「おうちとしての狛プー」と社会参画能力獲得支援の関係  〜青少年の社会化支援研究の視点から〜       聖徳大学生涯教育文化学科教授 西村美東士 一 青少年の社会化支援と狛プー  私は平成一七・一八年度科学研究費補助金(基盤研究C)「現代青少年に関わる諸問題とその支援理念の変遷〜社会化をめぐる青少年問題文献分析」の研究代表者として研究を進めている。本研究の「目的」は次のとおりである。  現代青少年に関わる諸問題については、青少年教育をはじめとする多様な分野で対応が試みられてきた。そこでの実践や研究においては、「個性尊重」による個人としての充実のための支援とともに、望ましい社会化を支援するための理念が形成されてきた。  しかし、それは次の二つの理由から、不十分な結果に終わっていたと考える。第一に、「一人でも(よりよく)生きられるようになる」ことを望む「個人化」欲求を社会化とは二項対立的にとらえたため、社会化を「個人化」と調和的に支援することができなかった。第二に、「仲間と(よりよく)生きられるようになる」ことを望む萌芽的な「社会化欲求」に対して、魅力的な方策を示し、さらには社会参画につながるようになすことができなかった。  そこで、本研究では、これまで蓄積してきた「青少年問題ドキュメンテーション」及び現状の分析によって支援理念の変遷を明らかにし、青少年の社会化に関する支援理念の構築に貢献しようとしている。  本研究におけるもっとも重要な課題は、「目的」で述べているように、@個人化と社会化の統合的支援、A展望のもてる交友関係の提示、の二点である。  Aについて説明を加えておこう。一九九〇年代に若者は、「仲間以外はみな風景」、すなわち、「仲間さえ大切にしていれば、外の世界はどうでもいい」(宮台真司『世紀末の作法』リクルートダ・ヴィンチ社、一九九七年)と分析された。われわれは、「それでは、その仲間の中はどうなっているのか」と考え、神戸、杉並の若者それぞれ千人の調査を行った。そこで導き出したキーワードが、「みんなぼっち」である(富田英典他編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣、一九九九年)。  私は本書で、若者の交友関係改善の展望として、ピア(同質集団)からネットワークへのシフトアップを提唱した。「島宇宙化」(宮台)して閉鎖された小さな仲間の中で、「みんな、みんな」と言ってますます同質化していきながら、それゆえ、じつは孤立していく。若者が社会化以前に立ちすくんでいる現在の状況の根源として、彼らの交友関係が「みんなぼっち」の孤独な状態にあると考える。本書では、同一化せずとも「異なる他者」を受容するネットワーク型への転換の方向を示したのだが、先述の研究においては、より詳細に検討しようと考えている。  その点で、今でもたびたび思い出すのが狛プーの運営方針である。そこでは、「一年に一回来ればメンバーだ」、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」という「サンマ」(時間・空間・仲間の三つの間、今でいう「居場所づくり」)がつくられてきた。  以上の面から、青少年の社会化に対する効果的支援のための現在の課題にとって、その解決のために狛プーの示唆するものは大きいといえる。 二 青少年の社会参画と狛プー  青少年育成推進本部「青少年育成施策大綱」(二〇〇三年一二月)は、「重点課題」の一番目に「社会的自立の支援」を挙げ、「青少年が就業し、親の保護から離れ、公共へ参画し、社会の一員として自立した生活を送ることができるよう支援するものとする」(傍点引用者)とした。  そして、「年齢期ごとの施策の基本的方向」において、青年期の「公共への参画の促進」の一環として、「政策形成過程への参画促進」や「社会貢献活動」などが挙げられた。前者では、「各種審議会や懇談会等における委員の公募制の活用、インターネット等を活用した意見の公募、意見聴取の対象としての青少年の積極的な登用等により、青少年の政策形成過程への参画を促進する。特に、青少年育成施策や世代間合意が不可欠である分野の施策については、青少年の意見も適切に反映されるよう、各種審議会、懇談会等の委員構成について配慮する」と述べられている。  過去には、高校生の政治活動が、「今は勉学に励むべき時期」などの理由から禁止された時代もあったが、今ではそんな心配をする必要がほとんどないほど、青年の社会参画意欲が全体的には減ってきたのだといえよう。  この点でも、狛プーの先進性は注目に値する。なぜなら、かつて狛プーに「所属」した多くの青年が、海外青年協力隊、ワーキングホリデー、阪神大震災ボランティア、離島への職場異動など、狛プーという「群れ」から離れて「一匹で社会に飛び出す」ということをやってのけたという実績があるからである。  しかし、ここで一つ、狛プーにとっては深刻な問題が生ずる。青少年の望ましい社会化を望む社会の側は、これだけの青年たちが(珍しくも自由意思で)集まっているのなら、狛プーが全体として「社会参画活動」や「社会貢献活動」を行ってくれるとありがたいと考えるようになる。それは狛プーを経済面、人的面等で支えている社会の側(ここでは、狛江市社会教育行政、狛江市民等)にとっては、先に挙げた「青少年育成施策大綱」の趣旨を考え合わせれば、青年に対する当然の期待ともいえる。  この問題について私が鮮明に覚えているのは、あるボランティア活動に関して、狛プー全体としての協力の要請があり、その対応に対する狛プー参加者の意見が割れてもめたときの、ある狛プー参加者の言葉である。それは「狛プーはいつまでも『おうち』であってほしい」という言葉であった。狛プーの外では、各人が社会に参加したとしても、狛プーという「おうち」自体が社会に出ていってしまっては、各人が帰るところがなくなってしまうという訴えだと考えられる。他の参加者も、実際に外でボランティア活動を行っている人を含めて多くの人が、狛プーとしてのボランティア活動に反対したことを覚えている。  狛プーは、社会的には無目的であったとしても、当時の参加者にとっては「癒しのサンマ」(西村美東士『癒しの生涯学習』学文社、一九九七年)だったのである。  正直に言えば、私自身は、そこでもめたとき、内心、「狛プーの存続のためには、彼らも『ちょっと大人になって』、この要請に形だけでもつきあってくれてもいいのではないか」と思っていた。たしかに,そういう対処をする青年がいてもよいだろう。しかし、少なくとも当時の狛プー参加者はそうではなかったのが事実である。  少子高齢社会において、「青少年の社会参画の促進」は今や国家的課題とさえいえよう。しかし、すでに述べたように、多くの青少年は、それ以前に「仲間以外はみな風景」であり、その帰結として「みんなぼっち」の交友関係の前に立ちすくんでいると考える。その点では、たしかに、狛プーは、「現実的には」、青少年の社会参画のための効果的支援方策だと考えられる。  しかし、「理念的」にはどうなのだろうか。私は、狛プーはその理念をあらためて検討すべき時期にきているのではないかと考え、本稿を書いている。  狛プーは「たとえ学業や職業についていたとしても、『フーテンの寅さん』のような自由なプータローの心はなくしたくない」というメッセージのもとに始まった。その根底には、自分だけでなく、寅さんのように隣人や他者をも愛そうとするヒューマニズムがあったと考える。そして、他者に冷淡、無関心な個人主義や利己主義になじめない、あるいは飽きたらない青年たちが、このヒューマニズムに、意識、無意識のうちに共感し、集まってきたのだと考える。私は、過去に、これを「いい男、いい女」と呼んだことがある(前掲『癒しの生涯学習』)。  一方、社会参画をしようとする人は、社会との関わりを職業人としてだけで終わらせるのではなく、市民や社会の一員としても、自由時間を使って自分のできる範囲で、よりよい社会や共同体をつくりだすために関わろうとする。このことから、社会参画の意欲の源には、狛プーの「自由なプータローの心」と同様のヒューマニズムが流れていると考えられる。  しかし、以上の考察だけでは、狛プーの新しい理念としての「社会参画」が説明し切れたとはいえないだろう。  なぜなら、「おうち」という狛プーの「現実」が、どのように狛プーの「社会参画理念」と結びついているのか、その構造が十分には明らかにされていないからである。 三 社会参画能力獲得支援の視点から狛プーを考える  私は、現在、クドバスという職業能力開発におけるワークショップ技法に注目している。この技法によると、獲得すべき能力が(KJ法などと比較して)短時間で構造的に把握され、明示されるからである。  本稿に掲げた表は、両者とも、青少年の社会参画に関係する必要能力を、クドバスの技法でリストにまとめたものである。前者は小中学生、後者は国立青少年教育施設専門職員、いずれも数十人の参画を得て作成した。  クドバスの概要を、その創始者である森和夫による数点の文献からまとめれば、次のとおりである。  クドバス(CUDBAS=CUrriculum Development Method Based on Ability Structure)は一九九〇年に開発されたカリキュラム開発手法である。一九八九年、労働省を中心に、森らはプロッツ(PROTS=Progressive Training System for Instructer)という指導技術訓練システムの開発に着手した。これは海外で技術指導にあたる指導者たちに特に必要性が高かった指導技術訓練システムを開発しようとしたものである。クドバスはその一環として開発された。  進め方としては次の五つのステップを踏むことになる。これらは、参考文献やホームページなどで公開されており、その「マニュアル」を使って、初心者でも読み上げながら実施することが可能である(http://ginouken.com)。 @職場の熟練者について「何ができるか」、「何を知っているか」、「どんな態度が取れるか」で一件一カードに書き出す。 Aそれらのカードを仕事の単位でまとめていく。 B水準の順序で並べ直す。 Cカードごとの水準を書き入れる。 D能力資質リスト図に転記する。  作業は、その職業について知る人五〜六人程度で行う。各方面からの参加が望ましい。その際の注意事項は次のとおりである。 @メンバーは同等の資格、権限で進めること。 A個人への批判や攻撃はしないこと。 B互いに協同して良いリストを作成すること。 C固定観念にとらわれず、柔軟に発想を出すこと。  能力カード作成にあたっては、「人格的なものや性格などは除く」とされている。また、他の人との重複は気にしないで、いろいろな角度から書く。所要時間は一枚につき一分程度で、一人二十枚程度が想定されている。  書き込まれたすべてのカードを机の上に置く。同一内容のカードは重ね、類似カードは近くに置く。重ねたカードは内容を点検し、最も内容を代表するカードを一番上にする。適切なカードがなければ、新たに書き足す。確認してホチキスでとめる。ただし、少しでも違っていれば独立させる。  次に、これらを見渡して仕事内容でグルーピングする。仕事カードの語尾は「〜をする」を使う。仕事カードごとに能力カードを右横に並べる。並んだ能力カードを重要度の高いものから順に右へ並べ直す。重要度のランクA、B、Cを決めて記入する。  次に縦の配列を行なう。カード群を比較して重要度の高い分類から順に下へ向かって並べる。「必要能力・資質リスト」は以上で完成である。  指導者がいなくてもできること、また、九十分程度で作業が完成することが想定されていることは、学習内容編成者にとっての実用性を保障するものである。同時に、学習者にとっても、「学習者参画によるプログラム作成」や「学習者自身の学習目標設定への自己関与」を可能にする道具として、その意義は大きいと私は考える。  そして、私が本稿でとくに強調しておきたいことは、青少年の社会参画の効果的な促進に関してである。  社会参画よりも前の段階で、交友関係の困難に立ちすくんでいることはすでに述べた。その困難とは、現代社会においては、けっして突飛なものではない。「自分らしくありたいが、仲間といるときは、仲間に合わせなければならないという同化圧力を感じる」、「かまってもらいたいが、ほっておいてほしいときもある」、「親密でありたいが、距離感もほしい」など、コミュニケーションの宿命的な困難性は実際に存在するのである。  その状況において、狛プーが「社会参画」という理念を新しく掲げたとしても、それだけでは参加者に共感されるものにはならない。  そこで、先に掲げた表を、あらためて検討してみたい。  第一に、「少子高齢化を考えることができる」は、なんと中学生の出した能力カードだが、このような「例外」は別として、他のほとんどの能力カードは、狛プー参加者一人一人にとって、「こういう能力を獲得したい」と本心から思えるものだと考える。  第二に、狛プーが「自由なプータローの心」により「結果的に」その獲得を支援してきたといえる能力と、二つの表に示されている、社会参画のために「理想的に」必要だと考えられる能力は、ほとんどぴったりと一致していると考える。  つまり、狛プーが実現してきたことは、たんに「癒しのサンマ」を与えてきたということだけではなく、青年の社会参画にとって必要な能力の獲得を、少なくとも「結果的」には、効果的に支援してきたといえるのである。そこで獲得された能力とは、「ちょっと大人になって、社会的要請におつきあいする」といういわば「世渡り的な社会化」を超えた、より主体的な「社会参画」や「社会化の自己管理」に向けた能力である。  だからこそ、先述のように、何人かの青年が狛プーという「群れ」から離れ、一匹で社会に飛び出していくことができたのだと考える。 四 社会参画能力獲得目標の明示と目的化(討論)    〜狛プーへの提言〜  すでに述べたように、青年にとっての本質的な「社会参画」とは、一人一人が狛プーという「おうち」あるいは「群れ」から一匹で飛び出して行うものであると考える。  もちろん、狛プーとして何かボランティア活動をやろうという合意が参加者間で形成されるとすれば、それをやってみるのもよいだろう。しかし、端的にいえば、それは個々の本格的な社会参画に向けた「練習」にすぎない。今の「おうち」や「群れ」から飛び出して、新しい「おうち」をつくったり、「群れ」に飛び込んだりすることこそ、本質的な「巣立ち」すなわち自立といえる。  もちろん、その「巣立ち」に至るプロセスには個人差がある。その個人差を認める狛プーであってほしい。外で社会参画しながら、ときどき狛プーという巣に帰ってくる人がいてもよいが、じっくり巣にこもったうえでやっと「社会参画」に飛び立つ人がいてもよい。さらには、社会参画などする気はないという人さえ、何人かはいてもよいのではないか。  特定のテーマに基づく社会参画のための集団は別として、一般の青年を対象とする狛プーなどにおいて、すべての参加者が同様な社会参画志向をもっているなどという同質集団が形成されるとすれば、それはかえって不気味である。  付言すれば、その意味では、同じ依存症等の問題を抱える者同士が自立や社会復帰をめざす「居場所」や「自助グループ」とも、狛プーは性格を異にする。狛プーは基本的には一般の青年の、しかも、「自由なプータローの心」の価値を認める者たちのために用意された場と考える。  以上の前提のうえで、本稿での検討結果から、私は次のように「討論」を投げかけたい。  「社会のことはあなたまかせ」で、こぢんまりと閉鎖された仲間集団のなかで、仲間以外の他者を「風景」としか感じない仲間といくらつきあい続けても、青年は個人としての充実と、社会のなかでの自己の充実を統合的に実現することはできないだろう。  他方、「社会に役立つ」、「社会に貢献する」有為な人材になれといわれても、青年は無条件にはそれに賛成しかねるだろう。  その点で、狛プーは結果的には社会参画促進のための効果的な青年支援を行ってきたといえる。しかし、それは、目的的に行われてきたわけではない。  わが国において社会化支援や社会参画促進のための効果的な「青少年育成施策」が模索され、その政策形成過程や世代間合意過程への参画が青年に求められている今日(前掲「青少年育成施策大綱」)、狛プーは社会に支えられているという自覚に基づき、従来から発揮してきた「社会参画能力獲得支援機能」を「狛プーの理念」として明確に目的化して社会に示す時期に来ているのではないか。  「青少年育成施策大綱」では「能動性を重視した青少年観への転換」として、次のように述べている。  青少年の社会的自立を促進するため、保護・教育を受けるだけでなく、自分の意見をもち、自己を表現し、他者を理解し、他者に働きかけ、家庭や社会のために自ら行動する、積極的、能動的な側面を併せもつ青少年観への転換を推進するものとする。画一と受け身から自立と創造へと教育の在り方を転換するとともに、広報啓発を進めるなどにより、能動性を重視した青少年観やそれに基づく育成課題について普及を促進する。  このような「青少年観の転換」など、多くの青少年にとっては、この文面を読んだとしてもまさに「風景」にすぎないことなのかもしれない。  しかし、狛プーという「おうち」で、「自分の意見をもち、自己を表現し、他者を理解し、他者に働きかける」能力を培ってきた狛プー参加者は、きっとそうではないだろう。たとえば、「そんなことなら、狛プーではやってきた」と感じる人もいるかもしれない。  現在、わが国では、「青少年の居場所づくり」が全国で懸命に進められている。しかし、その大部分のところでは、「社会参画能力獲得目標」までをも明確に位置づけた活動には至っていない。そうだとしたら、「能動性を重視した青少年観への転換」にはほど遠い、「保護・教育を受けるだけ」、「画一と受け身」の青少年観にとどまり、「社会のことはあなたまかせ」という傾向を固定化する結果に陥ることさえ危惧される。  すでに述べたように、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎されるサンマ(三間)」、現在では「居場所」と呼ばれている場を、狛プーは先駆的につくりだしてきた。そして、それは、結果として、「社会参画能力獲得支援機能」を効果的に発揮してきた。そこで支援してきた能力獲得を、明確に狛プーの理念、目的として打ち出すよう私は本稿で提言したい。そのことによって、「青少年観の転換」を、もっと確実に、より望ましい方向で実現するための展望を、狛プーとして主体的に社会や青少年政策に対して示すことができると考えるのである。  それは、狛プー自体が全員で同じ社会参画活動をしようとすることではない。ましてや、狛プーに参加するための 条件や資格として、その目的に賛同することを「踏み絵」としようということではけっしてない。なぜなら、目的化するのは、「能力獲得」、言い換えれば「学習」であり、その能力を社会参画活動のために実際に活用するかどうかは、個人の今後の自己決定にまかされるべき性格のものだからである。  そして、そこで獲得される「能力」とは、先にクドバスの表に示したとおり、多くの青年が少なくとも潜在的には「そういう能力なら自分だって身につけたい」と思っていると推察される能力である。この点で、「獲得能力」の明示と目的化は、「青少年の社会参画」を青年の主体的参画によって促進する可能性をもっていると考える。  その実現のため、狛プー参加者自身の手によって次のような作業を進めるよう提言したい。 @ 社会のなかで充実して生きていくために必要と考える能力を、各人が具体的に記述する。 A これをリスト化して、構造的に把握する。 B そこで明示された個々の獲得能力目標を確実に達成するプログラムを作成する。  それぞれの月ごとのプログラムも、設定された獲得能力目標達成に向けて目的意識的に取り組む。また、その達成度も目標が明示されているので、これをもとに的確に評価する。その評価を次のプログラム設定に生かす。  ただし、今までの「明るく、楽しく、刺激的」という狛プーの特徴を失ってしまってはいけない。主体的な目標達成は基本的に楽しいことであり、従来の狛プーの活動プログラムを、参加動機の明確な、よりやる気の出るおもしろいものにするということはあっても、しかめ面をしたつまらないプログラムになるという結果にはつながらないはずである。  そして、最後に、これらの「自分のためにやっている」ともいえる活動自体が、じつは重要な社会参画活動の一環としてとらえられるということを指摘しておきたい。表面的には、自分たちが獲得したい能力を獲得するという活動にすぎないように見えるだろうが、狛プーという場で行われるこれらの活動は、趣味的な同一目的のサークル活動以上の社会的意義をもっていると考えられる。その意義については、すでに述べてきたとおりである。  このようにして、社会参画活動が、「風景」ではなく、ましてや社会や大人の側からの「押しつけ」ではなく、身近で、自然で、やる気の出る、また、やらずにはいられない魅力的な活動として、ほかの青年たちにも広がっていくことを期待したい。