はじめに  教育は、社会のあらゆる場面で、協働により、価値の伝承と創造を行ってきた。だが、今日、個人化の進行の中で、そのような教育機能の発揮が難しくなっている。とくに若者に関して言えば、個人化社会の中で、自己決定、自己選択が迫られているにも関わらず、社会での自己の位置決めに困難や諦めが生じている。その結果として、社会的な協働とそれによる価値創造が難しくなっているのだ。  本稿では、現代の個人化社会において、若者が学び、つながり、支え合い、個を深めるプロセスを理解するための視点を提起する。その視点とは、個人化と社会化の一体的理解である。このことによって、若者の暮らしと仕事のニーズに根ざした支援が実現できると私は考えている。  ここで個人化社会とは、「社会的規制が緩和され、個人の自己決定が基本となり、その結果への責任は本人に帰せられる社会」としておきたい。個人の自由の範囲は拡大するが、個人の社会化が停滞した場合は、個人間のつながりが薄くなり、社会形成者としての自覚が弱まる危険性を持つ。しかし、本稿では個人化自体は-「時代の必然」としてとらえ、個人化社会を前提にして論を進めることとする。  教育は、目的達成のためのPDCAを回す活動である。ただし、成人教育においては、目標設定から達成度評価まで、指導者と学習者が相互的にこれを行う(アンドラゴジー)。支援は、本人の課題解決を促進する活動である。そのため、個人に対応するなかで、個人に合わせた目標をもっぱら暗黙裡に設定し、価値の伝承とともに価値の創造を行う。教育においても支援においても、学習者の個人としての存在を尊重した上で、指導者と学習者の間や、学習者同士の双方向の交流と協働を進めることが不可欠の条件となる。  過去の青少年育成においては、上に対置される古い考え方が存在していた。これは、個人の存在を社会にとって意義ある存在にさせるための「社会化」に偏重した考え方である。このような考え方では、社会化の必要ばかりがクローズアップされ、関係者は、社会化の不全を嘆いたり、あるいは社会的活動に向かう少数の若者を取り合ったりする結果になりがちである。反面、青少年育成の現場では、新しい考え方に基づく実践が先駆的に行われてきたことにも注目する必要がある。  本稿では、若者との双方向の関与と協働により、価値を創造するための新しい方向を追求することとしたい。新しい方向とは、個人としての若者の存在を重視し、そのうえで教育や支援の目的を明確にし、目的を実現するための目標を設定して、実施、評価、改善に向かうことである。それは、冒頭に述べた個人化社会における若者の困難にも関わらず、その問題意識のもとで価値の創造を目指すということである。 1 教育の自己否定からの脱却を 「学習者主体」の観点から、生涯教育は生涯学習と呼び変えられた。また、居場所において「教育的眼差し」を邪魔者扱いする議論も提起されている。このように、教育に関して、若者の主体性を損ねるものとして認識する「消極的な気分」は根強い。多くの若者も、「(人材育成を含む)教育を受けたい」という意欲は色あせている。  実際、エリート競争から降りることも自由という個人化社会の中では、学校は「教育を受ける場」というより「友達と会える場」という意味で多くの生徒にとって貴重な場になっている。そして、「とても」幸せ(中学生55%、高校生42%)と答える生徒が、過去最高の増加率を示した(『NHK中学生・高校生の生活と意識調査』2012年)。古市憲寿は、同書で、これをゆとり教育の成果と評価し、「スクールカースト」の下位にあっても「下は下で友だちもいるし、そこそこ満足している」と社会学の立場から分析する。そして、「こんなに願い通りにいい子に育っているのに、政治家は教育に対して何をしたいのか」と述べる。  しかし、「いい子であるだけでは幸せにはなれない」社会に出ていき、幸せな生涯を過ごすためには、教育の立場からは、社会のなかで自己発揮するための自我の確立と社会での位置決めを支援する必要があると考える。「思い切り暴れ回りたい」を「まったくない」とする回答が82年19%から、12年69%にまで増加した。親にも反抗せず、仲がよい。80年代に「荒れる学校」で育った現在定年間近の指導者は、このような「多数派生徒」の良さを生かしつつも、協働による価値の伝承と創造のための指導のあり方を追求し、後輩指導者に指導技能の伝承をする必要がある。  過去に「生活・生産・政治」を切り結ぶとして青年教育に注力した関係者は、個人化する若者に対して無力を感じ、青年教育の現場から去って行った。代わりに、社会参画、社会貢献、「新しい公共」を掲げる政策と、これを支持する関係者が登場している。だが、若者の現状に対する本質的理解に欠ける場合、そこでの教育や支援の目的は、ありもしない「健全な社会意識」の存在を前提とする無個性で御都合主義的なものになってしまう。その結果、過去の青年教育と同様に、個人化社会における教育の無力感と自己否定に陥ることは容易に予想できる。  これに対して、本稿では「教育の必要性」及び「指導者の主体性」を追求するというスタンスで論を進めることとする。  オモニ(韓国語で「母親」)にボランティアで日本語を教えている女子学生が、「学んでいるのは私なんです。安易に答えを教えないでください」とオモニに言われ、敬服すると同時に、「教える側の私の主体性はどうなるの」と思ったと記述してしている。  「協働」には、若者と指導者の双方の主体性の発揮と交流が不可欠の条件になる。若者にとって魅力ある主体性、すなわち指導性を発揮する指導方法を追求したい。  それは単純に相手に「寄り添う」ことではない。個人の発展段階(後掲図参照)に応じて、相手の価値観や、ものの見方・考え方に迫る価値を対峙させ、相互関与のなかで協働に至る展望を見出したい。そこでの展望とは、個人差やタイプによる差に応じて、達成可能な目標を立て、実施し、達成度を評価し、改善するという展望である。  とはいえ、われわれは、これとはほど遠い現状に出くわすことが多い。ある県の青少年育成会議の大会で、一般の高校生十数人を壇上に上げ、司会が「フロアにいる人たちは、敵か味方か」と問うたところ、全員が敵の札を上げたことがある。敵か味方かという判断は、優れた本能に基づくものと考えられる。  同時に青少年育成委員にはボランタリーな意思があったはずなのに、一般の若者には理解されていなかったことは、非常に残念な話である。若者の意思に反して「突っ張る」ことでもなく、若者に迎合して「寄り添う」ことでもなく、協働のための目的と展望を示すにはどうしたらよいのか。 2 個人化のなかで苦しむ若者たちの姿  2012 年秋、狛プー(狛江市中央公民館青年教室)では、参加者層の拡大を狙って、狛江市内のフリースクール 「コピエ」の若者メンバーに参加勧誘をして、「人間関係調整ワークショップ」を開いた。コピエは不登校の小学生を対象としているが、主宰のカウンセラー前田さんの考えにより、卒業後も若者が「戻り場」として集まって活動をしている「居場所」である。そこで、狛プーとコピエの協働が始まった。  コピエの参加メンバーの一人K君は、ホームページにおいて、次のように述懐している。「一度人とのつながりが弱くなることを経験すると、その分を取り戻すのはとても難しくなると感じています。相手から理解してもらう難しさ。そして、相手を理解する難しさ。その難しさに絶望して、一度はマンションから飛び降りようとしたこともありました。結局飛べませんでしたが、その後の私を引き止めてくれたのは前田先生とのつながりでした」。  このK君と狛プーの一般の若者との出会いは、双方にプラスの効果を与えた。その一つが、マインドマップを活用した「図解ワークショップ」である(図1)。この日は、K君が発題者として、具体的事例を伴って「友情論」の課題を提起した。このワークでは、講師(筆者)は、問答法等により発題者の問題意識を深掘りする(図右上)。参加者は、質問をしたり、代案(図左上)を出したりする。講師は、議論の発展上にまとめ(図左下「べき論をやめて、気持ちを伝えよう」)を行う。このまとめは、図右上のK君の状況を聞いている途中に、仮の指導目標として念頭に置いたものである。「自分も自分の意見を言いたかっただけなのかも」、「価値観が違うことに気づいた」というK君の発言を受けて、この指導目標をまとめとして提示した。その結果、K君は、「相手にも心があることを自覚する」という認識に至っている。  「人の痛みを知る人になれ」と口では言っても、個人化社会における「正しいことは人の数だけある」という一般的認識を超えた気づきを得させることは難しい。その点で、「個人化のなかで苦しむ若者たち」(「適応している」一般の若者たちについては次章で述べる) にとっては、このようなワークが有効であると考える。  その効果は、どこから生ずるか。それは第一に「多様な者の意見交流」である。「心配なんだけど」とか「勘違いかもしれないけど」といった前置きをつけるという一般青年の提案はたわいないものだ。だが、「相互理解の困難に絶望」するタイプの若者にとって、「なんだ、そんなことでもいいのか」と思えたとしたら、その交流の効果は絶大だ。  また、「相互理解の困難」をすり抜けて生きている一般青年にとっては、これをすり抜けられない者と対面し、交流することが、「人の痛みを知る」ことにつながる。現に、狛プーで毎週K君と接するなかで、一般青年の多くが、K君の他者への細やかな配慮や深い生き方に感銘し、彼を「神」と呼ぶようになった。  現在、就労支援等の必要がある若者に焦点を定めたターゲットアプローチの「居場所づくり」が盛んで、それなりに公的な補助金が支出されている。議会等でも通りがよいのだろう。しかし、このような補助金は、次年度にはどうなるかわからないため、利用者に責任を持った継続的運用がしづらいというマイナス面がある。このことも考え合わせ、公民館などの地域総合施設において、誰でも来れる「ユニバーサルアプローチ」の居場所を開き、「多様な者の意見交流」の促進を図ることが重要であるといえる。  世代間交流についても、このように対等に多様な意見を交流できる場にすることが大切である。その場合、若者にとって魅力ある高齢者とは何かをとらえておく必要がある。  狛プーの「紙芝居教室」では、元失業者という「本物の紙芝居」の高齢な講師をお呼びした。その講師は、参加者に順番に紙芝居をアドリブでやらせ、それにコメントもせず、自分の順番が回ってくるまで、自分のやる紙芝居の予習をしているのであった。若者たちは、その講師の魅力にまいってしまった。意見交流だけでなく、このような本物追求の高齢者の自然体の姿に接するだけでも、大きな効果が期待できる。  また、とくに「苦しむ若者たち」にとっては、たとえば認知症当事者活動をしている高齢者の話などが、良薬(または毒薬)になる。そこでは、「絶望の淵をさまよったことがある者としての共通点」とともに、そういった宿命を受け入れて、社会的活動に向かう者の「意地」とでもいうべき生き方に衝撃を受けるのである。ただし、これは、認知症患者の家族が今のところいない若者にとっては、指導者の適切な介在なしには、「ただの暗い話」、「社会に関心がない自分にとっては、無縁の話」と受け止められかねないので注意が必要である。  第二に、意見交流を深化させるインタビュアーが必要である。これは、問わず語りを誘発する指導者の役割といってもよい。すでに述べたように、そこには指導目標があり、それが結果として、ワークで若者が出した成果の方向と一致していることが重要になる。図解ワークショップ全体としては、「多様な者との意見交流」という一般目標(GIO= general instructive objective)があり、到達度の評価は難しいが、参加者の支持を得ておく必要がある。これに対して指導目標のほうは、到達目標(SBO= specific behavioral objective)に類するものであり、本ワークの場合は途中で設定したとはいえ、指導者は、その目標に対するワークの到達度を評価し、改善に結びつける必要がある。  そのほか、みんなで同じ質問項目に答えていく「自己相対視ワーク」では、職場に「いい人」がいなかったらどうするかという質問に、「仕事を辞める」で一致したこと、これを半年後に振り返る「自己客観視ワーク」では、「自分は組織の歯車」と答えたK君が、「歯車ではなくパーツだと思うようになった」と発言したことなど、注目すべき成果が示された。これらの詳細については私のホームページを参照されたい。  ここで、いわゆるニートに対象を絞った量的調査を見ておこう。NPO法人育て上げネット『若年無業者白書2014-2015』(n=2,367人)によれば、「大卒後正規職で働いていたが、仕事でつまずき退職した後、次の就労に踏み出せないまま無業期間が長期化している」若者については、正規職歴のある他の層が「PCを習いたい」を強く希望しているのに対して、「自分に合う仕事をしたい」「働ける自信をつけたい」を希望(6割強)している。性格については、「対人関係が苦手」(4割強)よりも、「よく真面目だねと言われる」、「考えすぎてしまう」という回答(6割前後)が目立つ。  彼らは学校では優等生といわれた時期があったが、社会に出てから個人化と社会化との接続の面での困難という象徴的な課題に直面したものと推察される。若者の中途退職については、レジリエンス(耐性)の欠如の問題として評論されることが多いが、彼らの「真面目さ」や「考えすぎ」に対して、一般青年の先述のようなたわいない「すり抜けスキル」と交流させてみることのほうが先決なのではないか。  それにしても、個人化のなかで苦しむ若者たちの課題は根深く、短時間では解決できない。K君も、中間的就労支援で仕事をしていて、彼がまだ若いからであろう、パートのおばさんたちから指示を仰がれるのが今でも辛いと言う。また、ほかの若者は、「個人化社会は若者に自己決定権を与える」という話に対して、「世の中に出たら、むしろ土砂降りだった」と言う。狛プーやコピエは、エンカウンターグループの考え方でいえば、危険な現実社会から隔離された安全地帯としての「文化的孤島」であることに意味があり、さらには、それは現実社会での適応を目指すものとして存在価値があるといえる。  同時に、彼らは個人化社会の与える自由を自ら放棄しようとはしないという点でも特徴的である。この点については、次に述べる一般青年より「かたくな」かもしれない。だからこそ、個人化社会では彼ら自身の責任に帰され、社会のせいにできずに苦しむことになる。だが、指導者は、そういう彼らを決して否定すべきではない。むしろ、「文化的孤島」を「戻り場」として持続させて彼らに提供することこそ、われわれの責任というべきであろう。  コピエのある若者に、「仕事をしようと思っているの?」と聞いたところ、「絶対しようと思っていますよ」と言うので、「そうか、仕事はしたいんだ」と私が言ったら、「絶対したくないです」と言う。よく聞いたら、親を心配させないために仕事に就かなきゃいけないと思って苦しんでいるということであった。言葉の使い方が正確であることに私は驚いた。  そこまでして彼らを「就職は苦役だが、就職していない自分は親不孝」という葛藤に追い込む社会通念を私は残酷だと思う。「どこが自己決定の尊重される個人化社会なのだ」と言いたい。  個人化が時代の必然だとしたら、教育は、どんな理由でもいいから「仕事をしたい」という自己決定を促す役割を果たすものでありたい。 3 「適応している」一般の若者たちの姿  それでは一般青年については、われわれはどう考えればよいのか。「こんなに願い通りにいい子に育っているのに、教育に対して何をしたいのか」という古市の言葉をどう受け止めればよいのか。  私は、1%の不登校者がもつ「学校に行きたくない」という気持ちは、99%の一般の子どもたちの気持ちのなかに1%ずつ存在するとして、これを「1%の真実」と呼んだことがある。この点は、一般の若者たちに対する教育や支援の必要性の根拠になるといえよう。だが、かと言って、「絶望の淵をさまよい克服した者」のような劇的な気づきを一般青年に求めるのは酷であろう。適応者には適応者なりの教育や支援の課題があると考える。  本誌2014年2月号自著「この20年に若者の意識・生活・考え方はどう変化したか」で紹介したとおり、われわれの調査では、「友達と意見が合わなかったときには、納得がいくまで話し合いをする」タイプ)が、10年前には半分だったのが、2012年には、3分の1近くにまで減っている。逆に言えば「すり抜けタイプ」が多数派になりつつあるといえよう。  今や多数派の特徴の一つは、「不相応な夢を持たない」ということである。また、職業に関しては、「処遇が伴わないのに、人を動かす責任ある地位には就きたくない」と言う。  そして、友人関係については、「とことん話し合わなくても、一緒にご飯に行ける子がいればよい」とも言う。あえて自分との異なりに配慮することはしないし、配慮してもらう必要もないと言うのだ。そのことによって、「いまは楽しい、幸せ」という状況が一応確保できているのだと考えられる。  逆に、社会的活動をしている女子高校生が、「みなさんは高校生の味方になるつもりがあるのですか」と50人程度の初対面の大人の関係者を前にして堂々と責め立てている場に出くわして、ぞっとしたことがある。活動的な若者を、大人がよってたかって甘やかしてダメにしている面があることを指摘しておきたい。  さて、不透明社会、不安社会をうまく泳いでいる「すり抜けタイプ」が多いなかで、「本当の自分はいったい何なのか」という問いをもつ若者もいる。  そういう若者を疎外する今日の若者の「ヤンキー化」を指摘しておきたい。これは、「理論は熱の前に敗れ去る」といった理念のもと、理屈を嫌い、家族や仲間の「気合い」や「絆」を大切にするという「文化」である。コミュニケーションも、お笑い芸人のように達者で、自信をもって生きている(斎藤環『ヤンキー化する日本』2014年)。ある意味で、適応的な社会化の姿といえよう。ただし、斎藤は、「公共」概念とセットで「個人主義」を再インストールするよう提言する。  そして、個人化のなかで、自己と真摯に向き合おうとする若者は、「ヤンキー化」した仲間のなかでは、疎外されがちである。教育においては、ヤンキー化という一種の社会化過程(このこと自体は排除できるものではないが)よりも、自己内対話という一種の個人化過程にこそ注目すべきだと考える。 4 若者とのコラボレーションの姿  ある学生がワークショップ型授業で、「今、何か考えがまとまりそうと思っているときに別のことを言われてわからなくなったりした」と書いている。(自著「ワークショップ型授業の構成要素とその効果」『大学教育学会誌』2000年)  これはアクティブラーニングの本末転倒な結果を示している。われわれは、 安易な集団主義を乗り越え、自己内対話を経た個人の自己発揮によって協働への流れをつくることが求められる。  そのためには、若者の依存傾向やヤンキー化の流れに抗し、「寄り添う」とは正反対の「衝突と止揚」を追求する必要がある。これが私がイメージする若者とのコラボレーションの姿である。  次に人材育成の場について述べておきたい。森和夫の開発した職業能力開発手法クドバス(Curriculum Development Based on Vocational Ability Structure)では、人格や資質に関わる事項は省いて、ラダー(階段)ごとの必要能力を示し、達成目標を構造的に明示する。  なお、ここで必要なのは、ロジャー・ハートの示したような「参画形態に関するラダー」ではなく、「それぞれの職層等に必要な能力に関するラダー」である。そこでは、分解された各能力が、到達度評価が可能な教育目標としての具体的な記述をもって示される。  多くの職場で、このようなラダーが示されておらず、断片的な職層に対する研修や、人格・素質・精神論ばかりの講話に終始していると思われる。こういう状態では、若者にキャリアアップの展望を主体的に持たせようとしても難しい。衝突以前の問題といえよう。 5 個人化と社会化の一体的支援を  図2で「即自」とは、自分自身で感じたまま対処する状態である。個人は、ここから出発し、「対自」において、自分自身を見つめて、問題をどう解決するかを考えるようになり、やがて、「対他」において、他者との関わりを考えるようになり、対社会に発展する。そのことが、社会における自己の適正な位置づけにつながり、社会形成者として必要な能力を獲得することになる。  このスパイラル自体は連続的なプロセスであるが、本図を個人化支援の視点(右側)のみから見た場合は、ついたての裏は見えず、個人化プロセスに戻ってきたときだけ、その成長を「自己の充実」(人格の完成)の側面から見ることができる。社会化支援の視点(左側)のみから見た場合は、逆に、個人の自己への関心と自己受容のレベルアップの様子を見ることはできないが、共存から共有への社会形成者としてのレベルアップの側面から見ることができる。これらのいわば「断続的観察」が、図に示したようなスパイラルとしての理解により、「連続的観察」ができるようになると考えたい。(自著「個人化の進展に対応した新しい社会形成者の育成―キャリア教育及び青年教育研究の視点から」『日本生涯教育学会年報』2012年)  エリート層の自己実現を頂点とするマズローのヒエラルキーから抜け出し、図のような寛大さで支援を進めるほうが柔軟性に富んでいて、かつ、生涯学習の精神を実現することになるだろう。今日の個人化社会は図3の第一象限のように自立して社会に参画する個人を求めている。しかし、生涯学習研究はマクロすぎて、個性の側面に無頓着だった。臨床心理学はミクロすぎて、課題を横つなぎできなかった。そして、若者自立支援政策は個人化と社会化のあいだをぶれ続け、政策の進展は滞ってきた。これを解決できるのは、時代、対象、価値観の変化に対応する「現場力」(臨床の知)である。そのためにまず、個への対応と集団への対応の両者の実践と研究のコラボを進めたい。 6 今後の課題  私は平成26〜28年度放送大学教育振興会助成研究「キャリア教育のための暗黙知教材の開発」を行い、そこで得た暗黙知インタビューの方法論をもとに、平成28〜30年度科研費基盤研究(C)「個人化する若者に対する社会化支援における暗黙知の解明」を進めている。  本研究によって、本稿で述べた「仮説」の妥当性を、次の方法で検証したいと考えている。  第一に、若者支援のベテランの動画を切り刻んで、ベテラン本人に、各場面での行動の理由、判断基準、異なるケースをインタビューする(これを「暗黙知インタビュー」と呼ぶ)。そこで可視化されたカン、コツ、暗黙知から共通の法則性を見出し、これまで述べてきた「仮説」との一致点を導き出す。  第二に、量的調査と多変量解析により、若者の類型ごとのニーズと「仮説」との一致点を導き出す。    私は、今や一般部局のほとんどの行政職員が、生涯学習について、「知っている」と見ている。しかし、「じつは誰も知らない」とも見ている。生涯学習は自主性、自発性に基づく、個人の自己決定に基づく活動である。それはみんなが知っている。  だが、本稿で述べてきたように、個人化社会が求める個人と、その自己決定能力は、どのようにしたら育つのだろうか。これはまだ誰も知らない。  青年関連行政が数値目標などをあげて、参加者を増やそうとしているが、それは「目標」ではあっても「目的」ではない。  大きな目的の一つは、個人化社会における自己決定能力そのものを養うことであり、これを若者の社会化と一体的に行うことである。そこには、きわめて高い教育的、専門的見識が要求されるのである。 1