4. 個人はなぜ学ぶのか  (西村美東士=にしむらみとし、徳島大学大学開放実践センター)  (1) フリーチャイルドの心が個人を学ばせる    −ガンバリズム/交流分析/ギブ・アンド・テイク  人間の人生は一生が勉強、などとよくいわれるが、そういう言葉を聞くと、多くの人はちょっといやな気持ちがするのではないだろうか。抵抗感とでもいえようか。生涯学習時代とは、ひとが生涯にわたって学習し続ける時代だということができるが、学習のもともとの意味が、目上の人、立派な人、偉い人などから、まねぶ(まねをする)、ならう、ということであることを考えると、「ちょっと面白くない」と思うほうが、むしろ当然なのかもしれない。「本当はいやだけれども、とにかく頑張って勉強しなければならない」ということのほうが不自然である。「人から押しつけられて勉強するなんて私はいやだ」という本当の自分の気持ちを、ガンバリズムなどによってごまかさないで、教育や学習に対する自分の抵抗感を大切にするということを、ここでは提案したい。生涯学習とは、本人が学習したいから学習したいことを学習することである。  学習は、本当はいやなのに鞭打ってやるというようなものではない。本人がおもしろいと思えることこそが重要である。学習の中には、このように面白いと思える世界が渦巻いている。生涯学習は、ワンダーランド(遊園地)だということができるだろう。お茶にも、生け花にも、天文学にも、スポーツやダンスにも、気づきや自分の深い部分の発見やドキドキワクワクできることがあふれている。それらの活動はすべて生涯学習だといえる。面白いからやる、などということは、昔だったら許されなかったかもしれない。実際、少し昔にさかのぼれば、よく勉強する子どもは親に「そんなことして何になる」と叱られたものだし、大人だと穀潰しなどともいわれたものだ。しかし、生涯学習社会はそれが許される社会だ。好奇心にあふれた子ども心が、むしろ尊重される社会なのである。空想する、感動する、面白がる、天真爛漫にどんなことからでも楽しく学んでしまう、そんな人生を過ごすことができれば、どんなに素晴らしいことか。これらの態度や人生の構えは、フリーチャイルドの心の働きによって支えられる。  教育という言葉には、悪いことを叱ったり批判したりする厳しい親心によって、それを素直に聞き入れる従順な子ども心を育てるというイメージがある。ここで、厳しい親心とか従順な子ども心とかいう言葉は、「交流分析」という臨床心理の用語を使っている。人間の心の状態とその他人との関わり合いを分析するのが交流分析である。  交流分析では、この「従順な子ども心」が強すぎると、目上の人や権力に弱い不安なおどおどした気持ちに支配されがちになるといわれている。また、厳しい親心や従順な子ども心が強すぎると、高血圧、心臓病、胃潰瘍、成人ぜんそくなどの原因にもなる。それは、体が自分の心に対して、「私の人生はこのままでいいのか」という危険信号を出している表れなのである。こんなことをいうと、今はやりの心理ゲームのようでうさんくさいと思われる人もいるかもしれないが、一方では、「私の人生や人間関係はなんだかうまくいかない」と思っている人の中には思い当たる節があるはずである。交流分析はひとつの科学であり、人間を決めつけたり、占ったりするためのものではないのだ。とにかく、人を不幸にしたり病気にしたりするような教育だったらいらないということである。そして、生涯学習とは、趣味、教養、文化、芸術、スポーツ、レクリエーションなど、どんなことでも自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶことである。もっといえば、人間どうしの対等なネットワークの中で、教えあい、学びあうことともいえる。  たしかに、さきほど述べた厳しい親心による教育も必要なときがある。交通道徳や安全管理に関わる教育などが、そうであろう。しかし、交流分析には、ほかに、保護的な親心、冷静な大人心、自由な子ども心、という言葉がある。ひとの心の状態は、大きくは、親の心、大人の心、子どもの心の3つ、細かくは、厳しい親心、保護的な親心、大人の心、自由な子ども心(フリーチャイルド)、従順な子ども心の5つに分けられる。子どもから年寄りまでのすべての人に、バランスの差はあっても5つの心があるし、どの心も欠かせない。しかし、子ども心を失ってしまって、精神的にはもう死んでしまっているような不幸な子どもだっている。これからの教育や生涯学習においては、人間らしい心の状態を一人ひとりの中に取り戻すことが大切だと考える。  たとえば、ほめてあげる、かばってあげる、何かをしてあげる、そんな保護的な親心を自らの中に育てることも大切である。なぜなら、他人に何かをしてあげるからしてもらえるのであり、人間関係の基本はそういうギブ・アンド・テイクのネットワークだからである。今まで誰かにしてもらうことばかりで、これからも他者から守ってもらうことばかり考えていても、そのうち、だれも自分に目を向けてくれなくなるだろう。情報ボランティアが、より意味のある新しい情報を収集できるのは、それは彼が発信(ギブ)するからである。 (2) 個人の学習が真に自由であるための教育    −教育と学習の乖離/現代的課題/柔らかい個人主義/勉強会  90年代初めの中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」答申(90/1)、生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(92/7)は、個人の自由な学習としての生涯学習を評価するものであるが(1章参照)、じつはすでに社会教育審議会「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」答申(71/4)は、生涯教育について「生涯にわたる学習の継続を要求するだけでなく、家庭教育、学校教育、社会教育の三者を有機的に統合することを要求している」として、その必要性を提言している。中央教育審議会も「生涯教育について」(81/6)を答申している。  前者は、@人口構造の変化(出生率、老齢化)、A家庭生活の変化(核家族化、家庭の教育機能の低下)、B都市化(都市問題、非行化、郷土意識の欠如)、C高学歴化(学習要求の高度化、学校不適応)、D工業化・情報化(人間疎外、情報過多、価値観の混乱)、E国際化(国際的視点の必要等)の6つの社会的変化をあげた上で、「今日の激しい変化に対処するためにも、また、各人の個性や能力を最大限に啓発するためにも、ひとびとはあらゆる機会を利用してたえず学習する必要がある。とくに社会構造の変化の一面としての寿命の延長、余暇の増大などの条件を考えるなら、生涯にわたる学習の機会をできるだけ多く提供することが必要となっている。また変動する社会ではそれに適応できない人も多くなり、変動に伴って各種の緊張や問題が生じており、これらに伴い、ひとびとの教育的要求は多様化するとともに高度化しつつある。こうした状況に対処するため、生涯教育という観点に立って、教育全体の立場から配慮していく必要がある」と述べている。  そして、後者は、生涯学習と生涯教育の関係について次のように述べているのである。「今日、変化の激しい社会にあって、人々は、自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。この意味では、これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい。この生涯学習のために、自ら学習する意欲と能力を養い、社会の様々な教育機能を相互の関連性を考慮しつつ総合的に整備・充実しようとするのが生涯教育の考え方である。言い替えれば、生涯教育とは、国民の一人一人が充実した人生を送ることを目指して生涯にわたって行う学習を助けるために、教育制度全体がその上に打ち立てられるべき基本的な理念である」。  90年代においては「生涯教育」という言葉はほとんど使われなくなり、「生涯学習」という言葉が使われている。一般には、生涯学習のほうが学習者の主体性を尊重した言葉だといわれているからだと考えられる。国際的にも同様のようだ。しかし、生涯教育が「教育制度全体がその上に打ち立てられるべき(生涯学習のための)基本的な理念」であるならば、その社会的責任は大きい。言葉の安易な言い換えは、この本質を見誤らせる結果にもなりかねない。その見誤ってはならない本質とは何か。つきつめていえば、「教育=学習支援」の等号が成立するかということである。  教育は個人的事象である学習を支援する営みでなければならない。個人の主体性を重んじて生涯学習という言葉を使うのはよいが、子どもたちへの教育だけは、成人一般の「学習」とは違って「教育」であってもよいという論は大人の身勝手な議論であろう。私は、自著『癒しの生涯学習』で、この等号について次のように述べた。「教育=学習支援の等号には深くて昏い河が流れていると私は思う。私は、まず、この深くて昏い河の存在を伝えていきたい。つぎに、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この上下同質競争社会の同時代に命を燃やしている。私はたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい」。  学習者個人にとって、生涯学習の時代は歓迎できる。しかし、教育や指導については自動的にシャットアウトしたままというのでは、自己の生涯学習の内実は得られない。個人の自由な学習の支援としての教育のあり方を、個人自身も理解する必要がある。  92年の生涯学習審議会答申は「現代的課題」について次のように述べている。「社会の急激な変化に対応し、人間性豊かな生活を営むために、人々が学習する必要のある課題である。現代的課題については、学習者が学習しようと思っても学習機会がなかったり、自己の学習課題に結び付かなかったり、学習課題として意識されないものも多い。これからの我が国においては、人々がこのような現代的課題の重要性を認識し、これに関心を持って適切に対応していくことにより、自己の確立を図るとともに、活力ある社会を築いていく必要がある。そのためには、生涯学習の中で、現代的課題について自ら学習する意欲と能力を培い、課題解決に取り組む主体的な態度を養っていくことが大切である」。  私は「現代的課題」というよりも「公的課題」というほうが、問題がよりはっきりすると思っており、答申以前から「公的課題」という用語を使っている。その場合、「公的課題」に対しては、臨教審のいう「個性重視」や、その第1部会の「個性主義」よりも、「個人主義」という言葉のほうが意味合いがはっきりすると思う(1章参照)。そして、公的課題の学習は、個人主義をより深く実現するものだと考える。現代的課題にせよ、公的課題にせよ、その課題を意識した「教育」は、個人の学習が真に自由であるためにむしろ望まれることであるといいたい。  自著『生涯学習かくろん』(91/4、学文社)では、84年の山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』の「個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである」を引き、次のように述べた。もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は「派手だが空しい自己顕示」によるものとは本質的に異なる。私はこれを「個の深み」と呼んだ。  生涯教育から生涯学習という言葉への転換の時流のなかで、「教育」と同様に「勉強」という言葉も「つとめしいる」だから強制的な意味あいが強いと決めつけ、それに比して「学習」という言葉は即主体的行為であるから好ましいとする議論がある。しかし、個人にとって、ほんとうに「勉強はいやな言葉で、学習はいい言葉」なのだろうか。  学習の「学」は旧字体では「學」であり、「臼」(両方の手)で「子」が知識を授けられる「家」を意味しており、「爻」という二者間の相互の動作も含んでいるが、上の人を「まねぶ」(まねをする)ことでもある。「習」の「羽」と「白」は「ひな鳥がくりかえしはばたいて飛ぶ動作を身につける意」であるから、「ならう、なれる」ことである。たしかに学習者側からの表現ということはできるが、与えられた教育目標に対しては無批判的に受け入れることを前提とした言葉であるといえなくもない。「学習会」などというと、無意識のうちにどうしてもそういうニュアンスで感じとられてしまうのではないか。  これに対して、勉強という言葉については、勉強会やパソコン通信での発言にしばしば見かける「私も勉強しておきます」などの表現に、新しい意味を見いだすことができる。「勉強」の「勉」は、「力」(りきむこと)と「免」(女がしゃがんで出産するさまの象形)である。「無理をおしてはげむ」ことである。「強」も「無理をおす」という意味である。その語感に軽やかな楽しさがないのは否めないが、他者からの強制を必然的にともなうものという意味は含まれていない。「まねび、ならうこと自体がもういやだ」、「学習するようにマインドコントロールさせられるより、自ら苦しみながらも勉強したほうがいい」という反骨精神を大切にしたい。 (3) 集団は一斉には学ばない    −高等教育/個人的事象としての学習/一斉承り学習  ここでは、アナロジーとしての高等教育をとりあげる。大学の目的については「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法第52条)とあり、短期大学の目的については「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成すること」(同法第69条の2)とある。「深く専門の学芸を教授」することについては共通している。なお、小・中・高等学校については「心身の発達に応じた教育を施すこと」となっており、その他に大学などと違って教育目標が定められているが、「学芸の教授」という言葉はない。  学芸とは「学問と技芸」であり、教授とはそれらを「教えさずける」ことである。学問の「学」は旧字体では「學」であるが、「爻」という二者間の相互の動作も含んでいる。「問」とは、とびらで閉ざされている「門」、すなわちかくされていて分からない事を口でたずね出す意である。教授の「教」は、やはり「子」に対するという意が強いが、旧字体では「子」の上に「爻」が使われる。「授」には、「さずける」という師弟的な響きが強いが、解字では「手で受ける」という学習者側の能動性も意識したものと考えられる。  このように、「学問の教授」という言葉のもともとの意味から言って、師弟関係を前提にしているとはいえ、それが非主体的な一斉承り学習によって実現できるものとは想定されていない。これは当然のことといえよう。しかし、実際の教育現場では教授側も学習側もその認識が十分とはいえない。  高等教育における講義の位置づけについての現在の到達点を探るためには、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した『大学教育の原理と方法』(喜多村和之他訳、玉川大学出版部、1982、もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)に書かれている主張の吟味が有効である。本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。  そこでは、「学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」であること、すなわち、学習は個人的事象であることが基本テーゼになっている。したがって、多人数で行なう講義については、教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、これまで述べてきた学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」としている。本書で講義法に対置されている教授法は、小集団討議法、個別的・自主的教授法などである。マスに対して一斉に説きあかそうとする講義(学習する側からいえば一斉承り学習)の逆機能は、高等教育においても生涯学習とまったく同じ問題として表れているのである。 (4) 個を学習に駆り立てるもの    −実際生活に即する文化的教養/状況に埋め込まれた学習/臨床の知  前出『大学教育の原理と方法』の「学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」という言葉は、アメリカのM・ノールズがアンドラゴジー(おとなの教育学)の特徴としてまとめた成人の学習の形態、動機、基盤などとぴったり一致する。個人の主体的な学習のめざすものは、高等教育が今日模索している教授法のそれと、ほとんど同じものになるだろう。もちろん、学習内容については、社会教育法によれば「実際生活に即する文化的教養」(第3条)であるから、深く専門の学芸を教授研究する高等教育とは明らかにレベルが異なる。しかし、「実際生活に即する文化的教養」が、もし、いわゆる身のまわりの問題だけの学習や、うわべだけの文化・教養にとどまったとしたら、個人学習者にとって魅力あるものであるはずがない。人々の生活・文化・教養ニーズは、高等教育でいう学問に近づこうとしているのではないか。逆に、学問のほうも、学際の重視などから人々の生活、文化、教養に従来以上の関心を示しつつあるのではないか。先述の「つとめしいる」勉強に関心を示し自らそれを行なおうとする一般成人などは、その潮流の先駆者なのかもしれない。  さらに、ジーン・レイヴ、エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習−正統的周辺参加』(93/8、産業図書出版社)において、正統的周辺参加論(LPP)の教育への示唆について、訳者佐伯胖は次のように述べている。  LPPは、学習を教育とは独立の営みとみなした。学習を社会的実践の一部であるとする。学習というのは、「学び取る」とか「身につける」というよりも、「世の中のタメになること−いわば、シゴト−をやる」ことなんだという。しかも、個人の営みではなく、当人がそこに属している、あるいは属したいと願っているなんらかの「共同体」が想定されている。学習とは「参加」である。学習によって人は「実践(の)共同体」に貢献する、行為する、という「する側」にたち、「される側」/「見る側」ではない。そして、学習はアイデンティティの形成過程であるとする。ひとりひとりの「こだわり」から出発しつつ、それが「みんな」との共有と公的承認のなかで、自分の役割がはっきりしてくるし、また、それがどんどん「十全的なものに」展開していく。それによって共同体自体も「変容」し、再生産されていく。このことは、LPPが社会性とか共同体を強調しつつ、あくまで、個人の個性的な役割を大切にしている、という点で、LPP論をきわめてユニークなものとしているだけでなく、今日「個性化」がさけばれているときに、きわめて重要な示唆を与える理論的枠組みを提供している。LPPは、学習をアイデンティティ形成とみなす。すべての学習がいわば、「何者かになっていく」という、自分づくりなのであり、全人格的な意味での自分づくりができないならば、それはもともと学習ではなかった、ということである。そして、LPPでは、学習とは、共同体の再生産、変容、変化のサイクルの中にあるとし、学習をコントロールするのは実践へのアクセスであるとする。  「共同体」のみにすべての学習の動機づけの源泉を求めることには異論はありうるが、それにしても学習における個人の個性の発揮やアイデンティティ形成と共同体の再生産を結びつけたこの論は、示唆するところが大きい。佐伯は次のように述べている。「教材や教師の役割がそこにあるとすれば、学習者をいかにホンモノの、円熟した実践の本場(アリーナ)を当初からかいま見させて、そこへ『行ける』実感をもたせ、また、たとえごくごく周辺的であっても、そこにつながっているということがなんとかわかるような、実践の手だてを講じてあげる、ということになる」。  それにしても、このように高等教育における学問と市民個人の学習とを、共通に駆り立てているものは何なのか。佐伯は「LPPでは学習はアイデンティティの形成過程であるとする」として、次のように述べている。  すべての学習がいわば、「何者かになっていく」という、自分づくりなのであり、全人格的な意味での自分づくりができないならば、それはもともと学習ではなかった、ということである。このことは、学習の動機づけの解釈を従来とはまるで異なるものにする。たとえば、従来の心理学では、「知ること自体が楽しいので」学習するのが「内発的動機づけ」とされたが、これはむしろ、こう解釈すべきだった。「ものごとを知りたいということだけを目的に没頭していることが、自分自身がこれまでにない、何者か−大げさにいえば、学的探求者−に少しでも近づいているということで、自分の熟練のアイデンティティが自覚され、参加意識が高まった結果、より一層深く、ものごとに自らコミットメントするようになっている」と見ることができる。こう考えると、何でもかでもに「内発的に動機づく」ということは(「勉強」だけをしたがる「お勉強マニア」以外には)ありえないわけで、そこには、追求していくべき「世界」のひろがりの実感とそれへの参加意識が芽生えているはずだ、ということが予想される。  一方、中村雄二郎は前出「臨床の知」という術語により、近代科学の<普遍性><論理性><客観性>を批判し、近代科学が排除してしまった<コスモス><シンボリズム><パフォーマンス>、すなわち<固有世界><事物の多義性><身体性をそなえた行為>の大切さを訴えた。個人が固有の身体を伴って、それぞれの世界で受苦し、受動しつつ生きているという真実のなかでの「経験の教え告げる知」を復権させようとしたのである。中村の議論を学習についての議論に応用するとすれば、一般の人々のさまざまな学習の場面のなかで、その個人がそれぞれの身体と世界において受動(=能動と中村はいうが)的に学んでいること(臨床の知)にもっとも重きを置くことになろう。 (5) 事実よりも真実に出会いたい    −事実と真実/主我主義/主体的行為としての学習  上記の理論をなぞったうえで、なお、私は、個人が客我(客体としての我)よりむしろ主我(主体としての我)から、すなわち個人を取り巻く状況、個人が置かれた世界という規定要因から自由な「個人が学ぼうとする動機」を見いだす思いがする。たとえば、それは、読書を、研究を、あるいは自己決定活動を、深く進める市民のなかにである。そして、その人たちの学習を駆り立てているのは、たくさんの「事実」を知ることなどではなく、小説的真実などを例とする「真実」と出会うということなのではないか。それゆえ、私はそういう人々に出会うと「個の深み」を感じる。私は、ことに個人学習については、「主我主義」的に理解したい。生涯学習や社会教育でいわれる「学習者の自主性・自発性の尊重」の原点もここにあると考える。  「事実より真実」といった場合、私は、現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとするのではない。ただし、それは、実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合であれば、という条件付きである。近代科学は、中村のいう<普遍性><論理性><客観性>の傲慢を反省せねばならないだろう。しかし、個人が学習するにあたって、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という目的意識があるとすれば、それは状況や受動からは少なくともいったんは自由な「主体的行為」といえるのではないか。  魯迅は差別を受けつつ学んでいた日本で、つぎのようなフィクションを書いている(小説『藤野先生』)。  わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。  じつは、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年に開設されたのだ。また、当時、仙台医学専門学校と同じ構内にある第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているそうだ。この魯迅のフィクションについて、駒田信二はつぎのように述べている。  事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。(中略)同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。  つまらない事実(ときには虚偽である)を詰め込むために私たちは生きているのではない。古くから人びとが愛してきたこの魯迅の著作などに見られる小説的真実や、リアルやバーチャルなコミュニティのなかでの「善と悪」の入り交じったコミュニケーション内容は、権威に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)である。 (6) 即目的的な学習    −生涯学習の即目的的本質/遊び型学習/偶発的学習  人びとが生涯学習などの自己決定の世界を求め続けるおおもとの動機は何なのか。私はそれを感動だと考える。感動するからこそ、きのうまでの自分の枠組が変化するという本来のダイナミックな学習(自己変容)が成立するのであるが、本人にとっては学習になっているかどうかなどはほとんどどうでもよいことである。それよりもわくわくすること(ワンダーランド)と出会いながら人生を過ごしたいという自然な欲求に貪欲なだけのことなのだろう。そのわくわくする対象が真実だと思うのだ。私は、これを生涯学習の即目的的本質として評価したい。  もちろん、事実を伝える情報も大切だ。事実に気づいて感動するようなこともあろう。しかし、それらの気づきの本質は、自己の「個の深み」への気づきでもある。そういう種類の事実や「個の深み」などの、その人の人生にとってほんとうに意味のあることがらを、私は事実と区別して「真実」と呼ぶ。  私も起草委員として関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、どこまでも知りたいという自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、そのどこまでも知りたいという場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。私なりの答は、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」ということである。  私は前出『生涯学習かくろん』(91/4)において、地方自治体における学習プログラム作成の視点のうち、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられる「学習内容」として、知的生産の技術、コミュニケーション技術とともに、「遊び型内容」の意義を次のように提案した。  難しい学習内容でも楽しく学ぶという学習方法の工夫も必要であるが、それとともに学習内容そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習という言葉には、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。もちろん、今後の学習社会においても、そういう性質の学習はますます必要になるだろう。しかし、そういう手段としての学習ばかりに偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、合目的的学習行動の他に即目的的学習行動が出現しつつあると思うのである。現在、生涯学習の進展の中で、学習とよばれている行動の中に、見通しのある学習目標を実際にはもたずに行われる行動が増えている。知的刺激が快いという、いわば快感覚の追求なのだが、それは麻薬などの快と違ってヘルシー(健康的)でハイ(高次)な快である。もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは今後の技術革新の社会において必要不可欠の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという目的意識が彼らにはほとんどない。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで遊んでいる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、そういう遊びのほうが結果としては効果的な学習になっているのだ。ここで、注目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つが「じょうずに遊ぶ能力」であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することよりも、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。  前章で述べたような、青少年教育におけるその後の体験や冒険の再評価についても、ひとつには、この「即目的的」で「遊び型」の活動の偶発的な学習の意義に対する再認識としてとらえることができるのである。 (7) 積極的消極の働き    −積極的積極/潔い撤退/職業の生涯学習化  私は自著『癒しの生涯学習』で、生涯学習等の自己決定活動を、内面では積極的、かつ、行為としては積極という意味で「積極的積極」の行為とした。そして、消極的積極、消極的消極、積極的消極を合わせ、4類型の図式を提示した。  一部の若者などにみられる「きらいなものはしない」(積極的消極)という気持ちの潔さの部分は、現代社会から自分を守るためには重要だ。しかし、同時に、「きらいだけれどもやる」(消極的積極)も、社会においては戦術的に必要な場合がある。私は次のように考える。大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、あるいは、基本的信頼を基調とすべき仲間、恋人、家族の関係などになるべく持ち込まないようにすることである。「消極的積極」の本質的な問題は、心から自己の戦術の奴隷になってしまって、自他に対する信頼感を失う危険に陥る場合に生ずる。それゆえ、「きらいなものはしない」という思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すといっそう正確でリアルな思考になるのではないか。  つぎに、ある学生から「消極的積極や消極的消極(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。文字通り解釈すればそのとおりである。しかし、前章で私が宮台真司の議論についてふれたように、生涯学習その他の自己決定活動がめざしている自己決定とは「わかったからこそ、その道を選ぶ」ということであって、けっして「わかっていながらも、その道を選んでしまった」ということではない。前者の場合、その道が撤退への道であれば積極的消極、参加への道であれば積極的積極ということになる。  職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある。そのとき、その人に向かって「あなたがその職業について、そうしているのも、すべてあなたが自己決定したことでしょう」ということはできない。「やりたくなくてもやっている」のは、自己決定ではなく、社会的存在としての人間の宿命である。  これには例外はある。貧乏な芸術家などがそうである。また、過労死の問題を授業で扱ったとき、「プロボクサーになろうとしていたときの自分は充実していた。そのときには死をも賭していた」というペーパーがあったが、これなどは職業であるのに積極的積極(死んでもいいからやりたい!)であるという事例であろう。だが、これらの例は一般的ではない。たとえば、作品が少しでも売れ出した芸術家などは、バイヤーやユーザーなどの他者からのなんらかの社会的しがらみに縛られ始めてしまう。売れないのはいやだが、縛られたくもないという「きらいなことはしない」は通用しない。まして、一般的な職業においては、働きがい(積極的積極)とともに「働かなければならない」(消極的積極)も不可避である。しかし、だからこそ、一般人にとって、そういう職業的役割遂行とは異なる「その個人が学びたいから学ぶ」生涯学習の独自の魅力が鮮明になる。  このように、積極的積極の行為としての個人学習は、現代人にとって大きな魅力といえるのだが、これを進めるにあたって、その個人が実際には積極的積極とともに、積極的消極を使いこなすことが重要になる。積極的消極とは「潔い撤退」のことである。自分はその学習に参加したくないというときもあるだろうし、魅力は感じるが事情により残念ながら参加しないことを選ぶというときもあるだろう。どちらにせよ、決定後の本人の気持ちには大した違いはない。潔く撤退を決意し、そのあとにいやな気持ちを残さないということこそが、自己決定活動には重要なのだ。この「潔い撤退」については、現実の人間関係においてはさらに複雑な様相を示す。なぜなら、自己決定できるのは自分の行為についてであって、他者の行為についてまでは決定できないからである。たとえネットワーク型活動においても、本人は自己の撤退(参加でもよいが)しか決められないのである。これが「幹」ではなく「枝葉」としての一個人が決定できることの限界である。それゆえ、積極的積極と積極的消極は、ともに自己の実感レベルでの気づきを前提とし、それのみに基づいて個人が主我的に決定することを前提とする理念的な言葉といえる。  「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」といわれる。しかし、注意深く個人を見ると、いつも後向きというわけではない。状況に応じて変化するのである。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己管理できていないから、とさえいえるかもしれない。落ち込み、後向きになっているとき、その人は個の深いプロセスのなかにある。その人自身と周りの人たちが、それを受け容れることこそ重要なのである。  これまで自著『癒しの生涯学習』で述べたことを繰り返してきたが、最後に、今後予想される変化のひとつとして、職業について述べておきたい。『癒しの生涯学習』では賃労働等の職業は基本的には消極的積極の役割遂行としてとらえ、その意味では「奴隷の覚悟が必要」とまで書いたのだが、労働力の流動化やリカレント化などのなかで、「きらいなことはしない」という理由から退社(積極的消極)する若手社員が今後ますます増え、そういう個人を受け入れて「やりたいこと」をさせようとする雇用が広がる可能性も、私は最近感じるのである。つまり、少なくとも本人の仕事の内容については、主我的な自己決定を組織的決定より優先する可能性である。そのほうが、その個人の自己満足ばかりでなく、結果としてもよい仕事ができるのかもしれない。今日の状況では外資系の企業でさえそこまでには至っていないと思うが、このままでは企業活動のレベルがNPO等の自己決定活動より劣るという結果にさえなりかねない。それは、先にも述べたように、個人の純粋な積極的積極の行為としての自己決定活動と、個人の「働きがい」という積極的積極の行為に「働かなければならない」という消極的積極が混じってしまう職業活動との差異に由来すると思うのだ。じつは、このような社員一人一人の個人の主観が、企業活動全体の質を決定しているのではないか。  前章で述べたように、ボランティア活動が学びの行為としてとらえられる今日、社員個人が真に「やりたいこと」として気づく仕事とは、自分自身がそれをとおして学んでいるということを実感できる仕事であろう。その意味で、社員が自身の「やりたいこと」に気づき、その「やりたいこと」だけをやるような企業が出現するならば、それはリカレント教育や教育有給休暇制度を上回る、職業活動の生涯学習化といえるだろう。 (8) 個人の変身欲求を満たす生涯学習    −変身欲求/自己受容/学習中毒  私は、今まで、枠組自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組を変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。急激に変化する生涯学習社会において、自己の枠組を変えないまま、固定化した枠組のなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと考えるからだ。しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、私のこの学習論への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。「たとえまだ20年間とはいえ、そのなかで自分なりの枠組をつくりだしてきたのだから」というわけである。そこで、私は「じゃあ、私は自分を変えたいのか」と自問自答してみた。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。どちらかというと妙に落ち着かない嫌な気持ちだ。  もともと、私自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での「学習をしたい」と同義)というとき、楽しいわくわくするイメージとして「変えたい」という語を使っていた。ぼうっと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人とたまたま出会ったとき、その人の枠組のよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときに充実を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「変わっていくのって面白い」という程度の軽い気持ちなのだ。「どこまでも知りたい」という生涯学習の原初的欲求の一種と考えてもよい。ところが、ちょっとマイナーな気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみた。すると、とてもみじめな感じになることに気づいた。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを制度的権威の側(この場合は教師)から「自分自身を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうがむしろ健康的である。  そこで私は「自分を変えたい」という欲求を、つぎの2つに分類した。T自己否定としての変身欲求=今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。U自己受容による変容欲求=今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。  最近の臨床心理関係者の嗜僻などの話を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラーが、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ってと、自分を大切にとの2つをいうことは意味があると思う」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたは私の胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。言い換えれば、自己客観視と自分のために生きることの大切さの2ついうことになろうか。自己否定としての変身欲求だけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組のまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍を引き起こした自らの生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容に有効に結びつくのである。  このことから、「自己の枠組自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。よくやってきた。でも、わくわくすること(ワンダーランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということである。交流分析では「I am OK, You are OK」を理想的な基本的構えとしているが、それは、このことを表しているのだろう。そのための援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「まだまだこんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。  これらの変身欲求とは逆に、自己の枠組自体には変容のないまま、とにかく学習している自己の姿に安心するために学習するというケースもある。これを学習中毒ということができる。学習中毒の場合、少なくとも外見上は自己決定の積極的積極に見える。しかし、遊び型の「即目的的学習」とは異なり、「私は、その学習内容を楽しんでいる」ということよりも、「私は、学習している」ということに安心しようとする。なぜ、それだけで安心できるような気がするかというと、根底には学習という非日常とは切り離されたところに、学習していないときの日常があり、そこに自らが受容できないなにものかがあるからだろう。自己否定ではあるが、「自己否定としての変身欲求」とは異なって「変身」しようとはしない。  しかし、前出『大学教育の原理と方法』は次のように述べている。講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評も支持している。  積極的積極の学習と学習中毒としての学習との違いを、私は本人の内面に求める。本人自身は「学びたいから学ぶ」と思っていたとしても、「本当に学びたい」という実感が伴っていない場合、これを学習中毒としてとらえる。学習中毒の場合は「学んでいない自分は不安だから学ぶ」のであって、もう一方で「こんなこと(非日常としての学習)をしていて、いったい何になるんだ」という不安を解消することはできない。そういう「積極性」は、むしろ消極的積極に位置づけられるだろう。あるいは、本来あるはずの「本当にやりたいこと」を自己決定を経ずに放棄しているという意味では「消極的消極」の行為としてもとらえられる。 (9) 癒される生涯学習    −本当の自分/自分さがし/癒しのサンマ  『みんなぼっちの世界』(99/5、恒星社厚生閣)で、浅野智彦は、「目指すべき価値としての欲望を喚起し、人をつき動かすものでありながら、その内実は全くの空虚であるようななんとも奇妙な記号」としての「本当の自分」ということばに意味を与えるためのゲームを次のように4つの形態に分類した。@空白をごく身近で具体的な共同体の他者(典型的には「親子」「家族」「恋人」)にたよって充填しようとするもの。この親密さのゲームは非常にローカルな形でのみ展開可能。他のゲームに対しては基本的に寛容、あるいは無関心。Aある種の宗教団体に代表されるようにこの空白を何か超越的で普遍的な他者(典型的には「神」)にたよって充填しようとするもの。仲間との間でのみ親密な関係をもつファンダメンタリズムとなりやすい。B空白をメディアを介した他者にたよって充填しようとするもの。たとえばブランド・グッズの消費。モノの記号としての意味を共有している比較的広範な消費共同体(あるいはメディア共同体)の中で展開されるため、「終わり」がなく、絶えず古い「本当の自分」を脱ぎ捨て、最新のそれに着替え続けていかねばならない。C「本当の自分」などありはしないのだということをはじめから認めてしまうこと。そしてそれを他者にたよって充填しようとするあらゆる試みから降りてしまうこと。「本当」が多元的・多中心的であることを前提に、その都度の感覚・好み・趣味によってその都度の自分をどれもそれなりに自分らしい「私」として認めていこうとする試み。このゲームの中では親密さはその都度の文脈の中で、その都度の「私」によって創り出される。  生涯学習やボランティアなどの自己決定活動によって「本当の自分」を見つけようとする人々が増えている。彼らにとっては、それらの活動は「自分さがし」の一環である。そこでは、仕事をしているときの自分、主婦業に専念しているときの自分とは異なる自分を見つけることができると考えられる。私は所属する徳島大学大学開放実践センターで「私らしさのワークショップ」と銘打って公開講座を開いている。そのこと自体、「そんなこと、本当に援助できる自信があるのか」というやましさを感じないわけではないが、浅野の指摘する「本当の自分」という空白に向かった現代人のゲームのなかで、突出的な意味としての「本当の自分」のあり方を模索する価値は高いと考える。そこで重要なのは、他者との関係性のなかで個人が存在しているということであり、さらに、そこには親密と距離感のあい矛盾した双方を求める現代人の葛藤がある。少なくとも、今日のメディアのように「すばらしい本当の私」があるかのような幻想をふりまいたり、教育の場で一部始められつつある「今の私は、本当の私ではない」という脅迫をしたりすることは、個人内の矛盾を拡大するだけだろう。  むしろ、私は、「多元的・多中心的な本当の自分」のなかから、自己決定活動のなかで見いだした「自分らしさ」の「かけら」、ただし自分にとっては輝いていると思えるかけらを正当に自己評価できるようになることこそ、個人にとって、今、必要なことなのだと思う。そして、そのかけらは、最初は空白であった「本当の自分」というものの全体(アイデンティティ)にも肯定的な影響を与える。しかし、このような「本当の自分」への気づきを個人にもたらすためには、生涯学習等の自己決定活動が、その個人に社会的承認を与える突出的な「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の三間)」である必要がある。  癒しとは、傷ついた心がもとの状態に戻ることをいう。今までの教育がつねに成長や生涯にわたる発達を第一義としてきたのに対して、癒しとは回復やいっときの安らぎしか表さない。そんな癒しの観点を後ろ向きだと批判する教育関係者もいるだろう。しかし、イルカと泳ぐ、水晶玉を買ってきて見つめる、など、若者たちが癒されようとしてさまざまな工夫をし、なおかつ癒されていない今日、彼らが後ろ向きだろうが何だろうが、彼らの幸福追求の営みにとって有効な、かつ、社会的にも望ましい結果が期待できるような支援の手を社会から差し伸べる必要がある。あるいは、「社会に適応するために成長、発達ばかり追い求め続けること自体が空しい。生きる意味をあえてあげるならば癒ししかないのではないか」と考えることもできる。  私は、人びとを癒されない状態に追い込む「上下同質競争社会」において、癒しを提供する「水平異質交流」を生み出す時間・空間・仲間が突出的に存在していると考えている。それは、自己決定のサンマとしての@生涯学習、Aボランティア、B地域活動(市民活動)の3つである。そこでは、「仕方ないから頑張る」などという私たちのいつもの奴隷の習性などはいらない。自立した者どうしが相互承認しあい、あるがままの自他を肯定的に受け入れあって(自他受容)、のびのびと異なった個性を育くみ、発揮しあうというところがサンマの魅力なのである。さらには、そこで、他者や社会に貢献できる有用な自己を再発見し、また、他者からその認知を受けて自他への信頼を深め、個を深めることができる。  自著『癒しの生涯学習』について、「『癒しの生涯学習』を考える」(伊藤学、全日本社会教育連合会「社会教育」、1997年8月)は、たとえば、カウンセリングやガーデニングのブームを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている」ので、そういう当然の欲求を教育者は無視できなくなっている、としている。伊藤の若者の現実のニーズから立脚した論旨は私の本などよりもよっぽどわかりやすい。しかし、じつは、ここに、現代社会における一般的な「癒し」と、私が提起する生涯学習における「癒し」との決定的な違いがあると思う。  そもそも、私は「癒しのサンマ」と表現している。このサンマという言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういう私の主張を嗅ぎ取って、私の「自由なはずの」授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。このような学生の批判は、「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」というような関係者にありがちな批判より、ずっと的を射た指摘だと思う。  しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質があるのだ。つまり、私が進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う一般的な現代社会からの「いい男、いい女」のための逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃げてしまおうという場ではない。むしろ、人と信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容の突出的なサンマを創り出すという、なかなか面倒な営みなのである。しかも、自助グループが「自分だけではなく、みんなも同じ悩みをもっているのだなあ」という気づきを促すものだとすれば、それとも異なり、ピアコンセプトさえも乗り越えて、「あなたはあなた、私は私」というネットワーク型関係への気づきを促そうとするものである。  しかし、このような「出会いの努力」を個人がしない限り、本当に癒されることはありえないだろう。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の「癒し」志向の事態に対して、もうひとつの癒される人間関係の契機を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざすべき個人の自立や、望ましいコミュニティ形成、ネットワークづくりなどはできようがない。この手法については、3章で述べることにする。