安藤寿康 なぜヒトは学ぶのか-教育を生物学的に考える 講談社現代新書 2018/9/19  筆者は、一部の遺伝的に適合したホンモノの優等生を除いて、多くの国民が学校教育に対して、人類知の総体に触れる感動とそこから得られる実際的なご利益への感謝とは正反対の、うんざりした気持ちや逃げ出したい気持ちになっていると述べ、次のような教育の通説に疑問を投げかけている。「中学・高校での学習は将来、大人になって、いろいろな社会経験を積むことによって、これらの知識の意味がわかるようになったとき、振り返って知識のありかを改めて本当に求めるための手がかりとして、そのアウトラインに、表面的ではあっても触れておくことが目指されている」、「できる、できないに関わりなく、何かを達成するために努力する態度を学ぶことが重要」。そして、ヒトの学習は経済活動と同じで、資源(時間的・物理的・能力的資源)の有限性の制約を受けているが、教育の議論では、それらがあたかも無限であるかのごとく見積もられ、それがあたりまえのようにみなされていることについて、「これは錬金術の夢を追いつづけているとしか言いようがない」としている。  その上で、動物行動学者である力口とハウザーという研究者が1992年に唱えた学習の定義を掲げる。それは、「すでに知識や技能を持つ個体が、目の前にその知識や技能を持たない学習者がいるときに特別に行う利他的(他者に利益を与えること)な行動によって、その学習者に学習が生じること」というものである。筆者は、教育の機能的定義と呼ばれるこの定義について、教育について科学的に考えるときに発揮する切れ味は、これまでに見聞きした文科系のいかなる深遠な教育に関する定義や目的の議論よりも鋭いと思わされるとしている。  本書第1章「教育の進化学」においては、動物にとっての「学習」は「経験による行動の持続的変化」であること、利他性あるいは利他的行動は動物界、とくに霊長類に広く行き渡った重要な生物学的特質であること、そして、知識をわざわざ他者に学習してもらおうと手助けする教育という行動を、コストがかかるのに行うことも、血縁者でもない個体に対する利他性、すなわち「互恵的利他主義」に基づくものと理解されることを説明する。  第2章「人間は教育する動物である」においては、小さいうちから子どもは、他者から何かを教わる能力を持っていると同時に、他者に何かを教えようとする能力も持っていること、ヒトはおそらく生物学的に「公的」な世界を意識し、「私的」な世界との折り合いをつけようとする動物なのではないかと推察されることを説明する。↓  第3章「個人差と遺伝の関係」においては、行動遺伝学のエビデンスから、学業成績について、教育や本人の中で変えられる要因の違いの影響は2割弱で、あとは遺伝の影響が5割、家庭環境の違いが3割だという。しかし、ヒトは、自分一人だけで行う個体学習や、ヒトのふりを真似する観察学習だけでは、生きるための知識を十分に学ぶことができないため、教育を受けなくても、勉強しなくても、学力が勝手に身につくということではないと言う。  教育とは決して他人よりもよい成績をとろうと競い合うためでなく、また自分自身の楽しみを追求するためでもなく、むしろ他の人たちと知識を通じてつながりあうためにある。その意味で、ヒトは進化的に、生物学的に、教育で生きる動物なのだと言う。  筆者は、教育学者の中には、逆に学校教育を批判し、学校というキーワードではなく「人間形成」のような視点から教育を考えようとする見解について、「個体学習」や他者のふるまいを見て学ぶ「観察学習」(これらはヒト以外の動物でも行っている学習の様式)と、ここで強調するヒト特有の「教育(による)学習」との区別ができていないと批判する。そして、ひとまず学校というものが教育の一つの正統な場であることは認めざるを得ないとした上で、「問題は学校と学校外の教育による学習をつなぐ理論やしくみがないということだ」と指摘する。  評者は考える。われわれ教育関係者も、親や子の表層的ニーズに接すると、ついそれに振り回され、「8割方どうにもならない」はずの学業成績だけに追い回される結果になりがちである。しかし、本当の教育の目的は、利他的行動や社会形成のための能力を育成することではないか。われわれは、学校外教育等、視野を横にも広げ、生徒の卒業後の充実等、視野を縦にも広げるような生涯教育の考え方を取り入れる必要があるといえよう。