまわっても図書館だ」というのが全国の図書館活動のメッカの日野市の図書館の発祥ですが、図書館がなくてもリヤカーがあれば、そして職員の魂さえあれば、全国一の図書館活動ができる、これが日野市の図書館活動の礎をつくった砂川雄一さんの言葉です。 ◆22 シフト(止揚)をいかに援助するか  次はシフトの話で、主催事業から住民の自主的な活動への発展について述べている人がいます。自主グループなどもそうかもしれません。本などを読んでいて、「あっ、そうだ。そうだったんだ」というような気づきがあったとき、それがその人にシフトをもたらすといわれます。自主グル−プ活動でも同じだと思いますが、シフトというのは本人がその気になったときに生ずるものです。しかし、ぼくたちの事業がどれだけシフトに耐えうる、つまり、実感とか真実が伴った営みになっているかというところはぼくたちの勝負どころでしょう。それにしても、実際にそれでシフトするかどうかというのは各人の問題ですから、別に自主グル−プにはシフトしない自由があってもそれはそれで構わないと思います。要は個人の自己成長の成果がどうだったかです。しかもこれについては指導者が責任を持ち切れるようなことではありませんし、そんな他者の学習の結果だけを気にする指導者がいるとしたら、その人の傲慢を表わす行為にほかなりません。 ◆23 学習者に寄り添った共感的理解  学習者に「寄り添いながら」という記述もいいなと感じました。共感というのはかなり真実に近いものだと思います。例え意見は同じにならなくてもよいというのが、その場合の基本です。要は相手の枠組みで相手を理解したかどうかです。「なるほどねえ・・・。あなたのいうことがよくわかった気がする」という感じである。その上であったら、「でも、ぼくはあなたの考え方には反対だけれどね」といってもよいと思う。ここがカウンセリングと違うところです。間を含めた「なるほどね・・・」という言葉が非常に大事なんじゃないかと思います。 ◆24 個の深みと出会う至上の喜び  「民主的な人権を尊重した事業展開」とあります。これについては、ぼくは個の深みという言葉を使っています。ぼくにとってはそれが一番ぴったりきます。社会教育主事の仕事の醍醐味というのは、結局は個の深みと接することができるということだと思います。個の深みとの出会いは、現代社会の差別的価値観では味わうことのできない至上の幸福です。ただし、一人ひとりは潜在的にせよ、個の深みを持っているのですが、日常生活ではそんなことをいったら笑われる、変な人だと思われるなどの気持ちから、封じ込められているわけです。ぼくたちは学習者のそういう個の深みと接することができて、そういった時に感動を、尊敬の念とか感動とかというものを覚えるわけです。こういう魅力が社会教育の仕事にはあるのではないでしょうか。 ◆25 ネットワーク型援助のあり方  教育専門職としてか、行政職員の一員としてかということについては、これは両方の意識がどちらも大事だと思います。行政課題を総合的に解決していこうとすることは、公務員として当然もつであろう課題意識です。それはある意味ではぼくは生涯学習理念でもあると思っています。例えば納税者としての主体的な意識を市民の間にいかに形成するかということだったら、税務署の職員が考えなければならないことです。しかし、ぼくたちはそれを横断的に全体を通して考えていくことになります。それは、教育専門職としての仕事でもあります。まあ、どちらも大切だということです。  ぼくは、それよりも次の点が重要だと思います。「私は住民の一員として、住民の仲間の一人として仕事をしていく」という「良心的」な職員がときにいます。One of Them、彼らのうちの一人という意味です。ぼくは学習援助職員に対しては、そうではないものを求めます。つまり、「あなたは」住民とは異なる役割の公務員としていったい何ができるのと問いたいのです。例えばわかっていない住民団体などのなかには、公務員が勤務内に例えば封筒の宛名書きなどを一緒になって手伝ってあげれば喜ぶ人もいるかもしれないけれど、本当に主体者としての意識が進んでくれば、あなたはなんで私と一緒にやっているの、あなたは行政職員なんだから行政職員としての異質な役割を果してほしいというようになると思うんです。「住民と仲良しです」というだけではなくて、水平ではあるが異質な役割を発揮するということがネットワーク型の援助者のあり方だと思っています。 ◆26 答のない問いを発し続ける  アンケートの最後は、方法論に偏重するのではなくて、どのような視点を持って事業をやっていくべきなのかを考えようという問題提起です。ぼくは「社会教育主事がもつべき視点」については普遍的な答を出すべきではないと考えます。学生時代、ぼくは授業にはまじめに出ていませんでしたが、インカレの社会教育の学生の勉強会などについては楽しみながらやっていて、その司会をやっていたとき、晩年の宮原誠一がひょっこりと顔を出してくれて、「私たち学生が、いま、本当に学ぶべきことは何でしょうか」という一女子大学生の質問に対して、「そんなものはないよ」と答えていました。学びたいことを学べばよいというのです。あまりにもそっけなくて司会者としては困りましたが、やはり学習の真実とは宮原誠一の断言するとおりなのでしょう。あなたが、今学びたいことを学ぶのが学習なんだということです。それと同様に、どういう視点を持って事業をやったらよいかということに対する共通の答はないのだと思います。このアンケートの人のいうように、自問することと、相互交流することは大切ですが。ぼくは、それよりも、その人自身が、自分なりの視点に対してだけは気合いが入っているかどうかが重要なのではないかと思っています。気合さえ入っていれば、どんな生き方であろうとすばらしいと思います。それは視点を変えないということではなくて、むしろ、無知と非力を自覚し、受容しているがゆえに、喜んで他者の異質の個の深みと水平的交流を行うということです。 (以下は当日のレジメの「生涯学習と社会教育−支援とは何か」の資料について) (図表●) ◆27 限りある地球、限りなき学習  現代社会の病理、そして「誰か助けてよ」というところに、今日の生涯学習の出発点があると思います。社会教育が戦後の民主主義理念を支え、育ててきたとすれば、現代がそれに加えて病いを生じ、例えばオゾン層破壊や資源・エネルギーの問題などの「限りある地球」が自覚され、新たな学習が提唱されました。そこでいわれたのは、地球には限りないものが一つだけあって、それが学習であるということです。これが生涯学習のスローガンのひとつ、「限りある地球、限りなき学習」です。学習は、どんどん広がっていく。人にどんどん学習を渡してあげても、財産とは違って、自分までますます豊かになっていくんです。 ◆28 @教育システムの歪み  しかし、そういう中で1つには教育システムの歪みがある。これに対して、「みんな違ってみんないい」という言葉があります。今日の同質の者同士が上下に競争する社会においては、つねに勝ちの続けていかないと不幸になるということや、ピアコンセプト(仲間意識)といって、みんなと同じでなければならない、仲間には協調しなければならないという不合理な思い込みや信念が、自分自身を苦しめる結果になっているのではないでしょうか。これが学校歴偏重社会での問題です。それをもっと多様な価値観や一人ひとりの個性を認め合う共生社会に転換させていくというのが、生涯学習の理念です。 ◆29 A家族関係の病い  2つには、家族関係の病いがあります。「子を持って親になる」といわれていますが、なんだか親になれなくて、なりたくなくて、出席ペーパーにもいろいろな状況が示されています。うちの親父は、家族が言うことを聞いてくれないと、2、3日、部屋に閉じ込もって飯も食いにこないから何とかしたいというのがありました(笑)。自分の思いどおりにならないからといって、だだをこねていれば、相手が何とかしてくれるべきだと本人は本気になって思い込んでいるのでしょう。  人間には、泣いていれば、なぜ私は泣くのかを伝えなくても、お母さんが何とかしてくれるという時代がのがあって、これを「楽園の時代」といいます。赤ちゃんのときは、おぎゃあと泣けば、おっぱいが欲しいのか、おむつを替えて欲しいのか、相手がちゃんとわかってくれるのです。大人になるにしたがって、さらには親という立場になって、この楽園から追放されるのですが、そういう自らの楽園追放を認めない親が増えているのです。ぼく自身もできれば追放されたくなかったとは思っていますが(笑)。でも諦観は大事です。そんなぜいたくはあきらめるしかないのです。あきらめきれない人が、つまり自立できないまま大人になってしまった親たちが、家族関係の問題や、児童虐待などの、子どもにとっては悲惨な家族をつくるのでしょう。母から息子、父から娘への性的虐待まで含めて、出席ペーパーには、トラウマを引きずる若者たちの悲鳴があたりまえのようにたびたび出てきます。 ◆30 B内なるピアコンセプト  3つには、内なるピアコンセプトですが、これについては個人の内面の主体性喪失の問題です。、ピアというのは仲間、仲良し仲間ということで、ピアコンセプトは仲間意識ということになります。それはよいことのように聞こえるでしょうが、仲良し仲間を大事にする意識というのが、一人ひとりの主体性を損なっているとぼくは明瞭に感じるのです。例えば個性を尊重するとか、一人ひとりがさわやかに自己主張するとか、主張できる女であることの意味などを、ぼくは授業でしゃべります。そんな時、なかにはこれを受け入れないペーパーもありまして、これを1%の批判の1%の真実の重要性とぼくは呼ぶのですが、「先生なんかからはどう思われたっていい。でも友達から一度変だと思われたらもうおしまいなんです」と怒ったように書きなぐってくる学生がいるのです。ひどく悲しい生き方だと思いませんか。友達から変に思われないために、一生懸命、相手にあわせて生きている。だから、「誰か助けてよ」となるわけです。 ◆31 @発達だけでなく癒しも  そういう現代社会の病いのなかで生涯学習の理念というのが生まれてきたわけですが、その根底には、「人生を大切にていねいに生きたい」という個人の欲望があるのではないかと思います。この欲望をどのように支援していけばよいのか。1つには、教育というのが本当に発達や成長ということばかりに関心を持ってきたのかというと実際にはそうではないでしょうが、建前になると発達や成長の大切さばかりが物知り顔にいわれ続けてきたと思います。教育の世界は、もっと癒し(ヒール)とか安らぎを重視する必要があると思います。例えば新・新宗教など、彼らは癒しを求めていると考えることができるわけです。それから、占いなどによって、他者から断片的なストーリーを与えられて癒されようとしている若者も多いのです。そもそも、なぜ、公民館で、人々は出会い、結び、つながってきたのでしょうかし。昨日の自分より今日の自分がより一つ大きくなったという自我の拡大という発達・成長の喜びももちろんあるでしょう。しかし、それだけではなくて、そんな拡大などしなくてもよいから、今ここでのいい仲間と出会ってほっとしたいという、癒しの求めもあったからなのではないでしょうか。この癒しの機能を、社会教育事業ではもっと重視しなければいけないと思います。 ◆32 A事実よりも真実  2番目に「事実よりも真実」です。学習者の枠組は変化しないまま、事実だけ詰め込んでいるのでは、受験勉強と同じになってしまいます。 ◆33 B積極的消極、潔い撤退  3番目に積極的消極です。生涯学習、ボランティア、地域・市民活動は自己決定、自己選択によるものです。しかし、現実には一つ落し穴ともいうべきものがあります。仕方なしに義務感でやっているという人は、自己決定の活動の邪魔になるだけですから、やめてもらった方がいいわけです。それなのに、そういう人たちが「立つ鳥跡を濁さず」というような気持ちのよい撤退をしてくれないことが多いのです。これに対して、さわやかに積極的積極の活動をしている人もいます。そういう人たちというのはよっぽど元気な人たちであって、ぼくたち凡人とは違うのかという問題があるわけです。  それについて、ぼくはフリースペースなどでの元気な人たちとの出会いから、次のようなことに気づきました。消極性、つまりやらない、パスをするということもひとつの大事なことなんです。やらないこと、やめることを潔く自己決定してしまえばよいのです。そうすれば、本当にやりたいこと、やれることを潔くやることができるようになるのです。考えてみれば、人間がすべてのチャンスを生かしきるわけにはいくはずないのですから。「潔い撤退」とぼくはいっています。つねにすべての問題に対して自発的かつ積極的に関わるなどということは不可能である。それなのに、指導者は、過去のガンバリズムの価値観のもと、積極的な学習や活動ばかり重視している。自己決定の活動を元気にやっていくコツは、撤退するとき、つまり消極を選択する場面においては、自罰や他罰に走ることなく、さわやかに消極でいようということです。中国哲学の道教でいう無為自然ということにもつながるのでしょうか。何もなさないことこそ最高の価値であるという考え方もあるぐらいですから。 ◆34 人生の専門家は誰か  社会教育事業における内容の専門家、方法の専門家については先ほどお話ししました。それでは、人生の専門家というのは誰なのでしょう。カウンセリングの分野でカール・ロジャースの言葉で、「カウンセラーは人生の専門家ではない。相談に来たその人のことを一番良くわかっているのはカウンセラーではなく、その人自身である」という趣旨の言葉があります。最近では、人は不適応行動を含めて最善の選択をしているという考え方もあります。カウンセラーは臨床心理の専門家であり、その専門性に依拠して他者を援助していくわけですけれども、それでもなお人生の専門家は他の誰でもなく被援助者自身なのです。その真実を認識することが、援助者の開かれた心、オープンマインドのあり方としてとりわけ重要なのだと思います。 ◆35 @御都合主義  これに対して、出会えない閉ざされた心というのは、次のようなことです。  社会教育施設に於けるボランティアの導入に関する討論会で、ぼくが司会をしていたとき、ある市の図書館司書がフロアから次のようにぼくにクレームをつけました。「司会者はボランティア導入が良いことであることを前提として話しているが、われわれ職員は減らされてしまうのではないかと不安にさいなまれているのです。もっと現状を勉強して話してほしい」。この司書は職員という自分の立場の都合で物を見ているわけで、全体の奉仕者としてペイを受けている公務員としては、自分が住民の幸福追求を支援する立場なのだという自己客観視が足りないのではないかと思います。自分の御都合にあわせて、議論をねじ曲げる「合理化」だとぼくは思うのです。住民と資料の、あるいは住民同士の出会いを援助する司書としての高度な専門性は、ボランティア導入によって、むしろ純化され、増加する道筋をとるべきなのです。  もちろん当局側の御都合主義、合理化というのもあって、コンピュータを導入することによって純粋に人間と人間とが接する部分というのをきちんと図書館司書にやってもらうということこそ、本来のツールとしてのコンピュータ導入の意味なのですが、ところが実際には、人減らしのための道具として使われてしまうとか、もっとひどいのは上の人にコンピュータを導入しましたと報告するためにコンピュータを導入するという、本当に税金の無駄使いをやっているわけですから、どっちもどっちなんですけど。 ◆36 A教条主義  2番目に教条主義、事大主義です。これは、大きなもの、既成のもの、有力なものにつこうとする非主体的態度のことです。むしろ、社会教育や生涯学習の支援は、「何でもアリ」の楽しさをうまく活用したほうが、楽しい仕事の仕方ができると思います。 ◆37 B敗北主義  3番目に敗北主義です。よく学生から誤解されるのですが、そんなことを言ったって人生うまくいかないこともあるよといわれます。しかし、失敗してからあきらめることを敗北主義とはいわないのです。うまくいかないことがあったらあきらめようとするのは当然です。問題は、うまくいくことばかりでないのに元気な人がいるのに、もう一方で、「どうせだめさ」といって敗北主義的な悪循環を繰り返している人もいるというところにあります。それは、その人が思い込んでいるような、たまたま不幸の星のもとに生まれた、親や教師が悪かったということばかりではないような気がします。敗北主義というのは負けることを勝手に決めつけて、挑戦から逃避する態度なのです。例えば、試験に落ちることが恐くて、「数打ちゃ当たる」という生産的な態度がとれなくて、結局は試験を受けることさえやめてしまったというようなことを敗北主義というのです。今の多くの若者たちは、傷つくことを恐れ、負けないように頑張って生き続けてきたがあまり、この非生産的な態度に陥っています。 ◆38 @癒しのサンマ  社会教育でいわれてきた、また、ぼくも言い続けてきた生涯学習情報とか出会いとかの大切さは、不思議ですけれど、キオスクで平積みになって売れるなど、本当に商売になっているんです。「ケイコとマナブ」とか「じゃマール」とかです。そこで、ぼくはくやしいので(笑)、その先を予告しておきたいと思います(笑)。今はまだ商売になっていないけれど、今後は商売になるよ、ヘタをするとまたリクルート社においしい所をとられてしまうよ、ということを3つあげておきました。  その1つは「癒しのサンマ」です。サンマというのは「時間・空間・仲間」の3つの「間」なんです。そこで、無条件相互肯定の場をつくるということです。次の言葉は、マルチ商法から狛プー(狛江市中央公民館青年教室)に移ってきた若者がいった言葉です。「狛プーはあるがままの自分が、そのままでも装わなくても、みんなにあわせなくても、両手を広げて歓迎される」。こういうものを世の中に作り出すということは、本当は社会教育、生涯学習支援の非常に重要な課題だと思っています。癒しを求めて、それが商業的に利用されて、ねじ曲げられ、どんどん悲しい不信と孤立の世界に若者が落とされていく現状を見たとき、ぼくたちはそんななかで癒しのサンマの旗を振りたいと思います。そこで重要なのは、「みんな違ってみんないい」ということなのでしょう。 ◆39 A社会貢献  2つには社会貢献です。「あなたはここに行けばあなたらしい役割が発揮できるよ」という情報提供がまずは商売になるでしょう。自分は役に立つ、誰かに喜ばれる存在なんだということを、社会貢献によって確認できるのです。 ◆40 BMAZE  3つにはMAZEです。MAZE(メイズ)というのは、パソコン通信での学習形態をみて、ぼくが作った言葉なんですが、迷路という意味です。何が幸せなのかはわからないけれど、一方通行のトンネルではなくて、迷路をさまよっていることこそ人生の楽しみであって、そこにいろいろな知の楽しみもある。また、そのプロセスこそが生きている意味なのではないかということです。一直線に死に向かって生きていきたい人がいればそうすればいいが、でも普通は一回しかない人生なのだから、ちょっとそれはいやでしょう。だったら少しエネルギーを使ってでも、寄り道をしたり、人と出会ったりして人生で出会う風景を味わって生きていこうということです。  過去の教育が、みんなに一つの出口に向かって進め、進めといってきたのとは違って、むしろ迷路を楽しめるようにさせてあげることが大切です。子どもたちは迷路遊びが好きですね。それはフリーチャイルド(自由な子ども心)がまだつぶされきっていないからです。学習者が迷えば迷うほどよい迷路だといえるでしょう。こういうちょっと非常識な教育の提供もこれからは商売になってしまうかもしれません。 ◆41 ネットワーク型の指導のあり方  こういうぼくの思考過程のなかで、あえて「教育の指導性」と書きました。生涯学習推進行政のなかでも、社会教育は、そして専門職である社会教育主事等は、やはり教育プロパーとしての指導性というのをもっているのだろうと思います。その指導性のあり方ですが、上下同質、ヒエラルキーの中では、役所が上から下の住民を援助するという感じになります。それに対して、社会教育のやってきた「みなさんはお仲間です」、「私も皆さんの考えていることと同じ考えです」というのは水平同質だと思うんです。ネットワーク型の支援においては、これを乗り越えて水平異質の役割を発揮しなければいけない。住民も、援助職員に対して、「あなたはあなたの公務員としての独自の役割を発揮してください」といわなければいけないと思います。  違う観点からいうと、過去に、行政主導型のあり方が反省されて、教育の営みが撤退され始めたことがあります。でも、それは本当の発展にはならないのであって、そういう教育の撤退から、次はむしろ「協働」の考え方が重要になります。それは、住民側も行政側も、学習主体と援助主体の双方が共に主体性を発揮するということです。そこでは、実際には喧嘩をすることもあるだろうというのが前提です。それぞれの個性と役割があるのだからそれでいいではないかということです。 ◆42 @(ダイアローグによる)シンパシー  他者の幸福追求を援助する3大テクニックについてですが、そのおおもとには、ダイアローグ(対話)というものが非常に重要だなと感じています。これはソクラテスの対話にもあるように、教育の原点です。結局は、一対一で対話をしていて、他の人はそれを見ているのも良い。それがシンパシー(共感)の世界を創り出すのです。 ◆43 Aストローク  つぎにストロークです。人間はストロークを求めて生きているといわれています。ストロークというのは、「私はあなたの存在に気づいていますよ」と伝える言語、非言語の行為のことです。それがほしくて、でもうまくいかなくて、人間はいろんな非生産的なこともしてしまうのですが、少なくとも援助者は仕事においてはストロークの達人であってほしいと思います。例えば独学で英会話を勉強してきた人がいた場合、「いやあ、それは大変なご苦労だったことでしょうねえ」と即座に心からいえるということでしょうか。 ◆44 Bエンカウンター  そのうえで、共感や水平性を前提にしているのですが、3つめにエンカウンターがあります。ほんねの出会い、あるいは異なった枠組との直接的な遭遇ということです。社交辞令を交わすために住民がここに来ているわけではないのです。もちろん、最初のうちは、社交辞令的な話から入ることは多いでしょうが、次第にそういうものをはずした交流、「自分は本当はこう考えているんだよ」とか、「あなたのこういうところが自分にとってはおかしいと思う」とか、そういうことを安心していいあう関係、これをエンカウンター(遭遇、出会い)というのです。  カウンセリングでは自己一致という言葉もあります。相談に来た人が話をしていて、それが本当につまらなくて退屈したら、我慢をしないでそんな話は退屈なんですがといえること、極端にいえばこれが相談を受ける者の自己一致です。つまり自分の気持ちを自己受容しているから、無理に我慢したり、装ったりしなくてもいいということです。 ◆45 @始めの一歩を励ます  最後に支援者のネットワーク型の役割遂行ということです。これは狛プーの年間講師としてのぼくに、どんな存在価値があるのかということから考えたことです。  1つには、「始めの一歩」というのは誰でも恐い、これを踏み出すための励ましというのはとても重要なのではないかということです。指導者は、そういう人よりもすでに実際に歩いている人にこっちに歩いた方がいいなどと余計なことをいいがちなんですが、そんなことよりもどっちに歩こうとかまわないけれど、始めの一歩を踏み出す人を励ますことこそ肝心なのではないでしょうか。  その励まし方ですが、どーんと踏み込んでしまってよろけて倒れてしまったら、その人にはかえってマイナスになるわけですから、むしろ1センチとか、2センチとか、おずおずと恐がりながら踏み込むほうがいいということを教えてあげること、これが重要ではないかと思います。  自己開示についても同様です。自分はこうなんだよということを伝えたい、心を開きたいという気持ちは誰もが一方ではもっているものです。しかし、始めの一歩の話からいえば、本人が開きたくもないときに、「みんな仲間なんだから思いきって打ち明けましょう」などということではいけません。無理に打ち明けさせて傷ついてしまった時に、どう責任をとればいいのでしょうか。それよりも、「あなた自身がみんなにいってもいいなと思うことをいえばよい」、「このメンバーにはいえないなと思うことは無理していわない方がいい」、「開きたい心を、安心して開けそうだなと思った場で、開くということが重要なんだよ」と教えてあげること、これがぼくは大事だと思います。これが始めの一歩の励まし方です。 ◆46 Aミニ・ヒエラルキーをつぶす  2つには「ミニ・ヒエラルキーの形成を食い止めよ」です。ディスカッションなどの際に、ニュー・カマー(新規参入者)などの発言に対して、それはだめだよ、無理ですよ、などと先輩面していう人がいます。生涯学習やボランティア活動は自己決定に基づいた水平の関係のはずなのに、このように水平を越えた上下の関係を求めるような言動が出てきた場合には、早めにつぶす必要があります。 ◆47 B潔い撤退を促す  3つには「潔い撤退を促す」です。もし、「自分はみんなのために仕方なしに来ているんだ」という人がいたら、「そういう場合は来ないほうが正しいんだよ」というべきなのです。生涯学習においては、「学びたいことを学びたい手段を自らが選んで」という自己決定の原則が重要ですから、来たくないときには来ないということが正しいわけです。それなのに無理に来ることが続くと最後はどうなるかというと、「立つ鳥跡を濁す」という結果になるわけです。 (以下は質疑応答) 司会:どうもありがとうございました。城北ブロックのわれわれが書いたペーパーへのコメントと、生涯学習から社会教育主事の役割、あり方までにわたって、お話をいただきました。  皆さんも今日までにいろいろとお考えになっていると思いますので、課題なり、ご意見、ご質問なりがありましたら、自由に出していただきたいと思います。 ◆48 成果は「質×量」 Q:長く関わってきて、こういう不景気の財政基盤が緊迫してきて、事業の見直しをされたときにわれわれに迫られてくるのは事業の評価ではないかと思うのですが、われわれ専門職員として、どこを評価のポイントにするかということを迫られるんですね。単純にいえば、これだけのお金をかけるのだから、学習者の数や効率みたいなものを財政課はいってくる。われわれの立場はどちらかといえば、学習者の質の高まりみたいなものを切札としてもっていきたい。その辺のことがいつも悩みの種なんですが、いかがでしょうか。 mito:成果というのは「質×量」でしょうね。例えば一斉承り型学習をしてしまった場合には、主体的な学習の援助としてはゼロまたはマイナスになるわけですから、千人来たとしても生涯学習社会への移行の立場から見たらマイナスになるのです。数はもちろん多い方がいいわけですが、キーパーソンなどの支援の場合は×100ぐらいで計算してもいいんだとぼくは思っています。3人来れば300人と数えてよいということです。まあ、財政当局にはわからないかもしれませんが。これだけの人が、何十万程度の予算だけで、これだけの感動をもって学習し、そこで自立を獲得していったんだということで突っ張るしかないんじゃないかと思います。 ◆49 大切な市民感覚 Q:先ほどの成人式の企画委員を募集するのに、18万円かけて10人というのは、私は大成功だと思っているんですが、トップからみると無駄じゃないかということになるんですよね。その時にわれわれが専門職員の立場で説得をしていかなければいけないんじゃないかと思うんですが。 mito:そうですね、正道を歩んでいるのはこちらだということではないですか、どう考えても。例えば財政とかいうと何かバランス感覚にあふれた専門家のように思われますけれど、意外に普通の市民感覚からずれていることがあります。官官接待が問題になっている時に、食糧費も削られましたけれども、何を削ったかというと、市民や有識者などの民間の人との会議での時間を変更して、昼食をとって官民がいっしょに話し合っていたのをやめて食糧費を削っているんです。ピントが全然あっていないんです。市民感覚がマヒしているのではないでしょうか。社会教育の世界では普通の市民感覚に接しているんですから、それを活かしていくしかないでしょうね。正義は勝つとぼくは言いたいです。 ◆50 価値あるものを見つける方法 Q:方法の専門家ということに関係すると思うんですが、何に価値を見つけるかということはすごく大事なことだと思うんですが、結局は自分で考えてこれは価値があるだろうと思ってやるわけなんだけれども、その価値の根拠になるものって一体どの辺なのでしょうか。 mito:基本的には法律に縛られて公務を遂行しているわけです。憲法で国民には幸福追求権があってそれを最大限に尊重すると書いてあるわけですから、基本的にはそれを根拠に遂行できると思います。でも、プライオリティー(優先順位)というのがありまして、これが難しいですね。ぼくは、公的課題というのは、社会教育事業のテーマ設定において、プライオリティの上の方に位置させてよいと思っています。しかし、それではどういうものが公的課題としての性質が強いのかというと、やはり難しいです。例えば、今まで通りのつまらない青少年健全育成をやっているとしたら、それは公的課題ではあっても真実の部分では高まっていかなくて、逆に、暴走族を集めて彼らが喜ぶようなことをやったとすれば、今までの健全育成の上をいくプライオリティとして評価してよいと思うのです。  ただ、ぼくはさきほど「何でもアリ」の精神でといいましたが、癒しのサンマをつくるなどのことは私的課題に見えても、じつは非常に重要な公的課題だと考えています。しかし、そういうことなら自主グル−プで勝手にやればよいじゃないかという議論も強いと思いますが、現代社会の病理をとらえると、癒しのサンマづくりは「公的にも」どうしても必要だということになるのです。そういう論理構成は、教育の世界では許されているのではないでしょうか。  許されながらも時々チクチクとやられている。上司の問題というのもありますけれど。民間企業のなかには、新人には似つかわしくない大資金を貸与して、成果があがるまで3年も待ってくれるなど、人材を育てるためには並々ならぬ犠牲を払うすぐれた企業もあります。結局は、会社にとってはこれがもっとも得な人事政策であるということなんです。こういう所のいい部分は、行政も学ばなければいけないと思います。  本当は、もし今後のトレンドなんかがつかめる人がいたら、その人は簡単に大金持ちになるわけで、実際にはそんな神様みたいな人は一人もいないわけで、私たちは右往左往しているだけなんです。やってみなければわからないのです。だから効果が出るまで少し待ってもらいたいですね。参加者が少なかった時、そういう時こそ、参加した一人ひとりや職員、講師までもが楽しくやることがポイントです。そうすると、その感触をかぎつけて、ほかの人も「なんだ、それだったら私も行く」といって来はじめる。ぼく流に言い換えると、マス(集団)の効率ではなく、個の深みと出会うことを心から喜びながらやっているかどうかということが、ぼくらには問われているのではないでしょうか。 ◆51 潜在的ニーズへの関心・信頼 Q:今までの社会教育の仕事が何をやってきたかということを再確認したかったんですけれども、人としての人権を尊重するような支援をすることが私たちの仕事で、3人以上集まればというのは社会教育の本質だと私も思うんですけれども、そこに集団が存在しその中で個と集団の関係性というか、一人ひとりが主体的な権利を持つ人間としてどのように尊重しあえる受容関係を持つのかというようなことが今の社会には欠けていて、若い人も年をとった方も含めて非常に求められている環境の中でどういう事業をしていくのかということを構造的に捉える必要があるのではないかということをmitoさんのお立場からおっしゃったように私は聞いたんですが、今私の立場で社会教育に欠けていたのではないかと思うのは、教条主義と重なると思うのですが、学んだことであたかも自分が正解になったと錯覚してしまう構造をそのままにしてきたツケがまわっていると私は思うんです。そこをどういう形で突破していったら良いかということが課題です。それから量では把握できないと言うのは確かにそうなんですが、ニーズをどうつかむかというのは、という問題で、量というのはすなわちニーズであると考えることも必要なのではないかと思っています。つまり今何をしなければいけないのかというところに、どこまで触覚をあてて対象化した形で事業が展開できているのかというのが、こういう状況だからこそ問われてきていてると思います。自分たちがいままでやってきたことを今の時代にすり合わせて、どういう意味を持つのかというところを潰していく作業というのが、今何が求められているのかを探っていく作業を一緒にやろうよということをおっしゃったように思いました。 mito:集団についてですが、「HaveからBeへ」というのはよく言われますが、出世したり何かを持つための学習ではなく、人間らしくありたいというのがBe(〜である)というのが生涯学習でHaveからBeへということで、最近さらにいわれてきていることとして、「BeからWithへ」というのがあります。Beだけ、つまり自己実現だけでは人間は幸せにはなれないということです。Withというのは共に生きるという共生社会のテーマなんですが、もともと「個は他者と関わることによってより深まる」というテーゼがありまして、一人では深まらない、他者と関わることによって、つまりそれは本当の出会いを表わすのです。引きこもりのカウンセラー富田富士也は、「人は人に傷つき、人に癒される」といっています。アロマテラピーとかは、ぼくもやっているんですが、やっぱりそれだけでは癒されないですね。  それから教条主義をどう突破するかということについては、これはわかりません。  トレンド、ニーズのことでひとつ言いたいのは、潜在的ニーズということです。その時には、やっぱり数ではなくて、例えば0.%以下の学習要求というのがありまして、NHKの調査で、お茶とかお花は例外的に何十パーセントか獲得できるんですが、それ以外というのはほとんどがアラビア語とかの0.何パーセントの学習要求が並んでしまうんですね。そうした場合、0.何パーセントという事業の方がヒットするものなんです。それでも、実際には、何万人かの所でやっても、数人しか来てくれないかもしれないけれども、それが次の時代を支えていくわけです。時代を創り出していくエネルギーというのは、もちろんお茶お花にもあるわけですが、0.何パーセントというものも、職員の好みに応じて、個人的なそれなりの見通しに基づいて、どんどんやっていくということであってよいとぼくは考えています。それよりも、職員がその事業に気合を入れているかどうかの方が大事かと思います。ニーズというのをそのようにとらえています。 ◆52 コンピュータは仕事の純化の道具 Q:さきほどコンピュータの話で、図書館にコンピュータを入れることが合理化で税金の無駄使いという風に私は捉えてしまったんですが・・・・ mito:コンピュータというのは道具(ツール)です。図書館司書が機械的雑務を省力化して、専門的な仕事としてもっと市民とつき合えるようになるための手段なのです。コンピュータに任せられるものはコンピュータに任せて、専門性の純化をするというのがぼくの考え方です。ただ、合理化というのは理屈を自分の都合にねじ曲げることで、当局がサービスを低下させてでもコンピュータによって人員を削減しようなどとなってくると、コンピュータ導入というのは問題であると思います。  逆に、司書から、労働者側からの問題で、ボランティアやコンピュータの導入、即、危険だから有無をいわさず反対というのは、この時代にはそもそも説得力がないわけです。自分のやっている仕事というのがいかに幸福追求の援助として意味があるのかという論拠に基づいて、ボランティアやコンピュータの導入反対の議論を立て直せば説得力もありましょう。ぼくはそういうわけではないと思いますが。これは労働者の問題で、前者の当局側の問題とあわせて、両面を言ったつもりです。 ◆53 対象別事業の是非 Q:青年関係でおじいちゃんが来ても構わないというお話でしたが、そういう対象別事業で青年の場合、どのように他では取り組んでいるのでしょうか。行政でやっているので、マガジンハウスがやっているようなわけにもいかないと思いますが。これから先、そのような対象別事業をどこまでもっていったらよいのか、あるいはミニマムでよいのかという気もしないでもないのですが、その辺どの様にお考えでしょうか。 mito:ぼくは対象別事業でなくてもいいものまで対象別にしているのはおかしいと思いますが、一方で対象別事業のなかでも青年対象の事業というのはまだまだ足りないと思っています。青年教育担当者の研修などで狛プーの事例を発表すると、狛江の青年が元気だからできたことだとよくいわれますが、そんなことはないとぼくは思っています。癒しのサンマ、つまり、相互承認の中で自分があるがままで承認され、両手を広げて歓迎される場というのは、今、現代社会においては、地方であってさえも青年の共通の切実な願望だと思うんです。それはかなり意識的なネットワーク型の社会教育がないと、そこが「あなたの存在を認めているよ」という安心できるストロークを出してあげないとできあがらないのです。それは上下同質競争の現代社会の中ですから当然です。  もう一方で、社会学の人などは本質的にものごとを考えますから、そんなことはありえない、人間疎外の現代管理社会のなかで、しかも行政権力のやることで、そんなことができるはずがない、権力行為としてなじまないというようなことをいいますが、実際には社会教育の場ではそういう突出的世界ができているわけです。ぼくは、この現代管理社会においても、人間解放のサンマはつくることができると思っています。  そういえば、狛プーには、主婦も参加しています。若い主婦は「誰々の奥さん」というだけではなく、自分はまだ青年としても認知されたいという気持ちをもっている。アイデンティティとはいろいろな自分のトータルな統一なのです。だから、主婦であっても青年として来るぶんには一向にかまわないわけです。むしろちょっと変わった独自の役割をちゃんと果たしてくれるわけです。狛プーでも練馬の元気が出る講座でも、それは最近の新しい傾向ですね。おじいちゃんが来たいのなら来ればよい。いやになったらやめればよい。もちろん、対象別事業のほうが対象外の人に無理に合わせる必要はないのです。 ◆54 青年事業に望まれる指導者 Q:以前に町会青年部の人たちに集まってもらい話し合ったことがあるのですが、ある程度落ち着かないとこういう講座とかに出てくる時間もないよという、それができるのが子どもが少し大きくなったくらいかなということでした。そうなってくると主婦もいてもいいやというよりは、むしろ主婦や子持ちのわれわれくらいのおじさんの年齢層が中心となってしまって、本当に若い人はポツポツと何人かということが現状です。 mito:その逆が本当はいいんですけどね。面白そうだというので若くない人が若い人の中に入ってくる場合にはとてもうまくいくんですけど、その逆だとちょっとね。それからテーマよりも内容です。さらに、青年教室については、じつはぼくはカリスマ的指導者が必要だと思っているんです。ただし、それは「依存させてくれないカリスマ」でなければいけません。 司会:それでは時間になってしまいましたので、まだ質問のある方は個別にお願いします。今日はありがとうございました。 第X章 市民への大学開放の現状と未来  −徳島大学大学開放実践センター公開講座「私らしさのワークショップ」受講者との双方向教育から− 1 継続高等教育への関心  平成7年度に日本生涯教育学会は年報(第16号、平成7年11月)のテーマに「大学改革と生涯学習」を掲げた。  年報の中で、山田礼子「アメリカの継続高等教育の社会的機能−UCLAエクステンション・プログラムの事例分析を中心に」として、次のような趣旨の報告をしている。  本論の目的は、継続高等教育の代表例であるUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)エクステンションの事例分析を行なうことにより、継続高等教育の社会的機能、すなわち職業人に対する再教育機会と地域社会へのサービス提供という機能を明らかにするものである。本論は以下の順に従って進められている。@アメリカでの継続高等教育の歴史と現状を紹介する。AUCLAエクステンション・プログラムの事例を通して、その発展段階、組織の特徴、プログラム内容、学生の属性を明らかにする。事例分析に関しては.UCLAエクステンション副学部長、継続教育カリキュラム担当者、マーケティング担当者との面接調査、内部資料、過去のカタログ分析をもとに行なう。B上記の分析をもとに、総合大学を中心とした継続高等教育機関の社会での役割と機能、ならびに今後の課題を考察する。  筆者は次のようにまとめている。本論ではアメリカの都市部における総合大学の代表例であるUCLAの継続教育部門を事例として扱ったが、他のUCの大学、あるいは都市周辺の総合大学なども連邦政府の継続高等教育政策、職業資格に対する評価の社会での確立などから判断して、規模の違いはあるにせよ、継続高等教育の方向性は同じであると推測される。総合大学の継続教育部門は、大学本体の苦手な部門のプログラム開設、地域サービスなどを果たす補完的な部門であると同時に、高学歴職業人のニーズに迅速に応えた職業人への再教育機能を果たしているとまとめられる。しかし、受講生のニーズに迅速に応えられ、実質的なカリキュラムを達成できるということは、産業構造の変化や技術の進歩などの要因に大きな影響を受けやすいともいいかえられる。そうなると、新しい産業技術を反映した実質的なカリキュラムを常に提供しなければならない宿命を継続高等教育は負っていることになる。その場合、実質的で最先端のカリキュラムに対し、いかに質の管理を行なっていくか、今後注目する必要がある。  また、同じ年度の平成8年3月に発行された萩原敏朗他「ドイツ継続高等教育の基礎的研究」(東北大学教育学部附属大学教育開放センター)の趣旨は次のとおりである。  本文献は、本センターの「研究ノート・大学と社会」第29号、平成7年度の第2号として発行された論集である。本学部社会教育学講座の高橋満助教授やドイツの研究者からの寄稿も含めてまとめられている。本書の巻頭で、東北大学教育学部附属大学教育開放センター萩原敏朗教授は、以下の国際的動向をふまえ、本書の意義について次のように述べている。「今回の特集については、ドイツの継続高等教育について、きわめて詳細、緻密な基礎的分析とそれに基づいた研究報告がなされており、わが国における、この分野におけるこれからの基礎的文献になりうる内容である」。  萩原は、欧米の継続高等教育の状況について次のように述べている。19世紀の後半、イギリスを源流として世界各国に広まっていったUniversity Extention(大学開放、大学教育開放、大学拡張)の活動は、欧米社会では20世紀の早い時期から、むしろ、継続教育という言葉にとってかわられていくという傾向にあった。たとえば、アメリカ合衆国では、20世紀の第一4半期が終わる頃から、University ExtentionからContinuing Educationへという方向で議論が展開されている。これは、大学自体の変質と深く関わっている。すなわち、University Extentionという言葉は、大学資源、大学の諸機能の大学キャンパス外への物理的な拡張、延長をイメージさせるものだったが、大学の巨大化、大衆化が進み、キャンパスの境界が次第にあやふやになるなかで、多くの大学開放機関は自らの看板として、University ExtentionよりContinuing Educationという看板を組み込んだ名称を使うようになってきたのである。また、ヨーロッパでは、中世以来、もともと大学キャンパスの境界があやふやな国々もあった。世界規模でみれば、大学がおこなう成人教育、生涯学習活動としては、職業教育制度の発展とあいまって、University ExtentionよりContinuing Educationのほうがむしろ主流であるといってもよいかもしれない。  さらに同年度6月の藤村好美「アメリカの高等教育機関と生涯学習−“Continuing Higher Education”概念の検討を中心に」(「日本社会教育学会紀要」31号、p73〜82)の趣旨は次のとおりである。  筆者は1960年代のアメリカ成人継続教育について次のように述べている。コミュニテイ・カレッジ・ブームに代表されるように、成人の学習の場としての高等教育機関の役割が増大し、高等教育と成人継続教育の境界線が薄くなった成人継続教育概念転換の節目の時期であるということができる。本論では、1960年代から現在までを、アメリカにおける“Continuing Higher Education”(継続教育)概念の成立期ととらえ、高等教育機関がアメリカ市民の生涯学習に果たす役割を、“Continuing Higher Education”(継続高等教育)概念の観点から検討している。  筆者は、アメリカの高等教育機関において日常化している成人学生の存在と、それら成人の学習要求に柔軟に対応している高等教育機関の姿を、コミュニテイ・カレッジや大学拡張部における教育実践に見ているが、その背景には、18歳人口の減少下のいわゆる大学の生き残り戦略としての成人学生の受け入れという経済的意味よりも、19世紀末の大学拡張運動以来連綿と続いている高等教育と成人教育の融合とそれを支える理念を感じ取るという。そして、継続高等教育とは、成人の高等教育への参加を表す概念であり、また、高等教育機関の成人継続教育機関化・生涯学習機関化を表す観念であり、高等教育と成人継続教育の統合を表す概念に他ならないと述べている。  筆者は本論を次のようにまとめている。継続高等教育の源は英国の大学拡張であり、その理念が形を変えながらも今日まで連綿と続いていることも再確認できた。しかし、かつて大学拡張が大学のマージナル(周辺的)な機能として行われていたのとは異なり、継続高等教育は成人継続教育を高等教育の主要な機能として捉え、高等教育と成人継続教育の新たな展開の可能性を秘めているものといえよう。アメリカにおける継続高等教育協会の活動は、成人継続教育研究において今後も注目に値するものである。  このように、19世紀後半のイギリスを源流とする大学拡張(university extention)が、市民に対する周辺的なサービスとして「高等教育」を提供するというイメージがあるのに対して、その後いわれ始めた継続高等教育(continuing higher education)は、コミュニテイ・カレッジ・ブームなどを背景とし、成人継続教育の本来的な場として「高等継続教育」を提供しようとする言葉だといえる。  本章では、最初に、その視点に基づき、前掲自著『癒しの生涯学習』から、高等教育の根底的転換のあり方について述べることとする。 2 高等教育の根底的転換  最近、大学がますます大衆化し、さらには今後の生涯学習時代に向かって、「継続高等教育」すなわち大学を本格的な生涯学習機関としてとらえなおす動きがある。しかし、他方、それが大学入学者人口の激減を目前とした大学側のただのサバイバル戦略にすぎないとしたら今までの大学の存在価値まで失うことになる。 ◆ 現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として  いまや高等教育(大学・短大)においては、学生の恒常化した私語によって授業が妨げられる、大学生なのに知的に幼稚であるなどのことから、大学の授業が存在する意味さえ疑う教員もいるほどだ。こういう高等教育の権威失墜が生み出された社会的背景としては、@従来の学歴偏重(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を評価することはできないという社会的な認識が普及しつつある、A逆に学校歴偏重(どこの大学のどの学部の卒業か、など)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしている、という2つの理由があげられよう。だから、ごく一部の大学・学部の「自他ともに認めるエリート予備軍」を除いた大多数の学生が、「賢明にも」学士になるだけのための教育には、過大な期待や、その受け手としての自負をあまりもたなくなっているのだ。  そういう状況の一方で、現役学生を含めた多くの現代人のなかで、生きがい創出、自分さがしなどの自己実現や、職業、ボランティア活動などの社会的役割遂行のための切実な学習欲求が、急激な広がりと深まりを見せている。これらのニーズ全体が、生涯学習社会形成に向けた社会創造のパワーとしてふくらみ始めているのである。そのふくらみは、革新のない過去の高等教育が色あせていく道程と、あたかも反比例するかのような目覚ましさである。生涯学習関連事業の実施のなかでそういう人びとの猛烈な学習欲求に接している大学のほうも、新しい出会いと気づきの体験による自己革新をしている最中である。  こういう大学の革新によってこそ、従来の学歴偏重社会のエリートを育てる方向ではなく、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」(学校教育法第52条「大学の目的」、短大は若干異なる)という本来の方向での高等教育の根幹部分の進化・発展も可能になる。つまり、大学の枝葉の役割としての狭義の生涯学習関連事業だけでなく、高等教育全体のあり方が生涯学習社会の形成というフレームのなかで考え直されなければならない時期にきているのである。 ◆ 市民の高度化・多様化する学習ニーズへの対応を  生涯学習あるいは成人の学習の特徴として、自己管理型学習(self-directed learning)であるということがあげられる。すなわち、みずからが学びたいと思うこと(欲求中心の即目的的学習)や学ぶ必要があると思うこと(課題中心の問題解決学習)を、学びたい手段で学ぼうとするのである。大学の生涯学習関連事業もそれに対応しなければならないのは当然であるが、その場合、これらの市民の学習ニーズの高度化、多様化に留意する必要がある。  たとえば大学公開講座では、その生成期においては、「一般市民のため」という名目のもとに、市民に対しては高等教育としてのレベルを根本からないがしろにしたり、「教員の公平な分担」という名目のもとに、テーマの焦点化されていない総花的で非体系的なプログラムに陥ったりする傾向があったようである。しかし、最近の公開講座は、高度化する市民の生涯学習ニーズに応えて、本来の高等教育機能の拡張としてのレベルの高い公開講座を志向する大学が増えている。  今後も、学習者層の拡大のためには、入門的で広い範囲の親しみやすい学習内容の提供が必要ではあろうが、大学側がそれだけに甘んじていて、市民の高度化、多様化する学習ニーズに対しては、人がたくさんは集まらない、手間がかかる、などの消極的な理由から対応できないままでいると、その事業を大学が行っているからこその魅力を失い、よって、深い意味での学問の楽しさをも失って、いずれは市民から見離されることにもつながりかねない。 ◆ 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を  数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。  市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。  そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。 ◆ 高等教育の制度等の柔軟化と個性化を  過去の学歴偏重社会においては、固定的な年代や時期の、固定的な一定期間の、固定的な場で行われる高等教育に重きがおかれ、それ以外の学習や卒業後の学習には比較的、関心が払われてこなかった。しかし、今後の生涯学習社会においては、社会の変化や進展に応じて、卒業後も繰り返し教育の場に立ち返って学習(リカレント学習)を進めることが求められていることから、大学の側もそういうニーズにいっそう柔軟に対応していく必要がある。これが継続高等教育機関としての大学の役割である。  このことに関連して、2つの重要な生涯学習の観点を述べておきたい。それは、@人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、なるべくその時期を逸しないようにして、それぞれの時期の課題に適した学習を行うことが望まれるという観点、A人間は一生のあいだ、さまざまなかたちでつねに変化・発達を続けることが可能な存在であるのだから、生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができるという観点、である。従来、とくにあらたまった論議などでは、ややもすると@ばかりが強調され、生涯の各時期における発達課題が固定的に受けとめられてきてしまった傾向があったのではないか。大学側が本音のところではそういう前者の考え方だけに固執しているのだとすれば、せっかく大学の扉をたたいてくれている社会人や大学既卒業者は救われない。「思い立ったが吉日」「人生、すべて勉強」などのごくあたりまえの庶民感覚を大切にしなければならない。 ◆ 市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を  現在、欧米では大学拡張と呼ぶより継続高等教育と呼び、生涯学習機関としての自らの役割への自覚をますます高めている。大学の生涯学習関連事業においても、学習者中心のサービス姿勢を徹底することが今後の重要な課題となろう。いまや多くの大学が施設開放を行っており、大学の市民への開放性の高まりを感じさせるが、その開放性がどれだけ市民の実際のニーズとマッチしているかについては、まだまだ覚束ない大学のほうが多いのではないだろうか。「大学教育に支障のない限り、自由にご利用ください」という姿勢も発展のひとつだろうが、生涯学習の時代はそのつぎの段階への発展を大学に求めているのである。それは、届ける、触発する、という姿勢である。  校舎や体育館やグランドなどの施設はまさか「届ける」というわけにはいかないが、大学を訪れたいと思った市民がどれだけ容易に目的地に到達できるか(アクセシビリティ)を配慮する精神が求められる。車のない人はどうか、お年寄りはどうか。また、車椅子でも、大学の玄関から2階の開放している図書館に上れるだろうか。さらには、バス停を降りてから大学の玄関までの歩道はどうなっているか。居合わせた自校の学生は、お手伝いするだろうか。こういう心配りをすることをオープンマインド(開かれた心)というのである。全国的にもエクステンションセンターの名称などで、市民開放用の施設を大学の立地とは別に街中に設置する同様の動きが見られるが、最大限のアクセシビリティのための試みとして評価できる。 ◆ 市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を  とくに「きびしい生涯学習」については、どうしても高等教育の過去のイメージを引きずってしまい、市民側も大学側もともに、教える側の制度化された権威が至上のものになりがちである。そして、「学びたいから学びたいことを学んでいる」という自己責任の原則が忘れ去られ、市民側の学習態度を依存的なものにしてしまうのである。これでは、生涯学習も、過去の教授者主体の「一斉承り型学習」とあまり変わらない非主体的な学習という結果になってしまう。  もちろん、大学卒業資格や単位の取得という学習結果の存在意義を全否定することはだれにもできないだろう。しかし、生涯学習社会への転換において大切なことは、そういう資格・単位の認定に関わる制度的な改善をも含めた評価の適正化である。学校歴に偏ることなく、学習歴を問わなければならないし、また、単位や資格の取得を争う大人同士の受験地獄にしないためには、学習結果としての学習歴にも偏ることなく、一人ひとりの多様な個性と持ち味のある学習の経過をも尊重しなければならない(p39)。  さらには、学習成果の評価についてのより本質的で積極的な意義としては、何よりも学習者本人がつぎの学習行動を主体的に決定するために不可欠であるということがあげられる。それゆえ、適正な評価のためには、アンドラゴジー(p13)の考え方に則り、ガイダンスやコンサルティングなど、学習者と援助者との相互的な営みが必要になる。したがって、生涯学習関連事業においてなされるべき学習成果の評価のあり方を検討することは、従来の高等教育は学生の主体的な学習能力の向上を本当に評価できていたのか、社会教育は市民みずからのもっていた学習目標の講座修了時の到達の成否に関心をもっていたのか、というように、自らの教育姿勢への鋭い問い直しにもなるのだ。  以上に述べた学習成果の評価にならんで、大学教育への評価も重要である。今まで学習者側からはほとんど批評を受けることなく過ごしてきた高等教育にとって、学習者主体の生涯学習とその支援の理念は、自己評価の充実の面でも大きな契機となるだろう。18歳人口の激減を目前にして、多くの大学でサバイバル(生き残り)をめざして自己点検・自己評価活動の取り組みが行われている。しかし、もし18歳人口が減る見込みがなかったら、そういう活動をしなかったのか。それも、「大学の自治」の名のもとに。大学の自治とは、ときの権力の干渉を許さず、しかし、学習者や世間の評価も参考にして、教員が厳しく自己点検・自己評価を行うという前提があるからこそ成り立つことではないか。大学は自己評価することを自己決定すべきである。  もちろん、たとえば、「○○先生はやめたほうがよい」と一人に書かかれたからといって、必ずしも、つぎの事業からはその○○先生を依頼しないようにするということではない。学習者からのこういう事業評価に対して事業者は、「少なくとも、この回答者はそう感じた」という事実を逃げずにありのままに受けとめ(受容)、そのうえで主体的に判断すべきなのである。とくに、大学の授業を学生に評価させる場合などに教員の抵抗が強いのは、相手からの評価のこういう受けとめ方について、まだ理解が十分には広まっていないからなのではないか。教育側と学習側の相互の批評は、否定ではなく批判であり、主体的な両者の基本的信頼にもとづく協働の知的共生活動なのである(批評的ストローク、p84)。このように、市民や学生からの評価を率直に受けとめてこそ、大学の主体的な自己評価は可能になる。  学習側が教育側を批評するということは、自己管理型の生涯学習にとっても非常に重要なことである。学習者が事業評価や授業評価をするということは、学習者が学習者自らの責任を果たすということである。かれらの否定ではない批判は、主体的な学習態度の一環であり、ともに生きる(共生)ための信頼と共感にたどりつくまでのプロセスである。その批評を誠実に積み重ねることによって、学習者の主体性もいっそう確かなものに育っていく。つまり、事業・授業評価は、大学と市民・学生がともに育つための共育活動の一環なのである。 ◆ 学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を  学内の推進組織自体は大がかりでなくてもよいが、大学の総合的な経営のひとつとして専門的に関われる位置づけをする必要がある。企画や調整というラインのひとつとしてか、あるいは、いずれかのセクションの下に置くのであれば、そのラインからやや外れて独自の実行機能をもち、ほかのセクションに対しても全体的に調整力を行使しうるスタッフ機能として位置づけたほうがよいと考えられる。  学内の生涯学習推進組織または窓口をどう整備するかということは、来たるべき生涯学習社会に向かっての大学経営全体の基本的・総合的理念を表すものであり、企業のCIに匹敵するほどの大学のアイデンティティそのものに関わる重要なことがらなのである。 ◆ 他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を  大学どうしで、あるいは行政等の他機関と、さらには地域社会全体と、ネットワークを形成することが生涯学習推進事業を行おうとする大学には必要である。まずは、さしあたり、他大学、放送大学や専修学校との単位互換を考えるべきであろうし、研究や生涯学習推進の面などでの企業との連携も考えられよう。そもそも大学が市民にも目を向けるということは、基本的にはこのような他大学、他機関、地域社会に対して自信にあふれたネットワークマインドをもっているからこそのことである。  ネットワークの特性のひとつは、自立と依存の統合的発展(『かくろん』p168)であると思われる。大学としての独自の存在意義をもっているからこそ、異なる自立的価値をもつ他者と対等に連携することができるのだ。また、そういうネットワークにおいては一方的な関係ではなく、相互のギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。たとえば、大学は行政や地域に対して有益な学園都市の資源としての存在価値を発揮し、行政や地域はそういう大学を信頼し支えようとするのである。このような双方が対等で主体的な協働の関係が、大学の生涯学習ネットワークには求められている。 ◆ 生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を  以上述べてきたことをもとにして、「生涯学習時代における大学の役割」をぼくの生涯学習に関する基本的な主張を交えて簡潔にまとめていうとすれば、つぎの3点になる。 @ 生涯学習社会を担う学生を養成する役割    −学内で生涯学習を学生に−  現代青年としての学生は、生きる主体性の喪失の危機に瀕している。保護と管理ばかりを学校、家庭、社会から与えられ続けてきたことによって、学習やコミュニケーションなどにおける自己決定、自己管理、自己責任の能力がかなり損なわれているのだ。生涯学習の観点に立って学生の主体的学習を支援し、自己管理能力の向上を促すことによって、かれらを今後の生涯学習社会を担う人材として養成することがこれからの大学には求められている。 A 社会の変化を先取りし、リードする役割    −学内の高等教育を学外に−  急激に変化する現代社会は、つねに自己革新を続けて時代を先取りするリーダーとしての役割を大学等に求めている。とくに職業人は、知識・技術等の急激で高度な発展のなかで、学校卒業後も繰り返し教育を受けて今日の到達点を学び直すリフレッシュ学習の必要を感じている。また、高等教育とは別の形態としての生涯学習関連事業においても、時代のつぎの方向を示す役割が大学・教員に求められている。 B 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割     −学外の生涯学習を学内でも−  成熟化する現代社会においては、人びとの関心はモノからココロに移りつつある。そこでは地位や財産をもつ(have)ための学習より人間らしくある(be)ための学習に価値がおかれる。そのため、癒しと発達の両方が求められる。その学習は、生涯にわたって行われるリカレント学習である。これに対する大学の支援が大いに期待されるとともに、そういう市民の生涯学習との出会いは、大学にとっても学内に吹く「生涯学習の新しい風」として重要である。  多くの大学で生涯学習関連事業が積極的に取り組まれつつある。しかし、その努力が、迫りくる18歳人口の激減に対しての大学サバイバルのための対処療法的な延命策としてだけに終わってしまう大学があるとすれば、それはたんなるサバイバル・ノイローゼの一過性の症状でしかなく、生産的な結果につながらないことは容易に想像できる。もっと、何のための大学か、何のための大学拡張なのかという、大学の本質的な存在確認から事業を発想する必要があるだろう。  ゆえに、大学の生涯学習化(生涯学習理念にもとづく自己革新)の成否は、学内の教員と職員の意識変革にかかっているといってもよい。「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的な守りの経営や、過去の最高学府という空洞化した「権威」への依存から脱却して、主体的学習の支援という大学の社会的な役割を、より時代にあったかたちで遂行し、そのことによってみずからもその役割を味わい、喜ぶ、積極的な攻めの経営に転換する必要がある。これが大学の経営革新の姿である。  最近のまともな企業は、収益を上げるだけでなく、その他の社会貢献活動(フィランソロピー)や文化支援活動(メセナ)などにも積極的に取り組むようになりつつある。これに対して、大学においては、教育(学習援助)をとおした社会貢献や文化支援という活動は、幸せにもそもそも本来的責務である。だからこそ、私学に対しても、やや貧弱とはいえ、国民の税金が支出されているととらえるべきだろう。ただし、そういう大学の新しい責務の遂行とそのための革新は大学の自己決定によるべきものであるし(大学の自治、p127)、それゆえ、惨めなサバイバル・ノイローゼなどとは異なる、自信に満ちた営みでなければならない。大学の変容も、個人のレベルでの学習行為と本質的にはまったく同じ経緯をたどるものであり、自己管理型の生涯学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくできる世界)と出会うのと同様に、大学も自己管理型の生涯学習化のなかで自己変容という本来の学習の楽しみと出会うことができるのである。  自己決定活動の真の動機は「自分のため」である。たとえ指導者が研修を受ける場合でも、「学習者のため」ではなく、「自分のため」といえる人が、学ぶことの意味を知るよい指導者である。また、ボランティアについては7章で述べるが、他の人から「えらいですね」とか「奇特な方ですね」といわれると、嫌な気持ちになるものだ。そういうときは「自分のためにやっています」と答えればさわやかでいられる。自分で「ボランティアをやっています」と言い切る人はあまりいない。それよりは、「こういう活動をやっている」と具体的にいうだろう。ボランティア活動は、ボランティアになるためではなく、何かをするために自己決定したものなのだ。ただ、ボランティア活動をしているある学生が、あまりつきあいのない友達に、自分が何をやっているのかを手っ取り早く答えるためには、ボランティアは便利な言葉だといっていたが……。いずれにせよ、人目ばかり気にする横並び意識や自己卑下のサバイバルと違って、自己決定・自己管理型の自己変容は人間にも大学にも気持ちのよいものである。 3 高等教育内容 7つの転換  上下同質競争の頂点をめざすための「最適な手段」としての過去の陳腐な教育内容はそのままで、それを少しだけ市民にも開放するという程度の改革だけにとどまるならば、大学は生涯学習社会の形成には貢献できない。教育内容自体が転換されるべきだ。しかし、時代は高等教育内容にどんな転換を求めているのか。  一つに、本提案は、この図に示されたぼくなりに考える生涯学習の観点のもとに述べられていることをあらかじめ述べておきたい(図表●)。つぎに、したがって、市民に対する「継続高等教育」の内容についても、いっそう同様の趣旨が実現することが望ましいと考えるものである。 ◆ 転換1−自己決定・自立支援型にする  成人の学習の本質は自己管理型学習である。高等教育もこれに習い、「学びたいことと学びたい手段を自分で決定して学ぶ」という原則をできる限り取り入れる必要がある。  ぼくの授業では、出欠、遅刻、早退、途中入退室、そしてもぐりも、すべて自由ということにしている。個人には個人の事情と個人のレディネス(準備性)があるからである。ぼくの責任は魅力的な授業をすることであり、他の用事をさしおいてもその授業を選ぶかどうかは、ぼくの責任ではなく学生が自分の責任で決めることではないか。  私語の問題ひとつをとっても、教育が学習者に自己決定をさせてこなかったがゆえの学生の主体喪失状況は背筋が寒くなるほどである。これ以上、学生に「こんなつまんない授業なのに、出席ばかり厳しくとるんだから」などと思わせてはならない。それは、結局、他者や社会のせいにして安定しようとする学生を、内面から許し、甘やかせていることになるのだ。教員は授業にいっそう勝負をかけて着席を自己決定する学生を増やし、そのうえで、退室の自由を行使できないままおしゃべりする学生に、その不行使が本人の自己決定以外のなにものでもないことを知らしめなければならない。 ◆ 転換2−双方向・水平交流型にする  教員の楽しみは学生一人ひとりの「個の深み」との交流にあると、ぼくは思っている。とくに、学生が自由に書く出席ペーパーのおかげで、授業がかなり刺激的な仕事になっている。過去の一方通行の講義型授業だけでは、教員も学生も手応えに欠ける。  大学の自己点検・自己評価の動きのなかで、学生に教員の授業を評価させる試みがいくつかの大学で生まれている。よいことだとは思うが、それがたんに人気度や教育技術を数字で表すだけのものであるなら高等な教育とはいえないだろう。社会教育・生涯学習がアマチュア学習者とプロフェッショナル学習援助者との相互的関与や共育をめざしているのと同じく、高等教育でもたがいに触発しあって、現在の研究水準の一歩上をめざす必要がある。大学教員が過去の研究業績という遺産だけで食っていける時代は終わろうとしている。学歴偏重社会から生涯学習社会に移行する段階で、教員の方も自己の文化遺産を急激な社会進展や学生の学習ニーズの時代的変化にあわせてリフレッシュしなければいけない時代になっているのだ。  そのためには、自らの教育内容についてまで学生に自由な感性と実感にもとづいて授業評価させ、大小の批判も含めてすべて受けて立つことが効果的であるし、また、それは刺激的で楽しいことだ。ただし、その場合、教員は授業で学習者のように「学びたいことを学びたい手段で」学んでいるわけではないのだから、教員が学生集団のワン・オブ・ゼムであってはならない。そんなことでは学習援助者としての存在意義がなくなる。教育意図をもち、その意図する内容を公にすべきである。受けて立つということは、学生のニーズに追従することではないのだ。専門分野に関する過去の文化遺産や、現在の鋭い問題意識をフルに働かせて当たる必要がある。しかしながら、教員としての権力に頼ってもいけない。教員から学生への双方向教育は、ネットワーク型の異質間の水平交流でありたい。 ◆ 転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする  生涯学習の理想主義的なスローガンとして「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」がある。大学でもこれをめざすことができないだろうか。  日本のある大学が米国に分校を開いたときの日本人学生向けのキャッチコピーは「アメリカ全土が君たちのキャンパスだ」というようなものだった。それならば、国内の大学においても学生に「君たちが学べる場は日本全土だ」といってよいはずだ。  また、米国の大学の「履修要覧」には各教員のオフィスアワーが載っているものがある。オフィスアワーとは、何曜日の何時ころにはいつもその教員が研究室にいるから、学生が個人でも質問や議論をしにきてよいというシステムである。このようなオープンマインド(学習者に対して開かれた心)が教員に求められている。 ◆ 転換4−おもしろ・感動型にする  前述のように、ぼくは授業を勝負の場ととらえている。私たちは、雇用対策で大学当局に雇われているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会は、テレビや出版などによって、おもしろくて役立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業が、メディアの流すそれらの情報より何らかの意味で勝っていなければならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思にもとづくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。だから、選択に堪えるものでなければならない。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。 ◆ 転換5−課題提起・解決型にする  学校での学習への導入が科目中心なのに対して、成人の学習は課題中心であるという(M.ノールズ)。初等教育などでも、同様の課題中心の教育がかなり普及しつつある。心と体の病いを治すのを援助してくれるのはお医者さんであっても、実際に治しているのは本人である(自己治癒力)のと同様に、課題を認識してこそ主体的な学習が成り立ち、それが自己教育力の発揮につながるのである。学生の課題意識を呼び起こさないままに教え込むのでは教育効果が薄い。  さらに、そこで呼び起こそうとする課題自体も、日常生活の事実に埋没するなかでは気づきそうもない、真実にふれる感動と気づきを与えるような深みのある課題でなくてはならない。  授業も社会教育でいうと学級講座のような集合学習(p117)である。そこでは、せっかく時空間を共有するのだから、同時代性のある授業でなければ、集合する意味がないし、学生も教師もおもしろくない。そのためには、学生に追従するのではなく、同時代に生きる者が直面している共通の課題を鋭く抉り出して提起する教育内容が求められている。生涯学習審議会答申の提唱する現代的課題の学習も、そういうことを意味しているのだろう。 ◆ 転換6−生きがい創出型にする  高齢化にともなってライフプランづくりのための学習が盛んになっている。その学習は、より賢い生き方のためでもあり、より充実した生きがいのためでもある。時代がそういう学習を求めているのだ。また、学校教育でも、道徳教育はすべての一般教科に共通する課題だといわれる。しかし、自己の人生の内容とは遊離した過去の高等教育に慣れ親しんだ「まじめな」学生などからは、「人生を考えさせる授業」は反発を受けることがある。しかし、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである(p82)。「生きることを学ぶ」内容をめざしたい。 ◆ 転換7−信頼・共感・癒し型にする  生涯学習時代は人びとの「モノからココロへ」という価値観の転換の反映でもある。また、学問の世界においても、経済学者がボランティア活動の意義を先頭切って論ずる時代になってきた。ぼくは、そもそも知的水平空間自体が本質的に支持的風土としての性格をもっていると考えている。学歴社会が崩れようとしているいま、大学の授業を受けようとする学生の本音のところでの動機自体も、出世競争から幸福追求へと変化しているようだ。大学の授業をこういう「こころの時代」に対応させる必要がある。そういう授業のなかで生まれる信頼と共感の癒しのサンマこそが、真に自立した学習者を育てるのである。  そこで、ぼくが、平成10年の春、音楽大学を去るにあたって、大学の授業の締めくくりに、2年間お付き合いいただいた短大2年生に「mito的授業の印象」に関する自分個人にとってのキーワードを一人一人出してもらってまとめた図を掲載する(図表●)。図を見てわかるように、そのほとんどが、態度や雰囲気に関することである。 4 大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?    −徳島大学大学開放実践センター公開講座「私らしさのワークショップ」における双方向教育−  徳島大学大学開放実践センターが平成10年度に開始したぼくの担当講座「私らしさのワークショップ」の各回のテーマと概要は次のとおりである(図表●)。  それぞれの回に対する受講した市民の反応(出席ペーパー)を通して特徴的なことは、「大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?」というペーパーに象徴されるような、現代人としての市民一人一人の大学開放を通じた生涯学習への関心であり、とりわけ講座自体を「癒しのサンマ」の一つとしてとらえようとする信頼、共感、自立に向かう潜在的願望である。そこで感じられる市民のニーズは次のようにまとめられよう(図表●)。 本章の最後に、平成10年度「私らしさのワークショップ」におけるカード式発想法の成果を掲げておきたい。これらは、それぞれ、「社会に役立つわたし」、「私がもらった『いい言葉』『いい影響』」、「わたしにとっての『私らしさのワークショップ』」というテーマに基づいて受講者がカードに自由に記入し、ぼくが「対話」をしながらまとめたものである(図表●)。  これらの図は、市民への大学開放の新しい方向を示唆するものといえよう。 【以下カット】 【参考資料】 私らしさのワークショップT第1回 テーマ 私らしさってなんだろう? 内容  自分さがしの相互承認の出会い=第一印象ゲーム ねらい (1) 自分らしさとは何か、考える。 (2) 人と出会うということは何か、考える。 (3) 相互承認の人間関係づくりのコツに気づく。 出席ペーパー(受講者の反応)  次のような出席ペーパーが提出された。なお、mito>以下はぼくが予定、または行ったコメントの内容である。 ●最初はドキドキ、どうなるんだろう、など、自分がいちばん不得意なパターンのゼミかな、と思ったのですが、いろんな人たちがいて、これからが楽しみです。でも、今日は、少し時間が短い感じがしました。 mito>初対面なのにいきなりやるの?、ということでしょうね。指導者はそういうマイナスの気持ちを大切に保っていてほしい。それから、時間については、ぼくがじつは「詰め込み主義」になっちゃう癖があるんです。勝負のかけすぎ、というところかな? ●できることから始めよう。 mito>んっ? 始めの一歩の話ですか? それなら、ぼくも。「大胆に、ではなく、何cmかをおずおずと踏み出すのがコツ」! ●第一印象ゲームはおもしろかったです。これからどんな講座になるのか楽しみです。 mito>はい。あれは坂口順治さんの本からのパクリですが、妙に自然で、自他への肯定的な関心が高まるゲームだと、ぼくも感じています。 ●第一印象ゲームが楽しかったです!! でも、自分の見る目って、案外ないなぁーと思いました。あまりにも当たらなかったので・・・。学生時代に戻ったような新鮮さがありました。 mito>うーん、学生時代に戻った・・・、授業ですか、友達関係ですか? 後者が大きいのでしょうね。友達は何歳になってもほしいのに、卒業、就職、結婚、出産などがあるたびに、どんどん減っていく。とくに異性の友達が(^^;。 ●第一印象ゲームでは、自分の第一印象があまりあてにならないのでは、と思った。第一印象にこだわらず、人とおつきあいしていきたいと思った。グループ内では雑談などして、とても打ち解けたように思った。 mito>偏見の恐さ、というところでしょうかね。それから、雑談も、歯の浮くような社交辞令と違ったからこそ楽しかったのでしょうね。 ●「他人に関心を寄せる」、その言葉にいまさらですが、なんとなく、意外にも得心したりしています。講座のあとも時間を割いてくださり、集まる、と聞いて、なんだかわからないけれど楽しみな気分です。 mito>比べる視線、ではなく、その人のありのままへの眼差し、これがもらったほうも、あげたほうも、気持ちいいんでしょうね。これを肯定的ストロークといいます。もしかしたら、さらに無条件肯定的ストロークの雰囲気ができつつあるのかもしれません。 ●人前に出ることが少なく引っ込み思案の私。でも、西村先生の最初のひとこと、「ぼくはしゃべりすぎるから・・・(mito>気をつけなくちゃ、と言ったと思う)」etcで、なんだかスコーンと気が抜けてしまった。身構えることなんて何も必要なかった。自分をよく見せようなんて、いみじい気持ちがなくなってしまった。これが本当に大学の公開講座なのかしら・・・。 mito>ぼくは授業でもいつも最初の10分ほどの立ち上がりが重いのです(;_;)。不安のせいだと思います。でも、そのぼやきともいうべき言葉が「有効技」?だったなんて、意外です。儀式のようにしゃちほこばらずに、のびのびと好奇心を働かせる。これが高等教育や学問のあり方だと思います。ぼくは、これを、知的水平空間と呼んでいます。 ●こんな軽いノリでいいのだろうか・・・。んー、慣れればこれもなかなかよい。聞きながら(mito>出席ペーパーを)書くのはつらい。時間が足りん。開放講座では私は一度は居眠りするのですが、今回はありませんでした。またお茶飲ませてください。 mito>飲食自由です。フランス革命も市民のコーヒーを飲みながらのサロンが学習?や合意形成?の場であったとか。それから、出席ペーパーについては、慣れもありますし、あるいは、相性(たとえば集中して受講していたい人は書けない、でも、それはそれでいい)の問題もあるでしょう。気にしないでください。出席ペーパーの本質は「何でもアリ」と「自己表現の完全自己管理システム」にあるとぼくは思っています。マル秘、強制公開、発信者名公開、コメント希望、コメント不可など、どんなマークをつけていただいてもけっこうです。 ●最初のビデオで、天声人語をコンピュータに読み上げさせていたのには、何か理由があるのですか? 何か理由があると思うのですが・・・。 mito>(コメント略) 私らしさのワークショップT第2回 テーマ コミュニケーションはキャッチボール 内容  共感能力を高める=ブレーンストーミング(幸せの瞬間) ねらい (1) 他者に対する共感的理解が可能であることを実感する。 (2) 自分とは異なる枠組をもつ他者が与えるよい影響を知る。 (3) アンビバレンツ(両面価値)な実感を受容できるようになる。 出席ペーパー ●(当日は)日本シリーズがなくてよかった。 mito>はい、あったらもっと少なかったでしょうね。 ●他人を「受け入れる」と「受け流す」って、表面的には似て見えるような気がします。どうでしょう? mito>「受け入れる」を「許す」に変えると、きょうのロールプレイでやる課題です。なんでつながるんだろう、不思議だな。「許し」というのは「主張する」(「断る」)があってこその「許し」なんですね。 ●コンピュータに読み上げさせていた理由を尋ねたのは、前にどこかで似たようなものを見た気がしたからです。コンピュータ読み上げの不利な問題として、機械的な感じがするとか、双方向性が確保できないという2点が挙げられたけれども、それをわかっていてもやるだけの価値はあるのかなと思っていました。 mito>幸か不幸か、読み上げる者の余計な感情のフィルターを通さないで聞けるということでしょうか。 ●幸せを感じるときって、若いときよりなんだか少なくなってきているように思うのは何ででしょう? それにしても人数が少なくなっているのも何ででしょう? こんなに楽し〜い講座なのにね、mito chan☆ mito>社会教育の場合、学校教育と違って、7割も出席すればすごい。個人がさまざまな事情のなかから自己決定で参加してくる。ただ、お金をもらってる関係から、ぼくにとってはプレッシャーである。 ●女子大でブレーンストーミングを行ったとき、2/3が退席? これって何だろう。今日のワークショップ、もっと人数が多かったらおもしろかったと思う。 mito>今日のお願いトレーニングのほうがより過激である。加藤諦三が、現代の心理的特徴を「敵意と不満」として、次のように述べている。そういうなかで、今日のトレーニングは「さわやかに依存しちゃおう」ということだから、やっぱりカルチャーショックが強すぎるのでしょう。でも、加藤のいう「ふれあい」を、ぼくはストロークと呼ぶ。人間はストロークをもらうために生きているという。まあ、楽しくやりましょう。 (続いて次の文献を紹介)  「青少年の健全育成を推進する都民集会(特集)−TOKYOティーンズ'97青少年健全育成キャンペーン」(東京都生活文化局女性青少年部青少年課「青少年問題研究」188号、平成10年3月)。  本集会の基調講演で加藤諦三は「青少年の自立と社会とのかかわり」と題し、次のように述べて「ふれあいの重要さの確認を」と訴えている。成績が悪かった時に、そのことを親との間で話すのが居心地良かったかどうかの質問をすると、有意の差がある。言える雰囲気を持たなかった子どもの方が、大学生になる時にシャイになり、自信がない。異性も誘えない。望ましくないことがあった時に、そのことを気にならないで話し合って対策を講じられる環境がふれあいの環境である。そのふれあいがあって、自立できるようになる。今の青少年にはそういう環境がなくなっている。  また、「自立社会は中毒社会」として次のように述べている。「自立社会」という言葉の裏側は「中毒社会」である。アメリカではアディクティブ・ソサエティーという言葉が、心理学の本などに出てくる。中毒というのは、本人が望ましくないとわかっているけれども、それをしないではいられないということである。仕事、薬物、アルコール、セックス、惨め、宗教など、多様な中毒がある。この関係は自分にとって望ましくないとわかっていても、その関係から逃れることができない。とくに日本は、職場でも、学校でも、住所についても、満足していない人がアメリカより多いのにそこにとどまって我慢している。ふれあっていないのである。その心理的特徴は敵意と不満である。この中毒社会を変えないと基本的には青少年問題は解決できない。  さらに、「大切なのは真面目さではない」として次のように述べている。中毒社会の価値観は真面目さである。しかし、真面目であるからふれあえるというものではない。ふれあいこそを価値にしないと、真面目ならすべてが許されるという価値観になってしまう。そもそも真面目でなく、いい加減な人のほうが自殺しない。われわれ大人が子どもたちにふれあいの仕方やコミュニケーションの仕方を伝えていかなければいけない。 ●女の人は、子どもとか、他者評価で生きている。これっていったいなんだろう。 mito>適正な自己評価のあり方について説明。ストロークのついでに横文字でいうとジェンダー(社会的文化的性差)という。ただし、最近は、男性のほうが社会的弱者のような気がする。自己決定活動にたずさわろうとするとき、変化を理由なく恐れるのである。 ●紙切れ法はとてもおもしろかった。「幸せを感じたとき」は十人十色だけど、共感するものも「ン?」と思ったものもあった。時間が足りなくて残念。もっとやりたかった。 mito>やっぱり、ワークショップは、ぼくなんかがいなくても、仲間同士で楽しくみっちりやるのが本当なんでしょうね。 私らしさのワークショップT第3回 テーマ さわやかな自己主張 内容  引っ込み思案をなおすコツ=ロールプレイ(お願いトレーニング) ねらい (1) フラストレーションに耐えて自己主張を続けられるようになる。 (2) ちょっとしたことぐらいでは負け犬にならない自信をつける。 (3) 人それぞれの自己主張法を知り、自分の主張法を改善する。 出席ペーパー ●お願いすることも断るのもとっても苦手です。要するに人が良すぎる。長所であり、短所です。今日のワークショップはハートが疲れた。 mito>すみません。たしかに人が良いのは、長所であり、短所でもありますね。まあ、それこそが自分らしさなのでしょうか。ただ、「生きづらい」と感じたときには、少し、ほかの「物語」を取り入れるとよいのかもしれません。 ●お願いすること、それもあつかましくすることは、とっても大変だった。心のすみで、「ああ、申し訳ないなあ」と思いながらプレイしていたから、それがかえってストレスになったかな? でも、また演じてみたい気もする。 mito>けっして「あつかましくすること」だけが「お願い」の方法ではないでしょうが(^^;。他者のいろいろな方法から、取り入れられるものは取り入れられればいいですね。 ●頼むのも断るのも難しいですね。基本的に頼まれた場合は、できることならだいたい受けるんですが、頼む場合は一度断られたら、何度も頼むことはしないです。 mito>頼むのも断るのも2回目からが難しいんですよね。「もう、いいや」という感じで。でも、ほんとうの許しは断りのあとにくる。それこそが「信じて頼りあう信頼」の本質だ。現実には難しいかもしれないけれど、そういうふうに思うのです。 ●男は女の涙には弱いってことか。 mito>ははは(^^)。たしかに弱いとは思います。ただ、「あなたが、どうにかしてちょうだい」という依存的な涙はいやですけど、「とにかく泣かせて」という涙はいいもんですね。 ●自己主張はしたいのですが、意志が弱いので発言はしないで終わることがほとんどです。上手に話しができればと思います。 mito>上手な話し方のほうは、上手な自己開示のほうに深く関連しているのではないでしょうか。自己主張のほうは、自他への信頼感の獲得が大きいと思います。 ●ロールプレイの目的と違うかもしれませんが、相手の考えていることを早くつかまないと断れないし、お願いできないと感じました。また、1回ロールプレイすると、普通の会話より同志的な感じになって、おもしろかったです。でも、少しストレスになりましたが。 mito>同志的になる、というのがおもしろいですね。あれだけ、断ったり、逆にずーずーしくお願いしたりするのに、そこにこそ信頼関係が生ずるということではないでしょうか。 ●どうして少ないのかなあ。本当にもったいない。楽しい授業なのに。「今の女はジェンダーフリーだ」とmitoさんは言ってましたが、そうでもないですよ。学生のころなら平等だったかもしれないけど、社会、家庭では、ジェンダーバイアスがあります。なぜ、女は黙ってしまうのでしょうか? 愛しすぎる女・・・、女になっちゃうんですよね。 mito>このように、講義のテーマと関係ない出席ペーパーも、不思議に講義と連動して重要な刺激を投げかけてくれます。講義はライブだ、というところなんでしょう。 mito>付記  ・・・ということで、今回は少し過激すぎたようです。終了後、例によって、フリースペース(今回は串天の店「ちょっと」)をやりましたが、みなさん、心がしんどかったようです。今回のトレーニングの基盤となる「言いたいことは言っていいんだよ。どうにかなるよ」という支持的風土の共生社会を、今後、敵意と不満の自立=中毒社会全体では無理でも、このワークショップだけでもゆっくりと創り出していきたいと思います。 私らしさのワークショップT第4回 テーマ 自分のためのボランティア 内容  自分らしさを感じるとき=価値観ゲーム ねらい (1) 自分らしさについて再確認する。 (2) 他者に対する関心の持ち方を体得する。 (3) 自分さがしをする現代人のこころを理解する。 [資料]異なった価値観と出会い、共感するおもしろさ−『価値観ゲーム』(略) 結婚相手の判断基準(一対比較法) 数字は順位 容姿   4   7   6    4      3自分にない1タイプ 人柄   2   1   1マイナスの愛3      4     2 資産   6   6   5    7      4     5 愛情   1   1   2    5      1     4 将来性  3向上心5   4    2生きる姿勢 4     3 健康   5   1   3    1生きてなきゃ2     6 経歴   7   4生き様7    6      7     7 出席ペーパー ●愛情のある暴力はないと思いますヨオ〜。今日は(価値を)選択するのが難しかった。容姿はやっぱりキムタク+竹野内豊みたいな人がスキなのに〜。なぜ?! 心って正直だわ〜。愛情1位なんて。 mito>容姿1位ではなく、愛情1位だったことで、「心って正直」というのが、とても面白く感じました。 ●他人に肯定的関心をもつ・・・。共感能力に自信がないので、心してつとめよう。 mito>つとめなくても、楽しく味わってください。 ●自分はこんな価値観をもっていたんだなあと、あらためて思った。でも、このゲームをプレイする前の自分の予測と違っていたのは意外だった。価値観って、一生変わることはないのかしら・・・。 mito>日々、どんどん変わっていくのでしょう。これを「変容」といいます。気合を入れた「自己変革」とはちょっと違うと思います。他者の異なる「枠組」と出会う「楽習」により、自己の価値観、判断基準等の「枠組」「準拠枠組」に気づき、そのことによって自己の「枠組」そのものが変容します。「枠組変容」こそがダイナミックな学習の意味合いなのでしょう。 ●自分の価値観がはっきり出ることに驚きました。各人それぞれの価値が異なることが面白かったです。 mito>そう、意外に思われるでしょうが、他者の価値が自分と異なることは、そこに支持的風土があるという条件のもとに限り、「面白い」ことなんですよね。 ●「言いたいことは言っていいんだよ」という社会の実現は難しいでしょうねえ。その言葉は、社会を構成する各個人に対して、かなり高いレベルの要求を出しているように思います。やっぱり言わないほうがいいことというのはあるわけで・・・。でも、言いたいことを「タブー」として不必要に言わないというのもどうかと思うし。落としどころが難しいですね。 mito>現実社会、現実の人間関係ではそうでしょうねえ。その場合、「落としどころ」という表現がとてもぴったりしていると思います。ただ、受容的、支持的雰囲気が社会にもっとあればいいのにな、と思います。 ●今の若い人(30代以下)って自己開示しないですね。安心してコミュニケーションできる場面がないのかもしれない。人と違っていいという安心できる社会がないのかもしれない。今回のワークショップで、容姿が一番でしたが、容姿は人柄です。よくばりな私です。愛って何ですか? (フリースペースにて飲みながら執筆(^^;) mito>自己開示については、ジョハリの4つの窓という考え方があって、たしか、自分も相手も知っている自分の窓(領域)を広げればいい、ということだったと思いますが、「ちょっとどうだかなあ」とぼくは思っちゃいます。それよりぼくは、「開きたい自分(のカケラ)を開きたい所で開けばいい」というレトリックを作っています。 私らしさのワークショップT第5回 まとめ=楽習の達人になる=スクエアゲーム  自分らしさを表現する=インタネットで発信! (1) 相互協力過程を理解し、他者を配慮する経験をもつ。 (2) 集団の形成プロセスについての理解を深める。 (3) ネットワーク的なギブ・アンド・テイクの精神を理解する。 出席ペーパー ●秋の講座は終わってしまったけれど、これから何かが始まるような気がする。 mito>秋の講座は、たまり場、居場所を開始するための雰囲気づくりをした、というところですかね。 ●ポーカーフェイスでいることのむずかしさ。言葉も表情も出さずに、相互協力をするということは、日常経験していないだけに、とても大変なことだった。今日は秋の最終回だったけど、結構楽しい講座でした。冬も続けます。よろしくお願いします。 mito>説明不足だったかもしれませんが、このゲームのねらいは、ポーカーフェイスというよりも、言葉でほしがったり、指図してはならないという意味で沈黙であり、カードをほしいという目つきをするのも禁止、ということです。でも、そういう各人の自発性に基づく「あげる」と「もらう」だけの相互協力が、ネットワークのギブ・アンド・テイクのあり方を教えてくれているのでしょう。 ●途中参加で戸惑いましたが、メンバーに救われて、すぐにゲームに参加できました。意思表示ができないのが、こんなに大変なことなんだと思いました。しきりたい自分がはっきりして、面白かったです。今回の講座に参加して、緊張したり、勇気をふりしぼったりと、普通の講座とは違って、自分の確認が少しできたかなという感じです。 mito>「しきりたい自分」の発見は意外だったでしょうね。 ●自己開示については先生のご意見と同じです。スクエアゲームでは、全体を見る目が全然ないことに気づかせられました。インターネット、パソコンについては何もわかりません。まったくの機械音痴です。ちょっとのぞきたいだけです。ご迷惑とは思いますがよろしくお願いします。 mito>とうぞ、お気軽に徳島大学大学開放実践センターにのぞきにきてください。 ●秋期の講座は今日で終わりですが、これから裏講座や冬講座、合宿等で楽しくなりそうですね。よろしくお願いします。 mito>「裏講座」というネーミング、ぼくも気に入りました。さっそくパクらせてもらいます。 ●Dear mitochan。今日で一応私らしさのワークショップTが終わりましたが、11/24から、また、みなさん、そしてmitochanにお会いできるというサプライズ、どうもありがとうございます。あっ! きょうの感想、ポーカーフェイスはむずかしい・・・。 mito>喜んでもらえてうれしいです。「そんなの、別にいらない」といわれそうで不安だったのです。まあ、裏講座ですから、どなたでも、無理せず、来たいときに来てください。 ●ワークショップ、楽しく参加させていただき、ありがとうございました。小川くんに会えなくて残念です。 mito>ですね。 私らしさのワークショップ「裏講座」第1回  職員旅行中に神戸から寄ってくれたメール仲間、A市公民館主事Sさんをお迎えし、「最近食べたおいしかったもの」を含めた自己紹介をした。話題は、「なぜ、このワークショップに参加しているか」などであった。その後のフリースペースで痛飲してしまい(^^ゞ、くわしい内容は思い出せない。フリースペースには、K君や徳島市社会教育課のO君も、忙しい仕事をなんとか終わらせて駆けつけてくれた。  次のメッセージを送った。  「ご事情で秋の表講座に数回しか出れなかった方なども、もしよろしければ、お気楽に裏講座やフリースペースでのおしゃべりにご参加いただければ幸いです。また、西村美東士までお申し付けいただければ、欠席されたときの資料を差し上げます。  なお、メンバーの一人Yさんのホームページ開設の申し入れを受け、さっそくアップしました。アドレスは下記のとおりです。(略)」 私らしさのワークショップ「裏講座」第2回  もう、みんな飽きたころかな、と危ぶんでいたが、フリースペースから遅れて参加した人を含めると、女性3人、男性1人とぼくのにぎやかなおしゃべりになった。  おしゃべりしていたら、これがいろいろとNPOやってる人たちだった。LD(学習障害)児・ADHD(注意欠陥多動症候群)児自助グループ関係もいれば、特定の病気の子どもをもつ親の会(だったか)関係もいまして、飲んでて話題になったのは、異種グループ(主に障害者グループ)のネットワークのことで、まず障壁になるのが、「そちらの種類は障害の程度が軽いから」というようなグループ同士で連帯しづらい風土についてである。これを徳島県の保健行政が、異種を乗り越えて障害者グループのネットワークを仕掛けていた。これに励まされたグループがたくさんあるようである。徳島県行政も、進んでいない所もあれば、進んでいる所もあるんだ、という当たり前の結論に落ちついた。まあ、べつに、どうしてもネットワークに加わらなきゃいけないというわけでもないのだけれど。  それから、ジェンダー問題がつねに話題に入っている。一人の人間に、全部の課題がからんでるんだなあ、という感じである。  次のメッセージを送った。  「ホームページを作る条件のない人には、ぼくが半分仕事として提供しています。ほかの人たちも、関心を示していました。ただ、初期投資の15万円程度が厳しいようです。まあ、ぼくのところで、無料のメールアドレスを取得して、とにかく始めてみたら、と言っています。  LD児関係のアドレスは(略)です。今のところ、ただ載せただけ、という感じですが見てやってください。  なお、次のような欠席連絡がメールで入ってきました。(略)」 私らしさのワークショップ「裏講座」第3回  女性1人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、徳島市ヤングフェスティバルの実行委員の若者が2人、手作りのOHP利用の野外映写装置をテストしにきて、ちょっとおしゃべりした。12月19日のヤングフェスティバルは、ロマンチックなイベントになりそうである。また、8時が過ぎて、これからフリースペースに行こうという矢先、徳島在住のKちゃんがH大学の友人2人(全員ギャル(^^))を連れて来てくれた。  Kさんが、先週の日曜日にやった駅伝の記録表と写真アルバムをもってきてくれました。N大学留学生の「Asian Express」というチームである。31チーム出場で、なんとトップランナーはKさん。しかも、なんと、区間順位も最終順位も31位である(^^;。でも、そのあとのパーティーの写真を見せてもらったら、とてもゆったり交流できて楽しそうだった。  参加者の一人、韓国のIさん(韓国・仁川市出身。仁川教育大学校数学教育科に在籍し、交換留学生として今年10月に来日。現在はN大学学校教育学部3年に在学中)の徳島新聞12月8日の記事(略)を紹介し、次のようにコメントした。  「うーん。ぼくはこの文章にとても好感をもちました。みなさんはいかがでしょう。  ただ、Iさんが留学して「そのような先入観(日本人は礼儀正しく、親切でもあるが、それ以上の親密な関係に発展するのはなかなか難しい)は間違いである」と気づいたのは、徳島だったからかもしれません。東京だったら、どうかなあ。それから、なんといってもあのやさしいスマイルのKさんも、そこにいたしねえ。  Iさんを含めた鳴門教育大学の留学生の「アジアンエクスプレス(どこがじゃ(^^;)」の人たち(韓国、カンボジア、ミャンマー、メキシコなど)も、場を設定してくれたら、鳴門から来てくれるんじゃないかということです。「私らしさのワークショップ」で交流料理パーティーでもやりませんか?」 私らしさのワークショップ「裏講座」第4回  本年最後の裏講座だった。女性2人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、ヤングフェスティバルのKさんがタイのJさんが来ているというので、仕事を中抜けして(^^;フリースペースに会いに来てくれた。  KさんがJさんを連れてきてくれたので自己紹介をした。Jさんは、タイのある体育大学の教師(柔道!?)で、日本では生理学を勉強中である。  フリースペースでJさんは、日本の女の人がわからない、という話になった。ちなみに彼は独身である。その結末は、「日本の女の人は心で思っていることを言わないから」ということになった。でも、フリースペースでは、日本人のぼくたちがビールを飲んでるのに、熱燗の日本酒を飲み、「いっしょにお酒を飲める人がいつもは少ないから」ということでご機嫌であった。ぼくたちの雰囲気を「フレンドリーな雰囲気で楽しい」と言ってくれた。  なお、Kちゃんも参加してくれて、活気のある裏講座になった。彼女はポケベル(文字)の話では、ちょうど高校時代に当事者だったので、とても面白かった。以前報告した「絵文字」についても全部知っていた。また、中学時代は数字のポケベルだったので、その話も聞いた。「当時の子たちはケータイおやじを本当に馬鹿にしていたの?」と聞いたところ本当だそうである。  当時の彼女たちのコミュニケーションを追加して紹介する。 数字ポケベル 86−(あいさつの基本) 084−53103 8(21010900461(これはどう読むか忘れた) 35−(徳島ローカルネタ−待ち合わせ場所です) 10940410−(徳島ローカルネタ−待ち合わせ場所) ヒント 3は「さ」だから「す」や「そ」にもなる。     0は「間」だから?「ま」にもなる。     10はテンだから「て」にもなる。 ホゴ(保護)られた絵文字たちの追加 ((-U-)) これはふくろう。 (-U-)  これは「おやすみ」。 私らしさのワークショップ U第1回 1 導入−新規参加者の本講座への期待から 「自分の気持ちを言葉にして出せるようになりたい」 困難さの分類  1 うまく言葉にできない。  (1) ボキャブラリー(馬券を当てたときの「してやったり」など)不足  (2) 言葉の選択の困難  (3) 身体性としての「気持ち」  2 相手を傷つけてしまうのではないかという恐れがある。  その他、秋講座参加者から「第一印象ゲーム」で「青色が好き」と当たったからといって、「さわやか」とは限らないという感想が出た。これを受け、相手の「自分らしさ」を本当に理解しようとするなら、準拠枠組(フレーム・オブ・レファレンス)に対して理解、共感しようとすることが大切、という説明をした。 2 本題−感情、情緒を受け入れあう雰囲気づくり 『カード式自他紹介』  参考 坂口順治「実践・教育訓練ゲーム」日本生産性本部 ポイント @ 強制的な役割取得による遠慮の打破。 A 内容中心にならないようにする。心の交流。 B メンバーにあった問題を。ロールプレイをしても、おもしろい。 文章例 あなたの真正面の人に対して、次の事柄について尋ねて下さい。自分の趣味について、自分の道楽について。(約2分間) あなたの両隣りの人にインタビューをして下さい。ご本人の長所、短所をどうとらえているか。(一人約2分間) あなたにとってぜひ話してみたい人をこのグループの中から一人選んで、その人から、「いままでの人生で、一番うれしかったあるいはよかったと思われる至高経験はどんなものだったか」を聴き出して下さい。(約3分間) あなた自身の将来計画(向う5か年ぐらいまで)について、全員に向って語って下さい。(約3分間)そして、質問を受け、応答して下さい。 グループの中から一人を選び、その人から「小・中学生時代の想い出」を語ってもらい、現在の自分のあり方に影響しているかどうかなどを話し合って下さい。(約5分間) いま、あなたは百万円の宝くじがあたりました。あなたはそれを何に使いますか、まず、自分の使途を述べて、隣りの人にも同じ質問をして下さい。(約3分間) 2、3人に対してインタビューして下さい。「あなたの尊敬している人は誰ですか。その理由は。また、あなたはいま幸せですか。それはなぜですか」といった具合に。トピックスは自由に発展させて下さい。(約5分間) グループを3人1組ぐらいに分け、3人がそれぞれ、「自分の父や母について語り合い、また、父親像や母親像について」話し合って下さい。(約5分間) グループのメンバー1人ずつが順番に話して下さい。「自分が将来住みたい家についてのユメを語って下さい」。 追加(mito) あなたの両隣の人にインタビューをしてください。今までに一番印象に残っている映画またはテレビ番組は何ですか。それは、どういうところがよかったのですか。(一人約2分間) グループのメンバー1人ずつが順番に話して下さい。この1ヶ月でいちばんおいしかったものは何ですか。(1人約1分間) 真正面の人にインタビューをしてください。今までに一番印象に残っている映画またはテレビ番組は何ですか。それは、どういうところがよかったのですか。(約2分間) グループの中から2人選び、好きな異性のタイプを聴き出して話し合って下さい。(1人約2分間) 2、3人に対してインタビューして下さい。「あなたが『ああ、これって自分らしいな』と思った場面はありますか。その理由は」といった具合に。トピックスは自由に発展させて下さい。(約5分間) あなたの両隣の人にインタビューをしてください。人からなんと呼ばれるのがよいですか。相手によってどのような違いがありますか。(一人約2分間) あなたの両隣の人に質問してください。職業生活で大切なものは何ですか。収入ですか。地位ですか。時間ですか。保障ですか。その理由も聞いてください。(一人約1分間) 真正面の人に質問してください。欲求不満になったときどうしますか。引きこもってしまう。心を合理化して鎮める。欲求を他のものへ転嫁する。何とか突き破ってみる。(約2分間) 結果(記録のあったもののみ) 映画−顔のない天使、レインマン、タイタニック 食べ物−梅酒豚肉、お雑煮、母のカレー、息子とのビール、実家の正月料理、友とのキムチ鍋、家族で主婦もちゃんと確保できたフグ料理 自分らしい場面−試験監督、学校で人と違うこと など、しみじみ系のおしゃべりができた。 出席ペーパー ●普通に自己紹介するんじゃなくて、今日やったみたいにいろいろな質問をランダムにするほうが、もっとその人のことがわかるような気がします。楽しかったです。ところで、やっぱり自分の気持ちを相手に伝えるのってむずかしいですね。いろいろな立場の人と話ができる機会ってなかなかないのでうれしいです。 ●与えられた時間を活かせなくて、「なんと自分が情けない」と思えました。言葉による表現力のとぼしさを思い知りました。でも、また、いつかどこかで、このゲームをもう一度やってみたい。 ●きょうはちょっと変わった自己紹介でしたが、今まで経験した自己紹介よりも、もっと一人一人を理解できたような気がします。こんな形の自己紹介のほうが親近感がわいてよいと思います。 ●初めは人数が少なくてどうなることかと思いましたが、皆さん出席できてホッとしました。カード式の自己紹介、人数が多かったらもっと盛り上がったでしょうね。今年もよろしく。楽しくやりましょう。 ●遅参してすみません。お若い方々のお話しは本音が聞けるようで嬉しいです。勤めをやめて一般社会のおつきあいの中では、いろいろのことを経験しています。 ●1時間遅れの参加で、着いた時には、すでに自己紹介が始まっていて、説明を聞けなかったのが残念です。今年もよろしくお願いします。 ●今日は大変遅くなり申し訳ありません。今回も楽しい(苦しいも含めて)講座になりそうで楽しみです。 私らしさのワークショップ U第2回 1 導入−今日の若い女の子たちの専業主婦願望について 「主婦業をやっていると、日々単調で、社会との関係から取り残されているというあせりを感じていたころがあった」 「病気の親の介護、子育てなど、総合的知恵をフルに発揮し、障害のある子どもを社会の中で育てるなど、社会的つながりも求められる。そこでは、主婦業をプロってるというプライドさえ感じられるときもある」 「子どもや夫のための主婦業もきちんとやりながら、自分のやりたい深夜カラオケでのびのび遊べる友の母親にあこがれる。しかし、自分自身は、そのような専業主婦になれる自信がない」  ぼくは次のようにコメントした。  若い女の子たちの専業主婦願望(相手は高収入に限る)は、それはそれで正しい選択なのではないか。ただし、「かわいい嫁さん」を求める相手の男たちは、彼女たちが深夜カラオケなどで自由に振舞うことを許さないのではないか。そこのところにも男と女の深くて昏い河がある。  また、妻が起きて待っていてくれたらうれしい、でも、寝ていてくれたほうがほっとする、という酒飲みの男のコマーシャルがある。これもなかなか深いリアリズムだ。  次に、「このようなワークショップやエンカウンターグループなどで人間関係のトレーニングをしなくても、たとえば芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかなと思う」という発言があり、本ワークショップとエンカウンターグループ、さらには自己啓発セミナーとの違いについての話をした。内容は以下の通り。  自己否定に陥りがちな人たちが「今の自分をなんとかして変えたい」と思い、その思いを共通項目とする問題縁として自助グループをつくったりすることは意義深いことであろう。そこでは、世知辛い世の中とは別の受容的な「文化的孤島」を作り出すことになる。ただし、そこで最終的にめざされるのは、自他の受容と世俗の社会への復帰という「自立」であろう。なぜなら、自己否定からは自己変容は生じないからである。自他受容からこそ自己変容、自立が可能になると考えられる。  さて、世の中には、「今の自分をなんとかして変えたい」ではない人たち、つまり、それなりに自他受容ができている人たちがいる。これを「フツーの人たち」としておく。このフツーの人たちだって、信頼できる友達がほしい、などの気持ちをもっている。これが保障される場が現代社会にあまりにも少ない。本ワークショップは、このようなフツーの人たちの、しかし人を傷つけたり人から傷つけられたりすることを悲しむ心のある、いい女やいい男たちのための場である。そこで水平異質共生の「私らしさ」が安心して交流できるサンマ(時間・空間・仲間)をめざしたい。  したがって、「今の自分をなんとかして変えたい」という気持ちがあるとすれば、むしろそれを「今の自分もまんざらではない」という気持ちに昇華し、「芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかな」と思えるようになることこそ、本ワークショップのねらいといえるのではないか。気軽に楽しんでもらえればありがたい。 2 本題 本日のテーマ「伝える方法・わかりあう方法」  自己表現の技術、相手の自己表現を支援する技術=ジェスチャー大会  (友だちとやってみよう−グループワーク) 資料 ジェスチャーゲーム(mitoオリジナルルール)(略) ポイント 1 わかってやろうとするサポートこそ、表現にとって重要である。 2 表現の敗北主義に対して、「数打ちゃ当たる」が有効である。 3 わかってもらえたときは、とてもうれしい。 出席ペーパー ●相手に自分の意思を伝える方法、相手の言いたいことをわかってあげようとする気持ちがとけあってジェスチャーが成り立つのだということがよくわかりました。私にはとても無理と、挑戦しないのはずるかったと反省しています。 mito>無理なさらないでください。初めの一歩は数センチずつ、行きましょう。 ●ゲームに夢中になる、こんな真剣さが久々で、充足感を味わったかな、という感じ。・・・ということは、ふだん空虚だったりするのかしら。 ●ジェスチャーゲーム、今回やったお題がとても難しいのに、不思議と最後は当たるのがおもしろかったです。ジェスチャーの答え方とかで、すごくその人の個性が出てるなあと思いました。 ●専業主婦問題に対する主婦のみなさんの意見が聞けたのは貴重だったと思います。やっぱり私は専業主婦にはむいていないなと思いました。 ●きょうのジェスチャーゲームはけっこう大変で、演じるのも、当てるのも苦労しました。声を出さずにわかってもらうことなど、日常ではあまり経験がないので。でも、ふだん経験しないことをやってみると案外楽しいものでした。自分の表現方法の貧しさに少しガックリしましたが。 ●なんじゃ、この問題はー!!と叫びたくなるようなジェスチャーゲームでした。BUT、答える人がすばらしいというか。特にBさんはスゴイの一言、バンバン当てちゃうもんね。楽しかったです。 ●今回も遅れての参加で、さらに今日の内容(ジェスチャーゲーム)がすごく難しそうだったので、教室に着いた時に、ちょっとしまったと思いました。実際、自分が表現する時には「これはちょっとわからないかも」と思いましたが(お題は「終身雇用」)、終身の2文字を表現したところで正解が出たのでびっくりしました。「雇用」をどうするか悩んでいたので助かりました、ホントの話。 フリースペース 1 将来のめずさものをしっかり持てないと、なんだか不安である。しかし、世の中ではそう計画的には生きていけない。どうするか。 2 人から迷惑をかけられても、まあ我慢できるが、しかも相手から素直に「ごめんね」といわれたらますます許せてしまうが、自分から人に迷惑をかけるのは、たとえ謝る手段があったとしてもいやなのである。どうするか。 3 たとえ妻には悪い浮気ばかりしている夫でも、子ども(とくに娘)からは「父親」として愛されていることがある。バカヤロー、とも思うけど。どうするか。 私らしさのワークショップ U第3回 1 導入−モラトリアムの評価について  自分の子どもたちが青年期を経て自立していく過程で、ずいぶん紆余曲折があり、そのあいだ、親は「しっかり展望をもっていないでだらだら生きている」という不安と不満をもつものだが、子育ての経験上、その長いトンネルを抜けたとき、「ああ、人間はなんとかなっていくものだ」ということを感じる、という体験談が出された。  そこで今日の青年の特徴のひとつである「モラトリアム人間」の説明をした。自立して社会に出るという「刑」を「執行猶予」してもらい、大学で留年を続けたりするという傾向のことである。  これを「嘆かわしい」とするのが、過去の論調の主流であったが、最近では「個人にとっての成長のプロセス」という意味があるととらえられるようになってきているという説明も加えた。  これに対して、昭和18年に半年早く学校を卒業させられてしまったような世代からは、「私たちにはそんなことを考える余裕もなかった。むしろそれよりもっと前は、そういうことが許されていたかもしれない。だから、現代的特徴とはいえないかもしれない」という興味深い指摘がなされた。  つぎに、この「最近の若者」の話題に関して、会社の新人歓迎会を担当した若者から、「自分が呼ばれる飲み会だというのに、今の新入社員は参加してくれない」という話題が提起された。彼の会社は「自由な会社」なので、それは許されて「来たい人だけ来た飲み会」でそれはそれで盛り上がったが、なかには不自由(上司にビールついだり…)な会社もあるという話になった。  ぼくは「よいわがまま、悪いわがまま」の説明をした。「よい」は、わたしがおもうようにわたしは生きたいで、「悪い」は、わたしがおもうように相手に生きてほしい、である。また、個人の自由と、親密な人間関係という両者を求める矛盾が、今日の若者を苦しめているのではないか、と発展させた。  しかし、これに対して彼から「そういうことに苦しんでいないからこそ、新人歓迎会を平気で欠席してしまうのではないか」と異論が提起された。高齢の世代からも、「欠席はやはりわがままではないか」と意見が出された。  そして、自由と親密は両立するのではないか、そのためには、(1)歓迎側の相手への配慮とともに、新人側の相手への配慮が求められること、(2)みんなで決めたことには従うこと、(3)自由には責任が伴うこと、(4)「あなたには関係ない」という考え方は改めること、(5)自分の自由だけでなく「ほかの人の自由」も考えること、の5点が必要という意見になった。ぼく自身は、これ以上、わからなくなってしまった。 2 本題 本日のテーマ「楽習図解ワークショップT−自分のための社会貢献」  ひとの幸せは蜜の味・・・それってきれいごと? ブレーンストーミングについて(自著『癒しの生涯学習』より) 1 ひとのアイディアを批判しない(批判禁止) 2 変わったアイディアでも自由に出す(自由奔放) 3 できるだけ多くのアイディアを出す(質より量) 4 出されたアイディアを改良するようにアイディアを出す(結合便乗) 3 出席ペーパー ●社会に役立つ人間になりたいとは誰もが願ってることです。しかし現実にはなかなか実現できません。自分の気持ちのなかでこうありたいと思うことを書きましたが、皆さんの観点が随分ひろがっているので感心させられました。考えさせられる授業でした。 ●今日も遅れてしまいましてすみません。よくわからないままに参加してしまって、すこしのりおくれたという感じでした。「役に立つ」という言葉をどんなふうにとらえたら良いかわからずに、すこしとまどってしまいました。自分の中の人からみたら役に立っている行為でも、自分にとったらただの遊び、社会に対しての「役に立つ」という役に立ってるから行動するという気持ちやスタンスを否定的にとらえている自分を発見しました。 ●「社会に役立つ私」という題で考えをだしあったけれど、個人的には「子どもを育てる」≒「次の社会をつくる」というのが一番むずかしいと思いました(実行・実現するのが)。なぜなら、他に出てきた「社会に役立つ」という概念を全て理解(もしくは意識)していないと進めないステップだから。子供を育てることってやっぱり大変だなぁと改めて思いました。PS 基本的には僕も、飲み会に参加しない新人には反対です。考慮すべき点が多いことは確かですが…。 ●社会に役立つをテーマに授業をしましたが、社会という言葉から入って来たのは学校、子ども、税金、グループ(PTAや友人たちとの活動)のなかにいる私しか出なかった。個人としてちょっと見つめ直しが必要かなと気付いたワークでした。 ●日頃自分は誰からも必要とされない人間のような気がしていたが、自分が社会や他人に役に立てたら…、存在意義をつかめたら、張り合いがでて、結果、社会にも役立つ循環ができるんでしょうね。 ●今日はモラトリアムについて、また個人と秩序について、立場によって全く考えが違うんだな、ということが分かりました。すこし話に出た、良いわがまま悪いわがままの2つにわけられるというのは、「なるほど!」と思いました。思っていた以上に、ちょっとしたことで社会の役に立てているんだな、と思うとちょっとうれしいです。みなさんの考え(やってること)ってすごいなーと感心しました。 4 カード式発想法の成果(図表●) 私らしさのワークショップ U第4回 1 導入−モラトリアムの評価について(続き)  まず、前回の話題に関連して、次のぼくのメーリングリストでの発言を紹介した。 Date: Tue, 09 Feb 1999 12:56:38 +0900 From: mitochan@ias.tokushima-u.ac.jp (西村 美東士) Subject: 再論「親の背中」子育て論  以前、「父権の回復」について動揺した文章を発信して、おさがわせしました。きのう、眠れない夜を息子と話し込んでいて考えたことです。親の背中を見て育つ、ということについてですが、次のようなことに気がつきました。  「自分には言うべきことで、相手に言ってはいけないことというのがあるのではないか」ということです。それをきちんとできていることが「自分の背中で相手を育てる姿」なのではないかということです。(ちなみにぼくは、下記のことが相手には言えても、自分には言えないタイプなんでしょう(^^;) 該当例 (1)「不透明な時代ではあっても、明るい希望をもって生きていったほうが幸せである」 (2)「もっと明るい展望を見つけ出すために、やれることから始めたほうがよい」 (3)「○○は依存している証拠だから、それを克服して、もっと自立に向かって努力したほうがよい」 (4)「以前の友達関係に未練をもつより、現在の環境で可能な友達をつくることを考えたほうがよい」 (5)【以下は追加−昨晩の話題とは違います】「ふられることを恐れていては愛は獲得できない。勇気をもって見返りを期待せずに告白したほうがよい」 (6)「ふられたとしてもほかにもいっぱい異性はいるのだから、そちらのほうに目を向けたほうが得策である」 (7)「わかってもらえないからといってふてくされていても、結果はますます悪いほうに向かってしまうんだよ」  ようは「わかってはいるけど手につかない」ということについて、相手にそれを指摘しても相手は頭ではわかっていることだから他者(対等な親友を除く)や親から言われても逆効果になってしまうが、親自身は「自分は変えられないから」といって居直ることなく、少しずつそういう努力をしていればよいのではないかということです。そして、相手(この場合は子ども)に対しては、本人がその気になるまでは本人の内面的成長の可能性を信頼して見守りつづけるということです。  繰り返しますが、ぼくにはその自信はありません。ただ、ぼくがチラッとだけ考えていた「始めの一歩の励まし方」(『癒しの生涯学習』p147)には通じるものがあると思います。  受講者からは、次のような話が出た。「まわりから見れば、ただ、だらだらしているようにしか見えないのだろうが、本人は真剣に考えている」、「考えないで暮らしている人はいない。スパンを長く見てあげたい」など。  モラトリアム真最中の人、子育て真最中の人、なんとか子育てを終えようとしている人、モラトリアムなんか許されなかった時代の人、多様な人たちが分かり合おうとする話し合いになった。ぼくは、受容、信頼、見守ることの大切さとしてまとめた。 2 本題 本日のテーマ「楽習図解ワークショップU−楽しい学習と双方向教育−」  学習と教育の間に流れる暗くて深い河をわたる方法 本当は「教育=学習の援助」といえるのだろうが、実際には「主体的な学習」を阻害するような結果に陥りがちな実情のなかで、これをイコールに近づけるためにはどうしたらよいか。ぼくの結論は「たどりつかない彼岸(イコール)に向かって、深くて昏い河で船を漕ぐしかない」というものだが、今回、「私がもらった『いい言葉』『いい影響』」というテーマで、一人一人の宝物のような体験を紙切れ法(カード式発想法)で出し合ってもらって、これを探ることにした。 3 出席ペーパー ●永い年月の間に、いい言葉はたくさんたくさんもらってるはずなのに、私の人生を変えたと思われる程の言葉はすぐには思い出せませんでした。相手や自分が豊かになれるいい言葉を持ちたいと思います。 ●子どものときあれほどいやだった勉強が今はとても楽しい。今からでも遅くないと思って、これからもいろいろなことに挑戦したい。有能な人間とは常に学ぶ者である。 ●授業はすこしだけわからないところもあったけど、あとはおもしろかったです。ありがとうございます。私が先生になるとき、今日の授業のような方法を使いたいとおもいました。本当に良かったです。ありがとうございます。(ゲスト参加の留学生) ●よかったと思えた言葉が浮かんでこないのに愕然とした(授業が終わった後でいくつか思い出されたが)。今後、私も人によかったと思ってもらえる言葉がけを心掛けよう。 ●今日はみなさんの大切な宝物を分けてもらったような、とてもほかほかした気分です。私は今回、友達のことばっかり書いたのですが、考えてみれば歌詞や詩などにもジーンとくるものがたくさんありますね。今回、自分は、友達(親友)に恵まれているなとうれしく思いました。「自分には言うべきで、相手には言ってはいけない言葉」について、いろいろ該当例がありましたが、私はいってもかまわないと思います。でも、「だからどうするべきか」「こうやってみては」など具体的にいってもらいたいです。 ●ワークショップはなかなかでなかったなあ(時間がかかりました)。忘れかけていたのか、いつも言葉がけをされるからか? 認められる以前に「ほめられる」ということが、2カードしかなかった。ほめられたいけど、自分もほめないな、子育てについて。 4 カード式発想法の成果(図表●) 私らしさのワークショップ U第5回 1 導入−気づいたときから始められる生涯学習  前回の出席ペーパー「子どものときあれほどいやだった勉強が今はとても楽しい。今からでも遅くないと思って、これからもいろいろなことに挑戦したい。有能な人間とは常に学ぶ者である」と、カード式発想法の「成長には時期がある。その時に必要な学習がある。格言=彼岸すぎの麦の肥」との関連をどうとらえればよいかということをテーマとして、「生涯学習は気づいたときから始められる」ということについて説明した。その内容は次のとおりである。  最近、AC問題が盛んにいわれており、その背景として、交流分析でいう「生育歴」による人生脚本と、その書き直しが注目されている。一方、ぼくは、生涯学習については「気づいた時から始められる」という見方を主張している。たとえば、発達段階の初期のころに人間に対する絶対的な信頼感を十分には獲得できなかった人はどうなるのか。その後の、「癒しのサンマ」との出会いなどにより、それは回復しうると考えるべきなのではないか。しかし、それは、交流分析による生育歴の書き直しに匹敵するのものなのかもしれない。いずれにせよ、以前から述べているとおり、いわゆる「ふつうの人々」にとっての「癒しのサンマ」の重要性を認識すべきなのだろう。  つぎに、出席ペーパー「自分には言うべきで、相手には言ってはいけない言葉について、いろいろ該当例がありましたが、私はいってもかまわないと思います。でも、だからどうするべきか、こうやってみては、など具体的にいってもらいたいです」について、他者の援助の言葉のあり方について考えた。  1自らもリスク(危険)を背負って発言する(例=私だったらこうする)、2批判するときは、心を痛めながらも批判する、に、今回の発言を採用し、3なるべく具体的な方法を述べる、を加えて整理して提示した。 2 本題 本日のテーマ「楽習図解ワークショップV−自分らしさを世界に発信!」  楽習の図解の成果でインタネットのホームページを作成して送信 ・・・であったが、すでにホームページには今までの成果等を掲載しているので、それに引き続き、「わたしにとっての私らしさのワークショップ」というテーマで、これまでの振り返り(シェアリング)のためのカード式発想法を行った。 3 出席ペーパー ●本当に今回講座に参加してよかったです。たくさんのいろいろな人と出会えて(紹介していただいて)、今までの自分を再度見つめ直すことができ、また自分にとって興味あるものがなんとなくですがわかってきました。4月からは○○大学でがんばります。引き続き受講したいのですが残念です(もし学校が休みの日なら参加したいです!)。ありがとうございました。フリースペースも、今回、ほぼ毎回参加させてもらいました。お酒好きの私にとってとてもうれしかったです。今日少し話に出ましたが、「自分の枠」から出て話ができる(しかも全く違うかたと)のはここぐらいじゃないかと思います。 ●北海道はどうでしたか? 一番雪が降った時じゃなかったかしら。ワークショップでもっと皆がしゃべれる時間がほしかったかな? 「一応おつかれさまでした」。 ●今回で最後というのが意外でした。なんだかすごく早く終わったような気がします。前期、後期の講座で教えてもらったゲームを使ってみたいと思います。他人との出会いや他人との関わりをすこしだけ楽しく感じた時間でした。 ●世の中にはいろんな人がいるなあと思った。講座に参加して人と出会うのが楽しくなった。 ●一方的ではなく、一人一人を大切にしてくださる講座に参加できて本当によかったと思います。受講者の方々はどちらかといえば引っ込み思案の方が多いと思われましたが、常に意見を引き出すような進め方だったので、みんな楽しかったのだと思いました。ありがとうございました。 ●「違うからよかった」というグループが、今回のカード式発想法で出てきましたが、どうもこれには引っかかります。本当に違うからよいのか? 違うという言葉はどういう意味で使われているのか? ぼくは違うからよいのではなくて、「違う」の向こうにある「同じ」のゆらぎがよいと思う理由ではないかなと思います。何もかもまったく違う者は、理解も共感もできないのではないかと思っています。短くうまくまとまりませんがなんとなく疑問を感じたので。 mito>鋭い指摘に感謝するとともに、尊敬の念を覚えます。今回のカード式発想法の成果に採り入れさせていただきました。 ●今までの講座を振り返って、心の揺れとか振動を味わったかしらと思います。やはり実感をともなった心のふれあいを再認識できたのがよかったし、今後こんな体験を実生活で生かせたらいいかなと、今そんなことを考えています。10回にわたりありがとうございました。インフルエンザにかかり2回ほどお休みみさせていただきました。でも家にいる間、今日の講座はどんなテーマだろうか、フリースペースではどんな話題が出たのかしら、とずっと気になっていました。 ●この講座に参加した最初の頃、テーマのとらえ方がわからなかったり、どう表現すればよいのかとか、いろいろ悩みました。あとになればなるほど自然体のままでいいんだ、わからなければそれなりの答えがあるから最後まで答えが出なくてもいいんだ、と思うようになりました。飾らなくてよい自分を再発見しました。ありがとうございました。 4 カード式発想法の成果(図表●)