2000年6月 全国公民館連合会『月刊公民館』517号pp.6-7 反みんな主義あぶれ者公民館願望  ぼくは公民館をあぶれ者が集まるところにしたい。その一室はオープンスペースになっていて、毎晩、ショットバー,カラオケ、クラプ(以前のディスコの小型版)などが開かれている。あぶれ者は,はかの 「みんな」 にはないエネルギーを秘めている。  今はあぶれ者ではなく、地域の顔役のための公民館になってしまっている,顔役は地域活動で忙しいのに、仕方なしに公民館の事業にも動員されたり、仕切り役を任されたリしている。これでは彼らだけがますます疲れてしまう。それより、顔役たちはむしろ奥の会譲室あたりでゆったりと「仕掛け」をねるのがいい。地域のルーティンワークに追われる彼らも、この会議室では楽しいアイデアを出せるよう、カーベットやソファーはふかふかのものにしたい。特別会維室だ。そこには顔役同士が肩書きを捨て、たがいにあるがままでいられる「支持的風士」がある,公民館で何かを仕掛けたいと思った人は、賛同するほかの仲間とともに、はかの顔役から足を引っ張られることなく、かといって義務的に協力してくれる人はなく、会議室からオープンスベースへと出撃していく。  そして、うまく仕掛けたあとは準備をしたり,表舞台に立ったりするのは、その気になったあぶれ者に任せたい。彼らが失敗しても、それは成功のもと。本人がそのプロセスを楽しんでくれればそれでよし。その人が失敗して悔しければ、今度は改善してやってみたくなるだろう。もし顔役に相談してくれば、 彼の話をじっくりと親切に聞いてあげてほしい。そのとき、あぶれ者のほうが顔役としての自分より一枚上手だった、などということもあるかもしれない。あぶれ者公民館では、 学ぶ人であるあぶれ者が、世の中や人間の真実を顔役に教える人になりうる。  ぼくは、集団が苦手な人でも公民館に入ってもらうために、これを提案しているのではない,その考えはもう古い。「集団が苦手」というのも個人の特性にすぎず、長所も短所もある。その人もそのままで公民館を楽しむ権利はあるし、その人なりに地域にかかわる可能性をもっている。  むしろぽくは、今後の公民館を、無理にみんなに適応するところというより(もちろん自然になじんでくれる分には文句はないが)、 へその曲げ方を覚えるところとして重視したい。社会の進歩にはへそ曲がりも必要だ。ただし、外界や自分が見えていないへその曲げ方は本人にとっては不幸、社会にとってはただの迷惑になる。そこで公民館ならではの「意味ある他者」との出会いに期待したい。公民館は住民同士の相互教育機関なのだから、 へそ曲がりの人をにこにこして見守ってくれるはずだ(これは現実ではなく、ぼくの願望)。それによって、立派なへそ曲がりになれるし、 他者や地城社会から承認されたりもする。そうはいっても、あぶれ者やへそ曲がりは、「気持ちも行動もみんなで一致して」などという心境には最後まで至らないだろう。しかし、 むしろ,そのような「みんな主義」への異議申し立てこそ、あぶれ者の存在価値といえる。 自治会や婦人会は「みんなで支える地城」のための「みんな主義」正統派といってもよいかもしれない。しかし、「みんな」ってなんだろう,「みんな」などという実体はどこにあるのか。このように,公民館においては、「みんなの気持ちが一致して、みんなで同じ行動をするなんてこと、はんとうにあるの?」と問い続け、個人ごとの異なりを大切にする機関であってほしい。「みんな違って、みんないい」(童謡詩人金子みすず)という言葉こそ、 生涯学習社会におけるこれからの教青機関のあり方だ。  今は逆に、教育の場でも、学習者の間でも、「みんなで」という言葉がますます横行しつつある。「私は聞いていない。許していない。だから認めない」という本音を隠したまま、「みんなで決めていない」ということをロ実にして。あぶれ者のアイデアを集団の力で圧穀してしまう。「みんなで」は文字どおりの「殺し文句」だ。その「みんな」を受け持つ一人ひとりに問いたい。「みんなで」という言葉にいったいどれだけあなた自身の実感が伴っているのか。そんなリアリティのない言葉を唱え続けるより、へそ曲がりに「じゃあ。自分でやってみたら」といってやるほうがよっぼど楽しい。へそ曲がりを手伝いたい人は手伝えばよいけれど、「みんなで」手伝う必要などはまったくない。あぶれ者のほうも、実体のない「みんな」に対して御託を並べたり、「みんな」に何とかしてもらおうとしたりするよリは、自分の貴任で思い切りやらせてもらえばよい。そうなったら、公民館はとても楽しいところになるだろう。  ぼくは、公民館自体を地域のはかの「みんな」とは違うあぶれ者の存在にしたい。そうすれば、公民館は、生涯学習時代の側性的な地域教育拠点としてもっと輝けると思う。