癒しの大学開放 −「私らしさのワークショップ」から  徳島大学大学開放実践センター 西村美東士 1 癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)  ぼくは、自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、1997年4月、1998年3月増補)を、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答えの一つが「癒されること」であるという気持ちで書き通した。同時に、本書では、癒されるためには、@ 自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A 他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B 社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる、以外に方法はないという主張もしている。  前年度から、ぼくは、徳島大学大学開放実践センターに勤めている。そこでも、大学教育や、その重要な一環としての大学開放において、「癒しのサンマづくり」が重要であるという思いを強くしている。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピアコンセプト(同一化に向かう仲間意識)によって個人が傷つけられ続ける現代日本において、大学の授業にせよ、市民のための大学公開講座にせよ、真実に気づくことによって、あるいは他者との意味ある出会いをすることによって人間が癒されることの意義の大きさを、大学教育側は十分理解する必要があると思う。それは、最近の悲惨な暴力的事象を考えても、逆に市民の自己決定活動などにおいて見えてきた共生への展望を考えても、緊急の課題といえるのではないか。また、これは、大学教育において最近ますます軽視されがちなリベラルアーツ(一般教養)の教育的意義の再評価にもつながると考えている。 2 大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?  ぼくが担当した公開講座「私らしさのワークショップ」の趣旨は次のとおりである。  現代人の生涯学習に向かう主要な動機の一つとしての「自分らしさ」の危機と、それへの願いを取り上げ、参加者一人ひとりの臨床的真実を引き出しながら、生涯学習、ボランティア活動、市民活動等の自己決定活動のあり方を明らかにする。このワークショップにより、「笑い声の絶えない」「一人一人が自然にその気になる」ような成人の能動的な「楽習」を実現するとともに、地域のキーパーソンを育て、インターネットを通して、その成果を、大学や社会全体にアピールする。  各回のテーマ・要点と出席ペーパーから抽出した成果は次のとおりである。秋学期@私らしさってなんだろう? 自分さがしの相互承認の出会い=第一印象ゲーム 他人に関心を寄せることの意味を実感、Aコミュニケーションはキャッチボール 共感能力を高める=ブレーンストーミング(幸せの瞬間) 幸せを感じるときに気づく、Bさわやかな自己主張 引っ込み思案をなおすコツ=ロールプレイ(お願いトレーニング) ハートが疲れた、C自分のためのボランティア 自分らしさを感じるとき=価値観ゲーム 自分の価値観に気づく、Dまとめ=楽習の達人になる スクエアゲーム 「あげる」と「もらう」だけの相互協力を体験。冬学期@見比べあう自己紹介を蹴っ飛ばせ 自分らしさの出会い=楽しい自己紹介の方法 自分の気持ちを相手に伝える、A伝える方法・わかりあう方法 自己表現の技術、相手の自己表現を支援する技術=ジェスチャー大会 わかってもらうこと、わかってあげようとすることを体験、B楽習図解ワークショップT−自分のための社会貢献− 社会に役立つわたし、CU−私がもらったいい言葉・いい影響 他者が存在していてよかったということに気づく、DV−私にとってのワークショップ 講座でいつもの「自分の枠」から出て話ができた。  また、講座閉講中も、火曜日についてはセンターにて自主的な集まりをもった。これはあとになってメンバーから「裏講座」と名づけられ、毎回の「表講座」の終了後に行った「フリースペース」とともに、自然体の交流ができたように思う。大学教官の研究室や、ときには自宅にまで押しかけて自然体の交流をするという現役学生の大いなる特権を、学生ではない市民にも味わってもらえた。  それぞれの回に対する受講した市民の反応(出席ペーパー)を通して特徴的なことは、「大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?」というペーパーに象徴されるような、現代人としての市民一人一人の大学開放を通じた生涯学習への関心であり、とりわけ講座自体を「癒しのサンマ」の一つとしてとらえようとする信頼、共感、自立に向かう潜在的願望である。 3 問題提起  1997/6中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」では、教育を「自分さがしの旅」をたすける営みとした。たしかに「本当の自分とは何か」を自ら問うように仕向けることは教育の目的である。しかし、本人の幸福追求にとっては、もともと「空白」である「本当の自分」を、教育によって輪をかけて問わされつつある現状は望ましいことなのだろうか。しかも「見られる自己の肥大」から「あるがままの自分であれ」へと転換したメディアからのメッセージがこれに追い討ちをかける。  人びとの「自分とは何か」という問いは学問に向かう重要な内発的動機である。しかし、本人の学習欲求に基づいて支援すべき教育の側は、もともと「空白」であるものを確かな「何か」という手持ちがあるように見せかけたり、ましてや「今のあなたは本当のあなたではない」などと脅迫したりしようとする誘惑を自ら厳しく断ち切ることが求められよう。  ぼくの講座がうまくいったというわけではないが、「指導者」として、せめて気づくこと以前に癒されることを大切にし、生産的な相互批判より以前に自己とは異なる他者に対する共感的理解を先行させる態度を貫いた、つもりである。しかし、それにしても、上記の「誘惑」を超える魅力をもった「私らしさ」支援のあり方そのものについてはいまだ不明である。 癒しの大学開放 −「私らしさのワークショップ」から− 日本社会教育学会第46回研究大会 平成11年9月11日13:30-14:00 自由研究発表(学習活動・教育事業T) 徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士(mito) [ねがいはこれかな?] 『個の深み』と出会う 趣旨 大学が現代人の自己決定を支援す mito「現代人が求める人間関係=信頼と共感」 =水平異質共生による癒しのサンマづくり 生涯学習は、人から学ぶこと、人と出会うこと! (富田富士也「人は人に傷つき、人に癒される」) [求められる3つのちから] 相互否定・同質上下競争の魔のトライアングルから、相互承認・異質水平交流の癒しのネットワークへ [みんなちがって、みんないい] わたしと小鳥とすずと(金子みすゞ) わたしが両手をひろげても、 お空はちっともとべないが、 とべる小鳥はわたしのように、 じべたをはやくは走れない。 わたしがからだをゆすっても、 きれいな音はでないけど、 あの鳴るすずはわたしのように たくさんなうたは知らないよ。 すずと、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。 [あなたはあなた、私は私] ゲシュタルトの祈り(パールズ) 私は私のことをする。 あなたはあなたのことをする。 私は、あなたの期待に沿うために、この世に生きているのではない。 あなたも、私の期待に沿うために、この世に生きているのではない。 あなたはあなた、私は私である。 しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあれば、それはすばらしい。 もし出会うことがなくても、それはいたしかたのないことである。 “癒しのサンマ”について 自著『癒しの生涯学習』より mito 癒されること 自著『癒しの生涯学習』の主題である癒しについては、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答えの一つが「癒されること」であるという気持ちで本書を書き通している。しかし、同時に、本書では、癒されるためには、 @ 自己決定の水平異質交流のサンマにおいて A 他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら B 社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる 以外に方法はないという主張もしている。ただし、それは、「自分のために」「面白いから」であり、本書ではそう思えるためのコツを探ろうとした。 癒しのサンマについて “サンマ”とは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが“今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けている”と提起したときの言葉である。たしかに、今の子どもたちは、与えられた課題をこなす時間の過密化による自由時間(時間)の不足、冒険できる場(空間)の不足、群れて遊ぶ友達(仲間)の不足にあえいでいる。しかし、青年や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。ぼくはそこで現代人が求めているものを「癒しのサンマ」と呼ぶ。サンマであるから、日常の家庭、学校、職場のすべての時間を癒しの時間に当てようというわけではない。せめて1週間に1回くらいはサンマがあって、「ああ、○曜が近づいてきたな」と思えるだけでも、その1週間を元気に暮らせると思う。 集団学習について 集合学習のうち、団体活動や学級・講座などの学習者同士の相互教育が期待される学習方法。集団というと全体主義的なマイナスイメージもある。現代青年が求めているのは、集団というよりもゆるやかな人間関係のネットワークによる癒しのサンマなのだと思う。 1 「私らしさ」のパラドックス (1) 距離を保った親密さ  若者たちは、本名も顔も知らないのに親密になれるなど、従来の浅い/深い、素顔の自分/仮面の自分、という枠組では理解し得ない新しいコミュニケーションをインターネットを通して行おうとしている。  このコミュニケーションのプラス面とは、一言でいえば「状況主義的自分らしさ」(自己の複数性)の許容である。「本当の自分」とはそもそもが空白に書き込んでいく性格のものであるし、それゆえかなり歳をとってから気づくとしたら、それでもよいものなのかもしれない。それなのに、現実の社会は、就職時にはさっそく会社から「エントリーシート」を書かされ、「自分とはどういう人間なのか」という箱に入れられてしまうような社会である。また、若者たち自身も、その多くが「世間からよく思われたい」という理由で、そういう社会に無理に順応しようとしている。 (2) 「状況主義的自分らしさ」の受容を  しかし、せめて教育においては、このコミュニケーションを通じて「状況主義的自分らしさ」を許容したい。これにより、従来の教育が否定してきた「後向き」の態度も受容でき、また、「今のあなたは本当の自分ではない」という脅迫じみた行為も回避できよう。一方、若者たちも「自分はこうだ」という勘違いから自由になれる。インターネットであれば、今までとは違う世界に飛び込むことに多大な勇気は必要ないからである。世界が広がることによって、今まで思い込んでいた「自分」というものから解き放たれる。  逆にこのコミュニケーションのマイナス面は、それが無意図的に行われている場合は、本人が求めていたはずの「距離を保った親密性」ではなく、現代社会一般にはありがちな回避したかった関係、すなわち、内面まで踏み込んでくるからうざったい、あるいは逆に、距離があるからわかりあえない、という感覚をもたらすものになってしまうことが実際には多いということである。これでは「ヤマアラシジレンマ」や「みんなぼっち」が再確認されるだけの結末になってしまう。その端的な例が多様なネチケット違反であり、いまだ絶えない「悲しみの性」である。  これに対し、今後の情報処理教育は、同一化志向のピアコンセプトから彼らを解放し、信頼と共感に基づいた人間関係の味わいを伝え、対メディア批評精神を保持しつつ使いこなすネットワーカーとしての資質を身に付けるようになることをめざす必要がある。  たとえば、掲示板で他者の秘密を暴露してしまうようなテクノな若者たちがいる。これに対して、いくら机上でモラルやマナーを習得させようとしても効果はないだろう。彼らも根からの悪人ではあるまい。むしろ、彼らの可能性を信じて共感的に接し、彼らのテクノロジー能力を活かし、自信につなげてやる教育のプロが介在する必要があるのだ。  そのための教育のあり方として、次のような筋道が考えられる。メディアを通した共感的な相互理解->自他受容の体験->基本的信頼の獲得->支持的風土の形成。これにより、自立(適度な距離)と共有(親密さ)を身に付けて生涯学習社会あるいは共生社会を楽しく生き抜くことのできる人材が養成できると考えられる。  なお、具体的教育方法に関しては、ぼくは情報処理教育のワークショップ型への転換を模索しているところである。これにより、「距離を保った親密性」や主体的学習・発信能力が実現できるのではないか。 注 本発表については、ぼくも所属する青少年研究会でとりまとめた富田英典・藤村正之編「みんなぼっちの世界−若者たちの東京・神戸90・展開編」(恒星社厚生閣、1999.5)に大いに示唆を受けた。また、徳島ヤングフェスティバルの川田春夫さんとのおしゃべりがとても参考になった。 (以上は平成11年度情報処理教育研究集会発表予定) 2 「後向き」の肯定 (1) 生産性及び変身への強迫観念からの解放  転職のことですか、僕はその前に正式に就職しなければなりません。でもなんか就職してしまうと大切な何かを失ってしまうような・・・。それが何かはっきりと分からないけど両親はおまえはだいぶ損してるとボーナス期になるというけど(私はボーナスがないので)世の中お金じゃないと思うし、決して負け惜しみじゃない。結局自分が納得した人生を送ったらいいと思う。偉そうなこと言えないけどそんなわけで先生のアドバイス そうそう、その調子。なにも自分を無理して変える必要はないんじゃないかな。 は、心がなんか軽くなりました。感謝、感謝。ただ僕は、生き生きと生きたい。人生は難しいけどなんか楽しいです。それではまた。(受講者のメールより) (2) 後向きを否定しないで=積極・消極の自己決定の尊重  よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己管理できていないから、とさえいえるかもしれない。  自己決定活動のエネルギー消耗について、ぼくの関わっているメーリングリストから。  「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。  人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。  この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。  違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。  「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。  後向きになっているときも個人にとっての大切な時間なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは生産的な生き方のひとつだといえよう。(自著『癒しの生涯学習』) 3 自己決定活動の傷と癒し (1) 人生の風景を味わうか、味わわないか。  ぼくは教育の根拠を憲法13条の「幸福追求権」においている(p132)。法学の世界では、この13条が「自己決定権」との関連で論議されるようになってきているそうだ。  ぼくは1998年3月まで昭和音楽大学で社会教育主事課程を教えていた。  チエちゃんという学生は、短大に入学してすぐのぼくの最初の授業で、講義が終わったとき、ぼくのところに来てこう言った。 「mitoちゃん(ぼくのこと)、わたし、いい女になるつもりだからよろしくね」。  ぼくは、これはすごい人が入学してきた、と思った。大人の女でも、ふつう、どこかにいい男がいないかしら、となるものである。それに対して、18歳のいわばまだ「小娘」であるはずのチエちゃんが、きちんと自分自身の成長に希望を持ってまっすぐに目を向けているのである。このように自分にきちんと目を向けられる人は強い。思ったとおり、彼女は声楽家の卵としてもずば抜けた成長を示し、現在、憧れのオペラの舞台を目指して一生懸命生きている。  チエちゃんが2年になったとき、また、「ねえ、mitoちゃん、わたし、すごいこと思いついちゃった」と呼びかけられた。こういうことは、青年期真最中の多くの学生にとってよくあることなので、ぼくはいつものように「なあに」とふつうに応じた。  彼女がそのとき言ったのはこういうことである。きのう、おうち(この場合は下宿先)に帰る途中、これって人生みたいだな、と思った。おうちが「死」であるとすると、それに向かって歩いていくのが人生だ。  彼女も青年期真っ只中だから、やはり生きることとは、とか、死ぬこととは、とか、まともに考える時期なのだなあ、とぼくは思った。しかし、彼女の話は次のように続いた。  おうち=死に向かって帰るとき、二つの帰り方がある。ひとつは、おうちだけを目指して、寄り道もしないで、まっしぐらに効率よく歩く帰り方だ。そういう人たちをあざ笑ったり、ましてや責めたりする気持ちはまったくない。でも、自分自身はもうひとつの帰り方をしたいということに気づいたのだそうだ。それは、友だちのところに会いに行ったり、途中の森に入り込んで散歩してみたりして、「人生の風景を味わいながら帰る」という帰り方である。  ぼくはこれを聞いて、それが大きな発見であることを認めた。まさに自己決定の人生のあり方ではないか。そして、生涯学習やボランティア活動、市民活動などは、そういう「自分がやろうとしてやる」自己決定の活動である。ほんとうに自己決定で生きることができている人は、たしかに、そうでない人がいるからといって、干渉したり、とやかく言ったりしないものだ。そういうことまで、ぴったりと説明しきれている。多くの人がそうありたいと思っている当たり前のことだが気づかない「自己決定」のあり方を、チエちゃんははっきりと示してくれたのだ。  ぼくは、その後、ちゃっかり、この話を授業やいろいろな講演などでしゃべらせてもらっていた(もちろんチエちゃんの話という前置き付きで)。青年教室にときどき顔を見せていたチエちゃんが、それを聞いて、ある日、二次会の席でぼくにこう言った。「mitoちゃん、わたしの話、ほかの人にどんどん話していいわよ。でもね、私がそのとき言ったことで一番大事なことを、mitoちゃんは忘れてる」。すなわち、「エネルギーを使うけど」という前置きの言葉を、「人生の風景を味わって生きていきたい」という言葉の前につけていたはずだ。それが大切な発見だったのに、とぼくは注意されたのである。  そうだ。自己決定の活動をしようとすると、「効率よく生きる」のとは違って、多大のエネルギーを消費する。自分がやろうとしてやり始めた生涯学習活動なのに、人と出会うことによってかえって自分自身が傷ついてしまったり、専門の世界を散歩しているうちにさ迷い込んでしまって、自分がその世界のどこを歩いているのだか見当がつかなくなってしまったり・・・・。自己決定の人生や、自己決定の生涯学習活動というのは、「エネルギーを使うけど」という前提も含めて自己決定することなのだろう。  ぼくの追加意見も述べておきたい。ぼくはチエちゃんみたいな人たちから、たくさんエネルギーをもらって生きているけれど、それでも元気がなくなるときもままある。そういうときに思う。人には「エネルギーを使うけど」という前提そのものがしんどいときがある。そういうとき、自己決定活動の場合なら、潔くお休みさせてもらえばいいのだ。それは、自己決定活動が元気にできている人からは、けっして非難されたりすることはないだろう。そのことはチエちゃんの言葉が保障してくれている。(自著『癒しの生涯学習』) mito>大学のアカデミズムは、この自己決定を支援するものでありたい。 (2) 自己決定活動における癒し  ぼくは、人びとを癒されない状態に追い込む「上下同質競争社会」において、癒しを提供する「水平異質交流」を生み出す時間・空間・仲間(3つの間でサンマという)が突出的に存在していると考えている。それは、自己決定のサンマとしての@生涯学習、Aボランティア、B地域活動(市民活動)の3つである。そこでは、「仕方ないから頑張る」などというぼくたちのいつもの奴隷の習性などはいらない。そういう人がいたらかえって邪魔になる。自立した者どうしが相互承認しあい、あるがままの自他を肯定的に受け入れあって(自他受容)、のびのびと異なった個性を育くみ、発揮しあうというところがサンマの魅力なのである。さらには、そこで、他者や社会に貢献できる有用な自己を再発見し、また、他者からその認知を受けて自他への信頼を深め、個を深めることができる。そこでは図表1(略)のような好循環が成立する。本書(自著『癒しの生涯学習』)では、このような現代のリアリティを探りたい。 mito>公開講座への参加も、市民にとっては自己決定であるからこそ、受講者間に「癒しのサンマ」が形成される条件下にある。(自著『癒しの生涯学習』) 4 技術屋としての大学への期待−会社のためではなく、自分のため 技術屋が個人として学びたいこと  川田春夫さんは10年以上勤めた会社を今年、退職した。去年のヤングフェスティバルで仕事がなおざりになりがちで、会社や顧客に迷惑をかけていると感じたからだ。一番勉強したのは、電気工事施行管理技士資格取得(1級)のときだそうで、ヤングフェスティバルと同時進行で集中して勉強した。その次が徳島大学工学部への編入のときで、10日間ほど集中して勉強した。また、夜間部のときは、各専門分野の仲間が集まって、夏休みに編入をめざして勉強会をした。彼は数学を教えた。夜10時までみっちりやり、それ以降切り上げて毎晩のように遊びに行った。楽しかったと彼はいう。  しかし、コンピュータのハード、ソフトなど、どんどん新しくなるので、独自の勉強だけでは追いつけない。機材も手に入らない。とくに徳島では、技術が陳腐化しており、リニューアルが必要と彼はいう。  彼は自治体のある講習会に私費で申し込もうとしたことがあるが、企業からの参加ではなく、個人参加であるという理由から断られた。その講習は企業を育てるという目的で開かれているからだ。彼はいう。自分は、技術屋個人として勉強したい。  必要になったときは、今でも徳島大学に当時の化学の先生を訪ねて、食品工業の生物制御などについて教えてもらっている。自分より下の世代はそういうことはしていないようだが、自分たちの世代は、忙しい先生だが、連絡をとって、違和感なくやっている。  ただ、コンピュータについては、教えてもらう相手がいない。中小企業には最先端知識が必要なのではなく、新しく出た安い商品をいかに使うかがポイントになる。  リカレントも必要かもしれないが、それよりも基礎的なことが欠けている。具体的には数学、物理、国語などである。国語についていえば、工学部時代、ノートに写すだけであり、考察といっても、教師の提起した課題を解くという「考察」であった。しかし、実際の仕事では、課題というよりも問題を見つけ、それを考察し、書かなければならない。これは自分の会社がたまたま提案型の仕事だったからかもしれない。彼は、基礎学力に欠ける新入社員のために、数Vなどの教科書をつくったことがある。  自身については、発想法、計画力が重要と考え、70万円の私費を払って、ビジネススクールの通信教育を今でも受けている。会社はそれをプラスとは考えていない。彼自身も自分の財産づくりだととらえている。これをしなければ、客への提案はできないと思った。そうしないと自分自身が枯れてくる。「会社のため」ではなく「自分のため」という気持ちである。ヤングフェスティバルについても、同様に「自分のため」と思っている。自分より若い人たちと共同で何かを作りあげるなかで、時代の風がわかるという。 (川田春夫さんインタビューまとめより) 5 裏講座・フリースペースの存在意義 (1) 「学生の特権」の市民への開放  ぼく個人としては、大学教官と時には酒も交えて自由闊達な知的議論をするという学生だけの特権だった喜びを市民にも「開放」するということは、少し大げさだが大学開放の新しい段階を切り開くものととらえている。 (2) 自然体の交流 キャンプは夜だ  過去の青年教育においては、サークル等の目的集団に対する青年団等の生活集団の意義が叫ばれたことがある。そこでは、生活に根ざした総合的な人間交流の意義があらためて評価されていた。もし、そういう人間交流が可能になるならば、それは上下競争社会の一端に風穴を開け、人間解放のユートピアを実現することに近い。しかし、これといった具体的な到達目標を持たずに、生活のなかでの人間交流そのものを目的とする試みなどに現代青年が関心を持つだろうか。私たちのそういうためらいに答えを出してくれるのが、キャンプであり、キャンプの夜であり、キャンプの夜の「空白のプログラム」なのである。  そこでは、気楽なおしゃべりや打ち明け話のなかに、一人ひとりの生活文化が自然にしみだしてくる。共通の文化の確認も楽しいが、異なる文化との出会いは「えっ、君っておもしろいねえ」という感じで、よりいっそう刺激的である。仲間とのつきあいの楽しさとは本当はこういうものである。キャンプは、過去の青年団活動に匹敵する新しい生活集団としての新しい教育効果を発揮してくれるのである。  過去の青年教育にも、日中の正式のプログラムが終わって、夜、寝床で昼の議論の延長戦を行うことを寝床分科会と呼んで、その意義が注目されていたことがある。本音の交流ができるからである。この寝床分科会の意義も軽視できないとは思うが、狛プーのキャンプは分科会の延長でさえもありえない。「寝床分科会だね」なんて言われても、狛プーのメンバーはきょとんとしてしまうだろう。キャンプにつき物のカレーライスではなく、汚いロッジの中だが、ちょっとおしゃれなフランス料理やスープをつくり、ワインなどで盛り上がる一方、個人がそれまで持ってきた「文化」や「生活」そのものがポツリポツリと出される。思いもしなかった他者の枠組に出会って、自分の枠組との違いに驚き、「おもしろい奴だなあ」と感じ、しかも、「そうか。わかる、わかる」と、それなりに共感してしまうのである。  人間は仕事や学業に追われる昼間より、夜のほうが自然体になりやすい。だからこそ、夜になると悪いこともしてしまうのだろうが、それはある意味では人間らしさの表れでもある。「人間らしさ」とは善と悪の混合体である。夜はそういう魔力があるから魅力的なのだ。(自著『癒しの生涯学習』) (3) 臨床的真実との出会い 平成11年度 私らしさのワークショップ  裏講座第1回報告 実施月日 1999年6月29日  大雨警報が出されたなか、Mさんが来てくれた。小人数ではあったが、ぼくとぼくの長男といっしょに、「芳水」を飲みながらしみじみと語り合った。Mさんの生い立ちや夫が亡くなってからの3年間のお話、人とのめぐり合いに関する考え方また、お仕事である掃除の話などを聞いた。彼女は几帳面な性格なので、いろいろと仕事を任されて大変だとぼくは感じた。  うれしいことに(夜遅くなのに強引にお誘いしたのですが(^^;)本センターのスタッフの心理学のK先生も同席してくださり、親が子どもに教える2つのこと、自立と自律についてや、「正しい自分である必要はないが、正しく自分であれ」という興味深い言葉について教わり(正確には未確認)、ぼくたちはいたく感動した。 6 活動している人の大学開放への期待 (1) 活動とは異なる出会い−自分をつくらなくてよい 公開講座「私らしさのワークショップ」でまったく異なる出会いの体験  川田さんは本センターの公開講座「私らしさのワークショップ」を受講している。彼にとってはほかの体験とまったく異なる出会いであった。受講者の年齢が高く、それなのに元気であることに彼は衝撃を受けた。  ヤングフェスティバルなどの場では、たとえば許したくても許してはいけないなど、リーダーとして「自分をつくる部分」が必要だが、講座ではそれがない。講座自体が、自分の気持ちをさらけ出す怖さを感じさせる。しかし、自分も相手も気持ちをさらけ出し、またフリースペースや裏講座などもあるので、とくに最初の秋講座では、5回だけで、そういう異年齢の人と数年来のつきあいをしているような感じになれた。  知識や技能を習うという目的だけなら、ふつうの講義のように顔見知りになるころには終了ということがあってもよいかもしれない。しかし、それでも友達をつくるということは、横のネットワークができて教えてもらえるということであり、大切なことだと彼は考えている。 (2) キーパーソンが生涯学習を学ぶ拠点として 国立大学の門をもっと外に向けてほしい  最近、国立大学の独立行政法人化、エージェンシー化への動きが急である。彼はいう。国立大学はお金がかからないから自分でも行けた。また、たとえ授業は40人が受けたとしても、5、6人で気軽に先生のところに遊びに行ったり、教えてもらったりすることができた。そのスペースもふんだんにあった。それが自分には楽しかった。サロンのように、教師と学生が同じ高さで接する機会をこれからも大切にしてほしい。  自分は本センターのスタッフが翻訳した『大人を教える』(学文社)を読み、ほんとうに勉強になった。たとえば講師の姿勢、部屋の様子、入り口で迎えることなど、その姿勢は、ヤングフェスティバルや学遊塾でミーティングが煮詰まってしまったときなど、有効なアドバイスにつながった。大学教師は専門知識には優れているが、とくに工学部は社会教育や生涯学習についての理解がない。人、とくに大人を教える場合は、それが必要になると思う。  また、社会教育や生涯学習についてセンターの教官とは話すことができるが、行政にはそのような相談相手がいない。社会教育のこと、イベント、青少年団体などについて、人事異動が激しく、あまり知らない職員が多い。たしかに生涯学習という言葉は盛んに使われてはいるが、自分の話が、とくに役所には伝わらないというもどかしい思いをもっている。  生涯学習についての勉強会をしたい。本センター教官から紹介されたメーリングリストでは、生涯学習についての議論が盛んにやりとりされている。話し合える人が全国規模だといるということは、徳島にも本当はいるのだろう。きちっと社会教育や生涯学習を学んでいて活動している人たちの中核組織としての連絡会がほしい。そういうキーパーソンをセンターの8人の教官の専門性をいかしてフォローしてほしい。自分自身、センターの教官と出会う以前は、生涯学習によってこんなことができるとは知らなかった。  30代の人たちで何かをしたい。何をすればよいかわからない人、自分だけで考えている人などがいるだろう。その人たちがアクセスできる場になってほしい。  自分は徳島大学出身なので気軽に徳島大学に行けるが、そうでない県外出身者、高卒者、他大学出身者にとっては塀が高いと思う。それに対して、徳島大学大学開放実践センターは大学の外に向かって開かれているという実感がある。これを活かしてほしい。  徳島では青年層リーダーが元気なようでいて、実際には40代以上に、「口先ばかりで行動しない」といって頭を押さえつけられている部分があると思う。そういうとき、センターのようなアドバイザー的な存在があれば、青年層の悩みも「口先ばかり」ではなく、より具体的になるのではないか。  また、起業については、県や市の補助金なしには、この不況下では不可能、理念などはいっていられない、従業員に給料を払わなければ、という実態と雰囲気がある。起業家の若返りを図り、青年層(30代から40代)に設定するべきだと思う。徳島大学が起業のための発信をしてほしい。CATVなら放送枠にまだゆとりがある。CATVは、見る人はけっこう見ている。徳島大学の教員がニュースに出てくることはときどきあるが、起業の件ばかりでなく、もっとシステム的に地域に発信することを考えてほしい。  川田さんのようなおだやかで物静かな新しいタイプのキーパーソンが、大学開放にエールを送ってくれている。取材者としては、そのことを心強く思うとともに、こういう人たちの議論の場を提供し、学習支援を強めていきたいと感じた。 (ともに川田春夫さんインタビューまとめより) mito>国立大学開放機関としては、いわば「知的水平勉強会」によって、大学と市民の知的協働を進め、それをよりいっそう高次のものとすること、さらには国立大学の存在を自発的に支持する市民集団を形成することによって、迫りくる大学の「独立行政法人化」の嵐に向かう準備が必要であると思う。これによって、産学官民の知的協働、さらには、それらキーパーソンの拠点として、開放機関が新しい役割を発揮することが重要である。 7 アカデミズムとしてのリベラルアーツ 平成11年度 私らしさのワークショップ  春学期第6回報告 実施月日 1999年6月22日 導入−授業は勝負だ  自分の書いた出席ペーパーの文中の「恋人同志」が前回、mitoに「恋人同士」と訂正されたが、辞書で調べたり、知識のある人に聞いてみたが、「恋人同志」も間違いではないようである、という発言が参加者の一人からあった。ぼくは「間違いだと思う。書き順などはどうでもいいが、誤字は訂正したほうがよい」と答えた。その上で、教師に「かみつく」ことの大切さを評価し、その場合、子どもの辞書でもよいから調べて、教師の間違いを指摘できる部分をコピーして示すなどの「もう一歩」があるとさらにすばらしいとコメントした。  また、次の体験を披露した。「重複」を「じゅうふく」とぼくが発言したところ、ある学生が「ぼくは日本語を愛している。じゅうふくではなく、ちょうふくと読むのが正しい。教師として恥ずかしいことだ」と出席ペーパーに書いてきた。ぼくは悔しくて、辞書を調べてみたら、確かに「重複」の「じゅうふく」という読み方には×が付いていた。これも、授業の場では、「本人がじゅうふくと読みたいのなら、そう読んだっていいじゃないか」という話にはならないのである。本人なりの意識化された特別な理由があれば別だが。  自分では自明だと思い込んでいたことが覆ってしまうことが学問の魅力であり、それを「恥ずかしいこと」と思わず、「知っていることを知っていると言って教えてあげ、知らないことを知らないと言って教えてもらう」ことこそ知識人の姿である、と思えばよいのである。  その人の「ちょっと待った」的な発言のおかげで、いつものなごやかさに比して、ぼくも久々にヒートアップし、ぼくが学生相手の授業で掲げていた「授業は教師の勝負どころである。ビートたけしに勝つ。ただし、フリースペースではただのmitoちゃんでしかないけれど」という状況になった。ただし、このことについては「一人だけで気負っちゃって」とか「勝負ではなく、許し合うことが現代では大切でしょう」などということで、不愉快さを表明する学生がいつもいたのだが、この講座に参加している市民の人たちは、このぼくの考え方に同意してくれたようだ。現役学生と自己決定学習をする市民との、教師に対する期待の仕方の違いというところであろう。  なお、無責任に感じられるかもしれないが、その後、「恋人同志」について調べているのだが、それが間違いであるという論拠をいまだつかめていない。 8 臨床的真実との出会い (1) みんなちがって、みんないい。  「違うからよかった」というグループが、今回のカード式発想法で出てきましたが、どうもこれには引っかかります。本当に違うからよいのか? 違うという言葉はどういう意味で使われているのか? ぼくは違うからよいのではなくて、「違う」の向こうにある「同じ」のゆらぎがよいと思う理由ではないかなと思います。何もかもまったく違う者は、理解も共感もできないのではないかと思っています。短くうまくまとまりませんがなんとなく疑問を感じたので。 (受講者の出席ペーパーより) (2) 出席ペーパーシステム  これ(状況主義的自分らしさ)は出席ペーパーを提出する学生の多くが、ぼくから顔と名前が一致されないように希望することにも通じている。出席ペーパーは、あくまでもそれを書いているときの「いま、ここでの」自分の表現であって、それがぼくから「この人はこうなのだ」と誤解されたくないし、あるいは他の状況でもそこに書いた「自分らしさ」が貫徹されているはずだ、などという無言のプレッシャーを他者から受けたくないのだろう。それだけに、出席ペーパーには虚偽や無理が少なく、本人の臨床的真実に迫るものが多い。 (平成11年度情報処理教育研究集会発表予定) (3) 公開講座のワークショップ型への転換  ワークショップとは (1)作業場、(手工業的な)工場 (2)(小規模な)研究(集)会、研修会 をさす。これは一斉集団承り学習という受動的学習方法の打破に通ずるものである。笑い声が絶えない、学習者自らがその気になる、などの特徴がある。 ◆ 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を  数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。  市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。  そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。(自著『癒しの生涯学習』) mito>ワークショップは承り型から参加・参画型学習に転換するための大きな可能性をもっている。そして、ワークショップにおいては、出席ペーパーと同様に、一般社会と比べてかなり突出的な臨床的真実の相互関与が行われるがゆえに、アカデミズムの新しい役割の発揮が期待できる。