癒しの大学開放  −徳島大学大学開放実践センター公開講座「私らしさのワークショップ」報告− 西村美東士 University extension for healing: A report of an extention course, "Workshop of real SELF" Mitoshi Nishimura 1 癒しの大学開放をめざして  ぼくは、自称「癒しのサンマづくり」提唱者である。詳細は自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、1997年4月、1998年3月増補)を参照していただきたいのだが、いずれにせよ、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答えの一つが「癒されること」であるという気持ちで本書を書き通した。しかし、同時に、本書では、癒されるためには、 @ 自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、 A 他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、 B 社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる。 以外に方法はないという主張もしている。  前年度から、ぼくは、徳島大学大学開放実践センターに勤めている。そこでも、大学教育や、その重要な一環としての大学開放において、「癒しのサンマづくり」が重要であるという思いを強くしている。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピアコンセプト(同一化に向かう仲間意識)によって個人が傷つけられ続ける現代日本において、大学の授業にせよ、市民のための大学公開講座にせよ、真実に気づくことによって、あるいは他者との意味ある出会いをすることによって人間が癒されることの意義の大きさを、大学教育側は十分理解する必要があると思う。それは、最近の悲惨な暴力的事象を考えても、逆に市民の自己決定活動などにおいて見えてきた共生への展望を考えても、緊急の課題といえるのではないか。また、これは、大学教育において最近ますます軽視されがちなリベラルアーツ(一般教養)の教育的意義の再評価にもつながると考えている。  「サンマ」とは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが「今の子どもにとって『遊びのサンマ』が欠けている」と提起したときの言葉である。たしかに、今の子どもたちは、与えられた課題をこなす時間の過密化による自由時間(時間)の不足、冒険できる場(空間)の不足、群れて遊ぶ友達(仲間)の不足にあえいでいる。しかし、青年や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。ぼくはそこで現代人が求めているものを「癒しのサンマ」と呼ぶ。サンマであるから、日常の家庭、学校、職場のすべての時間を癒しの時間に当てようというわけではない。せめて1週間に1回くらいはサンマがあって、「ああ、○曜が近づいてきたな」と思えるだけでも、その1週間を元気に暮らせると思うのだ。  生涯学習の学習方法についても、とりわけ「集団学習」について、その観点から問題提起したい気持ちがぼくには強い。「集団学習」とは、集合学習のうち、団体活動や学級・講座などの学習者同士の相互教育が期待される学習方法である。集団というと全体主義的なマイナスイメージもあるが、現代の人々が求めているのは、集団というよりもゆるやかな人間関係のネットワークによる癒しのサンマなのだと思う。もちろん、きのうの自分より今日の自分が、また一つ大きくなった、または変容したという成長の喜びにも大きいものがある。しかし、もう一方の「自他が両手を広げて歓迎しあえる」という現代社会では突出的ともいえる無条件肯定の関係性も、自己成長と並んで重要な生涯学習活動の魅力ととらえるべきであろう。癒しのサンマでは、あるいは知的水平空間では、批判さえも、相手の気持ちを思っての心を痛めながらの批判であり、相手の存在の否定にはならないのである。 2 自己中心主義の評価  それにしても、癒しというと、一般的には後向きにとらえられるかもしれない。しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、後向きの価値観を最初から排除することはしないものの(そこが従来の教育の価値観と違うところである)、結果としてはむしろ前向きに終わるであろうものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク型の態度を指す。そもそも「癒しのサンマ」という言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。  だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。一部の敏感な今の学生のなかには、次のようにいうものがいる。「癒しの生涯学習という言葉が悪いのではない。それよりも、それで私がほんとに癒されるの? 私はちょっと信じる気にはなれない」。社会教育現場でよく言われがちな「あなたの立場を考えれば、癒しのような個人的なことがらはなるべく避けて、地域や社会の改善のための学習をすべきだ」という言葉などより、彼女の言葉は、自己の臨床的真実に基づいた実感の伴った「私メッセージ」になっているのである。  先日、A市公民館職員の自発的な勉強会が主催する会で講演をした。そこにぼくを呼んでくれたSさんが、インターネットのメーリングリストで、次のように事後報告をしてくれた。  実は、公開講座のある参加者に、「癒しはエゴだ」「なぜ公民館で『癒し』という利己的な課題を取り上げなければならないのだ」「あなたたちの作ったピンクの表紙の冊子は、『公民』というところが出ていてよかったが、なぜみとちゃんを呼んだのだ」等等ということを言われました。  mito理論をまだ十分に思想化できていない私は、「たぶんmitoさんは、『エゴで何が悪い』と言うと思う」「mitoさんは、癒しという私的課題と、社会貢献ということを、統一させることをめざしているのだ」と反論するのが精一杯でした。  おそらく、批判者は、「現実から、癒しへ逃げるのではなく、現実と格闘せよ。そこから自己のアイデンティティを確立せよ」「現実から逃避しようとする、今の『やさしい』若者達は、いずれ破綻せざるをえない」というような考え方なのだと思います。  これに対してぼく(mito)は次のようにレスポンスした。  すみません。そういわれたとき、いわれたほうはどういうふうにその人に共感すればよいかということについて、ぼくの考えを述べます。  公民館なんだから「公民」であるべきだ、と思っている人の信念と、「いや、じつは癒しのサンマの創出こそが、現代社会において突出的な公共的課題なのだ」と思っている私たちの信念と、どっちが真でとっちが偽か、という争いをした場合、これは不毛な結果に終わるでしょう。  そんなつまらないことよりも、そのクレームをつけてくれた人「自身」が、少なくとも公民館においては自分は「公民」として学習したいと心から思っている、その「実感」については、私たちはだれもあざけったり、否定したりすることはできないと思います。いや、むしろ、それはそれでとてもすてきなその人の人間としての可能性といえるのではないでしょうか。  このように考えれば、多くの住民の存在を肯定的にとらえることができるでしょう。すなわち、「個の深み」こそが、私たちの出会うべき焦点であるということです。  また、Sさんは次のようにも書いてくれた。  ちなみに、私がmito理論に惹かれたのは、「ミーイズムのどこが悪いのか」「あなたはあなた、私は私」という主張に「癒し」を感じたからなのだと思います。  これに対しては次のようにレスポンスした。  ぼくもそういうぼく自身の思考方法に魅力を感じています(へんな表現ですね)。人間は自分自身(の存在価値や生き方や快感)にとてつもない関心を払って生きている存在だから、出会ってもおもしろいのじゃないでしょうか。もしそれがなければ、自殺も考えないし、嫉妬もしないし、犯罪も起こす気にならないつまらない存在に陥ります。そこでの葛藤に人間的真実がある。もちろん、ほんとうは自分を中心にして地球が回っているのではない、という気づき(これを「楽園追放」という)は大切です。しかし、その気づきの上で、なお、それでも自分の人生を大切に生きていきたいという住民の欲求の実現を支援するのが社会教育職員の役割なのでしょう。  そのためには、利他的利己主義という言葉がとてつもない強力なヒントを与えてくれると思います。自己中心主義どころか、利己主義であってもいいじゃないですか。真に自己の快感欲求を充足しようとするのなら、1週間に1回ぐらい癒しのサンマという「おうち」を得た上で、さらには「社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はない」(ああ、また言ってしまった)といえるでしょう。公民館には、住民がそういうことをできるチャンスがいっぱいあると思います。  それから、最初の「あなたたちの作ったピンクの表紙の冊子は、『公民』というところが出ていてよかったが、なぜみとちゃんを呼んだのだ」と言ってくれた人についても、その人が公民館で「公民」として活動することによって「利他的利己主義」が満たされているというその人自身の実感の言葉をしゃべってもらえば、これはとても意味のあるけんちゃんとその人との出会いに転換することができると思います。やっぱ、人間っていつかは死ぬし、つまり人生って有限なんだから、ディベートのようなつまらない時間より、意味の充満した時間を過ごしたいですよね。  これから報告する「私らしさのワークショップ」も、市民の実感の伴う「自己中心主義」を掘り起こし、「癒しのサンマ」の提供と、その作り手としての自己変容につなげようとしたものである。 3 公開講座「私らしさのワークショップ」  ぼくが勤め始めた平成10年度、徳島大学大学開放実践センターの公開講座は13年目となり、約70科目の公開講座を市民に届け、夏季・冬学期講座、土曜・夜間講座の拡充、リカレント教育講座の新設、郷土関連の講座の拡充、放送公開講座に連動した講座、市民と高校生がともに学ぶ講座などに重点的に取り組んだ。  そこでぼくが企画した講座が「私らしさのワークショップ」である。その趣旨は次のとおりである。  現代人の生涯学習に向かう主要な動機の一つとしての「自分らしさ」の危機と、それへの願いを取り上げ、参加者一人ひとりの臨床的真実を引き出しながら、生涯学習、ボランティア活動、市民活動等の自己決定活動のあり方を明らかにする。  このワークショップにより、「笑い声の絶えない」「一人ひとりが自然にその気になる」ような成人の能動的な「楽習」を実現するとともに、地域のキーパーソンを育て、インターネットを通して、その成果を、大学や社会全体にアピールする。  秋学期でのパンフレットの市民に向けたメッセージは次のとおりである。  私らしさってなんだろう。自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶ生涯学習が大切にされる今日、若者、サラリーマン、主婦など、たくさんの人が、生涯学習活動のほか、ボランティア、市民活動などの自己決定の生き方を味わっていらっしゃいます。  この講座では、ワークショップ方式をとり入れ、「もう、やってるよ」という人も、「ちょっと照れるぜ」という人も、対等の立場でいっしょに講座をつくっていき、楽しく学ぶことを通してワクワク、ドキドキしながら"自分らしさ"を発見します。さらには、その成果をインタネットで発信することも計画しています。  冬学期は次のとおりである。  私らしく生きたい。あるがままの自分が両手を広げて歓迎されるサンマ(時間・空間・仲間のサンマ)がほしい。生涯学習活動や、ボランティア、市民活動などの自己決定活動のなかで、そのような相互受容のサンマが、現代社会のなかで生まれつつあります。  この講座では、秋学期に引き続き、ワークショップ方式をとり入れ、癒される「楽習」(楽しく学ぶこと)のあり方を探っていきます。今回はそれを図解する作業を試みます。そこで作られた成果は、インタネットでも発信する予定です。  各回のテーマと要点は表●のとおりである。なお、それぞれのワークショップの技法については前出『癒しの生涯学習』のほか、『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』(学文社、1993年3月)を参照していただきたい。  また、講座閉講中も、火曜日についてはセンターにて自主的な集まりをもつことができることとした。これはあとになってメンバーから「裏講座」と名づけられ、毎回の「表講座」の終了後に行った「フリースペース」とともに、自然体の交流ができたように思う。ぼくなどは大したアカデミズムをもっていない人間だが、それでも教員の研究室や、ときには自宅にまで押しかけて自然体の交流をするという現役学生の大いなる特権を、学生ではない市民にも味わってもらえたということは、「裏側の大学開放」として重要だったと思う。本稿では、その成果についても報告したい。  それぞれの回に対する受講した市民の反応(出席ペーパー)を通して特徴的なことは、「大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?」というペーパーに象徴されるような、現代人としての市民一人一人の大学開放を通じた生涯学習への関心であり、とりわけ講座自体を「癒しのサンマ」の一つとしてとらえようとする信頼、共感、自立に向かう潜在的願望である。 4 他人に関心を寄せることの意味  秋講座第1回は「第一印象ゲーム」(坂口順治「実践・教育訓練ゲーム」日本生産性本部)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。 @自分らしさとは何か、考える。 A人と出会うということは何か、考える。 B相互承認の人間関係づくりのコツに気づく。  次のような出席ペーパーが提出された。なお、mito>以下はぼくが次の回で行ったコメントの内容である。これらはすべて受講者にインターネットメールで随時フィードバックした。 ■最初はドキドキ、どうなるんだろう、など、自分がいちばん不得意なパターンのゼミかな、と思ったのですが、いろんな人たちがいて、これからが楽しみです。でも、今日は、少し時間が短い感じがしました。 mito>初対面なのにいきなりやるの?、ということでしょうね。指導者はそういうマイナスの気持ちを大切に保っていてほしい。それから、時間については、ぼくがじつは「詰め込み主義」になっちゃう癖があるんです。勝負のかけすぎ、というところかな? ■できることから始めよう。 mito>んっ? 始めの一歩の話ですか? それなら、ぼくも。「大胆に、ではなく、何cmかをおずおずと踏み出すのがコツ」! ■第一印象ゲームはおもしろかったです。これからどんな講座になるのか楽しみです。 mito>はい。あれは坂口順治さんの本からのパクリですが、妙に自然で、自他への肯定的な関心が高まるゲームだと、ぼくも感じています。 ■第一印象ゲームが楽しかったです!! でも、自分の見る目って、案外ないなぁーと思いました。あまりにも当たらなかったので・・・。学生時代に戻ったような新鮮さがありました。 mito>うーん、学生時代に戻った・・・、授業ですか、友達関係ですか? 後者が大きいのでしょうね。友達は何歳になってもほしいのに、卒業、就職、結婚、出産などがあるたびに、どんどん減っていく。とくに異性の友達が。 ■第一印象ゲームでは、自分の第一印象があまりあてにならないのでは、と思った。第一印象にこだわらず、人とおつきあいしていきたいと思った。グループ内では雑談などして、とても打ち解けたように思った。 mito>偏見の恐さ、というところでしょうかね。それから、雑談も、歯の浮くような社交辞令と違ったからこそ楽しかったのでしょうね。 ■「他人に関心を寄せる」、その言葉にいまさらですが、なんとなく、意外にも得心したりしています。講座のあとも時間を割いてくださり、集まる、と聞いて、なんだかわからないけれど楽しみな気分です。 mito>比べる視線、ではなく、その人のありのままへの眼差し、これがもらったほうも、あげたほうも、気持ちいいんでしょうね。これを肯定的ストロークといいます。もしかしたら、さらに無条件肯定的ストロークの雰囲気ができつつあるのかもしれません。 ■人前に出ることが少なく引っ込み思案の私。でも、西村先生の最初のひとこと、「ぼくはしゃべりすぎるから・・・(mito>気をつけなくちゃ、と言ったと思う)」etcで、なんだかスコーンと気が抜けてしまった。身構えることなんて何も必要なかった。自分をよく見せようなんて、いみじい気持ちがなくなってしまった。これが本当に大学の公開講座なのかしら・・・。 mito>ぼくは授業でもいつも最初の10分ほどの立ち上がりが重いのです(;_;)。不安のせいだと思います。でも、そのぼやきともいうべき言葉が「有効技」?だったなんて、意外です。儀式のようにしゃちほこばらずに、のびのびと好奇心を働かせる。これが高等教育や学問のあり方だと思います。ぼくは、これを、知的水平空間と呼んでいます。 ■こんな軽いノリでいいのだろうか・・・。んー、慣れればこれもなかなかよい。聞きながら(mito>出席ペーパーを)書くのはつらい。時間が足りん。開放講座では私は一度は居眠りするのですが、今回はありませんでした。またお茶飲ませてください。 mito>飲食自由です。フランス革命も市民のコーヒーを飲みながらのサロンが学習?や合意形成?の場であったとか。それから、出席ペーパーについては、慣れもありますし、あるいは、相性(たとえば集中して受講していたい人は書けない、でも、それはそれでいい)の問題もあるでしょう。気にしないでください。出席ペーパーの本質は「何でもアリ」と「自己表現の完全自己管理システム」にあるとぼくは思っています。マル秘、強制公開、発信者名公開、コメント希望、コメント不可など、どんなマークをつけていただいてもけっこうです。 5 他者の幸せを感じるときに共感する  第2回はブレーンストーミング「幸せの瞬間」をカード式発想法(紙切れ法)で行った。ぼくのねらいは次のとおりである。 @他者に対する共感的理解が可能であることを実感する。 A自分とは異なる枠組をもつ他者が与えるよい影響を知る。 Bアンビバレンツ(両面価値)な実感を受容できるようになる。  出席ペーパーは次のとおりである。 ■(当日は)日本シリーズがなくてよかった。 mito>はい、あったらもっと少なかったでしょうね。 ■他人を「受け入れる」と「受け流す」って、表面的には似て見えるような気がします。どうでしょう? mito>「受け入れる」を「許す」に変えると、きょうのロールプレイでやる課題です。なんでつながるんだろう、不思議だな。「許し」というのは「主張する」(「断る」)があってこその「許し」なんですね。 ■幸せを感じるときって、若いときよりなんだか少なくなってきているように思うのは何ででしょう? それにしても人数が少なくなっているのも何ででしょう? こんなに楽し〜い講座なのにね。 mito>社会教育の場合、学校教育と違って、7割も出席すればすごい。個人がさまざまな事情のなかから自己決定で参加してくる。ただ、お金をもらってる関係から、ぼくにとってはプレッシャーである。 ■女子大でブレーンストーミングを行ったとき、2/3が退席? これって何だろう。今日のワークショップ、もっと人数が多かったらおもしろかったと思う。 mito>今日のお願いトレーニングのほうがより過激である。加藤諦三が、現代の心理的特徴を「敵意と不満」として、次のように述べている(敵意と不満の自立=中毒社会ということについて、略)。そういうなかで、今日のトレーニングは「さわやかに依存しちゃおう」ということだから、やっぱりカルチャーショックが強すぎるのでしょう。でも、加藤のいう「ふれあい」を、ぼくはストロークと呼ぶ。人間はストロークをもらうために生きているという。まあ、楽しくやりましょう。 ■女の人は、子どもとか、他者評価で生きている。これっていったいなんだろう。 mito>適正な自己評価のあり方について説明。ストロークのついでに横文字でいうとジェンダー(社会的文化的性差)という。ただし、最近は、男性のほうが社会的弱者のような気がする。自己決定活動にたずさわろうとするとき、変化を理由なく恐れるのである。 ■紙切れ法はとてもおもしろかった。「幸せを感じたとき」は十人十色だけど、共感するものも「ン?」と思ったものもあった。時間が足りなくて残念。もっとやりたかった。 mito>やっぱり、ワークショップは、ぼくなんかがいなくても、仲間同士で楽しくみっちりやるのが本当なんでしょうね。 6 ハートが疲れたロールプレイ  第3回はロールプレイ「お願いトレーニング」を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。 @フラストレーションに耐えて自己主張を続けられるようになる。 Aちょっとしたことぐらいでは負け犬にならない自信をつける。 B人それぞれの自己主張法を知り、自分の主張法を改善する。  出席ペーパーは次のとおりである。 ■お願いすることも断るのもとっても苦手です。要するに人が良すぎる。長所であり、短所です。今日のワークショップはハートが疲れた。 mito>すみません。たしかに人が良いのは、長所であり、短所でもありますね。まあ、それこそが自分らしさなのでしょうか。ただ、「生きづらい」と感じたときには、少し、ほかの「物語」を取り入れるとよいのかもしれません。 ■お願いすること、それもあつかましくすることは、とっても大変だった。心のすみで、「ああ、申し訳ないなあ」と思いながらプレイしていたから、それがかえってストレスになったかな? でも、また演じてみたい気もする。 mito>けっして「あつかましくすること」だけが「お願い」の方法ではないでしょうが・・・。他者のいろいろな方法から、取り入れられるものは取り入れられればいいですね。 ■頼むのも断るのも難しいですね。基本的に頼まれた場合は、できることならだいたい受けるんですが、頼む場合は一度断られたら、何度も頼むことはしないです。 mito>頼むのも断るのも2回目からが難しいんですよね。「もう、いいや」という感じで。でも、ほんとうの許しは断りのあとにくる。それこそが「信じて頼りあう信頼」の本質だ。現実には難しいかもしれないけれど、そういうふうに思うのです。 ■男は女の涙には弱いってことか。 mito>ははは。たしかに弱いとは思います。ただ、「あなたが、どうにかしてちょうだい」という依存的な涙はいやですけど、「とにかく泣かせて」という涙はいいもんですね。 ■自己主張はしたいのですが、意志が弱いので発言はしないで終わることがほとんどです。上手に話しができればと思います。 mito>上手な話し方のほうは、上手な自己開示のほうに深く関連しているのではないでしょうか。自己主張のほうは、自他への信頼感の獲得が大きいと思います。 ■ロールプレイの目的と違うかもしれませんが、相手の考えていることを早くつかまないと断れないし、お願いできないと感じました。また、1回ロールプレイすると、普通の会話より同志的な感じになって、おもしろかったです。でも、少しストレスになりましたが。 mito>同志的になる、というのがおもしろいですね。あれだけ、断ったり、逆にずうずうしくお願いしたりするのに、そこにこそ信頼関係が生ずるということではないでしょうか。 ■どうして少ないのかなあ。本当にもったいない。楽しい授業なのに。「今の女はジェンダーフリーだ」とmitoさんは言ってましたが、そうでもないですよ。学生のころなら平等だったかもしれないけど、社会、家庭では、ジェンダーバイアスがあります。なぜ、女は黙ってしまうのでしょうか? 愛しすぎる女・・・、女になっちゃうんですよね。 mito>このように、講義のテーマと関係ない出席ペーパーも、不思議に講義と連動して重要な刺激を投げかけてくれます。講義はライブだ、というところなんでしょう。  なお、ぼくは次のように付記した。「今回は少し過激すぎたようです。終了後、例によって、フリースペースをやりましたが、みなさん、心がしんどかったようです。今回のトレーニングの基盤となる「言いたいことは言っていいんだよ。どうにかなるよ」という支持的風土の共生社会を、今後、敵意と不満の自立=中毒社会全体では無理でも、このワークショップだけでもゆっくりと創り出していきたいと思います」。 7 自分の価値観に気づく  第4回は「価値観ゲーム」(前掲坂口)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。 @自分らしさについて再確認する。 A他者に対する関心の持ち方を体得する。 B自分さがしをする現代人のこころを理解する。  テーマは結婚相手の判断基準(一対比較法)とした。  出席ペーパーは次のとおりである。 ■愛情のある暴力はないと思いますよお〜。今日は(価値を)選択するのが難しかった。容姿はやっぱりキムタク+竹野内豊みたいな人がスキなのに〜。なぜ?! 心って正直だわ〜。愛情1位なんて。 mito>容姿1位ではなく、愛情1位だったことで、「心って正直」というのが、とても面白く感じました。 ■他人に肯定的関心をもつ・・・。共感能力に自信がないので、心してつとめよう。 ■自分はこんな価値観をもっていたんだなあと、あらためて思った。でも、このゲームをプレイする前の自分の予測と違っていたのは意外だった。価値観って、一生変わることはないのかしら・・・。 mito>日々、どんどん変わっていくのでしょう。これを「変容」といいます。気合を入れた「自己変革」とはちょっと違うと思います。他者の異なる「枠組」と出会う「楽習」により、自己の価値観、判断基準等の「枠組」「準拠枠組」に気づき、そのことによって自己の「枠組」そのものが変容します。「枠組変容」こそがダイナミックな学習の意味合いなのでしょう。 ■自分の価値観がはっきり出ることに驚きました。各人それぞれの価値が異なることが面白かったです。 mito>そう、意外に思われるでしょうが、他者の価値が自分と異なることは、そこに支持的風土があるという条件のもとに限り、「面白い」ことなんですよね。 ■「言いたいことは言っていいんだよ」という社会の実現は難しいでしょうねえ。その言葉は、社会を構成する各個人に対して、かなり高いレベルの要求を出しているように思います。やっぱり言わないほうがいいことというのはあるわけで・・・。でも、言いたいことを「タブー」として不必要に言わないというのもどうかと思うし。落としどころが難しいですね。 mito>現実社会、現実の人間関係ではそうでしょうね。その場合、「落としどころ」という表現がとてもぴったりしていると思います。ただ、受容的、支持的雰囲気が社会にもっとあればいいのにな、と思います。 ■今の若い人(30代以下)って自己開示しないですね。安心してコミュニケーションできる場面がないのかもしれない。人と違っていいという安心できる社会がないのかもしれない。今回のワークショップで、容姿が一番でしたが、容姿は人柄です。よくばりな私です。愛って何ですか? (フリースペースにて飲みながら執筆) mito>自己開示については、ジョハリの4つの窓という考え方があって、たしか、自分も相手も知っている自分の窓(領域)を広げればいい、ということだったと思いますが、「ちょっとどうだかなあ」とぼくは思っちゃいます。それよりぼくは、「開きたい自分(のカケラ)を開きたい所で開けばいい」というレトリックを作っています。 8 「あげる」と「もらう」だけの相互協力  第5回は「スクエアゲーム」(前掲坂口)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。 @相互協力過程を理解し、他者を配慮する経験をもつ。 A集団の形成プロセスについての理解を深める。 Bネットワーク的なギブ・アンド・テイクの精神を理解する。  出席ペーパーは次のとおりである。 ■秋の講座は終わってしまったけれど、これから何かが始まるような気がする。 mito>秋の講座は、たまり場、居場所を開始するための雰囲気づくりをした、というところですかね。 ■ポーカーフェイスでいることのむずかしさ。言葉も表情も出さずに、相互協力をするということは、日常経験していないだけに、とても大変なことだった。今日は秋の最終回だったけど、結構楽しい講座でした。冬も続けます。よろしくお願いします。 mito>説明不足だったかもしれませんが、このゲームのねらいは、ポーカーフェイスというよりも、言葉でほしがったり、指図してはならないという意味で沈黙であり、カードをほしいという目つきをするのも禁止、ということです。でも、そういう各人の自発性に基づく「あげる」と「もらう」だけの相互協力が、ネットワークのギブ・アンド・テイクのあり方を教えてくれているのでしょう。 ■途中参加で戸惑いましたが、メンバーに救われて、すぐにゲームに参加できました。意思表示ができないのが、こんなに大変なことなんだと思いました。しきりたい自分がはっきりして、面白かったです。今回の講座に参加して、緊張したり、勇気をふりしぼったりと、普通の講座とは違って、自分の確認が少しできたかなという感じです。 mito>「しきりたい自分」の発見は意外だったでしょうね。 ■自己開示については先生のご意見と同じです。スクエアゲームでは、全体を見る目が全然ないことに気づかせられました。インターネット、パソコンについては何もわかりません。まったくの機械音痴です。ちょっとのぞきたいだけです。ご迷惑とは思いますがよろしくお願いします。 mito>どうぞお気軽に徳島大学大学開放実践センターにのぞきにきてください。 ■秋期の講座は今日で終わりですが、これから裏講座や冬講座、合宿等で楽しくなりそうですね。よろしくお願いします。 mito>「裏講座」というネーミング、ぼくも気に入りました。さっそくパクらせてもらいます。 ■今日で一応私らしさのワークショップTが終わりましたが、11/24から、また、みなさん、そしてmitochanにお会いできるというサプライズ、どうもありがとうございます。あっ! きょうの感想、ポーカーフェイスはむずかしい・・・。 mito>喜んでもらえてうれしいです。「そんなの、別にいらない」といわれそうで不安だったのです。まあ、裏講座ですから、どなたでも、無理せず、来たいときに来てください。 9 裏講座で多角的交流  「裏講座」第1回は、職員旅行中に神戸から寄ってくれたメール仲間、A市公民館主事Sさん(前出)を迎え、「最近食べたおいしかったもの」を含めた自己紹介をした。話題は、「なぜ、このワークショップに参加しているか」などであった。  受講者には次のメッセージを送った。「ご事情で秋の表講座に数回しか出れなかった方なども、もしよろしければ、お気楽に裏講座やフリースペースでのおしゃべりにご参加いただければ幸いです。また、西村美東士までお申し付けいただければ、欠席されたときの資料を差し上げます。なお、受講メンバーの一人Yさんのホームページ開設の申し入れを受け、さっそくアップしました。アドレスは下記のとおりです。(略)」  第2回は、もう、みんな飽きたころかと危ぶんでいたが、フリースペースから遅れて参加した人を含めると、女性3人、男性1人とぼくのにぎやかなおしゃべりになった。そこで、集まった人はいろいろとNPOをやってる人たちであることがわかった。LD(学習障害)児・ADHD(注意欠陥多動症候群)児自助グループ関係もいれば、特定の病気の子どもをもつ親の会関係もいて、飲んでいて話題になったのは、異種グループ(主に障害者グループ)のネットワークのことであった。まず障壁になるのが、「そちらの種類は障害の程度が軽いから」というようなグループ同士で連帯しづらい風土についてである。これを徳島県の保健行政が、異種を乗り越えて障害者グループのネットワークを仕掛けていた。これに励まされたグループがたくさんあるようである。徳島県行政も、進んでいない所もあれば、進んでいる所もあるんだ、という当たり前の結論に落ちついた。また、ジェンダー問題がつねに話題に入っている。一人の人間に、全部の課題がからんでいるのだ。  受講者には次のメッセージを送った。「ホームページを作る条件のない人には、ぼくが半分仕事として提供しています。ほかの人たちも、関心を示していました。ただ、初期投資の15万円程度が厳しいようです。まあ、ぼくのところで、無料のメールアドレスを取得して、とにかく始めてみたら、と言っています。LD児関係のアドレスは(略)です。今のところ、ただ載せただけ、という感じですが見てやってください。なお、次のような欠席連絡がメールで入ってきました。(略)」  第3回は女性1人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、徳島市ヤングフェスティバルの実行委員の若者がイベントの準備のためにやってきて、ちょっとおしゃべりした。  第4回は本年最後の裏講座だった。女性2人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、ヤングフェスティバルのKさんがタイのJさんが来ているというので、仕事を中抜けしてフリースペースに会いに来てくれた。  フリースペースでJさんは、日本の女の人がわからない、という話になった。ちなみに彼は独身である。その結末は、「日本の女の人は心で思っていることを言わないから」ということになった。でも、フリースペースでは彼は熱燗の日本酒を飲み、「いっしょにお酒を飲める人がいつもは少ないから」ということでご機嫌であった。ぼくたちの雰囲気を「フレンドリーな雰囲気で楽しい」と言ってくれた。  なお、女子学生のK子さんも参加してくれて、活気のある裏講座になった。彼女はポケベル(文字)の話では、ちょうど高校時代に当事者だった。以前報告した「絵文字」についても全部知っていた。また、中学時代は数字のポケベルだったので、その話も聞いた。「当時の子たちはケータイおやじを本当に馬鹿にしていたの?」と聞いたところ、そうだということであった。 10 自分の気持ちを相手に伝える  冬学期の第1回の導入は、新規参加者と本講座への期待についておしゃべりをし、「自分の気持ちを言葉にして出せるようになりたい」という話題になった。  その困難さを分類し、次のような結果となった。 @うまく言葉にできない。  ア ボキャブラリー(馬券を当てたときの「してやったり」など)不足  イ 言葉の選択の困難  ウ 「気持ち」には身体性が伴う A相手を傷つけてしまうのではないかという恐れがある。  その他、秋講座参加者から「第一印象ゲーム」で「青色が好き」と当たったからといって、「さわやか」とは限らないという感想が出た。これを受け、相手の「自分らしさ」を本当に理解しようとするなら、準拠枠組(フレーム・オブ・レファレンス)に対して理解、共感しようとすることが大切、という説明をした。  本題としては、『カード式自他紹介』(前掲坂口)を行った。ぼくとしてのポイントは次のとおりである。 @強制的な役割取得による遠慮の打破。 A内容中心にならないようにする。心の交流。 Bメンバーにあった問題を。ロールプレイをしても、おもしろい。  出席ペーパーは次のとおりである。 ■普通に自己紹介するんじゃなくて、今日やったみたいにいろいろな質問をランダムにするほうが、もっとその人のことがわかるような気がします。楽しかったです。ところで、やっぱり自分の気持ちを相手に伝えるのってむずかしいですね。いろいろな立場の人と話ができる機会ってなかなかないのでうれしいです。 ■与えられた時間を活かせなくて、「なんと自分が情けない」と思えました。言葉による表現力のとぼしさを思い知りました。でも、また、いつかどこかで、このゲームをもう一度やってみたい。 ■きょうはちょっと変わった自己紹介でしたが、今まで経験した自己紹介よりも、もっと一人一人を理解できたような気がします。こんな形の自己紹介のほうが親近感がわいてよいと思います。 ■初めは人数が少なくてどうなることかと思いましたが、皆さん出席できてホッとしました。カード式の自己紹介、人数が多かったらもっと盛り上がったでしょうね。今年もよろしく。楽しくやりましょう。 ■遅参してすみません。お若い方々のお話しは本音が聞けるようで嬉しいです。勤めをやめて一般社会のおつきあいの中では、いろいろのことを経験しています。 ■1時間遅れの参加で、着いた時には、すでに自己紹介が始まっていて、説明を聞けなかったのが残念です。今年もよろしくお願いします。 ■今日は大変遅くなり申し訳ありません。今回も楽しい(苦しいも含めて)講座になりそうで楽しみです。 11 わかってもらうこと、わかってあげようとすること  第2回の導入は、おしゃべりの中から「今日の若い女の子たちの専業主婦願望について」ということになった。「主婦業をやっていると、日々単調で、社会との関係から取り残されているというあせりを感じていたころがあった」、「病気の親の介護、子育てなど、総合的知恵をフルに発揮し、障害のある子どもを社会の中で育てるなど、社会的つながりも求められる。そこでは、主婦業をプロってるというプライドさえ感じられるときもある」、「子どもや夫のための主婦業もきちんとやりながら、自分のやりたい深夜カラオケでのびのび遊べる友の母親にあこがれる。しかし、自分自身は、そのような専業主婦になれる自信がない」などの話が出た。  ぼくは次のようにコメントした。  若い女の子たちの専業主婦願望(相手は高収入に限る)は、それはそれで正しい選択なのではないか。ただし、「かわいい嫁さん」を求める相手の男たちは、彼女たちが深夜カラオケなどで自由に振舞うことを許さないのではないか。そこのところにも男と女の深くて昏い河がある。また、妻が起きて待っていてくれたらうれしい、でも、寝ていてくれたほうがほっとする、という酒飲みの男のコマーシャルがある。これもなかなか深いリアリズムだ。  次に、「このようなワークショップやエンカウンターグループなどで人間関係のトレーニングをしなくても、たとえば芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかなと思う」という発言があり、本ワークショップとエンカウンターグループ、さらには自己啓発セミナーとの違いについての話をした。内容は以下のとおりである。  自己否定に陥りがちな人たちが「今の自分をなんとかして変えたい」と思い、その思いを共通項目とする問題縁として自助グループをつくったりすることは意義深いことであろう。そこでは、世知辛い世の中とは別の受容的な「文化的孤島」を作り出すことになる。ただし、そこで最終的にめざされるのは、自他の受容と世俗の社会への復帰という「自立」であろう。なぜなら、自己否定からは自己変容は生じないからである。自他受容からこそ自己変容、自立が可能になると考えられる。  さて、世の中には、「今の自分をなんとかして変えたい」ではない人たち、つまり、それなりに自他受容ができている人たちがいる。これを「フツーの人たち」としておく。このフツーの人たちだって、信頼できる友達がほしい、などの気持ちをもっている。これが保障される場が現代社会にあまりにも少ない。本ワークショップは、このようなフツーの人たちの、しかし人を傷つけたり人から傷つけられたりすることを悲しむ心のある、いい女やいい男たちのための場である。そこで水平異質共生の「私らしさ」が安心して交流できるサンマをめざしたい。  したがって、「今の自分をなんとかして変えたい」という気持ちがあるとすれば、むしろそれを「今の自分もまんざらではない」という気持ちに昇華し、「芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかな」と思えるようになることこそ、本ワークショップのねらいといえるのではないか。気軽に楽しんでもらえればありがたい。  本題としては、ぼくのオリジナルルールでジェスチャー大会を行った。そのポイントは次のとおりである。 @わかってやろうとするサポートこそ、表現にとって重要である。 A表現の敗北主義に対して、「数打ちゃ当たる」が有効である。 Bわかってもらえたときは、とてもうれしい。  出席ペーパーは次のとおりである。 ■相手に自分の意思を伝える方法、相手の言いたいことをわかってあげようとする気持ちがとけあってジェスチャーが成り立つのだということがよくわかりました。私にはとても無理と、挑戦しないのはずるかったと反省しています。 mito>無理なさらないでください。初めの一歩は数センチずつ、行きましょう。 ■ゲームに夢中になる、こんな真剣さが久々で、充足感を味わったかな、という感じ。・・・ということは、ふだん空虚だったりするのかしら。 ■ジェスチャーゲーム、今回やったお題がとても難しいのに、不思議と最後は当たるのがおもしろかったです。ジェスチャーの答え方とかで、すごくその人の個性が出てるなあと思いました。 ■専業主婦問題に対する主婦のみなさんの意見が聞けたのは貴重だったと思います。やっぱり私は専業主婦にはむいていないなと思いました。 ■きょうのジェスチャーゲームはけっこう大変で、演じるのも、当てるのも苦労しました。声を出さずにわかってもらうことなど、日常ではあまり経験がないので。でも、ふだん経験しないことをやってみると案外楽しいものでした。自分の表現方法の貧しさに少しガックリしましたが。 ■なんじゃ、この問題はー!!と叫びたくなるようなジェスチャーゲームでした。BUT、答える人がすばらしいというか。特にBさんはスゴイの一言、バンバン当てちゃうもんね。楽しかったです。 ■今回も遅れての参加で、さらに今日の内容(ジェスチャーゲーム)がすごく難しそうだったので、教室に着いた時に、ちょっとしまったと思いました。実際、自分が表現する時には「これはちょっとわからないかも」と思いましたが(お題は「終身雇用」)、終身の2文字を表現したところで正解が出たのでびっくりしました。「雇用」をどうするか悩んでいたので助かりました、ほんとうの話。  フリースペースでは次の話題になった。 @将来のめずさものをしっかり持てないと、なんだか不安である。しかし、世の中ではそう計画的には生きていけない。どうするか。 A人から迷惑をかけられても、まあ我慢できるが、しかも相手から素直に「ごめんね」といわれたらますます許せてしまうが、自分から人に迷惑をかけるのは、たとえ謝る手段があったとしてもいやなのである。どうするか。 Bたとえ妻には悪い浮気ばかりしている夫でも、子ども(とくに娘)からは「父親」として愛されていることがある。バカヤローとも思うけど。どうするか。 12 社会に役立つわたしという存在  第3回の導入は、モラトリアムの評価についての話題になった。  まず、自分の子どもたちが青年期を経て自立していく過程で、ずいぶん紆余曲折があり、そのあいだ、親は「しっかり展望をもっていないでだらだら生きている」という不安と不満をもつものだが、子育ての経験上、その長いトンネルを抜けたとき、「ああ、人間はなんとかなっていくものだ」ということを感じる、という体験談が出された。  そこで今日の青年の特徴のひとつである「モラトリアム人間」の説明をした。自立して社会に出るという「刑」を「執行猶予」してもらい、大学で留年を続けたりするという傾向のことである。これを「嘆かわしい」とするのが、過去の論調の主流であったが、最近では「個人にとっての成長のプロセス」という意味があるととらえられるようになってきているという説明も加えた。  これに対して、昭和18年に半年早く学校を卒業させられてしまった世代からは、「私たちにはそんなことを考える余裕もなかった。むしろそれよりもっと前は、そういうことが許されていたかもしれない。だから、現代的特徴とはいえないかもしれない」という興味深い指摘がなされた。  つぎに、この「最近の若者」の話題に関して、会社の新人歓迎会を担当した若者から、「自分が呼ばれる飲み会だというのに、今の新入社員は参加してくれない」という話題が提起された。彼の会社は「自由な会社」なので、それは許されて「来たい人だけ来た飲み会」でそれはそれで盛り上がったが、なかには上司にビールをつぐことを強制されるなど、不自由な会社もあるという話になった。  ぼくは「よいわがまま、悪いわがまま」の説明をした。「よい」は、わたしがおもうようにわたしは生きたいで、「悪い」は、わたしがおもうように相手に生きてほしい、である。また、個人の自由と、親密な人間関係という両者を求める矛盾が、今日の若者を苦しめているのではないか、と発展させた。  しかし、これに対して彼から「そういうことに苦しんでいないからこそ、新人歓迎会を平気で欠席してしまうのではないか」と異論が提起された。高齢の世代からも、「欠席はやはりわがままではないか」と意見が出された。  そして、自由と親密は両立するのではないかということになった。しかし、そのためには、次の5点が必要という意見にまとまった。 @歓迎側の相手への配慮とともに、新人側の相手への配慮が求められること。 Aみんなで決めたことには従うこと。 B自由には責任が伴うこと。 C「あなたには関係ない」という考え方は改めること。 D自分の自由だけでなく「ほかの人の自由」も考えること。  だが、ぼく自身は混乱して、これ以上はわからなくなってしまった。  本題としては、「楽習図解ワークショップ−自分のための社会貢献」を、ブレーンストーミングおよびカード式発想法に基づいて行った。その成果は図●のとおりである。  出席ペーパーにもあるように、個人の立場や価値と社会貢献とが絡み合って多様な側面からカードが出され、対話をし、マップとして統合されたことは、一人一人にさまざまな気づきをもたらせてくれた。それは次のような出席ペーパーに表れている。 ■社会に役立つ人間になりたいとは誰もが願ってることです。しかし現実にはなかなか実現できません。自分の気持ちのなかでこうありたいと思うことを書きましたが、皆さんの観点が随分ひろがっているので感心させられました。考えさせられる授業でした。 ■今日も遅れてしまいましてすみません。よくわからないままに参加してしまって、すこしのりおくれたという感じでした。「役に立つ」という言葉をどんなふうにとらえたら良いかわからずに、すこしとまどってしまいました。自分の中の人からみたら役に立っている行為でも、自分にとったらただの遊び、社会に対しての「役に立つ」という役に立ってるから行動するという気持ちやスタンスを否定的にとらえている自分を発見しました。 ■「社会に役立つ私」という題で考えをだしあったけれど、個人的には「子どもを育てる」≒「次の社会をつくる」というのが一番むずかしいと思いました(実行・実現するのが)。なぜなら、他に出てきた「社会に役立つ」という概念を全て理解(もしくは意識)していないと進めないステップだから。子供を育てることってやっぱり大変だなぁと改めて思いました。PS 基本的には僕も、飲み会に参加しない新人には反対です。考慮すべき点が多いことは確かですが…。 ■社会に役立つをテーマに授業をしましたが、社会という言葉から入って来たのは学校、子ども、税金、グループ(PTAや友人たちとの活動)のなかにいる私しか出なかった。個人としてちょっと見つめ直しが必要かなと気付いたワークでした。 ■日頃自分は誰からも必要とされない人間のような気がしていたが、自分が社会や他人に役に立てたら…、存在意義をつかめたら、張り合いがでて、結果、社会にも役立つ循環ができるんでしょうね。 ■今日はモラトリアムについて、また個人と秩序について、立場によって全く考えが違うんだな、ということが分かりました。すこし話に出た、良いわがまま悪いわがままの2つにわけられるというのは、「なるほど!」と思いました。思っていた以上に、ちょっとしたことで社会の役に立てているんだな、と思うとちょっとうれしいです。みなさんの考え(やってること)ってすごいなーと感心しました。 13 「大切な宝物」を分かち合うほかほかした気分のサンマ  第4回の導入は、前回に引き続き、モラトリアムの評価についての話題になった。  まず、前回の話題に関連して、次のぼくのメーリングリストでの発言を紹介した。  以前、「父権の回復」について動揺した文章を発信して、おさがわせしました。きのう、眠れない夜を息子と話し込んでいて考えたことです。親の背中を見て育つ、ということについてですが、次のようなことに気がつきました。  「自分には言うべきことで、相手に言ってはいけないことというのがあるのではないか」ということです。それをきちんとできていることが「自分の背中で相手を育てる姿」なのではないかということです。 該当例 @「不透明な時代ではあっても、明るい希望をもって生きていったほうが幸せである」 A「もっと明るい展望を見つけ出すために、やれることから始めたほうがよい」 B「○○は依存している証拠だから、それを克服して、もっと自立に向かって努力したほうがよい」 C「以前の友達関係に未練をもつより、現在の環境で可能な友達をつくることを考えたほうがよい」 (以下は追加−昨晩の話題とは異なる) D「ふられることを恐れていては愛は獲得できない。勇気をもって見返りを期待せずに告白したほうがよい」 E「ふられたとしてもほかにもいっぱい異性はいるのだから、そちらのほうに目を向けたほうが得策である」 F「わかってもらえないからといってふてくされていても、結果はますます悪いほうに向かってしまうんだよ」  ようは「わかってはいるけど手につかない」ということについて、相手にそれを指摘しても相手は頭ではわかっていることだから他者(対等な親友を除く)や親から言われても逆効果になってしまうが、親自身は「自分は変えられないから」といって居直ることなく、少しずつそういう努力をしていればよいのではないかということです。そして、相手(この場合は子ども)に対しては、本人がその気になるまでは本人の内面的成長の可能性を信頼して見守りつづけるということです。  繰り返しますが、ぼくにはその自信はありません。ただ、ぼくがチラッとだけ考えていた「始めの一歩の励まし方」には通じるものがあると思います。  受講者からは、次のような話が出た。「まわりから見れば、ただ、だらだらしているようにしか見えないのだろうが、本人は真剣に考えている」、「考えないで暮らしている人はいない。スパンを長く見てあげたい」など。モラトリアム真最中の人、子育て真最中の人、なんとか子育てを終えようとしている人、モラトリアムなんか許されなかった時代の人、多様な人たちが分かり合おうとする話し合いになった。ぼくは、受容、信頼、見守ることの大切さとしてまとめた。  本題としては、「楽習図解ワークショップ−楽しい学習と双方向教育」を行った。本当は「教育=学習の援助」になるべきなのだろうが、実際には「主体的な学習」を阻害するような結果に陥りがちな実情のなかで、これをイコールに近づけるためにはどうしたらよいか。ぼくの結論は「たどりつかない彼岸(イコール)に向かって、深くて昏い河で船を漕ぐしかない」というものだが、今回、「私がもらった『いい言葉』『いい影響』」というテーマで、一人一人の宝物のような体験を紙切れ法(カード式発想法)で出し合ってもらって、これを探ることにした。その成果は図●のとおりである。  「今日はみなさんの大切な宝物を分けてもらったような、とてもほかほかした気分です。私は今回、友達のことばっかり書いたのですが、考えてみれば歌詞や詩などにもジーンとくるものがたくさんありますね。今回、自分は、友達(親友)に恵まれているなとうれしく思いました」という出席ペーパーがあったことからもわかるように、他者からもらったいい影響を、さらにこのワークショップで伝えたり、伝えてもらったりすることによって、「大切な宝物」を分かち合うという「とてもほかほかした気分」のサンマを味わうことができたと考えられる。 14 わからなければわからないなりにそれなりの答えがある  最終回の第5回の導入は、「気づいたときから始められる生涯学習」の話題をぼくのほうから提起した。  前回の出席ペーパー「子どものときあれほどいやだった勉強が今はとても楽しい。今からでも遅くないと思って、これからもいろいろなことに挑戦したい」と、カード式発想法の「成長には時期がある。その時に必要な学習がある。格言=彼岸すぎの麦の肥」をもとにして、その関連をどうとらえればよいかということについて説明した。その内容は次のとおりである。  最近、AC問題が盛んにいわれており、その背景として、交流分析でいう「生育歴」による人生脚本の重みと、その書き直しの意義が注目されている。一方、ぼくは、生涯学習については「気づいた時から始められる」という見方を主張している。たとえば、発達段階の初期のころに人間に対する絶対的な信頼感を十分には獲得できなかった人はどうなるのか。その後の、「癒しのサンマ」との出会いなどにより、それは回復しうると考えるべきなのではないか。しかし、それは、交流分析による生育歴の書き直しに匹敵するのものなのかもしれない。いずれにせよ、以前から述べているとおり、いわゆる「ふつうの人々」にとっての「癒しのサンマ」の重要性を認識すべきなのだろう。  つぎに、出席ペーパー「自分には言うべきで、相手には言ってはいけない言葉について、いろいろ該当例がありましたが、私はいってもかまわないと思います。でも、だからどうするべきか、こうやってみては、など具体的にいってもらいたいです」について、他者の援助の言葉のあり方について考えた。  話し合いの結果、次のようにBを加えて整理した。 @自らもリスク(危険)を背負って発言する(例=私だったらこうする)。 A批判するときは、心を痛めながらも批判する。 Bなるべく具体的な方法を述べる。  本題としては、「楽習図解ワークショップ−自分らしさを世界に発信!」の予定であったが、すでにホームページには今までの成果等を掲載しているので、それに引き続き、「わたしにとっての私らしさのワークショップ」というテーマで、これまでの振り返り(シェアリング)のためのカード式発想法を行った。その成果は図●のとおりである。  「わからなければわからないなりにそれなりの答えがあるから最後まで答えが出なくてもいいんだ」という出席ペーパーがあった。このように、自己の「無知と非力」や「あなたはあなた、私は私」という真実に気づくのみならず、その受容(自己受容)に至る個人の深いプロセスにまで、「私らしさのワークショップ」がそれなりに役立てたことをぼくは自負したい。