「松戸市社会教育計画の方向性を探る」 国立市公民館視察報告 西村美東士 聖徳大学生涯学習研究所紀要『生涯学習研究13』(2015年3月)原稿 1 系統的学習を頂点に置いた「三階建論」が未だに生きている  今から50年前、小川利夫は「都市社会教育論の構想」(東京都三多摩社会教育懇談会『三多摩の社会教育T』、1964年)において、1階を体育・レクリェーションまたは社交、2階をグループ・サークルの集団的な学習・文化活動、3階を社会科学や自然科学についての基礎講座や現代史の学習についての系統的学習の拠点とする「公民館三階建論」を提起した。  そこで概念的に頂点の一つに置かれた「政治学習」は、今でも、市民参画によってしきりに講座が開催されていた。もちろん、その基本には「社交の場」(象徴的には「1階」とされる)があり、これについては、1946年の文部次官通達(寺中構想)の言う「公民館は町村民の親睦交友を深め、相互の親睦和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある」と一致するものである。  私は公民館を「住民の自治能力よりも、まずは癒しの場」とし、その条件として、第一に、「自分らしくいられる場」、第二に、公的課題の学習を契機として「社会的役割の遂行を通して社会的承認を得られる場」としたことがある(西村美東士「癒しの公民館−新しき伝統」、全日本社会教育連合会『社会教育』54巻3号、1999年)。  国立市公民館のような「先進的社会教育機関」においては、いわゆる「旧住民」のような保守層をも取り込んだ「社交の場」、「癒しの場」としての機能をどう確保するのか、そして自己完結的な「政治学習」を超えて、「郷土振興の基礎づくり」(前掲「寺中構想」)としての自らの手の届くまちづくり実践にどうつなげるのかが、課題になると感じられた。逆に松戸市の社会教育にあっては、国立市公民館のような突出的であるがゆえの問題は生じないものの、ややもすると地域と人々の仕事や暮らしの切実な課題から離れたなまぬるい学習が行われていて、先進的社会教育機関と同様に、「自らの手の届くまちづくり実践」にはつながらないという問題があると考える。  そこで、ここでは注目すべき国立市公民館の先進的な事例を二つ挙げておきたい。 2 青年室とコーヒーハウス  1975年、国立市公民館は、外に出るドアを青年室に付け、若者に鍵を自主管理させて深夜までのたまり場を提供する。そして、障がい者の経営によるコーヒーハウス「わいが屋」を併設した。当時の専門職員は、そこでの若者のちょっとしたおしゃべりをとらえて(ロビーワークという)「市内でのワサビ田作り」などの活動に発展させた。彼は、「そうした場で出会い、気づき、学び、交流の連鎖が生み出されていくのだ」と言う(平林正夫「たまり場考」、長浜功編『現代社会教育の課題と展望』明石書店、1986 年)。  社会教育の場に若者は来ないと言われる今日でも、青年室はかなりの稼働率を保っている。そのポイントは、いつでもおしゃべり相手(コーヒーハウスのスタッフ)がいること、そしてロビーワークのできる専門職員がいることの2点にあると思われる。その後、盛んに言われるようになった「青少年の居場所」の先駆けともいえるが、自由自在に地域活動に発展する「若者のたまり場」であること、その発展は、専門職員が介在して仕掛けていることの二点では、今の居場所論とは若干意味が異なるものである。   3 母親が託児を主体的に考える  日本で最初に公民館に保育室を設置したのが、国立市公民館である。今では考えられないが、当時は、議会などから、「なんで専業主婦の母親が育児を放棄して、自分のための学習をするのだ」という批判が相次いだ。そのような緊張関係のなかで、当時の専門職員は、「子どもを育て自分を育てる学びの在り方」として、公民館保育室活動の理念・問題意識を提起してきた(伊藤雅子『子どもを育て自分を育てる―国立市公民館「保育室だより」の実践』、未来社、 1985年)。  今でも、母親たちが連絡会を組織し、次のように述べている。「今日、幼い子どもをもつ女性たちがおかれている状況は、少子化対策の煽りを受けて気軽に便利に託児を利用してストレスを発散するよう奨励・誘導されるばかりであり、根源にある問題はそのままに、子どもが障害物視され、ゆがみが増幅されている。子どもを育て、自分を育てる学びの在り方として提起してきた公民館保育室活動の理念・問題意識。その基盤に立って積み重ねられてきた実践からの証言を伝え継ぐ」(くにたち公民館保育室問題連絡会編『学習としての託児』、未来社、2014年)。  子育て支援が、もし、子育て専門機関に依存して自らは「子育てのまちづくり」に関わらないという自己完結型子育て観を増幅させるだけの結果に終わるのだとすれば、わが国は大きな禍根を残すことになるだろう。その点で、「子育て、親育ち」の立場から、「気軽に便利に託児を利用してストレスを発散する」現状に批判の目を向け、出版というかたちで社会に発信する母親たちの視点と志の高さからは、学ぶべき面が多いと考える。   4 社会教育職員の必要能力を「見える化」して、それを満たす人材配置と職員養成・研修を  松戸市の場合、広義の社会教育施設である市民センターなどを見ると、民間会社が指定管理者を請負っているところが多いようである。市民にとっては、そのこと自体を困ったこととは感じていないであろう。しかし、上で述べたような国立市公民館の専門職員の働きかけの成果の大きさを見ると、「だからといって、だれが職員をやってもいい」とは、私は言えなくなる。  公務員であろうが、民間の指定管理者であろうが、市民の自主性を尊重しながらも上手に介在し、社会的主体性をともに育て合って、「市民個人としての充実」を「学び合い、支え合う生涯学習のまちづくり」につなげていくことができるだけの専門的力量を保有している職員が、そこに配置されることこそが、社会教育のカナメになるといえるのである。  国立市公民館では、正規公務員が専門職員として活躍してきた。しかし、松戸市では、違うやり方があってもよいのだろう。とりわけ施設に配置される職員に必要な専門的職業能力を可視化、構造化して、民間の社員であっても、それをクリアする人材を確保すること、このことが切に望まれているのだと考える。  個人化が極度に進行する今日の自己完結型の価値観のなかで、「社交の場」、「癒しの場」としての機能を提供し、さらにはそこから各個人を「自らの手の届くまちづくり実践」という社会開放型の生き方に結び付けていくことは、一見、容易なことではないように見える。そして、それをやり遂げてきた過去の専門職員については、今や、神技のようなスキル、暗黙知(カン・コツ)を持っていたかのように言われることが多い。しかし、そのための専門的能力は分解すれば多くは可視化できるはずである。指定管理者制度の広がりの中で、そのような現実的で科学的な対応こそ求められているのだと言いたい。     1 1