V 若者にとっての「地域」 聖徳大学人文学部児童学科       西村美東士 1。10年前の小論から  私は1995年9月に小論「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」を発表した。(神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」24号、pp.6-8)。そこでは、「どこまでも知りたい」という自然な人間の欲望が触発され、充足され、際限なく広がる場のひとつとして地域をとらえ、若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるかと問い、新型キーパーソンの登場を指摘して、未来型生涯学習支援サービスとしての青年教育のあり方を提唱した。  まず、その内容を紹介したのち、現代の若者世代における相異を検討したい。 2。学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?  悲観的な言い方をすれば、たしかに、現代は、学校も職場も家庭も社会も、そして、地域も病んでいるといえる。「地球規模の歪み」ということもできる。このような「社会の急激な変化」のなかでの社会性、公共性、現代性、緊急性に満ちた学習課題を、文部省生涯学習審議会「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)」(平成4年7月29日)では「現代的課題」と呼んで、その学習を積極的に取り上げるよう提言している。  地域教育力の回復も、いうまでもなく現代的課題のひとつである。しかし、病んでいる学校、職場、家庭、社会が、みずからが病んだまま、地域にだけは救世主のような教育力を期待する姿はどうみても滑稽であるO受験地獄といじめに窒息する学校があり、家族を省みさせない過労死の職場があり、不和と暴力の家庭があり、不信と争いに支配された社会がある。地域教育力の弱体化も、その現代社会の不幸の反映であるにすぎないOそのみずからの不幸には口を拭っておいて、青少年だけは地域のなかで幸せにさせてやろうとするのは、気持ちはわからないでもないが、そもそも虫が良すぎる話なのだ(逆に、現代社会にも当然ながら「幸福」の部分もあるだろうが、ここではふれない)。  大人たちが「自分はともかく、せめて青少年には幸せを」といって、自分たち自身の不幸で非主体的な状況には批判の刃(やいば)を向けないまま地域教育力に期待を寄せるとき、そこで想定される地域は「善」ばかりの現実感に欠ける空想の産物でしかありえない。そして、「地域教育力の回復」という言葉は、空しいスローガンになり、空念仏と化すのである。 うそくさい空念仏をいったんやめにしてみないか。  それでは、そのとき、ぼくたちは地域をどうとらえればよいのか。ぼくは地域を「善と悪」や「毒と薬」の混じりあう「アンビバレンツ」(両面価値)の場としてとらえる。これが地域の現実であり、そこには現代人の生きざまの真実の姿が渦巻いている。地域には、現代社会のヒエラルキー(階層)による秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。だからこそ地域はおもしろい。そういうなまの水平な出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。  他者がきれいに整理した「事実」を自己の思考の枠組のなかにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達し得ないが、人間にはそれをどこまでも知ろうとする潜在的欲望がある。これが生涯学習の本当の姿であろう。 「事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を」ということである。  この「どこまでも知りたい」という自然な人間の欲望が触発され、充足され、際限なく広がる場のひとつが、地域である。もちろん、学校、職場、家庭、社会のそれぞれにおいても、このようなワンダーランド(わくわくする世界)としての側面を強めていきたい。善だけ、薬だけの空念仏や、事実だけの一方的注入はもう飽き飽きした。そして、虚偽や上っ面を拒絶して、このように果てしない真実追究に向かう一貫した姿勢のもとに、地域教育力の回復もめざされるべきなのである。 3。若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか  ぼくは、狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(略称=狛プー)に年間を通して関わっている。狛プーでは、「プータローの自由な精神」をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。狛プーはぼくにとっても一週間に一度くる「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つのマ)」である。  そこには、東京、神奈川はもちろん、埼玉や千葉からも若者がやってくる。かれらは若い旅人である。よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる。余談だが、主催者側は、そういう旅人を、門前払いするようなもったいないまねを夢にもしてはならない。  その若い旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江って、いいところだよ」と、まんざらではなさそうだ。実際、なかには、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。  地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、 「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育つだのだから、この地域に迷元せよ」という言い方である。相手の若者だって憲法で住居と移転の自由が保障されているはずなのに、視野の狭い地域主義にこり固まった大人の都合から若者の巣立ちを引きとめようとする。過保護・過干渉の教育ママみたいだ。これを「御都合主義」と呼ぶO御都合主義からの言葉も、空念仏と同様、うそくさくて第三者には聞いていられない。  狛プーの活動も四年目に入り、キーパーソン(鍵になる人物)であった何人かが狛江から巣立っていった。T子は、ワーキングホリデーでニュージーランドの牧場に働きにいってしまった。公務員のN夫は、念願の社会教育職場に異動して忙しくなってからは、狛プーから足が遠のいている。保健婦のM子は、昇進試験に合格し、希望通り、かねてからあこがれていた小笠原に異動になった。残ったぼくらは淋しさを感じないわけではないが、会いたくなれば会いにいけばよいのだ。実際、会いにいったメンバーもいる。それでいい。少なくとも、彼女たちが「狛江を見限った」ことを責める若者はいない。そんなこと、当たり前のことのようだが、居住している地域で永続的に活動することを必然としてしまうような大人の「御都合主義」は、その逆のことをやっている。  若者にとって地域は巣立ちの場である。自分で空を飛べるようになるまで、いっとき、その地域という巣で、若い羽を育てたり傷を癒したりする。そういう若者が巣から飛び立つとき、大人のほうは定住型が多いので、空しさや淋しさを感じるのかもしれない。しかし、巣(地域)の維持のために鳥(人間)があるのではなく、鳥(人間)の自己成長のために巣(地域)があると考えたい。そこにずっととどまって癒され成長するのも良いが、飛び立っていくのも良し、なのである。地域自身が、若者の巣立ちの場としての自己の存在をあるがままに「良し」として受け入れることができるということが重要である。これこそ、ほんとうの地域のプライドのあり方だ。 4。新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス  先述の保健婦のM子は、仕事でアルコール依存症の家庭などを訪問した日の夜は、しばらく寝つかれないときがあると、ぼくにいったことがある。だから、狛プーでは、そういうことを忘れてのびのびと過ごしたいともいっていた。彼女は、自他の人間存在の真実の重さに向き合って生きているのである。また、それからいっとき逃れて、安心できる仲間のなかで癒されようとすることもある。彼女は一度しかない人生をあるがままに自然に生き、そして、大切にていねいに生きようとしているのだ。  彼女は、今までの青年活動のリーダー像とはかなり異なる。「団体活動のために」というお題目が彼女の内側にはまったくないといってよいだろう。そして、マス(人のかたまり)よりも一人ひとりの個とていねいに出会おうとする。また、その個に対しても、「活発に活動しているかどうか」より、個の姿そのもの(ぼくの言葉では「個の深み」)に関心をもつ。実際に提案することは軽やかで、花火大会見物など、自己の嗜好に基づいているO仕事の忙しさもあってか、狛プーヘの出席率も皆勤というほどではない。 しかし、そういう彼女こそ狛プーのキーパーソンのひとりであり、ほかのメンバーも、自然で自発的な支持を彼女に寄せているのである。  ぼくは、これを、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という従来型のリーダーシップとの対比から、[あなたはあなた、私は私]タイプの新型キーパーソンの登場とみている。「私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。私は、あなたの期待に沿うためにこの世に生きているのではない。あなたも、私の期待に沿うためにこの世に生きているのではない。あなたはあなた、私は私である。しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい。もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである」(パールス「ゲシュタルトの祈り」)という詩があるが、彼女はまさにそれを地でいっているといえよう。  彼女の生き方は、人間関係疎外の現代社会において、自立した人間どうしが関係を回復するための大いなる希望の営みといえるのではないか。人間は、みな、無知(宇宙さえわかっていない)と非力(過去と他人は変えられない)である。また、交流することによって、相手を傷つけ、相手に傷つけられる予感の恐怖にたじろぐという意味で「ろくでなし」でもある。しかし、このような無知と非力とろくでなしである自他の状態を自覚し、受容できたときに初めて、自他という人間に対する「基本的信頼」と「共感的理解」に基づく関係がつくられるのである。  自己のろくでなし状態や他者の痛みについては気づかないまま、他者や社会のせいにしてすませている人、それゆえ悩まないでいられる人は、「ただのろくでなし」でしかない。しかし、その反対に、現代社会においても、枠組みの異なる他者となんとか共生しようと模索している「ましなろくでなし」になろうとしている若者たち(いい男、いい女)は現在でも各地に生き残っているのである。未来型の公的生涯学習支援とは、こういう「いい男、いい女」の居場所を地域に創り出すことである。  狛プーのメンバーが「狛プーは、いつ行っても、あるがままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」と言ったことがある。変容(成長・発達)するためには受容(癒し・安らぎ)が必要だ。若者の「よりましなろくでなし」への変容のためには、地域のあらゆるところにそういう「無条件肯定ストローク」(ストロークとは交流分析の用語で、相手の存在に気づいていることを伝える行為)を安心してやりとりできる「癒しのサンマ」が必要なのだ。そこでの信頼と共感の関係が、若者の自立を育むのである。  従来の青年教育には、娯楽性が重視される一方で、歯を食いしばってでも、頑張って成長・発達し、自己を充実させ、組織や地域に貢献するというカンパリズム(勤勉主義)の傾向も強かった。これには、戦後の後期中等教育の代替えの場としての青年団や青年学級の位置づけの歴史の影響があるのだろう。しかし、今の時代に、「高校や大学に、行けない人のために、それを補完するような青年教育をめざす」などと主張する人は少ないだろう。現に、大学生が、「大学ではない生涯学習の場」として青年教育に参加する時代なのである。地域の青年教育は、過去の青年「補習」教育の思想とはすみやかに決別して未来型生涯学習支援サービスに向けて脱皮しなければならない。 5.Y世代の登場  以上のとおり論じていたのだが、最近の若者は「Y世代」と呼ばれている。それは次のとおりである   Y世代  1975年以降に生まれた、アメリカの若者たちo彼らの上の60〜74年生まれの若者が「X世代」と呼ばれており、その次の世代ということから「Y」とつけられている。彼らの両親は45〜54年生まれの「ベビーブーマー世代」で、この世代の人口が多いのでY世代も人口が多い。そのために、消費、ライフスタイルに与える影響も大きいといわれている。日本では団塊ジュニア世代の後の「ポスト団塊ジュニア」の世代と重なり、芥川賞作家の綿矢りさや金原ひとみなどが社会の第一線に登場している。義務教育修了時にバブル崩壊を経験し、その後の失われた10年のなかで、他の世代にはみられない価値観を築きつつある。                 yahoo!辞書「新語探検」(2004年8月16日)  バブル崩壊後の「失われた10年」に青年期を過ごしてきた者としてとらえられる。  また、日経産業消費研究所調査報告書『Y世代の価値観と消費スタイル』の調査が次のとおり行われ、その結果が公開されている。   「ジェネレーションY」と呼ばれる16−25歳を対象に価値観を探り、消費行動との関係をまとめた。団塊ジュニアを含む30代(X世代)と比べるとメール頻度は2倍強になるが、逆に対面でのつきあいが薄れている様子がうかがえる。金銭感覚は比較的堅実で、買い物には丸井、ルミネなど若い層に絞ったファッション性が高い商業施設を注目している。仕事を選ぶ基準は、収入以上に、自分らしさを発揮して満足を得られるかどうかにある。弁護士、技術者などステータス性が高い職業にも関心が高く、保守的な面がある。調査実施時期は2004年6月下旬。インターネットを利用した消費者調査。対象はY世代3000人(回収数は1085人)、X世代2000人(同688人)。  その目次では「『稼ぐ』『ためる』堅実集団台頭」、「意外とまじめな仕事観」、「生きる喜びは小さな感動の積み重ね」などとある。堅実さ、自分志向などがその特徴ととらえられるだろう。  さらに、マーケティング用語集(Japan ConsurnerMarketing Research lnstitute)によると、現在の日本の世代区分として、次の8つを指摘している。 @大正世代(76〜91才) A飢餓世代(67〜75才) B戦後世代(57〜66才) C団塊世代(52〜56才) D断層世代(42〜51才) E新人類 (32〜41才) F団塊ジュニア(27〜31才) Gバブル後世代(16〜26才) そして、「現在新しい消費リーダーとして注目されているのが、最も若く、ライフステージ変動期にあたるバブル後世代」だとして、その特徴を次のように説明している。「この世代は、バブル期の記憶が薄くその後遺症が少ないため、節約志向の強い上の世代とは違う消費意識を持っているからです」。  このことから、堅実志向の反面、バブル期の影響が少なく、上の世代の節約志向とは異なるという二面性が読み取れる。 6.Y世代の地域意識  このような新しく登場した「Y世代」の若者たちは10年近く前に私が述べた若者だちと、地域のとらえ方がどのように違っているのか。これからは些少な体験に基づく推論にすぎないが、考えてみたい。 6.Y世代の地域意識  このような新しく登場した「Y世代」の若者たちは10年近く前に私が述べた若者だちと、地域のとらえ方がどのように違っているのか。これからは些少な体験に基づく推論にすぎないが、考えてみたい。  最近、地方の学生から「地元が好き」という声をよく聞く。これは「地域の教育力」の復活ととらえてよいのだろうか。私にはそうではないと思われる。  X世代の若者たちは地域から「巣立っていこう」とした。それは「バブル」の象徴である都市への幻想もあったのだろう。しかし、もう一方で、「束縛」の強いコミュニティから抜け出して自由を求める「自立」の意志もきっと存在していたのだろうと考える。  これに対して、地方のY世代の若者は、生まれたときから「うるさく言う近所の頑固親父」のような人にあまり出会わず、少子化社会の中でちやほやされて育ってきた側面があるのではないか。「地域が好き」で「巣立つ意志の弱い」若者像が生まれているとしたら、それは過疎に悩む地域にとって手放しで歓迎すべきことなのだろうか。  われわれが「地域の教育力」という場合、それは最近青少年教育の世界で盛んに話題にされる「社会参画の意欲・能力」にもつながる性格のものであるはずである。これについては、「異議申し立て」の団塊世代ののちは、「Y世代」に至るまで、どんどん落ち込んでいるのは明らかである。だとすれば、「地域好き」と「地域の教育力」とは、異なるものであると考えたい。むしろ、若者に対抗する地域があって、その地域に若者が対抗する。従来は、そこに「地域の教育力」が生じていたのだといえないだろうかO  このように考えると、「いつ行っても、あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」という青少年教育あるいは地域の「居場所」は、それだけにとどまっていては足りないということになる。  2000年代に入って、私は「群れから一匹で飛び出す」という若者の能力獲得の支援方法に関心をもっている。その理由も、このことと関係しているのかもしれない。