狛プー個人主義の意味するもの  狛プー元年間講師(徳島大学大学開放実践センター助教授) 西村美東士  狛プーのみなさん、元気?  ぼくのほうは同じペースで楽しくやってるつもりだけど、なぜかフリースペースなどに若者や学生があまり来てくれなくて、ぼくのほうが年なのかなあ、時代から取り残されつつあるのかなあ、などと思ったりしている。  いま書いている原稿は「個人学習の推進」に関する「1990年代の若者やこどもの『個』の支援−その転換と苦悩 −10年間の青少年問題文献から」で、その柱立てとして、次のように考えている。 (1) 1990年代初頭までの動き −個性重視/生涯学習/生涯教育 (2) 青少年個人の学習が真に自由であるために −教育と学習の乖離/現代的課題/個人主義 (3) 大人の個が問われている −学校週5日制/個の深み/心を育てる (4) 個は一人で多義的に生きている −自由時間/ソロビバーク/自分さがし (5) 個は固有の身体を伴って生きている −生きる力/擬似体験/冒険/科学教室 (6) 個は他者の個との関係のなかで生きている −不登校/対話/第4の生活空間/準拠個人/癒しと居場所 (7) 個は共同体のなかで生きている −正統的周辺参加/学社融合/第4の領域 (8) 個は他から承認を受けながら生きていく −自己責任/性の自己決定能力/社会的承認 (9) 個は貢献することにより生きられる −少子化/社会貢献/ボランティア/利他的利己主義 (10) 個性重視からの転換 −自己決定能力獲得の支援へ  そこで思い出すのはやっぱり狛プーである。狛プーメンバーもぼくが年間講師をやっていたころより先に進んでいるだろうけど。そして、ぼくだって次に進もうと思ってはいる。  しかし、狛プーのことで新しく思いついたことが「狛プー個人主義」である。人は一人で生きている、という宿命をもっているのではないだろうか。これを集団学習のなかで実現したのが狛プーだったのではないか。  そして、ときどき、ある個人が生きていることが、ほかの個人にとって、生きている意味そのものになるときがある。それを「意味ある他者」といってよいだろう。これは、いるときには迷惑だったり、うざったかったりするけど、いざその人がいなくなると喪失の淋しさが襲ってくるという、やっかいな代物である。けっして、自分にとって有益だから、役に立つから、という合理的な理由ではない。理由が合理的ではないから、その他者が存在してくれていることのありがたさに気づくのが遅れる。  単身赴任のぼくのところで1年間暮らしていた一人息子が、きのう東京に帰っていった。ぼくはそれでやっと気づいたのだ、「ありがとう」と。迷惑なんか、もっともっとかけあえばよかった。自立して俺に迷惑をかけないように生きろ? 彼に対するそんなぼくの言葉は、本当のぼくの心ではなかったんだ。自分の本当の気持ちを、今になって気づいた。  狛プーは個人主義だと思う。けれども、なぜ、それが「癒しの三間」になるのか。それは、たがいに「意味ある他者」(「有益な他者」ではない)として存在しあうことに早くから気づき、自分も相手もとりあえずでも生きているということをいとおしむ風土があったからだと思う。もし、そういう相手が死んでしまったら、その葬式をとても悲しむことができるだろう。さっさと葬式をすませて、早く立ち直って、生き残っている者たちで今までの社会的活動に復帰しよう、なんて考えない。これが個人主義のいいところだ。  個人主義を徹底しよう。そのことによって、他者の自己の存在のありがたさに早くから気づくことができるし、もっと自己中心的にいえば、何よりも他者と関わって生きていく自分の奥底の気持ちに気づくことができると思うのだ。