加藤諦三(著) どんなことからも立ち直れる人 −逆境をはね返す力「レジリエンス」の獲得法− PHP新書 2019/11/16 ¥1,012  著者の若者論は、過去には、多くの若者に生き方の指針を与えてきた。本書は、逆境での回復力を意味する「レジリエンス」について、親や教師の愛や支配ではなく、自らの力で獲得するものと主張している。これは教育学が重視する主体性の本質をとらえる上での重要な指摘だと評者は考える。本人の主体性の獲得を抜きにした教条的な自己肯定感重視論の安易な流布が、深い人間理解を妨げると評者は危惧しているからだ。著者は、次のように言う。自分で自分の存在を確認できないで、自己同一性を他者に確認してもらうような人は、レジリエンスを身につけられない。他者から「あなたは素晴らしい」と言われて「私は素晴らしい」と思える、「私は生きている」と思える、他者から認められて自我の確認ができるという人は、どうしてもレジリエンスのない人にならざるをえない。それは、「自分自身が自分の内容となることができない」からだ。  他者を支えるとは、たとえば相談の場面では、どういうことか。著者は言う。レジリエンスのない人は悩み相談という形で相手に絡んでいるだけである。相談というかたちで、相手と関係を持とうとしているのである。周囲の人も最初は相談に乗るが、次第に嫌気がさして逃げ出す。自分が困ったときに、この困難は誰に関係があるわけでもなく、自分自身にだけ関係があるのだと理解できている人がいる。それはレジリエンスのある人である。そういう人にはそれに真剣に相談に乗る人も出てくる。そういう自己中心的でない人だからこそ、それを助ける人もあらわれる。悩んでいる人はよく「誰も私を助けてくれない」と、周囲の人を非難する。周囲の人から始まって人間一般を非難する。しかし自分が周囲の人をそのように追いやってしまっているということには気がつかない。悩んでいる人は、自分は相手が嫌がることをしているのだというようには理解できない。  著者は言う。子どもが「学校に行きたくない」と言ったとき、レジリエンスのない親はすごいことが起きたと思ってしまう。レジリエンスのある親は驚かない。子どもの心に「補充するものは何か」と考えればよい。情緒的なものの補給をどうしたら良いかと考える。「なぜこの子は不登校になったのか」と考える。レジリエンスのある親は、子どもが不登校になったという結果ではなく、過程を重視する。我が家が抱えている問題を現に見える形で表現してくれたのが子どもの不登校。視点を変えれば、子どもの不登校は「我が家が抱えている問題を眼に見える形で表現してくれたのだから、良かった」ということであり、それを直していけばよいと言う。  モラルハラスメントのような場合には、親を嫌うことは禁じられている。この心の手錠を取り外せない。それは愛を口実にした苛めである。愛の仮面をかぶったサディズムである。こうして心に手錠をかけられて成長する人がいる。そうした場合には子どもは親への依存心が強いし、無意識で親を嫌いでも意識の上では好きだし、心理的に離れようにも離れられない。これが愛ある人との偶然の出会いを活かせないタイプである。モラルハラスメントの親は、子どもの出会いの世界そのものを否定してしまっている。  このような親とは異なる他者と、助け合う関係、励まし合う関係、そういう関係が重要である。レジリエンスのある人のライフラインは仲間である。それは、いわゆる心の病といわれる者の人間関係との決定的な違いである。心の病といわれる人の関係は利己主義的関係である。残念ながら親子関係で蹟いた人は、仲間関係でも蹟くことが多い。親の利己主義的価値観から解き放たれていない。レジリエンスのある人の関係は愛他主義的仲間関係である。青春期に愛他主義的仲間関係という仲間がいる人は強い。毎月家族旅行に行っても犯罪に走る子どももいる。誕生会を盛大にやっても引きこもる子どももいる。問題は誕生会や家族旅行という「かたち」ではなく、そこに「こころ」があるかないかである。非行に走ってしまった子どもについて「勉強部屋があった」と新聞は書く。しかし「勉強部屋があった」というのは「かたち」である。レジリエンスのある人たちは、「こころ」を大切にしていた。仲間とのつながりをライフラインと感じていた。虐待の中で殺されそうになっても、仲間とのつながりがあればよいと思う。「こころ」があれば、それで十分だ。これは、うつ病とか神経症とかいう心の病の人々には決してない考え方である。最後に勝つのは精神力である。こころである。  親が自殺を逃れるために、子どもの心が破壊されるとはどういう現象か。先ず子どもは自分の感情を恐れる、自分の意志を恐れる。親の感情や意志と違うことを恐れるからである。生き延びる唯一の方法は自分の感情も意志も全てなくすことである。なくすことだけではない。もし自分の意志や感情が残っていて、それが親の感情や意志と矛盾していたらどうなるかと思えば、恐怖感で気を失いそうになるだろう。何かを食べて自分が「美味しい」と思ったら恐怖感でおかしくなる。  『断念』と「不幸を受けいれる」、この二つができれば、妬みがなくなる。妬みの気持ちが、人の幸せを喜べる気持ちに変化成長する。そうすると質のよい人が周りに集まる。そのよい人間関係が幸せの決定的要因になる。「断念すること」と「不幸を受けいれること」、これができないと、妬みや嫉妬が激しくなり、周りに質の悪い人が集まる。  今は消費社会、競争社会だからますますレジリエンスについて学ぶことが大切になってきている。消費社会では自己不在のまま「自分は何か欲しいか」も分からなくなっている人が多い。そして煽られるままに、本当に欲しいものがないのに、次々に欲しいものを求めて心の安定を失う。買う必要がないもの、持つ必要がないものを踊らされるままに欲しがる。そしてそれが得られないと、惨めな気持ちになる。  評者は、引きこもりの若者などと接する中で、いっとき「絶望の淵」にも立ち、今も真摯に生きる若者の「個の深み」に出会い、敬服するとともに、一般青年にとって、青年教育の場でのそのような若者との出会いは、通常の人間関係以上の意味をもつことを痛感してきた。学校教育においても、「愛他主義的仲間関係」のある居場所において、いつもの人間関係とは異なる他者との出会いのなかで、自己内対話を深められるよう子どもたちを支援したいと思う。