2.1990年代の若者やこどもの「個」の支援 −その転換と課題   −10年間の青少年問題文献から  (西村美東士=にしむらみとし、徳島大学大学開放実践センター)  (1) 1990年代初頭の動き    −臨教審/個性重視/生涯学習  本稿は、私が平成元年度(1989年度)から青少年問題ドキュメンテーション研究会委員(平成10年度からは協力者)として関わってきた『青少年問題に関する文献集』(総務庁青少年対策本部)における計2238件の関連文献の解題をもとにして、90年代(注、90年バブル崩壊)の全国各地の青少年教育の施策と理論を総括しようとするものである。研究会での私の担当分野は「社会」と「文化」であり、青少年対策や青少年の生涯教育・社会教育に関する行政資料と論文が主である。なお、ここで、青少年教育とは、学校教育以外の社 会教育、生涯学習における若者やこどもを主対象とした教育をさす。ちなみに、他の研究会委員が担当したカテゴリーは、意識、心身の発達、家庭、学校、職場、非行であり、したがってこれを一義的テーマとする文献はほとんど含まれていない。  85年6月、臨時教育審議会「教育改革に関する第1次答申」(85/6)は、欧米へのキャッチアップを実現した我が国の教育改革の基本的考え方として、個性重視の原則を挙げ、生涯学習体系への移行を訴えた。「個性重視」はその後の審議でも中心課題であり、最終答申である第4次答申(87/8)は、教育の基本的在り方と視点として、@個性重視、A生涯学習、B変化への対応、を提示した。90年代の青少年教育は、この考え方に大きな影響を受けながら展開する。  ただし、臨教審のいう「個性重視」という言葉については、第1部会では新しい教育理念として「個性主義」(個性の最大限の開発)が提起されており、これを「現状の教育の枠内での言葉に置き換えられてしまった」(第1部会委員中内功)結果のもの、すなわち妥協の産物とみることができる。ここには、社会的機能としての教育と、個人的活動としての学習との、折り合いをつけることの難しさが表れている。  その後、生涯学習局を筆頭局として設置するなど文部省の組織の大規模な改革(88/7)や生涯学習の基盤整備を図ることを目的としたいわゆる「生涯学習振興法」の公布(90/6)があった。中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」(90/1)は、生涯学習を振興するに際して国や地方公共団体に期待される役割は、人々の学習が円滑に行われるよう、生涯学習の基盤を整備して人々の生涯学習を支援していくことであるとし、生涯学習の推進体制や地域における生涯学習推進の中心機関となる生涯学習センターの設置などの基盤整備の具体策を提言した。また、留意点として、次のように述べた。@生涯学習は、生活の向上、職業上の能力の向上や、自己の充実を目指し、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本をするものであること。A生涯学習は、必要に応じ、可能なかぎり自己に適した手段及び方法を自ら選びながら、生涯を通じて行うものであること。B生涯学習は、学校や社会の中で意図的、組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われるものであること。同審議会答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」(91/4)は、学校教育を生涯学習の一環としてとらえ、過度の受験競争など学校教育が抱えている問題点を解決するためにも、生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果を評価するような生涯学習社会を築いていくことが望まれるとした。  生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(92/7)は、人々が生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果が適切に評価されるような生涯学習社会の構築を目指すべきであるとし、当面の重点課題として、@社会人になってからでも再び教育を受けられるリカレント教育の推進、Aボランティア活動の支援・推進、B青少年の学校外活動の充実、C環境、情報の活用等の現代的な課題に関する学習機会の提供を挙げた。 (2) 大人の個が問われている    −学校週5日制/個の深み/心を育てる  92年9月、毎月第2土曜日を休業日とする学校週5日制が実施され、2002年には完全実施される。  中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言「学校週5日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動」(91/3)は、既成の青少年団体が安易に請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、土曜日の子育てを地域の親たちの共同作業(共働)にしようと呼びかけた。私も委員として、「地域子育てネットワーク」において、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもつ個人として生きるという意味の「個の深み」が重要であることを文中で提起した。  これは、学校週5日制の受け皿として青少年団体がたんなる数量的な拡張をするだけではなく、5日制をひとつの契機として、青少年団体の活動スタイルそのものを時代に対応して変化、発展させようとする提起であり、そこで問われるのは指導者や大人自身の「個の深み」の発揮である。  京都府では「京都府青少年プラン」(91/3)が策定され、その視点として、大人一人ひとりが青少年を育てることが挙げられた。大阪府では「大阪府青少年育成計画(プラネット計画)」の計画期間の終了に伴い、「第2次大阪府青少年育成計画(新プラネット計画)」(92/1)を策定した。この計画作りの視点としては、おとな社会の問い直し、青少年文化の積極的評価、おとなと青少年の共育、などが挙げられている。「大阪府青少年白書」は、これを受け、青少年が「心の豊かさや精神的なたくましさに欠ける」とか「自立がおくれている」とかいわれていることに対して、そのような指摘のあたる面もいくつか見られるが、一方では、青少年がおとな以上に優れた感性や能力をもっている面もあるという認識から、彼らのためにいかなる環境をつくるかについての大人の責任が重大である、と提起している。  青少年育成国民運動に関しては、93年3月、青少年育成国民会議が『生かそう、学校週5日制』を発行し、具体的条件づくりとして、@地域の育成体制の充実、Aヤル気のある指導者のネットワークづくり、B活動の場の整備・充実、C子どもたちに魅力ある活動を、D非行防止への配慮を、E安全対策と情報提供を、と提案し、同会議におかれた特別研究委員会は「21世紀に向けての青少年育成構想」を報告し、「少子化と青少年育成」に関して、@育児条件の整備、A子育てを社会的な視点で、B男性の育児参加、C育児に対する職場での理解、D地域の中で子育てネットワークを、と提言した。  岐阜県個性を活かす社会づくり懇談会「個性を活かす社会づくりに向けて」(94/3)は、その視点として、@個性を活かす社会づくりと教育、A自己教育力の養成、B生涯教育の体系化、C人間観の変革、D教師観の変革・教師自身に対する視点の見直しなどを提言し、その青少年対策検討委員会報告書は、方策推進のための基本方向として、@自主性の尊重、A知的好奇心の尊重、B発達段階に応じた対応と体験的活動の重視、C21世紀に向かう社会的潮流を見据えた展開、D役割の明確化と連携のとれた取組みなどを提起した。報告では、一人ひとりの個性を尊重することにより、「個人の幸福」と「社会の発展」の両面の達成が可能になり、その社会は、長所優先主義で、個性の多様性、異質性が尊重されるとした。社会そのものに「個性を活かす」ことを求めたのである。  山梨県青少年総合対策本部「やまなし青少年プラン」(94/3)は、「教育」から「共生」への意識改革を訴え、「青少年問題は大人の問題」とした。横浜市青少年問題協議会「青少年の主体的成長・発達をめざして」(同)は、彼らの健全な発達を保障する環境づくりについて提言したうえで、青少年自身がこの世に生まれでた命を自らが誇りとすることができ、また自覚と自律心のある人間として健やかに成長することを願い、青少年に対して「君たちの心を親はわかってくれているか」と呼びかけた。  『富山の青少年』(95/1)は、青少年問題の対策に関する基本的認識として、「青少年はその時代を写し出す鏡でもある」とし、青少年問題は社会全体とりわけ大人の姿勢の問題であるということを常に認識し、家庭、学校、職場、地域社会等、社会の各分野において大人たちが、それぞれの役割と責任を果たすよう提唱した。「わかやまの青少年プラン」(95/10)は、「大人自身が青少年とともに学び、育つ姿勢を堅持します」という視点のもと、「青少年が世代をつなぐ意思を持って自立していくために、大人もともに働き、ともに生活し、次代を育てる喜びと意味を自覚する必要があります。そのためには、大人自身が健やかに育ち、また、育とうとする努力が大切であり、新しい年齢観や世代役割を考え、創造し、ともに学び育つ姿勢を持ち続ける、いわゆる生涯学習の視点が重要」とした。「守口市青少年健全育成計画」(95/4)は、「青少年が変わったとか、理解できないとか嘆くのではなく、彼らの持つ新しい感性や表現方法を積極的に理解し、認知していく」とした上で、「人間や自然との共生を図り、ゆとりとぬくもりのある豊かな都市環境をつくる」、「青少年の夢を育て、生かすという視点に立って、青少年育成の観点を組み込んだ地域環境のあり方を見直す」としている。福岡市の「青少年対策の基本方向」(95/12)は、青少年の非行等問題行動への対応について、「単に対症療法的な対応や事後的措置だけでなく、大人社会の問題でもあるとの認識のもとに広く青少年の健全育成を基本とした総合的な取組を推進する必要がある」とした。  東京都青少年問題協議会答申「青少年の自立と社会性を育むために東京都のとるべき方策について」(96/2)は、いじめ問題への対応について、「どうしたら社会全体に、正義が尊重され、勇気をもつことが価値とされるような文化を作り出すか、大人の姿勢が問われている。大人たちがボランティア活動にかかわる姿を一般化させ、ボランティアが日常化している社会的風土を広げることが必要である。こうして、社会全体が人にやさしい社会となる時、いじめは限りなく終息に近づくことであろう」としている。「埼玉の青少年」(96/3)は、青少年育成の基本理念として、「青少年問題は大人の問題」とし、「大人自身の生き方や社会のあり方を問い直し、大人一人ひとりが青少年育成に対する責任を自覚する必要がある」と述べている。そして、「〜してはいけない」と禁止的に働きかけるのではなく「〜しよう」と積極的に関わるよう提起している。「三重県青少年対策」(96/4)は、いじめについて「人権に係わる重大な問題」であることを社会全体の共通認識として位置づけるという方針のもと、父親の出番を重要な要素として受けとめるよう提唱した。  また、私は、「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」(95/9、神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」)で、大人たちが「せめて青少年には幸せを」と言って、自分たち自身の不幸で非主体的な状況を批判しないまま地域教育力に期待を寄せることの滑稽さを指摘し、地域の「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずる、とした。さらに、岡山県社会教育委員の会議提言「青少年の学校外活動の充実について」(96/3)は、学校外の生活体験・自然体験のあり方について、「私たち大人が、星空の瞬きに、海岸の潮騒に、そして山々の薫りに関心を持つことができる生活態度を回復しなければならない」と提言している。大人個々人の実感の乏しさにまで踏み込んで指摘されるようになったのである。  このように、90年代中盤、青少年対策や国民運動において、その活動が単なる「青少年対策」にとどまるものではなく、現代社会の大人自身がもっと人間的に成長することや、社会自体がもっと生きやすく、他者とともに生きることのできる社会になることと重なっているという認識、すなわち青少年健全育成の現代的・社会的課題としての認識が深まっていった。  一方、日本ユニセフ(国連児童基金)協会『ユニセフ年次報告』(97/3)で、事務局長キャロル・ベラミーは、「児童の権利条約」批准状況等の今日までの大きな前進を認めつつも、予防できるはずの人権侵害による死亡、不就学、厳しい貧しさ、その他搾取的な工場や戦場あるいは不健康な都市、とりわけ女の子への差別などの緊急な課題を提起した。同「世界子供白書」(98/12)は、テーマを教育とし、「なによりもまず学校教育は生涯学習の基礎にならなければならず、アクセス可能で、質が高く、柔軟で、ジェンダーに配慮し、女子教育を重視するものでなければならない」として、教育の権利、教育革命、人権に投資する、の3点を主張した。国際的にも、子どもの加害者としての大人や社会の問題が重視され、生涯学習の意義が強調された。  東京都児童福祉審議会は「子育て支援のための新たな児童福祉・母子保健施策のあり方について」(92/11)は、福祉、保健、医療にとどまらず、関係各行政分野や家庭、地域社会、企業を含めた社会全体が総合的な取り組みを行なうよう提言した。そこでの「子育て支援」の理念とは、「子どもを産み育てることは、個人の自由意思に属することが尊重されるべきものである」としつつ、「行政は都民が希望と喜びをもって子どもを産み育てたいという動機づけになるような基盤づくりと、子どもを産み育てたいと希望する人々への支援策を行なうものである」というものであり、出産・育児に関する不安などの適切な情報提供と発見のシステムを要する問題をも児童福祉施策の対象に含めていくべきとして、大人の生涯学習支援の性格を強めていく。また、93年11月には、東京都福祉局、衛生局、教育庁の関係職員による「児童虐待防止マニュアル作成検討委員会」が発足し、『子どもの虐待防止マニュアル』(95/3)が作成された。  国のエンゼルプランを受け、97年3月、「やまなしエンゼルプラン」は、@子どもの視点にたった施策の展開、A安心して子どもを生み育てることができる環境づくり、B子育て支援の社会環境づくりを、「摂津市児童育成計画」は、@最善の利益は子どもに、A地域や社会による子育て支援、B子どもとともに育つ都市づくり、を掲げた。後者は、誰もが楽しく子育てができ、子育てを通じて社会参加・参画ができるよう、親とともに、地域や行政が一体となって子育てに取り組むとしている。  これらの動きのなかで、団体活動に関しても、97年度、仙台市青少年問題協議会報告「子ども会活性化方策について」が地域の多様な年齢層との関係の樹立による再生を、岡山県FOS少年団連盟専門委員会報告が家族的雰囲気による少人数団活動の工夫などを提言し、静岡県「青少年活動の活性化について(報告書)」は親たちや地域社会がコミュニケーションを行えるゆとりがなければならないとした。大下勝巳は、個人としての「私」を取り戻して子どもに向き合い、大人のネットワークづくりを進めてきた「おやじの会」の報告を通して、新しい地縁社会の創造をめざすテーマコミュニティにおける市民の意識改革の意義を主張した(97/5、全日本社会教育連合会『社会教育』)。  香川県では、CAP(Child Assault Prevention:子どもへの暴力防止)事業や「青少年の自立支援事業」を実施した。これは、ワークショップを通して県民のCAPプログラムへの理解を深めるとともに、子どもが暴力から自分の身を守る知識と手段の習得を図るものである(99/3、青少年育成香川県民会議『青少年の自立支援事業実践事例集』より)。  これら、大人の問題を問い、大人の心の転換を求める動きを、青少年教育において結実させた答申が、中央教育審議会「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機」(98/6)である。これは、「子どもたちに豊かな人間性がはぐくまれるためには、大人社会全体のモラルの低下を問い直す必要がある。子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、根本的な問題。今後、我々大人が率先してモラルの低下を是正し、この危機を乗り越えていこう」、「悪いことは悪いとしっかりしつけよう」などと訴えた。  学校週5日制完全実施に向けて、地域において子どもたちに豊かで多彩な体験活動の機会を用意するため、文部省は1999年度を初年度とする「地域で子どもを育てよう緊急3カ年戦略(全国子どもプラン)」を策定した。国立信州高遠少年自然の家等では、青少年とくに中学生による憂慮すべき事件などについて、子どもたちのサインを大人が見落としているのではないかということから、前年度半ばの「子どもと話そう全国キャンペーン」に呼応した事業を春休みに展開した。静岡県では、文部省「子どもの『心の教育』全国アクションプラン」委嘱事業として「こどもの心を取り戻す教育推進事業」を実施した。兵庫県社会教育委員の会議は「子どもたちに生きる力を育む社会教育の推進」を報告した。神戸市須磨区の事件以来、「心の教育」の一層の充実を図ることの大切さを改めて認識し、前年度から、公立中学校2年生全員が、地域でボランティア体験や勤労体験等を行う「トライやる・ウィーク」推進事業等を実施しているが、本会議はこれを受けて青少年の心の居場所づくりなどを提言した。  私は「心を育てる」について「心を育てるといわれたとき、その指さされた心のあり方が、教育を受けるものにとって本気になれないものだとしたら、指導行為など成り立つわけがない」と述べた(詳細は3章)。青少年教育において「心を育てる」ためには、「青少年対策」だけでなく、何よりも大人の個の自己確立にまで踏み込まざるをえないという認識には、90年代終わりの時点ですでに到達しているといってよいだろう。しかし、依然として残っている問題は、青少年にとっても、それを取り巻く大人にとっても、「自らが自らの心を育てる」という個の学習はどうしたら実現するか、そのための有効な支援方策は何なのか、ということである。 (3) 個は個別に多義的に生きている    −自由時間/ソロ/自分さがし  神奈川県「かながわ青少年プラン改定実施計画」(91/3)は、「大人のつくった社会参加観の中での活動を期待したり、青少年に特別な行為を要求するのでは、青少年の自主性の芽は育ちません」とした。青少年への大人や社会の側から期待するだけでは、青少年個人にとっては意味あるものにならないということであろう。91年度からの「新富山県民総合計画」は、若者の定着と流入のため、若者の感性にあった都市、深夜まで楽しめるまちづくり等をめざした。ただし、沖縄県ではのちに「青少年の深夜はいかい防止県民一斉行動」(95年度から)を始め、青少年の夜遊びや深夜はいかいの現状に対し、全県民が生活リズムの確立を図り、大人自らが夜型社会を是正するよう求めている。  埼玉県青少年問題協議会意見具申「青少年健全育成の進め方について」(92/2)は、青少年健全育成の3つの原則として、@科学性−専門的知識や技術の活用、A計画性−長期的視点に立った目標の設定と実行、B総合性−密接な相互連帯と全人性の形成を挙げ、「さいたま青少年育成指針」(92/9)について、行為主体である青少年の活動の実効性や定着を図り、受け入れやすいものにするよう具申した。山形県では、共生、融合、創造、自己実現、関係の5つをテーマとする「新アルカディア構想」に基づいて「やまがた青少年プラン」(92/9)を策定し、青少年の自主性を大切にし、自立と連帯を推進する、などの視点を提示した。群馬県「群馬県青少年健全育成マスタープラン」(93/3)は、「21世紀の主役を育てる」ため、青少年の主体的、積極的な社会参加の実現をめざし、青少年の自主的な活動の促進を計画した。「行為主体である青少年」個人に対して、青少年教育はいかに関われば実効性をもつのか。  「京都市青少年育成計画」(93/6)は、73年以降「ユース・サービス」(青少年の自己成長の援助)を青少年育成の基本理念に掲げている京都市において、成長のモデルを大人に求めることができた時代が過去のものとなり、子どもから大人へと発達課題を達成しながら成長することが困難となった今の時代にあって、青少年の立場に立った育成の理念と方向性を、新しいユース・サービスの展開として提案した。計画策定の視点は、「現代の青少年への視点−『個』の尊重」を挙げ、従来のように青少年を『集合』としてとらえることから離れて、まさに『個』としてみつめ、基本的人権の尊重を出発点として、個人差の大きさもそれ自身、独自の価値をもつものとして尊重する、というものである。岡山県青少年問題協議会意見具申「少子化社会と青少年の健全育成」(95/3)は、画一を是とする誤解の解消として、「みんなと違うからこそ価値があること」「みんなと同じようにしないこと、あるいはできないことがあること、それこそが人間一人ひとりの尊厳であり、かけがえのない価値の証明である」ということを子どもたちに伝えていくような教育を展開するよう訴えた。  東京都青少年問題協議会意見具申「青少年が主体的、創造的に生きる21世紀を−『自由時間』の中での成長」(94/3)は、学校に代表される計画され、整えられ、課題の用意された時間(課題のある時間)の中での成長のほかに、遊びに代表される自由な時間の中でのもうひとつの成長を重視し、「自由時間」の中での今日の青少年の成長の機会が欠けていたのではないかと指摘した。そして、青少年の新しいライフスタイル確立のためには、自由時間を主体的・創造的に活用し、活動を展開できるような精神や態度をも含むいわば「余暇(活用)能力」が必要であるとし、青少年が「自由時間」を十分活用できるように、あるいは青少年の余暇活動を十分サポートできるように、社会システムを構築することなどを提言した。これは、従来の自主性の尊重から、外から与えられた課題のない自由時間の尊重への姿勢の進展である。  また、93年から94年にかけて、前出『社会教育』誌が、青少年への「死への準備教育」等を意識しつつ外的環境と精神世界の調和を論じた「アメニティと生涯学習ライフ」、生きがいや自己実現のための生涯設計について学校教育や民間の就職活動準備セミナー等の事例を扱った「ライフプランと学習活動」、学校教育から「生涯自己発見学習」への転換を論じた「個人の成長と生涯学習論1994」など、青少年一人一人の人生にも関わるテーマを立て続けに特集している。  これらの動きと並行して、体験学習の分野においては、ソロ(単独行)という形での「独りでいること」の実施が試みられた。山口県野外教育活動研究会「グッド・ジョブの声が響く中で−新しい野外教育活動の取り組み」(92/1)では、3日3晩続く孤独と反省の時期として行われるソロなどを、その指導法とするOBS(アウトワードバウンド・スクール、後述)のプログラムが導入された。神奈川県中央青年の家「かもしかキャンプ実施報告書」(92/2)には、自分自身を見つめ直し、自然を認識するための、山中で一人で過ごす2泊3日のソロプログラムが含まれている。その後、ソロは、各地の文献に散見されるようになる。  このような個人の個別性の認識、自由時間の評価、固有の人生への関心、さらには「独りでいられること」の意義への気づきなどの教育的な視点の深化は、いじめ問題やその他の社会動向にも関わって進んできたのであろうが、同時にそれは一般に「行為主体である青少年」に対して青少年教育が実効性をもつための有力な糸口を示すものといえよう。  そして、中央教育審議会第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」(96/7)は、次のように述べた。教育は、「自分さがしの旅」を扶ける営みと言える。子どもたちは、教育を通じて、社会の中で生きていくための基礎・基本を身に付けるとともに、個性を見出し、自らにふさわしい生き方を選択していく。子どもたちは、こうした一連の過程で、試行錯誤を経ながら様々な体験を積み重ね、自己実現を目指していくのであり、それを的確に支援することが、教育の最も重要な使命である。このような教育本来の在り方からすれば、一人一人の個性をかけがえのないものとして尊重し、その伸長を図ることを、教育改革の基本的な考え方としていくべきである。  これは「自分さがしの旅」を公教育が援助していくのだといういわば「決意表明」である。まずは個性尊重の表れとして評価できよう。しかし、その功罪をしっかりと考えなければならない地点に、私たちはいるのだろう。現在、初等・中等教育だけでなく、いくつかの大学でも、自分が何をやりたいかを気づかせたり、自分を見つめさせる授業などが試みられている。「自分さがし」とは本当にそういうものなのなのか。「本当の自分」とは、学校教育のような強固に意図的・組織的な営みのなかで支援されるべきものなのか。少なくともいえることは、「本当の自分」があるとしても、それは多義的、状況的な性格を有しているということである。  河合隼雄『子どもと悪』(97/5)は、「端的に言ってしまうと、個性の顕現は、どこかで『悪』の臭いがするのではないか」として、好きなことへの熱中による個性の発揮や集団になじめない人の創造性などについて述べた。そのうえで、大人が子どもの悪に対して「ここからは許さない」という「強い壁として立つ」よう求めた。しかし、それは「何があたってきても退かない強さであって、それが動いて他を圧迫することではない」とした。  その点からも、インフォーマルな青少年教育の施策と理論の到達点は示唆深い。繰り返すが、それは個別性、自由時間、固有の人生、そして独りの世界の発見、さらには悪の存在である。私は、これをまとめて「個は個別に多義的に生きている」と理解する。 (4) 個は固有の身体をもって生きている    −臨床の知/体験と冒険/生きる力/科学  神奈川県青少年総合対策本部「かながわの青少年」(90/3)によると、81年の知事の呼びかけに始まる県民総ぐるみの「騒然たる教育論議」に始まる「ふれあい教育運動」が取り組まれており、89年3月の提言「翔べ!神奈川のこどもたち」に至った。そこでは、「ふれあい教育」を、「科学の知」による教育から「臨床の知」を基本とする教育とし、「単に自然や人とのふれあいだけではなく、すべての教育活動の基盤であり、最も本質的な柱」と位置づけている。提言は、その基本理念に基づいて、現代社会の新しい貧しさの克服、共生関係の学習などの実践化へ向けて一歩踏み出すよう訴えた。「臨床の知」とは中村雄二郎の術語で、近代科学の<普遍性><論理性><客観性>を批判し、近代科学が排除してしまった<コスモス><シンボリズム><パフォーマンス>、すなわち<固有世界><事物の多義性><身体性をそなえた行為>の大切さを訴える言葉である。  このように個人が固有の身体を伴って、それぞれの世界で受苦し、受動しつつ生きているという真実をまともにとらえるとき、青少年教育は、それが提供する対自然、対社会の疑似体験の意義を今まで以上に自負するとともに、疑似とはいえ、青少年個人の体や心の内面により肉薄する体験の提供を志向することになる。  国立オリンピック記念青少年総合センターの『自然生活へのチャレンジ推進事業事例集−フロンティア・アドベンチャー』(90/3)は、88年から始まった文部省補助事業としての本推進事業が全国各地で展開されていることを表しており、山奥や無人島等の大自然の中で、異年齢構成の少年50人が10泊もの長期間の原生活体験を行うことによる欠損体験の擬似的な体験の顕著な効果を示している。  群馬県では、登校拒否や青少年のひきこもりといった問題の増加などの状況の中、たくましい体と優しい心をもった青少年の育成を図って、新総合計画「新ぐんま2010」(92/3)を策定した。自然生活へのチャレンジ推進事業「おもいっきり冒険隊」などが、その青少年健全育成事業として位置づけられている。また、山口県教育委員会『原始に生きる防長っ子キャンプ報告書』(92/3)によると、他者理解、自然理解、自己理解、集団理解の4つの視点から、人とのふれあい、自然とのふれあい、生命体とのふれあい、文化とのふれあいを重視し、その指導目標を好奇心の活性化、不撓不屈の根性、探求心の強化、自己抑制、おもいやりの心におき、対人関係におけるコミュニケーションと協力関係を強化するための指導法を伴う米国OBS(アウトワードバウンド・スクール)のプログラムを展開した。この試みは、自然生活へのチャレンジ推進事業の新しい進展のひとつの方向を示すものとしてとらえられる。  94年ぐらいの文献からは、それらの体験学習の意義が、自ら望んで安全な世界から踏み出そうとする冒険教育の意義として主張されるようになる。国立赤城青年の家『自然教室に取り組む指導者のために』(96/1)で、飯田稔は「冒険教育のすすめ」と題し、冒険のもつ4つの要素を次のように提示している。@危険を冒そうとすること。特にケガ、時には生命の危険をともなう点である。大なり小なり生命と引換えの部分を含んでいる。A自ら望んで安全な世界から踏み出そうとするエネルギー。行為者の自主性である。B新しい知識や体験に対する憧れ。ある程度の危険を冒してもそれを得ようとする意欲である。C非日常性。日常生活上のきまりや利害関係とかけ離れた行為や活動で、非日常的な状況の中で行われる。したがって、冒険の多くは一般社会にとっては無価値なもので、時には非社会的なものといえる。個人の  これら全国各地の「自然生活」や「自然体験」の重視の傾向(図表1−ここでヒット率とは、題名や解題者による要旨にその語が含まれている文献の割合である)の強力な先導的役割を果たしたのが、国立青年の家・少年自然の家、とりわけ少年自然の家である。一方、青年の家、少年自然の家などの文部省所轄の国立の社会教育施設に対する総務庁の行政監察(94年)ののち、国立青年の家少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議報告「国立青年の家少年自然の家の改善について−より魅力ある施設に生まれ変わるために」(95/7)は、「多様なニーズヘの対応と柔軟な運営」などの提言をした。全国青年の家協議会『青春カルシウム−体験学習のすすめ』(96/3)で、全国青年の家協議会会長・国立中央青年の家所長の内田忠平は、施設実態調査の結果から、「青年の家は、新しい社会の流れを必ずしもうまく捉えられたと思われない。豊かな社会であるがゆえに、疎となりがちな人との心の交流という青年の家が有する機能を生かしながら、青年が求める基本的な快適性の充足を考えていくべき」と提唱した。同書によると、大雪では教える者、教えられる者という関係ばかりではない受入れ事業に意味を提起、江田島では「指導系職員が見た青年の家考」を発行、岩手山では全国規模の青少年団体や地域の青少年団体等により組織された実行委員会による交流活動を展開、赤城では自然教室指導者のガイドブックを発行、能登では障害児者の施設利用に関する調査研究協力者会議、乗鞍では視覚障害者の雪とのふれあい、沖縄では無人島に挑む全国青年のつどいを実施した。一部の突出した少年自然の家が従来から提起していた新しい経営姿勢が、国立青年の家などに普遍化していった。青少年個々の身体にとって過酷な疑似体験と、快適な居心地の両者がともにめざされたのである。 図表1 「自然生活」「自然体験」ヒット率の経年変化 (n=2238)  前出、中央教育審議会第一次答申(96/7)は、「ゆとり」の中で子どもたちに「生きる力」をはぐくむことを基本に、学校の教育内容を厳選するとともに家庭や地域社会における教育を充実すること、21世紀初頭を目途に学校週5日制を完全実施すること、社会の変化に対応した学校教育の改善を図ることなどを提言した。ここで「生きる力」とは、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力、自らを律しつつ、他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性とたくましく生きるための健康や体力を指す。青少年の野外教育の振興に関する調査研究協力者会議(主査飯田稔)報告「青少年の野外教育の充実について」(96/7)は、青少年の野外教育について「全人的成長を支援するための教育」ととらえ、「生きる力」の育成を図る上で極めて重要と主張した。同答申を受け、97年度の文献によると、青少年の「生きる力」を育成するため、ウィークエンド・サークル活動推進事業、アドベンチャーキャンプ、野外体験事業などが盛んに行われた。文部省では同年度から新たに「青少年の野外教育体験月間」を設けた。98年度には、青少年問題審議会が「青少年の問題行動への対策を中心とした西暦2000年に向けての青少年の育成方策について」審議している。また、内閣総理大臣のもと、関係審議会の代表者等の有識者から成る「次代を担う青少年について考える有識者会議」は、98年4月、自然体験、生活体験の重視や、学校外での青少年の居場所づくりなどを提言した。99年度には、文部省は、休業となる土曜日などに、地域において子どもたちに豊かで多彩な体験活動の機会を用意していくため、2001年度までに地域ぐるみで子育てを支援する基盤を整備し、夢を持ったたくましい子どもを地域で育てるための「地域で子どもを育てよう緊急3カ年戦略(全国子どもプラン)」を始めた。  一方、93年ごろまで、各地で「青少年科学活動促進事業」が盛んに実施されていた。これは、地域の教育力を活用して、科学に関する特定の興味・関心を自発的、かつ継続的に追求できる社会教育の特色を生かし、青少年の科学する心を育む活動を推進するために、青少年科学教室の開設のほか、科学グループの育成、科学会議の開催などを行うものである。そして、青少年の科学離れがいわれる中、95年度から文部省が「博物館、少年自然の家等における科学教室等特別事業の研究開発事業」の委嘱を開始した。  国立オリンピック記念青少年総合センター『夏休み中学生科学実験教室報告書』(97/3)は、本事業の趣旨について次のように述べている。本センターでは、94年度から全国の中学生を対象に、寝食をともにしながら、日頃経験しない手作りの実験を通して、科学の楽しさを体験させることを目的とし、青少年教育施設としては先駆けの事業として「夏休み中学生科学実験教室」を実施してきた。中央教育審議会の答申等にも謳われているように、座学中心で知識偏重の教育を改め、様々な体験を通して「生きる力」を培うことは、21世紀に向けて、我が国の教育における最大のテーマである。科学の分野においても、いわゆる理科離れ現象が指摘される一方で、科学に興味・関心を持ち、より深く学習したい、好きな科学に思いきり打ち込んでみたいと願っている青少年に対し、そのような機会を学校外においても提供することが強く求められている。本センターは、科学実験教室を行う上で施設・設備・指導等において決して充分とはいえないが、青少年教育施設の特色を生かして、大学・高等学校・中学校との連携を図ることにより、学校の授業とは違った青少年教育事業として実施することができた。4泊5日で寝食を共にしながらの実験、講演、施設見学、レクリエーションと多彩なプログラムを用意し、特に中心となる実験については、身近にある素材を利用した手作りのものを基本に、創造することの喜びと科学することの面白さを満喫できるように心がけた。  また、97年度には、同研究開発事業として、「同時中継おもしろ自然体験」が開始された。これは国立日高少年自然の家、国立那須甲子少年自然の家、国立室戸少年自然の家、国立諌早少年自然の家、日本余暇文化振興会の共催により企画・実施された連携・協力事業で、子どもたちが恵まれた自然の中でさまざまな体験活動を行い、そこから得た感動や思い出をパソコンで整理・表現し、自然体験活動グループごとのホームページを作成して参加者の相互交流を図り、また、テレビ会議システムを利用して親交を深めた。  「臨床の知」や個人の身体と90年代の青少年教育との関わりについて、私はまずは自然生活や自然体験、さらには身体の危険をあえて自主的に冒す冒険教育に注目した。しかし、後半に示したような科学教育の実践についても、青少年教育の面目が表れていると思う。私はそれを「身近にある素材を利用した手作りのものを基本」、「感動や思い出をパソコンで整理・表現」などの文献の言葉から感じるのだ。「実験設備の不備」等の瑣末な問題を越えて、そこに青少年個人個人の体感を通した「臨床の知」や「生きる力」につながる科学、「近代科学」とは異なる科学の存在を感じる。科学教育においても、青少年という個人学習者は固有の身体をもってこれに臨むのである。 (5) 個は他者の個との関係のなかで生きている    −癒し/居場所/準拠個人/第4の生活の場  横浜市青少年問題協議会意見具申「共生社会に向けての青少年の役割と活動」(89/11)は、「共生」の概念を「情報化・国際化・高齢化の進展による人間や人間関係への影響の中で、青少年の内部の成長・発達を鍵概念として、共によりよく生きていくことのできる社会の実現をめざすもの」と提起した。栃木県では、「いきいき栃木っ子3あい運動」(学びあい、喜びあい、はげましあおう)を県独自の教育運動として、90年度から2期目として引き続き推進した。秋田県では、91年度から、「自立と連帯をめざすふきのとうユースプラン」と題した第6次秋田県青少年育成総合基本計画を推進した。横浜市青少年問題協議会意見具申「こころ豊かな市民への成長をめざして」(92/1)は、今日の青少年、とくに大学生の生活が私生活優先意識に極めて強く彩られていて、個人単位の生活を追求して個人の関心や要求の充足を志向する傾向(個人化)と、公共的・社会的な関心を失って私的な生活への関心・欲求のみを肥大化させる傾向(私化)とが見いだされ、しかも彼らの生活における直接体験は希薄化の一途を進み、その反面、「個室」の中での間接的な疑似体験は拡大してきている、という問題意識のもとに、人と人との血のかよった関係を形成することや異なった価値観や生活文化を尊重しあってともに生きることが大切であるとした。  埼玉県青少年問題協議会「ゆとり社会における青少年の育成」(94/3)は、「三間」(時間・空間・仲間)の減少などの青少年を取り巻く環境と、青少年自身の問題や学校週5日制の問題を指摘したうえで、「互いこそ人の心の輪をつくる」(共に生きる社会)などとした。第21期東京都青少年問題協議会答申「青少年の自立と社会性を育むために東京都のとるべき方策について」(96/2)に関して、高橋勇悦は、@対人親和性を育てる、A他人への共感性を育てる、B愛他心を発達させる、C人びとの多様性を受け入れる態度を育てる、D自己価値観を育てる、の5点を重点として挙げた。  このような青少年教育の努力にもかかわらず、青少年の不登校や引きこもりは進行していく。95年度には、「地域少年少女サークル活動促進事業」(92年度開始、後出)などとともに、「不登校の児童生徒を自然の中に連れ出し、自然に触れ体を動かし、仲間とともに汗を流す」(秋田県教育委員会「フレッシュ体験交流活動事業」)、「障害のある子供たちと障害のない子供たちが大自然の中で長期の共同生活を体験する」(栃木県教育委員会「青少年自然体験活動推進事業交流教育キャンプ」)などのかたちでの自然体験活動事業の発展が見られる。  青少年教育にとって、「個人化」した現代青少年の個人個人をよりよく「社会化」するためにはどうしたらよいか。この課題に関して、90年代半ばから新たに提起された議論が、「癒し」「居場所」など、青少年を逆に「個人」としてとらえ返す視点である。  私は「公民館が仕掛ける出入り自由のこころのネットワーク」(93/8、前出『社会教育』誌)において、自ら年間講師を務める狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」における相互理解の試みから、この事業が「自分や他者への信頼」を失いつつある現代青年にとっての、心を開いて交流できる癒しのネットワークであると位置づけて、その信頼感回復機能を主張した。また、前出『癒しの生涯学習』(97/4)において、引きこもり問題のカウンセラー富田富士也の言葉、「人は人によって傷つき、人によって癒される」を引き、若者が癒されるためには、自己決定活動において、他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、社会貢献も含めてボランタリーに共生創造主体として生きる以外に方法はないと主張した。  第22期東京都社会教育委員の会議助言「新しい青少年社会教育施設ユース・プラザのあり方」(96/6)は、「一つの固定的な理想像を求めようとする単線型健全育成を前面に掲げる従来の青少年施設は、もはや現代の青少年にとっては魅力がない」として、出会いとやすらぎの場、体験の場、創造・自己実現の場としての、青少年の自己形成のためのユース・プラザの設置を助言した。東京都青少年問題協議会答申「大人も青少年も自立した社会づくり−青少年の自立と社会活動のための行動プラン策定に当たっての基本的考え方について」(98/2)は、自然発生的に生まれた特定の場所をもたない「第5の生活空間」に着目するとともに、青少年の「居場所」を創るよう提言した。国立オリンピック記念青少年総合センター『登校拒否等青少年の問題行動に関する調査研究報告書』(98/3)において、飯田稔は、キャンプ療法の目的は「心の居場所」を確保し、社会で生きていくのに必要な社会性を身につけることであり、学校復帰はその副産物とし、参加すればすべてが解決するといった過信は禁物と警告した。  萩原建次郎「若者にとっての『居場所』の意味」(97/6、日本社会教育学会紀要33号)は、「若者の自己形成過程を、意図的操作的な教育意志によって教育過程に引き込んでいくことは、彼らの居場所を失わせる危険性をはらんでいる」とした。久田邦明他は『子どもと若者の居場所』(98/3、東京都教育庁生涯学習部社会教育課)において、その確保を訴えた。田中治彦「生涯学習と市民社会」(98/6、日本社会教育学会紀要34号)は、次のように述べた。「上下関係」や「肩書」がないNPOは、若者の自己形成の場であるのみならず、「肩書」や「ノルマ」に疲れた公務員や会社員の「癒し」の場でもある。NPOはかつて青年団や婦人会が地域社会で担っていた役割を、居場所が見つけにくい孤独な都会において新たに担おうとしている。  また、『都市青年の意識と行動−若者たちの東京・神戸90's』(95/5、恒星社厚生閣)で、監修者の高橋勇悦は、現代青年にとっての準拠集団ならぬ準拠個人の存在意義を説いた。東京都「青少年の健全育成を推進する都民集会」で、加藤諦三は、「自立社会」という言葉の裏側は「中毒社会」であるとし、次のように訴えた。中毒社会の価値観は真面目さである。しかし、真面目であるからふれあえるというものではない。ふれあいこそを価値にしないと、真面目ならすべてが許されるという価値観になってしまう。そもそも真面目でなく、いい加減な人のほうが自殺しない(98/3、東京都生活文化局『青少年問題研究』188号)。  たとえ相手が現代青少年といえども、「社会化」や「自立」などのための教育行為をあせることなく、癒し、居場所、準拠個人などの個人的と思われる事項も大切にし、その個が他者の個との関係のなかでどのように生きようとしているのかにじっくりと迫るのならば、有効な青少年教育は可能になるだろう。なぜなら、人は人によって傷つくが、「人によって癒される」からである。  それが象徴的に表れる一つとして「メディア」がある。現代青少年は、メディアを通して他者の個と関係をもつ。高橋勇悦他『メディア革命と青年−新しい情報文化の誕生』(90/3、恒星社厚生閣)は、今日の青少年がテレビなどを生まれたときから享受して育った初めての世代であるとの認識のもとに、青少年とテレビ、電話、ファミコン、パソコン、パソコン通信との接触を共感的に分析した上で、「青年を中心として軽いメディア文化が洗練される」として、情報化の主体としての青少年の形成に期待をかけた。本書で私は、パソコンの急速な普及とその文化の未成熟性について述べた上で、当時、その問題点を克服してネットワークを体現しつつあったパソコン通信に着目し、そこでの新しい「知」と「集団」の形成を指摘した。  国の青少年問題審議会は意見具申「高度情報通信社会に向けた青少年育成の基本的方向」(97/4)で、@自分に必要な情報を主体的に探し出し、活用する能力、A送り手側からの多量な情報に流されず、自分の必要に応じて情報を選択できる能力、B悪質な情報を見分け、トラブルを回避し、身を守る判断力などを身につける必要、を強調した。また、青少年が自分の発信した情報を社会から評価されるという経験を容易にするという利点を十分に生かすためには、「バーチャル・コミュニティ」への参加者には青少年の発信した内容を公正に評価することが求められる、とした。「青少年の自立と社会活動のための東京都行動プラン」(98/3)は、東京都青少年問題協議会答申を受け、今日の青少年の、多様化したマス・メディアによってもたらされる情報により非現実的、心理的に構成される世界を第4の生活の場として捉え、重視した。文部省は、98年度補正予算での「エル・ネット」(衛星通信利用による公民館等の学習機能高度化推進事業)を利用して、「全国子どもプラン」の一環として、子どもたちの夢や希望をはぐくむ番組を放送する「子ども放送局」を始めた。その目的は、子どもたちの憧れのヒーロー、ヒロインが直接子どもに語りかることにより「心の教育」に役立て、内外の一流の科学者が子どもたちに「科学技術への夢と希望」を伝えることである。総務庁青少年対策本部『青少年とパソコンなどに関する調査研究報告書』(98/10)は、利用実態や有害情報への接触実態などを明らかにしたが、民放連は、放送基準審議会を中核に「番組規制問題」および「青少年と放送」について検討を進め、番組格付けやVチップ制度について拙速を避けるよう主張した(99/3、日本民間放送連盟『テレビと児童・青少年に関する調査報告書』など)。  青少年教育におけるメディアへの態度はこのように複雑な様相を呈しているが、疑似体験やバーチャルを安易に排除して「フェース・ツー・フェース」の関係のみに固執する姿勢は改めなければならないといえよう。なお、佐々木玲子「若者の活字離れは進んでいるか−消費者調査からの考察」(99/11、青少年問題研究会『青少年問題』46巻11号)は、マンガやコミック誌を除く読書について好きかどうかを尋ねた結果、「好き」と「まあ好き」の20代の「愛好派」は7割を超え、各年代の中で最も高い割合を占めたと報告した。読書も、個人的で一方的ではあるが、書き手と読み手の関係性のひとつである。読み手にとって書き手は、よき準拠個人の一人となりうるのである。 (6) 個は共同体のなかで生きている    −団体活動/学社融合/第4の領域  文部省は89年度に「青少年ふるさと学習特別推進事業」を開始し、都道府県は、それに基づき、青少年がふるさとについて総合的に学習し、その成果を踏まえての実践活動を展開するモデル事業を多分野の諸団体・機関との連携のもとに推進した。宮崎県『宮崎の青少年』(90/3)は、団体指導者の養成として「新ひむか企画スタッフ交流セミナー」を紹介している。これは88年度から始めたもので、対象を女性や壮年層にまで広げ、地域間、異業種間、世代間交流を狙いとしている。内容は、活動事例発表、講演、夜なべ討論などである。地域づくり運動を青年たちにも担ってもらおうとしたのである。神奈川県では、91年に「かながわ青年行動計画」の改訂を行い、従来、大人に任せきりの形をとっていた「社会がなすべきこと」についても、青年自身が核となって課題解決に取り組む姿勢を示した。『秋田県青年の家紀要−青年団体の組織づくりの方策を探る』(91/3)は、新たに組織された青年団体の事例として、農業近代化ゼミナール、地域振興、ふるさと探検隊、ふるさと創生、イベント演出集団、パーティー仕掛人集団などを紹介した。日本青年館青年問題研究所『生涯学習と青年期教育』(92/3)は、青年の主体形成のための生涯学習の重要性を指摘したうえで、共同学習の再評価を主張した。92年度からは学校週5日制の実施を契機にした「地域少年少女サークル活動促進事業」の報告書が目立つようになる。これは、地域(=地域共同体、筆者注)における異年齢集団の仲間との切磋琢磨など豊富な活動体験の機会を確保し、地域の青少年活動の総合的な振興を図ることを目的としたものであった。  93年度には、全国子ども会連合会が「子ども会活動等の団体活動経験者の行動特性に関する調査」で、子ども会会員と子ども会の非会員との比較調査において、地域の大人との関わり度合い、異年齢集団の経験度合い、年下の子の世話度合い等に統計的有意差を立証し、94年度には、青森県総合社会教育センターが、団体活動をしている青少年(会員)としていない青少年(非会員)では、対人関係、リーダー性、自己意識の高揚、社会参加、余暇の活用等、意識・行動に差異があるのではないか、などの仮説のもと、『団体活動と青少年の意識・行動に関する調査集計結果』(94/4)を報告した。  これらの動きのなか、生涯学習審議会答申「地域における生涯学習機会の充実方策について」(96/4)は、地域社会の中で様々な学習機会を提供している機関や施設の生涯学習機能の充実方策を示し、「学校教育と社会教育がそれぞれの役割分担を前提とした上で、そこから一歩進んで、学習の場や活動など両者の要素を部分的に重ね合わせながら、一体となって子供たちの教育に取り組んでいこうとする考え方」としての新概念、「学社融合」を提起した。前出『社会教育』誌は「学社融合」を特集し(96/2)、山本恒夫が次の融合パターンを提起した。@教育活動の相互の一部取り込み、A双方の教育活動の一部取り出しと組合せ、B双方の既存の教育活動のそのままでの共有化。『日本生涯教育学会年報17号』(96/11)では、山本は、自発的組織化の視点を用いて学社融合論の理論化を試み、自発的組織化は自己組織化とは異なり、「無秩序又は一定の秩序を持つ存在が、外的又は内的条件の変化がもたらす存在内要素の相互作用によって指向性を創出し、それがもたらす要素間の相互作用によって新たな秩序を創出することである」とした。  この新概念は前出「国立青年の家少年自然の家の改善について」(95/7)において、3本柱のひとつとして示されたもので、そこでは、青少年教育施設の教育力をフルに発揮、調査研究の充実、成果の適切な普及、長期利用への対応などが挙げられた。学社融合は、とくに国立少年自然の家が先駆的に実践してきた概念であるといえるが、私は、より本質的には、学校教育が「実践の本場(アリーナ)を当初からかいま見させる」(2章、佐伯胖『状況に埋め込まれた学習−正統的周辺参加』訳者あとがき)ためには学社融合が不可欠であったと考える。すなわち、学社融合を、学校教育が社会教育に代表される共同体における学習のなかにあらためて取り込まれようとする動きとしてとらえるのである。越田幸洋は「学校と地域の連携を探る」(99/3、社会教育協会『生涯フォーラム』1188号)などで、自らの鹿沼市の学社融合の事例を紹介し、次のように述べている。その「学」は学校の教育課程に基づく教育活動を指しており、放課後のクラブ活動とか課外授業とかではなく、正規の授業そのものである。社会教育の方はすべての分野を含む。公的機関が行うものだけでなく、民間が行うものも含む幅広い内容である。  ただし、青少年個人が参加する対象としての「共同体」自体は、急激に変化しており、また、青少年教育においては、その共同体が青少年一人一人の成長にとってより望ましいものに変化するよう求めることになる。  神奈川県青少年総合研修センター『出会いと交流−青年期の新しい地域活動のあり方』(96/6)を監修した私は、本書で、@自然体の育成活動を、A地域と人間の真実に出会う、B対象から主体へ、対策よりも支援を、C不幸せな現代社会と大人たち、Dフツーの大人たちも幸せになれる育成活動、Eフツーだからこそ、ワガママだからこその、自立の地域活動、とまとめて新しい青年教育のあり方を提起し、次のように述べた。  ぼくは地域を「善と悪」や「毒と薬」の混じりあう「アンビバレンツ」(両面価値)の場としてとらえる。これが地域の現実であり、そこには現代人の生きざまの真実の姿が渦巻いている。地域には、現代社会のヒエラルキー(階層)による秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。だからこそ地域はおもしろい。そういうなまの水平な出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。他者がきれいに整理した「事実」を自己の思考の枠組のなかにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達し得ないが、人間にはそれをどこまでも知ろうとする潜在的欲望がある。これが生涯学習の本当の姿であろう。「事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を」ということである。  前出、中央教育審議会第一次答申(96/7)は、従来の学校・家庭・地縁的な地域社会とは異なる「第4の領域」の育成を次のように提唱した。地域社会における教育力の低下が指摘される中にあって、従来の地縁的な活動から目的指向的な活動へと人々が参加意欲を移しつつある傾向がうかがえる。このような状況を踏まえ、これからの地域社会における教育は、同じ目的や興味・関心に応じて、大人たちを結びつけ、そうした活動の中で子供たちを育てていくという、従来の学校・家庭・地縁的な地域社会とは違う「第4の領域」とも言うべきものを育成する必要がある。例えば、青少年団体では、地縁的なものよりも、最近ではむしろ、スポーツやキャンプ、ボランティアといった目的指向的なものの方が人気が高いと言われているが、これなどは、ここでいう「第4の領域」の一つの例と言えよう。また、日常生活圏を離れて、豊かな自然の中で、青年の家、少年自然の家などの青少年教育施設を活用した活動や、民間教育事業者などが提供する体験学習のプログラムを利用した活動も、「第4の領域」の例と考えられ、今後ニーズが高まっていくものと考えられる。行政としては、こうした状況を踏まえつつ、目的指向的な様々な団体・サークルの育成や、日常生活圏を離れた広域的な活動の場や機会の充実、効果的な情報提供活動、民間教育事業者との連携などを通じて、「第4の領域」の育成に積極的に取り組んでいってほしい。  青少年育成国民運動を担う青少年育成国民会議の『のびのびユースネットガイド』(97/3)は、従来の地域の縦割り型組織形態にとどまらず、子どもや若者と直接かかわる親・教師・青少年指導者や、さまざまな活動の場や機会づくりをすすめている青少年関係団体や機関などが、ともに手を携えて青少年育成に取り組む「のびのびユースネット」を形成するよう提起した。静岡県青少年問題協議会意見具申「豊かな感性と新しい市民性をはぐくむ青少年の参加・体験活動の推進方策」(97/12)は、従来ともすると学業の妨げになるなどの理由で制限されていた高校生のアルバイトについて、原則として家庭の責任においてアルバイトができるように、柔軟に対応するよう求めた。高校生が働く場としての地域や職場の共同体を重視する動きといえる。  98年3月には特定非営利活動促進法(NPO法)が成立し、団体活動が新たに注目をされるようになった。横浜市港南区まちづくり塾では市民と行政のパートナーシップが目指され、「子育てまち育て塾」などが市の助成金を受けて展開された(98/10、加藤隆章「港南まちづくり塾事業における支援」、前出『社会教育』誌)。神奈川県青少年総合研修センター『神奈川県青少年体験活動実態調査』(99/1)は、青少年の体験活動を行う草の根の団体の網羅的な把握を試みた。  私は、「癒しの公民館−新しき伝統」(99/3、前出『社会教育』誌)において、同誌の「問題縁でつながる」(97/5)における斉藤学の発言、「縁というのは、それ自体危ない。血縁、地縁もあまり頼るなといいたい。これからは、問題縁である。私は魂の家族と言っている」を批判し、次のように述べた。こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。公民館は近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきた。コミュニティを貫き通す問題縁が存在するはずである。公民館主事は、住民が安心して自分たちの言葉で体験を語れるようにしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけのことである。 (7) 個は他者から認められることによって生きられる    −カウンセリングマインド/自己決定能力/癒しのサンマ  中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」(90/3)は、「個の深み」などの新しいキーワードを示しながら、グループワーク理論の再構築、カウンセリングマインドに根ざしたコミュニケーションの創造などによる、青少年の「個」を大切にする団体運営への方向を提起した。  全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題第20集』(92/3)は、「魅力ある青年の家をめざして」をテーマとして、カウンセリングなどの他分野の研究から、現代青年のニーズに対応する運営のあり方について考察し、国立妙高少年自然の家所長五十川隆夫が、少年自然の家創設の視点から青年の家の運営に対して次のように提案した。@運営のメニューをいくつか持つこと、A青年の裁量に委ねる部分を多く用意すること、B完全週休2日制、学校5日制試行に応じ得る体制づくりをすること、C個への対応の在り方を研究・開発すること。カウンセリングマインドの評価などは、個として存在する青少年に向き合い、その個を承認することを意味しているといえる。  しかし、93年から宮台真司が「ブルセラ論戦」を始め、『制服少女たちの選択』(94/11、講談社)で次のように述べた。「社会システムは、人格システムの集まりではない。心理的な問題解決(外部帰属化)は、社会的な問題解決とは何の関係もなく、個人的な正しさの信念は、社会の未来をすこしも方向づけない。『社会は個人の集まりではない』『社会の動きは個人の動きの集まりではない』というこの命題は、社会学が練りあげてきたもっとも重要な命題のひとつである。社会システム理論は言う。親の立つ瀬があろうがなかろうが、胸がスッとしようがしまいが、『それでも社会は回り』、娘たちはパンツや肉体(のパーツ)を売りつづけるだろう」。そして、宮台は、その道を進むことがもたらす不可逆な感覚変容についての知識不足は、彼女たちをきわめて不自由な場所に追い込んでしまうことになるとして、「先に進むのがいいか、引き返すのがいいかを、いったん立ちどまって『選べる』ようにしておく」というワクチン戦略を提起しつつ、「わかっていながらその道を選ぶ」というのであれば、彼女たちの意思や自己決定の問題とした。また、宮台は、『終わりなき日常を生きろ』(95/7、筑摩書房)では、「輝かしき自分」などめざさずに「まったりと」脱力して生きることが「終わらない日常」を生きる知恵に通じるとした。このように宮台は、社会システムの優位性を打ち出し、学校、家庭、地域等の青少年個人に対する社会化役割の無力を主張したのである。  私は、宮台の議論は、青少年個人より高い視点から「青少年健全育成」に関わるお題目を念仏のように唱えてきた指導者にとっては重要な指摘になりうると考える。しかし、多くの青少年教育が支援しようとしてきた自己決定能力とは、「わかっていながらその道を選ぶのであれば、それは自己決定なんだから」とすますような「脱力」や「虚無」などではなく、「社会システム」のなかで指導者自身も青少年とともに追求してきた永遠の「理念」である。そして実際にも、青少年教育の指導者のなかには、「輝かしき非日常」を日常的な活動のなかで味わって生きている大人の個人が、私は除かれるが、たくさんいる。彼らは青少年にとっての準拠個人になりうる。  東京都では、97年10月、東京都青少年問題協議会中間答申「性の商品化が進む中での青少年健全育成」(97/3)を受けて、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の一部改正が成立した。これは他県の「淫行処罰規定」のようないわゆる「淫行」概念をとらず、売買春等の相手方となった大人を処罰する買春等処罰規定を導入した点などに特徴がある。中間答申は次のように述べた。「淫行処罰規定」は、相手方となる大人を処罰する規定であっても、行為自体を「淫行、みだらな性行為」と定義することで、青少年の性に関する行動全般を不良視し、青少年に対する心理的な抑制効果をもたらすなど、かえって青少年の性的自己決定能力を育む機会を失わせる危険性もあるという認識をもちつつ、大人を処罰する「買春等処罰規定」を設けることはやむをえないとの結論に達し、青少年の性的自己決定能力の育成のために、家庭、学校、地域社会それぞれが情報を発信する場となるよう提言する。  東京都は、個人の自己決定がきわめて尊重されるべき性に関する行動に対して、青少年育成の観点からあえて大人を処罰する法的規制に踏み込んだのである。しかし、家庭、学校、地域社会それぞれが情報を発信することによって、その性的自己決定能力を育てようとしたところに、より重要な本質がある。川崎市青少年問題協議会意見具申「青少年の健全育成に向けた社会環境健全化の具体的推進策について」(97/4)は、大人がまず変わるために学ばなければならないとして、カウンセリングマインドとグループワークの能力の取得等を挙げた。  そして、『<宮台真司>をぶっとばせ!』(99/1、星雲社)で編著者の諸富祥彦は次のように述べた。「宮台は『意味から強度へ』と、“終わりなき日常”を生きる知恵を説くのであるが、これでは、生きる意味を求めずにはいられないまじめな若者はますます追い詰められていくばかり。“闘うカウンセラー”諸富が、宮台に代わり、こんな時代にあっても“夢と希望を持って生きる”ための人生観・世界観を説く」。自己決定能力の獲得や発揮のためには、たとえば、判断の材料としての情報提供なども大切であろう。しかし、私は、自己決定のために情報以上に重要なのは、自他への基本的信頼であると考える。これは、それぞれの個を承認しあう関係においてのみ形成される。宮台の指摘する「仲間以外はみな風景」(しかも、その仲間関係もピアコンセプトによって個が自己抑圧されている)という現代青少年に対して、自己が承認され、他者を承認する場を提供する青少年教育の有効性は大きい。諸富は「私が、ほんとうに糾弾したかったのは、宮台ではなく、そんな宮台に誰も本気でノーを突きつけない私たち日本人の情け無さである。『もう日本は、とことん“何でもあり”になってしまっているのだから、今さら宮台がそんなことを言ったからって、どうってことないじゃない』という諦めのムードである」と述べている。私も、2000年代の青少年教育が、現代青少年のニヒリズムを真正面から共感的に受け止めつつ、ニヒリズムを越える「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の三間)」を提供できるよう願うものである。 (8) 個は貢献することにより生きられる    −ボランティア/青年海外派遣/情報ボランタリズム  90年代初頭まで青少年ボランティア参加促進事業が盛んであった。この事業は、青少年及び青少年ボランティア活動の指導者に対してボランティア活動に対する知識・技術の修得及び資質の向上を図ることを趣旨として行われたもので、青少年ボランティア養成講座のほか、青少年ボランティアの集い、青少年ボランティアバンク事業などが実施された。本事業は91年から各地で生涯学習ボランティア活動総合推進事業として発展した。以後、文献における「ボランティア」のヒット率は増加し、後半には25〜30%の高率に至る(図表2)。また、90年代初頭から各自治体が行う青年海外派遣事業の文献が多かったが、これに対し、民間団体の機動力を活かした事業が特徴的だった。神奈川県青少年協会「海外派遣団」はタイで植林活動を、ガールスカウト日本連盟「開発教育プロジェクト」はネパールで簡易水道に水栓をつける事業を、新潟国際ボランティアセンター「スタディーツアー」は、タイのカンボジア国境やカオイダン難民キャンプでの活動などを行った。 図表2 「ボランティア」ヒット率の経年変化 (n=2238)  愛知県青少年問題協議会「青少年の社会参加活動の促進方策について」(92/3)は、人類の存続すら危惧されるという地球規模での危機意識をもって、目前にせまった21世紀を担う青少年の社会参加を考えることなどが検討の方向とされ、青少年に地域を知らせる、地域に青少年の受け皿やたまり場をつくる、生涯学習時代にふさわしい地域づくりをする、などの施策が提言された。日本青年奉仕協会『ゆたかな学びの世界』(92/3)は、生涯学習社会において、ボランティア活動を通して豊かなこころを育む個性的な学習を自ら行うことの重要性を訴えている。  前出『社会教育』誌が「生涯学習ボランティア」を特集し、松下倶子は、その青少年の活動の意義として、集団のなかで自分がどのような立場をとればよいかを自覚して進んで役割をはたす行動が、さまざまに異なる他者と関わりをもちながら生きていくための体験になると主張した。日本青年奉仕協会『ボランティア白書−社会奉仕から社会創造へ』(92/9)を発行し、現代社会の最大のテーマを「個人と社会の新しいあり方」、「人間としての新しい生き方」ととらえ、個人の尊厳と開かれた個人の日本だけにとどまらない共生の社会をらににという認識のもとに、ボランティア活動の動きのなかから「人間と自然の命あるものが豊かに生きるために、どんな社会を作っていくことがよいのか」を描いた。そこで、社会奉仕を「もうひとつの教育」としてとらえ、それが共生社会の創造につながるという視点を提示しい。  田中治彦「NGO活動と社会教育団体の役割−開発教育を進めるYMCAのネットワーキング」(93/4、国土社『月刊社会教育』444号)は、社会教育と開発教育の関係について、YMCA、ガールスカウト、ユネスコ協会連盟など民間社会教育団体の取り組みが早かったのに比べて、行政社会教育は地域に密着している代わりに国際感覚には乏しかったこと、しかし、このことは逆に強みでもあり、日頃生の国際的な情報に乏しい農村部や、都市部であっても従来あまり関心を示さなかった層に浸透していく可能性をもっていることなどを示唆した。同氏は「社会教育概念理解(把握)の方法をめぐって−青少年教育の立場から」(93/6、『日本社会教育学会紀要』29号)では、望んで主体形成を避けるモラトリアム青年に対して、自己疎外を克服する形での主体形成という学習論は当てはまらないとし、日本と自分の存在を「加害者」としてとらえるNGOのなかでの社会改革意識、「もの」を大量に消費している自らのライフスタイルや生き方に目を向けるなどの、現代青年の新しい特徴を提示した。また、日本青年奉仕協会事務局長興梠寛「生涯学習ボランティアを検証する−草の根が主役の『在る』ための学びへ」(93/12、前出『月刊社会教育』誌)は、自主的主体的な草の根活動としてのボランティア活動の意義を強調し、それを人間存在のための学びとして位置づけた。同氏は「制度的評価」については、ボランティア活動は自分や社会の発見のプロセスであり、市民の自由意思による社会の改革や創造のためのプロセスなのではないか、として疑問を提起した。総務庁青少年対策本部『青少年白書』(95/1)は、青少年にとってのボランティア活動の意義を第1部に特集し、「青少年がそのみずみずしい感性をいかして、人と人とのネットワークの中に自らの居所を求め、さらにうちなる声に衝き動かされ、そのネットワーク自身をより高くへと持ち上げようとしていくことは、21世紀に向けて真に豊かさが実感できる社会、生きがいのある社会を実現していくための重要なステップであるともいえよう」と評価している。  そして、95年1月の阪神大震災の救援ボランティアに全国の若者たちが駆けつけたことから、「日本の若者はしらけており、ボランティアの風土はない」という論調が崩された。むしろ、せっかくボランティアをしたい人がいるのに、社会がそれを需要と結びつけるコーディネート機能をもたないことこそ問題とされた。神戸市青少年育成推進本部「第3次神戸市青少年育成中期計画」(96/10)は、震災時のボランティアとして活躍した青少年の若い力に注目し、震災からの復興と21世紀への神戸のまちづくりを進める中心的担い手として、青少年の行動力と創造力に期待した。  一方、電子的コミュニケーションにおける個人の貢献について、私は、前出『生涯学習かくろん』(91/4)でパソコン通信における情報ボランタリズムを評価し、「情報化時代のコミュニケーション」(97/7、前出「あすへの力」誌)で、インターネットなどの情報通信技術の発展によって現代青年にとって一番遠い所にある情報としての地域や行政の情報が開かれたものになり青少年の参加が可能になったと指摘した。さらに、生涯学習ボランティアや情報ボランティアが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界を、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼び、上下同質競争に飽き足りなくなって、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが生まれつつあるとした。 (9) 個性重視からの発展−自己決定能力の獲得と発揮の支援へ    −MAZE/参画/ピアコンセプト  私は前出中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言(90/3)において、次のように「個の深み」を提起した。個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入る、踏み入ろうとする、そのことによって自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、根本的には集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切と主張し、その視点として、「何が起こるかわからない『迷路』に挑戦する姿勢」や「ケ・セラ・セラのような軽い気持ち」を挙げ、「目的志向型からMAZE(迷路)型へ」「学習→活動型から活動=学習型へ」「研修会方式からたまり場方式へ」「一括方式から選択方式へ」「既製服型から注文仕立型へ」「スローガン型から遊び心型へ」などの提言を行った。「MAZE」(迷路)は、ミスマッチ、アバウト、ジグザグ、イージーゴーイングの頭文字を合わせた言葉で、指導者がお膳立てしたものではないもの、見通しをもちきっていないものなどを取り入れるという意味である。  鹿児島県では、80年度から「心身ともにたくましく、思いやりの心とやさしさを持つ青少年の育成」をめざし「青少年自立自興運動」を推進してきた。しかし、90年度から新たに「未来へはばたけ青少年運動」を展開した。これは、次代を担う青少年に、たくましい自立の精神と、幅広い国際的感覚と未知に挑戦する気概をもってほしいという意図で始めたもので、青少年活動を青少年自身が企画・実践する青少年主体のものとした。  東京都杉並区では、95年、児童福祉センター職員で構成される「児童館の建設・運営の在り方」検討会が設置され、「中・高校生の居場所づくり」や「中・高校生の活動への支援」など中・高校生への取り組みが打ち出された。96年、基本設計に先立ち、関係団体推薦者や一般区民、学識経験者から成る「建設協議会」とともに、「中・高校生委員会」が設置された。その後の「中・高校生運営委員会」は、センターの規則や運営事項、講座、大会等事業に関する意見、事業の企画を行った。「福岡市こども育成環境づくり指針」(96/10)は、こどもを固有の社会的存在(こども市民)としてとらえ、まち全体をあそび、活動できる場にしようと訴えた。また、地域住民が自らの目で地域のこどものための環境を見直し、そのあり方を考えていくため、限られた一部の人に任せてしまうのではなく、高校生、大学生、父親及び高齢者等の参画を得て、地域コミュニティとしてこどもの環境や活動を考え、地域社会全体の合意を作り出していくよう提起した。  横浜市青少年問題協議会意見具申「青少年の発達と社会環境づくり」(98/4)は、大人が青少年のために社会環境を改善するということの他に、青少年自身が自らの問題を解決することができるように、青少年の発言の場や活動の場を広げる必要もあるとした。『大阪府青少年育成懇話会報告書』(99/3)は前出「新プラネット計画」に代わる新しい青少年育成計画の策定(2001年)に向けた検討を行い、「共育」「コミュニティの再構築」「予防的視点の重視」「未来への対応−積極的な成長の機会の提供」の視点を提起した。そこでは、青少年のニーズや意見を今後の計画づくりに反映させるため、青少年自身の参加による大阪府青年政策会議が設置された。  そして、90年代終わりには青少年教育関連文献にもワークショップという言葉が多く見られるようになり、それとあいまって青少年自身の参画がキーワードになっていく。しかし、このような個性発揮を現代青少年に求めることは可能なのだろうか。  私は、前出『癒しの生涯学習』(97/4)において、癒されない3つの病理として、@家族関係の病理、A教育システムの歪み、B自分自身の内なるピアコンセプトを挙げた。ピアコンセプトとは仲間を大切にする意識のことである。そこには連帯感や役割意識などの肯定的側面もあり、ふつうはいいことのように思える。しかし、実際には、ピアは個人の主体性を自己抑圧する否定的側面としても機能する。「みんなのために」とか「みんなだって」とかいう認識が、みずからの個の発現を自己抑圧する結果につながるのだ。生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふりをしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピアコンセプトによって支えられる。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識(卑屈な自己疎外!)にもつながりがちである。「友達から変と思われたらもう終わり」という彼らの叫びは、まさに「みんなぼっちの世界」の象徴である。ピアコンセプトは、ヒエラルキーの支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだろうが、ピアだけでは残念ながら本質的な問題解決にはつながらない。かえって、現在のたての関係を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくったりするだけの結果になってしまう。個性を発揮するためには、彼ら自身、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心を嗤うとともに、自己の内なるピアコンセプトをも意識的・理性的に乗り越えなければならない。  総務庁青少年対策本部『青少年健全育成中央フォーラム−青少年健全育成のために薬物乱用の防止を考える』(98/3)で、和田清は、薬物乱用防止も必要だが、薬物依存は「治す」という区切りのある病気ではないとし、脱慣とその維持は、家庭、医療機関、教育機関、取り締まり機関等あらゆる所の連携的サポートなしには不可能に近いと訴えた。そして、害知識の無力さについて次のように述べた。「薬物使用に関する大規模中学生調査」で毎年認められることだが、害知識は薬物使用経験者の方がある。誘われた時に「NO」と言えるようにする指導こそが重要である。そのためには、薬物乱用・依存者に肌で接している人たちの話や、生徒にとっては心理的に仲間に近い元乱用者のノンフィクションの話が有効である。学校教育で知識を教えたら、それを強固なものにする必要がある。  個性重視から始まった90年代の青少年教育は、2000年を迎え、逆に個性や自己決定能力の獲得に立ち戻りつつ、青少年の「参画」というかたちで彼らの個の発揮を支援する段階に発展しつつあるといえる。そこでは、ピアコンセプトを打破し、自他への基本的信頼の集団風土をユースコミュニティのなかに形成することが、情報や知識の提供以上にポイントになるだろう。