西村美東士自著テキスト


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東京都の社会教育はサークルのために何をすべきか
 東京都府中青年の家 西村美東士
  1977.8 世田谷青年の家にて

 みなさんのサークルは社会教育行政に恵まれていますか。例会をする場所はちゃんとありますか。社会教育施設では青年はいきいきとしているでしょうか。現在、区市町村の社会教育行政は、サークルを初めとするさまざまな活動をしている青年たちにとって大きな関心事となっています。それは青年の自主的活動を援助すべき最も直接的な場が区市町村の社会教育施設なのだからごく当たり前のことでしょう。
 それに対して東京都が都政の一環として行なう社会教育はちょっとニュアンスが違います。地域の社会教育は、あくまでもその区市町村のレパートリーであり、都が上から何やかんやおせっかいをすべきではありません。都の仕事としてはおもに、@区市町村の社会教育行政の援助と、A広域的活動の援助及び広域施設サービスの2つがあげられます。
 @は、たとえば社会教育行政民主化の手だてを試案したり、それに役立つ資料を作成して配布したりすることなどがあげられます。
 Aの意味はおわかりですか。「広域的活動」・・・・、そう、たとえばこの「東京都青年交流集会」は、区市町村のレベルを超えて、青年が、サークルが、手を結び合おうという活動であり、「広域的活動」といえます。残念ながら、都の社会教育行政として、これを援助する方向はまだ出ていませんが・・・・。
 次に現在、都が行なっている広域的施設は青年の家がおもなものです。これは区市町村の社会教育施設で青年が宿泊できるものはごくわずかなので、都がそれを建てて、都内のどこの青年グループでも利用できるようにしたものです。そこでは青年が生活をともにしながら、グループ活動を楽しむことができます。
 僕はその一つ、府中青年の家の職員です。できるだけ多くの青年ができるだけ充実した自主活動を行なえるよう、毎日、電話受付、リーダーとの事前打ち合わせ、オリエンテーション、設備利用の手助けなどをしています。これらは、事務的、管理的な側面も持っていますが、それでも青年の活動を援助する大切な仕事だと思っています。

 しかし、ここで僕がいつも悩んでいる問題があるので、皆さんにぶつけてみたいと思います。それは都の社会教育施設および職員と青年とのつながりの問題です。青年の家を考えてみましょう。確かに青年の家は、毎日数十人、あるいは数百人の青年を迎えています。しかし、その青年たちは、1泊か2泊をそこで過ごすと地域に戻っていきます。そこでまた、いきいきとした活動を始めるのでしょう。当日、青年の家職員とたとえ、二三、言葉をかわしたとしても、それは青年の家が青年とちゃんとつながりをもったということではありません。東京都の他の社会教育行政も、同様に、いや、それ以上につながりは弱いといえます。なにせ、住民と直接接することのないところで働く社会教育職員もいるのですから・・・・。「広域的な援助と施設」、それはいま、とみに青年が必要としているものではあるけれども、どうしても青年とのむすびつきは浅くてもろいものになっています。
 僕はこれは大きなネックだと思います。なぜなら、たとえ職員が、初め、青年の立場に立ってやってゆこうと、情熱を真っ赤に燃やしていても、相手の青年とちゃんとつながりをもっていなかったら、それを燃やし続けるのはひどく難しいからです。燃え尽きてくさってしまうかもしれません。「そんなオーバーな」と思う人もいるでしょう。だけどあなたの「片想い」を思い出してください。想う相手と会うことも、話をすることもできないとしたら、その片想いはいつか消えて、単なる「思い出」になってしまいます。あるいは、女性ぎらい、男性ぎらいになるかもしれません。もしかしたらあなたは、青年とつながりを持とうとしない社会教育職員の中で、青年に敵意ばかり持っている人を知っているかもしれません。それです。
 結びつきの必要の理由はまだあります。そもそもつながりのないところでどうして社会教育が成り立つでしょうか。いつも合って話ができる。その積み重ねの中で、職員も、青年個人や
区市町村社会教育行政に対する東京都青年の家の独自の役割とは何か

77、12、8 府中青年の家 西村美東士 「青年の家を考える」部会

 我々の任務は常に都の社会教育職員としての義務であり、決して市町村社会教育の任務を負うものではない。しかし、その社会教育においては、市町村第一主義が貫かれねばならない(1)。我々が青年の家で仕事するにあたって「禁欲」すべきは、一つは市町村社会教育職員と同様、「環境醸成」の限定から飛び出すことはできないという点であり、さらにもう一つ、都道府県の職員として特殊的に限定されるわけである。何だか、がんじがらめで苦しい話である。何故に「市町村第一主義」というそんな「不自由」な(都の社会教育職員にとって)限定がくっついてしまうのだろうか。
 一つ、社会教育は継続的なプロセスの中で、ほんの少しずつ芽生える。故に、「ゲタばき」で行ける距離にある市町村社会教育施設が中心となる。
 二つ、社会教育は「実際生活に即する』(社協法3条)学習である。市町村ごとに、生活課題が異なるとすれば、当面、それは市町村ごとに分れて行われるだろう。
 三つ、社会教育の一面は、地方自治を学ぶことであり、住民の自治能力を高めることである。同時に社会教育は、地方自治、住民自治そのものでもある。市町村は、地方自治にとって基礎単位として重要であり、又、「民主主義の学校」として有効である。
 これらの理由から、社会教育の市町村第一主義が導かれる。

 さて、ここで、都内の青年の諸活動の現状をみてみたい。一つ、自らの存住、あるいは在勤の区市町村と無関係に、活動したい所、活動しやすい所で活動する青年が増えている。
 二つ、各区市町村のサークルが、連絡をとりあい、さらに区市町村をこえた連絡に発展する動きがある(五区連協、三サ連、この指とまれ)。
 三つ、一区市町村においては、数的にごくわずかしかない学習要求がある。それは区市町村内部では参加者数から考えて共同学習たりえない。(リーダー間の学習の一部もそれに含まれる。)
 四つ、全都的ともいえる活動がある。それは特に文化活動において顕著である。
 五つ、一区市町村の範囲を超える広域的生活課題ともいうべき問題が山積みされている。それは当然、青年の生活の上にも重くのしかかっている。そしてその中でも青年に特殊な問題は青年たちの手で解決するしかない。
 次に青年の家職員(特に専門職…社会教育主事としてではあるが)の職務の面から考えてみたい。市町村第一主義を侵害しない為の最も安全な方法は、青年の家が、現在あるような主催事業等の直接的事業を行わず、貸し施設に徹すること、青年の様々な活動にタッチしないことである。しかし、もしそうすれば、次のようなことが考えられる。
 一つ、職員の仕事が、青年から検証されることなく、行政レベルでしか進めなくなるおそれがある。青年とのつながりがない所で、たとえ「御意見箱」などを置いたとしても、本当の青年の気持ちは聞けないであろう。
 二つ、それゆえ、たとえ最初、職員の青年を愛する情熱がすばらしくとも、それを持続させるのは困難である。それは、片想いの恋が時とともにうすれていくのに、にている。 三つ、施設提供の中で、ある程度、教育作用がありうるとしても、それは、各々の団体にとっては一過性のものであり、積み重ねにはなりにくい。またその単発の「教育作用」がもしあるとしても、そのほとんどは「団体宿泊訓練」でしかないのではあるまいか。

 確かに、都道府県が市町村の自治権を侵害し、その都道府県の自治権を国が侵害するという、過去の忌わしい封建的中央集権制を思うならば、市町村第一主義の意義は大きい。都は決して区市町村の自治権を侵害するようなことがあってはならない。しかし、それは、都が青年とむすびつき、青年の要求に応えた事業を行うことをも排除するものではない。先にのべたような都内の青年の諸活動を考えるならば、都の社会教育に対するそういう青年の要求は高まりつつあるといえよう。
 そもそも最初に述べた市町村第一主義の根拠は、「市町村でなければ通じない」という性格のものではない。都立の社会教育施設であろうと、足の便がよく、「サンダルばき」でいけるのにこしたことはない。生活課題についても、市町村を越えた課題が続出している。都の自治権を守る必要性が、市町村のそれと同様、近年とみに叫ばれている。市町村第一主義を大切にしようとする根拠を、都段階の社会教育についても適用する必要があるのではなかろうか。

 「何をぐずぐず当たり前のことを言っているのか」と思う人もいるかもしれない。しかし、私には、都が都民に対して講座などの事業を行うと、それはすべて区市町村の自治権に対する侵害だと受け取る議論があるように思える。
 さらに、都の社会教育行政内部にも問題があるのではないか。従来、区市町村に対する都の役割として、「区市町村が展開する社会教育行政に対しこれをあらゆる面から支援する援助者の位置に立つものとする(2)」と言われてきた。そして、実際にはそれは、「財政的援助、情報資料及び研修の機会」の提供などに表われている。
 しかし、「広域的役割」については、どうだろうか。「社会教育部政策推進方針」中に五本の「基本方針」があるが、「(2)、都は広域的役割をはたす」として「(略)…補完的、先導的事業を行い、広域にわたる都民の教育、文化課題にこたえる。」とある(4)。しかし、その「補完」や「先導」の内容が明確でない。よって「広域的役割」もはっきりしない。これらは、青年の家などの各社会教育施設が、その事業の中で実践的に、具体的に明らかにするべきであろう。

 思うに、「広域的役割」の実践は、困難であるとともに、危険や緊張をはらんでいる。一歩間違えれば、範囲が一つの区市町村でしかなかったり、区市町村の社会教育と同内容だったりしてしまう。都の社会教育が、明確な目標とプロセスを持った広域的役割を果たしえていない原因もここにあるのではないだろうか。
 しかし、青年の広域的要求はますます、広がり深まっている。青年の家がそれをさけて通ることは、社会教育施設としてはサボタージュともいえる。区市町村に対する独自性を自覚しつつ、それらに取り組む必要があるだろう。
 その営みによって青年の自己教育運動は育てられ、各地域に成果として持ち帰られる。それは区市町村の社会教育行政を支える力の一つとなるだろう。すなわち、それはあくまでも市町村第一主義を守るものである、否、市町村第一主義を内実から創り上げてゆくものといえるだろう。なぜならば、市町村第一主義とは、何よりも、「住民一人一人の生活課題についての学習要求に直接こたえる」、「生活に根ざした教育活動(5)」であり、その実現の手助けになるのだから。
青年の家について、みんなで考えてみよう
東京都立府中青年の家 西村美東士

 「この指とまれ」の大いなる(?)発展、おめでとうございます。「この指」は、何回も、東京都の青年の家を利用していますね。青年の家についてどう思いますか。
 東京都は青年の家を七つ持っています。みなさんの近くにある青年館や公民館とは、次の二点で異なります。1、宿泊が出来る=維持管理のための予算規模が大きく、区市町村段階では維持しにくい、2、広域事業を行なう=区市町村のエリアを超えた青年の交流などを援助する。
 59年、当時の週休制の一般化による、勤労青年の余暇増大という状況のなかで、国は余暇対策(余暇善用)の一環として国立青年の家第1号を御殿場にオープンしました。そこでの教育方法は「団体宿泊訓練」でした。同年、東京都も青年の家の第1号を八王子にオープンしました(今の八王子青年の家)。しかしそこには「訓練」という考え方はなく、また、例えば国旗掲揚などもしていません。設立の当時から、国立形の青年の家と違う性格をある程度はもっていたと言えるでしょう。
 とは言え、やはり「お役所」のやること、どうももう一歩青年の気持ちにピッタリこないところがあるようです。青年の声をあまり聞かずに60年代の青年の家が、どんどん建てられました。青年や市民の要求があって建てられたのは、70年の水元青年の家です。それでも大まかに言えば、東京都の青年の家は、青年とのつながりが非常に弱いと言えます。
 その証拠に、あなたは、私たち青年の家専門職員〔社会教育主事(補)〕の存在を御存知ですか。そして78年度、各所1名づつ定員削減を受けることを御存知ですか。今年から試行されている宿直廃止も関係しているのでしょう。しかし、青年の家をより良くしていきたいと考える私たちにとっては大変なショックです。早番、遅番のローテーションがきつくなり、やりたい仕事がやれなくなるからです。
 しかし、青年が、そういう状況にある青年の家に対して、ほとんど要求をぶつけてこない、あるいは、要求を持っていないというのはどういう理由でしょうか。各サークルにとっては、死活の問題として定例会の場の条件があります。それに反して、せいぜい一年に何度か、合宿で使うぐらいの青年の家については、それほど死活の問題ではありません。ここに、青年が青年の家に対して要求をぶつけず、したがってつながりも作りにくいという原因があります。もちろん、私たち職員の主体的役割についても反省すべき点はありますが…。
  しかし、宿泊可能な施設は、サークル内の人間的つながりにとっては、本当は非常に、有利な施設と言えないでしょうか。せいぜい週に一度、2時間から3時間くらいづつ会うだけでは、心の底からお互いを理解しあうのは難しくありませんか。風呂にいっしょに入って、お湯につかりながら話をする。寝床に入って、ボソボソ話をする、そんな共同生活の中に、仲間のすばらしい人間性を感じることができるのではないでしょうか。
 さらに、「この指」のように、広域にわたる青年サークルの交流を援助するのは、東京都の大きな役割の一つです。また、そのように遠くから集う場合、宿泊機能を持った施設でないと充分な交流は困難です。このような意味でも、青年の家は大切な施設です。
 このような大切な役割は、いま充分に生かされてはいません。問題は、こまかく言えばたくさんあります。門限、活動時間、複雑な手続き、禁酒、など、みなさんもすぐ思いあたることでしょう。しかし職員から言えば、自由にした場合の事故の問題や、労働条件の問題が気になります。ひどい利用団体になると、職員を真夜中、たたき起こして、平気な顔で入ってきたり、夜中、宴会をやってとなりの部屋の人の眠る権利を侵害したりすることもあります。そこまでひどくなくとも、不自由な規則を変えさせようとするのではなく、自分の団体だけはなんとかだましすかし、あるいは、ねじこんで、小さな規則破りを貫徹しようとするところは多いようです。自らのグループサークル活動をを愛する情熱は理解できますが、それにしても不自由な規則の改善を要求してくる正義漢が、一年のうちで多くて二、三人だというのは、淋しい気持ちがします。もちろん、それは、青年に対する青年の家の姿勢(青年が不満をぶつけにくい)にも反省するべき点があると思いますが…。いずれにせよ、青年と、青年の家職員とは、すれ違い状態のようですね。
 73年、狭山青年の家の「三多摩青年サークル交流会」の中で「三多摩サークル連絡協議会」(三サ連)が結成されました。その時、青年たちは、東京都教育庁社会教育部に対して青年の家の無料化や、施設増設、青年の手による自主的な運営、専門職員の配置などの「要請文」を出し、ある程度の回答を得ています。現在は、その回答よりもはるかに後退した状況にあります。「この指とまれ」が東京の青年サークルの要求を反映し、東京都の社会教育行政をよりよいものにしていくよう活躍されるよう期待する意味が、御理解いただけると思います。そして青年の家の方も、広域の青年とつながりを持ち、青年サークルの交流と連絡を援助できるよう、がんばっていこうと思っています。
青年教育セミナ・レポート
東京都府中青年の家 西村美東士
「ダンス・フェスティバル」
サークルリーダーレクリエーション研修会

T 目標・目的
キッカケ…前任者のひきつぎ
ツモリ…ダンスもしらずに会社でくさっている青年が「ああ、おもしろいなぁ」と思えばいい
ネライ…青年の家でつかみきれていない層の、スバラシイ青年たち。外に出たがらない(?)でレクサークルの交流。
状況把握…「ディスコダンスそのものは、比較的、健全である」

U 事業の内容
レクの特徴…楽しい、要求が多い
ディスコの特徴…楽しい、強制的でない連帯感がある
(当初の考え方)
受け止められ方…
その修正…
そのてだて…
結局… 
※〔実行委員は、知らぬ間にそれなりに成長している。(組織性、社会性など)それを把握できなかった〕
V 事業の経過 別表を見よ
W ふれあいとその成果
何を働きかけたか
「いろんな人と知り合えた」「汗を流し、おおいに笑えた」「実行委員の人が一生けんめいやってくださっているのがよくわかり、感激した」「心からバカになって、本当の自分が出せた」「異性の人々との会話は楽しくもあり苦しくもありました」「先日のミニレク研に参加をした人達と再び会えたことが、そして覚えていてくれたことが思いがけなくうれしかった」「私でも集りに積極的に加わってゆこうという意欲がわいたことをみてもとてもプラスになった。今までの青年の会というものに対する偏見を変えてくれた。」「最初、ディスコはあまり興味がなかったが、楽しく踊ることができた」「根っから内気な性格で、…、若い仲間の言葉がとびかうのを聞いていると、自然にその中に入れて行ったよう」「さっそく覚えて、みなといっしょにやりたい」「たまにはこのような体験も」「若者達が一つになって何かをするという事は大変素晴らしいことだと思う」(53年度「ダンスフェス」の感想より、)
特徴的な或る個人 (口頭で、Uの※参照)
集団のささえ 特にディスコボーイについて

X

Y 活動の成果
地域の活動にどう影響したか
集団として…レクサークルの交流(ただし個人的なつながり)
個人として…〔青年活動への興味「いなかへ帰っても〜するわ。」その他・人間を見る目など?〕
Z 総括
いつのまにか、考え、知り、成長している。それは、そもそも、内に秘めた、他社からは把握不可能な営みの場合もあるし、科学的に追跡できる場合もある。後者についての努力を担当者として、怠っていたのかもしれない。 三多摩の70年からの青年教育の流れをとらえるために

 74年12月、昭島に「でく」、75年9月、小金井に「サチ」が相次いで誕生する。これらは青年や市民、自らの手によるスナックである。そこでは酒が飲めて、気楽にフラリと立ちよって話したり歌ったりできる。開店当初は本当に愛されていた。しかし今は、残念ながら赤字のために潰れてしまっている。
 これに並行して、75年1月、国立公民館内に「コーヒーハウス」が開店する。内容としては、「野草を食べる会」「こころと体の健康」「わさび田づくり」などを行っている。これは青年学級の性格を一部ひきつぎ、しかもフラリと立ちよれる「たまり場」でもある。
 「コーヒーハウス」の場合は、「でく」「サチ」と異なり、社会教育施設の中にある。また、講師料、合宿旅費、連絡用役務費、ミニコミ発行の為の需要費などは公民館によって保障されている。ゆえに大きな赤字が出てそれを青年たちがしょいこむということはありえない。
 さらに専門職員なり、公的な青年教育の講師なりが、つねにいるという点でも「でく」「サチ」と異なる。そして、彼らと青年たちとによって先に述べたような活動が行われている。三多摩成人教育セミナーでは、「従来のたまり場論は施設論の中でとりあげられてきた。物があるからたまり場になるのではなく、職員がいて事業編成のなかで集まる内容をつくっているから行く気になるたまり場論が生まれるということを考えていく必要がある。」と指摘しているが、そういうたまり場論がこれからは進められるだろう。
 確かに「型へはまる」ことへの拒否から「自由なたまり場」を青年は志向する。しかし社会教育行政の本来の役割は決して「型へはめる」ことではない。また、青年自身も、決してアナーキーな「自由」を求めているのではないはずだ。(もちろん、「でく」や「サチ」がそうだと言うのではない)。青年が、気楽にフラリと立ちよれて、しかもその中で、今まで気がつかなかった、学習・文化など自らの要求に目覚め、自ら成長していけるような、そんな目的的な活動を援助し保証していくことが必要であろう。
 もちろん、「たまり場」を自前で作るより、公的施設の中に作る方がよいという判断は、社会教育行政がすべき性質のものではない。また、そういう「自前論」と「公的保障論」とを対立するものとして一面的に捉えること自体、おかしい。しかし青年たち自身が、自らの「たまり場」を公的社会教育施設に求めるならば、それにこたえてゆく必要がある。「コーヒーハウス」を始めとして、さまざまなかたちの試みの中で、各地の公的社会教育施設が、形式的にロビーを作るだけでなく、気楽にふらりと立ちよれて、しかも青年たちが主人公としていきいきと活動できる本当の「たまり場」を実現しようと模索し始めている動きは、現在の公的な青年教育の特徴の1つといえるかもしれない。

二、青年サークルの交流・連絡の動き
 72年、東京都狭山青年の家で、「三多摩青年サークル交流会」が開かれる。それはサークルが「地域的な横のつながり」を持つことによって、1、悩みや問題、経験などを出し合い、2、三多摩に大きな青年の輪を広げようとするものであった。1、サークル活動についての分科会、2、青年問題に関する講演、3、都の社会教育行政との対話が主な内容である。対話の中では、青年の家の運営や建設などに関して青年からの要求が出されている。73年の第二回交流会において、「三多摩サークル連絡協議会」(三サ連)が生まれる。それは、1、サークルを運営する拠点となる、施設の条件整備を進める、2、各サークルのもつさまざまな問題の解決の方向を見出す、という二本の柱を持っている。この交流会では、主に都の社会教育行政に対し、無料化や、青年の手による運営などの内容を持つ要請文が出された。
 以後、この交流会は狭山青年の家で毎年一回、続けられている。しかし、77年の三サ連事務所の閉鎖など、三サ連は崩壊の危機に立っている。私見になるが、その理由として、1、サークル活動家の多忙と、各サークルにおける彼らの重要性、2、範囲が広域であり、集まりずらいことなどがあげられよう。
 74年、サークル活動交換の役割をはたしていた「人生手帖」が廃刊される。そういう状況のなかで、若者自身の手で75年、唯一のサークル専門誌、「月刊サークル」が発刊される。しかし翌年200万を超える赤字を出し、これも休刊されるされてしまう。その特徴として、サークルがその必要性を否定したのではなく、1、サークルの要求をくみ上げきれなかったため、サークル構成員に広く配布されなかった、2、サークルの側からもサークルの発展のための「月刊サークル」の意義が認識しきれなかった、という2点が挙げられている。
 反面、現在の状況としては、公的な青年教育会の組織的参加、あるいは各サークルの要求の集約など、各市の単位サ連の高まりが見られる特に隠しのフェスティバルについてはサ連の協力によるものが多い。
 さらに全都的ひろがりを持つものとして、「この指とまれ」(東京青年交流集会)がある。これは76年、第十六回社会教育研究全国集会が、東京で開かれたが、その一部として「青年のつどい」が企画されたことに始まる。その「青年のつどい」の実行委員会において、研究集会のためだけのものでなく、これを機に、東京の青年サークルが手をつなごうという方向が決められる。9月に研究集会が開かれるが、その前の8月に、杉並公民館において第一回の「この指とまれ」が開かれる。「青年のつどい」(都立水元青年の家)も盛況の内に行われる。以後77年1月(小金井市立青少年センター)、8月(世田谷区立青年の家)、12月(都立府中青年の家)に、集会が開かれている。
 府中青年の家での「この指とまれ」は、「ウインターフェスティバル」と銘うち、150名規模の青年の家にて、「この指」として初めて100名を超える規模で開催された。
 杉並公民館を除いて、それ以降は宿泊をともなう集会である。また参加者も東京のさまざまなところから広域的に集まっている。このようなところから、東京都の青年の家が比較的よく使われている。
 しかし、先に述べた三サ連のいきさつとは大きな違いがある。青年の家は催しの場として使われているだけで、実行委員会などの拠点としては、もっと交通便利なところが使われていることであり、さらに、「この指とまれ」においては都の社会教育専門職員が、勤務の位置づけでのつながりを持てなかったことである。その理由は、集会が青年の自主的な動きの中で生まれたことであろう。しかし、自らの事業の中で生まれたものでなければ援助できない体制は、民主的とは言えない。それは、都の社会教育行政の機動性が足りないということであり、また都の社会教育専門職員が、青年からつながりを求められるような信頼を得ていないということでもある。いずれにせよ、これから青年サークルが広域的交流を求めて行くとすれば、そのための広域行政の社会教育専門職員の役割が問われてゆくといえよう。
 次に参加者の構成をみると、それまではサークルのリーダー層がほとんどだった。しかし「ウインターフェスティバル」では、サークルリーダーの他に、新旧のサークルメンバーや、既成文化団体のメンバーが参加している。内容が、実際にサークルの中で活動されているモノそのものの交流であった面が、一般のメンバーにも魅力的だったからといえよう。
 「この指とまれ」のような活動での一般の問題は、サークルリーダーが、個々のサークル活動と「この指」の活動を全て一人でしょいこんでしまう無理から生ずる。これからのサークルの交流は、いかにメンバーまで含めた広い要求にこたえて、広い層をまきこんで行われるかが、キーとなるだろう。その点で「ウインターフェスティバル」が新たな層をまきこんで成功したことはこれからの展望を開くものである。さらに、そういう大衆的な広がりの中で、いかに「社会教育施設の条件改善」や「サークル連協」をみんなの問題にしてゆくか、「この指とまれ」実行委員会は模索中である。
 いずれにせよ、個々のサークルのリーダーが、サ連などの活動に、一人でとび出てゆき、一人で帰ってくるくり返しは、今、少しづつ変わろうとしているといえるだろう。

〈資料〉
たまり場に関して
くにたち公民館だより(国立公民館)
昭和50年度「成人教育の諸問題」(立川社会教育会館、三多摩成人教育セミナー)
季刊「でく」
現代「若衆宿」の再創造(月刊社会教育1976・2)
みんなの力でスナック経営(月刊サークル1975・5)
サ連に関して
青年教育のありかたを全国・三多摩の青年教育のながれから考える(立川社会教育会館、三多摩青年教育セミナー)
月刊サークル(1975・創刊号〜76・1最終号)
三多摩青年サークル交流会記録(1972・3、73・3、74・2、 狭山青年の家)
「この指とまれ」記録集(発行予定)
同和教育映画における、部落差別以外の差別について
−女性差別問題を中心として−

1、本論のねらい

2、「性別役割分担」について
…同和教育映画の映像に表われた「固定概念」

3、キャスティングにおける「不美人」差別
…つくられた「美人の基準」
…リアルで生活に根ざしたキャスティングを

4、封建的な「イエ」の思想の克服について
…嫁・姑の矛盾を、同和教育の民主的観点から克服する

5、あらゆる差別を考える必要性について
さまざまな差別
同和地区内の差別
映画製作所の差別
「春の汽笛」について
映画芸術への民主的・大衆的な関与
(自己教育を本質とする社会同和教育の営みとして)


同和教育映画における、部落差別以外の差別の問題について
ー女性差別問題を中心としてー

1、本論のねらい
 いうまでもなく、同和教育の課題は、差別が基本的人権の重大な侵害であることの認識の上に立ち、部落差別の解消を中心的課題としつつも、さまざまなその他の差別も許さない人間尊重の理念を実現することにある。
 しかし、現実の社会には、様々な差別が存在しており、同和教育映画といえども、それらを完全に払拭しているとはいえない。
 以下、女性差別の問題を例にとって、同和教育映画が、意識的にせよ、無意識的にせよ、それをどうとらえているか、そして問題点はないか、考えてみたい。

2、「性別役割分担について」
 「婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条例」の署名式が、国連婦人の10年「1981年世界会議」の席上で行われ、日本も署名をした。
 この条例では「固定的な性別役割分担を変える必要がある」と書かれている。
 ところが、「男は外で仕事をし、女は家の中で家事・育児をすべきだ。」という観念が通常化しており、男女ともに是認している人が多い。
 ある同和教育映画の中に、夫が夕食のあとかたづけをする妻に対し、自分は寝ころびながら、部落差別に対し戦う姿勢を説く場面があった。多分、映画製作者は、無意識の内に、「男は外で仕事をし、女は家の中で家事を」という固定概念にとらわれていたのだと思う。
 しかし、これは、家事労働分担の理想に反するばかりでなく、共働きの増加による現実の姿からの離れている。それゆえ、リアリティに欠け、せっかくの夫の言葉も、何かシラジラしく聞こえる。
 これが、たとえば、妻が皿を洗い、夫がふきんでふいている中での会話だったら、部落差別と闘ってきた夫婦の愛と生きざまをもっと感じさせることができたのではないだろうか。

3、キャスティングにおける「不美人」差別について
 現在の社会の価値観では、ややもすると、女性を本来の人間の姿として見ることができず、外見上のつくられた「美人の基準」に流されてしまう。
 しかしそのような外見による「美人」、「不美人」の「選別」は女性を人間としてではなく、「品物」としてみる差別観の第一歩だといえる。
 同和教育映画であっても、必ず「美人」ばかりが、善き主人公であったり、しかも彼女が、くつろぐ夫の前で、文句を言わずせっせと家事労働にいそしむシーンばかり出てきたりすると、これは低俗なテレビドラマを見ているような気にさせる。
 ある同和教育映画の監督は、「(監督自身は)性格俳優を使いたかったが、委嘱をした行政から、観客の知名度の高い女優を使うよう指示された。」と語っていた。
 少なくとも、同和教育映画ぐらいは、「不美人」差別を克服して、リアルで生活に根ざした画面を合成できるキャスティングを実現してほしい。
 又、このことが、芸術的にも成功し、大衆的にも共感されるならば、同和教育の目指す「民主主義」「人権尊重の理念」が、映画芸術全体に良い影響を与えることにもなると考えられる。
 
4、封建的な「イエ」の思想の克服について
 嫁・姑の問題等は、直接には女性差別の問題ではない。
 しかし、嫁が夫の家に「入り」、そこで対等の人間としてではなく、「しゅうと・しゅうとめ」に仕えることを義務づけられるとすれば、「平等の精神」に逆行する「差別」の一つであることは明らかである。
 もちろん、数多くの同和教育映画に。そういう「逆行」を、直接支持する内容のものはない。
 しかし、夫と姑を捨てて飛び出した嫁が、悪者に描かれている映画は見受けられた。
 そこでは彼女が「悪者」である理由は他にあるのだが、それにしても、同和教育映画では、これらの状況設定にはもっと神経質であってほしい。
 さらに、封建的な「イエ」の考え方をきちんと問題としてとりあげ、古い制度にとってかわる、民主的で、すべての人の幸福を追求する新しい「イエ」のあり方を提起する積極的な姿勢があって良いと思う。

5、あらゆる差別を考える必要性について
 同和教育が、部落差別だけでなく、あらゆる差別をなくしていくことを理念として掲げていることはいうまでもない。
 世の中には、部落差別の他にもたくさんの差別がある。同和地区の人間どうしの間にも、男女差別などがあるかもしれない。
 又、映画制作の現場にも差別がある。ある同和教育映画の監督が、「撮影所自体が、ものすごい差別社会である。その中では、自分の担当した同和教育映画の制作は、いわゆる『下働き』の人たちがいきいきと仕事にとりくんだ、まれな例だった」と語っていた。
 同和教育映画においては、あらゆる差別を考えてゆく必要がある。そのことによって同和教育映画は、同和問題をすべての人の問題として、訴える迫力を持つだろうし、差別の本質的解決にも迫ることができるだろう。
 ところで、さまざまな差別を告発している同和教育映画の一つとして、神戸市教育委員会の「春の汽笛」が挙げられる。
 部落差別を中心として、朝鮮人差別、エリート主義、差別的教育観、「政略」的結婚、そして極度な経済的貧困等、差別に関係するさまざまな問題をリアルに描いている。
 しかも登場する人物は、その苦しさの中にあって、力強く展望を切り開いてゆく。
 そこには、テレビの現実離れしたホームドラマとは異なり、「われわれの」問題として感じさせる、「現実の生活に根ざした迫力」、即ちリアリズムの迫力があふれている。
 しかしこの映画ばかりが意義があるとはいえない。同和教育映画といえど何らかの問題はあるだろう。むしろ、それらの映画を、人々が、主体的で自立した精神で批判し、しかもそれが次の映画製作に役立ってゆく、そんなプロセスこそ重要だと思う。
 先に述べた、同和教育映画における女性差別の問題も、それが黙視されてしまうから問題なのであって、上映後、きちんとそれについて討議すれば、かえって良い効果が現れるかもしれない。又、さらに進んで、そういう視聴者の意見を、次の同和教育映画製作にフィードバックさせることにより、主体的・大衆的な映画芸術への関与も考えてゆきたい。社会同和教育が、国民一人一人の意識変革を併なった自己教育だとすると、同和教育映画も、なんの欠点もない完成品としてあるのではなく、国民の自由で主体的な営みによって発展すると考えるべきであろう。
(完)
乳幼児期における人権尊重教育を考える


目次

1、はじめに

2、人権尊重教育の対象
(1)、乳幼児
(2)、父母
(3)、指導者

3、乳幼児期における人権尊重教育の場
(1)、集団保育
(2)、家庭
(3)、地域

4、乳幼児期における人権尊重教育の方法
(1)、自己教育
(2)、相互教育
(3)、教育的指導性

5、乳幼児期における人権尊重教育の内容
(1)、差別感を注入しないこと
(2)、競争と連帯
(3)、情緒、情操、知力
(4)、自主的思考

6、おわりに


1、はじめに
 近藤薫樹氏は、次のように書いている。
「未解放部落の子どもの多い保育園では、とくにそれに必要な保育対策を強化しています。キャバレーなどに働く親の子どもたちのためには、夜間の保育所が設けられ、"ハワイ"系だけでもその数二百数十に達します。夕暮れネオンのともるころ、『おはようございます』と登園してくる子どもたち。十二時前後にやっと最終の子のお迎えがきて、『午前』になった夜道を帰る保母さんたち。(1)」
 このちょっとした文章一つに、すでに我々は、乳幼児期の人権尊重教育の深刻さ、複雑さに暗澹たる思いがするものである。なぜならば、そこには、こどもを取り巻く経済環境の問題、家庭環境の問題、そして、女性の商品化という女性差別の現状、さらにこれらの「貧困」がとりわけて未解放部落を襲っているという現実が、暗く重く、横たわっているからである。
 本論で、乳幼児期の人権尊重教育を検討する場合も、当然、このような諸々の「貧困」の重圧すべてが、重要なファクターとなる。小手先の技術論ではなく、経済・社会・文化の広い視点が必要である。
 それゆえ、議論の対象も、同和地区だけにしぼるのではなく、広く乳幼児期の人権尊重教育を検討することが、問題の真の解明に役立つものと思われる。本論も、そのように進めることとする。
 さて、乳幼児期の人権尊重教育の目的は、いうまでもなく、対象である乳幼児が、将来、他者の人権をきちんと尊重できる人間になるように援助することである。
 しかし、先に述べた諸々の「貧困」は、乳幼児期にしてすでに、その人権が充分尊重されているとはいえない実態を示している。そのことが、又、いかに乳幼児期における人権尊重教育を阻害する要因となっているか測り知れない。
 本論では、さまざまな側面から乳幼児期における人権尊重教育をとりあげるが、その際どのような「貧困」がどのように影響しているか、努めて明らかにしながら、論を進めることとする。
 もちろん、この「貧困」とは、単純な物質的な貧困をさすものではない。むしろ現代社会の病理ともいうべきもののあらわれと考えるべきであろう。
 しかし、それは乳幼児期の人権尊重教育にとっては如何ともしがたいものと悲観的にとらえることではない。乳幼児期の人権尊重教育を追求することが、それらの「貧困」を一つ一つ解決していく手段の一つになる。
 最初に述べた、キャバレーなどに働く親の子どもたちのための保育園の事例は、「未来の望ましい保育」を目指した「広大な社会的実践」の一例として、近藤薫樹氏はむしろ肯定的に提示している(2)。象徴的な主張である。
 本論においても、重苦しい「貧困」の事実を重視しながらも、それに打ち勝って乳幼児期における人権尊重教育を実のあるものにする筋道を明らかにしたい。

2、人権尊重教育の対象

(1)、乳幼児
 人間の性格形成は、3歳までに、その基礎ができるといわれている。又、4・5歳になると、子ども同士の集団生活が活発になり、感情表現の発達や知的発達が著しい(3)。
 差別意識や偏見もこの発達の過程で芽生えていくと考えられる。
 乳幼児期という発達段階は、その意味から人権尊重教育にとって大切な時期である。
 さらに乳幼児期を発達段階としてとらえる場合、三歳未満とそれ以上とに分けて考える必要がある。
 情緒(感覚的感情)は乳幼児にもありうるが、情操(道徳的感情)は、ごく大まかにいえば、言語的思考の未熟な三歳未満では、まず無理である(4)。
 情緒と情操の相違と関連については後に述べるが、乳幼児期ということで、機械的に一括してとらえるのではなく、発達段階を二つに分けて考えることが大切である。

(2)、父母
 「子どもは大人の思うようには育たない」といわれる。ところが「子どもは大人たちのしているようには育つ」のも事実である。
 近藤薫樹氏は、これについて、「子どもをどう教育するか、ということは、大人自身がどう生きるか、という問題にはねかえってきます。」と述べている(5)。
 又、自分の子どもの短所ばかり気にする親に対し、短所の裏側にある長所をみるように勧めている。そして、いつも他人の子どもと比較してあくせくしているような子ども観は、子どもに優越感と劣等感、利己的競争心を育てることになると、指摘している(6)。
 このようなことから、乳幼児における人権尊重教育のためには、その乳幼児をもつ親の与える影響が大きく、父母に対する人権尊重教育を重視する必要があることがわかる。
 その場合、家庭教育学級等の社会教育の側面からの援助も意義があるが、根本的には親、自らが、広い意味での学習により意識変革するのを待つ他ない。
 この学習は、切実な学習動機を持つものである。すなわち、「子どもの幸せのために」ということである。日常、父母と接触する保母等は、この学習動機を重視し、それが歪んだ方向に進まないよう注意する必要がある。
 間接的な、社会教育等による父母への援助もさることながら、直接子どもを受け持つ指導者による、その父母への対応と、さらには関係する父母どうしの相互作用は、より大きな影響力を持っている。
 灰谷健次郎の「兎の眼」の中で、知恵遅れの子が、我が子のクラスに入ったのをきらって、淳一の母は先生に激しく抗議する。「もし、自分の子の学力が落ちたら」という不安からであり、利己的で歪んではいるが、「子どもの幸せのために」という思いから出発している。
 しかし、後に、先生の印刷する学級新聞や、なによりも淳一自身の成長を見て考え方が変わってきている。
 ついには、PTA総会で、「ひとのことなど知らん顔をしていた子が、他人のことでなやむようになり、考えるようになったのです」と言い、「一部の子どものためにみんながめいわくをこうむる、わたしたちははじめそう考えていたのです。しかし、それはまちがいでした。よわいもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてダメになる」と発言するまでになる。
 淳一の母は、「こどもの幸せのために」から歪んで出発しつつも、同じ、「こどもの幸せのために」自らの意識を自ら変革している。そして、この意識変革を実現したのは、淳一の成長のようすであり、それを支えた先生であり、「学級新聞」という形での先生からの訴えであった。
 ここには父母の意識変革の筋道が、象徴的に示されている。

(3)、指導者
 指導者自身も常に、自己変革が求められている。人権尊重教育の面でも私達は、乳幼児期の指導者に対し、不動の完全性を求めるのではなく、常に少しずつでも前進する姿勢をこそ求めるべきだろう。
 黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」で、背がのびない体質の生徒に、何気なく、「あなたにはしっぽがあるんじゃないの」と言った先生が、その深い意味に気づき、「本当に私が、間違ってました」という場面がある。
 これは、怒ることなどない校長先生が、真剣にその先生に対して怒り、訴えた結果、その先生が自らの不用意な言葉を心から反省したものである。
 このように深い見識からの、指導者に対する指導は重要である。
 又、障害児を含めた保育を行っている、「風の子保育園」という園の園長は、次のように述べている。
 「全職員が同じ保育観をもって、共同の責任で保育をする心がけが必要で、保育観の一致をつくりあげることが非常に大事だと思っている。そのためには、会議や勉強会をしなければならない。(7)」
 これは、言いかえれば、指導者相互の集団としての教育作用の必要性を述べている。
 さらに、子どもの存在が指導者に与える教育的作用も大きいものである。前出、「兎の眼」の小谷先生が、知恵遅れのみな子をあずかる決心をしたのは、「自分の人生を変えるつもり」で決心したのであり、結果的にも、少しひ弱なところのある小谷先生は、たくましくなる。
 これは、指導者が子どもから学び、自己変革することを示している。

3、乳幼児期における人権尊重教育の場

(1)、集団保育
 集団保育において、子どもは、友だちと先生とのふれあいを見ていたり、友だちの体験を直接見ながらそれを自分のものとすることができる。これは、集団保育の場では、子どもをとりまく人間関係が、同質同類の集団が主であり、自分とは異質なものにとりかこまれている家庭にはない教育作用を、もたらしていることを示している(8)。
 又、子どもの集団は、認識を促進させ、みんなの分業とか協力を身につけていく方向に発展させる(9)。
 このような意義を考えると、保育園は、救貧対策としてではなく、重要である。
 なお、幼稚園についても同様の意義が認められる。しかし、「私たち教師は、保母とは違う。」という優越感(差別意識)や、「幼稚園は教育するところだから、4時間以上は無理」という遊びや生活と教育とを分離した保育観は改めなければならない(10)。
 特にエリート主義的な、差別的発想の幼稚園については、人権尊重教育を阻害する一要因とさえ、いえる。
 以上、人権尊重教育の面から、集団保育の意義を論じたが、ここで、「乳児集団保育」の意義についても触れておきたい。
 乳児には、集団生活は成立せず、その意味からは集団保育の意義が見出せない。
 しかし子どもたちに合理的に最高のものを与えることは集団保育の大事な役割であり、子どもたちの人権を尊重することにもなる。又、当然、実際の社会的必要に迫られていることはもちろんである。
 いずれにせよ、早産である人間のゼロ歳時代は重要な時期であり、その時期の集団保育は、充分な条件を整える必要がある。

(2)、家庭
 先に2の(2)で述べたように、父母が子どもに与える教育的作用は非常に大きいものがある。
 ここでは、家庭の中で、子どもが愛され、尊重されることについて考えてみたい。
 言うまでもなく、子どもは愛されて育ってこそ、他者を愛す人間になりうる。
 しかし、家庭での愛情と、保母等の指導者の愛情は、区別しておく必要がある。
 近藤薫樹氏は、家庭で子どもをとりまく愛情を、「多くの対象にわけることのできない要素を持った愛情」として、「特異的愛情」と名付け、施設の中で子どもをとりまく愛情を、「客観性に裏づけられたヒューマニズムに近い愛情」として、「科学性のある愛情」と名付けている。そして、前者は主に情緒を育てるもの、後者は主に情操を育てるものと述べている(11)。
 このように、両者の愛情は、ともに重要であるが、家庭での愛情には、独自の教育的意義があることに注意しておきたい。
 さて、次に子どもが、きちんと尊重されるべきことについて考えてみたい。
 マカレンコは、「場合によっては、子どもが何かをぬすんだりしたら、それを追求することがきわめて大事なことがあり、みなさんがその証拠をあげ、話すことが必要だと感じるならば、話したまえ。しかし、みなさんが嫌疑のほかに何も持っておらず、彼がぬすんだという確信がないなら、第三者のあらゆる嫌疑からまもってやるべきだ。」と述べている(12)。
 これは、子どもに対する親の、小さな人権侵害を批判したものと、とらえることができる。
 しかし、次のようにも述べている。
 「わたしは、家庭ではまず第一に、親にいちばんよくすることを心から支持しています。もしあなたに絹地があれば、まず母に服をつくることです。(中略)。といっても、べつに子どもの事を考えるのをやめなさいというわけではありません。あなたは子どものことで気を使ってもいいのですが、まず第一に、親のことに気をくばるのが本当だということを子どもたちが信じるようにしなくてはなりません。(13)」
 子どもに対し、愛情をもって接し、その人権を尊重しつつ、しかも過保護に陥らずに、子が親を尊重する気持ちを養うことを、マカレンコは主張しているといえる。
 家庭での教育作用については、「特異的愛情」の性質から、「盲目的」になりやすい。マカレンコの主張に学ぶ必要がある。

(3)、地域
 地域の教育力の重要性と、その危機的状況については、「社会同和教育研究会」の昭和56年度の報告に指摘されているとおりである(14)。
 この現状を打開する一つの方策として、乳幼児の人権尊重を課題意識とする活動が有効だと考えられる。
 なぜなら、父母の行動の大きなエネルギー源は、先にも述べたように、子どものために」であり、わが子を含めた乳幼児の人権を充分保障するためには、地域活動が不可欠なのは明白だからである。
 その活動により、人権尊重の意識が、地域のいたる所で普及することが期待される。

4、乳幼児期における人権尊重教育の方法

(1)、自己教育
 人権尊重教育が、もし、学習者の主体性を無視して行われるならば、これは自己撞着であり、許されるものではない。
 ところが、対象が子どもだと、つい、その原則を忘れがちである。もちろん、成人の学習のような自己教育活動を期待はできないが、それでも、乳幼児の成長・発達の基本的原則も、やはり自己教育活動であるといわねばならない。
 矢川徳光は、幼児がスプーンを使いこなす自由を手に入れる経過について述べ、「いまのばあい幼児が手に入れた自由や解放は、まえでもちょっといいましたように、母親からのたんなる頂戴物ではなくて、母親の援助や指導が必要ではありましたが、それでもなお、幼児はじぶんの側の活動によって獲得したのでした。その獲得活動の主体(し手)は子どもだったのです。このことは、子どもは自分の発達を創りだした当人つまり主体であるということを意味しています。(15)」と述べている。
 このように、乳幼児期の学習をも、その本質を「自己教育活動」であると認識することは、人権尊重教育にとっても、大変意味のあることである。
 なぜなら、乳幼児の発達の主体をきちんと認識することは、子どもを親の「従属物」としてしかとらえない封建的な考え方を否定し、子どもの人権を尊重し、その上での親や指導者の役割を正確に認識することにつながるからである。

(2)相互教育
 前出「兎の眼」で、淳一は、知恵遅れの、みな子の世話で成長し、のみならず、「そういう機会をみんなにわけてやろう」と、「みな子当番」を提案する。
 そこには、相互教育の活動のすばらしさが、いきいきと描かれている。
 このように相互教育の成果を挙げようとするならば、その子どもが差別的な価値観を持っていては不可能である。
 さらに、子どもたちの帰属する集団が、利己的競争、差別・分断の場でなく、子どもなりに心から愛せる集団でなくては、相互教育の生命力は失われてしまうだろう。
 前出、「窓ぎわのトットちゃん」で、子どもたちは、「トモエ学園、ボロ学校!入ってみても、ボロ学校!」という、はやし歌に憤慨して、「トモエ学園、いい学校!入ってみても、いい学校!」と歌いながら行進する。
 帰属集団へのそれほどの愛着があってこそ、相互教育の良さが生きる。

(3)、教育的指導性
 以上のように、自己教育、相互教育の意義は大きなものがあるが、その上で、保母等の指導者には、「教育的指導性」が求められる。
 ここでは、さまざまな側面から、逐一、それを検討することは避けたい。しかし、いずれにせよ、「教育的指導性」を簡単に公式化することはできないはずである。
 近藤薫樹氏は、「親や教師が、ある時、ある所で、子どもに対してとるべき言動は、自分のおかれた条件の中で、自分の頭で思考し、自分の責任において行われなければならない(16)」とし、指導者の自主的思考の重要性を主張している。
 我々も、「教育的指導性とは何か」の解答を、単に技術論的に安易に求めるべきではないと思われる。

5、乳幼児期における人権尊重教育の内容

(1)、差別観を注入しないこと
 クルプスカヤは、「あらゆる民族の子の友情について」という文で、ポーランド人、ユダヤ人、タタール人の子どもたちと、子どもどうしの交流を深めたこと、そして、その後ユダヤ人やポーランド人の虐待を聞いて、無性に腹が立ったということを述べている(17)。
 又、前出の「窓ぎわのトットちゃん」で、アメリカ育ちの級友に対して、子どもたちは仲良く交流し、政府が「アメリカ人は鬼」と発表しても、そんなことにはおかまいなく、楽しく英語を教えてもらっている。
 又、トットちゃんは、朝鮮人差別の不当性を母親から教わり、朝鮮人の子供に対しても「みんな同じ子供!」といって友達になろうと決意する。
 このように、子どもには、生まれつきの差別的価値観は、ありえない。親や社会が後から、植えつけるのである。
 だから、乳幼児期の人権尊重教育を行なう場合、大切な前提として、「差別感を注入しないこと」をとりあえず、まっ先に徹底するべきである。

(2)、競争と連帯
 他人に対する連帯意識を育てることが、人権尊重教育の目的の一つであることは、明らかである。
 しかし、それは、何の波乱もなしに自然に獲得されるものではない。
 松田道雄氏は、「人間が人間にたいしていだくものは、権力欲であり、競争心であり、名誉心であり、怨恨であります。そういうものの交錯のなかで、人間は自分の主人でありつづけるにはどうするかを、試行錯誤していくのです。(18)」と、むしろ、「競争」を最初の動機として積極的に評価している。
 競争の状態を少しでもなくすことが重要なのではなくて、「競争」が「連帯」に止揚されるプロセスこそ重視しなければならない。
 それゆえ、人権尊重教育だからと言って、機械的にすべての競争的要素を教育課程から排除しようとすることは妥当ではない。むしろ、ある時には、「競争」を意図的に導入することも必要である。
 問題なのは、その競争が、差別的価値観に基づいて行われる時であろう。たとえば、ゲームで負けると「乞食」にさせたり、みんなの前で罰ゲームをやらせたりというのでは、子どもに対して「競争」が差別観を助長することになりかねない。
 さらに近藤薫樹氏は、けんかについて、「相手の言い分に筋が通っていようがいまいが、自分の情緒の方はらおさまらない。知性の枠組みに取り込まれることを拒んであばれる」ことだと言っている。しかし、そのけんかを否定的にとらえているのではなく、「後でけんか相手に対して燃えていた(怒りの)情緒が、自分の(補強された)思考の枠組みの中にとりこまれ、おさまる。いくらか、スーとしてくる。」として、「こういう感情体験はなかなか大切なもの」と評価している(19)。
 逆説的ではあるが、「けんか」により、「連帯」の端緒をつかむと考えて良いだろう。
 しかし、近藤薫樹氏は続けて、近ごろ、子どものけんかは激減しており、「おとなっぽい物わかりのよさがあって、いやなことされても、『ふん』とせせら笑って避けてしまう。『おまえがそう思うんなら、そうしたらいいだろう』(オレはかかわらないぞ)という調子で、大きいけんかにはならない」と述べている(20)。
 この「けんかの激減」という現実こそ、まさに子どもの連帯意識の危機をあらわすものといえるだろう。

(3)、情緒、情操、知力
 情緒(感覚的感情)は、「心のエネルギー」であり、情緒に欠ければ、他人に対して冷たい、無気力な子どもになってしまう。
 情操(道徳的感情)は、「当面の情緒に乱されないで、より正しいもの、より美しいものを志向する、かなり恒常性をもった、高度の感情(21)」であり、情操に欠ければ、他者の人権を尊重できる人間にはなりえない。
 乳幼児期における人権尊重教育にとって、豊かな情緒と情操はともに大切だが、無関係に存在するものではない。近藤薫樹氏は、「やさしい心という情操の場合もやっぱり、情緒に点火、そのエネルギーが上昇して、思考(一定の知的活動)をくぐる。くぐるときに、一定の思考の枠にはめこまれる。そして知性と一体になって働く感情である。」とその関係を示している。
 さらに思考力の発達も重要である。たとえば、きちんとした論理的思考をしない子どもについて近藤薫樹氏は次のように述べている。
 「小学校三、四年生にもなれば、『あの子は三歳のとき病気になって耳が聞こえなくなったんだ』と聞けば、同情と協力の感情が流れて然るべきです。それなのに、非論理的で情緒的な子どもは『あのツンボの子と遊ぶと、何かたたりがあるかもよ』などという言葉に容易にひっかかってしまいやすいのです。(22)」
 そして、「今日、乳幼児保育における思考力養成を軽視し、あるいはこれを葬りさってしまおうとする(23)」流れに警鐘を鳴らしている。
 乳幼児期における人権尊重教育では、情緒、情操、知力を総合的に豊かなものにしていくことが必要である。

(4)、自主的思考
 親や指導者にとって望ましい子ども像として、「すなおな心の子」が挙げられることに異議のありようはずはない。
 しかし、近藤薫樹氏は、それが「大人のいうことにすなおに従う子」を意味するならば反対であり、自主的思考ができて、「自分の思うことをすなおにいえる子」を意味しているなら大賛成だとしている(24)。
 この自主的思考は、世の中の不合理な差別や偏見に流されず、正しい判断ができる人間になるためには是非必要な能力である。
 又、各人が、お互いの自主的思考を認め合い、尊重する態度は、民主的な人権尊重の態度ともいえる。
 乳幼児期における人権尊重教育においても、私達は、良い意味での「すなお」な子どもを育てていかねばならない。
  国民一人一人の自主的思考が阻害されていたり、あっても全体としては、うまく機能していない今日、そういう民主主義の危機を、新しい世代が、たくましく克服していけるよう、乳幼児期における人権尊重教育を進めてゆかねばならない。

6、おわりに

 乳幼児期における人権尊重教育について、諸側面から論じてきたが、その問題のほとんどは、乳幼児自身の問題ではなく、一言でいえば、大人および、その大人たちが作り出している社会の問題であった。
 しかし、それは、乳幼児期の人権尊重教育が無力であることを意味するものではない。
 今まで論じてきたように、乳幼児期における人権尊重教育を追求していくとすれば、一つには、子ども自身の力と、父母の「特異的愛情」、指導者の「科学性のある愛情」の力が、そういう障害をのりこえて前進することを可能にするし、又、このような人権尊重教育は、既存の障害、そのものを変革してゆく力を持った新しい世代を作り出してゆくことにもなると思われる。
 乳幼児期における人権尊重教育の一層の推進が期待される次第である。
(完)




(1) 近藤薫樹「集団保育とこころの発達」(新日本新書)、 p 165。ここでは、未開放部落の子どもの多い保育園と、キャバレーなどの夜間の保育園が並列的に記されている。
(2) 同 
(3) 社会同和教育研究会「乳幼児期における人権尊重教育の推進のためにV」、 p 5。
(4) 近藤薫樹「子どもの成長と脳のはたらき」(有斐閣新書)、 p 31。
(5) 前掲「集団保育とこころの発達」 p 168。
(6) 同、 p 187。
(7) 「乳幼児期における人権尊重教育の推進のためにU」、 p 35。
(8) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 92。
(9) 同、p94〜95。
(10) 同、 p 152〜153。
(11) 同、 p 45。
(12) マカレンコ「愛と規律の家庭教育」(青木書店)、 p 147。
(13) 同、 p 157。
(14) 前掲「V」、 p 20〜23。
(15) 矢川徳光「教育とはなにか」(新日本新書)、 p 51。
(16) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 183。
(17) クルプスカヤ「家庭教育論」(青木書店)、 p 153〜154。
(18) 松田道雄「自由を子どもに」(岩波新書)、 p 148。
(19) 前掲「子どもの成長と脳のはたらき」、 p 36〜37。
(20) 同、 p 38
(21) 同、 p 30。
(22) 同、 p 56〜57。
(23) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 134。
(24) 同、 p 130。




        社会教育施設に「関係」のあふれた情報提供機能を
                                西村美東士
1,「押しつけがましさ」の克服
 社会教育施設では、あることをわかってもらおうとするあまり、他の「対抗的」な情報や全面的な情報を知らせず、都合の良い所だけ強調する傾向を見受けることがある。この場合、たとえそれが善意のものであっても、情報の受け手は、自然にその意図を感じとってしまい、「押しつけがましさ」に反発しがちである。
 住宅を購入する時のことを考えてみたい。不動産業者に「これは絶対、掘り出し物。早く買ってしまいなさい。」と薦められたとしても、安易にその気にはなれない。不動産に掘り出し物などやたらにはないはず、滅法安ければ、どこかに欠陥があるとも考えられる。「安い、良い」といういかにも一方的な情報は信じる気にはなれないし、時にはその「押しつけがましさ」が迷惑な時さえある。
 これに対して、「物件はたくさんあります。見たい物件があったら、どんどん言ってください。いくらでも見せてあげましょう。そのうちに住宅を見る眼もできてきますよ。」と言える業者には、相当の信頼を置くことができる。たくさんの情報を示し、お客自信の主体的な判断を促すということは、現代の「商道徳」とも言える。
 同様に社会教育施設においても、いろいろな事についての情報を、広くプラスマイナスを合わせて提供し、利用者自信がそこから何かを学びとり、自主的な判断ができるようにするということが大切である。
 又、現実の身近な問題として、さまざまに「ああせよ」「こうせよ」と書いた「はり紙」の問題が挙げられる。(「本はきちんと片づけましょう」など)。これも利用者からは「押しつけ的」と反発されがちである。
 むしろ、本が一目瞭然にわかり易い所にわかり易く整理されていて、その「しまい方」の情報がきちんと提供されていることの方がはるかに効果的であろう。
 情報提供の「効用」が意外に忘れ去られていて、「押しつけ」と「反発」が無用に繰り返されているのではないだろうか。
2,情報提供と「関係」
 周囲に情報がいくらあっても、それが自分が生きていることと関わりのない情報ばかりであるとすれば、情報の受け手は疎外感を強めるだけである。「情報過多」とはそんな状態をいうのであろう。「関わり」すなわち「関係」が重要である。
 ここでいう「関係」とは、表面的なことにとどまらず、情報の受け手に何かを訴える力をもっていたり、情報の送り手からの一方通行ではなく、受け手からの何らかのフィードバックをともなうものだと考える。
 今後、ニューメディアが発達し、高度に情報化した社会になることが確実であるが、そのことはあくまでもコミュニケーションの「手段」が発達することでしかない。この「手段」を活かしつつ、一人一人の幸福に貢献できる、すなわち「関係」にあふれた情報の「中味」を創らなければならない。又、これらの間接的なコミュニケーションばかりでなく、直接人と人とが接するコミュニケーション(パーソナルコミュニケーション)の方も、ますます充実させなければならない。
 たとえば放送大学等、放送を媒体とした教育機会が、今後ますます拡充されることが予想されるが、そのプログラムをいかに学習者に深く響くものにするか、そして講師と学習者、あるいは学習者同志の働きかけをいかにもつかが大きな課題になる。
 高度情報化社会の課題をこのように考えた時、社会教育の特徴を発揮して「関係」にみちあふれた情報を提供することは、社会教育施設の大変ユニークかつ重要な役割である
3,人間的、生活的、全面的、今日的、そして「つながり」の情報を
 それでは、この「関係」にみちあふれた情報とは具体的には何であろうか。
 それは「情報」という言葉が、普通、情報の受け手として「個人」を想定し、また、どちらかと言えば無機的で、時には「価値観を伴わないもの」という響きさえあるのに対し、実は次のようなものでなければならないのではないだろうか。
  「人間的」・・・人間が人間として求める、人間に関するナマの情報
  「生活的」・・・人間が実際の生活から求める情報
  「全面的」・・・人間が生きていく上での喜怒哀楽に関するあらゆる情報
  「今日的」・・・過去の資料よりも、人間が今、つきあたっている課題に関する   、今の情報
  「つながり」・・・一人一人の人間を基礎にしつつも、情報の受け手が、それを   もとに活動したり、他の人間とつながったりするための情報
 たとえば、ある一人の青年が就職や転職を考えている時、全国の就職動向や離転職状況等の資料はすぐ手に入る。しかし青年は、実際に社会で働く人間が、具体的にどのような労働条件で、どんな働きがいをもって、どんな形でその仕事にとりくんでいるのか、そういう「ナマ」の情報をこそ求めている。
 さらには、就職や転職で現在悩んでいる人、過去に悩んだことのある人が、その情報提供機関を仲介にして、悩みや体験を交流しあえればすばらしい。
 社会教育施設ではそのような情報提供をすべきである。
4,地域情報・行政情報の提供
 地域との「関係」が人から奪われつつある状況の中で、人と人との「関係」が豊かに育まれるコミュニティーが渇望される今日、地域や行政の本当の意味での「主人公」としての住民に、地域情報・行政情報を提供することは非常に大きな意味がある。そしてこれらの情報は、とりもなおさず「関係」の情報である。
 その際、地域情報とは、地域で生まれた情報及びその地域に関するあらゆる情報ととらえ、行政情報とは、行政の発行する資料だけではなく、未だ資料化されていない情報を含む行政に関する情報の総体としてとらえるべきだと考える。
 これらの情報の提供のためには、提供側の「柔軟性」が大いに必要である。
 行政情報の場合、行政から出した資料ばかりでなく、今行政が何をやっており、何をやろうとしているのかという情報まで求められる。又、たとえば来年度予算がどうなるかを、行政が冊子にして発行するのは随分後のことになってしまう。しかし、新聞ですぐ報道されるわけだから、それを使えば行政が正式に発行する資料を待たずして、その情報が提供できる。
 このように、行政情報や地域情報を提供しようとするならば、既存の行政ルートで機械的に入手できるものだけでは当然足りないので、情報源の開拓等に関して創意工夫が必要である。
 さらに、行政情報や地域情報というのは、ごく薄いリーフレットや、時には紙っぺら一枚であったり、規格がさまざまであったりして、その整理には大変苦労するところである。これらの決定的な解決策というものは、まだどこにもない。しかし、紙っぺら一枚の「資料」が、重要な意味をもつこともあり、あだやおろそかにはできない。
 これらの「整理上の問題」は、極めて技術的な問題であるが、やはりここでも柔軟な創意工夫が必要であることは確かである。
5,カウンセリング・グループワークの位置づけ
 社会教育施設における情報提供において、「ナマ」の情報提供に力点が置かれるとすれば、それは簡単な情報提供では事足らず、明確な解答のないものや、相手の「自立」「成長」により初めてその解決がなしうるもの等が予想される。このような情報提供には相談活動が不可避的に伴うことになる。
 その場合、家庭・地域・社会の教育力が低下し、一人一人がバラバラになりつつある社会において、とりわけ自ら、あるいは自ら所属する集団の中で、個々の問題を解決できずにいる人に対しては、その自立、成長のプロセスをサポートするための、カウンセリングやグループワークの手法が非常に有効である。
 カウンセリングでは、カウンセラーが相手の話をよく聴いてやることにより、相手が自ら問題の所在にきづき解決する能力を身につけるようサポートする。
 又、グループワークにおいては、自己と他者の「感情の交流」を重視し、メンバーがワーカーの「支え」の上に、自ら自己及び他者との関係、そして「ともに生きること」を学ぶことが重視されている。
 これらに対して、従来の社会教育においては、対象を「マス」(集団)としてのみとらえがちで、一人一人の感情や気持への配慮が充分ではなかった。その反省の上で、社会教育施設における相談事業は、カウンセリングやグループワークの理論に習い、
   相手の話をよく聴くこと
   相手の「気持」や「感情」を理解し、大切にすること
   「感情の交流」を大切にすること
   相手が自ら「気づく」ようサポートすること
が大切である。
6,情報提供の個性化とシステム化
 単独の一つの施設が、市民の求めるあらゆる情報をそろえておくことは不可能であり、それは図書館においてさえ同様である。
 それゆえ図書館には、「資料を一ヵ所のものにとどめず、ネットワークにより、どこでも使えるようにする」という「システム化」の考え方がある。
 一般の社会教育施設においても、他の機関の利用方法等について、職員がよく理解していることを前提とすることができれば、個々の社会教育施設の情報提供の種類には、相当な「個性」が許されるであろう。そこには、地域性や、時には職員等の個性が反映することもありうる。個性を持ち、あることがらに深く関わることにより、その本質にも迫ることができよう。
 社会教育施設における情報提供では、個々の施設の「個性化」と、全体としての「システム化」の両方を統一的に進めることが必要である。
 なお、民間企業の活力の根源を考えた場合、そこには、コンペティター(競争者)の存在がある。今日のカタログ誌、情報誌の氾濫を見ても、それらがしのぎを削りあう中、読者は自由にそこから選択することができる。これは結果としての「読者主体」であり、魅力の要因の一つはそこにある。公的社会教育施設においても、完全な自由競争は無理でも、お互いが刺激しあって、個性を発揮することは必要である。
 しかし一方、情報、特に公的社会教育施設が取り扱おうとする情報は、その性格上、特定の機関の独占物にすべきではないという側面を持つ。むしろ各所(できれば民間の情報機能も含めて)の「共有化」をはかるべきものである。そのための連絡、調整等の機能の発揮は、「公」に対してこそ、とくに求められるものであり、公的社会教育施設も、その役割の一環を担うべきである。「コンペティション」(競争)と「コオペレーション」(協力)の両立が求められていると言えよう。
 なお、今、カタログ誌、情報誌の魅力について述べたが、これらの雑誌によって情報が自由に求められる反面、一人一人違っているはずの読者の思考様式が、いつの間にか出版物の「傾向」に沿ってステロタイプ化されてしまうという危険も認められる。これが「カタログ誌文化」や「情報誌文化」の問題であろう。
 社会教育施設においては、情報提供の「個性」を追求する際、「情報の受け手の主体的思考を促す」という基本原則の上に発揮されるべきであるということをつけ加えておきたい。
7,情報の整理と提供がさらに認識を育てる
 人間は情報を整理するという「作業」の中で、あたまの中に認識を育てる。このことは、社会教育施設で組織的に情報整理を行なう場合でも同じである。
 さらに情報提供の段階でも、情報の受け手からのフィードバックにより、提供した側の認識も育つ。
 これらのことがうまく作用するためには、「利用者主体」の考え方が不可欠である。「学習者主体」は、社会教育の基本でもあるが、情報提供においても、利用者の立場に立った情報の収集・整理をし、その利用による「検証」があるからこそ、そこで社会教育施設の側の認識も高まりうるのである。
 たとえば、情報の「加工」としての広報誌の編集において、そのことは端的に示される。市民との密接な関係の中で、ナマのふん囲気の中で取材し、市民感覚を極力取り入れた編集を心がけ、発行後の市民の反応にアンテナをはりめぐらせるとすれば、そのプロセスの中で、社会教育施設の認識は大いに発展しよう。
 逆に読まれようが読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけならば、そんな効果は望めない。
 「利用者主体」とは言葉を変えれば、利用者との「関係」にみちあふれた状態と言うことができる。
8,おわりに
 近い将来、コンピューターの端末等が個々の家庭に普及し、ニューメディア等も加わって、「情報化」がますます進展することは明らかである。
 しかし、コンピューターやニューメディアは、一面では非常に便利で有効だが、その反面、市民の立場に立った情報提供と、それを選択し判断する市民の主体性が、今まで以上に必要になるであろう。
 このような意味から、「情報化社会」の中で、社会教育施設が情報提供機能を発揮する役割は、ますます重要になってくる。
 その際、市民との「関係」にみちあふれた社会教育施設から、市民との「関係」にみちあふれた情報が、いきいきと提供されるよう願ってやまない。
                                  (以上)
社会教育施設に「関係」のあふれた情報提供機能を(要旨)
1,「押しつけがましさ」の克服
 情報提供の「効用」が意外に忘れ去られていて、「押しつけ」と「反発」が無用に繰り返されているのではないだろうか。
2,情報提供と「関係」
 周囲に情報がいくらあっても、それが自分が生きていることと関わりのない情報ばかりであるとすれば、情報の受け手は疎外感を強めるだけである。「情報過多」とはそんな状態をいうのであろう。「関わり」すなわち「関係」が重要である。
 社会教育の特徴を発揮して「関係」にみちあふれた情報を提供することは、社会教育施設の大変ユニークかつ重要な役割である
3,人間的、生活的、全面的、今日的、そして「つながり」の情報を
  「人間的」・・・人間が人間として求める、人間に関するナマの情報
  「生活的」・・・人間が実際の生活から求める情報
  「全面的」・・・人間が生きていく上での喜怒哀楽に関するあらゆる情報
  「今日的」・・・過去の資料よりも、人間が今、つきあたっている課題に関する   、今の情報
  「つながり」・・・一人一人の人間を基礎にしつつも、情報の受け手が、それを   もとに活動したり、他の人間とつながったりするための情報
4,地域情報・行政情報の提供
 地域との「関係」が人から奪われつつある状況の中で、人と人との「関係」が豊かに育まれるコミュニティーが渇望される今日、地域や行政の本当の意味での「主人公」としての住民に、地域情報・行政情報を提供することは非常に大きな意味がある。そしてこれらの情報は、とりもなおさず「関係」の情報である。
 その際、地域情報とは、地域で生まれた情報及びその地域に関するあらゆる情報ととらえ、行政情報とは、行政の発行する資料だけではなく、未だ資料化されていない情報を含む行政に関する情報の総体としてとらえるべきだと考える。
 これらの情報の提供のためには、提供側の「柔軟性」が大いに必要である。
5,カウンセリング・グループワークの位置づけ
 社会教育施設における情報提供において、「ナマ」の情報提供に力点が置かれるとすれば、それは簡単な情報提供では事足らず、明確な解答のないものや、相手の「自立」「成長」により初めてその解決がなしうるもの等が予想される。このような情報提供には相談活動が不可避的に伴うことになる。
 従来の社会教育においては、対象を「マス」(集団)としてのみとらえがちで、一人一人の感情や気持への配慮が充分ではなかった。その反省の上で、社会教育施設における相談事業は、カウンセリングやグループワークの理論に習い、
  1 相手の話をよく聴くこと
  2 相手の「気持」や「感情」を理解し、大切にすること
  3 「感情の交流」を大切にすること
  4 相手が自ら「気づく」ようサポートすること
が大切である。
6,情報提供の個性化とシステム化
 社会教育施設における情報提供では、個々の施設の「個性化」と、全体としての「システム化」の両方を統一的に進めることが必要である。
 民間企業の活力の根源を考えた場合、そこには、コンペティター(競争者)の存在がある。今日のカタログ誌、情報誌の氾濫を見ても、それらがしのぎを削りあう中、読者は自由にそこから選択することができる。これは結果としての「読者主体」であり、魅力の要因の一つはそこにある。公的社会教育施設においても、完全な自由競争は無理でも、お互いが刺激しあって、個性を発揮することは必要である。
 しかし一方、情報、特に公的社会教育施設が取り扱おうとする情報は、その性格上、特定の機関の独占物にすべきではないという側面を持つ。むしろ各所(できれば民間の情報機能も含めて)の「共有化」をはかるべきものである。そのための連絡、調整等の機能の発揮は、「公」に対してこそ、とくに求められるものであり、公的社会教育施設も、その役割の一環を担うべきである。「コンペティション」(競争)と「コオペレーション」(協力)の両立が求められていると言えよう。
7,情報の整理と提供がさらに認識を育てる
 「利用者主体」とは言葉を変えれば、利用者との「関係」にみちあふれた状態と言うことができる。
8,おわりに
 近い将来、コンピューターの端末等が個々の家庭に普及し、ニューメディア等も加わって、「情報化」がますます進展することは明らかである。
 しかし、コンピューターやニューメディアは、一面では非常に便利で有効だが、その反面、市民の立場に立った情報提供と、それを選択し判断する市民の主体性が、今まで以上に必要になるであろう。
 このような意味から、「情報化社会」の中で、社会教育施設が情報提供機能を発揮する役割は、ますます重要になってくる。
 その際、市民との「関係」にみちあふれた社会教育施設から、市民との「関係」にみちあふれた情報が、いきいきと提供されるよう願ってやまない。
                                        感想
 職場で入賞の知らせをいただきましたが、とにかくうれしくてうれしくて、さっそく一階の公衆電話から、女房の働く保育園に電話をしました。そうしたら、「こんな忙しい時間にかけてきたらだめよ。もうかけてこないでね。」、ガチャッ、と冷たく切られてしまいました。でも、その夜、大いに飲んで一時ごろ帰ったのですが、それでも彼女は玄関で、「おめでとう」と迎えてくれたのです。
 今回の論文は、武蔵野青年の家で三年間やってきた「情報講座」で、本当にさまざまな立場の人が、心をこめて教えてくれたことを、社会教育の立場からまとめたものです。
 社会教育の人々が「教育」という名のもとに安住し、「情報」に対して切実感を持ちきれないでいる間に(失礼!そんなのは私だけかもしれません)、青年団体のリーダーが情報過多の社会の中での自分達の機関紙のあり方を模索し、図書館職員が情報公開に対する自分たちの役割を追及し、一般行政の職員が住民にどうしても提供したい情報をいかに提供すべきかトライをくりかえしているのです。そんな姿を見ながら、社会教育における情報提供の必要性と可能性を痛感しました。
 われわれ社会教育関係者は、まず情報化社会の「便利さ」につくづくひたりそれを味わうこと、次には、それがそれだけでは意外につまらなく味気ないことを、とりあえず体験を通して知ることから始めるべきだろうと思います。
                                  西村美東士                                         社会教育とマイクロコンピューター
 社会教育はなぜマイコンに注目しなければならないか
1 新しい「文化」としてのマイコン
 カリフォルニア州サンタクララ郡のかの「シリコンバレー」では、60年代以降、トランジスタからICへ、そして数ミリ角の面積に数千から数万の素子を組み込んだLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、1971年インテル社から4ビットのマイクロプロセッサーが生まれる。
 マイクロプロセッサー(MPU)は、LSIによって構成され、中央処理機能(CPU)としての役割を果たすものである。これに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピューターすなわちマイコンになるわけである。
 しかし当初すぐ、コンピューターのメーカーが、マイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。コンピューターメーカーが個人用のコンピューターを志すのは、ずっと後になってからである。マイクロプロセッサーは、大手企業により家電製品に使用されることはあっても、マイコンの中で使おうとしたのは、最初はホビイストたちであったり、ごく小さな会社が「キット型マイコン」として売り出したりしたのであった。日本でもそれはブームとなり、秋葉原がマニアのメッカとなった。しかしそのころのマイコンブームは、特別な知的関心を寄せる一部の人々のものであり、社会全体の文化とはほど遠いものであった。
 ただし、当時のマイコンブームは、ファンの数は少なくても、大変熱狂的であったこと、そして自作機の製作などにおいて、独創的かつ進取的であったことなどは、現在迎えようとしているマイコンの「大衆化」における状況とは、若干の相違があり、その示唆するところも多いと思われるので、注目に値する。
 80年代に入り、日本でもキーボード、ディスプレー、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、それは大変な勢いで普及しつつある。そしてマイコンは社会の新しい「文化」を形成しつつある。
 コンピューターそのものは、1945年の世界初のコンピューター「ENIAC」にまでさかのぼり、現在までの歴史を持つものである。そしてコンピューターは、ハイテクノロジーの中でも最先端として、社会の経済活動や経済基盤等に少なくない影響を与えてきた。しかし、それだけならばコンピューターは一部のエリートによる使用と、プログラミング労働、そして残り大多数のコンピューターの支配下にある労働をもたらしているだけとしか言えない。それを社会教育で生産性向上と「人間性疎外」との葛藤の問題としてとりあげることはあっても、コンピューターの具体的かつ技術的な問題を直接論ずる必要は認められない。
 このような従来のコンピューターの性格とは異なり、先程述べたマイクロプロセッサーの登場と、それを使った個人でも充分購入可能なマイコンの普及こそが、マイコン文化の成立条件となっているのである。そして、マイコンに仕事をさせようとする場合、一昔前のような難解な機械語などではなく、個人が使いこなすことのできるBASIC語やあるいは簡易言語、ソフト等が整備されつつある。さらには、このマイコンの機能は、従来のテクノロジーの主たる目的である「生産性の向上」の延長だけではなく、「個人」の知的活動や遊びとしても使われようとしているのである。(なお本論でマイコンに「仕事」をさせるというのは、いわゆるマイコン用語で、生産に結びつくものばかりでなく、ゲーム等の遊びのための利用も含んでいる。)
 このようにマイコンは今後ますます大衆的にかつ精神的側面で利用される見通しであるからこそ、それは新しい「文化」として社会教育が大いに注目すべき存在なのである。
2 マイコン文化の新しさ
 コンピューターはカリキュレーターと違って、数値計算にとどまらず、入力されたデータの判断や外部の機械へのアウトプットをすることができる。しかもそれに仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をすることができる。それは大型のコンピューターばかりでなく、小さなマイコンでも同じである。このようなマイコンの「汎用性」は、マイコン文化の新しさの最も基本的な要因となっている。
 第一に、「汎用」であることから、マイコンは一人一人の個別な要求に応じて、多様な仕事をすることができる。現代社会の大量生産、大量消費の図式をまる写しにした形での従来の画一的文化とは、若干様相を異にするのである。この「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する傾向である。(個別性)
 第二に、「汎用」ということは、裏返せば、マイコンという与えられた「箱」だけあっても何の役にも立たないということであり、よってこの「箱」を役立たせるためには一人一人の何らかの力量を必要とする。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことに始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには簡単なプログラム作りを自分の手でやってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者の「わずらわしさ」を解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたこととは異なり、少なくとも、現段階では、マイコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)
 第三に、「汎用」ということから、個別に利用される時点で、それまでにはなかった仕事をさせることが、大いに可能である。お膳立てされたものの「利用」だけではなく、個人が自由に工夫をこらす余地があるのである。しかもその「工夫」により、欠陥(バグ)を何度も改善してプログラムを完成した時、その成功が結果として明白に表れることから、素晴らしい達成感を味わうことができる。(創造性)
 以上のことから、マイコン=パーソナル・コンピューターは、文字通りパーソナルな知的道具として登場している。それは、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは、若干異なる文化を生み出す可能性を潜めているのである。
 ただし、今日の企業がこのようなマイコンの「汎用性」を軽視し、今後扱い易い、しかしその分、出来合いの仕事しかしない利用目的の限られたマイコンの生産に傾くならば、マイコンは今までの受動的家電製品と変わりないものになってしまう。もちろん、誰にもわかりやすくということが大切であるのは否定できないが、それは例えばシステムがシンプルであるということであって、決して出来合いの機能しか果たせない「専用機」になってしまってはいけないのである。現に例えば、CAPTAINシステムの端末処理はマイコンに少し手を加えれば充分なはずなのに、それが別途CAPTAIN専用機として売り出されているのは解せないことである。
 また、ユーザーの側が、市販ソフトでゲームに興ずるという、マイコン利用の初歩で満足してしまうなら、これも単なるゲームセンターの客と変わらず、「汎用性」は活かされない。
 さらには、現実に要請の強いいわゆる「プログラムレス」のマイコンが出来てくれば、それはもちろん便利であり、またあらたな利用形態を切り開く可能性があることの反面、その極端な利用形態として、人間は何も考えずにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性もはらんでいるのである。
 このようにマイコン文化は、過渡期にあり、多分に流動的でもある。
3 マイコン文化の危険性
 マイコンは、「一人」のユーザーと、その人の占有するマシーンとが対面することを前提とするものである。この点からもマイコン=パーソナル・コンピューターは文字通りパーソナルなのである。そしてマイコン文化の危険性はここから生ずる。
 文化とは、クラックホーンによれば、「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」である。よって、そもそも文化とは、良きにつけ悪しきにつけ、人間関係を伴うものである。
 しかしテクノロジーの発達は人間の感情や意思の交流を機械的手段によって媒介するようになった。そこでは、人間のなまの感情や意思が、その活力を削がれたり、画一化されたりする危険がある。マイコンの場合も同様である。けれどもその「機械的手段」により、広く大量な人間のそれらの交流が可能になっている側面もあり、テクノロジーの発達そのものが文化や人間関係の阻害要因になっているかどうかは、一概には断定できない。例えば無線機器の進歩は、たくさんのアマチュア無線愛好家を生み出し、遠くの見ず知らずの人と電波で交流することを可能にしている。
 ところがマイコン文化は、いったんマシーンと面と向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きですませることも可能であるという、全く新しい文化である。マスコミでさえも、その取り扱う内容は人間に関することばかりであった。人間疎外のオートメーション工場でも、その製品は他の人間に使われるべく生産される。しかしマイコンの場合は、全く人間に関係のない内容の仕事をさせ、その成果について一人で満足することが充分ありうる。マイコンの利用そのものが、自己目的化してしまうのである。しかもそれが非常に「楽しい」のであるから、始末が悪い。
 このようなマイコンの極端に「パーソナル」な性質は、マイコンを愛好する「特定のメンバー」はあっても、そのメンバーの間の人間関係やまわりの社会との関係は全然持とうとしないという恐るべき文化を形成する危険性を持っている。
 実際に、クレイグ・ブロードは、その著「テクノストレス」において、コンピューター相手の仕事をしているある研究者が次のような症状に陥っていることを報告している。
 「家庭に戻ると乱雑さが気になる。妻はのろまで会話にはイライラさせられる。世間話などまっぴら、そこで仕事を持って帰る。一人きりになれるからだ。」
 この研究者にとってコンピューターの仕事は苦役ではない。むしろものすごい速さで(マイコンの場合でも一秒間に数十万回)正確に、与えられた仕事をこなしてくれるコンピューターに慣れ親しんでいる。しかしその分、「のろま」でイエス・ノーのはっきりしない、本物の人間とはつきあっていられなくなってしまったのである。
 今の日本の子どもたちの中にも、友達とつきあいもせずに、マイコンゲームに没頭している子も多いと思う。
 文化行政の一端を担う社会教育行政が、このようなマイコン文化の持つ危険性に無関心であってよいはずがない。
4 コンピューターリテラシー学習の必要性
 コンピューターの急速な発展に伴い、コンピューターリテラシー(読み書き能力)の学習が緊急に必要になっている。
 人間が言語を持つようになってから長い時間がたっている。それでも言語、特に文字言語については、各人の能力に断然たる差があり、例えば「文盲」に近い人であれば、その人は文明社会の中では、大変不利な取り扱いを受けたり、生き死にに関わる危険な目にあうこともあるだろう。しかも、その「各人の差」は、その人の教育環境等に規定される部分も大きい。文字言語リテラシーの差が、階層間の格差を生み出し、それが又、文字言語リテラシーの差を生み出しているのである。
 コンピューターの場合はどうだろうか。文字言語の形成と比較して、比べものにならないほどのスピードでコンピューター言語は形成されてきている。また、その形成は、文字言語の形成が大衆によるものであったのに対して、ごく一部のハイテクノロジーエリートによるものである。よって「各人の能力差」は、文字言語以上のはっきりした差がある。そこにおける最も大きな格差は、「できる」と「できない」である。これは大変恐ろしいことである。
 コンピューターの急速な普及の中で、この各人の差を放置しておくならば、一部の「できる人」と、コンピューターに「使われる」他の「できない人」とに、今後明確に二分されてしまうであろう。ここにコンピューターリテラシー学習の必要性と緊急性がある。
 もちろん、すべての人が、コンピューターのハードエンジニアであり、かつプログラマーであることが必要なのではない。これは、自動車の運転は、自動車の設計ができない人でも充分可能であることと同じである。
 しかし、自動車が移動と運搬の手段であるのに対して、コンピューターはコンピューター用語でいう「情報処理」という広い仕事が可能である。それゆえコンピューターのこの「汎用性」は今後、あらゆる人の労働と生活に関わってくるであろう。その時に、最低限のコンピューターリテラシーさえ知らない人は、コンピューターの摂取はおろか、的確な批判さえできないのである。
 社会教育が行おうとするコンピューターリテラシー教育の目的は、ハイテクのエリートをつくることではなく、すべての人が、今後好むと好まざるとに関わらず普及するであろうコンピューターについて、主体的に摂取したり、批判したりするための、最低限のコンピューターリテラシーの習得を援助することなのである。
社会教育におけるマイコンの具体的諸機能の利用
1 CALCULATE(集計)
 1979年、社員わずか2名のパーソナル・ソフトウェア社(現ビジコープ社)から米国のマイコン、「アップル」に適合するソフト、「ビジカルク」が発売される。そしてこの「ビジカルク」については、他のマイコンのためにも、たくさんの翻訳ソフトが出されている。これが、マイコンを有能なビジネスマシンに変えるソフトとして、以降のマイコンの利用に大きな影響を与えたのである。
 「ビジカルク」は、最大縦254行、横63列のありとあらゆる種類の集計をやってしまう。そして修正、挿入、削除等も非常に簡単である。従来のように「けしゴム」で悪戦苦闘する必要がなくなる。
 社会教育行政や団体、グループ・サークルにとって、予算の編成、管理等に大きな可能性を秘めていると言えよう。
 しかしもっと大切なことは、例えば予算の編成において、数値の修正、挿入、削除が、担当者一人の鉛筆と「けしゴム」との苦闘ではなく、ディスプレーを囲んで、みんなで話し合いながらできることである。このような実質面での組織運営の民主化にこそ、マイコンの集計機能が活用されてしかるべきである。
2 FILE(ファイル)
 マイコンは、インプットされたデータを記憶し、必要に応じてそれを引き出すことができる。この機能を応用して、文書や名簿等の管理が可能である。
 たとえば、地域文庫で子どもの要求に応じて、ジャンル別あるいは著者別に、該当する在庫の本を一覧にしたり、購入希望をインプットすることができる。他の地域文庫や公共図書館とネットワークを組めば、用途はさらに広がるであろう。
 名簿管理についても、一つの組織内で使えるだけでなく、ボランティア派遣や、団体間交流等にも活用できる。
 従来の管理システムでは、これらの情報を得るには、いちいち担当者の手をわずらわせねばならないことが多かった。しかしマイコンを活用することにより、開放できる情報はお互いに気軽に交換できるのである。情報を得ようとする者が自分の手で、その情報を検索できるのなら、気兼ねなく心ゆくまで求める情報を検索し続けることができよう。
 ただし、団体の所有するファイルについては、その団体の意思だけで運用すること、行政の所有する団体及び個人に関するファイルについては、その団体及び個人の支配下にあることは、欠かせない前提である。
3 GRAPHIC(作画)
 コンピューター・グラフィック(C・G)を新しい芸術形態として注目すべきである。 また、ソフトの利用により、作図及びそのいろいろな表現(ふかん位置、角度など)が簡単にできることは、たとえば、社会教育施設の設計段階での住民参加を容易にするであろう。
4 MUSIC(音楽)
 音楽の練習、創作に有効なソフトの利用をはかるべきである。特に青年層のこれに対するニーズは高い。
5 WORD−PROCESSER(文書作成)
 マイコンの内部または周辺機器に、漢字や熟語等のデータ他を付加すればワープロになる。よって、ワープロもマイコンの一種と考えてよいであろう。
 市民の知的レベルが向上し、文化の享受だけでなく、自ら表現しようとする時、ワープロは有効な道具である。
 文章を書くことを職業とする人の中には、自分の頭の中で構想を完全にねりあげ、実際に書き始めれば、ほとんど修正などしないという人もいるかもしれない。しかし、われわれ一般人にとっては、文章を書くということは、書き始めからして悩ましいことである。その点、訂正、削除、挿入、移動が自由にできるワープロの存在は、われわれを勇気づけてくれる。
 書斎を持ってもの書きに専念している人だけがものを書くのではなく、すべての市民が労働と余暇の「合い間」に文章という広い意味での文化表現に関わることができる技術的条件をワープロは保障しつつあると言えよう。
6 NEW−MEDIA(ニューメディア端末)
 社会教育において、ニューメディアは、その地域メディア性および双方向性において注目されるべきである。そしてこれらのニューメディアの端末は、基本的にはマイコンの機能である。
 ニューメディアがマスメディアの欠点を克服するためには、一つには、その双方向性が重要なポイントとなる。ニューメディアにおいては、情報を受ける側が、流された情報をただ一方的に受け入れるのではなく、取捨選択し、時には情報や意見を情報の送り手にフィードバックすることが可能である。
 このようないわば「情報の民主化」にとって、市民が端末としてのマイコンのキーボードを操作できるように援助することは、最低限、必要なことである。
7 GAME(ゲーム)
 マイコンの利用でゲームほど、好きな人、きらいな人、そしてマイコンの意義を認める人、認めない人がはっきり分かれるものはない。しかし、マイコンの普及の最初は「ゲーム」であったことは事実である。
 1972年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出され、その後「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」と、LSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがマイコンに移植され、マイコンへの関心を呼ぶことになったのである。先に述べたように、初めのころマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「青少年」であった。
 しかし、たとえば「インベーダー」のころ、これに熱中する子どもたちの、「遊びの質」が問題とされ、さらにはゲームセンターでたむろすことによる非行化問題が起きたのも事実である。
 このようなゲームが好きな子どもに対しては、それを禁止してすませるのではなく、学校や家でマイコンを利用して、友達と楽しめるよう指導することこそ必要である。また、できればゲームプログラム作りの喜びも味あわせてやりたいものである。
 さて既にマイコンの「汎用性」の所で述べたとおり、マイコンの利用においては、既成のソフトばかり利用するのではなく、その「汎用性」を活かして市民自らがプログラム作りできるよう社会教育は援助すべきである。簡単なゲームソフトの作成は、その容易性、一般性と達成感からみて、手初めに取り組むには最適であろう。
 しかしそのことは前提とした上で、ここでは、市販の高度なプログラムによるゲームの社会教育利用について考えてみたい。
 1 ACTION(アクションゲーム)
 キーボードやパドル、ジョイスティックなどの機敏な操作を競うゲームである。これに類するゲームは、マイコン以前にもゲームセンターで、ピンボール等として当時の若者が楽しんでいた。当時の若者の志向を評して、「3S」(スリル、スピード、サスペンス)と言われていたが、その意味では、当時のゲームも今日のマイコンゲームもほとんど変わりない。
 ただ、今日のマイコンゲームは、きれいなグラフィックとそのスピード、意表をつくアイデア等で格段の進歩をしており、一部のゲームマニアは、ゲームをする楽しみよりも、ゲームを作ったプログラマーに、時には涙さえ流しながら「共感」できる楽しみを大事にしているほどである。
 そこまではともかく、アクションゲームは、初めての人でも楽しめ、それを囲んでみんなでワイワイやることもできる。公民館や集会施設のロビーにあれば、楽しいだろう。
 2 ADVENTURE(アドベンチャーゲーム)                 アドベンチャーゲームは、推理を重ねた上でのコマンドの入力により、次々と迷路を進み、そのたびに素晴らしい画面が現れるというものであり、マイコンならではのゲームである。マニア用語でいう「奥行き」の深いものが多く、クリアーするのに全部で一年以上かかる難解なものもある。
 人づきあいもせず、これを一年もやっている人もおり、それを考えると、アクションゲームなどより、「恐ろしいしろもの」である。時には情報交換をしたり、自慢話をしたりする機会があっても良いのではないだろうか。
 3 BOARD−GAME(ボードゲーム)
 オセロ、バックギャモン、マスターマインド等、本来なら一枚のゲーム板をはさんで、人と人とが対戦するゲームを、マイコンが対戦相手になってくれるものである。マージャン、ポーカー、コントラクトブリッジなどができるプログラムもそれに類するものとして売られている。
 せっかく人間関係のあるゲームを、マイコンが代行してしまうのだから、批判は強いと思うが、初心者がゲームのルールを覚えて、実戦に備えて準備をするには都合が良い。ゲーム大会などで、そのルールを知らない人が参加できずにいるのを、よく見かけるが、該当するゲームのソフトを備えたマイコンとインストラクターを一名、待機させると良いのではなかろうか。
8 EDUCATION(教育)
 マイコンの機能を活かして、個別の進度に応じた学習を進めることができる。社会教育においても、外国語学習等ではある程度役立つであろう。
 しかし、単なる「電子紙芝居」として、画面が順番に現れるだけでは、マイコンの機能を充分発揮しているとは言えない。既存の教育ソフトにも、多少その点の不備が見られるので、もっと学習者の反応に対して細かく配慮したプログラムの作成が望まれる。
 また根本的には、すでに述べたとおり、与えられたソフトの利用だけでなく、プログラムの修正、作成に学習者が直接関わることこそ、マイコン利用の本命である。
                                        社会教育におけるマイコン利用の展望
1 社会教育のCMIの必要性
 学校教育では、S−P表などによるマイコンの活用によって、たとえばテストの解答について、生徒と問題の相関関係をかなりシビアーに分析するようになってきている。マイコンに分析を出させることによって、総体的、量的にしか、把握してなかったものが、個々の問題所在についてはっきり、表で示されてしまうのてある。
 これらは、学習者の学習を直接助けるCAI(コンピューター・アシステッド・インストラクション)に対して、CMI(コンピューター・マネージド・インストラクション)と呼ばれている。
 教科学習、特にドリル的なものが比較的少ない社会教育においては、CAIの活用はそれほど多くならないだろうが、社会教育事業の参加者、一人一人のレベルにまでつきつめて、その事業を厳しく分析するためのCMIの活用については、今後大いに必要となるであろう。
 CMIの活用は、社会教育行政運営の効率化を図ることもさることながら、むしろマイコンの機能を活かした、マス(集団)だけでない「個」、個別学習への注目が、社会教育に対し、大きな良い影響を与えることと思われる。
2 効率より、知的喜びのために
 コンピューターが普及して、ものごとがスム−ズに進んだとしても、それが人間の幸せにつながるがどうかは、別問題である。
 社会教育におけるマイコン利用においては、すでに述べたように、個人の知的喜びにつながる「文化」としての側面を大切にすべきである。
3 相互的教育作用という「かなめ」
 マイコンは、確かに楽しいものである。それは、基本的には、一人で解くパズルのような楽しさであり、その楽しさが大切であることは否定できない。
 しかし、社会的存在としての人間の幸せのためには、同時に人間関係が重要な要素であることも事実であり、その点、社会教育が従来大切にしてきた「相互教育」の意義がむしろ、比例的に重要なのである。
 ハイテクになればなるほど、ハイタッチが求められるというテーゼは、ここでも通用するはずである。
4 市民の実践的自治能力の形成
 従来の「住民自治」が、自治体に対する「要望」の域をなかなか脱しきれなかったのに対し、住民自身のマイコンの活用によるデーターベースの充実は、大いなる可能性を示すものである。
 「2人のスティーブとアップル」(1983年12月、旺文社)によれば、「カモメのジョナサン」の作家リチャード・バックは、「アップル」を活用している代表的有名人の一人である。バック夫妻は、自宅近くの森林が無制限に伐採されているのに異義を唱え環境保護団体(TELAV)とともに、マイコンの活用により3巻600ページにもおよぶ異義申し立て書を作成した。管轄の米国土地管理局は、その綿密な運動に舌を巻き、野放図な伐採を中止せざるを得なかったという。
 このようにアメリカでは、マイコンを活用し、情報武装をすることで住民パワーを活発にさせようとする動きがあり、しかも、アップル社は、このような各地の有力なグループに、コンピューター・コミュニケーション・ネットワーク・システムを寄贈し始めているという。
 このように、マイコン、特にデーターベースの市民の手による活用は、情報の一点集中型の官僚主義を切り崩し、市民が直接自治に携わることを可能とするのである。今後、社会教育において、市民の自治能力の向上を言うならば、このような市民自治の実践的能力の援助も、絶対に無視することができなくなるであろう。

社会教育とマイクロコンピューター(ポイント)
 社会教育はなぜマイコンに注目しなければならないか
1 新しい「文化」としてのマイコン
 このような従来のコンピューターの性格とは異なり、先程述べたマイクロプロセッサーの登場と、それを使った個人でも充分購入可能なマイコンの普及こそが、マイコン文化の成立条件となっているのである。そして、マイコンに仕事をさせようとする場合、一昔前のような難解な機械語などではなく、個人が使いこなすことのできるBASIC語やあるいは簡易言語、ソフト等が整備されつつある。さらには、このマイコンの機能は、従来のテクノロジーの主たる目的である「生産性の向上」の延長だけではなく、「個人」の知的活動や遊びとしても使われようとしているのである。
 このようにマイコンは今後ますます大衆的にかつ精神的側面で利用される見通しであるからこそ、それは新しい「文化」として社会教育が大いに注目すべき存在なのである。
2 マイコン文化の新しさ
 第一に、「汎用」であることから、マイコンは一人一人の個別な要求に応じて、多様な仕事をすることができる。(個別性)
 第二に、(自力性)
 第三に、「汎用」ということから、個別に利用される時点で、それまでにはなかった仕事をさせることが、大いに可能である。(創造性)
 以上のことから、マイコン=パーソナル・コンピューターは、文字通りパーソナルな知的道具として登場している。それは、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは、若干異なる文化を生み出す可能性を潜めているのである。
 ただし、今日の企業がこのようなマイコンの「汎用性」を軽視し、今後扱い易い、しかしその分、出来合いの仕事しかしない利用目的の限られたマイコンの生産に傾くならば、マイコンは今までの受動的家電製品と変わりないものになってしまう。
3 マイコン文化の危険性
 ところがマイコン文化は、いったんマシーンと面と向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きですませることも可能であるという、全く新しい文化である。マスコミでさえも、その取り扱う内容は人間に関することばかりであった。人間疎外のオートメーション工場でも、その製品は他の人間に使われるべく生産される。しかしマイコンの場合は、全く人間に関係のない内容の仕事をさせ、その成果について一人で満足することが充分ありうる。マイコンの利用そのものが、自己目的化してしまうのである。しかもそれが非常に「楽しい」のであるから、始末が悪い。
 このようなマイコンの極端に「パーソナル」な性質は、マイコンを愛好する「特定のメンバー」はあっても、そのメンバーの間の人間関係やまわりの社会との関係は全然持とうとしないという恐るべき文化を形成する危険性を持っている。
4 コンピューターリテラシー学習の必要性
 コンピューターの急速な普及の中で、この各人の差を放置しておくならば、一部の「できる人」と、コンピューターに「使われる」他の「できない人」とに、今後明確に二分されてしまうであろう。ここにコンピューターリテラシー学習の必要性と緊急性がある。
 社会教育が行おうとするコンピューターリテラシー教育の目的は、ハイテクのエリートをつくることではなく、すべての人が、今後好むと好まざるとに関わらず普及するであろうコンピューターについて、主体的に摂取したり、批判したりするための、最低限のコンピューターリテラシーの習得を援助することなのである。
社会教育におけるマイコンの具体的諸機能の利用
1 CALCULATE(集計)
2 FILE(ファイル)
3 GRAPHIC(作画)
4 MUSIC(音楽)
5 WORD−PROCESSER(文書作成)
6 NEW−MEDIA(ニューメディア端末)
7 GAME(ゲーム)
先に述べたように、初めのころマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「青少年」であった。
 1 ACTION(アクションゲーム)
 2 ADVENTURE(アドベンチャーゲーム)             3 BOARD−GAME(ボードゲーム)
8 EDUCATION(教育)
社会教育におけるマイコン利用の展望
1 社会教育のCMIの必要性
 CMIの活用は、社会教育行政運営の効率化を図ることもさることながら、むしろマイコンの機能を活かした、マス(集団)だけでない「個」、個別学習への注目が、社会教育に対し、大きな良い影響を与えることと思われる。
2 効率より、知的喜びのために
3 相互的教育作用という「かなめ」
4 市民の実践的自治能力の形成
 このように、マイコン、特にデーターベースの市民の手による活用は、情報の一点集中型の官僚主義を切り崩し、市民が直接自治に携わることを可能とするのである。今後、社会教育において、このような市民自治の実践的能力の援助も無視することができない。
感性にせまる、核心にせまる               国立社会教育研修所「公民館経営専門講座」ルポルタージュ
 三月六日の夜、東京・上野公園の国立社会教育研修所の研修室は時ならぬ仮設舞台となり、二期会の歌声に対してアンコールの拍手が渦巻いていた。すでに二期会は、「トリッチ・トラッチ・ポルカ」に始まり、声色入りの「犬のおまわりさん」、オペラ「こうもり」より「開幕の合唱」、オペラ「椿姫」より「乾杯のうた」など、楽しくきれいな合唱のかずかずを聞かせてくれていた。そして、その日のプログラム最後の曲、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」より「踊り明かそう」が終わった時、公民館経営専門講座の受講生は皆すがすがしい感動を感じてアンコールの拍手をしていた。
 二期会の司会者が「アンコールにお応えしまして、『マイ・ウェイ』を歌います」と言って、ピアノの前奏が始まった時、研修室の一番後ろから見ると何人かの受講生が肩をふるわせていた。私も前奏を聞いているうちに、めがしらが熱くなってしまった。
 私が歌が始まる前から感激してしまったのは、二期会の司会者がその前に言っていた「自分を主張しつつ、みんなとハーモニーをつくり、それが完成するときの喜び」という言葉が、さほど広くない部屋でその本物の人々を目の前にして突然よみがえり、実感として理解できたからである。視聴覚や活字媒体と違って、本当にそこにいる人に対して共感できるのである。「マイ・ウェイ」すなわち「私の人生」という曲の内容と美しいメロディーが、その共感を増幅してくれた。

 ほんものの文化にふれる・・・ゼロと一の違い

 社会教育職員がその人生の中で、合唱が与えてくれる感動を一度も味わったことがないとすれば、その人がたとえば社会教育施設職員として合唱サークルとおつきあいすることには大変な無理がある。また「混声」だの「女声」だの、ごく基礎的な用語については、それを知らなければ、合唱サークルの市民から信頼されなくなることもありうる。
 国立社会教育研修所では「一度でも、ナマの芸術にふれておくこと」が社会教育職員にとって必要と考えて、研修の中でこのような場を用意しているとのことである。「そんなことは、自分のお金で見に行けばよいのでは」という声もあるが、残念ながら仕事のために自分のお金を使おうとしない風潮が、特に最近の若い職員のあいだにはあるようだ。ナマのほんものの文化に触れるという「きっかけ」は、おおいに価値のあることのようである。
 公民館経営専門講座は、二月二十一日から三月二十日までの一カ月にわたる研修であるが、その中で三月十一日、「特別文化教養講座・舞踏への招待」として、各種の舞踏の観賞とその解説の催しも行われた。
 チャイコフスキー記念バレエ団によるクラシックバレエにおいては、「特別な観賞法など、ない。だれが見ても感動できるものでなければいけない」ということ、ダンスシアターキュービックのモダンダンスでは、それに比べて「制約から自由に、自由なテーマを、自由に表現し、主張するもの」であるということ、花柳寿美さんの日本舞踊では、「体の線を隠蔽して踊る美しさ」や「伝統および歌詞にそむいて踊ることはできない」ということなどが、その実技と解説をとおして充分語られた。
 このとき感化された受講生は、地域にもどっても各種の舞踏団体や舞踏文化にとっての良き理解者となり、良き味方になるであろう。たった一度の体験でも、それは社会教育職員にとっては千金に値するものである。もちろん、一度そういう体験をもった職員が、さらにその理解を深めることも意義のあることだが、それよりもっと緊急に必要なことなのである。国立社会教育研修所所長の塩津有彦氏はこのことについて、「ゼロと一の違いは、一と二の違いとは、比べものにならないほど大きい」と表現している。

 現下の課題と、テーマの核心にせまる

 国立社会教育研修所、通称「国社研」は昭和四十年、上野公園の一角に設置された。緑濃き上野の森で、受講生はじっくり研修できるのである。
 「じっくり」というのは、一年の間に一週間から十日間程度の研修が五本あるほかに、三週間から六週間程度の研修が七本もあるからである。勉強好きの受講生にとっては「天国」だが、中には「研修ぎらい」の受講生もおり、その人には「地獄」かもしれない。今回の「公民館経営専門講座」も一カ月ということで、受講生にとっては悲喜さまざまといったところであろう。
 さて突然ではあったが、心よくインタビューに応じてくださった塩津所長は、今回の公民館経営専門講座を企画する際の「全体のこころ」を、次のように話している。
 第一に、現下の大きな行政課題に「勇気」をもって取り組んだということ。すなわち、昨年九月には初めて「生涯教育専修コース」を設置したが、それに続いて今回は「公民館経営専門講座」の中に一週間の「高齢者教育専修コース」を設置して高齢者教育に関して集中的に取り組み、また、そのコースだけの短期間の受講生も受け入れたのである。
 第二に、テーマの核心にせまろうとしていること。たとえば「高齢者教育の意義」という研修事項については、研究者の他に兵庫県いなみの学園長を交えてシンポジウムを開いているが、そのテーマを「個人的意義と社会的意義」としてずばり問題に鋭く切り込もうとしている。また「高齢者教育の目標・内容の整理と選定の視点」という講義は、社会教育における学習の「必要課題」をまともに考えようとするものである。
 現下の課題に応え、その核心にせまろうとすることは、学問として定説化されていない「発展途上の分野」に踏み込むことであり、そういう研修のカリキュラムづくりには大変な苦労をすることになる。所長も、「知恵と熱意と労力を、ずいぶんかけた」と自認している。しかし、だからこそ社会教育を真剣に考えている受講者には、その研修が面白くなる。いつも同じメニューを出してくるレストランより、日々研究を重ねメニューにも改善の跡の見られるレストランの方が、グルメにとっては魅力的なのである。
 第三に研修の方法論においても、効果をあげるべく努力したということ。その一つとして、実践に役立つ「事例研究」を多く取り入れ理論と実践の融合を図っている。二つ目に受講生も研修実施の主体の一員であるという観点から、講義の中でも積極的に意見を述べてもらうようにしたり、受講者自らが調査研究する「演習」を設定したりしている。三つ目にけっこう分厚いものも含めて、受講者に計十一種類もの資料を配っている。そのテーマは、たとえば「高齢化社会における高齢者教育その意義と方向」、「公民館事業事例集(第1集)」などである。さらには「有意義で楽しく」をモットーに、ユニークな研修がカリキュラムの中に位置付けられている。さきほど述べた「特別文化教養講座」などがそうである。
 さて、このように苦労してできた研修も、受講者は八十人定員のところ、二十八人しかいない(「高齢者教育専修コース」の受講者を含めると六十四人)。各自治体が社会教育職員の増員を図れない現状では、一人一人の職員の資質の向上を必要とするはずだが、逆に職場の人員の減少傾向などにより、職員が長期間、職場から離れて研修に出ることが難しくなっているのだ。国立社会教育研修所では、いっそうのPRとともに、短期間の研修の開催など、研修形態についても再考しているとのことである。
 なお、受講者の内訳は最高五十三歳、最低二十四歳、平均三十九・0歳で、社会教育の平均経験年数は六・二年である。

 忘れてはいけない、学習援助の視点

 この「公民館経営専門講座」で、結局は何を探ろうとしているのだろうか。所長は次のように語っている。
 「一言でいえば、生涯教育時代において多様化し、高度化する住民の学習需要に対して、公民館がその学習を援助する方法を真剣に探りたいと思うのです。今まで公民館は、地域生活への便宜提供の面や、仲間づくりを進めるなどの面では貢献してきました。たしかにそれは大切なことです。しかし、だからといって多様な学習の多くをカルチャービジネスなどに任せてしまうのだとすれば、社会教育の教育たるゆえんから見ていかがなものでしょうか。かけるべきところにはきちんとお金もかけて、今日の幅広い住民の学習需要に応えられるような、ハードとソフトと指導陣のグレードアップを図るべきです。
 また、他行政や民間の教育的事業と、そこでの住民の学習にも、公民館はもっと関心をはらうべきでしょう。本来、社会教育は教育の専門家を数多く擁しているものとして、生涯教育の要(かなめ)であるはずです」。
 この話を聞いて、私は大変考えさせられてしまった。これは公的社会教育の本質にも関わる問題である。生涯教育の意義が高らかに叫ばれているのにもかかわらず、逆に皮肉にも公的社会教育の存在がないがしろにされている現状の中で、社会教育はその役割をいつのまにか自ら狭めすぎていたのかもしれない。「それは○○部局で、それは○○カルチャービジネスで」と割り切ってしまい、残りの比較的取り組みやすいものだけ「公的社会教育に適する」と拾ってきた傾向はないだろうか。厳しい財政的しめつけのもとで、つい無力感におそわれ、「易き」と「安き」に走りがちだったのではないだろうか。所長の話を聞いて私はこのように反省したのである。

 公民館の経営目標に学習援助の視点を

 「公民館経営専門講座」の中には「公民館の経営目標の望ましいあり方」という研修があり、東海大学生活科学研究所講師の西ヶ谷悟氏の講義と埼玉県日高町の事例研究が行われた。
 所長は言う。「今までの公民館の経営目標は、管理作用に関する目標と教育作用に関する目標が、雑然と混じり合うなど、必ずしも十分には整理されていなかったのではないでしょうか。両者はきちんと識別すべきです。それから教育委員会の社会教育目標との差異や関連も考える必要があります。そして、これからの経営目標を考えるためには、学習の援助という視点が絶対に欠かせないと思います」。
 この話に触発されて私は次のようなことを考えた。公民館で「○○しましょう」という程度の「よびかけ」は、いろいろな形で行われている。もちろんそれは、「読み終わった本は、必ずもとへ戻しましょう」といったようなものが多く、教育目標などといったものではない。また、それらの「よびかけ」の中には、現実の公民館経営においては「条件整備」の一環として、そうすることが妥当なものもあるだろう。しかし、「教育機関」ということで、そのような管理的事項まで「教育」と称するとすれば、それは「管理作用」と「教育作用」の混乱である。所長の言うように「識別」しなければならない。
 次に、教育目標についてはもっと困難な問題がある。社会教育はそもそも学習者が自ら学ぼうとして学ぶものであり、公民館といえども「これをこう学ぶことが良い」と学習者に指示するものではない。とは言っても、公民館の学級・講座は少なくとも「これを学習することがより適切であり、より必要だろう」という見通しの上で行われているはずである。その「見通し」のための研究が必要であろう。
 いずれにせよ、学習者の多様で高度な学習を可能にする施設設備の条件整備等をめざす「管理目標」と、所長の言う学習の援助という視点に立った「教育目標」こそ求められているといえよう。

 学習の必要課題の研究が急務

 公民館では学級・講座などのたくさんの事業が行われている。しかしそれは学習者の学習要求などが、どれだけ把握された上でのことなのだろうか。
 「公民館経営専門講座」では「学習調査の方法」として、「学習要求の調査」と「学習実態と阻害要因の調査」に関する、流通経済大学教授の渡辺博史氏の講義と、東京都稲城市教育委員会による調査の事例研究が行われた。公民館事業の企画と展開のためには、学習調査をして、学習要求、学習実態、そして学習を阻害する要因を把握すべきだというのである。
 次に、学習の要求課題とならんで、学習の必要課題が問題となる。このことについて「要求課題にすべて応じていたのでは、きりがない。よって必要課題を設定して、それに基づいて事業を組み立てるべきである」という主張がある。しかしそれに対して、所長は次のように問題を提起している。
 「学習者からすれば、要求課題というのは、その人自身にとっての必要課題だからこそ要求として出てくるので、一面では尊重されなければならないと思います。しかし、要求課題の中には私的利益に関わるものもあり、また、必要なものでも要求として出揃わない場合もあります。ここに必要課題を広い視野から、また専門的立場から研究しなければならない必然性が存在すると思います。
 必要課題を本格的に研究すれば、それは極めて幅広いものになるでしょう。生活の領域や学問の領域を思いうかべるだけでも、容易に御理解いただけましょう。したがって、これからの公民館の事業は、広い視野に立って、今まで以上に幅広く展開されなくてはならないと思います。
 しかし、だからといって公民館で多くの必要課題を自らとりあげるということは、実際問題として困難でしょう。幸い、他行政でも民間でも事業が実施されていますから、相互の連携プレーがますます必要になってくるということでしょう。また、一方で公民館の事業についても、これからは必要度、つまりプライオリティの発想が、従来以上に強く求められると思います。たとえば、人間形成の根幹に関わるもの、生活の基盤に関わるもの、公共性の強いものといった観点から、優先度を考えるということになりましょう。
 ただし、現実の問題としては、理論的な優先度にしたがって機械的に選択されるということではなく、地域の実情に応じて、人々が参加しやすいテーマから始めるという工夫も必要だと思います。イントロとしては、たとえば芸術文化やスポーツがふさわしいかもしれません。ですから、これからの公民館には、芸術文化やスポーツのためのハードやソフトや指導者も、こういう意味でまず必須なものであるといえるのではないでしょうか。
 そしてもう一つ大事なことは、必要課題の研究は大いに進めてこれを「整理」するが、その「設定」はしないということです。そもそも学習者に対して『あなたには、こういう学習が必要です』と必要課題をおしつけ気味に提示すること自体、社会教育の本旨にそわないのではないでしょうか」。
 現に「公民館経営専門講座」では、ずばり「必要課題整理と選択の視点」と題して、筑波大学助教授の山本恒夫氏による講義を行っている。そのテーマが、必要課題の「設定」ではなく「整理と選択の視点」となっていることに注目したい。
 さて、必要課題をこのように幅広くとらえ、それに応える事業を行うとすれば、公民館職員の資質にはとても高いものが求められる。特にそれぞれの学習内容に関することについて、所長は「概論は基本となるもので欠くことはできませんが、これからはそれに加えて、主な学習内容に関するそれなりの見識が必要になるのではないでしょうか。その面での社会教育の研究は、まだあまり進んでいないので、今後つくりだしていくしかないでしょう」と、研究の必要を述べている。
 また幅広い学習のためには、豊かな施設・設備が必要になる。その点については「とりあげるべき事業がはっきりすれば、必要なハードは自然にうかびあがります。そして、それを実現するために必要な設備投資をすべきです。職員の資質がいくら良くても、施設・設備が整っていなければ良いことはできません。そういう所に配置された、やる気のある職員が気の毒なくらいです」とまで言っている。
 世は生涯教育時代。ところが自治体の社会教育予算はなかなか伸びない。貧困である。学習の必要課題の研究は、説得力と迫力をもってその貧困の打破を訴えるための強力な武器の一つになるのかもしれない。

 高齢者教育には固有の意義がある

 「公民館経営専門講座」の期間中、三月四日から三月九日までの間を「高齢者教育専修コース」として、そのコースのみの受講者も受け入れて合同研修が行われた。高齢者教育が現下の重要な課題になっているとの認識からである。それでは、この研修の高齢者教育に関するねらいは何だろうか。
 第一に、所長は「まず、教育であることの認識」が必要であると言う。たとえば、福祉との協力は当然としつつも、それとの違いを明らかにする必要があるということである。 第二に、高齢者教育の意義を解明することである。しかもこのコースでは、「高齢者教育の意義」というシンポジウムを、「個人的意義と社会的意義」と副題をつけて開いている。この副題自体、問題提起的である。ちなみに、受講生に配布された資料「高齢化社会における高齢者教育その意義と方向」において、奈良女子大学教授の森幹男氏は、高齢者教育に固有の意義について次の柱立てで論を進めている。
 まず、個人的意義については、「退職後の準備」「余暇活動」「老いの受容の援助」「死の受容の援助」という柱立てである。
 社会的意義については「高齢者教育というのは、その社会的な側面として、老人の社会的な負担の軽減を図るという一面を持っているものである」として、「ヤングオールドを対象として」「オールドオールドを対象として」「他の世代との交流」「老人のための、老人による、老人と一緒の、老人に関する教育」という柱立てで論じている。
 これ以上の詳細は省くが、この「個人的意義」と「社会的意義」にいったん分けて分析する手法は、他の対象別社会教育を考える場合にもかなり有効な手法だと思われる。
 第三に、第二にも関連するが、高齢者教育を他の人々、特に成人と切り離して行う根拠を問うことである。原理的なことからくるものなのか。学習内容の違いからくるものなのか。
 学習内容に関わる面では、第二で述べた「高齢者教育に固有の意義」が重要な示唆を与えてくれるだろう。所長は「方策もなしに学習のメニューを構成するのではなく、高齢者の固有の学習内容を整理すること」を提言している。たしかに、そのことなしには、適切な高齢者教育の事業は望めないであろう。
 第四に、高齢者対策全体からの社会教育の位置づけを明らかにすることである。前述の資料「高齢化社会における高齢者教育その意義と方向」において、森幹男氏は福祉・保健・医療関係者、あるいは農林水産省、国土庁などの行う高齢者対策が高齢者教育の一環としてもとらえられ、お互いに重なり合っていることを指摘している。またこれを受けて所長は「生涯教育体制においては、教育行政がその専門家としてかなめに位置すべきであるのに対し、高齢者教育体制においては、教育行政は高齢者対策の一環としての役割を持つと考えるべきではないだろうか」として、高齢者対策の一方の「核」としての福祉・雇用と一体となって施策を進めることを主張している。

 学習のニーズから出発する施設整備を

 それでは最後に、「公民館経営専門講座」の長い研修のうちのひとこまとして、三月十三日に行われたシンポジウム、「学習社会における公民館施設整備の方向」をのぞいてみよう。
 シンポジストは、全国公民館連合会事務局長の谷口正幸氏、豊橋技術科学大学助教授の渡辺昭彦氏、文部省社会教育官の高村久夫氏の三人である。シンポジウムの中で、谷口氏は公民館の併設大型化の流れの中で、いかにそれを住民の学習の多様化、高度化に対応できるものにするかということなど、渡辺氏は「時代は機能の転換を常に求めている」ということから、公民館にもオープンシステム導入が必要なことなど、高村氏は日常生活圏に設置される公民館が地域とつながりつつも、その学習は幅広いものを要するようになっていることなど、それぞれの方がわかりやすく発表された。そしてその内容は、まさにこのシンポジウムのねらいどおり、「学習社会への対応」という現下の課題に肉薄するものだった。
 ここでは渡辺氏の「オープンシステム」の主張について紹介する。建築家である渡辺氏の主張は、計画決定、管理・運営、施設間ネットワークなど、公民館のあらゆる側面にオープンシステムを取り入れよとする主張である。そして、学習形態へのオープンシステムの導入については次のように述べている。
 「社会教育が本当の意味で生涯教育になるためには、一斉講義だけで良しとするのではなく、個人の主体的な学習を側面から援助する役割に変わらなければいけません。公民館の教材・図書・資料を整備し、それを各人、各グループが使用する。そして公民館側からは、資料の紹介や共同学習のアドバイスをしたり、時には同程度の理解度の人達に対して講義をするなどの形で援助する。そういうシステムが必要です」。
 さらに渡辺氏は、「現在の公民館建設は、国の補助金交付要項で規定された部屋の名前から出発しがちですが、そうではなく、この学習形態から出てくるニーズから出発すべきです」と言う。公民館の室構成もこのオープンシステムから、当然に決定されるというのである。そしてその室構成とは、図書・資料・講義・集会・実習・事務などの各エリアを間仕切の壁のないオープンな形で作り、その時点での使い方の必要に応じて可動間仕切で仕切ることになるという。
 また、渡辺氏の公民館に対する考え方の原点には、「公民館の従来の重点が学習・研修・実習・交流であったのに対して、これからは情報・相談・調査・研究という個人学習の援助にもっと重点を置くよう機能を転換することが求められている」という発想がある。 さて、これらの渡辺氏や他のシンポジストの発言もさることながら、フロアーすなわち受講生からの意見、質問等も文字どおり続出するという状態で、とても活発であった。終了時刻が予定より二十分も延びてしまったほどである。受講生だって、まる一日の研修で疲れていたと思うのだが・・・。
 思えば、このようなフロアーからの発言も、学習への主体的な参加形態の一つである。主体的だからこそ、受講生は時間延長など、ものともしなかったのであろう。公民館の学習援助は今後もっと「調査・研究」に重点を置かれるべきだと、渡辺氏は主張している。それと同じように、社会教育職員の研修にも未解決の課題に取り組んでいくという主体的な学習方法が求められていること、そしておまけにそれは誰にとってもけっこう楽しいことであることを知ったことは、現在社会教育職員研修の担当をしている私にとっては一番の収穫であった。いわゆる「勉強好き」の人だけの「天国」で、あとの人は「じっと耐えるだけ」という研修であってはならない。国立社会教育研修所の「勇気あるチャレンジ」に敬意を表したい。
 人権尊重思想の普及のあり方についての実践的考察
はじめに
 われわれ人権尊重思想普及研究会は、昨年度、「人権尊重思想の啓蒙と社会教育」について研究を深めた。そこでは普及のあり方について、若干、本質に立ち入って考察したのだが、人権尊重思想普及の実践的側面については、問題提起に留まっていた。そこで本論では昨年度の研究成果を踏まえた上で、さらに個々の実践的問題に対し、前回試みた本質的視点をもとにしてアプローチしてみた。
 さて、昨年度はまず啓蒙主義について歴史的に考察した。人権尊重思想の普及、たとえば同和問題に関する啓発活動において、それが広く国民に浸透したというには未だ不充分である現状を考えた時、国民の側に率直に言って「同和はもういい」という意識が先行しているのではないかと思われる。もちろん、このような意識自体、人権尊重思想の本質を充分とらえきれていないところからくるものである。しかし、「啓発活動をする側」(このような一面的表現は不正確であるが)にも国民に受け入れられない原因があるのではないか、すなわち、いわゆる「啓蒙主義」の色彩が強く、国民が主体的にみずからの問題としてアプローチする意欲をそいでしまっているのではないか。このような問題意識から、啓蒙主義の歴史を分析したのである。
 啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つであり、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。当時の啓蒙主義は、
1、近代民主主義の基礎を築いていること
2、人間の自由平等を説いていること
3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること
以上の三つの特徴を持っており、これらの特徴は、今日の人権尊重思想の普及に関しても重要な関連がある。                               しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。
 このことは人権尊重思想の普及を考える上で、非常に重要な課題であると考える。しかもそれは、「非常に重要」であるとともに、「非常に微妙」なのである。というのは、「一人一人の人間がすでに主権者」であることを、「平面的既定事実」として機械的にとらえてしまうとすれば、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上不要ということになってしまうのである。実際は国民の「主権者」としての力量は、日々獲得されつつあり、また、そうでなければならない性格のものである。それゆえ、方法論としては国民の「主権者」としての側面を最大限尊重しつつ、人権尊重思想の普及の中身において、国民の「主権者」としての成長を意識的に援助していくことが、求められている。
 この一見、自己撞着を起こしそうな命題を実現する方策はいかにあればよいのか。本論ではこの問題について、昨年度から一歩進めた実践的、具体的な考察をすることとした。なお、その際、次章に述べる理由からカウンセリング理論を糸口として議論を進めた。

「啓蒙主義」については、江上波夫ほか編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一ほか編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)の該当する項を参照した。


カウンセリングへの注目
 啓蒙主義の時代においては、科学的な知識を普及することが直接に人々を啓蒙することにもなり、また、それにより「近代民主主義の基礎を築く」ことにも貢献できたのであるが、今日の時代においては、科学的知識の学習ばかりでは不充分である。昨年度の研究において三浦綾子「積木の箱」を教育学的視点から分析したが、そこでは三浦のいう「生きるという問題」、言い方を変えれば一人一人の「人間の生き方」に関することにどう対処するかが、教師の教育実践にとっても重要なファクターとなっている。そこに今日の教育の難しさも認められるのである。
 また、人権尊重思想そのものが、人間の生き方に深く関わるものであることは、もちろんいうまでもないことである。たとえば、歪んだ競争偏重の「生き方」は、当然、社会の差別を構成する最も基本的な要素と言えるものであり、人権尊重思想の普及のためには、どうしても克服しなければならない課題だからである。
 さて、このような意味から人権尊重思想の普及を考えるに当たっては、不可避的に「人間の生き方」という複雑な問題に関わらざるを得ないのだが、そのために、まず、この問題に専攻的に関与しているカウンセリングの理論から示唆を受けることが有効であると思われる。そこでではカウンセリングについて橋口孝俊氏の描いたエッセンス・から、・ではカウンセリングのノウハウのなかでも、まず基本になる個人面接の基礎的技法についての国分康孝氏のコメント・に沿って、その個々の問題を人権尊重思想の普及の視点から論じてみた。

・三浦綾子「積木の箱(上・下)」(朝日新聞社)
・橋口孝俊「なぜ、いまカウンセリングか」(東京都職員研修所「もう一度考えよう」昭和58年9月、59年3月)
・国分康孝「カウンセリングを生かした人間関係−教師の学習法」(歴々社)

・ カウンセリングの本質から学ぶ
・ 「対策」ではなく「こころ」の問題
 「相談」という意味が「対策などのため話し合うこと。(広辞苑)」だとするならば、カウンセリングを、「相談」と翻訳することは多少、語弊を生ずると言わざるを得ない。ちなみにケースワークが「社会資源の活用などによる社会的・経済的問題の解決のための援助」に重点をおいているのだとすれば、それに対してカウンセリングでは「個人の心理的・精神的問題の解決のための援助」に焦点をおくのである・。このようにカウンセリングが「対策」ではなく「こころ」を問題としていることは、人権尊重思想の普及を考える上でもおおいに示唆に富むところである。
 なぜならば、一つにはそこに「啓蒙主義」克服の第一歩がある。国民の理解を求めるためには、表面に表れた「好ましからざる事例」への「対策」に追いまわされ、上からの「啓蒙」を急ぐだけでは不充分であり、むしろ国民一人一人の「こころ」に迫るような気の長い取り組みが必要だからである。
 もう一つには、同和行政自体の重点が「こころ」の問題に移行しつつあるという今日的状況がある。「地域改善対策特別措置法」があと一年で期限切れとなり、昭和四十四年以来の同和対策特別措置が大きな節目を迎えているのである。昨年秋の朝日新聞の座談会「同和行政の行方と課題」において総務庁地域改善対策室長の熊代昭彦氏は、「生活環境が解決出来つつあるとすれば、今後は同和問題についての啓発活動が非常に重要になってくると思います。被差別部落の人たちを差別する理由は、何もないんだということを、国民に十分理解していただく必要があります。」と述べている・。
 未だ残されている生活環境の改善すべき点をいささかも軽視することはできないが、今後、本質的に同和問題を解決するためには、「もの」に対する「対策」だけでは足りず、どうしても「こころ」の問題に踏み込むことが必要になってくるのである。
・ 人間関係をつくる
 橋口氏は「いわば自然発生的な人間関係の過程から、人為的に人間関係をつくり、そこで意思疎通をはかりながら徐々に個人のイメージをつくり、それぞれが悩みを克服しようとする態度ができることを期待するところにカウンセリングの特質がある。」と述べている。前段で指摘した「こころ」の変革を期待するためには、人間関係をつくるところから始めなければならないのである。
 現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。それどころか、特に若い世代の中には、ごく当たり前の人間関係さえ、とりむすべない者もでてきていると言われている。そういう状態の中で、人々がある意味で「深刻な人格危機」に直面しているとすれば、そのことに心はらうことなく相手を啓蒙しようとしても、それは悪い意味での「啓蒙主義」におちいるだけである。人格危機の進む今日において人権尊重思想の普及を確かなものにするためには、カウンセリング的手法に習い、「人間関係をつくりながら」相手の自己変革を側面から促すことから、地道に始めることが、不可欠の条件になっているのである。
 そもそも、人間関係なしに他者に何らかの影響を与えようとすることは、何を意味するだろうか。それは、おざなりな「情報提供」か、あるいは、上からの権力的な「説教」であるか、どちらかなのではないだろうか。カウンセリングが人間関係づくりから始まることは、従来の人権尊重思想の普及のあり方に対して鋭く反省を促しているのである。
・ 人間を「個性的存在」として捉える
 カウンセリングでは「個」としての人間を重視する。橋口氏は「カウンセリングにおいては、社会的存在としての人間を第一義とはしない。個性的存在としてのそれが主題である。ある意味では、個々の人間がその個性を十分に発揮できることで、それぞれが社会的存在となりうるとの前提に立っているといえる。」としている。
 この徹底した「個」の重視は、それが行政のものであれ、同和団体のものであれ、従来の人権尊重思想の普及活動に対して大いなるアンチテーゼを提起していると考える。従来のそれは、極端な例としては「一斉講義型学習」「大衆動員」という言葉に象徴されるような形態を持ち、また、結果としての単一な反応と成果を期待しすぎていた傾向があったのではないだろうか。
 蛇足にはなるが、このことは人権尊重に逆行するような差別的意識を「個性」だからと言って是認したりすることでは決してない。また、人権尊重思想の普及活動のすべてにわたって、「集団」より「個」を重視すべきと主張する意図もない。その点では、カウンセリングの理論と、人権尊重思想の普及の理論とは自ずから性格を異にするものである。ただ、常に「マス」(集団)でしか人をとらえないのではなく、集団を構成する一人一人の「個」に視点を戻してみる意識的な作業が欠けていたのは否めないだろう。
 さらには、人権尊重思想そのものが、そもそも前近代的な人間観を克服し、近代民主主義の基本である「個」の尊重をめざすものであることを考えると、その普及活動においてそれが尊重されねばならないことは、当然なのである。

・浜島朗ほか編「社会学小辞典」(有斐閣)の「カウンセリング」の項
・朝日新聞、昭和60年10月29日朝刊

・ カウンセリングのノウハウから学ぶ
・ 受容
 国分氏は「(生徒の言葉が)弁解でも一応耳を傾けて聴くと、生徒にすればこの先生は私に関心をもってくれている、この先生は私の味方であると受けとってくれる。」として「構えがなくなること」(リレーション)を不可欠条件として指摘している。これが、さきほどの「人間関係をつくる」ということにもつながるカウンセリングの基礎的技法の一つ、「受容」すなわち非審判的に話を聴くことにより「ホンネ」をつかむことである。
 人権尊重思想の普及活動、特に同和問題の啓発活動においては、「啓発する側」は人権尊重の意識が強く、不正義を許しがたいという気持が当然ながら強いのであるが、そのため、相手側が不用意な発言をした場合にはすぐにその非をつき、訂正を求めがちである。しかし、それは通常の人間関係における場にあっては望ましい態度であったとしても、「啓発する側」という特別な関係にあることを意識するならば、違った対応が求められるはずである。時と場合によってはカウンセリングの技法にならい、受容的に聴いてみることも有効なのではないだろうか。
 この「技法」はカウンセリングのなかでも特に主要な技法であり、また、人権尊重思想の普及活動のあり方を考えるうえでも、その意味するところが大きいと思われるので、やや詳しく、同和問題の啓発活動を例にとって考えてみたい。この技法が有効に活用された場合、次のような効果を生み出すものと思われる。
1、相手に実は差別的な意識がなくその真意が違うところにあった場合、啓発する側の相手に対する無用の誤解を防ぐことができる。(これは実際の場面では少ないかもしれないが)
2、相手がしゃべっているうちに、その言語化の作業のなかで、自ら自己の差別意識に気づく可能性に期待することができる。このような「自己認識」が実際に行われ、さらにそれが「自己変革」につながるとすれば、これは啓発のあり方として、そして国民みずからの自己教育の営みを援助しようとする社会同和教育の立場から考えても、もっとも望ましい姿である。
3、相手に問題となる差別意識が存在し、しかもそれに気づかず話されていたとしても、啓発する側がそれをよく聴くことにより、相手の差別意識の深いところからの根源を理解することができる。そのことにより、「何を言えば、一番効果的か」も推定しうる。とりわけ、啓発を単なる言葉のうえでの表面的な「投げかけ」にとどめることなく、相手の「こころ」の変革を迫るものにしようとするならば、これはどうしても学ばねばならない「技法」である。
4、相手との人間関係を維持、発展させることができる。もちろん、これは相手の差別意識までも、人間関係のために許容してしまうことではない。人間関係の形成という基本的条件が整ってこそ初めて、こころに迫る「啓発」も可能になるということである。
5、国民の間に、率直に言って「同和はこわい」という残念な誤解、および消極的傾向が見受けられ、広範な国民の学習活動を阻害する要因になっている。この状況に対し、カウンセリングでいう「受容」がうまく取り入れられるならば、「(啓発する側が、国民それぞれの言うことを)とにかくは、聴いてくれる」という国民の安心感が獲得でき、広い層の国民の自然な参加と意見が得られるはずであり、それがひいては、今述べたような同和問題の啓発に当たっての閉塞状況を打破する大きな足掛かりとなりうると考えられる。
・ 繰り返し
 国分氏は「繰り返し」について「ぼくは君の話をこう理解したのですが、ぼくの理解の仕方にまちがいはないでしょうか」と確認の気持をこめて問い返すことであると、端的に説明している。この技法は「事実の確認」のためにも有効なのであるが、ポイントはむしろ「感情の確認」にある。
 人権尊重思想の普及活動においても、この技法の活用は次のような効果を生みだすと考えられる。
1、人権尊重思想を普及しようとする側に対して、それを受ける側が「ああ、この人は私の気持をわかってくれた。」という信頼を寄せてくれるきっかけとなる。
2、相手の話をよく聴いて「枝葉末節を切り落とし、核心を把握する」という、コミュニケーションのためにはなくてはならない営みを、普及する側に必然的に促すことになり、それは結果として啓発活動が「ひとりよがり」の一方通行となって形骸化することを防ぐ「歯止め」として作用する。これまで、普及の側がどれだけ真剣になって国民一人一人の意見を聴いてきたか、反省が促されるはずである。
3、相手は繰り返しをしてもらうことによって、自分の意識に自ら気づくことができる。そのなかで、当初は本人に差別意識などがあったとしても、それに自ら気づくことは、「自己変革」を促す強いモチベーションになるのである。
・ 明確化
 国分氏は「明確化」という技法について、「まだことばには出していないが、うすうす本人も気づいていることを先手を打ってことばにのぼらすこと」であり、「これをしないと会話が深まらないのである。」と説明している。もちろん、カウンセリングで言う「明確化」とは、「うすうす本人も気づいている」ということが必須の条件であり、その点では「説教」や悪しき「啓蒙主義」とはまったく異なるものである。
 さて、人権尊重思想の普及活動において、この技法の活用は次のような効果を生みだすと考えられる。
1、本人であるがゆえにむしろ気づきにくい自己の差別意識などに、はっきりと気づくことができる。この面では、「受容」や「繰り返し」より、さらに積極的な作用をもたらすものである。ただし、それだけにカウンセリングの原則を踏みはずすことのないよう、留意する必要がある。考えられる「失敗」の例としては、相手の気持を的確にとらえられないまま誤解に基づく「明確化」をして相手を失望させてしまうことなどもありうる。
2、「同和はこわい」という誤解を持っている人々の場合、かえって啓発活動を行う側に対して「本音」を隠して、たてまえでとりつくろう傾向が見受けられる。あるいは自分の差別意識などに「気づきたくないから、気づかない(ふりをする)」こともあろう。このような場合には、カウンセリングの原則を踏まえたうえでのやや積極的な「明確化」も、時には有効であろう。
3、2とは逆に相手が差別されている立場の人の場合、たとえ同和問題の啓発をしようとする者に対してでも、それが行政側であった場合など、なかなか「本音」を言いづらいということが考えられる。その場合、「遠まわし」な気持の発露を的確にとらえて、「明確化」することは、啓発しようとする側の責務であろう。国分氏の挙げる次の事例は、人権尊重思想の普及活動にとって、大変示唆的である。
 「『騒いだのはぼくじゃありません』と生徒が抗議してきたら、『ぬれぎぬを着せられたというわけだな』と応ずる。生徒は自分の口から『先生はぼくにぬれぎぬを着せた!』とは言えないので前記の表現をとったのである。」
・ 支持
 相手の言動を是認することである。他者から「支持」されることは、その人にとって生への意欲の源泉になる。
 人権尊重思想の立場から見て、一人一人の人間の生き方はどうとらえることができるのだろうか。もし、「いい人」「悪い人」に二分できるのなら、ある意味ではこれほど単純なことはない。「悪い人」の「悪い所」をなんとか治すようにすることしか、やるべき事は残っていないからである。
 しかし、実際には一人一人が、ある時には「差別する側」になり、ある時には「差別される側」になる。ある時には「差別をする気持」「差別を許す気持」になり、ある時には「差別を憎む気持」「差別を許さない気持」になる。だとすれば、人権尊重思想を普及する側には、相手に対して先入観を持つことなく、評価できるところに対しては徹底的に「支持」し、それを励ます営みが求められているのである。
 それに加えて複雑なことには、現実にはそれぞれの人の一つ一つの言動自体が、「差別をする気持」「差別を許す気持」と「差別を憎む気持」「差別を許さない気持」の双方の弁証法的な発露なのである。普及の側は、深い洞察なしに「評価できない」と片付けてしまうのではなく、注意深く後者の崩芽の可能性を育まねばならない。これはまさに、相手の人権を尊重した普及のあり方でもある。
 さらに、国分氏の挙げている次の事例は、人権尊重思想の普及活動の観点からも注目されなければならない。「教師は概して批判めいたことをいう。一言居士といってもよい。たとえば生徒がクラス委員に立候補した。ある教師が『クラス委員は何でもできなけりゃいかんのだぞ。』と。勉強ができないくせにクラス委員でもあるまいという言外の含みがあった。生徒は立候補を辞退して落ち込んでしまった」。支持の言葉が出てこないこの教師に対して、国分氏は「精神の貧困」と断じているのである。たしかに、カウンセリングで言う「支持」の精神と逆行する人権侵害ともいえるこのような事例は極端ではあるが、ありえないことではない。
 ただし「支持」とは相手の何らかの側面を励まし「強化」することであるから、何であろうと支持しさえすればよいということではない。人権尊重思想に反するような側面については、普及する側が明確に識別しなければならない。国分氏は「人間はどうあらねばならないかという自分なりの人生哲学が定まっていないと、勇気を出して支持できない。」としている。普及する側の鋭い人権意識が求められているといえよう。
・ 質問
 「質問」の意味を「相手が自分の感情を整理して出しやすいように導く」ことと、国分氏は説明している。「君は勉強する気があるのか」というように「はい」「いいえ」で答えさせるのではなく、「勉強するということについて君自身はどんな感じをもっているの」というように、自分のことばで説明して自ら問題がつかめるように導くべきであると言うのである。
 われわれは性急に人権尊重思想の普及を急ぐあまり、「あるべき姿」を前提に、相手との対話においても「情報をとる」あるいは「告白させる」ことを第一義としていなかったか。それに対してカウンセリングの一技法である「質問」は、「人間が自分の力で自己を啓発する営みに待つ」という姿勢だと思う。この姿勢に学ぶことの意義は、非常に大きいといえるだろう。
                                        ・ カウンセリングだけでなく
 われわれは、ここまでカウンセリングの本質と技法から、人権尊重思想の普及活動にとって教訓的なさまざまなことを学んできた。しかし、そのことはカウンセリングが人権尊重思想の普及活動にとって全能(オールマイティー)であることを意味するものではないことは、当然である。
 カウンセリングはカウンセリーとカウンセラーの、あくまでも個人的な、そして対等な人間関係である。思えば、従来の人権尊重思想の普及活動がつい忘れがちな人間のこころに迫るカウンセリングの理論と技法は、その原則から発していた。
 しかし、実際の普及活動は必ずしもカウンセリングのような人間関係のもとで展開されるわけではない。それより複数の人間やその集団、あるいは不特定多数を相手として、しかも普及する側は明らかに「啓発者」として位置することが多く、実はこのレポートにおける今までの論議も、むしろそれを前提に、それでもなおかつカウンセリングから何を学べるかを論じてきたのである。
 そこで普及活動の実践のなかで、カウンセリングの活用だけでは事足りない部分について列挙し、補足しておきたい。
・ 情報提供
 カウンセリングが相手のこころの中での人権尊重思想の形成を側面から援助するものであるとすれば、情報提供は相手の自発的選択に待ちながらも、人権尊重思想の形成のために必要な基礎としての情報を主体的に受け止めてもらおうとするものである。
 その時に大切なことは、おしつけにならないことであろう。普及活動においては、わかってもらおうとすることを、つい急ぎがちである。しかし、それでは相手は「おしつけがましいな」と感じてしまうことにもなる。特に同和問題の啓発活動などに対して、このような感覚を持っている国民は多いのではないだろうか。
 この誤解、先入観を克服するための解答の一つは、「情報提供の姿勢」であろう。人権に関するさまざまな情報を提供し、そこから国民自身が何かを学びとり主体的に判断をするのを待つという姿勢である。
 ここで、昭和60年12月に発足したばかりの「大阪人権歴史資料館」に注目したい。設立の目的は「大阪府下の同和問題をはじめとする人権問題に関する歴史的調査研究を行うとともに、関係資料、文化財を収集、保存し、併せてこれらを一般に公開することにより、人権思想の普及と啓発に資する」ということである・。この資料館においては、太鼓とまつり、信仰、芸能との関係、「水俣」写真展、大阪大空襲、アンネ・フランクの資料など、巾広い視点で資料を構成している。この姿勢は、今述べた「情報提供の姿勢」につながるものである。
 さらにこの姿勢を徹底するならば、情報提供そのものへの国民の主体的な関わりを重視することになるはずである。その点で、資料館の展示の特徴の一つとして「伝達型から参加型の博物館を目指す。一定の知識を一方的に伝えるだけでなく、来館者が自ら問題意識を持って参加できるようにする。」としていることは大変興味深い。その実現が期待されるところである。
・ 交流の援助
 カウンセリングがカウンセラーとカウンセリーの個人的人間関係だとすれば、ここでいう「交流」は国民相互の集団も含むダイナミックな人間関係である。
 前出の朝日新聞の座談会「同和行政の行方と課題」において、地域改善対策協議会会長の磯村英一氏は「いまは国の方針を決める協議会にも(運動団体が)入らないで、それで別々なことをいっているのでは、どうにもならない。国民の世論を結集しなければ、いくら法律をつくっても、行政に何とかしろといっても、同和問題の解決は無理ですね。」と言っている。氏の言を借りるまでもなく、同和問題を含む人権尊重思想の普及にとって国民の合意はもっとも大切な要素である。
 しかし、人権尊重思想の普及活動におけるいわば「草の根」的視点から言えば、国民の合意形成よりも前に、それを基礎から形づくる人と人との間のあたりまえの関係さえ、危機に面しているといえないだろうか。たとえば汐見稔幸氏は授業中の生徒間のおしゃべりについて次のように分析している・。「彼らのおしゃべりが、深刻な方向に向かわず、必ずある笑い(めいたもの)をさそい出すような方向を向こうとするのは、自分たちの意識が、深刻なテーマを考えることに向くことへの無意識の防衛機制が働くためだと考えられる」。そしてこの「おしゃべりシンドローム」は、「言葉を発し合わないことの方に精神的安定を見出す」ような社会的関係の「裏返し」の反映だというのである。
 人権尊重思想の普及が「草の根」的に浸透するためには、国民の間にいきいきとした相互交流が必要なのであるが、そのための契機となり、励ましとなるような普及活動のあり方が求められているのである。さらには「人間関係の非直接性=媒介性」(汐見氏)の強まりは、その人が本来享受すべき人間の基本的な喜びとしての人間の交流、すなわち人権にほかならないのだが、これを阻害するものであり、また、このような状況下においては他者に対する緊張と他者からの逃避は、他者の人権に対しても同様に無関心たらしめるという二重の意味での人権侵害の誘因であることを考えるならば、交流の援助は人権尊重思想の普及につながるのはもちろんのこと、人権尊重の社会を形成する直接的な営みともいえるのである。
・ 「社会教育」としての営み
 これまで述べてきたことは、そのまま社会教育の営みでもある。そして既述の「相談」(カウンセリング)、「情報提供」、「交流援助」などを統括する概念として、社会教育における自己教育の原則を指摘することができる。それは、社会教育法第3条「(国及び地方公共団体は)すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。」という条文に表されている。
 この本質的原則に則り、「相談」「情報提供」「交流援助」などを有機的に組み合わせつつ、さらにその上で生活課題・地域課題を学習し共有する国民の営みを援助することが求められているが、この社会教育の独自の役割については今後の課題として残されていることを付記して、この論の終わりとする。

・大阪人権歴史資料館「オープンした『リバティ・おおさか』」(解放出版社「部落解放」1986年1月)
・汐見稔幸「意味の充満した沈黙をこそ」(国土社「教育」1985年9月)
                                                   人権尊重思想の啓蒙と社会教育(要旨)           ・ 啓蒙主義の歴史的意義
 啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つである。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。このように、当時の啓蒙主義は、
1、近代民主主義の基礎を築いていること
2、人間の自由平等を説いていること
3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること
以上の三つの特徴を持っている。
 しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。
・ 教育における「啓蒙」の問題
 現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。そういう状態の上で、教育の専門家が相手を啓蒙しようとしても、相手がもっと深刻な人格危機に直面しているとすれば、カウンセリング的な対応なしには、その「啓蒙」は「押しつけ」にしかならないのである。
 従来の啓蒙は、あるべき理想の姿をさし示すという性格の強いものであり、その意味では、カウンセリング、特に非指示的カウンセリングとは、まさに正反対のものであったが、人格危機の進む今日においては、カウンセリング的手法で相手の自立を側面から促すことは、不可欠の条件になっている。
 その際、教育の専門家がカウンセリングから学ぶべき点は、単にその手法だけでない。最終的には相手の自らの問題解決力を信頼し、それを待つ姿勢をカウンセリングは持っているが、この姿勢こそ、啓蒙をしようとする者がしっかりとわきまえねばならぬ点であると言えよう。さらに、対象を常にマス(集団)としてだけ捉えるのではなく、「個」に注目し、それを重視するというカウンセリングの姿勢からも学ぶべき点は多い。
・ 社会教育における「啓蒙」の問題
 いわゆるカルチャーセンターの盛況等による「社会教育の拡散」と呼ばれる今日の状況において、公的社会教育が文字通り「公」として住民による「地域での問題解決」を援助する役割は非常に重要である。ここに当時の「公民館構想」が今日、あらためて注目されつつある所以がある。
                                         人権尊重思想の普及のあり方についての実践的考察(レジメ) 昭和61年3月18日・ はじめに
 方法論としては国民の「主権者」としての側面を最大限尊重しつつ、人権尊重思想の普及の中身において、国民の「主権者」としての成長を意識的に援助していく。
・ カウンセリングへの注目
 人権尊重思想そのものが、人間の生き方に深く関わるものである。
・ カウンセリングの本質から学ぶ
・ 「対策」ではなく「こころ」の問題
・ 人間関係をつくる
 そもそも、人間関係なしに他者に何らかの影響を与えようとすることは、おざなりな「情報提供」か、あるいは、上からの権力的な「説教」になりがちである。
・ 人間を「個性的存在」として捉える
 カウンセリングの理論と、人権尊重思想の普及の理論とは自ずから性格を異にするものである。ただ、社会教育における人権尊重思想の普及活動においては、集団を構成する一人一人の「個」に視点を戻してみる意識的な作業が欠けていたのは否めないだろう。
・ カウンセリングのノウハウから学ぶ
・ 受容  ・
・ 繰り返し・                                 ・ 明確化 ・・紙面の都合上、レジメにおける文書での説明は省略。口頭で発表する。・ 支持  ・                                 ・ 質問  ・
・ カウンセリングだけでなく
・ 情報提供
 カウンセリングが相手のこころの中での人権尊重思想の形成を側面から援助するものであるとすれば、情報提供は相手の自発的選択に待ちながらも、人権尊重思想の形成のために必要な基礎としての情報を主体的に受け止めてもらおうとするものである。
・ 交流の援助
 交流の援助は人権尊重思想の普及につながるのはもちろんのこと、人権尊重の社会を形成する直接的な営みともいえる。
・ 「社会教育」としての営み
 既述の「相談」(カウンセリング)、「情報提供」、「交流援助」などを統括する概念としての社会教育における自己教育の原則。
                                                   人権尊重思想の啓蒙と社会教育(要旨)           ・ 啓蒙主義の歴史的意義
 啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つである。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。
 このように、当時の啓蒙主義は、
1、近代民主主義の基礎を築いていること
2、人間の自由平等を説いていること
3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること
以上の三つの特徴を持っており、これらの特徴は、今日の人権尊重思想の普及に関しても重要な関連があると、認識すべきである。
 しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。
・ 教育における「啓蒙」の問題
 啓蒙主義の時代においては、科学的な知識の普及は、直接に人々の啓蒙に貢献したのであるが、今日の時代においては、教科に関する学習ばかりでは不充分であり、むしろ三浦のいう「生きるという問題」が啓蒙にとっても重要な要素となってきている。言い方を変えれば、今日、「啓蒙」とは主に「人間の生き方」に関することなのである。そこに今日の「啓蒙」の難しさがあり、それは本論においても大いに問題とするところである。
 今日の学校教育においても、これと同じような「教師と生徒の断絶」は、いたる所で見いだすことができる。たとえ教師が、「人間の生き方に関する啓蒙」に熱心であっても、それが肝心の生徒に伝わらないのである。「啓蒙」というのは、えてしてこのような「独り相撲」が多いのではないのだろうか。
 現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。そういう状態の上で、教育の専門家が相手を啓蒙しようとしても、相手がもっと深刻な人格危機に直面しているとすれば、カウンセリング的な対応なしには、その「啓蒙」は「押しつけ」にしかならないのである。
 従来の啓蒙は、あるべき理想の姿をさし示すという性格の強いものであり、その意味では、カウンセリング、特に非指示的カウンセリングとは、まさに正反対のものであったが、人格危機の進む今日においては、カウンセリング的手法で相手の自立を側面から促すことは、不可欠の条件になっている。
 その際、教育の専門家がカウンセリングから学ぶべき点は、単にその手法だけでない。最終的には相手の自らの問題解決力を信頼し、それを待つ姿勢をカウンセリングは持っているが、この姿勢こそ、啓蒙をしようとする者がしっかりとわきまえねばならぬ点であると言えよう。さらに、対象を常にマス(集団)としてだけ捉えるのではなく、「個」に注目し、それを重視するというカウンセリングの姿勢からも学ぶべき点は多い。
・ 社会教育における「啓蒙」の問題
 しかし当時の人々が、まだ民主主義や地方自治について精通していなかったことを考えると、むしろ「公民館構想」に基づく「啓蒙活動」が正当な政治的理想の実現のために貢献した側面こそ評価すべきであると考える。
 そしていわゆるカルチャーセンターの盛況等による「社会教育の拡散」と呼ばれる今日の状況において、公的社会教育が文字通り「公」として住民による「地域での問題解決」を援助する役割は非常に重要である。ここに当時の「公民館構想」が今日、あらためて注目されつつある所以がある。
 ここでは「公民館構想」以降の流れを逐一追う余裕はないが、「公民教育から『市民教育』への転換」として藤岡貞彦が批判的に指摘している、50年9月の「第2次アメリカ使節団報告」については、藤岡の指摘どおり、「反共市民教育」の誹りを免れないものである。「報告」では、「極東において共産主義に対抗する最大の武器の一つは、日本の啓発された選挙民である。」とされている。しかしこれが、教育に対する露骨なイデオロギー的干渉であるからこそ、これ以前の「公民館構想」等の、いわば素朴な民主主義志向に基づいた「啓蒙」とは、決然と区別されるべきである。
・ 社会教育における人権尊重思想の普及のあり方について(試論)
 しかし、今ここに述べた通り、集団討議(話し合い学習)や視聴覚(視聴覚メディアの活用)の手法は、「自己変革」即ち意識変革を促すという点で有効なのであるが、その力が強力であるがゆえに、社会教育ではそれらの手法の導入にあたっては、常にある意味でストイックに取り組むことが必要と考える。なぜなら、もしその手法が社会教育行政の側できままに使われるとしたら、場合によっては、「自己変革」の内実が乏しいものになり、かえって今までその人の持っていた良さが失われるという恐るべき結果だけが残るということもありうるからである。
・ 情報提供の姿勢
・ 「個」の重視
・ 科学性
・ 市民の検証
・ 課題の共有
                                        社会教育の計画とプログラム
 ・ 各種事業計画立案の視点と展開例

7 学習情報提供事業の企画と展開 
   〜人間が学習情報を求めている〜

〔この事業の基本的問題〕
 生涯教育の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することは大変難しくなっている。それゆえ、豊富な学習機会の中から、市民が自己の必要とするものを的確かつ速やかに選び出すこともできなくなっている。学習施設や人材など、生涯学習に関わる他の情報についても同じことが言える。
 こんなことでは、せっかくの「外側」の「学習社会」の実現も、一人一人の人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのである。
 しかもここで扱う情報は市民一人一人の内面に関わり、影響を与えるものであるから、その情報提供事業は特別に、「市民主体」、「公正」、「公平」などの公共性に裏打ちされていなければならない。
 公的に学習情報を提供する意義は、以上のようにまとめられるだろう。しかし、さらにこの事業の実施に当たっては、次に述べる三つの基本的疑問について考えておく必要があると考える。(図1参照)

1 情報過多に「輪を掛ける」ことにならないか
 社会教育行政が学習情報提供事業を開始しようとする時、あるいは次のような反論が出るかもしれない。「この情報過多の世の中でまた新たに情報提供をするなんて、今の情報過多に輪を掛けるようなものではないか。社会教育のめざすことは単なる情報提供などではなく、むしろ情報過多の状況に抗して人々が人間らしい生き方を見出せるよう、その内面的な成長を援助することではなかったか」。たしかに、もっともな話ではある。
 しかし実はこの反論にいう「人々の成長の援助」も、その実体はほとんどが広い意味で言えば情報提供なのではないか。たとえば「学級・講座」において参加者の判断まで強制することができるはずがない。判断は参加者にまかされている。実際には講師は何らかの「情報提供」をしていることが多い。このように、たとえ情報過多の問題を含めて、今日の社会における人間の危機に対して何とかしようとする場合であっても、やはり最初は何らかの情報を発することから始めるはずである。
 現代社会の病理現象を考えると、つい「消極的な働きかけ」としての情報提供より、「教育的意図の直接的実現」を性急に求めがちになる。しかしそれでは、市民の自己教育が社会教育の本質であるという原則を行政自らが踏み外してしまうことにつながってしまうのである。
 むしろ、学習情報提供事業の実際の姿が情報過多のデメリットを克服するものになるかどうかにこそ目を向けるべきである。
 情報過多のデメリットとしては次のようなことが挙げられる。余計な情報が多すぎて、自分の求める情報がどこにあるのかわからない。大切に吟味検討すべき情報までないがしろにされがちになる。他からの情報に頼らないと生きていけない「情報への依存」さらには「情報への強迫観念」に縛られる。情報に追いまわされ、じっくりと人間関係をつくりだすことができない・・・。学習情報の提供においても、このような結果にしかならないのであれば、むしろやらない方がよいということになる。
 これに対し、学習情報提供事業のあるべき姿は、ある面では情報過多でわかりにくくなった学習情報を、わかりやすく整理して提供することにより、市民の主体的で的確な判断を支援することである。さらに、他者と人間的交流のできる主体の形成のための目配りまでもが求められるのである。
2 市民の情報能力の獲得を阻害しないか
 人は学習するために、さまざまな学習機会を自ら見いだし、いろいろな形のネットワークを創り出すための良い仲間を自ら見いだす。その主体的な努力は、現代社会に生きうる情報能力を鍛えてくれる。またそれ自体、学習の重要なプロセスの一部でもある。
 さらにたとえば人間の認識は、純粋な頭の中での思索活動だけで発達するのではなく、情報を収集し整理するという「外在的作業」によっても、大いに育まれるという側面をもっている。
 このように考えた場合、他者が安易に学習情報を提供してしまうことには批判があって当然である。あまり精選され整ったレディ−メイドの学習情報を一方的に提供してしまうことは、相手の自己成長の機会を奪うことにさえなるのだ。そこで社会教育行政が行なう学習情報提供事業においては、たとえ市民が「完成品」を望んだとしても、はば広い関連情報やナマの未完成情報を提供することなどにより、市民の情報選択のプロセスを尊重しなければならないだろう。
 さらには、学習情報提供事業は情報の収集・整理の「代行屋」ではなく、市民との「共同作業者」にならなければならない。行政の一方的サービスに終わらせることなく、市民も行政も情報能力を最大限に活用しあうことにより、お互いがさらに次元の高い情報能力の獲得へと向かうことができるのである。
 また、メディアの発達は現在の人間に大きな影響を及ぼしているが、現実のマスコミへの批判能力も含めたメディアリテラシーの習得なくしては、生涯学習情報の適切な摂取ができないだけでなく、主体的判断のまったくできないことにもなりかねない。学習情報提供事業においてもメディアリテラシーの習得援助が重要な視点となる。
3 情報提供より学習相談を中心的機能とすべきではないか
 成人教育の分野においても、「学習相談」という言葉を聞くようになった。人格の危機をもたらしている現代社会において、カウンセリングに期待が集まっていることと通じるものであろう。しかし本来、カウンセリングでいう「相談」とは個人の心理的・精神的問題の解決のための援助である。このような「こころの問題」に触れることがなければ、それは厳密には「相談」ではなく、「情報提供」でしかない。
 だとすれば、みずからの学習のあり方や進め方について、市民が行政にカウンセリングでいうような相談をもちかけるというケースは本当にあるだろうか。他のことなら想像に難くない。しかし、こと成人の学習については考えにくいのである。たとえ本人が「相談に来ました。」と言っても、その「相談」の内容は実際には学習情報を求めているだけなのではないか。
 率直に言って、自分が学習に関する「相談員」になろうとしている人はいても、学習情報の提供ではない「学習相談」をもちかけたいと考えている人は少ないのではないか。万一、もしそのような学習相談をしたい人が本当に多いとすれば、市民の主体性の最大限の尊重という生涯学習の原則に照らして逆に憂うべきではないか。
 むしろ通常は、市民は実際には学習情報の提供を求めて来て、それに行政が応ずる過程の中で初めて、カウンセリングでいう本来の相談の機能も含まれると考えるべきであろう。ただし、このように「付随的に」発生した学習相談であっても、その意義と難しさは、本来の「相談」に何らひけをとらない。それゆえ、この場合にも行政側は学習相談の本質をきちんと踏まえていなければならないのは当然である。
 たとえばそこで一番かんじんなことは、自己の真に欲している学習のあり方と進め方について、上から教え諭すのではなく相談者が自ら気づくよう仕向けることである。そしてそのためにはカウンセリングでいう「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法が大きな効果を発揮する。
 ともかく、学習相談については独立したものとしてではなく学習情報提供事業の一環としてとらえつつ、しかもその「相談」というものの独自の意義と役割を重視して位置づけることが適切であると思われる。
 なお念のためつけ加えておけば、以上のことは学習相談に関する本質的認識のために述べたのであって、現実の運営において「生涯学習相談」などと銘打って、実際にはどこで何の講座が開かれているか、どんなグループが会員を募集しているかなどの学習情報の提供を主に展開するということは、当然あってもよい。「相談」という言葉にどういう意味をもたせるかによって、表現の仕方は変わってよいのである。「相談」という言葉は、「個人個人のケースへのていねいな対応」など、なかなか魅力的な意味を持っている。
 また、社会教育においては学習相談の他に、家庭教育相談のように「情報」よりむしろ「相談」が大切と思われるものもある。そこでは子どもや親の精神的葛藤や自立の阻害など「こころの問題」の解決を、カウンセラーがなるべく「非指示的」にどのように援助するかが問われる。しかし、皮肉にもそこでの現実の「相談」には、このような本来の「相談」の機能が不足しているように思えてならない。経験主義的な情報提供を安易に行なってしまうことにより、親子の両者のダイナミックな主体形成をむしろ阻害してはいないだろうか。
 いずれにせよ、これらの相談については学習援助よりも精神的自立の援助などの他の要素が強いのであるから、学習情報提供事業のあり方とは別に、心理学的にあるいはそれぞれの課題別・内容別に究明される必要がある。

〔展開の構想にあたっての留意点〕
 本論で描く学習情報提供事業の構想においては、既に述べたことの他に次のことを大切にしたつもりである。
1 側面的援助という原則の遵守とともに積極性の必要
 学習情報提供事業とは市民自身がそこで得た情報群から何かを学びとったり、自主的に判断、選択をしたりするためのものである。すなわち市民の主体的学習のための側面的援助なのであり、それは社会教育行政の原則でもある。
 その実現のためには、情報提供の側でまずプラスマイナスの価値判断をした後の情報を市民に押しつけるものであってはならない。相手の求めに対して可能な範囲であらゆる情報を提供すべきである。
 しかし、現実には、市民の価値観に踏み込まないよう神経質になるがあまり、ややもすると禁欲的、消極的になりすぎて「無難」な何らかの形で既に「権威づけられた」学習情報だけでよしとしてしまい、たとえば「草の根」的な活動などの収集や取り扱いが難しい情報はその必要があっても避けてしまう傾向がある。このような姿勢では良い情報は集まらないだろう。
 側面的援助という原則を守りつつも、新しい時代の新しい市民の学習に対応できるような学習情報を収集・提供するためには「果敢」な積極性が必要なのである。
2 新鮮な情報の収集
 学習情報提供事業では、たとえば学習機会などが過去どうなっていたかという情報はほとんど必要ない。学習情報に関する歴史を研究するためのものではないのである。それよりも今どうなっているか、あるいは近日中に何があるかが必要である。それゆえ、吟味されつくした正確な情報よりも、動態的、今日的な「新鮮な情報」が求められる。
 これは事業を行なう者にとっては、大変な苦労を要する。懸命になって集めた情報が次から次へと無用のものと化していき、休むところがないのである。むくわれることが少ないばかりか、他から「無駄が多い」と批判さえ受けるかもしれない。しかし、急激に変化する社会における生涯学習の必要、それに対応する学習機会の豊富さと統一的情報の不足などを思うと、この収集・提供を怠るわけにはいかない。そもそもこの情報化社会においても、個人のレベルでは新鮮な情報をリアルタイムに把握することが容易ではないからこそ、公的社会教育による学習情報の提供が切実に必要とされているのである。
 なお、この「学習情報の新鮮さ」とともに生ずる「学習情報の範囲の流動性」にも注意したい。生涯学習は社会の激変と学習する人々の主体的成長に伴って、急に「時の課題」となったり、逆にみんなの学習の関心から消え去ったりするのである。ゆえに取り扱う情報の範囲を固定的にとらえたり、アカデミックな視点から固定的なシソーラスをまず確立しようとすることは、賢明ではない。ふわふわした状態のまま、一歩を踏み出してしまった方がよいと思う。そこから出発して、枠組みを随時、時代にあわせて変更すればよいのである。
3 実際に市民が求める情報の提供
 提供する側に情報がたくさんあるのに越したことはないが、市民が求める肝心な情報がなければ無意味である。当たり前のことのようであるが、その肝心な情報とは前述の「新鮮な情報」であり、ナマの人間らしい情報なのであり、それゆえ機械的に集められるものではないことを考えると、ことはそれほど簡単ではない。
 さらには、学習情報源側と、その受け手の側のニーズとの間に大きなギャップがある。たとえば、人材バンクにおいて「青年の生き方について講演したい」という高齢者はいても、それを聞きたいという青年はほとんどいないだろうということが予想される。受け手の側のニーズにこたえる情報を得るためには、情報源側からの情報だけに期待するのではなく、学習情報提供事業を行なう社会教育行政が自ら地域の諸活動とコンタクトをとったり取材したりして、埋もれている魅力的な情報を新たに「発掘」しなければならない。
 次に、市民がいくらその情報を欲しても、それが他の人のプライバシーに触れるような情報であれば安易に提供するわけにはいかない。しかし皮肉なことに情報公開制度などにおいても、実際にはこのような情報は需要が多い。もちろんその目的が営利上のものもあるだろう。だがもう一方では、「グループに入りたいので、活動内容や代表者の連絡先を知りたい」ということがある。学習情報の中では「人」の情報が大きな位置を占めており、プライバシーに接近せざるをえないのである。その時には、行政は、「ある個人に関する情報は、その個人だけがコントロールすることができる。」という原則を守らなければならない。具体的には、個人の情報の収集・提供にあたっては、まずその人の了解を得ることである。
4 「学習情報」の範囲を偏狭にとらえない
 生涯教育の時代の今日、市民は狭い意味での「教養」を身につけるためばかりでなく、激変する社会の中にあって、むしろ広く生活の諸側面のうちの大部分で何らかの学習を必要としており、また実際にも行っている。そこで関連行政が心すべきことは、従来の行政セクショナリズムを打破して、市民の全生活に関わる諸課題と行政の諸課題において生涯教育の観点を貫き通して市民の学習にサービスすることである。だから学習情報提供事業を社会教育行政が行なう場合でも、それが取り扱う情報は社会教育行政関係のものばかりではない。むしろ他行政によるもの、民間のものなど、ありとあらゆるさまざまな学習情報を、学習援助の専門家として行政的「思惑」にこだわらずに提供すべきである。そうでなければ、社会教育行政がこの事業を実施する意味はほとんどなくなってしまう。
 さらに直接、学習・教育活動ではなくても、たとえばコミュニティー活動が市民の自己形成を促す教育的機能を持っていることを考えると、それらの地域活動情報もないがしろにはできない。学習情報の範囲を偏狭にとらえることをやめて視野を広げた途端、いきいきとした生涯学習情報がたくさんころがっていることに気づくはずである。
5 地域情報・行政情報の重視
 市民が地域や自治の本当の主人公としての力量を身につけることは、現代の民主主義社会において非常に大きな学習課題ともいえる。社会教育行政がそのための情報を提供することは、公的社会教育の役割として特に重視されなければならない。
 そこで学習情報提供事業において地域情報や行政情報については、たとえそれが学習機会や学習団体などに関する「学習情報」ではなくても、やや広く市民の地域学習・自治学習に役立つ情報をできるだけ収集・整理して、地域の自治のセンターの一つとしての役割も果たすことも考えたいのである。
6 科学技術の急速な発達をうまく活用する
 即時的な情報の収集・提供のために、今後も急速に発達するであろう通信技術は最大限に活用したい。特に双方向メディアの発達は、情報化社会における情報の受け手の没主体性を克服するための手段として、学習情報提供事業においても大いに期待できる。
 現在「届ける社会教育」の重要性が叫ばれているが、それにしては市内なら3分間10円でできるパソコン通信の在宅利用などは、ほとんど試みられていない。学習情報提供事業においては、これらの可能性を試みたいものである。
 その他、現在はコンパクトディスクやビデオディスクなどのオーディオビジュアル(AV)にコンピューターのCを加えて、これらを有機的につなぎ合わせるAVC=オーディオビジュアルコンピューターの時代とも言われているが、それに対しても充分対応できていないようである。成人用のAVC教材の開発と活用ができたら楽しいだろう。
 なお、ニューメディアやコンピューターの発展速度はわれわれしろうとの想像を絶するものがある。学習情報提供事業を始める時のこれら科学技術の発達段階に合わせて、しかも生半可な知識を頼りに、固定的で融通のきかないシステムにしてしまうのではなく、技術の発達を随時取り入れられるような柔軟なシステムにしたい。
7 学習情報ニーズを育てるための教育的機能の発揮
 生涯学習時代の今日、学習する市民はますます自己の学習能力を備え、その中の社会教育行政に期待する人々は、質・量ともに充実した学習情報の提供を求めてきている。しかしこれに応えているだけでは、このような「学習できる市民」とまだそれだけの力量を獲得していない市民との間の格差をますます広げてしまうという問題が生ずる。「学習主体形成の援助」という視点のもとに、教育的機能により情報提供機能を補完することも必要なのである。
 そのための具体的方策としては、生涯学習や学習情報への関心につながるような親しみやすく一人でも参加できるイベントの開催などが考えられる。
8 市民自身の手による調査・研究との結合
 市民のあいだに「知的生産」、「知的生活」、「ライフワーク」などの志向が出てきている。それは地域から、そして当然、社会教育行政からも離れていった「企業戦士」にまで広がっている。いや、むしろ特に「企業戦士」の中に、これらの新しい自己実現の生き方を求める気風が強まっていることにこそ注目すべきであろう。物的な生産性向上ばかりを目指してきた従来の人間的文化不在のやり方が、今日のソフト化社会の中で反省されている。そしてその上で、知的生産を含む生涯学習が行われており、すでにその「アマチュアリズム」の成果は相当なものになっているのである。
 この「企業戦士」を含めた「市民アマチュアリズム」の志向は、従来の社会教育行政とは残念ながらあまり縁が無かった。しかし今、社会教育行政はその援助を急がねばならない。学習情報提供事業は情報を大学その他の研究機関に提供することを第一義とするものではなく、このようなアマチュア市民のある時には孤独になりがちな営みを、情報でつなぎ励ますことこそ、主な目的なのである。これは社会教育行政の現代的役割でもある。
 そこで以上の趣旨から、一つには市民の自発的な調査・研究への情報提供による援助、二つにはそれら調査・研究成果の蓄積と交流の援助、三つには社会教育行政やその他の一般行政による調査・研究においてもこれらの「アマチュアリズム」の力を活用することを考えたい。
9 ともに育つ「しかけ」の配置
 情報化が進むとともに情報を管理・提供する側はますます巨大な情報の集中を強めていく。また一方、ややもすると市民はますます情報の一方的な受け手となってしまう。このような事態に無頓着に学習情報提供事業が行われるのならば、その事業は結果としては市民の情報に関する主体性の喪失を進めるものに変質しかねない。
 すでに述べたように、本来、情報を収集・整理・提供する作業というものは、人間の認識を育てる契機としての機能を内包しているものである。学習情報提供事業においては、学習情報の収集と提供という作業の持つこれらの「人間形成の機能」を尊重し、充分発揮させるようにしなければならない。
 そのためには一つには、この事業全体を事業主体と市民の両者が「共有」できるようにあらゆる努力をつくすべきである。そうすれば、市民が「育つ」ばかりでなく、事業を行なう側も市民からのフィードバックにより、市民的感覚を養い、広く正確な認識を得ることができる。
 そこで学習情報提供事業を「共有」するためのしかけが必要になるのであるが、最も代表的な「しかけ」は市民参加型の企画委員会、運営委員会の設置である。しかし、これらを単純に設置するだけで他に努力をしないとすれば、早晩これらの委員会自体も形骸化あるいはボス支配の危機に陥るだろう。そこで今回の構想では、「ともに育つしかけ」をいろいろな所にちりばめたつもりなのである。
 たとえば地域に根づいて住民にフェースツーフェースでレファレンスサービスをしてくれるような、いわば現代の御隠居さんとしてのインフォメーションリーダーの役割を果たしている人の存在への注目とそれへの協力・援助・連携や、有志市民の情報の収集・整理・提供への参加などがそうである。
 さらには、学習カウンセリングにおいて一人一人の学習情報ニーズをとらえ、またそこで直接、学習情報提供事業への注文も話してもらうなどの、マンツーマンレベルの細かくていねいな作業も大切なのである。カウンセリングではカウンセラーが相手の「個」としての存在を重視し、相手と人間関係をつくり、相手の話をよく聞き、相手が自ら何かに気づくよう援助することを基本としているのだから、「ともに育つ」ことについても大いに期待できるはずである。
10ネットワークシステムの中での位置づけ
 たとえもし学習情報提供事業のためにコンピューターを備えたセンターができたとしても、考えられるすべての情報をそのコンピューターにインプットしておくことは、とても不可能であるし、また無理をしてそんなことをしてもあまり意味がない。市民の誰もがどこでも図書を手に入れることができるという図書館のネットワークシステムと同じように、行政全体が市民の立場に立って情報ネットワークを構築することこそ、大切なことである。
 さらに、一般の社会教育施設で学習情報提供事業を行なう場合などは、地域性や対象などを反映したいっそう限定的、個性的な情報提供であってよい。ただしその場合にも、情報のネットワークがあり、職員が他の情報提供機関についての利用法などをよく知っていて、利用者にきちんと紹介できることが前提である。
 実は、本論の構想では学習情報提供事業で取り扱う内容はそうとう網羅的である。しかし、それは必ずしもある一つのセンターで請け負うということではなく、実際にはネットワークにより全体としてカバーできていればかまわない。むしろ自治体の意思決定の現状を考えると、パイオニア精神の豊かな社会教育施設がその独自性を生かして個性的な学習情報提供事業を開始し、それがだんだんとネットワーク的に広がって、その後初めて本格的な情報センターも設置されるということの方が実現の可能性が大きいかもしれないぐらいである。

〔展開の構想〕
 以上の「基本的問題」や「留意点」を受けて、今日の生涯教育時代において社会教育のなすべき学習情報提供事業の展開の構想を、具体的に図示してみたい。この事業については、社会教育の実践においても理論においても、未だ充分に整理されているとは言えない段階であるから、粗雑ではあるがあえて図表化を試みて、批判と実践での克服をお願いする次第である。
 なお、この構想は東京都で生涯学習情報システムを計画した際、その当初の昭和60年度に筆者がプロジェクトチームの一員として作成した案を下敷きにしながらも、実際の行財政的制約にあまりこだわらずに描き直してみたものである。
生涯学習情報提供事業の機能例一覧(表1)
情報の種類・内容・収集方法   (表2)
情報の流れ           (図2)

「社会教育」第42巻 昭和62年3月号 特集「社会教育施設とボランティア活動」

参考資料 「目でみるボランティア活動」

はじめに
 本来、ここでの「参考資料」が「参考資料」たりうるためには、取り扱う内容を焦点化した上で、それに関わる基礎データを省略せずに紹介すべきであろう。
 しかし、社会教育審議会社会教育施設分科会から出された「社会教育施設におけるボランティア活動の促進について」の報告でも「ボランティア活動が社会教育施設で行われるようになったのは、比較的新しいことである」とあるように、テーマ自体が開発的なものであり、オーソライズされたデータが少ないことに鑑み、ここではむしろ視覚に訴える関係資料を拾いあげてトピックス的に紹介する。そのため、本資料は全体としては、いくつかの特徴的な「断片」を羅列したものであり、「体系」にはなっていない点はお許しいただきたい。
 さて、上の報告では、社会教育施設のボランティア受け入れ体制のための第一の留意点として、「施設職員がボランティア活動に対する認識を改めること」があげられている。そして、ボランティア活動そのものが「一つの重要な学習活動」であり、援助すべき対象であるとともに、ボランティアの新しい発想を、社会教育施設の運営や事業の実施にむすびつけることがいかに重要であるかが強調されている。
 このように、社会教育施設の既存の「枠内」にボランティア活動をどう組み込めるかのハウツー論をひたすら追求するよりも前に、現代のボランティア活動が実際にどんな特質をもっているかを認識すること、それらから施設は何が学べるかを考えることが大切である。したがって、本資料では、われわれにとってボランティアに関する認識と思考のための問題提起となると思われるものを、社会教育や社会教育施設の「枠」にこだわらずに広く集めてみた。私自身、集めたナマ資料をじっくり見つめることにより、さまざまなことに気づくことができたのである。
 なお、それぞれの資料により「社会参加活動」、「社会奉仕活動」、「ボランティア活動」などの用語が使用されていて、それぞれのニュアンスも、少しづつ違ってきている。しかし、ここでそれ以上、各用語の相違について明らかにした上で、厳密に使い分けるということができなかった。ここでは単純に、それぞれの各資料の原文どおりの表記に依っている。

            国立教育会館社会教育研修所 専門職員  西村美東士
                                        図表−● グリーンキャンプ‘86のイメージ展開図
 ボランティア活動は、事例・情報・体験・人間関係などのさまざまな交流を通した「新鮮接触」によって活性化される。

 昭和61年8月に行われた日本列島ユースアクション中央推進委員会、中央青少年団体連絡協議会主催「グリーンキャンプ‘86」の「イメージ展開図」である。中央青少年団体連絡協議会は、前年、「国際青年年」と「国際森林年」を記念して“水と緑”をテーマとした「日本列島ユースアクション運動」を始めていた。そして、この「グリーンキャンプ」は、自然保護ボランティアなど、これらのさまざまな活動を実践している全国の青年たちが一堂に会して、情報交換やフィールドワークを通して交流するために開かれた。
 この図は、「新鮮接触」をキーコンセプトとして、「事例・データ」「体験」「人間関係」の交流や、そこで生ずるニーズに対応した「中央組織」としてのシーズ送り出しの役割、「異次元交流」「子弟交流」「情報交流」「世代交流」などの新鮮な接触が「超日常性」としての魅力をもっていることなどを、イメージ的に説明したものである。
 出典−日本列島ユースアクション中央推進委員会、中央青少年団体連絡協議会主催「グ  リーンキャンプ‘86 プログラム」の巻末資料のうち、「イメージ展開図」を抜粋  した。なお、本大会は、8月29日から31日までの2泊3日、山梨県富士山麓で開  催された。
                                        図表−● 青年海外協力隊の派遣現況(国・職種別)
 日本のボランティアは、アジア・アフリカ・中南米で多く活躍している。特に「教育・文化ボランティア」が増えている。

 昭和61年3月現在の「青年海外協力隊」の派遣状況である。青年海外協力隊は、「現地の人々と一体となって」というボランティア精神に支えられている。所管は「国際協力事業団」である。
 このボランティア活動は、決して華やかなものではなく、地球上のすべての人を貧困や無知から解放するための地道な努力である。そして、特に発展途上国の人々の「限りなき学習」を援助する国際的生涯教育ボランティアとしての役割ももっているととらえることができる。現在は「教育・文化」部門の者がもっとも多いことに、注目したい。
 出典−国際協力事業団青年海外協力隊事務局編「青年海外協力隊事業概要」のうち、「  派遣現況(国・職種別)」を抜粋した。数字は、昭和61年3月31日現在のもので  、合わせて32カ国に派遣されている。総数の6401名は、昭和40年発足以来の  参加した協力隊員ののべ人数。
                                        図表−● 高齢者が地域の人々に教えたい気持ち、教えたい内容
 高齢者には地域の人々に何かを伝えたり、教えたりする気持ちがある。問題は「地域は自分に何を求めているか」と「自分にできることは何か」である。

 昭和60年11月に千葉県の10市町の60歳以上の男女、2,050 名に対して行われた調査。ただし、結果として70%が「高齢者教室」や「老人クラブ」に所属する人々の回答となっている。
 それにしても、「伝えたり教える気持ちがある」が71%いるのに、「教えたことがある」は14%という「志向と実態」のギャップは大きい。「内容ははっきりしないが、自分にできることがあったら伝えたい(教えたい)」という人が多いのだが、それが何かについて本人もはっきりしないし、地域からの高齢者一人一人への理解も不十分である。「人生経験を伝える」というのも、そのままでは、同様に活かされない可能性が強い。
 高齢者の社会参加活動の機会を増やす直接的な方策とともに、高齢者自身が自己を見つめなおし、また、地域の要請にも気づくような機会や情報などを提供することも必要なのである。
 出典−千葉県総合教育センター調査報告第6集「高齢者の社会参加活動の実態と参加意  欲−知識・技能・経験の教育的活用を中心として−」、昭和61年3月
                                        図表−● 社会参加活動の助成施策の概要
 各省がさまざまな形で、高齢者の社会参加活動を助成している。

 高齢者の社会参加活動の助成施策の概要である。参加人数などは昭和59年度の実績、予算額は昭和60年度のものである。
 量的に見れば、厚生省の「老人クラブ活動等社会参加促進事業」が予算額、参加人数(会員数)ともにずば抜けている。しかし、質的に高度な高齢者の自覚的なボランティア活動が十分に盛んになっているとは、まだいえる状況ではない。社会参加活動を受け入れる現在ある基盤を活かしながら、各省がさらに高度な社会参加を促進するための条件づくりに努めている段階であることが、読みとれる。
 なお、特に予算額については、そこで表記された金額がすべて、直接、ボランティア関連で計上されたものとは限らない。部分的にボランティア、またはボランティア関連の事業が行われた場合でも、この種の「関連予算調査」には、ひとまとまりの事業の全体の予算額が算出の基礎になることはおおいにありうるからである。そして、ボランティア関連施策というものは、他の諸施策を含めた総合的施策の一環として行われることも多い。そのこと自体は「誰でもボランティア」というボランティア関連施策の健全なあり方の一つともいえるのである。したがって、この数字を根拠にして、どの省が一番多くボランティア活動の助成のための予算を組んでいるかなどを単純に比較することはできない点で注意を要する。
 出典−総務庁行政監察局「高齢者対策の現状と課題−総務庁の実態調査結果からみて−  」、昭和61年8月のうち、「社会参加活動の助成施策の概要」(表)から作成。施  策の内容は、文部省、厚生省及び農林水産省の関連通知等によっている。
                                        図表−● 高齢者の社会参加の達成のための「場」「組織」「情報」のシステム
 「潜在的社会参加」から「場」「組織」「情報」のシステム化を通して、地域に「顕在的社会参加」を生みだすことができる。

 経済企画庁国民生活局「高齢者の新しい社会参加活動を求めて」の中で、その活性化のための社会システムのあり方について、図示したものの抜粋である。CHAOS (カオス=混沌)からFUNCTION(ファンクション=機能)にまで導くためのシステムやフローのこの基本的な考え方は、高齢者だけに限らず、あらゆる世代の人々の社会参加の達成のために共通に必要ととらえられる。
 出典−経済企画庁国民生活局「高齢者の新しい社会参加活動を求めて−高齢者の能力活  用に関する実態調査−」、昭和58年10月から抜粋。
                                        図表−● ボランティアのタイム・スタディ(入浴介助)
 組織的な協力体制ができていれば、無理をせずに普段の日常生活の一環にボランティア活動を組み入れることができる。

 入浴介助のボランティア活動のタイムスタディである。脱衣に始まり、ドライヤーで髪をかわかすまで、意外に複雑な作業に細分化されるのだが、リフトセンターなどの施設・設備と、ボランティアどうしの協力体制が整備されていれば、一人一人のボランティアは日常生活の中で無理をせずに活動に参加できることを表している。
 それでもこのボランティア活動のおかげで本当にひさしぶりに入浴できて、この●●●はどんなにうれしく思うことであろうか。
 出典−○○○○「○○○○」
  東京ボランティア・センター(東京都社会福祉協議会)、ボランティア・センター研  究年報‘82、昭和58年3月から抜粋。補助線の追加など、若干、手を加えた。
                                        図表−● 社会奉仕活動の年齢・学歴・職業別の行動者率
 社会奉仕活動の行動者率は、学習活動よりは、年齢・学歴・職業の違いによる影響を受けにくい。

 年齢・学歴・職業の違いによって、社会奉仕活動の行動者率がどう変化するかを示している。ここでは、学習活動と比較するために、社会奉仕活動の方のスケールを学習活動の2倍の長さにとってみた。厳密にいえば、総数でみて、社会奉仕活動の行動者率は学習活動の57.3%である。
 調査時点は昭和56年と少し古いが、総数が9万人弱、そのうち有業者総数が6万人弱という比較的大規模な調査である。
 本調査でいう「社会奉仕活動」とは、「報酬を目的としないで自分の労力、技術、時間を提供して社会や地域の福祉増進や個人・団体のために行っている活動をいい、いわゆるボランティア活動のこと」であり、「単に役員・幹事等になっただけでは社会奉仕活動に含めないが、その団体と共に奉仕活動を行えば社会奉仕活動に含める」とされている。
 出典−総理府統計局「昭和56年社会生活基本調査報告 全国 生活行動編 上」、昭  和58年3月から作成。
                                        図表−● 社会奉仕活動の行動頻度
 社会奉仕活動の行動頻度は、ひと月に一度にも満たない不定期なものが多い。例外は、民生委員・保護司などの「公的な社会奉仕」の場合だけである。

 社会奉仕活動の種類別の行動頻度を表している。「定期的ではない」、しかも「年に10日未満」の場合が、「公的な社会奉仕」を除いたすべての種類の社会奉仕活動において、半数を超えている。
 このことは、毎週、定期的に行われるような「しっかりした」ボランティア活動への援助とともに、月に一度にも満たないような「普通」の人々のボランティア活動を援助することも大切であることを示唆している。
 出典−総理府統計局「昭和56年社会生活基本調査報告 全国 生活行動編 上」、昭  和58年3月から作成。
                                        図表−● 社会教育施設におけるボランティア活動の促進の図式化の試み
 社会教育施設におけるボランティア活動は、施設にもボランティアにも、それぞれの発展をもたらしてくれる。

 社会教育審議会社会教育施設分科会の報告の図式化を試みた結果がこれである。図式化するにあたり、筆者の主観的判断を交えざるをえなかった点はお許しいただきたいが、本報告でも述べられているとおり、社会教育施設におけるボランティア活動が、施設とボランティアの両方に良い影響を与えるという流れが、この図によりいっそう理解されると思う。
 出典−社会教育審議会社会教育施設分科会「社会教育施設におけるボランティア活動の  促進について」、昭和61年12月3日から作成。
                                        図表−● 社会教育審議会社会教育施設分科会報告「社会教育施設におけるボランティア活動の促進について」の図式化の試み

ボランティア活動の意義
生活水準の向上  自らを向上させるボランティア活動の新しい魅力         自由時間の増大    教えかつ学ぶ相互学習                              知的・精神的世界の広がり                 日常的で楽しい活動 ボランティア活動のいっそうの拡充              郷土愛・奉仕の精神 我が国古来の伝統  新しいコミュニティの形成に貢献     社会教育施設に   学習活動としての側面     社会教育施設として援助の責務  対して      新しい視点・独創的な力    社会教育施設に新たな発展             多くの人々に親しまれる発想  施設と地域をむすびつける   
実際に予想される場面
1 事業の推進・協力                              2 施設の環境整備             施設ごとの概観 ( 略 )     3 広報・広聴活動への協力                           + 短期の催しや、学習相談事業への助力などの不定期なもの            
ボランティア受け入れにあたっての社会教育施設側の留意点
1 施設職員がボランティア活動に対する認識を改めること                ・・・省力化ではなく、施設の教育機能の充実                2 ボランティアの活動領域の設定、窓口の明確化、必要経費の計上などの計画化   3 ボランティア情報のネットワークの整備                       ・・・ボランティアに関するデータ・バンクの設置              4 費用負担・・・活動のための実費を施設等が負担・・・交通費,食事代など    5 事故防止のための安全教育,ボランティアに関する保険制度の活用        6 施設の特色を生かした養成、研修のためのプログラムの用意
7 ボランティア活動の導入を施設経営評価の指標の一つとする

 現代都市青年と情報
  −ヤングアダルト情報サービスの提唱−
                               西村美東士
はじめに

 私は、ここで、現代都市青年に対する公的情報提供の提唱をしようとしている。しかし、情報がむしろ多すぎる今日、それはいったいどんな意味をもつのであろうか。
 私自身、過去に六年間、東京都青年の家の職員として、青年と「何かをやる」楽しさを味わい、その意義も痛感してきた。主催事業を企画・運営するための実行委員会の中で、青年はぐんぐんと自己発達する。
 それに比べて、情報提供という公的サービスはいかにも「消極的」に聞こえもする。現代都市社会のさまざまな病理が、青年問題にも表れている時に、情報提供は強力な行政施策たりうるのだろうか。
 行政が青年のために価値のある講座を開こうとするならば、現代都市青年の問題状況を的確に認識していないと、テーマの設定さえおぼつかない。ところが、情報提供は原則として求めに応じて行われるものであり、行政の側が「選択」する要素は少ない。そこに、情報提供が安易に行われる危険性もひそんでいる。
 本章では、現代都市青年にとっての「情報」の特質をとらえた上で(第一節)、公的情報提供がどんな基本的意義をもつのか(第二節)、どんな情報を提供するのか(第三節)を考えていきたい。そして、「ともに育つ」をキーコンセプトとして、青年の主体性を保障し発達させ、社会的要請にも応える統一的な青年政策としての情報提供論(第四節)を展開してみたいと思う。

現代都市青年と情報

1 青年と情報環境 

1−1 現代都市青年の情報化不適応

 つい先日、「東京私学祭千駄ヶ谷駅事故」が報道された。国電千駄ヶ谷駅南口で、近くの国立競技場で開かれた「東京私学祭」に参加して帰る中・高校生数千人が改札口をめざして殺到、数カ所で将棋倒しとなり、四十六人が軽傷を負ったという事件である(昭和六十一年十月二十四日の各紙朝刊)。特に大事件だったわけではない。
 しかしこの事件は現代都市青年と情報との関係を表す象徴的事件であり、また、私には「なるほどそうだろうな。」とよくわかるところがある。それは、同駅の「情報提供」が効を奏しなかった点である。
 同駅によると、私学祭に参加した生徒たちは友人を待ったり友人同士で話をしたりして改札口に立ち止まり、駅員が「危険だから」とハンドマイクで早く駅に入るよう呼びかけても全く動こうとせず、改札口前はすぐに生徒たちで埋まってしまったという。同駅助役は「生徒たちが我々の言うことを聞いてくれなかった。」と言っている。
 「企業人」にとっては、情報は死活問題である。駅のアナウンスという「情報」に対しても直線的に反応する。「整列乗車」などにおいても、大変秩序正しい。現に何らかのトラブルによる乗車制限などがあった場合、サラリーマンたちは苦虫を噛みつぶしながらもじっと黙って改札を待っている。朝の東京駅の混雑の中でもし誰か一人がつまづいて倒れても、その情報さえすみやかに提供されれば、後ろの人々はピタッと止まるだろうと言われているぐらいである。これは、道徳性の問題だけではなく、「公共的情報」(たとえば乗車制限)という刺激(S)に対する反応(R)すなわち直線的なS−R的行動様式が形成されている表れでもある。
 現代青年はそれとまったく対照的である。普通、彼らの多くは、駅や車内などの公共性、公衆性の強いアナウンスにはほとんど応じようとしない。特に、高校生の傍若無人な振舞や言動はよく目にするところである。現代都市青年はこれらのいわばフォーマルな情報に嫌気がさし、価値を認めなくなりつつあるのではないか。
 しかし、一方では、女性ロックシンガーが「みんな、手拍子してー」とステージから呼びかけると、日本では聴衆である青年の大部分が律儀にそれに応じている。たとえその時、本人又はシンガーのノリが悪くてもつきあう。他人の迷惑も省みず、雑踏の改札口で「友人を待ったり」「友人同士で話をしたり」するのも、同じ志向の表れである。彼らは彼らなりに連帯あるいは同化を求めているのである。問題は、社会にあふれる特にフォーマルな情報に対する彼らの「無関心」である。
 情報とは「或ることがらについてのしらせ」(広辞苑)である。その中には、人間の生存と安全、さらには認識の発達や社会性の獲得などの視点から見て意味があると思われる情報も含まれている。青年には「情報人間」としての側面もあろうが、それは限られた範囲の情報に関してである。フォーマルな情報の中にも「価値ある情報」が多数、含まれているのだが、それに対してはむしろ拒否的になっている。
 「価値ある情報」の入手のために情報化の進展を「便利な道具」として使いこなすことが、情報化への「適応」といえよう。反対に、情報化社会における多量の情報の中で、青年が窒息状況に陥り拒否反応を示しているとすれば、それは情報化への不適応現象ととらえるべきである。
 「窒息」しつつある現代都市青年にとって、「息を吹きかえす」ことのできる情報とは何なのであろうか。彼らの情報化不適応に対して、情報過多の中でのあらたな情報提供は、しかもごくフォーマルな公的機能としてのそれは、どのようにすれば意味あるものになるのだろうか。

1−2 青年をとりまく情報の特質

 フォーマルな情報に対して現代都市青年は「拒否的」である。それでは逆に、実際に彼らをとりまいていて、ある程度支持されている情報はどんなものであるか。その特質は、次の六点に集約できよう。
 第一に、少なくとも町に氾濫するヤング誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。青年が社会や経済の活動から「役割猶予」されていることが、その大きな理由となっているのであろう。
 ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生の情報行動に関する調査によれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」、「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされている。●(図表1)「生活情報」そのものとは言えないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。
 第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、その一つが、テレビ番組の全国ネットワーク化である。ネットワーク化された番組は視聴者に対して、よりいっそう居住地の地域性を捨象した情報を伝える。それは、青年の歓迎するところでもある。
 しかし、逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生にも我々は注目すべきである。「ピア」のような情報誌は、平日の夕方からでも急にその気になって映画やライブを見ることができるのが魅力の一つである。フラッと行くことのできない遠くの情報は不要である。だから「ピア」は「東京文化圏」の情報誌として発行されているのである。
 現在では、新宿、池袋のような大都会から、渋谷、原宿、六本木、あるいは山手線の外の下北沢などへと、青年の関心とユースカルチャーの発信地が移っている。そこでは、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な情報誌が発行されて青年の支持を得ている。その他、アマチュアによるラジオ放送としてのミニFM放送局が増えつつある。これなどは、その放送範囲は半径五、六十メートルにすぎない。過密都市だからこそ、情報提供における分散化も成り立つのである。
 第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「おしゃれ」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。
 しかし、多様化と同時に画一化が進行する。「おしゃれ」でも「アウトドア」でも、青年一人一人の個性的なやり方よりも、発行部数を伸ばすためには「最大公約数」としてのやり方や「流行」が優先される。
 一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。
 第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような「情報都市」においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来合いの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。これらの出来合いの情報なくしては遊ぶこともできない者もいるのである。
 その反面、情報化不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切なそしゃくされるべき情報もあまりそしゃくされなくなっている。
 第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、「意見」や「評価」も排されてくる。たとえば、「ピア」の中では、たくさんの文化・イベント情報が、ほとんど論評を加えられずにびっしりと掲載されている。情報に、「余計な情報」としての他者の意見や評価が混じらなくなっているのだ。読者からの投稿などもあるが、それは別の頁か「はみだし」(欄外)で扱われる。情報誌の「本文」はあくまでも、「純化」された情報の羅列であり、それが読者の「本命的」ニーズでもある。
 第六に、「情報離れ」が進行している。他者の意見や「情」の混じらない「純化」された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(実際にはコミカルとは限らない)が盛んになる。それ自体は多様で「個性的」な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。情報化は進展しているが、青年が自分の主張を持つために必要な情報を収集する意欲と能力は、むしろ減退しているのである。
 ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向に基づく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」を持っている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は「目的」ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。
 このように、現実に現代都市青年をとりまく情報には、さまざまな特質がある。これらを多面体●(図表2)として理解したい。そして、青年に対する公的情報提供とは、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義を持つ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる情報提供は、それ以外の既存の情報からはあまり望めないからである。

1−3 情報の限界

 情報が多すぎて、その不消化、あるいは不適応が起きる。そして、自分で新たな情報をつくりだす「創造性」が失われる。そう考えるならば、あらたな情報提供の提言は、その意義自体に根本的な疑念を持たれるかもしれない。
 情報はたしかに多い。しかし、「情報が充分ありすぎるから、青年は自分で考えなくてすんでしまうのだ。現代都市青年の創造性を豊かにするためには、これ以上、情報提供などしない方がよい。」と単純には言えない。
 創造といえども、現在まで人類が獲得してきた「経験」と「知識」の蓄積が基盤となっている。この蓄積を伝達するものがすなわち、情報である。その情報を取捨選択し、自己の体験と見識に基づいて再構成したものが「創造」である。創造のためには、情報は豊かにある方がよい。
 情報それ自体の善悪はいずれとも決めつけられない。それよりも、「情報の限界」をはっきり認識しておくことが必要である。「情報の限界」とは、一つには「他者の経験や知識の伝達」といっても、それが完全にはできないことと、もう一つは「自己の体験」そのものではないことである。
 たとえばテレビではどうか。番組作成のための取材の段階では、たくさんの関係する情報を知り得るだろう。しかし、実際の放映となると、ディレクターなどの意図のもとに、短い放映時間に収まるようにごくわずかの情報だけが選択され、編集される。視聴者は「他者」が厳選した情報だけを受け取るのである。
 しかも、テレビカメラを通した映像と音声自体が、事実や実物の一つの「断面」にすぎない。事実そのものではない。たとえ「虚構」を前提とする演劇であっても、でかけて行って見るならば、演じられている事実そのものを見ることができる。しかし、テレビではカメラによって二次元に翻訳され、画面のフレームによって「切り取られ」てしまう。端的に言えば、テレビ画面ではブラウン管に走査線が走っているという事実だけを、確実に見ることができる。そして、自然のすがすがしいにおい、動物のふさふさした気持の良い毛の感触、逆に動物のくさいにおい、ぬるっとした気味の悪いさわり心地、それらもテレビでは伝わらない。
 テレビはもういらないと言っているのではない。テレビの「限界」が認識されてさえいればよいのだ。ところが普通、自分が一度テレビで見たものについては、「(テレビで見たから)知っている。」と「過大評価」してしまう。テレビの画面を、事実そのものと錯覚してしまっているのである。
 情報についても同じである。情報はそれを発信する者による選択の結果であり、また、事実そのものではなく、事実のある側面からの、しかもにおいや触覚などを捨象した「切り取り」である。それゆえ、情報とは「コピーの世界」(現実環境を間接的に表現した像)(一)であり、「現地と地図」(ものごとそのものとそれを表す言葉)(二)を同一視してはならないのである。
 「コピー」や「地図」としての情報のあふれた現代都市社会において、さらに新たに情報を提供しようとする場合、その情報も、不可避的に「限界」をもっている。情報によって何でもできるという「万能感」に陥ってはいけない。情報の「限界」を青年が認識することと、情報提供側もその「限界」をわきまえることが必要である。そのことによって、情報を豊かに使いこなすことができるのである。

1−4 情報能力と情報必要(ニーズ)

 一般に情報は、受け手の個性・世代を顧みず、成長段階の順序性を無視して流通する。しかも、「好ましくない」情報に対する社会的規制も実際にはあまり有効ではなく、また、表現の自由を侵害する危険性もある。情報能力の欠如のままで、このような情報が大量に流通するならば、青年にとって「役立たない」ばかりかマイナス要因にさえなる。
 情報能力とは、情報の獲得、処理、利用、加工、生産、提供に関する知識・技術の総体に関する能力である。この情報能力は、自分で主体的な認識と判断ができるという基礎能力を必要とする。現代都市青年の情報志向は強いとしても、この情報能力は豊かとは言えないのではないか。
 それでは、青年はどのようにしてその能力を獲得することができるか。情報がいくら大量にあっても、それだけでは情報能力は育ちえない。青年自身が本当に情報を必要として、初めて、青年が自らの力で自らの能力を高めることができるのである。それでは、この情報必要(ニーズ)のさらにまた根源は何か。それはひとことで言えば、問題意識の存在である。すなわち、現在、自己や社会が直面している課題を自己の課題として主体的にうけとめていることである。
 そこには、生活、生産、趣味、生き方、社会などのあらゆる側面のものが含まれている。その中でもとりわけ社会的課題に関する情報必要は、現代青年の「非社会性」のもとではどうしても脆弱なものになってしまう。その他の課題に関しても、都市化社会におけるモラトリアムの延長、コミュニティの崩壊、パーソナルコミュニケーションの喪失は、現代都市青年からたくさんの情報必要を奪ってしまった。これらの情報必要を失ったあとに求める情報とは、自己完結的、趣味的な情報とあたりさわりのない「おしゃべり」のための情報ぐらいなのである。
 情報の多面体を全体としてより良く機能させるためには、青年の情報能力の獲得を「意図的」に援助する方策を考えなければならない。青年に対する情報提供を機械的に繰り返していても、抜本的解決にはならないだろう。根本的に青年の意識や価値観の問題に真正面から取り組む必要がある。しかし、また、そういう意図のもとに情報提供が行われるならば、その情報提供は「真正面から取り組む」ための一つの有効な「手段」にもなりうるのである。
 たとえば「情報整理」は、たくさんの情報を得た上で、それを選択し、整理するというどちらかと言えば外在的作業である。しかしそれは、情報に対処する「方法」に関する知識・技術を育てるばかりでなく、青年自身の認識を育て、青年の知的主体性を形成する。すなわち、「外在的作業」が「内在的な営み」として転化する。このように、「外」からの情報により、「内」なる問題意識も高まっていくのである。
 「外」からの公的情報提供は、そのことを期待し、しかも意識的、意図的にそれを援助する態度を基本として行われるべきである。そして、その「意図」のもとに、現在の青年に欠けている情報、「社会的情報」、「情報に対処するための情報」などに特に力を入れて情報提供することが必要である。
 青年に対する情報提供が「実のあるもの」となるための一番大きな「支え」は、青年自身の情報能力と情報必要、それ自体である。しかし、たとえそれらが今は成熟していないとしても、「意図に基づく」公的情報提供は、現代都市青年の内面の深くで情報能力と情報必要を育てる独自の機能を発揮するであろう。

2公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱− 

2−1 情報の提供と操作

 情報は受け手にとってはタダという場合も少なくない。それだけに、他の商品のように必要なものだけが買われるのではなく、消費者が求めていないものまで、本人の属性や個性に関わりなく、流れ込んでくる。これは情報の「大衆的普及」の側面である。
 しかし、民主主義社会においては、公的情報だけでなく、これらの大小メディアなどの提供するさまざまな情報が豊かにあることが、市民の主体的な判断の基礎となっている。社会形成のための合意の基盤となるのである。これは情報の「社会的合意の形成」の側面である。
 このように情報は大衆性、社会性の側面を持っている。たとえそれが「民間の情報」であっても、その情報自体に「公共性」があるのである。
 ところが一方では、民間の情報は多かれ少なかれ、それら情報提供者の「私的な目的」に基づく「操作」の産物である。たしかに、現代社会では、特定の情報提供者が強制などの手段により、直接「情報操作」を行うことは少ない。しかし、たとえばコマーシャルは、たとえそれが事実の組み合わせであっても、購入の拡大を意図して提供されていることには変わりない。情報誌でさえ、該当する情報のすべてではなく、よく売れるように情報を選択し編集するのである。露骨な「情報操作」は排除することができても、あらゆる情報提供において「操作性」は避けることができない。
 それゆえ、新聞やテレビの「倫理綱領」などの自主規制が必要になる。これは、公的な色彩をもったゆるやかな「操作性」といえる。しかし、それをさらに行政が規制しようとすることは「情報操作」につながりかねない。基本的には情報は、公的情報を除いて、民間のさまざまな情報提供者と受け手との自由な相互作用に任されるべきである。
 行政が青年に対して情報提供する場合はどうだろうか。その場合も、同じく不可避的に「操作性」を帯びている。しかし、その「操作性」が純粋に「公共的な目的」に基づくべきであるという意味で、独特の存在である。
 その情報が文化的、政治的内容のものも多い。文化情報、政治情報の提供において、行政の「操作性」は許されるか。青年の文化活動の紹介などは、なるべく広く該当する情報を提供すればよい。しかし、時には人間の内面に深く関わる情報も扱う。たとえば、現代都市青年の健全な精神の形成をめざす情報提供などは、ややもすれば行政からの青年の価値観への介入になる危険性がある。しかし、それを恐れてその情報については避けて通るということはできない。それほど都市社会のゆがみは大きくなっている。地球規模のゆがみとして緊急に取り組まざるをえないのである。
 現代都市青年に対する行政の情報提供の目的は、「都市政策」と「青年政策」の二面性を持つと考えられる。都市計画づくりなどには、青年を含めた市民の自治能力の向上とそれによる合意の形成のための情報提供が必要である。これは、「都市政策」としての情報提供の一面である。また、青年の社会的病理現象に対処するために、青年の成長を援助するような各種の情報提供が求められている。これは、現代都市社会における「青年政策」としての情報提供の一面である。
 青年に対する公的情報提供は、この二つの「公共的目的」のために、その意味では「操作的」に行われる。問題は、それらが「操作的か、否か」ではなく、どのような具体的な「目的」を設定するのか、実際の情報提供がその目的に沿っているか、そして青年に支持されない「ひとりよがりな操作」に陥っていないかということなのであろう。

2−2 社会教育行政の役割

 社会教育についてみれば、社会教育法には国及び地方公共団体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行なうのは国民であって、行政はその「環境醸成」をするのである。そして、そのために、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励などの他に、「一般公衆に対する社会教育資料の刊行配布に関すること」などの情報提供が具体的事務として挙げられている(第三、五、六条)。また、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事の職務としては、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない。」(第九条の三)という条項がある。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違えると「かなしばり」として作用してしまう。たとえば、政治的情報の提供に関して、特定の政党・政派に偏しないという「節制」が必要である。一定の政策選択に導くような操作的手法は排さなければならない。しかし、ややもすると政治的情報そのものまで避けようとする「消極性」が生まれてしまうのである。
 教育基本法は「政治教育」について「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」(第八条)としている。ところが、公教育は政治的に中立であることが理想とされるため、特に政治的課題に関しては残念ながら消極的になりがちである。このようにして、援助の対象とする「学習」の範囲がどんどん狭くなってしまう。
 そのため、市民運動などへの対応も消極的なことが多い。だから、一般行政や市民も、その点では社会教育行政にあまり期待しなくなってしまっている。財政的にもごくわずかな社会教育予算より、一般行政の予算の方が魅力がある。実際、今日の都市問題をまともにとらえている都市行政担当なら、そのための効果的な出費を無駄と考えるはずがないのである。市民運動が理想的に展開すれば、それは現代的諸問題の山積する都市社会にとって「救世主」にさえなりうるのであるから。
 それでは社会教育行政は、市民運動にいかに対応すればよいのか。市民運動は、個人の生活課題と地域の課題、行政の課題、人類の課題を貫く学習の契機を内包している。市民の学習を援助する立場にある社会教育行政は、ここに注目する必要がある。「住民エゴ」などのマイナス面もあろうが、「公共的目的」に沿って「運動の側面」ではなく「学習の側面」を援助すべきである。その援助の形態の一つが情報提供である。もちろん、そこには市民との「緊張関係」があって当然である。むしろ社会教育行政が市民とはイコールでないことが、高い価値のある情報の提供につながるのである。市民とやみくもに迎合したり反目するのではなく、必要な望ましい情報を提供すべきである。
 実は、このような情報を提供する行政機関は、本来、社会教育行政であるべきだと考える。もちろん、一般行政においても必要な情報提供を怠ることはできない。しかし、それは行政セクションの該当する行政課題に沿って「限定的」に行われなければならない。
 社会教育法第八条に「教育委員会は、社会教育に関する事務を行うために必要があるときは、当該地方公共団体の長及び関係行政庁に対し、必要な資料の提供その他の協力を求めることができる。」という規定がある。講座や広報における情報提供のために、社会教育行政が独自に全体的な一般行政情報を収集できるのである。
 行政情報ならばまだしも、市民の価値観形成のための一般的な情報を行政機関が提供する場合は、特に社会教育行政がその役割を受け持つべきである。教育行政は、「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われる」(教育基本法第十条)と規定されている。一部の政治権力によって、あるいは一部の市民のために「情報操作」されては困るのである。
 たとえそのような「情報操作」には至らなくとも、もし、特定の行政セクションが行政情報に限らずに市民の価値観形成に関わるトータルな情報提供を行なうとするならば、そのセクションのもつ「現在」の行政施策の方向にどうしても縛られてしまうだろう。それではいけない。情報提供は、新たな「未来」を市民が創造するという広い意味での「学習」を援助するために行われなければならないのである。
 未来を担う青年に対しては、特にそうである。青年に対するトータルな公的情報提供は、社会教育行政の原則に従い、社会教育の特性を最大限に活かして展開されるべきなのである。

2−3 ヤングアダルトと情報の要求

 都市化社会において「青少年健全育成」の必要が叫ばれるようになって久しい。しかし、過去の押しつけ的な「対策」では、多くの青年の無益な反発を呼ぶだけである。そこで、今日の青少年健全育成施策は、その反省のもとに環境醸成など側面的援助に重きをおくようになっている。情報提供もその一環としてとらえられる。青年の自主性、主体性を尊重した「対策からサービスへ」の転換である。
 しかし、一方ではその前提としての現代都市青年の自主性、主体性そのものが欠けているということも指摘されている。この困難な条件のもとで、青年への「サービス」は意味をもつことができるのであろうか。
 カウンセリングについていえば、それは個人の心理的問題を当人が解決できるよう援助することを目的としている。そのためにカウンセラーは、「指示」をするのではなく、もっぱら「共感」と「支持」を与える。ノンディレクティブといわれているカウンセリングの手法である。そのことにより、本人自らが自己の問題に気づき、自らを変革するのである。
 このように、カウンセリングは、たとえ自己の内面に大きな心理的問題を持っている人に対してでも、その人間の「自己解決能力」に絶対的信頼を寄せて行われる。「情報提供」の姿勢も、それと同様の「信頼」が基礎となるだろう。すなわち、「本人の今の課題に関連する情報をいろいろ提供するが、選択と判断は相手に任せる」ということにより、本人自らが認識を深化させるであろうことを「信頼」するのである。
 図書館についていえば、最近、ヤングアダルトコーナーの設置が少しづつ見られるようになっている。その先進的事例が東京都立江東図書館であり、その担当司書の半田雄二氏は次のように述べている。「ふつう『読んでほしい本』と『読まれる本』は一致しないことが多いものです。しかし、大人から見れば未熟であっても、彼らには彼らなりの選択眼があり、決して無原則に手を出しているわけではありません。読まれない本には、やはりそれだけの理由があるはずです。・・・読まれている本が、すべて読者の低俗な好奇心におもねるクズばかりと決めつけるのも危険です。大人たちがまだ気づかないだけで、数年後には中堅どころとして脚光を浴びているであろう作家が隠れていたりします。・・・」(三)。そして、実際にも、オートバイやヘビーロックに関する本なども提供しているのである。
 半田氏の問題意識は、児童サービスと成人サービスの谷間にいる青年の「図書館離れ」から発している。この「図書館離れ」は、たしかに青年の知的側面での主体性の欠如の表れでもある。しかし、だからといって青年への働きかけを放棄してはいない。青年をヤングアダルト、すなわち「若い大人」、知的権利主体としてとらえている。そしてその青年の要求に合った図書を提供しているのである。
 青年の自主性、主体性は現実には欠如しているかもしれない。これは、「情報能力」および「情報必要」の未成熟にもつながっている。それらは、青年に対して行政が情報提供を行おうとする場合にも、大きな障害となるだろう。しかし、その際、図書館のヤングアダルトコーナーと同じような対応から始めることしか、方法はない。青年を「アダルト」すなわち権利主体ととらえ、まず、その情報要求に的確に応えるのである。
 私はこれを「ヤングアダルト情報サービス」として提言したい。それは、カウンセリングが本人の「自己解決能力」を信頼するのと同じように、青年の情報に関する「自己発達能力」を基本的に信頼する。そして、図書館のヤングアダルトサービスと同じように、「青年に知らせたい情報より、青年が知りたい情報を提供する」のである。

2−4 提供する情報の性格

 ヤングアダルト情報サービスが、青年の情報要求に的確に応えるとすれば、そこで提供される情報はどのような性格のものになるだろうか。
 第一に「全面的」性格である。それは一つには、あることがらについての「右から左まで」のあらゆる情報を提供することである。提供側でまずプラスマイナスの価値判断をして選択した後の情報を提供するのではない。
 また、一つには、現代都市青年の喜怒哀楽に関するさまざまなことがらについての情報を提供することである。半田氏は図書館司書として次のように言う。「すでに趣味の固定してしまった成人に較べ、自己、そして自己と他者、社会、世界との関わりに日々新たな発見の喜びをもちうる青年の関心の領域は広い、青年の要求に応えうる素材をもった資料は捜せば結構あるはずである」(四)。なんと積極的で生産的な感覚であろうか。我々も、現代都市青年の病理現象を憂えているばかりではいけない。現代の青年でも持っているはずの自己及び社会へのイノベーションの能力を尊重しなければならない。そのためには、社会の既成の「文化」の枠を押しつけるのではなく、青年、特に現代都市青年の多様な「文化」に応えるための全面的な情報提供の展開をめざす必要がある。
 第二に「今日的」性格である。過去の文化の蓄積を伝達することは必要であるが、それは学校教育や図書館などが役割を果たしている。これに対してヤングアダルト情報サービスは、現代都市青年の「今、持っている情報要求」に応えることが基本的要件になる。一次的には過去の文化の「伝達」のためのものではない。
 そのためには、新鮮な情報の収集を怠れない。現代都市における情報の動態性に対応するためには、大変な苦労を要する。「今度、どこそこで○○サークルがこんなイベントをやる」などの情報を集めても、時がたてば次から次へと無用のものとなっていく。しかし、取りこぼされがちなそれらの情報や、青年個人のレベルでは把握の困難な情報を、新鮮なうちにリアルタイムに提供することはヤングアダルト情報サービスの存在意義そのものでもある。これらは、情報化の進展から取り残され、疎外されている情報なのである。
 第三に「非文献的」である。青年の知的活動から生ずる「文献」に関する情報要求については、図書館のレファレンスサービスが専門的に対応できる。しかし、現代都市青年の興味・関心は、活字化されたものだけにとどまることは決してない。「活字信仰」にこだわるなら、すぐ青年に嫌われてしまうだろう。
 もちろん、図書館のレファレンスも、活字以外のさまざまな情報メディアが有する情報まで広く「文献」として紹介すべきである。また、ヤングアダルト情報サービスの方も、そこで知りうる「文献情報」を提供する必要がある。しかし、後者は、人や組織、生活や遊びそのものまで、紹介するのである。
 アメリカの図書館には、レファレンスサービス(参考調査)だけでなく、リファラルサービス(照会)まで行っているところもある(五)。図書や資料だけでなく、図書館以外の機関や人材などの情報を図書館が把握していて、それを紹介してくれる。そのことにより、貧しい人々や高齢者などの生活そのものを援助し、読書に不利な人々が読書できる条件を確保しようとしているのである。
 現代都市青年にもアメリカとは違った意味での、「知的貧困」、「生活的貧困」がある。青年のこの新しい「貧困」の解決のためには、文書にされた情報以上の情報が必要である。それは、たとえば青年に対して知的刺激を与えてくれたり、自己の生活を振り返らせてくれるような、機関や人材などのナマの情報である。
 最後に私は「おもしろ的」性格をあげたい。現代都市青年は社会から「おもしろおかしく生きている」と批評されている。「おもしろい」はそこではマイナスイメージである。しかし、「おもしろがる」ということは、言い換えれば知的好奇心などの人間性の発露であり、個人や社会の原動力の一つであるはずだ。
 社会の成熟化の中では、大量の物的生産に恵まれながらも、その反面、人間性や生きがいを追及する努力が、これまで以上に必要となるだろう。そこでは、「まじめさ」「勤勉さ」と並んで「おもしろく」生きられる資質も大切なのではないだろうか。今日の現代都市青年が社会の主力部隊となる頃には、労働・生活・余暇の全面においてその「おもしろがれる」資質が問われるようになるかもしれない。
 ここで言う「おもしろさ」とは、単に「瞬間芸」を見るようなおもしろさにはとどまらない。「おもしろそうだから、やってみる」という「参加性」、義務感や管理社会の束縛から逃れて「おもしろいからこそ、やる」という「自発性」が息づいているのである。
 ヤングアダルト情報サービスの魅力は、サービスをする側も青年と一緒になって「おもしろがって」進めていくところから生まれてくるのではないだろうか。

3 ヤングアダルトのための情報 
3−1 青年が要求する情報と、青年に必要な情報

 社会教育の世界では、現在、学習の「要求課題」と「必要課題」に関する論議が盛んである。
 NHKの学習需要調査によれば市民の学習要求はその表層だけ見れば、驚くほど、多様化、分散化している。●(図表3)こういう状況のもとでは、社会教育で講座などを開こうとしても、大部分の人が参加するような、何か素晴らしい学習テーマがあるというのは幻想でしかないのだ。といって、そんなに多岐にわたる学習要求のすべてをテーマとして取り上げることは困難であるし、無理をしてまでそんなことをしてもそれほどの意義があるとは考えられない。それよりも、公共性のある学習課題、潜在的ではあっても人間として共通に求められる学習課題(すなわち必要課題)を一番の根底に位置づけなが社会教育事業を進めるべきであるというのである。
 ただ、その実際的な方法は未だ定説があるわけではない。たとえ少ししか人が集まらなくても「必要課題」を正面からテーマに取り上げて市民に問いかけることもあってよいかもしれない。「要求課題」を配列しながらも「必要課題」に導くさまざまな方法も考えられる。あるいは「必要課題」とは学習者が自己の要求に基づく学習の過程の中で自ら気づくものであり、他者である行政が先回りして考える必要や権利はないとする者もいる。
 いずれにせよ、この「要求課題」「必要課題」の論議は、簡単に言えば社会教育をとりまく次のような環境が発端となっていると考えられる。
 今日の学習社会においては特に都市部で民間カルチャー産業が発展しており、学習要求が一定程度社会に存在すれば、その学習機会はそこが提供し、また市民も相当なお金を払ってでもそれを受講するようになっている。学習要求があるからといって、そのすべてを公的社会教育が準備し提供しなければならないという状況ではなくなったのである。
 さらに行政改革の観点から「持てる者」の「個人の利益」にとどまるような学習については、公税を支出してまでそれを保障する必要は認められないと財政当局なども考えるようになってきている。社会教育行政はきびしく「公共性」を問われているのである。
 もちろん、これらの外的要因への対処のためだけに「要求課題」「必要課題」の論議が起こってきたわけではない。公的社会教育の内実が文字どおり「公的」であるためにはどうあればよいかという理念的な問題意識、そして社会教育の現場からの「市民の多様な学習要求のすべてに対応することは不可能である。どうすればよいのか。」という実践的な問題意識から芽生えてきたのである。
 さて、現代都市青年への公的情報提供において、同様な意味で「要求(ウォント)」と「必要(ニーズ)」の概念がやはり役立つと思われるし、その上で「必要情報」の具体的内容を検討することが必要と考えられる。
 ただ、実際の情報の一つ一つを、この「要求情報」と「必要情報」に明確に区分したり、ましてやこの双方を常に相反する存在として対置してとらえることは決してできない。実際には、「必要情報」というのは、ほとんどの「要求情報」をカバーしようとするものになる。社会教育事業における講座のテーマ設定とは基本的条件が違う。
 図書館のレファレンスサービスなどでも、できるだけすべての文献に関する問い合わせに応ずることが基本となる。レファレンスを行う者は「操作性」などほとんど意識していないのが現実であり、それは正当なことである。
 しかし、ヤングアダルト情報サービスでは、青年に対してどんな情報を提供しようとするのか。そこに生ずる情報の「種類」の選択という「操作性」の正当な根拠を見出すためには「必要情報」の概念が有効である。青年に情報を提供することによって、何かをそこから学びとってほしいという、広い意味での「青年の学習」への期待の中身を明らかにするのである。逆に情報過多社会において公的機関までが正当な「操作性」を持たずして、やみくもに情報提供することは、情報過多に輪をかけることになってしまう。
 私は「必要情報」の概念は情報提供の理論構築の上でのキーになると考える。情報提供できない情報の種類(特定の党派・宗派・営利団体の利害に関するもの、医学的判断を要するものなど)をあれこれ列挙するよりも、現代都市青年への公的情報提供の根拠としての「必要」を明らかにすることの方が本質的だと思う。その上で、「必要情報」への発展の見通しを理念として持ちながら、青年のさまざまな「要求情報」に積極的に応えていく実際の展開が必要なのである。

3−2 人間の情報

 最近、写真情報誌が矢次早に創刊され、それぞれがすべて大変な売れ行きを示している。従来の写真雑誌は風景や人物の撮影により、芸術的感性に訴えるものであった。今日の写真情報誌はむしろ「報道性」がその眼目になっている。一見、現代的な情報要求への対応のように思える。しかし、それだけでは現代都市の「社会的」現象としての写真情報誌の隆盛を解説することはできない。視覚に訴える点ではテレビ、報道の素早さならテレビやラジオ、詳しさなら従来の報道雑誌などの方がよっぽど優れている。
 極端な「覗き趣味」こそ、写真情報誌の核心ではないだろうか。この写真情報誌にテレビなどでよく知っている有名人が載っているとする。しかし、それはテレビ向けの顔でない。一人のあたりまえの人間としての生きざまを「覗き見」できるのである。個人の私生活を暴露する「ワイドショー」などが視聴率を稼いでいるのと、あい通じている。
 現代都市社会の「匿名性」とは、離れ小島に一人でいることではなく、自己のあり様を隠蔽しつつも他者を見たくて見る(タウンウォッチング、マンウォッチング)ことなのではないだろうか。それは、人間が本質的に社会的存在であるがゆえに他者との関係をあがき求めていることの表れとも考えられる。ただし、人間関係が疎外される環境の中では、自己を明らかにすることが一方的不利益になるという認識があり、その「あがき」を空疎で歪曲されたものとしてしまう。
 しかし、匿名性とは自己保身のマイナス面としてだけ機能しているわけではない。一方では、過去の村落共同体の「監視」から逃れ、自由な存在としての自己を発揮する機能も果たしているし、また、他者の自由を保障する機能もある。
 現代都市青年に対して提供すべき人間情報とは、同じ人間としての他者の生き様を伝える情報である。その時、一次的には情報の提供を受ける側としての青年は「匿名」であってよい。その情報、その人間に対して非主体的であってもよい。そもそも「受け手」にとっての情報の魅力は率直に言って、それを「気軽に受け取れる」ところにある。
 しかし、言うまでもないことだが、そこでの人間情報は自己の情報を伝えられる本人が承諾しているものでなければならない。むしろ当人の「自負できる」生き様である。その面では「覗き趣味」情報とはまったく反対の性格のものである。かといって、装った表層的な言動でもない。あくまでも同じ人間としての喜怒哀楽を内に含むような「生き様」だから意味がある。そうであって初めて、情報の受け手に「共感」が期待できる。この「共感」が、人間情報を受け手にとっての「関わり」のある情報にし、人間関係を創出する能力を呼び覚まし、ひいては「匿名性」の逆機能を克服するのである。
 NHK教育テレビの幼児向けの番組の中に「パジャマでおじゃま」というコーナーがある。これは、普通の幼児が一人でパンツ姿からパジャマを着終わるまでを放映するものである。バックにはリズミカルな主題歌が流れるだけの単純な構成である。実はこれはNHKが幼児のテレビ番組への関心の示し方の実証的分析を重ねた上で開始したものであるという。大人が見てもけっこう面白いが、幼児は特に同じ年代の普通の仲間のしぐさに関心を持つ。「覗き趣味」ではなく、「共感を伴った関心」である。
 現代都市青年に対しても、青年の社会化のために直接的な「対策」をあれこれ講ずる以前に、自然にそれを形成するであろう「人間の情報」を提供することに力を尽くすべきなのである。

3−3 生活の情報

 今日、「青年がいかに生活しているかに関する情報」は大量に提供されている。それは、青年の現代社会に占める存在が大きく、また、将来の社会もその青年たちによって担われること、そして、現代都市社会における青年の社会問題が多発などの理由で、青年の情報について「社会が」関心を持たざるをえなくなっていることが理由になっている。たとえば、青年の就職状況の情報などもそうである。さまざまな調査報告がだされている。また、青年の消費動向なども企業の市場調査の重要な対象になっている。
 ところがひとたび青年自身の生活に必要な就職、消費に関する情報を探すとなると、情報社会においても意外に困難である。たとえば、ある青年が就職や転職を考えたとする。青年の全国的な就職動向などはすぐ手に入る。しかし、その青年にとって知りたい情報とは、実際に社会でその仕事をしている人がどんな労働条件で、どんな働きがいを持ってやっているのかということである。何時ごろ出社するのか。仕事はきついのか。帰りはいつも夜遅くなるのか。このようなナマの情報を求めているのである。
 そして、青年自身の要求にはなっていないが本当は必要、という情報もゆきわたっていない。最近、街頭アンケート商法、クレジット商法などで青年の被害が急激に増えている。各地の消費者センターなどが被害防止のための情報提供に努めているが、特に青年のまわりにそういう情報は少ない。青年に売るためのコマーシャルやカタログ誌などによる「商品情報」ばかりが多いのである。消費者情報などの生活関連の情報は都市化社会においての「必要情報」といえるのだが、青年とは遠い所に存在してきた。
 これらの就職や消費に関する情報を含めた総合的な意味での「生活の情報」は、「ヤングアダルトに関する」情報と対照的に、「ヤングアダルトのための」情報といえる。

3−4 連帯の情報

 現代の青年に尊敬する人や、期待に応えたいと思っている人を尋ねると、「親」という回答が非常に多い。しかし、「こんな人になりたい」というモデルについては、「なりたいと思う人はいない」という回答の方が多い。●(図表4)
 過去の家族においては、手伝いをずいぶんさせられたり、きびしく叱られたりして、子どもにとっては心地良いだけの場ではなかった。しかし、少子家庭が増えたことなどから、今日の子どもは「大事に」され、家庭が最も居心地の良い場にかわろうとしている。それが青年期にまで引き続いている。アルバイトはしても、それは全部、自分の小遣いとして使ってしまってよい。多くの現代都市青年にとって、家庭は「少なくとも今は、一方的に恩恵を受けることのできる場」なのである。
 「友人関係」についても趣味を同じくする者同士の「情報交換」や、気の合う者同士の他愛ないおしゃべりはある。しかし、他者の人生に踏み込んだり、それによってぶつかりあったりはしない。だから、人間に対する深い洞察には、つながらない。「情報提供と収集」のレベルの「無難」な付き合いである。
 これらのことは本来の意味での「○○し合う」人間関係の希薄化を表している。このような状況をそのままにして情報化が進み、人間関係を持たずして必要な情報が手に入るようになることは、事態をますます悪化させてしまう。
 そこで、ばらばらに「たこつぼの中にいる」現代都市青年に対して、意識的に「連帯の情報」を提供することが必要になる。そのうち最も直接的効果をもたらすと思われるものは、同世代のグループ活動や世代横断的な集団活動の紹介である。これらの集団のあり方や進め方に関する情報も必要である。
 しかし、なにがなんでも集団情報という姿勢では、青年はそっぽをむいてしまうだろう。これらの情報提供をふんだんにした上で、もっと「個人的」なつながりなどを含めた、ありとあらゆる人間関係のケースを豊かに提示することが大切である。個人レベルの連帯まで、深くカバーするきめ細かさが求められている。

3−5 地域情報と行政情報

 一般的に言えば、現代都市青年にとって、「要求情報」から一番遠い所にある「必要情報」が地域と行政の情報であろう。青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。また、子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。それらの非日常の情報志向は、青年期の独自の発達課題の一つの表れでもある。
 しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そこで、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくよう援助するための情報提供のあり方を考えたい。
 第一に、これらの「必要情報」が現代都市青年に充分には提供されていないという現実を認識すべきである。民間情報はもちろん、行政機関からのこれらの情報提供も少ない。たとえば遊休地のリストなど、都市計画の「手の内」をもっとさらして市民の議論をまきおこした方がよいのではないか。特に青年に対しては、彼ら自身の「沈黙」のせいもあるが、おざなりである。青年向けの施設の設置なども、「青年関係者」の意見を聴くことはあっても、広く普通の青年に訴えて議論を呼びかけることは少ない。
 これらの情報提供は、青年の眼を地域や行政に向ける契機の一つになるはずである。特に十代の青年たちには、自治への発言の場がほとんど無い。自治のトレーニングの場として、ぜひ必要である。
 もちろんこれは、いやがる者に無理にその情報を押しつけることではない。広報を充実したり、問い合わせがあればそれに応える「構え」を持っていればよいのである。そのため、なかなか反応がないかもしれないが、少なくとも「害」にはならない。情報提供の「良いところ」の一つである。
 第二に、今あるこれらの情報をもっと開かれたものにしたい。地域情報、行政情報は、それぞれの地域と行政の「独自の課題」を示す情報である。しかし、それは偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」に基づくものであってはならない。「情報」の特性は、「風」となって他の地域にまでいきわたるところにある。これを活かして、地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報は常に他の情報と行き来する「開放性」があって「風」が吹いてこそ、「根腐れ」しないような生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」には関心を示さないことは、あながち不当とは言えない。
 たとえば幹線道路問題などがそうである。自らの地域に該当する部分を考えるだけの住民運動や自治体行政では、本当の解決にはならない。視野が狭くなって、「住民エゴ」、「地域エゴ」に陥ってしまう。他の隣接地域ではどういう問題が起きているか、どのように解決しているか、広域的にはどのような必要性と問題性があるのかを理解し、さらには自らの地域の情報も積極的に「外」に広げていくことによって、主体的判断によるいきいきとした活動ができるのである。
 今はその地域に住んでいるが、いつか転出するであろう青年たちに対しても、地域は「開放的」であってほしい。十年後、二十年後にどこかの地域のスタッフになれるよう、今の地域が青年たちの「巣立」を援助するのである。それは、「閉鎖的」地域主義に対する「開放的」地域主義といえる。
 第三に、「非日常」の魅力のある内容をもった地域情報、行政情報を、地域の中に「風」として吹きわたらせたい。
 現代都市青年は「きまりきった情報」にはあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りただろう。しかし、今日、地域社会に住民が関わる場合は「自発的行為」であることが多い。何らかの形で情報を得てから、それに魅力を感じた場合に地域に関わるのである。それは現代都市コミュニティの新しい「理想」だと思う。
 本来、地域社会はダイナミックで人間的な場である。それは現代都市社会に生きる青年にとっては「新しい非日常」になりうる。今は地域に埋もれてしまっているその魅力を拾い上げ、情報の「風」として地域に吹きわたらせることが求められている。

4 青年とともに育つ情報提供 
4−1 「ともに育つ」情報提供

 青年は行政の広報をあまり読まない。彼らは、それを「つまらない」、「役に立たない」と思っているのではないか。
 いうまでもなく、広報は市民の行政への理解と発言(広聴)を求めるために「必要」(ニーズ)である。しかし、行政自身が市民に「何とか読んでもらいたい」と思っているだろうか。「広く知らせること」が、行政にとっての切実な「要求」(ウォント)になっているだろうか。読まれようが、読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけでは広報の「中身」も育たないのである。
 常にコンペティション(競争)にさらされる民間誌は「読んでもらう」ことを切実な「要求」としている。読者のウォントを敏感にとらえて中身を構成し、グラビアやイラストなどの「外観」でも人の目を引こうとしている。たとえば、自分たちの意思で発行しているミニコミ紙でさえ、「いい『情報』を読んでもらうためには、その『いい情報』を少し減らしてでも、手に取って読んでもらう努力が必要です。」(六)として、その第一面の大部分をイラストで飾ったりして、親しみやすい紙面を工夫しているのである。
 民間の情報提供には、このような「市民感覚」がある。それは、フィードバックを活かして情報提供の中身をすみやかに改善することにもつながっている。こうして、情報提供側の「市民感覚」が育っていくのである。ヤングアダルト情報サービスは、この精神に習うべきである。「青年感覚」が必要なのである。
 「青年感覚」とは、現代都市青年の情報ウォントを理解できることである。そのことによって初めて、彼らに「関係のある」情報を提供することができる。それは、青年からのフィードバックを高める。最初に提供側に「市民感覚」、「青年感覚」があってこそ、その「感覚」がますます育つのである。
 それでは、公的情報提供は、「市民感覚」そのものである民間の情報提供よりも常に劣っているのが宿命なのか。決してそうではないだろう。
 民放の教育番組に関する自主的な連絡調整団体ともいうべき「民間放送教育協会」は毎年、全国大会を開催している。そこで毎回のように、フロアーのお母さん方から、「俗悪番組を少なくして、その分、教育番組を増やしてほしい。それをゴールデンタイムに放映してほしい。」との注文が出る。そして、この注文に対していつも壇上のディレクターたちは「これでも頑張っているつもりである。教育番組の低い視聴率を考えると、これでもせいいっぱいの努力である。ゴールデンタイムに放映するなど、とっても無理である。あとは、たくさんの皆さんに見ていただいて視聴率を上げるしかない。」という趣旨の受け答えをする。民放としては、放送の「公共性」という「ニーズ」に対応するために、かなりの努力をしているのである。しかし、視聴者のいうウォントに対応できたかどうかの数的評価としての視聴率にも、こだわらざるをえないのである。
 ヤングアダルト情報サービスは、これとは基本的に態度が異なる。青年のウォントに応える情報提供だけをするのではない。「必要情報」を提供することもその「本来」の責務である。そこに「民間」とは違った「公的」な意味がある。
 ただし、これらの「必要情報」の判断、収集、選択、提供においても、説得力がなければならない。「押しつけ」になってはいけない。現代都市青年の感覚と遊離した感覚で、青年にとっての「ニーズ」を社会や行政が設定しようとするならば、そこで設定された「ニーズ」と青年自身のウォントも対立してしまう。
 今日まで人類の獲得した発展の多くが、人間のなまなましいウォントから生まれたものである。「ニーズ設定」の際、今の青年のウォントをバカにしてはいけない。もちろん、大切にすべきウォントには、今までの社会にすでに形成されている行政や大人たちのウォントも含めなければならない。しかし、現代都市青年の今のウォントの中にも、将来社会のニーズがすでに「遺伝子」のように用意されている。たとえば、すでに述べたように「おもしろい情報」の要求は、「参加性」や「自発性」の原初形態であり、将来の社会のニーズになる可能性もあるのである。
 そもそも、ニーズはウォントと完全に遊離していたり、まっこうから対立したりするものではない。ニーズとは、ある意味では、ウォントが集約され、整理されて形が整えられたものである。
 ヤングアダルト情報サービスがなぜ「必要情報」を提供しようとするのかといえば、それは、青年が自ら「気づき」、「要求情報」の中でもとりわけ「必要」な情報を「要求」できるようにするためなのである。したがって、「必要情報」の提供においても、一方的に青年に「教える」のではなく、今の青年の「要求情報」を大切にして、そこから行政は学びながらも、青年に問題を提起し、彼らの自己成長を期待するという「ともに育つ」姿勢が肝要である。
 単に情報処理システムやそのための行政システムなどの、「システム論」だけを先行させるのならば、ヤングアダルト情報サービスは成功しないだろう。その前に、まず、既存のさまざまな公的情報提供を担当する職員が、もう少し現代青年の感覚を認識してくれていれば、と思われる現実が残念ながら多いのである。

4−2 ネットワーキングとインフォメーションリーダー

 情報の収集から提供にいたる作業には人間の認識を育てる作用が内包されている。したがって、ヤングアダルト情報サービスが「情報処理」の作業の「代行」をすべて請け負ってしまってはいけない。青年の「参加」が望ましいのである。行政の「青年対策」への青年自身の参加の一般的な意義とは別に、情報提供においての「青年参加」は独特の教育的意義を持っているのである。
 青年参加の具体的なシステムとしては、情報モニター制度を設けてフィードバックを図ったり、企画委員会や運営委員会などへの参加を求める方法がある。しかし、モニターや各種委員は限られた青年である。そこで「参加」する者の範囲を広くし、中身を豊かにする「鍵概念」として、「ネットワーキング」が注目される。それは、特に情報については有効な概念である。ネットワーキングそのものの「鍵」も「情報」である。
 ネットワーキングとは、それぞれの人やグループや機関が、それぞれ自立的な価値を持ちながら、連携することである。そして本来、その連携は固定的ではなく、ゆるやかで自由、自発的なものである。(七)
 質の良い新しい情報は「固定」からは生まれない。ネットワークシステムにおける青年の「流動的」参加こそ、創造的成果が期待できる。「流動的」であるから、参加する青年の顔ぶれや参加の内容、形態が常に移り変わってもよい。参加の「形式」より、参加する者の個人的な「中身」を重視するのである。
 この論には現実論からの反駁が予想される。それは、青年の無関心、主体性の喪失の中で、ごくわずかの委員を募集することでさえ容易ではないのに、そんな「不特定多数」の自立的参加が望めるわけがないというものである。
 しかし、現代の「情報」の特性は青年の参加をいざなう新しい可能性を持っていると思うのである。
 一つの可能性は「インフォメーションリーダー」ともいうべき青年たちの存在である。彼らは、情報化社会に新しく登場した情報保有者および発信者である。コミュニティの崩壊の中で、近隣関係などによるパーソナルコミュニケーションが衰退してしまった。しかし、それに代わるコミュニケーションの良き仲介者として新しいインフォメーションリーダーが誕生してきたのである。
 従来の青年リーダーは、奉仕的精神や、時には自己犠牲的精神が求められてきた。しかしインフォメーションリーダーは、「ものごと」に対して好奇心が強い者、おもしろがることのできる者である。だから新しい情報を持っている。彼らはグループリーダーそのものにはなりえないかもしれない。しかし、その開放的で先取的な性格は、インフォーマルな青年グループのアンテナとレーダーの役割を果たしているのである。
 ヤングアダルト情報サービスに魅力があると感じれば、彼らはこれに参加するだろう。彼らの自発的参加によって「青年感覚」にあふれたダイナミックな情報の収集と提供ができる。そして、彼らは、インフォーマルな「影響力」を持っているのであるから、この情報サービスのことと、そこで提供される情報は、彼らを通してインフォーマルな青年グループの中に広がっていく。それが、今まで行政には「縁がなかった」ような広い層の青年の参加をよびおこすことを期待できるのである。
 ヤングアダルト情報サービスは、インフォメーションリーダーのインフォーマルな「影響力」に期待する。彼らの「影響力」は、団体のリーダーのような「指導的」なものではない。対等な立場で他者に対しても「自立的価値」を求め、その「個人的」なつきあいの中で価値のある情報、楽しい情報を発信するネットワーカー的なものである。

4−3 パソコン通信の活用

 青年の参加をいざなう現代の「情報」の特性のもう一つの側面として、情報技術の高度な発達があげられる。中でも私は、パソコン通信に注目したい。パソコンと電話とそれをつなぐモデムがあれば、あとは通常の電話料金の負担だけで、在宅のままリアルタイムな情報の入手と検索、そしてそれ以上の魅力として「情報の発信」ができるのである。実際、現在無料で提供されているアスキーネットワークは、ホストコンピューターにつなぐ電話回線をたびたび増設しているが、それでもすぐいっぱいになるほどの利用率を誇っている。検索主体のキャプテンシステムが企業はともかく、青年にはあまり活用されていないのとは対照的である。
 他の事業の企画への参加と異なり、情報については、現代の情報技術をうまく利用すれば、それほどの「覚悟」なしに気軽に参加でき、しかも直接、主体的参加ができる。ネットワーキングが「情報」を「鍵概念」とする理由の一つも、この「情報の魅力」にあるのだと考えられる。
 だが、そうは言っても、パソコン通信で青年が発信する情報の「内容」に全面的に期待できるかというと、実は残念ながらそうではない。
 アスキーネットワークの中にはブレティンボード(掲示板)システムというのがある。これは、百八十を越えるさまざまなテーマのボードがホストコンピューターの中に設定されるものである。メンバーは、自分のパソコンから、好きなボードに自由に意見を書き込んで「掲示」する。その一つに「グッドアース」があった。地球的規模から核兵器、環境、人口爆発、エネルギーなどの問題を考えようとしたものである。ところが、半年でたった二十七件しか書き込みがなかった。これに対して喫茶店、アニメ、コミック、アイドル、SFなどは千件以上の書き込みがあり、二千件を越えるところすらあったという。青年が情報ネットワークに参加するといっても、たわいないおしゃべりが多いのである。
 「グッドアース」については、「不活発」(すなわち、ウォントが少ない)という理由からシステムオペレーターのアスキー側から閉鎖を通告された(昭和六十一年秋)。これに対してニューサーティーの関根章郎氏が、廃止反対のよびかけをボード上で展開した。それを契機に他の青年からの書き込みが増え、「こんな本が良かった。」という読書情報が交換されたり、その感想を述べあう「電子読書会」がボード上で開かれたりした。このようにして、「グッドアース」は結局、継続されることになった。(「グッドアース」の件に関しては、すべて、関根氏から筆者への私信に基づいている。)
 ヤングアダルト情報サービスにおいても、パソコン通信を活用したい。そこでは、「くだらない情報」はすべて排除しようとは思わないが、「好ましい情報」なのに反応が少ないからといってそれを排除するものでもない。「必要情報」も提起しながら、情報の中身を「ともに育てる」ところが、公的情報提供の良いところである。
 なお、関根氏によれば、アスキーは「グッドアースの廃止宣言」という「ショック療法」によって、青年が発信するふがいない通信の中身を「治療」しようとしたのではないか、とのことである。時には、このような「緊張関係の演出」も必要なのかもしれない。

4−4 ユースワーカーの役割

 現代都市青年は「情報化不適応」を起こしている。それにさらに追い討ちをかけるようなヤングアダルト情報サービスであってはならない。そのために、もう一つ、必要な要素として、情報サービスを現代都市青年につなぐ情報ユースワーカーの存在がなくてはならない。
 青年のための情報処理とは、情報をコンピューターで「交通整理」すれば済んでしまうという性格のものではない。担当者という人間の意識が介在する。その人自身に、「青年感覚」が求められる。この「感覚」を専門的資質として持っている職員がユースワーカーである。
 ヤングアダルト情報サービスにおけるユースワーカーは、青年の情報化不適応を時には支持することもあってよい。非常に人間的な機能を発揮するのである。
 たとえば、青年担当の社会教育主事、公民館主事もその一員であろう。社会教育行政におけるこれらの「専門職制度」は、一般行政からの自律性、青年への直接責任性、青年側の自由性などを、ユースワークに与えてくれるものである。
 ただし、この「自律性」とは、決して、ユースワーカー本人の趣向やそれまでの経験などに基づいて、勝手にユースワークを展開してよいということではないだろう。ユースワーカーという一人の公務員に「自律性」が保障されているというよりは、本来的にはユースワークそのものが一般行政から自律的であるべきなのではないか。一般行政施策などの「意図」に縛られずに、ワーカーと青年がユースワークを「ともに育てていける」という意味で自律的なのである。
 それでは、情報ユースワーカーは、「ともに育つ」ユースワークとしてのヤングアダルト情報サービスを実現するために、どんな役割を果たせばよいのか。
 一つには、カウンセラーとしての役割である。青年の情報摂取者としての自立を助け、都市化や情報化などによるパーソナルコミュニケーション能力の喪失の自己回復を援助することが求められるのである。そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法を適切な時に有効に活用する能力が必要である。それは、純粋な心理学的技法でなく、むしろ、その「実践的変形」であってよい。
 グループワーカーとしての役割もある。一対一の関係を原則とし、しかも相手が人生の問題をかかえていることを前提とするカウンセリングよりも、むしろグループワークの方がユースワーカーの日常的役割に近い。そして、グループワークの中でも神経症者を対象とするグループ・セラピィより、健常者の自己啓発を求めての主体的参加を前提とするエンカウンター・グループのリーダーの役割に近い。
 グループ・セラピィにおいては、「セラピストは先ずメンバーの依存の対象である」。これに対してエンカウンター・グループにおいては、「(そこまで)各メンバーとのつながりはつよくない。メンバー個人よりはグループ全体とのつながりが強い。セラピストといわずファシリテーターというのはその意味である。つまりセラピストが舞台監督とすれば、ファシリテーターは舞台装置家という感じである。場面設定者という感じである」。そして「メンバーの役割もこなす」のである。(八)そこには、理念でも、実践でも、形態でも、「ともに育つ」姿勢がある。
 そもそも、エンカウンター・グループは、都市化、情報化が進んで人間どうしのナマの触れ合いが少なくなり、その能力さえ失いつつある今日の時代における危機意識に満ちた取り組みであろう。そこは「極端」なまでにホンネとホンネがぶつかり合う世界である。だから、その世界を情報ユースワークにそのまま持ち込めば良いとは言えない。
 ただ、青年の情報化不適応にきちんと応えるためには、エンカウンター・グループでいうようなファシリテーターの役割がどうしても必要なのである。なぜなら、現代都市青年の情報化不適応は、情報化社会の中での人間復活の叫びであり、情報提供によって情報が増えるだけでは、とうてい解決できないからである。人間関係創出の「舞台設定」以外にその本質的解決はないのである。

4−5 情報サービスと「教育的役割」

 情報ユースワーカーは「教育的役割」も持っている。
 すでに何度も述べたように、青年の主体的営みこそが青年の主体性をはぐくむ。だからこの場合の「教育」も決して「教え諭す」ものではない。原則としては、青年の求めに応じた「援助」であり、青年の主体性を尊重した上での「きっかけ作り」である。そのためには、良い情報提供のできる能力と、ファシリテーターとしての資質を備えていなければならない。
 しかし、それだけでは不充分である。実は、青年の主体的な情報取得と判断を援助するためには、青年の求めるままには応じないことも必要な時がある。たとえば、青年の問いに対する答えがわかっていても、情報提供側の判断によっては、それを教えない時があってよい。青年が自分で解答を見出せるように、それを調べる方法だけ教えるのである。ただし、「教えるべきか」、「教えざるべきか」の判断は決して機械的にはできない。だから、その判断ができるユースワーカーがいない場合は、わかるだけの情報をすべて機械的に提供した方が無難である。
 ユースワーカーのいる場合は、時には「回答拒否」もありうる。新聞社の人に聞くと、「ナポレオンは何年に死んだか。」などという青少年らしき者からの問い合わせがけっこう多いそうである。「当社ではそこまではお答えしていません。」と答えると、心外な様子でガチャンと電話を切ってしまうらしい。調べれば簡単にわかる宿題などを、電話の方がもっと簡単だからかけてくる。
 ヤングアダルト情報サービスにも、きっとそんな問い合わせがくるだろう。そんな時、それに巧みに付き合うこともあってよいし、「回答拒否」をしてもよい。教育的に有効と判断する方をとればよい。「拒否」をする場合は、「残念ながら当方ではそこまでお答えしていません。」という応答をするのではない。「そんなことは、自分で調べなさい。」と応じてよいのである。そのためには教育的配慮を持ち、教育的判断ができ、そして青年との関係(リレーション)をあとでフォローできるユースワーカーの存在が不可欠である。
 このように、ヤングアダルト情報サービスに情報ユースワーカーの存在があってこそ、「ともに育つ」ことが、形態だけでなく、「内実」としても保障される。「ともに育つ」ということは、青年が行政におそるおそる情報を「貰いに行く」ことでないのはもちろんだが、行政が青年にいつも「へつらっている」ことでもない。青年を「まだ子ども」だからと、見くびってこんなことを言っているのではない。青年以外の市民に対しても同じように、対等でしかも緊張した関係こそが、ともに育つ内実を豊かにするのだと思う。
 情報ユースワーカーの役割として、行政と青年をつなぐ「行政職員としての役割」をつけ加えておきたい。ユースワーカーの「自律性」を拡大解釈して、行政職員としての要素を否定しようとするよりも、行政職員としての責務と可能性をむしろ充分に発揮しようとする方が、有効で現実的だと思う。
 たとえば、ヤングアダルト情報サービスの中には、行政の立場からの「青年への情報提供」があった方がよい。そのためにユースワーカーは、都市計画などについて知っておかなければならない。逆に、青年の意思を行政に反映させるための「行政への情報提供」も必要となる。行政内の「スタッフ」として、行政に提言するのである。そのためには、その問題の行政施策全体からの位置づけを把握し、かつ、具体的な窓口やルートを知っていなければならない。
 行政と青年の間にいる職員として、両者の緊張関係を「調整」したり「演出」したりして、行政と青年を「ともに育つ」ようにつなぐことも、行政全体の視点から見た情報ユースワーカーの役割なのである。

4−6 情報と知的生産

 現代都市青年の「モノ離れ」は、善かれ悪しかれ、ソフト化社会、成熟社会において避けられない傾向であろう。モノの実用性よりも、個人の内面的な価値観や他者からの情報によって価値判断がなされる。
 たとえば、おしゃれに関する青年の「ブランド志向」は、たしかに特定ブランド商品という「モノ」への志向として表れている。しかし、その一番の価値基準は着心地ではないばかりか、「外観」ですらない。問題は、「ブランド名は何か」だけなのである。そして、そのブランドが良いかどうかは、体験ではなく他からの「情報」により決定される。モノ自体より、それを一側面から「切り取った」結果としての情報(「原宿で、はやっている」など)に判断の基準を見出すのである。そして生産者側も、物的過剰の時代において、もっと消費を拡大するためにますます情報重視の戦略に傾いていく。
 しかし、この「モノ離れ」と「情報重視」の傾向も、「多面体の一面」としてとらえなければならない。たとえば、今日の「食」は一方では大量宣伝にのったファースト・フードなどの食「文化」を生み出している。その反面、今日ほど人々が「主体的・意識的」に健康食、自然食に取り組んでいる時代は過去にないのではないか。有機農法、無農薬の食料を求める底流には、人間が食を媒介にして大地とどう関わりを持てばよいかという根源的な問いがある。自分一人の健康を守るだけのちっぽけな「健康食志向」から、地球の生態系に責任を持ち、人間らしい生き方を問う「自然食志向」のムーブメントに発展してきているのである。そこにも、人間どうしの情報の「行き来」が見出される。そして、他者からの情報を、知的、主体的に受けとめた上での、食の「文化」が形成されようとしている。
 このように「モノ離れ」と「情報重視」には積極的側面がある。その一つとして、モノの生産とは違った個人の「知的生産」を志向する傾向があげられる。梅●忠夫氏の「知的生産の技術」によれば、「知的生産」とは、「人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合である、とかんがえていいであろう。」(九)としている。そして「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらにはしらされる、ということにもなりかねないのである。」(十)として、その著で「個人の知的武装」の意義を強調した。
 情報は、個人を管理する手段にもなるが、個人の自由な「知的生産」の道具や目的にもなるのである。
 ヤングアダルト情報サービスが関わる青年の「知的生産」とは、青年自身の手による調査・研究・開発であろう。「一斉講義型」の講座だけでは、その援助はできない。青年の「知的生産」への、もっと個別的な対応が必要になる。それが、情報提供と研究相談である。そこで生み出される情報は、青年の主体的、かつ、知的な情報である。その意味で、今日の大量の情報の中でも、青年にとってとりわけ大きな価値がある。
 それだけではない。「知的生産」は日記などを除いて、その大部分が他者に自己の知的生産物を提供する目的で行われる。形態としては「個人的行為」でありながら、その意図は「社会的」である。
 ヤングアダルト情報サービスは、この知的生産の「社会化」をさらに促進させる。それは、一つには、個々の青年の「知的生産」を結び合うネットワーキングである。もう一つは、青年のそれらの知的生産のサービス自体への還元である。さらには、青年の知的生産を、行政や広く社会全体に知らせ、つなげていく。
 青年の知的生産という創造的な営みと、そのネットワークによって、ヤングアダルト情報サービスは、「人間的」で魅力ある情報の発信源となることができるであろう。それは、現代社会がなかなか実現できなかった理想的な情報化の進展の方向を示しているのである。

結論

 「情報」の「情」には、「ありさま」という意味がある。青年が必要なさまざまなことがらの本当の「ありさま」を知らせる情報は、情報過多の都市社会においても、思いのほか少ない。そして、この「情」は、「こころ」としての「情」と決して対立的なものではない。ヤングアダルト情報サービスは、現代都市社会に欠けがちな二つの「情」の両方を豊かにする試みである。
 情報提供を「消極的すぎる」という理由で軽視し、がむしゃらに上から青年を「是正」しようとする「青年対策」が行われるとすれば、それは「強力」なようにみえても、実際には何の効果ももたらさない。青年の主体性なくして青年政策の効果はなく、今日の情報環境においては、公的情報提供なくして、その青年の主体性の確保は困難なのである。
 今日、「学習社会」が形成されようとしている。激変する社会の中で、それに対応するために、また、主体的な生き方をするためには、誰もが「学習」せざるをえない。そこでの「学習」とは、主体的に自己を啓発することである。青年自身も、学校・労働・余暇などの全生活にわたって、その新しい意味での「学習」の必要と魅力に気づきつつある。中でも「知的生産」は、とりわけ自立的な行為であり、それへの関心は注目すべき事象である。
 このような学習の「広範化」の現実と「主体性」の志向の時代に、そのすべてに行政が「直接的教育力」を発揮しようとするのは時代錯誤でしかない。
 ヤングアダルト情報サービスは、社会の側からの確かな「公的意図」をもちながらも、青年と「ともに育つ」姿勢で取り組まれる。この姿勢によって、青年行政は過去の「学習」のイメージから訣別し、今まで学習として意識されていなかった青年の全生活を通した内なる主体的な自己発達に資する情報を提供することができる。しかも、その形での援助は青年の主体性をそこなわない。そして、このようにして青年が新しい「学習」に主体的に取り組むこと自体、現代社会が青年に対してもっとも切実に要請している「社会的課題」なのである。


脚注

( 一)●島朗他編 社会学小辞典 有斐閣、増補版一九八二、頁一一七
( 二)同、頁二七三、「地図と現地」は一般意味論学者コジープスキの用語。
( 三)半田雄二 「図書館職員として青年とどうつきあうか」、むさしのインフォメー   ションマニュアル・・・ 東京都武蔵野青年の家、一九八四、頁四八
( 四)半田雄二 「公共図書館の『青年問題』」、図書館雑誌V o l 7 5 , N o 5 、日本   図書館協会、一九八一、頁二四三
( 五)リファラルサービスについてはホイットニー・ノース・シーモア J r、エリザベス   ・N・レイン だれのための図書館 京藤松子訳 日本図書館協会、一九八二、    頁一五三〜一五七 に紹介されている。
( 六)てい談「夢を語る 青年のための情報サービス・システム」、前掲 むさしのイ   ンフォメーションマニュアル・・・ 、頁二一、ミニコミ紙「みたかきいたか」編   集長 川井信良氏の発言。
( 七)今井賢一 情報ネットワーク社会 岩波書店、一九八四、特に頁一八二
( 八)国分康孝 エンカウンター 心とこころのふれあい 誠信書房、一九八一、頁五   八・五九
( 九)梅●忠夫 知的生産の技術 岩波書店、一九六九、頁九
( 十)同、頁一八

参考文献

○ 今井賢一 情報ネットワーク社会 岩波書店、一九八四
  産業における重層的なネットワーク化に着目しながら、「高度情報化社会の光と影」 について論じている。
○ 高山正也編 情報分析・生産論、講座 情報と図書館 4 雄山閣出版、一九八五
  図書館・情報学と情報業務の現実との接点から論じられている。そのため、情報の現 実の姿の基本的理解に資するところが大きい。
○ 東京都企画審議室 高度情報化の進展と東京・地域社会へのインパクトと課題・、一 九八五
  シーズ先行型の現在の高度情報化の進展に対して、高度化・多様化する社会的ニーズ への対応を重視する立場からの報告。都民生活面への影響と問題についてもよく分析さ れている。
○ 梅●忠夫 知的生産の技術 岩波書店、一九六九
  その名のとおり知的情報の生産について技術的側面から論じたものであるが、広く「 現代人の実践的素養」としてそれを述べている。このように、個人の知的生活と情報の 関わりの実相を明らかにしたという点で、この書は端緒を開く存在であった。
○ 高田正純 データベースを使いこなす・英語でとる世界情報・ 講談社、一九八五
  パソコン・ネットワークを個人が利用する魅力を実践的に解説している。知的興味と 人間どうしのふれあいへの志向をともに充たすものとしてパソコン通信が位置づけられ ている。特に「文科系人間」向きの書である。
○ 高校教育研究会 高校生と情報行動、モノグラフ・高校生‘ 8 5第一五巻 福武書店、 一九八五
  高校生と雑誌情報、音楽情報、友人間情報などに関する調査に基づき、その情報行動 タイプの分類などを行っている。
○ 拙著 「学習情報提供事業の企画と展開」、岡本包治他編 社会教育の計画とプログ ラム 全日本社会教育連合会、一九八七
  社会教育行政が市民に学習情報を提供するにあたっての三つの基本的問題と十の留意 点について述べた上で、その具体的な機能の図表化を試みている。
国際比較「青少年と家庭」
−青少年と家庭に関する国際比較調査報告書−

発行者 :総理府青少年対策本部
発行年月:昭和57年5月

性格・背景
 青少年の健全育成上、家庭が重要な役割を果たすものであるとの認識から行われた調査である。6か国(日本、韓国、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス)の0歳から15歳までの子供を持つ父親又は母親を対象とし、昭和56年2月から3月までの間に各国、それぞれ約1,000サンプルの調査が実施された。調査主体は総理府青少年対策本部であるが、その実施については各国の民間調査機関に委託された。

構成
 「調査の概観」、「調査結果の各論」、そしてクロス集計表を含めて320ページに及ぶ「集計表」の3編から構成されている。その中で、「調査結果の各論」については、「親子関係」、「母親と職業」、「夫婦関係」、「老後」、「家庭観」の5つの章から構成されている。B5版520ページ。

内容
 特に欧米の各国と比べて、日本の親が際立った特徴を見せた点は以下のとおりである。(カッコ内の数字は、日本。単位は%、小数点以下四捨五入。一部を除き複数回答。)
 「親子で、よく一緒にする行動」のうち、「室内ゲーム」(42)、「散歩・スポーツ」(41)、「旅行」(35)、「映画・観劇」(12)は、韓国の次に少なく、「勉強をみてやる」(29)は6か国の中で最低である。ただし、「レストランなどで食事」(53)は、一位のアメリカに次いで高い。なお、「テレビ・音楽鑑賞」(79)は、日本で第一位であるが、西ドイツを除いて他国でも同じく第一位になっている。
 「ふだんから特に気をつけて子供に言いきかせていること」のうち、「老人や体の不自由な人をいたわる」(34)、「道路や公園をよごさない」(33)、「列のわりこみなどをしない」(19)などの弱者へのいたわりや公衆道徳に関するものは、韓国に次いで低率である。
 「子供のしつけ」については、「親ができるしつけには限界がある」(53)という意見に賛成する者は、6か国の中でもっとも少ない。「男らしく(女らしく)育てる」(85)、「父親は何よりも毅然とした厳しさが必要」(73)は、韓国に次いで多い。
 「夫婦専用部屋あり」(56)、「子供部屋あり」(70)は、英米仏がすべて9割を超えているのに対して、韓国の次に低い。しかし、子供が6歳をすぎると8割、11歳をすぎると9割は子供部屋を持つようになる。ただし、その場合も、夫婦専用部屋を持つ者はそれほど多くならない。
 「母親就業中の子供の保育」は、「保育所・託児施設」(49)が高率で、「ベビーシッター」は、米仏のそれぞれ30%、36%に対して、0.6%と韓国に次いで少ない。 「母親の就業で困ること」については、「家事が不十分」「心身の疲れ」「子供のしつけ・保育が不十分」などから、「ある」(52)とする率が韓国に次いで高い。
 一方、「専業主婦の悩み」についても、「社会的視野が狭くなる」(40)などの理由から「ある」(68)とする者が多い。欧米では「ある」とする者は半数以下である。
 「子供のしつけの方針」については「妻主導型」(32)の率は各国の中で最も高い。 「離婚を抑制する理由」として「子供に及ぼす影響」(91)を挙げる者は、日本が一番多く、米独では7割弱である。そして、「夫婦がうまくやっていく上で最も大切なこと」として、「同じ人生観を持っている」(38)、「経済的安定」(28)の他、「子供がいること」(21)とする者が多い。欧米では「同じ人生観」とする者が高率で、西ドイツでは73%である。
 「老後の子供との同居」については、「同居したい」(64)とする者は、日本、韓国の順で多く、19%の西ドイツを除いて英米仏は5〜8%台である。
 「親にとっての子供を育てる意味」については、韓国では「家の存続」が68%にのぼるが、日本では「自分の成長」(60)、「家族のむすびつきを強める」(51)の順で多く、「家の存続」(24)は5位である。その点は、欧米に近い。ただし、「子供を育てるのは楽しい」(20)と答える者は、欧米では日本の2〜3倍以上いる。
 「家族のイメージ」(1つだけ選択)としては、「愛情」(44)、「血縁」(34)の順で、「血縁」が多い韓国と、「愛情」が多い欧米の中間的位置を占めている。ただし、「相互扶助」(7)とする者は日本が一番少なく、他の国では15%から27%いる。
特色・評価
 日本は物質面では「欧米化」されていても、家庭教育においては、欧米の良い点を充分に取り入れているとは言えず、むしろ我が国の精神的風土とのギャップに問題が生じていることを、この調査は示唆している。我が国の家庭がよりいっそう青少年の健全育成に資するものとなるためには、この現状をふまえて日本の風土にあったあり方を考える必要がある。その点で、この調査結果から学ぶところは大きい。
                                        青少年の自殺に関する研究調査
(青少年問題研究調査報告書)

発行者 :総理府青少年対策本部
発行年月:昭和54年6月

性格・背景
 青少年の自殺がマスコミによって連日のように報道され、各界の関心を集めていたこともあって、総理府青少年対策本部がそれぞれの分野の人々に研究委託したものである。それまでの各種統計や相談事例などの紹介と分析を中心にして、報告書は展開されている。
構成
 人口動態統計などを基にした日本の少年の自殺に関する疫学的解析、監察医務業務をとおした東京23区における青少年の自殺の実態、静岡県教育委員会の電話相談「ハロー電話」の実態と意義、東京都立教育研究所の教育相談の立場から見た自殺未遂のケースの分析、精神医学の立場からの症例検討などによる分析、以上のそれぞれの視点に基づく5つの章から構成されている。B5版70ページ。

内容
 少年(10〜14歳)の死亡率全体から見た自殺の割合が分析されているが、それは高い死因にはなっていない。少年の自殺の死亡率を歴史的にたどると、死亡統計の確立した大正9年から、戦時中は別として漸次減少し、昭和25年頃は最低となっている。その後、増減があったが、昭和40年頃から漸増傾向にあり、この傾向が持続している。
 国際的には、我が国の少年の自殺率が特に多いわけではない。性別で見れば、男子の方がやや多い。季節としては、冬休みの前後の時期が大きなピーク、夏休み直後が次のピークとなっており、休暇・受験・期末テストなどと深い関連がある。発生時刻は、他の世代とははっきりと異なり、午後4〜5時がピークになっている。自殺動機も特徴的で、「学業」と「家族」に集中していることなどが示されている。
 青少年(10〜19歳)全体の自殺率の方は、必ずしも増加傾向にはない。これは、高校生以上の自殺がむしろ減少しているためとされている。
 「電話相談」については、それが青少年の「死の予告」を受信することはきわめて少ないが、その前駆症状ともいうべき登校拒否や家庭内暴力などの相談が多い。これは、自殺をその前段階で防止するための重要な意義を持っているとされている。
 「教育相談」の立場から自殺未遂者の分析が行われているが、家庭に何も問題がないと思われるケースは極めてわずかとのことである。「両親の不和」、「親のノイローゼ」、「嫁姑のこじれ」、「父親の賭事・女性問題」、「夜逃げ」、「親の拒否的、干渉的態度」などが多い。予告徴候としては、死にたい気持の訴え、感情や行動の不安定、他人からの逃避、他人への攻撃性、無断欠席、学業成績の低下、食欲不振、不眠、家出、うつ状態、身辺整理や生活の精算などがあり、早期発見をするための察知力、共感的・援助的な姿勢、日常の地道な営みが指導者に必要であると述べられている。
 「精神医学」の立場からは、直接動機だけではなく、これまでに培われてきた子供達自身の神経症的態度としての「自殺傾向」を重視して自殺が分析されている。この「自殺傾向」は、社会・環境的要因、生物学的要因、心理学的要因の3要素から形成されている。生物学的要因としては、うつ病などの精神病の関与が重視される。しかし、うつ病であっても、「非自殺企図群」と「自殺企図群」の2群があり、それは、本人が救いを求められるような家族関係であるかどうかによって、かなり決定されると述べられている。

特色・評価
 この研究は、複数の視点から具体的に青少年の自殺の問題を明らかにしようとしたものである。一時期、青少年、特に少年の自殺がマスコミにしきりに取り上げられた時に比べると、現在は青少年の自殺はそれほどまでには「話題」になっていない感がある。しかし、実際には自殺をはじめとする青少年の問題は、決して解決されているわけではなく、むしろ深刻な様相を呈している側面もある。青少年育成に携わる人が、自殺に走ろうとする子供たちからの気づかれにくい「援助を求める訴え」に気づき、手をさしのべるために、この報告書から学ぶべき点はとても大きい。
 本書の中の悲しい事例を紹介しておきたい。「自殺念慮をもつ生徒が直接『死にたい』と訴えてきた場合でも、間接的にそのことが把握できてかかわる場合でも、つねに適切な対処がなければかえって危険が生じるものである。ある生徒は、教師から『そんなことぐらいで死にたいなんて・・・』と励まされたが、よけい自分の弱さを思い悩み、ついに自殺をはかったのである。教師と生徒の気持ちが通い合う体験が何よりも大切である。自殺念慮をもつ生徒は内面では理解や援助を求めつつも、なかなか心を開かないとか、拒否的な態度を示すことが多いので、そのかかわり方はむずかしい・・・」。青少年育成の難しさと責任の重大さが、よく表れていると思う。
                                        非行原因に関する総合的調査研究
(青少年問題研究調査報告書)

発行者 :総理府青少年対策本部
発行年月:昭和54年6月

性格・背景
 昭和48年以降増え続け、「戦後第3のピーク」を迎えていた時期に、非行の原因を総合的に分析する目的で、麦島文夫氏を代表とする「非行原因調査研究会」が総理府の委託を受けて実施した調査である。調査は、昭和52年10月から11月までの間に、非行・触法少年の調査対象群(「非行群」)と、一般青少年の調査対象群(「一般群」)及びそれぞれの群の母親の合わせて約9,000名に対して、個別面接調査法、集合調査法、郵送調査法などによって実施された。

構成
 「調査の概要」、「調査結果の概要」、「調査結果」の3編の他、付表と調査表が掲載されている。B5版275ページ。

内容
 「父母の欠損率」については、非行群で20.2%と一般群の3倍となっている。特に、母のない子の非行の発生率が高い。その他、欠損理由としては「離別」、欠損時の子供の年齢としては、母親の場合は幼児期、父親の場合は中学生ころの場合が非行化に結びつきやすい。
 「母親の就労」については、むしろ一般群の母親の就労率の方がやや高い。この報告書では「両親の共働きが特に非行化に作用するとは言えない」とされている。
 家庭の経済的物品レベルの差は、一般群と非行群の間ではごくわずかである(9品目の内、一般群の家庭では5.5個、非行群の家庭では5.0個の所持)。
 「有害環境への接触」などについては、高校生以上では一般化しかけており、一般群と非行群の間で顕著な差を見せていない。ここでは、高校生一般の風潮としてのこれらの行為自体を問題とする必要があると指摘されている。一方、中学生においては、「喫茶店・スナック」、「ゲームセンター」、「ディスコ」などへの非行群の接触が多く、また、タバコ、酒、無断外泊などについても顕著である。
 「友人」については、「全体として非行少年は親しい友人が少なく、また、年齢も同年に限られる傾向がある」とし、「ひところの非行者が一般群よりも、むしろ年長の者と付き合うことを通じて悪くなったことに比べ、逆の方向」にあると指摘されている。
 「小遣い」については、非行群の方がやや多くもらっている。
 「両親との心理的関係」については、全体として、非行群は親との対話が少なく、親からの愛情の感得が少ない。
 「家庭の統制」については、小学生だけを対象に調査されている。非行群においては、習字・そろばん等の習いごとが少なく、また、特に女子については健康・歯磨などの親の指示によるしつけが少ない。ただ、非行群の小学生は、かくしごとするな、悪いことするな、嘘をつくな、行儀よくしろということはよく言われている。しかし、報告書では「これらはしつけというよりも、子どもの現状に手を焼いて文句を言うものと見られる。」としている。
 「性格の自己評定」によると、従来の通説に反して非行群の方がむしろ攻撃的性格が弱い。「健康な活力を示すところの良い意味での攻撃性の欠如」と、報告書はとらえている。また、保守的モラル、前近代的義理人情など精神的成熟面での偏りが非行群で目立つ。 「他者からの自己の評価」については、「自分に対する人々の評価は悪い」という意識は、非行群ではかなり高い。しかし、それだけに「良く思われたい」という願望も強い。 人間や社会にかんする「知的興味」については、非行群の方が少なく、知的興味の広がりも小さい。
 以上の調査結果から、家庭の貧困などの古典的犯罪要因に代わって、低年齢では外部からの有害刺激と文化的環境の不足、高年齢では各自の非行的個性が大きな要因になっていること、そして特に両親との人間関係のトラブルが、思春期以後での主な非行化要因に数えられることを報告書は指摘している。

特色・評価
 青少年の健全育成に携わる者には、今日の青少年に対する正確な理解と適切な対応が求められる。誤った先入観は、大変危険である。したがって、実際に非行少年も含めた調査を基にしたこの報告書は、大きな存在意義を持っていると言える。もちろん、ここで調査の対象となった非行群の青少年の多くが、本書のいうとおり「検挙後において、良い方向に向かって努力している」のであるから、非行に走っている青少年の気持をそのまま代弁しているものではない。しかし、この自らを改めようとする彼らの気持も、また、是非理解すべきなのである。
                                        青少年の健康と体力(旧)

編者:文部省体育局
発行年月日:昭和52年3月15日

性格・背景
 発行の前年、文部省は、我が国の体育・スポーツ施設の実態調査の結果を発表し、次いで、学校体育施設の開放に関する方針を示した。他方、同年末には教育課程審議会が小・中・高校の教育課程の基準の改善について答申し、ゆとりのある充実した学校生活が目指された。このような動向のもとに、生涯体育・スポーツの実現に資するため、それまでの関連する数多くの調査を活用して、青少年の健康と体力に関する現状を明らかにしているのが本書である。

構成
 「青少年の体格と体力の現状」、「青少年の健康と体力向上のための指導者」、「学校の体育」、「社会における体育・スポーツ」、「児童生徒の健康と安全」の5章のほか、巻末に基礎データが掲載されている。A5版196ページ。

内容
 児童・生徒の体格は、戦争直後の低下を除いて向上してきているが、特に昭和20年以降はそれが著しい。11歳の体格の地域差を見ると、男子はその差が大きく、東京がトップとなっている。特に体重がとびぬけている。女子は地域差はそれほど大きくない。
 体力については、男子は17歳、女子は15歳ぐらいまで順調な伸びを示すが、その後は停滞し、20歳ころからは衰退傾向を示している。児童・生徒の体力を10年前と比べると、総体的には向上の傾向にあるが、12歳男子の「懸垂」などは明らかな低下傾向が認められる。地域差を見ると、市街地域より農村的地域の児童の方が優れている。
 次の2章から4章では、学校教育、社会教育における健康・体育・スポーツのための、職員、施設、事業、団体などの現状が述べられている。
 最後の5章では、児童・生徒の慢性的疾患の増大、学校における事故や交通事故の実態などについて特徴的なデータが紹介されている。

                                        青少年の健康と体力

編者:文部省体育局
発行年月日:昭和52年3月15日

性格・背景
 発行の前年、文部省は、我が国の体育・スポーツ施設の実態調査の結果を発表し、次いで、学校体育施設の開放に関する方針を示した。他方、同年末には教育課程審議会が小・中・高校の教育課程の基準の改善について答申し、ゆとりのある充実した学校生活が目指された。このような動向のもとに、生涯体育・スポーツの実現に資するため、それまでの関連する数多くの調査を活用して、青少年の健康と体力に関する現状を明らかにしているのが本書である。

構成
 「青少年の体格と体力の現状」、「青少年の健康と体力向上のための指導者」、「学校の体育」、「社会における体育・スポーツ」、「児童生徒の健康と安全」の5章のほか、巻末に基礎データが掲載されている。A5版196ページ。

内容
 1章では、主に児童・生徒の体格と体力について述べられている。体格は、年々向上してきている。体力についても総体的には向上の傾向にあるが、12歳男子の「懸垂」などでは明らかな低下傾向が認められる。11歳児童の地域の違いによる体力の差を見ると、市街地域より農村的地域の児童の方が優れていることがわかる。
 次の2章から4章までは、学校教育、社会教育における健康・体育・スポーツのための、職員、施設、事業、団体などの現状が述べられている。
 最後の5章では、児童・生徒の慢性的疾患の増大、学校における事故や交通事故の実態などについて特徴的なデータが紹介されている。

特色・評価
 本書でもいうように、青少年の体力は男子は17歳、女子は15歳ぐらいまで順調な伸びを示す。青少年の育成に携わる者にとって、本書のような資料により基礎的理解をした上で、青少年のスポーツ活動の効果的な援助に当たることはとても大切なのである。また、子どもたちの健康や安全についての具体的な実態からも、学ぶべき点は多いであろう。                                        
1 地域青少年団体連絡協議会の設置状況
2 青少年団体連絡協議会の現状と役割 −全国青少年団体連絡協議会研究会議から−
3 昭和47年度地域青少年団体連絡協議会活動状況

発行者 :いずれも青少年育成国民会議
発行年月:1−昭和47年5月、2−同年8月、3−翌48年2月頃

性格・背景
 当時、それまでの社会構造や生活意識の変化が、青少年団体などのあり方や活動に大きな影響を与え、まわりからの拘束を受けない趣味や同好の小さなグループの生成と消滅が著しかった反面、青少年団体連絡協議会の結成の気運も盛り上がっていた。後者は、地域ごとに青少年団体・グループが相互に情報交換をしながら連絡提携し、横のつながりを強化しようとするものであり、青少年活動の積極的な側面を持っている。
 そこで、青少年育成国民会議は全国青少年団体連絡協議会を開催し、その発展のための研究協議の機会を設定した。この会の参加者に対するアンケート調査により設置状況をまとめたものが1、この会自体の概況を記録したものが2である。そして、翌年には、この成果を受けて、各地域ごとの連絡協議会の活動状況を紹介する3が発行された。

構成
 1は「回答を寄せた県」、「結成状況」、「連絡協議会の目的」、「事務局所在地」、「常勤職員」、「連絡協議会の構成団体」、「予算規模」、「結成の見通し」、「結成の必要性」、「研究協議会への期待」の10項目から成る。B5版14ページ。
 2は「協議会の概況」、「地方青少年団体連絡協議会の役割と活動の進め方(パネル討議)」、「地方青少年団体連絡協議会の役割と活動(分科会報告と討論)」、「青少年団体の社会的役割(日高幸男氏講演)」の順で記録されているほか、巻末資料として前記1が掲載されている。A5版63ページ。
 3は北海道、秋田県、福島県、埼玉県、静岡県、滋賀県、愛媛県、広島県、川崎市の順に、それぞれの連絡協議会の活動状況が報告されている。B5版25ページ。

内容
 1によると、当時、28県(都道府県)で青少年団体の連絡協議会が結成されている。そのうち、20県が調査アンケートに回答している。協議会の目的としては、青少年団体間の連絡提携または情報交換の他、「青少年団体共通問題の解決」(16県)、「県民会議事業への協力」(14県)、「指導者養成・訓練」(14県)、「補助金・資金の獲得」(11県)、「広報活動」(11県)などが多く挙げられている。
 事務局はほとんどが、県庁知事部局または公共施設内に置かれているが、常勤職員まで置いているのは、4県だけである。予算規模については15県の回答があったが、数万円から850万円までと大きな開きがある。
 2では、この研究協議のパネラーや参加者から、次のようなことが地域青少年団体連絡協議会の意義として挙げられている。「青年の連帯感の育成の基礎としての団体間の連帯」、「得意な分野での指導者の相互派遣」、「団体指導者の視野の拡大」、「リーダー研修およびその発展としての国際交流」、「行政と加盟団体とのパイプ役」などである。その上で日高氏は、講演の中で、「正しい価値の創造」、「地域開発への参加」、「デモクラシーの実現」の3つを青少年団体活動の社会的役割として指摘している。
 協議会の問題点としては、「団体エゴまたは団体モンロー主義による団体間のぶつかりあい」、「基礎的団体への意思の疎通の不足」などが挙げられており、「青年団体と少年団体など団体間の性格の違いの調整」、「連合青年団や小グループに対する関わり」、「未組織青少年の組織化」、「行政との連携と団体の主体性の確保」などの課題に関する協議会のあり方が話し合われている。
 3を見ると、地域青少年団体連絡協議会の実際の活動がかなり活発に行われていたことがわかる。創意工夫に満ちたユニークなイベントも多い。それだけに加盟団体のリーダークラスが、準備などのために相当の時間と労力を割いたであろうことが推測される。しかし、それをもおしてその活動にかけた当時の情熱が伝わってくるような内容である。

特色・評価
 この3つの資料は、地域青少年団体連絡協議会結成の全国的な動向にいち早く注目し、そのための情報提供をしたという点で、当時、大きな役割を果たしたと考えられる。そして、青少年団体が手を取り合って、地域や社会に役割を果たすという協議会結成の意義にはとても大きいものがある。
 このような青少年団体の連絡体は、現在の青少年団体のあり方にとってもキーの一つになるはずである。もちろん、今日、特に青年活動は全体としては停滞気味であり、簡単に地域連絡体が活性化するわけではない。しかし、各団体の「自立的価値」を前提にしているともいえる新しいネットワーキングの動きを促進し、成功させるためにも、当時の連絡協議会に関わる議論から学べる点は多い。「連絡協議会」も「ネットワーキング」も、ともに「古くて、新しい」課題と可能性をもっているのである。
                                        
「学校教育と社会教育の連携」(事例・団体編)目次
  実践社会教育シリーズ 全日本社会教育連合会

1 青少年団体の横断的紹介誌を作成し、高校に配布している事例
   −鹿児島県青少年団体連絡協議会「DO YOU KNOW?」−
  〜存在が知られていないという単純な阻害要因を、まず除去する〜

2 高校生がお客さまではなく、団体活動の重要な担い手として活躍している事例
   −奈良県平群町青年団−
  〜高校生という青年が地域にいることにあらためて気づく〜

3 子ども会と学校とが良い関係をむすんでいる事例
   −名古屋と横浜の子ども会−
  〜日常的に連絡をとりあう、そして学校から学ぶ〜

4 学校の教師から郷土について学んだり、郷土資料の収集・展示をしたりしている事例   −埼玉県上尾市・与野市小学校のPTA−
  〜学校から地域を学び、学校に地域を「還元」する〜

                                        ○ 青少年団体の横断的紹介誌を作成し、高校に配布している事例
   −鹿児島県青少年団体連絡協議会「DO YOU KNOW?」−
  〜存在が知られていないという単純な阻害要因を、まず除去する〜

1 青少年団体への加入者の激減をくいとめるために
 昭和48年、鹿児島県青少年団体連絡協議会が結成された。当時は加盟団体総計で約4万人いたが、現在では半減してしまっている。都市化と青年の地域離れが影響しているのである。
 また、団体の中にはあまりにも会員が減ってしまってまともに活動ができず、最近は事実上、休止状態のところもあるという。
 実は、「DO YOU KNOW?」には、このような状況を打開するための窮余の一策という側面もあるようだ。だが、実際にはこの冊子にそんな壮絶感は感じられない。むしろ明るいイメージなのである。
 かれらはなかなかタフである。
2 「DO YOU KNOW?」から始めよう
 この冊子の前書きによれば、これが作られたいきさつは次のとおりである。
 昭和60年、国際青年年のイベントとして「アジア青年祭inかごしま」を開催。その会場の一角を青少年団体の紹介コーナーとして、100枚のパネルを展示した。同時に配布したリーフレットの題が、「あなたのまわりにこんな団体がある事をご存じないでしょうね」である。
 その時、一般の県民から「こういう団体があることを知らなかった」とか、「いろんな活動をしているので驚きました」などの感想が寄せられたという。
 それらの反応をうけとめながら、昭和62年2月、鹿児島の青年たちは第2弾としての「DO YOU KNOW?」という青少年団体を紹介する冊子を発行し、高校にまで配布したのである。
 鹿児島に限らず、特に最近の青少年の中には、既存の社会教育団体や地域団体を敬遠するふん囲気が強いようである。しかし、実際にはさまざまな団体の存在そのものを知らなかったり、誤った先入観から活動内容について貧困なイメージしかもっていなかったりという、単純な理由から敬遠されていることも多いのではないか。
 鹿児島県青少年団体連絡協議会は、加盟団体のそれぞれの活動の実像を知ってもらうため、地域の人々に、青少年自身に、そして学校に「DO YOU KNOW?」とよびかけた。県内に就職する予定の高校生に対しては、県教育委員会の後援をとりつけ、公文を添付して、各高校にその冊子の配布を依頼した。
 みずからの団体を広くアピールしようとする、この積極的な精神を、評価すべきであろう。団体にとっての「学社連携」は、このアピール精神から始まることが多い。
3 かれらのマインドを象徴する表紙
 A5版で、手に取りやすい。表紙は青少年の団体活動の情景である。これは、5枚のカラー写真の組み合わせで多色刷りで印刷されており、人の目をひく。
 表紙の写真自体も特徴的である。集団全体ではなく、集団活動の中での1人か2人の瞬間的な動作や表情にピタッと焦点が合っている。2人の女性がテニスをやっているシーンもある。なんでこれが、青少年「団体」活動なのか。
 しかし、これらの場面はけっして「つくりもの」ではない。むしろ、このように一人ひとりがいきいきとしてこそ団体活動は成り立つのである。「団体」活動の一場面として、2人でテニスをすることだって、じゅうぶんありうる。
 青少年団体だからといって、つねに集団として「統一行動」をしていて、他の「一般の青少年」と画然と区別されるというものではない。ところが、一般の青年や市民の中にはそう思いこんでしまっている人もいると思われる。その方こそ、「虚像」である。
 青少年団体の活動のなかみは、「普通の青少年」がごくあたりまえに共感できるものなのである。これが「実像」である。
 「DO YOU KNOW?」の表紙は、虚像によって団体から離れてしまっている多くの人々に対して、実像を提示することによって、その目をひきもどすことに成功している。そして、特に学校の教師や生徒に対して、
 1 青少年団体は、どんな青少年でもいきいきと活動できる場であること
 2 今までの学校以上に、一人ひとりの主体性が求められ、ためされ、生かされる場で  あること
の2点をアピールしようとしている。
 これは、表紙に限ったことではない。この冊子全体の、そして、鹿児島県青少年団体連絡協議会自体の「マインド」を、この表紙が象徴していると考えるべきであろう。
4 訴えて、フォローする
 本文には、鹿児島県青年団協議会から始まって各種ボランティア団体まで、横断的に、28の加盟団体のイラストを主体とした簡単な紹介と連絡先が掲載されている。1団体につき1ページである。
 それぞれのページは、イラストや写真が紙面の半分またはそれ以上を占めるものばかりである。最初に「明るいイメージ」といったが、その理由はこれに負うところが大きい。内容の詳しさよりも、目に訴え関心をひくことをねらった紙面構成である。
 巻末には、応募はがきがついていて、「1.入会したい 2.資料がほしい 3.連絡がほしい」のいずれかと、希望の団体のところに○をつけるようになっている。フォローの姿勢がはっきりしている。
 しかも、当然のことながら、このフォローは青年個人と青少年団体との関係で行われることになる。配布は高校で行っても、会員募集については、その場で「網をかぶせて」集団加入させるという乱暴なことはできない。すべきでもない。
 そこまで極端な例ではなくても、青少年団体と学校が連携するにあたって、ややもすると安易な集団主義が持ち込まれる危険性がある。それを避けるためには、団体・学校の双方の主体性の尊重と、いわば「けじめ」をもった良識が必要なのである。
 その点、「DO YOU KNOW?」のように、青少年団体のPR誌を学校で配布してもらって、あとははがきでフォローすることは、一つの方法である。
5 「普通の」高校生にまで、くまなく配るために
 先にもふれたように、同協議会としては団体紹介誌を過去にも出したことがある。しかし、最高でおよそ千部であった。今回は、八千部なのである。同協議会の年間予算350万円のうちの100万円を使った。それだけの価値があると判断したわけである。
 千部ならば、公共施設に配布する程度でせいいっぱいである。しかし、八千部だから、すべての対象者にもれなく配布できる。そこに意味がある。
 百十の高校に、県内に就職する予定の高校生が五千人ほどいる。青少年団体に関心をもつ高校生にも、関心をもっていない「普通の」高校生にも、全員にこの冊子を配布できるのである。
 さらには、実際にこの冊子を配布するにあたって、広く的確に対象の高校生にゆきわたらせるため、県の教育委員会を通して各高校にそれを依頼した。
 このようにして、「DO YOU KNOW?」は作成され、県内で就職するたくさんの高校生の手にわたっていったのである。
6 本事例から学ぶべきこと
 青少年団体と学校との連携に関して、本事例から次のようなことが考えられる。
1 青少年層を広く的確にとらえて青少年団体の情報を提供するためには、特に学社連携によって学校の協力を得ることが有効である。
2 しかし、その場合、団体への加入の勧誘や受付などまで、いっせいにその学校でやってしまおうとしてはいけない。それでは、学校の中に安易な悪い意味での集団主義をつくりだし、それを団体が利用するという恐るべき「学社連携」になってしまう。
 「DO YOU KNOW?」の巻末はがきのような「個」に対するフォローに習いたい。
3 このように、団体がしなければならないことまで、学校に依存しようとしないことが大切である。学校側も団体の主体性を尊重し、望ましくない依頼にまで「義理」で応じたりしてはいけない。学校ができることには限度がある。
4 これらの原則を守った上で、後輩の青少年たちに、そしてかれらを育てようとしている学校に、青少年団体は自信をもって自分たちの活動をアピールしてほしい。学校側に歩みよって、青少年団体の情報を学校型に変形して紹介するのではない。活動の実像を伝えればそれでよい。

 以上、「DO YOU KNOW?」の事例をもとに考察を進めてきたが、まとめの最後の「活動の実像」については、本冊子がそれを余すことなく伝えているとは必ずしもいえない。たしかに、この冊子が「高校生に」しかも「青少年団体の存在を知らせる」というねらいから作られていることを考えると、これ以上の詳しさは必要ないといえる。
 しかし、今後の課題としては、現在直面している問題点などの「活動の実態」をさらに率直に学校に訴えることが必要である。また、学校の方も学校として主体的に、その訴えをうけとめて、地域の教育力の形成のためにともに考え、学校なりに援助できる道を探ることが望まれる。

〔資料〕
「青少年団体紹介誌 DO YOU KNOW?」,鹿児島県青少年団体連絡協議会,昭  和62年2月
「朝日新聞 鹿児島版」,朝日新聞社鹿児島支局,昭和62年2月13日朝刊
                                        ○ 高校生がお客さまではなく、団体活動の重要な担い手として活躍している事例
   −奈良県平群町青年団−
  〜高校生という青年が地域にいることにあらためて気づく〜

1 スタッフ不足がきっかけ
 青年団は、従来、重要な地域集団として活躍してきた。しかし、今日ではいずこも団員の減少という問題に悩んでいる。奈良県生駒郡平群(へぐり)町青年団も同様であった。 平群町は、新住民の流入により急激に人口が増えている。しかし、町の青年団が抱える6支団は、すべて「旧村」にできており、新興住宅地に支団組織はない。町外通勤青年の増加のため、団員数も減少傾向にあるという。
 スタッフ不足の中での機関紙の定期発行はきびしい。そこで、担当の広報部スタッフは次のように思いつくのである。
 「なんとかならんもんだろうかと、担当役員は考えた。そしてふと思った。『そうや、高校生がいてるやないか』」、「作業を通じて町青年団の活動に対する理解も深めてもらえる。まさに一石二鳥ではないか。彼らはそう考えた。実に安易な発想ではあったが、結果的に、これが町団役員と高校生団員との結びつきを深めるひとつの『きっかけ』となったのだから、何でもやってみなくてはわからない」。(後記資料より)
 とにかく、このような理由から、平群町青年団での高校生の活躍が始まったのである。2 高校生はすでに入団していたが
 平群町青年団の場合、中学校を卒業した者は自動的に入団してくる。そのため、現在、登録されている高校生は60人で、全団員の30%にもなるという。
 しかし、実際には、登録された高校生に対しては、事業のある時だけ支団を通して呼びかけるというパターンだった。そこまでなら、他のたくさんの青年団でもやっていることである。
 資料によれば、平群町青年団長は「事業をするにしても、新興住宅地で団員を拡大しようと思っても、必ず在学青年、特に高校生団員の問題にぶちあたる。ただ勧誘すればいいというものではない。団員数も減少してきているし、高校生は次代の平群町青年団を担う貴重な存在だ。特に新興住宅地の高校生たちを活動に巻き込みたい。」という趣旨の発言をしている。
 そして、平群町青年団は、高校生の団員を青年団の次期リーダー、地域を担う一員として「明確に位置づけ、積極策に出た。」、すなわち、「これまでのように、すべてお膳立てされた事業に高校生を呼ぶのではなくて、ひとつの行事の準備段階から高校生にかかわってもらおうとした」のである。
 高校生をお客さまにしないで、年長青年たちといっしょに主体的に青年団活動に参加してもらうようにしたこと。平群町青年団の事例に注目する理由は、ここにある。
3 機関紙の編集作業に関わる
 平群町青年団は、機関紙「若いこだま」を4年間、毎月発行し全戸配布していた。しかも、新興住宅地では団員が一軒一軒、直接、手渡してきた。住民との大切なコミュニケーションの場であり、青年団活動を広くPRするのにこれほど大きい力はないと、資料にはあるのだが、これは大変な作業である。
 そこで、さきほどふれたように、高校生の「助っ人」を頼んだのである。しかも、それは高校生が直接「若いこだま」の編集に携わるという、高校生の主体的な参加形態によるものである。このことが実現できた基盤として、さきほどの平群町青年団の高校生に対する「積極策」がある。
 町中央公民館の一室で行われている編集作業のようすが、次のように描かれている。「部屋の中は、ワイワイガヤガヤと実ににぎやかである。レイアウト用紙を前にロットリングで、いっしょうけんめい字を書いている子もいれば、町団役員を相手に学校生活のよもやま話をしている子もいる。問題集をひろげて、必死に数学の宿題をしている子もいたりする。なにか一般的な青年団の雰囲気とは、ちょっと違った独特のものがある。」
 たしかに、青年団自体の「雰囲気」まで、何らかの変化を示しているのである。
4 青年団に与えた良い影響
 このように高校生が主体的に参加することによって、青年団自体が受けた良い影響として、次のようなことがあげられる。
1 活動を支える人数が増えるだけでなく、「雰囲気的に明るくなり、先輩団員たちに活力も出てくる。」(副団長の発言)
2 「無駄ばなしをしている中から、役員は高校生団員の考え方や悩みなんかを聞き」(団長)という発言に見られるように、年長青年が後輩の青年たちの理解を深め、ジェネレーションギャップの克服に寄与することができる。
3 そればかりでなく、「僕たちが、高校生の話を聞いて、ああなるほどなと思うこともある」(団長)という発言に見られるように、若い世代の発想から逆に学ぶという社会教育活動独特の「教えあう」関係の創出も、おおいにありうる。
4 青年団活動がきちんと責任をもった、しっかりしたものになる。資料には、「時間的な制約など多くの問題がある。役員の苦労もそれだけ大きいわけだが、今は、まず高校生団員の親、家族の理解を得ることに重点を置いている。したがってルーズな活動は決して許されない。」とある。
 この前半部分は、一見デメリットのように見えるが、親や学校に信頼されるような青年団活動をつくりだそうとするかれらの努力は、けっして不毛なものではないはずである。親(=家庭教育)や学校(=学校教育)と、青年団活動(地域の教育力)をむすびつける営みの一つとしてとらえられるからである。
5 高校生に与えた良い影響
 次に、高校生が主体的に青年団活動に参加することによって、その高校生自身が受けた良い影響としては、以下のようなことがあげられる。
1 平群町青年団の女子高校生団員の一人は「自分の考えていた青年団と、実際の青年団活動との違いが、ようやくわかってきたように思う。」と発言している。このように実際に青年団活動に携わることによって、地域活動や青年団体活動に対しての誤った認識を改め、正しい理解を得ることができる。
 正しい情報の提供も大切だが、それだけでは地域・団体活動に対する間違った先入観を払拭することはできない。それに対して、人と接し、体験を味わうことによる学習の力は大きい。
2 成人になるための高校生自身の内なる発達をうながす。前項の彼女も「(平群町青年団について)私たちから見たら、『大人の世界』なんだなァって感じるときもあるけど」・・と言っているが、それは異なった世代、すなわち成人と自分との差異の認識であると同時に、共感へ、そして彼女なりの「同化」へとつながっていくのである。
 青少年が家庭において兄弟をたくさん持たなくなり、地域においての兄・姉の役割を持つ人の存在を失いつつある今日、青年団の先輩のような準拠の対象が身近にいるということは、大きな価値をもっている。
3 学校と家庭以外に役割遂行の場をみつけることができる。彼女は「自分の意見が素直に言えて、それがみんなに認めてもらえるのがとってもうれしい」と言っている。
 高校生という多感な時代に、自己の役割を見つけ、その役割の遂行が社会的に評価されることは、自己形成にとって非常に意義のあることである。今日、学校の中でそれを見つけることに失敗した高校生たちにとって、このような学校に代わる場はとても少ない。
6 本事例から学ぶべきこと
 高校生の青年団活動が、学校教育に対して果たす役割に関して、この事例から次のようなことが考えられる。
1 学校の友達という同世代どうし、またはクラブの後輩・先輩という近い世代どうしの人間関係、学校の先生という超自我の象徴としての存在の他に、青年団の先輩という地域の兄・姉を高校生がもつことになる。
 これが、学校の中では設定しにくい人間関係の部分を補完する。
2 役割遂行の苦しみと喜びの体験のうち、学校教育において計画的には準備しずらい部分をインフォーマルな形態で補完する。
3 このようにして、青年団活動は特に高校生に対しては難しいであろう「学校外教育」の場を提供するものであり、学校側もそれをいっそう重視すべきである。しかし、それとともに学校教育における教育課程にそれをどうフィードバックさせればよいかということも、今後の課題となるだろう。

 すでに述べたように、平群町青年団が高校生の参加を求めた理由の一つとして、「スタッフ不足」があげられる。だが、それだけでなく、高校生を次代の青年団と地域を担う主体として尊重していたことも見逃せない要因である。
 筆者がさまざまな青年団体の役員と話す時も、この「スタッフ不足」がよくでてくる。たしかに、地域の青年団体は苦しんでいるのだ。しかし、この都市化現象の中での地域にこそ、コミュニティおよび地域の教育力の新たな形成が求められる。
 コミュニティ形成はもちろん、地域の教育力の形成に対しても、地域青年団体、特に生活集団としての青年団が果たす役割は大きい。目先の「スタッフ不足」に追い回されるのではなく、青年団として地域の教育力の発揮のためという大きな視野から、学社連携をまともにとらえなければならない時期にきているといえよう。
 平群町青年団は高校生を活動主体としてとらえた。そのことによって、高校生はさまざまな得難いことを地域で学ぶことができた。この考え方をもっと発展させ、青年団自体を地域の教育力を支える機能の重要な一環として誇りをもって自認し、その役割を発揮できるのはずである。
 「高校生団員の親、家族の理解を得る」というかれらの努力は、その端緒であるが、さらに高校と意識的に連絡をとり、地域教育力の形成のために互いにいっそう手をとりあうことが望まれるのである。
〔資料〕「高校生団員をどうする 上・下」,奈良県青年団協議会事務局 岡村猛,
     (「青年」,日本青年館,昭和61年5・6月号所収)
                                        ○ 子ども会と学校とが良い関係をむすんでいる事例
   −名古屋と横浜の子ども会−                          〜日常的に連絡をとりあう、そして学校から学ぶ〜

1 子ども会と学校の関係の現実
 子ども会の指導者にとって、学校の過密スケジュールは頭の痛い問題である。皮肉なことに、熱心な指導者ほどその傾向が強い。「せめて学校行事などは、私たちに事前に知らせてくれないものだろうか」などというグチを聞くことが多い。クラブや部活動なども、ややもすると「目のかたき」にしがちである。特に「超過密スケジュール」の中学生については、組織率が低下しており、神経質になっているようだ。
 しかし、そのように反発する前に、そもそも、その学校との関係をうまくむすべているかが問われるのではないか。
 それが簡単にできるわけではないが、その糸口だけでも見つけるために、2つの事例をとりあげて考えてみたい。
2 日常的に子ども会の情報を学校に届ける
 名古屋市中川区助光中学ブロック子ども会連絡協議会は、そのエリアに2小学校と1中学校をかかえている。そして、この3つの学校のそれぞれと日常的な関係をとりむすんでいるという。
 その一つとして、「月刊 子ども会」(全国子ども会連合会発行)の学校への贈呈があげられる。しかも、ただ届けるだけでなく、三役の内の一人が必ず手渡しするのである。そして、その都度、校長や教頭と1時間くらい、情報交換・意見交換を行なう。
 資料には、そのようすがこのように書かれている。「子どもたちの学校での様子や学校行事の話を聞いたり、子ども会の予定を話したりの情報交換や、子ども会から学校への意見を伝えたり、学校から子ども会への意見を伺ったりの意見交換が、その機会に行われます。」
 学校に届けられたこの月刊誌は、職員室の閲覧台に置かれ、新しい月のものがくると、図書室の書棚に配架されるが、この本を教師はよく見ているようだということである。この本には、学校の外で見せる子どもの目の輝きのようすや、それをはぐくむ地域の指導者のあり方が、ハウツーまで含めてよく載っているので、先生方には参考になるのだろう。 その他、年度始めのたびに、学校と子ども会とが年間行事計画を互いに出しあって、調整したりしている。日常的にも、すべての子ども会行事の案内を、その都度、役員が学校に届けるということである。資料には「ですから学校では、子ども会で今何が行われているか、今度は何があるか、常に分かっているのです。」とある。
 このような普段の努力が「学校との良い関係」をつくりだしていくのである。
 ここの小学校長だった人が他校に転任して、「子ども会行事があるのに、自分は出なくてよいのか」と、そこの子ども会役員に聞いたので、かえって驚かれてしまったというエピソードが資料には紹介されている。学校は学校の中の教育、子ども会は外の活動というわりきった関係の方が通常なのであろう。それに対して、この子ども会連絡協議会の実践は注目に値する。
 たしかに、これらの実践を他の地区で真似しようとしても、即効的に効果を期待できるものではないだろう。ここの地区では、小学校区子ども会連絡協議会発足の時から23年間、教師に会計や書記などの役に加わってもらい、それを校長も認めてしきたりとなっているとのことである。このような営々とした努力が不可欠なのである。
 しかし、特にそのための初めの第一歩は重要である。なぜなら、学校と子ども会指導者が「出会う」ことさえうまくいけば、あとはその関係が自然に育っていくという側面も、人間関係にはあるからである。
3 子ども会が、学校から学ぶ
 横浜市立入船小学校では、心身ともにたくましい子どもを育てるための一環として、「校庭キャンプ」を実施している。
 「校庭キャンプ」は、夏休みに、学年・学級ごとではなく、町内ごとのグループに分かれて5、6年生が参加する学校行事である。夕食と朝食は子どもたちで作るのだが、その献立は自分たちで考え、予算の範囲内で買い出しに行く。学校はテントとはんごうとかまどを用意するが、それ以外に炊事に必要なものなどは、自分たちで考えて持ってくる。
 資料には「子どもたちは自分たちで何かを作ることがとても好きです。」とあるが、このような現実の子どもの理解から、子どもが主役となったキャンプを実施しているのである。子どもの発達の契機を鋭く見抜く眼力をもった者として教師の専門性が、よく発揮されている。
 そして、地域の子ども会の活動が、この「校庭キャンプ」に大きな影響を受ける。たくさんのことを学ぶのである。
 資料からまとめると、
1 「以前はバス旅行等を行っていた」子ども会役員が、キャンプをやろうとして、学校に相談にくるようになった。
2 子ども会で行うキャンプも、「本当に子どもが主役となる」ような形で実施されるようになった。
3 学校の施設を利用して、子ども会のキャンプが実施されるようになった。
さらに、「校庭キャンプ」の時には、警備等の面での地域の人々の協力、また、地域のジュニア・リーダーの協力なども得られた。それらは学校と地域の「良い関係」をつくりだしていったのである。
 入船小学校の場合は、子ども会に対してかなり好意的であると思われる。しかも、学校の教育内容自体も子どもの体験学習を大切にしているので、子ども会が直接、学ぶべき内容も多い。
 しかし、他の地域の子ども会指導者は、「入船は、学校側の活動内容がすぐれているから」と、ただ言うだけですませてしまうわけにはいかないのではないか。
 入船の地域の人々は、学校行事に積極的に協力した。そして、特に子ども会指導者は、学校の行う「校庭キャンプ」に関心をもち、みずから進んで学校を訪れてそれについて学ぼうとしたし、さらには、学校施設を利用したキャンプまで実施したのである。どの地域の子ども会指導者にも、このような進取的精神が求められるのではないだろうか。
 どこの学校でも多くの教師は、子どもについて正しく理解し、その発達の契機が何であるかを鋭く見抜くことのできる専門性を有しているはずである。子ども会指導者は、子どもに対する地域の教育者として自律的に活動しながらも、この教師の専門性から学ぶべき点は学ばなければいけない。けっして、レクリエーションだけ、しかもその表面的なハウツーだけが、指導者に求められる資質ではないのだから、学べる要素はありとあらゆる範囲で考えられるのである。
 学校側も、「うちの子ども会は、旅行会とたいしてかわらない」と「傍観」しているのではなく、ぜひ、入船のような専門的指導性を地域に対しても発揮してもらいたいものである。
4 2つの事例から学ぶべきこと
 この2つの事例から、子ども会と学校とが「良い関係」をつくりだし、それを維持・発展させるためには、以下の点で努力が必要であるといえる。
1 「学校のスケジュールが過密で、しかも子ども会の行事の日に学校行事を平気で重ねてくる」と文句を言う前に、子ども会自体の行事計画を日取りだけでも早く決めて、それを学校に知らせる。学校との関係がほとんど持てていない子ども会でも、とりあえずは、そのことから始めてみる。
2 子ども会事業のあるたびにその予定と報告をする。機関紙などの発行のたびにそれを学校に届ける。しかもそれを、会の運営に責任をもつ者が学校を直接訪れて行う。この「日常的連絡」が連携の基盤となる。
3 これらの機会を利用して、可能な限り、学校側とのインフォーマルな話し合いの場を日常的に設定する。そこでは、それぞれの立場ゆえに知りえた地域の子どもに関する情報を、交換・共有したり、おたがいの主体性を尊重した上での参考意見を交換したりする。
4 せっかく地域に教師という子どもの教育の専門家がいるのであるから、子ども会の指導者として、そこから学べることをできるだけ学ぼうとするどん欲さが必要である。 その際、子ども会の事業の実施に直接役立つ技術だけ追い求めるのでは、得るものは少ない。入船の場合でも、「校庭キャンプ」のポイントはキャンプ技術ではなく、子どもの主体性をはぐくもうとする教師の教育的観点であった。このような教育的神髄を汲みとろうとする「学ぶ態度」が求められる。
5 さらに、子ども会としては、学校を地域の教育施設・機能として位置づけ、その両面からの活用を図るよう努めるべきである。たとえば、子ども会行事を校庭で開催させてもらうことなどがそうである。しかし、その場合、学校との日常的な信頼関係が大切である。これがあってこそ、学校の活用は子ども会と学校との関係をさらに発展させるものになるのである。

 学校は子ども会に対して地域の教育機能としての信頼を寄せ、子ども会は学校に対してその公的教育機能に信頼を寄せるという、相互の「良い関係」をもっているところは、残念ながらまだまだ少ないようである。
 双方が「みくびりあって」いては、何も学べない。ごく日常的な人間関係としてのつきあいを大切にしながらも、さらにそれを意識的に発展させ、それぞれのみずからの教育実践や地域活動をつねに根底的に問いなおしてより良いものにしていこうとする主体的な「学ぶ姿勢」が必要である。それがあってこそ、子ども会と学校との学社連携は本当のものになるのである。

〔資料〕
「月刊『子ども会』を学校へ」,名古屋市中川区助光中学ブロック子ども会連絡協議会,「校庭キャンプで結ばれて」,森孝昭
 (いずれも「月刊 子ども会」,全国子ども会連合会,昭和61年7月号所収)

○ 学校の教師から郷土について学んだり、郷土資料の収集・展示をしたりしている事例   −埼玉県上尾市・与野市小学校のPTA−
  〜学校から地域を学び、学校に地域を「還元」する〜

1 郷土という素晴らしい教育資源を、子どもも大人も忘れている
 今日、都市化現象の中でややもすると地域への愛着が失われつつある。
 近郊都市においては、ベッドタウン化が進行し、子どもたちばかりでなくその父母でさえ、自分が今、住んでいる地域についてあまり知らず、関心さえないという傾向が見受けられるようになってきている。
 しかし、後記資料は「子供にとっては、ここは『ふるさと』である」と強調している。子どもにとっては事実上の「ふるさと」であるその地域に対して、親やその他の大人たちがいつまでも魅力を感じられないのであれば、子どもたちも、ますます、心から「ふるさと」と思える所を持たない人間になってしまうだろう。
 移り住んできた町ではあるが、それが「自分にとっての第二のふるさと」であるといつのまにか感じているような、そんな「郷土学習」が、今、大人にも求められているのではないか。
 ここでは、埼玉県内の2つのベッドタウンのPTAの活動を紹介する。両者とも、子を持つ者として、わが子やよその子のすこやかな成長を願う心から、「郷土理解」のもつ大きな価値に気づき、実践した事例である。
 しかも、その活動の中では、教師を講師として依頼することによって、学校の教育機能を大人にも発揮してもらったり、あるいは、大人たちが収集した郷土資料を学校の中で展示して、子どもの目を輝かせたりしている。
 学社連携が地域にいかされ、その成果が学校に「還元」されているのである。
2 教師を講師とした家庭教育学級
 この事例は、尾山台小学校PTAの成人教育部が中心となって実施したもので、郷土理解を内容として含む、家庭教育に関する成人の学習のケースである。
 「講師は、本校児童の実態をよく把握した本校職員がその指導にあたり、親近感ただよう中での受講は楽しいひとときであるようだ。」と資料には記されている。そして、次のようにその学習内容が紹介されている。
1 郷土理解のために(講師・・・校長)
 郷土の歴史講話、地域見学(バス見学を含む)など
2 「児童理解と親としてのあり方」学習のために(講師・・・教諭)
 子どもを育てながら親も向上することの意義、親や教師は子どもたちにとって身近な 先輩であること、親も子も自立していかなければならない時期のあることなど
3 発育ざかりの子どもの食事と親たちの摂る食事について(講師・・・栄養職員)
 給食の試食会(量や献立について知り、家庭での食事の参考とする)、大人の食物に ついて(低カロリーでおいしく食べられるお菓子の作り方)など
4 親と子の体力づくりのために(講師・・・教諭)
 日常生活の中でできる無理のないストレッチ体操など
3 郷土資料の収集と学校での展示
 与野市立鈴谷小学校PTAの活動事例の経緯は、資料から拾うと次のとおりである。
 58年秋、開校以来行われてきたバザーを中心とした「すずや祭」に、文化的なものを折り込もうということになり、「昔の鈴谷の暮らし展」を開催。地区内から借用した農具や民具、写真等を展示して好評を博する。社会科の授業で子どもたちにも見てもらう。
 その時、市の資料室からも民具などを借り、資料室長に名称などを教わる。その後、当室長には「与野の歴史」というテーマで講演も依頼する。
 このようにして、「地域の中から古い物を集めて、本校独自のふるさと室を作ったら」という声があがり、教師や父母の気運が盛り上がる。そのねらいとして、資料には「子どもたちに昔の人の労苦をしのばせ、郷土愛の心を育てたい」、「郷土学習(3・4年生)の資料センターとしての役割が果たせればよい」の二つが紹介されており、「多少の困難もいとわない協力体制を定着させ、教師と父母の間に信頼感を生み出していった。」と書かれている。
 59年2月、郷土学習室の先進校を見学。PTAだよりで報告、今後の協力をよびかける。
 学校とPTAによる準備会を重ね、59年6月には次のことを決定
 1 作業と並行して学習をすすめるために家庭教育学級をいかす
 2 ふるさと室の中味については学習内容にあう計画を中心に教師(社会科研究グルー  プ)が考える
 3 費用はPTA特別会計(廃品回収・バザーの収益)をあてる
 4 作業はPTA実行委員会(役員、専門部正副部長、学年委員長)と文化厚生部が中  心となってあたる
 59年秋以来、地区内には文書を配って協力の依頼を行っていたが、60年に入って本格的な収集作業を開始。資料には、そのようすが次のように描かれている。
 「古い倉や納屋が残っている家や旧家と思われる家をかたっぱしから当たってみると『学校で役立つ物なんかありませんよ』といわれたが『どんな物でも結構です』と中を見せてもらうと、貴重な物が出てくることが多かった。」、「すっかりほこりにまみれ顔も髪もまっ黒になるほどであった。トラック・乗用車・自転車と使いわけ、運んだ物を水洗いするなど皆でよく働いたが、そのうち地域の方が持ち込んでくれたり、道具の組立てに来てくれたり、『取りに来るように』との知らせが続いたり、温かい協力をいただいて予想外の成果をおさめることができた。」
 このようにして、所有者さえその価値に気づいていなかった郷土資料が、初めて掘り起こされ、それが「教育資源」として地域に対する親たちの関心をよびさまし、また、地域もそうした親たちの「変容」に感化されていくのである。
 60年10月、これらの収集資料を二つの空き教室に展示して、「ふるさと鈴谷学習室」として開室。自治会長から子どもたちに、昔の鈴谷のようすや子どもの頃の思い出を話していただく。
 同11月、開室記念のつどいを開催。地域の古老や資料を提供してくれた人々の参加のもと、なごやかに行われる。市長も参加した。資料には「『学習室のある学校に通えることを誇りにしたい』と読みあげた児童の作文に涙ぐむほど、母親たちの完成のよろこびは大きかった。」とある。
4 2つの事例から学ぶべきこと
 PTAと学校との連携に関して、以上の2つの事例から学ぶべきこととして、次のようにまとめることができるであろう。
1 学校の教師は、日常的に子どもたちの教育に携わっており、子どもの実態をよく把握している。その教師を講師にお願いすることにより、親が地域学習を子どものすこやかな成長と関連づけて主体的にとらえることができる。
2 学校の教育機能は教師だけにあるのではない。尾山台小学校PTAが栄養職員のお話を聞いたように、学校の教育機能をはば広く発揮してもらう努力が必要である。
3 鈴谷小学校PTAの親たちは、鈴谷の地域の人々と実際に接する中で、学んだ。地域の人々も、そのPTAの活動を見て、自分の地域にあらためて気づくことができた。 このように、学社連携は、たとえば学校とPTAだけの閉鎖的な活動ではなく、地域に根ざす活動として機能することによって、よりいきいきとしたものになる。

 鈴谷小学校PTAの信条は「○わが子が良くなるように ○学校の子が良くなるように○自分自身が高まるように」であるという。この「よその子」の幸せまで考えようとする姿勢こそが、地域の教育力形成にとっても一つのポイントになるであろう。
 そして、郷土資料はもう一方の地域の教育力として、そのような親たちに「多少の困難もいとわない」意欲と「児童の作文に涙ぐむ」感激を与えてくれたのである。
〔資料〕「広がる学社連携の輪 −さいたま学社連携事例集−」,埼玉県教育委員会,
     昭和61年3月

学習情報提供の実際

1ニーズにこたえる情報提供の実際
 1 セクショナリズムを超えて、学習者の求める情報を広く提供する
    〜中野区「中野の社会教育事業等 プラン1年」〜
 2 民間の活力あふれる情報を提供する
    〜江東区文化センター「タウン情報こうとう」〜
 3 提供できる情報の「限界」について常に問題意識をもつ
    〜仙台市中央公民館情報コーナー〜
 4 「低次元」と思われるような情報要求に対しても、みくびらずに接する
    〜東京都立江東図書館の「ヤングアダルトコーナー」〜

2市民参加の「しかけ」づくり
 1 各種のメディアの特性をいかした情報提供をおこなう
    〜国立市「くにたちビデオ広場」〜
 2 情報の「受け手」も気軽に「情報発信」できるようにする
    〜パソコン通信「アスキーネット」〜

3教育的機能の発揮の実際
 1 「動態的奉仕」によって情報要求をほりおこす
    〜調布市立図書館の読書会活動〜
 2 地域課題に対して敏感なアンテナを張って、その学習のための先進的役割をはたす    〜置戸町立図書館と「オケクラフト」〜
 3 個人の精神的・主体的営みを援助する視点をもつ
    〜カウンセリング・グループワーク〜
4情報提供システムの工夫
 1 レファレンスコレクションを活用してスムーズに情報を検索する
    〜図書館のレファレンスサービス〜
 2 ネットワーキングにより、情報提供の量と質をともに充実させる
    〜日野市の図書館サービス網〜

5情報提供活動への支持の獲得
 1 企業の「生き残り」のための情報活動に匹敵する、真剣な奉仕意識をもつ
    〜企業の情報活動〜
 2 市民に身近に感じてもらえるようなイベントを開催する
    〜大阪府立文化情報センター〜
 3 地域ぐるみ、行政ぐるみの支持を得るために働きかける
    〜浦安市立図書館〜
                                        この章のねらい

 学習情報の収集・加工・提供を行うにあたって、実際に注意すべき事項について、先進的な事例をとおして学習する。
 もちろん、みずからの行う学習情報提供は、究極的には、それぞれのおかれた条件に従ってみずからで切り開いていくべきものである。
 しかし、ここで紹介した事例も、また、そのような状況の中で生まれたのである。それぞれの事例の特徴をつかみ、共通する考え方をつかんでほしい。
 なかでも、市民の現実の情報要求に徹底的に対応し、さらには、潜在的な情報要求をほりおこそうとする積極的な姿勢とその実際の手法は、特に重要である。
 それにしても、生涯学習を援助するという学習情報提供の理念は一致しているとしても、その理念を実現するための実践についてのどこにでも通用する完全無欠な「手引書」はありえない。実際の事例をみずからの実践に照らしあわせて主体的に学んだ上で、各々の学習情報提供事業を個性的・独創的につくりだしていただきたい。

第1節 市民の学習情報要求にこたえる情報提供の実際

 学習情報提供を始めるにあたって、そこで提供される情報が、学習者の情報要求にこたえるものになるかどうかが、まっさきに問われる。
 要求された情報にこたえるということは、ごくあたりまえのことのようにきこえる。しかし、それを実際に実現しようとすると、情報提供側はさまざまな具体的困難に直面する。学習情報提供には、その困難をのりこえるセンスと努力が求められるのである。
 ここでいくつかの事例を紹介するが、その中から、事業主体の積極性と創意工夫の跡を読みとっていただきたい。
 なお、図書館においてもそれと通じる評価すべき試みがなされているので、あわせて紹介した。図書館のいくつかの積極的な試みは、学習情報提供のあり方にも直接的な関連をもっており、示唆を与えるところが大きい。
1 セクショナリズムをこえて、学習者の求める情報をひろく、わかりやすく提供する
   〜中野区「中野の社会教育事業等プラン1年」〜

 この「プラン1年」は、教育委員会だけでなく、区行政の各部局でおこなわれている区民対象の学習・文化・スポーツ・レクリエーションなどの事業を紹介している。
 昭和61年度のものは、B4版で104ページである。
 各章の構成は、部局ごとではなく、少年・青年・成人・高齢者の順に対象別ごと、その次に、ボランティア教育・障害者教育・文化・芸術・視聴覚教育(テレビセミナー・映画会・プラネタリウムほか)・スポーツなどの目的別ごとに、それぞれ一覧表のかたちで続いている。
 さらに、その次に、青少年問題協議会などの各種委員活動、講師派遣等の助成、「まちづくり講座」などの行政に関する講座、広報誌などの情報提供、そして保健相談所などを含む各種施設の案内が載っている。
 以上の分類方法をとるならば、当然、さまざまな部局の事業が同じ分類の中で交錯することになる。実際、「プラン1年」でも、同種の事業は所管部局が異なっていても同じ項目に入っている。
 各部局からあがってきた報告をそのまま部局ごとにまとめるのなら簡単ではあるが、それでは学習者にとっては一つの学習目的のためにあちこちのページをくらなくてはならず、不便である。欲しい情報を見のがしてしまう可能性もある。そこで、教育委員会以外の他部局の学習機会の情報を収録しているばかりではなく、その配置も学習者に便利なように工夫されているのである。
 このように、学習情報誌の作成のためには、はば広い学習情報の収集とともに、バラエティーに富んだ情報を学習者の立場に立ってわかりやすく、かつ適正に編成しなおす「情報加工」のセンスと能力が求められる。
 「プラン1年」の場合も、教育的事業をおこなうさまざまな部局の担当者によって構成される「社会教育事業等連絡会議」の中で連絡・調整された上で、社会教育主事が実際の編集にあたっている。昭和62年度からは、この会議やその他の類似会議が「地域センター連絡調整会議」に統合される予定であるが、この資料は引き続き社会教育主事が編集するとのことである。
 なお、学習情報誌の発行などを目的とするこの種の「連絡会議」により、学習情報を広く的確に収集することができる。しかし、効果はそれだけにとどまらない。ばらばらにおこなわれている各局の生涯教育関連事業が、学習情報の収集・加工作業のための会議を通して、お互いの事業に対する認識を深めあい、結果的に連絡・調整されるという副次的効果もある。
 「学習情報」(のための会議)が(セクショナリズムという)「教育的事業の実態」を改善する。情報が実態を変えるのである。
2 民間の活力あふれる学習情報を提供する
   〜江東区文化センター「タウン情報こうとう」〜

 江東区文化センターは、財団法人「江東区地域振興会」が区から委託を受けて運営管理している施設である。
 年末・年始を除き年中無休、夜10時まで開館。電話で仮予約でき、正式手続きは開館時間ぎりぎりまで受け付けている。会議や総会などでの酒席、宴席も自由。事務所も奥にひっこめて、「管理」よりも区民のための実質的な学習援助をめざしているとのことである。
 たとえば、夜、センターでの会合が終わった後からでも、次回の会場の正式な手続きができる。わざわざ、手続きのために出直すことなく、その日のうちに次回の会場が確保できる。
 昭和61年の秋、センターが翌年の6月に5周年を迎えるにあたり、「意見聴取地域集会」が9地区で開かれた。(「タウン情報こうとう」では「聞かせて下さい 出向きます」と訴えている。その他に「フリーダイヤル」と称して、コレクトコールによる意見聴取もおこなっている。)その時のチラシによると、区民38万人に対して利用者は「300万人の大台にあとわずか」であり、ホールなどは100%、会議室なども80%台の利用率で「どうしたら、いつでもご利用いただけるのか苦慮中」とある。
 このような利用者本位の考え方で、「タウン情報こうとう」も発行されている。一面はカラー、二〜四面はモノクロ。毎月10日発行。発行部数は13万6千部。6大紙朝刊に折り込みで各家庭に配られる。新聞紙大だから、他のチラシとまぎれることなく区民の目にとまる。
 本紙の発行資金のために広告を導入しているが、それは区内中小企業発展のねらいもある。広告の掲載希望者が多すぎてさばききれない現状とのことである。
 学習情報については、センター主催・共催の講座・イベント、区内の自主的なグループ・サークルの会員募集・催物のお知らせ(掲載は無料)などの他、4面は「生徒募集」と銘うって、民間のスクールビジネスや習いごとなどの3〜5行の広告が紙面いっぱいに組まれている(掲載は有料)。
 これらの学習情報の提供によって、区民は民間の情報を含めた今あるさまざまな学習機会の情報を知り、それを自分で「はかりにかけて」選択することができる。
 このように、「タウン情報こうとう」は、センター側の徹底したPR意識、区民の自主的グループ・サークル活動援助を援助する姿勢、そして、民間の学習ビジネス情報の活力をうまくとりいれる「企業的感覚」と柔軟性がすべて生かされて、いきいきとした構成になっている。
 ひとことでいえば、「お客さま本位」の民間のセンスと、「学習援助」の公共的姿勢の両立である。公的な学習情報提供事業がその絶妙なバランス感覚から学ぶところは大きい。
3 提供できない情報についても常に問題意識をもつ
   〜仙台市中央公民館情報コーナー〜

 仙台市中央公民館では、情報コーナーを昭和58年10月から開設している。
 オフィスコンピュータを導入しており、実際の情報提供においても、情報の半数近くがこのコンピュータから出されている。提供している情報は、施設、団体、事業、観光・文化財、人材などの領域のものである。
 コンピュータによる大量な情報の迅速な検索のメリットについてはいうまでもないが、さらに「情報コーナーの概要」には次のようにある。
 「電話、面接、郵便等による学習相談に対し、コンピュータまたは手持ちの情報源により回答します。この場合、相談者が明確な目的をもたずに相談に訪れることもすくなくありません。何をしたらよいか、本当に何がやりたいのか、充分な対話を行い安易な情報提供を行わないよう心がけています」。
 コンピュータは便利な機械ではあるが、情報を提供する人間までが「機械的」にそれを利用するだけではいけないということであろう。「機械的対応」では、学習情報の要求に本当には応えていくことができない。
 そしてそれと同じく、「提供できない情報」が要求された場合にも、機械的にわりきってしまってはいけない。
 「提供できない」という意味は、二通りある。一つは、「その情報をもっていない」という場合であり、その場合に安易に「その情報は、今はないから答えられない」と答えてすませてしまうのでは論外である。それに近い情報や、本人がその情報に近づくための情報をなんとか提供すべきであろう。
 もう一つは、その情報に関しては提供しないことになっているという場合がある。実際には、学習者の情報要求に真剣にこたえようとすればするほど、その問題で悩むはずである。
 「概要」では、情報提供の範囲に含まれないものとして、「営利性が高いもの」、「政治、宗教、思想の宣伝活動に関するもの」、「その他、教育委員会が適当でないと認めたもの」があげられている。学習情報提供が公的に運営されていることを考えると、この制限は理解できないことではない。
 しかし、「判断に苦しむ相談」として、次のような情報要求の事例が紹介されている。
 「レンタル関係」としては、テント、スピーカ、楽器、ピアノ、自転車など。
 これらについて、「当初は店の利潤につながるということで紹介しませんでしたが、社会教育活動を行う場合に、レンタル関係の情報が必要な場合が多く、このようなときは紹介をしてもよいのではないかという考え方をしています。」と説明している。
 「報道機関からの問い合せ」としては、団体・サークルの催物、ボランティア団体の資料、問い合せをしてきた人のリストなど。
 このことについては、プライバシーの問題や「目的外」という理由で情報提供を行っていないということだが、「報道機関も情報コーナーにとって有力な情報源であり、また、情報のネットワーク形成のためにも必要な機関であることから提供を拒否しにくい状態となっています。」とある。
 プライバシーを侵害しないことは大原則であるが、その上で可能な情報提供はマスメディアに行ってよいであろう。マスコミにその情報がのることは、市民に対して間接的に学習情報提供をしたことになるのである。
 その他、絵本の専門店、演劇の鑑賞券の購入場所などの「店の紹介になるもの」なども「判断に苦しむ相談」の事例としてあげられている。
 以上の他にもさまざま生じるであろう「判断に苦しむ」事例のすべてについて、ことこまかに「対処のしかた」が載っている基準やマニュアルは、ありえない。「概要」には、「問い合せの内容によっては社会教育と営利との関わりについて明確に提供・非提供の線をひくことが困難な場合が少なくありません。」とある。このように、ナマの問い合せはけっして定型的なものではない。情報要求のひとつひとつについて、情報提供側が、主体的に判断して対応しなければならないのである。
 趣旨から外れるものも無頓着にわかることすべてを答えてしまうとすれば、学習情報提供の本来の姿を歪めていく結果になろう。かといって、当初から予定された狭い範囲の情報提供にとどまるならば、情報提供側のダイナミックな発達はありえない。
 かんじんなのは、仙台市中央公民館情報コーナーのように提供・非提供の既成の枠組みに常に問題意識をもち、柔軟に主体的に対応することである。さらには、この「概要」のように、市民や関係者に情報提供の考え方を明らかにし、そのあり方をひろく問いかけることが大切である。
4 「低次元」と思われるような情報要求に対しても、みくびらずに接する
   〜東京都立江東図書館の「ヤングアダルトコーナー」〜

 東京都立江東図書館(現在は、江東区に移管中)には、ヤングアダルトコーナーがある。そこには、ヤングアダルトに人気のある赤川次郎、新井素子、氷室冴子などの見方によっては「軽薄短小」な本やオートバイやヘビーロックに関する本などが置いてある。
 東京都立江東図書館の当時の担当司書の半田雄二氏は次のように述べている。「ふつう『読んでほしい本』と『読まれる本』は一致しないことが多いものです。しかし、大人から見れば未熟であっても、彼らには彼らなりの選択眼があり、決して無原則に手を出しているわけではありません。読まれない本には、やはりそれだけの理由があるはずです。・・・読まれている本が、すべて読者の低俗な好奇心におもねるクズばかりと決めつけるのも危険です。大人たちがまだ気づかないだけで、数年後には中堅どころとして脚光を浴びているであろう作家が隠れていたりします」。
 そして、「すでに趣味の固定してしまった成人に較べ、自己、そして自己と他者、社会、世界との関わりに日々新たな発見の喜びをもちうる青年の関心の領域は広い」ともいっている。
 図書館のヤングアダルトサービスでは、青年をヤングアダルト、すなわち「若い大人」、知的権利主体としてとらえる。そしてその青年の要求に合った図書を提供するのである。
 このヤングアダルトサービスは、図書館のおもに資料提供に関するひとつの試みであるが、学習情報提供においても、特に相手がヤングアダルト、すなわち高校生などの場合、情報提供側も相手をみくびりがちになるかもしれない。
 たとえば、オートバイのツーリングクラブ(旅行会)について問い合わせがあっても、それは「学習情報」とはまったく異質に感じられる。しかし、じつはツーリングクラブの多くは健全なグループ活動のひとつであり、数少ない異世代交流の場でもある。その高校生の所属する学校でオートバイを禁止しているなどの事情がない限り、ツーリングクラブの紹介は、団体に関する情報提供として位置づけられるべきなのである。
 さらに半田氏が「純粋に息抜きのための読書も、将棋の腕前をあげるために定跡書を読むことも、デートコースを決めるために行楽ガイドを調べることも、広い意味では大人になるためのこやしだといえます。」としてそのような「読書」の価値を主張しているように、学習情報提供においても、「学習」とはいえないような個人的な趣味や生活レベルの「低次元」な情報要求に対しても、それをみくびることなく、学習の発展の契機として尊重して対応する姿勢が求められる。
 半田氏の問題意識は、児童サービスと成人サービスの谷間で、青年が図書館から離れていくのをなんとかしたいという気持から発している。そして、青年のこの「図書館離れ」をくいとめるためには、まず、青年の情報要求を的確につかみ、それにこたえていく必要があるというのである。
 そのほか、図書館を身近に感じ、使ってみたくなるように「ヤングアダルト新聞」を発行してまわりの高校に配ったり、レコードコンサートを開くなどの努力をしたりもしている。
 学習情報提供事業においても、一部の層がそこから離れていってしまったり、あるいは、特定の人のためだけの学習情報提供にならないよう、同様なあらゆる努力をすべきである。
第2節 学習情報提供における情報要求のほりおこしの実際

 情報要求の中には、学習者が自ら意識して実際に情報を求めてくる「顕在的要求」もあれば、まだ本人から求めてくるにはいたっていないが、なんらかの形で触発された場合には情報要求として具現化されるであろう「潜在的要求」もある。
 学習情報提供事業においては、顕在化された質問だけに答えているだけで良しとするのではなく、学習者が自らの「潜在的学習要求」や本当に必要な学習情報とは何かについて気づくよう援助することも一方で考えなければならない。
 ひとつには、学習者のそれぞれの実際の情報要求に応じる時に、相手が言葉に表していない「潜在的要求」まで察する努力をした上で、必要な情報の提供を行うべきである。
 さらに、次に述べる各種の情報提供においては、「潜在」を「顕在」に転化させるために、その他の積極的な働きかけが行われている。そして、それらは情報提供そのものにも効果的にむすばれている。このような取り組みにより、学習情報提供の価値がいっそう高まるのである。
1 自由にみちた文化度の高いイベントを開催する
   〜大阪府立文化情報センター〜

 昭和56年11月、大阪のビジネス街の中心、中之島のビルの5階に「大阪府立文化情報センター」が誕生した。教育委員会の主管であるが、全国で初めて「文化」情報センターと銘うち、はばの広い学習情報を提供している。
 その最大の特色は、民間の文化・学習情報をあえて扱うことにいちはやくふみきったことであろう。
 「文化情報センターの概要」によると、その運営の特色について「民間情報は企業の営利にかかわるから触れてはならない、というのがこれまでの行政側における伝統的な考え方であったが、当センターではカルチャー・センターから、音楽、映画、演劇、サークル活動にいたるチラシまで、文化活動や生涯学習に関する情報であれば、公・民を問わずすべてを扱っていることである。このことは、文化活動、生涯学習の多くが民間によるものであり、民間情報を扱わない情報センターは意味がない、という見解に基づくものである。」と明言している。市民サークルのものはもちろん、営利を目的とした催しのチラシまでもが、センターの「イベント情報コーナー」に置くことができ、市民は自由に持ち帰れるのである。
 また、ホールやセミナー室があり、その会場提供も行っている。そこでは主催者が参加者から会費を徴収して催しものを行うことを認めている。このことについて「概要」では、「営利行為を認めないことについては、文化情報センターも同様であるが、催しものを成立させるために必要な経費の徴収をいっさい認めないということでは、公的施設における文化・学習活動は、おのずから厳しい制約を受けることになりかねない。」と述べている。
 このように、大阪府立文化情報センターは、情報提供側の都合を優先するのではなく、まず、市民の文化の実態に歩みよって、それを援助しようとする姿勢をもっている。
 この姿勢のもとに、文化・学習にかかわるイベントなども開かれている。
 その特色は、民間団体と共催して臨機応変にどんどんセミナーなどの事業を組んでいることである。「概要」では次のように述べている。「設置の趣旨に沿った良い企画であれば、センターの側から積極的に共催を申し出て、施設の使用料を免除し、事業のPRにも協力している。ある事業を行政が主催なり、後援をするには、かなり厳格な基準に拠るのが通例であるが、当センターのような施設にあっては、共催の基準を緩やかにするほうが、『文化・学習活動の活性化のため』という設置の趣旨にかなうとの配慮から打ち出した方針である」。
 結果的には、このようにして、専門性の高い民間の「文化力」を借りることによって、センターの事業の「文化度」は高いものになっているのである。
 大阪府立文化情報センターは、作家などの文化人が手弁当で応援していることで有名である。センターは彼らの「連絡場所」にもなっている。それは、文化を育てようとするこれらの人々の気持をひきつける魅力が、センターの豊かで自由なイベントの中にあふれていることが一つの理由になっていると考えられる。
 「文化のプロフェッショナル」としての文化人の支持を得ていることは、学習情報提供にとっては大きなメリットになる。新鮮で文化度の高い情報が、センターで日常的に行き来することになるわけである。センターがもつ「文化的人脈」も、その人たちを通して次から次へと広がっていく。
 そして、それらの高度な情報がイベントの質を高める。今や豊かな文化・学習情報なくして、質の良い事業は打てない時代なのである。
 もちろん、センターで行う事業の効果は、より直接的には、一般市民に対して発揮される。
 ひとつには、市民ひとりひとりの学習情報要求が深化し発展する。講座などに参加することによって、その人の関心は深まり、学習情報要求が前よりも深化する。しかも、その人のそれまでの学習情報要求は、あくまでもその人の既成の概念の枠からしか発しえないのに対して、文化的インパクト(衝撃力)のある事業は、その枠をとりはらい、新たになまなましい学習情報要求を誘発する。
 もう一つの機能は、そこで集う市民の「文化のネットワーキング」の促進の効果をもたらすことである。ひとりひとりの「個別的文化」ではなく、市民どうしや市民と団体との自発的な文化のネットワークの契機となる。
 そのことによって、「個人個人が一方的に学習情報を問い合わせてくるだけ」という状態を克服できる。なぜなら、市民のあいだでいきいきとした文化情報の行き来がなされるであろうし、市民からセンターへの情報提供もなされるようになるからである。
 このように、センターにおける事業は、市民の学習情報要求や文化・学習に対する「構え」そのものを変容させ、発展させる契機となっている。また、その変容・発展が、学習情報提供事業の内容をもいっそう豊かにしている。
 大阪府立文化情報センターの情報提供が、このようなプラスの循環作用を実現できたのは、民間の高い文化度を活用してインパクトを与えられるだけのレベルを保っていること、行政から市民への文化の「おしつけ」にならないよう、高い自由度を確保していることの二つによるところが大きい。
2 学習情報がひろく活用されるよう、「動態的」にサービスする   〜調布市立図書館の読書会活動〜

 人口19万人の調布市には、図書館が中央館1館と分館10館が半径800メートルに1館の割合で配置されている。
 この豊かな図書館網が実現した理由として、本や図書館に対する市民の高い関心があげられる。そのような高い関心を育ててきた図書館の運営方針は次のとおりである。
 (前文略)
 ・ 買い物カゴを下げて誰でも気軽に立ち寄れる図書館づくりを  目指し、市民のだれもが自由に図書館サービスを受けられる様  にサービスの拠点を広げていく。
 ・ 座して利用を待つという静態的な活動に終始することなく積  極的に図書館側から市民に働きかける動態的な図書館活動を目  指す。
 ・ 略(児童サービスについて)
 ・ 市民の身近なところで文化的事業(講座、講演会、著者を囲  む読書会、座談会、名画鑑賞会等)を開催し、文化創造の拠点  として積極的な図書館活動を展開する。
 ・ 略(職員研修について)
 つまり、「市民のだれもが」「買い物カゴを下げて」利用する図書館づくりのためには、分館網の拡大や文化的事業など、図書館側から働きかける「動態的」活動が重要だというのである。
 元調布市立図書館長の萩原祥三氏は、「従来の図書館奉仕(図書館サービスのこと・・筆者)の概念は静態的であり、建物即図書館であると考え易い。図書館を、建物も奉仕員も資料も一切含めた、奉仕のための経営体と考え、動態的な、奉仕(サービス)という価値を産みだす有機的な機能体(オルガン)と考えるべきである。」として、「成人への働きかけを積極的に行い、不読者層の開拓を行う」ことの大切さを早くから主張していた。
 当時の図書館は、まだ、「座して利用を待つ」静態型のものが多かった。そのままでは、受験生の「自習室」か、せいぜい一部の市民への奉仕以上のものにはなりえない。
 学習情報提供事業が、今ちょうどそのような創成期にある。「座して待ち」、その結果、学習情報ニーズをもっている市民はごく一部であったと嘆くような姿勢なら、早晩その事業はたちぎえとなるだろう。
 情報を使いこなす能力のある人は、情報を駆使してますます自己の情報に関する意欲と能力を磨き続ける。情報をうまく使う習慣のない人は、いつまでたっても情報と疎遠である。「情報格差」は、このようにして広がっていく。図書館利用でも、学習情報活用でも同じことがいえる。
 学習情報提供は、すでに学習に親しんでいて学習情報を自由に活用できる市民のためだけのものになってはならない。「動態的サービス」による「学習情報要求のほりおこし」が必要である。
 しかし、萩原氏は次のようにもいう。「図書館は奉仕することによって、市民に必要な価値を創るが、それは市民が利用するという実践行為によってである。また図書館は市民の要求によって創られるべきである。自由な市民の利用を基本の原則とする図書館は、強制することはできない。しかし、図書館思想が市民に浸透しない限り、図書館は実現しない」。この「ジレンマ」はどうしたら解決できるのだろうか。
 調布市立図書館では「小学生読書会」を行っている。「大方は、子どもが関心を持ちそうなテーマを一つ設定し、このテーマに合う本を紹介したり、話し合いや実験や工作をしていく」ものである。たとえばそこで、「名前・なまえ」(佐久間英著・ポプラ社)という本をもとに「自分の姓は全国で何番目ぐらいだと思うか」などのクイズをしている。そして「読書会」の終了後、「この本を読みましょう」という「指導」をしなくても、「普段あまり借りられなかった」その本が借りられていく。「名前についての学習要求」は初めは「潜在的」だったのだが、この読書会によって触発され、あとは子どもが自発的にその本を借りていったのである。
 学習情報提供事業における「動態的サービス」も、「強制」であってはならない。押しつけでない形で、学習情報提供事業への市民の関心と支持を獲得しなくてはならない。
 市民の自発性や自由の尊重と、市民への図書館思想の普及の両方の理念を徐々に、しかし、ともに実現することをめざして、当時の萩原館長はみずから市内の読書会などをかけまわった。
 学習情報提供を行う者も、情報の収集・整理能力がすぐれているだけではこと足りない。地域のさまざまな場所・機会において学習情報の提供をし、館の内外で学習情報の「専門家」として、その入手や活用の方法に関する専門的・技術的援助を行う必要がある。
 しかも、それは、市民に対する強制や押しつけになってはならない。そのためには、市民と直接、対等に関わり、市民とともに考える姿勢が必要である。
 そうしてはじめて、いきいきとした学習情報も集まり、また、それをひろく市民に提供できるのである。
                              脚注

1)中野区教育委員会社会教育課編集責任 「'86 中野の社会教育事業等プラン1年」、中野区・中野区教育委員会発行、1986.
2)江東区文化センターについては、恩田大進 「カルチャーセンターの戦略と成果」、社会教育第41巻第6号、全日本社会教育連合会、1986、P.33〜43.
3)仙台市中央公民館情報コーナーについては、月刊公民館編集部 「仙台市中央公民館の情報コーナー」、月刊公民館第330号、全国公民館連合会、1984、P.20〜264)仙台市中央公民館 「情報コーナーの概要」、1985.
5)半田雄二 「図書館職員として青年とどうつきあうか」、むさしのインフォメーションマニュアル・・・、東京都武蔵野青年の家、1984、P.48.
6)半田雄二 「公共図書館の『青年問題』」、図書館雑誌Vol 75,No5 、日本図書館協会、1981、P.243.
7)前掲 「図書館職員として青年とどうつきあうか」、P.48.
8)大阪府立文化情報センター 「文化情報センターの概要」、1986.
9)調布市立図書館 「昭和61年度版 数字で見る図書館活動」、1986.
10)萩原祥三 「現代の図書館像を求めて」、ひびや101号、東京都立日比谷図書館、1970.なお、本論は同氏 『買物篭をさげて図書館へ』、創林社、1979、P.100〜109に収録されている.
11)同 「現代の図書館像を求めて」.
12)「小学生読書会スケッチ 名前・なまえ」、図書館だよりNo.118、調布市立図書館、1986.

章のまとめ

 学習情報を提供するにあたっては、まず、市民の求める学習情報を提供することが大切である。そのためには、実際には次のような点に留意する必要がある。
1 一般行政の教育的事業などの学習情報も含めて、それを学習者の立場 に立ってわかりやすく編集・加工して提供する。
2 自主的な教育・学習活動や、時にはカルチャービジネスなどの民間の 学習情報も含めて、民間の活力にあふれる生涯学習の情報を提供する。3 政治・宗教・営利に関する学習情報など公共性の観点から取り扱いの 難しい情報の要求に対しても、機械的に切り捨てるのではなく、問題意 識を持って柔軟かつ主体的に対応する。
4 青少年などの「低次元」と思われる情報要求に対しても、みくびるこ となく、学習の発展の契機として尊重して対応する。
5 コンピュータ利用などによって、大量の情報の整理と迅速な提供をは かる一方、学習情報を求めてきた人との対話を大切にし、表面には現れ てこない潜在的な学習情報要求にもこたえられるよう努める。
 次に、潜在的な学習情報要求をほりおこすことによって、市民の学習情報要求それ自体の発展を援助し、また、学習情報がひろく市民に活用されるようにすることが大切である。実際には次のような働きかけが考えられる。
 1 衝撃力のある文化度の高いイベントを開催する。
2 「座して待つ」のではなく、地域のさまざまな場所・機会において、 学習情報を提供する。
3 学習情報の「専門家」として、ひろく市民に対して、学習情報の入手 や活用の方法についての専門的・技術的援助を行う。
 ただし、これらの働きかけは、けっして強制や押しつけであってはならない。市民の自由と主体性を尊重し、市民と対等に接してともに考える姿勢が必要である。

重要事項の解説                 

学習相談
 市民が学習情報の提供を求めてきた場合、それに実際に対応する過程において、単純な情報提供だけにとどまらずに、「学習相談」としての要素が付随的に生まれる。
 「学習相談」とは、求められた学習情報を機械的に提供するだけでなく、双方のコミュニケーションをはかりながら、学習者の「個々」のケースに対して最適と思われる個別的な対応をすることである。
 特に、市民の側から学習上の悩みが出された場合、また、本人はまだ気づいていなくても、学習情報提供側が本人の学習の推進にあたっての問題などを察知しえた場合は、「説教」ではなく、カウンセリングマインドにみちた「相談」機能を積極的に発揮する必要がある。

カウンセリングマインド
 学習情報提供や学習相談が、本当に市民の生涯学習を援助するものになるためには、学習における市民の主体性が損なわれず、むしろ発展するように心がける必要がある。
 そのために、これらの対応において、カウンセリングマインドが基本的態度として重要になる。それは、相手の気持を理解しようと最大限の努力をすること、そしてそのことにより、相手がみずからの力で学習主体としての人格的発達を実現することができるように援助することである。
 実際には、まず、相手の話を「こころを傾けて」聴くことである(傾聴)。その他、「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などのカウンセリングの技法も参考になる。
 カウンセリングマインドにあふれた対応によって、相手は自己の学習阻害要因や学習要求についても、みずから気づくことができるのである。       
非提供情報
 仙台市中央公民館情報コーナーでは、「営利性が高いもの」、「政治、宗教、思想の宣伝活動に関するもの」、「その他、教育委員会が適当でないと認めたもの」については、その学習情報を提供しないことになっている。
 また、情報公開制度の適用除外事項としては、「個人のプライバシーに関する情報」、「企業・団体の秘密に関する情報」、「事務・事業の公正又は円滑な運営を妨げるおそれがある情報」、「法令秘に関する情報」などがあげられる。
 その他、図書館のレファレンスサービス(参考調査)では、医学的判断を伴うものなど、医者や弁護士などの専門職の仕事に関わる回答はしない。
 これらの情報の「除外」は、それぞれ正当な根拠があり、学習情報提供においても同様な注意が必要である。しかし、それとともに、「非提供」の枠に「安住」せずに情報ニーズにこたえようとする鋭い問題意識も必要である。

参考図書
 「読むための本」に対する「調べるための本」。レファレンスサービスを効率的に行なうために、図書館ではかなり重視される。
 「情報を縮約ないし編成して項目にまとめ、それらを一定の方式にしたがって配列した冊子体の図書であり、それは、通常、そのなかに収録されている情報が容易に検索できるように編集されている」(長 雅男『情報と文献の検索』)ものである。参考図書には、オリジナルな見解などは混じらない。しかし、すでにあるたくさんの情報から必要な情報を探しだすには、非常に便利な道具となりうる。
 学習情報についていえば、劇場・映画館のリスト、公共施設総覧など、学習・文化・スポーツ・レクリエーションに関する施設、事業、団体、人材などを「縮約・編成」したものが、この参考図書と同様の役割をはたす。
 参考のため、学習情報の「参考図書」にあたるもののうち、全国規模のもので、まだ広く気づかれてはいないと思われるものの例を、以下にあげる。
〔施設〕…「ユースホステル−団体利用の手引き 合宿ハンドブック」、日本ユースホステル協会、 1 9 8 6  団体で合宿のできるそれぞれのユースホステルについて、スポーツ、野外活動、文化、音楽、研修会などに関する施設・備品・周辺施設の情報を掲載している。〔事業〕…「る〜んる〜んこ〜る ' 8 6」、電気電信共済会、 1 9 8 6
  1 2 , 0 0 0のテレホンサービス情報を収録している。その中には、たとえば新聞社の行なう「テレホン英語ニュース」など、学習関連サービスも含まれている。
〔団体〕…「日本の青少年団体−第1集−中央団体編」、中央青少年団体連絡協議会、 1 9 8 5
 各団体の目的・内容・組織・事業・沿革・機関紙・施設・加入資格などについて掲載している。
〔人材〕…「現代日本執筆者大事典 7 7/ 8 2」、日外アソシエーツ、全5巻、第5巻(索引)は 1 9 8 6
  1 9 7 7年から 1 9 8 2年までの間に日本で執筆・公表した人の略歴、専攻分野、著書が掲載されている。第5巻には、事項索引もついている。

参考文献

○ 西村美東士 「学習情報提供事業の企画と展開」、岡本包治他編『社会教育の計画とプログラム』全日本社会教育連合会、1987
 社会教育行政が学習情報提供を行なうにあたっての、三つの基本的問題と十の留意点を述べた上で、「生涯学習情報提供事業の機能例一覧」「情報の種類・内容・収集方法」「情報の流れ」のそれぞれについて、その実際の姿を図表化したものである。
○ 國分康孝 「カウンセリングを生かした人間関係・教師の自学自習法」、  社、 1984
 初心者にもカウンセリングの基本がわかるように書かれている。そして、非指示的方法ばかり強調するのではなく、カウンセリングの立場から「情報提供」や「アドバイス」の効用と注意すべき点にもふれている。そのため、本来は教師向けに書かれた本であるが、学習情報提供においてカウンセリングの理念と技法を実践的に生かしていくためにも、直接の参考になるはずである。
○ 長 雅男 「情報と文献の探索−参考図書の解題−」、丸善、1982
 図書館のレファレンスサービスの考え方と、情報探索の「道具」としての参考図書の種類と活用の実際について書かれている。学習情報の「参考図書」の活用を考えるにあたって、示唆に富むものである。また、たとえば「全国図書館案内」(三一書房)など、ここで多数紹介されている参考図書そのものも、実際の学習情報提供においては利用できる機会も多いと思われる。

設問
 行政の行なう教育的事業に関する学習情報を収録したガイドブックを作成する場合、留意すべき点を3つあげよ。(それぞれ60字程度)
解答
1、教育委員会の事業だけでなく、一般行政部局が住民に対して行う学習・文化・スポーツ・レクリエーションの事業までをも広く収録する。
2、各部局の事業を安易に部局ごとにまとめるのではなく、住民が情報を検索しやすいよう、対象や内容によって分類・配列する。
3、各部局の教育的事業の担当者による編集会議などを開くことにより、学習情報の的確な収集と、各部局の生涯教育事業の整合化をはかる。
解説
 この場合、「教育的事業」とは、教育を主要な目的とする事業だけとは限らない。また、学習機会の提供だけではなく、施設提供なども含む広い概念である。

設問
 公的な学習情報提供において、民間の学習情報も含めて収集・提供することによって期待できるメリットを5つあげよ。(それぞれ50〜60字程度)解答
1、学習情報の選択のはばが広がり、学習者は自分でその中から必要な情報を選択することができるようになる。
2、民間の専門的で高度な「文化力」のある学習情報を提供することによって、学習情報提供の文化的水準を高いものにすることができる。
3、自主的なグループ・サークル活動の情報を提供することによって、それに参加する人を増やし、自主的活動の充実を期すことができる。
4、民間の学習ビジネスの情報を提供することによって、それらの学習関連サービスをより活性化することができる。
5、民間の活力にあふれる学習情報を提供することによって、学習情報提供事業自体を活気のあるものにすることができる。
解説
 1は学習情報の拡大、2はその質的向上、3と4は民間の学習活動の活性化、5は学習情報提供事業自体の活性化に関する事項である。

設問
 公的な学習情報提供における「非提供」の情報の種類を3つあげよ。そして、それぞれについて、例のように、情報提供すべきでない事項と、それに類するけれども提供すべき事項の両方を、対照的な具体例で示しなさい。
(例)、営利に関わる情報提供・・非提供−「もっとも良いと思われるスイミングスクール」、提供−「市内のスイミングスクールの、それぞれのカリキュラム」
解答
1、政治・宗教などの宣伝活動に関わる情報提供・・非提供−「○○教の布教活動を行うための適当な会場」、提供−「○○教の信者が集まってスポーツ大会を開くための適当な会場」
2、個人のプライバシーに関わる情報提供・・非提供−「茶道について問い合わせしてきた人のリスト(茶道サークルの会員募集のため)」、提供−「本人の申し出などにより、茶道の指導者として人材バンクに登録されている人のリスト(茶道の指導を依頼するため)」
3、専門職の仕事に属する情報提供・・非提供−「糖尿病の治し方」、提供−「糖尿病の人たちが、その克服のために活動しているグループ」
解説
 1は「布教活動」と「その他の活動」、2は個人情報の提供に対する本人の了解の「無し」「有り」、3は「医学的情報」と「団体情報」という点で、それぞれ対照的である。これを参考にして、「提供」と「非提供」の区別のあり方について考えていただきたい。

設問
 学習情報提供事業において「動態的サービス」として必要と考えられるものを3種類あげ、もっとも基本的なねらいを、それぞれ、ひとことで示しなさい。
解答
1、イベントの開催・・市民の学習情報要求の深化・発展
2、地域での学習情報提供・・学習情報提供事業の利用者層の拡大
3、学習情報の入手・活用に関する専門的・技術的援助・・市民の学習情報に対応する能力の形成
解説
 1については、インパクトをもつイベントであることが条件になる。なお、イベントの開催により、「学習情報提供事業への関心の獲得」、「学習情報の流通」、「ネットワークの自発的形成」なども期待できる。しかし、これらは、特別にそれをねらいとするイベント以外では、副次的効果としてとらえるべきであろう。3については、2と異なり、利用者層の拡大を直接ねらうものではなく、学習情報提供事業を現に利用している人も対象にして、学習情報のための基礎能力の形成をはかるものである。

重要事項の解説                 
学習相談
 市民が学習情報の提供を求めてきた場合、それに実際に対応する過程において、単純な情報提供だけにとどまらずに、「学習相談」としての要素が付随的に生まれる。
 「学習相談」とは、求められた学習情報を機械的に提供するだけでなく、双方のコミュニケーションをはかりながら、学習者の「個々」のケースに対して最適と思われる個別的な対応をすることである。
 特に、市民の側から学習上の悩みが出された場合、また、本人はまだ気づいていなくても、学習情報提供側が本人の学習の推進にあたっての問題などを察知しえた場合は、「説教」ではなく、カウンセリングマインドにみちた「相談」機能を積極的に発揮する必要がある。
カウンセリングマインド
 学習情報提供や学習相談が、本当に市民の生涯学習を援助するものになるためには、学習における市民の主体性が損なわれず、むしろ発展するように心がける必要がある。
 そのために、これらの対応において、カウンセリングマインドが基本的態度として重要になる。それは、相手の気持を理解しようと最大限の努力をすること、そしてそのことにより、相手がみずからの力で学習主体としての人格的発達を実現することができるように援助することである。
 実際には、まず、相手の話を「こころを傾けて」聴くことである(傾聴)。その他、「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などのカウンセリングの技法も参考になる。
 カウンセリングマインドにあふれた対応によって、相手は自己の学習阻害要因や学習要求についても、みずから気づくことができるのである。       
非提供情報
 仙台市中央公民館情報コーナーでは、「営利性が高いもの」、「政治、宗教、思想の宣伝活動に関するもの」、「その他、教育委員会が適当でないと認めたもの」については、その学習情報を提供しないことになっている。
 また、情報公開制度の適用除外事項としては、「個人のプライバシーに関する情報」、「企業・団体の秘密に関する情報」、「事務・事業の公正又は円滑な運営を妨げるおそれがある情報」、「法令秘に関する情報」などがあげられる。
 その他、図書館のレファレンスサービス(参考調査)では、医学的判断を伴うものなど、医者や弁護士などの専門職の仕事に関わる回答はしない。
 これらの情報の「除外」は、それぞれ正当な根拠があり、学習情報提供においても同様な注意が必要である。しかし、それとともに、「非提供」の枠に「安住」せずに情報ニーズにこたえようとする鋭い問題意識も必要である。

個としての主張を援助する「コミュニティ」志向の新しい民間教育事業
 〜東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE〜
1 BEすなわち個の存在の主張
 BEは、その名のとおり、個人の人間としての「存在」に関わって、その創造、確認、さらには地域コミュニティレベルでの活動などを援助することを目指している。
 渋谷駅南口を降りると、すぐ目の前に渋谷東急プラザがある。その7階と8階に東急クリエイティブライフセミナー渋谷BEがある。
 7階の受け付けカウンターの向かいは、ゆったりとしたロビーである。そのテーブルといすは、暖かみを感じさせる木製のものである。まわりの壁などの全体の色も、淡いピンクを基調としている。そのため、フロアー全体が親しみやすい感じをもっている。
 モダンな雰囲気もあるが、それ以上に暖かでアットホームなムードがだいじにされている。このムードづくりの基本方針は、あとで説明するようにBEが「おとな」の女性を主要なターゲットにしていることにも関係している。
 このような「暖かな」雰囲気の中で、会員自らの手作りのさまざまな「作品」が陳列されている。各教室の前の壁や廊下に、絵画やクラフトなどが展示されているのである。
 その一つに会員の「ラッピングコーディネーション」の作品を展示している小さなコーナーがある。今の世の中、贈り物といってもその品物はお店にお金をはらって買うだけ。せめて、包装やリボンなどには贈り手の演出をという穏やかではあるが確かな自己主張志向の表れである。
 普通のビンを和紙で上手にくるむなどという作業の中に、会員の意思とアイデアが存分に発揮されている。柄杓(ひしゃく)の柄をラッピングしたりなど、とても斬新な発想である。
 BEのパンフレットには次のようにある。
「BEとはbe動詞のBE。『ある』『存在する』『〜になる』という意味を持つ言葉であり、個としての存在を証明し、主張する言葉でもあります。I think,therefore I am.−−−−−『われ思う、ゆえにわれあり。』人間のすべての行動の原点として文化をとらえ、自分自身の存在確認を行う場所。そして、それぞれの人々が、それぞれの生き方を創造し、確認する空間となることを願って、この新しい空間を『BE』と名付けました。」
 「教養」としての知識の向上より、むしろ存在確認としての「文化創造」をアピールしようとする姿勢である。
 今回の取材で、BEの副総支配人の櫻井さんに、お忙しい中、インタビューに応じていただいたが、櫻井さんは「今まで絵画などばかりでなく、教養面の講座でも『つくる』ことに力を入れてきた。今後もそうしたい。」と言っているのである。
 ファッションとしての教養ではなく、人間存在に肉薄する文化創造に民間教育事業がアプローチしようとしている。しかも、そのやり方は「民間教育事業」らしく、スマートかつファッショナブルなのである。
2 若者の街、渋谷の中で
 渋谷は新しいタイプの町である。通りが、店が、そして電話ボックスまでもがしゃれている。
 渋谷の街づくりのこの明らかな成功のカギとなったのが、西武パルコである。駅からちょっと歩かねばならず、決して立地条件がいいとは言えない所、「公園通り」を若者のメッカにしてしまった。
 他にこの通りには若者の「文化拠点」として「ジァンジァン」がある。これは、教会の地下にある劇場で、最先端の文化活動が行われている。
 そして、東急系のデパートとして「ハンズ」がある。これはクリエィティブライフストアーと銘打ち、「手づくり」のブームを生み出した店である。最近は、その近くに、西武系の「雑貨屋」イメージのデパート、ロフトがオープンしている。
 たとえば、ハンズはデパート会社の系列ではなく、東急不動産の子会社としてオープンした。そして、それまでの流通業の人たちの常識では考えられないデパート経営をした。店子(たなこ)に場所を貸すのではなく、いいものを探して買い取って来て自らが売るのである。
 若者に受けている店は、表面的には従来どおりモノを売っていて、それがよく売れているだけにしか見えないのだが、このように本質的には何かしらの「情報」を売りものにしている。どこも若者に誇れるような情報のアンテナを持っていて、それによって得た新鮮な情報を売場での「品揃え」の形などでアピールするのである。「なぜ渋谷だけが」と他の街が歯噛みをするほどの勢いの差も、その情報の魅力の差から生まれる。
 それでは、渋谷BEの存在する「渋谷東急プラザ」もこの「波」の中にあるか。実はそうではない。駅前ではあるのだが、国道などによって分断された立地である。そして、駅から少し離れた公園通りより、かえって波に乗りにくいのである。それゆえ、「プラザ」の店の品揃えは、むしろアダルトの特に女性重視である。BEも「プラザ」の階上にあるのだから、当然その影響を受けている。
 しかし、それでもBEは常にこの公園通りの「渋谷」を別物ではなくライバルとして意識している。櫻井さんの言葉のはしばしにその意識が表れているのである。若者の意識をひきつけるものは何なのか。逆に若者がそっぽを向かないようにするためのコツはないのか。情報やノウハウは、どのように手に入れたらよいか。若者のニーズへのこのような鋭い感受性がないと、誰を相手にする商売でも成功しない。情報ソフトが肝心なのである。
 学習機会も同じであろう。たとえば、若者に魅力があるネーミングは、基本的には中高年にも心地よいのではないか。このように、BEはもっと年上の「おとな」の学習にも、うまく渋谷の「若者センス」にあふれた情報力を活かしながらアプローチしていると言える。
3 地域レベルの学習の場をめざす
 BEは東急電鉄の生活情報事業部の一事業として行われている。だから、櫻井さんも電鉄マンの一人だ。
 東急電鉄は、田園調布や田園都市線などに代表されるような沿線の地域開発、しかも大都市サラリーマンの高級ベッドタウンとしての開発を手がけてきた会社である。電車やバスなどの足の確保はもちろん、宅地造成、駅ビル、流通などもやってきたのである。
 そして、BEもこの地域開発の視点から発想されて誕生した。櫻井さんは言う。「地域開発が一段落して、物的な充足がなされると、次には健康、さらには文化に人々の目が向けられるはず。そこで、これらのニーズへの対応として、まずは拠点である渋谷に本拠地としてのBEをおいたのです。」
 東急がこの事業に参入した昭和58年の当初のパンフレットの「あいさつ」にもすでに、「(BEは)『人間の豊かさを求める』東急グループが展開している文化事業の一翼を担うと共に、総合的な街づくりの一環としての地域コミュニティ活動の面でも重要なファクターとなるものと位置付けております。」と書かれている。
 つまり、東急沿線の地域レベルで文化的な活動を充実させることが、BEの第一義的役割と言えそうである。
 実際にもたとえば「ジョイガーデン英会話サークル」をやっている。「ジョイガーデン」というのは、同じ生活情報事業部の持っているファミリーレストランである。
 その鷺沼店とたまプラーザ店という所で、朝の仕込みの空き時間を利用して英会話教室を行っているのである。コーヒー・教材費を含めて全十回で一万七千五百円。チラシには、これらの講座の企画・運営について「BEが責任を持って担当いたします。」と明記されている。
 名称はあくまで「サークル」である。櫻井さんは「教室形式ではなく、自宅のリビングルームのような雰囲気をねらっている。」と言う。プログラムの内容も「教科書英語」ではなくいわば実際の状況に応じた「会話センス」を主眼にしている。
 さらには「地域コミュニティ活動」の場として、各主要沿線駅ごとにBEを作っていくという。年内に池上線雪谷大塚駅の駅ビルができるので、そこにまずは4教室でオープンする予定である。
 民間教育事業に「地域コミュニティ活動」そのものを考えるようなメタな学習は無いとしても、それ以外の「地域コミュニティ活動」の一部としてのこのような学習ならば、たとえば健康や文化に関する活動などに、民間が積極的に取り組んでいく意義と可能性は今後充分に考えられるであろう。
 なぜなら、たとえばファミリーレストランなどは今やいたるところに「配置」されていて、考えようによっては、それらは「下駄ばきで行ける」現代的学習施設に充分なりうるのであるから。
4 新しい時代の要請にこたえる内容とネーミング
 最後に、櫻井さんに最近の特徴的な講座を御紹介いただいた。一つは「まったく初めての人のために」というシリーズであるという。
 まだ一年も経過していない試みであるが、人気があるそうだ。たとえば、このうちの「絵画入門」の前半の3カ月は各種の絵画についてのレクチャーだ。後半の3カ月は実技中心だが、道具は買い揃えなくても貸してもらえる。このようにして、学習層の底辺の拡大までも成功裏に行われているのである。
 これは、他でよく見かける「初心者入門講座」と、大きな差がある。「まったく初めての人のために」なら、「昔から関心があった」という人ではなくても、退職などに際して「まったく初めてだが、この際、生涯計画に位置づけて始めてみたい。」となりうる。そして系統的に学習していくうちに、その中でも何が特に自分に合っているかがわかってくる仕組みである。
 その他、「もう一度学ぶ人のために」というシリーズがある。たとえば日本史の「ポイントだけをスピーディーに」高校の先生が教えてくれる。
 ひと昔前ならば、ある芸術部門の系統的な把握や、学校時代に習ったことの「復習」のための教育事業などは、一般の学習者にとって直接の利益になるわけでもないので魅力に乏しく、商売として成立する条件にはなかった。
 しかし、そんな新しい学習ニーズが、生涯教育時代の中で表れ始めている。BEは、その端緒を素早くとらえて、企画内容においてもネーミングにおいてもさっそくそれに対応している。
 以上のようにBEの文化創造、地域コミュニティ活動、系統的学習、学習層の拡大などを見てくると、そのコンセプトに大いに学ぶ点があると同時に、特に都市部における公的事業の役割についてはもう一度見直す必要を感じさせる。
 もちろん、公民館などでも「地域での学習」や学習層の拡大のための「入門講座」をやっている。しかし、それだけでは民間との差がなくなりつつある。やはり、次には、「地域で」だけでなく「地域を」学習するなどの学習課題論に立ち入らない限り、成人教育事業の提供体としての「公」と「民」の「棲み分け」の説明はできなくなってきそうなのである。

「生涯学習の方法」第1単位「生涯学習の原理」

□第一単位「生涯学習の原理」の学習目標
 第二単位からは、生涯学習の方法を具体的に学ぶことになるが、それらの方法を一つ一つ知り、身につけ、つなぎあわせるためには、ある重要な基本的原理について考えておかなければならない。その原理とは、生涯学習における「個人性の原理」である。この原理について理解し、その実際の姿と、この原理の応用のあり方について学ぶ。
 その上で、多様なメディアを活用して生涯学習を援助できるようになるために関連するメディアを概観し、おおよその特徴を学ぶ。
 主要には、次のような問題について答えられるようにする。
1 生涯学習における「個人性の原理」の意味と意義は何か。
2 個人の学習活動はどのような段階を踏んで発達するか。そして、それぞれの段階において必要な援助は何か。
3 生涯学習において利用されるメディアの種類とそれぞれの特徴は何か。
4 生涯学習においてメディア活用を進めるための方策は何か。

□第一単位「生涯学習の原理」の本文
対話・生涯学習に「原理」はあるか
A:こんにちは。きょうは、生涯学習の原理について考えるということでしたわね。なんか、むずかしそう・・・。
B:いやぁ、私もなんだかむずかしそうな感じがしていたところなんです。それに、自分たちは自由にのびのび生涯学習を楽しんでいたつもりなんですが、「原理」だなんていわれると、ちょっとね。
C:はいはい、おふた方のご心配はもっともなことです。私としても、みなさんに安易に「生涯学習の原理」だなんて言ってほしくない気持ちのほうが、むしろ強いんですよ。
A:ええっ。
B:あれまあ。
C:なぜなら、生涯学習は個人の自発的意思▲によるものですからね。外側から、「こうあるべきだ。」なんていう「原理」はないと思います。
B:それじゃあ、なんで。
C:はい、ここで考えようとしていることは、生涯学習の方法を考えるにあたっての原理なんです。しかも、もっぱら学習する個人がどうすべきかではなく、主にみなさん方のような生涯学習のボランティアや援助者が押さえておくべき基本として、その原理を学ぼうということです。
B:ふーむ、わかったような、わからないような。
C:つまり、生涯学習とひと口に言っても、その方法はいっぱいある。学習者はそのさまざまな選択肢から、まあ好きな方法で学習を進めるわけです。
B:そうですね。ですから、学習者に対して「あなたには、この学習方法が望ましい」などということは、私たち、軽々しく口にしてはならないと思っています。個人の適性▲なんて、そう簡単にわかりませんから。
C:そう、それは大切なことです。学習の方法にしたって、本人のトライアル・アンド・エラー(試行錯誤)によってこそ、自分にとっての最適の学習方法が見つかるのですから。ところが、学習援助者にとっては生涯学習の方法に関してあまりよく知らないということではすまされないのです。
A:それは、そうですわね。
C:このことに関連して何かお考えがありそうですね、Aさん。
A:ええ、私のところでは家族旅行をした時、ついでにそこにある博物館によく寄ってみるんです。
B:ほほう、とても知的なご家族ですね。
A:とんでもない。だいたいは物見遊山でしかないんです。その気分の延長で地元の博物館にも寄ってみるだけなんです。でも、そんな気分でいても、このごろの博物館は気楽に入れて、とても楽しく見れるようにできているんですよ。
C:ところで、生涯学習の方法について知っておく必要というのは。
A:はい、横道にそれて失礼しました(笑い)。このまえ博物館に行った時、ふと思ったんです。これも大切な生涯学習の一環ではないかと。なんだか、私たち、婦人学級とかサークルとかの活動だけに目を奪われていたけれど、生涯学習ってとても広いものなんでしょ。私たち学習ボランティアは、いろいろな学習の方法を知った上で、バラエティー豊かな学習機会を提示したり提供したりしたいものだと思ったの。
C:今、Aさんから、とても大切なことを指摘していただきましたね。学習の援助者はさまざまな学習方法を把握し、それらを有機的にむすびつけて学習機会を構成するなどの努力が必要だというわけです。その時の基本的な考え方に当たるものがここで学ぼうとしている「生涯学習の原理」なんです。
B:そこまでは、わかりました。でも、いくら、ある「原理」を打ちたてたところで、生涯学習が個人の自発的意思に基づき、さまざまに自由に行われるものだとすると、その「原理」は無力なものということにならないですかね。
C:はい、実はBさんの今おっしゃったことが、今回学ぼうとする「生涯学習の原理」そのものなんです。
B:ええっ。というと・・・。
C:生涯学習の動機▲は、それぞれの学習者個人の内部に存在し、そこから出発します。それを無視して、学習者の外側から何らかの学習をおしつけようとすることは、無駄なことですし、よくないことでもあるというわけです。これを「生涯学習の個人性の原理」と呼びたいと思います。
A:とすると、「生涯学習の個人性の原理」の立場に立った生涯学習の方法とは、どんなものでなければならないということになりますか。
C:正確にいうと、ここでは生涯学習の援助の方法ということになりますが。それはあくまでも「はじめに学習をしようとしている人ありき、学習をしている人ありき」という原則に立ち、つねに学習者自身の動機に基づきながら、その人の学習を援助するという姿勢で行われるものであるべきだということになります。そして、学習そのものも学習者本人が達成感を味わえるものでなければなりません。つまり、学習集団がトータルとして成果を得るよりも、ひとりひとりの個人が学習成果を得られる方法を考える必要があるのです。
B:そうですね。そうなればすばらしいと思います。でも・・。
C:Bさん、思い切って「でも」のあとを続けてくださいませんか。
B:ええ、それでは。実は、私、「今の若い者は」という言葉は言いたくないと、つね日頃思っています。でも、少なくとも若い人たちの現実の姿を考えると、Cさんのおっしゃる「個人性の原理」を適用することは、ちょっとどうかと思ったんです。
C:と、おっしゃいますと。
B:一口に言いますと、「自分だけよければ」、あるいはせいぜい「自分の家族や恋人さえよければ」という感じなんです。
A:今の青年に対して「ミーイズム」▲(注・ミーとは自分のこと)と批判する人もいますわね。
B:そう、そのミーイズムです。たとえ、本人の動機から発していると言っても、ミーイズムから発した学習などまで援助する必要があるんでしょうか。私は、若者にもっと社会や政治のことなどを論じてもらいたいと思ってます。個人を重視しすぎて、ミーイズムを助長させるようなことがあってはいけないと思うんですが。受験戦争の弊害と同じことが、生涯学習にまで現れてしまうと言ったら、言いすぎでしょうが。
C:なるほど、いわば望ましくない学習動機もあるというわけですね。
A:私もBさんに同感ですわ。けれど、もっと絶望的なこともあると思うんです(笑い)。私たちの社会教育学級でも、学級生が新しい学習仲間をふやそうと頑張っているんですが、特に若いお母さん方はなかなか入ってくれません。手を変え、品を変え、いろいろなテーマの学習に誘っているんですけれど(笑い)。子育てにいっしょうけんめいなことはわかりますが、同時に生涯学習だってとても大事なんだということをわかってもらいたいわ。本人に学習動機がある人に対してなら、「個人性の原理」もいいような気がするけれど、初めから学習動機をもってないという人に対してはどうすればいいのかしら。
C:そうですか。「個人性の原理」も、本人がなんらかの学習動機をもっていなければ話にならないということですね。
A:まあ、そうですね。私たちが気づかないだけで、何かを学習したいとは思っているかもしれないけれど、それはちょっとわかりようがないんです。
C:ふーむ。実は、今お二人から出された疑問は、「生涯学習の個人性の原理」を考える時だけでなく、公がなぜ個人の生涯学習の援助を行うのかを考えるにあたっても本質的な課題なのです。
A:B:???(不可解な表情)
C:生涯学習を行う個人と、いわばその人の社会的環境の一つとしての生涯学習のボランティアや援助者との関係やいかに。この単位の読者も、自分なら今の問題をどう整理するか考えてみてください。
 それでは、今の問題意識を念頭に置きながら、「生涯学習の原理」を探ることにしましょう。

1 生涯学習における個人性の原理
1−(1) 個人性の原理
 ひとはなぜ学習するのか。なんらかの新しい知識・技能・態度を獲得しようとするからである。
 それではなぜ、そのようにして新しい知識・技能・態度を獲得しようとするのか。それは、このような知識・技能・態度の獲得によって、
1 精神的な充実
2 身体的な健康
3 職業的な成功
を得ようとする要求を満足させるためであると考えられる。
 そのことから、学習はあくまでも「その人自身」がよりよき知識・技能・態度を獲得するためのものであり、その目的も直接的には「その人自身のため」ということができるのである。
 すなわち、学習とは個人が行うものであるということができる。
 蛇足になるかもしれないが付け加えておくと、「その人自身のため」というのは、親が子どもに「勉強するのはだれのためでもないのよ。あなた自身のためなのよ。」という時のこころとほぼ同じであると思ってよいが、それは決して、いわゆる「教育ママ」のような利己主義、出世至上主義、打算的な意味合いのものではない。
 そのわけについては、ぜひ、よく考えてもらいたい。結論だけいえば、本当の「精神的充実」、「身体の健康」、「職業的な成功」は、利己主義的な考え方ややり方では得られないのである。このことが理解されなければ、ここでいう「個人性の原理」も自信をもって応用し、実現することができないであろう。
 さて、学習とは個人が行うものであるとすると、集団学習は学習ではないのか。そうではない。集団▲の中で、多かれ少なかれ相互作用を及ぼしあいながら、実は「個人」がそこで学習している。逆にいえば、個人ひとりひとりが学習しているという認識や喜びを感じることのできない「集団学習」などというものがあるとすれば、それは学習の名に値しないのである。
 サークルなどの運営で、リーダーが「私の所は月に一度は勉強会をしている。」とか、「いや、私の所は毎週だ。」などと、その数ばかりで競ったり、気にしている場合があるとすれば、それは集団が「学習」していればよいと学習の意味を勘違いして「形式主義」にとらわれている証拠である。
 一番、気にしなければいけないのは、メンバーひとりひとりがそれぞれどんな学習成果を獲得したかということであり、それを通してひとりひとりが学習における個々の主体性をどれだけ育ててきているかなのである。
◆[ミニテスト1]
 この「学習は個人がする」という原理は、成人においても子どもにおいてもまったく同じである。だから、学校においても同様のことがいえる。教室が静まりかえっていて、先生の話が教室中ひびきわたっていても、それだけで立派に子どもたちの学習が行われているとは判断できない。教室という「かたまり」が学習しているのではない。子どもひとりひとりが、学習の中で感動をしたり、時々、その感動を表現したりすることが、学習の手ごたえの一番の表れなのである。
 しかし、次に学習行動をおこす動機づけについていえば、成人の行う生涯学習は、学校教育とは大きく異なっている。
 子どもに対する学校教育の場合は、子どもの外側から、子どもの学習ばかりでなく、その内なる「動機」までをも掘り起こし、育てていってやることが必要になる。そのために、条件設定や計画的・持続的な活動が教師側に要求される。この子どもは算数がきらいなようだから、何も無理して分数を教えなくてもいい、ということにはならない。教師側が「無理をしてでも」、分数が面白くなるようにしてやらなければいけない。「人間の英知の結晶の一つである分数を教える」という「教育目的」を遂行しなければならないのである。
 社会教育の場合でも、子どもに対する場合には、まだ子ども自身の学習への動機づけが不十分なのであるから、動機までをも育てることを配慮した計画性、持続性が指導者側に要求される。たとえば、子ども会活動をしたいというはっきりした「学習動機」をもって、子ども会に参加してくる子どもはむしろ少数派かもしれない。最初のうちは「親が行けというから」、「ともだちが行くから」などという理由で、なんだかよくわからないまま子どもたちは参加してくれるのではないか。そういう彼ら、彼女らが「子ども会はすてきなところ。」といってみずから喜んで参加するようになるように、子ども会活動の実践を積み上げていくのである。
 ところが、それと同じ調子で成人の生涯学習に接しようとすると、おおいに痛い目にあうことは間違いない。「この人たちには、○○の学習がまったく欠けている。よし、私が、その勉強会を開いてやろう。」などと意気込んでみたところで、もし相手自身にそのことについての学習動機が存在していなければ、せっかく開いた会に顔も見せてくれない。相手にはしたくない学習までする義務も義理もない。暇もないのである。よって、学習動機の掘り起こしなども実現するわけがない。
 しかし、ちょっと皮肉な言い方をすれば、このような上から導くような型の事業が失敗することは、むしろ生涯学習の健全な姿を表しているのである。成人の生涯学習とは、その学習の動機をその人自身の内部にもっているのが前提であり、そこから学習が始まるべきなのである。
 ここで、なぜ「そこから学習が始まるべき」なのかをあらためてじっくり考えてもらいたい。学習動機をその人自身がもってない学習の事業を他者があえてやろうとしても、その人は来てくれないだろう。しかし、「そこから学習が始まるべき」という理由は、来てくれないからということだけではないのだ。
 相手は成人である。学習の主体なのである。その主体性が尊重されてこそ、大きく言えば「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法第13条)という民主社会の基盤が成立するのである。このように「自由な」生涯学習とは、ことほどさように民主社会における重要な行為である。
 そこで、生涯学習は、いま述べたように人々の自発的・自主的な動機づけにもとづく学習を基礎としていることから、個人ひとりひとりの自由な意思にそって、じつに多種多様な動機による、多方面の学習に分散することになる。実際、学習実態の調査においても、全体の1%に満たない学習項目が軒並ならび、しかもその数がどんどん増える傾向にあることが指摘されている。
 この「多様化」について「とても対応しきれない。やっかいなことだ。」と生涯学習の援助者が思うようでは、ちょっと困る。学習の「多様化」は、社会の画一化を食い止め、社会をさまざまな側面から活性化し発展させる重要な役割の一環を担っているのであるから。
 ただ、「多様化」の中で何から何まですべての学習に対応しようとして、結局は「多様化現象」に振り回されただけで終わってしまったということにはならないように気をつけなければならない。そのためには、個人の学習の多様化に対応できる確かな方法論を見つけることが、新たに必要になる。
 この項では生涯学習における「個人性の原理」について、一つには「学習」一般がもつ直接的な目的の面から、また一つには、成人の生涯学習における動機づけの所在の面から説明した。あなたの言葉で言い直すことができるかどうか、ぜひ頭の整理をしておいていただきたい。
◆[ミニテスト2]

1−(2) 学習活動の3段階
 以上のことから、生涯学習を援助する側が学習者側をつねに「マス」(集団)としてだけとらえ、学習者を十把ひとからげにして単一のものを教え込もうとするならば、それは間違いであることは明らかである。
 それに比べて、「個人性の原理」を尊重する立場においては、学習者に対して、高村久夫氏の言う「はじめに学習しようとしている人ありき、学習をしている人ありき」という態度になるはずである。すでに各人に存在する学習や学習動機から出発するのである。前者とは対照的である。そして、そのことから個々の学習者をとらえ、それぞれの状況に対応して援助していく方法についても、緻密で個々の学習の実態に即したものとなりうるのである。
 すなわち、このような態度で学習者に接すると、高村久夫氏の表現を借りれば次のような学習の発展段階が見えてくる。「潜在学習者から学習者への段階」→「計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階」→「既得の知識・技術を補強する段階」である。そして、各人それぞれの段階に個々に対応した学習の援助方法を考え出すことがこの段階分けから可能になるのである。
 それでは、この3つの段階についてそれぞれどんな内容であるか、考えておこう。
1 潜在学習者から学習者への段階
 私たちのまわりには、ひと、もの、できごと、情報などがつねにとりまいている。テレビなどのマスメディアもあれば、活字情報としての図書などもある。しかし、これらは学習者本人が何もしなければただ「ある」だけで、学習に必然的にむすびつくものではない。
 これらから本人が何か学び取ったり、これらをきっかけにして学習が始まる時には、実は本人のほうに漠然とはしていても必ずそれなりの学習動機が用意されているはずなのである。本人側に学習する心身的条件が整っていることを「レディネス(readiness)がある」というが、成人の学習の場合、特になんらかの理由による学習関心の存在という「レディネス」▲が非常に重要な要件であるし、また学習の開始に不可欠なのである。
 このようなことから、成人があることに関して学習に移る、つまり、学習者になる前の段階というのは、まったくそのことに関する関心がなかったととらえるのは適切ではなく、むしろ、そのことに対する学習要求が「潜在的に」存在していたととらえるべきであることがわかる。当該学習はしていないけれども、そのレディネスをもっている人、これを潜在学習者と呼ぶことができるだろう。
 潜在学習者は、身のまわりの図書、放送番組、実物、人、その他何かとの出会いをきっかけとして、潜在化していた学習要求を学習行動にむすびつける。その時は、ただ単にまわりが「ある」のではなく、「出会い」である点に注目していただきたい。学習者の側に「出会う」だけの主体的条件があるのである。
 そして、生涯学習の援助者は、あることがらに対する学習要求がゼロの人(そんな学習課題や人が実際に存在するかどうかはわからないが)を想定して「何とかしてやろう」と空しい努力をするのではなく、潜在的ではあるがそのことに関する学習要求をもつ人に対して適切な内容のタイムリーな「学習のきっかけ」と出会えるよう、あらゆる配慮をする態度こそ大切なのである。
◆[ミニテスト3]

2 計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階
 潜在学習者が、まわりの「学習のきっかけ」との出会いによって、学習行動を起こすことは以上でわかっていただけたと思う。そこでいう「学習行動」とはその「学習のきっかけ」から直接、何かを学び取ることまで含めているから、とても広い範囲のものであり、日常的な学習行動を含んでいることになる。このような学習行動は、随時行われている。そして、「人間、なにごとも勉強だ。」という時の「勉強」に近い。
 いうまでもなく、そのような「随時」学習する姿勢、すなわち、人、もの、ものごと、情報などとの日頃の出会いをつねに吸収し、自己開発につなげていこうとする姿勢は、生涯学習時代には、各人に強く求められる姿勢だといえよう。
 しかし、生涯学習の援助者が援助している学習は、実際にはそのほとんどは、もう少し狭い意味での学習行動である。それが、ここにいう「計画的・継続的あるいは集中的学習」である。
 この段階では、学習者側に第1段階よりはっきりした(顕在化した)学習要求があり、学習を第一義的目的とした学習行動がされるようになる。本人もそれを学習として自覚している行動である。
 たとえば、読書、番組視聴、学級・講座の受講、団体・サークル活動への参加、社会通信教育の受講、習い事、民間教育産業の利用などによって、ある程度の期間に何回か、あるいは一回だけの場合でも集中的に学習が行われるような場合をさす。
 しかし、このような段階においても学習者は各人各様の学習の困難や学習中断の危機▲につねに直面しているはずである。生涯学習の援助者は、その個人個人の多様な困難や危機に応じて、画一ではない多様な援助方策を講じねばならないのである。
3 既得の知識・技術を補強する段階
 第2段階のような学習を行ったり、家庭生活や職業生活で一定の経験を積むと、その人にとってある程度の知識・技術が身につくことになる。
 従来の学習援助、特に公的な援助体制においては、まさにマス(集団)を相手に、必要最低限の入門的なレベルの学習機会をもっぱら提供していたから、このような第3段階の学習への援助はややもすると軽視されがちであった。
 「教える」という姿勢のままでは、学習者のレベルが高すぎるので対応しきれなかったとも考えられる。あるいは、たとえ「教えるよりも援助する」姿勢があったとしても、「個人」より「集団」に偏重しがちであったため、肝心なぴったりした援助方策を見いだせなかったり、高いレベルの学習要求をもつ「個人」をつい見過ごしがちであったと考えられる。
 しかし、技術革新や社会の急激な変化の中で、きょう得た知識・技術が明日には古くて使いものにならなくなるという現代の時代においては、すでに得た知識・技術であっても、それをさらに継続的に更新し発展させていく努力が学習者各人に求められる。これは今日が「生涯学習の時代」と呼ばれるゆえんの一つでもある。
 そこで、生涯学習の援助者は第3段階におけるこのような「高度な継続的学習」の援助の方策を新たに練り直さなければならないことになる。新しい援助においては、次のような点に留意する必要がある。

1 多様に分化した個人ひとりひとりの学習への援助を重視する。
2 高度化、専門化した内容の学習への援助を行う。
3 新鮮で今日的なテーマ・内容の情報を提供する。
4 既定・定型の知識・技術を「教える」立場ではなく、ともに研究し開発する立場から援助する。
5 個人の日常的・継続的学習に対して、援助も日常的かつ継続的に行う。

 現代は境界線のない時代といわれる。研究者などの「知のプロ」と「アマチュア」との「境界線」も以前よりは崩れつつある。「アマチュア」の高度化、専門化した研究や生活者の視点からの実際的な研究の成果は、社会的にも注目され、実際に社会の発展に貢献するに値するものになりつつある。つまり、生涯学習によって「生産」されたもの(=生涯学習の成果)が直接、社会還元▲される時代に向かっているのである。
 生涯学習の援助者がこのような学習を援助しようとする場合、何かを「教える」姿勢ではとうてい対応しきれないだろう。まさに文字どおり、個々のケースの学習に対して「援助する」姿勢が求められるのである。
◆[ミニテスト4]

1−(3) 学習活動に対応する教育的援助
 私たちは学習者をひとりひとり、個人として見ることによって、3つの学習の発展段階があることに気づいた。さらに、これらの各段階に対応して予想され期待される教育的援助(社会教育)のいくつかを前述の高村久夫氏が例示している。ここでは、そこで例示されている援助策を紹介し、その基本的性格について考えてみよう。

「潜在学習者から学習者への段階」に対して
a 学習の機会・施設・学習情報に関する情報提供
 生涯学習の時代と呼ばれる今日、個人のレベルでは把握しきれないほどたくさんの学習機会が提供されている。社会教育行政だけでなく、一般行政や民間など広い範囲で、多種多様なかたちで提供されているのである。そのため、学習者はせっかくの豊富な学習機会から、自己の必要とするものを的確かつすみやかに選び出すことができなくなってしまっている。
 個人をつねに集団の単なる一員としてしかとらえない立場からは、その問題が見えにくい。なぜなら、すでに所属している集団が行っている、または行おうとしている学習をメンバーがしさえすれば、必要最低限は足りていると考えてしまうからである。
 これに対して、学習の個人性を重視する立場においては、これらの学習情報の不備をとりわけ憂慮する。そして、この不備を埋める学習情報の提供を、学習援助の中でも、特に学習者が学習をスタートする時点では、欠くべからざる基本的役割と見るのである。
 たとえば個人が学習機会の情報を的確に把握することによって、本人が主体的に学習機会をその中から選び出すことが可能になる。これに反して、そういう情報なしに学習機会を決定する場合は、それまでの自己の学習経験の枠内で判断するか、まわりや所属集団などの「流れ」に受動的に従うという結果にならざるをえないのである。
 画一的な学習機会を一方的に授与する立場から言えば、学習情報提供はせいぜい、その授与に付随する「周辺的」な行為にしかすぎない。それとは対照的に、個人性重視の立場からは、学習情報提供はむしろさまざまな教育的援助の中でも中核的存在なのである。
b 学習相談
 最近、とみにカウンセリング▲に対する関心が強まっている。現代社会における人格の危機に対して、まさに個人の深みに入り込んで、相談者の主体的な自己解決を援助するカウンセリングの思想からは学ぶべきところが多い。
 ただし、カウンセリングでいう「相談」とは、あくまでも個人の心理的・精神的問題=「こころの問題」の解決のためのものである。教育的援助をする側が、自分の行う通常の学習相談までをもカウンセリングと同一と考えるのは誤解である。あるいは、その誤解がこうじて、生涯学習の相談に来た人に対して、こころの奥の深い所まで立ち入ってそれを「直接」カウンセリング的に解決してやろうなどと考えるとしたら、問題はいっそう深刻である。(もちろん、ここでの論議は成人の生涯学習への援助に限定している。)
 たとえば、新しく引っ越してきてまだ近所にとけこめていない主婦が、幸いにもあなたの所に「どこかで華道を習えるところがないか。」と尋ねてきてくれたとする。その時、あなたは、「この人は、前にいた所での人づきあいが途絶えたので、少し寂しいのかもしれない。」と考えるだろう。そのぐらいのことを考える思慮深さ、思いやり、やさしさはぜひあってほしい。しかし、たとえば当人に「近所にとけこめるように、あなたから話しかけてみたらどうですか。」などといきなり切り出したりしたら、きっとその主婦からしばらくは敬遠されてしまうだろう。そもそも、カウンセリングでもそんな忠告、説得に類すること(指示)は行わないのが普通である。学習相談において安易に「カウンセリング」を行うことの危険性はここにある。
 それよりも、その主婦の「孤独」を心配する思いやりを心に秘めながらも、要請どおりに華道を習える所を豊富に提示し、ゆきとどいた情報サービスをしてあげたほうがよっぽど気がきいているのである。さらには、おしつけにならない程度に、華道以外にもいい仲間になれそうな人の揃っているサークルなどを紹介する必要はあるかもしれない。なぜなら、その主婦が本当に要請している情報は、「華道を習える場」と同等に、あるいはそれ以上に「よい仲間」であるかもしれないからである。
 しかし、せいぜいこの程度までであろう。あとは、学習者がそれぞれ自己の力で学習機会を選択し、自己の力で自己の問題を解決するよう見守る他はない。
 そもそも、学習相談においては、たとえ本人が「相談に来ました」と言ったとしても、それはカウンセリングのような「こころの問題」(学習に関する)ではなく、学習情報の提供を求めにやってくるのが普通であろう。(理解を深めるために言えば、学習における「こころの問題」とは、たとえば「自分にとって、そもそも何を学習すればよいのかわからない。」とか、「学習したいことはあるのだが、なぜか手につかない。」などの悩みがそれに近い。)
 しかし、通常の学習相談においても、相談者の訴えに対してていねいに情報を提供するということ、しかも、一方的に限られた情報をおしつけるのではなく、相談者がみずから主体的に判断し選択するよう広くヒントになる情報を提供するということについては、情報提供側は最大限の努力を払う必要がある。
 そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などと同様の働きかけにより、学習者の相談を励まし、明確化し、自覚化を促し、ひいては主体性の発揮の実現を援助することが必要である。その意味から、学習相談そのものはカウンセリングとは区別はしても、「カウンセリングマインド」ともいうべきカウンセリングの基本的態度とは一致するのであり、カウンセリングから学ぶべき点も多いのである。
 学習相談が個人の学習情報の求めに対応するという意味で、形の上からも「個人性の原理」を尊重するものであるということは自明のことである。しかし、それ以上に、「応答」の内容も「個人性」を尊重し、さらにはこの「個人性」がいっそう発展するよう援助するものでなければならないのである。
c 図書館、博物館における経費の工夫
 図書資料、実物などは、直接個人の関心に働きかけるので、図書館、博物館に勤める人以外の生涯学習の援助者は、その意義を実感しにくいかもしれない。しかし、この「働きかけ」の効果は肝心の個人に対しては相当なものがある。それは、自分自身の学習関心の形成を振り返れば納得できるであろう。
 生涯学習の援助者としては、図書館、博物館に関する性格、所在、特徴、利用方法の情報提供などにより、その活用を促進することを考える必要がある。
◆[ミニテスト5]
d 学習関心・意欲を触発する活動
 このためには、aからcまでの他、先に述べた「ひと、もの、できごと、情報」と「潜在学習者」が出会える場と機会をさまざまに積極的に提供する姿勢が求められる。
 その際、援助者側がみずからの設定した既成の狭い「学習課題」の枠に縛られるのではなく、多様で個性的な学習関心を学習者自身が主体的にもつことができるよう援助する姿勢が大切である。

「計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階」に対して
a 学習機会の提供
 この段階に入ると、先にも述べたように「ある程度の期間に何回か、あるいは一回だけの場合でも集中的に」学習が行われるようになる。図書、放送番組、学級・講座、団体・サークル活動、社会通信教育、習い事、民間教育産業などは、そのための学習機会を提供しているわけである。そして、これらは非常に目に見えやすい教育的援助の形態であり、従来から活発に進められてきている。
 しかし、このような「学習機会の提供」のひとこまひとこまにおいても、やはり、「個人性の原理」の最大限の実現が求められるのであり、従来ありがちだった「つねにマスの一部分としてしか相手をとらえない」態度では、早晩飽きられてしまうのである。
 具体的に言えば、次のような「きめ細かさ」が必要である。個人のひらめきや気づきに極力、注意し、それを励ます。学習の進度に遅れそうな人が追いつけるよう、プログラムを工夫する。現在の進度を超えたレベルの学習をしようとしている人にも役に立つような展開を行う。
 その上で、「学習機会の提供」だけでなく、各人の個別の学習阻害要因の解消などの援助ができるよう、他に述べるような情報提供や相談を並行して行うことも大切である。つまり教育的援助方法の「複線化」▲が必要なのである。
b 集団学習方法の工夫
 i  良質の情報提供
 集団学習の中でも学習の「個人性」を尊重しようとするならば、すでに述べたように、個人ひとりひとりが学習しているという認識や喜びを感じられるようなものでなければならない。そのためには、メンバー各人の学習レディネスや志向性、持ち味などの「個性」に柔軟に対応し、だれもが主体的に学習できるよう、集団学習の運営もおおいに工夫する必要が生じる。
 画一的な集団に対してであれば、どこでも同じような運営技法でほとんど事は足りたのかもしれないが、現代の「メンバーの個性にあふれた集団」は、集団としても際立った「個性的」な問題や可能性をもっているものである。
 正解が決して自明のものではない問題、解答が一つではない問い、こういう問題や課題に学習者や学習集団がチャレンジしていく時に、本当に役に立つ情報提供が「良質」といえるのであろう。
 それは、平板で単一なものではなく、縦横無尽に学習情報の網の目をたぐり、生かしたものであるはずである。
 ii 学習者の組織化
 「個人性」をいかす集団学習といえども、その集団自体が主体的に活動できる集団として自立するためには、学習者の組織化をはかる必要がある。
 ただし、少なくとも学習活動の展開においては、そこでの「組織化」は、「共通の目標」や「統一的な意志」を強調するものであってはならない。むしろ、メンバーの「個性」が有機的に発揮されるシステムとしての「組織化」でなくてはならない。
 その他、以下のような例示がされている。これらの場合にも、学習の「個人性」の尊重と実現の立場から進められなければならないのはいうまでもない。
c 社会教育施設の設備・資料の充実・整備
d 団体・サークル活動の奨励・援助
e 学習相談、レファレンス・サービス体制の整備
◆[ミニテスト6]

「既得の知識・技術を補強する段階」に対して
 学習における「個人性」の尊重は、一方では、「ゆっくり型」「マイペース型」の学習を励ますものであるが、もう一方では、ひとりひとりがさまざまな内容の高度で専門的な学習を希望するような状況においても、これを本格的に援助しようとするものである。
 それは、具体的には、下にあげられた手段の他にも、多様な既存・新設の学習機会や、従来からの、または新しい学習援助方法を駆使してこそはじめて実現可能なのである。
a 高度化・専門化した内容の学習機会
 i  成人への高等教育の開放
 ii 大学教育の開放
 iii 専修・各種学校の振興
 iv その他成人大学講座等の開放
b 専門的なレファレンス・サービス体制の整備

 以上のように、生涯学習の方法は「学習の個人性の原理」から成り立っている。この基本的原理は、今まで述べてきたように、人々の学習活動がその人自身の学習意欲を根として始まるものであること、それがどのような動機に発するかによって学習の内容・領域も明確化されるということ、学習が発展し高められるにつれて、学習内容にも専門化が見受けられるようになることなど、われわれが留意すべきさまざまな生涯学習の諸現象の根源と認められるのである。

2 生涯学習におけるメディア利用
(以下、テキストP20〜P23の(1)〜(4)に対応...2500字)
2−(1) 図書資料
2−(2) 放送
2−(3) 実物・視聴覚資料
2−(4) マイクロコンピュータとニューメディア
3 学習活動推進のためのメディア活用のあり方
(以下、テキストP23〜P26の3学習活動推進のための諸方策に対応...1800字)

□第一単位「生涯学習の原理」の注解(100字×?)
自発的意思
 生涯学習は、強制によらずに自らの内面的欲求によって開始される。このようにして生涯学習を開始する際の感性的、理性的な意思が自発的意思である。
適性
 個人の知識・技術・能力・性格などが、そのことに適していること。意欲・関心・興味も関係している。しかも、これらについては固定的なものとしてとらえることは誤りである。
生涯学習の動機
 あることがらについて学習しようとする意欲があることを動機があるという。その動機の基礎は、生理的欲求、社会的欲求、心身の成熟や発達、それまでの学習経験などの状態である。
ミーイズム
 自分主義。自己中心主義。従来から、青年期においては周りに対して自己のみを実現しようとする傾向が現れると言われてきたが、ミーイズムの場合は、一方的に自我を他者に認めさせ、おしつけようとする傾向は弱いようである。むしろ、社会への「無関心」の傾向が顕著である。
集団
 ある一定の共同目的に基づき、相互作用を行っている複数の人々の結合。メンバーはその成員として、多少なりとも帰属意識をもつのが普通であるが、むしろ集団化によってその個人の疎外が進行する場合が見受けられる。
レディネス
 ある学習をするのに必要な心身の用意性、準備性。子どもの場合は、心身の成熟の度合が重要な要素になるが、それに比べて成人の場合は、それを学習しようとする関心の度合が重要である。しかし、その場合もその学習関心を形成してきたのは、過去の学習経験や社会経験であることには変わりない。
学習中断の危機
 一人一人の生涯学習は、つねに中断の危機に直面しながら発展している。その要因は学習阻害要因の一部ととらえることができる。時間的、経済的理由なども考えられるが、本人の意欲の減退も大きいであろう。
社会還元
 還元とは、もとに戻すこと。生涯学習をする個人はなんらかの形で社会資源の恩恵を受けているはずであり、それをより高次なものにして社会に還元することができればお互いに理想的である。
カウンセリング
 個人の精神的な問題の解決のための援助の手法の一つ。人間を社会的存在としてよりも、第一義的には個性的存在としてとらえ、人為的に個人と個人の人間関係をつくり意思疎通をはかることによって、相談者による自己解決を図ろうとするものである。
複線化
 ここで、複線化とは、一人の学習者が両方の援助を受けることができるということばかりでなく、学習者の自由な意思によって、学習者の好むどちらかの援助だけを選択して受けることができるということを意味する。総じて「複線化」は、自由な選択の幅を拡大する有力な手段として機能することが多い。
マイクロコンピュータ
 大規模集積回路(LSI)によって構成されるマイクロプロセッサーに記憶部と入出力部を加えたもの。最近は普通、パソコン(パーソナルコンピュータ)と呼ばれている。大型コンピュータと比べて安価であり、個人でも手軽に活用できる。
ソフトウエア
 コンピュータを利用するための技術。ここでは、特にマイクロコンピュータのプログラムをさしている。マイクロコンピュータの世界では、「コンピュータ、ソフトなければただの箱」と言われるぐらいその役割は大きい。

□第一単位「生涯学習の原理」のミニテスト

◆[ミニテスト1]
1 生涯学習は学習する個人にとって、何のために行われるか。( )内に適する言葉を入れなさい。さらに、それぞれについて学習内容の例を考えなさい。
             学習内容例
 (  )的な充実・・・
 (  )的な健康・・・
 (  )的な成功・・・
2 生涯学習の「個人性の原理」と矛盾しない集団学習とはどのようなものか。( )内に適する言葉を次から選んで入れなさい。
喜び、学習成果、個人、主体性、相互作用、
 集団の中で、(  )を及ぼしあいながら、実は(  )がそこで学習している。そして、個人ひとりひとりが学習しているという認識や(  )を感じることができる。そのためには、リーダーはメンバーひとりひとりがそれぞれどんな(  )を獲得したか、それを通してひとりひとりが学習における個々の(  )をどれだけ育ててきているかについて注意を払う必要がある。

◆[ミニテスト2]
1 子どもに対してするような学習の動機づけを、なぜ成人に対してはできないのか。もう一度本文を読み直した上で、あなたの考えでその理由を箇条書にしてまとめなさい。

◆[ミニテスト3]
1 潜在学習者というとらえ方は、どのような点でメリットがあるか。ア〜ウの内から間違っているものを一つ選びなさい。
 ア 本人が学習をしていなくても、今後学習にむすびつく可能性を見落とさな  いで援助することができる。
 イ 本人の内部には学習動機がまったくなくても、「潜在」ととらえることに  より、学習を始めるようにさせることができる。
 ウ 学習行動が始まる時の、本人の主体性を尊重するとらえ方である。

◆[ミニテスト4]
1 あなたのまわりにある高度で継続的な生涯学習の事例をあげ、その学習を援助するとしたらどうすればよいか考えなさい。

◆[ミニテスト5]
1 学習情報提供が「生涯学習の個人性」を実現するものであると考えられる理由を述べなさい。
2 学習相談が「生涯学習の個人性」を実現するものであると考えられる理由を述べなさい。また、逆にそれが「個人性」を損なう場合とはどういう場合か、述べなさい。

◆[ミニテスト6]
1 計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階への援助はどうあるべきか。(  )の中に適切な言葉を入れなさい。
 学習機会の提供においても、(  )の原理の最大限の実現が求められる。「つねに(  )の一部分としてしか相手をとらえない」態度ではいけない。集団学習に対しては、縦横無尽に学習情報の網の目をたぐり、それを生かして、(  )を行う必要がある。そして、学習者の組織化は、「(  )の目標」や「(  )的な意志」を強調するものでなく、メンバーの(  )が有機的に発揮されるようなものでなくてはならない。

◆[ミニテスト7]
1 生涯学習に利用できるメディアの種類を6つあげ、それぞれについて1つずつ、それを利用した生涯学習の形態をあげなさい。

◆[ミニテスト8]
1 メディア活用のために必要な諸条件の整備として必要なことは何か。文中の(  )内に適切な言葉を入れなさい。
 十分に体制の整った施設を(  )、しかも人々の(  )に設置する必要がある。さらには、今日、発達、普及している(  )を活用することによって、個々の施設間の連携を図る(  )の整備が望まれる。

□第一単位「生涯学習の原理」の復習問題
1 「個人性の原理」とはどういうものか、説明しなさい。
2 この単位の最初の対話、「生涯学習に『原理』はあるか」で出されたBさんとAさんの次の疑問に、それぞれわかりやすく答えなさい。

B:自分たちは自由にのびのび生涯学習を楽しんでいたつもりなんですが、(注・他者から)「原理」だなんていわれると、ちょっとね(注・抵抗がある)。
B:いくら、ある「原理」を打ちたてたところで、生涯学習が個人の自発的意思に基づき、さまざまに自由に行われるものだとすると、その「原理」は無力なものということにならないですかね。
B:個人を重視しすぎて、ミーイズムを助長させるようなことがあってはいけないと思うんですが。受験戦争の弊害と同じことが、生涯学習にまで現れてしまうと言ったら、言いすぎでしょうが。
A:本人に学習動機がある人に対してなら、「個人性の原理」もいいような気がするけれど、初めから学習動機をもってないという人に対してはどうすればいいのかしら。

□第一単位「生涯学習の原理」のティータイム(2−3枚)
 パソコン通信ではホストコンピュータの「電子掲示板」というシステムに自分たちの書き込み(ライティング)が蓄積される。この蓄積された情報を、自宅のパソコンと電話線を通して、いつでも自宅で出し入れできる。
 読者の皆さんにパソコン通信の実際の様子をお知らせするために、私の書き込みを紹介する。

 小学校1年の息子を寝かしつけて、今、パソコンに向かっています。(略)「一般生活」を営む普通人の僕としては、継続的にレスポンス(注・反応,返事のこと)を書く余裕がないのでワンテンポ遅れたレスになってしまいましたが勘弁してください。でもこういう「普通人」?の参加も許容してくださいね。(略) パソコン通信の時は、同僚にしゃべるような気持ちで書いています。ツーウェイ(注・双方向)ですから、わからなければ質問しあえばいいでしょう。その意味では、エディター(注・編集用のソフト、いったんパソコン通信を終了してから利用する)を使う場合でも、僕は、オンライン(注・パソコン通信をつなげたまま、直接文章を打ち込むこと)感覚に近いのです。わかりづらくて、しかもつまらなければ、読み飛ばされるでしょうが、そうしたら諦めて次のライティングをすればいいのではないでしょうか。そういうライティングを「迷惑だ」としかめっつらをすることもないでしょう。「ああ、あいつだ」と思ったら、読まずにパスすればいいのですから。(略)
 私のこの文章もやたら長くなってしまいました(注・普通、書き込みは数行である)。でもちょっとでも「いい所」があるともし感じられたなら、そこだけ拾い読みしてくださいませんか。いやだったらパスすればいいのですから、「迷惑」というのはちょっと当たらないと思うのですが、いかがでしょうか?

 以上が私の書き込みである。皆さんもパソコン通信の雰囲気を、少しかいま見ることができたのではないかと思う。自己の書き込みが他者にとってどのような意味を持ち得るのか・・・。それはパソコン通信をする者(自称,ネットワーカー)の共通の関心事なのである。
 先日、われわれの研修で、若者の街、渋谷を訪れ、「雑貨屋イメージの百貨店」、西武ロフトの金谷信之館長の話をうかがう機会があった。
 当日はあいにくの雨であったが、じつは引率者の私にとっては「慈雨」であった。なぜなら、平日の昼間でも晴天だと相当の混雑が予想され、店内の見学が十分には行えない危惧があったからである。若者のニーズの把握は難しいとか、あるいはもともとのニーズなどはないのかもしれないなどと言われる中で、ロフトはそれほど若者を「吸引」しているのである。
 「生活必需品」に対して、若者が今までと違うものを求め始めている。「非日常」の余暇以上に、日常生活そのものを「余暇」として楽しんでいる。衣類、文具などのタテワリの商品配置では、このようなニーズに対応できない。「業際」が求められる。
 そこでは、カルイかもしれないけれど、時、瞬間を大切にして、トレンドや風俗を提供する。それによって、「生活自遊人」という都市生活者のくらし方を提案する。「生活自遊人」とは、集団より、個の世界のマインドをもっている人のことである。生活領域が広く、頭だけでなく、実践をする。
 これらの人々はシビアーで、買物もしろうとではない。モノを知っている。そういう人をターゲットにするためには、百貨店ではいけない。ロフトでは、「高度情報装備性」、「高密度・高集積」を売物にしている。商品絞りこみはしない。売場はいわばインデックスであり、主役は客、使い方はそれぞれである。
 各階は、イチ(市)とクラ(蔵)から構成されている。市は中央にあって、市場感覚、エキサイティングでトレンディーである。蔵は壁際高くまであって、定番商品がきちっと揃えてある。たとえば、同じ茶碗を、すべてのサイズ揃えて、個に合ったものが選べる。
 従来の売場分類では領域の間が抜けてしまい、不都合である。ロフトは、身体、空間、仕事、余暇というような分類とフロアーの設定をしている。
 「身体」では、ヤングは朝シャワして身ぎれいでないと仲間扱いされない。そのための商品は、従来の化粧品、薬品などには分類しきれない。
 「空間」では、住宅事情もあり、ヤングは収納にこっている。ポットも象印ではなく、そのままオープンに置かれ、デコールになるもの。これらは、インテリア、家具、家電などの分類では、分類しきれない。
 「仕事」では、職場で用度品ではなく自分の気に入ったものを使っている。家事も、日用品、雑貨などの考え方ではなく、楽しめるものを求める。衣服をオープンにハンガーに吊しているが、そのカバーがよく売れる。そういうヤングが求めるものは、従来の分類では買うことができない。
 「コミュニケーション」では、日々のギフトが大切。それも誕生日などではなく、普通に遊びに行くときの200円位のギフトである。これをイキに行うため、若者は商品選択、ラッピングなどで、勝負する。200円のものだろうが、彼らのチョイスは高額商品と同様に真剣なのである。
 ロフト社員320名中、100名が「モノマスター」である。モノマスターは、社内外公募で選ばれている。たとえば、国鉄からの転職者が鉄道模型を担当している。彼の知識は尋常ではない。そのようなモノを使いこなせる人が、仕入れからすべてやる。
 CIとしては、MONO−PRESSを発行。これで生活モチベーションをうまくとらえる。(本号は「新しくデビュー」)
 雑誌での掲載には、提供主を入れてもらってどんどん商品提供する。ただし、イメージが落ちないよう、雑誌セレクトをする。
 人件費が高く、棚揃えが悪いなどの問題はあるが、年間110億の売り上げがある。

東京都渋谷区
イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点
 −西武ロフトがとらえた若者のニーズ−

22×21×2=924 924÷36=25

地域の組織・団体との連携

1 地域の組織・団体の今日的意義と公民館

 前近代社会においては、地域社会はすなわち共同社会であり、たとえば村落共同体に見られるような強い地域性と共同性を保っていた。そして、そこでは強い自治的性格をもった組織も機能していた。しかし、近代社会においては、交通・流通・通信手段の拡大や都市化によって、それらの強い共同性をもった地域社会は次々と崩壊することになる。
 実は、地域における強力な共同性は、ややもすると、プライバシーの侵害や村八分などの制裁など、個人の自由や尊厳を否定する結果になる場合も多かった。これに対して、近代社会において「個人」が尊ばれるようになったことは、個人の自由と成員の平等を保障しようとする民主主義の理念に照らして望ましい側面を有していると考えられる。
 ところが、地域社会の崩壊は一方で地域住民の合意形成の困難、地域の自治・自立性の衰退、相互扶助の弱体化による住みにくさ、地域教育力の減退による子どもの成長の「いびつ」化などの弊害を引き起こしている。
 その中で、たとえば今日の「町内会」は、相互扶助の任意団体として位置づけを変えながらも、地域住民のフェース・ツー・フェースの関係を築きつつ、主体的に「地域づくり」を推進する際のだいじな核の一つとなっている。
 ここで注目すべきことは、これらの地域組織・団体がめざすべきところは、けっして過去の地域共同体への単なる「回帰」ではないという点である。崩壊した地域社会を再現するのではなく、新しい理念のもとで、むしろ、「新たに」地域を組織しなおそうということなのである。
 この新しい理念が「現代社会におけるコミュニティの形成」であり、地域づくり、町づくり、村おこしであるといえよう。
 そこでは、家父長的な指導者のもとに成員が「個を殺して」一致団結するのではなく、各人、各組織がそれぞれの個性を十分に発揮しながら、ゆるやかなつながりを持とうとする。個人を尊重しつつ、地域合意の形成と地域社会の作り変えをめざす。
 たとえば今日のコミュニティ形成をたんねんに見ればわかることであるが、町内会のような地域包括的な組織が一つだけ活性化して、その集中的なコントロールのもとで推進されるというケースは皆無に近い。
 むしろ、自治体行政も含めて地域のさまざまな組織が、緊張関係や競合を繰り返しながらも連携・協力して地域づくりが進められているのである。
 公民館が地域の組織・団体と連携を図ろうとする時、一つの地域包括的な団体だけに偏重してしまえば、それは結果としてこの新しいコミュニティ形成の方向と逆行し、「団体請負主義」の社会教育になりかねない。
 「過去の」コミュニティの復活ではなく、「新たな」コミュニティの形成のためには、地域のすみずみまでよく目配りし、あらゆる地域組織に対してそれぞれに適切な関係を保ちながら、ヒューマンネットワークの視点から総合的に連携をはかることが必要なのである。

2 公民館と地域組織・団体との連携の諸相

 それでは、公民館が地域の組織・団体と連携するためには、実際には何をすればよいのか。
 一つには公民館と組織・団体とのさまざまな話し合いの機会をもつことである。野島正也氏は次のように指摘している。
 「公民館職員の中に、高齢者学級の日程を公表した後で、地域の老人クラブ主催のゲートボール大会の日程が一部で重なることに気づき、冷汗をかいた経験のある人はいないだろうか。公民館の事業が、地域の他の団体が企画している催しとうまく調整され、相乗効果があがるように、団体と十分な情報交換の機会をもつことがたいせつである。」(1)
 地域形成に資する諸団体がせっかく準備を重ねて迎えた催しの当日に、それに気づかず公民館事業をぶつけてしまうようでは、「連携」などはほど遠い。公民館と団体との「情報交換の機会」を設けることも、連携のたいせつな一側面なのである。それは、公民館と団体の間ばかりでなく、地域の団体どうしのネットワークを築くきっかけともなろう。
 特定の地域包括的な団体が「上部団体」として集中的なコントロール作用を行う形態ではなく、対等で民主的な団体相互の関係を保ちながら協力して地域づくりを進めるためには、公民館も交えて組織・団体間で話し合いをもつことが不可欠の要素になる。
 このような組織・団体間の話し合いの機会としては、上に述べた各団体の事業に関する情報交換の会議のほか、利用団体が公民館の施設利用に関して自主的な調整を行う会議、公民館の主催事業の企画や運営について協議する会議などの活用が考えられる。
 二つには、地域の組織・団体の活力を公民館事業に生かすことである。野島氏は「商店会、農協、商工会議所、地元企業などは、それぞれ、非営利の立場から地域の発展を願っている側面をもっている。」として、実際にも学級・講座への講師の派遣、イベントでの協力、公民館への物品・サービスの提供などが行われていることを指摘している。
 しかし、この場合もやはり「団体請負」に陥らないような注意が必要である。公民館の主体性を投げ捨てて特定の団体に任せきってしまうのでは、お互いの主体性を尊重しあうというネットワーキングの原則に反する。団体の成員である各個人の個性と多様な能力に着目し、それがいきいきと発揮されるよう、柔軟で主体性のあるヒューマン・ネットワークの視点に基づいた対応が公民館側に求められるのである。
 三つには、公民館が地域の組織・団体に「間接的」に良い影響を及ぼし、支援する事業を行うことである。もちろん、施設提供もその重要な根幹をなす一部であるが、公民館の役割はそれだけにとどまらない。諸組織・団体が行う地域形成に資するためのさまざまな営みを側面から支援する姿勢を明確に打ち出しつつ、独自に主催事業の実施や、情報提供・相談などを積極的に繰り広げる必要がある。これが、間接的にではあるが、住民の主体的な地域づくりを援助することにつながるのである。
 たとえば、今日、学校区という「地域」には「有望」な教育関係団体がある。PTAである。非常に網羅的で、成員数が多い。そして、これは、子どもの幸福な成長をはかることを目的とする社会教育団体である。しかし、PTAの一部役員だけがいくら一生懸命になったところで、その目的は完全には達成できない。地域の親や住民全体が、この目的を理解しその実現のために地域の一員としての役割を果たさなければならないのである。
 一方、公民館としても、地域の教育力や家庭教育には大きな関心をもっている。だからこそ、家庭教育学級などを開催して地域や家庭の教育力の向上に役立とうとしている。そして、そこでは、わが子の問題だけを考えるのではなく、あらゆる親や住民が地域のすべての子どもたちが健やかに育つことのできる地域の環境を考えるよう提起をしているはずである。もちろん、公民館はPTAのメンバーではないが、公民館の事業はPTAという地域の団体の目的達成と「間接的」に連動しているのである。
 このように、公民館の事業は地域の組織・団体の地域形成の営みをも支援している。この立場をよりいっそう明確にする必要がある。しかし、その際、それが行き過ぎて組織・団体が本来行うべき事業までをも「代行」してしまうのでは、「団体からの請負事業」と変わりなくなってしまう。ここでも、公民館と団体の相互の主体性を尊重しつつ連携するネットワークの視点が必要になることをつけ加えておきたい。

3 公民館と地域組織・団体との「協働」をめざして

 野島氏は公民館の活動のしくみを大きく二つに分け、一つを「社会教育行政−学習者・住民」、もう一つを「社会教育行政−地域の学習支援組織−学習者・住民」とし、後者のとらえ方を次のように評価している。
 「公民館活動の実際は、地域によってかなり差違があるので、もちろん一概には言えないが、経験的にみて、『地域の学習支援組織』がかなりの有効性を発揮している事実がある。」
 そして、「地域の学習支援組織」の形態はさまざまであるが、いずれにせよそれらの活躍やその他の地域の人々による支えによって、公民館の活動は「幅が広がり、活気づいて」くるわけだし、参加する住民にとっても「自らの隠れた社会的諸能力を引き出したり、地域の交友関係を広げる」などの効果が生まれるということを指摘している。
 もちろん、この場合も、それらの組織が公民館の「指示」のもとでしか動けないような図式(公民館→地域の学習支援組織)では逆効果にしかならない。「地域の学習支援組織」が自立的に活動する力量と実際の活動を伴い、「公民館−地域の学習支援組織」という対等な関係を築いてこそ、その効果が生まれる。
 言葉を変えて言えば、この「対等な関係」のもとに行われる連携・協力が、今日その必要が叫ばれつつある公私の「協働」なのである。
 前項で述べた3つの連携の諸相も、この「協働」の端緒と言えるが、さらに本格的には、これらの組織が公民館の主催事業の企画・運営に参加したり、共催の事業を実施する機会などを公民館としても設定する必要がある。
 一方、今日の地域組織・団体も、都市化、多様化の波の中で、そのあり方の再検討が強く迫られている。これらの急激な社会の変化に対応するためには、自らの集団のシステムをヒューマンネットワーク型に変えていかなければならない。また、住民一人ひとりの課題や地域の諸課題を解決するためには、たとえそれがどんな種類の「課題」であっても、各人の自主・自発の学習が不可欠になる。
 地域の諸組織・団体にとっては、独自の役割とは別にヒューマンネットワーク型の地域の学習支援組織としても役割を発揮できるようにすることが「サバイバル」の方向であり、それらと連携を進めようとする公民館としては、ネットワークの精神に基づいた運営参加や共催等のシステムを構築することが、めざすべき方向といえるのである。

(1)野島正也 「公民館活動を支える地域の人材・組織」 月刊公民館No372 全国公民館連合会、1988・5、P5〜P11。以下の引用の出典も同じ。


自主的学習グループ・サークルの育成と援助

1 自主グループ化援助の意義と問題点

 社会教育審議会成人教育分科会の「審議のまとめ」では、「自主的学習グループへの援助」の項の中で、いわゆる「自主グループ」について、「近年は、公民館等の主催事業をきっかけとして自主的学習グループが多数生まれ、成長しつつある。」と評価している。さらにその上で、他のグループ活動とともに、「人々の自発的学習活動を促進していく上で、グループの成長は極めて重要であるので、今後一層積極的に結成の呼びかけ、」などの援助が必要としている。(1)
 公民館の利用団体の中には、いわゆる自主グループ、すなわち、公民館の学級・講座が終了した後、職員がその参加者に呼びかけるなどしてつくられたグループが数多く見受けられる。
 その理由としては、「審議のまとめ」で言うように、まず第一にグループ化が「人々の自発的学習活動を促進する」ための重要な要素の一つであることを挙げなければならない。その他、学級・講座の限られた時間内では到達しえない所まで、グループ学習で補完できるなどの意義も認められる。
 そして、この「自主グループ化」援助の姿勢は、公的社会教育が独自に持つ性格が発露したものといえる。もちろん、民間教育産業においても、スクール終了後に生まれたグループに対して、サービスの高度化をねらった「アフターケアー」を行うことはある。しかし、それはあくまでも「高品位サービス」として位置づけられるはずである。これに対して、公民館にとっての自主グループへの育成・援助は、住民自らが学習する環境を醸成するという社会教育行政の使命から照らして、学級・講座による学習機会の提供などと同等に重視されるべき「基本的」役割なのである。
 このようなことから、人が集まるからという理由だけで同じような内容を毎年繰り返し、自主グループ化を図らないため、いつのぞいても一部の住民の同じ顔しか見えない「金太郎飴」のような学級・講座を開いている公民館がもしあるとすれば、その公民館はもっと自主グループ化を推進して、基本的な体質改善を行う必要がある。そうでなければ、その公民館の活動は住民の自発的学習を結果としては阻害することにさえなってしまう。
 しかし、もう一方で自主グループ化を手放しでは喜べない状況も生まれている。その問題とは、グループ自体の自主性、主体性の衰退である。この「衰退」は、実は深刻な悪循環を繰り返している。
 まだ、グループとしては「未成熟」であることから、職員としても少しでも安定したグループになってほしいと思い、何かと手をかける。時には会場借用などの面で「特権的利用」を認める。グループの方でも、各人は公民館側の事業に参加者として「参加」していた時の「癖」が抜け切らない。自分たちがしなければならないことまで、つい公民館や職員に頼ってしまい、時にはそのことに違和感を感じられなくなってしまうこともある。
 こうなってしまっては、いわゆる「自主グループ化」は「人々の自発的学習活動を促進する」どころか、むしろ、メンバーおよび他の住民の「自発的学習活動」への意欲と可能性を削ぐものになってしまう。

2 自主的学習グループ援助における留意点

 このような隘路に踏み込まないようにするためには、どうすれば良いか。
 一つの方策としてあらかじめ学級・講座において「シュミレーション」(模擬訓練)を実施することを挙げたい。広く言えば、学級・講座においてグループ活動やその他の実践活動の予備知識および技術を獲得できるよう配慮して、グループ化した後、自主的に活動できるような力を準備しておくことである。グループ活動の実践においては、それまでの人・もの・できごととのさまざまな出会いの「体験」がその人にとってもっとも大きな励ましになる。学級・講座の運営への主体的関与や小グループによる「演習」、その他の実体験などの「シュミレーション」は、「出会いの体験」そのものになるのである。
 二つには、公私をいったん「分離」することである。「私」との関係がウェットになってしまってはいけない。「公」としての公民館側が援助すべきこと、「私」としてのグループ側が自ら行うべきことの「区別」を明確にし、それをいわゆる自主グループに対しても明示し、グループにある程度困難な状況が起きても特例を設けずにその「区別」に従うことが必要である。この「区別」の設定基準には、何も特別なものはない。一般のグループ、ただしその内、「未成熟」であるがために援助を求めているグループに対して公民館が行うようなすべての援助を、その自主グループにも行えばよい。
 三つには、講座を修了したら何が何でも自主グループをという「呪文」から解放されることである。この「呪文」から解放されることによって生涯学習のダイナミズムを保障することができる。
 自主グループを結成しても、そのグループが人々のニーズや時代に基本的にそぐわない場合はグループは消滅し、各メンバーは違うグループや次の新しいグループをつくりだすことになるだろう。少し逆説的だが、この「新陳代謝」こそが民間の生涯学習をダイナミックにしているのである。それゆえ、グループの「延命」のための善意の援助はかえって生涯学習を阻害するということになる。生涯学習の援助がウェットになってしまってはいけない。
 さらに、生涯学習の方法は「集団学習」ばかりではない。公民館が行うべき学習援助にもさまざまなバラエティーがある。講座修了後のアフターサービスも同様である。自主グループ化だけが援助ではない。時々の、あるいは個人個人の状況に応じて個人学習の援助や、場合によっては社会教育の「宅配」などフェース・ツー・フェースの関係を離れたサービスも考える必要がある。このように公民館は地域の「学習センター」として住民とのダイナミックな関係をめざさなければならない。
 これらの留意点は学級・講座終了後のいわゆる「自主グループ」だけでなく、地域の一般の自主的学習グループ、特に「未成熟」のグループの援助においても同じである。
 たとえば、「シュミレーション」はグループメンバー対象の講座にも有効であろうし、どんなグループに対する場合でも「ウェットな関係よりダイナミックな関係」が求められるのである。

3 グループ援助の今後の方向

 これまでも公民館は主催事業とともに、施設提供などの自主的学習グループの援助を行ってきている。しかし、施設提供以外の団体援助は実際にはその対象が限られがちであったきらいがある。
 その「限られた団体」がたとえば、先に述べたいわゆる「自主グループ」であり、また、伝統的な地域団体としての婦人会、青年団などの狭義の「社会教育関係団体」であった。実際にこれらの団体には、施設提供だけでなく、補助金の支出や昼夜いとわない相談・情報提供などが行われてきている。
 しかし、一般的な意味での「自主グループ」とその端緒はもっと地域のいたる所に、そして公民館が知らない所にまで広く存在する。しかも、この場合の「自主グループ」とは、必ずしも「学習」を主目的にするものとは限らない。さまざまな目的と内容のグループが考えられる。
 そもそも「自主グループ」という用語を公民館の主催事業によって生まれたグループにだけ適用することには問題があるのであろう。公民館は「館外」のグループにも関心を持たなければならない。そして、「館外」でいかにグループ化を促進し、いかにその援助を行うか、方法を検討しなければならない。
 しかし、現実にはこのような「館外グループ」への援助にはたいへんな困難がともなう。グループ化の無限の可能性と、ありとあらゆる実際のグループの存在に対して、公民館はどのように促進・援助できるのか。
 そのためには、基本的にはネットワークの姿勢が求められるのであろう。公民館の中ですべて抱え込もうとすれば、当然無理が出る。それよりも、それぞれのグループの主体性を最大限に尊重し活かしながら、公民館ができる援助を考えるべきなのである。
 それにはまず、公民館ではグループで集まることができる、他の人やグループと知り合うことができるということを、人々に実感として感じてもらえるようにすることが大切であろう。そのためには、一般の施設提供の他、オープンスペースとしてのロビーやたまり場としての団体室などを最大限活用できるようにすることも必要である。また、より直接的には「グループ学習継続のための相談、講師、教材等の斡旋、作品展示の場所など学習成果の発表の場の斡旋、活動の場の紹介」(2)なども考える必要がある。
 このような基本的な営みの中でこそ、公民館とグループとがともに個性と主体性を発揮しながら、共有できる「問題」に対してゆるやかに連携し「協働」するという本格的なネットワークが実現するのである。

(1)社会教育審議会成人教育分科会 「成人教育分科会の審議のまとめ」 昭和63年4月。
(2)同上。


グループリーダーの養成

1 グループリーダー養成事業の対象と方法

 今日の多様化、個別化の社会において、グループリーダーのあり方も大きな変貌を遂げつつある。その主要な変貌の一つがリーダーからメンバーへの「権限(リーダーシップ)の移譲」ともいえる現象である。
 「○○委員会」、「○○部」などの固定的なブロックの上に恒常的な会長がいて、その会長が全体を統括するというのではなく、ある企画や問題について関心のある数人がその時のグループの中心になってプロジェクト・チームに似た機能を発揮する。そして、会長は他にいても、それより強力なリーダーシップを「不定期に」発揮する者がそのチームの中から登場する。この新しいリーダーシップのシステムは非常に流動的で柔軟である。
 ここでは、会長などのグループ全体の恒常的な指導者を「ゼネラル・リーダー」、不定期に出現する指導者を「プロジェクト・チーム・リーダー」と便宜上、呼んでおく。なお、ここでいう「プロジェクト・チーム」とは、会社組織などでつくられる当該事項に関する「適性」を持つ者の「横断的」なチームとは、多少、性格を異にする。むしろ、グループ活動の「自主性」、「自発性」という特性に規定されて、当該事項に「関心」をもつ者の「自然発生的なチーム」である場合が多いだろう。必ずしも他者から「特命」を受けた明確な組織形態をとるわけではない。
 もちろん、グループの効率的な運営などのためには、今日でもグループ全体を掌握する「ゼネラル・リーダー」の役割は軽視できない重みをもっている。しかし、それとともに、これらの「プロジェクト・チーム」がグループの中で認められいきいきと活動できることが、新しいネットワーク型のグループ運営を進めるための必須条件と言えるのである。
 むしろ、「ゼネラル・リーダー」の持つべき今日的なリーダーシップとは、そういうプロジェクト・チームが盛んに形成され、それぞれのリーダーが続々と生まれ育つよう励まし見守ることとも言えるのである。
 これに対して、公民館で行われるリーダー養成事業が、「ゼネラル・リーダー」ばかりを対象として、しかもその事業にリーダーシップのためのありとあらゆる知識・技術を盛り込もうとするならば、それはグループのネットワーク型運営の方向に逆行し、活性化を阻害する結果にさえなってしまう。
 たとえば、グループ運営を一手に引き受け、たくさんの「責任」をしょい込んでいるリーダーには、対外的な仕事もかなり集中してしまう。その上に、公民館の行うリーダー研修への参加までもが、「対外的な仕事」(動員への対応)の一つとしてこのリーダーにおおいかぶさる。このようにして、リーダー一人がますます忙しくなってしまうのである。
 そもそも公民館が養成すべきリーダーを「ゼネラル・リーダー」に限定してとらえることは、グループ全体の成員の自発性、主体性を軽視し、グループをリーダー偏重のタテ組織としてとらえていることの証左ではないか。さらに言えば、この「ゼネラル・リーダー」偏重の志向は、初級→中級→上級というリーダー研修体系を、より大きな規模の「ゼネラル・リーダー」になるための単なる「踏台」として歪曲化することにもつながりかねないのである。
 今日、リーダーシップとメンバーシップは、機械論的な二元論で扱うべきものではない。グループ活動の中で、この二つは成員の間を自由に行き来すべきものなのである。ネットワークとはそういうことである。
 公民館で行うべきグループリーダー養成の今日的目的とは、一つには、「ゼネラル・リーダー」に対して「権限の移譲」を名実ともに成功させるようなリーダーシップが獲得できるように、二つには、「プロジェクト・チーム・リーダー」に対して新しい形のリーダーシップが獲得できるように両者を援助し、そのことによってグループ内のネットワークを促進することと考えられるのである。
 なお、後者の「プロジェクト・チーム・リーダー」の養成としては、広報担当者の研修などのある特定の内容に関わるテーマの研修を行っている公民館が現状としても多い。また、「リーダー研修」を「ゼネラル・リーダー」だけでなく、意欲的なメンバーの参加を広く積極的に呼びかけ、ネットワーク型運営に資するリーダーシップの養成を図っている所もある。これらの実践の価値を評価し、リーダーシップ研修としての内実をいっそう豊かにすることがまず必要である。
 しかし、さらにメンバーの間に随時生まれるさまざまな関心と、その事項に関する不定期なリーダーシップへの発展の可能性を的確に把握し効果的に援助するためには、研修事業だけでなく、情報提供、相談など、日常的な公民館の事業をすべて広い意味でのリーダー養成としても位置づけて展開することが必要になるのである。
 ネットワーク型のグループ運営を援助するリーダー養成は、「ゼネラル・リーダー」一人を養成することで足りる問題ではないだけに、このように総合的に展開されることなしには、その目的を達することはできないであろう。

2 リーダー研修の内容

 そもそも、ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」とされているのに対して、リーダーシップは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」とみられている(1)。リーダーシップは、本質的にネットワーク型なのである。特にグループのリーダーシップは、成員各自の主体的な合意のもとに、しかも「プロジェクト・チーム・リーダー」を含む非固定的なリーダー個人の自立的な価値によって、可変的に発揮されるという意味で、ネットワーク的性格をいっそう強く有しているものといえる。
 リーダー研修の内容としては、場合によってはごく実務的な事項も含まれて当然であるが、研修全体として見ればこの本来のリーダーシップのあり方を実現するために必要な事項こそが核に据えられるべきなのである。
 その一つは、コミュニケーション能力である。ネットワーク型リーダーには、自己の企画を他のメンバーに訴える力(プレゼンテーション)と、それに共感してくれた各人の人間関係をとりむすぶ力(グループワーク)の両方が必要である。コミュニケーション能力はその基本になる。
 二つには、「不定型」に挑戦する能力である。ネットワークは、めまぐるしく変化する問題や関心に自由自在に対応できるところに、その魅力がある。その時点での役職やルーティンワーク、あるいは慣習にしがみついて発想したのではネットワークにならない。未知で形の定まっていないことへの挑戦の姿勢が求められる。そのためには、発想法のトレーニングなどが有効である。
 三つには、外と交流し学びとる、「外とのネットワークづくり」の能力である。異種の人間との交流が各自の世界を飛躍的に広げる。人材を知ること(ノウ・フー)にもつながり、グループ運営にも資することができる。そして、それは外とのネットワークであると同時に、グループ内の風土にも新鮮な風を起こしてくれる。このような意味から、団体間コミュニケーションとしての「交流」を援助する意義は非常に大きいと言える。
 しかし、もう一方で、公民館はネットワーク型グループ運営のもつ問題や危険性も見過ごさないようにしなければならない。
 ネットワーク社会においては、専制的な「リーダーシップ」は否定され(権威失墜)、拡散し、大衆化する。だが、そのことは反面、正当なリーダーシップをも軽視する傾向にも通ずる。厚みのある「大作」としての文化が喜ばれないのと同様に、「不易」の根拠をしっかりと持つリーダーシップまで捨て去られてしまう。そして「流行」だけが追い求められる。
 そのような時、リーダーに「不易」を提起する公民館独自の役割は大きい。公民館は、この役割を主体的に発揮しなければならない。
 もちろん、その場合でも、「主体的」であるべきは公民館だけではない。研修を「受ける」側としてのグループリーダーにも「主体的」参加が求められる。このような両者の主体性を両立させるためには、「問題共有の視点」をもつ研修内容にする必要がある。すなわち、研修を「同時代」に生きる者としての共通の問題に共同で取り組むような内容にするのである。そこには主体的な自己成長と相互作用が生まれるだろう。
 もともと「養成」には「教育して一人前に成長させる。」という語義がある(岩波漢語辞典)。しかし、そういう「養成」の古い語義はもう新たにしたい。お互いに「同時代人」としてすでに「一人前」であるという対等な立場から、「自己養成」、「相互養成」を繰り広げることが「リーダー養成」の新しいあり方なのである。

(1)見田宗介他 「社会学事典」 弘文堂、昭和63年2月。


パソコン・パソコン通信と青年
 〜成熟したネットワークとは何か〜
                       西村美東士

1 パソコンの急速な普及と未成熟性

1−1 青少年から始まったパソコン
 カリフォルニア州の「シリコンバレー」では、60年代以降、トランジスタからICへ、そして数ミリ角の面積に数千から数万の素子を組み込んだLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、1971年インテル社から4ビットのマイクロプロセッサーが出される。
 マイクロプロセッサー(MPU)は、LSIによって構成され、中央処理機能(CPU)としての役割を果たすものである。これに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピューターすなわちマイコンになる。
 しかし当初すぐに、日本のコンピューターのメーカーが、マイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。大手企業が家電製品の中ににマイクロプロセッサーを組み込むということはあったが、コンピューターメーカーが個人用のコンピューターなどというものを本気で考えるようになったのは、ずっと後の80年代からである。
 マイクロプロセッサーをマイコンとして使おうとしたのは、最初は青少年を中心としたホビイストたちである。そういう人たちに向けて、ごく小さな会社が「キット型マイコン」を売り出したのであった。初めにマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「巷の青少年」だった。これはこれでブームにはなったが、そのころのマイコンブームは秋葉原などの露店を拠点とした、ごく一部の人々によるものであった。
 その後、80年代に入って、ようやく日本でもキーボード、ディスプレー、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、以降、それは大変な勢いで普及している。これが今日では、「パソコン」(パーソナルコンピュータ)と呼ばれているのである。
 この普及のきっかけになったのは、「インベーダー」が大流行した1979年に発売された、日本で初めてベーシック言語を搭載したパソコン(日本電気のPC8001)である。しかし、このベーシック言語もまた、じつは大学中退の青年たちによるベンチャー企業のアスキー社がアメリカから持ち込み、メーカーに「なんとか」採用してもらったものである。
 また、今日、隆盛をきわめているパソコンソフトの一つの「表計算ソフト」も、1979年、アメリカで社員わずか2名の会社から「ビジカルク」が発売されたのが最初である。これがマイコン(当時はアップルコンピュータ)を有能なパソコンに変えるソフトとして、以降のパソコン利用に大きな影響を与える。パソコン文化は、従来の商業文化よりははるかにアマチュアやベンチャーの文化であり、そのユーザー寄りの発想が新しい文化をつくりだし、既成のメーカーはその後を追ってきているのである。
 しかし、当時のパソコンの主体は「ゲーム」であった。1972年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出されているが、その後、日本では「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」といったLSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがパソコンに移植され関心を呼ぶことになったのである。
 この数年パソコン通信をやっているSさんは、私からのインタビューで次のように言っている。「(1979年にPC8001を買ったが)まったくのゲームマシンでした。というか、そのころはやはり(マシンが)おもちゃにしかすぎなかったんですね。それでベーシックでプログラムを組んだり、マシン語の雑誌に出ているプログラムを入力して、非常に速いスピードのインベーダーを組んだりとか、そういうレベルでまあ面白かったわけです。それでもけっこう時間をくってましたね」。
 このように、当時のパソコンによって、Sさん自身の言葉を借りれば「機械と人間との対話が成立」し、「ハイテク志向というか、コックピット症候群というか、少年のころ抱いていた憧れが、ついに手に入ったという感動」を青少年は味わったのである。

1−2 パソコンの機能と新しい文化
 80年代以降、パソコンは急激に普及する。本体だけならステレオを買うような値段で買えるようになったからである。しかも、従来の家電製品と違って、多機能である。
 パソコンは汎用的なので、その機能はどのようにも解釈できる。しかし、技術的視点はともかく、パソコンの社会的、文化的な分析の視点から、私はその機能を図表●1のように整理してみた。
 今や、パソコンは青少年の専売特許ではない。図表●1のようなパソコンの多機能化、高機能化が、特にキャッチアップ志向の人々の関心をひき、大衆化が促進されている。
 そして、文化が「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」(クラックホーン)だとすれば、ここには新しい特殊なパソコン文化というべきものが存在する。ここでパソコン文化とは、「パソコンの発明と量産・普及という技術的条件によって、新しく生まれつつある生活のスタイルや価値観」としておこう。
 そもそも、パソコンは、仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をさせることができる機械である。この「汎用性」が、パソコン文化の新しさの最も基本的な要因となっていると考えられる。
 第一に、「汎用」であることから、一人一人の個別な要求に沿って、多様な仕事をすることができる。従来の大量生産、大量消費による文化の「画一化」とは、様相を異にする。この「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する。(個別性)
 第二に、「汎用」ということから、パソコンという与えられた「箱」だけあっても何の役にも立たないということになる。この「箱」を役立たせるためには一人一人の何らかの主体的力量を必要とするのである。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことに始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには「簡易言語」などによって簡単なプログラムを自分の手で作ってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者の「わずらわしさ」を解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたのとはまったく逆に、パソコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)
 第三に、「汎用」ということから、今までにだれも考えつかなかったような仕事をさせることも可能である。お膳立てされたものの「利用」にだけ役立つのではなく、個人が自由に工夫をこらして仕事をさせる余地がある(創造性)。しかもその「工夫」の結果が明快に表れることから、大きな達成感を味わえる。
 このように、パソコン=パーソナル・コンピューターは文字通りパーソナルな汎用的道具として登場している。そして、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは異なる文化を生み出そうとしている。それはひと言で言えば、文化面における「個人の自立」を保障するものであり、また、機械側の事情からも、それを人間に要請するものであるのだ。

1−3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化
 しかし一方で、パソコンがそのような使い方をされずに、従来の「産業文明」の枠組の中で利用されている現実もわれわれは認めざるをえない。パソコンの普及があまりに急速であったため、パソコンの新しい文化創造のツールとしての可能性がまだ十分には発揮されていないのである。
 その一つはパソコン利用の「孤立化」である。
 「テクノストレス」下の人々にとって、コンピューター相手の仕事は苦役ではない。むしろ与えた仕事をものすごい速さで正確にこなしてくれるコンピューターに、慣れ親しんでいる。しかしその分、「のろま」でイエス・ノーのはっきりしない本物の人間とは、つきあっていられなくなってしまうという。●1
 しかもパソコンは、いったんマシンに向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きで、まったく他人に関係のない内容の仕事をさせ、その成果を一人で味わい、満足することができる。パソコン利用そのものが即目的化してしまう。極端に「パーソナル」なのである。
 もちろん、たとえば「表計算」であれば、ディスプレーを前にしてみんなでわいわいやりながら数字をあれやこれや変えてシュミレーションしてみることができることなどからわかるように、パソコン自体は人間の交流を拒絶するものではない。むしろ、使い方によっては交流を促進する機能を発揮する。ところが、そもそも人間の行っている組織運営が、それを実現するほど柔軟ではない。
 二つは、マシンの「単機能化」と利用形態の「専門化」と、そのことによる人間の「没主体性」である。
 たとえば、ワープロやビデオテックスなどは、パソコン機能でカバーできるのだが、別途に専用機として売り出されている。このようにメーカー側がパソコンの「汎用性」を減らして、扱いやすいけれどその分、出来合いの仕事しかしない専用機の生産に傾くならば、パソコンは今までの家電製品と変わりないものになってしまう。実用化、焦点化された分だけつまらなくなってしまうのである。誰にもわかりやすくということは大切なのだが、それはたとえばシステムがシンプルであり、ソフトが親切であることのはずなのである。
 また、ユーザーの側も、市販ソフトでゲームに興ずるなどのパソコン利用の初歩の段階で満足してしまうなら、「汎用性」は活かされない。あるいは、企業活動の面でも、「パソコンオペレーター」という専門家に任せる方向をとるならば、それは「産業文明」におけるオートメーションによる分業化となんら変わらなくなってしまう。
 職場などにおいて人間は何も考えずにコンピュータにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性をコンピュータ文明はもっている。これは極端に「専門化」した利用形態である。
 実際、職場にワープロが導入された初期のころは、多くの上司は、自分で手書きした文書まで、部下にワープロで「清書」するよう命じた。しかし、本来、ワープロはその豊かな機能から見て、「清書マシン」ではなく「推敲マシン」というべきである。人間の側の役割である若干の苦しみを伴う「推敲」を完成した時点で、マシンの方が「清書」を完成させてくれている。ついでながら、「清書」が完成しているから、それをそのまま発信できる。このような「清書マシン」→「推敲マシン」→「コミュニケーションマシン」としての発想転換が求められている。
 もともと、パソコンはアマチュア(ベンチャー)がパーソナルに(家内工業的に)つくりだした文明である。パソコンは、アマチュアのパーソナルな、その分「全人的」な文化を支援するツールとしてとらえなおされなければいけない。
 三つは、パソコンの「物神化」である。これは、いまだ根強く残っているキャッチアップ志向の一種であり、「ハイテク強迫症」のなせるわざともいえる。
 そこでは、パソコンの「有用性」が誇張され、それを活用しないと「時代に乗り遅れる」あるいは「損をする」という「強迫観念」が風靡する。そして、パソコンマシンというメカ=「物」自体が「神」のように崇め奉られ、パソコンを必要に応じてどう役立てているかではなく、新しい機器をどれだけ使っているかが、個人や組織の評価の基準になってしまう。
 しかも、これに呼応してパソコンメーカーは次々と「上位」機種を発売する。「4年で半額になる」といわれるまさに「成長市場」(「成熟市場」ではなく)のコンピュータ関連企業にとって、それは今のところの経済社会における役割と言えなくもない。
 しかし、本質的あるいは将来的にはパソコン文化はこのような「物流」の世界のものではなく、「情報化社会」を基盤とする文化というべきである。というのは、パソコンはその汎用性と使い勝手の良さの保持のためには、シンプルな方が良い。個別の用途のためには、個別のソフトなどでまかなえる。だとすれば、その時に重要なものは、もはやメカの良し悪しではない。重要なのはソフトを含めた「情報」であり、もっとつきつめて言えば、本来の「神」であるべき「情報」、すなわち人間の発信内容そのものなのである。これらの「情報」は、物流ではなく、電子的に瞬時にやりとりできる。
 このようにして、情報化社会では、情報ツールが良質であることを前提に、「モノから情報へ」と価値観が転換される。ツールのための議論は二次的なものとしてとらえられるのである。
 ところが、そのためには今日のパソコン生産では残念ながら不十分である。そのもっとも大きな問題は、ソフトなどの機種間のコンパチビリティー(互換性)の欠如である。この「欠如」も「買い換え」を誘発するためのメーカーの戦術であろうが、そのためにせっかく豊かに作り出されつつある「情報」の方が容易には流通・共有できなくなってしまっている。これは、社会的損失である。
 その点、パソコンの万国共通の設計思想(TRONなど)が「有志」(企業ではなく)の手により構築され、財産権としての著作権を放棄までして提唱されていることは、コンパチビリティーの重要性を示すと同時に、私たちにこの問題に関する楽観を与えてくれるものでもある。さらに言えば、人々のコンピュータリテラシーの修得を公的機関が援助することは、こういうことを理解し、応援することのできる「賢い(情報の)消費者」になるための学習を援助することなのである。

 さて、私が今日のコンピュータの「物神化」傾向にもっとも対比されるべきと考えるものが、パソコン通信によるパソコン利用の「成熟化」である。
 ある自動車評論家は「高性能を誇示して特殊化、異端化することを嫌い、それをごくフツーのものとして軽く受け流しているような自動車をむしろオシャレなクルマとする動きがすでにある」●2と指摘し、この自動車の消費動向を「成熟化」としてとらえている。
 私はパソコン通信がまさにこれであると考える。パソコン通信は、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したニューメディアの一つとして、多量の情報を高速にやりとりすることができる。しかし、パソコン通信をする人たちにとってそのような「モノ」それ自体の素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。それよりも、「双方向性」をもったニューメディアであるという点が重要である。
 パソコン通信はたいした「覚悟」なしに手軽に参加できる。しかし、その参加は手軽ではあっても、そこでの情報交流は直接的であり主体的である。これがパソコン通信の魅力なのである。
 事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を良しとする。さまざまな機器の助けを借りていることは忘れてしまって、機器が「透明」になる感覚を良しとするのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。
 豊かなモノに囲まれた現代青年にとって、パソコン自体はあこがれの対象にはなりえない。情報交信ができるというパソコンの本質を知っている(クオリティ・コンシャス=「クリ・コン」)だけのことなのである。クリ・コンの人は、成長時代の「ブランド依存」の人たちのようにモノをステータス・シンボルなどとしては扱わず、自分で実際に試して良ければ、その人なりに「使いこなして」いく。モノを「溺愛」するようなことはしない。
 「大衆文化」の新しいトレンドとしての「パソコン文化」を見極めていこうとするなら、成熟したパソコン利用形態としてのパソコン通信こそ、われわれの関心の対象とすべきである。これを、ネットワークとしてのパソコン通信と呼びたい。後半は、このことについて述べる。
●1 「テクノストレス」、クレイグ・ブロード、
●2 「フツーの車が人気化」、舘内端、日本経済新聞、1987.9.6

2 ネットワークを体現するパソコン通信

2−1 パソコン通信の経済性
 今日のハイテク化の進行は、人々のライフスタイルや文化に大きな影響を与えている。あるいは、今後おおいに貢献する可能性を秘めている。とくに高度に発達した情報技術は、市民の主体的な「情報交流」のための社会的基盤を提供する可能性を有している。
 とりわけ、ここではパソコン通信に注目したい。パソコンと電話をもっている人なら、あとはその二つをつなぐモデムを買えば、在宅のままリアルタイムな情報検索と収集、そして「情報発信」ができる。
 モデムは2万円ぐらいで買える。パソコン本体も最近では、簡単なワープロやファミコンなどでも可能になってきた。会費が無料のネット(パソコン通信サービス)もかなりある。また、商業ネットの場合、大型コンピュータによる高度なサービスが受けられる。ネットワークによって、生涯所得以上の莫大な費用のかかる大型コンピュータのシステムを、あたかも個人所有しているような利用の仕方ができるのである。
 あえて問題をあげれば、それは電話料金であろう。市内電話なら、1時間通信して200円だが、毎日欠かさず3時間以上も通信しているネットワーカーには、1カ月2万円にもなってしまう。市外なら、なお大変である。ちなみに、アメリカでは市内電話は基本料金に含まれているので無料であり、そのためか、日本よりもパソコン通信が盛んである。●1
 しかし、いずれにせよ、一般的な利用を想定するなら、パソコン通信はすでにパソコンを持っている個人にとっては、すぐれたコスト・パフォーマンスを保障するものといえる。

2−2 新しいコミュニケーション環境
 ひと言でいうなら、パソコン通信は、情報処理なら「何でもできる」。もっとも、パソコン通信でテレビのニュースを見ることはできないのだから、正確にいえば「もっぱら、文章としての情報の処理なら」と限定すべきであるが。(現在、メンバーが作ったプログラムや静止画のやりとりは行えるようになってきている)。
 たとえば、発信された情報を次から次へとためこむ。それをどんなメンバーでも、読んだり、反応(レスポンス)を加えたりすることができる。逆に、特定のメンバーや個人にだけ、読めるようにすることもできる。あるいは、発信内容をためこまないで、その時アクセス(交信)している人だけで、ふだんの会話のようにやりとりすることもできる。また、情報発信者、発信内容、発信日時などが自動的に記録されるので、株式や商品の注文、会合などの参加申し込みに使うことも可能である。図表●2に、実際のアクセスの流れを示した。
 パソコン通信が可能にしたこのような情報処理の条件は、新しいコミュニケーション環境を私たちに提供するものである。パソコン通信は、ニューメディア=「新しい」メディアなのである。その「新しさ」の特性を端的にまとめるならば、次のとおりである。
 第一に、双方向的である。しかもそれは、「反応分析装置」のように、一方の側の目的に奉仕するものではなく、双方の主体的な意思と行為に基づくものである。
 第二に、即時的(リアルタイム)である。情報発信者が発信したい時に発信する。その瞬間、他者によるその情報の受信が可能になる。もちろん、他者はそれ以降の自分の都合の良い時間に、それを受信することも可能である。
 第三に、空間超越的である。つまり、交通手段などの物理的制約がない。在宅時はもちろん、電話がある所ならどこでも同じ条件で通信できる。
 第四に、蓄積が可能である。発信された情報をホストコンピュータなどに蓄積することもできるし、受信者が好きな情報だけ自分のパソコン(端末)に保存することもできる。
 第五に、検索が可能である。ホストに蓄積された情報は、メニュー化されて表示される。ここから、自分のパソコンで指令して、欲する情報を引き出すことができる。
 第六に、端末処理がかなり自由である。通信内容を自分のパソコンに文章(テキストファイル)として記録できる(ダウンロード)ので、自分のパソコンを利用して、あらためてそこから必要な記事や箇所だけを抜き出したり、加工したり、プリントアウトしたりすることができる。通信内容が、簡単に安く「印刷媒体化」されるのである。
 テレビも出た当時はニューメディアだったのではないかという人もいる。しかし、今日のニューメディアは、情報が電子化されることによって、大量、迅速、かつ応用自在に流通するようになっていることが、今までのメディアになかった特徴である。パソコン通信も、後者の意味での今日的なニューメディアの一つである。
 しかも、パソコン通信はニューメディアの一つであるだけにとどまらない。すなわち、他のニューメディアより、その「双方向性」がけたはずれに強力である。この「双方向性」が、パソコン通信を楽しく、きびしい独特のメディアにしている。

2−3 スタンド・アローンがネットワークする
 私は、ネットワークの特性は「自立」と「依存」の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。「スタンド・アローンがネットワークする」のである。
 このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「依存関係」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「依存関係」が対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。●2
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これが、一定の「安定」をもたらした。
 しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。「安定」のみを重視する人には耐えられないシステムである。
 それゆえ、ネットワーキングとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。その意味で、ネットワークは人間以外の動物にはありえないものである。
 ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚を呼びさましてくれる。しかし同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものでもある。
 パソコン通信がこのような意味でのネットワークシステムであることを保障する第一の条件は、繰り返しになるが「双方向性」である。
 複数、または多数の他者をNとするなら、テレビは1→Nである。電話は双方向ではあるが、基本的には1←→1である。これに対して、パソコン通信では、1←→1(電子メール)、1←→N(電子掲示板)、N←→N(電子会議)などを自由に使い分けることができる。
 パソコン通信がネットワークシステムであることを保障する条件として、私は次に「スタンド・アローン」をあげるべきだと考えている。
 パソコンは本来、スタンド・アローンなマシンである。パソコン通信の通信内容も、個人のパソコンを使って、個人の個別な行為によって、作成・加工・編集される。その個別な行為の中で、個人の自立が育まれ、また、ネットワークが歓迎する個別性と多様性が生まれるのである。
 このように、パソコン通信におけるパソコンは、情報の相互依存のための「ターミナル」(端末)でもあり、「スタンド・アローン」な情報処理ツールでもある。このことが、ネットワークシステムとしてのパソコン通信を保障し、ひいては、情報技術が進行しても、人間がそれに「管理」されることなく、主体的に情報に関与できる可能性を開いているのである。
●1 「パソコン市民ネットワーク」、岡部一明、技術と人間社、1986.12.
●2 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」については、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)。

3 パソコン通信における新しい「知」と「集団」

3−1 ROMの存在
 コンピュータにはロム=ROM(Read Only Memory=読取専用記憶装置)という技術用語があるが、パソコン通信の世界では、いつまでたっても「読むだけの人」をROM(Read Only Man)と呼ぶ。ROMは、ネットが提供するデータベースやネットの中の他人の記事を読むことによって、自分だけが「情報を得よう」としている。それが「エゴイズム」だとして、パソコン通信の愛好者=パソコンネットワーカーから軽蔑される。
 情報収集は得であるが、情報発信は得にならないというROMのような「思い違い」は、普通の社会にはある。しかし、すでに述べたとおり、パソコン通信は自らも発信する双方向のメディアである。自ら発信しないのなら、別にパソコン通信でなくてもよい。「情報を発信する所に、情報は集まってくる」という原理が有効に機能するところにこそ、パソコン通信の魅力がある。
 パソコンネットワーカーたちは、この「READだけでなくWRITEを」ということに、異常に見えるほど固執する。初心者が入ってくると、何とかその人に書いてもらおうと、懇切丁寧に技術的な情報提供をする。逆に、ネットワーカーが吐く「最大の捨てゼリフ」は、「こうなったら、僕はしばらくROMになってやる」である。自分のWRITEを自負しているのだ。
 じつは、WRITEは、彼らにとってより有益な情報を収集するための一つの方策などという「低次元のもの」ではない。WRITEすることによってのみ、人からのレスポンス(反応)が得られる。あるいは、READすることによって、WRITEした人にレスポンスを返すことができ、それがまた書いた相手からリ・レスポンスを得るきっかけになる。このようなREAD←→WRITEの循環の中で、自己の発言に(個別の)レスポンスが与えられることこそがパソコン・ネットワーカーの至上の幸福なのである。
 だから、どんどん書きまくるけれども、だれもレスポンスする気のおこらないような記事ばかり書く人も、ウォム=WOM(Write Only Man)、または「ヒーロー」と呼ばれて、ROMと同じように軽蔑される運命にある。
 パソコン・ネットワーカーのこのような志向は、「レスポンス至上主義」と呼べるだろう。これは、レスポンスを発する個人の主体性、他からのレスポンスを獲得できる個としての魅力を要請するものであり、また、自己の他者への、他者の自己への影響、すなわち相互の依存関係を最大限に尊重し、歓迎するものである。これは、ネットワーク一般の志向とぴったり符合する。
 このようにして、技術としての情報化が進行する中で、パソコン通信は結果として情報化社会の健全な発展に貢献するものになりつつある。なぜなら、「得する」情報を求める受動的情報摂取の志向、「情報ものとり主義」ともいうべき志向を克服して、主体的で確かな、情報と認識の交流のネットワークを構築することが、情報化社会の「健全な発展」に不可欠だからである。
 しかし、現実には、自分にとっても他人にとっても理想的にWRITEするためには、困難が多々ある。
 第一に、パソコン通信は「書き言葉文化」なので、慣れるまでは少し「しんどい」読み書きの作業が強いられる。最初は電話のような気軽さはない。とくに自己の思考を文章で表現することは、つらいものである。「読み・書き・算」のうちの二つも能力が求められる。真の意味での「学力」の不足は、ここでは直接的に影響し、その人の情報行動を消極的にしてしまう。
 ただ、青少年の場合は、「交換ノート」のような「ノリ」で気軽に読み書きしている。これが、新しい「書き言葉文化」を形成しつつある。
 第二に、「知の防衛機制」が働く。すなわち、恥や照れによる消極化である。実際、「話し言葉」でなく「書き言葉」を公表することは、他の人に、しかも見も知らぬ人に自分の「あさはかさ」を知らすようで、恐ろしいものである。
 「恐れを知らない」青少年にはともかく、「分別ある大人」にとってはとくにそうである。一人でできるコンピュータ支援学習=CAL(Computer Assisted Learning)が「相手が機械だから、何をどう答え、質問しても恥ずかしくない」という理由から、意外にそういう「大人たち」に好評なのと対照的である。
 第三に、WRITEするためには、その前後を含めてかなりの時間がかかることがある。というのは、パソコン通信ではオンライン(電話回線を通じたまま、ホストのコンピュータにパソコンから直接、記事を書き込むこと)で、二言、三言の短信を手軽に書き込むこともできるのだが、一度書き込むと、予想外の量や内容のレスポンスがあったりして、その対応(リ・レスポンス)に追われることがある。これは、多忙な人にはかなりの負担になるのである。
 このような意味で、パソコン通信の「大衆化」の前途は厳しい。あるパソコン通信を行う会社の経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下の方になるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ。」という趣旨の発言をしている。
 たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって、単純にROMの存在を不可避とし、パソコン通信の可能性を軽視することは問題であろう。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この「発展」を継承せずに、消極的な理由から「動画」に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。
 情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、ROMの存在に象徴されるパソコン通信の「困難」は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない知的試練としてとらえるべきではないだろうか。

3−2 新しい「知」の誕生
 パソコン通信は、ROMの存在に示されるようなやっかいな問題をかかえつつも、「知」の新しい傾向を生みだしつつある。
 その一つは知の「ボランタリズム化」である。
 たとえ同じネットワークを組んでいる人でも、自分の財産を奪おうとする者は許せないだろう。しかし、一方で、自分の知の成果を「盗む」者に対しては、寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うのである。パソコン通信において、たとえば「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください。」という「パプリック・ドメイン・ソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。
 人間には他者に対して影響力を持ちたいという自己実現欲求があると考えられる。情報化が進展することによって、その欲求を平和裏に充足させることが可能になっている。なぜなら、他の本がたくさん出版されたからといって、一つの本の価値が薄まるわけではないように、そもそも「知」を情報の流通に乗せる場合、権力や所有にからむ争いとは対照的に、競合性・独占性が少ないのである。
 そしてプログラムづくりやWRITEなどの「知的生産」は、その知を他者にアウトプットするものという意味で、不可避的に社会的存在であるといえるが、ボランタリズムによって、さらにこれらを実際に社会の「共有物」にすることができる。
 ただ、最近、営利事業体が経営するネットにおいては、原稿料を払わずに会員の書き込みを出版するなどの二次使用に対して、会員から異議が出始めている所もある。知の発展とその流通のためには、パソコン通信一般において、書き手の著作権(財産権としての)を尊重すべきか、むしろ「無償」の「情報ボランティア意識」を醸成すべきか。議論のあるところである。
 二つめは、知の「アマチュア化」である。
 パソコン通信は基本的には、「しろうと集団」(ネットワーカー)からの情報発信である。そこでは、効率より「楽しさ」が重視され、知的喜びなども「楽しさ」の一つとしてとらえられる。産業社会にもてはやされた「手段としての情報」に対して、このような「即目的としての情報」あるいは「遊びとしての学習」は、今日の「脱産業化社会」のトレンドの一つである。
 また、「手段的情報」についても、「知的プロ」によってオーソライズされた情報ではなく、ナマ感覚(未完成)で不定型の情報と思考態度、知恵が伝わっていく。いわば「耳学問」であるが、これは今日の情報化社会において欠如し、人々から渇望されている情報である。パソコン通信では、このような情報と知が、いとも気軽に安易に文章(テキスト文)として量産されているのである。
 一方、一部の「知的プロ」は、この種のアマチュアリズムによる知の可能性に関心をもちはじめ、パソコン通信に参加し始めている。このようにして、アマチュアとプロの「無境界化」が進行する。
 そして、これらの「知のアマチュア化」は知のネットワークを推進するファクターとなる。「どんぐり(アマチュア)の背比べ」と自嘲するパソコンネットワーカーもいるが、「どんぐり」だけに「無償」で知のやりとりをすることにやぶさかではないのである。
 このような理由で、知のネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの放電が個人の充電に直接連動する。この「相互教育」(意識化された「教育」ではないが)の実現は、個人の内面の「充電と放電の乖離」や、他者との間の知の分業の固定化を克服するための強力な手段である。しかも、学習コーディネーターが省力化できる(不要になるということではない)という意味で、経済的学習システムでもある。
 三つめは、知の「個別化」である。
 まず、パソコン通信の会員には、個別にIDナンバーというものが与えられる。これとハンドルネームというものが、すべての書き込みの発信元をつねに明らかにする。ただし、ハンドルネームは実名でなくても良いということが、かえってネットワークを活性化させる要素になっている。
 次に、パソコン通信が「書き言葉」に純化した仮想空間であることが、ネットワーカーの各「個性」を守ってくれる。椎名誠は、シルクロードを歩いたとき、自分の家のテレビで以前に見たシルクロードの映像と音楽がうかんで困ったということ、そして、テレビではなく本を読むのであれば、イメージは「防衛」されるのに、ということを書いている。●1
 つまり、こういうことが言えるだろう。今日氾濫している映像は、それぞれが具象的な「全」情報でありすぎるので、「即イメージ」として個人に浸透しすぎてしまう。それに対して、本やパソコン通信でやりとりされるような「書き言葉」は、各人固有の、あるいは自己の体験に基づくそれぞれのイメージまでは、「根こそぎ」にはしないのである。
 加えて、「相互教育」もきわめて個別化される。パソコンの世界では、各実行段階でのユーザーへの画面上のアドバイス(オンラインヘルプ機能)が充実しているものほど良いソフトだといわれている。その意味で、パソコン通信において、各人固有の「問題」に対して、ネット上で他のメンバーから援助の手がさしのべられていることは、「ヘルプの個別化」として評価されるべきである。
 四つめは、知の「雑多化」である。
 パソコン通信では、各人各様の関心が錯綜する。それを逐一、紹介する余裕はないが、代表的なものを整理すると図表●3のようになる。とくにプログラム志向の人たちはメカよりロジックに関心があり、彼らの哲学的論議にもその傾向が表われている。
 しかし、全体的にはパソコン通信はいわば「おしゃべりサロン」である。フォーマルな情報(新聞記事データベースなど)もとれるが、それよりインフォーマルな、そして不定型な「おしゃべり」の方がおもしろい。そこに、思想、情報、データ、そして交流が混在する。それらが「学習」として意識化されたものではないにせよ、実質的に各人の学習素材、学習理念、学習ノウハウ(学習の機会・場所・人材)、そして学習を励まされたり、けなされたりするコミュニケーションなどとして「相互教育」の内実を形成している。
 場合によっては、たあいない「イロ、モノ、カネ」の「学習」が新しい時代の価値を創造する人類の営みと連続する。新しい価値は、山奥の「純粋」な大学キャンパスからではなく、「余計な情報」の氾濫する「猥雑」な実社会から生まれてくるのである。
 五つめは、知の「民主化」である。
 私たちの社会には、「ああせよ、こうせよ」というおしつけがましい情報提供と、それに対する反発の無益な繰り返しがかなり多い。これらの情報は、いわば「模範解答の提示」としてとらえられる。これに対して、パソコン通信などで行き交う情報は「私はこう思う」、「私はこう聞いた」というような、あいまいなだけに受信者の判断力を要請する情報である。発信者も自分の考えがまとまらないままでも、気軽にWRITEすることができる。
 これが、パソコン通信による知(情報流通)の民主化の側面である。コンピュータ・デモクラシーとも言うことができるだろう。
 六つめは、知の「非体系化」である。
 パソコン通信においては、「知」に関連して、実用的論議(たとえば知的「技術」への関心)と根源的な問い(たとえば知的「技術」への懐疑)が対抗しつつ共存している。しかし、前者の「情報」は共有されやすいが、後者の情報は共有されにくい。つまり、「技術」に対して「発想」や「体系」というものは、個人の深い内面に関わるものだけに「個別的」なのである。このことは、「異種の交流」をめざすネットワークにとっては好都合であるが、厚みのある「体系」の継承・発展のためには不利である。
 そして、パソコン通信の中では、知が「雑多化」する分、「体系」に関する情報まで「断片化」していく。そのため、メニューなどのシステムがいくら改善されたところで、それらの情報を個人が「自由にわたり歩く」ためにはかなりの知力を要する。システムとしては、そういう「厚み」のある情報も含めて、情報が自由に選択できるのだが、それを選択する能力としての自己の「知的体系」などが備わっていないのである。
 最近、「反情報」ともいうべき知的態度を見受けることがある。理科系のパソコンネットワーカーの中にも、こと哲学的な問題に関しては意外にそういう立場の人が多いのは興味深い現象である。すなわち、情報や知的生産の技術をいったん断ち切り、自己や自然との対話をすることこそ、むしろ「発想」や「体系」の源泉であるというのである。
 また、ネットワーク社会において、既存の「権威」が失墜し大衆化が進むにつれて、せっかくの「古典」や「大作」の遺産も無力化してしまう。それと同時に「重厚長大な知」も崩壊していくのである。
 直接体験がもつ自己への「教育力」と比べて、情報のもつ「教育力」があまりにも無力なのか。しかし、後者を少しでも有効なものにしていくことこそ、情報化社会の主要命題なのであろう。そこでは、「体系」や「発想」の伝え合いを含めた厚みのある「情報共有」と、それを実現する基盤としての新たな「集団性」の構築が求められる。

3−3 新しい「集団」の形成
 パソコン通信のネットワーカーたちは、「電子的仮想空間」を媒体とする新しい「集団」を形成している。
 すなわち、従来、集団は「人為的、単一機能的、合理的」←→「自生的、複合機能的、情緒的」という二つのパターンで代表されていたのだが、パソコン通信は、「明瞭な人為性」、「諸単一機能の交錯」、「合理性と情緒性の混在」、「個人的行為と集団的行為の混沌化」という新しい集団を形成している。このようにして、近代的機能集団の中で「ハイタッチ」を実現している。
 そして、「電子的仮想空間」であるから、「広域」であり、物理的・精神的に閉じ込められた狭い世界のワクを突破することができる。
 それでは、パソコン通信の「集団」は、どういう点で現代人に好まれる「ネットワーク型」といえるのか。
 まず、パソコン通信においては、「撤退する自由」がある。「仮想空間」であるから、撤退しても生活に響かない。「撤退する自由」の上で、論争などの他の人との「ゲーム」を行えるのである。「親しくなりたいけれども、自分は傷つけられたくない」と言って、他者が近づくと針を逆立ててしまう「山アラシのジレンマ」●2に冒された現代人にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。
 もちろん、ネット上でのけんかもたまにあるが、それを含めてすべての「論争」は、率直にさわやかに他者を批判できる知的風土を形成するためのシミュレーションと考えられる。
 そして、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向を意味する。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがパソコン通信の醍醐味である。
 しかし一方で、パソコン通信の新しい「集団性」は、たとえ現代人に好まれるといっても、フェース・ツー・フェースのコミュニケーション能力を減退させ、電子上でしかコミュニケートできない人間をつくりだす危険性をもっているという批判もある。実際、「パソコン通信ばかり」している青少年もおり、そのパーソナリティー形成への影響は心配されて当然かもしれない。
 「共感」や「感動」はナマの人間に対してあるのであり、情報やメディアそのものに対してあるのではない。情報から「人間」を嗅ぎとり、その人間に共感することは、仮想空間でもできるが、そこには限界があることもたしかである。この「限界」は在宅メディアすべてに通じる基本問題でもある。
 私は、だからといって従来の「空間的集合」による方策(たとえば集合学習など)を単純にむし返すのでは、後向きだと思う。過去の「集団」ではついていけない人、あるいはあきたりない人が現にいるのである。むしろ、フェース・ツー・フェースのコミュニケーションを模擬・増幅・補完するパソコン通信の機能を評価したい。
 最近、「パソコン通信燃え尽き症候群」が取り沙汰されている。今まで毎日のようにアクセスしていた人が、電子上では週末ぐらいしかアクセスせずに、むしろ「アイボールミーティング」(目玉であうこと=宴会・集会など)をせっせと開催し始めているというのである。●3これは、通常、「バーンアウト」によるパソコン通信離れと言われている。
 しかし、この「燃え尽き症候群」は、パソコン通信の「危機」ではなく、じつは可能性を表すものではないか。パソコン通信だからこそ、家族や学校や職場以外の人との「出会い」のきっかけになりうるのだ。「アイボールミーティング」などは、現代一般のコミュニケーション阻害を克服する営みの一つといえるだろう。しかも、パソコン通信に「埋没した」生活ではなく、「一般人」でもできる常識の範囲内のアクセス回数になってきているという。「燃え尽き症候群」は、むしろパソコン利用の成熟化の端緒といえるのではないか。

 パソコン通信で何が「通信」されるか、だれも計画や予想はできない。それゆえ、押し出す先の決っている「プッシュ型」の教育の観点からは、パソコン通信は関心の対象外になりがちである。
 行政ばかりか、「ユーザー教育」の重要性を唱えるパソコンメーカーでさえ、パソコン通信の通信内容に関しては、あまり「敬意」を払ってはいないようである。ただ、ネットワーカーたちは「自立的」であるから、メーカーに「評価」も「ユーザー教育」も求めていない。むしろ、たとえばパソコン通信サービスを行っているメーカーなどに対して、「キャリアー」(運搬者)に徹してくれればよいと言っている。
 しかし、これからますます発展するであろう情報化と人々のネットワーク化は、すでに述べたように、大きな可能性とともに、どうしても克服しなければならない問題性をもっている。その問題の克服のためには、「不易」を「体系的」に提示しながら、イロ・モノ・カネに関わるなまなましい「学習」需要もみくびることなく、それが量的にも質的にも発展するよう促す「プル型」の援助の姿勢が社会にも求められる。
 このような姿勢でパソコンネットワークを援助するならば、それは「学習者の現在の自発性を尊重しながら、今後の自主的能力を育成する」という、一見、「自己撞着的」な教育理念を実現するための「偉大な試み」になるのである。
●1 「活字のサーカス」、椎名誠、岩波書店、p210、1987.10
●2 「山アラシのジレンマ」、L.ベラック、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、1974.1、もとはショーペンハウアー。
●3 「転機に立つパソコン通信」、松岡資明、日経パソコン、1988.8.22
◆東京都府中市
  13万uまるごと博物館
−−歴史・文化・自然を融和させた「郷土の森」−−
 入口を入ってすぐの芝生広場は「ゆとり」にあふれていて、思わずホッとため息が出る。広い園内は市民の「憩いの場」そのものである。
 ここの職員も、そう受けとめられることを歓迎しているようだ。「13万uまるごと博物館」というコピーも、職員が作った。たしかに「ホッとため息を」ついた時こそ、歴史や文化を受け入れる用意が心の中にできるのかもしれない。
 「府中市郷土の森」は、昭和六二年四月、多摩川のほとりに「総合博物館」としてオープンしている。
 中枢施設として、延床面積七千uのりっぱな博物館本館が置かれている。その常設展示は、自然・考古・歴史・民俗の四分野にわたっている。また、本館の中には、日本最大級のプラネタリウムもある。そこでは、全天周映画(アストロビジョン)も、マルチ音響で映し出される。当日は、スペースシャトルの打ち上げを放映していた。
 しかし、「郷土の森」はあくまでも園内が全体として博物館なのである。十三万uの敷地の中央に、立川段丘崖(ハケ)を造成し、ハケ上に町場の民家を、ハケ下に水田農家を復元している。
 また、園内一帯は、広場と滝・流れ・池・野外ステージなどが組み合わされた多目的ゾーンである。その日も、七、八人のテニスルックの主婦のグループが、芝生で弁当を広げていたし、子どもを人工浅瀬で遊ばせながら、その横でビールを飲んでくつろいでいる父親もいた。缶ビールは、園内の売店で売っている。
 そして、たとえば梅園では琴、尺八の演奏会を開きながらの「梅まつり」(梅は市の花)が、水田では子どもたちの「コメッコクラブ」による米づくりが行われる。このように、娯楽と個人学習と集会学習と集団学習が、「郷土の森」のあちこちで自由にのびのびと展開されている。
 園内のほとんどの「展示」が、さわったりできる「体験型」である。そこで、旧町立尋常高等小学校の教室に入り、昔の木の机(生徒用)に向かって座ってみた。府中に住んでいたわけではない私でさえ、なつかしい気持ちになった。
 府中というベッドタウンに新しく転入した何人もの市民が、この「郷土の森」を訪れて、このようにして府中を好きになってしまうのだろう。
      (生涯学遊研究会 西村美東士)

タイトル 生涯学習要求調査の結果がレクリエーション的なものばかりになった場合、
タイトル どのように調整していったらよいのですか?

レクリエーションの重要性

 生涯学習の振興とは、住民の主体的な学習・文化・スポーツ・レクリエーションのすべてがいきいきと行われるために必要な条件整備をすることです。ですから、レクリエーション的な要求が多い地域では、まず、レクリエーションのための施設・設備などを含めて、それが活発に行われるための条件が十分であるかどうかを再点検しなければなりません。
 余暇が増大し、高齢化が進展するなどの急激な社会の変化の中で、人間性をとりもどしたり、ますます豊かなものにするためにも、レクリエーションは重要です。
 生涯学習要求調査の中での「レクリエーション的な要求」が、住民一人ひとりのどういう源から生まれでてきているのか、そして、どんなレクリエーションを住民が望んでいるのか、まずは調査からできる限り読み取るよう努めるべきです。

地域課題の導入の可能性

 このように住民の学習要求を細かに見ていくと、「顕在的」な要求ばかりでなく、直接は調査に表れにくいけれども、調査全体からは見え隠れする「潜在的」な要求も少しづつ明らかになってきます。その一つが地域における人々の連帯でしょう。
 芸術の鑑賞や旅行などのように、一人、または家族で行うレクリエーションも大切です。しかし、レクリエーションが人間回復をめざすのなら、それは一人ひとりの孤独な営みだけでは、けっして「完遂」することはできません。人間どうしの連帯感を味わうことができてこそ、レクリエーションの大きな喜びがあるのです。
 今日の地域社会は、さまざまな問題をかかえています。とくに、地域の連帯意識や共同性の弱体化は、自立性の衰退、住みにくさ、地域教育力の減退による子どもの非行化などの主要な要因の一つになっています。これらのことも、住民の深刻な学習要求として表れているはずですが、レクリエーション的な要求をしている人は、それとは別で、そういう要求をもっていないということではありません。むしろ、連帯感があふれるレクリエーション、地域の連帯をつくりだすレクリエーションを、「顕在的」あるいは「潜在的」に求めていると考えられるのです。ここに、「レクリエーション的な要求」が、地域課題にむすびつく可能性を指摘することができます。
 たとえば、自治体の生涯スポーツの取り組みの中で、三世代交流のゲートボール大会や、地域対抗のソフトボール大会などが行われています。これらは、「顕在的」なスポーツ・レクリエーションの要求に応えながら、地域の連帯感の涵養によって地域課題にアプローチする試みとして評価できます。

生涯教育の基本方針からみた調整のあり方

 上に述べたように、住民の学習要求(文化・スポーツ・レクリエーションを含む)がある場合、それがささいに見えるものであっても、その活動が自主的にいきいきと行われるよう配慮することが行政には必要です。そして、その学習要求をていねいに分析することによって、「潜在的」な学習要求もみえてくるのです。
 しかし、そのことは、「顕在」「潜在」の学習要求のすべてにわたって、行政側がそれに対応する事業を「提供」しなければならないということではありません。生涯教育の予算といえども限られているわけですから、住民の多様な学習要求を選択して事業として提供する行為が必要になります。その「選択基準」をプライオリティー(優先度)といいます。プライオリティーには、緊急性、切実性、公共性などが考えられます。いずれにせよ生涯教育行政が責任をもって、住民の支持を得ながら、その基準を明らかにしていかなければなりません。
 その時、調査からは引き出せなかった学習課題も、場合によっては事業として設定することがありえます。生涯教育の事業は、調査を平板に受け止めるだけでできるものではなく、「選択行為」のプロセスから動的に創り出されるものなのです。もちろん、この「選択」は住民の生涯学習の活動に対して行われるものではありません。あくまでも、生涯教育行政が自ら提供する事業を設定する時に必要になるものです。タイトル 高齢者教育における学習課題をどのようにとらえればよいのですか?

ジェネレーションとライフステージ

 まず、成人一般の学習課題の把握が必要です。次に、高齢期特有の学習課題をとらえるためには、大きく二つの観点が考えられます。一つは、高齢者として同じ歴史的体験をしてきて、関心や考え方などに共通するものがあるというジェネレーション(世代)の観点、二つは、それぞれの高齢者が年をとること(加齢)によって受ける心身への影響に、共通するものがあるというライフステージ(発達段階)の観点です。
 前者のジェネレーションの観点で言えば、戦前に青年期を過ごしてきた人間が現代を生きていく時の、苦悩、喜びなどを理解し、それを援助するとともに、現代社会が反省しなければいけないことを、今の社会の一員として有効に提起してもらうために必要な学習課題にも、目を配ることが大切です。
 後者のライフステージの観点については、森幹郎氏の指摘が重要です。それは、老人問題を論ずる場合、暦年齢chronological agesではなく、社会年齢social ages や機能年齢functional ages でとらえることが必要だということです。そして、年をとり、かつ、労働を引退した人を、「社会年齢の上での老人」(ヤングオールド)、身体的、精神的、心理的に老衰し、かつ、日常生活行動の上で他人の介護を必要とするようになった人を、「機能年齢の上での老人」(オールドオールド)として、区別して考える必要があるというのです。

個人的課題と社会的課題

 次に、高齢者教育における学習課題には、個人的な側面と社会的な側面とが考えられます。
 「個人的課題」とは、「退職後の生活設計」「余暇活動」「老いの受容」「死の受容」などに関するものです。特に、「老い」や「死」を受容するか否定するか、あるいはその事実から逃避するかは、まったく個人の精神的内面に関わる問題です。しかし、あえてそれを「学習課題」としてとらえて、その学習を援助する手だてを探り出すことが、高齢者教育を行う者にあらためて求められているといえます。
 「社会的課題」については、LESS DEPENDENCY EDUCATION =「できるだけ他人に負担をかけないための教育」(森氏)が、ポイントになります。その中味は、ヤングオールドに対しては、再就職教育、予防的健康教育、オールドオールドに対しては、リハビリテーション訓練などがあげられます。その他、核家族化が進行する今日、高齢者の知恵を活かし、また、他の若い世代と交流してもらうこと自体も、今日の高齢化社会において社会的意義をもつ学習課題といえます。

学習課題の実際の領域

 稲生勁吾氏は、ハビガースト、エリクソン、ノールズの説や国立社会教育研修所の「成人の学習領域」の研究成果などを参考にしながら、次のように、高齢期の学習課題を整理しています。
 「高齢期の理解」(老化と円熟の認識など)、「高齢期の過ごし方」(高齢期の生活設計など)、「家族とともに生きること」(家族関係など)、「社会とともに生きること」(地域社会についての理解など)、「高齢者に関する法律・制度」(老人福祉など)。
 高齢者教育における学習課題をとらえるためには、先述のような基本的な観点がありますが、そのそれぞれがはっきりした境界線をもっているわけではありません。現に、稲生氏の整理した学習課題は、それぞれがいくつかの観点からの意義を同時に有しています。現実に学習課題を選択する場合は、複眼的視点が求められるわけです。

[参考]
 (1) 岡本包治他編「社会教育の計画とプログラム」1987.1
 (2) 森幹郎「高齢化社会における高齢者教育」、稲生勁吾「高齢者教育の内容」他  国立教育会館社会教育研修所『高齢者教育の目標と内容』1987.10青山凾納戸の情報引出し550
 −コミュニケーションの情報を求める若者たち−

 青山凾納戸は、若者の街原宿から、しゃれたブティックの建ち並ぶ表参道を登った所の地下にある。「凾」とは箱のことであり、「納戸」とは屋内の物置の意味である。
 誰かに何かプレゼントをする時、DCブランドの包み紙であっても、それをそのまま差し出すのは、若者にとって「かっこの悪いこと」である。マスプロによる「既成のもの」は、もっときらう。
 ギフトをさりげなく、しかし実は洗練されつくしたデザインの箱に入れ直してプレゼントすることが、おしゃれなのである。青山凾納戸は、そういうギフティングボックスという「箱」がいっぱい納められている地下の「物置」である。

「情報引出し」はコミュニケーション型のアンテナショップ

 店内奥に「情報引出し550」がある。B5版程度で高さ4pほどの小さな引出しが、四百個ほど、ずらりと並んでいる。
 個人が描いたイラストや、創作小説、音楽などや、新しい商品のPRやアンケートも入れられる「プレゼンテーション」(提示・説明活動の意)の引出しが一カ月五五〇円、手作りのアクセサリーなどを入れて店に売ってもらうことのできる「ボックスショップ」の引出しが一カ月一一〇〇円で借りられる。危険物、薬物、風俗営業などに関するものでなければ、何でも置くことができる。
 店長の佐藤さんの感触では、契約者のほとんどはアマチュアで、その構成は「プレゼンテーション」が男女半々で、二十歳から三十歳台が全体の6割、「ボックスショップ」は女性が7割で、年齢層は二十歳から三十歳台が7割強を占めるという。概して、若い人たちに使われているといえるだろう。
 店のチラシには「アンテナショップは個人にとっても持ちたいもの、大企業だけのものではありません」とある。
 アンテナショップとは、流行を探ったり、販売に関する実験をしたりするために、メーカーなどが直営方式で展開する店舗のことである。そのチャンスを個人にも提供しようというのだ。実際、自分の描いたイラストを入れて売ったり、自分たちのバンドの音楽をテープに入れて宣伝する引出しなども数多くある。
 しかし、それだけではない。自分の近況報告を書いたノートを入れたものや、「お友達になりませんか」というものもある。また、前者のイラストや音楽の引出しには、「あなたの絵が好きです」とか、「とにもかくにもがんばってくださいね」などというメッセージが他の人から投げ込まれていた。どちらも相互の「通信」が行われているのである。
 「通信」は、交換日記のようにしてノートに蓄積される場合もあるし、それぞれが紙切れに書き込む場合もある。そして、そのほとんどが、お互いの顔を知らない者どうしの交流である。
 ちなみに、青年たちがパソコン通信に集まる現象を「ダイレクトなコミュニケーションが苦手」なことの裏返しとも見ることができるが、「情報引出し550」は、その延長であると同時に、場に限定されはするが、ものや書いた言葉がそのままやりとりされる、原始的だが若干ダイレクトなコミュニケーションであるととらえられる。
 そして、佐藤さんによれば、引出しに入っている「もの」は、利用者にとっては、じつは「もの」としてではなく、情報として重宝されている。すなわち、その「もの」を作り出した人のセンスや知恵を他の人々が「買う」のである。つけくわえれば、それはおもにそれを作った「個人」に「共感」するハイタッチなコミュニケーション型の情報である。
 アンテナショップとは、このような情報を誘引する店舗といえよう。若者たちは自己の求めるハイタッチと合致すれば、その店が商業ベースであろうがなかろうが、そこに集まって情報を発信する。

情報のネットワークづくりに役立つ

 じつは、「青山凾納戸」の店自体がアンテナショップである。昭和六一年、菓子業界の総合商社である椛q田が、企業生き残り戦略の一環としてここに「ON THE TABLE」という店を出した。佐藤さんは椛q田の社員としてその店の企画の時から一貫して関わっている。
 そこでの「情報引出し550」が、テレビ等の取材を多数受け、同じ名称の他の店に迷惑をかけるほどになったので、平成元年1月に現在の店名に変えたのである。「凾納戸」とはなじみのない言葉であるが、まわりにも店名を漢字で書くトレンディーな店が多く、その街の雰囲気に合わせて名前をつけたという。
 青山凾納戸は、それ自体が直接、新業態への拡大(脱菓子業界)であるとともに、会社全体の営業内容(菓子の包装、原材料の供給など)を改革、拡大するための企画へのフィードバックの二つの役割を期待されている。
 佐藤さんは「メーカーなどの内部にいるだけでは、消費ニーズを肌で感じることができない」と考えている。それに対して青山凾納戸には、ナマの情報やコミュニケーションが渦を巻いている。佐藤さんは、そこで得られた情報や動向を「加工」して、本社の企画に還元しているのである。ここでいう「加工」とは、ただ単に「何があった」という情報をそのまま返すのではなく、「これからどうなるであろう」といったことや疑問点などを問題提起することである。
 その情報のネットワークを生み出すために、「情報引出し550」は大いに役立っているという。まず、「情報引出し」の契約者や利用者と店がつながることができる。アウトドアレジャーやコマーシャルベースのサークルも、ここからできたそうである。
 第二に、他の商品を買い求めにきた客とつながることができる。今回の取材中にも、ラッピング(包装)を頼みに来た若い女性連れが、ついでに「情報引出し」をのぞいて、何か書き込んでいた。購買とコミュニケーションが、相互に影響しあうのである。
 第三に、店が取材などにきた人とつながることができる。ギフティングボックスやラッピング(包装)だけ扱っていたら、そういう関係者しか来ないだろう。「情報引出し」があるから、マスコミ関係者の他、他業種の企業などの人が取材に来るという。「たとえば、西村さんのような人とは、この『情報引出し』がなかったら出会えなかったでしょう」と佐藤さんは言ってくれたが、その積極的な発想に私は驚いてしまった。
 佐藤さんは、積極的に「むだなスペース」を作ってこそ、店が人とコミュニケーションできると考えているのである。

今後予想されるアウトドアへのニーズ

 このような営みの中から、佐藤さんはたとえば次のような近未来のニーズを感じとっている。それは、「アウトドアレジャー」である。現在、すでに流通業界などが注目しているところである。デパートなどでも売場の重点が「アウトドア」に移されるだろう。それにしたがって、デザインやマーケティングのコンセプトも「動いていく」ということがテーマになるのではないか。日本の「旅行着」はまだまだ貧しいが、早晩、入れ物や服装にこるようになるだろう。
 その方向でパッケージを考えれば、取手のついたキャリースタイルの持ち歩きに便利なものということになる。青山凾納戸では、実際にそれを商品開発しており、好評のようである。さらに、他の参入可能なアウトドアレジャーも探っているとのことである。
 この佐藤さんの見通しには、もう一つにはKAKIとの出会いが強く影響している。雑誌で富山県立山にある家具の工房、KAKIのことを知り、そのスタッフを訪ねて行って、惚れ込んで帰ってきた。佐藤さんたちは、さっそくKAKIのテーブルやチェストを店内に持ち込み、さわって買える代理店を開始している。その後、KAKIのスタッフとは、遊びに行ってスキーをいっしょにするなど、ずっと友達づきあいをしているという。
 KAKIは、東京にも生活の場をもちながら、大自然の中で楽しくタフに家具づくりを楽しんでいる若手のプロの集団である。自然木を何年も寝かして自然乾燥させ、もちろん、美しい自然の木肌を化学樹脂でおおってしまうことなどしないで、何世代にもわたって愛用できる家具をつくる。佐藤さんは、彼らのライフスタイルを「これからは、どういう生活が良いのか」を示唆していると考えている。
 店内のKAKIの大テーブルは、小さなイベントスペースでもある。イベントといっても、集会行事ではなく、「時代のサムシングニューを求めて」ギフトに関する商品展示・提案を行うのである。そこで、商品開発、試作、反応や情報の収集が繰り返し行われる。
 たとえば、バラ一輪を茎までまるごと入れるための一メートル以上の細長いパッケージ、「ワンステムローズカートン」は、ここから生まれ好評を博している。「バラ一輪」は欧米のプロポーズの時の贈り物であるが、日本の若者にもそのニーズが潜在的にあったのである(ただし、日常的に贈り物をするような今のブームは、日本だけの現象とのこと)。
 今後は、漠然とした「異業種間交流パーティー」だけではなく、具体的テーマで異業種が集まる「名刺交換会」の開催も考えている。そして、「お金と場所のないお客さん」と共同で商品開発するプロジェクトを持ち、それを展示のイベントとむすびつけていきたいともくろんでいる。

成熟化したニーズに対応するために

 「情報引出し550」を見ていて、佐藤さんはこう考える。若い家庭の主婦も会社員も、主婦業やサラリーマン業の他に、もう一つの何かをやろうとしている。二つめの座標軸を持とうとしているというのだ。
 しかし、彼らはハングリーにはやりたくない。あくまでも、マイペースで楽しもうとする。これを「根性がない」と批判することはできる。しかし、その若者が次の文化を担う。しろうとのライト感覚(カルさ)のパワーをないがしろにできないという。
 もちろん、だからといって、佐藤さんが今の若者の風潮を手放しで喜んでいるわけではない。若者にとっては「自分の」気持ちが大切であって、それを表現するためには包装が中味より高くかかってもかまわない。どうせ中味は、豊かな時代の中で豊かに平均化されてしまっているから。
 しかし、これでは少し「うわついている」というべきではないか。外国では、プレゼントの包装紙はとっておいて、何回も使う。今後、日本の包装ブームがこれ以上進むと、そのパルプを作るために一日に何千本もの木を切り倒すことになる。若者がそのことまで気にしてくれるようにならないか。佐藤さんは、真剣にそう願っている。また、「情報引出し」についても、若い人がもっと夢やビジョンまで楽しく語るものにしたいという。
 成熟化したニーズに、どう働きかけ、どう方向づけていくかということは、佐藤さんのライフワークであるとともに、社会教育行政の課題でもある。その時、凾納戸のような民間のサービスのセンスに学べる点は大いにあろう。
 しかし、その前に、まだ三十歳代の佐藤さんが情報を得てニーズをとらえるために会社から持たされた、あるいは会社に「主張」して持ったのかもしれないフリーハンド(自由裁量)に匹敵するものが、私たちにも必要になる。それは、たとえば人とおしゃべりをしたり、次から次へと開発のための実験をする裁量と資質・能力である。
 佐藤さんは、椛q田の正社員なのに、ラフでおしゃれな服装で、いつも誰かと気楽におしゃべりをしてすごしている。一見、遊んでいるようにも見える。しかし、じつは情報に対して強力なアンテナを張っているのだ。
 私たちが(勤務の内外に関わらず)「その職責を遂行するために、絶えず研究と修業に努めなければならない」(教育公務員特例法一九条)とされていることは、今日ではそういう意味としてとらえるべきなのだろう。
 (国立教育会館社会教育研修所専門職員)パソコン通信は生涯学習に何を与えるか

「在来型の生涯学習」を支援する
 「親展」の通信(電子メール)、不特定多数への通信(電子掲示板=BBS)、会議、データベースの検索、通信販売、予約などの機能をもつパソコン通信が、そのまま今日の生涯学習の道具として活用しうることは、想像に難くない。とくに、●学習を援助する者●にとって必要な情報の処理や判断を行うCMI(Computer Managed Instruction)としては、かなり使えるはずである。たとえば、生涯学習に役立つ資源のデータベースを作り、それを社会教育主事等がどこからでも自由に利用できるようにするなど、活用の可能性は限りない。また、学習者自身による活用についても、学習情報の収集、施設の利用予約など、いくらでも思いつきそうだ。
 これらの活用方策も興味深い。しかし、これらは、結論からいえば、いわば「在来型の生涯学習」の延長線上にある。今まで行われてきた生涯学習をかなり有効に支援するものにはなろうが、生涯学習を革新するものではない。それゆえ、パソコン通信の有用性をそこから説いてみても、「まだ普及していないパソコン通信など使わなくても、みんなが慣れ親しんでいる電話やファックスで間に合うのではないか」という消極論の前に意気消沈してしまう。
 「在来型の生涯学習」を支援するために、パソコン通信もその有効なメディアの一環として、得意な分野を活かした活用を図ることは、それはそれで重要なことである。しかし、ここでは、その詳細については省略し、パソコン通信が「新型の生涯学習」を生み出し支援していることに絞って考えてみたい。

「新型の生涯学習」とは何か
 それでは、パソコン通信が生み出しつつある新しい生涯学習の特性と考えられるものは何か。
 一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(不定型教育)の機能の発揮である。
 これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。
 これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にも教育・学習の場はある。そして、社会や企業等は、その重要性を無視することができなくなってきた。
 二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。
 普通、「学習しよう」という本人の意識(「計画性」)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。たとえばNHK放送文化調査研究所の「学習関心調査」では、「学習行動」の定義を「ある程度まとまりをもった知識・技能(または態度・能力)の獲得・維持・向上を●めざして●行う行動」(傍点筆者)とし、また、「総計7時間未満の学習行動」などを除外している。もちろん、この「学習の限定」には、正当な理由がある。第一、ILまで学習の範疇に入れてしまうと、学習行動率は百%になってしまう。
 しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことも、あらためて確認しておくべきである。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学ぶ「偶発的学習(インシデンタル・ラーニング)」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした人にとっては重大事なのだ。
 三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。
 たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追及する●教育●工学の立場がある。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいかということ、言い替えれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育の●しろうと●までが関心を示している。彼らも、多数に対して表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうからこそ、エキサイティングなのでもある。
 以下、これらの「学習」の実際の姿を、おもに電子掲示板(BBS)の事例から見ていきたい。

アバウト、ミスマッチ、ジグザグ
 私は、ある商業ネットで次のような記事を載せたことがある。
 「『生涯教育事典』という本で『コンピュータ』について書いています。しかし、コンピュータについてはしろうとなので、不安なんです。間違いやおかしい点があったら指摘してください。 mito」(筆者注 mitoは私のネットワーク上の名前=ハンドルネーム)。そして、その次の記事としてアップロード(文章を仕上げてディスク等に記録しておき、それを一気に送信すること)した文中に、コンピュータの定義として「電流がONかOFFかの組み合せを判断することによって、情報(データ)を大量にすばやく処理するシステム」という部分があった。
 この定義について数十分から半日(夜中から翌昼にかけて)までで5、6件のレスポンス(他者が反応して書いた記事)がついた。数日後に入ったレスポンスも含めて、簡単に紹介する。
 「電流が流れているかどうかで0/1を表現するというのは、例外がいろいろ思いつける説明です」、「『電圧の高低により』がいいんじゃないかな」、「それより現在おもに使用されているソフトウェアの機能ということで説明してほしいですね(あるソフト屋さんから)」、「そういえば、この中にはアナログコンピュータが含まれてませんね」、「アナログコンピュータって、聞きませんね。どうでしょうか」、「電圧のon、offであったとしてもよろしいのではないでしょうか」、「アナログコンピュータ(聞きます)に限らず、ファジーコンピュータとか光コンピュータも含んでいないと思います」・・・。
 ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も右のごとく、大ざっぱ(アバウト)で、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。
 しかし、このような「アバウト、ミスマッチ、ジグザグ」の情報から、各自は最初、気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、●予期せぬ●解答を見いだすのである。BBSは、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)ということができる。
 近代になって、さまざまな権威者や専門家が制度化され、彼らが「良いもの」をセレクトしてくれるようになってきた。図書館司書は「選書」をして、良い本を書架に並べてくれる。最先端のデパート(ロフトなど)は、洗練された選択眼のもとに商品をセレクトする。もちろん、それらは特定の価値観を独善的におしつけるものではない。むしろ、結果的には、私たちが情報過多におぼれずに、読書や消費を選択する手助けになっている。
 これに対してパソコン通信は、このような権威者や専門家がいない世界である。たとえば、ネットの主催者も、基本的には「たんなるキャリアー(運搬者)」にとどまるべきだとされる。そういう世界では、「アバウト、ミスマッチ、ジグザグ」な情報に耐え、それをセレクトし、つなぎ合わせ、確かめることを自分でしなければならない。しかし、それだけに、情報主体としての「個」を鋭く発揮する余地が大きいのである。

コミュニケーション型学習
 先日、野間教育研究所で成人学習者のインタビュー調査を行った。その時、パソコンネットワーカーのSさんは私に次のように語っている。
「最初の1カ月ぐらいは、あまり夢中にはならなかったんです。やはり、慣れるまでちょっと時間がかかる。マナーを覚えるというか。しばらくは読むだけに徹するみたいな期間があったりして。
 その後、おずおずとあまり期待もせずに書き込んだもの(ある本の感想文)に対して、何人かの人が好意的なレスポンスを返してくれたということで、『はまった』という感じで、面白くなってきた。」
「自分の書いた文章を、電話線からホストの方にアップロードすれば、その日の内に何十人、場合によっては何百人の人が読んでくれる。中には、それに対する感想なり、反応なり、意見なりを翌日には書いてくれる人がいる。このようにレスポンスがあるというのが、パソコン通信の一番の面白いところですね。でも、この面白さを人に説明しようとしても、なかなかわかってもらえない。やはり、実際に体験してみないと理解できない。」
 じつは、彼らにとっての書き込みとは、有益な情報を他者からもらうための一方策などという軽微なことがらではない。書き込みが、人からのレスポンス(反応)を引き出す。さらに、これから新たなリ・レスポンスが生まれる。このようなREAD←→WRITEの循環の中で、自己の発言にレスポンスが与えられること自体がパソコンネットワーカーの至上の幸福なのである。これは、パソコン通信における「レスポンス至上主義」とよぶことができるだろう。
 学習には、いわば「●情報物取り学習●」もあるだろう。先行研究やその他の必要なデータを早く的確に収集・整理することを重んずる学習である。これに対してパソコン通信は、いわば「●パーティー学習●」といえるのではないか。
 パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、よく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流である。しかも、交流する相手も、日常的なフェース・ツー・フェースのつき合いよりは、「見知らぬ他者」との出会いを尊重する。パソコン通信の「レスポンス至上主義」も、パーティーに見られるこのようなコミュニケーション志向をもっている。
 ちなみに、●パソコン通信をするために●必要な何らかの学習があるとすれば、それも同様に「コミュニケーション型」である。
 LLL(AVPUBを利用している生涯学習関係者のグループ)のメンバーの上尾市社会教育主事のフィギュアさんは、パソコンのノウハウに詳しい。彼は、AVPUBにパソコン通信ソフトの「オートパイロットプログラム」を載せてくれている。これを使えば、コンピュータ・リテラシーなどほとんどなくても、ソフトを起動させるだけでパソコン通信の中のめざすメニューまで自動的にたどりつくことができる。技術に詳しいネットワーカーは、このようにして喜んで初心者への技術的援助をしてくれる。私はこれを「情報ボランタリズム」とよびたい。
 このような環境の中では、じつはノウハウよりノウフウこそ大切になる。誰が何に詳しく、何を手伝ってくれるかということである(たとえば、フィギュアさんがパソコンのノウハウに詳しいなど)。
 そして、他者と交信する際の一番大きな課題は、いかにして表現すれば(Sを発すれば)他者からのレスポンスがあるか=コミュニケートできるかということなのである。これは、新しい意味での「教育」技術である。

ネットワークによる知的生産
 パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。それゆえ、「まねぶ・ならう」べき権威の存在する学習だけを礼賛する「学習観」にとっては、パソコン通信における相互学習は「どんぐりの背比べ」であって学習たりえないととらえられがちである。たしかに、外部講師や助言者のいない討議は生産的に見えない。しかし、今後の「ネットワーク型の学習」の原点は、メンバー間の「水平性」である。
 大分県の「コアラ」は、「(官は)金は出すけど口は出さない」という官民一体のパソコン通信ネットである。そこでは平松知事もメンバーに県の各種構想の支援を訴える電子メールを出すし、高校生も「高校生シリーズ」という電子掲示板で大人と同等の関係で意見交換する。パソコン通信の世界では、これで当り前である。
 パソコン通信は、そもそも物理的システムとしても水平である。各自のパソコンは、中央(ホストコンピュータ)に対する「端末」にとどまるのではなく、発信源にもなり、また、スタンドアローン(自立型)の情報処理も各パソコンでできる。
 ネットワークは、各「個」が自立的な価値をもちつつ、「水平」な立場で「異質」と連携することであろう。ハイテク・情報化の中で疎外されがちな「個」が復権し、しかも「グループワーク」するためには、パソコン通信のシステムが適しているのである。
 このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の共同化の可能性が生まれつつある。
 LLLのメンバーである花園町社会教育主事のSHOUさんは、メディアの活用における生涯学習関係職員の専門性について、他のメンバーから問題提起されたのを受けて図式化を試み、レスポンスとしてAVPUBにアップロードした。その図式は他者からの指摘も受けて改訂されていった。AVPUBでは画像の通信はできないが、研究の整理のための図式程度のものならば、全機種共通のテキスト文の文字フォントを使って十分伝え合うことができる。
 従来の出版における「共著」は、どうしても各個人の論文の寄せ集めになりがちであった。あるいは、編者を頂上とするヒエラルキーのもとに、整合性を計ることもやむを得ない場合もあった。しかし、パソコン通信を利用すると、個をあくまでも発揮しつつ、適宜、各自の都合のいい時間帯に見解を戦い合わせることができる。しかも、編集ソフトを使えば、訂正と更新の手間もほとんどかからない。パソコン通信によって、本来の意味としての「共著」が可能になるのである。

 乳幼児が日々の生活と遊びの中で学習・発達するように、つね日頃、好奇心、探求心などの「発達意欲」さえあれば、成人でも生理的活動以外のすべての活動が「学習」につながりうる。そもそも、セルフ・ディレクテッド・ラーニング(自らが「監督」する学習)は、そういう資質なしには成り立たないであろう。パソコン通信は、セルフ・ディレクテッドに個性を出し合い、コミュニケートし、共同化することにおいては、とても好都合な電子的空間である。

 紙面の都合から足早に説明した。とくに、パソコン通信による学習の困難や課題の側面について述べることができなかったことは、本論が「パソコン通信びいき」であるという●そしり●を増すことになるかもしれない。
 すなわち、「ROM」(読み出し専用メンバー)の存在、「書き言葉文化」の非大衆性、公による支援(FE、NFE)の困難性などである。
 しかし、これらも興味深い問題である。拙稿を読んでくださった方と、AVPUB上で議論を続けたい。

ロール・プレイングの活用
               国立教育会館社会教育研修所 西村美東士

1 てれないで、ロールプレイング

 ロールプレイング・・・、横文字だとrole playing、「役割を演ずる」という意味です。「社会学」や「心理学」でも使われている言葉ですが、ここではグループ活動において普通に行うことができるやり方として紹介します。
 これは、いわば「模擬練習」のようなものと考えられます。つまり、実際のある場面に遭遇する前や遭遇した後に、メンバーの数人がそこで登場するそれぞれの人になったつもりで「劇を演ずる」のです。「試しにやってみる」、あるいは、「再現フィルム」という感じです。
 こういうものには、妙にノリのようなものを感じてしまっててれくさい、ついていけないという人も多いと思います。しかし、「効果絶大」なわけですから、あえてノリの精神で、すなわち「遊び心」で気楽に取り組んでもらいたいと思います。
 ロールプレイングはたとえば次のように行います。もちろん、実際に行う時には順序を逆にしたり反復したり飛ばしたりして、臨機応変に行います。
(1) 問題の状況を共通理解するために、メンバーから当人への質問などを中心にして話し合う。
(2) 演者がその問題の場にいるつもりで、それぞれの立場を演ずる。「その人だったら、その場では、こう思って、こう言うだろう。」と自分がその人になったつもりでアドリブで演じます。特に、出だしが難しいと思います。照れくさくて、ついニタニタしたり吹き出したりしがちです。出だしの言葉だけは決めておくのも良いでしょう。
(3) 演技が終わったら、演じた者が「この時、こんな気持ちがしました。」などと、感想を披露する。
(4) 演じた者、見ていた者の両方が感想や意見を述べあう。
(5) もう一度、演技をやり直してみる。・・・
 なお、演者および演ずる役割についても、ある一つの問題についてでさえさまざまなバリエーションが考えられます。また、グループ内部の人間関係の問題などでは、「役割交換」といってお互いが合意して相手の役割を演じることもできます。これなどは、成功すれば驚異的な効果が得られるでしょう。

2 ロールプレイングによって実感をともなって見る

 グループ活動の中ではさまざまな問題がおきます。「人と出会うこと」とともに、「ものごとやできごとと出会うこと」もグループ活動の特徴であり、むしろ長い眼ではそれは魅力とも見るべきでしょう。
 たとえばある女性メンバーの悩み・・。父親が、そのグループについて理解を示してくれていない、「例会の日は、いつも帰宅が遅くなる。」と言って、それを理由にグループ活動をやめさせようとしているとします。
 この問題について、グループで論議しようとしても、その前によくわからない所があります。その父親はどういう性格の人なのか、「父親の反対」といってもどの程度の「反対」なのかなど、言葉による説明だけでは伝わりきれません。
 また、それが伝わらないままで机上の議論をしても、事実誤認の上で論議が進んだり、「女性だけ先に帰るようにしたらどうか。」、「いや、悪いことをやっているのではないのだし、男も女も遅くなってもゆっくり話す機会がほしい。」などと、論議が空回りしたりしてしまいます。
 これに対してロールプレイングならどうでしょうか。たとえば、とりあえず当人である彼女には横で見ていてもらって、他のある人が彼女の父親の役割、他のある人がグループの代表として理解を得るためにその父親に話しに行くという設定で役割を演じたとします。
 演技の途中で、彼女は「うちの父なら、そんな言い方はしないと思うわ。」などとアドバイスするようにします。そうすれば、演者も、見ているみんなも、彼女本人でさえも、だんだんその問題が実感を伴った事実として見えてきます。この「実感を伴って見る」ということか、ロールプレイングのだいじな所です。
 第一に、この「実感を伴って見る」ということによって「模擬練習」としての効果を発揮します。
 もしロールプレイングをせずに抽象的に議論しただけで、具体的にどう言えばいいかはみんなにもわからないまま「代表」が実際に父親に「説得」に行くとしたら、「代表」になった人はかわいそうです。彼女の父親を前にしてドギマギしてしまうでしょう。いざしゃべる段でも、どう言っていいかわかりません。ましてや、みんなで抽象的に議論したことを自分の言葉に反映するなどというのは至難のわざです。
 しかし、ロールプレイングで実感を伴った「練習」をしておけば、その「代表」はずいぶんやりやすくなります。また、みんなも、模擬的ではありますけど父親の反対という「ものごと」と出会い、リアクションとしての自分の気持ちも確認し表明することができます。そして、「代表」もそういうみんなの気持ちを実際の「説得」の言葉に反映しやすくなります。

3 「信頼感」を呼びおこす

 第二に、他人や自分の気持ちがそれまでよりわかるようになります。
 人間には意識的に、無意識的に隠している自分の気持ちがありますし、いつもは気がついていない「他者」や「自己」があります。他人を演ずることや、その演技を見ることによって、「その人が実際にその場でどんな気持ちをもつのだろうか」ということを具体的に考えたり、自分の気持ちにハッと気づいたりします。つまり、「自己や他者と出会う」ことができるわけです。
 たとえば、先の事例の父親には、実は私たちが学ぶべき「とってもいい部分」があるのかもしれません。ロールプレイングでは、父親本人がその場にいなくても、みんなで話し合っていくうちに、そのことに自然に気づくことがけっこう多いのです。もちろん、そのためにはみんなに「気づこう」とする態度が必要ですけれども。
 第三に、メンバーやグループ全体のコミュニケーション能力を高めることができます。ロールプレイングでは「気持ちのいい言い方」をめざして、「そこは、こう言ってみたら?」などとみんなで自由に意見を出し合います。その話し合いに基づいて納得いくまで演技を繰り返します。
 さらに、もっといい感じで言えたり、聞けたりするためには、次のようなことに心がけると、いっそう効果的です。
 共感をもって聞き合う。相手の気持ちと共感できる時は、あいづちをうったり、うなずいたり、「ええ、そうですね。」と賛意を口に出したりして、できるだけ相手にその共感が伝わるようにする。
 自己を開く。人目にふれたくない自分もあるでしょうけれども、そういう欠点を含めたトータルな自分を自分として認め、相手にも開いていくことが必要です。「自分」を一人でしょいこまずに他者に開けば、意外に相手もそういうあなたを受け入れてくれるのではないでしょうか。
 そして、「さわやかな自己主張」を心がける。これも、とても難しいことです。でも、相手に対して何か「主張したいこと」がある時、「自分ががまんすればいいのだから」とか、「言っても聞いてくれないから」などと理由をこじつけて、主張しないでおくということは、第三者に悪口を言ったり、いつか爆発して攻撃的になったりするなど、ますます不幸な結果になりがちです。相手の頑固さや自分の能力に絶望して口を閉ざすのではなく、自分の気持ちが受け入れられることを信じて、けんかごしではなくさわやかに「私はこう思います。」と言うトレーニングが求められているのです。
 コミュニケーションが可能になるためには、「通じ合うはず」という自信(自分への信頼)と他者への信頼が不可欠です。ロールプレイングとは、そういう「信頼感」を私たちに呼びおこしてくれるコミュニケーションのトレーニングそのものでもあるといえるでしょう。
団体・グループの仲間づくりの演出
           国立教育会館社会教育研修所 西村美東士

1 あったかいディスコ

 今から十年ほど前、私が青年の家の職員だった時、ディスコダンスを取り入れて「ダンスフェスティバル」をやっていました。そのころ、まちではディスコが熱っぽくはやっていましたが、社会教育の場でそんなことをしたのはこれが初めだったと思います。
 地域のレクリエーション研究会や青年の家のボランティアグループのメンバーなどで実行委員会を結成して準備や運営に取り組みました。新しいディスコのステップを実行委員が友達やディスコなどから仕入れてきて、実行委員会の例会で教え合ったりしました。「フェスティバル」の本番ではディスコの店長を招いて教えてもらったこともあります。
 当時は「バスストップ」などのステップダンスの全盛時代でした。これは、バスの停留所に並ぶような形でみんなでステップを合わせる踊り方です。今から思えば、「いにしえの」ディスコということになりますが、アップテンポのリズムで初めての人でもみんなとステップを合わせて簡単に「のる」ことのできる「古き良きディスコ」は、技術を要する今のフリーダンスよりみんなで取り組みやすいダンスでした。青年の家の「フェスティバル」では、生まれて初めてディスコをやるという人と、毎週ディスコに通いつめている人とがいっしょになってステップを踏みました。
 参加者は次のように感想を書いてくれています。「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」・・・。
 ディスコで汗をかくと、身も心もすっきりします。これはお店のディスコも同じです。しかし、お店のディスコでは青年は意外にひとりぼっちです。ステップがわからずにフロアーで立っている人を、じょうずな者が教えるなどといったことはありません。
 それに対して、青年の家ではもっと「あったかい」ディスコができたと自負しています。
 なかでも、もっとも印象に残っているのは、ディスコボーイのA君がステップ指導をしてくれたことです。「ステップを一歩一歩教えるなんてかっこ悪いことはしない。カッコ良く踊ってみせるのが生きがい。」というのが、普通のディスコボーイのやり方です。A君もそうでした。
 彼は最初は単なる参加者でした。しかし、A君のステップのかっこよさにしびれた実行委員は、さっそく彼を実行委員会に引きずり込んでしまいました。彼は次第に実行委員会にのめりこんでいきました。そして、三年目の「フェスティバル」では、難しいステップの曲がかかった時に、スッと前に出てきてマイクを握り100人以上の参加者の眼前で一歩一歩ステップを説明してくれたのです。

2 いっしょにつくりあげるから「あったかい」

 ここで、もう少し「参加者」の感想を拾ってみましょう。
「いろんな人と知り合えた。」
「汗を流し、おおいに笑えた。」
「心からバカになって、ほんとうの自分が出せた。」
「先日のミニフェスティバルに参加をした人達と再び会えたことが、そして、覚えていてくれたことが思いがけなくうれしかった。」
「若者達が一つになって何かをするということは、たいへんすばらしいことだと思う。」
「実行委員の人が一生懸命やってくださっているのがよくわかり、感激した。」・・・みんな、「言うことない」、「満足です」という感じです。このように、参加者は「あったかさ」、「仲間の良さ」を味わうことができました。
 ところが、実行委員は、「めだちたい、楽しみたい気持ちとの葛藤がありました。」などと感想を書いています。準備を重ねて、やっと迎えたフェスティバル本番では、照明係やレコード係をやっていて肝心の踊りを楽しむことができなかったし、食事や宿泊の心配などをしたりで地味な努力も多かったのです。
 しかし、それだけに「あったかさ」、「仲間の良さ」への感動も大きなものがありました。ある実行委員は、ひとこと、「ひと・ものとのめぐりあい」と感想を書いてくれています。
 自分たちで企画して、自分たちでつくりあげていくのです。企画を実際に実現しようとすると、ささいなことから大きなことまで、さまざまなものごとやできごとと出会います。たとえば、ディスコクィーン、ディスコキング(コンテスト優賞者)への「投げテープ」の代わりにトイレットペーパーを使おうと企画して、職員(私)に「もったいない」といって止められたことがあります。
 ものごととの出会いの中で、意見の違いも出てきました。仲間のいい性格も表れれば、あまり良くない性格も表れてしまいます。けれども、そこに本当の「ひととのめぐりあい」があります。「よそごと」「ひとごと」でない「逃げ」のない人間関係、これが本当の「あったかさ」でしょう。
 何かをいっしょにつくりあげるからこそ、ひととの本当の出会いがある。だから「いっしょにつくりあげること」は仲間づくりの最大の秘訣です。いっしょにお酒を飲むのだって、いっしょに汗した仲間だから楽しいのです。ディスコボーイのA君がステップ指導をする気になったのも、ただ単に参加者として楽しんだからではなく、実行委員としてみんなとやってきたからなのです。
 何かいっしょにつくりあげようとするものをもつこと、そして、その「何か」をみんながつねに頭の中にはっきり描いていること、つまり「明確化」していること、これこそが究極の仲間づくりの演出のねらいなのです。これから述べるさまざまな「演出」も、すべてそのためにあると言っても言いすぎではないでしょう。

3 みんながしゃべる会議

 まず、会議のもち方をもうひと工夫できないでしょうか。アイデアを出すための会議であれば、この本ですでに出てきた「発想法」が役立つでしょう。そこには、メンバー一人ひとりの主体的なアイデアを活かす技術がたくさん盛り込まれています。
 そして、グループとしての意思決定の会議においても、意見を言えずに「誰かが決める」のを待っている人に対して、安心して気楽にしゃべれるようにするための配慮が必要です。
 そのためにひとつには、みんなの顔が見えるように座ることが必要です。むこうを向いている人にしゃべるのは、誰でも気がひけます。したがって、円形に座ることなどが考えられます。
 ただし、何がなんでもいつも真正面に向き合うのが良いということではありません。まだメンバーになっていない人が、発言のためでなく会議の「様子を見る」ために参加する時は、かえってややはずれた所に座ってもらうほうが気が楽でしょう。会議ではなく、講義を聴くような時は、教室形式の方が良い場合もあります。
 カウンセリングでは、相談する人と相談を受ける人とは、ややはすに向かって座ることが多いのです。あんまり真正面だと「息がつまる」感じになってしまうからでしょう。そんな細かい配慮も必要です。
 二つめには、発言のない人に「どうでしょうか。」と質問する、つまり水を差し向けることが必要です。まだグループになじんでいないメンバーは、「こんなことを言っていいのだろうか。」という不安がつねにつきまとっているはずです。「質問する」ということは、その不安に対して「あなたの意見も聞きたいのですよ。」というグループの気持ちを表明することであり、そのメンバーにとってみれば「自分の存在が認められている」ことの確認にもなるものなのです。
 ただし、これも「さあ、言え、何か言え。」とか「時間がもったいないけどしかたないから」などという態度では、逆効果です。そのメンバーは「おしつけがましいなあ。」、「形式的だなあ。」と感じていやになってしまうでしょう。
 読者の皆さんはそんな質問の仕方はしないと思います。しかし、無意識のうちに、あるいは「演出技術の未熟」のゆえに、それに近いことをしてしまうことはけっこう多いようです。
 たとえば、新人にいきなり「今度のイベントに数人の高校生が参加したいと言ってきているのですが、あなたはどう思いますか。」と質問してしまう。実は、その前の例会で、「夜の反省会でお酒を飲む予定だから、まずいのではないか。」などの論議があって、他のメンバーは「どうすればいいか。」とおおいに悩んでいる。そういう悩みや気持ちを表さずに、つまり自分たちの方の心は開かずに、新人の意見だけ聞いておこうとするならば、それは「形式的」質問であり、あとでその経緯を知った新人にとっては「詐欺にあった」ような気分にもなりかねません。
 それに対して、こちら側の心を開いた質問は、相手を安心させ、仲間意識を高めてくれます。経緯や悩みまで話して質問すれば、新人も「そんなに悩むぐらいなら、今回は思い切ってアルコール抜きの反省会にしたらどうですか。」などという、みんなが考えもしなかった(?)フレッシュマンらしい強烈な意見を出してくれるかもしれません。

4 みんなでメシ・フロ・ネル

 中堅でバリバリ働いているサラリーマンが、夜遅く帰宅する。その時、彼が奥さんに発する言葉が三つ。「メシ」「フロ」「ネル」・・・。これでは、さびしい限りですね。夫婦や家族の会話はもっと豊かでありたいものです。仲間づくりを大切にするグループにおいても、その思いは当然、同じです。
 ところが、この「メシ」「フロ」「ネル」自体は、正直に言って誰でもとっても気持ちよくうれしいひとときのはずです。ホカホカあったかくて、湯気のあがっているごはんを食べるとき、お風呂で「あーあっ」と体を伸ばすとき、ふかふかしたふとんにもぐりこむとき、誰でも幸せを感じてしまいます。
 この楽しいひとときを仲間のみんなで「共有」しないという手はありません。そういう楽しい時というのは、誰でもリラックスしてしみじみと語り合えるわけです。
 「チカメシさん」という流行語をご存知ですか。「近いうちにメシでも」と誘うだけの上司のことです。しかし、実際、上司・部下の間だけでなく、サラリーマンの社会では「メシ」は広くコミュニケーションのための演出手段として最大限に有効活用されています。それは、グループの仲間づくりにとっても、大きな効果を発揮してくれるでしょう。
 そして、「メシ」も「フロ」も「ネル」も、生活の臭いの強いことがらです。これを仲間といっしょにすることは、「生活をともにしている」という暖かい実感をもつことにつながります。
 さて、これらのメシ・フロ・ネルをいっぺんに行えるのが、「合宿」です。経験した人はおわかりかと思いますが、合宿の威力は大変なものです。肩肘張った例会ばかりだったとしても、ある時に合宿をやると、次の例会では「やあ」、「よう」、「あれからどうしてた?」などの親しげな言葉がけのやりとりになるということは、よく経験することです。「生活をともにする」ということが、何かをみんなに与えてくれるのです。
 たとえば、合宿で夜寝るとき、和室であればふとんを放射線状に敷き直します。うつぶせになって、頬づえをついてみんなでぐるりと向い合います。こういう「寄り合い」だと、なぜかもう誰でも初めっからなごやかにニコニコしてしまいます。
 なお、「メシ」はともかく、「フロ」と「ネル」は異性のいる場合、残念ながら限界があります。けれども、たとえば男風呂と女風呂の塀越しで言葉のやりとりをする、就寝時の「寄り合い」には浴衣やネグリジェなどではなく、せめてジャージで参加することに決めるなどの「工夫」をするだけでも、ほのぼのとしてけっこう楽しくやっていけるものです。
 ですから、グループで仲間づくりを目指すのなら、その「合宿」ではメシ・フロ・ネルの時間を大切にして、ゆとりあるプログラムにする必要があります。大切な夜の時間まで「研修」のプログラムをびっしり詰め込んでしまったとしたら、外側からは「効率的に事が運ばれた。」と見えるかもしれませんが、実は本来だったらその合宿でメンバーの内側に計り知れない相互作用が行われたはずのものが、ないままに過ぎてしまうということになってしまいます。
 仲間づくりとは、このような「生活の共有」の中で、つまりプログラムしきれない所で、メンバーの一人ひとりがみずから自然に行うものであるという要素がとても強いのです。

5 みんなが自然にできる仲間づくりの演出

 10数年前までは「青年のつどい」などと銘打っただけで、青年がたくさん集まってくれるという状況がありました。ストレートに仲間を求めていたから、「青年のつどい」などという、まさに「仲間づくり」そのものを示すネーミングでも良かったわけです。
 しかし、このテーマでは、今の青年は「わざとらしくていやだ。」と思うでしょう。今日「つどい」を行うのなら、「○○が身につく」、「○○について考える」などのような具体的な「つどい」の目的がはっきりわかるテーマにしなくてはなりません。
 グループにおいても、「何かいっしょにつくりあげようとするもの」があるからこそグループをつくって活動するのだし、その活動があるからこそ「自然に」、「メンバー自身の手で」仲間づくりが進むものなのです。
 ですから、仲間づくりの演出で肝要なことは、「何かをいっしょにつくりあげる」活動の中に、メンバーの手によって「自然に」仲間づくりが行われるような時と場所を設定することなのです。
 グループで合宿をしたり、自由におしゃべりをするための「たまり場」を設けたりするのも、そのような「プログラムしきれない仲間づくり」の環境を整えるためのだいじな演出方法なのです。
◆神奈川県横浜市
  「個人」がいきいきするしかけ
−横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−

 JR戸塚駅のホームから、三階建の淡いアズキ色の建物が見える。「横浜女性フォーラム」である。市内の女性の活動と交流の拠点として、昭和六三年九月、横浜市はこれを四十億円をかけて建設した。しかし、その管理・運営は財団法人横浜市女性協会に任されている。
 正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、コンピュータシステムによる図書コーナー、自動搬送システムによるビデオコーナー、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできるフォーラメディア、パソコンゲームコーナーなどがある。
 ミニコミを収集・展示したり、データベースに「よびかけ」や「らくがき」が自由に書き込める「掲示板」というメニューを提供するなど、交流への「しかけ」もさりげなく用意されている。
 その他、一階には、フォーラポート(相談室、ポートは港の意)、印刷工房、託児室、そして、三八〇席の立派なホールもある。ホールの「親子席」では、乳幼児といっしょでも、人に迷惑をかけずに安心してなまの芸術に接することができる。
 「生活工房」は二階にある。そこの「工作・工芸」「衣」「食」の三つのコーナーでは、くらしを「創造」する活動ができるが、それらは間仕切りのないオープンスペースとなっている。予約なしでも自由に利用できる。パンフレットには、「個人、グループ、男性・女性、大人・子供の枠を越え、初めて出会った人とも一緒に利用しましょう。」とある。ガラス張りの「物品庫」からは、「創造」に必要な器材が借りられる。
 その他、二階にはガラス越しにグループの活動の様子がわかるセミナールームや音楽室、和室などがある。三階には、助産婦さんのいる健康サロン、スタッフによるアドバイスや体操教室などの受けられるフィットネスルームなどがある。フィットネスルームは、団体貸出しを行わない。個人またはその交流にねらいをしぼっている。
 ユニークな講座も盛んに行っている。たとえば、女性には不向きとされがちな自動車整備や電動工具の講座、水まわりの修理の講座、仏発祥の再就職の講座「ルトラヴァイエ」などである。
 フォーラムは、このようにして、その情報と空間と人材をしなやかに活用しながら、「個人」にアプローチする。そして、さらに男性や子どもをも巻き込んだ交流へと誘(いざな)うのである。
      (生涯学遊研究会 西村美東士)

東京都港区
 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク
  −AV−PUBのサロンで「私的」交流−
 港区虎ノ門の日本視聴覚教育協会が、文部省の支援も得て教育関係者のためのパソコン通信「AV−PUB」を運用している。これは、「視聴覚教材情報全国システム」という正式名称のとおり、AV関係のデータベースであり、電話線を通して全国から利用できるようになっている。
 しかし、愛称の方はPUB(酒場)であり、その中にサロン(談話室)という電子掲示板もある。パブのように気楽に入って必要な情報を入手し、ついでにサロンで全国の仲間とディスプレーを通したおしゃべりもできるわけである。
 昨年6月ごろから、このサロンで生涯学習関係者の書き込みが盛んになってきた。LLLという、ゆるやかなつながりの小さなグループである。メンバーは近県の社会教育主事、小学校教師、新聞記者などで、時には、本当に飲み屋で集まって一杯やることもあるが、ほとんどは自分の空いている時間、すなわち深夜、自宅から発信する。
 いずれにせよ、フォーマルな立場での気遣いは不要、その意味では「私的」な交流である。そこで、授業、講演、執筆、学会発表、出張、視察、研究発表会参加などの事前・事後報告や他のメンバーとのやりとりが行われる。今まで話題になった主なものを出現順に紹介してみよう。
 ニューメディアに関する専門性の内容、社会教育施設のLAN化、情報ボランタリズムの意義、コンピューター教育に必要な知識体系、根底的な学社連携としての教え方の技術の交流、情報処理能力の内容、リーダーシップトレーニングのノウハウ、DIY(手作り)メディアの評価、子どもにキーボードストレスはあるか、社会教育主事の発問や学習プログラムなどの交換の必要、学習情報提供が抱える問題点、小さな市町村の生涯学習関係職員の高い通信ニーズ・・・。
 その他、宇宙は有限か無限か、太古の哺乳動物について、海外旅行のコツ、出張先のうまいもの情報求む、マシンの情報や選定についてなど、実際の流れはミスマッチ(M)でアバウト(A)でジグザグ(Z)でイージー(E)で、まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。
 AV−PUBには、教育に関係する人なら誰でも加入できる。電話料金だけ負担すればよい。技術的にわからないことは、LLLのメンバーが助けてくれる。 (生涯学遊研究会 西村美東士)学習圏構想によって生み出されるアダチ・アイデンティティ
 −東京都足立区の生涯学習推進構想−

さまざまな生涯学習を行う区民
 平成元年11月26日の日曜日、足立区文化会館で「生涯学習区民の集い」が開かれた。
 少年団体連合協議会の佐野静江さんは、壇上、「ここに集った皆さんと同じ立場で活動している者の一人として話したい」と前置きした上で、「皆さんは、いつが一番幸せな時期だっただろうか。私はダンプカーに自転車ごとはさまれて、大病をし、やっとの思いで生き延びることができた時、せっかく生きながらえたのだから、いい生き方をしようと思った。今では、子ども会で、田植や稲刈り、絵や書道の品評会、アドベンチャーキャンプなどのお世話をしている」と述べた。
 そういう活動の中で、佐野さん自身がいろいろなことを学んできた。たとえば「今の子どもは感動しないなんて言う人がいるが、とんでもないということを知った。アドベンチャーキャンプの最終日、役所の前で行った解散式は、涙、涙の連続だった」。
 体育指導委員会の吉岡信太郎さんは、誰でも気軽に楽しめるビーチバレーボールを普及する活動の中で、「初めは乗り気でなかった」人でも、その95%がアンケートに「楽しかった」と答え、「こんなに大きな声を出したことは、しばらくなかった」「自分がこんなに動けるとは思わなかった」という反応があると述べた。そして、家にしがみついてなかなか外に出て行かない「濡れ落葉のような」中年男性にも、今後は少しづつ生涯スポーツを呼びかけていきたいとした。
 婦人団体連合会の清水とよ子さんは、婦人学級や生活学校で学習を続け、食品や衣服など、身近な生活の問題の解決に取り組んできた。そして、その中での「ふれあい」「仲間づくり」をとてもだいじにしているという。清水さんは「生涯学習とは、ただ学習するだけではなく、活動もすること」としめくくった。

区民の一人ひとりに受け入れられつつある生涯学習
 この日、自分たちの生涯学習の実践を発表した三人が活動している団体は、いずれも「足立区生涯学習推進協議会」の構成団体である。「協議会」はこのような区内の団体の代表を多数含めた55人の委員から構成され、生涯学習に関するさまざまな願いを取り込みながら、提言などを行ってきた。
 しかし、このような生涯学習の活動が、最初から広く区民に理解されていたわけではない。足立区が「生涯学習のすすめ」というビデオの撮影を昭和62年に開始したころ、「生涯学習という言葉を知っていますか」というインタビューに、ほとんどの区民が「知らない」と答えている。
 また、一方で、昭和58年頃に行った区民へのアンケートでは、「あなたは、どこに住んでいますかと聞かれたら、どう答えますか」という質問に対し、多くの区民が「足立区」ではなく「東京都」と答えるという回答をしており、区の行政担当者にショックを与えていた。
 このような状況の中で、庁内の企画、地域振興、福祉、衛生、そして教育委員会などの関係セクションの係長レベルの人たちを中心にプロジェクトチームがつくられ、生涯学習推進のための実質的な協議が続けられた。
 最初は、チームメンバーの中には、「生涯学習は教育委員会の仕事」ととらえる人もいたようである。しかし、納得いくまで、メンバーで勉強しあった。合宿もした。事務局を担当した一人の米山義幸さん(現在、生涯教育部学習推進係長)は、「日頃の仕事が違うからこそ、今でも当時のメンバーといっしょにお酒を飲むととても楽しい」という。
 このチームによる足立区生涯学習推進構想「学びあうまち足立の創造のために」の報告(昭和62年6月)の後、「生涯学習の推進」は、行政セクションの違いを乗り越え、「総合行政」の中で重視されるようになってきた。「生涯学習の推進」は文化行政のキイ・コンセプト(中心概念)であり、「A・I(アダチ・アイデンティ)=足立らしさ」の創出の最高の手段であるという報告の提言は、今日では区政全体に受け入れられつつある。
 そして、生涯学習についてのわかりやすいビデオやグラフ誌の発行などもあいまって、区民の間にも「なんだ、私たちのやりたいことが、生涯学習だったんだ」というような声があがり、生涯学習への親しみの気持ちが根づいてきている。今では、住区センターの管理運営委員会の自主企画で、「生涯学習について2時間ぐらい話しに来て」などという嬉しいリクエストが区の担当者に舞い込むという。

日常の学習圏とより広い学習圏の施設配置
 区内の住区センターの一つ、五反野コミュニティセンターを訪ねた。ロビーでは、子どもが宿題をしたり、主婦が数人で昼食をとったりしている。住区センターは小学校区に一つぐらいの割合で配置されているから、そんな身近な使い方ができるのだろう。
 その他、1階は主に老人館で、そのホールでは、「バンパー」というビリヤードのようなゲームを、かなりお年を召した方々がやっていた。その仕草がかなりしゃれているのである。風呂もある。2階は児童館である。広場、図書室、工作室などで子どもが自由に遊べる。
 現在38館ある住区センター(最終56館を予定)は、すべて地域振興課の管轄だが、その運営は地域の住民の代表による管理運営委員会にいっさい任されている。この管理運営委員会が、講座などの事業も実施している。もちろん、区の生涯学習推進協議会にも、各センターの運営委員長の中から代表を派遣している。このように、住区センターは区民の一番身近な生涯学習サービスを受け持ち、名実ともに「住区学習圏」の核になっている。
 次に、より広範な学習圏の施設の一つであるLソフィアを訪ねた。Lソフィアは、区内の主要な駅の一つである梅島駅から、徒歩2分の所にある。4階建てで白いタイル貼りの明るい感じの建物である。玄関ホールは2階まで吹抜けで、開放感にあふれている。婦人総合センターを有しているのがここの特徴であるが、その他、梅田センター、消費者センター、区民事務所との複合施設になっている。
 梅田センターのようなブロックセンターは、区内に12館ある(最終13館を予定)。それぞれ、社会教育館、体育館、地域図書館を併設しており、「住区」と「全区」の間の圏域の施設として生涯学習の中核的な役割が期待されている。
 このように、足立区は区民の生涯学習にとって重要な拠点にきちんと施設を配置してきた。そのためには財政面や用地取得の上から、先見性と大きな勇気が必要だっただろう。しかし、それが足立の生涯学習の基盤を整備し、ひいては、足立区民が胸を張って「私は足立区に住んでいます」と言えるようなアダチ・アイデンティティを形成するきっかけとなっているのである。

下町の良さを引き継ぎつつ次代をになうために
 緑豊かな東渕江庭園の中に、ひと際目立つ、昔の蔵を思わせる白い建物がある。足立区立郷土博物館である。玄関を入ると、2階まで吹抜けの天井に届くかとさえ思われる山車(だし)が展示されている。このような山車は、下町でももはや貴重なものとなりつつある。
 この博物館の展示物の一つに「荒川放水路工事復元ジオラマ」がある。荒川はその名のとおりの「あばれ川」で、大開削工事のすえ、昭和5年に荒川放水路が完成した。これによって、江東デルタ地帯は水害から守られるようになったが、足立は放水路によって二つの地域に分断され、人的、経済的にも大きな試練を受けた。ジオラマの農村風景は一見のどかそうだが、そこには目に見えぬ苦労が秘められていることを感じさせる。
 山車に象徴されるような下町の良さや人情を継承しながら、次代に向けて下町ゆえの不利を克服していく・・・、区民一人ひとりの生涯学習によるアダチ・アイデンティティの創出は、そういう努力の一環なのである。

コンピュータ (英)Computer
定義 電圧の高低の組み合せを判断する(デジタルコンピュータの場合)ことによって、数値情報や文字情報(データData)を大量にすばやく処理するシステム。プログラムの命令を遂行する「頭脳」としての中央演算処理装置(CPU)、そのCPUで処理するための情報をため込んでおく記憶装置(内部記憶装置やフロッピーディスクなど)、入出力装置(キーボード、ディスプレー、プリンターなど)から構成される。
活用の方法 生涯教育の場面でコンピュータを活用する場合、大きくは次の2通りが考えられる。
@CAI(Computer Assisted Instruction )−学習者の学習を直接、コンピュータによって支援する。
ACMI(Computer Managed Instruction)−学習を援助する者にとって必要な情報の処理や判断を、コンピュータによって行う。
 CAIの種類としては、次のようなものがある。実際のCAIでは、いくつかの種類が組み合わされて行われる。
@ドリル−練習問題。たとえば計算問題などで、コンピュータがさまざまな組み合せの問題を出題する。
Aチュートリアル−個別指導。理解度に応じて、段階的に事項の説明や問題の出題が行われる。
Bシミュレーション−模擬体験。実物を使うと、危険であったり不可能、不経済であったりする場合に、コンピュータの画面上で、その状況を図や数字などで再現し、練習等を行う。
Cゲーム−得点を競うなどのコンピュータ・ゲームをすることによって、目的とする知識・技術を習得する。
D問題解決−コンピュータから示された各種のデータをもとに、ある問題に関して学習者が判断と決定を行い、その決定によってもたらされると予想される結果がコンピュータから示される。
E学習情報提供−コンピュータが学習者に学習ニーズなどを聞いてくる。学習者は画面上のメニューからそれに回答する。これを繰り返すことによって、学習者の求めている学習情報が絞られた上で提示される。
 CMIは、次のような場面で使うことができる。
@生涯教育情報の管理と検索
A生涯教育諸計画の策定と管理
B教材・教具の管理と編集・加工
C集団学習参加者の編成と分析・把握
D学習評価、事業評価等の処理
Eその他、人事・会計等庶務的事項
これらは、次項に示したコンピュータ(パソコン)の諸機能を活用するものである。
 CAI、CMIの他に、情報化、ハイテク化の社会においては、コンピュータそのものについて学ぶための援助も大切である。そこでは、コンピュータリテラシー(コンピュータを使って読み書きする能力)の修得とともに、コンピュータを批判的に使いこなすための主体性の獲得が重要になる。
パソコンの機能の種類と内容 現在、ますます安くなり普及しつつあるパソコンは、生涯教育の有効なツールといえる。パソコンは、ソフトの利用によって次のような機能を発揮する。
@表計算−表の縦、横のありとあらゆる種類の計算やグラフ化などをやってしまう。修正、挿入、削除等も自由。数字の訂正も、従来のようにけしゴムを使って悪戦苦闘する必要がなくなる。
Aデータベース処理−データを記憶し、それを必要に応じて必要なものだけ引き出せる。文書や名簿等の管理が可能。一人でも気軽に心ゆくまで求める情報を検索し続けることができる。
B文書作成−パソコンワープロのソフトを利用し、ワープロ専用機と同等のことができる。文章の訂正、削除、入れ替えなどが自由なので、書き始めから悩まずに、好きな所から書ける。書斎の中でもの書きに専念しなくても、仕事や家事の合間に「書き言葉文化」の創造主体になれる。
C作図・作曲−これらは新しい芸術形態である。技術的に熟練していなくても、いろいろな表現(繰り返し、バリエーションなど)ができる。集合しなくても共同創作が可能。
Dニューメディア端末−パソコンから大型コンピュータなどを制御する信号を送ることができる。情報を受ける側が、流される情報を一方的に受け入れるのではなく、取捨選択し、逆に情報や意見を返すこともできる。
Eプログラミング−その他、必要に応じてプログラムを作れば、多様な仕事をすることができる。また、プログラミングの知識がなくても、CAIのプログラムが比較的簡単に作れるようなソフトもある。
資料
1.消費者情報に関するコンピュータ利用の必要性
 東京都消費者情報オンラインシステム(MECONIS)に関して、コンピュータを利用する必要性が、次のようにまとめられている。コンピュータを利用する場合、このように外部への情報サービスと、内部の職務遂行のための利用の両方の必要を満たすことができれば、より効率的である。
@迅速に収集・処理できるシステム
A大量の情報を集中管理することのできるシステム
B多面的検索のできるシステム
C自動集計のできるシステム
D関連ファイルを相互参照できるシステム
E総合的データベースシステム
Fどこでもアクセスできるシステム
2.中・大型コンピュータ処理のプロセス
 一般的な工程は次のとおりである。FからはBに戻る。BからEの処理は委託するのが普通である。
@開発計画策定−目的、年度計画、必要な資源・組織・人員・教育、委託範囲の決定等
A調査分析−たとえば、学習情報提供システムなら、学習需要、学習機会の実態等
Bシステム設計−基本設計・詳細設計
Cプログラム作成
D入力処理−カードパンチ等。システムを運営する者は、正確で充分なデータをそれまでに用意しておかなければならない
E機械処理−アウトプットの作成
Fシステムの評価−システム自体の検討と、情報の活用の状況等
3.高齢者対象のパソコン教育プログラム(試案)
 このプログラム(試案)では、ベーシックなどのプログラム言語から始めるのではなく、最初から既成ソフトなどを活用することによって、気軽に楽しく、実践的に学習できるようになっている点が注目される。(出典は国立教育会館社会教育研修所「高齢者対象の学習プログラム(試案)」)
基礎課程
@パソコンにさわってみよう(ゲームソフト)
Aパソコンワープロの基本的操作
B表計算ソフトの基本的操作
Cデータベースソフトの基本的操作
D作図ソフトの基本的操作
Eパソコン通信の基本的操作
専門課程
@パソコンの用語
Aパソコンワープロの多彩な機能
B地域を数字でとらえる(表計算ソフトの応用)
C地域関連データベース構築演習
Dパソコンで芸術創作(作図、作曲)
E地域パソコン通信ネットワークの方向
F教育ソフトの種類とその活用方法
            (西村美東士)

データ通信 (英)Data Communication
定義 パソコンや中・大型電子計算機などに通信制御装置(モデム)を付加することによって、それぞれのコンピュータを電話回線などの通信回線で接続し、情報のやりとりや処理を行うこと。
意義 データ通信では、従来、文字や音声で表現されていた情報が「電子化」(ディジタル化)される。今日の情報化の進展は、この情報の「電子化」に負うところが大きい。「電子化」によって、情報のより即時、大量、正確なやりとりが可能になる。
 特に即時的(リアルタイム)であることは、時間と距離の問題を克服する。情報発信した瞬間に、受信者によるその情報の受信が可能である。また、それは、交通手段などの物理的制約がないため、空間超越的である。
機能 「電子化」されることにより、その情報は、流通やコンピュータ処理の操作がかなり自由になる。その自由性を活用したデータ通信の機能として、次のようなものをあげることができる。
@データの収集と分配−ホスト(コンピュータ)にデータを集中し、端末から必要なデータを検索して取り出すことができる。
A問い合わせと応答−リアルタイムに端末とホストのやりとりができる。
B端末どうしのメッセージ交換−リアルタイムに双方向のやりとりができる。
Cタイムシェアリング−他の端末と細分化した時間づつ、交互にホストのコンピュータを利用しあうことにより、外見上、同時利用が可能になり、一つの端末があたかもホストを占有しているかのような利用ができる。
Dコンピュータ間通信−大きな能力をもったコンピュータどうしで、お互いのデータや処理能力を相互利用することができる。
活用方法 データ通信は、身近な所では、列車の座席予約や銀行のオンライン預金システムなどに活用されている。学習情報の提供などにあたっても、これらの機能が有効に活用されることが望まれる。
 しかし、さらに生涯教育関係者は、データ通信の一種としてのパソコン通信(パソコンネットワーク)に特に注目する必要がある。
 パソコン通信とは、狭義には「パソコン間通信」、すなわちパソコンどうしの直接の通信という意味であるが、今日では、ホストのコンピュータを仲介にして、家庭や職場などのパソコンが通信のネットワークを形成することを意味する方が一般的である。その中には大型コンピュータをホストにしている商業ネット(有料のネットワーク)もあるが、個人の自宅のパソコンをホストにする草の根ネットもある。
 パソコン通信は、個人が余暇時間に自宅のパソコンで、学習の一次情報や二次情報を受信、編集、加工、発信できるので、活用の可能性は大きい。
学習の新しい動向 たとえば、高田正純はパソコンネットワークを個人が利用する魅力を指摘し、これを知的興味と人間どうしのふれあいへの志向をともに充たすものとして評価している(参考文献@)。さらに、パソコン通信で交流されている「知」が、新しい傾向をもっていることも指摘できる。知の「ボランタリズム化」、「アマチュア化」、「個別化」、「雑多化」、「民主化」、「非体系化」である(参考文献A)。
 パソコン通信においては、自分とは異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがその醍醐味である。自己の自立的価値をもちながら、「異質」と交流しようとするこの志向は、ネットワーク型の新しい学習を生み出しつつある。
参考文献(パソコン通信関連)
@高田正純「データベースを使いこなす−英語でとる世界情報−」、講談社、1985年
A西村美東士「パソコン・パソコン通信と青年」、川崎賢一編『メディア革命と青年』、恒星社厚生閣、1989年
用語解説(パソコン通信関連)
アップロード 文章等を仕上げてディスクに記録しておき、それを一気に送信すること。
ダウンロード 受信内容をディスク等に記録しておくこと。あとでゆっくり読んだり、編集・加工・印刷したりする。
コマンド 端末のパソコンからホストに「指令」を出すために事前に決められた文字列。
システムダウン ホスト側の事故などにより、通信不可能になること。大いに起こりうる。
パスワード 匿名でも参加できるパソコン通信において、ホスト側に会員であることを唯一、証明するためのいわば暗証番号。
ID番号 ネット上での会員番号。自分の書き込んだ記事には、自動的に付加される。
ハンドルネーム 自分で設定する自分の愛称。ネット上では、本名やID番号ではなく、これで相手を呼びあうことが多い。
SIG Special Interest Group、特定事項への関心を持つグループ。「棲み分け」の役割をはたすが、誰でも見れるのが普通。
シグオペ SIGの「世話人」。商業ネットにおいても、ボランティア的色彩が強い。
電子メール パソコン通信を行う会員どうしの「郵便」。通信相手だけが読める。
チャット 通信内容を蓄積せずに、リアルタイムにおしゃべり(筆談)するシステム。
レスポンス 記事を読み書きする中で与えられる、自分の記事への他者からの反応。
ROM Read Only Members、つまり「他人の記事を読むだけの人」。造語である。
WOM Write Only Members、つまり「どんどん書きまくるけれども、内容が独善的なためレスポンスしにくい人」を皮肉った言葉。
PDS パブリック・ドメイン・ソフト。個人等が作成し、財産権としての著作権を放棄して他の個人・団体に提供するソフト。
草の根ネットワーク 営利を目的とせず、個人や非営利団体がホストになり運用するネットワーク。
アイボールミーティング 電子上(オンライン)ではなく、実際に相手と「目を合わせる」宴会・集会等。
資料−−パソコン通信のSIGの実際の種類 たとえば、アスキーネット「ACS」には、次のようなSIGがある。(1989年2月現在)
@SIG・リクエスト(SIGを新しく開設するよう提案するコーナー)
ASIGエリア・A
1:コンピュータ
2:スポーツ
3:音楽
4:センス・オブ・ワンダー
5:The Work
6:パーソナリティ
7:現代用語の余分知識
8:競馬
9:サイエンス
10:料理
BSIGエリア・B
1:英語
2:ウィザードリィ
3:物・者・モノ・広場
4:旅行
5:ライティング
6:路上観察
7:シネサロン
8:SYSTEM手帳
9:写真・イメージ
CSIGエリア・C
1:AV
2:自然観察
3:ビジネス・フォーラム
4:CARLIFE
5:アミューズメント
6:教育を考える
7:地方
8:LOVE
9:歴史
10:医療
DSIGエリア・D
1:メディア
2:ハム
3:マッキントッシュ
            (西村美東士)


子どもたちの団体活動
 〜そこに秘められている大いなる教育力〜
              昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
教育とは子どもがワクワクする営み
 少年団体指導者の方々が、もし、動物のしっぽの働きを子どもたちに教える場面に出会ったら、まず、どんなことをするだろうか。「しっぽの働きの教え方」という本を探して(そんな本はないが)、その本のとおり教えればよい、と思うような主体性のない人は、指導者の中にはいないと思う。動物のしっぽについて、自分が子どもたちに何を教えたいのか、考えるだろう。現在の自分の中に教えたいことがまだできていなければ、しっぽに関するたくさんの資料を集めて、「教えたいこと」を自分の中にあらたにつくり出すことだろう。
 それが教育の第一歩である。ごく薄い科学絵本、一冊を作り出すためには、手に抱えきれないほどの「大人向け」の資料が読み込まれるという。そこで作者が感動したたくさんの事実のエッセンスを、科学絵本という形で表現する。その絵本が、作者が感じたのと同じ感動(共感)を子どもに与える。そこに絵本づくりの面白味がある。
 少年団体指導者の活動にも、同じような苦労と喜びがいつもついてまわっている。つまり、指導者自身に伝えたい感動があるからこそ、それを苦労しながら補強した上で、その感動を同じ人間としての子どもたちに伝えようとしているのだ。教育の第一歩は、「伝えたいこと」があるということだ。
 しかし、それだけでは教育にならない。子ども自身が新鮮な驚きをもって感動しなければ、指導者だけがワクワクしていただけということにしかならない。感動を伝えるためには、子どもたちとその感動をコミュニケートできるセンスが必要になる。教育的センスといってもよい。
 ここに「しっぽのはたらき」という絵本がある。中を開くと、たとえば、
 ふわふわした しっぽを、ひょい ひょい ふりながら、えだのうえを すばしこく はしりまわったり、えだからえだへ とびうつったりしています。なんの しっぽでしょう?
とあって、ページの右上に木の枝につかまった小動物のしっぽのあたりが描かれている。よく調べられて正確に描かれているが、思わず微笑んでしまうほど可愛らしくもある。ページをめくると、それは、りすの体、全体につながっており、他の一匹はしっぽを広げて枝から飛び降りているところだ。「ふわふわした しっぽが ぱらしゅーとの やくめをする」というのである。
 たとえ、りすのしっぽがパラシュートになることを知って作者がワクワクしたとしても、それを前のページに書いてしまったら、おしつけがましいし、子どもたちに作者の感動が伝わるようなものにはならなかっただろう。子どもが「何のしっぽだろう」、「何のためにあるんだろう」と◆自分で◆思ってこそ、真実を知らされて驚き、ワクワクすることができるのである。
 団体が子どもたちに伝えたいことを持っているということは、少年団体活動が教育的意義をもつための基本的条件にはなるが、それを子どもたちにお説教するだけなら、そんなものは何回繰り返しても本当の教育にはならない。子ども自身が◆自分で◆ワクワクしてこそ、子どもは確かな成長をするのである。教育的センスさえあれば、少年団体活動は、そういう「ワクワク」を与えるワンダーランド(不思議の国)の「局面」を本質的にたくさんもっている。

少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動
 ひとがものごとをとらえる時の枠組を「準拠枠」という。「カウンセリングの話」という本によれば、次のとおりである。
 人間は、言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情などを表現することができるが、それらのことを表現したり、お互いに理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。(中略)例えば、同じ「悲しい」という言葉を使って話をしていても、突きつめていくと自分の「悲しい」と相手の「悲しい」が違うということに気づくことがある。私たちの日常生活は厳密にいうと、実はそのようなことのくり返しだといっても過言ではない。
 そういうすれ違いがあっても、平気で大人の準拠枠を押しつけるだけの団体運営を進めるならば、それは表面的には団体活動に見えても、けっして教育的な活動とはいえない。
 現代社会では、本当にひどい本が売られている。ある本には「女性の部屋に侵入する方法」などがびっしりと載っている。「相手が一人暮らしかどうかを確認すること」から始まって、「窓ガラスに粘着テープを貼って焼き切って、手を入れて鍵を開けて侵入」する方法やクロロホルムで眠らせる方法などが◆ていねいに◆書かれている。高校生あたりになるとそれほどでもないらしいが、中学生がよく買っていくとのことで、またたく間に版を重ねている。子どもたちが異性を見る目は、その準拠枠は、この先、どうなっていくのだろうか。あるいは、そこまで極端ではなくても、たとえば従来の競争社会が生んだ受験体制の圧迫は、ほとんどの子どもたちの準拠枠の形成に大変な影響を与えている。「偏差値君さようなら」という生涯学習社会の理想からは、まだほど遠い実態なのだ。
 こういう環境に影響を受けてしまっている今の子どもたちの準拠枠のずっと遠くの方で、きれいごとばかりで埋めつくされたお説教をしていても、子どもたちに情報の一つとして聞かれることはあっても、子どもたちの準拠枠そのものには響かない。
 かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、子どもにどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。現在の少年団体指導者の中にも、忙しさのあまり、そういう傾向に流れてしまっている人がいるかもしれない。しかし、本当の教育の姿は、そこにはない。それぞれの子どもなりの「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらない。
 しかし、本来の少年団体活動なら、子どもの準拠枠そのものに迫っていくことができるはずだ。なぜなら、活動の中には、感動を呼び起こす参加や体験があって、感動を共有できる子ども集団があって、それらを受け止める地域があるからである。

少年団体活動には教育力があふれている
★ 体験のもつ教育力
 国立日高少年自然の家の紀要では、集団宿泊活動の中での子どもたちの体験活動を、@人への働きかけ、A自然への働きかけ、B地域文化への働きかけ、C公共施設への働きかけ、Dその他に分けて検討している。
 また、「なかまたち」15号で三浦清一郎氏は、子どもたちがもっている自然に関する知識について次のように述べている。
 これらの子どもが知っているのはいわゆる「解説」であって、実際の自然の在り様についてはほとんど経験していないし、知識もないことに驚くのである。(中略)このような状態を青少年の自然接触体験の欠損と呼んでいい。
 そして、三浦氏は、ある体験が子どもに欠如しているということは、子どもの「社会化」(社会のメンバーとしてふさわしい資質や行動の仕方を子どもたちに教えていくプロセスであり、少年期にはその大部分が体験を通して獲得される)が行われないということを意味している、と指摘している。
★ 参画のもつ教育力
 全国子ども会連合会の資料には、「おしきせプログラムはまっぴら」と題して、次のように書かれている。
 どうも、大人が事前にすべてを準備しきって、ただ子どもは、お客さまで参加するという行事が多かったのではないか。プログラム立案の段階から参画することは、参加意識を高め、苦労しても、なんとかやりとげ成功させたい、そのために労をおしまず仲間と協力しあおうとするであろう。その仲間と苦労をともにして、やっと仕事をなしとげたあとの成就感を味わったとき、ヤッタという晴れ晴れした気持ちになるであろうし、その時「またやってみよう」というやる気を育てるわけである。
 参画は、ひとをワクワクさせる。参画するためには、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身の準拠枠にも鋭く迫られる。そういうせっかくのチャンスを指導者が独り占めにするならば、指導者だけが「成長」するという結果になりかねない。
★ 地域活動のもつ教育力
 創造性開発理論の中に「異質馴化と馴質異化」という考え方がある。異質なものを身近な馴れたもののように眺め、馴れたものを新たな気持ちで見直すという意味であろう。
 住みなれた地域には、「空缶拾い」や「花いっぱい」などのいわば「馴」のレベルの素材がいっぱいころがっている。これはこれで、子どもたちに素晴らしい体験のチャンスを与えてくれる。しかし、その教育的効果はもっと奥行きの深いものとして認識され、広がりのある活動がなされるべきである。いつもの地域を地球の一部を他の天体から見るような気持ちで、つまり「異」のレベルで、見直してみると、地球の限りある資源を大切に使わせてもらうために小さなコミュニティが果たすことのできる大きな役割も見えてくるのではないか。
 子どもたちにとって、地域は、主人公として参加できる身近な場であると同時に、少年団体の教育的センスによっては、壮大な夢と認識を広げてくれる場にもなるのである。
★ 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力
 少年団体活動の中では、同世代の仲間や◆義理◆の兄弟姉妹との関係が、自然に数多く発生する。子どもたちは、そういう自然発生的集団の中でこそ、自らを変えていく。
 石けりをしていて、大変な難事を要求する所に石が入ってしまっても、同世代の仲間が見ていれば、子どもたちはなんとかその難事をこなそうとしてきた。親や教師がいくら言ってもできないことを、仲間の前では泣きながらでも頑張ろうとする。そういう努力を放棄するなどの遊びのルール違反は、仲間から厳しくとがめられた。同時に、最後はお互いに手心を加えることなども体で学んできた。また、その遊びのレベルまで達していないような小さな子が来れば、遊びを中止しなくてもすむように、その子のために一部ルールを変更するなどの知恵を働かせてきた。「自然に」発生する集団がもっているこれらの自律的な教育力を、団体は「意識的に」尊重し可能な側面的援助を与えることが必要であるといえよう。
 それにしても、少年団体活動には、現在の子どもたちに欠けている体験・参画、仲間や地域とのふれ合いのチャンスが、なんと豊かにあふれていることか。

子どもにだって「個のふかみ」がある
 「個のふかみ」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズに応え、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個のふかみ」に言及せざるをえないと考えられた。提言はいう。
 ある施設での活動で、子どもが外からいそいそ帰ってきて、指導者をつかまえて話しかける。「ねえ、あっちにきれいなお花が咲いていたよ」。しかし、その指導者は彼に対して大声で「何やってるんだ。みんな向こうに集まってるぞ」と注意する。子どもが自然の中でとらえた出来事、発見そして喜びなどの感情が、この指導者の対応によって台無しにされてしまうのである。
 子どもたちは、自然の中で、遊びや活動の中で、さまざまな発見や体験をする。そして、この発見と体験を指導者に伝えようとする。これをしっかり受け止めることが、指導者の重要な役割であろう。
 心理療法の中に交流分析という手法がある。子どもにも大人にも、どんなひとにも、自由な子ども、従順な子ども、理性的だが打算的な大人、看護的な親、厳格な親という要素が混じっているそうである。その度合はひとによって違う。どの要素が一番望ましいなどと、誰かが決めることのできるものではない。「個のふかみ」は、そういう個別性から生ずる神聖で不可侵なものだ。
 同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得ることが、集団教育の目的ではない。子どもたちの「さまざまな発見や体験」という多様な個別の深まりが、今、大切にされなければならない。塩化ナトリウム99%の工業塩より、不純物の多い天然塩の方が料理の味に深みを出すという。少年団体活動も、皆を「団体の優等生」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの子どものエネルギーを評価しなければいけない。
 むしろ、組織にとって子どもとは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在、子どもにとって組織とは、どうにでもなる、どう変わってもよい存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、少年団体という◆組織にとっては◆荷の重くなるような言い方だが、子どもたちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとする◆教育的観点からは◆当然の見地だと思う。
 「しっぽのはたらき」を作った人は教育の専門家ではない。少年団体にも、教育の専門家が必ずしもいなくてよい。しかし、子どもの教育とは、子どもたちにおしなべて「こうさせよう」とする「対策」ではなく(そうは言っても、時として「安全対策」などが必要になることはもちろんだが)、本来的には、子ども自らが気づき多様な「個のふかみ」をもつための、側面からの「援助」なのであるということは、認識しなければならない。未知数のものを外から援助するというところに教育の難しさがあり、本当の面白さもある。
 つけ加えれば、子どもの「個のふかみ」とつき合える少年団体の指導者は幸せである。なぜならば、近代合理主義社会の中で凝り固まった自分の「準拠枠」が、子どもたちの「個のふかみ」に接することによって快く揺さぶられ、子どもたちとともに育つことを体験できるからである。

参考文献(紹介順)
川田健、薮内正幸「しっぽのはたらき」福音館書店
平木典子「カウンセリングの話」朝日新聞社
国立日高少年自然の家紀要「シシリムカ」第5号
三浦清一郎「自然接触体験の欠損と青少年の活動」(「なかまたち」15号所収)
全国子ども会連合会「中学生 −その青春と地域活動−」
中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」

第10回大会の論議をふまえて(学習情報・マスコミ文化部会)





 学習情報提供の現状と課題





                    西 村  美 東 士
                   (昭和音楽大学短期大学部)

はじめに

 日本生涯教育学会第10回大会の「学習情報・マスコミ文化部会」は、おもに学習情報の提供とそれにともなう学習相談の問題について、次のように討議と研究を進めた。
@ 兵庫県における学習情報提供の現状と課題
   −市町村とのネットワーク形成を中心に−
  (兵庫県嬉野台生涯教育センター 梶田源一郎)
A 小野市の学習相談の現状と課題
   −兵庫県のデータベースの利用を中心に−
  (兵庫県小野市教育委員会 小西旦二)
B 部会参加者のそれぞれの立場からの現状紹介
  (当日、この部会に参加した者全員)
C 学習情報提供と学習相談の課題を考える視点
  (指定討論者 日本ルーテル神学大学 清原慶子)
D 学習情報提供におけるネットワーク、学習相談の意味
  (指定討論者 亜細亜大学 平沢茂)
E 全体討議
 ここでは、上の@からEまでを通して問題になったさまざまなことがらのうち、とくに代表的なもの二つをとりあげて報告する。
 なお、司会は辻功(筑波大学)と西村美東士(当時、国立教育会館社会教育研修所)が受け持った。

1 学習情報ネットワークシステム構築の意義を再確認する必要がある

 梶田氏は、たとえば戦後に公民館が人々から求められ必然性をともなって誕生したことと対照的に、今日の学習情報提供事業は研究者などによる時代の「先読み」の形でその必要が説かれ、誕生してきていることを指摘した。そこに、広域行政として県が生涯学習情報提供システムを構築・推進しようとしても、肝心の市町村になかなか積極的には賛同してもらえない原因があるという。そして、これは昭和62年度というもっとも早い時期から学習情報提供の実践に取り組んだ兵庫県の「先駆者としての苦しみ」ともとらえられている。
 県内のそれぞれの市町村は、エリア内の当面必要になりそうな学習情報については自分たちはおおよそ掌握していると考えているため、その学習情報のシステム化やみずからのエリアを超えた広域のネットワーク形成については必要性を実感できず、むしろ「余計な仕事」としてとらえがちだというのである。
 小西氏も、市の教育委員会の職員として、兵庫県の生涯学習情報提供システムを利用して学習相談を行うにあたって、とくに他部局の職員にはなかなかその主旨を理解してもらえない点があると指摘した。はば広い生涯学習に関する情報といっても、やはり一般行政の部局からは「それは教育の仕事だから、自分たちには無関係」とされがちだというのである。
 このような学習情報提供のいわば「実践者の苦難」に対し、清原氏は、「学習情報提供の即目的化への反省」の必要を述べるとともに、個々の学習者の多様な「問題」と「関心」に対して、従来のベテラン職員のカンによる対応だけでは不十分になりつつあることを指摘した。そして、
@ 学習要求への迅速かつ適切な対応
A 身近な学習資源の活用・広がる行動範囲と学習資源の多様化への対応B 新たな学習要求の喚起
C 学習者間の問題意識の共有化や連携の支援
などのためには、学習情報のネットワーク化が不可欠とした。
 平沢氏も、学習情報のネットワーク化が、すなわち「生涯学習の基盤整備」であることを強調した。そして、データベースは大きい方が利用しやすく、データも大きいデータベースに引き寄せられ、また、ネットワークシステムは「広範かつ堅固」なほど構築が容易であるという特性を指摘し、たて割りの壁を乗り越えることの重要性を主張した。
 このような指摘にもかかわらず、従来行われてきた地域社会教育サービスの枠から一歩踏み出そうとする情報ネットワークサービスへの意識は、市町村の社会教育職員を含めた関係者にまだ十分ではない実態を我々は知る必要がある。これは、清原氏の言う「学習情報提供の理念の再確認の必要性」を示すものであり、ひいては、生涯学習を援助する人々のアイデンティティ確立に向けた「意識改革」が、学習情報提供事業にとってキーになることを示唆するものである。

2 どんな学習情報を提供すべきか、その範囲を検討する必要がある

 次に、全体討議でとくに問題になったのは、「公共的に提供すべき学習情報とは何か」ということである。兵庫県では、「学習情報の種類」または「収集対象の範囲」を、
A 生涯教育に関する学級・講座・実技・講演等で活動する指導者
B 公的機関・学習活動が実施されている施設
  (順次、他都道府県や民間へ拡大)
C 教育・スポーツ等で学習活動や研究を行っている団体・サークル
D 情報源としての専門的な公的機関に関する情報
  (行政全般、税金・年金、教育全般、仕事、悩みごと等)
E 県・市町・各機関・団体等が実施している学級・講座・プログラム
  (公的あるいは民間の学習事業)
F 国家試験・検定試験等、学習者が取得しうる資格
G 生涯学習の一環として見学する博物館・文化財・文化施設等
H 視聴覚センター・ライブラリー等が保有している教材・機材
としているが、フロアーからは、
@ 「健康」などの情報の内容に関する範囲の設定はどうするか。
A 二次情報は当然入るだろうが、一次情報はどう扱うか。
B 収集範囲内のものであっても、それを「取捨選択」あるいは「精選」  する場合はありうるか。その場合の基準はどうするか。
などの問題が提起された。
 全体討議の当初、司会(西村)はこれらを「データセレクトの問題」と表現したのだが、そのことについてはフロアーから「範囲の設定はセレクトと解すべきではない」という指摘があった。たしかに、たとえば、デパートのある売場でこういうものを扱おうと決めることと、そこで具体的な商品の選択と決定(セレクト)を行うこととは別の問題である。
 すなわち、行政が受け持つべき学習情報サービスの「範囲の設定」をしたとしても、それ以上の「良い情報」「悪い情報」などという「セレクトのための判断」を行政が行うことは適当ではないということである。
 とくに指導者情報などは、そのことが問題になるであろう。梶田氏もやはり「基準検討委員会を設けてはいるが、そこで個々のデータをチェックすることはしない」と報告した。なお、続けて「この基準検討も本来、それぞれの市町村が行うべきことではないか」とも発言している。
 一方、行政がそれぞれの情報の特性などについて評価を行うことには大きな問題があるとしながらも、学習情報を求める側にはじつはその判断を参考までに知りたいというニーズが強いという指摘がフロアーからあった。そのようなことは民間に任せるべきか否か議論になるところであろう。
 次に、事業や指導者などに関する「流動性に富む情報」と、施設や資格などの「固定的な情報」について、データ更新などの困難を考えて後者に力点をおくことが良いとする論があった。しかし、固定的な情報はむしろ従来の印刷メディアなどでカバーしつつ、「事前の」「即時的で」「新鮮な」情報こそデータベース化して、既存メディアではできなかったことを学習情報システムで実現すべきであるとする反論もあった。
 さらに、とりわけ指導者については、現場からもっとも求められる情報であるという報告があった。しかし、それは従来の学級・講座偏重型の社会教育がいまだ現場で行われていることの表れではないか、指導者の情報に謝金やその人物の評価が出てこないことを不満とする関係者が多いが、その姿勢自体に問題があるのではないか、生涯学習の理念から言えば、むしろ「相互学習における指導者」の情報の提供にこそ重点がおかれるべきではないかという辛辣な意見もあった。
 行政が提供すべき学習情報の範囲を誤った場合、生涯学習の基盤整備どころか、旧態依然とした「学習援助形態」を増幅させる結果にさえなりかねない危険性をはらんでいることが明らかにされたと考えられる。

3 その他、提起された問題

@ 学習情報に対する学習者側のニーズは本当に切実なのか
A 情報を集めるための実際的工夫とリーダーシップの発揮の必要
B データベースの稼働時間の設定のあり方
C ミドルとエンドのそれぞれのユーザーによるアクセスの方法・内容
D コンピュータ以外のファクシミリや電話等のメディアの活用方策
E 学習情報を仲介する相談員等の専門性とカウンセリングの関連
F 情報の守秘義務、不注意等によるデータベースの破壊の防ぎ方
G 教育委員会事務局と社会教育施設の学習情報に関する役割分担
 話題になったことは以上のようであるが、総じて、学習情報は本質的に個人のためのものであることから、いくらニーズにマッチした学習情報を提供しても、それが有効に使われている場面そのものは、今までの「社会教育現場」のようにはなかなか見えてこない。そこに、このサービスの独特の広がりと難しさの根源があるということができるだろう。
学習情報提供機能への注目
 知恵くらべ生涯学習−生涯学習の現場から−
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
                ニシムラ ミ ト シ

最近の答申や法に見る学習情報の重視
 社会教育関係者の間で「学習情報提供」という言葉が、今日のようにしきりに使われるようになったのは、そんなに古い話ではない。また、文部省の補助金を受けて県の学習情報提供システムの整備が本格的に始まったのは、昭和62年度の群馬と兵庫が最初である。
 ところが、今日では、中央教育審議会の答申が、生涯学習振興の課題として、まず第一に「学習情報を提供することや学習者の相談体制を整備すること」(平成2年1月「生涯学習の基盤整備について」)をあげ、平成2年7月に施行された「生涯学習振興法」(正式名称「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」)が、「生涯学習の振興に資するための都道府県の事業」として、その第1項に「学校教育及び社会教育に係る学習並びに文化活動の機会に関する情報を収集し、整理し、及び提供すること」をあげるまでになっている。

学習情報提供の意義と内容
 生涯学習の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することはかなり難しい。学習の施設や指導者、学習材などに関しても同様である。そのため、学習環境そのものは豊かであっても、その中から、市民が自己の必要とするものをうまく選び出すことができなくなっている。
 こんなことでは、せっかく生涯学習の町づくりを「外側」からだけ進めても、一人ひとりの人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのである。
 学習情報提供の中で扱う情報とは、以上の趣旨からいえば、もっぱら「情報源情報」(学習の手段や方法に関する情報)であるということになる。これに対して、一般の「学習材」そのものは、「ファクトデータ」(学習されるべき内容としての情報)の一つということができる。生涯学習の観点などから、この2種類の「学習情報」のうち前者の方が、「(学習情報提供の中で)提供されるべき学習情報」であるとされる(平沢茂「学習情報とは何か」、『文部時報』昭和62年2月号)。

民間の自由な文化の力を取り込む
 大阪のビジネス街の中心地、中之島のビルの5階にある「大阪府立文化情報センター」は、昭和56年に全国で初めて「文化」情報センターと銘うってオープンして以来、はばの広い学習情報を提供し続けている。その最大の特色は、民間の文化・学習情報をあえて扱うことにいちはやくふみきったことであろう。
 そして、平成2年度の「概要」によると、「人が集まれば情報が集まり、情報が集まれば人が集まる」という考え方をセンターの事業推進の基本にすえているということである。
 ホールやセミナー室の会場提供も行っているが、そこでは主催者が参加者から会費を徴収して催しものを行うことを認めている。
 また、文化・学習にかかわるイベントなども開いているが、民間団体と共催してセミナーなどの事業を臨機応変にどんどん組んでいる。「概要」では次のように述べている。「府民からユニークな企画がもちこまれた場合、積極的に協力し、共催します。また、その事業のPRに努めるほか、施設の使用料を免除しています」。
 このようにして、民間の自由な力を借りることによって、センターの事業の文化性は結果として高いものになっている。そして、それらの高度な文化の可能性を秘めた事業が、センターが収集する文化情報の質をも高めているのである。

学習情報の提供によって輪と話をめざす
 和歌山県では、「学習情報提供システム整備事業」が平成元年度から始まっている。
 パンフレットには、将来構想として「自分のまちの情報や意見などを画面に入れて情報交換ができます」とある。このように、このシステムでは、住民が直接、パソコンなどの画面から学習情報を得ることができるだけでなく、みずから情報を発信できる機能までもが構想されている。
 たとえば、「電子掲示板」については「窓口の職員や一般利用者が自由に伝言や案内等を掲示(書き込み)することができる(市町村情報の提供も本機能により行う)」ということである。
 これは、「情報の輪=人の輪」という考え方のもとに、住民のコミュニケーションを学習情報提供においても重視し、そのためにパソコン通信の「電子掲示板」や「電子メール」などの機能を有効に活用しながら「生涯学習の町づくり」をめざす動きとしてとらえることができる。

プライバシー保護の努力
「名古屋市学習情報提供システム」が、今年の1月からオープンした。中でも、スポーツ・レクリエーション情報については、14の体育施設のどの施設からも、電話でも、空き情報を知り、そのまま予約申込ができるようになっている。
 現在、さらにデータの収集、入力などを進めているところであるが、とくに「講師(指導者)・グループ情報提供事業」については、「運営要綱」や「運用基準」を設けて、コンピュータ処理に関わる個人情報の保護の条例に沿って、慎重に取り扱っている。これは、講師やグループ代表者の同意を得て、収集・入力・更新するようにしたもので、その者からの申し出による削除などをはっきりと定めたものである。
 このようなプライバシーの保護については、他の県・市町村でも、形は違っても同様の努力が見られる。情報提供側が、「本人を非難・中傷しているわけではないから」と勝手に判断して、勝手にその人のデータを入力し、提供することは許されないのである。

学習情報を映像化して提供する
「遠野物語ファンタジー」は、「民話のふるさと遠野」における市民の舞台である。スタッフ、キャストなど、すべて市民で構成され、その内容は、演劇に吹奏楽を組み込み、御詠歌でバレーを踊るなど、挑戦的である。昭和59年にはサントリー地域文化大賞を受賞している。
 遠野市では、民話という「文化」が町づくりの核に据えられている。しかも、この舞台では、文化遺産としての民話が継承されつつも、市民の手で新しい文化として発展している。市民の手作りのものである。
「遠野物語ファンタジー」は、毎年、遠野市民センターで行われているが、センター内の社会教育課芸術振興係が、毎回、それを録画し、その一部をテレビで放映している。
 このテレビの映像は、外見は「学習の内容としての情報」そのものであるが、実際には、同じ地域の「同時代」の市民が行う文化活動の実際の姿を、「直接、全体にわたって」ではなく、映像を通して「かいま見る」という意味で、「学習(文化活動)の案内をしてくれる情報」としてとらえることができる。
 文化の、とくに現在創り出されつつある文化の情報の提供にあたっては、その生きている姿をなまなましく伝える映像を活用することのメリットは大きい。また、施設、人材などの一般の学習情報についても、今後は映像の活用を進めることが考えられるべきであろう。
「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その1)
昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

A new idea and technique in adult 
education to support the ”Depth of 
Individuality”

はじめに 〜「個の深み」とは何か〜

 「個の深み」という言葉は、青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」1)の中で提起された。私もその委員会のメンバーとして起草に携わった。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズに応え、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられたのである。
 そこでは、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した。1)このような確かな「個の深み」ともいうべきものが、これからの社会の中で育つ可能性があるとするならば、その獲得を尊重・助長するための社会教育技術(本編では講義技術)のあり方について考察することは意義深いと考えられる。
 山崎正和は、「柔らかい個人主義の誕生」という本で、「個別化」について次のように述べている。「個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである」。2)
 もちろん、これは個別化のある一面であって(上では「趣味の形成」の場合)、現代社会において「個別化」の本質とは、じつは「画一化」であったりする。オーダーメイドと思っていた商品が、全部同じコンピュータのデータから作られていることもあるだろう。あるいは、その「画一化」に巻き込まれることを拒否しようとして、威勢はよいけれどもうわべだけの空しい自己顕示をする者もいる。それらは、現代社会の個の弱さの表れでもある。
 山崎自身が同じ本の中で、たとえば現代人の「自己顕示」を「自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現である」ととらえている。このように、今日の「個別化」の状況は、必ずしもすべてが望ましい状況とは言えない。「個の自覚」はむしろ脆弱化する状況も見受けられるのである。
 しかし、前者のように「個人が内面的な自発性を発揮」できるような「自己固有の」趣味などを形成し始めていることも、また、一つの事実である。
 「個別化」とは、一人ひとりが自分にしかない「何か」をもちたいと少なくとも心の中では望むことであるといえる。今後の社会においても、この「個別化傾向」はますます強まるだろう。この「願望」を誰も否定することはできない。自分だけにしかない自分を大切にしたり、まわりから大切にされたりしたいという願いは、個の充実・確立のためには不可欠である。したがって、もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は、「派手だが空しい自己顕示」を必要とするものとは本質的に異なる。
 このような個人の内面的な自主性・主体性に基づいた個別性について、私は、その言葉が意味する「神聖さ」と「不可侵性」に敬意をこめて「個の深み」と呼ぶことにしたい。「個の深み」とは、個別化が止揚されたものであり、個別化よりも積極的な価値づけをした言葉と考えてもよい。ただし、反面では、他者が一個の「個の深み」に深入りしすぎると逆機能を生ずるという危険性もある。言いかえれば、「深みにはまる」という危険性である。ここでは、「深み」という言葉に、そういう二面性を象徴させている。

1 社会教育における組織と個人
(1) 「組織的教育活動」の従来の解釈
(2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ
(3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育
   〜個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ〜
2 講義型学習と社会教育、高等教育
(1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰
(字数の関係から、以上1の(1) から2の(1) までは次号まで見送りますが、筆者までご連絡いただければ、その未定稿をさしあげます。)

(2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育
 「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とする講義(学習する側からいえば「一斉承り学習」)の逆機能は、高等教育においてもまったく同様の問題となって表れている。
 大学の目的については「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、◆深く専門の学芸を教授研究◆し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法第52条)とあり、短期大学の目的については「◆深く専門の学芸を教授◆し、職業に必要な能力を育成すること」(同法第69条の2)とある。「深く専門の学芸を教授」することについては共通している。なお、小・中・高等学校については「心身の発達に応じ」た教育を「施すこと」となっており、その他に大学などと違って教育目標が定められているが、「学芸の教授」という言葉はない。
 「学芸」とは「学問と技芸」であり、「教授」とはそれらを「教えさずける」ことである。「学問」の「学」は旧字体では「學」であり、「臼」(両方の手)で「子」が知識を授けられる「家」を意味しているが、「爻」という「二者間の相互の動作」も含んでいる。「問」とは、とびらで閉ざされている「門」、すなわち「かくされていて分からない事を口でたずね出す意」である。「教授」の「教」は、やはり「子」に対するという意が強いが、旧字体では「子」の上に「爻」が使われる。「授」には、「さずける」という師弟的な響きが強いが、解字では「手」で「受ける」という学習者側の主体性も意識したものと考えられる。9)
 このように、「学問」の「教授」という言葉のもともとの意味から言って、師弟関係を前提にしているとはいえ、それが非主体的な「一斉承り学習」によって実現できるものとは想定されていない。これは当然のことといえよう。しかし、実際の教育現場では教授側も学習側もその認識が十分とはいえないのではないだろうか。
 なお、社会教育関係者の間には、「勉強」という言葉は「つとめしいる」だから強制的な意味あいが強いと決めつけ、それに比して「学習」という言葉は即主体的行為であるから好ましいとする議論がある。これについて触れておきたい。
 「学習」の「学」はすでに述べたように「臼」(両方の手)で知識を授けられることであり、「まねぶ」(まねをする)ことでもある。「習」の「羽」と「白」は「ひな鳥がくりかえしはばたいて飛ぶ動作を身につける意」9)であるから、「ならう、なれる」ことである。たしかに、「学習者側からの表現」と言うことはできるが、与えられた「教育目標」に対しては無批判的に受け入れることを前提とした言葉であるといえなくもない。「学習会」などというと、無意識のうちにどうしてもそういうニュアンスで感じとられてしまうのではないか。
 これに対して、「勉強」という言葉については、「勉強会ブーム」やパソコン通信のアーティクル(通信記事内容)にしばしば見かける「私も勉強しておきます」などの表現に、◆新しい意味◆を見いだすことができる。「勉強」の「勉」は、「力」(りきむこと)と「免」(女がしゃがんで出産するさまの象形)である。「無理をおしてはげむ」ことである。「強」も「無理をおす」という意味である。9)その語感に軽やかな楽しさがないのは否めないが、日本語としては他者からの強制を必然的にともなうものとは限らない。ここで、「学習」という言葉を◆しいて◆「勉強」に置き換えようと提言しようとするわけではないが、市民の「勉強志向」をあなどらずに援助することの必要については強調しておきたい。
 さて、高等教育における講義の位置づけであるが、その現在の到達点を探るためには、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)に書かれている主張の吟味が有効である。11)本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における◆教員訓練研修プログラム◆に関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。
 そこでは、「学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」であること、すなわち「学習は個人的事象である」ことが基本テーゼになっている。したがって、「多人数で行なう講義」については「教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離」などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、これまで述べてきた学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」としている。本書でこの「講義法」に対置されている教授法は「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」などである。
 「学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」という言葉などは、アメリカのM・ノールズがアンドラゴジー(おとなの教育学)の特徴としてまとめた成人の学習の形態、動機、基盤などとぴったり一致する。12) このことから、社会教育がめざしている主体的学習の「援助方法」は、高等教育が今日模索している「教授法」と、技術的にはほとんど同じものになることは予想にかたくない。
 もちろん、学習内容については、社会教育の場合は法によれば「実際生活に即する文化的教養」(第3条)であるから、「深く専門の学芸を教授研究」する高等教育とは明らかにレベルが異なる。しかし、「実際生活に即する文化的教養」にしても、いわゆる「身のまわりの問題」だけの学習、うわべだけの「文化」「教養」としてしかとらえないとすれば、これもまた問題である。
 人々の生活・文化・教養ニーズは、高等教育でいう「学芸」に近づこうとしているのではないか。逆に、「学芸」の方も学際の重視などから人々の「生活」「文化」「教養」にいっそうの関心を示しつつあるのではないか。このようなことから、社会教育でいう「生活」「文化」「教養」についても、新しい時代の人々の学習ニーズに応じて柔軟にとらえなおさなければならない。たとえば、「つとめしいる」勉強に関心を示し「自ら」それを行なおうとする一般成人などは、その潮流の先駆者ととらえてもよいであろう。

(3) 講義からの「逃避」に隠された弱点
   〜多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ〜
 このような新しい生活、文化、教養、あるいは学芸にとって、講義型学習は「本質的」に無効なのであろうか。たしかに、「個の深み」の実現のためには、生活、文化、教養、学芸においても◆各人の◆独特の深みが求めらる。しかし、そのような「深み」が求められるからこそ、「ある専門の学芸を深く研究している」教授者(professor )が自己の研究の最先端を告白(profess )する講義という教授形態は、かえってそのための高度で能率的な方法として再評価されるべきではないか。もちろん、そこでは「教授技術」(社会教育における「講義技術」)などの改善の努力が前提になることは当然である。
 前出「大学教育の原理と方法」では、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、1週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。
 しかし、同時に、「伝達されるべき情報がまだ未発表のものであるか、新しい方法で構成される必要がある場合、もしくはそれらの情報が課程の概略・要約となる場合」などは、「解説的な教授法が最もふさわしい技法となる場合もある」としている。だが、その場合でも「学生に大きな刺激をもたらす源泉」となることは「例外的」としている。その上で、本書では、講義法を行なう場合、フロアへの質問の投げかけ、自己評価のための小テストなどの「革新的試行」が教師にも学生にも有意義だとしている。そして、聴講者の前に立つ時の精神的不安に対処する方法、聴き取りやすい話し方、その他講義の準備・構成・提示にわたってさまざまな技術的な「アイデア」も提示している。これらの「技術」の中には、学習者の主体性支援のためのものもかなり含まれており、講義の技術を考えるにあたって大いに参考になる。
 ただし、本書の場合、先に述べたとおり「講義法」よりも「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」の方に、より大きな価値をおいている。しかも、たとえば「小集団討議法」の章では、「小人数でグループを形成して、各自の考え、知識、理論、洞察等を互いに交換し合う機会をもつことは、学生にとって大学教育から得られる最も貴重な学習体験のひとつとなる。伝統的に小集団討議法は、最も中心的で歴史的な大学教育の機能とみなされてはきたが、その役割はこれまでにその価値にふさわしい形で開発されてきたとはいえない」とし、小集団討議によって「帰属感や楽しみの感情が存在し、考えや意見を分かち合う」ようになることを提言している。学習者の主体性の支援の必要を強く意識したものといえる。
 このような考え方にもとづく「小集団討議法」は、社会教育の手法と似通っており、私は正直に言えば好感さえ持つのだが、同時に、教授者が個人の個別な深まりをどう援助するかということについては、ほとんど深められていないことに多少の不満も持つのである。もちろん、小集団討議における教授者の役割やその技術も緻密には述べられている(わが国では類がないほど)。しかし、それは、本書を見るかぎり、個々人の「深まり」よりも、◆すべての学習者が◆主体的に学習できることに最大の関心を持った上でのことのようである。主体性が多数の者にいきわたることのために、ほとんどの精力を費やしてしまっている。講義型学習への「あきらめ」は、そこから生じているのではないか。
 わが国の場合は、どうであろうか。ロンドン大学のような教授法に関する教員の訓練がないことは言うに及ばず、高等教育における教授法の研究・開発自体が進んでいない。教授者は自らの教授法を自ら管理しながら、あるいはひどい場合は教授法に無頓着に、教授を行なっている。しかし、皮肉な話だが、もし教授法を真摯に検討するようなことになれば、高等教育が大衆化している今日、すべての学習者が主体的に学習できる方法と技術(講義以外で)があるということに驚き、それを「救世主」のように受けとめ、いっぺんにそこに傾倒してしまうのではないか。
 「大学教育の原理と方法」でいう「小集団討議法」の理想像程度ならば、「共同学習」などに始まる社会教育実践の場で、ある程度現実のものとしてきている。この成果を、わが国の高等教育の教授法の改善においても反映させるなどといったことは考えただけでも楽しい。しかし、もう一歩立ち入って考えるならば、高等教育は中等教育までとは違うのだから、「落ちこぼれ」の心配をするよりも、「落ちこぼれ」は(教授側が設定したカリキュラムからの)「落ちこぼれ」なりに(その個人が自覚し自負する)「個の深み」を獲得し、「成績優秀者」は(教授側が設定した評価基準の上での)「成績優秀者」なりに(教授側が予定しえなかった個別な成果としての)「個の深み」を獲得するよう援助すること、つまり、一言でいえば「個人主義的援助」にもっと力を注ぐ必要があるのではないか。
 あるいは、もし、高等教育の大衆化、中等教育化が、国民のニーズでもあり不可避だとするならば、そのような「個人主義的」な高等教育の役割は、社会教育が肩代りして、今日の高等教育にあきたりない人々にサービスすることを考えるべき時代なのかもしれない。

3 「個の深み」を支援する講義技術

(1) 「個の深み」を支援する講義技術
 本章では、講義の中でいかに「個の深み」を支援するか、その「技術」について述べたい。「技術」であるから、「だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質」13) をもっていなければならないということになるが、私の力量の限界や「教育」の技術という性格上、そこまで汎用的ではない。試論である。だが、梅棹忠夫のいうように「(技術に関する)話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしい」と思う。
 そして、梅棹の言葉を借りれば「知的生産の技術(ここでは講義の技術)の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性(ここでは教授者側の主体性と独自性)という原則」は大切にしたい。そもそも、教授者による「自己の研究の最先端の告白」が、内容の深みと真実の迫力をもっているのなら、たとえ聴き取りずらくても、その講義は個別の「個の深み」に訴えるからである。(それでも技術は些末な事項ではない。)
 つぎに、「個人学習」の支援や「多数者の主体性」の獲得の上で、講義には不利な面が多いことは、社会教育や高等教育の現在の到達点から見れば明らかである。それゆえ、「個の深み」支援においても、講義が他の方法より有利だということはありえない。しかし、そういう困難の中で「個の深み」を支援するすじ道を考えることにより、「個人学習」や「多数者の主体性」とは違う「その上の次元」(断絶しているわけではないが)としての「個の深み」とその支援のあり方の独自性が浮かびあがると考える。
 ここでは、講義の中で「個の深み」を支援する技術を、三つの階層に分類した。下部は「教授者の不安の解決」、中部は「学習者の主体性の確保」、そして上部は「反応・発展の個別化の促進」である(図1)。
 一つには、「講義を行なう場では、教師は教科の専門家として、さらに学生の行動をコントロールする監督者として、『権威者』の役割をになう立場にたたされる」。11) そこから生ずる不安に対処する方法として、前出「大学教育の原理と方法」では、「その不安はよい兆候だとあえて思うこと」「質疑応答」「バズ・グループ討議」「OHP用シートの準備」があげられている。しかし、とくに社会教育においては、教授者は教育技術の観点から「演技者」であることは必要かもしれないが、自身の「個」を曲げてまで「専門家」「監督者」「権威者」のふりをしなくてもよいと割り切ることこそ、その前に必要であろう。その上で、先のようなことも有効だが、基本的に大切なことは、教授者の予想どおりかどうか、良いか悪いかはともかく各学習者による講義の「受けとめ方」(個別である)を知ることである。これらのことが、下部の「教授者の不安の解決」を構成する。
 二つには、「承り学習」にならないよう学習者の問題意識に訴える必要がある。「大学教育の原理と方法」からは、要約すれば「教師の関心を示す」「五官に訴える」「体験や既習の学習に関連づける」「現代性を明示する」「対照的な観点や対立する論争点を紹介する」「質問する」「仮説を提示する」「問題を提起する」などが、それに該当するものとして拾える。その基本は「学習は本来個人的事象」であるから、◆なるべく多くの◆学習者の「自らの興味や価値観、能力、レディネス、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会」11)に迫るような工夫をすることである。これらのことが、中部の「学習者の主体性の確保」を構成する。
 これらの下部と中部の階層は「個の深み」支援の下部構造としては必要であるけれども、それだけでは「個の深み」支援そのものまでには到達しない。「個の深み」は、個別化が止揚して、はじめて結果として生まれるのである。
 そこで、三つには、教授者が予定しうるはずのない学習者の個別な深まりまで教授者が援助する技術を編み出さなければならない。「大学教育の原理と方法」の講義法の章からは、しいてあげれば「学生に積極的に賛成か反対かの意見を表明させたり、自分の仮説を提示するようつよくうながすこと」が拾える。しかし、これとて、個別な意見や仮説が生じたとしても、その専門について自分より見識の高い教授者の行なう講義や教育目標にしばらくすれば収斂されてしまう可能性が強い。主体性が深まる点では評価すべき手法だが、ここでめざしている本格的な個別化を深めることには直接にはつながらない。
 教授者が何かを発言すると、それは刺激(stimulus)となって、学習者のなんらかの反応(response)を呼び起こす。刺激と反応(S−R)の関係ということができる。まず、この反応が、すでに個別的である。教授者側が設定した教育目標に沿う方向の反応もあれば、思わぬ反応もある。その時、「思わぬ反応」をすなわち教授の失敗ととらえるところに個別化を阻害する要因がある。「思わぬ反応」を本人に自覚させ、それがどういうものであろうと基本的に好ましいことを教授者は表明しなければならない。「教育目標に沿う方向の反応」の場合でも、それぞれがさまざまな方向性をもっていよう。厳密にいえば、遺伝子と生育歴の違いの数だけ、反応の違いがある。教授者は、その違いを喜び、大切にしなければならない。S−Rを一面的に規定し、操作しようとすることは、望ましくないというよりも、もともと不可能なことなのである。
 つぎに、その反応を個別的に発展させるためにはどうすればよいか。じつは、この「発展」も当然のことながら本来、個別的である。程度の差はあれ、自らの「反応」を個別に味わい、吟味し、洞察する。それが個別的である理由をあえてあげれば、「反応」と同様に「遺伝子と生育歴の違い」といえよう。しかし、この「発展」をそのまま「放置」することには、「反応」と違って現実上の大問題を生ずる。「反応」は一時的なものであるから講義の流れを阻害しないが、「発展」は各自のプロセスや所要時間が異なるため、多人数を対象とした講義を予定どおり進めるためには不都合なのである。
 このようなことから、主体的学習を支援しようとする人の中からも、「講義は無力だ。小人数の討議の方がよい」、あるいは「講義は『承り』でもしかたない。あとは学習者の『独習』に期待するしかない」というような講義に対する敗北主義が生まれるのである。しかし、小人数討議なら必然的に学習者の個別な発展を保障できるというのだろうか。また、講義の全時間、神経を集中し、さらにその時の自らの反応を発展させるためにあらためて独習の時間をかける学習者がそんなにいるだろうか。もちろん、独習の意義が大きいことは否定できない。学習内容によっては、独習こそ最良の学習方法という場合もあろう。だが、むしろその場合は、口述メディアの講義を通してより、活字メディアを通して学んだ方がスムーズで有効な内容なのに、無頓着にそれを講義で行ってしまうことにこそ問題がある。
 それよりも、「講義であるからには、こうでなければならない」という思い込みを、あらためるべきである。学習者の個別な「発展」(あるいは人によっては、あることに関して「発展」しないこと)の方を大切にし、全体講義は進めておいて、その全体講義に復帰して集中する時間は、それぞれの学習者の「発展」の事情と判断にまかせることがあってよいのではないか(たとえ全時間、神経を集中してノートをとって聴いたとしても、1週間後の記憶率は20%以下なのである11))。あるいは、教授者が「発展」の時間を仮に定めて、講義を中断し、各学習者に「発展」の時間を自己管理してもらってもよいかもしれない。
 いずれにせよ、教授者側が予定した講義を、設定した教育目標のとおり話を進めて、それを一斉に受講させようとすることこそ、「個の深み」の発展を阻害する最大の要因といえる。

(2) 反応・発展の個別化を促進する方法
 それでは、上部の階層である「反応・発展の個別化の促進」を構成する講義技術とは何であろうか。その一つは、すでに述べたように、全体講義からの一時的な個別の離脱(集中しないこと)を黙認すること、あるいは全体講義の方を一定時間、中断することである。これは、教授者側からいえば「消極的行為」ではあるが、重要である。
 しかし、教授者による「積極的行為」の方はありうるのだろうか。たとえ教授者といえども個別化の方向性は予定しえない。また「個の深み」が「神聖・不可侵」なものであるだけに、教授者側は干渉やおしつけにならないよう厳しく自己規制(禁欲)すべきである。ふたたび、梅棹忠夫の同じ言葉を借りれば「知的作業(ここでは反応・発展)の聖域性ないしは密室性という原則」13) が「個の深み」にとっても生命線なのである。このような理由から、「反応・発展の個別化の促進」に関わって学習者にその◆方向◆を講義で直接的に指導するということは、社会教育にせよ、高等教育にせよ考えにくい。
 それに近い指導があるとすれば、講義ではなく、双方向のカウンセリングの形態(受容、支持、共感、明確化など)をとって行われることになろう。また、とくに高等教育機関などにおいては、「教育的判断」により個別化の方向そのものを修正するよう特定の個人に要請することも、慎重かつ意識的に行うという条件のもとにはありえよう。ただし、後者については本論での「反応・発展の個別化の促進」に分類される行為ではない。「促進」の行為ではなく、かならずしも悪い意味ではないが、やむを得ない「統制」の行為である。
 つぎに、「反応・発展の個別化の促進」を構成する教授者からの「積極的行為」としては、学習者が講義を聴きながら個別化を獲得できるよう、その◆方法◆を指導(提起)することが考えられる。
 「個の深み」は、それ自体を深めようとして深まるものではない。さまざまな可知、不可知の要因から多様な方向性が生まれ、それが各人の個性というフィルターを通して無意識のうちに深まっていく◆はず◆のものである。しかし、実際にはそのような「個の深み」にいたることのできない学習者ないし局面がでてくる。その状態を「没個性」ということができる。これは、現代管理社会の中で、人々が自分らしさ(アイデンティティ)を表現したり主張することが疎外されがちであることに一つの原因があるのだろう。
 他者からは、はかり知れない個人の内的世界における知的営みだけではなく、その時々の内なる到達点(アイデンティティ)を自ら外在化する営み(表現)との双方が循環して「個の深み」を創り出す。このようなことから、個人が「話す、書く、表現する」◆舞台◆を設定することは有効な手段といえる。それは、教授者側の「積極的行為」と考えられるのである。
 「話す」は、ここでは情報交換や合意形成や発想などのための討論を意味するものではない。ここでの「話す」ことの目的は、個別化した「反応・発展」を「外在化」することにある。したがって、むしろスピーチに近いものになろう。しかも、スピーチをすることであり、聴くことではない。スピーチを聴くことは、聴かれる者、聴く者の相互の「個の深み」のための刺激にはなるが、自己の個別化した「到達点」を外在化することではない。それゆえ、小集団の討議が必然的に「到達点」の外在化につながるものではないと同時に、多人数の講義においては聴く側にまわる者が多く、能率的ではないという問題がある。ただし、多人数でも、隣どうしの者でペアを組み、話す者、聴く者の役割を交替しながら、それぞれの個別な方向について紹介と批評を交わすことなどは、訓練によっては可能になるかもしれない。
 「話す、書く」以外の表現方法もあるが、それは心理学や芸術などの観点から、別に詳細に検討する必要がある。ここでは、「話す、書く」に「表現する」も加えておく必要があるという指摘だけにとどめたい。
 個別化した「反応・発展」を表現するための方法の中で、講義型学習にもっとも適しているのは「書く」ことではないか。「反応・発展」という内的世界を、それなりの論理構成をもって記述することによって、自己の「反応・発展」に気づき自負することもできるし、欠陥部分を発見することもできる。自己の勝手な無力感や万能感を、自らの目の前にあからさまに突き出すことになるのである。もちろん、「自分はやっぱり何も書けない」という無力感を増大させることもありうるが(自由に書いてよいという場合は、それは意外に少ないようだ)、そういう試練を乗り越えて自己の個別化を自負し、「個の深み」を獲得していくことが必要なのだと思う。

(3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際
 学生の場合は、「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。私は、可能な場合は、試験の時に使われる大学所定の「解答用紙」をあえて配布している。学生は、そこに自由に記述する。学生の「書く」ことへの認知構造を変革させたいからである。社会教育や研修などでの講義の場合は、氏名は無記入でもよいことにしているが、大学の授業では出欠のチェックにも使うため、必ず氏名を記入してもらっている。ただし、記述内容は成績評価には影響させないことを宣言している。個別化の方向性には点数をつけられないからである。この紙を「出席ペーパー」とよんでいる。
 「出席ペーパー」には、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くことになっている。しかし、「講義どころではない固有の課題」を抱えた者の中には、講義の内容にまったく関係のないことをびっしりと書く者もいる。かえって、これらの記事の中には、しばしばユニーク(個別的)でおもしろいものがある。また、白紙で提出してもかまわない。それも、私の講義への一つの正直な反応であろう。
 自らのプライバシーを綿々と綴ることも認めている。何回目かの失恋の話程度のものもあるし、私が初めて聞くような惨憺たる家庭状況などの話もある。その場合は、皆の前ではもちろん、本人にもそれについてのコメントはしないことにしている。とくに後者のような場合、中途半端な励ましは、かえって無責任になるからである。(教授者側に、徹底的にそれを理解し、解決まで面倒を見る覚悟がある場合は別だが。)それよりも、教授者に対して書くこと自体が、ちょうどカウンセラーに話をしている状態と似ており、自分の本当の問題に自ら気づき整理することになる効用を訴えたい。ちなみに、本当に悩んでいる人に「頑張って」などの安易な励ましの言葉を投げかけてはいけないことは、カウンセリングの常識である。
 「出席ペーパー」が百数十人分になる授業もある。それでも次週の授業までに、私は必ずすべてを読んでおく。学生に、そう約束してある。読むことは、やってみるとわかるが、とても楽しい作業である。自分の言動が他者から受容されていることを味わうことができる。次の授業では、他の学生にも興味を引きそうだと思われる箇所を、コメントをつけてプリントや口頭で紹介する。その場合、名前は伏せる。同じ立場の他の学習者(ピア・グループ)が書いた記事の紹介は、学習者からは大変な好評である。その紹介によって学習者の興味を持続したまま、本時の講義内容にスムーズに移行できることもある。
 ただし、「出席ペーパー」の本来の目的は「自分が書く」ことであるから、紹介の方は本時の講義に差し支えない範囲と時間に限っている。本時の講義のために紹介の時間がとれないときは割愛する。学生はそれを一応は納得しているようだ。もちろん、コメントがつかなかった場合に「書きっ放し」になることのさびしさや、私との「文通」の希望を訴える学生もいるが、「コメント」や「文通」を全員に対して行うことは物理的に不可能に近い。「出席ペーパー」の本来の目的を理解してもらい、納得してもらうしかないだろう。
 あとになって、学生から私への意思表示のために三つのマークを定めた。BBS(Bulletin Board System =掲示板システム)、メール(手紙)、チャット(おしゃべり)の三つである。これらはすべて、パソコン通信の用語を借用している。後ろの二つは重要ではない。「私信のつもり」「軽いおしゃべりのつもり」という意思表示をしたい人は、好みでそのマークをつけてもよいというだけのことである。しかも、メールと書いても、「文通」はとうてい請け負えない。一方通行である。それを知った上で、「メール」マークをつけてくる人がかなり多い。手紙という言葉に彼らのフィーリングが合うのであろう。手紙を書く労力は損したとは思わないらしい。
 私が気負ってこのマークを提案した理由は、BBSにある。ある人が「出席ペーパー」に、何か問題提起をする。その記事にBBSのマークをつければ、もれなく次回にそのままコピーして紹介することになっている。それを読んで関心をもった他の人は、同じくBBSのマークをつけてレスポンスを書く。今度はそれが次の週に紹介される。このようにして学習者の間に知的交流のブームが起こることを期待したのである。「とりあえずは、BBSにしたらもれなく紹介する」と宣言したので、もし全員がBBSにでもしたらどうするかを最初は心配していた。しかし、自分のペーパーをBBSにしてくれる人は、百数十人中、わずか二、三人だったのである。パソコン通信のような市民主義的な知的交流の土壌は、まだ育っていないととらえるべきであろうか。
 それにしても、たとえメールであろうと、書く人たちはとにかく自由に楽しんで書いている。私はそれでよいと思っている。書くこと自体が本来的に自己抑圧的な作業であり、その人なりにそれを克服してなんらかのものを書くわけだから、現在問題になっている「伝言ダイアル」などとはおのずから性格が異なるものなのである。
 ただ、講義への集中を中断して書くこと、あるいは講義を聴きながら書くことに抵抗感をもつ学習者は、学生の中にもいる。そのため、終了予定時間の10分前には本講義は終了し、雑談のような話をすることによって、書く時間をそこで保障している。もちろん、事前に書いてくる熱心な学生も中にはおり、それも歓迎している。
 しかし、是非は問われるだろうが、学習者が「自己管理的」に講義に集中・離脱できるよう私自身は求めたい。講義のすべての時間を、すべての学習者のニーズにマッチさせることなどは、多様化の時代にありえないことなのである。そのような「完璧な講義」を教授者の責任として求めることこそ、むしろ学習者側の過度に依存的な態度と考える。講義からの離脱と復帰のタイミングは、それぞれの学習者がつかめると思うし、良いか悪いかはともかく、それは現代社会での生き方につながると思う。
 「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつは次のとおりである。最初からはっきりと「反応・発展の個別化の促進」という目的を掲げていたわけではない。初めて演壇に立ち、「学生の注視を一身に受ける立場」11) になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。
 しかし、多人数の学生の前で仲間意識(ピア・コンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで、思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。社会教育施設でも、自由記述のノートを部屋に置くなどしておくと、いきいきと意見や情報などを交換している。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。
 その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下の方に書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられた。
 学生の方も、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」というよけいな思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためには、「出席ペーパー」はかなり役立ったようである。
 このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。
 ところで、中高年の社会人の人たちの中には(この場合、一過性の講義であるが)、「出席ペーパー」を書くことそのものに対する拒絶反応を示す人がいた。もちろん、社会人の場合、提出する、しないは本人の自由にしているのだが、何人かはわざわざ「出席ペーパー」の存在に対して抗議をしたためた「出席ペーパー」を提出した。「抵抗を感じる」「意味がない」などの一言ずつなので、詳しい気持ちはわからない。
 これは、階層社会で生きているうちに、自己の「個」を表現することを抑制するようになってしまった結果だろうか。あるいは、自分しか読むことのない日記を書くことによって自己洞察するようなことは、青年期をすぎるとあまりしなくなるのと同様に、他者からの賞賛を得ることのない「無益な自己表現」はしたくないという「実効主義」が原因になっているのだろうか。しかし、そうだとすれば、若者がいたずらに幸せの「青い鳥」を探し回っているというが、おとなの方こそ自己の内なる確立(アイデンティティ)という本当の「青い鳥」はもう見つけられないのではないかという不安を感じる。もっとも、中高年の人たちの抗議は、初めて会ったばかりの◆若僧◆(講師としての私)などに、内なる自分の反応・発展などさらけ出せるものかという自我の主張の結果である可能性も強い。そうであれば、何も心配すべき問題ではない。

(4) 「個の深み」を考える
   〜中間まとめと今後の問題の所在〜
 S短期大学(音楽系)とT大学(2部人文系)の実質3カ月程度の授業で、すでに「出席ペーパー」はファイル10冊以上になっている。私が作ったそれらのダイジェストを眺めているだけでもおもしろい。彼らの多様な関心事についての傾向がわかる。紙面の都合上、それらを逐一紹介することは差し控えざるをえないが、試験の模範的な「解答用紙」であったらまず見られない「個別の」感じ方、それまでの体験の蓄積、それと授業とをつなぐ感性、思考の自己発展などに散りばめられている。
 ところが、それが「個の深み」かというと、残念ながらそうとは言い切れない。表面的には「個別化」に見えても、最初に述べたように、本人も気づかないうちに現代社会の一つの側面としての「画一化」「没個性」の影響を受けていることがある。各人の認知構造が無自覚のうちに定め◆られて◆しまっているのだ。たとえば、自分という人間を不自由にするような「思い込み」に塗り込められてしまっている。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。そんな「認知構造」を自己変革するためには、かなりの主体性が求められよう。それは、至難のわざのようにさえみえる。
 しかし、「自ら学ぶ」ことを信条としている社会教育は、個人の「自己解決能力」を信じるのであろうし、さらにはその「自己解決」を外部から支援する可能性をも信頼する。講義は「義を講ずる」ものというが、真の義はだれにもわからない。「個の深み」のごとく、多様な義があるのだろう。講義はそのような「個の深み」への多様な入口を、さまざまに刺激的に提示することなのではないか。したがって、「講」の旁(つくり)の部分の「相手が同じ理解に達するように」という意味は克服されなければならない。教授者のもたない「深み」を学習者がもつように援助することが教育の営みなのである。それにしても、教育が「独習」にまさることなどあるのだろうか。これこそ「教育の挑戦」とよぶべきである。
 「それ(学生の主体化)ができないのは、教師が悪いからだ」といった責任回避をせずにロンドン大学がスタッフ・デベロプメントに取り組んでいるように、社会教育機関も委嘱した講師のせいにして責任放棄することなしに、自らの社会的責任の重大さに居住まいを正すべきである。
 率直に言って、一人ひとりの「個の深み」は現在の組織運営にはむしろ邪魔にさえなりかねない。だが、やっかいだけれどもそれとつきあっていく覚悟を決めなければならない。「個の深み」は、本人の目先の利益に役立つかどうかもわからない。だが、それを支援するのは今後の社会への教育の責任である。これを社会教育(行政)の新しい「公的」存在意義と呼んでよいだろう。
 ネットワークとは「自立」と「連携」の統一といえる。いわゆるピラミッド型社会では、同種の者が集まり同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これはある程度の「安定」をもたらす。しかし、ネットワーク型社会においては、各人が水平に関係を保つ。異種も混在する。目的も一人ひとり違う。「安定」に住みなれた人には耐えられないシステムである。
 このように、ネットワークは各人が◆あえてそれを行う◆すぐれて意識的な行為であり、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続ける。ネットワークでは、個人主義を障害とは考えない。むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流することをさす。「個の深み」は、そのように個別の「深さ」をもちつつ、水平に横につながるものでなくてはならない。
 今日の人々の「個別化」がそのような「個の深み」と今はイコールでないことは、これまで述べてきたように残念ながら明らかであろう。ピラミッドにおける位置(ポジション)の維持から、その個人自らが決めた「構え」(スタンス)へ、さらには「自己存在そのもの」(アイデンティティ)へと学習者の関心が深化するまでにはかなりの道のりがありそうだ。だが、そこまで発展しないことには、ネットワーク社会は実現しない。新しいネットワーク社会に向けて、それぞれの「個の深み」を獲得する個人とそれを援助する社会教育に与えられた課題は大きいが、その課題が達成されるかどうかは、本質的なネットワーク社会をそもそも人間はつくりだすことができるかどうかを示す指標にもなるのである。

参考文献・資料等

1) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、平成2年3月、とくにPP.10-17.
2) 山崎正和著『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、1984年、とくにPP.50-51.
3) 福原匡彦著『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会,1989年、とくにPP.34-36.
4) 島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、1974年、PP.343-346.
5) 碓井正久編『社会教育』(戦後日本の教育改革)東京大学出版会、1971年、P11.,P.231.,P.282.,PP.359-360.
6) 社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」、昭和46年4月
7) 中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」、平成2年1月
8) 見田宗介他編『社会学事典』弘文堂、1988年
9) 山口明穂他編『岩波漢和辞典』岩波書店、1987年
10) 文部次官通達「公民館の設置運営について」、昭和21年7月
11) ロンドン大学・大学教授法研究部(喜多村和之他訳)『大学教授法入門−大学教育の原理と方法』玉川大学出版部、1982年、とくにPP.86-105.
12) 倉内史郎著『社会教育の理論』第一法規、1983年、PP.137-140. に紹介されている。
13) 梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波書店、1969年、とくにPP.1-20.
文化映像の製作・保管・活用 中間報告
社会教育・社会教育施設・公民館各論A
−学習(文化)情報提供における映像活用の課題−

 生涯教育の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することは大変難しくなっている。それゆえ、豊富な学習機会の中から、市民が自己の必要とするものを的確かつ速やかに選び出すこともできなくなっている。学習機会のほか、学習施設や人材などはもちろん、文化映像などの生涯学習に関わる他の情報についても同じことがいえる。
 こんなことでは、せっかくの「外側」の「学習社会」の実現も、一人一人の人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要になる。
 学習情報を提供する意義は、以上のようにまとめられるが、その趣旨からいえば、「学習情報提供」の中で扱う情報とは、もっぱら「学習案内情報」(学習の案内をしてくれる情報)であるということになる。これに対して、一般の「学習材」などは「百科全書的情報」(学習の内容としての情報)の一つということができる。たとえば、平沢茂は、前者を情報源情報、後者をファクトデータとも呼ばれる、として、生涯学習の観点等から、この2種類の「学習情報」のうち前者を、「(学習情報提供の中で)提供されるべき学習情報」と主張している(平沢茂「学習情報とは何か」、『文部時報』昭和62年2月号、文部省)。
 このような趣旨からいっても、そこでの映像活用を考える場合、第一義的には、学習の機会、施設、人材などの「学習案内情報」を提供するにあたって、映像の利点を活かすという問題になるといえる。だが、種々の問題もあって、そのような学習情報提供に映像を活用している例は、今のところ存在しないようである。
 しかし、「文化」の観点に立ち戻って考えてみても、「文化」をリアルに伝達するための一つの「手段」としての「映像」のもつメリットは、無視しえないわけであるから、「文化」を含む学習情報の提供に映像を有効活用することは、今後の重要な課題になるといえよう。その場合の映像は、いわば「学習案内情報」であるが、当然、それ自体もダイジェスト的な「文化映像」としての価値をもつことが期待される。
 また、「文化映像」などのような「学習の内容としての情報」そのものの情報についても、学習情報提供をする具体的な機関・施設が、それをまったく持たずに「学習案内」だけをするということは、現実には考えられないばかりか、情報提供サービス全体の活力を失うことにもなりかねない。実際には、2種類の学習情報が、それぞれのケースによって、適宜、提供されることの方が、むしろ望ましいのである。
 終わりに、学習(文化)情報提供における映像活用の課題を、直接ではないが象徴的に示唆する事例をあげて検討しておきたい。
 「名古屋市学習情報提供システム」は、平成2年度末の情報提供開始に向けて、収集、データ入力などを進めているところであるが、そこでは、「講師(指導者)・グループ情報提供事業」の「運営要綱」「運用基準」を設けて、とくにコンピュータ処理に関わる個人情報の保護の条例に沿って、慎重に取り扱っている。これは、講師やグループ代表者の同意を得て、収集・入力・更新するようにしたもので、その者からの申し出による削除などをはっきりと定めたものである。他の県・市町村でも、形は違っても同様の努力が見られる。
 著作権の問題もさることながら、本人などが「映像化」される場合には、プライバシーの保護についてもこのような配慮をする必要がある。
 「遠野物語ファンタジー」は、「民話のふるさと遠野」における市民の舞台である。スタッフ、キャストなど、すべて市民で構成され、演劇に吹奏楽を組み込み、御詠歌でバレーを踊るなど、挑戦的な内容である。昭和59年にはサントリー地域文化大賞を受賞している。これは、毎年、遠野市民センターで行われ、センター内の社会教育課芸術振興係が録画し、テレビ放映をしている。
 ここでは、民話という「文化」を町づくりの核に据えている点、しかもそれが市民の手作りのものであるという点で、注目すべきである。また、その際、文化遺産としての民話が継承されつつも、市民の手で新しい文化として変化している点にも、注意を傾ける必要がある。
 そして、「遠野物語ファンタジー」のテレビ番組は、外見は「学習の内容としての情報」そのものであるが、じつは、同じ地域の「同時代」の市民が行う文化活動の実際の姿を「直接、全体にわたって」ではなく、映像を通して「かいま見る」という意味で「学習(文化活動)の案内をしてくれる情報」といえるのである。
 文化の、とくに現在創り出されつつある文化の、「学習情報提供」にあたっては、その生きている姿をなまなましく伝える映像のメリットを大胆に活用すべきであるといえよう。
(豊島区青年館25周年記念誌原稿)
注 小項目の()付数字はトルツメ

都市における青年行政の将来
 昭和音楽大学短期大学部助教授
            西村 美東士
1 池袋が若者にとって好ましい街に変わりつつある
(1) 池袋の過去の発想
 一昔前の池袋は、流行歌などで、どのように歌われてきただろうか。小さな飲み屋さんがたくさんあって、仕事に疲れたサラリーマンが「羽を休める」、そんな感じであろうか。
 わたし自身、このような「旧池袋イメージ」が嫌いではないのだが、あえてシビアに考えれば、「個」を殺して「組織」に奉仕する生活を送る人々が、仕事が引けたあとでも、飲み屋街という「全体」の中に匿名で気楽に埋没することによって、「管理される自分と、主体としての自分」のバランスをとっていたといえるのではないか。
 そうだからこそ、当時の若者にとっては、池袋というと「中年のためのダサい街」というイメージが強かったのではないだろうか。
(2) 「若者の発想」の現在
 しかし、今日では、若者にとって池袋は「好ましい街」に変わりつつある。その「要因」を二つだけあげておこう。
 一つは、いくつかの最先端の「デパート」の進出である。デパートといっても、過去の「百貨店」からはまったく様変わりしている。たて割りの商品分類に基づいた売場に品物が揃っていればよいという過去のデパートから、衣服からレジャー用品まで、横断的に「非日常」の新しいライフスタイルを提案するデパートに変わっている。本来、「日常」であるはずの「生活必需品」まで、「余暇」として楽しんでしまうための「道具」として陳列されている。つまり、今日のデパートは、情報を売っているといえる。
 今日の若者にとっては、「大量生産の安いものを買う」ことは、たとえ生活上必要な事ではあっても、もっぱらの関心ごとにはなりえない。といっても、彼らがモノに執着しなくなったわけではない。ちょっとした「非日常」や自己のそれなりの「個性」を、モノによって実現しようとしているのである。
 もう一つは、草の根の「演劇小屋」の存在である。池袋界隈だけでもかなりの数にのぼると聞く。ここでは、若者は、「個性」と「肌の温もり」を、小演劇という「文化」に求めているととらえることができよう。
(3) 情報都市の中の若者たちの文化
 このようにモノよりも本質的には情報が価値をもつ現代都市において、それでは若者は多量の情報に十分に適応できているのだろうか。けっしてそうはいえない。じつは、私たちは、現代都市青年と情報との関係において、さまざまな相反する特質を見いだすことができるのである。
 ここでは、その諸側面を見ることによって、現代都市青年がもっている課題と可能性の両方について認識しておきたい。これらは、文化・生活その他に広く関わる現代青年の意識をリアルに把握するためには、大いに参考になるであろう。
 第一に、少なくとも町に氾濫する若者向け雑誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。
 ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生であれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされる。「生活情報」そのものとはいえないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。
 第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、テレビ番組の全国ネットワーク化が進み、居住地の地域性をよりいっそう捨象した情報を伝えている。それは、青年の歓迎するところでもある。
 逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生もある。さらに、ユースカルチャーの発信地には、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な発信がなされており、青年の支持を得ている。
 第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「ファッション」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。
 しかし、多様化と同時に画一化も進行している。青年一人一人の個性的なやり方よりも、「最大公約数」としてのやり方や流行が、発行部数を伸ばすために優先される。
 一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。
 第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような情報都市においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来あいの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。
 その反面、情報不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切な情報もあまりそしゃくされなくなっている。
 第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、意見や評価も排されてくる。
 しかし、逆に「情報離れ」も進行している。他者の意見や「情」の混じらない純化された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(コミカルではない)が盛んになる。それ自体は多様で個性的な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。
 ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向にもとづく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」をもっている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は目的ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。
 このように、現実に現代都市青年をとりまく情報と、それに基づく文化には、さまざまな特質がある。これらはいわば多面体として理解すべきであろう。青年行政の役割は、もちろん、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義をもつ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる青年サービスは、他の営利機関などからはあまり望めないからである。
2 青年行政の意義も変わりつつある
(1) 対策からサービスへ
 過去において、地域は、若者が主人公の一員になれる場であった。青年団は、村の現在と将来の姿を決定する重要な団体の一つであったし、子ども集団でさえ、祭りの時には自治をまかされ、祭りのいくつかの場面を自主運営した。
 だが、都市化の進行の中で、これらの地域網羅的な組織は次々に崩壊してしまい、個々人の好みと要求に応じたグループやサークル、そして専門的な教育機関や制度に変わるところとなった。ところが、前者は、青年団のような網羅的な影響力は持ちえないし、後者は、原則としては割り振られた時間だけの責任を持つことしかできない。そのため、これらの組織・機関だけでは、都市問題の一つとして表れてきた青少年の非行問題に対応しきることはできなかった。ここに、「非行化対策」としての青少年行政の必要が叫ばれるようになった要因がある。
 しかし、今日では、対処療法的な「対策」だけでは、問題の根本的な解決にはつながらないことが、青少年行政担当者の共通の認識になっている。やはり、青少年自らが、基本的には自らの力で成長し、都市の中で生きていく主体性を身につけることを待たなければならないのである。青少年行政は、そういう青少年自らの動きの「芽」を見つけ、それを援助しなければならない。最近のこのような考え方は、「対策からサービスへの転換」としてとらえることができる。
(2) 主人公になろうとしない若者たちの内面の問題
 街のウィンドウ・ディスプレイを企画している人の話を聞いたことがある。「何が若者に受けるのか、まったくわからない」という。きのうはその前に群がっていても、きょうは閑古鳥が鳴くこともあるという。商品開発でも、「これは絶対に当たる」と自信をもって市場に出すことなど、今はないという話である。
 すなわち、若者のニーズ自体が読めないのである。今の若者は満たされているから、ニーズなど、もともとないのだという人もいる。
 こういう状況の中で、青年行政のほうが若者にサービスする姿勢をとったとしても、若者自体のほうにそんなことを自分と関わりのあることとして受けとめる内面的な力、主人公としての力がない。これでは、行政だけの「空回り」になってしまう。
 もちろん、若者の中には、こういう都市化の波の中でも、自己をしっかりと持ち、他者との暖かい交流を意識的に育もうとしている者もいる。そういう自発的な努力に対して、青年行政が交流の機会や施設の提供などの「サービス」を行うことを怠ってはならない。しかし、より深刻な問題は、そうでない(ように見える)多数の若者たちが「そのように生きてみたい」という気持ちをもつために、私たちはどう接していけばよいのかということである。
(3) 本当の教育とは何か
 かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、青少年にどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。しかし、知識や情報を詰め込むことだけが教育ではない。それぞれの青少年の「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらないのである。
 このような一人ひとりの気持ちの持ち方の枠組(準拠枠)やものごとの認識の枠組(認知構造)に迫り、青少年自らがその枠組自体を変えていくよう援助すること、それが、今日求められている教育の姿といえよう。そのためには、まるで宇宙人にでも接するかのような、おざなりのサービスをしていたのではおぼつかない。青年行政は、池袋を受け入れ始めた若者の今の「枠組」に飛び込んでいき、その志向や考え方とつき合い、さらには今の池袋の魅力以上の魅力を提示できなければならない。しかも、一方的な上からの押しつけではなく。
 その魅力とは、たとえば一つは、人とのふれ合いなどの直接体験による感動である。彼らが「自分で」体験し、交流する。そのことによって、自らのつまらない思い込み、劣等観、無力感などの枠組を取り外していくことができる。青年行政は、そのための「しかけ」をふんだんにばらまいておくことが必要なのである。先に述べた一部の「自発的な若者たち」は、きっとその時のネットワーカー役を自主的に買って出てくれるだろう。
 このようにして、青年行政は、「おざなりのサービス」から、教育的意図をはっきり持ちながら、しかも青年の自主性を育てるサービスへと転換できるのである。
3 青年行政の将来
(1) 「個の深み」とMAZE
「個の深み」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられた。そのことによって、団体の維持・存続を自己目的化するのではなく、青少年の「自己成長」を援助するように提案したのである。
 同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得るようにすることが、青年行政の目的ではない。皆をいわゆる「健全青年」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの青年のエネルギーを評価しなければいけない。
 むしろ、行政にとって青年とは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、今の青年たちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとするためには、当然といえよう。
 パソコン通信でやりとりされる記事(レスポンス)は、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ=M)、大ざっぱ(アバウト=A)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ=Z)している。しかも、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、気楽(イージー=E)に書かれている。まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。
 しかし、このような「迷路」から、各自は、各自なりに、最初気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。
 青年行政も、すでに設定された目的にとっての最適の「手段」ばかり考えるのではなく、青年自身が「迷路」の中でさまようことを歓迎し、あるいは、むしろ行政自らもその「迷路」を楽しんでしまうようなゆとりのある精神を求めたい。
(2) 地球規模のコミュニティ意識が都市を変える
 一般的にいえば、青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。非日常志向は、青年期の独自の発達課題の表れの一つでもある。
 しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そのためには、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくことができるよう援助することが必要である。
 そもそも、今後の地域や行政の姿は、偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」にもとづくものであってはならない。地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報はつねに他の情報と行き来する「開放性」があって、すなわち「風」が吹いてこそ、根腐れせずに生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」には関心を示さないことは、あながち不当なこととはいえない。
 青年は、きまりきった情報にあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りたかもしれない。しかし、今日、住民が地域社会に関わる場合、自発的行為であることが多くなっている。何らかの形で情報を得て、魅力を感じた場合に地域に関わる。そういう地域活動の形態は、現代都市コミュニティの新しい理念型といえる。
 このような「楽しい日常」としての、地域や自治は、自立しつつ互いの主体が交流するネットワークを育てるだろう。そのネットワークの一つが、若者自身の手による若者自身の連帯である。この、いわば「ユース・コミュニティ」の創造は、人類が今日、将来に向かって都市と地球の課題に取り組むための、新たな足がかりの一つともなるのである。
 今日の村おこし、町づくり、コミュニティづくりは、過去の村落共同体をそのまま復活させることではない。過去の「村八分」などの文字どおり個人を抹殺するようなことさえあったコミュニティではなく、「新人類」とも呼ばれる青少年を含めて一人ひとりが個人として尊重されるコミュニティをめざしている。究極的にはヒューマン・ネットワークの中で「個のふかみ」が連携し、しかも、その一つ一つが十分に実現され、発揮される社会を形成するための模索なのである。また、このコミュニティは、地球規模の人間のネットワークの一環でもある。
(3) 失われつつある自己表現能力を若者が取り戻すために
 それにしても、私たちが若者の主体性の獲得を援助しようとする場合、結局のところ、その本質的な進展は若者自身の主体に期待するほかないわけである。青年行政は、このジレンマにつねに直面しつつ進められなければならない行政だといえよう。
 本論の最初に、「個」を殺して「組織」に奉仕する「過去の発想」から、「個性」を求める「若者の発想」への変化の現状について述べた。しかし、若者の求めるその「個性」も、若者の中に自ら芽生えたものではなく、最先端のデパートが与えてくれる情報としてのモノであったり、他者から与えられる「温もりのある」文化であったりする。青年行政が、彼らのそういう「枠組」に飛び込むことは大切であっても、それだけだったら若者の主体の本当の成長にはつながらない。たとえば、人とのふれ合いなどの直接体験による感動が大切だといっても、もし彼らに「自分で」体験し、交流する意欲も能力もすでになくなっているとしたら、その感動は生まれない。
 しかし、人間には、人間が社会で生きていくための根源的なエネルギーとしての自己表現欲求がある。この自己表現欲求こそが、受け身の情報摂取にあきたらずに、現代都市を主体的に生きぬくためのエネルギーになるのである。たとえ、無気力、無関心に見える現代の若者の中にも、その欲求を見いだすことができる。
 ところが、現代の若者たちは、たとえば「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。自己表現さえもが、得になるから行う、損にならないように行うという「枠組」を与えられてしまっているのである。自己表現欲求はあるのだが、それを実現する場がないのである。
 このような「危ない状況」において、青年行政が、若者の自己表現のための空間と情報の提供を行うことは、とくに緊急で重要な課題である。幸い、池袋では、小演劇が盛んである。たとえば、演劇という自己の内面的な規制と解放による表現活動は、若者に自立と交流の機会を与えてくれるだろう。
 演劇を含めて、若者のさまざまな自己表現活動は、ありとあらゆる方法があり、実際にはどこに進んでいくのかという方向もはっきりしたものはない。まさに、現代青年の、「今、ここで」の状態がありのまま反映されていくのである。それは、当然、迷路のような進路をたどることだろう。これに対して、青年行政は、寛容な姿勢で、しかもその「迷路」から真摯に学びながら、対応していかなければならない。
 そこでは、青年行政自体に、若者のMAZEにつき合い、耐え、「成長する」ことができる主体性が求められるであろう。

グループ・団体への援助形態
 知恵くらべ生涯学習−生涯学習の現場から−
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
                ニシムラ ミ ト シ

メンバー個人の成長に注目する
 青少年団体の全国的連絡組織である中央青少年団体連絡協議会によって設置された特別研究委員会は、昨年三月、提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」の中で「個の深み」という言葉を提起した。
 提言では、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した上で、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するためには、「個の深み」の尊重を軸として、メンバー一人ひとりが自律的に成長できるような団体運営に転換することが必要、としている。
 行政側が自らの行事の動員などの対象として団体をとらえていると、団体への援助も、つい、既成の大きな団体の維持・存続が目先の課題としてちらついてしまい、メンバー一人ひとりの成長にまでは関心が払われない結果になりがちである。しかし、いくつかの団体がメンバーの個性を大切にするネットワーク型の運営を取り入れようと努力している現在、行政、とくに生涯学習に関わる行政が、団体活動の中での個人の成長を十分意識した援助方策をとることは、大きな意味をもつ。

グループ学習の飛躍を誘う
 東京都中野区では「講師派遣事業」を行っている。これは、「小さなサークルなどでは講師を呼びたくとも経費の点でなかなか呼べない」という実情に照らして、区の教育委員会が自主サークル・団体の学習活動に対して希望の講師を派遣するものである。
 小グループによる学習の最も重要な意義は、メンバー同士が互いに教え合い、学び合う「共同学習」にあると考えられるが、その中で適宜、外部から専門の講師を招くことによって、日常の学習のいっそうの飛躍が期待できる。生涯学習関連行政は、自らが学習機会の提供を行うだけでなく、このような自主的なグループの学習の深化をも援助の視点に入れなければならない。

行政とグループに新しい風を吹かせる
 東京都豊島区では「委嘱学級」の制度を設けている。これは、参加グループの創意工夫による多彩な学習企画や運営や参加者同士の相互学習などをねらって、学級の開設を区内の学習グループに委嘱するものである。平成二年度は、「世界に開かれた豊島区とするには、日本人である区民と外国人である区民とが、それぞれ文化・価値観を互いに尊重できるまちをつくっていくこと」という区の国際化に関する基本理念に沿って、課題を「国際化を考える」とし、広報で参加グループを募集して、七グループの参加を得ている。
 このように内容を焦点化した上で、各グループの個性や特色を十分生かして学級を企画・運営してもらい、しかも、それを一般の住民との交流の契機とすることは、行政の行う事業にもグループの日常的土壌にも「新しい風」を吹かせることにつながる。

学習活動の多様性を受けとめる
 和歌山県田辺市では「学習活動助成事業」を行っている。これは、グループの学習活動内容を「のびのび学習」「いきいき学習」「ふれあい学習」「さわやか学習」「がんばり学習」「ぬくもり学習」などに分類した上で、実際には市内ですでに活動しているさまざまなグループに、年間三万円の助成金を支出している。
 たとえば、「青年がともに集い、語り合い、友情と連帯を強める中で、郷土発展の担い手となる意識を高める活動」が例に挙がっているが、これなどは、講座型の学習だけでは不十分であり、夜遅くまで飲んだり話したりする、まさに「ふれあい」の活動そのものが直接、効果を生むタイプの学習活動である。
 田辺市の「学習活動助成事業」は、助成金の使い道についても「グループ・団体等で効果的な運用を図る」などとかなりゆるやかに定めており、現実のグループ学習の多様性に対応した援助になっている。

団体に地域で一役買ってもらう
 兵庫県西宮市では県の補助金(半額)を受け、「ひょうごっ子きょうだいづくり事業」を行っている。これは、小中学生が自治会程度の小地域ごとに異年齢集団としての委員会をつくり、勤労・福祉活動などを実践するものである。その指導や協力のために、市は、現在では全地区(三六校区)の青少年愛護協議会に対してそれぞれ五十万円の事業費補助をしている。この協議会は、子ども会、自治会、老人会、婦人会、PTA、学校、青少年団体等の代表者で構成され、地域の「育成者組織」として機能している。
 その他、県と市では、文部省の委嘱経費(青少年ふるさと学習特別推進事業)を受け、「町の冒険探検団」を実施している。市の「探検団」の本部は「西宮市子ども会協議会」に置かれ、二校区の子ども会が「探検団」となって町を探検し、「遊びマップ」の作成などを行っている。
 また、同県芦屋市では文化・スポーツのグループや町内会、自治会などの代表者による運営委員会に「コミュニティ・スクール」(学校開放)の運営を任せたり、行政と団体で構成される「まつり協議会」によって春夏秋の三大まつりを企画・運営したりするなどの住民参加を進めている。
 グループ・団体の現在の活動を援助することも重要だが、このようにそれらの団体がよりいっそう地域で役割を果たせるように行政からも働きかけ、そういう事業に対して援助することは、新しい「公私協働」の形といえる。

自主的な学習ネットワークのための援助を
 最近は、しっかりした組織形態をもつ団体だけではなく、ゆるやかなつながりを持つ小さなグループの役割が注目されている。これらのグループの運営は、ネットワーク型ということができる。
 このような活動を行政が援助しようとする場合、従来の団体援助のやり方は、当然見直されなければならない。基本的には、行政から団体に対して啓蒙的な立場から援助するのではなく、「公」と「私」がともに主体性を持って、一定の緊張関係を伴いながらも対等の立場で、それぞれの独自の役割を発揮すべきなのである。
 そもそも、生涯学習の内容の幅広さと学習を行う個人の自由は最大限に保障される必要があり、行政が生涯学習の活動を行っているグループや団体を援助しようとする場合も、その団体の自主性を損なわないということが大前提である。しかし、今日の到達点は、行政が「助ける」または「お願いする」のどちらかに未だとどまっているといえる。したがって、ここに挙げた各地の事例も、理想の援助形態に至るための過渡的努力としてとらえるべきであろう。
 たとえば、行政や公民館の行う学級・講座が終了すると、その後も学習を継続しようとして、「自主グループ」ができることがある。これ自体は歓迎すべきことなのだが、「自主グループ」側も行政側も、地域の他のグループよりもその「自主グループ」が優先的に援助されて当然という思い込みをもつ場合が見受けられる。これは、ネットワークの自主性の精神に反するのである。
 このような反ネットワーク的な援助形態は、まっ先に改善されなければならない。そのためには、最初に述べたように、既存団体の維持・存続に執心するのではなく、個人の成長を大切にすることこそ教育行政独自の基本的な役割であるということを再認識する必要があるといえよう。
「生涯学習 か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−」
 1991年4月25日 第1版

<目次>

第1部  「個の深み」への注目、そして、支援
  はじめに −「個の深み」とは何か−
1 社会教育における組織と個人
 (1) 「組織的教育活動」の従来の解釈
 (2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ
 (3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育
    −個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ−
2 講義型学習と社会教育、高等教育
 (1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰
 (2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育
 (3) 講義からの「逃避」に隠された弱点
    −多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ−
3 「個の深み」を支援する講義技術
 (1) 「個の深み」を支援する講義技術
 (2) 反応・発展の個別化を促進する方法
 (3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際
 (4) 「個の深み」を考える
    −まとめと問題の所在−
視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点
     −西武ロフトがとらえた若者たち−
視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業
     −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE−
視点3 「個人」がいきいきするしかけ
     −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−
視点4 「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態

第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして
1 現代都市青年と情報
 −ヤングアダルト情報サービスの提唱−
   はじめに
 (1) 青年と情報環境 
  (1) −1 現代都市青年の情報化不適応
  (1) −2 青年をとりまく情報の特質
  (1) −3 情報の限界
  (1) −4 情報能力と情報必要(ニーズ)をめざして
 (2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱−
  (2) −1 情報の提供にともなう操作性
  (2) −2 青年の要求にこたえるヤングアダルト情報サービス
 (3) ヤングアダルトのための情報 
  (3) −1 提供する情報の基本的性格
  (3) −2 青年が要求する情報と、青年に必要な情報
  (3) −3 人間の情報
  (3) −4 生活の情報
  (3) −5 連帯の情報
  (3) −6 地域情報と行政情報
 (4) 青年とともに育つ情報サービス
  (4) −1 「ともに育つ」情報提供
  (4) −2 ネットワークとインフォメーションリーダー
  (4) −3 パソコン通信の活用
  (4) −4 情報ユースワーカーの役割
  (4) −5 情報サービスと「教育的役割」
  (4) −6 情報と知的生産
2 パソコン・パソコン通信と青年
 −成熟したネットワークとは何か−
 (1) パソコンの急速な普及と未成熟性
  (1) −1 青少年から始まったパソコン
  (1) −2 パソコンの機能と新しい文化
  (1) −3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化
 (2) ネットワークを体現するパソコン通信
  (2) −1 新しいコミュニケーション環境
  (2) −2 スタンド・アローンがネットワークする
 (3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」
  (3) −1 ROMの存在
  (3) −2 新しい「知」の誕生
  (3) −3 新しい「集団」の形成
3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか
 (1) 「在来型の生涯学習」を支援する
 (2) 「新型の生涯学習」とは何か
 (3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ
 (4) コミュニケーション型学習
 (5) ネットワークによる知的生産
視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク
     −AV−PUBのサロンで「私的」交流−
視点2 学習情報提供事業の企画と展開
     −人間が学習情報を求めている−
視点3 学習情報提供の実際

第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために
1 子どもたちの団体活動
 −そこに秘められている大いなる教育力−
 (1) 教育とは子どもがワクワクする営み
 (2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動
 (3) 少年団体活動には教育力があふれている
  (3) −1 体験のもつ教育力
  (3) −2 参画のもつ教育力
  (3) −3 地域活動のもつ教育力
  (3) −4 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力
 (4) 子どもにだって「個の深み」がある
2 地方自治体における学習プログラム作成の視点
 (1) 知と健康のネットワークを支援するシステム
  (1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義
  (1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ
  (1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起
 (2) 年間事業計画の作成
  (2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる
  (2) −2 学習要求をとらえる
  (2) −3 「公的課題」の優先
  (2) −4 学習課題を整理する
 (3) 個別事業計画
  (3) −1 「学習ニーズ」の優先
  (3) −2 参加対象をどう設定するか
  (3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 (4) 学習プログラム作成上の今後の課題
視点1 あたたかいディスコダンス
視点2 レクリエーション的な要求への対応
視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方
視点4 グループリーダーの新しい形
視点5 リーダー研修に望まれる内容
視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ
     −東京都足立区の生涯学習推進構想−


第1部 「個の深み」への注目、そして、支援




はじめに −「個の深み」とは何か−


 「個の深み」という言葉は、青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」1)の中で提起された。私もその委員会のメンバーとして起草に携わった。そして、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するために、委員会は「個の深み」の概念を打ち出したのである。
 そこでは、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した。1)このような確かな「個の深み」ともいうべきものが、これからの社会の中で育つ可能性があるとするならば、その獲得を尊重・助長するための社会教育技術(ここでは講義技術)のあり方について考察することは意義深いと考えられる。
 山崎正和は、「柔らかい個人主義の誕生」という本で、「個別化」について次のように述べている。
 「個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである」。2)
 もちろん、これは個別化のある一面であって(上では「趣味の形成」の場合)、現代社会において「個別化」の本質とは、じつは「画一化」であったりする。オーダーメイドと思っていた商品が、全部同じコンピュータのデータから作られていることもあるだろう。あるいは、その「画一化」にまきこまれることを拒否しようとして、威勢はよいけれども、じつはうわべだけの、空しい自己顕示をする者もいる。それらは、現代社会の個の弱さの表れでもある。
 山崎自身が同じ本の中で、たとえば現代人の「自己顕示」を「自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現である」ととらえている。このように、今日の「個別化」の状況は、必ずしもすべてが望ましい状況とはいえない。「個の自覚」はむしろ脆弱化する状況も見受けられるのである。
 しかし、前述のように「個人が内面的な自発性を発揮」できるような「自己固有の」趣味などを形成し始めていることも、また、一つの事実である。
 「個別化」とは、一人一人が自分にしかない「何か」をもちたいと少なくとも心の中では望むことであるといえる。今後の社会においても、この「個別化傾向」はますます強まるだろう。この「願望」を誰も否定することはできない。自分だけにしかない自分を大切にしたり、まわりから大切にされたりしたいという願いは、個の充実・確立のためには不可欠である。したがって、もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は、「派手だが空しい自己顕示」によるものとは本質的に異なる。
 このような個人の内面的な自主性・主体性にもとづいた個別性について、私は、その言葉が意味する「神聖さ」と「不可侵性」を意識して「個の深み」と呼ぶことを提唱した。「個の深み」とは、個別化が止揚されたものであり、個別化よりも積極的な価値づけをした言葉と考えてもよい。ただし、反面では、他者が一個人の「個の深み」に深入りしすぎると逆機能を生ずるという危険性もある。言いかえれば、「深みにはまる」という危険性である。ここでは、「深み」という言葉に、そういう二面性を象徴させている。

1 社会教育における組織と個人



(1) 「組織的教育活動」の従来の解釈

 社会教育は、そもそも「個別」の個人のためにあるのか、あるいは、人々の集団化や組織化の援助にもっぱら重点をおき、組織的な活動として行われるべきものなのか。昭和二四年に制定された社会教育法では、「この法律で『社会教育』とは、学校教育法(昭和二二年法律第二六号)に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」(第二条、傍点引用者)とある。
 この「組織的な」という言葉について、福原匡彦は、「社会教育法で扱う社会教育は組織的なものだけであって、個人的あるいは偶発的なものは扱わないということである」(傍点引用者)とし、「一般的な意味での社会教育はもちろん組織的なものである必要はないのだから、この点で行政で扱う社会教育とは大きく相違する」3)と述べている。一方、「国民の間に継続的・組織的な教育文化活動が行われることをめざし、個々の国民にひとしく門戸をひらいた施設利用事業や施設をとおして講座・集会などの教育文化事業を行うのが行政の任務なのである」4)(島田修一、傍点引用者)という見解もある。
 もともと、社会教育法第二条による社会教育の「定義」については、「学校の教育課程として行われる教育活動を除き」という表現に象徴されるように「控除的定義」であるといわれる。条文を読んだだけでは、社会教育の実体というものははっきりとしない。
 もちろん、「国及び地方公共団体は(略)すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない」(同法第三条、傍点引用者)とあることから、社会教育の本来の主体が国民自らにあることは明らかであろう。しかし、第二条が「控除的定義」であるがゆえに、その条文が「行政としては、国民の自由な活動の中でも、特に組織的な教育活動を援助する、または、行う」という意味なのか、「社会教育とは、国民が(個人的ではなく)組織的な教育活動を行うこと」という意味なのか、ということについては文面からははっきりしない。
 しかし、このように社会教育の定義自体が一部「混沌」としていることを認めた上で、なお、ここで問題にしたいのは「組織的な教育活動」ということに対する従来の共通する理解についてである。たとえば福原の「社会教育法で扱う社会教育は組織的なものだけであって、個人的あるいは偶発的なものは扱わない」という見解からすると、「組織的」とは「個人的」および「偶発的」ではないものということになる。これについては、島田の「国民の間に継続的・組織的な」という表現も同様の意味を表しているととらえられる。さらに島田は、「社会教育施設」や「学校」とともに、「自主的に組織された教育事業体」を社会教育法における「社会教育活動の主要な三つの場」の一つと指摘している。
 実際、社会教育を行政が行う時でも、国民が行う時でも、いずれにせよその中心的関心は、人間が集団を組織したり、既存の組織の中で役割を果たすことに関連したことが多かったということができよう。

(2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ

 碓井正久は戦前社会教育の特徴の一つとして「非施設・団体中心性」を挙げた。5)日本の戦前の社会教育は、施設を提供することよりも、団体を直接育成して、官民一体となった「社会教育」が進められた。戦後、その非民主性が反省され、各人が自由に社会教育施設を利用することが大切にされるようになった。図書館、博物館も増えている。ところが、あらたまって社会教育そのものの実態や理念を問われた場合の社会教育関係者の回答は、あいかわらず人々の組織や集団に関わるものが多い。これはなぜだろうか。
 たしかに、学習が組織・集団の中でのさまざまな指導者からの援助や、他の仲間との相互作用により、効率化、活性化する局面を列挙し始めたら、きりがないほどであろう。しかし、だからといって社会教育を「組織的(集団的)な教育活動」に「限定」する理由にはならないはずである。
 もっと直接的な理由として、学習の援助者にとって個人学習の場面にまで目が届きずらい、援助してもその効果まで追跡して援助の成果とすることができない場合が多い、集合学習に比べて学習成果がただちに集団・組織・社会に還元されるとは限らないということがあるのではないか。しかし、よく考えてみると、これらはもともと援助側の都合によるものであり、学習者側のニーズから発したものとは思えない。また、教育技術が向上すればある程度改善できる問題でもある。
 さらに、福原の「一般的な意味での社会教育はもちろん組織的なものである必要はないのだから、この点で行政で扱う社会教育とは大きく相違する」という説明の底流には、行政が個人レベルの学習に関与することは危険であるという考え方があるといえる。「組織的(集団的)な教育活動」に限定する理由の一つには、このような「行政としてのモラル」があるのかもしれない。しかし、これについては、国民の「組織的教育活動」に関与する場合であっても「同様に」危険性を秘めているのではないかという反論が成り立つ。行政が個人に関与することにではなく、相手が個人であろうと、組織であろうと、行政が民間の学習を援助することそのものに危険性が宿命的に伴っていると自覚すべきである。
 このようなことから、「社会教育の本来の主体は国民自らにある」という社会教育の根本理念の実現をこそ、あらためて一番の目標として、本格的な個人レベルの援助の意義を見直してみたい。
 最近二十年ほどは、社会教育の分野でも「個人学習」が重視されつつある。昭和四六年、社会教育審議会答申は、「今後ひとびとの要求する学習内容がいっそう多様化し、また、個性の伸長を図ることが重要になることなどから、個人学習の必要性がますます増大してくる」とし、教育放送、社会通信教育や社会教育施設における個人への相談体制の充実などによる「個人学習の促進」を提言した。6)
 その後、生涯学習の潮流が個人学習の重視をさらに助長した。平成二年一月の中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」では、「生涯学習は、生活の向上、職業上の能力の向上や、自己の充実を目指し、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであること」「生涯学習は、必要に応じ、可能なかぎり自己に適した手段及び方法を自ら選びながら生涯を通じて行うものであること」「生涯学習は、学校や社会の中で意図的、組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われるものであること」(傍点引用者)の三つが生涯学習推進上の留意点として挙げられている。7)
 「スポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動」が、「意図的、組織的な学習活動」に対置されるべきものかどうかということについては疑問もあるが、ここでは「自己の充実」という学習目的、「自己に適した」学習方法、そして非「意図的、組織的な」学習形態が重視されていることに注意をはらうべきだろう。
 今日の社会教育の議論の中には、一般行政や民間の生涯教育機能の高まりに危機感を覚えて、それらとは違うという「社会教育の独自性」の主張に熱心になるがあまり、従来の「組織的(集団的)」な教育活動への限定にむしろ固執しようとする論などもあるようだが、それらは本末転倒の議論と言わざるをえない。企業などの既存の集団や組織が、個人やインフォーマルグループ、小グループを尊重し、個人のために組織があるとさえ割り切って考えない限り、企業などの組織自体が存立しえなくなってきている今日の社会においては、社会教育や社会教育行政も、新しい考え方を取り入れなければならないだろう。

(3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育
   −個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ−

 昭和四六年の社会教育審議会答申は、教育放送、社会通信教育、相談体制による個人学習の促進を提言した。平成二年の中央教育審議会答申は、意図的、組織的でない個人の学習活動も重要であると指摘し、学習情報の提供のいっそうの促進を提言した。今や、このような個人学習もしくは個人学習援助の意義は、(実践が十分なされているかどうかはともかく)語りつくされようとしている。
 しかし、個の尊重とはその程度でとどまるものではなかろう。現在のこの「個人学習」の重視の到達点において、次に求められるのは、「個人学習」であるか「集合学習」であるかに関わらず、「個」(個人)そのものをもっと尊重する理念とその実現のための技術である。
 そもそも組織(ここでは学習集団)が形成される基本的理由は「複数の人々の主体性が結合されることによって、各人が分散している時には得られない拡大された主体性が得られることであり、それを通して、より多くの欲求充足の可能性が得られる」8)ことである。
 ところが、そのような個人の主体性拡大や欲求充足の手段であったはずの組織の存在が自己目的化してしまうところに、現代社会全体の基本的問題があり、社会教育の問題もある。話の筋からいえば、メンバーの変わりゆくニーズに対応しなくなった団体は、メンバーのニーズをではなく、団体の運営のほうを変えなければならない。あるいは、メンバーが新しい他の団体・グループなどの機会を十分に得ることができるのなら、もとの団体は衰退・消滅してもかまわないのである。
 それでは、個人のためなら諸組織の集合体としての社会まで衰退してもよいのかという反論もあろう。しかし、私は「個人か、社会か」という議論については意味がないと考えている。現代社会に求められるものがまさに「個」(個人)の尊重であり、現代(成熟)社会がその発展のために求めているものが「個」(個人)の発揮ととらえるからである。そして、それぞれの所属組織に対しても、たとえその組織の維持・存続には不都合な場合でも、その組織に対してメンバーがなんらかの個性的で独自な役割を発揮することは、結果として現代社会に貢献する可能性が大きい。
 個人には、はかりしれない「深み」がある。それは個人が個別に発達するからだと考えてもよいだろう。そういう「個の深み」が、現代社会の停滞しがちな「合理主義的」組織(学習組織も)を活性化するのである。
 関連して、社会教育行政の役割について触れておきたい。「行政が個人レベルにとどまる学習まで援助する必要があるのか」という反論がありうるからである。これに対して個人の即目的的な学習をもサービスすることまで含めて学習権の保障と考える論もあるが、私は、社会教育行政は「公的」(恣意的ではいけない)な意図に沿って行われてしかるべきと考えている。
 しかし、「公的」という性格は、「個人」で学習するか「組織・集団」で学習するかによって決まるわけではない。学習活動そのものは個人レベルでとどまっているとしても、その人のその学習は今日の社会に重要であるということも十分ありうる。「個の深み」などは個人の内面の諸活動の中で育まれる要素がかなり大きいと思われるが、すでに述べたとおり、既存の組織と社会が今後存続・発展するためにもそういった「個の深み」の獲得はなくてはならないものなのである。
 狭義の組織とは「二人以上の人々が共通の目標達成を志向しながら分化した役割を担い、統一的な意志のもとに協働行為の体系を継続しているもの」であるが、広い意味での組織とは「それぞれ分化した機能を持つ複数の要素が、一定の原理や秩序のもとに組みあわさって、一つの有意味な全体となっているもの」である。8)社会教育法の「組織的な」という言葉も、後者の定義により、学習する個人が、その個人がそれなりにもっている「原理や秩序」のもとに、日常の「断片的学習」を組みあわせて行う学習をも含むものとして運用することが妥当ではないか。あるいは、行政は、個人レベルの「断片的学習」も含めた国民の学習に対して、「行政組織として」という意味では「組織的に」援助を行うということを意味しているととらえてもよいであろう。

2 講義型学習と社会教育、高等教育



(1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰

 講義とは、「意味や道理の説明・解説。講釈。特に、大学で行う授業」(傍点引用者)である。「講」の旁(つくり)の部分は「前後左右同じ形に積んだ木組み」であり、「講」は「相手が同じ理解に達するよう言葉をかわす意」である。「義」は、「羊」(りっぱなひつじ)と「我」(ぎざぎざの刃をもつほこ)の組み合せで、「かどめがあり美しくととのっている意」である。9)もとの語意からは、徒弟的関係(「講」)と価値的意味(「義」)が強い言葉ともいえよう。また、広辞苑によれば、「講義」とは「書籍または学説の意味を説きあかすこと」または「大学などで、教授者がその学問研究の一端を講ずること。普通、講読や演習に対比していい、また、大学の授業全般を指していう」(傍点引用者)などとある。
 しかし、講義は実際には社会教育の場でも多用されている。その場合は「意味や道理の説明・解説」や「書籍または学説の意味を説きあかすこと」などとは、ニュアンスが異なる。意味、道理、書籍、学説などのような話の「内容」に限定する意図はほとんどない。むしろ「(大学においての)講読や演習に対比して」という表現が意味するものに近い。すなわち、おもに「講ずる」(説きあかす)という教育「方法」によるものと理解してよいだろう。さらに、個々の学習者に対して話をするのではなく、マス(ひとかたまりの集団)に一斉に話をすること(教育方法)を想定していると考えられる。
 このように仮に定義された「講義」は、高等教育における「講読や演習に対比した」意味での講義(以後、たんに講義という)と、じつはまったく同じ問題を生み出している。私は、その問題の根源は「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とするところにあると考える。
 そういう講義を受講することによる学習(以後、たんに講義型学習という)は、社会教育の現場において「一斉承り型学習」として批判されてきたところでもある。社会教育が「自ら実際生活に即する文化的教養を高め」(前出、社会教育法第三条)るものであることから、その批判は当然ではあった。
 その最初は、戦後の「町村民が相集って教え合い導き合い互の教養文化を高める為の」10) (傍点引用者)公民館の構想やアメリカ民主主義の影響を受けた視聴覚教育やグループワークへの志向として表れている。
 その後、「昭和二八年の青年学級法制化をきっかけとする、青年団の共同学習は、婦人学級にまで波及し、ついに官・民あげての共同学習時代に入った」が、「学習形態では、話しあいがもっとも多かったので、共同学習はまたの名を『話しあい学習』とよばれている。ひとびとが生活上で直面している悩みや困難をフランクに話しあい、それがみんなの共通の問題であることを確認しあったうえで、問題解決の方向をさぐりあう」というものであった。5)そのころから、サークル活動も盛んになってきた。
 さらに、昭和三〇年一月には、稲取と柏の「実験社会学級」が文部省のバックアップを受けて開設された。そこでは、「母親学級から社会学級への変遷の中で変ることのなかった低度な『講話』や『講義』による承り学習、カリキュラムの生活現実や受講生の要求・関心からの遊離、学習と実践の乖離、場当り的で貧弱な教育技術など、要するに昭和二〇年代の、方法上の教育技術を欠き、教育目標を欠いた社会教育の現状を批判する方法意識につらぬかれていた」。5)(傍点引用者)
 これらの社会教育の「遺産」はたしかに、現在の社会教育を築く基盤となっている。しかし、先に述べたように、今日においてなお「実際には講義は社会教育の場でも多用されている」のである。「共同学習論」への批判として、「系統学習論」というべき議論があった。これは、共同学習には「学習課題を設定せず、その場その場で出たとこ勝負めいた、思いつき的な学習をおこなうものも少なからず」5)あるので、これを克服して計画化された継続的な学習内容を組織しようとするものである。しかし、それは、民間によるのものにせよ行政によるものにせよ、講義中心の「学級・講座型」に傾斜したきらいがある。このように、社会教育の世界では、講義型学習に対する反発と回帰が繰り返されてきたのである。
 今日では、学習内容が「系統的(教育)」であるべきか、「非系統的(学習)」であるべきか、すなわち「系統か、非系統か」などという問いに対して、どちらかに決めつけようとすることこそ無意味といえよう。(ただし、両者の比較検討は興味深いが、ここでは触れない。)それよりも、講義型学習方法をおしなべて「一斉承り型学習」として排除してしまう傾向や、共同学習方法だからすなわち「主体的」である、あるいは「非系統的」になると短絡的にむすびつけてしまう傾向を、ここでは問題にしたい。
 関係者の認識は、社会教育そのものに関してではなく、社会教育の方法に関して、教条主義や敗北主義に蝕まれていたのではないか。たとえば、「講義ではなく話し合いだから主体的学習である」と勝手に安心したり、「このコマは講義と決まっているのだから、そこは委嘱した講師にすべておまかせするしかない」と自己の責任をほうりだしてしまったりすることなどはその極端な例である。
 これに対する社会教育の本来のあり方を単純に言えば、講義以外の他の方法も活用しながら、講義も「学習者主体」的に運用するということになろう。そのためには、「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とするのではない講義を創出しなければならない。

(2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育

 「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とする講義(学習する側から言えば「一斉承り学習」)の逆機能は、高等教育においてもまったく同様の問題となって表れている。
 大学の目的については「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法第五二条、傍点引用者)とあり、短期大学の目的については「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成すること」(同法第六九条の二、傍点引用者)とある。「深く専門の学芸を教授」することについては共通している。なお、小・中・高等学校については「心身の発達に応じ」た教育を「施すこと」となっており、その他に大学などと違って教育目標が定められているが、「学芸の教授」という言葉はない。
 「学芸」とは「学問と技芸」であり、「教授」とはそれらを「教えさずける」ことである。「学問」の「学」は旧字体では「學」であり、「臼」(両方の手)で「子」が知識を授けられる「家」を意味しているが、「爻」という「二者間の相互の動作」も含んでいる。「問」とは、とびらで閉ざされている「門」、すなわち「かくされていて分からない事」を「口でたずね出す意」である。「教授」の「教」は、やはり「子」に対するという意が強いが、旧字体では「子」の上に「爻」が使われる。「授」には、「さずける」という師弟的な響きが強いが、解字では「手」で「受ける」という学習者側の主体性も意識したものと考えられる。9)
 このように、「学問」の「教授」という言葉のもともとの意味から言って、師弟関係を前提にしているとはいえ、それが非主体的な「一斉承り学習」によって実現できるものとは想定されていない。これは当然のことといえよう。しかし、実際の教育現場では教授側も学習側もその認識が十分とはいえない。
 なお、社会教育関係者の間には、「勉強」という言葉は「つとめしいる」だから強制的な意味あいが強いと決めつけ、それに比して「学習」という言葉は即主体的行為であるから好ましいとする議論がある。これについて触れておきたい。
 「学習」の「学」はすでに述べたように「臼」(両方の手)で知識を授けられることであり、「まねぶ」(まねをする)ことでもある。「習」の「羽」と「白」は「ひな鳥がくりかえしはばたいて飛ぶ動作を身につける意」9)であるから、「ならう、なれる」ことである。たしかに、「学習者側からの表現」と言うことはできるが、与えられた「教育目標」に対しては無批判的に受け入れることを前提とした言葉であると言えなくもない。「学習会」などというと、無意識のうちにどうしてもそういうニュアンスで感じとられてしまうのではないか。
 これに対して、「勉強」という言葉については、「勉強会ブーム」やパソコン通信のアーティクル(通信記事内容)にしばしば見かける「私も勉強しておきます」などの表現に、新しい意味を見いだすことができる。「勉強」の「勉」は、「力」(りきむこと)と「免」(女がしゃがんで出産するさまの象形)である。「無理をおしてはげむ」ことである。「強」も「無理をおす」という意味である。9)その語感に軽やかな楽しさがないのは否めないが、他者からの強制を必然的にともなうものという意味は含まれていない。ここで、「学習」という言葉をしいて「勉強」に置き換えようと提言しようとするわけではないが、市民の「勉強志向」をあなどらずに援助することの必要については強調しておきたい。
 さて、高等教育における講義の位置づけであるが、その現在の到達点を探るためには、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)に書かれている主張の吟味が有効である。11)本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。
 そこでは、「学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」であること、すなわち「学習は個人的事象である」ことが基本テーゼになっている。したがって、「多人数で行なう講義」については「教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離」などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、これまで述べてきた学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」としている。本書でこの「講義法」に対置されている教授法は「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」などである。
 「学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」という言葉などは、アメリカのM・ノールズがアンドラゴジー(おとなの教育学)の特徴としてまとめた成人の学習の形態、動機、基盤などとぴったり一致する。12) このことから、社会教育がめざしている主体的学習の「援助方法」は、高等教育が今日模索している「教授法」と、技術的にはほとんど同じものになることは予想にかたくない。
 もちろん、学習内容については、社会教育の場合は法によれば「実際生活に即する文化的教養」(第三条)であるから、「深く専門の学芸を教授研究」する高等教育とは明らかにレベルが異なる。
 しかし、「実際生活に即する文化的教養」にしても、いわゆる「身のまわりの問題」だけの学習、うわべだけの「文化」「教養」としてしかとらえないとすれば、これもまた問題である。
 人々の生活・文化・教養ニーズは、高等教育でいう「学芸」に近づこうとしているのではないか。逆に、「学芸」のほうも学際の重視などから人々の「生活」「文化」「教養」にいっそうの関心を示しつつあるのではないか。このようなことから、社会教育でいう「生活」「文化」「教養」についても、新しい時代の人々の学習ニーズに応じて柔軟にとらえなおさなければならない。たとえば、「つとめしいる」勉強に関心を示し「自ら」それを行なおうとする一般成人などは、その潮流の先駆者として重視しなければならない。

(3) 講義からの「逃避」に隠された弱点
   −多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ−

 このような新しい生活、文化、教養、あるいは学芸にとって、講義型学習は「本質的」に無効なのであろうか。たしかに、「個の深み」の実現のためには、生活、文化、教養、学芸においても各人の独特の深みが求められる。しかし、そのような「深み」が求められるからこそ、「ある専門の学芸を深く研究している」教授者(professor )が自己の研究の最先端を告白(profess )する講義という教授形態は、かえってそのための高度で能率的な方法として再評価されるべきではないか。もちろん、そこでは「教授技術」(社会教育における「講義技術」)などの改善の努力が前提になることは当然であるが。
 前出「大学教育の原理と方法」では、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の四〇%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。
 しかし、同時に、「伝達されるべき情報がまだ未発表のものであるか、新しい方法で構成される必要がある場合、もしくはそれらの情報が課程の概略・要約となる場合」などは、「解説的な教授法が最もふさわしい技法となる場合もある」としている。だが、その場合でも「学生に大きな刺激をもたらす源泉」となることは「例外的」としている。その上で、本書では、講義法を行なう場合、フロアへの質問の投げかけ、自己評価のための小テストなどの「革新的試行」が教師にも学生にも有意義だとしている。そして、聴講者の前に立つ時の精神的不安に対処する方法、聴き取りやすい話し方、その他講義の準備・構成・提示にわたってさまざまな技術的な「アイデア」も提示している。これらの「技術」の中には、学習者の主体性支援のためのものもかなり含まれており、講義の技術を考えるにあたって大いに参考にすべきである。
 ただし、本書の場合、先に述べたとおり「講義法」よりも「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」のほうに、より大きな価値をおいている。しかも、たとえば「小集団討議法」の章では、「小人数でグループを形成して、各自の考え、知識、理論、洞察等を互いに交換し合う機会をもつことは、学生にとって大学教育から得られる最も貴重な学習体験のひとつとなる。伝統的に小集団討議法は、最も中心的で歴史的な大学教育の機能とみなされてはきたが、その役割はこれまでにその価値にふさわしい形で開発されてきたとはいえない」とし、小集団討議によって「帰属感や楽しみの感情が存在し、考えや意見を分かち合う」ようになることを提言している。学習者の主体性の支援の必要を強く意識したものといえる。
 このような考え方にもとづく「小集団討議法」は、社会教育の手法と似通っており、私は正直に言えば好感さえもつのだが、同時に、教授者が個人の個別な深まりをどう援助するかということについては、ほとんど深められていないことに多少の不満ももつのである。もちろん、小集団討議における教授者の役割やその技術も緻密には述べられている(わが国では類がないほど)。しかし、それは、本書を見るかぎり、個々人の「深まり」よりも、すべての学習者が主体的に学習できることに最大の関心をもった上でのことのようである。主体性が多数の者にいきわたることのために、ほとんどの精力を費やしてしまっている。講義型学習への「あきらめ」も、そこから生じているのではないか。
 わが国の場合は、どうであろうか。ロンドン大学のような教授法に関する教員の訓練がないことはいうに及ばず、高等教育における教授法の研究・開発自体が進んでいない。教授者は自らの教授法を自ら管理しながら、あるいはひどい場合は教授法に無頓着に、教授を行なっている。しかし、皮肉な話だが、もし教授法を真摯に検討するようなことになれば、高等教育が大衆化している今日、すべての学習者が主体的に学習できる方法と技術(講義以外で)があるということに驚き、それを「救世主」のように受けとめ、いっぺんにそこに傾倒してしまうのではないか。
 「大学教育の原理と方法」でいう「小集団討議法」の理想像程度ならば、「共同学習」などに始まる社会教育実践の場で、ある程度現実のものとしてきている。この成果を、わが国の高等教育の教授法の改善においても反映させるなどといったことは考えただけでも楽しい。しかし、もう一歩立ち入って考えるならば、高等教育は中等教育までとは違うのだから、「落ちこぼれ」の心配をするよりも、「落ちこぼれ」は(教授側が設定したカリキュラムからの)「落ちこぼれ」なりに(その個人が自覚し自負する)「個の深み」を獲得し、「成績優秀者」は(教授側が設定した評価基準の上での)「成績優秀者」なりに(教授側が予定しえなかった個別な成果としての)「個の深み」を獲得するよう援助すること、つまり、一言でいえば「個人主義的援助」にもっと力を注ぐ必要がある。
 あるいは、もし、高等教育の大衆化、中等教育化が、国民のニーズでもあり不可避だとするならば、「個人主義的な」本来の高等教育の役割は、社会教育が肩代りして、今日の高等教育にあきたりない人々にサービスすることを考えるべき時代なのか。

3 「個の深み」を支援する講義技術



(1) 「個の深み」を支援する講義技術

 本章では、講義の中でいかに「個の深み」を支援するか、その「技術」について述べたい。「技術」であるから、「だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質」13) をもっていなければならないということになるが、私の力量の限界や「教育」の技術であるという性格上、そこまで汎用的ではない。試論である。だが、梅棹忠夫のいうように「(技術に関する)話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしい」と思う。
 そして、梅棹の言葉を借りれば「知的生産の技術(ここでは講義の技術)の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性(ここでは教授者側の主体性と独自性)という原則」は大切にしたい。そもそも、教授者による「自己の研究の最先端の告白」が、内容の深みと真実の迫力をもっているのなら、たとえ聴き取りずらくても、その講義は個別の「個の深み」に訴えるからである。(それでも技術は些末な事項ではない。)
 次に、「個人学習」の支援や「多数者の主体性」の獲得の上で、講義には不利な面が多いことは、社会教育や高等教育の現在の到達点から見れば明らかである。それゆえ、「個の深み」支援においても、講義が他の方法より有利だということはありえない。しかし、そういう困難の中で「個の深み」を支援するすじ道を考えることにより、「個人学習」や「多数者の主体性」とは違う「その上の次元」(断絶しているわけではないが)としての「個の深み」とその支援のあり方の独自性がかえって浮かびあがるのではないかと考えた。
 ここでは、講義の中で「個の深み」を支援する技術を、三つの構造に分類した。下部は「教授者の不安の解決」、中部は「学習者の主体性の確保」、そして上部は「反応・発展の個別化の促進」である(●図1−1)。
 一つには、「講義を行なう場では、教師は教科の専門家として、さらに学生の行動をコントロールする監督者として、『権威者』の役割をになう立場にたたされる」。11) そこから生ずる不安に対処する方法として、前出「大学教育の原理と方法」では、「その不安はよい兆候だとあえて思うこと」「質疑応答」「バズ・グループ討議」「OHP用シートの準備」があげられている。しかし、とくに社会教育においては、教授者は教育技術の観点から「演技者」であることは必要かもしれないが、自身の「個」を曲げてまで「専門家」「監督者」「権威者」のふりをしなくてもよいと割り切ることこそ、その前に必要であろう。その上で、先のようなことも有効だが、基本的に大切なことは、教授者の予想どおりかどうか、良いか悪いかはともかく、各学習者による講義の「受けとめ方」(個別である)を知ることである。これらのことが、下部の「教授者の不安の解決」を構成する。
 二つには、「承り学習」にならないよう学習者の問題意識に訴える必要がある。「大学教育の原理と方法」からは、要約すれば「教師の関心を示す」「五官に訴える」「体験や既習の学習に関連づける」「現代性を明示する」「対照的な観点や対立する論争点を紹介する」「質問する」「仮説を提示する」「問題を提起する」などが、それに該当するものとして拾うことができる。その基本は「学習は本来個人的事象」であるから、なるべく多くの学習者の「自らの興味や価値観、能力、レディネス、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会」11)に迫るような工夫をすることである。これらのことが、中部の「学習者の主体性の確保」を構成する。
 しかし、これらの下部と中部の階層は「個の深み」支援の下部構造としては必要であるけれども、それだけでは「個の深み」支援そのものまでには到達しない。「個の深み」は、個別化が止揚して、はじめて結果として生まれるのである。
 そこで、三つには、教授者が予定しうるはずのない学習者の個別な深まりまで教授者が援助する技術を編み出さなければならないということになる。「大学教育の原理と方法」の講義法の章からは、しいてあげれば「学生に積極的に賛成か反対かの意見を表明させたり、自分の仮説を提示するようつよくうながすこと」が拾える。しかし、これとて、個別な意見や仮説が生じたとしても、しばらくすれば、その専門について自分より見識の高い教授者の行なう講義や既定の教育目標に収斂されてしまう可能性が強い。主体性が深まる点では評価すべき手法だが、ここでめざしている本格的な個別化を深めることには直接にはつながらない。
 教授者が何かを発言すると、それは刺激(stimulus)となって、学習者のなんらかの反応(response)を呼び起こす。刺激と反応(S−R)の関係ということができる。まず、この反応が、すでに個別的である。教授者側が設定した教育目標に沿う方向の反応もあれば、思わぬ反応もある。その時、「思わぬ反応」をすなわち教授の失敗ととらえる考え方に個別化を阻害する要因がある。「思わぬ反応」を本人に自覚させ、それがどういうものであろうと基本的に好ましいことを教授者は表明しなければならない。「教育目標に沿う方向の反応」の場合でも、それぞれがさまざまな方向性をもっていよう。厳密にいえば、遺伝子と生育歴の違いの数だけ、反応の違いがある。教授者は、その違いを喜び、大切にしなければならない。S−Rを一面的に規定し、操作しようとすることは、望ましくないというよりも、もともと不可能なことなのである。
 次に、その個別な反応をさらに個別的に発展させるためにはどうすればよいか。じつは、この「発展」も当然のことながら本来的に個別である。程度の差はあれ、自らの「反応」を個別に味わい、吟味し、洞察する。しかし、この「発展」をそのまま「放置」することには、「反応」の時よりも大きな問題がある。「反応」は一時的なものであるから講義の流れを阻害しないが、「発展」は各自のプロセスや所要時間が異なるため、多人数を対象とした講義を予定どおり進めるためには不都合なのである。
 このようなことから、主体的学習を支援しようとする人の中からも、「講義は無力だ。小人数の討議のほうがよい」、あるいは「講義は『承り』でもしかたない。あとは学習者の『独習』に期待するしかない」というような講義に対する敗北主義が生まれるのである。しかし、小人数討議なら必然的に学習者の個別な発展を保障できるというのだろうか。また、講義の全時間、神経を集中し、さらにその時の自らの反応を発展させるためにあらためて独習の時間をかける学習者がそんなにいるだろうか。
 もちろん、独習の意義が大きいことは否定できない。学習内容によっては、独習こそ最良の学習方法という場合もあろう。だが、むしろその場合は、口述メディアの講義を通してより、活字メディアを通して学んだほうがスムーズで有効な内容なのに、無頓着にそれを講義で行ってしまうことにこそ問題がある。
 それよりも、「講義であるからには、こうでなければならない」という思い込みを、あらためるべきである。学習者の個別な「発展」(あるいは人によっては、あることに関して「発展」しないこと)のほうを大切にし、全体講義は進めておいて、その全体講義に復帰して集中する時間は、それぞれの学習者の「発展」の事情と個人の判断にまかせることがあってよいのではないか(たとえ全時間、神経を集中してノートをとって聴いたとしても、一週間後の記憶率は二〇%以下なのである11))。あるいは、教授者が「発展」の時間を仮に定めて、講義を中断し、各学習者に「発展」の時間を自己管理してもらってもよいかもしれない。
 いずれにせよ、教授者側が予定した講義を、設定した教育目標のとおり話を進めて、一斉にそれに集中させようとすることこそ、「個の深み」の発展を阻害する最大の要因といえる。

(2) 反応・発展の個別化を促進する方法

 それでは、上部の階層である「反応・発展の個別化の促進」を構成する講義技術とは何であろうか。その一つは、すでに述べたように、全体講義からの一時的な個別の離脱(集中しないこと)を黙認すること、あるいは全体講義のほうを一定時間、中断することである。これは、教授者側から言えば「消極的行為」に属するが、重要である。
 しかし、教授者による「積極的行為」のほうはありうるのだろうか。たとえ教授者といえども個別化の方向性は予定しえない。また「個の深み」が「神聖・不可侵」なものであるだけに、教授者側は干渉やおしつけにならないよう厳しく自己規制(禁欲)すべきである。ふたたび、梅棹忠夫の同じ言葉を借りれば「知的作業(ここでは反応・発展)の聖域性ないしは密室性という原則」13) が「個の深み」にとっても生命線なのである。このような理由から、「反応・発展の個別化の促進」に関わって学習者にその方向を講義で直接的に指導するということは、社会教育にせよ、高等教育にせよ考えにくい。
 それに近い指導があるとすれば、講義ではなく、双方向のカウンセリングの形態(受容、支持、共感、明確化など)をとって行われることになろう。また、とくに高等教育機関などにおいては、「教育的判断」により個別化の方向そのものを修正するよう特定の個人に要請することも、慎重かつ意識的に行うという条件のもとにはありえよう。
 ただし、後者については本論での「反応・発展の個別化の促進」に分類される行為ではない。「促進」の行為ではなく、かならずしも悪い意味ではないが、やむを得ない「統制」の行為である。
 次に、「反応・発展の個別化の促進」を構成する教授者からの「積極的行為」としては、学習者が講義を聴きながら個別化を獲得できるよう、その方法を指導(提起)することが考えられる。
 「個の深み」は、それ自体を深めようとして深まるものではない。さまざまな可知、不可知の要因から多様な方向性が生まれ、それが各人の個性というフィルターを通して無意識のうちに深まっていくはずのものである。しかし、実際にはそのような「個の深み」にいたることのできない学習者ないし局面がでてくる。その状態を「没個性」ということができる。これは、現代管理社会の中で、人々が自分らしさ(アイデンティティ)を表現したり主張することが疎外されがちであることに一つの原因があるのだろう。
 他者からは、はかり知れない個人の内的世界における知的営みだけではなく、その時々の内なる到達点(アイデンティティ)を自ら外在化する営み(表現)との双方が循環して「個の深み」を創り出す。このようなことから、個人が「話す、書く、表現する」舞台を設定することは有効な手段といえる。それは、教授者側の「積極的行為」と考えられるのである。
 「話す」は、ここでは情報交換や合意形成や発想などのための討論を意味するものではない。ここでの「話す」ことの目的は、個別化した「反応・発展」を「外在化」することにある。したがって、むしろスピーチに近いものになろう。しかも、スピーチをすることであり、聴くことではない。スピーチを交換することは、聴かれる者、聴く者の相互の「個の深み」のための刺激にはなるが、自己の個別化した「到達点」を外在化することにはならない。それゆえ、多人数の講義においてそれを行おうとしても、聴く側にまわる者が多く、能率的ではないという問題がある。ただし、多人数でも、隣どうしの者でペアを組み、話す者、聴く者の役割を交替しながら、それぞれの個別な方向について紹介と批評を交わすことなどは、訓練によっては可能になるかもしれない。
 「話す、書く」以外の表現方法もあるが、それは心理学や芸術などの観点から、別に詳細に検討する必要がある。ここでは、「話す、書く」に「表現する」も加えておく必要があるという指摘だけにとどめたい。
 個別化した「反応・発展」を表現するための方法の中で、講義型学習にもっとも適しているのは「書く」ことではないか。「反応・発展」という内的世界を、それなりの論理構成をもって記述することによって、自己の「反応・発展」に気づき自負することもできるし、欠陥部分を発見することもできる。自己の勝手な無力感や万能感を、自らの目の前にあからさまに突き出すことになるのである。もちろん、「自分はやっぱり何も書けない」という無力感を増大させることもありうるが(自由に書いてよいという場合は、それは意外に少ないようだ)、そういう試練を乗り越えて自己の個別化を自負し、「個の深み」を獲得していくことが必要なのだと思う。

(3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際

 学生の場合は、「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。私は、可能な場合は、試験の時に使われる大学所定の「解答用紙」をあえて配布している。学生は、そこに自由に記述する。学生の「書く」ことへの認知構造を変革させたいからである。社会教育や研修などでの講義の場合は、氏名は無記入でもよいことにしているが、大学の授業では出欠のチェックにも使うため、必ず氏名を記入してもらっている。ただし、記述内容は成績評価には影響させないことを宣言している。個別化の方向性には点数をつけられないからである。この紙を「出席ペーパー」とよんでいる。
 「出席ペーパー」には、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くことになっている。しかし、「講義どころではない固有の課題」を抱えた者の中には、講義の内容にまったく関係のないことを紙面いっぱいに書く者もいる。これらの記事の中には、しばしばユニーク(個別的)でおもしろいものがある。また、白紙で提出してもかまわない。それも、私の講義への一つの率直な反応であろう。
 自らのプライバシーを綿々と綴ることも認めている。何回目かの失恋の話程度のものもあるし、私が初めて聞くような惨憺たる家庭状況などの話もある。その場合は、皆の前ではもちろん、本人にもそれについてのコメントはしないことにしている。とくに後者のような場合、中途半端な励ましは、かえって無責任になるからである。(教授者側に、徹底的にそれを理解し、解決まで面倒を見る覚悟がある場合は別だが。)それよりも、教授者に対して書くこと自体が、ちょうどカウンセリーがカウンセラーに話をしている状態と似ており、自分の本当の問題に自ら気づき整理することになる効用を訴えたい。ちなみに、本当に悩んでいる人に「頑張って」などの安易な励ましの言葉を投げかけてはいけないことは、カウンセリングの常識である。
 「出席ペーパー」が百数十人分になる授業もある。それでも次週の授業までに、私は必ずすべてを読んでおく。学生に、そう約束してある。読むことは、やってみるとわかるが、とても楽しい作業である。教授者自身の言動が他者から受容されていることを味わうことができる。次の授業では、他の学生にも興味を引きそうだと思われる箇所を、コメントをつけてプリントや口頭で紹介する。その場合、名前は伏せる。同じ立場の他の学習者(ピア・グループ)が書いた記事の紹介は、学習者からは大変な好評である。その紹介によって学習者の興味を持続したまま、本時の講義内容にスムーズに移行できることもある。
 ただし、「出席ペーパー」の本来の目的は「自分が書く」ことであるから、紹介のほうは本時の講義に差し支えない範囲と時間に限っている。本時の講義のために紹介の時間がとれないときは紹介を割愛する。学生はそれを一応は納得しているようだ。もちろん、コメントがつかなかった場合に「書きっ放し」になることのさびしさや、私との「文通」の希望を訴える学生もいるが、「コメント」や「文通」を全員に対して行うことは物理的に不可能に近い。「出席ペーパー」の本来の目的を理解してもらい、納得してもらうしかない。
 あとになって、学生から私への意思表示のために三つのマークを定めた。BBS(Bulletin Board System =掲示板システム)、メール(手紙)、チャット(おしゃべり)の三つである。これらはすべて、パソコン通信の用語を借用している。後ろの二つは重要ではない。「私信のつもり」「軽いおしゃべりのつもり」という意思表示をしたい人は、好みでそのマークをつけてもよいというだけのことである。しかも、メールと書いても、「文通」はとうてい請け負えない。一方通行である。それを知った上で、「メール」マークをつけてくる人がかなり多い。手紙という言葉に彼らのフィーリングが合うのであろう。手紙を書く労力は損をしたとは思わないらしい。
 私が気負ってこのマークを提案した理由は、BBSにある。ある人が「出席ペーパー」に、何か問題提起をする。その記事にBBSのマークをつければ、もれなく次回にそのままコピーして紹介することになっている。それを読んで関心をもった他の人は、同じくBBSのマークをつけてレスポンスを書く。今度はそれが次の週に紹介される。このようにして学習者の間に知的交流のブームが起こることを期待したのである。「とりあえずは、BBSにしたらもれなく紹介する」と宣言したので、もし全員がBBSにでもしたらどうするかを最初は心配していた。しかし、自分のペーパーをBBSにしてくれる人は、百数十人中、わずか二、三人だったのである。パソコン通信のような市民主義的な知的交流の土壌は、まだ育っていないととらえるべきであろうか。
 それにしても、たとえメールであろうと、書く人たちはとにかく自由に楽しんで書いている。私はそれでよいと思っている。書くこと自体が本来的に自己抑圧的な作業であり、その人なりにそれを克服してなんらかのものを書くわけだから、「おしゃべり症候群」などの自己疎外的な状況とはおのずから性格が異なるものである。
 ただ、講義への集中を中断して書くこと、あるいは講義を聴きながら書くことに抵抗感をもつ学習者は、学生の中にもいる。そのため、終了予定時間の十分前には本講義は終了し、雑談のような話をすることによって、書く時間をそこで保障している。もちろん、事前に書いてくる熱心な学生も中にはおり、それも歓迎している。
 しかし、是非は問われるだろうが、学習者が「自己管理的」に講義に集中・離脱できるよう私自身は求めたい。講義のすべての時間を、すべての学習者のニーズにマッチさせることなどは、多様化の時代にありえないことなのである。そのような「完璧な講義」を教授者の責任として求めることこそ、むしろ学習者側の過度に依存的な態度と考える。講義からの離脱と復帰のタイミングは、それぞれの学習者がつかめると思うし、良いか悪いかはともかく、それは現代社会での生き方につながると思う。
 「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつは次のとおりである。最初からはっきりと「反応・発展の個別化の促進」という目的を掲げていたわけではない。初めて演壇に立ち、「学生の注視を一身に受ける立場」11) になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。
 しかし、多人数の学生の前で仲間意識(ピア・コンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。社会教育施設でも、自由記述のノートを部屋に置くなどしておくと、いきいきと意見や情報などを交換している。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。
 その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下のほうに書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられた。
 学生のほうも、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」というよけいな思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためには、「出席ペーパー」はかなり役立ったようである。
 このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。
 ところで、中高年の社会人の人たちの中には(この場合、一過性の講義であるが)、「出席ペーパー」を書くことそのものに対する拒絶反応を示す人がいた。もちろん、社会人の場合、提出する、しないは本人の自由にしているのだが、何人かはわざわざ「出席ペーパー」の存在に対して抗議をしたためた「出席ペーパー」を提出した。「抵抗を感じる」「意味がない」などの一言ずつなので、詳しい気持ちはわからない。
 これは、階層社会で生きているうちに、自己の「個」を表現することを抑制するようになってしまった結果だろうか。あるいは、自分しか読むことのない日記を書くことによって自己洞察するようなことは、青年期をすぎるとあまりしなくなるのと同様に、他者からの賞賛を得ることのない「無益な自己表現」はしたくないという「実効主義」が原因になっているのだろうか。しかし、そうだとすれば、若者がいたずらに幸せの「青い鳥」を探し回っているというが、おとなのほうこそ自己の内なる確立(アイデンティティ)という本当の「青い鳥」はもう見つけられないのではないかという不安を感じる。もっとも、中高年の人たちの抗議は、初めて会ったばかりの若僧(講師としての私)などに、内なる自分の反応・発展などさらけ出せるものかという自我の主張の結果である可能性も強い。そうであれば、何も心配すべき問題ではない。

(4) 「個の深み」を考える
   −まとめと問題の所在−

 S短期大学(音楽系)とT大学(二部人文系)の実質三カ月程度の授業で、すでに「出席ペーパー」はファイル10冊以上になっている。それらのダイジェストを眺めているだけでもおもしろい。彼らの多様な関心事についての傾向がわかる。試験の模範的な「解答用紙」であったらまず見られない「個別の」感じ方、それまでの体験の蓄積、それと授業とをつなぐ感性、思考の自己発展などに散りばめられている。
 ところが、それが「個の深み」かというと、残念ながらそうとは言い切れない。表面的には「個別」であっても、最初に述べたように、本人も気づかないうちに現代社会の一つの側面としての「画一化」「没個性」の影響を受けていることがある。各人の認知構造が無自覚のうちに定められてしまっているのだ。たとえば、自分という人間を不自由にするような「思い込み」に塗り込められてしまっている。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。そんな「認知構造」を自己変革するためには、かなりの主体性が求められよう。それは、至難のわざのようにさえみえる。
 しかし、「自ら学ぶ」ことを信条としている社会教育は、個人の「自己解決能力」を信じるのであろうし、さらにはその「自己解決」を外部から支援する可能性をも信ずる。
 講義は「義を講ずる」ものというが、真の義はだれにもわからない。「個の深み」のごとく、多様な義があるのだろう。講義はそのような「個の深み」への多様な入口を、さまざまに刺激的に提示することなのではないか。したがって、「講」の旁(つくり)の部分の「相手が同じ理解に達するように」という意味は克服されなければならないと考える。教授者のもたない「深み」を学習者がもつように援助することが教育の営みなのである。それにしても、教育が「独習」にまさることがあると考えるわけだから、これこそ「教育からの学習への挑戦」とよぶべきであろう。
 率直に言って、一人ひとりの「個の深み」は現在の組織運営にはむしろ邪魔にさえなりかねない。だが、やっかいだけれどもそれとつきあっていく覚悟を決めなければならない。「個の深み」は、本人の目先の利益には役立つかどうかもわからない。だが、それを支援するのは今後の社会への教育の責任である。これを社会教育(行政)の新しい「公的」存在意義とよんでよいだろう。

[注]
1) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、平成二年三月、とくに一〇〜十七頁
2) 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、一九八四年、とくに五〇〜五一頁
3) 福原匡彦『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会、一九八九年、とくに三四〜三六頁
4) 島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、一九七四年、三四三〜三四六頁
5) 碓井正久編『社会教育』(戦後日本の教育改革)東京大学出版会、一九七一年、一一頁、二三一頁、二八二頁、三五九〜三六〇頁
6) 社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」、昭和四六年四月
7) 中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」、平成二年一月
8) 見田宗介他編『社会学事典』弘文堂、一九八八年
9) 山口明穂他編『岩波漢和辞典』岩波書店、一九八七年
10) 文部次官通達「公民館の設置運営について」、昭和二一年七月
11) ロンドン大学・大学教授法研究部(喜多村和之他訳)『大学教授法入門−大学教育の原理と方法』玉川大学出版部、一九八二年、とくに八六〜一〇五頁
12) 倉内史郎『社会教育の理論』第一法規、一九八三年、一三七〜一四〇頁に紹介されている。
13) 梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波書店、一九六九年、とくに一〜二〇頁

第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして




1 現代都市青年と情報
  −ヤングアダルト情報サービスの提唱−



はじめに

 私は、ここで、現代都市青年に対する公的情報提供の提唱をしようとしている。しかし、情報がむしろ多すぎる今日、それはいったいどんな意味をもつのであろうか。
 私自身、過去に六年間、東京都青年の家の職員として、青年と「何かをやる」楽しさを味わい、その意義も痛感してきた。主催事業を企画・運営するための実行委員会の中で、青年はぐんぐんと自己発達する。
 それに比べて、情報提供という公的サービスはいかにも消極的に聞こえもする。現代都市社会のさまざまな病理が、青年問題にも表れている時に、情報提供などという「消極的な」手段は強力な行政施策たりうるのだろうか。
 行政が青年のために価値のある講座を開こうとするならば、現代都市青年の問題状況を的確に認識していないと、テーマの設定さえおぼつかない。これに比べて、情報提供は原則として求めに応じて行われるものであり、行政の側が「選択」する要素は少ない。そこに、情報提供が安易に行われる危険性さえひそんでいる。
 本章では、現代都市青年にとっての「情報」の特質をとらえた上で(第一節)、公的情報提供がどんな基本的意義をもつのか(第二節)、どんな情報を提供するのか(第三節)を考えていきたい。そして、「ともに育つ」をキーコンセプトとして、青年の主体性を保障し発達させ、社会的要請にもこたえる統一的な青年政策としての情報提供論(第四節)を展開してみたいと思う。

(1) 青年と情報環境 


(1) −1 現代都市青年の情報不適応
 「企業人」にとっては、情報は死活問題である。駅のアナウンスという「情報」に対しても直線的に反応する。「整列乗車」などにおいても、大変秩序正しい。現に何らかのトラブルによる乗車制限などがあった場合、サラリーマンたちは苦虫を噛みつぶしながらもじっと黙って改札を待っている。朝の東京駅の混雑の中でもし誰か一人がつまづいて倒れても、その情報さえすみやかに提供されれば、後ろの人々はピタッと止まるだろうと言われているぐらいである。これは、道徳性の問題だけではなく、「公共的情報」(たとえば乗車制限)という刺激(S)に対する反応(R)すなわち直線的なS−R的行動様式が形成されている表れでもある。
 現代青年はそれとまったく対照的である。普通、彼らの多くは、駅や車内などの公共性、公衆性の強いアナウンスにはほとんど応じようとしない。とくに、高校生の傍若無人な振舞や言動はよく目にするところである。現代都市青年はこれらのいわばフォーマルな情報に嫌気がさし、価値を認めなくなりつつあると考えることができる。
 しかし、一方では、女性ロックシンガーが「みんな、手拍子してえ」とステージから呼びかけると、日本では聴衆である青年の大部分が律儀にそれに応じている。たとえその時、本人やシンガーのノリが悪くてもつきあう。他人の迷惑も省みず、雑踏の改札口で「友人を待ったり」「友人同士で話をしたり」するのも、じつは同じ志向の表れである。彼らは彼らなりに連帯あるいは同化を求めているのである。問題は、社会にあふれるとくにフォーマルな情報に対する彼らの「無関心」である。
 情報とは「或ることがらについてのしらせ」(広辞苑)である。情報の中には、人間の生存と安全、さらには認識の発達や社会性の獲得などの視点から見て意味があると思われるものもある。青年には「情報依存」の側面もあろうが、それは限られた範囲の情報に関してである。フォーマルな情報の中にも大切な情報が多数、含まれているのだが、それに対してはむしろ拒否的になっている。
 「価値ある情報」の入手のために情報技術を「便利な道具」として使いこなせるようになることが、情報化への「適応」といえよう。反対に、情報社会における多量の情報の中で、青年が窒息状況に陥り拒否反応を示しているとすれば、それは情報化への不適応現象ととらえるべきである。
 窒息しつつある現代都市青年にとって、息を吹きかえすことのできる情報とは何なのであろうか。彼らの情報化不適応に対して、情報過多の中でのあらたな情報提供は、しかもごくフォーマルな、公的機能としての情報提供は、いかにしたら意味あるものになるのだろうか。

(1) −2 青年をとりまく情報の特質
 フォーマルな情報に対して現代都市青年は「拒否的」である。それでは逆に、彼らに支持され、彼らを実際にとりまいている情報にはどんなものがあるか。その特質は、次の六点に集約できよう。
 第一に、少なくとも町に氾濫する若者向け雑誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。青年が社会や経済の活動から「役割猶予」されていることが、その大きな理由となっているのであろう。
 ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生の情報行動に関する調査によれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされている。(●図2−1)「生活情報」そのものとはいえないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。
 第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、その一つが、テレビ番組の全国ネットワーク化である。ネットワーク化された番組は視聴者に対して、居住地の地域性をよりいっそう捨象した情報を伝える。それは、青年の歓迎するところでもある。
 しかし、逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生にもわれわれは注目すべきである。「ピア」のような情報誌は、平日の夕方からでも急にその気になって映画やライブを見ることができるのが魅力の一つである。フラッと行くことのできない遠くの情報はいらない。だから「ピア」は「東京文化圏」の情報誌として発行されているのである。
 現在では、新宿、池袋のような繁華街から、渋谷、原宿、六本木、あるいは山手線の外の下北沢などへと、青年の関心とユースカルチャーの発信地が移っている。そこでは、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な情報誌が発行されて青年の支持を得ている。その他、アマチュアによるラジオ放送としてのミニFM放送局が増えつつある。これなどは、その放送範囲は半径五、六十メートルにすぎない。過密都市だからこそ、情報提供における分散化も成り立つのである。
 第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「ファッション」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。
 しかし、多様化と同時に画一化も進行している。青年一人一人の個性的なやり方よりも、「最大公約数」としての流行が、発行部数を伸ばすために優先される。
 一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。
 第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような情報都市においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来あいの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。これらの出来あいの情報なくしては遊ぶこともできない者もいるのである。
 その反面、情報化不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切な情報もあまりそしゃくされなくなっている。
 第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、意見や評価も排されてくる。たとえば、「ピア」の中では、たくさんの文化・イベント情報が、ほとんど論評を加えられずにびっしりと掲載されている。情報に、「余計な情報」としての他者の意見や評価が混じらなくなっているのだ。読者からの投稿などもあるが、それは別の頁か「はみだし」(欄外)で扱われる。情報誌の「本文」はあくまでも、「純化」された情報の羅列であり、それが読者の「本命的」ニーズでもある。
 第六に、「情報離れ」が進行している。他者の意見や「情」の混じらない純化された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(コミカルではない)が盛んになる。それ自体は多様で個性的な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。情報化は進展しているが、青年が自分の主張をもつために必要な情報を収集する意欲と能力は、むしろ衰退しているのである。
 ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向にもとづく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」をもっている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は目的ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。
 このように、現実に現代都市青年をとりまく情報には、さまざまな特質がある。これらを多面体(●図2−2)として理解したい。青年に対する公的情報提供とは、もちろん、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義をもつ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる情報提供は、それ以外の既存の情報からはあまり望めないからである。

(1) −3 情報の限界
 情報が多すぎて、その不消化、あるいは不適応が起きる。そして、自分で新たな情報をつくりだす「創造性」が失われる。このような情報過多の状況において、あらたに情報提供を加えようとする提言は、その意義自体に根本的な疑念をもたれて当然である。しかし、じつは、「情報が充分ありすぎるから、青年は自分で考えなくてすんでしまうのだ。現代都市青年の創造性を豊かにするためには、これ以上、情報提供などしないほうがよい」とは単純にはいえない。
 創造といえども、現在まで人類が獲得してきた経験と知識の蓄積が基盤となっている。この蓄積を伝達するものがすなわち「情報」である。その情報を取捨選択し、自己の体験と見識にもとづいて再構成したものが「創造」である。創造のためには、情報は基本的には豊かにあるほうがよい。
 情報それ自体の善悪はいずれとも決めつけられない。それよりも、「情報の限界」をはっきり認識しておくことが必要である。「情報の限界」とは、一つには「他者の経験や知識の伝達」といっても、完全には伝達できるはずがないことと、もう一つは情報が「自己の体験」そのものではないということである。
 たとえばテレビではどうか。番組作成のための取材の段階では、たくさんの関係する情報が集まる。しかし、実際の放映の段階では、短い放映時間に収まるようにごくわずかの情報だけが選択され、編集される。視聴者は「他者」が厳選した情報だけを受け取るのである。
 しかも、テレビカメラを通した映像と音声自体が、事実や実物の一つの「断面」にすぎない。事実そのものではない。たとえ「虚構」を前提とする演劇であっても、でかけて行って見るならば、演じられている事実そのものを見ることができる。しかし、テレビではカメラによって二次元に翻訳され、画面のフレームによって切り取られてしまう。端的にいえば、テレビ画面からは、われわれはブラウン管に走査線が走っているという「事実」だけは、確実に見ているのだ。自然のすがすがしいにおい、動物のふさふさした気持の良い毛の感触、逆に動物のくさいにおい、ぬるっとした気味の悪いさわり心地、それらはテレビでは伝わらない。
 テレビはもういらないと言っているのではない。テレビの「限界」が認識されてさえいればよい。ところが普通、自分が一度テレビで見たものについては、「(テレビで見たから)知っている」と過大な自己評価をしている。テレビの画面を、事実そのものと錯覚してしまっているのである。このことにこそ、問題がある。切り取られた情報のあふれた現代都市社会において、さらに新たに情報を提供しようとする場合、その情報も、不可避的に「限界」をもっている。情報によって何でもできるという「万能感」に陥ってはならない。青年が情報の限界に気づくこと、情報を提供する側もその限界をわきまえることが必要である。そのことによって、むしろ情報は豊かに使いこなすことができる。

(1) −4 情報能力と情報必要(ニーズ)をめざして
 一般に情報は、受け手の個性・世代を顧みず、成長段階の順序性を無視して流通する。しかも、「好ましくない」情報に対する社会的規制も実際にはあまり有効ではなく、また、表現の自由を侵害する危険性もある。情報能力の欠如のままで、このような情報が大量に流通するならば、青年にとって「役立たない」ばかりかマイナス要因にさえなる。
 情報能力とは、情報の獲得、処理、利用、加工、生産、提供に関する知識・技術の総体に関する能力であるといえる。この情報能力は、自分で主体的な認識と判断ができるという基礎能力を必要とする。現代都市青年の情報志向は強いとしても、情報能力は豊かとはいえない。
 それでは、青年はどのようにしてその能力を獲得することができるか。情報がいくら大量にあっても、それだけでは情報能力は育ちえない。青年自身が本当に情報を必要として、初めて、青年が自らの力で自らの能力を高めることができるのである。それでは、この情報必要(ニーズ)のさらにまた根源は何か。それはひとことで言えば、問題意識の存在である。すなわち、現在、自己や社会が直面している課題を自己の課題として主体的にうけとめていることである。
 そこには、生活、生産、趣味、生き方、社会などのあらゆる次元の課題が含まれている。その中でもとりわけ社会的課題に関する情報必要は、「非社会的な」現代青年にとってはかなり脆弱である。その他の課題に関しても、都市化社会におけるモラトリアムの延長、コミュニティの崩壊、パーソナルコミュニケーションの喪失によって、現代都市青年はたくさんの情報必要を失ってしまった。そのあとに求める情報とは、自己完結的、趣味的な情報とあたりさわりのないおしゃべり(「おしゃべり症候群」)のための情報ぐらいなのである。
 青年に対して機械的な情報提供だけを繰り返していても、抜本的解決にはならない。情報の多面体を全体としてより良く機能させるためには、青年の情報能力の獲得を意図的に援助する方策を考える必要がある。根本的に青年の意識や価値観の問題に真正面から取り組む必要がある。しかし、また、そういうポリシーを秘めて情報提供が行われるならば、その情報提供は真正面から取り組むための一つの有効な「手段」にもなりうる。
 たとえば「情報整理」は、どちらかといえば外在的作業である。たくさんの情報を得た上で、それを目に見える形で選択し、整理する。しかし、その作業は、情報に対処する方法に関する知識・技術を育てるばかりでなく、青年自身の認識を育て、青年の知的主体性を形成する。すなわち、情報整理という「外在的作業」によって「内在的な営み」が豊かになるのである。このように、外からの情報により、内なる問題意識も高まっていく。
 外からの公的情報提供は、そのことを期待し、しかも意識的、意図的にそれを援助する態度を明白に表しつつ行われるべきである。そして、その「意図」のもとに、現在の青年に欠けている情報、社会的情報、情報に対処するための情報などにとくに力を入れて情報提供することが必要である。
 まとめておこう。青年に対する情報提供を「実のあるもの」とするための一番大きな「支え」は、青年自身の情報能力と情報必要、それ自体であることは否めない。しかし、たとえそれらが今は成熟していないとしても、公的意図にもとづく公的情報提供は、現代都市青年の内面の奥深くで情報能力と情報必要を育てる独自の機能を発揮するのである。

(2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱−


(2) −1 情報の提供にともなう操作性
 情報は受け手にとってはタダという場合も少なくない。それだけに、他の商品のように必要なものだけが買われるのではなく、消費者が求めていないものまで、本人の属性や個性に関わりなく、流れ込んでくる。これは情報の「大衆化」の側面である。
 民主主義社会においては、公的情報だけでなく、これらの大小メディアなどの提供するさまざまな情報が豊かにあることが、市民の主体的な判断の基礎となっている。社会形成のための合意の基盤となるのである。これは情報による「社会的合意の形成」の側面である。
 このように情報は大衆性や社会性の側面をもっている。たとえそれが民間の情報であっても、それ自体が「公共性」をもっていると考えられる。
 ところが一方では、民間の情報は、それら情報提供者の「私的な目的」にもとづく「操作」の産物である。たしかに、現代社会では、特定の情報提供者が強制などの手段によって露骨な「情報操作」を行うことは少ないが、たとえばコマーシャルは、たとえそれが事実の組み合わせであっても、購入の拡大を意図して提供されていることには変わりない。市販の情報誌でさえ、該当する情報のすべてではなく、本がよく売れるように情報を選択し編集している。露骨な「情報操作」は排除することはできても、「操作性」そのものはあらゆる情報提供において避けることができない。
 それゆえ、新聞やテレビには「倫理綱領」などの自主規制が必要になる。これは、公的な色彩をもったゆるやかな「操作性」といえる。しかし、それをさらに行政が規制しようとすることは「自由の侵害」につながりかねない。基本的には情報は、公的情報を除いて、民間のさまざまな情報提供者と受け手との自由な相互作用に任されるべきである。
 行政が情報を提供する場合はどうだろうか。その場合も、同じく不可避的に「操作性」を帯びている。しかし、その「操作性」が純粋に「公共的な目的」にもとづくべきであるという意味で、独特の存在である。
 その情報が文化的、政治的内容のものも多い。文化情報、政治情報の提供において、行政の「操作性」は許されるか。青年の文化活動の紹介などは、なるべく広く該当する情報を提供すればよい。しかし、時には人間の内面に深く関わる情報も扱う。たとえば、現代都市青年の健全な精神の形成をめざす情報提供などは、ややもすれば青年の価値観への介入になる危険性がある。しかし、それを恐れて文化・政治情報についてパスするというわけにはいかない。都市社会のゆがみ、あるいは、地球規模のゆがみとして、行政も緊急に取り組まざるをえないのである。
 現代都市青年に対する行政の情報提供の目的は、「都市政策」と「青年政策」の二面性をもつと考えられる。都市計画づくりなどには、青年を含めた市民の自治能力の向上とそれによる合意の形成のための情報提供が必要である。これは、「都市政策」としての情報提供の一面である。また、青年の社会的病理現象に対処するために、青年の成長を援助するような各種の情報提供が求められている。これは、現代都市社会における「青年政策」としての情報提供の一面である。
 青年に対する公的情報提供は、この二つの「公共的目的」のために、その限定的な意味においては「操作的」に行われる。問題は、それらが「操作的か、否か」ということよりも、「公共的目的」をどのような具体的な「目標」として設定するのか、実際の情報提供が本来の目的に沿っているのか、そして青年に支持されない「ひとりよがりな操作」に陥っていないかということなのである。

(2) −2 青年の要求にこたえるヤングアダルト情報サービス
 都市化社会において「青少年健全育成」の必要が叫ばれるようになって久しい。しかし、過去の押しつけ的な「対策」では、多くの青年の無益な反発をよぶだけである。そこで、今日の青少年健全育成施策は、その反省のもとに、環境醸成などの側面的援助に重きをおくようになっている。情報提供もその一環としてとらえられる。「対策からサービスへ」の転換である。
 しかし、一方ではその前提としての現代都市青年の自主性、主体性そのものが欠けつつあるということも指摘されている。青年の自主性、主体性を尊重した「サービス」は意味をもつことができるのであろうか。
 カウンセリングについていえば、それは個人の心理的問題を当人自身の力で解決できるよう援助することを目的としている。そのためにカウンセラーは、「指示」をするのではなく、もっぱら「共感」と「支持」を与える。ノンディレクティブ(非指示的)といわれているカウンセリングの手法である。そのことにより、本人自らが自己の問題に気づき、自らを変革するのである。
 このように、カウンセリングは、自己の内面に大きな心理的問題をもっている人に対しても、その人間の「自己解決能力」に絶対の信頼を寄せて行われる。「情報提供」の姿勢も、それと同様の「信頼」が基礎となる。すなわち、「本人の今の課題に関連する情報をいろいろ提供するが、選択と判断は相手に任せる」ということにより、本人自らが認識を深化させるであろうことを信ずるのである。
 図書館についていえば、最近、ヤングアダルトコーナーの設置が少しづつ見られるようになっている。その先進的事例が東京都立江東図書館(現在は江東区に移管されている)であり、その担当司書の半田雄二氏は次のように述べている。「ふつう『読んでほしい本』と『読まれる本』は一致しないことが多いものです。しかし、大人から見れば未熟であっても、彼らには彼らなりの選択眼があり、けっして無原則に手を出しているわけではありません。読まれない本には、やはりそれだけの理由があるはずです。・・・読まれている本が、すべて読者の低俗な好奇心におもねるクズばかりと決めつけるのも危険です。大人たちがまだ気づかないだけで、数年後には中堅どころとして脚光を浴びているであろう作家が隠れていたりします。・・・」1)。そして、実際に、オートバイやヘビーロックに関する本なども提供しているのである。
 半田氏の問題意識は、児童サービスと成人サービスのはざまにいる青年の「図書館離れ」から発している。この「図書館離れ」は、青年の知的側面での主体性の欠如の表れともいえる。しかし、だからといって青年への働きかけを放棄してはいない。むしろ、青年をヤングアダルト、すなわち「若い大人」、知的権利主体としてとらえている。そしてその青年の要求にあった図書を提供しているのである。
 青年の自主性、主体性は現実には欠如しているかもしれない。これは、行政が青年に対して情報提供を行おうとする場合にも、大きな障害となるだろう。それでも、青年を「アダルト」すなわち権利主体ととらえ、まず、その情報要求に的確にこたえていくのである。
 私はこれを「ヤングアダルト情報サービス」として提言したい。そこでは、カウンセリングが本人の「自己解決能力」を信頼するのと同じように、青年の情報に関する「自己発達能力」を基本的に信頼する。そして、図書館のヤングアダルトサービスと同じように、「青年に知らせたい情報より、青年が知りたい情報を提供する」のである。

(3) ヤングアダルトのための情報 


(3) −1 提供する情報の基本的性格
 ヤングアダルト情報サービスが、青年の情報要求に的確にこたえようとするならば、そこで提供される情報は基本的にどのような性格をもつか。
 第一に「全面的」性格である。それは一つには、あることがらについての「右から左まで」のあらゆる情報を提供することである。提供側でまずプラスマイナスの価値判断をして選択した後の情報を提供するのではない。
 また、一つには、現代都市青年の喜怒哀楽に関するさまざまなことがらについての情報を提供することである。半田氏は図書館司書として次のように言う。「すでに趣味の固定してしまった成人に較べ、自己、そして自己と他者、社会、世界との関わりに日々新たな発見の喜びをもちうる青年の関心の領域は広い、青年の要求に応えうる素材をもった資料は捜せば結構あるはずである」2)。
 なんと積極的で生産的な感覚であろうか。われわれも、青年の多様な「文化」に応じた全面的な情報提供の展開をめざすべきである。
 第二に「今日的」性格である。過去の文化の蓄積を伝達することは必要であるが、それは学校教育や図書館などが役割を果たしている。これに対してヤングアダルト情報サービスでは、現代都市青年の「今、もっている情報要求」にこたえることが基本的要件である。一義的には過去の文化の「伝達」のためのものではない。
 そのためには、新鮮な情報の収集を怠れない。現代都市における動態的な情報を収集するためには、大変な苦労を要する。「今度、どこそこで○○サークルがこんなイベントをやる」などの情報を集めても、時がたてば次から次へと無用のものとなっていく。しかし、取りこぼされがちなそれらの情報や、青年個人のレベルでは把握の困難な情報を、新鮮なうちにリアルタイムに提供するからこそ、ヤングアダルト情報サービスは価値がある。これらは、今日の情報社会からも取り残され、疎外されている情報なのである。
 第三に「非文献的」である。青年の知的活動から生ずる「文献」に関する情報要求については、図書館のレファレンスサービスが専門的に対応できる。しかし、現代都市青年の興味・関心は、活字化されたものだけにとどまることはない。「活字信仰」にこだわるなら、すぐ青年に嫌われてしまう。
 もちろん、図書館のレファレンスにおいても、活字以外のさまざまなメディアが有する情報まで広く紹介すべきである。また、ヤングアダルト情報サービスのほうも、そこで知りえた独自の「文献情報」も提供する必要がある。しかし、後者のほうは、それよりも、人や組織、生活や遊びそのものまで紹介しようというのである。
 アメリカの図書館には、レファレンス(参考調査)サービスだけでなく、リファラル(照会)サービスまで行っているところもある3)。図書や資料だけでなく、図書館以外の機関や人材などの情報を図書館が把握していて、それを紹介してくれる。そのことにより、貧しい人々や高齢者などの生活そのものを援助し、読書に不利な人々が読書できる条件を確保しようとしている。
 現代都市青年にもアメリカとは違った意味だが、「知的貧困」「生活の貧困」がある。青年のこの新しい「貧困」の解決のためには、文書にされた情報にはとどまらない情報が必要になる。それは、たとえば青年に対して知的刺激を与えてくれたり、自己の生活を振り返らせてくれるような、機関や人材などのなまの情報である。
 第四に私は「おもしろ的」性格をあげたい。現代都市青年はよく「おもしろおかしく生きている」と批判される。「おもしろい」はそこではマイナスイメージである。しかし、「おもしろがる」ということは、言い換えれば知的好奇心などの人間性の発露であり、個人や社会の原動力の一つであるはずではないか。
 社会の成熟化の中では、大量の物的生産に恵まれながらも、その反面、人間性や生きがいを追求する努力が、これまで以上に必要となるだろう。そこでは、「まじめさ」「勤勉さ」だけでなく「おもしろく」生きられる資質も大切である。今日の現代都市青年が社会の主力部隊となる頃には、労働・余暇の双方において「おもしろがれる」資質が求められるようになるかもしれない。
 ここで言う「おもしろさ」とは、たんに「瞬間芸」を見るようなおもしろさではない。「おもしろそうだから、やってみる」という「参加性」、義務感や管理社会の束縛から逃れて「おもしろいからこそ、やる」という「自発性」が息づいている。
 ちなみに、ヤングアダルトへの魅力ある情報サービスも、サービスをする側が青年といっしょになって「おもしろがって」進めていくからこそ生まれてくるのだと思う。

(3) −2 青年が要求する情報と、青年に必要な情報
 「学習課題」は操作概念として、「要求課題」と「必要課題」に分けて論じられることがある。
 NHKの学習需要調査によれば市民の学習要求は、驚くほど、多様化、分散化している(●表2−1)。一〇%以上の人が「学びたい」としている項目は、全学習項目(三八七)のうち、四二にすぎないのである。顕在的関心(実際の学習行動率)に限ると、最高で華道の三%ということになってしまう。そして、七位以下は一%台、二二位以下は〇%台が続くのである。
 こういう状況のもとでは、社会教育で講座などを開こうとしても、大部分の人が実際に参加してくれるような、何か素晴らしい学習テーマがあるというのは幻想でしかない。また、そんなに多岐にわたる学習要求のすべてをテーマとして取り上げることもできない。それよりも、公共性のある学習課題や人間として共通に求められる学習課題を一番の根底に位置づけながら社会教育事業を進めるべきであるというのが「必要課題」重視の考え方である。
 ただ、その実際的な方法は未だ定説があるわけではない。たとえ少ししか人が集まらなくても「必要課題」を正面からテーマに取り上げて市民に問いかけることもあってよいかもしれないし、「要求課題」を配列しつつ「必要課題」に導くさまざまな方法も考えられる。あるいは「必要課題」とは、学習者が自己の要求にもとづく学習の過程の中で自ら気づくものであり、他者である行政が先回りして考える必要や権限はないとする者もいる。
 いずれにせよ、この「要求課題」「必要課題」の論議は、簡単にいえば社会教育をとりまく次のような環境が発端となっていると考えられる。
 今日の学習社会においてはとくに都市部で民間カルチャー産業が発展しており、学習要求が一定程度社会に存在すれば、その学習機会はそこが提供し、また市民も相当なお金を払ってでもそれを受講するようになっている。学習要求があるからといって、そのすべてを公的社会教育が準備し提供しなければならないという状況ではなくなったのである。
 さらに行政改革の観点から「持てる者」の「個人の利益」にとどまるような学習については、公税を支出してまでそれを保障する必要は認められないと財政当局なども考えるようになってきている。社会教育行政はきびしくその「公共的意義」を問われているのである。
 もちろん、これらの外的要因への対処のためだけに「要求課題」「必要課題」の論議があるわけではない。公的社会教育の内実が文字どおり「公的」であるためにはどうあればよいかという理念的な問題意識、そして社会教育の現場からの「市民の多様な学習要求のすべてに対応することは不可能である。どうすればよいのか」という実践的な問題意識も影響している。
 さて、同様な意味での「要求(ウォント)」と「必要(ニーズ)」の概念が、ヤングアダルト情報サービスのあり方を考える上でも役立つと思われる。
 もちろん、実際の情報の一つ一つを、この「要求情報」と「必要情報」に明確に区分したり、ましてやこの双方をつねに相反する存在として対置してとらえることはけっしてできない。とくに情報提供事業においては、ほとんどの「要求情報」をカバーしようとするものになるかもしれない。
 図書館のレファレンスサービスなどでも、できるだけすべての文献に関する問い合わせに応ずることが基本となる。レファレンスを行う者は「操作性」などほとんど意識していないのが現実であり、それは正当なことである。
 しかし、ヤングアダルト情報サービスでは、青年に対してどんな情報を提供しようとするのか。そこに生ずる「情報の範囲の選択」という「操作性」の正当な根拠を見出すためには「必要情報」の概念が有効である。青年に情報を提供することによって、何かをそこから学びとってほしいという、期待の中身を明らかにするのである。逆に情報過多社会において公的機関までが正当な「操作性」をもたずして、やみくもに情報提供することは、情報過多に輪をかけることになってしまう。
 私は「必要情報」の概念は情報提供の理論構築の上でのキーになると考える。情報提供できない情報の種類(特定の党派・宗派・営利団体の利害に関するもの、医学的判断を要するものなど)をあれこれ詮索するよりも、現代都市青年への公的情報提供の根拠としての「必要情報」の種類を明らかにすることのほうが本質的である。「必要情報」への発展の見通しをもちながら、青年のさまざまな「要求情報」にはば広くこたえていくことが必要である。

(3) −3 人間の情報
 現在、写真情報誌が数多く発行されている。過去の写真雑誌は風景や人物の撮影により、芸術的感性に訴えるものであった。それに対して今日の写真情報誌はむしろ「報道性」がその眼目になっている。これは、一見、人々の情報要求へのまともな対応のように思える。しかし、それだけでは現代都市の「社会的」現象としての写真情報誌の隆盛を解説することはできない。視覚に訴える点ではテレビ、報道の素早さならテレビやラジオ、詳しさなら従来の報道雑誌などのほうがよっぽど優れているではないか。
 じつは、極端な「覗き趣味」こそ、写真情報誌の核心ではないだろうか。この写真情報誌にテレビなどでよく知っている有名人が載っているとする。しかし、それはテレビ向けの顔でない。一人のあたりまえの人間としての生きざまを「覗き見」できる。これが隠れた魅力なのではないか。個人の私生活を暴露する「ワイドショー」などが視聴率を稼いでいるのと同様である。
 一方、現代人は、自分に関しては「匿名」でいることを望む場面が多い。その場合の「匿名性」とは、離れ小島に一人でいることではなく、自己のあり様を隠しつつも他者を覗こうとすることである。それは、人間が本質的に社会的存在であるがゆえに、他者との関係をあがき求めていることの表れとも考えられる。ただし、人間関係が疎外されている環境の中では、自己を明らかにすることが一方的不利益になるという認識があり、その「あがき」は空疎なものになってしまっている。
 もちろん、匿名性は自己保身のマイナス面としてだけ機能しているわけではない。一方では、過去の村落共同体の「監視」から逃れ、自由な存在としての自己を発揮する機能も果たしている。
 ヤングアダルト情報サービスが提供すべき人間情報とは、同じ人間としての他者の生き様を伝える情報である。その時、一次的には情報の提供を受ける側としての青年は「匿名」であってよい。その情報、その人間に対して非主体的であってもよい。そもそも「受け手」にとっての情報の魅力は率直に言って、それを「気軽に受け取れる」ところにある。
 しかし、言うまでもないことだが、そこでの人間情報は自己の情報を伝えられる本人が承諾しているものでなければならない。むしろ本人の「自負できる」生き様である。その面では「覗き趣味」情報とはまったく反対の性格のものである。かといって、装った表層的な言動でもない。あくまでも同じ人間としての喜怒哀楽を内に含むような「生き様」だから意味がある。そうであって初めて、情報の受け手に「共感」が生まれる。この「共感」が、人間情報を受け手にとっても「関わり」のある情報にし、人間関係を創出する能力をよびさまし、ひいては「匿名性」の逆機能を克服する。
 NHK教育テレビの幼児向けの番組の中に「パジャマでおじゃま」というコーナーがある(現在は歯磨きの様子もやっている)。これは、普通の幼児が一人でパンツ姿からパジャマを着終わるまでを放映するものである。バックにはリズミカルな主題歌が流れるだけの単純な構成である。実はこれはNHKが幼児のテレビ番組への関心の示し方の実証的分析を徹底的に重ねた上で開始したものであるという。大人が見てもけっこう面白いが、とくに幼児は同じ年代の普通の仲間のしぐさに関心をもつ。これが「覗き趣味」ではない「共感を伴った関心」である。
 現代都市青年に対しても、青年の社会化のために直接的な「対策」をあれこれ講ずる前に、自然にそれを形成するであろう「人間の情報」を提供することに力を尽くすべきである。

(3) −4 生活の情報
 今日、「青年がいかに生活しているかに関する情報」は大量に提供されている。青年の消費動向が社会経済に大きな影響を与え、また、将来の社会も青年たちによって担われること、そして、青年の社会問題が多発などの理由から、青年の情報について社会が関心をもたざるをえなくなっているのである。
 たとえば、青年の就職状況の情報などもそうである。さまざまな調査報告がだされている。また、青年の消費動向なども企業の市場調査の重要な対象になっている。
 ところがひとたび青年が自分の生活に必要な就職、消費に関する情報を探すとなると、今日の情報社会において、かえって難しい。たとえば、ある青年が就職や転職を考えたとする。青年の全国的な就職動向などはすぐ手に入る。しかし、その青年にとって知りたい情報とは、実際に社会でその仕事をしている人がどんな労働条件で、どんな働きがいをもってやっているのかということである。何時ごろ出社するのか。仕事はきついのか。帰りはいつも夜遅くなるのか。このようななまの情報を求めているのである。
 そして、青年自身の要求にはなっていなくても本当は必要、という情報もゆきわたっていない。最近、街頭アンケート商法、クレジット商法などで青年の被害が急激に増えている。各地の消費者センターなどが被害防止のための情報提供に努めているが、とくに青年にはまだ十分にはいきわたっていない。青年に売るためのコマーシャルやカタログ誌などによる「商品情報」ばかりが多いのである。消費者情報などの生活関連の情報は都市化社会においての「必要情報」といえるのだが、青年とは遠い所に存在してきた。
 これらの「生活の情報」は、ヤングアダルトに関する情報とは対照的な、ヤングアダルトのための情報といえる。

(3) −5 連帯の情報
 現代の青年に、尊敬する人や、期待にこたえたいと思っている人を尋ねると、「親」という回答が非常に多い。しかし、「こんな人になりたい」というモデルについては、「なりたいと思う人はいない」という回答のほうが多い。(●図2−3)
 過去の家族においては、手伝いをずいぶんさせられたり、きびしく叱られたりして、子どもにとっては心地良いだけの場ではなかった。しかし、少子家庭が増えたことなどから、今日の子どもは「大事に」され、家庭が最も居心地の良い場に変わろうとしている。それは青年期にまで引き続いている。アルバイトはしても、そのお金は全部、自分の小遣いとして使ってしまってよい。多くの現代都市青年にとって、家庭は、少なくとも今は、一方的に恩恵を受けることのできる場なのである。
 「友人関係」についても趣味を同じくする者同士の「情報交換」や、気の合う者同士のたわいないおしゃべりはある。しかし、他者の人生に踏み込んだり、それによってぶつかりあったりはしない。だから、人間に対する深い洞察にはつながらない。「情報交換」のレベルの無難なつきあいである。
 これらのことは「○○し合う」という本来の意味での人間関係の希薄化を表している。このような状況をそのままにして情報化が進み、人間関係をもたずして必要な情報が手に入るようになるならば、事態はますます悪化するだろう。
 そこで、ばらばらに「たこつぼの中にいる」現代都市青年に対して、意識的に「連帯の情報」を提供することが必要になる。そのうち最も直接的効果をもたらすと思われるものは、同世代のグループ活動や世代横断的な集団活動の紹介である。これらの集団のあり方や進め方に関する情報も必要である。
 しかし、なにがなんでも集団情報という姿勢では、青年はそっぽをむいてしまう。これらの情報をふんだんに提供するとともに、もっと「個人的」なつながりなども含めた、ありとあらゆる人間関係の機会と方法を豊かに提示することが大切である。ヤングアダルト情報サービスには、個人レベルの連帯までカバーするきめ細かさが求められている。

(3) −6 地域情報と行政情報
 一般的にいえば、現代都市青年にとって、「要求情報」から一番遠い所にある「必要情報」が地域と行政の情報であろう。青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。非日常志向は、青年期の独自の発達課題の表れの一つでもある。
 しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そのためには、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくことができるよう援助する情報提供を実現したい。
 第一に、これらの「必要情報」が現代都市青年に充分には提供されていないという現実を認識すべきである。民間情報はもちろん、行政機関からのこれらの情報提供も少ない。たとえば遊休地のリストなど、都市計画の手の内をもっとさらして市民の議論をまきおこしたほうがよいのではないか。とくに青年に対してのそれらの情報提供は、彼ら自身の沈黙のせいもあるが、おざなりになってしまっている。青年向けの施設の設置なども、青年関係者の意見を聴くことはあっても、広く普通の青年に訴えて議論をよびかけることは少ない。
 これらの情報提供は、青年の眼を地域や行政に向ける契機の一つになるはずである。とくに十代の青年たちには、自治への発言の場がほとんどない。自治のトレーニングの場としても、そういう場が必要である。
 もちろん、いやがる者に無理にその情報を押しつけることはできない。広報を充実したり、問い合わせがあればそれにこたえる「構え」をもっていればよい。そのため、なかなか反応がないかもしれないが、少なくとも「害」にはならないのだ。
 第二に、今あるこれらの情報をもっと開かれたものにしたい。地域情報、行政情報は、それぞれの地域と行政の「独自の課題」を示す情報である。しかし、それは偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」にもとづくものであってはならない。情報の特性は、「風」となって他の地域にまでいきわたるところにある。これを活かして、地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報はつねに他の情報と行き来する「開放性」があって、すなわち「風」が吹いてこそ、根腐れせずに生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」に関心を示さないことは、あながち不当なこととはいえない。
 たとえば幹線道路問題などがそうである。自らの地域に該当する部分を考えるだけの住民運動や自治体行政では、本当の解決にはならない。視野が狭くなって、住民エゴや地域エゴに陥ってしまう。他の隣接地域ではどういう問題が起きているか、どのように解決しているか、広域的にはどのような必要性と問題性があるのかを理解し、さらには自らの地域の情報も積極的に外に広げていくことによって、主体的判断にもとづくいきいきとした活動ができるのである。
 今はその地域に住んでいるが、いつか転出するであろう青年たちに対しても、地域は開放的であってほしい。十年後、二十年後にどこかの地域のスタッフになれるよう、今の地域が青年たちの「巣立」を援助すると考えてほしい。それは、閉鎖的地域主義に対する開放的地域主義である。
 第三に、非日常としての魅力をもった地域情報、行政情報を、地域の中に「風」として吹きわたらせたい。
 現代都市青年は、きまりきった情報にあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りたかもしれない。しかし、今日、住民が地域社会に関わる場合、自発的行為であることが多くなっている。何らかの形で情報を得て、魅力を感じた場合に地域に関わる。そういう地域活動の形態は、現代都市コミュニティの新しい理念型といえる。
 本来、地域社会はダイナミックで人間的な場である。それは現代都市社会に生きる青年にとっては「新しい非日常」になりうる。今は地域に埋もれてしまっているその魅力を拾い上げ、情報の「風」として地域に吹きわたらせることが求められている。

(4) 青年とともに育つ情報サービス


(4) −1 「ともに育つ」情報提供
 青年は行政の広報をあまり読まない。彼らは、それを「つまらない」「役に立たない」と思っているのではないか。
 いうまでもなく、広報は市民の行政への理解と発言(広聴)を求めるために必要である。しかし、行政自身が市民に「何とか読んでもらいたい」と思っているだろうか。「広く知らせること」が、行政にとっての切実な願いになっているだろうか。読まれようが、読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけでは広報の「中身」も育たないのである(最近は、その面での改善は、各所で見られるようになってきているが)。
 つねに競争にさらされる民間誌は「読んでもらう」ことを切実に願っている。読者のニーズを敏感にとらえて中身を構成し、グラビアやイラストなどの外観でも人の目を引こうとしている。たとえば、自分たちの意思で発行しているミニコミ紙でさえ、「いい『情報』を読んでもらうためには、その『いい情報』を少し減らしてでも、手に取って読んでもらう努力が必要です」4)として、その第一面の大部分をイラストで飾ったりして、親しみやすい紙面を工夫しているのである。
 民間の情報提供には、このような「市民感覚」がある。それは、フィードバックを活かして情報提供の中身をすみやかに改善することにもつながっている。こうして、情報提供側にも「市民感覚」が育っていく。ヤングアダルト情報サービスは、この精神に習うべきである。「青年感覚」が必要なのである。
 「青年感覚」とは、現代都市青年の情報ニーズを理解していることである。そのことによって初めて、彼らに「関係のある」情報を提供することができる。しかも、それは、青年からのフィードバックを高める。情報提供側の「市民感覚」「青年感覚」は、そのことによってますます育つのである。
 民間の情報提供は「市民感覚」そのものであるが、それでは公的情報提供はそれよりもつねに劣っているのが宿命なのか。けっしてそうではないだろう。
 民放の教育番組に関する自主的な連絡調整団体ともいうべき「民間放送教育協会」は毎年、全国大会を開催している。そこで毎回のように、フロアのお母さん方から、「俗悪番組を少なくして、その分、教育番組を増やしてほしい。それをゴールデンタイムに放映してほしい」との注文が出る。そして、この注文に対していつも壇上のディレクターたちは「これでも頑張っているつもりである。教育番組の低い視聴率を考えると、これでもせいいっぱいの努力である。ゴールデンタイムに放映するなど、とっても無理である。あとは、たくさんの皆さんに見ていただいて視聴率を上げるしかない」という趣旨の受け答えをする。彼らは、放送の「公共性」を実現するために、精いっぱいの努力をしているのである。しかし、民放としての性格上、視聴者の表面的ニーズに対応できたかどうかを数量的に示す視聴率にも縛られざるをえない。
 ヤングアダルト情報サービスは、これとは基本的に性格が異なる。青年の表面的ニーズにこたえる情報提供だけをするのではない。「必要情報」を提供することもその本来の責務である。そこに民間とは違った公的な意味がある。
 ただし、これらの「必要情報」の判断、収集、選択、提供においても、説得力がなければならない。「押しつけ」になってはいけない。現代都市青年の感覚と遊離した感覚で、青年にとっての「必要」を社会や行政が設定しようとするならば、そこで設定された「必要」と青年自身が考える「必要」とが対立してしまう。
 今日まで人類の獲得した発展の多くが、人間のなまなましいニーズから生まれたものである。今の青年のニーズをないがしろにしてはいけない。もちろん、大切にすべきニーズの中には、今までの社会にすでに形成されている行政や大人たちのニーズも含まれる。しかし、現代都市青年の今のニーズの中には、将来の社会のニーズがすでに「遺伝子」のように用意されているのではないか。たとえば、すでに述べたように「おもしろい情報」の要求は、「参加性」や「自発性」の原初形態であり、将来の社会のニーズの本流になる可能性も秘めている。
 ヤングアダルト情報サービスがなぜ「必要情報」を提供しようとするのかといえば、それは、青年が自ら気づき、「要求情報」の中でもとりわけ必要な情報を「要求」できるようにするためなのでもある。したがって、「必要情報」の提供においても、一方的に青年に教える立場ではなく、今の青年の「要求情報」を大切にして、そこから行政は学びながらも、青年に問題を提起し、彼らの自己成長を期待するというともに育つ姿勢が大切である。
 たんに情報処理システムやそのための行政システムだけを先行させるのならば、ヤングアダルト情報サービスは成功しないだろう。その前に、既存のさまざまな公的情報提供を担当する職員が、もう少し現代青年の感覚をリアルに認識していなければならない。

(4) −2 ネットワークとインフォメーションリーダー
 情報の収集から提供にいたる作業には人間の認識を育てる作用が内包されている。したがって、ヤングアダルト情報サービスには青年の参加が望ましい。情報処理の作業の「代行」を行政がすべて請け負ってしまってはいけない。行政の青年政策への青年自身の参加一般も大きな意義をもっているが、それとは別に、情報提供においての青年の参加は独自の教育的意義ももっているのである。
 青年参加の具体的なシステムとしては、情報モニター制度を設けてフィードバックを図ったり、企画委員会や運営委員会などへの参加を求める方法がある。しかし、モニターや各種委員は限られた青年である。そのため、参加する者の範囲を広くし、中身を豊かにする「鍵概念」として、「ネットワーク」が注目される。また、ネットワークそのものの「鍵」も「情報」である。
 ネットワーキングとは、それぞれの人やグループや機関が、それぞれ自立的な価値をもちながら、連携することであるととらえられよう。そして、その連携は固定的ではなく、ゆるやかで自由、自発的なものである。5)
 質の良い新しい情報も、まり、「固定」からは生まれない。ネットワークシステムにおける青年の流動的参加にこそ、創造的成果が期待できる。流動的であるから、参加する青年の顔ぶれや参加の内容、形態がつねに移り変わる。参加の「形式」より、参加する者の個別な「中身」を重視するのだ。
 この論には現実論からの反駁が予想される。それは、無関心な青年が多い中、ごくわずかの委員を募集することでさえ容易ではないのに、そんな「不特定多数」の自発的参加が望めるわけがないというものである。
 しかし、現代の情報の特性は青年の参加をいざなう新しい可能性をもっている。
 一つの可能性は「インフォメーションリーダー」ともいうべき青年たちの存在である。彼らは、情報化社会に新しく登場した情報保有者および発信者である。コミュニティの崩壊の中で、近隣関係などのパーソナルコミュニケーションは弱まってしまった。しかし、それに代わるコミュニケーションの良き仲介者として新しいインフォメーションリーダーが誕生してきたのである。
 従来のリーダーには、奉仕的精神や、時には自己犠牲的精神が求められてきた。しかしインフォメーションリーダーは、ものごとに対して好奇心が強い者、おもしろがることのできる者である。だから新しい情報をもっている。彼らはグループリーダーそのものにはなりえないかもしれない。しかし、その開放的で先取的な性格は、インフォーマルなグループのアンテナの役割を果たしているのである。
 ヤングアダルト情報サービスが彼らにとって魅力があれば、彼らはこれに参加するだろう。彼らの自発的参加によって「青年感覚」にあふれたダイナミックな情報の収集と提供ができる。そして、彼らは、インフォーマルな影響力をもっているのであるから、この情報サービスの存在と、そこで提供される情報は、彼らを通してインフォーマルなグループの中に広がっていく。それが、今まで行政には「縁がなかった」ような広い層の青年の参加をよびおこすことを期待できるのである。
 ヤングアダルト情報サービスは、インフォメーションリーダーのインフォーマルな影響力に期待する。彼らの影響力は、団体のリーダーのような指導的なものではない。対等な立場で他者に対しても「自立的価値」を求め、その個人的なつきあいの中で、価値のある情報や楽しい情報を発信するネットワーカー的なものである。

(4) −3 パソコン通信の活用
 青年の参加をいざなう現代の「情報」の特性のもう一つの側面として、情報技術の高度な発達があげられる。中でも私は、パソコン通信に注目したい。パソコンと電話とそれをつなぐモデムがあれば、あとは通常の電話料金の負担だけで、在宅のままリアルタイムな情報の入手と検索、そしてそれ以上の魅力として「情報の発信」ができる。実際、いくつかの商業ネットは、ホストコンピュータにつなぐ電話回線をたびたび増設しているが、それでもいっぱいになるほどの利用率を誇っている。検索主体のキャプテンシステムが、企業にはともかく、青年にはあまり活用されていないのとは対照的である。
 他の事業の企画への参加と異なり、情報については、現代の情報技術をうまく利用すれば、それほどの覚悟なしに気軽に参加でき、しかも直接、主体的参加ができる。ネットワークが「情報」を「鍵概念」とする理由の一つも、この情報の「魅力」にあるのだと考えられる。
 だが、そうは言っても、パソコン通信で青年が発信する情報の内容に全面的に期待できるかというと、実は残念ながらそうではない。
 商業ネットの一つ、アスキーネットワークの中に、ブレティンボード(掲示板)システムというのがある。ここにさまざまなテーマのボードが設定されている。メンバーは、自分のパソコンから、好きなボードに自由に意見を書き込む。
 その一つに「グッドアース」というボードがあった。地球的規模から核兵器、環境、人口爆発、エネルギーなどの問題を考えようとしたものである。ところが、半年でたった二七件しか書き込みがなかった。これに対して喫茶店、アニメ、コミック、アイドル、SFなどは千件以上の書き込みがあり、二千件を越えるところすらあったという。青年が情報ネットワークに参加するといっても、たわいないおしゃべりが多いのである。
 「グッドアース」については、不活発(すなわちニーズが少ない)という理由からシステムオペレーターのアスキー側から閉鎖を通告された(昭和六一年秋)。これに対して関根章郎氏が、廃止反対のよびかけをボード上で展開した。それを契機に他の青年からの書き込みが増え、「こんな本が良かった」という読書情報が交換されたり、その感想を述べあう「電子読書会」がボード上で開かれたりした。このようにして、「グッドアース」は結局、継続されることになった。
 ヤングアダルト情報サービスにおいても、パソコン通信を活用したい。そこでは、「くだらない情報」を排除しようとするものではないが、「好ましい情報」なのに反応が少ないからといってそれを排除するものでも、もちろんない。「必要情報」も提起しながら、情報の中身をともに育てることができるところが、公的情報提供の良いところである。
 なお、関根氏によれば、株式会社アスキーは「グッドアースの廃止宣言」によって、青年が発信するふがいない通信の中身にショックを与えようとしたのではないか、とのことである。時には、このような緊張関係の演出も必要なのかもしれない。

(4) −4 情報ユースワーカーの役割
 現代都市青年は「情報不適応」を起こしている。それにさらに追い討ちをかけるようなヤングアダルト情報サービスであってはならない。そのためには、もう一つのファクターとして、人間、すなわち情報サービスを青年につなぐ「情報ユースワーカー」の存在が必要になる。
 青年のための情報処理とは、情報をコンピュータで「交通整理」すれば済んでしまうという性格のものではない。担当者という人間の意識が介在する。その人自身に、「青年感覚」が求められる。この感覚をもっている職員が情報ユースワーカーである。
 ヤングアダルト情報サービスにおけるユースワーカーは、青年の情報不適応に共感と支持を与えることさえあってよい。きわめて人間的な機能を発揮する。たとえば、青年担当の社会教育主事、公民館主事もその一員であろう。一般行政施策などの意図に縛られずに、情報サービスを自律的に、しかも、ともに育てていく。ワーカーの役割は次のとおりである。
 一つには、カウンセラーとしての役割である。青年の情報摂取者としての自立を助け、都市化や情報化などによるパーソナルコミュニケーション能力の喪失の自己回復を援助することが求められるのである。そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法を適切な時に有効に活用する能力が必要である。
 グループワーカーとしての役割もある。一対一の関係を原則とし、しかも相手が人生の問題をかかえていることを前提とするカウンセリングよりも、むしろグループワークのほうが情報ユースワーカーの日常的役割に近いかもしれない。さらに、グループワークの中でも、神経症者を対象とするグループ・セラピィより、健常者の自己啓発を求めての主体的参加を前提とするエンカウンター・グループのリーダーの役割に近い。
 グループ・セラピィにおいては、「セラピストは先ずメンバーの依存の対象である」。これに対してエンカウンター・グループにおいては、「(そこまで)各メンバーとのつながりはつよくない。メンバー個人よりはグループ全体とのつながりが強い。セラピストといわずファシリテーターというのはその意味である。つまりセラピストが舞台監督とすれば、ファシリテーターは舞台装置家という感じである。場面設定者という感じである」。そして「メンバーの役割もこなす」。6)そこには、理念でも、形態でも、実践でも、「ともに育つ」姿勢がある。
 そもそも、エンカウンター・グループは、都市化、情報化が進んで人間どうしのなまの触れ合いが少なくなり、その能力さえ失いつつある今日の時代における、危機意識に満ちた取り組みといえよう。そこでは「極端」なまでに本音がぶつかり合う。
 その世界を情報ユースワークにそのまま持ち込めば良いとはいえない。ただ、青年の情報不適応にきちんとこたえるためには、エンカウンター・グループでいうようなファシリテーターの役割がどうしても必要なのである。なぜなら、現代都市青年の情報不適応は情報社会の中での人間復活の叫びであり、これに根底的にこたえるためには、人間関係創出の「舞台設定」以外にその本質的解決はないからである。

(4) −5 情報サービスと「教育的役割」
 情報ユースワーカーは「教育的役割」ももっている。しかし、すでに述べたように、青年の主体的営みこそが青年の主体性をはぐくむ。だからこの場合の「教育」もけっして「教え諭す」ものではない。原則としては、青年の求めに応じた「援助」であり、青年の主体性を尊重した上での「きっかけ作り」である。そのためには、良い情報提供のできる能力と、ファシリテーターとしての資質を備えていなければならない。
 しかし、そういう「援助」だけでは不充分である。実は、青年の主体的な情報取得と判断を援助するためには、青年の求めるままには応じないことも必要な時がある。たとえば、青年の問いに対する答えがわかっていても、情報提供側の判断によっては、それを教えない時があってよい。青年が自分で解答を見出せるように、それを調べる方法だけ教えるのである。ただし、「教えるべきか」「教えざるべきか」の判断はけっして機械的にはできない。だから、その判断ができる情報ワーカーがいない場合は、わかるだけの情報をすべて機械的に提供したほうが無難かもしれない。
 ワーカーのいる場合は、時には「回答拒否」もありうる。新聞社の人に聞くと、「ナポレオンは何年に死んだか」などという青少年らしき者からの問い合わせがけっこう多いそうである。「当社ではそこまではお答えしていません」と答えると、心外な様子でガチャンと電話を切ってしまうという。自分で調べればわかる宿題などでも、電話のほうが簡単だからと気軽にかけてくるのである。
 ヤングアダルト情報サービスにも、きっとそんな問い合わせがくるだろう。そんな時、それに巧みにつきあうことがあってもよいし、「回答拒否」をしてもよい。ワーカーが有効と判断するほうをとればよい。「拒否」をする場合も謝る必要はない。本人が自力で調べることができるかどうか確認した上で、自分で調べるよう求めればよいのである。そのためには教育的配慮をもち、教育的判断ができ、そして青年との関係(リレーション)をあとでフォローできる能力と資質が必要になる。
 このように、ヤングアダルト情報サービスに情報ワーカーの存在があってこそ、「ともに育つ」ことが保障される。「ともに育つ」ということは、青年が行政におそるおそる情報を「もらいに行く」ことでないのはもちろんだが、行政が青年に「へつらう」ことでもない。対等でしかも緊張した関係こそが、ともに育つ内実を豊かにするのだ。
 情報ユースワーカーのもう一つの役割として、行政と青年をつなぐ「行政職員としての役割」をつけ加えておきたい。ワーカーの「自立性」を拡大解釈して行政職員としての要素を否定しようとするよりも、行政職員としての責務と可能性をむしろ充分に発揮しようとするほうが、現実的で有効である。
 たとえば、ヤングアダルト情報サービスの中には、行政の立場からの「青年への情報提供」もあったほうがよいことはすでに述べた。そのためには、ワーカーは、都市計画などについても知っておかなければならない。逆に、青年の意思を行政に反映させるための「行政への情報提供」も必要となる。行政内のスタッフとして、行政に提言するのである。そのためには、その問題の行政施策全体から見た位置づけを把握し、かつ、具体的に窓口やルートを知っていなければならない。
 行政と青年の間にいる職員として、両者の緊張関係を調整したり演出したりして、行政と青年が「ともに育つ」ようにつなぐことも、情報ユースワーカーの役割なのである。

(4) −6 情報と知的生産
 現代都市青年の「モノ離れ」は、よかれあしかれ、ソフト化社会、成熟社会において避けられない傾向であろう。モノの実用性よりも、個人の内面的な価値観や他者からの情報によって価値判断がなされる。
 たとえば、おしゃれに関する青年の「ブランド志向」は、たしかに特定ブランド商品というモノへの志向として表れている。しかし、その一番の価値基準は着ごこちでないばかりか、外観ですらない。一番の基準は、ブランド名なのである。そして、そのブランドが良いかどうかは、自己の体験ではなく他からの情報により決定される。モノ自体より、それを一側面から「切り取った」結果としての情報(「原宿で、はやっている」など)に判断の基準を見出す。そして、生産者側も、物的過剰の時代において、もっと消費を拡大するために情報重視の戦略にますます傾いていく。
 しかし、この「モノ離れ」と「情報重視」の傾向も、「多面体の一面」としてとらえなければならない。たとえば、今日の「食」は一方では大量宣伝にのったファースト・フードなどの食「文化」を生み出している。その反面、今日ほど人々が主体的、意識的に健康食、自然食に取り組んでいる時代は過去にない。有機農法、無農薬の食料を求める底流には、人間が食を媒介にして大地とどう関わりをもてばよいかという根源的な問いがある。自分一人の健康を守るだけの「健康食志向」から、地球の生態系に責任をもち、人間らしい生き方を問おうとする「自然食志向」のムーブメントに発展してきている。そこにも、人間どうしの情報の交流が見出される。そして、他者からの情報を、知的、主体的に受けとめた上での、食の「文化」が形成されようとしている。
 このように「モノ離れ」と「情報重視」には積極的側面もある。そのもう一つの表れとして、モノの生産ではなく個人の「知的生産」への志向があげられる。
 梅棹忠夫は、「知的生産」という言葉について「人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合」7)とした上で、「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらにはしらされる、ということにもなりかねない」8)として、「個人の知的武装」の意義を強調した。情報は、組織が個人を管理する道具にもなるが、個人の自由な知的生産の手段にもなるのである。
 ヤングアダルト情報サービスが関わる知的生産とは、青年自身の手による調査・研究・開発であろう。講座の開催だけでは、その援助はできない。青年の知的生産への、もっと個別的な対応が必要になる。それが、情報提供と研究相談である。そこで生み出され、収集・整理・提供される情報は、そもそも青年のつくりだした知的、かつ主体的な情報であるから、今日のあり余る情報の中でも、とりわけ価値をもっている。
 それだけではない。「知的生産」は日記などを除いて、その大部分が他者に自己の知的生産物を提供する目的で行われる。形態としては「個人的行為」であっても、根底に流れる意図からいえば「社会的行為」である。
 ヤングアダルト情報サービスによって、この知的生産の「社会性」を強化することができる。それは、一つには、個々の青年の知的生産の相互を結ぶ。もう一つは、それらの知的生産を情報サービス自体に還元する。さらには、知的生産の結果を、行政や社会全体に知らせ、つなげていく。
 青年の知的生産という創造的な営みのネットワークによって、ヤングアダルト情報サービスは、創造的で人間の臭いのする魅力ある情報の発信源となることができるであろう。それは、現代社会がなかなか実現できないでいる情報社会の理想の方向を示している。

 「情報」の「情」には、「ありさま」という意味がある。青年が必要なさまざまなことがらの本当の「ありさま」を知らせる情報は、情報過多の都市社会においても、思いのほか少ない。そして、この「情」は、「こころ」としての「情」とけっして対立的なものではない。ヤングアダルト情報サービスは、現代都市社会に欠けがちな二つの「情」を豊かにする試みである。

2 パソコン・パソコン通信と青年
 −成熟したネットワークとは何か−



(1) パソコンの急速な普及と未成熟性


(1) −1 青少年から始まったパソコン
 カリフォルニア州のシリコンバレーでは、六〇年代以降、トランジスタからICへ、そしてLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、一九七一年、4ビットのマイクロプロセッサーが出される。マイクロプロセッサーに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピュータ、すなわちマイコンになる。
 しかし、当初すぐ日本のコンピュータのメーカーが、このマイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。大手企業が家電製品の中ににマイクロプロセッサーを組み込むということはあったが、コンピュータメーカーが個人用のコンピュータなどというものを本気で考えるようになったのは、ずっと後の八〇年代からである。
 早くからマイクロプロセッサーをマイコンとして使おうとしたのは、青少年を中心としたホビイストたちである。そういう人たちに向けて、ごく小さな会社が「キット型マイコン」を売り出したのであった。つまり、初めにマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業の大人ではなく、巷の青少年だった。しかし、そのころのマイコンブームは、秋葉原などの露店を拠点としたごく一部の人々によるものであった。
 その後、八〇年代に入って、ようやく日本でもキーボード、ディスプレイ、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、以降、それは大変な勢いで普及している。これが、今日では「パソコン」(パーソナルコンピュータ)とよばれているものである。
 この普及のきっかけになったのは、日本で初めてベーシック言語を搭載したパソコン(日本電気のPC8001)である。これは、ゲームセンターで「インベーダー」が大流行した一九七九年に発売された。しかし、ここで搭載されたベーシック言語も、また、大学中退の青年たちが創設したベンチャー企業のアスキー社がアメリカから持ち込み、メーカーになんとか採用してもらったものである。
 また、今日のパソコンソフトの主要な一環である「表計算ソフト」も、一九七九年、社員わずか二名のアメリカの会社から「ビジカルク」が発売されたのが最初である。これがマイコンを有能なパソコンに変えるソフトとして、以降のパソコン利用に大きな影響を与える。パソコン文化は、従来の商業文化よりははるかにアマチュアやベンチャーの文化であり、そのユーザー寄りの発想が新しい文化をつくりだし、既成のメーカーはその後を追ってきたということに注目したい。
 しかし、当時のパソコン利用の中心は、何といってもゲームであった。一九七二年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出されているが、その後、日本では「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」といったLSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがパソコンに移植され関心を呼ぶことになったのである。
 数年来、パソコン通信をやっているSさんは、インタビューで次のように語っている。「(一九七九年にPC8001を買ったが)まったくのゲームマシンでした。というか、そのころはやはりマシンがおもちゃにしかすぎなかったんですね。それでベーシックでプログラムを組んだり、雑誌に出ているマシン語のプログラムを入力して、非常にスピードの速いインベーダーを組んでみたりとか、そういうレベルでまあ面白かったわけです。それでもけっこう時間をくってましたね」。
 このように、当時のパソコンによって、Sさん自身の言葉を借りれば「機械と人間との対話が成立」し、「ハイテク志向というか、コックピット症候群というか、少年のころ抱いていた憧れが、ついに手に入ったという感動」を青少年は味わったのである。

(1) −2 パソコンの機能と新しい文化
 八〇年代以降、パソコンは急激に普及する。本体だけならステレオを買うような値段で買えるようになったからである。しかも、従来の家電製品と違って、多機能である。
 パソコンは汎用的なので、その機能はどのようにも解釈できる。しかし、技術的視点はおくとして、社会的、文化的な視点から、私はパソコンの機能を●表2−2のように整理してみた。
 今や、パソコンは青少年の専売特許ではない。表のようなパソコンの多機能化、高機能化が、とくにキャッチアップ志向の人々の関心をひき、大衆化が促進されている。
 そして、文化が「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」(クラックホーン)だとすれば、ここには新しい特殊なパソコン文化というべきものが存在しているということができる。ここでパソコン文化とは、「パソコンの発明と量産・普及という技術的条件によって、新しく生まれつつある生活のスタイルや価値観」としておこう。
 そもそも、パソコンは、仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をさせることができる機械である。パソコン文化の新しさの最も基本的な要因となっているのは、この「汎用性」である。
 第一に、「汎用」であることから、一人一人の個別な要求に沿って、多様な仕事をすることができる。従来の大量生産、大量消費による文化の「画一性」とは、様相を異にする。パソコン利用の「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する。(個別性)
 第二に、「汎用」ということから、パソコンという与えられた箱だけあっても、何の役にも立たないということになる。この箱を役立たせるためには、一人一人の何らかの主体的力量を必要とするのである。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことから始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには「簡易言語」などによって自分の求めるプログラムを自分の手で作ってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者のわずらわしさを解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたのとはまったく逆に、パソコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)
 第三に、「汎用」ということから、今までにだれも考えつかなかったような仕事をさせることも可能である。お膳立てされたものの利用にだけ役立つのではなく、個人が自由に工夫をこらして仕事をさせる余地がある。しかもその「工夫」の結果が明快に表れることから、大きな達成感を味わえる。(創造性)
 このように、パソコン=パーソナル・コンピュータは文字通りパーソナルな汎用的道具として登場している。そして、これまでのテクノロジーの発達の上にありながらも、今までの消費文化とは異なる文化を生み出そうとしている。それはひと言でいえば、文化面における「個人の自立」を保障するものであり、また、機械側の事情からも、それを人間に要請するものなのだ。

(1) −3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化
 しかし一方で、パソコンがそのような使い方をされずに、従来の「産業文明」の枠組の中だけで利用されている現実も、われわれは認めざるをえない。パソコンの普及があまりに急速であったため、新しい文化創造のツールとしてのパソコンの可能性がまだ十分には発揮されていないのである。
 その表れの一つはパソコン利用の「孤立化」である。
 「テクノストレス」下の人々にとって、コンピュータ相手の仕事は苦役ではない。むしろ与えた仕事をものすごい速さで正確にこなしてくれるコンピュータに、慣れ親しんでいる。しかしその分、のろまでイエス・ノーのはっきりしない本物の人間とは、つきあっていられなくなってしまうという。9)
 しかもパソコンは、いったんマシンに向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きで、まったく他人に関係のない内容の仕事をさせてもよいし、その成果を一人で味わい、満足することもできる。パソコン利用そのものが即目的化してしまう。パーソナルすぎるのである。
 もちろん、たとえば「表計算」であれば、ディスプレイを前にしてみんなでわいわいやりながら数字をあれやこれや変えてシミュレーションしてみることができることなどからわかるように、パソコン自体が人間の交流を拒絶しているのではない。使い方によっては交流を促進する機能さえもっている。ところが、人間の行っている組織運営のほうが、パソコンのもつ交流機能を実現するほど柔軟ではないのだ。
 二つは、マシンの「単機能化」と利用形態の「専門化」による人間の「没主体化」である。
 たとえば、ワープロやビデオテックスなどは、パソコン機能でカバーできるのだが、別途に専用機として売り出されている。このようにメーカー側がパソコンの「汎用性」を減じて、扱いやすいけれどその分、出来合いの仕事しかしない専用機の生産に傾くならば、パソコンは今までの家電製品と変わりないものになってしまう。実用化、焦点化された分だけつまらなくなってしまうのである。誰にもわかりやすくということは大切なのだが、それはたとえばシステムがシンプルであり、ソフトが親切であることでカバーすべきである。
 また、ユーザー側も、市販ソフトでゲームに興ずるなどのパソコン利用の初歩の段階で満足してしまうなら、「汎用性」は活かされない。あるいは、産業活動の面でも、パソコンオペレーターなどの専門家にすべて任せてしまう方向をとるならば、過去の「産業文明」におけるオートメーションによる分業化となんら変わらないものになってしまう。
 職場などにおいて人間は何も考えずにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性を、コンピュータ文明はもっている。これは極端に「専門化」した利用形態である。
 実際、職場にワープロが導入された初期のころは、多くの上司は、自分で手書きした文書まで、部下にワープロで清書するよう命じた。しかし、本来、ワープロはその豊かな機能から見て、「清書マシン」ではなく「推敲マシン」というべきである。「推敲」は、人間の側の役割であり若干の苦しみを伴う。この「推敲」をワープロの上で完成した時点で、ワープロのほうが「清書」を完成させてくれている。「清書」が完成しているから、これをそのまま発信できる。このように「清書マシン」→「推敲マシン」→「コミュニケーションマシン」として、ワープロをとらえ直さなければならない(今日では、かなりその状態に近づいているようだ)。
 もともと、パソコンはアマチュア(またはベンチャー)がパーソナルに(または家内工業的に)つくりだした文明である。パソコンは、アマチュアのパーソナルな、その分、全人的な文化を支援するツールである。
 三つは、パソコンの「物神化」である。これは、いまだ根強く残っているキャッチアップ志向の一種であり、「ハイテク強迫症」のなせるわざともいえる。
 そこでは、パソコンの有用性が誇張され、それを活用しないと「時代に乗り遅れる」あるいは「損をする」という強迫観念が風靡する。そして、パソコンマシンというメカ=「物」自体が「神」のように崇め奉られ、パソコンを必要に応じてどう役立てているかではなく、新しい機器をどれだけ使っているかが、個人や組織の評価の基準になってしまう。
 しかも、これに呼応してパソコンメーカーは次々と「上位」機種を発売する。「四年で半額になる」といわれるまさに「成長市場」(「成熟市場」ではなく)のコンピュータ関連企業にとって、それは今のところの経済社会における役割といえなくもない。
 しかし、本質的あるいは将来的にはパソコン文化はこのような「物流」の世界のものではなく、「情報化」を基盤とする文化というべきである。というのは、パソコンはその汎用性と使い勝手の良さの保持のためには、シンプルなほうが良い。個別の用途のためには、個別のソフトなどでまかなえる。だとすれば、その時に重要なものは、もはやメカの良し悪しではない。重要なのはソフトを含めた「情報」であり、もっとつきつめていえば、本来の「神」であるべき「情報」、すなわち人間の発信内容そのものなのである。価値がモノから情報に変わること、これこそ真の「情報化」というべきであろう。
 ところが、そのためには今日のパソコン生産では残念ながら不十分である。そのもっとも大きな問題は、ソフトなどの機種間のコンパチビリティー(互換性)の欠如である。この「欠如」も「買い換え」を誘発するためのメーカーの戦術ではあろうが、そのためにせっかく豊かに作り出されつつある「情報」のほうが容易には流通・共有できなくなってしまっている。これは、社会的損失というべきである。
 その点、パソコンの万国共通の設計思想(TRONなど)が「有志」(企業ではなく)の手により構築され、財産権としての著作権を放棄までして提唱されていることは、コンパチビリティーの重要性を示すと同時に、私たちにこの問題に関する楽観を与えてくれるものでもある(当時)。さらにいえば、人々のコンピュータリテラシーの修得を公的機関が援助することは、こういうことを理解し、応援することのできる「賢い(情報の)消費者」になるための学習を援助することでもある。

 そして、今日のコンピュータの「物神化」傾向にもっとも対比されるべきと私が考えるものが、パソコン通信によるパソコン利用の「成熟化」である。
 パソコン通信は、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したニューメディアの一つとして、多量の情報を高速にやりとりすることができる。しかし、パソコン通信をする人たちにとってそのような「モノ」それ自体の素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。それよりも、「双方向性」をもったニューメディアであるという点が重要である。
 パソコン通信はたいした「覚悟」なしに手軽に参加できる。しかし、その参加は手軽ではあっても、そこでの情報交流は直接的であり主体的である。これがパソコン通信の魅力なのである。
 事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を良しとする。さまざまな機器の助けを借りていることは忘れてしまって、機器が「透明」になる感覚を良しとするのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。
 豊かなモノに囲まれた現代青年にとって、パソコン自体はあこがれの対象にはなりえない。情報交信ができるというパソコンの本質を知っている(クオリティ・コンシャス)だけのことなのである。彼らは、成長時代の「ブランド依存」の人たちのようにモノをステータス・シンボルなどとしては扱わず、自分で実際に試して良ければ、その人なりに使いこなしていく。モノを溺愛するようなことはない。
 大衆文化の新しいトレンドとしての「パソコン文化」を見極めていこうとするなら、成熟したパソコン利用形態としてのパソコン通信こそ、われわれの関心の対象の一つとすべきである。これを、ネットワークとしてのパソコン通信とよびたい。

(2) ネットワークを体現するパソコン通信


(2) −1 新しいコミュニケーション環境
 ひと言でいうなら、パソコン通信は、情報処理なら「何でもできる」。もっとも、パソコン通信でテレビのニュースを見ることはできないのだから、正確にいえば「もっぱら、文章としての情報の処理なら」と限定すべきであるが(現在、メンバーが作ったプログラムや静止画、音楽などのやりとりは行えるようになってきている)。
 たとえば、発信された情報を次から次へとためこむ。それをどんなメンバーでも、読んだり、反応(レスポンス)を加えたりすることができる。逆に、特定のメンバーや個人にだけ、読めるようにすることもできる。あるいは、発信内容をためこまないで、その時交信(アクセス)している人だけで、ふだんの会話のようにやりとりすることもできる。また、情報発信者、発信内容、発信日時などが自動的に記録されるので、株式や商品の注文、会合などの参加申し込みに使うことも可能である。
 パソコン通信が可能にしたこのような情報処理の条件は、新しいコミュニケーション環境を私たちに提供するものである。パソコン通信は、ニューメディア=「新しい」メディアなのである。その「新しさ」の特性を端的にまとめるならば、次のとおりである。
 第一に、双方向的である。しかもそれは、アナライザー(反応分析装置)がもつ「双方向性」のように、一方の側の意図だけにもとづくものではなく、双方の主体的な意思と行為にもとづくものである。
 第二に、即時的(リアルタイム)である。情報発信者が発信したい時に発信する。その瞬間、他者によるその情報の受信が可能になる。もちろん、他者はそれ以降の自分の都合の良い時間に、それを受信することも可能である。
 第三に、空間超越的である。つまり、交通手段などのような物理的制約がない。在宅時はもちろん、電話がある所ならどこでも同じ条件で通信できる。
 第四に、検索が可能である。ホストに蓄積された情報は、メニュー化されて表示される。ここから、自分のパソコンで指令して、欲する情報を引き出すことができる。
 第五に、蓄積が可能である。発信された情報をホストコンピュータなどに蓄積することもできるし、受信者が好きな情報だけ自分のパソコン(端末)の記憶装置に保存することもできる。
 第六に、端末処理がかなり自由である。通信内容を自分のパソコンに文章(テキストファイル)として記録できる(ダウンロード)ので、自分のパソコンを利用して、あらためてそこから必要な記事や箇所だけを抜き出したり、加工したり、印刷(プリントアウト)したりすることができる。通信内容が、簡単に「印刷媒体化」されるのである。
 テレビも出た当時はニューメディアだったのではないかという人もいる。しかし、今日のニューメディアは、情報が電子化されることによって、大量、迅速、かつ応用自在に流通するようになっていることが、今までのメディアになかった特徴である。パソコン通信は、後者の意味でのニューメディアの一つである。
 しかも、パソコン通信は、他のニューメディアより「双方向性」がけたはずれに強力である。これが、パソコン通信を楽しく、きびしい、独特のメディアにしている。

(2) −2 スタンド・アローンがネットワークする
 私は、ネットワークの特性は「自立」と「依存」の統一であると考える。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。「スタンド・アローンがネットワークする」のである。
 このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「依存関係」に対して、「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対して、「依存関係」が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。10)
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これが、一定の「安定」をもたらした。
 しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。「安定」のみを重視する人には耐えられないシステムである。
 それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。その意味で、ネットワークは人間以外の動物にはありえないものでもある。
 ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれる。しかし同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものでもある。
 パソコン通信がこのような意味でのネットワークシステムであるためにもっとも大切な条件は、繰り返しになるが「双方向性」である。
 複数、または多数の他者をNとするなら、テレビは1→Nである。電話は双方向ではあるが、基本的には1←→1である。これに対して、パソコン通信では、1←→1(電子メール)、1←→N(電子掲示板)、N←→N(電子会議)などを自由に使い分けることができる。
 パソコン通信がネットワークシステムであることを保障する条件として、私は次に「スタンド・アローン」をあげるべきだと考える。
 パソコンは本来、スタンド・アローンなマシンである。パソコン通信の通信内容も、個人のパソコンを使って、個人の個別な行為によって、作成・加工・編集される。その個別な行為の中で、個人の自立が育まれ、また、ネットワークが歓迎する個別性と多様性が生まれるのである。
 このように、パソコン通信におけるパソコンは、情報の相互依存のためのターミナル(端末)でもあり、スタンド・アローンな情報処理ツールでもある。このことが、ネットワークシステムとしてのパソコン通信を保障し、ひいては、情報技術が進行しても、人間がそれに管理されることなく、主体的に情報に関与できる展望を開いているのである。

(3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」


(3) −1 ROMの存在
 コンピュータにはロム=ROM(Read Only Memory=読取専用記憶装置)という技術用語があるが、パソコン通信の世界では、いつまでたっても「読むだけの人」をROM(Read Only Members)とよぶ。ROMは、ネットが提供するデータベースやネットの中の他人の記事を読むことによって、自分だけが「情報を得よう」としている。それが「エゴイズム」だとして、パソコン通信の愛好者=パソコンネットワーカーから軽蔑される。
 情報収集は得であるが、情報発信は得にならないというROMのような「思い違い」は、普通の社会にはある。しかし、すでに述べたとおり、パソコン通信は自らも発信する双方向のメディアである。自ら発信しないのなら、別にパソコン通信でなくてもよい。「情報を発信する所に、情報は集まってくる」という原理が有効に機能するところにこそ、パソコン通信の魅力がある。
 パソコンネットワーカーたちは、この「READだけでなくWRITEを」ということに、異常に見えるほど固執する。初心者が入ってくると、何とかその人に書いてもらおうと、懇切丁寧に技術的な情報提供をする。逆に、ネットワーカーが吐く「最大の捨てゼリフ」は、「こうなったら、僕はしばらくROMになってやる」である。自分のWRITEを自負しているのだ。
 じつは、WRITEは、彼らにとってより有益な情報を収集するための一つの方策などという「低次元のもの」ではない。WRITEすることによってのみ、人からのレスポンス(反応)が得られる。あるいは、READすることによって、WRITEした人にレスポンスを返すことができ、それがまた書いた相手からリ・レスポンスを得るきっかけになる。このようなREAD−WRITEの循環の中で、自己の発言に(個別の)レスポンスが与えられることこそがパソコン・ネットワーカーの至上の幸福なのである。
 だから、どんどん書きまくるけれども、だれもレスポンスする気のおこらないような記事ばかり書く人も、ウォム=WOM(Write Only Members)、または「ヒーロー」とよばれて、ROMと同じように軽蔑される運命にある。
 パソコン・ネットワーカーのこのような志向は、「レスポンス至上主義」とよぶことができる。これは、レスポンスを発する個人の主体性、他からのレスポンスを獲得できる個としての魅力を要請するものであり、また、自己の他者への、他者の自己への影響、すなわち相互の依存関係を最大限に尊重し、歓迎するものでもある。ネットワーク一般の志向とぴったり符合する。
 このようにして、情報技術が発達する中で、パソコン通信は結果として情報化社会の健全な発展に貢献するものになりつつある。なぜなら、得する情報の入手だけを求める受動的情報態度、「情報ものとり主義」ともいうべき志向を克服して、主体的で確かな、情報と認識の交流のネットワークを構築することは、情報化社会の健全な発展に不可欠だからである。
 しかし、現実には、自分にとっても他人にとっても理想的にWRITEするためには、困難が多々ある。
 第一に、パソコン通信は「書き言葉文化」なので、慣れるまでは少ししんどい読み書きの作業が強いられる。最初は電話のような気軽さがない。とくに自己の思考を文章で表現することは、つらいものである。「読み・書き」の能力が求められる。真の意味での「学力」が不足していることが、ここでは直接的に影響し、その人の情報行動を消極的にしてしまう。
 ただ、青少年の場合は、「交換ノート」のようなノリで気軽に読み書きしているので、ここから新しい「書き言葉文化」が形成されることを期待したい。
 第二に、「知の防衛機制」が働く。すなわち、恥や照れによる消極化である。実際、「話し言葉」でなく「書き言葉」を公表することは、他の人に、しかも見も知らぬ人に自分のあさはかさをさらけ出すようで、恐ろしいものである。
 「恐れを知らない」青少年にはともかく、「分別ある大人」にとってはとくにそうである。一人でできるコンピュータ支援学習=CAL(Computer Assisted Learning)が「相手が機械だから、何をどう答え、質問しても恥ずかしくない」という理由から、そういう大人に意外に好評なのと対照的である。
 第三に、WRITEするためには、その前後を含めてかなりの時間がかかることがある。というのは、パソコン通信ではオンライン(電話回線を通じたまま、ホストのコンピュータにパソコンから直接、記事を書き込むこと)で、二言、三言の短信を手軽に書き込むこともできるのだが、一度書き込むと、予想外の量や内容のレスポンスがあったりして、その対応(リ・レスポンス)に追われることがある。これは、多忙な人にはかなりの負担になるのである。
 このような意味から、パソコン通信が大衆化するための前途は厳しい。ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないから」という趣旨の発言をしている。
 たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって、単純にROMの存在を不可避とし、パソコン通信の可能性を軽視する考え方には、私は異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。
 情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、ROMの存在に象徴されるパソコン通信の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない「知的試練」としてとらえるべきである。

(3) −2 新しい「知」の誕生
 パソコン通信は、ROMの存在に示されるようなやっかいな問題をかかえつつも、「知」の新しい傾向を生みだしつつある。
 その一つは知の「ボランタリズム化」である。
 たとえ同じネットワークを組んでいる人でも、自分の財産を奪おうとする者を人は許すことができない。しかし、他方、自分の知の成果に関しては、これを「盗む」者に対して、寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄にさえ思うものである。パソコン通信において、たとえば「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください」という「パプリック・ドメイン・ソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。
 人間には他者に対して影響力をもちたいという社会的承認の欲求があると考えられる。情報化が進展することによって、その欲求を平和に充足させることが可能になっている。なぜなら、他の本がたくさん出版されたからといって、一つの本の価値が薄まるわけではないように、そもそも「知」を情報の流通に乗せる場合、権力や所有にからむ争いとは対照的に、シェア争いの要素が少ないからである。
 そしてプログラムづくりやWRITEなどの「知的生産」は、その成果を他者にアウトプット(出力)するものという意味で、不可避的に社会的存在であるといえるが、ボランタリズムによって、さらにこれらを現実に社会の「共有物」にすることができる。
 ただ、最近、営利事業体が経営するネットにおいては、原稿料を払わずに会員の書き込みを編集して出版するなどの二次使用に対して、会員から異議が出始めている所もある。知の発展とその流通のためには、パソコン通信一般において、書き手の著作権(財産権としての)を尊重すべきか、むしろ「無償」の「情報ボランティア意識」を醸成すべきか。議論のあるところである。
 二つめは、知の「アマチュア化」である。
 パソコン通信は基本的には、「しろうと集団」(ネットワーカー)からの情報発信である。そこでは、効率より楽しさが重視され、知的喜びなども楽しさの一つとしてとらえられる。産業社会にもてはやされた「手段としての情報」に対して、このような「即目的としての情報」あるいは「遊びとしての学習」は、今日の「脱産業化社会」のトレンドの一つである。
 また、ここでいう「手段としての情報」についても、「知的プロ」によってオーソライズされた情報ではなく、なま感覚(未完成)で不定型の情報と思考態度、知恵が伝わっていく。いわば「耳学問」であるが、これは今日の情報化社会において欠如し、人々からじつは渇望されている情報である。パソコン通信では、このような情報と知が、いとも気軽に安易にアーティクル(通信記事)として量産されているのである。
 一方、一部の「知的プロ」も、この種のアマチュアリズムによる知の可能性に関心をもちはじめ、パソコン通信に参加し始めている。このようにして、アマチュアとプロの「無境界化」が進行している。
 そして、これらの「知のアマチュア化」は知のネットワークを推進するファクターとなる。「どんぐり(アマチュア)の背比べ」と自嘲するパソコンネットワーカーもいるが、「どんぐり」であるだけに無償で知のやりとりをすることにやぶさかではないのである。
 このような理由で、知のネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの放電が個人の充電に、スムーズに連動する。この「相互教育」(意識化された「教育」ではないが)の実現は、現在の生涯学習社会が抱える問題としての、個人の内面の「充電と放電の乖離」や、他者との間の知の分業の固定化を克服するための有望な手段である。しかも、学習コーディネーターも省力化できる(仕事の内容が純化されるということであって、不要になるということではない)という意味で、経済的な学習システムでもある。
 三つめは、知の「個別化」である。
 まず、パソコン通信の会員には、個別にIDナンバーというものが与えられる。これとハンドルネームというものが、すべての書き込みの発信元をつねに明らかにする。ただし、ハンドルネームは実名でなくても良いということが、かえってネットワークを活性化させる要素になっている。
 また、パソコン通信が「書き言葉」に純化した仮想空間であることも、ネットワーカーの各「個性」を守ってくれている。椎名誠は、シルクロードを歩いたとき、自分の家のテレビで以前に見たシルクロードの映像と音楽がうかんで困ったということ、そして、テレビではなく本を読むのであれば、イメージは「防衛」されるのに、ということを書いている。11)
 つまり、こういうことが言えるだろう。今日氾濫している映像は、それぞれが具象的な「全」情報でありすぎるので、「即イメージ」として個人に浸透しすぎてしまう。それに対して、本やパソコン通信でやりとりされるような「書き言葉」は、各人固有の、あるいは自己の体験にもとづくそれぞれのイメージまで根こそぎにはしないのである。
 加えて、「相互教育」もきわめて個別化される。パソコンの世界では、ユーザーへの画面上のアドバイス(オンラインヘルプ機能)が、各実行段階で充実しているものほど良いソフトだといわれている。その意味で、パソコン通信において、各人固有の「問題」に対して、ネット上で他のメンバーから援助の手がさしのべられていることは、「ヘルプの個別化」としても大いに評価されるべきである。
 四つめは、知の「雑多化」である。
 パソコン通信では、各人各様の関心が錯綜する。その代表的なものを整理すると●図2−4のようになる。とくにプログラム志向の人たちはメカよりロジックに関心があり、彼らの哲学的論議にもその傾向が表われている点が興味深い。
 また、パソコン通信は全体的にはいわば「おしゃべりサロン」である。フォーマルな情報(新聞記事データベースなど)もとれるが、それよりインフォーマルな、そして不定型なおしゃべりのほうが好まれる。そこに、思想、情報、データ、そして交流が混在する。それらは「学習」として意識化されたものではないにせよ、実質的に各人の学習素材、学習理念、学習ノウハウ(学習の機会・場所・人材)、そして学習を励まされたり、けなされたりするコミュニケーションなどとして「相互教育」の内実を形成している。
 場合によっては、たわいない「イロ、モノ、カネ」の「学習」が新しい時代の価値を創造する人類の営みと連続する。新しい価値は、山奥の純粋な大学キャンパスからではなく、「余計な情報」の氾濫する猥雑な実社会から生まれてくるのである。
 五つめは、知の「民主化」である。
 私たちの社会には、「ああせよ、こうせよ」というおしつけがましい情報提供と、それに対する反発の無益な繰り返しがかなり多い。これらの情報は、いわば「模範解答の提示」としてとらえてよいだろう。これに対して、パソコン通信などで行き交う情報は「私はこう思う」「私はこう聞いた」というような、あいまいなだけに受信者の判断力を要請する情報である。発信者も自分の考えがまとまらないままでも、気軽にWRITEすることができる。
 これが、パソコン通信による知(情報流通)の民主化の側面である。コンピュータ・デモクラシーとも言うことができるだろう。
 六つめは、知の「非体系化」である。
 パソコン通信においては、「知」に関連して、実用的論議(たとえば知的技術への関心)と根源的な問い(たとえば知的技術への懐疑)が対抗しつつ共存している。しかし、前者の情報は共有されやすいが、後者の情報は共有されにくい。つまり、「技術」に対して「発想」や「体系」というものは、個人の深い内面に関わるものだけに「個別的」なのである。このことは、「異種の交流」をめざすネットワークにとっては好都合であるが、「厚みのある体系」の継承・発展のためには不利である。
 そして、パソコン通信の中では、知が「雑多化」するのにともなって、「体系」に関する情報まで断片化していく。そのため、メニューなどのシステムがいくら改善されたところで、それらの情報を個人が「自由にわたり歩く」ためにはかなりの知力を要する。システムとしては、そういう「厚みのある情報」も含めて、情報が自由に選択できるのだが、それを選択する能力としての自己の「知的体系」などが備わっていないのである。
 最近、「反情報」ともいうべき知的態度を見受けることがある。理科系のパソコンネットワーカーの中にも、こと哲学的な問題に関しては意外にそういう立場の人が多い。すなわち、情報や知的生産の技術をいったん断ち切り、自己や自然との対話をすることこそ、むしろ「発想」や「体系の構築」の源泉であるというのである。
 ネットワーク社会において、既存の「権威」が失墜し大衆化が進むにつれて、せっかくの「古典」や「大作」の遺産も無力化してしまう。それと同時に「重厚長大な知」も崩壊していく。直接体験がもつ自己への「教育力」と比べて、情報のもつ「教育力」があまりにも無力なのか。しかし、後者を少しでも有効なものにしていくことこそ、情報化社会の主要命題なのであろう。そこでは、「体系」や「発想」の伝え合いを含めた厚みのある「情報共有」と、それを実現する基盤としての新たな「集団性」の構築が求められる。

(3) −3 新しい「集団」の形成
 パソコン通信のネットワーカーたちは、「電子的仮想空間」を媒体とする新しい「集団」を形成している。
 すなわち、従来、集団は「自生的、複合機能的、情緒的」と「人為的、単一機能的、合理的」という二つのパターンで代表されていたのだが、パソコン通信では、「明瞭な人為性」「単一機能同士の交錯」「合理性と情緒性の混在」「個人的行為と集団的行為の混沌化」という新しい「集団」が形成される。そして、「電子的仮想空間」であるから、「集団」も「広域」であり物理的・精神的に閉じていない。このようにして、近代的機能集団の中での新しい「ハイタッチ」が実現される。
 それでは、パソコン通信の「集団」は、どういう点で「ネットワーク型」であり、現代人に好まれるのだろうか。
 まず、パソコン通信においては、「撤退する自由」がある。「仮想空間」であるから、撤退しても生活に響かない。「撤退する自由」の上で、論争などの他の人との「ゲーム」を行えるのである。「親しくなりたいけれども、自分は傷つけられたくない」と言って、他者が近づくと針を逆立ててしまう「山アラシのジレンマ」12) に冒された現代人にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。
 もちろん、ネット上でのけんかもたまにあるが、それを含めてすべての論争は、率直にさわやかに他者を批判できる知的風土を形成するためのシミュレーションと考えることができる。
 さらに、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向と考えたい。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがパソコン通信の醍醐味である。
 しかし一方で、パソコン通信の新しい「集団性」は、たとえ現代人に好まれるといっても、フェース・ツー・フェースのコミュニケーション能力を減退させ、電子上でしかコミュニケートできない人間をつくりだす危険性をもっているという批判もある。実際、パソコン通信ばかりしている青少年もおり、そのパーソナリティー形成への影響は心配されて当然かもしれない。
 共感や感動はなまの人間に対してあるのであり、情報やメディアそのものに対してあるのではない。情報から「人間」を嗅ぎとり、その人間に共感することは、仮想空間でもできるが、そこには限界があることもたしかである。この限界は在宅メディアすべてに通じる基本問題でもある。
 しかし、だからといって従来の「空間的集合」による方策(たとえば集合学習など)を単純にむし返すのでは、あまりにも後向きである。過去の集団にはついていけない人、あるいはあきたりない人が現にいるのである。むしろ、フェース・ツー・フェースのコミュニケーションを模擬・増幅・補完するパソコン通信の機能の発揮をめざすべきである。
 最近、「パソコン通信燃え尽き症候群」が取り沙汰されている。今まで毎日のようにアクセスしていた人が、電子上では週末ぐらいしかアクセスせずに、むしろ「アイボールミーティング」(フエース・ツー・フエースで会うこと=宴会・集会など)をせっせと開催し始めているという。13) これは、通常、「バーンアウト」(燃え尽き)によるパソコン通信離れと言われている。
 しかし、この「燃え尽き症候群」は、パソコン通信の危機などではなく、可能性を表すものとしてとらえられないか。パソコン通信だからこそ、家庭や学校や職場以外の人との出会いのきっかけになったのであって、パソコン通信だけでその交流を完結しなければならないということではない。「アイボールミーティング」などは、現代一般のコミュニケーション阻害を克服する営みの一つとして評価できる。しかも、パソコン通信に埋没した生活ではなく、「一般人」の範囲内のアクセス回数になってきているというのだから、「燃え尽き症候群」は、むしろパソコン利用の成熟化の端緒と言えるのではないか。

 パソコン通信で何が「通信」されるか、だれも計画や予想をすることはできない。そのため、押し出す先の決っている「プッシュ型」の教育の観点からは、パソコン通信は関心の対象外になりがちである。
 行政ばかりかパソコンメーカーでさえ、「ユーザー教育」の重要性は唱えても、パソコン通信の通信内容に関しては、あまり「敬意」を払ってはいないようである。ただ、ネットワーカーたちは「自立的」であるから、メーカーに「評価」も「ユーザー教育」も求めていない。むしろ、たとえばパソコン通信サービスを行っている企業などに対して、「キャリアー」(運搬者)に徹してくれればよいという。
 しかし、これからますます発展するであろう情報化と人々のネットワーク化は、大きな可能性とともに、その実現のためには、今まで述べてきたような克服しなければならない大きな問題を抱えている。その問題の克服のためには、「不易」を「体系的」に提示しながらも、イロ・モノ・カネに関わるなまなましい「学習」需要もみくびることなく、それが量的にも質的にも発展するよう促す「プル型」の援助の姿勢が社会に求められる。
 このような姿勢でパソコンネットワークを援助するならば、それは「現在の学習者の自主性を尊重しながら、今後の主体性の獲得を援助する」という、一見、自己撞着的な教育の理想を実現するための「偉大な試み」になるのである。

3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか



(1) 「在来型の生涯学習」を支援する

 「親展」の通信(電子メール)、不特定多数への通信(電子掲示板=BBS)、会議、データベースの検索、通信販売、予約などの機能をもつパソコン通信が、そのまま今日の生涯学習の道具として活用しうることは、想像に難くない。とくに、学習の援助者にとって必要な情報の処理や判断を行うCMI(Computer Managed Instruction)としては、かなり使えるはずである。たとえば、生涯学習に役立つ資源のデータベースを作り、それを社会教育主事等がどこからでも自由に利用できるようにするなど、活用の可能性は限りない。また、学習者自身による活用についても、学習情報の収集、施設の利用予約など、いくらでも思いつきそうだ。
 これらの活用方策も興味深いことではあるが、結論からいえば、これらはいわば「在来型の生涯学習」の延長線上にある。今まで行われてきた生涯学習をかなり有効に支援するものにはなろうが、今日の生涯学習そのものを革新するものではない。それゆえ、パソコン通信の有用性をそこから説いてみても、「まだ普及していないパソコン通信など使わなくても、みんなが慣れ親しんでいる電話やファックスで間に合うのではないか」という消極論の前に意気消沈してしまうのである。
 「在来型の生涯学習」を支援するために、パソコン通信もその有効なメディアの一環として、得意な分野を活かした活用を図ることは、それはそれで重要なことである。しかし、ここでは、それについては省略し、パソコン通信が生み出している「新型の生涯学習」について考えてみたい。

(2) 「新型の生涯学習」とは何か

 それでは、パソコン通信が生み出しつつある新しい生涯学習の特性と考えられるものは何か。
 一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(無定形教育)の機能の発揮である。
 これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。
 これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にもそういう教育・学習の場がある。社会や企業等も、その重要性を無視することができなくなってきている。
 二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。
 普通、「学習しよう」という本人の意識(計画性)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。たとえばNHK放送文化調査研究所の「学習関心調査」では、「学習行動」の定義を「ある程度まとまりをもった知識・技能(または態度・能力)の獲得・維持・向上をめざして行う行動」(傍点引用者)とし、また、「総計七時間未満の学習行動」などを除外している。もちろん、この「学習の限定」には、正当な理由がある。第一、ILまで学習の範疇に入れてしまうと、学習行動率は百%になってしまう。
 しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことは、あらためて確認しておくべきであろう。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学んだ「偶発的学習」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした本人にとっては重大事なのだ。
 三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。
 たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追求する立場がある。それはもっぱら「教育」の専門家である教師のためのものであった。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいRを得ることができるかということ、言いかえれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育のしろうとまでが関心を示している。彼らも、多数に対して何かを表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうコミュニケーションだからこそ、パソコン通信はエキサイティングなのである。
 以下、これらの「学習」の実際の姿を、おもに電子掲示板(BBS)の事例から見ていきたい。

(3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ

 私は、ある商業ネットに次のような記事を載せたことがある。
 「『生涯教育事典』という本で『コンピュータ』について書いています。しかし、コンピュータについてはしろうとなので、不安なんです。間違いやおかしい点があったら指摘してください。 mito」(筆者注 mitoは私のハンドルネーム=ネットワーク上の名前)。その文中に、コンピュータの定義として「電流がONかOFFかの組み合せを判断することによって、情報(データ)を大量にすばやく処理するシステム」という部分があった。
 この定義について数十分から半日(夜中から翌昼にかけて)までで五、六件のレスポンス(他者が反応して書いてくれた記事)がついた。ここでは、数日後に入ったレスポンスも含めて簡単に紹介する。
 「電流が流れているかどうかで0/1を表現するというのは、例外がいろいろ思いつける説明です」「『電圧の高低により』がいいんじゃないかな」「それより現在おもに使用されているソフトウェアの機能ということで説明してほしいですね(あるソフト屋さんから)」「そういえば、この中にはアナログコンピュータが含まれてませんね」「アナログコンピュータって、聞きませんね。どうでしょうか」「電圧のon、offであったとしてもよろしいのではないでしょうか」「アナログコンピュータ(聞きます)に限らず、ファジーコンピュータとか光コンピュータも含んでいないと思います」・・・。
 ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も右のごとく、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。(筆者注・「イージー」を加えて頭文字が「MAZE」になる。)
 しかし、このような「ミスマッチ、アバウト、ジグザグ」の情報から、各自は最初、気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。BBSは、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)ということができる。
 近代になって、さまざまな権威者や専門家が制度化され、彼らが「良いもの」をセレクトしてくれるようになってきた。図書館司書は「選書」をして、良い本を書架に並べてくれる。最先端のデパート(ロフトなど)は、洗練された選択眼のもとに商品をセレクトする。もちろん、それらは特定の価値観を独善的におしつけるものではない。むしろ、結果的には、私たちが情報過多におぼれずに、読書や消費を選択する手助けになっている。
 これに対してパソコン通信は、このような権威者や専門家がいない世界である。たとえば、ネットの主催者も、基本的には「たんなるキャリアー(運搬者)」にとどまるべきだとされる。そういう世界では、「ミスマッチ、アバウト、ジグザグ」な情報に耐え、それをセレクトし、つなぎ合わせ、確かめることを自分でしなければならない。しかし、それだけに、情報主体としての「個」を鋭く発揮する余地が大きいのである。

(4) コミュニケーション型学習

 学習には、いわば「情報ものとり主義学習」もあるだろう。先行研究やその他の必要なデータを早く的確に収集・整理することを重んずる学習である。これに対してパソコン通信は、いわば「パーティー型学習」といえるのではないか。
 パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、それをよく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流にある。しかも、交流する対象も、フェース・ツー・フェースの日常的なつきあいをしている人とよりも、見知らぬ他者との出会いを歓迎する。パソコン通信の「レスポンス至上主義」も、パーティーに見られるこのようなコミュニケーション志向と同様の志向をもっている。
 ちなみに、パソコン通信をするために必要な何らかの学習があるとすれば、それも同様に「コミュニケーション型」である。
 LLL(AVPUBを利用している生涯学習関係者のグループ)のメンバーの一人である上尾市社会教育主事のフィギュアさんは、パソコンのノウハウに詳しい。彼は、AVPUBにパソコン通信ソフトの「オートパイロットプログラム」を載せてくれている。これを使えば、コンピュータ・リテラシーなどほとんどなくても、ソフトを起動させるだけでパソコン通信の中のめざすメニューまで自動的にたどりつくことができる。技術に詳しいネットワーカーは、このようにして喜んで初心者への技術的援助をしてくれる。私はこれを「情報ボランタリズム」とよびたい。
 このような環境の中では、じつはノウハウよりノウフウこそ大切になる。誰が何に詳しく、何を手伝ってくれるかということである(たとえば、フィギュアさんがパソコンのノウハウに詳しいなど)。
 そして、他者と交信する際の一番大きな課題は、いかにして表現すれば(Sを発すれば)他者からのR(レスポンス)があるか=コミュニケートできるかということなのである。これは、新しい意味での「教育」技術である。

(5) ネットワークによる知的生産

 パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。それゆえ、「まねぶ・ならう」べき権威の存在する学習だけを礼賛する「学習観」にとっては、パソコン通信における相互学習は「どんぐりの背比べ」であって学習たりえないととらえられがちである。たしかに、外部講師や助言者のいない討議は生産的に見えない。しかし、今後の「ネットワーク型の学習」の原点は、メンバー間の「水平性」である。
 大分県の「コアラ」は、「(官は)金は出すけど口は出さない」という官民一体のパソコン通信ネットである。そこでは平松知事もメンバーに県の各種構想の支援を訴える電子メールを出すし、高校生も「高校生シリーズ」という電子掲示板で大人と対等の立場で意見交換する。パソコン通信の世界では、それが当り前である。
 このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の共同化の可能性が生まれつつある。
 LLLのメンバーの一人である花園町社会教育主事のSHOUさんは、メディアの活用における生涯学習関係職員の専門性について、他のメンバーから問題提起されたのを受けて図式化を試み、レスポンスとしてAVPUBにアップロードした。その図式は他者からの指摘も受けて改訂されていった。AVPUBでは画像の通信はできないが、研究の整理のための図式程度のものならば、全機種共通の文字フォントを使って十分、伝えあうことができる。
 従来の出版における「共著」は、どうしても各個人の論文の寄せ集めになりがちであった。あるいは、あえて編者を頂上とするヒエラルキーのもとに整合性を計る場合もあった。しかし、パソコン通信を利用すると、個をあくまでも発揮しつつ、適宜、各自の都合のいい時間帯にそれぞれの見解を摺りあわせることができる。しかも、編集ソフトを使えば、訂正と更新の手間もほとんどかからない。パソコン通信によって、本来の意味としての「共著」が可能になるのである。

 乳幼児が日々の生活と遊びの中で学習・発達するように、つね日頃、好奇心、探求心などの「発達意欲」さえあれば、成人でも生理的活動以外のすべての活動が「学習」につながりうる。そもそも、「各人の自発的意思にもとづく」生涯学習は、そういう活動なしには成り立たないであろう。パソコン通信は、自発的意思にもとづいて個性を出し合い、コミュニケートし、共同化することにおいては、とても好都合な電子的空間である。

[注]
1) 半田雄二「図書館職員として青年とどうつきあうか」、『むさしのインフォメーションマニュアル』東京都武蔵野青年の家、一九八四年、四八頁
2) 半田雄二「公共図書館の青年問題」、図書館雑誌Vol. 75,No.5 、日本図書館協会、一九八一、二四三頁
3) リファラルサービスについてはホイットニー・ノース・シーモアJr. 、エリザベス・N・レイン『だれのための図書館』京藤松子訳、日本図書館協会、一九八二、一五三〜一五七頁に紹介されている。
4) てい談「夢を語る 青年のための情報サービス・システム」、前掲『むさしのインフォメーションマニュアル』、二一頁、ミニコミ紙「みたかきいたか」編集長の川井信良の発言。
5) 今井賢一『情報ネットワーク社会』岩波書店、一九八四、とくに一八二頁
6) 国分康孝『エンカウンター 心とこころのふれあい』誠信書房、一九八一、五八〜五九頁
7) 梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波書店、一九六九、九頁
8) 同、一八頁
9) クレイグ・ブロード『テクノストレス』
10) 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ『メガトレンド』(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」については、アルビン・トフラー『第三の波』(中央公論社)。
11) 椎名誠『活字のサーカス』、岩波書店、一九八七、二一〇頁
12) L.ベラック『山アラシのジレンマ』、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、一九七四、もとはショーペンハウアー。
13) 松岡資明「転機に立つパソコン通信」、日経パソコン、一九八八・八・二二

第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために




1 子どもたちの団体活動
 −そこに秘められている大いなる教育力−



(1) 教育とは子どもがワクワクする営み

 少年団体指導者の方々が、もし、動物のしっぽの働きを子どもたちに教える場面に出会ったら、まず、どんなことをするだろうか。「しっぽの働きの教え方」という本を探して(そんな本はないが)、その本のとおり教えればよい、と思うような主体性のない人は、指導者の中にはいないと思う。動物のしっぽについて、自分が子どもたちに何を教えたいのか、考えるだろう。現在の自分の中に教えたいことがまだできていなければ、しっぽに関するたくさんの資料を集めて、「教えたいこと」を自分の中にあらたにつくり出すことだろう。
 それが教育の第一歩である。ごく薄い科学絵本、一冊を作り出すためには、手に抱えきれないほどの「大人向け」の資料が読み込まれるという。そこで作者が感動したたくさんの事実のエッセンスを、科学絵本という形で表現する。その絵本が、作者が感じたのと同じ感動(共感)を子どもに与える。そこに絵本づくりの面白味がある。
 少年団体指導者の活動にも、同じような苦労と喜びがいつもついてまわっている。つまり、指導者自身に伝えたい感動があるからこそ、それを苦労しながら補強した上で、その感動を同じ人間としての子どもたちに伝えようとしているのだ。教育の第一歩は、「伝えたいこと」があるということだ。
 しかし、それだけでは教育にならない。子ども自身が新鮮な驚きをもって感動しなければ、指導者だけがワクワクしていただけということにしかならない。感動を伝えるためには、子どもたちとその感動をコミュニケートできるセンスが必要になる。教育的センスといってもよい。
 ここに『しっぽのはたらき』1)という絵本がある。中を開くと、たとえば、

 ふわふわした しっぽを、ひょい ひょい ふりながら、えだのうえを すばしこく  はしりまわったり、えだからえだへ とびうつったりしています。なんの しっぽで  しょう?

とあって、ページの右上に木の枝につかまった小動物のしっぽのあたりが描かれている。よく調べられて正確に描かれているが、思わず微笑んでしまうほど可愛らしくもある。ページをめくると、それは、りすの体、全体につながっており、他の一匹はしっぽを広げて枝から飛び降りているところだ。「ふわふわした しっぽが ぱらしゅーとの やくめをする」というのである。
 たとえ、りすのしっぽがパラシュートになることを知って作者がワクワクしたとしても、それを前のページに書いてしまったら、おしつけがましいし、子どもたちに作者の感動が伝わるようなものにはならなかっただろう。子どもが「何のしっぽだろう」「何のためにあるんだろう」と自分で不思議に思ってこそ、真実を知らされた時に驚き、ワクワクすることができるのである。
 団体が子どもたちに伝えたいことをもっているということは、少年団体活動が教育的意義をもつための基本的条件にはなるが、それを子どもたちにお説教するだけなら、そんなものは何回繰り返しても本当の教育にはならない。子ども自身が自分でワクワクしてこそ、子どもは確かな成長をするのである。教育的センスさえあれば、少年団体活動は、そういう「ワクワク」を与えるワンダーランド(不思議の国)の局面を本質的にたくさんもっている。

(2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動

 ひとがものごとをとらえる時の枠組を「準拠枠」という。『カウンセリングの話』2)という本によれば、次のとおりである。

 人間は、言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情などを表現することができるが、それらのことを表現したり、お互いに理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。(中略)例えば、同じ「悲しい」という言葉を使って話をしていても、突きつめていくと自分の「悲しい」と相手の「悲しい」が違うということに気づくことがある。私たちの日常生活は厳密にいうと、実はそのようなことのくり返しだといっても過言ではない。

 そういうすれ違いがあっても、平気で大人の準拠枠を押しつけるだけの団体運営を進めるならば、それは表面的には団体活動に見えても、けっして教育的な活動とはいえない。
 現代社会では、本当にひどい本が売られている。ある本には「女性の部屋に侵入する方法」などがびっしりと載っている。「相手が一人暮らしかどうかを確認すること」から始まって、「窓ガラスに粘着テープを貼って焼き切って、手を入れて鍵を開けて侵入」する方法やクロロホルムで眠らせる方法などがていねいに書かれている。高校生あたりになるとそれほどでもないらしいが、中学生がよく買っていくとのことで、またたく間に版を重ねている。子どもたちが異性を見る目は、その準拠枠は、この先、どうなっていくのだろうか。あるいは、そこまで極端ではなくても、たとえば従来の競争社会が生んだ受験体制の圧迫は、ほとんどの子どもたちの準拠枠の形成に大変な影響を与えている。「偏差値君さようなら」という生涯学習社会の理想からは、まだほど遠い実態なのだ。
 こういう環境に影響を受けてしまっている今の子どもたちの準拠枠のずっと遠くのほうで、きれいごとばかりで埋めつくされたお説教をしていても、子どもたちに情報の一つとして聞かれることはあっても、子どもたちの準拠枠そのものには響かない。
 かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、子どもにどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。現在の少年団体指導者の中にも、忙しさのあまり、そういう傾向に流れてしまっている人がいるかもしれない。しかし、本当の教育の姿は、そこにはない。それぞれの子どもなりの「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらない。
 しかし、本来の少年団体活動なら、子どもの準拠枠そのものに迫っていくことができるはずだ。なぜなら、活動の中には、感動を呼び起こす参加や体験があって、感動を共有できる子ども集団があって、それらを受けとめる地域があるからである。

(3) 少年団体活動には教育力があふれている


(3) −1 体験のもつ教育力
 国立日高少年自然の家の紀要では、集団宿泊活動の中での子どもたちの体験活動を、@人への働きかけ、A自然への働きかけ、B地域文化への働きかけ、C公共施設への働きかけ、Dその他に分けて検討している3)。
 また、「なかまたち」15号で三浦清一郎氏は、子どもたちがもっている自然に関する知識について次のように述べている4)。

 これらの子どもが知っているのはいわゆる「解説」であって、実際の自然の在り様についてはほとんど経験していないし、知識もないことに驚くのである。(中略)このような状態を青少年の自然接触体験の欠損とよんでいい。

 そして、三浦氏は、ある体験が子どもに欠如しているということは、子どもの「社会化」(社会のメンバーとしてふさわしい資質や行動の仕方を子どもたちに教えていくプロセスであり、少年期にはその大部分が体験を通して獲得される)が行われないということを意味している、と指摘している。

(3) −2 参画のもつ教育力
 全国子ども会連合会の資料には、「おしきせプログラムはまっぴら」と題して、次のように書かれている5)。

 どうも、大人が事前にすべてを準備しきって、ただ子どもは、お客さまで参加するという行事が多かったのではないか。プログラム立案の段階から参画することは、参加意識を高め、苦労しても、なんとかやりとげ成功させたい、そのために労をおしまず仲間と協力しあおうとするであろう。その仲間と苦労をともにして、やっと仕事をなしとげたあとの成就感を味わったとき、ヤッタという晴れ晴れした気持ちになるであろうし、その時「またやってみよう」というやる気を育てるわけである。

 参画は、ひとをワクワクさせる。参画するためには、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身の準拠枠にも鋭く迫られる。そういうせっかくのチャンスを指導者が独り占めにするならば、指導者だけが「成長」するという結果になりかねない。

(3) −3 地域活動のもつ教育力
 創造性開発理論の中に「異質馴化と馴質異化」という考え方がある。異質なものを身近な馴れたもののように眺め、馴れたものを新たな気持ちで見直すという意味であろう。
 住みなれた地域には、「空缶拾い」や「花いっぱい」などのいわば「馴」のレベルの素材がいっぱいころがっている。これはこれで、子どもたちに素晴らしい体験のチャンスを与えてくれる。しかし、その教育的効果はもっと奥行きの深いものとして認識され、広がりのある活動がなされるべきである。いつもの地域を地球の一部を他の天体から見るような気持ちで、つまり「異」のレベルで、見直してみると、大きな地球の限りある資源を大切に使わせてもらうために小さなコミュニティが果たすことのできる大きな役割も見えてくるのではないか。
 子どもたちにとって、地域は、主人公として参加できる身近な場であると同時に、少年団体の教育的センスによっては、壮大な夢と認識を広げてくれる場にもなるのである。

(3) −4 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力
 少年団体活動の中では、同世代の仲間や義理の兄弟姉妹との関係が、自然に数多く発生する。子どもたちは、そういう自然発生的集団の中でこそ、自らを変えていく。
 石けりをしていて、大変な難事を要求する所に石が入ってしまっても、同世代の仲間が見ていれば、子どもたちはなんとかその難事をこなそうとしてきた。親や教師がいくら言ってもできないことを、仲間の前では泣きながらでも頑張ろうとする。そういう努力を放棄するなどのルール違反は、仲間から厳しくとがめられた。それとともに、最後はお互いに手心を加えることなども体で学んできた。また、その遊びのレベルまで達していないような小さな子が来れば、遊びを中止しなくてもすむように、その子のために一部ルールを変更するなどの知恵を働かせてきた。自然に発生する集団がもっているこれらの自律的な教育力を、団体は「意識的に」尊重し可能な側面的援助を与えることが必要であるといえよう。
 それにしても、少年団体活動には、現在の子どもたちに欠けている体験・参画、仲間や地域とのふれ合いのチャンスが、なんと豊かにあふれていることか。

(4) 子どもにだって「個の深み」がある

 「個の深み」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」6)の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられた。提言はいう。

 ある施設での活動で、子どもが外からいそいそ帰ってきて、指導者をつかまえて話しかける。「ねえ、あっちにきれいなお花が咲いていたよ」。しかし、その指導者は彼に対して大声で「何やってるんだ。みんな向こうに集まってるぞ」と注意する。子どもが自然の中でとらえた出来事、発見そして喜びなどの感情が、この指導者の対応によって台無しにされてしまうのである。

 子どもたちは、自然の中で、遊びや活動の中で、さまざまな発見や体験をする。そして、この発見と体験を指導者に伝えようとする。これをしっかり受け止めることが、指導者の重要な役割であろう。
 心理療法の中に交流分析という手法がある。子どもにも大人にも、どんなひとにも、自由な子ども、従順な子ども、理性的だが打算的な大人、看護的な親、厳格な親という要素が混じっているそうである。その度合いはひとによって違う。どの要素が一番望ましいなどと、誰かが決めることのできるものではない。「個の深み」は、そういう個別性から生ずる神聖で不可侵なものだ。
 同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得ることが、集団教育の目的ではない。子どもたちの「さまざまな発見や体験」という多様な個別の深まりが、今、大切にされなければならない。塩化ナトリウム99%の工業塩より、不純物の多い天然塩のほうが料理の味に深みを出すという。少年団体活動も、皆を「団体の優等生」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの子どものエネルギーを評価しなければいけない。
 むしろ、組織にとって子どもとは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在、子どもにとって組織とは、どうにでもなる、どう変わってもよい存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、少年団体という組織にとっては荷の重くなるような言い方だが、子どもたちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとする教育的観点からは当然の見地だと思う。
 『しっぽのはたらき』を作った人は教育の専門家ではない。少年団体にも、教育の専門家が必ずしもいなくてよい。しかし、子どもの教育とは、子どもたちにおしなべて「こうさせよう」とする「対策」ではなく(そうは言っても、時として安全「対策」などが必要になることはもちろんだが)、本来的には、子ども自らが気づき、多様な「個の深み」をもつための、側面からの「援助」であるということは、認識しなければならない。未知数のものを外から援助するというところに教育の難しさがあり、本当の面白さもある。
 つけ加えれば、子どもの「個の深み」とつきあえる少年団体の指導者は幸せである。なぜならば、近代合理主義社会の中で凝り固まった自分の「準拠枠」が、子どもたちの「個の深み」に接することによって快く揺さぶられ、子どもたちとともに育つことを体験できるからである。

2 地方自治体における学習プログラム作成の視点



(1) 知と健康のネットワークを支援するシステム


(1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義
 社会教育法には国および地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行うのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。
 そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない」(第九条の三)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。
 これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、虎視眈眈とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心をもってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。
 社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。市民の側に、行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。
 戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。
 この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまう。

(1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ
 民間の団体活動の方も、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを自ら志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。
 一方、人口一万人当たりだいたい百のグループ・サークルがあるといわれる。そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この一万人につき百団体という数字は、社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が百にも満たなかったりするからである。
 つねに発生・消滅を繰り返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていない。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を多忙にさせる結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられる。
 従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみのほうもさらに広くなっている。それが、一つには、小さなグループ・サークルとしてネットワークを形成している。成熟社会においては、それは重要な営みである。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。
 なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。私は、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張したいのではなく、ネットワークに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。

(1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起
 啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。
 当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの三つの特徴をもっている。7)
 しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人一人の人間がすでに主体性のある主体であることを前提に、その学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。
 ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは大いに重要であるとともに、大いに微妙な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに主体性のある主体」であることを、平面的、教条的に前提にしてしまうとすれば、情報の豊かな今日、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際は、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。
 たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。
 「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「効果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着をはらんだ命題を実現する方策はあるのか。
 結論からいえば、その方策はあると考える。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もある程度上がっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められる。それが、ここでいう「ネットワーク型問題提起」である。
 だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の基盤としての「ネットワーク型援助」一般のあり方について述べておかなければならないだろう。
 「ネットワーク型援助」の重要なファクターの一つは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。
 アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が盛んだと聞く。人々が分断された今日の都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」となりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とはいえないのである。
 施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。
 これらの援助は、市民のネットワークを助長し、結果として市民が自ら社会の諸課題への気づきを深めるために役立つ。
 しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性にもとづくものであるか。この「正当性」をもたないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が。
 ネットワーク社会において、地方自治体、とくに社会教育行政は、各人が私有している個人的・社会的「展望」を共有するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っているといえるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワークの中で共有するように、各人によびかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきではないか。
 糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした展望をもっていたり、ほとんど絶望したりしている。行政が、たとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが生まれるかもしれない。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。
 ここまで、地方自治体のとくに社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞってみた。これからは、啓蒙主義との違いがとくに問題となるであろう学習プログラム提供に焦点を当て、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、より具体的に明らかにしていきたい。

(2) 年間事業計画の作成


(2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる
 ここでいう「年間事業計画」とは一年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」ということができる。
 国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(昭和六三年九月)(以下、たんに『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、このテーマに関するアイテムを拾ってみる。
 地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。
 これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりはとらえたと言うことができるであろう。
 しかし、これはあくまでもひととおりであって、地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応のほうが有効になるのである。
 それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを感じ取ることが必要である。
 住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、ひとつひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」「記録」などが重要である。逆にいえば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報社会においても地域・現場にしかない貴重なものである。
 さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が、上司からも監督されず、個人の孤独な作業として進められがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の水平なネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとって不可欠である。

(2) −2 学習要求をとらえる
 ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないか、と言う。渋谷のウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない。選択基準自体が毎日変わる、と言う。彼らのニーズを把握するために、「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでしているが、それでも把握は難しいらしい。
 学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているか、はっきりした事実はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。わからない原因の一つは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく生みだされるものだからである。
 ただ、その会社の人の話では、第一には、「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れない、第二には、「わけのわからないもの」が意外に売れたりするという。
 第一のことは、学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の三つに欠ける場合がある。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などが必要である。
 第二のことは、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえばおもしろがられて受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。
 次に、「不易流行」の言葉を借りれば、ここまでの議論は「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。
 しかし、この「不易」の学習要求のほうも、その本当の中味は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでも、たとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。このように、地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても不完全のものであることを知った上で行わなければならない。
 それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていくしか、あるいは新たに「つくりだしていく」しか、ないのである。

(2) −3 「公的課題」の優先
 ネットワークも一つの「自治」の形態といえる。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言ってもよい。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよい。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それは当事者である個人が決める。
 このような様子であるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。
 それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意図」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。
 そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議ともいえる。むしろ、「行政らしい関わり」をすることのほうが行政としての個性を出すという意味でも「ネットワーク的」なのではないか。
 「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。
 もちろん、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的学習課題」のように見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。
 つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然といえるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で流動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりする。
 だから、学習プログラムも表面上は私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する期待(展望)をもっていなければならない。そして、その期待を住民の前につねに明らかにしていくことのほうが、住民との関係でフェアだと考えるのである。
 さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題と考えることができる。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。
 このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを「操作概念」として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。
 たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例に挙げたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、その課題を優先して問題提起し、援助する。
 もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、わからない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。
 しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになった時には政策のほうを転換する義務を負うという「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べよう。
 次に、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人々の「学習権」はどうなるか。これについては、より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。
 その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。
 しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は「行政から学習権が保障される立場」から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワークの「役割遂行者としての立場」に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。
 なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されているものであり、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もあまり問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢は、同様に必要である。

(2) −4 学習課題を整理する
 公的課題を優先するためには、その前に公的課題は何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。
 たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』は次のように述べている。
 「これからの生涯学習を進めていくうえで、とくに留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる」。8)
 このような「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、いずれにせよこの「構想」は簡潔にまとまった提言として評価できる。
 そこで、それぞれの自治体での住民の学習の実態の中で、これらの課題に対応する学習がどのように行われているか、あるいは行われようとしているのかをていねいに見つめてみたとする。そこでは、まったく学習されようとしていない課題などというものはないということが明らかになるだろう。
 つまり、公的課題の優先とは、学習課題の行政による「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。
 このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例を次のように挙げている。
 生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。
 これらの分類によって学習課題を体系的に整理することができ、そのことが、行政が学習要求や学習行動から公的課題を謙虚に選択するための根拠にもなる。
 ただ、すでに述べたように、行政側の考えている公的課題、すなわち行政課題も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、右の領域区分と同じ次元ではなく、もう一つの次元としてとらえて、右の区分とかけあわせたマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての行政の主体的な関わり方が出てくる。
 さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。
 それらの各種事業を区分する基準については、『社研資料』では「事業形態・方法別」の一例として次のようにあげている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要である。
 さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題のひとつひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックスによるとらえ方が求められるのである。

(3) 個別事業計画


(3) −1 「学習ニーズ」の優先
 ここでは、ひとつひとつの事業における学習プログラムの作成について述べる。
 年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。しかし、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応を最重視する姿勢で論を進めたい。
 なぜならば、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないという理由も、もちろんある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。現行の学習プログラム提供は、ニーズ対応の面でも、かなり不十分だという認識を私はもっている。
 前節でいう「公的課題」を明確にした上で必要なこと、それは、そこで仮に設定された「公的課題」を、いろいろな機会を利用して住民にはっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。
 次に、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が、現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば仮に「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいては、住民の学習ニーズに呼応してそれが再び「融解」して学習機会として提供される。
 行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させることしかできない。しかし、それを不変のものとしてそのまま住民に押しつけるとすれば問題がある。ネットワーク型援助は、行政と住民との関係が水平であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の独善になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」することによって、初めて、行政の側が学習課題を選択することのもつ危険性を減らすことができる。
 現に、あとで述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえない住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると思う。学習ニーズに絶対確実なものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。

(3) −2 参加対象をどう設定するか
 社会教育行政はなぜ対象別、とくに発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。つまり、一義的には、プログラムの作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をするといえる。
 だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならないはずである。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたはずだからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるなどの効果もあがるかもしれない。
 「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであったにせよ、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民が個々に判断して行動を決定する。企画者は予測のつかない結果をむしろ歓迎すべきである。
 しかし、参加対象を「限定」するほうが良い場合も、なかにはある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断をとりあえずせざるをえない。
 だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」9)準拠集団の端緒を、行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合は、「異質」な人との水平的なネットワークがまだ期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始めるのである。
 たとえば「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事だけに依存して生きているような「暗い青年たち」もいるかもしれない。そういう青年たちが、活発な婦人や一家言をもっているような高齢者と、最初から水平的ネットワークを営むのは無理だろう。そういう時は、「青年講座」への主婦、高齢者の参加を断わる場合も例外的にはありえよう。
 しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。このことは、集団を固定化し、ネットワーク化を阻害する要因になっている。
 さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側が住民の参加を開拓し、受け入れる、いわばマーケティングの用語といえる。しかし、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」とよぶ。「対象」というより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が自ら問題を解決することを基本におく姿勢が表れている。
 もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」とよぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、考え方としては学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、プログラム作成時においても、「対象」の望ましい将来の姿を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。
 最後に、逆に、マーケティングの観点から、新たに「開拓」すべき「対象」を考えてみたい。
 一つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の動向は、実は経済活動の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されなくなっている。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが本当に身につくのは、自己成長を促すネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるばずだ。
 二つは「大学生」である。彼らは今やエリートなどではなく、今後は多数派としての一般住民になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めているので、その参加により、事業にトレンドがフィードバックできる。そして、彼ら自身に、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日大いに生まれている。
 三つは「一時滞在者」である。博物館は旅行者の利用を歓迎している。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。さらに、今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの人は、「新しい風」を吹かせてくれる人である。彼らを地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。各自治体が「旅行者向け学習プログラム」などを提供するようになれば、週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が全国規模で可能になるのである。

(3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 『社研資料』では次のとおりである。
 「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。
 このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民は中味をよく知った上で参加を検討できる。
 さて、最初に「学習目標」であるが、一つには、直接、企画者側から問題を提起すること、つまり「課題性」のあるものが考えられる。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。
 二つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。
 たとえば、住民の国際性のかん養をはかるという目的で「中国語教室」を開いたとする。そうすると本時の学習目標は「中国語がしゃべれるようになること」ということになりそうだが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」などとしなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。
 それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定し、そういうサービスをして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化したほうが良いだろう。
 次に、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける必要がある。
 最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか提案してみたい。
 一つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習という言葉には、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。もちろん、今後の学習社会においても、そういう性質の学習はますます必要になるだろう。しかし、そういう「手段としての」学習ばかりに偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。
 現在、生涯学習の進展の中で、「学習」とよばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いという、いわば「快感覚」の追求なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシー(健康的)でハイ(高次)な「快」である。
 もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは今後の技術革新の社会において必要不可欠の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどない。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで「遊んで」いる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、そういう「遊び」のほうが結果としては効果的な学習になっているのだ。
 ここで、注目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。
 自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することよりも、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。
 二つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。10)
 ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワークをしようとする個人がその「深み」を獲得して発揮するために必要な技術の一つが、情報の収集から発信までを含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。
 学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」のほうがそれより優れているということではない。)
 このように、行政としての期待をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を行うことは、社会教育行政の「ネットワーク型援助」の中でもとくに代表的な行為である。
 三つは、「コミュニケーション技術」である。「知的生産の技術」とも重なるが、聞く・話す・書くなどの技術である。
 戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議の進め方などが学ばれた。
 しかし、今日ネットワークの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う面をもっている。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者は、干渉したり、心配したりはしない。また、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど行使する場面がない。
 それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。ネットワークのコミュニケーションの中では、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った人だけがプレゼンテーターに協力し、再びコミュニケートに向かう。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。
 四つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の「下請け」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。
 もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは時間的にも困難であるから、実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦するためのオリエンテーションになるような学習内容を設定することになるだろう。

(4) 学習プログラム作成上の今後の課題

 ここでは、これまでに言い尽くせなかった学習プログラム作成上の今後の課題を、いくつか簡単に紹介することによって、まとめに代えたい。
 一つは、集合学習の「非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)の課題である。
 ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、「パーソナル」から「ソーシャル」へと発展する。これは一部、「パブリック」でさえある。このように「マス化」によってではなく、「非マス化」によってパブリックにまで発展することを、ネットワーク型援助はめざしている。
 ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできないだろう。しかし、集合学習にあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追求していかなければならない。つまり、「あなたは、集団の中のたんなる一人ではない」というアピールをもった学習内容・方法をプログラムの中にもつ必要がある。
 二つは行政の「主体性」の発揮の課題である。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。残された問題は両者のつなぎ方である。
 社会教育職員の中には「概念くずし」という言葉を使うものがいる。住民が当り前だと思っていることに切り込んで、住民の認知の枠組の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性を示しているともいえる。
 もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する行政側の認識の不十分さを謙虚に認識しながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。
 三つはプログラムという「計画」そのものの「非計画化」の課題である。ここで、「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることを意味する。たとえば、何があるかわからないパーティー型のプログラムや、空白の時間を設定して学習者がその中身を決めるプログラムなどが考えられる。
 社会教育行政は人間関係の仕事である。つねに揺れ動き、移り変わる存在としての人間とつきあう。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、めざすべき価値がはっきりとは決まっていないオープンシステムのほうが適していることも多いのである。

 地方自治体は各セクションごとに専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供すべきである。都市と農村の双方が大きくきしむ中、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を住民に訴える責任をもっている。
 さらにその上で、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与することになる。それが「ネットワーク型」で行われるかぎり、行政と住民との相互のフィードバックはつねに保障されよう。
 そして、行政から自立しながらも行政と協働する住民自身のネットワークの中で、住民は主体性を獲得する。根本的には、住民のこのような主体としての成長があってこそ、個人を疎外しない「ネットワーク型」の地域合意が形成される。これこそが「公的課題」の現代的、かつ本質的な解決の方向である。

[注]
1) 川田健、薮内正幸『しっぽのはたらき』、福音館書店
2) 平木典子『カウンセリングの話』、朝日新聞社
3) 国立日高少年自然の家紀要『シシリムカ』第五号
4) 三浦清一郎「自然接触体験の欠損と青少年の活動」(『なかまたち』一五号所収)
5) 全国子ども会連合会『中学生 −その青春と地域活動−』
6) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」
7) 「啓蒙主義」については、江上波夫他編『世界史小辞典』、山川出版社、および勝田守一他編『岩波小辞典・教育』、岩波書店、から引いた。
8) 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」、一九八八年三月
9) 見田宗介他編『社会学事典』、弘文堂、一九八八
10) 梅棹忠夫『知的生産の技術』、岩波書店、一九六九

●p14
(34行、実際30行)
mito的授業その一
 「なんでもあり」の授業

 私はなるべく映像を使うように心がけている。それも「教材映像」として作られたものではなく、一般のテレビ番組が多い。学校教育の正規の授業の中で教師自身がそれを行うのならば著作権による制限がかなり緩和される、ということはとてもありがたいことだ。そういうことのできにくい社会教育の世界に長い間いた私は、つくづくそう思う。
 ところが、その日は、視聴覚教育の見地からは恥ずべきことなのだが、プロジェクターの調子が悪く、画面が流れてしまってひどい状態だった。しかし、スクリーンを前にしてあわてふためいている私の姿に、学生はかえって親近感をもってしまったようだった。
 その日の出席ペーパーには、「飛行場そばなどの難視聴地域の人々の気持ちがよくわかった」というユーモアとヒューマニズムにあふれた発言などが多かった。とくに、「mito先生(私のこと)の授業は、『何でもあり』の授業なんですね」という発言には、私は思わず気をよくしてしまった。
 「何でもあり」の授業は、効率至上主義の観点からいうと欠点しか見えないのだが、学生に知的雰囲気のためのレディネス(準備)をもってもらうためには、じつはなかなか有効だったのだ。授業は、あくまでも教師という「人間」が行っているのである。


●p59〜60
(51行、実際51行、p60下段は写真)
mito的授業その二
 中途退出者と私の「嫉妬」

 受講中、暑いと気づいた学生は窓を開けに行けばよい。そして、「どうしても抜け出したい」と思う人は、黙って出席ペーパーだけ出口に置いて退出すればよい。私は、学生にそう言ってある。実際、二部学生の中には、そうする人もいる。それを見て、他の学生が、「mito先生は何も感じないのですか」とペーパーに書いてよこす。でも、退出者のペーパーの中には「もっと話を聞いていたいのですが、これから夜勤なので早退します」などと書いてあるものも多い。
 主体的な学習のためには、学生自身が「誰かに決められたからではなく、私がこの授業を受けたいから受けている」と自覚して授業に出ているかどうかが大切である。出席することなどを規則で縛っていては、いつまでもそんな態度は生まれない。
 事情のあるかもしれない「中途退出」よりも、「前の時限の先生との話が、私にとってはとても大切な内容だったので、mito先生の授業に遅れて参加しました」と書かれた時に、その見知らぬ教師に嫉妬を感じる。

mito的授業その三
 学園祭に参加しちゃった

 一年生の「社会教育概論」の講義中、何気なく「今度の学園祭は、みんな何かするの」と聞いてみた。サークルなどで何か出店したりする学生は誰もいなかった。私は、「一人で焼きそばを食べて帰るだけではつまらないね。この授業で一部屋もらって何かやってもいいんだよ」といったが、その時はとくに学生からの反応はなかった。
 夜、家に帰ると、ある学生から電話がかかってきて驚いた。授業終了後、学生同士で話をしていたら、みんな「やりたい」といっているというのだ。私は、その学生に任せた。
 当日、学生たちは、「生涯学習を楽しんじゃう教室」と名づけて部屋をもらい、授業で行ったことのある「人間印象当て」「心理テスト」や「折り紙」「伝承遊び」などのコーナーを開設した。写真は、その時のスタッフである。
 思いつきで始めてしまって、「自分たちが楽しいかどうか」を指標にして、しかも他者のニーズの現実にも対応できる力は、ネットワーク的な行動力として重要だと思う。


●p147
(32行、実際32行)
mito的授業その四
 交流したくない「個の深み」もある

 ある学生が、私のBBS至上主義的な論文を読んで、「交流したくない『個の深み』だってあるのではないか」と出席ペーパーで批判してきた。
 たしかに私たち「社会教育関係者」は、学習者同士に向い合って輪になって座ってもらったりということを安易にしがちである。しかし、もっぱら講師の話に没頭して学習したい場合には、他の学習者と向き合って座っていることは、余計なプレッシャーを与えるだけであり、そんなことを私たちから勧められることは、学習者にとって、まさに「余計なお世話」である。
 また、私たちは、学習者間の「交流」を進めようとする場合でも、その「交流」が学習者に不可避的に多少の「緊張」を与えるという事実をきちんと認識した上で、あえて「交流」を促すという意識的な態度が必要だろう。
 そして、「個の深み」についても、そのすべてを他者の前にさらけだしてもらうことが理想なのではなく、本人が「他者と交流したい」と思う範囲の「個の深み」の交流や、「交流して良かった」と思えるようなやり方での交流をめざしているのだ。もっとも本質的な問題は、「個の深み」が交流されているかどうかではなく、その人が自己の「個の深み」を自律的、主体的に他者と交流したり、あるいは、しなかったりしているのかどうかということであろう。


●p171〜172
(72行、実際72行)
mito的授業その五
 シグナルカードの効用

 私が大学の授業を受け持つことになって、まず最初に思ったことは、私が一生懸命に話をしていても、学生が「つまらないな」とか「退屈だけど我慢しなくちゃ」などと感じていたのでは、教育の意味がほとんどないということである(忍耐力だけは学生につくかもしれないが)。
 そこで、赤・黄・緑の3色の紙を買ってきて、人数分のカードを作り、教室の入口に置いておくことにした。学生は、受講中いつでも、座ったまま、そのカードを演壇の私に向かって見せることができる。レッドカードは「この話題自体に関心がもてない」あるいは「西村の見解に反対である」という「警告」、イエローカードは話題は面白そうであっても、しゃべり方が早すぎたり、不十分だったりして「よくわからない」「ついていけない」という「教育的指導」、グリーンカードは必要不可欠なものではないが、「とても関心のもてる話題なので、この調子でもっと話してほしい」という「共感」をそれぞれ意味する「信号」である。さらに、これらのカードを頭上高く掲げてぐるぐる振り回せば、「私も一言、いいたい」ということになる。一斉講義中に、「一個人」から私に、任意に意思表示ができるのである。
 実際には、そんな意思表示を授業中、積極的にしてくれる学生はいないし、また、たとえレッドカードを見せられても、私としてはそんなに急に自分のしゃべる話題をコントロールできるわけではないことは学生に前もって言ってある。正直にいって、実際に活用されるのは、各人の意見の分かれている状態を調べたりする時に、私の方から「指示」して挙げさせる時ぐらいである。
 そのような実態から、シグナルカードが双方向授業のための有効なツールというには、ほど遠い状況だが、少なくともシグナルカードを持って席につく学生の「雰囲気」は悪いものではない。そして、私は、「えっ、そんなことが授業中に許されるの?」という驚きによって、彼らが教育を「受ける」時の非主体的な思い込みを少しでも切り崩すことができればと思っている。

mito的授業その六
 ジェスチャー大会における教師の困難

 ある日の授業で、ジェスチャー大会を行った。ジェスチャーとは、言葉を使わずに身振り手振りで与えられた題材を味方チームに当てさせることで、自由奔放な表現力が求められる。私は、自分ではフリーチャイルド(自由な子ども)の傾向が強いと思っていたので、「構えることなく表現すること」には自信があった。
 ところが、私への出題は、「都市計画」だった。二十人ぐらいの学生の前で、完全にあがってしまった。あとから考えると、いくつもの演技のやり方がいくらでも浮かぶのだが、「授業時」における学生を前にした私には、そんな自由な発想をする可能性は皆無であった。そのことをはっきりと自覚した。私も余計な「構え」をもっているのだ。
 まあ、私にとっては良い勉強だったということにしておきたい。そして、学生にとっては、「教師も学生の前であがったりするのだな」という新しい認識をもてたのだから、かえって良かったのだと思うことにしよう。

(以下は割愛)
 ネクタイ外しの術
 学習者側の認知の問題?
 結論よりも主体性を問う
 教育実習と出席ペーパー
 BBS「痴漢問題」
 自然体合宿の効果と教員の自然体の困難
 漢字をどう習ってきたか


視点1
イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点
 −西武ロフトがとらえた若者たち−

 先日、数人で若者の街渋谷を訪れ、「雑貨屋イメージの百貨店」、西武ロフトの金谷信之館長の話を聞く機会があった。
 当日は雨だったが、じつはそれは幸いなことだった。なにしろ、平日の昼間でも、晴れていると相当の混雑が予想され、店内の見学が十分には行えない危惧があったからである。それぐらいロフトは、今の若者を「吸引」している店である。
 「生活必需品」に対して、若者が今までと違うものを求め始めている。「非日常」の余暇以上に、日常生活そのものを「余暇」として楽しもうとしているのだ。タテワリの商品分類では、このようなニーズに対応できない。領域の間が抜けてしまう。そこで、ロフトでは、身体、空間、仕事、余暇というようなフロアの設定をしている。
 各フロアは、それぞれ、イチ(市)とクラ(蔵)で構成される。「市」は中央にあって、市場のようにエキサイティングである。「蔵」は壁際高くまであって、定番商品がきちっと揃えてある。同じ茶碗が、すべてのサイズ揃っている。商品絞りこみもしない。売場はインデックスであり、選ぶ主役は客、使い方はそれぞれだと言う。
 さらに、ロフトはトレンドや風俗をつかまえ、「生活自遊人」という都市生活者のくらし方を提案している。「生活自遊人」とは、個の世界のマインドをもっている人のことである。彼らは、生活領域が広く、頭の中だけでなく実践をする。
 「生活自遊人」はシビアで、買物もしろうとではない。モノを知っている。そういう人をターゲットにするために、ロフトは「高度情報装備性」と「高密度・高集積」を売物にしている。
 じつはロフト社員三二〇名中、百名ほどが「モノマスター」である。彼らは、社内外公募で選ばれる。あるモノについて、本当に好きで専門的に「きわめている」人たちである。モノを使いこなせるそういう人が、仕入れから始まって、そのモノのすべてに責任をもつのである。
 「しろうと」でない学習者が増えてきた今日、それを援助する生涯学習関係職員にも、これぐらいの高度な学習内容への「こだわり」が求められる時代なのかもしれない。

視点2
個としての主張を援助する新しい民間教育事業
 −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE−

1 BEすなわち個の存在の主張
 BEは、その名のとおり、個人の人間としての「存在」に関わって、その創造、確認、さらには地域コミュニティレベルでの活動などを援助することをめざしている。
 渋谷駅南口を降りると、すぐ目の前に渋谷東急プラザがある。その七階と八階に東急クリエイティブライフセミナー渋谷BEがある。
 七階の受け付けカウンターの向かいは、ゆったりとしたロビーである。そのテーブルといすは、暖かみを感じさせる木製のものである。まわりの壁などの全体の色も、淡いピンクを基調としている。そのため、フロアー全体が親しみやすい感じをもっている。
 モダンな雰囲気もあるが、それ以上に暖かでアットホームなムードがだいじにされている。このムードづくりの基本方針は、あとで説明するようにBEが「おとな」の女性を主要なターゲットにしていることにも関係している。
 このような「暖かな」雰囲気の中で、会員自らの手作りのさまざまな「作品」が陳列されている。各教室の前の壁や廊下に、絵画やクラフトなどが展示されているのである。
 その一つに会員の「ラッピングコーディネーション」の作品を展示している小さなコーナーがある。今の世の中、贈り物といってもその品物はお店にお金をはらって買うだけ。せめて、包装やリボンなどには贈り手の演出をという穏やかではあるが確かな自己主張志向の表れである。
 普通のビンを和紙で上手にくるむなどという作業の中に、会員の意思とアイデアが存分に発揮されている。柄杓(ひしゃく)の柄をラッピングしたりなど、とても斬新な発想である。
 BEのパンフレットには次のようにある。
 「BEとはbe動詞のBE。『ある』『存在する』『〜になる』という意味をもつ言葉であり、個としての存在を証明し、主張する言葉でもあります。I think,therefore I am −『われ思う、ゆえにわれあり。』 人間のすべての行動の原点として文化をとらえ、自分自身の存在確認を行う場所。そして、それぞれの人々が、それぞれの生き方を創造し、確認する空間となることを願って、この新しい空間を『BE』と名付けました」。
 「教養」としての知識の向上より、むしろ存在確認としての「文化創造」をアピールしようとする姿勢である。
 今回の取材で、BEの副総支配人の櫻井さんに、お忙しい中、インタビューに応じていただいたが、櫻井さんは「今まで絵画などばかりでなく、教養面の講座でも『つくる』ことに力を入れてきた。今後もそうしたい」と言っているのである。
 ファッションとしての教養ではなく、人間存在に肉薄する文化創造に民間教育事業がアプローチしようとしている。しかも、そのやり方は「民間教育事業」らしく、スマートかつファッショナブルなのである。
2 若者の街、渋谷の中で
 渋谷は新しいタイプの町である。通りが、店が、そして電話ボックスまでもがしゃれている。
 渋谷の街づくりのこの明らかな成功のカギとなったのが、西武パルコである。駅からちょっと歩かねばならず、けっして立地条件がいいとはいえない所、「公園通り」を若者のメッカにしてしまった。
 他にこの通りには若者の「文化拠点」として「ジァンジァン」がある。これは、教会の地下にある劇場で、最先端の文化活動が行われている。
 そして、東急系のデパートとして「ハンズ」がある。これはクリエイティブライフストアーと銘打ち、「手づくり」のブームを生み出した店である。最近は、その近くに、西武系の「雑貨屋」イメージのデパート、ロフトがオープンしている。
 たとえば、ハンズはデパート会社の系列ではなく、東急不動産の子会社としてオープンした。そして、それまでの流通業の人たちの常識では考えられないデパート経営をした。店子(たなこ)に場所を貸すのではなく、いいものを探して買い取って来て自らが売るのである。
 若者に受けている店は、表面的には従来どおりモノを売っていて、それがよく売れているだけにしか見えないのだが、このように本質的には何かしらの「情報」を売りものにしている。どこも若者に誇れるような情報のアンテナをもっていて、それによって得た新鮮な情報を売場での「品揃え」の形などでアピールするのである。「なぜ渋谷だけが」と他の街が歯噛みをするほどの勢いの差も、その情報の魅力の差から生まれる。
 それでは、渋谷BEの存在する「渋谷東急プラザ」もこの「波」の中にあるか。実はそうではない。駅前ではあるのだが、国道などによって分断された立地である。そして、駅から少し離れた公園通りより、かえって波に乗りにくいのである。それゆえ、「プラザ」の店の品揃えは、むしろアダルトのとくに女性重視である。BEも「プラザ」の階上にあるのだから、当然その影響を受けている。
 しかし、それでもBEはつねにこの公園通りの「渋谷」を別物ではなくライバルとして意識している。櫻井さんの言葉のはしばしにその意識が表れているのである。若者の意識をひきつけるものは何なのか。逆に若者がそっぽを向かないようにするためのコツはないのか。情報やノウハウは、どのように手に入れたらよいか。若者のニーズへのこのような鋭い感受性がないと、誰を相手にする商売でも成功しない。情報ソフトが肝心なのである。
 学習機会も同じであろう。たとえば、若者に魅力があるネーミングは、基本的には中高年にも心地よいのではないか。このように、BEはもっと年上の「おとな」の学習にも、うまく渋谷の「若者センス」にあふれた情報力を活かしながらアプローチしているといえる。

視点3
「個人」がいきいきするしかけ
 −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−

 JR戸塚駅のホームから、三階建の淡いアズキ色の建物が見える。「横浜女性フォーラム」である。市内の女性の活動と交流の拠点として、昭和六三年九月、横浜市はこれを四十億円をかけて建設した。しかし、その管理・運営は財団法人横浜市女性協会に任されている。
 正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、コンピュータシステムによる図書コーナー、自動搬送システムによるビデオコーナー、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできるフォーラメディア、パソコンゲームコーナーなどがある。
 ミニコミを収集・展示したり、データベースに「よびかけ」や「らくがき」が自由に書き込める「掲示板」というメニューを提供するなど、交流への「しかけ」もさりげなく用意されている。
 また、一階には、フォーラポート(相談室、ポートは港の意)、印刷工房、託児室、そして、三八〇席の立派なホールもある。ホールの「親子席」では、乳幼児といっしょでも、人に迷惑をかけずに安心してなまの芸術に接することができる。
 「生活工房」は二階にある。そこの「工作・工芸」「衣」「食」の三つのコーナーでは、くらしを「創造」する活動ができるが、それらは間仕切りのないオープンスペースとなっている。予約なしでも自由に利用できる。パンフレットには、「個人、グループ、男性・女性、大人・子供の枠を越え、初めて出会った人とも一緒に利用しましょう」とある。ガラス張りの「物品庫」からは、「創造」に必要な器材が借りられる。
 その他、二階にはガラス越しにグループの活動の様子がわかるセミナールームや音楽室、和室などがある。三階には、助産婦さんのいる健康サロン、スタッフによるアドバイスや体操教室などの受けられるフィットネスルームなどがある。フィットネスルームは、団体貸出しを行わない。個人またはその交流にねらいをしぼっている。
 ユニークな講座も盛んに行っている。たとえば、女性には不向きとされがちな自動車整備や電動工具の講座、水まわりの修理の講座、仏発祥の再就職の講座「ルトラヴァイエ」などである。
 フォーラムは、このようにして、その情報と空間と人材をしなやかに活用しながら、「個人」にアプローチする。そして、さらに男性や子どもをもまきこんだ交流へと誘(いざな)うのである。

視点4
「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態

 青少年団体が「個の深み」を真剣に追求しようとする時、「どういうプロセスを経て、その結果、どこにたどり着こうとするのか」ということが最初に問題になるだろう。しかし、その一つ一つの明確な解答、つまり「行き方」と「行き先」は、じつは、動き出す前は決まっていないのである。
 「個の深み」を最大限に尊重しそれに対応しようとすると、どうしてもそのような予測不可能な要素が多くなる。当人以外の人には、あるいは当人でさえ、「個の深み」とは、突発的に出現して意外な方向に進むものである。そのため、あるいは「迷路」に入り込むような気分になるかもしれない。
 しかし、「個の深み」を尊重し助長するためには、団体の既存の目的だけに縛られてしまってはいけない。何が起こるかわからない「迷路」に挑戦する姿勢が求められる。あるいは、俗にいう「ケ・セラ・セラ」のような軽い気持ちでなくてはやっていけないとも言えようか。
 そして、「個の深み」がこのように奔放に発露される場を創り出すためのもっとも有力なノウハウは、青少年団体がすでにもっているはずである。それが小集団活動である。小集団によって「個の深み」への柔軟な対応が可能になる。青少年団体はこのような小集団的発想から団体運営を見直して、そのコンセプトを再構築することが大切ではないか。
 この基本的認識に立った上で、以下のように視点をまとめてみた。
1 目的志向型からMAZE(迷路)型へ
 パソコン通信でやりとりされる記事(レスポンス)は、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ=M)、大ざっぱ(アバウト=A)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ=Z)している。しかも、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、気楽(イージー=E)に書かれている。まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。
 しかし、このような「迷路」から、各自は、各自なりに、最初気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。
 パソコン通信は、ビジネスに直接役立つ情報を手間をかけずに効率良く獲得しようとする人にとっては、本当は魅力のある手段にはなりえない。しかし、人間らしい情報の創造と交流のためにはパソコン通信は有効なツール(道具)なのである。(中略)
 青少年団体においても、すでに設定された目的にとっての最適の「手段」ばかり考えるのではなく、各自が「迷路」の中でさまようことを許容してもよいのではないか。もちろん、個人にとっても団体にとっても、「迷路」をさまよう内には、苦しいこともあるだろう。しかし、基本的には「迷路」でさまようことをむしろ楽しんでしまう精神を求めたい。
2 学習→活動型から活動=学習型へ
 「学んだこと」を「社会的な問題の解決」に結びつけるために、青少年団体は従来から学習活動を重視してきた。しかし、それらの学習の目的は、おもに「活動」を準備するための学習であったといえよう。今後は、そういう「活動するための」学習に対して、「活動の中に混じっている」学習をもっと重視すべきではないのか。実際、身近な活動と学習が渾然一体となっている所は、「いきいきと面白く元気の出る場」になっているようである。
 そのためには、スケジュール化された行事を成功させるためのスケジュール化された学習だけでなく、日常の活動の中で個人個人がいろいろなことを「気づき」「思いつき」さまざまな思いをもつという意味での「学習」を高く評価すべきである。そして、そういう「学習」がまた新しい活動=学習を生み出すような、柔らかなシステムが青少年団体の運営に求められている。
3 研修会方式からたまり場方式へ
 団体がそのめざしているものを、迅速に効率良く集団に伝えようとする時、どうしても「研修会」に頼りがちになる。しかし、そのような研修会では、参加者がそれぞれの個性を生かしてアイデアを出し合うということは難しい。
 「個の深み」から発したユニークなアイデアを団体運営に反映するためには、研修会だけでなく、いくつかの所で試行されているように、喫茶店や居酒屋などのような気楽にしゃべれる空間の活用が大切である。
4 一括方式から選択方式へ
 パッケージツアーはなかなか便利な旅行システムである。プロである旅行会社が設定したコースは、さすがに大切な見所を要領良く組み合せてあり、それらを交通手段などの心配もなくまわることができる。
 しかし、一方で、最近では「地球の歩き方」というガイドブックを片手に外国の路地を探し歩く日本の若者が増えている。この本には、一般にはあまり有名でない店などを含めて、その国のこまごました情報が満載されている。
 同じ海外旅行をするにしても、従来のようにプロがすべてをお膳立てした「フルコース」のセットでは、ニーズの多様化した若者には満足できなくなってしまっている。それよりも、若者はたくさんの情報を得た上で自分の好みのコースを歩き、時にはちょっと苦労してもいいから「自分だけの」思わぬ発見をしたいのである。
 旅行に限らず団体活動のいろいろな局面で、団体だからみんなが同じ行動をするというのではなく、むしろそれぞれの好みの行動ができるよう、団体は情報やメニューの提示などをし、各個人がそこから自らの行動を「選択」し、その上でそれぞれの「発見」を披露し交流してもらうなどの発想転換が必要である。
5 既製服型から注文仕立型へ
 個人が団体に所属していることは、さまざまな面でのメリットもある。もちろん「仲間がいると心強い」などの所属感もその一つだが、その他、「一人ではできないけれど集団になったらできる」ということもある。
 そこまでは良いのだが、この「集団のメリット」にともなって、「安かろう、悪かろう」という安易な気持ちや「逃げ」の姿勢を、団体側がもってしまうことはないだろうか。たとえば「あなたはこの団体から恩恵を受けているのだから、そのぐらい我慢してくれよ」とリーダーからメンバーに頼むことはなかったか。その時、メンバーの不当なわがままを我慢してもらうのならともかく、いつのまにか「個の深み」の発揮まで我慢させていないか。
 A.トフラーは、その著「第三の波」の中で、コンピュータなどの高度技術の活用によって、たとえば服飾業界では「個人の寸法にぴったり合った服」を、一着づつ、しかも早く安く仕上げることができるようになるだろうと予測している。
 団体活動においても、今日の科学技術や交通手段の発達などの有利な条件を生かせば、各人のばらばらなニーズに合わせた「注文仕立て」の多様な活動をすることができるはずである。ちなみに、その場合、「注文」したメンバーが「他の誰かがそれをやってくれるのを待つ」という姿勢であってはならない。それを注文した本人が一番熱心にそれに取り組むよう、団体の方からも本人に要請すべきであろう。
6 スローガン型から遊び心型へ
 平成二年一月に出された中央教育審議会の答申「生涯学習の基盤整備について」では、生涯学習はボランティア活動などの中でも行われるものとして広くとらえられている。当然、青少年団体活動も含まれるといえる。そして、この生涯学習は、個人の意思で自ら「選びながら」行われるとされている。生涯学習は、こういう学習が必要であるということを外部から決められておしつけられるものではない。自らが好んで、ある意味では「楽しんで」行うのが生涯学習なのである。
 また、中国山地の「過疎を逆手にとる会」は「遊び半分」をその「哲学」としている。世田谷羽根木のプレーパークのプレーリーダーは「まず、自分が遊びを楽しむ人」だという。
 これに対して、団体の実際の運営においては、通常「スローガン」の羅列、すなわち「○○を学ばなければならない」「地域を救わなければならない」「子どもにこうさせなければならない」などの「ねばならない」のオンパレードになりがちである。しかし、生涯学習がそうであるように、既成のスローガンにあまり拘束されずに、変幻自在が許されて「遊び心」で活動できることが「個の深み」の発揮につながるといえよう。
 知覧町連合青年団が「青年団が嫌いだ」という相互理解のもとに「団結できた」ということも、スローガンをおしつける青年団なら嫌いだが、自分たちが自分たちのために変幻自在に活動できる青年団なら面白がれるということを表している。自分たちがやりたいと思う活動を楽しくやっている青年団は、知覧町ばかりでなくどこの地域でも元気がある。

視点1
生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク
 −AV−PUBのサロンで「私的」交流−

 港区虎ノ門の日本視聴覚教育協会が、文部省の支援も得て教育関係者のためのパソコン通信「AV−PUB」を運用している。これは、「視聴覚教材情報全国システム」という正式名称のとおり、AV関係のデータベースであり、電話線を通して全国から利用できるようになっている。
 しかし、愛称のほうはPUB(酒場)であり、その中にサロン(談話室)という電子掲示板もある。パブのように気楽に入って必要な情報を入手し、ついでにサロンで全国の仲間とディスプレイを通したおしゃべりもできるわけである。
 昨年六月ごろから、このサロンで生涯学習関係者の書き込みが盛んになってきた。LLLという、ゆるやかなつながりの小さなグループである。メンバーは近県の社会教育主事、小学校教師、新聞記者などで、時には、本当に飲み屋で集まって一杯やることもあるが、ほとんどは自分の空いている時間、すなわち深夜、自宅から発信する。
 いずれにせよ、フォーマルな立場での気遣いは不要、その意味では「私的」な交流である。そこで、授業、講演、執筆、学会発表、出張、視察、研究発表会参加などの事前・事後報告や他のメンバーとのやりとりが行われる。今まで話題になった主なものを出現順に紹介してみよう。
 ニューメディアに関する専門性の内容、社会教育施設のLAN化、情報ボランタリズムの意義、コンピュータ教育に必要な知識体系、根底的な学社連携としての教え方の技術の交流、情報処理能力の内容、リーダーシップトレーニングのノウハウ、DIY(手作り)メディアの評価、子どもにキーボードストレスはあるか、社会教育主事の発問や学習プログラムなどの交換の必要、学習情報提供が抱える問題点、小さな市町村の生涯学習関係職員の高い通信ニーズ・・・。
 その他、宇宙は有限か無限か、太古の哺乳動物について、海外旅行のコツ、出張先のうまいもの情報求む、マシンの情報や選定についてなど、実際の流れはミスマッチ(M)でアバウト(A)でジグザグ(Z)でイージー(E)で、まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。
 AV−PUBには、教育に関係する人なら誰でも加入できる。電話料金だけ負担すればよい。技術的にわからないことは、LLLのメンバーが助けてくれる。

視点2
学習情報提供事業の企画と展開
 −人間が学習情報を求めている−

1 学習情報提供事業の基本的問題
 生涯教育の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することは大変難しくなっている。それゆえ、豊富な学習機会の中から、市民が自己の必要とするものを的確かつ速やかに選び出すこともできなくなっている。学習施設や人材など、生涯学習に関わる他の情報についても同じことがいえる。
 こんなことでは、せっかくの「外側」の「学習社会」の実現も、一人一人の人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのである。
 しかもここで扱う情報は市民一人一人の内面に関わり、影響を与えるものであるから、その情報提供事業は特別に、「市民主体」「公正」「公平」などの公共性に裏打ちされていなければならない。
 公的に学習情報を提供する意義は、以上のようにまとめられるだろう。しかし、さらにこの事業の実施に当たっては、次に述べる三つの基本的疑問について考えておく必要があると考える。
(以下、表題のみ列記する)
1) 情報過多に「輪を掛ける」ことにならないか
2) 市民の情報能力の獲得を阻害しないか
3) 情報提供より学習相談を中心的機能とすべきではないか

2 展開の構想にあたっての留意点
1) 側面的援助という原則の遵守とともに積極性の必要
2) 新鮮な情報の収集
3) 実際に市民が求める情報の提供
4) 「学習情報」の範囲を偏狭にとらえない
5) 地域情報・行政情報の重視
6) 科学技術の急速な発達をうまく活用する
7) 学習情報ニーズを育てるための教育的機能の発揮
8) 市民自身の手による調査・研究との結合
9) ともに育つ「しかけ」の配置
10) ネットワークシステムの中での位置づけ

3 展開の構想
生涯学習情報提供事業の機能   (●表1)
情報の種類・内容・収集方法   (●表2)
情報の収集から提供までの流れ  (●図1)

視点3
学習情報提供の実際

1 市民の学習情報要求にこたえる情報提供の実際
 学習情報提供を始めるにあたって、そこで提供される情報が、学習者の情報要求にこたえるものになるかどうかが、まっさきに問われる。
 要求された情報にこたえるということは、ごくあたりまえのことのようにきこえる。しかし、それを実際に実現しようとすると、情報提供側はさまざまな具体的困難に直面する。学習情報提供には、その困難をのりこえるセンスと努力が求められるのである。
 ここでいくつかの事例を紹介するが、その中から、事業主体の積極性と創意工夫の跡を読みとっていただきたい。
 なお、図書館においてもそれと通じる評価すべき試みがなされているので、あわせて紹介した。図書館のいくつかの積極的な試みは、学習情報提供のあり方にも直接的な関連をもっており、示唆を与えるところが大きい。
(以下、表題のみ列記する)
1) セクショナリズムをこえて、学習者の求める情報をひろく、わかりやすく提供する
   −中野区「中野の社会教育事業等プラン一年」−
2) 民間の活力あふれる学習情報を提供する
   −江東区文化センター「タウン情報こうとう」−
3) 提供できない情報についてもつねに問題意識をもつ
   −仙台市中央公民館情報コーナー−
4) 「低次元」と思われるような情報要求に対しても、みくびらずに接する
   −東京都立江東図書館の「ヤングアダルトコーナー」−

2 学習情報提供における情報要求のほりおこしの実際
 情報要求の中には、学習者が自ら意識して実際に情報を求めてくる「顕在的要求」もあれば、まだ本人から求めてくるにはいたっていないが、なんらかの形で触発された場合には情報要求として具現化されるであろう「潜在的要求」もある。
 学習情報提供事業においては、顕在化された質問に答えているだけで良しとするのではなく、学習者が自らの「潜在的学習要求」や本当に必要な学習情報とは何かについて気づくよう援助することも一方で考えなければならない。
 ひとつには、学習者のそれぞれの実際の情報要求に応じる時に、相手が言葉に表していない「潜在的要求」まで察する努力をした上で、必要な情報の提供を行うべきである。
 さらに、次に述べる各種の情報提供においては、「潜在」を「顕在」に転化させるために、その他の積極的な働きかけが行われている。そして、それらは情報提供そのものにも効果的にむすばれている。このような取り組みにより、学習情報提供の価値がいっそう高まるのである。
(以下、表題のみ列記する)
1) 自由にみちた文化度の高いイベントを開催する
   −大阪府立文化情報センター−
2) 学習情報がひろく活用されるよう、「動態的」にサービスする
   −調布市立図書館の読書会活動−

 学習情報を提供するにあたっては、まず、市民の求める学習情報を提供することが大切である。そのためには、実際には次のような点に留意する必要がある。
1) 一般行政の教育的事業などの学習情報も含めて、それを学習者の立場に立ってわかりやすく編集・加工して提供する。
2) 自主的な教育・学習活動や、時にはカルチャービジネスなどの民間の学習情報も含めて、民間の活力にあふれる生涯学習の情報を提供する。
3) 政治・宗教・営利に関する学習情報など公共性の観点から取り扱いの難しい情報の要求に対しても、機械的に切り捨てるのではなく、問題意識をもって柔軟かつ主体的に対応する。
4) 青少年などの「低次元」と思われる情報要求に対しても、みくびることなく、学習の発展の契機として尊重して対応する。
5) コンピュータ利用などによって、大量の情報の整理と迅速な提供をはかる一方、学習情報を求めてきた人との対話を大切にし、表面には現れてこない潜在的な学習情報要求にもこたえられるよう努める。
 つぎに、潜在的な学習情報要求をほりおこすことによって、市民の学習情報要求それ自体の発展を援助し、また、学習情報がひろく市民に活用されるようにすることが大切である。実際には次のような働きかけが考えられる。
1) 衝撃力のある文化度の高いイベントを開催する。
2) 「座して待つ」のではなく、地域のさまざまな場所・機会において、学習情報を提供する。
3) 学習情報の「専門家」として、ひろく市民に対して、学習情報の入手や活用の方法についての専門的・技術的援助を行う。
 ただし、これらの働きかけは、けっして強制や押しつけであってはならない。市民の自由と主体性を尊重し、市民と対等に接してともに考える姿勢が必要である。

視点1
あたたかいディスコダンス

 青年たちと久しぶりに新宿のディスコにでかけた。昔ほどの熱気はなかったが、それでもフロアは若者でいっぱいで、けっこう楽しめだ。しかし、昔よりおとなしい曲が多く、それに合わせてめいめいが各様の踊り方をしていた。
 実は私は、青年の家の職員だったころ、主催事業としてディスコダンスの合宿をやっていた。そのころ、まちではディスコが熱っぽくはやっていたが、社会教育の場でそんなことをした前例はどこにもなかった。実行委員の青年が踊り方をどこからか仕入れてきて、みんなに教えた。時にはディスコの店長を招いて教えてもらったこともある。
 当時はバスストップなどのステップダンスが多かった。これは、バスの停留所に並ぶような形でみんなでステップを合わせる踊り方である。そこでは生まれて初めてディスコをやるという人も、毎週ディスコに通いつめている人もいっしょになってステップを踏む。 青年たちの感想は「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」とか、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」などであった。「ヒトに教えるなどとんでもない。人の前でカッコ良く踊るのが生きがい」という様子のディスコボーイが次第に実行委員会にのめりこみ、三年目のフェスティバルでは、スッと前に進み出てマイクを握り、一歩一歩そのステップを説明してくれた時は、私も他の実行委員の連中も大喜びした。
 ディスコで汗をかくと、とにかく身も心もすっきりする。しかし、今も昔もお店のディスコでは青年は意外にひとりぼっち。相手がかわいい女の子でもない限り、踊れないで隅にいる他人を、じょうずな者が教えるなどといったことはありえない。その点、社会教育や青年団体活動の場では、もっと「あたたかい」ディスコができるのだと思う。
 そんなことを思う時、年のせいかもしれないが今のディスコにものたりなさを感じる。みんなで教え合い、初めての人でも簡単にリズムにのれるバスストップのような「古き良きディスコ」に愛着を感じる。今でもそのステップを教える機会が時々あり、そんな時は私自身が心から楽しんでしまっている。

視点2
レクリエーション的な要求への対応

1 レクリエーションの重要性
 生涯学習の振興とは、住民の主体的な学習・文化・スポーツ・レクリエーションのすべてがいきいきと行われるために必要な条件整備をすることである。だから、レクリエーション的な要求が多い地域では、まず、レクリエーションのための施設・設備などを含めて、それが活発に行われるための条件が十分であるかどうかを再点検しなければならないのは当然である。
 余暇が増大し、高齢化が進展するなどの急激な社会の変化の中で、人間性をとりもどし、それをもっと豊かなものにするためにも、レクリエーションは重要である。
 生涯学習要求調査の中での「レクリエーション的な要求」が、住民一人ひとりのどういう根源から生まれでてきているのか、そして、どんなレクリエーションを住民が望んでいるのか、まずはできる限り把握すべきである。

2 地域課題の導入の可能性
 このように住民の学習要求を細かに見ていくと、「顕在的」な要求ばかりでなく、直接は調査に表れにくいけれども、調査全体からは見え隠れする「潜在的」な要求も少しづつ明らかになる。その一つが地域における人々の連帯である。
 芸術の鑑賞や旅行などのように、一人で行うレクリエーションも大切だが、レクリエーションが人間回復をめざすのなら、それは一人ひとりの孤独な営みだけでは、けっして完成することはできない。人間どうしの連帯感を味わうことができてこそ、レクリエーションの大きな喜びがある。
 今日の地域社会は、さまざまな問題をかかえている。とくに、地域の連帯意識や共同性の弱体化は、自立性の衰退、住みにくさ、地域教育力の減退による子どもの非行化などの主要な要因の一つになっている。これらのことも、住民の深刻な学習要求として表れているはずだが、レクリエーション的な要求をもっている人はそういう要求をもっていないと、みくびってはいけない。むしろ、連帯感があふれるレクリエーション、地域の連帯をつくりだすレクリエーションを、「顕在的」あるいは「潜在的」に求めていると考えるべきである。ここに、「レクリエーション的な要求」が、地域課題にむすびつく可能性を指摘することができる。
 たとえば、自治体の生涯スポーツの取り組みの中で、三世代交流のゲートボール大会や、地域対抗のソフトボール大会などが行われている。これらは、「顕在的」なスポーツ・レクリエーションの要求にこたえながら、地域の連帯感の涵養によって地域課題にアプローチする試みとして評価することができる。

3 生涯教育の基本方針からみた調整のあり方
 右に述べたように、住民の学習要求(文化・スポーツ・レクリエーションを含む)がある場合、それがささいに見えるものであっても、その活動が自主的にいきいきと行われるよう配慮することが行政には求められる。そして、その学習要求をていねいに分析することによって、「潜在的」な学習要求もみえてくる。
 しかし、そのことは、「顕在」「潜在」の学習要求のすべてにわたって、行政側がそれに対応する事業を「提供」しなければならないということではない。生涯教育の予算といえども限られているのだから、住民の多様な学習要求から「選択」せざるをえない。その「選択基準」をプライオリティー(優先度)という。プライオリティーには、緊急性、切実性、公共性などが考えられる。いずれにせよ生涯教育行政が責任をもって、住民の支持を得ながら、その基準を明らかにしていかなければならない。
 その時、当初は把握できなかった学習課題も、場合によっては事業として設定することがありうる。生涯教育の事業は、調査を平板に受けとめるだけでできるものではなく、「選択行為」とそれへの住民の反応のプロセスから動的に創り出されるものである。もちろん、この「選択」は住民の生涯学習の活動に対して行われるものではない。あくまでも、生涯教育行政が自ら提供する事業を設定する時に必要になるものである。

視点3
高齢者教育における学習課題のとらえ方

1 ジェネレーションとライフステージ
 高齢者教育における学習課題をとらえるためには、まず、成人一般の学習課題の把握が必要になる。その上で、高齢期特有の学習課題をとらえるためには、大きく二つの観点が考えられる。
 一つは、高齢者として同じ歴史的体験をしてきて、関心や考え方などに共通するものがあるというジェネレーション(世代)の観点、二つは、それぞれの高齢者が年をとること(加齢)によって受ける心身への影響に、共通するものがあるというライフステージ(発達段階)の観点である。
 前者のジェネレーションの観点で言えば、戦前に青年期を過ごしてきた人間が現代を生きていく時の、苦悩、喜びなどを理解し、それを援助するとともに、現代社会が反省しなければいけないことを、今を生きる社会の一員として有効に提起してもらうために必要な学習課題にも、目を配ることが大切である。
 後者のライフステージの観点については、森幹郎氏の指摘が重要である。それは、老人問題を論ずる場合、暦年齢chronological agesではなく、社会年齢social ages や機能年齢functional ages でとらえることが必要だということである。そして、年をとり、かつ、労働を引退した人を、「社会年齢の上での老人」(ヤングオールド)、身体的、精神的、心理的に老衰し、かつ、日常生活行動の上で他人の介護を必要とするようになった人を、「機能年齢の上での老人」(オールドオールド)として、区別して考える必要があるというのである。(森幹郎「高齢化社会における高齢者教育」、国立教育会館社会教育研修所『高齢者教育の目標と内容』、一九八七)

2 個人的課題と社会的課題
 つぎに、高齢者教育における学習課題には、個人的な側面と社会的な側面とが考えられる。
 「個人的課題」とは、「退職後の生活設計」「余暇活動」「老いの受容」「死の受容」などに関するものである。とくに、「老い」や「死」を受容するか否定するか、あるいは逃避するかは、まったく個人の精神的内面に関わる問題である。しかし、あえてそれを「学習課題」としてとらえて、その学習を援助する手だてを探り出すことが、高齢者教育を行う者にあらためて求められている。
 「社会的課題」については、LESS DEPENDENCY EDUCATION =「できるだけ他人に負担をかけないための教育」(森氏)が、ポイントになる。その中身は、ヤングオールドに対しては、再就職教育、予防的健康教育、オールドオールドに対しては、リハビリテーション訓練などがあげられます。その他、核家族化が進行する今日、高齢者の知恵を活かし、また、他の若い世代と交流してもらうこと自体も、今日の高齢化社会において社会的意義をもつ学習課題といえる。

3 学習課題の実際の領域
 稲生勁吾氏は、ハビガースト、エリクソン、ノールズの説や国立社会教育研修所の「成人の学習領域」の研究成果などを参考にしながら、次のように、高齢期の学習課題を整理している。(稲生勁吾「高齢者教育の内容」、同『高齢者教育の目標と内容』)
 「高齢期の理解」(老化と円熟の認識など)、「高齢期の過ごし方」(高齢期の生活設計など)、「家族とともに生きること」(家族関係など)、「社会とともに生きること」(地域社会についての理解など)、「高齢者に関する法律・制度」(老人福祉など)。
 高齢者教育における学習課題をとらえるためには、先述のような基本的な観点があるが、そのそれぞれがはっきりした境界線をもっているわけではない。現に、稲生氏の整理した学習課題は、それぞれがいくつかの観点からの意義を同時に有している。現実に学習課題を選択する場合は、複眼的視点が求められるわけである。

視点4
グループリーダーの新しい形

 今日の多様化、個別化の社会において、グループリーダーのあり方も大きな変貌を遂げつつある。その主要な変貌の一つがリーダーからメンバーへの「権限(リーダーシップ)の移譲」ともいえる現象である。
 「○○委員会」「○○部」などの固定的なブロックの上に恒常的な会長がいて、その会長が全体を統括するというのではなく、ある企画や問題について関心のある数人がその時のグループの中心になってプロジェクト・チームに似た機能を発揮する。そして、会長は他にいても、それより強力なリーダーシップを「不定期に」発揮する者がそのチームの中から登場する。この新しいリーダーシップのシステムは流動的で柔軟である。
 ここでは、会長などのグループ全体の恒常的な指導者を「ゼネラル・リーダー」、不定期に出現する指導者を「プロジェクト・チーム・リーダー」と便宜上、よんでおく。なお、ここでいう「プロジェクト・チーム」とは、会社組織などでつくられる当該事項に関する適性をもつ者の「横断的」なチームとは、多少、性格を異にする。むしろ、グループ活動の「自主性」「自発性」という特性に規定されて、当該事項に関心をもつ者の「自然発生的なチーム」である場合が多いだろう。必ずしも他者から特命を受けた明確な組織形態をとるわけではない。
 もちろん、グループの効率的な運営などのためには、今日でもグループ全体を掌握する「ゼネラル・リーダー」の役割は軽視できない重みをもっている。しかし、それとともに、これらの「プロジェクト・チーム」がグループの中で認められいきいきと活動できることが、新しいネットワーク型のグループ運営を進めるための必須条件といえるのである。
 むしろ、「ゼネラル・リーダー」のもつべき今日的なリーダーシップとは、そういうプロジェクト・チームが盛んに形成され、それぞれのリーダーが続々と生まれ育つよう励まし見守ることともいえるのである。
 これに対して、公民館で行われるリーダー養成事業が、「ゼネラル・リーダー」ばかりを対象として、しかもその事業にリーダーシップのためのありとあらゆる知識・技術を盛り込もうとするならば、それはグループのネットワーク型運営の方向に逆行し、活性化を阻害する結果にさえなってしまう。
 たとえば、グループ運営を一手に引き受け、たくさんの「責任」をしょい込んでいるリーダーには、対外的な仕事もかなり集中してしまう。その上に、リーダー研修への参加までもが、「対外的な仕事」(動員への対応)の一つとしてこのリーダーにおおいかぶさる。このようにして、リーダー一人がますます忙しくなってしまうのである。
 そもそもリーダーを「ゼネラル・リーダー」に限定してとらえることは、グループ全体の成員の自発性、主体性を軽視し、グループをリーダー偏重のタテ組織としてとらえていることの表れであろう。さらに言えば、この「ゼネラル・リーダー」偏重の志向は、初級→中級→上級というリーダー研修体系を、より大きな規模の「ゼネラル・リーダー」になるためのたんなる「踏台」として歪曲することにもつながりかねないのである。
 今日、リーダーシップとメンバーシップは、機械論的な二元論で扱うべきものではない。グループ活動の中で、この二つは成員の間を自由に行き来すべきものなのである。ネットワークとはそういうことである。

視点5
リーダー研修に望まれる内容

 そもそも、ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」とされているのに対して、リーダーシップは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」とみられている(見田宗介他『社会学事典』、弘文堂)。リーダーシップは、本質的にネットワーク型なのである。とくにグループのリーダーシップは、成員各自の主体的な合意のもとに、しかも「プロジェクト・チーム・リーダー」を含む非固定的なリーダー個人の自立的な価値によって、可変的に発揮されるという意味で、ネットワーク的性格をいっそう強く有しているものといえる。
 リーダー研修の内容としては、場合によってはごく実務的な事項も含まれて当然であるが、研修全体として見ればこの本来のリーダーシップのあり方を実現するために必要な事項こそが核に据えられるべきなのである。
 その一つは、コミュニケーション能力である。ネットワーク型リーダーには、自己の企画を他のメンバーに訴える力(プレゼンテーション)と、それに共感してくれた各人の人間関係をとりむすぶ力(グループワーク)の両方が必要である。コミュニケーション能力はその基本になる。
 二つには、「不定型」に挑戦する能力である。ネットワークは、めまぐるしく変化する問題や関心に自由自在に対応できるところに、その魅力がある。その時点での役職やルーティンワーク、あるいは慣習にしがみついて発想したのではネットワークにならない。未知で形の定まっていないことへの挑戦の姿勢が求められる。そのためには、発想法のトレーニングなどが有効である。
 三つには、外と交流し学びとる、「外とのネットワークづくり」の能力である。異種の人間との交流が各自の世界を飛躍的に広げる。人材を知ること(ノウ・フウ)にもつながり、グループ運営にも資することができる。そして、それは外とのネットワークであると同時に、グループ内の風土にも新鮮な風を起こしてくれる。このような意味から、団体間コミュニケーションとしての「交流」を援助する意義は重要である。
 しかし、もう一方で、公民館はネットワーク型グループ運営のもつ問題や危険性も見過ごさないようにしなければならない。
 ネットワーク社会においては、専制的な「リーダーシップ」は否定され(権威失墜)、拡散し、大衆化する。だが、そのことは反面、正当なリーダーシップをも軽視する傾向にも通ずる。厚みのある「大作」としての文化が喜ばれないのと同様に、「不易」の根拠をしっかりともつリーダーシップまで捨て去られてしまう。そして「流行」だけが追い求められる。
 そのような時、リーダーに「不易」を提起する公民館独自の役割は大きい。公民館は、この役割を主体的に発揮しなければならない。
 もちろん、その場合でも、「主体的」であるべきは公民館だけではない。研修を「受ける」側としてのグループリーダーにも「主体的」参加が求められる。このような両者の主体性を両立させるためには、「問題共有の視点」をもつ研修内容にする必要がある。すなわち、「同時代」に生きる者としての共通の問題に共同で取り組むような研修内容にするのである。そこには主体的な自己成長と相互作用が生まれるだろう。
 もともと「養成」には「教育して一人前に成長させる」という語義がある(岩波漢語辞典)。しかし、そういう「養成」の古い語義はもう新たにしたい。お互いに「同時代人」としてすでに「一人前」であるという対等な立場から、「自己養成」「相互養成」を繰り広げることが「リーダー養成」の新しいあり方だといえよう。

視点6
学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ
 −東京都足立区の生涯学習推進構想−

1 区民の一人一人に受け入れられつつある生涯学習
 「足立区生涯学習推進協議会」は、区内の団体の代表を多数含めた五五人の委員から構成され、生涯学習に関するさまざまな願いを取り込みながら、提言などを行ってきた。
 しかし、このような生涯学習の活動が、最初から広く区民に理解されていたわけではない。足立区が「生涯学習のすすめ」というビデオの撮影を昭和六二年に開始したころ、「生涯学習という言葉を知っていますか」というインタビューに、ほとんどの区民が「知らない」と答えている。
 また、一方で、昭和五八年頃に行った区民へのアンケートでは、「あなたは、どこに住んでいますかと聞かれたら、どう答えますか」という質問に対し、多くの区民が「足立区」ではなく「東京都」と答えるという回答をしており、区の行政担当者にショックを与えていた。
 このような状況の中で、庁内の企画、地域振興、福祉、衛生、そして教育委員会などの関係セクションの係長レベルの人たちを中心にプロジェクトチームがつくられ、生涯学習推進のための実質的な協議が続けられた。
 最初は、チームメンバーの中には、「生涯学習は教育委員会の仕事」ととらえる人もいたようである。しかし、納得いくまで、メンバーで勉強しあった。合宿もした。事務局を担当した一人の米山義幸さん(生涯教育部学習推進係長)は、「日頃の仕事が違うからこそ、今でも当時のメンバーといっしょにお酒を飲むととても楽しい」という。
 このチームによる足立区生涯学習推進構想「学びあうまち足立の創造のために」の報告(昭和六二年六月)の後、「生涯学習の推進」は、行政セクションの違いを乗り越え、「総合行政」の中で重視されるようになってきた。「生涯学習の推進」は文化行政のキイ・コンセプト(中心概念)であり、「A・I(アダチ・アイデンティティ)=足立らしさ」の創出の最高の手段であるという報告の提言は、今日では区政全体に受け入れられつつある。
 そして、生涯学習についてのわかりやすいビデオやグラフ誌の発行などもあいまって、区民の間にも「なんだ、私たちのやりたいことが、生涯学習だったんだ」というような声があがり、生涯学習への親しみの気持ちが根づいてきている。今では、住区センターの管理運営委員会の自主企画で、「生涯学習について二時間ぐらい話しに来て」などという嬉しいリクエストが区の担当者に舞い込むという。

2 日常の学習圏とより広い学習圏の施設配置
 区内の住区センターの一つ、五反野コミュニティセンターを訪ねた。ロビーでは、子どもが宿題をしたり、主婦が数人で昼食をとったりしている。住区センターは小学校区に一つぐらいの割合で配置されているから、そんな身近な使い方ができるのだろう。
 その他、一階は主に老人館で、そのホールでは、「バンパー」というビリヤードのようなゲームを、かなりお年を召した方々がやっていた。その仕草がかなりしゃれているのである。風呂もある。二階は児童館である。広場、図書室、工作室などで子どもが自由に遊べる。
 現在三八館ある住区センター(最終五六館を予定)は、すべて地域振興課の管轄だが、その運営は地域の住民の代表による管理運営委員会にいっさい任されている。この管理運営委員会が、講座などの事業も実施している。もちろん、区の生涯学習推進協議会にも、各センターの運営委員長の中から代表を派遣している。このように、住区センターは区民の一番身近な生涯学習サービスを受け持ち、名実ともに「住区学習圏」の核になっている。
 つぎに、より広範な学習圏の施設の一つであるLソフィアを訪ねた。Lソフィアは、区内の主要な駅の一つである梅島駅から、徒歩二分の所にある。四階建てで白いタイル貼りの明るい感じの建物である。玄関ホールは二階まで吹抜けで、開放感にあふれている。婦人総合センターを有しているのがここの特徴であるが、その他、梅田センター、消費者センター、区民事務所との複合施設になっている。
 梅田センターのようなブロックセンターは、区内に一二館ある(最終一三館を予定)。それぞれ、社会教育館、体育館、地域図書館を併設しており、「住区」と「全区」の間の圏域の施設として生涯学習の中核的な役割が期待されている。
 このように、足立区は区民の生涯学習にとって重要な拠点に施設を配置してきた。そのためには財政面や用地取得の上から、先見性と大きな勇気が必要だっただろう。しかし、それが足立の生涯学習の基盤を整備し、ひいては、足立区民が胸を張って「私は足立区に住んでいます」といえるようなアダチ・アイデンティティを形成するきっかけとなっているのである。

3 下町の良さを引き継ぎつつ次代をになうために
 緑豊かな東渕江庭園の中に、ひと際目立つ、昔の蔵を思わせる白い建物がある。足立区立郷土博物館である。玄関を入ると、二階まで吹抜けの天井に届くかとさえ思われる山車(だし)が展示されている。このような山車は、下町でももはや貴重なものとなりつつある。
 この博物館の展示物の一つに「荒川放水路工事復元ジオラマ」がある。荒川はその名のとおりの「あばれ川」で、大開削工事のすえ、昭和五年に荒川放水路が完成した。これによって、江東デルタ地帯は水害から守られるようになったが、足立は放水路によって二つの地域に分断され、人的、経済的にも大きな試練を受けた。ジオラマの農村風景は一見のどかそうだが、そこには目に見えぬ苦労が秘められていることを感じさせる。
 山車に象徴されるような下町の良さや人情を継承しながら、次代に向けて下町ゆえの不利を克服していく・・・。区民一人一人の生涯学習によるアダチ・アイデンティティの創出は、そういう努力の一環なのである。

あとがき
 止揚とは何であろうか。それはいうまでもなく、「折衷」とは違うはずである。その「折衷」のほうが堂々とまかりとおっているのは、なにごとか。
 ・・・などと肩をいからすほどではないかもしれないが、それにしても、本来はAとBが新しいCになることによって、A・B双方の何らかのデメリットが克服されることを止揚というのであろう。
 生涯教育の理念は、社会の教育的諸機能の「統合」である。たんなる「折衷」ではない。それなのに、古い価値観をもって時の流れに抗している社会のさまざまなエスタブリッシュメント(既成の体制)によって、むしろ生涯教育理念が古い教育形態・思想に取り込まれてしまっている現実が目につく。つまり、旧態依然とした優越・劣等の二元的価値観にもとづく教育観(大衆がそれを支えている!)に変質した「生涯教育理念」が、古い教育に「味付け」(折衷)されているだけという状況が見受けられるのである。
 そこで私は、不遜なことではあるが、生涯教育理念そのものの究明ではなく、それ自体はあいまいにしたまま、今日の生涯学習の第一線現場に表れる古い価値観克服の葛藤の諸相から、新しい生涯学習のあり方を発想してみた。これが、「か・く・ろ・ん」と名づけたゆえんでもある。
「各論」というと、少年・青年・成人・婦人・高齢者というように、対象別に「輪切り」にした議論を予想された方もいるかもしれない。だが、この本では、重要だと思われる問題をいくつか抽出して論じたという意味で「各論」である。まだ十分には明らかになっているとはいえない生涯学習の本質を見きわめるための「各論」である。たとえば婦人教育であれば、婦人「対象」教育の大切さもさることながら、幼児期から高齢期の男女を対象とした婦人「問題」教育を、よりつきつめて考えてみたいのである(ここではふれていないが)。

 この本の中では、新しいキーワードがいっぱい出てくる。個の深み、MAZE、出席ペーパー・・。しかし、この本の趣旨をまとめれば、つぎのようになろう。
 人々が「依存」する農業文明と人々が「自立」する産業文明の次にくるものは、人々が依存と自立を統合して知的・情的関係をとりむすぶネットワーク型文明である。依存と自立との対立が止揚されるように、コミュニティと地球との規模の違いから生ずる矛盾も止揚される。あるいは、「止揚」という二元的対立の論理自体が、もう通用しないのかもしれない。
 文化や価値観のこのような質的変革のゆくえを決めるのは、人間の新しい形の成長である。新しい形の生涯学習である。新しい形の生涯学習の中では、フォーマル・エデュケーションとしての学校教育は、むしろ生涯学習の基礎づくりの機能としてこそ重要になるのであり、「制度的」には(役所の予算は少なくても)ノンフォーマル・エデュケーションとしての社会教育(行政)や企業内教育が、「本質的」にはインフォーマル・エデュケーションやインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)などのMAZE的生涯学習が、主役になるのであろう。
 生まれて初めて「自分の本」を出すことができた。今までいろいろな所で表現させてもらった自分の拙い思考活動を一冊にまとめることができたことは、思った以上に嬉しいものだ(便利だし)。これまでお世話になった方々と、この本を買ってくださったあなたに感謝する。
 この本には、とくにご不明の点やご意見などが多いと思うが、それはツー・ウェイのやりとりで発展的にアフターケアさせていただければ(もちろん、学生とも)幸いである。

追伸
 本文全体が最初から電子化(MS−DOSの標準テキスト文)されていますので、希望する方にはフロッピー(5インチ2DD)にコピーして提供します(千円、消費税込み、注文は直接、学文社まで)。
 文字型データの任意検索による分析や批評のための引用などに、電子化された拙文もあるいはお役に立つかもしれません。

参考文献 注・30字×24行×4ページ

参考文献(気づきにくいが有用で示唆に富む文献を優先した)

第1部 「個の深み」への注目、そして、支援
<個別化、「個の深み」>
中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長に
どう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、1990
 団体活動に対して「個の深み」という言葉を初めて提起。
山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、1984
 消費社会の自我形成のあり方を「個別化」の視点から論究。
<個人と社会教育・生涯学習>
碓井正久編『社会教育』東京大学出版会(戦後日本の教育改革)、
1971 団体中心性をもつ戦前社会教育の戦後の継承と断絶を分析。
島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、
1974 条文を日常の言葉に書き換えた上で、解説。
福原匡彦『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会、1989
 社会教育と社会教育行政の輪郭を描いた上で、逐条的に解説。
倉内史郎『社会教育の理論』第一法規、1983
 諸理論を相対化して、社会教育の統制の機能などを比較・検討。
三浦清一郎『比較生涯教育』全日本社会教育連合会、1988
 アメリカの刷新的な生涯教育を紹介しながら、日本と比較。
NHK放送文化調査研究所『日本人の学習』第一法規、1990
 成人の学習ニーズを3年毎、3回にわたって統計的に調査・分析。
<個人と学校教育>
ロンドン大学・大学教授法研究部『大学教授法入門−大学教育の原
理と方法−』喜多村和之他訳、玉川大学出版部、1982
 学習は個人的事象、という認識に基づく教員訓練用「テキスト」。
片岡徳雄『学習と指導−教室の社会学−』放送大学テキスト、1987
 学ぶ場における個人と集団の関係を意識した指導のあり方を論究。
小口忠彦『学習心理学−学習理論の基礎−』『学習心理学の応用
−学習指導の基礎−』放送大学テキスト、1988
 認知構造や自己認知、自己洞察などについても平易に解説。

第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして
<個人の表現技術>
梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波新書、1969
 カード活用など、個人の「知的武装」の技術を先駆的に提言。
本多勝一『日本語の作文技術』朝日文庫、1982 「読む側にとって
わかりやすい文章を書くこと」に徹した実践的・技術的文章論。
篠田義明『コミュニケーション技術−実用的文章の書き方−』中公
新書、1986 テクニカルな文章(実用文)を書くための技術。
D.カーネギー『自信がつく話し方教室』森本毅郎、三笠書房(知
的生きかた文庫)、1985 形を整えるためのテクニックではなく、
心理的緊張に打ち勝ち個性を生かして発表するための要点を解説。
<図書館・博物館の情報発信から学ぶもの>
ホイットニー・ノース・シーモアJr、エリザベス・N・レイン『だ
れのための図書館』京藤松子訳、日本図書館協会、1982
 リファラルサービスなど、アメリカの図書館の仕事を紹介。
竹内紀吉『図書館の街浦安−新任館長奮戦記−』未来社、1985
 図書館サービスを「街のシンボル」にするまでの実際の経緯。
科学読物研究会『親子で楽しむ博物館ガイド』大月書店、1987
「科学と歴史の宝島」として博物館を案内し、関連読物も紹介。
<情報技術の進展と個人>
東京都企画審議室『高度情報化の進展と東京−地域社会へのインパ
クトと課題−』、1985 シーズ先行型の高度情報化の進展に対して、
高度化・多様化する社会や個人のニーズへの対応を重視した報告。
高田正純『データベースを使いこなす−英語でとる世界情報−』
講談社現代新書、1985 知的興味と人間のふれあいへの志向の両者
を満たすものとしてのパソコン通信の魅力を実践的に解説。
椎名誠『活字のサーカス−面白本大追跡−』岩波新書、1987
 終章の「ロマンの現場読み」などで、活字メディアを再評価。

第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために
<個別化・ネットワーク化社会の近未来像>
ジョン・ネイスビッツ『メガトレンド』竹村健一訳、三笠書房(知
的生きかた文庫)、1984 ネットワークなどの社会潮流を予測。
アルビン・トフラー『第三の波』徳岡孝夫訳、中公文庫、1982
 非マス化=個別化など、産業社会の次に来る社会を予測。
<現代人の主体的生き方の困難>
L.ベラック『山アラシのジレンマ』小此木啓吾訳、ダイヤモンド
社、1974 現代の人間的過疎を生きるためのパターンを分析。
井上富男『ライフワークの見つけ方』主婦と生活社(21世紀ブッ
クス)、1978 サラリーマンとしてのライフワークを会社の中で見
つけ、自分の個性を輝かせるためのノウ・ハウを具体的に解説。
斎藤茂男『妻たちの思秋期』共同通信社、1982 仕事に「主体」を
埋没させた夫に、生身で拒否を表現する妻たちの「主体」の危機。
丸元淑生『システム料理学−男と女のクッキング8章−』文春文庫、
1982 食生活のレベルでの自衛的システムを先駆的に提言。
<個人の主体性援助の方法>
川田健、薮内正幸『しっぽのはたらき』福音館書店、1969
 子どもたちの主体的思考を促す工夫のこらされた代表的科学絵本。
岡本包治他編『社会教育の計画とプログラム』全日本社会教育連合
会、1987 社会教育計画の概要と各論の実践的解説。
平木典子『カウンセリングの話(増補)』朝日新聞社、1989
 朝日カルチャーセンターの講座から生まれた基本的で平易な解説。
<個人の主体性交流の方法>
川喜田二郎『続・発想法−KJ法の展開と応用−』中公新書、1970
 個人が参画できる社会をめざし、チームによる「探検」の方法を解説。
福留強『グループ活動と青少年』学文社、1986
 体験と実例をもとに、グループ活動の実際の姿を総合的に解説。
国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房、
1981 ホンネとホンネの交流の原理、内容と実施上のハウツウ。
杉田峰康『交流分析のすすめ−人間関係に悩むあなたへ−』日本文
化科学社、1990 人間の交流と心の働きを図に表す方法などの紹介。

図表標題一覧
 図1−1 「個の深み」を支援する講義技術
 図2−1 高校生がほしい情報
 図2−2 現代都市青年をとりまく情報の特質
 表2−1 人気学習関心項目
 図2−3 尊敬できる人、なりたいと思う人
 表2−2 パソコンの諸機能の整理
 図2−4 通信内容に見られる知的関心領域
 表1   生涯学習情報提供事業の機能 
 表2   情報の種類・内容・収集方法 
 図1   情報の収集から提供までの流れ

初出一覧(今回、かなり手を加えている)

第1部
 1〜3 (今回初出)
 視点1 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年4月
 視点2 全日本社会教育連合会「社会教育」No.460 1988年3月
 視点3 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年12月
 視点4 中青連「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」
     (筆者の執筆部分から抜粋) 1990年3月
第2部
 1   高橋勇悦編『青年そして都市・空間・情報』(恒星社厚生閣)
     pp.115〜156. 1987年4月
 2   高橋勇悦・川崎賢一編『メディア革命と青年』(恒星社厚生閣)
     pp.109〜141. 1989年6月
 3   日本視聴覚教育協会「視聴覚教育」Vol.43 No.10 1989年10月
 視点1 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年2月
 視点2 岡本包治編『社会教育の計画とプログラム』
     (全日本社会教育連合会)pp.291〜306.から抜粋 1987年1月
 視点3 山本恒夫他『学習情報の提供と活用』(実務教育出版)
     pp.95〜122.から抜粋 1987年8月
第3部
 1   中央青少年団体連絡協議会「なかまたち」NO.30  1990年10月
 2   (今回初出)
 視点1 中央青少年団体連絡協議会「なかまたち」NO. 6  1990年10月
 視点2 山本恒夫編『生涯学習ハンドブック』(第一法規出版)
 視点3 (視点2はpp.102〜103.,視点3はpp.190〜191.) 1989年8月
 視点4 湯上二郎編『現代公民館全書』(東京書籍)
 視点5 (視点4はpp.279〜281.,視点5はpp.281〜282.) 1989年5月
 視点6 文部省編集「文部時報」(ぎょうせい) 1990年2月

索引(21字×37行×2段×6ページ)

索  引

ア行

アーティクル(通信記事)......138
アイデンティティ......43
アイボールミーティング......145
アスキー......105,116
遊び型内容......212
遊び心......57
遊びとしての学習......137
新しい風......97,210,229
新しい教育技術......155
新しいコミュニケーション環境......128
足立区生涯学習推進構想......230
アマチュアとプロ......138
アマチュアのパーソナルな文化......123
アンドラゴジー......22
異質馴化と馴質異化......181
一時滞在者......210
一斉承り型学習......16
異年齢集団......182
イロ・モノ・カネ......141
インシデンタル・ラーニング......150,214
インフォーマル・エデュケーション......149
インフォメーションリーダー......103
映像活用......14
エスタブリッシュメント......149
エンカウンター・グループ......108
援助とコントロール......188
オートパイロットプログラム......155
オールドオールド......224
おしゃべりサロン......140
おしゃべり症候群......40,74
おもしろ的情報......83

カ行

快感覚の追求......213
海外旅行......55
開放的地域主義......97
カウンセリング......38,79,107,177
関わりのある情報......90
科学絵本......174
書き言葉文化(パソコン通信)......134
書くこと......36
賢い(情報の)消費者......125
仮想空間(パソコン通信)......139
過疎を逆手にとる会......57
環境醸成......186
概念くずし......217
学園祭......60
学習......20
学習課題......84
学習課題と行政課題......204
学習課題の選択行為......203
学習課題の優先順位......198
学習圏構想......230
学習・コミュニケーション......150
学習社会......165
学習者の主体性の確保......30
学習集団......11
学習主体としての成熟化......202
学習主題......212
学習情報提供......159,166
学習と活動......54
学習ニーズの優先......205,209
学習プログラム提供......192
学習目標......211
学問......20
キット型マイコン......116
キャリアー(運搬者)......146,153
教育的センス......175
教育的役割......109
教育番組......100
教員の訓練......26
共感を伴った関心......91
教師の構え......172
教師の嫉妬......59
教授......20
教授者の不安......29
共著とパソコン通信......156
共同学習......17
記録......195
技術......28
技術修得への援助......214
凝固と融解......206
行政職員としての可能性......111
行政情報......95
行政の主体性......217
行政のネットワーク的関わり......199
空間超越性(パソコン通信)......128
クオリティ・コンシャス......126
グッドアース......105
グループ・サークル......188
グループワーク......108
計画の非計画化......218
系統学習論......17
系統的学習内容......216
啓蒙主義......190
ケ・セラ・セラ......53
欠損体験......180
権限の移譲......226
健康食志向から自然食志向へ......112
検索可能性(パソコン通信)......128
ゲーム......117
コアラ......156
講義......15,22,24,44
講義への集中......33
控除的定義(社会教育)......6
公的課題......199
公的課題の明示......206
公的情報提供......77,106
高等教育......19
広報......98
交流したくない個の深み......147
交流と緊張......147
交流分析......184
高齢者教育......223
個人か、組織(社会)か......12
個人学習の重視......9
個人主義......144
個人主義的援助......27
個人そのものの尊重......11
個人的課題と社会的課題......224
個人的事象としての学習......22
個としての存在......48
個の深み......2,4,35,44,52,183,217
個の深み支援技術の三つの構造......29
個別化......3
コミュニケーション型学習......154
コミュニケーション技術......215
コミュニケーション能力......229
コミュニケーションマシン......123
コミュニティ......98,181
暦年齢・社会年齢・機能年齢......224
今日的情報......82
コンパチビリティー(互換性)......125
コンピュータ支援学習(CAL)......134
コンピュータ・デモクラシー......141
コンピュータ・リテラシー......213

サ行

参画のもつ教育力......180
在来型の生涯学習......149
椎名誠......139
しかけ......193
シグナルカード......171
施設提供......191
施設配置......233
自然接触体験......180
しっぽのはたらき......175
私的課題と公的課題......200
指導者の役割......183
渋谷......49
市民感覚......99
社会教育......5,186
社会教育主事......186
社会教育審議会答申(昭和46年)......9
社会教育団体......188
社会教育の公的存在意義......45
社会教育の独自性......10
社会教育の方法......18
写真情報誌......89
集合学習......217
集団......143
集団宿泊活動......179
出席ペーパー......37,42,44
生涯学習......9
小集団討議......25
少年団体活動......179
消費者情報......92
職員間のネットワーク......195
シリコンバレー......115
新型の生涯学習......149
信頼......79
ジェスチャー......172
ジェネレーション......223
自己解決能力......79
自己管理的学習......41
自治......198
自治体のアイデンティティ......230
自治のトレーニング......96
実験社会学級......17
実際生活に即する文化的教養......23
充電と放電......138
準拠集団......208
準拠枠......177
情報......64,114
情報化......125
情報重視の傾向......112
情報整理......75
情報提供......62,75
情報提供の操作性......88
情報と創造......71
情報による万能感......73
情報能力......73
情報の切り取り......72
情報の限界......72
情報の公共性......76
情報の集中と分散......66
情報の純化......69
情報の操作性......77
情報の大衆化......76
情報の多面体......70
情報の多様化と画一化......68
情報の電子化......129
情報離れ......69
情報必要......74
情報不適応......63,107
情報ボランタリズム......155
情報ものとり主義......133,154
情報ユースワーカー......107
情報要求のほりおこし......167
情報リテラシー......135
推敲マシン......123
スタンド・アローン......129,131
ステップダンス......219
スローガン型......57
生活自遊人......46
生活の情報......91
青少年健全育成......78
清書マシン......123
青年政策......78
青年の家......219
青年の参加......102
西武ロフト......45
全面的情報......81
相互教育......139
双方向性(パソコン通信)......128,130
即時性(パソコン通信)......128
即目的的学習行動......213
即目的としての情報......137
組織的な教育活動......5,13

タ行

体験のもつ教育力......179
対策から援助へ......185
対策からサービスへ......79
対象者と当事者......209
対象別プログラム......207
たまり場......55
端末処理(パソコン通信)......129
大学生......210
大学の目的......19
団体活動......52
地域課題の導入......222
地域活動のもつ教育力......181
地域情報......95
地球の歩き方......55
蓄積可能性(パソコン通信)......128
知的生産......113
知的生産の技術......214
知的生産の社会性......113
知のアマチュア化......137
知の個別化......139
知の雑多化......140
知の非体系化......141
知の防衛機制(パソコン通信)......134
知のボランタリズム化......136
知の民主化......141
チャット......39
中央教育審議会答申(平成2年)......9
中央青少年団体連絡協議会......2
中途退出者......59
中毒性の麻薬としての講義......24
注文仕立型......56
著作権......137
知覧町連合青年団......57
提供できない情報......88
テクノストレス......121
撤退する自由......144
ディスコ......219
電子的仮想空間......143
東急BE......47
統計的手法......196
到達目標......211
匿名性......89
都市政策......78
ともに育つ......110
トランスペアレンシー(透明感)......126
独習......33
どんぐりの背比べ......138,156

ナ行

仲間集団......182
なまなましいニーズ......101
何でもありの授業......14
ニーズの可塑性......197
日常・非日常の情報......66
ニューメディア......129
人間関係の希薄化......93
人間の情報......89
ネットワーク......102,129,155,214
ネットワーク型援助......191
ネットワーク型問題提起......207
ネットワーク社会......142
ネットワークづくりの能力......229
ネットワークと社会教育......187
ネットワークのインフラ......201
ネットワークの援助......189
年間事業計画......194
ノウフウ......155
覗き趣味......89
ノンディレクティブ(非指示的)......79

ハ行

ハイタッチ......143
話すこと......36
羽根木プレーパーク......57
反情報......142
ハンドルネーム......139
反応・発展の個別化......31
反応・発展の個別化の促進......34
パーソナルとソーシャル......217
パーティー......154,192
パジャマでおじゃま......91
パソコン......116
パソコン通信......54,105,126,148
パソコン通信と動画......135
パソコンの個別性......120
パソコンの自力性......120
パソコンの創造性......121
パソコンの汎用性......118
パソコンの物神化......124
パソコン文化......118
パソコンマニアの学習......213
パソコン利用の孤立化......121
パソコン利用の成熟化......125,146
パソコン利用の専門化......123
パプリック・ドメイン・ソフト......136
バーンアウト......145
非施設・団体中心性(社会教育)......7
非文献的情報......82
非マス化......216
ピア......66
ピア・グループ......39
ピア・コンセプト......41
ピラミッド型とネットワーク型......188
ビジカルク......117
ビジネスマン......209
ファシリテーター......108
不易流行......197,229
フェース・ツー・フェース......144
不定型への挑戦......229
プッシュ型の教育・プル型の援助......146
プライオリティー......223
ブランド志向......112
プロジェクト・チーム......226
ヘイル委員会報告書......24
ヘッドシップ......228
ヘルシーでハイな快......213
ヘルプ機能......139
ベーシック言語......116
勉強......21
放送の公共性......100

マ行

マイコン......115
マシンの単機能化......122
マトリックスによるとらえ方......205
ミニFM放送局......68
耳学問......137
民間教育事業......49
民間放送教育協会......100
メール......39
メトロポリタン美術館......192
燃え尽き症候群(パソコン通信)......145
目的−手段システム......218
モノ......46,111
モノと情報......49
モノの透明化......126
問題共有の視点......230

ヤ、ラ、ワ行

山アラシのジレンマ......144
山崎正和......3
ヤングアダルト......80
ヤングアダルト情報サービス......81
ヤングオールド......224
ユーザー教育......146
要求課題と必要課題......84
要求情報と必要情報......87
余暇......46
横浜女性フォーラム......51
ライフステージ......223
ライブ感覚のプログラム......218
ラッピング......48
リアルタイム......128
リーダー......226
リーダー研修......228
リーダーシップ......228
リーダー養成事業......227
リファラル(照会)サービス......83
レクリエーション......221
レスポンス......127
レスポンス至上主義......133,154
連帯の情報......92
ロンドン大学教育研究所......21
若者のニーズ......196
ワンダーランド......96,176

英字

A.トフラー......56
AV−PUB......154,158
BBS......39,40,105,151
CMI......148
IDナンバー......139
M.ノールズ......22
MAZE(迷路)......53,152
NHK放送文化調査研究所......150
PC8001......116
READ......132
ROM(Read Only Members)......132
S−R......31,64,151,178,184
TRON......125
WOM(Write Only Members)......133
WRITE......132

オビの文章

 パソコン通信のネットワークのなかに「自立」と「依存」の
統合の可能性を見出し、そこからさらに「知」と「集団」の新
しいあり方、新しい情報文化の可能性を遠望したもので、文章
と議論の運びには生彩があり、楽しく説得されてしまう。
大阪大学教授 井上俊 (金子書房「青年心理」90.1より、
「パソコン・パソコン通信と青年」を評して)

 氏は若者に必要な情報とはどんな情報かという問題について
興味ある問題提起を行っている。・・そうした新しい情報とチ
ャンネルは多分彼らと地域との関係をひっくり返し、地域を彼
らにとっての人間形成空間につくり変えるに役立つと思われる。
茨城大学教授 菊池龍三郎 (中青連「なかまたち」89.12
より、「現代都市青年と情報」を評して)


ソデの文章

 4月のさわやかな風とともに私たちの前に
現れた先生は、今までの「先生」のイメージ
をガラリと変えてくれました。mito先生
のような「先生」は初めてです。
      ・・昭和音楽大学ピアノ科学生

 今までの学校の授業は、先生が一方的に話
す講義か、テーマを与えられた話し合いかの
どちらかだったのに、mito先生の授業は、
えっ!何?これ!という感じです。
      ・・東洋大学2部学生[看護婦]

宣伝チラシ案

生涯学習 か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−

「学習社会」において人間が主体的であるとはどういうことか。
 この本は、不確かな迷路を遊ぶことのできる主体の形成をめざ
して、今後の生涯学習の推進における問題の所在を明らかにした
冒険的な著である。

 4月のさわやかな風とともに私たちの前に
現れた先生は、今までの「先生」のイメージ
をガラリと変えてくれました。mito先生
のような「先生」は初めてです。
      ・・昭和音楽大学ピアノ科学生

 今までの学校の授業は、先生が一方的に話
す講義か、テーマを与えられた話し合いかの
どちらかだったのに、mito先生の授業は、
えっ!何?これ!という感じです。
      ・・東洋大学2部学生[看護婦]

 パソコン通信のネットワークのなかに「自立」と「依存」の
統合の可能性を見出し、そこからさらに「知」と「集団」の新
しいあり方、新しい情報文化の可能性を遠望したもので、文章
と議論の運びには生彩があり、楽しく説得されてしまう。
大阪大学教授 井上俊 (金子書房「青年心理」90.1より、
「パソコン・パソコン通信と青年」を評して)

 氏は若者に必要な情報とはどんな情報かという問題について
興味ある問題提起を行っている。・・そうした新しい情報とチ
ャンネルは多分彼らと地域との関係をひっくり返し、地域を彼
らにとっての人間形成空間につくり変えるに役立つと思われる。
茨城大学教授 菊池龍三郎 (中青連「なかまたち」89.12
より、「現代都市青年と情報」を評して)

<内容>

第1部  「個の深み」への注目、そして、支援
  はじめに −「個の深み」とは何か−
1 社会教育における組織と個人
2 講義型学習と社会教育、高等教育
3 「個の深み」を支援する講義技術
視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点
     −西武ロフトがとらえた若者たち−
視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業
     −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE−
視点3 「個人」がいきいきするしかけ
     −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−
視点4 「個のふかみ」を尊重し助長する団体活動の形態
mito的授業

第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして
1 現代都市青年と情報
   −ヤングアダルト情報サービスの提唱−
2 パソコン・パソコン通信と青年
   −成熟したネットワークとは何か−
mito的授業
3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか
視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク
     −AV−PUBのサロンで「私的」交流−
視点2 学習情報提供事業の企画と展開
     −人間が学習情報を求めている−
視点3 学習情報提供の実際
mito的授業

第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために
1 子どもたちの団体活動
   −そこに秘められている大いなる教育力−
2 地方自治体における学習プログラム作成の視点
視点1 あたたかいディスコダンス
視点2 レクリエーション的な要求への対応
視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方
視点4 グループリーダーの新しい形
視点5 リーダー研修に望まれる内容
視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ
     −東京都足立区の生涯学習推進構想−
あとがき
初出一覧
参考文献
索引

申し込み先
 学文社 2000円(消費税込み)
 〒153
  東京都目黒区中目黒1−2−6
 phone 03−3715−1501

学習情報システムはやりたくないが、学習相談はやってみたい、という傾向
 町村のベテランの社会教育主事などの中には、いまだに学習情報のシステム化に対して消極的な人もいる。エリア内の当面必要になりそうな学習情報については自分たちはおおよそ掌握していると思いこんでいるため、その学習情報をわざわざ手間をかけてシステム化したり、わが町を超えた範囲の広域の情報をネットワーク化したりすることについては必要性を実感できず、むしろ「余計な仕事」としてとらえがちなのである。
 たしかに、学習情報の収集・整理は、地味だが気の遠くなるほど根気のいる作業である。せっかく集めた情報も、必ずすべてが使われるとは限らない。何らかの事情で個人的にはあまり勧める気がしない学習機会などであっても、よっぽどの事情がない限り公平に情報提供しなければならない。情報提供した時は、それなりに住民に喜ばれるだろう。しかし、それによってたとえばその住民がある学習機会の情報を得て参加し、すばらしい成長を得たとしても、その成果を「見届ける」ことができるとは限らない・・・。学習情報システムの構築に消極的になってしまう理由は、あげだしたらきりがないほど、たくさんある。人間交流や社会教育の味を知っているベテランの職員ほどその傾向が強い。
 これに比べて、学習相談は、ベテラン職員の頭の中にある地域の豊かな学習情報を有効に発揮することができる。しかも、その情報のデータバンクは、生涯学習への従来の地道な援助活動の中で自分の頭と心の中に自然に構築されたものである。相談に応じて発する自分の一言ひとことが、住民にとって有益な情報になるだろうと思える。相談が日常的、かつ、継続的に行われるならば、その住民と全人的につきあっていくことができるだろうし、学習の成果もきっと分かちあうことができよう・・・。学習情報のシステム化には消極的であっても、学習相談については、「やりましょう」、とか、「そういうことなら、すでに、日常的にやっていますよ」という答えが返ってくることが多いのは、そういう理由からであろう。
 しかし、現代社会において生涯学習の援助者に求められていることは、そういう従来からの相談における指導力とは、性格が異なっている。社会教育が築き上げた遺産のうちには継承すべき点も多々あるのだが、援助者と学習者との関係がよりいっそう水平なネットワークに近づくような、新しい努力が必要なのである。学習相談についても、そういう新しい視点でとらえなおさなければならない。
 学習情報提供については、すでに本シリーズの6で述べたので、ここでは、学習相談のあり方について述べる。その基本は、個人に適した手段(集合学習を含む)を学習者自身が自ら選んで、やりたい学習を行えるよう援助することである。そのためには、「自分が何をどのように学習したいのか」、すなわち「自分」、に学習者が気づくための対応と、そこから求められる情報の適切な提供が必要になる。

個に対応できる相談
 学習情報提供システムの整備が各地で行われるようになってきている。そういう所では、学習相談も不可分のものとして位置づけられていることが多いようである。しかし、その実態が、たんにコンピュータから情報を引き出す操作を代行しているだけであれば、それを相談とは呼ぶべきでないだろう。相談には、情報提供だけではない何かが求められる。
 神奈川県では、本年五月、横浜市西区の県立図書館の中に、「神奈川県学習・文化情報センター」をオープンした。これは学習情報システムとともに学習相談を行うものであるが、そのために五人の相談員をおいている。校長を退職した人たちである。長い教職の経験が学習相談に役立つであろうし、また、相談の過程で、五人が奉職したそれぞれの地域の関係機関との連絡・調整の必要が生じた場合も、非常にスムーズだということである。
 相談に応ずる専門の職員を置くということは、学習者の個々のケースに対応できるということである。たとえば、同じ英会話であっても、どのレベルのものをどのような雰囲気の所で学びたいのか、実際にはそのケースは無限に分かれていく。学習者自身にとっても、それらのニーズは整理された上で相談に来るのではない。むしろ、自分のニーズを話しているうちに、相談員に聞いてもらっているうちに、だんだんと自分の学習要求が見えてくるのである。神奈川県の生涯学習推進のモットーが「十人十色の生涯学習」ということだそうだから、ますますその成功が期待される。
 もちろん、この場合にも、相談員と相談者との水平なネットワーク的関係が求められる。相談者が学習の「権威者」としての相談員にすがるような図式は、かえって非主体的な学習態度を育ててしまう。相談者の言葉を傾聴する、いっしょになって情報や資料を探すなど、相談者と対等な人間として相談者の抱える学習の「迷路」につきあう中で、相談員もともに育つことができるのである。
 このように学習相談とは、人手と手間のかかるものである。順番待ちしている相談事項をコンピュータを操って能率よく処理していくことが相談ではない。そして、情報提供だけでは足らずに相談のレベルまで求める住民が列をなすことがあるとしたら、その方がむしろ異常なのであり、単純に相談件数の少なさをもって学習相談の意義を否定することはできない。

カウンセリングとしての学習相談
 昨年四月、埼玉県県民活動総合センターが開館すると同時に、県民活動相談事業が開始された。ここでは、ボランティア、社会福祉、社会教育、婦人、青少年、高齢者などに関わる諸活動に関する「活動相談」や「生涯学習相談」とともに、活動上の悩みに関する相談としてカウンセリングを行っている。カウンセリングは週に1日だが、それ以外の相談は、毎日受け付けている。
 専任相談員の内山鮎子さんは、カウンセリングの研鑽と実践を数十年、積み重ねてきた相談の専門家である。いつもは「活動相談」や「生涯学習相談」も受け持っている。
 通常の相談は、活動に関する情報とノウハウの提供が多い。とは言っても、一般県民から続々と問い合わせがくるわけではない。実際には市町村等の関係職員などからのものが多いようである。その場合でも、自分でも簡単に調べられるようなことや、逆に、特定の講師の謝金の単価など答えようがないことなどもある。
 しかし、そういう通常の相談の中にも、じつは、カウンセリングとしての相談の要素が必要になる場合があるという。たとえば、あるリーダーが、「自分は一生懸命やっているのに、なぜか自分の団体が活性化しない」という相談を持ちかけてきたとする。その人は、最初は団体活動活性化のノウハウを求めにくるのだろう。しかし、相談の中で、団体の問題を話していくうちに、リーダーとしての自分の問題に気づくことがある。「自分には、他人を支配したいという気持ちがあったのではないか」。団体活性化の問題とリーダーやメンバーの心の内面の問題とは、切り離せない複雑な関係があるのだ。相談を持ちかけた人が自分の心の内面に気づくためには、相談を受ける側が、たんなる情報提供だけではなく、受容、確認、明確化などのカウンセリング的な対応をしながら、その人の話に共感的に耳を傾けなければならない。
 カウンセリングそのものの事例もある。センターでは、精神病圏のものは県内の精神保健総合センターに引き継いでいるが、神経症圏のものは自館で対応している。
 たとえば、グループのリーダーやPTA会長の人から「書痙」の問題の相談を受けている。そういう人たちは、まじめでぎりぎりまで頑張ってしまう性格なので、リーダーにもなってしまう。そして、グループ内の人間関係やリーダーとしての悩み、それらと分けることのできない自分の個人的な悩みが重なって、そういう神経症状を引き起こす。メンバーの前だと、どうしても字が震えてしまうのである。
 一般の人は、こういう人たちに、「気にしない、気にしない」とか「頑張ってね」とか言って、励ましたつもりになってしまうかもしれない。しかし、カウンセリングの常識からすると、その二つの言葉は、こういう場合に絶対言ってはならない傲慢な言葉だといえる。本人は気にしたくないのに気にしてしまうのだし、頑張らなくてはいけないと思い込む気持ちがこういう症状を引き起こしているからである。あるいは、頑張ろうと思っても頑張れない何かがあるかもしれない。不用意な言葉は、せっかく相談に訪れてくれた人に「ああ、やっぱり、話を聞いてもらえない」という絶望感を与えてしまう。本人が自分の本当の問題に気づくことを援助することが大切なのであって、「人の目を気にしないようにする」とか「頑張ってみる」など、その問題をどう解決するかについては、本人が決めることなのである。それについては、援助者側は、多様なチャンスやノウハウなどの情報を提供するだけでよい。
 センターのカウンセリングを受けている人の中には、半年以上も前に配った案内のチラシをずっと持っていてやっと訪れてくれる人も多いという。心臓が止まるほどの苦しい思いをしているが、それは、人には言えない深い悩みなのである。生涯学習の諸活動にそういう悩みを持ちながら取り組んでいる人たちのために、カウンセリングが用意されていること自体が、相談件数などの効率上の問題以前の大切なことである。
 従来の学習援助では、個人よりもマス(集団)が優先されがちであった。しかし、学習相談は、「個の深み」ともいうべき人間一人ひとりの深さに、学習援助者の目を向け直させてくれる。「個の深み」は、ときには弱く脆(もろ)いものでもあるが、個人の弱さの露呈とそれが受容される体験が、かえってその人の「深み」の獲得へとつながるのである。そのためには、教育が築き上げてきた人間の可能性への絶対的な信頼と、カウンセリングが大切にしている自己解決能力への信頼の姿勢を、援助者側があらためて持ち直さなければならない。学習相談は、「個の深み」が発揮される新しい生涯学習援助の形態を提起しているのである。

生涯学習を援助する相談事業
 知恵くらべ生涯学習−生涯学習の現場から−
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
                ニシムラ ミ ト シ
 第一勧業銀行京橋支店(024)
  No. 1321215
(本文のみで22字×152行=3256字)
 〆切 7月末日
 生涯学習のまちづくりにとって、学習情報提供と学習相談の体制づくりはどういう意義をもつのでしょうか。また、具体的には、どういう方法でそれを行っていけばよいのでしょうか。
昭和音楽大学短期大学部助教授
 西村美東士

学習情報提供と相談体制の意義と具体的方法
 生涯学習とまちづくりハンドブック
             (第一法規)

学習情報提供の意義と内容
 生涯学習の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されています。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、学習機会に関する情報を統一的に把握することは市民個人にとってはかなり難しいことだといえます。学習の施設や指導者、学習材などに関しても同様の状況です。
 こんなことでは、せっかく生涯学習のまちづくりを「外側」からだけ進めても、一人ひとりの人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たないということになります。ですから、生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのです。
 学習情報提供の中で扱う情報とは、以上の趣旨からいえば、もっぱら「学習案内情報」(学習の案内をしてくれる情報)であるということになります。これに対して、一般の「学習材」などは、「百科全書的情報」(学習の内容としての情報)の一つということができます。この2種類の「学習情報」のうち前者の方が、「(学習情報提供の中で)提供されるべき学習情報」であるとされています(平沢茂「学習情報とは何か」、『文部時報』昭和62年2月号)。

学習情報提供の具体的方法とネットワーク化
 収集・整理した学習情報を実際に提供する場合には、利用する各種メディアの特性を活かした方法を考える必要があります。
 広報紙やガイドブックなどの活字メディアによる場合は、その一覧性を活かして、関連情報も含めてわかりやすく提示することが大切です。電話や来訪などの口頭による場合は、対応する職員が学習者の一人ひとりのニーズに個別に応じ、最初はあいまいだったリクエストも対応の中で次第に明確化できるようにしなければいけません。
 学習者が直接、コンピュータから学習情報を引き出せるようにする場合は、直接、コンピュータに命令を打ち込んで素早く検索できるようにする方法とともに、検索には時間がかかっても、慣れない人がゆっくり気軽に使うことのできるメニューからの検索の方法も、同時に整備する必要があります。また、コンピュータの最低限の取り扱い(コンピュータ・リテラシー)の習得の援助にも配慮すべきです。
 これらの情報は、いつでも、どこでも、だれでも、そしてどんな学習情報でも、手に入れられることが理想です。そのためには、さまざまな機関・施設から、多様な種類の学習情報に自由にアクセスできるよう、セクショナリズムの枠を越えて、情報をネットワーク化する必要があります。

学習相談の意義と方法
 人格の危機をもたらしている現代社会において、カウンセリングに期待が集まっています。しかし、本来、カウンセリングでいう「相談」とは個人の心理的・精神的問題の解決のための援助です。だとすれば、こと成人の学習については、このような「治療的な相談」が日常的に行われることは考えにくいといえましょう。
 むしろ通常は、学習者は実際には学習情報を求めて来るだけだが、それに行政が応ずる過程の中で、相談の機能も自然に生まれると考えられます。ただし、このように「付随的に」発生した相談であっても、行政側は学習相談の本質をきちんと踏まえていなければならないのは当然です。たとえばそこで一番かんじんなことは、学習者が真に欲している学習のあり方と進め方について、上から教え諭すのではなく、学習者自らが気づき決定するように援助することです。
 そして、学習相談体制を本格的に実施する場合には、個人個人のケースへのていねいな対応という「相談」の魅力的な意味を活かして、生涯学習の計画・実施・評価に至るまでの個人の自律的行為に、非指示的に「自然体」の姿勢でつき合うことが大切です。むしろ、学習環境への注文もどんどん言ってもらって、その改善のためにフィードバックできる成長する柔らかなシステムが、相談体制とその関連行政などに求められるのです。
情報化と生涯学習
 −ネットワーク社会に求められる「個の深み」−

1 生涯学習情報の基盤整備

 ここでは、学習情報を一次情報と二次情報に分け、その両方について考えることとする。一次情報とは、学習活動の対象となる学習内容そのものとしての情報である。一般の文献、映像、学習材、教材、ファクトデータなどがそれである。二次情報とは、求める情報や学習にたどりつくための情報、学習の案内をする情報である。たとえば、どこでそういう学習が行われているか、どうしたらそういう学習ができるか、などを伝えてくれる情報である。
 生涯学習の時代といわれる今日、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習活動が行われている。しかし、それらの発信する一次情報の中から求めるものを入手したり、それらに関する二次情報を総合的に把握したりすることは、市民個人の立場からは難しい場合がある。そこで、それらの学習情報をスムーズに流通させるための基盤の整備が必要になる。
 この基盤整備の仕事の鍵になる言葉が「ネットワーク化」である。学習情報のネットワーク化とは、それぞれの情報がもつ固有の価値を失うことなく、むしろそれを生かす方向で、情報主体の連携・協力を得て、ばらばらだった情報をシステム的に再構成することである。ここでは、アクセスの便宜のために、ヒエラルキーとしてのシソーラスにデータを当てはめていくことはあっても、それぞれの情報の価値は水平のままであり、序列をつけたりはしない。これは、ネットワークという平等主義的な言葉をあえて使う理由ともとらえることができる。
 ネットワークを構築する際の情報主体としては、各種の生涯学習関連施設・機関、学習者、指導者、職員などがある。ネットワークの規模としては、生活圏、市町村、都道府県、広域学習圏、全国、国際のそれぞれがある。ネットワークされる情報としては、一次情報はもちろんのこと、学習の機会、施設、教材、人材、グループなどに関する二次情報もある。二次情報のネットワーク化については、とくに学習情報提供システムにおいて取り組まれる。
 文部省では、学習情報提供システム整備事業、教育映像メディアの活用方策の検討、文教施設インテリジェント化構想、文化庁では、地域文化情報システム整備構想、通産省では、ニューメディア・コミュニティ構想、ハイビジョン・コミュニティ構想、郵政省では、テレトピア構想、ハイビジョン・シティ構想、放送番組センターの設置、自治省では、地域情報化の推進、地域衛星通信ネットワーク整備構想、コミュニティ・ネットワーク構想、ハイビジョン・ミュージアム構想、図書館情報ネットワークの促進、公共施設ネットワークの促進、などが施策化されている。
 そのほかにも、多極分散型の国土形成をめざすテレコムタウン構想(郵政)、アーバンフロンティアの創造を図る情報化未来都市構想(通産)、都市を情報市場および情報活用の場として積極的に活用しようとするインテリジェント・シティ構想(建設)、国公有地の活用と情報機能等の導入を図る新都市拠点整備事業構想(建設)、農業経営等の情報化を促すグリーントピア構想(農林)、自治体の役割を意識した地域CATV事業(自治)、などが進められている。
 いずれも、情報流通に関する事業に国が直接、関与するものではないが、財政的援助、研究調査、モデルの提示、モデル地域の指定などをとおして、実際に各地での成果を挙げつつある。また、それらの施策が、早くから試行的にとりかかったものでさえ、10年も経過していないという点に注目したい。さらに、ほとんどのものは、ここ数年の新しい動きなのである。
 これらの施策は、生涯学習を直接的に意識したものとは限らないが、生涯学習の援助の観点からこれらの情報化の施策を見ると、その最近の特徴として、次のことを指摘することができる。
 第1に、地域の人々が、モノの豊かさ、あるいは、モノの豊かさを獲得するための限られた範囲の情報だけではなく、心の豊かさや人間的な生活を実現するための情報や、情報そのものを重視する志向に変わってきており、各省の諸施策も、その変化に対応しようとしている。
 第2に、島しょ部や山村など、都市部の文化の発達を今まで享受しずらかった地域にも、技術進展の成果を生かして、新鮮で緻密な文化情報を流通させようとしている。衛星放送などの充実が望まれるところである。
 第3に、東京発信、地方受信型の一方通行の情報流通だけではなく、地域に根ざした情報の地方発信・受信型の流通が重視されつつある。CATVのソフトの充実などが図られている。
 第4に、新聞、テレビなどの従来のマス・メディアの充実だけではなく、視聴者が選択できる個別メディアの整備を重視している。パソコン通信やビデオテックスなどが、その代表例である。
 このような特徴は、いずれも個人の自発的な学習意欲を尊重する生涯学習の考え方と符合するものである。
 しかし、技術進展の現在の情報化の成否を決める最大の要素は、むしろ、ソフト、すなわち情報の中味である。これを作り出すエネルギーとしては、行政やメーカーなどのエスタブリッシュメントだけではなく、地域住民の主体的な情報処理と発信という生涯学習活動にこそ、大きく期待されるのである。

2 情報処理の中での学習とメディア・リテラシーの修得

 人々の学習には、必ずなんらかの情報が関わっている。人間の認識は、頭の中だけでの純粋な思索活動だけで発達するのではない。情報を収集し整理するという「外在的作業」によって、大いに育まれる。また、必要な情報を受け入れ、それを自己の思考のなかで加工し、新たな情報を生み出すことは、自己の認知の枠組を変えることでもあり、学習の過程そのものであるともいえる。
 一方、人々の学習を援助するという観点からも、情報は重要である。学ぶ対象としての情報(教材など)や、その情報についての情報、その情報を得る機会や方法についての情報などを整備し、学習者の多様なニーズにこたえる情報環境をつくることが生涯学習行政にとって重要な課題になる。
 そして、そういう教育・学習の活動には、つねになんらかの形でメディアが用いられる。なぜなら、メディアは、学ぶ対象としての情報を運ぶ媒体であり、それがあってこそ個々の学習も成立するからである。
 ただし、繰り返すが、情報の収集から生産にいたる作業には、その個人の認識を育てる作用が内包されている。したがって、情報処理や流通のための「作業」を教育あるいは行政が「代行」するという結果になってしまってはいけない。情報・メディアへの学習者の主体的な関与、すなわち「参加」が大切なのである。
 このような理由もあって、二次情報をもっぱら扱う学習情報提供システムにおいても、情報の集中と地域や施設の独自性との両立が必要になる。データベースには、小さなものはなかなか成長できず、大きなものはますます大きくなるという特性があることから、情報の集中や、それを可能とするフォーマット等の統一が望まれるのであるが、一方では、個性のある情報発信拠点にこそ、いきいきとした学習情報が集まるという傾向もある。
 また、地域や施設が、学習情報の収集・分析・加工・編集・提供を主体的に行うことによって、その地域、施設自体も学習者とともに学び育つことができる。情報を提供する側にも、学習情報への機械的な対応ではなく、独創性をいかした関わり方が求められるのである。
 さらに、リテラシーとは「読み書きの能力」という意味であるが、最近のメディアの発展の中で、人々は好むと好まざるとにかかわらず活字媒体以外のメディアにも直面するようになり、その活用の能力が重要になってきている。この能力をメディア・リテラシーと呼ぶ。
 生涯学習援助の観点からは、まず、情報化の「光と影」のうちの「影」の部分が注目される。そこからは、メディアといっそううまくつき合えるようになるための教育サービスとともに、情報化が人間に与えるマイナスの影響を克服するための人々の主体的な営みへの援助も重視される。後者のように批判的にメディアと接することのできる主体性も、今日求められているメディア・リテラシーの一つなのである。
 さらにつきつめて考えると、個人が情報を必要と感じるのは、当人なりの課題意識があるからなのだが、その課題意識そのものが空洞化しているという現代社会の人間の非主体的状況が浮かび上がる。しかし、その根本からメディア・リテラシーを構築するためにも、最初は、やはり、情報・メディアサービスから始めなければならない。

3 新しい学習の誕生 −パソコン通信にみる可能性−

 最近の目ざましいメディアの発達の中において重要なことは、情報技術の進展に流されることなく、それとしっかり向かい合いながら、自分の個性や人間性をより豊かなものにするためにメディアを活用できる人間の側の主体性の獲得である。この過程が、生涯学習ということに他ならない。
 最近、パソコン通信が盛んに行われているが、われわれはそこに新しい学習の形を見ることができる。
 一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(無定形教育)の機能の発揮である。これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にもそういう教育・学習の場がある。社会や企業等も、その重要性を無視することができなくなってきている。
 二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。普通、「学習しよう」という本人の意識(計画性)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことは、あらためて確認しておくべきであろう。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学んだ「偶発的学習」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした本人にとっては重大事なのだ。
 三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追求する立場がある。それはもっぱら「教育」の専門家である教師のためのものであった。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいRを得ることができるかということ、言いかえれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育のしろうとまでが関心を示している。彼らも、多数に対して何かを表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうコミュニケーションだからこそ、パソコン通信はエキサイティングなのである。
 パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、それをよく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流にある。しかも、交流する対象も、フェース・ツー・フェースの日常的なつきあいをしている人とよりも、見知らぬ他者との出会いを歓迎する。パソコン通信も、パーティーに見られるこのような志向をもっている。
 さらに、パソコン通信によるコミュニケーションの特徴としては、MAZE(迷路)ということがあげられる。ほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。しかも気軽(イージー)にやりとりが行われている。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。
 このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、求める情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。
 パソコン通信は、お互いのメッセージを電子化してやりとりすることを可能にした。この情報の電子化は、情報化の諸側面の中でも最大の技術的基盤の一つといえよう。それが、このような新しい生涯学習の創造の舞台にもなっているのである。

4 ネットワークと「個の深み」

 ネットワークでの人々のつながりは、いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、これが一定の安定をもたらした。しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。
 ネットワークは、このように一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれるが、裏を返せば、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものだということである。企業活動や市民活動や生涯学習活動の中の各種の情報ネットワークにも、そのきびしさが端的に表れている。
 私は、そういうきびしさに立ち向かう力の根本は、「当事者」の存在にあると考える。自ら学ぶことを信条とする社会教育は、本人の「自己解決能力」を信じるのであるし、さらにはその自己解決を外部から支援する可能性をも信ずる。
 この「自己解決」は、「自己認知」すなわち自己(と、その問題)を認識することから始まる。自己を認識するためには、自己を表現しなければならない。じつは、この「自己表現」の力が現代社会の中で削り取られてしまっているのだ。今の学生は、試験の答案を要領よく書くことはできても、自己をあるがままに受容して他者に表現することなどは、損である、あるいは、許されない、と思い込んでいる。話すことも同じである。「おしゃべり症候群」とよばれるように、情報交換とうつろなおしゃべりはしているが、人間の実存から生まれる好み、悩み、怒りなどは交流されない。
 自己の認識と、それにもとづく行動と、その自己評価は、主体性の発現そのものであり、同時に、その人しかもちえない深みであるともいうことができる。私はこれを「個の深み」とよびたい。「個の深み」は、個人にもともと備わっているはずだ。しかし、それらはピラミッドの中でおさえつけられ潜在化している。これを水平な情報ネットワークの中で発信することによって解き放てばよい。話すこと、書くことが、「個の深み」を成長させるだろう。今後の生涯学習においては、このようないわば情報生産の活動が重要になると思われる。情報化による情報技術の進展は、そういう活動にとって大いに味方になるだろう。
 そもそも情報化は情報に化けると書く。何が情報に化けるのか。情報の量が多くなるだけなら、情報機器が発達するだけなら、情報化とはいえない。それらの物的基盤の成熟化の上で、人間が追い求める価値の対象がモノから情報に変わってきたからこそ情報化というのではないか。そして、そこでもっとも価値のある情報は、人間一人ひとりの「個の深み」から発信された情報である。だとすれば、そういう情報をネットワークする活動そのものが生涯学習活動でもあるし、生涯学習活動とは情報ネットワークの実現に向かって個人が主体性を獲得していく過程ともいえるのである。
生涯学習と大学を考える

 学生に自由に書いてもらうと、いろいろなことがわかる。たとえば、公民館の活動の様子をビデオで見て、次のような反応が返ってきた。
 「ママさんコーラスの場面のお母さんたちの表情がとても良かった。歌の好きな人たちが集まり、その人たちの歌声がコーラスになる。技術面では不足していることもあると思うけど、やっぱり歌の好きな人たちが歌う歌は心がこもっていて、こっちまで顔がにこやかになってくる。私は歌が好きだという自分の気持ちを忘れていたような気がする」。
 もちろん、大学は、学校教育の中でももっとも高度な学芸を専門的に学ぶべき所であるが、学生の学習のエネルギー源が一般の人々とまったく違った特殊なものであるわけがない。自らが学ぼうとして学ぶ社会教育や生涯学習と、学生の学習とは、同じ人間であるという理由で同じ原点から出発する。
 「退屈でもじっと耐えて学ぶ」とか「単位を取得するため」とかの、いつのまにか本人の気持ちを縛っている頑張りや思い込みというのは、かえって、主体的な学習態度を学生が持ち切れない最大の原因になっている。我慢も自主性の一つと言う人もいるかもしれないが、そういう頑張りは、「うちの子は、親が何も言わなくても、自主的にドリルをやります」という教育ママの言葉のようにインチキ臭い。学習に求められる自主性というのは、もっと本人の人間としての実存から発する主体性に基づくものだろう。
 生涯学習の時代と言われてはいるが、学ぶ主体性ばかりか、生きる主体性さえ蝕まれている学生が多い。それは現代社会においては学生だけの現象ではないが……。今日の大学においては、学生に学ぶ主体性があることを前提として出発するのではなく、学び、生きる本人の主体性をいかに引き出すかということから考えなければならない。
 学習とは、究極的には、学習者個人が学習しようとしてこそ成立しうるものであり、教育はその営みを促進することができるからこそ存在しているはずだ。だとすれば、大学が社会教育から得るものは大きい。なぜなら、社会教育は、学習者の主体性を尊重しながら、その主体性が発揮されるようどう仕掛け、どう援助するかについて、真正面から取り組んできたからである。ママさんコーラスという支持的風土の集団づくりとその中での相互学習の成果なども、その一つである。
 実際、ロンドン大学では、小集団討議法やグループワークなどの教授法を大学の教員を対象にしてトレーニングしている(「大学教授法入門」玉川大学出版部)。教員は立派な研究者であるとともに有能な教育者でなけれはならないからである。
 社会教育の場で開発されてきた学習者主体の方法は、このように大学の教授法として導入できるものであるし、それ以上に、今日の生涯学習の高まりの中では、学生が直接、社会教育の場に参加することも考えるべきだろう。また、教員の方も、そういう場に参加したり手伝ったりして、新しい風を自らの専門領域に吹き入れた方がよい。アメリカに支部を建てた日本の大学が「君たちのキャンパスはアメリカ全土だ」というコピーを作ったり、ある大学の学長が「大学の教員は、授業のないときは、学内の研究室にいるのではなく、外を飛び回って自らの資質を向上してほしい」と言ったりしているのは、そういう傾向の表れと考えることができる。
 アカデミズムを生涯学習とは両端のものとしてとらえることは、まったく根拠のない思い込みにすぎない。生涯学習推進の合言葉として、「偏差値君、さようなら」があるが、この「偏差値君」が最終目標としていた大学の姿が、この思い込みと重なっている。古い姿の大学への不合理な執着を捨てることは、生涯学習社会の形成のために不可欠な要素なのである。「良い大学」の基準を大学自らが改める必要がある。
 わが昭和音楽大学でも、生涯学習センターを発足させた。市民の音楽への意欲と情熱に煽られて、音楽の専門家である大学の教員がますます目を輝かせている。生涯学習は、教える者と学習する者が水平に交流するギブ・アンド・テイクのネットワークなのだ。
「社会教育計画」,倉内史郎編,学文社
第7章 地方自治体の役割
   −−学習プログラム作成の視点からとらえる−−

7.1 知と健康のネットワークを支援するシステム

●過去の団体中心主義と現在の施設中心主義
 社会教育法には国および地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第3条)こととうたわれている。社会教育を行うのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。
 そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない」(第9条の3)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。
 これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、虎視眈眈とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心をもってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。
 社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。市民の側に、行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。
 戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。
 この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまう。

●ピラミッド型からネットワーク型へ
 民間の団体活動のほうも、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを自ら志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。
 一方、人口1万人当たりだいたい100のグループ・サークルがあると言われる。そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この1万人につき100団体という数字は、社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が100にも満たなかったりするからである。
 つねに発生・消滅をくり返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていない。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を多忙にさせる結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられる。
 従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみのほうもさらに広くなっている。それが、ひとつには、小さなグループ・サークルとしてネットワークを形成している。成熟社会においては、それは重要な営みである。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。
 なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。私は、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張したいのではなく、ネットワークに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。
 さて、本来ならここでネットワークの定義を確定しておかなければならないだろうが、実はそれはあいまいである。しかし、ここでは、「ツリーに対するリゾーム」の論議をとっておこう。つまり、木の幹と枝のように系統だって主従関係のあるものではなく、地下茎が網の目のようにからんでいるイメージである。
 私は、ネットワークの特性は自立と依存関係の統一であると考えている。いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時にパソコンネットワークによって他のコンピュータと連携することができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。
 このようにネットワークという考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「連帯」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「連帯」が同時に対置されることになる。●(1)
 また、その他に、特に社会教育に影響を与えるネットワークのいくつかの特徴として、つぎのような諸点を列挙しておきたい。
 1つは、同じネットワーク上においても、個人は自分の財産を奪おうとする者は許せないが、「知の成果」を盗む者には寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うだろう。パソコン通信において、「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください」という「パプリックドメインソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。
 2つは、ネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの外部放電が個人の内部充電に、直接連動することを良しとする。すなわち、放電的充電と充電的放電であり、個人の内面や個人と個人の間における充電と放電の乖離や分業の固定化を解消しようとする。
 3つは、ネットワークにおいては、「撤退する自由」がある。撤退しても生活に響かないことが多い。「撤退する自由」の上で、他の個人と「知的論争」などをするのは、なかなか愉快である。
 4つは、ネットワークにおいては、個人主義を障害とみるのではなく、むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、「異質」と交流する志向を意味する。
 これ以上のネットワークのかもしだす細かい状況については、第2節以降で随時述べることにしたい。

●啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起
 啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏づけられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。
 当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの3つの特徴をもっている。●(2)
 しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人ひとりの人間がすでに主体性のある主体であることを前提に、その学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。
 ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは大いに重要であるとともに、大いに微妙な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに主体性のある主体」であることを、平面的、教条的に前提にしてしまうとすれば、情報の豊かな今日、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際には、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。
 たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。
 「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「効果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着をはらんだ命題を実現する方策はあるのか。
 結論から言えば、その方策はあると考える。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もある程度あがっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められる。それが、ここでいう「ネットワーク型問題提起」である。
 だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の基盤としての「ネットワーク型援助」一般のあり方について述べておかなければならないだろう。
 「ネットワーク型援助」の重要なファクターのひとつは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。
 アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が盛んだと聞く。人びとが分断された今日の都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」になりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とは言えないのである。
 施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。
 これらの援助は、市民のネットワークを助長し、結果として市民が自ら社会の諸課題への気づきを深めるために役立つ。
 しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性にもとづくものであるか。この「正当性」をもたないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が。
 ネットワーク社会において、地方自治体、とくに社会教育行政は、各人が私有している個人的・社会的「展望」を共有するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っていると言えるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワークの中で共有するように、各人によびかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきではないか。
 糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした展望をもっていたり、ほとんど絶望したりしている。行政が、たとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが生まれるかもしれない。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。
 ここまで、地方自治体のとくに社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞってみた。これからは、啓蒙主義との違いがとくに問題となるであろう学習プログラム提供に焦点を当て、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、より具体的に明らかにしていきたい。

7.2 年間事業計画の作成

●地域の実態、行政の実態をとらえる
 ここでいう「年間事業計画」とは1年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」と言うことができる。
 国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(1988年9月)(以下、たんに『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、このテーマに関するアイテムを拾ってみる。
 地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。
 これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりはとらえたと言うことができるであろう。
 しかし、これはあくまでもひととおりであって、地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応のほうが有効になるのである。
 それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを感じ取ることが必要である。
 住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、一つひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」「記録」などが重要である。逆に言えば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報化社会においても地域・現場にしかない貴重なものである。
 さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が、上司からも監督されず、個人の孤独な作業としてすすめられがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の「水平な」ネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとって不可欠である。

●学習要求をとらえる
 ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないか、と言う。渋谷のウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない。選択基準自体が毎日変わる、と言う。彼らのニーズを把握するために、「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでしているが、それでも把握は難しいらしい。
 学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているか、はっきりした事実はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。わからない原因のひとつは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく生みだされるものだからである。
 ただ、その会社の人の話では、1つには「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れない。2つには「わけのわからないもの」が意外に売れたりするという。
 前者は学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の3つに欠ける場合がある。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などが必要である。
 後者は、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえばおもしろがられて受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。
 つぎに、「不易流行」の言葉を借りれば、ここまでの議論は「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。
 しかし、この「不易」の学習要求のほうも、その本当の中身は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでも、たとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。このように、地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても不完全のものであることを知った上で行わなければならない。
 それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていくしか、あるいは新たに「つくりだしていく」しか、ないのである。

●「公的課題」の優先
 ネットワークもひとつの「自治」の形態と言える。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言ってもよい。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよい。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それは当事者である個人が決める。
 このような様子であるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。
 それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意図」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。
 そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議とも言える。むしろ、「行政らしい関わり」をすることの方が行政としての個性を出すという意味でも「ネットワーク的」なのではないか。
 「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。
 もちろん、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的学習課題」のように見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。
 つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然と言えるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で流動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりする。
 だから、学習プログラムも表面上は私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する期待(展望)をもっていなければならない。そして、その期待を住民の前につねに明らかにしていくことのほうが、住民との関係でフェアだと考えるのである。
 さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題と考えることができる。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。
 このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを「操作概念」として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。
 たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例にあげたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、その課題を優先して問題提起し、援助する。
 もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、わからない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。
 しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになったときには政策のほうを転換する義務を負うという「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べよう。
 つぎに、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人びとの「学習権」はどうなるか。これについては、より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。
 その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。
 しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は「行政から学習権が保障される」立場から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワークの「役割遂行者としての立場」に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。
 なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されているものであり、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もあまり問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢は、同様に必要である。

●学習課題を整理する
 公的課題を優先するためには、その前に公的課題は何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。
 たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』はつぎのように述べている。
「これからの生涯学習を進めていくうえで、とくに留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる。」●(3)
 このような「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、いずれにせよこの「構想」は簡潔にまとまった提言として評価できる。
 そこで、それぞれの自治体での住民の学習の実態の中で、これらの課題に対応する学習がどのように行われているか、あるいは行われようとしているのかをていねいに見つめてみたとする。そこでは、まったく学習されようとしていない課題などというものはないということが明らかになるだろう。
 つまり、公的課題の優先とは、行政による学習課題の「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。
 このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例をつぎのようにあげている。
 生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。
 これらの分類によって学習課題を体系的に整理することができ、そのことが、行政が学習要求や学習行動から公的課題を謙虚に選択するための根拠にもなる。
 ただ、すでに述べたように、行政側の考えている公的課題、すなわち行政課題も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、上の領域区分と同じ次元ではなく、もうひとつの次元としてとらえて、上の区分とかけあわせたマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての行政の主体的な関わり方が出てくる。
 さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。
 それらの各種事業を区分する基準については、『社研資料』では「事業形態・方法別」の一例としてつぎのようにあげている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要である。
 さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題の一つひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックスによるとらえ方が求められるのである。

3 個別事業計画

●「学習ニーズ」の優先
 ここでは、一つひとつの事業における学習プログラムの作成について述べる。
 年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。しかし、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応を最重視する姿勢で論をすすめたい。
 なぜならば、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないという理由も、もちろんある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。現行の学習プログラム提供は、ニーズ対応の面でも、かなり不十分だという認識を私はもっている。
 前節でいう「公的課題」を明確にした上で必要なこと、それは、そこで仮に設定された「公的課題」を、いろいろな機会を利用して住民にはっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。
 つぎに、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が、現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば仮に「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいては、住民の学習ニーズに呼応してそれが再び「融解」して学習機会として提供される。
 行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させることしかできない。しかし、それを不変のものとしてそのまま住民に押しつけるとすれば問題がある。ネットワーク型援助は、行政と住民との関係が水平であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の独善になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」することによって、初めて、行政の側が学習課題を選択することのもつ危険性を減らすことができる。
 現に、あとで述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえない住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると私は思う。学習ニーズに絶対確実なものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。

●参加対象をどう設定するか
 社会教育行政はなぜ対象別、とくに発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。つまり、一義的には、プログラムの作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をすると言える。
 だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならないはずである。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたはずだからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるなどの効果もあがるかもしれない。
 「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであったにせよ、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民が個々に判断して行動を決定する。企画者は予測のつかない結果をむしろ歓迎すべきである。
 しかし、参加対象を「限定」するほうが良い場合も、なかにはある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断をとりあえずせざるをえない。
 だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」●(4) 準拠集団の端緒を、行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合は「異質」の人との水平的なネットワークがまだ期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始めるのである。
 たとえば「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事だけに依存して生きているような「暗い青年たち」もいるかもしれない。そういう青年たちが、活発な婦人や一家言をもっているような高齢者と、最初から水平的ネットワークを営むのは無理だろう。そういうときは、「青年講座」への主婦、高齢者の参加を断わる場合も例外的にはありえよう。
 しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。このことは、集団を固定化し、ネットワーク化を阻害する要因になっている。
 さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側が住民の参加を開拓し、受け入れる、いわばマーケティングの用語といえる。しかし、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」とよぶ。「対象」と言うより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が自ら問題を解決することを基本におく姿勢が表れている。
 もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」とよぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、考え方としては学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、プログラム作成時においても、「対象」の望ましい将来の姿を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。
 最後に、逆に、マーケティングの観点から、新たに「開拓」すべき「対象」を考えてみたい。
 1つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の動向は、実は経済活動の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されなくなっている。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが本当に身につくのは、自己成長を促すネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるはずだ。
 2つは「大学生」である。彼らは今やエリートなどではなく、今後は多数派としての一般住民になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めているので、その参加により、事業にトレンドがフィードバックできる。そして、彼ら自身に、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日大いに生まれている。
 3つは「一時滞在者」である。博物館は旅行者の利用を歓迎している。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。さらに、今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの人は、「新しい風」を吹かせてくれる人である。彼らを地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。各自治体が「旅行者向け学習プログラム」などを提供するようになれば、週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が全国規模で可能になるのである。

●各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 『社研資料』ではつぎのとおりである。
「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。
 このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民は中身をよく知った上で参加を検討できる。
 さて、最初に「学習目標」であるが、1つには、直接、企画者側から問題を提起すること、つまり「課題性」のあるものが考えられる。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。
 2つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。
 たとえば、住民の国際性のかん養をはかるという目的で「中国語教室」を開いたとする。そうすると本時の学習目標は「中国語がしゃべれるようになること」ということになりそうだが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」などとしなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。
 それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定し、そういうサービスをして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化したほうがいいだろう。
 つぎに、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける必要がある。
 最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか提案してみたい。
 1つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習ということばには、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。もちろん、今後の学習社会においても、そういう性質の学習はますます必要になるだろう。しかし、そういう「手段としての」学習ばかりを偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。
 現在、生涯学習の進展の中で、「学習」とよばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いという、いわば「快感覚」の追求なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシー(健康的)でハイ(高次)な「快」である。
 もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは今後の技術革新の社会において必要不可欠の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどない。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで「遊んで」いる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、そういう「遊び」のほうが結果としては効果的な学習になっているのだ。
 ここで、注目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。
 自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。そのひとつが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することよりも、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。
 2つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。●(5)
 ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワークをしようとする個人がその「深み」を獲得して発揮するために必要な技術のひとつが、情報の収集から発信までを含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。
 学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」のほうがそれより優れているということではない。)
 このように、行政としての期待をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を行うことは、社会教育行政の「ネットワーク型援助」の中でもとくに代表的な行為である。
 3つは、「コミュニケーション技術」である。「知的生産の技術」とも重なるが、聞く・話す・書くなどの技術である。
 戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議のすすめ方などが学ばれた。
 しかし、今日、ネットワークの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う面をもっている。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者は、干渉したり、心配したりはしない。また、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど行使する場面がない。
 それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。ネットワークのコミュニケーションの中では、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った人だけがプレゼンテーターに協力し、再びコミュニケートに向かう。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。
 4つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の「下請け」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。
 もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは時間的にも困難であるから、実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦するためのオリエンテーションになるような学習内容を設定することになるだろう。

 個別事業計画の作成に当たっては、学習方法、講師、指導者、教材、教具などを設定する作業が残っている。また、その他に、参加者の募集、広報、企画・運営への住民参加組織、アフターサービスなどについても計画化しなければならない。
 しかし、それらについてはここでは、逐一解説するのをやめ、その他の「計画化」においても、すでに説明した「ネットワーク型援助」の考え方にもとづき、学習ニーズに沿いながら参加者の主体性を誘発するような「しかけ」をちりばめる必要があるとだけ述べておきたい。

●学習プログラム作成上の今後の課題
 ここでは、これまでに言いつくせなかった学習プログラム作成上の今後の課題を、いくつか簡単に紹介することによって、まとめに代えたい。
 1つは、集合学習の「非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)の課題である。
 ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、「パーソナル」から「ソーシャル」へと発展する。これは一部、「パブリック」でさえある。このように「マス化」によってではなく、「非マス化」によってパブリックにまで発展することを、ネットワーク型援助はめざしている。
 ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできないだろう。しかし、集合学習にあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追求していかなければならない。つまり、「あなたは、集団の中のたんなる一人ではない」というアピールをもった学習内容・方法をプログラムの中にもつ必要がある。
 2つは行政の「主体性」の発揮の課題である。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。残された問題は両者のつなぎ方である。
 社会教育職員の中には「概念くずし」ということばを使うものがいる。住民が当たり前だと思っていることに切り込んで、住民の認知の枠組の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性を示しているともいえる。
 もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する行政側の認識の不十分さを謙虚に認識しながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。
 3つはプログラムという「計画」そのものの「非計画化」の課題である。ここで、「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることを意味する。たとえば、何があるかわからないパーティー型のプログラムや、空白の時間を設定して学習者がその中身を決めるプログラムなどが考えられる。
 社会教育行政は人間関係の仕事である。つねに揺れ動き移り変わる存在としての人間とつきあう。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、めざすべき価値がはっきりとは決まっていないオープンシステムのほうが適していることも多いのである。

 地方自治体は各セクションごとに専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供すべきである。都市と農村の双方が大きくきしむ中、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を住民に訴える責任をもっている。
 さらにその上で、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与することになる。それが「ネットワーク型」で行われるかぎり、行政と住民との相互のフィードバックはつねに保障されよう。
 そして、行政から自立しながらも行政と協働する住民自身のネットワークの中で、住民は主体性を獲得する。根本的には、住民のこのような主体としての成長があってこそ、個人を疎外しない「ネットワーク型」の地域合意が形成される。これこそが「公的課題」の現代的、かつ本質的な解決の方向である。

●注
(1) 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」に関しては、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)を参考にした。
(2) 「啓蒙主義」については、江上波夫他編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一他編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)から引いた。
(3) 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」1988年3 月
(4) 見田宗介他編「社会学事典」弘文堂、1988年
(5) 梅棹忠夫「知的生産の技術」岩波書店、1969年

社会教育計画ミニ知識

第1章のあき 15行

「社会教育計画」の科目に含まれる内容
 1986年の社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」では、「社会教育計画」という科目について、ねらいを「社会教育の計画・立案についての理論と方法の理解を図る」と示した上で、次のように「内容」を例示した。
  地域社会と社会教育、社会教育調査とデータの活用、社会教育事業計画、 社会教育の対象の理解と組織化、学習情報提供と学習相談、社会教育と広報・
 広聴、社会教育施設の経営、社会教育の評価
 それぞれの「留意点」を見ると、「地域社会の諸類型・特性に対応した社会教育施策についての理解」「地域における学習集団の形成に対する援助方策についての理解」「広報・広聴をとおした人々の学習意欲の喚起」「社会教育及び社会教育行政の効果測定に関する知識や技術についての理解」などの記述があり、それらのことも、この「社会教育計画」の科目の中で学ばれるよう想定されていることがわかる。社会教育の計画・立案のためには、結局、社会教育実践において基本になる力と同じものが必要になるのである。

第2章のあき 0行

第3章のあき 18行

社会教育の対象と発達課題
 1950年ごろ、ハヴィガースト(R.J.Havighurst)は、胎児期、幼児期、児童期、青年期、壮年初期、中年期、老年期の7段階に、60年代に入って、エリクソン(E.H.Erikson )は、乳児期、早期児童期、遊戯期、学齢期、青年期、初期成人期、成人期、成熟期の8段階に、それぞれ一生涯の発達段階を区分し、各段階ごとに固有の達成すべき課題、すなわち発達課題(developmental task)があると主張した。社会教育のそれぞれの対象を理解するということは、それぞれの発達課題を理解するということなのである。
 しかし、その場合に注意しなければならないことの1つは、「輪切り」すなわち発達段階別に対象を集めることが、発達課題の達成に適しているとはいえないということである。他世代と交流する方が有効な場合も多い。
 2つは、よき社会に適応するための発達という側面だけで楽観的に考えることはできないということである。エリクソンは、現代社会における青年のアイデンティティ(自己同一性)獲得の困難を指摘した。現代社会の歪みの中で、どのように個人として発達するかという視点が必要である。
 3つは、すべての人間に発達課題の達成が必要だとしても、その期間、形態、内容が、画一的に表れることを理想とするものではないということである。むしろ、それらは、個別であって当然で、時代の方が変わるかもしれない。

第4章のあき  4行・・・少ないのでカットしてもよい

広報・広聴の意味
 広報とは、PR活動である。ただし、このPRの意味は、public relations、すなわち行政と住民との間に健全で建設的な関係を維持、確立するための活動ということであり、住民との十分なコミュニケーションが前提となる。だから、広聴(住民の意見・要望の収集)活動も、狭義の広報と並ぶPR活動である。

第5章のあき 11行

社会教育施設整備のための国からの補助
 補助金は、一般には、特定の施策を奨励したり、全国的に一定水準の行政を実現するために支出される。公立社会教育施設整備費は、文部省の「補助金交付要綱」に基づき都道府県や市町村に交付されるが、やはり同様の意味をもつものである。すなわち、全国のどこに住む人でも利用できるようにすることが必要だと思われる社会教育施設の充実を、それによって図っている。
 この「要綱」では、それぞれの種類の施設の建物の面積や内容の最低基準を定めた上で、建築工事費等の一部を交付することによって、結果的には全国の施設で一定水準以上のものを実現している。しかし、この補助金が、とくに縦割り行政の弊害などによって、自治体の独自性を損なうことにならないよう、注意しなければならない。

第6章のあき  8行

社会教育における学習成果の評価のあり方
 臨時教育審議会は、学歴社会の弊害の是正を訴え、「人々の能力の様々な側面に着目し、特定の側面における秀でた能力を積極的に評価する」として、評価の多元化を提言した。さらに、成人学習者の場合は、自律的学習者としての主体的な自己評価がとくに重要である。しかし、それは、社会教育行政などがそれらの評価には無関心でもよいということではない。評価に必要な情報をきちんと提供するなどの援助をし、また、このようにして得られた個人の学習成果の評価を真摯に受けとめて、今後の経営に生かすことも必要である。

第7章のあき 14行

社会教育目標と社会教育行政目標との違い
 社会教育目標として、たとえば、「スポーツに親しみ、健康な心と体を鍛える」という言葉があったとする。これは、行政自体の心と体を鍛えることではないのはもちろん、住民の心と体を行政が鍛えてやることでもない。心と体を鍛えるのは、住民自身であり、行政がそういう社会教育目標を掲げるのは、住民にそれを提言しているだけのことなのである。すべての社会教育目標は、当然のことながら、このように住民にとっては拘束力のないものである。
 しかし、社会教育行政目標は、この社会教育目標に基づいて設定される。これは、社会教育目標が達成されるためには、行政は条件整備者として何をしなければならないかを明らかにしたものである。それは、施設の整備や行政としての事業の実施などの目標であったりする。
 社会教育目標を行政が設定することについては、住民の自主性を尊ぶ立場からの異論もあるが、社会教育行政の経営が目的意識的になり計画化される、行政の考えていることが住民の前に明らかにされる、などの意義は大きい。

社会教育計画の種類
 社会教育計画というのは、非常に広い概念である。そのため、実際に存在する社会教育計画は、さまざまな視点から、さまざまな分類をすることができる。
 「ひと・もの・こと・かね」のファクターで考えれば、人的計画、施設・設備計画、事業計画、財的計画ということになる。スパンの違いなら、長期計画(5〜10年)、中期計画(3〜5年)、単年度計画(1年)などがある。1カ月の計画や、1週間の計画だって、社会教育計画の一つである。
 また、視点を変えると、特定の学習分野・領域の計画、特定の教育対象のための計画、特定の学習方法・形態の計画、特定の施設の経営のための計画、そして、それらを総合した計画というように、分けることもできる。
 分野としては、自然系、人文系などのほか、男女平等教育、人権尊重教育、環境教育などのような学問的にはボーダーレスな分野も重要である。領域としては、文化振興、スポーツ・レクリエーション振興、あるいは、指導者養成、団体援助などもある。教育対象(学習主体)としては、乳幼児(実際には両親、保護者)、少年、青年、成人、高齢者、あるいは、大学生、婦人、サラリーマンのような対象も考えられる。方法・形態としては、放送利用学習なども考えなければならない。施設としては、公民館、図書館、博物館、青年の家、あるいは、一般部局や民間の関連施設もある。総合的な計画についても、社会教育行政セクションの計画のほか、自治体の総合計画や地域総合計画に含まれている学習援助の側面を鋭く見いださなければならない。
 このように多種多様な社会教育計画を、われわれは、紙の上で、頭の中で、相互関連的に縦糸と横糸とを組み合せて把握する必要がある。

以下旧版

「社会教育計画」,倉内史郎編,学文社
7章 地方自治体の役割
   〜学習プログラム作成の視点からとらえる〜
           国立教育会館社会教育研修所専門職員 西村美東士

1 知と健康のネットワーキングを支援するシステム
1−1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義
 社会教育法には国及び地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行なうのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。
 そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない。」(第九条の三)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。
 これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、「虎視眈眈」とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心を持ってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。
 社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が、市民側に一部、育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。
 戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。
 この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまうのである。
1−2 ピラミッド型からネットワーク型へ
 一方、民間の団体活動の方は、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。
 ところが、文部省社会教育官の瀬沼克彰氏は、ある会議で「グループ・サークルを調査したところ、人口1万人当たりだいたい100の団体がある。」と紹介している。当然、そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この100という数字が概数であっても、その数は社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が全市でその100という数にも満たなかったりするからである。
 つねに発生・消滅を繰り返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていないのである。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を「多忙にさせる」結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられるのである。
 従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみの方もさらに広くなっている。それが、一つには、小さなグループ・サークルとして「ネットワーク」を形成しつつある。成熟社会においては、それは重要な一現象である。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。
 なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。本論では、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張しているのではなく、ネットワーキングに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。
 さて、本来ならここでネットワークの定義を確定しておかなければならないだろうが、実はそれはあいまいである。しかし、ここでは、「ツリーに対するリゾーム」の論議をとっておこう。つまり、木の幹と枝のように系統だって主従関係のあるものではなく、地下茎が網の目のようにからんでいるイメージである。
 私は、ネットワークの特性は自立と依存関係の統一であると考えている。いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時にパソコンネットワークによって他のコンピュータと連携することができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。
 このようにネットワークという考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「連帯」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「連帯」が同時に対置されることになる。●1
 また、その他に、特に社会教育に影響を与えるネットワークのいくつかの特徴として、次のような諸点を列挙しておきたい。
 一つは、同じネットワーク上においても、個人は自分の財産を奪おうとする者は許せないが、「知の成果」を盗む者には寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うだろう。パソコン通信において、「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください。」という「パプリックドメインソフト」を無料で提供する若者がたくさんいることがその好例である。
 二つは、ネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの外部放電が個人の内部充電に、直接連動することを良しとする。すなわち、放電的充電と充電的放電であり、個人の内面や個人と個人の間における充電と放電の乖離や分業の固定化を解消しようとする。
 三つは、ネットワークにおいては、「撤退する自由」がある。撤退しても生活に響かないことが多い。「撤退する自由」の上で、他の個人と「知的論争」などをするのは、なかなか愉快である。
 四つは、ネットワークにおいては、個人主義を障害とみるのではなく、むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、「異質」と交流する志向を意味する。
 これ以上のネットワークのかもしだす細かい状況については、第2節以降で随時触れることにしよう。
1−3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起の公的役割
 啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。
 当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの三つの特徴をもっている。●2
 しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人一人の人間がすでに学習主体であることを前提に、その自己学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。
 ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは「非常に重要」であるとともに、「非常に微妙」な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに学習主体」であることを、平面的、機械的、教条主義的に前提にしてしまうとすれば、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際は、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。
 たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。
 「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「結果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着を起こしそうな命題を実現する方策はあるのか。
 結論から言えば、その方策はある。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もそうとう上がっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められている。それが、「ネットワーク型問題提起」であると考える。
 だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の発生する基盤としての「ネットワーク型援助」一般について述べておかなければならないだろう。
 「ネットワーク型援助」の重要なファクターの一つは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。
 アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が非常に多いと聞いた。人々が分断された都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」たりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とは言えないのである。
 施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。
 これらの援助は、市民のネットワークを助長し、「結果として」市民が自ら社会の諸課題への「気づき」を深めるために役立つ。
 しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性に基づくものであるか。この「正当性」を弁明できないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が・・・。
 ネットワーク社会において、地方自治体、特に社会教育行政は、各人が「私有」している個人的・社会的「展望」を「共有」するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っていると言えるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワーキングの中で共有するように、各人に呼びかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきなのではないか。
 糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした、またはほとんど絶望的な「展望」をそれぞれもっている。行政がたとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが発生するだろう。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。
 ここまで、地方自治体の特に社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞるつもりで足早に論を進めてきた。これ以上の論議は、啓蒙主義との違いが特に問題となる学習プログラム提供についてしぼって、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、なるべく具体的に明らかにしていきたい。
●1 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」に関しては、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)が参考になった。
●2 「啓蒙主義」については、江上波夫他編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一他編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)から引いた。

2 年間事業計画の作成
2−1 地域の実態、行政の実態をとらえる
 ここでいう「年間事業計画」とは1年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」ということができる。
 さて、国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(昭和63年9月)(以下、単に『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、この見出しに関するアイテムを拾ってみる。
 地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。
 その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。
 これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりとらえたと言うことができるであろう。
 しかし、これはあくまでも「ひととおり」である。地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来への「トレンド」も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応の方が有効になるのである。
 それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを「感じ取る」ことが必要である。
 それは、住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、ひとつひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」、「記録」などが重要である。逆に言えば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報化社会においても地域・現場にしかないのである。
 さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が上司から「監督」されずに個人の孤独な作業として進められがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の「水平な」ネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとっても不可欠である。
2−2 学習要求をとらえる
 ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないかと言う。若者の街におけるウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない、選択基準自体が毎日変わると言う。「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでして、彼らのニーズを把握しようとするなどの猛烈な企業努力をしているが、それでも難しいらしい。ただし、企業は今でも若者に、なんとか、ものを売り続けている。
 行政が学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているかのはっきりした正解はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。なぜわからないかといえば、その主要な原因の一つは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく「生みだされる」ものでもあるからである。
 ただ、その会社の人の話の中から、一つには「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れないということ、二つには「わけのわからないもの」が意外に売れたりするということの二つから我々は学べるものがある。
 前者は学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の三つに乏しいのである。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などの主体性が付加されなければいけない。
 後者は、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえば「おもしろがって」、受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。
 次に、今までの論議は「不易流行」の言葉を借りれば、「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。
 しかし、この「不易」の学習要求の方も、その中味は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでもたとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても、最小公倍数のものであることを知った上で行わなければならない。
 それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていく、あるいは「つくりだしていく」しかないのである。
2−3 「公的課題」の優先
 ネットワークは「自治」である。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言った方がよいだろう。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよいのである。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それを当事者である個人が決める。
 このようなことであるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。
 それに対して、行政が行うべき「ネットワーク型問題提起」は性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意思」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。
 そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議とも言える。むしろ、「行政らしい関わり」をすることの方が行政としての「個性を出す」という意味から「ネットワーク的」なのではないか。
 「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。
 しかし、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的課題」に見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。
 つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然と言えるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりすることに留意する必要がある。
 だから、学習プログラムも表面上、私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する展望をもっていなければならない。そして、その展望を住民につねに明らかにしていくことの方が住民との関係でフェアーだと考えるのである。
 さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題であるという現実がある。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。
 このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを操作概念として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。
 たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例に挙げたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、それを優先して援助・提起する。
 もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、保障されない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。
 しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになった時には政策の方を転換する義務を負うという意味での「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べる。
 次に、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人々の「学習権」はどうなるか。より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。
 その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。
 しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は行政から「学習権が保障される」立場から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワーカーの「役割遂行者」としての立場に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。
 なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されており、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もほとんど問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢が、すなわち、公的課題の「優先」ではなく「一般の他の課題との同列化」ぐらいの重視の姿勢は必要であろう。
2−4 学習課題を整理する
 公的課題を優先するためには、公的課題とは何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。
 たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』は次のように述べている。
「これからの生涯学習を進めていくうえで、特に留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる」。●
 このようにいわば「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、これは簡潔にまとまった提言として評価できる。
 そこで、これらの青少年問題以下の課題に対応する学習がすでに行われているか、あるいは行われようとしているかどうか、それぞれの自治体での住民の学習の実態を思いおこしていただきたい。実は、まったく学習されようとしていない課題というのはないのではないか。
 つまり、抽象的に言えば、公的課題の「優先」とは、行政による学習課題の「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。
 このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例を次のように挙げている。
 生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。
 これらの分類によって整理が比較的、体系化され、行政が学習要求や学習行動から謙虚に公的課題を選択する根拠ともなるのである。
 ただ、すでに述べたように、行政側が考える公的課題(行政課題)も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、上の領域区分と並列ではなく、もう一つの次元としてとらえて、上の区分とのマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての主体性がある。
 さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。しかし、これらについては、そのポイントがほとんど次の節と重なるので本節では省略する。
 ただ、それらの各種事業を区分する基準であるが、『社研資料』では「事業形態・方法別』の一例として次のようにあげられている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要であることに留意したい。
 さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題のひとつひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックス的なとらえ方が求められるのである。
●1 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」、88.3

3 個別事業計画
3−1 「学習ニーズ」の優先
 いよいよ、ここでは、ひとつひとつの事業における学習プログラムの作成について述べることになる。
 さて、年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。ところが、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応最重視の姿勢で論を進めたい。なぜか。
 もちろん、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないということもある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。そして、現行の学習プログラム提供もニーズ対応の面では、私はかなり不十分だという認識をもっている。
 前節でいう「公的課題」がそれなりに明確になったあとに必要なこと、それはそこで「仮に」設定された「公的課題」を住民にいろいろな機会を利用して、はっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。
 次に、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいてはそれが住民の学習ニーズに呼応して「融解」して提供される。
 行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させてよい。しかし、それをそのまま不変のものとして住民に押しつけるとすれば問題がある。しかも、個別の学習プログラムの段階までいくと、講師の依頼の関係などから、残念ながら宿命的に「不変なもの」としての性格が強まってしまっているのである。
 これに対してネットワーク型援助は、住民との関係が水平的であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の「独善」になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」する必要がある。このことによって初めて、住民の主体的な学習参加とネットワーク化が促されるし、行政の側が学習課題を選択することについての安全性の保障にもなる。
 現に、次から述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえないであろう住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると私は思う。学習ニーズに絶体確実と言えるものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。もちろん、それは私のトレンドの「見間違い」の可能性もあるが、それはそれで「公的課題」設定の困難性と安全性保障の必要性を示していると言えるだろう。
3−2 参加対象をどう設定するか
 社会教育行政はなぜ対象別、特に発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。第一義的には、プログラム作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をするといえる。
 だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならない。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるかもしれない。
 「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであっても、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民の個々が判断して行動を決定する。企画者が予測のつかない結果をむしろ歓迎するのである。
 しかし、参加対象を「限定」(「設定」ではなく)する方が良い場合もある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断を「とりあえず」することは許されるだろう。
 だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」●1準拠集団の端緒を行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合はまだ「異質」の者との水平的なネットワークが期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始める必要がある。
 たとえば「ビッグトゥモロー」、「セイ」などの「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事を熱心に読んでいる「暗い青年たち」もいる。活発な婦人や一家言を持っている高齢者に対して、そういう青年たちが最初から水平的ネットワークを営むのは無理と企画者が思うなら、「青年講座」への主婦、高齢者の参加は断わらなければならない。
 しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。これは、すなわち「集団の固定化」の傾向であり、ネットワーク化の阻害要因なのである。
 さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側から住民に対して、参加を開拓して受け入れる、いわばマーケティングの用語と言える。ところが、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」と呼んでいるようだ。「対象」と言うより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が「自ら」ことを解決することを基本におく姿勢が表れている。
 もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」と呼ぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、作成時においても、「対象」の「望ましい姿」を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。
 最後に、マーケティングの観点から、新たに注目すべき「対象」を考えてみたい。
 一つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の傾向は、実は経済基盤の変化の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されない。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが養えるのは、ネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるばずだ。
 二つは「大学生」である。彼らはエリートではなく、多数派としての一般住民の一員になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めていることには変わりない。大学生の参加により、事業にトレンドがフィードバックできるのである。そして、彼ら自身がすでに一般社会人としての性格をもっているのに、中期高等教育の程度の教育しか受けていない者が多いということから、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日生まれているのである。
 三つは「一時滞在者」である。博物館のように旅行者へのサービスはできないものか。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの「新しい風」を吹かせてくれる人を地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。さらに、各自治体が「旅行者向け学習プログラム」を提供するようになれば、日本全体として週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が可能になるのである。
3−3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 『社研資料』では次のようになっている。
「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。
 このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民はよく中味を知った上で参加を検討できるのである。
 さて、最初に「学習目標」であるが、これは一つには、直接、企画者側から問題を提起する、つまり「課題性」のあるものが良い。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。
 二つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。
 住民の国際性のかん養をはかる目的で「中国語教室」を開いたとする。まさか本時の学習目標は「国際性のかん養」とは書けないから、「中国語がしゃべれるようになること」ということになるが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」としなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それでも出たい人には、前半の数回はお義理で参加していただくようお願いするしかない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。
 それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定しサービスして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化した方が良いだろう。
 次に、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける。
 最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか列挙したい。
 一つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習という言葉には、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。また、今後の学習社会においても、そういう性質の学習もますます必要になるだろう。しかし、そういう「目的意識」のある学習にばかり偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。
 現在、生涯学習の進展の中で、「学習」と呼ばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いといういわば「快感覚」の追及なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシーでハイな「快」である。
 もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは明らかに今後の技術革新の社会において必要不可欠の個人の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどないのである。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで遊んでいる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、その「遊び」の方が結果としては効果的な学習になっているのだ。
 ここで、着目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには反対する議論もある。しかし、少なくともそうとう有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)にはなっているのは事実だ。
 オイルショック以降、経済の安定成長の中で人生が楽しめるような個人の主体性を社会が求めている。その一つが人間のネットワーク能力であり、もう一つが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。後者に対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することではなく、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。
 二つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。●2
 ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワーキングをしようとする個人がその「深み」を発揮するために必要な技術は、情報の収集から発信まで含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。
 学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」の方がそれより優れているということではない。)
 このように、行政としての「期待」をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を広い層に提供するということは、「ネットワーク型援助」の中でも特に象徴的な社会教育行政の行為である。
 三つは、「コミュニケーション技術」である。具体的には、二つめとも関わるが、聞く・話す・書くなどの技術である。
 戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議の進め方などが学ばれた。
 しかし、今日ネットワーキングの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者はなぜかを聞くことはあっても、干渉したり、心配したりはしない。そして、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど必要ない。
 それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。それは、ネットワークのコミュニケーションの中で、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った他者だけがプレゼンテーターの気持ちの理解もともなってその企画を理解し、それによって自己を革新し、再びコミュニケートに向かうすべての営みの総体をさす。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。
 四つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の単なる「弟子」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。また、行政が必要と考える「部分」だけに絞ってプログラム提供することは危険でもある。
 もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは不可能である。実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦する動機づけに最適な学習内容を設定することになる。
 そもそも、「ネットワーク型問題提起」としての学習プログラム提供は、「すべて」を提供してしまうものであってはならない。教育一般の本質とも言えることだが、「教える」場合は最小限に、そして意識的に「中途半端で打ち切る」ということが必要なのである。

 個別事業計画の作成に当たっては、学習方法、講師、指導者、教材、教具などを設定する作業が残っている。また、その他に、参加者の募集、広報、企画・運営への住民参加組織、アフターサービスなどについても計画化しなければならない。
 しかし、それらについてはここでは、逐一解説するのをやめ、すでにるる説明した「ネットワーク型援助」の考え方に基づき、学習ニーズに沿いながら参加者の主体性を誘発するような「しかけ」をちりばめる必要があるとだけ述べておこう。
●1 見田宗介他編「社会学事典」、弘文堂、88.2
●2 梅棹忠夫「知的生産の技術」、岩波書店、69.7

3−3 小括
 すでに与えられた枚数を越えてしまっている。また、これまでより新しい知見で学習プログラム作成における「ネットワーク型援助」について語る力量も私にはない。そこで、残された課題を述べることによってまとめに代えたい。
 一つは「集合学習の非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)についてである。
 ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、パーソナルからソーシャルへと発展する。これは一部、パブリックでさえある。このように「マス化」でなくて「非マス化」によってパブリックにまで発展することが、ネットワーク型援助行政のめざすところである。
 ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできない。しかし、そこにあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追及していかなければならない。とりあえずは、「あなたは『大衆』ではない」というアピール性のある集合学習のプログラムを作成、提示することになるだろう。
 二つは行政の「主体性」の発揮についてである。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。問題は両者のつなぎ方である。
 自治体の社会教育職員の中に「概念くずし」という言葉を使うものがいる。住民が当り前だと思っていることに切り込んで、意識の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性も示している。
 あるいは、行政自体が、「公的課題」というコンセプトをもち、それをメッセージとして発することは、許されるのではないか。それは、住民に対する「おしつけ」ではなく、いわば「刺激」としてとらえられないか。
 さらに、教育は「教え育てる」ことだからと言って、社会教育を忌避する論もある。しかし、そういう論者の言う「成熟した市民」にとっては、「教える」と「育つ」は、ネットワークの中ではお互いに「教師と生徒」ということでこん然一体となり、行政に対しては「育つ」主体は自分だということできちんと分離できているのではないか。
 もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する自己の見識の貧弱さにつねに不安をもちながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。
 三つはプログラムそのものの「非計画化」についてである。「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることである。たとえば、学級・講座型ばかりでなく、パーティー型の何があるかわからない、あるいはその場で参加者が決めるプログラムなどがそれである。
 社会教育行政は人間関係の仕事である。だから、つねに揺れ動くもの、移り変わるものとしての人間とつき合うことになる。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、価値を先に決めないオープンシステムが、本質的に適しているのである。

 地方自治体は各セクションの専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供する。都市と農村の両方が大きくきしむ中で、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を訴えることができる。
 さらにその上に、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与できる。それが「ネットワーク型援助」であれば、住民との相互のフィードバックがつねに保障されているからである。
 そして、これら行政と自立しながら協働する住民自身のネットワーキングによって、住民はいっそうの主体性を獲得する。そして、究極的には個人を疎外しない「ネットワーク的」な地域合意を形成してこそ、「公的課題」の本質的な解決がはかれるのである。
生涯学習ホットライン104選

生涯学習における少年教育の推進

生涯学習としての少年教育の特徴
 少年(少女を含む)とは、少年法では満二十歳に満たない者、児童福祉法では小学校就学から満十八歳までをいうが、生涯学習の観点からは、義務教育年齢の範囲の者をさす場合の方が一般的である。
 もちろん、そういう義務教育年齢の子どもたちにとって、組織的な教育の最大の場は、学校である。しかし、生涯学習時代に向けて、従来の学校教育のやり方だけでは不十分であることが人々の認めるところとなり、学校教育が子どもたちの自ら学ぶ意欲・態度・能力を養うための、すなわち生涯学習の基礎づくりとしての新しい努力を重ねる一方、それと相互に支えあうかたちでの生涯学習としての少年教育にも、あらためて脚光があてられるようになってきた。そこでは、生涯学習の基礎づくりとともに、成人の生涯学習と同じように、自ら学びたいことを学びたい手段で学ぶなど、生涯学習そのものの実践がめざされている。そこでのポイントは、体験、参加・参画、地域活動、仲間集団、異年齢集団などのもつ「教育力」を生かすことである。

体験、参加、参画のもつ教育力
 美深町の「フロンティア・アドベンチャー」では、子どもたちが大自然の中での原生活に挑戦する。子どもたちは、そこで、たとえば冬の極寒の中での自然の厳しさなどを体験する。少年期にそういう体験をしておくことは、その人の考え方や生きる態度に、生涯にわたって意味をもつのである。
 人間の生涯のそれぞれの段階において、獲得しておくことが望ましい体験を、現代社会はかなり失ってしまっている。人間が、今後、より豊かに生きるためには、そういう体験を意識的に用意しなければならない。
 もちろん、体験を生かすためには、自らがそれを受け入れようとする意欲と態度が重要である。活動の各局面で、子どもたちの主体的な参加が得られるよう最大限の工夫をこらすとともに、計画段階でも子どもの参加を考える必要がある。参画は、ひとをワクワクさせる。参画するとき、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身の判断基準などの枠組も鋭く問い直される。このことは、子どもでも同じである。

地域、集団のもつ教育力
 体験、参加、参画のチャンスにあふれた場として、地域をあらためて見直す必要がある。地域には、本来、人との交流、自然とのふれあい、文化の享受などの豊かな体験があふれている。戸隠村の「中学生招待キャンプ」や妙高村の「山村留学」は、潜在化していたそういう地域の教育力を掘り起こしたのである。
 もちろん、これらの事例の他に、地域がそこに住む子どもたちに素晴らしい影響を与えている活動事例も、また、重要である。ただし、そのような地域活動であっても、地域完結型の活動だけでことたりるわけではない。地域の子どもたちが「交流を通して視野を広げ、閉鎖性を打破する」(妙高村)など、地域という豊かな土壌の上に、地域の外からの「新しい風」を吹きわたらせることが、地域活動の重要な要素の一つなのである。
 また、かつて地域に健在であった子どもたちのインフォーマルなグループの中での、自発や自治にもとづく相互作用による教育力の意義も忘れることはできない。ここに紹介されている諸事例も、そういう相互作用を意識的にあらためて生み出そうとしているものである。
 しかし、それは、子どもたち一人ひとりの個性をうずもれさせるものであってはならない。むしろ、「個の深み」ともいうべき予測しえない多様性がいきいきと発揮されるようでないと、集団の中での相互作用の意味は弱くなる。それぞれの事例にも、子どもたち自身の個別な反応が息づいているはずである。

(1)北海道美深町

美深の位置と全体図(図1)●カット
 大部分は豊富な林業資源を包蔵する森林地帯であるが、天塩川沿岸および天塩川に流れこむ大小河川の沿岸は肥沃な農耕適地として開け、農業と林業の町として栄えてきた。

美深の位置と全体図(図1)

美深の町づくりの目標
(一)たくましい多様な産業づくり
(二)うるおいとやすらぎのある快適生活空間づくり
(三)いきいき健康福祉社会づくり
(四)未来を開く人づくり・個性が生きる文化づくり
(五)大自然を保全し、高度に活かす基盤づくり

文部省補助事業「自然生活へのチャレンジ推進事業」
 この補助事業は昭和六三年に始められた。山奥や無人島等の大自然の中で、異年齢構成の少年五十人が十泊もの長期間の原生活体験を行うもので、現代青少年に欠けるといわれる忍耐心や自立心を培おうとするものである。美深の場合は、雪の中の自然体験が特徴的である。

(2)長野県戸隠村

戸隠村の自然と文化●カット
 戸隠連峰と、千年の歴史を持つ戸隠神社を擁する。岩峰が屏風のように立ちはだかる山と深い森、豊かな清水に、古代から山岳宗教の聖地として全国に知られている。

ガール・スカウト日本連盟
 グループワークやキャンプなどを通じて、少女の心身発達に寄与する事業を行っている社団法人。信頼、忠実、友情、礼儀、規律、快活、倹約、純潔などに関する「おきて」と「やくそく」にもとづき、「立派な品性と奉仕の精神を養う」ことをめざしている。

信州こども夏休み高原村
 戸隠村では、ガール・スカウトとの交流だけではなく、広く一般の子どもたちに自然体験を提供している。それは新しい観光のあり方を示唆するものでもある。具体的なプログラムは、戸隠神社参拝、昆虫採集(みやまくわがた)、ほたる見学、岩魚つかみ、手打ちそば作りなどの体験学習から構成されており、そのどれもが、村内の豊かな教育資源を有効に活用したものである。参考までに、その概念図を掲げる。(図2)

(3)新潟県妙高村

妙高村のPR(図3)●カット
感動いっぱいの四季折々の自然の美しさ。
うまい米、高原トマト、葉タバコ等の活力ある地場産業。
いにしえびとの息づかいが聞こえてくる豊かな文化財。
若者から高齢者まで楽しめるリゾート・ライフ。
素朴で人情味あふれる住民。

妙高子ども村のプログラム
 友だちつくり、はたらく、自然を知る、感動する、くふうする、などの「ねらい」のもとに、次のようなプログラムが組まれている。
1日目 「妙高村に集まろう」(友だちづくり)
2日目 「妙高村ってどんな村」(妙高村探検)
3日目 「川の生いたち探検」(清流遊び)
4日目 「ひろい農家で思いきり働こう、楽しもう」(農家の生活発見)
5日目 (4日目の続き)
6日目 「活動のまとめ」(記録など)

長期山村留学(図4)
 これも、社会教育団体である「育てる会」との共催で実施されている。内容は次のとおりである。

生涯学習における青年教育の推進

仲間や社会との交流によって深まる青年の個
 アイデンティティ(同一性)の獲得は、青年期の重要な発達課題である。青年期には、それまで取り結んだ諸集団(家族、同年齢集団、学校)によって獲得したアイデンティティと、青年期以降関係を結ぶことになる成人社会(職場、地域社会)において期待されるアイデンティティとが対立する。少年期に築き上げた「自分らしさ」だけでは、社会には通用しないことが自覚され、「自分とは何か」を模索するのである。その模索のために与えられる猶予期間をモラトリアムと呼ぶ。これは、新しい社会を生み出す原動力にもなるのであり、社会としては、そういう個々の模索を最小限にとどめようとするのではなく、むしろ、モラトリアムが一人ひとりの内面的な世界で十分に意味深く過ごされるよう援助する姿勢をもたなければならないだろう。
 アイデンティティの獲得、いいかえれば、個の確立は、カプセルの中に閉じこもっていては達成できない。他者と触れ合ってこそ、自らの個も深まる。しかし、それはけっして同質集団の形成や、社会への没個性的な順応を意味するものではない。従来の青年教育が、ややもすれば、青年をマス(集団)として扱ってきたのに対して、今後は、青年一人ひとりの多様な個性が発揮される組織化や活動がめざされなければならない。

「個の深み」を尊重し助長するための視点
 青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」(平成元年度)は、青少年団体が「個の深み」を追求するために、次のような視点が必要だとしている。
 それは、すでに設定された目的にとっての最適の手段ばかり考えるのではなく、各自が「迷路」の中でさまようことを許容すること(目的志向型から迷路型へ)、日常の活動の中で個人個人がいろいろなことを「気づき」「思いつき」さまざまな思いをもつという意味での「学習」を高く評価すること(学習→活動型から活動=学習型へ)、「個の深み」から発したユニークなアイデアを団体運営に反映するために、喫茶店や居酒屋などのような気楽にしゃべれる空間を活用すること(研修会方式からたまり場方式へ)、団体は情報やメニューの提示などをし、各個人がそこから自らの行動を「選択」し、その上でそれぞれの「発見」を披露し交流してもらうこと(一括方式から選択方式へ)、各人のばらばらなニーズに合わせた「注文仕立て」の多様な活動をすること、ただし、それを注文した本人が一番熱心にそれに取り組むこと(既製服型から注文仕立型へ)、既成のスローガンにあまり拘束されず、変幻自在に「遊び心」で活動できるようにすること(スローガン型から遊び心型へ)、などである。

主体的に企画する、表現する、関わる
 本書にあげた事例を支えているのも、メンバーの「個の深み」である。それは必ずしも活動の表面に表れてくるとは限らないが、活動のプロセスの中では重要である。これが、活動全体の個性と創造性を生み出す。
 熊本市の「野外教育研究所」の事例では、事業を企画すること自体に、青年は大きな魅力を感じているようだ。渡嘉敷村の青年会活動では太鼓をとおして、鳴子町の喫茶店では書くことをとおして、青年が自分自身を表現している。香北町青年団は、三十人にも満たない団員たちが、町づくりに大きな影響をもたらしている。
 青年たちの主体性が失われつつある現代社会において、このような青年自らの手による企画、表現、そして地域や社会への関与が行われていることは、私たちに明るい希望を与えてくれる。

(1)熊本県熊本市

企画に関わることの重要性
 全国子ども会連合会『中学生−その青春と地域活動−』には、「おしきせプログラムはまっぴら」と題して、次のように書かれている。
 「どうも、大人が事前にすべてを準備しきって、ただ子どもは、お客さまで参加するという行事が多かったのではないか。プログラム立案の段階から参画することは、参加意識を高め、苦労しても、なんとかやりとげ成功させたい、そのために労をおしまず仲間と協力しあおうとするであろう。その仲間と苦労をともにして、やっと仕事をなしとげたあとの成就感を味わったとき、ヤッタという晴れ晴れした気持ちになるであろうし、その時、またやってみようというやる気を育てるわけである」
 企画するためには、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身にも鋭く迫ることになる。自立の意欲と態度を養うべき青年期においては、企画に関わることの意味はより大きいであろう。

(2)沖縄県渡嘉敷村

青年団(青年会)の歴史
 鎌倉時代ごろから各地の村落を中心に形づくられた「若衆組・若連中」にその源があるといわれる。明治時代になって、青年の修養機関や銃後活動組織として評価され、各地に青年会が設置された。
 青年団は、戦後の地域の生産・政治の主力部隊の一つになったが、高度経済成長期の頃には、目的志向型のグループ・サークルの方が盛んになった。そして、現在では、青年の自主的な活動は、そのどちらもがあまり振るわないといわれている状況だが、地域に直接関わりあいながら、青年自身の生活の課題に総合的に取り組む青年団活動は、新しい存在価値をもっているといえる。

(3)高知県香北町

青年団の目的と町づくり
 日本青年団協議会綱領では、
一 私たちは心身を修練し、よりよき個人の完成に努めます
一 私たちは友愛と共励を信条として団結します
一 私たちは住みよい郷土社会の建設に努めます
一 私たちは人類愛と正義をもって世界平和に努めます
として、次のスローガンを掲げている。
平和と民主主義を守り育てよう
青年の生活と権利を守り、豊かな青春をおくろう
青年の力で新しい地域づくりをすすめよう
単位団との一体化をはかり、団員の倍増をはかろう

 「郷土社会の建設」や「新しい地域づくり」など、青年団の活動目的の中で、町づくりに関わることがかなり重要なものとして従来から位置づけられてきたことがわかる。
 しかし、その伝統を受け継ぎながらも、今日では、それぞれの地域の特性と地域青年団の個性を生かした町づくりへの現代的なアプローチが行われていることに注目したい。

(4)宮城県鳴子町

拠点の必要性
 青年にとって、現代社会の管理から一時的に逃避できる「駆け込み寺」のような存在は、貴重である。これをアジール(不可侵の領域)と呼ぶことができる。そこでの自由な空間とネットワーク的な人間関係から、創造的な活動が生み出されるのである。
 そういう拠点としては、喫茶店、飲み屋、廃屋、寺、神社などがあげられるが、「青年会館」を新たに設置したり、公民館の一部屋を「青年室」として設定したりする例も見られる。

書くことの意味
 「個の深み」は、時々の内なる到達点を外在化する営み(表現)とそれへの他者の反応との双方が循環して創り出される。
 内的世界をそれなりの論理構成をもって記述することによって、自己に気づき自負することもできるし、欠陥部分を発見することもできる。自己の勝手な無力感や万能感を、自らの目の前にあからさまに突き出すことにもなる。そういう試練を乗り越えてあえて書くことによって、はじめて、「個の深み」を自負し獲得していくことができる。

(5)東京都渋谷区

若者の街、渋谷
 渋谷の街づくりの成功のカギとなったのが、西武パルコである。駅からちょっと歩かねばならず、けっして立地条件がいいとはいえない所、「公園通り」を若者のメッカにしてしまった。他にこの通りには若者の「文化拠点」として「ジァンジァン」がある。これは、教会の地下にある劇場で、最先端の文化活動が行われている。

東急ハンズ
 渋谷には、東急系のデパートとして「ハンズ」がある。これはクリエイティブライフストアーと銘打ち、「手づくり」のブームを生み出した店である。ロフトは、そのすぐ近くにオープンしたのである。
 ハンズはそれまでの流通業の人たちの常識では考えられないデパート経営をした。店子(たなこ)に場所を貸すのではなく、いいものを探して買い取って来て自らが売る。このように、若者に受けている店は、本質的には何らかの「情報」を売りものにしている。どこも若者に誇れるような情報のアンテナをもっていて、それによって得た新鮮な情報を売場での「品揃え」の形などでアピールするのである。

オープン当時(一九八七年一一月)のロフトのフロア設定(図5)●カット

学習情報の提供の意義と方法

なぜ学習情報提供が必要なのか
 生涯学習に関する情報は、あまりにも大量で多種多様なため、個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することはかなり難しくなっている。そのため、学習環境そのものは豊かであっても、その中から、学習者が自分の必要とする学習の情報をうまく選び出すことができないということもおこっている。そこで、生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをわかりやすく提供することが求められるようになってきた。

コンピュータの活用
 学習情報の整理・提供にコンピュータを活用することによって、求めるデータに、よりスムーズにたどりつくことができるようになる。真岡市の学習情報提供やNHK放送データ情報部の事例は、そういうコンピュータの特性を生かしたものである。
 ただし、コンピュータを使うことだけが目的になってしまって、情報を求める現実の人間にとっては不都合なものになるようではいけない。電話帳のように冊子体であることによる便利さや可能性も一方ではあるのだ。また、冊子体では検索に困るほどの情報量と複雑な検索条件があってコンピュータを使う場合でも、ユーザー側がそれを使いこなせなければ意味がない。人間に親切な(ユーザーフレンドリーな)システムが必要なのである。そのためには、ユーザー、またはその代弁者が、システムエンジニアに的確にニーズを伝えなければならない。さらには、学習情報提供の場合には、システムとしてのソフトとともに、学習情報そのものの量と質が勝負どころになる。「コンピュータ、ソフトなければ、ただの箱」なのである。

各種メディアの有効活用
 千厩町の「生涯学習カレンダー」は、家庭内のプライベートな日々の動きと町の生涯学習関連事業を直接に結びつけるのに役立っている。茅野市の「生涯学習メニューブック」は、学習者が独自のプログラムをつくるための道具である。いずれも、一覧性、親しみやすさなど、活字媒体のメリットをうまく活用している。また、戸河内町の八ミリ映画「わがまちの新しい風、生涯学習」は、言葉や文字だけでは伝えきれないものを、映像メディアをとおして伝えるものといえよう。コンピュータを活用するなどして、豊かな学習情報のどれもが、だれでもいつでも即時に入手できるように努めるとともに、このように、学習者の立場に立って学習情報を編集し直して、各種メディアの特性を生かして提供することも大切である。

ギブ・アンド・テイクの情報交流
 今日の生涯学習の重要な側面の一つとして、従来の教える人と教えられる人との縦の関係ばかりでなく、互いに得意な分野を教えあったり、共通する関心ごとに応じて学びあったりする、横の関係としてのネットワークを指摘することができよう。日本視聴覚教育協会の「AV−PUB」に見られるように、パソコン通信の世界では、迷路のような情報交換とおしゃべりが行われている。この「迷路」を、「求める情報にたどりつくには、効率が悪い」として避けようとする人もいるが、情報を与える(ギブ)人にこそ、情報は集まる(テイク)という原則に立ち戻る必要がある。
 学習情報提供事業も、学習者の学習情報処理行動のすべてを節約するためのものではなく、むしろ、学習者自身が活発に、しかし無意味な労力は払わずに情報を発信・受信するための手助けなのである。

(1)栃木県真岡市

真岡(もおか)市のプロフィール
 真岡市の都市イメージは「住むまち、働くまち、学ぶまち、そして生きがいのあるまち」といわれている。たくさんの川がまちを縦横に流れ、良質の真岡もめんがそこでさらされた。昭和四三年には、市の西部に工業団地が完成し、多くの企業が操業している。

真岡市の生涯学習推進の基本
(一) 快適な環境づくり
(二) 心ふれあうまちづくり
(三) 活力あるまちづくり
(四) 文化の香り高いまちづくり
(五) 明るく住みよいまちづくり
 なお、真岡市では、それぞれの項目について、各ライフステージごとに学習課題を設定している。

(2)広島県戸河内町

戸河内町の状況●カット
 人口、世帯数、ともに昭和三十年の九,一五七人、二〇五〇戸が過去の最高で、昭和三八年の豪雪を機に急減し、平成二年三月現在、三,九三一人(減少率五七%)、一,三四七戸となっており、過疎地域に指定されている。
 中国地方第二の高峰、恐羅漢山を筆頭に千メートルを超える高峰が十指を数える山岳地帯で、山林が九三%を占め、耕地は二.五%である。

生涯学習と映像
 最近、文部省が地域映像情報整備充実事業、郵政省がハイビジョン・シティ構想、通産省がハイビジョン・コミュニティ構想、自治省が地域情報化計画やハイビジョン・ミュージアム構想を打ち出すなど、生涯学習や文化の振興も含めた地域における高度映像技術の活用に関する施策が続々と生まれている。
 一方、文部省科学研究費補助金総合研究「生涯学習時代における文化映像の製作・保管・活用に関する調査研究−平成二年度中間報告書−」によると、その研究の緊急の課題として、
(一) 映像の実態調査の本格実施
(二) 製作、保管、活用の前提になる映像分類体系の作成
(三) 映像の保管、活用のための著作権問題の解決
が、あげられている。
 生涯学習情報としての映像活用を進めるためには、高度技術の動向への注目とともに、すでに蓄積されている映像の把握と整理、著作権問題の解決などが重要であることがわかる。

(3)東京都渋谷区

放送と視聴者の生涯学習との関係
 教育番組の担当者などに、視聴者のグループから、良質の番組を良い時間帯に数多く放映してほしいという要望がよく出されることがある。それに対して、担当者としては、そういう声を大きくしてほしいとしか答えようがないようである。●カット
 良質の放送番組の拡大のためには、番組提供側の良識に期待すべきところも大きいが、視聴者が自覚的に視聴行動を起こすとすれば、もっと根本的な効果が期待できる。放送視聴をとおした市民の生涯学習の実態が現在よりも内実の豊かなものになれば、結果として、放送全体が生涯学習に貢献するような内容を獲得するのだといえる。

放送番組の保存・活用の新しい動向
 平成元年度に放送法、電波法が改正され、郵政大臣の指定法人として放送ライブラリーが発足した。これは、放送番組を貴重な文化財として評価し、後世に継承して、放送文化の発展を期そうとするものである。
 これによってナショナルセンターとしての放送ライブラリーの設置が実現すれば、そこでは、放送番組の収集、分類、整理、保存、活用の事業が進められよう。●カット
 放送事業者によるインナーライブラリーと並んで、このような公共的ライブラリーによって、今まで一過性のものとして過ぎ去っていった貴重な放送番組が、市民の生涯学習のために繰り返し活用できるようになることの意義は大きい。

(4)東京都港区●この項横書き

AV-PUB視聴覚教材情報全国システムの内容の一部(抜粋)
視聴覚教育電子掲示板 掲示板メニュー
1 AVサロン      →サロン的な雰囲気の中での意見交換、情報交換
2 ソフト&ハード    →視聴覚教材、放送番組、新機材情報など
3 研究カレンダー    →関連学会・団体主催による研究会の案内など
4 読みものアラカルト  →文献・資料・報告書・雑誌などの広報の場
5 虎ノ門ニュース    →文部省や関係官庁の各種情報、関連統計など
6 AVワールド     →ICEM(国際教育メディア協議会)からの情報
7 AV資料室      →記事索引、アドレス、学習指導案、利用者一覧など
8 初期メニュー     →全体のメニューに戻る
9 終了         →通信を終了する
*AVサロン/総数:66件            →それより前の記事も呼び出せる
番号 タイトル                →ここでは755番の記事を呼出
755 ふたたび呼称「先生」について<mito →mitoはハンドルネーム
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登録日 時間 行数 枚数 発信者
91/06/04 00:07 029 (3) 西村美東士   →登録日時などは自動的に記録
内容
 つしまさん、さっそくのレスポンス、どうもありがとう。運動会の延期は残念
でしたね。(残念会の飲み会はやったのかな?)
 つしまさんのご指摘に対して、私は、こう考えました。
その1/教師が1人称として「先生」と言う場合について(以下略)

(5)岩手県千厩町

千厩町の位置(図5)●カット

千厩町の特徴
源義経の愛馬「太夫黒(たゆうぐろ)」のふるさと。
東洋一の奇岩「夫婦石(めおといわ)」、メオトピアのまち。
生涯学習宣言のまち(平成二年一一月大会採択、一二月議会議決)。
スリーステップ計画による生涯学習の推進。
生涯学習推進員、生涯スポーツ推進員の設置。
シンボルマーク、推進標語作成による生涯学習の普及・啓発。
生涯学習カレンダーの他、生涯学習だより、子育てテレホンサービスなどの情報提供。

メオトピア
 千厩町の生涯学習だよりの名前は、メオトピアである。命名の理由は、
(一) 日本一の夫婦石にちなんだものです。
(二) 夫婦の円満は家庭の円満。生涯学習の原点は家庭から。家族ぐるみで学習ができます。
(三) まろやかな地域社会。互いに認め合う社会が学習を発展させます。
ということである。「家族ぐるみ」が千厩町の生涯学習推進のキーワードの一つになっていると考えられる。

(6)長野県茅野市

茅野市の特徴
 縄文時代からの豊富な文化遺産と八ヶ岳山麓の恵まれた自然環境や、中央自動車道の利便性を生かして、自然と調和した高原リゾート観光地域として発展。
 一方、内陸唯一の新産業都市指定地域として先端技術産業の立地促進を図るとともに、生涯学習都市宣言を行い、生涯学習のまちづくりを推進している。
 また、平成二年度、「活力のあるまちづくり」として優良地方公共団体自治大臣表彰を受けた。

学習メニュー方式による学習の展開(図5)
 茅野市では、学習者が学習活動を展開し、学んだことを自己評価していくなかで、学習プログラムの修正を行い、再度、学習の展開をしている。その過程は左の図のようになっている。
社会教育の新しい展開からみた学校週五日制
 −地域子育てネットワークの形成−

                  西村 美東士
                  (昭和音楽大学助教授)

1 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論

 中青連(中央青少年団体連絡協議会)には、青年団、子ども会、ガール・スカウト、ボーイ・スカウト、YMCA、YWCAなど、二二の中央団体が加盟している。社会教育とは、「学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」(社会教育法第二条)のであるから、中青連は、青少年に関わる社会教育活動を行う団体の全国的連絡組織であるととらえることができる。
 この中青連によって特別研究委員会が設置されている。委員会は、平成元年度に「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」を、二年度に「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動−」を提言した。
 元年度の提言のキーワードは「個の深み」であった。そこでは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入ったり踏み入ろうとしたりして、自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、「根本的には、集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切」と主張した。
 これに対応していえば、二年度の提言のキーワードは「ネットワーク」ということになろう。そして、キーコンセプトは「地域の子育てネットワークづくり」であるということができる。学校が週五日制になったからといって、安易に直裁に、既成の青少年団体が請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、子どもも大人も地域でともに育つ(共育)ネットワークをつくりだすチャンスとしてとらえなおそうというのである。
 もちろん、今日の学校週五日制の動向は、青少年団体が従来から世の中に提案してきたことが社会的に理解されようとしていることの表れともいえるのであるから、団体の中には「いよいよ私たちの出番だ」と意気込む気持ちもある。しかし、特別研究委員会の提言は、そのボランタリズムをさらに一歩進めて、組織や団体といえども、その存在意義はそれぞれの個人のため、「個の深み」の獲得のため、という本質的観点からまとめられたのである。そして、地域子育てネットワークも「個の深み」が発揮できる団体運営や地域活動を実現するためのかなめとして構想されている。
 二回の提言とも立教大学坂口順治教授を座長とする委員会によって作成された。そして、私も起草委員長として関わる機会を与えられた。本論では、その議論の中で私が勉強したことをもとに、つたない私見ではあるが、新しい社会教育の観点から学校週五日制時代のあり方を考えてみたい。
 私の問題意識の根底にあるものも、多少の重複を恐れずにいえば、土曜日の子どもたちを学校が面倒を見なくなるのならば今度は社会教育(青少年団体)だ、という安易な受け皿論を克服して、人びとがもっと主体的に生きる土曜日を創り出せないだろうか、ということである。
 社会教育活動をしている人たちは、暇だから活動しているのではない。多くの現代人と同様に忙しい生活を送りながら、その中で時間をつくって活動している。それなのに、「普通の人たち」が「暇で奇特な人たち」にわが子を任せるようなつもりで青少年団体に依存するとすれば、それは団体にとってもけっして名誉なことではないし、その「普通の人たち」にとっても学校に(もちろん、塾にも)わが子を預けることによって子育ての主体性まで失いつつある今日の状況とたいして変わりない結果しかもたらさないことになってしまうのである。

2 新しい土曜日の個別性

 前節で慎重に「私見」と断ったのにはわけがある。委員会で出た議論は十者十様(委員は十人であった)で、意見の一致をみた、とはとても言える状態ではなかったからである。しかし、なぜか快い議論ではあった。それでも起草委員長というポジションの私としては、内心、これで本当に草案をまとめることができるのか、不安に襲われることがあったのも事実だが、そのたびに思い直した。学校週五日制の土曜日は、そもそも多様に展開されるべきなのだ、と。
 それぞれの委員の考え方が多様であった理由を私はつぎのように考える。
 その理由の一つは、委員が学校、地域、団体のそれぞれの現場を抱えており、その立場から誠実に発言をしたことである。自らの現場を真摯に振り返るほど、一般論には解消できない問題が浮き彫りになってしまった。
 二つめは、ネットワークという言葉をとりいれたことである。ネットワークとは何なのか。水平性、自発性、柔軟性、異質の交流、ギブ・アンド・テイク……、ネットワークに対するそれぞれの委員の異なったイメージをたがいに受容しながら、議論を進めていったのである。
 三つめは、教育(共育)という概念にあくまでも執着し続けたことである。端的なたとえを挙げるが、週五日制の土曜日に正規の学校教育になるべく近いものをつくりだすだけの結果になるならば、週五日制は不要ということになる。だから、その逆に、教育という概念を最初から捨てて議論すれば、委員の間に共通する方向がもっと簡単に見つかったのかもしれない。
 しかし、委員会では、前年度の報告に引き続いて、個人の自己成長をこそ重視した。そして、自己成長を他者や集団が援助する可能性、すなわち本来の教育がもつ可能性、にこだわり続けたのである。ちなみに、そこでの私たちのささやかな結論は「ともに育つ教育」である。しかし、それとて、単純化はできない。たとえば、「ともに育つ」場合の子どもに対する大人の指導性や、文化の伝達者としての役割をどうとらえるべきか、多様な見解が成立するのである。
 このようにして委員会の論議は個別で多様な思い入れや主張を柔らかく包み込みながら展開したのだが、それは新しい土曜日のあり方のひとつの特性を示唆しているように思われる。すなわち、学校週五日制に関して、一つには、学校、地域、すでに社会教育活動をしている団体、の三者にそれぞれ独自のとらえ方があり、二つには、従来の二項対立の図式では割り切ることのできないネットワークという概念がどうもポイントになりそうであり、三つには、これまでの教授法の蓄積が有効には機能しない新しい教育活動が行われるようになる(べき)と思われるのである。こういう場合、ひとつのモデルをつくってがむしゃらに押し進めるようなやり方は通用しないだろう。
 多様な個性を受けとめてそれに耐えていく力を、週五日制は私たちに要請しているのだと思う。

3 新しい土曜日が求める主体性

 人間は自分の判断基準に、つい、シンプルなものを求めたがる。そして、その基準をあまり悩むことなく人やものごとに適用して、レッテルをどんどん貼って処理していけば、生きていくのもラクそうでいいな、と思ってしまう。しかし、その欲求のとおり突き進んでいる人を、「スクエアヘッド」ということができよう。これは、「いわゆる石頭的人物。権威主義的で、物事の白黒をはっきりさせないといらいらするタイプの人間」である。外見上は権威(正確には権力というべきであろう)に忠実に仕えているように見えるが、つきつめて問うてみれば、ヒエラルキーの中で自己の安定を求めているだけのことなのである。
 週五日制の土曜日が個性的であるべきだとすれば、それを受け入れる力は、「スクエアヘッド」に対置される「エッグヘッド」に見つけることができる。これは、「一般に知的で、柔軟思考ができ、曖昧さに対する許容度が大きいタイプの人間」である。
 また、個別性を受け入れるためには、その集団の風土も問題になる。人間は、他者との関係において、表面的な一致を求めたがる。これは、つきつめて問うてみれば、仲間からいつ足を引っ張られるかわからないのでつねに自分を防衛していなければならないという「防衛的風土」が背景にある。
 その逆に、個別な価値を受け入れるためには「防衛的風土」に対置される「支持的風土」が集団の中に求められるのだと思う。「支持的風土」とは、「仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーへの肯定的な感情をもっている」という集団風土である。
 新しい土曜日が多様に展開されるためには、たぶん、個人がエッグヘッドであることと集団がその個人に対して支持的であることとの両方が必要になるのだろう。
 スクエアヘッドの個人や防