野矢 茂樹 (著) 大人のための国語ゼミ 出版社: 山川出版社 2017/8/1 ¥ 1,944  この本は、「こんな悩みをお持ちの方」に呼びかける。相手にきちんと伝わるように話せない。文章を読んでも、素早く的確にその内容が捉えられない。分かりやすい文章が書けない。質問に対して的確に答えられない。議論をしていても話があちこちに飛んで進まない。言われたことに納得できないのだけれどうまく反論できない。  評者は今日しきりと叫ばれる若者のコミュニケーション力不足の問題を思い出す。しかし、それは上に述べたような意味で、大人も同様だ。  野矢氏は「大人のため」の意味を次のように説明する。かつて国語の教科書は鑑賞の対象になるような文章を集めた名文選だった。そしてその性格はいまでも残っている。しかし、この本で私が求めているのは名文ではないし、名文を鑑賞する力でもない。文筆を生業としている人たちの文章は、いわばステージ衣装を着て私たちの前に現れる。他方、本書が扱うのは普段着の文章である。きちんと伝えられる文章を書き、話す力、そしてそれを的確に理解する力、私たちはそんな国語力を鍛えなければならない。  そのために、問題文は氏が作成した。読むというより、問題を考えながら進めるため、問題と解答が同じ見開きページには入らないようにしてある。そして、それを楽しんでもらいたい、役に立つことをめざした本ではあるが、楽しくなければ続かないし、力にはならないと氏は言う。  さらに、次のように言う。国語力はいくら解説を読んでも鍛えられない。泳ぎ方の解説を読むだけでは泳げるようにならないのと同じである。実際に問題に向かってみなければどうしようもない。とはいえ、ふつうの問題集のように、世に出まわっている実際の評論文や解説文を使うことはしていない。そうした文章のけっこうな割合が、あまりよい文章とは言えなかったり、エッセイ的で要領を得なかったり、あるいは複雑な構造をもっていたりする。いきなりこうした文章に立ち向かうのは、泳ぎが苦手な人が海に放り込まれるようなものである。やはり、まずはプールで、つまり学ぶべきことのポイントが明確で、よけいな要素があまり入っていない文章、実用性の高い文章で、練習しなければいけない。  そのため、この本は、事実の多面性、接続詞の使い方、文章の幹と枝葉を分け、大切なことを見抜くこと、強い根拠と弱い根拠、質問の力、反論し議論を育てていく力などについて、問題形式で編集されている。  野田氏は、最後に次のように言う。「分かりあう」ということは二つのことから成っている。理解することと、納得すること。それぞれ、私から相手へと相手から私へという二つの方向があるから、合計四つと言うべきかもしれない。私が相手の言うことを理解する、相手が私の言うことを理解する、私が相手の言うことに納得する、相手が私の言うことに納得する。納得するためには理解しなければならない。しかし、理解できたからといって納得できるとはかぎらない。言っていることの意味は理解するが、同意はできないということも、ごくふつうにあるだろう。  理解しあうことも難しいが、納得しあうことはもっと難しい。また、みんなが完全に納得しあうことが望ましいというわけでもない。全員がどんなことについても同じ考えに同意するなどという方がよほどおかしいのであって、さまざまな考えがあるというのは健全なことである。だがこれも、「考えは人それぞれ」でおしまいにするわけにはいかない。合意を形成しなければ一緒に何ごとかを為すことができない場合も多い。考えの多様性を尊重しながら、なお歩み寄る努力が求められる。  さらに、「考えは人それぞれ」で終わらせてしまうと、自分の考えを深めることも、改善することもできない。また、新しい考えに気づかされるということもなくなってしまう。だから、難しいことではあるけれども、自分の考えに納得してくれない他人やあなたが納得できない意見を言う他人が現れたとき、そこでお互いを切り離してしまうのではなく、納得しあおうと努力しなければいけない。そして、少しでも納得しあえる方向に進んだならば、それはとても喜ばしいことだ。  本文中にも書いたことだが、ここには負のスパイラルと正のスパイラルがある。言葉の力が不足していると、分かりあおうとするのもたいへんで、すぐに諦めてしまう。すぐに諦めてしまうから、国語力も育たない。こうして負のスパイラルに陥る。他方、分かりあおうとする強い気持ちをもち、そこで言葉の力を身につけると、分かりあおうとする努力がその分だけ楽になる。楽になれば、もっと分かりあおうと努力するようになる。そうすればそれによって国語力も鍛えられていく。こうして正のスパイラルに入っていく。負のスパイラルに落ちずに正のスパイラルに向かう。最初はちょっとしたきっかけだろう。そのきっかけを与えること。正のスパイラルに向けて少し背中を押してあげること。それが国語ゼミの狙いだった。  評者は、このような実用性志向は、大人だけでなく、今の若者にとっても親和性があると感じる。「あまりよい文章とは言えなかったり、エッセイ的で要領を得なかったり、あるいは複雑な構造をもっていたりする。いきなりこうした文章に立ち向かうのは、泳ぎが苦手な人が海に放り込まれるようなものである」という現状は、多くの若者にとって残酷であろう。生徒にとっても、「まずはプールで、つまり学ぶべきことのポイントが明確で、よけいな要素があまり入っていない文章、実用性の高い文章で、練習」することが国語を学ぶ楽しさにつながるのではないか。  また、分かりあうことなどできないとか、考えは人それぞれとかいうことを認めた上で、言葉の力の支えによって分かりあおうとするよう提唱する氏の言葉は、上と同様、つながり志向を持ちつつ、個人化社会を生きる今の若者の心にすんなり入っていくような気がする。学校の国語も、大人の国語と同様、有用かつ楽しいものでありたい。