萩原建次郎 居場所 − 生の回復と充溢のトポス 出版社: 春風社 発売日: 2018/3/9 ¥ 2,500  萩原氏は、一九九七年に起こった神戸連続児童殺傷事件を起こした少年が「犯行声明文」に書いた、「透明な存在としてのボク」という「実存的な悩み」に共感する子どもや若者が存在していたことに注目する。自己の存在感が質感・量感ともに無化している状況が、子ども・若者の世界で静かに進行していることを予感させるとし、現在の居場所をめぐる問題は、数量的データで可視的に説明しようとすると「すり抜けてしまう」次元にきていると指摘する。今では彼ら一人一人の存在理由や根拠は何かという存在論の次元、意味の世界からそれを問わざるを得なくなってきていると言う。  「学童保育は単なる子どもの居場所であればいいのか」という疑問から、子どもの「成長を促す教育の場」としての学童保育の意義を追求する。放課後子ども教室の取り組みに対して、「心の拠り所となる『居場所』としての機能だけではなく」、遊びを通して子どもの生きる力をはぐくむ場としての意義を追求する。これらの傾向に対して、氏は、子どもにとっての居場所が、意図的操作的なまなざしに満ちた教育的空間からの子どもたちの生の「逸脱」、あるいは「逃走」であったという歴史的・社会的な意味や経緯を無視して、教育的空間へと再統合し、暗黙のうちに教育言説へと回収してしまうという構図が透けて見えてくると批判する。「子どもの遊び」をめぐる議論でも、「遊びのもつ教育的意味」といったように、「遊び」という生の営みが教育言説へ回収され、子どもの「発達への応用可能性」や「教育的効果」として扱われる。そこでは、遊びそれ自体が子どもの生にとっていかなる経験をもたらしているのかという視座が十分に考慮されていないのではないかと危惧する。  神戸連続児童殺傷事件から二〇年以上たった今、評者は、多くの若者が「リア充」を志向し、「実存的な悩み」から「すり抜けて」しまっているように思う。ぼっち、中二病、メンヘラ、コミュ障などと見られることを極度に恐れる。だが、彼らのリア充志向は「共存の作法」としては有効であっても、「生の回復と充溢」にはつながらない。このとき、「心の居場所」の一つとしての教育の役割は大きい。そこには、個人としてか、社会人としてかを超えて、充実して生きるプロセスをたどるための「第3の支援」が存在すると考える。そこでは、能力獲得目標の設定及びその到達度評価は行わないが、総括目標の設定と個々人への効果測定及び事業評価は行われるべきものと考える。肩を押してくれる、見守ってくれる、話を聞いてくれるなどの居場所的な支援が、教師の創意工夫によってどのように行われているか。これを評価し、交流・蓄積することが求められているといえよう。