苫野一徳 (著) 「学校」をつくり直す 河出新書 2019/3/19  苫野氏は、「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」のまま続いてきた学校を批判し、次の方法を提言する。@「学びをもっと遊び(探究)に」(受け身の我慢ではなく、能動的忍耐力を。「言われたことを言われた通りに」から、「自分なりの問いを立て、自分なりの答えを見つけ出す」へ。教師は“共同探究者"、そして子どもたちに“学校づくりのオーナーシップ"を)。A「みんな一緒」をやめる(時間割もテストも、一人一人別々にという「学びの個人化」とともに、人の力を借りる、人に力を貸すという「学びの協同化、プロジェクト化」を)。同質性の高い子どもたちがひとところに集まって、先生の授業を受けるのがメインの時代は、すでに終わりを迎えつつあると言う。  小一プロブレムについては、子どもたちを規律正しくしているように見えて、命令されたことしかできない「無力な存在」にしてしまっていることこそ問題だと言う。ユニバーサルデザインについては、過剰な統率、統一によって苦しめられている子どもや教師がたくさんいると言う。スタンダード、エビデンスについては、「一般化のワナ」の危険性を指摘し、教育政策決定における「哲学」の不在に警鐘を鳴らす。また、その指示通りに仕事をしたいと言う新人教員に苦言を呈する。学力中間層に絞って平均点を上げるなどの「学力対策」を批判する。そして、そんな「対策」ばかりに汲々としている子どもや先生たちは幸せなのかと問う。競争だけが私たちの人生ではないはずとして、より実りある学習環境は、「ゆるやかな協同性」に支えられた中で、そして安全安心の空間の中で、それぞれがそれぞれの学びを進められるところにあるはずだと言う。  そして、それよりも、「なぜやるのか」という「目的」を考えることが大切だと言う。その教育の目的とは、「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」になるための力を育むことだと言う。いい会社に入れば幸せになれるという「神話」が信じられない時代になり、「今、自分はどう生きれば幸せなのか」、「自由になれるのか」、「それはどうすれば可能なのか」という問いを立て、答えを見つけていく必要があると言うのだ。  「探求型の学び」とは、探究テーマを発見・選択し、浸り切り、テーマに関する「問い」を立て、「問い」を解くための方法を考え出し、実行し、探究の成果を持ち寄り、交換し、学び合うことであり、そのステップを行きつ戻りつしながら進んで行くことだと言う。そして、この「探求型の学び」を妨害するのが、学校や親の「とりあえず、あれもこれも勉強しておきなさい」という言葉だと言う。そのため、学校教育の目的は基礎・基本を教えることだという考え方にも異議を唱える。文科省の報告書が「人材育成」という用語を取り入れたことについては、疑義を呈し、経済界からの要請ではなく、公教育の本質は何かという哲学原理を根底に置くよう主張しているが、同時に「探究を核に」という提言自体は歓迎すべきとしている。  テスト、無言清掃、運動会、校則、起立・礼・着席など、ただ慣習に従ってさまざまな「方法」が続けられているとして、「そもそも」「一体何のためにあるのか」という目的を常に考え直す必要があると言う。  苫野氏は、安全安心と相互信頼の関係づくりについては、肝心の休み時間、遊び時間が切り詰められていると言う。自由を奪う「クラス全員遊び」などではなく、オランダのイエナプラン教育においてみんなが輪になって自由に話し合う「サークル対話」を、相互受容や相互信頼のコミュニケーションの機会として提案する。  教員免許状更新制については、教員の私費負担を廃するとともに、もっと自由な探究の機会と時間を保障するよう訴えている。そして、行内研修等で対話を通して互いの根っこを掘り下げていけば、「これからも一斉授業を貫く」という先生も、「個別化・協同化・プロジェクト化」に取り組む先生を全否定することはなくなるかもしれないと言う。そして、「そもそもこれは何のため?」という対話を、先生同士だけでなく、子どもたちと一緒に行なって、未来の市民社会の担い手に対して、学校を共に作り合う経験を通して、社会を共に作り合うとはどういうことかを学ぶよう提言する。  教員養成についても、「決められたことを決められた通りに学ぶ」システムによって、「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で学ぶ」ための方法を教えているとして、養成の現状を批判する。勉強はやらされるものというマインドから早い段階で学生を卒業させ、プロジェクト化によって「探求型」の学びをさせるよう提案する。SNSについても、仲間内のコミュニケーションツールとしてだけ使うのではなく、広く最新の教育情報を入手し、自分の考えを発信することによって、同じ問題意識を持った人たちとつながるよう提案する。それによって、同質性の高い教育学部や教育界の中では考えられなかったような発想を得たり、ネットワークを広げたりできるかもしれないと言うのだ。  最後に、教育改革について、苫野氏は、「AIに仕事が奪われる」「日本経済が沈没する」などの危機意識、不安や恐怖の共有は、改革当初には必要だが、ある時期からは「ワクワク」ペースに変えていく必要があると言う。人は不安や恐怖ではなく、ワクワク感、喜びによって動くと言うのだ。そのため、「こんな教育が実現したら、子どもも親も先生も、もっとワクワクする未来を作ることができるはず」と訴えるべきだと言う。  評者は考える。今後の若者、とくに教職に就く若者が、「言われたことを言われた通りに」という受け身の姿勢から、「自分はどう生きたいのか」という姿勢に転換し、これに基づいてのびのびと探究を楽しめるようにすることこそ、スタンダードやエビデンスの前提として必要なのだろう。