長野雅弘 いじめからは夢を持って逃げましょう! 1,296円 出版社: パンローリング株式会社 (2017/5/14)  長野氏は「楽しくなければ学校じゃない。面白くなければ授業じゃない」、これが子どもが有意義に長い時間を過ごせる「学校の本来の姿」であると言う。これに反して、いじめる子への効果のない指導を平気で繰り返し、ときにはいじめられている子どもを自殺にまで追い詰めてしまう一部の学校を弾劾し、転校を含めた効果的な対処を提唱する。氏は、娘がいじめられている親から相談を受け、一緒にその学校に行き、無意味な指導を繰り返すだけの教頭に、「子どもたちがかわいそうだ」と思わなかったのかと詰め寄る。そして、教頭の目の前で、親にこう言う。「この学校は信用できませんね。これだけのことが起こっていて、長引いていて、まだこういうことをやろう、ああいうことをやろうとしているだけですからね。今まで真面目に対応していなかったことがよくわかりました。こういう事態は小さな芽のうちに摘んでおけば済んだはずです。後手後手でどんどん大きくしてしまったのは学校の責任でもあるので、私だったら転校させます」。氏の言葉には、いじめっ子に反省文を書かせただけで、不登校になったいじめられっ子を登校させ、結局事態を悪化させてしまうような現実無視の教師に対する強い怒りが感じられる。  氏は述べる。いじめは、実は、小さな芽のうちであれば完全に摘み取ることができるが、大きくなってしまってからでは手遅れになる。いじめが大きくなってこじれてしまうのは、大人たちが正しく関与していないからである。事なかれ主義などはその代表例で、いじめが発覚すると、まずは隠蔽しようとする学校が多い。いじめの芽を摘み取るのではなく、隠すほうに時間を費やす。そして、最後は隠しきれずに表面化させてしまう。保護者も、「いじめが起きても、学校側が何とかしてくれる」というのは幻想にすぎない。親が中心となって、しっかり自分の子どもを守らないといけない。そして、もしもいじめが大きくなってしまったときには、大人たちがどんなに頑張っても元に戻すのは困難だから、選択肢としては「夢を持って逃げる」しかなくなる。「大きくなってしまったいじめはなくならない」という前提に立って、いじめにあって苦しんでいるのなら逃げてしまえばいい。そのときの大人の役割は、子どもを上手に逃がす手はずを整えてあげることである。逃げることさえできれば、あとで再起することは難しいことではない。昔に比べて、いじめが多様化している今は、昔ながらの精神論では子どもは救えない。子どもが「逃げたい」と言ったら、手助けしてあげてほしい。自分の子どもを最後まで守れるのは、保護者である親御さんたちだけである。  氏は、塾は学校と比べていじめが少ないことについて、@目的意識が明確、A生徒同士が一緒にいる時間が短い、B学力格差が小さい、C少人数制のため、先生が生徒を完全に把握している、という理由を挙げている。そして、学校はその逆だと言う。  評者は考える。このようないわば「いじめの温床」のような学校教育において、「いじめなどない」と強弁するのは無茶な話だ。それによって、いじめは重大事態に陥っていく。そして、いざことが起こると、建前的な効果のない対応が繰り返される。努力や頑張りが無為に積み重ねられるのだ。この傾向は、今の子どもたちにも感じられる。現実社会では、自己の充実にとって有益である、社会的に有用である、というような「効果」が問われるのに、学校では、主観的な「頑張り」の有無だけが評価基準になりがちである。いじめ解消のための転校も含め、もっと効果があがる対策をとることによって、「楽しくなければ学校じゃない」という「学校の本来の姿」を取り戻せるに違いない。