泉谷閑示 仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える 幻冬舎新書 発売日: 2017/1/28 842円  働くことこそ生きること、何でもいいから仕事を探せという風潮が根強い。しかし、それでは人生は充実しないばかりか、長時間労働で心身ともに蝕まれてしまうだけだ。泉谷氏は、仕事中心の人生から脱し、新しい生きがいを見つける道しるべとして、会社、お金、世の中、他人、出世、生活「のために」生きるのをやめ、心のおもむくままに日常を遊ぶよう勧める。評者は、教職に就く者にとっては、悩ましい本だと思う。しかし、社会的不適応を起こした子どもたちのほうが、「普通の人間」より深い生き方をしていると感じることがあるが、そのヒントが、この本から見つかるかもしれない。  泉谷氏は「生きる意味を問う」という「実存的な問い」を、最も人間的な行為とする。社会的成功や世間的常識などにとらわれず、俯瞰的にこの世の趨勢や人々の在りようを眺めることができた時、人には必ずやこのような「実存的な問い」が立ち現れてくるとし、この問いに苦悩することは、他の生き物にはない「人問ならでは」の行為であり、そこにこそ、人間らしい精神の働きが現れていると言う。  氏は、「生きる意味」を問うことなんて無駄なことだというシニカルな言説によって、「実存的な苦悩」を抱いている人たちは、ますます困惑させられていると言う。氏は、「実存的な苦悩」から抜け出て「生きる意味」をつかむことに成功したクライアントの姿を数多く目撃してきた立場から、諦めない限りにおいて、「実存的な問い」には必ずや出口があるものなので、 このようなニヒリスティック(虚無的)な言説に惑わされてはならないと訴える。  社会的成功や世間的常識などにとらわれず、俯瞰的にこの世の趨勢や人々の在りようを眺めることができた時、人には必ずや「実存的な問い」が立ち現れてくる。この問いに苦悩することは、他の生き物にはない「人問ならでは」の行為であり、そこにこそ、人間らしい精神の働きが現れているというのだ。  また、青年期の危機は、人が社会的存がとなっていこうとする出発点での様々な苦悩、つまり、職業選択や家庭を持とうとすることなど「社会的自己実現」の悩みを指すものだが、中年期の危機の方は、ある程度社会的存在としての役割を果たし、人生の後半に移りゆく地点で湧き上がってくる静かで深い問い、すなわち、「私は果たして私らしく生きてきただろうか?」といった、社会的存在を超えた一個の人間存在としての「実存的な問い」に向き合う苦悩のことだと言う。青年期には重要に思えた「社会的」とか「自己」といったものが、必ずしも真の幸せにはつながらない「執着」の一種に過ぎなかったことを知り、一人の人間として「生きる意味」を問い始めるとし、また、今や青年期においても、そのような「実存的問い」が見られると言う。  氏は、イソップ物語のアリとキリギリスの例を示す。わが国では、サブカルチャーにおいては世界をリードする勢いを持っているが、カルチャーそのものについては十分ではないとし、キリギリスのように、憧れるに耐える文化を生み出すことが、現代の虚無に押し潰されないために求められていると言う。  評者は考える。泉谷氏の言うような文化を求める子どもたちは、少ないだろう。多くの子どもたちはサブカルに走り、教師もそれに対応しなければならない。文化は押しつけでは育たないからだ。しかし、個に応じた指導を考えるならば、生きにくさを感じながらも「実存的問い」や文化を追い求めるタイプの子どもたちに対しても、イソップ物語のアリのような「未来」だけでなく、キリギリスのような「今」の充実のための支援を検討する必要がある。