「五感を通してちがいを楽しむワークショップ」のすすめ 聖徳大学生涯教育文化学科(2006年4月新設予定)教授 西村美東士 1 青少年が求めるコミュニケーションとは何か (1) 人はストロークを求めて生きている  本書は青少年の支援者が「青少年とのよりよいコミュニケーションづくり」をするために作成された手引書である。そこで、まず、青少年が支援者に対してどんなコミュニケーションを期待しているか考えたい。  私は、ある青少年育成関係者の大会で、こんな場面に遭遇した。壇上の10人程度の高校生が、カウンセラーからの「フロアに集まっている関係者を君たちは直感的に敵と感じるか、味方と感じるか」という問いに対して、全員が「敵」の札を挙げたのである。われわれはこういう状況から出発するのだということをよく認識しておきたい。  たまたまわれわれを味方だと感じるきっかけを得て集まってくれる青少年だけを相手にしていると、この一般的状況を忘れがちになるかもしれない。そこで、一般の青少年がわれわれにどんなコミュニケーションを期待しているのか、すなわち彼らの側のニーズを把握しておくことが、まず必要だと考えられる。  彼らの側に共通するニーズとして、ここでは「ストローク」を挙げたい。「人はストロークを求めて生きている」といえるからだ。  「ストローク」とは、交流分析の用語で、「私はあなたの存在に気づいていますよ」と伝える行為を指す。自分の時間を相手に与える愛の行為ともいえる。身体的(スキンシップ)、言語的(挨拶、励まし等)、非言語的(まなざし、うなずき、傾聴等)の3種、肯定的、否定的の2種、条件付、無条件の2種がある。  人はストロークなしでは生きていけない。青少年も同様である。しかし、その受け方、与え方にはそれぞれ特有の癖があるといわれる。また、「貧しいものはさらに貧しく、富めるものはますます富を増す」という言葉もあり、ストローク経済の法則と呼ばれる。  本書における「五感を通したワークショップ」は、青少年やわれわれに、ストローク発信能力という「財産」を与えるものになるだろう。表層の言葉だけでなく、五感を駆使することによって自他の実感に敏感になり、それを大切にできるようになるからだ。その「財産」は、相手からのストロークの「お返し」によって、ますます富を増やすことが期待できるのである。 (2) 放っておいてほしい、でも、かまってほしい=両面価値の理解  支援者からのこのようなストロークは、青少年に「癒し」(heal)を与えると考えることができる。しかし、自己の確立と社会的自立をめざして葛藤の渦中にある思春期以降の青少年がわれわれに求めるストロークとは、非常に微妙な行為であることも認識しておく必要がある。距離感のない「親密さ」は嫌われて当然であろう。親密さだけで「癒された」ととらえる青少年がいるとしたら、それはそれで問題があるといえる。親密さと距離感というアンビバレンツ(両面価値)な青少年の願望に対して、われわれは適切に対応する必要がある。自著『癒しの生涯学習』(学文社、1997年)から次の文を引いておきたい。  ある学生が授業で「私は夜中一人で動き出すおもちゃです」と記述した。自分は自分らしくありたい、他者によって取り替えることのできない自分の人生を実感したいと思ったとき、昼間の世界の仮面や演技に耐えられなくなって、夜中の一人ぼっちの世界で自己のアイデンティティを見つけようとするのだ。しかし、彼女はこのようにも書いている。「放っておいてほしい、でも、気にかけてほしい」。落ち込んでいたいときには一人で落ち込んでいたい。自分のことをよくわかってくれていない人からの中途半端な慰めや、現代の競争主義にはまりこんでいる人からの優越感を伴った励ましは、かえって自分がみじめになるだけだ。だが、もし本当にだれもかまってくれなくなってしまったら、それでは淋しくて生きていけなくなってしまう。  この点で、「五感を通したワークショップ」は、効果的な手法と考えることができる。個人の内的世界の探検の時間の尊重(距離感)と、本人の自己管理による探検結果の五感表現による外在化およびその交流による共感(親密さ)を保障するための工夫がそれぞれのワークに張り巡らされているからである。そして、その共感とは、すべてのワークを通して、違いを消し去るのではなく、「楽しむ」ことを志向している。青少年が求めるストロークとはこのようなものと考えてよいだろう。 (3) 「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居場所  現在、青少年にとっての居場所の必要性が叫ばれている。その居場所で「五感を通したワークショップ」を支援者が縦横無尽に活用することを私は期待している。なぜなら、たんに空間を提供しただけでは、青少年の通常の交友関係が拡大再生産されるだけの結果になるおそれがあると考えるからである。  私は「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」ということを居場所の重要な条件と考えている。先に示した「仮面や演技」をしなくてもよい空間ということである。しかもそれは「マイルーム」とは異なり、支援者や他の青少年からのストロークが交流される。また、彼らの通常の交友関係とは異なり、「同一化」のプレッシャーを受けないという風土づくりが求められる。  表層の言語だけではなく、身体や五感を伴ってこそ「あるがままの自分」であり、その全体が「違い」を含めて肯定的に受けとめられる。その意味で、支援者が「五感を通したワークショップ」を青少年の居場所に「意図的に」持ち込むことが効果的であると考えるのである。  青少年が求めるストロークは、そういう居場所でこそ実現されると考えたい。また、青少年対象の他の講座や集会事業においても、同様の意図をもって、居場所としての機能が発揮されることが期待される。 (4) 「ほざくんじゃねえ」という訴え  河合洋らの小児精神科医は、1990年代から、今日の子どもたちが大人がかかるようなストレス性の病気になるほどにぎりぎりまで追いつめられている状況をふまえて、「ほざくんじゃねえ」と訴えている。それは、子どもに対してではなく、子どもを取り巻く親や教師などの大人に対してなのである。他人の痛みがわからない大人たちから発せられる、感情を伴わない意味のない言葉の洪水(ほざき)に、子どもたちはSOSを発しているというのである。この「ほざくんじゃねえ」という言葉は、われわれ大人に対する青少年からの「訴え」の代弁としてとらえることができるだろう。  われわれが青少年が求めるコミュニケーションに対応しようと考えるとき、それより前に、われわれ自身がどれだけ深く自他の実感に気づき、それを大切にしようとしているかを振り返る必要があるのかもしれない。その点では、「五感を通したワークショップ」は、われわれ自身にとって意義深いものであると考えられる。すなわち、青少年が求めるコミュニケーションに対応しようとして「五感を通したワークショップ」を活用することは、じつは「青少年のため」ではなく「自分のため」にする行為といえるのである。 2 青少年に求められるコミュニケーション能力とは何か (1) 「してあげる・してもらう」能力  アガペ(無償の愛)は別として、通常のストロークはいわば「してあげる・してもらう」の相互交流だと考えられる。しかし、青少年にとっては、これが困難になっているというのが私の実感である。自分勝手に思い詰めてあまりにも重い「プレゼント」を贈ってしまって相手に嫌がられたり、逆に、相手が迷惑がるのではないかと考えてしまって、何も働きかけられない結果に終わってしまったりして、苦しんでいる。コミュニケーション能力の不足が「してあげる・してもらう」能力の欠損を拡大させ、また、その拡大がますますコミュニケーション能力を萎縮させていると考えられる。  望ましいストロークは、自分と相手を信頼することによって成り立つ。「してあげよう」としている今の自分の気持ちはけっして非常識ではないというように自分を信頼(自信)し、そういう自分の行動を相手は好意的に受け入れてくれるだろうというように相手を信頼(他信)することが必要になる。不安な場合は、相手に「どう?」と聞いてみればよい。あるいは、小さなプレゼントをたびたびあげるなどして、少しずつ信頼関係をつくりあげていく手もある。  私は次のように考えている。「プレゼントをすることによって、見返りを期待することは自由だが、それを相手に押しつけることはできない。しかし、好意をもつ相手からの見返りが期待できるような行為を自らがすることは、自己決定によってできることである」。適切な自己決定をするためには、自他理解が必要になる。本書で紹介したワーク「プレゼントの木」は、相手に負担にならないプレゼントである。こんなことでもプレゼントになるのだという体験になるだろう。すぐには相手にわかってもらえなくても、受容的雰囲気のなかできちんと説明すればわかってもらえるということも理解される。「好きな色」「好きな形」「好きな場所」の共有という仕掛けを経て、「違い」を受容しながらも「してあげる・してもらう」ということが人間のあいだで可能であるということに気づくことができる。その意味からも、このワークは絶妙であると考えられる。 (2) 交友関係のシフトアップ  私は青少年を癒されない状態に追い込む彼ら自身の内的要因として「ピア」を挙げている。ピアとは、同輩、仲間のことである。公式の集団・組織内の正式な関係よりも、「われわれ意識」による非公式な関係を重視する志向にもとづく。ピアグループは、個人の社会化の促進の場としても機能するが、逆に、個性の獲得や発揮をみずからが抑圧する場としても機能する。ピアコンセプト(仲間意識)が、仲間から変に思われたくないなどの現代人の強烈な不安のなか、協調の名のもとに個性の発揮を自己抑圧するというみじめな逆機能の結果に陥っている。しかも、それは、同輩や仲間に協調しようとすることにとどまるものであって、現実社会に歯向かう力にもならなければ、社会に適応してうまく個性を発揮する結果にもつながらないという皮肉な実態がある。  私は、青少年の社会参加が求められている今日、現代都市青年の意識調査の結果等を分析し、「その前の段階である交友関係の前で、すでに青少年は立ちすくんでいる」ととらえている。ピアコンセプトによる「同化圧力」の前で萎縮している交友関係をシフトアップすることこそ、現代青少年にとっての社会参加の第一歩ととらえるべきであろう。  表層の言葉とは異なり、身体や五感はそもそも他者とは同一化しえない存在である。「五感を通したワークショップ」は、他者との自己の異なりが受容され、他者の自己との異なりを受容する体験を促すものであり、その意味から、青少年の交友関係をシフトアップし、ひいては社会参加への自信をつけさせる契機として効果的と考える。 (3) 社会参画の基礎的能力獲得とその明示  次の段階として、青少年が望ましい交友関係を経て、社会参加し、さらには社会参画にまで至るように有効な支援を行うには、どうしたらよいのか。  表1は、栃木県岩舟町の小中学生のワークショップにより、「この町で楽しく生きるために必要な能力」をまとめたものである。 表1 この町で楽しく生きるために必要な能力  現在、青少年の社会参画の重要性が叫ばれている。しかし、社会参画や社会貢献の重要性を青少年に説くだけでは、青少年自身の心には響いていかない。  これに対して、表1のような能力の提示は、青少年を自然に「そういう能力なら自分も身につけたい」という気にさせることができる。そして、その多くの能力は、ほとんどがコミュニケーション能力と深く関わっていることがこの表に示されている。  「五感を通したワークショップ」は、青少年の社会参画に直接つながるものではない。しかし、青少年がそこで獲得したコミュニケーション能力は、青少年の社会参画には不可欠の能力といえるのである。また、青少年にとっても、社会参画のスローガンを何回も聞かされるよりはるかに魅力的な目標として受けとめられるはずである。  以上のことから、私は、「五感を通したワークショップ」においては、「青少年の社会参画」につながる能力のうち、実施するワークの到達目標に含まれる能力を青少年に明示し、彼らの社会参画を呼びかけるとともに、ワークの効果に関する点検・評価をより的確に行うための指標にすべきと考える。 3 ワークショップとは何か (1) ワークショップの特徴=笑いが絶えない  最後に、ワークショップそのものの意義や方法について、あらためて考察しておきたい。  ワークショップとは「小さな作業場」を意味する。「集団一斉承り型学習」とは異なり、メンバーで、何か作品や成果を生み出すのである。その手法はさまざまである。新しいやり方を勝手に作ってしまってもよい。  しかし、私は、多くのワークショップに、次のような共通点があると考えている。 @ 子ども心を取り戻すこと。 A 自分の枠組みが新しくなること。 B 他者との出会いによって自分に気づくこと。 C 相手を受け入れ、自分が受け入れられて、癒されること。 D 自他の存在価値を見つけること。 E 参加・参画することによって、社会的承認を受け、自己実現が可能になること。  これらの特徴は、生涯学習やボランティア活動とも似ている。そして、その特徴は、アカデミックなワークショップにさえも見いだすことができる。研究者の集まる各種学会においても、「集団一斉承り型」の発表会と比べて、参加する人たちの表情は明るい。今回、本書で紹介しているような「五感を通したワークショップ」なら、なおさらであろう。ワークショップは「ものをつくる」という語義からして「生産的」であり、説教くさくなく、「明るく、楽しく、ほがらか」なのである。  「押しつけがましさ」からどう脱却して、青少年が主体的に取り組む学習をどう組織化するか模索している青少年支援者にとっては、強力な武器になるに違いない。  このことから、ワークショップの特徴として、「笑いが絶えない」という説明がよくされる。本書に紹介されたワークを初めて読んで、初めて試しにやってみるだけで、支援者はその「笑い」を気持ちよく実感できることだろう。その「笑い」とは、青少年が日常、メディア等から受動的に受け取る「人の欠点や落ち度」を見たときに生ずるようなものとは違い、自分とは異なる他者に共感できたときの「笑い」という、今日では「非日常」のものというべきなのだ。 (2) 「笑いが絶えない」より大切なこと  そういう意味から、たしかに、「笑いが絶えない」という表現は言い得て妙である。私も、大学授業等でワークショップの導入の説明の際、この言葉をよく使っている。しかし、ワークショップを数回経験すると、学生たちは「もっと大切なこと」を感じ始める。  先日、ある学生が次のように言ってきた。  「先生は『笑いが絶えない』と言っていたけど、なんだか違うと思う。たしかに、自分もワークの途中で大笑いしたりもしたけど、そんなことはあたり前のことで、もっと大切なことがある」。  そこで、その学生に「もっと大切なこと」を問うたところ、他の仲間の発言に、「ふーん、なるほどねえ」とうなずくことだと言うのである。その特徴は、とくに同化圧力の前に立ちすくむ青少年にとっては、大きな「非日常的効果」があると考えることができる。  「五感を通したワークショップ」では、気持ちの良い「笑い」は、当然のようにいくらでもわきあがるだろう。しかし、支援者がそこで自己満足してしまっては支援のスキルアップは望めない。そこに安住せず、笑いよりさらに深い本質を追究していきたい。 (3) 同質化とは異なる求心力=防衛的風土から支持的風土へ  私は、その本質の一つとして支持的風土の形成を挙げたい。それは自己の充実とともに、社会参画能力にもつながるものと考える。 支持的風土  防衛的風土 図1 支持的風土と防衛的風土の対比  支持的風土(J.R.ギッブ)には次のような特徴がある。 @仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。 A組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。 B目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。  支持的風土を、その反対の防衛的風土と比較すると、図1のとおりである。「仲間からいつ足を引っ張られるかわからない」ために、無理な同調がはびこり、結果として狭い仲間の中だけで同質化していく防衛的風土に対して、支持的風土は、信頼関係に基づいているため、自由で多様なのに、集団の共通の目的に向かって各人が仕事をするという求心的特徴が本図から読み取れる。青少年の社会参画は、このような風土から生まれ、また、その風土を強化するものになるといえよう。  支持的風土に関して私が注目する特徴は、「仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができる」という点である。「五感を通したワークショップ」は、五感という端的に個人的な事象が外在化され、交流する。ふだんは「抑えるべき」異質部分が、ときには誇りを持って語られさえする。同調できない部分が残ったとしても、思ったほど互いに不快ではないし、問題でもないという体験をもつことができるのである。「五感を通したワークショップ」が、支持的風土の形成やそのための能力獲得に資するであろうことは明らかである。じつは学習も、たとえ集合学習においても、本質的には個人的事象であるから、以上に述べたことは、学習支援全般において通じることであるといえる。 (4) ワークショップは「指導」できるのか  私は自らのワークショップ型大学授業を次のように分析したことがある。  教師の指導行為としては、課題提示(問いかけ)、紹介(読み上げ)、回答(レスポンス)、指示(ワークの進め方)などが盛んに行なわれた。そのことによって、役割提供機能(ワーク)、表現支援機能(文章、話し合い、発表)、受容機能(学生の表現への評価)、課題解決機能(気づきの促進)、揺さぶり機能(固定概念の打破)などの教育機能が発揮された。  しかし、その効果は、学生の到達段階やその循環の程度によって左右されることが本研究で明らかになった。  青少年支援においては、大学授業ほどの指導行為が行われることはないかもしれない。しかし、すでに述べたように、支援者の指導目標を青少年に到達目標として明示することは、決して上からの押しつけということではなく、むしろ効果的なワークショップを追求する支援者としての責任ある態度ということができる。そして、目標が明確化されてこそ、初めて、「指導行為」の効果を的確に評価することができるのである。  上の分析から私は「ワークショップ型授業の構成にあたっては、学生の変容がどの段階にあるのかをたえず汲み取りながら、通常のワークショップの形態にこだわらず、適切で柔軟な指導行為を組み立てることが望まれる」とした。もちろんワークショップにおいては、「偶発的学習」が盛んに行われるだろう。しかし、これも可能ならば、次回にはより効果的で意図的な指導として計画化することが望ましいと考えられる。各地の支援者によって、本書が幅広く活用されるだけでなく、それぞれの支援者が本書を超えた自らの支援意図をつねにより明確にしようとし、その成果が広く県内で交流され、支援実践とその研究との往復運動が自律的に行われることを期待している。