癒しと生涯学習 healing in lifelong learning 癒し、個人化、社会化、居場所、集団学習 ●癒しの定義と背景 【癒しの定義】  「癒し」は「癒す」の名詞形。「癒す」とは、病気や傷を治したり、苦痛や飢えなどを和らげたりすることを意味するが、今日、「癒し」という場合は、もっぱら心理的な側面に限られている。「傷ついた心を元に戻すこと」ということができる。 【癒しが求められる背景】  今日の社会においては、個人化、多様化、流動化が進行し、偽装が横行し、格差が拡大している。そのため、教育がこれまで積み上げてきた普遍的な目標や共有すべき価値を、青少年のみならず、多くの人々が疑いの目で見るようになり、生涯学習指導者までもが、これを見失いつつあるといえる。  ギデンズは、近代市民社会の成立による個人の解放とは別の意味での、新しい「個人化」の進行を指摘し、そこでは、個人が社会的帰属集団などとの関係においてではなく、個人それ自体としてとらえられるようになり、個人それ自体が社会や制度を構成する「制度化された個人主義」に至るとした。そして、個人の自己選択が再帰的に求められるこのような社会について、個人のあり方を根本的な不安にさらすことになると指摘した。  以上の状況においては、多くの人々が、並べ立てられた徳目を信じて社会の普遍的目標や共有すべき価値を追求することより、とりあえず個人としての「癒し」を得たいと願うことは当然の結果といえる。 【生涯学習研究からの視点】  現代社会においては、商業的には、グッズや空間による癒しが提供されている。一方、生涯学習研究の視点からは、学習活動やその支援活動のもつ癒し機能が注目される。生涯学習研究においては、現代人の個人としての癒し願望への理解とともに、生涯学習支援理念における癒し機能の提供に関する目標や価値の明確化に努める必要がある。目標や社会的価値を提示しないままでは、責任を持って計画性のある支援を行うことは不可能と考えるからである。  たとえば、青少年研究においては、青少年の個人化傾向だけでなく、「みんな」(ピア:同輩集団)のための過剰な社会化による「みんなぼっち」傾向が指摘されている(富田英典ら、1999年)。人々のこのような状況にあって、癒し機能の発揮を現代人のニーズに迎合するためのものとしてとらえるだけであれば、生涯学習の一面しか見ていないということになる。  「癒し」自体は、心の傷を治してたんに「元に戻ること」を意味する。だが、生涯学習活動においては、たとえば「青少年の居場所づくり」(次代を担う青少年について考える有識者会議、1998年)が提供する癒しは、青少年の自己形成と青少年による社会形成との一体的促進の基盤となることが期待される。このことから、癒しの提供においても、過去の徳目の蒸し返しとしてではなく、個人化に戸惑い、癒しを求める現代人のニーズに対して適合した形で、新たな目標や追求すべき社会的価値を設定する必要があるといえる。 -------------------------------------------------------------------------------- 参考文献 Giddens, A., The Third Way: the Renewal of Social Democracy, Polity Press, 1998. 佐和隆光訳『第三の道―効率と公正の新たな同盟』、日本経済新聞社、1999年 富田英典他『みんなぼっちの世界』、恒星社厚生閣、1999年5月 西村美東士ホームページ http://mito.vs1.jp ●癒しの特徴と効果 【生涯学習における癒しの特徴】  これまで生涯学習研究において扱われてきた癒しに関連する活動としては、集団学習、地域づくり、居場所づくりなどがある。これらの活動には、癒しグッズなどとは異なる共通の特徴が見出される。  集団学習においては、ともに語らい、メンバーの一人一人がもっている自然な持ち味にふれ、心と心を通いあわせることになる。開発途上国の若者たちの姿に心を洗われる思いがするのと同じように、日本の青年教育の現場でも、癒される思いをすることが多い。  地域づくりにおいては、地域の一員として自分ができることはしようとする仲間とともに、共有する目的のために共同の活動を行う。そこには、個人個人が分断された現代社会の一般的状況にはない時間と空間の共有がある。  青少年の居場所においては、一人一人の「問わず語り」が大切に受け止められ、メンバーの間でも、たがいの意思を尊重しあうようになる。そこには、比べられたり、比べたり、あるいは、仲間に無理に協調したりする青少年の一般的な交友関係とは異なる関係性がある。  癒し自体はきわめて個人的な事象であるにもかかわらず、生涯学習の癒しにおいては、個人内完結型の癒しグッズなどとは異なる特徴がある。それは、異質を歓迎する対等な人間交流、頼ったり頼られたりする人間関係、そのことによる自己の存在確認という面で共通しているといえる。 【生涯学習における癒しの効果】  このような生涯学習活動のなかで、学習者は、自他を受容できる自分を見出し、自己決定が迫られ、その決定によって物事が動くということからダイナミズムを感じ、そういう活動を通じて自己成長を自覚し、次のレベルに止揚される。かつて、それらをまとめて、「癒しのサンマ」というものを描いてきた(添付ファイル図1)。生涯学習活動及びその支援は、これまで、このようにして個人と他者、社会を結ぶことによって癒し機能を発揮してきたのだと考えられる。  佐野市生涯学習都市宣言(2007年12月)においては、互いに自分らしさを認めあう「楽習」と、まちづくりへの「参画」が一体的に行われることによる、個人の深まりと市民協働の連動の意義が唱われた(添付ファイル図2)。最近の社会化研究などを見てみると、社会化のプロセスにおいて、たんに自己だけで完結するのではなく、そのなかに他人と関わることや、他人の中に自分を見出すこと、さらには、他人と自己の違いを見つめ直して、自己を深めるという活動のもつ個人化と社会化の一体的な気づき効果が注目される。 -------------------------------------------------------------------------------- 参考文献 『現代青少年に関わる諸問題とその支援理念の変遷−社会化をめぐる青少年問題文献分析』、科学研究費基盤研究C(課題番号17530588)研究成果報告書(研究代表者:西村美東士)、2007年3月 西村美東士『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』、学文社、1997年4月初版、1999年3月増補 ●生涯学習の癒し機能 【緊急避難・原点復帰・人的交流】  生涯学習のもつ癒し機能について、次の3つの側面から整理しておきたい。 (1) エスケープ:緊急避難  心が傷ついた場合、学習に「埋没」したり、自分を受容してくれる場に「逃避」したりすることによって、当面する問題から一時的に逃れることができる。ただし、この場合、直接的な問題解決にはつながらない。また、多くの場合、たとえその学習方法が集合学習であったとしても、個人内完結型の効果にとどまる。 (2) オリジン:原点復帰  癒しが「傷ついた心を元に戻すこと」であるとしても、生涯学習の視点からは、その癒し機能は、心が傷ついていない人、あるいは傷ついても癒されたいと思っていない人にとっても重要と考えられる。 生涯学習においては、ことさら「傷ついたから」ということではなくても、人間のオリジンにふれて癒されたという思いをする機会が多い。本当は人間が持っていなければいけないことについて真剣になって議論する。心の琴線にふれる人やものごととの出会いを体験する。それらのことによって、人間がもともと持っている悲しみや喜びなどの、素朴で素直な人間の原点にふれ、自分自身の懐かしいオリジンに立ち戻ることができる。このような点で、現代社会に生きていて忘れがちな自己の人間としての原点を取り戻し、人間でよかったと思える機会として、生涯学習のもつ癒し機能は重要といえる。 (3) ネットワーク:人的交流  ホスピタリティ(もてなしの心)が、商業的に提供される一方向の癒し機能であるとすれば、生涯学習の癒し機能は、異質な者同士が、共有する目的のために、対等に交流する中で、双方向のホスピタリティを実現するものということができる。かつて、この観点から、ヒエラルキーやピアと対照して、生涯学習のネットワークがもつ関係性、個人的意味、社会的意味について整理した(添付ファイル表1)。そこでの人的交流は、現代社会において重要な癒し機能を提供すると考えられる。 【個人化と社会化の一体的促進効果】  以上のことから、癒しは個人としての充実を促進するとともに、社会化プロセスの前提としての効果をもつと考えられる。これによって、個人化と社会化は連動して促進され、自己形成と社会形成の一体化が現実化されるといえよう。したがって、これらの効果を適切に取り入れることによって、生涯学習支援の内容と方法は一段と進歩すると考えることができる。  そのため、生涯学習支援においては、現代人の癒し願望を、個人化傾向があるからといって直裁に否定するのではなく、かといって、個人化による目標や価値の否定論に迎合するのでもない態度が望まれる。その態度とは、生涯学習が特有にもつ癒し機能を明確化することによって、個人的な癒し願望に対応するとともに、癒しによる個人化と社会化の一体的プロセスにおける達成目標と共有価値を追求しようとする態度である。 -------------------------------------------------------------------------------- 参考文献 西村美東士「ネットワークのつくり方」、赤尾勝巳・山本慶裕編『学びのスタイル−生涯学習入門』、玉川大学出版部、pp.232-252、1996年10月