商工会活動から発展した ふるさとの振興と後継者育成 くずう原人まつり 葛生村おこし実行委員会 《概要》 1988年2月、「小規模事業地域活性化事業」(商工会による「むらおこし事業」)として始められた。1951年に葛生町内で発見された「原人の骨」(後に原人ではないことが判明)の話題をうまくとらえ、マスコミにもヒットした。「原人まつり」や原人ドリンク、火起こしセットなどの特産品開発のほか、幅広い住民が町について論じあう「「団・談・暖」(団結、談話、暖まる)などの活動を行っている。  行政の全面的支援を受けながらも、住民や地元企業の参加・協力によって、金銭面を含め、活動の大部分を民間主体でまかなっている。町行政とも連携し、住民参画のもとに古代生活体験村、美術館、伝承館、化石博物館などを実現した。葛生町の合併後も、新佐野市行政と連携しつつ、民間主導で盛大に実施し続けている。  活動のポイントは「人づくり」である。最近では、東京の専門学校などが組織的、継続的に学生のボランティア派遣を行い、葛生の青少年だけでなく、多くの若者が地域活動や人的交流に関する感動体験をしている。 (注:「くずう」の「葛」は本字とは異なるが、ここでは「葛生」と表記する。) 1.「原人まつり」前史〜「よそ者」からの出発〜  キーパーソンの廣瀬正道は、青森出身で、東京のデザイン専門学校を卒業し、28歳の時に葛生で「婿入り」して染色業を受け継いだ。同じ年に商工会青年部や消防団などの地域活動を始めている。@廣瀬は最初から地域活動を当然すべきこととしてとらえていたこと、Aそこで人々と接することによって、廣瀬自身も「育てられてきた」ことに注目したい。これは、団塊の世代の特徴といえるかもしれない。  同時に、廣瀬は当初はいわば「よそ者」であったことも興味深い。この点について、廣瀬は次のように述べている。  地元の皆さんに、「廣瀬さんは地元にしがらみがないからよね」ってよく言われるよね。よそ者っていう意味で。なぜ、そのような言葉になるのかというと、やっばり葛生っていう地域は本当に歴史があるところだから。(石灰関連の)企業人と一般人との違いというのは、殿様と庶民の違いなんですよね。そういうものをずっと味わってきている人がいるということです。そこに私がポッと出て来て(のびのび)活動していると、「葛生にしがらみがないからねえ」という言葉になるのではないかなと思うんです。(地元の人は)ふだんから気を使ってるわけです。その地主様とか庄屋様みたいな人にね。  ところが私は、ほら、(青森から)ポッと出てきて、そういう人ともすぐ友達になっているわけですよ。地元の企業から圧倒的に応援が多いのも、たぶん私がそういう性格だから、何のしがらみもなく「廣瀬君のためなら」になってしまうのかもしれません。地元の人からはよく言われますよ、「あなたは本当に葛生に昔から住んでいる人じゃないからなあ」って。  廣瀬が「よそ者」であったからこそ、地元の企業人とも屈託なく交流し、支援を引き出せたということに注目しておきたい。また、自分と同様の経済活動を行っている商工会青年部の仲間とも、異なる立場の企業人とも、よけいな構えなしに盛んに交信するという廣瀬自身の対人行動パターンも、重要な要素として指摘できる。その後の「原人まつり」においても地元企業との協働が活動の特徴であるが、それは、廣瀬のこのようなパーソナリティに負うところが大きいと考えられる。  その後、廣瀬は、子育てを契機にして、町について「このままではいけない」と考えるようになる。第一に、葛生の石灰を運び出すための「ダンプ街道」が町の真ん中を通っていることが、住民にとっては「優しくない」町であること、第二に、日曜日には「シャッター通り」になってしまう商店街において、家族が暮らせる生計を立てることに不安があるということである。  このことから、廣瀬は、34歳の時、葛生町商工会青年部長として仲間に呼びかけて「朝市」の活動を始める。当時の考え方について、廣瀬は次のように述べている。  青年部といえば、大売り出しとか歳末大売り出しとかで、とにかく利益を追求していくようなところだったのです。私はその頃から、地域活動に入っていくなかで、「私たちは目の前の利益を追求することよりも、回り回って返ってくるような物事の展開をしていかなければ、これからの社会は成り立っていかないのではないか」と考えていました。そのため、「この町はこれで良いのか」ということから始まって、「いや、いけない。何とかして、人々の目線を変えていかなければならない」と思った。その頃は若かったんです。  日曜日にはシャッター通りになっちゃうんですよね。どっちにしたって、店開けておいてもダンプの粉塵で商売のできないようなところですから。そういうことを何とか打破していきたいということで、そういう休みの時を利用して、皆にできるものから立ち上げていこうということで、昭和59年から朝市を始めたわけなんです。どこからか予算をもらうのではなくて、自前でやっていこうという精神は、その辺からできあがってきました。  上の発言から、「原人まつり」前史としての廣瀬の活動の特徴として、以下の3点が指摘できる。 @以前からの地域活動によって、「目先の利益より社会的循環重視」の発想を身につけていた。 A朝市活動によって、周りの仲間と協働すればできることについては、援助を求めるよりも自前でやってしまおうとする態度を身につけた。 B子育て等に影響を与えている自己の生活課題と、商工会青年部の仲間と共通する地域課題とが、魔瀬の活動の中では一体的にとらえられていた。 2.原人まつりの目的と内容〜個人の子育てと地域の次世代育成の一体化〜  原人まつりのテーマは「21世紀の古代ロマン」、目的は「祭を通じてのふるさと発見」、活動の主な内容は「地域の財産再発見」と「人づくりの活性化」である。  その活動の背後にあった廣瀬の思いや立脚点は、彼自身の言葉によると次のとおりである。  今は「市民参画のまちづくり」などといわれていますが、私たちは当時はそう思っていませんでした。私たちのやっていることの意義は、「この町を何とか再活性化したい。この町に住んでいる子どもたちが、この町を思いやれるような人づくりになればよい」というようなことでした。  長い間20年もこの活動をやっていますと、住民から後押しされるようになってくるわけです。今までは、(上の世代の地元の人から)「新しいことはやっちやいかん」と言われてきた。私が婿に入った家の親父は、「お前が来てから新しいことばっかりやるから、俺は怖くて、おっかなくて、どうしようもねえや」って、本当にそう言われました。でも、亡くなる5、6年前からは、「お前はたいしたものだよ」に変わってきたのです。「俺らができなかったことをよくぞやってくれた」と言われるようになりました。亡くなる寸前には、親父とはけっこう良い友達になり、毎晩酒を交わしていたような気がします。私たちがやっていることを、住民たちがいつの間にか後押しをするようになってきたというのは、やっばり私たちが「自分たちの良かれ」ではないものをやってきたからだと思います。  「原人まつり」が町の活性化とともに、次世代育成、町の支え手の育成を目的としていたことに注目したい。また、廣瀬自身については、先述のようにわが子の子育てから端を発し、町の「子どもたち」(廣瀬が「子どもたち」という場合、若者を含めた青少年を指している)全般にその思いが至っていることが特徴的である。そして、その活動は、「親父」との信頼関係づくりにまでつながっている。廣瀬個人の中では、自身の子育て活動や家族関係構築が、「原人まつり」を通した地域の次世代育成と一体化して進められているといえる。廣瀬の発言においては、廣瀬独特の「子どもたち」という言葉遣いと相まって、次のようにそれらが渾然一体となるときもある。  「原人まつり」には、自分の子どもたちが一緒になって参加しているわけです。今は私が実行委員長という立場で一番上にいますけれども、私たちよりも動いているのは、私たちの子どもたちなんです。いつの間にか、彼らが主導になってやっています。子どもたちは、夏の「原人まつり」や今度の「団・談・暖」などをやることによって、汗をかくことを覚え、一緒に働いた友達たちを作り、ふるさとを見つめる力を持つようになる。そうすると、ふるさとから離れても、またふるさとに帰ってくる力を持ってくる。  上の姿勢に基づき、廣瀬自身は、自己の役割をシフトさせていく。現在、彼は「まちづくり葛生株式会社」の社長である。その役割について、彼は次のように述べている。  私たちは「原人まつり」の卒業生や親父という立場です。私たちの役割は、地域づくりの中で、まつりごとから、ハード事業へと変わっていく。それが親父としての役目だと思います。まちづくり株式会社としては、「葛生の里一番館」(「まちの駅」。1階は集合貸店舗、2階は情報交流室)となっています。  また、「原人まつり」を通じて、町長などと毎晩のように話し合っていく中で、美術館、伝承館、化石博物館ができたりしてきたわけです。これらは、行政が立ち上げたものではなくて、「原人まつり」から生まれてきたものです。それを、ハード事業として行政が作ってきた。  一方、「原人まつり」そのものについては、現在でも、合併後の佐野市から予算はいただいていますけれども、3分の2は私たち住民がかき集めています。  「原人まつり」は、後継者育成についてはまったく心配ないということである。廣瀬は、そのためのコツとして、次のように述べている。  一人で頑張り過ぎないで、後継者を育てて、どんどん譲っていくんですよ。そして、先輩は先輩で、ちゃんと次の目標に向かって進んでいく。私は、「こういう行動起こしをする時には、螺旋階段をゆっくり登るときと同じ」ということをよく言うんですよ。後戻りというのはなかなかできない。でも、登るときでも急激に登るのではなくて、螺旋階段には必ず踊り場という休み処があるから、そこでゆっくり休んで、再び上を見つめ直せばよい。それが私の持論です。  「原人まつり」において、廣瀬がキーパーソンであることは確かなのだが、上の発言から、彼の活動は運動体のリーダーとしての個人生活を犠牲にしたパフォーマンス追求とは明らかに異なっているといえる。彼のリーダーシップの特徴として、次の4点を挙げておきたい。  @自己の子育てや家族愛と、地域の次世代育成にかける思いとが、連続体として自然な形で反映されている。  A個人の強固な理念を押し出すというよりも、家族や家業を大切にしながら、無理のない形で、他者と協力して進めている。  B他方、本人自身のものごとに対する興味・関心自体は旺盛で、それが自由奔放に発揮されている。  Cリーダーシップの理念や方法は、他者との交信を盛んに行う中で形成されてきた。 3.まわりから育てられ、自分も人を育てるキーパーソン  今回の調査では、次の仮説を設定して、調査項目を追加した。仮説〔キーパーソンの個人化と社会化の共存的発展が、「学びあい支えあい」による地域活性化を促進する。〕  時期は次の4期に分けた。 T 活動以前:34歳の朝市開始からの4年間 U 活動初期:38歳の原人まつり開始以降1年間 V 活動成長期:39歳からの原人まつり拡大期17年間 W 活動成熟期:56歳のまちづくり葛生株式会社設立時から現在60歳までの5年間  各時期における個人化促進要因5項目、社会化促進要因5項目について、「1:まったくそう思わない」から「5:非常にそう思う」の廣瀬による自己評価を得た。  結果は次のとおりである。T〜W期を通して5点満点の項目は「興味関心が旺盛」、「家族関係が良好」「仲間づくりが旺盛」、「上下関係が良質」。「自己充実を感じた」と「他人との交信が盛ん」は、T期が4であったほかはすべて5。「自分らしさを感じた」、「他人への信頼が高まった」、「社会参画意欲が旺盛」は、すべて4でまあまあ。「対行政関係が良好」は、3→3→5→4。そして、「一人の時間の質が高い」は3→3→3→4と最低であった。  廣瀬は、「自己充実を感じた」については「人づきあいによって」、「興味関心が旺盛」については「知らない土地だから知る」、「自分らしさを感じた」については「自分の考えを見直すこと」、「家族関係が良好」については「両親・夫婦・子どもの後押しがあったからできた」、「上下関係が良質」については「古いものは良いも悪いもよく知る」、「先輩と後輩をつなげたい」、「対行政関係」については「合併後は通りづらくなった」と答えている。  以上の結果から、廣瀬の場合は、自分個人の時間にはあまり重きをおかず、むしろ、対外的に動いているほうが時間の質が高いタイプで、家族や地域の人々に支えられて活動してきたのだと理解される。そして、現在は次世代の地域後継者を育てている。それらはチェーン型、合意形成型で、話し合いや飲み会などによって実現できることから、地域活動にとっては自然で入りやすい形態ともいえよう。  この点では、自己のコンセプトや考え方を実現するため、自己の信念のもとに他者を巻き込んで他者を育てる起業家などとは対照的にとらえられよう。起業家の自己形成モデルが「個人化→社会化→自己の充実」だとすれば、廣瀬のような地域活動家の場合は、「他者との関わり→社会化→自己の充実」というモデルとして理解されると考えたい。 (西村美東士)