居場所としての狛プーと個人の社会化・自立 聖徳大学人文学部教授 西村美東士 1 私にとっての狛プー 今までこの「青年教室活動記録誌」に書かせていただいてきたテーマは、次のとおりである。 1993年3月 狛プーは出入り自由のこころのネットワークだ 1994年3月 狛プーはどうしてネオ・トラなのか 1995年3月 初めての人のための『狛プーとは何か』 1996年3月 『おうち』としての狛プー 1997年3月 いい世界だよ 1998年3月 狛プーのなかでのぼく 1999年3月 狛プーの『一年に一回来ればメンバーだ』について 2000年3月 狛プー個人主義の意味するもの 2001年3月 狛プー個人主義によるIT革命のあり方 2002年3月 個人化を実現するための狛プーの社会化機能 2003年3月 再び狛プーの個人化/社会化機能について 2004年3月 社会化支援としての青年教育 1998年4月に徳島大学に赴任するために狛プーの年間講師を退いたのだが、私の思考のなかでは、その後も狛プーは「育ってきている」と感じる。「あるがままの自分が歓迎されるサンマ」、つまり今盛んにその必要が叫ばれている「居場所」から、それを出発点とした「個人の社会化」へととらえ方が発展してきているのだ。 先日、ある県の社会教育委員の研究大会で講演をしてきた。そのときに青年の居場所と自立・社会化との関連について、その延長線上で、狛プーの紹介をさせていただいたので、そこで話した内容を報告しておきたい。 2 場所の必要性と青少年の自立 最近、青少年関係者の間で「居場所」というキーワードをよく耳にします。居場所とは「自分らしくいられる場」と考えてよいと思いますが、それとともに私たちが創り出そうとする居場所は、若者が自立していく場にしなければ意味がないだろうと思っています。 34 「狛プー」(狛江プータロー教室)という東京都狛江市中央公民館主催の青年教室があります。その公民館に私の古い友人の公民館主事がいて、1992年から始め、当初の 6年間、私は年間講師として関わりました。今でも引き継がれています。 発足当時、三多摩地域では、青年教育が衰退するなか、「自己表現活動」ということで演劇教室などが盛んに取り入れられていました。しかし、その友人とは「それだけではだめだろう。もっと違うことをやろう」ということで、Ii年に1回来ればメンバー だ」という場を創り出しました。次の週に来なかったからといって責められることはありません。メンバーが決めた月替わりメニューで自由にやっています。たとえば「講師のいない料理教室」は毎年やっています。 プータローというのは、いわば「フーテンの寅さん」のことです。寅さんは道を歩いていてもまっしぐらに進んでいくのではなく、ふと立ち止まって、草花や風景を見つめ、 「いいねえ、これ」と言います。そんな自由な心を「プータロー精神」と名づけました。 狛プーに集まってくる若者たちはプータローではなく、職業人として仕事をやっていたり、学生として学業をしなければなりません。しかし、かといって、寅さんのような自由な精神だけは失いたくない。だからプータローの精神を大事にしようと呼びかけたのです。それは居場所という言葉がいわれ始める前の頃の話ですが、その考え方は、今いわれている居場所の考え方とほとんど同じです。それでは、居場所について考えてみましよう。 表2の「居場所の分類」を見てください。最後の居場所の欄には「狭義」とありますが、それは、居場所であること自体が主要な目的である居場所を意味します。たとえば、 アルコール依存症の人たち同士が集まる居場所をつくり、医者から治療を受けるのとは異なる効果をもつ話し合いが行われる。仲間同士でアルコール依存の苦しみを打ち明ける。不登校の青少年の自助グループなどもあります。 表2 居場所の分類 種類 例 対 自 自分の部屋、ひきこもり、黙想、音楽、散歩 対 他 友達の部屋、街頭、インターネット通信、(家族) 無意凹の居場所 対社会 地域活動、ボランテイア活動、市民活動、(学校・職場) 対自他・対社会 行政活動、青少年施設、地域施設、青少年育成活動等 意凹された居場所 ー般的呼称 ー次的目的 集まり方 主催事業 特定の事業目的 特定の事業目的にひかれて集まる。 活動拠点 特定の活動目的 集まることによって、ある目的を実現しようとする。 たまり場 偶発的な目的 集まっているうちに何かをやろうとする。 居場所(狭義) 即目的 居場所であること自体が主要な目的である。 35 しかし、狛プーのような青年教育の場は、そういう居場所とは異なります。社会教育の範瞬は、そういう治療的な居場所ではなくて、ごく「普通に」見える若者の居場所なのです。しかし、私はここには「いい男といい女」だけ来ればよいと思っています。無限定に居場所をつくるのではなくて、いい男、いい女のための居場所こそ早急につくるべきだと考えています。このことについて説明しておきたいと思います。 いい女といっても藤原紀香のような女という意味ではありません。たとえば、競争社会のなかで「ナンパ」があります。ナンパの最終目的は、相手が傷ついてもいいからゲットすることであり、そういうことを平気でやれる若者もいます。しかし、もう一方では、自分が傷つくことだけでなく、相手を傷つけることも恐れ、もっと人と人とが信頼関係を持って安心して互いに自分らしくいられる居場所を求めている若者たちが、どの地域にも存在していると思います。これを私は「いい男といい女」と呼びたいのです。 こういう若者たちは、残念なことに今の世の中では、かえって不利になったりしています。私は、せめて青少年教育行政は彼らを置き去りにしないでほしいと訴えたいのです。青少年教育は各地でどんどん後退しているようですが、それを見聞きするたびに、 日本は大きな間違いを犯そうとしていると私は思います。人を傷つけてうまく生きている人を相手にする必要はありません。学校教育では、彼らに対して共生社会の価値観を少しでも強めていくために努力する必要があるかもしれません。しかし、青少年教育にそこまで手を伸ばす権限も余裕もないと思います。私たちが居場所づくりによって手を差し伸べるべき相手は、人が傷つけあって平気でいる社会に対して息苦しく感じている 「普通の」青年たちであるべきだと思っています。 社交ダンス教室をやっていたときの話をします。練習は夜9時に終わるのですが、8 時55分くらいに何人かの若者がやっと仕事を終えてぱらぱらと入って来ます。なかにはタ食をすませてからくる者もいたようです。ダンスの講師が我慢できずに「君たちは上手になる気があるのか」と言いました。若者たちは、ある意味で大人ですから、「すみません」と答えました。しかし、多くのメンバーたちは本当はそこまでして社交ダンスがうまくなりたいわけではないのです。9時から「フリースペース」と称して居酒屋や喫茶店に行くのです。私は、そのころ、若者たちにとっては、1週間に1回ぐらいは、 あるがままの自分でいられるサンマ(時間、空間、仲間)が必要だと考えて狛プーを続けていました。それがあって、あと1週間を現実社会で生き延びていける。これこそが居場所の重要な役割だと思います。いい男といい女の居場所は、税金を使っても作るべきです。彼らこそが今後の共生社会をつくると思うからです。 それでは、そういう居場所がどのように青少年の自立につながるのか考えておきましょう。昔の青年団を思い出してください。女性団員一人を獲得すれば、10人くらいの男性団員を獲得できるといわれた時代があります。今はそうではありません。女性のほうがどんどん家から外に出て行く時代になりました。公民館などにも出てきてくれます。 36 しかし、狛プーでもそういう多くの頼もしい女性たちが、狛プーから飛び出していってしまうのです。ある女性は、「狛プーは居心地が良すぎて、自分が現実社会に適応できなくなるのが怖い」と言って、オーストラリアのワーキングホリディに行ってしまいました。ある女性は、男ばかりの職場なので女友達がほしいといって入ってきて、せっかくそういう友達ができたのに、青年海外協力隊として中南米に行ってしまいました。このように若者たちは、居場所から外の世界に巣立っていってしまうのです。 青年教育の側はこの事態をどうとらえればよいのでしょうか。青年は、社会化欲求と個人化欲求の両方をもっていると私は考えています。それが統合された仕上がり像というのは何かということを考えたいと思います。それが、すなわち、望ましい自立の姿といえるのでしよう。 3 青年の社会化のために一大学授業の現場から ここで、私の授業のやり方を説明しましょう。それを来年にはワークブックにして出版したいと考えています。この本に載っているワークをやれば、学生が社会化を達成できるという本をねらっています。そこでは、さきほど述べた「居場所から飛び出す自立」 と同様に、「群れから一匹で飛び出す」という到達点を「仕上がり像」としました。学生にとっては、卒業して社会に出ていくことがそれに当たるでしょう。 一匹で飛び出していくとして、自分に与えられた使命は何なのか。別に職業だけに限らなくてもよい。たとえば日本タンポポを守り、広めていくなど、何でもいいのです。 また、生涯学習や余暇活動などの「寄り道」の計画も含めて、今までとこれから、来し方と行く末を表として作ることをもって仕上げにしたいと思っています。 担当者としては、正直にいうと、頼もしいメンバーが、中南米に行ったり、オーストラリアに行ったりしてしまうと、残念に思う気持ちがあります。できれば、この青年教室のなかでメンバー同士が結婚してくれて、いつまでもメンバーとして参加し続けてくれればいいのになどと思うわけですが、元気のいい若者たちは狛プーという群れから飛び出していく。青年の社会化支援にとって、それが大事なことだろうと思うわけです。 このような社会化方策の一環ということで、授業の様子を説明します。保育士や小学校教師を目指す学生に対して、100人以上の同じ授業を3コマ、あわせて500人くらいに、毎週、社会学の講義をしてきました。そこで、いろいろなトレーニングをやったのです。最終的には「社会的主体性の獲得」を目指しました。いろいろなワークをやりながら、携帯電話を出させてBBS(電子掲示板システム)への発信をさせれば、500人分のBBSが入ります。これをサーバーからダウンロードしてきて、自分のパソコンに入れます。マクロというプログラムを組んでおくと、学生の発言をあっという間に一覧表にすることができます。それを次の週に学生に配ります。そこでの学生たちの発言内容によって、それぞれのワークを彼らがどう受け止めているのかを分析することができ 37 ます。私のホームページでも一部公開していますので、ぜひご覧ください。 先ほど述べたように、彼らは互いに異なりを許し合う「共存」は得意だが、互いにコミュニケートして共有することはできない。たとえば、授業の「2004前期社会学授業のAさんとBさんの発言」を資料に提示しておきました。 まず、「幸せの瞬間」というワークへの反応を読んでみましょう。「幸せの瞬間」とは、 たとえば「ジェットコースターが一番上に昇ってきて、これから落ちるとき」、あるいは、「ジグソーパズルの最後の1片をはめる瞬間」などと、学生各自が思い思いにカー ドに書き出します。気持ちの似通ったカードをグルーピングする。これとこれは同じだ、 そう思ったら、それらのカードに共通の「本質的な気持ち」をぴったり表す表札をつけるのです。その「本質的な気持ち」とは何か。「万馬券を当てたとき」というカードがあった。「ラッキー」という表札をつけようとしたら、カードを書いた本人は、一生懸命研究した成果なのだから「ラッキー」ではないという。そこで皆で四苦八苦して、結局「してやったり」という表札をつけた。この苦心の末の表札は、本人にも他の人にもぴったりしたようでした。表札をつけるというのは共通点を見つけ出すことなのです。 「幸せの瞬間」のときの学生の発言を読んでみましょう。「辛いときなど、私もよく、 同じ立場でない人に対して、私の気持ちなど分からないと今まで思っていた。同じことを体験していないのにどうして相手の気持ちを理解できるのか。浅いところだけで同じだなどと思っているのでは自分のことを本当に分かってくれているとは思えない自分があった。しかし、相手と同じ境遇にならなくても共感できるという話を聞き、驚いた。 相手の人に興味・関心を持って声をかけることから始まり、実際に話を聞くことでイメ ージがふくらみ、理解が深まっていく。そして、自然に相手を思いやる言葉が出せて、 両者とも気持ちのよい思いをして互いに幸せになれる。これはすごいことだ。同感は自分だけの視野でそこまでだけれど、共感はその人の気持ちを、その人の枠組みで理解するすばらしさがあります。保育の仕事にも『共感できる』ということは求められているので、苦しいときでもいろいろな思いをしながらも分かりあって生きていけたらと思います」。ワークの成果として、この学生はこのように気づきを得たのです。 学習には3つの種類があります。知識を修得すること、技能を習得すること、態度を変容することの3つです。とくに態度変容というのは、どういうふうにしてやっていけばよいのかわからない。少なくとも、押しつけでは、望ましい態度は育たないと考えられます。しかし、社会化に向けて望ましい「態度変容」を実現する教育が求められているのだろうと思います。彼らにどのようにその展望を示していくかは、私たちにとっても難しい課題ですが、何とかその筋道を指し示したいと思っているわけです。 ほかに「お願いトレーニング」というのがあります。たとえばこんなワークを行います。狂気の恋愛に陥って、1ケ月のあいだずっと授業に出れなかったけれど、今は目が覚めた。どうしてもこの単位がほしい。そこで断る教師役の学生に「先生、単位をください」と言わせる。そうすると、教師役の学生は、「ダメだ。君は学生の本分を忘れて 38 いる」などと理由をつけて断るわけです。学生役のほうは、5回、いろいろと工夫してお願いするのです。しかし、これはゲームですから、5回目には先生役が「しかたがない。今回だけは許してやろう。そのかわり休んだ分はしっかりレポートを書くんだぞ」 などと言って学生を許します。多くの学生たちが、このワークをつらいと感じるようです。ゲーム感覚でやってよいわけなのですが、それでも自分が悪いとはっきりしているなかで、許しを得ることはとても難しいことなのです。「出席しなかった自分が悪いのだから、あきらめる」というわけです。 しかし、私は彼らに次のような私の意見を示します。自分が悪いからあきらめるという生き方で、社会を生きていけるのだろうか。自分が悪かったとしても、謝ったり、許してもらったりしながら生きいていくしかないだろう。彼らにとってはかなり抵抗があるのですが、私はとても大事なことだと思っています。 BBSで意見交流し、ほかの仲間がどんな考えを持っているかを知ることは重要な気づきにつながります。小さく固まったピアコンセプトを乗り越えさせる手段としても有効と思いますので、ぜひやってみていただきたいと思います。インターネット環境がある人なら、月1000円か2000円くらいで運営ができます。 ただし、問題点もあります。たとえば、「気づきを書かされ、評価されることへの抵抗」です。気づきは個人の問題であり、評価されるのもいやだし、ほかの仲間に知られるのもいやだというのです。そのほか、IBBSで公表されることへの抵抗感」、「指導者が提示した場合、違う生き方もあるのではないか」、「こういう問題は難しい。意見を言いたいけどうまく言えない」というような問題点があります。私たちは古い価値観を持っている。若い世代は、新しい時代の価値観を持っている。何とか両者が対面し、対話していくことが重要だと思います。 社会教育委員としての指導者側の社会化あるいは社会貢献等についての発言が、青少年に対しては押しつけとして感じられているかもしれない。それでは、そこには触れないようにするのがよいのか。そんなことでは、望ましい態度変容のための支援はできない。彼らと対話し、彼らからの指摘を真撃に受け止め、時には謝ったり、時には「それは違うと思う」と言って受けて立ったりして、若い世代と対面していくしかないだろうと私は思います。指導者自体が、まだ成長の余地のある存在だと考えたい。指導者自身の価値観だろうけれども、それをきちんと出して、若い世代と対面していきたいと思うのです。 まだ、模索している段階ですが、ワークブックをつくり、若者の社会化支援の構造を系統的にとらえて、それを学生にも示し、押しつけではないオープンなやり方で社会化支援を進めていきたいと思っています。 4 質問に答えて 【質問】 「サンマ」のような空間を構築しようとして、行動を起こそうとすると場所が必要になります。そうすると会場費がかかります。活動の中で、いい男、いい女を放っておくのは行政の無責任だと言われました。たとえば、ボランティアを始めようとするとき、 最初のスタートで、だれが、どういうふうに切り出すか、個人では難しいと思うのですが。御指導いただきたい。 【回答】 場所の面は、社会教育行政の役割です。そのような条件整備が役割です。居場所づくりについては、現在、国の方でも力を入れており、民間団体に補助金を出しています。 しかし、私は基本的には公民館こそ、そのために存在していると考えます。狛プーは公民館の主催事業であり、居場所の分類でいうなら「意図された居場所」になるでしよう。 社会教育委員なり、青少年委員なり、公民館職員なり、あるいは民間団体なりが意図的に居場所をつくるわけです。 ある活動目的をもって、活動拠点に集まることによって、その目的を実現しようとする居場所は、共通の活動目的を持った人たちには居心地がいい居場所になります。しかし、狛プーの場合は、どちらかというとたまり場なのです。そこでは意図的というよりも、偶発的な目的の活動が行われます。つまり、社交ダンスがうまくなろうと思って集まっているわけではなくて、何にもなくて集まるのでは魅力がないからという理由で、 月替わりメニューでやっているだけなのです。集まっているうちに偶発的に「何かやろう」ということになる「たまり場」の考え方に近いと思います。 居場所に若者が集まるようになると、行政や青少年指導者の側は、その若者たちに何らかの社会参加活動をしてもらいたいと考えるようになりがちです。年間講師の私としても、「狛プーでもこんなことをやってくれないか」と頼まれるとうれしいわけですが、 若者たちには「狛プーとして特定の活動をするのはやめてほしい」と言われました。狛プーはあくまで「おうち」であって、そこから社会に活動に出かけていく、飛び出していくのはいい。しかし、狛プー自体が拠点となって活動をしてしまうと、それ以前の段階の居場所を求める若者たちにとっては来ずらくなる。狛プーはそういう意味で「おうち」としての居場所です。 それでは、ボランティア活動はだれが呼びかけるのか。居場所さえあれば、そこでだれでもいいから仲間に呼びかけてスタートできると思います。この指とまれ方式です。 たまり場ですから、偶発的にいろいろな話が出てくる。参加しようと思う人は参加すればよい。でも、居場所自体はあくまでも居心地のいい「おうち」でしかないということです。 それにしても、繰り返しますが、居場所の中でそういう話が飛び出すのは偶発的なことなのです。しかし、そこで社会化に関する望ましい方向の話題が「偶発的に」起こるように居場所を創り出すということは、「意図的な」行為、すなわち教育活動だと考え 40 ます。行政や指導者の側からは、社会参加活動をしてもらえるのだったら、そのように看板を変えてほしいと思うでしよう。しかし、社会参加に足を踏み出し始めた若者たちが去っていき、民間の目的集団と同じになってしまう。それよりも、居場所を創り出すことこそ、われわれの重要な役割だと思うのです。現代社会の人々が傷つけあう側面ばかり見せつけられて失望しつつある青少年に、それとは異なる世界を、せめて1週間に 1度は提供したい。私はそう痛感しています。 41