月刊公民館12月号原稿 特集「青少年の居場所」論考 個人化/社会化のための公民館の教育機能  −青少年の居場所づくりをめぐって− 徳島大学大学開放実践センター教授 西村美東士 「楽しい教育機関」としての役割発揮を  今日とみに青少年の居場所づくりの重要性が指摘される。しかし、そこでは、居場所を阻害するような押しつけがましい「教育」が批判されるだけでなく、「教育」や「指導」という言葉や機能そのものまでが忌避される傾向も見受けられる。最近、公民館の存在価値を疑問視する向きもあるが、居場所論の今後の動向は、それらの議論に重大な影響を及ぼすものと考えられる。  これに関して私は、居場所を「つくる」教育的意図の重要性を主張した(「若者の居場所」、兵庫県自治研修所「研修」平成13年3月)。信頼と共感が得づらい時代のなかで、居場所づくりにはあえて「創り出す」という明確な意図=教育的意図が必要になると考えたのである。  寺中作雄の公民館構想(「寺中構想」)は、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実した。この通達では、公民館を「町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関」としたうえで、「町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関」とし、堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所と規定している。  ここで人々の社会化をめざす「教育機関」であることと「楽しい場所」であることが両立していることに注意しておきたい。「教育=押しつけ」という過去の不幸な誤解を、公民館は払拭しなければならない。本稿で私は、青少年の居場所づくりにおいて公民館が「楽しい教育機関」としての役割を果たすよう提唱する。 1 公民館を「意図された居場所」に  前掲論文「若者の居場所」では、居場所を「自分らしくいられると感じる時間・空間」ととらえた。その種類をあげると表1のとおりである。「無意図の居場所」の充実とともに、公民館活動等が「意図された居場所」として次のように機能することが、現代社会からも青少年自身からも求められていると考える。  第1に、学習その他の特定の目的をもった事業を、参加した若者が居場所として感じられるように運営することである。もちろん参加者は、その事業目的にひかれて参加したのではあるが、同時に、「他者といても自分らしくいられる場」を潜在的に求めている。  第2に、特定の目的のもとに若者が集まって活動するための拠点を提供したり、すでにある自主的な対社会活動を支援したりすることによって、それが居場所としても機能するよう働きかけることである。  第3に、特定の目的をもたずに集まる「たまり場」を提供することである。そのうちに、何かをしようという話が偶発的に持ち上がる。この場合、そこで出てきた活動テーマだけでなく、居場所を成立させる条件としての風土づくりにも関心を払いたい。  第4に、居場所であること自体を主要な目的とする、いわば即目的的な「居場所」を提供することが考えられる。これは、親との関係や特定の依存症など、共通の問題に悩む者同士が、安心して自己開示しあうことによって自他理解を深めようとするものである。 2 より深い対他活動のために介在する  私が授業で「自分らしく生きる方法」を問うと、多くの学生が「なるべく他者に影響されないようにする」という。また、「共感の方法」については、「価値観が同じ人と付き合う」という答えが多い。  ほとんどの学生が「自分らしくありたい」とはいうのだが、そこでの「自分らしさ」は、他者とのせめぎあいや折り合いが不十分のまま、あるいはそれを避けたまま、自分の閉ざされた枠組のなかでこぢんまりと固定化させてしまっているものであり、悩みや苦しみを経た自己内対話から生まれてきたものではないようだ。  本来の自分らしさとか「本当の自分」とかは、もともとあるものというより、他者や社会との相互関与によってつくられていくもので、そのなかで自己に立ち戻り、自己の多様な側面に日々気づいていくものではないか。  そうだとすると、対他を避けたままの個性や「自分らしさ」の信仰は、若者たちの「自分らしさ」やその成長をかえって妨げる結果になりかねない。また、行政が意図的につくる居場所においても、今の若者と同様の表面だけの「許しあい、わかりあい」に走るならば、それは、「自分らしさ」を信仰すればするほど「自分らしさ」を失っていく今の若者の傾向を強化することにしかならないだろう。  教育・指導を介在させることによって対自・対他の活動をより深いものにする必要があるといえる。 3 居場所づくりのための指導行為  私は、2日間の集中講義をワークショップ形式で行ない、大学教育の学会誌で、即自(そのままの自分)から対自へ、対自から対他へと学生の気づきが促される過程とともに、対他から再び対自や即自(あるがままの自分)のより深い気づきへと循環する過程を指摘した。自己や他者存在への気づきを深めるためには、教師→学生の一方向の一斉承り型講義ではなく、学生同士が実際に交流するような教育方法にこそ効果があったのである。  そこでの指導者の行為としては、課題提示(問いかけ)、紹介(読み上げ)、回答(レスポンス)、指示(ワークの進め方)が頻繁に行なわれた。そのことによって、役割提供機能(ワーク)、表現支援機能(文章、話し合い、発表)、受容機能(学生の表現への評価)、課題解決機能(気づきの促進)、揺さぶり機能(固定概念の打破)を発揮していたと推察された。(研究報告「ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高める授業方法」、平成12年11月「大学教育学会誌」22巻2号)  行政が意図的に「つくる」べき居場所は、このような対他活動が恒常的に行われる時間・空間・仲間関係のことである。そこでの意図とは、承り型講義でイメージされる「教育」とは無縁のものである。  「自分らしさ」を安心して出せる居場所だからこそ、自己に向かって立ち返り、その自己を他者や社会のなかで関連づけながら、再び、自己に戻って深めていくことができる。もちろん、そこでの対自、対他の活動には、避けてきたときにはなかった悩みや苦しみが生じるときもあろう。しかし、それは本人にとって「意味の充満した時間」である。  居場所を「つくる」教育的意図とは、若者たちのそういう気づきの循環を支援しようとすることである。  公民館側は、この教育的意図に基づき、若者と出会い、一人一人の悩みや苦しみを大切に受けとめ、個人に自己内対話を促す問いを与え、ときには自明とされていることについて疑問を与えることによって、若者とともに自他への気づきを深めることが大切である。 4 現代青年も「社会化」を自らの問題としてとらえている  私は「自分らしさを守り育てることと、社会性を身につけることはどういう関係にあるか」についての学生の記述内容を集約し、図1のように整理して考察した。いわば「個人化/社会化の関係の類型化」を試みたのである。 T 主観的自分らしさ優先型 自己を守ろうとする純潔さゆえに、組織や社会に対しては「仮所属」になりがち。 〈学生の記述例〉 「自分らしく生きたい」と思っている今そのすべてが「自分らしさ」。社会性が身についていてもいなくても、それがそのまま「自分らしさ」。自分自身で認めるかどうかの問題。 U 同化圧力としての社会化型 表面上は外部からの同化圧力に屈服した形をとり、社会に主体的にはかかわらないおそれがある。 〈例〉 他人と違う行為や言動で仲間から外されるという恐怖があって自分の意見を言えない。意思を押し通そうとすれば「協調性がない」と煙たがられる。自分らしさを守り育てることと、社会性を身につけることは相反する。 V 社会への組込まれ必然型 過度に社会に適応しようとし、組織や社会になじめない自他の個性については否定しがち。 〈例〉 社会性を身につけたうえでの、社会に受け入れられる自分らしさでないと価値がない。両者は同時に並行して行われなければならない。 W 社会と自己相互発展型 図1 社会化の類型 現実社会で自分らしさの危機に陥ったときに、それを認めようとしなかったり、挫折したりするおそれがある。 〈例〉 自分らしさは、人と接することでさらに磨かれる。健全な両者を持つということは他者へも良い刺激となり、再び自分へつながる。よってこれら2つの関係は、お互いに盛りたてあう関係にある。  なお、この類型化は、どれがよいとか悪いとかいうものではなく、「自分らしさ」と「社会性」との間でさまよう若者の諸相をとらえようとしたものである。たとえばTの若者を「社会化の可能性が少ない」などと先入観で決めつけるものではない。実際には、Tの若者はむしろ若者同士の中でのリーダーシップに優れ、ワークショップによって社会化への望ましい気づきが効果的に行われたことがわかった。  本研究において、多くの学生が就職をはじめとする自己の社会化を、自らの課題として真剣にとらえようとしていることが痛感された。言い換えれば、社会化される必要という宿命を彼らなりに受け入れて生きているのだ。  これらのことから私は、社会化という教育的意図がむしろ積極的に発揮されることが求められていると考える。ただし、それは、現代青年のニーズやその構造に対する的確な理解に基づいて行われることが重要であろう。  居場所づくりにおいても、個人として深まること(個人化)と社会的な資質・能力を身につけること(社会化)を統合的に進めるために、どのような教育・指導機能を発揮すべきか検討する必要がある。 5 個人化/社会化の統合的進展によって「自分らしさ」を充実させる  96年7月、中央教育審議会「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の答申は、「教育は『自分さがしの旅』をたすける営み」とした。最近のボランティア活動においても、「本当の自分を見つける」という趣旨の発言をよく聞く。さらに、その前から、化粧品のコマーシャルは、「他者の視線の獲得」から「自分らしさのため」に転換している。  そして、この流れのなかで、若者たちも「自分らしく生きることが大切」という。しかし、多くの場合、それは「自分とは何か」を問い続けた結果としてではない。  他方で行政は、住民のプライバシーや個人主義的傾向を尊重し、それに配慮しつつも、地域共同体の衰退に抗して新たな「共同性」をつくろうとしてきた。しかし、その結果、個々人の「自分らしさ」と対立するような「共同」(「みんなで決める」というスローガンなど)も生み出される危険をはらんでいる。  今日の社会は、「自分らしく生きることが大切」といいながら、他方で、それぞれの思惑から、「自分らしさ」を萎縮させるような「社会性」「協調性」(「みんなで」)をふりまいているように思える。それは、結局は、個人と社会を引き裂いていく。  「自分らしさ」を大切にする居場所だからこそ、このような「自分らしさの空虚」や、その反動としての「全体主義」に巻き込まれる危険性も大いにあることを自覚しなければならない。 図2 「癒しのサンマ」の図  これに対して私は、1992年から狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(狛 プー)の年間講師として、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される『癒しのサンマ(時間・空間・仲間)』」(図2)をつくろうとしてきた。(『癒しの生涯学習 −ネットワークの あじわい方とはぐくみ方』増補版、1999年3月、学文社)  「癒しのサンマ」は今日の居場所づくりの具体的な姿の1つとしてとらえてよいだろう。  いま、多くの若者が「友達から変と思われたら、もうおしまい」という自他が引き裂かれた世界で生きている。しかし、その中でも信頼できる友を求め、また、自ら社会に旅立とうとしている。これを支援する「居場所づくり」の教育的意義は大きい。  とくに、社会化については、教育機関にとって重要な問題であると同時に、若者自身も自らの問題として向き合おうとしている学習課題であることに留意したい。職業生活などにおける自らの社会化について、このような現代社会にあっても、多くの若者は生きていくうえでの必然的な課題として受け入れ、さらにはそこに希望を持とうとしているのである。  公民館がこのニーズに応えることなく、自己の教育機能を捨象したところで「居場所づくり」を考えるとしたら、それは公民館の自殺行為といえよう。  しかし、残された課題も多い。たとえば「癒しのサンマ」の中での個人化が、自己完結せずに社会化と統合される過程をもっと詳細に明らかにしなければなるまい。しかも、そこには、「社会と自己相互発展型」の若者たちの「健全な希望」が現実社会では必ずしも保証されない、などの問題が残されているのだ。  多くの公民館が「人の集まらない」青年教育から撤退して久しい。しかし現代社会の課題を考えたとき、「居場所づくり」における個人化/社会化の統合のための「楽しい教育機関」としての公民館に求められる役割は大きい。