3. 個人の学習を支援するために  (西村美東士=にしむらみとし、徳島大学大学開放実践センター)  (1) 個人が学習すべき課題など他者からは提示できない     −要求課題と必要課題/私的課題と公的課題/凝固と融解  社会教育の世界では、操作概念として学習課題を要求課題と必要課題に分けて論じられていた。市民の学習要求が多様化、分散化するなか、社会教育で講座などを開こうとしても、大部分の人が実際に参加してくれるような、何か素晴らしい学習テーマがあるというのは幻想でしかない。また、そんなに多岐にわたる学習要求のすべてをテーマとして取り上げることもできない。それよりも、公共性のある学習課題や人間として共通に求められる学習課題を一番の根底に位置づけながら社会教育事業を進めるべきであるというのが必要課題重視の考え方である。  ただ、その実際的な方法は定説があるわけではなかった。たとえ少ししか人が集まらなくても必要課題を正面からテーマに取り上げて市民に問いかけることもあってよいかもしれないし、要求課題を配列しつつ必要課題に導くさまざまな方法も考えられた。あるいは必要課題とは、学習者が自己の要求にもとづく学習の過程の中で自ら気づくものであり、他者である行政が先回りして考える必要や権限はないとする者もいる。  いずれにせよ、この論議は、簡単にいえば社会教育をとりまく次のような環境が発端となったと考えられる。今日の学習社会においてはとくに都市部で民間カルチャー産業が発展し、学習要求が一定程度社会に存在すれば、その学習機会はそこが提供し、また市民も相当なお金を払ってでもそれを受講するようになっている。学習要求があるからといって、そのすべてを公的社会教育が準備し提供しなければならないという状況ではなくなっていたのである。さらに行政改革の観点から「持てる者」の個人の利益にとどまるような学習については、公税を支出してまでそれを保障する必要は認められないと財政当局なども考えるようになってきた。社会教育行政はきびしくその「公共的意義」を問われ始めたのである。もちろん、それとともに、公的社会教育の内実が文字どおり「公的」であるためにはどうあればよいかという理念的な問題意識、そして社会教育の現場からの「市民の多様な学習要求のすべてに対応することは不可能である。どうすればよいのか」という実践的な問題意識も影響していた。  私は自著『生涯学習かくろん』において、「要求課題」と「必要課題」とは別に「公的課題」という用語を提起した。なぜならば、個人の学習テーマについて、その必要を逐一検討することは不可能であり、越権行為でもあり、それよりもむしろ公的社会教育の側が、自己の役割遂行という限定的視点からとらえることが必要だと考えたからである。そして、学習課題のなかに「私的課題」があったとしても、それを積極的に排除することではなく、「公的課題」を積極的に優先することこそが公的社会教育に求められているのだとした。なお、ここで、公的社会教育とは必ずしも公金の支出等によって行われる社会教育だけではなく、社会教育の本質からいって、国民が自ら行う社会教育においても成り立ちうるものであることを付け加えておきたい。  公的課題の優先とは、行政(公民館等の教育機関を含む)が学習課題を新規開発することではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す選択行為である。私は社会教育行政の役割をネットワーク型問題提起者として位置づけているが、それは、排除や選別ではなく、整理と選択の行為のもとに行われる。公的課題優先のもとに、個別事業計画においてはマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズ最優先の姿勢が重要である。整理、選択した公的課題を、いろいろな機会を利用して住民にはっきりと示した上で、その課題につながる現存する学習ニーズを拾いあげてプログラム化して提供することが必要である。公的課題が、現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば仮に凝固したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいては、住民の学習ニーズに呼応してそれが再び融解して学習機会として提供される。行政は行政の立場で公的課題を凝固させることしかできない。しかし、それを不変のものとしてそのまま住民に押しつけるとすれば問題がある。ネットワーク型援助は、行政と住民との関係が水平であるべきだ。行政がニーズに対応しないような公的課題の提起をするとすれば、それは行政の独善につながる。  ただし、最近は公的社会教育のなかでも行政と市民のパートナーシップが進められようとしており、上のように公の側で学習プログラムを提供するのではなく、市民が直接、自らの個別で多様なニーズを公的課題に凝固させながら、同時進行的にプログラムとして融解する動きもある。その場合は、あとで述べるように行政には新たな役割が求められよう。しかし、行政主導にせよ、市民主導にせよ、いずれにおいても、公的社会教育が公的課題を整理、選択したからといって、それは個人の学習すべき課題を提示したわけではないということが重要である。個人学習者は、あくまでも、学びたいことを学ぶのである。そこにこそ学びの生命力が宿る。 (2) キーパーソンの拠点になる    −リカレント/大学開放/産学官民の知的協働  私は徳島で、ヤングフェスティバルの実行委員長などを務めてきた川田春夫さんと出会った。彼は10年以上勤めた会社をそのとき、退職していた。去年のヤングフェスティバルで仕事がなおざりになりがちで、会社や顧客に迷惑をかけていると感じたからだ。一番勉強したのは、電気工事施行管理技士資格取得(1級)のときだそうで、ヤングフェスティバルと同時進行で集中して勉強した。その次が徳島大学工学部への編入のときで、10日間ほど集中して勉強した。また、夜間部のときは、各専門分野の仲間が集まって、夏休みに編入をめざして勉強会をした。彼は数学を教えた。夜10時までみっちりやり、それ以降切り上げて毎晩のように遊びに行った。楽しかったと彼はいう。  しかし、コンピュータのハード、ソフトなど、どんどん新しくなるので、独自の勉強だけでは追いつけない。機材も手に入らない。とくに徳島では、技術が陳腐化しており、リニューアルが必要と彼はいう。彼は自治体のある講習会に私費で申し込もうとしたことがあるが、企業からの参加ではなく、個人参加であるという理由から断られた。その講習は企業を育てるという目的で開かれているからだ。彼はいう。自分は、技術屋個人として勉強したい。  必要になったときは、今でも徳島大学に当時の化学の先生を訪ねて、食品工業の生物制御などについて教えてもらっている。自分より下の世代はそういうことはしていないようだが、自分たちの世代は、忙しい先生だが、連絡をとって、違和感なくやっている。ただ、コンピュータについては、教えてもらう相手がいない。中小企業には最先端知識が必要なのではなく、新しく出た安い商品をいかに使うかがポイントになる。  リカレントも必要かもしれないが、それよりも基礎的なことが欠けている。具体的には数学、物理、国語などである。国語についていえば、工学部時代、ノートに写すだけであり、考察といっても、教師の提起した課題を解くという「考察」であった。しかし、実際の仕事では、課題というよりも問題を見つけ、それを考察し、書かなければならない。これは自分の会社がたまたま提案型の仕事だったからかもしれない。彼は、基礎学力に欠ける新入社員のために、数Vなどの教科書をつくったことがある。自身については、発想法、計画力が重要と考え、70万円の私費を払って、ビジネススクールの通信教育を今でも受けている。会社はそれをプラスとは考えていない。彼自身も自分の財産づくりだととらえている。これをしなければ、客への提案はできないと思った。そうしないと自分自身が枯れてくる。「会社のため」ではなく「自分のため」という気持ちである。ヤングフェスティバルについても、同様に「自分のため」と思っている。自分より若い人たちと共同で何かを作りあげるなかで、時代の風がわかるという。  川田さんは本センターの公開講座「私らしさのワークショップ」を受講している。彼にとってはほかの体験とまったく異なる出会いであった。受講者の年齢が高く、それなのに元気であることに彼は衝撃を受けた。ヤングフェスティバルなどの場では、たとえば許したくても許してはいけないなど、リーダーとして「自分をつくる部分」が必要だが、講座ではそれがない。講座自体が、自分の気持ちをさらけ出す怖さを感じさせる。しかし、自分も相手も気持ちをさらけ出し、またフリースペースや裏講座などもあるので、とくに最初の秋講座では、5回だけで、そういう異年齢の人と数年来のつきあいをしているような感じになれた。知識や技能を習うという目的だけなら、ふつうの講義のように顔見知りになるころには終了ということがあってもよいかもしれない。しかし、それでも友達をつくるということは、横のネットワークができて教えてもらえるということであり、大切なことだと彼は考えている。  最近、国立大学の独立行政法人化、エージェンシー化への動きが急である。彼はいう。国立大学はお金がかからないから自分でも行けた。また、たとえ授業は40人が受けたとしても、5、6人で気軽に先生のところに遊びに行ったり、教えてもらったりすることができた。そのスペースもふんだんにあった。それが自分には楽しかった。サロンのように、教師と学生が同じ高さで接する機会をこれからも大切にしてほしい。自身は本センターのスタッフが翻訳した『大人を教える』(学文社)を読み、ほんとうに勉強になった。たとえば講師の姿勢、部屋の様子、入り口で迎えることなど、その姿勢は、ヤングフェスティバルや学遊塾でミーティングが煮詰まってしまったときなど、有効なアドバイスにつながった。大学教師は専門知識には優れているが、とくに工学部は社会教育や生涯学習についての理解がない。人、とくに大人を教える場合は、それが必要になると思う。  また、社会教育や生涯学習についてセンターの教官とは話すことができるが、行政にはそのような相談相手がいない。社会教育のこと、イベント、青少年団体などについて、人事異動が激しく、あまり知らない職員が多い。たしかに生涯学習という言葉は盛んに使われてはいるが、自分の話が、とくに役所には伝わらないというもどかしい思いをもっている。生涯学習についての勉強会をしたい。本センター教官から紹介されたメーリングリストでは、生涯学習についての議論が盛んにやりとりされている。話し合える人が全国規模だといるということは、徳島にも本当はいるのだろう。きちっと社会教育や生涯学習を学んでいて活動している人たちの中核組織としての連絡会がほしい。そういうキーパーソンをセンターの8人の教官の専門性をいかしてフォローしてほしい。自分自身、センターの教官と出会う以前は、生涯学習によってこんなことができるとは知らなかった。  30代の人たちで何かをしたい。何をすればよいかわからない人、自分だけで考えている人などがいるだろう。その人たちがアクセスできる場になってほしい。自分は徳島大学出身なので気軽に徳島大学に行けるが、そうでない県外出身者、高卒者、他大学出身者にとっては塀が高いと思う。それに対して、徳島大学大学開放実践センターは大学の外に向かって開かれているという実感がある。これを活かしてほしい。  徳島では青年層リーダーが元気なようでいて、実際には40代以上に、「口先ばかりで行動しない」といって頭を押さえつけられている部分があると思う。そういうとき、センターのようなアドバイザー的な存在があれば、青年層の悩みも「口先ばかり」ではなく、より具体的になるのではないか。また、起業については、県や市の補助金なしには、この不況下では不可能、理念などはいっていられない、従業員に給料を払わなければ、という実態と雰囲気がある。起業家の若返りを図り、青年層(30代から40代)に設定するべきだと思う。徳島大学が起業のための発信をしてほしい。CATVなら放送枠にまだゆとりがある。CATVは、見る人はけっこう見ている。徳島大学の教員がニュースに出てくることはときどきあるが、起業の件ばかりでなく、もっとシステム的に地域に発信することを考えてほしい。  川田さんの話はおおよそ以上のとおりであった。彼のようなおだやかで物静かな新しいタイプのキーパーソンが、大学開放にエールを送ってくれている。取材した私としては、そのことを心強く思うとともに、こういう人たちの議論の場を提供し、学習支援を強めていきたいと感じた。国立大学開放機関としては、いわば「知的水平勉強会」によって、大学と市民の知的協働を進め、それをよりいっそう高次のものとすること、さらには国立大学の存在を自発的に支持する市民集団を形成することが必要であると思う。これによって、産学官民の知的協働、さらには、それらキーパーソンの拠点として、大学開放機関が新しい役割を発揮することが重要である。 (3) 個人の参加・無為・撤退自由のネットワークをつくる    −ヒエラルキー/ピア/ネットワーク  同じ「ネットワーク」という言葉が使われる場合でも、今日の市民運動の動向を強く意識してそれを中心に論じられることもあれば、非対等な階層構造(ヒエラルキー)による統合として論じられることもある。後者は、大型コンピュータと端末機との交信や、行政内部での諸機関の連携などに関する議論においては顕著である。しかし、ここでは、現代社会を生きる個人の意識やふだんの生活にも深く関連する広い人間関係の概念として、そして、従来のヒエラルキー的な発想では行き詰まりになってしまったがゆえに生まれた個を生かすための新しい概念として、ネットワークをとらえておきたい。すなわち、ネットワークとは「自立的価値をもつもの同士の対等な関係のなかでの交流と連携」ということになる。  私は高橋勇悦編『都市青年の意識と行動−若者たちの東京・神戸90's』(95/5、恒星社厚生閣)において、「若者にとってのネットワーク形成の困難と可能性」と題して次のように述べた。  今回の調査結果から、一見、ヒエラルキーを嫌ってそれぞれの「自分らしさ」を尊重しあい、軽やかに多彩に展開されているように見える若者の交友関係も、実際には「浅いつきあい」への耐性が弱く、友人という限られた「他者」とだけ同一化しようとする志向のため、結局は、自己の個の確立を阻害する結果に陥っていることが読み取れた。このような限られたインフォーマルな仲間を、ピアと呼ぶ。ピアは、現代社会のヒエラルキーと競争によって疎外された自己を、自分と同種の仲間の集団のなかで回復しようとする「避難場」としてとらえることができるだろうが、ネットワークはそのピアとも異なるものである。そこで、図表1では、ヒエラルキーとネットワークとの間に、この「ピア」を仲介項としておき、やや冒険的ではあるが、それぞれの特徴を振り分けることによって、ネットワークの独自の意義を浮かび上がらせようと試みてみた。  少なくとも右表では、ピアとネットワークの相違は明白である。「優しい」といわれているはずの青少年が、授業中、罪悪感なしに私語に没頭したり、「いじめ事件」を引き起こしたりする。これらは、「仲間をだいじにして、おしゃべりにつきあう」(私語)、「友達と同じ行動をする。異質な部分は自他ともに抑制・排除する」(いじめ)というピアコンセプトの表れでもあるのだ。しかし、私語やいじめの傍観者たちさえ、「まわりにあわせる」「自分がひとに迷惑をかけないことが先決」というヒエラルキーとピアの価値観に染まってしまっており、主体的な批評精神や、批判と信頼などの人間関係能力を失いつつある。 図表1 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ そういう若者たちにとっての自己確立のための課題とは、「同一化せずとも『異なる他者』を受容することができるようになるための基本的信頼感、多少迷惑をかけあっても折り合いをつけることができるようになるための共感的理解の能力、自分らしさを現実のなかで実現するための実践的な自立力」の3つであり、それらの課題は、ヒエラルキーでもピアでもなく、ネットワークの魅力と居心地のよさを実際に味わってこそ、学習され、獲得されると思われるのである。  「いったん集団に入って役割を果たすことになった以上、そこから抜けることは無責任である」、私にはこういう言葉が「不幸の手紙」(同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもの、チェーンレター)のような不幸の分かち合いとして感じられる。他者に対して自分や自分の帰属する集団に同一化するように迫る、ピアコンセプトの逆機能(否定的側面)そのものではないか。  私が年間講師を務めていた狛江市中央公民館青年教室(狛江プータロー教室=狛プー)は出入り自由のネットワークとして運営されている。だから、「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」と新規参入者(ニュー・カマー)を歓迎するだけでなく、来なくなってしまった人には、「元気? たまには顔を見せてよ」と呼びかけることはあっても、撤退したそのことについての責任を問うことはしない。つまり、反復参加者(リピーター)になることを強要はしないのである。  突然の撤退によって抜けた穴でも、残った人で何とかなるものだ。担当職員は大変だろうけれども、それは学習者の自発性を重んじる社会教育の職員の根源的なつらさである。まあ、役割分担があるのに抜けたくなった場合は、連絡ぐらいすることはネットワークのエチケット(ネチケット)と思う。このようにしてルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそなのだ。  このように、撤退の自由がなければ、本人がそこに参加しているのもお義理になり、自発性阻害の要因になるのだから、ネットワークには撤退の自由が不可欠であるといえる。しかし、ネットワークは、撤退者にもネチケット以上のネットワーク的資質を要請する。撤退したはずの人がその後の運営に介入したり(OBによる現役支配)、現役への個人攻撃をしたりするなどの「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為をよく見かけるが、私は本当に嫌だなあと思う。自分の未練を他人に押しつけるのは、プータローの自由な精神に反する「悪いわがまま」だ。ネットワークに撤退の自由の許容を求めるとともに、撤退する個人には潔い「良いわがまま」を求めたい。 (4) 市民とのパートナーシップをしかける    −不幸の手紙状況/市民教授制度/ネットワーク型運営  私は徳島学遊塾運動のアドバイザーをしている。この運動は、まち全体を学び舎として、市民のだれもが学ぶことができ、教えることのできる「共育システム」である。そして、その主体はつねに市民であり、市民自らの発想と実践によって運営されることが基本とされる。学遊塾推進本部や企画、広報等を担当する各専門部会は、公募による市民ボランティアが活動の中心となる。もちろん、これに対して、徳島市(事務局は社会教育課)はできる限りの支援をしようとしている。しかし、だからこそ、そこで問われるのは市民参画の実体であり、官民パートナーシップの成熟度である。  私なりにいまの学遊塾が突き当たっている究極の問題点として感じている点は、参加・参画する市民の側にややもすると「不幸の手紙」と似た心理的状況が垣間見られ、そのことが市民参画や官民パートナーシップの阻害要因になっているのではないかということである。「不幸の手紙」とは、同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもので、チェーンレターの一種である。市民の自己決定活動の一環であるはずの生涯学習なのだが、とくにそういう活動のなかで役員などをやっている人は「なんで自分ばかりこんな苦労をしなければならないのだろう」という非生産的な気持ちにさいなまれることがあるのだ。これをそのままほかの人に訴えて協力を得ようとしても、相手だっていやな苦労はしたくないわけで、進んで協力しようという気持ちになれないため、「不幸の手紙」をもらったときのようないやな気持ちになるだけの非生産的な結果しか残らない。  もちろん、行政側にもこのような運動への対処の未成熟な部分も残っていて、それも阻害要因のひとつにはなっているとは思うが、市民の側に行政とのパートナーシップ能力が培われれば、それは市民の力で次第に解消されよう。なお、本稿は問題点とその対処法を考察することを主眼としており、実際の学遊塾運動は、ほとんどの場面でまさに「いきいきどきどき」と運営されていることを念のため言明しておきたい。  1997年度の『1年間の活動報告』において、徳島学遊塾運動推進委員会委員長山本忠男は、「学びたい人々はたくさんいる。また、自分のもっている知識技能を多くの人々に広めたいと思っている人も少なくないと思う。そんな人々の、共に教えあい学びあう場が学遊塾である。師弟とか金銭とかに関係ない、遊び心から学び心への共育であり楽習である。企画運営に当たる推進委員も、市民教授も、みんなボランティアであるのが特色で、理想的な市民手づくりの生涯学習」としつつ、「道いまだ遠しという感がする」と述べている。アドバイザーの澤田順子は、「互いに教え、教えられる双方向の関係に戸惑いを覚えたようだ。はじめは市民教授というと、特別な資格であると錯覚を起こした向きもあった」、「各部会や推進委員の意向が反映されてきているとはいえ、まだまだ主体性を持つところまでいっていない。『私にできることがあればお手伝いします』の域を越えないまま指示を待ち、事務局に頼る部分が多いようだ」と述べている。  共育と楽習は、ある意味で「わがまま」(わが思いのあるがまま)に積極的に関与する行為であり、しかもそれは「自分のため」の行為であるといえよう。だが、徳島の人たちの「控え目さ」ゆえにか、そういうとらえ方ができずにいる面がありそうだ。これはこれで徳島の人たちの味わい深さを表しているのかもしれない。げんに阿波踊りのときなどは身も心も大いに解放し、ハレの日を十分味わうことができる。私も3日間踊りっぱなしであったが、とくに学遊塾の連で踊ったときは、超ベテランの三味線(これもボランティア)のメロディーというぜいたくな条件のもとで、下手も上手もごく当たり前にいっしょになり、地元の路地や、いつものなじみの盛り場や商店街を踊り歩くことができて、一番楽しかった。  しかし、日常の日々における「控え目さ」のほうは、それが何かの拍子に潜行するようなことがあると、先述の「不幸の手紙」のような非生産的状況に陥ることにもなる。「これだけ自分はやってきたのに、ほかの人がやってくれないのはおかしい」、「行政はこういう私たちにこそもっと面倒を見てほしい」というわけである。ややもするとそういう気持ちになることは無理もないこととは思うが、これが市民の自己決定活動という本質を歪ませ、市民参画や官民パートナーシップを難しいものにしてしまう。  私は99年2月に本運動の市民教授研修会において「さて困った、大人への教え方」というワークショップを行い、引き続き推進委員研修会で討論と懇談会をさせてもらった。「よそでたまったストレスを学遊塾で発散している」という元気な意見もあったが、「役員をやっているとストレスがたまることが多い」という訴えもあった。その理由は、まわりの人が協力してくれない、あるいはちゃんと理解してくれていない、会議でなかなか全体の意見がまとまらない、などである。高齢のため体がついていかないという人もいた。市民教授登録者からは、他県の例と同じく、講師としてお呼びがかからないという問題が大きかった。一方、環境問題に関する活動をやっている人からは「活動を、自分の生きてきた証しだと感じている」、民謡の人からは「徳島の宝を伝えるお世話をしたい」などの意見もあった。このような「使命感としての生涯学習」という側面も忘れてはなるまい。しかし、それにしても学遊塾運動が本質的に市民の自己決定活動であり続けるためには、「不幸の手紙状況」からはなんとしても脱却し、「使命感」にしても「潔い使命感」が求められているといえよう。  そのとき私は次のようにコメントした。 @教授法の実際の様子がわかる「市民教授リスト」を  市民教授のさらなる活用といっても、あまり関心がわかない人に講師を依頼するということがあるとしたら、それ自体が生涯学習活動としては好ましくない。ただの無機質なリストではなく、もっとその人の顔がわかり、メッセージや雰囲気が伝わり、どんな教え方をしてくれるのか、プログラムまでわかるリストが必要である。また、今後ますます重要になる学校教育への協力については、専門の分野についてだけでなく、教育についての見識をもち、学校側にもそれが伝わるリストにすべきである。 A活躍場所の自己開発を  町内会、婦人会など地域はだれもが主人公になれる場である。また、市民教授同士でチームを組み、市側にいくつかの会場を提供してもらって、自分たちでキャラバン隊のように各地域に教えてまわるということも考えられる。 B自己決定活動はグループ活動で  ボランタリーな活動は、実際にはそのほとんどがグループ活動として行われるものなのではないか。そういう意味では、まずは市民教授や役員同士が日常的に教えあったり学びあったりすることが楽しいと思う。 C自分のための活動を  いったん役員を引き受けたのならば責任を持って会合にも出席すべき、という感覚はそれが自分自身に向かっている限りは敬意に値すると思う。しかし、責任感以上に、そこに行けば歓迎される、だから仲間と会いたい、役員自身が学べる、おしゃべりできる、だから会合は楽しい、といういわば「自分のため」という感覚こそが大切なのではないか。欠席した人に「もっと責任をもって出席して」ではなく、「この前は来れなくて残念だったね」といえるような活動を目指したい。役員の会合であっても、学遊塾運動が自己決定活動の一環である限りはそういう活動にすることが大切である。 Dネットワーク型の運営を  大人はそれぞれの事情をもって生きているのだから、会合にたまたま参加できた人でそのときの合意を作り出せばよいし、該当する役員にはなっていなくてもメンバーはだれでも会合に参加でき、意見も述べられるということにしたらどうか。来るものを拒まず、去るものを追わずという自由で柔軟なネットワーク型の運営のための工夫が望まれる。  徳島学遊塾運動のような行政が支援する、あるいは行政が仕掛ける市民参画、市民主体の生涯学習事業には、市民の独立型の生涯学習活動とは異なる独自の困難が見え隠れしている。「不幸の手紙状況」に陥る危険性が大きいのである。しかし、その状況からの脱却に向けた市民と行政の努力は、問題が精神構造にまで及ぶというその困難さゆえに、もし成功すれば、きっと市民参画や官民パートナーシップの実体をより確かなものにすることになるだろう。 (5) 個人の癒しを提供する    −癒しと成長/受容と変容/私的充実と社会貢献  上下同質競争社会におけるキャッチアップ型教育(追い付け、追い越せの教育)は、学習者の成長・発達ばかり重視してきた。しかし、個人が生きる意味としては、本音の部分では、癒し・安らぎという要素も、成長・発達と同様に大切だ。それはなぜか。  孔子の「川上の嘆き」はつぎのとおりである。「子、川の上に在りて曰わく、逝者は斯くの如きかな。昼夜を舎かず」。通釈は「孔子が、川の岸辺に立って言った。昼も夜も、一瞬もとどまることなく流れ続ける、この川のように、学問もまた、そうでなければならない」。ところが、駒田信二は、この通釈の後半部分をつぎのように批判している(『論語−聖人の虚像と実像』岩波書店)。  川のほとりにたたずんで自らを嘆く孔子の姿には、人間的な大きなひろがりがある。だが、時はこの川の流れのように過ぎてゆくものゆえ、瞬時もおこたることなく学問にはげみなさい、などと教訓を垂れる孔子の姿には、それがない。「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」(伝、朱子「偶成」)という、口やかましく窮屈な、しかめつらしい顔をした、しかし、なんのなやみもなく自分の言葉に満足している先生の姿があるだけである。なんと魅力のない聖人像であろう。孔子がそんな小さな人であるはずはない。  宇宙や人間が有限なゆえに、また愛や存在の確証がないがゆえに、宿命としての無常観や、現代社会による個の抑圧にさいなまれている人間に対して、癒しを捨象したうわべだけの教育は非力(善導やスローガンという虚偽)である。その逆に、非力(無常という真実)を自覚した教育こそが現代人に癒しをもたらす可能性をもつのである。  開きたい心を安心して開くことのできる水平異質交流の突出的なネットワークによって癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向でもスムーズに作用する。ひとことでいえば、受容と変容は好循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組を自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善(変容)することができるのだ。これが潔い自己決定につながる。ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容は必ずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う。また、ここでの癒しのサンマは、きたるべき社会やコミュニティのあり方の予言者であり先駆者である。  生涯学習は個人の「どこまでも知りたい」という内発的動機に基づくもっぱら自己実現の行為といえよう。しかし、その自己実現は、社会的認知・承認の欲求の充足なくしては、ほぼ達成不可能である。その点では、マズローが社会的欲求を、自己実現の欲求や自我欲求よりも前のレベルに位置づけたことは現在でも通用する。ただし、現代社会においては社会的欲求こそ一番満たされにくく、それゆえ多くの個人にとってはときには最高次の欲求にまで高まるのかもしれない。  もちろん、社会的承認は、先述の3つの自己決定活動以外にも、本来、家族や職場への帰属意識などによって満たされるはずのものである。しかし、そこに頼りすぎることがむしろ病理を生み出しているのが現代である。これに気づいた一部の市民たちが自己決定活動に踏み出しているのだろう。  そこで得られるのが、個人の私的充実(癒し)に裏打ちされた社会的役割の遂行と、それによる社会的承認を実感できる社会貢献のチャンスである。そして、公的課題の学習により、それを学習した者がその学習成果を社会貢献につなげるチャンスは大きい。今日、多くの若者が「自分は社会において意味のある存在である」と胸を張れない状況がある。そういう人たちに対して、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居心地よいサンマにおける癒しだけにとどまらず、さらには「地域社会に役立っている私」という究極の癒しのチャンスまでをも提供する必要がある。  ここで、ある市の男子成人のグループF会(仮名)の「守っていること」を紹介しておきたい。@政治・宗教を持ち込まない(議員メンバーは複数いる)、A会長をおかない(対外的にはおくときもある)、B会費をとらない、C職場の肩書、社会的地位、過去の経緯を持ち込まない、D来るのも去るのも拒まない、Eさん付けで呼びあう、F多様性を尊ぶ(排他的にならず、少数意見を尊重する)、G集まるときは、自分で作ったツマミと自分の飲み物を持参する。  このようないわゆる「親父の会」が現在、増えつつある。職場での自分だけではあき足らず、地域で他の親父たちとのまさに水平異質交流と友達づきあいを求め、そこで自分らしさの発見や町づくりなどの社会貢献の楽しみを味わうのだ。F会の「守っていること」には、メンバーの親父たちの潔さと、それゆえの楽しさがにじみ出ている。まさに、突出的水平異質共生の世界といえるだろう。 (6) 個人の自己決定やボランタリズムを支援する    −自己決定の「指導」/ボランティア/御都合主義  突出的水平異質共生は自己決定の世界であり、最初の一歩の選択においても「選択の自由の恐怖」を感じるぐらいたくさんある。しかし、ボランタリズムの本質はここにある。たとえば自分にあいそうなNPOの門をたたいてみるのもよいかもしれない。でも、べつにNPOではなくてもよいのだ。「自分が学びたい内容を学びたい手段で学ぶ」のが生涯学習である。だから、私がある具体的な内容と手段を望ましいものとして提示するとしたら、それ自体に疑義がある。それはある音楽を「こう感じましょう」とシドウするようにナンセンスなことだ。具体的な情報提供をするのだったら、たくさんの「いい世界」を提示して、本人に選択を任せればよい。指導に関する私なりの今の考え方をつぎのようにまとめて提示しておきたい。 図表2 自己決定活動の「指導」とは何か  ここで、生涯学習施設におけるボランティア導入について考えてみたい。楽しい生涯学習施設経営と楽しいボランティア活動を阻害する要因は、むしろ、生涯学習施設側の姿勢にあるのではないか。私が生涯学習施設ボランティアの導入を「出会いの拡大」として支持する立場からある県でパネルディスカッションの司会をしていたところ、その司会のやり方に対して県内のある図書館司書から批判を受けたことがある。それを大学の授業で紹介したところ、一人の学生がつぎのように出席ペーパーに書いてきた。  先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的だといわれたと思いますが、私は司書さんがいったことがわかるような気がする。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思う。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。  この出席ペーパーに対して、翌週の授業で、私はつぎのようにコメントした。  生涯学習施設へのボランティアの導入は、市民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。その図書館司書がそうでないと思うなら、そう批判すればよいではないか。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは、労働者としての自己客観視を忘れた御都合主義といわざるをえない。  専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で代行できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。現在のその仕事は、ボランティアコーディネートやその他の、より専門的な仕事に純化すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は当局側の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずなのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。しかし、だとすれば、その図書館司書は、住民の幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。  幸福とは自然に達成されるものではない。生涯学習援助職員の場合も、学習者の幸福追求への意図的、意識的な援助の営みのなかで、自らの幸福も確認できる。そのためには、自己の保護や安定だけ求めて自分の都合に理屈を合わせる御都合主義ではなく、自分が働いている意義を自負できる自律的な精神が求められる。これが職員としての現実原則に即したプライドの守り方、育て方である。  以上のように、私は、生涯学習施設ボランティア活動を阻む施設側の要因として、2つの御都合主義が問題だと考えている。「出会いの援助よりも、従来の仕事の安定的な存続を優先してボランティアを排除する御都合主義」と「出会いの援助よりも、経費や人員の削減を優先してボランティアを導入する御都合主義」の2つである。前者に対しては「それなら、失業対策事業とどう違うのか」と問いたいし、後者に対しては「それなら、現在、公金を使って施設を運営し、しかも、専門職員まで配置している理由をどう答えるのか」と問いたいのである。  日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べている。国民の幸福追求の重要な営みとして認識されるべきボランティア活動に対して、生涯学習施設がその援助者としての役割の自負と喜びを主体的に意識することができるかどうか、そこで生涯学習施設の将来が決まるといっても過言ではないだろう。  そもそも、生涯学習施設職員が、現代の上下同質競争の価値観を乗り越えて、学習者や施設ボランティアとともに水平異質共生の突出的サンマをともに創造する営みに本気で、そして本務として関われるようになれば、それは職員自身にとっても至上の幸福といえるはずである。じつは、私は、生涯学習施設へのボランティア導入は、一般の利用者との関係以上に、職員にとっての自分らしさや相手の「個の深み」と出会える楽しいものになるのではないかと予想している。生涯学習が楽しい活動であるのと同様に、生涯学習の支援も楽しい活動であってほしい。 (7) 個人間の対話    −ダイアローグ/シンパシー/ストローク/エンカウンター  私は「心を育てる」について、「心を育てる・・・ええっ、なんということを−成人教育の視点からとらえ直す」(98/7、全国公民館連合会「月刊公民館」503号)において、次のように述べた。  「自分の心まで教育されてしまうことへの抵抗心」を大切にしたい。その前提のもとで、「子どもの心を育てることのできる成人」の心を育てることはできる。なぜなら、公民館はじめ成人教育の場で、現に、当たり前のように大人が生涯にわたって成長し続けているのだから。大人に対する心の教育や指導は、以下の条件で可能である。@非日常的な相互関与を意図的に深める、A指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する、B教育と学習の間に流れる暗くて深い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。しかし、わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたい。むしろ、潔くそのように「自分のため」と思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」が、教育を受ける個人にとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、指導行為など成り立つわけがない。  個人が本気になれる指導とは何か。それは対話(ダイアローグ)であると考える。ソクラテスは対話によって相手がみずから真理(子)を生み出すように手助け(助産)をした。これは助産術といわれ、教育の原点でもある。そこでは、発問しても結論に至らないときがあるが、それよりも考える過程を重視する。  就職活動が一段落した秋口に初めて私の授業に出てきた4年の男子大学生が、こう書いてきた。「ぼくは来年は就職浪人することが決まった。なぜなら、@大企業であること、A残業がないこと、B転勤がないこと、のぼくなりに決めた就職3条件にあう企業に採用されなかったからだ。こういう就職浪人のぼくを世間は差別の目で見るだろう。そういう差別される者の痛みは、先生のように差別されたことのない人にはわかるまい。しかし、先生はぼくが知りたいと思っている差別のことについて話しているようだ。だから、あと1回ぐらいはこの授業に出席しようと思うので、ぼくの期待に応えてほしい」。  私自身、じつは、就職浪人をしたことがあり、しかもそのときは差別の目で見られる辛さより、自立できずに親に迷惑をかけることの方が申しわけないと思ったものだ。だから、正直いって、最初はこの文章に馬鹿馬鹿しさや憤りを感じた。そのほか、知に対する安易な態度、世間を甘く見ていることなどの彼の欠点を指摘して、教師の立場から彼をへこますことはできるかもしれない。しかし、そんなことが何になるのか。彼の主体性の増大や態度変容につながらないことは明らかである。そんな説教は、教師が学生より上位者であることを確認して安心する行為にしかならないのではないか。  私は、指導の要素をシンパシー、ストローク、エンカウンターの3つと考えている。まず、彼の存在に対して、肯定的に関心をもち、共感的に理解しようとする態度が必要であろう(シンパシー)。考えてみれば、彼の就職の条件の@は安定した収入、Aは自由時間、Bは家族の安心を求めるもっともな願いであり、だれもそれを責めたりできないはずだ。それよりも、世間から差別の目で見られるだろうから辛いという言葉を彼なりの真実としてとらえ、そうとらえたことを伝えることのほうが大切だ(ストローク)。その上でこそ、「上下同質競争社会」に気づかないままそのなかで苦しんで生きている彼と出席ペーパーへのコメントという形で真正面から対話し、本音でぶつかりあって(エンカウンター)、自己と現実社会との関係の客観的認識と、彼自身のもっている内なる差別の存在や社会の画一的価値観の内面化への気づき(「批判の刃を自己にも向けよ」)を促すことができるのである。これが、本当の意味での「自分を否定しなくてもよい」「そんなに頑張らなくてもよい」という自己受容につながり、さらには、「差別されたことのない人にはわかるまい」という絶望感を乗り越えて、「人間は共感しあうことができる」という他者受容と肯定的関心につながるかもしれない。自己防衛的な就職浪人の彼は、このような癒しのプロセスを経てこそ、生きていて社会に意味を与えることのできる自己を発見しようとする元気が出てくるのではないか。 (8) 普遍的事実よりも臨床的真実と出会う    −遠隔教育/ワークショップ/臨床的真実  私は、インターネット・SCSを活用した遠隔教育として、担当する大学公開講座「私らしさのワークショップ」におけるインターネット活用、公開講座「今日の教育問題を考える−徳島大学大学開放実践センターからのメッセージ」のSCSによる配信などに取り組んでいる。SCSとは、スペース・コラボレーション・システムの略称で、全国の国立大学等に衛星通信を利用した情報通信ネットワークを基盤整備し、高等教育の高度化・多様化を推進するものである。  一斉集団承り学習においては、遠隔教育を無難に進行することはできよう。その効率性は否定できない。しかし、それゆえに、多くの学習者からは本音のところでは嫌われる原因にもなっているし、また、ひいてはそのことが生涯学習社会への転換の阻害要因にもなりうる。インターネットによるコミュニケーションを活かした市民への「癒し」の提供や、SCSにおける大学間、教官間、大学を抱える地域間の「協働」の視点が重要である。さらに、私は、その視点に立ち、遠隔教育における、一斉集団承り型学習から能動的参加のワークショップ型学習への転換を提唱したい。  「今日の教育問題を考える」の第1回で、私は、ワークショップ(カード式発想法)と出席ペーパーシステム(ディスクジョッキータイム)により、徳島受講者については、記述した内容の紹介と組織化、私のコメントという形で、学習者参加型の講義を試みた。また、非常勤で担当している看護学校の授業「情報科学」では、ワープロや表計算ソフトを活用して、コミュニケーションゲームを行った。「印象ゲーム」で他者の「自分らしさ」に肯定的関心をもつ体験、「価値観テスト」で他者の異なる価値観を受容しあう体験を提供した(89/5、坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』日本生産性本部)。とくに表計算ソフトについては集計やグラフ作りが容易なため、パソコンの利点を活かせたと思う。データ通信を併用すれば、これは遠隔教育においても可能になる。  しかし、受講者は、自分たちの成果のまとめは見たがっても、それを発信することについてはあまり関心を示してくれなかった。これは、衛星通信による遠隔交流でもぼくが感じたところであるが(国立婦人教育会館新教育メディア研究開発事業「遠隔講座 子育てにやさしいまちづくり」)(西村美東士「ニューメディアをひっかきまわす若い母親たち−高知市初月小学校PTA」,全日本社会教育連合会『社会教育』52巻第12号,p68-69,1997年12月)、見知らぬ人にあえて発信する動機がないということであろう。これに関する今後の課題としては、@「顔見知り」あるいはピア(仲間)ととらえられる範囲を広げること、A「顔見知り」以外からもフィードバックされるシステムを設定し、その面白さを味わう機会を提供すること、の2点が挙げられよう。それにしても、ほかのグループの画面に対しては、活動そのものへの関心はあっても、個人的な関心や知り合いの関係があっての上ではないので、「いまひとつ気軽におしゃべりできない」という母親たちの感想であった。もっともなことである。これは遠隔教育の致命的な限界なのか。  この問題について、当時の私は、たんに「このへんは、やはり、マルチメディアがフェース・ツー・フェースの直接交流の補完、促進の手段としての役割は果たすことができても、直接交流を不要とするまでの効力はないということを示しているのであろう」としただけである(前掲自著「ニューメディアをひっかきまわす若い母親たち」)。だが、いまはもっと本質的な問題があると考えている。たとえ遠隔教育のように物理的距離がある場合でも、人との出会いが興味深いのは、その人の「個の深み」という「臨床的真実」に出会えるからなのではないか。ここで臨床的真実とは、個々のケースに寄り添ってこそ気づくことのできる生き様などをさす。それは場合によっては、フェース・ツー・フェースでなくてもよい。上質の私小説を読んだときの感動と同じである。「事実より真実」なのである。  これと関連して、ワークショップとは、@作業場、(手工業的な)工場、A(小規模な)研究(集)会、研修会、をさす。これは一斉集団承り学習という受動的学習方法の打破に通ずるものである。笑い声が絶えない、学習者自らがその気になる、などの特徴がある。そして、そこでは、カード式発想法などに端的に表れるように、表層の「事実」という形骸に議論が陥ることなく、一人一人、一枚一枚のカードのもつ「真実」と臨床的に出会おうとして学習者が相互に自発的に全力を尽くす。遠隔教育においても、電波的仮想空間を共有する学習者間でこれを実現するよう努めるべきではないか。  もちろん、いかなるコミュニケーションにおいても、顔見知りであるという前提は有効であろう。しかし、大学開放が提供しようとする出会いとは、皮肉な言い方だが「テレビでいつも見ているタレントだから顔見知りである」という種類のものではないはずだ。また、「双方向の一方通行」というのも悲しい。つまり、顔見知りであるかどうかなどということより、双方向の相互関与こそが本質なのであろう。さらには親密さ(ラポール)についても、重要であるとはいえ注意を要する。電子メディアは、第1次関係(情緒的)とも第2次関係(役割的)とも異なる新しい関係を提供しており、そこでのコミュニケーションによって癒される人もいる。親密/疎遠の判断基準自体が変化しつつある。逆に、過度な親密は、ややもすると個性の発揮を押しとどめ、個人を癒されない状況に追い込むピア(仲間)プレッシャーにもなる。仲間との同一化を装う防衛的風土に縛られ、個性ある発言が頭に浮かんだとしても、自己抑圧されてしまうのである。インターネット・SCSを活用した遠隔教育においては、「メディアを通してなら言える」という利点を活かしてワークショップを行うことにより、ピア・プレッシャーを少しでも除去し、異なる他者の臨床的真実に出会う機会を提供する必要があると考える。  インターネット・SCSを活用した遠隔教育は、教官間、大学間、地域間の「協働」に支えられ、また、それをさらに促すものでなくてはならない。その際、どんな状況においてもワークショップの「形態」でやることが最善というわけではない。しかし、とくに一方的になりがちな遠隔教育においては、最初に述べたように、大人の生涯学習に対して、たとえ大学といえども教育や指導は可能なのかとつねに問い続け、双方の異なりを重視しあって、いっしょに何かを作り出そうとする姿勢が重要である。しかもそれは同一化志向のピアとは違う。むしろ水平異質交流(5)というべきである。そのためには、ワークショップの「形態」よりも、ワークショップが臨床的真実を尊重する「姿勢」から学ぶ必要がある。  このようにして、リアルタイムな双方向性の確保という遠隔教育の課題は、電子・電波的仮想空間において、教官、市民一人一人の臨床的真実が相互関与する「協働」として実現することができるのではないか。これこそが、各人、各機関がそれぞれの独自の機能や役割を発揮して、主体的に参加・参画しあう本来の「協働」の姿であろう。つまり、協働とは、相手の「個の深み」と出会うための方法といえよう。  数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。  そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知される。その面で、ワークショップは承り型から参加・参画型学習に転換するための大きな可能性をもっている。そして、ワークショップにおいては、出席ペーパーと同様に、一般社会と比べてかなり突出的な臨床的真実の相互関与が行われるがゆえに、アカデミズムの新しい役割の発揮が期待できる。