西村美東士自著テキスト


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東京都の社会教育はサークルのために何をすべきか
 東京都府中青年の家 西村美東士
  1977.8 世田谷青年の家にて

 みなさんのサークルは社会教育行政に恵まれていますか。例会をする場所はちゃんとありますか。社会教育施設では青年はいきいきとしているでしょうか。現在、区市町村の社会教育行政は、サークルを初めとするさまざまな活動をしている青年たちにとって大きな関心事となっています。それは青年の自主的活動を援助すべき最も直接的な場が区市町村の社会教育施設なのだからごく当たり前のことでしょう。
 それに対して東京都が都政の一環として行なう社会教育はちょっとニュアンスが違います。地域の社会教育は、あくまでもその区市町村のレパートリーであり、都が上から何やかんやおせっかいをすべきではありません。都の仕事としてはおもに、@区市町村の社会教育行政の援助と、A広域的活動の援助及び広域施設サービスの2つがあげられます。
 @は、たとえば社会教育行政民主化の手だてを試案したり、それに役立つ資料を作成して配布したりすることなどがあげられます。
 Aの意味はおわかりですか。「広域的活動」・・・・、そう、たとえばこの「東京都青年交流集会」は、区市町村のレベルを超えて、青年が、サークルが、手を結び合おうという活動であり、「広域的活動」といえます。残念ながら、都の社会教育行政として、これを援助する方向はまだ出ていませんが・・・・。
 次に現在、都が行なっている広域的施設は青年の家がおもなものです。これは区市町村の社会教育施設で青年が宿泊できるものはごくわずかなので、都がそれを建てて、都内のどこの青年グループでも利用できるようにしたものです。そこでは青年が生活をともにしながら、グループ活動を楽しむことができます。
 僕はその一つ、府中青年の家の職員です。できるだけ多くの青年ができるだけ充実した自主活動を行なえるよう、毎日、電話受付、リーダーとの事前打ち合わせ、オリエンテーション、設備利用の手助けなどをしています。これらは、事務的、管理的な側面も持っていますが、それでも青年の活動を援助する大切な仕事だと思っています。

 しかし、ここで僕がいつも悩んでいる問題があるので、皆さんにぶつけてみたいと思います。それは都の社会教育施設および職員と青年とのつながりの問題です。青年の家を考えてみましょう。確かに青年の家は、毎日数十人、あるいは数百人の青年を迎えています。しかし、その青年たちは、1泊か2泊をそこで過ごすと地域に戻っていきます。そこでまた、いきいきとした活動を始めるのでしょう。当日、青年の家職員とたとえ、二三、言葉をかわしたとしても、それは青年の家が青年とちゃんとつながりをもったということではありません。東京都の他の社会教育行政も、同様に、いや、それ以上につながりは弱いといえます。なにせ、住民と直接接することのないところで働く社会教育職員もいるのですから・・・・。「広域的な援助と施設」、それはいま、とみに青年が必要としているものではあるけれども、どうしても青年とのむすびつきは浅くてもろいものになっています。
 僕はこれは大きなネックだと思います。なぜなら、たとえ職員が、初め、青年の立場に立ってやってゆこうと、情熱を真っ赤に燃やしていても、相手の青年とちゃんとつながりをもっていなかったら、それを燃やし続けるのはひどく難しいからです。燃え尽きてくさってしまうかもしれません。「そんなオーバーな」と思う人もいるでしょう。だけどあなたの「片想い」を思い出してください。想う相手と会うことも、話をすることもできないとしたら、その片想いはいつか消えて、単なる「思い出」になってしまいます。あるいは、女性ぎらい、男性ぎらいになるかもしれません。もしかしたらあなたは、青年とつながりを持とうとしない社会教育職員の中で、青年に敵意ばかり持っている人を知っているかもしれません。それです。
 結びつきの必要の理由はまだあります。そもそもつながりのないところでどうして社会教育が成り立つでしょうか。いつも合って話ができる。その積み重ねの中で、職員も、青年個人や
区市町村社会教育行政に対する東京都青年の家の独自の役割とは何か

77、12、8 府中青年の家 西村美東士 「青年の家を考える」部会

 我々の任務は常に都の社会教育職員としての義務であり、決して市町村社会教育の任務を負うものではない。しかし、その社会教育においては、市町村第一主義が貫かれねばならない(1)。我々が青年の家で仕事するにあたって「禁欲」すべきは、一つは市町村社会教育職員と同様、「環境醸成」の限定から飛び出すことはできないという点であり、さらにもう一つ、都道府県の職員として特殊的に限定されるわけである。何だか、がんじがらめで苦しい話である。何故に「市町村第一主義」というそんな「不自由」な(都の社会教育職員にとって)限定がくっついてしまうのだろうか。
 一つ、社会教育は継続的なプロセスの中で、ほんの少しずつ芽生える。故に、「ゲタばき」で行ける距離にある市町村社会教育施設が中心となる。
 二つ、社会教育は「実際生活に即する』(社協法3条)学習である。市町村ごとに、生活課題が異なるとすれば、当面、それは市町村ごとに分れて行われるだろう。
 三つ、社会教育の一面は、地方自治を学ぶことであり、住民の自治能力を高めることである。同時に社会教育は、地方自治、住民自治そのものでもある。市町村は、地方自治にとって基礎単位として重要であり、又、「民主主義の学校」として有効である。
 これらの理由から、社会教育の市町村第一主義が導かれる。

 さて、ここで、都内の青年の諸活動の現状をみてみたい。一つ、自らの存住、あるいは在勤の区市町村と無関係に、活動したい所、活動しやすい所で活動する青年が増えている。
 二つ、各区市町村のサークルが、連絡をとりあい、さらに区市町村をこえた連絡に発展する動きがある(五区連協、三サ連、この指とまれ)。
 三つ、一区市町村においては、数的にごくわずかしかない学習要求がある。それは区市町村内部では参加者数から考えて共同学習たりえない。(リーダー間の学習の一部もそれに含まれる。)
 四つ、全都的ともいえる活動がある。それは特に文化活動において顕著である。
 五つ、一区市町村の範囲を超える広域的生活課題ともいうべき問題が山積みされている。それは当然、青年の生活の上にも重くのしかかっている。そしてその中でも青年に特殊な問題は青年たちの手で解決するしかない。
 次に青年の家職員(特に専門職…社会教育主事としてではあるが)の職務の面から考えてみたい。市町村第一主義を侵害しない為の最も安全な方法は、青年の家が、現在あるような主催事業等の直接的事業を行わず、貸し施設に徹すること、青年の様々な活動にタッチしないことである。しかし、もしそうすれば、次のようなことが考えられる。
 一つ、職員の仕事が、青年から検証されることなく、行政レベルでしか進めなくなるおそれがある。青年とのつながりがない所で、たとえ「御意見箱」などを置いたとしても、本当の青年の気持ちは聞けないであろう。
 二つ、それゆえ、たとえ最初、職員の青年を愛する情熱がすばらしくとも、それを持続させるのは困難である。それは、片想いの恋が時とともにうすれていくのに、にている。 三つ、施設提供の中で、ある程度、教育作用がありうるとしても、それは、各々の団体にとっては一過性のものであり、積み重ねにはなりにくい。またその単発の「教育作用」がもしあるとしても、そのほとんどは「団体宿泊訓練」でしかないのではあるまいか。

 確かに、都道府県が市町村の自治権を侵害し、その都道府県の自治権を国が侵害するという、過去の忌わしい封建的中央集権制を思うならば、市町村第一主義の意義は大きい。都は決して区市町村の自治権を侵害するようなことがあってはならない。しかし、それは、都が青年とむすびつき、青年の要求に応えた事業を行うことをも排除するものではない。先にのべたような都内の青年の諸活動を考えるならば、都の社会教育に対するそういう青年の要求は高まりつつあるといえよう。
 そもそも最初に述べた市町村第一主義の根拠は、「市町村でなければ通じない」という性格のものではない。都立の社会教育施設であろうと、足の便がよく、「サンダルばき」でいけるのにこしたことはない。生活課題についても、市町村を越えた課題が続出している。都の自治権を守る必要性が、市町村のそれと同様、近年とみに叫ばれている。市町村第一主義を大切にしようとする根拠を、都段階の社会教育についても適用する必要があるのではなかろうか。

 「何をぐずぐず当たり前のことを言っているのか」と思う人もいるかもしれない。しかし、私には、都が都民に対して講座などの事業を行うと、それはすべて区市町村の自治権に対する侵害だと受け取る議論があるように思える。
 さらに、都の社会教育行政内部にも問題があるのではないか。従来、区市町村に対する都の役割として、「区市町村が展開する社会教育行政に対しこれをあらゆる面から支援する援助者の位置に立つものとする(2)」と言われてきた。そして、実際にはそれは、「財政的援助、情報資料及び研修の機会」の提供などに表われている。
 しかし、「広域的役割」については、どうだろうか。「社会教育部政策推進方針」中に五本の「基本方針」があるが、「(2)、都は広域的役割をはたす」として「(略)…補完的、先導的事業を行い、広域にわたる都民の教育、文化課題にこたえる。」とある(4)。しかし、その「補完」や「先導」の内容が明確でない。よって「広域的役割」もはっきりしない。これらは、青年の家などの各社会教育施設が、その事業の中で実践的に、具体的に明らかにするべきであろう。

 思うに、「広域的役割」の実践は、困難であるとともに、危険や緊張をはらんでいる。一歩間違えれば、範囲が一つの区市町村でしかなかったり、区市町村の社会教育と同内容だったりしてしまう。都の社会教育が、明確な目標とプロセスを持った広域的役割を果たしえていない原因もここにあるのではないだろうか。
 しかし、青年の広域的要求はますます、広がり深まっている。青年の家がそれをさけて通ることは、社会教育施設としてはサボタージュともいえる。区市町村に対する独自性を自覚しつつ、それらに取り組む必要があるだろう。
 その営みによって青年の自己教育運動は育てられ、各地域に成果として持ち帰られる。それは区市町村の社会教育行政を支える力の一つとなるだろう。すなわち、それはあくまでも市町村第一主義を守るものである、否、市町村第一主義を内実から創り上げてゆくものといえるだろう。なぜならば、市町村第一主義とは、何よりも、「住民一人一人の生活課題についての学習要求に直接こたえる」、「生活に根ざした教育活動(5)」であり、その実現の手助けになるのだから。
青年の家について、みんなで考えてみよう
東京都立府中青年の家 西村美東士

 「この指とまれ」の大いなる(?)発展、おめでとうございます。「この指」は、何回も、東京都の青年の家を利用していますね。青年の家についてどう思いますか。
 東京都は青年の家を七つ持っています。みなさんの近くにある青年館や公民館とは、次の二点で異なります。1、宿泊が出来る=維持管理のための予算規模が大きく、区市町村段階では維持しにくい、2、広域事業を行なう=区市町村のエリアを超えた青年の交流などを援助する。
 59年、当時の週休制の一般化による、勤労青年の余暇増大という状況のなかで、国は余暇対策(余暇善用)の一環として国立青年の家第1号を御殿場にオープンしました。そこでの教育方法は「団体宿泊訓練」でした。同年、東京都も青年の家の第1号を八王子にオープンしました(今の八王子青年の家)。しかしそこには「訓練」という考え方はなく、また、例えば国旗掲揚などもしていません。設立の当時から、国立形の青年の家と違う性格をある程度はもっていたと言えるでしょう。
 とは言え、やはり「お役所」のやること、どうももう一歩青年の気持ちにピッタリこないところがあるようです。青年の声をあまり聞かずに60年代の青年の家が、どんどん建てられました。青年や市民の要求があって建てられたのは、70年の水元青年の家です。それでも大まかに言えば、東京都の青年の家は、青年とのつながりが非常に弱いと言えます。
 その証拠に、あなたは、私たち青年の家専門職員〔社会教育主事(補)〕の存在を御存知ですか。そして78年度、各所1名づつ定員削減を受けることを御存知ですか。今年から試行されている宿直廃止も関係しているのでしょう。しかし、青年の家をより良くしていきたいと考える私たちにとっては大変なショックです。早番、遅番のローテーションがきつくなり、やりたい仕事がやれなくなるからです。
 しかし、青年が、そういう状況にある青年の家に対して、ほとんど要求をぶつけてこない、あるいは、要求を持っていないというのはどういう理由でしょうか。各サークルにとっては、死活の問題として定例会の場の条件があります。それに反して、せいぜい一年に何度か、合宿で使うぐらいの青年の家については、それほど死活の問題ではありません。ここに、青年が青年の家に対して要求をぶつけず、したがってつながりも作りにくいという原因があります。もちろん、私たち職員の主体的役割についても反省すべき点はありますが…。
  しかし、宿泊可能な施設は、サークル内の人間的つながりにとっては、本当は非常に、有利な施設と言えないでしょうか。せいぜい週に一度、2時間から3時間くらいづつ会うだけでは、心の底からお互いを理解しあうのは難しくありませんか。風呂にいっしょに入って、お湯につかりながら話をする。寝床に入って、ボソボソ話をする、そんな共同生活の中に、仲間のすばらしい人間性を感じることができるのではないでしょうか。
 さらに、「この指」のように、広域にわたる青年サークルの交流を援助するのは、東京都の大きな役割の一つです。また、そのように遠くから集う場合、宿泊機能を持った施設でないと充分な交流は困難です。このような意味でも、青年の家は大切な施設です。
 このような大切な役割は、いま充分に生かされてはいません。問題は、こまかく言えばたくさんあります。門限、活動時間、複雑な手続き、禁酒、など、みなさんもすぐ思いあたることでしょう。しかし職員から言えば、自由にした場合の事故の問題や、労働条件の問題が気になります。ひどい利用団体になると、職員を真夜中、たたき起こして、平気な顔で入ってきたり、夜中、宴会をやってとなりの部屋の人の眠る権利を侵害したりすることもあります。そこまでひどくなくとも、不自由な規則を変えさせようとするのではなく、自分の団体だけはなんとかだましすかし、あるいは、ねじこんで、小さな規則破りを貫徹しようとするところは多いようです。自らのグループサークル活動をを愛する情熱は理解できますが、それにしても不自由な規則の改善を要求してくる正義漢が、一年のうちで多くて二、三人だというのは、淋しい気持ちがします。もちろん、それは、青年に対する青年の家の姿勢(青年が不満をぶつけにくい)にも反省するべき点があると思いますが…。いずれにせよ、青年と、青年の家職員とは、すれ違い状態のようですね。
 73年、狭山青年の家の「三多摩青年サークル交流会」の中で「三多摩サークル連絡協議会」(三サ連)が結成されました。その時、青年たちは、東京都教育庁社会教育部に対して青年の家の無料化や、施設増設、青年の手による自主的な運営、専門職員の配置などの「要請文」を出し、ある程度の回答を得ています。現在は、その回答よりもはるかに後退した状況にあります。「この指とまれ」が東京の青年サークルの要求を反映し、東京都の社会教育行政をよりよいものにしていくよう活躍されるよう期待する意味が、御理解いただけると思います。そして青年の家の方も、広域の青年とつながりを持ち、青年サークルの交流と連絡を援助できるよう、がんばっていこうと思っています。
青年教育セミナ・レポート
東京都府中青年の家 西村美東士
「ダンス・フェスティバル」
サークルリーダーレクリエーション研修会

T 目標・目的
キッカケ…前任者のひきつぎ
ツモリ…ダンスもしらずに会社でくさっている青年が「ああ、おもしろいなぁ」と思えばいい
ネライ…青年の家でつかみきれていない層の、スバラシイ青年たち。外に出たがらない(?)でレクサークルの交流。
状況把握…「ディスコダンスそのものは、比較的、健全である」

U 事業の内容
レクの特徴…楽しい、要求が多い
ディスコの特徴…楽しい、強制的でない連帯感がある
(当初の考え方)
受け止められ方…
その修正…
そのてだて…
結局… 
※〔実行委員は、知らぬ間にそれなりに成長している。(組織性、社会性など)それを把握できなかった〕
V 事業の経過 別表を見よ
W ふれあいとその成果
何を働きかけたか
「いろんな人と知り合えた」「汗を流し、おおいに笑えた」「実行委員の人が一生けんめいやってくださっているのがよくわかり、感激した」「心からバカになって、本当の自分が出せた」「異性の人々との会話は楽しくもあり苦しくもありました」「先日のミニレク研に参加をした人達と再び会えたことが、そして覚えていてくれたことが思いがけなくうれしかった」「私でも集りに積極的に加わってゆこうという意欲がわいたことをみてもとてもプラスになった。今までの青年の会というものに対する偏見を変えてくれた。」「最初、ディスコはあまり興味がなかったが、楽しく踊ることができた」「根っから内気な性格で、…、若い仲間の言葉がとびかうのを聞いていると、自然にその中に入れて行ったよう」「さっそく覚えて、みなといっしょにやりたい」「たまにはこのような体験も」「若者達が一つになって何かをするという事は大変素晴らしいことだと思う」(53年度「ダンスフェス」の感想より、)
特徴的な或る個人 (口頭で、Uの※参照)
集団のささえ 特にディスコボーイについて

X

Y 活動の成果
地域の活動にどう影響したか
集団として…レクサークルの交流(ただし個人的なつながり)
個人として…〔青年活動への興味「いなかへ帰っても〜するわ。」その他・人間を見る目など?〕
Z 総括
いつのまにか、考え、知り、成長している。それは、そもそも、内に秘めた、他社からは把握不可能な営みの場合もあるし、科学的に追跡できる場合もある。後者についての努力を担当者として、怠っていたのかもしれない。 三多摩の70年からの青年教育の流れをとらえるために

 74年12月、昭島に「でく」、75年9月、小金井に「サチ」が相次いで誕生する。これらは青年や市民、自らの手によるスナックである。そこでは酒が飲めて、気楽にフラリと立ちよって話したり歌ったりできる。開店当初は本当に愛されていた。しかし今は、残念ながら赤字のために潰れてしまっている。
 これに並行して、75年1月、国立公民館内に「コーヒーハウス」が開店する。内容としては、「野草を食べる会」「こころと体の健康」「わさび田づくり」などを行っている。これは青年学級の性格を一部ひきつぎ、しかもフラリと立ちよれる「たまり場」でもある。
 「コーヒーハウス」の場合は、「でく」「サチ」と異なり、社会教育施設の中にある。また、講師料、合宿旅費、連絡用役務費、ミニコミ発行の為の需要費などは公民館によって保障されている。ゆえに大きな赤字が出てそれを青年たちがしょいこむということはありえない。
 さらに専門職員なり、公的な青年教育の講師なりが、つねにいるという点でも「でく」「サチ」と異なる。そして、彼らと青年たちとによって先に述べたような活動が行われている。三多摩成人教育セミナーでは、「従来のたまり場論は施設論の中でとりあげられてきた。物があるからたまり場になるのではなく、職員がいて事業編成のなかで集まる内容をつくっているから行く気になるたまり場論が生まれるということを考えていく必要がある。」と指摘しているが、そういうたまり場論がこれからは進められるだろう。
 確かに「型へはまる」ことへの拒否から「自由なたまり場」を青年は志向する。しかし社会教育行政の本来の役割は決して「型へはめる」ことではない。また、青年自身も、決してアナーキーな「自由」を求めているのではないはずだ。(もちろん、「でく」や「サチ」がそうだと言うのではない)。青年が、気楽にフラリと立ちよれて、しかもその中で、今まで気がつかなかった、学習・文化など自らの要求に目覚め、自ら成長していけるような、そんな目的的な活動を援助し保証していくことが必要であろう。
 もちろん、「たまり場」を自前で作るより、公的施設の中に作る方がよいという判断は、社会教育行政がすべき性質のものではない。また、そういう「自前論」と「公的保障論」とを対立するものとして一面的に捉えること自体、おかしい。しかし青年たち自身が、自らの「たまり場」を公的社会教育施設に求めるならば、それにこたえてゆく必要がある。「コーヒーハウス」を始めとして、さまざまなかたちの試みの中で、各地の公的社会教育施設が、形式的にロビーを作るだけでなく、気楽にふらりと立ちよれて、しかも青年たちが主人公としていきいきと活動できる本当の「たまり場」を実現しようと模索し始めている動きは、現在の公的な青年教育の特徴の1つといえるかもしれない。

二、青年サークルの交流・連絡の動き
 72年、東京都狭山青年の家で、「三多摩青年サークル交流会」が開かれる。それはサークルが「地域的な横のつながり」を持つことによって、1、悩みや問題、経験などを出し合い、2、三多摩に大きな青年の輪を広げようとするものであった。1、サークル活動についての分科会、2、青年問題に関する講演、3、都の社会教育行政との対話が主な内容である。対話の中では、青年の家の運営や建設などに関して青年からの要求が出されている。73年の第二回交流会において、「三多摩サークル連絡協議会」(三サ連)が生まれる。それは、1、サークルを運営する拠点となる、施設の条件整備を進める、2、各サークルのもつさまざまな問題の解決の方向を見出す、という二本の柱を持っている。この交流会では、主に都の社会教育行政に対し、無料化や、青年の手による運営などの内容を持つ要請文が出された。
 以後、この交流会は狭山青年の家で毎年一回、続けられている。しかし、77年の三サ連事務所の閉鎖など、三サ連は崩壊の危機に立っている。私見になるが、その理由として、1、サークル活動家の多忙と、各サークルにおける彼らの重要性、2、範囲が広域であり、集まりずらいことなどがあげられよう。
 74年、サークル活動交換の役割をはたしていた「人生手帖」が廃刊される。そういう状況のなかで、若者自身の手で75年、唯一のサークル専門誌、「月刊サークル」が発刊される。しかし翌年200万を超える赤字を出し、これも休刊されるされてしまう。その特徴として、サークルがその必要性を否定したのではなく、1、サークルの要求をくみ上げきれなかったため、サークル構成員に広く配布されなかった、2、サークルの側からもサークルの発展のための「月刊サークル」の意義が認識しきれなかった、という2点が挙げられている。
 反面、現在の状況としては、公的な青年教育会の組織的参加、あるいは各サークルの要求の集約など、各市の単位サ連の高まりが見られる特に隠しのフェスティバルについてはサ連の協力によるものが多い。
 さらに全都的ひろがりを持つものとして、「この指とまれ」(東京青年交流集会)がある。これは76年、第十六回社会教育研究全国集会が、東京で開かれたが、その一部として「青年のつどい」が企画されたことに始まる。その「青年のつどい」の実行委員会において、研究集会のためだけのものでなく、これを機に、東京の青年サークルが手をつなごうという方向が決められる。9月に研究集会が開かれるが、その前の8月に、杉並公民館において第一回の「この指とまれ」が開かれる。「青年のつどい」(都立水元青年の家)も盛況の内に行われる。以後77年1月(小金井市立青少年センター)、8月(世田谷区立青年の家)、12月(都立府中青年の家)に、集会が開かれている。
 府中青年の家での「この指とまれ」は、「ウインターフェスティバル」と銘うち、150名規模の青年の家にて、「この指」として初めて100名を超える規模で開催された。
 杉並公民館を除いて、それ以降は宿泊をともなう集会である。また参加者も東京のさまざまなところから広域的に集まっている。このようなところから、東京都の青年の家が比較的よく使われている。
 しかし、先に述べた三サ連のいきさつとは大きな違いがある。青年の家は催しの場として使われているだけで、実行委員会などの拠点としては、もっと交通便利なところが使われていることであり、さらに、「この指とまれ」においては都の社会教育専門職員が、勤務の位置づけでのつながりを持てなかったことである。その理由は、集会が青年の自主的な動きの中で生まれたことであろう。しかし、自らの事業の中で生まれたものでなければ援助できない体制は、民主的とは言えない。それは、都の社会教育行政の機動性が足りないということであり、また都の社会教育専門職員が、青年からつながりを求められるような信頼を得ていないということでもある。いずれにせよ、これから青年サークルが広域的交流を求めて行くとすれば、そのための広域行政の社会教育専門職員の役割が問われてゆくといえよう。
 次に参加者の構成をみると、それまではサークルのリーダー層がほとんどだった。しかし「ウインターフェスティバル」では、サークルリーダーの他に、新旧のサークルメンバーや、既成文化団体のメンバーが参加している。内容が、実際にサークルの中で活動されているモノそのものの交流であった面が、一般のメンバーにも魅力的だったからといえよう。
 「この指とまれ」のような活動での一般の問題は、サークルリーダーが、個々のサークル活動と「この指」の活動を全て一人でしょいこんでしまう無理から生ずる。これからのサークルの交流は、いかにメンバーまで含めた広い要求にこたえて、広い層をまきこんで行われるかが、キーとなるだろう。その点で「ウインターフェスティバル」が新たな層をまきこんで成功したことはこれからの展望を開くものである。さらに、そういう大衆的な広がりの中で、いかに「社会教育施設の条件改善」や「サークル連協」をみんなの問題にしてゆくか、「この指とまれ」実行委員会は模索中である。
 いずれにせよ、個々のサークルのリーダーが、サ連などの活動に、一人でとび出てゆき、一人で帰ってくるくり返しは、今、少しづつ変わろうとしているといえるだろう。

〈資料〉
たまり場に関して
くにたち公民館だより(国立公民館)
昭和50年度「成人教育の諸問題」(立川社会教育会館、三多摩成人教育セミナー)
季刊「でく」
現代「若衆宿」の再創造(月刊社会教育1976・2)
みんなの力でスナック経営(月刊サークル1975・5)
サ連に関して
青年教育のありかたを全国・三多摩の青年教育のながれから考える(立川社会教育会館、三多摩青年教育セミナー)
月刊サークル(1975・創刊号〜76・1最終号)
三多摩青年サークル交流会記録(1972・3、73・3、74・2、 狭山青年の家)
「この指とまれ」記録集(発行予定)
同和教育映画における、部落差別以外の差別について
−女性差別問題を中心として−

1、本論のねらい

2、「性別役割分担」について
…同和教育映画の映像に表われた「固定概念」

3、キャスティングにおける「不美人」差別
…つくられた「美人の基準」
…リアルで生活に根ざしたキャスティングを

4、封建的な「イエ」の思想の克服について
…嫁・姑の矛盾を、同和教育の民主的観点から克服する

5、あらゆる差別を考える必要性について
さまざまな差別
同和地区内の差別
映画製作所の差別
「春の汽笛」について
映画芸術への民主的・大衆的な関与
(自己教育を本質とする社会同和教育の営みとして)


同和教育映画における、部落差別以外の差別の問題について
ー女性差別問題を中心としてー

1、本論のねらい
 いうまでもなく、同和教育の課題は、差別が基本的人権の重大な侵害であることの認識の上に立ち、部落差別の解消を中心的課題としつつも、さまざまなその他の差別も許さない人間尊重の理念を実現することにある。
 しかし、現実の社会には、様々な差別が存在しており、同和教育映画といえども、それらを完全に払拭しているとはいえない。
 以下、女性差別の問題を例にとって、同和教育映画が、意識的にせよ、無意識的にせよ、それをどうとらえているか、そして問題点はないか、考えてみたい。

2、「性別役割分担について」
 「婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条例」の署名式が、国連婦人の10年「1981年世界会議」の席上で行われ、日本も署名をした。
 この条例では「固定的な性別役割分担を変える必要がある」と書かれている。
 ところが、「男は外で仕事をし、女は家の中で家事・育児をすべきだ。」という観念が通常化しており、男女ともに是認している人が多い。
 ある同和教育映画の中に、夫が夕食のあとかたづけをする妻に対し、自分は寝ころびながら、部落差別に対し戦う姿勢を説く場面があった。多分、映画製作者は、無意識の内に、「男は外で仕事をし、女は家の中で家事を」という固定概念にとらわれていたのだと思う。
 しかし、これは、家事労働分担の理想に反するばかりでなく、共働きの増加による現実の姿からの離れている。それゆえ、リアリティに欠け、せっかくの夫の言葉も、何かシラジラしく聞こえる。
 これが、たとえば、妻が皿を洗い、夫がふきんでふいている中での会話だったら、部落差別と闘ってきた夫婦の愛と生きざまをもっと感じさせることができたのではないだろうか。

3、キャスティングにおける「不美人」差別について
 現在の社会の価値観では、ややもすると、女性を本来の人間の姿として見ることができず、外見上のつくられた「美人の基準」に流されてしまう。
 しかしそのような外見による「美人」、「不美人」の「選別」は女性を人間としてではなく、「品物」としてみる差別観の第一歩だといえる。
 同和教育映画であっても、必ず「美人」ばかりが、善き主人公であったり、しかも彼女が、くつろぐ夫の前で、文句を言わずせっせと家事労働にいそしむシーンばかり出てきたりすると、これは低俗なテレビドラマを見ているような気にさせる。
 ある同和教育映画の監督は、「(監督自身は)性格俳優を使いたかったが、委嘱をした行政から、観客の知名度の高い女優を使うよう指示された。」と語っていた。
 少なくとも、同和教育映画ぐらいは、「不美人」差別を克服して、リアルで生活に根ざした画面を合成できるキャスティングを実現してほしい。
 又、このことが、芸術的にも成功し、大衆的にも共感されるならば、同和教育の目指す「民主主義」「人権尊重の理念」が、映画芸術全体に良い影響を与えることにもなると考えられる。
 
4、封建的な「イエ」の思想の克服について
 嫁・姑の問題等は、直接には女性差別の問題ではない。
 しかし、嫁が夫の家に「入り」、そこで対等の人間としてではなく、「しゅうと・しゅうとめ」に仕えることを義務づけられるとすれば、「平等の精神」に逆行する「差別」の一つであることは明らかである。
 もちろん、数多くの同和教育映画に。そういう「逆行」を、直接支持する内容のものはない。
 しかし、夫と姑を捨てて飛び出した嫁が、悪者に描かれている映画は見受けられた。
 そこでは彼女が「悪者」である理由は他にあるのだが、それにしても、同和教育映画では、これらの状況設定にはもっと神経質であってほしい。
 さらに、封建的な「イエ」の考え方をきちんと問題としてとりあげ、古い制度にとってかわる、民主的で、すべての人の幸福を追求する新しい「イエ」のあり方を提起する積極的な姿勢があって良いと思う。

5、あらゆる差別を考える必要性について
 同和教育が、部落差別だけでなく、あらゆる差別をなくしていくことを理念として掲げていることはいうまでもない。
 世の中には、部落差別の他にもたくさんの差別がある。同和地区の人間どうしの間にも、男女差別などがあるかもしれない。
 又、映画制作の現場にも差別がある。ある同和教育映画の監督が、「撮影所自体が、ものすごい差別社会である。その中では、自分の担当した同和教育映画の制作は、いわゆる『下働き』の人たちがいきいきと仕事にとりくんだ、まれな例だった」と語っていた。
 同和教育映画においては、あらゆる差別を考えてゆく必要がある。そのことによって同和教育映画は、同和問題をすべての人の問題として、訴える迫力を持つだろうし、差別の本質的解決にも迫ることができるだろう。
 ところで、さまざまな差別を告発している同和教育映画の一つとして、神戸市教育委員会の「春の汽笛」が挙げられる。
 部落差別を中心として、朝鮮人差別、エリート主義、差別的教育観、「政略」的結婚、そして極度な経済的貧困等、差別に関係するさまざまな問題をリアルに描いている。
 しかも登場する人物は、その苦しさの中にあって、力強く展望を切り開いてゆく。
 そこには、テレビの現実離れしたホームドラマとは異なり、「われわれの」問題として感じさせる、「現実の生活に根ざした迫力」、即ちリアリズムの迫力があふれている。
 しかしこの映画ばかりが意義があるとはいえない。同和教育映画といえど何らかの問題はあるだろう。むしろ、それらの映画を、人々が、主体的で自立した精神で批判し、しかもそれが次の映画製作に役立ってゆく、そんなプロセスこそ重要だと思う。
 先に述べた、同和教育映画における女性差別の問題も、それが黙視されてしまうから問題なのであって、上映後、きちんとそれについて討議すれば、かえって良い効果が現れるかもしれない。又、さらに進んで、そういう視聴者の意見を、次の同和教育映画製作にフィードバックさせることにより、主体的・大衆的な映画芸術への関与も考えてゆきたい。社会同和教育が、国民一人一人の意識変革を併なった自己教育だとすると、同和教育映画も、なんの欠点もない完成品としてあるのではなく、国民の自由で主体的な営みによって発展すると考えるべきであろう。
(完)
乳幼児期における人権尊重教育を考える


目次

1、はじめに

2、人権尊重教育の対象
(1)、乳幼児
(2)、父母
(3)、指導者

3、乳幼児期における人権尊重教育の場
(1)、集団保育
(2)、家庭
(3)、地域

4、乳幼児期における人権尊重教育の方法
(1)、自己教育
(2)、相互教育
(3)、教育的指導性

5、乳幼児期における人権尊重教育の内容
(1)、差別感を注入しないこと
(2)、競争と連帯
(3)、情緒、情操、知力
(4)、自主的思考

6、おわりに


1、はじめに
 近藤薫樹氏は、次のように書いている。
「未解放部落の子どもの多い保育園では、とくにそれに必要な保育対策を強化しています。キャバレーなどに働く親の子どもたちのためには、夜間の保育所が設けられ、"ハワイ"系だけでもその数二百数十に達します。夕暮れネオンのともるころ、『おはようございます』と登園してくる子どもたち。十二時前後にやっと最終の子のお迎えがきて、『午前』になった夜道を帰る保母さんたち。(1)」
 このちょっとした文章一つに、すでに我々は、乳幼児期の人権尊重教育の深刻さ、複雑さに暗澹たる思いがするものである。なぜならば、そこには、こどもを取り巻く経済環境の問題、家庭環境の問題、そして、女性の商品化という女性差別の現状、さらにこれらの「貧困」がとりわけて未解放部落を襲っているという現実が、暗く重く、横たわっているからである。
 本論で、乳幼児期の人権尊重教育を検討する場合も、当然、このような諸々の「貧困」の重圧すべてが、重要なファクターとなる。小手先の技術論ではなく、経済・社会・文化の広い視点が必要である。
 それゆえ、議論の対象も、同和地区だけにしぼるのではなく、広く乳幼児期の人権尊重教育を検討することが、問題の真の解明に役立つものと思われる。本論も、そのように進めることとする。
 さて、乳幼児期の人権尊重教育の目的は、いうまでもなく、対象である乳幼児が、将来、他者の人権をきちんと尊重できる人間になるように援助することである。
 しかし、先に述べた諸々の「貧困」は、乳幼児期にしてすでに、その人権が充分尊重されているとはいえない実態を示している。そのことが、又、いかに乳幼児期における人権尊重教育を阻害する要因となっているか測り知れない。
 本論では、さまざまな側面から乳幼児期における人権尊重教育をとりあげるが、その際どのような「貧困」がどのように影響しているか、努めて明らかにしながら、論を進めることとする。
 もちろん、この「貧困」とは、単純な物質的な貧困をさすものではない。むしろ現代社会の病理ともいうべきもののあらわれと考えるべきであろう。
 しかし、それは乳幼児期の人権尊重教育にとっては如何ともしがたいものと悲観的にとらえることではない。乳幼児期の人権尊重教育を追求することが、それらの「貧困」を一つ一つ解決していく手段の一つになる。
 最初に述べた、キャバレーなどに働く親の子どもたちのための保育園の事例は、「未来の望ましい保育」を目指した「広大な社会的実践」の一例として、近藤薫樹氏はむしろ肯定的に提示している(2)。象徴的な主張である。
 本論においても、重苦しい「貧困」の事実を重視しながらも、それに打ち勝って乳幼児期における人権尊重教育を実のあるものにする筋道を明らかにしたい。

2、人権尊重教育の対象

(1)、乳幼児
 人間の性格形成は、3歳までに、その基礎ができるといわれている。又、4・5歳になると、子ども同士の集団生活が活発になり、感情表現の発達や知的発達が著しい(3)。
 差別意識や偏見もこの発達の過程で芽生えていくと考えられる。
 乳幼児期という発達段階は、その意味から人権尊重教育にとって大切な時期である。
 さらに乳幼児期を発達段階としてとらえる場合、三歳未満とそれ以上とに分けて考える必要がある。
 情緒(感覚的感情)は乳幼児にもありうるが、情操(道徳的感情)は、ごく大まかにいえば、言語的思考の未熟な三歳未満では、まず無理である(4)。
 情緒と情操の相違と関連については後に述べるが、乳幼児期ということで、機械的に一括してとらえるのではなく、発達段階を二つに分けて考えることが大切である。

(2)、父母
 「子どもは大人の思うようには育たない」といわれる。ところが「子どもは大人たちのしているようには育つ」のも事実である。
 近藤薫樹氏は、これについて、「子どもをどう教育するか、ということは、大人自身がどう生きるか、という問題にはねかえってきます。」と述べている(5)。
 又、自分の子どもの短所ばかり気にする親に対し、短所の裏側にある長所をみるように勧めている。そして、いつも他人の子どもと比較してあくせくしているような子ども観は、子どもに優越感と劣等感、利己的競争心を育てることになると、指摘している(6)。
 このようなことから、乳幼児における人権尊重教育のためには、その乳幼児をもつ親の与える影響が大きく、父母に対する人権尊重教育を重視する必要があることがわかる。
 その場合、家庭教育学級等の社会教育の側面からの援助も意義があるが、根本的には親、自らが、広い意味での学習により意識変革するのを待つ他ない。
 この学習は、切実な学習動機を持つものである。すなわち、「子どもの幸せのために」ということである。日常、父母と接触する保母等は、この学習動機を重視し、それが歪んだ方向に進まないよう注意する必要がある。
 間接的な、社会教育等による父母への援助もさることながら、直接子どもを受け持つ指導者による、その父母への対応と、さらには関係する父母どうしの相互作用は、より大きな影響力を持っている。
 灰谷健次郎の「兎の眼」の中で、知恵遅れの子が、我が子のクラスに入ったのをきらって、淳一の母は先生に激しく抗議する。「もし、自分の子の学力が落ちたら」という不安からであり、利己的で歪んではいるが、「子どもの幸せのために」という思いから出発している。
 しかし、後に、先生の印刷する学級新聞や、なによりも淳一自身の成長を見て考え方が変わってきている。
 ついには、PTA総会で、「ひとのことなど知らん顔をしていた子が、他人のことでなやむようになり、考えるようになったのです」と言い、「一部の子どものためにみんながめいわくをこうむる、わたしたちははじめそう考えていたのです。しかし、それはまちがいでした。よわいもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてダメになる」と発言するまでになる。
 淳一の母は、「こどもの幸せのために」から歪んで出発しつつも、同じ、「こどもの幸せのために」自らの意識を自ら変革している。そして、この意識変革を実現したのは、淳一の成長のようすであり、それを支えた先生であり、「学級新聞」という形での先生からの訴えであった。
 ここには父母の意識変革の筋道が、象徴的に示されている。

(3)、指導者
 指導者自身も常に、自己変革が求められている。人権尊重教育の面でも私達は、乳幼児期の指導者に対し、不動の完全性を求めるのではなく、常に少しずつでも前進する姿勢をこそ求めるべきだろう。
 黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」で、背がのびない体質の生徒に、何気なく、「あなたにはしっぽがあるんじゃないの」と言った先生が、その深い意味に気づき、「本当に私が、間違ってました」という場面がある。
 これは、怒ることなどない校長先生が、真剣にその先生に対して怒り、訴えた結果、その先生が自らの不用意な言葉を心から反省したものである。
 このように深い見識からの、指導者に対する指導は重要である。
 又、障害児を含めた保育を行っている、「風の子保育園」という園の園長は、次のように述べている。
 「全職員が同じ保育観をもって、共同の責任で保育をする心がけが必要で、保育観の一致をつくりあげることが非常に大事だと思っている。そのためには、会議や勉強会をしなければならない。(7)」
 これは、言いかえれば、指導者相互の集団としての教育作用の必要性を述べている。
 さらに、子どもの存在が指導者に与える教育的作用も大きいものである。前出、「兎の眼」の小谷先生が、知恵遅れのみな子をあずかる決心をしたのは、「自分の人生を変えるつもり」で決心したのであり、結果的にも、少しひ弱なところのある小谷先生は、たくましくなる。
 これは、指導者が子どもから学び、自己変革することを示している。

3、乳幼児期における人権尊重教育の場

(1)、集団保育
 集団保育において、子どもは、友だちと先生とのふれあいを見ていたり、友だちの体験を直接見ながらそれを自分のものとすることができる。これは、集団保育の場では、子どもをとりまく人間関係が、同質同類の集団が主であり、自分とは異質なものにとりかこまれている家庭にはない教育作用を、もたらしていることを示している(8)。
 又、子どもの集団は、認識を促進させ、みんなの分業とか協力を身につけていく方向に発展させる(9)。
 このような意義を考えると、保育園は、救貧対策としてではなく、重要である。
 なお、幼稚園についても同様の意義が認められる。しかし、「私たち教師は、保母とは違う。」という優越感(差別意識)や、「幼稚園は教育するところだから、4時間以上は無理」という遊びや生活と教育とを分離した保育観は改めなければならない(10)。
 特にエリート主義的な、差別的発想の幼稚園については、人権尊重教育を阻害する一要因とさえ、いえる。
 以上、人権尊重教育の面から、集団保育の意義を論じたが、ここで、「乳児集団保育」の意義についても触れておきたい。
 乳児には、集団生活は成立せず、その意味からは集団保育の意義が見出せない。
 しかし子どもたちに合理的に最高のものを与えることは集団保育の大事な役割であり、子どもたちの人権を尊重することにもなる。又、当然、実際の社会的必要に迫られていることはもちろんである。
 いずれにせよ、早産である人間のゼロ歳時代は重要な時期であり、その時期の集団保育は、充分な条件を整える必要がある。

(2)、家庭
 先に2の(2)で述べたように、父母が子どもに与える教育的作用は非常に大きいものがある。
 ここでは、家庭の中で、子どもが愛され、尊重されることについて考えてみたい。
 言うまでもなく、子どもは愛されて育ってこそ、他者を愛す人間になりうる。
 しかし、家庭での愛情と、保母等の指導者の愛情は、区別しておく必要がある。
 近藤薫樹氏は、家庭で子どもをとりまく愛情を、「多くの対象にわけることのできない要素を持った愛情」として、「特異的愛情」と名付け、施設の中で子どもをとりまく愛情を、「客観性に裏づけられたヒューマニズムに近い愛情」として、「科学性のある愛情」と名付けている。そして、前者は主に情緒を育てるもの、後者は主に情操を育てるものと述べている(11)。
 このように、両者の愛情は、ともに重要であるが、家庭での愛情には、独自の教育的意義があることに注意しておきたい。
 さて、次に子どもが、きちんと尊重されるべきことについて考えてみたい。
 マカレンコは、「場合によっては、子どもが何かをぬすんだりしたら、それを追求することがきわめて大事なことがあり、みなさんがその証拠をあげ、話すことが必要だと感じるならば、話したまえ。しかし、みなさんが嫌疑のほかに何も持っておらず、彼がぬすんだという確信がないなら、第三者のあらゆる嫌疑からまもってやるべきだ。」と述べている(12)。
 これは、子どもに対する親の、小さな人権侵害を批判したものと、とらえることができる。
 しかし、次のようにも述べている。
 「わたしは、家庭ではまず第一に、親にいちばんよくすることを心から支持しています。もしあなたに絹地があれば、まず母に服をつくることです。(中略)。といっても、べつに子どもの事を考えるのをやめなさいというわけではありません。あなたは子どものことで気を使ってもいいのですが、まず第一に、親のことに気をくばるのが本当だということを子どもたちが信じるようにしなくてはなりません。(13)」
 子どもに対し、愛情をもって接し、その人権を尊重しつつ、しかも過保護に陥らずに、子が親を尊重する気持ちを養うことを、マカレンコは主張しているといえる。
 家庭での教育作用については、「特異的愛情」の性質から、「盲目的」になりやすい。マカレンコの主張に学ぶ必要がある。

(3)、地域
 地域の教育力の重要性と、その危機的状況については、「社会同和教育研究会」の昭和56年度の報告に指摘されているとおりである(14)。
 この現状を打開する一つの方策として、乳幼児の人権尊重を課題意識とする活動が有効だと考えられる。
 なぜなら、父母の行動の大きなエネルギー源は、先にも述べたように、子どものために」であり、わが子を含めた乳幼児の人権を充分保障するためには、地域活動が不可欠なのは明白だからである。
 その活動により、人権尊重の意識が、地域のいたる所で普及することが期待される。

4、乳幼児期における人権尊重教育の方法

(1)、自己教育
 人権尊重教育が、もし、学習者の主体性を無視して行われるならば、これは自己撞着であり、許されるものではない。
 ところが、対象が子どもだと、つい、その原則を忘れがちである。もちろん、成人の学習のような自己教育活動を期待はできないが、それでも、乳幼児の成長・発達の基本的原則も、やはり自己教育活動であるといわねばならない。
 矢川徳光は、幼児がスプーンを使いこなす自由を手に入れる経過について述べ、「いまのばあい幼児が手に入れた自由や解放は、まえでもちょっといいましたように、母親からのたんなる頂戴物ではなくて、母親の援助や指導が必要ではありましたが、それでもなお、幼児はじぶんの側の活動によって獲得したのでした。その獲得活動の主体(し手)は子どもだったのです。このことは、子どもは自分の発達を創りだした当人つまり主体であるということを意味しています。(15)」と述べている。
 このように、乳幼児期の学習をも、その本質を「自己教育活動」であると認識することは、人権尊重教育にとっても、大変意味のあることである。
 なぜなら、乳幼児の発達の主体をきちんと認識することは、子どもを親の「従属物」としてしかとらえない封建的な考え方を否定し、子どもの人権を尊重し、その上での親や指導者の役割を正確に認識することにつながるからである。

(2)相互教育
 前出「兎の眼」で、淳一は、知恵遅れの、みな子の世話で成長し、のみならず、「そういう機会をみんなにわけてやろう」と、「みな子当番」を提案する。
 そこには、相互教育の活動のすばらしさが、いきいきと描かれている。
 このように相互教育の成果を挙げようとするならば、その子どもが差別的な価値観を持っていては不可能である。
 さらに、子どもたちの帰属する集団が、利己的競争、差別・分断の場でなく、子どもなりに心から愛せる集団でなくては、相互教育の生命力は失われてしまうだろう。
 前出、「窓ぎわのトットちゃん」で、子どもたちは、「トモエ学園、ボロ学校!入ってみても、ボロ学校!」という、はやし歌に憤慨して、「トモエ学園、いい学校!入ってみても、いい学校!」と歌いながら行進する。
 帰属集団へのそれほどの愛着があってこそ、相互教育の良さが生きる。

(3)、教育的指導性
 以上のように、自己教育、相互教育の意義は大きなものがあるが、その上で、保母等の指導者には、「教育的指導性」が求められる。
 ここでは、さまざまな側面から、逐一、それを検討することは避けたい。しかし、いずれにせよ、「教育的指導性」を簡単に公式化することはできないはずである。
 近藤薫樹氏は、「親や教師が、ある時、ある所で、子どもに対してとるべき言動は、自分のおかれた条件の中で、自分の頭で思考し、自分の責任において行われなければならない(16)」とし、指導者の自主的思考の重要性を主張している。
 我々も、「教育的指導性とは何か」の解答を、単に技術論的に安易に求めるべきではないと思われる。

5、乳幼児期における人権尊重教育の内容

(1)、差別観を注入しないこと
 クルプスカヤは、「あらゆる民族の子の友情について」という文で、ポーランド人、ユダヤ人、タタール人の子どもたちと、子どもどうしの交流を深めたこと、そして、その後ユダヤ人やポーランド人の虐待を聞いて、無性に腹が立ったということを述べている(17)。
 又、前出の「窓ぎわのトットちゃん」で、アメリカ育ちの級友に対して、子どもたちは仲良く交流し、政府が「アメリカ人は鬼」と発表しても、そんなことにはおかまいなく、楽しく英語を教えてもらっている。
 又、トットちゃんは、朝鮮人差別の不当性を母親から教わり、朝鮮人の子供に対しても「みんな同じ子供!」といって友達になろうと決意する。
 このように、子どもには、生まれつきの差別的価値観は、ありえない。親や社会が後から、植えつけるのである。
 だから、乳幼児期の人権尊重教育を行なう場合、大切な前提として、「差別感を注入しないこと」をとりあえず、まっ先に徹底するべきである。

(2)、競争と連帯
 他人に対する連帯意識を育てることが、人権尊重教育の目的の一つであることは、明らかである。
 しかし、それは、何の波乱もなしに自然に獲得されるものではない。
 松田道雄氏は、「人間が人間にたいしていだくものは、権力欲であり、競争心であり、名誉心であり、怨恨であります。そういうものの交錯のなかで、人間は自分の主人でありつづけるにはどうするかを、試行錯誤していくのです。(18)」と、むしろ、「競争」を最初の動機として積極的に評価している。
 競争の状態を少しでもなくすことが重要なのではなくて、「競争」が「連帯」に止揚されるプロセスこそ重視しなければならない。
 それゆえ、人権尊重教育だからと言って、機械的にすべての競争的要素を教育課程から排除しようとすることは妥当ではない。むしろ、ある時には、「競争」を意図的に導入することも必要である。
 問題なのは、その競争が、差別的価値観に基づいて行われる時であろう。たとえば、ゲームで負けると「乞食」にさせたり、みんなの前で罰ゲームをやらせたりというのでは、子どもに対して「競争」が差別観を助長することになりかねない。
 さらに近藤薫樹氏は、けんかについて、「相手の言い分に筋が通っていようがいまいが、自分の情緒の方はらおさまらない。知性の枠組みに取り込まれることを拒んであばれる」ことだと言っている。しかし、そのけんかを否定的にとらえているのではなく、「後でけんか相手に対して燃えていた(怒りの)情緒が、自分の(補強された)思考の枠組みの中にとりこまれ、おさまる。いくらか、スーとしてくる。」として、「こういう感情体験はなかなか大切なもの」と評価している(19)。
 逆説的ではあるが、「けんか」により、「連帯」の端緒をつかむと考えて良いだろう。
 しかし、近藤薫樹氏は続けて、近ごろ、子どものけんかは激減しており、「おとなっぽい物わかりのよさがあって、いやなことされても、『ふん』とせせら笑って避けてしまう。『おまえがそう思うんなら、そうしたらいいだろう』(オレはかかわらないぞ)という調子で、大きいけんかにはならない」と述べている(20)。
 この「けんかの激減」という現実こそ、まさに子どもの連帯意識の危機をあらわすものといえるだろう。

(3)、情緒、情操、知力
 情緒(感覚的感情)は、「心のエネルギー」であり、情緒に欠ければ、他人に対して冷たい、無気力な子どもになってしまう。
 情操(道徳的感情)は、「当面の情緒に乱されないで、より正しいもの、より美しいものを志向する、かなり恒常性をもった、高度の感情(21)」であり、情操に欠ければ、他者の人権を尊重できる人間にはなりえない。
 乳幼児期における人権尊重教育にとって、豊かな情緒と情操はともに大切だが、無関係に存在するものではない。近藤薫樹氏は、「やさしい心という情操の場合もやっぱり、情緒に点火、そのエネルギーが上昇して、思考(一定の知的活動)をくぐる。くぐるときに、一定の思考の枠にはめこまれる。そして知性と一体になって働く感情である。」とその関係を示している。
 さらに思考力の発達も重要である。たとえば、きちんとした論理的思考をしない子どもについて近藤薫樹氏は次のように述べている。
 「小学校三、四年生にもなれば、『あの子は三歳のとき病気になって耳が聞こえなくなったんだ』と聞けば、同情と協力の感情が流れて然るべきです。それなのに、非論理的で情緒的な子どもは『あのツンボの子と遊ぶと、何かたたりがあるかもよ』などという言葉に容易にひっかかってしまいやすいのです。(22)」
 そして、「今日、乳幼児保育における思考力養成を軽視し、あるいはこれを葬りさってしまおうとする(23)」流れに警鐘を鳴らしている。
 乳幼児期における人権尊重教育では、情緒、情操、知力を総合的に豊かなものにしていくことが必要である。

(4)、自主的思考
 親や指導者にとって望ましい子ども像として、「すなおな心の子」が挙げられることに異議のありようはずはない。
 しかし、近藤薫樹氏は、それが「大人のいうことにすなおに従う子」を意味するならば反対であり、自主的思考ができて、「自分の思うことをすなおにいえる子」を意味しているなら大賛成だとしている(24)。
 この自主的思考は、世の中の不合理な差別や偏見に流されず、正しい判断ができる人間になるためには是非必要な能力である。
 又、各人が、お互いの自主的思考を認め合い、尊重する態度は、民主的な人権尊重の態度ともいえる。
 乳幼児期における人権尊重教育においても、私達は、良い意味での「すなお」な子どもを育てていかねばならない。
  国民一人一人の自主的思考が阻害されていたり、あっても全体としては、うまく機能していない今日、そういう民主主義の危機を、新しい世代が、たくましく克服していけるよう、乳幼児期における人権尊重教育を進めてゆかねばならない。

6、おわりに

 乳幼児期における人権尊重教育について、諸側面から論じてきたが、その問題のほとんどは、乳幼児自身の問題ではなく、一言でいえば、大人および、その大人たちが作り出している社会の問題であった。
 しかし、それは、乳幼児期の人権尊重教育が無力であることを意味するものではない。
 今まで論じてきたように、乳幼児期における人権尊重教育を追求していくとすれば、一つには、子ども自身の力と、父母の「特異的愛情」、指導者の「科学性のある愛情」の力が、そういう障害をのりこえて前進することを可能にするし、又、このような人権尊重教育は、既存の障害、そのものを変革してゆく力を持った新しい世代を作り出してゆくことにもなると思われる。
 乳幼児期における人権尊重教育の一層の推進が期待される次第である。
(完)




(1) 近藤薫樹「集団保育とこころの発達」(新日本新書)、 p 165。ここでは、未開放部落の子どもの多い保育園と、キャバレーなどの夜間の保育園が並列的に記されている。
(2) 同 
(3) 社会同和教育研究会「乳幼児期における人権尊重教育の推進のためにV」、 p 5。
(4) 近藤薫樹「子どもの成長と脳のはたらき」(有斐閣新書)、 p 31。
(5) 前掲「集団保育とこころの発達」 p 168。
(6) 同、 p 187。
(7) 「乳幼児期における人権尊重教育の推進のためにU」、 p 35。
(8) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 92。
(9) 同、p94〜95。
(10) 同、 p 152〜153。
(11) 同、 p 45。
(12) マカレンコ「愛と規律の家庭教育」(青木書店)、 p 147。
(13) 同、 p 157。
(14) 前掲「V」、 p 20〜23。
(15) 矢川徳光「教育とはなにか」(新日本新書)、 p 51。
(16) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 183。
(17) クルプスカヤ「家庭教育論」(青木書店)、 p 153〜154。
(18) 松田道雄「自由を子どもに」(岩波新書)、 p 148。
(19) 前掲「子どもの成長と脳のはたらき」、 p 36〜37。
(20) 同、 p 38
(21) 同、 p 30。
(22) 同、 p 56〜57。
(23) 前掲「集団保育とこころの発達」、 p 134。
(24) 同、 p 130。




        社会教育施設に「関係」のあふれた情報提供機能を
                                西村美東士
1,「押しつけがましさ」の克服
 社会教育施設では、あることをわかってもらおうとするあまり、他の「対抗的」な情報や全面的な情報を知らせず、都合の良い所だけ強調する傾向を見受けることがある。この場合、たとえそれが善意のものであっても、情報の受け手は、自然にその意図を感じとってしまい、「押しつけがましさ」に反発しがちである。
 住宅を購入する時のことを考えてみたい。不動産業者に「これは絶対、掘り出し物。早く買ってしまいなさい。」と薦められたとしても、安易にその気にはなれない。不動産に掘り出し物などやたらにはないはず、滅法安ければ、どこかに欠陥があるとも考えられる。「安い、良い」といういかにも一方的な情報は信じる気にはなれないし、時にはその「押しつけがましさ」が迷惑な時さえある。
 これに対して、「物件はたくさんあります。見たい物件があったら、どんどん言ってください。いくらでも見せてあげましょう。そのうちに住宅を見る眼もできてきますよ。」と言える業者には、相当の信頼を置くことができる。たくさんの情報を示し、お客自信の主体的な判断を促すということは、現代の「商道徳」とも言える。
 同様に社会教育施設においても、いろいろな事についての情報を、広くプラスマイナスを合わせて提供し、利用者自信がそこから何かを学びとり、自主的な判断ができるようにするということが大切である。
 又、現実の身近な問題として、さまざまに「ああせよ」「こうせよ」と書いた「はり紙」の問題が挙げられる。(「本はきちんと片づけましょう」など)。これも利用者からは「押しつけ的」と反発されがちである。
 むしろ、本が一目瞭然にわかり易い所にわかり易く整理されていて、その「しまい方」の情報がきちんと提供されていることの方がはるかに効果的であろう。
 情報提供の「効用」が意外に忘れ去られていて、「押しつけ」と「反発」が無用に繰り返されているのではないだろうか。
2,情報提供と「関係」
 周囲に情報がいくらあっても、それが自分が生きていることと関わりのない情報ばかりであるとすれば、情報の受け手は疎外感を強めるだけである。「情報過多」とはそんな状態をいうのであろう。「関わり」すなわち「関係」が重要である。
 ここでいう「関係」とは、表面的なことにとどまらず、情報の受け手に何かを訴える力をもっていたり、情報の送り手からの一方通行ではなく、受け手からの何らかのフィードバックをともなうものだと考える。
 今後、ニューメディアが発達し、高度に情報化した社会になることが確実であるが、そのことはあくまでもコミュニケーションの「手段」が発達することでしかない。この「手段」を活かしつつ、一人一人の幸福に貢献できる、すなわち「関係」にあふれた情報の「中味」を創らなければならない。又、これらの間接的なコミュニケーションばかりでなく、直接人と人とが接するコミュニケーション(パーソナルコミュニケーション)の方も、ますます充実させなければならない。
 たとえば放送大学等、放送を媒体とした教育機会が、今後ますます拡充されることが予想されるが、そのプログラムをいかに学習者に深く響くものにするか、そして講師と学習者、あるいは学習者同志の働きかけをいかにもつかが大きな課題になる。
 高度情報化社会の課題をこのように考えた時、社会教育の特徴を発揮して「関係」にみちあふれた情報を提供することは、社会教育施設の大変ユニークかつ重要な役割である
3,人間的、生活的、全面的、今日的、そして「つながり」の情報を
 それでは、この「関係」にみちあふれた情報とは具体的には何であろうか。
 それは「情報」という言葉が、普通、情報の受け手として「個人」を想定し、また、どちらかと言えば無機的で、時には「価値観を伴わないもの」という響きさえあるのに対し、実は次のようなものでなければならないのではないだろうか。
  「人間的」・・・人間が人間として求める、人間に関するナマの情報
  「生活的」・・・人間が実際の生活から求める情報
  「全面的」・・・人間が生きていく上での喜怒哀楽に関するあらゆる情報
  「今日的」・・・過去の資料よりも、人間が今、つきあたっている課題に関する   、今の情報
  「つながり」・・・一人一人の人間を基礎にしつつも、情報の受け手が、それを   もとに活動したり、他の人間とつながったりするための情報
 たとえば、ある一人の青年が就職や転職を考えている時、全国の就職動向や離転職状況等の資料はすぐ手に入る。しかし青年は、実際に社会で働く人間が、具体的にどのような労働条件で、どんな働きがいをもって、どんな形でその仕事にとりくんでいるのか、そういう「ナマ」の情報をこそ求めている。
 さらには、就職や転職で現在悩んでいる人、過去に悩んだことのある人が、その情報提供機関を仲介にして、悩みや体験を交流しあえればすばらしい。
 社会教育施設ではそのような情報提供をすべきである。
4,地域情報・行政情報の提供
 地域との「関係」が人から奪われつつある状況の中で、人と人との「関係」が豊かに育まれるコミュニティーが渇望される今日、地域や行政の本当の意味での「主人公」としての住民に、地域情報・行政情報を提供することは非常に大きな意味がある。そしてこれらの情報は、とりもなおさず「関係」の情報である。
 その際、地域情報とは、地域で生まれた情報及びその地域に関するあらゆる情報ととらえ、行政情報とは、行政の発行する資料だけではなく、未だ資料化されていない情報を含む行政に関する情報の総体としてとらえるべきだと考える。
 これらの情報の提供のためには、提供側の「柔軟性」が大いに必要である。
 行政情報の場合、行政から出した資料ばかりでなく、今行政が何をやっており、何をやろうとしているのかという情報まで求められる。又、たとえば来年度予算がどうなるかを、行政が冊子にして発行するのは随分後のことになってしまう。しかし、新聞ですぐ報道されるわけだから、それを使えば行政が正式に発行する資料を待たずして、その情報が提供できる。
 このように、行政情報や地域情報を提供しようとするならば、既存の行政ルートで機械的に入手できるものだけでは当然足りないので、情報源の開拓等に関して創意工夫が必要である。
 さらに、行政情報や地域情報というのは、ごく薄いリーフレットや、時には紙っぺら一枚であったり、規格がさまざまであったりして、その整理には大変苦労するところである。これらの決定的な解決策というものは、まだどこにもない。しかし、紙っぺら一枚の「資料」が、重要な意味をもつこともあり、あだやおろそかにはできない。
 これらの「整理上の問題」は、極めて技術的な問題であるが、やはりここでも柔軟な創意工夫が必要であることは確かである。
5,カウンセリング・グループワークの位置づけ
 社会教育施設における情報提供において、「ナマ」の情報提供に力点が置かれるとすれば、それは簡単な情報提供では事足らず、明確な解答のないものや、相手の「自立」「成長」により初めてその解決がなしうるもの等が予想される。このような情報提供には相談活動が不可避的に伴うことになる。
 その場合、家庭・地域・社会の教育力が低下し、一人一人がバラバラになりつつある社会において、とりわけ自ら、あるいは自ら所属する集団の中で、個々の問題を解決できずにいる人に対しては、その自立、成長のプロセスをサポートするための、カウンセリングやグループワークの手法が非常に有効である。
 カウンセリングでは、カウンセラーが相手の話をよく聴いてやることにより、相手が自ら問題の所在にきづき解決する能力を身につけるようサポートする。
 又、グループワークにおいては、自己と他者の「感情の交流」を重視し、メンバーがワーカーの「支え」の上に、自ら自己及び他者との関係、そして「ともに生きること」を学ぶことが重視されている。
 これらに対して、従来の社会教育においては、対象を「マス」(集団)としてのみとらえがちで、一人一人の感情や気持への配慮が充分ではなかった。その反省の上で、社会教育施設における相談事業は、カウンセリングやグループワークの理論に習い、
   相手の話をよく聴くこと
   相手の「気持」や「感情」を理解し、大切にすること
   「感情の交流」を大切にすること
   相手が自ら「気づく」ようサポートすること
が大切である。
6,情報提供の個性化とシステム化
 単独の一つの施設が、市民の求めるあらゆる情報をそろえておくことは不可能であり、それは図書館においてさえ同様である。
 それゆえ図書館には、「資料を一ヵ所のものにとどめず、ネットワークにより、どこでも使えるようにする」という「システム化」の考え方がある。
 一般の社会教育施設においても、他の機関の利用方法等について、職員がよく理解していることを前提とすることができれば、個々の社会教育施設の情報提供の種類には、相当な「個性」が許されるであろう。そこには、地域性や、時には職員等の個性が反映することもありうる。個性を持ち、あることがらに深く関わることにより、その本質にも迫ることができよう。
 社会教育施設における情報提供では、個々の施設の「個性化」と、全体としての「システム化」の両方を統一的に進めることが必要である。
 なお、民間企業の活力の根源を考えた場合、そこには、コンペティター(競争者)の存在がある。今日のカタログ誌、情報誌の氾濫を見ても、それらがしのぎを削りあう中、読者は自由にそこから選択することができる。これは結果としての「読者主体」であり、魅力の要因の一つはそこにある。公的社会教育施設においても、完全な自由競争は無理でも、お互いが刺激しあって、個性を発揮することは必要である。
 しかし一方、情報、特に公的社会教育施設が取り扱おうとする情報は、その性格上、特定の機関の独占物にすべきではないという側面を持つ。むしろ各所(できれば民間の情報機能も含めて)の「共有化」をはかるべきものである。そのための連絡、調整等の機能の発揮は、「公」に対してこそ、とくに求められるものであり、公的社会教育施設も、その役割の一環を担うべきである。「コンペティション」(競争)と「コオペレーション」(協力)の両立が求められていると言えよう。
 なお、今、カタログ誌、情報誌の魅力について述べたが、これらの雑誌によって情報が自由に求められる反面、一人一人違っているはずの読者の思考様式が、いつの間にか出版物の「傾向」に沿ってステロタイプ化されてしまうという危険も認められる。これが「カタログ誌文化」や「情報誌文化」の問題であろう。
 社会教育施設においては、情報提供の「個性」を追求する際、「情報の受け手の主体的思考を促す」という基本原則の上に発揮されるべきであるということをつけ加えておきたい。
7,情報の整理と提供がさらに認識を育てる
 人間は情報を整理するという「作業」の中で、あたまの中に認識を育てる。このことは、社会教育施設で組織的に情報整理を行なう場合でも同じである。
 さらに情報提供の段階でも、情報の受け手からのフィードバックにより、提供した側の認識も育つ。
 これらのことがうまく作用するためには、「利用者主体」の考え方が不可欠である。「学習者主体」は、社会教育の基本でもあるが、情報提供においても、利用者の立場に立った情報の収集・整理をし、その利用による「検証」があるからこそ、そこで社会教育施設の側の認識も高まりうるのである。
 たとえば、情報の「加工」としての広報誌の編集において、そのことは端的に示される。市民との密接な関係の中で、ナマのふん囲気の中で取材し、市民感覚を極力取り入れた編集を心がけ、発行後の市民の反応にアンテナをはりめぐらせるとすれば、そのプロセスの中で、社会教育施設の認識は大いに発展しよう。
 逆に読まれようが読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけならば、そんな効果は望めない。
 「利用者主体」とは言葉を変えれば、利用者との「関係」にみちあふれた状態と言うことができる。
8,おわりに
 近い将来、コンピューターの端末等が個々の家庭に普及し、ニューメディア等も加わって、「情報化」がますます進展することは明らかである。
 しかし、コンピューターやニューメディアは、一面では非常に便利で有効だが、その反面、市民の立場に立った情報提供と、それを選択し判断する市民の主体性が、今まで以上に必要になるであろう。
 このような意味から、「情報化社会」の中で、社会教育施設が情報提供機能を発揮する役割は、ますます重要になってくる。
 その際、市民との「関係」にみちあふれた社会教育施設から、市民との「関係」にみちあふれた情報が、いきいきと提供されるよう願ってやまない。
                                  (以上)
社会教育施設に「関係」のあふれた情報提供機能を(要旨)
1,「押しつけがましさ」の克服
 情報提供の「効用」が意外に忘れ去られていて、「押しつけ」と「反発」が無用に繰り返されているのではないだろうか。
2,情報提供と「関係」
 周囲に情報がいくらあっても、それが自分が生きていることと関わりのない情報ばかりであるとすれば、情報の受け手は疎外感を強めるだけである。「情報過多」とはそんな状態をいうのであろう。「関わり」すなわち「関係」が重要である。
 社会教育の特徴を発揮して「関係」にみちあふれた情報を提供することは、社会教育施設の大変ユニークかつ重要な役割である
3,人間的、生活的、全面的、今日的、そして「つながり」の情報を
  「人間的」・・・人間が人間として求める、人間に関するナマの情報
  「生活的」・・・人間が実際の生活から求める情報
  「全面的」・・・人間が生きていく上での喜怒哀楽に関するあらゆる情報
  「今日的」・・・過去の資料よりも、人間が今、つきあたっている課題に関する   、今の情報
  「つながり」・・・一人一人の人間を基礎にしつつも、情報の受け手が、それを   もとに活動したり、他の人間とつながったりするための情報
4,地域情報・行政情報の提供
 地域との「関係」が人から奪われつつある状況の中で、人と人との「関係」が豊かに育まれるコミュニティーが渇望される今日、地域や行政の本当の意味での「主人公」としての住民に、地域情報・行政情報を提供することは非常に大きな意味がある。そしてこれらの情報は、とりもなおさず「関係」の情報である。
 その際、地域情報とは、地域で生まれた情報及びその地域に関するあらゆる情報ととらえ、行政情報とは、行政の発行する資料だけではなく、未だ資料化されていない情報を含む行政に関する情報の総体としてとらえるべきだと考える。
 これらの情報の提供のためには、提供側の「柔軟性」が大いに必要である。
5,カウンセリング・グループワークの位置づけ
 社会教育施設における情報提供において、「ナマ」の情報提供に力点が置かれるとすれば、それは簡単な情報提供では事足らず、明確な解答のないものや、相手の「自立」「成長」により初めてその解決がなしうるもの等が予想される。このような情報提供には相談活動が不可避的に伴うことになる。
 従来の社会教育においては、対象を「マス」(集団)としてのみとらえがちで、一人一人の感情や気持への配慮が充分ではなかった。その反省の上で、社会教育施設における相談事業は、カウンセリングやグループワークの理論に習い、
  1 相手の話をよく聴くこと
  2 相手の「気持」や「感情」を理解し、大切にすること
  3 「感情の交流」を大切にすること
  4 相手が自ら「気づく」ようサポートすること
が大切である。
6,情報提供の個性化とシステム化
 社会教育施設における情報提供では、個々の施設の「個性化」と、全体としての「システム化」の両方を統一的に進めることが必要である。
 民間企業の活力の根源を考えた場合、そこには、コンペティター(競争者)の存在がある。今日のカタログ誌、情報誌の氾濫を見ても、それらがしのぎを削りあう中、読者は自由にそこから選択することができる。これは結果としての「読者主体」であり、魅力の要因の一つはそこにある。公的社会教育施設においても、完全な自由競争は無理でも、お互いが刺激しあって、個性を発揮することは必要である。
 しかし一方、情報、特に公的社会教育施設が取り扱おうとする情報は、その性格上、特定の機関の独占物にすべきではないという側面を持つ。むしろ各所(できれば民間の情報機能も含めて)の「共有化」をはかるべきものである。そのための連絡、調整等の機能の発揮は、「公」に対してこそ、とくに求められるものであり、公的社会教育施設も、その役割の一環を担うべきである。「コンペティション」(競争)と「コオペレーション」(協力)の両立が求められていると言えよう。
7,情報の整理と提供がさらに認識を育てる
 「利用者主体」とは言葉を変えれば、利用者との「関係」にみちあふれた状態と言うことができる。
8,おわりに
 近い将来、コンピューターの端末等が個々の家庭に普及し、ニューメディア等も加わって、「情報化」がますます進展することは明らかである。
 しかし、コンピューターやニューメディアは、一面では非常に便利で有効だが、その反面、市民の立場に立った情報提供と、それを選択し判断する市民の主体性が、今まで以上に必要になるであろう。
 このような意味から、「情報化社会」の中で、社会教育施設が情報提供機能を発揮する役割は、ますます重要になってくる。
 その際、市民との「関係」にみちあふれた社会教育施設から、市民との「関係」にみちあふれた情報が、いきいきと提供されるよう願ってやまない。
                                        感想
 職場で入賞の知らせをいただきましたが、とにかくうれしくてうれしくて、さっそく一階の公衆電話から、女房の働く保育園に電話をしました。そうしたら、「こんな忙しい時間にかけてきたらだめよ。もうかけてこないでね。」、ガチャッ、と冷たく切られてしまいました。でも、その夜、大いに飲んで一時ごろ帰ったのですが、それでも彼女は玄関で、「おめでとう」と迎えてくれたのです。
 今回の論文は、武蔵野青年の家で三年間やってきた「情報講座」で、本当にさまざまな立場の人が、心をこめて教えてくれたことを、社会教育の立場からまとめたものです。
 社会教育の人々が「教育」という名のもとに安住し、「情報」に対して切実感を持ちきれないでいる間に(失礼!そんなのは私だけかもしれません)、青年団体のリーダーが情報過多の社会の中での自分達の機関紙のあり方を模索し、図書館職員が情報公開に対する自分たちの役割を追及し、一般行政の職員が住民にどうしても提供したい情報をいかに提供すべきかトライをくりかえしているのです。そんな姿を見ながら、社会教育における情報提供の必要性と可能性を痛感しました。
 われわれ社会教育関係者は、まず情報化社会の「便利さ」につくづくひたりそれを味わうこと、次には、それがそれだけでは意外につまらなく味気ないことを、とりあえず体験を通して知ることから始めるべきだろうと思います。
                                  西村美東士                                         社会教育とマイクロコンピューター
 社会教育はなぜマイコンに注目しなければならないか
1 新しい「文化」としてのマイコン
 カリフォルニア州サンタクララ郡のかの「シリコンバレー」では、60年代以降、トランジスタからICへ、そして数ミリ角の面積に数千から数万の素子を組み込んだLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、1971年インテル社から4ビットのマイクロプロセッサーが生まれる。
 マイクロプロセッサー(MPU)は、LSIによって構成され、中央処理機能(CPU)としての役割を果たすものである。これに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピューターすなわちマイコンになるわけである。
 しかし当初すぐ、コンピューターのメーカーが、マイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。コンピューターメーカーが個人用のコンピューターを志すのは、ずっと後になってからである。マイクロプロセッサーは、大手企業により家電製品に使用されることはあっても、マイコンの中で使おうとしたのは、最初はホビイストたちであったり、ごく小さな会社が「キット型マイコン」として売り出したりしたのであった。日本でもそれはブームとなり、秋葉原がマニアのメッカとなった。しかしそのころのマイコンブームは、特別な知的関心を寄せる一部の人々のものであり、社会全体の文化とはほど遠いものであった。
 ただし、当時のマイコンブームは、ファンの数は少なくても、大変熱狂的であったこと、そして自作機の製作などにおいて、独創的かつ進取的であったことなどは、現在迎えようとしているマイコンの「大衆化」における状況とは、若干の相違があり、その示唆するところも多いと思われるので、注目に値する。
 80年代に入り、日本でもキーボード、ディスプレー、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、それは大変な勢いで普及しつつある。そしてマイコンは社会の新しい「文化」を形成しつつある。
 コンピューターそのものは、1945年の世界初のコンピューター「ENIAC」にまでさかのぼり、現在までの歴史を持つものである。そしてコンピューターは、ハイテクノロジーの中でも最先端として、社会の経済活動や経済基盤等に少なくない影響を与えてきた。しかし、それだけならばコンピューターは一部のエリートによる使用と、プログラミング労働、そして残り大多数のコンピューターの支配下にある労働をもたらしているだけとしか言えない。それを社会教育で生産性向上と「人間性疎外」との葛藤の問題としてとりあげることはあっても、コンピューターの具体的かつ技術的な問題を直接論ずる必要は認められない。
 このような従来のコンピューターの性格とは異なり、先程述べたマイクロプロセッサーの登場と、それを使った個人でも充分購入可能なマイコンの普及こそが、マイコン文化の成立条件となっているのである。そして、マイコンに仕事をさせようとする場合、一昔前のような難解な機械語などではなく、個人が使いこなすことのできるBASIC語やあるいは簡易言語、ソフト等が整備されつつある。さらには、このマイコンの機能は、従来のテクノロジーの主たる目的である「生産性の向上」の延長だけではなく、「個人」の知的活動や遊びとしても使われようとしているのである。(なお本論でマイコンに「仕事」をさせるというのは、いわゆるマイコン用語で、生産に結びつくものばかりでなく、ゲーム等の遊びのための利用も含んでいる。)
 このようにマイコンは今後ますます大衆的にかつ精神的側面で利用される見通しであるからこそ、それは新しい「文化」として社会教育が大いに注目すべき存在なのである。
2 マイコン文化の新しさ
 コンピューターはカリキュレーターと違って、数値計算にとどまらず、入力されたデータの判断や外部の機械へのアウトプットをすることができる。しかもそれに仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をすることができる。それは大型のコンピューターばかりでなく、小さなマイコンでも同じである。このようなマイコンの「汎用性」は、マイコン文化の新しさの最も基本的な要因となっている。
 第一に、「汎用」であることから、マイコンは一人一人の個別な要求に応じて、多様な仕事をすることができる。現代社会の大量生産、大量消費の図式をまる写しにした形での従来の画一的文化とは、若干様相を異にするのである。この「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する傾向である。(個別性)
 第二に、「汎用」ということは、裏返せば、マイコンという与えられた「箱」だけあっても何の役にも立たないということであり、よってこの「箱」を役立たせるためには一人一人の何らかの力量を必要とする。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことに始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには簡単なプログラム作りを自分の手でやってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者の「わずらわしさ」を解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたこととは異なり、少なくとも、現段階では、マイコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)
 第三に、「汎用」ということから、個別に利用される時点で、それまでにはなかった仕事をさせることが、大いに可能である。お膳立てされたものの「利用」だけではなく、個人が自由に工夫をこらす余地があるのである。しかもその「工夫」により、欠陥(バグ)を何度も改善してプログラムを完成した時、その成功が結果として明白に表れることから、素晴らしい達成感を味わうことができる。(創造性)
 以上のことから、マイコン=パーソナル・コンピューターは、文字通りパーソナルな知的道具として登場している。それは、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは、若干異なる文化を生み出す可能性を潜めているのである。
 ただし、今日の企業がこのようなマイコンの「汎用性」を軽視し、今後扱い易い、しかしその分、出来合いの仕事しかしない利用目的の限られたマイコンの生産に傾くならば、マイコンは今までの受動的家電製品と変わりないものになってしまう。もちろん、誰にもわかりやすくということが大切であるのは否定できないが、それは例えばシステムがシンプルであるということであって、決して出来合いの機能しか果たせない「専用機」になってしまってはいけないのである。現に例えば、CAPTAINシステムの端末処理はマイコンに少し手を加えれば充分なはずなのに、それが別途CAPTAIN専用機として売り出されているのは解せないことである。
 また、ユーザーの側が、市販ソフトでゲームに興ずるという、マイコン利用の初歩で満足してしまうなら、これも単なるゲームセンターの客と変わらず、「汎用性」は活かされない。
 さらには、現実に要請の強いいわゆる「プログラムレス」のマイコンが出来てくれば、それはもちろん便利であり、またあらたな利用形態を切り開く可能性があることの反面、その極端な利用形態として、人間は何も考えずにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性もはらんでいるのである。
 このようにマイコン文化は、過渡期にあり、多分に流動的でもある。
3 マイコン文化の危険性
 マイコンは、「一人」のユーザーと、その人の占有するマシーンとが対面することを前提とするものである。この点からもマイコン=パーソナル・コンピューターは文字通りパーソナルなのである。そしてマイコン文化の危険性はここから生ずる。
 文化とは、クラックホーンによれば、「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」である。よって、そもそも文化とは、良きにつけ悪しきにつけ、人間関係を伴うものである。
 しかしテクノロジーの発達は人間の感情や意思の交流を機械的手段によって媒介するようになった。そこでは、人間のなまの感情や意思が、その活力を削がれたり、画一化されたりする危険がある。マイコンの場合も同様である。けれどもその「機械的手段」により、広く大量な人間のそれらの交流が可能になっている側面もあり、テクノロジーの発達そのものが文化や人間関係の阻害要因になっているかどうかは、一概には断定できない。例えば無線機器の進歩は、たくさんのアマチュア無線愛好家を生み出し、遠くの見ず知らずの人と電波で交流することを可能にしている。
 ところがマイコン文化は、いったんマシーンと面と向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きですませることも可能であるという、全く新しい文化である。マスコミでさえも、その取り扱う内容は人間に関することばかりであった。人間疎外のオートメーション工場でも、その製品は他の人間に使われるべく生産される。しかしマイコンの場合は、全く人間に関係のない内容の仕事をさせ、その成果について一人で満足することが充分ありうる。マイコンの利用そのものが、自己目的化してしまうのである。しかもそれが非常に「楽しい」のであるから、始末が悪い。
 このようなマイコンの極端に「パーソナル」な性質は、マイコンを愛好する「特定のメンバー」はあっても、そのメンバーの間の人間関係やまわりの社会との関係は全然持とうとしないという恐るべき文化を形成する危険性を持っている。
 実際に、クレイグ・ブロードは、その著「テクノストレス」において、コンピューター相手の仕事をしているある研究者が次のような症状に陥っていることを報告している。
 「家庭に戻ると乱雑さが気になる。妻はのろまで会話にはイライラさせられる。世間話などまっぴら、そこで仕事を持って帰る。一人きりになれるからだ。」
 この研究者にとってコンピューターの仕事は苦役ではない。むしろものすごい速さで(マイコンの場合でも一秒間に数十万回)正確に、与えられた仕事をこなしてくれるコンピューターに慣れ親しんでいる。しかしその分、「のろま」でイエス・ノーのはっきりしない、本物の人間とはつきあっていられなくなってしまったのである。
 今の日本の子どもたちの中にも、友達とつきあいもせずに、マイコンゲームに没頭している子も多いと思う。
 文化行政の一端を担う社会教育行政が、このようなマイコン文化の持つ危険性に無関心であってよいはずがない。
4 コンピューターリテラシー学習の必要性
 コンピューターの急速な発展に伴い、コンピューターリテラシー(読み書き能力)の学習が緊急に必要になっている。
 人間が言語を持つようになってから長い時間がたっている。それでも言語、特に文字言語については、各人の能力に断然たる差があり、例えば「文盲」に近い人であれば、その人は文明社会の中では、大変不利な取り扱いを受けたり、生き死にに関わる危険な目にあうこともあるだろう。しかも、その「各人の差」は、その人の教育環境等に規定される部分も大きい。文字言語リテラシーの差が、階層間の格差を生み出し、それが又、文字言語リテラシーの差を生み出しているのである。
 コンピューターの場合はどうだろうか。文字言語の形成と比較して、比べものにならないほどのスピードでコンピューター言語は形成されてきている。また、その形成は、文字言語の形成が大衆によるものであったのに対して、ごく一部のハイテクノロジーエリートによるものである。よって「各人の能力差」は、文字言語以上のはっきりした差がある。そこにおける最も大きな格差は、「できる」と「できない」である。これは大変恐ろしいことである。
 コンピューターの急速な普及の中で、この各人の差を放置しておくならば、一部の「できる人」と、コンピューターに「使われる」他の「できない人」とに、今後明確に二分されてしまうであろう。ここにコンピューターリテラシー学習の必要性と緊急性がある。
 もちろん、すべての人が、コンピューターのハードエンジニアであり、かつプログラマーであることが必要なのではない。これは、自動車の運転は、自動車の設計ができない人でも充分可能であることと同じである。
 しかし、自動車が移動と運搬の手段であるのに対して、コンピューターはコンピューター用語でいう「情報処理」という広い仕事が可能である。それゆえコンピューターのこの「汎用性」は今後、あらゆる人の労働と生活に関わってくるであろう。その時に、最低限のコンピューターリテラシーさえ知らない人は、コンピューターの摂取はおろか、的確な批判さえできないのである。
 社会教育が行おうとするコンピューターリテラシー教育の目的は、ハイテクのエリートをつくることではなく、すべての人が、今後好むと好まざるとに関わらず普及するであろうコンピューターについて、主体的に摂取したり、批判したりするための、最低限のコンピューターリテラシーの習得を援助することなのである。
社会教育におけるマイコンの具体的諸機能の利用
1 CALCULATE(集計)
 1979年、社員わずか2名のパーソナル・ソフトウェア社(現ビジコープ社)から米国のマイコン、「アップル」に適合するソフト、「ビジカルク」が発売される。そしてこの「ビジカルク」については、他のマイコンのためにも、たくさんの翻訳ソフトが出されている。これが、マイコンを有能なビジネスマシンに変えるソフトとして、以降のマイコンの利用に大きな影響を与えたのである。
 「ビジカルク」は、最大縦254行、横63列のありとあらゆる種類の集計をやってしまう。そして修正、挿入、削除等も非常に簡単である。従来のように「けしゴム」で悪戦苦闘する必要がなくなる。
 社会教育行政や団体、グループ・サークルにとって、予算の編成、管理等に大きな可能性を秘めていると言えよう。
 しかしもっと大切なことは、例えば予算の編成において、数値の修正、挿入、削除が、担当者一人の鉛筆と「けしゴム」との苦闘ではなく、ディスプレーを囲んで、みんなで話し合いながらできることである。このような実質面での組織運営の民主化にこそ、マイコンの集計機能が活用されてしかるべきである。
2 FILE(ファイル)
 マイコンは、インプットされたデータを記憶し、必要に応じてそれを引き出すことができる。この機能を応用して、文書や名簿等の管理が可能である。
 たとえば、地域文庫で子どもの要求に応じて、ジャンル別あるいは著者別に、該当する在庫の本を一覧にしたり、購入希望をインプットすることができる。他の地域文庫や公共図書館とネットワークを組めば、用途はさらに広がるであろう。
 名簿管理についても、一つの組織内で使えるだけでなく、ボランティア派遣や、団体間交流等にも活用できる。
 従来の管理システムでは、これらの情報を得るには、いちいち担当者の手をわずらわせねばならないことが多かった。しかしマイコンを活用することにより、開放できる情報はお互いに気軽に交換できるのである。情報を得ようとする者が自分の手で、その情報を検索できるのなら、気兼ねなく心ゆくまで求める情報を検索し続けることができよう。
 ただし、団体の所有するファイルについては、その団体の意思だけで運用すること、行政の所有する団体及び個人に関するファイルについては、その団体及び個人の支配下にあることは、欠かせない前提である。
3 GRAPHIC(作画)
 コンピューター・グラフィック(C・G)を新しい芸術形態として注目すべきである。 また、ソフトの利用により、作図及びそのいろいろな表現(ふかん位置、角度など)が簡単にできることは、たとえば、社会教育施設の設計段階での住民参加を容易にするであろう。
4 MUSIC(音楽)
 音楽の練習、創作に有効なソフトの利用をはかるべきである。特に青年層のこれに対するニーズは高い。
5 WORD−PROCESSER(文書作成)
 マイコンの内部または周辺機器に、漢字や熟語等のデータ他を付加すればワープロになる。よって、ワープロもマイコンの一種と考えてよいであろう。
 市民の知的レベルが向上し、文化の享受だけでなく、自ら表現しようとする時、ワープロは有効な道具である。
 文章を書くことを職業とする人の中には、自分の頭の中で構想を完全にねりあげ、実際に書き始めれば、ほとんど修正などしないという人もいるかもしれない。しかし、われわれ一般人にとっては、文章を書くということは、書き始めからして悩ましいことである。その点、訂正、削除、挿入、移動が自由にできるワープロの存在は、われわれを勇気づけてくれる。
 書斎を持ってもの書きに専念している人だけがものを書くのではなく、すべての市民が労働と余暇の「合い間」に文章という広い意味での文化表現に関わることができる技術的条件をワープロは保障しつつあると言えよう。
6 NEW−MEDIA(ニューメディア端末)
 社会教育において、ニューメディアは、その地域メディア性および双方向性において注目されるべきである。そしてこれらのニューメディアの端末は、基本的にはマイコンの機能である。
 ニューメディアがマスメディアの欠点を克服するためには、一つには、その双方向性が重要なポイントとなる。ニューメディアにおいては、情報を受ける側が、流された情報をただ一方的に受け入れるのではなく、取捨選択し、時には情報や意見を情報の送り手にフィードバックすることが可能である。
 このようないわば「情報の民主化」にとって、市民が端末としてのマイコンのキーボードを操作できるように援助することは、最低限、必要なことである。
7 GAME(ゲーム)
 マイコンの利用でゲームほど、好きな人、きらいな人、そしてマイコンの意義を認める人、認めない人がはっきり分かれるものはない。しかし、マイコンの普及の最初は「ゲーム」であったことは事実である。
 1972年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出され、その後「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」と、LSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがマイコンに移植され、マイコンへの関心を呼ぶことになったのである。先に述べたように、初めのころマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「青少年」であった。
 しかし、たとえば「インベーダー」のころ、これに熱中する子どもたちの、「遊びの質」が問題とされ、さらにはゲームセンターでたむろすことによる非行化問題が起きたのも事実である。
 このようなゲームが好きな子どもに対しては、それを禁止してすませるのではなく、学校や家でマイコンを利用して、友達と楽しめるよう指導することこそ必要である。また、できればゲームプログラム作りの喜びも味あわせてやりたいものである。
 さて既にマイコンの「汎用性」の所で述べたとおり、マイコンの利用においては、既成のソフトばかり利用するのではなく、その「汎用性」を活かして市民自らがプログラム作りできるよう社会教育は援助すべきである。簡単なゲームソフトの作成は、その容易性、一般性と達成感からみて、手初めに取り組むには最適であろう。
 しかしそのことは前提とした上で、ここでは、市販の高度なプログラムによるゲームの社会教育利用について考えてみたい。
 1 ACTION(アクションゲーム)
 キーボードやパドル、ジョイスティックなどの機敏な操作を競うゲームである。これに類するゲームは、マイコン以前にもゲームセンターで、ピンボール等として当時の若者が楽しんでいた。当時の若者の志向を評して、「3S」(スリル、スピード、サスペンス)と言われていたが、その意味では、当時のゲームも今日のマイコンゲームもほとんど変わりない。
 ただ、今日のマイコンゲームは、きれいなグラフィックとそのスピード、意表をつくアイデア等で格段の進歩をしており、一部のゲームマニアは、ゲームをする楽しみよりも、ゲームを作ったプログラマーに、時には涙さえ流しながら「共感」できる楽しみを大事にしているほどである。
 そこまではともかく、アクションゲームは、初めての人でも楽しめ、それを囲んでみんなでワイワイやることもできる。公民館や集会施設のロビーにあれば、楽しいだろう。
 2 ADVENTURE(アドベンチャーゲーム)                 アドベンチャーゲームは、推理を重ねた上でのコマンドの入力により、次々と迷路を進み、そのたびに素晴らしい画面が現れるというものであり、マイコンならではのゲームである。マニア用語でいう「奥行き」の深いものが多く、クリアーするのに全部で一年以上かかる難解なものもある。
 人づきあいもせず、これを一年もやっている人もおり、それを考えると、アクションゲームなどより、「恐ろしいしろもの」である。時には情報交換をしたり、自慢話をしたりする機会があっても良いのではないだろうか。
 3 BOARD−GAME(ボードゲーム)
 オセロ、バックギャモン、マスターマインド等、本来なら一枚のゲーム板をはさんで、人と人とが対戦するゲームを、マイコンが対戦相手になってくれるものである。マージャン、ポーカー、コントラクトブリッジなどができるプログラムもそれに類するものとして売られている。
 せっかく人間関係のあるゲームを、マイコンが代行してしまうのだから、批判は強いと思うが、初心者がゲームのルールを覚えて、実戦に備えて準備をするには都合が良い。ゲーム大会などで、そのルールを知らない人が参加できずにいるのを、よく見かけるが、該当するゲームのソフトを備えたマイコンとインストラクターを一名、待機させると良いのではなかろうか。
8 EDUCATION(教育)
 マイコンの機能を活かして、個別の進度に応じた学習を進めることができる。社会教育においても、外国語学習等ではある程度役立つであろう。
 しかし、単なる「電子紙芝居」として、画面が順番に現れるだけでは、マイコンの機能を充分発揮しているとは言えない。既存の教育ソフトにも、多少その点の不備が見られるので、もっと学習者の反応に対して細かく配慮したプログラムの作成が望まれる。
 また根本的には、すでに述べたとおり、与えられたソフトの利用だけでなく、プログラムの修正、作成に学習者が直接関わることこそ、マイコン利用の本命である。
                                        社会教育におけるマイコン利用の展望
1 社会教育のCMIの必要性
 学校教育では、S−P表などによるマイコンの活用によって、たとえばテストの解答について、生徒と問題の相関関係をかなりシビアーに分析するようになってきている。マイコンに分析を出させることによって、総体的、量的にしか、把握してなかったものが、個々の問題所在についてはっきり、表で示されてしまうのてある。
 これらは、学習者の学習を直接助けるCAI(コンピューター・アシステッド・インストラクション)に対して、CMI(コンピューター・マネージド・インストラクション)と呼ばれている。
 教科学習、特にドリル的なものが比較的少ない社会教育においては、CAIの活用はそれほど多くならないだろうが、社会教育事業の参加者、一人一人のレベルにまでつきつめて、その事業を厳しく分析するためのCMIの活用については、今後大いに必要となるであろう。
 CMIの活用は、社会教育行政運営の効率化を図ることもさることながら、むしろマイコンの機能を活かした、マス(集団)だけでない「個」、個別学習への注目が、社会教育に対し、大きな良い影響を与えることと思われる。
2 効率より、知的喜びのために
 コンピューターが普及して、ものごとがスム−ズに進んだとしても、それが人間の幸せにつながるがどうかは、別問題である。
 社会教育におけるマイコン利用においては、すでに述べたように、個人の知的喜びにつながる「文化」としての側面を大切にすべきである。
3 相互的教育作用という「かなめ」
 マイコンは、確かに楽しいものである。それは、基本的には、一人で解くパズルのような楽しさであり、その楽しさが大切であることは否定できない。
 しかし、社会的存在としての人間の幸せのためには、同時に人間関係が重要な要素であることも事実であり、その点、社会教育が従来大切にしてきた「相互教育」の意義がむしろ、比例的に重要なのである。
 ハイテクになればなるほど、ハイタッチが求められるというテーゼは、ここでも通用するはずである。
4 市民の実践的自治能力の形成
 従来の「住民自治」が、自治体に対する「要望」の域をなかなか脱しきれなかったのに対し、住民自身のマイコンの活用によるデーターベースの充実は、大いなる可能性を示すものである。
 「2人のスティーブとアップル」(1983年12月、旺文社)によれば、「カモメのジョナサン」の作家リチャード・バックは、「アップル」を活用している代表的有名人の一人である。バック夫妻は、自宅近くの森林が無制限に伐採されているのに異義を唱え環境保護団体(TELAV)とともに、マイコンの活用により3巻600ページにもおよぶ異義申し立て書を作成した。管轄の米国土地管理局は、その綿密な運動に舌を巻き、野放図な伐採を中止せざるを得なかったという。
 このようにアメリカでは、マイコンを活用し、情報武装をすることで住民パワーを活発にさせようとする動きがあり、しかも、アップル社は、このような各地の有力なグループに、コンピューター・コミュニケーション・ネットワーク・システムを寄贈し始めているという。
 このように、マイコン、特にデーターベースの市民の手による活用は、情報の一点集中型の官僚主義を切り崩し、市民が直接自治に携わることを可能とするのである。今後、社会教育において、市民の自治能力の向上を言うならば、このような市民自治の実践的能力の援助も、絶対に無視することができなくなるであろう。

社会教育とマイクロコンピューター(ポイント)
 社会教育はなぜマイコンに注目しなければならないか
1 新しい「文化」としてのマイコン
 このような従来のコンピューターの性格とは異なり、先程述べたマイクロプロセッサーの登場と、それを使った個人でも充分購入可能なマイコンの普及こそが、マイコン文化の成立条件となっているのである。そして、マイコンに仕事をさせようとする場合、一昔前のような難解な機械語などではなく、個人が使いこなすことのできるBASIC語やあるいは簡易言語、ソフト等が整備されつつある。さらには、このマイコンの機能は、従来のテクノロジーの主たる目的である「生産性の向上」の延長だけではなく、「個人」の知的活動や遊びとしても使われようとしているのである。
 このようにマイコンは今後ますます大衆的にかつ精神的側面で利用される見通しであるからこそ、それは新しい「文化」として社会教育が大いに注目すべき存在なのである。
2 マイコン文化の新しさ
 第一に、「汎用」であることから、マイコンは一人一人の個別な要求に応じて、多様な仕事をすることができる。(個別性)
 第二に、(自力性)
 第三に、「汎用」ということから、個別に利用される時点で、それまでにはなかった仕事をさせることが、大いに可能である。(創造性)
 以上のことから、マイコン=パーソナル・コンピューターは、文字通りパーソナルな知的道具として登場している。それは、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは、若干異なる文化を生み出す可能性を潜めているのである。
 ただし、今日の企業がこのようなマイコンの「汎用性」を軽視し、今後扱い易い、しかしその分、出来合いの仕事しかしない利用目的の限られたマイコンの生産に傾くならば、マイコンは今までの受動的家電製品と変わりないものになってしまう。
3 マイコン文化の危険性
 ところがマイコン文化は、いったんマシーンと面と向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きですませることも可能であるという、全く新しい文化である。マスコミでさえも、その取り扱う内容は人間に関することばかりであった。人間疎外のオートメーション工場でも、その製品は他の人間に使われるべく生産される。しかしマイコンの場合は、全く人間に関係のない内容の仕事をさせ、その成果について一人で満足することが充分ありうる。マイコンの利用そのものが、自己目的化してしまうのである。しかもそれが非常に「楽しい」のであるから、始末が悪い。
 このようなマイコンの極端に「パーソナル」な性質は、マイコンを愛好する「特定のメンバー」はあっても、そのメンバーの間の人間関係やまわりの社会との関係は全然持とうとしないという恐るべき文化を形成する危険性を持っている。
4 コンピューターリテラシー学習の必要性
 コンピューターの急速な普及の中で、この各人の差を放置しておくならば、一部の「できる人」と、コンピューターに「使われる」他の「できない人」とに、今後明確に二分されてしまうであろう。ここにコンピューターリテラシー学習の必要性と緊急性がある。
 社会教育が行おうとするコンピューターリテラシー教育の目的は、ハイテクのエリートをつくることではなく、すべての人が、今後好むと好まざるとに関わらず普及するであろうコンピューターについて、主体的に摂取したり、批判したりするための、最低限のコンピューターリテラシーの習得を援助することなのである。
社会教育におけるマイコンの具体的諸機能の利用
1 CALCULATE(集計)
2 FILE(ファイル)
3 GRAPHIC(作画)
4 MUSIC(音楽)
5 WORD−PROCESSER(文書作成)
6 NEW−MEDIA(ニューメディア端末)
7 GAME(ゲーム)
先に述べたように、初めのころマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「青少年」であった。
 1 ACTION(アクションゲーム)
 2 ADVENTURE(アドベンチャーゲーム)             3 BOARD−GAME(ボードゲーム)
8 EDUCATION(教育)
社会教育におけるマイコン利用の展望
1 社会教育のCMIの必要性
 CMIの活用は、社会教育行政運営の効率化を図ることもさることながら、むしろマイコンの機能を活かした、マス(集団)だけでない「個」、個別学習への注目が、社会教育に対し、大きな良い影響を与えることと思われる。
2 効率より、知的喜びのために
3 相互的教育作用という「かなめ」
4 市民の実践的自治能力の形成
 このように、マイコン、特にデーターベースの市民の手による活用は、情報の一点集中型の官僚主義を切り崩し、市民が直接自治に携わることを可能とするのである。今後、社会教育において、このような市民自治の実践的能力の援助も無視することができない。
感性にせまる、核心にせまる               国立社会教育研修所「公民館経営専門講座」ルポルタージュ
 三月六日の夜、東京・上野公園の国立社会教育研修所の研修室は時ならぬ仮設舞台となり、二期会の歌声に対してアンコールの拍手が渦巻いていた。すでに二期会は、「トリッチ・トラッチ・ポルカ」に始まり、声色入りの「犬のおまわりさん」、オペラ「こうもり」より「開幕の合唱」、オペラ「椿姫」より「乾杯のうた」など、楽しくきれいな合唱のかずかずを聞かせてくれていた。そして、その日のプログラム最後の曲、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」より「踊り明かそう」が終わった時、公民館経営専門講座の受講生は皆すがすがしい感動を感じてアンコールの拍手をしていた。
 二期会の司会者が「アンコールにお応えしまして、『マイ・ウェイ』を歌います」と言って、ピアノの前奏が始まった時、研修室の一番後ろから見ると何人かの受講生が肩をふるわせていた。私も前奏を聞いているうちに、めがしらが熱くなってしまった。
 私が歌が始まる前から感激してしまったのは、二期会の司会者がその前に言っていた「自分を主張しつつ、みんなとハーモニーをつくり、それが完成するときの喜び」という言葉が、さほど広くない部屋でその本物の人々を目の前にして突然よみがえり、実感として理解できたからである。視聴覚や活字媒体と違って、本当にそこにいる人に対して共感できるのである。「マイ・ウェイ」すなわち「私の人生」という曲の内容と美しいメロディーが、その共感を増幅してくれた。

 ほんものの文化にふれる・・・ゼロと一の違い

 社会教育職員がその人生の中で、合唱が与えてくれる感動を一度も味わったことがないとすれば、その人がたとえば社会教育施設職員として合唱サークルとおつきあいすることには大変な無理がある。また「混声」だの「女声」だの、ごく基礎的な用語については、それを知らなければ、合唱サークルの市民から信頼されなくなることもありうる。
 国立社会教育研修所では「一度でも、ナマの芸術にふれておくこと」が社会教育職員にとって必要と考えて、研修の中でこのような場を用意しているとのことである。「そんなことは、自分のお金で見に行けばよいのでは」という声もあるが、残念ながら仕事のために自分のお金を使おうとしない風潮が、特に最近の若い職員のあいだにはあるようだ。ナマのほんものの文化に触れるという「きっかけ」は、おおいに価値のあることのようである。
 公民館経営専門講座は、二月二十一日から三月二十日までの一カ月にわたる研修であるが、その中で三月十一日、「特別文化教養講座・舞踏への招待」として、各種の舞踏の観賞とその解説の催しも行われた。
 チャイコフスキー記念バレエ団によるクラシックバレエにおいては、「特別な観賞法など、ない。だれが見ても感動できるものでなければいけない」ということ、ダンスシアターキュービックのモダンダンスでは、それに比べて「制約から自由に、自由なテーマを、自由に表現し、主張するもの」であるということ、花柳寿美さんの日本舞踊では、「体の線を隠蔽して踊る美しさ」や「伝統および歌詞にそむいて踊ることはできない」ということなどが、その実技と解説をとおして充分語られた。
 このとき感化された受講生は、地域にもどっても各種の舞踏団体や舞踏文化にとっての良き理解者となり、良き味方になるであろう。たった一度の体験でも、それは社会教育職員にとっては千金に値するものである。もちろん、一度そういう体験をもった職員が、さらにその理解を深めることも意義のあることだが、それよりもっと緊急に必要なことなのである。国立社会教育研修所所長の塩津有彦氏はこのことについて、「ゼロと一の違いは、一と二の違いとは、比べものにならないほど大きい」と表現している。

 現下の課題と、テーマの核心にせまる

 国立社会教育研修所、通称「国社研」は昭和四十年、上野公園の一角に設置された。緑濃き上野の森で、受講生はじっくり研修できるのである。
 「じっくり」というのは、一年の間に一週間から十日間程度の研修が五本あるほかに、三週間から六週間程度の研修が七本もあるからである。勉強好きの受講生にとっては「天国」だが、中には「研修ぎらい」の受講生もおり、その人には「地獄」かもしれない。今回の「公民館経営専門講座」も一カ月ということで、受講生にとっては悲喜さまざまといったところであろう。
 さて突然ではあったが、心よくインタビューに応じてくださった塩津所長は、今回の公民館経営専門講座を企画する際の「全体のこころ」を、次のように話している。
 第一に、現下の大きな行政課題に「勇気」をもって取り組んだということ。すなわち、昨年九月には初めて「生涯教育専修コース」を設置したが、それに続いて今回は「公民館経営専門講座」の中に一週間の「高齢者教育専修コース」を設置して高齢者教育に関して集中的に取り組み、また、そのコースだけの短期間の受講生も受け入れたのである。
 第二に、テーマの核心にせまろうとしていること。たとえば「高齢者教育の意義」という研修事項については、研究者の他に兵庫県いなみの学園長を交えてシンポジウムを開いているが、そのテーマを「個人的意義と社会的意義」としてずばり問題に鋭く切り込もうとしている。また「高齢者教育の目標・内容の整理と選定の視点」という講義は、社会教育における学習の「必要課題」をまともに考えようとするものである。
 現下の課題に応え、その核心にせまろうとすることは、学問として定説化されていない「発展途上の分野」に踏み込むことであり、そういう研修のカリキュラムづくりには大変な苦労をすることになる。所長も、「知恵と熱意と労力を、ずいぶんかけた」と自認している。しかし、だからこそ社会教育を真剣に考えている受講者には、その研修が面白くなる。いつも同じメニューを出してくるレストランより、日々研究を重ねメニューにも改善の跡の見られるレストランの方が、グルメにとっては魅力的なのである。
 第三に研修の方法論においても、効果をあげるべく努力したということ。その一つとして、実践に役立つ「事例研究」を多く取り入れ理論と実践の融合を図っている。二つ目に受講生も研修実施の主体の一員であるという観点から、講義の中でも積極的に意見を述べてもらうようにしたり、受講者自らが調査研究する「演習」を設定したりしている。三つ目にけっこう分厚いものも含めて、受講者に計十一種類もの資料を配っている。そのテーマは、たとえば「高齢化社会における高齢者教育その意義と方向」、「公民館事業事例集(第1集)」などである。さらには「有意義で楽しく」をモットーに、ユニークな研修がカリキュラムの中に位置付けられている。さきほど述べた「特別文化教養講座」などがそうである。
 さて、このように苦労してできた研修も、受講者は八十人定員のところ、二十八人しかいない(「高齢者教育専修コース」の受講者を含めると六十四人)。各自治体が社会教育職員の増員を図れない現状では、一人一人の職員の資質の向上を必要とするはずだが、逆に職場の人員の減少傾向などにより、職員が長期間、職場から離れて研修に出ることが難しくなっているのだ。国立社会教育研修所では、いっそうのPRとともに、短期間の研修の開催など、研修形態についても再考しているとのことである。
 なお、受講者の内訳は最高五十三歳、最低二十四歳、平均三十九・0歳で、社会教育の平均経験年数は六・二年である。

 忘れてはいけない、学習援助の視点

 この「公民館経営専門講座」で、結局は何を探ろうとしているのだろうか。所長は次のように語っている。
 「一言でいえば、生涯教育時代において多様化し、高度化する住民の学習需要に対して、公民館がその学習を援助する方法を真剣に探りたいと思うのです。今まで公民館は、地域生活への便宜提供の面や、仲間づくりを進めるなどの面では貢献してきました。たしかにそれは大切なことです。しかし、だからといって多様な学習の多くをカルチャービジネスなどに任せてしまうのだとすれば、社会教育の教育たるゆえんから見ていかがなものでしょうか。かけるべきところにはきちんとお金もかけて、今日の幅広い住民の学習需要に応えられるような、ハードとソフトと指導陣のグレードアップを図るべきです。
 また、他行政や民間の教育的事業と、そこでの住民の学習にも、公民館はもっと関心をはらうべきでしょう。本来、社会教育は教育の専門家を数多く擁しているものとして、生涯教育の要(かなめ)であるはずです」。
 この話を聞いて、私は大変考えさせられてしまった。これは公的社会教育の本質にも関わる問題である。生涯教育の意義が高らかに叫ばれているのにもかかわらず、逆に皮肉にも公的社会教育の存在がないがしろにされている現状の中で、社会教育はその役割をいつのまにか自ら狭めすぎていたのかもしれない。「それは○○部局で、それは○○カルチャービジネスで」と割り切ってしまい、残りの比較的取り組みやすいものだけ「公的社会教育に適する」と拾ってきた傾向はないだろうか。厳しい財政的しめつけのもとで、つい無力感におそわれ、「易き」と「安き」に走りがちだったのではないだろうか。所長の話を聞いて私はこのように反省したのである。

 公民館の経営目標に学習援助の視点を

 「公民館経営専門講座」の中には「公民館の経営目標の望ましいあり方」という研修があり、東海大学生活科学研究所講師の西ヶ谷悟氏の講義と埼玉県日高町の事例研究が行われた。
 所長は言う。「今までの公民館の経営目標は、管理作用に関する目標と教育作用に関する目標が、雑然と混じり合うなど、必ずしも十分には整理されていなかったのではないでしょうか。両者はきちんと識別すべきです。それから教育委員会の社会教育目標との差異や関連も考える必要があります。そして、これからの経営目標を考えるためには、学習の援助という視点が絶対に欠かせないと思います」。
 この話に触発されて私は次のようなことを考えた。公民館で「○○しましょう」という程度の「よびかけ」は、いろいろな形で行われている。もちろんそれは、「読み終わった本は、必ずもとへ戻しましょう」といったようなものが多く、教育目標などといったものではない。また、それらの「よびかけ」の中には、現実の公民館経営においては「条件整備」の一環として、そうすることが妥当なものもあるだろう。しかし、「教育機関」ということで、そのような管理的事項まで「教育」と称するとすれば、それは「管理作用」と「教育作用」の混乱である。所長の言うように「識別」しなければならない。
 次に、教育目標についてはもっと困難な問題がある。社会教育はそもそも学習者が自ら学ぼうとして学ぶものであり、公民館といえども「これをこう学ぶことが良い」と学習者に指示するものではない。とは言っても、公民館の学級・講座は少なくとも「これを学習することがより適切であり、より必要だろう」という見通しの上で行われているはずである。その「見通し」のための研究が必要であろう。
 いずれにせよ、学習者の多様で高度な学習を可能にする施設設備の条件整備等をめざす「管理目標」と、所長の言う学習の援助という視点に立った「教育目標」こそ求められているといえよう。

 学習の必要課題の研究が急務

 公民館では学級・講座などのたくさんの事業が行われている。しかしそれは学習者の学習要求などが、どれだけ把握された上でのことなのだろうか。
 「公民館経営専門講座」では「学習調査の方法」として、「学習要求の調査」と「学習実態と阻害要因の調査」に関する、流通経済大学教授の渡辺博史氏の講義と、東京都稲城市教育委員会による調査の事例研究が行われた。公民館事業の企画と展開のためには、学習調査をして、学習要求、学習実態、そして学習を阻害する要因を把握すべきだというのである。
 次に、学習の要求課題とならんで、学習の必要課題が問題となる。このことについて「要求課題にすべて応じていたのでは、きりがない。よって必要課題を設定して、それに基づいて事業を組み立てるべきである」という主張がある。しかしそれに対して、所長は次のように問題を提起している。
 「学習者からすれば、要求課題というのは、その人自身にとっての必要課題だからこそ要求として出てくるので、一面では尊重されなければならないと思います。しかし、要求課題の中には私的利益に関わるものもあり、また、必要なものでも要求として出揃わない場合もあります。ここに必要課題を広い視野から、また専門的立場から研究しなければならない必然性が存在すると思います。
 必要課題を本格的に研究すれば、それは極めて幅広いものになるでしょう。生活の領域や学問の領域を思いうかべるだけでも、容易に御理解いただけましょう。したがって、これからの公民館の事業は、広い視野に立って、今まで以上に幅広く展開されなくてはならないと思います。
 しかし、だからといって公民館で多くの必要課題を自らとりあげるということは、実際問題として困難でしょう。幸い、他行政でも民間でも事業が実施されていますから、相互の連携プレーがますます必要になってくるということでしょう。また、一方で公民館の事業についても、これからは必要度、つまりプライオリティの発想が、従来以上に強く求められると思います。たとえば、人間形成の根幹に関わるもの、生活の基盤に関わるもの、公共性の強いものといった観点から、優先度を考えるということになりましょう。
 ただし、現実の問題としては、理論的な優先度にしたがって機械的に選択されるということではなく、地域の実情に応じて、人々が参加しやすいテーマから始めるという工夫も必要だと思います。イントロとしては、たとえば芸術文化やスポーツがふさわしいかもしれません。ですから、これからの公民館には、芸術文化やスポーツのためのハードやソフトや指導者も、こういう意味でまず必須なものであるといえるのではないでしょうか。
 そしてもう一つ大事なことは、必要課題の研究は大いに進めてこれを「整理」するが、その「設定」はしないということです。そもそも学習者に対して『あなたには、こういう学習が必要です』と必要課題をおしつけ気味に提示すること自体、社会教育の本旨にそわないのではないでしょうか」。
 現に「公民館経営専門講座」では、ずばり「必要課題整理と選択の視点」と題して、筑波大学助教授の山本恒夫氏による講義を行っている。そのテーマが、必要課題の「設定」ではなく「整理と選択の視点」となっていることに注目したい。
 さて、必要課題をこのように幅広くとらえ、それに応える事業を行うとすれば、公民館職員の資質にはとても高いものが求められる。特にそれぞれの学習内容に関することについて、所長は「概論は基本となるもので欠くことはできませんが、これからはそれに加えて、主な学習内容に関するそれなりの見識が必要になるのではないでしょうか。その面での社会教育の研究は、まだあまり進んでいないので、今後つくりだしていくしかないでしょう」と、研究の必要を述べている。
 また幅広い学習のためには、豊かな施設・設備が必要になる。その点については「とりあげるべき事業がはっきりすれば、必要なハードは自然にうかびあがります。そして、それを実現するために必要な設備投資をすべきです。職員の資質がいくら良くても、施設・設備が整っていなければ良いことはできません。そういう所に配置された、やる気のある職員が気の毒なくらいです」とまで言っている。
 世は生涯教育時代。ところが自治体の社会教育予算はなかなか伸びない。貧困である。学習の必要課題の研究は、説得力と迫力をもってその貧困の打破を訴えるための強力な武器の一つになるのかもしれない。

 高齢者教育には固有の意義がある

 「公民館経営専門講座」の期間中、三月四日から三月九日までの間を「高齢者教育専修コース」として、そのコースのみの受講者も受け入れて合同研修が行われた。高齢者教育が現下の重要な課題になっているとの認識からである。それでは、この研修の高齢者教育に関するねらいは何だろうか。
 第一に、所長は「まず、教育であることの認識」が必要であると言う。たとえば、福祉との協力は当然としつつも、それとの違いを明らかにする必要があるということである。 第二に、高齢者教育の意義を解明することである。しかもこのコースでは、「高齢者教育の意義」というシンポジウムを、「個人的意義と社会的意義」と副題をつけて開いている。この副題自体、問題提起的である。ちなみに、受講生に配布された資料「高齢化社会における高齢者教育その意義と方向」において、奈良女子大学教授の森幹男氏は、高齢者教育に固有の意義について次の柱立てで論を進めている。
 まず、個人的意義については、「退職後の準備」「余暇活動」「老いの受容の援助」「死の受容の援助」という柱立てである。
 社会的意義については「高齢者教育というのは、その社会的な側面として、老人の社会的な負担の軽減を図るという一面を持っているものである」として、「ヤングオールドを対象として」「オールドオールドを対象として」「他の世代との交流」「老人のための、老人による、老人と一緒の、老人に関する教育」という柱立てで論じている。
 これ以上の詳細は省くが、この「個人的意義」と「社会的意義」にいったん分けて分析する手法は、他の対象別社会教育を考える場合にもかなり有効な手法だと思われる。
 第三に、第二にも関連するが、高齢者教育を他の人々、特に成人と切り離して行う根拠を問うことである。原理的なことからくるものなのか。学習内容の違いからくるものなのか。
 学習内容に関わる面では、第二で述べた「高齢者教育に固有の意義」が重要な示唆を与えてくれるだろう。所長は「方策もなしに学習のメニューを構成するのではなく、高齢者の固有の学習内容を整理すること」を提言している。たしかに、そのことなしには、適切な高齢者教育の事業は望めないであろう。
 第四に、高齢者対策全体からの社会教育の位置づけを明らかにすることである。前述の資料「高齢化社会における高齢者教育その意義と方向」において、森幹男氏は福祉・保健・医療関係者、あるいは農林水産省、国土庁などの行う高齢者対策が高齢者教育の一環としてもとらえられ、お互いに重なり合っていることを指摘している。またこれを受けて所長は「生涯教育体制においては、教育行政がその専門家としてかなめに位置すべきであるのに対し、高齢者教育体制においては、教育行政は高齢者対策の一環としての役割を持つと考えるべきではないだろうか」として、高齢者対策の一方の「核」としての福祉・雇用と一体となって施策を進めることを主張している。

 学習のニーズから出発する施設整備を

 それでは最後に、「公民館経営専門講座」の長い研修のうちのひとこまとして、三月十三日に行われたシンポジウム、「学習社会における公民館施設整備の方向」をのぞいてみよう。
 シンポジストは、全国公民館連合会事務局長の谷口正幸氏、豊橋技術科学大学助教授の渡辺昭彦氏、文部省社会教育官の高村久夫氏の三人である。シンポジウムの中で、谷口氏は公民館の併設大型化の流れの中で、いかにそれを住民の学習の多様化、高度化に対応できるものにするかということなど、渡辺氏は「時代は機能の転換を常に求めている」ということから、公民館にもオープンシステム導入が必要なことなど、高村氏は日常生活圏に設置される公民館が地域とつながりつつも、その学習は幅広いものを要するようになっていることなど、それぞれの方がわかりやすく発表された。そしてその内容は、まさにこのシンポジウムのねらいどおり、「学習社会への対応」という現下の課題に肉薄するものだった。
 ここでは渡辺氏の「オープンシステム」の主張について紹介する。建築家である渡辺氏の主張は、計画決定、管理・運営、施設間ネットワークなど、公民館のあらゆる側面にオープンシステムを取り入れよとする主張である。そして、学習形態へのオープンシステムの導入については次のように述べている。
 「社会教育が本当の意味で生涯教育になるためには、一斉講義だけで良しとするのではなく、個人の主体的な学習を側面から援助する役割に変わらなければいけません。公民館の教材・図書・資料を整備し、それを各人、各グループが使用する。そして公民館側からは、資料の紹介や共同学習のアドバイスをしたり、時には同程度の理解度の人達に対して講義をするなどの形で援助する。そういうシステムが必要です」。
 さらに渡辺氏は、「現在の公民館建設は、国の補助金交付要項で規定された部屋の名前から出発しがちですが、そうではなく、この学習形態から出てくるニーズから出発すべきです」と言う。公民館の室構成もこのオープンシステムから、当然に決定されるというのである。そしてその室構成とは、図書・資料・講義・集会・実習・事務などの各エリアを間仕切の壁のないオープンな形で作り、その時点での使い方の必要に応じて可動間仕切で仕切ることになるという。
 また、渡辺氏の公民館に対する考え方の原点には、「公民館の従来の重点が学習・研修・実習・交流であったのに対して、これからは情報・相談・調査・研究という個人学習の援助にもっと重点を置くよう機能を転換することが求められている」という発想がある。 さて、これらの渡辺氏や他のシンポジストの発言もさることながら、フロアーすなわち受講生からの意見、質問等も文字どおり続出するという状態で、とても活発であった。終了時刻が予定より二十分も延びてしまったほどである。受講生だって、まる一日の研修で疲れていたと思うのだが・・・。
 思えば、このようなフロアーからの発言も、学習への主体的な参加形態の一つである。主体的だからこそ、受講生は時間延長など、ものともしなかったのであろう。公民館の学習援助は今後もっと「調査・研究」に重点を置かれるべきだと、渡辺氏は主張している。それと同じように、社会教育職員の研修にも未解決の課題に取り組んでいくという主体的な学習方法が求められていること、そしておまけにそれは誰にとってもけっこう楽しいことであることを知ったことは、現在社会教育職員研修の担当をしている私にとっては一番の収穫であった。いわゆる「勉強好き」の人だけの「天国」で、あとの人は「じっと耐えるだけ」という研修であってはならない。国立社会教育研修所の「勇気あるチャレンジ」に敬意を表したい。
 人権尊重思想の普及のあり方についての実践的考察
はじめに
 われわれ人権尊重思想普及研究会は、昨年度、「人権尊重思想の啓蒙と社会教育」について研究を深めた。そこでは普及のあり方について、若干、本質に立ち入って考察したのだが、人権尊重思想普及の実践的側面については、問題提起に留まっていた。そこで本論では昨年度の研究成果を踏まえた上で、さらに個々の実践的問題に対し、前回試みた本質的視点をもとにしてアプローチしてみた。
 さて、昨年度はまず啓蒙主義について歴史的に考察した。人権尊重思想の普及、たとえば同和問題に関する啓発活動において、それが広く国民に浸透したというには未だ不充分である現状を考えた時、国民の側に率直に言って「同和はもういい」という意識が先行しているのではないかと思われる。もちろん、このような意識自体、人権尊重思想の本質を充分とらえきれていないところからくるものである。しかし、「啓発活動をする側」(このような一面的表現は不正確であるが)にも国民に受け入れられない原因があるのではないか、すなわち、いわゆる「啓蒙主義」の色彩が強く、国民が主体的にみずからの問題としてアプローチする意欲をそいでしまっているのではないか。このような問題意識から、啓蒙主義の歴史を分析したのである。
 啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つであり、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。当時の啓蒙主義は、
1、近代民主主義の基礎を築いていること
2、人間の自由平等を説いていること
3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること
以上の三つの特徴を持っており、これらの特徴は、今日の人権尊重思想の普及に関しても重要な関連がある。                               しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。
 このことは人権尊重思想の普及を考える上で、非常に重要な課題であると考える。しかもそれは、「非常に重要」であるとともに、「非常に微妙」なのである。というのは、「一人一人の人間がすでに主権者」であることを、「平面的既定事実」として機械的にとらえてしまうとすれば、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上不要ということになってしまうのである。実際は国民の「主権者」としての力量は、日々獲得されつつあり、また、そうでなければならない性格のものである。それゆえ、方法論としては国民の「主権者」としての側面を最大限尊重しつつ、人権尊重思想の普及の中身において、国民の「主権者」としての成長を意識的に援助していくことが、求められている。
 この一見、自己撞着を起こしそうな命題を実現する方策はいかにあればよいのか。本論ではこの問題について、昨年度から一歩進めた実践的、具体的な考察をすることとした。なお、その際、次章に述べる理由からカウンセリング理論を糸口として議論を進めた。

「啓蒙主義」については、江上波夫ほか編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一ほか編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)の該当する項を参照した。


カウンセリングへの注目
 啓蒙主義の時代においては、科学的な知識を普及することが直接に人々を啓蒙することにもなり、また、それにより「近代民主主義の基礎を築く」ことにも貢献できたのであるが、今日の時代においては、科学的知識の学習ばかりでは不充分である。昨年度の研究において三浦綾子「積木の箱」を教育学的視点から分析したが、そこでは三浦のいう「生きるという問題」、言い方を変えれば一人一人の「人間の生き方」に関することにどう対処するかが、教師の教育実践にとっても重要なファクターとなっている。そこに今日の教育の難しさも認められるのである。
 また、人権尊重思想そのものが、人間の生き方に深く関わるものであることは、もちろんいうまでもないことである。たとえば、歪んだ競争偏重の「生き方」は、当然、社会の差別を構成する最も基本的な要素と言えるものであり、人権尊重思想の普及のためには、どうしても克服しなければならない課題だからである。
 さて、このような意味から人権尊重思想の普及を考えるに当たっては、不可避的に「人間の生き方」という複雑な問題に関わらざるを得ないのだが、そのために、まず、この問題に専攻的に関与しているカウンセリングの理論から示唆を受けることが有効であると思われる。そこでではカウンセリングについて橋口孝俊氏の描いたエッセンス・から、・ではカウンセリングのノウハウのなかでも、まず基本になる個人面接の基礎的技法についての国分康孝氏のコメント・に沿って、その個々の問題を人権尊重思想の普及の視点から論じてみた。

・三浦綾子「積木の箱(上・下)」(朝日新聞社)
・橋口孝俊「なぜ、いまカウンセリングか」(東京都職員研修所「もう一度考えよう」昭和58年9月、59年3月)
・国分康孝「カウンセリングを生かした人間関係−教師の学習法」(歴々社)

・ カウンセリングの本質から学ぶ
・ 「対策」ではなく「こころ」の問題
 「相談」という意味が「対策などのため話し合うこと。(広辞苑)」だとするならば、カウンセリングを、「相談」と翻訳することは多少、語弊を生ずると言わざるを得ない。ちなみにケースワークが「社会資源の活用などによる社会的・経済的問題の解決のための援助」に重点をおいているのだとすれば、それに対してカウンセリングでは「個人の心理的・精神的問題の解決のための援助」に焦点をおくのである・。このようにカウンセリングが「対策」ではなく「こころ」を問題としていることは、人権尊重思想の普及を考える上でもおおいに示唆に富むところである。
 なぜならば、一つにはそこに「啓蒙主義」克服の第一歩がある。国民の理解を求めるためには、表面に表れた「好ましからざる事例」への「対策」に追いまわされ、上からの「啓蒙」を急ぐだけでは不充分であり、むしろ国民一人一人の「こころ」に迫るような気の長い取り組みが必要だからである。
 もう一つには、同和行政自体の重点が「こころ」の問題に移行しつつあるという今日的状況がある。「地域改善対策特別措置法」があと一年で期限切れとなり、昭和四十四年以来の同和対策特別措置が大きな節目を迎えているのである。昨年秋の朝日新聞の座談会「同和行政の行方と課題」において総務庁地域改善対策室長の熊代昭彦氏は、「生活環境が解決出来つつあるとすれば、今後は同和問題についての啓発活動が非常に重要になってくると思います。被差別部落の人たちを差別する理由は、何もないんだということを、国民に十分理解していただく必要があります。」と述べている・。
 未だ残されている生活環境の改善すべき点をいささかも軽視することはできないが、今後、本質的に同和問題を解決するためには、「もの」に対する「対策」だけでは足りず、どうしても「こころ」の問題に踏み込むことが必要になってくるのである。
・ 人間関係をつくる
 橋口氏は「いわば自然発生的な人間関係の過程から、人為的に人間関係をつくり、そこで意思疎通をはかりながら徐々に個人のイメージをつくり、それぞれが悩みを克服しようとする態度ができることを期待するところにカウンセリングの特質がある。」と述べている。前段で指摘した「こころ」の変革を期待するためには、人間関係をつくるところから始めなければならないのである。
 現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。それどころか、特に若い世代の中には、ごく当たり前の人間関係さえ、とりむすべない者もでてきていると言われている。そういう状態の中で、人々がある意味で「深刻な人格危機」に直面しているとすれば、そのことに心はらうことなく相手を啓蒙しようとしても、それは悪い意味での「啓蒙主義」におちいるだけである。人格危機の進む今日において人権尊重思想の普及を確かなものにするためには、カウンセリング的手法に習い、「人間関係をつくりながら」相手の自己変革を側面から促すことから、地道に始めることが、不可欠の条件になっているのである。
 そもそも、人間関係なしに他者に何らかの影響を与えようとすることは、何を意味するだろうか。それは、おざなりな「情報提供」か、あるいは、上からの権力的な「説教」であるか、どちらかなのではないだろうか。カウンセリングが人間関係づくりから始まることは、従来の人権尊重思想の普及のあり方に対して鋭く反省を促しているのである。
・ 人間を「個性的存在」として捉える
 カウンセリングでは「個」としての人間を重視する。橋口氏は「カウンセリングにおいては、社会的存在としての人間を第一義とはしない。個性的存在としてのそれが主題である。ある意味では、個々の人間がその個性を十分に発揮できることで、それぞれが社会的存在となりうるとの前提に立っているといえる。」としている。
 この徹底した「個」の重視は、それが行政のものであれ、同和団体のものであれ、従来の人権尊重思想の普及活動に対して大いなるアンチテーゼを提起していると考える。従来のそれは、極端な例としては「一斉講義型学習」「大衆動員」という言葉に象徴されるような形態を持ち、また、結果としての単一な反応と成果を期待しすぎていた傾向があったのではないだろうか。
 蛇足にはなるが、このことは人権尊重に逆行するような差別的意識を「個性」だからと言って是認したりすることでは決してない。また、人権尊重思想の普及活動のすべてにわたって、「集団」より「個」を重視すべきと主張する意図もない。その点では、カウンセリングの理論と、人権尊重思想の普及の理論とは自ずから性格を異にするものである。ただ、常に「マス」(集団)でしか人をとらえないのではなく、集団を構成する一人一人の「個」に視点を戻してみる意識的な作業が欠けていたのは否めないだろう。
 さらには、人権尊重思想そのものが、そもそも前近代的な人間観を克服し、近代民主主義の基本である「個」の尊重をめざすものであることを考えると、その普及活動においてそれが尊重されねばならないことは、当然なのである。

・浜島朗ほか編「社会学小辞典」(有斐閣)の「カウンセリング」の項
・朝日新聞、昭和60年10月29日朝刊

・ カウンセリングのノウハウから学ぶ
・ 受容
 国分氏は「(生徒の言葉が)弁解でも一応耳を傾けて聴くと、生徒にすればこの先生は私に関心をもってくれている、この先生は私の味方であると受けとってくれる。」として「構えがなくなること」(リレーション)を不可欠条件として指摘している。これが、さきほどの「人間関係をつくる」ということにもつながるカウンセリングの基礎的技法の一つ、「受容」すなわち非審判的に話を聴くことにより「ホンネ」をつかむことである。
 人権尊重思想の普及活動、特に同和問題の啓発活動においては、「啓発する側」は人権尊重の意識が強く、不正義を許しがたいという気持が当然ながら強いのであるが、そのため、相手側が不用意な発言をした場合にはすぐにその非をつき、訂正を求めがちである。しかし、それは通常の人間関係における場にあっては望ましい態度であったとしても、「啓発する側」という特別な関係にあることを意識するならば、違った対応が求められるはずである。時と場合によってはカウンセリングの技法にならい、受容的に聴いてみることも有効なのではないだろうか。
 この「技法」はカウンセリングのなかでも特に主要な技法であり、また、人権尊重思想の普及活動のあり方を考えるうえでも、その意味するところが大きいと思われるので、やや詳しく、同和問題の啓発活動を例にとって考えてみたい。この技法が有効に活用された場合、次のような効果を生み出すものと思われる。
1、相手に実は差別的な意識がなくその真意が違うところにあった場合、啓発する側の相手に対する無用の誤解を防ぐことができる。(これは実際の場面では少ないかもしれないが)
2、相手がしゃべっているうちに、その言語化の作業のなかで、自ら自己の差別意識に気づく可能性に期待することができる。このような「自己認識」が実際に行われ、さらにそれが「自己変革」につながるとすれば、これは啓発のあり方として、そして国民みずからの自己教育の営みを援助しようとする社会同和教育の立場から考えても、もっとも望ましい姿である。
3、相手に問題となる差別意識が存在し、しかもそれに気づかず話されていたとしても、啓発する側がそれをよく聴くことにより、相手の差別意識の深いところからの根源を理解することができる。そのことにより、「何を言えば、一番効果的か」も推定しうる。とりわけ、啓発を単なる言葉のうえでの表面的な「投げかけ」にとどめることなく、相手の「こころ」の変革を迫るものにしようとするならば、これはどうしても学ばねばならない「技法」である。
4、相手との人間関係を維持、発展させることができる。もちろん、これは相手の差別意識までも、人間関係のために許容してしまうことではない。人間関係の形成という基本的条件が整ってこそ初めて、こころに迫る「啓発」も可能になるということである。
5、国民の間に、率直に言って「同和はこわい」という残念な誤解、および消極的傾向が見受けられ、広範な国民の学習活動を阻害する要因になっている。この状況に対し、カウンセリングでいう「受容」がうまく取り入れられるならば、「(啓発する側が、国民それぞれの言うことを)とにかくは、聴いてくれる」という国民の安心感が獲得でき、広い層の国民の自然な参加と意見が得られるはずであり、それがひいては、今述べたような同和問題の啓発に当たっての閉塞状況を打破する大きな足掛かりとなりうると考えられる。
・ 繰り返し
 国分氏は「繰り返し」について「ぼくは君の話をこう理解したのですが、ぼくの理解の仕方にまちがいはないでしょうか」と確認の気持をこめて問い返すことであると、端的に説明している。この技法は「事実の確認」のためにも有効なのであるが、ポイントはむしろ「感情の確認」にある。
 人権尊重思想の普及活動においても、この技法の活用は次のような効果を生みだすと考えられる。
1、人権尊重思想を普及しようとする側に対して、それを受ける側が「ああ、この人は私の気持をわかってくれた。」という信頼を寄せてくれるきっかけとなる。
2、相手の話をよく聴いて「枝葉末節を切り落とし、核心を把握する」という、コミュニケーションのためにはなくてはならない営みを、普及する側に必然的に促すことになり、それは結果として啓発活動が「ひとりよがり」の一方通行となって形骸化することを防ぐ「歯止め」として作用する。これまで、普及の側がどれだけ真剣になって国民一人一人の意見を聴いてきたか、反省が促されるはずである。
3、相手は繰り返しをしてもらうことによって、自分の意識に自ら気づくことができる。そのなかで、当初は本人に差別意識などがあったとしても、それに自ら気づくことは、「自己変革」を促す強いモチベーションになるのである。
・ 明確化
 国分氏は「明確化」という技法について、「まだことばには出していないが、うすうす本人も気づいていることを先手を打ってことばにのぼらすこと」であり、「これをしないと会話が深まらないのである。」と説明している。もちろん、カウンセリングで言う「明確化」とは、「うすうす本人も気づいている」ということが必須の条件であり、その点では「説教」や悪しき「啓蒙主義」とはまったく異なるものである。
 さて、人権尊重思想の普及活動において、この技法の活用は次のような効果を生みだすと考えられる。
1、本人であるがゆえにむしろ気づきにくい自己の差別意識などに、はっきりと気づくことができる。この面では、「受容」や「繰り返し」より、さらに積極的な作用をもたらすものである。ただし、それだけにカウンセリングの原則を踏みはずすことのないよう、留意する必要がある。考えられる「失敗」の例としては、相手の気持を的確にとらえられないまま誤解に基づく「明確化」をして相手を失望させてしまうことなどもありうる。
2、「同和はこわい」という誤解を持っている人々の場合、かえって啓発活動を行う側に対して「本音」を隠して、たてまえでとりつくろう傾向が見受けられる。あるいは自分の差別意識などに「気づきたくないから、気づかない(ふりをする)」こともあろう。このような場合には、カウンセリングの原則を踏まえたうえでのやや積極的な「明確化」も、時には有効であろう。
3、2とは逆に相手が差別されている立場の人の場合、たとえ同和問題の啓発をしようとする者に対してでも、それが行政側であった場合など、なかなか「本音」を言いづらいということが考えられる。その場合、「遠まわし」な気持の発露を的確にとらえて、「明確化」することは、啓発しようとする側の責務であろう。国分氏の挙げる次の事例は、人権尊重思想の普及活動にとって、大変示唆的である。
 「『騒いだのはぼくじゃありません』と生徒が抗議してきたら、『ぬれぎぬを着せられたというわけだな』と応ずる。生徒は自分の口から『先生はぼくにぬれぎぬを着せた!』とは言えないので前記の表現をとったのである。」
・ 支持
 相手の言動を是認することである。他者から「支持」されることは、その人にとって生への意欲の源泉になる。
 人権尊重思想の立場から見て、一人一人の人間の生き方はどうとらえることができるのだろうか。もし、「いい人」「悪い人」に二分できるのなら、ある意味ではこれほど単純なことはない。「悪い人」の「悪い所」をなんとか治すようにすることしか、やるべき事は残っていないからである。
 しかし、実際には一人一人が、ある時には「差別する側」になり、ある時には「差別される側」になる。ある時には「差別をする気持」「差別を許す気持」になり、ある時には「差別を憎む気持」「差別を許さない気持」になる。だとすれば、人権尊重思想を普及する側には、相手に対して先入観を持つことなく、評価できるところに対しては徹底的に「支持」し、それを励ます営みが求められているのである。
 それに加えて複雑なことには、現実にはそれぞれの人の一つ一つの言動自体が、「差別をする気持」「差別を許す気持」と「差別を憎む気持」「差別を許さない気持」の双方の弁証法的な発露なのである。普及の側は、深い洞察なしに「評価できない」と片付けてしまうのではなく、注意深く後者の崩芽の可能性を育まねばならない。これはまさに、相手の人権を尊重した普及のあり方でもある。
 さらに、国分氏の挙げている次の事例は、人権尊重思想の普及活動の観点からも注目されなければならない。「教師は概して批判めいたことをいう。一言居士といってもよい。たとえば生徒がクラス委員に立候補した。ある教師が『クラス委員は何でもできなけりゃいかんのだぞ。』と。勉強ができないくせにクラス委員でもあるまいという言外の含みがあった。生徒は立候補を辞退して落ち込んでしまった」。支持の言葉が出てこないこの教師に対して、国分氏は「精神の貧困」と断じているのである。たしかに、カウンセリングで言う「支持」の精神と逆行する人権侵害ともいえるこのような事例は極端ではあるが、ありえないことではない。
 ただし「支持」とは相手の何らかの側面を励まし「強化」することであるから、何であろうと支持しさえすればよいということではない。人権尊重思想に反するような側面については、普及する側が明確に識別しなければならない。国分氏は「人間はどうあらねばならないかという自分なりの人生哲学が定まっていないと、勇気を出して支持できない。」としている。普及する側の鋭い人権意識が求められているといえよう。
・ 質問
 「質問」の意味を「相手が自分の感情を整理して出しやすいように導く」ことと、国分氏は説明している。「君は勉強する気があるのか」というように「はい」「いいえ」で答えさせるのではなく、「勉強するということについて君自身はどんな感じをもっているの」というように、自分のことばで説明して自ら問題がつかめるように導くべきであると言うのである。
 われわれは性急に人権尊重思想の普及を急ぐあまり、「あるべき姿」を前提に、相手との対話においても「情報をとる」あるいは「告白させる」ことを第一義としていなかったか。それに対してカウンセリングの一技法である「質問」は、「人間が自分の力で自己を啓発する営みに待つ」という姿勢だと思う。この姿勢に学ぶことの意義は、非常に大きいといえるだろう。
                                        ・ カウンセリングだけでなく
 われわれは、ここまでカウンセリングの本質と技法から、人権尊重思想の普及活動にとって教訓的なさまざまなことを学んできた。しかし、そのことはカウンセリングが人権尊重思想の普及活動にとって全能(オールマイティー)であることを意味するものではないことは、当然である。
 カウンセリングはカウンセリーとカウンセラーの、あくまでも個人的な、そして対等な人間関係である。思えば、従来の人権尊重思想の普及活動がつい忘れがちな人間のこころに迫るカウンセリングの理論と技法は、その原則から発していた。
 しかし、実際の普及活動は必ずしもカウンセリングのような人間関係のもとで展開されるわけではない。それより複数の人間やその集団、あるいは不特定多数を相手として、しかも普及する側は明らかに「啓発者」として位置することが多く、実はこのレポートにおける今までの論議も、むしろそれを前提に、それでもなおかつカウンセリングから何を学べるかを論じてきたのである。
 そこで普及活動の実践のなかで、カウンセリングの活用だけでは事足りない部分について列挙し、補足しておきたい。
・ 情報提供
 カウンセリングが相手のこころの中での人権尊重思想の形成を側面から援助するものであるとすれば、情報提供は相手の自発的選択に待ちながらも、人権尊重思想の形成のために必要な基礎としての情報を主体的に受け止めてもらおうとするものである。
 その時に大切なことは、おしつけにならないことであろう。普及活動においては、わかってもらおうとすることを、つい急ぎがちである。しかし、それでは相手は「おしつけがましいな」と感じてしまうことにもなる。特に同和問題の啓発活動などに対して、このような感覚を持っている国民は多いのではないだろうか。
 この誤解、先入観を克服するための解答の一つは、「情報提供の姿勢」であろう。人権に関するさまざまな情報を提供し、そこから国民自身が何かを学びとり主体的に判断をするのを待つという姿勢である。
 ここで、昭和60年12月に発足したばかりの「大阪人権歴史資料館」に注目したい。設立の目的は「大阪府下の同和問題をはじめとする人権問題に関する歴史的調査研究を行うとともに、関係資料、文化財を収集、保存し、併せてこれらを一般に公開することにより、人権思想の普及と啓発に資する」ということである・。この資料館においては、太鼓とまつり、信仰、芸能との関係、「水俣」写真展、大阪大空襲、アンネ・フランクの資料など、巾広い視点で資料を構成している。この姿勢は、今述べた「情報提供の姿勢」につながるものである。
 さらにこの姿勢を徹底するならば、情報提供そのものへの国民の主体的な関わりを重視することになるはずである。その点で、資料館の展示の特徴の一つとして「伝達型から参加型の博物館を目指す。一定の知識を一方的に伝えるだけでなく、来館者が自ら問題意識を持って参加できるようにする。」としていることは大変興味深い。その実現が期待されるところである。
・ 交流の援助
 カウンセリングがカウンセラーとカウンセリーの個人的人間関係だとすれば、ここでいう「交流」は国民相互の集団も含むダイナミックな人間関係である。
 前出の朝日新聞の座談会「同和行政の行方と課題」において、地域改善対策協議会会長の磯村英一氏は「いまは国の方針を決める協議会にも(運動団体が)入らないで、それで別々なことをいっているのでは、どうにもならない。国民の世論を結集しなければ、いくら法律をつくっても、行政に何とかしろといっても、同和問題の解決は無理ですね。」と言っている。氏の言を借りるまでもなく、同和問題を含む人権尊重思想の普及にとって国民の合意はもっとも大切な要素である。
 しかし、人権尊重思想の普及活動におけるいわば「草の根」的視点から言えば、国民の合意形成よりも前に、それを基礎から形づくる人と人との間のあたりまえの関係さえ、危機に面しているといえないだろうか。たとえば汐見稔幸氏は授業中の生徒間のおしゃべりについて次のように分析している・。「彼らのおしゃべりが、深刻な方向に向かわず、必ずある笑い(めいたもの)をさそい出すような方向を向こうとするのは、自分たちの意識が、深刻なテーマを考えることに向くことへの無意識の防衛機制が働くためだと考えられる」。そしてこの「おしゃべりシンドローム」は、「言葉を発し合わないことの方に精神的安定を見出す」ような社会的関係の「裏返し」の反映だというのである。
 人権尊重思想の普及が「草の根」的に浸透するためには、国民の間にいきいきとした相互交流が必要なのであるが、そのための契機となり、励ましとなるような普及活動のあり方が求められているのである。さらには「人間関係の非直接性=媒介性」(汐見氏)の強まりは、その人が本来享受すべき人間の基本的な喜びとしての人間の交流、すなわち人権にほかならないのだが、これを阻害するものであり、また、このような状況下においては他者に対する緊張と他者からの逃避は、他者の人権に対しても同様に無関心たらしめるという二重の意味での人権侵害の誘因であることを考えるならば、交流の援助は人権尊重思想の普及につながるのはもちろんのこと、人権尊重の社会を形成する直接的な営みともいえるのである。
・ 「社会教育」としての営み
 これまで述べてきたことは、そのまま社会教育の営みでもある。そして既述の「相談」(カウンセリング)、「情報提供」、「交流援助」などを統括する概念として、社会教育における自己教育の原則を指摘することができる。それは、社会教育法第3条「(国及び地方公共団体は)すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。」という条文に表されている。
 この本質的原則に則り、「相談」「情報提供」「交流援助」などを有機的に組み合わせつつ、さらにその上で生活課題・地域課題を学習し共有する国民の営みを援助することが求められているが、この社会教育の独自の役割については今後の課題として残されていることを付記して、この論の終わりとする。

・大阪人権歴史資料館「オープンした『リバティ・おおさか』」(解放出版社「部落解放」1986年1月)
・汐見稔幸「意味の充満した沈黙をこそ」(国土社「教育」1985年9月)
                                                   人権尊重思想の啓蒙と社会教育(要旨)           ・ 啓蒙主義の歴史的意義
 啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つである。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。このように、当時の啓蒙主義は、
1、近代民主主義の基礎を築いていること
2、人間の自由平等を説いていること
3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること
以上の三つの特徴を持っている。
 しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。
・ 教育における「啓蒙」の問題
 現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。そういう状態の上で、教育の専門家が相手を啓蒙しようとしても、相手がもっと深刻な人格危機に直面しているとすれば、カウンセリング的な対応なしには、その「啓蒙」は「押しつけ」にしかならないのである。
 従来の啓蒙は、あるべき理想の姿をさし示すという性格の強いものであり、その意味では、カウンセリング、特に非指示的カウンセリングとは、まさに正反対のものであったが、人格危機の進む今日においては、カウンセリング的手法で相手の自立を側面から促すことは、不可欠の条件になっている。
 その際、教育の専門家がカウンセリングから学ぶべき点は、単にその手法だけでない。最終的には相手の自らの問題解決力を信頼し、それを待つ姿勢をカウンセリングは持っているが、この姿勢こそ、啓蒙をしようとする者がしっかりとわきまえねばならぬ点であると言えよう。さらに、対象を常にマス(集団)としてだけ捉えるのではなく、「個」に注目し、それを重視するというカウンセリングの姿勢からも学ぶべき点は多い。
・ 社会教育における「啓蒙」の問題
 いわゆるカルチャーセンターの盛況等による「社会教育の拡散」と呼ばれる今日の状況において、公的社会教育が文字通り「公」として住民による「地域での問題解決」を援助する役割は非常に重要である。ここに当時の「公民館構想」が今日、あらためて注目されつつある所以がある。
                                         人権尊重思想の普及のあり方についての実践的考察(レジメ) 昭和61年3月18日・ はじめに
 方法論としては国民の「主権者」としての側面を最大限尊重しつつ、人権尊重思想の普及の中身において、国民の「主権者」としての成長を意識的に援助していく。
・ カウンセリングへの注目
 人権尊重思想そのものが、人間の生き方に深く関わるものである。
・ カウンセリングの本質から学ぶ
・ 「対策」ではなく「こころ」の問題
・ 人間関係をつくる
 そもそも、人間関係なしに他者に何らかの影響を与えようとすることは、おざなりな「情報提供」か、あるいは、上からの権力的な「説教」になりがちである。
・ 人間を「個性的存在」として捉える
 カウンセリングの理論と、人権尊重思想の普及の理論とは自ずから性格を異にするものである。ただ、社会教育における人権尊重思想の普及活動においては、集団を構成する一人一人の「個」に視点を戻してみる意識的な作業が欠けていたのは否めないだろう。
・ カウンセリングのノウハウから学ぶ
・ 受容  ・
・ 繰り返し・                                 ・ 明確化 ・・紙面の都合上、レジメにおける文書での説明は省略。口頭で発表する。・ 支持  ・                                 ・ 質問  ・
・ カウンセリングだけでなく
・ 情報提供
 カウンセリングが相手のこころの中での人権尊重思想の形成を側面から援助するものであるとすれば、情報提供は相手の自発的選択に待ちながらも、人権尊重思想の形成のために必要な基礎としての情報を主体的に受け止めてもらおうとするものである。
・ 交流の援助
 交流の援助は人権尊重思想の普及につながるのはもちろんのこと、人権尊重の社会を形成する直接的な営みともいえる。
・ 「社会教育」としての営み
 既述の「相談」(カウンセリング)、「情報提供」、「交流援助」などを統括する概念としての社会教育における自己教育の原則。
                                                   人権尊重思想の啓蒙と社会教育(要旨)           ・ 啓蒙主義の歴史的意義
 啓蒙主義は、近代を特徴づける最も有力な思潮の一つである。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に、事物認識と行動選択への拠りどころを求めている。
 このように、当時の啓蒙主義は、
1、近代民主主義の基礎を築いていること
2、人間の自由平等を説いていること
3、人間本来の理性的な力を信頼し、育てようとしていること
以上の三つの特徴を持っており、これらの特徴は、今日の人権尊重思想の普及に関しても重要な関連があると、認識すべきである。
 しかし、「啓蒙」とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の人権尊重思想の普及活動においては、一人一人の人間がすでに主権者であることを前提に、その自己教育活動を側面から援助することに重点を置かねばならないからである。
・ 教育における「啓蒙」の問題
 啓蒙主義の時代においては、科学的な知識の普及は、直接に人々の啓蒙に貢献したのであるが、今日の時代においては、教科に関する学習ばかりでは不充分であり、むしろ三浦のいう「生きるという問題」が啓蒙にとっても重要な要素となってきている。言い方を変えれば、今日、「啓蒙」とは主に「人間の生き方」に関することなのである。そこに今日の「啓蒙」の難しさがあり、それは本論においても大いに問題とするところである。
 今日の学校教育においても、これと同じような「教師と生徒の断絶」は、いたる所で見いだすことができる。たとえ教師が、「人間の生き方に関する啓蒙」に熱心であっても、それが肝心の生徒に伝わらないのである。「啓蒙」というのは、えてしてこのような「独り相撲」が多いのではないのだろうか。
 現代社会においては、従来地域コミュニティーの中にあったカウンセリングの代行的機能がほとんどなくなってしまっている。そういう状態の上で、教育の専門家が相手を啓蒙しようとしても、相手がもっと深刻な人格危機に直面しているとすれば、カウンセリング的な対応なしには、その「啓蒙」は「押しつけ」にしかならないのである。
 従来の啓蒙は、あるべき理想の姿をさし示すという性格の強いものであり、その意味では、カウンセリング、特に非指示的カウンセリングとは、まさに正反対のものであったが、人格危機の進む今日においては、カウンセリング的手法で相手の自立を側面から促すことは、不可欠の条件になっている。
 その際、教育の専門家がカウンセリングから学ぶべき点は、単にその手法だけでない。最終的には相手の自らの問題解決力を信頼し、それを待つ姿勢をカウンセリングは持っているが、この姿勢こそ、啓蒙をしようとする者がしっかりとわきまえねばならぬ点であると言えよう。さらに、対象を常にマス(集団)としてだけ捉えるのではなく、「個」に注目し、それを重視するというカウンセリングの姿勢からも学ぶべき点は多い。
・ 社会教育における「啓蒙」の問題
 しかし当時の人々が、まだ民主主義や地方自治について精通していなかったことを考えると、むしろ「公民館構想」に基づく「啓蒙活動」が正当な政治的理想の実現のために貢献した側面こそ評価すべきであると考える。
 そしていわゆるカルチャーセンターの盛況等による「社会教育の拡散」と呼ばれる今日の状況において、公的社会教育が文字通り「公」として住民による「地域での問題解決」を援助する役割は非常に重要である。ここに当時の「公民館構想」が今日、あらためて注目されつつある所以がある。
 ここでは「公民館構想」以降の流れを逐一追う余裕はないが、「公民教育から『市民教育』への転換」として藤岡貞彦が批判的に指摘している、50年9月の「第2次アメリカ使節団報告」については、藤岡の指摘どおり、「反共市民教育」の誹りを免れないものである。「報告」では、「極東において共産主義に対抗する最大の武器の一つは、日本の啓発された選挙民である。」とされている。しかしこれが、教育に対する露骨なイデオロギー的干渉であるからこそ、これ以前の「公民館構想」等の、いわば素朴な民主主義志向に基づいた「啓蒙」とは、決然と区別されるべきである。
・ 社会教育における人権尊重思想の普及のあり方について(試論)
 しかし、今ここに述べた通り、集団討議(話し合い学習)や視聴覚(視聴覚メディアの活用)の手法は、「自己変革」即ち意識変革を促すという点で有効なのであるが、その力が強力であるがゆえに、社会教育ではそれらの手法の導入にあたっては、常にある意味でストイックに取り組むことが必要と考える。なぜなら、もしその手法が社会教育行政の側できままに使われるとしたら、場合によっては、「自己変革」の内実が乏しいものになり、かえって今までその人の持っていた良さが失われるという恐るべき結果だけが残るということもありうるからである。
・ 情報提供の姿勢
・ 「個」の重視
・ 科学性
・ 市民の検証
・ 課題の共有
                                        社会教育の計画とプログラム
 ・ 各種事業計画立案の視点と展開例

7 学習情報提供事業の企画と展開 
   〜人間が学習情報を求めている〜

〔この事業の基本的問題〕
 生涯教育の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することは大変難しくなっている。それゆえ、豊富な学習機会の中から、市民が自己の必要とするものを的確かつ速やかに選び出すこともできなくなっている。学習施設や人材など、生涯学習に関わる他の情報についても同じことが言える。
 こんなことでは、せっかくの「外側」の「学習社会」の実現も、一人一人の人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのである。
 しかもここで扱う情報は市民一人一人の内面に関わり、影響を与えるものであるから、その情報提供事業は特別に、「市民主体」、「公正」、「公平」などの公共性に裏打ちされていなければならない。
 公的に学習情報を提供する意義は、以上のようにまとめられるだろう。しかし、さらにこの事業の実施に当たっては、次に述べる三つの基本的疑問について考えておく必要があると考える。(図1参照)

1 情報過多に「輪を掛ける」ことにならないか
 社会教育行政が学習情報提供事業を開始しようとする時、あるいは次のような反論が出るかもしれない。「この情報過多の世の中でまた新たに情報提供をするなんて、今の情報過多に輪を掛けるようなものではないか。社会教育のめざすことは単なる情報提供などではなく、むしろ情報過多の状況に抗して人々が人間らしい生き方を見出せるよう、その内面的な成長を援助することではなかったか」。たしかに、もっともな話ではある。
 しかし実はこの反論にいう「人々の成長の援助」も、その実体はほとんどが広い意味で言えば情報提供なのではないか。たとえば「学級・講座」において参加者の判断まで強制することができるはずがない。判断は参加者にまかされている。実際には講師は何らかの「情報提供」をしていることが多い。このように、たとえ情報過多の問題を含めて、今日の社会における人間の危機に対して何とかしようとする場合であっても、やはり最初は何らかの情報を発することから始めるはずである。
 現代社会の病理現象を考えると、つい「消極的な働きかけ」としての情報提供より、「教育的意図の直接的実現」を性急に求めがちになる。しかしそれでは、市民の自己教育が社会教育の本質であるという原則を行政自らが踏み外してしまうことにつながってしまうのである。
 むしろ、学習情報提供事業の実際の姿が情報過多のデメリットを克服するものになるかどうかにこそ目を向けるべきである。
 情報過多のデメリットとしては次のようなことが挙げられる。余計な情報が多すぎて、自分の求める情報がどこにあるのかわからない。大切に吟味検討すべき情報までないがしろにされがちになる。他からの情報に頼らないと生きていけない「情報への依存」さらには「情報への強迫観念」に縛られる。情報に追いまわされ、じっくりと人間関係をつくりだすことができない・・・。学習情報の提供においても、このような結果にしかならないのであれば、むしろやらない方がよいということになる。
 これに対し、学習情報提供事業のあるべき姿は、ある面では情報過多でわかりにくくなった学習情報を、わかりやすく整理して提供することにより、市民の主体的で的確な判断を支援することである。さらに、他者と人間的交流のできる主体の形成のための目配りまでもが求められるのである。
2 市民の情報能力の獲得を阻害しないか
 人は学習するために、さまざまな学習機会を自ら見いだし、いろいろな形のネットワークを創り出すための良い仲間を自ら見いだす。その主体的な努力は、現代社会に生きうる情報能力を鍛えてくれる。またそれ自体、学習の重要なプロセスの一部でもある。
 さらにたとえば人間の認識は、純粋な頭の中での思索活動だけで発達するのではなく、情報を収集し整理するという「外在的作業」によっても、大いに育まれるという側面をもっている。
 このように考えた場合、他者が安易に学習情報を提供してしまうことには批判があって当然である。あまり精選され整ったレディ−メイドの学習情報を一方的に提供してしまうことは、相手の自己成長の機会を奪うことにさえなるのだ。そこで社会教育行政が行なう学習情報提供事業においては、たとえ市民が「完成品」を望んだとしても、はば広い関連情報やナマの未完成情報を提供することなどにより、市民の情報選択のプロセスを尊重しなければならないだろう。
 さらには、学習情報提供事業は情報の収集・整理の「代行屋」ではなく、市民との「共同作業者」にならなければならない。行政の一方的サービスに終わらせることなく、市民も行政も情報能力を最大限に活用しあうことにより、お互いがさらに次元の高い情報能力の獲得へと向かうことができるのである。
 また、メディアの発達は現在の人間に大きな影響を及ぼしているが、現実のマスコミへの批判能力も含めたメディアリテラシーの習得なくしては、生涯学習情報の適切な摂取ができないだけでなく、主体的判断のまったくできないことにもなりかねない。学習情報提供事業においてもメディアリテラシーの習得援助が重要な視点となる。
3 情報提供より学習相談を中心的機能とすべきではないか
 成人教育の分野においても、「学習相談」という言葉を聞くようになった。人格の危機をもたらしている現代社会において、カウンセリングに期待が集まっていることと通じるものであろう。しかし本来、カウンセリングでいう「相談」とは個人の心理的・精神的問題の解決のための援助である。このような「こころの問題」に触れることがなければ、それは厳密には「相談」ではなく、「情報提供」でしかない。
 だとすれば、みずからの学習のあり方や進め方について、市民が行政にカウンセリングでいうような相談をもちかけるというケースは本当にあるだろうか。他のことなら想像に難くない。しかし、こと成人の学習については考えにくいのである。たとえ本人が「相談に来ました。」と言っても、その「相談」の内容は実際には学習情報を求めているだけなのではないか。
 率直に言って、自分が学習に関する「相談員」になろうとしている人はいても、学習情報の提供ではない「学習相談」をもちかけたいと考えている人は少ないのではないか。万一、もしそのような学習相談をしたい人が本当に多いとすれば、市民の主体性の最大限の尊重という生涯学習の原則に照らして逆に憂うべきではないか。
 むしろ通常は、市民は実際には学習情報の提供を求めて来て、それに行政が応ずる過程の中で初めて、カウンセリングでいう本来の相談の機能も含まれると考えるべきであろう。ただし、このように「付随的に」発生した学習相談であっても、その意義と難しさは、本来の「相談」に何らひけをとらない。それゆえ、この場合にも行政側は学習相談の本質をきちんと踏まえていなければならないのは当然である。
 たとえばそこで一番かんじんなことは、自己の真に欲している学習のあり方と進め方について、上から教え諭すのではなく相談者が自ら気づくよう仕向けることである。そしてそのためにはカウンセリングでいう「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法が大きな効果を発揮する。
 ともかく、学習相談については独立したものとしてではなく学習情報提供事業の一環としてとらえつつ、しかもその「相談」というものの独自の意義と役割を重視して位置づけることが適切であると思われる。
 なお念のためつけ加えておけば、以上のことは学習相談に関する本質的認識のために述べたのであって、現実の運営において「生涯学習相談」などと銘打って、実際にはどこで何の講座が開かれているか、どんなグループが会員を募集しているかなどの学習情報の提供を主に展開するということは、当然あってもよい。「相談」という言葉にどういう意味をもたせるかによって、表現の仕方は変わってよいのである。「相談」という言葉は、「個人個人のケースへのていねいな対応」など、なかなか魅力的な意味を持っている。
 また、社会教育においては学習相談の他に、家庭教育相談のように「情報」よりむしろ「相談」が大切と思われるものもある。そこでは子どもや親の精神的葛藤や自立の阻害など「こころの問題」の解決を、カウンセラーがなるべく「非指示的」にどのように援助するかが問われる。しかし、皮肉にもそこでの現実の「相談」には、このような本来の「相談」の機能が不足しているように思えてならない。経験主義的な情報提供を安易に行なってしまうことにより、親子の両者のダイナミックな主体形成をむしろ阻害してはいないだろうか。
 いずれにせよ、これらの相談については学習援助よりも精神的自立の援助などの他の要素が強いのであるから、学習情報提供事業のあり方とは別に、心理学的にあるいはそれぞれの課題別・内容別に究明される必要がある。

〔展開の構想にあたっての留意点〕
 本論で描く学習情報提供事業の構想においては、既に述べたことの他に次のことを大切にしたつもりである。
1 側面的援助という原則の遵守とともに積極性の必要
 学習情報提供事業とは市民自身がそこで得た情報群から何かを学びとったり、自主的に判断、選択をしたりするためのものである。すなわち市民の主体的学習のための側面的援助なのであり、それは社会教育行政の原則でもある。
 その実現のためには、情報提供の側でまずプラスマイナスの価値判断をした後の情報を市民に押しつけるものであってはならない。相手の求めに対して可能な範囲であらゆる情報を提供すべきである。
 しかし、現実には、市民の価値観に踏み込まないよう神経質になるがあまり、ややもすると禁欲的、消極的になりすぎて「無難」な何らかの形で既に「権威づけられた」学習情報だけでよしとしてしまい、たとえば「草の根」的な活動などの収集や取り扱いが難しい情報はその必要があっても避けてしまう傾向がある。このような姿勢では良い情報は集まらないだろう。
 側面的援助という原則を守りつつも、新しい時代の新しい市民の学習に対応できるような学習情報を収集・提供するためには「果敢」な積極性が必要なのである。
2 新鮮な情報の収集
 学習情報提供事業では、たとえば学習機会などが過去どうなっていたかという情報はほとんど必要ない。学習情報に関する歴史を研究するためのものではないのである。それよりも今どうなっているか、あるいは近日中に何があるかが必要である。それゆえ、吟味されつくした正確な情報よりも、動態的、今日的な「新鮮な情報」が求められる。
 これは事業を行なう者にとっては、大変な苦労を要する。懸命になって集めた情報が次から次へと無用のものと化していき、休むところがないのである。むくわれることが少ないばかりか、他から「無駄が多い」と批判さえ受けるかもしれない。しかし、急激に変化する社会における生涯学習の必要、それに対応する学習機会の豊富さと統一的情報の不足などを思うと、この収集・提供を怠るわけにはいかない。そもそもこの情報化社会においても、個人のレベルでは新鮮な情報をリアルタイムに把握することが容易ではないからこそ、公的社会教育による学習情報の提供が切実に必要とされているのである。
 なお、この「学習情報の新鮮さ」とともに生ずる「学習情報の範囲の流動性」にも注意したい。生涯学習は社会の激変と学習する人々の主体的成長に伴って、急に「時の課題」となったり、逆にみんなの学習の関心から消え去ったりするのである。ゆえに取り扱う情報の範囲を固定的にとらえたり、アカデミックな視点から固定的なシソーラスをまず確立しようとすることは、賢明ではない。ふわふわした状態のまま、一歩を踏み出してしまった方がよいと思う。そこから出発して、枠組みを随時、時代にあわせて変更すればよいのである。
3 実際に市民が求める情報の提供
 提供する側に情報がたくさんあるのに越したことはないが、市民が求める肝心な情報がなければ無意味である。当たり前のことのようであるが、その肝心な情報とは前述の「新鮮な情報」であり、ナマの人間らしい情報なのであり、それゆえ機械的に集められるものではないことを考えると、ことはそれほど簡単ではない。
 さらには、学習情報源側と、その受け手の側のニーズとの間に大きなギャップがある。たとえば、人材バンクにおいて「青年の生き方について講演したい」という高齢者はいても、それを聞きたいという青年はほとんどいないだろうということが予想される。受け手の側のニーズにこたえる情報を得るためには、情報源側からの情報だけに期待するのではなく、学習情報提供事業を行なう社会教育行政が自ら地域の諸活動とコンタクトをとったり取材したりして、埋もれている魅力的な情報を新たに「発掘」しなければならない。
 次に、市民がいくらその情報を欲しても、それが他の人のプライバシーに触れるような情報であれば安易に提供するわけにはいかない。しかし皮肉なことに情報公開制度などにおいても、実際にはこのような情報は需要が多い。もちろんその目的が営利上のものもあるだろう。だがもう一方では、「グループに入りたいので、活動内容や代表者の連絡先を知りたい」ということがある。学習情報の中では「人」の情報が大きな位置を占めており、プライバシーに接近せざるをえないのである。その時には、行政は、「ある個人に関する情報は、その個人だけがコントロールすることができる。」という原則を守らなければならない。具体的には、個人の情報の収集・提供にあたっては、まずその人の了解を得ることである。
4 「学習情報」の範囲を偏狭にとらえない
 生涯教育の時代の今日、市民は狭い意味での「教養」を身につけるためばかりでなく、激変する社会の中にあって、むしろ広く生活の諸側面のうちの大部分で何らかの学習を必要としており、また実際にも行っている。そこで関連行政が心すべきことは、従来の行政セクショナリズムを打破して、市民の全生活に関わる諸課題と行政の諸課題において生涯教育の観点を貫き通して市民の学習にサービスすることである。だから学習情報提供事業を社会教育行政が行なう場合でも、それが取り扱う情報は社会教育行政関係のものばかりではない。むしろ他行政によるもの、民間のものなど、ありとあらゆるさまざまな学習情報を、学習援助の専門家として行政的「思惑」にこだわらずに提供すべきである。そうでなければ、社会教育行政がこの事業を実施する意味はほとんどなくなってしまう。
 さらに直接、学習・教育活動ではなくても、たとえばコミュニティー活動が市民の自己形成を促す教育的機能を持っていることを考えると、それらの地域活動情報もないがしろにはできない。学習情報の範囲を偏狭にとらえることをやめて視野を広げた途端、いきいきとした生涯学習情報がたくさんころがっていることに気づくはずである。
5 地域情報・行政情報の重視
 市民が地域や自治の本当の主人公としての力量を身につけることは、現代の民主主義社会において非常に大きな学習課題ともいえる。社会教育行政がそのための情報を提供することは、公的社会教育の役割として特に重視されなければならない。
 そこで学習情報提供事業において地域情報や行政情報については、たとえそれが学習機会や学習団体などに関する「学習情報」ではなくても、やや広く市民の地域学習・自治学習に役立つ情報をできるだけ収集・整理して、地域の自治のセンターの一つとしての役割も果たすことも考えたいのである。
6 科学技術の急速な発達をうまく活用する
 即時的な情報の収集・提供のために、今後も急速に発達するであろう通信技術は最大限に活用したい。特に双方向メディアの発達は、情報化社会における情報の受け手の没主体性を克服するための手段として、学習情報提供事業においても大いに期待できる。
 現在「届ける社会教育」の重要性が叫ばれているが、それにしては市内なら3分間10円でできるパソコン通信の在宅利用などは、ほとんど試みられていない。学習情報提供事業においては、これらの可能性を試みたいものである。
 その他、現在はコンパクトディスクやビデオディスクなどのオーディオビジュアル(AV)にコンピューターのCを加えて、これらを有機的につなぎ合わせるAVC=オーディオビジュアルコンピューターの時代とも言われているが、それに対しても充分対応できていないようである。成人用のAVC教材の開発と活用ができたら楽しいだろう。
 なお、ニューメディアやコンピューターの発展速度はわれわれしろうとの想像を絶するものがある。学習情報提供事業を始める時のこれら科学技術の発達段階に合わせて、しかも生半可な知識を頼りに、固定的で融通のきかないシステムにしてしまうのではなく、技術の発達を随時取り入れられるような柔軟なシステムにしたい。
7 学習情報ニーズを育てるための教育的機能の発揮
 生涯学習時代の今日、学習する市民はますます自己の学習能力を備え、その中の社会教育行政に期待する人々は、質・量ともに充実した学習情報の提供を求めてきている。しかしこれに応えているだけでは、このような「学習できる市民」とまだそれだけの力量を獲得していない市民との間の格差をますます広げてしまうという問題が生ずる。「学習主体形成の援助」という視点のもとに、教育的機能により情報提供機能を補完することも必要なのである。
 そのための具体的方策としては、生涯学習や学習情報への関心につながるような親しみやすく一人でも参加できるイベントの開催などが考えられる。
8 市民自身の手による調査・研究との結合
 市民のあいだに「知的生産」、「知的生活」、「ライフワーク」などの志向が出てきている。それは地域から、そして当然、社会教育行政からも離れていった「企業戦士」にまで広がっている。いや、むしろ特に「企業戦士」の中に、これらの新しい自己実現の生き方を求める気風が強まっていることにこそ注目すべきであろう。物的な生産性向上ばかりを目指してきた従来の人間的文化不在のやり方が、今日のソフト化社会の中で反省されている。そしてその上で、知的生産を含む生涯学習が行われており、すでにその「アマチュアリズム」の成果は相当なものになっているのである。
 この「企業戦士」を含めた「市民アマチュアリズム」の志向は、従来の社会教育行政とは残念ながらあまり縁が無かった。しかし今、社会教育行政はその援助を急がねばならない。学習情報提供事業は情報を大学その他の研究機関に提供することを第一義とするものではなく、このようなアマチュア市民のある時には孤独になりがちな営みを、情報でつなぎ励ますことこそ、主な目的なのである。これは社会教育行政の現代的役割でもある。
 そこで以上の趣旨から、一つには市民の自発的な調査・研究への情報提供による援助、二つにはそれら調査・研究成果の蓄積と交流の援助、三つには社会教育行政やその他の一般行政による調査・研究においてもこれらの「アマチュアリズム」の力を活用することを考えたい。
9 ともに育つ「しかけ」の配置
 情報化が進むとともに情報を管理・提供する側はますます巨大な情報の集中を強めていく。また一方、ややもすると市民はますます情報の一方的な受け手となってしまう。このような事態に無頓着に学習情報提供事業が行われるのならば、その事業は結果としては市民の情報に関する主体性の喪失を進めるものに変質しかねない。
 すでに述べたように、本来、情報を収集・整理・提供する作業というものは、人間の認識を育てる契機としての機能を内包しているものである。学習情報提供事業においては、学習情報の収集と提供という作業の持つこれらの「人間形成の機能」を尊重し、充分発揮させるようにしなければならない。
 そのためには一つには、この事業全体を事業主体と市民の両者が「共有」できるようにあらゆる努力をつくすべきである。そうすれば、市民が「育つ」ばかりでなく、事業を行なう側も市民からのフィードバックにより、市民的感覚を養い、広く正確な認識を得ることができる。
 そこで学習情報提供事業を「共有」するためのしかけが必要になるのであるが、最も代表的な「しかけ」は市民参加型の企画委員会、運営委員会の設置である。しかし、これらを単純に設置するだけで他に努力をしないとすれば、早晩これらの委員会自体も形骸化あるいはボス支配の危機に陥るだろう。そこで今回の構想では、「ともに育つしかけ」をいろいろな所にちりばめたつもりなのである。
 たとえば地域に根づいて住民にフェースツーフェースでレファレンスサービスをしてくれるような、いわば現代の御隠居さんとしてのインフォメーションリーダーの役割を果たしている人の存在への注目とそれへの協力・援助・連携や、有志市民の情報の収集・整理・提供への参加などがそうである。
 さらには、学習カウンセリングにおいて一人一人の学習情報ニーズをとらえ、またそこで直接、学習情報提供事業への注文も話してもらうなどの、マンツーマンレベルの細かくていねいな作業も大切なのである。カウンセリングではカウンセラーが相手の「個」としての存在を重視し、相手と人間関係をつくり、相手の話をよく聞き、相手が自ら何かに気づくよう援助することを基本としているのだから、「ともに育つ」ことについても大いに期待できるはずである。
10ネットワークシステムの中での位置づけ
 たとえもし学習情報提供事業のためにコンピューターを備えたセンターができたとしても、考えられるすべての情報をそのコンピューターにインプットしておくことは、とても不可能であるし、また無理をしてそんなことをしてもあまり意味がない。市民の誰もがどこでも図書を手に入れることができるという図書館のネットワークシステムと同じように、行政全体が市民の立場に立って情報ネットワークを構築することこそ、大切なことである。
 さらに、一般の社会教育施設で学習情報提供事業を行なう場合などは、地域性や対象などを反映したいっそう限定的、個性的な情報提供であってよい。ただしその場合にも、情報のネットワークがあり、職員が他の情報提供機関についての利用法などをよく知っていて、利用者にきちんと紹介できることが前提である。
 実は、本論の構想では学習情報提供事業で取り扱う内容はそうとう網羅的である。しかし、それは必ずしもある一つのセンターで請け負うということではなく、実際にはネットワークにより全体としてカバーできていればかまわない。むしろ自治体の意思決定の現状を考えると、パイオニア精神の豊かな社会教育施設がその独自性を生かして個性的な学習情報提供事業を開始し、それがだんだんとネットワーク的に広がって、その後初めて本格的な情報センターも設置されるということの方が実現の可能性が大きいかもしれないぐらいである。

〔展開の構想〕
 以上の「基本的問題」や「留意点」を受けて、今日の生涯教育時代において社会教育のなすべき学習情報提供事業の展開の構想を、具体的に図示してみたい。この事業については、社会教育の実践においても理論においても、未だ充分に整理されているとは言えない段階であるから、粗雑ではあるがあえて図表化を試みて、批判と実践での克服をお願いする次第である。
 なお、この構想は東京都で生涯学習情報システムを計画した際、その当初の昭和60年度に筆者がプロジェクトチームの一員として作成した案を下敷きにしながらも、実際の行財政的制約にあまりこだわらずに描き直してみたものである。
生涯学習情報提供事業の機能例一覧(表1)
情報の種類・内容・収集方法   (表2)
情報の流れ           (図2)

「社会教育」第42巻 昭和62年3月号 特集「社会教育施設とボランティア活動」

参考資料 「目でみるボランティア活動」

はじめに
 本来、ここでの「参考資料」が「参考資料」たりうるためには、取り扱う内容を焦点化した上で、それに関わる基礎データを省略せずに紹介すべきであろう。
 しかし、社会教育審議会社会教育施設分科会から出された「社会教育施設におけるボランティア活動の促進について」の報告でも「ボランティア活動が社会教育施設で行われるようになったのは、比較的新しいことである」とあるように、テーマ自体が開発的なものであり、オーソライズされたデータが少ないことに鑑み、ここではむしろ視覚に訴える関係資料を拾いあげてトピックス的に紹介する。そのため、本資料は全体としては、いくつかの特徴的な「断片」を羅列したものであり、「体系」にはなっていない点はお許しいただきたい。
 さて、上の報告では、社会教育施設のボランティア受け入れ体制のための第一の留意点として、「施設職員がボランティア活動に対する認識を改めること」があげられている。そして、ボランティア活動そのものが「一つの重要な学習活動」であり、援助すべき対象であるとともに、ボランティアの新しい発想を、社会教育施設の運営や事業の実施にむすびつけることがいかに重要であるかが強調されている。
 このように、社会教育施設の既存の「枠内」にボランティア活動をどう組み込めるかのハウツー論をひたすら追求するよりも前に、現代のボランティア活動が実際にどんな特質をもっているかを認識すること、それらから施設は何が学べるかを考えることが大切である。したがって、本資料では、われわれにとってボランティアに関する認識と思考のための問題提起となると思われるものを、社会教育や社会教育施設の「枠」にこだわらずに広く集めてみた。私自身、集めたナマ資料をじっくり見つめることにより、さまざまなことに気づくことができたのである。
 なお、それぞれの資料により「社会参加活動」、「社会奉仕活動」、「ボランティア活動」などの用語が使用されていて、それぞれのニュアンスも、少しづつ違ってきている。しかし、ここでそれ以上、各用語の相違について明らかにした上で、厳密に使い分けるということができなかった。ここでは単純に、それぞれの各資料の原文どおりの表記に依っている。

            国立教育会館社会教育研修所 専門職員  西村美東士
                                        図表−● グリーンキャンプ‘86のイメージ展開図
 ボランティア活動は、事例・情報・体験・人間関係などのさまざまな交流を通した「新鮮接触」によって活性化される。

 昭和61年8月に行われた日本列島ユースアクション中央推進委員会、中央青少年団体連絡協議会主催「グリーンキャンプ‘86」の「イメージ展開図」である。中央青少年団体連絡協議会は、前年、「国際青年年」と「国際森林年」を記念して“水と緑”をテーマとした「日本列島ユースアクション運動」を始めていた。そして、この「グリーンキャンプ」は、自然保護ボランティアなど、これらのさまざまな活動を実践している全国の青年たちが一堂に会して、情報交換やフィールドワークを通して交流するために開かれた。
 この図は、「新鮮接触」をキーコンセプトとして、「事例・データ」「体験」「人間関係」の交流や、そこで生ずるニーズに対応した「中央組織」としてのシーズ送り出しの役割、「異次元交流」「子弟交流」「情報交流」「世代交流」などの新鮮な接触が「超日常性」としての魅力をもっていることなどを、イメージ的に説明したものである。
 出典−日本列島ユースアクション中央推進委員会、中央青少年団体連絡協議会主催「グ  リーンキャンプ‘86 プログラム」の巻末資料のうち、「イメージ展開図」を抜粋  した。なお、本大会は、8月29日から31日までの2泊3日、山梨県富士山麓で開  催された。
                                        図表−● 青年海外協力隊の派遣現況(国・職種別)
 日本のボランティアは、アジア・アフリカ・中南米で多く活躍している。特に「教育・文化ボランティア」が増えている。

 昭和61年3月現在の「青年海外協力隊」の派遣状況である。青年海外協力隊は、「現地の人々と一体となって」というボランティア精神に支えられている。所管は「国際協力事業団」である。
 このボランティア活動は、決して華やかなものではなく、地球上のすべての人を貧困や無知から解放するための地道な努力である。そして、特に発展途上国の人々の「限りなき学習」を援助する国際的生涯教育ボランティアとしての役割ももっているととらえることができる。現在は「教育・文化」部門の者がもっとも多いことに、注目したい。
 出典−国際協力事業団青年海外協力隊事務局編「青年海外協力隊事業概要」のうち、「  派遣現況(国・職種別)」を抜粋した。数字は、昭和61年3月31日現在のもので  、合わせて32カ国に派遣されている。総数の6401名は、昭和40年発足以来の  参加した協力隊員ののべ人数。
                                        図表−● 高齢者が地域の人々に教えたい気持ち、教えたい内容
 高齢者には地域の人々に何かを伝えたり、教えたりする気持ちがある。問題は「地域は自分に何を求めているか」と「自分にできることは何か」である。

 昭和60年11月に千葉県の10市町の60歳以上の男女、2,050 名に対して行われた調査。ただし、結果として70%が「高齢者教室」や「老人クラブ」に所属する人々の回答となっている。
 それにしても、「伝えたり教える気持ちがある」が71%いるのに、「教えたことがある」は14%という「志向と実態」のギャップは大きい。「内容ははっきりしないが、自分にできることがあったら伝えたい(教えたい)」という人が多いのだが、それが何かについて本人もはっきりしないし、地域からの高齢者一人一人への理解も不十分である。「人生経験を伝える」というのも、そのままでは、同様に活かされない可能性が強い。
 高齢者の社会参加活動の機会を増やす直接的な方策とともに、高齢者自身が自己を見つめなおし、また、地域の要請にも気づくような機会や情報などを提供することも必要なのである。
 出典−千葉県総合教育センター調査報告第6集「高齢者の社会参加活動の実態と参加意  欲−知識・技能・経験の教育的活用を中心として−」、昭和61年3月
                                        図表−● 社会参加活動の助成施策の概要
 各省がさまざまな形で、高齢者の社会参加活動を助成している。

 高齢者の社会参加活動の助成施策の概要である。参加人数などは昭和59年度の実績、予算額は昭和60年度のものである。
 量的に見れば、厚生省の「老人クラブ活動等社会参加促進事業」が予算額、参加人数(会員数)ともにずば抜けている。しかし、質的に高度な高齢者の自覚的なボランティア活動が十分に盛んになっているとは、まだいえる状況ではない。社会参加活動を受け入れる現在ある基盤を活かしながら、各省がさらに高度な社会参加を促進するための条件づくりに努めている段階であることが、読みとれる。
 なお、特に予算額については、そこで表記された金額がすべて、直接、ボランティア関連で計上されたものとは限らない。部分的にボランティア、またはボランティア関連の事業が行われた場合でも、この種の「関連予算調査」には、ひとまとまりの事業の全体の予算額が算出の基礎になることはおおいにありうるからである。そして、ボランティア関連施策というものは、他の諸施策を含めた総合的施策の一環として行われることも多い。そのこと自体は「誰でもボランティア」というボランティア関連施策の健全なあり方の一つともいえるのである。したがって、この数字を根拠にして、どの省が一番多くボランティア活動の助成のための予算を組んでいるかなどを単純に比較することはできない点で注意を要する。
 出典−総務庁行政監察局「高齢者対策の現状と課題−総務庁の実態調査結果からみて−  」、昭和61年8月のうち、「社会参加活動の助成施策の概要」(表)から作成。施  策の内容は、文部省、厚生省及び農林水産省の関連通知等によっている。
                                        図表−● 高齢者の社会参加の達成のための「場」「組織」「情報」のシステム
 「潜在的社会参加」から「場」「組織」「情報」のシステム化を通して、地域に「顕在的社会参加」を生みだすことができる。

 経済企画庁国民生活局「高齢者の新しい社会参加活動を求めて」の中で、その活性化のための社会システムのあり方について、図示したものの抜粋である。CHAOS (カオス=混沌)からFUNCTION(ファンクション=機能)にまで導くためのシステムやフローのこの基本的な考え方は、高齢者だけに限らず、あらゆる世代の人々の社会参加の達成のために共通に必要ととらえられる。
 出典−経済企画庁国民生活局「高齢者の新しい社会参加活動を求めて−高齢者の能力活  用に関する実態調査−」、昭和58年10月から抜粋。
                                        図表−● ボランティアのタイム・スタディ(入浴介助)
 組織的な協力体制ができていれば、無理をせずに普段の日常生活の一環にボランティア活動を組み入れることができる。

 入浴介助のボランティア活動のタイムスタディである。脱衣に始まり、ドライヤーで髪をかわかすまで、意外に複雑な作業に細分化されるのだが、リフトセンターなどの施設・設備と、ボランティアどうしの協力体制が整備されていれば、一人一人のボランティアは日常生活の中で無理をせずに活動に参加できることを表している。
 それでもこのボランティア活動のおかげで本当にひさしぶりに入浴できて、この●●●はどんなにうれしく思うことであろうか。
 出典−○○○○「○○○○」
  東京ボランティア・センター(東京都社会福祉協議会)、ボランティア・センター研  究年報‘82、昭和58年3月から抜粋。補助線の追加など、若干、手を加えた。
                                        図表−● 社会奉仕活動の年齢・学歴・職業別の行動者率
 社会奉仕活動の行動者率は、学習活動よりは、年齢・学歴・職業の違いによる影響を受けにくい。

 年齢・学歴・職業の違いによって、社会奉仕活動の行動者率がどう変化するかを示している。ここでは、学習活動と比較するために、社会奉仕活動の方のスケールを学習活動の2倍の長さにとってみた。厳密にいえば、総数でみて、社会奉仕活動の行動者率は学習活動の57.3%である。
 調査時点は昭和56年と少し古いが、総数が9万人弱、そのうち有業者総数が6万人弱という比較的大規模な調査である。
 本調査でいう「社会奉仕活動」とは、「報酬を目的としないで自分の労力、技術、時間を提供して社会や地域の福祉増進や個人・団体のために行っている活動をいい、いわゆるボランティア活動のこと」であり、「単に役員・幹事等になっただけでは社会奉仕活動に含めないが、その団体と共に奉仕活動を行えば社会奉仕活動に含める」とされている。
 出典−総理府統計局「昭和56年社会生活基本調査報告 全国 生活行動編 上」、昭  和58年3月から作成。
                                        図表−● 社会奉仕活動の行動頻度
 社会奉仕活動の行動頻度は、ひと月に一度にも満たない不定期なものが多い。例外は、民生委員・保護司などの「公的な社会奉仕」の場合だけである。

 社会奉仕活動の種類別の行動頻度を表している。「定期的ではない」、しかも「年に10日未満」の場合が、「公的な社会奉仕」を除いたすべての種類の社会奉仕活動において、半数を超えている。
 このことは、毎週、定期的に行われるような「しっかりした」ボランティア活動への援助とともに、月に一度にも満たないような「普通」の人々のボランティア活動を援助することも大切であることを示唆している。
 出典−総理府統計局「昭和56年社会生活基本調査報告 全国 生活行動編 上」、昭  和58年3月から作成。
                                        図表−● 社会教育施設におけるボランティア活動の促進の図式化の試み
 社会教育施設におけるボランティア活動は、施設にもボランティアにも、それぞれの発展をもたらしてくれる。

 社会教育審議会社会教育施設分科会の報告の図式化を試みた結果がこれである。図式化するにあたり、筆者の主観的判断を交えざるをえなかった点はお許しいただきたいが、本報告でも述べられているとおり、社会教育施設におけるボランティア活動が、施設とボランティアの両方に良い影響を与えるという流れが、この図によりいっそう理解されると思う。
 出典−社会教育審議会社会教育施設分科会「社会教育施設におけるボランティア活動の  促進について」、昭和61年12月3日から作成。
                                        図表−● 社会教育審議会社会教育施設分科会報告「社会教育施設におけるボランティア活動の促進について」の図式化の試み

ボランティア活動の意義
生活水準の向上  自らを向上させるボランティア活動の新しい魅力         自由時間の増大    教えかつ学ぶ相互学習                              知的・精神的世界の広がり                 日常的で楽しい活動 ボランティア活動のいっそうの拡充              郷土愛・奉仕の精神 我が国古来の伝統  新しいコミュニティの形成に貢献     社会教育施設に   学習活動としての側面     社会教育施設として援助の責務  対して      新しい視点・独創的な力    社会教育施設に新たな発展             多くの人々に親しまれる発想  施設と地域をむすびつける   
実際に予想される場面
1 事業の推進・協力                              2 施設の環境整備             施設ごとの概観 ( 略 )     3 広報・広聴活動への協力                           + 短期の催しや、学習相談事業への助力などの不定期なもの            
ボランティア受け入れにあたっての社会教育施設側の留意点
1 施設職員がボランティア活動に対する認識を改めること                ・・・省力化ではなく、施設の教育機能の充実                2 ボランティアの活動領域の設定、窓口の明確化、必要経費の計上などの計画化   3 ボランティア情報のネットワークの整備                       ・・・ボランティアに関するデータ・バンクの設置              4 費用負担・・・活動のための実費を施設等が負担・・・交通費,食事代など    5 事故防止のための安全教育,ボランティアに関する保険制度の活用        6 施設の特色を生かした養成、研修のためのプログラムの用意
7 ボランティア活動の導入を施設経営評価の指標の一つとする

 現代都市青年と情報
  −ヤングアダルト情報サービスの提唱−
                               西村美東士
はじめに

 私は、ここで、現代都市青年に対する公的情報提供の提唱をしようとしている。しかし、情報がむしろ多すぎる今日、それはいったいどんな意味をもつのであろうか。
 私自身、過去に六年間、東京都青年の家の職員として、青年と「何かをやる」楽しさを味わい、その意義も痛感してきた。主催事業を企画・運営するための実行委員会の中で、青年はぐんぐんと自己発達する。
 それに比べて、情報提供という公的サービスはいかにも「消極的」に聞こえもする。現代都市社会のさまざまな病理が、青年問題にも表れている時に、情報提供は強力な行政施策たりうるのだろうか。
 行政が青年のために価値のある講座を開こうとするならば、現代都市青年の問題状況を的確に認識していないと、テーマの設定さえおぼつかない。ところが、情報提供は原則として求めに応じて行われるものであり、行政の側が「選択」する要素は少ない。そこに、情報提供が安易に行われる危険性もひそんでいる。
 本章では、現代都市青年にとっての「情報」の特質をとらえた上で(第一節)、公的情報提供がどんな基本的意義をもつのか(第二節)、どんな情報を提供するのか(第三節)を考えていきたい。そして、「ともに育つ」をキーコンセプトとして、青年の主体性を保障し発達させ、社会的要請にも応える統一的な青年政策としての情報提供論(第四節)を展開してみたいと思う。

現代都市青年と情報

1 青年と情報環境 

1−1 現代都市青年の情報化不適応

 つい先日、「東京私学祭千駄ヶ谷駅事故」が報道された。国電千駄ヶ谷駅南口で、近くの国立競技場で開かれた「東京私学祭」に参加して帰る中・高校生数千人が改札口をめざして殺到、数カ所で将棋倒しとなり、四十六人が軽傷を負ったという事件である(昭和六十一年十月二十四日の各紙朝刊)。特に大事件だったわけではない。
 しかしこの事件は現代都市青年と情報との関係を表す象徴的事件であり、また、私には「なるほどそうだろうな。」とよくわかるところがある。それは、同駅の「情報提供」が効を奏しなかった点である。
 同駅によると、私学祭に参加した生徒たちは友人を待ったり友人同士で話をしたりして改札口に立ち止まり、駅員が「危険だから」とハンドマイクで早く駅に入るよう呼びかけても全く動こうとせず、改札口前はすぐに生徒たちで埋まってしまったという。同駅助役は「生徒たちが我々の言うことを聞いてくれなかった。」と言っている。
 「企業人」にとっては、情報は死活問題である。駅のアナウンスという「情報」に対しても直線的に反応する。「整列乗車」などにおいても、大変秩序正しい。現に何らかのトラブルによる乗車制限などがあった場合、サラリーマンたちは苦虫を噛みつぶしながらもじっと黙って改札を待っている。朝の東京駅の混雑の中でもし誰か一人がつまづいて倒れても、その情報さえすみやかに提供されれば、後ろの人々はピタッと止まるだろうと言われているぐらいである。これは、道徳性の問題だけではなく、「公共的情報」(たとえば乗車制限)という刺激(S)に対する反応(R)すなわち直線的なS−R的行動様式が形成されている表れでもある。
 現代青年はそれとまったく対照的である。普通、彼らの多くは、駅や車内などの公共性、公衆性の強いアナウンスにはほとんど応じようとしない。特に、高校生の傍若無人な振舞や言動はよく目にするところである。現代都市青年はこれらのいわばフォーマルな情報に嫌気がさし、価値を認めなくなりつつあるのではないか。
 しかし、一方では、女性ロックシンガーが「みんな、手拍子してー」とステージから呼びかけると、日本では聴衆である青年の大部分が律儀にそれに応じている。たとえその時、本人又はシンガーのノリが悪くてもつきあう。他人の迷惑も省みず、雑踏の改札口で「友人を待ったり」「友人同士で話をしたり」するのも、同じ志向の表れである。彼らは彼らなりに連帯あるいは同化を求めているのである。問題は、社会にあふれる特にフォーマルな情報に対する彼らの「無関心」である。
 情報とは「或ることがらについてのしらせ」(広辞苑)である。その中には、人間の生存と安全、さらには認識の発達や社会性の獲得などの視点から見て意味があると思われる情報も含まれている。青年には「情報人間」としての側面もあろうが、それは限られた範囲の情報に関してである。フォーマルな情報の中にも「価値ある情報」が多数、含まれているのだが、それに対してはむしろ拒否的になっている。
 「価値ある情報」の入手のために情報化の進展を「便利な道具」として使いこなすことが、情報化への「適応」といえよう。反対に、情報化社会における多量の情報の中で、青年が窒息状況に陥り拒否反応を示しているとすれば、それは情報化への不適応現象ととらえるべきである。
 「窒息」しつつある現代都市青年にとって、「息を吹きかえす」ことのできる情報とは何なのであろうか。彼らの情報化不適応に対して、情報過多の中でのあらたな情報提供は、しかもごくフォーマルな公的機能としてのそれは、どのようにすれば意味あるものになるのだろうか。

1−2 青年をとりまく情報の特質

 フォーマルな情報に対して現代都市青年は「拒否的」である。それでは逆に、実際に彼らをとりまいていて、ある程度支持されている情報はどんなものであるか。その特質は、次の六点に集約できよう。
 第一に、少なくとも町に氾濫するヤング誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。青年が社会や経済の活動から「役割猶予」されていることが、その大きな理由となっているのであろう。
 ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生の情報行動に関する調査によれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」、「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされている。●(図表1)「生活情報」そのものとは言えないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。
 第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、その一つが、テレビ番組の全国ネットワーク化である。ネットワーク化された番組は視聴者に対して、よりいっそう居住地の地域性を捨象した情報を伝える。それは、青年の歓迎するところでもある。
 しかし、逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生にも我々は注目すべきである。「ピア」のような情報誌は、平日の夕方からでも急にその気になって映画やライブを見ることができるのが魅力の一つである。フラッと行くことのできない遠くの情報は不要である。だから「ピア」は「東京文化圏」の情報誌として発行されているのである。
 現在では、新宿、池袋のような大都会から、渋谷、原宿、六本木、あるいは山手線の外の下北沢などへと、青年の関心とユースカルチャーの発信地が移っている。そこでは、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な情報誌が発行されて青年の支持を得ている。その他、アマチュアによるラジオ放送としてのミニFM放送局が増えつつある。これなどは、その放送範囲は半径五、六十メートルにすぎない。過密都市だからこそ、情報提供における分散化も成り立つのである。
 第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「おしゃれ」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。
 しかし、多様化と同時に画一化が進行する。「おしゃれ」でも「アウトドア」でも、青年一人一人の個性的なやり方よりも、発行部数を伸ばすためには「最大公約数」としてのやり方や「流行」が優先される。
 一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。
 第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような「情報都市」においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来合いの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。これらの出来合いの情報なくしては遊ぶこともできない者もいるのである。
 その反面、情報化不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切なそしゃくされるべき情報もあまりそしゃくされなくなっている。
 第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、「意見」や「評価」も排されてくる。たとえば、「ピア」の中では、たくさんの文化・イベント情報が、ほとんど論評を加えられずにびっしりと掲載されている。情報に、「余計な情報」としての他者の意見や評価が混じらなくなっているのだ。読者からの投稿などもあるが、それは別の頁か「はみだし」(欄外)で扱われる。情報誌の「本文」はあくまでも、「純化」された情報の羅列であり、それが読者の「本命的」ニーズでもある。
 第六に、「情報離れ」が進行している。他者の意見や「情」の混じらない「純化」された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(実際にはコミカルとは限らない)が盛んになる。それ自体は多様で「個性的」な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。情報化は進展しているが、青年が自分の主張を持つために必要な情報を収集する意欲と能力は、むしろ減退しているのである。
 ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向に基づく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」を持っている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は「目的」ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。
 このように、現実に現代都市青年をとりまく情報には、さまざまな特質がある。これらを多面体●(図表2)として理解したい。そして、青年に対する公的情報提供とは、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義を持つ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる情報提供は、それ以外の既存の情報からはあまり望めないからである。

1−3 情報の限界

 情報が多すぎて、その不消化、あるいは不適応が起きる。そして、自分で新たな情報をつくりだす「創造性」が失われる。そう考えるならば、あらたな情報提供の提言は、その意義自体に根本的な疑念を持たれるかもしれない。
 情報はたしかに多い。しかし、「情報が充分ありすぎるから、青年は自分で考えなくてすんでしまうのだ。現代都市青年の創造性を豊かにするためには、これ以上、情報提供などしない方がよい。」と単純には言えない。
 創造といえども、現在まで人類が獲得してきた「経験」と「知識」の蓄積が基盤となっている。この蓄積を伝達するものがすなわち、情報である。その情報を取捨選択し、自己の体験と見識に基づいて再構成したものが「創造」である。創造のためには、情報は豊かにある方がよい。
 情報それ自体の善悪はいずれとも決めつけられない。それよりも、「情報の限界」をはっきり認識しておくことが必要である。「情報の限界」とは、一つには「他者の経験や知識の伝達」といっても、それが完全にはできないことと、もう一つは「自己の体験」そのものではないことである。
 たとえばテレビではどうか。番組作成のための取材の段階では、たくさんの関係する情報を知り得るだろう。しかし、実際の放映となると、ディレクターなどの意図のもとに、短い放映時間に収まるようにごくわずかの情報だけが選択され、編集される。視聴者は「他者」が厳選した情報だけを受け取るのである。
 しかも、テレビカメラを通した映像と音声自体が、事実や実物の一つの「断面」にすぎない。事実そのものではない。たとえ「虚構」を前提とする演劇であっても、でかけて行って見るならば、演じられている事実そのものを見ることができる。しかし、テレビではカメラによって二次元に翻訳され、画面のフレームによって「切り取られ」てしまう。端的に言えば、テレビ画面ではブラウン管に走査線が走っているという事実だけを、確実に見ることができる。そして、自然のすがすがしいにおい、動物のふさふさした気持の良い毛の感触、逆に動物のくさいにおい、ぬるっとした気味の悪いさわり心地、それらもテレビでは伝わらない。
 テレビはもういらないと言っているのではない。テレビの「限界」が認識されてさえいればよいのだ。ところが普通、自分が一度テレビで見たものについては、「(テレビで見たから)知っている。」と「過大評価」してしまう。テレビの画面を、事実そのものと錯覚してしまっているのである。
 情報についても同じである。情報はそれを発信する者による選択の結果であり、また、事実そのものではなく、事実のある側面からの、しかもにおいや触覚などを捨象した「切り取り」である。それゆえ、情報とは「コピーの世界」(現実環境を間接的に表現した像)(一)であり、「現地と地図」(ものごとそのものとそれを表す言葉)(二)を同一視してはならないのである。
 「コピー」や「地図」としての情報のあふれた現代都市社会において、さらに新たに情報を提供しようとする場合、その情報も、不可避的に「限界」をもっている。情報によって何でもできるという「万能感」に陥ってはいけない。情報の「限界」を青年が認識することと、情報提供側もその「限界」をわきまえることが必要である。そのことによって、情報を豊かに使いこなすことができるのである。

1−4 情報能力と情報必要(ニーズ)

 一般に情報は、受け手の個性・世代を顧みず、成長段階の順序性を無視して流通する。しかも、「好ましくない」情報に対する社会的規制も実際にはあまり有効ではなく、また、表現の自由を侵害する危険性もある。情報能力の欠如のままで、このような情報が大量に流通するならば、青年にとって「役立たない」ばかりかマイナス要因にさえなる。
 情報能力とは、情報の獲得、処理、利用、加工、生産、提供に関する知識・技術の総体に関する能力である。この情報能力は、自分で主体的な認識と判断ができるという基礎能力を必要とする。現代都市青年の情報志向は強いとしても、この情報能力は豊かとは言えないのではないか。
 それでは、青年はどのようにしてその能力を獲得することができるか。情報がいくら大量にあっても、それだけでは情報能力は育ちえない。青年自身が本当に情報を必要として、初めて、青年が自らの力で自らの能力を高めることができるのである。それでは、この情報必要(ニーズ)のさらにまた根源は何か。それはひとことで言えば、問題意識の存在である。すなわち、現在、自己や社会が直面している課題を自己の課題として主体的にうけとめていることである。
 そこには、生活、生産、趣味、生き方、社会などのあらゆる側面のものが含まれている。その中でもとりわけ社会的課題に関する情報必要は、現代青年の「非社会性」のもとではどうしても脆弱なものになってしまう。その他の課題に関しても、都市化社会におけるモラトリアムの延長、コミュニティの崩壊、パーソナルコミュニケーションの喪失は、現代都市青年からたくさんの情報必要を奪ってしまった。これらの情報必要を失ったあとに求める情報とは、自己完結的、趣味的な情報とあたりさわりのない「おしゃべり」のための情報ぐらいなのである。
 情報の多面体を全体としてより良く機能させるためには、青年の情報能力の獲得を「意図的」に援助する方策を考えなければならない。青年に対する情報提供を機械的に繰り返していても、抜本的解決にはならないだろう。根本的に青年の意識や価値観の問題に真正面から取り組む必要がある。しかし、また、そういう意図のもとに情報提供が行われるならば、その情報提供は「真正面から取り組む」ための一つの有効な「手段」にもなりうるのである。
 たとえば「情報整理」は、たくさんの情報を得た上で、それを選択し、整理するというどちらかと言えば外在的作業である。しかしそれは、情報に対処する「方法」に関する知識・技術を育てるばかりでなく、青年自身の認識を育て、青年の知的主体性を形成する。すなわち、「外在的作業」が「内在的な営み」として転化する。このように、「外」からの情報により、「内」なる問題意識も高まっていくのである。
 「外」からの公的情報提供は、そのことを期待し、しかも意識的、意図的にそれを援助する態度を基本として行われるべきである。そして、その「意図」のもとに、現在の青年に欠けている情報、「社会的情報」、「情報に対処するための情報」などに特に力を入れて情報提供することが必要である。
 青年に対する情報提供が「実のあるもの」となるための一番大きな「支え」は、青年自身の情報能力と情報必要、それ自体である。しかし、たとえそれらが今は成熟していないとしても、「意図に基づく」公的情報提供は、現代都市青年の内面の深くで情報能力と情報必要を育てる独自の機能を発揮するであろう。

2公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱− 

2−1 情報の提供と操作

 情報は受け手にとってはタダという場合も少なくない。それだけに、他の商品のように必要なものだけが買われるのではなく、消費者が求めていないものまで、本人の属性や個性に関わりなく、流れ込んでくる。これは情報の「大衆的普及」の側面である。
 しかし、民主主義社会においては、公的情報だけでなく、これらの大小メディアなどの提供するさまざまな情報が豊かにあることが、市民の主体的な判断の基礎となっている。社会形成のための合意の基盤となるのである。これは情報の「社会的合意の形成」の側面である。
 このように情報は大衆性、社会性の側面を持っている。たとえそれが「民間の情報」であっても、その情報自体に「公共性」があるのである。
 ところが一方では、民間の情報は多かれ少なかれ、それら情報提供者の「私的な目的」に基づく「操作」の産物である。たしかに、現代社会では、特定の情報提供者が強制などの手段により、直接「情報操作」を行うことは少ない。しかし、たとえばコマーシャルは、たとえそれが事実の組み合わせであっても、購入の拡大を意図して提供されていることには変わりない。情報誌でさえ、該当する情報のすべてではなく、よく売れるように情報を選択し編集するのである。露骨な「情報操作」は排除することができても、あらゆる情報提供において「操作性」は避けることができない。
 それゆえ、新聞やテレビの「倫理綱領」などの自主規制が必要になる。これは、公的な色彩をもったゆるやかな「操作性」といえる。しかし、それをさらに行政が規制しようとすることは「情報操作」につながりかねない。基本的には情報は、公的情報を除いて、民間のさまざまな情報提供者と受け手との自由な相互作用に任されるべきである。
 行政が青年に対して情報提供する場合はどうだろうか。その場合も、同じく不可避的に「操作性」を帯びている。しかし、その「操作性」が純粋に「公共的な目的」に基づくべきであるという意味で、独特の存在である。
 その情報が文化的、政治的内容のものも多い。文化情報、政治情報の提供において、行政の「操作性」は許されるか。青年の文化活動の紹介などは、なるべく広く該当する情報を提供すればよい。しかし、時には人間の内面に深く関わる情報も扱う。たとえば、現代都市青年の健全な精神の形成をめざす情報提供などは、ややもすれば行政からの青年の価値観への介入になる危険性がある。しかし、それを恐れてその情報については避けて通るということはできない。それほど都市社会のゆがみは大きくなっている。地球規模のゆがみとして緊急に取り組まざるをえないのである。
 現代都市青年に対する行政の情報提供の目的は、「都市政策」と「青年政策」の二面性を持つと考えられる。都市計画づくりなどには、青年を含めた市民の自治能力の向上とそれによる合意の形成のための情報提供が必要である。これは、「都市政策」としての情報提供の一面である。また、青年の社会的病理現象に対処するために、青年の成長を援助するような各種の情報提供が求められている。これは、現代都市社会における「青年政策」としての情報提供の一面である。
 青年に対する公的情報提供は、この二つの「公共的目的」のために、その意味では「操作的」に行われる。問題は、それらが「操作的か、否か」ではなく、どのような具体的な「目的」を設定するのか、実際の情報提供がその目的に沿っているか、そして青年に支持されない「ひとりよがりな操作」に陥っていないかということなのであろう。

2−2 社会教育行政の役割

 社会教育についてみれば、社会教育法には国及び地方公共団体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行なうのは国民であって、行政はその「環境醸成」をするのである。そして、そのために、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励などの他に、「一般公衆に対する社会教育資料の刊行配布に関すること」などの情報提供が具体的事務として挙げられている(第三、五、六条)。また、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事の職務としては、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない。」(第九条の三)という条項がある。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違えると「かなしばり」として作用してしまう。たとえば、政治的情報の提供に関して、特定の政党・政派に偏しないという「節制」が必要である。一定の政策選択に導くような操作的手法は排さなければならない。しかし、ややもすると政治的情報そのものまで避けようとする「消極性」が生まれてしまうのである。
 教育基本法は「政治教育」について「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」(第八条)としている。ところが、公教育は政治的に中立であることが理想とされるため、特に政治的課題に関しては残念ながら消極的になりがちである。このようにして、援助の対象とする「学習」の範囲がどんどん狭くなってしまう。
 そのため、市民運動などへの対応も消極的なことが多い。だから、一般行政や市民も、その点では社会教育行政にあまり期待しなくなってしまっている。財政的にもごくわずかな社会教育予算より、一般行政の予算の方が魅力がある。実際、今日の都市問題をまともにとらえている都市行政担当なら、そのための効果的な出費を無駄と考えるはずがないのである。市民運動が理想的に展開すれば、それは現代的諸問題の山積する都市社会にとって「救世主」にさえなりうるのであるから。
 それでは社会教育行政は、市民運動にいかに対応すればよいのか。市民運動は、個人の生活課題と地域の課題、行政の課題、人類の課題を貫く学習の契機を内包している。市民の学習を援助する立場にある社会教育行政は、ここに注目する必要がある。「住民エゴ」などのマイナス面もあろうが、「公共的目的」に沿って「運動の側面」ではなく「学習の側面」を援助すべきである。その援助の形態の一つが情報提供である。もちろん、そこには市民との「緊張関係」があって当然である。むしろ社会教育行政が市民とはイコールでないことが、高い価値のある情報の提供につながるのである。市民とやみくもに迎合したり反目するのではなく、必要な望ましい情報を提供すべきである。
 実は、このような情報を提供する行政機関は、本来、社会教育行政であるべきだと考える。もちろん、一般行政においても必要な情報提供を怠ることはできない。しかし、それは行政セクションの該当する行政課題に沿って「限定的」に行われなければならない。
 社会教育法第八条に「教育委員会は、社会教育に関する事務を行うために必要があるときは、当該地方公共団体の長及び関係行政庁に対し、必要な資料の提供その他の協力を求めることができる。」という規定がある。講座や広報における情報提供のために、社会教育行政が独自に全体的な一般行政情報を収集できるのである。
 行政情報ならばまだしも、市民の価値観形成のための一般的な情報を行政機関が提供する場合は、特に社会教育行政がその役割を受け持つべきである。教育行政は、「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われる」(教育基本法第十条)と規定されている。一部の政治権力によって、あるいは一部の市民のために「情報操作」されては困るのである。
 たとえそのような「情報操作」には至らなくとも、もし、特定の行政セクションが行政情報に限らずに市民の価値観形成に関わるトータルな情報提供を行なうとするならば、そのセクションのもつ「現在」の行政施策の方向にどうしても縛られてしまうだろう。それではいけない。情報提供は、新たな「未来」を市民が創造するという広い意味での「学習」を援助するために行われなければならないのである。
 未来を担う青年に対しては、特にそうである。青年に対するトータルな公的情報提供は、社会教育行政の原則に従い、社会教育の特性を最大限に活かして展開されるべきなのである。

2−3 ヤングアダルトと情報の要求

 都市化社会において「青少年健全育成」の必要が叫ばれるようになって久しい。しかし、過去の押しつけ的な「対策」では、多くの青年の無益な反発を呼ぶだけである。そこで、今日の青少年健全育成施策は、その反省のもとに環境醸成など側面的援助に重きをおくようになっている。情報提供もその一環としてとらえられる。青年の自主性、主体性を尊重した「対策からサービスへ」の転換である。
 しかし、一方ではその前提としての現代都市青年の自主性、主体性そのものが欠けているということも指摘されている。この困難な条件のもとで、青年への「サービス」は意味をもつことができるのであろうか。
 カウンセリングについていえば、それは個人の心理的問題を当人が解決できるよう援助することを目的としている。そのためにカウンセラーは、「指示」をするのではなく、もっぱら「共感」と「支持」を与える。ノンディレクティブといわれているカウンセリングの手法である。そのことにより、本人自らが自己の問題に気づき、自らを変革するのである。
 このように、カウンセリングは、たとえ自己の内面に大きな心理的問題を持っている人に対してでも、その人間の「自己解決能力」に絶対的信頼を寄せて行われる。「情報提供」の姿勢も、それと同様の「信頼」が基礎となるだろう。すなわち、「本人の今の課題に関連する情報をいろいろ提供するが、選択と判断は相手に任せる」ということにより、本人自らが認識を深化させるであろうことを「信頼」するのである。
 図書館についていえば、最近、ヤングアダルトコーナーの設置が少しづつ見られるようになっている。その先進的事例が東京都立江東図書館であり、その担当司書の半田雄二氏は次のように述べている。「ふつう『読んでほしい本』と『読まれる本』は一致しないことが多いものです。しかし、大人から見れば未熟であっても、彼らには彼らなりの選択眼があり、決して無原則に手を出しているわけではありません。読まれない本には、やはりそれだけの理由があるはずです。・・・読まれている本が、すべて読者の低俗な好奇心におもねるクズばかりと決めつけるのも危険です。大人たちがまだ気づかないだけで、数年後には中堅どころとして脚光を浴びているであろう作家が隠れていたりします。・・・」(三)。そして、実際にも、オートバイやヘビーロックに関する本なども提供しているのである。
 半田氏の問題意識は、児童サービスと成人サービスの谷間にいる青年の「図書館離れ」から発している。この「図書館離れ」は、たしかに青年の知的側面での主体性の欠如の表れでもある。しかし、だからといって青年への働きかけを放棄してはいない。青年をヤングアダルト、すなわち「若い大人」、知的権利主体としてとらえている。そしてその青年の要求に合った図書を提供しているのである。
 青年の自主性、主体性は現実には欠如しているかもしれない。これは、「情報能力」および「情報必要」の未成熟にもつながっている。それらは、青年に対して行政が情報提供を行おうとする場合にも、大きな障害となるだろう。しかし、その際、図書館のヤングアダルトコーナーと同じような対応から始めることしか、方法はない。青年を「アダルト」すなわち権利主体ととらえ、まず、その情報要求に的確に応えるのである。
 私はこれを「ヤングアダルト情報サービス」として提言したい。それは、カウンセリングが本人の「自己解決能力」を信頼するのと同じように、青年の情報に関する「自己発達能力」を基本的に信頼する。そして、図書館のヤングアダルトサービスと同じように、「青年に知らせたい情報より、青年が知りたい情報を提供する」のである。

2−4 提供する情報の性格

 ヤングアダルト情報サービスが、青年の情報要求に的確に応えるとすれば、そこで提供される情報はどのような性格のものになるだろうか。
 第一に「全面的」性格である。それは一つには、あることがらについての「右から左まで」のあらゆる情報を提供することである。提供側でまずプラスマイナスの価値判断をして選択した後の情報を提供するのではない。
 また、一つには、現代都市青年の喜怒哀楽に関するさまざまなことがらについての情報を提供することである。半田氏は図書館司書として次のように言う。「すでに趣味の固定してしまった成人に較べ、自己、そして自己と他者、社会、世界との関わりに日々新たな発見の喜びをもちうる青年の関心の領域は広い、青年の要求に応えうる素材をもった資料は捜せば結構あるはずである」(四)。なんと積極的で生産的な感覚であろうか。我々も、現代都市青年の病理現象を憂えているばかりではいけない。現代の青年でも持っているはずの自己及び社会へのイノベーションの能力を尊重しなければならない。そのためには、社会の既成の「文化」の枠を押しつけるのではなく、青年、特に現代都市青年の多様な「文化」に応えるための全面的な情報提供の展開をめざす必要がある。
 第二に「今日的」性格である。過去の文化の蓄積を伝達することは必要であるが、それは学校教育や図書館などが役割を果たしている。これに対してヤングアダルト情報サービスは、現代都市青年の「今、持っている情報要求」に応えることが基本的要件になる。一次的には過去の文化の「伝達」のためのものではない。
 そのためには、新鮮な情報の収集を怠れない。現代都市における情報の動態性に対応するためには、大変な苦労を要する。「今度、どこそこで○○サークルがこんなイベントをやる」などの情報を集めても、時がたてば次から次へと無用のものとなっていく。しかし、取りこぼされがちなそれらの情報や、青年個人のレベルでは把握の困難な情報を、新鮮なうちにリアルタイムに提供することはヤングアダルト情報サービスの存在意義そのものでもある。これらは、情報化の進展から取り残され、疎外されている情報なのである。
 第三に「非文献的」である。青年の知的活動から生ずる「文献」に関する情報要求については、図書館のレファレンスサービスが専門的に対応できる。しかし、現代都市青年の興味・関心は、活字化されたものだけにとどまることは決してない。「活字信仰」にこだわるなら、すぐ青年に嫌われてしまうだろう。
 もちろん、図書館のレファレンスも、活字以外のさまざまな情報メディアが有する情報まで広く「文献」として紹介すべきである。また、ヤングアダルト情報サービスの方も、そこで知りうる「文献情報」を提供する必要がある。しかし、後者は、人や組織、生活や遊びそのものまで、紹介するのである。
 アメリカの図書館には、レファレンスサービス(参考調査)だけでなく、リファラルサービス(照会)まで行っているところもある(五)。図書や資料だけでなく、図書館以外の機関や人材などの情報を図書館が把握していて、それを紹介してくれる。そのことにより、貧しい人々や高齢者などの生活そのものを援助し、読書に不利な人々が読書できる条件を確保しようとしているのである。
 現代都市青年にもアメリカとは違った意味での、「知的貧困」、「生活的貧困」がある。青年のこの新しい「貧困」の解決のためには、文書にされた情報以上の情報が必要である。それは、たとえば青年に対して知的刺激を与えてくれたり、自己の生活を振り返らせてくれるような、機関や人材などのナマの情報である。
 最後に私は「おもしろ的」性格をあげたい。現代都市青年は社会から「おもしろおかしく生きている」と批評されている。「おもしろい」はそこではマイナスイメージである。しかし、「おもしろがる」ということは、言い換えれば知的好奇心などの人間性の発露であり、個人や社会の原動力の一つであるはずだ。
 社会の成熟化の中では、大量の物的生産に恵まれながらも、その反面、人間性や生きがいを追及する努力が、これまで以上に必要となるだろう。そこでは、「まじめさ」「勤勉さ」と並んで「おもしろく」生きられる資質も大切なのではないだろうか。今日の現代都市青年が社会の主力部隊となる頃には、労働・生活・余暇の全面においてその「おもしろがれる」資質が問われるようになるかもしれない。
 ここで言う「おもしろさ」とは、単に「瞬間芸」を見るようなおもしろさにはとどまらない。「おもしろそうだから、やってみる」という「参加性」、義務感や管理社会の束縛から逃れて「おもしろいからこそ、やる」という「自発性」が息づいているのである。
 ヤングアダルト情報サービスの魅力は、サービスをする側も青年と一緒になって「おもしろがって」進めていくところから生まれてくるのではないだろうか。

3 ヤングアダルトのための情報 
3−1 青年が要求する情報と、青年に必要な情報

 社会教育の世界では、現在、学習の「要求課題」と「必要課題」に関する論議が盛んである。
 NHKの学習需要調査によれば市民の学習要求はその表層だけ見れば、驚くほど、多様化、分散化している。●(図表3)こういう状況のもとでは、社会教育で講座などを開こうとしても、大部分の人が参加するような、何か素晴らしい学習テーマがあるというのは幻想でしかないのだ。といって、そんなに多岐にわたる学習要求のすべてをテーマとして取り上げることは困難であるし、無理をしてまでそんなことをしてもそれほどの意義があるとは考えられない。それよりも、公共性のある学習課題、潜在的ではあっても人間として共通に求められる学習課題(すなわち必要課題)を一番の根底に位置づけなが社会教育事業を進めるべきであるというのである。
 ただ、その実際的な方法は未だ定説があるわけではない。たとえ少ししか人が集まらなくても「必要課題」を正面からテーマに取り上げて市民に問いかけることもあってよいかもしれない。「要求課題」を配列しながらも「必要課題」に導くさまざまな方法も考えられる。あるいは「必要課題」とは学習者が自己の要求に基づく学習の過程の中で自ら気づくものであり、他者である行政が先回りして考える必要や権利はないとする者もいる。
 いずれにせよ、この「要求課題」「必要課題」の論議は、簡単に言えば社会教育をとりまく次のような環境が発端となっていると考えられる。
 今日の学習社会においては特に都市部で民間カルチャー産業が発展しており、学習要求が一定程度社会に存在すれば、その学習機会はそこが提供し、また市民も相当なお金を払ってでもそれを受講するようになっている。学習要求があるからといって、そのすべてを公的社会教育が準備し提供しなければならないという状況ではなくなったのである。
 さらに行政改革の観点から「持てる者」の「個人の利益」にとどまるような学習については、公税を支出してまでそれを保障する必要は認められないと財政当局なども考えるようになってきている。社会教育行政はきびしく「公共性」を問われているのである。
 もちろん、これらの外的要因への対処のためだけに「要求課題」「必要課題」の論議が起こってきたわけではない。公的社会教育の内実が文字どおり「公的」であるためにはどうあればよいかという理念的な問題意識、そして社会教育の現場からの「市民の多様な学習要求のすべてに対応することは不可能である。どうすればよいのか。」という実践的な問題意識から芽生えてきたのである。
 さて、現代都市青年への公的情報提供において、同様な意味で「要求(ウォント)」と「必要(ニーズ)」の概念がやはり役立つと思われるし、その上で「必要情報」の具体的内容を検討することが必要と考えられる。
 ただ、実際の情報の一つ一つを、この「要求情報」と「必要情報」に明確に区分したり、ましてやこの双方を常に相反する存在として対置してとらえることは決してできない。実際には、「必要情報」というのは、ほとんどの「要求情報」をカバーしようとするものになる。社会教育事業における講座のテーマ設定とは基本的条件が違う。
 図書館のレファレンスサービスなどでも、できるだけすべての文献に関する問い合わせに応ずることが基本となる。レファレンスを行う者は「操作性」などほとんど意識していないのが現実であり、それは正当なことである。
 しかし、ヤングアダルト情報サービスでは、青年に対してどんな情報を提供しようとするのか。そこに生ずる情報の「種類」の選択という「操作性」の正当な根拠を見出すためには「必要情報」の概念が有効である。青年に情報を提供することによって、何かをそこから学びとってほしいという、広い意味での「青年の学習」への期待の中身を明らかにするのである。逆に情報過多社会において公的機関までが正当な「操作性」を持たずして、やみくもに情報提供することは、情報過多に輪をかけることになってしまう。
 私は「必要情報」の概念は情報提供の理論構築の上でのキーになると考える。情報提供できない情報の種類(特定の党派・宗派・営利団体の利害に関するもの、医学的判断を要するものなど)をあれこれ列挙するよりも、現代都市青年への公的情報提供の根拠としての「必要」を明らかにすることの方が本質的だと思う。その上で、「必要情報」への発展の見通しを理念として持ちながら、青年のさまざまな「要求情報」に積極的に応えていく実際の展開が必要なのである。

3−2 人間の情報

 最近、写真情報誌が矢次早に創刊され、それぞれがすべて大変な売れ行きを示している。従来の写真雑誌は風景や人物の撮影により、芸術的感性に訴えるものであった。今日の写真情報誌はむしろ「報道性」がその眼目になっている。一見、現代的な情報要求への対応のように思える。しかし、それだけでは現代都市の「社会的」現象としての写真情報誌の隆盛を解説することはできない。視覚に訴える点ではテレビ、報道の素早さならテレビやラジオ、詳しさなら従来の報道雑誌などの方がよっぽど優れている。
 極端な「覗き趣味」こそ、写真情報誌の核心ではないだろうか。この写真情報誌にテレビなどでよく知っている有名人が載っているとする。しかし、それはテレビ向けの顔でない。一人のあたりまえの人間としての生きざまを「覗き見」できるのである。個人の私生活を暴露する「ワイドショー」などが視聴率を稼いでいるのと、あい通じている。
 現代都市社会の「匿名性」とは、離れ小島に一人でいることではなく、自己のあり様を隠蔽しつつも他者を見たくて見る(タウンウォッチング、マンウォッチング)ことなのではないだろうか。それは、人間が本質的に社会的存在であるがゆえに他者との関係をあがき求めていることの表れとも考えられる。ただし、人間関係が疎外される環境の中では、自己を明らかにすることが一方的不利益になるという認識があり、その「あがき」を空疎で歪曲されたものとしてしまう。
 しかし、匿名性とは自己保身のマイナス面としてだけ機能しているわけではない。一方では、過去の村落共同体の「監視」から逃れ、自由な存在としての自己を発揮する機能も果たしているし、また、他者の自由を保障する機能もある。
 現代都市青年に対して提供すべき人間情報とは、同じ人間としての他者の生き様を伝える情報である。その時、一次的には情報の提供を受ける側としての青年は「匿名」であってよい。その情報、その人間に対して非主体的であってもよい。そもそも「受け手」にとっての情報の魅力は率直に言って、それを「気軽に受け取れる」ところにある。
 しかし、言うまでもないことだが、そこでの人間情報は自己の情報を伝えられる本人が承諾しているものでなければならない。むしろ当人の「自負できる」生き様である。その面では「覗き趣味」情報とはまったく反対の性格のものである。かといって、装った表層的な言動でもない。あくまでも同じ人間としての喜怒哀楽を内に含むような「生き様」だから意味がある。そうであって初めて、情報の受け手に「共感」が期待できる。この「共感」が、人間情報を受け手にとっての「関わり」のある情報にし、人間関係を創出する能力を呼び覚まし、ひいては「匿名性」の逆機能を克服するのである。
 NHK教育テレビの幼児向けの番組の中に「パジャマでおじゃま」というコーナーがある。これは、普通の幼児が一人でパンツ姿からパジャマを着終わるまでを放映するものである。バックにはリズミカルな主題歌が流れるだけの単純な構成である。実はこれはNHKが幼児のテレビ番組への関心の示し方の実証的分析を重ねた上で開始したものであるという。大人が見てもけっこう面白いが、幼児は特に同じ年代の普通の仲間のしぐさに関心を持つ。「覗き趣味」ではなく、「共感を伴った関心」である。
 現代都市青年に対しても、青年の社会化のために直接的な「対策」をあれこれ講ずる以前に、自然にそれを形成するであろう「人間の情報」を提供することに力を尽くすべきなのである。

3−3 生活の情報

 今日、「青年がいかに生活しているかに関する情報」は大量に提供されている。それは、青年の現代社会に占める存在が大きく、また、将来の社会もその青年たちによって担われること、そして、現代都市社会における青年の社会問題が多発などの理由で、青年の情報について「社会が」関心を持たざるをえなくなっていることが理由になっている。たとえば、青年の就職状況の情報などもそうである。さまざまな調査報告がだされている。また、青年の消費動向なども企業の市場調査の重要な対象になっている。
 ところがひとたび青年自身の生活に必要な就職、消費に関する情報を探すとなると、情報社会においても意外に困難である。たとえば、ある青年が就職や転職を考えたとする。青年の全国的な就職動向などはすぐ手に入る。しかし、その青年にとって知りたい情報とは、実際に社会でその仕事をしている人がどんな労働条件で、どんな働きがいを持ってやっているのかということである。何時ごろ出社するのか。仕事はきついのか。帰りはいつも夜遅くなるのか。このようなナマの情報を求めているのである。
 そして、青年自身の要求にはなっていないが本当は必要、という情報もゆきわたっていない。最近、街頭アンケート商法、クレジット商法などで青年の被害が急激に増えている。各地の消費者センターなどが被害防止のための情報提供に努めているが、特に青年のまわりにそういう情報は少ない。青年に売るためのコマーシャルやカタログ誌などによる「商品情報」ばかりが多いのである。消費者情報などの生活関連の情報は都市化社会においての「必要情報」といえるのだが、青年とは遠い所に存在してきた。
 これらの就職や消費に関する情報を含めた総合的な意味での「生活の情報」は、「ヤングアダルトに関する」情報と対照的に、「ヤングアダルトのための」情報といえる。

3−4 連帯の情報

 現代の青年に尊敬する人や、期待に応えたいと思っている人を尋ねると、「親」という回答が非常に多い。しかし、「こんな人になりたい」というモデルについては、「なりたいと思う人はいない」という回答の方が多い。●(図表4)
 過去の家族においては、手伝いをずいぶんさせられたり、きびしく叱られたりして、子どもにとっては心地良いだけの場ではなかった。しかし、少子家庭が増えたことなどから、今日の子どもは「大事に」され、家庭が最も居心地の良い場にかわろうとしている。それが青年期にまで引き続いている。アルバイトはしても、それは全部、自分の小遣いとして使ってしまってよい。多くの現代都市青年にとって、家庭は「少なくとも今は、一方的に恩恵を受けることのできる場」なのである。
 「友人関係」についても趣味を同じくする者同士の「情報交換」や、気の合う者同士の他愛ないおしゃべりはある。しかし、他者の人生に踏み込んだり、それによってぶつかりあったりはしない。だから、人間に対する深い洞察には、つながらない。「情報提供と収集」のレベルの「無難」な付き合いである。
 これらのことは本来の意味での「○○し合う」人間関係の希薄化を表している。このような状況をそのままにして情報化が進み、人間関係を持たずして必要な情報が手に入るようになることは、事態をますます悪化させてしまう。
 そこで、ばらばらに「たこつぼの中にいる」現代都市青年に対して、意識的に「連帯の情報」を提供することが必要になる。そのうち最も直接的効果をもたらすと思われるものは、同世代のグループ活動や世代横断的な集団活動の紹介である。これらの集団のあり方や進め方に関する情報も必要である。
 しかし、なにがなんでも集団情報という姿勢では、青年はそっぽをむいてしまうだろう。これらの情報提供をふんだんにした上で、もっと「個人的」なつながりなどを含めた、ありとあらゆる人間関係のケースを豊かに提示することが大切である。個人レベルの連帯まで、深くカバーするきめ細かさが求められている。

3−5 地域情報と行政情報

 一般的に言えば、現代都市青年にとって、「要求情報」から一番遠い所にある「必要情報」が地域と行政の情報であろう。青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。また、子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。それらの非日常の情報志向は、青年期の独自の発達課題の一つの表れでもある。
 しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そこで、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくよう援助するための情報提供のあり方を考えたい。
 第一に、これらの「必要情報」が現代都市青年に充分には提供されていないという現実を認識すべきである。民間情報はもちろん、行政機関からのこれらの情報提供も少ない。たとえば遊休地のリストなど、都市計画の「手の内」をもっとさらして市民の議論をまきおこした方がよいのではないか。特に青年に対しては、彼ら自身の「沈黙」のせいもあるが、おざなりである。青年向けの施設の設置なども、「青年関係者」の意見を聴くことはあっても、広く普通の青年に訴えて議論を呼びかけることは少ない。
 これらの情報提供は、青年の眼を地域や行政に向ける契機の一つになるはずである。特に十代の青年たちには、自治への発言の場がほとんど無い。自治のトレーニングの場として、ぜひ必要である。
 もちろんこれは、いやがる者に無理にその情報を押しつけることではない。広報を充実したり、問い合わせがあればそれに応える「構え」を持っていればよいのである。そのため、なかなか反応がないかもしれないが、少なくとも「害」にはならない。情報提供の「良いところ」の一つである。
 第二に、今あるこれらの情報をもっと開かれたものにしたい。地域情報、行政情報は、それぞれの地域と行政の「独自の課題」を示す情報である。しかし、それは偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」に基づくものであってはならない。「情報」の特性は、「風」となって他の地域にまでいきわたるところにある。これを活かして、地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報は常に他の情報と行き来する「開放性」があって「風」が吹いてこそ、「根腐れ」しないような生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」には関心を示さないことは、あながち不当とは言えない。
 たとえば幹線道路問題などがそうである。自らの地域に該当する部分を考えるだけの住民運動や自治体行政では、本当の解決にはならない。視野が狭くなって、「住民エゴ」、「地域エゴ」に陥ってしまう。他の隣接地域ではどういう問題が起きているか、どのように解決しているか、広域的にはどのような必要性と問題性があるのかを理解し、さらには自らの地域の情報も積極的に「外」に広げていくことによって、主体的判断によるいきいきとした活動ができるのである。
 今はその地域に住んでいるが、いつか転出するであろう青年たちに対しても、地域は「開放的」であってほしい。十年後、二十年後にどこかの地域のスタッフになれるよう、今の地域が青年たちの「巣立」を援助するのである。それは、「閉鎖的」地域主義に対する「開放的」地域主義といえる。
 第三に、「非日常」の魅力のある内容をもった地域情報、行政情報を、地域の中に「風」として吹きわたらせたい。
 現代都市青年は「きまりきった情報」にはあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りただろう。しかし、今日、地域社会に住民が関わる場合は「自発的行為」であることが多い。何らかの形で情報を得てから、それに魅力を感じた場合に地域に関わるのである。それは現代都市コミュニティの新しい「理想」だと思う。
 本来、地域社会はダイナミックで人間的な場である。それは現代都市社会に生きる青年にとっては「新しい非日常」になりうる。今は地域に埋もれてしまっているその魅力を拾い上げ、情報の「風」として地域に吹きわたらせることが求められている。

4 青年とともに育つ情報提供 
4−1 「ともに育つ」情報提供

 青年は行政の広報をあまり読まない。彼らは、それを「つまらない」、「役に立たない」と思っているのではないか。
 いうまでもなく、広報は市民の行政への理解と発言(広聴)を求めるために「必要」(ニーズ)である。しかし、行政自身が市民に「何とか読んでもらいたい」と思っているだろうか。「広く知らせること」が、行政にとっての切実な「要求」(ウォント)になっているだろうか。読まれようが、読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけでは広報の「中身」も育たないのである。
 常にコンペティション(競争)にさらされる民間誌は「読んでもらう」ことを切実な「要求」としている。読者のウォントを敏感にとらえて中身を構成し、グラビアやイラストなどの「外観」でも人の目を引こうとしている。たとえば、自分たちの意思で発行しているミニコミ紙でさえ、「いい『情報』を読んでもらうためには、その『いい情報』を少し減らしてでも、手に取って読んでもらう努力が必要です。」(六)として、その第一面の大部分をイラストで飾ったりして、親しみやすい紙面を工夫しているのである。
 民間の情報提供には、このような「市民感覚」がある。それは、フィードバックを活かして情報提供の中身をすみやかに改善することにもつながっている。こうして、情報提供側の「市民感覚」が育っていくのである。ヤングアダルト情報サービスは、この精神に習うべきである。「青年感覚」が必要なのである。
 「青年感覚」とは、現代都市青年の情報ウォントを理解できることである。そのことによって初めて、彼らに「関係のある」情報を提供することができる。それは、青年からのフィードバックを高める。最初に提供側に「市民感覚」、「青年感覚」があってこそ、その「感覚」がますます育つのである。
 それでは、公的情報提供は、「市民感覚」そのものである民間の情報提供よりも常に劣っているのが宿命なのか。決してそうではないだろう。
 民放の教育番組に関する自主的な連絡調整団体ともいうべき「民間放送教育協会」は毎年、全国大会を開催している。そこで毎回のように、フロアーのお母さん方から、「俗悪番組を少なくして、その分、教育番組を増やしてほしい。それをゴールデンタイムに放映してほしい。」との注文が出る。そして、この注文に対していつも壇上のディレクターたちは「これでも頑張っているつもりである。教育番組の低い視聴率を考えると、これでもせいいっぱいの努力である。ゴールデンタイムに放映するなど、とっても無理である。あとは、たくさんの皆さんに見ていただいて視聴率を上げるしかない。」という趣旨の受け答えをする。民放としては、放送の「公共性」という「ニーズ」に対応するために、かなりの努力をしているのである。しかし、視聴者のいうウォントに対応できたかどうかの数的評価としての視聴率にも、こだわらざるをえないのである。
 ヤングアダルト情報サービスは、これとは基本的に態度が異なる。青年のウォントに応える情報提供だけをするのではない。「必要情報」を提供することもその「本来」の責務である。そこに「民間」とは違った「公的」な意味がある。
 ただし、これらの「必要情報」の判断、収集、選択、提供においても、説得力がなければならない。「押しつけ」になってはいけない。現代都市青年の感覚と遊離した感覚で、青年にとっての「ニーズ」を社会や行政が設定しようとするならば、そこで設定された「ニーズ」と青年自身のウォントも対立してしまう。
 今日まで人類の獲得した発展の多くが、人間のなまなましいウォントから生まれたものである。「ニーズ設定」の際、今の青年のウォントをバカにしてはいけない。もちろん、大切にすべきウォントには、今までの社会にすでに形成されている行政や大人たちのウォントも含めなければならない。しかし、現代都市青年の今のウォントの中にも、将来社会のニーズがすでに「遺伝子」のように用意されている。たとえば、すでに述べたように「おもしろい情報」の要求は、「参加性」や「自発性」の原初形態であり、将来の社会のニーズになる可能性もあるのである。
 そもそも、ニーズはウォントと完全に遊離していたり、まっこうから対立したりするものではない。ニーズとは、ある意味では、ウォントが集約され、整理されて形が整えられたものである。
 ヤングアダルト情報サービスがなぜ「必要情報」を提供しようとするのかといえば、それは、青年が自ら「気づき」、「要求情報」の中でもとりわけ「必要」な情報を「要求」できるようにするためなのである。したがって、「必要情報」の提供においても、一方的に青年に「教える」のではなく、今の青年の「要求情報」を大切にして、そこから行政は学びながらも、青年に問題を提起し、彼らの自己成長を期待するという「ともに育つ」姿勢が肝要である。
 単に情報処理システムやそのための行政システムなどの、「システム論」だけを先行させるのならば、ヤングアダルト情報サービスは成功しないだろう。その前に、まず、既存のさまざまな公的情報提供を担当する職員が、もう少し現代青年の感覚を認識してくれていれば、と思われる現実が残念ながら多いのである。

4−2 ネットワーキングとインフォメーションリーダー

 情報の収集から提供にいたる作業には人間の認識を育てる作用が内包されている。したがって、ヤングアダルト情報サービスが「情報処理」の作業の「代行」をすべて請け負ってしまってはいけない。青年の「参加」が望ましいのである。行政の「青年対策」への青年自身の参加の一般的な意義とは別に、情報提供においての「青年参加」は独特の教育的意義を持っているのである。
 青年参加の具体的なシステムとしては、情報モニター制度を設けてフィードバックを図ったり、企画委員会や運営委員会などへの参加を求める方法がある。しかし、モニターや各種委員は限られた青年である。そこで「参加」する者の範囲を広くし、中身を豊かにする「鍵概念」として、「ネットワーキング」が注目される。それは、特に情報については有効な概念である。ネットワーキングそのものの「鍵」も「情報」である。
 ネットワーキングとは、それぞれの人やグループや機関が、それぞれ自立的な価値を持ちながら、連携することである。そして本来、その連携は固定的ではなく、ゆるやかで自由、自発的なものである。(七)
 質の良い新しい情報は「固定」からは生まれない。ネットワークシステムにおける青年の「流動的」参加こそ、創造的成果が期待できる。「流動的」であるから、参加する青年の顔ぶれや参加の内容、形態が常に移り変わってもよい。参加の「形式」より、参加する者の個人的な「中身」を重視するのである。
 この論には現実論からの反駁が予想される。それは、青年の無関心、主体性の喪失の中で、ごくわずかの委員を募集することでさえ容易ではないのに、そんな「不特定多数」の自立的参加が望めるわけがないというものである。
 しかし、現代の「情報」の特性は青年の参加をいざなう新しい可能性を持っていると思うのである。
 一つの可能性は「インフォメーションリーダー」ともいうべき青年たちの存在である。彼らは、情報化社会に新しく登場した情報保有者および発信者である。コミュニティの崩壊の中で、近隣関係などによるパーソナルコミュニケーションが衰退してしまった。しかし、それに代わるコミュニケーションの良き仲介者として新しいインフォメーションリーダーが誕生してきたのである。
 従来の青年リーダーは、奉仕的精神や、時には自己犠牲的精神が求められてきた。しかしインフォメーションリーダーは、「ものごと」に対して好奇心が強い者、おもしろがることのできる者である。だから新しい情報を持っている。彼らはグループリーダーそのものにはなりえないかもしれない。しかし、その開放的で先取的な性格は、インフォーマルな青年グループのアンテナとレーダーの役割を果たしているのである。
 ヤングアダルト情報サービスに魅力があると感じれば、彼らはこれに参加するだろう。彼らの自発的参加によって「青年感覚」にあふれたダイナミックな情報の収集と提供ができる。そして、彼らは、インフォーマルな「影響力」を持っているのであるから、この情報サービスのことと、そこで提供される情報は、彼らを通してインフォーマルな青年グループの中に広がっていく。それが、今まで行政には「縁がなかった」ような広い層の青年の参加をよびおこすことを期待できるのである。
 ヤングアダルト情報サービスは、インフォメーションリーダーのインフォーマルな「影響力」に期待する。彼らの「影響力」は、団体のリーダーのような「指導的」なものではない。対等な立場で他者に対しても「自立的価値」を求め、その「個人的」なつきあいの中で価値のある情報、楽しい情報を発信するネットワーカー的なものである。

4−3 パソコン通信の活用

 青年の参加をいざなう現代の「情報」の特性のもう一つの側面として、情報技術の高度な発達があげられる。中でも私は、パソコン通信に注目したい。パソコンと電話とそれをつなぐモデムがあれば、あとは通常の電話料金の負担だけで、在宅のままリアルタイムな情報の入手と検索、そしてそれ以上の魅力として「情報の発信」ができるのである。実際、現在無料で提供されているアスキーネットワークは、ホストコンピューターにつなぐ電話回線をたびたび増設しているが、それでもすぐいっぱいになるほどの利用率を誇っている。検索主体のキャプテンシステムが企業はともかく、青年にはあまり活用されていないのとは対照的である。
 他の事業の企画への参加と異なり、情報については、現代の情報技術をうまく利用すれば、それほどの「覚悟」なしに気軽に参加でき、しかも直接、主体的参加ができる。ネットワーキングが「情報」を「鍵概念」とする理由の一つも、この「情報の魅力」にあるのだと考えられる。
 だが、そうは言っても、パソコン通信で青年が発信する情報の「内容」に全面的に期待できるかというと、実は残念ながらそうではない。
 アスキーネットワークの中にはブレティンボード(掲示板)システムというのがある。これは、百八十を越えるさまざまなテーマのボードがホストコンピューターの中に設定されるものである。メンバーは、自分のパソコンから、好きなボードに自由に意見を書き込んで「掲示」する。その一つに「グッドアース」があった。地球的規模から核兵器、環境、人口爆発、エネルギーなどの問題を考えようとしたものである。ところが、半年でたった二十七件しか書き込みがなかった。これに対して喫茶店、アニメ、コミック、アイドル、SFなどは千件以上の書き込みがあり、二千件を越えるところすらあったという。青年が情報ネットワークに参加するといっても、たわいないおしゃべりが多いのである。
 「グッドアース」については、「不活発」(すなわち、ウォントが少ない)という理由からシステムオペレーターのアスキー側から閉鎖を通告された(昭和六十一年秋)。これに対してニューサーティーの関根章郎氏が、廃止反対のよびかけをボード上で展開した。それを契機に他の青年からの書き込みが増え、「こんな本が良かった。」という読書情報が交換されたり、その感想を述べあう「電子読書会」がボード上で開かれたりした。このようにして、「グッドアース」は結局、継続されることになった。(「グッドアース」の件に関しては、すべて、関根氏から筆者への私信に基づいている。)
 ヤングアダルト情報サービスにおいても、パソコン通信を活用したい。そこでは、「くだらない情報」はすべて排除しようとは思わないが、「好ましい情報」なのに反応が少ないからといってそれを排除するものでもない。「必要情報」も提起しながら、情報の中身を「ともに育てる」ところが、公的情報提供の良いところである。
 なお、関根氏によれば、アスキーは「グッドアースの廃止宣言」という「ショック療法」によって、青年が発信するふがいない通信の中身を「治療」しようとしたのではないか、とのことである。時には、このような「緊張関係の演出」も必要なのかもしれない。

4−4 ユースワーカーの役割

 現代都市青年は「情報化不適応」を起こしている。それにさらに追い討ちをかけるようなヤングアダルト情報サービスであってはならない。そのために、もう一つ、必要な要素として、情報サービスを現代都市青年につなぐ情報ユースワーカーの存在がなくてはならない。
 青年のための情報処理とは、情報をコンピューターで「交通整理」すれば済んでしまうという性格のものではない。担当者という人間の意識が介在する。その人自身に、「青年感覚」が求められる。この「感覚」を専門的資質として持っている職員がユースワーカーである。
 ヤングアダルト情報サービスにおけるユースワーカーは、青年の情報化不適応を時には支持することもあってよい。非常に人間的な機能を発揮するのである。
 たとえば、青年担当の社会教育主事、公民館主事もその一員であろう。社会教育行政におけるこれらの「専門職制度」は、一般行政からの自律性、青年への直接責任性、青年側の自由性などを、ユースワークに与えてくれるものである。
 ただし、この「自律性」とは、決して、ユースワーカー本人の趣向やそれまでの経験などに基づいて、勝手にユースワークを展開してよいということではないだろう。ユースワーカーという一人の公務員に「自律性」が保障されているというよりは、本来的にはユースワークそのものが一般行政から自律的であるべきなのではないか。一般行政施策などの「意図」に縛られずに、ワーカーと青年がユースワークを「ともに育てていける」という意味で自律的なのである。
 それでは、情報ユースワーカーは、「ともに育つ」ユースワークとしてのヤングアダルト情報サービスを実現するために、どんな役割を果たせばよいのか。
 一つには、カウンセラーとしての役割である。青年の情報摂取者としての自立を助け、都市化や情報化などによるパーソナルコミュニケーション能力の喪失の自己回復を援助することが求められるのである。そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法を適切な時に有効に活用する能力が必要である。それは、純粋な心理学的技法でなく、むしろ、その「実践的変形」であってよい。
 グループワーカーとしての役割もある。一対一の関係を原則とし、しかも相手が人生の問題をかかえていることを前提とするカウンセリングよりも、むしろグループワークの方がユースワーカーの日常的役割に近い。そして、グループワークの中でも神経症者を対象とするグループ・セラピィより、健常者の自己啓発を求めての主体的参加を前提とするエンカウンター・グループのリーダーの役割に近い。
 グループ・セラピィにおいては、「セラピストは先ずメンバーの依存の対象である」。これに対してエンカウンター・グループにおいては、「(そこまで)各メンバーとのつながりはつよくない。メンバー個人よりはグループ全体とのつながりが強い。セラピストといわずファシリテーターというのはその意味である。つまりセラピストが舞台監督とすれば、ファシリテーターは舞台装置家という感じである。場面設定者という感じである」。そして「メンバーの役割もこなす」のである。(八)そこには、理念でも、実践でも、形態でも、「ともに育つ」姿勢がある。
 そもそも、エンカウンター・グループは、都市化、情報化が進んで人間どうしのナマの触れ合いが少なくなり、その能力さえ失いつつある今日の時代における危機意識に満ちた取り組みであろう。そこは「極端」なまでにホンネとホンネがぶつかり合う世界である。だから、その世界を情報ユースワークにそのまま持ち込めば良いとは言えない。
 ただ、青年の情報化不適応にきちんと応えるためには、エンカウンター・グループでいうようなファシリテーターの役割がどうしても必要なのである。なぜなら、現代都市青年の情報化不適応は、情報化社会の中での人間復活の叫びであり、情報提供によって情報が増えるだけでは、とうてい解決できないからである。人間関係創出の「舞台設定」以外にその本質的解決はないのである。

4−5 情報サービスと「教育的役割」

 情報ユースワーカーは「教育的役割」も持っている。
 すでに何度も述べたように、青年の主体的営みこそが青年の主体性をはぐくむ。だからこの場合の「教育」も決して「教え諭す」ものではない。原則としては、青年の求めに応じた「援助」であり、青年の主体性を尊重した上での「きっかけ作り」である。そのためには、良い情報提供のできる能力と、ファシリテーターとしての資質を備えていなければならない。
 しかし、それだけでは不充分である。実は、青年の主体的な情報取得と判断を援助するためには、青年の求めるままには応じないことも必要な時がある。たとえば、青年の問いに対する答えがわかっていても、情報提供側の判断によっては、それを教えない時があってよい。青年が自分で解答を見出せるように、それを調べる方法だけ教えるのである。ただし、「教えるべきか」、「教えざるべきか」の判断は決して機械的にはできない。だから、その判断ができるユースワーカーがいない場合は、わかるだけの情報をすべて機械的に提供した方が無難である。
 ユースワーカーのいる場合は、時には「回答拒否」もありうる。新聞社の人に聞くと、「ナポレオンは何年に死んだか。」などという青少年らしき者からの問い合わせがけっこう多いそうである。「当社ではそこまではお答えしていません。」と答えると、心外な様子でガチャンと電話を切ってしまうらしい。調べれば簡単にわかる宿題などを、電話の方がもっと簡単だからかけてくる。
 ヤングアダルト情報サービスにも、きっとそんな問い合わせがくるだろう。そんな時、それに巧みに付き合うこともあってよいし、「回答拒否」をしてもよい。教育的に有効と判断する方をとればよい。「拒否」をする場合は、「残念ながら当方ではそこまでお答えしていません。」という応答をするのではない。「そんなことは、自分で調べなさい。」と応じてよいのである。そのためには教育的配慮を持ち、教育的判断ができ、そして青年との関係(リレーション)をあとでフォローできるユースワーカーの存在が不可欠である。
 このように、ヤングアダルト情報サービスに情報ユースワーカーの存在があってこそ、「ともに育つ」ことが、形態だけでなく、「内実」としても保障される。「ともに育つ」ということは、青年が行政におそるおそる情報を「貰いに行く」ことでないのはもちろんだが、行政が青年にいつも「へつらっている」ことでもない。青年を「まだ子ども」だからと、見くびってこんなことを言っているのではない。青年以外の市民に対しても同じように、対等でしかも緊張した関係こそが、ともに育つ内実を豊かにするのだと思う。
 情報ユースワーカーの役割として、行政と青年をつなぐ「行政職員としての役割」をつけ加えておきたい。ユースワーカーの「自律性」を拡大解釈して、行政職員としての要素を否定しようとするよりも、行政職員としての責務と可能性をむしろ充分に発揮しようとする方が、有効で現実的だと思う。
 たとえば、ヤングアダルト情報サービスの中には、行政の立場からの「青年への情報提供」があった方がよい。そのためにユースワーカーは、都市計画などについて知っておかなければならない。逆に、青年の意思を行政に反映させるための「行政への情報提供」も必要となる。行政内の「スタッフ」として、行政に提言するのである。そのためには、その問題の行政施策全体からの位置づけを把握し、かつ、具体的な窓口やルートを知っていなければならない。
 行政と青年の間にいる職員として、両者の緊張関係を「調整」したり「演出」したりして、行政と青年を「ともに育つ」ようにつなぐことも、行政全体の視点から見た情報ユースワーカーの役割なのである。

4−6 情報と知的生産

 現代都市青年の「モノ離れ」は、善かれ悪しかれ、ソフト化社会、成熟社会において避けられない傾向であろう。モノの実用性よりも、個人の内面的な価値観や他者からの情報によって価値判断がなされる。
 たとえば、おしゃれに関する青年の「ブランド志向」は、たしかに特定ブランド商品という「モノ」への志向として表れている。しかし、その一番の価値基準は着心地ではないばかりか、「外観」ですらない。問題は、「ブランド名は何か」だけなのである。そして、そのブランドが良いかどうかは、体験ではなく他からの「情報」により決定される。モノ自体より、それを一側面から「切り取った」結果としての情報(「原宿で、はやっている」など)に判断の基準を見出すのである。そして生産者側も、物的過剰の時代において、もっと消費を拡大するためにますます情報重視の戦略に傾いていく。
 しかし、この「モノ離れ」と「情報重視」の傾向も、「多面体の一面」としてとらえなければならない。たとえば、今日の「食」は一方では大量宣伝にのったファースト・フードなどの食「文化」を生み出している。その反面、今日ほど人々が「主体的・意識的」に健康食、自然食に取り組んでいる時代は過去にないのではないか。有機農法、無農薬の食料を求める底流には、人間が食を媒介にして大地とどう関わりを持てばよいかという根源的な問いがある。自分一人の健康を守るだけのちっぽけな「健康食志向」から、地球の生態系に責任を持ち、人間らしい生き方を問う「自然食志向」のムーブメントに発展してきているのである。そこにも、人間どうしの情報の「行き来」が見出される。そして、他者からの情報を、知的、主体的に受けとめた上での、食の「文化」が形成されようとしている。
 このように「モノ離れ」と「情報重視」には積極的側面がある。その一つとして、モノの生産とは違った個人の「知的生産」を志向する傾向があげられる。梅●忠夫氏の「知的生産の技術」によれば、「知的生産」とは、「人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合である、とかんがえていいであろう。」(九)としている。そして「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらにはしらされる、ということにもなりかねないのである。」(十)として、その著で「個人の知的武装」の意義を強調した。
 情報は、個人を管理する手段にもなるが、個人の自由な「知的生産」の道具や目的にもなるのである。
 ヤングアダルト情報サービスが関わる青年の「知的生産」とは、青年自身の手による調査・研究・開発であろう。「一斉講義型」の講座だけでは、その援助はできない。青年の「知的生産」への、もっと個別的な対応が必要になる。それが、情報提供と研究相談である。そこで生み出される情報は、青年の主体的、かつ、知的な情報である。その意味で、今日の大量の情報の中でも、青年にとってとりわけ大きな価値がある。
 それだけではない。「知的生産」は日記などを除いて、その大部分が他者に自己の知的生産物を提供する目的で行われる。形態としては「個人的行為」でありながら、その意図は「社会的」である。
 ヤングアダルト情報サービスは、この知的生産の「社会化」をさらに促進させる。それは、一つには、個々の青年の「知的生産」を結び合うネットワーキングである。もう一つは、青年のそれらの知的生産のサービス自体への還元である。さらには、青年の知的生産を、行政や広く社会全体に知らせ、つなげていく。
 青年の知的生産という創造的な営みと、そのネットワークによって、ヤングアダルト情報サービスは、「人間的」で魅力ある情報の発信源となることができるであろう。それは、現代社会がなかなか実現できなかった理想的な情報化の進展の方向を示しているのである。

結論

 「情報」の「情」には、「ありさま」という意味がある。青年が必要なさまざまなことがらの本当の「ありさま」を知らせる情報は、情報過多の都市社会においても、思いのほか少ない。そして、この「情」は、「こころ」としての「情」と決して対立的なものではない。ヤングアダルト情報サービスは、現代都市社会に欠けがちな二つの「情」の両方を豊かにする試みである。
 情報提供を「消極的すぎる」という理由で軽視し、がむしゃらに上から青年を「是正」しようとする「青年対策」が行われるとすれば、それは「強力」なようにみえても、実際には何の効果ももたらさない。青年の主体性なくして青年政策の効果はなく、今日の情報環境においては、公的情報提供なくして、その青年の主体性の確保は困難なのである。
 今日、「学習社会」が形成されようとしている。激変する社会の中で、それに対応するために、また、主体的な生き方をするためには、誰もが「学習」せざるをえない。そこでの「学習」とは、主体的に自己を啓発することである。青年自身も、学校・労働・余暇などの全生活にわたって、その新しい意味での「学習」の必要と魅力に気づきつつある。中でも「知的生産」は、とりわけ自立的な行為であり、それへの関心は注目すべき事象である。
 このような学習の「広範化」の現実と「主体性」の志向の時代に、そのすべてに行政が「直接的教育力」を発揮しようとするのは時代錯誤でしかない。
 ヤングアダルト情報サービスは、社会の側からの確かな「公的意図」をもちながらも、青年と「ともに育つ」姿勢で取り組まれる。この姿勢によって、青年行政は過去の「学習」のイメージから訣別し、今まで学習として意識されていなかった青年の全生活を通した内なる主体的な自己発達に資する情報を提供することができる。しかも、その形での援助は青年の主体性をそこなわない。そして、このようにして青年が新しい「学習」に主体的に取り組むこと自体、現代社会が青年に対してもっとも切実に要請している「社会的課題」なのである。


脚注

( 一)●島朗他編 社会学小辞典 有斐閣、増補版一九八二、頁一一七
( 二)同、頁二七三、「地図と現地」は一般意味論学者コジープスキの用語。
( 三)半田雄二 「図書館職員として青年とどうつきあうか」、むさしのインフォメー   ションマニュアル・・・ 東京都武蔵野青年の家、一九八四、頁四八
( 四)半田雄二 「公共図書館の『青年問題』」、図書館雑誌V o l 7 5 , N o 5 、日本   図書館協会、一九八一、頁二四三
( 五)リファラルサービスについてはホイットニー・ノース・シーモア J r、エリザベス   ・N・レイン だれのための図書館 京藤松子訳 日本図書館協会、一九八二、    頁一五三〜一五七 に紹介されている。
( 六)てい談「夢を語る 青年のための情報サービス・システム」、前掲 むさしのイ   ンフォメーションマニュアル・・・ 、頁二一、ミニコミ紙「みたかきいたか」編   集長 川井信良氏の発言。
( 七)今井賢一 情報ネットワーク社会 岩波書店、一九八四、特に頁一八二
( 八)国分康孝 エンカウンター 心とこころのふれあい 誠信書房、一九八一、頁五   八・五九
( 九)梅●忠夫 知的生産の技術 岩波書店、一九六九、頁九
( 十)同、頁一八

参考文献

○ 今井賢一 情報ネットワーク社会 岩波書店、一九八四
  産業における重層的なネットワーク化に着目しながら、「高度情報化社会の光と影」 について論じている。
○ 高山正也編 情報分析・生産論、講座 情報と図書館 4 雄山閣出版、一九八五
  図書館・情報学と情報業務の現実との接点から論じられている。そのため、情報の現 実の姿の基本的理解に資するところが大きい。
○ 東京都企画審議室 高度情報化の進展と東京・地域社会へのインパクトと課題・、一 九八五
  シーズ先行型の現在の高度情報化の進展に対して、高度化・多様化する社会的ニーズ への対応を重視する立場からの報告。都民生活面への影響と問題についてもよく分析さ れている。
○ 梅●忠夫 知的生産の技術 岩波書店、一九六九
  その名のとおり知的情報の生産について技術的側面から論じたものであるが、広く「 現代人の実践的素養」としてそれを述べている。このように、個人の知的生活と情報の 関わりの実相を明らかにしたという点で、この書は端緒を開く存在であった。
○ 高田正純 データベースを使いこなす・英語でとる世界情報・ 講談社、一九八五
  パソコン・ネットワークを個人が利用する魅力を実践的に解説している。知的興味と 人間どうしのふれあいへの志向をともに充たすものとしてパソコン通信が位置づけられ ている。特に「文科系人間」向きの書である。
○ 高校教育研究会 高校生と情報行動、モノグラフ・高校生‘ 8 5第一五巻 福武書店、 一九八五
  高校生と雑誌情報、音楽情報、友人間情報などに関する調査に基づき、その情報行動 タイプの分類などを行っている。
○ 拙著 「学習情報提供事業の企画と展開」、岡本包治他編 社会教育の計画とプログ ラム 全日本社会教育連合会、一九八七
  社会教育行政が市民に学習情報を提供するにあたっての三つの基本的問題と十の留意 点について述べた上で、その具体的な機能の図表化を試みている。
国際比較「青少年と家庭」
−青少年と家庭に関する国際比較調査報告書−

発行者 :総理府青少年対策本部
発行年月:昭和57年5月

性格・背景
 青少年の健全育成上、家庭が重要な役割を果たすものであるとの認識から行われた調査である。6か国(日本、韓国、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス)の0歳から15歳までの子供を持つ父親又は母親を対象とし、昭和56年2月から3月までの間に各国、それぞれ約1,000サンプルの調査が実施された。調査主体は総理府青少年対策本部であるが、その実施については各国の民間調査機関に委託された。

構成
 「調査の概観」、「調査結果の各論」、そしてクロス集計表を含めて320ページに及ぶ「集計表」の3編から構成されている。その中で、「調査結果の各論」については、「親子関係」、「母親と職業」、「夫婦関係」、「老後」、「家庭観」の5つの章から構成されている。B5版520ページ。

内容
 特に欧米の各国と比べて、日本の親が際立った特徴を見せた点は以下のとおりである。(カッコ内の数字は、日本。単位は%、小数点以下四捨五入。一部を除き複数回答。)
 「親子で、よく一緒にする行動」のうち、「室内ゲーム」(42)、「散歩・スポーツ」(41)、「旅行」(35)、「映画・観劇」(12)は、韓国の次に少なく、「勉強をみてやる」(29)は6か国の中で最低である。ただし、「レストランなどで食事」(53)は、一位のアメリカに次いで高い。なお、「テレビ・音楽鑑賞」(79)は、日本で第一位であるが、西ドイツを除いて他国でも同じく第一位になっている。
 「ふだんから特に気をつけて子供に言いきかせていること」のうち、「老人や体の不自由な人をいたわる」(34)、「道路や公園をよごさない」(33)、「列のわりこみなどをしない」(19)などの弱者へのいたわりや公衆道徳に関するものは、韓国に次いで低率である。
 「子供のしつけ」については、「親ができるしつけには限界がある」(53)という意見に賛成する者は、6か国の中でもっとも少ない。「男らしく(女らしく)育てる」(85)、「父親は何よりも毅然とした厳しさが必要」(73)は、韓国に次いで多い。
 「夫婦専用部屋あり」(56)、「子供部屋あり」(70)は、英米仏がすべて9割を超えているのに対して、韓国の次に低い。しかし、子供が6歳をすぎると8割、11歳をすぎると9割は子供部屋を持つようになる。ただし、その場合も、夫婦専用部屋を持つ者はそれほど多くならない。
 「母親就業中の子供の保育」は、「保育所・託児施設」(49)が高率で、「ベビーシッター」は、米仏のそれぞれ30%、36%に対して、0.6%と韓国に次いで少ない。 「母親の就業で困ること」については、「家事が不十分」「心身の疲れ」「子供のしつけ・保育が不十分」などから、「ある」(52)とする率が韓国に次いで高い。
 一方、「専業主婦の悩み」についても、「社会的視野が狭くなる」(40)などの理由から「ある」(68)とする者が多い。欧米では「ある」とする者は半数以下である。
 「子供のしつけの方針」については「妻主導型」(32)の率は各国の中で最も高い。 「離婚を抑制する理由」として「子供に及ぼす影響」(91)を挙げる者は、日本が一番多く、米独では7割弱である。そして、「夫婦がうまくやっていく上で最も大切なこと」として、「同じ人生観を持っている」(38)、「経済的安定」(28)の他、「子供がいること」(21)とする者が多い。欧米では「同じ人生観」とする者が高率で、西ドイツでは73%である。
 「老後の子供との同居」については、「同居したい」(64)とする者は、日本、韓国の順で多く、19%の西ドイツを除いて英米仏は5〜8%台である。
 「親にとっての子供を育てる意味」については、韓国では「家の存続」が68%にのぼるが、日本では「自分の成長」(60)、「家族のむすびつきを強める」(51)の順で多く、「家の存続」(24)は5位である。その点は、欧米に近い。ただし、「子供を育てるのは楽しい」(20)と答える者は、欧米では日本の2〜3倍以上いる。
 「家族のイメージ」(1つだけ選択)としては、「愛情」(44)、「血縁」(34)の順で、「血縁」が多い韓国と、「愛情」が多い欧米の中間的位置を占めている。ただし、「相互扶助」(7)とする者は日本が一番少なく、他の国では15%から27%いる。
特色・評価
 日本は物質面では「欧米化」されていても、家庭教育においては、欧米の良い点を充分に取り入れているとは言えず、むしろ我が国の精神的風土とのギャップに問題が生じていることを、この調査は示唆している。我が国の家庭がよりいっそう青少年の健全育成に資するものとなるためには、この現状をふまえて日本の風土にあったあり方を考える必要がある。その点で、この調査結果から学ぶところは大きい。
                                        青少年の自殺に関する研究調査
(青少年問題研究調査報告書)

発行者 :総理府青少年対策本部
発行年月:昭和54年6月

性格・背景
 青少年の自殺がマスコミによって連日のように報道され、各界の関心を集めていたこともあって、総理府青少年対策本部がそれぞれの分野の人々に研究委託したものである。それまでの各種統計や相談事例などの紹介と分析を中心にして、報告書は展開されている。
構成
 人口動態統計などを基にした日本の少年の自殺に関する疫学的解析、監察医務業務をとおした東京23区における青少年の自殺の実態、静岡県教育委員会の電話相談「ハロー電話」の実態と意義、東京都立教育研究所の教育相談の立場から見た自殺未遂のケースの分析、精神医学の立場からの症例検討などによる分析、以上のそれぞれの視点に基づく5つの章から構成されている。B5版70ページ。

内容
 少年(10〜14歳)の死亡率全体から見た自殺の割合が分析されているが、それは高い死因にはなっていない。少年の自殺の死亡率を歴史的にたどると、死亡統計の確立した大正9年から、戦時中は別として漸次減少し、昭和25年頃は最低となっている。その後、増減があったが、昭和40年頃から漸増傾向にあり、この傾向が持続している。
 国際的には、我が国の少年の自殺率が特に多いわけではない。性別で見れば、男子の方がやや多い。季節としては、冬休みの前後の時期が大きなピーク、夏休み直後が次のピークとなっており、休暇・受験・期末テストなどと深い関連がある。発生時刻は、他の世代とははっきりと異なり、午後4〜5時がピークになっている。自殺動機も特徴的で、「学業」と「家族」に集中していることなどが示されている。
 青少年(10〜19歳)全体の自殺率の方は、必ずしも増加傾向にはない。これは、高校生以上の自殺がむしろ減少しているためとされている。
 「電話相談」については、それが青少年の「死の予告」を受信することはきわめて少ないが、その前駆症状ともいうべき登校拒否や家庭内暴力などの相談が多い。これは、自殺をその前段階で防止するための重要な意義を持っているとされている。
 「教育相談」の立場から自殺未遂者の分析が行われているが、家庭に何も問題がないと思われるケースは極めてわずかとのことである。「両親の不和」、「親のノイローゼ」、「嫁姑のこじれ」、「父親の賭事・女性問題」、「夜逃げ」、「親の拒否的、干渉的態度」などが多い。予告徴候としては、死にたい気持の訴え、感情や行動の不安定、他人からの逃避、他人への攻撃性、無断欠席、学業成績の低下、食欲不振、不眠、家出、うつ状態、身辺整理や生活の精算などがあり、早期発見をするための察知力、共感的・援助的な姿勢、日常の地道な営みが指導者に必要であると述べられている。
 「精神医学」の立場からは、直接動機だけではなく、これまでに培われてきた子供達自身の神経症的態度としての「自殺傾向」を重視して自殺が分析されている。この「自殺傾向」は、社会・環境的要因、生物学的要因、心理学的要因の3要素から形成されている。生物学的要因としては、うつ病などの精神病の関与が重視される。しかし、うつ病であっても、「非自殺企図群」と「自殺企図群」の2群があり、それは、本人が救いを求められるような家族関係であるかどうかによって、かなり決定されると述べられている。

特色・評価
 この研究は、複数の視点から具体的に青少年の自殺の問題を明らかにしようとしたものである。一時期、青少年、特に少年の自殺がマスコミにしきりに取り上げられた時に比べると、現在は青少年の自殺はそれほどまでには「話題」になっていない感がある。しかし、実際には自殺をはじめとする青少年の問題は、決して解決されているわけではなく、むしろ深刻な様相を呈している側面もある。青少年育成に携わる人が、自殺に走ろうとする子供たちからの気づかれにくい「援助を求める訴え」に気づき、手をさしのべるために、この報告書から学ぶべき点はとても大きい。
 本書の中の悲しい事例を紹介しておきたい。「自殺念慮をもつ生徒が直接『死にたい』と訴えてきた場合でも、間接的にそのことが把握できてかかわる場合でも、つねに適切な対処がなければかえって危険が生じるものである。ある生徒は、教師から『そんなことぐらいで死にたいなんて・・・』と励まされたが、よけい自分の弱さを思い悩み、ついに自殺をはかったのである。教師と生徒の気持ちが通い合う体験が何よりも大切である。自殺念慮をもつ生徒は内面では理解や援助を求めつつも、なかなか心を開かないとか、拒否的な態度を示すことが多いので、そのかかわり方はむずかしい・・・」。青少年育成の難しさと責任の重大さが、よく表れていると思う。
                                        非行原因に関する総合的調査研究
(青少年問題研究調査報告書)

発行者 :総理府青少年対策本部
発行年月:昭和54年6月

性格・背景
 昭和48年以降増え続け、「戦後第3のピーク」を迎えていた時期に、非行の原因を総合的に分析する目的で、麦島文夫氏を代表とする「非行原因調査研究会」が総理府の委託を受けて実施した調査である。調査は、昭和52年10月から11月までの間に、非行・触法少年の調査対象群(「非行群」)と、一般青少年の調査対象群(「一般群」)及びそれぞれの群の母親の合わせて約9,000名に対して、個別面接調査法、集合調査法、郵送調査法などによって実施された。

構成
 「調査の概要」、「調査結果の概要」、「調査結果」の3編の他、付表と調査表が掲載されている。B5版275ページ。

内容
 「父母の欠損率」については、非行群で20.2%と一般群の3倍となっている。特に、母のない子の非行の発生率が高い。その他、欠損理由としては「離別」、欠損時の子供の年齢としては、母親の場合は幼児期、父親の場合は中学生ころの場合が非行化に結びつきやすい。
 「母親の就労」については、むしろ一般群の母親の就労率の方がやや高い。この報告書では「両親の共働きが特に非行化に作用するとは言えない」とされている。
 家庭の経済的物品レベルの差は、一般群と非行群の間ではごくわずかである(9品目の内、一般群の家庭では5.5個、非行群の家庭では5.0個の所持)。
 「有害環境への接触」などについては、高校生以上では一般化しかけており、一般群と非行群の間で顕著な差を見せていない。ここでは、高校生一般の風潮としてのこれらの行為自体を問題とする必要があると指摘されている。一方、中学生においては、「喫茶店・スナック」、「ゲームセンター」、「ディスコ」などへの非行群の接触が多く、また、タバコ、酒、無断外泊などについても顕著である。
 「友人」については、「全体として非行少年は親しい友人が少なく、また、年齢も同年に限られる傾向がある」とし、「ひところの非行者が一般群よりも、むしろ年長の者と付き合うことを通じて悪くなったことに比べ、逆の方向」にあると指摘されている。
 「小遣い」については、非行群の方がやや多くもらっている。
 「両親との心理的関係」については、全体として、非行群は親との対話が少なく、親からの愛情の感得が少ない。
 「家庭の統制」については、小学生だけを対象に調査されている。非行群においては、習字・そろばん等の習いごとが少なく、また、特に女子については健康・歯磨などの親の指示によるしつけが少ない。ただ、非行群の小学生は、かくしごとするな、悪いことするな、嘘をつくな、行儀よくしろということはよく言われている。しかし、報告書では「これらはしつけというよりも、子どもの現状に手を焼いて文句を言うものと見られる。」としている。
 「性格の自己評定」によると、従来の通説に反して非行群の方がむしろ攻撃的性格が弱い。「健康な活力を示すところの良い意味での攻撃性の欠如」と、報告書はとらえている。また、保守的モラル、前近代的義理人情など精神的成熟面での偏りが非行群で目立つ。 「他者からの自己の評価」については、「自分に対する人々の評価は悪い」という意識は、非行群ではかなり高い。しかし、それだけに「良く思われたい」という願望も強い。 人間や社会にかんする「知的興味」については、非行群の方が少なく、知的興味の広がりも小さい。
 以上の調査結果から、家庭の貧困などの古典的犯罪要因に代わって、低年齢では外部からの有害刺激と文化的環境の不足、高年齢では各自の非行的個性が大きな要因になっていること、そして特に両親との人間関係のトラブルが、思春期以後での主な非行化要因に数えられることを報告書は指摘している。

特色・評価
 青少年の健全育成に携わる者には、今日の青少年に対する正確な理解と適切な対応が求められる。誤った先入観は、大変危険である。したがって、実際に非行少年も含めた調査を基にしたこの報告書は、大きな存在意義を持っていると言える。もちろん、ここで調査の対象となった非行群の青少年の多くが、本書のいうとおり「検挙後において、良い方向に向かって努力している」のであるから、非行に走っている青少年の気持をそのまま代弁しているものではない。しかし、この自らを改めようとする彼らの気持も、また、是非理解すべきなのである。
                                        青少年の健康と体力(旧)

編者:文部省体育局
発行年月日:昭和52年3月15日

性格・背景
 発行の前年、文部省は、我が国の体育・スポーツ施設の実態調査の結果を発表し、次いで、学校体育施設の開放に関する方針を示した。他方、同年末には教育課程審議会が小・中・高校の教育課程の基準の改善について答申し、ゆとりのある充実した学校生活が目指された。このような動向のもとに、生涯体育・スポーツの実現に資するため、それまでの関連する数多くの調査を活用して、青少年の健康と体力に関する現状を明らかにしているのが本書である。

構成
 「青少年の体格と体力の現状」、「青少年の健康と体力向上のための指導者」、「学校の体育」、「社会における体育・スポーツ」、「児童生徒の健康と安全」の5章のほか、巻末に基礎データが掲載されている。A5版196ページ。

内容
 児童・生徒の体格は、戦争直後の低下を除いて向上してきているが、特に昭和20年以降はそれが著しい。11歳の体格の地域差を見ると、男子はその差が大きく、東京がトップとなっている。特に体重がとびぬけている。女子は地域差はそれほど大きくない。
 体力については、男子は17歳、女子は15歳ぐらいまで順調な伸びを示すが、その後は停滞し、20歳ころからは衰退傾向を示している。児童・生徒の体力を10年前と比べると、総体的には向上の傾向にあるが、12歳男子の「懸垂」などは明らかな低下傾向が認められる。地域差を見ると、市街地域より農村的地域の児童の方が優れている。
 次の2章から4章では、学校教育、社会教育における健康・体育・スポーツのための、職員、施設、事業、団体などの現状が述べられている。
 最後の5章では、児童・生徒の慢性的疾患の増大、学校における事故や交通事故の実態などについて特徴的なデータが紹介されている。

                                        青少年の健康と体力

編者:文部省体育局
発行年月日:昭和52年3月15日

性格・背景
 発行の前年、文部省は、我が国の体育・スポーツ施設の実態調査の結果を発表し、次いで、学校体育施設の開放に関する方針を示した。他方、同年末には教育課程審議会が小・中・高校の教育課程の基準の改善について答申し、ゆとりのある充実した学校生活が目指された。このような動向のもとに、生涯体育・スポーツの実現に資するため、それまでの関連する数多くの調査を活用して、青少年の健康と体力に関する現状を明らかにしているのが本書である。

構成
 「青少年の体格と体力の現状」、「青少年の健康と体力向上のための指導者」、「学校の体育」、「社会における体育・スポーツ」、「児童生徒の健康と安全」の5章のほか、巻末に基礎データが掲載されている。A5版196ページ。

内容
 1章では、主に児童・生徒の体格と体力について述べられている。体格は、年々向上してきている。体力についても総体的には向上の傾向にあるが、12歳男子の「懸垂」などでは明らかな低下傾向が認められる。11歳児童の地域の違いによる体力の差を見ると、市街地域より農村的地域の児童の方が優れていることがわかる。
 次の2章から4章までは、学校教育、社会教育における健康・体育・スポーツのための、職員、施設、事業、団体などの現状が述べられている。
 最後の5章では、児童・生徒の慢性的疾患の増大、学校における事故や交通事故の実態などについて特徴的なデータが紹介されている。

特色・評価
 本書でもいうように、青少年の体力は男子は17歳、女子は15歳ぐらいまで順調な伸びを示す。青少年の育成に携わる者にとって、本書のような資料により基礎的理解をした上で、青少年のスポーツ活動の効果的な援助に当たることはとても大切なのである。また、子どもたちの健康や安全についての具体的な実態からも、学ぶべき点は多いであろう。                                        
1 地域青少年団体連絡協議会の設置状況
2 青少年団体連絡協議会の現状と役割 −全国青少年団体連絡協議会研究会議から−
3 昭和47年度地域青少年団体連絡協議会活動状況

発行者 :いずれも青少年育成国民会議
発行年月:1−昭和47年5月、2−同年8月、3−翌48年2月頃

性格・背景
 当時、それまでの社会構造や生活意識の変化が、青少年団体などのあり方や活動に大きな影響を与え、まわりからの拘束を受けない趣味や同好の小さなグループの生成と消滅が著しかった反面、青少年団体連絡協議会の結成の気運も盛り上がっていた。後者は、地域ごとに青少年団体・グループが相互に情報交換をしながら連絡提携し、横のつながりを強化しようとするものであり、青少年活動の積極的な側面を持っている。
 そこで、青少年育成国民会議は全国青少年団体連絡協議会を開催し、その発展のための研究協議の機会を設定した。この会の参加者に対するアンケート調査により設置状況をまとめたものが1、この会自体の概況を記録したものが2である。そして、翌年には、この成果を受けて、各地域ごとの連絡協議会の活動状況を紹介する3が発行された。

構成
 1は「回答を寄せた県」、「結成状況」、「連絡協議会の目的」、「事務局所在地」、「常勤職員」、「連絡協議会の構成団体」、「予算規模」、「結成の見通し」、「結成の必要性」、「研究協議会への期待」の10項目から成る。B5版14ページ。
 2は「協議会の概況」、「地方青少年団体連絡協議会の役割と活動の進め方(パネル討議)」、「地方青少年団体連絡協議会の役割と活動(分科会報告と討論)」、「青少年団体の社会的役割(日高幸男氏講演)」の順で記録されているほか、巻末資料として前記1が掲載されている。A5版63ページ。
 3は北海道、秋田県、福島県、埼玉県、静岡県、滋賀県、愛媛県、広島県、川崎市の順に、それぞれの連絡協議会の活動状況が報告されている。B5版25ページ。

内容
 1によると、当時、28県(都道府県)で青少年団体の連絡協議会が結成されている。そのうち、20県が調査アンケートに回答している。協議会の目的としては、青少年団体間の連絡提携または情報交換の他、「青少年団体共通問題の解決」(16県)、「県民会議事業への協力」(14県)、「指導者養成・訓練」(14県)、「補助金・資金の獲得」(11県)、「広報活動」(11県)などが多く挙げられている。
 事務局はほとんどが、県庁知事部局または公共施設内に置かれているが、常勤職員まで置いているのは、4県だけである。予算規模については15県の回答があったが、数万円から850万円までと大きな開きがある。
 2では、この研究協議のパネラーや参加者から、次のようなことが地域青少年団体連絡協議会の意義として挙げられている。「青年の連帯感の育成の基礎としての団体間の連帯」、「得意な分野での指導者の相互派遣」、「団体指導者の視野の拡大」、「リーダー研修およびその発展としての国際交流」、「行政と加盟団体とのパイプ役」などである。その上で日高氏は、講演の中で、「正しい価値の創造」、「地域開発への参加」、「デモクラシーの実現」の3つを青少年団体活動の社会的役割として指摘している。
 協議会の問題点としては、「団体エゴまたは団体モンロー主義による団体間のぶつかりあい」、「基礎的団体への意思の疎通の不足」などが挙げられており、「青年団体と少年団体など団体間の性格の違いの調整」、「連合青年団や小グループに対する関わり」、「未組織青少年の組織化」、「行政との連携と団体の主体性の確保」などの課題に関する協議会のあり方が話し合われている。
 3を見ると、地域青少年団体連絡協議会の実際の活動がかなり活発に行われていたことがわかる。創意工夫に満ちたユニークなイベントも多い。それだけに加盟団体のリーダークラスが、準備などのために相当の時間と労力を割いたであろうことが推測される。しかし、それをもおしてその活動にかけた当時の情熱が伝わってくるような内容である。

特色・評価
 この3つの資料は、地域青少年団体連絡協議会結成の全国的な動向にいち早く注目し、そのための情報提供をしたという点で、当時、大きな役割を果たしたと考えられる。そして、青少年団体が手を取り合って、地域や社会に役割を果たすという協議会結成の意義にはとても大きいものがある。
 このような青少年団体の連絡体は、現在の青少年団体のあり方にとってもキーの一つになるはずである。もちろん、今日、特に青年活動は全体としては停滞気味であり、簡単に地域連絡体が活性化するわけではない。しかし、各団体の「自立的価値」を前提にしているともいえる新しいネットワーキングの動きを促進し、成功させるためにも、当時の連絡協議会に関わる議論から学べる点は多い。「連絡協議会」も「ネットワーキング」も、ともに「古くて、新しい」課題と可能性をもっているのである。
                                        
「学校教育と社会教育の連携」(事例・団体編)目次
  実践社会教育シリーズ 全日本社会教育連合会

1 青少年団体の横断的紹介誌を作成し、高校に配布している事例
   −鹿児島県青少年団体連絡協議会「DO YOU KNOW?」−
  〜存在が知られていないという単純な阻害要因を、まず除去する〜

2 高校生がお客さまではなく、団体活動の重要な担い手として活躍している事例
   −奈良県平群町青年団−
  〜高校生という青年が地域にいることにあらためて気づく〜

3 子ども会と学校とが良い関係をむすんでいる事例
   −名古屋と横浜の子ども会−
  〜日常的に連絡をとりあう、そして学校から学ぶ〜

4 学校の教師から郷土について学んだり、郷土資料の収集・展示をしたりしている事例   −埼玉県上尾市・与野市小学校のPTA−
  〜学校から地域を学び、学校に地域を「還元」する〜

                                        ○ 青少年団体の横断的紹介誌を作成し、高校に配布している事例
   −鹿児島県青少年団体連絡協議会「DO YOU KNOW?」−
  〜存在が知られていないという単純な阻害要因を、まず除去する〜

1 青少年団体への加入者の激減をくいとめるために
 昭和48年、鹿児島県青少年団体連絡協議会が結成された。当時は加盟団体総計で約4万人いたが、現在では半減してしまっている。都市化と青年の地域離れが影響しているのである。
 また、団体の中にはあまりにも会員が減ってしまってまともに活動ができず、最近は事実上、休止状態のところもあるという。
 実は、「DO YOU KNOW?」には、このような状況を打開するための窮余の一策という側面もあるようだ。だが、実際にはこの冊子にそんな壮絶感は感じられない。むしろ明るいイメージなのである。
 かれらはなかなかタフである。
2 「DO YOU KNOW?」から始めよう
 この冊子の前書きによれば、これが作られたいきさつは次のとおりである。
 昭和60年、国際青年年のイベントとして「アジア青年祭inかごしま」を開催。その会場の一角を青少年団体の紹介コーナーとして、100枚のパネルを展示した。同時に配布したリーフレットの題が、「あなたのまわりにこんな団体がある事をご存じないでしょうね」である。
 その時、一般の県民から「こういう団体があることを知らなかった」とか、「いろんな活動をしているので驚きました」などの感想が寄せられたという。
 それらの反応をうけとめながら、昭和62年2月、鹿児島の青年たちは第2弾としての「DO YOU KNOW?」という青少年団体を紹介する冊子を発行し、高校にまで配布したのである。
 鹿児島に限らず、特に最近の青少年の中には、既存の社会教育団体や地域団体を敬遠するふん囲気が強いようである。しかし、実際にはさまざまな団体の存在そのものを知らなかったり、誤った先入観から活動内容について貧困なイメージしかもっていなかったりという、単純な理由から敬遠されていることも多いのではないか。
 鹿児島県青少年団体連絡協議会は、加盟団体のそれぞれの活動の実像を知ってもらうため、地域の人々に、青少年自身に、そして学校に「DO YOU KNOW?」とよびかけた。県内に就職する予定の高校生に対しては、県教育委員会の後援をとりつけ、公文を添付して、各高校にその冊子の配布を依頼した。
 みずからの団体を広くアピールしようとする、この積極的な精神を、評価すべきであろう。団体にとっての「学社連携」は、このアピール精神から始まることが多い。
3 かれらのマインドを象徴する表紙
 A5版で、手に取りやすい。表紙は青少年の団体活動の情景である。これは、5枚のカラー写真の組み合わせで多色刷りで印刷されており、人の目をひく。
 表紙の写真自体も特徴的である。集団全体ではなく、集団活動の中での1人か2人の瞬間的な動作や表情にピタッと焦点が合っている。2人の女性がテニスをやっているシーンもある。なんでこれが、青少年「団体」活動なのか。
 しかし、これらの場面はけっして「つくりもの」ではない。むしろ、このように一人ひとりがいきいきとしてこそ団体活動は成り立つのである。「団体」活動の一場面として、2人でテニスをすることだって、じゅうぶんありうる。
 青少年団体だからといって、つねに集団として「統一行動」をしていて、他の「一般の青少年」と画然と区別されるというものではない。ところが、一般の青年や市民の中にはそう思いこんでしまっている人もいると思われる。その方こそ、「虚像」である。
 青少年団体の活動のなかみは、「普通の青少年」がごくあたりまえに共感できるものなのである。これが「実像」である。
 「DO YOU KNOW?」の表紙は、虚像によって団体から離れてしまっている多くの人々に対して、実像を提示することによって、その目をひきもどすことに成功している。そして、特に学校の教師や生徒に対して、
 1 青少年団体は、どんな青少年でもいきいきと活動できる場であること
 2 今までの学校以上に、一人ひとりの主体性が求められ、ためされ、生かされる場で  あること
の2点をアピールしようとしている。
 これは、表紙に限ったことではない。この冊子全体の、そして、鹿児島県青少年団体連絡協議会自体の「マインド」を、この表紙が象徴していると考えるべきであろう。
4 訴えて、フォローする
 本文には、鹿児島県青年団協議会から始まって各種ボランティア団体まで、横断的に、28の加盟団体のイラストを主体とした簡単な紹介と連絡先が掲載されている。1団体につき1ページである。
 それぞれのページは、イラストや写真が紙面の半分またはそれ以上を占めるものばかりである。最初に「明るいイメージ」といったが、その理由はこれに負うところが大きい。内容の詳しさよりも、目に訴え関心をひくことをねらった紙面構成である。
 巻末には、応募はがきがついていて、「1.入会したい 2.資料がほしい 3.連絡がほしい」のいずれかと、希望の団体のところに○をつけるようになっている。フォローの姿勢がはっきりしている。
 しかも、当然のことながら、このフォローは青年個人と青少年団体との関係で行われることになる。配布は高校で行っても、会員募集については、その場で「網をかぶせて」集団加入させるという乱暴なことはできない。すべきでもない。
 そこまで極端な例ではなくても、青少年団体と学校が連携するにあたって、ややもすると安易な集団主義が持ち込まれる危険性がある。それを避けるためには、団体・学校の双方の主体性の尊重と、いわば「けじめ」をもった良識が必要なのである。
 その点、「DO YOU KNOW?」のように、青少年団体のPR誌を学校で配布してもらって、あとははがきでフォローすることは、一つの方法である。
5 「普通の」高校生にまで、くまなく配るために
 先にもふれたように、同協議会としては団体紹介誌を過去にも出したことがある。しかし、最高でおよそ千部であった。今回は、八千部なのである。同協議会の年間予算350万円のうちの100万円を使った。それだけの価値があると判断したわけである。
 千部ならば、公共施設に配布する程度でせいいっぱいである。しかし、八千部だから、すべての対象者にもれなく配布できる。そこに意味がある。
 百十の高校に、県内に就職する予定の高校生が五千人ほどいる。青少年団体に関心をもつ高校生にも、関心をもっていない「普通の」高校生にも、全員にこの冊子を配布できるのである。
 さらには、実際にこの冊子を配布するにあたって、広く的確に対象の高校生にゆきわたらせるため、県の教育委員会を通して各高校にそれを依頼した。
 このようにして、「DO YOU KNOW?」は作成され、県内で就職するたくさんの高校生の手にわたっていったのである。
6 本事例から学ぶべきこと
 青少年団体と学校との連携に関して、本事例から次のようなことが考えられる。
1 青少年層を広く的確にとらえて青少年団体の情報を提供するためには、特に学社連携によって学校の協力を得ることが有効である。
2 しかし、その場合、団体への加入の勧誘や受付などまで、いっせいにその学校でやってしまおうとしてはいけない。それでは、学校の中に安易な悪い意味での集団主義をつくりだし、それを団体が利用するという恐るべき「学社連携」になってしまう。
 「DO YOU KNOW?」の巻末はがきのような「個」に対するフォローに習いたい。
3 このように、団体がしなければならないことまで、学校に依存しようとしないことが大切である。学校側も団体の主体性を尊重し、望ましくない依頼にまで「義理」で応じたりしてはいけない。学校ができることには限度がある。
4 これらの原則を守った上で、後輩の青少年たちに、そしてかれらを育てようとしている学校に、青少年団体は自信をもって自分たちの活動をアピールしてほしい。学校側に歩みよって、青少年団体の情報を学校型に変形して紹介するのではない。活動の実像を伝えればそれでよい。

 以上、「DO YOU KNOW?」の事例をもとに考察を進めてきたが、まとめの最後の「活動の実像」については、本冊子がそれを余すことなく伝えているとは必ずしもいえない。たしかに、この冊子が「高校生に」しかも「青少年団体の存在を知らせる」というねらいから作られていることを考えると、これ以上の詳しさは必要ないといえる。
 しかし、今後の課題としては、現在直面している問題点などの「活動の実態」をさらに率直に学校に訴えることが必要である。また、学校の方も学校として主体的に、その訴えをうけとめて、地域の教育力の形成のためにともに考え、学校なりに援助できる道を探ることが望まれる。

〔資料〕
「青少年団体紹介誌 DO YOU KNOW?」,鹿児島県青少年団体連絡協議会,昭  和62年2月
「朝日新聞 鹿児島版」,朝日新聞社鹿児島支局,昭和62年2月13日朝刊
                                        ○ 高校生がお客さまではなく、団体活動の重要な担い手として活躍している事例
   −奈良県平群町青年団−
  〜高校生という青年が地域にいることにあらためて気づく〜

1 スタッフ不足がきっかけ
 青年団は、従来、重要な地域集団として活躍してきた。しかし、今日ではいずこも団員の減少という問題に悩んでいる。奈良県生駒郡平群(へぐり)町青年団も同様であった。 平群町は、新住民の流入により急激に人口が増えている。しかし、町の青年団が抱える6支団は、すべて「旧村」にできており、新興住宅地に支団組織はない。町外通勤青年の増加のため、団員数も減少傾向にあるという。
 スタッフ不足の中での機関紙の定期発行はきびしい。そこで、担当の広報部スタッフは次のように思いつくのである。
 「なんとかならんもんだろうかと、担当役員は考えた。そしてふと思った。『そうや、高校生がいてるやないか』」、「作業を通じて町青年団の活動に対する理解も深めてもらえる。まさに一石二鳥ではないか。彼らはそう考えた。実に安易な発想ではあったが、結果的に、これが町団役員と高校生団員との結びつきを深めるひとつの『きっかけ』となったのだから、何でもやってみなくてはわからない」。(後記資料より)
 とにかく、このような理由から、平群町青年団での高校生の活躍が始まったのである。2 高校生はすでに入団していたが
 平群町青年団の場合、中学校を卒業した者は自動的に入団してくる。そのため、現在、登録されている高校生は60人で、全団員の30%にもなるという。
 しかし、実際には、登録された高校生に対しては、事業のある時だけ支団を通して呼びかけるというパターンだった。そこまでなら、他のたくさんの青年団でもやっていることである。
 資料によれば、平群町青年団長は「事業をするにしても、新興住宅地で団員を拡大しようと思っても、必ず在学青年、特に高校生団員の問題にぶちあたる。ただ勧誘すればいいというものではない。団員数も減少してきているし、高校生は次代の平群町青年団を担う貴重な存在だ。特に新興住宅地の高校生たちを活動に巻き込みたい。」という趣旨の発言をしている。
 そして、平群町青年団は、高校生の団員を青年団の次期リーダー、地域を担う一員として「明確に位置づけ、積極策に出た。」、すなわち、「これまでのように、すべてお膳立てされた事業に高校生を呼ぶのではなくて、ひとつの行事の準備段階から高校生にかかわってもらおうとした」のである。
 高校生をお客さまにしないで、年長青年たちといっしょに主体的に青年団活動に参加してもらうようにしたこと。平群町青年団の事例に注目する理由は、ここにある。
3 機関紙の編集作業に関わる
 平群町青年団は、機関紙「若いこだま」を4年間、毎月発行し全戸配布していた。しかも、新興住宅地では団員が一軒一軒、直接、手渡してきた。住民との大切なコミュニケーションの場であり、青年団活動を広くPRするのにこれほど大きい力はないと、資料にはあるのだが、これは大変な作業である。
 そこで、さきほどふれたように、高校生の「助っ人」を頼んだのである。しかも、それは高校生が直接「若いこだま」の編集に携わるという、高校生の主体的な参加形態によるものである。このことが実現できた基盤として、さきほどの平群町青年団の高校生に対する「積極策」がある。
 町中央公民館の一室で行われている編集作業のようすが、次のように描かれている。「部屋の中は、ワイワイガヤガヤと実ににぎやかである。レイアウト用紙を前にロットリングで、いっしょうけんめい字を書いている子もいれば、町団役員を相手に学校生活のよもやま話をしている子もいる。問題集をひろげて、必死に数学の宿題をしている子もいたりする。なにか一般的な青年団の雰囲気とは、ちょっと違った独特のものがある。」
 たしかに、青年団自体の「雰囲気」まで、何らかの変化を示しているのである。
4 青年団に与えた良い影響
 このように高校生が主体的に参加することによって、青年団自体が受けた良い影響として、次のようなことがあげられる。
1 活動を支える人数が増えるだけでなく、「雰囲気的に明るくなり、先輩団員たちに活力も出てくる。」(副団長の発言)
2 「無駄ばなしをしている中から、役員は高校生団員の考え方や悩みなんかを聞き」(団長)という発言に見られるように、年長青年が後輩の青年たちの理解を深め、ジェネレーションギャップの克服に寄与することができる。
3 そればかりでなく、「僕たちが、高校生の話を聞いて、ああなるほどなと思うこともある」(団長)という発言に見られるように、若い世代の発想から逆に学ぶという社会教育活動独特の「教えあう」関係の創出も、おおいにありうる。
4 青年団活動がきちんと責任をもった、しっかりしたものになる。資料には、「時間的な制約など多くの問題がある。役員の苦労もそれだけ大きいわけだが、今は、まず高校生団員の親、家族の理解を得ることに重点を置いている。したがってルーズな活動は決して許されない。」とある。
 この前半部分は、一見デメリットのように見えるが、親や学校に信頼されるような青年団活動をつくりだそうとするかれらの努力は、けっして不毛なものではないはずである。親(=家庭教育)や学校(=学校教育)と、青年団活動(地域の教育力)をむすびつける営みの一つとしてとらえられるからである。
5 高校生に与えた良い影響
 次に、高校生が主体的に青年団活動に参加することによって、その高校生自身が受けた良い影響としては、以下のようなことがあげられる。
1 平群町青年団の女子高校生団員の一人は「自分の考えていた青年団と、実際の青年団活動との違いが、ようやくわかってきたように思う。」と発言している。このように実際に青年団活動に携わることによって、地域活動や青年団体活動に対しての誤った認識を改め、正しい理解を得ることができる。
 正しい情報の提供も大切だが、それだけでは地域・団体活動に対する間違った先入観を払拭することはできない。それに対して、人と接し、体験を味わうことによる学習の力は大きい。
2 成人になるための高校生自身の内なる発達をうながす。前項の彼女も「(平群町青年団について)私たちから見たら、『大人の世界』なんだなァって感じるときもあるけど」・・と言っているが、それは異なった世代、すなわち成人と自分との差異の認識であると同時に、共感へ、そして彼女なりの「同化」へとつながっていくのである。
 青少年が家庭において兄弟をたくさん持たなくなり、地域においての兄・姉の役割を持つ人の存在を失いつつある今日、青年団の先輩のような準拠の対象が身近にいるということは、大きな価値をもっている。
3 学校と家庭以外に役割遂行の場をみつけることができる。彼女は「自分の意見が素直に言えて、それがみんなに認めてもらえるのがとってもうれしい」と言っている。
 高校生という多感な時代に、自己の役割を見つけ、その役割の遂行が社会的に評価されることは、自己形成にとって非常に意義のあることである。今日、学校の中でそれを見つけることに失敗した高校生たちにとって、このような学校に代わる場はとても少ない。
6 本事例から学ぶべきこと
 高校生の青年団活動が、学校教育に対して果たす役割に関して、この事例から次のようなことが考えられる。
1 学校の友達という同世代どうし、またはクラブの後輩・先輩という近い世代どうしの人間関係、学校の先生という超自我の象徴としての存在の他に、青年団の先輩という地域の兄・姉を高校生がもつことになる。
 これが、学校の中では設定しにくい人間関係の部分を補完する。
2 役割遂行の苦しみと喜びの体験のうち、学校教育において計画的には準備しずらい部分をインフォーマルな形態で補完する。
3 このようにして、青年団活動は特に高校生に対しては難しいであろう「学校外教育」の場を提供するものであり、学校側もそれをいっそう重視すべきである。しかし、それとともに学校教育における教育課程にそれをどうフィードバックさせればよいかということも、今後の課題となるだろう。

 すでに述べたように、平群町青年団が高校生の参加を求めた理由の一つとして、「スタッフ不足」があげられる。だが、それだけでなく、高校生を次代の青年団と地域を担う主体として尊重していたことも見逃せない要因である。
 筆者がさまざまな青年団体の役員と話す時も、この「スタッフ不足」がよくでてくる。たしかに、地域の青年団体は苦しんでいるのだ。しかし、この都市化現象の中での地域にこそ、コミュニティおよび地域の教育力の新たな形成が求められる。
 コミュニティ形成はもちろん、地域の教育力の形成に対しても、地域青年団体、特に生活集団としての青年団が果たす役割は大きい。目先の「スタッフ不足」に追い回されるのではなく、青年団として地域の教育力の発揮のためという大きな視野から、学社連携をまともにとらえなければならない時期にきているといえよう。
 平群町青年団は高校生を活動主体としてとらえた。そのことによって、高校生はさまざまな得難いことを地域で学ぶことができた。この考え方をもっと発展させ、青年団自体を地域の教育力を支える機能の重要な一環として誇りをもって自認し、その役割を発揮できるのはずである。
 「高校生団員の親、家族の理解を得る」というかれらの努力は、その端緒であるが、さらに高校と意識的に連絡をとり、地域教育力の形成のために互いにいっそう手をとりあうことが望まれるのである。
〔資料〕「高校生団員をどうする 上・下」,奈良県青年団協議会事務局 岡村猛,
     (「青年」,日本青年館,昭和61年5・6月号所収)
                                        ○ 子ども会と学校とが良い関係をむすんでいる事例
   −名古屋と横浜の子ども会−                          〜日常的に連絡をとりあう、そして学校から学ぶ〜

1 子ども会と学校の関係の現実
 子ども会の指導者にとって、学校の過密スケジュールは頭の痛い問題である。皮肉なことに、熱心な指導者ほどその傾向が強い。「せめて学校行事などは、私たちに事前に知らせてくれないものだろうか」などというグチを聞くことが多い。クラブや部活動なども、ややもすると「目のかたき」にしがちである。特に「超過密スケジュール」の中学生については、組織率が低下しており、神経質になっているようだ。
 しかし、そのように反発する前に、そもそも、その学校との関係をうまくむすべているかが問われるのではないか。
 それが簡単にできるわけではないが、その糸口だけでも見つけるために、2つの事例をとりあげて考えてみたい。
2 日常的に子ども会の情報を学校に届ける
 名古屋市中川区助光中学ブロック子ども会連絡協議会は、そのエリアに2小学校と1中学校をかかえている。そして、この3つの学校のそれぞれと日常的な関係をとりむすんでいるという。
 その一つとして、「月刊 子ども会」(全国子ども会連合会発行)の学校への贈呈があげられる。しかも、ただ届けるだけでなく、三役の内の一人が必ず手渡しするのである。そして、その都度、校長や教頭と1時間くらい、情報交換・意見交換を行なう。
 資料には、そのようすがこのように書かれている。「子どもたちの学校での様子や学校行事の話を聞いたり、子ども会の予定を話したりの情報交換や、子ども会から学校への意見を伝えたり、学校から子ども会への意見を伺ったりの意見交換が、その機会に行われます。」
 学校に届けられたこの月刊誌は、職員室の閲覧台に置かれ、新しい月のものがくると、図書室の書棚に配架されるが、この本を教師はよく見ているようだということである。この本には、学校の外で見せる子どもの目の輝きのようすや、それをはぐくむ地域の指導者のあり方が、ハウツーまで含めてよく載っているので、先生方には参考になるのだろう。 その他、年度始めのたびに、学校と子ども会とが年間行事計画を互いに出しあって、調整したりしている。日常的にも、すべての子ども会行事の案内を、その都度、役員が学校に届けるということである。資料には「ですから学校では、子ども会で今何が行われているか、今度は何があるか、常に分かっているのです。」とある。
 このような普段の努力が「学校との良い関係」をつくりだしていくのである。
 ここの小学校長だった人が他校に転任して、「子ども会行事があるのに、自分は出なくてよいのか」と、そこの子ども会役員に聞いたので、かえって驚かれてしまったというエピソードが資料には紹介されている。学校は学校の中の教育、子ども会は外の活動というわりきった関係の方が通常なのであろう。それに対して、この子ども会連絡協議会の実践は注目に値する。
 たしかに、これらの実践を他の地区で真似しようとしても、即効的に効果を期待できるものではないだろう。ここの地区では、小学校区子ども会連絡協議会発足の時から23年間、教師に会計や書記などの役に加わってもらい、それを校長も認めてしきたりとなっているとのことである。このような営々とした努力が不可欠なのである。
 しかし、特にそのための初めの第一歩は重要である。なぜなら、学校と子ども会指導者が「出会う」ことさえうまくいけば、あとはその関係が自然に育っていくという側面も、人間関係にはあるからである。
3 子ども会が、学校から学ぶ
 横浜市立入船小学校では、心身ともにたくましい子どもを育てるための一環として、「校庭キャンプ」を実施している。
 「校庭キャンプ」は、夏休みに、学年・学級ごとではなく、町内ごとのグループに分かれて5、6年生が参加する学校行事である。夕食と朝食は子どもたちで作るのだが、その献立は自分たちで考え、予算の範囲内で買い出しに行く。学校はテントとはんごうとかまどを用意するが、それ以外に炊事に必要なものなどは、自分たちで考えて持ってくる。
 資料には「子どもたちは自分たちで何かを作ることがとても好きです。」とあるが、このような現実の子どもの理解から、子どもが主役となったキャンプを実施しているのである。子どもの発達の契機を鋭く見抜く眼力をもった者として教師の専門性が、よく発揮されている。
 そして、地域の子ども会の活動が、この「校庭キャンプ」に大きな影響を受ける。たくさんのことを学ぶのである。
 資料からまとめると、
1 「以前はバス旅行等を行っていた」子ども会役員が、キャンプをやろうとして、学校に相談にくるようになった。
2 子ども会で行うキャンプも、「本当に子どもが主役となる」ような形で実施されるようになった。
3 学校の施設を利用して、子ども会のキャンプが実施されるようになった。
さらに、「校庭キャンプ」の時には、警備等の面での地域の人々の協力、また、地域のジュニア・リーダーの協力なども得られた。それらは学校と地域の「良い関係」をつくりだしていったのである。
 入船小学校の場合は、子ども会に対してかなり好意的であると思われる。しかも、学校の教育内容自体も子どもの体験学習を大切にしているので、子ども会が直接、学ぶべき内容も多い。
 しかし、他の地域の子ども会指導者は、「入船は、学校側の活動内容がすぐれているから」と、ただ言うだけですませてしまうわけにはいかないのではないか。
 入船の地域の人々は、学校行事に積極的に協力した。そして、特に子ども会指導者は、学校の行う「校庭キャンプ」に関心をもち、みずから進んで学校を訪れてそれについて学ぼうとしたし、さらには、学校施設を利用したキャンプまで実施したのである。どの地域の子ども会指導者にも、このような進取的精神が求められるのではないだろうか。
 どこの学校でも多くの教師は、子どもについて正しく理解し、その発達の契機が何であるかを鋭く見抜くことのできる専門性を有しているはずである。子ども会指導者は、子どもに対する地域の教育者として自律的に活動しながらも、この教師の専門性から学ぶべき点は学ばなければいけない。けっして、レクリエーションだけ、しかもその表面的なハウツーだけが、指導者に求められる資質ではないのだから、学べる要素はありとあらゆる範囲で考えられるのである。
 学校側も、「うちの子ども会は、旅行会とたいしてかわらない」と「傍観」しているのではなく、ぜひ、入船のような専門的指導性を地域に対しても発揮してもらいたいものである。
4 2つの事例から学ぶべきこと
 この2つの事例から、子ども会と学校とが「良い関係」をつくりだし、それを維持・発展させるためには、以下の点で努力が必要であるといえる。
1 「学校のスケジュールが過密で、しかも子ども会の行事の日に学校行事を平気で重ねてくる」と文句を言う前に、子ども会自体の行事計画を日取りだけでも早く決めて、それを学校に知らせる。学校との関係がほとんど持てていない子ども会でも、とりあえずは、そのことから始めてみる。
2 子ども会事業のあるたびにその予定と報告をする。機関紙などの発行のたびにそれを学校に届ける。しかもそれを、会の運営に責任をもつ者が学校を直接訪れて行う。この「日常的連絡」が連携の基盤となる。
3 これらの機会を利用して、可能な限り、学校側とのインフォーマルな話し合いの場を日常的に設定する。そこでは、それぞれの立場ゆえに知りえた地域の子どもに関する情報を、交換・共有したり、おたがいの主体性を尊重した上での参考意見を交換したりする。
4 せっかく地域に教師という子どもの教育の専門家がいるのであるから、子ども会の指導者として、そこから学べることをできるだけ学ぼうとするどん欲さが必要である。 その際、子ども会の事業の実施に直接役立つ技術だけ追い求めるのでは、得るものは少ない。入船の場合でも、「校庭キャンプ」のポイントはキャンプ技術ではなく、子どもの主体性をはぐくもうとする教師の教育的観点であった。このような教育的神髄を汲みとろうとする「学ぶ態度」が求められる。
5 さらに、子ども会としては、学校を地域の教育施設・機能として位置づけ、その両面からの活用を図るよう努めるべきである。たとえば、子ども会行事を校庭で開催させてもらうことなどがそうである。しかし、その場合、学校との日常的な信頼関係が大切である。これがあってこそ、学校の活用は子ども会と学校との関係をさらに発展させるものになるのである。

 学校は子ども会に対して地域の教育機能としての信頼を寄せ、子ども会は学校に対してその公的教育機能に信頼を寄せるという、相互の「良い関係」をもっているところは、残念ながらまだまだ少ないようである。
 双方が「みくびりあって」いては、何も学べない。ごく日常的な人間関係としてのつきあいを大切にしながらも、さらにそれを意識的に発展させ、それぞれのみずからの教育実践や地域活動をつねに根底的に問いなおしてより良いものにしていこうとする主体的な「学ぶ姿勢」が必要である。それがあってこそ、子ども会と学校との学社連携は本当のものになるのである。

〔資料〕
「月刊『子ども会』を学校へ」,名古屋市中川区助光中学ブロック子ども会連絡協議会,「校庭キャンプで結ばれて」,森孝昭
 (いずれも「月刊 子ども会」,全国子ども会連合会,昭和61年7月号所収)

○ 学校の教師から郷土について学んだり、郷土資料の収集・展示をしたりしている事例   −埼玉県上尾市・与野市小学校のPTA−
  〜学校から地域を学び、学校に地域を「還元」する〜

1 郷土という素晴らしい教育資源を、子どもも大人も忘れている
 今日、都市化現象の中でややもすると地域への愛着が失われつつある。
 近郊都市においては、ベッドタウン化が進行し、子どもたちばかりでなくその父母でさえ、自分が今、住んでいる地域についてあまり知らず、関心さえないという傾向が見受けられるようになってきている。
 しかし、後記資料は「子供にとっては、ここは『ふるさと』である」と強調している。子どもにとっては事実上の「ふるさと」であるその地域に対して、親やその他の大人たちがいつまでも魅力を感じられないのであれば、子どもたちも、ますます、心から「ふるさと」と思える所を持たない人間になってしまうだろう。
 移り住んできた町ではあるが、それが「自分にとっての第二のふるさと」であるといつのまにか感じているような、そんな「郷土学習」が、今、大人にも求められているのではないか。
 ここでは、埼玉県内の2つのベッドタウンのPTAの活動を紹介する。両者とも、子を持つ者として、わが子やよその子のすこやかな成長を願う心から、「郷土理解」のもつ大きな価値に気づき、実践した事例である。
 しかも、その活動の中では、教師を講師として依頼することによって、学校の教育機能を大人にも発揮してもらったり、あるいは、大人たちが収集した郷土資料を学校の中で展示して、子どもの目を輝かせたりしている。
 学社連携が地域にいかされ、その成果が学校に「還元」されているのである。
2 教師を講師とした家庭教育学級
 この事例は、尾山台小学校PTAの成人教育部が中心となって実施したもので、郷土理解を内容として含む、家庭教育に関する成人の学習のケースである。
 「講師は、本校児童の実態をよく把握した本校職員がその指導にあたり、親近感ただよう中での受講は楽しいひとときであるようだ。」と資料には記されている。そして、次のようにその学習内容が紹介されている。
1 郷土理解のために(講師・・・校長)
 郷土の歴史講話、地域見学(バス見学を含む)など
2 「児童理解と親としてのあり方」学習のために(講師・・・教諭)
 子どもを育てながら親も向上することの意義、親や教師は子どもたちにとって身近な 先輩であること、親も子も自立していかなければならない時期のあることなど
3 発育ざかりの子どもの食事と親たちの摂る食事について(講師・・・栄養職員)
 給食の試食会(量や献立について知り、家庭での食事の参考とする)、大人の食物に ついて(低カロリーでおいしく食べられるお菓子の作り方)など
4 親と子の体力づくりのために(講師・・・教諭)
 日常生活の中でできる無理のないストレッチ体操など
3 郷土資料の収集と学校での展示
 与野市立鈴谷小学校PTAの活動事例の経緯は、資料から拾うと次のとおりである。
 58年秋、開校以来行われてきたバザーを中心とした「すずや祭」に、文化的なものを折り込もうということになり、「昔の鈴谷の暮らし展」を開催。地区内から借用した農具や民具、写真等を展示して好評を博する。社会科の授業で子どもたちにも見てもらう。
 その時、市の資料室からも民具などを借り、資料室長に名称などを教わる。その後、当室長には「与野の歴史」というテーマで講演も依頼する。
 このようにして、「地域の中から古い物を集めて、本校独自のふるさと室を作ったら」という声があがり、教師や父母の気運が盛り上がる。そのねらいとして、資料には「子どもたちに昔の人の労苦をしのばせ、郷土愛の心を育てたい」、「郷土学習(3・4年生)の資料センターとしての役割が果たせればよい」の二つが紹介されており、「多少の困難もいとわない協力体制を定着させ、教師と父母の間に信頼感を生み出していった。」と書かれている。
 59年2月、郷土学習室の先進校を見学。PTAだよりで報告、今後の協力をよびかける。
 学校とPTAによる準備会を重ね、59年6月には次のことを決定
 1 作業と並行して学習をすすめるために家庭教育学級をいかす
 2 ふるさと室の中味については学習内容にあう計画を中心に教師(社会科研究グルー  プ)が考える
 3 費用はPTA特別会計(廃品回収・バザーの収益)をあてる
 4 作業はPTA実行委員会(役員、専門部正副部長、学年委員長)と文化厚生部が中  心となってあたる
 59年秋以来、地区内には文書を配って協力の依頼を行っていたが、60年に入って本格的な収集作業を開始。資料には、そのようすが次のように描かれている。
 「古い倉や納屋が残っている家や旧家と思われる家をかたっぱしから当たってみると『学校で役立つ物なんかありませんよ』といわれたが『どんな物でも結構です』と中を見せてもらうと、貴重な物が出てくることが多かった。」、「すっかりほこりにまみれ顔も髪もまっ黒になるほどであった。トラック・乗用車・自転車と使いわけ、運んだ物を水洗いするなど皆でよく働いたが、そのうち地域の方が持ち込んでくれたり、道具の組立てに来てくれたり、『取りに来るように』との知らせが続いたり、温かい協力をいただいて予想外の成果をおさめることができた。」
 このようにして、所有者さえその価値に気づいていなかった郷土資料が、初めて掘り起こされ、それが「教育資源」として地域に対する親たちの関心をよびさまし、また、地域もそうした親たちの「変容」に感化されていくのである。
 60年10月、これらの収集資料を二つの空き教室に展示して、「ふるさと鈴谷学習室」として開室。自治会長から子どもたちに、昔の鈴谷のようすや子どもの頃の思い出を話していただく。
 同11月、開室記念のつどいを開催。地域の古老や資料を提供してくれた人々の参加のもと、なごやかに行われる。市長も参加した。資料には「『学習室のある学校に通えることを誇りにしたい』と読みあげた児童の作文に涙ぐむほど、母親たちの完成のよろこびは大きかった。」とある。
4 2つの事例から学ぶべきこと
 PTAと学校との連携に関して、以上の2つの事例から学ぶべきこととして、次のようにまとめることができるであろう。
1 学校の教師は、日常的に子どもたちの教育に携わっており、子どもの実態をよく把握している。その教師を講師にお願いすることにより、親が地域学習を子どものすこやかな成長と関連づけて主体的にとらえることができる。
2 学校の教育機能は教師だけにあるのではない。尾山台小学校PTAが栄養職員のお話を聞いたように、学校の教育機能をはば広く発揮してもらう努力が必要である。
3 鈴谷小学校PTAの親たちは、鈴谷の地域の人々と実際に接する中で、学んだ。地域の人々も、そのPTAの活動を見て、自分の地域にあらためて気づくことができた。 このように、学社連携は、たとえば学校とPTAだけの閉鎖的な活動ではなく、地域に根ざす活動として機能することによって、よりいきいきとしたものになる。

 鈴谷小学校PTAの信条は「○わが子が良くなるように ○学校の子が良くなるように○自分自身が高まるように」であるという。この「よその子」の幸せまで考えようとする姿勢こそが、地域の教育力形成にとっても一つのポイントになるであろう。
 そして、郷土資料はもう一方の地域の教育力として、そのような親たちに「多少の困難もいとわない」意欲と「児童の作文に涙ぐむ」感激を与えてくれたのである。
〔資料〕「広がる学社連携の輪 −さいたま学社連携事例集−」,埼玉県教育委員会,
     昭和61年3月

学習情報提供の実際

1ニーズにこたえる情報提供の実際
 1 セクショナリズムを超えて、学習者の求める情報を広く提供する
    〜中野区「中野の社会教育事業等 プラン1年」〜
 2 民間の活力あふれる情報を提供する
    〜江東区文化センター「タウン情報こうとう」〜
 3 提供できる情報の「限界」について常に問題意識をもつ
    〜仙台市中央公民館情報コーナー〜
 4 「低次元」と思われるような情報要求に対しても、みくびらずに接する
    〜東京都立江東図書館の「ヤングアダルトコーナー」〜

2市民参加の「しかけ」づくり
 1 各種のメディアの特性をいかした情報提供をおこなう
    〜国立市「くにたちビデオ広場」〜
 2 情報の「受け手」も気軽に「情報発信」できるようにする
    〜パソコン通信「アスキーネット」〜

3教育的機能の発揮の実際
 1 「動態的奉仕」によって情報要求をほりおこす
    〜調布市立図書館の読書会活動〜
 2 地域課題に対して敏感なアンテナを張って、その学習のための先進的役割をはたす    〜置戸町立図書館と「オケクラフト」〜
 3 個人の精神的・主体的営みを援助する視点をもつ
    〜カウンセリング・グループワーク〜
4情報提供システムの工夫
 1 レファレンスコレクションを活用してスムーズに情報を検索する
    〜図書館のレファレンスサービス〜
 2 ネットワーキングにより、情報提供の量と質をともに充実させる
    〜日野市の図書館サービス網〜

5情報提供活動への支持の獲得
 1 企業の「生き残り」のための情報活動に匹敵する、真剣な奉仕意識をもつ
    〜企業の情報活動〜
 2 市民に身近に感じてもらえるようなイベントを開催する
    〜大阪府立文化情報センター〜
 3 地域ぐるみ、行政ぐるみの支持を得るために働きかける
    〜浦安市立図書館〜
                                        この章のねらい

 学習情報の収集・加工・提供を行うにあたって、実際に注意すべき事項について、先進的な事例をとおして学習する。
 もちろん、みずからの行う学習情報提供は、究極的には、それぞれのおかれた条件に従ってみずからで切り開いていくべきものである。
 しかし、ここで紹介した事例も、また、そのような状況の中で生まれたのである。それぞれの事例の特徴をつかみ、共通する考え方をつかんでほしい。
 なかでも、市民の現実の情報要求に徹底的に対応し、さらには、潜在的な情報要求をほりおこそうとする積極的な姿勢とその実際の手法は、特に重要である。
 それにしても、生涯学習を援助するという学習情報提供の理念は一致しているとしても、その理念を実現するための実践についてのどこにでも通用する完全無欠な「手引書」はありえない。実際の事例をみずからの実践に照らしあわせて主体的に学んだ上で、各々の学習情報提供事業を個性的・独創的につくりだしていただきたい。

第1節 市民の学習情報要求にこたえる情報提供の実際

 学習情報提供を始めるにあたって、そこで提供される情報が、学習者の情報要求にこたえるものになるかどうかが、まっさきに問われる。
 要求された情報にこたえるということは、ごくあたりまえのことのようにきこえる。しかし、それを実際に実現しようとすると、情報提供側はさまざまな具体的困難に直面する。学習情報提供には、その困難をのりこえるセンスと努力が求められるのである。
 ここでいくつかの事例を紹介するが、その中から、事業主体の積極性と創意工夫の跡を読みとっていただきたい。
 なお、図書館においてもそれと通じる評価すべき試みがなされているので、あわせて紹介した。図書館のいくつかの積極的な試みは、学習情報提供のあり方にも直接的な関連をもっており、示唆を与えるところが大きい。
1 セクショナリズムをこえて、学習者の求める情報をひろく、わかりやすく提供する
   〜中野区「中野の社会教育事業等プラン1年」〜

 この「プラン1年」は、教育委員会だけでなく、区行政の各部局でおこなわれている区民対象の学習・文化・スポーツ・レクリエーションなどの事業を紹介している。
 昭和61年度のものは、B4版で104ページである。
 各章の構成は、部局ごとではなく、少年・青年・成人・高齢者の順に対象別ごと、その次に、ボランティア教育・障害者教育・文化・芸術・視聴覚教育(テレビセミナー・映画会・プラネタリウムほか)・スポーツなどの目的別ごとに、それぞれ一覧表のかたちで続いている。
 さらに、その次に、青少年問題協議会などの各種委員活動、講師派遣等の助成、「まちづくり講座」などの行政に関する講座、広報誌などの情報提供、そして保健相談所などを含む各種施設の案内が載っている。
 以上の分類方法をとるならば、当然、さまざまな部局の事業が同じ分類の中で交錯することになる。実際、「プラン1年」でも、同種の事業は所管部局が異なっていても同じ項目に入っている。
 各部局からあがってきた報告をそのまま部局ごとにまとめるのなら簡単ではあるが、それでは学習者にとっては一つの学習目的のためにあちこちのページをくらなくてはならず、不便である。欲しい情報を見のがしてしまう可能性もある。そこで、教育委員会以外の他部局の学習機会の情報を収録しているばかりではなく、その配置も学習者に便利なように工夫されているのである。
 このように、学習情報誌の作成のためには、はば広い学習情報の収集とともに、バラエティーに富んだ情報を学習者の立場に立ってわかりやすく、かつ適正に編成しなおす「情報加工」のセンスと能力が求められる。
 「プラン1年」の場合も、教育的事業をおこなうさまざまな部局の担当者によって構成される「社会教育事業等連絡会議」の中で連絡・調整された上で、社会教育主事が実際の編集にあたっている。昭和62年度からは、この会議やその他の類似会議が「地域センター連絡調整会議」に統合される予定であるが、この資料は引き続き社会教育主事が編集するとのことである。
 なお、学習情報誌の発行などを目的とするこの種の「連絡会議」により、学習情報を広く的確に収集することができる。しかし、効果はそれだけにとどまらない。ばらばらにおこなわれている各局の生涯教育関連事業が、学習情報の収集・加工作業のための会議を通して、お互いの事業に対する認識を深めあい、結果的に連絡・調整されるという副次的効果もある。
 「学習情報」(のための会議)が(セクショナリズムという)「教育的事業の実態」を改善する。情報が実態を変えるのである。
2 民間の活力あふれる学習情報を提供する
   〜江東区文化センター「タウン情報こうとう」〜

 江東区文化センターは、財団法人「江東区地域振興会」が区から委託を受けて運営管理している施設である。
 年末・年始を除き年中無休、夜10時まで開館。電話で仮予約でき、正式手続きは開館時間ぎりぎりまで受け付けている。会議や総会などでの酒席、宴席も自由。事務所も奥にひっこめて、「管理」よりも区民のための実質的な学習援助をめざしているとのことである。
 たとえば、夜、センターでの会合が終わった後からでも、次回の会場の正式な手続きができる。わざわざ、手続きのために出直すことなく、その日のうちに次回の会場が確保できる。
 昭和61年の秋、センターが翌年の6月に5周年を迎えるにあたり、「意見聴取地域集会」が9地区で開かれた。(「タウン情報こうとう」では「聞かせて下さい 出向きます」と訴えている。その他に「フリーダイヤル」と称して、コレクトコールによる意見聴取もおこなっている。)その時のチラシによると、区民38万人に対して利用者は「300万人の大台にあとわずか」であり、ホールなどは100%、会議室なども80%台の利用率で「どうしたら、いつでもご利用いただけるのか苦慮中」とある。
 このような利用者本位の考え方で、「タウン情報こうとう」も発行されている。一面はカラー、二〜四面はモノクロ。毎月10日発行。発行部数は13万6千部。6大紙朝刊に折り込みで各家庭に配られる。新聞紙大だから、他のチラシとまぎれることなく区民の目にとまる。
 本紙の発行資金のために広告を導入しているが、それは区内中小企業発展のねらいもある。広告の掲載希望者が多すぎてさばききれない現状とのことである。
 学習情報については、センター主催・共催の講座・イベント、区内の自主的なグループ・サークルの会員募集・催物のお知らせ(掲載は無料)などの他、4面は「生徒募集」と銘うって、民間のスクールビジネスや習いごとなどの3〜5行の広告が紙面いっぱいに組まれている(掲載は有料)。
 これらの学習情報の提供によって、区民は民間の情報を含めた今あるさまざまな学習機会の情報を知り、それを自分で「はかりにかけて」選択することができる。
 このように、「タウン情報こうとう」は、センター側の徹底したPR意識、区民の自主的グループ・サークル活動援助を援助する姿勢、そして、民間の学習ビジネス情報の活力をうまくとりいれる「企業的感覚」と柔軟性がすべて生かされて、いきいきとした構成になっている。
 ひとことでいえば、「お客さま本位」の民間のセンスと、「学習援助」の公共的姿勢の両立である。公的な学習情報提供事業がその絶妙なバランス感覚から学ぶところは大きい。
3 提供できない情報についても常に問題意識をもつ
   〜仙台市中央公民館情報コーナー〜

 仙台市中央公民館では、情報コーナーを昭和58年10月から開設している。
 オフィスコンピュータを導入しており、実際の情報提供においても、情報の半数近くがこのコンピュータから出されている。提供している情報は、施設、団体、事業、観光・文化財、人材などの領域のものである。
 コンピュータによる大量な情報の迅速な検索のメリットについてはいうまでもないが、さらに「情報コーナーの概要」には次のようにある。
 「電話、面接、郵便等による学習相談に対し、コンピュータまたは手持ちの情報源により回答します。この場合、相談者が明確な目的をもたずに相談に訪れることもすくなくありません。何をしたらよいか、本当に何がやりたいのか、充分な対話を行い安易な情報提供を行わないよう心がけています」。
 コンピュータは便利な機械ではあるが、情報を提供する人間までが「機械的」にそれを利用するだけではいけないということであろう。「機械的対応」では、学習情報の要求に本当には応えていくことができない。
 そしてそれと同じく、「提供できない情報」が要求された場合にも、機械的にわりきってしまってはいけない。
 「提供できない」という意味は、二通りある。一つは、「その情報をもっていない」という場合であり、その場合に安易に「その情報は、今はないから答えられない」と答えてすませてしまうのでは論外である。それに近い情報や、本人がその情報に近づくための情報をなんとか提供すべきであろう。
 もう一つは、その情報に関しては提供しないことになっているという場合がある。実際には、学習者の情報要求に真剣にこたえようとすればするほど、その問題で悩むはずである。
 「概要」では、情報提供の範囲に含まれないものとして、「営利性が高いもの」、「政治、宗教、思想の宣伝活動に関するもの」、「その他、教育委員会が適当でないと認めたもの」があげられている。学習情報提供が公的に運営されていることを考えると、この制限は理解できないことではない。
 しかし、「判断に苦しむ相談」として、次のような情報要求の事例が紹介されている。
 「レンタル関係」としては、テント、スピーカ、楽器、ピアノ、自転車など。
 これらについて、「当初は店の利潤につながるということで紹介しませんでしたが、社会教育活動を行う場合に、レンタル関係の情報が必要な場合が多く、このようなときは紹介をしてもよいのではないかという考え方をしています。」と説明している。
 「報道機関からの問い合せ」としては、団体・サークルの催物、ボランティア団体の資料、問い合せをしてきた人のリストなど。
 このことについては、プライバシーの問題や「目的外」という理由で情報提供を行っていないということだが、「報道機関も情報コーナーにとって有力な情報源であり、また、情報のネットワーク形成のためにも必要な機関であることから提供を拒否しにくい状態となっています。」とある。
 プライバシーを侵害しないことは大原則であるが、その上で可能な情報提供はマスメディアに行ってよいであろう。マスコミにその情報がのることは、市民に対して間接的に学習情報提供をしたことになるのである。
 その他、絵本の専門店、演劇の鑑賞券の購入場所などの「店の紹介になるもの」なども「判断に苦しむ相談」の事例としてあげられている。
 以上の他にもさまざま生じるであろう「判断に苦しむ」事例のすべてについて、ことこまかに「対処のしかた」が載っている基準やマニュアルは、ありえない。「概要」には、「問い合せの内容によっては社会教育と営利との関わりについて明確に提供・非提供の線をひくことが困難な場合が少なくありません。」とある。このように、ナマの問い合せはけっして定型的なものではない。情報要求のひとつひとつについて、情報提供側が、主体的に判断して対応しなければならないのである。
 趣旨から外れるものも無頓着にわかることすべてを答えてしまうとすれば、学習情報提供の本来の姿を歪めていく結果になろう。かといって、当初から予定された狭い範囲の情報提供にとどまるならば、情報提供側のダイナミックな発達はありえない。
 かんじんなのは、仙台市中央公民館情報コーナーのように提供・非提供の既成の枠組みに常に問題意識をもち、柔軟に主体的に対応することである。さらには、この「概要」のように、市民や関係者に情報提供の考え方を明らかにし、そのあり方をひろく問いかけることが大切である。
4 「低次元」と思われるような情報要求に対しても、みくびらずに接する
   〜東京都立江東図書館の「ヤングアダルトコーナー」〜

 東京都立江東図書館(現在は、江東区に移管中)には、ヤングアダルトコーナーがある。そこには、ヤングアダルトに人気のある赤川次郎、新井素子、氷室冴子などの見方によっては「軽薄短小」な本やオートバイやヘビーロックに関する本などが置いてある。
 東京都立江東図書館の当時の担当司書の半田雄二氏は次のように述べている。「ふつう『読んでほしい本』と『読まれる本』は一致しないことが多いものです。しかし、大人から見れば未熟であっても、彼らには彼らなりの選択眼があり、決して無原則に手を出しているわけではありません。読まれない本には、やはりそれだけの理由があるはずです。・・・読まれている本が、すべて読者の低俗な好奇心におもねるクズばかりと決めつけるのも危険です。大人たちがまだ気づかないだけで、数年後には中堅どころとして脚光を浴びているであろう作家が隠れていたりします」。
 そして、「すでに趣味の固定してしまった成人に較べ、自己、そして自己と他者、社会、世界との関わりに日々新たな発見の喜びをもちうる青年の関心の領域は広い」ともいっている。
 図書館のヤングアダルトサービスでは、青年をヤングアダルト、すなわち「若い大人」、知的権利主体としてとらえる。そしてその青年の要求に合った図書を提供するのである。
 このヤングアダルトサービスは、図書館のおもに資料提供に関するひとつの試みであるが、学習情報提供においても、特に相手がヤングアダルト、すなわち高校生などの場合、情報提供側も相手をみくびりがちになるかもしれない。
 たとえば、オートバイのツーリングクラブ(旅行会)について問い合わせがあっても、それは「学習情報」とはまったく異質に感じられる。しかし、じつはツーリングクラブの多くは健全なグループ活動のひとつであり、数少ない異世代交流の場でもある。その高校生の所属する学校でオートバイを禁止しているなどの事情がない限り、ツーリングクラブの紹介は、団体に関する情報提供として位置づけられるべきなのである。
 さらに半田氏が「純粋に息抜きのための読書も、将棋の腕前をあげるために定跡書を読むことも、デートコースを決めるために行楽ガイドを調べることも、広い意味では大人になるためのこやしだといえます。」としてそのような「読書」の価値を主張しているように、学習情報提供においても、「学習」とはいえないような個人的な趣味や生活レベルの「低次元」な情報要求に対しても、それをみくびることなく、学習の発展の契機として尊重して対応する姿勢が求められる。
 半田氏の問題意識は、児童サービスと成人サービスの谷間で、青年が図書館から離れていくのをなんとかしたいという気持から発している。そして、青年のこの「図書館離れ」をくいとめるためには、まず、青年の情報要求を的確につかみ、それにこたえていく必要があるというのである。
 そのほか、図書館を身近に感じ、使ってみたくなるように「ヤングアダルト新聞」を発行してまわりの高校に配ったり、レコードコンサートを開くなどの努力をしたりもしている。
 学習情報提供事業においても、一部の層がそこから離れていってしまったり、あるいは、特定の人のためだけの学習情報提供にならないよう、同様なあらゆる努力をすべきである。
第2節 学習情報提供における情報要求のほりおこしの実際

 情報要求の中には、学習者が自ら意識して実際に情報を求めてくる「顕在的要求」もあれば、まだ本人から求めてくるにはいたっていないが、なんらかの形で触発された場合には情報要求として具現化されるであろう「潜在的要求」もある。
 学習情報提供事業においては、顕在化された質問だけに答えているだけで良しとするのではなく、学習者が自らの「潜在的学習要求」や本当に必要な学習情報とは何かについて気づくよう援助することも一方で考えなければならない。
 ひとつには、学習者のそれぞれの実際の情報要求に応じる時に、相手が言葉に表していない「潜在的要求」まで察する努力をした上で、必要な情報の提供を行うべきである。
 さらに、次に述べる各種の情報提供においては、「潜在」を「顕在」に転化させるために、その他の積極的な働きかけが行われている。そして、それらは情報提供そのものにも効果的にむすばれている。このような取り組みにより、学習情報提供の価値がいっそう高まるのである。
1 自由にみちた文化度の高いイベントを開催する
   〜大阪府立文化情報センター〜

 昭和56年11月、大阪のビジネス街の中心、中之島のビルの5階に「大阪府立文化情報センター」が誕生した。教育委員会の主管であるが、全国で初めて「文化」情報センターと銘うち、はばの広い学習情報を提供している。
 その最大の特色は、民間の文化・学習情報をあえて扱うことにいちはやくふみきったことであろう。
 「文化情報センターの概要」によると、その運営の特色について「民間情報は企業の営利にかかわるから触れてはならない、というのがこれまでの行政側における伝統的な考え方であったが、当センターではカルチャー・センターから、音楽、映画、演劇、サークル活動にいたるチラシまで、文化活動や生涯学習に関する情報であれば、公・民を問わずすべてを扱っていることである。このことは、文化活動、生涯学習の多くが民間によるものであり、民間情報を扱わない情報センターは意味がない、という見解に基づくものである。」と明言している。市民サークルのものはもちろん、営利を目的とした催しのチラシまでもが、センターの「イベント情報コーナー」に置くことができ、市民は自由に持ち帰れるのである。
 また、ホールやセミナー室があり、その会場提供も行っている。そこでは主催者が参加者から会費を徴収して催しものを行うことを認めている。このことについて「概要」では、「営利行為を認めないことについては、文化情報センターも同様であるが、催しものを成立させるために必要な経費の徴収をいっさい認めないということでは、公的施設における文化・学習活動は、おのずから厳しい制約を受けることになりかねない。」と述べている。
 このように、大阪府立文化情報センターは、情報提供側の都合を優先するのではなく、まず、市民の文化の実態に歩みよって、それを援助しようとする姿勢をもっている。
 この姿勢のもとに、文化・学習にかかわるイベントなども開かれている。
 その特色は、民間団体と共催して臨機応変にどんどんセミナーなどの事業を組んでいることである。「概要」では次のように述べている。「設置の趣旨に沿った良い企画であれば、センターの側から積極的に共催を申し出て、施設の使用料を免除し、事業のPRにも協力している。ある事業を行政が主催なり、後援をするには、かなり厳格な基準に拠るのが通例であるが、当センターのような施設にあっては、共催の基準を緩やかにするほうが、『文化・学習活動の活性化のため』という設置の趣旨にかなうとの配慮から打ち出した方針である」。
 結果的には、このようにして、専門性の高い民間の「文化力」を借りることによって、センターの事業の「文化度」は高いものになっているのである。
 大阪府立文化情報センターは、作家などの文化人が手弁当で応援していることで有名である。センターは彼らの「連絡場所」にもなっている。それは、文化を育てようとするこれらの人々の気持をひきつける魅力が、センターの豊かで自由なイベントの中にあふれていることが一つの理由になっていると考えられる。
 「文化のプロフェッショナル」としての文化人の支持を得ていることは、学習情報提供にとっては大きなメリットになる。新鮮で文化度の高い情報が、センターで日常的に行き来することになるわけである。センターがもつ「文化的人脈」も、その人たちを通して次から次へと広がっていく。
 そして、それらの高度な情報がイベントの質を高める。今や豊かな文化・学習情報なくして、質の良い事業は打てない時代なのである。
 もちろん、センターで行う事業の効果は、より直接的には、一般市民に対して発揮される。
 ひとつには、市民ひとりひとりの学習情報要求が深化し発展する。講座などに参加することによって、その人の関心は深まり、学習情報要求が前よりも深化する。しかも、その人のそれまでの学習情報要求は、あくまでもその人の既成の概念の枠からしか発しえないのに対して、文化的インパクト(衝撃力)のある事業は、その枠をとりはらい、新たになまなましい学習情報要求を誘発する。
 もう一つの機能は、そこで集う市民の「文化のネットワーキング」の促進の効果をもたらすことである。ひとりひとりの「個別的文化」ではなく、市民どうしや市民と団体との自発的な文化のネットワークの契機となる。
 そのことによって、「個人個人が一方的に学習情報を問い合わせてくるだけ」という状態を克服できる。なぜなら、市民のあいだでいきいきとした文化情報の行き来がなされるであろうし、市民からセンターへの情報提供もなされるようになるからである。
 このように、センターにおける事業は、市民の学習情報要求や文化・学習に対する「構え」そのものを変容させ、発展させる契機となっている。また、その変容・発展が、学習情報提供事業の内容をもいっそう豊かにしている。
 大阪府立文化情報センターの情報提供が、このようなプラスの循環作用を実現できたのは、民間の高い文化度を活用してインパクトを与えられるだけのレベルを保っていること、行政から市民への文化の「おしつけ」にならないよう、高い自由度を確保していることの二つによるところが大きい。
2 学習情報がひろく活用されるよう、「動態的」にサービスする   〜調布市立図書館の読書会活動〜

 人口19万人の調布市には、図書館が中央館1館と分館10館が半径800メートルに1館の割合で配置されている。
 この豊かな図書館網が実現した理由として、本や図書館に対する市民の高い関心があげられる。そのような高い関心を育ててきた図書館の運営方針は次のとおりである。
 (前文略)
 ・ 買い物カゴを下げて誰でも気軽に立ち寄れる図書館づくりを  目指し、市民のだれもが自由に図書館サービスを受けられる様  にサービスの拠点を広げていく。
 ・ 座して利用を待つという静態的な活動に終始することなく積  極的に図書館側から市民に働きかける動態的な図書館活動を目  指す。
 ・ 略(児童サービスについて)
 ・ 市民の身近なところで文化的事業(講座、講演会、著者を囲  む読書会、座談会、名画鑑賞会等)を開催し、文化創造の拠点  として積極的な図書館活動を展開する。
 ・ 略(職員研修について)
 つまり、「市民のだれもが」「買い物カゴを下げて」利用する図書館づくりのためには、分館網の拡大や文化的事業など、図書館側から働きかける「動態的」活動が重要だというのである。
 元調布市立図書館長の萩原祥三氏は、「従来の図書館奉仕(図書館サービスのこと・・筆者)の概念は静態的であり、建物即図書館であると考え易い。図書館を、建物も奉仕員も資料も一切含めた、奉仕のための経営体と考え、動態的な、奉仕(サービス)という価値を産みだす有機的な機能体(オルガン)と考えるべきである。」として、「成人への働きかけを積極的に行い、不読者層の開拓を行う」ことの大切さを早くから主張していた。
 当時の図書館は、まだ、「座して利用を待つ」静態型のものが多かった。そのままでは、受験生の「自習室」か、せいぜい一部の市民への奉仕以上のものにはなりえない。
 学習情報提供事業が、今ちょうどそのような創成期にある。「座して待ち」、その結果、学習情報ニーズをもっている市民はごく一部であったと嘆くような姿勢なら、早晩その事業はたちぎえとなるだろう。
 情報を使いこなす能力のある人は、情報を駆使してますます自己の情報に関する意欲と能力を磨き続ける。情報をうまく使う習慣のない人は、いつまでたっても情報と疎遠である。「情報格差」は、このようにして広がっていく。図書館利用でも、学習情報活用でも同じことがいえる。
 学習情報提供は、すでに学習に親しんでいて学習情報を自由に活用できる市民のためだけのものになってはならない。「動態的サービス」による「学習情報要求のほりおこし」が必要である。
 しかし、萩原氏は次のようにもいう。「図書館は奉仕することによって、市民に必要な価値を創るが、それは市民が利用するという実践行為によってである。また図書館は市民の要求によって創られるべきである。自由な市民の利用を基本の原則とする図書館は、強制することはできない。しかし、図書館思想が市民に浸透しない限り、図書館は実現しない」。この「ジレンマ」はどうしたら解決できるのだろうか。
 調布市立図書館では「小学生読書会」を行っている。「大方は、子どもが関心を持ちそうなテーマを一つ設定し、このテーマに合う本を紹介したり、話し合いや実験や工作をしていく」ものである。たとえばそこで、「名前・なまえ」(佐久間英著・ポプラ社)という本をもとに「自分の姓は全国で何番目ぐらいだと思うか」などのクイズをしている。そして「読書会」の終了後、「この本を読みましょう」という「指導」をしなくても、「普段あまり借りられなかった」その本が借りられていく。「名前についての学習要求」は初めは「潜在的」だったのだが、この読書会によって触発され、あとは子どもが自発的にその本を借りていったのである。
 学習情報提供事業における「動態的サービス」も、「強制」であってはならない。押しつけでない形で、学習情報提供事業への市民の関心と支持を獲得しなくてはならない。
 市民の自発性や自由の尊重と、市民への図書館思想の普及の両方の理念を徐々に、しかし、ともに実現することをめざして、当時の萩原館長はみずから市内の読書会などをかけまわった。
 学習情報提供を行う者も、情報の収集・整理能力がすぐれているだけではこと足りない。地域のさまざまな場所・機会において学習情報の提供をし、館の内外で学習情報の「専門家」として、その入手や活用の方法に関する専門的・技術的援助を行う必要がある。
 しかも、それは、市民に対する強制や押しつけになってはならない。そのためには、市民と直接、対等に関わり、市民とともに考える姿勢が必要である。
 そうしてはじめて、いきいきとした学習情報も集まり、また、それをひろく市民に提供できるのである。
                              脚注

1)中野区教育委員会社会教育課編集責任 「'86 中野の社会教育事業等プラン1年」、中野区・中野区教育委員会発行、1986.
2)江東区文化センターについては、恩田大進 「カルチャーセンターの戦略と成果」、社会教育第41巻第6号、全日本社会教育連合会、1986、P.33〜43.
3)仙台市中央公民館情報コーナーについては、月刊公民館編集部 「仙台市中央公民館の情報コーナー」、月刊公民館第330号、全国公民館連合会、1984、P.20〜264)仙台市中央公民館 「情報コーナーの概要」、1985.
5)半田雄二 「図書館職員として青年とどうつきあうか」、むさしのインフォメーションマニュアル・・・、東京都武蔵野青年の家、1984、P.48.
6)半田雄二 「公共図書館の『青年問題』」、図書館雑誌Vol 75,No5 、日本図書館協会、1981、P.243.
7)前掲 「図書館職員として青年とどうつきあうか」、P.48.
8)大阪府立文化情報センター 「文化情報センターの概要」、1986.
9)調布市立図書館 「昭和61年度版 数字で見る図書館活動」、1986.
10)萩原祥三 「現代の図書館像を求めて」、ひびや101号、東京都立日比谷図書館、1970.なお、本論は同氏 『買物篭をさげて図書館へ』、創林社、1979、P.100〜109に収録されている.
11)同 「現代の図書館像を求めて」.
12)「小学生読書会スケッチ 名前・なまえ」、図書館だよりNo.118、調布市立図書館、1986.

章のまとめ

 学習情報を提供するにあたっては、まず、市民の求める学習情報を提供することが大切である。そのためには、実際には次のような点に留意する必要がある。
1 一般行政の教育的事業などの学習情報も含めて、それを学習者の立場 に立ってわかりやすく編集・加工して提供する。
2 自主的な教育・学習活動や、時にはカルチャービジネスなどの民間の 学習情報も含めて、民間の活力にあふれる生涯学習の情報を提供する。3 政治・宗教・営利に関する学習情報など公共性の観点から取り扱いの 難しい情報の要求に対しても、機械的に切り捨てるのではなく、問題意 識を持って柔軟かつ主体的に対応する。
4 青少年などの「低次元」と思われる情報要求に対しても、みくびるこ となく、学習の発展の契機として尊重して対応する。
5 コンピュータ利用などによって、大量の情報の整理と迅速な提供をは かる一方、学習情報を求めてきた人との対話を大切にし、表面には現れ てこない潜在的な学習情報要求にもこたえられるよう努める。
 次に、潜在的な学習情報要求をほりおこすことによって、市民の学習情報要求それ自体の発展を援助し、また、学習情報がひろく市民に活用されるようにすることが大切である。実際には次のような働きかけが考えられる。
 1 衝撃力のある文化度の高いイベントを開催する。
2 「座して待つ」のではなく、地域のさまざまな場所・機会において、 学習情報を提供する。
3 学習情報の「専門家」として、ひろく市民に対して、学習情報の入手 や活用の方法についての専門的・技術的援助を行う。
 ただし、これらの働きかけは、けっして強制や押しつけであってはならない。市民の自由と主体性を尊重し、市民と対等に接してともに考える姿勢が必要である。

重要事項の解説                 

学習相談
 市民が学習情報の提供を求めてきた場合、それに実際に対応する過程において、単純な情報提供だけにとどまらずに、「学習相談」としての要素が付随的に生まれる。
 「学習相談」とは、求められた学習情報を機械的に提供するだけでなく、双方のコミュニケーションをはかりながら、学習者の「個々」のケースに対して最適と思われる個別的な対応をすることである。
 特に、市民の側から学習上の悩みが出された場合、また、本人はまだ気づいていなくても、学習情報提供側が本人の学習の推進にあたっての問題などを察知しえた場合は、「説教」ではなく、カウンセリングマインドにみちた「相談」機能を積極的に発揮する必要がある。

カウンセリングマインド
 学習情報提供や学習相談が、本当に市民の生涯学習を援助するものになるためには、学習における市民の主体性が損なわれず、むしろ発展するように心がける必要がある。
 そのために、これらの対応において、カウンセリングマインドが基本的態度として重要になる。それは、相手の気持を理解しようと最大限の努力をすること、そしてそのことにより、相手がみずからの力で学習主体としての人格的発達を実現することができるように援助することである。
 実際には、まず、相手の話を「こころを傾けて」聴くことである(傾聴)。その他、「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などのカウンセリングの技法も参考になる。
 カウンセリングマインドにあふれた対応によって、相手は自己の学習阻害要因や学習要求についても、みずから気づくことができるのである。       
非提供情報
 仙台市中央公民館情報コーナーでは、「営利性が高いもの」、「政治、宗教、思想の宣伝活動に関するもの」、「その他、教育委員会が適当でないと認めたもの」については、その学習情報を提供しないことになっている。
 また、情報公開制度の適用除外事項としては、「個人のプライバシーに関する情報」、「企業・団体の秘密に関する情報」、「事務・事業の公正又は円滑な運営を妨げるおそれがある情報」、「法令秘に関する情報」などがあげられる。
 その他、図書館のレファレンスサービス(参考調査)では、医学的判断を伴うものなど、医者や弁護士などの専門職の仕事に関わる回答はしない。
 これらの情報の「除外」は、それぞれ正当な根拠があり、学習情報提供においても同様な注意が必要である。しかし、それとともに、「非提供」の枠に「安住」せずに情報ニーズにこたえようとする鋭い問題意識も必要である。

参考図書
 「読むための本」に対する「調べるための本」。レファレンスサービスを効率的に行なうために、図書館ではかなり重視される。
 「情報を縮約ないし編成して項目にまとめ、それらを一定の方式にしたがって配列した冊子体の図書であり、それは、通常、そのなかに収録されている情報が容易に検索できるように編集されている」(長 雅男『情報と文献の検索』)ものである。参考図書には、オリジナルな見解などは混じらない。しかし、すでにあるたくさんの情報から必要な情報を探しだすには、非常に便利な道具となりうる。
 学習情報についていえば、劇場・映画館のリスト、公共施設総覧など、学習・文化・スポーツ・レクリエーションに関する施設、事業、団体、人材などを「縮約・編成」したものが、この参考図書と同様の役割をはたす。
 参考のため、学習情報の「参考図書」にあたるもののうち、全国規模のもので、まだ広く気づかれてはいないと思われるものの例を、以下にあげる。
〔施設〕…「ユースホステル−団体利用の手引き 合宿ハンドブック」、日本ユースホステル協会、 1 9 8 6  団体で合宿のできるそれぞれのユースホステルについて、スポーツ、野外活動、文化、音楽、研修会などに関する施設・備品・周辺施設の情報を掲載している。〔事業〕…「る〜んる〜んこ〜る ' 8 6」、電気電信共済会、 1 9 8 6
  1 2 , 0 0 0のテレホンサービス情報を収録している。その中には、たとえば新聞社の行なう「テレホン英語ニュース」など、学習関連サービスも含まれている。
〔団体〕…「日本の青少年団体−第1集−中央団体編」、中央青少年団体連絡協議会、 1 9 8 5
 各団体の目的・内容・組織・事業・沿革・機関紙・施設・加入資格などについて掲載している。
〔人材〕…「現代日本執筆者大事典 7 7/ 8 2」、日外アソシエーツ、全5巻、第5巻(索引)は 1 9 8 6
  1 9 7 7年から 1 9 8 2年までの間に日本で執筆・公表した人の略歴、専攻分野、著書が掲載されている。第5巻には、事項索引もついている。

参考文献

○ 西村美東士 「学習情報提供事業の企画と展開」、岡本包治他編『社会教育の計画とプログラム』全日本社会教育連合会、1987
 社会教育行政が学習情報提供を行なうにあたっての、三つの基本的問題と十の留意点を述べた上で、「生涯学習情報提供事業の機能例一覧」「情報の種類・内容・収集方法」「情報の流れ」のそれぞれについて、その実際の姿を図表化したものである。
○ 國分康孝 「カウンセリングを生かした人間関係・教師の自学自習法」、  社、 1984
 初心者にもカウンセリングの基本がわかるように書かれている。そして、非指示的方法ばかり強調するのではなく、カウンセリングの立場から「情報提供」や「アドバイス」の効用と注意すべき点にもふれている。そのため、本来は教師向けに書かれた本であるが、学習情報提供においてカウンセリングの理念と技法を実践的に生かしていくためにも、直接の参考になるはずである。
○ 長 雅男 「情報と文献の探索−参考図書の解題−」、丸善、1982
 図書館のレファレンスサービスの考え方と、情報探索の「道具」としての参考図書の種類と活用の実際について書かれている。学習情報の「参考図書」の活用を考えるにあたって、示唆に富むものである。また、たとえば「全国図書館案内」(三一書房)など、ここで多数紹介されている参考図書そのものも、実際の学習情報提供においては利用できる機会も多いと思われる。

設問
 行政の行なう教育的事業に関する学習情報を収録したガイドブックを作成する場合、留意すべき点を3つあげよ。(それぞれ60字程度)
解答
1、教育委員会の事業だけでなく、一般行政部局が住民に対して行う学習・文化・スポーツ・レクリエーションの事業までをも広く収録する。
2、各部局の事業を安易に部局ごとにまとめるのではなく、住民が情報を検索しやすいよう、対象や内容によって分類・配列する。
3、各部局の教育的事業の担当者による編集会議などを開くことにより、学習情報の的確な収集と、各部局の生涯教育事業の整合化をはかる。
解説
 この場合、「教育的事業」とは、教育を主要な目的とする事業だけとは限らない。また、学習機会の提供だけではなく、施設提供なども含む広い概念である。

設問
 公的な学習情報提供において、民間の学習情報も含めて収集・提供することによって期待できるメリットを5つあげよ。(それぞれ50〜60字程度)解答
1、学習情報の選択のはばが広がり、学習者は自分でその中から必要な情報を選択することができるようになる。
2、民間の専門的で高度な「文化力」のある学習情報を提供することによって、学習情報提供の文化的水準を高いものにすることができる。
3、自主的なグループ・サークル活動の情報を提供することによって、それに参加する人を増やし、自主的活動の充実を期すことができる。
4、民間の学習ビジネスの情報を提供することによって、それらの学習関連サービスをより活性化することができる。
5、民間の活力にあふれる学習情報を提供することによって、学習情報提供事業自体を活気のあるものにすることができる。
解説
 1は学習情報の拡大、2はその質的向上、3と4は民間の学習活動の活性化、5は学習情報提供事業自体の活性化に関する事項である。

設問
 公的な学習情報提供における「非提供」の情報の種類を3つあげよ。そして、それぞれについて、例のように、情報提供すべきでない事項と、それに類するけれども提供すべき事項の両方を、対照的な具体例で示しなさい。
(例)、営利に関わる情報提供・・非提供−「もっとも良いと思われるスイミングスクール」、提供−「市内のスイミングスクールの、それぞれのカリキュラム」
解答
1、政治・宗教などの宣伝活動に関わる情報提供・・非提供−「○○教の布教活動を行うための適当な会場」、提供−「○○教の信者が集まってスポーツ大会を開くための適当な会場」
2、個人のプライバシーに関わる情報提供・・非提供−「茶道について問い合わせしてきた人のリスト(茶道サークルの会員募集のため)」、提供−「本人の申し出などにより、茶道の指導者として人材バンクに登録されている人のリスト(茶道の指導を依頼するため)」
3、専門職の仕事に属する情報提供・・非提供−「糖尿病の治し方」、提供−「糖尿病の人たちが、その克服のために活動しているグループ」
解説
 1は「布教活動」と「その他の活動」、2は個人情報の提供に対する本人の了解の「無し」「有り」、3は「医学的情報」と「団体情報」という点で、それぞれ対照的である。これを参考にして、「提供」と「非提供」の区別のあり方について考えていただきたい。

設問
 学習情報提供事業において「動態的サービス」として必要と考えられるものを3種類あげ、もっとも基本的なねらいを、それぞれ、ひとことで示しなさい。
解答
1、イベントの開催・・市民の学習情報要求の深化・発展
2、地域での学習情報提供・・学習情報提供事業の利用者層の拡大
3、学習情報の入手・活用に関する専門的・技術的援助・・市民の学習情報に対応する能力の形成
解説
 1については、インパクトをもつイベントであることが条件になる。なお、イベントの開催により、「学習情報提供事業への関心の獲得」、「学習情報の流通」、「ネットワークの自発的形成」なども期待できる。しかし、これらは、特別にそれをねらいとするイベント以外では、副次的効果としてとらえるべきであろう。3については、2と異なり、利用者層の拡大を直接ねらうものではなく、学習情報提供事業を現に利用している人も対象にして、学習情報のための基礎能力の形成をはかるものである。

重要事項の解説                 
学習相談
 市民が学習情報の提供を求めてきた場合、それに実際に対応する過程において、単純な情報提供だけにとどまらずに、「学習相談」としての要素が付随的に生まれる。
 「学習相談」とは、求められた学習情報を機械的に提供するだけでなく、双方のコミュニケーションをはかりながら、学習者の「個々」のケースに対して最適と思われる個別的な対応をすることである。
 特に、市民の側から学習上の悩みが出された場合、また、本人はまだ気づいていなくても、学習情報提供側が本人の学習の推進にあたっての問題などを察知しえた場合は、「説教」ではなく、カウンセリングマインドにみちた「相談」機能を積極的に発揮する必要がある。
カウンセリングマインド
 学習情報提供や学習相談が、本当に市民の生涯学習を援助するものになるためには、学習における市民の主体性が損なわれず、むしろ発展するように心がける必要がある。
 そのために、これらの対応において、カウンセリングマインドが基本的態度として重要になる。それは、相手の気持を理解しようと最大限の努力をすること、そしてそのことにより、相手がみずからの力で学習主体としての人格的発達を実現することができるように援助することである。
 実際には、まず、相手の話を「こころを傾けて」聴くことである(傾聴)。その他、「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などのカウンセリングの技法も参考になる。
 カウンセリングマインドにあふれた対応によって、相手は自己の学習阻害要因や学習要求についても、みずから気づくことができるのである。       
非提供情報
 仙台市中央公民館情報コーナーでは、「営利性が高いもの」、「政治、宗教、思想の宣伝活動に関するもの」、「その他、教育委員会が適当でないと認めたもの」については、その学習情報を提供しないことになっている。
 また、情報公開制度の適用除外事項としては、「個人のプライバシーに関する情報」、「企業・団体の秘密に関する情報」、「事務・事業の公正又は円滑な運営を妨げるおそれがある情報」、「法令秘に関する情報」などがあげられる。
 その他、図書館のレファレンスサービス(参考調査)では、医学的判断を伴うものなど、医者や弁護士などの専門職の仕事に関わる回答はしない。
 これらの情報の「除外」は、それぞれ正当な根拠があり、学習情報提供においても同様な注意が必要である。しかし、それとともに、「非提供」の枠に「安住」せずに情報ニーズにこたえようとする鋭い問題意識も必要である。

個としての主張を援助する「コミュニティ」志向の新しい民間教育事業
 〜東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE〜
1 BEすなわち個の存在の主張
 BEは、その名のとおり、個人の人間としての「存在」に関わって、その創造、確認、さらには地域コミュニティレベルでの活動などを援助することを目指している。
 渋谷駅南口を降りると、すぐ目の前に渋谷東急プラザがある。その7階と8階に東急クリエイティブライフセミナー渋谷BEがある。
 7階の受け付けカウンターの向かいは、ゆったりとしたロビーである。そのテーブルといすは、暖かみを感じさせる木製のものである。まわりの壁などの全体の色も、淡いピンクを基調としている。そのため、フロアー全体が親しみやすい感じをもっている。
 モダンな雰囲気もあるが、それ以上に暖かでアットホームなムードがだいじにされている。このムードづくりの基本方針は、あとで説明するようにBEが「おとな」の女性を主要なターゲットにしていることにも関係している。
 このような「暖かな」雰囲気の中で、会員自らの手作りのさまざまな「作品」が陳列されている。各教室の前の壁や廊下に、絵画やクラフトなどが展示されているのである。
 その一つに会員の「ラッピングコーディネーション」の作品を展示している小さなコーナーがある。今の世の中、贈り物といってもその品物はお店にお金をはらって買うだけ。せめて、包装やリボンなどには贈り手の演出をという穏やかではあるが確かな自己主張志向の表れである。
 普通のビンを和紙で上手にくるむなどという作業の中に、会員の意思とアイデアが存分に発揮されている。柄杓(ひしゃく)の柄をラッピングしたりなど、とても斬新な発想である。
 BEのパンフレットには次のようにある。
「BEとはbe動詞のBE。『ある』『存在する』『〜になる』という意味を持つ言葉であり、個としての存在を証明し、主張する言葉でもあります。I think,therefore I am.−−−−−『われ思う、ゆえにわれあり。』人間のすべての行動の原点として文化をとらえ、自分自身の存在確認を行う場所。そして、それぞれの人々が、それぞれの生き方を創造し、確認する空間となることを願って、この新しい空間を『BE』と名付けました。」
 「教養」としての知識の向上より、むしろ存在確認としての「文化創造」をアピールしようとする姿勢である。
 今回の取材で、BEの副総支配人の櫻井さんに、お忙しい中、インタビューに応じていただいたが、櫻井さんは「今まで絵画などばかりでなく、教養面の講座でも『つくる』ことに力を入れてきた。今後もそうしたい。」と言っているのである。
 ファッションとしての教養ではなく、人間存在に肉薄する文化創造に民間教育事業がアプローチしようとしている。しかも、そのやり方は「民間教育事業」らしく、スマートかつファッショナブルなのである。
2 若者の街、渋谷の中で
 渋谷は新しいタイプの町である。通りが、店が、そして電話ボックスまでもがしゃれている。
 渋谷の街づくりのこの明らかな成功のカギとなったのが、西武パルコである。駅からちょっと歩かねばならず、決して立地条件がいいとは言えない所、「公園通り」を若者のメッカにしてしまった。
 他にこの通りには若者の「文化拠点」として「ジァンジァン」がある。これは、教会の地下にある劇場で、最先端の文化活動が行われている。
 そして、東急系のデパートとして「ハンズ」がある。これはクリエィティブライフストアーと銘打ち、「手づくり」のブームを生み出した店である。最近は、その近くに、西武系の「雑貨屋」イメージのデパート、ロフトがオープンしている。
 たとえば、ハンズはデパート会社の系列ではなく、東急不動産の子会社としてオープンした。そして、それまでの流通業の人たちの常識では考えられないデパート経営をした。店子(たなこ)に場所を貸すのではなく、いいものを探して買い取って来て自らが売るのである。
 若者に受けている店は、表面的には従来どおりモノを売っていて、それがよく売れているだけにしか見えないのだが、このように本質的には何かしらの「情報」を売りものにしている。どこも若者に誇れるような情報のアンテナを持っていて、それによって得た新鮮な情報を売場での「品揃え」の形などでアピールするのである。「なぜ渋谷だけが」と他の街が歯噛みをするほどの勢いの差も、その情報の魅力の差から生まれる。
 それでは、渋谷BEの存在する「渋谷東急プラザ」もこの「波」の中にあるか。実はそうではない。駅前ではあるのだが、国道などによって分断された立地である。そして、駅から少し離れた公園通りより、かえって波に乗りにくいのである。それゆえ、「プラザ」の店の品揃えは、むしろアダルトの特に女性重視である。BEも「プラザ」の階上にあるのだから、当然その影響を受けている。
 しかし、それでもBEは常にこの公園通りの「渋谷」を別物ではなくライバルとして意識している。櫻井さんの言葉のはしばしにその意識が表れているのである。若者の意識をひきつけるものは何なのか。逆に若者がそっぽを向かないようにするためのコツはないのか。情報やノウハウは、どのように手に入れたらよいか。若者のニーズへのこのような鋭い感受性がないと、誰を相手にする商売でも成功しない。情報ソフトが肝心なのである。
 学習機会も同じであろう。たとえば、若者に魅力があるネーミングは、基本的には中高年にも心地よいのではないか。このように、BEはもっと年上の「おとな」の学習にも、うまく渋谷の「若者センス」にあふれた情報力を活かしながらアプローチしていると言える。
3 地域レベルの学習の場をめざす
 BEは東急電鉄の生活情報事業部の一事業として行われている。だから、櫻井さんも電鉄マンの一人だ。
 東急電鉄は、田園調布や田園都市線などに代表されるような沿線の地域開発、しかも大都市サラリーマンの高級ベッドタウンとしての開発を手がけてきた会社である。電車やバスなどの足の確保はもちろん、宅地造成、駅ビル、流通などもやってきたのである。
 そして、BEもこの地域開発の視点から発想されて誕生した。櫻井さんは言う。「地域開発が一段落して、物的な充足がなされると、次には健康、さらには文化に人々の目が向けられるはず。そこで、これらのニーズへの対応として、まずは拠点である渋谷に本拠地としてのBEをおいたのです。」
 東急がこの事業に参入した昭和58年の当初のパンフレットの「あいさつ」にもすでに、「(BEは)『人間の豊かさを求める』東急グループが展開している文化事業の一翼を担うと共に、総合的な街づくりの一環としての地域コミュニティ活動の面でも重要なファクターとなるものと位置付けております。」と書かれている。
 つまり、東急沿線の地域レベルで文化的な活動を充実させることが、BEの第一義的役割と言えそうである。
 実際にもたとえば「ジョイガーデン英会話サークル」をやっている。「ジョイガーデン」というのは、同じ生活情報事業部の持っているファミリーレストランである。
 その鷺沼店とたまプラーザ店という所で、朝の仕込みの空き時間を利用して英会話教室を行っているのである。コーヒー・教材費を含めて全十回で一万七千五百円。チラシには、これらの講座の企画・運営について「BEが責任を持って担当いたします。」と明記されている。
 名称はあくまで「サークル」である。櫻井さんは「教室形式ではなく、自宅のリビングルームのような雰囲気をねらっている。」と言う。プログラムの内容も「教科書英語」ではなくいわば実際の状況に応じた「会話センス」を主眼にしている。
 さらには「地域コミュニティ活動」の場として、各主要沿線駅ごとにBEを作っていくという。年内に池上線雪谷大塚駅の駅ビルができるので、そこにまずは4教室でオープンする予定である。
 民間教育事業に「地域コミュニティ活動」そのものを考えるようなメタな学習は無いとしても、それ以外の「地域コミュニティ活動」の一部としてのこのような学習ならば、たとえば健康や文化に関する活動などに、民間が積極的に取り組んでいく意義と可能性は今後充分に考えられるであろう。
 なぜなら、たとえばファミリーレストランなどは今やいたるところに「配置」されていて、考えようによっては、それらは「下駄ばきで行ける」現代的学習施設に充分なりうるのであるから。
4 新しい時代の要請にこたえる内容とネーミング
 最後に、櫻井さんに最近の特徴的な講座を御紹介いただいた。一つは「まったく初めての人のために」というシリーズであるという。
 まだ一年も経過していない試みであるが、人気があるそうだ。たとえば、このうちの「絵画入門」の前半の3カ月は各種の絵画についてのレクチャーだ。後半の3カ月は実技中心だが、道具は買い揃えなくても貸してもらえる。このようにして、学習層の底辺の拡大までも成功裏に行われているのである。
 これは、他でよく見かける「初心者入門講座」と、大きな差がある。「まったく初めての人のために」なら、「昔から関心があった」という人ではなくても、退職などに際して「まったく初めてだが、この際、生涯計画に位置づけて始めてみたい。」となりうる。そして系統的に学習していくうちに、その中でも何が特に自分に合っているかがわかってくる仕組みである。
 その他、「もう一度学ぶ人のために」というシリーズがある。たとえば日本史の「ポイントだけをスピーディーに」高校の先生が教えてくれる。
 ひと昔前ならば、ある芸術部門の系統的な把握や、学校時代に習ったことの「復習」のための教育事業などは、一般の学習者にとって直接の利益になるわけでもないので魅力に乏しく、商売として成立する条件にはなかった。
 しかし、そんな新しい学習ニーズが、生涯教育時代の中で表れ始めている。BEは、その端緒を素早くとらえて、企画内容においてもネーミングにおいてもさっそくそれに対応している。
 以上のようにBEの文化創造、地域コミュニティ活動、系統的学習、学習層の拡大などを見てくると、そのコンセプトに大いに学ぶ点があると同時に、特に都市部における公的事業の役割についてはもう一度見直す必要を感じさせる。
 もちろん、公民館などでも「地域での学習」や学習層の拡大のための「入門講座」をやっている。しかし、それだけでは民間との差がなくなりつつある。やはり、次には、「地域で」だけでなく「地域を」学習するなどの学習課題論に立ち入らない限り、成人教育事業の提供体としての「公」と「民」の「棲み分け」の説明はできなくなってきそうなのである。

「生涯学習の方法」第1単位「生涯学習の原理」

□第一単位「生涯学習の原理」の学習目標
 第二単位からは、生涯学習の方法を具体的に学ぶことになるが、それらの方法を一つ一つ知り、身につけ、つなぎあわせるためには、ある重要な基本的原理について考えておかなければならない。その原理とは、生涯学習における「個人性の原理」である。この原理について理解し、その実際の姿と、この原理の応用のあり方について学ぶ。
 その上で、多様なメディアを活用して生涯学習を援助できるようになるために関連するメディアを概観し、おおよその特徴を学ぶ。
 主要には、次のような問題について答えられるようにする。
1 生涯学習における「個人性の原理」の意味と意義は何か。
2 個人の学習活動はどのような段階を踏んで発達するか。そして、それぞれの段階において必要な援助は何か。
3 生涯学習において利用されるメディアの種類とそれぞれの特徴は何か。
4 生涯学習においてメディア活用を進めるための方策は何か。

□第一単位「生涯学習の原理」の本文
対話・生涯学習に「原理」はあるか
A:こんにちは。きょうは、生涯学習の原理について考えるということでしたわね。なんか、むずかしそう・・・。
B:いやぁ、私もなんだかむずかしそうな感じがしていたところなんです。それに、自分たちは自由にのびのび生涯学習を楽しんでいたつもりなんですが、「原理」だなんていわれると、ちょっとね。
C:はいはい、おふた方のご心配はもっともなことです。私としても、みなさんに安易に「生涯学習の原理」だなんて言ってほしくない気持ちのほうが、むしろ強いんですよ。
A:ええっ。
B:あれまあ。
C:なぜなら、生涯学習は個人の自発的意思▲によるものですからね。外側から、「こうあるべきだ。」なんていう「原理」はないと思います。
B:それじゃあ、なんで。
C:はい、ここで考えようとしていることは、生涯学習の方法を考えるにあたっての原理なんです。しかも、もっぱら学習する個人がどうすべきかではなく、主にみなさん方のような生涯学習のボランティアや援助者が押さえておくべき基本として、その原理を学ぼうということです。
B:ふーむ、わかったような、わからないような。
C:つまり、生涯学習とひと口に言っても、その方法はいっぱいある。学習者はそのさまざまな選択肢から、まあ好きな方法で学習を進めるわけです。
B:そうですね。ですから、学習者に対して「あなたには、この学習方法が望ましい」などということは、私たち、軽々しく口にしてはならないと思っています。個人の適性▲なんて、そう簡単にわかりませんから。
C:そう、それは大切なことです。学習の方法にしたって、本人のトライアル・アンド・エラー(試行錯誤)によってこそ、自分にとっての最適の学習方法が見つかるのですから。ところが、学習援助者にとっては生涯学習の方法に関してあまりよく知らないということではすまされないのです。
A:それは、そうですわね。
C:このことに関連して何かお考えがありそうですね、Aさん。
A:ええ、私のところでは家族旅行をした時、ついでにそこにある博物館によく寄ってみるんです。
B:ほほう、とても知的なご家族ですね。
A:とんでもない。だいたいは物見遊山でしかないんです。その気分の延長で地元の博物館にも寄ってみるだけなんです。でも、そんな気分でいても、このごろの博物館は気楽に入れて、とても楽しく見れるようにできているんですよ。
C:ところで、生涯学習の方法について知っておく必要というのは。
A:はい、横道にそれて失礼しました(笑い)。このまえ博物館に行った時、ふと思ったんです。これも大切な生涯学習の一環ではないかと。なんだか、私たち、婦人学級とかサークルとかの活動だけに目を奪われていたけれど、生涯学習ってとても広いものなんでしょ。私たち学習ボランティアは、いろいろな学習の方法を知った上で、バラエティー豊かな学習機会を提示したり提供したりしたいものだと思ったの。
C:今、Aさんから、とても大切なことを指摘していただきましたね。学習の援助者はさまざまな学習方法を把握し、それらを有機的にむすびつけて学習機会を構成するなどの努力が必要だというわけです。その時の基本的な考え方に当たるものがここで学ぼうとしている「生涯学習の原理」なんです。
B:そこまでは、わかりました。でも、いくら、ある「原理」を打ちたてたところで、生涯学習が個人の自発的意思に基づき、さまざまに自由に行われるものだとすると、その「原理」は無力なものということにならないですかね。
C:はい、実はBさんの今おっしゃったことが、今回学ぼうとする「生涯学習の原理」そのものなんです。
B:ええっ。というと・・・。
C:生涯学習の動機▲は、それぞれの学習者個人の内部に存在し、そこから出発します。それを無視して、学習者の外側から何らかの学習をおしつけようとすることは、無駄なことですし、よくないことでもあるというわけです。これを「生涯学習の個人性の原理」と呼びたいと思います。
A:とすると、「生涯学習の個人性の原理」の立場に立った生涯学習の方法とは、どんなものでなければならないということになりますか。
C:正確にいうと、ここでは生涯学習の援助の方法ということになりますが。それはあくまでも「はじめに学習をしようとしている人ありき、学習をしている人ありき」という原則に立ち、つねに学習者自身の動機に基づきながら、その人の学習を援助するという姿勢で行われるものであるべきだということになります。そして、学習そのものも学習者本人が達成感を味わえるものでなければなりません。つまり、学習集団がトータルとして成果を得るよりも、ひとりひとりの個人が学習成果を得られる方法を考える必要があるのです。
B:そうですね。そうなればすばらしいと思います。でも・・。
C:Bさん、思い切って「でも」のあとを続けてくださいませんか。
B:ええ、それでは。実は、私、「今の若い者は」という言葉は言いたくないと、つね日頃思っています。でも、少なくとも若い人たちの現実の姿を考えると、Cさんのおっしゃる「個人性の原理」を適用することは、ちょっとどうかと思ったんです。
C:と、おっしゃいますと。
B:一口に言いますと、「自分だけよければ」、あるいはせいぜい「自分の家族や恋人さえよければ」という感じなんです。
A:今の青年に対して「ミーイズム」▲(注・ミーとは自分のこと)と批判する人もいますわね。
B:そう、そのミーイズムです。たとえ、本人の動機から発していると言っても、ミーイズムから発した学習などまで援助する必要があるんでしょうか。私は、若者にもっと社会や政治のことなどを論じてもらいたいと思ってます。個人を重視しすぎて、ミーイズムを助長させるようなことがあってはいけないと思うんですが。受験戦争の弊害と同じことが、生涯学習にまで現れてしまうと言ったら、言いすぎでしょうが。
C:なるほど、いわば望ましくない学習動機もあるというわけですね。
A:私もBさんに同感ですわ。けれど、もっと絶望的なこともあると思うんです(笑い)。私たちの社会教育学級でも、学級生が新しい学習仲間をふやそうと頑張っているんですが、特に若いお母さん方はなかなか入ってくれません。手を変え、品を変え、いろいろなテーマの学習に誘っているんですけれど(笑い)。子育てにいっしょうけんめいなことはわかりますが、同時に生涯学習だってとても大事なんだということをわかってもらいたいわ。本人に学習動機がある人に対してなら、「個人性の原理」もいいような気がするけれど、初めから学習動機をもってないという人に対してはどうすればいいのかしら。
C:そうですか。「個人性の原理」も、本人がなんらかの学習動機をもっていなければ話にならないということですね。
A:まあ、そうですね。私たちが気づかないだけで、何かを学習したいとは思っているかもしれないけれど、それはちょっとわかりようがないんです。
C:ふーむ。実は、今お二人から出された疑問は、「生涯学習の個人性の原理」を考える時だけでなく、公がなぜ個人の生涯学習の援助を行うのかを考えるにあたっても本質的な課題なのです。
A:B:???(不可解な表情)
C:生涯学習を行う個人と、いわばその人の社会的環境の一つとしての生涯学習のボランティアや援助者との関係やいかに。この単位の読者も、自分なら今の問題をどう整理するか考えてみてください。
 それでは、今の問題意識を念頭に置きながら、「生涯学習の原理」を探ることにしましょう。

1 生涯学習における個人性の原理
1−(1) 個人性の原理
 ひとはなぜ学習するのか。なんらかの新しい知識・技能・態度を獲得しようとするからである。
 それではなぜ、そのようにして新しい知識・技能・態度を獲得しようとするのか。それは、このような知識・技能・態度の獲得によって、
1 精神的な充実
2 身体的な健康
3 職業的な成功
を得ようとする要求を満足させるためであると考えられる。
 そのことから、学習はあくまでも「その人自身」がよりよき知識・技能・態度を獲得するためのものであり、その目的も直接的には「その人自身のため」ということができるのである。
 すなわち、学習とは個人が行うものであるということができる。
 蛇足になるかもしれないが付け加えておくと、「その人自身のため」というのは、親が子どもに「勉強するのはだれのためでもないのよ。あなた自身のためなのよ。」という時のこころとほぼ同じであると思ってよいが、それは決して、いわゆる「教育ママ」のような利己主義、出世至上主義、打算的な意味合いのものではない。
 そのわけについては、ぜひ、よく考えてもらいたい。結論だけいえば、本当の「精神的充実」、「身体の健康」、「職業的な成功」は、利己主義的な考え方ややり方では得られないのである。このことが理解されなければ、ここでいう「個人性の原理」も自信をもって応用し、実現することができないであろう。
 さて、学習とは個人が行うものであるとすると、集団学習は学習ではないのか。そうではない。集団▲の中で、多かれ少なかれ相互作用を及ぼしあいながら、実は「個人」がそこで学習している。逆にいえば、個人ひとりひとりが学習しているという認識や喜びを感じることのできない「集団学習」などというものがあるとすれば、それは学習の名に値しないのである。
 サークルなどの運営で、リーダーが「私の所は月に一度は勉強会をしている。」とか、「いや、私の所は毎週だ。」などと、その数ばかりで競ったり、気にしている場合があるとすれば、それは集団が「学習」していればよいと学習の意味を勘違いして「形式主義」にとらわれている証拠である。
 一番、気にしなければいけないのは、メンバーひとりひとりがそれぞれどんな学習成果を獲得したかということであり、それを通してひとりひとりが学習における個々の主体性をどれだけ育ててきているかなのである。
◆[ミニテスト1]
 この「学習は個人がする」という原理は、成人においても子どもにおいてもまったく同じである。だから、学校においても同様のことがいえる。教室が静まりかえっていて、先生の話が教室中ひびきわたっていても、それだけで立派に子どもたちの学習が行われているとは判断できない。教室という「かたまり」が学習しているのではない。子どもひとりひとりが、学習の中で感動をしたり、時々、その感動を表現したりすることが、学習の手ごたえの一番の表れなのである。
 しかし、次に学習行動をおこす動機づけについていえば、成人の行う生涯学習は、学校教育とは大きく異なっている。
 子どもに対する学校教育の場合は、子どもの外側から、子どもの学習ばかりでなく、その内なる「動機」までをも掘り起こし、育てていってやることが必要になる。そのために、条件設定や計画的・持続的な活動が教師側に要求される。この子どもは算数がきらいなようだから、何も無理して分数を教えなくてもいい、ということにはならない。教師側が「無理をしてでも」、分数が面白くなるようにしてやらなければいけない。「人間の英知の結晶の一つである分数を教える」という「教育目的」を遂行しなければならないのである。
 社会教育の場合でも、子どもに対する場合には、まだ子ども自身の学習への動機づけが不十分なのであるから、動機までをも育てることを配慮した計画性、持続性が指導者側に要求される。たとえば、子ども会活動をしたいというはっきりした「学習動機」をもって、子ども会に参加してくる子どもはむしろ少数派かもしれない。最初のうちは「親が行けというから」、「ともだちが行くから」などという理由で、なんだかよくわからないまま子どもたちは参加してくれるのではないか。そういう彼ら、彼女らが「子ども会はすてきなところ。」といってみずから喜んで参加するようになるように、子ども会活動の実践を積み上げていくのである。
 ところが、それと同じ調子で成人の生涯学習に接しようとすると、おおいに痛い目にあうことは間違いない。「この人たちには、○○の学習がまったく欠けている。よし、私が、その勉強会を開いてやろう。」などと意気込んでみたところで、もし相手自身にそのことについての学習動機が存在していなければ、せっかく開いた会に顔も見せてくれない。相手にはしたくない学習までする義務も義理もない。暇もないのである。よって、学習動機の掘り起こしなども実現するわけがない。
 しかし、ちょっと皮肉な言い方をすれば、このような上から導くような型の事業が失敗することは、むしろ生涯学習の健全な姿を表しているのである。成人の生涯学習とは、その学習の動機をその人自身の内部にもっているのが前提であり、そこから学習が始まるべきなのである。
 ここで、なぜ「そこから学習が始まるべき」なのかをあらためてじっくり考えてもらいたい。学習動機をその人自身がもってない学習の事業を他者があえてやろうとしても、その人は来てくれないだろう。しかし、「そこから学習が始まるべき」という理由は、来てくれないからということだけではないのだ。
 相手は成人である。学習の主体なのである。その主体性が尊重されてこそ、大きく言えば「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法第13条)という民主社会の基盤が成立するのである。このように「自由な」生涯学習とは、ことほどさように民主社会における重要な行為である。
 そこで、生涯学習は、いま述べたように人々の自発的・自主的な動機づけにもとづく学習を基礎としていることから、個人ひとりひとりの自由な意思にそって、じつに多種多様な動機による、多方面の学習に分散することになる。実際、学習実態の調査においても、全体の1%に満たない学習項目が軒並ならび、しかもその数がどんどん増える傾向にあることが指摘されている。
 この「多様化」について「とても対応しきれない。やっかいなことだ。」と生涯学習の援助者が思うようでは、ちょっと困る。学習の「多様化」は、社会の画一化を食い止め、社会をさまざまな側面から活性化し発展させる重要な役割の一環を担っているのであるから。
 ただ、「多様化」の中で何から何まですべての学習に対応しようとして、結局は「多様化現象」に振り回されただけで終わってしまったということにはならないように気をつけなければならない。そのためには、個人の学習の多様化に対応できる確かな方法論を見つけることが、新たに必要になる。
 この項では生涯学習における「個人性の原理」について、一つには「学習」一般がもつ直接的な目的の面から、また一つには、成人の生涯学習における動機づけの所在の面から説明した。あなたの言葉で言い直すことができるかどうか、ぜひ頭の整理をしておいていただきたい。
◆[ミニテスト2]

1−(2) 学習活動の3段階
 以上のことから、生涯学習を援助する側が学習者側をつねに「マス」(集団)としてだけとらえ、学習者を十把ひとからげにして単一のものを教え込もうとするならば、それは間違いであることは明らかである。
 それに比べて、「個人性の原理」を尊重する立場においては、学習者に対して、高村久夫氏の言う「はじめに学習しようとしている人ありき、学習をしている人ありき」という態度になるはずである。すでに各人に存在する学習や学習動機から出発するのである。前者とは対照的である。そして、そのことから個々の学習者をとらえ、それぞれの状況に対応して援助していく方法についても、緻密で個々の学習の実態に即したものとなりうるのである。
 すなわち、このような態度で学習者に接すると、高村久夫氏の表現を借りれば次のような学習の発展段階が見えてくる。「潜在学習者から学習者への段階」→「計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階」→「既得の知識・技術を補強する段階」である。そして、各人それぞれの段階に個々に対応した学習の援助方法を考え出すことがこの段階分けから可能になるのである。
 それでは、この3つの段階についてそれぞれどんな内容であるか、考えておこう。
1 潜在学習者から学習者への段階
 私たちのまわりには、ひと、もの、できごと、情報などがつねにとりまいている。テレビなどのマスメディアもあれば、活字情報としての図書などもある。しかし、これらは学習者本人が何もしなければただ「ある」だけで、学習に必然的にむすびつくものではない。
 これらから本人が何か学び取ったり、これらをきっかけにして学習が始まる時には、実は本人のほうに漠然とはしていても必ずそれなりの学習動機が用意されているはずなのである。本人側に学習する心身的条件が整っていることを「レディネス(readiness)がある」というが、成人の学習の場合、特になんらかの理由による学習関心の存在という「レディネス」▲が非常に重要な要件であるし、また学習の開始に不可欠なのである。
 このようなことから、成人があることに関して学習に移る、つまり、学習者になる前の段階というのは、まったくそのことに関する関心がなかったととらえるのは適切ではなく、むしろ、そのことに対する学習要求が「潜在的に」存在していたととらえるべきであることがわかる。当該学習はしていないけれども、そのレディネスをもっている人、これを潜在学習者と呼ぶことができるだろう。
 潜在学習者は、身のまわりの図書、放送番組、実物、人、その他何かとの出会いをきっかけとして、潜在化していた学習要求を学習行動にむすびつける。その時は、ただ単にまわりが「ある」のではなく、「出会い」である点に注目していただきたい。学習者の側に「出会う」だけの主体的条件があるのである。
 そして、生涯学習の援助者は、あることがらに対する学習要求がゼロの人(そんな学習課題や人が実際に存在するかどうかはわからないが)を想定して「何とかしてやろう」と空しい努力をするのではなく、潜在的ではあるがそのことに関する学習要求をもつ人に対して適切な内容のタイムリーな「学習のきっかけ」と出会えるよう、あらゆる配慮をする態度こそ大切なのである。
◆[ミニテスト3]

2 計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階
 潜在学習者が、まわりの「学習のきっかけ」との出会いによって、学習行動を起こすことは以上でわかっていただけたと思う。そこでいう「学習行動」とはその「学習のきっかけ」から直接、何かを学び取ることまで含めているから、とても広い範囲のものであり、日常的な学習行動を含んでいることになる。このような学習行動は、随時行われている。そして、「人間、なにごとも勉強だ。」という時の「勉強」に近い。
 いうまでもなく、そのような「随時」学習する姿勢、すなわち、人、もの、ものごと、情報などとの日頃の出会いをつねに吸収し、自己開発につなげていこうとする姿勢は、生涯学習時代には、各人に強く求められる姿勢だといえよう。
 しかし、生涯学習の援助者が援助している学習は、実際にはそのほとんどは、もう少し狭い意味での学習行動である。それが、ここにいう「計画的・継続的あるいは集中的学習」である。
 この段階では、学習者側に第1段階よりはっきりした(顕在化した)学習要求があり、学習を第一義的目的とした学習行動がされるようになる。本人もそれを学習として自覚している行動である。
 たとえば、読書、番組視聴、学級・講座の受講、団体・サークル活動への参加、社会通信教育の受講、習い事、民間教育産業の利用などによって、ある程度の期間に何回か、あるいは一回だけの場合でも集中的に学習が行われるような場合をさす。
 しかし、このような段階においても学習者は各人各様の学習の困難や学習中断の危機▲につねに直面しているはずである。生涯学習の援助者は、その個人個人の多様な困難や危機に応じて、画一ではない多様な援助方策を講じねばならないのである。
3 既得の知識・技術を補強する段階
 第2段階のような学習を行ったり、家庭生活や職業生活で一定の経験を積むと、その人にとってある程度の知識・技術が身につくことになる。
 従来の学習援助、特に公的な援助体制においては、まさにマス(集団)を相手に、必要最低限の入門的なレベルの学習機会をもっぱら提供していたから、このような第3段階の学習への援助はややもすると軽視されがちであった。
 「教える」という姿勢のままでは、学習者のレベルが高すぎるので対応しきれなかったとも考えられる。あるいは、たとえ「教えるよりも援助する」姿勢があったとしても、「個人」より「集団」に偏重しがちであったため、肝心なぴったりした援助方策を見いだせなかったり、高いレベルの学習要求をもつ「個人」をつい見過ごしがちであったと考えられる。
 しかし、技術革新や社会の急激な変化の中で、きょう得た知識・技術が明日には古くて使いものにならなくなるという現代の時代においては、すでに得た知識・技術であっても、それをさらに継続的に更新し発展させていく努力が学習者各人に求められる。これは今日が「生涯学習の時代」と呼ばれるゆえんの一つでもある。
 そこで、生涯学習の援助者は第3段階におけるこのような「高度な継続的学習」の援助の方策を新たに練り直さなければならないことになる。新しい援助においては、次のような点に留意する必要がある。

1 多様に分化した個人ひとりひとりの学習への援助を重視する。
2 高度化、専門化した内容の学習への援助を行う。
3 新鮮で今日的なテーマ・内容の情報を提供する。
4 既定・定型の知識・技術を「教える」立場ではなく、ともに研究し開発する立場から援助する。
5 個人の日常的・継続的学習に対して、援助も日常的かつ継続的に行う。

 現代は境界線のない時代といわれる。研究者などの「知のプロ」と「アマチュア」との「境界線」も以前よりは崩れつつある。「アマチュア」の高度化、専門化した研究や生活者の視点からの実際的な研究の成果は、社会的にも注目され、実際に社会の発展に貢献するに値するものになりつつある。つまり、生涯学習によって「生産」されたもの(=生涯学習の成果)が直接、社会還元▲される時代に向かっているのである。
 生涯学習の援助者がこのような学習を援助しようとする場合、何かを「教える」姿勢ではとうてい対応しきれないだろう。まさに文字どおり、個々のケースの学習に対して「援助する」姿勢が求められるのである。
◆[ミニテスト4]

1−(3) 学習活動に対応する教育的援助
 私たちは学習者をひとりひとり、個人として見ることによって、3つの学習の発展段階があることに気づいた。さらに、これらの各段階に対応して予想され期待される教育的援助(社会教育)のいくつかを前述の高村久夫氏が例示している。ここでは、そこで例示されている援助策を紹介し、その基本的性格について考えてみよう。

「潜在学習者から学習者への段階」に対して
a 学習の機会・施設・学習情報に関する情報提供
 生涯学習の時代と呼ばれる今日、個人のレベルでは把握しきれないほどたくさんの学習機会が提供されている。社会教育行政だけでなく、一般行政や民間など広い範囲で、多種多様なかたちで提供されているのである。そのため、学習者はせっかくの豊富な学習機会から、自己の必要とするものを的確かつすみやかに選び出すことができなくなってしまっている。
 個人をつねに集団の単なる一員としてしかとらえない立場からは、その問題が見えにくい。なぜなら、すでに所属している集団が行っている、または行おうとしている学習をメンバーがしさえすれば、必要最低限は足りていると考えてしまうからである。
 これに対して、学習の個人性を重視する立場においては、これらの学習情報の不備をとりわけ憂慮する。そして、この不備を埋める学習情報の提供を、学習援助の中でも、特に学習者が学習をスタートする時点では、欠くべからざる基本的役割と見るのである。
 たとえば個人が学習機会の情報を的確に把握することによって、本人が主体的に学習機会をその中から選び出すことが可能になる。これに反して、そういう情報なしに学習機会を決定する場合は、それまでの自己の学習経験の枠内で判断するか、まわりや所属集団などの「流れ」に受動的に従うという結果にならざるをえないのである。
 画一的な学習機会を一方的に授与する立場から言えば、学習情報提供はせいぜい、その授与に付随する「周辺的」な行為にしかすぎない。それとは対照的に、個人性重視の立場からは、学習情報提供はむしろさまざまな教育的援助の中でも中核的存在なのである。
b 学習相談
 最近、とみにカウンセリング▲に対する関心が強まっている。現代社会における人格の危機に対して、まさに個人の深みに入り込んで、相談者の主体的な自己解決を援助するカウンセリングの思想からは学ぶべきところが多い。
 ただし、カウンセリングでいう「相談」とは、あくまでも個人の心理的・精神的問題=「こころの問題」の解決のためのものである。教育的援助をする側が、自分の行う通常の学習相談までをもカウンセリングと同一と考えるのは誤解である。あるいは、その誤解がこうじて、生涯学習の相談に来た人に対して、こころの奥の深い所まで立ち入ってそれを「直接」カウンセリング的に解決してやろうなどと考えるとしたら、問題はいっそう深刻である。(もちろん、ここでの論議は成人の生涯学習への援助に限定している。)
 たとえば、新しく引っ越してきてまだ近所にとけこめていない主婦が、幸いにもあなたの所に「どこかで華道を習えるところがないか。」と尋ねてきてくれたとする。その時、あなたは、「この人は、前にいた所での人づきあいが途絶えたので、少し寂しいのかもしれない。」と考えるだろう。そのぐらいのことを考える思慮深さ、思いやり、やさしさはぜひあってほしい。しかし、たとえば当人に「近所にとけこめるように、あなたから話しかけてみたらどうですか。」などといきなり切り出したりしたら、きっとその主婦からしばらくは敬遠されてしまうだろう。そもそも、カウンセリングでもそんな忠告、説得に類すること(指示)は行わないのが普通である。学習相談において安易に「カウンセリング」を行うことの危険性はここにある。
 それよりも、その主婦の「孤独」を心配する思いやりを心に秘めながらも、要請どおりに華道を習える所を豊富に提示し、ゆきとどいた情報サービスをしてあげたほうがよっぽど気がきいているのである。さらには、おしつけにならない程度に、華道以外にもいい仲間になれそうな人の揃っているサークルなどを紹介する必要はあるかもしれない。なぜなら、その主婦が本当に要請している情報は、「華道を習える場」と同等に、あるいはそれ以上に「よい仲間」であるかもしれないからである。
 しかし、せいぜいこの程度までであろう。あとは、学習者がそれぞれ自己の力で学習機会を選択し、自己の力で自己の問題を解決するよう見守る他はない。
 そもそも、学習相談においては、たとえ本人が「相談に来ました」と言ったとしても、それはカウンセリングのような「こころの問題」(学習に関する)ではなく、学習情報の提供を求めにやってくるのが普通であろう。(理解を深めるために言えば、学習における「こころの問題」とは、たとえば「自分にとって、そもそも何を学習すればよいのかわからない。」とか、「学習したいことはあるのだが、なぜか手につかない。」などの悩みがそれに近い。)
 しかし、通常の学習相談においても、相談者の訴えに対してていねいに情報を提供するということ、しかも、一方的に限られた情報をおしつけるのではなく、相談者がみずから主体的に判断し選択するよう広くヒントになる情報を提供するということについては、情報提供側は最大限の努力を払う必要がある。
 そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などと同様の働きかけにより、学習者の相談を励まし、明確化し、自覚化を促し、ひいては主体性の発揮の実現を援助することが必要である。その意味から、学習相談そのものはカウンセリングとは区別はしても、「カウンセリングマインド」ともいうべきカウンセリングの基本的態度とは一致するのであり、カウンセリングから学ぶべき点も多いのである。
 学習相談が個人の学習情報の求めに対応するという意味で、形の上からも「個人性の原理」を尊重するものであるということは自明のことである。しかし、それ以上に、「応答」の内容も「個人性」を尊重し、さらにはこの「個人性」がいっそう発展するよう援助するものでなければならないのである。
c 図書館、博物館における経費の工夫
 図書資料、実物などは、直接個人の関心に働きかけるので、図書館、博物館に勤める人以外の生涯学習の援助者は、その意義を実感しにくいかもしれない。しかし、この「働きかけ」の効果は肝心の個人に対しては相当なものがある。それは、自分自身の学習関心の形成を振り返れば納得できるであろう。
 生涯学習の援助者としては、図書館、博物館に関する性格、所在、特徴、利用方法の情報提供などにより、その活用を促進することを考える必要がある。
◆[ミニテスト5]
d 学習関心・意欲を触発する活動
 このためには、aからcまでの他、先に述べた「ひと、もの、できごと、情報」と「潜在学習者」が出会える場と機会をさまざまに積極的に提供する姿勢が求められる。
 その際、援助者側がみずからの設定した既成の狭い「学習課題」の枠に縛られるのではなく、多様で個性的な学習関心を学習者自身が主体的にもつことができるよう援助する姿勢が大切である。

「計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階」に対して
a 学習機会の提供
 この段階に入ると、先にも述べたように「ある程度の期間に何回か、あるいは一回だけの場合でも集中的に」学習が行われるようになる。図書、放送番組、学級・講座、団体・サークル活動、社会通信教育、習い事、民間教育産業などは、そのための学習機会を提供しているわけである。そして、これらは非常に目に見えやすい教育的援助の形態であり、従来から活発に進められてきている。
 しかし、このような「学習機会の提供」のひとこまひとこまにおいても、やはり、「個人性の原理」の最大限の実現が求められるのであり、従来ありがちだった「つねにマスの一部分としてしか相手をとらえない」態度では、早晩飽きられてしまうのである。
 具体的に言えば、次のような「きめ細かさ」が必要である。個人のひらめきや気づきに極力、注意し、それを励ます。学習の進度に遅れそうな人が追いつけるよう、プログラムを工夫する。現在の進度を超えたレベルの学習をしようとしている人にも役に立つような展開を行う。
 その上で、「学習機会の提供」だけでなく、各人の個別の学習阻害要因の解消などの援助ができるよう、他に述べるような情報提供や相談を並行して行うことも大切である。つまり教育的援助方法の「複線化」▲が必要なのである。
b 集団学習方法の工夫
 i  良質の情報提供
 集団学習の中でも学習の「個人性」を尊重しようとするならば、すでに述べたように、個人ひとりひとりが学習しているという認識や喜びを感じられるようなものでなければならない。そのためには、メンバー各人の学習レディネスや志向性、持ち味などの「個性」に柔軟に対応し、だれもが主体的に学習できるよう、集団学習の運営もおおいに工夫する必要が生じる。
 画一的な集団に対してであれば、どこでも同じような運営技法でほとんど事は足りたのかもしれないが、現代の「メンバーの個性にあふれた集団」は、集団としても際立った「個性的」な問題や可能性をもっているものである。
 正解が決して自明のものではない問題、解答が一つではない問い、こういう問題や課題に学習者や学習集団がチャレンジしていく時に、本当に役に立つ情報提供が「良質」といえるのであろう。
 それは、平板で単一なものではなく、縦横無尽に学習情報の網の目をたぐり、生かしたものであるはずである。
 ii 学習者の組織化
 「個人性」をいかす集団学習といえども、その集団自体が主体的に活動できる集団として自立するためには、学習者の組織化をはかる必要がある。
 ただし、少なくとも学習活動の展開においては、そこでの「組織化」は、「共通の目標」や「統一的な意志」を強調するものであってはならない。むしろ、メンバーの「個性」が有機的に発揮されるシステムとしての「組織化」でなくてはならない。
 その他、以下のような例示がされている。これらの場合にも、学習の「個人性」の尊重と実現の立場から進められなければならないのはいうまでもない。
c 社会教育施設の設備・資料の充実・整備
d 団体・サークル活動の奨励・援助
e 学習相談、レファレンス・サービス体制の整備
◆[ミニテスト6]

「既得の知識・技術を補強する段階」に対して
 学習における「個人性」の尊重は、一方では、「ゆっくり型」「マイペース型」の学習を励ますものであるが、もう一方では、ひとりひとりがさまざまな内容の高度で専門的な学習を希望するような状況においても、これを本格的に援助しようとするものである。
 それは、具体的には、下にあげられた手段の他にも、多様な既存・新設の学習機会や、従来からの、または新しい学習援助方法を駆使してこそはじめて実現可能なのである。
a 高度化・専門化した内容の学習機会
 i  成人への高等教育の開放
 ii 大学教育の開放
 iii 専修・各種学校の振興
 iv その他成人大学講座等の開放
b 専門的なレファレンス・サービス体制の整備

 以上のように、生涯学習の方法は「学習の個人性の原理」から成り立っている。この基本的原理は、今まで述べてきたように、人々の学習活動がその人自身の学習意欲を根として始まるものであること、それがどのような動機に発するかによって学習の内容・領域も明確化されるということ、学習が発展し高められるにつれて、学習内容にも専門化が見受けられるようになることなど、われわれが留意すべきさまざまな生涯学習の諸現象の根源と認められるのである。

2 生涯学習におけるメディア利用
(以下、テキストP20〜P23の(1)〜(4)に対応...2500字)
2−(1) 図書資料
2−(2) 放送
2−(3) 実物・視聴覚資料
2−(4) マイクロコンピュータとニューメディア
3 学習活動推進のためのメディア活用のあり方
(以下、テキストP23〜P26の3学習活動推進のための諸方策に対応...1800字)

□第一単位「生涯学習の原理」の注解(100字×?)
自発的意思
 生涯学習は、強制によらずに自らの内面的欲求によって開始される。このようにして生涯学習を開始する際の感性的、理性的な意思が自発的意思である。
適性
 個人の知識・技術・能力・性格などが、そのことに適していること。意欲・関心・興味も関係している。しかも、これらについては固定的なものとしてとらえることは誤りである。
生涯学習の動機
 あることがらについて学習しようとする意欲があることを動機があるという。その動機の基礎は、生理的欲求、社会的欲求、心身の成熟や発達、それまでの学習経験などの状態である。
ミーイズム
 自分主義。自己中心主義。従来から、青年期においては周りに対して自己のみを実現しようとする傾向が現れると言われてきたが、ミーイズムの場合は、一方的に自我を他者に認めさせ、おしつけようとする傾向は弱いようである。むしろ、社会への「無関心」の傾向が顕著である。
集団
 ある一定の共同目的に基づき、相互作用を行っている複数の人々の結合。メンバーはその成員として、多少なりとも帰属意識をもつのが普通であるが、むしろ集団化によってその個人の疎外が進行する場合が見受けられる。
レディネス
 ある学習をするのに必要な心身の用意性、準備性。子どもの場合は、心身の成熟の度合が重要な要素になるが、それに比べて成人の場合は、それを学習しようとする関心の度合が重要である。しかし、その場合もその学習関心を形成してきたのは、過去の学習経験や社会経験であることには変わりない。
学習中断の危機
 一人一人の生涯学習は、つねに中断の危機に直面しながら発展している。その要因は学習阻害要因の一部ととらえることができる。時間的、経済的理由なども考えられるが、本人の意欲の減退も大きいであろう。
社会還元
 還元とは、もとに戻すこと。生涯学習をする個人はなんらかの形で社会資源の恩恵を受けているはずであり、それをより高次なものにして社会に還元することができればお互いに理想的である。
カウンセリング
 個人の精神的な問題の解決のための援助の手法の一つ。人間を社会的存在としてよりも、第一義的には個性的存在としてとらえ、人為的に個人と個人の人間関係をつくり意思疎通をはかることによって、相談者による自己解決を図ろうとするものである。
複線化
 ここで、複線化とは、一人の学習者が両方の援助を受けることができるということばかりでなく、学習者の自由な意思によって、学習者の好むどちらかの援助だけを選択して受けることができるということを意味する。総じて「複線化」は、自由な選択の幅を拡大する有力な手段として機能することが多い。
マイクロコンピュータ
 大規模集積回路(LSI)によって構成されるマイクロプロセッサーに記憶部と入出力部を加えたもの。最近は普通、パソコン(パーソナルコンピュータ)と呼ばれている。大型コンピュータと比べて安価であり、個人でも手軽に活用できる。
ソフトウエア
 コンピュータを利用するための技術。ここでは、特にマイクロコンピュータのプログラムをさしている。マイクロコンピュータの世界では、「コンピュータ、ソフトなければただの箱」と言われるぐらいその役割は大きい。

□第一単位「生涯学習の原理」のミニテスト

◆[ミニテスト1]
1 生涯学習は学習する個人にとって、何のために行われるか。( )内に適する言葉を入れなさい。さらに、それぞれについて学習内容の例を考えなさい。
             学習内容例
 (  )的な充実・・・
 (  )的な健康・・・
 (  )的な成功・・・
2 生涯学習の「個人性の原理」と矛盾しない集団学習とはどのようなものか。( )内に適する言葉を次から選んで入れなさい。
喜び、学習成果、個人、主体性、相互作用、
 集団の中で、(  )を及ぼしあいながら、実は(  )がそこで学習している。そして、個人ひとりひとりが学習しているという認識や(  )を感じることができる。そのためには、リーダーはメンバーひとりひとりがそれぞれどんな(  )を獲得したか、それを通してひとりひとりが学習における個々の(  )をどれだけ育ててきているかについて注意を払う必要がある。

◆[ミニテスト2]
1 子どもに対してするような学習の動機づけを、なぜ成人に対してはできないのか。もう一度本文を読み直した上で、あなたの考えでその理由を箇条書にしてまとめなさい。

◆[ミニテスト3]
1 潜在学習者というとらえ方は、どのような点でメリットがあるか。ア〜ウの内から間違っているものを一つ選びなさい。
 ア 本人が学習をしていなくても、今後学習にむすびつく可能性を見落とさな  いで援助することができる。
 イ 本人の内部には学習動機がまったくなくても、「潜在」ととらえることに  より、学習を始めるようにさせることができる。
 ウ 学習行動が始まる時の、本人の主体性を尊重するとらえ方である。

◆[ミニテスト4]
1 あなたのまわりにある高度で継続的な生涯学習の事例をあげ、その学習を援助するとしたらどうすればよいか考えなさい。

◆[ミニテスト5]
1 学習情報提供が「生涯学習の個人性」を実現するものであると考えられる理由を述べなさい。
2 学習相談が「生涯学習の個人性」を実現するものであると考えられる理由を述べなさい。また、逆にそれが「個人性」を損なう場合とはどういう場合か、述べなさい。

◆[ミニテスト6]
1 計画的・継続的あるいは集中的に学習する段階への援助はどうあるべきか。(  )の中に適切な言葉を入れなさい。
 学習機会の提供においても、(  )の原理の最大限の実現が求められる。「つねに(  )の一部分としてしか相手をとらえない」態度ではいけない。集団学習に対しては、縦横無尽に学習情報の網の目をたぐり、それを生かして、(  )を行う必要がある。そして、学習者の組織化は、「(  )の目標」や「(  )的な意志」を強調するものでなく、メンバーの(  )が有機的に発揮されるようなものでなくてはならない。

◆[ミニテスト7]
1 生涯学習に利用できるメディアの種類を6つあげ、それぞれについて1つずつ、それを利用した生涯学習の形態をあげなさい。

◆[ミニテスト8]
1 メディア活用のために必要な諸条件の整備として必要なことは何か。文中の(  )内に適切な言葉を入れなさい。
 十分に体制の整った施設を(  )、しかも人々の(  )に設置する必要がある。さらには、今日、発達、普及している(  )を活用することによって、個々の施設間の連携を図る(  )の整備が望まれる。

□第一単位「生涯学習の原理」の復習問題
1 「個人性の原理」とはどういうものか、説明しなさい。
2 この単位の最初の対話、「生涯学習に『原理』はあるか」で出されたBさんとAさんの次の疑問に、それぞれわかりやすく答えなさい。

B:自分たちは自由にのびのび生涯学習を楽しんでいたつもりなんですが、(注・他者から)「原理」だなんていわれると、ちょっとね(注・抵抗がある)。
B:いくら、ある「原理」を打ちたてたところで、生涯学習が個人の自発的意思に基づき、さまざまに自由に行われるものだとすると、その「原理」は無力なものということにならないですかね。
B:個人を重視しすぎて、ミーイズムを助長させるようなことがあってはいけないと思うんですが。受験戦争の弊害と同じことが、生涯学習にまで現れてしまうと言ったら、言いすぎでしょうが。
A:本人に学習動機がある人に対してなら、「個人性の原理」もいいような気がするけれど、初めから学習動機をもってないという人に対してはどうすればいいのかしら。

□第一単位「生涯学習の原理」のティータイム(2−3枚)
 パソコン通信ではホストコンピュータの「電子掲示板」というシステムに自分たちの書き込み(ライティング)が蓄積される。この蓄積された情報を、自宅のパソコンと電話線を通して、いつでも自宅で出し入れできる。
 読者の皆さんにパソコン通信の実際の様子をお知らせするために、私の書き込みを紹介する。

 小学校1年の息子を寝かしつけて、今、パソコンに向かっています。(略)「一般生活」を営む普通人の僕としては、継続的にレスポンス(注・反応,返事のこと)を書く余裕がないのでワンテンポ遅れたレスになってしまいましたが勘弁してください。でもこういう「普通人」?の参加も許容してくださいね。(略) パソコン通信の時は、同僚にしゃべるような気持ちで書いています。ツーウェイ(注・双方向)ですから、わからなければ質問しあえばいいでしょう。その意味では、エディター(注・編集用のソフト、いったんパソコン通信を終了してから利用する)を使う場合でも、僕は、オンライン(注・パソコン通信をつなげたまま、直接文章を打ち込むこと)感覚に近いのです。わかりづらくて、しかもつまらなければ、読み飛ばされるでしょうが、そうしたら諦めて次のライティングをすればいいのではないでしょうか。そういうライティングを「迷惑だ」としかめっつらをすることもないでしょう。「ああ、あいつだ」と思ったら、読まずにパスすればいいのですから。(略)
 私のこの文章もやたら長くなってしまいました(注・普通、書き込みは数行である)。でもちょっとでも「いい所」があるともし感じられたなら、そこだけ拾い読みしてくださいませんか。いやだったらパスすればいいのですから、「迷惑」というのはちょっと当たらないと思うのですが、いかがでしょうか?

 以上が私の書き込みである。皆さんもパソコン通信の雰囲気を、少しかいま見ることができたのではないかと思う。自己の書き込みが他者にとってどのような意味を持ち得るのか・・・。それはパソコン通信をする者(自称,ネットワーカー)の共通の関心事なのである。
 先日、われわれの研修で、若者の街、渋谷を訪れ、「雑貨屋イメージの百貨店」、西武ロフトの金谷信之館長の話をうかがう機会があった。
 当日はあいにくの雨であったが、じつは引率者の私にとっては「慈雨」であった。なぜなら、平日の昼間でも晴天だと相当の混雑が予想され、店内の見学が十分には行えない危惧があったからである。若者のニーズの把握は難しいとか、あるいはもともとのニーズなどはないのかもしれないなどと言われる中で、ロフトはそれほど若者を「吸引」しているのである。
 「生活必需品」に対して、若者が今までと違うものを求め始めている。「非日常」の余暇以上に、日常生活そのものを「余暇」として楽しんでいる。衣類、文具などのタテワリの商品配置では、このようなニーズに対応できない。「業際」が求められる。
 そこでは、カルイかもしれないけれど、時、瞬間を大切にして、トレンドや風俗を提供する。それによって、「生活自遊人」という都市生活者のくらし方を提案する。「生活自遊人」とは、集団より、個の世界のマインドをもっている人のことである。生活領域が広く、頭だけでなく、実践をする。
 これらの人々はシビアーで、買物もしろうとではない。モノを知っている。そういう人をターゲットにするためには、百貨店ではいけない。ロフトでは、「高度情報装備性」、「高密度・高集積」を売物にしている。商品絞りこみはしない。売場はいわばインデックスであり、主役は客、使い方はそれぞれである。
 各階は、イチ(市)とクラ(蔵)から構成されている。市は中央にあって、市場感覚、エキサイティングでトレンディーである。蔵は壁際高くまであって、定番商品がきちっと揃えてある。たとえば、同じ茶碗を、すべてのサイズ揃えて、個に合ったものが選べる。
 従来の売場分類では領域の間が抜けてしまい、不都合である。ロフトは、身体、空間、仕事、余暇というような分類とフロアーの設定をしている。
 「身体」では、ヤングは朝シャワして身ぎれいでないと仲間扱いされない。そのための商品は、従来の化粧品、薬品などには分類しきれない。
 「空間」では、住宅事情もあり、ヤングは収納にこっている。ポットも象印ではなく、そのままオープンに置かれ、デコールになるもの。これらは、インテリア、家具、家電などの分類では、分類しきれない。
 「仕事」では、職場で用度品ではなく自分の気に入ったものを使っている。家事も、日用品、雑貨などの考え方ではなく、楽しめるものを求める。衣服をオープンにハンガーに吊しているが、そのカバーがよく売れる。そういうヤングが求めるものは、従来の分類では買うことができない。
 「コミュニケーション」では、日々のギフトが大切。それも誕生日などではなく、普通に遊びに行くときの200円位のギフトである。これをイキに行うため、若者は商品選択、ラッピングなどで、勝負する。200円のものだろうが、彼らのチョイスは高額商品と同様に真剣なのである。
 ロフト社員320名中、100名が「モノマスター」である。モノマスターは、社内外公募で選ばれている。たとえば、国鉄からの転職者が鉄道模型を担当している。彼の知識は尋常ではない。そのようなモノを使いこなせる人が、仕入れからすべてやる。
 CIとしては、MONO−PRESSを発行。これで生活モチベーションをうまくとらえる。(本号は「新しくデビュー」)
 雑誌での掲載には、提供主を入れてもらってどんどん商品提供する。ただし、イメージが落ちないよう、雑誌セレクトをする。
 人件費が高く、棚揃えが悪いなどの問題はあるが、年間110億の売り上げがある。

東京都渋谷区
イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点
 −西武ロフトがとらえた若者のニーズ−

22×21×2=924 924÷36=25

地域の組織・団体との連携

1 地域の組織・団体の今日的意義と公民館

 前近代社会においては、地域社会はすなわち共同社会であり、たとえば村落共同体に見られるような強い地域性と共同性を保っていた。そして、そこでは強い自治的性格をもった組織も機能していた。しかし、近代社会においては、交通・流通・通信手段の拡大や都市化によって、それらの強い共同性をもった地域社会は次々と崩壊することになる。
 実は、地域における強力な共同性は、ややもすると、プライバシーの侵害や村八分などの制裁など、個人の自由や尊厳を否定する結果になる場合も多かった。これに対して、近代社会において「個人」が尊ばれるようになったことは、個人の自由と成員の平等を保障しようとする民主主義の理念に照らして望ましい側面を有していると考えられる。
 ところが、地域社会の崩壊は一方で地域住民の合意形成の困難、地域の自治・自立性の衰退、相互扶助の弱体化による住みにくさ、地域教育力の減退による子どもの成長の「いびつ」化などの弊害を引き起こしている。
 その中で、たとえば今日の「町内会」は、相互扶助の任意団体として位置づけを変えながらも、地域住民のフェース・ツー・フェースの関係を築きつつ、主体的に「地域づくり」を推進する際のだいじな核の一つとなっている。
 ここで注目すべきことは、これらの地域組織・団体がめざすべきところは、けっして過去の地域共同体への単なる「回帰」ではないという点である。崩壊した地域社会を再現するのではなく、新しい理念のもとで、むしろ、「新たに」地域を組織しなおそうということなのである。
 この新しい理念が「現代社会におけるコミュニティの形成」であり、地域づくり、町づくり、村おこしであるといえよう。
 そこでは、家父長的な指導者のもとに成員が「個を殺して」一致団結するのではなく、各人、各組織がそれぞれの個性を十分に発揮しながら、ゆるやかなつながりを持とうとする。個人を尊重しつつ、地域合意の形成と地域社会の作り変えをめざす。
 たとえば今日のコミュニティ形成をたんねんに見ればわかることであるが、町内会のような地域包括的な組織が一つだけ活性化して、その集中的なコントロールのもとで推進されるというケースは皆無に近い。
 むしろ、自治体行政も含めて地域のさまざまな組織が、緊張関係や競合を繰り返しながらも連携・協力して地域づくりが進められているのである。
 公民館が地域の組織・団体と連携を図ろうとする時、一つの地域包括的な団体だけに偏重してしまえば、それは結果としてこの新しいコミュニティ形成の方向と逆行し、「団体請負主義」の社会教育になりかねない。
 「過去の」コミュニティの復活ではなく、「新たな」コミュニティの形成のためには、地域のすみずみまでよく目配りし、あらゆる地域組織に対してそれぞれに適切な関係を保ちながら、ヒューマンネットワークの視点から総合的に連携をはかることが必要なのである。

2 公民館と地域組織・団体との連携の諸相

 それでは、公民館が地域の組織・団体と連携するためには、実際には何をすればよいのか。
 一つには公民館と組織・団体とのさまざまな話し合いの機会をもつことである。野島正也氏は次のように指摘している。
 「公民館職員の中に、高齢者学級の日程を公表した後で、地域の老人クラブ主催のゲートボール大会の日程が一部で重なることに気づき、冷汗をかいた経験のある人はいないだろうか。公民館の事業が、地域の他の団体が企画している催しとうまく調整され、相乗効果があがるように、団体と十分な情報交換の機会をもつことがたいせつである。」(1)
 地域形成に資する諸団体がせっかく準備を重ねて迎えた催しの当日に、それに気づかず公民館事業をぶつけてしまうようでは、「連携」などはほど遠い。公民館と団体との「情報交換の機会」を設けることも、連携のたいせつな一側面なのである。それは、公民館と団体の間ばかりでなく、地域の団体どうしのネットワークを築くきっかけともなろう。
 特定の地域包括的な団体が「上部団体」として集中的なコントロール作用を行う形態ではなく、対等で民主的な団体相互の関係を保ちながら協力して地域づくりを進めるためには、公民館も交えて組織・団体間で話し合いをもつことが不可欠の要素になる。
 このような組織・団体間の話し合いの機会としては、上に述べた各団体の事業に関する情報交換の会議のほか、利用団体が公民館の施設利用に関して自主的な調整を行う会議、公民館の主催事業の企画や運営について協議する会議などの活用が考えられる。
 二つには、地域の組織・団体の活力を公民館事業に生かすことである。野島氏は「商店会、農協、商工会議所、地元企業などは、それぞれ、非営利の立場から地域の発展を願っている側面をもっている。」として、実際にも学級・講座への講師の派遣、イベントでの協力、公民館への物品・サービスの提供などが行われていることを指摘している。
 しかし、この場合もやはり「団体請負」に陥らないような注意が必要である。公民館の主体性を投げ捨てて特定の団体に任せきってしまうのでは、お互いの主体性を尊重しあうというネットワーキングの原則に反する。団体の成員である各個人の個性と多様な能力に着目し、それがいきいきと発揮されるよう、柔軟で主体性のあるヒューマン・ネットワークの視点に基づいた対応が公民館側に求められるのである。
 三つには、公民館が地域の組織・団体に「間接的」に良い影響を及ぼし、支援する事業を行うことである。もちろん、施設提供もその重要な根幹をなす一部であるが、公民館の役割はそれだけにとどまらない。諸組織・団体が行う地域形成に資するためのさまざまな営みを側面から支援する姿勢を明確に打ち出しつつ、独自に主催事業の実施や、情報提供・相談などを積極的に繰り広げる必要がある。これが、間接的にではあるが、住民の主体的な地域づくりを援助することにつながるのである。
 たとえば、今日、学校区という「地域」には「有望」な教育関係団体がある。PTAである。非常に網羅的で、成員数が多い。そして、これは、子どもの幸福な成長をはかることを目的とする社会教育団体である。しかし、PTAの一部役員だけがいくら一生懸命になったところで、その目的は完全には達成できない。地域の親や住民全体が、この目的を理解しその実現のために地域の一員としての役割を果たさなければならないのである。
 一方、公民館としても、地域の教育力や家庭教育には大きな関心をもっている。だからこそ、家庭教育学級などを開催して地域や家庭の教育力の向上に役立とうとしている。そして、そこでは、わが子の問題だけを考えるのではなく、あらゆる親や住民が地域のすべての子どもたちが健やかに育つことのできる地域の環境を考えるよう提起をしているはずである。もちろん、公民館はPTAのメンバーではないが、公民館の事業はPTAという地域の団体の目的達成と「間接的」に連動しているのである。
 このように、公民館の事業は地域の組織・団体の地域形成の営みをも支援している。この立場をよりいっそう明確にする必要がある。しかし、その際、それが行き過ぎて組織・団体が本来行うべき事業までをも「代行」してしまうのでは、「団体からの請負事業」と変わりなくなってしまう。ここでも、公民館と団体の相互の主体性を尊重しつつ連携するネットワークの視点が必要になることをつけ加えておきたい。

3 公民館と地域組織・団体との「協働」をめざして

 野島氏は公民館の活動のしくみを大きく二つに分け、一つを「社会教育行政−学習者・住民」、もう一つを「社会教育行政−地域の学習支援組織−学習者・住民」とし、後者のとらえ方を次のように評価している。
 「公民館活動の実際は、地域によってかなり差違があるので、もちろん一概には言えないが、経験的にみて、『地域の学習支援組織』がかなりの有効性を発揮している事実がある。」
 そして、「地域の学習支援組織」の形態はさまざまであるが、いずれにせよそれらの活躍やその他の地域の人々による支えによって、公民館の活動は「幅が広がり、活気づいて」くるわけだし、参加する住民にとっても「自らの隠れた社会的諸能力を引き出したり、地域の交友関係を広げる」などの効果が生まれるということを指摘している。
 もちろん、この場合も、それらの組織が公民館の「指示」のもとでしか動けないような図式(公民館→地域の学習支援組織)では逆効果にしかならない。「地域の学習支援組織」が自立的に活動する力量と実際の活動を伴い、「公民館−地域の学習支援組織」という対等な関係を築いてこそ、その効果が生まれる。
 言葉を変えて言えば、この「対等な関係」のもとに行われる連携・協力が、今日その必要が叫ばれつつある公私の「協働」なのである。
 前項で述べた3つの連携の諸相も、この「協働」の端緒と言えるが、さらに本格的には、これらの組織が公民館の主催事業の企画・運営に参加したり、共催の事業を実施する機会などを公民館としても設定する必要がある。
 一方、今日の地域組織・団体も、都市化、多様化の波の中で、そのあり方の再検討が強く迫られている。これらの急激な社会の変化に対応するためには、自らの集団のシステムをヒューマンネットワーク型に変えていかなければならない。また、住民一人ひとりの課題や地域の諸課題を解決するためには、たとえそれがどんな種類の「課題」であっても、各人の自主・自発の学習が不可欠になる。
 地域の諸組織・団体にとっては、独自の役割とは別にヒューマンネットワーク型の地域の学習支援組織としても役割を発揮できるようにすることが「サバイバル」の方向であり、それらと連携を進めようとする公民館としては、ネットワークの精神に基づいた運営参加や共催等のシステムを構築することが、めざすべき方向といえるのである。

(1)野島正也 「公民館活動を支える地域の人材・組織」 月刊公民館No372 全国公民館連合会、1988・5、P5〜P11。以下の引用の出典も同じ。


自主的学習グループ・サークルの育成と援助

1 自主グループ化援助の意義と問題点

 社会教育審議会成人教育分科会の「審議のまとめ」では、「自主的学習グループへの援助」の項の中で、いわゆる「自主グループ」について、「近年は、公民館等の主催事業をきっかけとして自主的学習グループが多数生まれ、成長しつつある。」と評価している。さらにその上で、他のグループ活動とともに、「人々の自発的学習活動を促進していく上で、グループの成長は極めて重要であるので、今後一層積極的に結成の呼びかけ、」などの援助が必要としている。(1)
 公民館の利用団体の中には、いわゆる自主グループ、すなわち、公民館の学級・講座が終了した後、職員がその参加者に呼びかけるなどしてつくられたグループが数多く見受けられる。
 その理由としては、「審議のまとめ」で言うように、まず第一にグループ化が「人々の自発的学習活動を促進する」ための重要な要素の一つであることを挙げなければならない。その他、学級・講座の限られた時間内では到達しえない所まで、グループ学習で補完できるなどの意義も認められる。
 そして、この「自主グループ化」援助の姿勢は、公的社会教育が独自に持つ性格が発露したものといえる。もちろん、民間教育産業においても、スクール終了後に生まれたグループに対して、サービスの高度化をねらった「アフターケアー」を行うことはある。しかし、それはあくまでも「高品位サービス」として位置づけられるはずである。これに対して、公民館にとっての自主グループへの育成・援助は、住民自らが学習する環境を醸成するという社会教育行政の使命から照らして、学級・講座による学習機会の提供などと同等に重視されるべき「基本的」役割なのである。
 このようなことから、人が集まるからという理由だけで同じような内容を毎年繰り返し、自主グループ化を図らないため、いつのぞいても一部の住民の同じ顔しか見えない「金太郎飴」のような学級・講座を開いている公民館がもしあるとすれば、その公民館はもっと自主グループ化を推進して、基本的な体質改善を行う必要がある。そうでなければ、その公民館の活動は住民の自発的学習を結果としては阻害することにさえなってしまう。
 しかし、もう一方で自主グループ化を手放しでは喜べない状況も生まれている。その問題とは、グループ自体の自主性、主体性の衰退である。この「衰退」は、実は深刻な悪循環を繰り返している。
 まだ、グループとしては「未成熟」であることから、職員としても少しでも安定したグループになってほしいと思い、何かと手をかける。時には会場借用などの面で「特権的利用」を認める。グループの方でも、各人は公民館側の事業に参加者として「参加」していた時の「癖」が抜け切らない。自分たちがしなければならないことまで、つい公民館や職員に頼ってしまい、時にはそのことに違和感を感じられなくなってしまうこともある。
 こうなってしまっては、いわゆる「自主グループ化」は「人々の自発的学習活動を促進する」どころか、むしろ、メンバーおよび他の住民の「自発的学習活動」への意欲と可能性を削ぐものになってしまう。

2 自主的学習グループ援助における留意点

 このような隘路に踏み込まないようにするためには、どうすれば良いか。
 一つの方策としてあらかじめ学級・講座において「シュミレーション」(模擬訓練)を実施することを挙げたい。広く言えば、学級・講座においてグループ活動やその他の実践活動の予備知識および技術を獲得できるよう配慮して、グループ化した後、自主的に活動できるような力を準備しておくことである。グループ活動の実践においては、それまでの人・もの・できごととのさまざまな出会いの「体験」がその人にとってもっとも大きな励ましになる。学級・講座の運営への主体的関与や小グループによる「演習」、その他の実体験などの「シュミレーション」は、「出会いの体験」そのものになるのである。
 二つには、公私をいったん「分離」することである。「私」との関係がウェットになってしまってはいけない。「公」としての公民館側が援助すべきこと、「私」としてのグループ側が自ら行うべきことの「区別」を明確にし、それをいわゆる自主グループに対しても明示し、グループにある程度困難な状況が起きても特例を設けずにその「区別」に従うことが必要である。この「区別」の設定基準には、何も特別なものはない。一般のグループ、ただしその内、「未成熟」であるがために援助を求めているグループに対して公民館が行うようなすべての援助を、その自主グループにも行えばよい。
 三つには、講座を修了したら何が何でも自主グループをという「呪文」から解放されることである。この「呪文」から解放されることによって生涯学習のダイナミズムを保障することができる。
 自主グループを結成しても、そのグループが人々のニーズや時代に基本的にそぐわない場合はグループは消滅し、各メンバーは違うグループや次の新しいグループをつくりだすことになるだろう。少し逆説的だが、この「新陳代謝」こそが民間の生涯学習をダイナミックにしているのである。それゆえ、グループの「延命」のための善意の援助はかえって生涯学習を阻害するということになる。生涯学習の援助がウェットになってしまってはいけない。
 さらに、生涯学習の方法は「集団学習」ばかりではない。公民館が行うべき学習援助にもさまざまなバラエティーがある。講座修了後のアフターサービスも同様である。自主グループ化だけが援助ではない。時々の、あるいは個人個人の状況に応じて個人学習の援助や、場合によっては社会教育の「宅配」などフェース・ツー・フェースの関係を離れたサービスも考える必要がある。このように公民館は地域の「学習センター」として住民とのダイナミックな関係をめざさなければならない。
 これらの留意点は学級・講座終了後のいわゆる「自主グループ」だけでなく、地域の一般の自主的学習グループ、特に「未成熟」のグループの援助においても同じである。
 たとえば、「シュミレーション」はグループメンバー対象の講座にも有効であろうし、どんなグループに対する場合でも「ウェットな関係よりダイナミックな関係」が求められるのである。

3 グループ援助の今後の方向

 これまでも公民館は主催事業とともに、施設提供などの自主的学習グループの援助を行ってきている。しかし、施設提供以外の団体援助は実際にはその対象が限られがちであったきらいがある。
 その「限られた団体」がたとえば、先に述べたいわゆる「自主グループ」であり、また、伝統的な地域団体としての婦人会、青年団などの狭義の「社会教育関係団体」であった。実際にこれらの団体には、施設提供だけでなく、補助金の支出や昼夜いとわない相談・情報提供などが行われてきている。
 しかし、一般的な意味での「自主グループ」とその端緒はもっと地域のいたる所に、そして公民館が知らない所にまで広く存在する。しかも、この場合の「自主グループ」とは、必ずしも「学習」を主目的にするものとは限らない。さまざまな目的と内容のグループが考えられる。
 そもそも「自主グループ」という用語を公民館の主催事業によって生まれたグループにだけ適用することには問題があるのであろう。公民館は「館外」のグループにも関心を持たなければならない。そして、「館外」でいかにグループ化を促進し、いかにその援助を行うか、方法を検討しなければならない。
 しかし、現実にはこのような「館外グループ」への援助にはたいへんな困難がともなう。グループ化の無限の可能性と、ありとあらゆる実際のグループの存在に対して、公民館はどのように促進・援助できるのか。
 そのためには、基本的にはネットワークの姿勢が求められるのであろう。公民館の中ですべて抱え込もうとすれば、当然無理が出る。それよりも、それぞれのグループの主体性を最大限に尊重し活かしながら、公民館ができる援助を考えるべきなのである。
 それにはまず、公民館ではグループで集まることができる、他の人やグループと知り合うことができるということを、人々に実感として感じてもらえるようにすることが大切であろう。そのためには、一般の施設提供の他、オープンスペースとしてのロビーやたまり場としての団体室などを最大限活用できるようにすることも必要である。また、より直接的には「グループ学習継続のための相談、講師、教材等の斡旋、作品展示の場所など学習成果の発表の場の斡旋、活動の場の紹介」(2)なども考える必要がある。
 このような基本的な営みの中でこそ、公民館とグループとがともに個性と主体性を発揮しながら、共有できる「問題」に対してゆるやかに連携し「協働」するという本格的なネットワークが実現するのである。

(1)社会教育審議会成人教育分科会 「成人教育分科会の審議のまとめ」 昭和63年4月。
(2)同上。


グループリーダーの養成

1 グループリーダー養成事業の対象と方法

 今日の多様化、個別化の社会において、グループリーダーのあり方も大きな変貌を遂げつつある。その主要な変貌の一つがリーダーからメンバーへの「権限(リーダーシップ)の移譲」ともいえる現象である。
 「○○委員会」、「○○部」などの固定的なブロックの上に恒常的な会長がいて、その会長が全体を統括するというのではなく、ある企画や問題について関心のある数人がその時のグループの中心になってプロジェクト・チームに似た機能を発揮する。そして、会長は他にいても、それより強力なリーダーシップを「不定期に」発揮する者がそのチームの中から登場する。この新しいリーダーシップのシステムは非常に流動的で柔軟である。
 ここでは、会長などのグループ全体の恒常的な指導者を「ゼネラル・リーダー」、不定期に出現する指導者を「プロジェクト・チーム・リーダー」と便宜上、呼んでおく。なお、ここでいう「プロジェクト・チーム」とは、会社組織などでつくられる当該事項に関する「適性」を持つ者の「横断的」なチームとは、多少、性格を異にする。むしろ、グループ活動の「自主性」、「自発性」という特性に規定されて、当該事項に「関心」をもつ者の「自然発生的なチーム」である場合が多いだろう。必ずしも他者から「特命」を受けた明確な組織形態をとるわけではない。
 もちろん、グループの効率的な運営などのためには、今日でもグループ全体を掌握する「ゼネラル・リーダー」の役割は軽視できない重みをもっている。しかし、それとともに、これらの「プロジェクト・チーム」がグループの中で認められいきいきと活動できることが、新しいネットワーク型のグループ運営を進めるための必須条件と言えるのである。
 むしろ、「ゼネラル・リーダー」の持つべき今日的なリーダーシップとは、そういうプロジェクト・チームが盛んに形成され、それぞれのリーダーが続々と生まれ育つよう励まし見守ることとも言えるのである。
 これに対して、公民館で行われるリーダー養成事業が、「ゼネラル・リーダー」ばかりを対象として、しかもその事業にリーダーシップのためのありとあらゆる知識・技術を盛り込もうとするならば、それはグループのネットワーク型運営の方向に逆行し、活性化を阻害する結果にさえなってしまう。
 たとえば、グループ運営を一手に引き受け、たくさんの「責任」をしょい込んでいるリーダーには、対外的な仕事もかなり集中してしまう。その上に、公民館の行うリーダー研修への参加までもが、「対外的な仕事」(動員への対応)の一つとしてこのリーダーにおおいかぶさる。このようにして、リーダー一人がますます忙しくなってしまうのである。
 そもそも公民館が養成すべきリーダーを「ゼネラル・リーダー」に限定してとらえることは、グループ全体の成員の自発性、主体性を軽視し、グループをリーダー偏重のタテ組織としてとらえていることの証左ではないか。さらに言えば、この「ゼネラル・リーダー」偏重の志向は、初級→中級→上級というリーダー研修体系を、より大きな規模の「ゼネラル・リーダー」になるための単なる「踏台」として歪曲化することにもつながりかねないのである。
 今日、リーダーシップとメンバーシップは、機械論的な二元論で扱うべきものではない。グループ活動の中で、この二つは成員の間を自由に行き来すべきものなのである。ネットワークとはそういうことである。
 公民館で行うべきグループリーダー養成の今日的目的とは、一つには、「ゼネラル・リーダー」に対して「権限の移譲」を名実ともに成功させるようなリーダーシップが獲得できるように、二つには、「プロジェクト・チーム・リーダー」に対して新しい形のリーダーシップが獲得できるように両者を援助し、そのことによってグループ内のネットワークを促進することと考えられるのである。
 なお、後者の「プロジェクト・チーム・リーダー」の養成としては、広報担当者の研修などのある特定の内容に関わるテーマの研修を行っている公民館が現状としても多い。また、「リーダー研修」を「ゼネラル・リーダー」だけでなく、意欲的なメンバーの参加を広く積極的に呼びかけ、ネットワーク型運営に資するリーダーシップの養成を図っている所もある。これらの実践の価値を評価し、リーダーシップ研修としての内実をいっそう豊かにすることがまず必要である。
 しかし、さらにメンバーの間に随時生まれるさまざまな関心と、その事項に関する不定期なリーダーシップへの発展の可能性を的確に把握し効果的に援助するためには、研修事業だけでなく、情報提供、相談など、日常的な公民館の事業をすべて広い意味でのリーダー養成としても位置づけて展開することが必要になるのである。
 ネットワーク型のグループ運営を援助するリーダー養成は、「ゼネラル・リーダー」一人を養成することで足りる問題ではないだけに、このように総合的に展開されることなしには、その目的を達することはできないであろう。

2 リーダー研修の内容

 そもそも、ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」とされているのに対して、リーダーシップは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」とみられている(1)。リーダーシップは、本質的にネットワーク型なのである。特にグループのリーダーシップは、成員各自の主体的な合意のもとに、しかも「プロジェクト・チーム・リーダー」を含む非固定的なリーダー個人の自立的な価値によって、可変的に発揮されるという意味で、ネットワーク的性格をいっそう強く有しているものといえる。
 リーダー研修の内容としては、場合によってはごく実務的な事項も含まれて当然であるが、研修全体として見ればこの本来のリーダーシップのあり方を実現するために必要な事項こそが核に据えられるべきなのである。
 その一つは、コミュニケーション能力である。ネットワーク型リーダーには、自己の企画を他のメンバーに訴える力(プレゼンテーション)と、それに共感してくれた各人の人間関係をとりむすぶ力(グループワーク)の両方が必要である。コミュニケーション能力はその基本になる。
 二つには、「不定型」に挑戦する能力である。ネットワークは、めまぐるしく変化する問題や関心に自由自在に対応できるところに、その魅力がある。その時点での役職やルーティンワーク、あるいは慣習にしがみついて発想したのではネットワークにならない。未知で形の定まっていないことへの挑戦の姿勢が求められる。そのためには、発想法のトレーニングなどが有効である。
 三つには、外と交流し学びとる、「外とのネットワークづくり」の能力である。異種の人間との交流が各自の世界を飛躍的に広げる。人材を知ること(ノウ・フー)にもつながり、グループ運営にも資することができる。そして、それは外とのネットワークであると同時に、グループ内の風土にも新鮮な風を起こしてくれる。このような意味から、団体間コミュニケーションとしての「交流」を援助する意義は非常に大きいと言える。
 しかし、もう一方で、公民館はネットワーク型グループ運営のもつ問題や危険性も見過ごさないようにしなければならない。
 ネットワーク社会においては、専制的な「リーダーシップ」は否定され(権威失墜)、拡散し、大衆化する。だが、そのことは反面、正当なリーダーシップをも軽視する傾向にも通ずる。厚みのある「大作」としての文化が喜ばれないのと同様に、「不易」の根拠をしっかりと持つリーダーシップまで捨て去られてしまう。そして「流行」だけが追い求められる。
 そのような時、リーダーに「不易」を提起する公民館独自の役割は大きい。公民館は、この役割を主体的に発揮しなければならない。
 もちろん、その場合でも、「主体的」であるべきは公民館だけではない。研修を「受ける」側としてのグループリーダーにも「主体的」参加が求められる。このような両者の主体性を両立させるためには、「問題共有の視点」をもつ研修内容にする必要がある。すなわち、研修を「同時代」に生きる者としての共通の問題に共同で取り組むような内容にするのである。そこには主体的な自己成長と相互作用が生まれるだろう。
 もともと「養成」には「教育して一人前に成長させる。」という語義がある(岩波漢語辞典)。しかし、そういう「養成」の古い語義はもう新たにしたい。お互いに「同時代人」としてすでに「一人前」であるという対等な立場から、「自己養成」、「相互養成」を繰り広げることが「リーダー養成」の新しいあり方なのである。

(1)見田宗介他 「社会学事典」 弘文堂、昭和63年2月。


パソコン・パソコン通信と青年
 〜成熟したネットワークとは何か〜
                       西村美東士

1 パソコンの急速な普及と未成熟性

1−1 青少年から始まったパソコン
 カリフォルニア州の「シリコンバレー」では、60年代以降、トランジスタからICへ、そして数ミリ角の面積に数千から数万の素子を組み込んだLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、1971年インテル社から4ビットのマイクロプロセッサーが出される。
 マイクロプロセッサー(MPU)は、LSIによって構成され、中央処理機能(CPU)としての役割を果たすものである。これに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピューターすなわちマイコンになる。
 しかし当初すぐに、日本のコンピューターのメーカーが、マイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。大手企業が家電製品の中ににマイクロプロセッサーを組み込むということはあったが、コンピューターメーカーが個人用のコンピューターなどというものを本気で考えるようになったのは、ずっと後の80年代からである。
 マイクロプロセッサーをマイコンとして使おうとしたのは、最初は青少年を中心としたホビイストたちである。そういう人たちに向けて、ごく小さな会社が「キット型マイコン」を売り出したのであった。初めにマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業にいる「大人」ではなく、「巷の青少年」だった。これはこれでブームにはなったが、そのころのマイコンブームは秋葉原などの露店を拠点とした、ごく一部の人々によるものであった。
 その後、80年代に入って、ようやく日本でもキーボード、ディスプレー、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、以降、それは大変な勢いで普及している。これが今日では、「パソコン」(パーソナルコンピュータ)と呼ばれているのである。
 この普及のきっかけになったのは、「インベーダー」が大流行した1979年に発売された、日本で初めてベーシック言語を搭載したパソコン(日本電気のPC8001)である。しかし、このベーシック言語もまた、じつは大学中退の青年たちによるベンチャー企業のアスキー社がアメリカから持ち込み、メーカーに「なんとか」採用してもらったものである。
 また、今日、隆盛をきわめているパソコンソフトの一つの「表計算ソフト」も、1979年、アメリカで社員わずか2名の会社から「ビジカルク」が発売されたのが最初である。これがマイコン(当時はアップルコンピュータ)を有能なパソコンに変えるソフトとして、以降のパソコン利用に大きな影響を与える。パソコン文化は、従来の商業文化よりははるかにアマチュアやベンチャーの文化であり、そのユーザー寄りの発想が新しい文化をつくりだし、既成のメーカーはその後を追ってきているのである。
 しかし、当時のパソコンの主体は「ゲーム」であった。1972年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出されているが、その後、日本では「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」といったLSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがパソコンに移植され関心を呼ぶことになったのである。
 この数年パソコン通信をやっているSさんは、私からのインタビューで次のように言っている。「(1979年にPC8001を買ったが)まったくのゲームマシンでした。というか、そのころはやはり(マシンが)おもちゃにしかすぎなかったんですね。それでベーシックでプログラムを組んだり、マシン語の雑誌に出ているプログラムを入力して、非常に速いスピードのインベーダーを組んだりとか、そういうレベルでまあ面白かったわけです。それでもけっこう時間をくってましたね」。
 このように、当時のパソコンによって、Sさん自身の言葉を借りれば「機械と人間との対話が成立」し、「ハイテク志向というか、コックピット症候群というか、少年のころ抱いていた憧れが、ついに手に入ったという感動」を青少年は味わったのである。

1−2 パソコンの機能と新しい文化
 80年代以降、パソコンは急激に普及する。本体だけならステレオを買うような値段で買えるようになったからである。しかも、従来の家電製品と違って、多機能である。
 パソコンは汎用的なので、その機能はどのようにも解釈できる。しかし、技術的視点はともかく、パソコンの社会的、文化的な分析の視点から、私はその機能を図表●1のように整理してみた。
 今や、パソコンは青少年の専売特許ではない。図表●1のようなパソコンの多機能化、高機能化が、特にキャッチアップ志向の人々の関心をひき、大衆化が促進されている。
 そして、文化が「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」(クラックホーン)だとすれば、ここには新しい特殊なパソコン文化というべきものが存在する。ここでパソコン文化とは、「パソコンの発明と量産・普及という技術的条件によって、新しく生まれつつある生活のスタイルや価値観」としておこう。
 そもそも、パソコンは、仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をさせることができる機械である。この「汎用性」が、パソコン文化の新しさの最も基本的な要因となっていると考えられる。
 第一に、「汎用」であることから、一人一人の個別な要求に沿って、多様な仕事をすることができる。従来の大量生産、大量消費による文化の「画一化」とは、様相を異にする。この「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する。(個別性)
 第二に、「汎用」ということから、パソコンという与えられた「箱」だけあっても何の役にも立たないということになる。この「箱」を役立たせるためには一人一人の何らかの主体的力量を必要とするのである。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことに始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには「簡易言語」などによって簡単なプログラムを自分の手で作ってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者の「わずらわしさ」を解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたのとはまったく逆に、パソコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)
 第三に、「汎用」ということから、今までにだれも考えつかなかったような仕事をさせることも可能である。お膳立てされたものの「利用」にだけ役立つのではなく、個人が自由に工夫をこらして仕事をさせる余地がある(創造性)。しかもその「工夫」の結果が明快に表れることから、大きな達成感を味わえる。
 このように、パソコン=パーソナル・コンピューターは文字通りパーソナルな汎用的道具として登場している。そして、これまでのテクノロジーの延長上にありながらも、今までの消費文化とは異なる文化を生み出そうとしている。それはひと言で言えば、文化面における「個人の自立」を保障するものであり、また、機械側の事情からも、それを人間に要請するものであるのだ。

1−3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化
 しかし一方で、パソコンがそのような使い方をされずに、従来の「産業文明」の枠組の中で利用されている現実もわれわれは認めざるをえない。パソコンの普及があまりに急速であったため、パソコンの新しい文化創造のツールとしての可能性がまだ十分には発揮されていないのである。
 その一つはパソコン利用の「孤立化」である。
 「テクノストレス」下の人々にとって、コンピューター相手の仕事は苦役ではない。むしろ与えた仕事をものすごい速さで正確にこなしてくれるコンピューターに、慣れ親しんでいる。しかしその分、「のろま」でイエス・ノーのはっきりしない本物の人間とは、つきあっていられなくなってしまうという。●1
 しかもパソコンは、いったんマシンに向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きで、まったく他人に関係のない内容の仕事をさせ、その成果を一人で味わい、満足することができる。パソコン利用そのものが即目的化してしまう。極端に「パーソナル」なのである。
 もちろん、たとえば「表計算」であれば、ディスプレーを前にしてみんなでわいわいやりながら数字をあれやこれや変えてシュミレーションしてみることができることなどからわかるように、パソコン自体は人間の交流を拒絶するものではない。むしろ、使い方によっては交流を促進する機能を発揮する。ところが、そもそも人間の行っている組織運営が、それを実現するほど柔軟ではない。
 二つは、マシンの「単機能化」と利用形態の「専門化」と、そのことによる人間の「没主体性」である。
 たとえば、ワープロやビデオテックスなどは、パソコン機能でカバーできるのだが、別途に専用機として売り出されている。このようにメーカー側がパソコンの「汎用性」を減らして、扱いやすいけれどその分、出来合いの仕事しかしない専用機の生産に傾くならば、パソコンは今までの家電製品と変わりないものになってしまう。実用化、焦点化された分だけつまらなくなってしまうのである。誰にもわかりやすくということは大切なのだが、それはたとえばシステムがシンプルであり、ソフトが親切であることのはずなのである。
 また、ユーザーの側も、市販ソフトでゲームに興ずるなどのパソコン利用の初歩の段階で満足してしまうなら、「汎用性」は活かされない。あるいは、企業活動の面でも、「パソコンオペレーター」という専門家に任せる方向をとるならば、それは「産業文明」におけるオートメーションによる分業化となんら変わらなくなってしまう。
 職場などにおいて人間は何も考えずにコンピュータにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性をコンピュータ文明はもっている。これは極端に「専門化」した利用形態である。
 実際、職場にワープロが導入された初期のころは、多くの上司は、自分で手書きした文書まで、部下にワープロで「清書」するよう命じた。しかし、本来、ワープロはその豊かな機能から見て、「清書マシン」ではなく「推敲マシン」というべきである。人間の側の役割である若干の苦しみを伴う「推敲」を完成した時点で、マシンの方が「清書」を完成させてくれている。ついでながら、「清書」が完成しているから、それをそのまま発信できる。このような「清書マシン」→「推敲マシン」→「コミュニケーションマシン」としての発想転換が求められている。
 もともと、パソコンはアマチュア(ベンチャー)がパーソナルに(家内工業的に)つくりだした文明である。パソコンは、アマチュアのパーソナルな、その分「全人的」な文化を支援するツールとしてとらえなおされなければいけない。
 三つは、パソコンの「物神化」である。これは、いまだ根強く残っているキャッチアップ志向の一種であり、「ハイテク強迫症」のなせるわざともいえる。
 そこでは、パソコンの「有用性」が誇張され、それを活用しないと「時代に乗り遅れる」あるいは「損をする」という「強迫観念」が風靡する。そして、パソコンマシンというメカ=「物」自体が「神」のように崇め奉られ、パソコンを必要に応じてどう役立てているかではなく、新しい機器をどれだけ使っているかが、個人や組織の評価の基準になってしまう。
 しかも、これに呼応してパソコンメーカーは次々と「上位」機種を発売する。「4年で半額になる」といわれるまさに「成長市場」(「成熟市場」ではなく)のコンピュータ関連企業にとって、それは今のところの経済社会における役割と言えなくもない。
 しかし、本質的あるいは将来的にはパソコン文化はこのような「物流」の世界のものではなく、「情報化社会」を基盤とする文化というべきである。というのは、パソコンはその汎用性と使い勝手の良さの保持のためには、シンプルな方が良い。個別の用途のためには、個別のソフトなどでまかなえる。だとすれば、その時に重要なものは、もはやメカの良し悪しではない。重要なのはソフトを含めた「情報」であり、もっとつきつめて言えば、本来の「神」であるべき「情報」、すなわち人間の発信内容そのものなのである。これらの「情報」は、物流ではなく、電子的に瞬時にやりとりできる。
 このようにして、情報化社会では、情報ツールが良質であることを前提に、「モノから情報へ」と価値観が転換される。ツールのための議論は二次的なものとしてとらえられるのである。
 ところが、そのためには今日のパソコン生産では残念ながら不十分である。そのもっとも大きな問題は、ソフトなどの機種間のコンパチビリティー(互換性)の欠如である。この「欠如」も「買い換え」を誘発するためのメーカーの戦術であろうが、そのためにせっかく豊かに作り出されつつある「情報」の方が容易には流通・共有できなくなってしまっている。これは、社会的損失である。
 その点、パソコンの万国共通の設計思想(TRONなど)が「有志」(企業ではなく)の手により構築され、財産権としての著作権を放棄までして提唱されていることは、コンパチビリティーの重要性を示すと同時に、私たちにこの問題に関する楽観を与えてくれるものでもある。さらに言えば、人々のコンピュータリテラシーの修得を公的機関が援助することは、こういうことを理解し、応援することのできる「賢い(情報の)消費者」になるための学習を援助することなのである。

 さて、私が今日のコンピュータの「物神化」傾向にもっとも対比されるべきと考えるものが、パソコン通信によるパソコン利用の「成熟化」である。
 ある自動車評論家は「高性能を誇示して特殊化、異端化することを嫌い、それをごくフツーのものとして軽く受け流しているような自動車をむしろオシャレなクルマとする動きがすでにある」●2と指摘し、この自動車の消費動向を「成熟化」としてとらえている。
 私はパソコン通信がまさにこれであると考える。パソコン通信は、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したニューメディアの一つとして、多量の情報を高速にやりとりすることができる。しかし、パソコン通信をする人たちにとってそのような「モノ」それ自体の素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。それよりも、「双方向性」をもったニューメディアであるという点が重要である。
 パソコン通信はたいした「覚悟」なしに手軽に参加できる。しかし、その参加は手軽ではあっても、そこでの情報交流は直接的であり主体的である。これがパソコン通信の魅力なのである。
 事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を良しとする。さまざまな機器の助けを借りていることは忘れてしまって、機器が「透明」になる感覚を良しとするのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。
 豊かなモノに囲まれた現代青年にとって、パソコン自体はあこがれの対象にはなりえない。情報交信ができるというパソコンの本質を知っている(クオリティ・コンシャス=「クリ・コン」)だけのことなのである。クリ・コンの人は、成長時代の「ブランド依存」の人たちのようにモノをステータス・シンボルなどとしては扱わず、自分で実際に試して良ければ、その人なりに「使いこなして」いく。モノを「溺愛」するようなことはしない。
 「大衆文化」の新しいトレンドとしての「パソコン文化」を見極めていこうとするなら、成熟したパソコン利用形態としてのパソコン通信こそ、われわれの関心の対象とすべきである。これを、ネットワークとしてのパソコン通信と呼びたい。後半は、このことについて述べる。
●1 「テクノストレス」、クレイグ・ブロード、
●2 「フツーの車が人気化」、舘内端、日本経済新聞、1987.9.6

2 ネットワークを体現するパソコン通信

2−1 パソコン通信の経済性
 今日のハイテク化の進行は、人々のライフスタイルや文化に大きな影響を与えている。あるいは、今後おおいに貢献する可能性を秘めている。とくに高度に発達した情報技術は、市民の主体的な「情報交流」のための社会的基盤を提供する可能性を有している。
 とりわけ、ここではパソコン通信に注目したい。パソコンと電話をもっている人なら、あとはその二つをつなぐモデムを買えば、在宅のままリアルタイムな情報検索と収集、そして「情報発信」ができる。
 モデムは2万円ぐらいで買える。パソコン本体も最近では、簡単なワープロやファミコンなどでも可能になってきた。会費が無料のネット(パソコン通信サービス)もかなりある。また、商業ネットの場合、大型コンピュータによる高度なサービスが受けられる。ネットワークによって、生涯所得以上の莫大な費用のかかる大型コンピュータのシステムを、あたかも個人所有しているような利用の仕方ができるのである。
 あえて問題をあげれば、それは電話料金であろう。市内電話なら、1時間通信して200円だが、毎日欠かさず3時間以上も通信しているネットワーカーには、1カ月2万円にもなってしまう。市外なら、なお大変である。ちなみに、アメリカでは市内電話は基本料金に含まれているので無料であり、そのためか、日本よりもパソコン通信が盛んである。●1
 しかし、いずれにせよ、一般的な利用を想定するなら、パソコン通信はすでにパソコンを持っている個人にとっては、すぐれたコスト・パフォーマンスを保障するものといえる。

2−2 新しいコミュニケーション環境
 ひと言でいうなら、パソコン通信は、情報処理なら「何でもできる」。もっとも、パソコン通信でテレビのニュースを見ることはできないのだから、正確にいえば「もっぱら、文章としての情報の処理なら」と限定すべきであるが。(現在、メンバーが作ったプログラムや静止画のやりとりは行えるようになってきている)。
 たとえば、発信された情報を次から次へとためこむ。それをどんなメンバーでも、読んだり、反応(レスポンス)を加えたりすることができる。逆に、特定のメンバーや個人にだけ、読めるようにすることもできる。あるいは、発信内容をためこまないで、その時アクセス(交信)している人だけで、ふだんの会話のようにやりとりすることもできる。また、情報発信者、発信内容、発信日時などが自動的に記録されるので、株式や商品の注文、会合などの参加申し込みに使うことも可能である。図表●2に、実際のアクセスの流れを示した。
 パソコン通信が可能にしたこのような情報処理の条件は、新しいコミュニケーション環境を私たちに提供するものである。パソコン通信は、ニューメディア=「新しい」メディアなのである。その「新しさ」の特性を端的にまとめるならば、次のとおりである。
 第一に、双方向的である。しかもそれは、「反応分析装置」のように、一方の側の目的に奉仕するものではなく、双方の主体的な意思と行為に基づくものである。
 第二に、即時的(リアルタイム)である。情報発信者が発信したい時に発信する。その瞬間、他者によるその情報の受信が可能になる。もちろん、他者はそれ以降の自分の都合の良い時間に、それを受信することも可能である。
 第三に、空間超越的である。つまり、交通手段などの物理的制約がない。在宅時はもちろん、電話がある所ならどこでも同じ条件で通信できる。
 第四に、蓄積が可能である。発信された情報をホストコンピュータなどに蓄積することもできるし、受信者が好きな情報だけ自分のパソコン(端末)に保存することもできる。
 第五に、検索が可能である。ホストに蓄積された情報は、メニュー化されて表示される。ここから、自分のパソコンで指令して、欲する情報を引き出すことができる。
 第六に、端末処理がかなり自由である。通信内容を自分のパソコンに文章(テキストファイル)として記録できる(ダウンロード)ので、自分のパソコンを利用して、あらためてそこから必要な記事や箇所だけを抜き出したり、加工したり、プリントアウトしたりすることができる。通信内容が、簡単に安く「印刷媒体化」されるのである。
 テレビも出た当時はニューメディアだったのではないかという人もいる。しかし、今日のニューメディアは、情報が電子化されることによって、大量、迅速、かつ応用自在に流通するようになっていることが、今までのメディアになかった特徴である。パソコン通信も、後者の意味での今日的なニューメディアの一つである。
 しかも、パソコン通信はニューメディアの一つであるだけにとどまらない。すなわち、他のニューメディアより、その「双方向性」がけたはずれに強力である。この「双方向性」が、パソコン通信を楽しく、きびしい独特のメディアにしている。

2−3 スタンド・アローンがネットワークする
 私は、ネットワークの特性は「自立」と「依存」の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。「スタンド・アローンがネットワークする」のである。
 このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「依存関係」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「依存関係」が対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。●2
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これが、一定の「安定」をもたらした。
 しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。「安定」のみを重視する人には耐えられないシステムである。
 それゆえ、ネットワーキングとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。その意味で、ネットワークは人間以外の動物にはありえないものである。
 ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚を呼びさましてくれる。しかし同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものでもある。
 パソコン通信がこのような意味でのネットワークシステムであることを保障する第一の条件は、繰り返しになるが「双方向性」である。
 複数、または多数の他者をNとするなら、テレビは1→Nである。電話は双方向ではあるが、基本的には1←→1である。これに対して、パソコン通信では、1←→1(電子メール)、1←→N(電子掲示板)、N←→N(電子会議)などを自由に使い分けることができる。
 パソコン通信がネットワークシステムであることを保障する条件として、私は次に「スタンド・アローン」をあげるべきだと考えている。
 パソコンは本来、スタンド・アローンなマシンである。パソコン通信の通信内容も、個人のパソコンを使って、個人の個別な行為によって、作成・加工・編集される。その個別な行為の中で、個人の自立が育まれ、また、ネットワークが歓迎する個別性と多様性が生まれるのである。
 このように、パソコン通信におけるパソコンは、情報の相互依存のための「ターミナル」(端末)でもあり、「スタンド・アローン」な情報処理ツールでもある。このことが、ネットワークシステムとしてのパソコン通信を保障し、ひいては、情報技術が進行しても、人間がそれに「管理」されることなく、主体的に情報に関与できる可能性を開いているのである。
●1 「パソコン市民ネットワーク」、岡部一明、技術と人間社、1986.12.
●2 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」については、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)。

3 パソコン通信における新しい「知」と「集団」

3−1 ROMの存在
 コンピュータにはロム=ROM(Read Only Memory=読取専用記憶装置)という技術用語があるが、パソコン通信の世界では、いつまでたっても「読むだけの人」をROM(Read Only Man)と呼ぶ。ROMは、ネットが提供するデータベースやネットの中の他人の記事を読むことによって、自分だけが「情報を得よう」としている。それが「エゴイズム」だとして、パソコン通信の愛好者=パソコンネットワーカーから軽蔑される。
 情報収集は得であるが、情報発信は得にならないというROMのような「思い違い」は、普通の社会にはある。しかし、すでに述べたとおり、パソコン通信は自らも発信する双方向のメディアである。自ら発信しないのなら、別にパソコン通信でなくてもよい。「情報を発信する所に、情報は集まってくる」という原理が有効に機能するところにこそ、パソコン通信の魅力がある。
 パソコンネットワーカーたちは、この「READだけでなくWRITEを」ということに、異常に見えるほど固執する。初心者が入ってくると、何とかその人に書いてもらおうと、懇切丁寧に技術的な情報提供をする。逆に、ネットワーカーが吐く「最大の捨てゼリフ」は、「こうなったら、僕はしばらくROMになってやる」である。自分のWRITEを自負しているのだ。
 じつは、WRITEは、彼らにとってより有益な情報を収集するための一つの方策などという「低次元のもの」ではない。WRITEすることによってのみ、人からのレスポンス(反応)が得られる。あるいは、READすることによって、WRITEした人にレスポンスを返すことができ、それがまた書いた相手からリ・レスポンスを得るきっかけになる。このようなREAD←→WRITEの循環の中で、自己の発言に(個別の)レスポンスが与えられることこそがパソコン・ネットワーカーの至上の幸福なのである。
 だから、どんどん書きまくるけれども、だれもレスポンスする気のおこらないような記事ばかり書く人も、ウォム=WOM(Write Only Man)、または「ヒーロー」と呼ばれて、ROMと同じように軽蔑される運命にある。
 パソコン・ネットワーカーのこのような志向は、「レスポンス至上主義」と呼べるだろう。これは、レスポンスを発する個人の主体性、他からのレスポンスを獲得できる個としての魅力を要請するものであり、また、自己の他者への、他者の自己への影響、すなわち相互の依存関係を最大限に尊重し、歓迎するものである。これは、ネットワーク一般の志向とぴったり符合する。
 このようにして、技術としての情報化が進行する中で、パソコン通信は結果として情報化社会の健全な発展に貢献するものになりつつある。なぜなら、「得する」情報を求める受動的情報摂取の志向、「情報ものとり主義」ともいうべき志向を克服して、主体的で確かな、情報と認識の交流のネットワークを構築することが、情報化社会の「健全な発展」に不可欠だからである。
 しかし、現実には、自分にとっても他人にとっても理想的にWRITEするためには、困難が多々ある。
 第一に、パソコン通信は「書き言葉文化」なので、慣れるまでは少し「しんどい」読み書きの作業が強いられる。最初は電話のような気軽さはない。とくに自己の思考を文章で表現することは、つらいものである。「読み・書き・算」のうちの二つも能力が求められる。真の意味での「学力」の不足は、ここでは直接的に影響し、その人の情報行動を消極的にしてしまう。
 ただ、青少年の場合は、「交換ノート」のような「ノリ」で気軽に読み書きしている。これが、新しい「書き言葉文化」を形成しつつある。
 第二に、「知の防衛機制」が働く。すなわち、恥や照れによる消極化である。実際、「話し言葉」でなく「書き言葉」を公表することは、他の人に、しかも見も知らぬ人に自分の「あさはかさ」を知らすようで、恐ろしいものである。
 「恐れを知らない」青少年にはともかく、「分別ある大人」にとってはとくにそうである。一人でできるコンピュータ支援学習=CAL(Computer Assisted Learning)が「相手が機械だから、何をどう答え、質問しても恥ずかしくない」という理由から、意外にそういう「大人たち」に好評なのと対照的である。
 第三に、WRITEするためには、その前後を含めてかなりの時間がかかることがある。というのは、パソコン通信ではオンライン(電話回線を通じたまま、ホストのコンピュータにパソコンから直接、記事を書き込むこと)で、二言、三言の短信を手軽に書き込むこともできるのだが、一度書き込むと、予想外の量や内容のレスポンスがあったりして、その対応(リ・レスポンス)に追われることがある。これは、多忙な人にはかなりの負担になるのである。
 このような意味で、パソコン通信の「大衆化」の前途は厳しい。あるパソコン通信を行う会社の経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下の方になるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ。」という趣旨の発言をしている。
 たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって、単純にROMの存在を不可避とし、パソコン通信の可能性を軽視することは問題であろう。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この「発展」を継承せずに、消極的な理由から「動画」に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。
 情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、ROMの存在に象徴されるパソコン通信の「困難」は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない知的試練としてとらえるべきではないだろうか。

3−2 新しい「知」の誕生
 パソコン通信は、ROMの存在に示されるようなやっかいな問題をかかえつつも、「知」の新しい傾向を生みだしつつある。
 その一つは知の「ボランタリズム化」である。
 たとえ同じネットワークを組んでいる人でも、自分の財産を奪おうとする者は許せないだろう。しかし、一方で、自分の知の成果を「盗む」者に対しては、寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うのである。パソコン通信において、たとえば「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください。」という「パプリック・ドメイン・ソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。
 人間には他者に対して影響力を持ちたいという自己実現欲求があると考えられる。情報化が進展することによって、その欲求を平和裏に充足させることが可能になっている。なぜなら、他の本がたくさん出版されたからといって、一つの本の価値が薄まるわけではないように、そもそも「知」を情報の流通に乗せる場合、権力や所有にからむ争いとは対照的に、競合性・独占性が少ないのである。
 そしてプログラムづくりやWRITEなどの「知的生産」は、その知を他者にアウトプットするものという意味で、不可避的に社会的存在であるといえるが、ボランタリズムによって、さらにこれらを実際に社会の「共有物」にすることができる。
 ただ、最近、営利事業体が経営するネットにおいては、原稿料を払わずに会員の書き込みを出版するなどの二次使用に対して、会員から異議が出始めている所もある。知の発展とその流通のためには、パソコン通信一般において、書き手の著作権(財産権としての)を尊重すべきか、むしろ「無償」の「情報ボランティア意識」を醸成すべきか。議論のあるところである。
 二つめは、知の「アマチュア化」である。
 パソコン通信は基本的には、「しろうと集団」(ネットワーカー)からの情報発信である。そこでは、効率より「楽しさ」が重視され、知的喜びなども「楽しさ」の一つとしてとらえられる。産業社会にもてはやされた「手段としての情報」に対して、このような「即目的としての情報」あるいは「遊びとしての学習」は、今日の「脱産業化社会」のトレンドの一つである。
 また、「手段的情報」についても、「知的プロ」によってオーソライズされた情報ではなく、ナマ感覚(未完成)で不定型の情報と思考態度、知恵が伝わっていく。いわば「耳学問」であるが、これは今日の情報化社会において欠如し、人々から渇望されている情報である。パソコン通信では、このような情報と知が、いとも気軽に安易に文章(テキスト文)として量産されているのである。
 一方、一部の「知的プロ」は、この種のアマチュアリズムによる知の可能性に関心をもちはじめ、パソコン通信に参加し始めている。このようにして、アマチュアとプロの「無境界化」が進行する。
 そして、これらの「知のアマチュア化」は知のネットワークを推進するファクターとなる。「どんぐり(アマチュア)の背比べ」と自嘲するパソコンネットワーカーもいるが、「どんぐり」だけに「無償」で知のやりとりをすることにやぶさかではないのである。
 このような理由で、知のネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの放電が個人の充電に直接連動する。この「相互教育」(意識化された「教育」ではないが)の実現は、個人の内面の「充電と放電の乖離」や、他者との間の知の分業の固定化を克服するための強力な手段である。しかも、学習コーディネーターが省力化できる(不要になるということではない)という意味で、経済的学習システムでもある。
 三つめは、知の「個別化」である。
 まず、パソコン通信の会員には、個別にIDナンバーというものが与えられる。これとハンドルネームというものが、すべての書き込みの発信元をつねに明らかにする。ただし、ハンドルネームは実名でなくても良いということが、かえってネットワークを活性化させる要素になっている。
 次に、パソコン通信が「書き言葉」に純化した仮想空間であることが、ネットワーカーの各「個性」を守ってくれる。椎名誠は、シルクロードを歩いたとき、自分の家のテレビで以前に見たシルクロードの映像と音楽がうかんで困ったということ、そして、テレビではなく本を読むのであれば、イメージは「防衛」されるのに、ということを書いている。●1
 つまり、こういうことが言えるだろう。今日氾濫している映像は、それぞれが具象的な「全」情報でありすぎるので、「即イメージ」として個人に浸透しすぎてしまう。それに対して、本やパソコン通信でやりとりされるような「書き言葉」は、各人固有の、あるいは自己の体験に基づくそれぞれのイメージまでは、「根こそぎ」にはしないのである。
 加えて、「相互教育」もきわめて個別化される。パソコンの世界では、各実行段階でのユーザーへの画面上のアドバイス(オンラインヘルプ機能)が充実しているものほど良いソフトだといわれている。その意味で、パソコン通信において、各人固有の「問題」に対して、ネット上で他のメンバーから援助の手がさしのべられていることは、「ヘルプの個別化」として評価されるべきである。
 四つめは、知の「雑多化」である。
 パソコン通信では、各人各様の関心が錯綜する。それを逐一、紹介する余裕はないが、代表的なものを整理すると図表●3のようになる。とくにプログラム志向の人たちはメカよりロジックに関心があり、彼らの哲学的論議にもその傾向が表われている。
 しかし、全体的にはパソコン通信はいわば「おしゃべりサロン」である。フォーマルな情報(新聞記事データベースなど)もとれるが、それよりインフォーマルな、そして不定型な「おしゃべり」の方がおもしろい。そこに、思想、情報、データ、そして交流が混在する。それらが「学習」として意識化されたものではないにせよ、実質的に各人の学習素材、学習理念、学習ノウハウ(学習の機会・場所・人材)、そして学習を励まされたり、けなされたりするコミュニケーションなどとして「相互教育」の内実を形成している。
 場合によっては、たあいない「イロ、モノ、カネ」の「学習」が新しい時代の価値を創造する人類の営みと連続する。新しい価値は、山奥の「純粋」な大学キャンパスからではなく、「余計な情報」の氾濫する「猥雑」な実社会から生まれてくるのである。
 五つめは、知の「民主化」である。
 私たちの社会には、「ああせよ、こうせよ」というおしつけがましい情報提供と、それに対する反発の無益な繰り返しがかなり多い。これらの情報は、いわば「模範解答の提示」としてとらえられる。これに対して、パソコン通信などで行き交う情報は「私はこう思う」、「私はこう聞いた」というような、あいまいなだけに受信者の判断力を要請する情報である。発信者も自分の考えがまとまらないままでも、気軽にWRITEすることができる。
 これが、パソコン通信による知(情報流通)の民主化の側面である。コンピュータ・デモクラシーとも言うことができるだろう。
 六つめは、知の「非体系化」である。
 パソコン通信においては、「知」に関連して、実用的論議(たとえば知的「技術」への関心)と根源的な問い(たとえば知的「技術」への懐疑)が対抗しつつ共存している。しかし、前者の「情報」は共有されやすいが、後者の情報は共有されにくい。つまり、「技術」に対して「発想」や「体系」というものは、個人の深い内面に関わるものだけに「個別的」なのである。このことは、「異種の交流」をめざすネットワークにとっては好都合であるが、厚みのある「体系」の継承・発展のためには不利である。
 そして、パソコン通信の中では、知が「雑多化」する分、「体系」に関する情報まで「断片化」していく。そのため、メニューなどのシステムがいくら改善されたところで、それらの情報を個人が「自由にわたり歩く」ためにはかなりの知力を要する。システムとしては、そういう「厚み」のある情報も含めて、情報が自由に選択できるのだが、それを選択する能力としての自己の「知的体系」などが備わっていないのである。
 最近、「反情報」ともいうべき知的態度を見受けることがある。理科系のパソコンネットワーカーの中にも、こと哲学的な問題に関しては意外にそういう立場の人が多いのは興味深い現象である。すなわち、情報や知的生産の技術をいったん断ち切り、自己や自然との対話をすることこそ、むしろ「発想」や「体系」の源泉であるというのである。
 また、ネットワーク社会において、既存の「権威」が失墜し大衆化が進むにつれて、せっかくの「古典」や「大作」の遺産も無力化してしまう。それと同時に「重厚長大な知」も崩壊していくのである。
 直接体験がもつ自己への「教育力」と比べて、情報のもつ「教育力」があまりにも無力なのか。しかし、後者を少しでも有効なものにしていくことこそ、情報化社会の主要命題なのであろう。そこでは、「体系」や「発想」の伝え合いを含めた厚みのある「情報共有」と、それを実現する基盤としての新たな「集団性」の構築が求められる。

3−3 新しい「集団」の形成
 パソコン通信のネットワーカーたちは、「電子的仮想空間」を媒体とする新しい「集団」を形成している。
 すなわち、従来、集団は「人為的、単一機能的、合理的」←→「自生的、複合機能的、情緒的」という二つのパターンで代表されていたのだが、パソコン通信は、「明瞭な人為性」、「諸単一機能の交錯」、「合理性と情緒性の混在」、「個人的行為と集団的行為の混沌化」という新しい集団を形成している。このようにして、近代的機能集団の中で「ハイタッチ」を実現している。
 そして、「電子的仮想空間」であるから、「広域」であり、物理的・精神的に閉じ込められた狭い世界のワクを突破することができる。
 それでは、パソコン通信の「集団」は、どういう点で現代人に好まれる「ネットワーク型」といえるのか。
 まず、パソコン通信においては、「撤退する自由」がある。「仮想空間」であるから、撤退しても生活に響かない。「撤退する自由」の上で、論争などの他の人との「ゲーム」を行えるのである。「親しくなりたいけれども、自分は傷つけられたくない」と言って、他者が近づくと針を逆立ててしまう「山アラシのジレンマ」●2に冒された現代人にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。
 もちろん、ネット上でのけんかもたまにあるが、それを含めてすべての「論争」は、率直にさわやかに他者を批判できる知的風土を形成するためのシミュレーションと考えられる。
 そして、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向を意味する。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがパソコン通信の醍醐味である。
 しかし一方で、パソコン通信の新しい「集団性」は、たとえ現代人に好まれるといっても、フェース・ツー・フェースのコミュニケーション能力を減退させ、電子上でしかコミュニケートできない人間をつくりだす危険性をもっているという批判もある。実際、「パソコン通信ばかり」している青少年もおり、そのパーソナリティー形成への影響は心配されて当然かもしれない。
 「共感」や「感動」はナマの人間に対してあるのであり、情報やメディアそのものに対してあるのではない。情報から「人間」を嗅ぎとり、その人間に共感することは、仮想空間でもできるが、そこには限界があることもたしかである。この「限界」は在宅メディアすべてに通じる基本問題でもある。
 私は、だからといって従来の「空間的集合」による方策(たとえば集合学習など)を単純にむし返すのでは、後向きだと思う。過去の「集団」ではついていけない人、あるいはあきたりない人が現にいるのである。むしろ、フェース・ツー・フェースのコミュニケーションを模擬・増幅・補完するパソコン通信の機能を評価したい。
 最近、「パソコン通信燃え尽き症候群」が取り沙汰されている。今まで毎日のようにアクセスしていた人が、電子上では週末ぐらいしかアクセスせずに、むしろ「アイボールミーティング」(目玉であうこと=宴会・集会など)をせっせと開催し始めているというのである。●3これは、通常、「バーンアウト」によるパソコン通信離れと言われている。
 しかし、この「燃え尽き症候群」は、パソコン通信の「危機」ではなく、じつは可能性を表すものではないか。パソコン通信だからこそ、家族や学校や職場以外の人との「出会い」のきっかけになりうるのだ。「アイボールミーティング」などは、現代一般のコミュニケーション阻害を克服する営みの一つといえるだろう。しかも、パソコン通信に「埋没した」生活ではなく、「一般人」でもできる常識の範囲内のアクセス回数になってきているという。「燃え尽き症候群」は、むしろパソコン利用の成熟化の端緒といえるのではないか。

 パソコン通信で何が「通信」されるか、だれも計画や予想はできない。それゆえ、押し出す先の決っている「プッシュ型」の教育の観点からは、パソコン通信は関心の対象外になりがちである。
 行政ばかりか、「ユーザー教育」の重要性を唱えるパソコンメーカーでさえ、パソコン通信の通信内容に関しては、あまり「敬意」を払ってはいないようである。ただ、ネットワーカーたちは「自立的」であるから、メーカーに「評価」も「ユーザー教育」も求めていない。むしろ、たとえばパソコン通信サービスを行っているメーカーなどに対して、「キャリアー」(運搬者)に徹してくれればよいと言っている。
 しかし、これからますます発展するであろう情報化と人々のネットワーク化は、すでに述べたように、大きな可能性とともに、どうしても克服しなければならない問題性をもっている。その問題の克服のためには、「不易」を「体系的」に提示しながら、イロ・モノ・カネに関わるなまなましい「学習」需要もみくびることなく、それが量的にも質的にも発展するよう促す「プル型」の援助の姿勢が社会にも求められる。
 このような姿勢でパソコンネットワークを援助するならば、それは「学習者の現在の自発性を尊重しながら、今後の自主的能力を育成する」という、一見、「自己撞着的」な教育理念を実現するための「偉大な試み」になるのである。
●1 「活字のサーカス」、椎名誠、岩波書店、p210、1987.10
●2 「山アラシのジレンマ」、L.ベラック、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、1974.1、もとはショーペンハウアー。
●3 「転機に立つパソコン通信」、松岡資明、日経パソコン、1988.8.22
◆東京都府中市
  13万uまるごと博物館
−−歴史・文化・自然を融和させた「郷土の森」−−
 入口を入ってすぐの芝生広場は「ゆとり」にあふれていて、思わずホッとため息が出る。広い園内は市民の「憩いの場」そのものである。
 ここの職員も、そう受けとめられることを歓迎しているようだ。「13万uまるごと博物館」というコピーも、職員が作った。たしかに「ホッとため息を」ついた時こそ、歴史や文化を受け入れる用意が心の中にできるのかもしれない。
 「府中市郷土の森」は、昭和六二年四月、多摩川のほとりに「総合博物館」としてオープンしている。
 中枢施設として、延床面積七千uのりっぱな博物館本館が置かれている。その常設展示は、自然・考古・歴史・民俗の四分野にわたっている。また、本館の中には、日本最大級のプラネタリウムもある。そこでは、全天周映画(アストロビジョン)も、マルチ音響で映し出される。当日は、スペースシャトルの打ち上げを放映していた。
 しかし、「郷土の森」はあくまでも園内が全体として博物館なのである。十三万uの敷地の中央に、立川段丘崖(ハケ)を造成し、ハケ上に町場の民家を、ハケ下に水田農家を復元している。
 また、園内一帯は、広場と滝・流れ・池・野外ステージなどが組み合わされた多目的ゾーンである。その日も、七、八人のテニスルックの主婦のグループが、芝生で弁当を広げていたし、子どもを人工浅瀬で遊ばせながら、その横でビールを飲んでくつろいでいる父親もいた。缶ビールは、園内の売店で売っている。
 そして、たとえば梅園では琴、尺八の演奏会を開きながらの「梅まつり」(梅は市の花)が、水田では子どもたちの「コメッコクラブ」による米づくりが行われる。このように、娯楽と個人学習と集会学習と集団学習が、「郷土の森」のあちこちで自由にのびのびと展開されている。
 園内のほとんどの「展示」が、さわったりできる「体験型」である。そこで、旧町立尋常高等小学校の教室に入り、昔の木の机(生徒用)に向かって座ってみた。府中に住んでいたわけではない私でさえ、なつかしい気持ちになった。
 府中というベッドタウンに新しく転入した何人もの市民が、この「郷土の森」を訪れて、このようにして府中を好きになってしまうのだろう。
      (生涯学遊研究会 西村美東士)

タイトル 生涯学習要求調査の結果がレクリエーション的なものばかりになった場合、
タイトル どのように調整していったらよいのですか?

レクリエーションの重要性

 生涯学習の振興とは、住民の主体的な学習・文化・スポーツ・レクリエーションのすべてがいきいきと行われるために必要な条件整備をすることです。ですから、レクリエーション的な要求が多い地域では、まず、レクリエーションのための施設・設備などを含めて、それが活発に行われるための条件が十分であるかどうかを再点検しなければなりません。
 余暇が増大し、高齢化が進展するなどの急激な社会の変化の中で、人間性をとりもどしたり、ますます豊かなものにするためにも、レクリエーションは重要です。
 生涯学習要求調査の中での「レクリエーション的な要求」が、住民一人ひとりのどういう源から生まれでてきているのか、そして、どんなレクリエーションを住民が望んでいるのか、まずは調査からできる限り読み取るよう努めるべきです。

地域課題の導入の可能性

 このように住民の学習要求を細かに見ていくと、「顕在的」な要求ばかりでなく、直接は調査に表れにくいけれども、調査全体からは見え隠れする「潜在的」な要求も少しづつ明らかになってきます。その一つが地域における人々の連帯でしょう。
 芸術の鑑賞や旅行などのように、一人、または家族で行うレクリエーションも大切です。しかし、レクリエーションが人間回復をめざすのなら、それは一人ひとりの孤独な営みだけでは、けっして「完遂」することはできません。人間どうしの連帯感を味わうことができてこそ、レクリエーションの大きな喜びがあるのです。
 今日の地域社会は、さまざまな問題をかかえています。とくに、地域の連帯意識や共同性の弱体化は、自立性の衰退、住みにくさ、地域教育力の減退による子どもの非行化などの主要な要因の一つになっています。これらのことも、住民の深刻な学習要求として表れているはずですが、レクリエーション的な要求をしている人は、それとは別で、そういう要求をもっていないということではありません。むしろ、連帯感があふれるレクリエーション、地域の連帯をつくりだすレクリエーションを、「顕在的」あるいは「潜在的」に求めていると考えられるのです。ここに、「レクリエーション的な要求」が、地域課題にむすびつく可能性を指摘することができます。
 たとえば、自治体の生涯スポーツの取り組みの中で、三世代交流のゲートボール大会や、地域対抗のソフトボール大会などが行われています。これらは、「顕在的」なスポーツ・レクリエーションの要求に応えながら、地域の連帯感の涵養によって地域課題にアプローチする試みとして評価できます。

生涯教育の基本方針からみた調整のあり方

 上に述べたように、住民の学習要求(文化・スポーツ・レクリエーションを含む)がある場合、それがささいに見えるものであっても、その活動が自主的にいきいきと行われるよう配慮することが行政には必要です。そして、その学習要求をていねいに分析することによって、「潜在的」な学習要求もみえてくるのです。
 しかし、そのことは、「顕在」「潜在」の学習要求のすべてにわたって、行政側がそれに対応する事業を「提供」しなければならないということではありません。生涯教育の予算といえども限られているわけですから、住民の多様な学習要求を選択して事業として提供する行為が必要になります。その「選択基準」をプライオリティー(優先度)といいます。プライオリティーには、緊急性、切実性、公共性などが考えられます。いずれにせよ生涯教育行政が責任をもって、住民の支持を得ながら、その基準を明らかにしていかなければなりません。
 その時、調査からは引き出せなかった学習課題も、場合によっては事業として設定することがありえます。生涯教育の事業は、調査を平板に受け止めるだけでできるものではなく、「選択行為」のプロセスから動的に創り出されるものなのです。もちろん、この「選択」は住民の生涯学習の活動に対して行われるものではありません。あくまでも、生涯教育行政が自ら提供する事業を設定する時に必要になるものです。タイトル 高齢者教育における学習課題をどのようにとらえればよいのですか?

ジェネレーションとライフステージ

 まず、成人一般の学習課題の把握が必要です。次に、高齢期特有の学習課題をとらえるためには、大きく二つの観点が考えられます。一つは、高齢者として同じ歴史的体験をしてきて、関心や考え方などに共通するものがあるというジェネレーション(世代)の観点、二つは、それぞれの高齢者が年をとること(加齢)によって受ける心身への影響に、共通するものがあるというライフステージ(発達段階)の観点です。
 前者のジェネレーションの観点で言えば、戦前に青年期を過ごしてきた人間が現代を生きていく時の、苦悩、喜びなどを理解し、それを援助するとともに、現代社会が反省しなければいけないことを、今の社会の一員として有効に提起してもらうために必要な学習課題にも、目を配ることが大切です。
 後者のライフステージの観点については、森幹郎氏の指摘が重要です。それは、老人問題を論ずる場合、暦年齢chronological agesではなく、社会年齢social ages や機能年齢functional ages でとらえることが必要だということです。そして、年をとり、かつ、労働を引退した人を、「社会年齢の上での老人」(ヤングオールド)、身体的、精神的、心理的に老衰し、かつ、日常生活行動の上で他人の介護を必要とするようになった人を、「機能年齢の上での老人」(オールドオールド)として、区別して考える必要があるというのです。

個人的課題と社会的課題

 次に、高齢者教育における学習課題には、個人的な側面と社会的な側面とが考えられます。
 「個人的課題」とは、「退職後の生活設計」「余暇活動」「老いの受容」「死の受容」などに関するものです。特に、「老い」や「死」を受容するか否定するか、あるいはその事実から逃避するかは、まったく個人の精神的内面に関わる問題です。しかし、あえてそれを「学習課題」としてとらえて、その学習を援助する手だてを探り出すことが、高齢者教育を行う者にあらためて求められているといえます。
 「社会的課題」については、LESS DEPENDENCY EDUCATION =「できるだけ他人に負担をかけないための教育」(森氏)が、ポイントになります。その中味は、ヤングオールドに対しては、再就職教育、予防的健康教育、オールドオールドに対しては、リハビリテーション訓練などがあげられます。その他、核家族化が進行する今日、高齢者の知恵を活かし、また、他の若い世代と交流してもらうこと自体も、今日の高齢化社会において社会的意義をもつ学習課題といえます。

学習課題の実際の領域

 稲生勁吾氏は、ハビガースト、エリクソン、ノールズの説や国立社会教育研修所の「成人の学習領域」の研究成果などを参考にしながら、次のように、高齢期の学習課題を整理しています。
 「高齢期の理解」(老化と円熟の認識など)、「高齢期の過ごし方」(高齢期の生活設計など)、「家族とともに生きること」(家族関係など)、「社会とともに生きること」(地域社会についての理解など)、「高齢者に関する法律・制度」(老人福祉など)。
 高齢者教育における学習課題をとらえるためには、先述のような基本的な観点がありますが、そのそれぞれがはっきりした境界線をもっているわけではありません。現に、稲生氏の整理した学習課題は、それぞれがいくつかの観点からの意義を同時に有しています。現実に学習課題を選択する場合は、複眼的視点が求められるわけです。

[参考]
 (1) 岡本包治他編「社会教育の計画とプログラム」1987.1
 (2) 森幹郎「高齢化社会における高齢者教育」、稲生勁吾「高齢者教育の内容」他  国立教育会館社会教育研修所『高齢者教育の目標と内容』1987.10青山凾納戸の情報引出し550
 −コミュニケーションの情報を求める若者たち−

 青山凾納戸は、若者の街原宿から、しゃれたブティックの建ち並ぶ表参道を登った所の地下にある。「凾」とは箱のことであり、「納戸」とは屋内の物置の意味である。
 誰かに何かプレゼントをする時、DCブランドの包み紙であっても、それをそのまま差し出すのは、若者にとって「かっこの悪いこと」である。マスプロによる「既成のもの」は、もっときらう。
 ギフトをさりげなく、しかし実は洗練されつくしたデザインの箱に入れ直してプレゼントすることが、おしゃれなのである。青山凾納戸は、そういうギフティングボックスという「箱」がいっぱい納められている地下の「物置」である。

「情報引出し」はコミュニケーション型のアンテナショップ

 店内奥に「情報引出し550」がある。B5版程度で高さ4pほどの小さな引出しが、四百個ほど、ずらりと並んでいる。
 個人が描いたイラストや、創作小説、音楽などや、新しい商品のPRやアンケートも入れられる「プレゼンテーション」(提示・説明活動の意)の引出しが一カ月五五〇円、手作りのアクセサリーなどを入れて店に売ってもらうことのできる「ボックスショップ」の引出しが一カ月一一〇〇円で借りられる。危険物、薬物、風俗営業などに関するものでなければ、何でも置くことができる。
 店長の佐藤さんの感触では、契約者のほとんどはアマチュアで、その構成は「プレゼンテーション」が男女半々で、二十歳から三十歳台が全体の6割、「ボックスショップ」は女性が7割で、年齢層は二十歳から三十歳台が7割強を占めるという。概して、若い人たちに使われているといえるだろう。
 店のチラシには「アンテナショップは個人にとっても持ちたいもの、大企業だけのものではありません」とある。
 アンテナショップとは、流行を探ったり、販売に関する実験をしたりするために、メーカーなどが直営方式で展開する店舗のことである。そのチャンスを個人にも提供しようというのだ。実際、自分の描いたイラストを入れて売ったり、自分たちのバンドの音楽をテープに入れて宣伝する引出しなども数多くある。
 しかし、それだけではない。自分の近況報告を書いたノートを入れたものや、「お友達になりませんか」というものもある。また、前者のイラストや音楽の引出しには、「あなたの絵が好きです」とか、「とにもかくにもがんばってくださいね」などというメッセージが他の人から投げ込まれていた。どちらも相互の「通信」が行われているのである。
 「通信」は、交換日記のようにしてノートに蓄積される場合もあるし、それぞれが紙切れに書き込む場合もある。そして、そのほとんどが、お互いの顔を知らない者どうしの交流である。
 ちなみに、青年たちがパソコン通信に集まる現象を「ダイレクトなコミュニケーションが苦手」なことの裏返しとも見ることができるが、「情報引出し550」は、その延長であると同時に、場に限定されはするが、ものや書いた言葉がそのままやりとりされる、原始的だが若干ダイレクトなコミュニケーションであるととらえられる。
 そして、佐藤さんによれば、引出しに入っている「もの」は、利用者にとっては、じつは「もの」としてではなく、情報として重宝されている。すなわち、その「もの」を作り出した人のセンスや知恵を他の人々が「買う」のである。つけくわえれば、それはおもにそれを作った「個人」に「共感」するハイタッチなコミュニケーション型の情報である。
 アンテナショップとは、このような情報を誘引する店舗といえよう。若者たちは自己の求めるハイタッチと合致すれば、その店が商業ベースであろうがなかろうが、そこに集まって情報を発信する。

情報のネットワークづくりに役立つ

 じつは、「青山凾納戸」の店自体がアンテナショップである。昭和六一年、菓子業界の総合商社である椛q田が、企業生き残り戦略の一環としてここに「ON THE TABLE」という店を出した。佐藤さんは椛q田の社員としてその店の企画の時から一貫して関わっている。
 そこでの「情報引出し550」が、テレビ等の取材を多数受け、同じ名称の他の店に迷惑をかけるほどになったので、平成元年1月に現在の店名に変えたのである。「凾納戸」とはなじみのない言葉であるが、まわりにも店名を漢字で書くトレンディーな店が多く、その街の雰囲気に合わせて名前をつけたという。
 青山凾納戸は、それ自体が直接、新業態への拡大(脱菓子業界)であるとともに、会社全体の営業内容(菓子の包装、原材料の供給など)を改革、拡大するための企画へのフィードバックの二つの役割を期待されている。
 佐藤さんは「メーカーなどの内部にいるだけでは、消費ニーズを肌で感じることができない」と考えている。それに対して青山凾納戸には、ナマの情報やコミュニケーションが渦を巻いている。佐藤さんは、そこで得られた情報や動向を「加工」して、本社の企画に還元しているのである。ここでいう「加工」とは、ただ単に「何があった」という情報をそのまま返すのではなく、「これからどうなるであろう」といったことや疑問点などを問題提起することである。
 その情報のネットワークを生み出すために、「情報引出し550」は大いに役立っているという。まず、「情報引出し」の契約者や利用者と店がつながることができる。アウトドアレジャーやコマーシャルベースのサークルも、ここからできたそうである。
 第二に、他の商品を買い求めにきた客とつながることができる。今回の取材中にも、ラッピング(包装)を頼みに来た若い女性連れが、ついでに「情報引出し」をのぞいて、何か書き込んでいた。購買とコミュニケーションが、相互に影響しあうのである。
 第三に、店が取材などにきた人とつながることができる。ギフティングボックスやラッピング(包装)だけ扱っていたら、そういう関係者しか来ないだろう。「情報引出し」があるから、マスコミ関係者の他、他業種の企業などの人が取材に来るという。「たとえば、西村さんのような人とは、この『情報引出し』がなかったら出会えなかったでしょう」と佐藤さんは言ってくれたが、その積極的な発想に私は驚いてしまった。
 佐藤さんは、積極的に「むだなスペース」を作ってこそ、店が人とコミュニケーションできると考えているのである。

今後予想されるアウトドアへのニーズ

 このような営みの中から、佐藤さんはたとえば次のような近未来のニーズを感じとっている。それは、「アウトドアレジャー」である。現在、すでに流通業界などが注目しているところである。デパートなどでも売場の重点が「アウトドア」に移されるだろう。それにしたがって、デザインやマーケティングのコンセプトも「動いていく」ということがテーマになるのではないか。日本の「旅行着」はまだまだ貧しいが、早晩、入れ物や服装にこるようになるだろう。
 その方向でパッケージを考えれば、取手のついたキャリースタイルの持ち歩きに便利なものということになる。青山凾納戸では、実際にそれを商品開発しており、好評のようである。さらに、他の参入可能なアウトドアレジャーも探っているとのことである。
 この佐藤さんの見通しには、もう一つにはKAKIとの出会いが強く影響している。雑誌で富山県立山にある家具の工房、KAKIのことを知り、そのスタッフを訪ねて行って、惚れ込んで帰ってきた。佐藤さんたちは、さっそくKAKIのテーブルやチェストを店内に持ち込み、さわって買える代理店を開始している。その後、KAKIのスタッフとは、遊びに行ってスキーをいっしょにするなど、ずっと友達づきあいをしているという。
 KAKIは、東京にも生活の場をもちながら、大自然の中で楽しくタフに家具づくりを楽しんでいる若手のプロの集団である。自然木を何年も寝かして自然乾燥させ、もちろん、美しい自然の木肌を化学樹脂でおおってしまうことなどしないで、何世代にもわたって愛用できる家具をつくる。佐藤さんは、彼らのライフスタイルを「これからは、どういう生活が良いのか」を示唆していると考えている。
 店内のKAKIの大テーブルは、小さなイベントスペースでもある。イベントといっても、集会行事ではなく、「時代のサムシングニューを求めて」ギフトに関する商品展示・提案を行うのである。そこで、商品開発、試作、反応や情報の収集が繰り返し行われる。
 たとえば、バラ一輪を茎までまるごと入れるための一メートル以上の細長いパッケージ、「ワンステムローズカートン」は、ここから生まれ好評を博している。「バラ一輪」は欧米のプロポーズの時の贈り物であるが、日本の若者にもそのニーズが潜在的にあったのである(ただし、日常的に贈り物をするような今のブームは、日本だけの現象とのこと)。
 今後は、漠然とした「異業種間交流パーティー」だけではなく、具体的テーマで異業種が集まる「名刺交換会」の開催も考えている。そして、「お金と場所のないお客さん」と共同で商品開発するプロジェクトを持ち、それを展示のイベントとむすびつけていきたいともくろんでいる。

成熟化したニーズに対応するために

 「情報引出し550」を見ていて、佐藤さんはこう考える。若い家庭の主婦も会社員も、主婦業やサラリーマン業の他に、もう一つの何かをやろうとしている。二つめの座標軸を持とうとしているというのだ。
 しかし、彼らはハングリーにはやりたくない。あくまでも、マイペースで楽しもうとする。これを「根性がない」と批判することはできる。しかし、その若者が次の文化を担う。しろうとのライト感覚(カルさ)のパワーをないがしろにできないという。
 もちろん、だからといって、佐藤さんが今の若者の風潮を手放しで喜んでいるわけではない。若者にとっては「自分の」気持ちが大切であって、それを表現するためには包装が中味より高くかかってもかまわない。どうせ中味は、豊かな時代の中で豊かに平均化されてしまっているから。
 しかし、これでは少し「うわついている」というべきではないか。外国では、プレゼントの包装紙はとっておいて、何回も使う。今後、日本の包装ブームがこれ以上進むと、そのパルプを作るために一日に何千本もの木を切り倒すことになる。若者がそのことまで気にしてくれるようにならないか。佐藤さんは、真剣にそう願っている。また、「情報引出し」についても、若い人がもっと夢やビジョンまで楽しく語るものにしたいという。
 成熟化したニーズに、どう働きかけ、どう方向づけていくかということは、佐藤さんのライフワークであるとともに、社会教育行政の課題でもある。その時、凾納戸のような民間のサービスのセンスに学べる点は大いにあろう。
 しかし、その前に、まだ三十歳代の佐藤さんが情報を得てニーズをとらえるために会社から持たされた、あるいは会社に「主張」して持ったのかもしれないフリーハンド(自由裁量)に匹敵するものが、私たちにも必要になる。それは、たとえば人とおしゃべりをしたり、次から次へと開発のための実験をする裁量と資質・能力である。
 佐藤さんは、椛q田の正社員なのに、ラフでおしゃれな服装で、いつも誰かと気楽におしゃべりをしてすごしている。一見、遊んでいるようにも見える。しかし、じつは情報に対して強力なアンテナを張っているのだ。
 私たちが(勤務の内外に関わらず)「その職責を遂行するために、絶えず研究と修業に努めなければならない」(教育公務員特例法一九条)とされていることは、今日ではそういう意味としてとらえるべきなのだろう。
 (国立教育会館社会教育研修所専門職員)パソコン通信は生涯学習に何を与えるか

「在来型の生涯学習」を支援する
 「親展」の通信(電子メール)、不特定多数への通信(電子掲示板=BBS)、会議、データベースの検索、通信販売、予約などの機能をもつパソコン通信が、そのまま今日の生涯学習の道具として活用しうることは、想像に難くない。とくに、●学習を援助する者●にとって必要な情報の処理や判断を行うCMI(Computer Managed Instruction)としては、かなり使えるはずである。たとえば、生涯学習に役立つ資源のデータベースを作り、それを社会教育主事等がどこからでも自由に利用できるようにするなど、活用の可能性は限りない。また、学習者自身による活用についても、学習情報の収集、施設の利用予約など、いくらでも思いつきそうだ。
 これらの活用方策も興味深い。しかし、これらは、結論からいえば、いわば「在来型の生涯学習」の延長線上にある。今まで行われてきた生涯学習をかなり有効に支援するものにはなろうが、生涯学習を革新するものではない。それゆえ、パソコン通信の有用性をそこから説いてみても、「まだ普及していないパソコン通信など使わなくても、みんなが慣れ親しんでいる電話やファックスで間に合うのではないか」という消極論の前に意気消沈してしまう。
 「在来型の生涯学習」を支援するために、パソコン通信もその有効なメディアの一環として、得意な分野を活かした活用を図ることは、それはそれで重要なことである。しかし、ここでは、その詳細については省略し、パソコン通信が「新型の生涯学習」を生み出し支援していることに絞って考えてみたい。

「新型の生涯学習」とは何か
 それでは、パソコン通信が生み出しつつある新しい生涯学習の特性と考えられるものは何か。
 一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(不定型教育)の機能の発揮である。
 これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。
 これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にも教育・学習の場はある。そして、社会や企業等は、その重要性を無視することができなくなってきた。
 二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。
 普通、「学習しよう」という本人の意識(「計画性」)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。たとえばNHK放送文化調査研究所の「学習関心調査」では、「学習行動」の定義を「ある程度まとまりをもった知識・技能(または態度・能力)の獲得・維持・向上を●めざして●行う行動」(傍点筆者)とし、また、「総計7時間未満の学習行動」などを除外している。もちろん、この「学習の限定」には、正当な理由がある。第一、ILまで学習の範疇に入れてしまうと、学習行動率は百%になってしまう。
 しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことも、あらためて確認しておくべきである。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学ぶ「偶発的学習(インシデンタル・ラーニング)」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした人にとっては重大事なのだ。
 三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。
 たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追及する●教育●工学の立場がある。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいかということ、言い替えれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育の●しろうと●までが関心を示している。彼らも、多数に対して表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうからこそ、エキサイティングなのでもある。
 以下、これらの「学習」の実際の姿を、おもに電子掲示板(BBS)の事例から見ていきたい。

アバウト、ミスマッチ、ジグザグ
 私は、ある商業ネットで次のような記事を載せたことがある。
 「『生涯教育事典』という本で『コンピュータ』について書いています。しかし、コンピュータについてはしろうとなので、不安なんです。間違いやおかしい点があったら指摘してください。 mito」(筆者注 mitoは私のネットワーク上の名前=ハンドルネーム)。そして、その次の記事としてアップロード(文章を仕上げてディスク等に記録しておき、それを一気に送信すること)した文中に、コンピュータの定義として「電流がONかOFFかの組み合せを判断することによって、情報(データ)を大量にすばやく処理するシステム」という部分があった。
 この定義について数十分から半日(夜中から翌昼にかけて)までで5、6件のレスポンス(他者が反応して書いた記事)がついた。数日後に入ったレスポンスも含めて、簡単に紹介する。
 「電流が流れているかどうかで0/1を表現するというのは、例外がいろいろ思いつける説明です」、「『電圧の高低により』がいいんじゃないかな」、「それより現在おもに使用されているソフトウェアの機能ということで説明してほしいですね(あるソフト屋さんから)」、「そういえば、この中にはアナログコンピュータが含まれてませんね」、「アナログコンピュータって、聞きませんね。どうでしょうか」、「電圧のon、offであったとしてもよろしいのではないでしょうか」、「アナログコンピュータ(聞きます)に限らず、ファジーコンピュータとか光コンピュータも含んでいないと思います」・・・。
 ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も右のごとく、大ざっぱ(アバウト)で、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。
 しかし、このような「アバウト、ミスマッチ、ジグザグ」の情報から、各自は最初、気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、●予期せぬ●解答を見いだすのである。BBSは、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)ということができる。
 近代になって、さまざまな権威者や専門家が制度化され、彼らが「良いもの」をセレクトしてくれるようになってきた。図書館司書は「選書」をして、良い本を書架に並べてくれる。最先端のデパート(ロフトなど)は、洗練された選択眼のもとに商品をセレクトする。もちろん、それらは特定の価値観を独善的におしつけるものではない。むしろ、結果的には、私たちが情報過多におぼれずに、読書や消費を選択する手助けになっている。
 これに対してパソコン通信は、このような権威者や専門家がいない世界である。たとえば、ネットの主催者も、基本的には「たんなるキャリアー(運搬者)」にとどまるべきだとされる。そういう世界では、「アバウト、ミスマッチ、ジグザグ」な情報に耐え、それをセレクトし、つなぎ合わせ、確かめることを自分でしなければならない。しかし、それだけに、情報主体としての「個」を鋭く発揮する余地が大きいのである。

コミュニケーション型学習
 先日、野間教育研究所で成人学習者のインタビュー調査を行った。その時、パソコンネットワーカーのSさんは私に次のように語っている。
「最初の1カ月ぐらいは、あまり夢中にはならなかったんです。やはり、慣れるまでちょっと時間がかかる。マナーを覚えるというか。しばらくは読むだけに徹するみたいな期間があったりして。
 その後、おずおずとあまり期待もせずに書き込んだもの(ある本の感想文)に対して、何人かの人が好意的なレスポンスを返してくれたということで、『はまった』という感じで、面白くなってきた。」
「自分の書いた文章を、電話線からホストの方にアップロードすれば、その日の内に何十人、場合によっては何百人の人が読んでくれる。中には、それに対する感想なり、反応なり、意見なりを翌日には書いてくれる人がいる。このようにレスポンスがあるというのが、パソコン通信の一番の面白いところですね。でも、この面白さを人に説明しようとしても、なかなかわかってもらえない。やはり、実際に体験してみないと理解できない。」
 じつは、彼らにとっての書き込みとは、有益な情報を他者からもらうための一方策などという軽微なことがらではない。書き込みが、人からのレスポンス(反応)を引き出す。さらに、これから新たなリ・レスポンスが生まれる。このようなREAD←→WRITEの循環の中で、自己の発言にレスポンスが与えられること自体がパソコンネットワーカーの至上の幸福なのである。これは、パソコン通信における「レスポンス至上主義」とよぶことができるだろう。
 学習には、いわば「●情報物取り学習●」もあるだろう。先行研究やその他の必要なデータを早く的確に収集・整理することを重んずる学習である。これに対してパソコン通信は、いわば「●パーティー学習●」といえるのではないか。
 パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、よく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流である。しかも、交流する相手も、日常的なフェース・ツー・フェースのつき合いよりは、「見知らぬ他者」との出会いを尊重する。パソコン通信の「レスポンス至上主義」も、パーティーに見られるこのようなコミュニケーション志向をもっている。
 ちなみに、●パソコン通信をするために●必要な何らかの学習があるとすれば、それも同様に「コミュニケーション型」である。
 LLL(AVPUBを利用している生涯学習関係者のグループ)のメンバーの上尾市社会教育主事のフィギュアさんは、パソコンのノウハウに詳しい。彼は、AVPUBにパソコン通信ソフトの「オートパイロットプログラム」を載せてくれている。これを使えば、コンピュータ・リテラシーなどほとんどなくても、ソフトを起動させるだけでパソコン通信の中のめざすメニューまで自動的にたどりつくことができる。技術に詳しいネットワーカーは、このようにして喜んで初心者への技術的援助をしてくれる。私はこれを「情報ボランタリズム」とよびたい。
 このような環境の中では、じつはノウハウよりノウフウこそ大切になる。誰が何に詳しく、何を手伝ってくれるかということである(たとえば、フィギュアさんがパソコンのノウハウに詳しいなど)。
 そして、他者と交信する際の一番大きな課題は、いかにして表現すれば(Sを発すれば)他者からのレスポンスがあるか=コミュニケートできるかということなのである。これは、新しい意味での「教育」技術である。

ネットワークによる知的生産
 パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。それゆえ、「まねぶ・ならう」べき権威の存在する学習だけを礼賛する「学習観」にとっては、パソコン通信における相互学習は「どんぐりの背比べ」であって学習たりえないととらえられがちである。たしかに、外部講師や助言者のいない討議は生産的に見えない。しかし、今後の「ネットワーク型の学習」の原点は、メンバー間の「水平性」である。
 大分県の「コアラ」は、「(官は)金は出すけど口は出さない」という官民一体のパソコン通信ネットである。そこでは平松知事もメンバーに県の各種構想の支援を訴える電子メールを出すし、高校生も「高校生シリーズ」という電子掲示板で大人と同等の関係で意見交換する。パソコン通信の世界では、これで当り前である。
 パソコン通信は、そもそも物理的システムとしても水平である。各自のパソコンは、中央(ホストコンピュータ)に対する「端末」にとどまるのではなく、発信源にもなり、また、スタンドアローン(自立型)の情報処理も各パソコンでできる。
 ネットワークは、各「個」が自立的な価値をもちつつ、「水平」な立場で「異質」と連携することであろう。ハイテク・情報化の中で疎外されがちな「個」が復権し、しかも「グループワーク」するためには、パソコン通信のシステムが適しているのである。
 このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の共同化の可能性が生まれつつある。
 LLLのメンバーである花園町社会教育主事のSHOUさんは、メディアの活用における生涯学習関係職員の専門性について、他のメンバーから問題提起されたのを受けて図式化を試み、レスポンスとしてAVPUBにアップロードした。その図式は他者からの指摘も受けて改訂されていった。AVPUBでは画像の通信はできないが、研究の整理のための図式程度のものならば、全機種共通のテキスト文の文字フォントを使って十分伝え合うことができる。
 従来の出版における「共著」は、どうしても各個人の論文の寄せ集めになりがちであった。あるいは、編者を頂上とするヒエラルキーのもとに、整合性を計ることもやむを得ない場合もあった。しかし、パソコン通信を利用すると、個をあくまでも発揮しつつ、適宜、各自の都合のいい時間帯に見解を戦い合わせることができる。しかも、編集ソフトを使えば、訂正と更新の手間もほとんどかからない。パソコン通信によって、本来の意味としての「共著」が可能になるのである。

 乳幼児が日々の生活と遊びの中で学習・発達するように、つね日頃、好奇心、探求心などの「発達意欲」さえあれば、成人でも生理的活動以外のすべての活動が「学習」につながりうる。そもそも、セルフ・ディレクテッド・ラーニング(自らが「監督」する学習)は、そういう資質なしには成り立たないであろう。パソコン通信は、セルフ・ディレクテッドに個性を出し合い、コミュニケートし、共同化することにおいては、とても好都合な電子的空間である。

 紙面の都合から足早に説明した。とくに、パソコン通信による学習の困難や課題の側面について述べることができなかったことは、本論が「パソコン通信びいき」であるという●そしり●を増すことになるかもしれない。
 すなわち、「ROM」(読み出し専用メンバー)の存在、「書き言葉文化」の非大衆性、公による支援(FE、NFE)の困難性などである。
 しかし、これらも興味深い問題である。拙稿を読んでくださった方と、AVPUB上で議論を続けたい。

ロール・プレイングの活用
               国立教育会館社会教育研修所 西村美東士

1 てれないで、ロールプレイング

 ロールプレイング・・・、横文字だとrole playing、「役割を演ずる」という意味です。「社会学」や「心理学」でも使われている言葉ですが、ここではグループ活動において普通に行うことができるやり方として紹介します。
 これは、いわば「模擬練習」のようなものと考えられます。つまり、実際のある場面に遭遇する前や遭遇した後に、メンバーの数人がそこで登場するそれぞれの人になったつもりで「劇を演ずる」のです。「試しにやってみる」、あるいは、「再現フィルム」という感じです。
 こういうものには、妙にノリのようなものを感じてしまっててれくさい、ついていけないという人も多いと思います。しかし、「効果絶大」なわけですから、あえてノリの精神で、すなわち「遊び心」で気楽に取り組んでもらいたいと思います。
 ロールプレイングはたとえば次のように行います。もちろん、実際に行う時には順序を逆にしたり反復したり飛ばしたりして、臨機応変に行います。
(1) 問題の状況を共通理解するために、メンバーから当人への質問などを中心にして話し合う。
(2) 演者がその問題の場にいるつもりで、それぞれの立場を演ずる。「その人だったら、その場では、こう思って、こう言うだろう。」と自分がその人になったつもりでアドリブで演じます。特に、出だしが難しいと思います。照れくさくて、ついニタニタしたり吹き出したりしがちです。出だしの言葉だけは決めておくのも良いでしょう。
(3) 演技が終わったら、演じた者が「この時、こんな気持ちがしました。」などと、感想を披露する。
(4) 演じた者、見ていた者の両方が感想や意見を述べあう。
(5) もう一度、演技をやり直してみる。・・・
 なお、演者および演ずる役割についても、ある一つの問題についてでさえさまざまなバリエーションが考えられます。また、グループ内部の人間関係の問題などでは、「役割交換」といってお互いが合意して相手の役割を演じることもできます。これなどは、成功すれば驚異的な効果が得られるでしょう。

2 ロールプレイングによって実感をともなって見る

 グループ活動の中ではさまざまな問題がおきます。「人と出会うこと」とともに、「ものごとやできごとと出会うこと」もグループ活動の特徴であり、むしろ長い眼ではそれは魅力とも見るべきでしょう。
 たとえばある女性メンバーの悩み・・。父親が、そのグループについて理解を示してくれていない、「例会の日は、いつも帰宅が遅くなる。」と言って、それを理由にグループ活動をやめさせようとしているとします。
 この問題について、グループで論議しようとしても、その前によくわからない所があります。その父親はどういう性格の人なのか、「父親の反対」といってもどの程度の「反対」なのかなど、言葉による説明だけでは伝わりきれません。
 また、それが伝わらないままで机上の議論をしても、事実誤認の上で論議が進んだり、「女性だけ先に帰るようにしたらどうか。」、「いや、悪いことをやっているのではないのだし、男も女も遅くなってもゆっくり話す機会がほしい。」などと、論議が空回りしたりしてしまいます。
 これに対してロールプレイングならどうでしょうか。たとえば、とりあえず当人である彼女には横で見ていてもらって、他のある人が彼女の父親の役割、他のある人がグループの代表として理解を得るためにその父親に話しに行くという設定で役割を演じたとします。
 演技の途中で、彼女は「うちの父なら、そんな言い方はしないと思うわ。」などとアドバイスするようにします。そうすれば、演者も、見ているみんなも、彼女本人でさえも、だんだんその問題が実感を伴った事実として見えてきます。この「実感を伴って見る」ということか、ロールプレイングのだいじな所です。
 第一に、この「実感を伴って見る」ということによって「模擬練習」としての効果を発揮します。
 もしロールプレイングをせずに抽象的に議論しただけで、具体的にどう言えばいいかはみんなにもわからないまま「代表」が実際に父親に「説得」に行くとしたら、「代表」になった人はかわいそうです。彼女の父親を前にしてドギマギしてしまうでしょう。いざしゃべる段でも、どう言っていいかわかりません。ましてや、みんなで抽象的に議論したことを自分の言葉に反映するなどというのは至難のわざです。
 しかし、ロールプレイングで実感を伴った「練習」をしておけば、その「代表」はずいぶんやりやすくなります。また、みんなも、模擬的ではありますけど父親の反対という「ものごと」と出会い、リアクションとしての自分の気持ちも確認し表明することができます。そして、「代表」もそういうみんなの気持ちを実際の「説得」の言葉に反映しやすくなります。

3 「信頼感」を呼びおこす

 第二に、他人や自分の気持ちがそれまでよりわかるようになります。
 人間には意識的に、無意識的に隠している自分の気持ちがありますし、いつもは気がついていない「他者」や「自己」があります。他人を演ずることや、その演技を見ることによって、「その人が実際にその場でどんな気持ちをもつのだろうか」ということを具体的に考えたり、自分の気持ちにハッと気づいたりします。つまり、「自己や他者と出会う」ことができるわけです。
 たとえば、先の事例の父親には、実は私たちが学ぶべき「とってもいい部分」があるのかもしれません。ロールプレイングでは、父親本人がその場にいなくても、みんなで話し合っていくうちに、そのことに自然に気づくことがけっこう多いのです。もちろん、そのためにはみんなに「気づこう」とする態度が必要ですけれども。
 第三に、メンバーやグループ全体のコミュニケーション能力を高めることができます。ロールプレイングでは「気持ちのいい言い方」をめざして、「そこは、こう言ってみたら?」などとみんなで自由に意見を出し合います。その話し合いに基づいて納得いくまで演技を繰り返します。
 さらに、もっといい感じで言えたり、聞けたりするためには、次のようなことに心がけると、いっそう効果的です。
 共感をもって聞き合う。相手の気持ちと共感できる時は、あいづちをうったり、うなずいたり、「ええ、そうですね。」と賛意を口に出したりして、できるだけ相手にその共感が伝わるようにする。
 自己を開く。人目にふれたくない自分もあるでしょうけれども、そういう欠点を含めたトータルな自分を自分として認め、相手にも開いていくことが必要です。「自分」を一人でしょいこまずに他者に開けば、意外に相手もそういうあなたを受け入れてくれるのではないでしょうか。
 そして、「さわやかな自己主張」を心がける。これも、とても難しいことです。でも、相手に対して何か「主張したいこと」がある時、「自分ががまんすればいいのだから」とか、「言っても聞いてくれないから」などと理由をこじつけて、主張しないでおくということは、第三者に悪口を言ったり、いつか爆発して攻撃的になったりするなど、ますます不幸な結果になりがちです。相手の頑固さや自分の能力に絶望して口を閉ざすのではなく、自分の気持ちが受け入れられることを信じて、けんかごしではなくさわやかに「私はこう思います。」と言うトレーニングが求められているのです。
 コミュニケーションが可能になるためには、「通じ合うはず」という自信(自分への信頼)と他者への信頼が不可欠です。ロールプレイングとは、そういう「信頼感」を私たちに呼びおこしてくれるコミュニケーションのトレーニングそのものでもあるといえるでしょう。
団体・グループの仲間づくりの演出
           国立教育会館社会教育研修所 西村美東士

1 あったかいディスコ

 今から十年ほど前、私が青年の家の職員だった時、ディスコダンスを取り入れて「ダンスフェスティバル」をやっていました。そのころ、まちではディスコが熱っぽくはやっていましたが、社会教育の場でそんなことをしたのはこれが初めだったと思います。
 地域のレクリエーション研究会や青年の家のボランティアグループのメンバーなどで実行委員会を結成して準備や運営に取り組みました。新しいディスコのステップを実行委員が友達やディスコなどから仕入れてきて、実行委員会の例会で教え合ったりしました。「フェスティバル」の本番ではディスコの店長を招いて教えてもらったこともあります。
 当時は「バスストップ」などのステップダンスの全盛時代でした。これは、バスの停留所に並ぶような形でみんなでステップを合わせる踊り方です。今から思えば、「いにしえの」ディスコということになりますが、アップテンポのリズムで初めての人でもみんなとステップを合わせて簡単に「のる」ことのできる「古き良きディスコ」は、技術を要する今のフリーダンスよりみんなで取り組みやすいダンスでした。青年の家の「フェスティバル」では、生まれて初めてディスコをやるという人と、毎週ディスコに通いつめている人とがいっしょになってステップを踏みました。
 参加者は次のように感想を書いてくれています。「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」・・・。
 ディスコで汗をかくと、身も心もすっきりします。これはお店のディスコも同じです。しかし、お店のディスコでは青年は意外にひとりぼっちです。ステップがわからずにフロアーで立っている人を、じょうずな者が教えるなどといったことはありません。
 それに対して、青年の家ではもっと「あったかい」ディスコができたと自負しています。
 なかでも、もっとも印象に残っているのは、ディスコボーイのA君がステップ指導をしてくれたことです。「ステップを一歩一歩教えるなんてかっこ悪いことはしない。カッコ良く踊ってみせるのが生きがい。」というのが、普通のディスコボーイのやり方です。A君もそうでした。
 彼は最初は単なる参加者でした。しかし、A君のステップのかっこよさにしびれた実行委員は、さっそく彼を実行委員会に引きずり込んでしまいました。彼は次第に実行委員会にのめりこんでいきました。そして、三年目の「フェスティバル」では、難しいステップの曲がかかった時に、スッと前に出てきてマイクを握り100人以上の参加者の眼前で一歩一歩ステップを説明してくれたのです。

2 いっしょにつくりあげるから「あったかい」

 ここで、もう少し「参加者」の感想を拾ってみましょう。
「いろんな人と知り合えた。」
「汗を流し、おおいに笑えた。」
「心からバカになって、ほんとうの自分が出せた。」
「先日のミニフェスティバルに参加をした人達と再び会えたことが、そして、覚えていてくれたことが思いがけなくうれしかった。」
「若者達が一つになって何かをするということは、たいへんすばらしいことだと思う。」
「実行委員の人が一生懸命やってくださっているのがよくわかり、感激した。」・・・みんな、「言うことない」、「満足です」という感じです。このように、参加者は「あったかさ」、「仲間の良さ」を味わうことができました。
 ところが、実行委員は、「めだちたい、楽しみたい気持ちとの葛藤がありました。」などと感想を書いています。準備を重ねて、やっと迎えたフェスティバル本番では、照明係やレコード係をやっていて肝心の踊りを楽しむことができなかったし、食事や宿泊の心配などをしたりで地味な努力も多かったのです。
 しかし、それだけに「あったかさ」、「仲間の良さ」への感動も大きなものがありました。ある実行委員は、ひとこと、「ひと・ものとのめぐりあい」と感想を書いてくれています。
 自分たちで企画して、自分たちでつくりあげていくのです。企画を実際に実現しようとすると、ささいなことから大きなことまで、さまざまなものごとやできごとと出会います。たとえば、ディスコクィーン、ディスコキング(コンテスト優賞者)への「投げテープ」の代わりにトイレットペーパーを使おうと企画して、職員(私)に「もったいない」といって止められたことがあります。
 ものごととの出会いの中で、意見の違いも出てきました。仲間のいい性格も表れれば、あまり良くない性格も表れてしまいます。けれども、そこに本当の「ひととのめぐりあい」があります。「よそごと」「ひとごと」でない「逃げ」のない人間関係、これが本当の「あったかさ」でしょう。
 何かをいっしょにつくりあげるからこそ、ひととの本当の出会いがある。だから「いっしょにつくりあげること」は仲間づくりの最大の秘訣です。いっしょにお酒を飲むのだって、いっしょに汗した仲間だから楽しいのです。ディスコボーイのA君がステップ指導をする気になったのも、ただ単に参加者として楽しんだからではなく、実行委員としてみんなとやってきたからなのです。
 何かいっしょにつくりあげようとするものをもつこと、そして、その「何か」をみんながつねに頭の中にはっきり描いていること、つまり「明確化」していること、これこそが究極の仲間づくりの演出のねらいなのです。これから述べるさまざまな「演出」も、すべてそのためにあると言っても言いすぎではないでしょう。

3 みんながしゃべる会議

 まず、会議のもち方をもうひと工夫できないでしょうか。アイデアを出すための会議であれば、この本ですでに出てきた「発想法」が役立つでしょう。そこには、メンバー一人ひとりの主体的なアイデアを活かす技術がたくさん盛り込まれています。
 そして、グループとしての意思決定の会議においても、意見を言えずに「誰かが決める」のを待っている人に対して、安心して気楽にしゃべれるようにするための配慮が必要です。
 そのためにひとつには、みんなの顔が見えるように座ることが必要です。むこうを向いている人にしゃべるのは、誰でも気がひけます。したがって、円形に座ることなどが考えられます。
 ただし、何がなんでもいつも真正面に向き合うのが良いということではありません。まだメンバーになっていない人が、発言のためでなく会議の「様子を見る」ために参加する時は、かえってややはずれた所に座ってもらうほうが気が楽でしょう。会議ではなく、講義を聴くような時は、教室形式の方が良い場合もあります。
 カウンセリングでは、相談する人と相談を受ける人とは、ややはすに向かって座ることが多いのです。あんまり真正面だと「息がつまる」感じになってしまうからでしょう。そんな細かい配慮も必要です。
 二つめには、発言のない人に「どうでしょうか。」と質問する、つまり水を差し向けることが必要です。まだグループになじんでいないメンバーは、「こんなことを言っていいのだろうか。」という不安がつねにつきまとっているはずです。「質問する」ということは、その不安に対して「あなたの意見も聞きたいのですよ。」というグループの気持ちを表明することであり、そのメンバーにとってみれば「自分の存在が認められている」ことの確認にもなるものなのです。
 ただし、これも「さあ、言え、何か言え。」とか「時間がもったいないけどしかたないから」などという態度では、逆効果です。そのメンバーは「おしつけがましいなあ。」、「形式的だなあ。」と感じていやになってしまうでしょう。
 読者の皆さんはそんな質問の仕方はしないと思います。しかし、無意識のうちに、あるいは「演出技術の未熟」のゆえに、それに近いことをしてしまうことはけっこう多いようです。
 たとえば、新人にいきなり「今度のイベントに数人の高校生が参加したいと言ってきているのですが、あなたはどう思いますか。」と質問してしまう。実は、その前の例会で、「夜の反省会でお酒を飲む予定だから、まずいのではないか。」などの論議があって、他のメンバーは「どうすればいいか。」とおおいに悩んでいる。そういう悩みや気持ちを表さずに、つまり自分たちの方の心は開かずに、新人の意見だけ聞いておこうとするならば、それは「形式的」質問であり、あとでその経緯を知った新人にとっては「詐欺にあった」ような気分にもなりかねません。
 それに対して、こちら側の心を開いた質問は、相手を安心させ、仲間意識を高めてくれます。経緯や悩みまで話して質問すれば、新人も「そんなに悩むぐらいなら、今回は思い切ってアルコール抜きの反省会にしたらどうですか。」などという、みんなが考えもしなかった(?)フレッシュマンらしい強烈な意見を出してくれるかもしれません。

4 みんなでメシ・フロ・ネル

 中堅でバリバリ働いているサラリーマンが、夜遅く帰宅する。その時、彼が奥さんに発する言葉が三つ。「メシ」「フロ」「ネル」・・・。これでは、さびしい限りですね。夫婦や家族の会話はもっと豊かでありたいものです。仲間づくりを大切にするグループにおいても、その思いは当然、同じです。
 ところが、この「メシ」「フロ」「ネル」自体は、正直に言って誰でもとっても気持ちよくうれしいひとときのはずです。ホカホカあったかくて、湯気のあがっているごはんを食べるとき、お風呂で「あーあっ」と体を伸ばすとき、ふかふかしたふとんにもぐりこむとき、誰でも幸せを感じてしまいます。
 この楽しいひとときを仲間のみんなで「共有」しないという手はありません。そういう楽しい時というのは、誰でもリラックスしてしみじみと語り合えるわけです。
 「チカメシさん」という流行語をご存知ですか。「近いうちにメシでも」と誘うだけの上司のことです。しかし、実際、上司・部下の間だけでなく、サラリーマンの社会では「メシ」は広くコミュニケーションのための演出手段として最大限に有効活用されています。それは、グループの仲間づくりにとっても、大きな効果を発揮してくれるでしょう。
 そして、「メシ」も「フロ」も「ネル」も、生活の臭いの強いことがらです。これを仲間といっしょにすることは、「生活をともにしている」という暖かい実感をもつことにつながります。
 さて、これらのメシ・フロ・ネルをいっぺんに行えるのが、「合宿」です。経験した人はおわかりかと思いますが、合宿の威力は大変なものです。肩肘張った例会ばかりだったとしても、ある時に合宿をやると、次の例会では「やあ」、「よう」、「あれからどうしてた?」などの親しげな言葉がけのやりとりになるということは、よく経験することです。「生活をともにする」ということが、何かをみんなに与えてくれるのです。
 たとえば、合宿で夜寝るとき、和室であればふとんを放射線状に敷き直します。うつぶせになって、頬づえをついてみんなでぐるりと向い合います。こういう「寄り合い」だと、なぜかもう誰でも初めっからなごやかにニコニコしてしまいます。
 なお、「メシ」はともかく、「フロ」と「ネル」は異性のいる場合、残念ながら限界があります。けれども、たとえば男風呂と女風呂の塀越しで言葉のやりとりをする、就寝時の「寄り合い」には浴衣やネグリジェなどではなく、せめてジャージで参加することに決めるなどの「工夫」をするだけでも、ほのぼのとしてけっこう楽しくやっていけるものです。
 ですから、グループで仲間づくりを目指すのなら、その「合宿」ではメシ・フロ・ネルの時間を大切にして、ゆとりあるプログラムにする必要があります。大切な夜の時間まで「研修」のプログラムをびっしり詰め込んでしまったとしたら、外側からは「効率的に事が運ばれた。」と見えるかもしれませんが、実は本来だったらその合宿でメンバーの内側に計り知れない相互作用が行われたはずのものが、ないままに過ぎてしまうということになってしまいます。
 仲間づくりとは、このような「生活の共有」の中で、つまりプログラムしきれない所で、メンバーの一人ひとりがみずから自然に行うものであるという要素がとても強いのです。

5 みんなが自然にできる仲間づくりの演出

 10数年前までは「青年のつどい」などと銘打っただけで、青年がたくさん集まってくれるという状況がありました。ストレートに仲間を求めていたから、「青年のつどい」などという、まさに「仲間づくり」そのものを示すネーミングでも良かったわけです。
 しかし、このテーマでは、今の青年は「わざとらしくていやだ。」と思うでしょう。今日「つどい」を行うのなら、「○○が身につく」、「○○について考える」などのような具体的な「つどい」の目的がはっきりわかるテーマにしなくてはなりません。
 グループにおいても、「何かいっしょにつくりあげようとするもの」があるからこそグループをつくって活動するのだし、その活動があるからこそ「自然に」、「メンバー自身の手で」仲間づくりが進むものなのです。
 ですから、仲間づくりの演出で肝要なことは、「何かをいっしょにつくりあげる」活動の中に、メンバーの手によって「自然に」仲間づくりが行われるような時と場所を設定することなのです。
 グループで合宿をしたり、自由におしゃべりをするための「たまり場」を設けたりするのも、そのような「プログラムしきれない仲間づくり」の環境を整えるためのだいじな演出方法なのです。
◆神奈川県横浜市
  「個人」がいきいきするしかけ
−横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−

 JR戸塚駅のホームから、三階建の淡いアズキ色の建物が見える。「横浜女性フォーラム」である。市内の女性の活動と交流の拠点として、昭和六三年九月、横浜市はこれを四十億円をかけて建設した。しかし、その管理・運営は財団法人横浜市女性協会に任されている。
 正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、コンピュータシステムによる図書コーナー、自動搬送システムによるビデオコーナー、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできるフォーラメディア、パソコンゲームコーナーなどがある。
 ミニコミを収集・展示したり、データベースに「よびかけ」や「らくがき」が自由に書き込める「掲示板」というメニューを提供するなど、交流への「しかけ」もさりげなく用意されている。
 その他、一階には、フォーラポート(相談室、ポートは港の意)、印刷工房、託児室、そして、三八〇席の立派なホールもある。ホールの「親子席」では、乳幼児といっしょでも、人に迷惑をかけずに安心してなまの芸術に接することができる。
 「生活工房」は二階にある。そこの「工作・工芸」「衣」「食」の三つのコーナーでは、くらしを「創造」する活動ができるが、それらは間仕切りのないオープンスペースとなっている。予約なしでも自由に利用できる。パンフレットには、「個人、グループ、男性・女性、大人・子供の枠を越え、初めて出会った人とも一緒に利用しましょう。」とある。ガラス張りの「物品庫」からは、「創造」に必要な器材が借りられる。
 その他、二階にはガラス越しにグループの活動の様子がわかるセミナールームや音楽室、和室などがある。三階には、助産婦さんのいる健康サロン、スタッフによるアドバイスや体操教室などの受けられるフィットネスルームなどがある。フィットネスルームは、団体貸出しを行わない。個人またはその交流にねらいをしぼっている。
 ユニークな講座も盛んに行っている。たとえば、女性には不向きとされがちな自動車整備や電動工具の講座、水まわりの修理の講座、仏発祥の再就職の講座「ルトラヴァイエ」などである。
 フォーラムは、このようにして、その情報と空間と人材をしなやかに活用しながら、「個人」にアプローチする。そして、さらに男性や子どもをも巻き込んだ交流へと誘(いざな)うのである。
      (生涯学遊研究会 西村美東士)

東京都港区
 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク
  −AV−PUBのサロンで「私的」交流−
 港区虎ノ門の日本視聴覚教育協会が、文部省の支援も得て教育関係者のためのパソコン通信「AV−PUB」を運用している。これは、「視聴覚教材情報全国システム」という正式名称のとおり、AV関係のデータベースであり、電話線を通して全国から利用できるようになっている。
 しかし、愛称の方はPUB(酒場)であり、その中にサロン(談話室)という電子掲示板もある。パブのように気楽に入って必要な情報を入手し、ついでにサロンで全国の仲間とディスプレーを通したおしゃべりもできるわけである。
 昨年6月ごろから、このサロンで生涯学習関係者の書き込みが盛んになってきた。LLLという、ゆるやかなつながりの小さなグループである。メンバーは近県の社会教育主事、小学校教師、新聞記者などで、時には、本当に飲み屋で集まって一杯やることもあるが、ほとんどは自分の空いている時間、すなわち深夜、自宅から発信する。
 いずれにせよ、フォーマルな立場での気遣いは不要、その意味では「私的」な交流である。そこで、授業、講演、執筆、学会発表、出張、視察、研究発表会参加などの事前・事後報告や他のメンバーとのやりとりが行われる。今まで話題になった主なものを出現順に紹介してみよう。
 ニューメディアに関する専門性の内容、社会教育施設のLAN化、情報ボランタリズムの意義、コンピューター教育に必要な知識体系、根底的な学社連携としての教え方の技術の交流、情報処理能力の内容、リーダーシップトレーニングのノウハウ、DIY(手作り)メディアの評価、子どもにキーボードストレスはあるか、社会教育主事の発問や学習プログラムなどの交換の必要、学習情報提供が抱える問題点、小さな市町村の生涯学習関係職員の高い通信ニーズ・・・。
 その他、宇宙は有限か無限か、太古の哺乳動物について、海外旅行のコツ、出張先のうまいもの情報求む、マシンの情報や選定についてなど、実際の流れはミスマッチ(M)でアバウト(A)でジグザグ(Z)でイージー(E)で、まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。
 AV−PUBには、教育に関係する人なら誰でも加入できる。電話料金だけ負担すればよい。技術的にわからないことは、LLLのメンバーが助けてくれる。 (生涯学遊研究会 西村美東士)学習圏構想によって生み出されるアダチ・アイデンティティ
 −東京都足立区の生涯学習推進構想−

さまざまな生涯学習を行う区民
 平成元年11月26日の日曜日、足立区文化会館で「生涯学習区民の集い」が開かれた。
 少年団体連合協議会の佐野静江さんは、壇上、「ここに集った皆さんと同じ立場で活動している者の一人として話したい」と前置きした上で、「皆さんは、いつが一番幸せな時期だっただろうか。私はダンプカーに自転車ごとはさまれて、大病をし、やっとの思いで生き延びることができた時、せっかく生きながらえたのだから、いい生き方をしようと思った。今では、子ども会で、田植や稲刈り、絵や書道の品評会、アドベンチャーキャンプなどのお世話をしている」と述べた。
 そういう活動の中で、佐野さん自身がいろいろなことを学んできた。たとえば「今の子どもは感動しないなんて言う人がいるが、とんでもないということを知った。アドベンチャーキャンプの最終日、役所の前で行った解散式は、涙、涙の連続だった」。
 体育指導委員会の吉岡信太郎さんは、誰でも気軽に楽しめるビーチバレーボールを普及する活動の中で、「初めは乗り気でなかった」人でも、その95%がアンケートに「楽しかった」と答え、「こんなに大きな声を出したことは、しばらくなかった」「自分がこんなに動けるとは思わなかった」という反応があると述べた。そして、家にしがみついてなかなか外に出て行かない「濡れ落葉のような」中年男性にも、今後は少しづつ生涯スポーツを呼びかけていきたいとした。
 婦人団体連合会の清水とよ子さんは、婦人学級や生活学校で学習を続け、食品や衣服など、身近な生活の問題の解決に取り組んできた。そして、その中での「ふれあい」「仲間づくり」をとてもだいじにしているという。清水さんは「生涯学習とは、ただ学習するだけではなく、活動もすること」としめくくった。

区民の一人ひとりに受け入れられつつある生涯学習
 この日、自分たちの生涯学習の実践を発表した三人が活動している団体は、いずれも「足立区生涯学習推進協議会」の構成団体である。「協議会」はこのような区内の団体の代表を多数含めた55人の委員から構成され、生涯学習に関するさまざまな願いを取り込みながら、提言などを行ってきた。
 しかし、このような生涯学習の活動が、最初から広く区民に理解されていたわけではない。足立区が「生涯学習のすすめ」というビデオの撮影を昭和62年に開始したころ、「生涯学習という言葉を知っていますか」というインタビューに、ほとんどの区民が「知らない」と答えている。
 また、一方で、昭和58年頃に行った区民へのアンケートでは、「あなたは、どこに住んでいますかと聞かれたら、どう答えますか」という質問に対し、多くの区民が「足立区」ではなく「東京都」と答えるという回答をしており、区の行政担当者にショックを与えていた。
 このような状況の中で、庁内の企画、地域振興、福祉、衛生、そして教育委員会などの関係セクションの係長レベルの人たちを中心にプロジェクトチームがつくられ、生涯学習推進のための実質的な協議が続けられた。
 最初は、チームメンバーの中には、「生涯学習は教育委員会の仕事」ととらえる人もいたようである。しかし、納得いくまで、メンバーで勉強しあった。合宿もした。事務局を担当した一人の米山義幸さん(現在、生涯教育部学習推進係長)は、「日頃の仕事が違うからこそ、今でも当時のメンバーといっしょにお酒を飲むととても楽しい」という。
 このチームによる足立区生涯学習推進構想「学びあうまち足立の創造のために」の報告(昭和62年6月)の後、「生涯学習の推進」は、行政セクションの違いを乗り越え、「総合行政」の中で重視されるようになってきた。「生涯学習の推進」は文化行政のキイ・コンセプト(中心概念)であり、「A・I(アダチ・アイデンティ)=足立らしさ」の創出の最高の手段であるという報告の提言は、今日では区政全体に受け入れられつつある。
 そして、生涯学習についてのわかりやすいビデオやグラフ誌の発行などもあいまって、区民の間にも「なんだ、私たちのやりたいことが、生涯学習だったんだ」というような声があがり、生涯学習への親しみの気持ちが根づいてきている。今では、住区センターの管理運営委員会の自主企画で、「生涯学習について2時間ぐらい話しに来て」などという嬉しいリクエストが区の担当者に舞い込むという。

日常の学習圏とより広い学習圏の施設配置
 区内の住区センターの一つ、五反野コミュニティセンターを訪ねた。ロビーでは、子どもが宿題をしたり、主婦が数人で昼食をとったりしている。住区センターは小学校区に一つぐらいの割合で配置されているから、そんな身近な使い方ができるのだろう。
 その他、1階は主に老人館で、そのホールでは、「バンパー」というビリヤードのようなゲームを、かなりお年を召した方々がやっていた。その仕草がかなりしゃれているのである。風呂もある。2階は児童館である。広場、図書室、工作室などで子どもが自由に遊べる。
 現在38館ある住区センター(最終56館を予定)は、すべて地域振興課の管轄だが、その運営は地域の住民の代表による管理運営委員会にいっさい任されている。この管理運営委員会が、講座などの事業も実施している。もちろん、区の生涯学習推進協議会にも、各センターの運営委員長の中から代表を派遣している。このように、住区センターは区民の一番身近な生涯学習サービスを受け持ち、名実ともに「住区学習圏」の核になっている。
 次に、より広範な学習圏の施設の一つであるLソフィアを訪ねた。Lソフィアは、区内の主要な駅の一つである梅島駅から、徒歩2分の所にある。4階建てで白いタイル貼りの明るい感じの建物である。玄関ホールは2階まで吹抜けで、開放感にあふれている。婦人総合センターを有しているのがここの特徴であるが、その他、梅田センター、消費者センター、区民事務所との複合施設になっている。
 梅田センターのようなブロックセンターは、区内に12館ある(最終13館を予定)。それぞれ、社会教育館、体育館、地域図書館を併設しており、「住区」と「全区」の間の圏域の施設として生涯学習の中核的な役割が期待されている。
 このように、足立区は区民の生涯学習にとって重要な拠点にきちんと施設を配置してきた。そのためには財政面や用地取得の上から、先見性と大きな勇気が必要だっただろう。しかし、それが足立の生涯学習の基盤を整備し、ひいては、足立区民が胸を張って「私は足立区に住んでいます」と言えるようなアダチ・アイデンティティを形成するきっかけとなっているのである。

下町の良さを引き継ぎつつ次代をになうために
 緑豊かな東渕江庭園の中に、ひと際目立つ、昔の蔵を思わせる白い建物がある。足立区立郷土博物館である。玄関を入ると、2階まで吹抜けの天井に届くかとさえ思われる山車(だし)が展示されている。このような山車は、下町でももはや貴重なものとなりつつある。
 この博物館の展示物の一つに「荒川放水路工事復元ジオラマ」がある。荒川はその名のとおりの「あばれ川」で、大開削工事のすえ、昭和5年に荒川放水路が完成した。これによって、江東デルタ地帯は水害から守られるようになったが、足立は放水路によって二つの地域に分断され、人的、経済的にも大きな試練を受けた。ジオラマの農村風景は一見のどかそうだが、そこには目に見えぬ苦労が秘められていることを感じさせる。
 山車に象徴されるような下町の良さや人情を継承しながら、次代に向けて下町ゆえの不利を克服していく・・・、区民一人ひとりの生涯学習によるアダチ・アイデンティティの創出は、そういう努力の一環なのである。

コンピュータ (英)Computer
定義 電圧の高低の組み合せを判断する(デジタルコンピュータの場合)ことによって、数値情報や文字情報(データData)を大量にすばやく処理するシステム。プログラムの命令を遂行する「頭脳」としての中央演算処理装置(CPU)、そのCPUで処理するための情報をため込んでおく記憶装置(内部記憶装置やフロッピーディスクなど)、入出力装置(キーボード、ディスプレー、プリンターなど)から構成される。
活用の方法 生涯教育の場面でコンピュータを活用する場合、大きくは次の2通りが考えられる。
@CAI(Computer Assisted Instruction )−学習者の学習を直接、コンピュータによって支援する。
ACMI(Computer Managed Instruction)−学習を援助する者にとって必要な情報の処理や判断を、コンピュータによって行う。
 CAIの種類としては、次のようなものがある。実際のCAIでは、いくつかの種類が組み合わされて行われる。
@ドリル−練習問題。たとえば計算問題などで、コンピュータがさまざまな組み合せの問題を出題する。
Aチュートリアル−個別指導。理解度に応じて、段階的に事項の説明や問題の出題が行われる。
Bシミュレーション−模擬体験。実物を使うと、危険であったり不可能、不経済であったりする場合に、コンピュータの画面上で、その状況を図や数字などで再現し、練習等を行う。
Cゲーム−得点を競うなどのコンピュータ・ゲームをすることによって、目的とする知識・技術を習得する。
D問題解決−コンピュータから示された各種のデータをもとに、ある問題に関して学習者が判断と決定を行い、その決定によってもたらされると予想される結果がコンピュータから示される。
E学習情報提供−コンピュータが学習者に学習ニーズなどを聞いてくる。学習者は画面上のメニューからそれに回答する。これを繰り返すことによって、学習者の求めている学習情報が絞られた上で提示される。
 CMIは、次のような場面で使うことができる。
@生涯教育情報の管理と検索
A生涯教育諸計画の策定と管理
B教材・教具の管理と編集・加工
C集団学習参加者の編成と分析・把握
D学習評価、事業評価等の処理
Eその他、人事・会計等庶務的事項
これらは、次項に示したコンピュータ(パソコン)の諸機能を活用するものである。
 CAI、CMIの他に、情報化、ハイテク化の社会においては、コンピュータそのものについて学ぶための援助も大切である。そこでは、コンピュータリテラシー(コンピュータを使って読み書きする能力)の修得とともに、コンピュータを批判的に使いこなすための主体性の獲得が重要になる。
パソコンの機能の種類と内容 現在、ますます安くなり普及しつつあるパソコンは、生涯教育の有効なツールといえる。パソコンは、ソフトの利用によって次のような機能を発揮する。
@表計算−表の縦、横のありとあらゆる種類の計算やグラフ化などをやってしまう。修正、挿入、削除等も自由。数字の訂正も、従来のようにけしゴムを使って悪戦苦闘する必要がなくなる。
Aデータベース処理−データを記憶し、それを必要に応じて必要なものだけ引き出せる。文書や名簿等の管理が可能。一人でも気軽に心ゆくまで求める情報を検索し続けることができる。
B文書作成−パソコンワープロのソフトを利用し、ワープロ専用機と同等のことができる。文章の訂正、削除、入れ替えなどが自由なので、書き始めから悩まずに、好きな所から書ける。書斎の中でもの書きに専念しなくても、仕事や家事の合間に「書き言葉文化」の創造主体になれる。
C作図・作曲−これらは新しい芸術形態である。技術的に熟練していなくても、いろいろな表現(繰り返し、バリエーションなど)ができる。集合しなくても共同創作が可能。
Dニューメディア端末−パソコンから大型コンピュータなどを制御する信号を送ることができる。情報を受ける側が、流される情報を一方的に受け入れるのではなく、取捨選択し、逆に情報や意見を返すこともできる。
Eプログラミング−その他、必要に応じてプログラムを作れば、多様な仕事をすることができる。また、プログラミングの知識がなくても、CAIのプログラムが比較的簡単に作れるようなソフトもある。
資料
1.消費者情報に関するコンピュータ利用の必要性
 東京都消費者情報オンラインシステム(MECONIS)に関して、コンピュータを利用する必要性が、次のようにまとめられている。コンピュータを利用する場合、このように外部への情報サービスと、内部の職務遂行のための利用の両方の必要を満たすことができれば、より効率的である。
@迅速に収集・処理できるシステム
A大量の情報を集中管理することのできるシステム
B多面的検索のできるシステム
C自動集計のできるシステム
D関連ファイルを相互参照できるシステム
E総合的データベースシステム
Fどこでもアクセスできるシステム
2.中・大型コンピュータ処理のプロセス
 一般的な工程は次のとおりである。FからはBに戻る。BからEの処理は委託するのが普通である。
@開発計画策定−目的、年度計画、必要な資源・組織・人員・教育、委託範囲の決定等
A調査分析−たとえば、学習情報提供システムなら、学習需要、学習機会の実態等
Bシステム設計−基本設計・詳細設計
Cプログラム作成
D入力処理−カードパンチ等。システムを運営する者は、正確で充分なデータをそれまでに用意しておかなければならない
E機械処理−アウトプットの作成
Fシステムの評価−システム自体の検討と、情報の活用の状況等
3.高齢者対象のパソコン教育プログラム(試案)
 このプログラム(試案)では、ベーシックなどのプログラム言語から始めるのではなく、最初から既成ソフトなどを活用することによって、気軽に楽しく、実践的に学習できるようになっている点が注目される。(出典は国立教育会館社会教育研修所「高齢者対象の学習プログラム(試案)」)
基礎課程
@パソコンにさわってみよう(ゲームソフト)
Aパソコンワープロの基本的操作
B表計算ソフトの基本的操作
Cデータベースソフトの基本的操作
D作図ソフトの基本的操作
Eパソコン通信の基本的操作
専門課程
@パソコンの用語
Aパソコンワープロの多彩な機能
B地域を数字でとらえる(表計算ソフトの応用)
C地域関連データベース構築演習
Dパソコンで芸術創作(作図、作曲)
E地域パソコン通信ネットワークの方向
F教育ソフトの種類とその活用方法
            (西村美東士)

データ通信 (英)Data Communication
定義 パソコンや中・大型電子計算機などに通信制御装置(モデム)を付加することによって、それぞれのコンピュータを電話回線などの通信回線で接続し、情報のやりとりや処理を行うこと。
意義 データ通信では、従来、文字や音声で表現されていた情報が「電子化」(ディジタル化)される。今日の情報化の進展は、この情報の「電子化」に負うところが大きい。「電子化」によって、情報のより即時、大量、正確なやりとりが可能になる。
 特に即時的(リアルタイム)であることは、時間と距離の問題を克服する。情報発信した瞬間に、受信者によるその情報の受信が可能である。また、それは、交通手段などの物理的制約がないため、空間超越的である。
機能 「電子化」されることにより、その情報は、流通やコンピュータ処理の操作がかなり自由になる。その自由性を活用したデータ通信の機能として、次のようなものをあげることができる。
@データの収集と分配−ホスト(コンピュータ)にデータを集中し、端末から必要なデータを検索して取り出すことができる。
A問い合わせと応答−リアルタイムに端末とホストのやりとりができる。
B端末どうしのメッセージ交換−リアルタイムに双方向のやりとりができる。
Cタイムシェアリング−他の端末と細分化した時間づつ、交互にホストのコンピュータを利用しあうことにより、外見上、同時利用が可能になり、一つの端末があたかもホストを占有しているかのような利用ができる。
Dコンピュータ間通信−大きな能力をもったコンピュータどうしで、お互いのデータや処理能力を相互利用することができる。
活用方法 データ通信は、身近な所では、列車の座席予約や銀行のオンライン預金システムなどに活用されている。学習情報の提供などにあたっても、これらの機能が有効に活用されることが望まれる。
 しかし、さらに生涯教育関係者は、データ通信の一種としてのパソコン通信(パソコンネットワーク)に特に注目する必要がある。
 パソコン通信とは、狭義には「パソコン間通信」、すなわちパソコンどうしの直接の通信という意味であるが、今日では、ホストのコンピュータを仲介にして、家庭や職場などのパソコンが通信のネットワークを形成することを意味する方が一般的である。その中には大型コンピュータをホストにしている商業ネット(有料のネットワーク)もあるが、個人の自宅のパソコンをホストにする草の根ネットもある。
 パソコン通信は、個人が余暇時間に自宅のパソコンで、学習の一次情報や二次情報を受信、編集、加工、発信できるので、活用の可能性は大きい。
学習の新しい動向 たとえば、高田正純はパソコンネットワークを個人が利用する魅力を指摘し、これを知的興味と人間どうしのふれあいへの志向をともに充たすものとして評価している(参考文献@)。さらに、パソコン通信で交流されている「知」が、新しい傾向をもっていることも指摘できる。知の「ボランタリズム化」、「アマチュア化」、「個別化」、「雑多化」、「民主化」、「非体系化」である(参考文献A)。
 パソコン通信においては、自分とは異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがその醍醐味である。自己の自立的価値をもちながら、「異質」と交流しようとするこの志向は、ネットワーク型の新しい学習を生み出しつつある。
参考文献(パソコン通信関連)
@高田正純「データベースを使いこなす−英語でとる世界情報−」、講談社、1985年
A西村美東士「パソコン・パソコン通信と青年」、川崎賢一編『メディア革命と青年』、恒星社厚生閣、1989年
用語解説(パソコン通信関連)
アップロード 文章等を仕上げてディスクに記録しておき、それを一気に送信すること。
ダウンロード 受信内容をディスク等に記録しておくこと。あとでゆっくり読んだり、編集・加工・印刷したりする。
コマンド 端末のパソコンからホストに「指令」を出すために事前に決められた文字列。
システムダウン ホスト側の事故などにより、通信不可能になること。大いに起こりうる。
パスワード 匿名でも参加できるパソコン通信において、ホスト側に会員であることを唯一、証明するためのいわば暗証番号。
ID番号 ネット上での会員番号。自分の書き込んだ記事には、自動的に付加される。
ハンドルネーム 自分で設定する自分の愛称。ネット上では、本名やID番号ではなく、これで相手を呼びあうことが多い。
SIG Special Interest Group、特定事項への関心を持つグループ。「棲み分け」の役割をはたすが、誰でも見れるのが普通。
シグオペ SIGの「世話人」。商業ネットにおいても、ボランティア的色彩が強い。
電子メール パソコン通信を行う会員どうしの「郵便」。通信相手だけが読める。
チャット 通信内容を蓄積せずに、リアルタイムにおしゃべり(筆談)するシステム。
レスポンス 記事を読み書きする中で与えられる、自分の記事への他者からの反応。
ROM Read Only Members、つまり「他人の記事を読むだけの人」。造語である。
WOM Write Only Members、つまり「どんどん書きまくるけれども、内容が独善的なためレスポンスしにくい人」を皮肉った言葉。
PDS パブリック・ドメイン・ソフト。個人等が作成し、財産権としての著作権を放棄して他の個人・団体に提供するソフト。
草の根ネットワーク 営利を目的とせず、個人や非営利団体がホストになり運用するネットワーク。
アイボールミーティング 電子上(オンライン)ではなく、実際に相手と「目を合わせる」宴会・集会等。
資料−−パソコン通信のSIGの実際の種類 たとえば、アスキーネット「ACS」には、次のようなSIGがある。(1989年2月現在)
@SIG・リクエスト(SIGを新しく開設するよう提案するコーナー)
ASIGエリア・A
1:コンピュータ
2:スポーツ
3:音楽
4:センス・オブ・ワンダー
5:The Work
6:パーソナリティ
7:現代用語の余分知識
8:競馬
9:サイエンス
10:料理
BSIGエリア・B
1:英語
2:ウィザードリィ
3:物・者・モノ・広場
4:旅行
5:ライティング
6:路上観察
7:シネサロン
8:SYSTEM手帳
9:写真・イメージ
CSIGエリア・C
1:AV
2:自然観察
3:ビジネス・フォーラム
4:CARLIFE
5:アミューズメント
6:教育を考える
7:地方
8:LOVE
9:歴史
10:医療
DSIGエリア・D
1:メディア
2:ハム
3:マッキントッシュ
            (西村美東士)


子どもたちの団体活動
 〜そこに秘められている大いなる教育力〜
              昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
教育とは子どもがワクワクする営み
 少年団体指導者の方々が、もし、動物のしっぽの働きを子どもたちに教える場面に出会ったら、まず、どんなことをするだろうか。「しっぽの働きの教え方」という本を探して(そんな本はないが)、その本のとおり教えればよい、と思うような主体性のない人は、指導者の中にはいないと思う。動物のしっぽについて、自分が子どもたちに何を教えたいのか、考えるだろう。現在の自分の中に教えたいことがまだできていなければ、しっぽに関するたくさんの資料を集めて、「教えたいこと」を自分の中にあらたにつくり出すことだろう。
 それが教育の第一歩である。ごく薄い科学絵本、一冊を作り出すためには、手に抱えきれないほどの「大人向け」の資料が読み込まれるという。そこで作者が感動したたくさんの事実のエッセンスを、科学絵本という形で表現する。その絵本が、作者が感じたのと同じ感動(共感)を子どもに与える。そこに絵本づくりの面白味がある。
 少年団体指導者の活動にも、同じような苦労と喜びがいつもついてまわっている。つまり、指導者自身に伝えたい感動があるからこそ、それを苦労しながら補強した上で、その感動を同じ人間としての子どもたちに伝えようとしているのだ。教育の第一歩は、「伝えたいこと」があるということだ。
 しかし、それだけでは教育にならない。子ども自身が新鮮な驚きをもって感動しなければ、指導者だけがワクワクしていただけということにしかならない。感動を伝えるためには、子どもたちとその感動をコミュニケートできるセンスが必要になる。教育的センスといってもよい。
 ここに「しっぽのはたらき」という絵本がある。中を開くと、たとえば、
 ふわふわした しっぽを、ひょい ひょい ふりながら、えだのうえを すばしこく はしりまわったり、えだからえだへ とびうつったりしています。なんの しっぽでしょう?
とあって、ページの右上に木の枝につかまった小動物のしっぽのあたりが描かれている。よく調べられて正確に描かれているが、思わず微笑んでしまうほど可愛らしくもある。ページをめくると、それは、りすの体、全体につながっており、他の一匹はしっぽを広げて枝から飛び降りているところだ。「ふわふわした しっぽが ぱらしゅーとの やくめをする」というのである。
 たとえ、りすのしっぽがパラシュートになることを知って作者がワクワクしたとしても、それを前のページに書いてしまったら、おしつけがましいし、子どもたちに作者の感動が伝わるようなものにはならなかっただろう。子どもが「何のしっぽだろう」、「何のためにあるんだろう」と◆自分で◆思ってこそ、真実を知らされて驚き、ワクワクすることができるのである。
 団体が子どもたちに伝えたいことを持っているということは、少年団体活動が教育的意義をもつための基本的条件にはなるが、それを子どもたちにお説教するだけなら、そんなものは何回繰り返しても本当の教育にはならない。子ども自身が◆自分で◆ワクワクしてこそ、子どもは確かな成長をするのである。教育的センスさえあれば、少年団体活動は、そういう「ワクワク」を与えるワンダーランド(不思議の国)の「局面」を本質的にたくさんもっている。

少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動
 ひとがものごとをとらえる時の枠組を「準拠枠」という。「カウンセリングの話」という本によれば、次のとおりである。
 人間は、言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情などを表現することができるが、それらのことを表現したり、お互いに理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。(中略)例えば、同じ「悲しい」という言葉を使って話をしていても、突きつめていくと自分の「悲しい」と相手の「悲しい」が違うということに気づくことがある。私たちの日常生活は厳密にいうと、実はそのようなことのくり返しだといっても過言ではない。
 そういうすれ違いがあっても、平気で大人の準拠枠を押しつけるだけの団体運営を進めるならば、それは表面的には団体活動に見えても、けっして教育的な活動とはいえない。
 現代社会では、本当にひどい本が売られている。ある本には「女性の部屋に侵入する方法」などがびっしりと載っている。「相手が一人暮らしかどうかを確認すること」から始まって、「窓ガラスに粘着テープを貼って焼き切って、手を入れて鍵を開けて侵入」する方法やクロロホルムで眠らせる方法などが◆ていねいに◆書かれている。高校生あたりになるとそれほどでもないらしいが、中学生がよく買っていくとのことで、またたく間に版を重ねている。子どもたちが異性を見る目は、その準拠枠は、この先、どうなっていくのだろうか。あるいは、そこまで極端ではなくても、たとえば従来の競争社会が生んだ受験体制の圧迫は、ほとんどの子どもたちの準拠枠の形成に大変な影響を与えている。「偏差値君さようなら」という生涯学習社会の理想からは、まだほど遠い実態なのだ。
 こういう環境に影響を受けてしまっている今の子どもたちの準拠枠のずっと遠くの方で、きれいごとばかりで埋めつくされたお説教をしていても、子どもたちに情報の一つとして聞かれることはあっても、子どもたちの準拠枠そのものには響かない。
 かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、子どもにどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。現在の少年団体指導者の中にも、忙しさのあまり、そういう傾向に流れてしまっている人がいるかもしれない。しかし、本当の教育の姿は、そこにはない。それぞれの子どもなりの「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらない。
 しかし、本来の少年団体活動なら、子どもの準拠枠そのものに迫っていくことができるはずだ。なぜなら、活動の中には、感動を呼び起こす参加や体験があって、感動を共有できる子ども集団があって、それらを受け止める地域があるからである。

少年団体活動には教育力があふれている
★ 体験のもつ教育力
 国立日高少年自然の家の紀要では、集団宿泊活動の中での子どもたちの体験活動を、@人への働きかけ、A自然への働きかけ、B地域文化への働きかけ、C公共施設への働きかけ、Dその他に分けて検討している。
 また、「なかまたち」15号で三浦清一郎氏は、子どもたちがもっている自然に関する知識について次のように述べている。
 これらの子どもが知っているのはいわゆる「解説」であって、実際の自然の在り様についてはほとんど経験していないし、知識もないことに驚くのである。(中略)このような状態を青少年の自然接触体験の欠損と呼んでいい。
 そして、三浦氏は、ある体験が子どもに欠如しているということは、子どもの「社会化」(社会のメンバーとしてふさわしい資質や行動の仕方を子どもたちに教えていくプロセスであり、少年期にはその大部分が体験を通して獲得される)が行われないということを意味している、と指摘している。
★ 参画のもつ教育力
 全国子ども会連合会の資料には、「おしきせプログラムはまっぴら」と題して、次のように書かれている。
 どうも、大人が事前にすべてを準備しきって、ただ子どもは、お客さまで参加するという行事が多かったのではないか。プログラム立案の段階から参画することは、参加意識を高め、苦労しても、なんとかやりとげ成功させたい、そのために労をおしまず仲間と協力しあおうとするであろう。その仲間と苦労をともにして、やっと仕事をなしとげたあとの成就感を味わったとき、ヤッタという晴れ晴れした気持ちになるであろうし、その時「またやってみよう」というやる気を育てるわけである。
 参画は、ひとをワクワクさせる。参画するためには、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身の準拠枠にも鋭く迫られる。そういうせっかくのチャンスを指導者が独り占めにするならば、指導者だけが「成長」するという結果になりかねない。
★ 地域活動のもつ教育力
 創造性開発理論の中に「異質馴化と馴質異化」という考え方がある。異質なものを身近な馴れたもののように眺め、馴れたものを新たな気持ちで見直すという意味であろう。
 住みなれた地域には、「空缶拾い」や「花いっぱい」などのいわば「馴」のレベルの素材がいっぱいころがっている。これはこれで、子どもたちに素晴らしい体験のチャンスを与えてくれる。しかし、その教育的効果はもっと奥行きの深いものとして認識され、広がりのある活動がなされるべきである。いつもの地域を地球の一部を他の天体から見るような気持ちで、つまり「異」のレベルで、見直してみると、地球の限りある資源を大切に使わせてもらうために小さなコミュニティが果たすことのできる大きな役割も見えてくるのではないか。
 子どもたちにとって、地域は、主人公として参加できる身近な場であると同時に、少年団体の教育的センスによっては、壮大な夢と認識を広げてくれる場にもなるのである。
★ 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力
 少年団体活動の中では、同世代の仲間や◆義理◆の兄弟姉妹との関係が、自然に数多く発生する。子どもたちは、そういう自然発生的集団の中でこそ、自らを変えていく。
 石けりをしていて、大変な難事を要求する所に石が入ってしまっても、同世代の仲間が見ていれば、子どもたちはなんとかその難事をこなそうとしてきた。親や教師がいくら言ってもできないことを、仲間の前では泣きながらでも頑張ろうとする。そういう努力を放棄するなどの遊びのルール違反は、仲間から厳しくとがめられた。同時に、最後はお互いに手心を加えることなども体で学んできた。また、その遊びのレベルまで達していないような小さな子が来れば、遊びを中止しなくてもすむように、その子のために一部ルールを変更するなどの知恵を働かせてきた。「自然に」発生する集団がもっているこれらの自律的な教育力を、団体は「意識的に」尊重し可能な側面的援助を与えることが必要であるといえよう。
 それにしても、少年団体活動には、現在の子どもたちに欠けている体験・参画、仲間や地域とのふれ合いのチャンスが、なんと豊かにあふれていることか。

子どもにだって「個のふかみ」がある
 「個のふかみ」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズに応え、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個のふかみ」に言及せざるをえないと考えられた。提言はいう。
 ある施設での活動で、子どもが外からいそいそ帰ってきて、指導者をつかまえて話しかける。「ねえ、あっちにきれいなお花が咲いていたよ」。しかし、その指導者は彼に対して大声で「何やってるんだ。みんな向こうに集まってるぞ」と注意する。子どもが自然の中でとらえた出来事、発見そして喜びなどの感情が、この指導者の対応によって台無しにされてしまうのである。
 子どもたちは、自然の中で、遊びや活動の中で、さまざまな発見や体験をする。そして、この発見と体験を指導者に伝えようとする。これをしっかり受け止めることが、指導者の重要な役割であろう。
 心理療法の中に交流分析という手法がある。子どもにも大人にも、どんなひとにも、自由な子ども、従順な子ども、理性的だが打算的な大人、看護的な親、厳格な親という要素が混じっているそうである。その度合はひとによって違う。どの要素が一番望ましいなどと、誰かが決めることのできるものではない。「個のふかみ」は、そういう個別性から生ずる神聖で不可侵なものだ。
 同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得ることが、集団教育の目的ではない。子どもたちの「さまざまな発見や体験」という多様な個別の深まりが、今、大切にされなければならない。塩化ナトリウム99%の工業塩より、不純物の多い天然塩の方が料理の味に深みを出すという。少年団体活動も、皆を「団体の優等生」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの子どものエネルギーを評価しなければいけない。
 むしろ、組織にとって子どもとは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在、子どもにとって組織とは、どうにでもなる、どう変わってもよい存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、少年団体という◆組織にとっては◆荷の重くなるような言い方だが、子どもたちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとする◆教育的観点からは◆当然の見地だと思う。
 「しっぽのはたらき」を作った人は教育の専門家ではない。少年団体にも、教育の専門家が必ずしもいなくてよい。しかし、子どもの教育とは、子どもたちにおしなべて「こうさせよう」とする「対策」ではなく(そうは言っても、時として「安全対策」などが必要になることはもちろんだが)、本来的には、子ども自らが気づき多様な「個のふかみ」をもつための、側面からの「援助」なのであるということは、認識しなければならない。未知数のものを外から援助するというところに教育の難しさがあり、本当の面白さもある。
 つけ加えれば、子どもの「個のふかみ」とつき合える少年団体の指導者は幸せである。なぜならば、近代合理主義社会の中で凝り固まった自分の「準拠枠」が、子どもたちの「個のふかみ」に接することによって快く揺さぶられ、子どもたちとともに育つことを体験できるからである。

参考文献(紹介順)
川田健、薮内正幸「しっぽのはたらき」福音館書店
平木典子「カウンセリングの話」朝日新聞社
国立日高少年自然の家紀要「シシリムカ」第5号
三浦清一郎「自然接触体験の欠損と青少年の活動」(「なかまたち」15号所収)
全国子ども会連合会「中学生 −その青春と地域活動−」
中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」

第10回大会の論議をふまえて(学習情報・マスコミ文化部会)





 学習情報提供の現状と課題





                    西 村  美 東 士
                   (昭和音楽大学短期大学部)

はじめに

 日本生涯教育学会第10回大会の「学習情報・マスコミ文化部会」は、おもに学習情報の提供とそれにともなう学習相談の問題について、次のように討議と研究を進めた。
@ 兵庫県における学習情報提供の現状と課題
   −市町村とのネットワーク形成を中心に−
  (兵庫県嬉野台生涯教育センター 梶田源一郎)
A 小野市の学習相談の現状と課題
   −兵庫県のデータベースの利用を中心に−
  (兵庫県小野市教育委員会 小西旦二)
B 部会参加者のそれぞれの立場からの現状紹介
  (当日、この部会に参加した者全員)
C 学習情報提供と学習相談の課題を考える視点
  (指定討論者 日本ルーテル神学大学 清原慶子)
D 学習情報提供におけるネットワーク、学習相談の意味
  (指定討論者 亜細亜大学 平沢茂)
E 全体討議
 ここでは、上の@からEまでを通して問題になったさまざまなことがらのうち、とくに代表的なもの二つをとりあげて報告する。
 なお、司会は辻功(筑波大学)と西村美東士(当時、国立教育会館社会教育研修所)が受け持った。

1 学習情報ネットワークシステム構築の意義を再確認する必要がある

 梶田氏は、たとえば戦後に公民館が人々から求められ必然性をともなって誕生したことと対照的に、今日の学習情報提供事業は研究者などによる時代の「先読み」の形でその必要が説かれ、誕生してきていることを指摘した。そこに、広域行政として県が生涯学習情報提供システムを構築・推進しようとしても、肝心の市町村になかなか積極的には賛同してもらえない原因があるという。そして、これは昭和62年度というもっとも早い時期から学習情報提供の実践に取り組んだ兵庫県の「先駆者としての苦しみ」ともとらえられている。
 県内のそれぞれの市町村は、エリア内の当面必要になりそうな学習情報については自分たちはおおよそ掌握していると考えているため、その学習情報のシステム化やみずからのエリアを超えた広域のネットワーク形成については必要性を実感できず、むしろ「余計な仕事」としてとらえがちだというのである。
 小西氏も、市の教育委員会の職員として、兵庫県の生涯学習情報提供システムを利用して学習相談を行うにあたって、とくに他部局の職員にはなかなかその主旨を理解してもらえない点があると指摘した。はば広い生涯学習に関する情報といっても、やはり一般行政の部局からは「それは教育の仕事だから、自分たちには無関係」とされがちだというのである。
 このような学習情報提供のいわば「実践者の苦難」に対し、清原氏は、「学習情報提供の即目的化への反省」の必要を述べるとともに、個々の学習者の多様な「問題」と「関心」に対して、従来のベテラン職員のカンによる対応だけでは不十分になりつつあることを指摘した。そして、
@ 学習要求への迅速かつ適切な対応
A 身近な学習資源の活用・広がる行動範囲と学習資源の多様化への対応B 新たな学習要求の喚起
C 学習者間の問題意識の共有化や連携の支援
などのためには、学習情報のネットワーク化が不可欠とした。
 平沢氏も、学習情報のネットワーク化が、すなわち「生涯学習の基盤整備」であることを強調した。そして、データベースは大きい方が利用しやすく、データも大きいデータベースに引き寄せられ、また、ネットワークシステムは「広範かつ堅固」なほど構築が容易であるという特性を指摘し、たて割りの壁を乗り越えることの重要性を主張した。
 このような指摘にもかかわらず、従来行われてきた地域社会教育サービスの枠から一歩踏み出そうとする情報ネットワークサービスへの意識は、市町村の社会教育職員を含めた関係者にまだ十分ではない実態を我々は知る必要がある。これは、清原氏の言う「学習情報提供の理念の再確認の必要性」を示すものであり、ひいては、生涯学習を援助する人々のアイデンティティ確立に向けた「意識改革」が、学習情報提供事業にとってキーになることを示唆するものである。

2 どんな学習情報を提供すべきか、その範囲を検討する必要がある

 次に、全体討議でとくに問題になったのは、「公共的に提供すべき学習情報とは何か」ということである。兵庫県では、「学習情報の種類」または「収集対象の範囲」を、
A 生涯教育に関する学級・講座・実技・講演等で活動する指導者
B 公的機関・学習活動が実施されている施設
  (順次、他都道府県や民間へ拡大)
C 教育・スポーツ等で学習活動や研究を行っている団体・サークル
D 情報源としての専門的な公的機関に関する情報
  (行政全般、税金・年金、教育全般、仕事、悩みごと等)
E 県・市町・各機関・団体等が実施している学級・講座・プログラム
  (公的あるいは民間の学習事業)
F 国家試験・検定試験等、学習者が取得しうる資格
G 生涯学習の一環として見学する博物館・文化財・文化施設等
H 視聴覚センター・ライブラリー等が保有している教材・機材
としているが、フロアーからは、
@ 「健康」などの情報の内容に関する範囲の設定はどうするか。
A 二次情報は当然入るだろうが、一次情報はどう扱うか。
B 収集範囲内のものであっても、それを「取捨選択」あるいは「精選」  する場合はありうるか。その場合の基準はどうするか。
などの問題が提起された。
 全体討議の当初、司会(西村)はこれらを「データセレクトの問題」と表現したのだが、そのことについてはフロアーから「範囲の設定はセレクトと解すべきではない」という指摘があった。たしかに、たとえば、デパートのある売場でこういうものを扱おうと決めることと、そこで具体的な商品の選択と決定(セレクト)を行うこととは別の問題である。
 すなわち、行政が受け持つべき学習情報サービスの「範囲の設定」をしたとしても、それ以上の「良い情報」「悪い情報」などという「セレクトのための判断」を行政が行うことは適当ではないということである。
 とくに指導者情報などは、そのことが問題になるであろう。梶田氏もやはり「基準検討委員会を設けてはいるが、そこで個々のデータをチェックすることはしない」と報告した。なお、続けて「この基準検討も本来、それぞれの市町村が行うべきことではないか」とも発言している。
 一方、行政がそれぞれの情報の特性などについて評価を行うことには大きな問題があるとしながらも、学習情報を求める側にはじつはその判断を参考までに知りたいというニーズが強いという指摘がフロアーからあった。そのようなことは民間に任せるべきか否か議論になるところであろう。
 次に、事業や指導者などに関する「流動性に富む情報」と、施設や資格などの「固定的な情報」について、データ更新などの困難を考えて後者に力点をおくことが良いとする論があった。しかし、固定的な情報はむしろ従来の印刷メディアなどでカバーしつつ、「事前の」「即時的で」「新鮮な」情報こそデータベース化して、既存メディアではできなかったことを学習情報システムで実現すべきであるとする反論もあった。
 さらに、とりわけ指導者については、現場からもっとも求められる情報であるという報告があった。しかし、それは従来の学級・講座偏重型の社会教育がいまだ現場で行われていることの表れではないか、指導者の情報に謝金やその人物の評価が出てこないことを不満とする関係者が多いが、その姿勢自体に問題があるのではないか、生涯学習の理念から言えば、むしろ「相互学習における指導者」の情報の提供にこそ重点がおかれるべきではないかという辛辣な意見もあった。
 行政が提供すべき学習情報の範囲を誤った場合、生涯学習の基盤整備どころか、旧態依然とした「学習援助形態」を増幅させる結果にさえなりかねない危険性をはらんでいることが明らかにされたと考えられる。

3 その他、提起された問題

@ 学習情報に対する学習者側のニーズは本当に切実なのか
A 情報を集めるための実際的工夫とリーダーシップの発揮の必要
B データベースの稼働時間の設定のあり方
C ミドルとエンドのそれぞれのユーザーによるアクセスの方法・内容
D コンピュータ以外のファクシミリや電話等のメディアの活用方策
E 学習情報を仲介する相談員等の専門性とカウンセリングの関連
F 情報の守秘義務、不注意等によるデータベースの破壊の防ぎ方
G 教育委員会事務局と社会教育施設の学習情報に関する役割分担
 話題になったことは以上のようであるが、総じて、学習情報は本質的に個人のためのものであることから、いくらニーズにマッチした学習情報を提供しても、それが有効に使われている場面そのものは、今までの「社会教育現場」のようにはなかなか見えてこない。そこに、このサービスの独特の広がりと難しさの根源があるということができるだろう。
学習情報提供機能への注目
 知恵くらべ生涯学習−生涯学習の現場から−
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
                ニシムラ ミ ト シ

最近の答申や法に見る学習情報の重視
 社会教育関係者の間で「学習情報提供」という言葉が、今日のようにしきりに使われるようになったのは、そんなに古い話ではない。また、文部省の補助金を受けて県の学習情報提供システムの整備が本格的に始まったのは、昭和62年度の群馬と兵庫が最初である。
 ところが、今日では、中央教育審議会の答申が、生涯学習振興の課題として、まず第一に「学習情報を提供することや学習者の相談体制を整備すること」(平成2年1月「生涯学習の基盤整備について」)をあげ、平成2年7月に施行された「生涯学習振興法」(正式名称「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」)が、「生涯学習の振興に資するための都道府県の事業」として、その第1項に「学校教育及び社会教育に係る学習並びに文化活動の機会に関する情報を収集し、整理し、及び提供すること」をあげるまでになっている。

学習情報提供の意義と内容
 生涯学習の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することはかなり難しい。学習の施設や指導者、学習材などに関しても同様である。そのため、学習環境そのものは豊かであっても、その中から、市民が自己の必要とするものをうまく選び出すことができなくなっている。
 こんなことでは、せっかく生涯学習の町づくりを「外側」からだけ進めても、一人ひとりの人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのである。
 学習情報提供の中で扱う情報とは、以上の趣旨からいえば、もっぱら「情報源情報」(学習の手段や方法に関する情報)であるということになる。これに対して、一般の「学習材」そのものは、「ファクトデータ」(学習されるべき内容としての情報)の一つということができる。生涯学習の観点などから、この2種類の「学習情報」のうち前者の方が、「(学習情報提供の中で)提供されるべき学習情報」であるとされる(平沢茂「学習情報とは何か」、『文部時報』昭和62年2月号)。

民間の自由な文化の力を取り込む
 大阪のビジネス街の中心地、中之島のビルの5階にある「大阪府立文化情報センター」は、昭和56年に全国で初めて「文化」情報センターと銘うってオープンして以来、はばの広い学習情報を提供し続けている。その最大の特色は、民間の文化・学習情報をあえて扱うことにいちはやくふみきったことであろう。
 そして、平成2年度の「概要」によると、「人が集まれば情報が集まり、情報が集まれば人が集まる」という考え方をセンターの事業推進の基本にすえているということである。
 ホールやセミナー室の会場提供も行っているが、そこでは主催者が参加者から会費を徴収して催しものを行うことを認めている。
 また、文化・学習にかかわるイベントなども開いているが、民間団体と共催してセミナーなどの事業を臨機応変にどんどん組んでいる。「概要」では次のように述べている。「府民からユニークな企画がもちこまれた場合、積極的に協力し、共催します。また、その事業のPRに努めるほか、施設の使用料を免除しています」。
 このようにして、民間の自由な力を借りることによって、センターの事業の文化性は結果として高いものになっている。そして、それらの高度な文化の可能性を秘めた事業が、センターが収集する文化情報の質をも高めているのである。

学習情報の提供によって輪と話をめざす
 和歌山県では、「学習情報提供システム整備事業」が平成元年度から始まっている。
 パンフレットには、将来構想として「自分のまちの情報や意見などを画面に入れて情報交換ができます」とある。このように、このシステムでは、住民が直接、パソコンなどの画面から学習情報を得ることができるだけでなく、みずから情報を発信できる機能までもが構想されている。
 たとえば、「電子掲示板」については「窓口の職員や一般利用者が自由に伝言や案内等を掲示(書き込み)することができる(市町村情報の提供も本機能により行う)」ということである。
 これは、「情報の輪=人の輪」という考え方のもとに、住民のコミュニケーションを学習情報提供においても重視し、そのためにパソコン通信の「電子掲示板」や「電子メール」などの機能を有効に活用しながら「生涯学習の町づくり」をめざす動きとしてとらえることができる。

プライバシー保護の努力
「名古屋市学習情報提供システム」が、今年の1月からオープンした。中でも、スポーツ・レクリエーション情報については、14の体育施設のどの施設からも、電話でも、空き情報を知り、そのまま予約申込ができるようになっている。
 現在、さらにデータの収集、入力などを進めているところであるが、とくに「講師(指導者)・グループ情報提供事業」については、「運営要綱」や「運用基準」を設けて、コンピュータ処理に関わる個人情報の保護の条例に沿って、慎重に取り扱っている。これは、講師やグループ代表者の同意を得て、収集・入力・更新するようにしたもので、その者からの申し出による削除などをはっきりと定めたものである。
 このようなプライバシーの保護については、他の県・市町村でも、形は違っても同様の努力が見られる。情報提供側が、「本人を非難・中傷しているわけではないから」と勝手に判断して、勝手にその人のデータを入力し、提供することは許されないのである。

学習情報を映像化して提供する
「遠野物語ファンタジー」は、「民話のふるさと遠野」における市民の舞台である。スタッフ、キャストなど、すべて市民で構成され、その内容は、演劇に吹奏楽を組み込み、御詠歌でバレーを踊るなど、挑戦的である。昭和59年にはサントリー地域文化大賞を受賞している。
 遠野市では、民話という「文化」が町づくりの核に据えられている。しかも、この舞台では、文化遺産としての民話が継承されつつも、市民の手で新しい文化として発展している。市民の手作りのものである。
「遠野物語ファンタジー」は、毎年、遠野市民センターで行われているが、センター内の社会教育課芸術振興係が、毎回、それを録画し、その一部をテレビで放映している。
 このテレビの映像は、外見は「学習の内容としての情報」そのものであるが、実際には、同じ地域の「同時代」の市民が行う文化活動の実際の姿を、「直接、全体にわたって」ではなく、映像を通して「かいま見る」という意味で、「学習(文化活動)の案内をしてくれる情報」としてとらえることができる。
 文化の、とくに現在創り出されつつある文化の情報の提供にあたっては、その生きている姿をなまなましく伝える映像を活用することのメリットは大きい。また、施設、人材などの一般の学習情報についても、今後は映像の活用を進めることが考えられるべきであろう。
「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その1)
昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

A new idea and technique in adult 
education to support the ”Depth of 
Individuality”

はじめに 〜「個の深み」とは何か〜

 「個の深み」という言葉は、青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」1)の中で提起された。私もその委員会のメンバーとして起草に携わった。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズに応え、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられたのである。
 そこでは、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した。1)このような確かな「個の深み」ともいうべきものが、これからの社会の中で育つ可能性があるとするならば、その獲得を尊重・助長するための社会教育技術(本編では講義技術)のあり方について考察することは意義深いと考えられる。
 山崎正和は、「柔らかい個人主義の誕生」という本で、「個別化」について次のように述べている。「個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである」。2)
 もちろん、これは個別化のある一面であって(上では「趣味の形成」の場合)、現代社会において「個別化」の本質とは、じつは「画一化」であったりする。オーダーメイドと思っていた商品が、全部同じコンピュータのデータから作られていることもあるだろう。あるいは、その「画一化」に巻き込まれることを拒否しようとして、威勢はよいけれどもうわべだけの空しい自己顕示をする者もいる。それらは、現代社会の個の弱さの表れでもある。
 山崎自身が同じ本の中で、たとえば現代人の「自己顕示」を「自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現である」ととらえている。このように、今日の「個別化」の状況は、必ずしもすべてが望ましい状況とは言えない。「個の自覚」はむしろ脆弱化する状況も見受けられるのである。
 しかし、前者のように「個人が内面的な自発性を発揮」できるような「自己固有の」趣味などを形成し始めていることも、また、一つの事実である。
 「個別化」とは、一人ひとりが自分にしかない「何か」をもちたいと少なくとも心の中では望むことであるといえる。今後の社会においても、この「個別化傾向」はますます強まるだろう。この「願望」を誰も否定することはできない。自分だけにしかない自分を大切にしたり、まわりから大切にされたりしたいという願いは、個の充実・確立のためには不可欠である。したがって、もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は、「派手だが空しい自己顕示」を必要とするものとは本質的に異なる。
 このような個人の内面的な自主性・主体性に基づいた個別性について、私は、その言葉が意味する「神聖さ」と「不可侵性」に敬意をこめて「個の深み」と呼ぶことにしたい。「個の深み」とは、個別化が止揚されたものであり、個別化よりも積極的な価値づけをした言葉と考えてもよい。ただし、反面では、他者が一個の「個の深み」に深入りしすぎると逆機能を生ずるという危険性もある。言いかえれば、「深みにはまる」という危険性である。ここでは、「深み」という言葉に、そういう二面性を象徴させている。

1 社会教育における組織と個人
(1) 「組織的教育活動」の従来の解釈
(2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ
(3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育
   〜個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ〜
2 講義型学習と社会教育、高等教育
(1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰
(字数の関係から、以上1の(1) から2の(1) までは次号まで見送りますが、筆者までご連絡いただければ、その未定稿をさしあげます。)

(2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育
 「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とする講義(学習する側からいえば「一斉承り学習」)の逆機能は、高等教育においてもまったく同様の問題となって表れている。
 大学の目的については「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、◆深く専門の学芸を教授研究◆し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法第52条)とあり、短期大学の目的については「◆深く専門の学芸を教授◆し、職業に必要な能力を育成すること」(同法第69条の2)とある。「深く専門の学芸を教授」することについては共通している。なお、小・中・高等学校については「心身の発達に応じ」た教育を「施すこと」となっており、その他に大学などと違って教育目標が定められているが、「学芸の教授」という言葉はない。
 「学芸」とは「学問と技芸」であり、「教授」とはそれらを「教えさずける」ことである。「学問」の「学」は旧字体では「學」であり、「臼」(両方の手)で「子」が知識を授けられる「家」を意味しているが、「爻」という「二者間の相互の動作」も含んでいる。「問」とは、とびらで閉ざされている「門」、すなわち「かくされていて分からない事を口でたずね出す意」である。「教授」の「教」は、やはり「子」に対するという意が強いが、旧字体では「子」の上に「爻」が使われる。「授」には、「さずける」という師弟的な響きが強いが、解字では「手」で「受ける」という学習者側の主体性も意識したものと考えられる。9)
 このように、「学問」の「教授」という言葉のもともとの意味から言って、師弟関係を前提にしているとはいえ、それが非主体的な「一斉承り学習」によって実現できるものとは想定されていない。これは当然のことといえよう。しかし、実際の教育現場では教授側も学習側もその認識が十分とはいえないのではないだろうか。
 なお、社会教育関係者の間には、「勉強」という言葉は「つとめしいる」だから強制的な意味あいが強いと決めつけ、それに比して「学習」という言葉は即主体的行為であるから好ましいとする議論がある。これについて触れておきたい。
 「学習」の「学」はすでに述べたように「臼」(両方の手)で知識を授けられることであり、「まねぶ」(まねをする)ことでもある。「習」の「羽」と「白」は「ひな鳥がくりかえしはばたいて飛ぶ動作を身につける意」9)であるから、「ならう、なれる」ことである。たしかに、「学習者側からの表現」と言うことはできるが、与えられた「教育目標」に対しては無批判的に受け入れることを前提とした言葉であるといえなくもない。「学習会」などというと、無意識のうちにどうしてもそういうニュアンスで感じとられてしまうのではないか。
 これに対して、「勉強」という言葉については、「勉強会ブーム」やパソコン通信のアーティクル(通信記事内容)にしばしば見かける「私も勉強しておきます」などの表現に、◆新しい意味◆を見いだすことができる。「勉強」の「勉」は、「力」(りきむこと)と「免」(女がしゃがんで出産するさまの象形)である。「無理をおしてはげむ」ことである。「強」も「無理をおす」という意味である。9)その語感に軽やかな楽しさがないのは否めないが、日本語としては他者からの強制を必然的にともなうものとは限らない。ここで、「学習」という言葉を◆しいて◆「勉強」に置き換えようと提言しようとするわけではないが、市民の「勉強志向」をあなどらずに援助することの必要については強調しておきたい。
 さて、高等教育における講義の位置づけであるが、その現在の到達点を探るためには、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)に書かれている主張の吟味が有効である。11)本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における◆教員訓練研修プログラム◆に関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。
 そこでは、「学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」であること、すなわち「学習は個人的事象である」ことが基本テーゼになっている。したがって、「多人数で行なう講義」については「教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離」などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、これまで述べてきた学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」としている。本書でこの「講義法」に対置されている教授法は「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」などである。
 「学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」という言葉などは、アメリカのM・ノールズがアンドラゴジー(おとなの教育学)の特徴としてまとめた成人の学習の形態、動機、基盤などとぴったり一致する。12) このことから、社会教育がめざしている主体的学習の「援助方法」は、高等教育が今日模索している「教授法」と、技術的にはほとんど同じものになることは予想にかたくない。
 もちろん、学習内容については、社会教育の場合は法によれば「実際生活に即する文化的教養」(第3条)であるから、「深く専門の学芸を教授研究」する高等教育とは明らかにレベルが異なる。しかし、「実際生活に即する文化的教養」にしても、いわゆる「身のまわりの問題」だけの学習、うわべだけの「文化」「教養」としてしかとらえないとすれば、これもまた問題である。
 人々の生活・文化・教養ニーズは、高等教育でいう「学芸」に近づこうとしているのではないか。逆に、「学芸」の方も学際の重視などから人々の「生活」「文化」「教養」にいっそうの関心を示しつつあるのではないか。このようなことから、社会教育でいう「生活」「文化」「教養」についても、新しい時代の人々の学習ニーズに応じて柔軟にとらえなおさなければならない。たとえば、「つとめしいる」勉強に関心を示し「自ら」それを行なおうとする一般成人などは、その潮流の先駆者ととらえてもよいであろう。

(3) 講義からの「逃避」に隠された弱点
   〜多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ〜
 このような新しい生活、文化、教養、あるいは学芸にとって、講義型学習は「本質的」に無効なのであろうか。たしかに、「個の深み」の実現のためには、生活、文化、教養、学芸においても◆各人の◆独特の深みが求めらる。しかし、そのような「深み」が求められるからこそ、「ある専門の学芸を深く研究している」教授者(professor )が自己の研究の最先端を告白(profess )する講義という教授形態は、かえってそのための高度で能率的な方法として再評価されるべきではないか。もちろん、そこでは「教授技術」(社会教育における「講義技術」)などの改善の努力が前提になることは当然である。
 前出「大学教育の原理と方法」では、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、1週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。
 しかし、同時に、「伝達されるべき情報がまだ未発表のものであるか、新しい方法で構成される必要がある場合、もしくはそれらの情報が課程の概略・要約となる場合」などは、「解説的な教授法が最もふさわしい技法となる場合もある」としている。だが、その場合でも「学生に大きな刺激をもたらす源泉」となることは「例外的」としている。その上で、本書では、講義法を行なう場合、フロアへの質問の投げかけ、自己評価のための小テストなどの「革新的試行」が教師にも学生にも有意義だとしている。そして、聴講者の前に立つ時の精神的不安に対処する方法、聴き取りやすい話し方、その他講義の準備・構成・提示にわたってさまざまな技術的な「アイデア」も提示している。これらの「技術」の中には、学習者の主体性支援のためのものもかなり含まれており、講義の技術を考えるにあたって大いに参考になる。
 ただし、本書の場合、先に述べたとおり「講義法」よりも「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」の方に、より大きな価値をおいている。しかも、たとえば「小集団討議法」の章では、「小人数でグループを形成して、各自の考え、知識、理論、洞察等を互いに交換し合う機会をもつことは、学生にとって大学教育から得られる最も貴重な学習体験のひとつとなる。伝統的に小集団討議法は、最も中心的で歴史的な大学教育の機能とみなされてはきたが、その役割はこれまでにその価値にふさわしい形で開発されてきたとはいえない」とし、小集団討議によって「帰属感や楽しみの感情が存在し、考えや意見を分かち合う」ようになることを提言している。学習者の主体性の支援の必要を強く意識したものといえる。
 このような考え方にもとづく「小集団討議法」は、社会教育の手法と似通っており、私は正直に言えば好感さえ持つのだが、同時に、教授者が個人の個別な深まりをどう援助するかということについては、ほとんど深められていないことに多少の不満も持つのである。もちろん、小集団討議における教授者の役割やその技術も緻密には述べられている(わが国では類がないほど)。しかし、それは、本書を見るかぎり、個々人の「深まり」よりも、◆すべての学習者が◆主体的に学習できることに最大の関心を持った上でのことのようである。主体性が多数の者にいきわたることのために、ほとんどの精力を費やしてしまっている。講義型学習への「あきらめ」は、そこから生じているのではないか。
 わが国の場合は、どうであろうか。ロンドン大学のような教授法に関する教員の訓練がないことは言うに及ばず、高等教育における教授法の研究・開発自体が進んでいない。教授者は自らの教授法を自ら管理しながら、あるいはひどい場合は教授法に無頓着に、教授を行なっている。しかし、皮肉な話だが、もし教授法を真摯に検討するようなことになれば、高等教育が大衆化している今日、すべての学習者が主体的に学習できる方法と技術(講義以外で)があるということに驚き、それを「救世主」のように受けとめ、いっぺんにそこに傾倒してしまうのではないか。
 「大学教育の原理と方法」でいう「小集団討議法」の理想像程度ならば、「共同学習」などに始まる社会教育実践の場で、ある程度現実のものとしてきている。この成果を、わが国の高等教育の教授法の改善においても反映させるなどといったことは考えただけでも楽しい。しかし、もう一歩立ち入って考えるならば、高等教育は中等教育までとは違うのだから、「落ちこぼれ」の心配をするよりも、「落ちこぼれ」は(教授側が設定したカリキュラムからの)「落ちこぼれ」なりに(その個人が自覚し自負する)「個の深み」を獲得し、「成績優秀者」は(教授側が設定した評価基準の上での)「成績優秀者」なりに(教授側が予定しえなかった個別な成果としての)「個の深み」を獲得するよう援助すること、つまり、一言でいえば「個人主義的援助」にもっと力を注ぐ必要があるのではないか。
 あるいは、もし、高等教育の大衆化、中等教育化が、国民のニーズでもあり不可避だとするならば、そのような「個人主義的」な高等教育の役割は、社会教育が肩代りして、今日の高等教育にあきたりない人々にサービスすることを考えるべき時代なのかもしれない。

3 「個の深み」を支援する講義技術

(1) 「個の深み」を支援する講義技術
 本章では、講義の中でいかに「個の深み」を支援するか、その「技術」について述べたい。「技術」であるから、「だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質」13) をもっていなければならないということになるが、私の力量の限界や「教育」の技術という性格上、そこまで汎用的ではない。試論である。だが、梅棹忠夫のいうように「(技術に関する)話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしい」と思う。
 そして、梅棹の言葉を借りれば「知的生産の技術(ここでは講義の技術)の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性(ここでは教授者側の主体性と独自性)という原則」は大切にしたい。そもそも、教授者による「自己の研究の最先端の告白」が、内容の深みと真実の迫力をもっているのなら、たとえ聴き取りずらくても、その講義は個別の「個の深み」に訴えるからである。(それでも技術は些末な事項ではない。)
 つぎに、「個人学習」の支援や「多数者の主体性」の獲得の上で、講義には不利な面が多いことは、社会教育や高等教育の現在の到達点から見れば明らかである。それゆえ、「個の深み」支援においても、講義が他の方法より有利だということはありえない。しかし、そういう困難の中で「個の深み」を支援するすじ道を考えることにより、「個人学習」や「多数者の主体性」とは違う「その上の次元」(断絶しているわけではないが)としての「個の深み」とその支援のあり方の独自性が浮かびあがると考える。
 ここでは、講義の中で「個の深み」を支援する技術を、三つの階層に分類した。下部は「教授者の不安の解決」、中部は「学習者の主体性の確保」、そして上部は「反応・発展の個別化の促進」である(図1)。
 一つには、「講義を行なう場では、教師は教科の専門家として、さらに学生の行動をコントロールする監督者として、『権威者』の役割をになう立場にたたされる」。11) そこから生ずる不安に対処する方法として、前出「大学教育の原理と方法」では、「その不安はよい兆候だとあえて思うこと」「質疑応答」「バズ・グループ討議」「OHP用シートの準備」があげられている。しかし、とくに社会教育においては、教授者は教育技術の観点から「演技者」であることは必要かもしれないが、自身の「個」を曲げてまで「専門家」「監督者」「権威者」のふりをしなくてもよいと割り切ることこそ、その前に必要であろう。その上で、先のようなことも有効だが、基本的に大切なことは、教授者の予想どおりかどうか、良いか悪いかはともかく各学習者による講義の「受けとめ方」(個別である)を知ることである。これらのことが、下部の「教授者の不安の解決」を構成する。
 二つには、「承り学習」にならないよう学習者の問題意識に訴える必要がある。「大学教育の原理と方法」からは、要約すれば「教師の関心を示す」「五官に訴える」「体験や既習の学習に関連づける」「現代性を明示する」「対照的な観点や対立する論争点を紹介する」「質問する」「仮説を提示する」「問題を提起する」などが、それに該当するものとして拾える。その基本は「学習は本来個人的事象」であるから、◆なるべく多くの◆学習者の「自らの興味や価値観、能力、レディネス、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会」11)に迫るような工夫をすることである。これらのことが、中部の「学習者の主体性の確保」を構成する。
 これらの下部と中部の階層は「個の深み」支援の下部構造としては必要であるけれども、それだけでは「個の深み」支援そのものまでには到達しない。「個の深み」は、個別化が止揚して、はじめて結果として生まれるのである。
 そこで、三つには、教授者が予定しうるはずのない学習者の個別な深まりまで教授者が援助する技術を編み出さなければならない。「大学教育の原理と方法」の講義法の章からは、しいてあげれば「学生に積極的に賛成か反対かの意見を表明させたり、自分の仮説を提示するようつよくうながすこと」が拾える。しかし、これとて、個別な意見や仮説が生じたとしても、その専門について自分より見識の高い教授者の行なう講義や教育目標にしばらくすれば収斂されてしまう可能性が強い。主体性が深まる点では評価すべき手法だが、ここでめざしている本格的な個別化を深めることには直接にはつながらない。
 教授者が何かを発言すると、それは刺激(stimulus)となって、学習者のなんらかの反応(response)を呼び起こす。刺激と反応(S−R)の関係ということができる。まず、この反応が、すでに個別的である。教授者側が設定した教育目標に沿う方向の反応もあれば、思わぬ反応もある。その時、「思わぬ反応」をすなわち教授の失敗ととらえるところに個別化を阻害する要因がある。「思わぬ反応」を本人に自覚させ、それがどういうものであろうと基本的に好ましいことを教授者は表明しなければならない。「教育目標に沿う方向の反応」の場合でも、それぞれがさまざまな方向性をもっていよう。厳密にいえば、遺伝子と生育歴の違いの数だけ、反応の違いがある。教授者は、その違いを喜び、大切にしなければならない。S−Rを一面的に規定し、操作しようとすることは、望ましくないというよりも、もともと不可能なことなのである。
 つぎに、その反応を個別的に発展させるためにはどうすればよいか。じつは、この「発展」も当然のことながら本来、個別的である。程度の差はあれ、自らの「反応」を個別に味わい、吟味し、洞察する。それが個別的である理由をあえてあげれば、「反応」と同様に「遺伝子と生育歴の違い」といえよう。しかし、この「発展」をそのまま「放置」することには、「反応」と違って現実上の大問題を生ずる。「反応」は一時的なものであるから講義の流れを阻害しないが、「発展」は各自のプロセスや所要時間が異なるため、多人数を対象とした講義を予定どおり進めるためには不都合なのである。
 このようなことから、主体的学習を支援しようとする人の中からも、「講義は無力だ。小人数の討議の方がよい」、あるいは「講義は『承り』でもしかたない。あとは学習者の『独習』に期待するしかない」というような講義に対する敗北主義が生まれるのである。しかし、小人数討議なら必然的に学習者の個別な発展を保障できるというのだろうか。また、講義の全時間、神経を集中し、さらにその時の自らの反応を発展させるためにあらためて独習の時間をかける学習者がそんなにいるだろうか。もちろん、独習の意義が大きいことは否定できない。学習内容によっては、独習こそ最良の学習方法という場合もあろう。だが、むしろその場合は、口述メディアの講義を通してより、活字メディアを通して学んだ方がスムーズで有効な内容なのに、無頓着にそれを講義で行ってしまうことにこそ問題がある。
 それよりも、「講義であるからには、こうでなければならない」という思い込みを、あらためるべきである。学習者の個別な「発展」(あるいは人によっては、あることに関して「発展」しないこと)の方を大切にし、全体講義は進めておいて、その全体講義に復帰して集中する時間は、それぞれの学習者の「発展」の事情と判断にまかせることがあってよいのではないか(たとえ全時間、神経を集中してノートをとって聴いたとしても、1週間後の記憶率は20%以下なのである11))。あるいは、教授者が「発展」の時間を仮に定めて、講義を中断し、各学習者に「発展」の時間を自己管理してもらってもよいかもしれない。
 いずれにせよ、教授者側が予定した講義を、設定した教育目標のとおり話を進めて、それを一斉に受講させようとすることこそ、「個の深み」の発展を阻害する最大の要因といえる。

(2) 反応・発展の個別化を促進する方法
 それでは、上部の階層である「反応・発展の個別化の促進」を構成する講義技術とは何であろうか。その一つは、すでに述べたように、全体講義からの一時的な個別の離脱(集中しないこと)を黙認すること、あるいは全体講義の方を一定時間、中断することである。これは、教授者側からいえば「消極的行為」ではあるが、重要である。
 しかし、教授者による「積極的行為」の方はありうるのだろうか。たとえ教授者といえども個別化の方向性は予定しえない。また「個の深み」が「神聖・不可侵」なものであるだけに、教授者側は干渉やおしつけにならないよう厳しく自己規制(禁欲)すべきである。ふたたび、梅棹忠夫の同じ言葉を借りれば「知的作業(ここでは反応・発展)の聖域性ないしは密室性という原則」13) が「個の深み」にとっても生命線なのである。このような理由から、「反応・発展の個別化の促進」に関わって学習者にその◆方向◆を講義で直接的に指導するということは、社会教育にせよ、高等教育にせよ考えにくい。
 それに近い指導があるとすれば、講義ではなく、双方向のカウンセリングの形態(受容、支持、共感、明確化など)をとって行われることになろう。また、とくに高等教育機関などにおいては、「教育的判断」により個別化の方向そのものを修正するよう特定の個人に要請することも、慎重かつ意識的に行うという条件のもとにはありえよう。ただし、後者については本論での「反応・発展の個別化の促進」に分類される行為ではない。「促進」の行為ではなく、かならずしも悪い意味ではないが、やむを得ない「統制」の行為である。
 つぎに、「反応・発展の個別化の促進」を構成する教授者からの「積極的行為」としては、学習者が講義を聴きながら個別化を獲得できるよう、その◆方法◆を指導(提起)することが考えられる。
 「個の深み」は、それ自体を深めようとして深まるものではない。さまざまな可知、不可知の要因から多様な方向性が生まれ、それが各人の個性というフィルターを通して無意識のうちに深まっていく◆はず◆のものである。しかし、実際にはそのような「個の深み」にいたることのできない学習者ないし局面がでてくる。その状態を「没個性」ということができる。これは、現代管理社会の中で、人々が自分らしさ(アイデンティティ)を表現したり主張することが疎外されがちであることに一つの原因があるのだろう。
 他者からは、はかり知れない個人の内的世界における知的営みだけではなく、その時々の内なる到達点(アイデンティティ)を自ら外在化する営み(表現)との双方が循環して「個の深み」を創り出す。このようなことから、個人が「話す、書く、表現する」◆舞台◆を設定することは有効な手段といえる。それは、教授者側の「積極的行為」と考えられるのである。
 「話す」は、ここでは情報交換や合意形成や発想などのための討論を意味するものではない。ここでの「話す」ことの目的は、個別化した「反応・発展」を「外在化」することにある。したがって、むしろスピーチに近いものになろう。しかも、スピーチをすることであり、聴くことではない。スピーチを聴くことは、聴かれる者、聴く者の相互の「個の深み」のための刺激にはなるが、自己の個別化した「到達点」を外在化することではない。それゆえ、小集団の討議が必然的に「到達点」の外在化につながるものではないと同時に、多人数の講義においては聴く側にまわる者が多く、能率的ではないという問題がある。ただし、多人数でも、隣どうしの者でペアを組み、話す者、聴く者の役割を交替しながら、それぞれの個別な方向について紹介と批評を交わすことなどは、訓練によっては可能になるかもしれない。
 「話す、書く」以外の表現方法もあるが、それは心理学や芸術などの観点から、別に詳細に検討する必要がある。ここでは、「話す、書く」に「表現する」も加えておく必要があるという指摘だけにとどめたい。
 個別化した「反応・発展」を表現するための方法の中で、講義型学習にもっとも適しているのは「書く」ことではないか。「反応・発展」という内的世界を、それなりの論理構成をもって記述することによって、自己の「反応・発展」に気づき自負することもできるし、欠陥部分を発見することもできる。自己の勝手な無力感や万能感を、自らの目の前にあからさまに突き出すことになるのである。もちろん、「自分はやっぱり何も書けない」という無力感を増大させることもありうるが(自由に書いてよいという場合は、それは意外に少ないようだ)、そういう試練を乗り越えて自己の個別化を自負し、「個の深み」を獲得していくことが必要なのだと思う。

(3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際
 学生の場合は、「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。私は、可能な場合は、試験の時に使われる大学所定の「解答用紙」をあえて配布している。学生は、そこに自由に記述する。学生の「書く」ことへの認知構造を変革させたいからである。社会教育や研修などでの講義の場合は、氏名は無記入でもよいことにしているが、大学の授業では出欠のチェックにも使うため、必ず氏名を記入してもらっている。ただし、記述内容は成績評価には影響させないことを宣言している。個別化の方向性には点数をつけられないからである。この紙を「出席ペーパー」とよんでいる。
 「出席ペーパー」には、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くことになっている。しかし、「講義どころではない固有の課題」を抱えた者の中には、講義の内容にまったく関係のないことをびっしりと書く者もいる。かえって、これらの記事の中には、しばしばユニーク(個別的)でおもしろいものがある。また、白紙で提出してもかまわない。それも、私の講義への一つの正直な反応であろう。
 自らのプライバシーを綿々と綴ることも認めている。何回目かの失恋の話程度のものもあるし、私が初めて聞くような惨憺たる家庭状況などの話もある。その場合は、皆の前ではもちろん、本人にもそれについてのコメントはしないことにしている。とくに後者のような場合、中途半端な励ましは、かえって無責任になるからである。(教授者側に、徹底的にそれを理解し、解決まで面倒を見る覚悟がある場合は別だが。)それよりも、教授者に対して書くこと自体が、ちょうどカウンセラーに話をしている状態と似ており、自分の本当の問題に自ら気づき整理することになる効用を訴えたい。ちなみに、本当に悩んでいる人に「頑張って」などの安易な励ましの言葉を投げかけてはいけないことは、カウンセリングの常識である。
 「出席ペーパー」が百数十人分になる授業もある。それでも次週の授業までに、私は必ずすべてを読んでおく。学生に、そう約束してある。読むことは、やってみるとわかるが、とても楽しい作業である。自分の言動が他者から受容されていることを味わうことができる。次の授業では、他の学生にも興味を引きそうだと思われる箇所を、コメントをつけてプリントや口頭で紹介する。その場合、名前は伏せる。同じ立場の他の学習者(ピア・グループ)が書いた記事の紹介は、学習者からは大変な好評である。その紹介によって学習者の興味を持続したまま、本時の講義内容にスムーズに移行できることもある。
 ただし、「出席ペーパー」の本来の目的は「自分が書く」ことであるから、紹介の方は本時の講義に差し支えない範囲と時間に限っている。本時の講義のために紹介の時間がとれないときは割愛する。学生はそれを一応は納得しているようだ。もちろん、コメントがつかなかった場合に「書きっ放し」になることのさびしさや、私との「文通」の希望を訴える学生もいるが、「コメント」や「文通」を全員に対して行うことは物理的に不可能に近い。「出席ペーパー」の本来の目的を理解してもらい、納得してもらうしかないだろう。
 あとになって、学生から私への意思表示のために三つのマークを定めた。BBS(Bulletin Board System =掲示板システム)、メール(手紙)、チャット(おしゃべり)の三つである。これらはすべて、パソコン通信の用語を借用している。後ろの二つは重要ではない。「私信のつもり」「軽いおしゃべりのつもり」という意思表示をしたい人は、好みでそのマークをつけてもよいというだけのことである。しかも、メールと書いても、「文通」はとうてい請け負えない。一方通行である。それを知った上で、「メール」マークをつけてくる人がかなり多い。手紙という言葉に彼らのフィーリングが合うのであろう。手紙を書く労力は損したとは思わないらしい。
 私が気負ってこのマークを提案した理由は、BBSにある。ある人が「出席ペーパー」に、何か問題提起をする。その記事にBBSのマークをつければ、もれなく次回にそのままコピーして紹介することになっている。それを読んで関心をもった他の人は、同じくBBSのマークをつけてレスポンスを書く。今度はそれが次の週に紹介される。このようにして学習者の間に知的交流のブームが起こることを期待したのである。「とりあえずは、BBSにしたらもれなく紹介する」と宣言したので、もし全員がBBSにでもしたらどうするかを最初は心配していた。しかし、自分のペーパーをBBSにしてくれる人は、百数十人中、わずか二、三人だったのである。パソコン通信のような市民主義的な知的交流の土壌は、まだ育っていないととらえるべきであろうか。
 それにしても、たとえメールであろうと、書く人たちはとにかく自由に楽しんで書いている。私はそれでよいと思っている。書くこと自体が本来的に自己抑圧的な作業であり、その人なりにそれを克服してなんらかのものを書くわけだから、現在問題になっている「伝言ダイアル」などとはおのずから性格が異なるものなのである。
 ただ、講義への集中を中断して書くこと、あるいは講義を聴きながら書くことに抵抗感をもつ学習者は、学生の中にもいる。そのため、終了予定時間の10分前には本講義は終了し、雑談のような話をすることによって、書く時間をそこで保障している。もちろん、事前に書いてくる熱心な学生も中にはおり、それも歓迎している。
 しかし、是非は問われるだろうが、学習者が「自己管理的」に講義に集中・離脱できるよう私自身は求めたい。講義のすべての時間を、すべての学習者のニーズにマッチさせることなどは、多様化の時代にありえないことなのである。そのような「完璧な講義」を教授者の責任として求めることこそ、むしろ学習者側の過度に依存的な態度と考える。講義からの離脱と復帰のタイミングは、それぞれの学習者がつかめると思うし、良いか悪いかはともかく、それは現代社会での生き方につながると思う。
 「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつは次のとおりである。最初からはっきりと「反応・発展の個別化の促進」という目的を掲げていたわけではない。初めて演壇に立ち、「学生の注視を一身に受ける立場」11) になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。
 しかし、多人数の学生の前で仲間意識(ピア・コンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで、思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。社会教育施設でも、自由記述のノートを部屋に置くなどしておくと、いきいきと意見や情報などを交換している。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。
 その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下の方に書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられた。
 学生の方も、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」というよけいな思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためには、「出席ペーパー」はかなり役立ったようである。
 このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。
 ところで、中高年の社会人の人たちの中には(この場合、一過性の講義であるが)、「出席ペーパー」を書くことそのものに対する拒絶反応を示す人がいた。もちろん、社会人の場合、提出する、しないは本人の自由にしているのだが、何人かはわざわざ「出席ペーパー」の存在に対して抗議をしたためた「出席ペーパー」を提出した。「抵抗を感じる」「意味がない」などの一言ずつなので、詳しい気持ちはわからない。
 これは、階層社会で生きているうちに、自己の「個」を表現することを抑制するようになってしまった結果だろうか。あるいは、自分しか読むことのない日記を書くことによって自己洞察するようなことは、青年期をすぎるとあまりしなくなるのと同様に、他者からの賞賛を得ることのない「無益な自己表現」はしたくないという「実効主義」が原因になっているのだろうか。しかし、そうだとすれば、若者がいたずらに幸せの「青い鳥」を探し回っているというが、おとなの方こそ自己の内なる確立(アイデンティティ)という本当の「青い鳥」はもう見つけられないのではないかという不安を感じる。もっとも、中高年の人たちの抗議は、初めて会ったばかりの◆若僧◆(講師としての私)などに、内なる自分の反応・発展などさらけ出せるものかという自我の主張の結果である可能性も強い。そうであれば、何も心配すべき問題ではない。

(4) 「個の深み」を考える
   〜中間まとめと今後の問題の所在〜
 S短期大学(音楽系)とT大学(2部人文系)の実質3カ月程度の授業で、すでに「出席ペーパー」はファイル10冊以上になっている。私が作ったそれらのダイジェストを眺めているだけでもおもしろい。彼らの多様な関心事についての傾向がわかる。紙面の都合上、それらを逐一紹介することは差し控えざるをえないが、試験の模範的な「解答用紙」であったらまず見られない「個別の」感じ方、それまでの体験の蓄積、それと授業とをつなぐ感性、思考の自己発展などに散りばめられている。
 ところが、それが「個の深み」かというと、残念ながらそうとは言い切れない。表面的には「個別化」に見えても、最初に述べたように、本人も気づかないうちに現代社会の一つの側面としての「画一化」「没個性」の影響を受けていることがある。各人の認知構造が無自覚のうちに定め◆られて◆しまっているのだ。たとえば、自分という人間を不自由にするような「思い込み」に塗り込められてしまっている。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。そんな「認知構造」を自己変革するためには、かなりの主体性が求められよう。それは、至難のわざのようにさえみえる。
 しかし、「自ら学ぶ」ことを信条としている社会教育は、個人の「自己解決能力」を信じるのであろうし、さらにはその「自己解決」を外部から支援する可能性をも信頼する。講義は「義を講ずる」ものというが、真の義はだれにもわからない。「個の深み」のごとく、多様な義があるのだろう。講義はそのような「個の深み」への多様な入口を、さまざまに刺激的に提示することなのではないか。したがって、「講」の旁(つくり)の部分の「相手が同じ理解に達するように」という意味は克服されなければならない。教授者のもたない「深み」を学習者がもつように援助することが教育の営みなのである。それにしても、教育が「独習」にまさることなどあるのだろうか。これこそ「教育の挑戦」とよぶべきである。
 「それ(学生の主体化)ができないのは、教師が悪いからだ」といった責任回避をせずにロンドン大学がスタッフ・デベロプメントに取り組んでいるように、社会教育機関も委嘱した講師のせいにして責任放棄することなしに、自らの社会的責任の重大さに居住まいを正すべきである。
 率直に言って、一人ひとりの「個の深み」は現在の組織運営にはむしろ邪魔にさえなりかねない。だが、やっかいだけれどもそれとつきあっていく覚悟を決めなければならない。「個の深み」は、本人の目先の利益に役立つかどうかもわからない。だが、それを支援するのは今後の社会への教育の責任である。これを社会教育(行政)の新しい「公的」存在意義と呼んでよいだろう。
 ネットワークとは「自立」と「連携」の統一といえる。いわゆるピラミッド型社会では、同種の者が集まり同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これはある程度の「安定」をもたらす。しかし、ネットワーク型社会においては、各人が水平に関係を保つ。異種も混在する。目的も一人ひとり違う。「安定」に住みなれた人には耐えられないシステムである。
 このように、ネットワークは各人が◆あえてそれを行う◆すぐれて意識的な行為であり、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続ける。ネットワークでは、個人主義を障害とは考えない。むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流することをさす。「個の深み」は、そのように個別の「深さ」をもちつつ、水平に横につながるものでなくてはならない。
 今日の人々の「個別化」がそのような「個の深み」と今はイコールでないことは、これまで述べてきたように残念ながら明らかであろう。ピラミッドにおける位置(ポジション)の維持から、その個人自らが決めた「構え」(スタンス)へ、さらには「自己存在そのもの」(アイデンティティ)へと学習者の関心が深化するまでにはかなりの道のりがありそうだ。だが、そこまで発展しないことには、ネットワーク社会は実現しない。新しいネットワーク社会に向けて、それぞれの「個の深み」を獲得する個人とそれを援助する社会教育に与えられた課題は大きいが、その課題が達成されるかどうかは、本質的なネットワーク社会をそもそも人間はつくりだすことができるかどうかを示す指標にもなるのである。

参考文献・資料等

1) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、平成2年3月、とくにPP.10-17.
2) 山崎正和著『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、1984年、とくにPP.50-51.
3) 福原匡彦著『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会,1989年、とくにPP.34-36.
4) 島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、1974年、PP.343-346.
5) 碓井正久編『社会教育』(戦後日本の教育改革)東京大学出版会、1971年、P11.,P.231.,P.282.,PP.359-360.
6) 社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」、昭和46年4月
7) 中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」、平成2年1月
8) 見田宗介他編『社会学事典』弘文堂、1988年
9) 山口明穂他編『岩波漢和辞典』岩波書店、1987年
10) 文部次官通達「公民館の設置運営について」、昭和21年7月
11) ロンドン大学・大学教授法研究部(喜多村和之他訳)『大学教授法入門−大学教育の原理と方法』玉川大学出版部、1982年、とくにPP.86-105.
12) 倉内史郎著『社会教育の理論』第一法規、1983年、PP.137-140. に紹介されている。
13) 梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波書店、1969年、とくにPP.1-20.
文化映像の製作・保管・活用 中間報告
社会教育・社会教育施設・公民館各論A
−学習(文化)情報提供における映像活用の課題−

 生涯教育の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することは大変難しくなっている。それゆえ、豊富な学習機会の中から、市民が自己の必要とするものを的確かつ速やかに選び出すこともできなくなっている。学習機会のほか、学習施設や人材などはもちろん、文化映像などの生涯学習に関わる他の情報についても同じことがいえる。
 こんなことでは、せっかくの「外側」の「学習社会」の実現も、一人一人の人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要になる。
 学習情報を提供する意義は、以上のようにまとめられるが、その趣旨からいえば、「学習情報提供」の中で扱う情報とは、もっぱら「学習案内情報」(学習の案内をしてくれる情報)であるということになる。これに対して、一般の「学習材」などは「百科全書的情報」(学習の内容としての情報)の一つということができる。たとえば、平沢茂は、前者を情報源情報、後者をファクトデータとも呼ばれる、として、生涯学習の観点等から、この2種類の「学習情報」のうち前者を、「(学習情報提供の中で)提供されるべき学習情報」と主張している(平沢茂「学習情報とは何か」、『文部時報』昭和62年2月号、文部省)。
 このような趣旨からいっても、そこでの映像活用を考える場合、第一義的には、学習の機会、施設、人材などの「学習案内情報」を提供するにあたって、映像の利点を活かすという問題になるといえる。だが、種々の問題もあって、そのような学習情報提供に映像を活用している例は、今のところ存在しないようである。
 しかし、「文化」の観点に立ち戻って考えてみても、「文化」をリアルに伝達するための一つの「手段」としての「映像」のもつメリットは、無視しえないわけであるから、「文化」を含む学習情報の提供に映像を有効活用することは、今後の重要な課題になるといえよう。その場合の映像は、いわば「学習案内情報」であるが、当然、それ自体もダイジェスト的な「文化映像」としての価値をもつことが期待される。
 また、「文化映像」などのような「学習の内容としての情報」そのものの情報についても、学習情報提供をする具体的な機関・施設が、それをまったく持たずに「学習案内」だけをするということは、現実には考えられないばかりか、情報提供サービス全体の活力を失うことにもなりかねない。実際には、2種類の学習情報が、それぞれのケースによって、適宜、提供されることの方が、むしろ望ましいのである。
 終わりに、学習(文化)情報提供における映像活用の課題を、直接ではないが象徴的に示唆する事例をあげて検討しておきたい。
 「名古屋市学習情報提供システム」は、平成2年度末の情報提供開始に向けて、収集、データ入力などを進めているところであるが、そこでは、「講師(指導者)・グループ情報提供事業」の「運営要綱」「運用基準」を設けて、とくにコンピュータ処理に関わる個人情報の保護の条例に沿って、慎重に取り扱っている。これは、講師やグループ代表者の同意を得て、収集・入力・更新するようにしたもので、その者からの申し出による削除などをはっきりと定めたものである。他の県・市町村でも、形は違っても同様の努力が見られる。
 著作権の問題もさることながら、本人などが「映像化」される場合には、プライバシーの保護についてもこのような配慮をする必要がある。
 「遠野物語ファンタジー」は、「民話のふるさと遠野」における市民の舞台である。スタッフ、キャストなど、すべて市民で構成され、演劇に吹奏楽を組み込み、御詠歌でバレーを踊るなど、挑戦的な内容である。昭和59年にはサントリー地域文化大賞を受賞している。これは、毎年、遠野市民センターで行われ、センター内の社会教育課芸術振興係が録画し、テレビ放映をしている。
 ここでは、民話という「文化」を町づくりの核に据えている点、しかもそれが市民の手作りのものであるという点で、注目すべきである。また、その際、文化遺産としての民話が継承されつつも、市民の手で新しい文化として変化している点にも、注意を傾ける必要がある。
 そして、「遠野物語ファンタジー」のテレビ番組は、外見は「学習の内容としての情報」そのものであるが、じつは、同じ地域の「同時代」の市民が行う文化活動の実際の姿を「直接、全体にわたって」ではなく、映像を通して「かいま見る」という意味で「学習(文化活動)の案内をしてくれる情報」といえるのである。
 文化の、とくに現在創り出されつつある文化の、「学習情報提供」にあたっては、その生きている姿をなまなましく伝える映像のメリットを大胆に活用すべきであるといえよう。
(豊島区青年館25周年記念誌原稿)
注 小項目の()付数字はトルツメ

都市における青年行政の将来
 昭和音楽大学短期大学部助教授
            西村 美東士
1 池袋が若者にとって好ましい街に変わりつつある
(1) 池袋の過去の発想
 一昔前の池袋は、流行歌などで、どのように歌われてきただろうか。小さな飲み屋さんがたくさんあって、仕事に疲れたサラリーマンが「羽を休める」、そんな感じであろうか。
 わたし自身、このような「旧池袋イメージ」が嫌いではないのだが、あえてシビアに考えれば、「個」を殺して「組織」に奉仕する生活を送る人々が、仕事が引けたあとでも、飲み屋街という「全体」の中に匿名で気楽に埋没することによって、「管理される自分と、主体としての自分」のバランスをとっていたといえるのではないか。
 そうだからこそ、当時の若者にとっては、池袋というと「中年のためのダサい街」というイメージが強かったのではないだろうか。
(2) 「若者の発想」の現在
 しかし、今日では、若者にとって池袋は「好ましい街」に変わりつつある。その「要因」を二つだけあげておこう。
 一つは、いくつかの最先端の「デパート」の進出である。デパートといっても、過去の「百貨店」からはまったく様変わりしている。たて割りの商品分類に基づいた売場に品物が揃っていればよいという過去のデパートから、衣服からレジャー用品まで、横断的に「非日常」の新しいライフスタイルを提案するデパートに変わっている。本来、「日常」であるはずの「生活必需品」まで、「余暇」として楽しんでしまうための「道具」として陳列されている。つまり、今日のデパートは、情報を売っているといえる。
 今日の若者にとっては、「大量生産の安いものを買う」ことは、たとえ生活上必要な事ではあっても、もっぱらの関心ごとにはなりえない。といっても、彼らがモノに執着しなくなったわけではない。ちょっとした「非日常」や自己のそれなりの「個性」を、モノによって実現しようとしているのである。
 もう一つは、草の根の「演劇小屋」の存在である。池袋界隈だけでもかなりの数にのぼると聞く。ここでは、若者は、「個性」と「肌の温もり」を、小演劇という「文化」に求めているととらえることができよう。
(3) 情報都市の中の若者たちの文化
 このようにモノよりも本質的には情報が価値をもつ現代都市において、それでは若者は多量の情報に十分に適応できているのだろうか。けっしてそうはいえない。じつは、私たちは、現代都市青年と情報との関係において、さまざまな相反する特質を見いだすことができるのである。
 ここでは、その諸側面を見ることによって、現代都市青年がもっている課題と可能性の両方について認識しておきたい。これらは、文化・生活その他に広く関わる現代青年の意識をリアルに把握するためには、大いに参考になるであろう。
 第一に、少なくとも町に氾濫する若者向け雑誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。
 ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生であれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされる。「生活情報」そのものとはいえないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。
 第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、テレビ番組の全国ネットワーク化が進み、居住地の地域性をよりいっそう捨象した情報を伝えている。それは、青年の歓迎するところでもある。
 逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生もある。さらに、ユースカルチャーの発信地には、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な発信がなされており、青年の支持を得ている。
 第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「ファッション」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。
 しかし、多様化と同時に画一化も進行している。青年一人一人の個性的なやり方よりも、「最大公約数」としてのやり方や流行が、発行部数を伸ばすために優先される。
 一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。
 第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような情報都市においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来あいの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。
 その反面、情報不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切な情報もあまりそしゃくされなくなっている。
 第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、意見や評価も排されてくる。
 しかし、逆に「情報離れ」も進行している。他者の意見や「情」の混じらない純化された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(コミカルではない)が盛んになる。それ自体は多様で個性的な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。
 ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向にもとづく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」をもっている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は目的ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。
 このように、現実に現代都市青年をとりまく情報と、それに基づく文化には、さまざまな特質がある。これらはいわば多面体として理解すべきであろう。青年行政の役割は、もちろん、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義をもつ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる青年サービスは、他の営利機関などからはあまり望めないからである。
2 青年行政の意義も変わりつつある
(1) 対策からサービスへ
 過去において、地域は、若者が主人公の一員になれる場であった。青年団は、村の現在と将来の姿を決定する重要な団体の一つであったし、子ども集団でさえ、祭りの時には自治をまかされ、祭りのいくつかの場面を自主運営した。
 だが、都市化の進行の中で、これらの地域網羅的な組織は次々に崩壊してしまい、個々人の好みと要求に応じたグループやサークル、そして専門的な教育機関や制度に変わるところとなった。ところが、前者は、青年団のような網羅的な影響力は持ちえないし、後者は、原則としては割り振られた時間だけの責任を持つことしかできない。そのため、これらの組織・機関だけでは、都市問題の一つとして表れてきた青少年の非行問題に対応しきることはできなかった。ここに、「非行化対策」としての青少年行政の必要が叫ばれるようになった要因がある。
 しかし、今日では、対処療法的な「対策」だけでは、問題の根本的な解決にはつながらないことが、青少年行政担当者の共通の認識になっている。やはり、青少年自らが、基本的には自らの力で成長し、都市の中で生きていく主体性を身につけることを待たなければならないのである。青少年行政は、そういう青少年自らの動きの「芽」を見つけ、それを援助しなければならない。最近のこのような考え方は、「対策からサービスへの転換」としてとらえることができる。
(2) 主人公になろうとしない若者たちの内面の問題
 街のウィンドウ・ディスプレイを企画している人の話を聞いたことがある。「何が若者に受けるのか、まったくわからない」という。きのうはその前に群がっていても、きょうは閑古鳥が鳴くこともあるという。商品開発でも、「これは絶対に当たる」と自信をもって市場に出すことなど、今はないという話である。
 すなわち、若者のニーズ自体が読めないのである。今の若者は満たされているから、ニーズなど、もともとないのだという人もいる。
 こういう状況の中で、青年行政のほうが若者にサービスする姿勢をとったとしても、若者自体のほうにそんなことを自分と関わりのあることとして受けとめる内面的な力、主人公としての力がない。これでは、行政だけの「空回り」になってしまう。
 もちろん、若者の中には、こういう都市化の波の中でも、自己をしっかりと持ち、他者との暖かい交流を意識的に育もうとしている者もいる。そういう自発的な努力に対して、青年行政が交流の機会や施設の提供などの「サービス」を行うことを怠ってはならない。しかし、より深刻な問題は、そうでない(ように見える)多数の若者たちが「そのように生きてみたい」という気持ちをもつために、私たちはどう接していけばよいのかということである。
(3) 本当の教育とは何か
 かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、青少年にどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。しかし、知識や情報を詰め込むことだけが教育ではない。それぞれの青少年の「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらないのである。
 このような一人ひとりの気持ちの持ち方の枠組(準拠枠)やものごとの認識の枠組(認知構造)に迫り、青少年自らがその枠組自体を変えていくよう援助すること、それが、今日求められている教育の姿といえよう。そのためには、まるで宇宙人にでも接するかのような、おざなりのサービスをしていたのではおぼつかない。青年行政は、池袋を受け入れ始めた若者の今の「枠組」に飛び込んでいき、その志向や考え方とつき合い、さらには今の池袋の魅力以上の魅力を提示できなければならない。しかも、一方的な上からの押しつけではなく。
 その魅力とは、たとえば一つは、人とのふれ合いなどの直接体験による感動である。彼らが「自分で」体験し、交流する。そのことによって、自らのつまらない思い込み、劣等観、無力感などの枠組を取り外していくことができる。青年行政は、そのための「しかけ」をふんだんにばらまいておくことが必要なのである。先に述べた一部の「自発的な若者たち」は、きっとその時のネットワーカー役を自主的に買って出てくれるだろう。
 このようにして、青年行政は、「おざなりのサービス」から、教育的意図をはっきり持ちながら、しかも青年の自主性を育てるサービスへと転換できるのである。
3 青年行政の将来
(1) 「個の深み」とMAZE
「個の深み」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられた。そのことによって、団体の維持・存続を自己目的化するのではなく、青少年の「自己成長」を援助するように提案したのである。
 同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得るようにすることが、青年行政の目的ではない。皆をいわゆる「健全青年」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの青年のエネルギーを評価しなければいけない。
 むしろ、行政にとって青年とは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、今の青年たちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとするためには、当然といえよう。
 パソコン通信でやりとりされる記事(レスポンス)は、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ=M)、大ざっぱ(アバウト=A)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ=Z)している。しかも、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、気楽(イージー=E)に書かれている。まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。
 しかし、このような「迷路」から、各自は、各自なりに、最初気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。
 青年行政も、すでに設定された目的にとっての最適の「手段」ばかり考えるのではなく、青年自身が「迷路」の中でさまようことを歓迎し、あるいは、むしろ行政自らもその「迷路」を楽しんでしまうようなゆとりのある精神を求めたい。
(2) 地球規模のコミュニティ意識が都市を変える
 一般的にいえば、青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。非日常志向は、青年期の独自の発達課題の表れの一つでもある。
 しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そのためには、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくことができるよう援助することが必要である。
 そもそも、今後の地域や行政の姿は、偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」にもとづくものであってはならない。地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報はつねに他の情報と行き来する「開放性」があって、すなわち「風」が吹いてこそ、根腐れせずに生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」には関心を示さないことは、あながち不当なこととはいえない。
 青年は、きまりきった情報にあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りたかもしれない。しかし、今日、住民が地域社会に関わる場合、自発的行為であることが多くなっている。何らかの形で情報を得て、魅力を感じた場合に地域に関わる。そういう地域活動の形態は、現代都市コミュニティの新しい理念型といえる。
 このような「楽しい日常」としての、地域や自治は、自立しつつ互いの主体が交流するネットワークを育てるだろう。そのネットワークの一つが、若者自身の手による若者自身の連帯である。この、いわば「ユース・コミュニティ」の創造は、人類が今日、将来に向かって都市と地球の課題に取り組むための、新たな足がかりの一つともなるのである。
 今日の村おこし、町づくり、コミュニティづくりは、過去の村落共同体をそのまま復活させることではない。過去の「村八分」などの文字どおり個人を抹殺するようなことさえあったコミュニティではなく、「新人類」とも呼ばれる青少年を含めて一人ひとりが個人として尊重されるコミュニティをめざしている。究極的にはヒューマン・ネットワークの中で「個のふかみ」が連携し、しかも、その一つ一つが十分に実現され、発揮される社会を形成するための模索なのである。また、このコミュニティは、地球規模の人間のネットワークの一環でもある。
(3) 失われつつある自己表現能力を若者が取り戻すために
 それにしても、私たちが若者の主体性の獲得を援助しようとする場合、結局のところ、その本質的な進展は若者自身の主体に期待するほかないわけである。青年行政は、このジレンマにつねに直面しつつ進められなければならない行政だといえよう。
 本論の最初に、「個」を殺して「組織」に奉仕する「過去の発想」から、「個性」を求める「若者の発想」への変化の現状について述べた。しかし、若者の求めるその「個性」も、若者の中に自ら芽生えたものではなく、最先端のデパートが与えてくれる情報としてのモノであったり、他者から与えられる「温もりのある」文化であったりする。青年行政が、彼らのそういう「枠組」に飛び込むことは大切であっても、それだけだったら若者の主体の本当の成長にはつながらない。たとえば、人とのふれ合いなどの直接体験による感動が大切だといっても、もし彼らに「自分で」体験し、交流する意欲も能力もすでになくなっているとしたら、その感動は生まれない。
 しかし、人間には、人間が社会で生きていくための根源的なエネルギーとしての自己表現欲求がある。この自己表現欲求こそが、受け身の情報摂取にあきたらずに、現代都市を主体的に生きぬくためのエネルギーになるのである。たとえ、無気力、無関心に見える現代の若者の中にも、その欲求を見いだすことができる。
 ところが、現代の若者たちは、たとえば「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。自己表現さえもが、得になるから行う、損にならないように行うという「枠組」を与えられてしまっているのである。自己表現欲求はあるのだが、それを実現する場がないのである。
 このような「危ない状況」において、青年行政が、若者の自己表現のための空間と情報の提供を行うことは、とくに緊急で重要な課題である。幸い、池袋では、小演劇が盛んである。たとえば、演劇という自己の内面的な規制と解放による表現活動は、若者に自立と交流の機会を与えてくれるだろう。
 演劇を含めて、若者のさまざまな自己表現活動は、ありとあらゆる方法があり、実際にはどこに進んでいくのかという方向もはっきりしたものはない。まさに、現代青年の、「今、ここで」の状態がありのまま反映されていくのである。それは、当然、迷路のような進路をたどることだろう。これに対して、青年行政は、寛容な姿勢で、しかもその「迷路」から真摯に学びながら、対応していかなければならない。
 そこでは、青年行政自体に、若者のMAZEにつき合い、耐え、「成長する」ことができる主体性が求められるであろう。

グループ・団体への援助形態
 知恵くらべ生涯学習−生涯学習の現場から−
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
                ニシムラ ミ ト シ

メンバー個人の成長に注目する
 青少年団体の全国的連絡組織である中央青少年団体連絡協議会によって設置された特別研究委員会は、昨年三月、提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」の中で「個の深み」という言葉を提起した。
 提言では、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した上で、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するためには、「個の深み」の尊重を軸として、メンバー一人ひとりが自律的に成長できるような団体運営に転換することが必要、としている。
 行政側が自らの行事の動員などの対象として団体をとらえていると、団体への援助も、つい、既成の大きな団体の維持・存続が目先の課題としてちらついてしまい、メンバー一人ひとりの成長にまでは関心が払われない結果になりがちである。しかし、いくつかの団体がメンバーの個性を大切にするネットワーク型の運営を取り入れようと努力している現在、行政、とくに生涯学習に関わる行政が、団体活動の中での個人の成長を十分意識した援助方策をとることは、大きな意味をもつ。

グループ学習の飛躍を誘う
 東京都中野区では「講師派遣事業」を行っている。これは、「小さなサークルなどでは講師を呼びたくとも経費の点でなかなか呼べない」という実情に照らして、区の教育委員会が自主サークル・団体の学習活動に対して希望の講師を派遣するものである。
 小グループによる学習の最も重要な意義は、メンバー同士が互いに教え合い、学び合う「共同学習」にあると考えられるが、その中で適宜、外部から専門の講師を招くことによって、日常の学習のいっそうの飛躍が期待できる。生涯学習関連行政は、自らが学習機会の提供を行うだけでなく、このような自主的なグループの学習の深化をも援助の視点に入れなければならない。

行政とグループに新しい風を吹かせる
 東京都豊島区では「委嘱学級」の制度を設けている。これは、参加グループの創意工夫による多彩な学習企画や運営や参加者同士の相互学習などをねらって、学級の開設を区内の学習グループに委嘱するものである。平成二年度は、「世界に開かれた豊島区とするには、日本人である区民と外国人である区民とが、それぞれ文化・価値観を互いに尊重できるまちをつくっていくこと」という区の国際化に関する基本理念に沿って、課題を「国際化を考える」とし、広報で参加グループを募集して、七グループの参加を得ている。
 このように内容を焦点化した上で、各グループの個性や特色を十分生かして学級を企画・運営してもらい、しかも、それを一般の住民との交流の契機とすることは、行政の行う事業にもグループの日常的土壌にも「新しい風」を吹かせることにつながる。

学習活動の多様性を受けとめる
 和歌山県田辺市では「学習活動助成事業」を行っている。これは、グループの学習活動内容を「のびのび学習」「いきいき学習」「ふれあい学習」「さわやか学習」「がんばり学習」「ぬくもり学習」などに分類した上で、実際には市内ですでに活動しているさまざまなグループに、年間三万円の助成金を支出している。
 たとえば、「青年がともに集い、語り合い、友情と連帯を強める中で、郷土発展の担い手となる意識を高める活動」が例に挙がっているが、これなどは、講座型の学習だけでは不十分であり、夜遅くまで飲んだり話したりする、まさに「ふれあい」の活動そのものが直接、効果を生むタイプの学習活動である。
 田辺市の「学習活動助成事業」は、助成金の使い道についても「グループ・団体等で効果的な運用を図る」などとかなりゆるやかに定めており、現実のグループ学習の多様性に対応した援助になっている。

団体に地域で一役買ってもらう
 兵庫県西宮市では県の補助金(半額)を受け、「ひょうごっ子きょうだいづくり事業」を行っている。これは、小中学生が自治会程度の小地域ごとに異年齢集団としての委員会をつくり、勤労・福祉活動などを実践するものである。その指導や協力のために、市は、現在では全地区(三六校区)の青少年愛護協議会に対してそれぞれ五十万円の事業費補助をしている。この協議会は、子ども会、自治会、老人会、婦人会、PTA、学校、青少年団体等の代表者で構成され、地域の「育成者組織」として機能している。
 その他、県と市では、文部省の委嘱経費(青少年ふるさと学習特別推進事業)を受け、「町の冒険探検団」を実施している。市の「探検団」の本部は「西宮市子ども会協議会」に置かれ、二校区の子ども会が「探検団」となって町を探検し、「遊びマップ」の作成などを行っている。
 また、同県芦屋市では文化・スポーツのグループや町内会、自治会などの代表者による運営委員会に「コミュニティ・スクール」(学校開放)の運営を任せたり、行政と団体で構成される「まつり協議会」によって春夏秋の三大まつりを企画・運営したりするなどの住民参加を進めている。
 グループ・団体の現在の活動を援助することも重要だが、このようにそれらの団体がよりいっそう地域で役割を果たせるように行政からも働きかけ、そういう事業に対して援助することは、新しい「公私協働」の形といえる。

自主的な学習ネットワークのための援助を
 最近は、しっかりした組織形態をもつ団体だけではなく、ゆるやかなつながりを持つ小さなグループの役割が注目されている。これらのグループの運営は、ネットワーク型ということができる。
 このような活動を行政が援助しようとする場合、従来の団体援助のやり方は、当然見直されなければならない。基本的には、行政から団体に対して啓蒙的な立場から援助するのではなく、「公」と「私」がともに主体性を持って、一定の緊張関係を伴いながらも対等の立場で、それぞれの独自の役割を発揮すべきなのである。
 そもそも、生涯学習の内容の幅広さと学習を行う個人の自由は最大限に保障される必要があり、行政が生涯学習の活動を行っているグループや団体を援助しようとする場合も、その団体の自主性を損なわないということが大前提である。しかし、今日の到達点は、行政が「助ける」または「お願いする」のどちらかに未だとどまっているといえる。したがって、ここに挙げた各地の事例も、理想の援助形態に至るための過渡的努力としてとらえるべきであろう。
 たとえば、行政や公民館の行う学級・講座が終了すると、その後も学習を継続しようとして、「自主グループ」ができることがある。これ自体は歓迎すべきことなのだが、「自主グループ」側も行政側も、地域の他のグループよりもその「自主グループ」が優先的に援助されて当然という思い込みをもつ場合が見受けられる。これは、ネットワークの自主性の精神に反するのである。
 このような反ネットワーク的な援助形態は、まっ先に改善されなければならない。そのためには、最初に述べたように、既存団体の維持・存続に執心するのではなく、個人の成長を大切にすることこそ教育行政独自の基本的な役割であるということを再認識する必要があるといえよう。
「生涯学習 か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−」
 1991年4月25日 第1版

<目次>

第1部  「個の深み」への注目、そして、支援
  はじめに −「個の深み」とは何か−
1 社会教育における組織と個人
 (1) 「組織的教育活動」の従来の解釈
 (2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ
 (3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育
    −個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ−
2 講義型学習と社会教育、高等教育
 (1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰
 (2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育
 (3) 講義からの「逃避」に隠された弱点
    −多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ−
3 「個の深み」を支援する講義技術
 (1) 「個の深み」を支援する講義技術
 (2) 反応・発展の個別化を促進する方法
 (3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際
 (4) 「個の深み」を考える
    −まとめと問題の所在−
視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点
     −西武ロフトがとらえた若者たち−
視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業
     −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE−
視点3 「個人」がいきいきするしかけ
     −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−
視点4 「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態

第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして
1 現代都市青年と情報
 −ヤングアダルト情報サービスの提唱−
   はじめに
 (1) 青年と情報環境 
  (1) −1 現代都市青年の情報化不適応
  (1) −2 青年をとりまく情報の特質
  (1) −3 情報の限界
  (1) −4 情報能力と情報必要(ニーズ)をめざして
 (2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱−
  (2) −1 情報の提供にともなう操作性
  (2) −2 青年の要求にこたえるヤングアダルト情報サービス
 (3) ヤングアダルトのための情報 
  (3) −1 提供する情報の基本的性格
  (3) −2 青年が要求する情報と、青年に必要な情報
  (3) −3 人間の情報
  (3) −4 生活の情報
  (3) −5 連帯の情報
  (3) −6 地域情報と行政情報
 (4) 青年とともに育つ情報サービス
  (4) −1 「ともに育つ」情報提供
  (4) −2 ネットワークとインフォメーションリーダー
  (4) −3 パソコン通信の活用
  (4) −4 情報ユースワーカーの役割
  (4) −5 情報サービスと「教育的役割」
  (4) −6 情報と知的生産
2 パソコン・パソコン通信と青年
 −成熟したネットワークとは何か−
 (1) パソコンの急速な普及と未成熟性
  (1) −1 青少年から始まったパソコン
  (1) −2 パソコンの機能と新しい文化
  (1) −3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化
 (2) ネットワークを体現するパソコン通信
  (2) −1 新しいコミュニケーション環境
  (2) −2 スタンド・アローンがネットワークする
 (3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」
  (3) −1 ROMの存在
  (3) −2 新しい「知」の誕生
  (3) −3 新しい「集団」の形成
3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか
 (1) 「在来型の生涯学習」を支援する
 (2) 「新型の生涯学習」とは何か
 (3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ
 (4) コミュニケーション型学習
 (5) ネットワークによる知的生産
視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク
     −AV−PUBのサロンで「私的」交流−
視点2 学習情報提供事業の企画と展開
     −人間が学習情報を求めている−
視点3 学習情報提供の実際

第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために
1 子どもたちの団体活動
 −そこに秘められている大いなる教育力−
 (1) 教育とは子どもがワクワクする営み
 (2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動
 (3) 少年団体活動には教育力があふれている
  (3) −1 体験のもつ教育力
  (3) −2 参画のもつ教育力
  (3) −3 地域活動のもつ教育力
  (3) −4 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力
 (4) 子どもにだって「個の深み」がある
2 地方自治体における学習プログラム作成の視点
 (1) 知と健康のネットワークを支援するシステム
  (1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義
  (1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ
  (1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起
 (2) 年間事業計画の作成
  (2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる
  (2) −2 学習要求をとらえる
  (2) −3 「公的課題」の優先
  (2) −4 学習課題を整理する
 (3) 個別事業計画
  (3) −1 「学習ニーズ」の優先
  (3) −2 参加対象をどう設定するか
  (3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 (4) 学習プログラム作成上の今後の課題
視点1 あたたかいディスコダンス
視点2 レクリエーション的な要求への対応
視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方
視点4 グループリーダーの新しい形
視点5 リーダー研修に望まれる内容
視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ
     −東京都足立区の生涯学習推進構想−


第1部 「個の深み」への注目、そして、支援




はじめに −「個の深み」とは何か−


 「個の深み」という言葉は、青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」1)の中で提起された。私もその委員会のメンバーとして起草に携わった。そして、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するために、委員会は「個の深み」の概念を打ち出したのである。
 そこでは、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した。1)このような確かな「個の深み」ともいうべきものが、これからの社会の中で育つ可能性があるとするならば、その獲得を尊重・助長するための社会教育技術(ここでは講義技術)のあり方について考察することは意義深いと考えられる。
 山崎正和は、「柔らかい個人主義の誕生」という本で、「個別化」について次のように述べている。
 「個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである」。2)
 もちろん、これは個別化のある一面であって(上では「趣味の形成」の場合)、現代社会において「個別化」の本質とは、じつは「画一化」であったりする。オーダーメイドと思っていた商品が、全部同じコンピュータのデータから作られていることもあるだろう。あるいは、その「画一化」にまきこまれることを拒否しようとして、威勢はよいけれども、じつはうわべだけの、空しい自己顕示をする者もいる。それらは、現代社会の個の弱さの表れでもある。
 山崎自身が同じ本の中で、たとえば現代人の「自己顕示」を「自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現である」ととらえている。このように、今日の「個別化」の状況は、必ずしもすべてが望ましい状況とはいえない。「個の自覚」はむしろ脆弱化する状況も見受けられるのである。
 しかし、前述のように「個人が内面的な自発性を発揮」できるような「自己固有の」趣味などを形成し始めていることも、また、一つの事実である。
 「個別化」とは、一人一人が自分にしかない「何か」をもちたいと少なくとも心の中では望むことであるといえる。今後の社会においても、この「個別化傾向」はますます強まるだろう。この「願望」を誰も否定することはできない。自分だけにしかない自分を大切にしたり、まわりから大切にされたりしたいという願いは、個の充実・確立のためには不可欠である。したがって、もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は、「派手だが空しい自己顕示」によるものとは本質的に異なる。
 このような個人の内面的な自主性・主体性にもとづいた個別性について、私は、その言葉が意味する「神聖さ」と「不可侵性」を意識して「個の深み」と呼ぶことを提唱した。「個の深み」とは、個別化が止揚されたものであり、個別化よりも積極的な価値づけをした言葉と考えてもよい。ただし、反面では、他者が一個人の「個の深み」に深入りしすぎると逆機能を生ずるという危険性もある。言いかえれば、「深みにはまる」という危険性である。ここでは、「深み」という言葉に、そういう二面性を象徴させている。

1 社会教育における組織と個人



(1) 「組織的教育活動」の従来の解釈

 社会教育は、そもそも「個別」の個人のためにあるのか、あるいは、人々の集団化や組織化の援助にもっぱら重点をおき、組織的な活動として行われるべきものなのか。昭和二四年に制定された社会教育法では、「この法律で『社会教育』とは、学校教育法(昭和二二年法律第二六号)に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」(第二条、傍点引用者)とある。
 この「組織的な」という言葉について、福原匡彦は、「社会教育法で扱う社会教育は組織的なものだけであって、個人的あるいは偶発的なものは扱わないということである」(傍点引用者)とし、「一般的な意味での社会教育はもちろん組織的なものである必要はないのだから、この点で行政で扱う社会教育とは大きく相違する」3)と述べている。一方、「国民の間に継続的・組織的な教育文化活動が行われることをめざし、個々の国民にひとしく門戸をひらいた施設利用事業や施設をとおして講座・集会などの教育文化事業を行うのが行政の任務なのである」4)(島田修一、傍点引用者)という見解もある。
 もともと、社会教育法第二条による社会教育の「定義」については、「学校の教育課程として行われる教育活動を除き」という表現に象徴されるように「控除的定義」であるといわれる。条文を読んだだけでは、社会教育の実体というものははっきりとしない。
 もちろん、「国及び地方公共団体は(略)すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない」(同法第三条、傍点引用者)とあることから、社会教育の本来の主体が国民自らにあることは明らかであろう。しかし、第二条が「控除的定義」であるがゆえに、その条文が「行政としては、国民の自由な活動の中でも、特に組織的な教育活動を援助する、または、行う」という意味なのか、「社会教育とは、国民が(個人的ではなく)組織的な教育活動を行うこと」という意味なのか、ということについては文面からははっきりしない。
 しかし、このように社会教育の定義自体が一部「混沌」としていることを認めた上で、なお、ここで問題にしたいのは「組織的な教育活動」ということに対する従来の共通する理解についてである。たとえば福原の「社会教育法で扱う社会教育は組織的なものだけであって、個人的あるいは偶発的なものは扱わない」という見解からすると、「組織的」とは「個人的」および「偶発的」ではないものということになる。これについては、島田の「国民の間に継続的・組織的な」という表現も同様の意味を表しているととらえられる。さらに島田は、「社会教育施設」や「学校」とともに、「自主的に組織された教育事業体」を社会教育法における「社会教育活動の主要な三つの場」の一つと指摘している。
 実際、社会教育を行政が行う時でも、国民が行う時でも、いずれにせよその中心的関心は、人間が集団を組織したり、既存の組織の中で役割を果たすことに関連したことが多かったということができよう。

(2) 集合学習偏重から個人学習の重視へ

 碓井正久は戦前社会教育の特徴の一つとして「非施設・団体中心性」を挙げた。5)日本の戦前の社会教育は、施設を提供することよりも、団体を直接育成して、官民一体となった「社会教育」が進められた。戦後、その非民主性が反省され、各人が自由に社会教育施設を利用することが大切にされるようになった。図書館、博物館も増えている。ところが、あらたまって社会教育そのものの実態や理念を問われた場合の社会教育関係者の回答は、あいかわらず人々の組織や集団に関わるものが多い。これはなぜだろうか。
 たしかに、学習が組織・集団の中でのさまざまな指導者からの援助や、他の仲間との相互作用により、効率化、活性化する局面を列挙し始めたら、きりがないほどであろう。しかし、だからといって社会教育を「組織的(集団的)な教育活動」に「限定」する理由にはならないはずである。
 もっと直接的な理由として、学習の援助者にとって個人学習の場面にまで目が届きずらい、援助してもその効果まで追跡して援助の成果とすることができない場合が多い、集合学習に比べて学習成果がただちに集団・組織・社会に還元されるとは限らないということがあるのではないか。しかし、よく考えてみると、これらはもともと援助側の都合によるものであり、学習者側のニーズから発したものとは思えない。また、教育技術が向上すればある程度改善できる問題でもある。
 さらに、福原の「一般的な意味での社会教育はもちろん組織的なものである必要はないのだから、この点で行政で扱う社会教育とは大きく相違する」という説明の底流には、行政が個人レベルの学習に関与することは危険であるという考え方があるといえる。「組織的(集団的)な教育活動」に限定する理由の一つには、このような「行政としてのモラル」があるのかもしれない。しかし、これについては、国民の「組織的教育活動」に関与する場合であっても「同様に」危険性を秘めているのではないかという反論が成り立つ。行政が個人に関与することにではなく、相手が個人であろうと、組織であろうと、行政が民間の学習を援助することそのものに危険性が宿命的に伴っていると自覚すべきである。
 このようなことから、「社会教育の本来の主体は国民自らにある」という社会教育の根本理念の実現をこそ、あらためて一番の目標として、本格的な個人レベルの援助の意義を見直してみたい。
 最近二十年ほどは、社会教育の分野でも「個人学習」が重視されつつある。昭和四六年、社会教育審議会答申は、「今後ひとびとの要求する学習内容がいっそう多様化し、また、個性の伸長を図ることが重要になることなどから、個人学習の必要性がますます増大してくる」とし、教育放送、社会通信教育や社会教育施設における個人への相談体制の充実などによる「個人学習の促進」を提言した。6)
 その後、生涯学習の潮流が個人学習の重視をさらに助長した。平成二年一月の中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」では、「生涯学習は、生活の向上、職業上の能力の向上や、自己の充実を目指し、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであること」「生涯学習は、必要に応じ、可能なかぎり自己に適した手段及び方法を自ら選びながら生涯を通じて行うものであること」「生涯学習は、学校や社会の中で意図的、組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われるものであること」(傍点引用者)の三つが生涯学習推進上の留意点として挙げられている。7)
 「スポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動」が、「意図的、組織的な学習活動」に対置されるべきものかどうかということについては疑問もあるが、ここでは「自己の充実」という学習目的、「自己に適した」学習方法、そして非「意図的、組織的な」学習形態が重視されていることに注意をはらうべきだろう。
 今日の社会教育の議論の中には、一般行政や民間の生涯教育機能の高まりに危機感を覚えて、それらとは違うという「社会教育の独自性」の主張に熱心になるがあまり、従来の「組織的(集団的)」な教育活動への限定にむしろ固執しようとする論などもあるようだが、それらは本末転倒の議論と言わざるをえない。企業などの既存の集団や組織が、個人やインフォーマルグループ、小グループを尊重し、個人のために組織があるとさえ割り切って考えない限り、企業などの組織自体が存立しえなくなってきている今日の社会においては、社会教育や社会教育行政も、新しい考え方を取り入れなければならないだろう。

(3) 組織・社会にとっての「個の深み」と社会教育
   −個人学習の支援から、さらに「個の深み」の支援へ−

 昭和四六年の社会教育審議会答申は、教育放送、社会通信教育、相談体制による個人学習の促進を提言した。平成二年の中央教育審議会答申は、意図的、組織的でない個人の学習活動も重要であると指摘し、学習情報の提供のいっそうの促進を提言した。今や、このような個人学習もしくは個人学習援助の意義は、(実践が十分なされているかどうかはともかく)語りつくされようとしている。
 しかし、個の尊重とはその程度でとどまるものではなかろう。現在のこの「個人学習」の重視の到達点において、次に求められるのは、「個人学習」であるか「集合学習」であるかに関わらず、「個」(個人)そのものをもっと尊重する理念とその実現のための技術である。
 そもそも組織(ここでは学習集団)が形成される基本的理由は「複数の人々の主体性が結合されることによって、各人が分散している時には得られない拡大された主体性が得られることであり、それを通して、より多くの欲求充足の可能性が得られる」8)ことである。
 ところが、そのような個人の主体性拡大や欲求充足の手段であったはずの組織の存在が自己目的化してしまうところに、現代社会全体の基本的問題があり、社会教育の問題もある。話の筋からいえば、メンバーの変わりゆくニーズに対応しなくなった団体は、メンバーのニーズをではなく、団体の運営のほうを変えなければならない。あるいは、メンバーが新しい他の団体・グループなどの機会を十分に得ることができるのなら、もとの団体は衰退・消滅してもかまわないのである。
 それでは、個人のためなら諸組織の集合体としての社会まで衰退してもよいのかという反論もあろう。しかし、私は「個人か、社会か」という議論については意味がないと考えている。現代社会に求められるものがまさに「個」(個人)の尊重であり、現代(成熟)社会がその発展のために求めているものが「個」(個人)の発揮ととらえるからである。そして、それぞれの所属組織に対しても、たとえその組織の維持・存続には不都合な場合でも、その組織に対してメンバーがなんらかの個性的で独自な役割を発揮することは、結果として現代社会に貢献する可能性が大きい。
 個人には、はかりしれない「深み」がある。それは個人が個別に発達するからだと考えてもよいだろう。そういう「個の深み」が、現代社会の停滞しがちな「合理主義的」組織(学習組織も)を活性化するのである。
 関連して、社会教育行政の役割について触れておきたい。「行政が個人レベルにとどまる学習まで援助する必要があるのか」という反論がありうるからである。これに対して個人の即目的的な学習をもサービスすることまで含めて学習権の保障と考える論もあるが、私は、社会教育行政は「公的」(恣意的ではいけない)な意図に沿って行われてしかるべきと考えている。
 しかし、「公的」という性格は、「個人」で学習するか「組織・集団」で学習するかによって決まるわけではない。学習活動そのものは個人レベルでとどまっているとしても、その人のその学習は今日の社会に重要であるということも十分ありうる。「個の深み」などは個人の内面の諸活動の中で育まれる要素がかなり大きいと思われるが、すでに述べたとおり、既存の組織と社会が今後存続・発展するためにもそういった「個の深み」の獲得はなくてはならないものなのである。
 狭義の組織とは「二人以上の人々が共通の目標達成を志向しながら分化した役割を担い、統一的な意志のもとに協働行為の体系を継続しているもの」であるが、広い意味での組織とは「それぞれ分化した機能を持つ複数の要素が、一定の原理や秩序のもとに組みあわさって、一つの有意味な全体となっているもの」である。8)社会教育法の「組織的な」という言葉も、後者の定義により、学習する個人が、その個人がそれなりにもっている「原理や秩序」のもとに、日常の「断片的学習」を組みあわせて行う学習をも含むものとして運用することが妥当ではないか。あるいは、行政は、個人レベルの「断片的学習」も含めた国民の学習に対して、「行政組織として」という意味では「組織的に」援助を行うということを意味しているととらえてもよいであろう。

2 講義型学習と社会教育、高等教育



(1) 社会教育における講義型学習への反発と回帰

 講義とは、「意味や道理の説明・解説。講釈。特に、大学で行う授業」(傍点引用者)である。「講」の旁(つくり)の部分は「前後左右同じ形に積んだ木組み」であり、「講」は「相手が同じ理解に達するよう言葉をかわす意」である。「義」は、「羊」(りっぱなひつじ)と「我」(ぎざぎざの刃をもつほこ)の組み合せで、「かどめがあり美しくととのっている意」である。9)もとの語意からは、徒弟的関係(「講」)と価値的意味(「義」)が強い言葉ともいえよう。また、広辞苑によれば、「講義」とは「書籍または学説の意味を説きあかすこと」または「大学などで、教授者がその学問研究の一端を講ずること。普通、講読や演習に対比していい、また、大学の授業全般を指していう」(傍点引用者)などとある。
 しかし、講義は実際には社会教育の場でも多用されている。その場合は「意味や道理の説明・解説」や「書籍または学説の意味を説きあかすこと」などとは、ニュアンスが異なる。意味、道理、書籍、学説などのような話の「内容」に限定する意図はほとんどない。むしろ「(大学においての)講読や演習に対比して」という表現が意味するものに近い。すなわち、おもに「講ずる」(説きあかす)という教育「方法」によるものと理解してよいだろう。さらに、個々の学習者に対して話をするのではなく、マス(ひとかたまりの集団)に一斉に話をすること(教育方法)を想定していると考えられる。
 このように仮に定義された「講義」は、高等教育における「講読や演習に対比した」意味での講義(以後、たんに講義という)と、じつはまったく同じ問題を生み出している。私は、その問題の根源は「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とするところにあると考える。
 そういう講義を受講することによる学習(以後、たんに講義型学習という)は、社会教育の現場において「一斉承り型学習」として批判されてきたところでもある。社会教育が「自ら実際生活に即する文化的教養を高め」(前出、社会教育法第三条)るものであることから、その批判は当然ではあった。
 その最初は、戦後の「町村民が相集って教え合い導き合い互の教養文化を高める為の」10) (傍点引用者)公民館の構想やアメリカ民主主義の影響を受けた視聴覚教育やグループワークへの志向として表れている。
 その後、「昭和二八年の青年学級法制化をきっかけとする、青年団の共同学習は、婦人学級にまで波及し、ついに官・民あげての共同学習時代に入った」が、「学習形態では、話しあいがもっとも多かったので、共同学習はまたの名を『話しあい学習』とよばれている。ひとびとが生活上で直面している悩みや困難をフランクに話しあい、それがみんなの共通の問題であることを確認しあったうえで、問題解決の方向をさぐりあう」というものであった。5)そのころから、サークル活動も盛んになってきた。
 さらに、昭和三〇年一月には、稲取と柏の「実験社会学級」が文部省のバックアップを受けて開設された。そこでは、「母親学級から社会学級への変遷の中で変ることのなかった低度な『講話』や『講義』による承り学習、カリキュラムの生活現実や受講生の要求・関心からの遊離、学習と実践の乖離、場当り的で貧弱な教育技術など、要するに昭和二〇年代の、方法上の教育技術を欠き、教育目標を欠いた社会教育の現状を批判する方法意識につらぬかれていた」。5)(傍点引用者)
 これらの社会教育の「遺産」はたしかに、現在の社会教育を築く基盤となっている。しかし、先に述べたように、今日においてなお「実際には講義は社会教育の場でも多用されている」のである。「共同学習論」への批判として、「系統学習論」というべき議論があった。これは、共同学習には「学習課題を設定せず、その場その場で出たとこ勝負めいた、思いつき的な学習をおこなうものも少なからず」5)あるので、これを克服して計画化された継続的な学習内容を組織しようとするものである。しかし、それは、民間によるのものにせよ行政によるものにせよ、講義中心の「学級・講座型」に傾斜したきらいがある。このように、社会教育の世界では、講義型学習に対する反発と回帰が繰り返されてきたのである。
 今日では、学習内容が「系統的(教育)」であるべきか、「非系統的(学習)」であるべきか、すなわち「系統か、非系統か」などという問いに対して、どちらかに決めつけようとすることこそ無意味といえよう。(ただし、両者の比較検討は興味深いが、ここでは触れない。)それよりも、講義型学習方法をおしなべて「一斉承り型学習」として排除してしまう傾向や、共同学習方法だからすなわち「主体的」である、あるいは「非系統的」になると短絡的にむすびつけてしまう傾向を、ここでは問題にしたい。
 関係者の認識は、社会教育そのものに関してではなく、社会教育の方法に関して、教条主義や敗北主義に蝕まれていたのではないか。たとえば、「講義ではなく話し合いだから主体的学習である」と勝手に安心したり、「このコマは講義と決まっているのだから、そこは委嘱した講師にすべておまかせするしかない」と自己の責任をほうりだしてしまったりすることなどはその極端な例である。
 これに対する社会教育の本来のあり方を単純に言えば、講義以外の他の方法も活用しながら、講義も「学習者主体」的に運用するということになろう。そのためには、「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とするのではない講義を創出しなければならない。

(2) 社会教育のアナロジーとしての高等教育

 「マスに対して一斉」に「説きあかそう」とする講義(学習する側から言えば「一斉承り学習」)の逆機能は、高等教育においてもまったく同様の問題となって表れている。
 大学の目的については「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法第五二条、傍点引用者)とあり、短期大学の目的については「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成すること」(同法第六九条の二、傍点引用者)とある。「深く専門の学芸を教授」することについては共通している。なお、小・中・高等学校については「心身の発達に応じ」た教育を「施すこと」となっており、その他に大学などと違って教育目標が定められているが、「学芸の教授」という言葉はない。
 「学芸」とは「学問と技芸」であり、「教授」とはそれらを「教えさずける」ことである。「学問」の「学」は旧字体では「學」であり、「臼」(両方の手)で「子」が知識を授けられる「家」を意味しているが、「爻」という「二者間の相互の動作」も含んでいる。「問」とは、とびらで閉ざされている「門」、すなわち「かくされていて分からない事」を「口でたずね出す意」である。「教授」の「教」は、やはり「子」に対するという意が強いが、旧字体では「子」の上に「爻」が使われる。「授」には、「さずける」という師弟的な響きが強いが、解字では「手」で「受ける」という学習者側の主体性も意識したものと考えられる。9)
 このように、「学問」の「教授」という言葉のもともとの意味から言って、師弟関係を前提にしているとはいえ、それが非主体的な「一斉承り学習」によって実現できるものとは想定されていない。これは当然のことといえよう。しかし、実際の教育現場では教授側も学習側もその認識が十分とはいえない。
 なお、社会教育関係者の間には、「勉強」という言葉は「つとめしいる」だから強制的な意味あいが強いと決めつけ、それに比して「学習」という言葉は即主体的行為であるから好ましいとする議論がある。これについて触れておきたい。
 「学習」の「学」はすでに述べたように「臼」(両方の手)で知識を授けられることであり、「まねぶ」(まねをする)ことでもある。「習」の「羽」と「白」は「ひな鳥がくりかえしはばたいて飛ぶ動作を身につける意」9)であるから、「ならう、なれる」ことである。たしかに、「学習者側からの表現」と言うことはできるが、与えられた「教育目標」に対しては無批判的に受け入れることを前提とした言葉であると言えなくもない。「学習会」などというと、無意識のうちにどうしてもそういうニュアンスで感じとられてしまうのではないか。
 これに対して、「勉強」という言葉については、「勉強会ブーム」やパソコン通信のアーティクル(通信記事内容)にしばしば見かける「私も勉強しておきます」などの表現に、新しい意味を見いだすことができる。「勉強」の「勉」は、「力」(りきむこと)と「免」(女がしゃがんで出産するさまの象形)である。「無理をおしてはげむ」ことである。「強」も「無理をおす」という意味である。9)その語感に軽やかな楽しさがないのは否めないが、他者からの強制を必然的にともなうものという意味は含まれていない。ここで、「学習」という言葉をしいて「勉強」に置き換えようと提言しようとするわけではないが、市民の「勉強志向」をあなどらずに援助することの必要については強調しておきたい。
 さて、高等教育における講義の位置づけであるが、その現在の到達点を探るためには、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)に書かれている主張の吟味が有効である。11)本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。
 そこでは、「学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」であること、すなわち「学習は個人的事象である」ことが基本テーゼになっている。したがって、「多人数で行なう講義」については「教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離」などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、これまで述べてきた学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」としている。本書でこの「講義法」に対置されている教授法は「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」などである。
 「学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」という言葉などは、アメリカのM・ノールズがアンドラゴジー(おとなの教育学)の特徴としてまとめた成人の学習の形態、動機、基盤などとぴったり一致する。12) このことから、社会教育がめざしている主体的学習の「援助方法」は、高等教育が今日模索している「教授法」と、技術的にはほとんど同じものになることは予想にかたくない。
 もちろん、学習内容については、社会教育の場合は法によれば「実際生活に即する文化的教養」(第三条)であるから、「深く専門の学芸を教授研究」する高等教育とは明らかにレベルが異なる。
 しかし、「実際生活に即する文化的教養」にしても、いわゆる「身のまわりの問題」だけの学習、うわべだけの「文化」「教養」としてしかとらえないとすれば、これもまた問題である。
 人々の生活・文化・教養ニーズは、高等教育でいう「学芸」に近づこうとしているのではないか。逆に、「学芸」のほうも学際の重視などから人々の「生活」「文化」「教養」にいっそうの関心を示しつつあるのではないか。このようなことから、社会教育でいう「生活」「文化」「教養」についても、新しい時代の人々の学習ニーズに応じて柔軟にとらえなおさなければならない。たとえば、「つとめしいる」勉強に関心を示し「自ら」それを行なおうとする一般成人などは、その潮流の先駆者として重視しなければならない。

(3) 講義からの「逃避」に隠された弱点
   −多数者の主体性の支援からさらに「個の深み」の支援へ−

 このような新しい生活、文化、教養、あるいは学芸にとって、講義型学習は「本質的」に無効なのであろうか。たしかに、「個の深み」の実現のためには、生活、文化、教養、学芸においても各人の独特の深みが求められる。しかし、そのような「深み」が求められるからこそ、「ある専門の学芸を深く研究している」教授者(professor )が自己の研究の最先端を告白(profess )する講義という教授形態は、かえってそのための高度で能率的な方法として再評価されるべきではないか。もちろん、そこでは「教授技術」(社会教育における「講義技術」)などの改善の努力が前提になることは当然であるが。
 前出「大学教育の原理と方法」では、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の四〇%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。
 しかし、同時に、「伝達されるべき情報がまだ未発表のものであるか、新しい方法で構成される必要がある場合、もしくはそれらの情報が課程の概略・要約となる場合」などは、「解説的な教授法が最もふさわしい技法となる場合もある」としている。だが、その場合でも「学生に大きな刺激をもたらす源泉」となることは「例外的」としている。その上で、本書では、講義法を行なう場合、フロアへの質問の投げかけ、自己評価のための小テストなどの「革新的試行」が教師にも学生にも有意義だとしている。そして、聴講者の前に立つ時の精神的不安に対処する方法、聴き取りやすい話し方、その他講義の準備・構成・提示にわたってさまざまな技術的な「アイデア」も提示している。これらの「技術」の中には、学習者の主体性支援のためのものもかなり含まれており、講義の技術を考えるにあたって大いに参考にすべきである。
 ただし、本書の場合、先に述べたとおり「講義法」よりも「小集団討議法」「個別的・自主的教授=学習法」のほうに、より大きな価値をおいている。しかも、たとえば「小集団討議法」の章では、「小人数でグループを形成して、各自の考え、知識、理論、洞察等を互いに交換し合う機会をもつことは、学生にとって大学教育から得られる最も貴重な学習体験のひとつとなる。伝統的に小集団討議法は、最も中心的で歴史的な大学教育の機能とみなされてはきたが、その役割はこれまでにその価値にふさわしい形で開発されてきたとはいえない」とし、小集団討議によって「帰属感や楽しみの感情が存在し、考えや意見を分かち合う」ようになることを提言している。学習者の主体性の支援の必要を強く意識したものといえる。
 このような考え方にもとづく「小集団討議法」は、社会教育の手法と似通っており、私は正直に言えば好感さえもつのだが、同時に、教授者が個人の個別な深まりをどう援助するかということについては、ほとんど深められていないことに多少の不満ももつのである。もちろん、小集団討議における教授者の役割やその技術も緻密には述べられている(わが国では類がないほど)。しかし、それは、本書を見るかぎり、個々人の「深まり」よりも、すべての学習者が主体的に学習できることに最大の関心をもった上でのことのようである。主体性が多数の者にいきわたることのために、ほとんどの精力を費やしてしまっている。講義型学習への「あきらめ」も、そこから生じているのではないか。
 わが国の場合は、どうであろうか。ロンドン大学のような教授法に関する教員の訓練がないことはいうに及ばず、高等教育における教授法の研究・開発自体が進んでいない。教授者は自らの教授法を自ら管理しながら、あるいはひどい場合は教授法に無頓着に、教授を行なっている。しかし、皮肉な話だが、もし教授法を真摯に検討するようなことになれば、高等教育が大衆化している今日、すべての学習者が主体的に学習できる方法と技術(講義以外で)があるということに驚き、それを「救世主」のように受けとめ、いっぺんにそこに傾倒してしまうのではないか。
 「大学教育の原理と方法」でいう「小集団討議法」の理想像程度ならば、「共同学習」などに始まる社会教育実践の場で、ある程度現実のものとしてきている。この成果を、わが国の高等教育の教授法の改善においても反映させるなどといったことは考えただけでも楽しい。しかし、もう一歩立ち入って考えるならば、高等教育は中等教育までとは違うのだから、「落ちこぼれ」の心配をするよりも、「落ちこぼれ」は(教授側が設定したカリキュラムからの)「落ちこぼれ」なりに(その個人が自覚し自負する)「個の深み」を獲得し、「成績優秀者」は(教授側が設定した評価基準の上での)「成績優秀者」なりに(教授側が予定しえなかった個別な成果としての)「個の深み」を獲得するよう援助すること、つまり、一言でいえば「個人主義的援助」にもっと力を注ぐ必要がある。
 あるいは、もし、高等教育の大衆化、中等教育化が、国民のニーズでもあり不可避だとするならば、「個人主義的な」本来の高等教育の役割は、社会教育が肩代りして、今日の高等教育にあきたりない人々にサービスすることを考えるべき時代なのか。

3 「個の深み」を支援する講義技術



(1) 「個の深み」を支援する講義技術

 本章では、講義の中でいかに「個の深み」を支援するか、その「技術」について述べたい。「技術」であるから、「だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質」13) をもっていなければならないということになるが、私の力量の限界や「教育」の技術であるという性格上、そこまで汎用的ではない。試論である。だが、梅棹忠夫のいうように「(技術に関する)話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしい」と思う。
 そして、梅棹の言葉を借りれば「知的生産の技術(ここでは講義の技術)の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性(ここでは教授者側の主体性と独自性)という原則」は大切にしたい。そもそも、教授者による「自己の研究の最先端の告白」が、内容の深みと真実の迫力をもっているのなら、たとえ聴き取りずらくても、その講義は個別の「個の深み」に訴えるからである。(それでも技術は些末な事項ではない。)
 次に、「個人学習」の支援や「多数者の主体性」の獲得の上で、講義には不利な面が多いことは、社会教育や高等教育の現在の到達点から見れば明らかである。それゆえ、「個の深み」支援においても、講義が他の方法より有利だということはありえない。しかし、そういう困難の中で「個の深み」を支援するすじ道を考えることにより、「個人学習」や「多数者の主体性」とは違う「その上の次元」(断絶しているわけではないが)としての「個の深み」とその支援のあり方の独自性がかえって浮かびあがるのではないかと考えた。
 ここでは、講義の中で「個の深み」を支援する技術を、三つの構造に分類した。下部は「教授者の不安の解決」、中部は「学習者の主体性の確保」、そして上部は「反応・発展の個別化の促進」である(●図1−1)。
 一つには、「講義を行なう場では、教師は教科の専門家として、さらに学生の行動をコントロールする監督者として、『権威者』の役割をになう立場にたたされる」。11) そこから生ずる不安に対処する方法として、前出「大学教育の原理と方法」では、「その不安はよい兆候だとあえて思うこと」「質疑応答」「バズ・グループ討議」「OHP用シートの準備」があげられている。しかし、とくに社会教育においては、教授者は教育技術の観点から「演技者」であることは必要かもしれないが、自身の「個」を曲げてまで「専門家」「監督者」「権威者」のふりをしなくてもよいと割り切ることこそ、その前に必要であろう。その上で、先のようなことも有効だが、基本的に大切なことは、教授者の予想どおりかどうか、良いか悪いかはともかく、各学習者による講義の「受けとめ方」(個別である)を知ることである。これらのことが、下部の「教授者の不安の解決」を構成する。
 二つには、「承り学習」にならないよう学習者の問題意識に訴える必要がある。「大学教育の原理と方法」からは、要約すれば「教師の関心を示す」「五官に訴える」「体験や既習の学習に関連づける」「現代性を明示する」「対照的な観点や対立する論争点を紹介する」「質問する」「仮説を提示する」「問題を提起する」などが、それに該当するものとして拾うことができる。その基本は「学習は本来個人的事象」であるから、なるべく多くの学習者の「自らの興味や価値観、能力、レディネス、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会」11)に迫るような工夫をすることである。これらのことが、中部の「学習者の主体性の確保」を構成する。
 しかし、これらの下部と中部の階層は「個の深み」支援の下部構造としては必要であるけれども、それだけでは「個の深み」支援そのものまでには到達しない。「個の深み」は、個別化が止揚して、はじめて結果として生まれるのである。
 そこで、三つには、教授者が予定しうるはずのない学習者の個別な深まりまで教授者が援助する技術を編み出さなければならないということになる。「大学教育の原理と方法」の講義法の章からは、しいてあげれば「学生に積極的に賛成か反対かの意見を表明させたり、自分の仮説を提示するようつよくうながすこと」が拾える。しかし、これとて、個別な意見や仮説が生じたとしても、しばらくすれば、その専門について自分より見識の高い教授者の行なう講義や既定の教育目標に収斂されてしまう可能性が強い。主体性が深まる点では評価すべき手法だが、ここでめざしている本格的な個別化を深めることには直接にはつながらない。
 教授者が何かを発言すると、それは刺激(stimulus)となって、学習者のなんらかの反応(response)を呼び起こす。刺激と反応(S−R)の関係ということができる。まず、この反応が、すでに個別的である。教授者側が設定した教育目標に沿う方向の反応もあれば、思わぬ反応もある。その時、「思わぬ反応」をすなわち教授の失敗ととらえる考え方に個別化を阻害する要因がある。「思わぬ反応」を本人に自覚させ、それがどういうものであろうと基本的に好ましいことを教授者は表明しなければならない。「教育目標に沿う方向の反応」の場合でも、それぞれがさまざまな方向性をもっていよう。厳密にいえば、遺伝子と生育歴の違いの数だけ、反応の違いがある。教授者は、その違いを喜び、大切にしなければならない。S−Rを一面的に規定し、操作しようとすることは、望ましくないというよりも、もともと不可能なことなのである。
 次に、その個別な反応をさらに個別的に発展させるためにはどうすればよいか。じつは、この「発展」も当然のことながら本来的に個別である。程度の差はあれ、自らの「反応」を個別に味わい、吟味し、洞察する。しかし、この「発展」をそのまま「放置」することには、「反応」の時よりも大きな問題がある。「反応」は一時的なものであるから講義の流れを阻害しないが、「発展」は各自のプロセスや所要時間が異なるため、多人数を対象とした講義を予定どおり進めるためには不都合なのである。
 このようなことから、主体的学習を支援しようとする人の中からも、「講義は無力だ。小人数の討議のほうがよい」、あるいは「講義は『承り』でもしかたない。あとは学習者の『独習』に期待するしかない」というような講義に対する敗北主義が生まれるのである。しかし、小人数討議なら必然的に学習者の個別な発展を保障できるというのだろうか。また、講義の全時間、神経を集中し、さらにその時の自らの反応を発展させるためにあらためて独習の時間をかける学習者がそんなにいるだろうか。
 もちろん、独習の意義が大きいことは否定できない。学習内容によっては、独習こそ最良の学習方法という場合もあろう。だが、むしろその場合は、口述メディアの講義を通してより、活字メディアを通して学んだほうがスムーズで有効な内容なのに、無頓着にそれを講義で行ってしまうことにこそ問題がある。
 それよりも、「講義であるからには、こうでなければならない」という思い込みを、あらためるべきである。学習者の個別な「発展」(あるいは人によっては、あることに関して「発展」しないこと)のほうを大切にし、全体講義は進めておいて、その全体講義に復帰して集中する時間は、それぞれの学習者の「発展」の事情と個人の判断にまかせることがあってよいのではないか(たとえ全時間、神経を集中してノートをとって聴いたとしても、一週間後の記憶率は二〇%以下なのである11))。あるいは、教授者が「発展」の時間を仮に定めて、講義を中断し、各学習者に「発展」の時間を自己管理してもらってもよいかもしれない。
 いずれにせよ、教授者側が予定した講義を、設定した教育目標のとおり話を進めて、一斉にそれに集中させようとすることこそ、「個の深み」の発展を阻害する最大の要因といえる。

(2) 反応・発展の個別化を促進する方法

 それでは、上部の階層である「反応・発展の個別化の促進」を構成する講義技術とは何であろうか。その一つは、すでに述べたように、全体講義からの一時的な個別の離脱(集中しないこと)を黙認すること、あるいは全体講義のほうを一定時間、中断することである。これは、教授者側から言えば「消極的行為」に属するが、重要である。
 しかし、教授者による「積極的行為」のほうはありうるのだろうか。たとえ教授者といえども個別化の方向性は予定しえない。また「個の深み」が「神聖・不可侵」なものであるだけに、教授者側は干渉やおしつけにならないよう厳しく自己規制(禁欲)すべきである。ふたたび、梅棹忠夫の同じ言葉を借りれば「知的作業(ここでは反応・発展)の聖域性ないしは密室性という原則」13) が「個の深み」にとっても生命線なのである。このような理由から、「反応・発展の個別化の促進」に関わって学習者にその方向を講義で直接的に指導するということは、社会教育にせよ、高等教育にせよ考えにくい。
 それに近い指導があるとすれば、講義ではなく、双方向のカウンセリングの形態(受容、支持、共感、明確化など)をとって行われることになろう。また、とくに高等教育機関などにおいては、「教育的判断」により個別化の方向そのものを修正するよう特定の個人に要請することも、慎重かつ意識的に行うという条件のもとにはありえよう。
 ただし、後者については本論での「反応・発展の個別化の促進」に分類される行為ではない。「促進」の行為ではなく、かならずしも悪い意味ではないが、やむを得ない「統制」の行為である。
 次に、「反応・発展の個別化の促進」を構成する教授者からの「積極的行為」としては、学習者が講義を聴きながら個別化を獲得できるよう、その方法を指導(提起)することが考えられる。
 「個の深み」は、それ自体を深めようとして深まるものではない。さまざまな可知、不可知の要因から多様な方向性が生まれ、それが各人の個性というフィルターを通して無意識のうちに深まっていくはずのものである。しかし、実際にはそのような「個の深み」にいたることのできない学習者ないし局面がでてくる。その状態を「没個性」ということができる。これは、現代管理社会の中で、人々が自分らしさ(アイデンティティ)を表現したり主張することが疎外されがちであることに一つの原因があるのだろう。
 他者からは、はかり知れない個人の内的世界における知的営みだけではなく、その時々の内なる到達点(アイデンティティ)を自ら外在化する営み(表現)との双方が循環して「個の深み」を創り出す。このようなことから、個人が「話す、書く、表現する」舞台を設定することは有効な手段といえる。それは、教授者側の「積極的行為」と考えられるのである。
 「話す」は、ここでは情報交換や合意形成や発想などのための討論を意味するものではない。ここでの「話す」ことの目的は、個別化した「反応・発展」を「外在化」することにある。したがって、むしろスピーチに近いものになろう。しかも、スピーチをすることであり、聴くことではない。スピーチを交換することは、聴かれる者、聴く者の相互の「個の深み」のための刺激にはなるが、自己の個別化した「到達点」を外在化することにはならない。それゆえ、多人数の講義においてそれを行おうとしても、聴く側にまわる者が多く、能率的ではないという問題がある。ただし、多人数でも、隣どうしの者でペアを組み、話す者、聴く者の役割を交替しながら、それぞれの個別な方向について紹介と批評を交わすことなどは、訓練によっては可能になるかもしれない。
 「話す、書く」以外の表現方法もあるが、それは心理学や芸術などの観点から、別に詳細に検討する必要がある。ここでは、「話す、書く」に「表現する」も加えておく必要があるという指摘だけにとどめたい。
 個別化した「反応・発展」を表現するための方法の中で、講義型学習にもっとも適しているのは「書く」ことではないか。「反応・発展」という内的世界を、それなりの論理構成をもって記述することによって、自己の「反応・発展」に気づき自負することもできるし、欠陥部分を発見することもできる。自己の勝手な無力感や万能感を、自らの目の前にあからさまに突き出すことになるのである。もちろん、「自分はやっぱり何も書けない」という無力感を増大させることもありうるが(自由に書いてよいという場合は、それは意外に少ないようだ)、そういう試練を乗り越えて自己の個別化を自負し、「個の深み」を獲得していくことが必要なのだと思う。

(3) 書くこと・・・「出席ペーパー」の意義と実際

 学生の場合は、「書く」という行為をもっぱら「成績評価」にむすびつけてとらえている。原因は、小学校からのテストとレポートであろう。私は、可能な場合は、試験の時に使われる大学所定の「解答用紙」をあえて配布している。学生は、そこに自由に記述する。学生の「書く」ことへの認知構造を変革させたいからである。社会教育や研修などでの講義の場合は、氏名は無記入でもよいことにしているが、大学の授業では出欠のチェックにも使うため、必ず氏名を記入してもらっている。ただし、記述内容は成績評価には影響させないことを宣言している。個別化の方向性には点数をつけられないからである。この紙を「出席ペーパー」とよんでいる。
 「出席ペーパー」には、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くことになっている。しかし、「講義どころではない固有の課題」を抱えた者の中には、講義の内容にまったく関係のないことを紙面いっぱいに書く者もいる。これらの記事の中には、しばしばユニーク(個別的)でおもしろいものがある。また、白紙で提出してもかまわない。それも、私の講義への一つの率直な反応であろう。
 自らのプライバシーを綿々と綴ることも認めている。何回目かの失恋の話程度のものもあるし、私が初めて聞くような惨憺たる家庭状況などの話もある。その場合は、皆の前ではもちろん、本人にもそれについてのコメントはしないことにしている。とくに後者のような場合、中途半端な励ましは、かえって無責任になるからである。(教授者側に、徹底的にそれを理解し、解決まで面倒を見る覚悟がある場合は別だが。)それよりも、教授者に対して書くこと自体が、ちょうどカウンセリーがカウンセラーに話をしている状態と似ており、自分の本当の問題に自ら気づき整理することになる効用を訴えたい。ちなみに、本当に悩んでいる人に「頑張って」などの安易な励ましの言葉を投げかけてはいけないことは、カウンセリングの常識である。
 「出席ペーパー」が百数十人分になる授業もある。それでも次週の授業までに、私は必ずすべてを読んでおく。学生に、そう約束してある。読むことは、やってみるとわかるが、とても楽しい作業である。教授者自身の言動が他者から受容されていることを味わうことができる。次の授業では、他の学生にも興味を引きそうだと思われる箇所を、コメントをつけてプリントや口頭で紹介する。その場合、名前は伏せる。同じ立場の他の学習者(ピア・グループ)が書いた記事の紹介は、学習者からは大変な好評である。その紹介によって学習者の興味を持続したまま、本時の講義内容にスムーズに移行できることもある。
 ただし、「出席ペーパー」の本来の目的は「自分が書く」ことであるから、紹介のほうは本時の講義に差し支えない範囲と時間に限っている。本時の講義のために紹介の時間がとれないときは紹介を割愛する。学生はそれを一応は納得しているようだ。もちろん、コメントがつかなかった場合に「書きっ放し」になることのさびしさや、私との「文通」の希望を訴える学生もいるが、「コメント」や「文通」を全員に対して行うことは物理的に不可能に近い。「出席ペーパー」の本来の目的を理解してもらい、納得してもらうしかない。
 あとになって、学生から私への意思表示のために三つのマークを定めた。BBS(Bulletin Board System =掲示板システム)、メール(手紙)、チャット(おしゃべり)の三つである。これらはすべて、パソコン通信の用語を借用している。後ろの二つは重要ではない。「私信のつもり」「軽いおしゃべりのつもり」という意思表示をしたい人は、好みでそのマークをつけてもよいというだけのことである。しかも、メールと書いても、「文通」はとうてい請け負えない。一方通行である。それを知った上で、「メール」マークをつけてくる人がかなり多い。手紙という言葉に彼らのフィーリングが合うのであろう。手紙を書く労力は損をしたとは思わないらしい。
 私が気負ってこのマークを提案した理由は、BBSにある。ある人が「出席ペーパー」に、何か問題提起をする。その記事にBBSのマークをつければ、もれなく次回にそのままコピーして紹介することになっている。それを読んで関心をもった他の人は、同じくBBSのマークをつけてレスポンスを書く。今度はそれが次の週に紹介される。このようにして学習者の間に知的交流のブームが起こることを期待したのである。「とりあえずは、BBSにしたらもれなく紹介する」と宣言したので、もし全員がBBSにでもしたらどうするかを最初は心配していた。しかし、自分のペーパーをBBSにしてくれる人は、百数十人中、わずか二、三人だったのである。パソコン通信のような市民主義的な知的交流の土壌は、まだ育っていないととらえるべきであろうか。
 それにしても、たとえメールであろうと、書く人たちはとにかく自由に楽しんで書いている。私はそれでよいと思っている。書くこと自体が本来的に自己抑圧的な作業であり、その人なりにそれを克服してなんらかのものを書くわけだから、「おしゃべり症候群」などの自己疎外的な状況とはおのずから性格が異なるものである。
 ただ、講義への集中を中断して書くこと、あるいは講義を聴きながら書くことに抵抗感をもつ学習者は、学生の中にもいる。そのため、終了予定時間の十分前には本講義は終了し、雑談のような話をすることによって、書く時間をそこで保障している。もちろん、事前に書いてくる熱心な学生も中にはおり、それも歓迎している。
 しかし、是非は問われるだろうが、学習者が「自己管理的」に講義に集中・離脱できるよう私自身は求めたい。講義のすべての時間を、すべての学習者のニーズにマッチさせることなどは、多様化の時代にありえないことなのである。そのような「完璧な講義」を教授者の責任として求めることこそ、むしろ学習者側の過度に依存的な態度と考える。講義からの離脱と復帰のタイミングは、それぞれの学習者がつかめると思うし、良いか悪いかはともかく、それは現代社会での生き方につながると思う。
 「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつは次のとおりである。最初からはっきりと「反応・発展の個別化の促進」という目的を掲げていたわけではない。初めて演壇に立ち、「学生の注視を一身に受ける立場」11) になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。
 しかし、多人数の学生の前で仲間意識(ピア・コンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。社会教育施設でも、自由記述のノートを部屋に置くなどしておくと、いきいきと意見や情報などを交換している。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。
 その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下のほうに書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられた。
 学生のほうも、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」というよけいな思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためには、「出席ペーパー」はかなり役立ったようである。
 このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。
 ところで、中高年の社会人の人たちの中には(この場合、一過性の講義であるが)、「出席ペーパー」を書くことそのものに対する拒絶反応を示す人がいた。もちろん、社会人の場合、提出する、しないは本人の自由にしているのだが、何人かはわざわざ「出席ペーパー」の存在に対して抗議をしたためた「出席ペーパー」を提出した。「抵抗を感じる」「意味がない」などの一言ずつなので、詳しい気持ちはわからない。
 これは、階層社会で生きているうちに、自己の「個」を表現することを抑制するようになってしまった結果だろうか。あるいは、自分しか読むことのない日記を書くことによって自己洞察するようなことは、青年期をすぎるとあまりしなくなるのと同様に、他者からの賞賛を得ることのない「無益な自己表現」はしたくないという「実効主義」が原因になっているのだろうか。しかし、そうだとすれば、若者がいたずらに幸せの「青い鳥」を探し回っているというが、おとなのほうこそ自己の内なる確立(アイデンティティ)という本当の「青い鳥」はもう見つけられないのではないかという不安を感じる。もっとも、中高年の人たちの抗議は、初めて会ったばかりの若僧(講師としての私)などに、内なる自分の反応・発展などさらけ出せるものかという自我の主張の結果である可能性も強い。そうであれば、何も心配すべき問題ではない。

(4) 「個の深み」を考える
   −まとめと問題の所在−

 S短期大学(音楽系)とT大学(二部人文系)の実質三カ月程度の授業で、すでに「出席ペーパー」はファイル10冊以上になっている。それらのダイジェストを眺めているだけでもおもしろい。彼らの多様な関心事についての傾向がわかる。試験の模範的な「解答用紙」であったらまず見られない「個別の」感じ方、それまでの体験の蓄積、それと授業とをつなぐ感性、思考の自己発展などに散りばめられている。
 ところが、それが「個の深み」かというと、残念ながらそうとは言い切れない。表面的には「個別」であっても、最初に述べたように、本人も気づかないうちに現代社会の一つの側面としての「画一化」「没個性」の影響を受けていることがある。各人の認知構造が無自覚のうちに定められてしまっているのだ。たとえば、自分という人間を不自由にするような「思い込み」に塗り込められてしまっている。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。そんな「認知構造」を自己変革するためには、かなりの主体性が求められよう。それは、至難のわざのようにさえみえる。
 しかし、「自ら学ぶ」ことを信条としている社会教育は、個人の「自己解決能力」を信じるのであろうし、さらにはその「自己解決」を外部から支援する可能性をも信ずる。
 講義は「義を講ずる」ものというが、真の義はだれにもわからない。「個の深み」のごとく、多様な義があるのだろう。講義はそのような「個の深み」への多様な入口を、さまざまに刺激的に提示することなのではないか。したがって、「講」の旁(つくり)の部分の「相手が同じ理解に達するように」という意味は克服されなければならないと考える。教授者のもたない「深み」を学習者がもつように援助することが教育の営みなのである。それにしても、教育が「独習」にまさることがあると考えるわけだから、これこそ「教育からの学習への挑戦」とよぶべきであろう。
 率直に言って、一人ひとりの「個の深み」は現在の組織運営にはむしろ邪魔にさえなりかねない。だが、やっかいだけれどもそれとつきあっていく覚悟を決めなければならない。「個の深み」は、本人の目先の利益には役立つかどうかもわからない。だが、それを支援するのは今後の社会への教育の責任である。これを社会教育(行政)の新しい「公的」存在意義とよんでよいだろう。

[注]
1) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、平成二年三月、とくに一〇〜十七頁
2) 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、一九八四年、とくに五〇〜五一頁
3) 福原匡彦『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会、一九八九年、とくに三四〜三六頁
4) 島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、一九七四年、三四三〜三四六頁
5) 碓井正久編『社会教育』(戦後日本の教育改革)東京大学出版会、一九七一年、一一頁、二三一頁、二八二頁、三五九〜三六〇頁
6) 社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」、昭和四六年四月
7) 中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」、平成二年一月
8) 見田宗介他編『社会学事典』弘文堂、一九八八年
9) 山口明穂他編『岩波漢和辞典』岩波書店、一九八七年
10) 文部次官通達「公民館の設置運営について」、昭和二一年七月
11) ロンドン大学・大学教授法研究部(喜多村和之他訳)『大学教授法入門−大学教育の原理と方法』玉川大学出版部、一九八二年、とくに八六〜一〇五頁
12) 倉内史郎『社会教育の理論』第一法規、一九八三年、一三七〜一四〇頁に紹介されている。
13) 梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波書店、一九六九年、とくに一〜二〇頁

第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして




1 現代都市青年と情報
  −ヤングアダルト情報サービスの提唱−



はじめに

 私は、ここで、現代都市青年に対する公的情報提供の提唱をしようとしている。しかし、情報がむしろ多すぎる今日、それはいったいどんな意味をもつのであろうか。
 私自身、過去に六年間、東京都青年の家の職員として、青年と「何かをやる」楽しさを味わい、その意義も痛感してきた。主催事業を企画・運営するための実行委員会の中で、青年はぐんぐんと自己発達する。
 それに比べて、情報提供という公的サービスはいかにも消極的に聞こえもする。現代都市社会のさまざまな病理が、青年問題にも表れている時に、情報提供などという「消極的な」手段は強力な行政施策たりうるのだろうか。
 行政が青年のために価値のある講座を開こうとするならば、現代都市青年の問題状況を的確に認識していないと、テーマの設定さえおぼつかない。これに比べて、情報提供は原則として求めに応じて行われるものであり、行政の側が「選択」する要素は少ない。そこに、情報提供が安易に行われる危険性さえひそんでいる。
 本章では、現代都市青年にとっての「情報」の特質をとらえた上で(第一節)、公的情報提供がどんな基本的意義をもつのか(第二節)、どんな情報を提供するのか(第三節)を考えていきたい。そして、「ともに育つ」をキーコンセプトとして、青年の主体性を保障し発達させ、社会的要請にもこたえる統一的な青年政策としての情報提供論(第四節)を展開してみたいと思う。

(1) 青年と情報環境 


(1) −1 現代都市青年の情報不適応
 「企業人」にとっては、情報は死活問題である。駅のアナウンスという「情報」に対しても直線的に反応する。「整列乗車」などにおいても、大変秩序正しい。現に何らかのトラブルによる乗車制限などがあった場合、サラリーマンたちは苦虫を噛みつぶしながらもじっと黙って改札を待っている。朝の東京駅の混雑の中でもし誰か一人がつまづいて倒れても、その情報さえすみやかに提供されれば、後ろの人々はピタッと止まるだろうと言われているぐらいである。これは、道徳性の問題だけではなく、「公共的情報」(たとえば乗車制限)という刺激(S)に対する反応(R)すなわち直線的なS−R的行動様式が形成されている表れでもある。
 現代青年はそれとまったく対照的である。普通、彼らの多くは、駅や車内などの公共性、公衆性の強いアナウンスにはほとんど応じようとしない。とくに、高校生の傍若無人な振舞や言動はよく目にするところである。現代都市青年はこれらのいわばフォーマルな情報に嫌気がさし、価値を認めなくなりつつあると考えることができる。
 しかし、一方では、女性ロックシンガーが「みんな、手拍子してえ」とステージから呼びかけると、日本では聴衆である青年の大部分が律儀にそれに応じている。たとえその時、本人やシンガーのノリが悪くてもつきあう。他人の迷惑も省みず、雑踏の改札口で「友人を待ったり」「友人同士で話をしたり」するのも、じつは同じ志向の表れである。彼らは彼らなりに連帯あるいは同化を求めているのである。問題は、社会にあふれるとくにフォーマルな情報に対する彼らの「無関心」である。
 情報とは「或ることがらについてのしらせ」(広辞苑)である。情報の中には、人間の生存と安全、さらには認識の発達や社会性の獲得などの視点から見て意味があると思われるものもある。青年には「情報依存」の側面もあろうが、それは限られた範囲の情報に関してである。フォーマルな情報の中にも大切な情報が多数、含まれているのだが、それに対してはむしろ拒否的になっている。
 「価値ある情報」の入手のために情報技術を「便利な道具」として使いこなせるようになることが、情報化への「適応」といえよう。反対に、情報社会における多量の情報の中で、青年が窒息状況に陥り拒否反応を示しているとすれば、それは情報化への不適応現象ととらえるべきである。
 窒息しつつある現代都市青年にとって、息を吹きかえすことのできる情報とは何なのであろうか。彼らの情報化不適応に対して、情報過多の中でのあらたな情報提供は、しかもごくフォーマルな、公的機能としての情報提供は、いかにしたら意味あるものになるのだろうか。

(1) −2 青年をとりまく情報の特質
 フォーマルな情報に対して現代都市青年は「拒否的」である。それでは逆に、彼らに支持され、彼らを実際にとりまいている情報にはどんなものがあるか。その特質は、次の六点に集約できよう。
 第一に、少なくとも町に氾濫する若者向け雑誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。青年が社会や経済の活動から「役割猶予」されていることが、その大きな理由となっているのであろう。
 ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生の情報行動に関する調査によれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされている。(●図2−1)「生活情報」そのものとはいえないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。
 第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、その一つが、テレビ番組の全国ネットワーク化である。ネットワーク化された番組は視聴者に対して、居住地の地域性をよりいっそう捨象した情報を伝える。それは、青年の歓迎するところでもある。
 しかし、逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生にもわれわれは注目すべきである。「ピア」のような情報誌は、平日の夕方からでも急にその気になって映画やライブを見ることができるのが魅力の一つである。フラッと行くことのできない遠くの情報はいらない。だから「ピア」は「東京文化圏」の情報誌として発行されているのである。
 現在では、新宿、池袋のような繁華街から、渋谷、原宿、六本木、あるいは山手線の外の下北沢などへと、青年の関心とユースカルチャーの発信地が移っている。そこでは、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な情報誌が発行されて青年の支持を得ている。その他、アマチュアによるラジオ放送としてのミニFM放送局が増えつつある。これなどは、その放送範囲は半径五、六十メートルにすぎない。過密都市だからこそ、情報提供における分散化も成り立つのである。
 第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「ファッション」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。
 しかし、多様化と同時に画一化も進行している。青年一人一人の個性的なやり方よりも、「最大公約数」としての流行が、発行部数を伸ばすために優先される。
 一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。
 第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような情報都市においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来あいの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。これらの出来あいの情報なくしては遊ぶこともできない者もいるのである。
 その反面、情報化不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切な情報もあまりそしゃくされなくなっている。
 第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、意見や評価も排されてくる。たとえば、「ピア」の中では、たくさんの文化・イベント情報が、ほとんど論評を加えられずにびっしりと掲載されている。情報に、「余計な情報」としての他者の意見や評価が混じらなくなっているのだ。読者からの投稿などもあるが、それは別の頁か「はみだし」(欄外)で扱われる。情報誌の「本文」はあくまでも、「純化」された情報の羅列であり、それが読者の「本命的」ニーズでもある。
 第六に、「情報離れ」が進行している。他者の意見や「情」の混じらない純化された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(コミカルではない)が盛んになる。それ自体は多様で個性的な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。情報化は進展しているが、青年が自分の主張をもつために必要な情報を収集する意欲と能力は、むしろ衰退しているのである。
 ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向にもとづく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」をもっている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は目的ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。
 このように、現実に現代都市青年をとりまく情報には、さまざまな特質がある。これらを多面体(●図2−2)として理解したい。青年に対する公的情報提供とは、もちろん、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義をもつ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる情報提供は、それ以外の既存の情報からはあまり望めないからである。

(1) −3 情報の限界
 情報が多すぎて、その不消化、あるいは不適応が起きる。そして、自分で新たな情報をつくりだす「創造性」が失われる。このような情報過多の状況において、あらたに情報提供を加えようとする提言は、その意義自体に根本的な疑念をもたれて当然である。しかし、じつは、「情報が充分ありすぎるから、青年は自分で考えなくてすんでしまうのだ。現代都市青年の創造性を豊かにするためには、これ以上、情報提供などしないほうがよい」とは単純にはいえない。
 創造といえども、現在まで人類が獲得してきた経験と知識の蓄積が基盤となっている。この蓄積を伝達するものがすなわち「情報」である。その情報を取捨選択し、自己の体験と見識にもとづいて再構成したものが「創造」である。創造のためには、情報は基本的には豊かにあるほうがよい。
 情報それ自体の善悪はいずれとも決めつけられない。それよりも、「情報の限界」をはっきり認識しておくことが必要である。「情報の限界」とは、一つには「他者の経験や知識の伝達」といっても、完全には伝達できるはずがないことと、もう一つは情報が「自己の体験」そのものではないということである。
 たとえばテレビではどうか。番組作成のための取材の段階では、たくさんの関係する情報が集まる。しかし、実際の放映の段階では、短い放映時間に収まるようにごくわずかの情報だけが選択され、編集される。視聴者は「他者」が厳選した情報だけを受け取るのである。
 しかも、テレビカメラを通した映像と音声自体が、事実や実物の一つの「断面」にすぎない。事実そのものではない。たとえ「虚構」を前提とする演劇であっても、でかけて行って見るならば、演じられている事実そのものを見ることができる。しかし、テレビではカメラによって二次元に翻訳され、画面のフレームによって切り取られてしまう。端的にいえば、テレビ画面からは、われわれはブラウン管に走査線が走っているという「事実」だけは、確実に見ているのだ。自然のすがすがしいにおい、動物のふさふさした気持の良い毛の感触、逆に動物のくさいにおい、ぬるっとした気味の悪いさわり心地、それらはテレビでは伝わらない。
 テレビはもういらないと言っているのではない。テレビの「限界」が認識されてさえいればよい。ところが普通、自分が一度テレビで見たものについては、「(テレビで見たから)知っている」と過大な自己評価をしている。テレビの画面を、事実そのものと錯覚してしまっているのである。このことにこそ、問題がある。切り取られた情報のあふれた現代都市社会において、さらに新たに情報を提供しようとする場合、その情報も、不可避的に「限界」をもっている。情報によって何でもできるという「万能感」に陥ってはならない。青年が情報の限界に気づくこと、情報を提供する側もその限界をわきまえることが必要である。そのことによって、むしろ情報は豊かに使いこなすことができる。

(1) −4 情報能力と情報必要(ニーズ)をめざして
 一般に情報は、受け手の個性・世代を顧みず、成長段階の順序性を無視して流通する。しかも、「好ましくない」情報に対する社会的規制も実際にはあまり有効ではなく、また、表現の自由を侵害する危険性もある。情報能力の欠如のままで、このような情報が大量に流通するならば、青年にとって「役立たない」ばかりかマイナス要因にさえなる。
 情報能力とは、情報の獲得、処理、利用、加工、生産、提供に関する知識・技術の総体に関する能力であるといえる。この情報能力は、自分で主体的な認識と判断ができるという基礎能力を必要とする。現代都市青年の情報志向は強いとしても、情報能力は豊かとはいえない。
 それでは、青年はどのようにしてその能力を獲得することができるか。情報がいくら大量にあっても、それだけでは情報能力は育ちえない。青年自身が本当に情報を必要として、初めて、青年が自らの力で自らの能力を高めることができるのである。それでは、この情報必要(ニーズ)のさらにまた根源は何か。それはひとことで言えば、問題意識の存在である。すなわち、現在、自己や社会が直面している課題を自己の課題として主体的にうけとめていることである。
 そこには、生活、生産、趣味、生き方、社会などのあらゆる次元の課題が含まれている。その中でもとりわけ社会的課題に関する情報必要は、「非社会的な」現代青年にとってはかなり脆弱である。その他の課題に関しても、都市化社会におけるモラトリアムの延長、コミュニティの崩壊、パーソナルコミュニケーションの喪失によって、現代都市青年はたくさんの情報必要を失ってしまった。そのあとに求める情報とは、自己完結的、趣味的な情報とあたりさわりのないおしゃべり(「おしゃべり症候群」)のための情報ぐらいなのである。
 青年に対して機械的な情報提供だけを繰り返していても、抜本的解決にはならない。情報の多面体を全体としてより良く機能させるためには、青年の情報能力の獲得を意図的に援助する方策を考える必要がある。根本的に青年の意識や価値観の問題に真正面から取り組む必要がある。しかし、また、そういうポリシーを秘めて情報提供が行われるならば、その情報提供は真正面から取り組むための一つの有効な「手段」にもなりうる。
 たとえば「情報整理」は、どちらかといえば外在的作業である。たくさんの情報を得た上で、それを目に見える形で選択し、整理する。しかし、その作業は、情報に対処する方法に関する知識・技術を育てるばかりでなく、青年自身の認識を育て、青年の知的主体性を形成する。すなわち、情報整理という「外在的作業」によって「内在的な営み」が豊かになるのである。このように、外からの情報により、内なる問題意識も高まっていく。
 外からの公的情報提供は、そのことを期待し、しかも意識的、意図的にそれを援助する態度を明白に表しつつ行われるべきである。そして、その「意図」のもとに、現在の青年に欠けている情報、社会的情報、情報に対処するための情報などにとくに力を入れて情報提供することが必要である。
 まとめておこう。青年に対する情報提供を「実のあるもの」とするための一番大きな「支え」は、青年自身の情報能力と情報必要、それ自体であることは否めない。しかし、たとえそれらが今は成熟していないとしても、公的意図にもとづく公的情報提供は、現代都市青年の内面の奥深くで情報能力と情報必要を育てる独自の機能を発揮するのである。

(2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱−


(2) −1 情報の提供にともなう操作性
 情報は受け手にとってはタダという場合も少なくない。それだけに、他の商品のように必要なものだけが買われるのではなく、消費者が求めていないものまで、本人の属性や個性に関わりなく、流れ込んでくる。これは情報の「大衆化」の側面である。
 民主主義社会においては、公的情報だけでなく、これらの大小メディアなどの提供するさまざまな情報が豊かにあることが、市民の主体的な判断の基礎となっている。社会形成のための合意の基盤となるのである。これは情報による「社会的合意の形成」の側面である。
 このように情報は大衆性や社会性の側面をもっている。たとえそれが民間の情報であっても、それ自体が「公共性」をもっていると考えられる。
 ところが一方では、民間の情報は、それら情報提供者の「私的な目的」にもとづく「操作」の産物である。たしかに、現代社会では、特定の情報提供者が強制などの手段によって露骨な「情報操作」を行うことは少ないが、たとえばコマーシャルは、たとえそれが事実の組み合わせであっても、購入の拡大を意図して提供されていることには変わりない。市販の情報誌でさえ、該当する情報のすべてではなく、本がよく売れるように情報を選択し編集している。露骨な「情報操作」は排除することはできても、「操作性」そのものはあらゆる情報提供において避けることができない。
 それゆえ、新聞やテレビには「倫理綱領」などの自主規制が必要になる。これは、公的な色彩をもったゆるやかな「操作性」といえる。しかし、それをさらに行政が規制しようとすることは「自由の侵害」につながりかねない。基本的には情報は、公的情報を除いて、民間のさまざまな情報提供者と受け手との自由な相互作用に任されるべきである。
 行政が情報を提供する場合はどうだろうか。その場合も、同じく不可避的に「操作性」を帯びている。しかし、その「操作性」が純粋に「公共的な目的」にもとづくべきであるという意味で、独特の存在である。
 その情報が文化的、政治的内容のものも多い。文化情報、政治情報の提供において、行政の「操作性」は許されるか。青年の文化活動の紹介などは、なるべく広く該当する情報を提供すればよい。しかし、時には人間の内面に深く関わる情報も扱う。たとえば、現代都市青年の健全な精神の形成をめざす情報提供などは、ややもすれば青年の価値観への介入になる危険性がある。しかし、それを恐れて文化・政治情報についてパスするというわけにはいかない。都市社会のゆがみ、あるいは、地球規模のゆがみとして、行政も緊急に取り組まざるをえないのである。
 現代都市青年に対する行政の情報提供の目的は、「都市政策」と「青年政策」の二面性をもつと考えられる。都市計画づくりなどには、青年を含めた市民の自治能力の向上とそれによる合意の形成のための情報提供が必要である。これは、「都市政策」としての情報提供の一面である。また、青年の社会的病理現象に対処するために、青年の成長を援助するような各種の情報提供が求められている。これは、現代都市社会における「青年政策」としての情報提供の一面である。
 青年に対する公的情報提供は、この二つの「公共的目的」のために、その限定的な意味においては「操作的」に行われる。問題は、それらが「操作的か、否か」ということよりも、「公共的目的」をどのような具体的な「目標」として設定するのか、実際の情報提供が本来の目的に沿っているのか、そして青年に支持されない「ひとりよがりな操作」に陥っていないかということなのである。

(2) −2 青年の要求にこたえるヤングアダルト情報サービス
 都市化社会において「青少年健全育成」の必要が叫ばれるようになって久しい。しかし、過去の押しつけ的な「対策」では、多くの青年の無益な反発をよぶだけである。そこで、今日の青少年健全育成施策は、その反省のもとに、環境醸成などの側面的援助に重きをおくようになっている。情報提供もその一環としてとらえられる。「対策からサービスへ」の転換である。
 しかし、一方ではその前提としての現代都市青年の自主性、主体性そのものが欠けつつあるということも指摘されている。青年の自主性、主体性を尊重した「サービス」は意味をもつことができるのであろうか。
 カウンセリングについていえば、それは個人の心理的問題を当人自身の力で解決できるよう援助することを目的としている。そのためにカウンセラーは、「指示」をするのではなく、もっぱら「共感」と「支持」を与える。ノンディレクティブ(非指示的)といわれているカウンセリングの手法である。そのことにより、本人自らが自己の問題に気づき、自らを変革するのである。
 このように、カウンセリングは、自己の内面に大きな心理的問題をもっている人に対しても、その人間の「自己解決能力」に絶対の信頼を寄せて行われる。「情報提供」の姿勢も、それと同様の「信頼」が基礎となる。すなわち、「本人の今の課題に関連する情報をいろいろ提供するが、選択と判断は相手に任せる」ということにより、本人自らが認識を深化させるであろうことを信ずるのである。
 図書館についていえば、最近、ヤングアダルトコーナーの設置が少しづつ見られるようになっている。その先進的事例が東京都立江東図書館(現在は江東区に移管されている)であり、その担当司書の半田雄二氏は次のように述べている。「ふつう『読んでほしい本』と『読まれる本』は一致しないことが多いものです。しかし、大人から見れば未熟であっても、彼らには彼らなりの選択眼があり、けっして無原則に手を出しているわけではありません。読まれない本には、やはりそれだけの理由があるはずです。・・・読まれている本が、すべて読者の低俗な好奇心におもねるクズばかりと決めつけるのも危険です。大人たちがまだ気づかないだけで、数年後には中堅どころとして脚光を浴びているであろう作家が隠れていたりします。・・・」1)。そして、実際に、オートバイやヘビーロックに関する本なども提供しているのである。
 半田氏の問題意識は、児童サービスと成人サービスのはざまにいる青年の「図書館離れ」から発している。この「図書館離れ」は、青年の知的側面での主体性の欠如の表れともいえる。しかし、だからといって青年への働きかけを放棄してはいない。むしろ、青年をヤングアダルト、すなわち「若い大人」、知的権利主体としてとらえている。そしてその青年の要求にあった図書を提供しているのである。
 青年の自主性、主体性は現実には欠如しているかもしれない。これは、行政が青年に対して情報提供を行おうとする場合にも、大きな障害となるだろう。それでも、青年を「アダルト」すなわち権利主体ととらえ、まず、その情報要求に的確にこたえていくのである。
 私はこれを「ヤングアダルト情報サービス」として提言したい。そこでは、カウンセリングが本人の「自己解決能力」を信頼するのと同じように、青年の情報に関する「自己発達能力」を基本的に信頼する。そして、図書館のヤングアダルトサービスと同じように、「青年に知らせたい情報より、青年が知りたい情報を提供する」のである。

(3) ヤングアダルトのための情報 


(3) −1 提供する情報の基本的性格
 ヤングアダルト情報サービスが、青年の情報要求に的確にこたえようとするならば、そこで提供される情報は基本的にどのような性格をもつか。
 第一に「全面的」性格である。それは一つには、あることがらについての「右から左まで」のあらゆる情報を提供することである。提供側でまずプラスマイナスの価値判断をして選択した後の情報を提供するのではない。
 また、一つには、現代都市青年の喜怒哀楽に関するさまざまなことがらについての情報を提供することである。半田氏は図書館司書として次のように言う。「すでに趣味の固定してしまった成人に較べ、自己、そして自己と他者、社会、世界との関わりに日々新たな発見の喜びをもちうる青年の関心の領域は広い、青年の要求に応えうる素材をもった資料は捜せば結構あるはずである」2)。
 なんと積極的で生産的な感覚であろうか。われわれも、青年の多様な「文化」に応じた全面的な情報提供の展開をめざすべきである。
 第二に「今日的」性格である。過去の文化の蓄積を伝達することは必要であるが、それは学校教育や図書館などが役割を果たしている。これに対してヤングアダルト情報サービスでは、現代都市青年の「今、もっている情報要求」にこたえることが基本的要件である。一義的には過去の文化の「伝達」のためのものではない。
 そのためには、新鮮な情報の収集を怠れない。現代都市における動態的な情報を収集するためには、大変な苦労を要する。「今度、どこそこで○○サークルがこんなイベントをやる」などの情報を集めても、時がたてば次から次へと無用のものとなっていく。しかし、取りこぼされがちなそれらの情報や、青年個人のレベルでは把握の困難な情報を、新鮮なうちにリアルタイムに提供するからこそ、ヤングアダルト情報サービスは価値がある。これらは、今日の情報社会からも取り残され、疎外されている情報なのである。
 第三に「非文献的」である。青年の知的活動から生ずる「文献」に関する情報要求については、図書館のレファレンスサービスが専門的に対応できる。しかし、現代都市青年の興味・関心は、活字化されたものだけにとどまることはない。「活字信仰」にこだわるなら、すぐ青年に嫌われてしまう。
 もちろん、図書館のレファレンスにおいても、活字以外のさまざまなメディアが有する情報まで広く紹介すべきである。また、ヤングアダルト情報サービスのほうも、そこで知りえた独自の「文献情報」も提供する必要がある。しかし、後者のほうは、それよりも、人や組織、生活や遊びそのものまで紹介しようというのである。
 アメリカの図書館には、レファレンス(参考調査)サービスだけでなく、リファラル(照会)サービスまで行っているところもある3)。図書や資料だけでなく、図書館以外の機関や人材などの情報を図書館が把握していて、それを紹介してくれる。そのことにより、貧しい人々や高齢者などの生活そのものを援助し、読書に不利な人々が読書できる条件を確保しようとしている。
 現代都市青年にもアメリカとは違った意味だが、「知的貧困」「生活の貧困」がある。青年のこの新しい「貧困」の解決のためには、文書にされた情報にはとどまらない情報が必要になる。それは、たとえば青年に対して知的刺激を与えてくれたり、自己の生活を振り返らせてくれるような、機関や人材などのなまの情報である。
 第四に私は「おもしろ的」性格をあげたい。現代都市青年はよく「おもしろおかしく生きている」と批判される。「おもしろい」はそこではマイナスイメージである。しかし、「おもしろがる」ということは、言い換えれば知的好奇心などの人間性の発露であり、個人や社会の原動力の一つであるはずではないか。
 社会の成熟化の中では、大量の物的生産に恵まれながらも、その反面、人間性や生きがいを追求する努力が、これまで以上に必要となるだろう。そこでは、「まじめさ」「勤勉さ」だけでなく「おもしろく」生きられる資質も大切である。今日の現代都市青年が社会の主力部隊となる頃には、労働・余暇の双方において「おもしろがれる」資質が求められるようになるかもしれない。
 ここで言う「おもしろさ」とは、たんに「瞬間芸」を見るようなおもしろさではない。「おもしろそうだから、やってみる」という「参加性」、義務感や管理社会の束縛から逃れて「おもしろいからこそ、やる」という「自発性」が息づいている。
 ちなみに、ヤングアダルトへの魅力ある情報サービスも、サービスをする側が青年といっしょになって「おもしろがって」進めていくからこそ生まれてくるのだと思う。

(3) −2 青年が要求する情報と、青年に必要な情報
 「学習課題」は操作概念として、「要求課題」と「必要課題」に分けて論じられることがある。
 NHKの学習需要調査によれば市民の学習要求は、驚くほど、多様化、分散化している(●表2−1)。一〇%以上の人が「学びたい」としている項目は、全学習項目(三八七)のうち、四二にすぎないのである。顕在的関心(実際の学習行動率)に限ると、最高で華道の三%ということになってしまう。そして、七位以下は一%台、二二位以下は〇%台が続くのである。
 こういう状況のもとでは、社会教育で講座などを開こうとしても、大部分の人が実際に参加してくれるような、何か素晴らしい学習テーマがあるというのは幻想でしかない。また、そんなに多岐にわたる学習要求のすべてをテーマとして取り上げることもできない。それよりも、公共性のある学習課題や人間として共通に求められる学習課題を一番の根底に位置づけながら社会教育事業を進めるべきであるというのが「必要課題」重視の考え方である。
 ただ、その実際的な方法は未だ定説があるわけではない。たとえ少ししか人が集まらなくても「必要課題」を正面からテーマに取り上げて市民に問いかけることもあってよいかもしれないし、「要求課題」を配列しつつ「必要課題」に導くさまざまな方法も考えられる。あるいは「必要課題」とは、学習者が自己の要求にもとづく学習の過程の中で自ら気づくものであり、他者である行政が先回りして考える必要や権限はないとする者もいる。
 いずれにせよ、この「要求課題」「必要課題」の論議は、簡単にいえば社会教育をとりまく次のような環境が発端となっていると考えられる。
 今日の学習社会においてはとくに都市部で民間カルチャー産業が発展しており、学習要求が一定程度社会に存在すれば、その学習機会はそこが提供し、また市民も相当なお金を払ってでもそれを受講するようになっている。学習要求があるからといって、そのすべてを公的社会教育が準備し提供しなければならないという状況ではなくなったのである。
 さらに行政改革の観点から「持てる者」の「個人の利益」にとどまるような学習については、公税を支出してまでそれを保障する必要は認められないと財政当局なども考えるようになってきている。社会教育行政はきびしくその「公共的意義」を問われているのである。
 もちろん、これらの外的要因への対処のためだけに「要求課題」「必要課題」の論議があるわけではない。公的社会教育の内実が文字どおり「公的」であるためにはどうあればよいかという理念的な問題意識、そして社会教育の現場からの「市民の多様な学習要求のすべてに対応することは不可能である。どうすればよいのか」という実践的な問題意識も影響している。
 さて、同様な意味での「要求(ウォント)」と「必要(ニーズ)」の概念が、ヤングアダルト情報サービスのあり方を考える上でも役立つと思われる。
 もちろん、実際の情報の一つ一つを、この「要求情報」と「必要情報」に明確に区分したり、ましてやこの双方をつねに相反する存在として対置してとらえることはけっしてできない。とくに情報提供事業においては、ほとんどの「要求情報」をカバーしようとするものになるかもしれない。
 図書館のレファレンスサービスなどでも、できるだけすべての文献に関する問い合わせに応ずることが基本となる。レファレンスを行う者は「操作性」などほとんど意識していないのが現実であり、それは正当なことである。
 しかし、ヤングアダルト情報サービスでは、青年に対してどんな情報を提供しようとするのか。そこに生ずる「情報の範囲の選択」という「操作性」の正当な根拠を見出すためには「必要情報」の概念が有効である。青年に情報を提供することによって、何かをそこから学びとってほしいという、期待の中身を明らかにするのである。逆に情報過多社会において公的機関までが正当な「操作性」をもたずして、やみくもに情報提供することは、情報過多に輪をかけることになってしまう。
 私は「必要情報」の概念は情報提供の理論構築の上でのキーになると考える。情報提供できない情報の種類(特定の党派・宗派・営利団体の利害に関するもの、医学的判断を要するものなど)をあれこれ詮索するよりも、現代都市青年への公的情報提供の根拠としての「必要情報」の種類を明らかにすることのほうが本質的である。「必要情報」への発展の見通しをもちながら、青年のさまざまな「要求情報」にはば広くこたえていくことが必要である。

(3) −3 人間の情報
 現在、写真情報誌が数多く発行されている。過去の写真雑誌は風景や人物の撮影により、芸術的感性に訴えるものであった。それに対して今日の写真情報誌はむしろ「報道性」がその眼目になっている。これは、一見、人々の情報要求へのまともな対応のように思える。しかし、それだけでは現代都市の「社会的」現象としての写真情報誌の隆盛を解説することはできない。視覚に訴える点ではテレビ、報道の素早さならテレビやラジオ、詳しさなら従来の報道雑誌などのほうがよっぽど優れているではないか。
 じつは、極端な「覗き趣味」こそ、写真情報誌の核心ではないだろうか。この写真情報誌にテレビなどでよく知っている有名人が載っているとする。しかし、それはテレビ向けの顔でない。一人のあたりまえの人間としての生きざまを「覗き見」できる。これが隠れた魅力なのではないか。個人の私生活を暴露する「ワイドショー」などが視聴率を稼いでいるのと同様である。
 一方、現代人は、自分に関しては「匿名」でいることを望む場面が多い。その場合の「匿名性」とは、離れ小島に一人でいることではなく、自己のあり様を隠しつつも他者を覗こうとすることである。それは、人間が本質的に社会的存在であるがゆえに、他者との関係をあがき求めていることの表れとも考えられる。ただし、人間関係が疎外されている環境の中では、自己を明らかにすることが一方的不利益になるという認識があり、その「あがき」は空疎なものになってしまっている。
 もちろん、匿名性は自己保身のマイナス面としてだけ機能しているわけではない。一方では、過去の村落共同体の「監視」から逃れ、自由な存在としての自己を発揮する機能も果たしている。
 ヤングアダルト情報サービスが提供すべき人間情報とは、同じ人間としての他者の生き様を伝える情報である。その時、一次的には情報の提供を受ける側としての青年は「匿名」であってよい。その情報、その人間に対して非主体的であってもよい。そもそも「受け手」にとっての情報の魅力は率直に言って、それを「気軽に受け取れる」ところにある。
 しかし、言うまでもないことだが、そこでの人間情報は自己の情報を伝えられる本人が承諾しているものでなければならない。むしろ本人の「自負できる」生き様である。その面では「覗き趣味」情報とはまったく反対の性格のものである。かといって、装った表層的な言動でもない。あくまでも同じ人間としての喜怒哀楽を内に含むような「生き様」だから意味がある。そうであって初めて、情報の受け手に「共感」が生まれる。この「共感」が、人間情報を受け手にとっても「関わり」のある情報にし、人間関係を創出する能力をよびさまし、ひいては「匿名性」の逆機能を克服する。
 NHK教育テレビの幼児向けの番組の中に「パジャマでおじゃま」というコーナーがある(現在は歯磨きの様子もやっている)。これは、普通の幼児が一人でパンツ姿からパジャマを着終わるまでを放映するものである。バックにはリズミカルな主題歌が流れるだけの単純な構成である。実はこれはNHKが幼児のテレビ番組への関心の示し方の実証的分析を徹底的に重ねた上で開始したものであるという。大人が見てもけっこう面白いが、とくに幼児は同じ年代の普通の仲間のしぐさに関心をもつ。これが「覗き趣味」ではない「共感を伴った関心」である。
 現代都市青年に対しても、青年の社会化のために直接的な「対策」をあれこれ講ずる前に、自然にそれを形成するであろう「人間の情報」を提供することに力を尽くすべきである。

(3) −4 生活の情報
 今日、「青年がいかに生活しているかに関する情報」は大量に提供されている。青年の消費動向が社会経済に大きな影響を与え、また、将来の社会も青年たちによって担われること、そして、青年の社会問題が多発などの理由から、青年の情報について社会が関心をもたざるをえなくなっているのである。
 たとえば、青年の就職状況の情報などもそうである。さまざまな調査報告がだされている。また、青年の消費動向なども企業の市場調査の重要な対象になっている。
 ところがひとたび青年が自分の生活に必要な就職、消費に関する情報を探すとなると、今日の情報社会において、かえって難しい。たとえば、ある青年が就職や転職を考えたとする。青年の全国的な就職動向などはすぐ手に入る。しかし、その青年にとって知りたい情報とは、実際に社会でその仕事をしている人がどんな労働条件で、どんな働きがいをもってやっているのかということである。何時ごろ出社するのか。仕事はきついのか。帰りはいつも夜遅くなるのか。このようななまの情報を求めているのである。
 そして、青年自身の要求にはなっていなくても本当は必要、という情報もゆきわたっていない。最近、街頭アンケート商法、クレジット商法などで青年の被害が急激に増えている。各地の消費者センターなどが被害防止のための情報提供に努めているが、とくに青年にはまだ十分にはいきわたっていない。青年に売るためのコマーシャルやカタログ誌などによる「商品情報」ばかりが多いのである。消費者情報などの生活関連の情報は都市化社会においての「必要情報」といえるのだが、青年とは遠い所に存在してきた。
 これらの「生活の情報」は、ヤングアダルトに関する情報とは対照的な、ヤングアダルトのための情報といえる。

(3) −5 連帯の情報
 現代の青年に、尊敬する人や、期待にこたえたいと思っている人を尋ねると、「親」という回答が非常に多い。しかし、「こんな人になりたい」というモデルについては、「なりたいと思う人はいない」という回答のほうが多い。(●図2−3)
 過去の家族においては、手伝いをずいぶんさせられたり、きびしく叱られたりして、子どもにとっては心地良いだけの場ではなかった。しかし、少子家庭が増えたことなどから、今日の子どもは「大事に」され、家庭が最も居心地の良い場に変わろうとしている。それは青年期にまで引き続いている。アルバイトはしても、そのお金は全部、自分の小遣いとして使ってしまってよい。多くの現代都市青年にとって、家庭は、少なくとも今は、一方的に恩恵を受けることのできる場なのである。
 「友人関係」についても趣味を同じくする者同士の「情報交換」や、気の合う者同士のたわいないおしゃべりはある。しかし、他者の人生に踏み込んだり、それによってぶつかりあったりはしない。だから、人間に対する深い洞察にはつながらない。「情報交換」のレベルの無難なつきあいである。
 これらのことは「○○し合う」という本来の意味での人間関係の希薄化を表している。このような状況をそのままにして情報化が進み、人間関係をもたずして必要な情報が手に入るようになるならば、事態はますます悪化するだろう。
 そこで、ばらばらに「たこつぼの中にいる」現代都市青年に対して、意識的に「連帯の情報」を提供することが必要になる。そのうち最も直接的効果をもたらすと思われるものは、同世代のグループ活動や世代横断的な集団活動の紹介である。これらの集団のあり方や進め方に関する情報も必要である。
 しかし、なにがなんでも集団情報という姿勢では、青年はそっぽをむいてしまう。これらの情報をふんだんに提供するとともに、もっと「個人的」なつながりなども含めた、ありとあらゆる人間関係の機会と方法を豊かに提示することが大切である。ヤングアダルト情報サービスには、個人レベルの連帯までカバーするきめ細かさが求められている。

(3) −6 地域情報と行政情報
 一般的にいえば、現代都市青年にとって、「要求情報」から一番遠い所にある「必要情報」が地域と行政の情報であろう。青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。非日常志向は、青年期の独自の発達課題の表れの一つでもある。
 しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そのためには、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくことができるよう援助する情報提供を実現したい。
 第一に、これらの「必要情報」が現代都市青年に充分には提供されていないという現実を認識すべきである。民間情報はもちろん、行政機関からのこれらの情報提供も少ない。たとえば遊休地のリストなど、都市計画の手の内をもっとさらして市民の議論をまきおこしたほうがよいのではないか。とくに青年に対してのそれらの情報提供は、彼ら自身の沈黙のせいもあるが、おざなりになってしまっている。青年向けの施設の設置なども、青年関係者の意見を聴くことはあっても、広く普通の青年に訴えて議論をよびかけることは少ない。
 これらの情報提供は、青年の眼を地域や行政に向ける契機の一つになるはずである。とくに十代の青年たちには、自治への発言の場がほとんどない。自治のトレーニングの場としても、そういう場が必要である。
 もちろん、いやがる者に無理にその情報を押しつけることはできない。広報を充実したり、問い合わせがあればそれにこたえる「構え」をもっていればよい。そのため、なかなか反応がないかもしれないが、少なくとも「害」にはならないのだ。
 第二に、今あるこれらの情報をもっと開かれたものにしたい。地域情報、行政情報は、それぞれの地域と行政の「独自の課題」を示す情報である。しかし、それは偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」にもとづくものであってはならない。情報の特性は、「風」となって他の地域にまでいきわたるところにある。これを活かして、地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報はつねに他の情報と行き来する「開放性」があって、すなわち「風」が吹いてこそ、根腐れせずに生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」に関心を示さないことは、あながち不当なこととはいえない。
 たとえば幹線道路問題などがそうである。自らの地域に該当する部分を考えるだけの住民運動や自治体行政では、本当の解決にはならない。視野が狭くなって、住民エゴや地域エゴに陥ってしまう。他の隣接地域ではどういう問題が起きているか、どのように解決しているか、広域的にはどのような必要性と問題性があるのかを理解し、さらには自らの地域の情報も積極的に外に広げていくことによって、主体的判断にもとづくいきいきとした活動ができるのである。
 今はその地域に住んでいるが、いつか転出するであろう青年たちに対しても、地域は開放的であってほしい。十年後、二十年後にどこかの地域のスタッフになれるよう、今の地域が青年たちの「巣立」を援助すると考えてほしい。それは、閉鎖的地域主義に対する開放的地域主義である。
 第三に、非日常としての魅力をもった地域情報、行政情報を、地域の中に「風」として吹きわたらせたい。
 現代都市青年は、きまりきった情報にあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りたかもしれない。しかし、今日、住民が地域社会に関わる場合、自発的行為であることが多くなっている。何らかの形で情報を得て、魅力を感じた場合に地域に関わる。そういう地域活動の形態は、現代都市コミュニティの新しい理念型といえる。
 本来、地域社会はダイナミックで人間的な場である。それは現代都市社会に生きる青年にとっては「新しい非日常」になりうる。今は地域に埋もれてしまっているその魅力を拾い上げ、情報の「風」として地域に吹きわたらせることが求められている。

(4) 青年とともに育つ情報サービス


(4) −1 「ともに育つ」情報提供
 青年は行政の広報をあまり読まない。彼らは、それを「つまらない」「役に立たない」と思っているのではないか。
 いうまでもなく、広報は市民の行政への理解と発言(広聴)を求めるために必要である。しかし、行政自身が市民に「何とか読んでもらいたい」と思っているだろうか。「広く知らせること」が、行政にとっての切実な願いになっているだろうか。読まれようが、読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけでは広報の「中身」も育たないのである(最近は、その面での改善は、各所で見られるようになってきているが)。
 つねに競争にさらされる民間誌は「読んでもらう」ことを切実に願っている。読者のニーズを敏感にとらえて中身を構成し、グラビアやイラストなどの外観でも人の目を引こうとしている。たとえば、自分たちの意思で発行しているミニコミ紙でさえ、「いい『情報』を読んでもらうためには、その『いい情報』を少し減らしてでも、手に取って読んでもらう努力が必要です」4)として、その第一面の大部分をイラストで飾ったりして、親しみやすい紙面を工夫しているのである。
 民間の情報提供には、このような「市民感覚」がある。それは、フィードバックを活かして情報提供の中身をすみやかに改善することにもつながっている。こうして、情報提供側にも「市民感覚」が育っていく。ヤングアダルト情報サービスは、この精神に習うべきである。「青年感覚」が必要なのである。
 「青年感覚」とは、現代都市青年の情報ニーズを理解していることである。そのことによって初めて、彼らに「関係のある」情報を提供することができる。しかも、それは、青年からのフィードバックを高める。情報提供側の「市民感覚」「青年感覚」は、そのことによってますます育つのである。
 民間の情報提供は「市民感覚」そのものであるが、それでは公的情報提供はそれよりもつねに劣っているのが宿命なのか。けっしてそうではないだろう。
 民放の教育番組に関する自主的な連絡調整団体ともいうべき「民間放送教育協会」は毎年、全国大会を開催している。そこで毎回のように、フロアのお母さん方から、「俗悪番組を少なくして、その分、教育番組を増やしてほしい。それをゴールデンタイムに放映してほしい」との注文が出る。そして、この注文に対していつも壇上のディレクターたちは「これでも頑張っているつもりである。教育番組の低い視聴率を考えると、これでもせいいっぱいの努力である。ゴールデンタイムに放映するなど、とっても無理である。あとは、たくさんの皆さんに見ていただいて視聴率を上げるしかない」という趣旨の受け答えをする。彼らは、放送の「公共性」を実現するために、精いっぱいの努力をしているのである。しかし、民放としての性格上、視聴者の表面的ニーズに対応できたかどうかを数量的に示す視聴率にも縛られざるをえない。
 ヤングアダルト情報サービスは、これとは基本的に性格が異なる。青年の表面的ニーズにこたえる情報提供だけをするのではない。「必要情報」を提供することもその本来の責務である。そこに民間とは違った公的な意味がある。
 ただし、これらの「必要情報」の判断、収集、選択、提供においても、説得力がなければならない。「押しつけ」になってはいけない。現代都市青年の感覚と遊離した感覚で、青年にとっての「必要」を社会や行政が設定しようとするならば、そこで設定された「必要」と青年自身が考える「必要」とが対立してしまう。
 今日まで人類の獲得した発展の多くが、人間のなまなましいニーズから生まれたものである。今の青年のニーズをないがしろにしてはいけない。もちろん、大切にすべきニーズの中には、今までの社会にすでに形成されている行政や大人たちのニーズも含まれる。しかし、現代都市青年の今のニーズの中には、将来の社会のニーズがすでに「遺伝子」のように用意されているのではないか。たとえば、すでに述べたように「おもしろい情報」の要求は、「参加性」や「自発性」の原初形態であり、将来の社会のニーズの本流になる可能性も秘めている。
 ヤングアダルト情報サービスがなぜ「必要情報」を提供しようとするのかといえば、それは、青年が自ら気づき、「要求情報」の中でもとりわけ必要な情報を「要求」できるようにするためなのでもある。したがって、「必要情報」の提供においても、一方的に青年に教える立場ではなく、今の青年の「要求情報」を大切にして、そこから行政は学びながらも、青年に問題を提起し、彼らの自己成長を期待するというともに育つ姿勢が大切である。
 たんに情報処理システムやそのための行政システムだけを先行させるのならば、ヤングアダルト情報サービスは成功しないだろう。その前に、既存のさまざまな公的情報提供を担当する職員が、もう少し現代青年の感覚をリアルに認識していなければならない。

(4) −2 ネットワークとインフォメーションリーダー
 情報の収集から提供にいたる作業には人間の認識を育てる作用が内包されている。したがって、ヤングアダルト情報サービスには青年の参加が望ましい。情報処理の作業の「代行」を行政がすべて請け負ってしまってはいけない。行政の青年政策への青年自身の参加一般も大きな意義をもっているが、それとは別に、情報提供においての青年の参加は独自の教育的意義ももっているのである。
 青年参加の具体的なシステムとしては、情報モニター制度を設けてフィードバックを図ったり、企画委員会や運営委員会などへの参加を求める方法がある。しかし、モニターや各種委員は限られた青年である。そのため、参加する者の範囲を広くし、中身を豊かにする「鍵概念」として、「ネットワーク」が注目される。また、ネットワークそのものの「鍵」も「情報」である。
 ネットワーキングとは、それぞれの人やグループや機関が、それぞれ自立的な価値をもちながら、連携することであるととらえられよう。そして、その連携は固定的ではなく、ゆるやかで自由、自発的なものである。5)
 質の良い新しい情報も、まり、「固定」からは生まれない。ネットワークシステムにおける青年の流動的参加にこそ、創造的成果が期待できる。流動的であるから、参加する青年の顔ぶれや参加の内容、形態がつねに移り変わる。参加の「形式」より、参加する者の個別な「中身」を重視するのだ。
 この論には現実論からの反駁が予想される。それは、無関心な青年が多い中、ごくわずかの委員を募集することでさえ容易ではないのに、そんな「不特定多数」の自発的参加が望めるわけがないというものである。
 しかし、現代の情報の特性は青年の参加をいざなう新しい可能性をもっている。
 一つの可能性は「インフォメーションリーダー」ともいうべき青年たちの存在である。彼らは、情報化社会に新しく登場した情報保有者および発信者である。コミュニティの崩壊の中で、近隣関係などのパーソナルコミュニケーションは弱まってしまった。しかし、それに代わるコミュニケーションの良き仲介者として新しいインフォメーションリーダーが誕生してきたのである。
 従来のリーダーには、奉仕的精神や、時には自己犠牲的精神が求められてきた。しかしインフォメーションリーダーは、ものごとに対して好奇心が強い者、おもしろがることのできる者である。だから新しい情報をもっている。彼らはグループリーダーそのものにはなりえないかもしれない。しかし、その開放的で先取的な性格は、インフォーマルなグループのアンテナの役割を果たしているのである。
 ヤングアダルト情報サービスが彼らにとって魅力があれば、彼らはこれに参加するだろう。彼らの自発的参加によって「青年感覚」にあふれたダイナミックな情報の収集と提供ができる。そして、彼らは、インフォーマルな影響力をもっているのであるから、この情報サービスの存在と、そこで提供される情報は、彼らを通してインフォーマルなグループの中に広がっていく。それが、今まで行政には「縁がなかった」ような広い層の青年の参加をよびおこすことを期待できるのである。
 ヤングアダルト情報サービスは、インフォメーションリーダーのインフォーマルな影響力に期待する。彼らの影響力は、団体のリーダーのような指導的なものではない。対等な立場で他者に対しても「自立的価値」を求め、その個人的なつきあいの中で、価値のある情報や楽しい情報を発信するネットワーカー的なものである。

(4) −3 パソコン通信の活用
 青年の参加をいざなう現代の「情報」の特性のもう一つの側面として、情報技術の高度な発達があげられる。中でも私は、パソコン通信に注目したい。パソコンと電話とそれをつなぐモデムがあれば、あとは通常の電話料金の負担だけで、在宅のままリアルタイムな情報の入手と検索、そしてそれ以上の魅力として「情報の発信」ができる。実際、いくつかの商業ネットは、ホストコンピュータにつなぐ電話回線をたびたび増設しているが、それでもいっぱいになるほどの利用率を誇っている。検索主体のキャプテンシステムが、企業にはともかく、青年にはあまり活用されていないのとは対照的である。
 他の事業の企画への参加と異なり、情報については、現代の情報技術をうまく利用すれば、それほどの覚悟なしに気軽に参加でき、しかも直接、主体的参加ができる。ネットワークが「情報」を「鍵概念」とする理由の一つも、この情報の「魅力」にあるのだと考えられる。
 だが、そうは言っても、パソコン通信で青年が発信する情報の内容に全面的に期待できるかというと、実は残念ながらそうではない。
 商業ネットの一つ、アスキーネットワークの中に、ブレティンボード(掲示板)システムというのがある。ここにさまざまなテーマのボードが設定されている。メンバーは、自分のパソコンから、好きなボードに自由に意見を書き込む。
 その一つに「グッドアース」というボードがあった。地球的規模から核兵器、環境、人口爆発、エネルギーなどの問題を考えようとしたものである。ところが、半年でたった二七件しか書き込みがなかった。これに対して喫茶店、アニメ、コミック、アイドル、SFなどは千件以上の書き込みがあり、二千件を越えるところすらあったという。青年が情報ネットワークに参加するといっても、たわいないおしゃべりが多いのである。
 「グッドアース」については、不活発(すなわちニーズが少ない)という理由からシステムオペレーターのアスキー側から閉鎖を通告された(昭和六一年秋)。これに対して関根章郎氏が、廃止反対のよびかけをボード上で展開した。それを契機に他の青年からの書き込みが増え、「こんな本が良かった」という読書情報が交換されたり、その感想を述べあう「電子読書会」がボード上で開かれたりした。このようにして、「グッドアース」は結局、継続されることになった。
 ヤングアダルト情報サービスにおいても、パソコン通信を活用したい。そこでは、「くだらない情報」を排除しようとするものではないが、「好ましい情報」なのに反応が少ないからといってそれを排除するものでも、もちろんない。「必要情報」も提起しながら、情報の中身をともに育てることができるところが、公的情報提供の良いところである。
 なお、関根氏によれば、株式会社アスキーは「グッドアースの廃止宣言」によって、青年が発信するふがいない通信の中身にショックを与えようとしたのではないか、とのことである。時には、このような緊張関係の演出も必要なのかもしれない。

(4) −4 情報ユースワーカーの役割
 現代都市青年は「情報不適応」を起こしている。それにさらに追い討ちをかけるようなヤングアダルト情報サービスであってはならない。そのためには、もう一つのファクターとして、人間、すなわち情報サービスを青年につなぐ「情報ユースワーカー」の存在が必要になる。
 青年のための情報処理とは、情報をコンピュータで「交通整理」すれば済んでしまうという性格のものではない。担当者という人間の意識が介在する。その人自身に、「青年感覚」が求められる。この感覚をもっている職員が情報ユースワーカーである。
 ヤングアダルト情報サービスにおけるユースワーカーは、青年の情報不適応に共感と支持を与えることさえあってよい。きわめて人間的な機能を発揮する。たとえば、青年担当の社会教育主事、公民館主事もその一員であろう。一般行政施策などの意図に縛られずに、情報サービスを自律的に、しかも、ともに育てていく。ワーカーの役割は次のとおりである。
 一つには、カウンセラーとしての役割である。青年の情報摂取者としての自立を助け、都市化や情報化などによるパーソナルコミュニケーション能力の喪失の自己回復を援助することが求められるのである。そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法を適切な時に有効に活用する能力が必要である。
 グループワーカーとしての役割もある。一対一の関係を原則とし、しかも相手が人生の問題をかかえていることを前提とするカウンセリングよりも、むしろグループワークのほうが情報ユースワーカーの日常的役割に近いかもしれない。さらに、グループワークの中でも、神経症者を対象とするグループ・セラピィより、健常者の自己啓発を求めての主体的参加を前提とするエンカウンター・グループのリーダーの役割に近い。
 グループ・セラピィにおいては、「セラピストは先ずメンバーの依存の対象である」。これに対してエンカウンター・グループにおいては、「(そこまで)各メンバーとのつながりはつよくない。メンバー個人よりはグループ全体とのつながりが強い。セラピストといわずファシリテーターというのはその意味である。つまりセラピストが舞台監督とすれば、ファシリテーターは舞台装置家という感じである。場面設定者という感じである」。そして「メンバーの役割もこなす」。6)そこには、理念でも、形態でも、実践でも、「ともに育つ」姿勢がある。
 そもそも、エンカウンター・グループは、都市化、情報化が進んで人間どうしのなまの触れ合いが少なくなり、その能力さえ失いつつある今日の時代における、危機意識に満ちた取り組みといえよう。そこでは「極端」なまでに本音がぶつかり合う。
 その世界を情報ユースワークにそのまま持ち込めば良いとはいえない。ただ、青年の情報不適応にきちんとこたえるためには、エンカウンター・グループでいうようなファシリテーターの役割がどうしても必要なのである。なぜなら、現代都市青年の情報不適応は情報社会の中での人間復活の叫びであり、これに根底的にこたえるためには、人間関係創出の「舞台設定」以外にその本質的解決はないからである。

(4) −5 情報サービスと「教育的役割」
 情報ユースワーカーは「教育的役割」ももっている。しかし、すでに述べたように、青年の主体的営みこそが青年の主体性をはぐくむ。だからこの場合の「教育」もけっして「教え諭す」ものではない。原則としては、青年の求めに応じた「援助」であり、青年の主体性を尊重した上での「きっかけ作り」である。そのためには、良い情報提供のできる能力と、ファシリテーターとしての資質を備えていなければならない。
 しかし、そういう「援助」だけでは不充分である。実は、青年の主体的な情報取得と判断を援助するためには、青年の求めるままには応じないことも必要な時がある。たとえば、青年の問いに対する答えがわかっていても、情報提供側の判断によっては、それを教えない時があってよい。青年が自分で解答を見出せるように、それを調べる方法だけ教えるのである。ただし、「教えるべきか」「教えざるべきか」の判断はけっして機械的にはできない。だから、その判断ができる情報ワーカーがいない場合は、わかるだけの情報をすべて機械的に提供したほうが無難かもしれない。
 ワーカーのいる場合は、時には「回答拒否」もありうる。新聞社の人に聞くと、「ナポレオンは何年に死んだか」などという青少年らしき者からの問い合わせがけっこう多いそうである。「当社ではそこまではお答えしていません」と答えると、心外な様子でガチャンと電話を切ってしまうという。自分で調べればわかる宿題などでも、電話のほうが簡単だからと気軽にかけてくるのである。
 ヤングアダルト情報サービスにも、きっとそんな問い合わせがくるだろう。そんな時、それに巧みにつきあうことがあってもよいし、「回答拒否」をしてもよい。ワーカーが有効と判断するほうをとればよい。「拒否」をする場合も謝る必要はない。本人が自力で調べることができるかどうか確認した上で、自分で調べるよう求めればよいのである。そのためには教育的配慮をもち、教育的判断ができ、そして青年との関係(リレーション)をあとでフォローできる能力と資質が必要になる。
 このように、ヤングアダルト情報サービスに情報ワーカーの存在があってこそ、「ともに育つ」ことが保障される。「ともに育つ」ということは、青年が行政におそるおそる情報を「もらいに行く」ことでないのはもちろんだが、行政が青年に「へつらう」ことでもない。対等でしかも緊張した関係こそが、ともに育つ内実を豊かにするのだ。
 情報ユースワーカーのもう一つの役割として、行政と青年をつなぐ「行政職員としての役割」をつけ加えておきたい。ワーカーの「自立性」を拡大解釈して行政職員としての要素を否定しようとするよりも、行政職員としての責務と可能性をむしろ充分に発揮しようとするほうが、現実的で有効である。
 たとえば、ヤングアダルト情報サービスの中には、行政の立場からの「青年への情報提供」もあったほうがよいことはすでに述べた。そのためには、ワーカーは、都市計画などについても知っておかなければならない。逆に、青年の意思を行政に反映させるための「行政への情報提供」も必要となる。行政内のスタッフとして、行政に提言するのである。そのためには、その問題の行政施策全体から見た位置づけを把握し、かつ、具体的に窓口やルートを知っていなければならない。
 行政と青年の間にいる職員として、両者の緊張関係を調整したり演出したりして、行政と青年が「ともに育つ」ようにつなぐことも、情報ユースワーカーの役割なのである。

(4) −6 情報と知的生産
 現代都市青年の「モノ離れ」は、よかれあしかれ、ソフト化社会、成熟社会において避けられない傾向であろう。モノの実用性よりも、個人の内面的な価値観や他者からの情報によって価値判断がなされる。
 たとえば、おしゃれに関する青年の「ブランド志向」は、たしかに特定ブランド商品というモノへの志向として表れている。しかし、その一番の価値基準は着ごこちでないばかりか、外観ですらない。一番の基準は、ブランド名なのである。そして、そのブランドが良いかどうかは、自己の体験ではなく他からの情報により決定される。モノ自体より、それを一側面から「切り取った」結果としての情報(「原宿で、はやっている」など)に判断の基準を見出す。そして、生産者側も、物的過剰の時代において、もっと消費を拡大するために情報重視の戦略にますます傾いていく。
 しかし、この「モノ離れ」と「情報重視」の傾向も、「多面体の一面」としてとらえなければならない。たとえば、今日の「食」は一方では大量宣伝にのったファースト・フードなどの食「文化」を生み出している。その反面、今日ほど人々が主体的、意識的に健康食、自然食に取り組んでいる時代は過去にない。有機農法、無農薬の食料を求める底流には、人間が食を媒介にして大地とどう関わりをもてばよいかという根源的な問いがある。自分一人の健康を守るだけの「健康食志向」から、地球の生態系に責任をもち、人間らしい生き方を問おうとする「自然食志向」のムーブメントに発展してきている。そこにも、人間どうしの情報の交流が見出される。そして、他者からの情報を、知的、主体的に受けとめた上での、食の「文化」が形成されようとしている。
 このように「モノ離れ」と「情報重視」には積極的側面もある。そのもう一つの表れとして、モノの生産ではなく個人の「知的生産」への志向があげられる。
 梅棹忠夫は、「知的生産」という言葉について「人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合」7)とした上で、「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらにはしらされる、ということにもなりかねない」8)として、「個人の知的武装」の意義を強調した。情報は、組織が個人を管理する道具にもなるが、個人の自由な知的生産の手段にもなるのである。
 ヤングアダルト情報サービスが関わる知的生産とは、青年自身の手による調査・研究・開発であろう。講座の開催だけでは、その援助はできない。青年の知的生産への、もっと個別的な対応が必要になる。それが、情報提供と研究相談である。そこで生み出され、収集・整理・提供される情報は、そもそも青年のつくりだした知的、かつ主体的な情報であるから、今日のあり余る情報の中でも、とりわけ価値をもっている。
 それだけではない。「知的生産」は日記などを除いて、その大部分が他者に自己の知的生産物を提供する目的で行われる。形態としては「個人的行為」であっても、根底に流れる意図からいえば「社会的行為」である。
 ヤングアダルト情報サービスによって、この知的生産の「社会性」を強化することができる。それは、一つには、個々の青年の知的生産の相互を結ぶ。もう一つは、それらの知的生産を情報サービス自体に還元する。さらには、知的生産の結果を、行政や社会全体に知らせ、つなげていく。
 青年の知的生産という創造的な営みのネットワークによって、ヤングアダルト情報サービスは、創造的で人間の臭いのする魅力ある情報の発信源となることができるであろう。それは、現代社会がなかなか実現できないでいる情報社会の理想の方向を示している。

 「情報」の「情」には、「ありさま」という意味がある。青年が必要なさまざまなことがらの本当の「ありさま」を知らせる情報は、情報過多の都市社会においても、思いのほか少ない。そして、この「情」は、「こころ」としての「情」とけっして対立的なものではない。ヤングアダルト情報サービスは、現代都市社会に欠けがちな二つの「情」を豊かにする試みである。

2 パソコン・パソコン通信と青年
 −成熟したネットワークとは何か−



(1) パソコンの急速な普及と未成熟性


(1) −1 青少年から始まったパソコン
 カリフォルニア州のシリコンバレーでは、六〇年代以降、トランジスタからICへ、そしてLSI(大規模集積回路)へと、急ピッチな技術革新を迎える。その技術的基盤の上に、一九七一年、4ビットのマイクロプロセッサーが出される。マイクロプロセッサーに記憶部と入出力部を加えれば、マイクロコンピュータ、すなわちマイコンになる。
 しかし、当初すぐ日本のコンピュータのメーカーが、このマイクロプロセッサーをマイコンとして活用しようとしたわけではない。大手企業が家電製品の中ににマイクロプロセッサーを組み込むということはあったが、コンピュータメーカーが個人用のコンピュータなどというものを本気で考えるようになったのは、ずっと後の八〇年代からである。
 早くからマイクロプロセッサーをマイコンとして使おうとしたのは、青少年を中心としたホビイストたちである。そういう人たちに向けて、ごく小さな会社が「キット型マイコン」を売り出したのであった。つまり、初めにマイコンに飛びついてこれを広めたのは、企業の大人ではなく、巷の青少年だった。しかし、そのころのマイコンブームは、秋葉原などの露店を拠点としたごく一部の人々によるものであった。
 その後、八〇年代に入って、ようやく日本でもキーボード、ディスプレイ、BASIC言語などを備えた使いやすいマイコンが出回るようになり、以降、それは大変な勢いで普及している。これが、今日では「パソコン」(パーソナルコンピュータ)とよばれているものである。
 この普及のきっかけになったのは、日本で初めてベーシック言語を搭載したパソコン(日本電気のPC8001)である。これは、ゲームセンターで「インベーダー」が大流行した一九七九年に発売された。しかし、ここで搭載されたベーシック言語も、また、大学中退の青年たちが創設したベンチャー企業のアスキー社がアメリカから持ち込み、メーカーになんとか採用してもらったものである。
 また、今日のパソコンソフトの主要な一環である「表計算ソフト」も、一九七九年、社員わずか二名のアメリカの会社から「ビジカルク」が発売されたのが最初である。これがマイコンを有能なパソコンに変えるソフトとして、以降のパソコン利用に大きな影響を与える。パソコン文化は、従来の商業文化よりははるかにアマチュアやベンチャーの文化であり、そのユーザー寄りの発想が新しい文化をつくりだし、既成のメーカーはその後を追ってきたということに注目したい。
 しかし、当時のパソコン利用の中心は、何といってもゲームであった。一九七二年という早い時期に、米国アタリ社から「ポング」(ピンポンゲーム)が売り出されているが、その後、日本では「ブロックくずし」「インベーダー」「パックマン」といったLSIゲームが青少年の間で大当たりした。これらのゲームがパソコンに移植され関心を呼ぶことになったのである。
 数年来、パソコン通信をやっているSさんは、インタビューで次のように語っている。「(一九七九年にPC8001を買ったが)まったくのゲームマシンでした。というか、そのころはやはりマシンがおもちゃにしかすぎなかったんですね。それでベーシックでプログラムを組んだり、雑誌に出ているマシン語のプログラムを入力して、非常にスピードの速いインベーダーを組んでみたりとか、そういうレベルでまあ面白かったわけです。それでもけっこう時間をくってましたね」。
 このように、当時のパソコンによって、Sさん自身の言葉を借りれば「機械と人間との対話が成立」し、「ハイテク志向というか、コックピット症候群というか、少年のころ抱いていた憧れが、ついに手に入ったという感動」を青少年は味わったのである。

(1) −2 パソコンの機能と新しい文化
 八〇年代以降、パソコンは急激に普及する。本体だけならステレオを買うような値段で買えるようになったからである。しかも、従来の家電製品と違って、多機能である。
 パソコンは汎用的なので、その機能はどのようにも解釈できる。しかし、技術的視点はおくとして、社会的、文化的な視点から、私はパソコンの機能を●表2−2のように整理してみた。
 今や、パソコンは青少年の専売特許ではない。表のようなパソコンの多機能化、高機能化が、とくにキャッチアップ志向の人々の関心をひき、大衆化が促進されている。
 そして、文化が「後天的・歴史的に形成された、外面的および内面的な生活様式の体系であり、集団の全員または特定のメンバーにより共有されるもの」(クラックホーン)だとすれば、ここには新しい特殊なパソコン文化というべきものが存在しているということができる。ここでパソコン文化とは、「パソコンの発明と量産・普及という技術的条件によって、新しく生まれつつある生活のスタイルや価値観」としておこう。
 そもそも、パソコンは、仕事をさせる手順書(プログラム)によって、無数の種類の仕事をさせることができる機械である。パソコン文化の新しさの最も基本的な要因となっているのは、この「汎用性」である。
 第一に、「汎用」であることから、一人一人の個別な要求に沿って、多様な仕事をすることができる。従来の大量生産、大量消費による文化の「画一性」とは、様相を異にする。パソコン利用の「個別性」は、今後今までのマス・メディアが色あせて、より分権的、個別的なニュー・メディアが盛んになると予想されていることと、基本的には一致する。(個別性)
 第二に、「汎用」ということから、パソコンという与えられた箱だけあっても、何の役にも立たないということになる。この箱を役立たせるためには、一人一人の何らかの主体的力量を必要とするのである。たとえばそれは、数ある市販のソフトから自分の目的に沿うものを主体的に選ぶことから始まり、そのソフトを有効に使ったり、さらには「簡易言語」などによって自分の求めるプログラムを自分の手で作ってしまうことなどを意味している。従来の家電製品の進歩が、消費者のわずらわしさを解消するために、その操作については消費者の「主体性」をあまり必要としないようになってきたのとはまったく逆に、パソコンはそれを扱おうとする一人一人の「自力」を要するのである。(自力性)
 第三に、「汎用」ということから、今までにだれも考えつかなかったような仕事をさせることも可能である。お膳立てされたものの利用にだけ役立つのではなく、個人が自由に工夫をこらして仕事をさせる余地がある。しかもその「工夫」の結果が明快に表れることから、大きな達成感を味わえる。(創造性)
 このように、パソコン=パーソナル・コンピュータは文字通りパーソナルな汎用的道具として登場している。そして、これまでのテクノロジーの発達の上にありながらも、今までの消費文化とは異なる文化を生み出そうとしている。それはひと言でいえば、文化面における「個人の自立」を保障するものであり、また、機械側の事情からも、それを人間に要請するものなのだ。

(1) −3 パソコン文化の未成熟性とパソコン通信による成熟化
 しかし一方で、パソコンがそのような使い方をされずに、従来の「産業文明」の枠組の中だけで利用されている現実も、われわれは認めざるをえない。パソコンの普及があまりに急速であったため、新しい文化創造のツールとしてのパソコンの可能性がまだ十分には発揮されていないのである。
 その表れの一つはパソコン利用の「孤立化」である。
 「テクノストレス」下の人々にとって、コンピュータ相手の仕事は苦役ではない。むしろ与えた仕事をものすごい速さで正確にこなしてくれるコンピュータに、慣れ親しんでいる。しかしその分、のろまでイエス・ノーのはっきりしない本物の人間とは、つきあっていられなくなってしまうという。9)
 しかもパソコンは、いったんマシンに向かえば、最初から最後まで他の人間との関係抜きで、まったく他人に関係のない内容の仕事をさせてもよいし、その成果を一人で味わい、満足することもできる。パソコン利用そのものが即目的化してしまう。パーソナルすぎるのである。
 もちろん、たとえば「表計算」であれば、ディスプレイを前にしてみんなでわいわいやりながら数字をあれやこれや変えてシミュレーションしてみることができることなどからわかるように、パソコン自体が人間の交流を拒絶しているのではない。使い方によっては交流を促進する機能さえもっている。ところが、人間の行っている組織運営のほうが、パソコンのもつ交流機能を実現するほど柔軟ではないのだ。
 二つは、マシンの「単機能化」と利用形態の「専門化」による人間の「没主体化」である。
 たとえば、ワープロやビデオテックスなどは、パソコン機能でカバーできるのだが、別途に専用機として売り出されている。このようにメーカー側がパソコンの「汎用性」を減じて、扱いやすいけれどその分、出来合いの仕事しかしない専用機の生産に傾くならば、パソコンは今までの家電製品と変わりないものになってしまう。実用化、焦点化された分だけつまらなくなってしまうのである。誰にもわかりやすくということは大切なのだが、それはたとえばシステムがシンプルであり、ソフトが親切であることでカバーすべきである。
 また、ユーザー側も、市販ソフトでゲームに興ずるなどのパソコン利用の初歩の段階で満足してしまうなら、「汎用性」は活かされない。あるいは、産業活動の面でも、パソコンオペレーターなどの専門家にすべて任せてしまう方向をとるならば、過去の「産業文明」におけるオートメーションによる分業化となんら変わらないものになってしまう。
 職場などにおいて人間は何も考えずにデータを打ち込むだけという、現代版「モダンタイムス」を出現させる危険性を、コンピュータ文明はもっている。これは極端に「専門化」した利用形態である。
 実際、職場にワープロが導入された初期のころは、多くの上司は、自分で手書きした文書まで、部下にワープロで清書するよう命じた。しかし、本来、ワープロはその豊かな機能から見て、「清書マシン」ではなく「推敲マシン」というべきである。「推敲」は、人間の側の役割であり若干の苦しみを伴う。この「推敲」をワープロの上で完成した時点で、ワープロのほうが「清書」を完成させてくれている。「清書」が完成しているから、これをそのまま発信できる。このように「清書マシン」→「推敲マシン」→「コミュニケーションマシン」として、ワープロをとらえ直さなければならない(今日では、かなりその状態に近づいているようだ)。
 もともと、パソコンはアマチュア(またはベンチャー)がパーソナルに(または家内工業的に)つくりだした文明である。パソコンは、アマチュアのパーソナルな、その分、全人的な文化を支援するツールである。
 三つは、パソコンの「物神化」である。これは、いまだ根強く残っているキャッチアップ志向の一種であり、「ハイテク強迫症」のなせるわざともいえる。
 そこでは、パソコンの有用性が誇張され、それを活用しないと「時代に乗り遅れる」あるいは「損をする」という強迫観念が風靡する。そして、パソコンマシンというメカ=「物」自体が「神」のように崇め奉られ、パソコンを必要に応じてどう役立てているかではなく、新しい機器をどれだけ使っているかが、個人や組織の評価の基準になってしまう。
 しかも、これに呼応してパソコンメーカーは次々と「上位」機種を発売する。「四年で半額になる」といわれるまさに「成長市場」(「成熟市場」ではなく)のコンピュータ関連企業にとって、それは今のところの経済社会における役割といえなくもない。
 しかし、本質的あるいは将来的にはパソコン文化はこのような「物流」の世界のものではなく、「情報化」を基盤とする文化というべきである。というのは、パソコンはその汎用性と使い勝手の良さの保持のためには、シンプルなほうが良い。個別の用途のためには、個別のソフトなどでまかなえる。だとすれば、その時に重要なものは、もはやメカの良し悪しではない。重要なのはソフトを含めた「情報」であり、もっとつきつめていえば、本来の「神」であるべき「情報」、すなわち人間の発信内容そのものなのである。価値がモノから情報に変わること、これこそ真の「情報化」というべきであろう。
 ところが、そのためには今日のパソコン生産では残念ながら不十分である。そのもっとも大きな問題は、ソフトなどの機種間のコンパチビリティー(互換性)の欠如である。この「欠如」も「買い換え」を誘発するためのメーカーの戦術ではあろうが、そのためにせっかく豊かに作り出されつつある「情報」のほうが容易には流通・共有できなくなってしまっている。これは、社会的損失というべきである。
 その点、パソコンの万国共通の設計思想(TRONなど)が「有志」(企業ではなく)の手により構築され、財産権としての著作権を放棄までして提唱されていることは、コンパチビリティーの重要性を示すと同時に、私たちにこの問題に関する楽観を与えてくれるものでもある(当時)。さらにいえば、人々のコンピュータリテラシーの修得を公的機関が援助することは、こういうことを理解し、応援することのできる「賢い(情報の)消費者」になるための学習を援助することでもある。

 そして、今日のコンピュータの「物神化」傾向にもっとも対比されるべきと私が考えるものが、パソコン通信によるパソコン利用の「成熟化」である。
 パソコン通信は、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したニューメディアの一つとして、多量の情報を高速にやりとりすることができる。しかし、パソコン通信をする人たちにとってそのような「モノ」それ自体の素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。それよりも、「双方向性」をもったニューメディアであるという点が重要である。
 パソコン通信はたいした「覚悟」なしに手軽に参加できる。しかし、その参加は手軽ではあっても、そこでの情報交流は直接的であり主体的である。これがパソコン通信の魅力なのである。
 事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を良しとする。さまざまな機器の助けを借りていることは忘れてしまって、機器が「透明」になる感覚を良しとするのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。
 豊かなモノに囲まれた現代青年にとって、パソコン自体はあこがれの対象にはなりえない。情報交信ができるというパソコンの本質を知っている(クオリティ・コンシャス)だけのことなのである。彼らは、成長時代の「ブランド依存」の人たちのようにモノをステータス・シンボルなどとしては扱わず、自分で実際に試して良ければ、その人なりに使いこなしていく。モノを溺愛するようなことはない。
 大衆文化の新しいトレンドとしての「パソコン文化」を見極めていこうとするなら、成熟したパソコン利用形態としてのパソコン通信こそ、われわれの関心の対象の一つとすべきである。これを、ネットワークとしてのパソコン通信とよびたい。

(2) ネットワークを体現するパソコン通信


(2) −1 新しいコミュニケーション環境
 ひと言でいうなら、パソコン通信は、情報処理なら「何でもできる」。もっとも、パソコン通信でテレビのニュースを見ることはできないのだから、正確にいえば「もっぱら、文章としての情報の処理なら」と限定すべきであるが(現在、メンバーが作ったプログラムや静止画、音楽などのやりとりは行えるようになってきている)。
 たとえば、発信された情報を次から次へとためこむ。それをどんなメンバーでも、読んだり、反応(レスポンス)を加えたりすることができる。逆に、特定のメンバーや個人にだけ、読めるようにすることもできる。あるいは、発信内容をためこまないで、その時交信(アクセス)している人だけで、ふだんの会話のようにやりとりすることもできる。また、情報発信者、発信内容、発信日時などが自動的に記録されるので、株式や商品の注文、会合などの参加申し込みに使うことも可能である。
 パソコン通信が可能にしたこのような情報処理の条件は、新しいコミュニケーション環境を私たちに提供するものである。パソコン通信は、ニューメディア=「新しい」メディアなのである。その「新しさ」の特性を端的にまとめるならば、次のとおりである。
 第一に、双方向的である。しかもそれは、アナライザー(反応分析装置)がもつ「双方向性」のように、一方の側の意図だけにもとづくものではなく、双方の主体的な意思と行為にもとづくものである。
 第二に、即時的(リアルタイム)である。情報発信者が発信したい時に発信する。その瞬間、他者によるその情報の受信が可能になる。もちろん、他者はそれ以降の自分の都合の良い時間に、それを受信することも可能である。
 第三に、空間超越的である。つまり、交通手段などのような物理的制約がない。在宅時はもちろん、電話がある所ならどこでも同じ条件で通信できる。
 第四に、検索が可能である。ホストに蓄積された情報は、メニュー化されて表示される。ここから、自分のパソコンで指令して、欲する情報を引き出すことができる。
 第五に、蓄積が可能である。発信された情報をホストコンピュータなどに蓄積することもできるし、受信者が好きな情報だけ自分のパソコン(端末)の記憶装置に保存することもできる。
 第六に、端末処理がかなり自由である。通信内容を自分のパソコンに文章(テキストファイル)として記録できる(ダウンロード)ので、自分のパソコンを利用して、あらためてそこから必要な記事や箇所だけを抜き出したり、加工したり、印刷(プリントアウト)したりすることができる。通信内容が、簡単に「印刷媒体化」されるのである。
 テレビも出た当時はニューメディアだったのではないかという人もいる。しかし、今日のニューメディアは、情報が電子化されることによって、大量、迅速、かつ応用自在に流通するようになっていることが、今までのメディアになかった特徴である。パソコン通信は、後者の意味でのニューメディアの一つである。
 しかも、パソコン通信は、他のニューメディアより「双方向性」がけたはずれに強力である。これが、パソコン通信を楽しく、きびしい、独特のメディアにしている。

(2) −2 スタンド・アローンがネットワークする
 私は、ネットワークの特性は「自立」と「依存」の統一であると考える。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。「スタンド・アローンがネットワークする」のである。
 このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「依存関係」に対して、「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対して、「依存関係」が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。10)
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに「統合」され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーと、それへの合意がつくりあげられた。これが、一定の「安定」をもたらした。
 しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。「安定」のみを重視する人には耐えられないシステムである。
 それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。その意味で、ネットワークは人間以外の動物にはありえないものでもある。
 ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれる。しかし同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものでもある。
 パソコン通信がこのような意味でのネットワークシステムであるためにもっとも大切な条件は、繰り返しになるが「双方向性」である。
 複数、または多数の他者をNとするなら、テレビは1→Nである。電話は双方向ではあるが、基本的には1←→1である。これに対して、パソコン通信では、1←→1(電子メール)、1←→N(電子掲示板)、N←→N(電子会議)などを自由に使い分けることができる。
 パソコン通信がネットワークシステムであることを保障する条件として、私は次に「スタンド・アローン」をあげるべきだと考える。
 パソコンは本来、スタンド・アローンなマシンである。パソコン通信の通信内容も、個人のパソコンを使って、個人の個別な行為によって、作成・加工・編集される。その個別な行為の中で、個人の自立が育まれ、また、ネットワークが歓迎する個別性と多様性が生まれるのである。
 このように、パソコン通信におけるパソコンは、情報の相互依存のためのターミナル(端末)でもあり、スタンド・アローンな情報処理ツールでもある。このことが、ネットワークシステムとしてのパソコン通信を保障し、ひいては、情報技術が進行しても、人間がそれに管理されることなく、主体的に情報に関与できる展望を開いているのである。

(3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」


(3) −1 ROMの存在
 コンピュータにはロム=ROM(Read Only Memory=読取専用記憶装置)という技術用語があるが、パソコン通信の世界では、いつまでたっても「読むだけの人」をROM(Read Only Members)とよぶ。ROMは、ネットが提供するデータベースやネットの中の他人の記事を読むことによって、自分だけが「情報を得よう」としている。それが「エゴイズム」だとして、パソコン通信の愛好者=パソコンネットワーカーから軽蔑される。
 情報収集は得であるが、情報発信は得にならないというROMのような「思い違い」は、普通の社会にはある。しかし、すでに述べたとおり、パソコン通信は自らも発信する双方向のメディアである。自ら発信しないのなら、別にパソコン通信でなくてもよい。「情報を発信する所に、情報は集まってくる」という原理が有効に機能するところにこそ、パソコン通信の魅力がある。
 パソコンネットワーカーたちは、この「READだけでなくWRITEを」ということに、異常に見えるほど固執する。初心者が入ってくると、何とかその人に書いてもらおうと、懇切丁寧に技術的な情報提供をする。逆に、ネットワーカーが吐く「最大の捨てゼリフ」は、「こうなったら、僕はしばらくROMになってやる」である。自分のWRITEを自負しているのだ。
 じつは、WRITEは、彼らにとってより有益な情報を収集するための一つの方策などという「低次元のもの」ではない。WRITEすることによってのみ、人からのレスポンス(反応)が得られる。あるいは、READすることによって、WRITEした人にレスポンスを返すことができ、それがまた書いた相手からリ・レスポンスを得るきっかけになる。このようなREAD−WRITEの循環の中で、自己の発言に(個別の)レスポンスが与えられることこそがパソコン・ネットワーカーの至上の幸福なのである。
 だから、どんどん書きまくるけれども、だれもレスポンスする気のおこらないような記事ばかり書く人も、ウォム=WOM(Write Only Members)、または「ヒーロー」とよばれて、ROMと同じように軽蔑される運命にある。
 パソコン・ネットワーカーのこのような志向は、「レスポンス至上主義」とよぶことができる。これは、レスポンスを発する個人の主体性、他からのレスポンスを獲得できる個としての魅力を要請するものであり、また、自己の他者への、他者の自己への影響、すなわち相互の依存関係を最大限に尊重し、歓迎するものでもある。ネットワーク一般の志向とぴったり符合する。
 このようにして、情報技術が発達する中で、パソコン通信は結果として情報化社会の健全な発展に貢献するものになりつつある。なぜなら、得する情報の入手だけを求める受動的情報態度、「情報ものとり主義」ともいうべき志向を克服して、主体的で確かな、情報と認識の交流のネットワークを構築することは、情報化社会の健全な発展に不可欠だからである。
 しかし、現実には、自分にとっても他人にとっても理想的にWRITEするためには、困難が多々ある。
 第一に、パソコン通信は「書き言葉文化」なので、慣れるまでは少ししんどい読み書きの作業が強いられる。最初は電話のような気軽さがない。とくに自己の思考を文章で表現することは、つらいものである。「読み・書き」の能力が求められる。真の意味での「学力」が不足していることが、ここでは直接的に影響し、その人の情報行動を消極的にしてしまう。
 ただ、青少年の場合は、「交換ノート」のようなノリで気軽に読み書きしているので、ここから新しい「書き言葉文化」が形成されることを期待したい。
 第二に、「知の防衛機制」が働く。すなわち、恥や照れによる消極化である。実際、「話し言葉」でなく「書き言葉」を公表することは、他の人に、しかも見も知らぬ人に自分のあさはかさをさらけ出すようで、恐ろしいものである。
 「恐れを知らない」青少年にはともかく、「分別ある大人」にとってはとくにそうである。一人でできるコンピュータ支援学習=CAL(Computer Assisted Learning)が「相手が機械だから、何をどう答え、質問しても恥ずかしくない」という理由から、そういう大人に意外に好評なのと対照的である。
 第三に、WRITEするためには、その前後を含めてかなりの時間がかかることがある。というのは、パソコン通信ではオンライン(電話回線を通じたまま、ホストのコンピュータにパソコンから直接、記事を書き込むこと)で、二言、三言の短信を手軽に書き込むこともできるのだが、一度書き込むと、予想外の量や内容のレスポンスがあったりして、その対応(リ・レスポンス)に追われることがある。これは、多忙な人にはかなりの負担になるのである。
 このような意味から、パソコン通信が大衆化するための前途は厳しい。ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないから」という趣旨の発言をしている。
 たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって、単純にROMの存在を不可避とし、パソコン通信の可能性を軽視する考え方には、私は異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。
 情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、ROMの存在に象徴されるパソコン通信の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない「知的試練」としてとらえるべきである。

(3) −2 新しい「知」の誕生
 パソコン通信は、ROMの存在に示されるようなやっかいな問題をかかえつつも、「知」の新しい傾向を生みだしつつある。
 その一つは知の「ボランタリズム化」である。
 たとえ同じネットワークを組んでいる人でも、自分の財産を奪おうとする者を人は許すことができない。しかし、他方、自分の知の成果に関しては、これを「盗む」者に対して、寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄にさえ思うものである。パソコン通信において、たとえば「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください」という「パプリック・ドメイン・ソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。
 人間には他者に対して影響力をもちたいという社会的承認の欲求があると考えられる。情報化が進展することによって、その欲求を平和に充足させることが可能になっている。なぜなら、他の本がたくさん出版されたからといって、一つの本の価値が薄まるわけではないように、そもそも「知」を情報の流通に乗せる場合、権力や所有にからむ争いとは対照的に、シェア争いの要素が少ないからである。
 そしてプログラムづくりやWRITEなどの「知的生産」は、その成果を他者にアウトプット(出力)するものという意味で、不可避的に社会的存在であるといえるが、ボランタリズムによって、さらにこれらを現実に社会の「共有物」にすることができる。
 ただ、最近、営利事業体が経営するネットにおいては、原稿料を払わずに会員の書き込みを編集して出版するなどの二次使用に対して、会員から異議が出始めている所もある。知の発展とその流通のためには、パソコン通信一般において、書き手の著作権(財産権としての)を尊重すべきか、むしろ「無償」の「情報ボランティア意識」を醸成すべきか。議論のあるところである。
 二つめは、知の「アマチュア化」である。
 パソコン通信は基本的には、「しろうと集団」(ネットワーカー)からの情報発信である。そこでは、効率より楽しさが重視され、知的喜びなども楽しさの一つとしてとらえられる。産業社会にもてはやされた「手段としての情報」に対して、このような「即目的としての情報」あるいは「遊びとしての学習」は、今日の「脱産業化社会」のトレンドの一つである。
 また、ここでいう「手段としての情報」についても、「知的プロ」によってオーソライズされた情報ではなく、なま感覚(未完成)で不定型の情報と思考態度、知恵が伝わっていく。いわば「耳学問」であるが、これは今日の情報化社会において欠如し、人々からじつは渇望されている情報である。パソコン通信では、このような情報と知が、いとも気軽に安易にアーティクル(通信記事)として量産されているのである。
 一方、一部の「知的プロ」も、この種のアマチュアリズムによる知の可能性に関心をもちはじめ、パソコン通信に参加し始めている。このようにして、アマチュアとプロの「無境界化」が進行している。
 そして、これらの「知のアマチュア化」は知のネットワークを推進するファクターとなる。「どんぐり(アマチュア)の背比べ」と自嘲するパソコンネットワーカーもいるが、「どんぐり」であるだけに無償で知のやりとりをすることにやぶさかではないのである。
 このような理由で、知のネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの放電が個人の充電に、スムーズに連動する。この「相互教育」(意識化された「教育」ではないが)の実現は、現在の生涯学習社会が抱える問題としての、個人の内面の「充電と放電の乖離」や、他者との間の知の分業の固定化を克服するための有望な手段である。しかも、学習コーディネーターも省力化できる(仕事の内容が純化されるということであって、不要になるということではない)という意味で、経済的な学習システムでもある。
 三つめは、知の「個別化」である。
 まず、パソコン通信の会員には、個別にIDナンバーというものが与えられる。これとハンドルネームというものが、すべての書き込みの発信元をつねに明らかにする。ただし、ハンドルネームは実名でなくても良いということが、かえってネットワークを活性化させる要素になっている。
 また、パソコン通信が「書き言葉」に純化した仮想空間であることも、ネットワーカーの各「個性」を守ってくれている。椎名誠は、シルクロードを歩いたとき、自分の家のテレビで以前に見たシルクロードの映像と音楽がうかんで困ったということ、そして、テレビではなく本を読むのであれば、イメージは「防衛」されるのに、ということを書いている。11)
 つまり、こういうことが言えるだろう。今日氾濫している映像は、それぞれが具象的な「全」情報でありすぎるので、「即イメージ」として個人に浸透しすぎてしまう。それに対して、本やパソコン通信でやりとりされるような「書き言葉」は、各人固有の、あるいは自己の体験にもとづくそれぞれのイメージまで根こそぎにはしないのである。
 加えて、「相互教育」もきわめて個別化される。パソコンの世界では、ユーザーへの画面上のアドバイス(オンラインヘルプ機能)が、各実行段階で充実しているものほど良いソフトだといわれている。その意味で、パソコン通信において、各人固有の「問題」に対して、ネット上で他のメンバーから援助の手がさしのべられていることは、「ヘルプの個別化」としても大いに評価されるべきである。
 四つめは、知の「雑多化」である。
 パソコン通信では、各人各様の関心が錯綜する。その代表的なものを整理すると●図2−4のようになる。とくにプログラム志向の人たちはメカよりロジックに関心があり、彼らの哲学的論議にもその傾向が表われている点が興味深い。
 また、パソコン通信は全体的にはいわば「おしゃべりサロン」である。フォーマルな情報(新聞記事データベースなど)もとれるが、それよりインフォーマルな、そして不定型なおしゃべりのほうが好まれる。そこに、思想、情報、データ、そして交流が混在する。それらは「学習」として意識化されたものではないにせよ、実質的に各人の学習素材、学習理念、学習ノウハウ(学習の機会・場所・人材)、そして学習を励まされたり、けなされたりするコミュニケーションなどとして「相互教育」の内実を形成している。
 場合によっては、たわいない「イロ、モノ、カネ」の「学習」が新しい時代の価値を創造する人類の営みと連続する。新しい価値は、山奥の純粋な大学キャンパスからではなく、「余計な情報」の氾濫する猥雑な実社会から生まれてくるのである。
 五つめは、知の「民主化」である。
 私たちの社会には、「ああせよ、こうせよ」というおしつけがましい情報提供と、それに対する反発の無益な繰り返しがかなり多い。これらの情報は、いわば「模範解答の提示」としてとらえてよいだろう。これに対して、パソコン通信などで行き交う情報は「私はこう思う」「私はこう聞いた」というような、あいまいなだけに受信者の判断力を要請する情報である。発信者も自分の考えがまとまらないままでも、気軽にWRITEすることができる。
 これが、パソコン通信による知(情報流通)の民主化の側面である。コンピュータ・デモクラシーとも言うことができるだろう。
 六つめは、知の「非体系化」である。
 パソコン通信においては、「知」に関連して、実用的論議(たとえば知的技術への関心)と根源的な問い(たとえば知的技術への懐疑)が対抗しつつ共存している。しかし、前者の情報は共有されやすいが、後者の情報は共有されにくい。つまり、「技術」に対して「発想」や「体系」というものは、個人の深い内面に関わるものだけに「個別的」なのである。このことは、「異種の交流」をめざすネットワークにとっては好都合であるが、「厚みのある体系」の継承・発展のためには不利である。
 そして、パソコン通信の中では、知が「雑多化」するのにともなって、「体系」に関する情報まで断片化していく。そのため、メニューなどのシステムがいくら改善されたところで、それらの情報を個人が「自由にわたり歩く」ためにはかなりの知力を要する。システムとしては、そういう「厚みのある情報」も含めて、情報が自由に選択できるのだが、それを選択する能力としての自己の「知的体系」などが備わっていないのである。
 最近、「反情報」ともいうべき知的態度を見受けることがある。理科系のパソコンネットワーカーの中にも、こと哲学的な問題に関しては意外にそういう立場の人が多い。すなわち、情報や知的生産の技術をいったん断ち切り、自己や自然との対話をすることこそ、むしろ「発想」や「体系の構築」の源泉であるというのである。
 ネットワーク社会において、既存の「権威」が失墜し大衆化が進むにつれて、せっかくの「古典」や「大作」の遺産も無力化してしまう。それと同時に「重厚長大な知」も崩壊していく。直接体験がもつ自己への「教育力」と比べて、情報のもつ「教育力」があまりにも無力なのか。しかし、後者を少しでも有効なものにしていくことこそ、情報化社会の主要命題なのであろう。そこでは、「体系」や「発想」の伝え合いを含めた厚みのある「情報共有」と、それを実現する基盤としての新たな「集団性」の構築が求められる。

(3) −3 新しい「集団」の形成
 パソコン通信のネットワーカーたちは、「電子的仮想空間」を媒体とする新しい「集団」を形成している。
 すなわち、従来、集団は「自生的、複合機能的、情緒的」と「人為的、単一機能的、合理的」という二つのパターンで代表されていたのだが、パソコン通信では、「明瞭な人為性」「単一機能同士の交錯」「合理性と情緒性の混在」「個人的行為と集団的行為の混沌化」という新しい「集団」が形成される。そして、「電子的仮想空間」であるから、「集団」も「広域」であり物理的・精神的に閉じていない。このようにして、近代的機能集団の中での新しい「ハイタッチ」が実現される。
 それでは、パソコン通信の「集団」は、どういう点で「ネットワーク型」であり、現代人に好まれるのだろうか。
 まず、パソコン通信においては、「撤退する自由」がある。「仮想空間」であるから、撤退しても生活に響かない。「撤退する自由」の上で、論争などの他の人との「ゲーム」を行えるのである。「親しくなりたいけれども、自分は傷つけられたくない」と言って、他者が近づくと針を逆立ててしまう「山アラシのジレンマ」12) に冒された現代人にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。
 もちろん、ネット上でのけんかもたまにあるが、それを含めてすべての論争は、率直にさわやかに他者を批判できる知的風土を形成するためのシミュレーションと考えることができる。
 さらに、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向と考えたい。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがパソコン通信の醍醐味である。
 しかし一方で、パソコン通信の新しい「集団性」は、たとえ現代人に好まれるといっても、フェース・ツー・フェースのコミュニケーション能力を減退させ、電子上でしかコミュニケートできない人間をつくりだす危険性をもっているという批判もある。実際、パソコン通信ばかりしている青少年もおり、そのパーソナリティー形成への影響は心配されて当然かもしれない。
 共感や感動はなまの人間に対してあるのであり、情報やメディアそのものに対してあるのではない。情報から「人間」を嗅ぎとり、その人間に共感することは、仮想空間でもできるが、そこには限界があることもたしかである。この限界は在宅メディアすべてに通じる基本問題でもある。
 しかし、だからといって従来の「空間的集合」による方策(たとえば集合学習など)を単純にむし返すのでは、あまりにも後向きである。過去の集団にはついていけない人、あるいはあきたりない人が現にいるのである。むしろ、フェース・ツー・フェースのコミュニケーションを模擬・増幅・補完するパソコン通信の機能の発揮をめざすべきである。
 最近、「パソコン通信燃え尽き症候群」が取り沙汰されている。今まで毎日のようにアクセスしていた人が、電子上では週末ぐらいしかアクセスせずに、むしろ「アイボールミーティング」(フエース・ツー・フエースで会うこと=宴会・集会など)をせっせと開催し始めているという。13) これは、通常、「バーンアウト」(燃え尽き)によるパソコン通信離れと言われている。
 しかし、この「燃え尽き症候群」は、パソコン通信の危機などではなく、可能性を表すものとしてとらえられないか。パソコン通信だからこそ、家庭や学校や職場以外の人との出会いのきっかけになったのであって、パソコン通信だけでその交流を完結しなければならないということではない。「アイボールミーティング」などは、現代一般のコミュニケーション阻害を克服する営みの一つとして評価できる。しかも、パソコン通信に埋没した生活ではなく、「一般人」の範囲内のアクセス回数になってきているというのだから、「燃え尽き症候群」は、むしろパソコン利用の成熟化の端緒と言えるのではないか。

 パソコン通信で何が「通信」されるか、だれも計画や予想をすることはできない。そのため、押し出す先の決っている「プッシュ型」の教育の観点からは、パソコン通信は関心の対象外になりがちである。
 行政ばかりかパソコンメーカーでさえ、「ユーザー教育」の重要性は唱えても、パソコン通信の通信内容に関しては、あまり「敬意」を払ってはいないようである。ただ、ネットワーカーたちは「自立的」であるから、メーカーに「評価」も「ユーザー教育」も求めていない。むしろ、たとえばパソコン通信サービスを行っている企業などに対して、「キャリアー」(運搬者)に徹してくれればよいという。
 しかし、これからますます発展するであろう情報化と人々のネットワーク化は、大きな可能性とともに、その実現のためには、今まで述べてきたような克服しなければならない大きな問題を抱えている。その問題の克服のためには、「不易」を「体系的」に提示しながらも、イロ・モノ・カネに関わるなまなましい「学習」需要もみくびることなく、それが量的にも質的にも発展するよう促す「プル型」の援助の姿勢が社会に求められる。
 このような姿勢でパソコンネットワークを援助するならば、それは「現在の学習者の自主性を尊重しながら、今後の主体性の獲得を援助する」という、一見、自己撞着的な教育の理想を実現するための「偉大な試み」になるのである。

3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか



(1) 「在来型の生涯学習」を支援する

 「親展」の通信(電子メール)、不特定多数への通信(電子掲示板=BBS)、会議、データベースの検索、通信販売、予約などの機能をもつパソコン通信が、そのまま今日の生涯学習の道具として活用しうることは、想像に難くない。とくに、学習の援助者にとって必要な情報の処理や判断を行うCMI(Computer Managed Instruction)としては、かなり使えるはずである。たとえば、生涯学習に役立つ資源のデータベースを作り、それを社会教育主事等がどこからでも自由に利用できるようにするなど、活用の可能性は限りない。また、学習者自身による活用についても、学習情報の収集、施設の利用予約など、いくらでも思いつきそうだ。
 これらの活用方策も興味深いことではあるが、結論からいえば、これらはいわば「在来型の生涯学習」の延長線上にある。今まで行われてきた生涯学習をかなり有効に支援するものにはなろうが、今日の生涯学習そのものを革新するものではない。それゆえ、パソコン通信の有用性をそこから説いてみても、「まだ普及していないパソコン通信など使わなくても、みんなが慣れ親しんでいる電話やファックスで間に合うのではないか」という消極論の前に意気消沈してしまうのである。
 「在来型の生涯学習」を支援するために、パソコン通信もその有効なメディアの一環として、得意な分野を活かした活用を図ることは、それはそれで重要なことである。しかし、ここでは、それについては省略し、パソコン通信が生み出している「新型の生涯学習」について考えてみたい。

(2) 「新型の生涯学習」とは何か

 それでは、パソコン通信が生み出しつつある新しい生涯学習の特性と考えられるものは何か。
 一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(無定形教育)の機能の発揮である。
 これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。
 これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にもそういう教育・学習の場がある。社会や企業等も、その重要性を無視することができなくなってきている。
 二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。
 普通、「学習しよう」という本人の意識(計画性)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。たとえばNHK放送文化調査研究所の「学習関心調査」では、「学習行動」の定義を「ある程度まとまりをもった知識・技能(または態度・能力)の獲得・維持・向上をめざして行う行動」(傍点引用者)とし、また、「総計七時間未満の学習行動」などを除外している。もちろん、この「学習の限定」には、正当な理由がある。第一、ILまで学習の範疇に入れてしまうと、学習行動率は百%になってしまう。
 しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことは、あらためて確認しておくべきであろう。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学んだ「偶発的学習」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした本人にとっては重大事なのだ。
 三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。
 たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追求する立場がある。それはもっぱら「教育」の専門家である教師のためのものであった。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいRを得ることができるかということ、言いかえれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育のしろうとまでが関心を示している。彼らも、多数に対して何かを表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうコミュニケーションだからこそ、パソコン通信はエキサイティングなのである。
 以下、これらの「学習」の実際の姿を、おもに電子掲示板(BBS)の事例から見ていきたい。

(3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ

 私は、ある商業ネットに次のような記事を載せたことがある。
 「『生涯教育事典』という本で『コンピュータ』について書いています。しかし、コンピュータについてはしろうとなので、不安なんです。間違いやおかしい点があったら指摘してください。 mito」(筆者注 mitoは私のハンドルネーム=ネットワーク上の名前)。その文中に、コンピュータの定義として「電流がONかOFFかの組み合せを判断することによって、情報(データ)を大量にすばやく処理するシステム」という部分があった。
 この定義について数十分から半日(夜中から翌昼にかけて)までで五、六件のレスポンス(他者が反応して書いてくれた記事)がついた。ここでは、数日後に入ったレスポンスも含めて簡単に紹介する。
 「電流が流れているかどうかで0/1を表現するというのは、例外がいろいろ思いつける説明です」「『電圧の高低により』がいいんじゃないかな」「それより現在おもに使用されているソフトウェアの機能ということで説明してほしいですね(あるソフト屋さんから)」「そういえば、この中にはアナログコンピュータが含まれてませんね」「アナログコンピュータって、聞きませんね。どうでしょうか」「電圧のon、offであったとしてもよろしいのではないでしょうか」「アナログコンピュータ(聞きます)に限らず、ファジーコンピュータとか光コンピュータも含んでいないと思います」・・・。
 ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も右のごとく、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。(筆者注・「イージー」を加えて頭文字が「MAZE」になる。)
 しかし、このような「ミスマッチ、アバウト、ジグザグ」の情報から、各自は最初、気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。BBSは、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)ということができる。
 近代になって、さまざまな権威者や専門家が制度化され、彼らが「良いもの」をセレクトしてくれるようになってきた。図書館司書は「選書」をして、良い本を書架に並べてくれる。最先端のデパート(ロフトなど)は、洗練された選択眼のもとに商品をセレクトする。もちろん、それらは特定の価値観を独善的におしつけるものではない。むしろ、結果的には、私たちが情報過多におぼれずに、読書や消費を選択する手助けになっている。
 これに対してパソコン通信は、このような権威者や専門家がいない世界である。たとえば、ネットの主催者も、基本的には「たんなるキャリアー(運搬者)」にとどまるべきだとされる。そういう世界では、「ミスマッチ、アバウト、ジグザグ」な情報に耐え、それをセレクトし、つなぎ合わせ、確かめることを自分でしなければならない。しかし、それだけに、情報主体としての「個」を鋭く発揮する余地が大きいのである。

(4) コミュニケーション型学習

 学習には、いわば「情報ものとり主義学習」もあるだろう。先行研究やその他の必要なデータを早く的確に収集・整理することを重んずる学習である。これに対してパソコン通信は、いわば「パーティー型学習」といえるのではないか。
 パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、それをよく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流にある。しかも、交流する対象も、フェース・ツー・フェースの日常的なつきあいをしている人とよりも、見知らぬ他者との出会いを歓迎する。パソコン通信の「レスポンス至上主義」も、パーティーに見られるこのようなコミュニケーション志向と同様の志向をもっている。
 ちなみに、パソコン通信をするために必要な何らかの学習があるとすれば、それも同様に「コミュニケーション型」である。
 LLL(AVPUBを利用している生涯学習関係者のグループ)のメンバーの一人である上尾市社会教育主事のフィギュアさんは、パソコンのノウハウに詳しい。彼は、AVPUBにパソコン通信ソフトの「オートパイロットプログラム」を載せてくれている。これを使えば、コンピュータ・リテラシーなどほとんどなくても、ソフトを起動させるだけでパソコン通信の中のめざすメニューまで自動的にたどりつくことができる。技術に詳しいネットワーカーは、このようにして喜んで初心者への技術的援助をしてくれる。私はこれを「情報ボランタリズム」とよびたい。
 このような環境の中では、じつはノウハウよりノウフウこそ大切になる。誰が何に詳しく、何を手伝ってくれるかということである(たとえば、フィギュアさんがパソコンのノウハウに詳しいなど)。
 そして、他者と交信する際の一番大きな課題は、いかにして表現すれば(Sを発すれば)他者からのR(レスポンス)があるか=コミュニケートできるかということなのである。これは、新しい意味での「教育」技術である。

(5) ネットワークによる知的生産

 パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。それゆえ、「まねぶ・ならう」べき権威の存在する学習だけを礼賛する「学習観」にとっては、パソコン通信における相互学習は「どんぐりの背比べ」であって学習たりえないととらえられがちである。たしかに、外部講師や助言者のいない討議は生産的に見えない。しかし、今後の「ネットワーク型の学習」の原点は、メンバー間の「水平性」である。
 大分県の「コアラ」は、「(官は)金は出すけど口は出さない」という官民一体のパソコン通信ネットである。そこでは平松知事もメンバーに県の各種構想の支援を訴える電子メールを出すし、高校生も「高校生シリーズ」という電子掲示板で大人と対等の立場で意見交換する。パソコン通信の世界では、それが当り前である。
 このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の共同化の可能性が生まれつつある。
 LLLのメンバーの一人である花園町社会教育主事のSHOUさんは、メディアの活用における生涯学習関係職員の専門性について、他のメンバーから問題提起されたのを受けて図式化を試み、レスポンスとしてAVPUBにアップロードした。その図式は他者からの指摘も受けて改訂されていった。AVPUBでは画像の通信はできないが、研究の整理のための図式程度のものならば、全機種共通の文字フォントを使って十分、伝えあうことができる。
 従来の出版における「共著」は、どうしても各個人の論文の寄せ集めになりがちであった。あるいは、あえて編者を頂上とするヒエラルキーのもとに整合性を計る場合もあった。しかし、パソコン通信を利用すると、個をあくまでも発揮しつつ、適宜、各自の都合のいい時間帯にそれぞれの見解を摺りあわせることができる。しかも、編集ソフトを使えば、訂正と更新の手間もほとんどかからない。パソコン通信によって、本来の意味としての「共著」が可能になるのである。

 乳幼児が日々の生活と遊びの中で学習・発達するように、つね日頃、好奇心、探求心などの「発達意欲」さえあれば、成人でも生理的活動以外のすべての活動が「学習」につながりうる。そもそも、「各人の自発的意思にもとづく」生涯学習は、そういう活動なしには成り立たないであろう。パソコン通信は、自発的意思にもとづいて個性を出し合い、コミュニケートし、共同化することにおいては、とても好都合な電子的空間である。

[注]
1) 半田雄二「図書館職員として青年とどうつきあうか」、『むさしのインフォメーションマニュアル』東京都武蔵野青年の家、一九八四年、四八頁
2) 半田雄二「公共図書館の青年問題」、図書館雑誌Vol. 75,No.5 、日本図書館協会、一九八一、二四三頁
3) リファラルサービスについてはホイットニー・ノース・シーモアJr. 、エリザベス・N・レイン『だれのための図書館』京藤松子訳、日本図書館協会、一九八二、一五三〜一五七頁に紹介されている。
4) てい談「夢を語る 青年のための情報サービス・システム」、前掲『むさしのインフォメーションマニュアル』、二一頁、ミニコミ紙「みたかきいたか」編集長の川井信良の発言。
5) 今井賢一『情報ネットワーク社会』岩波書店、一九八四、とくに一八二頁
6) 国分康孝『エンカウンター 心とこころのふれあい』誠信書房、一九八一、五八〜五九頁
7) 梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波書店、一九六九、九頁
8) 同、一八頁
9) クレイグ・ブロード『テクノストレス』
10) 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ『メガトレンド』(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」については、アルビン・トフラー『第三の波』(中央公論社)。
11) 椎名誠『活字のサーカス』、岩波書店、一九八七、二一〇頁
12) L.ベラック『山アラシのジレンマ』、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、一九七四、もとはショーペンハウアー。
13) 松岡資明「転機に立つパソコン通信」、日経パソコン、一九八八・八・二二

第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために




1 子どもたちの団体活動
 −そこに秘められている大いなる教育力−



(1) 教育とは子どもがワクワクする営み

 少年団体指導者の方々が、もし、動物のしっぽの働きを子どもたちに教える場面に出会ったら、まず、どんなことをするだろうか。「しっぽの働きの教え方」という本を探して(そんな本はないが)、その本のとおり教えればよい、と思うような主体性のない人は、指導者の中にはいないと思う。動物のしっぽについて、自分が子どもたちに何を教えたいのか、考えるだろう。現在の自分の中に教えたいことがまだできていなければ、しっぽに関するたくさんの資料を集めて、「教えたいこと」を自分の中にあらたにつくり出すことだろう。
 それが教育の第一歩である。ごく薄い科学絵本、一冊を作り出すためには、手に抱えきれないほどの「大人向け」の資料が読み込まれるという。そこで作者が感動したたくさんの事実のエッセンスを、科学絵本という形で表現する。その絵本が、作者が感じたのと同じ感動(共感)を子どもに与える。そこに絵本づくりの面白味がある。
 少年団体指導者の活動にも、同じような苦労と喜びがいつもついてまわっている。つまり、指導者自身に伝えたい感動があるからこそ、それを苦労しながら補強した上で、その感動を同じ人間としての子どもたちに伝えようとしているのだ。教育の第一歩は、「伝えたいこと」があるということだ。
 しかし、それだけでは教育にならない。子ども自身が新鮮な驚きをもって感動しなければ、指導者だけがワクワクしていただけということにしかならない。感動を伝えるためには、子どもたちとその感動をコミュニケートできるセンスが必要になる。教育的センスといってもよい。
 ここに『しっぽのはたらき』1)という絵本がある。中を開くと、たとえば、

 ふわふわした しっぽを、ひょい ひょい ふりながら、えだのうえを すばしこく  はしりまわったり、えだからえだへ とびうつったりしています。なんの しっぽで  しょう?

とあって、ページの右上に木の枝につかまった小動物のしっぽのあたりが描かれている。よく調べられて正確に描かれているが、思わず微笑んでしまうほど可愛らしくもある。ページをめくると、それは、りすの体、全体につながっており、他の一匹はしっぽを広げて枝から飛び降りているところだ。「ふわふわした しっぽが ぱらしゅーとの やくめをする」というのである。
 たとえ、りすのしっぽがパラシュートになることを知って作者がワクワクしたとしても、それを前のページに書いてしまったら、おしつけがましいし、子どもたちに作者の感動が伝わるようなものにはならなかっただろう。子どもが「何のしっぽだろう」「何のためにあるんだろう」と自分で不思議に思ってこそ、真実を知らされた時に驚き、ワクワクすることができるのである。
 団体が子どもたちに伝えたいことをもっているということは、少年団体活動が教育的意義をもつための基本的条件にはなるが、それを子どもたちにお説教するだけなら、そんなものは何回繰り返しても本当の教育にはならない。子ども自身が自分でワクワクしてこそ、子どもは確かな成長をするのである。教育的センスさえあれば、少年団体活動は、そういう「ワクワク」を与えるワンダーランド(不思議の国)の局面を本質的にたくさんもっている。

(2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動

 ひとがものごとをとらえる時の枠組を「準拠枠」という。『カウンセリングの話』2)という本によれば、次のとおりである。

 人間は、言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情などを表現することができるが、それらのことを表現したり、お互いに理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。(中略)例えば、同じ「悲しい」という言葉を使って話をしていても、突きつめていくと自分の「悲しい」と相手の「悲しい」が違うということに気づくことがある。私たちの日常生活は厳密にいうと、実はそのようなことのくり返しだといっても過言ではない。

 そういうすれ違いがあっても、平気で大人の準拠枠を押しつけるだけの団体運営を進めるならば、それは表面的には団体活動に見えても、けっして教育的な活動とはいえない。
 現代社会では、本当にひどい本が売られている。ある本には「女性の部屋に侵入する方法」などがびっしりと載っている。「相手が一人暮らしかどうかを確認すること」から始まって、「窓ガラスに粘着テープを貼って焼き切って、手を入れて鍵を開けて侵入」する方法やクロロホルムで眠らせる方法などがていねいに書かれている。高校生あたりになるとそれほどでもないらしいが、中学生がよく買っていくとのことで、またたく間に版を重ねている。子どもたちが異性を見る目は、その準拠枠は、この先、どうなっていくのだろうか。あるいは、そこまで極端ではなくても、たとえば従来の競争社会が生んだ受験体制の圧迫は、ほとんどの子どもたちの準拠枠の形成に大変な影響を与えている。「偏差値君さようなら」という生涯学習社会の理想からは、まだほど遠い実態なのだ。
 こういう環境に影響を受けてしまっている今の子どもたちの準拠枠のずっと遠くのほうで、きれいごとばかりで埋めつくされたお説教をしていても、子どもたちに情報の一つとして聞かれることはあっても、子どもたちの準拠枠そのものには響かない。
 かつては、パブロフの犬がベルを鳴らせばよだれを流したように、子どもにどういう「刺激」を与えれば大人にとっての望ましい「反応」をするようになるか、ということばかり追求することが教育の姿のように考えられていたこともある。現在の少年団体指導者の中にも、忙しさのあまり、そういう傾向に流れてしまっている人がいるかもしれない。しかし、本当の教育の姿は、そこにはない。それぞれの子どもなりの「嬉しい」「悲しい」という気持ちが、ないがしろにされていては教育は始まらない。
 しかし、本来の少年団体活動なら、子どもの準拠枠そのものに迫っていくことができるはずだ。なぜなら、活動の中には、感動を呼び起こす参加や体験があって、感動を共有できる子ども集団があって、それらを受けとめる地域があるからである。

(3) 少年団体活動には教育力があふれている


(3) −1 体験のもつ教育力
 国立日高少年自然の家の紀要では、集団宿泊活動の中での子どもたちの体験活動を、@人への働きかけ、A自然への働きかけ、B地域文化への働きかけ、C公共施設への働きかけ、Dその他に分けて検討している3)。
 また、「なかまたち」15号で三浦清一郎氏は、子どもたちがもっている自然に関する知識について次のように述べている4)。

 これらの子どもが知っているのはいわゆる「解説」であって、実際の自然の在り様についてはほとんど経験していないし、知識もないことに驚くのである。(中略)このような状態を青少年の自然接触体験の欠損とよんでいい。

 そして、三浦氏は、ある体験が子どもに欠如しているということは、子どもの「社会化」(社会のメンバーとしてふさわしい資質や行動の仕方を子どもたちに教えていくプロセスであり、少年期にはその大部分が体験を通して獲得される)が行われないということを意味している、と指摘している。

(3) −2 参画のもつ教育力
 全国子ども会連合会の資料には、「おしきせプログラムはまっぴら」と題して、次のように書かれている5)。

 どうも、大人が事前にすべてを準備しきって、ただ子どもは、お客さまで参加するという行事が多かったのではないか。プログラム立案の段階から参画することは、参加意識を高め、苦労しても、なんとかやりとげ成功させたい、そのために労をおしまず仲間と協力しあおうとするであろう。その仲間と苦労をともにして、やっと仕事をなしとげたあとの成就感を味わったとき、ヤッタという晴れ晴れした気持ちになるであろうし、その時「またやってみよう」というやる気を育てるわけである。

 参画は、ひとをワクワクさせる。参画するためには、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身の準拠枠にも鋭く迫られる。そういうせっかくのチャンスを指導者が独り占めにするならば、指導者だけが「成長」するという結果になりかねない。

(3) −3 地域活動のもつ教育力
 創造性開発理論の中に「異質馴化と馴質異化」という考え方がある。異質なものを身近な馴れたもののように眺め、馴れたものを新たな気持ちで見直すという意味であろう。
 住みなれた地域には、「空缶拾い」や「花いっぱい」などのいわば「馴」のレベルの素材がいっぱいころがっている。これはこれで、子どもたちに素晴らしい体験のチャンスを与えてくれる。しかし、その教育的効果はもっと奥行きの深いものとして認識され、広がりのある活動がなされるべきである。いつもの地域を地球の一部を他の天体から見るような気持ちで、つまり「異」のレベルで、見直してみると、大きな地球の限りある資源を大切に使わせてもらうために小さなコミュニティが果たすことのできる大きな役割も見えてくるのではないか。
 子どもたちにとって、地域は、主人公として参加できる身近な場であると同時に、少年団体の教育的センスによっては、壮大な夢と認識を広げてくれる場にもなるのである。

(3) −4 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力
 少年団体活動の中では、同世代の仲間や義理の兄弟姉妹との関係が、自然に数多く発生する。子どもたちは、そういう自然発生的集団の中でこそ、自らを変えていく。
 石けりをしていて、大変な難事を要求する所に石が入ってしまっても、同世代の仲間が見ていれば、子どもたちはなんとかその難事をこなそうとしてきた。親や教師がいくら言ってもできないことを、仲間の前では泣きながらでも頑張ろうとする。そういう努力を放棄するなどのルール違反は、仲間から厳しくとがめられた。それとともに、最後はお互いに手心を加えることなども体で学んできた。また、その遊びのレベルまで達していないような小さな子が来れば、遊びを中止しなくてもすむように、その子のために一部ルールを変更するなどの知恵を働かせてきた。自然に発生する集団がもっているこれらの自律的な教育力を、団体は「意識的に」尊重し可能な側面的援助を与えることが必要であるといえよう。
 それにしても、少年団体活動には、現在の子どもたちに欠けている体験・参画、仲間や地域とのふれ合いのチャンスが、なんと豊かにあふれていることか。

(4) 子どもにだって「個の深み」がある

 「個の深み」という言葉は、中央青少年団体連絡協議会によって設置された「特別研究委員会」6)の提言の中で提起された。その委員会において、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するためには、あえて「個の深み」に言及せざるをえないと考えられた。提言はいう。

 ある施設での活動で、子どもが外からいそいそ帰ってきて、指導者をつかまえて話しかける。「ねえ、あっちにきれいなお花が咲いていたよ」。しかし、その指導者は彼に対して大声で「何やってるんだ。みんな向こうに集まってるぞ」と注意する。子どもが自然の中でとらえた出来事、発見そして喜びなどの感情が、この指導者の対応によって台無しにされてしまうのである。

 子どもたちは、自然の中で、遊びや活動の中で、さまざまな発見や体験をする。そして、この発見と体験を指導者に伝えようとする。これをしっかり受け止めることが、指導者の重要な役割であろう。
 心理療法の中に交流分析という手法がある。子どもにも大人にも、どんなひとにも、自由な子ども、従順な子ども、理性的だが打算的な大人、看護的な親、厳格な親という要素が混じっているそうである。その度合いはひとによって違う。どの要素が一番望ましいなどと、誰かが決めることのできるものではない。「個の深み」は、そういう個別性から生ずる神聖で不可侵なものだ。
 同じ「刺激」を全員に与えて、全員から思い通りの「反応」を得ることが、集団教育の目的ではない。子どもたちの「さまざまな発見や体験」という多様な個別の深まりが、今、大切にされなければならない。塩化ナトリウム99%の工業塩より、不純物の多い天然塩のほうが料理の味に深みを出すという。少年団体活動も、皆を「団体の優等生」にしようとするのではなく、そこからはみ出そうとするそれぞれの子どものエネルギーを評価しなければいけない。
 むしろ、組織にとって子どもとは、思うようにはならない、思うようにしてはいけない存在、子どもにとって組織とは、どうにでもなる、どう変わってもよい存在として、とらえなおされるべきではないか。これは、少年団体という組織にとっては荷の重くなるような言い方だが、子どもたちの予測不可能な「個の深まり」を援助しようとする教育的観点からは当然の見地だと思う。
 『しっぽのはたらき』を作った人は教育の専門家ではない。少年団体にも、教育の専門家が必ずしもいなくてよい。しかし、子どもの教育とは、子どもたちにおしなべて「こうさせよう」とする「対策」ではなく(そうは言っても、時として安全「対策」などが必要になることはもちろんだが)、本来的には、子ども自らが気づき、多様な「個の深み」をもつための、側面からの「援助」であるということは、認識しなければならない。未知数のものを外から援助するというところに教育の難しさがあり、本当の面白さもある。
 つけ加えれば、子どもの「個の深み」とつきあえる少年団体の指導者は幸せである。なぜならば、近代合理主義社会の中で凝り固まった自分の「準拠枠」が、子どもたちの「個の深み」に接することによって快く揺さぶられ、子どもたちとともに育つことを体験できるからである。

2 地方自治体における学習プログラム作成の視点



(1) 知と健康のネットワークを支援するシステム


(1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義
 社会教育法には国および地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行うのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。
 そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない」(第九条の三)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。
 これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、虎視眈眈とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心をもってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。
 社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。市民の側に、行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。
 戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。
 この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまう。

(1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ
 民間の団体活動の方も、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを自ら志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。
 一方、人口一万人当たりだいたい百のグループ・サークルがあるといわれる。そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この一万人につき百団体という数字は、社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が百にも満たなかったりするからである。
 つねに発生・消滅を繰り返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていない。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を多忙にさせる結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられる。
 従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみのほうもさらに広くなっている。それが、一つには、小さなグループ・サークルとしてネットワークを形成している。成熟社会においては、それは重要な営みである。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。
 なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。私は、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張したいのではなく、ネットワークに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。

(1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起
 啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。
 当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの三つの特徴をもっている。7)
 しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人一人の人間がすでに主体性のある主体であることを前提に、その学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。
 ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは大いに重要であるとともに、大いに微妙な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに主体性のある主体」であることを、平面的、教条的に前提にしてしまうとすれば、情報の豊かな今日、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際は、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。
 たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。
 「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「効果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着をはらんだ命題を実現する方策はあるのか。
 結論からいえば、その方策はあると考える。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もある程度上がっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められる。それが、ここでいう「ネットワーク型問題提起」である。
 だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の基盤としての「ネットワーク型援助」一般のあり方について述べておかなければならないだろう。
 「ネットワーク型援助」の重要なファクターの一つは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。
 アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が盛んだと聞く。人々が分断された今日の都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」となりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とはいえないのである。
 施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。
 これらの援助は、市民のネットワークを助長し、結果として市民が自ら社会の諸課題への気づきを深めるために役立つ。
 しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性にもとづくものであるか。この「正当性」をもたないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が。
 ネットワーク社会において、地方自治体、とくに社会教育行政は、各人が私有している個人的・社会的「展望」を共有するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っているといえるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワークの中で共有するように、各人によびかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきではないか。
 糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした展望をもっていたり、ほとんど絶望したりしている。行政が、たとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが生まれるかもしれない。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。
 ここまで、地方自治体のとくに社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞってみた。これからは、啓蒙主義との違いがとくに問題となるであろう学習プログラム提供に焦点を当て、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、より具体的に明らかにしていきたい。

(2) 年間事業計画の作成


(2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる
 ここでいう「年間事業計画」とは一年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」ということができる。
 国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(昭和六三年九月)(以下、たんに『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、このテーマに関するアイテムを拾ってみる。
 地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。
 これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりはとらえたと言うことができるであろう。
 しかし、これはあくまでもひととおりであって、地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応のほうが有効になるのである。
 それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを感じ取ることが必要である。
 住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、ひとつひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」「記録」などが重要である。逆にいえば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報社会においても地域・現場にしかない貴重なものである。
 さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が、上司からも監督されず、個人の孤独な作業として進められがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の水平なネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとって不可欠である。

(2) −2 学習要求をとらえる
 ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないか、と言う。渋谷のウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない。選択基準自体が毎日変わる、と言う。彼らのニーズを把握するために、「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでしているが、それでも把握は難しいらしい。
 学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているか、はっきりした事実はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。わからない原因の一つは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく生みだされるものだからである。
 ただ、その会社の人の話では、第一には、「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れない、第二には、「わけのわからないもの」が意外に売れたりするという。
 第一のことは、学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の三つに欠ける場合がある。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などが必要である。
 第二のことは、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえばおもしろがられて受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。
 次に、「不易流行」の言葉を借りれば、ここまでの議論は「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。
 しかし、この「不易」の学習要求のほうも、その本当の中味は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでも、たとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。このように、地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても不完全のものであることを知った上で行わなければならない。
 それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていくしか、あるいは新たに「つくりだしていく」しか、ないのである。

(2) −3 「公的課題」の優先
 ネットワークも一つの「自治」の形態といえる。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言ってもよい。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよい。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それは当事者である個人が決める。
 このような様子であるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。
 それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意図」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。
 そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議ともいえる。むしろ、「行政らしい関わり」をすることのほうが行政としての個性を出すという意味でも「ネットワーク的」なのではないか。
 「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。
 もちろん、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的学習課題」のように見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。
 つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然といえるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で流動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりする。
 だから、学習プログラムも表面上は私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する期待(展望)をもっていなければならない。そして、その期待を住民の前につねに明らかにしていくことのほうが、住民との関係でフェアだと考えるのである。
 さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題と考えることができる。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。
 このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを「操作概念」として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。
 たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例に挙げたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、その課題を優先して問題提起し、援助する。
 もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、わからない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。
 しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになった時には政策のほうを転換する義務を負うという「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べよう。
 次に、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人々の「学習権」はどうなるか。これについては、より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。
 その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。
 しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は「行政から学習権が保障される立場」から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワークの「役割遂行者としての立場」に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。
 なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されているものであり、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もあまり問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢は、同様に必要である。

(2) −4 学習課題を整理する
 公的課題を優先するためには、その前に公的課題は何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。
 たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』は次のように述べている。
 「これからの生涯学習を進めていくうえで、とくに留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる」。8)
 このような「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、いずれにせよこの「構想」は簡潔にまとまった提言として評価できる。
 そこで、それぞれの自治体での住民の学習の実態の中で、これらの課題に対応する学習がどのように行われているか、あるいは行われようとしているのかをていねいに見つめてみたとする。そこでは、まったく学習されようとしていない課題などというものはないということが明らかになるだろう。
 つまり、公的課題の優先とは、学習課題の行政による「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。
 このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例を次のように挙げている。
 生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。
 これらの分類によって学習課題を体系的に整理することができ、そのことが、行政が学習要求や学習行動から公的課題を謙虚に選択するための根拠にもなる。
 ただ、すでに述べたように、行政側の考えている公的課題、すなわち行政課題も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、右の領域区分と同じ次元ではなく、もう一つの次元としてとらえて、右の区分とかけあわせたマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての行政の主体的な関わり方が出てくる。
 さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。
 それらの各種事業を区分する基準については、『社研資料』では「事業形態・方法別」の一例として次のようにあげている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要である。
 さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題のひとつひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックスによるとらえ方が求められるのである。

(3) 個別事業計画


(3) −1 「学習ニーズ」の優先
 ここでは、ひとつひとつの事業における学習プログラムの作成について述べる。
 年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。しかし、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応を最重視する姿勢で論を進めたい。
 なぜならば、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないという理由も、もちろんある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。現行の学習プログラム提供は、ニーズ対応の面でも、かなり不十分だという認識を私はもっている。
 前節でいう「公的課題」を明確にした上で必要なこと、それは、そこで仮に設定された「公的課題」を、いろいろな機会を利用して住民にはっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。
 次に、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が、現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば仮に「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいては、住民の学習ニーズに呼応してそれが再び「融解」して学習機会として提供される。
 行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させることしかできない。しかし、それを不変のものとしてそのまま住民に押しつけるとすれば問題がある。ネットワーク型援助は、行政と住民との関係が水平であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の独善になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」することによって、初めて、行政の側が学習課題を選択することのもつ危険性を減らすことができる。
 現に、あとで述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえない住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると思う。学習ニーズに絶対確実なものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。

(3) −2 参加対象をどう設定するか
 社会教育行政はなぜ対象別、とくに発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。つまり、一義的には、プログラムの作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をするといえる。
 だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならないはずである。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたはずだからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるなどの効果もあがるかもしれない。
 「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであったにせよ、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民が個々に判断して行動を決定する。企画者は予測のつかない結果をむしろ歓迎すべきである。
 しかし、参加対象を「限定」するほうが良い場合も、なかにはある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断をとりあえずせざるをえない。
 だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」9)準拠集団の端緒を、行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合は、「異質」な人との水平的なネットワークがまだ期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始めるのである。
 たとえば「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事だけに依存して生きているような「暗い青年たち」もいるかもしれない。そういう青年たちが、活発な婦人や一家言をもっているような高齢者と、最初から水平的ネットワークを営むのは無理だろう。そういう時は、「青年講座」への主婦、高齢者の参加を断わる場合も例外的にはありえよう。
 しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。このことは、集団を固定化し、ネットワーク化を阻害する要因になっている。
 さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側が住民の参加を開拓し、受け入れる、いわばマーケティングの用語といえる。しかし、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」とよぶ。「対象」というより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が自ら問題を解決することを基本におく姿勢が表れている。
 もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」とよぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、考え方としては学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、プログラム作成時においても、「対象」の望ましい将来の姿を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。
 最後に、逆に、マーケティングの観点から、新たに「開拓」すべき「対象」を考えてみたい。
 一つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の動向は、実は経済活動の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されなくなっている。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが本当に身につくのは、自己成長を促すネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるばずだ。
 二つは「大学生」である。彼らは今やエリートなどではなく、今後は多数派としての一般住民になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めているので、その参加により、事業にトレンドがフィードバックできる。そして、彼ら自身に、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日大いに生まれている。
 三つは「一時滞在者」である。博物館は旅行者の利用を歓迎している。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。さらに、今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの人は、「新しい風」を吹かせてくれる人である。彼らを地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。各自治体が「旅行者向け学習プログラム」などを提供するようになれば、週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が全国規模で可能になるのである。

(3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 『社研資料』では次のとおりである。
 「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。
 このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民は中味をよく知った上で参加を検討できる。
 さて、最初に「学習目標」であるが、一つには、直接、企画者側から問題を提起すること、つまり「課題性」のあるものが考えられる。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。
 二つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。
 たとえば、住民の国際性のかん養をはかるという目的で「中国語教室」を開いたとする。そうすると本時の学習目標は「中国語がしゃべれるようになること」ということになりそうだが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」などとしなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。
 それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定し、そういうサービスをして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化したほうが良いだろう。
 次に、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける必要がある。
 最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか提案してみたい。
 一つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習という言葉には、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。もちろん、今後の学習社会においても、そういう性質の学習はますます必要になるだろう。しかし、そういう「手段としての」学習ばかりに偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。
 現在、生涯学習の進展の中で、「学習」とよばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いという、いわば「快感覚」の追求なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシー(健康的)でハイ(高次)な「快」である。
 もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは今後の技術革新の社会において必要不可欠の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどない。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで「遊んで」いる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、そういう「遊び」のほうが結果としては効果的な学習になっているのだ。
 ここで、注目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。
 自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することよりも、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。
 二つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。10)
 ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワークをしようとする個人がその「深み」を獲得して発揮するために必要な技術の一つが、情報の収集から発信までを含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。
 学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」のほうがそれより優れているということではない。)
 このように、行政としての期待をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を行うことは、社会教育行政の「ネットワーク型援助」の中でもとくに代表的な行為である。
 三つは、「コミュニケーション技術」である。「知的生産の技術」とも重なるが、聞く・話す・書くなどの技術である。
 戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議の進め方などが学ばれた。
 しかし、今日ネットワークの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う面をもっている。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者は、干渉したり、心配したりはしない。また、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど行使する場面がない。
 それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。ネットワークのコミュニケーションの中では、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った人だけがプレゼンテーターに協力し、再びコミュニケートに向かう。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。
 四つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の「下請け」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。
 もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは時間的にも困難であるから、実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦するためのオリエンテーションになるような学習内容を設定することになるだろう。

(4) 学習プログラム作成上の今後の課題

 ここでは、これまでに言い尽くせなかった学習プログラム作成上の今後の課題を、いくつか簡単に紹介することによって、まとめに代えたい。
 一つは、集合学習の「非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)の課題である。
 ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、「パーソナル」から「ソーシャル」へと発展する。これは一部、「パブリック」でさえある。このように「マス化」によってではなく、「非マス化」によってパブリックにまで発展することを、ネットワーク型援助はめざしている。
 ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできないだろう。しかし、集合学習にあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追求していかなければならない。つまり、「あなたは、集団の中のたんなる一人ではない」というアピールをもった学習内容・方法をプログラムの中にもつ必要がある。
 二つは行政の「主体性」の発揮の課題である。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。残された問題は両者のつなぎ方である。
 社会教育職員の中には「概念くずし」という言葉を使うものがいる。住民が当り前だと思っていることに切り込んで、住民の認知の枠組の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性を示しているともいえる。
 もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する行政側の認識の不十分さを謙虚に認識しながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。
 三つはプログラムという「計画」そのものの「非計画化」の課題である。ここで、「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることを意味する。たとえば、何があるかわからないパーティー型のプログラムや、空白の時間を設定して学習者がその中身を決めるプログラムなどが考えられる。
 社会教育行政は人間関係の仕事である。つねに揺れ動き、移り変わる存在としての人間とつきあう。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、めざすべき価値がはっきりとは決まっていないオープンシステムのほうが適していることも多いのである。

 地方自治体は各セクションごとに専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供すべきである。都市と農村の双方が大きくきしむ中、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を住民に訴える責任をもっている。
 さらにその上で、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与することになる。それが「ネットワーク型」で行われるかぎり、行政と住民との相互のフィードバックはつねに保障されよう。
 そして、行政から自立しながらも行政と協働する住民自身のネットワークの中で、住民は主体性を獲得する。根本的には、住民のこのような主体としての成長があってこそ、個人を疎外しない「ネットワーク型」の地域合意が形成される。これこそが「公的課題」の現代的、かつ本質的な解決の方向である。

[注]
1) 川田健、薮内正幸『しっぽのはたらき』、福音館書店
2) 平木典子『カウンセリングの話』、朝日新聞社
3) 国立日高少年自然の家紀要『シシリムカ』第五号
4) 三浦清一郎「自然接触体験の欠損と青少年の活動」(『なかまたち』一五号所収)
5) 全国子ども会連合会『中学生 −その青春と地域活動−』
6) 中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」
7) 「啓蒙主義」については、江上波夫他編『世界史小辞典』、山川出版社、および勝田守一他編『岩波小辞典・教育』、岩波書店、から引いた。
8) 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」、一九八八年三月
9) 見田宗介他編『社会学事典』、弘文堂、一九八八
10) 梅棹忠夫『知的生産の技術』、岩波書店、一九六九

●p14
(34行、実際30行)
mito的授業その一
 「なんでもあり」の授業

 私はなるべく映像を使うように心がけている。それも「教材映像」として作られたものではなく、一般のテレビ番組が多い。学校教育の正規の授業の中で教師自身がそれを行うのならば著作権による制限がかなり緩和される、ということはとてもありがたいことだ。そういうことのできにくい社会教育の世界に長い間いた私は、つくづくそう思う。
 ところが、その日は、視聴覚教育の見地からは恥ずべきことなのだが、プロジェクターの調子が悪く、画面が流れてしまってひどい状態だった。しかし、スクリーンを前にしてあわてふためいている私の姿に、学生はかえって親近感をもってしまったようだった。
 その日の出席ペーパーには、「飛行場そばなどの難視聴地域の人々の気持ちがよくわかった」というユーモアとヒューマニズムにあふれた発言などが多かった。とくに、「mito先生(私のこと)の授業は、『何でもあり』の授業なんですね」という発言には、私は思わず気をよくしてしまった。
 「何でもあり」の授業は、効率至上主義の観点からいうと欠点しか見えないのだが、学生に知的雰囲気のためのレディネス(準備)をもってもらうためには、じつはなかなか有効だったのだ。授業は、あくまでも教師という「人間」が行っているのである。


●p59〜60
(51行、実際51行、p60下段は写真)
mito的授業その二
 中途退出者と私の「嫉妬」

 受講中、暑いと気づいた学生は窓を開けに行けばよい。そして、「どうしても抜け出したい」と思う人は、黙って出席ペーパーだけ出口に置いて退出すればよい。私は、学生にそう言ってある。実際、二部学生の中には、そうする人もいる。それを見て、他の学生が、「mito先生は何も感じないのですか」とペーパーに書いてよこす。でも、退出者のペーパーの中には「もっと話を聞いていたいのですが、これから夜勤なので早退します」などと書いてあるものも多い。
 主体的な学習のためには、学生自身が「誰かに決められたからではなく、私がこの授業を受けたいから受けている」と自覚して授業に出ているかどうかが大切である。出席することなどを規則で縛っていては、いつまでもそんな態度は生まれない。
 事情のあるかもしれない「中途退出」よりも、「前の時限の先生との話が、私にとってはとても大切な内容だったので、mito先生の授業に遅れて参加しました」と書かれた時に、その見知らぬ教師に嫉妬を感じる。

mito的授業その三
 学園祭に参加しちゃった

 一年生の「社会教育概論」の講義中、何気なく「今度の学園祭は、みんな何かするの」と聞いてみた。サークルなどで何か出店したりする学生は誰もいなかった。私は、「一人で焼きそばを食べて帰るだけではつまらないね。この授業で一部屋もらって何かやってもいいんだよ」といったが、その時はとくに学生からの反応はなかった。
 夜、家に帰ると、ある学生から電話がかかってきて驚いた。授業終了後、学生同士で話をしていたら、みんな「やりたい」といっているというのだ。私は、その学生に任せた。
 当日、学生たちは、「生涯学習を楽しんじゃう教室」と名づけて部屋をもらい、授業で行ったことのある「人間印象当て」「心理テスト」や「折り紙」「伝承遊び」などのコーナーを開設した。写真は、その時のスタッフである。
 思いつきで始めてしまって、「自分たちが楽しいかどうか」を指標にして、しかも他者のニーズの現実にも対応できる力は、ネットワーク的な行動力として重要だと思う。


●p147
(32行、実際32行)
mito的授業その四
 交流したくない「個の深み」もある

 ある学生が、私のBBS至上主義的な論文を読んで、「交流したくない『個の深み』だってあるのではないか」と出席ペーパーで批判してきた。
 たしかに私たち「社会教育関係者」は、学習者同士に向い合って輪になって座ってもらったりということを安易にしがちである。しかし、もっぱら講師の話に没頭して学習したい場合には、他の学習者と向き合って座っていることは、余計なプレッシャーを与えるだけであり、そんなことを私たちから勧められることは、学習者にとって、まさに「余計なお世話」である。
 また、私たちは、学習者間の「交流」を進めようとする場合でも、その「交流」が学習者に不可避的に多少の「緊張」を与えるという事実をきちんと認識した上で、あえて「交流」を促すという意識的な態度が必要だろう。
 そして、「個の深み」についても、そのすべてを他者の前にさらけだしてもらうことが理想なのではなく、本人が「他者と交流したい」と思う範囲の「個の深み」の交流や、「交流して良かった」と思えるようなやり方での交流をめざしているのだ。もっとも本質的な問題は、「個の深み」が交流されているかどうかではなく、その人が自己の「個の深み」を自律的、主体的に他者と交流したり、あるいは、しなかったりしているのかどうかということであろう。


●p171〜172
(72行、実際72行)
mito的授業その五
 シグナルカードの効用

 私が大学の授業を受け持つことになって、まず最初に思ったことは、私が一生懸命に話をしていても、学生が「つまらないな」とか「退屈だけど我慢しなくちゃ」などと感じていたのでは、教育の意味がほとんどないということである(忍耐力だけは学生につくかもしれないが)。
 そこで、赤・黄・緑の3色の紙を買ってきて、人数分のカードを作り、教室の入口に置いておくことにした。学生は、受講中いつでも、座ったまま、そのカードを演壇の私に向かって見せることができる。レッドカードは「この話題自体に関心がもてない」あるいは「西村の見解に反対である」という「警告」、イエローカードは話題は面白そうであっても、しゃべり方が早すぎたり、不十分だったりして「よくわからない」「ついていけない」という「教育的指導」、グリーンカードは必要不可欠なものではないが、「とても関心のもてる話題なので、この調子でもっと話してほしい」という「共感」をそれぞれ意味する「信号」である。さらに、これらのカードを頭上高く掲げてぐるぐる振り回せば、「私も一言、いいたい」ということになる。一斉講義中に、「一個人」から私に、任意に意思表示ができるのである。
 実際には、そんな意思表示を授業中、積極的にしてくれる学生はいないし、また、たとえレッドカードを見せられても、私としてはそんなに急に自分のしゃべる話題をコントロールできるわけではないことは学生に前もって言ってある。正直にいって、実際に活用されるのは、各人の意見の分かれている状態を調べたりする時に、私の方から「指示」して挙げさせる時ぐらいである。
 そのような実態から、シグナルカードが双方向授業のための有効なツールというには、ほど遠い状況だが、少なくともシグナルカードを持って席につく学生の「雰囲気」は悪いものではない。そして、私は、「えっ、そんなことが授業中に許されるの?」という驚きによって、彼らが教育を「受ける」時の非主体的な思い込みを少しでも切り崩すことができればと思っている。

mito的授業その六
 ジェスチャー大会における教師の困難

 ある日の授業で、ジェスチャー大会を行った。ジェスチャーとは、言葉を使わずに身振り手振りで与えられた題材を味方チームに当てさせることで、自由奔放な表現力が求められる。私は、自分ではフリーチャイルド(自由な子ども)の傾向が強いと思っていたので、「構えることなく表現すること」には自信があった。
 ところが、私への出題は、「都市計画」だった。二十人ぐらいの学生の前で、完全にあがってしまった。あとから考えると、いくつもの演技のやり方がいくらでも浮かぶのだが、「授業時」における学生を前にした私には、そんな自由な発想をする可能性は皆無であった。そのことをはっきりと自覚した。私も余計な「構え」をもっているのだ。
 まあ、私にとっては良い勉強だったということにしておきたい。そして、学生にとっては、「教師も学生の前であがったりするのだな」という新しい認識をもてたのだから、かえって良かったのだと思うことにしよう。

(以下は割愛)
 ネクタイ外しの術
 学習者側の認知の問題?
 結論よりも主体性を問う
 教育実習と出席ペーパー
 BBS「痴漢問題」
 自然体合宿の効果と教員の自然体の困難
 漢字をどう習ってきたか


視点1
イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点
 −西武ロフトがとらえた若者たち−

 先日、数人で若者の街渋谷を訪れ、「雑貨屋イメージの百貨店」、西武ロフトの金谷信之館長の話を聞く機会があった。
 当日は雨だったが、じつはそれは幸いなことだった。なにしろ、平日の昼間でも、晴れていると相当の混雑が予想され、店内の見学が十分には行えない危惧があったからである。それぐらいロフトは、今の若者を「吸引」している店である。
 「生活必需品」に対して、若者が今までと違うものを求め始めている。「非日常」の余暇以上に、日常生活そのものを「余暇」として楽しもうとしているのだ。タテワリの商品分類では、このようなニーズに対応できない。領域の間が抜けてしまう。そこで、ロフトでは、身体、空間、仕事、余暇というようなフロアの設定をしている。
 各フロアは、それぞれ、イチ(市)とクラ(蔵)で構成される。「市」は中央にあって、市場のようにエキサイティングである。「蔵」は壁際高くまであって、定番商品がきちっと揃えてある。同じ茶碗が、すべてのサイズ揃っている。商品絞りこみもしない。売場はインデックスであり、選ぶ主役は客、使い方はそれぞれだと言う。
 さらに、ロフトはトレンドや風俗をつかまえ、「生活自遊人」という都市生活者のくらし方を提案している。「生活自遊人」とは、個の世界のマインドをもっている人のことである。彼らは、生活領域が広く、頭の中だけでなく実践をする。
 「生活自遊人」はシビアで、買物もしろうとではない。モノを知っている。そういう人をターゲットにするために、ロフトは「高度情報装備性」と「高密度・高集積」を売物にしている。
 じつはロフト社員三二〇名中、百名ほどが「モノマスター」である。彼らは、社内外公募で選ばれる。あるモノについて、本当に好きで専門的に「きわめている」人たちである。モノを使いこなせるそういう人が、仕入れから始まって、そのモノのすべてに責任をもつのである。
 「しろうと」でない学習者が増えてきた今日、それを援助する生涯学習関係職員にも、これぐらいの高度な学習内容への「こだわり」が求められる時代なのかもしれない。

視点2
個としての主張を援助する新しい民間教育事業
 −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE−

1 BEすなわち個の存在の主張
 BEは、その名のとおり、個人の人間としての「存在」に関わって、その創造、確認、さらには地域コミュニティレベルでの活動などを援助することをめざしている。
 渋谷駅南口を降りると、すぐ目の前に渋谷東急プラザがある。その七階と八階に東急クリエイティブライフセミナー渋谷BEがある。
 七階の受け付けカウンターの向かいは、ゆったりとしたロビーである。そのテーブルといすは、暖かみを感じさせる木製のものである。まわりの壁などの全体の色も、淡いピンクを基調としている。そのため、フロアー全体が親しみやすい感じをもっている。
 モダンな雰囲気もあるが、それ以上に暖かでアットホームなムードがだいじにされている。このムードづくりの基本方針は、あとで説明するようにBEが「おとな」の女性を主要なターゲットにしていることにも関係している。
 このような「暖かな」雰囲気の中で、会員自らの手作りのさまざまな「作品」が陳列されている。各教室の前の壁や廊下に、絵画やクラフトなどが展示されているのである。
 その一つに会員の「ラッピングコーディネーション」の作品を展示している小さなコーナーがある。今の世の中、贈り物といってもその品物はお店にお金をはらって買うだけ。せめて、包装やリボンなどには贈り手の演出をという穏やかではあるが確かな自己主張志向の表れである。
 普通のビンを和紙で上手にくるむなどという作業の中に、会員の意思とアイデアが存分に発揮されている。柄杓(ひしゃく)の柄をラッピングしたりなど、とても斬新な発想である。
 BEのパンフレットには次のようにある。
 「BEとはbe動詞のBE。『ある』『存在する』『〜になる』という意味をもつ言葉であり、個としての存在を証明し、主張する言葉でもあります。I think,therefore I am −『われ思う、ゆえにわれあり。』 人間のすべての行動の原点として文化をとらえ、自分自身の存在確認を行う場所。そして、それぞれの人々が、それぞれの生き方を創造し、確認する空間となることを願って、この新しい空間を『BE』と名付けました」。
 「教養」としての知識の向上より、むしろ存在確認としての「文化創造」をアピールしようとする姿勢である。
 今回の取材で、BEの副総支配人の櫻井さんに、お忙しい中、インタビューに応じていただいたが、櫻井さんは「今まで絵画などばかりでなく、教養面の講座でも『つくる』ことに力を入れてきた。今後もそうしたい」と言っているのである。
 ファッションとしての教養ではなく、人間存在に肉薄する文化創造に民間教育事業がアプローチしようとしている。しかも、そのやり方は「民間教育事業」らしく、スマートかつファッショナブルなのである。
2 若者の街、渋谷の中で
 渋谷は新しいタイプの町である。通りが、店が、そして電話ボックスまでもがしゃれている。
 渋谷の街づくりのこの明らかな成功のカギとなったのが、西武パルコである。駅からちょっと歩かねばならず、けっして立地条件がいいとはいえない所、「公園通り」を若者のメッカにしてしまった。
 他にこの通りには若者の「文化拠点」として「ジァンジァン」がある。これは、教会の地下にある劇場で、最先端の文化活動が行われている。
 そして、東急系のデパートとして「ハンズ」がある。これはクリエイティブライフストアーと銘打ち、「手づくり」のブームを生み出した店である。最近は、その近くに、西武系の「雑貨屋」イメージのデパート、ロフトがオープンしている。
 たとえば、ハンズはデパート会社の系列ではなく、東急不動産の子会社としてオープンした。そして、それまでの流通業の人たちの常識では考えられないデパート経営をした。店子(たなこ)に場所を貸すのではなく、いいものを探して買い取って来て自らが売るのである。
 若者に受けている店は、表面的には従来どおりモノを売っていて、それがよく売れているだけにしか見えないのだが、このように本質的には何かしらの「情報」を売りものにしている。どこも若者に誇れるような情報のアンテナをもっていて、それによって得た新鮮な情報を売場での「品揃え」の形などでアピールするのである。「なぜ渋谷だけが」と他の街が歯噛みをするほどの勢いの差も、その情報の魅力の差から生まれる。
 それでは、渋谷BEの存在する「渋谷東急プラザ」もこの「波」の中にあるか。実はそうではない。駅前ではあるのだが、国道などによって分断された立地である。そして、駅から少し離れた公園通りより、かえって波に乗りにくいのである。それゆえ、「プラザ」の店の品揃えは、むしろアダルトのとくに女性重視である。BEも「プラザ」の階上にあるのだから、当然その影響を受けている。
 しかし、それでもBEはつねにこの公園通りの「渋谷」を別物ではなくライバルとして意識している。櫻井さんの言葉のはしばしにその意識が表れているのである。若者の意識をひきつけるものは何なのか。逆に若者がそっぽを向かないようにするためのコツはないのか。情報やノウハウは、どのように手に入れたらよいか。若者のニーズへのこのような鋭い感受性がないと、誰を相手にする商売でも成功しない。情報ソフトが肝心なのである。
 学習機会も同じであろう。たとえば、若者に魅力があるネーミングは、基本的には中高年にも心地よいのではないか。このように、BEはもっと年上の「おとな」の学習にも、うまく渋谷の「若者センス」にあふれた情報力を活かしながらアプローチしているといえる。

視点3
「個人」がいきいきするしかけ
 −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−

 JR戸塚駅のホームから、三階建の淡いアズキ色の建物が見える。「横浜女性フォーラム」である。市内の女性の活動と交流の拠点として、昭和六三年九月、横浜市はこれを四十億円をかけて建設した。しかし、その管理・運営は財団法人横浜市女性協会に任されている。
 正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、コンピュータシステムによる図書コーナー、自動搬送システムによるビデオコーナー、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできるフォーラメディア、パソコンゲームコーナーなどがある。
 ミニコミを収集・展示したり、データベースに「よびかけ」や「らくがき」が自由に書き込める「掲示板」というメニューを提供するなど、交流への「しかけ」もさりげなく用意されている。
 また、一階には、フォーラポート(相談室、ポートは港の意)、印刷工房、託児室、そして、三八〇席の立派なホールもある。ホールの「親子席」では、乳幼児といっしょでも、人に迷惑をかけずに安心してなまの芸術に接することができる。
 「生活工房」は二階にある。そこの「工作・工芸」「衣」「食」の三つのコーナーでは、くらしを「創造」する活動ができるが、それらは間仕切りのないオープンスペースとなっている。予約なしでも自由に利用できる。パンフレットには、「個人、グループ、男性・女性、大人・子供の枠を越え、初めて出会った人とも一緒に利用しましょう」とある。ガラス張りの「物品庫」からは、「創造」に必要な器材が借りられる。
 その他、二階にはガラス越しにグループの活動の様子がわかるセミナールームや音楽室、和室などがある。三階には、助産婦さんのいる健康サロン、スタッフによるアドバイスや体操教室などの受けられるフィットネスルームなどがある。フィットネスルームは、団体貸出しを行わない。個人またはその交流にねらいをしぼっている。
 ユニークな講座も盛んに行っている。たとえば、女性には不向きとされがちな自動車整備や電動工具の講座、水まわりの修理の講座、仏発祥の再就職の講座「ルトラヴァイエ」などである。
 フォーラムは、このようにして、その情報と空間と人材をしなやかに活用しながら、「個人」にアプローチする。そして、さらに男性や子どもをもまきこんだ交流へと誘(いざな)うのである。

視点4
「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態

 青少年団体が「個の深み」を真剣に追求しようとする時、「どういうプロセスを経て、その結果、どこにたどり着こうとするのか」ということが最初に問題になるだろう。しかし、その一つ一つの明確な解答、つまり「行き方」と「行き先」は、じつは、動き出す前は決まっていないのである。
 「個の深み」を最大限に尊重しそれに対応しようとすると、どうしてもそのような予測不可能な要素が多くなる。当人以外の人には、あるいは当人でさえ、「個の深み」とは、突発的に出現して意外な方向に進むものである。そのため、あるいは「迷路」に入り込むような気分になるかもしれない。
 しかし、「個の深み」を尊重し助長するためには、団体の既存の目的だけに縛られてしまってはいけない。何が起こるかわからない「迷路」に挑戦する姿勢が求められる。あるいは、俗にいう「ケ・セラ・セラ」のような軽い気持ちでなくてはやっていけないとも言えようか。
 そして、「個の深み」がこのように奔放に発露される場を創り出すためのもっとも有力なノウハウは、青少年団体がすでにもっているはずである。それが小集団活動である。小集団によって「個の深み」への柔軟な対応が可能になる。青少年団体はこのような小集団的発想から団体運営を見直して、そのコンセプトを再構築することが大切ではないか。
 この基本的認識に立った上で、以下のように視点をまとめてみた。
1 目的志向型からMAZE(迷路)型へ
 パソコン通信でやりとりされる記事(レスポンス)は、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ=M)、大ざっぱ(アバウト=A)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ=Z)している。しかも、ほとんどのレスポンスが数行の簡単な書き込みであり、気楽(イージー=E)に書かれている。まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。
 しかし、このような「迷路」から、各自は、各自なりに、最初気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。
 パソコン通信は、ビジネスに直接役立つ情報を手間をかけずに効率良く獲得しようとする人にとっては、本当は魅力のある手段にはなりえない。しかし、人間らしい情報の創造と交流のためにはパソコン通信は有効なツール(道具)なのである。(中略)
 青少年団体においても、すでに設定された目的にとっての最適の「手段」ばかり考えるのではなく、各自が「迷路」の中でさまようことを許容してもよいのではないか。もちろん、個人にとっても団体にとっても、「迷路」をさまよう内には、苦しいこともあるだろう。しかし、基本的には「迷路」でさまようことをむしろ楽しんでしまう精神を求めたい。
2 学習→活動型から活動=学習型へ
 「学んだこと」を「社会的な問題の解決」に結びつけるために、青少年団体は従来から学習活動を重視してきた。しかし、それらの学習の目的は、おもに「活動」を準備するための学習であったといえよう。今後は、そういう「活動するための」学習に対して、「活動の中に混じっている」学習をもっと重視すべきではないのか。実際、身近な活動と学習が渾然一体となっている所は、「いきいきと面白く元気の出る場」になっているようである。
 そのためには、スケジュール化された行事を成功させるためのスケジュール化された学習だけでなく、日常の活動の中で個人個人がいろいろなことを「気づき」「思いつき」さまざまな思いをもつという意味での「学習」を高く評価すべきである。そして、そういう「学習」がまた新しい活動=学習を生み出すような、柔らかなシステムが青少年団体の運営に求められている。
3 研修会方式からたまり場方式へ
 団体がそのめざしているものを、迅速に効率良く集団に伝えようとする時、どうしても「研修会」に頼りがちになる。しかし、そのような研修会では、参加者がそれぞれの個性を生かしてアイデアを出し合うということは難しい。
 「個の深み」から発したユニークなアイデアを団体運営に反映するためには、研修会だけでなく、いくつかの所で試行されているように、喫茶店や居酒屋などのような気楽にしゃべれる空間の活用が大切である。
4 一括方式から選択方式へ
 パッケージツアーはなかなか便利な旅行システムである。プロである旅行会社が設定したコースは、さすがに大切な見所を要領良く組み合せてあり、それらを交通手段などの心配もなくまわることができる。
 しかし、一方で、最近では「地球の歩き方」というガイドブックを片手に外国の路地を探し歩く日本の若者が増えている。この本には、一般にはあまり有名でない店などを含めて、その国のこまごました情報が満載されている。
 同じ海外旅行をするにしても、従来のようにプロがすべてをお膳立てした「フルコース」のセットでは、ニーズの多様化した若者には満足できなくなってしまっている。それよりも、若者はたくさんの情報を得た上で自分の好みのコースを歩き、時にはちょっと苦労してもいいから「自分だけの」思わぬ発見をしたいのである。
 旅行に限らず団体活動のいろいろな局面で、団体だからみんなが同じ行動をするというのではなく、むしろそれぞれの好みの行動ができるよう、団体は情報やメニューの提示などをし、各個人がそこから自らの行動を「選択」し、その上でそれぞれの「発見」を披露し交流してもらうなどの発想転換が必要である。
5 既製服型から注文仕立型へ
 個人が団体に所属していることは、さまざまな面でのメリットもある。もちろん「仲間がいると心強い」などの所属感もその一つだが、その他、「一人ではできないけれど集団になったらできる」ということもある。
 そこまでは良いのだが、この「集団のメリット」にともなって、「安かろう、悪かろう」という安易な気持ちや「逃げ」の姿勢を、団体側がもってしまうことはないだろうか。たとえば「あなたはこの団体から恩恵を受けているのだから、そのぐらい我慢してくれよ」とリーダーからメンバーに頼むことはなかったか。その時、メンバーの不当なわがままを我慢してもらうのならともかく、いつのまにか「個の深み」の発揮まで我慢させていないか。
 A.トフラーは、その著「第三の波」の中で、コンピュータなどの高度技術の活用によって、たとえば服飾業界では「個人の寸法にぴったり合った服」を、一着づつ、しかも早く安く仕上げることができるようになるだろうと予測している。
 団体活動においても、今日の科学技術や交通手段の発達などの有利な条件を生かせば、各人のばらばらなニーズに合わせた「注文仕立て」の多様な活動をすることができるはずである。ちなみに、その場合、「注文」したメンバーが「他の誰かがそれをやってくれるのを待つ」という姿勢であってはならない。それを注文した本人が一番熱心にそれに取り組むよう、団体の方からも本人に要請すべきであろう。
6 スローガン型から遊び心型へ
 平成二年一月に出された中央教育審議会の答申「生涯学習の基盤整備について」では、生涯学習はボランティア活動などの中でも行われるものとして広くとらえられている。当然、青少年団体活動も含まれるといえる。そして、この生涯学習は、個人の意思で自ら「選びながら」行われるとされている。生涯学習は、こういう学習が必要であるということを外部から決められておしつけられるものではない。自らが好んで、ある意味では「楽しんで」行うのが生涯学習なのである。
 また、中国山地の「過疎を逆手にとる会」は「遊び半分」をその「哲学」としている。世田谷羽根木のプレーパークのプレーリーダーは「まず、自分が遊びを楽しむ人」だという。
 これに対して、団体の実際の運営においては、通常「スローガン」の羅列、すなわち「○○を学ばなければならない」「地域を救わなければならない」「子どもにこうさせなければならない」などの「ねばならない」のオンパレードになりがちである。しかし、生涯学習がそうであるように、既成のスローガンにあまり拘束されずに、変幻自在が許されて「遊び心」で活動できることが「個の深み」の発揮につながるといえよう。
 知覧町連合青年団が「青年団が嫌いだ」という相互理解のもとに「団結できた」ということも、スローガンをおしつける青年団なら嫌いだが、自分たちが自分たちのために変幻自在に活動できる青年団なら面白がれるということを表している。自分たちがやりたいと思う活動を楽しくやっている青年団は、知覧町ばかりでなくどこの地域でも元気がある。

視点1
生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク
 −AV−PUBのサロンで「私的」交流−

 港区虎ノ門の日本視聴覚教育協会が、文部省の支援も得て教育関係者のためのパソコン通信「AV−PUB」を運用している。これは、「視聴覚教材情報全国システム」という正式名称のとおり、AV関係のデータベースであり、電話線を通して全国から利用できるようになっている。
 しかし、愛称のほうはPUB(酒場)であり、その中にサロン(談話室)という電子掲示板もある。パブのように気楽に入って必要な情報を入手し、ついでにサロンで全国の仲間とディスプレイを通したおしゃべりもできるわけである。
 昨年六月ごろから、このサロンで生涯学習関係者の書き込みが盛んになってきた。LLLという、ゆるやかなつながりの小さなグループである。メンバーは近県の社会教育主事、小学校教師、新聞記者などで、時には、本当に飲み屋で集まって一杯やることもあるが、ほとんどは自分の空いている時間、すなわち深夜、自宅から発信する。
 いずれにせよ、フォーマルな立場での気遣いは不要、その意味では「私的」な交流である。そこで、授業、講演、執筆、学会発表、出張、視察、研究発表会参加などの事前・事後報告や他のメンバーとのやりとりが行われる。今まで話題になった主なものを出現順に紹介してみよう。
 ニューメディアに関する専門性の内容、社会教育施設のLAN化、情報ボランタリズムの意義、コンピュータ教育に必要な知識体系、根底的な学社連携としての教え方の技術の交流、情報処理能力の内容、リーダーシップトレーニングのノウハウ、DIY(手作り)メディアの評価、子どもにキーボードストレスはあるか、社会教育主事の発問や学習プログラムなどの交換の必要、学習情報提供が抱える問題点、小さな市町村の生涯学習関係職員の高い通信ニーズ・・・。
 その他、宇宙は有限か無限か、太古の哺乳動物について、海外旅行のコツ、出張先のうまいもの情報求む、マシンの情報や選定についてなど、実際の流れはミスマッチ(M)でアバウト(A)でジグザグ(Z)でイージー(E)で、まるで迷路(MAZE)を楽しんでいるかのようだ。
 AV−PUBには、教育に関係する人なら誰でも加入できる。電話料金だけ負担すればよい。技術的にわからないことは、LLLのメンバーが助けてくれる。

視点2
学習情報提供事業の企画と展開
 −人間が学習情報を求めている−

1 学習情報提供事業の基本的問題
 生涯教育の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されている。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、市民個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することは大変難しくなっている。それゆえ、豊富な学習機会の中から、市民が自己の必要とするものを的確かつ速やかに選び出すこともできなくなっている。学習施設や人材など、生涯学習に関わる他の情報についても同じことがいえる。
 こんなことでは、せっかくの「外側」の「学習社会」の実現も、一人一人の人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たない。生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのである。
 しかもここで扱う情報は市民一人一人の内面に関わり、影響を与えるものであるから、その情報提供事業は特別に、「市民主体」「公正」「公平」などの公共性に裏打ちされていなければならない。
 公的に学習情報を提供する意義は、以上のようにまとめられるだろう。しかし、さらにこの事業の実施に当たっては、次に述べる三つの基本的疑問について考えておく必要があると考える。
(以下、表題のみ列記する)
1) 情報過多に「輪を掛ける」ことにならないか
2) 市民の情報能力の獲得を阻害しないか
3) 情報提供より学習相談を中心的機能とすべきではないか

2 展開の構想にあたっての留意点
1) 側面的援助という原則の遵守とともに積極性の必要
2) 新鮮な情報の収集
3) 実際に市民が求める情報の提供
4) 「学習情報」の範囲を偏狭にとらえない
5) 地域情報・行政情報の重視
6) 科学技術の急速な発達をうまく活用する
7) 学習情報ニーズを育てるための教育的機能の発揮
8) 市民自身の手による調査・研究との結合
9) ともに育つ「しかけ」の配置
10) ネットワークシステムの中での位置づけ

3 展開の構想
生涯学習情報提供事業の機能   (●表1)
情報の種類・内容・収集方法   (●表2)
情報の収集から提供までの流れ  (●図1)

視点3
学習情報提供の実際

1 市民の学習情報要求にこたえる情報提供の実際
 学習情報提供を始めるにあたって、そこで提供される情報が、学習者の情報要求にこたえるものになるかどうかが、まっさきに問われる。
 要求された情報にこたえるということは、ごくあたりまえのことのようにきこえる。しかし、それを実際に実現しようとすると、情報提供側はさまざまな具体的困難に直面する。学習情報提供には、その困難をのりこえるセンスと努力が求められるのである。
 ここでいくつかの事例を紹介するが、その中から、事業主体の積極性と創意工夫の跡を読みとっていただきたい。
 なお、図書館においてもそれと通じる評価すべき試みがなされているので、あわせて紹介した。図書館のいくつかの積極的な試みは、学習情報提供のあり方にも直接的な関連をもっており、示唆を与えるところが大きい。
(以下、表題のみ列記する)
1) セクショナリズムをこえて、学習者の求める情報をひろく、わかりやすく提供する
   −中野区「中野の社会教育事業等プラン一年」−
2) 民間の活力あふれる学習情報を提供する
   −江東区文化センター「タウン情報こうとう」−
3) 提供できない情報についてもつねに問題意識をもつ
   −仙台市中央公民館情報コーナー−
4) 「低次元」と思われるような情報要求に対しても、みくびらずに接する
   −東京都立江東図書館の「ヤングアダルトコーナー」−

2 学習情報提供における情報要求のほりおこしの実際
 情報要求の中には、学習者が自ら意識して実際に情報を求めてくる「顕在的要求」もあれば、まだ本人から求めてくるにはいたっていないが、なんらかの形で触発された場合には情報要求として具現化されるであろう「潜在的要求」もある。
 学習情報提供事業においては、顕在化された質問に答えているだけで良しとするのではなく、学習者が自らの「潜在的学習要求」や本当に必要な学習情報とは何かについて気づくよう援助することも一方で考えなければならない。
 ひとつには、学習者のそれぞれの実際の情報要求に応じる時に、相手が言葉に表していない「潜在的要求」まで察する努力をした上で、必要な情報の提供を行うべきである。
 さらに、次に述べる各種の情報提供においては、「潜在」を「顕在」に転化させるために、その他の積極的な働きかけが行われている。そして、それらは情報提供そのものにも効果的にむすばれている。このような取り組みにより、学習情報提供の価値がいっそう高まるのである。
(以下、表題のみ列記する)
1) 自由にみちた文化度の高いイベントを開催する
   −大阪府立文化情報センター−
2) 学習情報がひろく活用されるよう、「動態的」にサービスする
   −調布市立図書館の読書会活動−

 学習情報を提供するにあたっては、まず、市民の求める学習情報を提供することが大切である。そのためには、実際には次のような点に留意する必要がある。
1) 一般行政の教育的事業などの学習情報も含めて、それを学習者の立場に立ってわかりやすく編集・加工して提供する。
2) 自主的な教育・学習活動や、時にはカルチャービジネスなどの民間の学習情報も含めて、民間の活力にあふれる生涯学習の情報を提供する。
3) 政治・宗教・営利に関する学習情報など公共性の観点から取り扱いの難しい情報の要求に対しても、機械的に切り捨てるのではなく、問題意識をもって柔軟かつ主体的に対応する。
4) 青少年などの「低次元」と思われる情報要求に対しても、みくびることなく、学習の発展の契機として尊重して対応する。
5) コンピュータ利用などによって、大量の情報の整理と迅速な提供をはかる一方、学習情報を求めてきた人との対話を大切にし、表面には現れてこない潜在的な学習情報要求にもこたえられるよう努める。
 つぎに、潜在的な学習情報要求をほりおこすことによって、市民の学習情報要求それ自体の発展を援助し、また、学習情報がひろく市民に活用されるようにすることが大切である。実際には次のような働きかけが考えられる。
1) 衝撃力のある文化度の高いイベントを開催する。
2) 「座して待つ」のではなく、地域のさまざまな場所・機会において、学習情報を提供する。
3) 学習情報の「専門家」として、ひろく市民に対して、学習情報の入手や活用の方法についての専門的・技術的援助を行う。
 ただし、これらの働きかけは、けっして強制や押しつけであってはならない。市民の自由と主体性を尊重し、市民と対等に接してともに考える姿勢が必要である。

視点1
あたたかいディスコダンス

 青年たちと久しぶりに新宿のディスコにでかけた。昔ほどの熱気はなかったが、それでもフロアは若者でいっぱいで、けっこう楽しめだ。しかし、昔よりおとなしい曲が多く、それに合わせてめいめいが各様の踊り方をしていた。
 実は私は、青年の家の職員だったころ、主催事業としてディスコダンスの合宿をやっていた。そのころ、まちではディスコが熱っぽくはやっていたが、社会教育の場でそんなことをした前例はどこにもなかった。実行委員の青年が踊り方をどこからか仕入れてきて、みんなに教えた。時にはディスコの店長を招いて教えてもらったこともある。
 当時はバスストップなどのステップダンスが多かった。これは、バスの停留所に並ぶような形でみんなでステップを合わせる踊り方である。そこでは生まれて初めてディスコをやるという人も、毎週ディスコに通いつめている人もいっしょになってステップを踏む。 青年たちの感想は「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」とか、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」などであった。「ヒトに教えるなどとんでもない。人の前でカッコ良く踊るのが生きがい」という様子のディスコボーイが次第に実行委員会にのめりこみ、三年目のフェスティバルでは、スッと前に進み出てマイクを握り、一歩一歩そのステップを説明してくれた時は、私も他の実行委員の連中も大喜びした。
 ディスコで汗をかくと、とにかく身も心もすっきりする。しかし、今も昔もお店のディスコでは青年は意外にひとりぼっち。相手がかわいい女の子でもない限り、踊れないで隅にいる他人を、じょうずな者が教えるなどといったことはありえない。その点、社会教育や青年団体活動の場では、もっと「あたたかい」ディスコができるのだと思う。
 そんなことを思う時、年のせいかもしれないが今のディスコにものたりなさを感じる。みんなで教え合い、初めての人でも簡単にリズムにのれるバスストップのような「古き良きディスコ」に愛着を感じる。今でもそのステップを教える機会が時々あり、そんな時は私自身が心から楽しんでしまっている。

視点2
レクリエーション的な要求への対応

1 レクリエーションの重要性
 生涯学習の振興とは、住民の主体的な学習・文化・スポーツ・レクリエーションのすべてがいきいきと行われるために必要な条件整備をすることである。だから、レクリエーション的な要求が多い地域では、まず、レクリエーションのための施設・設備などを含めて、それが活発に行われるための条件が十分であるかどうかを再点検しなければならないのは当然である。
 余暇が増大し、高齢化が進展するなどの急激な社会の変化の中で、人間性をとりもどし、それをもっと豊かなものにするためにも、レクリエーションは重要である。
 生涯学習要求調査の中での「レクリエーション的な要求」が、住民一人ひとりのどういう根源から生まれでてきているのか、そして、どんなレクリエーションを住民が望んでいるのか、まずはできる限り把握すべきである。

2 地域課題の導入の可能性
 このように住民の学習要求を細かに見ていくと、「顕在的」な要求ばかりでなく、直接は調査に表れにくいけれども、調査全体からは見え隠れする「潜在的」な要求も少しづつ明らかになる。その一つが地域における人々の連帯である。
 芸術の鑑賞や旅行などのように、一人で行うレクリエーションも大切だが、レクリエーションが人間回復をめざすのなら、それは一人ひとりの孤独な営みだけでは、けっして完成することはできない。人間どうしの連帯感を味わうことができてこそ、レクリエーションの大きな喜びがある。
 今日の地域社会は、さまざまな問題をかかえている。とくに、地域の連帯意識や共同性の弱体化は、自立性の衰退、住みにくさ、地域教育力の減退による子どもの非行化などの主要な要因の一つになっている。これらのことも、住民の深刻な学習要求として表れているはずだが、レクリエーション的な要求をもっている人はそういう要求をもっていないと、みくびってはいけない。むしろ、連帯感があふれるレクリエーション、地域の連帯をつくりだすレクリエーションを、「顕在的」あるいは「潜在的」に求めていると考えるべきである。ここに、「レクリエーション的な要求」が、地域課題にむすびつく可能性を指摘することができる。
 たとえば、自治体の生涯スポーツの取り組みの中で、三世代交流のゲートボール大会や、地域対抗のソフトボール大会などが行われている。これらは、「顕在的」なスポーツ・レクリエーションの要求にこたえながら、地域の連帯感の涵養によって地域課題にアプローチする試みとして評価することができる。

3 生涯教育の基本方針からみた調整のあり方
 右に述べたように、住民の学習要求(文化・スポーツ・レクリエーションを含む)がある場合、それがささいに見えるものであっても、その活動が自主的にいきいきと行われるよう配慮することが行政には求められる。そして、その学習要求をていねいに分析することによって、「潜在的」な学習要求もみえてくる。
 しかし、そのことは、「顕在」「潜在」の学習要求のすべてにわたって、行政側がそれに対応する事業を「提供」しなければならないということではない。生涯教育の予算といえども限られているのだから、住民の多様な学習要求から「選択」せざるをえない。その「選択基準」をプライオリティー(優先度)という。プライオリティーには、緊急性、切実性、公共性などが考えられる。いずれにせよ生涯教育行政が責任をもって、住民の支持を得ながら、その基準を明らかにしていかなければならない。
 その時、当初は把握できなかった学習課題も、場合によっては事業として設定することがありうる。生涯教育の事業は、調査を平板に受けとめるだけでできるものではなく、「選択行為」とそれへの住民の反応のプロセスから動的に創り出されるものである。もちろん、この「選択」は住民の生涯学習の活動に対して行われるものではない。あくまでも、生涯教育行政が自ら提供する事業を設定する時に必要になるものである。

視点3
高齢者教育における学習課題のとらえ方

1 ジェネレーションとライフステージ
 高齢者教育における学習課題をとらえるためには、まず、成人一般の学習課題の把握が必要になる。その上で、高齢期特有の学習課題をとらえるためには、大きく二つの観点が考えられる。
 一つは、高齢者として同じ歴史的体験をしてきて、関心や考え方などに共通するものがあるというジェネレーション(世代)の観点、二つは、それぞれの高齢者が年をとること(加齢)によって受ける心身への影響に、共通するものがあるというライフステージ(発達段階)の観点である。
 前者のジェネレーションの観点で言えば、戦前に青年期を過ごしてきた人間が現代を生きていく時の、苦悩、喜びなどを理解し、それを援助するとともに、現代社会が反省しなければいけないことを、今を生きる社会の一員として有効に提起してもらうために必要な学習課題にも、目を配ることが大切である。
 後者のライフステージの観点については、森幹郎氏の指摘が重要である。それは、老人問題を論ずる場合、暦年齢chronological agesではなく、社会年齢social ages や機能年齢functional ages でとらえることが必要だということである。そして、年をとり、かつ、労働を引退した人を、「社会年齢の上での老人」(ヤングオールド)、身体的、精神的、心理的に老衰し、かつ、日常生活行動の上で他人の介護を必要とするようになった人を、「機能年齢の上での老人」(オールドオールド)として、区別して考える必要があるというのである。(森幹郎「高齢化社会における高齢者教育」、国立教育会館社会教育研修所『高齢者教育の目標と内容』、一九八七)

2 個人的課題と社会的課題
 つぎに、高齢者教育における学習課題には、個人的な側面と社会的な側面とが考えられる。
 「個人的課題」とは、「退職後の生活設計」「余暇活動」「老いの受容」「死の受容」などに関するものである。とくに、「老い」や「死」を受容するか否定するか、あるいは逃避するかは、まったく個人の精神的内面に関わる問題である。しかし、あえてそれを「学習課題」としてとらえて、その学習を援助する手だてを探り出すことが、高齢者教育を行う者にあらためて求められている。
 「社会的課題」については、LESS DEPENDENCY EDUCATION =「できるだけ他人に負担をかけないための教育」(森氏)が、ポイントになる。その中身は、ヤングオールドに対しては、再就職教育、予防的健康教育、オールドオールドに対しては、リハビリテーション訓練などがあげられます。その他、核家族化が進行する今日、高齢者の知恵を活かし、また、他の若い世代と交流してもらうこと自体も、今日の高齢化社会において社会的意義をもつ学習課題といえる。

3 学習課題の実際の領域
 稲生勁吾氏は、ハビガースト、エリクソン、ノールズの説や国立社会教育研修所の「成人の学習領域」の研究成果などを参考にしながら、次のように、高齢期の学習課題を整理している。(稲生勁吾「高齢者教育の内容」、同『高齢者教育の目標と内容』)
 「高齢期の理解」(老化と円熟の認識など)、「高齢期の過ごし方」(高齢期の生活設計など)、「家族とともに生きること」(家族関係など)、「社会とともに生きること」(地域社会についての理解など)、「高齢者に関する法律・制度」(老人福祉など)。
 高齢者教育における学習課題をとらえるためには、先述のような基本的な観点があるが、そのそれぞれがはっきりした境界線をもっているわけではない。現に、稲生氏の整理した学習課題は、それぞれがいくつかの観点からの意義を同時に有している。現実に学習課題を選択する場合は、複眼的視点が求められるわけである。

視点4
グループリーダーの新しい形

 今日の多様化、個別化の社会において、グループリーダーのあり方も大きな変貌を遂げつつある。その主要な変貌の一つがリーダーからメンバーへの「権限(リーダーシップ)の移譲」ともいえる現象である。
 「○○委員会」「○○部」などの固定的なブロックの上に恒常的な会長がいて、その会長が全体を統括するというのではなく、ある企画や問題について関心のある数人がその時のグループの中心になってプロジェクト・チームに似た機能を発揮する。そして、会長は他にいても、それより強力なリーダーシップを「不定期に」発揮する者がそのチームの中から登場する。この新しいリーダーシップのシステムは流動的で柔軟である。
 ここでは、会長などのグループ全体の恒常的な指導者を「ゼネラル・リーダー」、不定期に出現する指導者を「プロジェクト・チーム・リーダー」と便宜上、よんでおく。なお、ここでいう「プロジェクト・チーム」とは、会社組織などでつくられる当該事項に関する適性をもつ者の「横断的」なチームとは、多少、性格を異にする。むしろ、グループ活動の「自主性」「自発性」という特性に規定されて、当該事項に関心をもつ者の「自然発生的なチーム」である場合が多いだろう。必ずしも他者から特命を受けた明確な組織形態をとるわけではない。
 もちろん、グループの効率的な運営などのためには、今日でもグループ全体を掌握する「ゼネラル・リーダー」の役割は軽視できない重みをもっている。しかし、それとともに、これらの「プロジェクト・チーム」がグループの中で認められいきいきと活動できることが、新しいネットワーク型のグループ運営を進めるための必須条件といえるのである。
 むしろ、「ゼネラル・リーダー」のもつべき今日的なリーダーシップとは、そういうプロジェクト・チームが盛んに形成され、それぞれのリーダーが続々と生まれ育つよう励まし見守ることともいえるのである。
 これに対して、公民館で行われるリーダー養成事業が、「ゼネラル・リーダー」ばかりを対象として、しかもその事業にリーダーシップのためのありとあらゆる知識・技術を盛り込もうとするならば、それはグループのネットワーク型運営の方向に逆行し、活性化を阻害する結果にさえなってしまう。
 たとえば、グループ運営を一手に引き受け、たくさんの「責任」をしょい込んでいるリーダーには、対外的な仕事もかなり集中してしまう。その上に、リーダー研修への参加までもが、「対外的な仕事」(動員への対応)の一つとしてこのリーダーにおおいかぶさる。このようにして、リーダー一人がますます忙しくなってしまうのである。
 そもそもリーダーを「ゼネラル・リーダー」に限定してとらえることは、グループ全体の成員の自発性、主体性を軽視し、グループをリーダー偏重のタテ組織としてとらえていることの表れであろう。さらに言えば、この「ゼネラル・リーダー」偏重の志向は、初級→中級→上級というリーダー研修体系を、より大きな規模の「ゼネラル・リーダー」になるためのたんなる「踏台」として歪曲することにもつながりかねないのである。
 今日、リーダーシップとメンバーシップは、機械論的な二元論で扱うべきものではない。グループ活動の中で、この二つは成員の間を自由に行き来すべきものなのである。ネットワークとはそういうことである。

視点5
リーダー研修に望まれる内容

 そもそも、ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」とされているのに対して、リーダーシップは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」とみられている(見田宗介他『社会学事典』、弘文堂)。リーダーシップは、本質的にネットワーク型なのである。とくにグループのリーダーシップは、成員各自の主体的な合意のもとに、しかも「プロジェクト・チーム・リーダー」を含む非固定的なリーダー個人の自立的な価値によって、可変的に発揮されるという意味で、ネットワーク的性格をいっそう強く有しているものといえる。
 リーダー研修の内容としては、場合によってはごく実務的な事項も含まれて当然であるが、研修全体として見ればこの本来のリーダーシップのあり方を実現するために必要な事項こそが核に据えられるべきなのである。
 その一つは、コミュニケーション能力である。ネットワーク型リーダーには、自己の企画を他のメンバーに訴える力(プレゼンテーション)と、それに共感してくれた各人の人間関係をとりむすぶ力(グループワーク)の両方が必要である。コミュニケーション能力はその基本になる。
 二つには、「不定型」に挑戦する能力である。ネットワークは、めまぐるしく変化する問題や関心に自由自在に対応できるところに、その魅力がある。その時点での役職やルーティンワーク、あるいは慣習にしがみついて発想したのではネットワークにならない。未知で形の定まっていないことへの挑戦の姿勢が求められる。そのためには、発想法のトレーニングなどが有効である。
 三つには、外と交流し学びとる、「外とのネットワークづくり」の能力である。異種の人間との交流が各自の世界を飛躍的に広げる。人材を知ること(ノウ・フウ)にもつながり、グループ運営にも資することができる。そして、それは外とのネットワークであると同時に、グループ内の風土にも新鮮な風を起こしてくれる。このような意味から、団体間コミュニケーションとしての「交流」を援助する意義は重要である。
 しかし、もう一方で、公民館はネットワーク型グループ運営のもつ問題や危険性も見過ごさないようにしなければならない。
 ネットワーク社会においては、専制的な「リーダーシップ」は否定され(権威失墜)、拡散し、大衆化する。だが、そのことは反面、正当なリーダーシップをも軽視する傾向にも通ずる。厚みのある「大作」としての文化が喜ばれないのと同様に、「不易」の根拠をしっかりともつリーダーシップまで捨て去られてしまう。そして「流行」だけが追い求められる。
 そのような時、リーダーに「不易」を提起する公民館独自の役割は大きい。公民館は、この役割を主体的に発揮しなければならない。
 もちろん、その場合でも、「主体的」であるべきは公民館だけではない。研修を「受ける」側としてのグループリーダーにも「主体的」参加が求められる。このような両者の主体性を両立させるためには、「問題共有の視点」をもつ研修内容にする必要がある。すなわち、「同時代」に生きる者としての共通の問題に共同で取り組むような研修内容にするのである。そこには主体的な自己成長と相互作用が生まれるだろう。
 もともと「養成」には「教育して一人前に成長させる」という語義がある(岩波漢語辞典)。しかし、そういう「養成」の古い語義はもう新たにしたい。お互いに「同時代人」としてすでに「一人前」であるという対等な立場から、「自己養成」「相互養成」を繰り広げることが「リーダー養成」の新しいあり方だといえよう。

視点6
学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ
 −東京都足立区の生涯学習推進構想−

1 区民の一人一人に受け入れられつつある生涯学習
 「足立区生涯学習推進協議会」は、区内の団体の代表を多数含めた五五人の委員から構成され、生涯学習に関するさまざまな願いを取り込みながら、提言などを行ってきた。
 しかし、このような生涯学習の活動が、最初から広く区民に理解されていたわけではない。足立区が「生涯学習のすすめ」というビデオの撮影を昭和六二年に開始したころ、「生涯学習という言葉を知っていますか」というインタビューに、ほとんどの区民が「知らない」と答えている。
 また、一方で、昭和五八年頃に行った区民へのアンケートでは、「あなたは、どこに住んでいますかと聞かれたら、どう答えますか」という質問に対し、多くの区民が「足立区」ではなく「東京都」と答えるという回答をしており、区の行政担当者にショックを与えていた。
 このような状況の中で、庁内の企画、地域振興、福祉、衛生、そして教育委員会などの関係セクションの係長レベルの人たちを中心にプロジェクトチームがつくられ、生涯学習推進のための実質的な協議が続けられた。
 最初は、チームメンバーの中には、「生涯学習は教育委員会の仕事」ととらえる人もいたようである。しかし、納得いくまで、メンバーで勉強しあった。合宿もした。事務局を担当した一人の米山義幸さん(生涯教育部学習推進係長)は、「日頃の仕事が違うからこそ、今でも当時のメンバーといっしょにお酒を飲むととても楽しい」という。
 このチームによる足立区生涯学習推進構想「学びあうまち足立の創造のために」の報告(昭和六二年六月)の後、「生涯学習の推進」は、行政セクションの違いを乗り越え、「総合行政」の中で重視されるようになってきた。「生涯学習の推進」は文化行政のキイ・コンセプト(中心概念)であり、「A・I(アダチ・アイデンティティ)=足立らしさ」の創出の最高の手段であるという報告の提言は、今日では区政全体に受け入れられつつある。
 そして、生涯学習についてのわかりやすいビデオやグラフ誌の発行などもあいまって、区民の間にも「なんだ、私たちのやりたいことが、生涯学習だったんだ」というような声があがり、生涯学習への親しみの気持ちが根づいてきている。今では、住区センターの管理運営委員会の自主企画で、「生涯学習について二時間ぐらい話しに来て」などという嬉しいリクエストが区の担当者に舞い込むという。

2 日常の学習圏とより広い学習圏の施設配置
 区内の住区センターの一つ、五反野コミュニティセンターを訪ねた。ロビーでは、子どもが宿題をしたり、主婦が数人で昼食をとったりしている。住区センターは小学校区に一つぐらいの割合で配置されているから、そんな身近な使い方ができるのだろう。
 その他、一階は主に老人館で、そのホールでは、「バンパー」というビリヤードのようなゲームを、かなりお年を召した方々がやっていた。その仕草がかなりしゃれているのである。風呂もある。二階は児童館である。広場、図書室、工作室などで子どもが自由に遊べる。
 現在三八館ある住区センター(最終五六館を予定)は、すべて地域振興課の管轄だが、その運営は地域の住民の代表による管理運営委員会にいっさい任されている。この管理運営委員会が、講座などの事業も実施している。もちろん、区の生涯学習推進協議会にも、各センターの運営委員長の中から代表を派遣している。このように、住区センターは区民の一番身近な生涯学習サービスを受け持ち、名実ともに「住区学習圏」の核になっている。
 つぎに、より広範な学習圏の施設の一つであるLソフィアを訪ねた。Lソフィアは、区内の主要な駅の一つである梅島駅から、徒歩二分の所にある。四階建てで白いタイル貼りの明るい感じの建物である。玄関ホールは二階まで吹抜けで、開放感にあふれている。婦人総合センターを有しているのがここの特徴であるが、その他、梅田センター、消費者センター、区民事務所との複合施設になっている。
 梅田センターのようなブロックセンターは、区内に一二館ある(最終一三館を予定)。それぞれ、社会教育館、体育館、地域図書館を併設しており、「住区」と「全区」の間の圏域の施設として生涯学習の中核的な役割が期待されている。
 このように、足立区は区民の生涯学習にとって重要な拠点に施設を配置してきた。そのためには財政面や用地取得の上から、先見性と大きな勇気が必要だっただろう。しかし、それが足立の生涯学習の基盤を整備し、ひいては、足立区民が胸を張って「私は足立区に住んでいます」といえるようなアダチ・アイデンティティを形成するきっかけとなっているのである。

3 下町の良さを引き継ぎつつ次代をになうために
 緑豊かな東渕江庭園の中に、ひと際目立つ、昔の蔵を思わせる白い建物がある。足立区立郷土博物館である。玄関を入ると、二階まで吹抜けの天井に届くかとさえ思われる山車(だし)が展示されている。このような山車は、下町でももはや貴重なものとなりつつある。
 この博物館の展示物の一つに「荒川放水路工事復元ジオラマ」がある。荒川はその名のとおりの「あばれ川」で、大開削工事のすえ、昭和五年に荒川放水路が完成した。これによって、江東デルタ地帯は水害から守られるようになったが、足立は放水路によって二つの地域に分断され、人的、経済的にも大きな試練を受けた。ジオラマの農村風景は一見のどかそうだが、そこには目に見えぬ苦労が秘められていることを感じさせる。
 山車に象徴されるような下町の良さや人情を継承しながら、次代に向けて下町ゆえの不利を克服していく・・・。区民一人一人の生涯学習によるアダチ・アイデンティティの創出は、そういう努力の一環なのである。

あとがき
 止揚とは何であろうか。それはいうまでもなく、「折衷」とは違うはずである。その「折衷」のほうが堂々とまかりとおっているのは、なにごとか。
 ・・・などと肩をいからすほどではないかもしれないが、それにしても、本来はAとBが新しいCになることによって、A・B双方の何らかのデメリットが克服されることを止揚というのであろう。
 生涯教育の理念は、社会の教育的諸機能の「統合」である。たんなる「折衷」ではない。それなのに、古い価値観をもって時の流れに抗している社会のさまざまなエスタブリッシュメント(既成の体制)によって、むしろ生涯教育理念が古い教育形態・思想に取り込まれてしまっている現実が目につく。つまり、旧態依然とした優越・劣等の二元的価値観にもとづく教育観(大衆がそれを支えている!)に変質した「生涯教育理念」が、古い教育に「味付け」(折衷)されているだけという状況が見受けられるのである。
 そこで私は、不遜なことではあるが、生涯教育理念そのものの究明ではなく、それ自体はあいまいにしたまま、今日の生涯学習の第一線現場に表れる古い価値観克服の葛藤の諸相から、新しい生涯学習のあり方を発想してみた。これが、「か・く・ろ・ん」と名づけたゆえんでもある。
「各論」というと、少年・青年・成人・婦人・高齢者というように、対象別に「輪切り」にした議論を予想された方もいるかもしれない。だが、この本では、重要だと思われる問題をいくつか抽出して論じたという意味で「各論」である。まだ十分には明らかになっているとはいえない生涯学習の本質を見きわめるための「各論」である。たとえば婦人教育であれば、婦人「対象」教育の大切さもさることながら、幼児期から高齢期の男女を対象とした婦人「問題」教育を、よりつきつめて考えてみたいのである(ここではふれていないが)。

 この本の中では、新しいキーワードがいっぱい出てくる。個の深み、MAZE、出席ペーパー・・。しかし、この本の趣旨をまとめれば、つぎのようになろう。
 人々が「依存」する農業文明と人々が「自立」する産業文明の次にくるものは、人々が依存と自立を統合して知的・情的関係をとりむすぶネットワーク型文明である。依存と自立との対立が止揚されるように、コミュニティと地球との規模の違いから生ずる矛盾も止揚される。あるいは、「止揚」という二元的対立の論理自体が、もう通用しないのかもしれない。
 文化や価値観のこのような質的変革のゆくえを決めるのは、人間の新しい形の成長である。新しい形の生涯学習である。新しい形の生涯学習の中では、フォーマル・エデュケーションとしての学校教育は、むしろ生涯学習の基礎づくりの機能としてこそ重要になるのであり、「制度的」には(役所の予算は少なくても)ノンフォーマル・エデュケーションとしての社会教育(行政)や企業内教育が、「本質的」にはインフォーマル・エデュケーションやインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)などのMAZE的生涯学習が、主役になるのであろう。
 生まれて初めて「自分の本」を出すことができた。今までいろいろな所で表現させてもらった自分の拙い思考活動を一冊にまとめることができたことは、思った以上に嬉しいものだ(便利だし)。これまでお世話になった方々と、この本を買ってくださったあなたに感謝する。
 この本には、とくにご不明の点やご意見などが多いと思うが、それはツー・ウェイのやりとりで発展的にアフターケアさせていただければ(もちろん、学生とも)幸いである。

追伸
 本文全体が最初から電子化(MS−DOSの標準テキスト文)されていますので、希望する方にはフロッピー(5インチ2DD)にコピーして提供します(千円、消費税込み、注文は直接、学文社まで)。
 文字型データの任意検索による分析や批評のための引用などに、電子化された拙文もあるいはお役に立つかもしれません。

参考文献 注・30字×24行×4ページ

参考文献(気づきにくいが有用で示唆に富む文献を優先した)

第1部 「個の深み」への注目、そして、支援
<個別化、「個の深み」>
中青連特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長に
どう関わるか」中央青少年団体連絡協議会、1990
 団体活動に対して「個の深み」という言葉を初めて提起。
山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、1984
 消費社会の自我形成のあり方を「個別化」の視点から論究。
<個人と社会教育・生涯学習>
碓井正久編『社会教育』東京大学出版会(戦後日本の教育改革)、
1971 団体中心性をもつ戦前社会教育の戦後の継承と断絶を分析。
島田修一「社会教育法」星野安三郎他編『口語教育法』自由国民社、
1974 条文を日常の言葉に書き換えた上で、解説。
福原匡彦『改訂社会教育法解説』全日本社会教育連合会、1989
 社会教育と社会教育行政の輪郭を描いた上で、逐条的に解説。
倉内史郎『社会教育の理論』第一法規、1983
 諸理論を相対化して、社会教育の統制の機能などを比較・検討。
三浦清一郎『比較生涯教育』全日本社会教育連合会、1988
 アメリカの刷新的な生涯教育を紹介しながら、日本と比較。
NHK放送文化調査研究所『日本人の学習』第一法規、1990
 成人の学習ニーズを3年毎、3回にわたって統計的に調査・分析。
<個人と学校教育>
ロンドン大学・大学教授法研究部『大学教授法入門−大学教育の原
理と方法−』喜多村和之他訳、玉川大学出版部、1982
 学習は個人的事象、という認識に基づく教員訓練用「テキスト」。
片岡徳雄『学習と指導−教室の社会学−』放送大学テキスト、1987
 学ぶ場における個人と集団の関係を意識した指導のあり方を論究。
小口忠彦『学習心理学−学習理論の基礎−』『学習心理学の応用
−学習指導の基礎−』放送大学テキスト、1988
 認知構造や自己認知、自己洞察などについても平易に解説。

第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして
<個人の表現技術>
梅棹忠夫著『知的生産の技術』岩波新書、1969
 カード活用など、個人の「知的武装」の技術を先駆的に提言。
本多勝一『日本語の作文技術』朝日文庫、1982 「読む側にとって
わかりやすい文章を書くこと」に徹した実践的・技術的文章論。
篠田義明『コミュニケーション技術−実用的文章の書き方−』中公
新書、1986 テクニカルな文章(実用文)を書くための技術。
D.カーネギー『自信がつく話し方教室』森本毅郎、三笠書房(知
的生きかた文庫)、1985 形を整えるためのテクニックではなく、
心理的緊張に打ち勝ち個性を生かして発表するための要点を解説。
<図書館・博物館の情報発信から学ぶもの>
ホイットニー・ノース・シーモアJr、エリザベス・N・レイン『だ
れのための図書館』京藤松子訳、日本図書館協会、1982
 リファラルサービスなど、アメリカの図書館の仕事を紹介。
竹内紀吉『図書館の街浦安−新任館長奮戦記−』未来社、1985
 図書館サービスを「街のシンボル」にするまでの実際の経緯。
科学読物研究会『親子で楽しむ博物館ガイド』大月書店、1987
「科学と歴史の宝島」として博物館を案内し、関連読物も紹介。
<情報技術の進展と個人>
東京都企画審議室『高度情報化の進展と東京−地域社会へのインパ
クトと課題−』、1985 シーズ先行型の高度情報化の進展に対して、
高度化・多様化する社会や個人のニーズへの対応を重視した報告。
高田正純『データベースを使いこなす−英語でとる世界情報−』
講談社現代新書、1985 知的興味と人間のふれあいへの志向の両者
を満たすものとしてのパソコン通信の魅力を実践的に解説。
椎名誠『活字のサーカス−面白本大追跡−』岩波新書、1987
 終章の「ロマンの現場読み」などで、活字メディアを再評価。

第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために
<個別化・ネットワーク化社会の近未来像>
ジョン・ネイスビッツ『メガトレンド』竹村健一訳、三笠書房(知
的生きかた文庫)、1984 ネットワークなどの社会潮流を予測。
アルビン・トフラー『第三の波』徳岡孝夫訳、中公文庫、1982
 非マス化=個別化など、産業社会の次に来る社会を予測。
<現代人の主体的生き方の困難>
L.ベラック『山アラシのジレンマ』小此木啓吾訳、ダイヤモンド
社、1974 現代の人間的過疎を生きるためのパターンを分析。
井上富男『ライフワークの見つけ方』主婦と生活社(21世紀ブッ
クス)、1978 サラリーマンとしてのライフワークを会社の中で見
つけ、自分の個性を輝かせるためのノウ・ハウを具体的に解説。
斎藤茂男『妻たちの思秋期』共同通信社、1982 仕事に「主体」を
埋没させた夫に、生身で拒否を表現する妻たちの「主体」の危機。
丸元淑生『システム料理学−男と女のクッキング8章−』文春文庫、
1982 食生活のレベルでの自衛的システムを先駆的に提言。
<個人の主体性援助の方法>
川田健、薮内正幸『しっぽのはたらき』福音館書店、1969
 子どもたちの主体的思考を促す工夫のこらされた代表的科学絵本。
岡本包治他編『社会教育の計画とプログラム』全日本社会教育連合
会、1987 社会教育計画の概要と各論の実践的解説。
平木典子『カウンセリングの話(増補)』朝日新聞社、1989
 朝日カルチャーセンターの講座から生まれた基本的で平易な解説。
<個人の主体性交流の方法>
川喜田二郎『続・発想法−KJ法の展開と応用−』中公新書、1970
 個人が参画できる社会をめざし、チームによる「探検」の方法を解説。
福留強『グループ活動と青少年』学文社、1986
 体験と実例をもとに、グループ活動の実際の姿を総合的に解説。
国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房、
1981 ホンネとホンネの交流の原理、内容と実施上のハウツウ。
杉田峰康『交流分析のすすめ−人間関係に悩むあなたへ−』日本文
化科学社、1990 人間の交流と心の働きを図に表す方法などの紹介。

図表標題一覧
 図1−1 「個の深み」を支援する講義技術
 図2−1 高校生がほしい情報
 図2−2 現代都市青年をとりまく情報の特質
 表2−1 人気学習関心項目
 図2−3 尊敬できる人、なりたいと思う人
 表2−2 パソコンの諸機能の整理
 図2−4 通信内容に見られる知的関心領域
 表1   生涯学習情報提供事業の機能 
 表2   情報の種類・内容・収集方法 
 図1   情報の収集から提供までの流れ

初出一覧(今回、かなり手を加えている)

第1部
 1〜3 (今回初出)
 視点1 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年4月
 視点2 全日本社会教育連合会「社会教育」No.460 1988年3月
 視点3 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年12月
 視点4 中青連「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」
     (筆者の執筆部分から抜粋) 1990年3月
第2部
 1   高橋勇悦編『青年そして都市・空間・情報』(恒星社厚生閣)
     pp.115〜156. 1987年4月
 2   高橋勇悦・川崎賢一編『メディア革命と青年』(恒星社厚生閣)
     pp.109〜141. 1989年6月
 3   日本視聴覚教育協会「視聴覚教育」Vol.43 No.10 1989年10月
 視点1 日本教育新聞社「週刊教育資料」 1989年2月
 視点2 岡本包治編『社会教育の計画とプログラム』
     (全日本社会教育連合会)pp.291〜306.から抜粋 1987年1月
 視点3 山本恒夫他『学習情報の提供と活用』(実務教育出版)
     pp.95〜122.から抜粋 1987年8月
第3部
 1   中央青少年団体連絡協議会「なかまたち」NO.30  1990年10月
 2   (今回初出)
 視点1 中央青少年団体連絡協議会「なかまたち」NO. 6  1990年10月
 視点2 山本恒夫編『生涯学習ハンドブック』(第一法規出版)
 視点3 (視点2はpp.102〜103.,視点3はpp.190〜191.) 1989年8月
 視点4 湯上二郎編『現代公民館全書』(東京書籍)
 視点5 (視点4はpp.279〜281.,視点5はpp.281〜282.) 1989年5月
 視点6 文部省編集「文部時報」(ぎょうせい) 1990年2月

索引(21字×37行×2段×6ページ)

索  引

ア行

アーティクル(通信記事)......138
アイデンティティ......43
アイボールミーティング......145
アスキー......105,116
遊び型内容......212
遊び心......57
遊びとしての学習......137
新しい風......97,210,229
新しい教育技術......155
新しいコミュニケーション環境......128
足立区生涯学習推進構想......230
アマチュアとプロ......138
アマチュアのパーソナルな文化......123
アンドラゴジー......22
異質馴化と馴質異化......181
一時滞在者......210
一斉承り型学習......16
異年齢集団......182
イロ・モノ・カネ......141
インシデンタル・ラーニング......150,214
インフォーマル・エデュケーション......149
インフォメーションリーダー......103
映像活用......14
エスタブリッシュメント......149
エンカウンター・グループ......108
援助とコントロール......188
オートパイロットプログラム......155
オールドオールド......224
おしゃべりサロン......140
おしゃべり症候群......40,74
おもしろ的情報......83

カ行

快感覚の追求......213
海外旅行......55
開放的地域主義......97
カウンセリング......38,79,107,177
関わりのある情報......90
科学絵本......174
書き言葉文化(パソコン通信)......134
書くこと......36
賢い(情報の)消費者......125
仮想空間(パソコン通信)......139
過疎を逆手にとる会......57
環境醸成......186
概念くずし......217
学園祭......60
学習......20
学習課題......84
学習課題と行政課題......204
学習課題の選択行為......203
学習課題の優先順位......198
学習圏構想......230
学習・コミュニケーション......150
学習社会......165
学習者の主体性の確保......30
学習集団......11
学習主体としての成熟化......202
学習主題......212
学習情報提供......159,166
学習と活動......54
学習ニーズの優先......205,209
学習プログラム提供......192
学習目標......211
学問......20
キット型マイコン......116
キャリアー(運搬者)......146,153
教育的センス......175
教育的役割......109
教育番組......100
教員の訓練......26
共感を伴った関心......91
教師の構え......172
教師の嫉妬......59
教授......20
教授者の不安......29
共著とパソコン通信......156
共同学習......17
記録......195
技術......28
技術修得への援助......214
凝固と融解......206
行政職員としての可能性......111
行政情報......95
行政の主体性......217
行政のネットワーク的関わり......199
空間超越性(パソコン通信)......128
クオリティ・コンシャス......126
グッドアース......105
グループ・サークル......188
グループワーク......108
計画の非計画化......218
系統学習論......17
系統的学習内容......216
啓蒙主義......190
ケ・セラ・セラ......53
欠損体験......180
権限の移譲......226
健康食志向から自然食志向へ......112
検索可能性(パソコン通信)......128
ゲーム......117
コアラ......156
講義......15,22,24,44
講義への集中......33
控除的定義(社会教育)......6
公的課題......199
公的課題の明示......206
公的情報提供......77,106
高等教育......19
広報......98
交流したくない個の深み......147
交流と緊張......147
交流分析......184
高齢者教育......223
個人か、組織(社会)か......12
個人学習の重視......9
個人主義......144
個人主義的援助......27
個人そのものの尊重......11
個人的課題と社会的課題......224
個人的事象としての学習......22
個としての存在......48
個の深み......2,4,35,44,52,183,217
個の深み支援技術の三つの構造......29
個別化......3
コミュニケーション型学習......154
コミュニケーション技術......215
コミュニケーション能力......229
コミュニケーションマシン......123
コミュニティ......98,181
暦年齢・社会年齢・機能年齢......224
今日的情報......82
コンパチビリティー(互換性)......125
コンピュータ支援学習(CAL)......134
コンピュータ・デモクラシー......141
コンピュータ・リテラシー......213

サ行

参画のもつ教育力......180
在来型の生涯学習......149
椎名誠......139
しかけ......193
シグナルカード......171
施設提供......191
施設配置......233
自然接触体験......180
しっぽのはたらき......175
私的課題と公的課題......200
指導者の役割......183
渋谷......49
市民感覚......99
社会教育......5,186
社会教育主事......186
社会教育審議会答申(昭和46年)......9
社会教育団体......188
社会教育の公的存在意義......45
社会教育の独自性......10
社会教育の方法......18
写真情報誌......89
集合学習......217
集団......143
集団宿泊活動......179
出席ペーパー......37,42,44
生涯学習......9
小集団討議......25
少年団体活動......179
消費者情報......92
職員間のネットワーク......195
シリコンバレー......115
新型の生涯学習......149
信頼......79
ジェスチャー......172
ジェネレーション......223
自己解決能力......79
自己管理的学習......41
自治......198
自治体のアイデンティティ......230
自治のトレーニング......96
実験社会学級......17
実際生活に即する文化的教養......23
充電と放電......138
準拠集団......208
準拠枠......177
情報......64,114
情報化......125
情報重視の傾向......112
情報整理......75
情報提供......62,75
情報提供の操作性......88
情報と創造......71
情報による万能感......73
情報能力......73
情報の切り取り......72
情報の限界......72
情報の公共性......76
情報の集中と分散......66
情報の純化......69
情報の操作性......77
情報の大衆化......76
情報の多面体......70
情報の多様化と画一化......68
情報の電子化......129
情報離れ......69
情報必要......74
情報不適応......63,107
情報ボランタリズム......155
情報ものとり主義......133,154
情報ユースワーカー......107
情報要求のほりおこし......167
情報リテラシー......135
推敲マシン......123
スタンド・アローン......129,131
ステップダンス......219
スローガン型......57
生活自遊人......46
生活の情報......91
青少年健全育成......78
清書マシン......123
青年政策......78
青年の家......219
青年の参加......102
西武ロフト......45
全面的情報......81
相互教育......139
双方向性(パソコン通信)......128,130
即時性(パソコン通信)......128
即目的的学習行動......213
即目的としての情報......137
組織的な教育活動......5,13

タ行

体験のもつ教育力......179
対策から援助へ......185
対策からサービスへ......79
対象者と当事者......209
対象別プログラム......207
たまり場......55
端末処理(パソコン通信)......129
大学生......210
大学の目的......19
団体活動......52
地域課題の導入......222
地域活動のもつ教育力......181
地域情報......95
地球の歩き方......55
蓄積可能性(パソコン通信)......128
知的生産......113
知的生産の技術......214
知的生産の社会性......113
知のアマチュア化......137
知の個別化......139
知の雑多化......140
知の非体系化......141
知の防衛機制(パソコン通信)......134
知のボランタリズム化......136
知の民主化......141
チャット......39
中央教育審議会答申(平成2年)......9
中央青少年団体連絡協議会......2
中途退出者......59
中毒性の麻薬としての講義......24
注文仕立型......56
著作権......137
知覧町連合青年団......57
提供できない情報......88
テクノストレス......121
撤退する自由......144
ディスコ......219
電子的仮想空間......143
東急BE......47
統計的手法......196
到達目標......211
匿名性......89
都市政策......78
ともに育つ......110
トランスペアレンシー(透明感)......126
独習......33
どんぐりの背比べ......138,156

ナ行

仲間集団......182
なまなましいニーズ......101
何でもありの授業......14
ニーズの可塑性......197
日常・非日常の情報......66
ニューメディア......129
人間関係の希薄化......93
人間の情報......89
ネットワーク......102,129,155,214
ネットワーク型援助......191
ネットワーク型問題提起......207
ネットワーク社会......142
ネットワークづくりの能力......229
ネットワークと社会教育......187
ネットワークのインフラ......201
ネットワークの援助......189
年間事業計画......194
ノウフウ......155
覗き趣味......89
ノンディレクティブ(非指示的)......79

ハ行

ハイタッチ......143
話すこと......36
羽根木プレーパーク......57
反情報......142
ハンドルネーム......139
反応・発展の個別化......31
反応・発展の個別化の促進......34
パーソナルとソーシャル......217
パーティー......154,192
パジャマでおじゃま......91
パソコン......116
パソコン通信......54,105,126,148
パソコン通信と動画......135
パソコンの個別性......120
パソコンの自力性......120
パソコンの創造性......121
パソコンの汎用性......118
パソコンの物神化......124
パソコン文化......118
パソコンマニアの学習......213
パソコン利用の孤立化......121
パソコン利用の成熟化......125,146
パソコン利用の専門化......123
パプリック・ドメイン・ソフト......136
バーンアウト......145
非施設・団体中心性(社会教育)......7
非文献的情報......82
非マス化......216
ピア......66
ピア・グループ......39
ピア・コンセプト......41
ピラミッド型とネットワーク型......188
ビジカルク......117
ビジネスマン......209
ファシリテーター......108
不易流行......197,229
フェース・ツー・フェース......144
不定型への挑戦......229
プッシュ型の教育・プル型の援助......146
プライオリティー......223
ブランド志向......112
プロジェクト・チーム......226
ヘイル委員会報告書......24
ヘッドシップ......228
ヘルシーでハイな快......213
ヘルプ機能......139
ベーシック言語......116
勉強......21
放送の公共性......100

マ行

マイコン......115
マシンの単機能化......122
マトリックスによるとらえ方......205
ミニFM放送局......68
耳学問......137
民間教育事業......49
民間放送教育協会......100
メール......39
メトロポリタン美術館......192
燃え尽き症候群(パソコン通信)......145
目的−手段システム......218
モノ......46,111
モノと情報......49
モノの透明化......126
問題共有の視点......230

ヤ、ラ、ワ行

山アラシのジレンマ......144
山崎正和......3
ヤングアダルト......80
ヤングアダルト情報サービス......81
ヤングオールド......224
ユーザー教育......146
要求課題と必要課題......84
要求情報と必要情報......87
余暇......46
横浜女性フォーラム......51
ライフステージ......223
ライブ感覚のプログラム......218
ラッピング......48
リアルタイム......128
リーダー......226
リーダー研修......228
リーダーシップ......228
リーダー養成事業......227
リファラル(照会)サービス......83
レクリエーション......221
レスポンス......127
レスポンス至上主義......133,154
連帯の情報......92
ロンドン大学教育研究所......21
若者のニーズ......196
ワンダーランド......96,176

英字

A.トフラー......56
AV−PUB......154,158
BBS......39,40,105,151
CMI......148
IDナンバー......139
M.ノールズ......22
MAZE(迷路)......53,152
NHK放送文化調査研究所......150
PC8001......116
READ......132
ROM(Read Only Members)......132
S−R......31,64,151,178,184
TRON......125
WOM(Write Only Members)......133
WRITE......132

オビの文章

 パソコン通信のネットワークのなかに「自立」と「依存」の
統合の可能性を見出し、そこからさらに「知」と「集団」の新
しいあり方、新しい情報文化の可能性を遠望したもので、文章
と議論の運びには生彩があり、楽しく説得されてしまう。
大阪大学教授 井上俊 (金子書房「青年心理」90.1より、
「パソコン・パソコン通信と青年」を評して)

 氏は若者に必要な情報とはどんな情報かという問題について
興味ある問題提起を行っている。・・そうした新しい情報とチ
ャンネルは多分彼らと地域との関係をひっくり返し、地域を彼
らにとっての人間形成空間につくり変えるに役立つと思われる。
茨城大学教授 菊池龍三郎 (中青連「なかまたち」89.12
より、「現代都市青年と情報」を評して)


ソデの文章

 4月のさわやかな風とともに私たちの前に
現れた先生は、今までの「先生」のイメージ
をガラリと変えてくれました。mito先生
のような「先生」は初めてです。
      ・・昭和音楽大学ピアノ科学生

 今までの学校の授業は、先生が一方的に話
す講義か、テーマを与えられた話し合いかの
どちらかだったのに、mito先生の授業は、
えっ!何?これ!という感じです。
      ・・東洋大学2部学生[看護婦]

宣伝チラシ案

生涯学習 か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−

「学習社会」において人間が主体的であるとはどういうことか。
 この本は、不確かな迷路を遊ぶことのできる主体の形成をめざ
して、今後の生涯学習の推進における問題の所在を明らかにした
冒険的な著である。

 4月のさわやかな風とともに私たちの前に
現れた先生は、今までの「先生」のイメージ
をガラリと変えてくれました。mito先生
のような「先生」は初めてです。
      ・・昭和音楽大学ピアノ科学生

 今までの学校の授業は、先生が一方的に話
す講義か、テーマを与えられた話し合いかの
どちらかだったのに、mito先生の授業は、
えっ!何?これ!という感じです。
      ・・東洋大学2部学生[看護婦]

 パソコン通信のネットワークのなかに「自立」と「依存」の
統合の可能性を見出し、そこからさらに「知」と「集団」の新
しいあり方、新しい情報文化の可能性を遠望したもので、文章
と議論の運びには生彩があり、楽しく説得されてしまう。
大阪大学教授 井上俊 (金子書房「青年心理」90.1より、
「パソコン・パソコン通信と青年」を評して)

 氏は若者に必要な情報とはどんな情報かという問題について
興味ある問題提起を行っている。・・そうした新しい情報とチ
ャンネルは多分彼らと地域との関係をひっくり返し、地域を彼
らにとっての人間形成空間につくり変えるに役立つと思われる。
茨城大学教授 菊池龍三郎 (中青連「なかまたち」89.12
より、「現代都市青年と情報」を評して)

<内容>

第1部  「個の深み」への注目、そして、支援
  はじめに −「個の深み」とは何か−
1 社会教育における組織と個人
2 講義型学習と社会教育、高等教育
3 「個の深み」を支援する講義技術
視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点
     −西武ロフトがとらえた若者たち−
視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業
     −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE−
視点3 「個人」がいきいきするしかけ
     −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−
視点4 「個のふかみ」を尊重し助長する団体活動の形態
mito的授業

第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして
1 現代都市青年と情報
   −ヤングアダルト情報サービスの提唱−
2 パソコン・パソコン通信と青年
   −成熟したネットワークとは何か−
mito的授業
3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか
視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク
     −AV−PUBのサロンで「私的」交流−
視点2 学習情報提供事業の企画と展開
     −人間が学習情報を求めている−
視点3 学習情報提供の実際
mito的授業

第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために
1 子どもたちの団体活動
   −そこに秘められている大いなる教育力−
2 地方自治体における学習プログラム作成の視点
視点1 あたたかいディスコダンス
視点2 レクリエーション的な要求への対応
視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方
視点4 グループリーダーの新しい形
視点5 リーダー研修に望まれる内容
視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデンティティ
     −東京都足立区の生涯学習推進構想−
あとがき
初出一覧
参考文献
索引

申し込み先
 学文社 2000円(消費税込み)
 〒153
  東京都目黒区中目黒1−2−6
 phone 03−3715−1501

学習情報システムはやりたくないが、学習相談はやってみたい、という傾向
 町村のベテランの社会教育主事などの中には、いまだに学習情報のシステム化に対して消極的な人もいる。エリア内の当面必要になりそうな学習情報については自分たちはおおよそ掌握していると思いこんでいるため、その学習情報をわざわざ手間をかけてシステム化したり、わが町を超えた範囲の広域の情報をネットワーク化したりすることについては必要性を実感できず、むしろ「余計な仕事」としてとらえがちなのである。
 たしかに、学習情報の収集・整理は、地味だが気の遠くなるほど根気のいる作業である。せっかく集めた情報も、必ずすべてが使われるとは限らない。何らかの事情で個人的にはあまり勧める気がしない学習機会などであっても、よっぽどの事情がない限り公平に情報提供しなければならない。情報提供した時は、それなりに住民に喜ばれるだろう。しかし、それによってたとえばその住民がある学習機会の情報を得て参加し、すばらしい成長を得たとしても、その成果を「見届ける」ことができるとは限らない・・・。学習情報システムの構築に消極的になってしまう理由は、あげだしたらきりがないほど、たくさんある。人間交流や社会教育の味を知っているベテランの職員ほどその傾向が強い。
 これに比べて、学習相談は、ベテラン職員の頭の中にある地域の豊かな学習情報を有効に発揮することができる。しかも、その情報のデータバンクは、生涯学習への従来の地道な援助活動の中で自分の頭と心の中に自然に構築されたものである。相談に応じて発する自分の一言ひとことが、住民にとって有益な情報になるだろうと思える。相談が日常的、かつ、継続的に行われるならば、その住民と全人的につきあっていくことができるだろうし、学習の成果もきっと分かちあうことができよう・・・。学習情報のシステム化には消極的であっても、学習相談については、「やりましょう」、とか、「そういうことなら、すでに、日常的にやっていますよ」という答えが返ってくることが多いのは、そういう理由からであろう。
 しかし、現代社会において生涯学習の援助者に求められていることは、そういう従来からの相談における指導力とは、性格が異なっている。社会教育が築き上げた遺産のうちには継承すべき点も多々あるのだが、援助者と学習者との関係がよりいっそう水平なネットワークに近づくような、新しい努力が必要なのである。学習相談についても、そういう新しい視点でとらえなおさなければならない。
 学習情報提供については、すでに本シリーズの6で述べたので、ここでは、学習相談のあり方について述べる。その基本は、個人に適した手段(集合学習を含む)を学習者自身が自ら選んで、やりたい学習を行えるよう援助することである。そのためには、「自分が何をどのように学習したいのか」、すなわち「自分」、に学習者が気づくための対応と、そこから求められる情報の適切な提供が必要になる。

個に対応できる相談
 学習情報提供システムの整備が各地で行われるようになってきている。そういう所では、学習相談も不可分のものとして位置づけられていることが多いようである。しかし、その実態が、たんにコンピュータから情報を引き出す操作を代行しているだけであれば、それを相談とは呼ぶべきでないだろう。相談には、情報提供だけではない何かが求められる。
 神奈川県では、本年五月、横浜市西区の県立図書館の中に、「神奈川県学習・文化情報センター」をオープンした。これは学習情報システムとともに学習相談を行うものであるが、そのために五人の相談員をおいている。校長を退職した人たちである。長い教職の経験が学習相談に役立つであろうし、また、相談の過程で、五人が奉職したそれぞれの地域の関係機関との連絡・調整の必要が生じた場合も、非常にスムーズだということである。
 相談に応ずる専門の職員を置くということは、学習者の個々のケースに対応できるということである。たとえば、同じ英会話であっても、どのレベルのものをどのような雰囲気の所で学びたいのか、実際にはそのケースは無限に分かれていく。学習者自身にとっても、それらのニーズは整理された上で相談に来るのではない。むしろ、自分のニーズを話しているうちに、相談員に聞いてもらっているうちに、だんだんと自分の学習要求が見えてくるのである。神奈川県の生涯学習推進のモットーが「十人十色の生涯学習」ということだそうだから、ますますその成功が期待される。
 もちろん、この場合にも、相談員と相談者との水平なネットワーク的関係が求められる。相談者が学習の「権威者」としての相談員にすがるような図式は、かえって非主体的な学習態度を育ててしまう。相談者の言葉を傾聴する、いっしょになって情報や資料を探すなど、相談者と対等な人間として相談者の抱える学習の「迷路」につきあう中で、相談員もともに育つことができるのである。
 このように学習相談とは、人手と手間のかかるものである。順番待ちしている相談事項をコンピュータを操って能率よく処理していくことが相談ではない。そして、情報提供だけでは足らずに相談のレベルまで求める住民が列をなすことがあるとしたら、その方がむしろ異常なのであり、単純に相談件数の少なさをもって学習相談の意義を否定することはできない。

カウンセリングとしての学習相談
 昨年四月、埼玉県県民活動総合センターが開館すると同時に、県民活動相談事業が開始された。ここでは、ボランティア、社会福祉、社会教育、婦人、青少年、高齢者などに関わる諸活動に関する「活動相談」や「生涯学習相談」とともに、活動上の悩みに関する相談としてカウンセリングを行っている。カウンセリングは週に1日だが、それ以外の相談は、毎日受け付けている。
 専任相談員の内山鮎子さんは、カウンセリングの研鑽と実践を数十年、積み重ねてきた相談の専門家である。いつもは「活動相談」や「生涯学習相談」も受け持っている。
 通常の相談は、活動に関する情報とノウハウの提供が多い。とは言っても、一般県民から続々と問い合わせがくるわけではない。実際には市町村等の関係職員などからのものが多いようである。その場合でも、自分でも簡単に調べられるようなことや、逆に、特定の講師の謝金の単価など答えようがないことなどもある。
 しかし、そういう通常の相談の中にも、じつは、カウンセリングとしての相談の要素が必要になる場合があるという。たとえば、あるリーダーが、「自分は一生懸命やっているのに、なぜか自分の団体が活性化しない」という相談を持ちかけてきたとする。その人は、最初は団体活動活性化のノウハウを求めにくるのだろう。しかし、相談の中で、団体の問題を話していくうちに、リーダーとしての自分の問題に気づくことがある。「自分には、他人を支配したいという気持ちがあったのではないか」。団体活性化の問題とリーダーやメンバーの心の内面の問題とは、切り離せない複雑な関係があるのだ。相談を持ちかけた人が自分の心の内面に気づくためには、相談を受ける側が、たんなる情報提供だけではなく、受容、確認、明確化などのカウンセリング的な対応をしながら、その人の話に共感的に耳を傾けなければならない。
 カウンセリングそのものの事例もある。センターでは、精神病圏のものは県内の精神保健総合センターに引き継いでいるが、神経症圏のものは自館で対応している。
 たとえば、グループのリーダーやPTA会長の人から「書痙」の問題の相談を受けている。そういう人たちは、まじめでぎりぎりまで頑張ってしまう性格なので、リーダーにもなってしまう。そして、グループ内の人間関係やリーダーとしての悩み、それらと分けることのできない自分の個人的な悩みが重なって、そういう神経症状を引き起こす。メンバーの前だと、どうしても字が震えてしまうのである。
 一般の人は、こういう人たちに、「気にしない、気にしない」とか「頑張ってね」とか言って、励ましたつもりになってしまうかもしれない。しかし、カウンセリングの常識からすると、その二つの言葉は、こういう場合に絶対言ってはならない傲慢な言葉だといえる。本人は気にしたくないのに気にしてしまうのだし、頑張らなくてはいけないと思い込む気持ちがこういう症状を引き起こしているからである。あるいは、頑張ろうと思っても頑張れない何かがあるかもしれない。不用意な言葉は、せっかく相談に訪れてくれた人に「ああ、やっぱり、話を聞いてもらえない」という絶望感を与えてしまう。本人が自分の本当の問題に気づくことを援助することが大切なのであって、「人の目を気にしないようにする」とか「頑張ってみる」など、その問題をどう解決するかについては、本人が決めることなのである。それについては、援助者側は、多様なチャンスやノウハウなどの情報を提供するだけでよい。
 センターのカウンセリングを受けている人の中には、半年以上も前に配った案内のチラシをずっと持っていてやっと訪れてくれる人も多いという。心臓が止まるほどの苦しい思いをしているが、それは、人には言えない深い悩みなのである。生涯学習の諸活動にそういう悩みを持ちながら取り組んでいる人たちのために、カウンセリングが用意されていること自体が、相談件数などの効率上の問題以前の大切なことである。
 従来の学習援助では、個人よりもマス(集団)が優先されがちであった。しかし、学習相談は、「個の深み」ともいうべき人間一人ひとりの深さに、学習援助者の目を向け直させてくれる。「個の深み」は、ときには弱く脆(もろ)いものでもあるが、個人の弱さの露呈とそれが受容される体験が、かえってその人の「深み」の獲得へとつながるのである。そのためには、教育が築き上げてきた人間の可能性への絶対的な信頼と、カウンセリングが大切にしている自己解決能力への信頼の姿勢を、援助者側があらためて持ち直さなければならない。学習相談は、「個の深み」が発揮される新しい生涯学習援助の形態を提起しているのである。

生涯学習を援助する相談事業
 知恵くらべ生涯学習−生涯学習の現場から−
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
                ニシムラ ミ ト シ
 第一勧業銀行京橋支店(024)
  No. 1321215
(本文のみで22字×152行=3256字)
 〆切 7月末日
 生涯学習のまちづくりにとって、学習情報提供と学習相談の体制づくりはどういう意義をもつのでしょうか。また、具体的には、どういう方法でそれを行っていけばよいのでしょうか。
昭和音楽大学短期大学部助教授
 西村美東士

学習情報提供と相談体制の意義と具体的方法
 生涯学習とまちづくりハンドブック
             (第一法規)

学習情報提供の意義と内容
 生涯学習の時代といわれる今日においては、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習機会がさまざまな形で提供されています。しかしこれらはあまりにも多種多様で広い範囲にわたるため、学習機会に関する情報を統一的に把握することは市民個人にとってはかなり難しいことだといえます。学習の施設や指導者、学習材などに関しても同様の状況です。
 こんなことでは、せっかく生涯学習のまちづくりを「外側」からだけ進めても、一人ひとりの人間の「内側」としての学習にとってはあまり役に立たないということになります。ですから、生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをある程度整理してわかりやすく情報提供することが必要なのです。
 学習情報提供の中で扱う情報とは、以上の趣旨からいえば、もっぱら「学習案内情報」(学習の案内をしてくれる情報)であるということになります。これに対して、一般の「学習材」などは、「百科全書的情報」(学習の内容としての情報)の一つということができます。この2種類の「学習情報」のうち前者の方が、「(学習情報提供の中で)提供されるべき学習情報」であるとされています(平沢茂「学習情報とは何か」、『文部時報』昭和62年2月号)。

学習情報提供の具体的方法とネットワーク化
 収集・整理した学習情報を実際に提供する場合には、利用する各種メディアの特性を活かした方法を考える必要があります。
 広報紙やガイドブックなどの活字メディアによる場合は、その一覧性を活かして、関連情報も含めてわかりやすく提示することが大切です。電話や来訪などの口頭による場合は、対応する職員が学習者の一人ひとりのニーズに個別に応じ、最初はあいまいだったリクエストも対応の中で次第に明確化できるようにしなければいけません。
 学習者が直接、コンピュータから学習情報を引き出せるようにする場合は、直接、コンピュータに命令を打ち込んで素早く検索できるようにする方法とともに、検索には時間がかかっても、慣れない人がゆっくり気軽に使うことのできるメニューからの検索の方法も、同時に整備する必要があります。また、コンピュータの最低限の取り扱い(コンピュータ・リテラシー)の習得の援助にも配慮すべきです。
 これらの情報は、いつでも、どこでも、だれでも、そしてどんな学習情報でも、手に入れられることが理想です。そのためには、さまざまな機関・施設から、多様な種類の学習情報に自由にアクセスできるよう、セクショナリズムの枠を越えて、情報をネットワーク化する必要があります。

学習相談の意義と方法
 人格の危機をもたらしている現代社会において、カウンセリングに期待が集まっています。しかし、本来、カウンセリングでいう「相談」とは個人の心理的・精神的問題の解決のための援助です。だとすれば、こと成人の学習については、このような「治療的な相談」が日常的に行われることは考えにくいといえましょう。
 むしろ通常は、学習者は実際には学習情報を求めて来るだけだが、それに行政が応ずる過程の中で、相談の機能も自然に生まれると考えられます。ただし、このように「付随的に」発生した相談であっても、行政側は学習相談の本質をきちんと踏まえていなければならないのは当然です。たとえばそこで一番かんじんなことは、学習者が真に欲している学習のあり方と進め方について、上から教え諭すのではなく、学習者自らが気づき決定するように援助することです。
 そして、学習相談体制を本格的に実施する場合には、個人個人のケースへのていねいな対応という「相談」の魅力的な意味を活かして、生涯学習の計画・実施・評価に至るまでの個人の自律的行為に、非指示的に「自然体」の姿勢でつき合うことが大切です。むしろ、学習環境への注文もどんどん言ってもらって、その改善のためにフィードバックできる成長する柔らかなシステムが、相談体制とその関連行政などに求められるのです。
情報化と生涯学習
 −ネットワーク社会に求められる「個の深み」−

1 生涯学習情報の基盤整備

 ここでは、学習情報を一次情報と二次情報に分け、その両方について考えることとする。一次情報とは、学習活動の対象となる学習内容そのものとしての情報である。一般の文献、映像、学習材、教材、ファクトデータなどがそれである。二次情報とは、求める情報や学習にたどりつくための情報、学習の案内をする情報である。たとえば、どこでそういう学習が行われているか、どうしたらそういう学習ができるか、などを伝えてくれる情報である。
 生涯学習の時代といわれる今日、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習活動が行われている。しかし、それらの発信する一次情報の中から求めるものを入手したり、それらに関する二次情報を総合的に把握したりすることは、市民個人の立場からは難しい場合がある。そこで、それらの学習情報をスムーズに流通させるための基盤の整備が必要になる。
 この基盤整備の仕事の鍵になる言葉が「ネットワーク化」である。学習情報のネットワーク化とは、それぞれの情報がもつ固有の価値を失うことなく、むしろそれを生かす方向で、情報主体の連携・協力を得て、ばらばらだった情報をシステム的に再構成することである。ここでは、アクセスの便宜のために、ヒエラルキーとしてのシソーラスにデータを当てはめていくことはあっても、それぞれの情報の価値は水平のままであり、序列をつけたりはしない。これは、ネットワークという平等主義的な言葉をあえて使う理由ともとらえることができる。
 ネットワークを構築する際の情報主体としては、各種の生涯学習関連施設・機関、学習者、指導者、職員などがある。ネットワークの規模としては、生活圏、市町村、都道府県、広域学習圏、全国、国際のそれぞれがある。ネットワークされる情報としては、一次情報はもちろんのこと、学習の機会、施設、教材、人材、グループなどに関する二次情報もある。二次情報のネットワーク化については、とくに学習情報提供システムにおいて取り組まれる。
 文部省では、学習情報提供システム整備事業、教育映像メディアの活用方策の検討、文教施設インテリジェント化構想、文化庁では、地域文化情報システム整備構想、通産省では、ニューメディア・コミュニティ構想、ハイビジョン・コミュニティ構想、郵政省では、テレトピア構想、ハイビジョン・シティ構想、放送番組センターの設置、自治省では、地域情報化の推進、地域衛星通信ネットワーク整備構想、コミュニティ・ネットワーク構想、ハイビジョン・ミュージアム構想、図書館情報ネットワークの促進、公共施設ネットワークの促進、などが施策化されている。
 そのほかにも、多極分散型の国土形成をめざすテレコムタウン構想(郵政)、アーバンフロンティアの創造を図る情報化未来都市構想(通産)、都市を情報市場および情報活用の場として積極的に活用しようとするインテリジェント・シティ構想(建設)、国公有地の活用と情報機能等の導入を図る新都市拠点整備事業構想(建設)、農業経営等の情報化を促すグリーントピア構想(農林)、自治体の役割を意識した地域CATV事業(自治)、などが進められている。
 いずれも、情報流通に関する事業に国が直接、関与するものではないが、財政的援助、研究調査、モデルの提示、モデル地域の指定などをとおして、実際に各地での成果を挙げつつある。また、それらの施策が、早くから試行的にとりかかったものでさえ、10年も経過していないという点に注目したい。さらに、ほとんどのものは、ここ数年の新しい動きなのである。
 これらの施策は、生涯学習を直接的に意識したものとは限らないが、生涯学習の援助の観点からこれらの情報化の施策を見ると、その最近の特徴として、次のことを指摘することができる。
 第1に、地域の人々が、モノの豊かさ、あるいは、モノの豊かさを獲得するための限られた範囲の情報だけではなく、心の豊かさや人間的な生活を実現するための情報や、情報そのものを重視する志向に変わってきており、各省の諸施策も、その変化に対応しようとしている。
 第2に、島しょ部や山村など、都市部の文化の発達を今まで享受しずらかった地域にも、技術進展の成果を生かして、新鮮で緻密な文化情報を流通させようとしている。衛星放送などの充実が望まれるところである。
 第3に、東京発信、地方受信型の一方通行の情報流通だけではなく、地域に根ざした情報の地方発信・受信型の流通が重視されつつある。CATVのソフトの充実などが図られている。
 第4に、新聞、テレビなどの従来のマス・メディアの充実だけではなく、視聴者が選択できる個別メディアの整備を重視している。パソコン通信やビデオテックスなどが、その代表例である。
 このような特徴は、いずれも個人の自発的な学習意欲を尊重する生涯学習の考え方と符合するものである。
 しかし、技術進展の現在の情報化の成否を決める最大の要素は、むしろ、ソフト、すなわち情報の中味である。これを作り出すエネルギーとしては、行政やメーカーなどのエスタブリッシュメントだけではなく、地域住民の主体的な情報処理と発信という生涯学習活動にこそ、大きく期待されるのである。

2 情報処理の中での学習とメディア・リテラシーの修得

 人々の学習には、必ずなんらかの情報が関わっている。人間の認識は、頭の中だけでの純粋な思索活動だけで発達するのではない。情報を収集し整理するという「外在的作業」によって、大いに育まれる。また、必要な情報を受け入れ、それを自己の思考のなかで加工し、新たな情報を生み出すことは、自己の認知の枠組を変えることでもあり、学習の過程そのものであるともいえる。
 一方、人々の学習を援助するという観点からも、情報は重要である。学ぶ対象としての情報(教材など)や、その情報についての情報、その情報を得る機会や方法についての情報などを整備し、学習者の多様なニーズにこたえる情報環境をつくることが生涯学習行政にとって重要な課題になる。
 そして、そういう教育・学習の活動には、つねになんらかの形でメディアが用いられる。なぜなら、メディアは、学ぶ対象としての情報を運ぶ媒体であり、それがあってこそ個々の学習も成立するからである。
 ただし、繰り返すが、情報の収集から生産にいたる作業には、その個人の認識を育てる作用が内包されている。したがって、情報処理や流通のための「作業」を教育あるいは行政が「代行」するという結果になってしまってはいけない。情報・メディアへの学習者の主体的な関与、すなわち「参加」が大切なのである。
 このような理由もあって、二次情報をもっぱら扱う学習情報提供システムにおいても、情報の集中と地域や施設の独自性との両立が必要になる。データベースには、小さなものはなかなか成長できず、大きなものはますます大きくなるという特性があることから、情報の集中や、それを可能とするフォーマット等の統一が望まれるのであるが、一方では、個性のある情報発信拠点にこそ、いきいきとした学習情報が集まるという傾向もある。
 また、地域や施設が、学習情報の収集・分析・加工・編集・提供を主体的に行うことによって、その地域、施設自体も学習者とともに学び育つことができる。情報を提供する側にも、学習情報への機械的な対応ではなく、独創性をいかした関わり方が求められるのである。
 さらに、リテラシーとは「読み書きの能力」という意味であるが、最近のメディアの発展の中で、人々は好むと好まざるとにかかわらず活字媒体以外のメディアにも直面するようになり、その活用の能力が重要になってきている。この能力をメディア・リテラシーと呼ぶ。
 生涯学習援助の観点からは、まず、情報化の「光と影」のうちの「影」の部分が注目される。そこからは、メディアといっそううまくつき合えるようになるための教育サービスとともに、情報化が人間に与えるマイナスの影響を克服するための人々の主体的な営みへの援助も重視される。後者のように批判的にメディアと接することのできる主体性も、今日求められているメディア・リテラシーの一つなのである。
 さらにつきつめて考えると、個人が情報を必要と感じるのは、当人なりの課題意識があるからなのだが、その課題意識そのものが空洞化しているという現代社会の人間の非主体的状況が浮かび上がる。しかし、その根本からメディア・リテラシーを構築するためにも、最初は、やはり、情報・メディアサービスから始めなければならない。

3 新しい学習の誕生 −パソコン通信にみる可能性−

 最近の目ざましいメディアの発達の中において重要なことは、情報技術の進展に流されることなく、それとしっかり向かい合いながら、自分の個性や人間性をより豊かなものにするためにメディアを活用できる人間の側の主体性の獲得である。この過程が、生涯学習ということに他ならない。
 最近、パソコン通信が盛んに行われているが、われわれはそこに新しい学習の形を見ることができる。
 一つは、「インフォーマル・エデュケーション」(IFE)(無定形教育)の機能の発揮である。これまで生涯学習というと、「学習」の「学ぶ(まねぶ・まねをする)」「習う」という語義のとおり、学習・文化・スポーツ・レクリエーションのそれぞれの「制度化された権威」(エスタブリッシュメント=実際には授業、講義、放送、活字など)から、知識や技能を学ぶ活動をさすことが多かった。これに対して、IFEとは、形がなく、組織化されていない教育(たとえば家庭教育)である。エスタブリッシュメント以外にもそういう教育・学習の場がある。社会や企業等も、その重要性を無視することができなくなってきている。
 二つは、「インシデンタル・ラーニング」(IL)(偶発的学習)の多発である。普通、「学習しよう」という本人の意識(計画性)や、一定の「継続性」をもつものを「学習」とよぶことが多い。しかし、本来、「学習」とは計画的で継続的なものだけではないことは、あらためて確認しておくべきであろう。人生や日常生活、社会生活、環境などから自然に学んだ「偶発的学習」は、学習援助者にとってはともかく、そういう学習をした本人にとっては重大事なのだ。
 三つは、「教育」から「学習・コミュニケーション」への転換である。たとえば、学習をS(刺激)とR(反応)の連合によって説明し、Sの効果的な与え方を追求する立場がある。それはもっぱら「教育」の専門家である教師のためのものであった。ところが、パソコン通信においては、いかに他者にSを与えればよいRを得ることができるかということ、言いかえれば、新たな「S−R理論」ともいうべきことに、教育のしろうとまでが関心を示している。彼らも、多数に対して何かを表現(コミュニケーション)しようとするからである。このように端的な主体性をともなうコミュニケーションだからこそ、パソコン通信はエキサイティングなのである。
 パーティーでは、人と楽しくおしゃべりをする。ツーウェイである。また、それをよく見てみると、その楽しみの真髄はマス(集団)にあるのではなく、自分という「個」と他人の「個」との交流にある。しかも、交流する対象も、フェース・ツー・フェースの日常的なつきあいをしている人とよりも、見知らぬ他者との出会いを歓迎する。パソコン通信も、パーティーに見られるこのような志向をもっている。
 さらに、パソコン通信によるコミュニケーションの特徴としては、MAZE(迷路)ということがあげられる。ほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。しかも気軽(イージー)にやりとりが行われている。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。
 このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、求める情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。
 パソコン通信は、お互いのメッセージを電子化してやりとりすることを可能にした。この情報の電子化は、情報化の諸側面の中でも最大の技術的基盤の一つといえよう。それが、このような新しい生涯学習の創造の舞台にもなっているのである。

4 ネットワークと「個の深み」

 ネットワークでの人々のつながりは、いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時に、パソコンネットワークで他のコンピュータと連携することによって、もっと違うことができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、これが一定の安定をもたらした。しかし、ネットワークにおいては、各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も、一人ひとり違う。安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。
 ネットワークは、このように一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれるが、裏を返せば、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものだということである。企業活動や市民活動や生涯学習活動の中の各種の情報ネットワークにも、そのきびしさが端的に表れている。
 私は、そういうきびしさに立ち向かう力の根本は、「当事者」の存在にあると考える。自ら学ぶことを信条とする社会教育は、本人の「自己解決能力」を信じるのであるし、さらにはその自己解決を外部から支援する可能性をも信ずる。
 この「自己解決」は、「自己認知」すなわち自己(と、その問題)を認識することから始まる。自己を認識するためには、自己を表現しなければならない。じつは、この「自己表現」の力が現代社会の中で削り取られてしまっているのだ。今の学生は、試験の答案を要領よく書くことはできても、自己をあるがままに受容して他者に表現することなどは、損である、あるいは、許されない、と思い込んでいる。話すことも同じである。「おしゃべり症候群」とよばれるように、情報交換とうつろなおしゃべりはしているが、人間の実存から生まれる好み、悩み、怒りなどは交流されない。
 自己の認識と、それにもとづく行動と、その自己評価は、主体性の発現そのものであり、同時に、その人しかもちえない深みであるともいうことができる。私はこれを「個の深み」とよびたい。「個の深み」は、個人にもともと備わっているはずだ。しかし、それらはピラミッドの中でおさえつけられ潜在化している。これを水平な情報ネットワークの中で発信することによって解き放てばよい。話すこと、書くことが、「個の深み」を成長させるだろう。今後の生涯学習においては、このようないわば情報生産の活動が重要になると思われる。情報化による情報技術の進展は、そういう活動にとって大いに味方になるだろう。
 そもそも情報化は情報に化けると書く。何が情報に化けるのか。情報の量が多くなるだけなら、情報機器が発達するだけなら、情報化とはいえない。それらの物的基盤の成熟化の上で、人間が追い求める価値の対象がモノから情報に変わってきたからこそ情報化というのではないか。そして、そこでもっとも価値のある情報は、人間一人ひとりの「個の深み」から発信された情報である。だとすれば、そういう情報をネットワークする活動そのものが生涯学習活動でもあるし、生涯学習活動とは情報ネットワークの実現に向かって個人が主体性を獲得していく過程ともいえるのである。
生涯学習と大学を考える

 学生に自由に書いてもらうと、いろいろなことがわかる。たとえば、公民館の活動の様子をビデオで見て、次のような反応が返ってきた。
 「ママさんコーラスの場面のお母さんたちの表情がとても良かった。歌の好きな人たちが集まり、その人たちの歌声がコーラスになる。技術面では不足していることもあると思うけど、やっぱり歌の好きな人たちが歌う歌は心がこもっていて、こっちまで顔がにこやかになってくる。私は歌が好きだという自分の気持ちを忘れていたような気がする」。
 もちろん、大学は、学校教育の中でももっとも高度な学芸を専門的に学ぶべき所であるが、学生の学習のエネルギー源が一般の人々とまったく違った特殊なものであるわけがない。自らが学ぼうとして学ぶ社会教育や生涯学習と、学生の学習とは、同じ人間であるという理由で同じ原点から出発する。
 「退屈でもじっと耐えて学ぶ」とか「単位を取得するため」とかの、いつのまにか本人の気持ちを縛っている頑張りや思い込みというのは、かえって、主体的な学習態度を学生が持ち切れない最大の原因になっている。我慢も自主性の一つと言う人もいるかもしれないが、そういう頑張りは、「うちの子は、親が何も言わなくても、自主的にドリルをやります」という教育ママの言葉のようにインチキ臭い。学習に求められる自主性というのは、もっと本人の人間としての実存から発する主体性に基づくものだろう。
 生涯学習の時代と言われてはいるが、学ぶ主体性ばかりか、生きる主体性さえ蝕まれている学生が多い。それは現代社会においては学生だけの現象ではないが……。今日の大学においては、学生に学ぶ主体性があることを前提として出発するのではなく、学び、生きる本人の主体性をいかに引き出すかということから考えなければならない。
 学習とは、究極的には、学習者個人が学習しようとしてこそ成立しうるものであり、教育はその営みを促進することができるからこそ存在しているはずだ。だとすれば、大学が社会教育から得るものは大きい。なぜなら、社会教育は、学習者の主体性を尊重しながら、その主体性が発揮されるようどう仕掛け、どう援助するかについて、真正面から取り組んできたからである。ママさんコーラスという支持的風土の集団づくりとその中での相互学習の成果なども、その一つである。
 実際、ロンドン大学では、小集団討議法やグループワークなどの教授法を大学の教員を対象にしてトレーニングしている(「大学教授法入門」玉川大学出版部)。教員は立派な研究者であるとともに有能な教育者でなけれはならないからである。
 社会教育の場で開発されてきた学習者主体の方法は、このように大学の教授法として導入できるものであるし、それ以上に、今日の生涯学習の高まりの中では、学生が直接、社会教育の場に参加することも考えるべきだろう。また、教員の方も、そういう場に参加したり手伝ったりして、新しい風を自らの専門領域に吹き入れた方がよい。アメリカに支部を建てた日本の大学が「君たちのキャンパスはアメリカ全土だ」というコピーを作ったり、ある大学の学長が「大学の教員は、授業のないときは、学内の研究室にいるのではなく、外を飛び回って自らの資質を向上してほしい」と言ったりしているのは、そういう傾向の表れと考えることができる。
 アカデミズムを生涯学習とは両端のものとしてとらえることは、まったく根拠のない思い込みにすぎない。生涯学習推進の合言葉として、「偏差値君、さようなら」があるが、この「偏差値君」が最終目標としていた大学の姿が、この思い込みと重なっている。古い姿の大学への不合理な執着を捨てることは、生涯学習社会の形成のために不可欠な要素なのである。「良い大学」の基準を大学自らが改める必要がある。
 わが昭和音楽大学でも、生涯学習センターを発足させた。市民の音楽への意欲と情熱に煽られて、音楽の専門家である大学の教員がますます目を輝かせている。生涯学習は、教える者と学習する者が水平に交流するギブ・アンド・テイクのネットワークなのだ。
「社会教育計画」,倉内史郎編,学文社
第7章 地方自治体の役割
   −−学習プログラム作成の視点からとらえる−−

7.1 知と健康のネットワークを支援するシステム

●過去の団体中心主義と現在の施設中心主義
 社会教育法には国および地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第3条)こととうたわれている。社会教育を行うのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。
 そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない」(第9条の3)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。
 これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、虎視眈眈とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心をもってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。
 社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。市民の側に、行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。
 戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。
 この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまう。

●ピラミッド型からネットワーク型へ
 民間の団体活動のほうも、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを自ら志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。
 一方、人口1万人当たりだいたい100のグループ・サークルがあると言われる。そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この1万人につき100団体という数字は、社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が100にも満たなかったりするからである。
 つねに発生・消滅をくり返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていない。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を多忙にさせる結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられる。
 従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみのほうもさらに広くなっている。それが、ひとつには、小さなグループ・サークルとしてネットワークを形成している。成熟社会においては、それは重要な営みである。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。
 なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。私は、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張したいのではなく、ネットワークに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。
 さて、本来ならここでネットワークの定義を確定しておかなければならないだろうが、実はそれはあいまいである。しかし、ここでは、「ツリーに対するリゾーム」の論議をとっておこう。つまり、木の幹と枝のように系統だって主従関係のあるものではなく、地下茎が網の目のようにからんでいるイメージである。
 私は、ネットワークの特性は自立と依存関係の統一であると考えている。いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時にパソコンネットワークによって他のコンピュータと連携することができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。
 このようにネットワークという考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「連帯」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「連帯」が同時に対置されることになる。●(1)
 また、その他に、特に社会教育に影響を与えるネットワークのいくつかの特徴として、つぎのような諸点を列挙しておきたい。
 1つは、同じネットワーク上においても、個人は自分の財産を奪おうとする者は許せないが、「知の成果」を盗む者には寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うだろう。パソコン通信において、「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください」という「パプリックドメインソフト」を無償で提供する若者がたくさんいることがその好例である。
 2つは、ネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの外部放電が個人の内部充電に、直接連動することを良しとする。すなわち、放電的充電と充電的放電であり、個人の内面や個人と個人の間における充電と放電の乖離や分業の固定化を解消しようとする。
 3つは、ネットワークにおいては、「撤退する自由」がある。撤退しても生活に響かないことが多い。「撤退する自由」の上で、他の個人と「知的論争」などをするのは、なかなか愉快である。
 4つは、ネットワークにおいては、個人主義を障害とみるのではなく、むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、「異質」と交流する志向を意味する。
 これ以上のネットワークのかもしだす細かい状況については、第2節以降で随時述べることにしたい。

●啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起
 啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏づけられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。
 当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの3つの特徴をもっている。●(2)
 しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人ひとりの人間がすでに主体性のある主体であることを前提に、その学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。
 ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは大いに重要であるとともに、大いに微妙な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに主体性のある主体」であることを、平面的、教条的に前提にしてしまうとすれば、情報の豊かな今日、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際には、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。
 たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。
 「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「効果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着をはらんだ命題を実現する方策はあるのか。
 結論から言えば、その方策はあると考える。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もある程度あがっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められる。それが、ここでいう「ネットワーク型問題提起」である。
 だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の基盤としての「ネットワーク型援助」一般のあり方について述べておかなければならないだろう。
 「ネットワーク型援助」の重要なファクターのひとつは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。
 アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が盛んだと聞く。人びとが分断された今日の都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」になりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とは言えないのである。
 施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。
 これらの援助は、市民のネットワークを助長し、結果として市民が自ら社会の諸課題への気づきを深めるために役立つ。
 しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性にもとづくものであるか。この「正当性」をもたないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が。
 ネットワーク社会において、地方自治体、とくに社会教育行政は、各人が私有している個人的・社会的「展望」を共有するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っていると言えるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワークの中で共有するように、各人によびかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきではないか。
 糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした展望をもっていたり、ほとんど絶望したりしている。行政が、たとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが生まれるかもしれない。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。
 ここまで、地方自治体のとくに社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞってみた。これからは、啓蒙主義との違いがとくに問題となるであろう学習プログラム提供に焦点を当て、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、より具体的に明らかにしていきたい。

7.2 年間事業計画の作成

●地域の実態、行政の実態をとらえる
 ここでいう「年間事業計画」とは1年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」と言うことができる。
 国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(1988年9月)(以下、たんに『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、このテーマに関するアイテムを拾ってみる。
 地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。
 これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりはとらえたと言うことができるであろう。
 しかし、これはあくまでもひととおりであって、地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応のほうが有効になるのである。
 それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを感じ取ることが必要である。
 住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、一つひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」「記録」などが重要である。逆に言えば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報化社会においても地域・現場にしかない貴重なものである。
 さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が、上司からも監督されず、個人の孤独な作業としてすすめられがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の「水平な」ネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとって不可欠である。

●学習要求をとらえる
 ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないか、と言う。渋谷のウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない。選択基準自体が毎日変わる、と言う。彼らのニーズを把握するために、「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでしているが、それでも把握は難しいらしい。
 学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているか、はっきりした事実はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。わからない原因のひとつは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく生みだされるものだからである。
 ただ、その会社の人の話では、1つには「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れない。2つには「わけのわからないもの」が意外に売れたりするという。
 前者は学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の3つに欠ける場合がある。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などが必要である。
 後者は、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえばおもしろがられて受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。
 つぎに、「不易流行」の言葉を借りれば、ここまでの議論は「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。
 しかし、この「不易」の学習要求のほうも、その本当の中身は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでも、たとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。このように、地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても不完全のものであることを知った上で行わなければならない。
 それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていくしか、あるいは新たに「つくりだしていく」しか、ないのである。

●「公的課題」の優先
 ネットワークもひとつの「自治」の形態と言える。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言ってもよい。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよい。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それは当事者である個人が決める。
 このような様子であるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。
 それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意図」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。
 そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議とも言える。むしろ、「行政らしい関わり」をすることの方が行政としての個性を出すという意味でも「ネットワーク的」なのではないか。
 「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。
 もちろん、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的学習課題」のように見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。
 つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然と言えるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で流動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりする。
 だから、学習プログラムも表面上は私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する期待(展望)をもっていなければならない。そして、その期待を住民の前につねに明らかにしていくことのほうが、住民との関係でフェアだと考えるのである。
 さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題と考えることができる。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。
 このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを「操作概念」として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。
 たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例にあげたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、その課題を優先して問題提起し、援助する。
 もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、わからない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。
 しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになったときには政策のほうを転換する義務を負うという「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べよう。
 つぎに、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人びとの「学習権」はどうなるか。これについては、より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。
 その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。
 しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は「行政から学習権が保障される」立場から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワークの「役割遂行者としての立場」に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。
 なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されているものであり、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もあまり問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢は、同様に必要である。

●学習課題を整理する
 公的課題を優先するためには、その前に公的課題は何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。
 たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』はつぎのように述べている。
「これからの生涯学習を進めていくうえで、とくに留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる。」●(3)
 このような「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、いずれにせよこの「構想」は簡潔にまとまった提言として評価できる。
 そこで、それぞれの自治体での住民の学習の実態の中で、これらの課題に対応する学習がどのように行われているか、あるいは行われようとしているのかをていねいに見つめてみたとする。そこでは、まったく学習されようとしていない課題などというものはないということが明らかになるだろう。
 つまり、公的課題の優先とは、行政による学習課題の「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。
 このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例をつぎのようにあげている。
 生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。
 これらの分類によって学習課題を体系的に整理することができ、そのことが、行政が学習要求や学習行動から公的課題を謙虚に選択するための根拠にもなる。
 ただ、すでに述べたように、行政側の考えている公的課題、すなわち行政課題も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、上の領域区分と同じ次元ではなく、もうひとつの次元としてとらえて、上の区分とかけあわせたマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての行政の主体的な関わり方が出てくる。
 さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。
 それらの各種事業を区分する基準については、『社研資料』では「事業形態・方法別」の一例としてつぎのようにあげている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要である。
 さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題の一つひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックスによるとらえ方が求められるのである。

3 個別事業計画

●「学習ニーズ」の優先
 ここでは、一つひとつの事業における学習プログラムの作成について述べる。
 年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。しかし、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応を最重視する姿勢で論をすすめたい。
 なぜならば、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないという理由も、もちろんある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。現行の学習プログラム提供は、ニーズ対応の面でも、かなり不十分だという認識を私はもっている。
 前節でいう「公的課題」を明確にした上で必要なこと、それは、そこで仮に設定された「公的課題」を、いろいろな機会を利用して住民にはっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。
 つぎに、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が、現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば仮に「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいては、住民の学習ニーズに呼応してそれが再び「融解」して学習機会として提供される。
 行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させることしかできない。しかし、それを不変のものとしてそのまま住民に押しつけるとすれば問題がある。ネットワーク型援助は、行政と住民との関係が水平であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の独善になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」することによって、初めて、行政の側が学習課題を選択することのもつ危険性を減らすことができる。
 現に、あとで述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえない住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると私は思う。学習ニーズに絶対確実なものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。

●参加対象をどう設定するか
 社会教育行政はなぜ対象別、とくに発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。つまり、一義的には、プログラムの作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をすると言える。
 だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならないはずである。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたはずだからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるなどの効果もあがるかもしれない。
 「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであったにせよ、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民が個々に判断して行動を決定する。企画者は予測のつかない結果をむしろ歓迎すべきである。
 しかし、参加対象を「限定」するほうが良い場合も、なかにはある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断をとりあえずせざるをえない。
 だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」●(4) 準拠集団の端緒を、行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合は「異質」の人との水平的なネットワークがまだ期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始めるのである。
 たとえば「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事だけに依存して生きているような「暗い青年たち」もいるかもしれない。そういう青年たちが、活発な婦人や一家言をもっているような高齢者と、最初から水平的ネットワークを営むのは無理だろう。そういうときは、「青年講座」への主婦、高齢者の参加を断わる場合も例外的にはありえよう。
 しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。このことは、集団を固定化し、ネットワーク化を阻害する要因になっている。
 さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側が住民の参加を開拓し、受け入れる、いわばマーケティングの用語といえる。しかし、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」とよぶ。「対象」と言うより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が自ら問題を解決することを基本におく姿勢が表れている。
 もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」とよぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、考え方としては学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、プログラム作成時においても、「対象」の望ましい将来の姿を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。
 最後に、逆に、マーケティングの観点から、新たに「開拓」すべき「対象」を考えてみたい。
 1つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の動向は、実は経済活動の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されなくなっている。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが本当に身につくのは、自己成長を促すネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるはずだ。
 2つは「大学生」である。彼らは今やエリートなどではなく、今後は多数派としての一般住民になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めているので、その参加により、事業にトレンドがフィードバックできる。そして、彼ら自身に、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日大いに生まれている。
 3つは「一時滞在者」である。博物館は旅行者の利用を歓迎している。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。さらに、今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの人は、「新しい風」を吹かせてくれる人である。彼らを地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。各自治体が「旅行者向け学習プログラム」などを提供するようになれば、週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が全国規模で可能になるのである。

●各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 『社研資料』ではつぎのとおりである。
「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。
 このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民は中身をよく知った上で参加を検討できる。
 さて、最初に「学習目標」であるが、1つには、直接、企画者側から問題を提起すること、つまり「課題性」のあるものが考えられる。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。
 2つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。
 たとえば、住民の国際性のかん養をはかるという目的で「中国語教室」を開いたとする。そうすると本時の学習目標は「中国語がしゃべれるようになること」ということになりそうだが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」などとしなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。
 それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定し、そういうサービスをして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化したほうがいいだろう。
 つぎに、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける必要がある。
 最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか提案してみたい。
 1つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習ということばには、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。もちろん、今後の学習社会においても、そういう性質の学習はますます必要になるだろう。しかし、そういう「手段としての」学習ばかりを偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。
 現在、生涯学習の進展の中で、「学習」とよばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いという、いわば「快感覚」の追求なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシー(健康的)でハイ(高次)な「快」である。
 もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは今後の技術革新の社会において必要不可欠の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどない。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで「遊んで」いる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、そういう「遊び」のほうが結果としては効果的な学習になっているのだ。
 ここで、注目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。
 自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。そのひとつが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することよりも、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。
 2つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。●(5)
 ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワークをしようとする個人がその「深み」を獲得して発揮するために必要な技術のひとつが、情報の収集から発信までを含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。
 学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」のほうがそれより優れているということではない。)
 このように、行政としての期待をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を行うことは、社会教育行政の「ネットワーク型援助」の中でもとくに代表的な行為である。
 3つは、「コミュニケーション技術」である。「知的生産の技術」とも重なるが、聞く・話す・書くなどの技術である。
 戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議のすすめ方などが学ばれた。
 しかし、今日、ネットワークの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う面をもっている。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者は、干渉したり、心配したりはしない。また、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど行使する場面がない。
 それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。ネットワークのコミュニケーションの中では、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った人だけがプレゼンテーターに協力し、再びコミュニケートに向かう。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。
 4つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の「下請け」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。
 もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは時間的にも困難であるから、実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦するためのオリエンテーションになるような学習内容を設定することになるだろう。

 個別事業計画の作成に当たっては、学習方法、講師、指導者、教材、教具などを設定する作業が残っている。また、その他に、参加者の募集、広報、企画・運営への住民参加組織、アフターサービスなどについても計画化しなければならない。
 しかし、それらについてはここでは、逐一解説するのをやめ、その他の「計画化」においても、すでに説明した「ネットワーク型援助」の考え方にもとづき、学習ニーズに沿いながら参加者の主体性を誘発するような「しかけ」をちりばめる必要があるとだけ述べておきたい。

●学習プログラム作成上の今後の課題
 ここでは、これまでに言いつくせなかった学習プログラム作成上の今後の課題を、いくつか簡単に紹介することによって、まとめに代えたい。
 1つは、集合学習の「非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)の課題である。
 ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、「パーソナル」から「ソーシャル」へと発展する。これは一部、「パブリック」でさえある。このように「マス化」によってではなく、「非マス化」によってパブリックにまで発展することを、ネットワーク型援助はめざしている。
 ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできないだろう。しかし、集合学習にあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追求していかなければならない。つまり、「あなたは、集団の中のたんなる一人ではない」というアピールをもった学習内容・方法をプログラムの中にもつ必要がある。
 2つは行政の「主体性」の発揮の課題である。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。残された問題は両者のつなぎ方である。
 社会教育職員の中には「概念くずし」ということばを使うものがいる。住民が当たり前だと思っていることに切り込んで、住民の認知の枠組の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性を示しているともいえる。
 もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する行政側の認識の不十分さを謙虚に認識しながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。
 3つはプログラムという「計画」そのものの「非計画化」の課題である。ここで、「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることを意味する。たとえば、何があるかわからないパーティー型のプログラムや、空白の時間を設定して学習者がその中身を決めるプログラムなどが考えられる。
 社会教育行政は人間関係の仕事である。つねに揺れ動き移り変わる存在としての人間とつきあう。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、めざすべき価値がはっきりとは決まっていないオープンシステムのほうが適していることも多いのである。

 地方自治体は各セクションごとに専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供すべきである。都市と農村の双方が大きくきしむ中、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を住民に訴える責任をもっている。
 さらにその上で、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与することになる。それが「ネットワーク型」で行われるかぎり、行政と住民との相互のフィードバックはつねに保障されよう。
 そして、行政から自立しながらも行政と協働する住民自身のネットワークの中で、住民は主体性を獲得する。根本的には、住民のこのような主体としての成長があってこそ、個人を疎外しない「ネットワーク型」の地域合意が形成される。これこそが「公的課題」の現代的、かつ本質的な解決の方向である。

●注
(1) 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」に関しては、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)を参考にした。
(2) 「啓蒙主義」については、江上波夫他編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一他編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)から引いた。
(3) 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」1988年3 月
(4) 見田宗介他編「社会学事典」弘文堂、1988年
(5) 梅棹忠夫「知的生産の技術」岩波書店、1969年

社会教育計画ミニ知識

第1章のあき 15行

「社会教育計画」の科目に含まれる内容
 1986年の社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」では、「社会教育計画」という科目について、ねらいを「社会教育の計画・立案についての理論と方法の理解を図る」と示した上で、次のように「内容」を例示した。
  地域社会と社会教育、社会教育調査とデータの活用、社会教育事業計画、 社会教育の対象の理解と組織化、学習情報提供と学習相談、社会教育と広報・
 広聴、社会教育施設の経営、社会教育の評価
 それぞれの「留意点」を見ると、「地域社会の諸類型・特性に対応した社会教育施策についての理解」「地域における学習集団の形成に対する援助方策についての理解」「広報・広聴をとおした人々の学習意欲の喚起」「社会教育及び社会教育行政の効果測定に関する知識や技術についての理解」などの記述があり、それらのことも、この「社会教育計画」の科目の中で学ばれるよう想定されていることがわかる。社会教育の計画・立案のためには、結局、社会教育実践において基本になる力と同じものが必要になるのである。

第2章のあき 0行

第3章のあき 18行

社会教育の対象と発達課題
 1950年ごろ、ハヴィガースト(R.J.Havighurst)は、胎児期、幼児期、児童期、青年期、壮年初期、中年期、老年期の7段階に、60年代に入って、エリクソン(E.H.Erikson )は、乳児期、早期児童期、遊戯期、学齢期、青年期、初期成人期、成人期、成熟期の8段階に、それぞれ一生涯の発達段階を区分し、各段階ごとに固有の達成すべき課題、すなわち発達課題(developmental task)があると主張した。社会教育のそれぞれの対象を理解するということは、それぞれの発達課題を理解するということなのである。
 しかし、その場合に注意しなければならないことの1つは、「輪切り」すなわち発達段階別に対象を集めることが、発達課題の達成に適しているとはいえないということである。他世代と交流する方が有効な場合も多い。
 2つは、よき社会に適応するための発達という側面だけで楽観的に考えることはできないということである。エリクソンは、現代社会における青年のアイデンティティ(自己同一性)獲得の困難を指摘した。現代社会の歪みの中で、どのように個人として発達するかという視点が必要である。
 3つは、すべての人間に発達課題の達成が必要だとしても、その期間、形態、内容が、画一的に表れることを理想とするものではないということである。むしろ、それらは、個別であって当然で、時代の方が変わるかもしれない。

第4章のあき  4行・・・少ないのでカットしてもよい

広報・広聴の意味
 広報とは、PR活動である。ただし、このPRの意味は、public relations、すなわち行政と住民との間に健全で建設的な関係を維持、確立するための活動ということであり、住民との十分なコミュニケーションが前提となる。だから、広聴(住民の意見・要望の収集)活動も、狭義の広報と並ぶPR活動である。

第5章のあき 11行

社会教育施設整備のための国からの補助
 補助金は、一般には、特定の施策を奨励したり、全国的に一定水準の行政を実現するために支出される。公立社会教育施設整備費は、文部省の「補助金交付要綱」に基づき都道府県や市町村に交付されるが、やはり同様の意味をもつものである。すなわち、全国のどこに住む人でも利用できるようにすることが必要だと思われる社会教育施設の充実を、それによって図っている。
 この「要綱」では、それぞれの種類の施設の建物の面積や内容の最低基準を定めた上で、建築工事費等の一部を交付することによって、結果的には全国の施設で一定水準以上のものを実現している。しかし、この補助金が、とくに縦割り行政の弊害などによって、自治体の独自性を損なうことにならないよう、注意しなければならない。

第6章のあき  8行

社会教育における学習成果の評価のあり方
 臨時教育審議会は、学歴社会の弊害の是正を訴え、「人々の能力の様々な側面に着目し、特定の側面における秀でた能力を積極的に評価する」として、評価の多元化を提言した。さらに、成人学習者の場合は、自律的学習者としての主体的な自己評価がとくに重要である。しかし、それは、社会教育行政などがそれらの評価には無関心でもよいということではない。評価に必要な情報をきちんと提供するなどの援助をし、また、このようにして得られた個人の学習成果の評価を真摯に受けとめて、今後の経営に生かすことも必要である。

第7章のあき 14行

社会教育目標と社会教育行政目標との違い
 社会教育目標として、たとえば、「スポーツに親しみ、健康な心と体を鍛える」という言葉があったとする。これは、行政自体の心と体を鍛えることではないのはもちろん、住民の心と体を行政が鍛えてやることでもない。心と体を鍛えるのは、住民自身であり、行政がそういう社会教育目標を掲げるのは、住民にそれを提言しているだけのことなのである。すべての社会教育目標は、当然のことながら、このように住民にとっては拘束力のないものである。
 しかし、社会教育行政目標は、この社会教育目標に基づいて設定される。これは、社会教育目標が達成されるためには、行政は条件整備者として何をしなければならないかを明らかにしたものである。それは、施設の整備や行政としての事業の実施などの目標であったりする。
 社会教育目標を行政が設定することについては、住民の自主性を尊ぶ立場からの異論もあるが、社会教育行政の経営が目的意識的になり計画化される、行政の考えていることが住民の前に明らかにされる、などの意義は大きい。

社会教育計画の種類
 社会教育計画というのは、非常に広い概念である。そのため、実際に存在する社会教育計画は、さまざまな視点から、さまざまな分類をすることができる。
 「ひと・もの・こと・かね」のファクターで考えれば、人的計画、施設・設備計画、事業計画、財的計画ということになる。スパンの違いなら、長期計画(5〜10年)、中期計画(3〜5年)、単年度計画(1年)などがある。1カ月の計画や、1週間の計画だって、社会教育計画の一つである。
 また、視点を変えると、特定の学習分野・領域の計画、特定の教育対象のための計画、特定の学習方法・形態の計画、特定の施設の経営のための計画、そして、それらを総合した計画というように、分けることもできる。
 分野としては、自然系、人文系などのほか、男女平等教育、人権尊重教育、環境教育などのような学問的にはボーダーレスな分野も重要である。領域としては、文化振興、スポーツ・レクリエーション振興、あるいは、指導者養成、団体援助などもある。教育対象(学習主体)としては、乳幼児(実際には両親、保護者)、少年、青年、成人、高齢者、あるいは、大学生、婦人、サラリーマンのような対象も考えられる。方法・形態としては、放送利用学習なども考えなければならない。施設としては、公民館、図書館、博物館、青年の家、あるいは、一般部局や民間の関連施設もある。総合的な計画についても、社会教育行政セクションの計画のほか、自治体の総合計画や地域総合計画に含まれている学習援助の側面を鋭く見いださなければならない。
 このように多種多様な社会教育計画を、われわれは、紙の上で、頭の中で、相互関連的に縦糸と横糸とを組み合せて把握する必要がある。

以下旧版

「社会教育計画」,倉内史郎編,学文社
7章 地方自治体の役割
   〜学習プログラム作成の視点からとらえる〜
           国立教育会館社会教育研修所専門職員 西村美東士

1 知と健康のネットワーキングを支援するシステム
1−1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義
 社会教育法には国及び地方自治体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行なうのは国民であって、行政はあくまでも「環境醸成」をするものであるというのである。
 そして、そのために、自治体の社会教育行政は、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励や、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事による助言と指導を行う。後者はその職務として、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない。」(第九条の三)とうたわれている。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」「禁欲的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違え極端に走ると「金縛(かなしばり)」として作用しがちである。たとえば、市民の諸活動への対応が消極的になる。一歩、距離をおいてしまうのである。
 これに対してたとえば今日の都市問題の隘路を憂える都市行政担当者は、市民活動が都市問題を解決する方向にさらに発展するよう、行政の立場からそれへの効果的な影響を与えるために何ができるか、「虎視眈眈」とねらっている。現代の諸問題の集中している都市社会にとって、市民活動が理想的な方向に進むこと、町づくりなどの方向に関心を持ってもらうことは、都市問題の基本的解決方策のポイントなのであるから。
 社会教育行政は、時代の流れが変わり始めていることを認識すべきであろう。行政が口を出せば、即、自主性が損なわれるような弱体な主体性ではなく、むしろ行政のすべきことをするように求め、行政と協働すべきところは協働しようとするたしかな主体性が、市民側に一部、育ちつつある。市民のネットワーク型の諸活動である。このネットワークという新しい流れに対応するために、社会教育の再転換が迫られている。
 戦前の社会教育は、民間の団体に依存して展開されてきた。強大な国家権力が、教化団体を育成、コントロールしてきたのである。しかし、戦後その反省のもとに「環境醸成」の姿勢がこれにとってかわり、市町村が公民館などの社会教育施設を設置・運営することこそ社会教育行政の主要な施策とされるようになった。そして、団体に対しては、「援助はしても、コントロールはしない」という姿勢が確立されてきた。
 この最初の転換は、社会教育にとってはたしかに重要であった。なぜなら、国民の自主的な社会教育活動を保障する方向のものだったからである。しかし、このような「節制」が行き過ぎて、民間の諸活動への援助や連携までためらうようでは、行政は今日のネットワーク社会においては時代遅れの存在になってしまうのである。
1−2 ピラミッド型からネットワーク型へ
 一方、民間の団体活動の方は、ピラミッド型の大きな組織はほとんどその維持・存続に四苦八苦している。ピラミッド型であるがゆえに、「底辺」の積極的なメンバーがつねに必要なのだが、それを志願してくれる者が少なくなっている。「ねずみ講」と似た限界がある。そういう団体のリーダーは、一部の例外を除いて、団体の維持という社会的責任感とかなりの自己犠牲の精神のもとに就任するのである。
 ところが、文部省社会教育官の瀬沼克彰氏は、ある会議で「グループ・サークルを調査したところ、人口1万人当たりだいたい100の団体がある。」と紹介している。当然、そもそも沈潜して自由に行われる雑多なグループ数を正確に把握することは不可能に近いが、この100という数字が概数であっても、その数は社会教育行政担当者にとっては大きな驚きのはずである。なぜなら、人口数十万の市でも、行政が把握しているいわゆる「社会教育関係団体」が全市でその100という数にも満たなかったりするからである。
 つねに発生・消滅を繰り返す小さなグループというのは、彼らが行政の援助を求めてくることが少ないという理由もあるが、とにかく社会教育行政の直接的援助がほとんどなされていないのである。そして、ごく一部の従来からの社会教育関係団体だけが、援助対象になっている。しかも、それらの社会教育関係団体のうち、ピラミッド型の団体は、維持・存続の苦労をしているわけだが、それへの有効な援助ができずに、社会教育行政の事業への動員対象として団体に依存し、団体を「多忙にさせる」結果しかもたらしていない自治体さえ見受けられるのである。
 従来の公的社会教育がめざしてきた学習や連帯の楽しさも捨てがたいものがあるが、世の中の楽しみの方もさらに広くなっている。それが、一つには、小さなグループ・サークルとして「ネットワーク」を形成しつつある。成熟社会においては、それは重要な一現象である。公的社会教育はそのことに目を向けなければいけない。
 なお、既存のピラミッド型の組織においても、その諸活動をネットワーク型で行って成功している所もある。本論では、社会教育行政は「発生・消滅を繰り返す小さなグループ」だけを援助せよと主張しているのではなく、ネットワーキングに対する、しかもネットワーク型による援助に転換することを主張したいのである。
 さて、本来ならここでネットワークの定義を確定しておかなければならないだろうが、実はそれはあいまいである。しかし、ここでは、「ツリーに対するリゾーム」の論議をとっておこう。つまり、木の幹と枝のように系統だって主従関係のあるものではなく、地下茎が網の目のようにからんでいるイメージである。
 私は、ネットワークの特性は自立と依存関係の統一であると考えている。いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かと言って孤立でもない。ちょうどパソコンが単体でかなりのことができる(スタンド・アローン)のと同時にパソコンネットワークによって他のコンピュータと連携することができるのと同様である。スタンド・アローンがネットワークするのである。
 このようにネットワークという考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する「連帯」に対しては「自立」が、従来の産業文明における個人の「自立」に対しては「連帯」が同時に対置されることになる。●1
 また、その他に、特に社会教育に影響を与えるネットワークのいくつかの特徴として、次のような諸点を列挙しておきたい。
 一つは、同じネットワーク上においても、個人は自分の財産を奪おうとする者は許せないが、「知の成果」を盗む者には寛容になれるか、あるいはむしろ盗まれて光栄に思うだろう。パソコン通信において、「私のつくったプログラムです。どなたでも自由にお使いください。」という「パプリックドメインソフト」を無料で提供する若者がたくさんいることがその好例である。
 二つは、ネットワークにおいては、個人の学習(=内部への充電)が他者への教授(=外部への放電)に、他者からの外部放電が個人の内部充電に、直接連動することを良しとする。すなわち、放電的充電と充電的放電であり、個人の内面や個人と個人の間における充電と放電の乖離や分業の固定化を解消しようとする。
 三つは、ネットワークにおいては、「撤退する自由」がある。撤退しても生活に響かないことが多い。「撤退する自由」の上で、他の個人と「知的論争」などをするのは、なかなか愉快である。
 四つは、ネットワークにおいては、個人主義を障害とみるのではなく、むしろ質の良い個人主義を歓迎する。「質の良い」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、「異質」と交流する志向を意味する。
 これ以上のネットワークのかもしだす細かい状況については、第2節以降で随時触れることにしよう。
1−3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起の公的役割
 啓蒙主義は、近代を特徴づける思潮である。それは、絶対王政を批判し、超自然的な力、とくに中世的キリスト教的超越神と、それに裏付けられた既成の権威と伝統とに根拠を求めるかわりに、人間の理性による納得に事物認識と行動選択への拠りどころを求めた。
 当時の啓蒙主義は、近代民主主義の基礎を築いていること、人間の自由平等を説いていること、人間本来の理性的な力を信頼し育てようとしていることの三つの特徴をもっている。●2
 しかし、啓蒙とはそもそも「蒙(知識がなくて道理にくらいこと)をひらく」という意味であり、その語意からは、現代社会においては「時代遅れ」の側面を指摘せざるをえない。なぜならば、現代の公的社会教育は、一人一人の人間がすでに学習主体であることを前提に、その自己学習を側面から援助することに重点をおかねばならないからである。
 ところが、このように過去の啓蒙主義を批判することは「非常に重要」であるとともに、「非常に微妙」な問題でもある。というのは、「一人一人の人間がすでに学習主体」であることを、平面的、機械的、教条主義的に前提にしてしまうとすれば、啓蒙どころか、何の働きかけもこれ以上いらないということになってしまうのである。しかし実際は、市民の「学習主体」としての(「ネットワーカーとしての」と考えてもよい)力量の獲得は、日々行われる現在進行形のものである。
 たとえば、学習社会や情報化が進むにつれて学習機会の選択の自由は拡大したが、学習したいテーマと学習の成果を自己の力でつかみとる能力は低下しているのではないか。こういう学習主体にどうやって働きかけたらいいのか。
 「方法論としては」市民主体の側面を最大限尊重しつつ、「結果としては」社会に存在する諸課題の学習を公的機関が提起することも必要になる。この一見、自己撞着を起こしそうな命題を実現する方策はあるのか。
 結論から言えば、その方策はある。現に、今までも、たとえば社会教育行政・施設がそれを行おうとしてきたのであり、成果もそうとう上がっているのだ。しかし、今後の成熟社会においてそれが成功するためには、新しいコンセプトが求められている。それが、「ネットワーク型問題提起」であると考える。
 だが、結論を急ぐ前に、「ネットワーク型問題提起」の発生する基盤としての「ネットワーク型援助」一般について述べておかなければならないだろう。
 「ネットワーク型援助」の重要なファクターの一つは、やはり施設提供なのである。施設はネットワークの空間的結節点として大いに利用しうる。
 アメリカのメトロポリタン美術館は、夜のパーティー会場としての利用が非常に多いと聞いた。人々が分断された都市化社会において、パーティーなくしては新しいネットワークは成立しない。パーティーは現代人の知恵である。しかし、現在、日本の公共施設では、その空き時間にどれくらいパーティーが開かれているだろうか。あるいは、どれくらいその他のネットワークのための「たまり場」たりえているだろうか。このように考えると、ネットワーク型援助の一環としての施設提供さえも、未だに十分とは言えないのである。
 施設提供ばかりではない。ローカルでヒューマンな情報は、今日の情報化社会において、むしろ見えにくくなっている。「どこにどんな人がいて何をしているか」などの情報をサービスすることは、ネットワーク型援助においてはかなりのアクセントがおかれてしかるべきである。
 これらの援助は、市民のネットワークを助長し、「結果として」市民が自ら社会の諸課題への「気づき」を深めるために役立つ。
 しかし、地方自治体の生涯学習の援助機能は、それだけにはとどまっていない。実際に学習プログラムを行政自らが提供している。環境醸成と言いながら、これは何であるか。どんな正当性に基づくものであるか。この「正当性」を弁明できないまま学級・講座・集会・行事を主催している所があるとすれば、そこではネットワーク化の進行の中でいつか矛盾が露呈するはずである。過去の啓蒙主義と同様の矛盾が・・・。
 ネットワーク社会において、地方自治体、特に社会教育行政は、各人が「私有」している個人的・社会的「展望」を「共有」するための働きかけをする、あるいは、「しかけ」をしかける役割を担っていると言えるのではないか。行政が、ある展望を個人におしつけるのではない。すでに各人に潜在している展望をネットワーキングの中で共有するように、各人に呼びかけるのである。このように「展望を共有すること」は、そのすべてがまさに「公的課題」でもあり、自治体行政の「関心ごと」であるべきなのではないか。
 糖尿病の若者が増えているという。彼らはそれを克服するためのしっかりした、またはほとんど絶望的な「展望」をそれぞれもっている。行政がたとえば「糖尿病の人たちのスキー教室」を開いて、そういう人たちに集まってもらうことができれば、糖尿病に関する若者のネットワークが発生するだろう。このようにして成立した病気克服あるいは健康づくりの展望の「共有」は、結果として健康保険などの公的負担を少なくし、財政の健全化にも役立つのである。
 ここまで、地方自治体の特に社会教育行政に期待される啓蒙に代わる新しい役割について、その概観をなぞるつもりで足早に論を進めてきた。これ以上の論議は、啓蒙主義との違いが特に問題となる学習プログラム提供についてしぼって、そのプログラム作成の手順と視点を述べることによって、なるべく具体的に明らかにしていきたい。
●1 「ネットワーク」については、ジョン・ネイスビッツ「メガトレンド」(三笠書房)など、「農業文明、産業文明」に関しては、アルビン・トフラー「第三の波」(中央公論社)が参考になった。
●2 「啓蒙主義」については、江上波夫他編「世界史小辞典」(山川出版社)及び勝田守一他編「岩波小辞典・教育」(岩波書店)から引いた。

2 年間事業計画の作成
2−1 地域の実態、行政の実態をとらえる
 ここでいう「年間事業計画」とは1年間に行うさまざまな事業を総合的に社会教育行政が計画するものであり、やや広い意味での「学習プログラム」ということができる。
 さて、国立教育会館社会教育研修所研修資料『学習プログラム立案の技術』(昭和63年9月)(以下、単に『社研資料』という)の「地域条件、学習者の生活状況の分析」の項から、この見出しに関するアイテムを拾ってみる。
 地勢、地理的条件、地域特性、人口構成、産業構造、就労状況、余暇の過ごし方、家庭生活のパターン、昼夜間人口の移動率、学習施設・機関、教育・学習風土、教育・文化度などである。
 その際、参考になる資料としては、市町村史、市町村要覧、教育要覧、社会教育要覧、施設要覧、市町村振興計画、中・長期教育計画・社会教育計画、各種調査報告書、答申・建議等、予算書、組織・体制図などがあがっている。
 これらを把握すれば、地域、住民の生活および行政の実態をひととおりとらえたと言うことができるであろう。
 しかし、これはあくまでも「ひととおり」である。地域や住民の生活の実態は、今日、動的であり、予測しきることのできない将来への「トレンド」も反映している。そもそも、そのように動的だからこそ、がっちりした堅いシステムではなく、ネットワークのやわらかいシステムによる対応の方が有効になるのである。
 それゆえ、自治体が地域住民の動的な実態を把握するためには、住民の寄り合いなどの各種のネットワークの場に同席するなどして、トレンドを「感じ取る」ことが必要である。
 それは、住民の実態ばかりでない。行政の実態についても、ひとつひとつの事業がどういう成果と問題をもっているかを把握するためには、たとえば資料としては、それぞれの「まとめ」、「記録」などが重要である。逆に言えば、それらを作ることは、あとからの行政実態の把握において大きな価値をもつ。これらのこまごました情報は、情報化社会においても地域・現場にしかないのである。
 さらに勤務評定がなく、一番大切な職務の成果である各事業の現場が上司から「監督」されずに個人の孤独な作業として進められがちな社会教育職員にとって、研修の場などで事例を交流し論争する職員間の「水平な」ネットワークが、自分と同僚が担当する事業の実態の把握にとっても不可欠である。
2−2 学習要求をとらえる
 ヤング市場向けマーケティング会社の人の話を聞いた。若者のニーズがつかめない、そもそも今の若者にはニーズがないのではないかと言う。若者の街におけるウィンドウ・ディスプレイでも、きのうはその前に群がってくれていても、今日はもうわからない、選択基準自体が毎日変わると言う。「社外重役制度」といって現役の学生を重役にまでして、彼らのニーズを把握しようとするなどの猛烈な企業努力をしているが、それでも難しいらしい。ただし、企業は今でも若者に、なんとか、ものを売り続けている。
 行政が学習要求を把握するというが、今のニーズがどうなっているかのはっきりした正解はだれもわからないという前提をまず認識すべきである。なぜわからないかといえば、その主要な原因の一つは、ニーズは動態的なクチコミネットワークの中で、日々新しく「生みだされる」ものでもあるからである。
 ただ、その会社の人の話の中から、一つには「まあ、こんなところだろう」というぐらいの気持ちで開発された商品はまず売れないということ、二つには「わけのわからないもの」が意外に売れたりするということの二つから我々は学べるものがある。
 前者は学習要求調査などの重要性を表している。ただし、統計的手法にも限界はある。数字を個人の内面や社会の深層における意味として理解すること、個人と社会のたくさんの異なった次元を総合化して理解すること、数字を生みだした原因自体に影響を与えること、すなわち、「意味的理解」「多次元総合化」「起源変革性」の三つに乏しいのである。これらを補うためには、学習要求を把握しようとする側の情報整理や抽象化の能力などの主体性が付加されなければいけない。
 後者は、実は、ニーズの可塑性を表している。現在のニーズにないものでも、新たに提示することによって、たとえば「おもしろがって」、受け入れられる可能性がある。受け入れられれば、それは新しいニーズになる。
 次に、今までの論議は「不易流行」の言葉を借りれば、「流行」の部分であったが、もちろん「不易」にもアプローチしなければならない。たとえば「健康に暮らしたい」など、人間が昔から永遠に願っていることである。このための学習プログラムの提供はずいぶん行われてきている。
 しかし、この「不易」の学習要求の方も、その中味は一人ひとりみな違う。各テーマに対する力点の置き方が違うし、同じ「健康づくり」のテーマでもたとえば「競技スポーツで優勝するため」から「一生連れ添うことになる持病とうまくやっていくため」のものまで、その目的・内容・希望する学習方法が千差万別である。地域住民の学習要求の把握は、どこまでいっても、最小公倍数のものであることを知った上で行わなければならない。
 それ以上の学習要求は、学習者自身とそれを援助する行政が学習のネットワークの中で動態的、可変的にとらえていく、あるいは「つくりだしていく」しかないのである。
2−3 「公的課題」の優先
 ネットワークは「自治」である。しかもネットワークの場合、自治の「自」は「わたしたち」よりも先に「わたし」である。造語が許されるならば、「個治」と言った方がよいだろう。議論は活発に行うが、いさかいはしない。どうしてもあわなければ、その個人は、いっとき撤退すればよいのである。あるいは新しいネットワークをつくってもよい。それを当事者である個人が決める。
 このようなことであるから、そこで行われる学習もさまざまであり、ふつうはどの学習課題も差別されない。各人の学習課題が個人的なものであっても、社会的意義をもつものであっても同等に扱うのである。
 それに対して、行政が行うべき「ネットワーク型問題提起」は性格を異にする。行政は行政職員の「個人の意思」によってではなく、行政課題の遂行という「責務」のもとに行動を決定する。
 そこで、ネットワークに対する援助や問題提起も、その学習課題に必然的に優先順位がつけられていく。もちろん、ありとあらゆるすべての学習を最大限に援助・提起するということならば、それはそれで論としては正当であるが、健全な行財政の運営上からはむしろ好ましくないし、そもそも住民の学習ネットワークの意義をないがしろにする論議とも言える。むしろ、「行政らしい関わり」をすることの方が行政としての「個性を出す」という意味から「ネットワーク的」なのではないか。
 「行政らしい関わり」とは、まず行政として考える「公的課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先して選択して、援助・提起することである。
 しかし、この「公的課題」であるかどうかの判断は単純ではない。たとえば、オートバイの運転を覚えてツーリングに行けるようになりたいという学習要求があったとする。これは一見、「私的課題」に見える。だが、オートバイの運転技術の向上やツーリングクラブの発展などは、交通安全の普及による道路事情の改善、青少年の連帯意識の形成、あるいはクラブの中での異世代交流の促進などの行政にとっても好ましい結果をもたらしてくれるかもしれないのだ。
 つまり、行政が公的課題の学習を優先することは必然と言えるが、ありとあらゆる学習課題が、住民の各種ネットワークの中で動的に「公的課題」になったり、「私的課題」になったりすることに留意する必要がある。
 だから、学習プログラムも表面上、私的課題の学習を提起しているようなことがあってよい。しかし、その場合でも行政はその課題が「公的課題」に発展する展望をもっていなければならない。そして、その展望を住民につねに明らかにしていくことの方が住民との関係でフェアーだと考えるのである。
 さらに複雑なことには、私的課題の学習の発展の援助そのものも行政課題、公的課題であるという現実がある。行政課題をそこまで広くとらえる根拠はある。たとえば人生各時期の発達課題をクリアーしていくための学習は、直接的には私的課題であるが、それは、個人への成果にとどまらず、家庭・職業・地域・社会への望ましい効果をもたらすからである。
 このように私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としているものであるが、少なくともこれを操作概念として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられるのである。
 たとえば先ほど「人生各時期の発達課題のための学習」を例に挙げたが、これなども今日の学習機会の豊富な社会にあっては、民間や民間のネットワークに譲り渡せる部分がかなり拡大している。その中で、男子成人が自分自身、いかにしたら地域の一メンバーとして役割を果たせるかということを考えることは、成人期の発達課題であるのだが、それと同時に行政課題としての性格が強い。なぜなら行政の目下の課題であるコミュニティ形成、社会参加の促進、そして性別役割分担の解消などの諸政策の実現の方向に合致するからである。しかも、それに関する学習要求はまだ成熟しておらず、民間による学習機会の提供も不十分である(その可能性を秘めたネットワークは多いと考えられるが)。だから、それを優先して援助・提起する。
 もちろん、これらの「行政課題」が「公的課題」を十分に反映しているものであるかどうかは、保障されない。むしろ、抽象的にはその地域の行政と、すべての住民と、住民のすべてのネットワークが社会的にめざすものの総体を「公的課題」と見なすべきかもしれない。
 しかし、行政はとりあえず「今のところ」の政策に沿って仕事を展開するしかないのだし、少なくともその政策が公的課題と背反するようになった時には政策の方を転換する義務を負うという意味での「歯止め」もある。それ以上については、次項で述べる。
 次に、従来の社会教育行政が保障してきた「私的課題」(現在、実際にはそれほどないと思うが)の学習機会を受講してきた人々の「学習権」はどうなるか。より「公的課題」の強い性格の学習への転換が図られるべきである。
 その場合、その人が私的課題を他で「私的に」(ネットワークなどで)学習する自由は、まっ先に尊重されなければならないのは言うまでもない。そして、そのようなネットワークが行われるのに必要なインフラストラクチャーのうち、地方自治体の設置すべき施設などは十分に、かつ他のネットワークと平等に提供されるべきである。さらには、経済的理由などでそれさえもできない一部の人には、生活保護の拡充や該当する特定の少数の対象への限定的教育サービスなどの社会権的保障が必要である。たとえば、失業者が職業資格をとるための通信教育の費用の免除などである。
 しかし、全体の主流としては、ネットワークの成熟化の中で、住民は行政から「学習権が保障される」立場から、行政が公的課題の学習の援助にいっそう肉薄するように求めるネットワーカーの「役割遂行者」としての立場に発展するであろう。これは、住民の学習主体としての成熟化の一側面といえる。
 なお、図書館における集会事業、博物館における教育普及事業については、同じ学習プログラム提供であっても、それぞれの法に規定されており、例外的に独自の位置づけをもっているとみなすべきである。人と本をむすぶこと、人と資料をむすぶことなどの役割それ自体が図書館、博物館の設置の趣旨そのものでもある。民間との競合関係もほとんど問題になっていない。しかし、少なくとも地方自治体の機関から諸ネットワークに向けてのアピールの姿勢が、すなわち、公的課題の「優先」ではなく「一般の他の課題との同列化」ぐらいの重視の姿勢は必要であろう。
2−4 学習課題を整理する
 公的課題を優先するためには、公的課題とは何かを知らなくてはならない。それは、一部、自治体の政策として表記されている。しかし、それだけではない。公的課題の中には、顕在化されていない未知の課題もある。
 たとえば、『高知県生涯教育長期基本構想』は次のように述べている。
「これからの生涯学習を進めていくうえで、特に留意したいことは、単にスポーツ、趣味にとどまらず、青少年問題、高齢化、健康管理、過疎過密、農業等後継者問題、産業振興等、あるいは都市計画事業や高速道開通による地域変貌など、我々の生活を取り巻き、大きな影響を与えるような事象に対応できるための学習内容等を生涯学習の課題とすることが重要なこととなる」。●
 このようにいわば「公的課題」の学習の提起をしているのは高知県だけではないが、これは簡潔にまとまった提言として評価できる。
 そこで、これらの青少年問題以下の課題に対応する学習がすでに行われているか、あるいは行われようとしているかどうか、それぞれの自治体での住民の学習の実態を思いおこしていただきたい。実は、まったく学習されようとしていない課題というのはないのではないか。
 つまり、抽象的に言えば、公的課題の「優先」とは、行政による学習課題の「新規開発」ではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す「選択行為」なのである。「ネットワーク型問題提起」は、この整理と選択の行為のもとに行われる。
 このようなことから、学習課題の整理は学習プログラムの作成にとって、かなり重要な位置をしめる。『社研資料』ではその領域区分の例を次のように挙げている。
 生活関連領域(個人生活、家庭生活、職業生活、地域・社会生活)、発達課題領域(各年齢期、ライフサイクル、ライフステージに沿ったもの)、学問・科学体系領域(人文科学、社会科学、自然科学)。
 これらの分類によって整理が比較的、体系化され、行政が学習要求や学習行動から謙虚に公的課題を選択する根拠ともなるのである。
 ただ、すでに述べたように、行政側が考える公的課題(行政課題)も重要である。この行政課題の種類をいくつかに分け、上の領域区分と並列ではなく、もう一つの次元としてとらえて、上の区分とのマトリックスで考えることが、今後望まれる。そこに「ネットワーク型の問題提起者」としての主体性がある。
 さて、このようにして行政が提起すべき学習課題が設定されると、年間事業計画の策定としては、あとはそれぞれの学習課題に応じて、事業の名称、趣旨、内容・方法、参加対象・定員、実施期間・実施回数、予算などを決めることになる。しかし、これらについては、そのポイントがほとんど次の節と重なるので本節では省略する。
 ただ、それらの各種事業を区分する基準であるが、『社研資料』では「事業形態・方法別』の一例として次のようにあげられている。学級・講座、集会・行事、情報提供・学習相談、講習・研修会、他との連携・協力。学習援助・提起には、このような各種の形態・方法があり、それらを駆使することが必要であることに留意したい。
 さらにこれらの各種方法はそれぞれが独立しているのではなく、有機的に連携して、さまざまな公的課題のひとつひとつについて動的に対応すべきものであることをつけ加えておきたい。つまり、ここでもマトリックス的なとらえ方が求められるのである。
●1 高知県生涯教育推進会議「高知県生涯教育長期基本構想」、88.3

3 個別事業計画
3−1 「学習ニーズ」の優先
 いよいよ、ここでは、ひとつひとつの事業における学習プログラムの作成について述べることになる。
 さて、年間事業計画では、私は公的課題の優先の考え方のもとに発想すべきだと主張した。ところが、この個別事業計画においては、先に述べたマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズへの対応最重視の姿勢で論を進めたい。なぜか。
 もちろん、まったくニーズにかかわらずに事業を打った場合、肝心の客が来てくれないということもある。しかし、実は「ネットワーク型援助」の観点から、もっと積極的な意味で、学習ニーズへの呼応の必要性を主張したい。そして、現行の学習プログラム提供もニーズ対応の面では、私はかなり不十分だという認識をもっている。
 前節でいう「公的課題」がそれなりに明確になったあとに必要なこと、それはそこで「仮に」設定された「公的課題」を住民にいろいろな機会を利用して、はっきりと示すことである。そうしなければ、「公的課題」の設定に対する住民からのフィードバックは期待できない。
 次に、それを明らかにしたあとは、その課題につながると思われる現存する学習ニーズをうまく拾いあげてプログラム化して提供することである。「公的課題」が現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば「凝固」したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいてはそれが住民の学習ニーズに呼応して「融解」して提供される。
 行政は行政の立場で公的課題を「凝固」させてよい。しかし、それをそのまま不変のものとして住民に押しつけるとすれば問題がある。しかも、個別の学習プログラムの段階までいくと、講師の依頼の関係などから、残念ながら宿命的に「不変なもの」としての性格が強まってしまっているのである。
 これに対してネットワーク型援助は、住民との関係が水平的であるべきだ。行政がニーズに対応しないような「公的課題」の提起をするとすれば、それは行政の「独善」になる危険性がかなり高い。行政が吸い上げた学習ニーズを、住民の現存の学習ニーズにあわせて再度「融解」する必要がある。このことによって初めて、住民の主体的な学習参加とネットワーク化が促されるし、行政の側が学習課題を選択することについての安全性の保障にもなる。
 現に、次から述べることの中には、行政がまだ十分認識しているとはいえないであろう住民の学習ニーズのトレンドが、いくつか指摘できると私は思う。学習ニーズに絶体確実と言えるものはないけれども、それらのいくつかのトレンドが将来の「公的課題」につながる可能性は十分に考えられるのである。もちろん、それは私のトレンドの「見間違い」の可能性もあるが、それはそれで「公的課題」設定の困難性と安全性保障の必要性を示していると言えるだろう。
3−2 参加対象をどう設定するか
 社会教育行政はなぜ対象別、特に発達段階別の学習プログラムを多く提供しているのか。それは、学習者の特性にあわせた適切な学習プログラムにしようとするからである。第一義的には、プログラム作成の段階での焦点化のために参加対象の「設定」をするといえる。
 だからそれは、プログラムの提示をした後の予定された対象外の人からの参加申し込みを断わる理由にはならない。なぜなら、その申し込み者は企画者の意図はともかく、自分としては「学習したいプログラム」としてとらえたからである。そして、実際、その「対象外」の人の参加により「異質の交流」がはかれるかもしれない。
 「ネットワーク型問題提起」においては、たとえ企画の意図がどうであっても、いったんプログラムがリリースされたあとは、住民の個々が判断して行動を決定する。企画者が予測のつかない結果をむしろ歓迎するのである。
 しかし、参加対象を「限定」(「設定」ではなく)する方が良い場合もある。もちろん、そのプログラムがたくさんの人のニーズにマッチしすぎていて、希望者が多すぎるという場合もそうである。その場合は、行政が「この対象こそ、この学習プログラムに適している」という判断を「とりあえず」することは許されるだろう。
 だが、もっと積極的に対象を「限定」する場合もある。それは、「個人が比較および同調の拠り所とする」●1準拠集団の端緒を行政が意識的につくりだそうとする場合である。この場合はまだ「異質」の者との水平的なネットワークが期待できないため、「同質」の人を集めて仲間づくりから始める必要がある。
 たとえば「ビッグトゥモロー」、「セイ」などの「生き方情報誌」の恋愛技術や処世術の記事を熱心に読んでいる「暗い青年たち」もいる。活発な婦人や一家言を持っている高齢者に対して、そういう青年たちが最初から水平的ネットワークを営むのは無理と企画者が思うなら、「青年講座」への主婦、高齢者の参加は断わらなければならない。
 しかし、実際の学級・講座においては、対象の「限定」があまりにも安易になされており、学習者もいつまでもその「温室」に甘んじている傾向が見受けられる。これは、すなわち「集団の固定化」の傾向であり、ネットワーク化の阻害要因なのである。
 さらに「対象」という言葉自体にも若干の疑義がある。「対象」とは事業の企画者側から住民に対して、参加を開拓して受け入れる、いわばマーケティングの用語と言える。ところが、ケースワークでは「対象者」でなく「当事者」と呼んでいるようだ。「対象」と言うより個別的であるし、問題提起的でもある。そして、「なんらかの問題をもつ成人」が「自ら」ことを解決することを基本におく姿勢が表れている。
 もちろん、学習プログラムの作成に当たって「当事者」と呼ぶわけにはいかないのだが、プログラムがリリースされたあとは、学習者に対してこのような「当事者」的なとらえ方をする必要がある。そして、作成時においても、「対象」の「望ましい姿」を勝手に描くのではなく、「対象」の中心的関心(=学習ニーズ)を優先することが、「当事者」という用語の思想と一致するのである。
 最後に、マーケティングの観点から、新たに注目すべき「対象」を考えてみたい。
 一つは「ビジネスマン」である。「猛烈時代」には彼らは会社以外の社会に関わる余裕はあまりなかった。しかし、そもそも「学習社会」の傾向は、実は経済基盤の変化の動向の表れでもある。たとえば、今やビジネス書しか読まないビジネスマンは歓迎されない。社会の高齢化や成熟化に対応できるセンスと見識を養わなければならない。それが養えるのは、ネットワークの中であり、また、行政および住民の社会教育活動における学習の中であるばずだ。
 二つは「大学生」である。彼らはエリートではなく、多数派としての一般住民の一員になっていくだろう。しかも、社会の今後のトレンドを現在秘めていることには変わりない。大学生の参加により、事業にトレンドがフィードバックできるのである。そして、彼ら自身がすでに一般社会人としての性格をもっているのに、中期高等教育の程度の教育しか受けていない者が多いということから、社会教育への参加の動機づけと時間的余裕が、今日生まれているのである。
 三つは「一時滞在者」である。博物館のように旅行者へのサービスはできないものか。このようなサービスは町づくり、村おこしという行政課題にも合致するはずだ。今後は、学生が遠くから来て下宿して住んでいたり、中高年が青年のように旅行してまわったりなどの、広域的ライフスタイルが普及するだろう。それらの「新しい風」を吹かせてくれる人を地域のネットワークに活かすシステムを考えたい。さらに、各自治体が「旅行者向け学習プログラム」を提供するようになれば、日本全体として週末や休暇時の広域生活へのサービスの高品位化が可能になるのである。
3−3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 『社研資料』では次のようになっている。
「本時の目標の明記」としては、「その日の学習のねらいを表記したもので、学習評価の観点の中核となる。この時間の学習をすることによって学習者がどのような状態になることを期待しているのかを示すことになる。講師交渉の際には、指導のねらいに相当し、学習者には、学習のねらい・メドに相当する」。「学習主題の明記」としては、「課題性のあるテーマで表記する」。「学習内容の明記」としては、「具体性をもたせ、学習内容を項目的に表記する」。
 このようにして学習プログラムが「明記」されることによって、企画者の恣意性が防止され、これが住民に対して提示されれば、住民はよく中味を知った上で参加を検討できるのである。
 さて、最初に「学習目標」であるが、これは一つには、直接、企画者側から問題を提起する、つまり「課題性」のあるものが良い。住民と共通の問題意識から、話を始めるのである。しかし、前に述べたように、それが大多数の参加者の学習ニーズに合わないものであれば、それはおしつけになるから撤回する。そして、行政の考える「公的課題」と住民の学習ニーズとの折り合いがつくところでの「妥協線」を新たに「学習目標」として打ち出すべきである。
 二つには、「○○ができるようになる」という意味での「到達目標」の設定のやり方もある。これは、極端に具体的かつ明確でないといけない。しかも、この「到達目標」はよっぽど魅力的でないといけない。
 住民の国際性のかん養をはかる目的で「中国語教室」を開いたとする。まさか本時の学習目標は「国際性のかん養」とは書けないから、「中国語がしゃべれるようになること」ということになるが、それでは具体的でない。「こんにちはなどの簡単なあいさつが言えるようになる」としなければならない。そうすると、ニイハオぐらいは知っているという人は、参加してくれないかもしれない。それでも出たい人には、前半の数回はお義理で参加していただくようお願いするしかない。それはしかたない。ニーズとレディネスが多様化・個別化している社会で、住民ならだれでも参加したくなる集合学習の設定など、もともと無理なのである。
 それを嘆くよりも、たとえば「この町には私以上のレベルをもって中国語を教えてくれる人がいない」という「当事者」に対して、高度な「到達目標」を設定しサービスして、その後は語学ボランティアとしての活躍の道を提供するなど、学習目標を特定レベルに焦点化した方が良いだろう。
 次に、「学習主題」については課題性をもたせ、ひきつけるテーマにするとともに、よく「学習内容」を表現するものになるようにこころがける。
 最後に「学習内容」については、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられるものをいくつか列挙したい。
 一つは、「遊び型内容」である。難しい学習内容でも楽しく学ぶという「学習方法」の工夫も必要であるが、それとともに「学習内容」そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習という言葉には、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。また、今後の学習社会においても、そういう性質の学習もますます必要になるだろう。しかし、そういう「目的意識」のある学習にばかり偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、「合目的的」学習行動の他に「即目的的」学習行動が出現しつつあると思うのである。
 現在、生涯学習の進展の中で、「学習」と呼ばれている行動の中に、見通しのある「学習目標」を実際にはもたずに行われる行動が増えている。「知的刺激」が快いといういわば「快感覚」の追及なのだが、それは麻薬などの「快」と違ってヘルシーでハイな「快」である。
 もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは明らかに今後の技術革新の社会において必要不可欠の個人の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという「目的意識」が彼らにはほとんどないのである。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで遊んでいる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、その「遊び」の方が結果としては効果的な学習になっているのだ。
 ここで、着目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには反対する議論もある。しかし、少なくともそうとう有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)にはなっているのは事実だ。
 オイルショック以降、経済の安定成長の中で人生が楽しめるような個人の主体性を社会が求めている。その一つが人間のネットワーク能力であり、もう一つが「じょうずに遊ぶ」能力であろう。後者に対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することではなく、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。
 二つは、「知的生産の技術」である。梅棹忠夫は、「組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている」として「個人の知的武装が必要」と述べている。そして、今の学校は「なんでもかでも、おしえてしまう」のに、「研究のやりかた」などは教えないと批判している。●2
 ネットワークは個人に対して「高度な深み」を期待する。そして、情報が最高の価値をもつ今日の情報化社会において、ネットワーキングをしようとする個人がその「深み」を発揮するために必要な技術は、情報の収集から発信まで含めた情報処理の技術、つまり「知的生産の技術」である。
 学習プログラムの提供において「知的生産の技術」を「学習内容」として設定することは、あくまでも「技術」の修得に行政の援助を焦点化することになる。しかし、この「知的生産」自体が、私的ではありえず、他者に向けたとき初めて完成されるという意味で、実は「社会参加」の一行為なのである。(これに対して碁や将棋などは「知的消費」というが、「知的生産」の方がそれより優れているということではない。)
 このように、行政としての「期待」をもちながらも、学習ニーズに応じた純粋な技術的援助を広い層に提供するということは、「ネットワーク型援助」の中でも特に象徴的な社会教育行政の行為である。
 三つは、「コミュニケーション技術」である。具体的には、二つめとも関わるが、聞く・話す・書くなどの技術である。
 戦後の社会教育は民主主義思想の普及のため、グループワークなどの一種のコミュニケーション技術に取り組んだ。そこでは、全員が公平に発言することなどの民主的な会議の進め方などが学ばれた。
 しかし、今日ネットワーキングの中で求められているコミュニケーション技術は、それとは違う。たとえば「今はそのことについてはしゃべりたくない」という人はしゃべらない。それについて、他者はなぜかを聞くことはあっても、干渉したり、心配したりはしない。そして、「多数決の原理」などの会議の形式的ルールも、ネットワークの中ではほとんど必要ない。
 それよりも、ネットワーカーとしてのいわば「直接民主主義的」な資質・能力が求められる。それは、ネットワークのコミュニケーションの中で、希望する人だけが自己の企画をプレゼンテーションし、その企画を気に入った他者だけがプレゼンテーターの気持ちの理解もともなってその企画を理解し、それによって自己を革新し、再びコミュニケートに向かうすべての営みの総体をさす。これらの「技術」の部分を行政は援助すべきである。
 四つには「系統的内容」である。百科に分化した学問の一科目を学ぶだけでは、職業的研究者の単なる「弟子」になってしまい、学際を縦横無尽にネットワークするアマチュアの本領が発揮できない。ネットワーカーは現代の「ルネッサンスマン」として「百科の全書」を学ぼうとしているのである。また、行政が必要と考える「部分」だけに絞ってプログラム提供することは危険でもある。
 もちろん、「系統的内容」のすべてを学習プログラムに盛り込むのは不可能である。実際には、学習者が自ら「系統的内容」に挑戦する動機づけに最適な学習内容を設定することになる。
 そもそも、「ネットワーク型問題提起」としての学習プログラム提供は、「すべて」を提供してしまうものであってはならない。教育一般の本質とも言えることだが、「教える」場合は最小限に、そして意識的に「中途半端で打ち切る」ということが必要なのである。

 個別事業計画の作成に当たっては、学習方法、講師、指導者、教材、教具などを設定する作業が残っている。また、その他に、参加者の募集、広報、企画・運営への住民参加組織、アフターサービスなどについても計画化しなければならない。
 しかし、それらについてはここでは、逐一解説するのをやめ、すでにるる説明した「ネットワーク型援助」の考え方に基づき、学習ニーズに沿いながら参加者の主体性を誘発するような「しかけ」をちりばめる必要があるとだけ述べておこう。
●1 見田宗介他編「社会学事典」、弘文堂、88.2
●2 梅棹忠夫「知的生産の技術」、岩波書店、69.7

3−3 小括
 すでに与えられた枚数を越えてしまっている。また、これまでより新しい知見で学習プログラム作成における「ネットワーク型援助」について語る力量も私にはない。そこで、残された課題を述べることによってまとめに代えたい。
 一つは「集合学習の非マス化(マス=大衆)」(非マス化は、前出アルビン・トフラーの言葉)についてである。
 ネットワークは個人の主体性を極端なまでに尊重する。すなわち、非マス化の特質をもっている。しかし、当の個人は当然ながら社会においてもアイデンティティを求める存在なのである。そして、ネットワークの中でその実現は可能になる。すなわち、パーソナルからソーシャルへと発展する。これは一部、パブリックでさえある。このように「マス化」でなくて「非マス化」によってパブリックにまで発展することが、ネットワーク型援助行政のめざすところである。
 ところが、学習プログラム提供は不可避的に集合学習になる。各個人に対するサービスをするとすれば別だが、それは行政効率の上から、情報・相談サービスぐらいしかできない。しかし、そこにあえて「非マス化」の要素をできるだけ取り入れていくための方法論を追及していかなければならない。とりあえずは、「あなたは『大衆』ではない」というアピール性のある集合学習のプログラムを作成、提示することになるだろう。
 二つは行政の「主体性」の発揮についてである。本論で「公的課題」の設定と学習ニーズへの呼応の両者の必要を述べた。問題は両者のつなぎ方である。
 自治体の社会教育職員の中に「概念くずし」という言葉を使うものがいる。住民が当り前だと思っていることに切り込んで、意識の揺れとそれによる学習の飛躍を誘う営みである。傲慢なようにも聞こえるが、社会教育における教育作用の可能性も示している。
 あるいは、行政自体が、「公的課題」というコンセプトをもち、それをメッセージとして発することは、許されるのではないか。それは、住民に対する「おしつけ」ではなく、いわば「刺激」としてとらえられないか。
 さらに、教育は「教え育てる」ことだからと言って、社会教育を忌避する論もある。しかし、そういう論者の言う「成熟した市民」にとっては、「教える」と「育つ」は、ネットワークの中ではお互いに「教師と生徒」ということでこん然一体となり、行政に対しては「育つ」主体は自分だということできちんと分離できているのではないか。
 もちろん、住民の見識を「みくびる」ようなことは論外である。知識や技術だけでなく、生活、仕事、海外滞在、地方生活、闘病の経験など、個人の深みははかりしれない。それに対する自己の見識の貧弱さにつねに不安をもちながら、行政は「教育」サービスをすべきであろう。
 三つはプログラムそのものの「非計画化」についてである。「非計画化」とは、意識的に不定型、未完成の部分を多くすることによって、ライブ感覚を大切にした動態的なプログラムにすることである。たとえば、学級・講座型ばかりでなく、パーティー型の何があるかわからない、あるいはその場で参加者が決めるプログラムなどがそれである。
 社会教育行政は人間関係の仕事である。だから、つねに揺れ動くもの、移り変わるものとしての人間とつき合うことになる。そこでは、クローズドな目的−手段システムではなく、価値を先に決めないオープンシステムが、本質的に適しているのである。

 地方自治体は各セクションの専門性と情報をもっている。これを住民のネットワークに対して提供する。都市と農村の両方が大きくきしむ中で、自治体はこのような方法で、その「きしみ」とそれに関わる「公的課題」の解決を訴えることができる。
 さらにその上に、社会教育行政は、「公的課題」に関わる住民の意識変革、態度形成にまで関与できる。それが「ネットワーク型援助」であれば、住民との相互のフィードバックがつねに保障されているからである。
 そして、これら行政と自立しながら協働する住民自身のネットワーキングによって、住民はいっそうの主体性を獲得する。そして、究極的には個人を疎外しない「ネットワーク的」な地域合意を形成してこそ、「公的課題」の本質的な解決がはかれるのである。
生涯学習ホットライン104選

生涯学習における少年教育の推進

生涯学習としての少年教育の特徴
 少年(少女を含む)とは、少年法では満二十歳に満たない者、児童福祉法では小学校就学から満十八歳までをいうが、生涯学習の観点からは、義務教育年齢の範囲の者をさす場合の方が一般的である。
 もちろん、そういう義務教育年齢の子どもたちにとって、組織的な教育の最大の場は、学校である。しかし、生涯学習時代に向けて、従来の学校教育のやり方だけでは不十分であることが人々の認めるところとなり、学校教育が子どもたちの自ら学ぶ意欲・態度・能力を養うための、すなわち生涯学習の基礎づくりとしての新しい努力を重ねる一方、それと相互に支えあうかたちでの生涯学習としての少年教育にも、あらためて脚光があてられるようになってきた。そこでは、生涯学習の基礎づくりとともに、成人の生涯学習と同じように、自ら学びたいことを学びたい手段で学ぶなど、生涯学習そのものの実践がめざされている。そこでのポイントは、体験、参加・参画、地域活動、仲間集団、異年齢集団などのもつ「教育力」を生かすことである。

体験、参加、参画のもつ教育力
 美深町の「フロンティア・アドベンチャー」では、子どもたちが大自然の中での原生活に挑戦する。子どもたちは、そこで、たとえば冬の極寒の中での自然の厳しさなどを体験する。少年期にそういう体験をしておくことは、その人の考え方や生きる態度に、生涯にわたって意味をもつのである。
 人間の生涯のそれぞれの段階において、獲得しておくことが望ましい体験を、現代社会はかなり失ってしまっている。人間が、今後、より豊かに生きるためには、そういう体験を意識的に用意しなければならない。
 もちろん、体験を生かすためには、自らがそれを受け入れようとする意欲と態度が重要である。活動の各局面で、子どもたちの主体的な参加が得られるよう最大限の工夫をこらすとともに、計画段階でも子どもの参加を考える必要がある。参画は、ひとをワクワクさせる。参画するとき、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身の判断基準などの枠組も鋭く問い直される。このことは、子どもでも同じである。

地域、集団のもつ教育力
 体験、参加、参画のチャンスにあふれた場として、地域をあらためて見直す必要がある。地域には、本来、人との交流、自然とのふれあい、文化の享受などの豊かな体験があふれている。戸隠村の「中学生招待キャンプ」や妙高村の「山村留学」は、潜在化していたそういう地域の教育力を掘り起こしたのである。
 もちろん、これらの事例の他に、地域がそこに住む子どもたちに素晴らしい影響を与えている活動事例も、また、重要である。ただし、そのような地域活動であっても、地域完結型の活動だけでことたりるわけではない。地域の子どもたちが「交流を通して視野を広げ、閉鎖性を打破する」(妙高村)など、地域という豊かな土壌の上に、地域の外からの「新しい風」を吹きわたらせることが、地域活動の重要な要素の一つなのである。
 また、かつて地域に健在であった子どもたちのインフォーマルなグループの中での、自発や自治にもとづく相互作用による教育力の意義も忘れることはできない。ここに紹介されている諸事例も、そういう相互作用を意識的にあらためて生み出そうとしているものである。
 しかし、それは、子どもたち一人ひとりの個性をうずもれさせるものであってはならない。むしろ、「個の深み」ともいうべき予測しえない多様性がいきいきと発揮されるようでないと、集団の中での相互作用の意味は弱くなる。それぞれの事例にも、子どもたち自身の個別な反応が息づいているはずである。

(1)北海道美深町

美深の位置と全体図(図1)●カット
 大部分は豊富な林業資源を包蔵する森林地帯であるが、天塩川沿岸および天塩川に流れこむ大小河川の沿岸は肥沃な農耕適地として開け、農業と林業の町として栄えてきた。

美深の位置と全体図(図1)

美深の町づくりの目標
(一)たくましい多様な産業づくり
(二)うるおいとやすらぎのある快適生活空間づくり
(三)いきいき健康福祉社会づくり
(四)未来を開く人づくり・個性が生きる文化づくり
(五)大自然を保全し、高度に活かす基盤づくり

文部省補助事業「自然生活へのチャレンジ推進事業」
 この補助事業は昭和六三年に始められた。山奥や無人島等の大自然の中で、異年齢構成の少年五十人が十泊もの長期間の原生活体験を行うもので、現代青少年に欠けるといわれる忍耐心や自立心を培おうとするものである。美深の場合は、雪の中の自然体験が特徴的である。

(2)長野県戸隠村

戸隠村の自然と文化●カット
 戸隠連峰と、千年の歴史を持つ戸隠神社を擁する。岩峰が屏風のように立ちはだかる山と深い森、豊かな清水に、古代から山岳宗教の聖地として全国に知られている。

ガール・スカウト日本連盟
 グループワークやキャンプなどを通じて、少女の心身発達に寄与する事業を行っている社団法人。信頼、忠実、友情、礼儀、規律、快活、倹約、純潔などに関する「おきて」と「やくそく」にもとづき、「立派な品性と奉仕の精神を養う」ことをめざしている。

信州こども夏休み高原村
 戸隠村では、ガール・スカウトとの交流だけではなく、広く一般の子どもたちに自然体験を提供している。それは新しい観光のあり方を示唆するものでもある。具体的なプログラムは、戸隠神社参拝、昆虫採集(みやまくわがた)、ほたる見学、岩魚つかみ、手打ちそば作りなどの体験学習から構成されており、そのどれもが、村内の豊かな教育資源を有効に活用したものである。参考までに、その概念図を掲げる。(図2)

(3)新潟県妙高村

妙高村のPR(図3)●カット
感動いっぱいの四季折々の自然の美しさ。
うまい米、高原トマト、葉タバコ等の活力ある地場産業。
いにしえびとの息づかいが聞こえてくる豊かな文化財。
若者から高齢者まで楽しめるリゾート・ライフ。
素朴で人情味あふれる住民。

妙高子ども村のプログラム
 友だちつくり、はたらく、自然を知る、感動する、くふうする、などの「ねらい」のもとに、次のようなプログラムが組まれている。
1日目 「妙高村に集まろう」(友だちづくり)
2日目 「妙高村ってどんな村」(妙高村探検)
3日目 「川の生いたち探検」(清流遊び)
4日目 「ひろい農家で思いきり働こう、楽しもう」(農家の生活発見)
5日目 (4日目の続き)
6日目 「活動のまとめ」(記録など)

長期山村留学(図4)
 これも、社会教育団体である「育てる会」との共催で実施されている。内容は次のとおりである。

生涯学習における青年教育の推進

仲間や社会との交流によって深まる青年の個
 アイデンティティ(同一性)の獲得は、青年期の重要な発達課題である。青年期には、それまで取り結んだ諸集団(家族、同年齢集団、学校)によって獲得したアイデンティティと、青年期以降関係を結ぶことになる成人社会(職場、地域社会)において期待されるアイデンティティとが対立する。少年期に築き上げた「自分らしさ」だけでは、社会には通用しないことが自覚され、「自分とは何か」を模索するのである。その模索のために与えられる猶予期間をモラトリアムと呼ぶ。これは、新しい社会を生み出す原動力にもなるのであり、社会としては、そういう個々の模索を最小限にとどめようとするのではなく、むしろ、モラトリアムが一人ひとりの内面的な世界で十分に意味深く過ごされるよう援助する姿勢をもたなければならないだろう。
 アイデンティティの獲得、いいかえれば、個の確立は、カプセルの中に閉じこもっていては達成できない。他者と触れ合ってこそ、自らの個も深まる。しかし、それはけっして同質集団の形成や、社会への没個性的な順応を意味するものではない。従来の青年教育が、ややもすれば、青年をマス(集団)として扱ってきたのに対して、今後は、青年一人ひとりの多様な個性が発揮される組織化や活動がめざされなければならない。

「個の深み」を尊重し助長するための視点
 青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」(平成元年度)は、青少年団体が「個の深み」を追求するために、次のような視点が必要だとしている。
 それは、すでに設定された目的にとっての最適の手段ばかり考えるのではなく、各自が「迷路」の中でさまようことを許容すること(目的志向型から迷路型へ)、日常の活動の中で個人個人がいろいろなことを「気づき」「思いつき」さまざまな思いをもつという意味での「学習」を高く評価すること(学習→活動型から活動=学習型へ)、「個の深み」から発したユニークなアイデアを団体運営に反映するために、喫茶店や居酒屋などのような気楽にしゃべれる空間を活用すること(研修会方式からたまり場方式へ)、団体は情報やメニューの提示などをし、各個人がそこから自らの行動を「選択」し、その上でそれぞれの「発見」を披露し交流してもらうこと(一括方式から選択方式へ)、各人のばらばらなニーズに合わせた「注文仕立て」の多様な活動をすること、ただし、それを注文した本人が一番熱心にそれに取り組むこと(既製服型から注文仕立型へ)、既成のスローガンにあまり拘束されず、変幻自在に「遊び心」で活動できるようにすること(スローガン型から遊び心型へ)、などである。

主体的に企画する、表現する、関わる
 本書にあげた事例を支えているのも、メンバーの「個の深み」である。それは必ずしも活動の表面に表れてくるとは限らないが、活動のプロセスの中では重要である。これが、活動全体の個性と創造性を生み出す。
 熊本市の「野外教育研究所」の事例では、事業を企画すること自体に、青年は大きな魅力を感じているようだ。渡嘉敷村の青年会活動では太鼓をとおして、鳴子町の喫茶店では書くことをとおして、青年が自分自身を表現している。香北町青年団は、三十人にも満たない団員たちが、町づくりに大きな影響をもたらしている。
 青年たちの主体性が失われつつある現代社会において、このような青年自らの手による企画、表現、そして地域や社会への関与が行われていることは、私たちに明るい希望を与えてくれる。

(1)熊本県熊本市

企画に関わることの重要性
 全国子ども会連合会『中学生−その青春と地域活動−』には、「おしきせプログラムはまっぴら」と題して、次のように書かれている。
 「どうも、大人が事前にすべてを準備しきって、ただ子どもは、お客さまで参加するという行事が多かったのではないか。プログラム立案の段階から参画することは、参加意識を高め、苦労しても、なんとかやりとげ成功させたい、そのために労をおしまず仲間と協力しあおうとするであろう。その仲間と苦労をともにして、やっと仕事をなしとげたあとの成就感を味わったとき、ヤッタという晴れ晴れした気持ちになるであろうし、その時、またやってみようというやる気を育てるわけである」
 企画するためには、そのひとは主体的にならざるをえず、自分自身にも鋭く迫ることになる。自立の意欲と態度を養うべき青年期においては、企画に関わることの意味はより大きいであろう。

(2)沖縄県渡嘉敷村

青年団(青年会)の歴史
 鎌倉時代ごろから各地の村落を中心に形づくられた「若衆組・若連中」にその源があるといわれる。明治時代になって、青年の修養機関や銃後活動組織として評価され、各地に青年会が設置された。
 青年団は、戦後の地域の生産・政治の主力部隊の一つになったが、高度経済成長期の頃には、目的志向型のグループ・サークルの方が盛んになった。そして、現在では、青年の自主的な活動は、そのどちらもがあまり振るわないといわれている状況だが、地域に直接関わりあいながら、青年自身の生活の課題に総合的に取り組む青年団活動は、新しい存在価値をもっているといえる。

(3)高知県香北町

青年団の目的と町づくり
 日本青年団協議会綱領では、
一 私たちは心身を修練し、よりよき個人の完成に努めます
一 私たちは友愛と共励を信条として団結します
一 私たちは住みよい郷土社会の建設に努めます
一 私たちは人類愛と正義をもって世界平和に努めます
として、次のスローガンを掲げている。
平和と民主主義を守り育てよう
青年の生活と権利を守り、豊かな青春をおくろう
青年の力で新しい地域づくりをすすめよう
単位団との一体化をはかり、団員の倍増をはかろう

 「郷土社会の建設」や「新しい地域づくり」など、青年団の活動目的の中で、町づくりに関わることがかなり重要なものとして従来から位置づけられてきたことがわかる。
 しかし、その伝統を受け継ぎながらも、今日では、それぞれの地域の特性と地域青年団の個性を生かした町づくりへの現代的なアプローチが行われていることに注目したい。

(4)宮城県鳴子町

拠点の必要性
 青年にとって、現代社会の管理から一時的に逃避できる「駆け込み寺」のような存在は、貴重である。これをアジール(不可侵の領域)と呼ぶことができる。そこでの自由な空間とネットワーク的な人間関係から、創造的な活動が生み出されるのである。
 そういう拠点としては、喫茶店、飲み屋、廃屋、寺、神社などがあげられるが、「青年会館」を新たに設置したり、公民館の一部屋を「青年室」として設定したりする例も見られる。

書くことの意味
 「個の深み」は、時々の内なる到達点を外在化する営み(表現)とそれへの他者の反応との双方が循環して創り出される。
 内的世界をそれなりの論理構成をもって記述することによって、自己に気づき自負することもできるし、欠陥部分を発見することもできる。自己の勝手な無力感や万能感を、自らの目の前にあからさまに突き出すことにもなる。そういう試練を乗り越えてあえて書くことによって、はじめて、「個の深み」を自負し獲得していくことができる。

(5)東京都渋谷区

若者の街、渋谷
 渋谷の街づくりの成功のカギとなったのが、西武パルコである。駅からちょっと歩かねばならず、けっして立地条件がいいとはいえない所、「公園通り」を若者のメッカにしてしまった。他にこの通りには若者の「文化拠点」として「ジァンジァン」がある。これは、教会の地下にある劇場で、最先端の文化活動が行われている。

東急ハンズ
 渋谷には、東急系のデパートとして「ハンズ」がある。これはクリエイティブライフストアーと銘打ち、「手づくり」のブームを生み出した店である。ロフトは、そのすぐ近くにオープンしたのである。
 ハンズはそれまでの流通業の人たちの常識では考えられないデパート経営をした。店子(たなこ)に場所を貸すのではなく、いいものを探して買い取って来て自らが売る。このように、若者に受けている店は、本質的には何らかの「情報」を売りものにしている。どこも若者に誇れるような情報のアンテナをもっていて、それによって得た新鮮な情報を売場での「品揃え」の形などでアピールするのである。

オープン当時(一九八七年一一月)のロフトのフロア設定(図5)●カット

学習情報の提供の意義と方法

なぜ学習情報提供が必要なのか
 生涯学習に関する情報は、あまりにも大量で多種多様なため、個人が学習機会に関する情報を統一的に把握することはかなり難しくなっている。そのため、学習環境そのものは豊かであっても、その中から、学習者が自分の必要とする学習の情報をうまく選び出すことができないということもおこっている。そこで、生涯学習情報をなるべくもれなくとらえ、それらをわかりやすく提供することが求められるようになってきた。

コンピュータの活用
 学習情報の整理・提供にコンピュータを活用することによって、求めるデータに、よりスムーズにたどりつくことができるようになる。真岡市の学習情報提供やNHK放送データ情報部の事例は、そういうコンピュータの特性を生かしたものである。
 ただし、コンピュータを使うことだけが目的になってしまって、情報を求める現実の人間にとっては不都合なものになるようではいけない。電話帳のように冊子体であることによる便利さや可能性も一方ではあるのだ。また、冊子体では検索に困るほどの情報量と複雑な検索条件があってコンピュータを使う場合でも、ユーザー側がそれを使いこなせなければ意味がない。人間に親切な(ユーザーフレンドリーな)システムが必要なのである。そのためには、ユーザー、またはその代弁者が、システムエンジニアに的確にニーズを伝えなければならない。さらには、学習情報提供の場合には、システムとしてのソフトとともに、学習情報そのものの量と質が勝負どころになる。「コンピュータ、ソフトなければ、ただの箱」なのである。

各種メディアの有効活用
 千厩町の「生涯学習カレンダー」は、家庭内のプライベートな日々の動きと町の生涯学習関連事業を直接に結びつけるのに役立っている。茅野市の「生涯学習メニューブック」は、学習者が独自のプログラムをつくるための道具である。いずれも、一覧性、親しみやすさなど、活字媒体のメリットをうまく活用している。また、戸河内町の八ミリ映画「わがまちの新しい風、生涯学習」は、言葉や文字だけでは伝えきれないものを、映像メディアをとおして伝えるものといえよう。コンピュータを活用するなどして、豊かな学習情報のどれもが、だれでもいつでも即時に入手できるように努めるとともに、このように、学習者の立場に立って学習情報を編集し直して、各種メディアの特性を生かして提供することも大切である。

ギブ・アンド・テイクの情報交流
 今日の生涯学習の重要な側面の一つとして、従来の教える人と教えられる人との縦の関係ばかりでなく、互いに得意な分野を教えあったり、共通する関心ごとに応じて学びあったりする、横の関係としてのネットワークを指摘することができよう。日本視聴覚教育協会の「AV−PUB」に見られるように、パソコン通信の世界では、迷路のような情報交換とおしゃべりが行われている。この「迷路」を、「求める情報にたどりつくには、効率が悪い」として避けようとする人もいるが、情報を与える(ギブ)人にこそ、情報は集まる(テイク)という原則に立ち戻る必要がある。
 学習情報提供事業も、学習者の学習情報処理行動のすべてを節約するためのものではなく、むしろ、学習者自身が活発に、しかし無意味な労力は払わずに情報を発信・受信するための手助けなのである。

(1)栃木県真岡市

真岡(もおか)市のプロフィール
 真岡市の都市イメージは「住むまち、働くまち、学ぶまち、そして生きがいのあるまち」といわれている。たくさんの川がまちを縦横に流れ、良質の真岡もめんがそこでさらされた。昭和四三年には、市の西部に工業団地が完成し、多くの企業が操業している。

真岡市の生涯学習推進の基本
(一) 快適な環境づくり
(二) 心ふれあうまちづくり
(三) 活力あるまちづくり
(四) 文化の香り高いまちづくり
(五) 明るく住みよいまちづくり
 なお、真岡市では、それぞれの項目について、各ライフステージごとに学習課題を設定している。

(2)広島県戸河内町

戸河内町の状況●カット
 人口、世帯数、ともに昭和三十年の九,一五七人、二〇五〇戸が過去の最高で、昭和三八年の豪雪を機に急減し、平成二年三月現在、三,九三一人(減少率五七%)、一,三四七戸となっており、過疎地域に指定されている。
 中国地方第二の高峰、恐羅漢山を筆頭に千メートルを超える高峰が十指を数える山岳地帯で、山林が九三%を占め、耕地は二.五%である。

生涯学習と映像
 最近、文部省が地域映像情報整備充実事業、郵政省がハイビジョン・シティ構想、通産省がハイビジョン・コミュニティ構想、自治省が地域情報化計画やハイビジョン・ミュージアム構想を打ち出すなど、生涯学習や文化の振興も含めた地域における高度映像技術の活用に関する施策が続々と生まれている。
 一方、文部省科学研究費補助金総合研究「生涯学習時代における文化映像の製作・保管・活用に関する調査研究−平成二年度中間報告書−」によると、その研究の緊急の課題として、
(一) 映像の実態調査の本格実施
(二) 製作、保管、活用の前提になる映像分類体系の作成
(三) 映像の保管、活用のための著作権問題の解決
が、あげられている。
 生涯学習情報としての映像活用を進めるためには、高度技術の動向への注目とともに、すでに蓄積されている映像の把握と整理、著作権問題の解決などが重要であることがわかる。

(3)東京都渋谷区

放送と視聴者の生涯学習との関係
 教育番組の担当者などに、視聴者のグループから、良質の番組を良い時間帯に数多く放映してほしいという要望がよく出されることがある。それに対して、担当者としては、そういう声を大きくしてほしいとしか答えようがないようである。●カット
 良質の放送番組の拡大のためには、番組提供側の良識に期待すべきところも大きいが、視聴者が自覚的に視聴行動を起こすとすれば、もっと根本的な効果が期待できる。放送視聴をとおした市民の生涯学習の実態が現在よりも内実の豊かなものになれば、結果として、放送全体が生涯学習に貢献するような内容を獲得するのだといえる。

放送番組の保存・活用の新しい動向
 平成元年度に放送法、電波法が改正され、郵政大臣の指定法人として放送ライブラリーが発足した。これは、放送番組を貴重な文化財として評価し、後世に継承して、放送文化の発展を期そうとするものである。
 これによってナショナルセンターとしての放送ライブラリーの設置が実現すれば、そこでは、放送番組の収集、分類、整理、保存、活用の事業が進められよう。●カット
 放送事業者によるインナーライブラリーと並んで、このような公共的ライブラリーによって、今まで一過性のものとして過ぎ去っていった貴重な放送番組が、市民の生涯学習のために繰り返し活用できるようになることの意義は大きい。

(4)東京都港区●この項横書き

AV-PUB視聴覚教材情報全国システムの内容の一部(抜粋)
視聴覚教育電子掲示板 掲示板メニュー
1 AVサロン      →サロン的な雰囲気の中での意見交換、情報交換
2 ソフト&ハード    →視聴覚教材、放送番組、新機材情報など
3 研究カレンダー    →関連学会・団体主催による研究会の案内など
4 読みものアラカルト  →文献・資料・報告書・雑誌などの広報の場
5 虎ノ門ニュース    →文部省や関係官庁の各種情報、関連統計など
6 AVワールド     →ICEM(国際教育メディア協議会)からの情報
7 AV資料室      →記事索引、アドレス、学習指導案、利用者一覧など
8 初期メニュー     →全体のメニューに戻る
9 終了         →通信を終了する
*AVサロン/総数:66件            →それより前の記事も呼び出せる
番号 タイトル                →ここでは755番の記事を呼出
755 ふたたび呼称「先生」について<mito →mitoはハンドルネーム
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登録日 時間 行数 枚数 発信者
91/06/04 00:07 029 (3) 西村美東士   →登録日時などは自動的に記録
内容
 つしまさん、さっそくのレスポンス、どうもありがとう。運動会の延期は残念
でしたね。(残念会の飲み会はやったのかな?)
 つしまさんのご指摘に対して、私は、こう考えました。
その1/教師が1人称として「先生」と言う場合について(以下略)

(5)岩手県千厩町

千厩町の位置(図5)●カット

千厩町の特徴
源義経の愛馬「太夫黒(たゆうぐろ)」のふるさと。
東洋一の奇岩「夫婦石(めおといわ)」、メオトピアのまち。
生涯学習宣言のまち(平成二年一一月大会採択、一二月議会議決)。
スリーステップ計画による生涯学習の推進。
生涯学習推進員、生涯スポーツ推進員の設置。
シンボルマーク、推進標語作成による生涯学習の普及・啓発。
生涯学習カレンダーの他、生涯学習だより、子育てテレホンサービスなどの情報提供。

メオトピア
 千厩町の生涯学習だよりの名前は、メオトピアである。命名の理由は、
(一) 日本一の夫婦石にちなんだものです。
(二) 夫婦の円満は家庭の円満。生涯学習の原点は家庭から。家族ぐるみで学習ができます。
(三) まろやかな地域社会。互いに認め合う社会が学習を発展させます。
ということである。「家族ぐるみ」が千厩町の生涯学習推進のキーワードの一つになっていると考えられる。

(6)長野県茅野市

茅野市の特徴
 縄文時代からの豊富な文化遺産と八ヶ岳山麓の恵まれた自然環境や、中央自動車道の利便性を生かして、自然と調和した高原リゾート観光地域として発展。
 一方、内陸唯一の新産業都市指定地域として先端技術産業の立地促進を図るとともに、生涯学習都市宣言を行い、生涯学習のまちづくりを推進している。
 また、平成二年度、「活力のあるまちづくり」として優良地方公共団体自治大臣表彰を受けた。

学習メニュー方式による学習の展開(図5)
 茅野市では、学習者が学習活動を展開し、学んだことを自己評価していくなかで、学習プログラムの修正を行い、再度、学習の展開をしている。その過程は左の図のようになっている。
社会教育の新しい展開からみた学校週五日制
 −地域子育てネットワークの形成−

                  西村 美東士
                  (昭和音楽大学助教授)

1 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論

 中青連(中央青少年団体連絡協議会)には、青年団、子ども会、ガール・スカウト、ボーイ・スカウト、YMCA、YWCAなど、二二の中央団体が加盟している。社会教育とは、「学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」(社会教育法第二条)のであるから、中青連は、青少年に関わる社会教育活動を行う団体の全国的連絡組織であるととらえることができる。
 この中青連によって特別研究委員会が設置されている。委員会は、平成元年度に「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」を、二年度に「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動−」を提言した。
 元年度の提言のキーワードは「個の深み」であった。そこでは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入ったり踏み入ろうとしたりして、自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、「根本的には、集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切」と主張した。
 これに対応していえば、二年度の提言のキーワードは「ネットワーク」ということになろう。そして、キーコンセプトは「地域の子育てネットワークづくり」であるということができる。学校が週五日制になったからといって、安易に直裁に、既成の青少年団体が請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、子どもも大人も地域でともに育つ(共育)ネットワークをつくりだすチャンスとしてとらえなおそうというのである。
 もちろん、今日の学校週五日制の動向は、青少年団体が従来から世の中に提案してきたことが社会的に理解されようとしていることの表れともいえるのであるから、団体の中には「いよいよ私たちの出番だ」と意気込む気持ちもある。しかし、特別研究委員会の提言は、そのボランタリズムをさらに一歩進めて、組織や団体といえども、その存在意義はそれぞれの個人のため、「個の深み」の獲得のため、という本質的観点からまとめられたのである。そして、地域子育てネットワークも「個の深み」が発揮できる団体運営や地域活動を実現するためのかなめとして構想されている。
 二回の提言とも立教大学坂口順治教授を座長とする委員会によって作成された。そして、私も起草委員長として関わる機会を与えられた。本論では、その議論の中で私が勉強したことをもとに、つたない私見ではあるが、新しい社会教育の観点から学校週五日制時代のあり方を考えてみたい。
 私の問題意識の根底にあるものも、多少の重複を恐れずにいえば、土曜日の子どもたちを学校が面倒を見なくなるのならば今度は社会教育(青少年団体)だ、という安易な受け皿論を克服して、人びとがもっと主体的に生きる土曜日を創り出せないだろうか、ということである。
 社会教育活動をしている人たちは、暇だから活動しているのではない。多くの現代人と同様に忙しい生活を送りながら、その中で時間をつくって活動している。それなのに、「普通の人たち」が「暇で奇特な人たち」にわが子を任せるようなつもりで青少年団体に依存するとすれば、それは団体にとってもけっして名誉なことではないし、その「普通の人たち」にとっても学校に(もちろん、塾にも)わが子を預けることによって子育ての主体性まで失いつつある今日の状況とたいして変わりない結果しかもたらさないことになってしまうのである。

2 新しい土曜日の個別性

 前節で慎重に「私見」と断ったのにはわけがある。委員会で出た議論は十者十様(委員は十人であった)で、意見の一致をみた、とはとても言える状態ではなかったからである。しかし、なぜか快い議論ではあった。それでも起草委員長というポジションの私としては、内心、これで本当に草案をまとめることができるのか、不安に襲われることがあったのも事実だが、そのたびに思い直した。学校週五日制の土曜日は、そもそも多様に展開されるべきなのだ、と。
 それぞれの委員の考え方が多様であった理由を私はつぎのように考える。
 その理由の一つは、委員が学校、地域、団体のそれぞれの現場を抱えており、その立場から誠実に発言をしたことである。自らの現場を真摯に振り返るほど、一般論には解消できない問題が浮き彫りになってしまった。
 二つめは、ネットワークという言葉をとりいれたことである。ネットワークとは何なのか。水平性、自発性、柔軟性、異質の交流、ギブ・アンド・テイク……、ネットワークに対するそれぞれの委員の異なったイメージをたがいに受容しながら、議論を進めていったのである。
 三つめは、教育(共育)という概念にあくまでも執着し続けたことである。端的なたとえを挙げるが、週五日制の土曜日に正規の学校教育になるべく近いものをつくりだすだけの結果になるならば、週五日制は不要ということになる。だから、その逆に、教育という概念を最初から捨てて議論すれば、委員の間に共通する方向がもっと簡単に見つかったのかもしれない。
 しかし、委員会では、前年度の報告に引き続いて、個人の自己成長をこそ重視した。そして、自己成長を他者や集団が援助する可能性、すなわち本来の教育がもつ可能性、にこだわり続けたのである。ちなみに、そこでの私たちのささやかな結論は「ともに育つ教育」である。しかし、それとて、単純化はできない。たとえば、「ともに育つ」場合の子どもに対する大人の指導性や、文化の伝達者としての役割をどうとらえるべきか、多様な見解が成立するのである。
 このようにして委員会の論議は個別で多様な思い入れや主張を柔らかく包み込みながら展開したのだが、それは新しい土曜日のあり方のひとつの特性を示唆しているように思われる。すなわち、学校週五日制に関して、一つには、学校、地域、すでに社会教育活動をしている団体、の三者にそれぞれ独自のとらえ方があり、二つには、従来の二項対立の図式では割り切ることのできないネットワークという概念がどうもポイントになりそうであり、三つには、これまでの教授法の蓄積が有効には機能しない新しい教育活動が行われるようになる(べき)と思われるのである。こういう場合、ひとつのモデルをつくってがむしゃらに押し進めるようなやり方は通用しないだろう。
 多様な個性を受けとめてそれに耐えていく力を、週五日制は私たちに要請しているのだと思う。

3 新しい土曜日が求める主体性

 人間は自分の判断基準に、つい、シンプルなものを求めたがる。そして、その基準をあまり悩むことなく人やものごとに適用して、レッテルをどんどん貼って処理していけば、生きていくのもラクそうでいいな、と思ってしまう。しかし、その欲求のとおり突き進んでいる人を、「スクエアヘッド」ということができよう。これは、「いわゆる石頭的人物。権威主義的で、物事の白黒をはっきりさせないといらいらするタイプの人間」である。外見上は権威(正確には権力というべきであろう)に忠実に仕えているように見えるが、つきつめて問うてみれば、ヒエラルキーの中で自己の安定を求めているだけのことなのである。
 週五日制の土曜日が個性的であるべきだとすれば、それを受け入れる力は、「スクエアヘッド」に対置される「エッグヘッド」に見つけることができる。これは、「一般に知的で、柔軟思考ができ、曖昧さに対する許容度が大きいタイプの人間」である。
 また、個別性を受け入れるためには、その集団の風土も問題になる。人間は、他者との関係において、表面的な一致を求めたがる。これは、つきつめて問うてみれば、仲間からいつ足を引っ張られるかわからないのでつねに自分を防衛していなければならないという「防衛的風土」が背景にある。
 その逆に、個別な価値を受け入れるためには「防衛的風土」に対置される「支持的風土」が集団の中に求められるのだと思う。「支持的風土」とは、「仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーへの肯定的な感情をもっている」という集団風土である。
 新しい土曜日が多様に展開されるためには、たぶん、個人がエッグヘッドであることと集団がその個人に対して支持的であることとの両方が必要になるのだろう。
 スクエアヘッドの個人や防衛的風土の集団は、統合的なモデルが提示されないかぎり自らは簡単には動き出せない、という呪縛にかかる。自分自身でかける自己催眠のようなものだ。その呪縛から解放されるためには、自分が勝手に妄想してつくりあげた「社会の重圧」や、勝手に行っている自己規制などの、根拠のないさまざまな思い込みや敗北主義に気づかなければならない。当面は、自分自身の思い込みが主要な敵なのである。当人はその思い込みのおかげでいっときの安定を得てきただけに、つまり、自己の錯覚に従属してこれまで生きてきたために、その心の平和を打ち破って自己をありのままに認識することはかなりつらい作業になるかもしれない。しかし、それはしかたがないことだ。
 主体とは、認識し行為し評価する我、のことである。だから、その人のそもそもの主体は本人にある。しかし、スクエアヘッドや防衛的風土のように、認識の基準が外から与えられることを望み、仲間への同調や組織への忠誠を示すために行動し、自己評価よりも他者からの評価に依存するようになってしまうのなら、それは形の上の主体でしかない。
 現代社会特有の主体性の疎外状況の中で、社会教育は、もっと成人の主体性の獲得に関心を払うべきである。学校週五日制への対応に関しても、社会教育がまっさきに目を向けるべきは親たち、あるいは地域の大人たちに対してでなくてはならない。個別な他者や個別な環境の展開に耐え、それを楽しんでしまう主体性は、子どもにはまだ少しは残っている。それよりも、現代社会でより長く生きてきてしまった(スクエアヘッド)私たち大人にこそ、その欠損が指摘できるのである。
 根本的な問題は、制度ではなく、「教育主体」としての私たち親の主体性の欠如だ。考えてみれば、今までだって、親は子どもに対して学校を休ませようと思えば一定の範囲内なら休ませることができたはずだ。ほかの教育的意義を見いだせるプログラムなどがあるのならば、少しぐらい学校を休ませてもよいのだ。そんなことは当り前に行われている国だってある。進度の遅れが気になるのなら、家庭ででもどこででも補習をすればよい。学校に深い教育的意義があると判断して選択的に子どもを学校に行かせているのならよいのだが、「学校で授業が行われている限りには、何が何でも子どもを学校に行かさなければならない」という思い込みだけで学校を休ませないことは、極端にいえば、親の教育権をみずから放棄する行為であるといえる。
 実際、登校拒否というSOS信号を出している子どもをむりやり学校に行かせようとすることだけしかしないために、わが子の症状を決定的に悪化させてしまう親たちがたくさんいる。そういう態度は少数の人たちの特殊な態度ではなくて、一般の親たちが日常的にとっている普遍的な態度といえる。人間なら当然にもっているはずの共感する能力や幸福追求のための主体性が、「社会や制度がそうなっているのだから」という不合理な思い込みによって現代社会の中でそがれてしまっているのである。

4 ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ

 委員会は「地域子育てネットワークづくり」を提言した。土曜日の子育てを地域の親たちの共同作業(共働)にしようというのである。既存の団体も、そのネットワークに対してノウハウや情報を提供することができるだろう。また、地域のふつうのお父さん、お母さんから、団体にはなかった新しいセンスを学び取ることができるかもしれない。団体自身もネットワークの中でともに育とうというのである。
 私は、ネットワークの特性を自立と依存の統一であると考えている。いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かといって孤立でもない。そして、ネットワークにおいては各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も一人ひとり違う。だから、安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーとそれへの合意がつくりあげられ、これが一定の安定をもたらした。ヒエラルキーの中では、個人は自己の主体性を発揮することよりも、制度の枠組の中での自分のポジションに合わせて生きていくことを心がければよい。ヒエラルキーの中での自己実現の難しさに悶々としている人もいるが、ヒエラルキーに甘んじて従属している人もいる。
 学校週五日制が実施されても、それが団体請け負い主義で進められるならば、このヒエラルキーに馴れきった現代人の主体性喪失の片棒を担ぐ結果につながるのではないか。なぜなら、団体請け負いならば、ふつうの親たちは相変わらず教育主体ではないままだからである。「子どもを預ける相手先を選んだのは親自身だ。そこに親の主体性の発現が見られる」という人もいるかもしれないが、主体性とは継続的に獲得していくべき動的な状態をさすのであって、その可能性を自ら断ち切ってしまうことは、極端な表現になるかもしれないが、精神的な自殺といえるのだと思う。
 もともと、何のために現在の伴侶と結婚したのか。何のために子をもったのか。伴侶や子どもたちといっしょに暮らしたかったからではなかったのか。そんな当り前のことさえ、いつのまにか忘れてしまっている。家族がいっしょに過ごす時間が少ないことを労働条件の厳しさや住宅難などの外的状況のせいにする人もいるが、その前に、本人が勝手に思い込んで自らがつくりだした枠組(思い込み)に自ら気づくことが先決である。「とにかく学校にはきちんと登校させなければならない」、「とにかく会社の言うとおりに働かなければならない」……。この「とにかく」が、くせものなのである。「とにかく」を捨てて考えてみれば、子どもが学校で成長することができるから学校に行かせるのであろう。発展的企業なら、言われたとおりに働く社員よりも、人間的な豊かさをふくらませる生活を自ら設計・管理できる主体的な社員をこそ求めるはずであろう。
 ヒエラルキーを当てがったのは自分ではなくても、ヒエラルキーを内から支えているのは自分なのである。その場合、少なくとも主体的な認識を経た上で、ヒエラルキーの中に自己のスタンスの持ち方を見いだすべきである。いいかえれば、無意識のうちにヒエラルキーを支えてしまうのではなく、自らが主体的に認識した上でヒエラルキーに関与すべきだ、ということである。
 やや蛇足にはなるが、私はヒエラルキーを完全に撲滅せよと訴えているのではない。人間の細胞にもネットワーク(リゾーム)的な自立とヒエラルキー(ツリー)的な階層が見いだされることからわかるように、ヒエラルキーにも正機能はあるのだ。たとえば、行政の意思決定システムからヒエラルキーを完全に葬り去ることなど、非現実的であるばかりでなく、万一そんなことが行われたら危険この上ない話でもある。そのほか、帰属意識、自己犠牲の精神などにもメリットは認められる。問題は、これらの逆機能である。逆機能が今日、肥大化して、主体性の疎外状況を生み出しているのである。
 既存の青少年団体にも組織としてのヒエラルキーは多かれ少なかれ存在する。たとえば、会長と会員とに分かれている。それに対して、会長を置くな、と言いたいのではない。対等な関係において対話が行われていて、会員が主体的に参加できていれば、それでよい。ただし、ヒエラルキーが社会教育の団体運営のすべてでもない。会長を置かないルーズなネットワークからもそのマインドや魅力を学び、ともに育つことが、今日の青少年団体に強く求められているのである。
 また、学校教育の現場にもヒエラルキーが存在する。教員はそのヒエラルキーの中での自分のポジションに安住したり、逆に、敗北感に浸ったりすることなく、そこでのスタンスを主体的に見つけだしてほしい。そして、新しい土曜日には、ヒエラルキーの中の教員としてではなく、子どもの心と教育の技術に詳しい地域住民のひとりとしてのスタンスから参加してほしい。それによって、ヒエラルキーの中にいるだけでは得られない新しい自分らしさ(アイデンティティ)を獲得できればすばらしい。ポジションからスタンスへ、スタンスからアイデンティティへと、教員の主体性の成長が期待できるのである。
 私は、週5日制の土曜日には、他の地域から通勤している教員は、勤務校が所在している地域ではなく、自分が住んでいる地域あるいは自分が参加したいと思う種類の活動をしている地域で活動する方が、この制度の本来の趣旨に沿うものだと思っている。
 このような地域子育てネットワークづくりによって、学校週五日制は、大人自身の生き方や社会教育のあり方を問い直すきっかけになるだろう。

5 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開)

 委員会では、大人の都合に合わせるのではなく、子どもの「個の深み」を尊重することを重視した。「個の深み」の代わりに「自主性」などの言葉を使っても理屈は通じるのだが、私は後者が軽い意味で受けとられる現状に批判をもっている。たとえば、「うちの子どもは親が命じなくても自主的にドリルに取り組んでいます」という教育ママの使う「自主性」という言葉はかなりインチキくさい。
 本当に求められていることは、指導のもとに管理された個性や自主性ではなく、すでにひとつの主体である子どもの一人ひとりがもとうとしているはずの個別な深みである。それこそがサービスや、ましてや教化という言葉などではなく、教育という人間の内面に関わる営みを表す言葉をわざわざ使う理由でもあると考える。
 現代社会の中で、私たち大人の価値観が病んでいる。ヒエラルキーの中での優越、劣等の意識など、その証拠はいくらでも挙げることができる。そんな大人でも、子どもといっしょに時間と空間をわかち合うことによって子どもの「個の深み」と接することができるならば、大人にとっての主体性の回復や獲得の絶好の機会となるだろう。それは、すぐれた教師がふだん行っていることと、まったく同様である。親がわが子だけとそのようにつきあうことにもそれなりの自己成長の契機はあろうが、子ども同士、大人同士、子どもと大人などの関係性の中での対話の迫力にはとうていかなわない。
 そして、ここまで述べてきたこと、とくに「個の深み」の獲得の過程は、だれかが上から指導することによって実現するものではない。また、こうすればかならず成功する、という定まったモデルも私には提示できない。できるのは、「個の深み」の阻害状況を問題提起することと、さまざまな局面から活動を改善するアイデアを提案することだけである。
 ただ、ひとつ、私が予想するのは、それらの過程がちょうど迷路(MAZE・メイズ)のようになるだろう、ということである。
 私は、パソコン通信によるコミュニケーションの特徴をMAZEであると考えている。パソコン通信ではほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたりもどったり(ジグザグ)している。しかもそのやりとりは気軽でイージーだ。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見する。迷路を自分の力で歩くことによって、「教師なし」で予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、求める情報を能率良く獲得するためには不都合に見えても、創造的な学習にとっては有効なツール(道具)なのである。
 地域子育てネットワークで個人の「個の深み」に注目してそれに入り込んでいけば、その個人さえも見通すことのできていない迷路に踏み入ることになるだろう。しかも、他の個人の「個の深み」も重層的にそこに関係をもってくるのであるから、「深みにはまる」といった危険性を感じなくもない。
 しかし、考えてみれば、子どもたちは迷路遊びのコーナーがあると目を輝かせて列をつくっている。迷路は、迷えば迷うほど楽しいものなのである。それなのに、私たち大人がMAZEに不安を感じるのは、そういうフリーチャイルド(自由な子ども)としての心を失いつつあるからであろう。見通しがきかないことから逃避してしまう非主体的な敗北主義がしみこんでいるのだ。今の子どもたちにその悪癖を押しつけてはいけない(自由な子ども心を失ったそういう大人のような子どもたちが今は増えつつあるが)。
 特別研究委員会の報告では、大人も義務感からではなく、あくまでも楽しく、ということを主張した。また、この報告を受けて中青連主催によるシンポジウムが開かれたが、そこでも、今の子どもは縛りつけられすぎている、大人は「教えなければならない」という義務感が強すぎる、などの指摘があった。迷路をさまようことを子どものように気楽に楽しんでしまう自由な心が、大人のほうにこそ求められているのである。

おわりに

 報告では、最後に、時間・空間・仲間(この三つの間をサンマという!)を生かす青少年団体活動への提言として、子どもと大人がともに育つ柔らかい組織運営と柔らかいプログラムを提案している。その内容は、穴埋めではなくネットワークづくりとしての団体外の人材の活用、一斉プログラムからコミュニケーションを重視する小人数プログラムへの転換、子どもであっても自分が社会に役立つという認識を育てるためのボランティア活動の採用、などである。しかし、それからもわかるとおり、報告はマニュアルとして使ってもらおうと考えて作られたものではない。委員会から青少年教育団体や社会教育活動へのメッセージにすぎないのである。
 私は一般のマニュアルのメリットは認めるけれども、少なくとも学校週五日制に求められているものはマニュアルではないと考えている。なぜならば、五日制が求めているものは、教育・学習に関わるべき者、つまり教師、親、大人たちが、教育・学習主体としての本来の自己を取り戻すことであり、そのためには、だれもが安心できるひな型が必要なのではなく、ひな型を与えられてから動き出すという今までの自己の非主体的な枠組をみずから乗り越えることがもっとも重要な課題だと思うからである。

1 中央青少年団体連絡協議会発行、一九九一年三月。
2 5 6  拙著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』、学文社、一九九一年四月。
3 スクエアヘッドとエッグヘッドについては、L・ベラック『山アラシのジレンマ』、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、一九七四年一月、二九頁。
4 防衛的風土と支持的風土については、J・R・ギッブの言葉。ここでは、片岡徳雄『学習と指導』、放送大学テキスト、一九八七年三月、四五頁、から引用。
コミュニケーションを求めておののく若者たち
 週刊教育資料「社会と学校のはざまで」
      昭和音楽大学助教授 西村美東士

1 自分は求めるけれど、人にはあげられない
 人間は、言葉がけ、スキンシップ、まなざしやうなずき、などによって相手の存在を認めていることを示す。このような行為を「交流分析」では「ストローク」とよぶ。人間は誰でもストロークを求めて生きている。
 しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとるのである。ストロークを出す本人にとっては、その発信はリスク(危険)のかたまりなのだ。
 今日の若者たちは、自分からストロークを出すことに慣れていない。そのうえセンシティブだから、相手からのストロークの裏にある不純さや、その「罠」に反応することの危険を嗅ぎとることにはとても敏感である。だから、相手からのストロークに答えることもできない。
 そのため、大人が懸命になって「心と心のふれ合いを大切にせよ」「人間はわかりあえるものだ」などと若者たちに上から号令をかけても何の効果も及ぼさない。学生の「出席ペーパー」(拙著「生涯学習か・く・ろ・ん」学文社、参照)から、ひとつ紹介する。
 「ゼミを自己変革の場に、と先生は望んでいるようですが、私にはゼミの場が自己変革の場にはなりません。自分が何を言っても、何を思っても、大丈夫、守られている、というふうには感じられないので、つまり受容されるようには感じられないので、自己開示できません。だから、ゼミは自己変革の場にはなりえません」。
 この学生の場合は、人間関係のことをよくわかっているのだ。そして、自分が受容される特別な場を他の所で見いだしてさえいるのである。だからこそ、簡単には心を開かない。私は、その真摯な生き方を立派だと思う。

2 現実原則の中でのストロークの自己管理を
 しかし、問題は、受容されるとはかぎらない日常生活の「現実原則」の中で、ストローク発信の自己管理(場合によっては発信しないことを含めて)をどう行うか、ということであろう。
 いっぽう、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークを得るためには、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。
 そして、もうひとつには、ストロークを出して傷ついた場合、そこから逃げずに、どのような形でその体験を自己に内面化するかということが問題になる。自分が傷ついた事実をあるがままに認識し受けとめることができれば、時と場合と相手に応じて出したり出さなかったりすることができるようになるだろう。ストロークを出せないということと、ストロークを出せるけれども出さないということとは、外見は同じように見えても、内面的には正反対のことなのである。
 一番すじが通らない生き方は、自分はカプセルの中に閉じこもってしまっているのに、それでいて、ストロークがもらえないと嘆き、カプセルの中でいつまでも他人からのストロークを待っている姿である。それは、閉じこもっている自分の姿が見えていないだけのことなのだが、そういう若者もたくさんいる。
 わたしは、そういう学生に、こう言っている。「今は閉じこもらないではいられない自分の姿をこそよく見つめて、将来まで、そういう人間の悲しみの深さをよく覚えておいてほしい。そうしたら、少なくとも、今年の新入社員は心を開いてこない、と不満を言うものわかりの悪い上司や、今の子どもたちは消極的で困る、と子どものせいにする権威主義的な教師にはならないですむはずである。なぜなら、いま悩んでいるあなたは、消極的にならざるをえない部下や子どもの心を共感的に理解する心をもっているはずだからである。あなた自身は心を開かないでおいて、相手には開くように求めるとしたら、それは最悪である」。

3 コミュニケーションの成熟化と無力化
 今日、コミュニケーションの手段は大いに発達している。しかし、そんなことは若者たちにとって「あたりまえ」のことであり、ツール(道具)の素晴らしさよりもコミュニケーションするということ自体が大切なのだ。これをコミュニケーションの成熟化とよぶことができる。
 しかし、成熟化とは、ある面では、活力を失うことでもある。一方通行の音楽・映像メディアや、フェース・ツー・フェースではないメディアによって、自分は傷つかないままにコミュニケーションを享受しているうちに、おたがいの存在を認め合うストロークのやりとりのチャンスまでも失いつつある。傷つく恐れのないコミュニケーションは、ストロークではない。そういう音楽や映像のメッセージが、カプセルの中の自分に個別に与えられたような錯覚のもとに受け入れられて、親和欲求を少し満たしている。つまり、エセ・ストロークとしても機能している。
 また、若者たちは、おしゃべり(双方向)も華やかに上手に交わすことができる。雑誌「教育」(国土社)が「おしゃべり症候群」を特集してその空疎を衝いたのは一九八五年だが、いまや「双方向の一方通行」ともいうべき恐るべき軽やかなコミュニケーションが成熟しつつある。言葉は交わされているが、気持ちは交流できない(しようとしていない)のである。「それがおしゃれだし楽しいのだから」と若者は言うのであろう。

4 管理や保護ではなく自由の恐怖を
 コミュニケーション教育の要点は、いまや、指導者が若者を管理することでも保護することでもないのではないか。管理や保護があると、それが現実原則の対象にされてしまい、若者自身のストロークの非力もそのせいにされてしまう。
 ストロークを自由にやりとりさせる機会を提供することが必要である。管理したり保護したりしてはいけない。また、自由といっても、与えられた目標に自発的に追いつこうとさせるためのものでもない。どんなストロークも自分の判断で自由に出せるという状況、誰のせいにもできない状況、に彼らを引きずりこんでこそ、若者は、相手からのストロークを求めているのに、自分からそれを出すことについては恐れおののいている自分自身に気づくだろう。そこで自分はどうするのか、が本来の現実原則の学習につながるのである。

写真説明
社会教育のゼミで学園祭に参加、近所の子どもたちにストローク発信。

コミュニケーションを求めておののく若者たち
 週刊教育資料「社会と学校のはざまで」
      昭和音楽大学助教授 西村美東士
 22字×(148−15)行=2926字=40字×73行

1 自分は求めるけれど、人にはあげられない
 人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。このような行為を「交流分析」では「ストローク」とよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。
 しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとるのである。ストロークを出す本人にとって、その発信はリスク(危険)のかたまりなのだ。
 今日の若者たちは、自分からストロークをうまく出すことは得意ではない。経験不足なのである。そのうえセンシティブだから、相手からのストロークの裏にある不純さや、その「罠」に反応することの危険を嗅ぎとることにはとても優れている。だから、相手からのストロークに答えることもできない。
 そのため、大人たちが懸命になって「心と心のふれ合いをせよ」「人間はわかりあえるものだ」などと若者たちに上から号令をかけても何の効果も及ぼさない。学生の「出席ペーパー」(拙著「生涯学習か・く・ろ・ん」学文社、参照)から、ひとつ紹介する。
 「ゼミを自己変革の場に、と先生は望んでいるようですが、私にはゼミの場が自己変革の場にはなりません。自分が何を言っても、何を思っても、大丈夫、守られている、というふうには感じられないので、つまり受容されるようには感じられないので、自己開示できません。だから、ゼミは自己変革の場にはなりえません」。
 この学生の場合は、人間関係のことをよくわかっているのだ。そして、自分が受容される特別な場を他の所で見いだしてさえいるのである。だからこそ、簡単には心を開かない。私は、その態度を立派だと思う。

2 現実原則の中でのストロークの自己管理を
 しかし、問題は、受容されるとはかぎらない日常生活の「現実原則」の中で、ストローク発信の自己管理(場合によっては発信しないことを含めて)をどう行うか、ということではないか。
 いっぽう、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークをもらいたいのなら、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。
 そして、もうひとつには、ストロークを出して傷ついた場合、そこから逃げずに、どのような形でその体験を自己に内面化するかということが問題になる。自分が傷ついた事実をあるがままに認識し受けとめることができれば、時と場合と相手に応じて出したり出さなかったりすることができるようになるだろう。ストロークを出せないということと、ストロークを出せるけれども出さないということとは、表面は同じように見えても、内面的には正反対のことなのである。
 一番すじが通らない生き方が、自分はカプセルの中に閉じこもってしまっているのに、それでいて、ストロークがもらえないと嘆き、いつまでもカプセルの中で他人からのストロークを待っている姿である。それは、閉じこもっている自分の姿が見えていないだけのことなのだが、そういう若者もたくさんいる。
 わたしは、そういう学生に、こう言っている。「今は閉じこもらないではいられない自分の姿をこそよく見つめて、将来まで、そういう人間の悲しみの深さをよく覚えておいてほしい。そうしたら、少なくとも、今年の新入社員は心を開いてこない、と不満を言う物わかりの悪い上司や、今の子どもたちは消極的で困る、と子どものせいにする権威主義的な教師にはならないですむはずである。なぜなら、いま悩んでいるあなたは、消極的にならざるをえない部下や子どもの心を共感的に理解できる心をもっているはずだからである。あなた自身は心を開かないでおいて、相手には開くように求めるとしたら、それは最悪である」。

3 コミュニケーションの成熟化と無力化
 今日、コミュニケーションの手段は大いに発達している。電話なら、いちいち会いに行かなくてもすむ。マスメディアからの情報を受けるだけなら、自分が傷つくことを恐れなくてもすむ。映像であれば、人間の情念などでさえ伝わってくる。
 このような技術発展はうまく利用するのが賢いやり方である。しかし、コミュニケーションのツール(道具)は発達していてあたりまえであり、重要なことはコミュニケーションそのものである。パソコン通信では、機械などは透明(トランスペアレンシー)のものに感じて、通信そのものに没頭できる感覚こそ尊ばれる。さらに、わたしは、パソコン通信そのものには飽きてしまってパソコン通信をきっかけとしたミーティングや宴会の方に熱心になってしまうバーンアウト(燃え尽き)現象も成熟化のひとつとしてとらえている(前掲書参照)。使っているツールが大切なのではなくて、コミュニケーションするということ自体が大切なのだ。これをコミュニケーションの成熟化とよぶことができる。
 しかし、成熟化とは、ある面では、活力を失うことでもある。フェース・ツー・フェースではないメディアや一方通行の音楽・映像メディアによって、自分は傷つかないままにコミュニケーションを享受しているうちに、おたがいの存在を認め合うストロークのやりとりのチャンスまでも失いつつある。傷つく恐れのないコミュニケーションは、ストロークではない。そういう音楽や映像のメッセージが、カプセルの中の自分に個別に与えられたような錯覚のもとに受け入れられて、親和欲求を少し満たしている。つまり、エセ・ストロークとしても機能している。
 先日、授業で傾聴のトレーニングをした。この授業の受講者は自己表現の一つである音楽を専攻しており、しかも二十歳前でもあり傷ついた経験はそれだけ少ないからであろうか、「受容」はスムーズにできた(表面的には支持的だった)。どのペアも話がはなやかに盛り上がっている気配だった。ところが、「繰り返し」になると、とたんにできなくなった。聞き役が要約を繰り返すことによって話し手への理解を確認させようとしたのだが、そのことに反発さえ起こったのである。特徴的なことは、傾聴されるほうの話し手側からの反発が強かったということである。出席ペーパーには、「せっかくの話をさえぎられる感じ」「うざったい」とある。実際、繰り返されることなど邪魔になるほど、相互確認のないまま、人をひきつけるおもしろいおしゃべりが若者はできるのである。うなずきとあいづちさえあればよい。
 おしゃべり(双方向)も華やかに上手にできるようになってきた。雑誌「教育」(国土社)が「おしゃべり症候群」を特集してその空疎を衝いたのは一九八五年だが、いまや「双方向の一方通行」ともいうべき恐るべき軽やかなコミュニケーションが成熟しつつある。言葉は交わされているが、気持ちは交流できない(しようとしていない)のである。「それがおしゃれだし楽しいのだから」と若者は言うのであろう。

4 管理や保護よりも自由を
 若者に与えられるべきコミュニケーション教育の要点は、いまや、指導者が若者を管理することでも保護することでもない。管理や保護があると、それが現実原則の対象にされてしまい、若者自身のストロークの非力もそのせいにされてしまう。
 ストロークを自由にやりとりさせる機会を提供することが必要である。管理したり保護したりしてはいけない。また、自由といっても、与えられた目標に自発的に追いつこうとさせるためのものでもない。強制されたり守られたりした中での自主性だけでは、傷つく自分を受容するレベルまでには到達しえない。
 どんなストロークも自分の判断で出せるという自由の場に彼らを引きずりこんでこそ、自分がストロークを本当は求めながらも、それを出すことによって傷つくことを恐怖している、ということに気づくだろう。もし、それでも、自分がストロークを出したいのに出せない理由を他人のせいにしようとする者がいたら、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない。あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という原則を確認させるとよい。
 このように誰のせいにもできない状況では、その人のすべてのストローク発信をその人の責任とすることができる。そこでどうするか、ということこそが、本来の現実原則の学習につながる。

「個の深み」への注目。
その場合のMAZEを受容する力。
スクエア・ヘッドからエッグ・ヘッドへ。
守られた中での自主性ではなく、現実原則の中で自分を守る生きる力としての主体性の重視。
傷つけたり傷ついたりしてはいけないという「従順な子ども心」による一種の禁止令(思い込み)を、「自由な子ども心」(フリーチャイルド)に向けて解放すること。
ピアノ、演劇などの自己表現体験の必要。
「批判的な親心」に対しては、その批判を自己にも向けさせる。
「保護的な親心」の過剰に対しては、「私は私、あなたはあなた」を対置する。(誤った集団主義の克服)
知的空間の対等な関係における(肯定的、否定的とは異なる)「批評的」ストロークの意義。(たとえば授業での教師と学生との相互批判)
保護的管理ではなく、また、自由を与えることによって目標に追いつこうとする自発を待つことでもなく、自由に対面させてそれを恐怖する自己を確認させること。
大人になることの支援。
ヒエラルキーの中で場合によっては仮面をかぶり、社会や組織の中で与えられたる自分の役割を演ずること、そういう自分を受容することなど、現実原則の中で生きるレベルまで教えることの必要性。(生きる力を注ぎ込むのが教育の役割)
ある面で自分が非力であることを受け入れ、しかもそれでも自分はOKである、という自信。

「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その2)
 −出席ペーパーに表れたその実態と可能性−
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
A New Idea and Technique in Adult Education to support
the "Depth of Individuality"(2)
−The Reality and Possibility appearing in Attendant-Papers−

今回の論文の位置づけ

 前回の論文、「(その1)」では、まず、講義が主体的学習にとって有益ではありえないという関係方面における一般的な論調や、その論調のもとに行われた教育実践の経緯を紹介した上で批判した。次に、出席ペーパーを中心とする「話す・書く・表現する」という営みを誘発する契機を準備することによって、「反応・発展の個別化の促進」が期待できることを主張した。そして、本論のこれらの主張を支える社会的基盤・条件として、今後のネットワーク社会の形成の可能性と特質を挙げ、そこでは個人の主体性が一人ひとりに厳しく求められることを指摘した。
 詳しくは「(その1)」のとおりであるが、いずれにせよ、前回および今回以降の本論のすべてを貫く鍵概念は、「個の深み」であり、問題意識は、その獲得を家族、友だち、教育者、職場、地域などの他者、とくに社会教育がいかにすれば支援できるのか、ということである。
 今回は、出席ペーパーに表れた事例をいくつかの視点から分類して紹介することによって、「個の深み」の内容、または、その阻害要因に関する具体的な姿を明らかにしたい。そこでは、学習者一人ひとりの「個の深み」の獲得のプロセスとその支援の方法が、もっとも重要なテーマとなるだろう。
 ただし、枚数の関係から、すべての事例を紹介するわけにはいかない。事例は、この論文の数倍の分量である。それについては、関心がある人には個人的に提供したい。また、出席ペーパーの中には、極端にプライベートな事例などもあり、そこにはその人だけの強烈な環境・体験に基づいた「個の深み」の萌芽が散見されるのだが、その場合は出席ペーパーがカウンセリングに近い作用を及ぼしていると考えられるので、残念ながら公開を控えた。
 ちなみに、前回の論文で、枚数の関係から掲載を見送った1の(1)から(2)までについても、拙著『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』(1991年4 月、学文社)の第1部にそれを含めて前回の論文の全文を掲載したので、ここでは割愛する。
 なお、ここでいう「出席ペーパー」とは、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くもので、そのルールは、次に示すとおりである。(1) 何を書いてもかまわない。(2) テストではない。社会人の場合は匿名でもかまわない。(3) 書くことを義務づけるものではない。(4) ペーパーは講義時間中に書く。書く時間はとくに指定しない。(5) ペーパーは終了時に回収し、講義者が保管する。原則として返却しない。
 また、ここに挙げた「T大2部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の社会人入学者を含む2部学生であり、「S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事課程を学ぶ短期大学学生である。

1 学生から教師へのストローク

 ピア・コンセプトが働く中、皆の前で教師に注文を出すことは、かなり困難である。その点、出席ペーパーなら、フィードバックが大いに可能である。しかし、じつは、それ以上に、学生が教師に関心を持っている、という意思表示として、学生にとっても教師にとっても、この出席ペーパーは有益なのである(この点については、前回の論文でも触れた)。
 ストロークには、肯定的ストロークとともに否定的ストロークがあり、後者へのニーズは人間存在の実存的な悲しさを物語るものだが、教育=学習の交流の場においては、水平な関係に基づく「批評的」ストロークというものが存在しうると考えたい。学生からの批評的ストロークによって、教師は自己の存在確認をすることができる。また、学生は、依存的な学習態度を自ら改めることができる。

1990. 5.23. T大2部社会教育概論
 (ビデオの)放映の途中、先生の話が少し耳につきます。イメージは画面から個々が描くものです。そこに話が入ると、そちらのイメージを描いてしまいます。
1990. 6.27. T大2部社会教育概論
 講義中、退席する人を、顔色ひとつ変えずに見送れる先生の心境はどのようなものなのでしょうか。
1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 あまりにも自由な授業で、(自分も含め)ルーズな態度の人も散見されましたが、むしろ、意欲のある人にとってこそ、成果を上げている授業だと思われます。個人的には、今ひとつ、大学の講義らしいとは思えませんでしたが、そんなステレオタイプな見方を打破する可能性を秘めていると思います。もしかすると、先進的な授業なのかもしれません。

2 教師から学生へのストロークの反映

 指導(指示的な)をするのならば、指導していることを教師の側がよく認識した上でせよ、という。私は、それに加えて、教師からの率直なストロークとして指導することがありうると思う。
 「こうしてはいけない」「ああしてはいけない」と教師が惰性に任せて何度も言ったところで、そうできない理由のある本人にとっては疎外感を感じるだけである。それよりも、理屈からではなく、教師が自分の実存から発する心の呼びかけを学生に対して行うこと、すなわちそれをストロークと呼ぶのであろうが、それが指示的指導の受け入れられる条件の一つだと考えられる。

1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 (出席ペーパーでの)十人十色の考えに対して、先生がコメントしてくれるのですが、時間やレジメの紙の大きさなどによって、十分ではなく、また、中途半端になっていると思うのです。先生が”mito”のマークをつけてひとこと書いてくださいますが、違うんです。ひとことにまとめる前の部分を聞きたいのです。1人対 120人、むずかしいですね。ちょっと考えてしまいました。
1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 第1回の印象・・・何なの、この授業、いやなやつ(ごめんなさい)。今、25回分の講義資料を、もう一度じっくり見直したいという私に変容をきたしております。「教育とは、学習者が主体的に自己変容を図ることである」とするなら、このコーギは、まずは成功ですね。

3 授業中の自己の体験の客観視

 通常の講義内容のそれぞれの項目をどう受け止めたかということについても、出席ペーパーは学習者の自己確認にとって有効であるが、授業の内容が体験的学習である場合は、そのような「振り返り」がとりわけ必要である。体験が、自らの「振り返り」によって客観視され、自己の認知構造に取り込まれるからである。

1990. 6. 9. S短大教育社会学
 こんなゲーム(銭回し)なんてやったの、中学校以来なかったと思う。だから、先生の言うドキドキした気持ちになったのは、とても久しぶりでうれしかった。それと、その反面、そういう気持ちになることが少なくなった今の自分がとても淋しく思えた。
1990. 6. 9. S短大社会教育概論
 (リーダーシップ・トレーニングで)自分で当ててみるということになると、ちょっと大げさかもしれませんが、勇気がいるんです。その勇気というのは、もしまちがっていたらみんなからなんて思われるのかな、みんなに悪いな、とか、別に私が当てなくても誰かが先に当ててくれるだろう、という気持ちをおさえて、自分で当てるということなのかな、と思います。
1990. 4.25. T大2部教育学演習
 今日のバズ討議は、たんにアイデアを出し合うだけなのではなくて、その進め方や、その時のメンバーの気持ち、沈黙している時の気持ちなどを考えるためのしかけがあったのですね。こういうのは、なんだかワクワクします。
1991. 1.23. T大2部教育学演習
 グループでイベントを行った際、今までの自分でしたら、しっかりきっちり計画を立ててやらなくては何事も気がすまなかったのが、今回のこの経験では、非計画性を受容し、当日の全員の協力でうまくできた時(そう評価しているのだが)、喜びが大きく感じられた。

4 自己表現の不器用さと表現の解放

 自己表現については、強い抵抗がある。どうしてこんなに拒絶感があるのか、他人としては理解に苦しむほどである。本人の生育歴の中で、自己表現が抑圧されたり、自己表現によって心を傷つけられた体験があるのかもしれない。
 しかし、一方では、当然のことながら、その本人も自己を表現して他者とストロークを交換したいという欲求をかかえている。「個の深み」の発露のためには、本人の抵抗感を十分に配慮して安心感を与えた上で、潜在的な自己表現欲求を解放させなければならない。
 たとえば、人前で喋るのは厭だけれども、教師だけが見る出席ペーパーになら安心して自己表現することができるという学生も多い(というより、そちらの方が多数派である)。そうであれば、書くことで自己表現するチャンスを豊かに提供すればよいのである。
 また、専門的な芸術の高度な部分を除けば、日常生活、学業、生涯学習の中で必要になる自己表現については、慣れやテクニックの問題に単純に帰する部分も大きい。その意味からは、学習援助活動の中で自己表現訓練を普遍化させ、日常的な取り組みにしていくことが望まれる。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 この授業でものすごく感じたのは、生徒(自分も含めて)(筆者注 生徒でなく学生であることは授業中、何回も言ったが)が受け身の形に慣れすぎているということ。先生に「自由に話してもいいよ」と発言を求められても、何も話せない自分がとても恥ずかしかった。でも、この授業を受けていくうちに、まったく知らない人に話しかけたりするのもイヤじゃなくなったし、知らない人とうちとけることもできるようになった気がします。
1990.10.13. S短大社会教育概論
 ブレーンストーミングでは、今まで学校で行ってきた学級会などと違い、思うように発言できた。アイデアを批判されたりすると、つい消極的になってしまう。そういう意味でも、このブレーンストーミングは、学校教育の中でもっと活用されていいと思う。
 私が体験してきた話し合いでは、いつもきまって同じような人が発言し、その意見で決まる。ほかの人は面倒くさいから言わなかったり、消極的な人は言いたくても言えなかったりしていた。こんな話し合いでいいのか、と思ってしまう。
1990. 4.25. T大2部教育学演習
 私は学生時代からずっと、司会者や委員長というのは、陽気な性格の特別な人がなるものだと思ってきました。ですから私にはずっと縁のないものでした。今日の授業で、司会をすることも、また、イベントの要素をもっており、ポイントを押さえれば、誰にだってできるものなのかなと思いました。
1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 (出席ペーパーの)文章を書くということは、なんて難しいんでしょうか。日頃思っていることや考えたことも、いざ文章にするとなると、構えてしまって手が動きません。これは、自分では考えたつもりでいても、系統づけができていないイメージだけのものであるからだろうと思いますが。

5 強力な幸福願望と自己の幸せについての懐疑

 欲求段階説でいう低いレベルの欲求については満たされている場合、幸福の実現に関する本人の自己評価の基準は、かなり高いところにおかれることになる。とくに女性の場合は、幸福に対する強い憧れと、それに伴う現状否定の傾向が顕著である。
 第1に、個人は集団の中で平均的な成員であればよいという過去の社会システムを克服して、個人に「個の深み」を求めようとする観点からは、この自己評価基準の高度化は歓迎すべきことである。
 しかし、第2に、本人の主体的力量が、そのレベルや不成功の体験に耐えられるまでに至っていない場合は、結果的にはかえって疎外的状況を生み出してしまうことがある。
 第3に、欲求段階説を機械的には当てはめることのできない状況が生まれている。すなわち、モノの豊かな今日にあっても、なお、親の責任による栄養不良症状の子どもがいるわけだが、そういう人にとって、まず食料を、ではなく、まず家族の愛情や自己の社会的認知を、というように高度な欲求の方が切実になっているのである。
 第3の視点からいえば、本人の強力な幸福願望や自己の幸せについての懐疑は、恵まれているから、などと他者が本人を評論できる状況ではなく、むしろ、各人の主体性が奪われて、人々が愛情の享受や存在確認をしずらい不幸な状況になっていることの証しともいえる。あるいは、それとの葛藤のプロセスからこそ、現代的な「個の深み」が本人に生まれるという楽天的な観点から、援助のあり方も考えるべきなのかもしれない。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 私は幸せです。両親もいるし、兄弟もいるし、友だちいるし、彼氏いるし、でも、私の幸せは表面だけかもしれない。もちろん、友だちの目からは、明るくておもしろい人みたいに思われているだろうけど、ちがう・・・。
 私は海が好きです。ダイビングとか、ウインドサーフィン、サーフボードとかやっているときが、幸せかなってかんじ。
 だんだん何を書いているのかわからなくなってきた。
1990. 4.18. T大2部社会教育概論
 幸せには2通りあるように思う。1つは、お風呂のように、手近で現実になる可能性がとても高いものかしら。でも、お風呂で「ああー、幸せ!」とは思ってみても、私が私の人生に求める本当の幸せってほかにあると思う。それは、もっと大きくて遠く、現実性はお風呂よりぐっと低い。ふつう人々の言う”幸せ”とは、この2つめのもので、それは崇高でもっと理想的なものだって思いたい、という気持ちが我々の中にあるのではないか。
1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 この講義でよく「幸せ」ということが出てきますが、個人的にはあまり話題にしてほしくないと思っています。幸せの定義(?)は人によって違うものだし、どんな定義をもっていても自由だというのが私の考えです。
 余談ですが、私は今までに自分で幸せだと感じたことがありません。幸せになりたいとも、あまり思いません。でも、きっと、心のどこかで幸せになりたいと思っているのでしょうね。矛盾!

6 学校教育への怨恨

 自らの受けてきた学校教育への怨恨には大きなものがある。しかし、それが本人の深みに昇華されているかというと、残念ながらそうではない。反面教師だけでは、人間は成長できないということであろう。
 オープン・エデュケーションなどによって、オルターナティブな教育も存在しうるのだということを認識できるチャンスを提供しないと、本人は、制度化されたものへの単純な全否定や敗北主義からいつまでたっても抜け出せないことになる。もちろん、その状態のまま、現代社会で「個の深み」を実現することなどは、望むべくもない。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 高校のとき、職員室や体育教官室etcの生ゴミ片付けと食器洗いが嫌いだった!何で先生たちの出した生ゴミを私たちが片付けるのー?くさいポリバケツを洗ったり、お弁当箱を洗わされたこともあった。
1990. 4.14. S短大教育社会学
 私が出た高校もそうなのだが、授業が受験のためだけのものになっている。高校3年になって泣かないために・・・、という理由で。
1990. 4.14. S短大教育社会学
 私にとっての学校教育。プレッシャーは、先生の差別、テストの敵がい心、おしつけ。学校教育のなかで一番いやだったのが、比較されることだった。幼稚園2年、小学校6年、中学校3年、高校3年、そして大学、の合計15年も、いやなのに通い続けている私は何なのでしょうか。
1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 最近、ふと思うことがある。私は大学に何をしに来たのか、と。たしかに教員の資格を取得すれば、職場での私の立場は有利になる。しかし、私が本当に知りたかったことは、教師が生徒にどこまで干渉していいのか、教師が自分の尺度で生徒を評価していいのか、などであった。
 たとえば、入試を例にとっても、学力が基準に達していない、生活面に問題がある、などの理由で合否を決定する。もしかしたら、この合否で、その人の人生が左右されるかもしれないのに、わりと簡単に合否を分けていく。そして、その責任は、すべて受験生にある。合否を決定する側の権利(ちょっと大げさ)とは、何なのだろうか。同じ人間なのに、切り捨てる側と切り捨てられる側の差があるのは、なぜなのだろうか。
 また、生活指導という名のもと、言いたくもない小言を生徒に言わなければならない。その基準は自分の考えている「社会一般で言われていること」である。時には、きついこと、自分が言われたら自分でもかなり傷つくだろうと思われる言葉で叱りつけてみたりする。このようなことを教師は生徒にしてよいのだろうか。
 それらの答えは未だに見つからない。

7 学習に対する強迫観念的な態度

 学習者、とくに学生や研修受講者などには、講義は黙って聞いているものという思い込みが強い。静かにすること自体は、それはそれでかまわないのだが、黙って聞いているだけでそのまま有益な学習になるという態度は、過度に(適度なら問題はない)依存的な学習態度としてとらえるべきであろう。
 また、正答の与えられない問題を考えさせられたり、学習者の思考が混乱するような話題展開をしたり、学習者側が何かを発表させられたりすることを、いやがったり、まともな講義(学習)ではないと批判したりする学習者もいる。
 これらは、すべて「学習とはこうあるものだ」という思い込みを、本人が意識しないままに固定化させてしまった結果であると考えられる。そこでとらえられている学習の姿も、本人の主体的な思考作用をあまり重視しない受動的な行為としての「学習」である。
 「学習とはこうあるものだ」という思い込みが、強迫観念のように本人の学習を縛っているのである。しかも、その思い込み自体が、根拠のない間違ったものである。なぜなら、本来、学習とは個人的事象だからである。
 しかし、本人は、そういう自己の依存的学習態度を見直す機会に接すれば、苦しみながらもそれなりに自らの認知構造を変容させる可能性をもっている。そのための機会が、一つには講義内容の改革でなければならないし、出席ペーパーなどのシステムの導入なのでもある。
 本人の主体的な学習(全生活の中での)と成長なくしては、「個の深み」の獲得は期待できない。
 ただし、出席ペーパーの中には、大いに的を射た批判もあり、それはそれで、教師の側の教育方法の改善に役立っている。

1990. 9.19. T大2部教育学演習
 先生の話すことは、一つひとつ意味があって楽しいと思うのですが、ただ1つ疑問に思うことは、この時間の意味。「この時間は何をするのだろう」。よくわからない。
1991. 1.23. T大2部教育学演習
 いつも型にはまった授業で教育され、1つの意見にもマニュアルがあるのではないかと無意識に思っていた自分にとって、このゼミはとても自信のもてる所になりました。どんな意見でも自分の意見としての自信がついたようです。
1990. 4.11. T大2部社会教育概論
 初めての講義だが、前半は疲れがつのってきて、受講をやめようかと思った。それは、話が飛ぶ独特の話法よりも、相手からのフィードバックがないまま内向して自分の中で情報を処理するという今までの講義の受け方に慣れきってしまったせいだと思う。一回も睡魔と闘う機会がなかったのも、また、不思議な気がしている。
 曖昧さに耐えるというのは非常に強さがいる。幸せになるためには(先生の講義を受けるときにも?)、通らなければならない試練だ。
1990. 6.27. T大2部社会教育概論
 定番化した授業に慣れきった自分としては、そのイメージを崩して、今日の授業(ハドリング)のように、即席のグループの中で自分をさらけだして、自分に閉じ込もってもいられない事態となると、気分的に良くない状態になる。
 ディベートやら、討論やら、アメリカから輸入した授業形態の効用は何なのでしょうか。沈黙は金なり、ということわざは、昔のことなのか。あえて自分をさらけだす必要はないのではないか。余計なことをべらべらしゃべるなんて・・・。
1990. 7. 4. T大2部社会教育概論
 もうだいぶ歳をとってきたのに、まだまだ受け身的なのです。それで、自分がこの授業を学んだ気でいる。でも、それでも、安心したい自分がいるのでしょうね、情けない!受け身というのは楽なんですよ。
 でも、仕事では逆の立場で、受け身ではなく自らの学習が必要なんだ、なーんて言っている私もいる。本当に矛盾している。

8 集団への帰属に対する拒否感

 現代社会における人間疎外を克服する手段として、一般的な議論としては、ややもすると集団への帰属感の回復の必要を安易に結論づけがちである。しかし、そういうことでは、せっかく「個の深み」に向かいつつあった個人が疎外されてしまう。
 ネットワーク型社会においては、集団に対する個人の依存はむしろ障害になるのであるから、本人の帰属に対する拒否感をむしろ自覚化させることによって、自立的な生き方の中にある孤独に耐えうるような主体性を呼び起こし、それでも潜在的に存在するであろう自己の集団への帰属の欲求と真正面から対面させる必要がある。
 その上でこそ、ネットワーク型社会が個人に求めるであろう自立と依存を両立できる主体性の形成を促すことができるのである。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 このまえ、中学生の時に書いた文集を、なんとなくパラパラと読み返してみました。そこには、「まとまりのあるクラス」とか「団結しているクラス」とかいう言葉が、何度か出てきました。あの頃は、一つにまとまっていることがいいことのように漠然と思っていたけど、今はそうは思いません。みんなの意思や考えがまとまっていたのではなくて、どちらかというと、誰かの考えにまとめられていたという感じがするからです。
1991. 1.12. S短大教育社会学
 はっきり言って、集団は苦手です。集団の中にいると、本当の自分が出せないからです。たとえ、その中に溶け込むことができても、つまらないと思うときがほとんどだし、自分を出したいのだけれど、人が多いと消極的になってしまいます。だから、友だちと2人か、1人でいるというパターンが多いです。別に集団がきらいというわけではありません。自分の立場をどうおいたらいいかわからないので、苦手ということになってしまうのです。
 自分で分析してみると、1人か2人のときは自分の自由がきく、というのがあるから、自分をさらけだしているような気がします。ただ、たんに、わがままなだけでしょうか。社会に出たら苦労するかも。
1990.10.24. T大2部社会教育概論
 「個の深み」では、ネットワークを肯定し、異質のものと喜んで交流することを質の良い個人主義としている。ここでは、他との交流に絶対的価値をおいている。”交流できる個”は肯定しているが、”交流したくない個”の存在をどう考えているのだろうか。
 出席ペーパーを書かない人がいることに対して、”自己の個の表現の抑制”、”実効主義”などと否定的にとらえられていたが、社会教育関係者の中には、個というものは表現されなければならないという思い込みが、つねにあるように思われる。社会教育関係の人々は、根底に、「人は交流しなければならない」という思い込みがある。青年の家の職員は朝礼を好み、西村氏は出席ペーパーにBBSが少ないとなげく。

9 ユーモア、ヒューマニズム

 とくにユーモアについては、学校教育の教育課程の中では、科目としての道徳や国語の中でのごく一部を除いて、評価の対象になることが少ない。しかし、「個の深み」というものがアカデミックな側面に限定されるべき根拠は、まったくないのである。むしろ、人間の全体性の中に、広く幸福追求の基盤としての「個の深み」が見いだされるととらえるべきであろう。そこでは、ユーモアやヒューマニズムは、重要な要素である。それは、本来の意味での「教養」としてとらえることもできる。
 したがって、出席ペーパーは、それらの「教養」の本人の深さ、またはその可能性を、自己認識させるための有効な道具になりうる。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 私が動物の中で一番かわいいと思うのはペンギンです。
 この前、上野動物園に行って遊んできたけど、動物はねてるだけだったんで、お金払ってんだから少しは動けーと思ったら、ペンギンは泳いでいてくれて、すっごーくかわいかったですよ!
1990. 5.19. S短大教育社会学
 公民館のビデオで、ママさんコーラスの場面のお母さんたちの表情がとても良かった。歌の好きな人たちが集まり、その人たちの歌声がコーラスになる。技術面では不足していることもあると思うが、やっぱり歌の好きな人たちが歌う歌は、心がこもっていて、こっちまで顔がにこやかになってくる。
 義務だけの歌になりがちなこの頃の私は、こういう歌が好きだという気持ちを忘れていたような気がする。

10 山アラシのジレンマ

 現代人の対人関係は、自分や他人がお互いに傷つけ合わないよう、距離を置きがちである。これを批判することもできるが、「人間」の言葉が示すとおり、一定の「間」(ま)は基本的には望ましいのである。
 問題は、間をなくすことではなくて、主体が真に欲する関係を自己認識し、それに応じた間の取り方を技術的な面から修得することである。

1990. 5.12. S短大教育社会学
 今回、「おしゃべり症候群」のことが話題の一つとして取り上げられましたが、これは本当に考えさせられました。
 私もおしゃべりはよくするほうなんですけど、やっぱりそれは話したいという自分の意思よりも、むしろ、沈黙に耐えられない自分の弱さのほうが強いのだと思うんです。もちろん、自分が話したいときに話したいことを話すのは人間の本能でしょう。でも、沈黙が怖くてむりに話してしまうのも、人間の本能だと思います。私も例にもれず、やっぱり沈黙を通すことは怖いです。
1990. 5.26. S短大教育社会学
 私には、全国津々浦々(?!)に、文通している友だちがいます。この年になって文通しているというのも変かもしれませんが、中には8年越しのつき合いになる人もいて、今ではたんなるpenpalというだけでなく、本当に大切な”話し相手”としておつき合いしています。私の深刻な悩みは、すべてその子たちに託してしまうのです。会ったこともない、まだ見知らぬ人たちですが、Telなんかで伝えられないもどかしさも手紙を書くことによって解消されるので、私は”書くこと”が好きです(どんなことでも)。
 周りの友だちやmito san等を信用していない訳ではないのですが、身近にいる人だとかえって自分の弱味を見せる気がして、それが嫌でどうしても本心がさらけ出せません。これって周囲の人間に対して”カラ”を作ってることになるんですよね、きっと。mito sanもパソコン通信をやっていると、なんだかそういう対人関係のギャップ(?!)みたいのを感じませんか?
1990. 6.20. T大2部社会教育概論
 最近、社会教育について(社会教育とよべないものも含めて)、いろんなことを考えます。もし、自分が社会教育に参加することになったら、そうしようと思ったら、何を一番望むだろうか、と。仕事や職場の人づきあいなどで、すでに疲れているところへもってきて、人と人とのつながりを求める心の余裕があるのかな、などと考えてしまいます。
1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 何もかも相手にさらけだしてしまうのも、なんだかつまらない恋愛になってしまいそうで。自分の悲しみも淋しさも、相手の悲しみも淋しさも、共有できないし、救えないものね。自分でしか。

11 共感的理解の能力

 他者への共感は、同感と違って、困難を極める。自分に引きつけて、自分の心で、しかし、自分の心の枠組(準拠枠)からではなく、他者の気持ちを理解しなければならない。
 この能力は、教員などに求められるのはもちろんであるが、与えられた枠組ではなく、自らの主体的な意思で他者と交流するために、すべての人間に普遍的に必要になる一種の「生きる力」と見ることができる。
 その能力の養成は、基本的には本人が意識的にそういう態度をとることによってこそ可能になる。出席ペーパーに書くことによって、自己の内なるノイズが顕在化されて意識下に置かれるので、共感的態度を本人が自覚的にとるためには、むしろ有効である。

1990.11.10. S短大社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)テレビでも言っていたように、”待つ”ということ、これが本当に大切なんだと思う。テレビに出ていた子どもたちは、なんだか元気そうに見えたけれども、そうなるまでは、すごく苦しい気持ちだったのだろうと思う。
1990.12. 8. S短大社会教育概論
 今日のビデオ「障害者のための絵画教室」は、とても感動しました。今までは、障害者を見かけると、かわいそうだなと思ったり、電車の中で大声で叫ぶのを見たり、話しかけられたりすると、少しいやだなと思ったりしていたのが恥ずかしくなりました。私はすごく健康なのに、わがままや不満をいっぱい言っているだけなんて、自立していないなと反省しました。
1990. 6.13. T大2部社会教育概論
 (「驚異の小宇宙・人体」を見て)まるで、自分の中、人間の中の他者や他の存在に気づかされた思いがする。そして、この講義をとっているみんなと共有した時間、共有体験というのだろうか。一番後ろに座っていたので、そんなことも感じた。そして、それを前提として、このVTRに対する不思議な親近感、「これが学ぶということなのか」というような感じをもった。
1990.11.14. T大2部社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)私自身、彼らと同じようなことを経験したからということもあるが、今日のビデオには、非常に強く共感した。あの頃のつらさというのは、とても口で表せるものではなく、今日見ていてもつらかった。
 しかし、直接、彼らと会って話しても、私の場合は、それほど共感の気持ちはわいてこない。ビジュアルや本などの二次的なもののほうが共感できる。どうしてだろうか。
1990.11.28. T大2部社会教育概論
 子どもの頃から、人の気持ちがわかるという人に対して、反感のようなものを持っていました。というのも、相手を理解したいと思いながらも、私という個人の目が加わることで、相手をゆがんで理解しているのではないかと思っていたからです。
 私の場合、共感的理解が下手なので、簡単な言葉で相手の気持ちを表現して、なるべくその言葉が相手の気持ちに近くなるように確認しています。
1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 私はつね日頃から、他人の気持ちをわかることはできないと思っています。私の仕事は障害者と言われている人々と接して、その人々を援助していくような内容のものですが、障害をもった人々の気持ちがよくわかるかといえば、答えはNOです。私は五体満足ですし、その他いろいろと考えあわせても、彼らの気持ちがわかるなどとは思えません。彼らも、私のような小娘に自分たちの言葉にしきれないようなさまざまな気持ちをわかってもらおうとは思っていないのではないかと思います。
 大切なことは、わかった気になってしまわないことであり、相手を否定しないことであり、相手の気持ちを想像する努力をすることであると思います。これが共感的理解ということにつながると思います。どうでしょう。

12 ヒエラルキーへの抵抗、正義感

 ヒエラルキーにおける個の疎外については、現代の若者といえどもかなり抵抗感をもっている。しかし、それが主体的な批判になっているかというとそうではない。無力感、劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義などによって、その活力が削がれている。
 また、ネットワークを形成するためには、ヒエラルキーに抵抗して主体性を発揮する新しい「自立」とともに、他の人間と相互主体的に関係を結び連携する新しい「依存」の能力も求められる。

1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 私が仕事で後輩たちの記録物を見るとき、必ず評価が前提になっているので、なんだか純粋な目で見れない。すごく苦痛な作業です。純粋な気持ちになれない私に問題があるのはわかっているけど、このプレッシャーにはたえられない。
1990.11.28. T大2部社会教育概論
 (学習情報センターのビデオを)今日は、私の気分で(気分ですみません、でもそうですから)非共感的に見ていました。センターを訪問したアナウンサーが、「これは有難い!」「うーん、有難いことですね」と、有難いを連発していましたが、「何がそんなに有難いのよ!」と反感を持ってしまいました。
1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 組織の内側にいても、私は主体的でいるように努力しようと思いました。私だけリゾームの先端になってしまおうと。それで上司からのウケが悪くなったっていいんじゃないかということです。だけど、自分勝手にならないように、ひとりよがりにならないように、いつも自分でアンテナをめぐらして、自分で考えて、私はそうは思わない、ということもちゃんと聞いて、その上で、結論を出していければと思います。
 これはとってもたいへんなことだと思います。でも、このことができなかったとしても、こういう心がまえでいたいと思いました。

13 ボランティア意識の新たなる萌芽

 無気力、無関心と評されているはずの若者の中に、ボランティア志向が強く表れることがあることについて、われわれはどう解釈すればよいか。それは、若者が、他者から継続的に組織化されることを今までの厭な体験から嫌っているだけで、自発的に行う生涯学習などの形でなら活動に積極的に参加する可能性があるということであるといえよう。
 そして、われわれが最近のボランティア活動を見る場合、奉仕による単純な満足感の欲求ではなく、実現困難な自分の個をなんとか実現したいという切実な潜在的欲求から発しているという深い見方が大切であろう。
 「個は他者に関わることによって、より深まる」というテーゼが活動の目的の最高位に置かれるような、新しいボランティア意識が台頭していると考えられる。

1990. 5.19. S短大教育社会学
 私の町の公民館は、看板がなければ、ほったて小屋といってもわからないほど、粗末でおんぼろです。こう書くといささか大げさですが、それでもVTRで見た立派な公民館に比べたら、とんでもなくボロです。そんなボロでも、そこに集まってくる人たちの心はとても暖かく、田舎者のパワーが感じられて、私のとても好きな場所でした。
 小さい頃からピアノをやっていなければ、その場の状況に流されやすい私は、間違いなくボランティアの道を選んでいたでしょう。それほど、ボロに集まる人々の心のふれ合いは優しく、そしてなごやかだったのです。
 音楽の道に進んでしまった今では、ボランティアに徹することなどかなわぬ夢となってしまいましたが、もし、音楽の仕事に就いても、その仕事を生かして、心優しい人々につくそうと思うのです。
1990. 5. 9. T大2部社会教育概論
 (あるドラマの)「世界中の人がみんな幸せになれば、自分も幸せになる」と言って、孤児院で働くシーンが、とても嘘っぽく思えました。自己犠牲に酔っているような気がしたのです。「みんなが幸せになるために、歯をくいしばってがんばるんだ」ではなく、「孤児院の仕事が楽しくて幸せ」っていう人でないと、みんなの幸せなんて願っちゃいけないと思います。だから、私は「みんなの幸せ」を願う前に「自分の幸せ」をさがそうと思っているのです。先生が言う「幸せをくばる」って、どうしたらいいのだろうか。
1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 私は障害者相手の仕事をしています。それを言うと、「えらいのねェ」という反応が返ってくることが多いのです。私はいつもその言葉に反発を感じます。私は、この仕事を自分のために選びました。他の誰のためでもありません。私は、一時、真剣に自殺を考えたことがありました。それは、「なぜ生きるのか」という疑問に対し、答えが見つからなかったからです。そして、私がたどりついた結論が、今の職業です。
 生産性を追い求める、そんなラインからはずれて、でも、一生懸命生きている。あの人たちは、どうして生きているのだろう。あの人たちと関わっていけば、私自身の生きている意味もわかってくるんじゃないか。そう考えてすがるような気持ちで選んだのが、今の職業です。私は私のために必死で働いています。そのことで、もし、少しでも助かる人がいるなら、こんなにうれしいことはないと思うのです。

14 アイデンティティの喪失

 子どもの頃のいわば仮りのアイデンティティがいったん崩れていく過程を経なければ、その後のアイデンティティの確立はおぼつかないということは、いうまでもない。しかし、そうは言っても、その過程のジグザクの振幅があまりに大きいと、指導者側としては、つい、その揺れをおせっかいにも小さくしてあげようとしてしまいがちである。それを禁欲し、本人が「個の深み」を獲得する方向で、本人のMAZE(前掲拙著参照)につきあうことは、われわれにとって大変難しいことではあるけれども、心がけなければならないことなのである。
 また、現代社会においては、成人期以降の人間でさえ、アイデンティティが弱体である場合が多い。それについても、その確立にあわてて取り組むというのではなく、自己のアイデンティティを簡単には認められない個人の深さに着目し、本人の「個の深み」が自覚化されるような支援を考えなければならない。
 出席ペーパーによって、本人に自己のアイデンティティの喪失状況を確認してもらうことは、そういう意味をもっている。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 きのう、何カ月ぶりかでエンエン泣きました。ふだんでもけっこう涙は出てしまう方なのだけど、きのうは自分でもおどろくぐらい泣けてしまいました。短大1年をなんとなく過ごして、で、2年になってもう進路を決めなければならない。今、どうしたらいいのか、何がしたいのか、すべてわからなくなってしまいました。
1990. 7. 7. S短大教育社会学
 教育社会学を受けてたくさんの経験ができました。いろいろ、自分自身についても考えたり悩んだりもできました。なんとなくだけど、自分の中で何かがふっきれたような気もします。なんとなくだけど・・・。
1990. 5. 9. T大2部社会教育概論
 何が大切なのかは、自分の価値観の問題だ。私たちの世代は、何が大切で、何が大切じゃないのか、自分で選択していくことがとても下手で苦手だ。私も同じく。
 私は自分のことを「先生」という人間がきらいだ。私たちには人生を選択する権利がある。教師は、人間が人生を選択する上で必要な知識を教えるものであると思います。そんな教師に私はなりたい。
1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 いったい自分はどんなことをやりたいのだろうか。もしかしたら、これからずっとやりたい仕事など見つからなくて、それほどやりたくないことを我慢しながらずっとやって生きていくのか、と思うと、どうしようもなく不安になってしまいます。
1990.12.12. T大2部社会教育概論
 自信についての話の中で、一人だけが100 点をとることが本当の自信ではないということがありましたが、私としては、これを自信として認めたいと思います。なぜかといえば、私自身にこれと同じ経験があり、その時には自分だけ100 点だったので大変自信をつけたことを、今でも印象深く覚えているからです。
 (自己受容における)こんな自分でも世の中には必要と思うことは、現実から逃げて自分の内側の世界にとじこもることであり、自信というよりは、むしろ回避や退行的現象に近いのではないでしょうか。

15 自分の過去や他人への気づき

 変えられないはずの過去や他人について、変えられないとわかっていながらも悩むのが人間の実際の姿であれば、知っているはずの過去や他人のことを忘れていて、何かのきっかけでやっと気づくのも、また、その実際の姿である。
 出席ペーパーに書くという行為によって、それらが不可避的に客観視されることは、援助者が思う以上に、本人自らが自己解決の方向に向かう結果につながるものである。

1990. 6.16. S短大社会教育概論
 私がけがをしたりすると、お母さんはきまって「親にもらった体を傷つけるのは親不孝なんだよ」と言いながら手当をしてくれる。自分の体は自分だけのもののようであって、自分だけのものではないことがよーくわかる。自分を大切にすることは、他人をも大切にできることなのだと思います。「驚異の小宇宙・人体」は、いろいろなことを考えさせられるすばらしいビデオでした。
1990.12.12. T大2部社会教育概論
 なんで生きてるの、と聞かれたら、生まれちゃったから生きているとか、生きてるんだから生きてる、と私も言ってしまいそうだけど、死んでしまいたいととても思ったとき、とても悲しくなってしまったことを思い出しました。そのころとってもいやだと思っていた人々(職場でも、家族でも)が、そのときは、私にやさしくしてくれたことや心配してくれたことを思い出して、もし死んでしまったら、そういう人々に会えなくなることをとても悲しく思いました。これ以上はうまく書けませんが、私は、私のためと、私を大切にしてくれる人のために、生きているんだなと思います。
1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 この時間内に、このペーパーを書くに当たって、いろいろなことを考えました。職場でのこと、人間関係のこと、学校のこと。入院していた時には、病院での出来事なども友だちに届けてもらいました。授業中にこんなことばかり考えている時は、ほかにはなかったです。

16 自分自身への気づき

 出席ペーパーに書くことによって得られるもっとも基本的な作用は、自己認知、さらには自己洞察である。それが端的に表れた事例を最後に紹介しておきたい。

1990. 5.26. S短大教育社会学
 彼女(大学の授業をさぼりがちな友だち)自身は、「悪い」とは感じていないようである。私はそのたびにムッとしてしまう。でも、私自身はマイペース型で完璧主義だから、彼女とは根本的に合わないのかもしれない。
 しかし! 彼女は私に不快感を味あわせようとしてこういう行動をしているわけではないのである。その証拠に、私が「今日は姉がいなくて、夕食一人なんだー」というと、「一緒に食べようー」と、誘ってくれた。きのう、フッと思ったが、私がムッとするのは、私にもさぼりたいという気持ちがあるからなのだろうか。
1990. 7.11. T大2部社会教育概論
 (来学期の希望について)「出席ペーパーによるフィードバックシステム」は、私にとってはとても有意義でした。自分が考えていること、書いたことに対して先生からコメントや意見を伺えること、また、他の人たち(同世代の人たち)が、どんなことを考え、どんな生き方をしているか(少し大げさですが)、ということにふれることができること。そして、それについて自分がもう一度、考えることができるというメリットがあったと思います。
 今、思えば、今学期の授業では、70分間、次々といろいろなことに驚き、疑問に思い、否定し、うなずき、考えていたように思います。
1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 癌であるということを知らされている彼(患者)は、私たち看護者に対して、すべてのマイナス感情をぶつけてくる。彼の気持ちもわかる。しかし、私も人間。全部をかなぐり捨てて、怒りをぶつけてこられても、それを100 %は受けとめられない自分を見つけてしまった。
1990.10.31. T大2部社会教育概論
 (エゴグラムを作成して)けっこうさめていると思っていたのに、Aが低く、意外でした。職場においては、ほぼAの部分を押し出して行動しているつもりでしたが、今日の設問に対する自分の回答を見てみると、かなりCPとNPの使い分けで自分のやりたいようにやらせてもらっているようだ、と気づきました。
1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 (カウンセリングを受けていて)あまりにも客観的に自分を見るようになったため、それが自分だという実感が得られないでいる。自分は確かにいるが、自分が確かに感じているが、それは自分ではないように思う。だから、ある場面を想定して、そのとき自分はどうするか、どんなことを思うか、ということは、分析結果からある程度、予想がつく。
 ここで問題なのは、その想像された自分に対して、肯定できない。そんなふうに思う自分が好きでないと思う。だからといって、そう思わないようにはできないとも思う。その結果、自分自身が嫌いになる。このごろ自己否定が多くなったのは、そのせいだろうかと思う。そして、自分を見つめることが嫌になっている。

旧版

「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その2)
 −出席ペーパーに表れたその実態と可能性−
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
A New Idea and Technique in Adult Education to support
the "Depth of Individuality"(2)
−The Reality and Possibility appearing in Attendant-Papers−

今回の論文の位置づけ

 前回の論文、「(その1)」では、まず、講義が主体的学習にとって有益ではありえないという関係方面における一般的な論調や、その論調のもとに行われた教育実践の経緯を紹介した上で批判した。次に、出席ペーパーを中心とする「話す・書く・表現する」という営みを誘発する契機を準備することによって、「反応・発展の個別化の促進」が期待できることを主張した。そして、本論のこれらの主張を支える社会的基盤・条件として、今後のネットワーク社会の形成の可能性と特質を挙げ、そこでは個人の主体性が一人ひとりに厳しく求められることを指摘した。
 詳しくは「(その1)」のとおりであるが、いずれにせよ、前回および今回以降の本論のすべてを貫く鍵概念は、「個の深み」であり、問題意識は、その獲得を家族、友だち、教育者、職場、地域などの他者、とくに社会教育がいかにすれば支援できるのか、ということである。
 今回は、出席ペーパーに表れた事例をいくつかの視点から分類して紹介することによって、「個の深み」の内容、または、その阻害要因に関する具体的な姿を明らかにしたい。そこでは、学習者一人ひとりの「個の深み」の獲得のプロセスとその支援の方法が、もっとも重要なテーマとなるだろう。
 ただし、出席ペーパーの中には、極端にプライベートな事例などもあり、そこにはその人だけの強烈な環境・体験に基づいた「個の深み」の萌芽が散見されるのだが、その場合は出席ペーパーがカウンセリングに近い作用を及ぼしていると考えられるので、公開を控えた。
 ちなみに、前回の論文で、枚数の関係から掲載を見送った1の(1)から(2)までについても、拙著『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』(1991年4 月、学文社)の第1部にそれを含めて前回の論文の全文を掲載したので、ここでは割愛する。
 なお、ここでいう「出席ペーパー」とは、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くもので、そのルールは、次に示すとおりである。(1) 何を書いてもかまわない。(2) テストではない。社会人の場合は匿名でもかまわない。(3) 書くことを義務づけるものではない。(4) ペーパーは講義時間中に書く。書く時間はとくに指定しない。(5) ペーパーは終了時に回収し、講義者が保管する。原則として返却しない。
 また、ここに挙げた「T大2部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の社会人入学者を含む2部学生であり、「S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事課程を学ぶ短期大学学生である。

項目見出し
01 学生から教師へのストローク
02 教師から学生へのストロークの反映
03 授業中の自己の体験の客観視
04 自己表現の不器用さと表現の解放
05 強力な幸福願望と自己の幸せについての懐疑
06 学校教育への怨恨
07 学習に対する強迫観念的な態度
08 集団への帰属に対する拒否感
09 ユーモア、ヒューマニズム
10 山アラシのジレンマ
11 共感的理解の能力
12 ヒエラルキーへの抵抗、正義感
13 ボランティア意識の新たなる萌芽
14 アイデンティティの喪失
15 自分の過去や他人への気づき
16 自分自身への気づき
17 その他
18 参考

1 学生から教師へのストローク

 ピア・コンセプトが働く中、皆の前で教師に注文を出すことは、かなり困難である。その点、出席ペーパーなら、フィードバックが大いに可能である。しかし、じつは、それ以上に、学生が教師に関心を持っている、という意思表示として、学生にとっても教師にとっても、この出席ペーパーは有益なのである(この点については、前回の論文でも触れた)。
 ストロークには、肯定的ストロークとともに否定的ストロークがあり、後者へのニーズは人間存在の実存的な悲しさを物語るものだが、教育=学習の交流の場においては、水平な関係に基づく「批評的」ストロークというものが存在しうると考えたい。学生からの批評的ストロークによって、教師は自己の存在確認をすることができる。また、学生は、依存的な学習態度を自ら改めることができる。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 黒板の下の方は、なるべく使わないでほしい。席がうしろの人が見にくい。上の2/3くらいを使用してほしいと思います。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 先生はアニメの”となりのトトロ”に出てくるサツキとメイのお父さんにも似ていると思います。”となりのトトロ”、観たことありますか??感動しますから、ぜひ観てください。
 教育社会学の時間がこれからとっても楽しみです。でも、来週は演劇を見に行くのでさっそく休んでしまいますが、どうもすみません。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 最近、「日本人の○○がいけない」というようなことを、よく耳にする。先生も授業中に、「アメリカの大学では、ディスカッションできない人は」と言っていた。ここは日本なのに、皆はどうして「外国では」と言うのだろうか。アメリカ流に、派手に遊んで、しっかり勉強して、自己主張して、仲間をつくって、なんてことのできない私のひがみかもしれない。けれども日本人なんだからいいじゃないですか。ここはアメリカではありません。
 でも、けっして私を他国の文化に対して否定的な人間だとは思わないでください。私は語学が好きですし、ディスカッションする授業を昔から望んでいました。何か話せと言われたら、何でもしゃべっていられます。でも外国に出たって私は日本人ですし、私は私でしかありません。
 今日はイライラしているので、変なこと書いてごめんなさい。

1990. 5.26. S短大教育社会学
 先生の「しっぽのはたらき」を見て、そのあとの話を聞いて、なるほどと思いました。ドキドキしたり、何だろうと思ったりする気持ちをそいでしまうような教科書などがあふれています。
 何もかも、早く、速く、急いで、忙しい、で動いている世の中だから仕方がないですが・・・。けれども、”出席ペーパー”を聞いたり、自分で実際に実習校の先生と話をしたりすると、(地域の人と、レッスンの先生と、先輩方と、友だちとも)、みんな同じことを思っているのですよね。どうしてかと思ったら、みんな人間だから、という考えにたどりつきました。とても簡単なことです。人間は人間らしくありたいと思うから、やはり人間らしくないことには反発を覚えるのです。
 けれど、社会はもう変わらないだろうな、と思います。そっけない言い方ですが、結局、こうなった以上は変わらないと思います。

1990. 5.23. T大2部社会教育概論
 (ビデオの)放映の途中、先生の話が少し耳につきます。イメージは画面から個々が描くものです。そこに話が入ると、そちらのイメージを描いてしまいます。

1990. 6.27. T大2部社会教育概論
 講義中、退席する人を、顔色ひとつ変えずに見送れる先生の心境はどのようなものなのでしょうか。

1990.11. 7. T大2部社会教育概論
 講義をするならテーマを一つに絞って、じっくり話してほしい。あっちこっち広く手を出して、結局よくわからない感じがする。でも、続きの話も聞きたい。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 私がザッと授業中の学生を見ると、半分ぐらいの学生しか、先生にひかれて授業に参加していなかったような気がします。mito的授業は今までにない大学の講義で、学生のためにやってくれているというのが伝わってきて、私は好きです。しかし、残り半分の学生をどうするかが、今後の先生の課題だと思います。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 あまりにも自由な授業で、(自分も含め)ルーズな態度の人も散見されましたが、むしろ、意欲のある人にとってこそ、成果を上げている授業だと思われます。個人的には、今ひとつ、大学の講義らしいとは思えませんでしたが、そんなステレオタイプな見方を打破する可能性を秘めていると思います。もしかすると、先進的な授業なのかもしれません。

2 教師から学生へのストロークの反映

 指導(指示的な)をするのならば、指導していることを教師の側がよく認識した上でせよ、という。私は、それに加えて、教師からの率直なストロークとして指導することがありうると思う。
 「こうしてはいけない」「ああしてはいけない」と教師が惰性に任せて何度も言ったところで、そうできない理由のある本人にとっては疎外感を感じるだけである。それよりも、理屈からではなく、教師が自分の実存から発する心の呼びかけを学生に対して行うこと、すなわちそれをストロークと呼ぶのであろうが、それが指示的指導の受け入れられる条件の一つだと考えられる。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 (海外旅行は私も好きだけれども、ブランド品を漁り歩く日本人の姿が嫌いだと言ったところ、)今日、海外旅行の話がありましたけれど、私もこの春休みに初めての海外旅行で友だちと香港に行ってきました。そして、先生がおっしゃったように、「買物、買物」と、まっさきに免税店に行って、シャネルの香水や化粧品、バッグなどの買物の方に夢中になってしまいました。
 楽しかったので、これからもいろいろなところへ行ってみたいと思いますが、これからは買物よりも見学の方にもっと重点をおこうと思いました。

1990. 4.25. T大2部社会教育概論
 「私は自信がないのでこんなふうに話しています」と言える先生はステキです。私は自信がないことを表現することすらできない人間です。

1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 (授業の冒頭行った)トークショーで、先生のプライバシーについての回答は知りたい者にとっては楽しかったことであろうが、私にとっては不快感の方が強い。あまりに人間的な面や家庭生活の姿は、教える者と学ぶ者との関係においては、むしろ邪魔である。プライバシーの公開は、必ずしも信頼関係や親密さを生むとはかぎらないと、言いたいと思います。

1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 (出席ペーパーでの)十人十色の考えに対して、先生がコメントしてくれるのですが、時間やレジメの紙の大きさなどによって、十分ではなく、また、中途半端になっていると思うのです。先生が”mito”のマークをつけてひとこと書いてくださいますが、違うんです。ひとことにまとめる前の部分を聞きたいのです。1人対 120人、むずかしいですね。ちょっと考えてしまいました。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 個人の学習が個人の楽しみに終わってしまってはいけないと思う。それは社会に対して無責任だと思う。生きているかぎり、人間は社会の構成員だし、政治(行政)とは無関係でいられるものではないと思う。たとえ仕事(就職)をしていなくても、何かしらの責任を負わなくてはならないのではないかと思う。だから、生涯学習=みんなで集まって何かを楽しみながら学ぶこと、で終わってはいけないんじゃないかと思います。学ぶことを通して、いつまでも自分の考え方やものの見方などを更新していく努力をやめてしまってはいけないと思うんです。そして、一人の人間として、社会の中で負う責任を見失ってはいけないとも思うのです。
 私は、毎回、水曜日3時間めのこの授業が楽しみですが、悩み、苦しみに変わりつつあります。自分の考えがまとまらない、自分の核がどこにあるのかわからない、と苦しみます。でも、発達は、分裂と統合との繰り返しだって、誰かが言ってたから、いずれはバラバラな思考が統合されて成長できるといいなと思います。

1990. 7. 4. T大2部社会教育概論
 先生はかなり誤解されやすいタイプでしょうか。毎回、授業の初めに、前回の出席ペーパーで誤解されている点について、補足説明していますね。でも、批判や誤解を生み出して(意図的なのか、無意識なのか)、それを出席ペーパーで引き出して、次の授業でそれに対応していくという過程を踏んで、「認知構造の問い直し」を行っているのではないかと思っています。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 (ある出席ペーパーについて西村が)「共感できない」とおっしゃいましたが、他人の意見を批評、批判しておきながら、自分の意見を述べないのは、いかがなものでしょうか。どんな形にしろ、問題提起の答えが、数名の学生の意見の提示と批評で終わり、教授の見解が出てこないものが、講義と言えるでしょうか。

1990.12.12. T大2部社会教育概論
 (教師の見解を求めるよりも、自分で考えよ、という西村の発言について)先生の考え方は、わかるような気もします。しかし、何かはぐらかされたような感じのほうが強いのが本音のところです。大学の講義なので、これ以上のことは私には言えませんが、教職を志す私にとって、もし、中学や高校での教師の発言ならば、かなり疑問が残ります。生意気なようですが、高い位置から発せられた言葉のような気がしてならないのです。
 「〜だと思う」という考え方一つ言ってもらえるだけでも、自分の意見が受けとめてもらえたと、十分喜べるのですが・・・。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 (1年間の授業の評価として)あまりしっくりこなくて、どこかちがうと思いながら、この授業を受けていましたが、終わりに近づいたのだと思うと、少し淋しい思いがあるのは事実です。形は受け入れがたかったのですが、mito先生がとにかく一生懸命私たちを引き込もうとしていたことは十分伝わっていましたから。
 今、わかりました。大教室授業におけるtwo way を追求していたんですね(?)。小人数制の中でこそtwo way は成り立ち、先生のような教師がリードしてくれると、それはすばらしく興味深いものになったのではないか。そんな気がしています。
 この大学に3年間いて初めてのフォームだったから抵抗してきましたが、こんなふうに理解し納得しています。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 たしかに西村先生の授業は異質であった。授業について、最初のころはとくにいろいろあったと思うが、私自身としては大変面白い授業だったと思う。私たちはこれまでつねに授業とは講義であったように思う。大勢の生徒に向かい、教師がひたすらしゃべる。知識を投げかける。生徒は、その「知識」というものをひたすら受けとめていく。すでにできあがった知識を、私たちはたんに受けとめることしか知らなかった。
 西村先生は、「知識」として作り上げず、1つの問題提起として、私たちに投げかけてきたように思います。「こういうこともあります。君はどうかんがえますか」と、私たち自身に考える場所を与え続けてくれた先生の授業は面白かったです。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 私は身近にいた人からの薫陶は、あまり受けたことがない。したがって同級生などからの影響は少ない。しかし、先生からは、試行錯誤をしながらも他の人とは明らかに異なるユニークな授業に影響されたものがあった。まず第1にわれわれと共鳴しようとするものを、よく体験の中から話されること、第2にレジメを作り、その中にわれわれの声を反映させること、第3に、その中にもちゃんと自らの主張を織り込むことと、じつに画期的だった。(中略)先生は授業ではよく話されるし、個人的につき合ったこともあるので、じつにヒューマニスティックだと思うが、レジメにももう少し人間性を発揮してほしかったと思う。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 先生の授業は、なじむまで、ひたすらに苦労したし、時間もかかりました。しかし、なにごとも受け身ではいけないのですよね。そのことを、一番強く感じる授業だったと思います。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 第1回の印象・・・何なの、この授業、いやなやつ(ごめんなさい)。今、25回分の講義資料を、もう一度じっくり見直したいという私に変容をきたしております。「教育とは、学習者が主体的に自己変容を図ることである」とするなら、このコーギは、まずは成功ですね。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 あっちこっちへと振り回されながら、でもふりまわされていることをけっこう楽しんですごした1年でした。これは、自分の気持ちが許容量(?)を増したということかな。先生の発言は、ときには私をとんでもなく苦しめてくれたりしました。でも、そのあとで、きちんと私を成長させてくれました。

3 授業中の自己の体験の客観視

 通常の講義内容のそれぞれの項目をどう受け止めたかということについても、出席ペーパーは学習者の自己確認にとって有効であるが、授業の内容が体験的学習である場合は、そのような「振り返り」がとりわけ必要である。体験が、自らの「振り返り」によって客観視され、自己の認知構造に取り込まれるからである。

1990. 6. 9. S短大教育社会学
 こんなゲーム(銭回し)なんてやったの、中学校以来なかったと思う。だから、先生の言うドキドキした気持ちになったのは、とても久しぶりでうれしかった。それと、その反面、そういう気持ちになることが少なくなった今の自分がとても淋しく思えた。

1990. 6.16. S短大教育社会学
 ジェスチャーゲームなんて、今まで一度もやったことありませんでした。テレビとかで見て、面白いなとは思っていたけど、自分でやってみたら、それ以上に面白かったです。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 ほんの短時間でも、やる気になればこれだけのことができるんだなと、とてもうれしくなってしまいました。みんな、基本的には、こういった即興劇をすることが好きなのだとは思うのですが、いざやろうとすると、「考えるのがめんどくさい」「人が集まらない」など、いろいろな問題がでてくるものです。
 それでも、やはり、楽しくやれるこのような寸劇や歌などは、ずっとずっと続けていきたいと思います。幼稚園の頃から子ども会のキャンプに参加していた私としては、教育社会学は血のうずく授業でした。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 こういう機会って、これからはもうほとんどないですよね、多分。だから、即興で、煮詰まって、やぶれかぶれで演じたこの即興劇の楽しさっていうのは、一生忘れられないと思います。
 最初、この話を聞いたとき、正直言って面倒くさくて嫌だなって思ってました。けれども、今ではやってみて本当に良かったと思います。七夕の楽しい思い出、ありがとうございました。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 私は、見るのは好きですけど、やるのは好きではありません。でも、楽しかったのでよかったと思います。皆がこんなに準備をしていたということが、とても不思議です。なんでできるのでしょうか。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 私は今まで教育社会学を「めんどうな授業」と思っていたところがある。でも、今、考えてみると、けっこう楽しかったような気がする。あまり話したことのなかった子と話したり、ゲームをしたり、この授業で出会ってから話をするようになった子も、何人かいる。今回のスタンツなんかでも、みんな楽しい人なんだとあらためて思った。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 思わぬハプニングがあったりして、何が起こるかわかりませんね。練習なしで、というのは、とても不安でしたが、アドリブなどのその場の面白さは十分あると思います。恥じを捨て、その役になりきるというのは、やっぱりとても勇気のいることです。でも、人に伝えようと思ったら、絶対必要なことなんですね。うまくできなかったにせよ、見てるだけじゃなくて、実際にやってみて、本当に楽しかった。直前の相談はあっても、きちんと準備したわけではないのに、ここまでできたのはちょっとすごいかも・・・。
 小学校以来の劇、とても新鮮でした(じつは大好きなんです)。自分でやってみる、いろいろあっても実際にやってみるっていいですね。そして、楽しまなくちゃ損ですよね。

1990. 6.16. S短大教育社会学
 自分で身体だけを使って相手に意思を伝えることが、こんなにも大変で難しいこととは知りませんでした。けれども、自分だけではなく、ほかの人たちも同じように身体全体を使ってなんとか”言葉”を伝えようとする姿には、敵、味方、関係なく感動させられました。もう、こんなに楽しいゲームはできないかもしれないけれど、子どもたちにもこうしてコミュニケーションを楽しませてあげられるのだという勉強にもなりました。

1990. 6.16. S短大教育社会学
 ジェスチャーゲームは、当てる方は楽しいが、自分がやるのはとてもいやだと思っていた。しかし、今日、自分がジェスチャーをやってみて、やってみればけっこうできるのだと思った。恥ずかしさを捨てて、大きなはっきりした動作を何かしらやってみれば、あとはみんながフォローしてくれるのがわかってうれしかった。自分にはむりだと思っていることでも、やってみれば意外にうまくいくものだと思った。

1990. 6.23. S短大教育社会学
 (スタンツ大会の準備のために)全員で1つの目的に向かって”わーっ”と進んでいくというのは、中学生のパワーに似たものがある、と思いました。”私たちにも、まだ、残っていたんだなあ”と。やっぱり、いくつになっても、もえるときはもえるんですね。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 私はナレーションを担当したが、それがほとんど必要がないぐらいのみんなのパワーに圧倒されてしまったテンションが上がりっぱなしだったと思う。このような緊張感はとても必要だと思う。
 そして、5分間で何かやれと言われた時に、メンバーのアイデアや考えの違いが、いろいろな方向にとぶのがおもしろかった。みんな、いろんなことを考えているんだナと思った。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 先週の話し合いのときは、誰も何も考えを出してくれなくて、ほとほと困りましたが、みんなはけっこう本番に強いらしくて、面白いものになったと思います。(これって、自己満足かもしれないけど・・・)。

1990. 6. 9. S短大社会教育概論
 (リーダーシップ・トレーニングで)自分で当ててみるということになると、ちょっと大げさかもしれませんが、勇気がいるんです。その勇気というのは、もしまちがっていたらみんなからなんて思われるのかな、みんなに悪いな、とか、別に私が当てなくても誰かが先に当ててくれるだろう、という気持ちをおさえて、自分で当てるということなのかな、と思います。

1990. 6. 9. S短大社会教育概論
 (ジェスチャー・ゲームの出題の)オーロラには、まいった。見られているということはつらい。表現するのは、つらい。

1990. 6.16. S短大社会教育概論
 映像の効果はすごいと思う。見る人たちに実物で訴えるところ。誰かの押し売りではなくて、自分で感動できるところ。

1990. 4.25. T大2部教育学演習
 今日のバズ討議は、たんにアイデアを出し合うだけなのではなくて、その進め方や、その時のメンバーの気持ち、沈黙している時の気持ちなどを考えるためのしかけがあったのですね。こういうのは、なんだかワクワクします。

1991. 1.16. T大2部教育学演習
 (自主授業のスポーツドリンク当てクイズで)同じグループの中の協力的行動を見た。また、試飲する人やそれを見ているだけの人も、すべてがこのイベントに参加しているという体験をしたと考える。そういうなごやかな雰囲気が教室内に満ちていると感じた。
 「全員参加は難しい」という反省が出ていたが、ただ見ていただけの人も「参加した」という雰囲気は、私だけかもしれないが感じた。

1991. 1.23. T大2部教育学演習
 発表することが自分を出すことにもなるので気分がよくなるかな、と思っていました。演劇をしている人がやめられなくなるのと同じように。しかし、発表を行っている最中はそれほどでもなく、終わったあとに解放感を感じることがわかりました。

1991. 1.23. T大2部教育学演習
 グループでイベントを行った際、今までの自分でしたら、しっかりきっちり計画を立ててやらなくては何事も気がすまなかったのが、今回のこの経験では、非計画性を受容し、当日の全員の協力でうまくできた時(そう評価しているのだが)、喜びが大きく感じられた。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 (1年間の授業の評価として)とにかく、初めての授業形式がいろいろあって、とても刺激になりました。ときにはついていけなくて、授業中ぼーっとしてしまう時もありましたが、そういう時はそういう時で、1つのキーワードにひっかかってずっと考え込んでしまったり、自分についてあらためて考えたり、社会教育概論の奥の深さと自分の理解の浅さのギャップを感じてぞっとしてやたらに落ち込んだりしていました。頭の中が忙しいか、頭がストップすると、心の中が忙しい、という授業でした。
 一番始めの授業で、社会教育は「幸せをつくること、配ること」という言葉があったのを思い出したのですが、あらためて考えて「人間が人間らしく幸福に生きる」ということの意味の幅広さと深さとむずかしさについて知ったような気がします。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 いろいろな形の授業を受けてきたつもりでしたが、西村先生の授業によって、授業という私の概念をくずされ、始めのうち不適応をおこしかけました。いろいろなものがポンポンでてきて、なんとかそれを結びつけようとして疲れました。その後、力を抜いて、一つひとつの話題を受け入れると楽になりましたが・・・。
 「個の深み」という言葉は、大変気に入っています。自分自身、あるいは他者の「個の深み」につながる支援が、私自身にできたらと思っています。

4 自己表現の不器用さと表現の解放

 自己表現については、強い抵抗がある。どうしてこんなに拒絶感があるのか、他人としては理解に苦しむほどである。本人の生育歴の中で、自己表現が抑圧されたり、自己表現によって心を傷つけられた体験があるのかもしれない。
 しかし、一方では、当然のことながら、その本人も自己を表現して他者とストロークを交換したいという欲求をかかえている。「個の深み」の発露のためには、本人の抵抗感を十分に配慮して安心感を与えた上で、潜在的な自己表現欲求を解放させなければならない。
 たとえば、人前で喋るのは厭だけれども、教師だけが見る出席ペーパーになら安心して自己表現することができるという学生も多い(というより、そちらの方が多数派である)。そうであれば、書くことで自己表現するチャンスを豊かに提供すればよいのである。
 また、専門的な芸術の高度な部分を除けば、日常生活、学業、生涯学習の中で必要になる自己表現については、慣れやテクニックの問題に単純に帰する部分も大きい。その意味からは、学習援助活動の中で自己表現訓練を普遍化させ、日常的な取り組みにしていくことが望まれる。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 私はあまり人前で話をするのは得意ではないので、何かしゃべらされるのか、と思うとちょっと不安です。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 イタリア人の先生が、われわれの声があまりにも小さいことに驚いていた。私たちは、先生の話を受身になって聴いているだけという授業に慣れてしまっているので、私自身なども、そういう形をはずれた授業には、非常にやりづらいものがある。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 「出席ペーパー」の紹介、大変良いと思います。みんなが将来をどのように考えているか、また、さまざまなことに対して、どのような考えをもっているか、ふだん聞くことのできない本音を聞くことによって、自分になんらかのプラスが出てくると思います。
 でも、今日の紹介の中で、笑いを受けたペーパーを書いたのは私です。笑われたけれど、少し優越感。

1990. 5.12. S短大教育社会学
 私は自分のノートに自信をもっています。高校のときに、ノートの取り方を見つけたというか、先生の話を文章化するのが楽しく思えてきたのです。ということで、文章化の問題などは苦労しなかったのですが・・・。自分の考えを文章化するのは難しいですね。

1990. 5.19. S短大教育社会学
 私は、昔、自分の意見など言えない子でした。信じられないほど自己表現が下手でした。いつごろから変わったのか。。。あまりよくわからないです。小学生のとき、隣の席の男の子にスカートをはさみで切られたことがありました。その時も、私は、ただ黙って泣いているだけでした。
 BUT、今は違います。今週の月曜日でした。友だちと二人で帰ったとき、向かいの小学校の男の子2人がちょっかいを出してきました。私は、その日、とてもやな気分だったので、その男の子を追いかけて後ろからケリを入れてやりました。あー、気持ちよかった。(私ってガキだわっ)

1990. 5.26. S短大教育社会学
 毎週、この出席ペーパーに書いていると、mito先生に頼っている気がする。気がする、というよりも、頼っている。これでいいのかなー。いつもいつも相談ばっかり持ち出して。でも、この出席ペーパーに書くことによって、気持ちが楽になって素直になれたようだ。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 今日で教育社会学は最後ですが、この授業を受けて、だいぶ自分が積極的に行動することに慣れてきた気がします。文章を書くのが苦手だった私ですが、思ったことをすぐに書いて表現することができるようになったと思います。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 この授業でものすごく感じたのは、生徒(自分も含めて)(筆者注 生徒でなく学生であることは授業中、何回も言ったが)が受け身の形に慣れすぎているということ。先生に「自由に話してもいいよ」と発言を求められても、何も話せない自分がとても恥ずかしかった。でも、この授業を受けていくうちに、まったく知らない人に話しかけたりするのもイヤじゃなくなったし、知らない人とうちとけることもできるようになった気がします。
1990. 4.21. S短大社会教育概論
 ロの字型になるのは、話しやすくていいけど、少し離れすぎっていうか、場所が広すぎて、よけい緊張したような気がしました。でも、自己紹介は、いろいろな友だちの新しい面が見えて楽しかったです。私も、話をしている時に、何を言っているのか、だんだんわからなくなってしまうんですけど、なぜでしょうね。でも、友だちとしゃべっている時は、そうなっても、それはそれで楽しいので、別にいいやと思っています。

1990. 4.21. S短大社会教育概論
 (自己紹介をして)みんなしっかりしているなと思いました。思ったことをすぐ口に出して言えて、積極的で、私はとてもうらやましかったです。私の住んでいる方では、あまり口に出さない、発言しないっていうのが、美徳とされていることがあるので、地方の人たちが新鮮な空気を入れてくれてうれしいです。

1990. 6. 2. S短大社会教育概論
 (コミュニケーション・ゲームでの気持ちは)ちょうど学校の授業に当てはまる。高校のとき、授業でわからないことがあると、(はずかしいけど)なるべく質問するようにした(確かめる意味でも)。その時は、やっぱりはずかしいけど、先生が親切に説明してくれるとうれしいし、内容もわかってくるし、楽しくなってくるものだ(この反対になると、楽しくなくなるけど)。授業でわからなくても、たまにはずかしくなって質問しないと、不安になってきてしまう。それと今日のゲームは、なんだか似ているように思う。

1990. 6. 2. S短大社会教育概論
 (コミュニケーション・ゲームで説明役をやって)2回目は緊張しませんでしたが、みんなが質問してくれることが、すごくうれしくて、みんなが理解できない所がわかるので、説明もしやすかったです。私は教師をめざしているので、すごくいい経験でした。
 教師の気持ちを初めて知りました。今は、満足感でいっぱいです。

1990. 6. 2. S短大社会教育概論
 (コミュニケーション・ゲームで)コミュニケーションの大切さがよくわかりました。私は大学生になって、初めて一人暮しをしているのですが、このゲームをやるまでは「家の人に連絡しなくても、親の方は私のことを安心しているだろう」と思っていましたが、間違いだったように思います。かえって「こうだった、ああだった」とチョクチョク連絡をした方が安心するのだとわかりました。(説明役をした)○○さんの説明ぶりは、本当に上手だったです。頭のいい人なんだなあ、と思いました。

1990.10.13. S短大社会教育概論
 ブレーンストーミングでは、今まで学校で行ってきた学級会などと違い、思うように発言できた。アイデアを批判されたりすると、つい消極的になってしまう。そういう意味でも、このブレーンストーミングは、学校教育の中でもっと活用されていいと思う。
 私が体験してきた話し合いでは、いつもきまって同じような人が発言し、その意見で決まる。ほかの人は面倒くさいから言わなかったり、消極的な人は言いたくても言えなかったりしていた。こんな話し合いでいいのか、と思ってしまう。

1990.10.13. S短大社会教育概論
 いつもはいろいろと考えているんだけど、こんなこと言っていいのかなというためらいがあった。でも、「そんなこと言ってもつまらない」という考えを捨てると、こんなにいろいろ(アイデアが)出てくるので、ふだんの生活の中の会話でも、少しでも今までの考え方を捨てると、話題がもっと豊富でおもしろくなるんじゃないかなあと思った。

1990. 4.25. T大2部教育学演習
 私は学生時代からずっと、司会者や委員長というのは、陽気な性格の特別な人がなるものだと思ってきました。ですから私にはずっと縁のないものでした。今日の授業で、司会をすることも、また、イベントの要素をもっており、ポイントを押さえれば、誰にだってできるものなのかなと思いました。

1990. 5. 9. T大2部教育学演習
 (自己主張訓練をして)何かすごく高度なことをやっているような気がした。ふだんの何気ない私たちの行動や言動にも、細かく注意してみると、さまざまな見方や考え方があると思った。

1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 (出席ペーパーの)文章を書くということは、なんて難しいんでしょうか。日頃思っていることや考えたことも、いざ文章にするとなると、構えてしまって手が動きません。これは、自分では考えたつもりでいても、系統づけができていないイメージだけのものであるからだろうと思いますが。

1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 自分のことさえそう(伝えられない)なのだから、他人の話を聴くことは、もっと大変だ。相手が苦しんで何か言いたげなのにうまく表現できないとき、こちらも理解しようともどかしく思うが、やはり中途半端な共感しかもてなくて、くやしい思いをしてしまう。我々は永遠に気持ちを伝え合う努力をし続けていくのかもしれない。

1990.12.19. T大2部社会教育概論
 (OFFJTのベテランの中でのグループワークで)ただ聞いているだけではあまりに私が”なさけなく”なってしまうと思いましたので、「グループ発表をやらせてください」と頼みました。あとから聞くと、まわりの人たちは「やめればいいのに」と思っていたそうですが、グループの人たちがいてくれるから大丈夫と思っていました。おかげで発表もきちんとできました。ヒヤヒヤしながらも私に発表させてくれたグループの方々にとても感謝しています。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 集団学習は、「個の深み」にとって本当に不都合だろうか、という問題提起について、自分の意見としては、ある集団学習は、「個の深み」にとって都合が良いと思います。先生の実験的授業は、ペーパーを通して「個の深み」に向かう自分にとって、確かな支えとなったような気がします。主体性というのは”自己表現の喜び”もあるのだけれど、もう一つの側面として”不安”があります。自分の不安の気持ちをどうなだめながら自己表現の場に挑むかが、結局、自己実現の課題だと思います。
 さまざまな自己概念に対する先生からの言葉のプレゼントは、私にとって時々は暖かく、時々はひやりと感じさせるものでした。心もとない思いは消えないままですが、このままの自分を大事にして、まあがんばるしかないんだなあと思い、そういうことを教えてくださった先生に感謝しています。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 先生の1年間の授業は”社会教育概論”だったけれども、それ以上に、一番良かったと思うのは”概念くずし”だったと思います。(でも、”社会教育”の始まりが”概念くずし”であると考えれば、この授業はまさに”社会教育概論”です)。
 大学に入ってから、ある問題について本音で語れる友人が減ってしまっていた。BBSによって、1つのことについてのさまざまな考え方をする人がいる。そして、それについて、また答えることができるという相互性を確認できて、とてもよかったです。私もBBSで私の勝手な意見を出してきましたが、自分の意見と他人の意見との重さ−どちらも、その持ち主が生きてきて確立したものなのだから−ということが実感できた気がします。こんなこと、当然のことかもしれませんけど。

5 強力な幸福願望と自己の幸せについての懐疑

 欲求段階説でいう低いレベルの欲求については満たされている場合、幸福の実現に関する本人の自己評価の基準は、かなり高いところにおかれることになる。とくに女性の場合は、幸福に対する強い憧れと、それに伴う現状否定の傾向が顕著である。
 第1に、個人は集団の中で平均的な成員であればよいという過去の社会システムを克服して、個人に「個の深み」を求めようとする観点からは、この自己評価基準の高度化は歓迎すべきことである。
 しかし、第2に、本人の主体的力量が、そのレベルや不成功の体験に耐えられるまでに至っていない場合は、結果的にはかえって疎外的状況を生み出してしまうことがある。
 第3に、欲求段階説を機械的には当てはめることのできない状況が生まれている。すなわち、モノの豊かな今日にあっても、なお、親の責任による栄養不良症状の子どもがいるわけだが、そういう人にとって、まず食料を、ではなく、まず家族の愛情や自己の社会的認知を、というように高度な欲求の方が切実になっているのである。
 第3の視点からいえば、本人の強力な幸福願望や自己の幸せについての懐疑は、恵まれているから、などと他者が本人を評論できる状況ではなく、むしろ、各人の主体性が奪われて、人々が愛情の享受や存在確認をしずらい不幸な状況になっていることの証しともいえる。あるいは、それとの葛藤のプロセスからこそ、現代的な「個の深み」が本人に生まれるという楽天的な観点から、援助のあり方も考えるべきなのかもしれない。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 私は幸せです。両親もいるし、兄弟もいるし、友だちいるし、彼氏いるし、でも、私の幸せは表面だけかもしれない。もちろん、友だちの目からは、明るくておもしろい人みたいに思われているだろうけど、ちがう・・・。
 私は海が好きです。ダイビングとか、ウインドサーフィン、サーフボードとかやっているときが、幸せかなってかんじ。
 だんだん何を書いているのかわからなくなってきた。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 ”幸せ”を探していこうということですが、この間、”幸せ”について討論になりました。幸せというものの価値観は、人それぞれ異なっています。自分が幸せと感じても、他人には不幸に思えたり、そんなことも少なくありません。
 幸せについて興味があるので、答えは見つからないかもしれないけれど、いろいろと話し合えたらうれしいです。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 一人暮らしを始めて1年がたちました。昨年の今ごろは、初めての所で、初めての人と出会って、いろいろとワクワクしていました。だけど、今は、本当の意味では楽しくありません。楽しい生活が当り前になり、もっと楽しく生きたいと思うと、今の生活がつまらなく感じるのでしょう。・・・とまあ、こんな事はいいですが・・・。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 最近、私がよく考えるのは、このまま型通りに単位を取って、職について、あるいは進学して点数を集めて・・・、本当に幸せかな、ということです。そうしないと幸せになれないのかな。でも、そうしないと幸せにはなれないと、今まで教わってきたので・・・。けれども、ある程度はこなしていかないと、人間は夢ばかりでぼーっとしていては生きていけない。短大2年からは、少し気を張ってゆくつもりです。この授業が、そんな私をホッとさせてくれる授業になればいいです。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 私はピアノの講師になりたいのですが、この1年間で、夢がかなうかどうか、自分の頑張り次第で決定するので、一生懸命やらなくては、と思うのです。小さいころは、忍者になりたいと思っていましたが、もうそんなこと言ってはいられない時なのです。だけど、家ではすぐだらだらと寝てしまう意志の弱さはどうしたらよいのでしょう。

1990. 4.18. T大2部社会教育概論
 幸せには2通りあるように思う。1つは、お風呂のように、手近で現実になる可能性がとても高いものかしら。でも、お風呂で「ああー、幸せ!」とは思ってみても、私が私の人生に求める本当の幸せってほかにあると思う。それは、もっと大きくて遠く、現実性はお風呂よりぐっと低い。ふつう人々の言う”幸せ”とは、この2つめのもので、それは崇高でもっと理想的なものだって思いたい、という気持ちが我々の中にあるのではないか。

1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 この講義でよく「幸せ」ということが出てきますが、個人的にはあまり話題にしてほしくないと思っています。幸せの定義(?)は人によって違うものだし、どんな定義をもっていても自由だというのが私の考えです。
 余談ですが、私は今までに自分で幸せだと感じたことがありません。幸せになりたいとも、あまり思いません。(でも、きっと、心のどこかで幸せになりたいと思っているのでしょうね。矛盾!)

1990. 5.23. T大2部社会教育概論
 最近、仕事の変化、人間関係のつまずきがあり、苦しくて自然に涙が出そうになりました。泣くことを昔に置いてきた私は、泣きたい時に泣く場所がないことに気づき、ぼう然としてしまいました。結局、お風呂場で泣いてしまいましたが。
 その後、また1回、泣いてしまったのですが、その理由がつきあっている人から電話がこなかったということ。同じ涙を流すことでも、まったく意味が違い、私にとって後者の方が健全でいいな、と思いました。

1990. 6.27. T大2部社会教育概論
 好きな人と結婚して、子どもを生んで、それだけで私は幸せだと思う。けれど、何かを見つめて何かを知れば(社会の裏側とか)、もっと幸せを感じられる気もする。でも、のんびり生きて、余計なことは考えたくないって思うときもある。最近、それでジレンマに陥っている。なんだかこんなんでいいのかなあ、とふっと思ってしまう。欲張りかな?

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 BBSで、誰かが主体的にどうのって書いていたけど、キャリアウーマンしようと、フラフラしようと、むずかしいこと抜きに、今ある状態に納得できちゃう人間です。人間でありたい、かな。うーん。

6 学校教育への怨恨

 自らの受けてきた学校教育への怨恨には大きなものがある。しかし、それが本人の深みに昇華されているかというと、残念ながらそうではない。反面教師だけでは、人間は成長できないということであろう。
 オープン・エデュケーションなどによって、オルターナティブな教育も存在しうるのだということを認識できるチャンスを提供しないと、本人は、制度化されたものへの単純な全否定や敗北主義からいつまでたっても抜け出せないことになる。もちろん、その状態のまま、現代社会で「個の深み」を実現することなどは、望むべくもない。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 今までの高校教育がどうだったか話し合ってください、ということを先生が言ったのですが、私にとってはあんまり意味がなかったような生活でして、象っていうのは、とっても合っていると思います(筆者注 高校のイメージについて、あるグループから、象であるという発表があった)。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 高校のとき、職員室や体育教官室etcの生ゴミ片付けと食器洗いが嫌いだった!何で先生たちの出した生ゴミを私たちが片付けるのー?くさいポリバケツを洗ったり、お弁当箱を洗わされたこともあった。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 私が出た高校もそうなのだが、授業が受験のためだけのものになっている。高校3年になって泣かないために・・・、という理由で。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 教育とは、ただ勉強を教えることだけではないと思う。中学校では、今、思うと、押えつけられて生活していたと思います。私は中学校の時の先生たちが大嫌いでした。私たちは心の中では反抗していたのに、それを口に出して言うことはほとんどありませんでした。
 6月に、教育実習に行きますが、今度は先生と生徒の間に入るわけです。先生たちの考えも理解しなければいけないとは思いますが、私は中学の時に感じた気持ちは忘れてはいけないなと思うのです。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 試験のための勉強(授業)を今までやってきましたが、実際に役に立っているかと思うと考えてしまいます。「考えが甘い」っていう先生も多いと思いますが、やっぱりもっと実になる授業を受けたいと思います。先生、期待してます。決して、灰色で、象で、ピーマンのような授業にしないでください。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 私にとっての学校教育。プレッシャーは、先生の差別、テストの敵がい心、おしつけ。学校教育のなかで一番いやだったのが、比較されることだった。幼稚園2年、小学校6年、中学校3年、高校3年、そして大学、の合計15年も、いやなのに通い続けている私は何なのでしょうか。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 私が小学校5年の時の担任の先生は、手を挙げていない人に当てる先生でした。その人がどうしてもわからなかったり、何も発言することがなかった場合、「助け舟」というのを用いました。「助け舟」というのは、当てられた人以外でわかる人が、その人の代わりに発言するのです。私は、テレビドラマ「熱中時代」の先生の「グー、チョキ、パー」より、この「助け舟」の方が好きです。なぜなら、「助け舟」の中には、クラスの連帯感や思いやりなどがあるからです。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 私は前から思っていたのですが、先生というのは、良くも悪くもとにかく普通ではなくて目立っている人ばかりに目がいきすぎているような気がするのです。普通と言われる人にだって、もちろん、人格があるはずなのに。
 うまくまとめられなくなってしまいましたが、今、気になっていることです。

1990. 6.30. S短大教育社会学
 教育実習に行って、2週間を「先生」と呼ばれてすごしたわけですが、自分が中学生だった頃と、「先生」と呼ばれた2週間とでは、学校の見える部分が違って、毎日が新鮮でした。
 たとえば、先生方が生徒のことを一人ひとり、本当に真剣に考えた上で行動していることがわかりました。自分が中学時代に誤解していた先生の本当の姿が見えたときには(その先生はもう実習校にはいませんでしたが)、自分のおろかさと先生への申しわけなさに涙が出ました。それから、人に物を教えるということを通して、新たな自分の欠点なども見えてきて、自分を見つめなおすいいチャンスになりました。

1990.11.14. T大2部社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)なぜ、学校を休んではいけないのだろうか。大人が会社を休む時、会社をやめる時、または転職する時、説明ができますか。それなのに、ただ「休みたいから」では、学校は休めないのです。

1990.11.14. T大2部社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)私は登校拒否の人たちの理由を聞いていると、とても嫌な思いがする。「私のこと、誰もわかってくれないっ」なんて言って。しかも、自分は絶対正しいといった顔でテレビカメラに向かってまくしたてる。私は言いたい。ふざけんな。校則が嫌いだの、学力が追いつかないだの、校風が合わないだの、もうー。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 最近、ふと思うことがある。私は大学に何をしに来たのか、と。たしかに教員の資格を取得すれば、職場での私の立場は有利になる。しかし、私が本当に知りたかったことは、教師が生徒にどこまで干渉していいのか、教師が自分の尺度で生徒を評価していいのか、などであった。
 たとえば、入試を例にとっても、学力が基準に達していない、生活面に問題がある、などの理由で合否を決定する。もしかしたら、この合否で、その人の人生が左右されるかもしれないのに、わりと簡単に合否を分けていく。そして、その責任は、すべて受験生にある。合否を決定する側の権利(ちょっと大げさ)とは、何なのだろうか。同じ人間なのに、切り捨てる側と切り捨てられる側の差があるのは、なぜなのだろうか。
 また、生活指導という名のもと、言いたくもない小言を生徒に言わなければならない。その基準は自分の考えている「社会一般で言われていること」である。時には、きついこと、自分が言われたら自分でもかなり傷つくだろうと思われる言葉で叱りつけてみたりする。このようなことを教師は生徒にしてよいのだろうか。
 それらの答えは未だに見つからない。

7 学習に対する強迫観念的な態度

 学習者、とくに学生や研修受講者などには、講義は黙って聞いているものという思い込みが強い。静かにすること自体は、それはそれでかまわないのだが、黙って聞いているだけでそのまま有益な学習になるという態度は、過度に(適度なら問題はない)依存的な学習態度としてとらえるべきであろう。
 また、正答の与えられない問題を考えさせられたり、学習者の思考が混乱するような話題展開をしたり、学習者側が何かを発表させられたりすることを、いやがったり、まともな講義(学習)ではないと批判したりする学習者もいる。
 これらは、すべて「学習とはこうあるものだ」という思い込みを、本人が意識しないままに固定化させてしまった結果であると考えられる。そこでとらえられている学習の姿も、本人の主体的な思考作用をあまり重視しない受動的な行為としての「学習」である。
 「学習とはこうあるものだ」という思い込みが、強迫観念のように本人の学習を縛っているのである。しかも、その思い込み自体が、根拠のない間違ったものである。なぜなら、本来、学習とは個人的事象だからである。
 しかし、本人は、そういう自己の依存的学習態度を見直す機会に接すれば、苦しみながらもそれなりに自らの認知構造を変容させる可能性をもっている。そのための機会が、一つには講義内容の改革でなければならないし、出席ペーパーなどのシステムの導入なのでもある。
 本人の主体的な学習(全生活の中での)と成長なくしては、「個の深み」の獲得は期待できない。
 ただし、出席ペーパーの中には、大いに的を射た批判もあり、それはそれで、教師の側の教育方法の改善に役立っている。

1990. 6.13. T大2部教育学演習
 いまだにKJ法がよくわからない。というよりも、自主授業というテーマがわからないので、KJ法がわからないのかもしれない。自主授業という耳慣れない言葉のせいと、受け身の授業を受けてきたため、あくびをこらえながら授業を受ける態度が身についてしまったせいで、グループで行う話し合い的授業にとまどっているのかもしれない。(この授業では)かなり苦しいし、つらい時間を送っている。

1990. 6.13. T大2部教育学演習
 KJ法を学んで何にたどりつくのか、それが生きていく上でプラスになるのかがわからない。先生は、(KJ法において)理論で勝った者の意見が通るのではない、とおっしゃったが、それには赤カード(反対の意思の表明)。

1990. 9.19. T大2部教育学演習
 先生の話すことは、一つひとつ意味があって楽しいと思うのですが、ただ1つ疑問に思うことは、この時間の意味。「この時間は何をするのだろう」。よくわからない。

1991. 1.23. T大2部教育学演習
 西村先生のゼミは今日で最後だ。最初は何をやっているのか、何をやっていいのか、わからなかった。でも、今は、意味のないところに意味がある、という何とも摩訶不思議な授業だということがわかったような気がする。メンバーが変わるとどうなるのか、来年ものぞいてみようかなと思ったりもする。

1991. 1.23. T大2部教育学演習
 いつも型にはまった授業で教育され、1つの意見にもマニュアルがあるのではないかと無意識に思っていた自分にとって、このゼミはとても自信のもてる所になりました。どんな意見でも自分の意見としての自信がついたようです。

1990. 4.11. T大2部社会教育概論
 初めての講義だが、前半は疲れがつのってきて、受講をやめようかと思った。それは、話が飛ぶ独特の話法よりも、相手からのフィードバックがないまま内向して自分の中で情報を処理するという今までの講義の受け方に慣れきってしまったせいだと思う。一回も睡魔と闘う機会がなかったのも、また、不思議な気がしている。
 曖昧さに耐えるというのは非常に強さがいる。幸せになるためには(先生の講義を受けるときにも?)、通らなければならない試練だ。

1990. 4.25. T大2部社会教育概論
 わかりました!過去2回の授業の調子になじめないわけが。MAZEの世界だったからだと。しかし、21世紀を生活していかなければならない、と思っている私としては、こんな調子も受け入れなければならないと覚悟しました。

1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 西村先生は「結果論」の世界に住んでいて、たとえその時はどんなに関係ない話であろうと、役に立たない話であろうと、この講義を1年とった学生が、結果的に大きな何かを得たとか、もっとあとですばらしい社会教育主事になったとかしたときに、「ほれみろ」といって笑うつもりなのだ。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 (生涯学習啓発ビデオを見て)人間、一生学んでいかなくてはダメなのよ、学んでいかなくては幸せにはなれないのよ、と言われているような気がして、ちょっと気が重くなった。私は学ばなくてはダメだとずっと思っていたし、今でもそう思っているのですが、なぜだか今日は、そう感じたのです。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 (サークルのイベントに)たまに顔を出して、突然、「うちの大学に社会教育の講義をしているおもしろい先生がいて、すぐではなくても、いずれ講演してもらったらどうだろう」と持ちかけたところ、「何の講義をしているんだ」と聞かれて、「・・・社会教育のこと・・・えーと・・・スキゾなの!」としか答えられなかった私でした。今度から授業内容を具体的に自分に取り込むことにしようと決めました。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 生涯学習というと、自分のように大学に来るなど、どうしても大げさに考えがちでしたが、もっと趣味的なもの、つまりは、生涯を通して自己を向上させるためのあらゆるものが含まれるんだということがわかりました。

1990. 6.27. T大2部社会教育概論
 (ハドリングの)その中で出た内容は、この授業に対する批判だった。「概論」という授業について、私たちは一種の決まりきった内容を期待しているのかもしれない。この時間を楽しんでいる人が多い中で、少数ではあるが、一つの方向性、これだけは必要というものを出してほしいと考えている人たちの不満はそうとうなものだと気づいた。私は今まで気楽に感じていて、必要だったら自分でやればいいし、この時間を頭の休養と思っていた。それで、人生のごく一部だが講義されているようで面白かったのだが・・・。

1990. 6.27. T大2部社会教育概論
 (ハドリングを行った授業で)今、気づいた。先生の授業が苦にならない。人間の適応能力ってすごい。

1990. 6.27. T大2部社会教育概論
 定番化した授業に慣れきった自分としては、そのイメージを崩して、今日の授業(ハドリング)のように、即席のグループの中で自分をさらけだして、自分に閉じ込もってもいられない事態となると、気分的に良くない状態になる。
 ディベートやら、討論やら、アメリカから輸入した授業形態の効用は何なのでしょうか。沈黙は金なり、ということわざは、昔のことなのか。あえて自分をさらけだす必要はないのではないか。余計なことをべらべらしゃべるなんて・・・。

1990. 7. 4. T大2部社会教育概論
 (社会教育法の逐条解釈の)今日の授業は何だ。個人の意見(ある学生の要望)の尊重はわかりますが、自己の信念に基づいた教育方法を貫いたらいいと思いますよ。本に書いてあることを解説する講義など、もっとも高等教育らしからぬあり方ではありませんか。”西村先生らしさ”を貫いたらいいと思います。
 ユニークな講義をしたいと思いつつ、「教授する」という古典的形態に甘んじなければならない現実に悩んでいる教師のはしくれとして、一言!!

1990. 7. 4. T大2部社会教育概論
 (社会教育法の逐条解釈の)講義中に「つまらないかな?」なんて学生に聞かなくてもいいと思います。たしかに楽しいものでもありませんが、これも目標達成のためです。きにしないでやってください。

1990. 7. 4. T大2部社会教育概論
 先生の授業だって、普通に聞いているのなら、意味がないようで、「いったい、この授業は何を意味してやっているのだろう」と思うことが正直いってあります。しかし、学生の中には、何かを感じとって、しっかりとらえている人もいるわけで、このようなことからしても、学生の自主性によってこそ、その学生にとっての高度な授業になるのだと思います。

1990. 7. 4. T大2部社会教育概論
 (社会教育法の逐条解釈の)授業中に、「安心をもたせるための社会教育の概観」という先生の言葉がチラッと聞こえたのが、私の心に刺さった。つまり、情けなかった。そういう思いが頭の中をよぎった。
 もうだいぶ歳をとってきたのに、まだまだ受け身的なのです。それで、自分がこの授業を学んだ気でいる。でも、それでも、安心したい自分がいるのでしょうね、情けない!受け身というのは楽なんですよ。
 でも、仕事では逆の立場で、受け身ではなく自らの学習が必要なんだ、なーんて言っている私もいる。本当に矛盾している。

1990. 7. 4. T大2部社会教育概論
 (来学期の希望について)グループワーク型、大反対!他の授業でもやったことがあるが、とにかく、やる気のある者がバカをみる。やらない人間は、ずるがしこく点数や単位のみに重点をおいて、話し合いにも出てこない。やれと言われたこともやってこないのが、現代の若者の特徴である。

1990. 7. 4. T大2部社会教育概論
 (社会教育法の逐条解釈の)今日の講義も、今までの講義内容を思い出しながら聞いていたら楽しかった。最初はどうしてせっかくうまくいっている講義のパターンをこわすんだろうと思った。社会教育の概観は、学生が自分で読めばいいのに、と思った。
 でも、先生の話を聞いているうちに、(社会教育の概観希望の)あの出席ペーパーを出した人は、もしかすると、先生が社会教育についてどんなふうに考えているのかを知りたかったんじゃないかとなと思った。

1990. 7.11. T大2部社会教育概論
 (来学期の希望について)学生の自主性、主体的積極性を前提とするのは、避けた方がいいと思います。そんなものは、この教室の中にはありません。みんな、そろいもそろってマヌケです(半分くらいは?)。
 (インタビュー・ダイアローグで)少なくとも僕は、遠くない将来には、こんな場合、しょーもないなあと思いつつも、先生につき合って質問の一つでもできる人間になりたい。

1990.11. 7. T大2部社会教育概論
 ここ1カ月近く、ほとんど大学に来ませんでした。大学に入って3年ですが、初めてのことです。しばらく、「何をしに大学に行ってるんだろう」ということが頭にひっかかっていました。だから何となく休んでいました。
 今回のレジメに「大学とは、いったい・・・」の文字を見つけて、大変ドキッ!としました。西村先生のおっしゃるとおり、大学は「自分のやりたいことを自分で探すところ」ですよね。「誰かが与えてくれるのを待つところ」ではけっしてないんですよね。わかっていたつもりなのに、忘れていました。

1990.11. 7. T大2部社会教育概論
 かつて私は○○の講義にもぐりで行ったことがある。また、その○○が著する○○シリーズも何冊か読んでいる。そう、2年前のことである。あのころは熱狂的な○○ファンであったが、今は違う。彼の思想は限界がある。

1990.11.14. T大2部社会教育概論
 後期もそろそろ終わろうとしている今日になっても、今まで自分は何を学んできたのか。というより、何も学べなかったのではないか、という気持ちの方が強いような。何を学ぼうとしていたのかが、よくわからず、ヘンな気持ち。ヘンな気持ちというのは、今の気持ちをうまく表現できないけど、すっきりはっきりしないという感じ。
 今まで学校の授業といえば、講義形式か、テーマを与えられたグループワークということに慣れ親しんできた。大学に来る前の看護学校、助産婦学校では、どちらかというと、職業訓練的な色彩が強く、先輩から知識を与えられるって感じだった。それに、今までの大学の授業も先生が一方的に話し、私は聞く人だった。
 こんな私にとって、西村先生の授業は、えっ!何!これ!って感じで、拒否的反応があったのかもしれません。私はステレオタイプな考え方が強いので、なかなか自分に受け入れられなくて、今に至っているようです(つらいけど、今後にはプラスになるかも)。
 もっと早期に先生と話し合うチャンスを持っていたら、違う姿勢で授業に参加できたのに、と思います。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 第4回から出席しました。初めての出席ペーパーには、大変失礼なことを書いたと思います。なにしろ、何を言っているのかわからず、消化不良のままで不満感のみ残りました。が、回を重ねるにつれ、講義方法、内容になぜかひかれてゆきました。とくに「個の深み」の論文を読ませていただき(まだ未消化ですが)、さらに共感する部分が増えました。

1990.12.12. T大2部社会教育概論
 私は学習することが必要だと思っている。その学習は、人から与えられるものではなく、自分から欲しているものである。興味のあることはとことんやってみたいし、いやなことには耳も向けたくない。幅広い学習のためには、それではいけないかもしれないが、私は与えられた学習より、求めていく学習をしたい。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 この1年間、授業を受けていて感じたことは、はっきり言って時間の無駄な授業に感じた。本音で書いていますが、評価は下げないでください。まじめに授業を受けても、とくに頭の中に残っていることは、ほとんど何もなかったような気がします。しかし、逆の見方から考えてみると、まじめに勉学している人の場合、このような息抜きの授業も大切ではないかと思う。
 情的にはとても深まったような気がします。しかし、知的には何も残らなかったような気がします。しかし、人間本来の情的な大切さをこれから知っていくためにも、この授業はよかったのかもしれない。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 1年間ありがとうございました。テスト、テストで、悲しいかな訓練されてきた私にとって、先生の講義は、少しこわいナ、なんて思いながらの1年間でした。本当に悲しいかな、私の学校生活は、少なくとも高校までは、試される生活だったんだなあ、と思ってしまう。悲しい!人材として見られることを、甘んじて受け入れてきたんだなあ。でも、気づいた今は、改善していける。1人の人格として見られる私になろう!
 先生の1年間の講義は、やっぱり私の受け入れ能力をオーバーしていた所がありましたが、選択することはできました。慣れるまで、やっぱり統一性を求めたりして、パニック起こしたりしたこともあったけど。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 出席ペーパーに記入することって、けっこう、何を書こうか迷うんですよね。その迷っている時間と記入している時間は、自分が講義から逸脱してしまうんです。つまり、自分の時間をその中に作り上げちゃう。マスプロ化している講義の中で、このような手段で、学生の個人単位のことについて関心をもってくれるのって、うれしいとは思うんですが、やっぱり限界が見えちゃう。両方とも、中途半端になりかねないのです。時間がもっとあればいいのですが・・・。だけど、このスタイルで行われる講義は、私にとってすごく強烈でした。

8 集団への帰属に対する拒否感

 現代社会における人間疎外を克服する手段として、一般的な議論としては、ややもすると集団への帰属感の回復の必要を安易に結論づけがちである。しかし、そういうことでは、せっかく「個の深み」に向かいつつあった個人が疎外されてしまう。
 ネットワーク型社会においては、集団に対する個人の依存はむしろ障害になるのであるから、本人の帰属に対する拒否感をむしろ自覚化させることによって、自立的な生き方の中にある孤独に耐えうるような主体性を呼び起こし、それでも潜在的に存在するであろう自己の集団への帰属の欲求と真正面から対面させる必要がある。
 その上でこそ、ネットワーク型社会が個人に求めるであろう自立と依存を両立できる主体性の形成を促すことができるのである。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 ビデオを見て思ったこと。最初に映った星条旗。私は嫌いです。日の丸も。うーん、そういう物への執着というか、国とかピア・コンセプトというか、そういうものが好きではない。国境があるから、私たちのところはという意識があるから、戦争とかが起こると思うから。今、UFOとか、はやっているけど、国とか旗とかを変に大事にする人間が多いあいだは、宇宙人には会いたくない。
 でも、こう言っている私も、外人がこわいし、そういう気持ちをまだまだたくさん持っていると思う。今の私は、まだ、教育者にはなれない。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 このまえ、中学生の時に書いた文集を、なんとなくパラパラと読み返してみました。そこには、「まとまりのあるクラス」とか「団結しているクラス」とかいう言葉が、何度か出てきました。あの頃は、一つにまとまっていることがいいことのように漠然と思っていたけど、今はそうは思いません。みんなの意思や考えがまとまっていたのではなくて、どちらかというと、誰かの考えにまとめられていたという感じがするからです。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 私は学校の先生が大嫌いだった。なぜかというと、私が人と違うことをすると、すごく注意したからだ。私は小さいころから納得しないとあやまったりしなかったので、先生にとっては目の上のたんこぶだったらしい。中には、私が心から尊敬できる先生もいた。それは、自分の勉強を追求している先生だった。体育の先生だったり、歴史の先生だったりしたが。
 はっきり言って、私は教師にはあまり興味がない。教職をとっているのにこんなことを言ったら軽蔑されるかもしれないけれど。私は一つの目標を持っている。でも、それは達成できるとは限らないので、生きるための手段として教職をとっておこうと思った。動機が不純で、自分が汚い人間になったような気もする。でも、その気持ちは自分の心の中で聞き流してしまおうと思う。なぜなら、そういうことを考えていて、目標を達成する勉強がおろそかになるのが恐いからだ。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 私は人とちょっと違うことをしたりするのが好きだ。私はちょっと変な人になりたいと思っている。だから、一生懸命、ヘンなことを考えてみたりもする。しかし、今のヘンは人工的ヘンだから、わざとらしくていやらしい。このわざとらしさといやらしさが、私を不幸にしている気もする。
 変な人になりたいのは、本当は、つまらない自分から逃げたいからだと知っている。まだまだ子供である。まだ、教育者にはなれない。しかし、教育実習は間近に迫っている。
1990. 4.21. S短大教育社会学
 これ以外(一生懸命と一所懸命とについての話)のことでも、日本語の奥深さをひしひしと感じることはたくさんあります。こんなにすばらしい言葉を使える民族に生まれて本当に良かったと思います。

1991. 1.12. S短大教育社会学
 はっきり言って、集団は苦手です。集団の中にいると、本当の自分が出せないからです。たとえ、その中に溶け込むことができても、つまらないと思うときがほとんどだし、自分を出したいのだけれど、人が多いと消極的になってしまいます。だから、友だちと2人か、1人でいるというパターンが多いです。別に集団がきらいというわけではありません。自分の立場をどうおいたらいいかわからないので、苦手ということになってしまうのです。
 自分で分析してみると、1人か2人のときは自分の自由がきく、というのがあるから、自分をさらけだしているような気がします。ただ、たんに、わがままなだけでしょうか。社会に出たら苦労するかも。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 生涯教育を表面的に進めることは、日本人の独特の個性を失わせるものだと考える。個人が勝手に趣味でやれることを、団体でやるなんて、自分は嫌いだ。とくに行政に、その場を借りたり、きっかけを作ってもらうなんて!自分は、アルプスの少女ハイジのおじいさんになりたいのだ。個性の主張。頑固でもいい。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 選択肢のわくの中から選択させる生涯学習なんていうのは、おしきせがましい。楽しみながら芸術なり文化なりをやるのに、学習という文字で書かれてしまうと、会社の研修みたいだ。たとえば、音楽も音学になってしまいそうだ。カリキュラムがたまたま自分の好みと合った人は運がいいけど、合わない人もいるのでは?一生学ぼうとする日本人は、高テンション民族だなあ。ただ、ビデオで気に入ったのは、地域の文化を伝承するカリキュラムのところ。その地域にしかない独自のカリキュラムになって面白いと考える。

1990. 6.13. T大2部社会教育概論
 映像によって同次元で同じ感動を得ることが可能。また、同じ感動をともに感じる。これが映像の良さではないだろうか。

1990.10.17. T大2部社会教育概論
 「個の深み」という言葉を聞くたびに、逆に少しも深まらない自分を感じるのです。先生は、それこそが深みの入口だとおっしゃいました。入口ならまだ喜びもありますが、実感としては、ひたすら落ち込みつづきです。
 仕事場で安易に協調してしまう自分から、専門的に責任をもつ個の立場を確立しようとして、しかし、たんに孤立してしまうだけではないかという不安に襲われ、暗中模索とはこのことかという感じです。でも、現状維持というのも苦しいので、とにかくこのまま未知なる感覚に身をまかせたまま進んでみようと思います。
 人に受け入れられなくても、自分らしさを勇気をもってそこに表現してみることのこわさを乗り越え、それを人に理解してもらう努力をしなければ、いつまでも自分が深まらないような気がするのです。

1990.10.17. T大2部社会教育概論
 個性化、個別化などというものは、全体という枠の中で、ある種のこだわりのある人々だけが自然発生的にマニアックになっていき、全体の中で邪魔にならない(社会に影響しない)程度に、囲いの中で目的に対して沈潜していく、という方が、社会の安定にとってはよいのでは、と思っています。個性化、個別化を、あえて社会の方から促すことはないのではないでしょうか。

1990.10.24. T大2部社会教育概論
 「個の深み」では、ネットワークを肯定し、異質のものと喜んで交流することを質の良い個人主義としている。ここでは、他との交流に絶対的価値をおいている。”交流できる個”は肯定しているが、”交流したくない個”の存在をどう考えているのだろうか。
 出席ペーパーを書かない人がいることに対して、”自己の個の表現の抑制”、”実効主義”などと否定的にとらえられていたが、社会教育関係者の中には、個というものは表現されなければならないという思い込みが、つねにあるように思われる。社会教育関係の人々は、根底に、「人は交流しなければならない」という思い込みがある。青年の家の職員は朝礼を好み、西村氏は出席ペーパーにBBSが少ないとなげく。
 しかし、この”交流”というのは絶対的な価値なのであろうか。(というのも、私のまわりには、この交流というものを好まない人が何人か存在しているので、こういう疑問を抱くにいたった。彼らは個を表出することはしない)。

9 ユーモア、ヒューマニズム

 とくにユーモアについては、学校教育の教育課程の中では、科目としての道徳や国語の中でのごく一部を除いて、評価の対象になることが少ない。しかし、「個の深み」というものがアカデミックな側面に限定されるべき根拠は、まったくないのである。むしろ、人間の全体性の中に、広く幸福追求の基盤としての「個の深み」が見いだされるととらえるべきであろう。そこでは、ユーモアやヒューマニズムは、重要な要素である。それは、本来の意味での「教養」としてとらえることもできる。
 したがって、出席ペーパーは、それらの「教養」の本人の深さ、またはその可能性を、自己認識させるための有効な道具になりうる。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 私が動物の中で一番かわいいと思うのはペンギンです。
 この前、上野動物園に行って遊んできたけど、動物はねてるだけだったんで、お金払ってんだから少しは動けーと思ったら、ペンギンは泳いでいてくれて、すっごーくかわいかったですよ!

1990. 5.19. S短大教育社会学
 公民館のビデオで、ママさんコーラスの場面のお母さんたちの表情がとても良かった。歌の好きな人たちが集まり、その人たちの歌声がコーラスになる。技術面では不足していることもあると思うが、やっぱり歌の好きな人たちが歌う歌は、心がこもっていて、こっちまで顔がにこやかになってくる。
 義務だけの歌になりがちなこの頃の私は、こういう歌が好きだという気持ちを忘れていたような気がする。

1990. 4.25. T大2部社会教育概論
 (サラ金で)99万6千円借りている人が、3000 円を追加して借りようとしたことで、笑いをとったのはいやだ。その人はその人なりに一生懸命何かを考えて行動しているのだから、他人に笑ってほしくないと思う。

10 山アラシのジレンマ

 現代人の対人関係は、自分や他人がお互いに傷つけ合わないよう、距離を置きがちである。これを批判することもできるが、「人間」の言葉が示すとおり、一定の「間」(ま)は基本的には望ましいのである。
 問題は、間をなくすことではなくて、主体が真に欲する関係を自己認識し、それに応じた間の取り方を技術的な面から修得することである。

1990. 5.12. S短大教育社会学
 今回、「おしゃべり症候群」のことが話題の一つとして取り上げられましたが、これは本当に考えさせられました。
 私もおしゃべりはよくするほうなんですけど、やっぱりそれは話したいという自分の意思よりも、むしろ、沈黙に耐えられない自分の弱さのほうが強いのだと思うんです。もちろん、自分が話したいときに話したいことを話すのは人間の本能でしょう。でも、沈黙が怖くてむりに話してしまうのも、人間の本能だと思います。私も例にもれず、やっぱり沈黙を通すことは怖いです。

1990. 5.12. S短大教育社会学
 このあいだ、友人に相談をしました。その時に、友人は、「頑張りなよ」とか「大丈夫だよ」とかいう言葉で、私を励まそうとしてくれました。けれども私は、「なにか違う」というか「私はそんな言葉を求めていたんじゃないのに」と思ってしまいました。
 私も昔からよく相談を受けるのですが、私も、そんなとき、いつも「頑張りなよ」とか「大丈夫」と言っていたような気がします。今になって、やっとそう言われた人の気持ちがわかるような気がします。
 でも反対に、そういう言葉が聞きたいために相談する人も、きっといると思います。

1990. 5.19. S短大教育社会学
 今日は大雨の中、自転車をこぎこぎ、先生の話を聞きにきました。台風が近づいているようで、ものすごい風で、傘をさしながらの操縦は非常にたいへんでした。
 途中で知らないおばさんに、「前に気をつけてね」と言われ、なんだかうれしくなりました。人の一言って大きいですね。元気になったり、傷ついたり・・・。だから、子どもたちには、気をつけて接していこうと思います。

1990. 5.19. S短大教育社会学
 私は最近、不眠症で、寝つきが悪かったり、変な夢ばかり見ていたり、ふとんの中でゴロゴロしているうちにすずめがチュンチュンいったりして、不調のかぎりです。
 自分で自分自身のことがよくわからなくて、相手に自分を出せないっていうようなこと、先生はありませんでしたか。授業中に「言葉っていうものは本当に難しい」とおっしゃってましたが、私も、今、すごく、それを感じています。あまり深く考えずにありのままで生きればいいのかもしれませんが、なかなか難しいような気がします。

1990. 5.26. S短大教育社会学
 この講義は回を重ねるごとに、だんだんといろんな人の本音や本心が見えてきて、少なからずShockを受けている私です。なんか自分の抱えている悩みなんて、本当にちっぽけなものなんだなって。
 私には、全国津々浦々(?!)に、文通している友だちがいます。この年になって文通しているというのも変かもしれませんが、中には8年越しのつき合いになる人もいて、今ではたんなるpenpalというだけでなく、本当に大切な”話し相手”としておつき合いしています。私の深刻な悩みは、すべてその子たちに託してしまうのです。会ったこともない、まだ見知らぬ人たちですが、Telなんかで伝えられないもどかしさも手紙を書くことによって解消されるので、私は”書くこと”が好きです(どんなことでも)。
 周りの友だちやmito san等を信用していない訳ではないのですが、身近にいる人だとかえって自分の弱味を見せる気がして、それが嫌でどうしても本心がさらけ出せません。これって周囲の人間に対して”カラ”を作ってることになるんですよね、きっと。mito sanもパソコン通信をやっていると、なんだかそういう対人関係のギャップ(?!)みたいのを感じませんか?

1990. 6.30. S短大社会教育概論
 長所を言ってあげられる人は、本当にやさしい人だと思う。長所を見つけてあげることは、短所を見つけることよりできにくいことだと思う。(グループワークで)長所だけを実際に言ってもらうなんて、すごく感激した。それから、みんながこんなにたくさん良いところを見つけられるなんて、いい人たちばかりだなと思った。人の長所を見てあげられる人に私もなりたいと思う。

1990. 9.29. S短大社会教育概論
 自分1人で自分について思ったことを言うのはマンネリだが、人に質問されることによって、自分でも思いもよらない言葉が出る。インタビューって、とてもよいものだ、魅力的だと思った。
 ふだんあまり口にしないことを、人によって引き出されるというところが新鮮に感じられて、とってもためになりました。今日は、つくづく1人と2人の違いを思い知りました。こういう経験はとてもよい。

1990.10.20. S短大社会教育概論
 (学園祭に出展することになって)お客さんが本当に来ようが来まいが、みんなの協力が大切だと思います。なんだか前よりみんなと仲良くなれてすごくうれしい。

1990. 5.23. T大2部社会教育概論
 人と接する際に、相手の”幸せ”な部分や”不幸せ”な部分に触れずにいる、などということができるのだろうか。出席ペーパーで紹介された彼女は、そういうものに触れたり触れられたりするのはいやだ、と言っていた。そうならば、彼女は人と接する時、何を話し、何を感じているのだろう。”幸せ””不幸せ”を除いてしまった会話とは、いったいどんなもので、何が得られるというのだろうか。

1990. 6.20. T大2部社会教育概論
 最近、社会教育について(社会教育とよべないものも含めて)、いろんなことを考えます。もし、自分が社会教育に参加することになったら、そうしようと思ったら、何を一番望むだろうか、と。仕事や職場の人づきあいなどで、すでに疲れているところへもってきて、人と人とのつながりを求める心の余裕があるのかな、などと考えてしまいます。

1990. 6.27. T大2部社会教育概論
 (1カ月間の入院で)入院している人たちは、皆、どこか具合が悪くてここにいるのに、親切で、頼まなくても手助けしてくれます。自分より大変そうな人でも、声をかけてくれたりします。ここでの生活は、これからのわたしにとってなんらかのプラスになるのではないかと思います。

1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 先生、府中青年の家での合宿ではお世話になり、ありがとうございました。「こうしたいんだけど、周りがどう思うかな」という、ときとしてムダなブレーキをかけることを、意識的にやめる(私にはそうだった)ということは、学ぶものが多いなと思いました。

1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 何もかも相手にさらけだしてしまうのも、なんだかつまらない恋愛になってしまいそうで。自分の悲しみも淋しさも、相手の悲しみも淋しさも、共有できないし、救えないものね。自分でしか。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 共感して他人の気持ちが少しでもわかりあえれば素晴らしいと思うのです。でも、人によっては、私みたいな人間を偽善者と見る人もいるのかもしれませんね。しかし、私としては、自分の利益や自惚れのためでなく、純粋にそう思っているのですが・・・。

11 共感的理解の能力

 他者への共感は、同感と違って、困難を極める。自分に引きつけて、自分の心で、しかし、自分の心の枠組(準拠枠)からではなく、他者の気持ちを理解しなければならない。
 この能力は、教員などに求められるのはもちろんであるが、与えられた枠組ではなく、自らの主体的な意思で他者と交流するために、すべての人間に普遍的に必要になる一種の「生きる力」と見ることができる。
 その能力の養成は、基本的には本人が意識的にそういう態度をとることによってこそ可能になる。出席ペーパーに書くことによって、自己の内なるノイズが顕在化されて意識下に置かれるので、共感的態度を本人が自覚的にとるためには、むしろ有効である。

1990.11.10. S短大社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)テレビでも言っていたように、”待つ”ということ、これが本当に大切なんだと思う。テレビに出ていた子どもたちは、なんだか元気そうに見えたけれども、そうなるまでは、すごく苦しい気持ちだったのだろうと思う。

1990.11.10. S短大社会教育概論
 登校拒否をしてしまった人がビデオに出てきましたが、この人たちはとても幸せな人だと思います。とてもしっかりしていて、うらやましく思います。何より家族愛がすばらしい。自分の考えがはっきりしていなくて、どっちつかずで学校に行っている人の方が、もっと不幸ですよね。

1990.12. 8. S短大社会教育概論
 今日のビデオ「障害者のための絵画教室」は、とても感動しました。今までは、障害者を見かけると、かわいそうだなと思ったり、電車の中で大声で叫ぶのを見たり、話しかけられたりすると、少しいやだなと思ったりしていたのが恥ずかしくなりました。私はすごく健康なのに、わがままや不満をいっぱい言っているだけなんて、自立していないなと反省しました。

1990. 6.13. T大2部社会教育概論
 (「驚異の小宇宙・人体」を見て)まるで、自分の中、人間の中の他者や他の存在に気づかされた思いがする。そして、この講義をとっているみんなと共有した時間、共有体験というのだろうか。一番後ろに座っていたので、そんなことも感じた。そして、それを前提として、このVTRに対する不思議な親近感、「これが学ぶということなのか」というような感じをもった。

1990. 6.20. T大2部社会教育概論
 (患者の)彼が(他の看護婦から)言われたことを挙げると、だいたい次のようになる。「きき手じゃなくて良かったわね」「肩ぐらいですんで良かったわね」「脚が動かないより良かったわね」「事故にしちゃあ軽くて良かったわね」などなど。言った人たちは、何を基準に彼に「良かった」などと言えたのか!彼にとってはたった1つしかない左肩である。21歳の柔軟な肩。それが一生動かないのだ。同じような事故で、両手両足がマヒして動けない人も、世の中にはいる。でも、それは比較の対象にはならない。彼にとって、彼の肩が一生動かないということを、「良かったね」と言った人は、どのくらい考えたのだろうか。

1990. 6.20. T大2部社会教育概論
 「トトロ」の中で、子どもがお父さんに対して、その子の姉が見たというお化け(トロル=童話の上の怪物)を自分も見ることができるか、とたずねるシーンがある。子「ねえ、お父さん、私もトトロに会える?」、父「うん、そうだね、運が良ければね」。私は、このシーンを見たとき、このお父さんが、「うん、そうだね、いい子にしていたらね」と答えなかったことに対し、感動以上の大きなものを感じたのでした。

1990.11.14. T大2部社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)「なぜ学校に行かないのか」、なんて、どうしてそんなことを、たった一人で悩んでいた子どもに言えるのか、とても腹立たしく感じました。あの場(登校拒否児のつどい)に集まった子どもたちは、自分がまちがっているんだと責めて、自分の存在(学校に行けない自分の存在)を疑いながらも、ようやく、自分には自分の考えがあって、それは他人と同じものである必要はないということに気づきはじめた子どもたちではなかったかと思います。

1990.11.14. T大2部社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)私自身、彼らと同じようなことを経験したからということもあるが、今日のビデオには、非常に強く共感した。あの頃のつらさというのは、とても口で表せるものではなく、今日見ていてもつらかった。
 しかし、直接、彼らと会って話しても、私の場合は、それほど共感の気持ちはわいてこない。ビジュアルや本などの二次的なもののほうが共感できる。どうしてだろうか。

1990.11.28. T大2部社会教育概論
 子どもの頃から、人の気持ちがわかるという人に対して、反感のようなものを持っていました。というのも、相手を理解したいと思いながらも、私という個人の目が加わることで、相手をゆがんで理解しているのではないかと思っていたからです。
 私の場合、共感的理解が下手なので、簡単な言葉で相手の気持ちを表現して、なるべくその言葉が相手の気持ちに近くなるように確認しています。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 共感的理解が苦手、というある出席ペーパーの紹介を聞いて、一瞬、私が書いたのかなと思ってしまった。後半、そんな彼女なりの努力、「できるだけ簡単な言葉で確認するようにしている」ということ、を聞いて、ああやっぱり違う、と納得。
 私は「共感的理解やそういう態度のとりにくい冷たい女」ということを自覚していても、それについての努力はしていないレベルであることを、再度、確認した次第。でも、感情の交流を大切にするのにも、私のような者は、人一倍努力が必要というのも、ちょっとさみしいですね。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 私はつね日頃から、他人の気持ちをわかることはできないと思っています。私の仕事は障害者と言われている人々と接して、その人々を援助していくような内容のものですが、障害をもった人々の気持ちがよくわかるかといえば、答えはNOです。私は五体満足ですし、その他いろいろと考えあわせても、彼らの気持ちがわかるなどとは思えません。彼らも、私のような小娘に自分たちの言葉にしきれないようなさまざまな気持ちをわかってもらおうとは思っていないのではないかと思います。
 大切なことは、わかった気になってしまわないことであり、相手を否定しないことであり、相手の気持ちを想像する努力をすることであると思います。これが共感的理解ということにつながると思います。どうでしょう。

12 ヒエラルキーへの抵抗、正義感

 ヒエラルキーにおける個の疎外については、現代の若者といえどもかなり抵抗感をもっている。しかし、それが主体的な批判になっているかというとそうではない。無力感、劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義などによって、その活力が削がれている。
 また、ネットワークを形成するためには、ヒエラルキーに抵抗して主体性を発揮する新しい「自立」とともに、他の人間と相互主体的に関係を結び連携する新しい「依存」の能力も求められる。

1990. 7.11. T大2部教育学演習
 KJ法の作業をやっていて、他人の意見や考え方を取り入れることによって、視野を広くもつことができるということはわかった。だが、自分はチーフという仕事の立場では、「これはこうしよう」「ああ、それならこうしなさい」という独断的な方法で仕事を進めているものだから、みんなでチンタラチンタラなかなか進まない作業をしているとイライラしてしまった。これではいけないな、とは思うのだが・・・。

1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 私が仕事で後輩たちの記録物を見るとき、必ず評価が前提になっているので、なんだか純粋な目で見れない。すごく苦痛な作業です。純粋な気持ちになれない私に問題があるのはわかっているけど、このプレッシャーにはたえられない。

1990.10.24. T大2部社会教育概論
 「個の深み」論文、何度も何度も読みました。個の尊重ということについて、教えるという立場にいる自分が、つねに心の中でこれでいいのかと悩んでいる部分である。限られた時間の中で、目的達成というより、これだけは教えなくてはという教える側の課題達成志向のニーズに基づき、つねに走らせ、後ろから押し上げている自分であり、また、そうした自分につねに矛盾とやりきれなさを感じている。
 一人ひとりが何を感じ、何を見ることができたのか、一人ひとりと話してみたい。個との関わりをもちたいと思いつつ、不満足な思いで忙しく走っている毎日である。

1990.11.28. T大2部社会教育概論
 私が「異動するとしたら○○課がいいなあ」と言ったら、ある男の人に「あそこは高卒じゃ使いものにならないからなあ」と言われました。この人はやはりランクが上の大学卒で、職員にもその大学のOBが多いんです。こういう人が、役職につくことが多いという実情があるかぎり、学歴社会は続くと思います。

1990.11.28. T大2部社会教育概論
 (学習情報センターのビデオを)今日は、私の気分で(気分ですみません、でもそうですから)非共感的に見ていました。センターを訪問したアナウンサーが、「これは有難い!」「うーん、有難いことですね」と、有難いを連発していましたが、「何がそんなに有難いのよ!」と反感を持ってしまいました。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 組織の内側にいても、私は主体的でいるように努力しようと思いました。私だけリゾームの先端になってしまおうと。それで上司からのウケが悪くなったっていいんじゃないかということです。だけど、自分勝手にならないように、ひとりよがりにならないように、いつも自分でアンテナをめぐらして、自分で考えて、私はそうは思わない、ということもちゃんと聞いて、その上で、結論を出していければと思います。
 これはとってもたいへんなことだと思います。でも、このことができなかったとしても、こういう心がまえでいたいと思いました。

1990.12.12. T大2部社会教育概論
 「健全育成」という言葉は、ひじょうにタテマエ的な言葉に聞こえます。「健全」とはいったい何なのか。健全な人というものはいるのだろうか。私は、健全な人は、基本的にいないと思います。人間はみんな「不全」だと思います。「健全」という言葉には無理があります。
 以前から「健全育成」という言葉は気になっていましたが、もっとふさわしい言葉を見つけたいと思います。

1990.11.22. N市社会教育職員研修
 先生のお話しになった「自立」を主体とした生涯学習の理念について、また、「支持的風土づくり」という点、非常に感銘を受けました。しかし、現実に「社会教育行政」に関わっている限りでは、行政の体質はツリー型のまま、変化の糸口もつかめていないというのが正直なところではないでしょうか。それには、職員の意識改革の不十分さといった点も指摘できるとは思うのですが、巨大化した「ツリー」の中では、そういった枝葉の部分で改革しても、「ツリー」全体を変革する力とはなりにくいのが現実だと思います。
 そうした意味で先生のお話になられた理想的、理念的生涯学習体系とはまった相反する組織体としての「社会教育行政」が存在することは、疑うことのできない事実だとわたしは思います。
 そして、そうした組織、つまりツリー型のあるいは防衛型風土の組織の中で、「生涯学習情報システム」の整備が一足飛びに行われることの危険性はあまりにも明白ではないでしょうか。それは、つまり、先生のおっしゃられたこととはまったく逆の風土を、より強化するための大きな(巨大な)システムになってしまう可能性をもつと思うのです。

13 ボランティア意識の新たなる萌芽

 無気力、無関心と評されているはずの若者の中に、ボランティア志向が強く表れることがあることについて、われわれはどう解釈すればよいか。それは、若者が、他者から継続的に組織化されることを今までの厭な体験から嫌っているだけで、自発的に行う生涯学習などの形でなら活動に積極的に参加する可能性があるということであるといえよう。
 そして、われわれが最近のボランティア活動を見る場合、奉仕による単純な満足感の欲求ではなく、実現困難な自分の個をなんとか実現したいという切実な潜在的欲求から発しているという深い見方が大切であろう。
 「個は他者に関わることによって、より深まる」というテーゼが活動の目的の最高位に置かれるような、新しいボランティア意識が台頭していると考えられる。

1990. 5.19. S短大教育社会学
 私の町の公民館は、看板がなければ、ほったて小屋といってもわからないほど、粗末でおんぼろです。こう書くといささか大げさですが、それでもVTRで見た立派な公民館に比べたら、とんでもなくボロです。そんなボロでも、そこに集まってくる人たちの心はとても暖かく、田舎者のパワーが感じられて、私のとても好きな場所でした。
 小さい頃からピアノをやっていなければ、その場の状況に流されやすい私は、間違いなくボランティアの道を選んでいたでしょう。それほど、ボロに集まる人々の心のふれ合いは優しく、そしてなごやかだったのです。
 音楽の道に進んでしまった今では、ボランティアに徹することなどかなわぬ夢となってしまいましたが、もし、音楽の仕事に就いても、その仕事を生かして、心優しい人々につくそうと思うのです。

1990. 5. 9. T大2部社会教育概論
 (あるドラマの)「世界中の人がみんな幸せになれば、自分も幸せになる」と言って、孤児院で働くシーンが、とても嘘っぽく思えました。自己犠牲に酔っているような気がしたのです。「みんなが幸せになるために、歯をくいしばってがんばるんだ」ではなく、「孤児院の仕事が楽しくて幸せ」っていう人でないと、みんなの幸せなんて願っちゃいけないと思います。だから、私は「みんなの幸せ」を願う前に「自分の幸せ」をさがそうと思っているのです。先生が言う「幸せをくばる」って、どうしたらいいのだろうか。

1990. 5.16. T大2部社会教育概論
 私は障害者相手の仕事をしています。それを言うと、「えらいのねェ」という反応が返ってくることが多いのです。私はいつもその言葉に反発を感じます。私は、この仕事を自分のために選びました。他の誰のためでもありません。私は、一時、真剣に自殺を考えたことがありました。それは、「なぜ生きるのか」という疑問に対し、答えが見つからなかったからです。そして、私がたどりついた結論が、今の職業です。
 生産性を追い求める、そんなラインからはずれて、でも、一生懸命生きている。あの人たちは、どうして生きているのだろう。あの人たちと関わっていけば、私自身の生きている意味もわかってくるんじゃないか。そう考えてすがるような気持ちで選んだのが、今の職業です。私は私のために必死で働いています。そのことで、もし、少しでも助かる人がいるなら、こんなにうれしいことはないと思うのです。

1990. 5.23. T大2部社会教育概論
 小さい頃、私は、友だちに誘われて児童館の「竹馬づくり」のイベントに参加した。他の子どもたちはキャーキャー、ワーワー子どもらしく楽しんでいたにもかかわらず、私はイヤだった。なにがイヤかというと、ボランティアの人たちだった。「これはこーして、あーして」とか「乗り方はそーじゃなくて」と親切に言われれば言われるほど、「ほっといてよ」と心の中でムッとしたものだ。じつは今でもそういうところがあったりする。

1990.11. 7. T大2部社会教育概論
 行政が住民を指導するなんてとんでもない、とか、市民主体の、とか、そういうことを言うよりも、行政が先頭を切らずに後ろからついていくような形で、お互いに必要な時に手を貸していくような関係が大切なのではないかと思います。それに、住民を教育するなんて、というような反発を、はたして住民自身がしているのかどうか。そのように騒いでいるのは、行政側だけじゃないでしょうか(予想ですが)。
 住民が住民の力だけで活動を起こすのは、なかなか難しいことだと思います。行政が火つけ役になるのは、決して批判すべきことではないと思うのですが。

1990.12.12. T大2部社会教育概論
 (駅で車椅子の人が階段を上がることに手を貸したことは)私が決めたことであす。誰も手を出す人がいないから手を出さざるをえなかったというわけではないし、まわりの男性が通りすぎることを決めたことに対しても、責める気はありません。(私も気が向かなければ、そういう行動はしなかったと思います。ただ、だいたい気が向くことが多いのですが・・・)。
 職場は規則ばかりで・・・とぼやく人がいますが、私は規則に従わされているとは思っていません。規則に従うことを自分で決めて従っていると思っています。(だから従えない規則には、やはり意見します。その意見が通らないときは、さらに意見するか、あきらめて従うかの決心をします。ただし、あきらめることを決心するのも私自身であることは忘れてはならないと思うのです)。偉そうに聞こえると思いますが、私もさまざまな苦労をして、現在にたどりつきました。ちょっとした考え方の転換です。こういう生き方もあるという紹介でした。

14 アイデンティティの喪失

 子どもの頃のいわば仮りのアイデンティティがいったん崩れていく過程を経なければ、その後のアイデンティティの確立はおぼつかないということは、いうまでもない。しかし、そうは言っても、その過程のジグザクの振幅があまりに大きいと、指導者側としては、つい、その揺れをおせっかいにも小さくしてあげようとしてしまいがちである。それを禁欲し、本人が「個の深み」を獲得する方向で、本人のMAZE(前掲拙著参照)につきあうことは、われわれにとって大変難しいことではあるけれども、心がけなければならないことなのである。
 また、現代社会においては、成人期以降の人間でさえ、アイデンティティが弱体である場合が多い。それについても、その確立にあわてて取り組むというのではなく、自己のアイデンティティを簡単には認められない個人の深さに着目し、本人の「個の深み」が自覚化されるような支援を考えなければならない。
 出席ペーパーによって、本人に自己のアイデンティティの喪失状況を確認してもらうことは、そういう意味をもっている。

1990. 4.21. S短大教育社会学
 きのう、何カ月ぶりかでエンエン泣きました。ふだんでもけっこう涙は出てしまう方なのだけど、きのうは自分でもおどろくぐらい泣けてしまいました。短大1年をなんとなく過ごして、で、2年になってもう進路を決めなければならない。今、どうしたらいいのか、何がしたいのか、すべてわからなくなってしまいました。

1990. 4.28. S短大教育社会学
 1人でいる時間が増えて、1人でいろんなことを考えるようになってから、いつのまにか、以前とはまったく考え方の変わってしまった自分がそこにいました。それは、今まで知らなかったことを知って多様な経験をした結果だから仕方のないことだとは思うけど、でも少し悲しかったです。
 こんなことって、ほかの人にはくだらないことなのかもしれないけれど、でも、誰もが感じていることだと思うんです。

1990. 4.28. S短大教育社会学
 自分の存在価値・・・。出席ペーパーの紹介で、進路について悩んでいる人の紹介がありましたが、それは私にとってとても心強いものでした。なぜなら、私も同じように悩んでいたからです。なんだか、「ああ、同じ仲間がいた。私だけではない」という気持ちになりました。
 友だち同士で進路については話すけど、心の寂しさなどは言葉でうまく表現できないのです。また、何気なく言ったとしても、相手が本当に理解してくれているかどうかが、不安なのです。今日の出席ペーパーに、とても感謝しています。

1990. 5.12. S短大教育社会学
 今までのことを考えてみると、自分の意思でこれからを変えようと思って自分の生活に変化を与えたことはありません。自分に変化が表れた時は、前ぶれもなく突然きていたように思います。突然というよりは、気がついたら何か自分が変わっていたんですよね。
 自分の意思で未来を変えることの難しさを、この頃、ひしひしと感じています。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 教育社会学を受けてたくさんの経験ができました。いろいろ、自分自身についても考えたり悩んだりもできました。なんとなくだけど、自分の中で何かがふっきれたような気もします。なんとなくだけど・・・。

1990. 5.26. S短大社会教育概論
 先生の話を聞いていると、なるほどなあと納得します。しかし、私も先生と同じ考えになってしまって、自分としての考えがないのです。それでよいのかなとも思います。
 先生の考えを聞いて、自分ではどうか、と考えてみることが大切だとおもうのですが、どうでしょうか?

1990. 6.16. S短大社会教育概論
 (ビデオ「驚異の小宇宙・人体」を見て)人間のあり方というのを深く考え込んでしまった。私という人物は1つしかなく、よりすぐられた生命である。また、この社会のよりすぐられたほかの人たちと暮らしていき競い合うというのは、まさにゼイタクな話であり、逃れられない事実。それに加えて、人間は進化の頂点だと言っている。頂点に立つということは、落ちてはいけない、つねに進化し続けていかなくてはいけないと考えてしまう。いろいろな意味において。つねに頂点に立つ者としての宿命、または、義務を負わないでいては人間でなくなる。形は人間でも。
 このように命の尊さを知るということは、人間だけの特権なのだ。それについて悩むというのが宿命であり、それについて努力していくのが義務であると思う。努力の仕方もいろいろで、それが特技なり趣味なり才能なりへと導かれて、自分が気づかないうちに自分を磨いていって、人生を充実したものへとつないでいくのだと思う。「私の人生、何だったの」と嘆いている人もいるけれど、そう気づいたらしめたもので、これから自分というものを見つけ出せればと思う。それが今、言われている社会教育の内容に入っているものだと思う。今は、いい時代だ。両親に感謝しよう。作文のようになってすみません。それにしても、人間とは、奥が深い。

1990. 5. 9. T大2部社会教育概論
 先生、私、死にたい。ううん、違う。そんなに積極的でなく、とにかく、世の中からいなくなりたい。でも現実的な私が、明日はゼミがある、とか、バイト行かなきゃ、とか、教育実習の手続きしないと、とか、ちゃんと思ってる。あー、でも、やだ。

1990. 5. 9. T大2部社会教育概論
 何が大切なのかは、自分の価値観の問題だ。私たちの世代は、何が大切で、何が大切じゃないのか、自分で選択していくことがとても下手で苦手だ。私も同じく。
 私は自分のことを「先生」という人間がきらいだ。私たちには人生を選択する権利がある。教師は、人間が人生を選択する上で必要な知識を教えるものであると思います。そんな教師に私はなりたい。

1990. 5.23. T大2部社会教育概論
 毎日、仕事して(好きな人ばかりじゃないと思う)、家に帰って、適当に家族サービスして、自分のこと中流だナって思いながら、20年も30年も生きていくのって、何があるのかな。私は30過ぎても思春期やっていたいから、いろんなことを見過ごしたくないから、「足並みそろえて、みんな一緒じゃなきゃ不安」みたいな逃げにまわった生き方はしたくない。とかいって、今でもさんざん逃げているんだけど。

1990. 9.19. T大2部社会教育概論
 自分にしかないものなど、ほとんどないと思う。あるとすれば、何らかのものを発明した人、あるいはその世界(100 m走など、誰が見ても差がわかること)でトップになることぐらいしかありえないのではないか。なぜなら、人は、何らかの集団に属しながら生きていくからだ。つまり、すべてが同じ環境ではないが、部分的にはさまざまな人と同じ環境をいやでも共有してしまうことになるからだ。
 だから、自分にしかないものなど、一般論ではありえないはずだ。私には、そんなことより、「オレはこれが好きだ」というものがはっきりと言えることの方がずっと大切だ。

1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 いったい自分はどんなことをやりたいのだろうか。もしかしたら、これからずっとやりたい仕事など見つからなくて、それほどやりたくないことを我慢しながらずっとやって生きていくのか、と思うと、どうしようもなく不安になってしまいます。

1990.11.28. T大2部社会教育概論
 人は自分の人生を肯定しようとして生きているのだと思います。ごまかしていると言われようが、なんと言われようが、自分の人生を肯定して、自分は正しいのだと信じて、人は人生を過ごしたいのだと思います。ゆがみは忘れて過去の記憶を訂正して納得して生きる。それでいいのだと思います。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 先日、テレビの特集で、看護婦不足のことをやっていました。どうも看護婦の現状のきびしさを結びつけたかったようなのです。(中略)仕事のきびしさと仕事のやりがいとは別のものなので、公平に報道してほしいでーす。(もし、両方を放送していたら、テレビ局さん、ゴメンナサイ)。

1990.12.12. T大2部社会教育概論
 自信についての話の中で、一人だけが100 点をとることが本当の自信ではないということがありましたが、私としては、これを自信として認めたいと思います。なぜかといえば、私自身にこれと同じ経験があり、その時には自分だけ100 点だったので大変自信をつけたことを、今でも印象深く覚えているからです。
 (自己受容における)こんな自分でも世の中には必要と思うことは、現実から逃げて自分の内側の世界にとじこもることであり、自信というよりは、むしろ回避や退行的現象に近いのではないでしょうか。

15 自分の過去や他人への気づき

 変えられないはずの過去や他人について、変えられないとわかっていながらも悩むのが人間の実際の姿であれば、知っているはずの過去や他人のことを忘れていて、何かのきっかけでやっと気づくのも、また、その実際の姿である。
 出席ペーパーに書くという行為によって、それらが不可避的に客観視されることは、援助者が思う以上に、本人自らが自己解決の方向に向かう結果につながるものである。

1990. 5.26. S短大教育社会学
 今日、先生が読んでくれたマンガで、自分のお父さんを思い出しました。お父さんは口数が少なく、仕事から帰ってきてもほとんど言葉を交わすこともありません。でも、私がピンチのときには、やさしい言葉をかけるのじゃなくて、なんとなくやさしさを感じるお父さんの態度が私は好きです。
 私は、お父さんのことをとーちゃんと呼んでます。大学に入って両親と離れたがっていた私は、突然、お父さんやお母さんに会いたくなる時があります。家族って、本当に大切ですよね。

1990. 5.26. S短大教育社会学
 「しっぽのはたらき」を見ていて、思い出した本が2つあります。(略)そのころの自分を思い出しました。絵にとてもひかれて、「何かあるのかな?」と考えたり想像したりする楽しさがあって、このような本は自然でそぼくであたたかいなあと思いました。
 この3冊のそれぞれの作者の意図は異なるかもしれませんが、私には何か同じ思いがあるように感じられました。

1990. 6.16. S短大社会教育概論
 私がけがをしたりすると、お母さんはきまって「親にもらった体を傷つけるのは親不孝なんだよ」と言いながら手当をしてくれる。自分の体は自分だけのもののようであって、自分だけのものではないことがよーくわかる。自分を大切にすることは、他人をも大切にできることなのだと思います。「驚異の小宇宙・人体」は、いろいろなことを考えさせられるすばらしいビデオでした。

1990.12.12. T大2部社会教育概論
 なんで生きてるの、と聞かれたら、生まれちゃったから生きているとか、生きてるんだから生きてる、と私も言ってしまいそうだけど、死んでしまいたいととても思ったとき、とても悲しくなってしまったことを思い出しました。そのころとってもいやだと思っていた人々(職場でも、家族でも)が、そのときは、私にやさしくしてくれたことや心配してくれたことを思い出して、もし死んでしまったら、そういう人々に会えなくなることをとても悲しく思いました。これ以上はうまく書けませんが、私は、私のためと、私を大切にしてくれる人のために、生きているんだなと思います。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 この時間内に、このペーパーを書くに当たって、いろいろなことを考えました。職場でのこと、人間関係のこと、学校のこと。入院していた時には、病院での出来事なども友だちに届けてもらいました。授業中にこんなことばかり考えている時は、ほかにはなかったです。

16 自分自身への気づき

 出席ペーパーに書くことによって得られるもっとも基本的な作用は、自己認知、さらには自己洞察である。それが端的に表れた事例を紹介しておきたい。

1990. 5.26. S短大教育社会学
 彼女(大学の授業をさぼりがちな友だち)自身は、「悪い」とは感じていないようである。私はそのたびにムッとしてしまう。でも、私自身はマイペース型で完璧主義だから、彼女とは根本的に合わないのかもしれない。
 しかし! 彼女は私に不快感を味あわせようとしてこういう行動をしているわけではないのである。その証拠に、私が「今日は姉がいなくて、夕食一人なんだー」というと、「一緒に食べようー」と、誘ってくれた。きのう、フッと思ったが、私がムッとするのは、私にもさぼりたいという気持ちがあるからなのだろうか。

1990. 5.23. T大2部社会教育概論
 先生にとくに(出席ペーパーの)コメントをいただかなくていいです。先生の思っていらっしゃるとおり、書くことで整理しています。このごろ2週間ずつくらいのペースでそううつを繰り返しています。原因もなくひどく落ち込む。外見は明るいみたいですけど・・・。先生、落ち込んだとき、どうしてしますか。

1990. 7.11. T大2部社会教育概論
 (来学期の希望について)「出席ペーパーによるフィードバックシステム」は、私にとってはとても有意義でした。自分が考えていること、書いたことに対して先生からコメントや意見を伺えること、また、他の人たち(同世代の人たち)が、どんなことを考え、どんな生き方をしているか(少し大げさですが)、ということにふれることができること。そして、それについて自分がもう一度、考えることができるというメリットがあったと思います。
 今、思えば、今学期の授業では、70分間、次々といろいろなことに驚き、疑問に思い、否定し、うなずき、考えていたように思います。

1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 癌であるということを知らされている彼(患者)は、私たち看護者に対して、すべてのマイナス感情をぶつけてくる。彼の気持ちもわかる。しかし、私も人間。全部をかなぐり捨てて、怒りをぶつけてこられても、それを100 %は受けとめられない自分を見つけてしまった。

1990.10.31. T大2部社会教育概論
 (エゴグラムを作成して)けっこうさめていると思っていたのに、Aが低く、意外でした。職場においては、ほぼAの部分を押し出して行動しているつもりでしたが、今日の設問に対する自分の回答を見てみると、かなりCPとNPの使い分けで自分のやりたいようにやらせてもらっているようだ、と気づきました。

1990.12.19. T大2部社会教育概論
 ある時期、私は悩みました。彼はいつでも私を愛してくれているので、不満があったわけではありませんでした。自分に自信がもてなかったのです。彼を前にして、自分に自信をもつことができなかったのでした。彼はあまりにやさしく、いきいきとしていて、賢明で、誠実で、そして正直です。自分の生き方を持っていて、情熱的に生きています。「そんな彼が、なぜ、私のことを?」、そんな風に考えるのはつらいことでした。
 彼に出会うまで、私は自信過剰な人間だったと思います。あまり、自分に対して悲観的に考えたことはありませんでした。しかし、彼と出会って、私がもっていたものが崩れ、それらが非常にうすっぺらでもろいものだったと気づいたのです。私は彼の前では、飾ることも、気取ることも、かっこうつけることも、知ったかぶりをすることもできず、「私」そのものであることしかできませんでした。
 (中略)彼からもらうばかりではなく、与えることもできる私でありたいし、そういう意味で、良い関係でずーっとありたいと思うのです。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 (カウンセリングを受けていて)あまりにも客観的に自分を見るようになったため、それが自分だという実感が得られないでいる。自分は確かにいるが、自分が確かに感じているが、それは自分ではないように思う。だから、ある場面を想定して、そのとき自分はどうするか、どんなことを思うか、ということは、分析結果からある程度、予想がつく。
 ここで問題なのは、その想像された自分に対して、肯定できない。そんなふうに思う自分が好きでないと思う。だからといって、そう思わないようにはできないとも思う。その結果、自分自身が嫌いになる。このごろ自己否定が多くなったのは、そのせいだろうかと思う。そして、自分を見つめることが嫌になっている。

17 その他

1990. 5.26. S短大教育社会学
 (美術展で)いっぱしの評論家ぶって、ピカソの絵を語ろうとしていた。そこへ、母親に連れられた5歳ぐらいの少年がやってきて、グニャッと折れ曲がった形で、全身、青く染められた「横たわる女」を見て、「ママ、ゾウさんがいるよ」と、大声で言った。母親は「しっ、静かにしなさい」と、こわい顔をして叱りつけただけだったが、私は「うっ、やられた」と思ってしまった。
 どこが頭で、どこが足で、というのではなく、パッと見て、「あっ、ゾウさん」と、そのまま自然に答えてしまった子どもって、すごいなと思う。今日の「しっぽのはたらき」を見ていて思い出したので、書いてみました。

1990. 6.23. S短大社会教育概論
 (ビデオの中で)ロールプレイングって出てきましたが、私は○○(レストラン)でバイトした時、イヤっていうほどロールプレイングのビデオを見せられました。あのバイトは2度とごめんって感じです。

1990. 4.18. T大2部社会教育概論
 (スクエアヘッドとエッグヘッドの話題で)私は、あいまいさを許容できないために、かなり無駄な気苦労をしてしまっていることに近頃気づきました。でも、柔軟になろうとすればするほど、つまらないことまで気になって考え込んでしまいます。

1990. 4.25. T大2部社会教育概論
 教育は、どうしても上下関係が生じてきやすい。それには必ず反動がある。価値観を自分でたえず捜しながら耐えている現代人の中で、人に教える立場はかなりつらいと推察する。

1990. 5.23. T大2部社会教育概論
 (公民館のビデオを見て)しばし日常の顔(立場)を忘れて、人が集まって文化的行為に没頭することの重要性を再確認しました。仕事と家庭、学校と家庭という器に入りきらない、人の多様な希望を実現させる場としての価値は大きいと思います。競争の原理で計られずにすむことは、人間性回復にとって重要だと思います。
 自主性を尊重し、支援していくという立場が要だと思いました。公民館主事の仕事は、結局、縁の下の力持ち的存在として光ってくる仕事だと思いました。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 趣味などの小さな個人的なものを、わざわざ行政の場にもってきてやる必要があるのかと考えてしまった。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 (生涯学習啓発ビデオを見て)なんだかとても苛立ってしまって、途中で帰りたくなった。奇麗ごとを山のように目の前に並べられた気分だ。だいたい、生涯学習の定義をいくら言われても納得がいかないというか、しっくりいかないというのが実感だ。人が何を糧に生きていくかと考える上で、今みたいなビデオの話が核心ではない気がする。

1990. 5.30. T大2部社会教育概論
 (生涯学習の推進を)たしかに行政側も必死にやっているし、あまり裏読みしすぎるのはよくないという先生の言うこともわかるが、僕にはどうしてもその必然性が見えないのだ。資本主義体制の下では、トクにならないことはやらない、というのが当然であり、「生きがいを発見してもらう」という理由だけで、今、これだけの生涯学習熱が高まっているのだとは、とても思えない。それならば、生涯学習はたんなる行政の好意だけで運営されていることになる。ビデオでは、みごとにその辺に触れていなかったので、食いたりなかった。

1990. 6.13. T大2部社会教育概論
 徳育や性教育は、人間が長い時間生きてきた間で培ってきた生きていくうえでの大切な情報を伝えるものだと思う。でも、どんなに重要な情報でも、その意図するところが相手に理解されなければ意味がないと思う。
 映像は事実や現実をそのまま伝えるだけだから、どう受け取るかは見る方の自由だという意味では、伝えたいものが伝わらないおそれがある。だが、それぞれの人が、自分の考えや実生活の体験などと直接結びつけて理解することができる点で、理解度は高いと思う。

1990. 6.13. T大2部社会教育概論
 精神障害者を援助する仕事で、手工芸、スポーツ、喫茶店などを一緒にやっていますが、私の意に反して、ペダゴジー一辺倒になってしまい、依存性を助長している結果になっている気がします。相手は退行している人も多いので、ある部分は子どもと同じであるともいえるし、人手不足から効率を優先するという現実的理由もあるのですが、日々悩んでいます。

1990. 9.19. T大2部社会教育概論
 今回のこと(事故による怪我)で、普通にやっていたことができなくなるつらさを何度も感じました。「歩けるようになるのか・・・」、今まで考えたこともなかったことを考えました。歩くことをそれまで強く意識したことはなく、生活の中で当然のこととしていたなと思います。歩けることに感動するとは、思ってもみませんでした。長いか短いかわからない人生の中で、大きな勉強をしたな、と思います。でも、一歩間違えば人生が終わっていましたね。

1990. 9.26. T大2部社会教育概論
 「個の深み」は、それぞれの人が異なるものを持っているはず。そうすると、ここで言われている個とは何なのだろう。たとえば石にだって「個の深み」を見ることができると思う。石は見る者に、さまざまな印象を与えられる。石は、形も違えば、色、模様も異なる。とすると、これも一つひとつ個をもっていると言えないだろうか。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 職場のスタッフから仕事をやめたいとの退職の相談(?)というか、宣言がされる。私のところに意思表示するときには、もう彼女たちの気持ちは固まっている。こんなこと、もう3年も続けている。ホントはとっても悩んでいる。気持ちが固まる前に何らかのサインを出しているというのだが、気がつかないんでしょう。仕事をしていて、「3月いっぱいでやめさせてください」と言われると、「またか・・・」という思いが全身を走る。最近、疲れている私です。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 これに書いたら気持ちが晴れてほしいと願いながら書いています。また、失恋をしました。(中略)今、考えて残念なのは、はっきりとお互いに意思を伝えていなかったこと。相手から、○○がいや、と言われた方が、私の気持ちはどんなに整理がつくことでしょう。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 冷静に考えれば、(自分の通っているカウンセリングの)このドクターは、いい医者なのだと思います。しかし・・・。私のいらだちは、どうすればいいんでしょうね。非指示的カウンセリングを行いながら、しかも、患者にいらだちを感じさせなくなったら、私はこのドクターに花マルをつけてあげるんだと思ってます。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 この状態(末期症状の癌の患者)になっても、家族は医師へのうらみつらみを言っていて、今、患者に一番しなければならないことが考えられなくなっています。そんな家族にここ数日振り回されながら、私は、どんな死を患者に迎えさせることがよいことなのか、と考え、思い悩んでいます。

1990.12. 5. T大2部社会教育概論
 (流行歌の歌詞を書いたあとで)歌なんて書いてしまってすみません。でも、落ち込んでいるとき、この歌を聞くと、ほのぼのとした気持ちになれるんです。今、すっごく落ち込んでいます。嫌なことって、どーしていっぺんにやってくるのでしょう。でも、がんばらなくては・・・。つらいからといって、逃げることだけはしたくないから。
 明日もがんばって会社へ行きます。

1990.12.12. T大2部社会教育概論
 (通る道が)明るかろーが、(レイプされた女性が)地味なかっこをしていよーが、おそう男はおそうのよね、どーやら。どーして私が、この話をBBSにもってきたかというと、考えてほしいの。彼女でも友人でもいいから、男女間で話し合ったりしていしいな、と思ったのです。話しにくい内容かもしれないけれど、タブーにしてもいけない、現実に起きていることだから。
 女は女だけで、男は男だけで、ギャーギャー騒いでいるんじゃ何にもならない。将来、自分の奥さんや娘さんが被害にあわないという保障は、どこにもないんだからね。

1990.12.12. T大2部社会教育概論
 この間、在日韓国人のおばさんと日本語の勉強をしていて、あっ、いけない、と思ったことがあります。私の中には、まだ、教えている、という意識があるのだなあ、と。あくまで手助けなのに、何か自分のやり方みたいなものを出してしまったので、そのおばさんに、私は読みたいんですって言われちゃった。たしかにマンツーマンだったら(基本的にはそうなんだけど、そのときは人が足りなくて、私は3人を見ていた)、また、ちがったのだろうけど。「能率」みたいなものを先行させちゃったんだー、と思った。
 あくまで、おばさんのやりたいこと、知りたいことに、応えられればいいのかな。そこに、私の主体性はどうなればいいのだろう。でも、おばさんの勉強に対する姿勢って、感動しちゃいますよ、うん。

1991. 1.16. T大2部社会教育概論
 物療室でのほのぼのとしたコミュニティという話が(西村から)でましたが、私は、そのコミュニティの迫力に、いつも圧倒されています。ほのぼのとしたコミュニティの中での会話の例です。「私はね、両方の膝を人工関節に入れ換えてもらったのよ」、「あら、私は股関節を入れ換えたの、ほら見て」、「私は20針ほど縫ってもらったんだけどネ。先生が上手で縫い目がこんなにきれいなのよ」、「あらいいわねェ。私の方はちょっとひきつれちゃってたりするのョ。冷えたりすると痛いの」、「ひきつれてなくたってね、冷えればやっぱり痛いわよ」、「私はリウマチで、両膝、両股関節、両肩の6つを人工関節にしたのよ。足の方はよく動くけど、手の方はあんまりよくないわ」、「6回も手術したの?」、「とんでもない。人工関節にする前にも関節の手術はしてるから、今回で9回目になるわ」、「すごいわねェ。私なんて股関節の手術を1回しただけなんだけど、痛くて大変だったわ。9回も手術なんてねェ」、「あら、でも、手術が痛いって言っても、リウマチの痛みよりは楽だもの・・・」。私は、こういう「ほのぼのしたコミュニティ」と、今後もつきあい続けていくのです。

1990.10.11. K研修所社会教育職員研修
 その講義が「タイクツ」するかしないかは、講義を聞く側の認識の問題である。
 ネクタイをはずすことにより、何の効果があるか。少なくとも私は、自分の講演・講義においてネクタイをはずしたことはない。はずすことによって満足を覚えるのは本人のみであり、「私も(ネクタイを)はずしますので、みなさんもリラックス云々・・・」は、自己中心的であろう。それよりも話術の中にリラックスさせる要素を盛り込むべきである。

18 参考

1990. 4.14. S短大教育社会学
 がんばろうと思いますので、よろしくお願いします。とは言っても、”がんばろう”と思うのは最初だけで、後半、ダラダラしちゃうんですよね。それはきっと授業がつまらなかったからだと思います。だから、退屈しない楽しい授業だとうれしいなと思います。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 はじめまして。今日は最初の授業ですが、これから楽しい授業になりそうな感じがします。この学校に入って2年目、どうしてここへ来てしまったのか、などと後悔しておりますが、一人暮しの気楽さと大勢の友だちとのふれあいを大切にしてます。なんといっても、これが一番楽しいですもの。
 そして、この授業、「つまんなそう」と思ってましたが、なんだか先生がきさくな人なので安心しました。どうぞよろしくお願いします。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 はじめ、先生が教室に入ってきた時、まじめな先生に見えていやだなあと思っていましたけど、おもしろいので、これからの授業も楽しく受けられるのではないかと思っています。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 イタリア人の先生の授業で、先生は何度も「書くより聞いてください」と言っていました。私たちは小学校から、まず書いて覚えていました。そういうところからも、外国と日本の教育方法が違うんだナ・・・、と思いました。

1990. 4.14. S短大教育社会学
 「幸せになりたい」というのは、私もよく考えることですが、「あれ、私、今、幸せだ」なんて、思うときがあるんですよね。そんな、ふとした幸せがいいんじゃないかと思います。

1990. 7. 7. S短大教育社会学
 (スタンツ大会を行ってみて)音大に入って個人活動(ピアノ練習)などが多く、大勢で集まるのはたまにしかなくて淋しい感じがしていました。今までの高校生活の学級のまとまりが懐かしくなります。大学の淋しさは、大勢の人がいるのにまとまりがないことだと思います。今日の発表会で楽しさがよみがえってきました。土曜日は、この教育社会学1つだけのために学校に来るので最初はいやでしたが、そんなことは忘れていました。

1990. 5.12. S短大社会教育概論
 私は老人天国になるこれからは、音楽を通してのシルバー教室を開きたいと思っていました。ですから、この社会教育をとったというわけです。しかし、老人相手となると、並み大抵のことではありません。友人がカルチャークラブで、フルートの助手をやっていて、自分よりはるかに歳の入った40〜60歳の方を教えることがしょっちゅうだそうで、とても気疲れすると嘆いていました。
 今の老人の方々は知識人ですから、自分がもっともっと多くの知識を得なければ、そんな教室を開くことなど、とうていできません。

1990. 6.16. S短大社会教育概論
 やっぱり、このビデオ(「驚異の小宇宙・人体」)は、1家庭に1つ強制的に置いたほうがいい。人生に少しぐらい挫折したとき、これを見れば、「私は何億という中からの、超エリートだ!」とか思って、気持ちが晴れると思うし、世の中で悪いことをする人も減ると思うし、中絶をする人もいなくなると思うし、何よりも両親を大切にすると思う。
 生まれたての赤ちゃんの脳がゴリラといっしょというのは、ちょっとショック。私、今でも脳みそはチンパンジーぐらいかもしれない。
 ゲシュタルトの祈りは、ちょっとさびしすぎる。むなしい。

1990. 6.16. S短大社会教育概論
 学校で初めてDNAという物質について習ったとき、このVTRを見ていたら、そのあと、人体についての新聞記事などを読んだときに、もっと興味をもっただろうに、と思いました。

1990. 6.23. S短大社会教育概論
 生涯学習って叫んでいても、地方の山の中にはそんな環境はないから、学習したい人がいてもできない。まず、差別なく、環境を整えてほしい。私は、個人的には、勉強という言葉のほうが好きです。

1990.10.13. S短大社会教育概論
 (交流分析の)先生の話に「仮面的交流」というのがありましたよね。あれがすごく感動しました。あのようなことは、大学に来たからこそ知ったことで、とてもうれしかったです。



日本教育年鑑1992「メディア利用学習」
             昭和音楽大学 西村美東士

別紙
表1 学習・文化に関わる各省庁の情報・メディア政策
 (去年の様式に合わせてこの原稿をもとに作表してください。)
表2 文京文学館の内容
表3 ハイパー・サイエンスキューブの内容
表4 岐阜県美術館ハイビジョンギャラリーのシステム構成
表5 町田市立国際版画美術館ハイビジョンギャラリー&ホールのシステム構成

「学習情報の基盤整備」
●生涯学習と情報 《一次情報と二次情報》 ここでは、学習情報を一次情報と二次情報に分け、その両方を扱う。一次情報とは、学習者が直接そこから学習することをおもな目的とする学習情報である。一般の文献、映像、学習材、教材、ファクトデータなどがそれである。二次情報とは、一次情報に関する情報や、学習者が希望する学習活動を行うために必要な情報である。たとえば、どこでそういう学習が行われているか、どうしたらそういう学習ができるか、などを伝えてくれる情報である。
《学習情報のネットワーク化》 生涯学習の時代といわれる今日、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習活動が行われている。しかし、それらの発信する一次情報の中から求めるものを入手したり、二次情報を全体的に見通して把握したりすることは、市民個人の立場からは難しい場合がある。そこで、それらの学習情報をスムーズに流通させるための基盤の整備が必要になる。
 この基盤整備の仕事の鍵になる言葉が「ネットワーク化」である。学習情報のネットワーク化とは、それぞれの情報や情報主体がもつ固有の価値を失うことなく、むしろそれを生かす方向で、情報主体の連携・協力を得て、ばらばらだった情報をシステム的に再構成することである。とくに、二次情報のネットワーク化については、学習情報提供システムにおいて取り組まれている。
●学習・文化に関わる情報・メディア政策 文部省では、学習情報提供システム整備事業、新しい教育メディアの活用方策の検討、文教施設インテリジェント化パイロット・モデル研究、国立婦人教育会館WINET、通産省では、ニューメディア・コミュニティ構想、ハイビジョン・コミュニティ構想、郵政省では、テレトピア構想、ハイビジョン・シティ構想、放送ライブラリーの開設、自治省では、地域情報化の推進、地域衛星通信ネットワーク整備構想、地域情報ネットワーク整備構想、図書館情報ネットワークシステム、公共施設案内・予約システム−ハイビジョン・ミュージアム構想などが施策化されている。それらの概要と特徴は表1にまとめたとおりである。
 また、表に上げたほかに、農業経営等の情報化を促すグリーントピア構想(農林)、アーバンフロンティアの創造を図る情報化未来都市構想(通産)、多極分散型の国土形成をめざすテレコムタウン構想(郵政)、高度な教育訓練についての地域間や企業間の格差の軽減を図る遠隔教育訓練システムの研究(労働)、都市を情報市場および情報活用の場として積極的に活用しようとするインテリジェント・シティ構想(建設)、国公有地の活用と情報機能等の導入を図る新都市拠点整備事業構想(建設)、自治体の役割を発揮する地域CATV事業(自治)、などが進められている。
●生涯学習情報の全国的ネットワークの構想
《検討の経緯》 昭和六十・六一年度、文部省に設けられた「学習情報提供システムの整備に関する調査研究協力者会議」によって、昭和六二年七月に「生涯学習のための学習情報提供・相談体制の在り方」がまとめられた。平成元年度には「全国の生涯学習情報のシステム化に関する調査研究協力者会議」が同じく設けられた。この会議では、まず、システムについて検討する際の基本となるデータベース構築に関し、情報の分類と様式の標準化について検討を行い、同年一一月に「生涯学習情報の分類と様式の標準化について」のとりまとめを行った。
 その後、社会の変化や人びとの日常生活圏の拡大、学習活動の広域化などにより、今後ますます拡大する学習ニーズに的確に対応するためには、より広域的、全国的な情報提供体制が重要となってくるという観点から、各都道府県で整備されるシステムの広域的な相互利用のあり方について検討する一方、あわせてこれらのサービスを全国的・総合的に支援するため、全国的レベルで共通に利用できるデータベースの構築や具体的な支援機能のあり方等についても検討を行い、平成三年八月に「生涯学習情報の都道府県域を越えた提供の在り方について」のとりまとめを行った。
《都道府県域を越えて生涯学習情報を提供する必要性》 とりまとめでは、次の5点を挙げている。
 @情報量及び情報範囲を拡大し、提供される情報への信頼を高め、利用の促進を図るため、A豊富で多様な情報を提供することで、人びとの学習活動の活性化を図るため、B都道府県レベルにおけるデータベースの効率的な構築を進めるため、C都道府県レベルのシステムの普及促進に資するため、D情報提供の改善、新たな学習機会等の企画に資するため。
《全国センターの設置》 国、都道府県、民間において収集、提供される学習情報を、人びとが地域的制約を受けることなく適切に利用できるようにするためには、全国的な規模で情報の有効な利用を支援するための仕組み、全国的情報システムが必要であり、その中核的な役割を担う全国の生涯学習情報のセンター機能を整備することが最も効果的、ととりまとめでは述べられている。そして、このセンターは次のような機能をもつものと考えられている。
 @全国的情報システムの整備と運用、A全国的情報の収集とそのデータベース化、Bデータベースのカタログの構築、C情報提供・相談担当者の研修、D新たな情報提供の方法についての調査研究、E情報提供に関する意見等についての調査。
 情報には、もともと境界を越えるボーダーレスな傾向が強いが、以上のような構想はそれに対する積極的な取り組みとして評価されよう。
              (西村美東士)
《参考文献》
1 西村美東士「学習情報提供事業の企画と展開」『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社、一九九一年
2 自治大臣官房情報管理官室『地域情報化読本−地域情報化の考え方、進め方−』ぎょうせい、一九九二年

表1 学習・文化に関わる各省庁の情報・メディア政策

学習情報提供システム整備事業
文部省
 87年度、群馬県、兵庫県に対して補助が開始された。国は県に対して定額を補助。県と市町村が連携して、コンピュータ等の活用によって、学習機会、施設、団体・グループ、指導者、学習教材、各種資格、学習プログラム等の学習情報提供と相談を行っている。
 この補助事業のほかに、東京都の行うトミンズや市町村などでの独自の取り組みも盛んになりつつある。なお、91年度から、県立図書館を中心とした図書情報ネットワークの事業についても補助を開始している。
福島、千葉、奈良、石川が加わり、計17県に
 個人への学習援助として重要、第一線の市町村職員の積極的協力が必要

新しい教育メディアの活用方策の検討
文部省
 87年4月、社会教育審議会教育メディア分科会から「生涯学習とニューメディア」が出された。91年度、生涯学習審議会社会教育分科審議会教育メディア部会から、「新しい教育メディアを活用した視聴覚教育の展開について」という報告が出された。
 マルチメディアやハイビジョンなどの新しい教育メディアが高機能で多様な教育・学習への応用性を持つものとして注目されるなどの理由から、その教育利用の可能性や活用のあり方などについて整理している。
92年3月30日、報告
 人材育成体制の充実や全国的教育映像メディアのデータベース構築

文教施設インテリジェント化パイロット・モデル研究
文部省
 88年7月に発足した「文教施設のインテリジェント化に関する調査研究協力者会議」が、90年3月、「文教施設のインテリジェント化について−21世紀に向けた新たな学習環境の創造−」をまとめ、その後、90年度から文部省が自治体にパイロット・モデル研究を委託している。
 91年度の研究委託は、地域学習環境総合整備計画(新発田市)、特色ある文教施設複合型整備計画(鯖江市)、特色ある文教施設個別整備計画(埼玉県、具志川市)の3種類、4件である。
左記の1県3市にパイロット・モデル研究を委託
 学校や生涯学習センター・施設を地域に開かれた情報拠点にする試み

国立婦人教育会館WINET
文部省
 91年7月から、国立婦人教育会館でオンライン情報検索サービスが開始された。各地の婦人会館や教育委員会、首長部局の婦人問題担当室、生涯学習センター等の社会教育施設、大学図書館等を電話回線で接続し、女性・家族に関する全国的ネットワークを形成しようとするもの。
 従来から蓄積されていた資料を、図書資料、地方行政資料、和雑誌記事、新聞記事インデックスの4つにデータベース化して提供している。また、利用の便宜のために、個別の依頼に応じた研修なども実施している。
初年度末(92年3月)で接続機関数は 117
 女性・家族に関する学習情報データベースへの今後の発展が期待される

ニューメディア・コミュニティ構想
通産省
 83年、通産省の地域情報化施策として打ち出された。地域の産業だけでなく、社会や生活の各分野のニーズに即応した情報システムを構築。先端技術産業型、流通型、中小企業型のほか、保健・医療・福祉型、行政情報型、リゾート型などのさまざまなタイプがある。
 鹿屋市では87年度に健康増進データベースを構築し鹿屋ネットを開局していたが、91年度には生涯設計情報データバンク(KIND)サービスも開始し、パソコン通信による市民ベースの盛り上りを見せている。
21のモデル地域と60の応用発展地域に、応用発展地域4地域追加
 モノだけでなく地域の人々の学習・健康・生きがいなどの志向を反映

ハイビジョン・コミュニティ構想
通産省
 89年度、開始。「次世代映像メディアであるハイビジョン」を用いて地域住民サービスの充実、地域産業の活性化を図る予定の自治体を指定し、その事業を行う者に対して財政投融資等の政策的な支援を講じている。
 89年に指定された島根県仁摩町では、シルバーランド計画の実現に向けて、砂博物館にハイビジョン等の導入によるリアルな体験スペースを構築し、砂に関する初歩から専門までの学習・研究の場としている。
90年度までの20自治体に加えて、9自治体を指定
 ハイビジョン普及支援センターにおいて、映像教育や博物館も研究中

テレトピア構想
郵政省
 83年、「未来型コミュニケーション・モデル都市構想」のもと、日常的な情報交流を中心とした生活レベルでの情報圏の構築をめざして打ち出された。コミュニティタウン型、観光・レクリエーション型などのタイプがあり、教育・文化・カルチャー・図書館情報システムを含む。
 CATVやローカルビデオテックスなどのニューメディアをモデル都市に導入し、地域が抱える問題点や、家庭、経済および地域社会に及ぼす影響などを実体験を通じて把握しようとしている。
85年3月の第1次テレトピア指定以降、指定地域は累積で102
 生活情報圏への注目、多彩なタイプとシステム

ハイビジョン・シティ構想
郵政省
 88年度、開始。ハイビジョンを都市空間に導入して、活気と潤いにあふれた先進都市を構築することをめざしている。国は、支援措置を講ずるとともに、システムの導入、利用方法、ソフト供給、ネットワーク化などのあり方について調査研究を行っている。
 91年度は、モデル都市のうち、厚木市七沢自然教室、大垣市スイトピアセンター図書館、名古屋市科学館、京都市社会教育総合センター、松江市生涯学習センター、佐賀市文化会館などでシステムが導入された。
88年度のモデル都市の指定以降、累積で24地域、25都市を指定
 関連メーカーや団体でハイビジョン推進協議会を設置し普及促進活動中

放送ライブラリーの開設
郵政省
 88年から「放送ライブラリーに関する調査研究会」を設置していた。その報告のもとに指定を受けた「放送番組センター」が、91年10月、横浜市みなとみらい21地区に放送ライブラリーを開設した。ここでは、放送番組の収集、保管、公衆への視聴サービスなどを行っている。
 放送番組は、日々の現実の社会、人々の生活、風俗を反映した記録であり、映像による生きた社会史、生活史を検証する国民的財産である、との認識から、放送番組の価値の大きさに注目したものである。
89年度の放送法改正や予算措置の上で、初めて指定法人を指定
 インナーライブラリーと異なる公共的ライブラリーとしての独自の役割

地域情報化の推進
自治省
 90年1月、「地方公共団体における地域の情報化の推進に関する指針」を提示。この指針は、地域情報化計画の策定、地域情報通信基盤施設の整備、地域情報通信システムの開発、推進体制と人づくりの4本柱からなっている。
 国の他省庁の地域指定やモデル事業についても、これを自治体の自主的な事業としてとらえ、地域情報化事業を総合的に推進していこうとしている。
とくに市町村の地域情報化計画策定の取り組みを推進中
 縦に下りてくる国の他の施策をつなぎ、地域の包括的な情報化を推進

地域衛星通信ネットワーク整備構想
自治省
 89年、自治体衛星通信活用検討会で検討。90年2月、自治体衛星通信機構、設立。現在の地上系無線による防災行政無線の機能を拡充し、回線数不足や回線品質の悪さを抜本的に改善するとともに、防災情報の画像伝送を行うことが目的。
 全国の自治体の共同事業として実施することにより経済性や全国ネットワークの可能性を高めるとともに、「地域映像情報発信事業」で、観光、芸能などの地域情報を全国に向けて発信することもめざしている。
91年12月、運用開始
 防災無線中心だが、研修・イベントなどの映像の地域からの発信も可能

地域情報ネットワーク整備構想
自治省
 90年度から、個別事業ごとに自治体と共同で情報通信システム開発のあり方について検討。具体的には、地域カードシステム、図書館情報ネットワークシステム、公共施設案内・予約システムがある。91年6月に「コミュニティ・ネットワーク構想推進要綱」を各自治体に提示。
 最近の情報化のポイントがコンピュータと通信との結合にあることを考慮し、情報通信システムの開発に関連する事業を実施するために必要な手順を明らかにしようとしている。
91年8月、合計16地方自治体を指定
 自治体によるそれぞれの事情に即したシステム開発

図書館情報ネットワークシステム
自治省
 90年度から検討を開始。複数の図書館をコンピュータと通信回線を利用してネットワーク化することによって、身近な場所で、全国の図書館の図書の検索、予約、借り受け、返却などができる図書のサービス供給体制を整備することが目的。91年度、5団体が概要設計に入った。
 書誌データベースの標準化、業務運営方法の統一、コンピュータ異機種間接続の方法を検討し、並行して自治体間の重層的な図書館情報ネットワークの形成をめざしている。
91年10月5地方自治体を指定
 複数の自治体にわたる統合のメリット(互換性)と問題(独自性など)

公共施設案内・予約システム
自治省
 90年度から検討を開始。自治体が、公共施設、制度、行事、人材バンクなどに関する諸情報を、全庁的に一元化するデータベースを形成するとともに、ニーズに応じて各種メディアを通じて住民に提供する。いつでも、どこからでも、案内、予約ができることが目的。
 各施設の事務手続の統一化、施設相互の協力関係の確立、コンピュータ異機種間接続の方法を検討し、並行して民間施設もシステムに取り入れつつ、広域的なネットワーク化をめざしている。
検討中
 公共施設等の一元的管理のメリット(便宜性)と問題(各施設の個性など)

ハイビジョン・ミュージアム構想
自治省
 90年度から検討を開始。全国の美術館に収蔵されている絵画などの美術品をハイビジョン静止画像としてデータベース化し、これを全国の公共施設などのハイビジョンを通じて広く地域住民に提供することによって、全国各地で一流の美術映像を鑑賞する機会とすることが目的。
 従来のテレビに比べてはるかに鮮明できめ細かな画像を提供することができるようになる。また、既存の美術館活動を補完するとともに、地方における美術鑑賞機会の拡大を図ることが可能になる。
91年4月、「ハイビジョン・ミュージアム推進協議会」設立
 地方の美術館でも本当の絵に近いものを提供可能、課題はソフトの充実

注1 数字は91年度  注2 文章の表現は、筆者による。とくに「意義・課題」の項は、筆者が各施策を生涯学習の観点から位置づけたものである。

「ニューメディアの学習利用」
●生涯学習とメディア利用 《情報処理の中の学習》 人々の学習には、必ずなんらかの情報が関わっている。人間の認識は、頭の中だけでの純粋な思索活動だけで発達するのではない。情報を収集し整理するという「外在的作業」によって、大いに育まれる。また、必要な情報を受け入れ、それを自己の思考のなかで加工し、新たな情報を生み出すことは、自己の認知の枠組を変えることでもあり、学習の過程そのものであるともいえる。
 一方、人々の学習を援助するという観点からも、情報は重要である。学ぶ対象としての情報(教材など)や、その情報についての情報、その情報を得る機会や方法についての情報などを整備し、学習者の多様なニーズにこたえる情報環境をつくることが生涯学習行政にとって重要な課題になる。
 このように学習にとって重要な意味をもつ情報を運ぶメディアの役割については、当然同様に重視されなければならない。しかし、その場合でも、情報の収集から発信にいたる作業には、その個人の認識を育てるすべての作用が内包されていることを考えれば、情報処理やメディア利用への学習者の主体的な関与、すなわち「参加」が大切であるといえる。
 コンピュータやニューメディアに関しても、機器を使用しているか否かという外面的なことではなく、それが学習者個人のニーズにマッチしているのか、さらには、それぞれの人がより主体的に学習やメディア利用に取り組むために役立っているのか、という深い視点が必要である。
《メディア・リテラシーの修得》 リテラシーとは「読み書きの能力」という意味であるが、最近のメディアの発展やニューメディアの誕生の中で、人々は好むと好まざるとにかかわらず活字媒体以外のメディアにも直面するようになり、その活用の能力が重要になってきている。この能力をメディア・リテラシーと呼ぶ。
 生涯学習援助の観点からは、まず、情報化の「光と影」のうちの「影」の部分が注目される。そこからは、メディアといっそううまくつき合えるようになるための教育サービスとともに、情報化が人間に与えるマイナスの影響を克服するための人々の主体的な営みへの援助も重視される。後者のように批判的にメディアと接することのできる主体性も、今日求められているメディア・リテラシーの一つなのである。
 さらにつきつめて考えると、個人が情報を必要と感じるのは、当人なりの課題意識があるからなのだが、その課題意識そのものが空洞化しているという現代社会の人間の非主体的状況が浮かび上がる。しかし、その根本からメディア・リテラシーを構築するためにも、やはり、情報・メディアサービスから始めるほかはない。
●新しい教育メディアの活用 《関連する報告の経緯》 昭和六二年四月、社会教育審議会教育メディア分科会が、「生涯学習とニューメディア」で、生涯学習を支援するためのメディア利用の可能性などについてとりまとめた。平成二年六月、社会教育審議会社会教育施設分科会が、「博物館の整備・運営の在り方について」で、新しいメディアを活用した展示の工夫やハイビジョンギャラリーの整備について提言した。平成三年六月、生涯学習審議会社会教育分科審議会施設部会が、「公民館の整備・運営の在り方について」で、マルチメディアやハイビジョンの学習活動への活用を提言した。
 以上の経緯のうえで、平成四年三月、生涯学習審議会社会教育分科審議会教育メディア部会が、「新しい教育メディアを活用した視聴覚教育の展開について」の報告を行っている。この報告は、マルチメディアやハイビジョンなどの新しい教育メディアが、従来の教育メディアよりさらに高機能で多様な教育・学習への応用性を持つものとして注目されるなどの理由から、これらの新しいメディアの教育利用の可能性や活用のあり方などについて整理し、学校教育及び社会教育の場における教育・学習方法の改善等を図ることを目的としてとりまとめられたものである。
《教育の今日的課題と新しい教育メディア活用の意義》 報告では、教育メディアに関わる教育の今日的課題として、生涯学習の推進、自己教育力の育成、学習の多様化・個別化、社会の情報化への対応を挙げている。また、新しい教育メディア活用の意義としては、生涯学習の場の拡大、教育・学習方法の改善・充実、学習に関する情報の提供、視聴覚教育の現代化・一般化を挙げている。
 なお、生涯学習の場の拡大に関しては、学習時間や学習場所の制約を克服する有効な手段としての教育メディアの可能性とともに、主体的な個別学習を援助することのできるマルチメディアや、精細な画面で学習資料を提示することのできるハイビジョンなどの可能性が示されている。以下、報告からその概要を紹介する。
《マルチメディアの教育利用》 マルチメディアの教育的特性としては、@映画やスライドなどの既存の映像資料が活用できるとともに、視聴覚教育で培った知識・技術等が活かせるなど、従来の教育メディアの特性を吸収した形の発展が期待できる、A多様なメディアを総合的に関係づけて利用できることから、これらの情報に個人が直接働きかけ、自分たちの手でもう一度内容を検証して問題を発見したり、付加的な学習情報を得ること等により、学習者の主体的な学習(個に応じた学習)が可能である、Bマウスやタッチパネルのほか、音声認識やペン入力など簡便に操作できるシステムが開発され、幼児や児童でも容易にコンピュータに慣れ親しむことが期待できる、Cビデオ、写真などを使用することで、自作の視聴覚教材を活用したマルチメディア教材の作成が可能になり、学習者のねらいに即した教材化が容易になる、D現在、通信衛星や高速通信網の整備が進み、画質や音質の劣化がない高品質の映像情報を双方向でやりとりする遠隔教育も可能となってきており、これらとマルチメディアを組み合せて人びとの学習機会の拡大を図ることが可能である、の5点が挙げられている。
 考えられる活用分野としては、@多様な映像資料の蓄積と対話式情報検索機能を利用した情報活用能力の育成、A映像資料の多様な編集機能を利用した自作教材の開発、B電子メディアによる映像資料等と検索機能を利用した教材の提示・演示、C映像と音声による説明機能と多様な検索機能を利用した各種博物館などでの資料提示や作品案内、D映像、音声、データベース機能などを有機的に結びつけ多様な場面を造り出す機能を利用した仮想的な各種博物館の構築、E映像と音声による提示機能、学習者の音声記録・再生機能等を利用した学習、F映像と文字による説明とコンピュータプログラムによる画面選択などの多様な機能等を利用した情報提供、G映像等の入力機能と編集・表示機能を利用した教材提示、の8点が挙げられている。
 利用に当たっての留意事項としては、マルチメディアは高度な仮想的現実をつくることもできるが、それが間接的体験であることに配慮し、実体験と合わせて完結する学習分野もあることに留意すること、映画、写真、放送、音楽など他人の著作物を取り込む場合には著作権等に、教材の開発等に当たってはプライバシー及び肖像権の保護に留意すること、などが示されている。
《ハイビジョンの教育利用》 ハイビジョンの教育的特性としては、@従来のテレビと比較して、音質が良く、高精細度の画質であり、これまで以上の臨場感や現実感の高い視聴体験が期待できる、A大画面でも高精細度の性能が発揮され、視野の拡大をもたらし、質の高い学習情報を提供できる、Bコンピュータの情報と親和性があり、コンピュータと組み合せて利用する学習が可能である、の3点が挙げられている。
 考えられる活用分野としては、@迫力ある実写やリアルなシミュレーションを活かした鑑賞用ソフト、A各種博物館等での資料紹介、付加価値情報の提供や静止画データベース、B衛星を利用したテレビ会議等や双方向の遠隔教育の手段、C大画面によるハイビジョンシアター、Dハイビジョン技術を駆使した映像制作、E電子出版やビデオ出版、の6点にわたって、その利用の可能性が述べられている。
 利用に当たっての留意事項としては、情報化の影の部分への配慮が必要であることなど、マルチメディアの場合と同様に考えられるとされている。
《視聴覚教育の展開方策》 新しい教育メディアを活用した視聴覚教育の展開方策については、@人材育成体制等の充実、Aマルチメディア教材等の開発促進と連携協力、B視聴覚センター・ライブラリーの機能整備の促進、C全国的教育映像メディアのセンター機能の必要性についての検討、D一元的な著作権処理システムの検討、の5点が挙げられている。
 そこでは、たとえば、@については、マルチメディア教材の制作に携わる人材育成を図るための、映像に関する教育を中核とした大学・大学院等における関連コースの充実、Cについては、全国的映像メディアのデータベースの構築、Dについては、国と関係団体等による共同の検討などが提起されており、注目に値する。
●マルチメディアの活用事例 報告では、マルチメディアおよびハイビジョンの活用について次の4つの事例が資料として収録されている。
《文京文学館》 夏目漱石や森鴎外が居住した観潮楼を中心とした明治の文豪の足跡をたどった「文京ゆかりの文人たち−観潮楼をめぐって−」(岩波映画、三八分、一九八八年教育映画祭優秀映像教材選奨最優秀賞)を利用し、その映像をレーザーディスク(三十分)に収め、さらに、映画に関連した資料や朗読音声などをコンピュータソフトに収めている。(表2)
《ハイパー・サイエンスキューブ》 岩波映画の「力の平行四辺形」、「風に向かって走るヨット」、共立映画の「川の流れと進む舟」に盛り込まれた4つの実験映像のほか、日常の物理現象・自然現象を集めたビデオ映像集をレーザーディスクに収め、さらに、映像に関連した資料情報などをコンピュータソフトに収めている。学習者はマウスを操作し、「講義」「問題集」「ライブラリー」「ツールボックス」の4つの内容を使って、映画とテキスト解説による講義を受けたり、謎とき形式で疑問を解決したり、理解度を試す問題集で画面と対話しながら解答したり、疑問点が生じたときや関連事項などを知りたいときに、もっと詳しい内容や必要な資料を取り出すなど、レーザーディスクからの映像とコンピュータからの関連資料情報を同時に画面に取り出すことができる。(表3)
●ハイビジョンの活用事例 《岐阜県美術館》 @入館者が好みや目的に応じて随時、作品を見ることができる、A美術品についての学習効果が高まる、B作品や作家についてのデータ提供ができる、などをねらいとしてハイビジョンギャラリーを設置している。三十五本の番組を少人数から多人数まで3室のギャラリーで見ることができ、また、収蔵作品のうち一、一〇〇点について約五十項目からなる作品ごとの情報を検索できるデータベースを有している。(表4)
《町田市立国際版画美術館》 収蔵作品は一万点を越えており、とくに版画は他の美術作品より光に弱く、そのため作品保護や展示スペースの関係から、ごく一部が展示され、ほとんどの作品が収蔵庫に保管されている。これらの作品により多く触れる機会をつくるため、ハイビジョン映像を利用し、いつでも気楽に見ることができ、展示と保管を両立させながら常設展示を保管できることなどをねらいとしてハイビジョンギャラリー&ホールを設置している。館蔵作品の中から、作家別、テーマ別などによって構成された五、六分の番組を三十二番組製作しており、入館者が見たい番組を自由に選択して見ることができる。(表5)
●視聴覚教育メディア研修カリキュラムの標準
《改訂の経緯》 従前のカリキュラムは、社会教育審議会教育放送分科会が、昭和四八年三月に「視聴覚教育研修カリキュラム標準案について(建議)」をまとめ、これを受けて文部省が社会教育局長通知「視聴覚教育研修の改善充実について」(文社視第七八号、昭和四八年四月)によって、「視聴覚教育研修カリキュラムの標準」として定めたものであった。しかし、「その後、教育メディア環境は大きく変化した。従前のカリキュラムが掲げている機材の中には、教育現場への普及が高まらず、その利用の度合いもかなり低くなっているものがある一方、機材としてあげられていない新しいメディアが急速に導入され、その活用方法の研修が緊急の課題となっているものもある」(平成四年三月「視聴覚教育メディア研修手引書企画編」より)との認識のもとに、生涯学習局長通知「視聴覚教育メディア研修の改善充実について」(文生学第一〇二号、平成四年三月)によって、新たに「視聴覚教育メディア研修カリキュラムの標準」が定められた。
《主な改正の内容》 @コンピュータ等の新しい機器の動向をも含む幅広い研修とするため「視聴覚教育研修」を「視聴覚教育メディア研修」という名称に改めた、A教育メディアの知識と操作技術のレベルによって初級・中級・上級に分けていたものを、「教育の場で直接応用する立場の者」(研修カリキュラムT)と「地域の視聴覚教育を推進し、指導する者」(研修カリキュラムU)をそれぞれ対象とする2つのコースに改めた、B市町村は前者、都道府県・指定都市は主として後者、国は後者のコースの研修を行うこととした、C研修事項にコンピュータ、通信システム、データベースなどの新たな教育メディアを含めることとした、D教育メディアの技術動向に対応できるよう、各コースに「総論」の講義を設け、この中で、教育メディアの最新動向や教育メディア活用の教育的意義などについて研修できるようにした、E弾力的な運用ができるよう、研修時間等をカリキュラムの標準から外した、の7点が挙げられている。
《コンピュータに関する研修事項》 カリキュラムTでは、知識としては、コンピュータの教育利用、基本機能、周辺装置の機能、ソフトウェアの役割、プログラム言語の基礎知識、データベースの機能と利用などが、活用としては、コンピュータの基本操作、ソフトウェアの実行(ワープロ、データベース、表計算、グラフィック、学習ソフトの利用)、学習指導へのコンピュータ利用計画の作成、パソコン通信の機能と利用などが示されている。
 カリキュラムUでは、基礎コースとしては、OSとアプリケーションソフト、簡易言語によるプログラミング、オーサリングシステムシステム等による教材作成、ワープロ、表計算、グラフィックソフト等による課題演習などが、専門コースとしては、コンピュータ研修の企画、ソフトウェアの開発などが示されている。また、通信システム、データベースのほか、CAI教材や統合型教育メディアに関する研修なども他の「総論」や「教育メディア各論」などの中に組み込まれて示されている。
              (西村美東士)
《参考文献》
1 西村美東士「情報の主体的な受信・発信をめざして」『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社、一九九一年
生涯学習時代に求められる学習相談の考え方
      昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
 「社会教育」92年8月号
※ このテーマについては、近刊『現代生涯学習推進実務選書第九巻』(ぎょうせい発行)において、「特論 学習相談の意義・方法・課題」として、拙論をより詳しく述べているので参照していただければ幸いである。

1 学習相談は、従来の日常的相談でも、現在の学習情報提供でもない

 いま新しく生涯学習の援助者に求められている学習相談は、従来から日常的に行われてきた相談業務とは別のものである。もちろん、社会教育が築き上げた蓄積のうちには継承すべき点も多々あるのだが、新しい学習相談は、それらの蓄積とは別の革新的なインパクトとしてとらえなければならない。
 一方、最近の学習情報提供サービス重視の流れのなかで、学習相談を情報提供と実質的に同一のものであるかのように扱う傾向も見られるが、その傾向に対しては、「とにかく相談員をおいて求められた情報を提供すればよい」という消極的、無批判的、非主体的な姿勢を感じざるをえない。学習情報センターに訪ねてきたり電話をかけてきたりした人に学習情報を提供することをもって単純に学習相談とよぶならば、学習情報提供のうちでも個人に対するものは、すべて学習相談であるということになってしまう。そんな程度の認識で学習相談を行うならば、しばらくすれば、利用効率が悪いなどの理由から、せっかくの相談員の人員も財政当局から削減されたりするのがオチであろう。
 学習情報提供と学習相談とはともに社会教育や生涯教育の革新の姿として現代的意義をもつものであるが、そのふたつの意義はむしろ両極に分かれてバランスを保っているのだと思う。学習情報提供が第一の革新だとすれば、その不備を衝いて第二の革新をめざしているのが学習相談なのである。学習情報提供の革新が、個人の主体性の発揮への援助だとすれば、学習相談が提起する第二の革新とは、その個人の主体性の獲得そのものへの援助である(図1)。
 学習情報提供のほうに振れた振子が学習相談によって揺り戻しを受けているのだが、その発展は螺旋状のものであり、新しい学習相談は、「相談業務なら今まで公民館などでふだんやってきている」というときの相談とは内実がまったく別のものである。

2 学習相談の定義と特徴

 それでは、そういう新しい意味での学習相談をどう定義づければよいのだろうか。その定義は、学習情報提供が指し示す新しい生涯学習の理念を発展的に継承するものでなくてはならない。すなわち、個人の学習への学習者主体の考え方にもとづいたサービスという意味では「継承」であり、個人の主体性への理念としての尊重(学習情報提供)から、個人の主体性の獲得への実質的な援助(学習相談)へ、という意味では「発展」である。そこで、私は、学習相談を次のように定義したい。
 「学習相談とは、個人(または援助者)の求めに応じ、学習環境等の客観的条件や、精神的・身体的な問題等の主体的条件などの、その個人特有のそれぞれの条件にもとづいて情報提供、助言、対話等を行うことにより、学習情報の収集・選択や学習の意欲・能力の獲得などを支援する教育(学習援助)サービスである」。
 この定義は、学習相談の特徴を次のように想定していることにもとづいている。
 1つは、「個別性」である。学習者の個別な条件の差異によって対応が変化する。広報においては、マス(集団)に対して均一の情報を提供しようとするし、学習情報提供においては、個人が求める情報を誰でも個人の必要に応じて同じ情報源から平等に自由に選択できるようにしようとする。これに対して、学習相談では、相談員が個々の学習者のニーズやその他の状況を勘案した上で、対応の仕方を逐一、判断する。
 2つは、「双方向性(プロセス重視)」である。対話などの双方向の交流をともなう。相談の「相」は「互いに」「ともに」という意味である。それは、いいかえれば、学習者の意思決定のための相談員からのアドバイスにとどまらず、学習者の意思決定や問題解決のプロセスの中に相談員が飛び込んでいって双方向のおつきあいをするということである。
 3つは、「援助性」である。生涯学習の援助活動の一環として行われる。直接、個人の生涯学習を援助することを目的とするものであり、援助者側の行う事業や保有施設を宣伝するなどして生涯学習全体の推進を図るものではない。また、その行為はあくまでも個人の生涯学習の援助であるから、他の行政目的などから生ずる目標への誘導や指導を紛れ込ませることは許されない。
 4つは、「教育性」である。一般行政の相談が行政、法律、医学などの特定事項の専門性にもとづいて行われるのに対して、学習相談は教育的専門性にもとづいて行われる。この場合、教育的専門性のはっきりした規定は困難だが、少なくとも単純に知識や技術を伝達することではない、ということはいえよう。たとえば、「その場合はこうですよ」と教えるような場面は、一般行政の相談では頻発することがあっても、学習相談においては、「こういうこともありますが」とニーズに的確に応える情報を提示しつつ、情報の選択は学習者の主体性に任せることになるだろう。それは、学習者の学習主体としての成長を第一義に考える教育的観点があるからである。
 5つは、「自由性」である。「求めに応じて行う」ということである。相談を望まない人にまで相談を呼びかける必要はない。本人が自分で「相談したい」と思うまで待たなければならない。逆に、相談に訪れてくれた人に対しては、「相談に来た」という行為自体をその人の主体性の表れとしてとらえて最大限の敬意を払うべきである。「相談する」ということも、情報収集のための主体的な行動、すなわち生涯学習活動のひとつなのであるから。

3 求められるカウンセリングマインド

 最近、学習情報提供のためのコンピュータの活用が進んでいるが、その理由はコンピュータが便利だからである。しかし、コンピュータそれ自体は、本来、たんなる道具、たんなるハコにすぎない。人間以外のものは、たとえ人間存在のための優れた手段にはなりえても、けっして人間存在に関する主体にはなりえない。学習相談においての本来の学習主体は学習者であり、本来の援助主体は相談員なのである。
 私は、このような「本来の援助主体としての相談員」を「学習情報ワーカー」として位置づけたい。ここで「ワーカー」という言葉には、ケースワーカーのように当事者(学習者)のケースに個々に対応する仕事と、ネットワーカーのように情報や人々をつなげる仕事の、ふたつの仕事(ワーク)が遂行されることへの期待が含まれている。「相談員」という言葉があまりにも意味中立的なために「与えられた職務だから役割を遂行する」という冷淡なニュアンスを与えかねないことに比べて、「学習情報ワーカー」という言葉は期待の込められたきわめて意味的な言葉である。
 ワーカーはネットワーク的な援助を行うことになる。ネットワークとは、自発的意思にもとづく水平なギブ・アンド・テイクの交流であり、そのためには互いが異質の価値(自立的価値)をもっていることが条件になる。また、私は、ネットワークを「自立と依存の統一」としてもとらえている。1)
 しかし、情報や人間をつなぐために人間が介在することが必要だとしても、人間によるその援助が、なぜ、どのように、ネットワーク的でなければならないかということについては、もっと深い議論が必要だと思われる。どのように水平なのか、どのように異なった価値をもっているのか、あるいは、どのように学習者がワーカーにギブしろというのか、ワーカーの側まで何をテイクしようというのか、などの異議や疑問が考えられるのである。そこで、ここからは、カウンセリングマインドという切り口から、人間存在への援助としての学習相談の内実にいっそう深く踏み込んで述べることによって、それらの問題について考えてみたい。
 ここで考えようとしているのは、心理的な学習阻害要因の克服をおもな目的として臨床心理の専門家が対応する狭義のカウンセリングではなく、一般の学習相談についてである。そういう一般の学習相談であってもカウンセリングマインドが必要であるということをいいたい。これは、学習相談がたんなる学習情報提供にはとどまらないためのもっとも大切な要素にもなるだろう。また、コンピュータ自体はカウンセリングマインドをもちえないのであるから、ワーカーの存在意義を示すものでもある。
 なぜ、学習情報提供のサービスだけでは不足して学習相談が必要になってきたのか。それは、急激に変化する現代社会の中で、生涯学習を行うための主体性そのものを人々が失いつつあるからである。それでは、なぜ、カウンセリングマインドにもとづく対応が、学習情報提供だけではできなかった主体性の獲得そのものへの援助になるかというと、それは、カウンセリングが学習者の自己への「気づき」を促す側面をもっているからである。
 あとに述べるように、自分のすべてが受容される雰囲気のもとで学習に関する自分の期待などについてしゃべることは、学習者自身が今まで気づかなかった自分に気づくことにもつながるし、そういう自分をオープンにしても受容されるのだ、という安心や自信にもつながる。情報の羅列を外から与えられるだけでは、都合のよい情報だけ選択して自分の今の枠組をさらに強化することはできても、自分のもっている劣等感や敗北感などの不幸な思い込みの枠組自体を変えていくことはできないのである。
 生涯学習の理念が自発的意思にもとづいてみずから選んだ手段・方法で行うことであっても、本人が自分自身を見つめていないとしたら、その「自発的意思」も生まれようがなく、したがってその理念の実現は望めない。しかし、そのように自分の深みまで知るということ、すなわち自己洞察は、じつはどんな人にとっても容易なことではない。つまり、「自分に気づく」ということは、生涯学習を行うために不可欠の課題でありながら、それを完全に実現することは困難な課題なのである。
 それらの自分への「気づき」のなかでも、学習相談においてもっとも決定的なことは、生涯学習を行う自己の主体性の欠損への気づきだと、私は思う。たとえば、「他人の期待に沿うために」とか「勤勉でなければならない」とかいったような不合理な思い込みが、生涯学習の自発的意思を内からねじ曲げる結果になっている。不合理な思い込みから解放されるためには、まず、そういう思い込みをしている自分の現在と過去に気づかなければならない。問題の本当の所在さえ明らかになれば、あとはそれを自分で解決する能力を人間はもっている(過去は変えられないが)。
 このような「自己解決能力」への信頼も、カウンセリングマインドにもとづくものである。明治以来の教育が一定の教育水準まで集団全体をしゃにむに押し上げていこうとするプッシュ型だったことに対して、これからの教育は一人ひとりの個性や関心を引き出そうとするプル型に転換されなければならないということが生涯学習の議論のなかで言われている。カウンセリングマインドにもとづく学習相談は、まさにこのようなプル型の教育作用といえるのである。

4 共感・傾聴・ストローク・エンカウンター

 カウンセリングマインドにとってのもっとも大切な要素は、「共感的理解」であるといえよう。
 共感は、同感や同情とは違う。共感的理解とは、自分の枠組ではなく、相手の枠組にもとづいて相手を理解することである。一人ひとりの枠組がすべて違うのだから、ワーカーはそのいずれの枠組をも理解し対応できるように努めなければならない。共感的理解を示すワーカーが対応することによって、学習者は安心してしゃべることができる。共感的理解こそが、ワーカーと相談者との心のふれあいのあり方なのである。2)
 共感的理解のために大切なことは、傾聴である。傾聴とは心を傾けて相談者の話を聴くことである。「早く本題に入って、どんな情報がほしいか言ってほしい」などの態度がワーカー側にちらつくと、相談者は安心してしゃべれなくなる。じつは、カウンセリングマインドにもとづいた学習相談の本旨は、学習情報の検索の代行などではなく、学習者が生涯学習に関するみずからの動機や希望、阻害要因などに気づくよう援助することなのである。また、毒にも薬にもならない無駄口が相談者に目立つ場合には、ワーカーがその人の発言を抑止することもあるかもしれないが、その時でさえも、無駄口をたたかざるをえない相談者の気持ちを察するように努めなければならない。このように、ワーカーには、自己の傾聴する役割への自覚が強く求められる。
 つぎに、学習相談におけるカウンセリングマインドに必要な2つめの要素として、「ストローク」を挙げたい。
 人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。「交流分析」ではこのような行為をストロークとよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。
 一方、最近の生涯学習の学習内容の傾向のひとつとして、こころへの関心が指摘できる。生涯学習に向かう要因としても、それを阻害する要因としても、こころの問題は大きい。豊かなこころは、豊かな対人関係、つまりは豊かなストロークに支えられる。そういう意味から、学習情報ワーカーはストロークの達人であってほしい。そのことによって、生涯学習に向かおうとする学習者にエールを送ることができる。
 さらに、カウンセリングマインドの3つめの要素として、「エンカウンター」を挙げたい。3)
 日常の対人関係にはいわゆる「仮面」がつきものであるが、エンカウンターでは、それを脱ぎ捨てて本音と本音をぶつけあう。対立することも多い。このようなエンカウンターは、通常、グループワーク(エンカウンターグループ)として行われるが、学習相談においてもエンカウンターの精神が求められていると考えられるのである。なぜなら、学習相談は、社交儀礼がやりとりされる場ではなく、幸福追求の一環としての自分なりの生涯学習を模索する生身の人間(相談者)に対する生身の人間(ワーカー)からの援助が行われる場だからである。
 カウンセリングマインドにもとづく学習相談において、生涯学習に関する相手の枠組をワーカーが理解すること、すなわち共感的理解は重要であるが、それは、ワーカーがその人と同じ枠組になる、すなわち同化するということではけっしてない。逆に、相談者とは異なったワーカーの好みや感情、考え方を率直に表明することも効果を及ぼす場面がありうる。カウンセリングのように精神的な治療を必要とする人を相手にしているわけではないのだから、対等な基本的信頼の関係のもとでは、異なった価値観や考え方の提示はむしろ有益な場合が多いであろう。また、生涯学習の方法論に関する専門的・技術的な助言なども、ワーカーだからこそできる「異なった立場からの援助」のひとつとして重要である。

5 ネットワークのなかでともに育つ

 このようにして進められる学習相談は、ネットワークの営みともいえる(図2)。情報と情報をつなぎ、学習者と情報とをつなぎ、さらには、学習者と学習者とをつなぐ。そこでのワーカーと相談者の関係は、今まで述べたとおり、異なった価値をもつ者のあいだの水平なギブ・アンド・テイクである。あくまでも学習者の自発的意思にもとづくものであり、そのつながりはゆるやかで、参入と撤退、出会いと別れを自由に繰り返す。
 そのためには、それぞれが自立的価値(個性)をもっていることが条件になる。そのうえで、自立したパソコン(スタンド・アローン)がパソコン通信によってネットワークされるように、自立的価値をもつ個人や機関や情報が学習相談によって相互に連携(依存)する。ネットワークが自立と依存の統一である、と私が考えるのはそういう理由からである。
 私はこのネットワークを支える鍵概念として「個の深み」という考え方を提起したい。「個の深み」とは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人一人ひとりとして生きること、そして、その固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすること、という意味の造語である。4)人間はなぜ生きているのか、といえば、究極的には自己実現によって「個の深み」という高次な幸福を獲得するためであり、その人間がなぜ社会の一員として生きるのかといえば、究極的にはコミュニケーションによって他者の「個の深み」を味わいつつ自己の「個の深み」の形成にも資するため、と考えたいのである。
 ネットワークのこころさえ失わなければ、学習相談の事業は、学習者の「個の深み」とたえまなく接し続けることができるだろう。それは、たとえば一般行政の相談では、「本務ではない」などの理由から相談員はかなり禁欲しなけれはならなかったことである。しかし、学習相談においては、ワーカーの主体的な判断力とモラルを前提とすれば、それはむしろ「本務」として勧められるべき行為である。だから、みずから学び育ちたいという気持ちがあるかぎり、学習相談という仕事は至上の喜びをもたらしてくれるはずである。
 生涯学習推進のために、あるいは、住民のために、犠牲的精神で学習相談活動を行っているなどというような人がいたとしたら、その言葉はウソであろう。中身のない虚ろな言葉だ。ともに育つ学習相談のなかでは、援助者側の人間は自分のために研鑽を深め、自分のために業務に携わっているはずだ。それは、教育の仕事全般にもいえることである。本当の「自分のために」ということは、自分自身がつねに変わり成長することであり、その姿勢は他者の主体性の獲得とはまったく矛盾しないばかりか、援助者、教育者であるためのもっとも大切な資格要件ともいえるのである。

1) ネットワークについては拙著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、一九九一年、とくに一二九頁
2) カウンセリングについては、とくに平木典子『カウンセリングの話(増補)』朝日新聞社、一九八九年
3) 傾聴の技法とエンカウンターについては、とくに国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房、一九八一年
4) 「個の深み」については前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに二頁−四頁

図1「学習相談への発展」

          ・・・・学習情報の判断者・・・ ・・・・・・援 助 目 的・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 従来の日常的相談 ・    援助者    ・ ・  集合学習への動機づけ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ 第1の革新・・・個 人 の 主 体 的 学 習 の 重 視 と 尊 重 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 学習情報提供   ・    学習者    ・ ・  個人の主体性の発揮 ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ 第2の革新・・・個 人 の 主 体 性 の 欠 損 へ の 気 づ き ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 学習相談     ・    学習者    ・ ・  個人の主体性の獲得 ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

図2「コンピュータとワーカーの仕事との関係」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 学習情報データベース ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・
・・・・・・・・・・・・・・ 学習情報提供・・・・・・
・コンピュータ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 学 ・
・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・
  ・ 学習相談※1・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 習 ・
・ 学 習 情 報 ワ ー カ ー ・ ・   ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・
  ・学習相談※2 ・ 者 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
・・・・・・
 (※1 コンピュータ利用への援助)
 (※2 ネットワーク的援助)

図3「ネットワークとしての学習相談」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・           ・・受容 ・
       ・           ・・繰り返し ・
       ・ ・・共感的理解・・傾聴・・・・明確化 ・
 援助者 ……・ ・   ・・支持   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ ・   ・・質問 ・ 自分のため→ ・
       ・ ・・ストローク ・ ・
       ・ ・・エンカウンター ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
             ・・・ カウンセリングマインド ・・・・・ 援助者自身の成長 ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 異質の交流↓・
       ・ マス(集団)   →個別  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 一方向      →双方向  ・ ・ ・
 学習相談……・ 指導      →援助    ・ ・ と も に 育 つ ・
  ・ 特定事項の専門性 →教育の専門性・ ・ ・
       ・ 定型性      →自由性 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 異質の交流↑・
・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・   ・相互の自発的意思 ・
             ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・参入と撤退の自由 ・
             ・・・ ネットワーク的援助 ・・・・・・・・・水平なギブ&テイク・
             ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・自立と依存の統一 ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
       ・ 自己の主体性の欠損への気づき ・ ・
・    ↓ ・ 自立的価値→ ・
 学習者 ……・ 問 題 の 自 己 解 決 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・    ↓ ・
       ・ 「 個 の 深 み 」 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「教職研修」増刊号「キーワード生徒指導」の「地域社会」

野外教育活動・自然体験活動 (本文54行)
 都市生活を離れ、自然環境の中で生活をする機会を増大させ、その生命力、活力の維持・向上、心身の健康の増進、生命や自然への畏敬の念や豊かな情操の涵養を図る活動をいう。
 [自然体験重視の背景は何か] 臨時教育審議会は第3次答申(昭和62年4月)で次のように指摘している。「情報化・都市化が進み、自然の中で相互に切磋琢磨する機会が失われてきている。このような現状にかんがみ、今後、児童・生徒が都市生活を離れ、自然環境の中で生活をする機会を増大させ、その生命力、活力の維持・向上、心身の健康の増進、生命や自然への畏敬の念や豊かな情操の涵養を図るとともに、自然体験学習、集団生活、都市と農山漁村との交流、多様な地域文化との触れ合いなどを飛躍的に増やしていく必要がある」。学校教育においては、たとえば、昭和59年度から自然教室推進事業が実施され、それらの拡充が図られているが、社会教育においても従来から野外活動が積極的に取り組まれてきた。現在はさらに大胆な事業が展開されている。これらの自然体験によって現代社会の中で希薄になりつつある自然や人とのふれあいを深めることが期待される。
 [自然体験の不足は何を招くか] 自然体験の中には、自然への理解のほか、身体的な活動、勤労体験、困難と直面する体験、美的・情緒的体験、自主的に行動する体験などが含まれている。それらの自然体験は、多機能な直接的経験であり、それだけに子どもに与える影響力も大きい。現代社会においては、それらの体験は失われがちである。このように発達上経験すべきことを経験していないことを、「欠損体験」と呼ぶが、自然接触体験も欠損体験になりつつある。欠損体験は、子どもの社会化を阻害し、その後の生涯の各時期における発達上の課題達成も阻害する要因になってしまう。
 [社会教育での取り組みはどうなっているか] 社会教育における特徴的な取り組みは、「自然生活へのチャレンジ推進事業」(フロンティア・アドベンチャー事業)である。これは、昭和63年度から文部省の補助事業として開始されたもので、異年齢で構成される青少年に、山奥や無人島などの大自然の中で10泊程度の自給自足的な生活にチャレンジする機会を提供しようとするものである。そこでは、住居作りに始まり、食料の調達、食事作り等すべての活動はグループの構成員が協力して行うほか、自然観察、早朝登山、農業体験等のプログラムが実施されている。これらの社会教育事業は、指導者体制などの面でも計画的に整備された上で取り組まれており、学校側もその教育的意義をよく理解して積極的に協力するよう望まれる。
 [参考文献] (1)三浦清一郎『現代教育の忘れもの−青少年の欠損体験と野外教育の方法−』学文社。 (西村 美東士)


野外文化活動 (本文49行)
 人間が自然と共に生きる野性的な世界としての「野外」において、社会人に必要な基本的な行動と心理状態としての「文化」を、実体験を通じて学び、身につけようとする活動をいう。
[なぜ、この言葉が提唱されたのか] 社団法人青少年交友協会理事長の森田勇造氏がこの言葉を提唱した。氏を中心として、昭和52年から「野外活動研究協議会」が開かれ、54年には『野外活動のすすめ』(学研)が出版されており、その頃までは「野外活動」という言葉が使われていた。しかし、それは、もともと文化人類学的発想による「野外文化活動」であったものを、語呂がよいので「野外活動」と称したのであった。しかし、野外活動は文部省体育局の管轄下にあったため、昭和60年4月に「野外活動」という言葉から「野外文化活動」という言葉に改称された。なぜならば、氏の活動は当初から「異年齢集団の野外活動」によって自然と共に生きる人類の英知である「生活文化」を伝承することを目指していたのであり、体育学的なキャンプ中心のものではなかったからである。
[どのようなねらいをもっているか] 野外文化活動は、生きる意欲や喜び、知恵や情操などを、実体験を通じて学び、知的欲望と体力の養成を同時に満たすために行われる。その効果としては、次のようにとらえられている。@身体的効果(行動体力および防衛体力の養成、持続力の養成、瞬発力の養成)、A精神的効果(勇気、忍耐力、決断力、意欲、感動)、B教育的効果(社会性の向上、創意工夫のめざめ、判断力の養成、自己の啓発)。また、とくに、生活労働の体験、自然の認識、社会性と人間性の向上などが、今日的意義として重視されている。森田氏は、そのために、山野、海・川・山、広場、道路、公園、校庭などの空間を野外文化活動の場として子どもたちに意識的に取り戻してやることが現在の大人たちの急務であると訴えている。
[どんな事業が行われているか] 野外文化活動を進める青少年交友協会の特徴的な事業としては次のようなものが挙げられる。「グリーンアドベンチャー」は、身近な自然を理解し、自然を通して日本の文化を知るために、特別のコースが設置されるものである。「かち歩き」は、20〜43キロの長い距離を飲まない、食べないで歩く耐久徒歩である。他人との競争ではなく、社会人の通過儀礼としての意味をもっている。その他、農林水産業の体験や無人島の生活体験など、下表に示すような幅広い活動が展開されている。
 [参考文献] (1)森田勇造『野外文化論』学習研究社。 (西村 美東士)


図書館 (本文61行)
 図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする社会教育施設をいう。
[どんなサービスをしているのか] 上の定義は図書館法第2条によるものだが(社会教育施設であることについては第1条)、さらに第3条には「図書館奉仕」として次の内容が挙げられている。@図書館資料の収集と一般公衆の利用への提供、A資料の分類排列と目録の整備、B資料の利用のための相談への対応、C他の図書館との連絡・協力と相互貸借、D分館等の設置及び自動車文庫などの巡回、E読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等の主催・奨励、F時事に関する情報及び参考資料の紹介・提供、G学校、博物館、公民館、研究所等との連絡・協力。また、これらの公共図書館サービスを「学校教育を援助し得るよう」実施しなければならない旨も記述されている。
[児童サービスに問題はないか] 昭和45年、日本図書館協会は『市民の図書館』において当面の最重点目標を3つ定め、その一つを「児童の学習要求にこたえ、徹底して児童サービスすること」とした。このように、図書館では従来から児童サービスを重視しているが、それが、「女・子どものための今の図書館ではだめだ」という批判にもつながっている。もちろん、ビジネスマンにも魅力のある資料収集の必要性は否定できないのだが、公共図書館は、そもそも、気軽に立ち寄れる地域の社会教育施設を目指している所なのである。ただ、それだけに児童サービスの課題も多い。まず、受験勉強のための貸席にしかすぎないような状態は改めなければならない。この点については、貸出サービスの重視などによって改善が進んでいる。その他、子どもたちの「活字離れ」の傾向や、小学校高学年以降の「図書館離れ」などの基本的な問題もある。図書館としては、児童コーナーや集会活動の充実などによってそれに対処しようとしているが、根本的な改善のためには、親子読書活動などのような子どもの読書に対する地域の取り組みや学校側の協力が欠かせない。
[青年をどうとらえているか] 中学、高校と進むにつれて「図書館離れ」が目立つ傾向に対して、児童サービスの延長として青年をとらえる従来の姿勢を反省し、青年をヤングアダルト(若い大人)として、すなわち権利主体として、とらえようとする図書館側からの動きがある。たとえば、図書館の一角にヤングアダルトコーナーなどが設置され、青年の読書要求に的確に応える蔵書構成が試みられている。そこでは、オートバイやロックに関する本なども提供される。青年によく読まれている本を、すべて低俗な好奇心におもねるクズばかり、と決めつけないで、それらの資料の積極的評価を心がけるのである。とくに高校の教師などは、周辺の図書館におけるこれらの動きを把握し、必要に応じて生徒への紹介などをするとよいだろう。
 [参考文献] (1)前川恒雄『われらの図書館』筑摩書房。 (2)竹内紀吉『図書館の街浦安』未来社。(3)石井桃子『子どもの図書館』岩波書店。 (西村 美東士)
トランスペアレンシー
 全国視聴覚教育連盟「視聴覚教育時報」「私のことば」
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

 トランスペアレンシーとは、「透明なもの」という意味である。
 みずからネットワーカーであることを自負してパソコン通信を行っている人の中には、トランスペアレンシーの感覚、すなわち「透明感」を大切にしている人が多い。何が透明であるべきか、それはパソコン通信の機器である。逆に、それぞれのネットワーカーが発信するメッセージそのものは、透明などではなく、さまざまな色合いをもっているほうが歓迎される。機械の助けを借りていることは忘れて、メディアに邪魔をされず、人間味のあるコミュニケーションを行うことに、彼らは最高の価値を認めるのである。
 豊かなモノに囲まれた現代青年にとって、パソコン自体はあこがれの対象にはならなくなってきた。彼らは、パソコンの情報交信ができるという特性に気づいているだけのことであって、成長時代のブランド志向の人が洋服や自動車をステータス・シンボルとしたり物神化したりしたようには、パソコンを崇めたりしない。高機能のパソコンといえども、自分で実際に試して良いと思えば、それを当然のように使いこなしていくだけのことである。これをパソコン利用の成熟化とみることができよう。
 さらに、このような成熟したパソコン利用の姿は、情報化の象徴としてとらえられる。成熟時代に重要なものは、本来の「神」であるべき情報、すなわち人間の発信内容そのものであるべきだ。このように価値がモノから情報に変わること、これこそ真の情報化の姿であるといえるのではないか。
 そして、そこで前提となるのは、ネットワーク型の水平な人間関係である。上下関係に基づく上からの説教などは彼らにとって「まっぴら」なのであり、気軽で対等な情報交流こそが求められている。この志向は、理想的に進めば、仮面と役割演技に凝り固まった現代管理社会に風穴をあけて、人間一人ひとりの絶対的な個性(私は「個の深み」と呼んでいる)を回復することにつながるかもしれない。
授業の楽しみ方
 −自明性に「ちょっとまった」−          ver 2.0
 400字×10枚=4000字 35字×30行×4ページ
 実際             35字×30行×8ページ

まじめな人の問題点

 主体とは、「認識し、行為し、評価する我」である。このような主体性が、私には、あなたには、十分に備わっているだろうか。なんだか心もとない。
 私は考える。「こうあるべき」という道徳律にきちんと従って生きているのは、外見からは主体性があるように見えるかもしれないけれど、必ずしも事実はそうではないのではないか。学生の分際なんだから、授業がつまらないと思っても教室でおとなしく座っているべきだ・・・、これって、ほんとに主体性なんだろうか。こうあるべき、と自らが認識したのならばそれでもよいだろう。でも、アバウトな言い方で恐縮だが、他者やメディアから長年のあいだに「認識」させられてしまっているだけの話なら、なんてつまらない人生なんだろう。根拠のない思い込みだと気づいたならば、そんな思い込みはやめようじゃないか。
 こういうふうに書いていると、学生の読者はどう思ってこれを読んでいるのかな、と気になる。これも、私に確固たる主体性がない証拠なのかもしれないが・・・。それはともかく、いわゆるまじめな学生は、きっと不愉快に思っている人が多いだろう。
 現に、私の授業も、まじめな学生から、「もっと体系的で役に立つ講義をしてくれ」とクレームがつくのである。私の授業は、一人ひとりが悩んでしまうような正答のないテーマのものが多いので、それを好む人もいるが、「まじめに教師の話を聞くことが、学習であり、学生の生き方である」という価値観を大切にしている人は、とくに最初のうちは私の授業に反発するようである。
 もう一つのタイプは、アルバイト・サークル・レジャー重視型だ。そういう人たちは、本人の意識に関わらず、それなりの体験学習をしてしまっているわけだから、「そうだ、そうだ。学生が成長するのは、授業だけじゃないぜ」と冒頭の文章をのんきに読んでいたのかもしれない。たしかに、人間は、あらゆる場面において、社会から学習する。正解だ。でも、私は、そういう学生にも疑問をもっている。主体的にアルバイト、サークル、レジャーしている? そこから、ほんとに主体的に学習している? 認識や行為や評価を「してしまっている」あるいは「させられてしまっている」だけじゃないの?
 たとえば、人間関係の技術を学習するには、サークルの運営に関わるとよいだろう。それ以上に対人恐怖が強い人は、ファースト・フードのアルバイトでもするとよい。対人恐怖のあなたでも、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」とか、場合によっては初対面のお客さんに会釈することさえできるようになるだろう。それは、漠とした精神論的な前提ではなく、サービス労働の部分に対してペイするという明瞭な前提が使用人側にあるので、あなたでも自然に役割演技できるようになるからなのだ。
 そういうことが見えていないと、「うちのサークルの連中には責任感が足りない」とか「アルバイト先の店長が私の存在を認めてくれない」とか言って他人のせいにして悩んでいるだけで、非主体的態度は変容されないままということになる。サークルは、部活動と違って、やりたい人がやりたいときにやりたいことをやる場である。むしろ、責任感を他人に要求せずに集団をうまく運営することを学ぶ場なのである。また、アルバイトは、経営ヒエラルキーの一番底辺にいて、底辺にいるからこそ見えるものをきちんと見ていく場なのである。サークルでもアルバイトでも、必要な演技をしながら、見るべきものを見ることのできる人は、どこにいても主体的な学習・発達・成長ができるのだ。
 ついでに言いたい。金欠型だ。そういう学生は、金がないからしたいこと(レジャーなど)ができない、と言う。ほんとうにそれがしたいの? やれたらいいな、と思い込まされているだけじゃないの? それから、ほんとうに金がないことが原因でできないの? 金がなくても、超一流のホテルのロビーは無料で使えるんだよ。そこでゆっくり本を読んだり、エグゼクティブたちを観察したりするのもいいんじゃないか。もし、追い出されたら、それもいい経験だ。この際、「自分はつねにあたたかく守られていなければいけない」という思い込みは捨てた方がいい。あたたかさは、社会の機構にではなく、友人や恋人や家族に求めていこうじゃないか。
 少し古い話になるが、若者の気質が「四畳半主義」だと言われていたことがあった。下宿先の四畳半の世界だけが幸せに満ちていればよい、社会で貧困が生じ戦争が起ころうとも、自分の四畳半に影響しない限りは関心がない、という意味だ。今なら、さしずめマンションの「ワンルーム主義」といえるだろうか。
 ここで、金欠型の人から、クレームがつくかもしれない。「私たちは、ワンルームマンションなんか住めないんだ」と。しかし、四畳半だろうが、ワンルームだろうが、あなたの人間としての成長の面からは、あまり関係はない。問題は、その生活空間にあなたがきちんと対峙しているかどうかである。
 四畳半だけがよければよい? それはけしからん。もっと社会を見つめなければだめだ・・・。そういう大人もいるだろう。いや、私がもっと驚くのは、学生の中にそういうことを言う人がいるということだ。そう言って主体的に社会と関わろうとしている学生もいるのだが、そうではなく、社会に責任をもつ「べき」と言いながら、その強迫観念に悩み、自虐的、内向的になってしまっている学生も多い。自虐というのは、裏面では、他者や社会への責任転嫁や攻撃性を内包している。
 主体性とは、べき論ではなく、自然体から発するものだと思う。四畳半主義でもいいじゃないか。そこにいる自分ともっとよくつきあってみたらどうか。たとえば、自己洞察なんていうのは少しでもできたとしたらすごいことで、学習成果の中でもかなり高度な部類に属するのだ。
 話を「まじめな学生たち」のことに戻したい。ここで一つ、問題になるのは、「評価」だ。授業にまじめに出席してAをそろえることが、よい会社に就職することにつながると思い込んでいる。ほんとうにそれで就職が有利になるのなら、私は何も言うつもりはない。実際、理工系の学生などは、あいも変わらず、そんな入社選考をされているのかもしれない。そういう状況では、作戦上、まじめなふりをしてAをそろえるように図ればよい。ただし、自己成長の機会がそれだけでは不十分になるのなら、別途、独学やダブルスクール、その他もろもろの人生経験などによってその機会を確保しなければならない。こういう柔らかでしたたかなやり方が、あなたの主体性を防衛してくれるだろう。
 しかし、一般的には、「企業の求める人材の一つの大きな要素は、まじめ、ということである」というのは、たんなる思い込みにすぎないのではないか。もっと企業経営者向きの本を読んでもらいたいが、ヒエラルキーの中でおとなしくできる人などというのは、企業の革新的経営のためには何の役にも立たないのだ。
 もちろん、ほんとうのまじめとは、ヒエラルキーの中でおとなしくしていることとは違うだろう。でも、まじめと言われている人の実態は、これに近いと感じる。つまり、権威主義的で、形式を重んじ、エスタブリッシュメントに対しては依存的にふるまいがちな人なのである。
 今後の会社は、自分の個性と意見が強いためにヒエラルキーでおとなしくなんかしていられない人、水平なネットワークの中でこそ、いきいきと自分を発揮できる人を求めるようになるだろう。もちろん、同族会社などの中には、社長の言うことをよく聞くまじめな人がいい、などという所もあるかもしれないが、そもそもそんな所は入社するあなたにとっては不幸だ。そういう会社の業績がこれから大幅にアップするとは、まあ考えられない(ただし、「革新的企業」の方も、組織である限り、多かれ少なかれヒエラルキーの中での役割遂行は必要になるから、甘い幻想は抱かないように。演技し、別途、自己の主体性を育もうとする主体性は、いずれにせよ必要だ)。

君の主体を問う

 ここでは、自分への評価の実態を間違ってとらえている思い込みの例をあげたが、ほかにも、人間は根拠のない非主体的な思い込みのためにとても不幸になっている。本人も気づかないうちに、現代社会の一つの側面としての画一化や没個性の影響を受け、各人の認知構造が無自覚のうちに小さく固まってしまっているのだ。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。
 そんな認知構造を自己変革するためには、主体性が必要だ。自己の主体性を社会や組織から自分で守り育てようとする主体性だから、私はそれを「メタ主体性」と呼びたい。ついでに言うと、それによって生まれる一人ひとりの個性を、私は「個の深み」と呼んでいる。「個の深み」とは、個人が組織や集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもって生きることである。また、個別化よりも積極的な価値づけをし、個人の「神聖さ」と「不可侵性」を主張する言葉でもある。あなたに「個の深み」が潜在、顕在のかたちで存在しているからこそ、あなたはあなたが「個人として尊重される」(憲法13条)べきことを自己主張できるのではないか。
 このようにプライドをもって、あなたの学生生活を見つめなおしてみよう。その前に、あなたが人間であることについて質問しよう。「あなたは、なぜ生きているの?」。そして、学生であることについてだ。「あなたは、なぜ大学生をやっているの?」。あなたは答えられますか? よくある答えが、「生まれちゃったから生きている」「死ぬのが恐いから生きている」。学生をやっているのも、「まわりの人が、この大学がいいと言ったから」「気がついたら大学生だった」・・・。
 もっと主体的に自分のことを認識しなおしてみないか。私たちは、幸せになるために生きているのだし、幸せになることを学ぶために、しかも「大きく学ぶ」ために、大学生をやっているのだ。私も、あるレクリエーションの講師が、社会教育職員を前にこの話をするのを聞くまで、正直言って、自分に対してそんな問いかけをしたことがなかったように思う。私たちのようなフツーの人は、つい、流されて生きてしまっているのだ。さらには、自分が幸せになるための条件の一つが、他人の幸せを思いやったり手伝ったりすることだ、ということに気づいたとき、個人と社会があなたの中でやっとまともにつながるのである。
 「授業の楽しみ方」の一つの結論は、他人からはまじめには見えないかもしれないけれどもじつは主体的であるという、そういう授業の受け方をすることである。それは、主体的選択をした結果として、授業に臨むということである。自分にとって、その授業を受けるよりも、ある映画を見る方が有益であると判断するのなら、授業の方は単位を落とさない程度にごまかして、映画を見に行けばよい。そういう自己管理的(self-directed )な生き方のほうが、自分自身の学生生活の物足りなさを、カリキュラム、評価などのシステムや教員という他人などのせいにしてうじうじ悩む依存的な生き方よりも、よっぽどさわやかである。あなたが成人になるにつれて自己管理的学習(self-directed learning)ができるようにならないと、とても困ったことになってしまうのだ。
 それから、ごくまれに、大学当局や教員に自分の学習要求を訴えて、授業そのものを改善させようとする「超主体的」な学生もいる。教員が何のかんの言わなくても、そういう学生は、そういう行動の中で、いろいろなことを自ら学んでしまう。責任感だって、そういう人には、あとからだってついてくるものだ。
 ただ、授業は、自分だけのためにあるのではなく、それぞれの学習者のさまざまな「自分」の総体のためにあり、プラスアルファ(教員の専門的・主体的判断および教育権の発動)によって構成されるということは、認識しておいた方がよい。自分の学習要求さえさわやかに自己主張できれば、あなたの学習者としての責任は果たしたことになるのであって、それが実際の授業の改善に結びつかなかったからといって敗北感にひたってしまうのは身勝手であろう。
 このような「超主体的」な学習態度はともかく、フツーの主体的な学習態度、すなわち自己管理的学習重視の観点から言えば、あなたが教室で座っているのは、あなたが次のように判断したからなのだといえる。「今、ここで、この学習をしたいから、ここに座っているのだ」。やっぱり時間の無駄だったと、途中で後悔しはじめたら、さっさと、しかし一生懸命授業を聞いている人の迷惑にならないように静かに、退出すればよい。ほんとうは、こういう態度こそまじめな学習態度というべきなのだ。

知のヒエラルキー vs ネットワーク

 「○○教員は、○○という問題については、たいした見解をもっていない」と、教員批判をする学生がいる。私は思う、いいぞ、いいところまでいってる、と。ところが、そのあと、学生のタイプは2つに分かれてしまう。1つはグチを言っておしまいの人だ。せっかく、そこまできたのなら、もう一歩、踏み込んで実践したらどうだろうか。その教員に議論をふっかける、それでもその教員が物足りないと思ったら、違う大学の教員の授業にモグる。これが2つめのタイプだ。
 実際、私も、何人かのモグリ学生を知っている。その一人は、勤労学生で、全国でも著名なある教授の数冊の本に傾倒して、半年ほどよその大学のその授業に出席していたが、今では、「やっぱり彼には限界がある」と言って聴講をやめてしまっている。もしかしたら、その教授はもっと深いものをもっているのかもしれない。それでもいいじゃないか。その学生が知の遍歴を一つ獲得したということが素晴らしいのである。
 知の行動をしなければだめだ、何も出てこない。知は、ヒエラルキー的なところがあるから、それに反発する「生意気さ」も求められる。でも、他方で、知は水平なネットワーク的世界を有しているのだから、そこにきちんとアクセス(接近行動)してほしい。それは、あなたが自己管理できることであり、あなたの責任だ。
 家族、学校、社会などのヒエラルキーによって、自分の主体性が根こそぎにされている、などということは、正答かもしれないけれど、それをいくら唱えてみたところで、あなたの主体性は回復できない。そのヒエラルキーを自分の目で見つめてみよう。そこからあなたが見いだしたものが、あなたにとっての真実なのだ。
 「授業では、教師の言うことをおとなしく聞いていなければいけない。だって、それって当り前のことでしょ?」、そう言って、じつは現在の授業や大学や社会に不満を抱えている人がいる。この人の不幸は、最初の認識の誤りから出発している。ヒエラルキーから自明だとされていることは、すべて疑ってかかるべきだ。「自明のことねえ・・・、それほんとう?」と疑う精神が必要だ。「そうされてしまっている」というふうに逃げないで、自分が主体的に判断したことを行動の根拠にすべきだ。そういうあなたなら、日本国憲法が援護してくれるだろう。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第19条)、「学問の自由は、これを保障する」(第23条)。
 私は、ネットワークの特性は自立と依存の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する依存関係に対しては自立が、従来の産業文明における個人の自立に対しては依存関係が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーへの合意がつくりあげられ、これが一定の安定をもたらした。しかし、ネットワークにおいては各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も一人ひとり違う。安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれるが、同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものである。
 今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーなしでも喜んで生きていける力をもて、ということだと私は考える。
 あなたの主体性は、生活や社会の一つひとつの場面で、抑圧されたり、表出したりすることになるだろう。その一つひとつが青年期のあなたにとっては重要だと感じられるのであろうが、じつは、そのとき抑圧されたことなどは大したことではない。だいいち、実際生活でいちいちくじけてはいられない。それよりも、主体性を自己管理するメタ主体性をあなたの内なる世界で育めるかどうかがかなめなのだ。ヒエラルキーがやること自体はあなたの責任ではない。あなたがヒエラルキーの逆機能の中でもネットワーク的に行動しようとできたかどうかが、あなたの責任なのである。
 本節の最後に当り前だけれどもユニークな言葉を紹介しておきたい。それは、「過去と他人は変えられない」という言葉である。自分は、今の自分しか意識的には変えられないのだ。「昔、こうすればよかった」とか、「あの人がああいう人じゃなかったらよかったのに」とか、くよくよ思い悩んでもむだである。今、ここで、あなたがどう考えて、どう行動するか、が大切なのである。このことに関心がある人は、心理療法の一種である「交流分析」(TA=transactional analysis)を調べてみるとよい。

旧版

授業の楽しみ方
 −自明性に「ちょっとまった」−          ver 2.0
 400字×10枚=4000字 35字×30行×4ページ
 実際             35字×30行×8ページ

まじめな人の問題点

 主体とは、「認識し、行為し、評価する我」である。このような主体性が、私には、あなたには、十分に備わっているだろうか。なんだか心もとない。
 私は考える。「こうあるべき」という道徳律にきちんと従って生きているのは、外見からは主体性があるように見えるかもしれないけれど、必ずしも事実はそうではないのではないか。学生の分際なんだから、授業がつまらないと思っても教室でおとなしく座っているべきだ・・・、これって、ほんとに主体性なんだろうか。こうあるべき、と自らが認識したのならばそれでもよいだろう。でも、アバウトな言い方で恐縮だが、他者やメディアから長年のあいだに「認識」させられてしまっているだけの話なら、なんてつまらない人生なんだろう。根拠のない思い込みだと気づいたならば、そんな思い込みはやめようじゃないか。
 こういうふうに書いていると、学生の読者はどう思ってこれを読んでいるのかな、と気になる。これも、私に確固たる主体性がない証拠なのかもしれないが・・・。それはともかく、いわゆるまじめな学生は、きっと不愉快に思っている人が多いだろう。
 現に、私の授業も、まじめな学生から、「もっと体系的で役に立つ講義をしてくれ」とクレームがつくのである。私の授業は、一人ひとりが悩んでしまうような正答のないテーマのものが多いので、それを好む人もいるが、「まじめに教師の話を聞くことが、学習であり、学生の生き方である」という価値観を大切にしている人は、とくに最初のうちは私の授業に反発するようである。
 もう一つのタイプは、アルバイト・サークル・レジャー重視型だ。そういう人たちは、本人の意識に関わらず、それなりの体験学習をしてしまっているわけだから、「そうだ、そうだ。学生が成長するのは、授業だけじゃないぜ」と冒頭の文章をのんきに読んでいたのかもしれない。たしかに、人間は、あらゆる場面において、社会から学習する。正解だ。でも、私は、そういう学生にも疑問をもっている。主体的にアルバイト、サークル、レジャーしている? そこから、ほんとに主体的に学習している? 認識や行為や評価を「してしまっている」あるいは「させられてしまっている」だけじゃないの?
 たとえば、人間関係の技術を学習するには、サークルの運営に関わるとよいだろう。それ以上に対人恐怖が強い人は、ファースト・フードのアルバイトでもするとよい。対人恐怖のあなたでも、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」とか、場合によっては初対面のお客さんに会釈することさえできるようになるだろう。それは、漠とした精神論的な前提ではなく、サービス労働の部分に対してペイするという明瞭な前提が使用人側にあるので、あなたでも自然に役割演技できるようになるからなのだ。
 そういうことが見えていないと、「うちのサークルの連中には責任感が足りない」とか「アルバイト先の店長が私の存在を認めてくれない」とか言って他人のせいにして悩んでいるだけで、非主体的態度は変容されないままということになる。サークルは、部活動と違って、やりたい人がやりたいときにやりたいことをやる場である。むしろ、責任感を他人に要求せずに集団をうまく運営することを学ぶ場なのである。また、アルバイトは、経営ヒエラルキーの一番底辺にいて、底辺にいるからこそ見えるものをきちんと見ていく場なのである。サークルでもアルバイトでも、必要な演技をしながら、見るべきものを見ることのできる人は、どこにいても主体的な学習・発達・成長ができるのだ。
 ついでに言いたい。金欠型だ。そういう学生は、金がないからしたいこと(レジャーなど)ができない、と言う。ほんとうにそれがしたいの? やれたらいいな、と思い込まされているだけじゃないの? それから、ほんとうに金がないことが原因でできないの? 金がなくても、超一流のホテルのロビーは無料で使えるんだよ。そこでゆっくり本を読んだり、エグゼクティブたちを観察したりするのもいいんじゃないか。もし、追い出されたら、それもいい経験だ。この際、「自分はつねにあたたかく守られていなければいけない」という思い込みは捨てた方がいい。あたたかさは、社会の機構にではなく、友人や恋人や家族に求めていこうじゃないか。
 少し古い話になるが、若者の気質が「四畳半主義」だと言われていたことがあった。下宿先の四畳半の世界だけが幸せに満ちていればよい、社会で貧困が生じ戦争が起ころうとも、自分の四畳半に影響しない限りは関心がない、という意味だ。今なら、さしずめマンションの「ワンルーム主義」といえるだろうか。
 ここで、金欠型の人から、クレームがつくかもしれない。「私たちは、ワンルームマンションなんか住めないんだ」と。しかし、四畳半だろうが、ワンルームだろうが、あなたの人間としての成長の面からは、あまり関係はない。問題は、その生活空間にあなたがきちんと対峙しているかどうかである。
 四畳半だけがよければよい? それはけしからん。もっと社会を見つめなければだめだ・・・。そういう大人もいるだろう。いや、私がもっと驚くのは、学生の中にそういうことを言う人がいるということだ。そう言って主体的に社会と関わろうとしている学生もいるのだが、そうではなく、社会に責任をもつ「べき」と言いながら、その強迫観念に悩み、自虐的、内向的になってしまっている学生も多い。自虐というのは、裏面では、他者や社会への責任転嫁や攻撃性を内包している。
 主体性とは、べき論ではなく、自然体から発するものだと思う。四畳半主義でもいいじゃないか。そこにいる自分ともっとよくつきあってみたらどうか。たとえば、自己洞察なんていうのは少しでもできたとしたらすごいことで、学習成果の中でもかなり高度な部類に属するのだ。
 話を「まじめな学生たち」のことに戻したい。ここで一つ、問題になるのは、「評価」だ。授業にまじめに出席してAをそろえることが、よい会社に就職することにつながると思い込んでいる。ほんとうにそれで就職が有利になるのなら、私は何も言うつもりはない。実際、理工系の学生などは、あいも変わらず、そんな入社選考をされているのかもしれない。そういう状況では、作戦上、まじめなふりをしてAをそろえるように図ればよい。ただし、自己成長の機会がそれだけでは不十分になるのなら、別途、独学やダブルスクール、その他もろもろの人生経験などによってその機会を確保しなければならない。こういう柔らかでしたたかなやり方が、あなたの主体性を防衛してくれるだろう。
 しかし、一般的には、「企業の求める人材の一つの大きな要素は、まじめ、ということである」というのは、たんなる思い込みにすぎないのではないか。もっと企業経営者向きの本を読んでもらいたいが、ヒエラルキーの中でおとなしくできる人などというのは、企業の革新的経営のためには何の役にも立たないのだ。
 もちろん、ほんとうのまじめとは、ヒエラルキーの中でおとなしくしていることとは違うだろう。でも、まじめと言われている人の実態は、これに近いと感じる。つまり、権威主義的で、形式を重んじ、エスタブリッシュメントに対しては依存的にふるまいがちな人なのである。
 今後の会社は、自分の個性と意見が強いためにヒエラルキーでおとなしくなんかしていられない人、水平なネットワークの中でこそ、いきいきと自分を発揮できる人を求めるようになるだろう。もちろん、同族会社などの中には、社長の言うことをよく聞くまじめな人がいい、などという所もあるかもしれないが、そもそもそんな所は入社するあなたにとっては不幸だ。そういう会社の業績がこれから大幅にアップするとは、まあ考えられない(ただし、「革新的企業」の方も、組織である限り、多かれ少なかれヒエラルキーの中での役割遂行は必要になるから、甘い幻想は抱かないように。演技し、別途、自己の主体性を育もうとする主体性は、いずれにせよ必要だ)。

君の主体を問う

 ここでは、自分への評価の実態を間違ってとらえている思い込みの例をあげたが、ほかにも、人間は根拠のない非主体的な思い込みのためにとても不幸になっている。本人も気づかないうちに、現代社会の一つの側面としての画一化や没個性の影響を受け、各人の認知構造が無自覚のうちに小さく固まってしまっているのだ。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義・・・。
 そんな認知構造を自己変革するためには、主体性が必要だ。自己の主体性を社会や組織から自分で守り育てようとする主体性だから、私はそれを「メタ主体性」と呼びたい。ついでに言うと、それによって生まれる一人ひとりの個性を、私は「個の深み」と呼んでいる。「個の深み」とは、個人が組織や集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもって生きることである。また、個別化よりも積極的な価値づけをし、個人の「神聖さ」と「不可侵性」を主張する言葉でもある。あなたに「個の深み」が潜在、顕在のかたちで存在しているからこそ、あなたはあなたが「個人として尊重される」(憲法13条)べきことを自己主張できるのではないか。
 このようにプライドをもって、あなたの学生生活を見つめなおしてみよう。その前に、あなたが人間であることについて質問しよう。「あなたは、なぜ生きているの?」。そして、学生であることについてだ。「あなたは、なぜ大学生をやっているの?」。あなたは答えられますか? よくある答えが、「生まれちゃったから生きている」「死ぬのが恐いから生きている」。学生をやっているのも、「まわりの人が、この大学がいいと言ったから」「気がついたら大学生だった」・・・。
 もっと主体的に自分のことを認識しなおしてみないか。私たちは、幸せになるために生きているのだし、幸せになることを学ぶために、しかも「大きく学ぶ」ために、大学生をやっているのだ。私も、あるレクリエーションの講師が、社会教育職員を前にこの話をするのを聞くまで、正直言って、自分に対してそんな問いかけをしたことがなかったように思う。私たちのようなフツーの人は、つい、流されて生きてしまっているのだ。さらには、自分が幸せになるための条件の一つが、他人の幸せを思いやったり手伝ったりすることだ、ということに気づいたとき、個人と社会があなたの中でやっとまともにつながるのである。
 「授業の楽しみ方」の一つの結論は、他人からはまじめには見えないかもしれないけれどもじつは主体的であるという、そういう授業の受け方をすることである。それは、主体的選択をした結果として、授業に臨むということである。自分にとって、その授業を受けるよりも、ある映画を見る方が有益であると判断するのなら、授業の方は単位を落とさない程度にごまかして、映画を見に行けばよい。そういう自己管理的(self-directed )な生き方のほうが、自分自身の学生生活の物足りなさを、カリキュラム、評価などのシステムや教員という他人などのせいにしてうじうじ悩む依存的な生き方よりも、よっぽどさわやかである。あなたが成人になるにつれて自己管理的学習(self-directed learning)ができるようにならないと、とても困ったことになってしまうのだ。
 それから、ごくまれに、大学当局や教員に自分の学習要求を訴えて、授業そのものを改善させようとする「超主体的」な学生もいる。教員が何のかんの言わなくても、そういう学生は、そういう行動の中で、いろいろなことを自ら学んでしまう。責任感だって、そういう人には、あとからだってついてくるものだ。
 ただ、授業は、自分だけのためにあるのではなく、それぞれの学習者のさまざまな「自分」の総体のためにあり、プラスアルファ(教員の専門的・主体的判断および教育権の発動)によって構成されるということは、認識しておいた方がよい。自分の学習要求さえさわやかに自己主張できれば、あなたの学習者としての責任は果たしたことになるのであって、それが実際の授業の改善に結びつかなかったからといって敗北感にひたってしまうのは身勝手であろう。
 このような「超主体的」な学習態度はともかく、フツーの主体的な学習態度、すなわち自己管理的学習重視の観点から言えば、あなたが教室で座っているのは、あなたが次のように判断したからなのだといえる。「今、ここで、この学習をしたいから、ここに座っているのだ」。やっぱり時間の無駄だったと、途中で後悔しはじめたら、さっさと、しかし一生懸命授業を聞いている人の迷惑にならないように静かに、退出すればよい。ほんとうは、こういう態度こそまじめな学習態度というべきなのだ。

知のヒエラルキー vs ネットワーク

 「○○教員は、○○という問題については、たいした見解をもっていない」と、教員批判をする学生がいる。私は思う、いいぞ、いいところまでいってる、と。ところが、そのあと、学生のタイプは2つに分かれてしまう。1つはグチを言っておしまいの人だ。せっかく、そこまできたのなら、もう一歩、踏み込んで実践したらどうだろうか。その教員に議論をふっかける、それでもその教員が物足りないと思ったら、違う大学の教員の授業にモグる。これが2つめのタイプだ。
 実際、私も、何人かのモグリ学生を知っている。その一人は、勤労学生で、全国でも著名なある教授の数冊の本に傾倒して、半年ほどよその大学のその授業に出席していたが、今では、「やっぱり彼には限界がある」と言って聴講をやめてしまっている。もしかしたら、その教授はもっと深いものをもっているのかもしれない。それでもいいじゃないか。その学生が知の遍歴を一つ獲得したということが素晴らしいのである。
 知の行動をしなければだめだ、何も出てこない。知は、ヒエラルキー的なところがあるから、それに反発する「生意気さ」も求められる。でも、他方で、知は水平なネットワーク的世界を有しているのだから、そこにきちんとアクセス(接近行動)してほしい。それは、あなたが自己管理できることであり、あなたの責任だ。
 家族、学校、社会などのヒエラルキーによって、自分の主体性が根こそぎにされている、などということは、正答かもしれないけれど、それをいくら唱えてみたところで、あなたの主体性は回復できない。そのヒエラルキーを自分の目で見つめてみよう。そこからあなたが見いだしたものが、あなたにとっての真実なのだ。
 「授業では、教師の言うことをおとなしく聞いていなければいけない。だって、それって当り前のことでしょ?」、そう言って、じつは現在の授業や大学や社会に不満を抱えている人がいる。この人の不幸は、最初の認識の誤りから出発している。ヒエラルキーから自明だとされていることは、すべて疑ってかかるべきだ。「自明のことねえ・・・、それほんとう?」と疑う精神が必要だ。「そうされてしまっている」というふうに逃げないで、自分が主体的に判断したことを行動の根拠にすべきだ。そういうあなたなら、日本国憲法が援護してくれるだろう。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第19条)、「学問の自由は、これを保障する」(第23条)。
 私は、ネットワークの特性は自立と依存の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って「孤立」でもない。このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する依存関係に対しては自立が、従来の産業文明における個人の自立に対しては依存関係が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーへの合意がつくりあげられ、これが一定の安定をもたらした。しかし、ネットワークにおいては各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も一人ひとり違う。安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。それゆえ、ネットワークとは、各人があえてそれを行うすぐれて意識的な行為ということができる。ネットワークは、一人ひとりに知的主体としての感覚をよびさましてくれるが、同時に、個人に知的主体性や自立的価値をたえまなくきびしく要請し続けるものである。
 今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーなしでも喜んで生きていける力をもて、ということだと私は考える。
 あなたの主体性は、生活や社会の一つひとつの場面で、抑圧されたり、表出したりすることになるだろう。その一つひとつが青年期のあなたにとっては重要だと感じられるのであろうが、じつは、そのとき抑圧されたことなどは大したことではない。だいいち、実際生活でいちいちくじけてはいられない。それよりも、主体性を自己管理するメタ主体性をあなたの内なる世界で育めるかどうかがかなめなのだ。ヒエラルキーがやること自体はあなたの責任ではない。あなたがヒエラルキーの逆機能の中でもネットワーク的に行動しようとできたかどうかが、あなたの責任なのである。
 本節の最後に当り前だけれどもユニークな言葉を紹介しておきたい。それは、「過去と他人は変えられない」という言葉である。自分は、今の自分しか意識的には変えられないのだ。「昔、こうすればよかった」とか、「あの人がああいう人じゃなかったらよかったのに」とか、くよくよ思い悩んでもむだである。今、ここで、あなたがどう考えて、どう行動するか、が大切なのである。このことに関心がある人は、心理療法の一種である「交流分析」(TA=transactional analysis)を調べてみるとよい。
社会学の情報(図書・資料)へのアクセス
 −ネットワーク型のすすめ−            ver 2.0

過去の知の重力圏からの脱出

 大学において講義はどのように位置づけられているか。その現在の到達点として、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)があげられる。本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。
 そこでは、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。
 教室の座席におとなしく座っていれば体系的な知識が身につくというのは、大きな思い違いなのだ。私は講義を話し言葉メディアとしてとらえる。このメディアを通した講義は、学生個人の認知構造の方向性と違うベクトルからのショックを無理やりでも与えることができるから、他のメディアにはない役割をもちうるのであって、こまごました知識や体系的な知識を覚え込むのには適していないのである。
 書き言葉メディアのメリットとしては、その逆が成り立ちそうである。自分の好みにあった書物を、感情移入したり、筆者の理論構築に同化したりしながら読み進めていく。そうすると、自然に、自己の思想も理論武装されるし、深化していく。そして、気になる情報は繰り返し読んで(再生可能)覚えることもできるし、そうこうしているうちに、筆者の膨大で複雑な知識体系も自己の頭の中にコピーされていく。話し言葉メディアで、聴衆の一人ひとりの進度に対応してそんなことをしていたら、効率が悪すぎるのだ。
 あなたが、本は読まずに講義ばかり聞いて楽しいと思っているのならかまわないが、そういう場合は、「いったい私に何が身についたんだろう」とは悩まないことだ。さまざまな教員の多種多様な考え方に接しているうちに、あなたの中にきっと知的柔軟性が育っていることだろう。それでよしとすべきであって、知識やその体系が身につかなかったからといって、それを講師の力量不足のせいにするのは、依存的で身勝手である。学習効果は、利用するメディアのそれぞれの特性によって異なってくるのであるから。
 このように考えると、書き言葉は、話し言葉にはないメリットをもっていることがわかる。しかし、そのメリットは、裏返せば「危険性」にもなる。その1つは、度量の狭い教条主義に陥る危険だ。自分の思考に都合のよい本しか読まなくてもすむから、極端な例では、「○○年から○○年までの○○さんの書いた本しか読まない」ということになる。筆者にとっては、いい迷惑である。筆者も成長しているのだ。懐古趣味的な読書は、知の発展の妨げになる。たとえ古典であっても、現代的な問題意識をもって読むことこそ、主体的な読み方といえる。現代の本であるなら、読者は、筆者との水平で同時代的な知的世界をつくりあげて、評論的に読まなければならない。
 もちろん、この危険は、話し言葉メディアである講義にも、ときどき見られる。自己の堅固な理論に学生が盲信的に従属することを前提として教員が講義を進める場合と、学生がそういう講義を望んで勝手に教員をそういう偶像にしたてて奉ってしまう場合である。
 本にせよ、講義にせよ、人間がつくりだしてきた知は、たとえそれが叡智であっても、過渡的なものであることには変わりない。信仰すべき神ではないのだ。この「信仰」が進むと、初版本を憧憬したりする傾向にまで至る。これでは完璧な「物神化」である。気持ちはわかるが、知的な意味ではけっして他人に堂々と見せられるような姿ではないので注意したほうがいい。
 とくに書き言葉を読むときは、なおさら自分好みのものにかたよりがちになる。拾い読みで、自分の好きな所だけ読むことだってできてしまうからだ。しかし、そういうことでは、自分の認知構造を変えるという主体的な学習からは遠ざかってしまい、狭い考え方に固執する結果になる危険性が大きい。
 2つめの危険は、小学校以来の試験対策型の読書態度だ。書き言葉が繰り返し可能で知識の記憶に向いているからこそ、本が暗記の道具として使われてきた。しかし、本来の知は、盲信的に覚え込むことではない。覚える以前に、あなた自身の納得というプロセスが大切なのだ。あなたの受験技術としての本の活用能力は、資格試験などでは、今後も発揮していただきたいが、大学生としての読書は、もっと自立した知的好奇心にあふれたものであってほしい。
 そのためには、私は次のように言いたい。記憶装置なんかになるな。記憶媒体の記憶量は、想像を絶するものだ。フロッピー、ハードディスク、そしてCDロム・・・。人間であるあなたに何が求められるかというと、それらと記憶能力を競うことではなく、それらを活用する能力である。リテラシーとは、読み書きの能力のことであるが、今はメディア・リテラシーが求められている。
 そして、あなたが記憶しておくべきことは、所在情報であったり、情報源情報であったりする。あることについて、どの本を見れば、どのような側面から、知ることができるか。あるいは、どの本を見ればいいかさえわからない場合は、どういうことについては、どういう本、人、機関に問い合わせれば、情報のある所や本を教えてくれるのか。この2つである。
 後者は、本で言えば、参考図書の一つということになる。学習参考書のことではない。参考図書とは図書館の用語だ。参考図書は第1に、内容面では、二次的な情報を記録している。オリジナリティを有する一次的(primary )な情報を加工ないし再編成しているのだ。第2に、形式面では、項目見出しを立て、それらを一定の配列方針にしたがって編成している。第3に、形態面では、冊子形態の図書であり、参照が容易である(後掲「情報と文献の探索」)。たとえば、国語辞典なども参考図書の一つだ。参考図書は、探索のための道具(トゥール)として有効だから、活用能力を身につけておくとよい。
 さらに凝り性の人は、長澤雅男「情報と文献の探索」(丸善)を読むとよい。「ルームクーラーが始めて売り出されたのは何年ごろか」などという質問の回答を、最適の参考図書を使って、システマティックに見いだすことができるようになる。図書館司書の秘術をちょっと分けてもらったような気分になることだろう。

本の私有と共有の方法

 さて、次は、本の私有、つまり本を買うことについてだ。自分の研究に関わる本なら、高くても買うしかないだろう。専門書は発行部数が少ない。だから高い。しかも、古本屋などで見つけるのも難しい。いさぎよく新本で買うことだ。
 私有ということは、自分のものになるということだから(当り前だが)、ラインを引いたり、疑問や触発されたアイデアをそのページの余白に書き込むことができる。それは、筆者とあなたのオリジナルな知的共同創造物だ。それがカッチリと1冊にまとまった本というのは、メディアとしての使いやすさの点から言って、けっこう理想に近い形態だと思う。形式的な卒業証書なんかよりよっぽど貴重なメモリアルにもなるだろう。
 それから、私有したら、機会を見つけてその著者に話しかけるといい。そして、1か所でいいから、自分が気に入った所、疑問に思った所を具体的に言ってあげる。すると、あなたより何十歳も上の人でもいっぺんに相好を崩してしまうことだろう。礼儀正しい挨拶や年賀状などより、よっぽど嬉しいものだ。そういうことからも、やっぱり知はヒエラルキーではなく水平なネットワークなんだな、と感じる。
 もう一つの私有方法は、古本を買うことだ。とくに文庫本の中古は、この数十年、ものすごい安さではないか。3冊で100 円なんていうのも珍しくない。しかも、そういう所に並んでいる本はよく売れた本が多いから、けっこうオーソドックスな所をおさえることができる。ざっと選んだとしても、新本では見逃していた自分のニーズにマッチした本が、10冊のうち1冊はあるから、それだけでも大儲けだ。
 昔の大学は巷にあった。そして、大学のまわりには安い飲み屋や喫茶店のほかに古本屋がいっぱいあった。しかし、今の大学はそういう環境にはない所が多いので残念に思う。自然環境なんかがよくても学生生活にはあまり関係ないのだ。それよりも、何時間も粘って青臭い議論ができる飲食店や、活字の世界をこころゆくまで渡り歩くことのできる古本屋街こそ必要だ。そういうわけで、ここでは東京の古本屋街をいくつか紹介しておく。太字で書かれた書店に行くと、それぞれの店の特徴などを紹介した『本の街』という小冊子を無料でもらえる。
 本の共有については、何といっても図書館の利用だ。私の知り合いのビジネスマンは、新居を決めるときにその近隣の公共図書館の蔵書数を調べていた。自分の業界に関連した本を数冊読めば一生それで足りる、なんていう昔の考え方では、仕事だっておもしろくない。自分が読みたくなった本をリアルタイムに提供してくれる頼もしい施設が図書館である。その設置と運営のためのお金は、あなたやあなたの保護者が払っているのだから、図書館の本はあなたを含めた人たちの共有物だ。
 図書館のことで、多くの人が知らない大切なことの一つとして、「選書」がある。もちろん、国内のすべての刊行物を購入するのが理想かもしれないが、そんなことはスペース的にも予算的にもできない。どうするかというと、本の専門家である図書館司書が、「いい本」を選び抜いて購入するのである。だから、逆に言うと、一定のテーマについては一定の水準以上の本を揃えている。しかも、基本的には、右から左までのそれぞれの立場の代表的なものを選ぶのである。図書館の選書結果をあまり信じすぎるのも問題だが、参考にはなる。少なくとも「普通の役人が買う本を決めているのかな」とか「よく売れている本を選んでいるのかな」というような誤解はなくしておいたほうがよい。
 それから、図書館にはレファレンスサービスというものがある。これは、「何らかの情報あるいは情報源を求めている利用者に対して行われる、図書館員による人的援助およびそれに直接関わりのある諸業務」である(前掲「情報と文献の探索」)。さきほどの探索トゥールなどを知り抜いた図書館司書が、あなた個人の情報要求に対応してくれるのである。
 レファレンスサービスは図書館の基本的機能の一つである。あなたと、あなたが望む資料とを、図書館が結んでくれるのだ。学校などで一つの宿題が出ると子どもたちの同じ質問が近くの公共図書館にどっと押し寄せるが、司書はそれでもにこやかに対応している。でも、あなたは、できるだけ自分で調べた上で、どうしてもわからないことを焦点化して司書に質問してみてほしい。そのほうがあなたの知的主体性のためにもよいし、司書のレファレンス能力も十分に発揮してもらえるのである。
 また、最近では、図書館ネットワークが一段と強調されるようになってきた。これは、コンピュータや配送車を利用して、どこの図書館に行っても、他の図書館の本の所在を調べたり取り寄せてもらったりすることができるシステムだ。どうしても本がなければ、基本的には、国立国会図書館にまでその所在を調べてもらうことができる(図書館法第3条の4)。
 ところが、あなたの家の近くの図書館が、こういう状態にはなっていない可能性もある。司書がいない館だってある。私も、近くの図書館で、「うちは人員が少ないためレファレンスサービスはやっていません」と言われて驚いたことがある。あなたは、今はまだ、近くの図書館がそのどちらであるかもわかっていないかもしれない。そうであれば、ぜひ、調べてみてほしい。そして、あなたがそこに不備を感じたならば、それなりの蔵書構成、館内サービス、ネットワークサービスなどを要求しておいてほしい。それは、知のネットワーカーの最低限の義務である。その地域での住民のための知的拠り所自体が貧困であるなどということはとても恐ろしいことだと感じることのできるセンスがあなたにも求められている。

電子化された情報・映像化された情報

 活字の次は、電子化された文字情報だ。ここで、パソコン通信の意義について強調しておきたい。
 ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ」という趣旨の発言をしている。たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって単純にパソコン通信の可能性を軽視する考え方には、異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。
 情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、書き言葉文化の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない「知的試練」としてとらえるべきである。学生の知的主体性による書き言葉文化の盛り上りを期待する次第だ。
 パソコン通信によるコミュニケーションの特徴を表す言葉として、私はMAZE(迷路)というキーワードをつくっている。パソコン通信のほとんどの記事の内容が、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。しかもそれぞれが数行の簡単な書き込みで気軽に(イージー)やりとりされている。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。
 このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。
 パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の可能性が生まれつつある。
 情報は、もともとMAZEだ。誰かがあなたのためにきちんと整理された情報を持ってきてくれるわけではない。たとえそんな整えられた情報があるとしても、それは、えてして古くさい役立たずの情報である。そして、情報は、GIVE(発信)するからこそTAKE(受信)できる。ネットワークの精神そのものである。情報のネットワークはあなたに主体性を求めている。
 しかし、映像情報のほうも、これからの若い世代は研究のための有効活用ができるようになるかもしれない。ビデオテープの利用なら手慣れたものであろうし、さらに、レーザーディスクをコンピュータと組み合わせて、必要な場面にリアルタイムにアクセスできるようにする(インタラクティブ・ビデオ)などということも考えられる。
 社会学研究の観点からの映像資料の課題としては、第1に、消え去っていくものを早急に記録することと、つくられた映像記録をその場限りのものとしないことである。社会学的に関心のある社会事象も、その場限りで消え去っていく。映像の場合、記録するのはその時しかない。また、放送などによる映像も、放映後では、放送局でさえきちんと保管していないことが多い。
 第2に、映像のもつ特性に応じた整理をすることである。主要な画面の指定をどのように行うか。複数の映像をどのような共通フォーマットで総合的に把握するか。映像の画像は見る側の視点によって意味が異なる総合的な情報であって、しかもその画像が時間の流れを伴っているので、これらの問題は単純ではない。
 第3には、映像には複雑な著作権がからむので、それにきちんと対応するということである。映像は、映画製作者の権利だけではなく、言語、実演、音楽、写真、絵画、図形、他の映画、コンピュータプログラムなどに関わる多くの著作権を発生させうる。ところが、実際には、映画製作者名のクレジットさえ画面に出てこない放送番組なども多く、対処に困ることがある。

情報とストロークの発信

 本節の最後に、社会学の情報、しかも、あなたがもっともほしい情報を得るためにはどうすればよいか、私見を述べたい。それは、know-what よりもknow-howを、そして、know-howよりも、know-whoをということである。
 公式やデータを暗記するようなことは、高等教育(大学)になったらもうほとんどないと思ったほうがよい。それよりも、社会学的真実をどうとらえるかについて、さまざまな情報と接することによってあなた自身の目を養わなければならない。それが、know-howだ。さらに、そこでつまずくこともある。そのとき、頼りになるのは他人の意見、批判、アイデアだ。どの人がどういうことを言ってくれるか。その他人とのコミュニケーションの力を含めて、know-whoだ。レポートなどでは、まだ世の中では書かれていない情報をこそ得たいと思うだろうから、そういうときはknow-whoが最後の武器になる。
 このknow-whoの能力は、ネットワーク社会でもっとも求められるものでありながら、現代学生がかなり不得意としているところなのではないか。know-whoには、知的主体性を含めた人間としての全面的な主体性が必要とされるのだ。自らも情報を発信しなければならないし、それ以前に、ストロークを相手に与えられなければ人間関係もつくることができない。
 ストロークとは、「交流分析」(TA=transactional analysis)の言葉である。相手をほめる言葉や、スキンシップ、まなざし、うなずき、傾聴などによって、相手の存在や価値を認めるようなすべての働きかけをストロークと呼ぶ。ストロークには法則がある。それは、「貧しい者はさらに貧しくなり、富める者はますます富をます」という法則である。あいさつをしようと思っても、もしかするとそっぽを向かれて自分のほうが傷つくかもしれないことを恐れて他者にストロークを与えない人には、いつまでも愛が貯まらない。その上、自分が人間交流から疎外されていることを周りのせいにして恨んだり、自分や他人を信頼できないままに人生を過ごしていったりすることになる。
 しかし、ここに一つの明るい展望がある。すべての人間が、心の底ではあくまでもストロークを求め続ける存在であるということである。この願望は、その人にとっては、そのときは、つらく作用することもあるだろうが、その問題の自己解決のためには、内なる確かなエネルギー源になる。そもそも、情報発信、ストロークなど、心底からしたくないという根っからの精神的ケチなどはいないのではないか。
 問題は、情報やストロークの出し方を知らないだけ、受容された経験がないだけなのではないか。そういういわば「コミュニケーション技術」の学習は、残念ながらあまり経験がなかった。情報を一方的に与えられること、それを型に当てはめて処理することはあっても、自分から自分らしい情報を発信する技術の学習は、あまりしてこなかったのである。そうならば、これからそういう経験をすればよい。ただし、ヒエラルキーの中での役割遂行としての情報発信やストロークだけでは、主体的な活動にはならない。各人が水平なネットワークの中で、自己と他者への基本的信頼に基づいて、あるがままに自己を発信すること、そしてそれが他者から受容される経験をもつことが、情報発信能力や主体性を獲得する手段なのである。
 このような情報やストロークの発信ができるようになれば、know-whoがあなたの身につき、know-howやknow-what もそれにしたがって豊かなものになってくるだろう。しかし、繰り返すが、それは待ち望んでいるだけではやってこない。情報ネットワークは、あなたに、主体性の発揮をきびしく要請するのである。

旧版

社会学の情報(図書・資料)へのアクセス
 −ネットワーク型でいこう−            ver 1.0

過去の知の重力圏から抜け出よう

 大学において、講義は、どのように位置づけられているか。その現在の到達点として、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)があげられる。本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。
 そこでは、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。
 教室の座席におとなしく座っていれば、体系的な知識が身につくというのは、大間違いなのだ。私は講義を話し言葉メディアとしてとらえる。このメディアを通した講義は、学生個人の認知構造の方向性と違うベクトルからのショックを無理やり与えることができるから、他のメディアにはない役割をもちうるのであって、こまごました知識や体系的な知識を受動的に覚え込むのには、講義は適していないのである。
 書き言葉メディアのメリットとしては、その逆が成り立ちそうである。自分の好みにあった書物を、感情移入したり、筆者の理論構築に同化したりしながら、読み進めていく。そうすると、自然に、自己の思想も理論武装されるし、深化していく。そして、気になる情報は、繰り返し読んで(再生可能)覚えることもできるし、そうしているうちに、筆者の膨大で複雑な知識体系も自己の頭の中にコピーされる。話し言葉メディアで、聴衆の一人ひとりの進度に対応して、そんなことをしていたら、生産性が悪すぎるのだ。
 あなたが、本は読まずに、講義ばかり聞いて、楽しいと思っているのならかまわないが、そういう場合は、「いったい私に何が身についたんだろう」とは悩まないことだ。さまざまな教員の多種多様な考え方に接しているうちに、あなたの中にきっと知的柔軟性が育っていることだろう。それでよしとすべきであって、知識やその体系が身につかなかったからといって、それを講師の力量不足のせいにするのは、依存的でわがままである。学習効果は、利用するメディアのそれぞれの特性によって異なってくるのであるから。
 このように考えると、書き言葉は、話し言葉にはないメリットをもっていることがわかる。しかし、そのメリットは、裏返せば「危険性」にもなる。その1つは、度量の狭い教条主義に陥る危険だ。自分の思考に都合のよい本しか読まなくてもすむから、極端な例では、「○○年から○○年までの○○さんの書いた本しか読まない」ということになる。筆者にとっては、いい迷惑である。筆者も成長しているのだ。懐古趣味的な読書は、知の発展の妨げになる。たとえ古典であっても、現代的な問題意識をもって読むことこそ、主体的な読み方といえる。現代の本であるなら、読者は、筆者との水平で同時代的な知的世界をつくりあげて、評論的に読まなければならない。
 もちろん、この危険は、話し言葉メディアである講義にも、ときどき見られる。教員が自己の堅固な理論に学生が盲信的に従属することを前提として講義を進める場合と、学生がそういう講義を望んで勝手に教員をそういう偶像にしたてて奉ってしまう場合である。
 本にせよ、講義にせよ、人間がつくりだしてきた知は、たとえそれが叡智であっても、過渡的なものであることには変わりない。信仰すべき神ではないのだ。この「信仰」が進むと、初版の本を憧憬したりする傾向にまで至る。これでは完璧な「物神化」である。気持ちはわかるが、知的な意味ではけっして他人に堂々と見せられるような姿ではないので、注意したほうがいい。
 とくに書き言葉を読むときは、自分好みのものにかたよりがちになる。拾い読みで、自分の好きな所だけ読むことだってできてしまうからだ。しかし、そういうことでは、自分の認知構造を変えるという主体的な学習からは遠ざかってしまい、狭い考え方に固執する結果になる危険性が大きい。
 2つめの危険は、小学校以来の試験対策型の読書態度だ。書き言葉が繰り返し可能で知識の記憶に向いているからこそ、本が暗記の道具として使われてきた。しかし、本来の知は、盲信的に覚え込むことではない。覚える以前に、あなたの納得というプロセスが大切なのだ。あなたの受験技術としての本の活用能力は、資格試験などでは、今後も発揮していただきたいが、大学生としての読書は、もっと知的好奇心にあふれたものであってほしい。
 そのためには、私は次のように言いたい。記憶装置なんかになるな。記憶媒体の記憶量は、想像を絶するものだ。フロッピー、ハードディスク、そしてCDロム・・・。人間であるあなたに何が求められるかというと、それらと競うことではなく、活用する能力である。リテラシーとは、読み書きの能力のことであるが、今はメディア・リテラシーが求められている。
 そして、あなたが記憶しておくべきことは、所在情報であったり、情報源情報であったりする。あることについて、どの本を見れば、どのような側面から、知ることができるか。あるいは、どの本を見ればいいかさえわからない場合は、どういうことについては、どういう本、人、機関に問い合わせれば、情報のある所や本を教えてくれるのか。この2つである。
 後者は、本で言えば、参考図書の一つということになる。学習参考書のことではない。図書館の用語だ。参考図書は第1に、内容面では、二次的な情報を記録している。オリジナリティを有する一次的(primary )な情報を加工ないし再編成しているのだ。第2に、形式面では、項目見出しを立て、それらを一定の配列方針にしたがって編成している。第3に、形態面では、冊子形態の図書であり、参照が容易である(後掲「情報と文献の探索」)。たとえば、国語辞典なども参考図書の一つだ。参考図書は、探索のための道具(トゥール)として有効だから、活用能力を身につけておくとよい。
 さらに凝り性の人は、長澤雅男「情報と文献の探索」、丸善発行、を読むとよい。「ルームクーラーが始めて売り出されたのは何年ごろか」などという質問の解答を、最適の参考図書を使って、システマティックに見いだすことができるようになる。図書館司書の秘術をちょっと分けてもらったような気分になることだろう。

本の私有と共有の方法

 さて、次は、本の私有、つまり本を買うことについてだ。自分の研究に関わる本なら、高くても買うしかないだろう。専門書は、発行部数が少ない。だから高い。しかも、古本屋などで見つけるのも難しい。いさぎよく新本で買うことだ。
 私有ということは、当り前だが、自分のものになるということだから、ラインを引いたり、疑問や触発されたアイデアをそのページの余白に書き込むことができる。それは、筆者とあなたのオリジナルな知的共同創造物だ。それがカッチリと1冊にまとまった本というのは、メディアとしての使いやすさの点から言って、けっこう理想に近い形態だと私は思っている。形式的な卒業証書なんかよりよっぽど貴重なメモリアルにもなるだろう。
 それから、私有したら、機会を見つけて、その著者に話しかけるといい。そして、1箇所でいいから、自分が気に入った所、疑問に思った所を、具体的に言ってあげる。すると、あなたより何十歳も上の人でも、いっぺんに相好を崩すことだろう。礼儀正しい挨拶や年賀状などより、よっぽど嬉しいものだ。そういうとき、私は、やっぱり知はヒエラルキーではなく水平なネットワークなんだな、と感じる。
 もう一つの私有方法は、古本を買うことだ。とくに文庫本の中古は、この数十年、ものすごい安さではないか。3冊で100 円なんていうのも珍しくない。しかも、そういう所に並んでいる本はよく売れた本だから、けっこうオーソドックスな所をおさえることができる。ざっと選んだとしても、新本では見逃していた自分のニーズにマッチした本が、10冊のうち1冊はあるから、それだけでも大儲けだ。
 本の共有については、何といっても図書館の利用だ。私の知り合いのビジネスマンは、新居を決めるときにその近隣の公共図書館の蔵書数を調べていた。自分の業界についての本が数冊あれば、一生それで足りる、なんていう昔の考え方では、仕事だっておもしろくない。自分が読みたくなった本をリアルタイムに提供してくれる頼もしい施設が図書館である。その設置と運営のためのお金は、あなたやあなたの保護者が払っているのだから、図書館の本はあなたを含めた人たちの共有物だ。
 図書館のことで、多くの人が知らないことの一つとして、「選書」がある。もちろん、国内のすべての刊行物を購入するのが理想かもしれないが、そんなことは予算的にできない。どうするかというと、本の専門家である図書館司書が、「いい本」を選び抜いて購入するのである。だから、逆に言うと、あるテーマについてはある水準以上の本を揃えている。しかも、基本的には、右から左までのそれぞれの立場の代表的なものを選ぶのである。図書館の選書結果をあまり信じすぎるのも問題だが、参考にはなる。少なくとも「普通の役人が買う本を決めているのかな」とか「よく売れている本を選んでいるのかな」という誤解はなくしておいたほうがよい。
 それから、図書館にはレファレンスサービスというものがある。これは、「何らかの情報あるいは情報源を求めている利用者に対して行われる、図書館員による人的援助およびそれに直接関わりのある諸業務」である(前掲「情報と文献の探索」)。さきほどの探索トゥールなどを知り抜いた図書館司書が、あなた個人の情報要求に対応してくれるのである。
 レファレンスサービスは、図書館の基本的機能の一つである。あなたと、あなたが望む資料とを、図書館が結んでくれるのだ。学校などである宿題が出ると子どもたちの同じ質問が近くの公共図書館にどっと押し寄せるが、司書はそれでもにこやかに対応している。でも、あなたは、できるだけ自分で調べた上で、どうしてもわからないことを、焦点化して司書に質問してみてほしい。そのほうが、あなたの知的主体性のためにもよいし、司書のレファレンス能力も十分に発揮してもらえるのである。
 また、最近では、図書館ネットワークが一段と強調されるようになっている。これは、コンピュータや配送車を利用して、どこの図書館に行っても、他の図書館の本の所在を調べたり、取り寄せてもらったりすることができるシステムだ。どうしても本がなければ、基本的には、国立国会図書館にまで、その所在を調べてもらうことができる(図書館法第3条の4)。
 ところが、あなたの家の近くの図書館が、こういう状態にはなっていない可能性もある。司書がいない所だってある。私も、近くの図書館で、「うちは人員が少ないためレファレンスサービスはやっていません」と言われて驚いたことがある。あなたは、今はまだ、そのどちらかもわかっていないかもしれない。ぜひ、調べてみてほしい。そして、あなたがそこに不備を感じたならば、それなりの蔵書構成、館内サービス、ネットワークサービスなどを要求しておいてほしい。それは、知のネットワーカーの最低限の義務である。その地域では住民のための知的拠り所自体が貧困であるなどということは、恐ろしいことだと感じるセンスがあなたにもなければならない。

電子化された情報・映像化された情報

 活字の次は、電子化された文字情報だ。私は、パソコン通信の意義について、強調しておきたい。
 ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ」という趣旨の発言をしている。たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって、単純にパソコン通信の可能性を軽視する考え方には、私は異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に「逆戻り」させるのでは、いかにも退嬰的である。
 情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、書き言葉文化の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない「知的試練」としてとらえるべきである。学生の知的主体性による書き言葉文化の盛り上りを期待する次第だ。
 パソコン通信によるコミュニケーションの特徴として、MAZE(迷路)ということがあげられる。ほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も、最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたり、もどったり(ジグザグ)している。しかも気軽に(イージー)やりとりが行われている。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。
 このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。
 パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の可能性が生まれつつある。
 情報は、もともとMAZEだ。誰かがあなたのためにきちんと整理された情報を持ってきてくれるわけではない。もしそんな整えられた情報があるとしても、それは、えてして古くさい役立たずの情報である。そして、情報は、GIVE(発信)するからこそTAKE(受信)できる。ネットワークの精神、そのものである。情報のネットワークは、あなたに主体性を求めている。
 しかし、映像情報のほうも、これからの若い世代は研究のための有効活用ができるようになるかもしれない。ビデオテープの利用なら手慣れたものであろうし、さらに、レーザーディスクをコンピュータと組み合わせて、必要な場面にリアルタイムにアクセスできるようにする(インタラクティブ・ビデオ)などということも、考えられる。
 社会学研究の観点からの映像資料の課題としては、第1に、消え去っていくものを早急に記録すことと、つくられた映像記録をその場限りのものとしないことである。社会学的に関心のある社会事象も、その場限りで消え去っていく。映像の場合、記録するのは、その時しかない。また、放送などによる映像も、放映後では、放送局でさえきちんと保管していないことが多い。
 第2に、映像のもつ特性に応じた整理をすることである。主要な画面の指定をどのように行うか。複数の映像をどのような共通フォーマットで総合的に把握するか。映像の画像は見る側の視点によって意味の異なる総合的な情報であって、しかもその画像が時間の流れを伴っているので、これらの問題は単純ではない。
 第3には、映像には複雑な著作権がからむので、それにきちんと対応するということである。映像は、映画製作者の権利だけではなく、言語、実演、音楽、写真、絵画、図形、他の映画、コンピュータプログラムなどに関わる多くの著作権を発生させうる。ところが、実際には、映画製作者名のクレジットさえ画面に出てこない放送番組などの映像も多く、対処に困ることがある。

情報とストロークを発信せよ

 本節の最後に、社会学の情報、しかも、あなたがもっともほしい情報を得るためにはどうすればよいか、私の考えを述べたい。それは、know-what よりもknow-howを、そして、know-howよりも、know-whoをということである。
 公式やデータを暗記するようなことは、高等教育(大学)になったらもうほとんどないと思ったほうがよい。それよりも、社会学的真実をどうとらえるか、さまざまな情報と接することによって、あなた自身の目を養わなければならない。それが、know-howだ。さらに、そこでつまずくこともある。そのとき、頼りになるのは他人の意見、批判、アイデアだ。どの人が、どういうことを言ってくれるか。その他人とのコミュニケーションの力を含めて、know-whoだ。レポートなどでは、まだ書かれていない情報をこそ得たいと思うだろうから、そういうときはknow-whoが最後の武器になる。
 このknow-whoの能力は、ネットワーク社会でもっとも求められるものでありながら、現代学生がかなり不得意としているところなのではないか。know-whoには、知的主体性を含めた全面的な主体性が必要とされるのだ。自らも情報を発信しなければならないし、それ以前に、ストロークを相手に与えられなければ、人間関係もつくることができない。
 ストロークとは、「交流分析」(TA=transactional analysis)の言葉である。相手をほめる言葉や、スキンシップ、まなざし、うなずき、傾聴などによって、相手の存在や価値を認めるような働きかけをストロークと呼ぶ。ストロークには法則がある。それは、「貧しい者はさらに貧しくなり、富める者はますます富をます」という法則である。あいさつをしようと思っても、もしかするとそっぽを向かれて自分のほうが傷つくかもしれないことを恐れて、他者にストロークを与えない人には、いつまでも愛が貯まらない。その上、自分が人間交流から疎外されていることを周りのせいにして恨んだり、自分や他人を信頼できないままに人生を過ごしていったりすることになる。
 しかし、ここに一つの明るい展望がある。すべての人間が、心の底ではあくまでもストロークを求め続ける存在であるということである。この願望は、その人にとっては、そのときは、つらく作用することもあるが、その問題の自己解決のためには、内なる確かなエネルギー源になる。そもそも、情報発信、ストロークなど、心底からしたくないという根っからの精神的ケチなどはいないのではないか。
 問題は、情報やストロークの出し方を知らないだけ、受容された経験がないだけなのではないか。そういういわば「コミュニケーション技術」の学習は、残念ながらあまり経験がなかった。情報を一方的に与えられること、それを型に当てはめて処理することはあっても、自分から自分らしい情報を発信する技術の学習は、あまりしてこなかったのである。そうならば、これからそういう経験をすればよい。ただし、ヒエラルキーの中での役割遂行としての情報発信やストロークだけでは、主体的な活動にはならない。各人が水平なネットワークの中で、自己と他者への基本的信頼に基づいて、あるがままに自己を発信すること、そしてそれが他者から受容される経験をもつことが、情報発信能力や主体性を獲得する手段なのである。
 このような情報やストロークの発信ができるようになれば、know-whoがあなたの身につき、know-howやknow-what もそれにしたがって豊かなものになってくるだろう。しかし、繰り返すが、それは待ち望んでいるだけではやってこない。情報ネットワークは、あなたに、主体性の発揮をきびしく要請するのである。

『生涯学習施設ネットワーク化』
学習相談の意義・方法・課題
 「現代生涯学習推進実務選書」

1 学習相談は、従来の日常的相談でも、現在の学習情報提供でもない
1−1 従来の日常的相談の焼き直しではない
 学習相談よりも、学習情報の収集・整理のほうが、地味で根気のいる作業である。せっかく集めた情報も有効なものばかりとは限らないし、何らかの事情であまり勧めたくない学習情報でも、提供はしなければならない。また、情報提供をきっかけとして、学習者がすばらしい成長を得たとしても、援助者側がその成果を見届けることはあまりできない。このようなことから、人間交流や社会教育の暖かさ、楽しさを知っている社会教育主事のような職員ほど、学習情報提供の仕事をいやがる傾向が強い。ベテラン職員としてのプライドが傷つけられるような感じがするのだろう。
 ところが、学習相談なら、ベテラン職員は自分の頭の中にある豊かな情報を有効に活用することができるし、有益であると確信できる情報だけを提供すればよいと思っている。また、そういう相談を日常的、継続的に行うとすれば、その成果も見届けることができる。学習情報のシステム化には消極的であっても、学習相談については、「やりましょう」とか、「そんなことなら、今までも日常的にやっていますよ」とかの答えが返ってくることが多いのは、そういう理由からであろう。
 しかし、いま新しく生涯学習の援助者に求められている相談は、従来から日常的に行われてきたそれらの相談とは別のものなのである。もちろん、社会教育が築き上げた遺産のうちには継承すべき点も多々あるのだが、そういうものとは別に、社会教育を革新するインパクトとして新しい学習相談が生まれているのである。
 憲法学者の松下圭一が、「国民主権の主体である成人市民が、国民主権による『信託』をうけているにすぎない道具としての政府ないし行政によって、なぜ『オシエ・ソダテ』られなければならないのか」1)として、その著『社会教育の終焉』で社会教育行政の存在に異議を唱えたのは一九八六年のことである。この書は、社会教育行政の安上がり化などのマイナスの影響も与えたが、並行してプラスの影響も大いに与えてくれた。社会教育行政がいつのまにか、しかし、歴史的に身につけてきた啓蒙的な姿勢を、社会教育行政みずからが改めるいくつかのきっかけのひとつになったのである。人間をマス(集団)としてしか扱わず、そのマスに啓蒙を振りまくような社会教育ならば、たしかに「終焉」を迎えたほうがよい。
 しかし、じつは、松下の指摘よりずっと前から、個人学習援助の重視が提唱され(昭和四六年社会教育審議会答申)、また、松下の指摘と前後して、先進地では学習情報提供事業が誕生していた。学習情報提供事業は、学習のチャンスを学習者みずからが選択する幅をより広くするために、そして、松下のいう「国民主権の主体である成人市民」としての自発性を損なうことなく学習の主体性をよりいっそう深めるために、おもに個人に対して、「オシエ」るのではなくサービスする姿勢で行われるものである。今日の学習相談も、そういう社会教育の革新の中で意義が認知され始めたものであって、過去の社会教育を単純に延長したものではありえない。(もちろん、過去の蓄積から学ぶべき点も多いのだが、その論及は本論の趣旨ではない。それについては、拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』2)を参照されたい)。

1−2 学習情報提供と同じではない
 一方、学習相談を学習情報提供と実質的には変わりないものであるかのように扱う傾向も見られる。しかし、それは、今日、社会教育事業全体の中で固まりつつある学習情報提供の評価に、ただ迎合しているだけの結果のように私には思える。たとえば、とにかく相談員をおいて求められた情報を提供すればよい、といったような無批判的、非主体的、消極的な姿勢の「学習相談」も見られるのである。
 このように、学習情報センターに訪ねてきたり電話をかけてきたりした人に学習情報を提供することそのものをもって学習相談とよぶならば、学習情報提供のうちでも個人に対するものは、すべて学習相談であるということになってしまう。そんな程度の認識で学習相談を行うならば、しばらくすれば、利用効率が悪いなどの理由から、せっかくの相談員の人員も財政当局から削減されたりするのがオチであろう。
 学習情報提供と学習相談とはともに社会教育や生涯教育の革新の姿として現代的意義をもつものであるが、そのふたつの意義はむしろ両極に分かれて対峙しているのだと思う。学習情報提供が第一の革新だとすれば、その不備を衝いて第二の革新をめざしているのが学習相談なのである。学習情報提供の革新が、個人の主体性の発揮への援助だとすれば、学習相談が提起する第二の革新とは、個人の主体性の獲得への援助である(図1)。学習情報提供のほうに振れた振子が学習相談によって揺り戻しを受けているのだが、それは在来型の社会教育に戻ったのではなく、学習情報提供が提起した課題を学習相談によって昇華させて、一段階高次なレベルに発展させたものととらえるべきである。その発展は螺旋状のものであり、新しい学習相談は、「相談業務なら今まで公民館などでふだんやってきている」というときの相談とは内実がまったく別のものである。
 本論のもっとも重要な問題意識は、ここにある。「やっていることは学習情報提供であっても、相談員を介しさえすれば、それは学習相談だ」あるいは「日常業務のうちの相談的なものに学習相談の名称をかぶせればよい」といった安易な認識が流布しているように私は思えてしかたがない。学習情報提供と学習相談とは、あるいは、今までの相談と新しい学習相談とは、どこが一致していて、どこが違うかを、あいまいにしてしまうそのような思考方法は、学習者主体の学習援助形態としての学習相談がもつ深い意味を見過ごす結果になるばかりでなく、学習情報提供によってせっかく確立されようとしている学習者主体の学習を尊重する思想まで軽視して、過去の援助形態に後戻りさせることにもなるのだと思う。

2 学習相談とは何か
2−1 学習相談の定義
 それでは、私たちは、学習相談というものをどう定義づければよいのだろうか。その定義は、すでに述べたように、学習情報提供が指し示す新しい生涯学習の理念を発展的に継承するものでなくてはならないだろう。すなわち、個人の学習への学習者主体の考え方にもとづいたサービスという意味では「継承」であり、個人の主体性への理念としての尊重(学習情報提供)から、個人の主体性の獲得への実質的な援助(学習相談)へ、という意味では「発展」である。そこで、私は、学習相談を次のように定義する。
 「学習相談とは、個人(または援助者)の求めに応じ、学習環境等の客観的条件や、精神的・身体的な問題等の主体的条件などの、その個人特有のそれぞれの条件にもとづいて情報提供、助言、対話等を行うことにより、学習情報の収集・選択や学習の意欲・能力の獲得などを支援する教育(学習援助)サービスである」。
 しかし、この定義を採用するとしても、「学習相談」の名のもとに現実にはいくつかの事業がすでに行われている。そのサービス内容は、次の3つに分類できるようである。
@ 学習情報の提供が中心になるもの。すなわち、学習者(または援助者)が学習機会、施設、団体、人材(指導者)、教材(学習材)などを効果的に選択できるよう、おもに学習情報の提供を行うもの。
A 目標設定から学習評価までを一貫して学習者側と相互的に行うもの。
B 心理的な学習阻害要因の克服をおもな目的として治療的に行うもの。
 ここで、Aについては、アメリカの「学習契約」などの事例があり3)、わが国でもいくつかの市町村で「学習メニュー方式」などの実践の中にその萌芽が見いだされる。また、Bについては、たとえば「埼玉県県民活動総合センター」では、県民活動相談事業のために、カウンセリングの研鑽と実践の経験を長年積み重ねてきた専任相談員を配置して、心理的な相談にも対応している4)。そこでは、実際、地域団体の役員などから、神経症的な問題の相談をいくつか受けている。団体役員のなかには、まじめでぎりぎりまで頑張ってしまう性格だからこそ、リーダーにも推され、断りきれなくて就任した人も多い。そういう人たちが、グループ内の人間関係やリーダーとしての悩みとともにそれらと分けることのできない自分の個人的な悩みによって、神経症状を引き起こしているのである。地域の生涯学習のリーダーとして活躍しているこのような個人に、心理的な援助の手をさしのべることの意義は大きい。
 これらの事例からわかるように、AもBも深い現代的意義をもつものではあるが、われわれがもっとも問題にしなければいけないものは、@の「学習情報の提供を中心とするサービス」だといえるのではないか。なぜなら、学習情報提供の必要性が関係者の認識するところになり、それとともに@の学習相談の事業が全国で展開されようとしている現状がありながら、その現状の中に、過去の集団的・啓蒙的な学習援助からの意識変革をともなわずにその事業が行われようとしている危険な状況が見受けられるからである。
 たとえば、学習相談の名のもとに行政機関の関連事業だけを紹介・宣伝する、従来から関連行政が依頼していた講師陣をリスト化するだけでそれを指導者バンクと称する、そのバンクも実際には行政関係者の企画・立案のためにしか利用されない、そのことによってそれぞれの行政セクションによる企画・立案がかえって創意と独自性に欠けるものになるなど、枚挙に暇がないほど数多くの生涯学習の理念以前の前時代的行為も行われているのである。学習情報提供と学習相談の同一視なども、同様な問題のひとつであろう。そこで、ここでは、学習相談の「多数派」として一般化する一方でこのように多くの問題を抱えている@に絞って議論を進めたい。もちろん、@のあり方を考えるためには、AやBが私たちに投げかけている問題提起も真摯に受けとめ、活かさなければならないことはいうまでもない。

2−2 学習相談の特徴
 学習相談に関する先述の定義は、学習相談の特徴を次のように想定していることにもとづいている。
 1つは、「個別性」である。学習者の個別な条件の差異によって対応が変化する。広報においては、マス(集団)に対して均一の情報を提供しようとするし、学習情報提供においては、個人が求める情報を誰でも個人の必要に応じて同じ情報源から平等に自由に選択できるようにしようとする。これに対して、学習相談では、相談員が個々の学習者のニーズやその他の状況を勘案した上で、対応の仕方を逐一、判断する。
 2つは、「双方向性(プロセス重視)」である。対話などの双方向の交流をともなう。相談の「相」は「互いに」「ともに」という意味である。それは、いいかえれば、学習者の意思決定のための相談員からのアドバイスにとどまらず、学習者の意思決定や問題解決のプロセスの中に相談員が飛び込んでいって双方向のおつきあいをするということである。
 3つは、「援助性」である。生涯学習の援助活動の一環として行われる。直接、個人の生涯学習を援助することを目的とするものであり、援助者側の行う事業や保有施設を宣伝するなどして生涯学習全体の推進を図るものではない。また、その行為はあくまでも個人の生涯学習の援助であるから、他の行政目的などから生ずる目標への誘導や指導を紛れ込ませることは許されない。
 4つは、「教育性」である。一般行政の相談が行政、法律、医学などの特定事項の専門性にもとづいて行われるのに対して、学習相談は教育的専門性にもとづいて行われる。この場合、教育的専門性のはっきりした規定は困難だが、少なくとも先述の松下の言う「オシエ・ソダテ」ることとは意味が異なる。たとえば「その場合はこうですよ」と「教える」ような場面は、むしろ一般行政の相談に頻発するのであって、学習相談においては、「こういうこともありますが」とニーズに的確に応える情報を提示しつつ、情報の選択は学習者の主体性に任せることになるだろう。それは、学習者の学習主体としての成長を第一義に考える教育的観点があるからである。
 また、同じ社会教育の専門職である図書館司書が行うレファレンスサービスとも異なる。レファレンスサービスでは、直接の答を教えることよりも、「人と本をむすぶ」という観点から情報源としての図書資料の所在を伝えることを大切にする。その態度は、学習相談においても学ぶべきだが、しかし、学習相談ではそういう情報源の紹介さえもかならずしも必要とはかぎらない。極端な例だが、学習者がグチを言い続け、そんなことに対して直接役に立つ学習情報など思いつかないだろうから、相談員はそのグチを聞くだけに終わったとする。それは、レファレンスサービスとしては成り立たなくても、学習相談としてなら成り立つのである。なぜなら、学習者が悩みを言葉にして表現することは、学習者自身の気づきや成長につながる大きな可能性を秘めているからである。このような立場も人間の可塑性を信じる教育的観点からのものである。
 5つは、「自由性」である。「求めに応じて行う」ということである。相談を望まない人にまで相談を呼びかける必要はない。本人が自分で「相談したい」と思うまで待たなければならない。逆に、相談に訪れてくれた人に対しては、「相談に来た」という行為自体をその人の主体性の表れとしてとらえて最大限の敬意を払うべきである。「相談する」ということも、情報収集のための主体的な行動、すなわち生涯学習活動のひとつなのである。
 なお、「自由性」は「教育性」に矛盾するという反論もあるかもしれない。しかし、その反論は古い教育観に立脚しているのだと思う。実際、教育サービスを自ら進んで受けようとする人は今や世の中にたくさんいるのだ。その反面、むしろ大学生などの「学習専業者」の中に、「教育というものは必然的に強制をともなうものだ」と思い込んでいる人がたくさんいる。子どもの教育についてそう思っているだけではなく、みずからも「授業への出席をもっと厳しくとってくれないと、ついさぼってしまう」と私に訴える学生さえいる。さぼるならさぼってもよいのだから、他人のせいにしないで、もっと自信をもってさぼってもらいたいものだ。大学生になったのにまだ主体的な学習態度を身につけられず、「自由から逃走」しようとするそういう学生の姿を見ると、この問題の根は深いと思わざるをえない。5)
 話をもとに戻すが、相談員のほうも、「こういうときにはこう答える」という制約をほとんど受けない。ひとつのケースに対しても相談員によってさまざまな対応がありうるが、それは個性的であってよい(「こう答えてはいけない」という制約は、相談員の内発的動機からなら無数にあるだろうが)。このことは完璧なマニュアルはありえないということでもあり、それをいやがる相談員もいるかもしれないが、そういう人は相談員には向いていない。相談員とは、学習者の主体性の獲得を援助する活動の中で、自分もみずから育とうとする人たちなのである。
 これについても、教育に確実性や普遍性を求める人からの反論があるかもしれない。しかし、「教育職という立場上、自分はつねに正しい言動だけをしなければならない」という思い込みの強い人は、そもそも教育職には一番向いていない人なのだと私は思う。自分自身をつねに変えていき学習者とともに成長できる人こそ、望ましい教育職員像なのではないか。教育が、他人の学習を強制によって完全にコントロールしたり、完全無欠の指導を行ったりするということなど、どこにも書いていないし、そもそも、やろうと思ってもできることではないのだ。
 再び話を戻して、学習相談の特徴をまとめるならば、「学習者の意志にもとづき、個々のケースに応じて、学習者の意思決定のプロセスに双方向的かつ教育的に関わりつつ行われる」ということになる。この「特徴」は先述の「定義」とも軌を一にするものである。

3 コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性
3−1 コンピュータの効果的活用
 @の学習相談においては、適切な学習情報を提供することがもっとも重要であるから、それをいかに効果的に検索するかということがひとつのポイントになる。そのため、コンピュータによる学習情報データベースの活用を考えなくてはならない。なぜなら、データベースは、大量のデータを記憶してそれを必要に応じて必要なものだけ引き出す、という優れた機能をもっているからである。
 そしてコンピュータをうまく扱うことのできない学習者、たとえばメカニックなものに恐怖感を抱いている高齢者などには、相談員がコンピュータ操作の手伝いをする必要がある。これも、学習相談による個人の主体性(ここではコンピュータ・リテラシー)の獲得への援助のひとつということができる。
 もっとも、市民の中には、コンピュータ操作の研修を少しばかり受けた職員などよりよっぽど操作に慣れている人もたくさんいるのだから、なにがなんでも相談員を介さなければならない、というのも本末顛倒の話である。たとえば、子どもや青年たちの中には、キーボードアレルギーどころか、キーを見ればとにかく押してしまうような能動的な人も多い。そういう人には端末機に自由にさわってもらえばよい。いちいち担当者の手をわずらわせることなく、気軽に心ゆくまで求める情報を検索できるというメリットは、コンピュータの魅力のひとつなのである。
 「プライバシー侵害などの問題が起こるから」などの理由であくまでも職員だけが端末を操作するという所もあるが、それは「依らしむべし、知らしむべからず」という態度であるといわざるをえない。一定の項目を表示しないようにすること(マスキング)など、コンピュータなら簡単に設定できるのだから、そういう工夫によってシステムをなるべくオープンなものにすることは援助者側の義務である。こうした努力をせずに、情報提供システムを行政の側に一律に囲い込んでおいて、しかもそれに「相談員を介しているから」という理由で「学習相談」という名称をかぶせることなどは、行政の怠慢としかいいようがない。
 市民に開かれた情報システムの運営の事例として、「横浜女性フォーラム」を挙げたい。この館の正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできる「フォーラメディア」が設置されている6)。近くの子どもたちも喜んでさわりにくるのだが、それを婦人問題に関する利用ではないから目的外利用だと批判する声に対して、館長は、「男女平等に関する情報にたまたま接する機会になるかもしれないし、そもそも、将来の社会を担う子どもたちがコンピュータに触れるということ自体が意味のあることです」と言っている。
 学習情報提供にも学習相談にも、そのぐらい柔軟で積極的な発想が求められる。教育側が予想したとおりに突き進む教育コースにそのまま乗りたいと思う人など、いまやだれもいないだろう。教育側には、「偶発的学習(インシデンタル・ラーニング)」を待つ、歓迎する、あるいは仕掛ける姿勢こそ求められているのである。相談員も、すべての人のすべての学習の面倒を見よう、というようなよけいな気負いは捨てたほうがよい。そんなことはできるものではない。教育側が不要な構えを捨てたとき、MAZE(迷路)7)のような個人の成長に対応してコンピュータの柔軟性をうまく発揮することができるのである。
 さらに、コンピュータ活用は相談の第一義の目的ではないという、もうひとつのあたりまえのことを忘れないようにする必要がある。行政のなかでシステムが運用されているあいだに、そのことが意外に忘れ去られ、コンピュータシステムだけが一人歩きをしてしまいがちなのである。NTTの電話番号案内は、コンピュータ検索だからこそ速くて便利なのだが、一方、活字媒体である電話帳も、一覧性をもっているので、望む情報を手に入れるためのメリットが別の意味で大きい。情報が並んで提示されているから、他の周辺情報などに気づくことができるのである。データベースはかなり大きくなければコンピュータ活用のメリットは出てこないのだから、比較するデータが少ない場合は、冊子(レファレンスブック)からのほうがスムーズであるし、付加価値も期待できる。

3−2 コンピュータ利用の成熟化と人間の介在の意味
 コンピュータやニューメディアの利用は、今や成熟しつつあるといえる。成長時代の人たちがブランドやハイテクなどの「モノ」をステータスシンボルとして扱ったのとは対照的に、成熟時代の人たちは、モノをそのように溺愛したりしないで、自分で実際に試してみて、よいものだと思ったら、その人なりにそれを使いこなしていく。
 たとえば、パソコン通信についていえば、それは、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したモノから成り立っており、それらのモノの集まりが、多量の情報を高速にやりとりするパソコン通信の物質的基盤になっている。しかし、パソコンネットワーカーたちにとって、そんな素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を大切にする。さまざまな機器の助けを借りていることを忘れてしまうこと、つまり機器が「透明」になることを評価するのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。
 機器が「透明」になるということは、優れていてあたりまえのメディアと情報技術(技術者の方々には恐縮な表現だが)を捨象するということである。そうすると何が残るか。コミュニケーションの中身であり、自己と他者の存在そのものである。メディア機器が「透明」になればなるほど、自分と他人の中身がはっきりと向き合う。そこでは、より豊かな人間存在と人間関係の追求そのものが最高の価値として認められるのである。
 これは生涯学習全般についても同じことがいえる。そこでは、自己の人間存在そのものに一番大きな関心が払われる。たとえば、コンピュータ学習についても、機器の操作技術を身につけたかどうかよりも、学習によって自分の考え方の枠組(認知構造)がどう変わったか、今後どう変えることができるか、ということこそが主要な関心ごとになるはずである。コンピュータを使って学習情報をうまく引き出せない学習者への援助も学習相談の機能である、と先に述べたが、学習相談の意義はけっしてその程度に留まるものではない。学習者の人間存在そのものの表れ、すなわち存在証明としての生涯学習を、相談員という他の人間存在を通してどのように援助するのか、ということこそが、学習相談の本質的な課題なのである。
 コンピュータそれ自体はたんなる道具、たんなるハコにすぎない。人間以外のものは、たとえ人間存在のための優れた手段にはなりえても、けっして人間存在に関する主体にはなりえない。学習相談においての本来の学習主体は学習者であり、本来の援助主体は相談員なのである(図2)。
 私は、このような「本来の援助主体としての相談員」を「学習情報ワーカー」として位置づけたい。ここで「ワーカー」という言葉は、ケースワーカーのように当事者(学習者)のケースに個々に対応する仕事と、ネットワーカーのように情報や人々をつなげる仕事の、ふたつの仕事(ワーク)が遂行されることへの期待を意味している。「相談員」という言葉があまりにも意味中立的なために「与えられた職務だから役割を遂行する」という冷淡なニュアンスを与えかねないことに比べて、「学習情報ワーカー」という言葉は期待の込められたきわめて意味的な言葉であるといえる。
 ワーカーはネットワーク的な援助を行うことになる。ネットワークとは、自発的意思にもとづく水平なギブ・アンド・テイクの交流であり、そのためには互いが異質の価値(自立的価値)をもっていることが条件になる。また、私は、ネットワークを「自立と依存の統一」としてもとらえている。8)
 しかし、情報や人間をつなぐために人間が介在することが必要だとしても、人間によるその援助が、なぜ、どのように、ネットワーク的でなければならないかということについては、もっと深い議論が必要だと思われる。どのように水平なのか、どのように異なった価値をもっているのか、あるいは、どのように学習者がワーカーにギブしろというのか、ワーカーの側まで何をテイクしようというのか、などの異議や疑問が考えられるのである。そこで、ここからは、カウンセリングマインドという切り口から、人間存在への援助としての学習相談の内実にいっそう深く踏み込んで述べることによって、それらの問題について考えてみたい。

4 生涯学習の主体としての自立への援助
4−1 求められるカウンセリングマインド
 ここでは前述のとおり@の学習相談を考える。Bならば、カウンセリングマインドの発揮どころかカウンセリングそのものとして行われなければならないのは自明のことであるが、ここで提唱したいのは、@の学習相談であってもカウンセリングマインドが必要であるということである。これは、学習相談がたんなる学習情報提供にはとどまらないためのもっとも大切な要素になるだろう。また、コンピュータ自体はカウンセリングマインドをもちえないのであるから、ワーカーの存在意義を示すものでもある。
 ちなみに、学習相談を学習カウンセリングと称するケースを見かけることがある。これはBであるのならその名称は実体をよく表すものということができるが、@のような場合には問題があると思う。臨床心理におけるカウンセリングの現代的意義を認めるならば、むしろ、@のような場合に「カウンセリング」という言葉を使うことははばかられて当然であろう。その場合は、学習者の意思決定や問題解決のプロセスにていねいにつきあうという意味から、「学習コンサルティング」ぐらいの表現が妥当だと思われる。ここで主張したいのは、学習相談をカウンセリングではなくコンサルティングと呼んだとしても、そこには情報提供だけではなくカウンセリングマインドの発揮が求められているということである。
 なぜ、学習情報提供のサービスだけでは不足して学習相談がひつようになってきたのか。それは、急激に変化する現代社会の中で、生涯学習を行うための主体性そのものを人々が失いつつあるからである。主体とは「認識し、行為し、評価する我」という意味である。ここで、主体性は自主性に置き換えてもよさそうなのだが、私は自主性という言葉が軽い意味で受けとられる現状に批判をもっている。たとえば、「うちの子どもはわたしが命じなくても自主的にドリルに取り組んでいます」というときの教育ママの使う「自主」という言葉はかなりインチキくさい。本当に求められているものは、他者からの指導のもとに管理された個性や自主性ではなく、一人の人間が人間として生きる力であり、ひとつの生きる主体としての個別な深みである。私はこれを「主体性」とよびたい。
 つぎに、なぜ、カウンセリングマインドにもとづく対応が、学習情報提供だけではできなかった主体性の獲得そのものへの援助になるかというと、それは、カウンセリングが学習者の自己への「気づき」を促す側面をもっているからである。あとに述べるように、自分のすべてが受容される雰囲気のもとで学習に関する自分の期待などについてしゃべることは、学習者自身が今まで気づかなかった自分に気づくことにもつながるし、そういう自分をオープンにしても受容されるのだ、という安心や自信にもつながる。情報の羅列を外から与えられるだけでは、都合のよい情報だけ選択して自分の今の枠組をさらに強化することはできても、自分のもっている劣等感や敗北感などの不幸な思い込みの枠組自体を変えていくことはできないのである。
 生涯学習の理念が自発的意思にもとづいてみずから選んだ手段・方法で行うことであっても、本人が自分自身を見つめていないとしたら、その「自発的意思」も生まれようがなく、したがってその理念の実現は望めない。しかし、そのように自分の深みまで知るということ、すなわち自己洞察は、じつはだれにとっても容易なことではない。つまり、「自分に気づく」ということは、生涯学習を行うために不可欠の課題でありながら、それを完全に実現することは困難な課題なのである。
 それらの自分への「気づき」のなかでも、学習相談においてもっとも決定的なことは、生涯学習を行う自己の主体性の欠損への気づきだと、私は思う。たとえば、「他人の期待に沿うために」とか「勤勉でなければならない」とかいったような不合理な思い込みが、生涯学習の自発的意思を内からねじ曲げる結果になっている。不合理な思い込みから解放されるためには、まず、そういう思い込みをしている自分の現在と過去に気づかなければならない。問題の本当の所在さえ明らかになれば、あとはそれを自分で解決する能力を人間はもっている。
 このような「自己解決能力」への信頼も、カウンセリングマインドにもとづくものである。明治以来の教育が一定の教育水準まで集団全体をしゃにむに押し上げていこうとするプッシュ型だったことに対して、これからの教育は一人ひとりの個性や関心を引き出そうとするプル型に転換されなければならないということが生涯学習の議論のなかで言われている。カウンセリングマインドにもとづく学習相談は、まさにこのようなプル型の教育作用といえるのである。

4−2 共感・傾聴・ストローク・エンカウンター
 カウンセリングマインドの基本の1つめは、「共感的理解」である。
 共感は、同感や同情とは違う。共感的理解とは、自分の枠組ではなく、相手の枠組にもとづいて相手を理解することである。一人ひとりの枠組(フレーム・オブ・レファレンス)がすべて違うのだから、ワーカーはそのいずれの枠組をも理解し対応できるように努めなければならない。共感的理解を示すワーカーが対応することによって、学習者は安心してしゃべることができる。共感的理解こそが、ワーカーと相談者との心のふれあいのあり方なのである。9)
 共感的理解のために大切なことは、傾聴である。傾聴とは心を傾けて相談者の話を聴くことである。「早く本題に入って、どんな情報がほしいか言ってほしい」などの態度がワーカー側にちらつくと、相談者は安心してしゃべれなくなる。じつは、カウンセリングマインドにもとづいた学習相談の本旨は、学習情報の検索の代行などではなく、学習者が生涯学習に関するみずからの動機や希望、阻害要因などに気づくよう援助することなのである。また、毒にも薬にもならない無駄口が相談者に目立つ場合には、ワーカーがその人の発言を抑止することもあるかもしれないが、その時でさえも、無駄口をたたかざるをえない相談者の気持ちを察するように努めなければならない。このように、ワーカーには、自己の傾聴する役割への自覚が強く求められる。
 傾聴のための技法としては、受容、繰り返し、明確化、支持、質問などが挙げられる。10 )
 「受容」とは、相手を共感的に理解し、あいづちやうなずきなどによって、その共感を相手に示すことである。「こうすれば」「ああすれば」などの診断的な言葉をなるべく言わないようにして、まずは、相手の話に関心をもって耳を傾けなければならない。相談者の話も終わらないうちから、「ああ、それならこういう講座が開かれていますよ」などと言うのでは、ワーカーとしては失格である。
 「繰り返し」とは、相手の話をよく聴いた上で、「こういうことですね」と確認することである。繰り返しが的確であれば、相手からの信頼も得ることができる。その場合、的確であるということは、最後の結論だけを繰り返すことを意味しているのではない。たとえば、相手が、職場で英会話の勉強が必要になった経緯をしばらくしゃべったとしたら、「英会話の教室を探しているのですね」ではなく、「仕事の上で必要だから英会話を習いたいということなんですね」と繰り返さなくてはならない。このように「仕事の上で必要なのかどうか」を確認することはとても大切なことである。なぜなら、それを確認しておけば、もし仕事のほかにも英会話を活かそうとする期待が本人にあった場合、本人もあらたにそれに気づくことができるかもしれないし、ワーカーもその人のより深い本音を知ることができるからである。
 「明確化」とは、相手が遠慮などによってまだ言葉には出していない気持ちまで、ワーカーが言葉にして相手に示してみることである。そのためには、ワーカーは人間に関して敏感でなければならない。たとえば、「ここの学習相談は、あくまでも学習に関する相談を受け付けているんですよね」と聞かれたら、「はい、そうです」で終わらせてしまうのではなく、「そうですが、何かほかのことでご相談なさりたいことがおありならおっしゃってください」と対応する。相手は本当はそれを聞きたいのに、遠慮している恐れがあるからである。そういう積極的な傾聴によって、いろいろな相談を埋もれさせずに、その学習的側面を引き出したり、他の相談機関を紹介したりすることもできるのである。
 「支持」とは、相談者の言葉に賛意を感じたら、「それは当然ですよね」などと支持する言葉を口に出すことである。形だけの肯定ではなく、二人が心から共有できる空間を作り出すように努める。たとえば、通信教育の勉強の途中で挫折した人が相談に来たら、「もっと頑張って」ではなく、「一人だけで勉強するのは、とても大変だったでしょうねえ」と応ずる。そのことによって、相談者はほっとできるし、通信教育に復帰したり集合学習に転換したりする気持ちにみずからもなるのである。
 「質問」は、情報提供のためのたんなる下調べや情報収集のためだけのものではなく、傾聴のための技法としても重要である。よい質問は、相手への関心を示し、より深い共感的理解にもつながる。その場合、取り調べではないのだから、イエス・ノーでは答えられない質問が望ましい。そのことによって、結論だけではなくプロセスが浮かび上がるし、より正確に相手を理解することができる。たとえば、「公民館ではなく、民間の教室を希望されているのですか」という質問なら「はい」という答だけで終わってしまう場合でも、「公民館でもそういう講座が開かれているのですが、それについてはどのように思われますか」と質問すれば、相談者の学習に関するニーズがより積極的に明らかにできるのである。
 カウンセリングマインドの基本の2つめとして、「ストローク」を挙げたい。
 人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。「交流分析」ではこのような行為をストロークとよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。
 しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとる。このようにストロークを出す本人にとって、その発信はリスク(危険)のかたまりなのである。
 一方、最近の生涯学習の学習内容の傾向のひとつとして、こころへの関心が指摘できる。生涯学習に向かう要因としても、それを阻害する要因としても、こころの問題は大きい。豊かなこころは、豊かな対人関係、つまりは豊かなストロークに支えられる。そういう意味から、学習情報ワーカーはストロークの達人であってほしい。そのことによって、生涯学習に向かおうとする学習者にエールを送ることができる。
 また、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークを得るためには、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。その意味では、ワーカーは相談業務のなかで、相手のストローク発信を励ますとともに、みずからのストロークを豊かにすることが必要である。
 カウンセリングマインドの基本の3つめとして、「エンカウンター」を挙げたい。
 日常の対人関係にはいわゆる「仮面」がつきものであるが、エンカウンターでは、それを脱ぎ捨てて本音と本音をぶつけあう。対立することも多い。このようなエンカウンターは、通常、グループワーク(エンカウンターグループ)として行われるが、学習相談においてもエンカウンターの精神が求められていると考えられるのである。なぜなら、学習相談は、社交儀礼がやりとりされる場ではなく、幸福追求の一環としての自分なりの生涯学習を模索する生身の人間(相談者)に対する生身の人間(ワーカー)からの援助が行われる場だからである。
 カウンセリングマインドにもとづく学習相談において、生涯学習に関する相手の枠組をワーカーが理解すること、すなわち共感的理解は重要であるが、それは、ワーカーがその人と同じ枠組になる、すなわち同化するということではけっしてない。逆に、相談者とは異なったワーカーの好みや感情、考え方を率直に表明することも効果を及ぼす場面がありうる。カウンセリングのように精神的な治療を必要とする人を相手にしているわけではないのだから、対等な基本的信頼の関係のもとでは、異なった価値観や考え方の提示はむしろ有益な場合が多いであろう。また、対立までには至らないものでも、生涯学習の方法論に関する専門的・技術的な助言なども、ワーカーだからこそできる「異なった立場からの援助」のひとつとして重要である。
 しかし、それらをエンカウンターすれば、極端な場合には、コンフロンテーション(向き合うこと、対決)につながることもありうるが、必要なときにはいつでもそれを受けて立つ自信がワーカーには求められる。なぜなら、学習者ととことん向き合おうとすれば、学習者の人間存在により深く関わることになり、また、自分自身の問題にも対面せざるをえないからである。実際の学習相談の場面では、社交儀礼の挨拶なども交わすことになるだろうが、機を見て相談者の懐に飛び込むなど、人間の生き方に対する真摯な姿勢がワーカーには必要である。なお、この場合にワーカーに必要な自信とは、自己をあるがままに認めることであって、自分が相手よりも相対的に優位であることを誇示したり、優位な立場から相手に何かを押しつけたりすることではない。
 エンカウンターグループは日常生活から離れた所で期間を区切って実施される。それは文化的孤島と呼ばれる。しかし、その目的は、日常生活で具体的な行動を起こす力にまでむすびつけることである。このような点でも、学習相談がエンカウンターから学ぶべきことは多いと考えられる。なぜなら、学習相談も一時的な「孤島」であり、現実社会に戻ったあとの本人の実際の生涯学習に役立たなければ意味がないからである。
 とくに、セパレーション(分離)のあり方については重要である。エンカウンターグループにおいては、解散のときに泣いてばかりいて分離がスムーズにいかないのは、けっして連帯感の高まりとしては評価されない。むしろ、分離不安の表れとされ、過去志向的で自立がうまくいかなかったと見なされるのである。学習相談のワーカーは、この厳格なエンカウンターの姿勢に見習わなければならない。学習者から受ける過度の愛着は自慢にはならない。学習者の現実復帰、つまり理想的な学習社会にはなっていない実際の娑婆で学習するための主体性の獲得をこそ、ワーカーは援助しなければならないのである。

5 ネットワークのなかでともに育つ
 学習相談は、ネットワークの営みである(図3)。情報と情報をつなぎ、学習者と情報とをつなぎ、さらには、学習者と学習者とをつなぐ。そこでのワーカーと相談者の関係は、今まで述べたとおり、異質な者どうしの水平なギブ・アンド・テイクである。あくまでも学習者の自発的意思にもとづくものであり、そのつながりはゆるやかで、参入と撤退、出会いと別れを自由に繰り返すものである。
 このようなネットワークであるためには、それぞれが自立的価値(個性)をもっていることが条件になる。そうでなければ、ヒエラルキーなどとしてのシステムではありえても、ネットワークとしてのシステムにはなりえない。そして、自立したパソコン(スタンド・アローン)がパソコン通信によってネットワークされるように、自立的価値をもつ個人や機関や情報が学習相談によって相互に連携(依存)する。ネットワークが自立と依存の統一である、というのはそういう意味である。
 私はこれらを貫く鍵概念として「個の深み」という言葉を提起したい。「個の深み」とは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人一人ひとりとして生きること、そして、その固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすること、という意味の造語である。11 )人間はなぜ生きているのか、といえば、究極的には自己実現によって「個の深み」という高次な幸福を獲得するためであり、その人間がなぜ社会の一員として生きるのかといえば、究極的にはコミュニケーションによって他者の「個の深み」を味わいつつ自己の「個の深み」の形成にも活かすため、と私は考えている。
 ネットワークのこころさえ失わなければ、学習相談の事業は、学習者の「個の深み」とたえまなく接し続けることができるだろう。それは、たとえば一般行政の相談では、「本務ではない」などの理由から相談員は禁欲しなけれはならなかったことである。しかし、学習相談においては、ワーカーの主体的な判断力とモラルを前提とすれば、むしろ「本務」として勧められるべき行為である。学習相談事業のなかでつねに変わることや育つことがもっとも望まれ、また、可能なのは、組織としてはその事業を行う機関であり、人間としてはその事業を担当する学習情報ワーカーなのである。だから、みずから学び育ちたいという気持ちがあるかぎり、学習相談という仕事は至上の喜びをもたらしてくれるはずである。
 生涯学習推進のために、あるいは、住民のために、犠牲的精神で学習相談活動を行っているなどというような人がいたとしたら、その言葉はウソであろう。中身のない虚ろな言葉だ。ともに育つ学習相談のなかでは、援助者側の人間は自分のために研鑽を深め、自分のために業務に携わっているはずだ。それは、教育の仕事全般にもいえることである。本当の「自分のために」ということは、自分自身がつねに変わり成長することであり、その姿勢は他者の主体性の獲得とはまったく矛盾しないばかりか、援助者、教育者であるためのもっとも大切な資格要件ともいえるのである。
                                (西村美東士)

1) 松下圭一『社会教育の終焉』筑摩書房、一九八六年、三頁
2) 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、一九九一年、一五頁−二七頁
3) 三浦清一郎『比較生涯教育』全日本社会教育連合会、一九八八年、三九頁
4) 西村美東士「生涯学習を援助する相談事業」一九九一年、日本教育新聞社『週刊教育資料』第二六三号
5) 西村美東士「コミュニケーションを求めておののく若者たち」一九九二年、日本教育新聞社『週刊教育資料』第二八一号
6) 前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、五一頁
7) MAZEについては前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに五三頁及び一五二頁
8) ネットワークについては前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに一二九頁
9) カウンセリングについては、とくに平木典子『カウンセリングの話(増補)』朝日新聞社、一九八九年
10) 傾聴の技法とエンカウンターについては、とくに国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房、一九八一年
11) 「個の深み」については前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに二頁−四頁


図1「学習相談への発展」

          ・・・・学習情報の判断者・・・ ・・・・・・援 助 目 的・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 従来の日常的相談 ・    援助者    ・ ・  集合学習への動機づけ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ 第1の革新・・・個 人 の 主 体 的 学 習 の 重 視 と 尊 重 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 学習情報提供   ・    学習者    ・ ・  個人の主体性の発揮 ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ 第2の革新・・・個 人 の 主 体 性 の 欠 損 へ の 気 づ き ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 学習相談     ・    学習者    ・ ・  個人の主体性の獲得 ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

図2「コンピュータとワーカーの仕事との関係」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 学習情報データベース ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・
・・・・・・・・・・・・・・ 学習情報提供・・・・・・
・コンピュータ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 学 ・
・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・
  ・ 学習相談※1・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 習 ・
・ 学 習 情 報 ワ ー カ ー ・ ・   ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・
  ・学習相談※2 ・ 者 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
・・・・・・
 (※1 コンピュータ利用への援助)
 (※2 ネットワーク的援助)

図3「ネットワークとしての学習相談」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・           ・・受容 ・
       ・           ・・繰り返し ・
       ・ ・・共感的理解・・傾聴・・・・明確化 ・
 援助者 ……・ ・   ・・支持   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ ・   ・・質問 ・ 自分のため→ ・
       ・ ・・ストローク ・ ・
       ・ ・・エンカウンター ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
             ・・・ カウンセリングマインド ・・・・・ 援助者自身の成長 ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 異質の交流↓・
       ・ マス(集団)   →個別  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 一方向      →双方向  ・ ・ ・
 学習相談……・ 指導      →援助    ・ ・ と も に 育 つ ・
  ・ 特定事項の専門性 →教育の専門性・ ・ ・
       ・ 定型性      →自由性 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 異質の交流↑・
・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・   ・相互の自発的意思 ・
             ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・参入と撤退の自由 ・
             ・・・ ネットワーク的援助 ・・・・・・・・・水平なギブ&テイク・
             ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・自立と依存の統一 ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
       ・ 自己の主体性の欠損への気づき ・ ・
・    ↓ ・ 自立的価値→ ・
 学習者 ……・ 問 題 の 自 己 解 決 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・    ↓ ・
       ・ 「 個 の 深 み 」 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
学校の土曜休日2回を大人自身のために
   明治図書「学校運営研究」1993年3月号
                  西村 美東士
                  (昭和音楽大学助教授)

 ここでは、大人の主体性の獲得を援助しようとする社会教育の立場から意見を述べたい。
 まず、既存の社会教育団体等の拡充を願うことはあっても、それらを受け皿としては期待すべきではない。受け皿とは、こぼれたものを受けとめるためのものだ。受け皿ではなく本来のカップ、すなわち子どもの教育の主体とは何なのか。それは親たち大人たち自身であろう。そして、社会教育とはそういう人びとの主体的選択行為である。だから、社会教育も受け皿ではなく、子どもと大人の成長がその中で行われるカップそのものだといえる。土曜休日に大人が子どもとともに育つことによって、カップとしての大人自身も、子育てをする自らの役割をもっと味わい、楽しめるようになるだろう。
 今まで、学校のほうこそが、親という本来のカップの受け皿として、専門的・教育的役割を果たしてきた。しかし、それと並行して、親たちは子どもへの教育力を失っていき、子どもの教育を学校に依存しすぎるようになってきた。私は何も家庭の教育力の弱体化だけを問題にしようとしているのではない。それと同じような調子で、何のために現在の伴侶と結婚したのか、何のために子をもったのか、何のために生きているのか、現代社会の中で私たちは答えを失いつつある(拙著『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』学文社)。そういう主体性喪失の状況に抗し、あらためて人間らしさを取り戻そうとするさまざまな活動が人びとの手で自覚的、無自覚的に生涯学習活動と結びついて行われようとしている。学校の土曜休日も、そのための条件づくりの一環である。
 もちろん学校の土曜休日に関して、週休二日制への国際的動向や教職員の労働運動などが影響している「事実」は否定できない。しかし、ここで追求したいのは、そういう「事実」への同調や抵抗を越えた次元での、土曜休日の「真実」のあり方である。その「真実」とは、すなわち、「子どものため」という言葉で自分をごまかさない大人自身の幸福追求の姿である。いま、大人が不幸であるからこそ、子どもたちも不幸になっている。たとえば、十代の少女を妊娠させている相手は、圧倒的に二十歳以上の大人、社会人である。私たち大人の主体性の回復なくしては、子どもたちの幸せもありえない。
 その回復の営みは、「個の深み」を味わいつつ「MAZE(迷路)」をさまようという経緯をたどるだろう(拙著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社)。大人は迷路に不安を感じるが、子どもにとって、迷路は迷えば迷うほど楽しい。私たち大人も、土曜休日の子どもたちとともに、そういうフリーチャイルド(自由な子ども)の心を取り戻したい。
地域の指導組織とどう連携・協力したらよいか

Q9
地域には、少年スポーツクラブなどの多くの指導組織があります。子ども会活動が
盛んな地域もあります。学校週五日制との関連で、このような地域の指導組織とど
う連携・協力していったらよいか、その具体的なあり方を示してください。

   教育開発研究所『小学校教育』「子どもの成長を支える教育環境の課題」

   昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

1 指導性の過少と過剰

     子どもたちのための地域の指導
    組織を、社会教育の分野では「少
    年団体活動」と呼ぶことが多い。
    少年団体活動のもつ教育力につい
    ては、@体験のもつ教育力、A参
画のもつ教育力、B地域活動のもつ教育力、
C 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力、
などを挙げることができる(拙著『生涯学
習か・く・ろ・ん』学文社)。
 しかし、その組織で発揮される大人の指
導性については、「過少」と「過剰」の問
題が指摘される。田中治彦によれば次のと
おりである(『学校外教育論』学陽書房)。
 たとえば、年に一〜二回の行事を行なう
だけであったり、大人がすべて手配してし
まって子どもはたんなる「お客さん」にな
ってしまったりしている子ども会がある。
これらは、指導の欠如、または指導法の貧
困の問題である。一方、チームが強くなる
ことや試合に勝つことを目的化してしまい、
その結果として、過酷な練習を強いたり、
レギュラーでない子どもに劣等感を植えつ
けたり、身体を壊したり、というようなス
ポーツクラブもある。これらは、指導の過
剰の問題である。
 小学校側としては、地域の指導組織の現
状に失望するのでも、幻想を抱くのでもな
く、地域での子どもの成長をともに援助す
る立場から、能動的かつ建設的に連携・協
力を進めることが望まれる。

2 啓発・融合・浸透
 全国組織を有して活動を展開している主
要青少年団体の連絡調整機関として、社団
法人中央青少年団体連絡協議会(略称、中
青連)が設立されているが、その特別研究
委員会の提言『青少年団体と学校教育との
連携を深める』(昭和六〇年3月)による
と、学校教育と団体活動の連携の進め方に
ついて、「啓発型」「融合型」「浸透型」
の三つのタイプが挙げられている。
 「啓発型」とは、団体指導者と学校教師
が連携に関する学習を深め、相互の理解・
協力の促進を図ることをねらいとしたもの
で、具体的には、青少年の育成指導に関す
る相互の補完的役割について、団体指導者
と学校教師との相互の啓発、研究・調査等
を促進するなどの活動が考えられる。
 「融合型」とは、団体活動と学校教育活
動とが、いわば一体的に展開され、双方の
教育機能の相乗効果を高めることをねらい
としたもので、具体的には、学校が青少年
施設を利用して集団宿泊指導などを行う場
合、団体が求めに応じて学校に協力して行
うなどの活動が考えられる。
 「浸透型」とは、団体、学校双方の教育
機能を反映しあいながら、児童の日常生活、
学校生活に好ましい影響を及ぼすことをね
らいとしたもので、具体的には、学校が指
導方針を立てて児童の団体活動への参加を
奨励し、また、団体は、積極的に児童の団
体活動を拡充し、その地域参加を促進する
などの活動が考えられる。
 華々しい「学社一体型のイベント」だけ
が学社連携の姿ではない。地域の指導組織
との連携・協力の基本は、このような通常
の教育活動の中にこそあるのだといえる。

3 学校週五日制における親や大人たちの
 主体性の獲得への援助を
 中青連の特別研究委員会は、平成二年度
に「学校週五日制時代に向けて豊かな人間
交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年
団体活動−」を提言した。そのキーコンセ
プトは、「地域子育てネットワークづくり」
である。
 その前年の提言では、委員会は、「根本
的には、集団の存続より『個の深み』の発
揮が大切」と主張していたが、この「個の
深み」の現代社会の疎外状況の中で、学校
週五日制は、もっと親たちや地域の大人た
ちの主体性の獲得に向けられるべきだと考
えられる。いま大切なことは、学校週五日
制の本格実施を前にして、学校依存症など
の「病」を抱えている親たちも、子どもと
いっしょに時間と空間をわかち合うことに
よって、子育ての力をはじめとする大人自
身の主体性を回復することなのではないか
(拙著『こ・こ・ろ生涯学習』学文社)。
 学校側としても、土曜日の子どもたちの
「受け皿」を血眼になって探すことに終始
するのではなく、地域住民とともに育つ成
人教育の視点から、「地域子育てネットワ
ークづくり」における教育機関としての専
門的役割を果たすことが期待される。

キーワード(20字×9行×2段)
「地域の指導組織」
 田中治彦は、前掲『学校外教育論』で「遊
びを中心とした子どもたちの自発的な集団と
は別に、大人たちによるなんらかの指導が加
わった少年少女活動」を3つに分類して論じ
ている。その第1は、「スポーツ少年団、ボ
ーイスカウトなどの目的が明確な少年団体」
(目的少年団体)、第2は、「地域性を基盤
として子どもたちを組織している子ども会な
どの地域団体」(地域少年団体)、第3は、
「子ども文庫、親子劇場、大学の児童文化部
の活動などの子どもの文化活動」である。
 より具体的に中青連の会員団体の中から少
年少女団体を挙げると、ボーイスカウト日本
連盟、ガールスカウト日本連盟、日本海洋少
年団連盟、青少年赤十字、全日本鼓笛バンド
連盟、日本スポーツ少年団、全国子ども会連
合会などがある。

ロングバージョン

1 指導性の過少と過剰

 子どもたちのための地域の指導組織は、社会教育の分野では「少年団体活動」と呼ぶことが多い。少年団体活動のもつ教育力については、
@ 体験のもつ教育力
A 参画のもつ教育力
B 地域活動のもつ教育力
C 仲間集団や異年齢集団のもつ教育力
などを挙げることができる(拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社)。
 しかし、そこで発揮されている大人の指導性については、「過少」と「過剰」の問題が指摘されている。田中治彦によれば次のとおりである(『学校外教育論』学陽書房)。
 たとえば、地域子ども会によく見られる現象として、年に一〜二回の行事を行なうだけであったり、大人がすべて手配してしまって子どもはたんなる「お客さん」になってしまったりしている子ども会がある。また、キャンプなどで次々とプログラムを展開し、それに振り回されて指導者も子どもも疲れてしまうなどのケースも見られる。これらは、指導の欠如、または指導法の貧困の問題として理解される。
 一方、スポーツクラブによく見られる現象として、チームが強くなることや試合に勝つことを目的化してしまい、その結果として、過酷な練習を強いたり、レギュラーでない子どもに劣等感を植えつけたり、身体を壊したり、というようなことが起こる。これらは、指導の過剰として理解される。
 このようなことから、小学校側としては、地域の指導組織の現状に失望するのでも、幻想を抱くのでもなく、地域での子どもの成長をともに援助する立場から、主体的かつ建設的に連携・協力を深めることが望まれているといえる。

2 啓発・融合・浸透
 全国組織を有して活動を展開している主要青少年団体の連絡調整機関として、社団法人中央青少年団体連絡協議会(略称、中青連)が設立されているが、その特別研究委員会の提言『青少年団体と学校教育との連携を深める』(昭和六〇年3月)によると、学校教育と団体活動の連携の進め方について、「啓発型」「融合型」「浸透型」の三つのタイプが挙げられている。
 「啓発型」とは、団体指導者と学校教師が連携に関する学習を深め、相互の理解・協力の促進を図ることをねらいとしたもので、具体的には、青少年の育成指導に関する相互の補完的役割について、団体指導者と学校教師との相互の啓発、研究・調査等を促進するなどの活動が考えられる。
 「融合型」とは、団体活動と学校教育活動とが、いわば一体的に展開され、双方の教育機能の相乗効果を高めることをねらいとしたもので、具体的には、学校が青少年施設を利用して集団宿泊指導などを行う場合、団体が求めに応じて学校に協力して行うなどの活動が考えられる。
 「浸透型」とは、団体、学校双方の教育機能を反映しあいながら、児童の日常生活、学校生活に好ましい影響を及ぼすことをねらいとしたもので、具体的には、学校が指導方針を立てて児童の団体活動への参加を奨励し、また、団体は、積極的に児童の団体活動を拡充し、その地域参加を促進するなどの活動が考えられる。
 このようなことから、何も華々しい「学社一体型のイベント」だけが学社連携の姿ではない、ということを私たちは確認しておく必要があるといえるだろう。むしろ、地域の指導組織との連携・協力の基本的な姿は、通常の教育活動の中にこそあるといえる。

3 学校週五日制における親や大人たちの主体性の獲得への援助を
 中青連の特別研究委員会は、平成二年度に「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動−」を提言した。そのキーコンセプトは、「地域子育てネットワークづくり」である。私もこの提言に起草委員長として関わる機会を与えられたのだが、そこでの問題意識の根底にあるものは、土曜日の子どもたちを学校が面倒を見なくなるのならば今度は社会教育(少年団体活動)だ、という安易な受け皿論を克服して、人びとがもっと主体的に生きる土曜日を創り出せないだろうか、ということであった。
 その前の年の提言では、私たちは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入ったり踏み入ろうとしたりして、自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、「根本的には、集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切」と主張した。この「個の深み」の現代社会の疎外状況の中で、学校週五日制は、もっと親たちや地域の大人たちの主体性の獲得に向けられるべきだというのが私の考え方である。いま大切なことは、学校週五日制の本格実施を前にして、子育てに関する学校依存などの「病」を抱えている私たち大人でも、子どもといっしょに時間と空間をわかち合うことによって子どもの「個の深み」と接し、子育ての力をはじめとする大人自身の生きる主体性を回復することなのではないか(参考文献、拙著『こ・こ・ろ生涯学習』学文社)。
 小学校側としても、土曜日の子どもたちの「受け皿」を血眼になって探すことに終始するのではなく、地域住民とともに育つ成人教育の視点から、「地域子育てネットワークづくり」における教育機関としての専門的役割を果たしてもらいたいものである。

「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その3)
 −学習者の発言(出席ペーパー)に対する指導者の対応のあり方−
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(3)
−How the Leader's Response should be to the Learner's Appeal in Attendant-Papers−

今回の論文の位置づけ

 これまでの一連の拙論のすべてを貫く鍵概念は、「個の深み」であり、問題意識は、その獲得を家族、友人、教育者、職場、地域などの他者、とくに社会教育がいかにすれば支援できるのか、ということである。一見、自己矛盾に満ちたこのテーマは、教育や哲学全般においても難解な課題だと思われるが、ここではできるだけそれぞれの具体的なケースや場面を想定しながら考えていきたいと思う。
 前回は、出席ペーパーに表れた事例をいくつかの視点から分類して紹介することによって、「個の深み」の内容、または、その阻害要因に関する具体的な姿を明らかにしようとした。今回は、ペーパーに表れた「個の深み」に関連する事項に対して、指導者(ここでは大学教員)がどのように対応することが効果的なのかを探ることにする。
 もちろん、ここに記した対応とは、私の拙見からのものであり、普遍的なモデルになりうるものとはとうていいえるものではない。しかし、指導者の対応のあり方は、そもそも個性にあふれるものであってよいはずであるから、そういうものを数多く考えることによって、いくらかの役に立つと思われる。ちなみに、私のコメントの方針は、カウンセリングとエンカウンターの精神にあふれたストロークを学習者にぶつけることである。
 なお、ここでいう「出席ペーパー」とは、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くものであり、それに対する私のコメントは翌週の授業の冒頭に行われる。
 また、ここに挙げた「S大・S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事の課程を学ぶ大学生と短大生であり、「T大T部・U部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の1部学生と社会人入学者を含む2部学生である。そして、mito以下のコメントは、それぞれの出席ペーパーについて私が授業までに準備しておいたメモである。

1 授業は勝負だ−ビートたけしに勝つ授業を公言することの意味

 私は、授業を教員にとっての勝負だと考えている。私たち教員は、大学当局に雇用対策のために雇ってもらっているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会においては、テレビ番組や出版などによって、おもしろくてそれなりに役に立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業がそれらの情報より何らかの意味で「勝っていなければ」ならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思に基づくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。
 だから、私は、1回目の授業で「ビートたけしに勝つ」ことを宣言する。これが一部の学生には理解が困難であったり、不快感を与えたりしているようだ。小学校以来、植えつけられてきた「学習はつまらなくても我慢するもの」という敗北主義的だがそれなりに安定した人生の構えに動揺をきたすからであろう。しかし、そういう反応に対して指導者がうまく対応すれば、学習者の主体性獲得に向けた気づきと態度変容のきっかけにもなりうるのだと思う。
 蛇足ながら、私自身は、じつは、つねにビートたけしに勝っているという自信をもって授業をしているわけではない。むしろ、「学生の学習ニーズは本当は何なのか」「ぼくの授業は本当におもしろいのか」などという不安にいつもさいなまされているのが現実である。ただ、学生の支持や批判の反応を直接知りながら話を進めることができるという点では、授業はもともとテレビのビートたけしよりも有利な条件にあるといえる。

1992. 4.15. T大T部社会教育計画、男
 「たけしに勝つ!」という目標は興味深いが、モハメド・アリに挑戦したアントニオ・猪木、あるいは参院選に立候補する森田健作のようなチグハグしたものをも感じてしまう。
1992. 4.18. S短大教育社会学、女
 先生に一言!! 私はたけしの大ファンなのだけど、先生はたけしに勝つことは考えない方が良いのでは?
mito 授業は勝負だ。学習の指導者には厳しい自己評価が必要である。
1992. 4.18. S短大教育社会学、女
 どうしてビートたけしに勝つ授業がしたいのですか? ちなみにある先生は、自分がつまらなくならないために楽しい授業をするんだとおっしゃっていました。
mito 厳しい自己評価は、自分のため、自分がつまらなくならないために行うのだ。
1992. 4.18. S短大教育社会学、女
 教室に入って先生が待っていてくれたのは今日が初めてです。常識かもしれないけれど、思わずうれしくなって「おはようございます」って、気持ちよくいえました。(中略)
 あまり慣れていない友だちと2人になると”ちんもく”になっちゃいます。そんな時、何を話せばいいのですか。是非、教えてください。
mito 勝負でないときには、たとえば「木戸に立ちかけせし衣食住」(社交儀礼的な会話のコツ−説明)のような仮面をつけた会話でよい。だが、授業は勝負のときなので、なるべく学習者が入ってくる前に教壇で待つようにもしているし、そんな仮面をつけたような「毒にも薬にもならない言葉」は言わない。

2 学生の非主体的学習態度への教師のエンカウンター

 学生が学習に対して主体的になれない場合、社会や教育や他人のせいにするなどして、そういう自分の態度を認めることから逃避しようとしがちである。それに対して教師は真正面からぶつからなければならない。
 ここでは、おもに、私の授業への評価としてCをつけた白紙の出席ペーパーを提出したケースと、3回で単位が取れるのだからもう出席しないと出席ペーパーで宣言したケースの2つを扱った。

1992. 5.13. T大U部社会教育概論、男
 前回、この講義を聞かずに”C”の評価をつけた者です。Cをつけた理由は、「どうせ、こんな出席ペーパーなんて言ったところで、ろくに読みもしないんだろう」という考えにありました。軽い口調で学生に自分の授業への評価を求める・・・、いかにも今風のやり方になんとなく反発を覚えたのです。今まで、そういった人間、とくに教師にはろくな人間がいませんでしたから。
 今回、「白紙でのC評価がくやしい」と言われて驚きました。そんなところまで見ていたなんて・・・。前回のC評価は撤回させていただきます。前回、僕はロクに講義を聞いていませんから。そういうのはアンフェアーですからね。次回からは、講義を聞いたときだけ評価することにします。今度は評価の理由も書きます。
mito 心を開いてストロークしてよかった。
1992. 5.13. T大U部社会教育概論、女
 先生が一所懸命授業しているのは伝わります。しかし、少数意見はそれなりに大事にした方がいいと思います。私たち生徒は、単位のためには、好きじゃない教科や先生におべっかというか顔色をうかがうことは、正直言ってあると思います。だから、先生に対してプラスの評価をする人がかならずしもよい生徒だとはかぎりませんよね。先生ぐらいきちんとした人なら、あまりそのことにこだわるのはもったいないと思います。謙虚な気持ちを大切にした楽しい授業、期待してます。(評価はA)
mito AかせいぜいBの上だと思っているから、これだけ学生にぶつけている。
1992. 5.16. S短大教育社会学、女
 みとちゃんって自信過剰〜!と思いました。でも、その自信が良い方向で生かされているので良いと思った。Cの評価の話で、その学生がみとちゃんを解ってくれたことを話しているとき、みとちゃんがとてもうれしそうで、見ていてなんだかかわいかったです。
mito 教師は自分の授業を創る生産者であるとともに、「いい商品ですよ」と勧めるセールスマンでもあるべきだ。
1992. 5.20. T大U部社会教育概論、女
 前回の授業の時、白紙のC評価に対して「僕はほとんどすべての学生からAをもらえる自信があるということを言われていましたね。私はその言葉にとてもがっかりしました。教師が自らの授業方針に対して自信をもって進めていくことは大切だと思いますし、教師が自信のない態度で授業に臨んだら、学生もきっと戸惑うことでしょう。しかし、先生自身が自分の授業に対しての評価をAだと口に出して言うのはおかしいと思いますし、おしつけとして感じます。
 先生の授業の進め方が絶対的に正しく、学生にとって良いものだとは今は思いません・・・、と言うより、今の私にはわかりません。1年間授業を受け、最後に授業を受けた自分に対しての評価を出してみようと思っています。それが先生に対しての評価と一致するかどうかわかりませんが・・・。でも、毎回、この授業の中でハッとさせられたり、考えさせられたり、気づくことがあったりして、そういう意味では楽しみな授業です。
mito おしつけだったら授業評価など要求しない。学習者主体の評価が必要。そういう自分の考え方を明らかにしただけである。このようにすることによって、ほんとうは傲慢なことを考えているくせに、表面は変に謙遜ばかりしている教育者像というものを打破したい。
1992. 5.20. T大U部社会教育概論、女
 先生には自分が共感できること以外は批判する傾向があるようですね。聞いててあまり良い気分じゃないです。別に何でもいいですけど。(中略)
 悪影響を社会に及ぼすような性交、それにまつわる営業はキッパリとナイほうがいいと思う。私がどう言ったところで何も変わりませんが。そう思っている人は少なくないと思います。
mito いい気分にさせてあげるために教育があるのではない。学生が不快であったことなどは、僕の授業への批判にはならない。守られることを考えるのではなく、もっと対等に勝負してきてほしい。もちろん、受けて立つ。相談事業を行っているのではないのだ。
mito 別に何でもいいですけど、や、私がどう言ったところで何も変わりませんが、というのは敗北主義の表れだ。自分が思っていることが通らないからどうこうと言う前に、その自分の思っていることがそんなにたいしたことなのかどうか見つめた方がよい。
mito 教育学とは、これはないほうがいいとそれぞれが勝手に判断することではなくて、そういう現代社会の人間たちの生きる主体性の喪失という不幸とその自己解決への援助の方策の可能性を科学的に厳しく見つめることなのだ。
1992. 5.20. T大T部社会教育計画、男
 今日でこの授業は3度目。これで先生は単位が取れるとおっしゃっているのですから、これからは多分出なくなると思います。
 (差別の話・・・中略)ナチスドイツのヒットラーはユダヤ人を迫害したときにユダヤ人を下等な人種だという理由をつけていたが、もしかしたら差別をする人はそのような考えを持っているのだろうか。
 さっき出なくなるだろうと書きましたが、この問題について先生もしくはS音大、T大の人はどう考えているのかを知りたいので、次回は出席しようと考えています。なるべく出ようと思っていますが、何かの理由で休んだらすいません。
mito 3回出たからもう出ない、と言われたのは3年目にして初めてである。でも、正直に書いてくれてよかった。すべての学生に意味ある言葉を発し続けられるのでは、という僕の自信または万能感が崩れたし動揺もあったが、それを回復させるプロセスもあった。ほかの学生などにも僕の授業についての感想を聞いてまわったのだ。
mito もしかしたらこの学生は僕の授業をあまり聞いていないで発言したのかもしれないし、あるいは最初から僕なんかをはっきり超えた主体性をもった人間なのかもしれない。それはわからないが、自分の原初的な問題意識に対する反応を面識のない多数の学生に期待し、しかも「次回だけは」出席するという態度には、真実の追究に対する傲慢さを感じる。差別に関する考察も、本人の実存から発した深い訴えになっているとはいいがたい。もう少しじっくりとらえていくべきものではないか。
mito 差別を封建時代のたんなる残りかすとして片付けるわけにはいかない。差別には、制度的差別と心理的差別(偏見)の二つがあり、とくに後者は私たちの主体性の問題が問われていて、この授業と深く関わっている。それは、自己の内なる差別意識を問え、批判の刃(やいば)を自己に向けよ、ということであり、この人の話のさらに次の段階のつもりで僕は授業を進めているつもりだ。対等な人間関係から逃げようとする権威主義への自分自身の依存を見つめてほしい。
1992. 5.27. T大T部社会教育計画、男
 前回、「差別が・・・」というペーパーを出した者です。私のあんなひどいものに対して、先生が一生懸命にコメントしてくださっている姿に感動しました。これから地方公務員になり社会教育主事になろうと思っている人間(私のことです)がこんなことじゃだめですね。あんな教師批判のようなコメントを出したら、普通はにらまれるのに、怒りを抑え込んでコメントしてくれている姿に感動しました。ただ、自己弁護になるかもしれませんが、「3回出たら」という人は私の他にもいると思います。ただその人たちはそう書かないだけなのかもしれない、ということは言いたいと思います。
 久しぶりに本当にためになる授業に出会えたような気がします。3回出たら、という言葉は取り消します。就職活動中ですが、できるだけこの授業は出ようと思います。こんな良い授業のある教育学科はうらやましいような感じもしました。
 あの文章は、途中からかなり感情が入ってしまったので、あんなひどいものになってしまいました。「差別」という問題はかなり深いものがあると思うので、もう一度じっくり考えたいと思います。そして、これに対する考えがもう少し自分でまとまったら、また、ここに書きたいと思います。
1992. 5.27. T大T部社会教育計画、女
 私を含めて、今の学生で大学の授業を能動的に受けている人はごくわずかだと思う。大学の授業に大きな期待をしていないのが本当ではないだろうか。大学に入るために勉強をし続けて、今やっと解放されたのに、また勉強をする気になどなれないし、自分から学ぶ姿勢というものも持っていないと思う。私たちの世代は、学歴社会という社会に勉強させられてきたように思われる。だから大学は、授業に参加する場ではなく、卒業に必要な単位だけとってあとは遊ぶ場としている人が大多数だと思う。それにカリキュラムが決まっていて、自分が興味がない授業でもとらなくてはならなかったり、とりたくてもとれなかったりして、つまらない授業でも1時間半、教室に座り続けなければならない。そんな時、頭の中では違うことを考えているんだと思う(私はそうだから)。
 自分がきちんと聞いていないのもいけないが、先生によっては黙々と1人で話をしているだけの人もいる。大学は、学生と教師の距離が一番遠い所なのではないだろうか。mitoちゃんの授業は、その点、私たちとの距離が近くて教師の一方的なものではなく、私たちの意見に反応してくれている。でも、点を取るための詰め込み教育を受けてきた私たちの世代には、そういう授業への参加の仕方がわからないんだと思う。
 U部の学生は前の席から座っていく人が多いと言っていましたが、それは、T部が受からなかったから仕方なく、という人を除いて、本当に勉強したい人がずっと多いからだと思う。
mito 大学の授業に主体的に取り組めないという学生の気持ちは、僕も学生時代はそうだったから、すごくよくわかる。でも、自主ゼミを開いたり、よその授業にもぐったりすれば、その問題は自分の力で解決できるのではないか。
1992. 5.27. T大T部社会教育計画、男
 美東さんは、僕が好きなタイプの一人です。教科書には書いていないような人生にとって大切なことを教えてくれるから・・・。でも、美東さんを見ていると、何か下心が感じられてしまうのです。学生に好かれたいという下心です。
 先生に挫折感を与えたその学生は、僕と同じように感じたのではないでしょうか。だから先生の心を試したのではないでしょうか。
mito 教師が学生により好かれたいと思うのは当然だと思うが、このペーパーが言いたいのは、僕が学生からのストロークを「卑屈に」求めているということか。何気ない仕草でそう感じられてしまうのだったら仕方ない。しかし、たとえば出席3回で単位を出すということに対してだったらそれは違う。授業を真剣勝負としてとらえる僕の考え方の表れなのだ。そして、そこではかならずしもいつも僕が勝つとはかぎらないというだけの話だ。
1992. 5.27. T大T部社会教育計画、女
 いろいろと挑戦していつも前向きに生きている強烈な意志のようなものをmitoから感じます。それに比べて学生側はずっとだらけていると思います。私はできる限り真剣に聞いているつもりですが、時々、聞いていないこともあります。すみません。でも、ただ、座って時間のたつのを待っているだけの授業を、今まで20年間近く受け続けてきた人間にとって、積極的に授業に出ることは非常に難しいことだと思うのです。
mito そりゃあそうだ。すべての授業に集中し続ける、なんて無理な話だ。教える側が「有利」であるに決まっているのだ。教師はその自覚をもつ必要があるだろう。
1992. 5.27. T大U部社会教育概論、男
 自己マン(自己満足)はつかれるのでやめてください。自己葛藤は人に話すものではないと思うのですが。
mito 不特定多数に言うべき言葉か、という問題はある。しかし、自分が自分の弱味をただ単にみんなにさらしただけだとは思わない。自己葛藤を含めた「強く闘う姿」の一つをみんなに提示したとは考えられないか。教師は、最後には、学生に乗り越えてもらえばよい立場なのだ。
mito 自己葛藤を話したのは「早くこの俺を乗り越えてみろよ」という意味があったのだと思う。それが自己満足かどうかなどと気にしていたら、コミュニケーションはできない。アヒルウサギの図を見て、ぼくがそれをアヒルだと言って「自己満足」しているとしたら、学生は「違う、ウサギだ」と批判してくれればよいのだ。むしろ、自分のことを「そもそも守られるべき存在なのに疲れてしまう」とか「他人から気持ちよくしてもらうべき存在なのにそうなっていない」とかしか言えない人こそ、自己満足的な生き方だとして批判されるべきではないか。
mito 僕を乗り越える事例・・・「先生はずるい。結局、考えれば当り前のことしか言わないのだから」と言って、恋や趣味に走っていった学生はいる。単位うんぬんとは決定的に違う生き方といえる。それまでは、くらいついてきてほしい。
1992. 6. 3. T大T部社会教育計画、男
 毎回、先生に対する我々の意見が発表されますが、やはり私には未だに先生を受け入れることはできません。どうしても偽善ぽく見えてしまうのです。たしかに先生自身はいつも本音で私たちに向き合ってくれているのに違いありませんが、私が疑り深いせいか、そう思ってしまう今日このごろです。
mito 僕の努力・・・1 ペーパーを毎日ていねいに読む(のめりこんでしまう)。 2 始業10分前には教室に入っている(先に入っていることの意味)。 3 オープニングセール。それらは、自分が楽しいから、自分のためである。
1992. 6. 3. T大U部社会教育概論、女
 mitoちゃんは、自分はこういう人間なんだということを、みんなに同じように認めてほしいと思っていらっしゃるのでしょうか? そんな風に聞こえてしまいます。
mito 本人が自分の不幸に気づかないかぎり、その問題を他人が解決してあげることなどできない。
mito 過去と他人は変えられない。しかし、他人自らの「人づくり」を支援することはできる。それが教育(社会教育)ではないか。
mito 教師として、みんなに認めてもらえるよう努力はしている。しかし、「同じように」認められるわけはないことはわかっている。それは当り前のことであって、ペーパーの意図がよくわからない。最初からふれあえないと判断して切ってしまった方がよい人もいる、ということだろうか。そうだとしたら、それは敗北主義であり、僕はいやだ。僕は、教師としての自分の方がすべての学生にわかってもらうための最大限の努力さえしていれば、それでよいと思っている。

3 教師や他人の自信を不快に思う敗北主義

 自信とは、本来、他人より優れているということでも、絶対的に強い、正しいということでもない。むしろ、自己の弱さを受容し、そのうえで新しい知識や他者の言動なども参考にしながら、自分の核を変えていけることこそ、本当の自信といえるだろう。しかし、競争主義のなかで傷つき主体性が歪められた学生にとっては、他人の自信のある態度は不愉快なものとして映るのである。しかも、自分が授業料を払っている相手の教師に対してさえも、同じ反応を示す。そういう人たちは、今後、どのように成長し、自己を確立していこうというのだろう。
 ここでは、私が学生の私語を間違って注意してしまった事件が中心になっている。人間が接すると傷つけあうこともある。そのとき、謝って許しあうということができないと人間関係はやっていけないのだろうが、一部の学生はいったん傷つけられたら謝られても自分の心の傷は回復できないと考えている。それまでの人生のなかで、守られることしか経験していないのだとすると、相手を傷つけないように、自分が傷つかないように、おそるおそる生きていくしかない。まさに、これは、「山アラシジレンマ」であり、自信(自分を信頼すること)と他信(他人を信頼すること)のない人生ということになる。

1992. 5.27. T大U部社会教育概論、女
 (mitoの)ある程度の努力とそれに伴う自信に裏うちされる必要以上の思い込みに、私はある種のごうまんさを感じる今日この頃です。教職をめざす身の私にとって学ぶべき点は数多く、縁あってこの講義をとったわけですから、ずっと参加していこうとは思います。けれども、「ごうまんではない」と言い切ることそれ自体がすでにごうまんなのではないでしょうか。
 日に日につのるこの感情を自分の中で消化しきれずにいるので、多少、時間はかかると思います。それでも、私は、自分と違うものを受け入れようとはしているつもりです。
mito 自信とは、欠点や弱点がないことではなく、それらを含めたありのままの自分をOKと受けとめ、必要に応じて自分を変化させることである。
mito 僕が「自分は傲慢ではない」と言ったのなら訂正する。しかし、そんなことは僕はふつうは言わないと思う。人間はアンビバレントな存在だから、僕自身も数%が傲慢で数%が傲慢ではない存在だと思っている。僕は自分のある行為に対して「傲慢(の表れ)ではない」と言ったのではないか。そういうことなら大いにありうる。それも否定して、すべての人間の行為を傲慢さと結びつけるのなら、それは敗北主義である。そういうふうにして、あなたは、結局、みずからの数%の傲慢さを黙認するつもりなのではないか。
mito 「ある程度の努力」という表現が、「自分が教師になったらもっと努力する」という意味のものだったら認めるが、きっとそういう意味ではないのだろう。むしろ、「努力」の効果への疑問視が最高位に置かれてしまうという敗北主義の特徴が表れた言葉だと思う。
1992. 6. 4. S短大視聴覚教育、女
 今日はお友だちが傷つきました。あなたは自分に自信を持ちすぎていると思います。たしかにそれは大切だと思いますが、自信は人を傷つけることがあるのです。「口はわざわいのもと」です。気をつけてください。(全文)
mito 「口はわざわいのもと」は自己表現に対する敗北主義である。
mito 暴力は知的水平空間にはなじまない。変にわかりあってしまうところがあるからである。だからこの授業では暴力は禁止している。僕が間違った自信をもっていると思うのなら、どこが間違っているか言ってほしい。そうでないなら、暴力を振るわれてもいないのに「傷ついた」と思ってしまう自分の弱さに気づいてほしい。
1992. 6. 4. S短大視聴覚教育、女
 あなたはいかにももっともらしいことを言いますね。さぞかしものわかりのよい教師なのでしょうね。教師の理想像ともいうべき人でしょう。私も見習ってそういう教師になりたいです。でも教師といえども人間だから人を傷つけることもあると思います。私は、とくにあなたみたいな性格の方に、一番そういうことが多いと思います。あなたは、自分に自信があるから、自分に意欲があるから、その分、絶対に、あなたが感じている以上に、人を傷つけていると思います。今回のラベリングのことを良い機会にして、少し気にかけてみてください。
 ちなみに、先ほどのラベリングで、あなたはラベリングをしてしまった学生に謝っていたけれど、あれはその前にレッテルを貼られるような行為をしていた学生が悪いのであり、謝る必要はないと思います。
 私はあなたの自信過剰があまり好きではない。
 生徒の身分でえらそうなことを書いて申し訳ありません。(全文)
mito ラベリングとは、相手の過去の行為が現在の判断に影響してしまうところに基本的な問題があるのだと思う。相手の今の行為については、むしろ、理由や気持ちなどをわかろうと分析する努力が大切だと思う。そうでないと、人間の相互理解の難しさを一面的に強調する敗北主義に陥ると思う。
mito 自信過剰というが、資質・能力以上のホラを僕が吹いただろうか。このように考えている、努力している、と言っているだけではないか。
mito 僕の授業は、僕にとっての勝負をかけている唯一の商品である。それを「素晴らしい品物ですよ」と言わずにどう言ってほしいのか。教師の授業に対する自信を不快がるのではなく、現実の授業(商品)が教師の公言するほどでもない部分があるならそれを指摘して批判すればよいではないか。僕は「受けて立つ」と公言しているのだから。それとも、教師が自分の授業を「つまらないだろうけど僕のために我慢してくれ」と言ったら、あなたは初めて満足するのか。だとすれば、あなたはひどく主体性のない(教育の)消費者だと僕は思う。
1992. 6. 4. S短大視聴覚教育、女
 今までにない楽しめる授業で良かったです。自分の過ちを認めて、生徒の前で頭を下げる先生なんて、そうざらにいないと思います。感動しちゃいました。しゃべったのは、私と○○さんです(この学生は僕のラベリングによって私語に関する2回目の注意を受けた学生の一列前に座っていて、その私語を僕が先ほどの学生のものと誤認したようである)。どうもすみませんでした。内容は○○さんのペーパーにちょっとmitochanのイラストを書いていて、そのことでしゃべってしまったのです。トレードマークにでも使ってちょうだい。・・・なんてずうずうしいんでしょう。
1992. 6. 4. S短大視聴覚教育、女
 一番印象に残ったこと、学んだこと、をいうと、mitoちゃんが話をしていた子をまちがえたでしょ? そのあとすぐあやまった。これってすごいと思った。普通のっていうか一般の教師というような人は絶対あやまらないと思う。だって教師っていうのは、生徒より立場が上だっ、みたいに考えているでしょ?
 だから、教師って苦手だった。中学でも高校でも。何かしようとしても、それがちょっとまわりの人と違うことだと、上から圧力みたいのをかけるでしょ。そういう所とかがすごくイヤだった。
 でも、mitoちゃん見て思った。「苦手」って決めつけていたからいけなかったのかナって。あたしがわかろうとしてなかったのかもナーって・・・。むこうもあたしのこと対等のものとして見てなかったのと同じように、あたしもむこうを対等のものとして見てなかったのかもしれない。
1992. 6. 6. S大教育社会学、女
 私は、そのペーパーの文章の中に、人間が本来もっている「いじわる」の気質がかくれているように感じました。もちろん、その人もそれだけのために書いたわけではなく、本当に思ったことを書いていたと思うけど、人間って少なからず「いじわる心」をもっていますよね。それって、弱い人がマトになることが多いけど、逆に自信があっていつも熱く燃えているはりきり屋さん(=mitoちゃん)に対しても、起こってしまう時があるみたいです。そのような人に対して、「自分はそこまでできない」「先を越された」というような”あせり”や”しっと心”が「なんだかちょっといじめたくなっちゃうなあ」という気持ちを生んでしまうときもあります。彼女のペーパーにはそんな気持ちがちょっと隠れていたような気がしました。でも、こういう私の考えもラベリングなのかなー?
 最後の最後に思ったのですが、mito先生のことを「あなた」と書いた人たちは、ちょっと卑怯な人だと思う。mito先生を目の前にして口で言うならまだしも、顔がわからないから紙に書いて紙を仮面にしている。口にする方がイントネーションによって言いたいことももっと素直に伝わるのに、紙に書いて人を批判するのは卑怯だと思う。
mito 知的水平空間としての授業における出席ペーパーだからこそ、どんどん批判すればよいのである。そこで僕を練習台にして、きちんと相手を批判できる能力をだんだんと身につければよいのだ。だから、普通の友だちに対してやってはいけない。僕に対してならかまわないのは、教員としての僕は学生からの批判をまともに受けて立ってあげるために給料をもらっているようなものだからである。
mito 学生からのそれぞれの批判のなかには、かならず数%ずつの真実が含まれている。1%の真実が含まれているとすれば、それはすべての学生が1%ずつそういう気持ちをもっていると考えてもよいのだと思う。だから、その1%に対して教師はまともに答える必要がある。
1992. 6. 6. S大教育社会学、女
 私もmitochanのことを、ちょっと自信過剰だと思ったことはあります。なにか信念みたいなものがあるのか、自分の言っていることが一番正しいと思い込んでいるように見えたからです。
 でも、mitochanは、学生から指摘されたことについて、ちゃんと答えてくれるし、弁明をしたり、必死で説得しようとしてくれます。
 それで、”どうしてみんな自信過剰だと思うのか”ということについての私なりの解釈です。私たちは、たかがといえど20年以上生きているわけで、それなりの経験にもとづき考え悩んでいるのだから、それを指摘されたり変えろと言われたりしても、ムッとするというか、心をかき乱される気がして、いい気分ではなくなるからなのだと思います。
mito 本当の自信とは、もし自分が間違っているとわかった時には変えてもいいや、別に恥じではない、と思えることである。そのように思えるようになると、人生はとてもいい気分で、つまり自信に満ちてすごせる。
1992. 6. 6. S大教育社会学、女
 自信がなきゃ音楽を人前でできませんよね。うじうじ舞台に出て「どうしよー」なんて言いながら弾いたり歌ったりするのは、みっともない。ただし、油ぎったオジサンみたいに自信を公私にひけらかすのはアホです。私的にはひかえ、公的には胸をはる(逆をやるのもアホです)。
 自信のない人が会社で立案できます? 自信のない人が「あのー、僕、こう考えてきたんですけどー」なんて言ってきたら一発でクビです、私が上司なら。でも、普段、控え目な人間が自信を前面に出してきた時ほど目を見張らせるものがあると思います。
mito 私的に控えるということは、さわやかに依存できることを意味していて、公的に胸を張るということは、そういう自立した人間が役割遂行することを意味しているのだととらえられるだろう。その逆をやる人も世の中にはたしかにいる。そういう人はCP(厳格な親の心)とAC(従順な子ども心)の傾向が大きい権力に弱いタイプの人といえる。
1992. 6. 6. S短大社会教育概論、女
 今日のみとchanは少しこわかったです。それはすっごく真剣に話していたからだと思うけれど、私は萎縮しちゃいました。
 今日の話で学んだことが多くて、頭がこんがらかっていてうまくまとまりませんけど、「視聴覚教育事件」で私が思ったことは、いいとか悪いとかの前に、先生から授業中に指摘されることは本人には好ましく思えないっていうのか、何かスマートではない、かっこわるい、だから注意されるのは避けたいっていう、人間の中にある自分を守ってしまう作用が働くのだと思う。
 みとちゃんが、今、何を考えているのかわからないけれど、みとちゃんは自分のことを非難した人に対してどういう感情を持っていますか? 私はみとちゃんを見ていて怖い気がしました。みとちゃんに注意された人の、現代人にしかわからないっていうのかな、気持ちをわかっていないのなら覚えてあげておいてほしいと思いました。
 今、何を言っているのかわからないので、変な言い方をしてたらごめんなさい。傷つかないでください。ある面でみとちゃんの考えに賛成しているんです。
mito このペーパーを読んで、事件の当事者の痛みを少し再認識した。でも、結局は、その双方の痛みの積み重ねが授業なのであろう。
mito 教師が傷つかないように配慮する気持ちはやはりありがたいものだ。これは批判のしかたとしてもなかなかのものだ。
1992. 6. 8. S短大社会教育概論、女
 この人の言いたいことはすごくよくわかる。けれどこの人は今までずいぶん傷ついてきた人なんじゃないかと思う、学校などの先生によって。mitoちゃんが言っていたような「自信」と「他信」がもてなくていつも「守り」に入っちゃうような人だと思うのだ。
 先生がラベリングのあととった行動はそれでいいと私は思う。これぐらいでそっぽを向くような人も肝っ玉の小さい人ですね。たとえばmitoちゃんがいつもラベリングするような先生だったら、そりゃあ怒りたくなるけれど、そんな先生じゃないんだし。その人が傷つく気持ちもよくわかるけれど。その子は「自分を信じてもらえなかった」と思ったのだろうが、逆に言えば先生も「信じてもらえなかった」のだ。この子は他人を信じないで自分を信じてもらえると思っているのだろうか。(事実は、問題のペーパーを書いた人は、僕のラベリングの直接の被害者ではない)
 先生は自信があると言うより、私の言葉で言えば「強い」のだと思う。「弱い」人は何かと「強い」人を批判しがち(批判されて当然の場合もありますけど)なのではないでしょうか。
1992. 6. 8. S短大社会教育概論、女
 高校のときの先生が、言いたいことがあったら言え、と言ったので、実際に言いたいことを言ったらすっごく怒りまくられた。それ以来、卒業までの2年間、その先生には何も言えなくなったし、言わなかった。そして、卒業式の日にそのことに関して先生からあやまられてしまった。すごくショックだった。私も先生に対してラベルを貼ってたんだなあ、あの先生はイヤな奴だって(あんまり思い出したくなかったけど思い出してしまった)。
 そのとき私が先生に言ったことで、先生はすごく傷ついてしまったらしい。言いたいこと言えないのもつらいけど、言ってしまうのも考えものだと思う。この人は絶対にそんなこと言わない人だと思っていた人にズバリ言われてしまったら、やっぱりショックだろうな。この前、先生に会ったけど、普通にしゃべれた。よかったと思う。
mito 自信をもっている人は、他人からどんなことを言われても、耐えられるはずである。その教師は、それができると思っていて実際にはできなかったのだから、これこそ「自信過剰」というべきであろう。そういう人には攻撃的な言い方はしない方がよい。そういう場合は、人格に踏み込まないようにして、行為だけについて、「私は」という言い方で、迷惑な点などをわかってもらうようにするとよい。そして、基本的に信頼しているのだけれども、という、Yes,Butの言い方も有益である。なお、これらのテクニックは、アサーティブ・トレーニング(自己主張訓練)の基本的技法である。
1992. 6.10. T大T部社会教育計画、男
 自信に満ちている感じがする。それは子どもの頃から優等生であったからだろう。劣等生の気持ちをもう一度考えてほしい。(全文)
mito このペーパーの人は自分を「劣等生」としてラベリングしているのではないか。自分の主体性の獲得を阻害するようなそんな社会の物差は、自らが拒否せよ。教師の態度が自信に満ちていること自体だけをとりあげて批判するのは、たんなる負け犬根性の表れであり、知的水平空間における本来の批判にはとうていなりえていない。
1992. 6.10. T大U部社会教育概論、男
 私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのか、分かりません。
 しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。
 しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに「変に理解しあってしまう」という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです。(全文)
mito この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて「真剣に」受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう。この授業は深い意味をもっているのだから、友だちにこの授業の録音を頼むなどしてもっと僕に食いついてくることを勧めたい。
mito たかだか2回目の受講だけで、年上の教師に対して実質的には「敵対語」ともいえる「あなた」という言葉を使っているが、それはあなたがその言葉を本当に主体的に選択した結果なのか。僕には理解しがたい。
mito 納得したのなら、自分を変えよ。納得しなかったなら、自分は変えるな。それだけの話だ。最初の授業で話したことだが、自分を変えることを学習というのだ。自分を変えることは初めはつらいだろう。つらいから、それをあなたは暴力と短絡させたのではないか。しかし、暴力は相手の納得に関わりなく行われる行為であり、自分が納得してしまうことをその暴力と混同することは、学習に関する非主体性の表れというべきである。

4 そのほかの事象

 紙面に限りがあるので、考察の部分だけ抜粋する。これに関わる出席ペーパーおよび私のコメントの事例を希望される人には、2DD(5インチ、3.5インチのいずれも可)のMSDOS標準テキストの形態で喜んで提供します。
(1) 人間や教師に器(うつわ)などない
 教師を志望する学生のなかには、「自分は子どもを教えることに向いている」と思い込んでいる人がいる。そういう学生に会うと、私はぞっとしてしまう。知的水平空間で対等に教え学びあうということができない人が多いのだ。そういう人が教師になれば、典型的な独善的教師になることは目に見えているではないか。逆に、教師になるための情熱と資質がありながら、「自分はそんな器ではない」と考えてあきらめてしまう学生もいる。
 教育の世界だけでなく、現代管理社会全体が、「しかるべき器」という勘違いの幻想をヒエラルキーのそれぞれの地位や階層に勝手に当てはめて勝手に満足しており、運良くそれに当てはめられた人は過度に認知されすぎ、また、その人の行為が地位や役割に関する社会の誤った認識をいっそう固定化させているように思える。現代社会のすべてにわたって、人間の成長の可能性を重視する教育の観点が必要であるといえよう。
(2) 他人の「聞く耳」がこわい
 出席ペーパーは、それぞれの学生の完全な自己コントロールのもとにおかれている。しかし、彼らが今までの人生のなかでものを書くときには、他者と比較されるためでしかなかったとすると、出席ペーパーを書くという初めての体験には戸惑いが生ずる。見知らぬ他人にわざわざ自分から情報を発信するという意義も必要性も見いだせないのである。
 この問題を克服することなしには、現代社会のなかで人間的なネットワークを創り出すことは不可能だということになる。
(3) 対等な人間関係の中での性的興奮
 セクハラの問題は、対等な人間どうしという立場では人間関係をもてなくなった人が、地位や暴力を利用して性的関係を味わおうとする、現代人の一種のあがき、または、生きる主体性の喪失の象徴的事象として理解できる。
 そこまで論及しないで、性的興奮自体を悪いこととして排除しようとしたりする潔癖主義や、逆に仕方のないこととして黙認する反理性主義は、結局、敗北主義に陥るしかないのである。
(4) 人間不信の深み
 本来の厳しさとは、自分にも向けるべきものである。自分や他人に基本的信頼を寄せることが教育の営みの根底を築くが、他方では、人間には醜い部分や弱い部分があるのも、もうひとつの真実である。そこから目をそらさないで自己の人間不信を自ら問い詰めていく姿はまさに「個の深み」と呼ぶにふさわしいものであろう。
 ただし、現代青年にとって、責任を転嫁しないで真実を探求しようとすることは容易なことではない。それは、保護や管理ばかり与えて、自由の恐怖を与えてこなかった社会や教育も悪いのである。
(5) 身勝手な恋愛観
 「自分は守られ続けなければいけない」という強迫観念に縛られている現代青年にとって、もっとも大きな危機は恋愛である。なぜなら、相手もそう思っているからである。かといって、結婚はともかく、恋愛まで人生から放棄する気にはさすがになれないようだ。そこで、「世界一かわいい女の子」と「世界一かっこいい男の子」が社会から突出した形で交際するというファッショナブルで身勝手な恋愛観が作られる。
 そういう恋愛観は、仮説的ではあるが、自己実現を一度は求めたが挫折してあきらめたそのあとの敗北の見返りのようなつもりで信じ込まれているようだ。競争社会の悲しみを味わってしまったお姫様が、こんなにかわいそうな自分を守ってくれるすてきな王子様が現れないわけがない、と無理に自分に言い聞かせているように思えるのである。
(6) 不当な相手を許すな
 不機嫌な駅員が客である自分にぶしつけな言葉を吐いたときに、どう対応すればよいか、というテーマで、さわやかな自己主張訓練の話をしたとき、「私ならその駅員に謝ってしまう」という学生が驚くほど多かった。自分は守られるのが当然だと主観的には思っていても、実際の生活ではそううまくはいかない。そういうとき、コンフロンテーション(対決)することができず、不当な相手に謝罪することによって、結果としては、とかげの尻尾のように自分の尊厳を切り捨ててしまうのである。それが身を守るためのたんなる演技であるなら大きな問題ではないのだが、彼らの場合、傷つきたくないがゆえの人生の常習的な構えにまでなっている。それでいて、そういう事件によって、心の傷や人間に対する不信感、諦観がいっそう増大する結果にもなっている。
 なんという悪循環であろうか。
(7) 今の自分や他者を判断することからの逃避
 交流分析のエゴグラムを紹介したりすると、人間の言動をあまりにも直接的に扱うことになるからか強い抵抗を受けるときがある。「決めつけられるものではない」ということで逃げてきた部分に引き戻され、自分や他人が理想的な存在ではなくアンビバレンツな存在であることを思い知らされることになるからである。もちろん、人間存在は結局は「決めつけられるものではない」のだが、それは真実に鋭く迫ったあとに知るべきことなのである。
 他方では心理テストブームのなか、こういった実証主義的な科学までゲーム感覚で取り込んでしまう学生も多い。両者の根源に流れる問題は同じなのであろう。それは、人間存在が弱い部分や醜い部分をもっていることを受容し、発達・成長する可能性に基本的信頼をおく、ということができないでいる現代社会の人間全般の問題である。
(8) ガンバリズムのうそ
 頑張ろうとしても頑張れない精神的な問題をもつ人に「頑張って」という言葉は禁句である。なぜなら、そう言われた人は「やっぱりわかってもらえなかった」という気持ちをもってしまうからである。私は、そもそも、「頑張る」という言葉に嘘があると考えている。「頑張る」という言葉は、オルターナティブ(もうひとつの)な価値を無理に否定して、自分が自分をだまして突き進もうとする言葉だと思うのである。日本語にはもっと素直な言葉、一所懸命や一生懸命などがあるはずだ。
 もちろん、運動会で頑張って走れている人に向かって「頑張れ」と応援することは、とくに問題にはならない。問題になるのは、何か深刻な葛藤があった場合に、本人または関係者がその問題と対面することを避けようとしてこの言葉が使われるときである。
(9) 自分のために生きる−ギブアンドテイク
 自分のために生きるということは、どんな分野でもとても大切なことであるといえる。それは「利己主義」や「功利主義」とは異なるものである。他人が「自分の期待に沿うために生きる」ことを期待したり、自分が「他人の期待に沿うために生きる」ことで自分の問題から逃避したりするような非主体的な態度ではなく、自己管理的な人生や人間関係を主体的に創り出す態度である。
 現代青年はミーイズムだといわれているが、あることについて「自分のためにやっている」といえる青年は、むしろ少ない。他人から保護されたり管理されたりして守ってもらうことが当り前、という生き方をしているうちに、「自分のために」が下劣なことのように感じられるようになり、「自分のために」生きる力を失ってしまっているのである。
 しかし、おたがいに自立した対等な人間どうしとしてギブアンドテイクの依存関係を繰り広げるネットワーク社会においては、何かを自分のためにしていると言える資質と能力は不可欠のものになりつつある。また、現代青年にとってもその魅力は大きく、実際にもボランティア活動などとして表れているのである。
(10) 信用ではなく信頼を
 自分や他人に対する基本的信頼とは何か。難しい課題である。しかし、次のような出席ペーパー(省略)から、私はひとつのヒントを得た。それは、「信用」と「信頼」の違いである。やはり、「信頼」という言葉は、産業社会やヒエラルキーのなかでの言葉ではなく、仮面を外した人間関係やネットワークのなかでの言葉といえるのである。
(11) 気をつかうな、気のきく人になれ
 「してもらう」経験しかない青年が交流するとき、「してあげる」「してもらう」ことのやりとりが、なかなかスムーズには交換されない。その理由のひとつが、自分が傷つきたくない、他人を傷つけたくない、という気持ちが強いあまり、「気をつかって」疲れてしまうということである。グループワークトレーニングの最大の効果のひとつは、「気をつかう」のではなく「気のきく人になる」ということによって、とても楽な気持ちになれるということを知ることである。
(12) 仲間の撤退を許すネットワークマインドを身につけよ
 私はネットワークの大原則のひとつとして、「参入と撤退の自由」を挙げている。現代の心優しい青年たちにとって、異質の他者の参入は不快ではない。しかし、他者の撤退は気になるし、また、自分の自己管理的な撤退にもためらいを感じるようだ。それは、同一化によって自他の安全や安定が保障されるというピア・コンセプト(仲間意識)の非主体的側面の表れとしてとらえられる。そのままでは、個を疎外する社会や組織に不適応を起こしつつある自分たち自身を解放することはできないであろう。コミュニケーションの努力は怠らないとしても、各人の行動についての責任は各人がもつべきなのである。
 生涯学習の理念が提唱するSelf-directed Learning(自己管理的学習)の現代的意義は、ここに象徴的に表れている。
「現代的課題」に関する学習プログラム作成の視点
                  1993県民ガイドブックかながわの生涯学習
                   昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
4 学習プログラム作成の実践的課題

(1) 学習ニーズの把握と事業成果の評価

 NHK学習関心調査の結果を見ると、小数点以下の学習ニーズ(需要)がずらっと並んでいます。人権、まちづくり、高齢化社会などの現代的課題については、顕在的学習関心(ふだんから学びたいと思っているような顕在的な学習の希望)がそれぞれ0.1%以下であるばかりでなく、潜在的学習関心(ふだんは意識していないが、学習項目のリストをみれば学んでみたいと思うような学習の希望)でさえ、10%を超えるか超えないかという程度です。人びとの現代的課題に関する学習ニーズを把握しようとする場合、まずは、こういう問題について企画者側としてはどう考えればよいのか、整理しておく必要があります。
 もし、「ニーズがその程度しかないのなら、人が集まらなくて苦労するのは目に見えているから、そういう企画はやりたくない」と考える人がいたら、それは論外です。そんなことでは、現代的課題に関する学習事業など、そもそも成立しないといえるでしょう。しかし、「参加人数などは問題ではない。たとえ孤立無援になっても、わが道を行くのだ」と突っ張るのもどうかと思われます。企画者側は、自らの自己実現のために社会的役割(現代的課題に関する学習プログラムの作成)を与えられているのではないからです。わが道を行くのもいいのですが、そういう人には、自らの事業の成果を客観的に評価できる力量が人並み以上に求められます。
 その場合、事業の成果は「質×量」で評価されるべきであるということが重要です。これを経費で割れば、効率ということになります。質とは、難しければよいということではなく、現代的課題をどれだけ有効に提起できているかということであり、量とは、人が会場にやってくることだけではなく、集団学習や個人学習の援助なども通して、どれだけたくさんの人にその現代的課題を提起できたかということだと考えられます。たとえば、高齢化社会の問題について0.1%の人びとが顕在的学習関心をもっているとすれば、1万人の人口に対してなら10人の人がいるということになります。その10人は今後の高齢社会におけるキーパーソン(鍵になる人)であり、地域でのその影響力は量的にもかなり大きいと思われます。また、その10人がたとえ私たちの講座には参加してくれなくても、私たち企画者側の存在に気づいてくれて、この問題に関するゆるやかなネットワークを私たちと結ぶことができたとすれば、それ自体に大きな意味があると考えられます。
 これと同じように、現代的課題に関する学習ニーズの把握においても、量的調査だけでなく、質的調査が重要です。量的には小数点以下の学習ニーズであっても、質的には現代社会がその解決を強く求めていると認めることのできる課題は十分ありえます。また、そのなかからは、私たち企画者側がまだ十分には認識しているとはいえない住民の学習ニーズのトレンド(流れ)を、いくつか発見することができるかもしれません。「絶対確実に当たる」という学習ニーズを最初から捜し当てることは私たちにはできなくても、住民の生活のなかにすでに山のように存在しているトレンドが、ここで求めている現代的課題の発見につながっていくことを期待することはできるのです。いいかえれば、現代的課題は学習ニーズの質的調査によって「発掘すべきもの」とさえいえるかもしれません。
 量的調査としてのおざなりの学習需要調査をしただけで、「うちの町民は学習意欲が低いんです」と訳知り顔で決めつけて勝手に悲観的になっている関係者を見かけることがありますが、よく考えてみると、住民の学習ニーズとしてまったく表れてこないような「現代的課題」を、神様のように言い当てることができると私たち自身が思い込んでいるとしたら、そのほうが恐ろしいことです。

(2) 参加対象の設定・限定と「異質の交流」

 学習プログラム作成における参加対象の設定の意味は、私は3通りあると考えています。 
 @ プログラムを作成する場合に、おもな対象を具体的に頭に浮かべるほうがより現実的な発想ができるという程度のもの
 A この対象にこそ、この現代的課題について学習してもらいたいという意図を企画者側がもっているもの。
 B 個人が安心して同調できるような仲間関係(準拠集団)をつくりだすために、予定した対象以外の層からの参加を意識的に排除するもの。
 しかし、対象を限定した現実の学習プログラムのなかには、@の理由か、せいぜいAの理由しか考えつかないようなものなのに、ほかの参加対象をはっきりと排除してしまっている開催要項のチラシも見受けられます。それは、「対象輪切り」の社会教育の古い観点から発想されたものであり、その功罪は冷静に見つめ直しておく必要があると考えられます。結果的に対象外の層の人びとが参加してくれないのなら仕方ありませんが、予想した対象範囲外の人がせっかく参加申込をしてくれているのに、担当職員がむしろ自慢気に断ってしまっている一部の状況を見ると、本当にもったいないと思います。今後のネットワーク型社会は、「異質」な人とのヨコの相互交流をめざそうとするものなのです。現代的課題は、従来の階層社会の上下関係ではなく、ネットワーク型社会の水平関係によってこそ、その解決が期待できるのです。
 もちろん、まだそんな主体性を期待できない段階の対象に対しては、Bのように「積極的に」参加対象を限定して、同質集団の仲間づくりから始めることもありうるかもしれません。たとえば、青年たちのための料理教室を行なっていたとして、そこに「元気印」の主婦層の参加を認めると、現代の消極的な青年たちは、積極的に実習する主婦を遠巻きにして、彼ら自身は包丁を握らなくなる恐れもあります。婦人学級で女性の悩みを語り合おうとしていたとして、そこに男性の参加を認めると、その男性からの悪意の発言によってぺしゃんこになってしまう女性参加者も出てくるかもしれません。企画側の職員は、そういうことを恐れて、Bのようにして「同質集団」をつくりだそうとすることがあるのでしょう。しかし、それが自分たち職員の「思い込み」にすぎないのではないか、あるいは主対象に対する「みくびり」になってはいないか、厳しく自分を振り返っておく必要もあるでしょう。
 とくに、現代的課題の学習を進めようとする場合は、いっそう積極的な「異質の交流」が求められると思われます。現代的課題の解決の方向に関する合意形成を住民のあいだに創り出すためには、人びとの価値観や判断基準の違いの折り合いをつけることが必要になるからです。そのためには、参加対象についても、広い世代層の参加や、外国人、他地域からの参加と交流を求めるなどの積極性や柔軟性こそがむしろ大切なのです。

(3) 学習テーマの設定と表記

 学習テーマはどんな根拠から設定されるのかというと、そのおおもとは教育目的であり、公教育の場合、その教育目的は教育基本法第1条(教育の目的)に載っています。その内容は次のとおりです。「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない」。
 ですから、もし、「わが町の駅前再開発について学ぶ」という学習テーマを設定したとしても、そのおおもとの教育目的は、たとえばこの場合なら、「社会の形成者としての自主的精神に充ちた市民の育成」ということになるわけです。社会教育行政などの教育委員会の行なう事業については、とくに、現代的課題の学習を住民にしてもらうこと自体が事業の根本的な目的になってしまってはいけないと思います。なぜなら、公教育が住民の内面に関わることを許されているのは、教育目的に関するこのような歯止めがあるからであり、それを外して現代的課題の学習自体を自己目的化し、しかもそのある程度の「解答」まで準備してしまうような状態では、行政や職員側の御都合主義に陥る危険性があるからです。
 ただし、参加者募集のチラシにこのような教育目的がそのまま書かれているだけで、住民にとっては、その事業がどんな内容なのかはわからないとすれば、実際には困ったことになります。そんなことでは、住民のなかから参加したいと思う人が現れるはずはありません。もし、「社会の形成者としての自主的精神に充ちた市民の育成」を、そのチラシの文面どおり「してもらいたい」という住民がいるとしたら、それは不健康な状態と考えるべきです。生涯学習とは、「学びたいことを学びたいように学ぶ」ことであって、教育基本法でいう「行なわれなければならない」ものとは違うのです。
 教育基本法の「〜の育成を期して行なわれなければならない」という言葉は学習の援助者に向けた言葉であると考えられます。この言葉をもっとも肝に命じ、自戒すべきは、じつは企画者側なのです。なぜなら、企画者は、自分の自己実現のために生涯学習を行なうのではなく、自分に与えられた社会的役割(教育の目的)の遂行のために生涯学習の援助を行なっているからです。(しかし、その他者のための援助を、「住民のため」ではなく「自分のため」に行なっているといえるさわやかな謙虚さも、企画者には必要でしょう。)
 さて、教育目的を具現化するための最初のレベルの表記が教育目標です。ここに引いた例では、「都市計画に関する知識を深めるとともに、そのことによって関心を喚起する」ということになるでしょうか。さらに、この教育目標を反映してそれを学習者向けに表記したものが、事業名や学習テーマということになります。事業名については、もとの名称が「○○市成人学級」などであったとしても、それを踏襲する必要はありません。それは行政内部で施策名として理解されていればよいのであって、事業名としては「都市計画連続講座」など、事業の内容をよく表す名称に臨機応変に組み変える必要があります。そして、最後に「わが町の駅前再開発について学ぶ」という学習者自身にとっては一番大切な学習課題、すなわち学習テーマが浮かび上がってくるのです。
 しかし、ここで例示した表記は、どれもいまひとつぱっとしない感じです。各地域の企画担当者が、それぞれの地域性を反映したもっと魅力あるネーミングを工夫されるよう望みます。そこで大切なことは、ひとことで言えば「学習者の主体的選択行為に貢献できる表記」ということです。学習プログラムのなかに現代的課題に関わる学習目的や学習課題を抽象的に述べ立てただけで、あとはとにかくそのプログラムを実施しさえすればよいという行政側の形式主義、御都合主義な態度では、「しらじらしい」「うそっぽい」ということで、住民を現代的課題の学習からますます遠ざける結果につながりかねません。

(4) 学習内容の設定と「新しい枠組」の提示

 学習情報提供の重要性は、いまやすでに関係者によってかなりはっきりと認められるようになっています。それは、従来の教育の押しつけがましさとそれへの反発の不毛な繰り返しを中断して、一歩踏み出す意味をもっているのだと考えられます。しかし、そこで、ひとつの問題が生じます。企画者側は、情報の提供をするばかりで、独自のメッセージは発信しないのか、という問題です。
 従来、地域の社会教育やその施設が自立性を発揮して個性的なメッセージを発信することについては、その意義が繰り返し強調されてきました。現代的課題に関する学習プログラムの重視は、そのような個性的なメッセージの発信、すなわち、たんなる情報提供サービスにとどまらない企画者側からの問題提起にもつながることになるでしょう。それがもっとも具体的に試される場面が、学習プログラムの作成における学習内容の設定なのです。そこでは、企画者は、「何をメッセージとして織り込みたいのか」、すなわち自己の仮説の存在とその鋭さが問われます。
 つぎに、学習者の共感をよりいっそう誘うために、どのように学習内容を設定するかということが問題になります。学習者の共感を得るためには、まず、こちら側から学習者の現在の枠組を共感的に理解し、その理解を学習者に伝えなければいけません。つまり、「みんなのため」ではなく「あなたのため」に、すなわち学習者にとっての「自分のため」に、その現代的課題を設定したのだということを示すのです。そうでなければ、「学びたいことを、学びたい方法で」という生涯学習の大原則を守ることはできません。なお、企画者側からいうと、実際には集団を対象にしているので、「一人ひとりのため」ということになりますが、たとえばキャッチ・コピーなどでは「あなたのため」のほうが迫力があると思われます。
 このようにして、企画者と学習者とのおたがいの共感的世界を築き上げたうえで、学習者の現在の枠組とは異なる新しい枠組を提示できるように、学習内容を設定します。「新しい枠組の提示」は、固定化した枠組のなかに知識を詰め込むだけの受け身的なものから、自己の枠組の変革を伴う主体的な内実をもつものに学習を発展させるためには、とても重要です。その新しい枠組は、現代的課題の学習についていえば、たんなる住民の一人(ワン・オブ・ゼム)としてではなく、行政職員としての、あるいは生涯学習援助者としての、独自の専門的・技術的な見識を土台にする問題意識などから形成されるものです。そうであってこそ、自由な学習者としての住民が勤務時間内の行政職員と「ともに学ぶ」意味合いが生まれるのです。これとは逆に、行政職員に対して、その存在価値として「今の自分と同じ枠組」を求める住民の同一化の志向は、結局は行政依存型の学習態度にしかつながりません。
 「新しい枠組」の発見の仕方については、そのほかに、たとえば「異質馴化と馴質異化」という発想法の方法論が参考になるでしょう。これについては、現代的課題の学習を例に引いて説明したいと思います。
 たとえば、国際理解教育では、つい、「国際関係論」などの抽象的な内容に進みがちになります。これは、国際理解を自分たちの日常生活とは離れているもの、すなわち「異なもの」としてしかとらえていないので(「異」のレベル)、発想が限定されてしまうからなのです。これに対して、日本に今いる外国人に対してなぜ私たちは変なわだかまりを持ってしまうのだろうという問題を認識したいのならば、いったんごく日常のレベル(「馴」のレベル)に立ち戻って、地域の隣どうしの関係において「あの家はピアノを買った」とか「自分は買えない」ということを気にする私たちの日常的な意識を問いなおしてみたらどうでしょうか。それと私たちの国際意識の問題との関連を明らかにすれば、これはかなり主体的認識を呼び起こす学習プログラムといえるでしょう。
 また、コミュニティ教育においては、今度は逆に、「公園の空缶を拾いましょう」とか「地域に花を植えましょう」などという日常生活レベル(「馴」のレベル)の発想に終始しがちです。それらのことも大切なのですが、そればかりやらされるほうはいやになってしまうわけです。しかし、いつも身近にあるコミュニティを、地球の一部としてあたかも他の天体から見るような気持ちで見てみると(「異」のレベル)、地球の限りある資源を大切に使わせてもらうためにコミュニティが果たすことのできる大きな役割も見えてくるでしょう。さらには、地域にコミュニティを形成することと、世界全体が一つのコミュニティであるという意識を持つこととは本質的には同じ精神に基づくものなんだという気づきにまで発展するかもしれません。
 さらに、学習目的の違いによって、学習内容は大きく変わりうると考えられます。私は、学習をその目的の違いによってつぎの3つに分類してとらえています。
 @ 即自的学習(学習すること自体に楽しみや意義のある学習)
 A 目的的学習(ほかの目的の実現のために意義をもつ学習)
 B メタ的学習(その学習の意義や方法について学ぶことによって、その学習をより効果的、主体的に進めていくための学習)
 これらの目的は、実際には、ひとつの学習のなかにもこん然と存在しているのでしょうが、それでも、現代的課題の学習の場合には、Bのような抽象的な目的から発する学習内容がどうしても多くなり、直接的な楽しみや行動に結びつきにくいために、@の学習のもっているような魅力や迫力を失いがちだと思われます。Bの学習としては、たとえば「人権尊重学習の意義の理解」、「地球環境保護のための意識啓発」、「生涯学習の(普遍的)方法論の修得」などが考えられます。Bのようなメタ的な学習内容だけでは、結局は建前だけの交流にしかならず、共感的な学習の世界は創り出せません。この場合、学習目的はメタ的であっても、必ずしも学習内容までメタ的であるとは限らないと思われます。企画者としては、たとえメタ的な目的の学習であっても、学習内容については具体的イメージや豊かな人間性をいきいきと思い起こさせるようなものを設定できるように工夫すべきです。

5 学習プログラム作成上の今後の課題

 人びとの学習ニーズと現代的課題とをまったく別物のように扱うことについて、それが間違いであることは、すでに述べました。しかし、それにしても、このふたつをつなぐための、投げかけやしかけの仕方は、いまだはっきりしているとはいえません。教育とは、他人と何らかの関わりをもつことによってその人の主体性の獲得を援助しようという、一見、「大それた」行為でもあります。「ふたつをつなぐこと」とは、教育そのものがもっている「難問」にも関わる問題なのでしょう。
 いずれにせよ、企画者が現代的課題に関するプログラムを学習者に一方的にサービスするという一方通行の考え方は危険だといえます。私は、プログラム自体を走らせながら、その実施途中で、学習者の流動的ニーズからのフィードバックを受けて、変更し、発展させるような「発展途上型」ともいうべきプログラムが目指されるべきだろうと考えています。たとえば、内容や方法が前もって決まっていない空白の部分を配置しておく「空白のプログラム」などもひとつの方法かと思います。それは、本質的には、学習主体として学習者が本来もっているはずの主体性を、形式だけではなく内実から実現していくためのものだと考えられます。
 同じような意味で、即自的学習の価値をあらためて評価して、現代的課題の学習プログラムにもそれを導入することを検討すべきだと思います。ネットワーク型社会では、人びとはパーティーのなかからさえ、自ら、または相互に学習します。学習しているという意識もせずに、「楽しいから」「知りたいから」という理由でいつのまにか学習してしまうのです。パーティーなどでの無意図的な学習については、「偶発的学習」と呼ぶことができます。そこでは、タテマエではなくホンネが交流されやすくなります。
 現代的課題の学習については、「それを学習しなければならないから」という義務感からではなく、自分自身の生き方の問題と関連づけて自発的に進められることが大切です。生身の人間どうしのホンネの交流のなかで学習されるようになってこそ、その現代的課題が、実質的な意味でも主体的に学習されていることになるのです。私は、以上のようなことから、現代的課題の学習のなかに即自的学習や偶発的学習の要素をいかに織り込んでいくかということが、プログラム作成上の重要なポイントになると考えています。もっとくだいた言い方をすれば、「現代的課題だからこそ、肩肘張らずに自然体で学習しよう」ということです。
それぞれの学習者の学習内容・方法の特徴

1 学習の目標、成果、態度などの高度化
 さまざまな面で学習の「質」が高度になっている。
 1つには、新しいタイプの「知識人」による高度な教養(カルチャー)志向がみられる。高学歴高齢者の◎亀井謙三や◎藤田 操もその代表的な例である。前者は「公民館は勉強する意欲のない年配者が集まっていて、碁か将棋でも、という雰囲気だが、カルチャーはお金はかかるが勉強したい人だけが来ている」といい、後者は「社会教育施設はお年寄りだけが集まっていてつまらない。それに対してゲーテの勉強には現役の学生も来ている」という。
 2つには、知的生産や文化的創造への欲求がみられる。◎浜川嘉雄は「書く」ということに生きがいをもち続けて自費出版などによる数多くの知的アウトプットをしている。◎坂井蔵重は自分史のほか、芸術分野を中心に多面的な創作活動をしている。
 3つには、脱サラ・転職者の人たちの主体性の強さがみられる。会社勤めから無認可保育園経営に変わった◎山本吉春はセミ・プロ級の古書集めにもとづいた歴史学習をしている。3回の転職を経験している◎高橋直人は「あとで後悔しないように現在を思いっきりすごすという姿勢です」といって高いレベルの英語会話をめざしている。組織にあまり依存しないで生きていく人たちの中に、主体的な学習態度がみられるのである。

2 メディアの有効活用とメディアからの自立
 メディアの高度な発達の中で、学習者側のたくましい主体性が育ちつつある。
 1つには、放送メディアの積極的な利用がみられる。放送大学や外国語会話の番組などの利用のほか、ラジオの気象情報(◎山本吉春)なども重要なのである。
 2つには、その一方で、活字メディアへの根強い信頼がみられる。◎石川浩二は「集まってやるよりマイペースの方がよい。講習会に行っても話の中身は限られてしまう。やはり本を読むのが一番効率的」という。
 3つには、体験的学習の重視がみられる。◎島崎ケイ子は「私は言葉だけっていうのはダメです。体験学習が合っている。体が覚えてくれることが、一番関わったことなんですね」といい、実際に、はた織り、心理療法、気功、陶芸などを学習している。それを、理論的思考に対する無力感としてとらえることもできるが、メディアに依存しないで自らが確かめようとする主体性をそこから見いだすこともできるのである。

3 余暇自体の質的な高度化
 余暇時間が拡大する中で、余暇行動が量的に増えているだけではなく、生涯学習の要素が取り入れられることによって余暇行動そのものが変化している。
 1つには、多面的学習による成長がみられる。◎高橋瑞江は時間的余裕を生かして教養・社会・音楽・スポーツにわたる多面的な学習を行っているが、「生きがいは、つねに学んでいるということ、何か少しは他人様の役に立つということ」といっているように、さまざまな学習の中で、余暇利用をたんなる自己満足に終わらせない意思を自ら育てている。
 2つには、気ままだが建設的な余暇の利用がみられる。◎中澤明子や◎武藤マス美や◎藤本隆子は、核になる学習課題が明確ではないままにさまざまな学習行動をしている。海外旅行をたびたび行うなど生活をフルにエンジョイしている女性たちである。しかし、自らは、その余暇活動的な学習の中で、国際性について深く考えたり、自分の仕事についての先取り的な学習をしたりしているのである。
 3つには、趣味追求における厳しい姿勢がみられる。専業主婦の◎小田絹子は「緊張してカリカリする方が、よく覚えます。テストもあった方が勉強します。ある程度厳しい方がいいですね」という。

4 女性の生涯学習のインパクト
 生涯学習の世界においても、女性の進出はめざましい。そこには、男社会が作り出してきた学習論とはニュアンスの違う学習論があるようだ。
 1つには、「さわやか主婦」とでもいうべき新しい学習者層の台頭がみられる。◎ハセ川道子は、大企業役員の夫、エリートサラリーマンの息子という恵まれた家庭環境のもとで、多方面の活動や学習に軽やかに参加しているが、「結局はいいかっこしいの自分を求めているのかもしれません。自分が嬉しいからこそ他人を助けようとするんでしょうから」といいながら、英語による婦人問題研究会のほか、ボランティア活動や市民活動にも目を向けている。
 2つには、高学歴主婦の過去の専門性の新たな社会的還元がみられる。◎大熊裕子は、大学時代に専攻した生物学の知識を生かして、自然科学系の博物館でのボランティア活動や自然保護の活動を行っている。そこには、生物関係の図書の編集の仕事から引退したあとに、自分の専門性を仕事とは違った形で社会に還元しようとする明確で積極的な姿勢がみられる。

5 自分自身のこころへの関心
 モノからココロへの関心の移り変わりは、端的な事例としては、自分のこころと直接向かい合う学習への関心の集中となって表れている。
 1つには、自己の内面の成長の重視がみられる。◎佐野直子は「うわべだけでない内面からにじみ出てくるものがある。そんな本当の美しさをもった女性になりたい」といって、カルチャーセンターに通っている。
 2つには、自分の生き方を追求するための学習がみられる。◎橋本光子は娘の登校拒否をきっかけとして、自分の生き方への問い直しのための、子育て、夫婦関係、老い、などの学習へと発展させている。仏道についても「結局自分の哲学です」といっている。
 3つには、精神改造の欲求がみられる。◎増田知子は「看護婦には人間学が必要」といって、精神修養や自己啓発のセミナー、カウンセラーの研修など、精神世界に強く傾斜した生き方をしている。

6 自分と社会の新しい関係
 新しい形態の学習は、組織や社会の中での個人の位置づけを大きく変えつつある。
 1つには、学習と社会的活動との結合がみられる。◎平塚昌良は青年の家の手話の学習から、障害者行政の問題や社会的矛盾に関する学習へと、関心を広げている。◎大野和子は婦人学習グループ連絡会での活動の中で、自らも励まし合いながら学習することによって仲間づくりを進めているが、それがそのまま社会参加活動になっている。◎横山輝子は核・原発などの環境問題に関する精力的な集団学習を行っているが、「生活の中に起こった疑問に対して地域活動しているのです。疑問があって、学習があって、活動するという形です」といっている。
 2つには、仕事とヒューマニズムの結合がみられる。◎小六潔子は高齢者向け住宅に関する自分の仕事に意欲的に取り組みながら、広い視点から高齢化社会や老人福祉等の学習を行っている。そこには、現在の仕事の内容に直接役立つよりも、自らのヒューマニズムを深め検証することによって、むしろ逆に仕事の内容自体を改革しようとする新しい職能教育(学習)の可能性が認められる。
 3つには、情報を発信するネットワーカー型の学習がみられる。パソコン通信愛好者の◎関根章郎はその双方向性をとおしてコミュニケーション型の学習を行っている。◎川井信良はミニコミ誌づくりの豊富な経験を生かして情報やメッセージの発信を中心にした活動を行っている。◎若山年生は大学図書館という職業柄、活字メディア志向の学習を進めながら、各種の勉強会にも参加しているが、そこでの彼のモットーは情報の「ギブ・アンド・テイク」ないしは「ギブ・アンド・ギブ」である。

7 集団学習の新たなる展開
 集団学習は社会教育の蓄積の大きな要素であるが、それが新しい形で生まれ変わりながら継承、発展する可能性を認めることができる。
 1つには、従来の共同学習の特徴を生かした学習がみられる。◎小畑裕美は公民館の講座、自主サークル、PTA活動などをとおして教育や地域社会について積極的に学習しているが、「他人と助け合わなければ生きていけないという地域の大切さ」を強調する。◎高田咲子は「地域に何かの形で還元できることがあると、すごく生きがいを感じる」という。自らの子育ての課題をきっかけとして保育、文庫、親子映画などの活動を展開している◎浅井利子は「何かして役に立っているという実感がすばらしいと思うし、最終的にはそれが自分のためになる」という。人権、婦人、環境等、地域や社会の問題に深い関心をもち、共同学習中心の活動を進めている◎成瀬俊江も、「趣味なんかだけだと生きがいとして今ひとつ弱い。もっと能動的、社会的に参加しているのが生きがい」という。
 2つには、社会教育行政の事業への参加による学習者の主体性の獲得がみられる。◎鈴木玲子の学習は社会教育行政の青年対象の事業への参加などの集団学習が中心であるが、そこで社会教育職員とのつながりをもちながら、企画プログラムづくりにも参加して主体的な学習へと発展させている。
 3つには、その一方で、社会教育行政から自立した新しい集団学習がみられる。◎吉田博邦はサラリーマンの会社人間化に抵抗し、異質な人との出会いを求めてサラリーマンの勉強会を組織しているが、「社会教育の職員はあまり本気でやっていないでしょう。ありきたりの企画を組み、参加者を集めることに熱中し、地元の名士を有難がってばかりいる、という感じです。ぼくは社会教育には期待していません」という。
 4つには、集団への帰属感よりも人間関係を重視する集団学習がみられる。◎杉浦友子は「私は人間に興味をもっているものですから、自分だけが孤立して自分だけの勉強をすればよい、という学習には興味がなかった」、「集団学習によって個人学習では得られない人間と人間とのつながりができた」という。他の学習者においても、特定の学習集団だけに帰属するのではなく、数多くの集団に自由に参加して個性的なつき合いや相互学習を求める傾向が強い。
 5つには、柔らかいシステムの集団学習がみられる。◎川井信良には軸になる特定の学習テーマがあるわけではないが、人との出会いを通じて刺激を求め、自らを深めようとする姿勢がある。学習の場も、飲み屋で行われる場合もあり、柔軟である。◎関根章郎はパソコン通信の中で縦横無尽に他者との議論を展開しており、そのテーマはジグザグに変化している。両者とも、メンバーが適宜、参加・撤退し、集団の維持・存続にはこだわらず、派生したいろいろなプロジェクトが生成・消滅を繰り返すという柔軟性をもっている。

 以上、それぞれの学習者の学習内容・方法の特徴を簡単に紹介したが、相互の特徴が矛盾する場合もあった。そのもっとも大きな原因は、学習者の学習に個別性があるからであると考えられる。実際には、一人の学習者、一つの学習行動に、個別の発展過程があるのだろう。また、逆に、今回の被調査者の多くに共通する特徴もあったが、その場合も、ここではいくつかの象徴的な事例やトピックを拾って紹介するだけにとどめたことを述べておきたい。
こ・こ・ろ 生涯学習
 −いばりたい人、いりません−

<目次>

第1部 生涯学習するこころとは何か
1 フリーチャイルドの心をとりもどす
(1) ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる
(2) 人間らしい心を取り戻す
(3) フリーチャイルドの心で学ぶ
(4) 学習とは、自分が自分を変えること
(5) 学習とは、水平なギブ・アンド・テイクのネットワーク
(6) 何で生きてるの?
(7) 生きる力としての主体性をはぐくむ学習を
2 生涯学習理念はなぜ新しいのか
(1) あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町
(2) 傷つけあう関係ではなく、ともに支えあう関係にあふれる町
(3) 人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町
(4) 一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町
(5) 地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町
(6) 一人ひとりの個性がのびのびと発揮される町
3 学校週5日制で問われる大人の主体性
(1) 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論
(2) 新しい土曜日の個別性
(3) 新しい土曜日が求める主体性
(4) ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ
(5) 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開)
(6) マニュアルを越えて

第2部 こころを開く態度変容の学習
1 こころを開いて交流できる仲間づくりの方法
(1) あったかいディスコ
(2) いっしょにつくりあげるから「あったかい」
(3) 安心してしゃべれる会議
(4) 仲間とゴハン・オフロ・フトンをする意味
(5) 自然に仲間づくりができるようにするための演出
(6) てれないで、ロールプレイング
(7) ロールプレイングによって実感をともなって見る
(8) ロールプレイングによって「信頼感」を呼びおこす
2 授業の主体的な楽しみ方
(1) まじめな人の問題点
(2) 君の主体を問う
(3) 知のヒエラルキー vs ネットワーク
3 情報へのネットワーク型アクセス
(1) 過去の知の重力圏からの脱出
(2) 本の私有と共有の方法
(3) 電子化された情報・映像化された情報
(4) 情報とストロークの発信

第3部 主体的学習へのいざない方
1 学習相談がめざすもの
(1) 学習相談は、従来の日常的相談でも、現在の学習情報提供でもない
(2) 学習相談とは何か
(3) コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性
(4) 生涯学習の主体としての自立への援助
(5) ネットワークの中でともに育つ
2 保護や管理ではなく自由への恐怖を与える
(1) 自分は求めるけれど、人にはあげられない
(2) 現実原則の中でのストロークの自己管理を
(3) コミュニケーションの成熟化と無力化
(4) 管理や保護よりも自由を

ボクと出席ペーパー(本文中に散らす)

( 1) 学校教育への恨み
( 2) 勤勉主義のごまかし
( 3) 授業は勝負だ−ビートたけしに勝つ授業を公言することの意味
( 4) 学習に対する強迫観念
( 5) 学生の敗北主義に対する教師のエンカウンター
( 6) 身勝手な恋愛観
( 7) 対等な人間関係の中での性的興奮や快感を受容できない
( 8) 気をつかうな、気のきく人になれ
( 9) 教師や他人の自信を不快に思う敗北主義
(10) ヒエラルキーへの抵抗
(11) 信用ではなく信頼を
(12) 強力な幸福願望と自分の幸せについての懐疑
(13) アイデンティティの喪失
(14) 今の自分や他人を判断したくない気持ち
(15) 他人の「聞く耳」がこわい
(16) 人間不信の深み
(17) 集団への帰属に対する拒否感
(18) 山アラシのジレンマ
(19) 自己表現の不器用さと表現の解放
(20) 共感的理解の能力の必要
(21) 自分のために生きる−ギブ・アンド・テイク
(22) 仲間の撤退を許すネットワークマインドを身につけよ

巻末資料

1 ひとくちミニ知識

Q 1 認知構造とは何ですか。
Q 2 フレーム・オブ・レファレンスとはどういうことですか。
Q 3 子どもの教育とおとなの教育とは、どう違うのですか。
Q 4 大学の教授法は、どのように改革されるべきでしょうか。
Q 5 人間の発達の可能性に対して、どんな心で接すればよいのでしょうか。
Q 6 社会教育・生涯教育は、今日の社会の変化とどう関わっているのですか。
Q 7 社会教育とは何ですか。
Q 8 社会教育主事の仕事の内容と、それに求められる資質・能力は何ですか。
Q 9 公民館は何をめざして作られたのですか。
Q10 生涯学習と生涯教育とでは、どう違うのですか
Q11 自分への信頼、他人への信頼とは何でしょうか。
Q12 アサーティブ(アサーション)トレーニングとは何ですか。
Q13 社会教育主事の専門性とは何でしょうか。
Q14 社会教育の方法はどのように分類されるのですか。
Q15 社会教育行政の存在意義はどこにあるのですか。
Q16 少年期における社会教育のポイントは、何ですか。
Q17 青年期の発達課題は何ですか。
Q18 高齢者教育における学習課題はどうとらえればよいのですか。
Q19 ボランティアって何ですか?

2 自分を知ろう−エゴグラム

3 友だちとやってみよう−グループワーク
その1 ジェスチャーゲーム
その2 銭まわし
その3 拍手で合図
その4 第一印象ゲーム
その5 ハンターゲーム
その6 スタンツ(寸劇)
その7 お願いトレーニング
その8 自己受容トレーニング
その9 ブラインド・ウォーク

4 mito的授業シラバス
[講義型の場合]
[演習型の場合]
[レポート課題]

あとがき

索引

こ・こ・ろ 生涯学習
 −いばりたい人、いりません−

●第1部 生涯学習するこころとは何か





●1 フリーチャイルドの心をとりもどす




●(1) ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる

 人間の人生は一生が勉強、などとよくいわれるが、そういう言葉を聞くと、多くの人はちょっといやな気持ちがするのではないだろうか。抵抗感とでもいえようか。生涯学習時代とは、ひとが生涯にわたって学習し続ける時代だということができるが、学習のもともとの意味が、目上の人、立派な人、偉い人などから、まねぶ(まねをする)、ならう、ということであることを考えると、「ちょっと面白くないな」と思うほうが、むしろ当然なのかもしれない。
 「本当はいやだけれども、とにかく頑張って勉強しなければならない」というのでは、なんだか不自然である。「人から押しつけられて勉強するなんて私はいやだ」という本当の自分の気持ちを、ガンバリズムなんかによってごまかさないで、教育や学習に対する自分の抵抗感を大切にするということを、ここでは提案したい。生涯学習とは、本人が学習したいから学習したいことを学習することである。
 教育という言葉には、悪いことを叱ったり批判したりする厳しい親心によって、それを素直に聞き入れる従順な子ども心を育てるというイメージがある。ここで、厳しい親心とか従順な子ども心とかいう言葉は、「交流分析」という臨床心理の用語を使っている。人間の心の状態とその他人との関わり合いを分析するのが交流分析である。
 交流分析では、この「従順な子ども心」が強すぎると、目上の人や権力に弱い不安なおどおどした気持ちに支配されがちになるといわれている。また、厳しい親心や従順な子ども心が強すぎると、高血圧、心臓病、胃潰瘍、成人ぜんそくなどの原因にもなる。それは、体が自分の心に対して、「私の人生はこのままでいいのか」という危険信号を出している表れなのである。こんなことをいうと、今はやりの心理ゲームのようでうさんくさいと思われる人もいるかもしれないが、一方では、「私の人生や人間関係はなんだかうまくいかない」と思っている人の中には思い当たる節があるはずである。交流分析はひとつの科学であり、人間を決めつけたり、占ったりするためのものではないのだ。
 とにかく、人を不幸にしたり病気にしたりするような教育だったらいらないということである。

●(2) 人間らしい心を取り戻す

 生涯学習とは、趣味、教養、文化、芸術、スポーツ、レクリエーションなど、どんなことでも自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶことである。もっといえば、人間どうしの対等なネットワークの中で、教えあい、学びあうことともいえる。
 たしかに、さきほど述べた厳しい親心による教育も必要なときがある。交通道徳や安全管理に関わる教育などが、そうであろう。しかし、交流分析には、ほかに、保護的な親心、冷静な大人心、自由な子ども心、という言葉がある。ひとの心の状態は、大きくは、親の心、大人の心、子どもの心の3つ、細かくは、厳しい親心、保護的な親心、大人の心、自由な子ども心(フリーチャイルド)、従順な子ども心の5つに分けられる。子どもから年寄りまでのすべての人に、バランスの差はあっても5つの心があるし、どの心も欠かせない。しかし、子ども心を失ってしまって、精神的にはもう死んでしまっているような不幸な子どもだっている。これからの教育や生涯学習においては、人間らしい心の状態を一人ひとりの中に取り戻すことが大切だと考える。
 たとえば、ほめてあげる、かばってあげる、何かをしてあげる、そんな保護的な親心を自らの中に育てることも大切である。なぜなら、他人に何かをしてあげるからしてもらえるのであり、人間関係の基本はそういうギブ・アンド・テイクのネットワークだからである。今まで誰かにしてもらうことばかりで、これからも誰かさんに守ってもらうことばかり考えていても、そのうち、だれも自分に目を向けてくれなくなるだろう。また、身のまわりにあふれる情報を冷静に判断し思考する大人心も必要である。けれども、そういう保護的な親心や冷静な大人心については、今までの教育においてもそれなりに力が入れられてきたと思われる。

●(3) フリーチャイルドの心で学ぶ

 ぼくがここでとくに提案したいのは、自由な子ども(フリーチャイルド)の心にあふれた学びである。フリーチャイルドは、ちょっとわがままなところもあるが、いつも何かを面白がったり、感動したり、ドキドキワクワクしたりして生きている。この心が足りなければ、芸術家などにはまずなれないだろう。だが、一般人の私たちだって、せっかくの人生なのだからそのように充実して生きていきたいと思う。
 たとえば、絶対という熟語を覚えるとする。これを生徒が「絶体」と書いてしまった場合、教師が「間違ってるぞ、だめじゃないか」と叱るだけなら、教師という人間をおく必要はないのではないか。コンピュータで十分である。生徒が間違えたことは、素晴らしいチャンスであり、せっかく教師という人間がいるのだから、漢和辞典でも引かせて、絶対の「絶」が「絶えること、なくなること」、「対」が「向い合う、比較する」という意味であることを知るように仕向けたらどうだろうか。絶対とは、「ほかとの比較や対立を越えている」という意味なのである。生徒は、その意味を知れば、あとは自分で気づき、自分で「ああそうか」と納得することができるだろう。なお、「絶体絶命」の場合は「体も命もきわまる」という意味であるから「体」という字を使う。ちゃんと理屈が通っている。
 学習は、本当はいやなのに鞭打ってやるというようなものではない。本人がおもしろいと思えることこそが重要である。学習の中には、このように面白いと思える世界が渦巻いている。生涯学習は、ワンダーランド(遊園地)だということができるだろう。お茶にも、生け花にも、天文学にも、スポーツやダンスにも、気づきや自分の深い部分の発見やドキドキワクワクできることがあふれているのだ。それらの活動はすべて生涯学習だといえる。
 面白いからやる、などということは、昔だったら許されなかったかもしれない。実際、少し昔にさかのぼれば、よく勉強する子どもは親に「そんなことして何になる」と叱られたものだし、大人だと穀潰しなどともいわれたものだ。でも、生涯学習社会は、それが許される社会だ。好奇心にあふれた子ども心が、むしろ尊重される社会なのである。
 空想する、感動する、面白がる、天真爛漫にどんなことからでも楽しく学んでしまう、そんな人生を過ごすことができれば、どんなに素敵なことだろうか。これらの態度や人生の構えは、フリーチャイルドの心の働きによって支えられる。

●(4) 学習とは、自分が自分を変えること

 人間は、いろいろなことで悩む。悩むからこそ、その人はより深い人生に出会うことになり、つまり成長するのだが、それにしても、ややもすると発展性のない消極的な悩み方に陥りがちなのも事実である。それはどんな悩み方かというと、「過去と他人」のせいにして悩むことである。過去と他人はどんなに悔やんでも変えることはできない。そんなことは誰でも知っている。知ってはいるが、人間は同時に弱いところももっているから、自分のいまの不幸を、つい、過去と他人のせいにして束の間の安心を求めようとするのだろう。
 これに対して、学習の本当の意味は、自分の気持ちや考え方の枠組を変えることだととらえられる。数学であろうと、ピアノであろうと、バレーボールであろうと、本人の納得や気づきやより深い自分の発見の中で、その人の枠組そのものが変化する。つまり、自分が自分を変えていくのである。そして、自分の枠組をつねに自分で変えていくことは、かけがえのない人生を大切に生きることにも通じている。
 そう考えると、みずからの枠組を変える学習というものは、他人のために行なったり、社会の必要のために仕方なしに行なったりするものではないということがいえるだろう。ぼくは大学の社会教育の授業の中で、人間の幸福追求のあり方を考えてきたが、今のところ、その3原則の1つとして「自分のために生きる」を重要なテーマにしている。ついでにいえば、あとの2つは「潔く生きる」と「さわやかに依存する」である。ボランティアだって「自分のためにやっている」と言える人が、ボランティア活動の意味を一番よく知っている人ではないかと思われる。
 ここに、あひるうさぎの図がある●(図1−1)。これがあひるにしか見えないとしてもそれはそれでしかたがない。しかし、もし、ほかの人にとってもこの図はあひるに見えなければいけない、と思ったり、うさぎに見えるという「他人の枠組」が提示されてもそれを認められないとしたら、それは不幸な人生ではないか。
 他人は、当然ながら、自分とは違う枠組をもっている。他者とのふれ合いとは、その異なった枠組どうしが出会うことである。いいかえれば、他者の存在を喜べる人間のほうが幸せな人生を送っているといえる。他者の枠組を面白く感じるためには、他人をその人の枠組ごと理解する「共感的理解」が必要になる。「なるほど、うさぎにも見える」と納得できたときに楽しく感じることが学習であり、そのことによって、うさぎとも認めることのできるより深い自分と出会ったことにもなるのである。
 だから、変な表現だが、ひとの人生には、何からでも誰からでも学ぼうとする人生と、何からも誰からも学びたくないという人生の二つがあるということになる。
 学ぶことができる人とは、つまり、自信のある人である。自信とは、人より勝っているとか、自分は絶対だ、と思って安心することではなく、自分とは違うほかの枠組を参考にして今の自分を楽しく変えることができる、ということだといえるだろう。
 そのことで問題だと思うのは、教師の自信に対する学生の反発である。話す内容に対してではなく、教師の自信ある態度そのものに対して学生が不快感を示すことがある。「mitoさんの言葉は、暴力的だ。なぜなら、妙に納得させてしまうところがあるからだ」とか、「あなたはすばらしい教師だと思います。でも、あなたの自信過剰がわたしは不愉快です」と出席ペーパーに書いてくる学生がいる。もし、自分の人格の中核をえぐり取るような言い方をされたのなら、ぼくだって彼らのように不愉快になったり傷ついたりしてしまうことだろう。しかし、授業をしているときの教師の自信そのものが不愉快だというのでは、コミュニケーションも真実の追求も、それ以上、発展のしようがないではないか。
 ぼくは、このような自信を喪失した現代人に対して必要な援助として、カウンセリング(共感的理解に基づく受容)、ストローク(その人への認知を表す行為)、そして、エンカウンター(その人と異なった枠組をぶつけること)の3つが重要だと考えている。
 なお、「町づくりは人づくり」という生涯学習推進のスローガンを各地で聞くことがあるが、これは間違っていると思う。人づくりとは、自分が自分を変えることであって、本人にしかできない営みだからである。しかし、そういう「自分づくり」を温かく見守り支援することのできる町づくりが、いま、切実に求められているのだということは、たしかにいえるだろう。

●(5) 学習とは、水平なギブ・アンド・テイクのネットワーク

 学習とは「マネブ、ナラウ」という意味であるから、もともとは上下関係やヒエラルキーに基づく言葉だととらえられる。しかし、学習活動の中での上下関係が強すぎると、一人ひとりの個性を抑圧する「同一化」にもつながる。「先生に従え、優等生に続け」というわけである。この問題を逆にいえば、同一化は水平関係につながるものではなく、上下関係をもたらすものだということになる。
 ここに「同一化の不幸」ともいうべき根深い問題がある。「みんなが同じことを考えて同じものを好きになること」を自分にも他人にも求めてしまい、そのために、自分を不幸にしたり、他者の個性や自由を蹂躙して迷惑をかけたりしてしまう。たとえば、いじめは、仲間集団(ピア・グループ)に同一化できない人への糾弾として行われている。だから、いじめる人も不幸な人たちだといえる。なぜなら、いじめは、心を開いて交流できない仲間関係と、そういう関係への不安な気持ちの表れだと考えられるからである。しかも、同一化というのは、実際には、人びとを横に並べることにはならない。画一化した物差しをむりやりすべての人に当てはめて、その物差しで序列付けすることになりがちである。これを、ヒエラルキー、すなわち、ピラミッド型の縦の関係ということができる。
 これに対して、他者の異なる枠組を歓迎する生涯学習は、それぞれ方向の違う個性や価値を認めあうことだから、ネットワーク型の水平関係だということができる。そういう生涯学習の精神を一言で表せば、「いばりたい人いりません」ということなのではないか。「教育」に対する誤ったイメージを克服して、ともに育とうとする「共育」に転換させていくことが必要である。
 ネットワークで大切なことは、ギブ・アンド・テイク、「してあげる」と「してもらう」の関係である。周りの人に気をつかってもらいたいと思っている人はあまりいないだろう。気をつかわれると、その人の人生まで背負い込まされた気がして憂鬱になってしまう。けれども、気のきく人がいるとうれしいものである。暑ければ窓を開けられる人が、頬杖をついている暇があるなら友だちに声をかけられる人が、ギブ・アンド・テイクの中では歓迎される。つまり、気をつかうのではなく、気がきくことが求められているのだ。
 学習も同じだ。他人に情報を発信したり何かを教えてあげたりするからこそ、自分自身もいい情報をもらったり、大切なことを教えてもらったりすることができる。なぜなら、そこに、他者との共感の世界が生まれるからである。共感的理解は、その場合のキーポイントだ。小説を読んでいて楽しいのも、感動するのも、筆者や主人公に対する共感的理解があるからだ。
 共感的理解や感動を伴う学習のためには、学習ばかりしている「過充電」「学習中毒」の状態から、「放電」「発信」へ向かうことがとても重要になる。一人ひとりにとって、発表できる場が大切なのだ。考え方などの枠組が異なっていてもそれを安心して発表できる場を、心を開いて交流できる「サンマ」(時間・空間・仲間の3つのマ)と呼ぶことができる。

●(6) 何で生きてるの?

 「何で生きてるの?」と聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか。学生に聞くと、一番多い答えは「生まれちゃったから」であり、その次が「死ぬのが怖いから」である。さらに、「じゃあ、何で学生やってるの?」と聞くと、「親が大学に行けと言ったから」や「気がついたら学生をやっていた」という答えが返ってくる。現代人一般も似たような状況だと思う。自分で、考え、行動し、振り返る力、つまり、「主体性」がいつのまにか根こそぎにされている。
 現代社会の中で、私たちは、比べられ、順位をつけられるために生きてきたように思う。競争試験は他人と比べて順位をつけるためのものだし、書くことや話すことなどの自己表現についても、教師や大人の考えた望ましい答えや他人の答えとその自己表現とを比べられることばかりされてきた。
 しかし、最初から人と比べられるために生まれてきた人など、一人もいないはずである。「わたしは比べられるために生きているのではない」、この当り前のことを思い起こしたい。だから、「弟はできるのに」とか「よその子は、みんなちゃんとやってるのに」という叱り方はとてもよくないということになる。これは、「引き合い叱り」といって、もっとも頻繁に行われているけれども、もっとも悪い叱り方のひとつでもある。その子は、親から愛されるために生きているのであって、比べられるために生きているわけではないからである。そんな叱り方ばかりされていると、「ぼくは何のために生きているんだろう」ということになってしまう。ここには、ガンバリズムの犯罪性がよく表れている。
 何で生きてるの?−幸せになるために生きている(それが楽しいから)、何で学生やってるの?−生きることを学ぶため(社会に出るのをもう少し待ってもらう)、ぼくは社会教育に関する授業のあり方についてとりあえずそういう仮説的な研究テーマを立てて、学生にそれを呼びかけてから年間の授業を進めることにしている。
 「何で生きてるの?」という問いに人びとが答えにくくなった現代社会においては、「何で生きてるの?」から離れたところに学問や生涯学習の存在意義はない。

●(7) 生きる力としての主体性をはぐくむ学習を

 人生は、好むと好まないとに関わらず、選択行為の連続のプロセスだといえる。今晩のおかずにしたって、和食と洋食と中華をいっぺんに食べるわけにはいかない。結婚だって、その相手以外のすべての異性を結婚対象から切り捨てる行為である。世界中に存在する何十億の適齢期の異性の人たちとすべて面接してから、「この人は世界一」などと決定しているわけではない。私たちは、自分で自分の人生を選択することから逃げることはできないのである。だから、自らの責任で判断して自らの行為を選択し、自らの責任において評価する主体性は、その人の生きる力そのものだといえる。
 「人生は死ぬまで学習」と言われるとうんざりする気持ちもわかる。しかし、学習によって、そのときどきに気づきを深め、判断基準(枠組)を発展させながら自分の人生を選択して生きていくことは、一度しかない人生を分厚くていねいに生きることにつながることだろう。「学校を卒業したのに、まだ学習、ああいやだ」と思うような人間や、そう思われるような教育ではなく、「学校を卒業したけれど、ますます本格的な生涯学習の学生であり続けたい。なぜなら、私は私の人生を大切にていねいに生きたいから」と言えるような人間の生き方や、そう思われるような生涯学習のあり方を考えたいものだ。
 一人ひとりの内面的な変革は、生涯学習のもっとも大きな目的といえるのだろう。人間は、あるとき、主体性を自ら放棄してしまったり、一時的な安定に身を預けて閉じこもってしまったりしたくなることもある。しかし、潜在的に持っているであろう幸せに生きようとする気持ち(幸福追求)は、それらの敗北主義的な誘惑をいずれ断ち切って、自分の枠組を変化させる生涯学習の営み、そして、今まで抑圧していた自由な子ども心を解き放つ自己解放の営みに向けられることにもなるのだろう。
 このことは、生涯学習がこれからの社会になくてはならないものであることの証でもある。なぜなら、生涯学習によって、それぞれの人にとっての自分や他人の個性や「個の深み」が価値をもち、歓迎すべきものになってこそ、初めて、個人に対して主体性と自立的価値を要請するネットワーク型社会はその支持基盤を得るからである。そして、ときには他者にさわやかに依存しながら、自己の個人としての存在意義を発揮して生きていくネットワーク型の生き方は、生涯学習活動のさまざまな姿として、現在すでに社会のあらゆる場面で現れているようにも思われる。

●2 生涯学習理念はなぜ新しいのか




 ぼくは、佐野市生涯学習推進協議会の委員として、「佐野市生涯学習推進基本構想」の原案の一部として、「生涯学習のまちづくり」に関する次のような考え方を表した。

●(1) あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町

 一九六五年(昭和四十年)、ユネスコの第3回成人教育推進国際委員会において、ポール・ラングランによってはじめて生涯教育が提唱された。そこでは、人間の全生涯にわたって教育機会を提供することなどの理念が説かれ、また、人の一生という時系列に沿った垂直的な次元と、個人および社会の生活全体にわたる水平的な次元との双方について、必要な統合を達成すべきであることが強調されたのである。このように、社会のさまざまな分野にすでに存在している生涯学習の諸要素を統合しようとするばかりではなく、そのことによって、現代社会の教育機能の全体を生涯学習の援助の視点から大きくとらえ直そうとする姿勢は、今日においても非常に重要だといえる。
 行政のセクショナリズムを打破して、それぞれのセクションが独自の特徴と役割を発揮しながら連携・協力するネットワークの確立が望まれる。現在進められようとしている、学習者が時間と場所と機会を豊かなメニューから選択できるようにする学習メニュー方式や、施設や事業やひとに関する情報を自由に入手できるようにする学習情報提供などは、この理念を実現するためのものとしてもとらえられる。生涯学習の町づくりとは、あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町をつくることなのである。

●(2) 傷つけあう関係ではなく、ともに支えあう関係にあふれる町

 一九六八年(昭和四三年)、アメリカのロバート・ハッチンスの著作『学習社会論』が出版された。これは生涯にわたって学習が行われる「学習社会」への方向を示したものである。そこでは、学習社会は、真に人間的になるために、あらゆる制度がその目的の実現を志向するように価値の転換に成功した社会、として規定されている。ハッチンスのこの規定は、国家や社会の発展のために一人ひとりの人間性を失うような学習を強いるのではなく、逆に、市民個人が、自己の能力を最高限度まで発達させ、人間的になることが、教育や社会が存在する目的ではないか、という根本的な問題提起としてとらえることができるだろう。
 現在、偏差値偏重の競争社会は、子どもたちばかりではなく、青年や成人にまでも影を落としている。傷ついたり相手を傷つけたりしたくないのに、望むと望まないに関わらず、傷つけあう競争の中に放り込まれてしまうのである。生涯学習の推進のためには、偏差値偏重のような人間を計りにかけて比べるようなやり方を改めなければならない。生涯学習活動においては、競争があったとしても、それは偏差値競争のような人間性を傷つけあう陰惨な競争ではなく、それぞれの異なった個性を認めあうさわやかで後腐れのない競争である。このようにして、傷つけあう関係ではなく、ともに支えあう関係にあふれた町をつくることが、ハッチンスのいう学習社会の形成につながると考えられる。

●(3) 人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町

 一九七二年(昭和四七年)、ハッチンスの理念を受け継いだユネスコ教育開発国際委員会、いわゆるフォール委員会が、『未来の学習』(『Learning to be』)というレポートを提出した。「BE」とは人間として存在するという意味であるから、「Learning to be」とは、人間であるための学習ということになる。そこでは、すべての人は生涯を通じて学習を続けることが可能でなければならないこと、そして、そういう生涯教育の考え方は学習社会の中心的思想であることが明らかにされ、学習社会の建設が提唱された。
 経済的に社会に貢献することだけが、人間一人ひとりの生きている意味ではないことはいうまでもないだろう。しかし、「BE」が軽視されて「HAVE」(地位や財産などを得ること)ばかりが重視されると、世の中はぎすぎすしたものになっていく。たとえば、他者と仲良くしたいのに、互いの針で傷つけ合ってしまうのが怖くて近づけない「山アラシのジレンマ」などは、その象徴的な事例といえる。生涯学習は、このような疎外状況を乗り越えて、個人一人ひとりの生きがいを大切にし、しかも各人の個性や生きがいを交流することによって、いっそうそれらが充実することを目指すものである。生涯学習の町づくりとは、人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町をつくることだともいえるだろう。

●(4) 一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町

 一九七三年(昭和四八年)、OECD(経済協力開発機構)のCERI(教育研究革新センター)は、『リカレント教育−生涯学習のための戦略−』という報告書をまとめ、リカレント教育の概念を明らかにした。リカレント教育とは、生涯にわたって労働と教育を交互に行おうというものである。同報告書では、リカレント教育について、生涯学習を実現するために行われる義務教育修了後または基礎教育修了後の総合的教育戦略としている。学校を卒業してからも、教育の機会を得ることができるわけである。また、いわゆる教育などの中で行われるシステム的な学習活動と、その他の社会活動の中で自然に行われる学習活動との間に、効果的な相互作用をつくりだそうとする同報告書の考え方も見落とすことができない。
 個人が生涯にわたって自己を充実する生涯学習社会においては、当然、学位や免許状などは最終的結果にはならない。その人の過去の学歴だけで十把一からげに判断してしまうような労働管理しかできないような企業では、これからの社会を生き抜いていけないともいえるだろう。働く人びとの生涯にわたる学習意欲を重視し、また、それを援助しようとする労働環境が望まれる。生涯学習の町づくりとは、一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町にすることなのである。

●(5) 地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町
 一九七九年(昭和五四年)、世界各国の有識者からなるローマクラブが、『限界なき学習』という報告書を出版した。ローマクラブはもともと人口、資源、環境、エネルギーなどの地球的規模の問題を協議してきた団体だが、この報告書では、技術文明への危機感から、その克服手段を模索している。そして、人間が危機について予知し回避するために不可欠な方策として、生涯学習を提唱している。すなわち、資源やエネルギーは無尽蔵ではなく、限界があり、人類はその限界に気づかなければいけないが、さらに、人びとがそれに気づいてその克服方法を究明するためには生涯学習が不可欠であり、しかも、その生涯学習は資源やエネルギーと異なって無限に広がり豊かになるものである、と強調しているのである。
 現代社会においては、たとえば、地球環境の保護、遺伝子操作に関する合意形成など、市民が主人公として判断しなければならない難題が数多く控えている。また、たとえば、自己の文化をもちながら異文化交流などに積極的に取り組める国際人としての資質も、いまの市民には求められている。生涯学習とは、それらの現代的な課題の学習を通して、地球規模の歪みを正し、宇宙船地球号の危機を克服し、人類の恒久平和を創出する活動でもあるのだ。つまり、生涯学習の町づくりとは、地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町をつくることといえるだろう。

●(6) 一人ひとりの個性がのびのびと発揮される町
 一九八〇年(昭和五五年)、A・トフラーは、その著作『第三の波』において、産業社会の次に来る社会の特性のひとつとして、非大衆化すなわち個別化や個性化への転換を挙げている。そして、第二の波(産業社会)の思想家たちが「身勝手な少数派のせいで断片化、細分化が起こった」といって大衆社会の崩壊を嘆いていることに対して、「そのようなつまらない解釈は、原因と結果を取り違えている」と批判し、むしろ「豊かな多様性を人間性発展のための好機」としてとらえるよう主張している。つまり、人びとの個別化や現代社会の多様化を否定的にとらえるのではなく、それを活かして、市民一人ひとりが個性的な人生を送る社会、あるいは送ろうとする社会こそ、これからの望ましい社会のあり方だと考えることができるのである。
 産業社会が発達する中で、企画化、同時化、集権化、極大化、専門化、集中化などが極端に進行し、人間性を疎外するようにまでなろうとしている現在、トフラーの指摘は重要である。そして、その意味から、一人ひとりの個性がのびのびと発揮されるような生涯学習の町づくりは、人間性を回復するための営み、すなわち新たなルネサンス(人間復興)の運動だということができるのである。

●3 学校週五日制で問われる大人の主体性




 学校週五日制は、じつは、生涯学習社会の形成に向けた動向のひとつとしてとらえることができる。そこで問われるのは、大人たちが学校週五日制の実施に耐える主体的なこころを持ち得ているかどうかである。拙論「社会教育の新しい展開からみた学校週五日制」に基づき、その点について考察する。●(1)

●(1) 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論

 中青連(中央青少年団体連絡協議会)には、青年団、子ども会、ガール・スカウト、ボーイ・スカウト、YMCA、YWCAなど、二二の中央団体が加盟している。社会教育とは、「学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」(社会教育法第二条)のであるから、中青連は、青少年に関わる社会教育活動を行う団体の全国的連絡組織であるととらえることができる。
 この中青連によって特別研究委員会が設置されている。委員会は、平成元年度に「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」●(2) を、二年度に「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動−」●(3) を提言した。
 元年度の提言のキーワードは「個の深み」●(4) であった。そこでは、個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入ったり踏み入ろうとしたりして、自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、「根本的には、集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切」と主張した。
 これに対応していえば、二年度の提言のキーワードは「ネットワーク」ということになろう。そして、キーコンセプトは「地域の子育てネットワークづくり」であるということができる。学校が週五日制になったからといって、安易に、既成の青少年団体が請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、子どもも大人も地域でともに育つ(共育)ネットワークをつくりだすチャンスとしてとらえなおそうというのである。
 もちろん、今日の学校週五日制の動向は、青少年団体が従来から世の中に提案してきたことが社会的に理解されようとしていることの表れともいえるのであるから、団体の中には「いよいよ私たちの出番だ」と意気込む気持ちもある。しかし、特別研究委員会の提言は、そのボランタリズムをさらに一歩進めて、組織や団体といえども、その存在意義はそれぞれの個人のため、「個の深み」の獲得のため、という本質的観点からまとめられたのである。そして、地域子育てネットワークも「個の深み」が発揮できる団体運営や地域活動を実現するためのかなめとして構想されている。
 二回の提言とも立教大学坂口順治教授を座長とする委員会によって作成された。そして、ぼくも起草委員長として関わる機会を与えられた。本論では、その議論の中でぼくが勉強したことをもとに、つたない私見ではあるが、新しい社会教育の観点から学校週五日制時代のあり方を考えてみたい。
 ぼくの問題意識の根底にあるものも、多少の重複を恐れずにいえば、土曜日の子どもたちを学校が面倒を見なくなるのならば今度は社会教育(青少年団体)だ、という安易な受け皿論を克服して、人びとがもっと主体的に生きる土曜日を創り出せないだろうか、ということである。
 社会教育活動をしている人たちは、暇だから活動しているのではない。多くの現代人と同様に忙しい生活を送りながら、その中で時間をつくって活動している。それなのに、「普通の人たち」が「暇で奇特な人たち」にわが子を任せるようなつもりで青少年団体に依存するとすれば、それは団体にとってもけっして名誉なことではないし、その「普通の人たち」にとっても学校に(もちろん、塾にも)わが子を預けることによって子育ての主体性まで失いつつある今日の状況とたいして変わりない結果しかもたらさないことになってしまうのである。

●(2) 新しい土曜日の個別性

 前節で慎重に「私見」と断ったのにはわけがある。委員会で出た議論は十者十様(委員は十人であった)で、意見の一致をみた、とはとてもいえる状態ではなかったからである。しかし、なぜか快い議論ではあった。それでも起草委員長というポジションのぼくとしては、内心、これで本当に草案をまとめることができるのか、不安に襲われることがあったのも事実だが、そのたびに思い直した。学校週五日制の土曜日は、そもそも多様に展開されるべきなのだ、と。
 それぞれの委員の考え方が多様であった理由をぼくはつぎのように考える。
 その理由の1つは、委員が学校、地域、団体のそれぞれの現場を抱えており、その立場から誠実に発言をしたことである。自らの現場を真摯に振り返るほど、一般論には解消できない問題が浮き彫りになってしまった。
 2つめは、ネットワークという言葉をとりいれたことである。ネットワークとは何なのか。水平性、自発性、柔軟性、異質の交流、ギブ・アンド・テイク……、ネットワークに対するそれぞれの委員の異なったイメージを互いに受容しながら、議論を進めていったのである。
 3つめは、教育(共育)という概念にあくまでも執着し続けたことである。端的なたとえを挙げるが、週五日制の土曜日に正規の学校教育になるべく近いものをつくりだすだけの結果になるならば、週五日制は不要ということになる。だから、その逆に、教育という概念を最初から捨てて議論すれば、委員の間に共通する方向がもっと簡単に見つかったのかもしれない。
 しかし、委員会では、前年度の報告に引き続いて、個人の自己成長をこそ重視した。そして、自己成長を他者や集団が援助する可能性、すなわち本来の教育がもつ可能性、にこだわり続けたのである。ちなみに、そこでの私たちのささやかな結論は「ともに育つ教育」である。しかし、それとて、単純化はできない。たとえば、「ともに育つ」場合の子どもに対する大人の指導性や、文化の伝達者としての役割をどうとらえるべきか、多様な見解が成立するのである。
 このようにして委員会の論議は個別で多様な思い入れや主張を柔らかく包み込みながら展開したのだが、それは新しい土曜日のあり方のひとつの特性を示唆しているように思われる。すなわち、学校週五日制に関して、1つには、学校、地域、すでに社会教育活動をしている団体、の三者にそれぞれ独自のとらえ方があり、2つには、従来の二項対立の図式では割り切ることのできないネットワークという概念がどうもポイントになりそうであり、3つには、これまでの教授法の蓄積が有効には機能しない新しい教育活動が行われるようになる(べき)と思われるのである。こういう場合、ひとつのモデルをつくってがむしゃらに押し進めるようなやり方は通用しないだろう。
 多様な個性を受けとめてそれに耐えていく力を、週五日制は私たちに要請しているのだと思う。

●(3) 新しい土曜日が求める主体性

 人間は自分の判断基準に、つい、シンプルなものを求めたがる。そして、その基準をあまり悩むことなく人やものごとに適用して、レッテルをどんどん貼って処理していけば、生きていくのもラクそうでいいな、と思ってしまう。しかし、その欲求のとおり突き進んでいる人を、「スクエアヘッド」ということができよう。これは、「いわゆる石頭的人物。権威主義的で、物事の白黒をはっきりさせないといらいらするタイプの人間」である。外見上は権威(正確には権力というべきであろう)に忠実に仕えているように見えるが、つきつめて問うてみれば、ヒエラルキーの中で自己の安定を求めているだけのことなのである。
 週五日制の土曜日が個性的であるべきだとすれば、それを受け入れる力は、「スクエアヘッド」に対置される「エッグヘッド」に見つけることができる。これは、「一般に知的で、柔軟思考ができ、曖昧さに対する許容度が大きいタイプの人間」である。●(5)
 また、個別性を受け入れるためには、その集団の風土も問題になる。人間は、他者との関係において、表面的な一致を求めたがる。そこには、つきつめていうならば、仲間からいつ足を引っ張られるかわからないのでつねに自分を防衛していなければならないという「防衛的風土」が背景にある。
 その逆に、個別な価値を受け入れるためには「防衛的風土」に対置される「支持的風土」が集団の中に求められるのだと思う。「支持的風土」とは、「仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーへの肯定的な感情をもっている」という集団風土である。●(6)
 新しい土曜日が多様に展開されるためには、たぶん、個人がエッグヘッドであることと、集団がその個人に対して支持的であることとの両方が必要になるのだろう。
 スクエアヘッドの個人や防衛的風土の集団は、統合的なモデルが提示されないかぎり自らは簡単には動き出せない、という呪縛にかかる。自分自身でかける自己催眠のようなものだ。その呪縛から解放されるためには、自分が勝手に妄想してつくりあげた「社会の重圧」や、勝手に行っている自己規制などの、根拠のないさまざまな思い込みや敗北主義に気づかなければならない。当面は、自分自身の思い込みが主要な敵なのである。当人はその思い込みのおかげでいっときの安定を得てきただけに、つまり、自己の錯覚に従属してこれまで生きてきたために、その心の平和を打ち破って自己をありのままに認識することはかなりつらい作業になるかもしれない。しかし、それはしかたがないことだ。
 主体とは、認識し行為し評価する我、のことである。だから、その人のそもそもの主体は本人にある。しかし、スクエアヘッドや防衛的風土のように、認識の基準が外から与えられることを望み、仲間への同調や組織への忠誠を示すために行動し、自己評価よりも他者からの評価に依存するようになってしまうのなら、それは形の上の主体でしかない。
 現代社会特有の主体性の疎外状況の中で、社会教育は、もっと成人の主体性の獲得に関心を払うべきである。学校週五日制への対応に関しても、社会教育がまっさきに目を向けるべきは親たち、あるいは地域の大人たちに対してでなくてはならない。個別な他者や個別な環境の展開に耐え、それを楽しんでしまう主体性は、子どもにはまだ少しは残っている。それよりも、現代社会でより長く生きてきてしまった(スクエアヘッドな)私たち大人にこそ、その欠損が指摘できるのである。
 根本的な問題は、制度ではなく、「教育主体」としての私たち親の主体性の欠如だ。考えてみれば、今までだって、親は子どもに対して学校を休ませようと思えば一定の範囲内なら休ませることができたはずだ。ほかの教育的意義を見いだせるプログラムなどがあるのならば、少しぐらい学校を休ませてもよいのだ。そんなことは当り前に行われている国だってある。進度の遅れが気になるのなら、家庭ででもどこででも補習をすればよい。学校に深い教育的意義があると判断して選択的に子どもを学校に行かせているのならよいのだが、「学校で授業が行われている限りには、何が何でも子どもを学校に行かさなければならない」というガンバリズムの思い込みだけで学校を休ませないことは、極端にいえば、親の教育権をみずから放棄する行為であるといえる。
 実際、登校拒否というSOS信号を出している子どもをむりやり学校に行かせようとすることだけしかしないために、わが子の症状を決定的に悪化させてしまう親たちがたくさんいる。そういう態度は少数の人たちの特殊な困った態度ではなくて、一般の親たちが日常的にとっている普遍的な態度といえる。人間なら当然にもっているはずの共感する能力や幸福追求のための主体性が、「社会や制度がそうなっているのだから」という不合理な思い込みによって現代社会の中でそがれてしまっているのである。

●(4) ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ

 委員会は「地域子育てネットワークづくり」を提言した。土曜日の子育てを地域の親たちの共同作業(共働)にしようというのである。既存の団体も、そのネットワークに対してノウハウや情報を提供することができるだろう。また、地域のふつうのお父さん、お母さんから、団体にはなかった新しいセンスを学び取ることができるかもしれない。団体自身もネットワークの中でともに育とうというのである。
 ぼくは、ネットワークの特性を自立と依存の統一であると考えている。●(7) いわゆる一蓮托生の同志でもなく、かといって孤立でもない。そして、ネットワークにおいては各人が水平に関係を保つ。異種の者も混在する。目的も一人ひとり違う。だから、安定のみを重視する人には耐えられないシステムである。
 従来のピラミッド型組織においては、同種の者が集まり、同じ目的や考え方のもとに統合され、露骨にあるいは暗黙のうちにヒエラルキーとそれへの合意がつくりあげられ、これが一定の安定をもたらしてきた。ヒエラルキーの中では、個人は自己の主体性を発揮することよりも、制度の枠組の中での自分のポジションに合わせて生きていくことを心がければよい。ヒエラルキーの中での自己実現の難しさに悶々としている人もいるが、ヒエラルキーに甘んじて従属している人もいる。
 学校週五日制が実施されても、それが団体請け負い主義で進められるならば、このヒエラルキーに馴れきった現代人の主体性喪失の片棒を担ぐ結果につながるのではないか。なぜなら、団体請け負いならば、ふつうの親たちは相変わらず教育主体ではないままだからである。「子どもを預ける相手先を選んだのは親自身だ。そこに親の主体性の発現が見られる」という人もいるかもしれないが、主体性とは継続的に獲得していくべき動的な状態をさすのであって、その可能性を自ら断ち切ってしまうことは、極端な表現になるかもしれないが、精神的な自殺といえるのだと思う。
 もともと、何のために現在の伴侶と結婚したのか。何のために子をもったのか。伴侶や子どもたちといっしょに暮らしたかったからではなかったのか。そんな当り前のことさえ、いつのまにか忘れてしまっている。家族がいっしょに過ごす時間が少ないことを労働条件の厳しさや住宅難などの外的状況のせいにする人もいるが、その前に、本人が勝手に思い込んで自らがつくりだした枠組(思い込み)に自ら気づくことが先決である。「とにかく学校にはきちんと登校させなければならない」、「とにかく会社のいうとおりに働かなければならない」……。この「とにかく」が、くせものなのである。「とにかく」を捨てて考えてみれば、子どもが学校で成長することができるから学校に行かせるのであろう。発展的企業なら、言われたとおりに働く社員よりも、人間的な豊かさをふくらませる生活を自ら設計・管理できる個性的な社員をこそ求めるはずであろう。
 ヒエラルキーを当てがったのは自分ではなくても、ヒエラルキーを内から支えているのは自分なのである。その場合、少なくとも主体的な認識を経た上で、ヒエラルキーの中に自己のスタンスの持ち方を見いだすべきである。いいかえれば、無意識のうちにヒエラルキーを支えてしまうのではなく、自らが主体的に認識した上で、つまり「きちんと意識して」ヒエラルキーに関与すべきだ、ということである。
 やや蛇足にはなるが、ぼくはヒエラルキーを完全に撲滅せよと訴えているのではない。人間の細胞にもネットワーク(リゾーム)的な自立とヒエラルキー(ツリー)的な階層が見いだされることからわかるように、ヒエラルキーにも正機能はあるのだ。たとえば、行政の意思決定システムからヒエラルキーを完全に葬り去ることなど、非現実的であるばかりでなく、万一そんなことが行われたら危険この上ない話でもある。そのほか、帰属意識、自己犠牲の精神などにもメリットは認められる。問題は、これらの逆機能である。逆機能が今日、肥大化して、主体性の疎外状況を生み出しているのである。
 既存の青少年団体にも組織としてのヒエラルキーは多かれ少なかれ存在する。たとえば、会長と会員とに分かれている。それに対して、会長を置くな、といいたいのではない。対等な関係において対話が行われていて、会員が主体的に参加できていれば、それでよい。ただし、ヒエラルキーが社会教育の団体運営のすべてでもない。会長を置かないルーズなネットワークからもそのマインドや魅力を学び、ともに育つことが、今日の青少年団体に強く求められているのである。
 また、学校教育の現場にもヒエラルキーが存在する。教員はそのヒエラルキーの中での自分のポジションに安住したり、逆に、敗北感に浸ったりするのではなく、そこでのスタンスを主体的に見つけだしてほしい。そして、新しい土曜日には、ヒエラルキーの中の教員としてではなく、子どもの心と教育の技術に詳しい地域住民のひとりとしてのスタンスから参加してほしい。それによって、ヒエラルキーの中にいるだけでは得られない新しい自分らしさ(アイデンティティ)を獲得できればすばらしい。このようにして、ポジションからスタンスへ、スタンスからアイデンティティへと、教員自身の主体性の成長も期待できるのである。
 ぼくは、週五日制の土曜日には、他の地域から通勤している教員は、勤務校が所在している地域ではなく、自分が住んでいる地域あるいは自分が参加したいと思う種類の活動をしている地域で活動する方が、この制度の本来の趣旨に沿うものだと思っている。
 このような地域子育てネットワークづくりによって、学校週五日制は、大人自身の生き方や社会教育のあり方を問い直すきっかけになるだろう。

●(5) 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開)

 委員会では、大人の都合に合わせるのではなく、子どもの「個の深み」を尊重することを重視した。「個の深み」の代わりに「自主性」などの言葉を使っても理屈は通じるのだが、ぼくは後者が軽い意味で受けとられる現状に批判をもっている。たとえば、「うちの子どもは親が命じなくても自主的にドリルに取り組んでいます」という教育ママの使う「自主性」という言葉はかなりインチキくさい。
 本当に求められていることは、指導のもとに管理された個性や自主性ではなく、すでにひとつの主体である子どもの一人ひとりがもとうとしているはずの個別な深みである。それこそがサービスや、ましてや教化という言葉などではなく、教育という人間の内面に関わる営みを表す言葉をわざわざ使う理由でもあると考える。
 現代社会の中で、私たち大人の価値観が病んでいる。ヒエラルキーの中での優越、劣等の意識など、その証拠はいくらでも挙げることができる。そんな大人でも、子どもといっしょに時間と空間をわかち合うことによって子どもの「個の深み」と接することができるならば、大人にとっての主体性の回復や獲得の絶好の機会となるだろう。それは、すぐれた教師がふだん行っていることと、まったく同様である。親がわが子だけとそのようにつきあうことにもそれなりの自己成長の契機はあろうが、子ども同士、大人同士、子どもと大人などのマルチな関係性の中での対話の迫力にはとうていかなわない。
 そして、ここまで述べてきたこと、とくに「個の深み」の獲得の過程は、だれかが上から指導することによって実現するものではない。また、こうすればかならず成功する、という定まったモデルもぼくには提示できない。できるのは、「個の深み」の阻害状況を問題提起することと、さまざまな局面から活動を改善するアイデアを提案することだけである。
 ただ、ひとつ、ぼくが予想するのは、それらの過程がちょうど迷路(MAZE・メイズ)のようになるだろう、ということである。
 ぼくは、パソコン通信によるコミュニケーションの特徴をMAZEであると考えている。●(8) パソコン通信ではほとんどの記事が数行の簡単な書き込みであり、その内容も最初の発信者のニーズとは必ずしもぴったり合うものではなく(ミスマッチ)、大ざっぱ(アバウト)で、話題がずれたりもどったり(ジグザグ)している。しかもそのやりとりは気軽でイージーだ。それらの頭文字をつなげるとMAZEになる。このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見する。迷路を自分の力で歩くことによって、「教師なし」で予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、求める情報を能率良く獲得するためには不都合に見えても、創造的な学習にとっては有効なツール(道具)なのである。
 だから、地域子育てネットワークで個人の「個の深み」に注目してそれに入り込んでいけば、その個人さえも見通すことのできていない迷路に踏み入ることになるだろう。しかも、他の個人の「個の深み」も重層的にそこに関係をもってくるのであるから、「深みにはまる」といった危険性を感じなくもない。
 しかし、考えてみれば、子どもたちは迷路遊びのコーナーがあると目を輝かせて列をつくっている。迷路は、迷えば迷うほど楽しいものなのである。それなのに、私たち大人がMAZEに不安を感じるのは、そういうフリーチャイルド(自由な子ども)としての心を失いつつあるからであろう。見通しがきかないことから逃避してしまう非主体的な敗北主義がしみこんでいるのだ。今の子どもたちにその悪癖を押しつけてはいけない(自由な子ども心を失ったそういう大人のような子どもたちが今は増えつつあるが)。
 特別研究委員会の報告では、大人も義務感からではなく、あくまでも楽しく、ということを主張した。また、この報告を受けて中青連主催によるシンポジウムが開かれたが、そこでも、今の子どもは縛りつけられすぎている、大人は「教えなければならない」という義務感が強すぎる、などの指摘があった。迷路をさまようことを子どものように気楽に楽しんでしまう自由な心が、大人のほうにこそ求められているのである。

●(6) マニュアルを越えて

 報告では、最後に、時間・空間・仲間(この三つの間をサンマという!)を生かす青少年団体活動への提言として、子どもと大人がともに育つ柔らかい組織運営と柔らかいプログラムを提案している。その内容は、穴埋めではなくネットワークづくりとしての団体外の人材の活用、多人数一斉プログラムからコミュニケーションを重視する小人数個別プログラムへの転換、子どもであっても自分が社会に役立つという認識を育てるためのボランティア活動の採用、などである。しかし、それからもわかるとおり、報告はマニュアルとして使ってもらおうと考えて作られたものではない。委員会から青少年教育団体や社会教育活動へのメッセージにすぎないのである。
 ぼくは一般のマニュアルのメリットは認めるけれども、少なくとも学校週五日制に求められているものはマニュアルではないと考えている。なぜならば、五日制が求めているものは、教育・学習に関わるべき者、つまり教師、親、大人たちが、教育・学習主体としての本来の自己を取り戻すことであり、そのためには、だれもが安心できるひな型が必要なのではなく、ひな型を与えられてから動き出すという今までの自己の非主体的な枠組をみずから乗り越えることこそがもっとも急がれている課題だと思うからである。

第1部・注−
(1) 西村美東士「社会教育の新しい展開からみた学校週五日制−地域子育てネットワークの形成−」、エイデル研究所「季刊教育法」第八六号、一九九一年一二月
(2) 中央青少年団体連絡協議会特別研究委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」一九九〇年三月
(3) 中央青少年団体連絡協議会特別研究委員会提言「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動−」一九九一年三月
(4) 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、一九九一年四月
(5) スクエアヘッドとエッグヘッドについては、L・ベラック『山アラシのジレンマ』小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、一九七四年一月、二九頁。
(6) 防衛的風土と支持的風土については、J・R・ギッブの言葉。ここでは、片岡徳雄『学習と指導』放送大学テキスト、一九八七年三月、四五頁、から引用。
(7) (8) 前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』

●第2部 こころを開く態度変容の学習





●1 こころを開いて交流できる仲間づくりの方法




 ぼくは二十代の六年間を東京都青年の家の職員として過ごした。これは、そこで出会った青年たちのあたたかい記憶を思い出しながら書いたものである。●(1) そういう事情から、本論はやや楽天的すぎる傾向があるが察してほしい。ここでは、現代人の抱えている山アラシジレンマの問題から逃げずに、それを受けとめ、乗り越える方法を具体的に考えてみたい。なお、後半はロール・プレイングの活用に絞って述べている。

●(1) あったかいディスコ

 今から十年ほど前、ぼくが青年の家の職員だった時、ディスコダンスを取り入れて「ダンスフェスティバル」を行っていた。そのころ、まちではディスコが熱っぽくはやっていたが、社会教育の場でそんなことをしたのはこれが初めだったと思う。
 地域のレクリエーション研究会や青年の家のボランティアグループのメンバーなどで実行委員会を結成して準備や運営に取り組んだ。新しいディスコのステップを実行委員が友達やディスコなどから仕入れてきて、実行委員会の例会で教え合ったりした。フェスティバルの本番ではディスコの店長を招いて教えてもらったこともある。
 当時は「バスストップ」などのステップダンスの全盛時代だった。これは、バスの停留所に並ぶような形でみんなでステップを合わせる踊り方である。今から思えば、いにしえのディスコということになるが、アップテンポのリズムで初めての人でもみんなとステップを合わせて簡単にノルことのできる「古き良きディスコ」は、技術を要する今のフリーダンスよりみんなで取り組みやすいダンスだった。青年の家のフェスティバルでは、生まれて初めてディスコをやるという人と、毎週ディスコに通いつめている人とがいっしょになってステップを踏んだ。
 参加者は次のように感想を書いてくれている。「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」……。
 ディスコで汗をかくと、身も心もすっきりする。これはお店のディスコも同じである。しかし、お店のディスコでは青年は意外にひとりぼっちだ。ステップがわからずにフロアーで立っている人を、じょうずな者が教えるなどといったことはない。それに対して、青年の家ではもっとあたたかいディスコができたとぼくは自負している。なかでも、もっとも印象に残っているのは、ディスコボーイのA君がステップ指導をしてくれたことだ。「ステップを一歩一歩教えるなんてかっこ悪いことはしない。カッコ良く踊ってみせるのが生きがい」というのが、普通のディスコボーイのやり方である。A君もそうだった。
 彼は最初はたんなる参加者だった。しかし、A君のステップのかっこよさにしびれた実行委員は、さっそく彼を実行委員会に引きずり込んでしまった。彼は次第に実行委員会にのめりこんでいった。そして、三年目のフェスティバルでは、難しいステップの曲がかかった時に、スッと前に出てきてマイクを握り、百人以上の参加者の眼前で一歩一歩ステップを説明してくれたのである。

●(2) いっしょにつくりあげるから「あったかい」

 ここで、もう少し参加者の感想を拾ってみよう。「いろんな人と知り合えた」「汗を流し、おおいに笑えた」「心からバカになって、ほんとうの自分が出せた」「先日のミニフェスティバルに参加をした人達と再び会えたことが、そして、覚えていてくれたことが思いがけなくうれしかった」「若者達が一つになって何かをするということは、たいへんすばらしいことだと思う」「実行委員の人が一生懸命やってくださっているのがよくわかり、感激した」。このように、参加者は「あたたかさ」や「仲間の良さ」を味わうことができた。
 ところが、実行委員は、「めだちたい、楽しみたい気持ちとの葛藤がありました」などと感想を書いている。準備を重ねて、やっと迎えたフェスティバル本番では、照明係やレコード係をやっていて肝心の踊りを楽しむことができなかったし、食事や宿泊の心配などをしたりで地味な努力も多かったのである。しかし、それだけに「あたたかさ」、「仲間の良さ」への感動も別の大きなものがあった。ある実行委員は、一言だけ、「ひと・ものとのめぐりあい」と感想を書いてくれている。
 自分たちで企画して、自分たちでつくりあげていくのである。企画を実際に実現しようとすると、ささいなことから大きなことまで、さまざまなものごとやできごとと出会う。たとえば、ディスコクィーン、ディスコキング(コンテスト優勝者)への投げテープの代わりにトイレットペーパーを使おうと彼らは企画したが、職員のぼくに「もったいない。トイレットペーパーを作っている人の気持ちを裏切ることになるのではないか」と止められてしまったことがある。
 ものごととの出会いの中で、意見の違いも出てきた。仲間のいい性格も表れれば、あまり良くない性格も表れてしまう。けれども、そこに本当の「人とのめぐりあい」がある。「よそごと」「ひとごと」でない逃げのない人間関係、これが本当の「あたたかさ」につながるのだろう。
 何かをいっしょにつくりあげるからこそ、ひととの本物の出会いがある。だから「いっしょにつくりあげること」は仲間づくりの最大の秘訣である。いっしょに酒を飲むのだって、いっしょに汗した仲間だから楽しいのだ。ディスコボーイのA君がステップ指導をする気になったのも、ただたんに参加者として楽しんだからではなく、実行委員としてみんなとやってきたからなのである。
 何かいっしょにつくりあげようとするものをもつこと、そして、その何かをみんながつねに頭の中にはっきり描いていること、つまり「明確化」とある程度の「共有」をしていること、これこそが究極の仲間づくりの演出のねらいなのだ。これから述べるさまざまな演出も、すべてそのためにあるといっても言いすぎではないだろう。

●(3) 安心してしゃべれる会議

 まず、会議のもち方をもうひと工夫できないだろうか。アイデアを出すための会議であれば、「発想法」が役立つだろう。そこには、メンバー一人ひとりの主体的なアイデアを活かす技術がたくさん盛り込まれている。
 そして、グループとしての意思決定の会議においても、意見をいえずに誰かが決めるのを待っている人に対して、安心して気楽にしゃべれるようにするための配慮が必要である。そのために、ひとつには、みんなの顔が見えるように座ることも必要である。むこうを向いている人にしゃべるのは、誰でも気がひける。したがって、円形に座ることなどが考えられる。ただし、何がなんでもいつも真正面に向き合うのが良いということではない。まだメンバーになっていない人が発言のためではなく会議の様子を見るために参加する時は、かえってややはずれた所に座ってもらうほうが本人にとっては気が楽だろう。会議ではなく、講義を聴くような時は、教室形式の方が良い場合もある。カウンセリングでは、相談する人と相談を受ける人とは、ややはすに向かって座ることが多いのだ。あんまり真正面だと息がつまる感じになってしまうからだろう。そんな細かい配慮も必要である。
 二つめには、発言のない人に「どうでしょうか」と質問する、つまり水を差し向けることが必要である。まだグループになじんでいないメンバーには、「こんなことを言っていいのだろうか」という不安がつねにつきまとっているはずだ。「質問する」ということは、その不安に対して「あなたの意見も聞きたいのですよ」というグループの気持ちを表明することであり、そのメンバーにとってみれば「自分の存在が認められている」ことの確認にもなるものなのである。
 ただし、これも「さあ、言え、何か言え」とか「時間がもったいないけどしかたないから」などという態度では、逆効果である。そのメンバーは「おしつけがましい」とか「形式的だ」と感じていやになってしまうだろう。
 ふつうならそんな質問の仕方はしないと思う。しかし、無意識のうちに、あるいは演出技術の未熟のゆえに、それに近いことをしてしまうことはけっこう多いようだ。たとえば、新人にいきなり「今度のイベントに数人の高校生が参加したいといってきているのですが、あなたはどう思いますか」と質問してしまう。実は、その前の例会で、「夜の反省会でお酒を飲む予定だから、まずいのではないか」などの論議があって、他のメンバーは「どうすればいいか」とおおいに悩んでいる。そういう悩みや気持ちを表さずに、つまり自分たちの方の心は開かずに、新人の意見だけ聞いておこうとするならば、それは形式的質問であり、あとでその経緯を知った新人にとっては詐欺にあったような気分にもなりかねない。
 それに対して、こちら側の心を開いた質問は、相手を安心させ、仲間意識を高めてくれる。経緯や悩みまで話して質問すれば、新人も「そんなに悩むぐらいなら、今回は思い切ってアルコール抜きの反省会にしたらどうですか」などという、みんなが思いもつかなかった(?)フレッシュマンらしい強烈な意見を出してくれるかもしれない。

●(4) 仲間とゴハン・オフロ・フトンをする意味

 バリバリ働いている中堅のサラリーマンが、夜遅く帰宅する。その時、彼が奥さんに発する言葉が三つ。メシ・フロ・ネル……。これでは、さびしい限りである。夫婦や家族の会話はもっと豊かでありたいものだ。仲間づくりを大切にするグループにおいても、その思いは当然、同じである。
 けれども、このゴハン・オフロ・フトン自体は、正直にいって誰でもとっても気持ちよくうれしいひとときのはずだ。ホカホカあたたかくて、湯気のあがっているごはんを食べるとき、お風呂で「あーあ」と体を伸ばすとき、ふかふかしたふとんにもぐりこむとき、誰でも幸せを感じる。この楽しいひとときを仲間のみんなで共有しないという手はない。そういう楽しい時というのは、誰でもリラックスしてしみじみと語り合えるわけである。
 「チカメシさん」という言葉がある。「近いうちにメシでも」と誘うだけの上司のことである。しかし、実際、上司・部下の間だけでなく、サラリーマンの社会ではメシはコミュニケーションのための演出手段として広く最大限に有効活用されている。グループの仲間づくりにとっても、それは大きな効果を発揮してくれるだろう。そして、ゴハンもオフロもフトンも、生活の臭いの強いことがらである。これを仲間といっしょにすることは、「生活をともにしている」という暖かい実感をもつことにつながる。
 これらのゴハン・オフロ・フトンをいっぺんに行えるのが、合宿である。経験した人はわかると思うが、合宿の威力は大変なものだ。肩肘張った例会ばかりだったとしても、ある時に合宿をやると、次の例会では「やあ」、「よう」、「あれからどうしてた?」などの親しげな言葉がけのやりとりになるということは、よく経験することである。生活をともにするということが、何かをみんなに与えてくれるのである。
 たとえば、合宿で夜寝るとき、和室であればふとんを放射線状に敷き直す。うつぶせになって、頬づえをついてみんなでぐるりと向かい合う。こういう「寄り合い」だと、なぜかもう誰でも初めっからなごやかにニコニコしてしまう。
 なお、ゴハンはともかく、オフロとフトンは異性のいる場合、残念ながら限界がある。けれども、たとえば就寝時の「寄り合い」には浴衣やネグリジェなどではなくジャージで参加することに決めるなどの工夫をするだけでも、けっこう楽しくやっていけるものである。
 だから、グループで仲間づくりを目指すのなら、その合宿ではゴハン・オフロ・フトンの時間を大切にして、ゆとりあるプログラムにする必要がある。大切な夜の時間まで研修のプログラムをびっしり詰め込んでしまったとしたら、外側からは「効率的に事が運ばれた」と見えるかもしれないが、じつは本来だったらその合宿でメンバーの内側にはかりしれない相互作用が行われたはずのものが、ないままに過ぎてしまうということになってしまう。
 仲間づくりとは、このような生活の共有の中で、そしてプログラムしきれない所で、メンバーの一人ひとりがみずから自然に行うものであるという要素がとても強いのである。

●(5) 自然に仲間づくりができるようにするための演出

 一昔前なら、「青年のつどい」などと銘打っただけで、青年がたくさん集まってくれるという状況があった。ストレートに仲間を求めていたから、「青年のつどい」などという、まさに仲間づくりそのものを示すネーミングでも良かったわけである。
 しかし、そんなテーマでは、今の青年は「わざとらしくていやだ」と思うだろう。今日、「つどい」を行うのなら、「○○が身につく」などのようにつどいの具体的な目標がはっきりわかるテーマにしなくてはならない。グループにおいても、「何かいっしょにつくりあげようとするもの」があるからこそグループをつくって活動するのだし、その活動があるからこそ自然に、メンバー自身の手で仲間づくりが進むものなのである。
 だから、仲間づくりの演出で肝心なことは、「何かをいっしょにつくりあげる」活動の中に、メンバーの手によって自然に仲間づくりが行われるような時と場所を設定することなのである。グループで合宿をしたり、自由におしゃべりをするためのたまり場を設けたりするのも、そのような「プログラムしきれない」仲間づくりの環境を整えるためのだいじな演出方法なのだ。

●(6) てれないで、ロールプレイング

 ロールプレイング……、横文字だとrole playing、「役割を演ずる」という意味である。社会学や心理学でも使われている言葉だが、ここではグループ活動において普通に行うことができるやり方として紹介する。
 これは、いわば模擬練習のようなものと考えられる。つまり、実際のある場面に遭遇する前や遭遇した後に、メンバーの数人がそこで登場するそれぞれの人になったつもりで劇を演ずるのである。「試しにやってみる」あるいは「再現フィルム」という感じだ。
 こういうものには、妙なノリのようなものを感じてしまっててれくさい、引いてしまうという人も多いと思う。しかし、効果絶大なわけだから、あえてノリの精神で、遊び心で気楽に取り組んでもらいたいと思う。
 ロールプレイングはたとえば次のように行う。もちろん、実際に行う時には順序を逆にしたり反復したり飛ばしたりして、臨機応変に行うことになる。
@ 問題の状況を共通理解するために、メンバーから当人への質問などを中心にして話し合う。
A 演者がその問題の場にいるつもりで、それぞれの立場を演ずる。「その人だったら、その場では、こう思って、こう言うだろう」と自分がその人になったつもりでアドリブで演ずる。とくに、出だしが難しいと思われる。照れくさくて、ついニタニタしたり吹き出したりしがちである。出だしの言葉だけは決めておくのもよいだろう。
B 演技が終わったら、演じた者が「この時、こんな気持ちがしました」などと、感想を披露する。
C 演じた者、見ていた者の両方が感想や意見を述べあう。
D もう一度、演技をやり直してみる(Aに戻る)。

●(7) ロールプレイングによって実感をともなって見る

 グループ活動の中ではさまざまな問題がおきる。人と出会うこととともに、ものごとやできごとと出会うこともグループ活動の特徴であり、長い眼ではむしろ問題と出会うことは活動の魅力とも見るべきだろう。たとえばある女性メンバーの悩み……。父親が、そのグループについて理解を示してくれていない、「例会の日は、いつも帰宅が遅くなる」と言って、それを理由にグループ活動をやめさせようとしているとする。
 この問題について、グループで論議しようとしても、その前によくわからない所がある。その父親はどういう性格の人なのか、「父親の反対」といってもどの程度の反対なのかなど、言葉による説明だけでは伝わりきらない。また、それが伝わらないままで机上の議論をしても、事実誤認の上で論議が進んだり、「女性だけ先に帰るようにしたらどうか」、「いや、悪いことをやっているのではないのだし、男も女も遅くなってもゆっくり話す機会がほしい」などと、論議が空回りしたりしてしまう。
 これに対してロールプレイングならどうだろうか。たとえば、とりあえず当人である彼女には横で見ていてもらって、他のある人が彼女の父親の役割、他のある人がグループの代表として理解を得るためにその父親に話しに行くという設定で役割を演じたとする。演技の途中で、彼女は「うちの父なら、そんな言い方はしないと思うわ」などと演技に注文をつけるようにする。そうすれば、演者も、見ているみんなも、彼女本人でさえも、だんだんその問題が実感を伴った事実として見えてくる。この「実感を伴って見る」ということが、ロールプレイングのだいじな所である。
 なぜならば、第一に、実感を伴って見るということによって「模擬練習」としての効果を発揮する。もしロールプレイングをせずに抽象的に議論しただけで、具体的にどう言えばいいかはみんなにもわからないまま代表が実際に父親に説得に行くとしたら、代表になった人はかわいそうだ。彼女の父親を前にしてドギマギしてしまうだろう。いざしゃべる段でも、どう言っていいかわからない。ましてや、みんなで抽象的に議論したことを自分の言葉に反映するなどというのは至難のわざである。しかし、ロールプレイングで実感を伴った練習をしておけば、その代表はずいぶんやりやすくなる。また、みんなも、模擬的ではあっても、父親の反対という「ものごと」と出会い、リアクションとしての自分の気持ちも認識し表明することができる。そして、代表もそういうみんなの気持ちを実際の説得の言葉に反映しやすくなる。

●(8) ロールプレイングによって「信頼感」を呼びおこす

 第二に、他人や自分の気持ちがそれまでよりわかるようになる。人間には意識的に、あるいは無意識的に隠している自分の気持ちがあるし、いつもは気がついていない他者や自己がある。他人を演ずることや、その演技を見ることによって、「その人が実際にその場でどんな気持ちをもつのだろうか」ということを具体的に考えたり、自分の気持ちにハッと気づいたりする。つまり、「自己や他者と出会う」ことができるわけである。
 たとえば、先の事例の父親には、実は私たちが学ぶべき「いい部分」があるのかもしれない。ロールプレイングでは、父親本人がその場にいなくても、みんなで話し合っていくうちに、そのことに自然に気づくことがけっこうあるのだ。もちろん、そのためにはみんなに気づこうとする態度が必要だけれども。
 第三に、メンバーやグループ全体のコミュニケーション能力を高めることができる。ロールプレイングでは気持ちのいい言い方をめざして、「そこは、こう言ってみたら」などとみんなで自由に意見を出し合う。その話し合いに基づいて納得いくまで演技を繰り返す。
 さらに、もっといい感じで言えたり、聞けたりするためには、次のようなことに心がけると、いっそう効果的だろう。
 まず、共感をもって聞き合う。相手の気持ちと共感できる時は、あいづちをうったり、うなずいたり、「ええ、そうですね」と賛意を口に出したりして、できるだけ相手にその共感が伝わるようにする。
 自己を開く。人目にふれたくない自分もあるだろうけれども、そういう欠点を含めたトータルな自分を自分として認め、相手にも開いていくことが必要である。自分を一人でしょいこまずに他者に開けば、意外に相手もそういうあなたを受け入れてくれるのではないだろうか。
 そして、「さわやかな自己主張」を心がける。これは、とても難しいことである。だが、相手に対して何か主張したいことがある時、「自分ががまんすればいいのだから」とか「言っても聞いてくれないから」などと理由をこじつけて主張しないでおくということは、表情に出てしまったり、第三者に悪口を言ったり、いつか爆発して攻撃的になったりするなど、ますます不幸な結果になりがちである。相手の頑固さや自分の能力に勝手に絶望して口を閉ざすのではなく、自分の気持ちが受け入れられるであろうことを信頼して、けんかごしではなくさわやかに「私はこう思います」と言うトレーニングが求められているのである。
 コミュニケーションが可能になるためには、「通じ合うだろう」という自信(自分への信頼)と他者への信頼が不可欠である。ロールプレイングとは、そういう信頼感を私たちに呼びおこしてくれるコミュニケーションのトレーニングそのものでもあるといえる。

●2 授業の主体的な楽しみ方




 ぼくは、社会学の若手研究者といっしょに「青少年研究会」というグループをつくって議論や交流をしている。これはぼくを支えてくれている仲間関係のひとつでもある。その会で、社会学のテキストを作成した。ぼくは「授業の楽しみ方」について執筆した。●(2)
 その本は、大学生を主要なターゲットとした本である。しかし、高等教育については、前著『生涯学習か・く・ろ・ん』でも扱ったように、その現代的課題についての考察を深めれば深めるほど、高等教育の退廃に対する今日的な救世主は「生涯学習理念」そのものであるという確信を強めざるをえない。だから、マジメ主義を克服する「授業の楽しみ方」というものが、「生涯学習の”正しい”楽しみ方」にそのままつながると考えている。

●(1) まじめな人の問題点

 主体とは、「認識し、行為し、評価する我」である。このような主体性が、ぼくには、あなたには、十分に備わっているだろうか。なんだか心もとない。
 ぼくは考える。「こうあるべき」という道徳律にきちんと従って生きているのは、外見からは主体性があるように見えるかもしれないけれど、必ずしも事実はそうではないのではないか。学生の分際なんだから、授業がつまらないと思っても教室でおとなしく座っているべきだ……、これって、ほんとに主体性なんだろうか。こうあるべき、と自らが認識したのならばそれでもよいだろう。でも、アバウトな言い方で恐縮だが、他者やメディアから長年のあいだに「認識」させられてしまっているだけの話なら、なんてつまらない人生なんだろう。根拠のない思い込みだと気づいたならば、そんな思い込みはやめようじゃないか。
 こういうふうに書いていると、学生の読者はどう思ってこれを読んでいるのかな、と気になる。これも、ぼくに確固たる主体性がない証拠なのかもしれないが……。それはともかく、いわゆるまじめな学生は、きっと不愉快に思っている人が多いだろう。
 現に、ぼくの授業も、まじめな学生から、「もっと体系的で役に立つ講義をしてくれ」とクレームがつくのである。ぼくの授業は、一人ひとりが悩んでしまうような正答のないテーマのものが多いので、それを好む人もいるが、「まじめに教師の話を聞くことが、学習であり、学生の生き方である」という価値観を大切にしている人は、とくに最初のうちはぼくの授業に反発するようである。
 もう一つのタイプは、アルバイト・サークル・レジャー重視型だ。そういう人たちは、本人の意識に関わらず、それなりの体験学習をしてしまっているわけだから、「そうだ、そうだ。学生が成長するのは、授業だけじゃないぜ」と冒頭の文章をのんきに読んでいたのかもしれない。たしかに、人間は、あらゆる場面において、社会から学習する。正解だ。でも、ぼくは、そういう学生にも疑問をもっている。主体的にアルバイト、サークル、レジャーしている? そこから、ほんとに主体的に学習している? 認識や行為や評価を「してしまっている」あるいは「させられてしまっている」だけじゃないの?
 たとえば、人間関係の技術を学習するには、サークルの運営に関わるとよいだろう。それ以上に対人恐怖が強い人は、ファースト・フードのアルバイトでもするとよい。対人恐怖のあなたでも、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」とか、場合によっては初対面のお客さんに会釈することさえできるようになるだろう。それは、漠とした精神論的な前提ではなく、サービス労働の部分に対してペイするという明瞭な前提が使用人側にあるので、あなたでも自然に役割演技できるようになるからなのだ。
 そういうことが見えていないと、「うちのサークルの連中には責任感が足りない」とか「アルバイト先の店長が私の存在を認めてくれない」とかいって他人のせいにして悩んでいるだけで、自らの非主体的態度は変容されないままということになる。サークルは、部活動と違って、やりたい人がやりたいときにやりたいことをやる場である。むしろ、責任感を他人に要求せずに集団をうまく運営することを学ぶ場なのである。また、アルバイトは、経営ヒエラルキーの一番底辺にいて、底辺にいるからこそ見えるものをきちんと見ていく場である。サークルでもアルバイトでも、必要な演技をしながら、見るべきものを見ることのできる人は、どこにいても主体的な学習・発達・成長ができるのだ。
 ついでに言いたい。金欠型だ。そういう学生は、したいこと(レジャーなど)が金がないからできない、という。ほんとうにそれがしたいの? やれたらいいな、と思い込まされているだけじゃないの? それから、ほんとうに金がないことが原因でできないの? 金がなくても、超一流のホテルのロビーは無料で使えるんだよ。そこでゆっくり本を読んだり、エグゼクティブたちを観察したりするのもいいんじゃないか。もし、追い出されたら、それもいい経験だ。この際、「自分はつねにあたたかく守られていなければいけない」という思い込みは捨てた方がいい。あたたかさは、社会の機構にではなく、友人や恋人や家族に求めていこうじゃないか。
 少し古い話になるが、若者の気質が「四畳半主義」だといわれていたことがあった。下宿先の四畳半の世界だけが幸せに満ちていればよい、社会で貧困が生じ戦争が起ころうとも、自分の四畳半に影響しない限りは関心がない、という意味だ。今なら、さしずめマンションの「ワンルーム主義」といえるだろうか。
 ここで、金欠型の人から、クレームがつくかもしれない。「私たちは、ワンルームマンションなんか住めないんだ」と。しかし、四畳半だろうが、ワンルームだろうが、あなたの人間としての成長の面からは、あまり関係はない。問題は、その生活空間にあなたがきちんと対峙しているかどうかである。
 四畳半だけがよければよい? それはけしからん。もっと社会を見つめなければだめだ……。そういう大人もいるだろう。いや、ぼくがもっと驚くのは、学生の中にそういうことをいう人がいるということだ。そういって主体的に社会と関わろうとしている学生もいるのだが、そうではなく、社会に責任をもつ「べき」といいながら、その強迫観念に悩み、自虐的、内向的になってしまっている学生も多い。自虐というのは、裏面では、他者や社会への責任転嫁や攻撃性を内包している。
 主体性とは、べき論ではなく、自然体から発するものだと思う。四畳半主義でもいいじゃないか。そこにいる自分ともっとよくつきあってみたらどうか。たとえば、自己洞察なんていうのは少しでもできたとしたらすごいことで、学習成果の中でもかなり高度な部類に属するのだ。
 話を「まじめな学生たち」のことに戻したい。ここで一つ、問題になるのは、「評価」だ。授業にまじめに出席してAをそろえることが、よい会社に就職することにつながると思い込んでいる。ほんとうにそれで就職が有利になるのなら、ぼくは何もいうつもりはない。実際、理工系の学生などは、あいも変わらず、そんな入社選考をされているのかもしれない。そういう状況では、作戦上、まじめなふりをしてAをそろえるように図ればよい。ただし、自己成長の機会がそれだけでは不十分になるのなら、別途、独学やダブルスクール、その他もろもろの人生経験などによってその機会を確保しなければならない。こういう柔らかでしたたかなやり方が、あなたの主体性を防衛してくれるだろう。
 しかし、一般的には、「企業の求める人材の一つの大きな要素は、まじめ、ということである」というのは、たんなる思い込みにすぎないのではないか。もっと企業経営者向きの本を読んでもらいたいが、ヒエラルキーの中でおとなしくできる人などというのは、企業の革新的経営のためには何の役にも立たないのだ。
 もちろん、ほんとうのまじめとは、ヒエラルキーの中でおとなしくしていることとは違うということはだれでもわかる。でも、まじめといわれている人の実態は、これに近いと感じる。つまり、権威主義的で、形式を重んじ、エスタブリッシュメントに対しては依存的にふるまいがちな人なのである。
 今後の会社は、自分の個性と意見が強いためにヒエラルキーでおとなしくなんかしていられない人、水平なネットワークの中でこそいきいきと自分を発揮できる人を求めるようになるだろう。もちろん、同族会社などの中には、社長のいうことをよく聞くまじめな人がいい、などという所もあるかもしれないが、そもそもそんな会社は入社するあなたにとっては不幸だ。そういう会社の業績がこれから大幅にアップするとは、まあ考えられない。ただし、「革新的企業」の方も、組織である限り、多かれ少なかれヒエラルキーの中での役割遂行や退屈なルーティンワークは必要になるから、甘い幻想は抱かないように。演技し、別途、自己の主体性を育てようとする主体性は、いずれにせよ必要だ。

●(2) 君の主体を問う

 ここでは、自分への評価の実態を間違ってとらえている思い込みの例をあげたが、ほかにも、人間は根拠のない非主体的な思い込みのためにとても不幸になっている。本人も気づかないうちに、現代社会の一つの側面としての画一化や没個性の影響を受け、各人の認知構造が無自覚のうちに小さく固まってしまっているのだ。劣等感、人間の可能性への不信、効率至上主義、成績至上主義、古くさい勤勉主義……。
 そんな認知構造を変革するためには、主体性が必要だ。自己の主体性を社会や組織から自分で守り育てようとする主体性だから、ぼくはそれを「メタ主体性」と呼びたい。ついでにいうと、それによって生まれる一人ひとりの個性を、ぼくは「個の深み」と呼んでいる。「個の深み」とは、個人が組織や集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもって生きることである。また、個別化よりも積極的な価値づけをし、個人の神聖さと不可侵性を主張する言葉でもある。あなたに「個の深み」が潜在、顕在のかたちで存在しているからこそ、あなたはあなたが「個人として尊重される」(憲法13条)べきことを自己主張できるのではないか。このようにプライドをもって、あなたの学生生活を見つめなおしてみよう。
 「授業の楽しみ方」の一つの結論は、他人からはまじめには見えないかもしれないけれどもじつは主体的であるという、そういう授業の受け方をすることである。それは、主体的選択をした結果として、授業に臨むということである。自分にとって、その授業を受けるよりも、ある映画を見る方が有益であると判断するのなら、授業の方は単位を落とさない程度にごまかして、映画を見に行けばよい。そういう自己管理的(self-directed )な生き方のほうが、自分自身の学生生活の物足りなさを、カリキュラム、評価などのシステムや教員という他人などのせいにしてうじうじ悩む依存的な生き方よりも、よっぽどさわやかである。あなたが成人になるにつれて自己管理的学習(self-directed learning)ができるようにならないと、とても困ったことになってしまうのだ。
 それから、ごくまれに、大学当局や教員に自分の学習要求を訴えて、授業そのものを改善させようとする「超主体的」な学生もいる。教員が何のかんのいわなくても、そういう学生は、そういう行動の中で、いろいろなことを自ら学んでしまう。責任感だって、そういう人には、あとからだってついてくるものだ。
 ただ、授業は、自分だけのためにあるのではなく、それぞれの学習者のさまざまな「自分」の総体のためにあり、プラスアルファ(教員の専門的・主体的判断および教育権の発動)によって構成されるということは、認識しておいた方がよい。自分の学習要求さえさわやかに自己主張できれば、あなたの学習者としての責任は果たしたことになるのであって、それが実際の授業の改善に結びつかなかったからといって敗北感にひたってしまうのは身勝手であろう。
 しかし、このような「超主体的」な学習態度はともかく、フツーの主体的な学習態度、すなわち自己管理的学習重視の観点からいえば、あなたが教室で座っているのは、あなたが次のように判断したからなのだといえる。「今、ここで、この学習をしたいから、ここに座っているのだ」。やっぱり時間の無駄だったと、途中で後悔しはじめたら、さっさと、しかし一生懸命授業を聞いている人の迷惑にならないように静かに、退出すればよい。ほんとうは、こういう態度こそまじめな学習態度というべきなのだ。

●(3) 知のヒエラルキー vs ネットワーク

 「○○教員は、○○という問題については、たいした見解をもっていない」と、教員批判をする学生がいる。ぼくは思う、いいぞ、いいところまでいってる、と。ところが、そのあと、学生のタイプは二つに分かれてしまう。一つはグチをいっておしまいの人だ。せっかく、そこまできたのなら、もう一歩、踏み込んで行動につなげてみたらどうだろうか。その教員に議論をふっかける、それでもその教員が物足りないと思ったら、違う大学の教員の授業にモグる。これが二つめのタイプだ。
 実際、ぼくも、何人かのモグリ学生を知っている。その一人は、勤労学生で、全国でも著名なある教授の数冊の本に傾倒して、半年ほどよその大学のその授業に出席していたが、今では、「ある教授には限界がある」といって聴講をやめてしまっている。もしかしたら、その教授はもっと深いものをもっているのかもしれない。それでもいいじゃないか。その学生が知の遍歴を一つ獲得したということが素晴らしいのである。
 知の行動をしなければだめだ。何も出てこない。知は、ヒエラルキー的なところがあるから、それに反発する「生意気さ」も求められる。でも、他方で、知は水平なネットワーク的世界を有しているのだから、そこにきちんとアクセス(接近行動)してほしい。それは、あなたが自己管理できることであり、あなたの責任だ。
 家族、学校、社会などのヒエラルキーによって、自分の主体性が根こそぎにされている、などということは、正答かもしれないけれど、それをいくら唱えてみたところで、あなたの主体性は回復できない。そのヒエラルキーを自分の目で見つめてみよう。そこからあなたが見いだしたものが、あなたにとっての真実なのだ。
 「授業では、教師のいうことをおとなしく聞いていなければいけない。だって、それって当り前のことでしょ」、そう言って、じつは現在の授業や大学や社会に不満を抱えている人がいる。この人の不幸は、最初の認識の誤りから出発している。ヒエラルキーから自明だとされていることは、すべて疑ってかかるべきだ。「自明のことねえ……、それほんとう?」と疑う精神が必要だ。「そうされてしまっている」というふうに逃げないで、自分が主体的に判断したことを行動の根拠にすべきだ。そういうあなたなら、日本国憲法が援護してくれるだろう。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第19条)、「学問の自由は、これを保障する」(第23条)。
 ぼくは、ネットワークの特性は自立と依存の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かといって「孤立」でもない。このようなネットワークの考え方によれば、農業文明のような個人に干渉する依存関係に対しては自立が、従来の産業文明における個人の自立に対しては依存関係が、対置される。ネットワークとは、過去の二つの文明に対するアンチテーゼである。
 今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて、ということだとぼくは考える。
 あなたの主体性は、生活や社会の一つひとつの場面で、抑圧されたり、表出したりすることになるだろう。その一つひとつがあなたにとっては重要だと感じられるのであろうが、じつは、そのとき抑圧されたことなどは大したことではない。だいいち、実際生活でいちいちくじけてはいられない。それよりも、主体性を自己管理するメタ主体性をあなたの内なる世界で育めるかどうかがポイントなのだ。ヒエラルキーがやること自体はあなたの責任ではない。あなたがヒエラルキーの逆機能の中でもネットワーク的に行動しようとできたかどうかが、あなたの責任なのである。
 最後に、当り前だけれどもユニークな言葉を紹介しておきたい。それは、「過去と他人は変えられない」という言葉である。自分は、今の自分しか意識的には変えられないのだ。「昔、こうすればよかった」とか、「あの人がああいう人じゃなかったらよかったのに」とか、くよくよ思い悩んでもむだである。今、ここで、あなたがどう考えて、どう行動するか、が大切なのである。このことに関心がある人は、心理療法の一種である「交流分析」(TA=transactional analysis)を調べてみるとよい。

●3 情報へのネットワーク型アクセス




 「青少年研究会」で作成した社会学のテキストにもう一つ書いたのが、情報へのネットワーク型アクセスの方法である。●(3) 学習に情報収集は欠かせないものだが、そこでも、学習者の人生の構えが主体的であるか否か、あるいは、オープンマインドをもっているか否かが、重要な要素になる。

●(1) 過去の知の重力圏からの脱出

 大学において講義はどのように位置づけられているか。その現在の到達点として、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した「大学教育の原理と方法」(もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)があげられる。この本は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。
 そこでは、McLeish の著をひいて「講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである」と述べている。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評もひき、それを支持している。
 教室の座席におとなしく座っていれば体系的な知識が身につくというのは、大きな思い違いなのだ。しかし、ぼくは講義を話し言葉メディアとしてとらえる。この話し言葉メディアを通した講義は、学生個人の認知構造の方向性と違うベクトルからのショックを無理やりでも与えることができるから、他のメディアにはない役割をもちうる。ただし、こまごました知識や体系的な知識を覚え込むのには適していないのである。
 書き言葉メディアのメリットとしては、その逆が成り立ちそうである。自分の好みにあった書物を、感情移入したり、筆者の理論構築に同化したりしながら読み進めていく。そうすると、自然に、自己の思想も理論武装されるし、深化していく。そして、気になる情報は繰り返し読んで(再生可能)覚えることもできるし、そうこうしているうちに、筆者の膨大で複雑な知識体系も自己の頭の中にコピーされていく。話し言葉メディアで、聴衆の一人ひとりの進度に対応してそんなことをしていたら、効率が悪すぎるのだ。
 あなたが、本は読まずに講義ばかり聞いて楽しいと思っているのならかまわないが、そういう場合は、「いったい私に何が身についたんだろう」とは悩まないことだ。さまざまな教員の多種多様な考え方に接しているうちに、あなたの中にきっと知的柔軟性が育っていることだろう。それでよしとすべきであって、知識やその体系が身につかなかったからといって、それを教員の力量不足のせいにするのは、過度に依存的で身勝手である。学習効果は、利用するメディアのそれぞれの特性によって異なってくるのであるから。
 このように考えると、書き言葉は話し言葉にはないメリットをもっていることがわかる。しかし、そのメリットは、裏返せば「危険性」にもなる。
 その一つめの危険は、度量の狭い教条主義に陥る危険だ。自分の思考に都合のよい本しか読まなくてもすむから、極端な例では、「○○年から○○年までの○○さんの書いた本しか読まない」ということになる。筆者にとっては、いい迷惑である。筆者も成長しているのだ。懐古趣味的な読書は、知の発展の妨げになる。たとえ古典であっても、現代的な問題意識をもって読むことこそ、主体的な読み方といえる。現代の本であるなら、読者は、筆者との水平で同時代的な知的世界をつくりあげて、評論的に読まなければならない。
 もちろん、この危険は、話し言葉メディアである講義にも、ときどき見られる。自己の堅固な理論に学生が盲信的に従属することを前提として教員が講義を進める場合と、学生がそういう講義を望んで勝手に教員をそういう偶像にしたてて奉ってしまう場合である。
 本にせよ、講義にせよ、人間がつくりだしてきた知は、たとえそれがそのときは叡智だと思われても、過渡的なものであることには変わりない。信仰すべき神ではないのだ。この「信仰」が進むと、初版本を憧憬したりする傾向にまで至る。これでは完璧な「物神化」である。気持ちはわかるが、けっして他人に堂々と見せられるような姿ではないので注意したほうがいい。
 とくに書き言葉を読むときは、なおさら自分好みのものにかたよりがちになる。拾い読みで、自分の好きな所だけ読むことだってできてしまうからだ。しかし、そういうことでは、自分の認知構造を変えるという主体的な学習の姿からは遠ざかってしまい、狭い考え方に固執する結果になる危険性が大きい。
 二つめの危険は、小学校以来の試験対策型の読書態度だ。書き言葉が繰り返し可能で知識の記憶に向いているからこそ、本は暗記の道具として使われてきた。しかし、本来の知は、盲信的に覚え込むことではない。覚える以前に、あなた自身の納得というプロセスが大切なのだ。あなたの受験技術としての本の活用能力は、資格試験などでは、今後も発揮していただきたいが、大学生としての読書は、もっと自立した知的好奇心にあふれたものであってほしい。
 そのためには、ぼくは次のように言いたい。記憶装置なんかになるな。記憶媒体の記憶量は、想像を絶するものだ。フロッピー、ハードディスク、そしてCD−ROM……。人間であるあなたに何が求められるかというと、それらと記憶能力を競うことではなく、それらを活用する能力である。リテラシーとは、読み書きの能力のことであるが、今はメディア・リテラシーが求められている。
 ただし、あなたが記憶しておくべきこともある。それは、所在情報や情報源情報だ。あることについて、どの本を見れば、どのような側面から、知ることができるか。あるいは、どの本を見ればいいかさえわからない場合は、どういうことについては、どういう本、人、機関に問い合わせれば、情報のある所や本を教えてくれるのか。この二つである。
 後者は、本でいえば、参考図書の一つということになる。学習参考書のことではない。参考図書とは図書館の用語だ。参考図書は第1に、内容面では、二次的な情報を記録している。オリジナリティを有する一次的(primary )な情報を加工ないし再編成しているのだ。第2に、形式面では、項目見出しを立て、それらを一定の配列方針にしたがって編成している。第3に、形態面では、冊子形態の図書であり、参照が容易である(後掲『情報と文献の探索』)。たとえば国語辞典なども参考図書の一つだ。参考図書は、探索のための道具(トゥール)として有効だから、活用能力を身につけておくとよい。
 さらに凝り性の人は、長澤雅男『情報と文献の探索』(丸善)を読むとよい。「ルームクーラーが始めて売り出されたのは何年ごろか」などという質問の回答を、最適の参考図書を使って、システマティックに見いだすことができるようになる。図書館司書の秘術をちょっと分けてもらったような気分になることだろう。

●(2) 本の私有と共有の方法

 さて、つぎは、本の私有、つまり本を買うことについてだ。自分の研究に関わる本なら、高くても買うしかないだろう。専門書は発行部数が少ない。だから高い。しかも、古本屋などで見つけるのも難しい。いさぎよく新本で買うことだ。
 私有ということは、自分のものになるということだから(当り前だが)、ラインを引いたり、疑問や触発されたアイデアをそのページの余白に書き込むことができる。それは、筆者とあなたのオリジナルな知的共同創造物だ。それがカッチリと一冊にまとまった本というのは、メディアとしての使いやすさの点からいって、けっこう理想に近い形態だと思う。形式的な卒業証書なんかよりよっぽど貴重なメモリアルにもなるだろう。
 それから、私有したら、機会を見つけてその著者に実際に話しかけるといい。そして、一か所でいいから、自分が気に入った所、疑問に思った所を具体的に言ってあげる。すると、あなたより何十歳も上の人でもいっぺんに相好を崩してしまうことだろう。礼儀正しい挨拶や年賀状などより、よっぽど嬉しいものだ。そういうことからも、やっぱり知はヒエラルキーではなく水平なネットワークなんだな、とぼくは感じる。
 もう一つの私有方法は、古本を買うことだ。とくに文庫本の中古は、この数十年、ものすごい安さではないか。三冊で百円なんていうのも珍しくない。しかも、そういう所に並んでいる本はよく売れた本が多いから、けっこうオーソドックスな所をおさえることができる。ざっと選んだとしても、新本では見逃していた自分のニーズにマッチした本が、十冊のうち一冊はあるだろうから、それだけでも大儲けだ。
 昔の大学は巷にあった。そして、大学のまわりには安い飲み屋や喫茶店のほかに古本屋がいっぱいあった。しかし、今の大学はそういう環境にはない所が多いので残念に思う。自然環境なんかがよくても学生生活にはあまり関係ない。それよりも、何時間も粘って青臭い議論ができる飲食店や、活字の世界をこころゆくまで渡り歩くことのできる古本屋街こそ必要だ。
 つぎに、本の共有については、何といっても図書館の利用だ。ぼくの知り合いのビジネスマンは、新居を決めるときにその近隣の公共図書館の蔵書数を調べていた。自分の業界に関連した本を数冊読めば一生それで足りる、なんていう昔の考え方では、仕事だっておもしろくない。自分が読みたくなった本をリアルタイムに提供してくれる頼もしい施設が図書館である。その設置と運営のためのお金は、あなたやあなたの保護者が払っているのだから、図書館の本はあなたを含めた人たちの共有物だ。
 図書館のことで、多くの人が知らない大切なことの一つとして、「選書」がある。もちろん、国内のすべての刊行物を購入するのが理想かもしれないが、そんなことはスペース的にも予算的にもできない。どうするかというと、本の専門家である図書館司書が、「いい本」を選び抜いて購入するのである。だから、逆にいうと、一定のテーマについては一定の水準以上の本を揃えている。しかも、基本的には、右から左までのそれぞれの立場の代表的なものを選ぶのである。図書館の選書結果をあまり信じすぎるのも問題だが、参考にはなる。少なくとも「普通の役人が買う本を決めているのかな」とか「よく売れている本を選んでいるのかな」というような誤解はなくしておいたほうがよい。
 それから、図書館にはレファレンスサービスというものがある。これは、「何らかの情報あるいは情報源を求めている利用者に対して行われる、図書館員による人的援助およびそれに直接関わりのある諸業務」である(前掲『情報と文献の探索』)。さきほどの探索トゥールなどを知り抜いた図書館司書が、あなた個人の情報要求に対応してくれるのである。
 レファレンスサービスは図書館の基本的機能の一つである。あなたと、あなたが望む資料とを、図書館が結んでくれるのだ。学校などで一つの宿題が出ると子どもたちの同じ質問が近くの公共図書館にどっと押し寄せるが、司書はそれでもにこやかに対応している。でも、あなたは、できるだけ自分で調べた上で、どうしてもわからないことを焦点化して司書に質問してみてほしい。そのほうがあなたの知的主体性のためにもよいし、司書のレファレンス能力も十分に発揮してもらえるのである。
 また、最近では、図書館ネットワークが一段と強調されるようになってきた。これは、コンピュータや配送車を利用して、どこの図書館に行っても、他の図書館の本の所在を調べたり取り寄せてもらったりすることができるシステムだ。どうしても本がなければ、基本的には、国立国会図書館にまでその所在を調べてもらうことができる(図書館法第3条の4)。
 ところが、あなたの家の近くの図書館が、こういう状態にはなっていない可能性もある。司書がいない館だってある。ぼくも、近くの図書館で、「うちは人員が少ないためレファレンスサービスはやっていません」と言われて驚いたことがある。あなたは、今はまだ、近くの図書館がそのどちらであるかもわかっていないかもしれない。そうであれば、ぜひ、調べてみてほしい。そして、あなたがそこに不備を感じたならば、それなりの蔵書構成、館内サービス、ネットワークサービスなどを要求しておいてほしい。それは、知のネットワーカーの最低限の義務である。その地域での住民のための知的拠り所自体が貧困であるなどということはとても恐ろしいことだと感じることのできるセンスがあなたに求められている。

●(3) 電子化された情報・映像化された情報

 活字のつぎは、電子化された文字情報だ。ここで、パソコン通信の意義について強調しておきたい。
 ある商業ネットの経営者は、「パソコン通信への加入者は、今後の数年は、テレビの当初の普及のような急カーブを描いて増えていくだろう。だが、最終的にはそのカーブのピークはテレビのずっと下のほうになるだろう。なぜならパソコン通信は、大衆が本質的に好む動画ではないからだ」という趣旨の発言をしている。たしかに、「書き言葉文化」には困難が多い。しかし、それをもって単純にパソコン通信の可能性を軽視する考え方には、異を唱えたい。パソコン通信はメディアを「話し言葉」から「書き言葉」の文化媒体へと発展させた。この発展を継承せずに、消極的な理由で動画に逆戻りさせるのでは、いかにも退嬰的である。
 情報の処理・交流能力や読み書きの能力の獲得を、それが困難であるという理由で放棄するわけにはいかない。むしろ、書き言葉文化の困難は、そのまま、今後の情報化社会において人間に必要な情報リテラシー獲得のための、そして人間が知の主体として生きていくための、乗り越えなければならない知的試練としてとらえるべきである。学生の知的主体性による書き言葉文化の盛り上りを期待する次第だ。
 パソコン通信によるコミュニケーションの特徴を表す言葉として、ぼくはMAZE(迷路)というキーワードをつくっている。このMAZEの中で、各自は、最初は気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している。「教師なし」で、予期せぬ解答を見いだすのである。パソコン通信は、今、求めている情報を「能率良く」獲得するためには不都合に見えても、「創造的学習」にとっては有効なツール(道具)なのである。
 パソコン通信におけるメンバー間の関係は「水平」である。近代的な制度化された知のヒエラルキーは存在しない(個別の知への信頼は、個別に存在する)。このようなネットワークシステムの中で、新しい知的生産の可能性が生まれつつある。
 情報は、もともとMAZEだ。誰かがあなたのためにきちんと整理された情報を持ってきてくれるわけではない。たとえそんな整えられた情報があるとしても、それは、えてして古くさい役立たずの情報である。そして、情報は、GIVE(発信)するからこそTAKE(受信)できる。ネットワークの精神そのものである。情報のネットワークはあなたに主体性を求めている。
 しかし、映像情報のほうも、これからの若い世代は研究のための有効活用ができるようになるかもしれない。ビデオテープの利用なら手慣れたものであろうし、さらに、レーザーディスクをコンピュータと組み合わせて、必要な場面にリアルタイムにアクセスできるようにする(インタラクティブ・ビデオ)などということも考えられる。
 社会学研究の観点からの映像資料の課題としては、第1に、消え去っていくものを早急に記録することと、つくられた映像記録をその場限りのものとしないことである。社会学的に関心のある社会事象も、その場限りで消え去っていく。映像の場合、記録するのはその時しかない。また、放送などによる映像も、放映後では、放送局でさえきちんと保管していないことが多い。
 第2に、映像のもつ特性に応じた整理をすることである。主要な画面の指定をどのように行うか。複数の映像をどのような共通フォーマットで総合的に把握するか。映像の画像は見る側の視点によって意味が異なる総合的な情報であって、しかもその画像が時間の流れを伴っているので、これらの問題は単純ではない。
 第3には、映像には複雑な著作権がからむので、それにきちんと対応するということである。映像は、映画製作者の権利だけではなく、言語、実演、音楽、写真、絵画、図形、他の映画、コンピュータプログラムなどに関わる多くの著作権を発生させうる。ところが、実際には、映画製作者名のクレジットさえ画面に出てこない放送番組なども多く、対処に困ることがある。

●(4) 情報とストロークの発信

 本節の最後に、社会学の情報、しかも、あなたがもっともほしい情報を得るためにはどうすればよいか、私見を述べたい。それは、know-what よりもknow-howを、そして、know-howよりも、know-whoをということである。
 公式やデータを暗記するようなことは、高等教育(大学)になったらもうほとんどないと思ったほうがよい。それよりも、真実をどうとらえるかについて、さまざまな情報と接することによってあなた自身の目を養わなければならない。それが、know-howだ。さらに、そこでつまずくこともある。そのとき、頼りになるのは他人の意見、批判、アイデアだ。どの人がどういうことを言ってくれるか。その他人とのコミュニケーションの力を含めて、know-whoだ。レポートなどでは、まだ世の中では書かれていない情報をこそ得たいと思うだろうから、そういうときはknow-whoが最後の武器になる。
 このknow-whoの能力は、ネットワーク社会でもっとも求められるものでありながら、現代学生がかなり不得意としているところなのではないか。know-whoには、知的主体性を含めた人間としての全面的な主体性が必要とされるのだ。自らも情報を発信しなければならないし、それ以前に、ストロークを相手に与えられなければ人間関係もつくることができない。
 ストロークとは、「交流分析」(TA=transactional analysis)の言葉である。相手をほめる言葉や、スキンシップ、まなざし、うなずき、傾聴などによって、相手の存在や価値を認めるようなすべての働きかけをストロークと呼ぶ。ストロークには法則がある。それは、「貧しい者はさらに貧しくなり、富める者はますます富をます」という法則である。あいさつをしようと思っても、もしかするとそっぽを向かれて自分のほうが傷つくかもしれないことを恐れて他者にストロークを与えない人には、いつまでも愛が貯まらない。その上、自分が人間交流から疎外されていることを周りのせいにして恨んだり、自分や他人を信頼できないままに人生を過ごしていったりすることになる。
 しかし、ここに一つの明るい展望がある。すべての人間が、心の底ではあくまでもストロークを求め続ける存在であるということである。この願望は、その人にとっては、そのときはつらく作用することもあるだろうが、その問題の自己解決のためには、内なる確かなエネルギー源になる。そもそも、情報発信、ストロークなど、心底からしたくないという根っからの精神的ケチなどはいないのではないか。
 問題は、情報やストロークの出し方を知らないだけ、受容された経験がないだけなのではないか。そういういわば「コミュニケーション技術の学習」は、残念ながらあまり経験がなかった。情報を一方的に与えられること、それを型に当てはめて処理することはあっても、自分から自分らしい情報を発信する技術の学習は、あまりしてこなかったのである。そうならば、これからそういう経験をすればよい。ただし、ヒエラルキーの中での役割遂行としての情報発信やストロークだけでは、主体的な活動にはならない。各人が水平なネットワークの中で、自己と他者への基本的信頼に基づいて、あるがままに自己を発信すること、そしてそれが他者から受容される経験をもつことが、情報発信能力や主体性を獲得する手段なのである。
 このような情報やストロークの発信ができるようになれば、know-whoがあなたの身につき、know-howやknow-what もそれにしたがって豊かなものになってくるだろう。しかし、繰り返すが、それは待ち望んでいるだけではやってこない。情報ネットワークは、あなた自身の主体性の発揮をきびしく要請するのである。

第2部・注−
(1) 西村美東士「団体・グループの仲間づくりの演出」「ロール・プレイングの活用」、福留強・平野仁・生涯学遊研究会編『生涯学遊ネットワーク−学校・地域・サークル行事の企画と展開−』日常出版、一九八九年一〇月
(2) 西村美東士「授業の楽しみ方−自明性にちょっとまった−」、川崎賢一・藤村正之編『社会学の宇宙』恒星社厚生閣、一九九二年一一月
(3) 西村美東士「新しい情報収集へのステップ−ネットワーク型のすすめ−」、前掲『社会学の宇宙』

●第3部 主体的学習へのいざない方





●1 学習相談がめざすもの




 人びとの主体的な学習を援助する姿勢としては、上から説教しようとするのではなく、たとえば学習情報を提供するなどの側面的援助者としての精神が求められる。現在では、社会教育や生涯学習に関わる行政も、そういうサービスマインドを持とうと努力しているところである。
 しかし、教育とは、教育者または学習援助者が、何らかの関わりをもつことによって他人の主体性の獲得を援助しようという「大それた」行為である。無色透明で無機質の学習情報提供(本当はそうでもないが)だけで事足りるものではない。情報提供の枠を越えて相手の主体性獲得を援助するなどという大それた行為が、いかにしたら相手から許され、しかも、効果を発揮するのか。この難問を解き明かす糸口として、『現代生涯学習推進実務選書』(ぎょうせい)に寄せた拙論●(1) をもとに、「学習相談」について考えてみたい。

●(1) 学習相談は、従来の日常的相談でも、現在の学習情報提供でもない

●(1)−1 従来の日常的相談の焼き直しではない
 生涯学習の援助者にとっては、学習相談よりも学習情報の収集・整理のほうが地味で根気のいる作業である。せっかく集めた情報も有効なものばかりとはかぎらないし、何らかの事情であまり勧めたくない学習情報でも、提供はしなければならない。また、情報提供をきっかけとして、学習者がすばらしい成長を得たとしても、援助者側がその成果を見届けることはあまりできない。このようなことから、人間交流や社会教育の暖かさ、楽しさを知っているベテランの社会教育主事などの職員ほど、学習情報提供の仕事をいやがる傾向が強い。ベテランとしてのプライドが傷つけられるような感じがするのだろう。
 ところが、学習相談なら、ベテランの職員としては、自分の頭の中にある豊かな情報を有効に活用することができるし、有益であると確信できる情報だけを提供すればよいし、そういう相談を日常的、継続的に行うとすれば、その成果も見届けることができる、などと思っているから受け入れやすい。学習情報のシステム化には消極的であっても、学習相談については、「やりましょう」とか、「そんなことなら、今までも日常的にやっていますよ」とかの答えが返ってくることが多いのは、そういう理由からであろう。
 しかし、いま新しく生涯学習の援助者に求められている相談は、従来から日常的に行われてきたそれらの相談とは別のものなのである。もちろん、社会教育が築き上げた遺産のうちには継承すべき点も多々あるのだが、そういうものとは別に、社会教育を革新するインパクトとして新しい学習相談が生まれているのである。
 憲法学者の松下圭一が、「国民主権の主体である成人市民が、国民主権による『信託』をうけているにすぎない道具としての政府ないし行政によって、なぜ『オシエ・ソダテ』られなければならないのか」●(2) として、その著『社会教育の終焉』で社会教育行政の存在に異議を唱えたのは一九八六年のことである。この書は、社会教育行政の安上がり化などのマイナスの影響も与えたが、並行してプラスの影響も大いに与えてくれた。社会教育行政がいつのまにか、しかし、歴史的に身につけてきた啓発主義的な姿勢を、社会教育行政みずからが改めるいくつかのきっかけのひとつになったのである。人間をマス(集団)としてしか扱わず、そのマスに「啓発」を振りまくような社会教育ならば、たしかに「終焉」を迎えたほうがよい。
 しかし、じつは、松下の指摘よりずっと前から、個人学習援助の重視が提唱され(昭和四六年社会教育審議会答申)、また、松下の指摘と前後して、先進地では学習情報提供事業が誕生していた。学習情報提供事業は、学習のチャンスを学習者みずからが選択する幅をより広くするために、そして、松下のいう「国民主権の主体である成人市民」としての自発性を損なうことなく学習の主体性をよりいっそう深めるために、おもに個人に対して、「オシエ」るのではなくサービスする姿勢で行われるものである。今日の学習相談も、そういう社会教育の革新の中で意義が認知され始めたものであって、過去の社会教育を単純に延長したものではありえない。(もちろん、過去の蓄積から学ぶべき点も多いのだが、その論及は本論の趣旨ではない。それについては、拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』を参照されたい)。●(3)

●(1)−2 学習情報提供と同じではない
 一方、学習相談を学習情報提供と実質的には変わりないものであるかのように扱う傾向も見られる。しかし、それは、今日、社会教育事業全体の中で固まりつつある学習情報提供の評価に、ただ迎合しているだけの結果のようにぼくには思える。たとえば、とにかく相談員をおいて求められた情報を提供すればよい、といったような無批判的、非主体的、消極的な姿勢の「学習相談」も見られるのである。
 このように、学習情報センターに訪ねてきたり電話をかけてきたりした人に学習情報を提供することそのものをもって学習相談とよぶならば、学習情報提供のうちでも個人に対するものは、すべて学習相談であるということになってしまう。そんな程度の認識で学習相談を行うならば、しばらくすれば、利用効率が悪いなどの理由から、せっかくの相談員の人員も財政当局から削減されたりするのがオチであろう。
 学習情報提供と学習相談とはともに社会教育や生涯教育の革新の姿として現代的意義をもつものであるが、そのふたつの意義はむしろ両極に分かれて対峙しているのだと思う。学習情報提供が第一の革新だとすれば、その不備を衝いて第二の革新をめざしているのが学習相談なのである。学習情報提供の革新が、個人の主体性の発揮への援助だとすれば、学習相談が提起する第二の革新とは、個人の主体性の獲得への援助である●(図3−1)。学習情報提供のほうに振れた振子が学習相談によって揺り戻しを受けているのだが、それは在来型の社会教育に戻ったのではなく、学習情報提供が提起した課題を学習相談によって昇華させて、一段階高次なレベルに発展させたものととらえるべきである。その発展は螺旋状のものであり、新しい学習相談は、「相談業務なら今まで公民館などでふだんやってきている」というときの相談とは内実がまったく別のものである。
 本論のもっとも重要な問題意識は、ここにある。「やっていることは学習情報提供であっても、相談員を介しさえすれば、それは学習相談だ」あるいは「日常業務のうちの相談的なものに学習相談の名称をかぶせればよい」といった安易な認識が流布しているようにぼくは思えてしかたがない。学習情報提供と学習相談とは、あるいは、今までの相談と新しい学習相談とは、どこが一致していて、どこが違うかを、あいまいにしてしまうそのような思考方法は、学習者主体の学習援助形態としての学習相談がもつ深い意味を見過ごす結果になるばかりでなく、学習情報提供によってせっかく確立されようとしている学習者主体の学習を尊重する思想まで軽視して、過去の援助形態に後戻りさせることにもなる恐れがある。

●(2) 学習相談とは何か
●(2)−1 学習相談の定義
 それでは、私たちは、学習相談というものをどう定義づければよいのだろうか。その定義は、すでに述べたように、学習情報提供が指し示す新しい生涯学習の理念を発展的に継承するものでなくてはならないだろう。すなわち、個人の学習への学習者主体の考え方にもとづいたサービスという意味では「継承」であり、個人の主体性への理念としての尊重(学習情報提供)から、個人の主体性の獲得への実質的な援助(学習相談)へ、という意味では「発展」である。そこで、ぼくは、学習相談を次のように定義したい。
 「学習相談とは、個人(または援助者)の求めに応じ、学習環境等の客観的条件や、精神的・身体的な問題等の主体的条件などの、その個人特有のそれぞれの条件にもとづいて情報提供、助言、対話等を行うことにより、学習情報の収集・選択や学習の意欲・能力の獲得などを支援する教育(学習援助)サービスである」。
 しかし、この定義を採用するとしても、「学習相談」の名のもとに現実にはいくつかの事業がすでに行われている。そのサービス内容は、次の3つに分類できるようである。
@ 学習情報の提供が中心になるもの。すなわち、学習者(または援助者)が学習機会、施設、団体、人材(指導者)、教材(学習材)などを効果的に選択できるよう、おもに学習情報の提供を行うもの。
A 目標設定から学習評価までを一貫して学習者側と相互的に行うもの。
B 心理的な学習阻害要因の克服をおもな目的として治療的に行うもの。
 ここで、Aについては、アメリカの「学習契約」などの事例があり●(4) 、わが国でもいくつかの市町村で「学習メニュー方式」などの実践の中にその萌芽が見いだされる。また、Bについては、たとえば「埼玉県県民活動総合センター」では、県民活動相談事業のために、カウンセリングの研鑽と実践の経験を長年積み重ねてきた専任相談員を配置して、心理的な相談にも対応している。●(5) そこでは、実際、地域団体の役員などから、神経症的な問題の相談をいくつか受けている。団体役員の中には、まじめでぎりぎりまで頑張ってしまう性格だからこそ、リーダーにも推され、断りきれなくて就任した人も多い。そういう人たちが、グループ内の人間関係やリーダーとしての悩みとともにそれらと分けることのできない自分の個人的な悩みによって、神経症状を引き起こしているのである。地域の生涯学習のリーダーとして活躍しているこのような個人に、心理的な援助の手をさしのべることの意義は大きい。
 これらの事例からわかるように、AもBも深い現代的意義をもつものではあるが、われわれがもっとも問題にしなければいけないものは、@の「学習情報の提供を中心とするサービス」だといえるのではないか。なぜなら、学習情報提供の必要性が関係者の認識するところになり、それとともに@の学習相談の事業が全国で展開されようとしている現状がありながら、その現状の中に、過去の集団的・啓発主義的な学習援助からの意識変革をともなわずにその事業が行われようとしている危険な状況が見受けられるからである。
 たとえば、学習相談の名のもとに行政機関の関連事業だけを紹介・宣伝する、従来から関連行政が依頼していた講師陣をリスト化するだけでそれを指導者バンクと称する、そのバンクも実際には行政関係者の企画・立案のためにしか利用されない、そのことによってそれぞれの行政セクションによる企画・立案がかえって創意と独自性に欠けるものになるなど、枚挙に暇がないほど数多くの生涯学習の理念以前の前近代的行為も行われているのである。学習情報提供と学習相談の同一視なども、同様な問題のひとつであろう。そこで、ここでは、学習相談の「多数派」として一般化する一方でこのように多くの問題を抱えている@に絞って議論を進めたい。もちろん、@のあり方を考えるためには、AやBが私たちに投げかけている問題提起も真摯に受けとめ、活かさなければならないことはいうまでもない。

●(2)−2 学習相談の特徴
 学習相談に関する先述の定義は、学習相談の特徴を次のように想定していることにもとづいている。
 1つは、「個別性」である。学習者の個別な条件の差異によって対応が変化する。広報においては、マス(集団)に対して均一の情報を提供しようとするし、学習情報提供においては、個人が求める情報を誰でも個人の必要に応じて同じ情報源から平等に自由に選択できるようにしようとする。これに対して、学習相談では、相談員が個々の学習者のニーズやその他の状況を勘案した上で、対応の仕方を逐一、判断する。
 2つは、「双方向性(プロセス重視)」である。対話などの双方向の交流をともなう。相談の「相」は「互いに」「ともに」という意味である。それは、いいかえれば、学習者の意思決定のための相談員からのアドバイスにとどまらず、学習者の意思決定や問題解決のプロセスの中に相談員が飛び込んでいって双方向の「つきあい」をするということである。
 3つは、「援助性」である。学習相談は、生涯学習の援助活動の一環として行われる。直接、個人の生涯学習を援助することを目的とするものであり、援助者側の行う事業や保有施設を宣伝するなどして生涯学習全体の推進を図るものではない。また、その行為はあくまでも個人の生涯学習の援助であるから、他の行政目的などから生ずる目標への誘導や指導を紛れ込ませることは許されない。
 4つは、「教育性」である。一般行政の相談が行政、法律、医学などの特定事項の専門性にもとづいて行われるのに対して、学習相談は教育的専門性にもとづいて行われる。この場合、教育的専門性のはっきりした規定は困難だが、少なくとも先述の松下のいう「オシエ・ソダテ」ることとは意味が異なる。たとえば「その場合はこうですよ」と「教える」ような場面は、むしろ一般行政の相談に頻発するのであって、学習相談においては、「こういうこともありますが」とニーズに的確に応える情報を提示しつつ、情報の選択は学習者の主体的判断に任せることになるだろう。それは、学習者の学習主体としての成長を第一義に考える教育的観点があるからである。
 また、同じ社会教育の専門職である図書館司書が行うレファレンスサービスとも異なる。レファレンスサービスでは、直接の答えを教えることよりも、「人と本をむすぶ」という観点から情報源としての図書資料の所在を伝えることを大切にする。その態度は、学習相談においても学ぶべきだが、しかし、学習相談ではそういう情報源の紹介さえもかならずしも必要とはかぎらない。極端な例だが、学習者がグチをいい続け、そんなことに対して直接役に立つ学習情報など思いつかないだろうから、相談員はそのグチを聞くだけに終わったとする。それは、レファレンスサービスとしては成り立たなくても、学習相談としてなら成り立つのだと考えられる。なぜなら、学習者が悩みを言葉にして表現することは、学習者自身の気づきや成長につながる大きな可能性を秘めているからである。このような立場も人間の可塑性を信じる教育的観点からのものである。
 5つは、「自由性」である。「求めに応じて行う」ということである。相談を望まない人にまで相談を呼びかける必要はない。本人が自分で「相談したい」と思うようになるまで待たなければならない。逆に、相談に訪れてくれた人に対しては、「相談に来た」という行為自体をその人の主体性の表れとしてとらえて最大限の敬意を払うべきである。「相談する」ということも、情報収集のための主体的な行動、すなわち生涯学習活動のひとつなのである。
 なお、「自由性」は「教育性」に矛盾するという反論もあるかもしれない。しかし、その反論は古い教育観に立脚しているのだと思う。実際、教育サービスを自ら進んで受けようとする人は今や世の中にたくさんいるのだ。その反面、むしろ大学生などの「学習専業者」の中に、「教育というものは必然的に強制をともなうものだ」と思い込んでいる人がたくさんいる。子どもの教育についてそう思っているだけではなく、みずからも「授業への出席をもっと厳しくとってくれないと、ついさぼってしまう」とぼくに訴える学生さえいる。さぼるならさぼってもよいのだから、他人のせいにしないで、もっと自信をもってさぼってもらいたいものだ。大学生になったのにまだ主体的な学習態度を身につけられず、「自由から逃走」しようとするそういう学生の姿を見ると、この問題の根は深いと思わざるをえない。
 話をもとに戻すが、相談員のほうも、「こういうときにはこう答える」という制約をほとんど受けない。ひとつのケースに対しても相談員によってさまざまな対応がありうるが、それは個性的であってよい(「こう答えてはいけない」という制約は、相談員の内発的動機からなら無数にあるだろうが)。このことは完璧なマニュアルはありえないということでもあり、それをいやがる相談員もいるかもしれないが、そういう人は相談員には向いていない。相談員とは、学習者の主体性の獲得を援助する活動の中で、自分もみずから育とうとする人たちなのである。
 これについても、教育に確実性や普遍性を求める人からの反論があるかもしれない。しかし、「教育職という立場上、自分はつねに正しい言動だけをしなければならない」という思い込みの強い人は、そもそも教育職には一番向いていない人なのだとぼくは思う。自分自身をつねに変えていき学習者とともに成長できる人こそ、望ましい教育職員像なのではないか。教育は、他人の学習を強制によって完全にコントロールしたり、完全無欠の指導を行ったりすべきであるということなど、どこにも書いていないし、そもそも、やろうと思ってもできることではないのだ。
 再び話を戻して、学習相談の特徴をまとめるならば、「学習者の意志にもとづき、個々のケースに応じて、学習者の意思決定のプロセスに双方向的かつ教育的に関わりつつ行われる」ということになる。この「特徴」は先述の「定義」とも軌を一にするものである。

●(3) コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性
●(3)−1 コンピュータの効果的活用
 先述の@の学習相談においては、適切な学習情報を提供することがもっとも重要であるから、それをいかに効果的に検索するかということがひとつのポイントになる。そのため、コンピュータによる学習情報データベースの活用を考えなくてはならない。なぜなら、データベースは、大量のデータを記憶してそれを必要に応じて必要なものだけ引き出す、という優れた機能をもっているからである。
 そしてコンピュータをうまく扱うことのできない学習者、たとえばメカニックなものに恐怖感を抱いている高齢者などには、相談員がコンピュータ操作の手伝いをする必要がある。これも、学習相談による個人の主体性(ここではコンピュータ・リテラシー)の獲得への援助のひとつということができる。
 もっとも、市民の中には、コンピュータ操作の研修を少しばかり受けた職員などよりよっぽど操作に慣れている人もたくさんいるのだから、なにがなんでも相談員を介さなければならない、というのも本末顛倒の話である。たとえば、子どもや青年たちの中には、キーボードアレルギーどころか、キーを見ればとにかく押してしまうような能動的な人も多い。そういう人には端末機に自由にさわってもらえばよい。いちいち担当者の手をわずらわせることなく、気軽に心ゆくまで求める情報を検索できるというメリットは、コンピュータの魅力のひとつなのである。
 「プライバシー侵害などの問題が起こるから」などの理由であくまでも職員だけが端末を操作するという所もあるが、それは「依らしむべし、知らしむべからず」という態度であるといわざるをえない。一定の項目を表示しないようにすること(マスキング)など、コンピュータなら簡単に設定できるのだから、そういう工夫によってシステムをなるべくオープンなものにすることは援助者側の義務である。こうした努力をせずに、情報提供システムを行政の側に一律に囲い込んでおいて、しかもそれに「相談員を介しているから」という理由で「学習相談」という名称をかぶせることなどは、行政の怠慢としかいいようがない。
 市民に開かれた情報システムの運営の事例として、「横浜女性フォーラム」を挙げたい。この館の正面玄関を入ったところに「情報ライブラリ」がある。そこには、「しごと」「くらし」「なかま」などのデータベースにアクセスできる「フォーラメディア」が設置されている。●(6) 近くの子どもたちも喜んでさわりにくるのだが、それを婦人問題に関する利用ではないから目的外利用だと批判する声に対して、館長は、「男女平等に関する情報にたまたま接する機会になるかもしれないし、そもそも、将来の社会を担う子どもたちがコンピュータに触れるということ自体が意味のあることです」と言っている。
 学習情報提供にも学習相談にも、そのぐらい柔軟で積極的な発想が求められる。教育側が予想したとおりに突き進む教育コースにそのまま乗りたいと思う人など、いまやどこにもいないだろう。教育側には、「偶発的学習(インシデンタル・ラーニング)」を待つ、歓迎する、あるいは仕掛ける姿勢こそ求められているのである。相談員も、すべての人のすべての学習の面倒を見よう、というようなよけいな気負いは捨てたほうがよい。そんなことはできるものではない。教育側が不要な構えを捨てたとき、MAZE(迷路)●(7) のような個人の成長に対応してコンピュータの柔軟性をうまく発揮することができるのである。
 さらに、コンピュータ活用は相談の第一義の目的ではないという、もうひとつのあたりまえのことを忘れないようにする必要がある。行政の中でシステムが運用されているあいだに、そのことが意外に忘れ去られ、コンピュータシステムだけが一人歩きをしてしまいがちなのである。NTTの電話番号案内は、コンピュータ検索だからこそ速くて便利なのだが、一方、活字媒体である電話帳も、一覧性をもっているので、望む情報を手に入れるためのメリットが別の意味で大きい。情報が並んで提示されているから、他の周辺情報などに気づくことができるのである。データベースはかなり大きくなければコンピュータ活用のメリットは出てこないのだから、比較するデータが少ない場合は、冊子(レファレンスブック)からのほうがスムーズであるし、付加価値も期待できる。

●(3)−2 コンピュータ利用の成熟化と人間の介在の意味
 コンピュータやニューメディアの利用は、今や成熟しつつあるといえる。成長時代の人たちがブランドやハイテクなどの「モノ」をステータスシンボルとして扱ったのとは対照的に、成熟時代の人たちは、モノをそのように溺愛したりしないで、自分で実際に試してみて、よいものだと思ったら、その人なりにそれを使いこなしていく。
 たとえば、パソコン通信についていえば、それは、パソコン、周辺機器、通信機器などのハイテクを駆使したモノから成り立っており、それらのモノの集まりが、多量の情報を高速にやりとりするパソコン通信の物質的基盤になっている。しかし、パソコンネットワーカーたちにとって、そんな素晴らしさは「あたりまえ」のことであり、主要な関心ごとではない。事実、パソコン通信をやっている人の多くは、「トランスペアレンシー」(透明感)を大切にする。さまざまな機器の助けを借りていることを忘れてしまうこと、つまり機器が「透明」になることを評価するのである。これはパソコンの成熟した利用形態といえる。
 機器が「透明」になるということは、優れていてあたりまえのメディアと情報技術(技術者の方々には恐縮な表現だが)を価値判断から捨象するということである。そうすると何が残るか。コミュニケーションの中身であり、自己と他者の存在そのものである。メディア機器が「透明」になればなるほど、自分と他人の中身がはっきりと向き合う。そこでは、より豊かな人間存在と人間関係の追求そのものが最高の価値として認められるのである。
 これは生涯学習全般についても同じことがいえる。そこでは、自己の人間存在そのものに一番大きな関心が払われる。たとえば、コンピュータ学習についても、機器の操作技術を身につけたかどうかよりも、学習によって自分の考え方の枠組(認知構造)がどう変わったか、今後どう変えることができるか、ということこそが主要な関心ごとになるはずである。コンピュータを使って学習情報をうまく引き出せない学習者への援助も学習相談の機能である、と先に述べたが、学習相談の意義はけっしてその程度で留まるものではない。学習者の人間存在そのものの表れ、すなわち存在証明としての生涯学習を、相談員といういわば他人の介在を通してどのように援助するのか、ということこそが、学習相談の本質的な課題なのである。
 コンピュータそれ自体はたんなる道具、たんなるハコにすぎない。人間以外のものは、たとえ人間存在のための優れた手段にはなりえても、けっして人間存在に関する主体にはなりえない。学習相談においての本来の学習主体は学習者であり、本来の援助主体は相談員なのである●(図3−2)。
 ぼくは、このような「本来の援助主体としての相談員」を「学習情報ワーカー」として位置づけたい。ここで「ワーカー」という言葉は、ケースワーカーのように当事者(学習者)のケースに個々に対応する仕事と、ネットワーカーのように情報や人びとをつなげる仕事の、ふたつの仕事(ワーク)が遂行されることへの期待を意味している。「相談員」という言葉があまりにも意味中立的なために「与えられた職務だから役割を遂行する」という冷淡なニュアンスを与えかねないことに比べて、「学習情報ワーカー」という言葉は期待の込められたきわめて意味的な言葉であるといえる。
 ワーカーはネットワーク的な援助を行うことになる。ネットワークとは、自発的意思にもとづく水平なギブ・アンド・テイクの交流であり、そのためには互いが異質の価値(自立的価値)をもっていることが条件になる。また、ぼくは、ネットワークを「自立と依存の統一」としてもとらえている。●(8)
 しかし、情報や人間をつなぐために人間が介在することが必要だとしても、人間によるその援助が、なぜ、どのように、ネットワーク的でなければならないかということについては、もっと深い議論が必要だと思われる。どのように水平なのか、どのように異なった価値をもっているのか、あるいは、どのように学習者がワーカーにギブしろというのか、ワーカーの側まで何をテイクしようというのか、などの異議や疑問が考えられるのである。そこで、ここからは、カウンセリングマインドという切り口から、人間存在への援助としての学習相談の内実にいっそう深く踏み込んで述べることによって、それらの問題について考えてみたい。

●(4) 生涯学習の主体としての自立への援助
●(4)−1 求められるカウンセリングマインド
 ここでは前述のとおり@の学習相談を考える。Bならば、カウンセリングマインドの発揮どころかカウンセリングそのものとして行われなければならないのは自明のことであるが、ここで提唱したいのは、@の学習相談であってもカウンセリングマインドが必要であるということである。これは、学習相談がたんなる学習情報提供にはとどまらないためのもっとも大切な要素になるだろう。また、コンピュータ自体はカウンセリングマインドをもちえないのであるから、ワーカーの存在意義を示すものでもある。
 ちなみに、学習相談を学習カウンセリングと称するケースを見かけることがある。これはBであるのならその名称は実体をよく表すものということができるが、@のような場合には問題があると思う。臨床心理におけるカウンセリングの現代的意義を認めるならば、むしろ、@のような場合に「カウンセリング」という言葉を使うことははばかられて当然であろう。その場合は、学習者の意思決定や問題解決のプロセスにていねいにつきあうという意味から、「学習コンサルティング」ぐらいの表現が妥当だと思われる。ここで主張したいのは、学習相談をカウンセリングではなくコンサルティングと呼んだとしても、そこには情報提供だけではなくカウンセリングマインドの発揮が求められているということである。
 なぜ、学習情報提供のサービスだけでは不足して学習相談が必要になってきたのか。それは、急激に変化する現代社会の中で、生涯学習を行うための主体性そのものを人びとが失いつつあるからである。では、なぜ、カウンセリングマインドにもとづく対応が、学習情報提供だけではできなかった主体性の獲得そのものへの援助になるかというと、それは、カウンセリングが学習者の自己への「気づき」を促す側面をもっているからである。あとに述べるように、自分のすべてが受容される雰囲気のもとで学習に関する自分の期待などについてしゃべることは、学習者自身が今まで気づかなかった自分に気づくことにもつながるし、そういう自分をオープンにしても受容されるのだ、という安心や自信にもつながる。情報の羅列を外から与えられるだけでは、都合のよい情報だけ選択して自分の今の枠組をさらに強化することはできても、自分のもっている劣等感や敗北感などの不幸な思い込みの枠組自体を変えていくことはできないのである。
 生涯学習の理念が自発的意思にもとづいてみずから選んだ手段・方法で行うことであっても、本人が自分自身を見つめていないとしたら、その「自発的意思」も生まれようがなく、したがってその理念の実現は望めない。しかし、そのように自分の深みまで知るということ、すなわち自己洞察は、じつはだれにとっても容易なことではない。つまり、「自分に気づく」ということは、生涯学習を行うために不可欠の課題でありながら、それを完全に実現することは困難な課題なのである。
 それらの自分への「気づき」の中でも、学習相談においてもっとも決定的なことは、生涯学習を行う自己の主体性の欠損への気づきだと、ぼくは思う。たとえば、「他人の期待に沿うために」とか「勤勉でなければならない」とかいったような不合理な思い込みが、生涯学習の自発的意思を内からねじ曲げる結果になっている。不合理な思い込みから解放されるためには、まず、そういう思い込みをしている自分の現在と過去に気づかなければならない。問題の本当の所在さえ明らかになれば、あとはそれを自分で解決する能力を人間はもっている。
 このような「自己解決能力」への信頼も、カウンセリングマインドにもとづくものである。明治以来の教育が一定の教育水準まで集団全体をしゃにむに押し上げていこうとするプッシュ型だったことに対して、これからの教育は一人ひとりの個性や関心を引き出そうとするプル型に転換されなければならないということが生涯学習の議論の中で言われている。カウンセリングマインドにもとづく学習相談は、まさにこのようなプル型の教育作用といえるのである。

●(4)−2 共感・傾聴・ストローク、そしてエンカウンター
 カウンセリングマインドの基本の1つめは、「共感的理解」である。
 共感は、同感や同情とは違う。共感的理解とは、自分の枠組ではなく、相手の枠組にもとづいて相手を理解することである。一人ひとりの枠組(フレーム・オブ・レファレンス)がすべて違うのだから、ワーカーはそのいずれの枠組をも理解し対応できるように努めなければならない。共感的理解を示すワーカーが対応することによって、学習者は安心してしゃべることができる。共感的理解こそが、ワーカーと相談者との心のふれあいのあり方なのである。●(9)
 共感的理解のために大切なことは、傾聴である。傾聴とは心を傾けて相談者の話を聴くことである。「早く本題に入って、どんな情報がほしいか言ってほしい」などの態度がワーカー側にちらつくと、相談者は安心してしゃべれなくなる。じつは、カウンセリングマインドにもとづいた学習相談の本旨は、学習情報の検索の代行などではなく、学習者が生涯学習に関するみずからの動機や希望、阻害要因などに気づくよう援助することなのである。また、毒にも薬にもならない無駄口が相談者に目立つ場合には、ワーカーがその人の発言を抑止することもあるかもしれないが、その時でさえも、無駄口をたたかざるをえない相談者の気持ちを察するように努めなければならない。このように、ワーカーには、相手の話を傾聴する自己の役割への自覚が強く求められる。
 傾聴のための技法としては、受容、繰り返し、明確化、支持、質問などが挙げられる。●(10)
 「受容」とは、相手を共感的に理解し、あいづちやうなずきなどによって、その共感を相手に示すことである。「こうすれば」「ああすれば」などの診断的な言葉をなるべく言わないようにして、まずは、相手の話に関心をもって耳を傾けなければならない。相談者の話も終わらないうちから、「ああ、それならこういう講座が開かれていますよ」などと言うのでは、ワーカーとしては失格である。
 「繰り返し」とは、相手の話をよく聴いた上で、「こういうことですね」と確認することである。繰り返しが的確であれば、相手からの信頼も得ることができる。その場合、的確であるということは、最後の結論だけを繰り返すことを意味しているのではない。たとえば、相手が、職場で英会話の勉強が必要になった経緯をしばらくしゃべったとしたら、「英会話の教室を探しているのですね」ではなく、「仕事の上で必要だから英会話を習いたいということなんですね」と繰り返さなくてはならない。このように「仕事の上で必要なのかどうか」を確認することはとても大切なことである。なぜなら、それを確認しておけば、もし仕事のほかにも英会話を活かそうとする期待が本人にあった場合、本人もあらたにそれに気づくことができるかもしれないし、ワーカーもその人のより深い本音を知ることができるからである。
 「明確化」とは、相手が遠慮などによってまだ言葉には出していない気持ちまで、ワーカーが言葉にして相手に示してみることである。そのためには、ワーカーは人間に関して敏感でなければならない。たとえば、「ここの学習相談は、あくまでも学習に関する相談を受け付けているんですよね」と聞かれたら、「はい、そうです」で終わらせてしまうのではなく、「そうですが、何かほかのことでご相談なさりたいことがおありならおっしゃってください」と対応する。相手は本当はそれを聞きたいのに、遠慮している恐れがあるからである。そういう積極的な傾聴によって、いろいろな相談を埋もれさせずに、その学習的側面を引き出したり、他の相談機関を紹介したりすることもできるのである。
 「支持」とは、相談者の言葉に賛意を感じたら、「それは当然ですよね」などと支持する言葉を口に出すことである。形だけの肯定ではなく、二人が心から共有できる空間を作り出すように努める。たとえば、通信教育の勉強の途中で挫折した人が相談に来たら、「もっと頑張って」ではなく、「一人だけで勉強するのは、とても大変だったでしょうねえ」と応ずる。そのことによって、相談者はほっとできるし、通信教育に復帰したり集合学習に転換したりする気持ちにもなるのである。
 「質問」は、情報提供のためのたんなる下調べや情報収集のためだけのものではなく、傾聴のための技法としても重要である。よい質問は、相手への関心を示し、より深い共感的理解にもつながる。その場合、取り調べではないのだから、イエス・ノーでは答えられない質問が望ましい。そのことによって、結論だけではなくプロセスが浮かび上がるし、より正確に相手を理解することができる。たとえば、「公民館ではなく、民間の教室を希望されているのですか」という質問なら「はい」という答えだけで終わってしまう場合でも、「公民館でもそういう講座が開かれているのですが、それについてはどのように思われますか」と質問すれば、相談者の学習に関するニーズがより積極的に明らかにできるのである。
 カウンセリングマインドの基本の2つめとして、「ストローク」を挙げたい。
 人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。「交流分析」ではこのような行為をストロークとよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。
 しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとる。このように、ストロークを出す本人にとって、その発信はリスク(危険)のかたまりなのである。
 一方、最近の生涯学習の学習内容の傾向のひとつとして、こころへの関心が指摘できる。生涯学習に向かう要因としても、それを阻害する要因としても、こころの問題は大きい。豊かなこころは、豊かな対人関係、つまりは豊かなストロークに支えられる。そういう意味から、学習情報ワーカーはストロークの達人であってほしい。そのことによって、生涯学習に向かおうとする学習者にエールを送ることができる。
 また、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークを得るためには、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。その意味では、ワーカーは相談業務の中で、相手のストローク発信を励ますとともに、みずからのストロークの発信能力を豊かにすることが必要である。
 カウンセリングマインドの基本の3つめとして、「エンカウンター」を挙げたい。
 日常の対人関係にはいわゆる「仮面」がつきものであるが、エンカウンターでは、それを脱ぎ捨てて本音と本音をぶつけあう。対立することも多い。このようなエンカウンターは、通常、グループワーク(エンカウンターグループ)として行われるが、学習相談においてもエンカウンターの精神が求められていると考えられるのである。なぜなら、学習相談は、社交儀礼がやりとりされる場ではなく、幸福追求の一環としての自分なりの生涯学習を模索する生身の人間(相談者)に対する生身の人間(ワーカー)からの援助が行われる場だからである。
 カウンセリングマインドにもとづく学習相談において、生涯学習に関する相手の枠組をワーカーが理解すること、すなわち共感的理解は重要であるが、それは、ワーカーがその人と同じ枠組になる、すなわち同化するということではけっしてない。逆に、相談者とは異なったワーカーの好みや感情、考え方を率直に表明することも効果を及ぼす場面がありうる。カウンセリングのように精神的な治療を必要とする人を相手にしているわけではないのだから、対等な基本的信頼の関係のもとでは、異なった価値観や考え方の提示はむしろ有益な場合が多いであろう。また、対立までには至らないまでも、生涯学習の方法論に関する専門的・技術的な助言なども、ワーカーだからこそできる「異なった立場からの援助」のひとつとして重要である。
 しかし、それらをエンカウンターすれば、極端な場合には、コンフロンテーション(向き合うこと、対決)につながることもありうるが、必要なときにはいつでもそれを受けて立つ自信がワーカーには求められる。なぜなら、学習者ととことん向き合おうとすれば、学習者の人間存在により深く関わることになり、また、自分自身の問題にも対面せざるをえないからである。実際の学習相談の場面では、社交儀礼の挨拶なども交わすことになるだろうが、機を見て相談者の懐に飛び込むなど、人間の生き方に対する真摯な姿勢がワーカーには必要である。なお、この場合にワーカーに必要な自信とは、自己をあるがままに認めることであって、自分が相手よりも相対的に優位であることを誇示したり、優位な立場から相手に何かを押しつけたりすることではない。
 エンカウンターグループは日常生活から離れた所で期間を区切って実施される。それは文化的孤島と呼ばれる。しかし、その目的は、日常生活で具体的な行動を起こす力にまでむすびつけることである。このような点でも、学習相談がエンカウンターから学ぶべきことは多いと考えられる。なぜなら、学習相談も一時的な「孤島」であり、現実社会に戻ったあとの本人の実際の生涯学習に役立たなければ意味がないからである。
 とくに、セパレーション(分離)のあり方については重要である。エンカウンターグループにおいては、解散のときに泣いてばかりいて分離がスムーズにいかないのは、けっして連帯感の高まりとしては評価されない。むしろ、分離不安の表れとされ、過去志向的で自立がうまくいかなかったと見なされるのである。学習相談のワーカーは、この厳格なエンカウンターの姿勢に見習わなければならない。学習者から受ける相談への過度の愛着は自慢にはならない。学習者の現実復帰、つまり理想的な学習社会にはなっていない実際の娑婆で学習するための主体性の獲得をこそ、ワーカーは援助しなければならないのである。

●(5) ネットワークの中でともに育つ

 学習相談は、ネットワークの営みである●(図3−3)。情報と情報をつなぎ、学習者と情報とをつなぎ、さらには、学習者と学習者とをつなぐ。そこでのワーカーと相談者の関係は、今まで述べたとおり、異質な者どうしの水平なギブ・アンド・テイクである。あくまでも学習者の自発的意思にもとづくものであり、そのつながりはゆるやかで、参入と撤退、出会いと別れを自由に繰り返すものである。
 このようなネットワークであるためには、それぞれが自立的価値(個性)をもっていることが条件になる。そうでなければ、ヒエラルキーなどとしてのシステムではありえても、ネットワークとしてのシステムにはなりえない。そして、自立したパソコン(スタンド・アローン)がパソコン通信によってネットワークされるように、自立的価値をもつ個人や機関や情報が学習相談によって相互に連携(依存)する。ネットワークが自立と依存の統一である、というのはそういう意味である。
 ぼくはこれらを貫く鍵概念として「個の深み」という言葉を提起したい。●(11)人間がなぜ生きているのか、といえば、究極的には自己実現によって「個の深み」という高次な幸福を獲得するためであり、その人間がなぜ社会の一員として生きるのかといえば、究極的にはコミュニケーションによって他者の「個の深み」を味わいつつ自己の「個の深み」の形成にも活かすためだとぼくは考える。
 ネットワークのこころさえ失わなければ、学習相談の事業は、学習者の「個の深み」とたえまなく接し続けることができるだろう。それは、たとえば一般行政の相談では、「本務ではない」などの理由から相談員は禁欲しなければならなかったことである。しかし、学習相談においては、ワーカーの主体的な判断力とモラルを前提とすれば、むしろ「本務」として勧められるべき行為である。学習相談事業の中でつねに変わることや育つことがもっとも望まれるのは、組織としてはその事業を行う機関であり、人間としてはその事業を担当する学習情報ワーカーなのである。だから、みずから学び育ちたいという気持ちがあるかぎり、学習相談という仕事は至上の喜びをもたらしてくれるはずである。
 生涯学習推進のために、あるいは、住民のために、犠牲的精神で学習相談活動を行っているなどというような人がいたとしたら、その言葉はウソであろう。中身のない虚ろな言葉だ。ともに育つ学習相談の中では、援助者側の人間は自分のために研鑽を深め、自分のために業務に携わっているはずだ。それは、教育の仕事全般にもいえることである。本当の「自分のために」ということは、自分自身がつねに変わり成長することであり、その姿勢は他者の主体性の獲得とはまったく矛盾しないばかりか、援助者、教育者であるためのもっとも大切な資格要件ともいえるのである。

●2 保護や管理ではなく自由への恐怖を与える




 ぼくは、コミュニケーションを心の底では求めながらも、それによって傷つきたくないとおののいている若者たちの状況とその問題解決の道筋について、『週刊教育資料』という雑誌で簡単に論じたことがある。●(12)それにもとづいて、主体的学習を誘う(いざなう)という教育の「大それた」営みのあり方を、本質的な事項に絞ってごく簡単に述べておきたい。
 ここでのキー・コンセプトをさらに簡単に一言で述べれば、「保護や管理ではなく自由への恐怖を与える」ということである。これを学習者の立場からいえば、「みずからの主体性のなさを他人や社会の保護や管理が至らなかったせいにするのではなく、自由の恐怖を受容して楽しみに転化する」ということになる。

●(1) 自分は求めるけれど、人にはあげられない
 今日の若者たちは、自分からストロークをうまく出すことは得意ではない。経験不足なのである。そのうえセンシティブだから、相手からのストロークの裏にある不純さや、その「罠」に反応することの危険を嗅ぎとることにはとても優れている。だから、相手からのストロークに答えることもできない。
 そのため、大人たちが懸命になって「心と心のふれ合いをせよ」「人間はわかりあえるものだ」などと若者たちに上から号令をかけても何の効果も及ぼさない。学生の出席ペーパーから、ひとつ紹介する。
 「ゼミを自己変革の場に、と先生は望んでいるようですが、私にはゼミの場が自己変革の場にはなりません。自分が何を言っても、何を思っても、大丈夫、守られている、というふうには感じられないので、つまり受容されるようには感じられないので、自己開示できません。だから、ゼミは自己変革の場にはなりえません」。
 この学生の場合は、人間関係のことをよくわかっているのだ。そして、自分が受容される特別な場を他の所で見いだしてさえいるのである。だからこそ、簡単には心を開かない。ぼくは、その態度を立派だと思う。

●(2) 現実原則の中でのストロークの自己管理を
 しかし、問題は、受容されるとはかぎらない日常生活の「現実原則」(快感原則では充足されない社会の現実に適応する心の働き)の中で、ストローク発信の自己管理(場合によっては発信しないことを含めて)をどう行うか、ということではないか。
 いっぽう、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークをもらいたいのなら、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。
 そして、もうひとつには、ストロークを出して傷ついた場合、そこから逃げずに、どのような形でその体験を自己に内面化するかということが問題になる。自分が傷ついた事実をあるがままに認識し受けとめることができれば、時と場合と相手に応じて出したり出さなかったりすることができるようになるだろう。ストロークを出せないということと、ストロークを出そうと思えば出せるけれども出さないということとは、表面的には同じように見えても、内面的には正反対のことなのである。
 一番すじの通らない生き方が、自分はカプセルの中に閉じこもってしまっているのに、それでいて、ストロークがもらえないと嘆き、いつまでもカプセルの中で他人からのストロークを待っている姿である。それは、閉じこもっている自分の姿が見えていないだけのことなのだが、そういう若者もたくさんいる。
 ぼくは、学生にこう言っている。「今は閉じこもらないではいられない自分の姿をこそよく見つめて、将来まで、そういう人間の悲しみの深さをよく覚えておいてほしい。そうしたら、少なくとも、今年の新入社員は心を開いてこない、と不満をいう物わかりの悪い上司や、今の子どもたちは消極的で困る、と子どものせいにする権威主義的な教師にはならないですむはずである。なぜなら、いま悲しみを感じているあなたは、消極的にならざるをえない部下や子どもの心を共感的に理解できる心をもっているはずだからである。あなた自身は心を開かないでおいて、社会的役割が外からあなたに与えられたとたん、相手に心を開くように求めるとしたら、それは最悪である」。

●(3) コミュニケーションの成熟化と無力化
 今日、コミュニケーションの手段は大いに発達している。電話なら、いちいち会いに行かなくてもすむ。マスメディアからの情報を受けるだけなら、自分が傷つくことを恐れなくてもすむ。映像であれば、人間の情念などでさえ伝わってくる。
 このような技術発展はうまく利用するのが賢いやり方である。しかし、コミュニケーションのツール(道具)は発達していてあたりまえであり、重要なことはコミュニケーションそのものである。パソコン通信では、機械などは透明(トランスペアレンシー)のものに感じて、通信そのものに没頭できる感覚こそ尊ばれる。さらに、ぼくは、パソコン通信そのものには飽きてしまってパソコン通信をきっかけとしたミーティングや宴会のほうに熱心になってしまうバーンアウト(燃え尽き)現象も成熟化のひとつとしてとらえている(拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』参照)。使っているツールが大切なのではなくて、コミュニケーションするということ自体が大切なのだ。これをコミュニケーションの成熟化とよぶことができる。
 しかし、成熟化とは、ある面では、活力を失うことでもある。フェース・ツー・フェースではないメディアや一方通行の音楽・映像メディアによって、自分は傷つかないままにコミュニケーションを享受しているうちに、互いの存在を認め合うストロークのやりとりのチャンスまでも失いつつある。傷つく恐れのないコミュニケーションは、ストロークではない。そういう音楽や映像のメッセージが、カプセルの中の自分に個別に与えられたような錯覚のもとに受け入れられて、親和欲求を少しだけ満たしている。つまり、エセ・ストロークとしても機能している。
 先日、授業で傾聴のトレーニングをした。この授業の受講者は自己表現の一つである音楽を専攻しているからであろうか、「受容」はスムーズにできた(表面的には支持的だった)。どのペアも話がはなやかに盛り上がっている気配だった。ところが、「繰り返し」になると、とたんにできなくなった。聞き役が要約を繰り返すことによって話し手への理解を確認させようとしたのだが、そのことに反発さえ起こったのである。特徴的なことは、傾聴される話し手側からの反発が強かったということである。出席ペーパーには、「せっかくの話をさえぎられる感じ」「うざったい」とある。実際、繰り返されることなど邪魔になるほど、相互確認のないまま、人をひきつけるおもしろいおしゃべりができる若者がいるのである。彼らにとっては、うなずきとあいづちさえあればよい。
 おしゃべり(双方向)も華やかに上手にできるようになってきた。雑誌「教育」(国土社)が「おしゃべり症候群」を特集してその空疎を衝いたのは一九八五年だが、いまや「双方向の一方通行」ともいうべき恐るべき軽やかなコミュニケーションが成熟しつつある。言葉は交わされているが、気持ちは交流できない(しようとしていない)のである。「それがおしゃれだし楽しいのだから」と若者は言うのであろう。

●(4) 管理や保護よりも自由を
 若者に与えられるべきコミュニケーション教育の要点は、いまや、指導者が若者を管理することでも保護することでもない。管理や保護があると、それが現実原則の対象にされてしまい、若者自身のストロークの非力もそのせいにされてしまう。
 ストロークを自由にやりとりさせる機会を提供することが必要である。管理したり保護したりしてはいけない。また、自由といっても、与えられた目標に自発的に追いつこうとさせるためのものでもない。強制されたり守られたりした中での自主性だけでは、傷つく自分を受容するレベルまでには到達しえない。
 どんなストロークも自分の判断で出せるという自由の場に彼らを引きずりこんでこそ、自分がストロークを本当は求めながらも、それを出すことによって傷つくことを恐怖している、という自分に気づくだろう。もし、それでも、自分がストロークを出したいのに出せない理由を他人のせいにしようとする者がいたら、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない。あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という言葉を問題提起として投げかけたらどうだろうか。
 このように誰のせいにもできない状況では、その人のすべてのストローク発信をその人の責任にすることができる。そこでどうするか、ということこそが、本来の現実原則の学習につながる。自由への恐怖を味わうことなしには、何も始まらないのである。

第3部・注−
(1) 西村美東士「学習相談の意義・方法・課題」、『現代生涯学習推進実務選書第九巻』ぎょうせい、一九九三年二月
(2) 松下圭一『社会教育の終焉』筑摩書房、一九八六年、三頁
(3) 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、一九九一年、一五頁〜二七頁
(4) 三浦清一郎『比較生涯教育』全日本社会教育連合会、一九八八年、三九頁
(5) 西村美東士「生涯学習を援助する相談事業」、日本教育新聞社『週刊教育資料』第二六三号、一九九一年八月
(6) 前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、五一頁
(7) MAZEについては前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに五三頁及び一五二頁
(8) ネットワークについては前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに一二九頁
(9) カウンセリングについては、とくに平木典子『カウンセリングの話(増補)』朝日新聞社、一九八九年
(10)傾聴の技法とエンカウンターについては、とくに国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房、一九八一年
(11)「個の深み」については前掲『生涯学習か・く・ろ・ん』、とくに二頁〜四頁
(12)西村美東士「コミュニケーションを求めておののく若者たち」、日本教育新聞社『週刊教育資料』第二八一号、一九九二年一月

巻末資料

●1 ひとくちミニ知識

Q1 認知構造とは何ですか。
A その前に次のパズルをやってみましょう。
 下図●(図4−1)の9つの点のすべてを、一筆書き(直線)で結びなさい。ただし、直線は、3回しか折り曲げてはいけません。
 ヒント・・・自分の認知構造(=枠組)を「突き破って」みてください。(解答は次ページにあります)
 学習の成立とは、適応のために、新しい行動の仕方が成立することである。その成立について、「条件づけ」という考え方と、「認知構造の変化」という考え方に大別される。条件づけとは、特定の条件のもとで特定の反応がつくられることである。特定の反応がつくられるということが、学習の成立ということになるのである。
 学習の成立について、条件づけという考え方と対立的とされている「認知構造の変化」という考え方がある。客観的には同じ環境であっても、その環境をどのように受けとめるか、については、人によりさまざまな差異を生じることがある。どのように認知するかという認知の仕方には、その人なりの特徴があり、その人なりの構造があるので、認知の仕方は「認知構造」と呼ばれている。
 強化説というのは、条件づけに代表されるいわゆる「S−R理論」であり、欲求の充足による強化に学習成立の根拠を求める。それに対して、認知説は「S−S理論」とも呼ばれ、認知構造の変化に学習の成立する根拠を求める。
      (出典 小口忠彦『学習心理学−学習理論の基礎−』放送大学テキスト)

Q2 フレーム・オブ・レファレンスとはどういうことですか。
A カウンセラーの平木典子さんは、つぎのように説いています。
「準拠枠(問題枠)」というのは、少々わかりにくい言葉である。英語のframe of referenceという言葉を訳したものだが人間理解の基本となるので、この考え方の内容を理解してもらうため、あえて使うことにした。人間は、言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情などを表現することができるが、それらのことを表現したり、お互いに理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。(中略)例えば、同じ「悲しい」という言葉を使って話をしていても、突きつめていくと自分の「悲しい」と相手の「悲しい」が違うということに気づくことがある。私たちの日常生活は厳密にいうと、実はそのようなことのくり返しだといっても過言ではない。(以下略)
              (出典 平木典子『カウンセリングの話』、朝日選書)

Q3 子どもの教育とおとなの教育とは、どう違うのですか。
A ノールズによれば、次のとおりです。●(表4−1)
 また、同様の観点から次のようにも述べられています。
 子どもは教育の対象であり被教育者であるが、おとなは自らの教育の主体であり、成人教育はおとなの「自由な自己教育」であることに本質がある。(ラングラン)
 子どもからおとなになると教育から自己形成に変わり、子どもは自分の受ける教育に責任はないが、おとなの場合は「自分自身が責任を負う自己形成」であるところに子どもの教育との本質的な差がある。(ランゲフェルト)
               (参考文献 倉内史郎『社会教育の理論』第一法規)

Q4 大学の教授法は、どのように改革されるべきでしょうか。
A ロンドン大学では、次のような考え方のもとに、教員の研修を行っています。
(冒頭の部分)学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくものである。(中略)……適切な教授法を決定する場合に、できるだけ柔軟なやり方をとろうとするであろう。こうした問題を考えるのは、明らかに思いきった試行であり、伝統的な大学教育の方法とは異質な技能の開発を必要とするであろう。
(講義法の部分)講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了時にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである(McLeish,1968)。(中略)ヘイル委員会報告書も論評するように、「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」である。
(出典 ロンドン大学教育研究所大学教授学研究部『大学教授法入門』玉川大学出版部)

Q5 人間の発達の可能性に対して、どんな心で接すればよいのでしょうか。
A 次のピグマリオン効果についての記述が参考になるでしょう。
 ローゼンソールらの『教室のピグマリオン』は、この予言の効果(予言による自己成就)をはっきり示した。ある小学校の子どもたちに一種の知能検査を行い、その結果に基づいた(と称して、じつはなんの根拠もない)「近々学力が伸びる生徒」のリストを教師に渡した。一年後の学業成績では、リストにあげられた生徒たちのほうが、選ばれなかった生徒たちより、成績を伸ばしていた。これは「近々伸びる生徒」と偽って示された生徒に対して、教師たちが期待を抱き、その期待が彼らの成績の向上を生んだ、と解される。この教師の期待から生まれた効果を「ピグマリオン効果」と呼ぶとした。
 ピグマリオンとはギリシャ神話に現れる彫刻家である。彼は自作の彫刻と結婚したいと深く願ったところ、神がその彫刻に生命を吹きこみ、彼の願いを成就した、という。
 このような「ピグマリオン効果」の中には、「嘘から出たまこと」以上のものが含まれている。すなわち、教師からの期待がこめられ、それに生徒たちが応じようとした点である。たんなる予言の自己成就を超えて、期待=応答のはずみが働いている。
       (出典 片岡徳雄『学習と指導−教室の社会学−』放送大学テキスト)

Q6 社会教育・生涯教育は、今日の社会の変化とどう関わっているのですか。
A 今や古典的な価値を持っているとさえいえる昭和四六年の社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」では、
@ 人口構造の変化(高齢化、余暇)
A 家庭生活の変化(核家族化、家庭の教育機能の低下)
B 都市化    (都市問題、非行化、郷土意識の欠如)
C 高学歴化   (学習要求の高度化、不適応問題)
D 工業化・情報化(人間疎外、情報過多、価値観の混乱)
E 国際化    (ボーダーレス、国際交流)
の6つの社会的変化をあげた上で(カッコ内のまとめはmitoによる)、「今日の激しい変化に対処するためにも、また、各人の個性や能力を最大限に啓発するためにも、ひとびとはあらゆる機会を利用してたえず学習する必要がある。とくに社会構造の変化の一面としての寿命の延長、余暇の増大などの条件を考えるなら、生涯にわたる学習の機会をできるだけ多く提供することが必要となっている。また変動する社会ではそれに適応できない人も多くなり、変動に伴って各種の緊張や問題が生じており、これらに伴い、ひとびとの教育的要求は多様化するとともに高度化しつつある。こうした状況に対処するため、生涯教育という観点に立って、教育全体の立場から配慮していく必要がある」と、述べている。

Q7 社会教育とは何ですか。
A 関連法規によると次のとおりです。
「教育基本法」
第7条(社会教育)
@ 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
A 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。
「社会教育法」
第3条(国及び地方公共団体の任務)
 国及び地方公共団体は、この法律及び他の法令の定めるところにより、社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。

Q8 社会教育主事の仕事の内容と、それに求められる資質・能力は何ですか。
A 社会教育法第9条の3では、次のように定められています。
 社会教育主事は、社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない。
 また、社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」(昭和六一年一〇月)では、「社会教育主事に求められる資質・能力」について次の5つがあげられています。(カッコ内はmitoが要約したもの)
@ 学習課題の把握と企画立案の能力
 (社会教育計画の立案、社会教育指導者への指導・助言などのために)
 (プランナー、プログラマー、プロデューサー、プロモーターとしての職務)
A コミュニケーションの能力
 (学習相談と学習情報提供のために)
B 組織化援助の能力
 (集団学習のオルガナイザーとしてのグループワーク等の知識)
C 調整者としての能力
 (他行政・民間との連絡・連携、家庭・学校・社会の協力・連携)
D 幅広い視野と探求心
 (幅広い視野と一般的な知識、様々な内容領域の基本的構造を読み取る方法論)

Q9 公民館は何をめざして作られたのですか。
A 公民館は、戦後誕生しました。当時の文部省社会教育局社会教育課長、寺中作雄の公民館構想(「寺中構想」)は、昭和24年の社会教育法より早く、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実し、公民館の普及に大きな役割を果たしたのです。この通達では、公民館の運営上の方針として、次のような趣旨のことを述べています。(要約はmitoによる)
(1) 公民館は、町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である。
(2) 公民館は、町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある。(堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所)
(3) 公民館は、町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である。(町村内における政治、教育及産業関係の諸機関が一致協力)
(4) 公民館は、町村民の民主主義的な訓練の実習場である。(性別や老若貧富で差別することなく、自由な討論と他人の意見への傾聴)
(5) 公民館は、中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所。
(6) 公民館は、全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する。(とくに青年層こそ新日本建設の推進力であり、設置運営への青年層の積極的な参加が望ましい)
(7) 公民館は、郷土振興の基礎を作る機関である。(郷土の実情や町村民の生活状態等に最も適合した弾力性のある運営がなされるべき)

Q10 生涯学習と生涯教育とでは、どう違うのですか
A 中央教育審議会答申「生涯教育について」(昭和56年)では次のとおりです。
 今日、変化の激しい社会にあって、人々は、自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。この意味では、これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい。
 この生涯学習のために、自ら学習する意欲と能力を養い、社会の様々な教育機能を相互の関連性を考慮しつつ総合的に整備・充実しようとするのが生涯教育の考え方である。言い替えれば、生涯教育とは、国民の一人一人が充実した人生を送ることを目指して生涯にわたって行う学習を助けるために、教育制度全体がその上に打ち立てられるべき基本的な理念である。

Q11 自分への信頼、他人への信頼とは何でしょうか。
A 「信頼」は「信用」とは違います。参考文献としては、たとえば河野貴代美『引っ込み思案をなおす本』(PHP文庫)がありますが、これは残念ながら絶版です。古本屋で見つけたら友だちにお金を借りてでも購入することをお勧めします。
 そこで大切だとされていることのひとつは、自分への信頼(=自信)がくずれがちになるのは次のうちのBであるということをしっかりととらえることです。
@ 気がつかなかったか、深く考えずに過ごしてしまった出来事。
A あなたの核である感じ方、考え方などに、明確に入ってくるもの。
B あなたの人格にかかわるような内容が入っているもの。
 河野さんは次のように述べています。
 Bは、あなたの人格にかかわるような内容が入ってきたときです。たとえば私であれば
「あなた、それでよくカウンセラーをやっていかれますね」
 などといわれたときでしょうか。いい方や状況によっても違うでしょうが、かなり私は動揺します。不安定になります。私は、そういった人に、もう少しくわしい説明(なぜそう思うのか)を求めるでしょう。そして、その内容を十分に検討してみるでしょう。できるだけ客観的に自分のことを考え、納得すれば、自分自身を修正します。納得しなければ、親友などにさらにたずねるかもしれません。一度は私は揺れ動き、不安になります。が、やがてそこから必要な滋養を取り入れて、私の核=私自身は再構築されていくということになります。

Q12 アサーティブ(アサーション)トレーニングとは何ですか。
A 攻撃的にならないさわやかな自己主張訓練のことです。
 たとえばあなたが学生食堂で必死こいてレポートを書いているのに、友だちが話しかけてきたり、真夜中、眠くて仕方ないのに、友だちから電話がかかってきたりした場合、さわやかに断ることができますか。断りたいのに断れないのは自分や他者への基本的信頼が足りないからなのです。『引っ込み思案をなおす本』では次のとおりです。
トレーニングの効果
 @ あたたかく自分が受け入れられていると感じることができる
 A 安心して自分を開くことができる(自己洞察の機会も広がる)
 B 自分を理解するとともに、他人をも理解することができるようになる
 C お互いの連帯感を養える
 D その人の身になって考えるが、どうすべきかは個人の自由であるから、自分らしさを養うことができる
 E いつ、どのような時に主張的であるべきかの判断を養える(常に何に対しても主張的である必要はないし、それは不可能でもある)
自己主張の5つのポイント
 @ 自分がどうしたいのかはっきり確認すること
 A 相手の反応を先取りしたり、勝手に予測したりしないこと
 B 自分のいい分は本当に自分勝手なのかを考えてみること
 C 結果をおそれないこと
 D 相手を攻撃しないこと(「自分に甘く、他人に厳しく」ならないこと)

Q13 社会教育主事の専門性とは何でしょうか。
A ぼくは次のように説明しました。
 社会教育行政が一般行政から区別される重要な要素の一つは、実体的には専門職員、とくにその代表格である社会教育主事の存在であるといえる。学校教育であれば教員という専門職員が置かれているわけだが、社会教育主事はそれに対応する。あるいは、教育公務員特例法で専門的教育職員として指導主事と社会教育主事が併記されていることから、指導主事の専門性と同列であるとも考えられる。
 ところが、学校教育では、教員は児童・生徒の教育をつかさどると規定されているのに対して(学校教育法第28条)、社会教育では、行政は「すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように」(社会教育法第3条)努めるのであって、社会教育主事は国民の教育を直接つかさどる立場にはない。そこに社会教育主事の専門性を考えるにあたっての複雑さがある。
 しかし、市町村の社会教育主事を、住民の自発的な学習を助成し、その地域における社会教育活動を推進するための実際的な世話役としてとらえ、都道府県の社会教育主事を、全県的な立場からの社会教育行政の推進や市町村教育委員会に対して助言・指導をする者としてとらえるならば(1971(昭和46)年社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」)、その専門的力量を高めることこそが、結果的には住民自らが行う学習を促進することにつながると考えられる。
 社会教育主事の専門性の内実については、しばしば3P論、4P論と呼ばれる議論がなされている。いずれもPで始まるプランナー、プログラマー、プロデューサー、プロモーターとしての資質・能力が必要だというのである。
 また、最近の到達点としては、一九八六(昭和六一年)一〇月の社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」が挙げられる。そこでは、学習課題の把握と企画立案の能力、コミュニケーションの能力、組織化援助の能力、調整者としての能力、そして、幅広い視野と探求心が社会教育主事に求められる、とされている。
          (『現代学校教育大事典』「社会教育主事」の項、ぎょうせい)

Q14 社会教育の方法はどのように分類されるのですか。
A 学習の形態から次のように分類することができます。●(図4−2)
 集団学習では、ただ集まるだけでなく、学習者どうしの相互教育が期待されます。学級・講座がなぜ「集会学習」ではなく「集団学習」なのか考えてみましょう。

Q15 社会教育行政の存在意義はどこにあるのですか。
A 次のような法律の条文が参考になるでしょう。
「日本国憲法」
第13条(個人の尊重)
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第26条(教育を受ける権利)
 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
「教育基本法」
第1条 (教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第7条 (社会教育)−前掲
「社会教育法」
第3条 (国及び地方公共団体の任務)−前掲

Q16 少年期における社会教育のポイントは、何ですか。
A 拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』によれば、体験、参加・参画、地域活動、仲間集団、異年齢集団などのもつ「教育力」を生かすことです。
 キーワードとして、つぎの言葉があげられます。
欠損体験、自治集団、地域の教育力、ピア・グループ、異年齢集団。

Q17 青年期の発達課題は何ですか。
A ハヴィガーストは一九五〇年前後に次のように指摘しています。
(1) 両性・同年齢の友人とのより成熟した新しい関係の達成
(2) 男性あるいは女性としての社会的役割の獲得
(3) 自己の身体の理解とその有効な活用
(4) 両親および他の大人からの情緒的独立
(5) 経済的独立への自信
(6) 職業の選択と準備
(7) 結婚と家庭生活への準備
(8) 市民生活に必要な知的能力の開発
(9) 社会的に責任ある行動の要求と達成
(10) 行動の指針としての価値・倫理体系の獲得
 しかし、一九六〇年代のエリクソンは、青年期の発達課題をアイデンティティ(identity、同一性)の獲得とした。この言葉は、自己の内面的同一性と社会的同一性を示しており、エリクソンは、この両方をともに達成するための個人生育史と歴史社会との出会いの時期として青年期をとらえている。このようにして、青年は、自分とはいったい何なのか、自分が何者であるかという不変的な自己定義や、どんな他人とも取り替えることのできない自己の存在証明としてのアイデンティティを社会的背景のなかで確立しようとする。
 ここで、とくに留意しておきたいことは、他者や社会からの自分への期待が、本人が好むと好まざるとにかかわらず、その人のアイデンティティの確立に多大な影響を与えるということである。なぜならば、その人は、自分が他者から認知され、自己像を他者と共有している確証の感覚を得ようとするからである。
 また、自分の所属する企業と一体化してそこにアイデンティティを求めてきた会社人間、そういう夫から疎外された妻たち、核家族化の進行の中での高齢者などの姿を見ると、現代社会におけるアイデンティティの確立については、青年ばかりでなく、すべての世代にわたって重要な課題であると同時に、危機的な状況であるというべきであろう。

Q18 高齢者教育における学習課題はどうとらえればよいのですか。
A 拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』の 223ページ以降を参照してください。
(1) ジェネレーションとライフステージ
ジェネレーション(世代)の観点とライフステージ(発達段階)の観点
暦年齢chronological ages、社会年齢social ages 、機能年齢functional ages
(2) 個人的課題と社会的課題
「個人的課題」=「退職後の生活設計」「余暇活動」「老いの受容」「死の受容」
「社会的課題」=LESS DEPENDENCY EDUCATION
(3) 学習課題の実際の領域
 「高齢期の理解」(老化と円熟の認識など)、「高齢期の過ごし方」(高齢期の生活設計など)、「家族とともに生きること」(家族関係など)、「社会とともに生きること」(地域社会についての理解など)、「高齢者に関する法律・制度」(老人福祉など)。

Q19 ボランティアって何ですか。
A 日本生涯教育学会編『生涯学習事典』(東京書籍)によると次のとおりです。
 ボランティアとはボランタリーな活動を行っている者を指す。そして、ボランティア活動とは、いろいろな言い方がなされているが「動機においては自発性を、活動資源(リソース)においては自前主義を、代価においては無報酬を、相手(ニード)との関係においては了解を原則とする篤志の活動」(大森彌『ボランティア活動と行政』)ととらえられているのが一般的である。
 このことをもう少し分かりやすくいえば、ボランティア活動とは、@他から強制や拘束を受けて行うものではなく、自らの自主的、自発的な意思に基づいて行われるものであること。Aボランティア活動を行うことによって、金銭的、物的な代価を求めるようなことがあってはならないこと。Bボランティア活動は、私利私欲のために行うのではなく、あくまでも公共社会に対してなんらかの形で貢献するものであること。
 このような自主性・自発性、無償性、公共性の三つが、ボランティア活動のいわゆる三原則といわれるものであり、ボランティア活動を進める上でのベースとなる。

●2 自分を知ろう−エゴグラム
 作成の方法
 以下の質問に、はい ○ どちらともつかない △ いいえ × のようにお答えください。ただし、できるだけ△よりも○か×で答えるようにしてください。

[CPグループ]
1 人の言葉をさえぎって、自分の考えを述べることがありますか
2 他人をきびしく批判する方ですか
3 待ち合わせ時間を厳守しますか
4 理想を持って、その実現に努力しますか
5 社会の規則、倫理、道徳などを重視しますか
6 責任感を強く人に要求しますか
7 小さな不正でも、うやむやにしない方ですか
8 子どもや部下をきびしく教育しますか
9 権利を主張する前に義務を果たしますか
10 「・・すべきである」「・・せねばならない」という言い方をよくしますか

[NPグループ]
1 他人に対して思いやりの気持ちが強い方ですか
2 義理と人情を重視しますか
3 相手の長所によく気がつく方ですか
4 他人から頼まれたらイヤとはいえない方ですか
5 子どもや他人の世話をするのが好きですか
6 融通がきく方ですか
7 子どもや部下の失敗に寛大ですか
8 相手の話に耳を傾け、共感する方ですか
9 料理、洗濯、掃除などが好きな方ですか
10 社会奉仕的な仕事に参加することが好きですか

[A グループ]
1 自分の損得を考えて行動する方ですか
2 会話で感情的になることは少ないですか
3 ものごとを分析的によく考えてから決めますか
4 他人の意見は、賛否両論を聞き、参考にしますか
5 なにごとも事実に基づいて判断しますか
6 情緒的というより、むしろ理論的な方ですか
7 ものごとの判断を苦労せずに、すばやくできますか
8 能率的にテキパキと仕事をかたづけていく方ですか
9 先(将来)のことを冷静に予測して行動しますか
10 身体の調子の悪いときは、自重して無理を避けますか

[FCグループ]
1 自分をわがままだと思いますか
2 好奇心が強い方ですか
3 娯楽、食べ物など満足するまで求めますか
4 言いたいことを遠慮なく言ってしまう方ですか
5 欲しいものは、手に入れないと気がすまない方ですか
6 ”わあ””すごい””へぇー”など感嘆詞をよく使いますか
7 直感で判断する方ですか
8 興にのると度をこし、はめをはずしてしまいますか
9 怒りっぽい方ですか
10 涙もろい方ですか

[ACグループ]
1 思っていることを口に出せない性格ですか
2 人から気に入られたいと思いますか
3 遠慮がちで消極的な方ですか
4 自分の考えを通すより、妥協することが多いですか
5 他人の顔色や、言うことが気になりますか
6 つらい時にも、我慢してしまう方ですか
7 他人の期待に沿うよう過剰な努力をしますか
8 自分の感情を抑えてしまう方ですか
9 劣等感が強い方ですか
10 現在「自分らしい自分」「本当の自分」から離れているように思えますか

 ○を2点、△を1点、×を0点として、それぞれの項目ごとに合計点を出し、●図4−3のグラフに折れ線グラフを書いてください。
             (出典 杉田峰康『交流分析のすすめ』日本文化科学社)
[説明]
 人間の心の働きは●表4−2のように分けてとらえられます。

●3 友だちとやってみよう−グループワーク

その1 ジェスチャーゲーム(mitoオリジナルルール)
(1) 出題に関する決まり
出題は名詞。ただし固有名詞は除く。 ×タンザニア   ○思春期 ○気温
一般的でない用語は避ける。     ×スプロール現象 ○オゾン層
一般的でない言葉づかいは避ける。  ×卒業旅行    ○修学旅行
ボーダーライン(参考)       △焼肉定食    ×揚げ豆腐定食
(2) 表現に関する決まり
声を出してはいけない。音はよい。  ○手をたたいて”パン” ×「難しいよ」
文字の形を指や手で示してはいけない。×Vサインで「AV機器」のVなど
文字の数は指や手で示してもよい。  ○ハンドサインや指で文字数などを示す。
会場にある物などを指してもよい。  ○髪の毛を指して「苦労話」の”クロ”。
(3) 表現に関する技術
「おいといて」などを活用して多次元の表現を試みる。
近い解答に対してはその解答者に指をさして、復唱してもらい、仲間の確認を図る。
「予期しなかった有効な解答」のチャンスを見逃さず、指さし確認をして活用する。
(4) 解答に関する決まり
出題されたテーマの内容を自分が知らない場合は他のテーマを要求できる。
出題されたテーマが自分の尊厳を傷つけると思われる場合(アダルトビデオなど)も同様。
表現者に何でも自由に聞くことができる。  ○「漢字で何文字?」など
思いついた言葉をみさかいなく連発してもよい。(数打ちゃ当たる)
(5) 出題側チームのヤジに関する決まり
勝負とユーモアの世界であるから、そのセンに沿った野次はかまわない。
 (解答側チームは敵チームの雑音に惑わされずに味方の表現に精神的集中をせよ)
(6) その他(人数によっては、バトルロイヤル方式で行うこともできる)

その2 銭まわし(mitoオリジナルルール)
(1) 2チームが向い合って座ります。
(2) 回す側のチームは、先頭の人が十円玉を一個だけ両手で挟みます。隣の人は両手をその人の手の下にぴったりと当てがって、対面する相手チームから十円玉が見えないように受け取ります。
(3) このようにして、順にまわしていきます。その間、両チーム全員で「もしもしカメよ」を歌います。
(4) それだけなら、なんにも面白くありません。途中、誰かが十円玉を手の中に持っておきます。そのあとの人は、回していくふりをします。逆に、本当は隣の人にさっと回しておいて回っていないように見せかける高度技もあります。
(5) カチンと音が聞こえてしまったり、あるいは、十円玉を落としたりしてしまっても、逆戻しはできません。
(6) 最後の人までまわすふりが終わったら、「セーノッ」の合図でいっせいにこぶしを握って相手チームの目前に差し出します。
(7) 当てる側のチームは、十円玉が「入っていない」と思われるこぶしを「一つずつ」タッチしていきます。だれがタッチしてもかまいません。タッチされた人は、そのこぶしだけ開きます。
(8) 十円玉が入っていたらアウトです。それまでに開いたこぶしの数で勝負します。
[ポイント]
 タッチの決定にはなるべく多くの仲間の支持を得ることも必要だが、結局は誰かが実行しなくてはならない。ヘッドを決めなくても、自分の判断で行動できる主体性とネットワークマインドが求められるのである。しかし、それは楽しいことである。

その3 拍手で合図
(1) 親を決め、親はその部屋から出ていってもらいます。
(2) 残った人たちで、親にどんなポーズをさせるか相談して決めます。
(3) ポーズが決まったら、親に部屋に入ってきてもらい、その他の人たちは輪になって座ります。
(4) 親がどれだけ早く決められたポーズをすることができるかで勝負が決まります。その際、親に何も教えてはいけません。しかし、ヒントは与えることができます。親がポーズに近い動きをしたとき、その動きの正しいことを拍手で知らせることができます。正しいポーズに近づけば近づくほど、拍手を大きくしてあげます。逆に、親が全然違ったポーズをした場合は、床を両足でバタバタとたたきます。
            (参考 福留強ほか編『生涯学遊ネットワーク』日常出版)
[バリエーション]
(1) 出典ではチーム対抗の2人の親の同時進行になっているが、相手チームの出した課題を交互に挑戦するのも、共感的、支持的な観察ができておもしろい。
(2) 必然性のある連続動作(オセロを持ち出して白黒に並べるなど)も、けっこううまくできることがあっておもしろい。
(3) 両足バタバタの代わりに「ブーブー」と言っても、その口調に個性や感情が出たりしておもしろい。

その4 第一印象ゲーム
 堅苦しい自己紹介なんかあとにして、自分は第一印象でどのように見られているか、他人に対する自分の第一印象はどのぐらい当たっているか、テストしてみましょう。あとで、それぞれの人が正解(自分の好み)を発表します。1つの正解で20点で、それぞれの人についての満点は百点になります。●(図4−4)
           (出典 坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』日本生産性本部)
[バリエーション]
(1) たとえば問5のAさんの正解が「水色」で、自分の答えが「青色」だった場合、点数が欲しければAさんに尋ねて決めるのもおもしろいです。そのときの採点の権限は、本人のAさんにあるというわけです。
(2) 問いの内容は、どのようにでも考えられます。しかし、現在の「職業」や過去の「経歴」は、役割や過去に属することです。もっと、今のその人らしさに、関心を寄せるような態度を身につけたいものです(自己紹介のしかたも同様です)。

その5 ハンターゲーム
(1) このゲームの目的は、標的を射撃して最高得点を獲得することです。
(2) 1回4発の射撃を4回、合計16発打ちます。
(3) 標的はタテ10、ヨコ10のマス目●(図4−5)の中にかくされています。標的になっているマス目の数は12です。そのつながり方はタテとヨコで、ななめにはなっていません。
(4) 標的のマス目には、それぞれ1点、3点、5点のいずれかの点数がついています。
(5) グループは「発射」を決定します。
(6) グループが決定した「発射」は、代表者によって、全員にも聞こえるように司会者に発表します。
(7) あらかじめ、全発射を発表する代表者を決めておきます。その代表者だけが発表できます。
(8) 代表者は、「Aの1、Fの5、Cの10、Iの3。」というように発表します。司会者は、その発射によって得られた得点をそのたびに発表します。
(9) 時間内に発射しきれなかった場合はその未発射分、過剰発射した場合はその過剰発射分、また、ルールに違反して発射をした場合も、それぞれ1発につき1点の減点となります。
(10) 同じマス目を連打することも認められます。打ち直しはできません。
(11) グループは自由に話し合うことができます。マス目用紙はどのように使ってもかまいません。
(12) ゲームの進行中は、司会者に質問することはできません。
(13) 必要なことは、すべてこの「ルール」に示されています。
(14) 制限時間は35分です。
                  (出典 坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』)
[ポイント]
 他人のせいではない。自分が自分を縛っているのだ。

その6 スタンツ(寸劇)
(1) 芸人、タレントなどのまねや替え歌、踊りなどでもいいが、
(2) 私たちの生活や学校の中でのできごとなどをとらえて、
(3) または、昔話やトレンディードラマなどを脚色して、
(4) 特別なものを使わずに、そこにある簡単な道具や持ち物を使い、
(5) 素朴に簡単な寸劇を即興で演ずることが理想です。
(6) 今回の準備はどこでやってもかまわない。
(7) この時間以降は準備の会合をもたない。あくまでも「即興劇」である。
(8) 今回の欠席者には、次回までに呼びかけておいて仲間に入れてもよい。
(9) 本番における1グループの持ち時間は1分から5分程度までとする。
(10) 次回の本番の途中、どこかでメンバー全員の氏名を発表してください。
[教育目標]
(1) アマチュアリズムとしての文化活動の楽しさを実体験する。
(2) 他者が存在することが素敵なことだと思えるようになる。
(3) 他者の枠組が自分と異なっているからこそ面白いと思えるようになる。
(4) 集団運営能力を高める。
(5) 「見る・聞く」から、「話す・企画する・表現する」に飛躍する。

その7 お願いトレーニング
 このエクササイズは、フラストレーションに耐えてあくまで自己主張を続ける訓練である。ロールプレイでも一度、厚かましさ・強引さを体験するとそれが自信になる。ちょっとしたことぐらいで負け犬にはならない、という自信がつく。方法はこうである。
 二人一組をつくる。ジャンケンで勝った方が何でもよいから相手に「……してくれないか」と頼む。頼まれた方(ジャンケンで負けた方)は、理由をつけて断る。断られても、再度頼む。また断る。しかし5回目には、「よし、わかった。願い事を満たしてやろう」と言って、ロールプレイを成功体験で終わるようにする。(中略)
 このエクササイズで、ただ「お願いします」「お願いします」と連呼するだけの自己主張しかできない人がいる。一方、「おれも……してやるから君も……してくれないか」とギブ・アンド・テイクで説得する人もいる。あるいは相手のプライドやナーシズムを持ち上げて(例、お世辞)お願いする人もいる。人に同じことを頼むのでも、さまざまな言い方がある。さまざまな自己主張法がある。そのことに気づけば、自分の今までの主張法を改善できる。
     (出典 国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房)
[ポイント]
 断られて傷つくことを恐れて何もしないでいるなら、コミュニケーションは成立しない。

その8 自己受容トレーニング
 5〜6人一組になり、順番に「私は自分が好きです。なぜならば女らしいからです」、「ぼくは自分が好きだ。なぜならば正義感があるからだ」という具合に、ポジティブな自己概念を仲間に語る。一回にひとつずつ、何回も順番が回ってくるたびに言うわけである。
 ふつうわれわれの文化では、謙遜を美徳としているが、エンカウンター・グループではその逆をするのである。ホンネを表現し合うのである。自己礼賛を地でいくのである。自己弱小感のかたまりの人は、自分の好きな点がないという。しかし、ゲシュタルト・セラピイでは百%臆病なものもいないし、百%勇敢なものもいないと考える。もしどうしても自分は欠点のかたまりで好きなところがないという人がいたら、「欠点の逆を言え」と指示する。(中略)
 暗示ではない。反動形成でもない。事実である。ケチといっても最低1%はケチでない面があるはずである。口下手といっても切符を買ったりラーメンを注文したりする瞬間は「雄弁」なのである。せめて1%は雄弁である。
     (出典 国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房)
[ポイント]
 自分は完璧でなければならないという無茶な思い込みから決別すると肩の荷がおりたようにラクになる。その自然体の状態が「自信」である。本出典はほかにも実践的かつ本質的な内容を持っており参考になる。

その9 ブラインド・ウォーク
 上田紀行『トランスフォーメーション・ワークブック』(別冊宝島一四〇)では、ウォーク、人間カメラ、木に抱きつく、宝物探しなどを、自然の中で行う設定になっていて興味深い。この本は基本的には一人で自己変容するためにとくに編集されたもので、その面ではとくに効果的な内容になっている。
 ぼくとしては、ブラインド・ウォークによって、さわやかに依存することを体得したい。なぜなら、ネットワーク・マインドのキー・コンセプトは「依存と自立の統一」だととらえているからである。

●4 mito的授業シラバス

 最近は大学教員もおちおちしていられなくなった。学生に提示するための年間の授業のシラバス(摘要)の提出を求められるのである。ぼくの授業スケジュールはほぼ次のとおりである。蛇足になるが、夏休み、冬休み、試験休み、学園祭などのため、社会教育やカルチャーセンターの通年講座より、実質講義回数が極端に少ない(半分に近い)のは、社会教育の世界から初めて大学教員になったときのぼくの最大の驚きだった。もちろん、大学の講義の単位の計算の上では、学生がその講義のために予習、復習をしているという前提があり、それも勘案されているのだが、実態はどうなのであろうか。

[講義型の場合]
  学習テーマと教育目標    視聴VTR(10分〜30分程度)のテーマ

1 本授業の特徴と意義     「オープンスクールのビデオ」
    (オリエンテーション=オープニングセール)
(1) 本授業の特徴を理解する。
(2) 自分のよけいな思い込みに気づく。
(3) 新しい形態の学習への意欲をもつ。

2 認知構造、私語問題     「詩の教室(十人十色の答え)のビデオ」
(1) 社会教育のもつ魅力との自分なりの出会いをもつ。
(2) 本授業を受講している他者の存在に気づく。
(3) 自分が枠組をもっていることに気づく。
(4) 本授業に対して各自が主体的な見通しをもつ。
(5) 私語問題をラディカル(本質的)に解決する。

3 上手な教え方と話し方    「夫婦・親子の会話術のビデオ」
(1) 成人に対して教えることとは、どういうことか考える。
(2) 学習への不合理な思い込みが、主体的学習をいかに阻害しているか、気づく。
(3) 教育者の勝手な思い込みの犯罪性に気づき、自己の教授への不安を克服する。

4 人間の交流と3つの心    「子ども心を呼び起こす歌のビデオ」
(1) 人間交流において3つの心が働いていることを理解する。
(2) 自分を客観視する力を身につける。
(3) 人間を幸せにできる教育とはどんな教育か、自分の考え方をもつ。

5 青少年の非行と社会     「十代の少女の妊娠中絶のビデオ」
(1) 性の問題から自分の幸福について考える。
(2) 社会の非幸福的状況について考える。
(3) 少年(少女)に「幸福を配る」方法について考える。

6 性に関する大人の非主体性  「中高年の夫婦の性の貧困のビデオ」
(1) 性の問題から自分の将来の幸福の求め方について気づく。
(2) 大人の不幸な状況を客観的に認識する。
(3) 大人に「幸福を配る」ことについて自分の見解をもつ。

7 幸福追求の性教育      「家庭における性教育のビデオ」
(1) 少年期・青年期の発達課題と、その現代社会における問題に気づく。
(2) 性教育のあり方と、人間が幸福に生きることとの関係を知る。
(3) 家庭教育はどうあればよいか考える。

8 社会教育がめざす人間関係  「登校拒否をする理由についてのビデオ」
(1) 社会教育活動の原点としての「共育」の意味を知る。
(2) なぜヘッドシップではなくリーダーシップなのかに気づく。
(3) 個人をいかす集団・組織の運営がやり方によっては可能であることを知る。

9 ジェスチャーから学ぶもの  「公民館活動のプロモーションビデオ」
(1) 引っ込み思案を克服して、自由な子ども心を回復する。
(2) 他者の表現をサポートできる資質と能力を養う。
(3) 一人ひとりの個性あるひらめきが、組織にとっても重要であることに気づく。

10 さわやか自己主張と本当の自立「過労死で残された妻たちのビデオ」
(1) 自分自身、さわやかな自己主張ができているかどうか考えてみる。
(2) 自分自身や他者への信頼感をとりもどして、引っ込み思案を克服する。
(3) 他者の自己主張や本当の自立を援助するための留意点を知る。

11 ともに育つこと       「自分のために学ぶ教員研修のビデオ」
(1) 自己・他者否定を克服して「OKマインド」で生きる態度を身につける。
(2) 学習援助者として、「ともに育つ」という姿勢をもつ。
(3) 自分のために生きれるということが素晴らしいことであることを理解する。

12 支持的風土の集団形成    「シンナー依存症のためのフリースペースのビデオ」
(1) 他者やものごとに対してじょうずにさわやかに依存することの意義を知る。
(2) 自分も他人も信頼できる集団のあり方について理解する。
(3) そういう支持的風土の集団の形成を側面から援助する方法について考える。

13 ネットワーク型の問題提起  「引きこもる若者たちのビデオ」
(1) ネットワークの特徴について理解する。
(2) ネットワークの教育力について理解する。
(3) 社会教育行政がネットワーク型の援助を行うことの是非について考える。

14 少年教育の課題       「登校拒否児の自己解決過程のビデオ」
(1) 少年期の発達課題と、その現代社会における問題に気づく。
(2) この問題について、自分はどうだったのかについて考える。
(3) 少年教育はどうあればよいか考える。

15 青年教育の課題       「十代の少女の拒食・過食症のビデオ」
(1) 青年期の発達課題について理解する。
(2) 青年教育の課題について理解する。
(3) 新しい青年教育のあり方について考える。

16 カウンセラーによるお話   「カウンセリングの実際を示すビデオ」
(1) 青年の自己解決能力について理解を深める。

17 青少年の健全育成の課題   「障害者のための絵画教室のビデオ」
(1) 教育における専門性について考える。
(2) 学習の援助者はワン・オブ・ゼムであってはいけないということを理解する。
(3) 学習援助者としてのネットワーク(リゾーム)的な態度を習得する。

18 婦人教育の課題       「職業と子育ての両立に関するビデオ」
(1) 対象別社会教育の根拠と問題点について自分の意見をもつ。
(2) 両親教育が必要か、不必要か、について自分の意見をもつ。
(3) 婦人の問題や家族の問題から自立と依存のあり方を理解する。

19 成人教育の課題       「企業の社会貢献やボランティア活動のビデオ」
(1) ボランティア活動の教育的意義について理解する。
(2) 企業の教育的機能について理解する。
(3) 成人教育の可能性について気づく。

20 高齢者教育の課題      「高齢者・障害者福祉に関わる夫婦のビデオ」
(1) 高齢期の特徴について理解する。
(2) 高齢期の学習課題について理解する。
(3) なぜ人生のベテランである高齢者の学習を私たちが援助できるのか、考える。

21 エイズ教育の課題      「エイズ防止キャンペーンビデオ」
(1) エイズから我が身を守る主体性を身につける。
(2) 自らの内なる差別と偏見を克服して、主体性を自己管理できるようになる。
(3) 共感的理解の重要性について理解する。

22 人間と学習情報       「学習情報システムのプロモーションビデオ」
(1) 生涯学習の内実をいっそう主体化するため学習情報提供のあり方を考える。
(2) 市民が学習情報を獲得するにあたっての不幸な認知構造の問題点を知る。
(3) これからの学習情報提供・相談のあり方を考える。

23 ネットワーク型の新しい知  「自己主張訓練による成人ぜんそくの克服のビデオ」
(1) 自立と依存の統一について理解する。
(2) ネットワークにおける個性の発揮の可能性とその支援方策について理解する。
(3) 社会教育活動が「個の深み」をどう援助すべきか、自分の考えをまとめる。

24 これ以降の数回はまとめにあてる。その間、「学校週5日制」「子ども主体の授業方法」「高校中退者のリカレント教育」「経営コンサルタントと現場教師の討論」などのビデオの視聴も行う。

最終回 自然体授業(mitoは何も準備せずテーマも設定しないで、学生の意見、感想、質問などの発言を待つ)

※ そのほか、各回の授業において、出席ペーパーの読み上げとコメントや「ひとくちミニ知識」の解説を行う。

[演習型の場合]

1 第一印象ゲーム
2 銭まわし
3 ハンターゲーム
4 スクエアゲーム
5 ジェスチャーゲーム
6 拍手で合図
7 金魚鉢トレーニング
8 お願いトレーニング
9 自己受容トレーニング
10 ブラインド・ウォーク
11 スタンツ(寸劇)大会準備
12 スタンツ(寸劇)大会
13 自然体授業(前期の振り返り)
14 これ以降の十数回は、次のような演習を行う。
 ○ 主体性の獲得を援助する教授法の実習
 ○ 学園祭の参加のための企画と準備の実習
 ○ 傾聴トレーニング

※ 金魚鉢トレーニングは前掲国分康孝『エンカウンター−心とこころのふれあい−』誠信書房参照。そのほかは、本書にてすでに解説。

[レポート課題]
 授業の評価は原則として平常点(出席率)によるが、救済措置としてつぎのレポートを課すときがある。

タイプ1 自己の偶発的学習への気づき
(1) 最近の数年間で、学校の授業以外で自分の勉強になったことを列挙する。(そのすべてについて時期、場所、関係者・関係機関、方法、内容を思い出せるかぎり列挙すること)
(2) そのことによって、自分がどう気づき、どう成長したか述べる。(どんなにささいなことでもよい。一つひとつのことについて、たくさんの気づきがあると思われる)
(3) 以上のことを踏まえて、学校の授業以外のそれらのことがらがなぜ自分に対して影響を与えたのか、自分の考えをまとめる。(それらのことがら自体の特徴や、その時の自分の関心や心構えなどのさまざまな条件を述べればよい)
(4) このレポートを書くことによって、自分にとってどのようなことがプラスになったか、感想を述べる。(レポートを作成した自分をも振り返ることになる)
(5) 分量としては四百字詰め原稿用紙7枚以上なら何枚でも可。ワープロの場合は、字詰めは自由。字数は上に準ずる。規定の字数に達していないレポートは認めない。家族や友人との関係、映画鑑賞など人間は社会のさまざまな所で「学習」しているはずである。
(6) 催し物のチラシなどの参考資料を添付してもよい。ただし、それらの参考資料
はレポートの枚数としてはカウントしない。(表紙や目次も枚数にはカウントしない)
(7) プライバシーに関することなどは、固有名詞を省略するなどして、本人等の差し障りのない範囲内で記述するなり、記述を避けるなりすること。

タイプ2 批評精神の喚起
(1) 現在、人間が主体性を失っている状況とその克服を援助する方策のあり方、あるいは、主体性を自ら育んでいる状況とその促進を援助する方策のあり方について論説する。
(2) その際、西村美東士のいくつかの主張を評論しながら、自分の考え方を述べる。
(3) このレポートを書くことによって、自分がどのような批評精神を働かせたか、あるいはどのように批評精神を身につけたかを自己分析する。
(4) 分量としては四百字詰め原稿用紙5枚以上なら何枚でも可。ワープロの場合は、字詰めは自由。字数は上に準ずる。

表紙

裏(横書き)

顔写真・・・若いころの?写真なのでカットするか、差し替えするか。

〈筆者のプロフィール〉
西村美東士(にしむらみとし)
徳島大学大学開放実践センター助教授。学生や市民、社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。
生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報、インターネット活用などを研究中。著書に『生涯学習か・く・ろ・ん』『癒しの生涯学習』(ともに学文社)。徳島学遊塾運動など、社会教育現場にも盛んに関わって活動している。

奥付

西村美東士(にしむら・みとし)
 1953年生、男。
 徳島大学大学開放実践センター助教授。
 そのほか、徳島市学遊塾運動アドバイザー、東京都青少年センター運営委員会会長、港区生涯学習推進計画策定協議会副会長など。

略歴
1976年 3月 東京大学教育学部教育行政学科(社会教育)卒業
1976年 4月 勤労青少年指導者大学講座第一期生
1977年 4月 東京都教育委員会社会教育主事補
      (府中青年の家、武蔵野青年の家、社会教育主事室、計画課)
1986年 4月 国立社会教育研修所専門職員
1990年 4月 昭和音楽大学短期大学部助教授
1998年 4月 徳島大学大学開放実践センター助教授

図表一覧(図1−2、2−1、2−2については場所指定はありません)
1992.12.現在

図1−1 「あひるうさぎの図」(オビ図1を利用)

図1−2 「ワンダーランドな学習」
       (出席ペーパーの秀逸マンガ表現その1)

図2−1 「授業中の私語対策に関するぼくの理想」
       (出席ペーパーの秀逸マンガ表現その2)

図2−2 「人間のほんとうの信頼関係」
       (出席ペーパーの秀逸マンガ表現その3)

図3−1 「学習相談への発展」

          ・・・・学習情報の判断者・・・ ・・・・・・援 助 目 的・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
従来の日常的相談 ・    援助者    ・ ・  集合学習への動機づけ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ 第1の革新・・・個 人 の 主 体 的 学 習 の 重 視 と 尊 重 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
学習情報提供   ・    学習者    ・ ・  個人の主体性の発揮 ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ 第2の革新・・・個 人 の 主 体 性 の 欠 損 へ の 気 づ き ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・     ・ ・ ・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
学習相談     ・    学習者    ・ ・  個人の主体性の獲得 ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

図3−2 「コンピュータとワーカーの仕事との関係」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
学習情報データベース ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・
・・・・・・・・・・・・・・ 学習情報提供・・・・・・
・コンピュータ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 学 ・
・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・
  ・ 学習相談※1・ ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 習 ・
学 習 情 報 ワ ー カ ー ・ ・   ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・
  ・学習相談※2 ・ 者 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
・・・・・・
 (※1 コンピュータ利用への援助)
 (※2 ネットワーク的援助)

図3−3 「ネットワークとしての学習相談」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・           ・・受容 ・
       ・           ・・繰り返し ・
       ・ ・・共感的理解・・傾聴・・・・明確化 ・
 援助者 ……・ ・   ・・支持   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ・ ・   ・・質問 ・ 自分のため→ ・
       ・ ・・ストローク ・ ・
       ・ ・・エンカウンター ・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
             ・・・ カウンセリングマインド ・・・・・ 援助者自身の成長 ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 異質の交流↓・
       ・ マス(集団)   →個別  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 一方向      →双方向  ・ ・ ・
 学習相談……・ 指導      →援助    ・ ・ と も に 育 つ ・
  ・ 特定事項の専門性 →教育の専門性・ ・ ・
       ・ 定型性      →自由性 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 異質の交流↑・
・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・   ・相互の自発的意思 ・
             ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・参入と撤退の自由 ・
             ・・・ ネットワーク的援助 ・・・・・・・・・水平なギブ&テイク・
             ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・自立と依存の統一 ・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・
       ・ 自己の主体性の欠損への気づき ・ ・
・    ↓ ・ 自立的価値→ ・
 学習者 ……・ 問 題 の 自 己 解 決 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・    ↓ ・
       ・ 「 個 の 深 み 」 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

図4−1 「認知構造のパズル」

   ・

   ・

   ・

図4−1 「認知構造のパズル」(正解)

   ・

   ・

   ・

表4−1 「ペダゴジーとアンドラゴジーの比較」(M.ノールズ「成人学習者」1973年)
  [理論的前提]     {ペダゴジー} {アンドラゴジー}
    ○自己概念      依存性     増大する自律性
                dependency   self-directiveness
    ○経験        役立たない   豊かな学習資源である
    ○レディネス     生物学的発達  社会的役割の発達課題
               社会的圧力
    ○時間的展望     待時性     即時性
    ○学習への導入    科目中心    課題中心

  [学習場面の構成]   {ペダゴジー} {アンドラゴジー}
    ○学習環境      権威志向    相互協力
               フォーマル   インフォーマル
               競争的     共働的
                       他を尊重
    ○計画立案      教師による   相互的な立案
    ○ニーズの診断    教師による   相互的な自己診断
    ○目標設定      教師による   相互的な協議
    ○学習様式      科目の論理   レディネスに対応
               内容単元    問題単元
    ○学習活動      伝達の技術   実験的方法(探求)
    ○評価        教師による   相互的なニーズの再診断
                       相互的なプログラム測定

図4−2 「社会教育の方法」
          −集会学習   ……講演会、音楽会、映写会
    −集合学習−
          −集団学習   ……学級・講座、団体活動、宿泊訓練
 学習−
          −媒体利用学習 ……印刷媒体、放送、通信教育
    −個人学習−−施設利用学習 ……図書館、博物館、社会教育施設
          −相談利用学習 ……情報サービス、学習相談

図4−3 「エゴグラム」
[CP]   [NP]   [A]   [FC]   [AC]
20----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
18----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
16----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
14----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
12----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
10----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
8----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
6----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
4----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
2----・------------・------------・------------・------------・----
  ・      ・      ・      ・      ・
0----・------------・------------・------------・------------・----

表4−2 「人間の心の働き」
 [CP]   [NP]   [A]    [FC]    [AC]
  クリティカル ペアレント ナーサリー ペアレント アダルト フリー チャイルド アダプティッド チャイルド
  批判的な親心 保護的な親心 大人の理性  自由な子ども心 適応する子ども心
  がんこ親父  マリアさま  コンピュータ 自由人     いい子ちゃん
           (下段は、それぞれを象徴的に呼んだmitoの言葉である)

図4−4 「第一印象ゲーム」
                1  2  3  4  5  6  あ
                                  な
             氏                    た
             名


問1 好きな季節    印象
  イ 春
  ロ 夏       本人
  ハ 秋
  ニ 冬

問2 好きなこと    印象
  イ スポーツ
 ロ 文化・芸術   本人
ハ 社交
ニ その他

問3 食べ物の好み   印象
  イ 和食
ロ 中華料理    本人
ハ 洋食
ニ 好みはない

問4 行きたい外国   印象
   (自由記述)
    本人


問5 好きな色     印象
   (自由記述)
    本人


          合計得点

図4−5 「ハンターゲームマス目用紙」
   A B C D E F G H I J 
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
狛プーは出入り自由の「こころのネットワーク」だ
 −ぼくと狛プーの関係−
                狛プー通年講師(昭和音楽大学短期大学部助教授)
                 西村美東士

1 プータローの自由な精神を求めて

 プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。
 私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。
 狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。

 以上は、ぼくが一九九二年度狛江市青年教室の企画委員の青年たちに提案したチラシの前書きである。企画委員の青年たちは、この前書きをほぼ認めてくれたし、そのうえ、「コマプーっていう響きが、かわいいんじゃない」と、ぼくの考えたネーミングにも賞賛を与えてくれた。あとで知ったことだが、このチラシを見て応募してくれた青年の中には、とにかくこの前書きの文章にひかれたから参加したという人がいるのだ。ただし、一人だけだが。

2 アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物

 なんといっても、あのチラシの一番の魅力は、企画委員の青年たちが作った訳のわからないプログラムだろう。毎月、いろんなことを、スキゾ的にやってしまおうというのだ。昔、各地で行なわれていた青年学級も、目的的なテーマをひとつだけ設定するということをしないで、高校に行かない青年たちのための総合的な学習カリキュラムを提供していたが、狛プーのプログラムは、それともちょっと違う。狛プーでは、企画委員の青年が、あくまでも自分の関心・興味からバラバラなアイデアを出したのである。
 でも、それはバラバラながらも、ちゃんとほかの青年たちに通用するものであった。通用しそうもないものも出るには出たが、岩崎さんやぼくが「えっ、それはどうかな」と言うまでもなく、発案者自身が「あれっ、これはだめだな」と言って引っ込めたり、ほかの青年から「〜だから、うまくいかないんじゃない?」と言われて、発案者も「やっぱり、そーう? 私もそういうふうにも思ったのよね」とか言って引っ込めてしまうことが多かった。
 むしろ、つね日頃は自らの常識的な枠組を打ち破りたいと思っているのになかなか打ち破れないぼくなどにとっては「えっ、なに、それ」と思われるようなものの中に、話をよく聞いてみると、「いやあ、やっぱり面白そうだな」と心変わりしてしまうものが多かった。そういうアイデアは、とくに光っていた。「紙芝居」のアイデアが出たときは、ぼくは最初は、「そんなもの、今の青年がやりたがるものか」と内心では思っていた。しかし、あっという間に、「自転車に『狛プー紙芝居軍団』というのぼりを立てて、市民祭で練り歩こう」という所まで話は発展していて、そのときにはぼくも、すでに積極的な支持派に回っていた(ぼくのほかには企画委員の中に紙芝居反対派はいなかった)。あとになって、この「紙芝居」は、青年たちにとっての、そしてぼくにとっての、素晴らしい自己変容のきっかけのひとつになったのである。
 そのことから、ぼくは、「グループによる発想法などが企業などで研究されているけれども、そんなテクニックなんかあまり使わなくても、一人ひとりの心が解放されていて、メンバー間に受容的な雰囲気さえあれば、青年たちがいくらでもアイデアを披露してくれるのだ」と思うようになった。それぞれのアイデアは素晴らしい宝石である。しかも、その一つひとつが色も種類も異なる宝石だ。

3 プータローの自由のつらさ

 話を戻そう。じつは、例の前書きを書いたとき、ぼくはつぎのようなことを考えていた。

 現代青年が、いま、もっとも求めているものは、自分たち一人ひとりがそれぞれの個性を発揮できる場と、そういう場を創り出すあたたかい仲間関係なのではないだろうか。それを難しい言葉で「支持的風土の集団」ということもできるし、オモシロ言葉で「サンマ」(心を開いて交流できる時間・空間・仲間の3つの「マ」)ということもできる。ネットワークの本当の意味はこれであろう。

 だが、そういうネットワークの場は、本人にとって最初はかえってつらいものになるときがある。自分の責任でその自由を行使しなければいけないからである。今まで、保護されたり、管理されたりしたことはあっても、自由になったときの恐ろしさは味わったことがないのだ。自由のつらさはプータローの宿命である。だが、このようにして苦しみながらも自由を行使したことがないと、結局は、「保護のしかたが足りない」「管理のしかたが悪い」などと言って、いつも社会や他人のせいにして被害者を演じて生きていく人生の構えが身についてしまう。
 狛プーは、一人ひとりの個性をできるかぎり尊重することによって、青年が自由の楽しさとともにその怖さを体験して、自分の非主体的な思い込みから自らを解放していける場である。

4 撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」

 「いったん集団に入ってしまったら、そこから『抜ける』ことは無責任である」、ぼくにはこういう言葉が「不幸の手紙」のような「不幸の分かち合い」「不幸の押し付け」として感じられる。他者に対して自分や自分の帰属する集団に「同一化」するように迫る、ピア・コンセプト(仲間意識)の逆機能(否定的側面)そのものではないか。
 狛プーは出入り自由のネットワークのように運営されている。だから、「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」と新規参入(ニュー・カマー)を歓迎するだけでなく、来なくなってしまった人には、「たまには顔を見せてよ」と呼びかけることはあっても、撤退したそのことについては責任を問うことはしない。
 突然の撤退によって抜けた穴でも、残った人で何とかなるものだ(岩崎さんは大変だろうけれども、それは社会教育職員の根源的なつらさである)。まあ、役割分担があるのに抜けたくなった場合は、連絡ぐらいすることはネットワークのルールだと思う。そういうルールが学習できるのも、自由なネットワークだからこそのものだ。
 撤退の自由がなければ、本人がそこに参加しているのは「お義理」であり、自発的参加ではないこともありうるから、ネットワークには撤退の自由が必要だといえる。しかし、その場合、撤退する本人が運営に関して撤退後も発言したり(OBによる現役支配の弊害がそれである)、残っている人への個人攻撃をしたりするなどの、「立つ鳥あとを濁す」ような未練がましい行為があると、ぼくは本当にイヤだなあと思う。自分の「未練」を他人に押し付けるのは、プータローの自由な精神に反するものだ。ネットワークに撤退の自由が求められるとともに、撤退する個人には「潔さ」が要求されるのである。

5 出入り自由の淋しさを受容する

 しかし、狛プーのメンバーはその辺のところは大丈夫のようだ。撤退するときは、内心は本当は淋しいのかもしれないが、ニコニコして去っていく。みんな適度のおとな心も持ち合わせているからだろう。キャンプだけ参加してあとはまったく出てこない人もいたが、その人などは最初から「みんなでキャンプに行くのが好きだから、キャンプだけ参加します」と言って、キャンプ場では常連メンバーのように振舞って楽しんでいた。
 問題は、残された仲間たちの淋しさである。中間まとめの図にある「出入り自由の淋しさ」とはこのことである。しかし、一人ひとりがこの淋しさとうまくつき合えないと、いつまでたってもピア・コンセプトの逆機能は乗り越えられないし、ネットワーク型のコミュニケーションを創り出す主体性を身につけることができない。現代青年は、へたにコミュニケーションすることによって、相手を傷つけたり自分が傷ついたりすることを極端に恐れている。これは良い意味での「現代青年の優しさ」でもある。しかし、その優しさは、「だからコミュニケーションしない」という彼らの敗北主義の象徴のような「山アラシジレンマ」(接近したいが、かといって、お互いの針で傷つけ合いたくはないというジレンマ)に陥る危険にも結びついているのだ。
 狛プーで「出入り自由の淋しさ」(交流の結果)を感じながらもその淋しさを受容することは、「結果を恐れるがあまり、したい交流もしない」から、「したい交流はするが、自分の期待どおりに交流してくれない相手の存在も受け入れる」人間に自己変容することにつながっていく。そういう人間をネットワーカーと呼んでもいいだろう。これこそが「山アラシジレンマ」を真正面から突破するための唯一の道筋なのだと思う。

6 狛江市にとっての「流入青年」たち

 狛プーの「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」の精神(ネットワーク・マインド)は、当然、狛江市外から、なかには一時間以上もかけて通ってくる青年たちの参加を増やす結果につながっている。これは「地域に根ざす社会教育であれ」というスローガンを平面的にしかとらえようとしない人には、好ましくない現象として映るかもしれない。
 しかし、ちょっと待ってほしい。狛プーは、今や、現代青年にとっての「アジール」のひとつとしての役割を果たしている。アジールとはもともとは「(自治的な都市などの)不可侵の領域」という意味だが、いわば「駆け込み寺」であるとして理解しておけばよいと思う。「正統派」からはじきとばされた人たち(プータロー)は、そんな自分が受容されるサンマを感覚的にかぎつけてアジールに集まってくる。そこでは、仲間の活動に加わらずに(参加できずに)その活動をボーッと眺めていることだって許される。そういう所からユース・カルチャー(若者文化)が生まれ、社会の「正統派」の文化に影響を与えていく。
 だから、狛プーがアジールであるとすれば、狛江はユース・カルチャーの発信基地のひとつと呼べるわけだ。そこでの活動は、狛江市に若々しい息吹を吹き込んでくれるだろう。現に、狛プーの紙芝居は、市民祭で市内の多くの子どもたちに、そして、その親たちに歓迎された。しかし、こんなことを言うと狛プーのメンバーに怒られそうだが、たった一カ月の練習でプロ並みの腕ができあがるわけがない。紙芝居の面白さにはまってしまった、その「一時的流入青年たち」の気持ちが、狛江市民の気持ちと触れ合って、市民祭の場で共感的な世界を創り上げたのである。
 「地域に根ざす」と言っても、それを機械的に推し進めようとすると、「土壌」はいつまでたっても豊かにならず、草木は「根腐れ」してしまう。「アジールへの流入青年」たちが吹き込む新しい風が狛江の土の上を吹いてこそ、その土(地域文化)も豊かになるのである。
 さらには、流入青年たちの中には大学生も多い。これに対して、一昔前の青年教育は、大学に行かない(行けない)勤労青年のための福祉的、恩恵的な意味合いをもって行なわれていたと思う。しかし、山アラシジレンマの青年たちにとっては、本人が大学生だろうが勤労青年だろうが、社会教育の世界を知ってネットワーク・マインドを身につけることが緊急課題になっていることには変わりがないのではないか。
 むしろ、高等教育(大学の授業)は本来、自己教育力(「学びたい」という意欲など)を前提に成立しているのだが、その前提そのものが成立していない現状のもとでは、狛プーのような「社会教育」によって、その大学生に対する高等教育が成立する条件がつくられているという大それた考えさえ、ぼくは抱いているのだ。なぜなら、今日の大学生の学習意欲の喪失は、その大もとには生きる主体性そのものの喪失があると考えられるからだ。狛プーは勤労青年にとっても大学生にとっても「何を楽しみに自分は生きるのか」ということを取り戻す場である。

7 キャンプは夜だ

 「キャンプは夜だ」という言葉が中間まとめの図にある。過去の青年教育においては、サークルなどの目的集団に対する青年団などの生活集団の意義が叫ばれたことがある。そこでは、生活に根ざした総合的な人間交流の意義があらためて評価されていた。もし、そういう人間交流が可能になるならば、それは現代管理社会の一端に人間解放のユートピアを実現することにも近い。しかし、これといったほかの目的を持たずに、生活の中での人間交流そのものを目的とする試みなどに現代青年が関心を持つだろうか。私たちのそういうためらいに答えを出してくれるのが、キャンプであり、キャンプの夜であり、キャンプの夜の「空白のプログラム」なのである。
 そこでは、気楽なおしゃべりや「打ち明け話」とともに、一人ひとりの「生活文化」が自然にしみだしてくる。共通の文化の確認も楽しいが、異なる文化との出会いは「えっ、君っておもしろいねえ」という感じで、よりいっそう刺激的である。「仲間との楽しさ」とは本当はこういうものであり、キャンプは新しい「生活集団」としての新しい教育的効果を発揮してくれるのである。
 日中の正式のプログラムが終わって、夜、寝床で昼の議論の延長戦を行うことを「寝床分科会」と呼んで、その意義が注目されていたことが過去の青年教育にもある。本音の交流ができるというのである。このような「寝床分科会」の意義も軽視できないとは思うが、狛プーのキャンプは分科会の延長でさえありえない。「寝床分科会だね」なんて言われても、狛プーのメンバーはきょとんとしてしまうだろう。鉄板焼の肉や野菜、アルコールで盛り上がる一方で、個人がそれまで持ってきた「文化」や「生活」がそのものがポツリポツリと出されるのである。「たんなる飲み会」の魅力とも言えようか。思いもしなかった他者の枠組に出会って、自分の枠組との違いに驚き、「おもしろい奴だなあ」と感じ、しかも、「そうかあ。わかる、わかる」と、それなりに共感してしまうのである。
 人間は仕事や学業に追われる昼間よりも、夜のほうが自然体になりやすい。だからこそ、夜になると「悪いこと」もしてしまうのだろうが(それは、ある意味では「人間らしさ」である)、夜はそういう魔力をもっているからこそ、プータローの自由な精神にあこがれる青年たちにとって魅力的なのである。

8 青年が自分のお金を払う時

 大学生でさえ、教科書をなかなか買ってくれない。貧乏なのかなと思うと、彼らどうしの飲み会では、二千円、三千円を気前よく払っている。正直言って、コノヤローという気もするが、飲み会は現代青年にとってなんだか「天から降りてきたクモの糸」のようなものである気もする。ただし、そのわりには、「一気飲み」や「瞬間芸」など、背中を向け合って、それぞれの本心は大切に隠しているような淋しい飲み会のほうが主流のようだ。
 しかし、狛プーの飲み会は、それとは違っている。狛プーの終了後は、ほとんど毎回、ある飲み屋に流れていった。用事のある人や飲みたくない人は「バイバイ」と帰っていったが、飲めない人でもこれを楽しみにしてジュースで参加する人がいたし、すごいのは、狛プーの終了時刻にぎりぎりにしか間に合わないので、公民館ではなく、その飲み屋に直行して待っているという人がけっこういることである。
 狛プーの飲み会は一人二千円くらいかかるが、それ以上の魅力があるのだろう。ぼくは、これを、「飲み屋での自己解放と相互解放」ととらえている。実際、ぼく自身、その飲み屋で、「ここにいるときが一番mitoさんらしい」とメンバーによく言われる。解放されているのだ。依存しているのかもしれない。まあ、公的社会教育の参加者や援助者という社会的位置づけから解放されているのであろう。
 これは、自前の金をおたがいに払い合っているからではないかと思う。

9 空白のプログラム

 狛プーのキャンプの魅力が「空白のプログラムであることはすでに述べたが、通常のプログラムにもそのような「仕掛け」が配置されている。というと聞こえはよいが、ようは計画が「いい加減」ということなのである。しかし、いい加減はよい加減ということでもある。何をやるかきっちりと決まっているからこそ「来よう」という気もおきるのだが、そればかりでは、参加者は、「やらされている感じ」になってしまう。たとえば、狛プーのプログラムの中の「温泉に行こう」だの「連続お別れパーティー」だのという月は、
じつは何も決まっていないに等しいのである。そのほか、月の切れ目、切れ目も「良い加減」に運営している。
 たとえば、メンバーの一人が玉乗りのプロであると知ると、さっそく翌週のプログラムは玉乗りの練習にしてしまったり、「正月だからカルタとりをやろう」と一人が言い出すと、「やろう、やろう」ということになって、誰かが百人一首を持ってくる。その「良い加減さ」が、参加者をその気にさせるのである。
 「せっかく来たのに、予定と違うなんて、どうなっているんだ」と目くじらを立てる人はまずいない。青年とはそんなものだ。かっこよく言えば、狛プーでは青年たちは自由を使いこなしているのである。ぼくは、これを、フリースペースの教育力、自己治癒力だと考えている。
 ぼくは、狛プーの通年講師として、ある反省をしたことがある(講師をやっていると、そういう反省の機会はけっこう多い)。「中間まとめ」の図を作っていたとき、ぼくは早く完成させようとシャカリキになっていた。岩崎さんが例によって「一見、無駄話」的なチャチャをしばしば入れた。ぼくは、「おいおい、早く片づけちゃおうよ」と言った。そうしたら、その夜の飲み会で、ある女性メンバーに、「mitoさん、焦ってるんじゃない? 岩崎さんのペースのほうが私はいいわ」と言われてしまったのだ。彼女にその理由を聞いたところ、「今日は、プログラムが何も決まっていなかったから、久しぶりに飲み屋さん以外でおしゃべりのためのおしゃべりができると思って、楽しみに来たのよ」と言う。それで、ぼくは反省したのだ。
 プログラムを決めて、その目標に向かって参加者を楽しませる、そんな「過去の社会教育の枠組」に、ぼくのほうこそ縛られていたのだ。逆に、岩崎さんの「担当職員らしからぬ言動」は、彼の本領発揮、面目躍如の行為であり、さらにはユースワーカーとしての社会教育主事の存在意義そのものであったのだ。
 フリースペースの創造のための職員や講師の働きかけのあり方は、簡単そうで難しいし、難しそうで簡単だ。ぼくは、狛プーで、そういうおもしろい体験をさせてもらっている。

10 狛プーは癒しのネットワークである

 いくらなんでも、たくさんのことを書きすぎてしまった。そろそろ、この原稿でぼくが一番言いたかったことをまとめておくことにしたい。
 ぼくが大学のある授業で、人間の「偶像崇拝的」な行為について、依存の表れであると批判したところ、ある学生に「先生は傷ついたことがないんですか」と書かれてしまった。「その人がそれを信じていて幸せになれるのならいいではないか。だから、批判すべきではない」というのである。そうだとしたら、そのあとに残るコミュニケーションとは何と空疎なものなのだろうか。また、あるボスを偶像崇拝するファシズムが表れても、ぼくたちは「一部の人が幸せになれるのなら」と言って批判を避けなければならないのだろうか。社会とはそんなに個人がばらばらに生きていけるものではないだろう。しかも、その「優しさ」のわりには、自称「傷ついた人々」は、ぼくの触れられたくない過去の傷の有無まで問うてくる身勝手さをも兼ね備えている。
 人間は、親に全面的に依存できる時期を過ぎて、現実原則を働かさなければいけない「社会」に出ていく。それを「楽園追放」という。そのときに、すでに、「痛み」は不可避的に生じるのである。「痛み」を経験していない人はいない。気づかないようにしている人は、たくさんいる。しかし、そういう「痛み」をつらくて乗り越えられないでいる人が、「深み」をもっていることを証明された人間のようにほかの人を見下し、結局は、なんだかかえって威張っているような状況に、ぼくは異議を申し立てたい。「個の深み」とは、「痛み」の大きさなのではなく、その人が自分自身の「痛み」や自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているかなのではないか。
 この事例にぼくは現代青年のもっている変な思考回路を感じる。快適なコミュニケーションのためには「心を開く」ことが不可欠であるが、だからといって、「開きたくないこと」まで無理に開くことはないし、また、逆に、「心を開かせることが必要だから」といって、相手の人格にまで立ち入って論じたり、過去を詮索したりすることなどは誰にもできないはずだ。その相互認識なしには、心を開くコミュニケーションなどできるわけがないし、山アラシ・ジレンマに陥ってしまうことも目に見えている。もしかしたら、何人かの現代青年は「心を開くコミュニケーション」を非主体(偶像崇拝)的に憧れすぎているために、その結果として、「心を開くコミュニケーション」が実際にはできなくなってしまっているのかもしれない。
 傷ついた青年たちのもっている敗北主義は、現在、「被害者」を演じようとする思考回路にはまっていて、それがそれなりの自分勝手な安定感を生み出し、このようにニッチもサッチもいかない状況になってしまっていると思われる。そういう現代社会において、狛プーの青年たちが培ってきたネットワーク・マインドの「朗らかさと潔さ」は、とても重要な役割を果たすことができよう。狛プーの役割は、「自分への信頼(自信)や他人への信頼」を失いつつある現代青年にとっての、その基本的信頼感を回復するための、心を開いて交流できる「癒し」(いやし)のネットワークとして機能しているのである。
生涯学習の現段階からみた映像活用の課題
 生涯学習時代における文化映像の製作・保管・活用 最終報告書
             昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

1 生涯学習の振興を促す国立映像センターの役割

 「全国の生涯学習情報のシステム化に関する調査研究協力者会議」は、平成元年11月、「生涯学習情報の分類と様式の標準化について」のとりまとめを行ったが、さらに、その後、社会の変化や人びとの日常生活圏の拡大、学習活動の広域化などにより、今後ますます拡大する学習ニーズに的確に対応するためには、より広域的、全国的な情報提供体制が重要となってくるという観点から、各都道府県で整備されるシステムの広域的な相互利用のあり方について検討し、あわせてこれらのサービスを全国的・総合的に支援するため、全国的レベルで共通に利用できるデータベースの構築や具体的な支援機能のあり方についても検討して、「生涯学習情報の都道府県域を越えた提供の在り方について」(平成3年8月)審議のとりまとめを行った。
 そこでは、都道府県域を越えて情報提供する必要性として、@情報量および情報範囲を拡大し、提供される情報への信頼を高め、利用の促進を図る、A豊富で多様な情報を提供することで、人びとの学習活動の活性化を図る、B都道府県レベルにおけるデータベースの効率的な構築を進める、C都道府県レベルのシステムの普及促進に資する、D情報提供の改善、新たな学習機会等の企画に資する、の5点が挙げられている。
 また、全県のデータベースの概要を表すカタログが蓄積され、各県の端末から、必要に応じて全県カタログを参照し、利用したい情報をどの県が保有しているか、あらかじめ確認することのできる全国センターを設置した場合のシステム連携の想定は、図表1のように示されている。

 図表1 全国センターを想定した相互利用

 一方、映像の製作・活用に関しては、本文化映像研究会の「政策提言」にも述べてあるとおり、文部省に関わる東京国立近代美術館フィルムセンター、日本視聴覚教育協会、視聴覚教材センター、国立民族学博物館、放送教育開発センター、国立劇場、国立歴史民俗博物館を初め、多くの図書館、博物館、その他各地の映像センター、ライブラリー、また、郵政省に関わる放送番組センター、通産省に関わるTEPIAなど、多くの関連機関があり、なおかつ民間の機関を含めれば映像の製作、活用に関わる機関は実に多数存在している。
 しかし、「全国の生涯学習情報のシステム化に関する調査研究協力者会議」が構想している学習情報に関する全国センターのような役割を果たすことのできる、映像に関する全国センターは、残念ながら存在していないのである。それゆえ、「政策提言」において、「図書館のように映像館(仮称)が完成し、コンピュータで各拠点同士の情報を交換し、優れた検索システムで見たい映像をすぐに見られるようにする。また、後世のためあるいは学術研究に資するための記録制作を行なう」という環境が提案された意義は大きいということができる。
 ここにいう「国立映像センター」の存在意義を、「生涯学習情報の都道府県域を越えた提供の在り方について」のとりまとめに習って整理すれば、次のようにまとめることができるだろう。
 @ 映像に関する情報の量および範囲を拡大することによって、映像情報への信頼を高め、利用の促進を図る。
 A 映像に関する豊富で多様な情報を提供することで、人びとの映像活用を伴った学習活動の活性化を図る。
 B 都道府県レベルにおける映像データベースの効率的な構築を進める。
 C 都道府県レベルの映像製作・保管・活用システムの普及促進に資する。
 D 映像に関する情報提供の改善、新たな学習機会等の企画に資する。
 すなわち、「国立映像センター」は、国民の生涯学習に対して、とくに映像に関する情報サービスの面から、大きな役割を発揮することが期待されるのである。また、その全国センターとしての機能の共通性から、「学習情報全国センター」と「国立映像センター」とが複合的に設置・運営された場合に多くのメリットが期待できることも付記しておきたい。

2 生涯学習振興法と映像基本法の制定

 昭和63年7月、文部省は社会教育局を生涯学習局に改組して、文部省の筆頭局とする改革をした。さらに、平成2年1月には、中央教育審議会が「生涯学習の基盤整備について」を答申し、国や都道府県、市町村における生涯学習推進のための連絡調整組織の整備、都道府県における生涯学習推進センターの設置、大学等における生涯学習センターの開設、民間教育事業者への国および自治体による間接的支援などを提言した。これらの提言は、これまでの生涯学習の考え方をふまえ、この生涯学習を円滑に行えるようにするための条件整備のあり方を示したものである。とくに、この答申の中での、生涯学習推進体制の整備、生涯学習推進センターの設置等の事項は、重要である。
 さて、この答申を受けて、平成2年7月には「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」(以下、生涯学習振興法と略す)が施行されている。そこでは、都道府県の生涯学習推進の体制や生涯学習審議会などのほか、地域生涯学習振興基本構想のあり方が定められている。この生涯学習振興法では、もっぱら都道府県レベルのことがらについて定めているが、それは市町村レベルでも生涯学習の推進体制が同様に進められることを前提としたものであることはいうまでもない(これらの記述は、筆者も委員として関わった「亀岡市生涯学習センター構想案」を参考にしている)。
 このような生涯学習の援助のための法制化の進行のなかで、「政策提言」が提唱する映像基本法の制定について、生涯学習振興法の一環としての位置づけをすることが有益であるといえよう。「政策提言」では、「衣食住と同様に日常生活に欠かせなくなった映像の製作、保管、活用をめぐる環境は、国立国会図書館法に基づき図書資料において実施されている『納本義務』といった措置あるいは公文書館法といった基本法も無く、技術の進歩や映像の浸透ぶり、世界に冠たる映像国家日本の役割ほどには、基盤整備されておらず、製作奨励が先走ったカオスの中にあると言える」として、「映像の製作、保管、活用が私たちの生活に欠くべからざる人類活動の分野になっていることを念頭に、その安定した基盤整備と活性化を促す」という意味から映像基本法の制定を提言しているが、そこで述べられている「人類活動の分野」とは、生涯学習のますます幅広くなりつつある定義とかなりの部分が一致しているのである。

3 生涯学習情報提供事業から見た文化映像の分類・整理の方法

 文部省に設置された「学習情報提供システムの整備に関する調査研究協力者会議」がまとめた「生涯学習のための学習情報提供・相談体制の在り方」(昭和62年7月)によると、学習情報は、「人々がなんらかの学習を始めようとしたり、或いは、学習を進めるに当たって必要となる情報の全体」ととらえられている。
 このような学習情報には、@学習される内容そのものとしての情報(内容情報)とA学習者を学習機会等に結びつけるための情報(案内情報)の2つがある。@は、学習者が直接そこから学習することをおもな目的とする学習情報である。一般の文献、映像、学習材、教材、ファクトデータなどがそれである。Aは、内容情報に関する情報や、学習者が希望する学習活動を行うために必要な情報である。たとえば、どこでそういう学習が行われているか、どうしたらそういう学習ができるか、などを伝えてくれる情報である。
 なお、社会教育審議会教育メディア分科会の報告「生涯学習とニューメディア」(昭和62年4月)では、@学習者が学習を進める際に利用する資料、たとえば、中世の歴史を学習したい場合、それに関する図書や視聴覚資料等(一次情報)、A一次情報ではないが、学習者が学習を進めるために役立つ種々の情報、たとえば、特定の主題に関しての学習場所や学習の機会、図書や視聴覚資料の所在や概要等についての情報(二次情報)、の2つに分けてとらえているが、先の分け方と内容的にはほぼ一致するといえる。
 生涯学習の時代といわれる今日、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習活動が行われている。しかし、それらの発信する内容情報の中から求めるものを入手したり、案内情報を全体的に見通して把握したりすることは、市民個人の立場からは難しい場合がある。そこで、それらの学習情報をスムーズに流通させるための基盤の整備が必要になる。
 この基盤整備の仕事の鍵になる言葉が「ネットワーク化」である。学習情報のネットワーク化とは、それぞれの情報や情報主体がもつ個性や固有の価値を失うことなく、むしろそれを生かす方向で、情報主体の連携・協力を得て、ばらばらだった情報をシステム的に再構成することである。学習情報提供システムにおいては、とくに案内情報のネットワーク化に取り組むことになる。
 文部省では、住民個人の学習要求にも対応できるように、生涯学習情報のデータベース化を進めるとともに、県と市町村をネットワーク化して各種の学習機会等に関する情報を適切に提供し、助言・援助する事業を補助している(生涯学習情報提供システム整備事業)。そのイメージは図表2のとおりである。

 図表2 生涯学習情報提供システムのイメージ

 このような状況のもとに、「全国の生涯学習情報のシステム化に関する調査研究協力者会議」は、平成元年11月、「生涯学習情報の分類と様式の標準化について」のとりまとめを行った。これは、システム間相互の円滑な情報交換、全国的な生涯学習情報の効率的な収集と流通の促進、データベース資産の有効活用、生涯学習情報の量の確保などの必要から検討されたものである。これを文化映像の分類と様式の標準化の必要性に即して言い替えれば、次のようになるだろう。
 @ 多くの映像関連機関間の相互の円滑な情報交換
 A 全国的な映像関連情報の効率的な収集と流通の促進
 B 各種映像データベース資産の有効活用
 C 映像関連情報の量の確保
 以上の理由から、生涯学習情報提供事業に関連して現在検討が進められている情報の分類と様式の標準化の追求は、文化映像の分類・整理の方法および標準化のあり方についても示唆するところが大きいと考えられる。そこで、ここでは、「全国の生涯学習情報のシステム化に関する調査研究協力者会議」がとりまとめた生涯学習情報の分類とモデル様式について参照することとする。

 図表3 生涯学習情報の大分類及び中分類
 図表4 学習機会に関する情報のモデル様式

4 生涯学習時代における大学のあり方と国立映像大学

 「政策提言」では、国立映像大学の創設を提唱しているが、そこでは、文化の普及、文化財保護、生涯学習や学校教育、産業、地域の活性化などさまざまな面での映像の貢献に注目し、高等教育での取り組みを主張している。それは、別の側面から言えば、クローズドで専門分化した従来の学問ではなく、オープンで学際的な新しい高等教育を提唱しているととらえることができる。また、それは、後期中等教育からそのまま引き続く高等教育としてばかりでなく、文化の普及活動、文化財保護活動、生涯学習援助活動、産業活動、地域づくりの活動などを行なうさまざまな実践家にとっても、直接そこから学ぶことや教えることを期待されるということにもつながっている。
 生涯学習の理念の発展の経緯からいえば、1973年(昭和48年)、OECD(経済協力開発機構)のCERI(教育研究革新センター)が、「リカレント教育〜生涯学習のための戦略」という報告書をまとめ、リカレント教育の概念を明らかにし、生涯学習の施策のあり方を示している。ここでリカレント教育とは、個人の生涯にわたって労働と教育を交互に行おうというものである。同報告書は、リカレント教育を、生涯学習を実現するために行われる義務教育修了後または基礎教育修了後の総合的教育戦略としている。
 人生の初期に行われる学校教育だけで学習を終結させてしまわないで、人々の労働を重視し、その上で生涯学習を推進しようとする現実的な教育政策としてのこの報告書の意義は大きい。それとともに、現代社会の複雑度が増してきているため、偶発的で非公式的な生涯学習に、より組織化された意図的な教育の機会を交錯させる必要性が増大している状況を踏まえて、構造化された学習場面としての教育と、偶発的な学習の行われるその他の社会活動との間の、交錯と効果的な相互作用が提言されていることも見落としてはならない。この提言は、いわゆる教育の場面だけではなく、「その他の社会活動」からも広く生涯学習の可能性を見いだす目をわれわれがもつべきであることを教えてくれている。映像教育についても、このような生涯学習理念に基づくリカレント教育としての高等教育が必要とされているのだといえよう。
 「政策提言」では、「新しい技術を習得するとともに古い技術を統合し、かつ横断的な知識と感性、見識を持った、映像の保管、活用ソフトの専門家を養成、研究している機関はない」こと、「映像史的に技術的またはパッケージ的変遷を踏まえた製作技法の教育が行なわれているともいえない」ことなどから、@過去の貴重なフィルム、ビデオの保管・活用に適切に対応できていない、A膨大な映像資料を整理、管理できず、そのための人材も不足をきたしている、B映像の単なる保管にとどまっているため、劣化または散逸している、C適切なパッケージ変換や映像の修復、画質のチェックが行われていない、D映像の分類大系と統一的な優れた検索方法が確立されていない、などの映像に関わる今日の重要な問題が生じていることを指摘している。これらの問題点は、人生の早い頃の一時期としての就学時期後期だけの学習では、実質的な解決は望めないことばかりである。それぞれの問題については次のように考えられる。
 @の過去の貴重なフィルム、ビデオの保管・活用への適切な対応については、それが消えゆく現状に対して、即戦力となるような即時性が求められているため、現職者の学習が重要である。Aの膨大な映像資料の整理、管理のための人材の不足についても、専門的な課程を終えた新卒者によってその問題を根本的に解決するとともに、専門的ではない現職者であっても、その対象のための実践的な研修機会の提供が望まれる。Bの映像の劣化または散逸を防ぐための方策については、現職者のリカレント教育によるほうが、むしろ技術的な進展に対応しやすいほどであると考えられる。そして、Dの映像の分類大系と統一的な優れた検索方法の未確立という今日の重大な問題に至っては、一部の研究分野からそのすべてを解決できるはずがなく、そこでは、そのための国立映像大学での研究が、映像製作・保管・活用に関する全国のあらゆる実践と、リアルタイムで有機的な連携を図っていかなければならないということが明らかである。
 このようなことから、国立映像大学には、高等教育の機能とともに、リカレント教育、現職者の研修、全国の映像に関する現場との交流など、生涯学習推進の一環としての教育機能の発揮が強く期待されているのだといえよう。

5 映像が生涯学習に与えてくれるもの

 生涯学習とは、趣味、教養、文化、芸術、スポーツ、レクリエーションなど、どんなことでも自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶことである。もっといえば、人間どうしの対等なネットワークの中で、教えあい、学びあうことともいえる。そして、ここでとくに注目しておきたいのは、自由な子ども(フリーチャイルド)の心にあふれた学びである。フリーチャイルドは、ちょっとわがままなところもあるが、いつも何かを面白がったり、感動したり、ドキドキワクワクしたりして生きている。この心が足りなければ、芸術家などにはまずなれないだろう。だが、一般人であっても、その重要性は軽視できない。映像には、本人が面白いと思える世界が渦巻いている。ワンダーランド(遊園地)のように、気づきや自分の深い部分の発見やドキドキワクワクできることがあふれている。映像がによって与えられるそれらの活動はすべて大切な生涯学習でもある。
 つぎに、学習の本当の意味は、自分の気持ちや考え方の枠組を変えることだととらえられる。たとえば、他人は、当然ながら、自分とは違う枠組をもっている。他者とのふれ合いとは、その異なった枠組どうしが出会うことである。いいかえれば、他者の存在を喜べる人間のほうが幸せな人生を送っているといえる。他者の枠組を面白く感じるためには、他人をその人の枠組ごと理解する「共感的理解」が必要になる。このように考えると、今のその人の持っている枠組とは異なる枠組を効果的に提示できて、しかもそれにも関わらず共感を誘いやすいという貴重な特性を備えている映像が果たすことのできる役割は大きいといえよう。
 共感的理解や感動を伴う学習のためには、学習ばかりしている「過充電」「学習中毒」の状態から、「放電」「発信」へ向かうことがとても重要になる。一人ひとりにとって、発表できる場が大切なのである。考え方などの枠組が異なっていてもそれを安心して発表できる場を、心を開いて交流できる「サンマ」(時間・空間・仲間の3つのマ)と呼ぶことができる。そして、映像は、今や、学習者一人ひとりにとっての情報発信のためのメディアやツール(道具)になりつつある。そういう意味で、生涯学習の推進にとって、映像は今後ますます重要な役割を果たすことが予測できる。
 しかし、そこにもうひとつの大きな問題が控えている。それは、現代人の主体性の喪失状況である。自分で、考え、行動し、振り返る力、つまり、「主体性」がいつのまにか根こそぎにされているのである。そもそも、人生は、好むと好まないとに関わらず、選択行為の連続のプロセスだといえる。それゆえ、自らの責任で判断して自らの行為を選択し、自らの責任において評価する主体性は、その人の生きる力そのものだということができる。このような生きる力としての主体性をはぐくむ学習を前提としなければ、今まで述べてきた映像のもつ正機能も、すべて逆機能として働いてしまう危険性さえ生ずる。文化映像の活用にあたって、映像リテラシーの習得など、生涯にわたって成長し主体性を獲得する人びとの生涯学習の営みが不可欠のものであることを、我々は十分肝に命じなければならないのである。
安藤喜久雄・児玉幹夫編「人生の社会学」学文社
              昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
●第4章 思春期の悩み
●第1節 若者たちにとっての学校

●(1) 学校教育への恨み

 本章と次章においては、私の授業のなかでの学生の書いた「出席ペーパー」をなるべくたくさん紹介しながら考えていきたい。ここでいう「出席ペーパー」とは、講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くものであり、それに対する私のコメントは翌週の授業の冒頭に行われる。
 また、ここに挙げた「S大・S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事の課程を学ぶ大学生と短大生であり、「T大T部・U部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の1部学生と社会人入学者を含む2部学生である。そして、mito以下の内容は、それぞれの出席ペーパーについて私(自称mito)がコメントするために、授業までに準備しておいたメモである。

S短大教育社会学
 今までの高校教育がどうだったか話し合ってください、ということを先生が言ったのですが、私にとってはあんまり意味がなかったような生活でして、象っていうのは、とっても合っていると思います(筆者注 高校のイメージについて、あるグループから、象であるという発表があった)。
S短大教育社会学
 高校のとき、職員室や体育教官室etcの生ゴミ片付けと食器洗いが嫌いだった!何で先生たちの出した生ゴミを私たちが片付けるのー?くさいポリバケツを洗ったり、お弁当箱を洗わされたこともあった。
S短大教育社会学
 私にとっての学校教育。プレッシャーは、先生の差別、テストの敵がい心、おしつけ。学校教育のなかで一番いやだったのが、比較されることだった。幼稚園2年、小学校6年、中学校3年、高校3年、そして大学、の合計15年も、いやなのに通い続けている私は何なのでしょうか。
T大2部社会教育概論
 最近、ふと思うことがある。私は大学に何をしに来たのか、と。たしかに教員の資格を取得すれば、職場での私の立場は有利になる。しかし、私が本当に知りたかったことは、教師が生徒にどこまで干渉していいのか、教師が自分の尺度で生徒を評価していいのか、などであった。
 たとえば、入試を例にとっても、学力が基準に達していない、生活面に問題がある、などの理由で合否を決定する。もしかしたら、この合否で、その人の人生が左右されるかもしれないのに、わりと簡単に合否を分けていく。そして、その責任は、すべて受験生にある。合否を決定する側の権利(ちょっと大げさ)とは、何なのだろうか。同じ人間なのに、切り捨てる側と切り捨てられる側の差があるのは、なぜなのだろうか。
 また、生活指導という名のもと、言いたくもない小言を生徒に言わなければならない。その基準は自分の考えている「社会一般で言われていること」である。時には、きついこと、自分が言われたら自分でもかなり傷つくだろうと思われる言葉で叱りつけてみたりする。このようなことを教師は生徒にしてよいのだろうか。
 それらの答えは未だに見つからない。

 このように、自らの受けてきた学校教育への怨恨には大きなものがある。しかし、それが本人の深みに昇華されているかというと、残念ながらそうとばかりはいえない。反面教師だけでは、人間は成長できないということであろう。オープン・エデュケーションなどによって、オルターナティブな(別の)教育も存在しうるのだということを認識できるチャンスを提供しないと、本人は、制度化されたものへの単純な全否定や敗北主義からいつまでたっても抜け出せないことになる。
 もちろん、つぎのような気づきもある。

S短大教育社会学
 教育実習に行って、2週間を「先生」と呼ばれてすごしたわけですが、自分が中学生だった頃と、「先生」と呼ばれた2週間とでは、学校の見える部分が違って、毎日が新鮮でした。
 たとえば、先生方が生徒のことを一人ひとり、本当に真剣に考えた上で行動していることがわかりました。自分が中学時代に誤解していた先生の本当の姿が見えたときには(その先生はもう実習校にはいませんでしたが)、自分のおろかさと先生への申しわけなさに涙が出ました。それから、人に物を教えるということを通して、新たな自分の欠点なども見えてきて、自分を見つめなおすいいチャンスになりました。

 しかし、たとえばオルターナティブとしてのオープン・エデュケーションが形式的に実施されただけでは問題が解決されるわけではない。

S大教育社会学
 私の出身校は、今までの日本の学校にありがちだった四角い教室を連結しただけのタイプから、変化を持たせようとして、オープンスペースやベンチを配置したり、テラスに水を通して下に花を植えたり、プールに噴水を合体させたりした公立のモデル校でした。しかし、教室で机にすわっていると、突然テラスから水が出てビショぬれになったり、プールで泳いでいると、急に噴水に切り替わり、空高く吹き上げられてしまったりと、問題が多く、結局、皆、教室から一歩も出なくなってしまい、何のためのモデル校だかわからなくなりました。視聴覚機器も最先端の物をそろえていたようですが、使える先生がおらず、ソフトもあまり充実していなかったため、視聴覚教室は裏ビデオの鑑賞室となりました。

 そこで、もっと本質に迫って考えるためには、次のような素材が有益である。それは、登校拒否(学校不登校)に関するとらえ方である。登校拒否をする子どもたちについて、思春期を経験した若者たちは、どうとらえているのだろうか。そこには、その若者自身にとって学校教育が何だったのかがよく表れてくる。

T大2部社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)なぜ、学校を休んではいけないのだろうか。大人が会社を休む時、会社をやめる時、または転職する時、説明ができますか。それなのに、ただ「休みたいから」では、学校は休めないのです。
T大2部社会教育概論
 (登校拒否に関するルポ番組を見て)私は登校拒否の人たちの理由を聞いていると、とても嫌な思いがする。「私のこと、誰もわかってくれないっ」なんて言って。しかも、自分は絶対正しいといった顔でテレビカメラに向かってまくしたてる。私は言いたい。ふざけんな。校則が嫌いだの、学力が追いつかないだの、校風が合わないだの、もうー。

●(2) 勤勉主義のごまかし

 「がんばれ」とか「がんばって」という言葉は、私にはどうしてもひっかかる。不合理な精神主義の臭いを感じるからである。しかし、私がそう言うと、反発する学生も多い。

T大U部社会教育概論
 前回と今回、「頑張る」という言葉について(あまりよい言葉でないと)話していましたね。けれども、私は頑張るという姿勢は好きです。その言葉のもたらす意味はどうなのかわからないけど、頑張りぬいていく姿勢はすごいと思う。木に例えるなら、秋田杉のように空に向かってまっすぐに育っていく。そんなふうに頑張って頑張って生きていく、頑張りやさん。両親や友人や周囲の人たちに愛されて、自分自身もせいいっぱいの真心を返す努力をする。そんな頑張りやさんに私はひかれています。
mito 本人が頑張っているときは、それでよい。でも、たとえば登校拒否や拒食症の人は、頑張りたくても、つまり、学校に行きたくても、食べたくても、それができないのだ。そういう人に対して「頑張る」は禁句である。この言葉には「共感」がないのである。

 「頑張ってください」という言葉は、あまり目上の人には言わない言葉である。また、少なくとも、頑張ろうとしても頑張れない精神的な問題をもつ人に「頑張って」という言葉は禁句である。なぜなら、そう言われた人は「やっぱりわかってもらえなかった」という気持ちをもってしまうからである。私は、そもそも、「頑張る」という言葉に嘘があると考えている。「頑張る」という言葉は、オルターナティブ(もうひとつの)な価値を無理に否定して、自分が自分をだまして突き進もうとする言葉だと思うのである。日本語にはもっと素直な言葉、一所懸命や一生懸命などがあるはずだ。
 もちろん、運動会で頑張って走れている人に向かって「頑張れ」と応援することは、とくに問題にはならない。問題になるのは、何か深刻な葛藤があった場合に、本人または関係者がその問題と対面することを避けようとしてこの言葉が使われるときである。

T大U部社会教育概論
 ”頑張れ”という言葉に、自分自身に、そしてその言葉を私に投げかけてくれる人たちに、とても怒りを感じたことがある。ナースの仕事をしていて、以前、よく、治療や痛みで苦しんでいる患者さんに「頑張ってくださいね」などと声をかけていた自分がとても情けなかった。
 私が患者になって感じたこと、頑張ってね!という声を感じ、辛く苦しい時に思ったこと、それは、「私だって頑張って病気を治せるものなら治したいわよ。だけど、今は何をどうやって頑張っていいのかわからない。簡単に、頑張れ!っていうけれど、できないことだってあるのよっ」ということ。そして、もしかしたら、”頑張れ”という言葉には、”がまんしてね”っていう意味が含まれるのかもしれない・・・、そう思った。
 今回の授業の中でも、頑張りたくても頑張れない人のそのつらい気持ちに共感することが大切、という意味の言葉があったが、人の心に触れ共感することで、きっと自分自身の心の成長にもつながり、言葉もたんなる言葉で終わるのではなく、意味のあるいきいきしたものへと変わっていくのかもしれませんね。(全文)
mito 「お大事に」といういい言葉があるのだ。そして、少しでも自分のしてあげられることがあるなら、という気持ちを他人に対して持っていさえすれば、「頑張れ」などと結論的なことを言う前に相手から聞くべきことはたくさんあるはずだ。
S短大教育社会学
 「頑張れ」という言葉について、今日、先生が話していたこと、納得させられました。そんなささいな言葉なので、今まで深く考えたこともありませんでした。
 私はちょっとしたことでも結構悩む方で(とくに人間関係など)、そのことをよく彼氏に話すんです。そうすると彼氏はよく「頑張れよ」と言うんです。”よく”というより、それしか言わないんです。私は、先生が言うように、突き放された感じて、すごくイヤな気分でした。

 じつは、現代社会のなかで、頑張ることに最上の価値を置く勤勉主義の普及に貢献してきたもっとも大きな要素のひとつが学校教育だったといえるだろう。しかし、学校教育には、もうひとつの大切な役割があるはずである。個人の幸福追求への援助であり、幸福追求に不可欠な主体的な学習能力の育成である。第一、今まで人びとに勤勉さを要求してきた社会自体が、ガンバリズムによる大人たちの不幸(過労死、夫婦の不和)と子どもたちの不幸(受験競争、自殺)をどうにかしなければならないと気づき始めている時代なのである。
 ところが、学校教育にマイナスイメージを抱いている学生までもが、勤勉主義のしがらみから抜け出せないでいる。もっと頑張らなくてはいけない、または、頑張れない自分が悪い、と自分に言い聞かせることによって、自らの主体的な思考で自らの問題について判断したり言葉や行動を選択したりすることから逃げようとしているのである。こんなことでは、自分をだましているとしか言いようがない。

●第2節 真実の追求に対する敗北主義

●(1) 学習に対する強迫観念

 勤勉主義は、自分が学習したいから学習したいことを学習する、という主体的な態度にはむすびつかない。学習者、とくに学生や研修受講者などには、講義は黙って聞いているものという思い込みが強い。静かにすること自体は、それはそれでかまわないのだが、黙って聞いているだけでそのまま有益な学習になるという態度は、過度に(適度なら問題はない)依存的な学習態度としてとらえるべきであろう。
 また、正答の与えられない問題を考えさせられたり、学習者の思考が混乱するような話題の展開をしたり、学習者側が何かを発表させられたりすることを、いやがったり、まともな講義(学習)ではないと批判したりする学習者もいる。
 これらは、すべて「学習とはこうあるものだ」という思い込みを、本人が意識しないままに固定化させてしまった結果であると考えられる。そこでとらえられている学習の姿も、本人の主体的な思考作用をあまり重視しない受動的な行為としての「学習」である。
 「学習とはこうあるものだ」という思い込みが、強迫観念のように本人の学習を縛っているのである。しかも、その思い込み自体が、根拠のない間違ったものである。なぜなら、本来、学習とは個人的事象だからである。

T大2部社会教育概論
 定番化した授業に慣れきった自分としては、そのイメージを崩して、今日の授業(ハドリング=バズ討議のようなもの)のように、即席のグループの中で自分をさらけだして、自分に閉じ込もってもいられない事態となると、気分的に良くない状態になる。
 ディベートやら、討論やら、アメリカから輸入した授業形態の効用は何なのでしょうか。沈黙は金なり、ということわざは、昔のことなのか。あえて自分をさらけだす必要はないのではないか。余計なことをべらべらしゃべるなんて・・・。
T大2部社会教育概論
 (来学期の希望について)グループワーク型、大反対!他の授業でもやったことがあるが、とにかく、やる気のある者がバカをみる。やらない人間は、ずるがしこく点数や単位のみに重点をおいて、話し合いにも出てこない。やれと言われたこともやってこないのが、現代の若者の特徴である。
T大2部社会教育概論
 (来学期の希望について)学生の自主性、主体的積極性を前提とするのは、避けた方がいいと思います。そんなものは、この教室の中にはありません。みんな、そろいもそろってマヌケです(半分くらいは?)。
 (インタビュー・ダイアローグで)少なくとも僕は、遠くない将来には、こんな場合、しょーもないなあと思いつつも、先生につき合って質問の一つでもできる人間になりたい。
T大2部社会教育概論
 後期もそろそろ終わろうとしている今日になっても、今まで自分は何を学んできたのか。というより、何も学べなかったのではないか、という気持ちの方が強いような。何を学ぼうとしていたのかが、よくわからず、ヘンな気持ち。ヘンな気持ちというのは、今の気持ちをうまく表現できないけど、すっきりはっきりしないという感じ。
 今まで学校の授業といえば、講義形式か、テーマを与えられたグループワークということに慣れ親しんできた。大学に来る前の看護学校、助産婦学校では、どちらかというと、職業訓練的な色彩が強く、先輩から知識を与えられるって感じだった。それに、今までの大学の授業も先生が一方的に話し、私は聞く人だった。
 こんな私にとって、西村先生の授業は、えっ!何!これ!って感じで、拒否的反応があったのかもしれません。私はステレオタイプな考え方が強いので、なかなか自分に受け入れられなくて、今に至っているようです(つらいけど、今後にはプラスになるかも)。
 もっと早期に先生と話し合うチャンスを持っていたら、違う姿勢で授業に参加できたのに、と思います。
T大2部社会教育概論
 この1年間、授業を受けていて感じたことは、はっきり言って時間の無駄な授業に感じた。本音で書いていますが、評価は下げないでください。まじめに授業を受けても、とくに頭の中に残っていることは、ほとんど何もなかったような気がします。しかし、逆の見方から考えてみると、まじめに勉学している人の場合、このような息抜きの授業も大切ではないかと思う。
 情的にはとても深まったような気がします。しかし、知的には何も残らなかったような気がします。しかし、人間本来の情的な大切さをこれから知っていくためにも、この授業はよかったのかもしれない。

 自己の依存的学習態度を見直す機会に接すれば、苦しみながらもそれなりに自らの認知構造を変容させる可能性をもっている。そのための機会が、一つには講義内容の改革でなければならないし、出席ペーパーなどのシステムの導入なのでもある。
 本人の主体的な学習(全生活の中での)と成長なくしては、「個の深み」の獲得は期待できない。

T大2部社会教育概論
 かつて私は○○(他大学の高名な教授)の講義にもぐりで行ったことがある。また、その○○が著する○○シリーズも何冊か読んでいる。そう、2年前のことである。あのころは熱狂的な○○ファンであったが、今は違う。彼の思想には限界がある。
T大2部社会教育概論
 1年間ありがとうございました。テスト、テストで、悲しいかな訓練されてきた私にとって、先生の講義は、少しこわいナ、なんて思いながらの1年間でした。本当に悲しいかな、私の学校生活は、少なくとも高校までは、試される生活だったんだなあ、と思ってしまう。悲しい!人材として見られることを、甘んじて受け入れてきたんだなあ。でも、気づいた今は、改善していける。1人の人格として見られる私になろう!
 先生の1年間の講義は、やっぱり私の受け入れ能力をオーバーしていた所がありましたが、選択することはできました。慣れるまで、やっぱり統一性を求めたりして、パニック起こしたりしたこともあったけど。

 学生は、最初は、真実を追求したり、自分をよりよく変えたりしようとして、学習しているわけではないのである。これは、学校・家庭・社会によって思春期前後に形成された、学習への構えであるといえよう。しかし、学校教育や社会教育という同じ「教育」によって、その構えは、変わりうる。

●(2) 学生の敗北主義に対する教師のエンカウンター

 学生が学習に対して主体的になれない場合、社会や教育や他人のせいにするなどして、そういう自分の態度を認めることから逃避しようとしがちである。それに対して教師は真正面からぶつからなければならない。
 ここでは、おもに、私の授業への評価としてCをつけた白紙の出席ペーパーを提出したケースと、3回で単位が取れるのだからもう出席しないと出席ペーパーで宣言したケースの2つを取り上げる。

T大U部社会教育概論
 前回、この講義を聞かずに”C”の評価をつけた者です。Cをつけた理由は、「どうせ、こんな出席ペーパーなんて言ったところで、ろくに読みもしないんだろう」という考えにありました。軽い口調で学生に自分の授業への評価を求める・・・、いかにも今風のやり方になんとなく反発を覚えたのです。今まで、そういった人間、とくに教師にはろくな人間がいませんでしたから。
 今回、「白紙でのC評価がくやしい」と言われて驚きました。そんなところまで見ていたなんて・・・。前回のC評価は撤回させていただきます。前回、僕はロクに講義を聞いていませんから。そういうのはアンフェアーですからね。次回からは、講義を聞いたときだけ評価することにします。今度は評価の理由も書きます。
mito 心を開いてストロークしてよかった。
T大U部社会教育概論
 先生が一所懸命授業しているのは伝わります。しかし、少数意見はそれなりに大事にした方がいいと思います。私たち生徒は、単位のためには、好きじゃない教科や先生におべっかというか顔色をうかがうことは、正直言ってあると思います。だから、先生に対してプラスの評価をする人がかならずしもよい生徒だとはかぎりませんよね。先生ぐらいきちんとした人なら、あまりそのことにこだわるのはもったいないと思います。謙虚な気持ちを大切にした楽しい授業、期待してます。(評価はA)
mito AかせいぜいBの上だと思っているから、これだけ学生にぶつけている。
S短大教育社会学
 みとちゃんって自信過剰〜!と思いました。でも、その自信が良い方向で生かされているので良いと思った。Cの評価の話で、その学生がみとちゃんを解ってくれたことを話しているとき、みとちゃんがとてもうれしそうで、見ていてなんだかかわいかったです。
mito 教師は自分の授業を創る生産者であるとともに、「いい商品ですよ」と勧めるセールスマンでもあるべきだ。
T大U部社会教育概論
 前回の授業の時、白紙のC評価に対して「僕はほとんどすべての学生からAをもらえる自信がある」ということを言われていましたね。私はその言葉にとてもがっかりしました。教師が自らの授業方針に対して自信をもって進めていくことは大切だと思いますし、教師が自信のない態度で授業に臨んだら、学生もきっと戸惑うことでしょう。しかし、先生自身が自分の授業に対しての評価をAだと口に出して言うのはおかしいと思いますし、おしつけとして感じます。
 先生の授業の進め方が絶対的に正しく、学生にとって良いものだとは今は思いません・・・、と言うより、今の私にはわかりません。1年間授業を受け、最後に授業を受けた自分に対しての評価を出してみようと思っています。それが先生に対しての評価と一致するかどうかわかりませんが・・・。でも、毎回、この授業の中でハッとさせられたり、考えさせられたり、気づくことがあったりして、そういう意味では楽しみな授業です。
mito おしつけだったら授業評価など要求しない。学習者主体の評価が必要。そういう自分の考え方を明らかにしただけである。このようにすることによって、ほんとうは傲慢なことを考えているくせに、表面は変に謙遜ばかりしている教育者像というものを打破したい。
T大U部社会教育概論
 先生には自分が共感できること以外は批判する傾向があるようですね。聞いててあまり良い気分じゃないです。別に何でもいいですけど。(中略)
 悪影響を社会に及ぼすような性交、それにまつわる営業はキッパリとナイほうがいいと思う。私がどう言ったところで何も変わりませんが。そう思っている人は少なくないと思います。
mito いい気分にさせてあげるために教育があるのではない。学生が不快であったことなどは、僕の授業への批判にはならない。守られることを考えるのではなく、もっと対等に勝負してきてほしい。もちろん、受けて立つ。相談事業を行っているのではないのだ。
mito 別に何でもいいですけど、や、私がどう言ったところで何も変わりませんが、というのは敗北主義の表れだ。自分が思っていることが通らないからどうこうと言う前に、その自分の思っていることがそんなにたいしたことなのかどうか見つめた方がよい。
mito 私たちがすべきことは、これはないほうがいいとそれぞれが勝手に判断することではなくて、そういう現代社会の人間たちの生きる主体性の喪失という不幸とその自己解決への援助の方策の可能性を厳しく見つめることなのだ。
T大T部社会教育計画
 今日でこの授業は3度目。これで先生は単位が取れるとおっしゃっているのですから、これからは多分出なくなると思います。
 (差別の話・・・中略)ナチスドイツのヒットラーはユダヤ人を迫害したときにユダヤ人を下等な人種だという理由をつけていたが、もしかしたら差別をする人はそのような考えを持っているのだろうか。
 さっき出なくなるだろうと書きましたが、この問題について先生もしくはS音大、T大の人はどう考えているのかを知りたいので、次回は出席しようと考えています。なるべく出ようと思っていますが、何かの理由で休んだらすいません。
mito 3回出たからもう出ない、と言われたのは3年目にして初めてである。でも、正直に書いてくれてよかった。すべての学生に意味ある言葉を発し続けられるのでは、という僕の自信または万能感が崩れし動揺もあったが、それを回復させるプロセスもあった。ほかの学生などにも僕の授業についての感想を聞いてまわったのだ。
mito もしかしたらこの学生は僕の授業をあまり聞いていないで発言したのかもしれないし、あるいは最初から僕なんかをはっきり超えた主体性をもった人間なのかもしれない。それはわからないが、自分の原初的な問題意識に対する反応を面識のない多数の学生に期待し、しかも「次回だけは」出席するという態度には、真実の追究に対する傲慢さを感じる。差別に関する考察も、本人の実存から発した深い訴えになっているとはいいがたい。もう少しじっくりとらえていくべきものではないか。
mito 差別を封建時代のたんなる残りかすとして片付けるわけにはいかない。差別には、制度的差別と心理的差別(偏見)の二つがあり、とくに後者は私たちの主体性の問題が問われていて、この授業と深く関わっている。それは、自己の内なる差別意識を問え、批判の刃(やいば)を自己に向けよ、ということであり、この人の話のさらに次の段階の授業を僕は進めているつもりだ。対等な人間関係から逃げようとする権威主義への自分自身の依存を見つめてほしい。
T大T部社会教育計画
 前回、「差別が・・・」というペーパーを出した者です。私のあんなひどいものに対して、先生が一生懸命にコメントしてくださっている姿に感動しました。これから地方公務員になり社会教育主事になろうと思っている人間(私のことです)がこんなことじゃだめですね。あんな教師批判のようなコメントを出したら、普通はにらまれるのに、怒りを抑え込んでコメントしてくれている姿に感動しました。ただ、自己弁護になるかもしれませんが、「3回出たら」という人は私の他にもいると思います。ただその人たちはそう書かないだけなのかもしれない、ということは言いたいと思います。
 久しぶりに本当にためになる授業に出会えたような気がします。3回出たら、という言葉は取り消します。就職活動中ですが、できるだけこの授業は出ようと思います。こんな良い授業のある教育学科はうらやましいような感じもしました。
 あの文章は、途中からかなり感情が入ってしまったので、あんなひどいものになってしまいました。「差別」という問題はかなり深いものがあると思うので、もう一度じっくり考えたいと思います。そして、これに対する考えがもう少し自分でまとまったら、また、ここに書きたいと思います。
T大T部社会教育計画
 私を含めて、今の学生で大学の授業を能動的に受けている人はごくわずかだと思う。大学の授業に大きな期待をしていないのが本当ではないだろうか。大学に入るために勉強をし続けて、今やっと解放されたのに、また勉強をする気になどなれないし、自分から学ぶ姿勢というものも持っていないと思う。私たちの世代は、学歴社会という社会に勉強させられてきたように思われる。だから大学は、授業に参加する場ではなく、卒業に必要な単位だけとってあとは遊ぶ場としている人が大多数だと思う。それにカリキュラムが決まっていて、自分が興味がない授業でもとらなくてはならなかったり、とりたくてもとれなかったりして、つまらない授業でも1時間半、教室に座り続けなければならない。そんな時、頭の中では違うことを考えているんだと思う(私はそうだから)。
 自分がきちんと聞いていないのもいけないが、先生によっては黙々と1人で話をしているだけの人もいる。大学は、学生と教師の距離が一番遠い所なのではないだろうか。mitoちゃんの授業は、その点、私たちとの距離が近くて教師の一方的なものではなく、私たちの意見に反応してくれている。でも、点を取るための詰め込み教育を受けてきた私たちの世代には、そういう授業への参加の仕方がわからないんだと思う。
mito 大学の授業に主体的に取り組めないという学生の気持ちは、僕も学生時代はそうだったから、すごくよくわかる。でも、自主ゼミを開いたり、よその授業にもぐったりすれば、その問題は自分の力で解決できるのではないか。
T大T部社会教育計画
 美東さんは、僕が好きなタイプの一人です。教科書には書いていないような人生にとって大切なことを教えてくれるから・・・。でも、美東さんを見ていると、何か下心が感じられてしまうのです。学生に好かれたいという下心です。先生に挫折感を与えたその学生は、僕と同じように感じたのではないでしょうか。だから先生の心を試したのではないでしょうか。
mito 教師が学生により好かれたいと思うのは当然だと思うが、このペーパーが言いたいのは、僕が学生からのストロークを「卑屈に」求めているということか。何気ない仕草でそう感じられてしまうのだったら仕方ない。しかし、たとえば出席3回で単位を出すということに対してだったらそれは違う。授業を真剣勝負としてとらえる僕の考え方の表れなのだ。そして、そこではかならずしもいつも僕が勝つとはかぎらないというだけの話だ。
T大T部社会教育計画
 いろいろと挑戦していつも前向きに生きている強烈な意志のようなものをmitoから感じます。それに比べて学生側はずっとだらけていると思います。私はできる限り真剣に聞いているつもりですが、時々、聞いていないこともあります。すみません。でも、ただ、座って時間のたつのを待っているだけの授業を、今まで20年間近く受け続けてきた人間にとって、積極的に授業に出ることは非常に難しいことだと思うのです。
mito そりゃあそうだ。すべての授業に集中し続ける、なんて無理な話だ。教える側が「有利」であるに決まっているのだ。教師はその自覚をもつ必要があるだろう。
T大U部社会教育概論
 自己マン(自己満足)はつかれるのでやめてください。自己葛藤は人に話すものではないと思うのですが。
mito 不特定多数に言うべき言葉か、という問題はある。しかし、自分が自分の弱味をただ単にみんなにさらしただけだとは思わない。自己葛藤を含めた「強く闘う姿」の一つをみんなに提示したとは考えられないか。教師は、最後には、学生に乗り越えてもらえばよい立場なのだ。
mito 自己葛藤を話したのは「早くこの俺を乗り越えてみろよ」という意味があったのだと思う。それが自己満足かどうかなどと気にしていたら、コミュニケーションはできない。アヒルウサギの図を見て、ぼくがそれをアヒルだと言って「自己満足」しているとしたら、学生は「違う、ウサギだ」と批判してくれればよいのだ。むしろ、自分のことを「そもそも守られるべき存在なのに疲れてしまう」とか「他人から気持ちよくしてもらうべき存在なのにそうなっていない」とかしか言えない人こそ、自己満足的な生き方だとして批判されるべきではないか。
mito 僕を乗り越える事例としては、「先生はずるい。結局、考えれば当り前のことしか言わないのだから」と言って、恋や趣味に走っていった学生がいる。単位うんぬんとは決定的に違う生き方といえる。それまでは、くらいついてきてほしい。
T大U部社会教育概論
 mitoちゃんは、自分はこういう人間なんだということを、みんなに同じように認めてほしいと思っていらっしゃるのでしょうか? そんな風に聞こえてしまいます。
mito 本人が自分の不幸に気づかないかぎり、その問題を他人が解決してあげることなどできない。
mito 過去と他人は変えられない。しかし、他者がみずから行う「人づくり」を支援することはできる。それが教育(社会教育)ではないか。
mito 教師として、みんなに認めてもらえるよう努力はしている。しかし、「同じように」認められるわけはないことはわかっている。それは当り前のことであって、ペーパーの意図がよくわからない。最初からふれあえないと判断して切ってしまった方がよい人もいる、ということだろうか。そうだとしたら、それは敗北主義であり、僕はいやだ。僕は、教師としての自分の方がすべての学生にわかってもらうための最大限の努力さえしていれば、それでよいと思っている。

●第3節 恋愛・セックスに対する敗北主義

●(1) 身勝手な恋愛観

 今まで家庭や社会に守られることしかさせてもらえず、「自分は守られ続けなければいけない」という強迫観念に縛られている現代青少年にとって、もっとも大きな危機は恋愛である。なぜなら、相手もそう思っているからである。かといって、結婚はともかく、恋愛まで人生から放棄する気にはさすがになれないようだ。そこで、「世界一かわいい女の子」と「世界一かっこいい男の子」が社会から突出した形で交際するというファッショナブルで身勝手な恋愛観が作られる。

S短大教育社会学
 私は男性について疑問がある。mitoちゃんは結婚していて、もう子どももいるそうですが、もちろん奥さんを愛していますよね? それなのに厚木駅あたりでS大の子をナンパしたり、ほかの女性を見て美しいと思ったりするんですか? 奥さんだけを「きれいだ、お前が日本一だ」なんて思わないんですか。
 私には彼がいますが、私はやっぱり彼を日本一だと思うし、他の男性を見ても何とも思いません。私の友だちも、私と同じことを言っていました。
 私は、彼女や奥さんという特定の女性がいても、他の女性となれなれしくしたり特定の関係になったりする男性の心がわかりません。やはり、男とはそういう生き物なんでしょうか。(全文)
mito ナンパをしているのではない。予約した電車が来るまでの時間、通りがかりの知り合いの学生を誘ってお茶を飲んでいるだけだ。
mito ほかの女性を見て美しいと思ったらいけないのか。あなたにとって「いい男」とは彼しかいないのか。だったら、それはただの従属関係だ。自分がすべてを捧げているからといって、相手にもそれを強要するのは、相手にとっては迷惑でしかない。どんな相手にもその人の生き方に対して自分の期待を押し付けることはできないのだ。ありうるとすれば、せいぜい「ラストダンスは私と」という言葉ぐらいであろう。
mito 逆にもしあなたの前に、もっと素敵な彼氏が表れたら、平気で乗り移ってしまうつもりなのか。外見の上での美しいとかかっこいいとかいうのは、1週間であきてしまうはずだ。本当の恋愛はファッションではない。他人と比べてあの人がいいと言ってつきあうのは、エセ恋愛である。「いい男」は世の中にたくさんいる。けれども、二人のメモリー(プロセス)だけは二人だけのものだ。だからこそ、恋愛や結婚は、「この人だけ」なのだ。
T大T部社会教育計画
 先生、(彼氏がいないので時々淋しさを感じるというペーパーに対しての)コメント、どうもありがとうございました。自分のが読まれるとは思いませんでした。というより、読まれるのが恥ずかしくて”コメント希望”なんて書いたことがなかったのですが、とても嬉しかったです。本当に泣けてきました。私にとっては意味のある価値ある言葉でした。「深い」って言ってもらえたことで、自分の自信が少し浮上しました。(中略)
 今の私にはとても”いい男が恋人になる”なんて考えられませんけど、”いい女になりたい”とは思います。
mito ファッションとしての恋愛の流行を主体的に拒絶せよ。人間どうしが心を開いてつき合える時間と空間を創り出せ。
T大T部社会教育計画
 先生は(彼氏がいないので時々淋しさを感じるというペーパーに対して)「たくさんの男と知り合っていい女になって、一番いい男を選べば良い」と言いますが、どういうことでしょうか。こういう悩みを持っている人は、「もっとたくさんの中から選びたい」と思っているから彼氏ができないのではないですか?
 人間なんてどん欲になってしまったらキリがないと思うし、人間は妥協の産物であるとも思うのです。妥協の中だからこそ喜びも悲しみも生まれてくるのではないですか。人間は妥協する勇気を持つことが時には必要なのだと私は思います。(中略)
 私は妥協の中でも十分幸せです。なぜなら私は勇気を持って妥協しているからです。
mito 妥協ではなく基本的信頼なのではないか。そしてそれは、「たくさんのいい男と知り合いになる」という僕の意見と同じではないか。問題は、その途中の「おたがいに心を開いて異性と交流する」という段階を、あなたが恋愛だとして自分をごまかそうとしているところにあるのではないか。そういう恋愛は、たんなるファッションであるし、幻想でもある。また、妥協の産物として恋人を選んでしまうのでは、相手の男にあまりにも失礼なのではないかと僕は思う。
T大T部社会教育計画
 何といえばいいのかわからないけど、今日の話はあまり快くありません。(mitoの)ひとりよがりのような気がするんですけど。「一番美人」とか「一番かっこいい」っていうのは、その他大勢にとってじゃなくて、「自分にとっての」だと思う。先生の言葉には反対!
mito では「自分にとって」もっとかっこいい男性が表れたらどうするつもりなんですか。「してもらうこと」しかしらない現代人の不幸を克服して、「してあげる」こともできる自立した「いい女」のさわやかな依存のしかたを身につけてほしい。

 若者の身勝手な恋愛観は、仮説的ではあるが、自己実現を一度は求めたが挫折してあきらめたそのあとの敗北の見返りのようなつもりで信じ込まれているようだ。競争社会の悲しみを味わってしまったお姫様が、こんなにかわいそうな自分を守ってくれるすてきな王子様が白馬に乗って現れないわけがない、と無理に自分に言い聞かせているように思えるのである。

●(2) 対等な人間関係の中での性的興奮や快感を受容できない

 セクハラの問題は、対等な人間どうしという立場では人間関係をもてなくなった人が、地位や暴力を利用して性的関係を味わおうとする、現代人の一種のあがき、または、生きる主体性の喪失の象徴的事象として理解できる。そこまで論及しないで、性的興奮自体を悪いこととして排除しようとしたりする潔癖主義や、逆に仕方のないこととして黙認する反理性主義は、結局、敗北主義に陥るしかない。
 セックスが対等で人間的なふれ合いのなかでのギブ・アンド・テイクの楽しい行為であることを、じつは、若者たちはなかなか認めようとしない。

S短大教育社会学
 私は、先生が(街頭で若い女性のスカートが風でめくれた)パンツのお話をなさった時は、びっくりでした。なぜっていうと、先生はそういうことを考えないものだとも思わなかったのですが、なんかびっくりしました。先生は「やっぱり見たい」とかおっしゃっていましたが、女の私には本当に男性の気持ちはわかりません。女の私から言うのも変ですが、男の人は女の人のパンティーを見て何がうれしいのでしょうか?
mito 男女における性的興奮の仕方は異なる。
S短大教育社会学
 本音を言ってくれるmitoちゃんって、やっぱりGoodですネ。思わずうけてしまったけど、大切なことだと思います。
T大T部社会教育計画
 先日の講義で、突然風が吹いて女性のスカートがめくれた時に、「それを見た奴はセクハラだ」とおっしゃっていましたが、私はその件に関して納得がいきませんでした。別に好きこのんで自分が優位に立ったわけでもないし、別に地位や権力を楯にそんなことをしたわけでもない。仮にそれを「ラッキー」と思った奴が「セクハラ」ならば、それを見ても何にも思わなかった人も「セクハラ」ではないのですか? でも、男の人だったら、やっぱり「ラッキー」と思うのでは? それを見なくて「ラッキー」と思ったという先生は、逆に自分を偽っているように私には思える。
mito 見なくて「ラッキー」なんて、言っていない。そんな内容のない話を、授業中、僕が喋るわけはないということを、いい加減に気づいてほしい。性的感情があるのに、女性がいやがっていることを感じて、無意識に目を伏せていた僕自身に対して良い感情を持った、ということなのだ。相手が困っているのにジロジロ見るとしたら、それはやっぱりセクハラだ。対等な人間関係、性関係を持てない人のやることだ。君自身、その場に立たされたら、ジロジロ見るなんてことはしないと思う。

 「してもらう」経験しかない青年が交流するとき、「してあげる」「してもらう」ことのやりとりが、なかなかスムーズには交換されない。その理由のひとつが、自分が傷つきたくない、他人を傷つけたくない、という気持ちが強いあまり、「気をつかって」疲れてしまうということである。グループワークトレーニングの最大の効果のひとつは、「気をつかう」のではなく「気のきく人になる」ということによって、とても楽な気持ちになれるということを知ることである。

S短大社会教育特講
 (グループワークゲームで)自分はできあがっても、同じチームの人たちがどうなっているか、自分はこれで正しいのか、など、最後まで気をつかってあげることを学んだような気がした。
mito まわりに気をつかってくれる人がいても、普通の人だったら嬉しくないと思う。対等な人間関係においては、気をつかう人の存在がうっとうしいからである。それを嬉しがるのは、権威主義的な人だろう。気をつかう人ではなく、気のきく人になることが大切なのだ。気がきく人というのは、別に犠牲になるという感じは持たないまま、みんなのためにお茶を出してくれたり、暑いときに窓を開けてくれたりする、そういう人だ。
S短大社会教育概論
 (バスでお年寄りに席を譲れなかった体験などを挙げながら)自分でブルーになっちゃったまま、人にかまってもらおうとするのではなく、自分から心を開いてもっと楽しく生きていかなきゃ、幸せをつかむことができないし、(社会教育主事などとして)周りに幸せを配ることもできないですよね。

●関連概念
●社会的逸脱
 逸脱とは、本筋からそれはずれることである。そこには、ある行動や態度を、社会的規範、つまり、道徳的な価値基準や常識(と思われていること)、社会のルールなどから見て「望ましくない」とする判断が含まれている。そこで、社会的逸脱とは、社会をスムーズに運営していく立場から見て「望ましくない」行動や態度をさすといえるだろう。青少年の問題で言えば、自殺、薬物依存、性非行、暴力、喫煙、飲酒などが挙げられる。
 しかし、社会学の立場からは、社会的逸脱の現象を最初から忌み嫌うような先入観や偏見をいっさい捨てて、科学的、合理的にこれを究明しようとする。そのことによって、たとえば、社会や学校にうまく適応できない子どもたちがなぜ増えてしまうのかという問題について、ただ単に特定の子どもや親や教師のせいにするのではなく、社会が個人に求める適応が過大すぎること、個人が適応しようとしても社会の諸制度がそれにうまく対応していないこと、などを明らかにすることができる。
 つまり、社会的逸脱行動に対して、感情的、観念的に反発したり同情したりするのではなく、社会科学の視点に基づいてそれを研究することによって、むしろ、個人は現代社会にどう対面すればよいのか、それぞれの個人にとって社会はどうあればよいか、などを私たちは学ぶことができるのだといえよう。

●教育
 教育とは、社会がその成員に対して今までの経験等の蓄積、すなわち、知識、技術、規範、信条、慣習などを伝達し、その社会に適応するよう働きかけるもっぱら意図的、組織的な営みを意味することが多い。このことは、国民が「自ら実際生活に即する文化的教養を高める」(社会教育法第3条)社会教育においてさえも、「学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動」(同法第2条)として定義されていることから、ほぼ同様だととらえられる。
 しかし、社会化の視点からこれを考えると、その客体と主体が相互的であり双方向の過程としてみることができる。しつけや教育などにおいて、親や教師は子どもを社会化しようとするが、同時にそのなかで、自らを親や教師として社会化していく。この場合、子どもが親や教師を社会化しているとみることができるのである。(安藤喜久雄・児玉幹夫編『わかりやすい社会学』学文社)
 教育は個人や社会による意図的、組織的な営みであるとするとしても、それが機械的な一方向のものではなく、おたがいにフィードバックのある相互作用としてとらえられることに留意したい。最近、教育を「ともに育つ」という意味から「共育」というキーワードでとらえる議論が盛んだが、これも以上の観点から理解することができよう。

●第5章 青年文化とアイデンティティ
●第1節 対抗文化にならない理由−自信がない、他人の自信が嫌い

●(1) 教師や他人の自信を不快に思う敗北主義

 自信とは、本来、他人より優れているということでも、絶対的に強い、正しいということでもない。むしろ、自己の弱さを受容し、そのうえで新しい知識や他者の言動なども参考にしながら、自分の核を変えていけることこそ、本当の自信といえるだろう。しかし、競争主義のなかで傷つき主体性が歪められた学生にとっては、他人の自信のある態度は不愉快なものとして映るのである。しかも、自分が授業料を払っている相手の教師に対してさえも、同じ反応を示す。そういう人たちは、今後、どのように成長し、自己を確立していこうというのだろう。
 ここでは、私が学生の私語を間違って注意してしまった事件が中心になっている。人間が接すると傷つけあうこともある。そのとき、謝って許しあうということができないと人間関係はやっていけないのだろうが、一部の学生はいったん傷つけられたら謝られても自分の心の傷は回復できないと考えている。それまでの人生のなかで、守られることしか経験していないのだとすると、相手を傷つけないように、自分が傷つかないように、おそるおそる生きていくしかない。まさに、これは、「山アラシジレンマ」であり、自信(自分を信頼すること)と他信(他人を信頼すること)のない人生ということになる。

T大U部社会教育概論
 (mitoの)ある程度の努力とそれに伴う自信に裏うちされる必要以上の思い込みに、私はある種のごうまんさを感じる今日この頃です。教職をめざす身の私にとって学ぶべき点は数多く、縁あってこの講義をとったわけですから、ずっと参加していこうとは思います。けれども、「ごうまんではない」と言い切ることそれ自体がすでにごうまんなのではないでしょうか。
 日に日につのるこの感情を自分の中で消化しきれずにいるので、多少、時間はかかると思います。それでも、私は、自分と違うものを受け入れようとはしているつもりです。
mito 僕の授業は、僕にとっての勝負をかけている唯一の商品である。それを「素晴らしい品物ですよ」と言わずにどう言ってほしいのか。教師の授業に対する自信を不快がるのではなく、現実の授業(商品)が教師の公言するほどでもない部分があるならそれを指摘して批判すればよいではないか。僕は「受けて立つ」と公言しているのだから。それとも、教師が自分の授業を「つまらないだろうけど僕のために我慢してくれ」と言ったら、あなたは初めて満足するのか。だとすれば、あなたは(教育の)消費者としてもひどく主体性に欠けていると僕は思う。
mito 自信とは、欠点や弱点がないことではなく、それらを含めたありのままの自分をOKと受けとめ、必要に応じて自分を変化させることである。
mito 僕が「自分は傲慢ではない」と言ったのなら訂正する。しかし、そんなことは僕はふつうは言わないと思う。人間はアンビバレントな存在だから、僕自身も数%が傲慢で数%が傲慢ではない存在だと思っている。僕は自分のある行為に対して「傲慢(の表れ)ではない」と言ったのではないか。そういうことなら大いにありうる。それも否定して、すべての人間の行為を傲慢さと結びつけるのなら、それは敗北主義である。そういうふうにして、あなたは、結局、みずからの数%の傲慢さを黙認するつもりなのではないか。
mito 「ある程度の努力」という表現が、「自分が教師になったらもっと努力する」という意味のものだったら認めるが、きっとそういう意味ではないのだろう。むしろ、「努力」の効果への疑問視が最高位に置かれてしまうという敗北主義の特徴が表れた言葉だと思う。
S短大視聴覚教育
 (私語を間違えて注意されて)今日はお友だちが傷つきました。あなたは自分に自信を持ちすぎていると思います。たしかにそれは大切だと思いますが、自信は人を傷つけることがあるのです。「口はわざわいのもと」です。気をつけてください。(全文)
mito 「口はわざわいのもと」は自己表現に対する敗北主義である。
mito 暴力は知的水平空間にはなじまない。変にわかりあってしまうところがあるからである。だからこの授業では暴力は禁止している。僕が間違った自信をもっていると思うのなら、どこが間違っているか言ってほしい。そうでないなら、暴力を振るわれてもいないのに「傷ついた」と思ってしまう自分の弱さに気づいてほしい。
S短大視聴覚教育
 あなたはいかにももっともらしいことを言いますね。さぞかしものわかりのよい教師なのでしょうね。教師の理想像ともいうべき人でしょう。私も見習ってそういう教師になりたいです。でも教師といえども人間だから人を傷つけることもあると思います。私は、とくにあなたみたいな性格の方に、一番そういうことが多いと思います。あなたは、自分に自信があるから、自分に意欲があるから、その分、絶対に、あなたが感じている以上に、人を傷つけていると思います。今回のラベリングのことを良い機会にして、少し気にかけてみてください。
 ちなみに、先ほどのラベリングで、あなたはラベリングをしてしまった学生に謝っていたけれど、あれはその前にレッテルを貼られるような行為をしていた学生が悪いのであり、謝る必要はないと思います。
 私はあなたの自信過剰があまり好きではない。
 生徒の身分でえらそうなことを書いて申し訳ありません。(全文)
mito ラベリングとは、相手の過去の行為が現在の判断に影響してしまうところに基本的な問題があるのだと思う。相手の今の行為については、むしろ、理由や気持ちなどをわかろうと分析する努力が大切だと思う。そうでないと、人間の相互理解の難しさを一面的に強調する敗北主義に陥ると思う。
mito 自信過剰というが、資質・能力以上のホラを僕が吹いただろうか。このように考えている、努力している、と言っているだけではないか。
S短大視聴覚教育
 今までにない楽しめる授業で良かったです。自分の過ちを認めて、生徒の前で頭を下げる先生なんて、そうざらにいないと思います。感動しちゃいました。しゃべったのは、私と○○さんです(この学生は僕のラベリングによって私語に関する2回目の注意を受けた学生の一列前に座っていて、その私語を僕が先ほどの学生のものと誤認したようである)。どうもすみませんでした。内容は○○さんのペーパーにちょっとmitochanのイラストを書いていて、そのことでしゃべってしまったのです。トレードマークにでも使ってちょうだい。・・・なんてずうずうしいんでしょう。
S短大視聴覚教育
 一番印象に残ったこと、学んだこと、をいうと、mitoちゃんが話をしていた子をまちがえたでしょ? そのあとすぐあやまった。これってすごいと思った。普通のっていうか一般の教師というような人は絶対あやまらないと思う。だって教師っていうのは、生徒より立場が上だっ、みたいに考えているでしょ?
 だから、教師って苦手だった。中学でも高校でも。何かしようとしても、それがちょっとまわりの人と違うことだと、上から圧力みたいのをかけるでしょ。そういう所とかがすごくイヤだった。
 でも、mitoちゃん見て思った。「苦手」って決めつけていたからいけなかったのかナって。あたしがわかろうとしてなかったのかもナーって・・・。むこうもあたしのこと対等のものとして見てなかったのと同じように、あたしもむこうを対等のものとして見てなかったのかもしれない。
S大教育社会学
 私は、そのペーパーの文章の中に、人間が本来もっている「いじわる」の気質がかくれているように感じました。もちろん、その人もそれだけのために書いたわけではなく、本当に思ったことを書いていたと思うけど、人間って少なからず「いじわる心」をもっていますよね。それって、弱い人がマトになることが多いけど、逆に自信があっていつも熱く燃えているはりきり屋さん(=mitoちゃん)に対しても、起こってしまう時があるみたいです。そのような人に対して、「自分はそこまでできない」「先を越された」というような”あせり”や”しっと心”が「なんだかちょっといじめたくなっちゃうなあ」という気持ちを生んでしまうときもあります。彼女のペーパーにはそんな気持ちがちょっと隠れていたような気がしました。でも、こういう私の考えもラベリングなのかなー?
 最後の最後に思ったのですが、mito先生のことを「あなた」と書いた人たちは、ちょっと卑怯な人だと思う。mito先生を目の前にして口で言うならまだしも、顔がわからないから紙に書いて紙を仮面にしている。口にする方がイントネーションによって言いたいことももっと素直に伝わるのに、紙に書いて人を批判するのは卑怯だと思う。
mito 知的水平空間としての授業における出席ペーパーだからこそ、どんどん批判すればよいのである。そこで僕を練習台にして、きちんと相手を批判できる能力をだんだんと身につければよいのだ。だから、普通の友だちに対してやってはいけない。僕に対してならかまわないのは、教員としての僕は学生からの批判をまともに受けて立ってあげるために給料をもらっているようなものだからである。
mito 学生からのそれぞれの批判のなかには、かならず数%ずつの真実が含まれている。1%の真実が含まれているとすれば、それはすべての学生が1%ずつそういう気持ちをもっていると考えてもよいのだと思う。だから、その1%に対して教師はまともに答える必要がある。
S大教育社会学
 私もmitochanのことを、ちょっと自信過剰だと思ったことはあります。なにか信念みたいなものがあるのか、自分の言っていることが一番正しいと思い込んでいるように見えたからです。
 でも、mitochanは、学生から指摘されたことについて、ちゃんと答えてくれるし、弁明をしたり、必死で説得しようとしてくれます。
 それで、”どうしてみんな自信過剰だと思うのか”ということについての私なりの解釈です。私たちは、たかがといえど20年以上生きているわけで、それなりの経験にもとづき考え悩んでいるのだから、それを指摘されたり変えろと言われたりしても、ムッとするというか、心をかき乱される気がして、いい気分ではなくなるからなのだと思います。
mito 本当の自信とは、もし自分が間違っているとわかった時には変えてもいいや、別に恥じではない、と思えることである。そのように思えるようになると、人生はとてもいい気分で、つまり自信に満ちてすごせる。
S大教育社会学
 自信がなきゃ音楽を人前でできませんよね。うじうじ舞台に出て「どうしよー」なんて言いながら弾いたり歌ったりするのは、みっともない。ただし、油ぎったオジサンみたいに自信を公私にひけらかすのはアホです。私的にはひかえ、公的には胸をはる(逆をやるのもアホです)。
 自信のない人が会社で立案できます? 自信のない人が「あのー、僕、こう考えてきたんですけどー」なんて言ってきたら一発でクビです、私が上司なら。でも、普段、控え目な人間が自信を前面に出してきた時ほど目を見張らせるものがあると思います。
mito 私的に控えるということは、さわやかに依存できることを意味していて、公的に胸を張るということは、そういう自立した人間が役割遂行することを意味しているのだととらえられるだろう。その逆をやる人も世の中にはたしかにいる。そういう人はCP(厳格な親の心)とAC(従順な子ども心)の傾向がともに大きい「権力に弱いタイプの人」といえる。
S短大社会教育概論
 今日のみとchanは少しこわかったです。それはすっごく真剣に話していたからだと思うけれど、私は萎縮しちゃいました。
 今日の話で学んだことが多くて、頭がこんがらかっていてうまくまとまりませんけど、「視聴覚教育事件」で私が思ったことは、いいとか悪いとかの前に、先生から授業中に指摘されることは本人には好ましく思えないっていうのか、何かスマートではない、かっこわるい、だから注意されるのは避けたいっていう、人間の中にある自分を守ってしまう作用が働くのだと思う。
 みとちゃんが、今、何を考えているのかわからないけれど、みとちゃんは自分のことを非難した人に対してどういう感情を持っていますか? 私はみとちゃんを見ていて怖い気がしました。みとちゃんに注意された人の、現代人にしかわからないっていうのかな、気持ちをわかっていないのなら覚えてあげておいてほしいと思いました。
 今、何を言っているのかわからないので、変な言い方をしてたらごめんなさい。傷つかないでください。ある面でみとちゃんの考えに賛成しているんです。
mito このペーパーを読んで、事件の当事者の痛みを少し再認識した。でも、結局は、その双方の痛みの積み重ねが授業なのであろう。
mito 教師が傷つかないように配慮する気持ちはやはりありがたいものだ。これは批判のしかたとしてもなかなかのものだ。
S短大社会教育概論
 高校のときの先生が、言いたいことがあったら言え、と言ったので、実際に言いたいことを言ったらすっごく怒りまくられた。それ以来、卒業までの2年間、その先生には何も言えなくなったし、言わなかった。そして、卒業式の日にそのことに関して先生からあやまられてしまった。すごくショックだった。私も先生に対してラベルを貼ってたんだなあ、あの先生はイヤな奴だって(あんまり思い出したくなかったけど思い出してしまった)。
 そのとき私が先生に言ったことで、先生はすごく傷ついてしまったらしい。言いたいこと言えないのもつらいけど、言ってしまうのも考えものだと思う。この人は絶対にそんなこと言わない人だと思っていた人にズバリ言われてしまったら、やっぱりショックだろうな。この前、先生に会ったけど、普通にしゃべれた。よかったと思う。
mito 自信をもっている人は、他人からどんなことを言われても、耐えられるはずである。その教師は、それができると思っていて実際にはできなかったのだから、これこそ「自信過剰」というべきであろう。そういう人に対しては攻撃的な言い方はしない方がよい。そういう場合は、人格に踏み込まないようにして、行為だけについて、「私は」という言い方で、迷惑な点などをわかってもらうようにするとよい。そして、基本的に信頼しているのだけれども、という、Yes,Butの言い方も有益である。なお、これらのテクニックは、アサーティブ・トレーニング(自己主張訓練)の基本的技法である。
T大T部社会教育計画
 自信に満ちている感じがする。それは子どもの頃から優等生であったからだろう。劣等生の気持ちをもう一度考えてほしい。(全文)
mito このペーパーの人は自分を「劣等生」としてラベリングしているのではないか。自分の主体性の獲得を阻害するようなそんな社会の物差は、自らが拒否せよ。教師の態度が自信に満ちていること自体だけをとりあげて批判するのは、たんなる負け犬根性の表れであり、知的水平空間における本来の批判にはとうていなりえない。
T大U部社会教育概論
 私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのか、分かりません。
 しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。
 しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに「変に理解しあってしまう」という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです。(全文)
mito この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて「真剣に」受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう。友だちにこの授業の録音を頼むなどしてもっと僕に食いついてくることを勧めたい。
mito たかだか2回目の受講だけで、年上の教師に対して実質的には「敵対語」ともいえる「あなた」という言葉を使っているが、それはあなたがその言葉を本当に主体的に選択した結果なのか。僕には理解しがたい。
mito 納得したのなら、自分を変えよ。納得しなかったなら、自分は変えるな。それだけの話だ。最初の授業で話したことだが、自分を変えることを学習というのだ。自分を変えることは初めはつらいだろう。つらいから、それをあなたは暴力と短絡させたのではないか。しかし、暴力は相手の納得に関わりなく行われる行為であり、自分が納得してしまうことを暴力と混同することは、学習に関する非主体性の表れというべきである。

 相手に自信があふれているから自分は不快だ、というのでは、批判にも抵抗にもならない。ところが、そのうえ、自分に自信がないことを正当なことと本気で考えているような節さえある。「自分は守られなければいけない」という例の思い込みと通じている。
 私は、若者文化の重大な危機を、ここにとらえる。

●(2) 信用ではなく信頼を

 自分や他人に対する基本的信頼とは何か。難しい課題である。しかし、次のような出席ペーパーから、私はひとつのヒントを得た。それは、「信用」と「信頼」の違いである。やはり、「信頼」という言葉は、産業社会やヒエラルキーのなかでの言葉ではなく、仮面を外した人間関係やネットワークのなかでの言葉といえるのである。

S短大社会教育演習
 私もネットワーク型の社会というものが、これからは大切になってくると思います。そして、態度の変容のための学習にすごく重要さを感じました。
 人とつき合っていく中で、自分を信用していなければよくないことは感じますが、まず他人を信用した上でつき合っていかなければならないのでしょうか。自分自身を本当に理解し信用している人ってわりと少ないような気もするんですが・・・。
mito 信用とは、確かだと信じることであり、そんなことをして金をどんどん貸していたらすぐに破産するだろう。人間はむしろ信用できない不確かな存在なのである。しかし、そういう自分や相手に対しても、基本的にはいい人間だ、わかりあえる、と感じることはあるだろう。これは、信用ではなく信頼である。信頼とは信じて頼ることである。金は貸さなくても、さわやかに依存しあうことはできるのだ。

●第2節 アイデンティティ確立への願望と挫折

●(1) 強力な幸福願望と自分の幸せについての懐疑

 欲求段階説でいう低いレベルの欲求については満たされている場合、幸福の実現に関する本人の自己評価の基準は、かなり高いところにおかれることになる。とくに女性の場合は、幸福に対する強い憧れと、それに伴う現状否定の傾向が顕著である。
 第1に、個人は集団の中で平均的な成員であればよいという過去の社会システムを克服して、個人に「個の深み」を求めようとする観点からは、この自己評価基準の高度化は歓迎すべきことである。
 しかし、第2に、本人の主体的力量が、そのレベルや不成功の体験に耐えられるまでに至っていない場合は、結果的にはかえって疎外的状況を生み出してしまうことがある。
 第3に、欲求段階説を機械的には当てはめることのできない状況が生まれている。すなわち、モノの豊かな今日にあっても、なお、親の責任による栄養不良症状の子どもがいるわけだが、そういう人にとって、まず食料を、ではなく、まず家族の愛情や自己の社会的認知を、というように高度な欲求の方が切実になっているのである。
 第3の視点からいえば、本人の強力な幸福願望や自己の幸せについての懐疑は、恵まれているから、などと他者が本人を評論できる状況ではなく、むしろ、各人の主体性が奪われて、人々が愛情の享受や存在確認をしずらい不幸な状況になっていることの証しともいえる。あるいは、それとの葛藤のプロセスからこそ現代的な「個の深み」が本人に生まれる、という人間の可能性に全面的な信頼を寄せる観点から、援助のあり方も考えるべきなのかもしれない。

S短大教育社会学
 私は幸せです。両親もいるし、兄弟もいるし、友だちいるし、彼氏いるし、でも、私の幸せは表面だけかもしれない。もちろん、友だちの目からは、明るくておもしろい人みたいに思われているだろうけど、ちがう・・・。
 私は海が好きです。ダイビングとか、ウインドサーフィン、サーフボードとかやっているときが、幸せかなってかんじ。
 だんだん何を書いているのかわからなくなってきた。
T大2部社会教育概論
 幸せには2通りあるように思う。1つは、お風呂のように、手近で現実になる可能性がとても高いものかしら。でも、お風呂で「ああー、幸せ!」とは思ってみても、私が私の人生に求める本当の幸せってほかにあると思う。それは、もっと大きくて遠く、現実性はお風呂よりぐっと低い。ふつう人々の言う”幸せ”とは、この2つめのもので、それは崇高でもっと理想的なものだって思いたい、という気持ちが我々の中にあるのではないか。
T大2部社会教育概論
 この講義でよく「幸せ」ということが出てきますが、個人的にはあまり話題にしてほしくないと思っています。幸せの定義(?)は人によって違うものだし、どんな定義をもっていても自由だというのが私の考えです。
 余談ですが、私は今までに自分で幸せだと感じたことがありません。幸せになりたいとも、あまり思いません。(でも、きっと、心のどこかで幸せになりたいと思っているのでしょうね。矛盾!)
T大2部社会教育概論
 最近、仕事の変化、人間関係のつまずきがあり、苦しくて自然に涙が出そうになりました。泣くことを昔に置いてきた私は、泣きたい時に泣く場所がないことに気づき、ぼう然としてしまいました。結局、お風呂場で泣いてしまいましたが。
 その後、また1回、泣いてしまったのですが、その理由がつきあっている人から電話がこなかったということ。同じ涙を流すことでも、まったく意味が違い、私にとって後者の方が健全でいいな、と思いました。

●(2) アイデンティティの喪失

 子どもの頃のいわば仮りのアイデンティティがいったん崩れていく過程を経なければ、その後のアイデンティティの確立はおぼつかないということは、いうまでもない。しかし、そうは言っても、その過程のジグザクの振幅があまりに大きいと、指導者側としては、つい、その揺れをおせっかいにも小さくしてあげようとしてしまいがちである。それを禁欲し、本人が「個の深み」を獲得する方向で、本人のMAZE(拙著「生涯学習か・く・ろ・ん」学文社、参照)につきあうことは、われわれにとって大変難しいことではあるけれども、心がけなければならないことなのである。
 また、現代社会においては、成人期以降の人間でさえ、アイデンティティが弱体である場合が多い。それについても、その確立にあわてて取り組むというのではなく、自己のアイデンティティを簡単には認められない個人の深さに着目し、本人の「個の深み」が自覚化されるような支援を考えなければならない。
 出席ペーパーによって、本人に自己のアイデンティティの喪失状況を確認してもらうことは、そういう意味をもっている。

S短大教育社会学
 きのう、何カ月ぶりかでエンエン泣きました。ふだんでもけっこう涙は出てしまう方なのだけど、きのうは自分でもおどろくぐらい泣けてしまいました。短大1年をなんとなく過ごして、で、2年になってもう進路を決めなければならない。今、どうしたらいいのか、何がしたいのか、すべてわからなくなってしまいました。
T大2部社会教育概論
 先生、私、死にたい。ううん、違う。そんなに積極的でなく、とにかく、世の中からいなくなりたい。でも現実的な私が、明日はゼミがある、とか、バイト行かなきゃ、とか、教育実習の手続きしないと、とか、ちゃんと思ってる。あー、でも、やだ。
T大2部社会教育概論
 自分にしかないものなど、ほとんどないと思う。あるとすれば、何らかのものを発明した人、あるいはその世界(100 m走など、誰が見ても差がわかること)でトップになることぐらいしかありえないのではないか。なぜなら、人は、何らかの集団に属しながら生きていくからだ。つまり、すべてが同じ環境ではないが、部分的にはさまざまな人と同じ環境をいやでも共有してしまうことになるからだ。
 だから、自分にしかないものなど、一般論ではありえないはずだ。私には、そんなことより、「オレはこれが好きだ」というものがはっきりと言えることの方がずっと大切だ。
T大2部社会教育概論
 いったい自分はどんなことをやりたいのだろうか。もしかしたら、これからずっとやりたい仕事など見つからなくて、それほどやりたくないことを我慢しながらずっとやって生きていくのか、と思うと、どうしようもなく不安になってしまいます。

●(3) 今の自分や他人を判断したくない気持ち

 交流分析のエゴグラムを紹介したりすると、人間の言動をあまりにも直接的に扱うことになるからか、強い抵抗を受けるときがある。「決めつけられるものではない」ということで逃げてきたレベルに引き戻され、自分や他人が理想的な存在ではなくアンビバレンツな存在であることを思い知らされることになるからである。もちろん、人間存在は結局は「決めつけられるものではない」のだが、それは真実に鋭く迫ったあとに知るべきことなのである。
 他方では心理テストブームのなか、こういった実証主義的な科学までゲーム感覚で取り込んでしまう学生も多い。両者の根源に流れる問題は同じなのであろう。それは、人間存在が弱い部分や醜い部分をもっていることを受容し、発達・成長する可能性に基本的信頼をおく、ということができないでいる現代社会の人間全般の問題である。

S大教育社会学
 先生は、毎回、出席ペーパーを読んで、その人の書いたことに対して、「この人は○○のほうですね」とか、「この考え方は”支持”だ」とか、形づけをしますね。まあ、それが、この社会教育学の授業の重点ともいえますが、いちいち、人の感情や考えを、形式の中に結びつけて、「○○だ!」と振り分けてしまうのは、なんか、違うと思う。
 うまく言えないけど、人間って無限の感情があると思います。だから、CPだのNPだのに、たとえ勉強だからと言っても、分けるべきではないと思う。
 私は大学に入ってからいろんな面で成長していると思います。高校のときとは正反対の性格もでてきました。これからもどんどんいい方向に変えていこうと思っています。成長し変化するのが人間なんだから、それを形づけてしまうと、人間の変化を少なからず否定することになると思います。
 だから、mito先生は形式だてて人間を見ていくのかもしれないけど、私は相手を型にはめずに、あらゆる可能性を期待してみていきたいと思う。(全文)
mito この主張については、僕もまったく同感である。ただし、それは、自分を含めた人間の主体性のありかを分析することから逃げることではなく、むしろその結果を恐れずに受けとめていこうとすることにつながるはずだ。
T大U部社会教育概論
 (エゴグラムについて)あまりこういったものは興味を持たない。血液型といっしょで、話のネタにはなるが、それ以上のものをこの内容で判断されるのは、人間性の深さを甘く見ていると言わざるを得ない。
mito 交流分析のエゴグラムは自我状態のその時のバランスを表しているものであって、人のタイプを決めつけたりするものではない。また、すでに決定的に破綻してしまっている「血液型心理学」などと比べられるものではない。
T大U部社会教育概論
 よく考えて○△×を決めると、知らずと×が多くなってしまった。「責任感を強く人に要求しますか」とかいう質問などは、まちがっても○になんかできない。だってそうでしょ、そんなこと要求するには、まず自分がしっかりとした責任感を持っていなきゃいけないんだから。こういうとこを○にできる人ってすごいなあと思いますね。
 あと私はFCのところは5だった。少ない得点だと思う。でも、自分で思うには「自由な子ども心」というのは私はわりと持っている方だと思う。このFCグループの質問はちょっと変てこりんなんじゃないかなと思った。こんなので人の「自由な子ども心」の持ちようが少しでもわかるのでしょうか。こんなの20点の人がいるなら、ただのわがままか、ただただ感情的な人なんだと思う。
mito どちらもちゃんといる。当然、どこかだけが満点などの極端な人は、バランス上から問題があるかもしれないけれど、他人がとやかく言うことではない。それよりも、自分の中の数%の問題に対して批判の刃(やいば)を向けよ。
T大U部社会教育概論
 FCが20点の人が信じられないと(ペーパーでは)言っている人がいたが、そういう人がいるんですよ。しかもNPが低い。これはもうわがまま以外の何者でもないですよ。まわりのことをあまり考えていないし、ときどきとっぴょうしもないことをする。だけど、協調性がないというわけではないし、人のことも考えて行動します。
 まあ、そういう奴もいるということを知っておいてほしいですね。ちなみにそういう奴とは自分のことですけど。
S大教育社会学
 私はとても不思議です。先生は人間の性格というものを学問的に分けたりするけれど、いろんな人がいろんな角度から行動することを分析することはいけないことだと思います。その傾向はたしかにあるかもしれないけれど、そんなふうには分けられないと思うからです。
 たとえば、私は、自分がどのたぐいに属するのかわかりませんが、私は私だということに自信をもっています。まだ人生経験はたったの20年ぽっちで全然ありませんが、音楽人は自由です。たえず、いろんなことに興味があって、いろんな行動を起こしているものです。もしかしたら、ロビーで歌っていることも、他の大学ではきっかいな行為かもしれません。私は自由が好きです。何をしてもいい。束縛はないけれど、でも、他人から問われても絶対後ろめたさを感じているなんて答えないと思います。時にはウソをつくことも大人としては必要だけど、でも心は正直です。(全文)
mito 悩みやいやな気持ちで過ごしている人のためのアドバイスだととらえてほしい。このように「自信をもっている人」が、ことさら自分を分析する必要などないと思うが、「自信がある」と片付けてしまわないで、自分を逃げずに見つめることも必要かと思う。
mito 僕はロビーの件をそんなふうにしゃべったことはない。まったくの濡衣(ぬれぎぬ)である。僕は自由なロビーワークを重視し主張している人間なのだ。それから、僕は他大学の教師ではない。なんだか僕が人文系だからという理由だけで、音楽をやっている人たちだけが人間らしいと思っている人から、不当に中傷されているような気分である。もっと科学的に思考してもらいたい。
T大T部社会教育計画
 この講義で先生が個人を尊重し、自分を自由に開放し、個人の性格、性質を差別なく、万人を認める構えで、というより実際に認めて、一つひとつコメントしていて、私も同じ様な人間観を持っているので共感するのですが・・・。ただ、コメントするときも、こうしたら良いのではとかこれはよくないのではとか言い切らないところはさすがだと思いますが、そういう話題のことを言うこと自体どうなのだろうかと考えてしまいました。
 先生は講義する立場なので理論づけみたいなものを言わなければならないのでしかたがないのですが、私のように聞いているだけの立場としては、人間を理論づける枠みたいなものはまったくないんじゃないか、なんて思います。
mito 真実(ここでは完全な人間理解)には到達しえないかもしれないが、限りなくそこに近づこうとしているだけである。むしろ、個人の性格についてテーマを絞って授業をしてきたわけではないのに、なぜ学生たちがそこにだけこだわりを見せるのか、ということにこそ問題を感じる。そもそも、今まで君たちが学習してきた科学や思想は、君たちにとって何の意味を持っていたのか。真実を追究して人生をより深く生きるためのものではなかったのか。そうでなかったとすれば、自分の生き方から離れてしまった学問にこそ抗議すべきであって、僕の授業の意味を疑問視するのはお門違いである。僕の授業は、完璧な正解こそひとつも与えられなかったかもしれないけれど、それは各自が探すものだ。そのためのヒントは、この授業の中でいやというほど提供してきたはずだ。そこで学生自身が恐怖して逃げてしまったのでは何にもならないが、それは僕の責任ではない。

 哲学的意味を持たないレベルの低い不可知論に逃げ込めば、それ以上の自己変革は望めなくなる。現代青年は、つねに自己の逃走の衝動と闘いながら生きていくことになるのであろう。

●第3節 コミュニケーションを求めておののく若者たち

●(1) 他人の「聞く耳」がこわい

 出席ペーパーは、それぞれの学生の完全な自己コントロールのもとにおかれている。しかし、彼らが今までの人生のなかでものを書くときには、他者と比較されるためでしかなかったとすると、出席ペーパーを書くという初めての体験には戸惑いが生ずる。見知らぬ他人にわざわざ自分から情報を発信するという意義も必要性も見いだせないのである。
 この問題を克服することなしには、現代社会のなかで人間的なネットワークを創り出すことは不可能だということになる。

T大U部社会教育概論
 (彼氏がスキンをつけてくれるけれども、それは愛情の表れと言えるのか、という出席ペーパーに対して)彼氏の「当然だよ。ボクは責任とれないから」というのは正しいのでは? ”責任とる”なんて簡単に言い切れるものではないと思います。”出来る限りのことをする”以上のことは言えないと思います。彼氏の言葉を取り違えたのでは?
T大U部社会教育概論
 不思議なんですが、なんで受講生はこの出席ペーパーに、他人にはほとんど口に出して言えないようなことを書くのでしょうか。けっして恥をかくことのできないマニュアル世代の現代の若者が、何であんなことを書くんでしょう。”A”を評価で欲しいから? それとも自己顕示欲? 何でなんでしょう。(伝言ダイアルについて、略)
 何でこのような言葉を、こういった「匿名の場所」で叫ぶのでしょうか。「ヤマアラシ・ジレンマ」と関係あるのでしょうか。この疑問はマジです。なぜに、普段けっして語られることのない言葉を叫ぶのか、答が与えられるなんて決まってないのに。不思議です。とても不思議です。
mito 自己顕示というよりも自己解決の姿への自負だと考えられないか。
T大U部社会教育概論
 白紙で出すことの方がおりこうなのでしょうか。私はけっしてそうは思わないつもりでした。しかし、「何でも書いていい」を素直にとりすぎた結果が、他人の聞く耳と自分の愚かさに気がついたことだったのです。誰にもあたしが書いたなんてバレないだろうけど、でもやっぱりああいうザワメキを聞くとつらくなる。
mito 自分が他者に影響を与えてしまうことを受容せよ。ただし、あなたの発信は、あなたがコントロールするしかない。「非公開」「秘密」などの著作者の意思表示をつけ加えたってよいのだ。
T大U部社会教育概論
 「なぜけっして語られることのない言葉を」と書いた者です。どうもどなたかを傷つけたようですね。僕はそういう意図で書いた訳ではないんですが・・・。文章能力がおそまつなのが悪いのね。
 ブルーハーツの”人に優しく”で、「叫ばなければ、やりきれない思いを。ああ大切に、捨てないで」という詞があります。僕はブルーハーツが大好きです。僕自身、明日にはつぶれそうなのをギリギリで生活してます。軟弱です。なんとか生きている。とりあえず生きている。時々、負けながら。今、生きていることを喜び合いましょう。
 PS ジェスチャーゲームやっても、自由な心は回復できないと思うよ。だって、恥ずかしいことをする時、いや、まったく普通の生活をしている時でも、現在、人は完璧に心を”演技”して生きているんですから。それに、大学生くらいになると、その演技も高度なものになっているから。
mito 仮面や演技は必要だ。意識して演技すればよい。それだったら、主体的なコントロールといえるだろう。

 たしかに、次のような「厳しい他人」も存在する。

S短大視聴覚教育
 普通、人が思っていても言わないようなことを先生が授業の始めに言ったので、少し驚いたけれど、そんな考え方を社会に全面的に押し出してしまったならば、社会生活に適応できない。実際、西村先生はきちんと社会という枠組の中にいる。言ってはいけないことは、胸の奥の奥にしまいこんだりして、他人にあわせなければいけないと思う。
 それから、出席ペーパーなんて、先生の思い上がりだと思う。「悩む」ということは個々でするべきであり、書いて自分を知ることができるとしても、書いたものは人に見せるべきではない。自分の考えを人に知ってほしいならば、口頭で言うべきだ。(全文)
mito たとえば僕がネクタイを締めているのは、ある意味では服従を演じているのである。前にそのことを言ったら、「mitoが自分の意思に反してネクタイを締めているのは、自信のない証拠だ」とペーパーに書いた学生がいたけれど、そんな戦術上のことで本当の自分が失われるとは思えない。
mito この人は、きっと相談のなかに表れる過度に依存的な態度に嫌悪を感じているのだろう。しかし、悩みごとの相談に限らず、他者が自分とは異なる枠組を持っていることを喜ぶようにしたい、というのが僕の基本的な考え方だ。これからのペーパーへの僕のコメントの仕方を聞いてみてほしい。

 しかし、その本人自身が次のように悩みを経てきているのである。

S短大視聴覚教育
 (前回、「悩む」ということは個々でするべきと書いた人)先生、親、だれもが体験した悩み苦しむ時期。私自身、だれにも相談せずに、また、周囲の人びとからも見てみぬふりをされた。要するに、「よけいなことを考えるな、勉強しろ」である。そのため、私のその時期の先生は本であった。あとは助言もされず、自分の中で考えるだけだった。そのため、今日見たビデオの子どもたちのように、学校や社会に疑問を持ち、嫌悪感を持った。だから、西村先生の存在に驚きとまどった。しかし、私は登校拒否にはならなかった。だれのお蔭でもない、私自身の自己解決である。その結果、私は強い人間になった。本当に強い意志を持てるようになった。要は自分自身である。18年間の私の人生で西村先生が、初めて私の人格の中核にふれた人。参考になったのは事実。けれども私は自己解決主義者。授業で恋の相談なんてやめてほしい。(全文)

●(2) 人間不信の深み

 本来の厳しさとは、自分にも向けるべきものである。自分や他人に基本的信頼を寄せることが教育の営みの根底を築くが、他方では、人間には醜い部分や弱い部分があるのも、もうひとつの真実である。そこから目をそらさないで自己の人間不信を自ら問い詰めていく姿はまさに「個の深み」と呼ぶにふさわしいものであろう。
 ただし、現代青年にとって、責任を転嫁しないで真実を探求しようとすることは容易なことではない。それは、保護や管理ばかり与えて、自由への恐怖を与えてこなかった社会や教育の問題でもある。

T大U部社会教育概論
 子供は嫌いだ。自分は子供を作りたくない。子供は怪物だ。エゴが服を着て歩いているようなものだ。子供を甘やかすと際限なくつけあがる。子供に人権などない。
 mitoさん、聞いている側まで恥じいるような、歯の浮くような言葉を濫発しないでください。レトリックを用いた表現よりも、本当に意味のある言葉を期待しております。(全文)
mito このペーパーはフェアであるし、教師にきちんと食いついてきている。この1%の反対者は、支持者の中の1%の気持ちを表明してくれる貴重な存在である。僕は、I am OK. You are OK. の人生の構えを提案した。しかし、この人が You are not OK.だけでなく、I am not OK.という姿勢を貫けるのなら、苦しい生き方にはなるだろうけれども、たとえば良い小説が書けるような人間になれると思う。人間の醜さを逃げずに真正面からとらえるということである。それは、レトリックと批判された「批判の刃(やいば)を自己にも向けよ」ということでもある。この人の「個の深み」に期待したい。
mito ただ、ひとつ言えば、ここで「人権」という言葉だけは実存から発しておらず、その言葉だけが文章全体から浮いてしまっている。
T大U部社会教育概論
 エゴが服を着て歩いている、とは!?(「子供が嫌いだ」と言った人へ)
 嫌いだと言っているあなたは自分が嫌いですか。そんなことを言っているあなたを見たら僕もきっと「エゴが服を着て歩いている」と口走ってしまうかもしれない。どうだろう? 僕も「エゴが服を着て歩いている」ものなのか。mitoさんの答を聞いてみたい。
mito 彼はハングリーなのである。CP(厳しい親の心)が強い人は、普通は自分をも厳しく責めていると思う。そうでなければただのろくでなしだ。人間にエゴと自他への信頼のどちらかということはない。その%が人によって違うだけだ。
T大U部社会教育概論
 (エゴが服を着て歩いている、と書いたが)自分は他人や友人の人格の中核を、悪気はないのだが、つい傷つけてしまうことがたびたびある。その反面、自分が傷つくことには常にびくびくしている。他人を傷つけても、自分が傷つくことには慣れていないのだ。そして、そんな自分を嫌っている自分に気づくのである。我ながら度し難いとは思うが、mitoさん、なにか良い治療法を御存知でしたら御教授ください。
mito 深い意味でのCPが表現されている。もっときちんと「自分のために」生きればよいのである。それが中途半端だと、自分や他人を傷つけることになる。たとえば、醜い自分を受容し、他人から受容される体験が必要である。料理やボランティア活動などがそうである。”自分さがし”のためにボランティア活動をやっている人はたくさんいるし、その人たちがなかなかいい実践をしている。

●(3) 保護や管理から自立して自由に恐怖せよ

●@ 自分は求めるけれど、人にはあげられない
 人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。このような行為を「交流分析」では「ストローク」とよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。
 しかし、ストロークを出すことによって傷つくこともある。自分がせっかくストロークを出しても、相手のほうが心を開いてくれなかったり、相手から迷惑そうな態度を示されたりするとそうなる。相手はストロークをもらって基本的にはうれしいはずなのだが、そのうれしさよりも防御の気持ちのほうがもっと強いときや、こちらのストロークの「裏の意味」に気づいたときは、相手は、せっかくのストロークに応えることができずに無視または拒否の態度をとるのである。ストロークを出す本人にとって、その発信はリスク(危険)のかたまりなのだ。
 今日の若者たちは、自分からストロークをうまく出すことは得意ではない。経験不足なのである。そのうえセンシティブだから、相手からのストロークの裏にある不純さや、その「罠」に反応することの危険を嗅ぎとることにはとても優れている。だから、相手からのストロークに答えることもできない。
 そのため、大人たちが懸命になって「心と心のふれ合いをせよ」「人間はわかりあえるものだ」などと若者たちに上から号令をかけても何の効果も及ぼさない。学生の出席ペーパーから、ひとつ紹介する。
 「ゼミを自己変革の場に、と先生は望んでいるようですが、私にはゼミの場が自己変革の場にはなりません。自分が何を言っても、何を思っても、大丈夫、守られている、というふうには感じられないので、つまり受容されるようには感じられないので、自己開示できません。だから、ゼミは自己変革の場にはなりえません」。
 この学生の場合は、人間関係のことをよくわかっているのだ。そして、自分が受容される特別な場を他の所で見いだしてさえいるのである。だからこそ、簡単には心を開かない。私は、その態度を立派だと思う。

●A 現実原則の中でのストロークの自己管理を
 しかし、問題は、受容されるとはかぎらない日常生活の「現実原則」(快感原則では充足されない社会の現実に適応する心の働き)の中で、ストローク発信の自己管理(場合によっては発信しないことを含めて)をどう行うか、ということではないか。
 いっぽう、ストロークには、それが豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなる、という厳しい法則がある。ストロークをもらいたいのなら、ストロークを出さなければならない。ストロークが出せるようになるためには、ひとつには、「ストロークを出してよかった」という体験を何度も味わうことが何より大切である。
 そして、もうひとつには、ストロークを出して傷ついた場合、そこから逃げずに、どのような形でその体験を自己に内面化するかということが問題になる。自分が傷ついた事実をあるがままに認識し受けとめることができれば、時と場合と相手に応じて出したり出さなかったりすることができるようになるだろう。ストロークを出せないということと、ストロークを出そうと思えば出せるけれども出さないということとは、表面は同じように見えても、内面的には正反対のことなのである。
 一番すじが通らない生き方が、自分はカプセルの中に閉じこもってしまっているのに、それでいて、ストロークがもらえないと嘆き、いつまでもカプセルの中で他人からのストロークを待っている姿である。それは、閉じこもっている自分の姿が見えていないだけのことなのだが、そういう若者もたくさんいる。
 わたしは、そういう学生に、こう言っている。「今は閉じこもらないではいられない自分の姿をこそよく見つめて、将来まで、そういう人間の悲しみの深さをよく覚えておいてほしい。そうしたら、少なくとも、今年の新入社員は心を開いてこない、と不満を言う物わかりの悪い上司や、今の子どもたちは消極的で困る、と子どものせいにする権威主義的な教師にはならないですむはずである。なぜなら、いま悩んでいるあなたは、消極的にならざるをえない部下や子どもの心を共感的に理解できる心をもっているはずだからである。あなた自身は心を開かないでおいて、社会的役割が与えられたとたん、相手に心を開くように求めるとしたら、それは最悪である」。

●B コミュニケーションの成熟化と無力化
 今日、コミュニケーションの手段は大いに発達している。電話なら、いちいち会いに行かなくてもすむ。マスメディアからの情報を受けるだけなら、自分が傷つくことを恐れなくてもすむ。映像であれば、人間の情念などでさえ伝わってくる。
 このような技術発展はうまく利用するのが賢いやり方である。しかし、コミュニケーションのツール(道具)は発達していてあたりまえであり、重要なことはコミュニケーションそのものである。パソコン通信では、機械などは透明(トランスペアレンシー)のものに感じて、通信そのものに没頭できる感覚こそ尊ばれる。さらに、わたしは、パソコン通信そのものには飽きてしまってパソコン通信をきっかけとしたミーティングや宴会の方に熱心になってしまうバーンアウト(燃え尽き)現象も成熟化のひとつとしてとらえている(前掲拙著参照)。使っているツールが大切なのではなくて、コミュニケーションするということ自体が大切なのだ。これをコミュニケーションの成熟化とよぶことができる。
 しかし、成熟化とは、ある面では、活力を失うことでもある。フェース・ツー・フェースではないメディアや一方通行の音楽・映像メディアによって、自分は傷つかないままにコミュニケーションを享受しているうちに、おたがいの存在を認め合うストロークのやりとりのチャンスまでも失いつつある。傷つく恐れのないコミュニケーションは、ストロークではない。そういう音楽や映像のメッセージが、カプセルの中の自分に個別に与えられたような錯覚のもとに受け入れられて、親和欲求を少しだけ満たしている。つまり、エセ・ストロークとしても機能している。
 先日、授業で傾聴のトレーニングをした。この授業の受講者は自己表現の一つである音楽を専攻しており、しかも二十歳前でもあり傷ついた経験はそれだけ少ないからであろうか、「受容」はスムーズにできた(表面的には支持的だった)。どのペアも話がはなやかに盛り上がっている気配だった。ところが、「繰り返し」になると、とたんにできなくなった。聞き役が要約を繰り返すことによって話し手への理解を確認させようとしたのだが、そのことに反発さえ起こったのである。特徴的なことは、傾聴されるほうの話し手側からの反発が強かったということである。出席ペーパーには、「せっかくの話をさえぎられる感じ」「うざったい」とある。実際、繰り返されることなど邪魔になるほど、相互確認のないまま、人をひきつけるおもしろいおしゃべりが若者はできるのである。うなずきとあいづちさえあればよい。
 おしゃべり(双方向)も華やかに上手にできるようになってきた。雑誌「教育」(国土社)が「おしゃべり症候群」を特集してその空疎を衝いたのは一九八五年だが、いまや「双方向の一方通行」ともいうべき恐るべき軽やかなコミュニケーションが成熟しつつある。言葉は交わされているが、気持ちは交流できない(しようとしていない)のである。「それがおしゃれだし楽しいのだから」と若者は言うのであろう。

●C 管理や保護よりも自由を
 若者に与えられるべきコミュニケーション教育の要点は、いまや、指導者が若者を管理することでも保護することでもない。管理や保護があると、それが現実原則の対象にされてしまい、若者自身のストロークの非力もそのせいにされてしまう。
 ストロークを自由にやりとりさせる機会を提供することが必要である。管理したり保護したりしてはいけない。また、自由といっても、与えられた目標に自発的に追いつこうとさせるためのものでもない。強制されたり守られたりした中での自主性だけでは、傷つく自分を受容するレベルまでには到達しえない。
 どんなストロークも自分の判断で出せるという自由の場に彼らを引きずりこんでこそ、自分がストロークを本当は求めながらも、それを出すことによって傷つくことを恐怖している、という自分に気づくだろう。もし、それでも、自分がストロークを出したいのに出せない理由を他人のせいにしようとする者がいたら、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない。あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という原則を確認させるとよい。
 このように誰のせいにもできない状況では、その人のすべてのストローク発信をその人の責任とすることができる。そこでどうするか、ということこそが、本来の現実原則の学習につながる。

●関連概念
●アイデンティティ
 エリクソン(Erikson,E.H,1902〜)のアイデンティティ論が、とくに有名である。「アイデンティティ」(identity、同一性)という言葉は、自己の内面的同一性と社会的同一性を示しており、エリクソンは、この両方をともに達成するための個人生育史と歴史社会との出会いの時期として青年期をとらえている。このようにして、青年は、自分とはいったい何なのか、自分が何者であるかという不変的な自己定義や、どんな他人とも取り替えることのできない自己の存在証明としてのアイデンティティを社会的背景のなかで確立しようとする。
 ここで、とくに留意しておきたいことは、他者や社会からの自分への期待が、本人が好むと好まざるとにかかわらず、その人のアイデンティティの確立に多大な影響を与えるということである。なぜならば、その人は、自分が他者から認知され、自己像を他者と共有している確証の感覚を得ようとするからである。
 また、自分の所属する企業と一体化してそこにアイデンティティを求めてきた会社人間、そういう夫から疎外された妻たち、核家族化の進行のなかでの高齢者などの姿を見ると、現代社会におけるアイデンティティの確立については、青年ばかりでなく、すべての世代にわたって重要な課題であると同時に、危機的な状況であるというべきであろう。

●モラトリアム
 エリクソンが、とくに青年のアイデンティティ形成期の特徴を心理・社会的に把握するために用いた言葉。もとは、債務支払いの猶予を意味する経済的な用語である。最終的な自己定義、社会的役割の決定、社会観、人生観の確立、人生の方向づけの決定など、青年期の課題は大きく、したがって危機も大きい。社会がそうした課題達成の時期として与えている特別な猶予期間が「心理・社会的モラトリアム」(psycho-social moratorium)であり、それは近代産業社会特有の現象である。モラトリアムは、自由な役割実験や社会的遊びによって、試行錯誤のなかで社会的自我を選択する期間であり、青年はその期間のなかでアイデンティティ形成の手がかりを見いだすことになる。
 しかし、今日、アイデンティティ確立を延期し、一過性のモラトリアムに長く留まろうとする心理が一般化していることが小此木啓吾らによって指摘された。小此木は、その質的変化を次の6つにまとめている。@半人前意識から全能観へ、A禁欲から解放へ、B修行感覚から遊び感覚へ、C同一化(継承者)から隔たり(局外者)へ、D自己直視から自我分裂へ、E自立への渇望から無意欲、しらけへ、の6つである。この新しいモラトリアム心理は、元来、アイデンティティ拡散の病理としてとらえられるものである。
 この問題の背景には、青年期が過渡期としての性格を失い、青年文化が成人文化に対して独自の存在権を主張するようになったこと、さらに大人社会の行動パターンが青年にとって魅力的なモデルとしての意味を失ってきていることなどがあげられる(安藤喜久雄・児玉幹夫編『社会学概論』学文社)。また、モノは豊かになっても、青年の自由な行動や挑戦が社会によって阻害され、他者や制度の管理下に置かれる状況のもとでは、モラトリアムが実態としては力を失ってしまうという現実も見逃してはならない。

●対抗文化
 社会の支配的な文化に対して、それを支えるのではないもうひとつの文化、対抗したり反逆したりする文化を対抗文化(counter culture )という。未開社会のように社会分化が十分に発達していない場合は、普遍的文化が圧倒的優位を占めることになるが、社会分化が進展するにしたがって、特殊的文化が増大する。現代のように流動的に変化している社会では、そのような任意的文化の割合が増大し、ときには社会の支配的文化に対抗する文化の様相を呈することもある。(安藤喜久雄・児玉幹夫編『わかりやすい社会学』学文社)
 とくに青年文化(youth culture )については、1960年代末に先進諸国で起きた「青年の異議申し立て」など、おとな社会の支配的文化価値や規範を拒否して、対抗文化の性格をもつことが多く、それが新しい社会の創造につながるととらえられてきた。しかし、生きる主体性自体を管理社会のなかで失いつつある現代青年が、そういう対抗文化の発信者としてのパワーを持続し発揮し続けることができるのかどうかは今や疑問である。ただ、社会的逸脱を最初から忌み嫌うような先入観や偏見をもたない社会学の立場からは、普通なら軽視されるような非政治的、あるいは「低俗」とされる文化についても、それを対抗文化の萌芽として評価できる場合が大いにありうるのである。
社会教育委員必携 「学習情報の提供と相談体制」
                  昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
952字×8ページ=7616字=40字×190行

1 学習情報提供の意義と方法

(1) 学習情報をネットワークすることの意味
 文部省に設置された「学習情報提供システムの整備に関する調査研究協力者会議」がまとめた「生涯学習のための学習情報提供・相談体制の在り方」(昭和62年7月)によると、学習情報は、「人々がなんらかの学習を始めようとしたり、或いは、学習を進めるに当たって必要となる情報の全体」ととらえられている。
 このような学習情報には、@学習される内容そのものとしての情報(内容情報)とA学習者を学習機会等に結びつけるための情報(案内情報)の2つがある。@は、学習者が直接そこから学習することをおもな目的とする学習情報である。一般の文献、映像、学習材、教材、ファクトデータなどがそれである。Aは、内容情報に関する情報や、学習者が希望する学習活動を行うために必要な情報である。たとえば、どこでそういう学習が行われているか、どうしたらそういう学習ができるか、などを伝えてくれる情報である。
 なお、社会教育審議会教育メディア分科会の報告「生涯学習とニューメディア」(昭和62年4月)では、@学習者が学習を進める際に利用する資料、たとえば、中世の歴史を学習したい場合、それに関する図書や視聴覚資料等(一次情報)、A一次情報ではないが、学習者が学習を進めるために役立つ種々の情報、たとえば、特定の主題に関しての学習場所や学習の機会、図書や視聴覚資料の所在や概要等についての情報(二次情報)、の2つに分けてとらえているが、先の分け方と内容的にはほぼ一致するといえる。
 生涯学習の時代といわれる今日、社会教育行政に限らず他行政あるいは民間などにより、多様な学習活動が行われている。しかし、それらの発信する内容情報の中から求めるものを入手したり、案内情報を全体的に見通して把握したりすることは、市民個人の立場からは難しい場合がある。そこで、それらの学習情報をスムーズに流通させるための基盤の整備が必要になる。
 この基盤整備の仕事の鍵になる言葉が「ネットワーク化」である。学習情報のネットワーク化とは、それぞれの情報や情報主体がもつ個性や固有の価値を失うことなく、むしろそれを生かす方向で、情報主体の連携・協力を得て、ばらばらだった情報をシステム的に再構成することである。学習情報提供システムにおいては、とくに案内情報のネットワーク化に取り組むことになる。

(2) 生涯学習情報提供システムの全体像
 文部省では、住民個人の学習要求にも対応できるように、生涯学習情報のデータベース化を進めるとともに、県と市町村をネットワーク化して各種の学習機会等に関する情報を適切に提供し、助言・援助する事業を補助している(生涯学習情報提供システム整備事業)。そのイメージは図表1−1のとおりである。

 図表1−1 生涯学習情報提供システムのイメージ

(3) 広域的、全国的なネットワーク化の動向
「全国の生涯学習情報のシステム化に関する調査研究協力者会議」は、平成元年11月、「生涯学習情報の分類と様式の標準化について」のとりまとめを行った。これは、システム間相互の円滑な情報交換、全国的な生涯学習情報の効率的な収集と流通の促進、データベース資産の有効活用、生涯学習情報の量の確保などの必要から検討されたものである。
 さらに、その後、社会の変化や人びとの日常生活圏の拡大、学習活動の広域化などにより、今後ますます拡大する学習ニーズに的確に対応するためには、より広域的、全国的な情報提供体制が重要となってくるという観点から、各都道府県で整備されるシステムの広域的な相互利用のあり方について検討し、あわせてこれらのサービスを全国的・総合的に支援するため、全国的レベルで共通に利用できるデータベースの構築や具体的な支援機能のあり方についても検討して、「生涯学習情報の都道府県域を越えた提供の在り方について」(平成3年8月)審議のとりまとめを行った。
 そこでは、都道府県域を越えて情報提供する必要性として、@情報量および情報範囲を拡大し、提供される情報への信頼を高め、利用の促進を図る、A豊富で多様な情報を提供することで、人びとの学習活動の活性化を図る、B都道府県レベルにおけるデータベースの効率的な構築を進める、C都道府県レベルのシステムの普及促進に資する、D情報提供の改善、新たな学習機会等の企画に資する、の5点が挙げられている。
 また、全県のデータベースの概要を表すカタログが蓄積され、各県の端末から、必要に応じて全県カタログを参照し、利用したい情報をどの県が保有しているか、あらかじめ確認することのできる全国センターを設置した場合のシステム連携の想定は、図表1−2のように示されている。

 図表1−2 全国センターを想定した相互利用

(4) 実際の学習情報提供にあたって留意すべきこと
 学習情報を提供するにあたっては、まず、市民の求める学習情報を提供することが大切である。そのためには、実際には次のような点に留意する必要がある。
@ 一般行政の教育的事業などの学習情報も含めて、それを学習者の立場に立ってわかりやすく編集・加工して提供する。
A 自主的な教育・学習活動や、時にはカルチャービジネスなどの民間の学習情報も含めて、民間の活力にあふれる生涯学習の情報を提供する。
B 政治・宗教・営利に関する学習情報など公共性の観点から取り扱いの難しい情報の要求に対しても、機械的に切り捨てるのではなく、問題意識をもって柔軟かつ主体的に対応する。
C 青少年などの「低次元」と思われる情報要求に対しても、みくびることなく、学習の発展の契機として尊重して対応する。
D コンピュータ利用などによって、大量の情報の整理と迅速な提供をはかる一方、学習情報を求めてきた人との対話を大切にし、表面には現れてこない潜在的な学習情報要求にもこたえられるよう努める。
 さらに、潜在的な学習情報要求をほりおこすことによって、市民の学習情報要求それ自体の発展を援助し、また、学習情報がひろく市民に活用されるようにすることが求められている。実際には次のような働きかけが考えられる。
@ 衝撃力のある文化度の高いイベントを開催する。
A 「座して待つ」のではなく、地域のさまざまな場所・機会において、学習情報を提供する。
B 学習情報の専門家として、ひろく市民に対して、学習情報の入手や活用の方法についての専門的・技術的援助を行う。
 これらの働きかけは、もちろん、強制や押しつけであってはならない。市民の自由と主体性を尊重し、市民と対等に接してともに考える姿勢が学習情報提供には求められるのである。

2 学習相談の意義

(1) 学習相談の意味
 前出「生涯学習のための学習情報提供・相談体制の在り方」では、学習相談の目的として、@学習希望者の潜在的な学習要求を聞き出し、具体的な学習活動にまで引き上げること、A学習者の学習活動の質を高め、継続的なものにすること、B学習活動を行う中で問題や悩みを聞き、その解決を助けること、の3点を挙げている。そして、「学習相談を受けようとするのは、単に一方的な情報の提供を求めているのではなく、多様な学習の段階でそれに応じた学習の支援を求めているからである。学習相談の担当者は、まず学習者の求めるものは何かを把握しなければならない」と注意を呼びかけている。
 これを受け、また、その後も引き続く急激な社会の変化を考えあわせると、次のようにとらえることができよう。「学習相談とは、個人(または援助者)の求めに応じ、学習環境等の客観的条件や、精神的・身体的な問題等の主体的条件などの、その個人特有のそれぞれの条件にもとづいて情報提供、助言、対話等を行うことにより、学習情報の収集・選択や学習の意欲・能力の獲得などを支援する教育(学習援助)サービスである」。
 学習情報提供と学習相談とはともに社会教育や生涯教育の革新の姿として現代的意義をもつものであるが、学習情報提供が第一の革新だとすれば、さらに第二の革新をめざしているのが学習相談なのである。学習情報提供の革新が、個人の主体性の発揮への援助だとすれば、学習相談が提起する第二の革新とは、その個人の主体性の獲得そのものへの援助であるといえる(図表2−1)。

 図表2−1 学習相談への発展のプロセス

(2) 学習相談の特徴
 学習相談の特徴としては、次のようなことが考えられる。
 1つは、「個別性」である。学習者の個別な条件の差異によって対応が変化する。広報においては、マス(集団)に対して均一の情報を提供しようとするし、学習情報提供においては、個人が求める情報を誰でも個人の必要に応じて同じ情報源から平等に自由に選択できるようにしようとする。これに対して、学習相談では、相談員が個々の学習者のニーズやその他の状況を勘案した上で、対応の仕方を逐一、判断する。
 2つは、「双方向性(プロセス重視)」である。対話などの双方向の交流をともなう。相談の「相」は「互いに」「ともに」という意味である。それは、いいかえれば、学習者の意思決定のための相談員からのアドバイスにとどまらず、学習者の意思決定や問題解決のプロセスの中に相談員が飛び込んでいって双方向のおつきあいをするということである。
 3つは、「援助性」である。生涯学習の援助活動の一環として行われる。直接、個人の生涯学習を援助することを目的とするものであり、援助者側の行う事業や保有施設を宣伝するなどして生涯学習全体の推進を図るものではない。また、その行為はあくまでも個人の生涯学習の援助であるから、他の行政目的などから生ずる目標への誘導や指導を紛れ込ませることは許されない。
 4つは、「教育性」である。一般行政の相談が行政、法律、医学などの特定事項の専門性にもとづいて行われるのに対して、学習相談は教育的専門性にもとづいて行われる。たとえば、「その場合はこうですよ」と教えるような場面は、一般行政の相談では頻発することがあっても、学習相談においては、「こういうこともありますが」とニーズに的確に応える情報を提示しつつ、情報の選択は学習者の主体性に任せることになるだろう。それは、学習者の学習主体としての成長を第一義に考える教育的観点があるからである。
 5つは、「自由性」である。「求めに応じて行う」ということである。相談を望まない人にまで相談を呼びかける必要はない。本人が自分で「相談したい」と思うまで待たなければならない。逆に、相談に訪れてくれた人に対しては、「相談に来た」という行為自体をその人の主体性の表れとしてとらえて最大限の敬意を払うべきである。

(3) カウンセリングマインドの必要性
 生涯学習の理念が自発的意思にもとづいてみずから選んだ手段・方法で行うことであっても、本人が自分自身を見つめていないとしたら、その「自発的意思」も生まれようがなく、したがってその理念の実現は望めない。しかし、そのように自分の深みまで知るということ、すなわち自己洞察は、じつはどんな人にとっても容易なことではない。つまり、「自分に気づく」ということは、生涯学習を行うために不可欠の課題でありながら、それを完全に実現することは困難な課題なのである。
 それらの自分への「気づき」のなかでも、学習相談においてもっとも決定的なことは、生涯学習を行う自己の主体性の欠損への気づきだと考えられる。たとえば、「他人の期待に沿うために」とか「勤勉でなければならない」とかいったような不合理な思い込みが、生涯学習の自発的意思を内からねじ曲げる結果になっている。不合理な思い込みから解放されるためには、まず、そういう思い込みをしている自分の現在と過去に気づかなければならない。問題の本当の所在さえ明らかになれば、あとはそれを自分で解決する能力を人間はもっている。このような「自己解決能力」への信頼は、カウンセリングマインドにもとづくものである。
 カウンセリングマインドにとってのもっとも大切な要素は、「共感的理解」である。共感的理解を示す相談員が対応することによって、学習者は安心してしゃべることができる。共感的理解こそが、相談員と相談者との心のふれあいのあり方なのである。共感的理解のために大切なことは、傾聴である。傾聴とは心を傾けて相談者の話を聴くことである。相談員には、この傾聴する役割への自覚が強く求められる。

(4) ネットワークとしての学習相談
 学習相談に必要な2つめの要素として、「ストローク」が挙げられる。人間は、スキンシップや言葉がけやまなざし、うなずきなどによって相手の存在を認めていることを示す。「交流分析」ではこのような行為をストロークとよぶ。交流分析を開発したバーンによれば、人間は誰しもストロークを求めて生きている、ということである。
 一方、最近の生涯学習の学習内容の傾向のひとつとして、こころへの関心が指摘できる。生涯学習に向かう要因としても、それを阻害する要因としても、こころの問題は大きい。豊かなこころは、豊かな対人関係、つまりは豊かなストロークに支えられる。そういう意味から、学習情報ワーカーはストロークの達人であってほしい。そのことによって、生涯学習に向かおうとする学習者にエールを送ることができる。
 さらに、3つめの要素として、「エンカウンター」が挙げられる。日常の対人関係にはいわゆる「仮面」がつきものであるが、エンカウンターでは、それを脱ぎ捨てて本音と本音をぶつけあう。対立することも多い。このようなエンカウンターは、通常、グループワーク(エンカウンターグループ)として行われるが、学習相談においてもエンカウンターの精神が求められていると考えられるのである。なぜなら、学習相談は、社交儀礼がやりとりされる場ではなく、幸福追求の一環としての自分なりの生涯学習を模索する生身の人間(相談者)に対する生身の人間(ワーカー)からの援助が行われる場だからである。対等な基本的信頼の関係のもとでは、異なった価値観や考え方の提示はむしろ有益な場合が多いであろう。また、生涯学習の方法論に関する専門的・技術的な助言なども、ワーカーだからこそできる「異なった立場からの援助」のひとつとして重要である。
 このようにして進められる学習相談は、ネットワークの営みともいえる(図表2−2)。情報と情報をつなぎ、学習者と情報とをつなぎ、さらには、学習者と学習者とをつなぐ。そこでの相談員と相談者の関係は、異なった価値をもつ者のあいだの水平なギブ・アンド・テイクである。あくまでも学習者の自発的意思にもとづくものであり、それぞれが自立的価値(個性)をもっていることが条件になる。自立的価値をもつ個人や機関や情報が学習相談によって相互に連携するのである。

 図表2−2 ネットワークとしての学習相談

生涯学習と文化の街づくり
              岩淵英之編著『生涯学習と学校5日制』エイデル研究所
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

1 生涯学習社会のなかでの文化の位置

1−1 「私は音楽はだめです」と平然とは言えない文化風土を
 昭和音楽大学では平成2年度から短期大学部にも社会教育主事課程を設けた。その年は、私がそこで教員として勤め始めた年でもある。音楽の良さがわかっていて、しかも、もっと広く人々が幸せになるためのお手伝いができる資質と能力をもったリーダーを、この社会教育主事課程からどんどん生み出していきたいと思っている。
 新人の私に対して、この大学が発行している広報紙からの取材があった。本書で与えられたテーマに関係するので、その記事の一部を紹介したい。1)

 西村さんは、以前に勤めていた国立社会教育研修所で、ある高名な指揮者から、教育関係者への苦言を聞いた。その指揮者が中学校に頼まれて演奏し、そのあと、校長室に迎えられた。そこでの雑談で、音楽に関わる話題を出そうとしたところ、そこの校長が、
「あっ、私は音楽はわかりませんから」
 と、臆面もなく言ったというのである。自分が音楽がわからないということを、教育者でさえ平気で言ってしまえる今日の日本の文化風土を、その指揮者は憎んでいた。
 西村さんは言う。その校長は、音楽を、とても難しいもの、専門家でなければ理解できないものと思い込んでいたのではないか。だが、本当は、音楽とは、生涯を通じてその人なりの人生を楽しんでいくためにすべての人に必要な教養の一つであり、それを「わからない」と平気で片付けてしまうことは、たとえば「私は文字がきらいなので、本や新聞はいっさい読みません」と言っていることと同じではないか。音楽への関心も、読み書きの能力も、いずれも人間が幸せに暮らすための不可欠の、そして楽しい生涯学習なのである。
 西村さんの話を聞いていると、これからの生涯学習社会には、たくさんの人々が学校を卒業してからも生涯にわたって音楽に親しめるような環境づくりが求められているのだという確信がわいてくる。

 もちろん、「音楽はわかりませんから」という言葉自体を責めるわけにはいかないだろう。じつは、筆者自身も音楽大学に在職しながらも、クラシックやモダンジャズなどについては、その魅力がなかなかわからないでいるのである。だから、人に聞かれた場合は正直にそう話すことにしている。しかし、そのときには、なにか自分の弱い部分をさらけだすときのような恥ずかしさと、自分自身が音楽の良さを十分には知らないことに対する淋しさや後悔の気持ちを感じざるをえない。
 これからは生涯にわたってゆっくりと音楽に親しみたいと思う。これを生涯学習にならって「生涯音楽」と呼びたい。

1−2 好きだからこそ行う生涯学習・文化活動
 これと同じ広報紙の同じ号の巻頭言で、漫画家の砂川しげひささんが次のような巧みな文章を寄せている。2)

 ピアノを習ってて分かったのだけど、ピアノの先生ってあんまりクラシック聴いてませんね。ぼくの先生は某音大のお嬢さんだったのですけど、この人まるで音楽聴いていない。そりゃ、ショパンとかベートーヴェンのピアノ曲は自分が習ったから知っているけど、ベートーヴェンの「田園交響曲」すら聴いたことないのです。
 どこかおかしいです。思うに、学校で絞られて、本来の音楽を聴く楽しみを放棄させられてしまっているのです。そんなの可哀相。できるならサッサと音大なんか止めて、家でありったけの時間を割いて、ベルリオーズやマーラーを聴きまくったほうがイイくらい。これは半分冗談だけど、半分は本当です。やっぱり音楽を勉強するにも、基本は音楽が好きでなくちゃ。学ぶ前にまず好きになることですよ。恋をする時だってまず相手を好きになるんでしょ? それからいろいろ付き合っていって細かいこと知っていくんでしょ?

 音楽大学の広報紙の表紙を飾る文としてはずいぶん大胆な内容だが、しかし、文化享受のあり方を本質的に、かつ、端的に衝いていると思う。ここで繰り返すまでもなく、生涯学習とは、基本的には、個人がやりたい学習をやりたいように行うことである。だから、その原点は「好きである」ということになる。文化活動においては、その原則がよりいっそうはっきりしてくる。砂川しげひささんが苦言を呈しているように、文化を享受するときの本来の楽しみを放棄させられてしまうような教育だったら、生涯学習時代にはそぐわないのだといえよう。
 そもそも、どういうジャンルの文化を好むかということなど、まったく個人の勝手である。しかし、人びとが希望すればさまざまな文化活動のメニューやチャンスと出会える環境になっているかどうかについては、生涯学習の援助者や文化行政がつねに目を配っていなければならない。そうでなければ、「人生のなかで出会うべき恋人(文化)と出会えなかった」という不幸な人生をつくりだす危険性さえあるのである。

1−3 それぞれの文化活動の価値には序列がつけられない
 私が東京都青年の家の職員だったころ、主催事業としてディスコダンスの合宿をやっていた。当時は社会教育の場でそんな前例はどこにもなかったが、実行委員の青年たちが踊り方をどこからか仕入れてきて、みんなに教えた。時にはディスコの店長を招いて教えてもらったこともある。この事業に対する私の自己評価はつぎのとおりである。3)

 青年たちの感想は「踊りが大好きな人たちがホントに踊りを楽しむ場所。ディスコは体育館みたいなもんです」とか、「青年の家でやるディスコは、わからない時、きがるに教えてもらったりできるから楽しい」などであった。「ヒトに教えるなどとんでもない。人の前でカッコ良く踊るのが生きがい」という様子のディスコボーイが次第に実行委員会にのめりこみ、三年目のフェスティバルでは、スッと前に進み出てマイクを握り、一歩一歩そのステップを説明してくれた時は、私も他の実行委員の連中も大喜びした。
 ディスコで汗をかくと、とにかく身も心もすっきりする。しかし、今も昔もお店のディスコでは青年は意外にひとりぼっち。相手がかわいい女の子でもない限り、踊れないで隅にいる他人を、じょうずな者が教えるなどといったことはありえない。その点、社会教育や青年団体活動の場では、もっと「あたたかい」ディスコができるのだと思う。

 現在では、社会教育施設でもディスコなんかふつうに行われているようだ。だが、十数年も前としてはかなりの冒険だったといえる。しかし、その当時でも現在でも、ディスコの音楽をたとえばクラシックの音楽と比べて価値の序列づけをしようとすることなどは無意味であろう。そういう価値判断は個人の勝手に任せればよいことである。
 それよりも、文化事業の評価の視点は、まず第一に人びとのニーズにマッチしていたかどうかである。そして、教育事業としては、どれだけ学習効果があがったか、という視点も大切である。マイクを持ってステップ指導してくれたディスコボーイは、実行委員などの仲間との3年間にわたるつきあいのなかで自己変容したのである。
 私は、学習とはみずからがみずからを変えることだと考えている。ある盲目の詩人が、テレビのインタビューで、「私はたまたま良い詩と出会っただけなんです。ほかのひとは、絵でもいいんです。音楽でもいいんです。そこでより深い自分と出会い、自分の人生をていねいに生きていくことが大切なんです」と答えていた。学問でも、詩でも、絵でも、お茶でも、お華でも、何でもよい。自分の好きな文化やそれにともなう新しい空間、時間、仲間に出会うことで、いろいろなことに気づきながら人生を大切に生きていくことが、生涯学習であり、文化の意味なのでもあろう。

2 文化の街づくりの構想

2−1 「個の深み」を歓迎する文化の街づくりをめざして
 文化の街づくりをめざした生涯学習の公的援助の具体的な姿としては、市民のための文化施設・文化拠点の整備充実(空間づくり)、市民がいっそう文化に親しめるようになるためのさまざまな文化的事業の推進(時間づくり)、文化団体への援助や指導者・ボランティアの養成(仲間づくり)の3つがあげられよう。この3つの間(これをサンマと称する)をどのようにつくりだしていくかが重要である。
 また、当然、それらの根底には、市民文化の担い手は市民自身であり、行政は市民文化の内容にまで介入しようとするのではなく、条件整備に努めるべきであるという考え方がなければならない。しかし、それにしても、公的援助であるかぎり、条件整備にもおのずから限界がある。すべての要求に行政が対応するということはできない。プライオリティー(優先度)が問題になる。ところが、すでに述べたように、それぞれの文化を行政が価値序列づけするわけにもいかない。それより、ふつうは公共性の大小などがその重要な要素になる。それでよいと私も思う。
 しかし問題は、何が公共性か、いまはどんな文化支援活動のしかたが公共的なのか、ということであろう。予想される答えは、「多くの人びとが享受できるもの」「集団的に取り組まれるもの」などであり、それもそれなりの指標にはなるかもしれないが、私は、それが個人や少数者の文化を公共的でないと短絡させる原因になりかねないことに対して大いに危険性を感じる。そういうマス(多数、集団)中心の考え方とは異なって、私は、文化の街づくりの新しいあり方について、基本的にはつぎのように考える。
 1つは、文化が個人に特有に深まることを歓迎し、しかもそれをコミュニティ形成に活かそうとすることである。そういう個人の深まりを私は「個の深み」と呼んでいる。また、その援助の特徴はMAZE(迷路)型ということになる。2つは、個人の自発的意思から「異質」の他者(個人)と自由に水平に交流しようとするネットワーク・マインドを基調とするということである。パーティー型ということにもなる。3つは、文化の享受主体としての市民だけでなく、文化創造主体としての「突出的」市民をも支援対象として十分に認識することである。
 以上の3つについては、さらに詳しくは拙著「生涯学習か・く・ろ・ん」の全体の論調を参考にしていただくことにして、ここでは簡単にではあるが文化の街づくりのあり方を具体的に考えていきたい。

2−2 文化の空間づくり
 市民が文化を身近なものとして楽しめるようにするためには、まず、芸術・芸能のための大・小ホールや、美術、工芸などのプロ・アマを問わない作品の発表のための美術館、展示スペースの設置などが必要である。また、市民の知的生産のための書斎や芸術創造のためのスタジオ、アトリエの機能も求められている。そこでは、グループ活動のためばかりでなく個人の研究や文化創造のためにも、スペース、必要な道具、資料・情報などを提供し、あわせてその成果の交流と発展の機会を用意しておく。このようにして、個の文化的深まりを今後の社会が求めるものとして歓迎しつつ、本人の自発的意思のもとでその成果が社会に発揮されるような条件を整えるべきなのである。
 これらの空間は、1つには、メディアそのものとしての機能を発揮する場であると思う。質の高い文化や市民の手作りの文化など、いわばほんもののなまの文化を直接発信するとともに、異種メディアを縦横無尽に駆使して文化情報を提供する。それらは、古くさい啓蒙主義とは異なって、どう受けとめてどのように自己変容に発展させるかは市民一人ひとりが決める、という姿勢の表れである。しかし、文化の空間は、そういう市民の自己変容に役立つメッセージや情報を媒介することによって、文化のメディアとして機能するのである。そのためには、感度のよいアンテナが張りめぐらされ、研ぎ澄まされた文化情報がその空間に集積されていなければならない。これは、今日の支配的なメディアが文化に関する人間の主体性をややもすると阻害しがちな傾向に対して、対抗文化としての意味をもつことになる。
 2つには、新しい文化を研究・創造・開発する場である。大学が教育機能だけでなく研究機能をも不可欠としていることを考えるならば、一般の文化施設においても既成の文化を後追いしているだけでは魅力ある空間にはならないことが推測できよう。そのために、第1に、文化に関わる市民・団体のネットワークセンターとしての機能を発揮すべきである。そこには、プロ・アマ問わず気楽に水平に集えるたまり場があり、それぞれの個性ある発言の交流がある。第2に、その研究・開発の成果は積極的な広報・広聴活動とリンクすべきである。第3に市の内外で広く行われている文化創造や研究・開発を、積極的に支援し組織化するセンターとしての機能を発揮すべきである。
 3つには、広域の文化拠点として機能を発揮する場であるべきだ。行政による地域区分は文化にとっては大きな意味をもたない。それぞれの文化の空間が、それぞれの種類の文化のパイオニアとしての独自の役割をもつのであって、それらは全体として相互補完や相乗作用を及ぼすのである。市外の人びとの希望に対しても分け隔てなくその参加を歓迎するネットワーク的な精神が大切である。そのため、たとえば、文化の空間が発信する情報(広報)は近隣市町村や首都圏、そして全国に向けたものでありたい。そのほか、すでに述べたネットワークセンターとしての役割は、該当する文化に関連する全国の人びとの心の支えにもなるべきものである。文化の空間の役割は、行政のたてわりの意思決定、意思伝達システムから離れて自立し、それを用意した自治体の固定的なエリアを越え、異質の交流を重視する水平なネットワークへと向かうのである。

2−3 文化の時間づくり
 生涯学習の議論のなかに、統計的には学歴の高い人ほど引き続き学習行動を行っている割合が高いことから、生涯学習の推進は人間のあいだの格差をかえって広げてしまうのではないか、というものがある。たしかに、公的役割としては、今まで文化や学習から疎外されてきた「学習・文化の底辺層の人びと」にほど手厚く条件を整えていく必要があるだろう。しかし、それが、いつまでも入門編にとどまるような講座を開いていたり、低いレベルの文化・芸術を交換するだけのものであったりすることならば、それは肝心の「底辺層」からさえ見向きもされなくなるだろう。
 実際、公的学習事業に対して「安かろう、悪かろう」という先入観が市民のあいだにあるのは、一部のそういう貧弱な公的事業の結果の表れといえる。人を小馬鹿にしたような事業の「恩恵」を心から喜んで受け入れる従順な「大衆」など、もはや存在しないと思ったほうがよい。文化事業は、親しみやすく、わかりやすく、なおかつ、こころざしが高くなければならない。
 そういう事業の1つとして、先端的スクール事業が考えられる。身近な学習機会だけではあきたらないハイブロウ(教養人)の文化要求に応える講座・教室を打って出るのである。大学の公開講座が人気があるのは、高等教育を受けてみたいという市民の気持ちの表れでもあり、そういう高等教育機関との連携事業なども考えたい。
 2つには、恒常的イベント事業が考えられる。いつでも、市民が気の向いたときにふらっと立ち寄ることのできる催しが開かれている必要がある。たまに家族がそろって夕食をすませたあと、急に思い立っても近くの街角でコンサートが聴けるようになっていれば文化の街づくりとしては理想的である。そのためには、民間団体の自発的なイベントなどに対しても、共催や広報活動などの援助をする必要がある。また、年度途中でもすみやかにそれらに対応して必要な事業を実施できる柔軟な経営が求められる。
 3つには、メディア活用事業が考えられる。毎日のようにマス・メディアから提供される芸術・文化の番組をよく把握し、より詳しい知識や情報等を地域のフェイス・ツー・フェイスの場でのやりとりやパーソナル・メディアによってフォローする。そのことによって、身近なところで気軽に文化を享受できるマス・メディアの便利さを活かしながら、しかも、マス・メディアからの一方通行の情報だけでは実現できない文化主体としての市民の成長を促すことができるのである。

2−4 文化の仲間づくり
 上に述べた空間と時間を実質的に創り出し、支えるのは人間や諸機関であるが、それらがおたがいに関係をもちながらそれぞれの個性を発揮するということになる。その関係は、上下の階層分化を基調としたヒエラルキー型ではなく、他者の異質の個性を歓迎するネットワーク型である。ここでは、ネットワーク型の文化の仲間づくりの特徴を考えてみたい。
 1つは、個人や少数派を大切にするということである。文化がいきいきと育まれるためには、一人ひとりが心を開くことのできる仲間が必要だが、それはとにかく集団がありさえすればよいということではない。いつも援助対象を団体(マス)としてしかみないやり方だったら、その文化行政は団体のメンバーからさえも嫌われてしまう。だれだって自分のことをひとつの価値ある個性として認めてもらいたいのである。また、少数の人びとの文化もけっして特殊な事例としてかたづけられるものではなく、えてしてこれからの文化の先取りである場合が多い。少数派でも、社会的、文化的価値は大きいかもしれないのである。数を稼ごうとする「動員主義」は文化にはなじまない。
 2つは、個人や機関の個別の価値を大切にするということである。むやみに同一化を求めようとすべきではない。ネットワークとは、自発的意思にもとづく水平なギブ・アンド・テイクの交流であり、そのつながりはゆるやかで、参入と撤退、出会いと別れを自由に繰り返す。そこでは、互いが異質の自立的価値をもっており、その価値が相互に連携する。それゆえ、特定の目的や形式にあまり執着せず、そのときどきにさまざまなプロジェクトが各自の自発的意思によって自由奔放に進められる。
 3つは、ヘッドシップではなくリーダーシップが発揮されるということである。階層的上位者としての制度上の権威にもとづく指導性(ヘッドシップ)ではなく、指導者個人の魅力や能力(リーダーシップ)によってまわりの人びとの個性と自発性がいっそうのびのびと開花することこそ、文化活動における人間関係のあり方である。そのような姿勢にもとづいて、文化に関わる指導者、ボランティアの養成・研修やそのための援助が行われるべきである。

 ここに提唱したネットワーク型の文化の街づくりを支えるための、行政にとってもっとも大切なコンセプトは、「対話」ではないだろうか。従来は、管理上の観点からはルールの押し付けが、また、文化的・教育的な空間でさえ上から下への一方的な情報伝達が行われがちであった。しかし、文化の街づくりに対して求められているのは、個人の自発的意思であり、自立的価値である。それは、対等な対話のなかで、おたがいが見つけ出していくものなのである。
 そういう前提のもとであれば、文化政策の経営にはむしろ強力な個性が望まれる。そこには、行政側の個性が反映した強力なアピールがあって当然なのである。この「自治体行政の個性」は、文化活動の側面における市民の主体性の獲得をむしろ促す方向で作用するであろう。

1) 「人のある風景」、昭和音楽大学「ビバ・ラ・ムジカ」11号、1991.8.
2) 砂川しげひさ「クラシックほんとに好き?」、同上
3) 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん』、学文社、1991.4.
現代学校教育大事典

社会教育主事(補)
[職務]社会教育主事は、都道府県及び市町村の教育委員会の事務局に置かれ(社会教育法第9条の2)、社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える(同法第9条の3)。ただし、命令及び監督をしてはならないことになっている(同)。
[経緯]社会教育法制定の2年後の1951(昭和51)年に法に追加される形で新設された。当初は都道府県だけが義務設置だったが、1959(昭和34)年の法改正において市町村も義務設置となった。ただし、経過規定として、人口1万人未満の町村については設置が猶予されている。
[資格]社会教育主事となる資格を有するためには次の四つの方法がある(同法第9条の4)。@大学等に2年以上在学して62単位以上を修得し、3年以上社会教育に関係のある職に就き、社会教育主事講習を修了する。A教育職員の普通免許状を有し、5年以上教育に関する職に就き、社会教育主事講習を修了する。B大学に2年以上在学して62単位以上を修得し、大学において社会教育に関する科目の単位を修得する。この場合は、1年以上社会教育主事補となることを要する。C社会教育主事講習を修了し、社会教育に関する専門的事項について上記の者に相当する教養と経験があることが都道府県の教育委員会によって認定される。
 なお、ここで、大学とは短大を含む。また、社会教育に関係のある職には、地方公共団体の教育委員会における社会教育に関する事務のほか、社会福祉主事、改良普及員、そして、市町村規模以上の社会教育関係団体の規約に掲げる役員の職などが含まれる。教育に関する職には、学校の教員及び事務職員の職のほか、少年院、教護院において教育を担当する者や、保育所の保母の職などが含まれる(ともに昭和34年文部省告示第53号及び昭和35年文社社第71号社会教育局長通知)。
 以上の規定は、社会教育主事の高い専門性を確保しようとするものである。さらに、臨時教育審議会は、広く民間からも人材を求めるなど、広域的な視点から優秀な人材を確保するための措置を一層拡充するよう求めた(第2次答申)。
[社会教育主事の専門性]社会教育行政が一般行政から区別される重要な要素の一つは、実体的には専門職員、とくにその代表格である社会教育主事の存在であるといえる。学校教育であれば教員という専門職員が置かれているわけだが、社会教育主事はそれに対応する。あるいは、教育公務員特例法で専門的教育職員として指導主事と社会教育主事が併記されていることから、指導主事の専門性と同列であるとも考えられる。
 ところが、学校教育では、教員は児童・生徒の教育をつかさどると規定されているのに対して(学校教育法第28条)、社会教育では、行政は「すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように」(社会教育法第3条)努めるのであって、社会教育主事は国民の教育を直接つかさどる立場にはない。そこに社会教育主事の専門性を考えるにあたっての複雑さがある。
 しかし、市町村の社会教育主事を、住民の自発的な学習を助成し、その地域における社会教育活動を推進するための実際的な世話役としてとらえ、都道府県の社会教育主事を、全県的な立場からの社会教育行政の推進や市町村教育委員会に対して助言・指導をする者としてとらえるならば(1971(昭和46)年社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」)、その専門的力量を高めることこそが、結果的には住民自らが行う学習を促進することにつながると考えられる。
 社会教育主事の専門性の内実については、しばしば3P論、4P論と呼ばれる議論がなされている。いずれもPで始まるプランナー、プログラマー、プロデューサー、プロモーターとしての資質・能力が必要だというのである。
 また、最近の到達点としては、1986(昭和61年)10月の社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」が挙げられる。そこでは、学習課題の把握と企画立案の能力、コミュニケーションの能力、組織化援助の能力、調整者としての能力、そして、幅広い視野と探求心が社会教育主事に求められる、とされている。
[社会教育主事補]任意設置で置かれ、社会教育主事の職務を助ける。最近、教職経験者だけではなく、大卒者(大学において社会教育に関する科目の単位を修得した者)の採用が少しずつ増えているが、この場合は社会教育主事になるためには1年以上社会教育主事補として勤めなければならない。ただし、実際の職務は、社会教育主事と明確な区分はなく、むしろ、係長になるべき年数を勤めた時点で社会教育主事とするなどの給与上の位置づけとして2つを区分している自治体もある。しかし、法的には、社会教育主事補は専門的教育職員には位置づけられていない。
[派遣社会教育主事制度]1974(昭和49)年度から開始された。都道府県が社会教育主事を市町村に派遣する際に負担する給与費の半額以内を、国が「社会教育指導体制整備事業交付金」として補助している。派遣された社会教育主事は、派遣先市町村の職員(社会教育主事)の身分を併せ有し、専ら当該市町村の社会教育行政に関する事務に従事することになる。分限及び懲戒は県教育委員会が行うが、服務上の監督は市町村教育委員会が行う。1975(昭和50)年度からスポーツ担当の社会教育主事(スポーツ主事)の派遣も開始された。
 もちろん、市町村の社会教育主事は市町村が独自に設置すべきであり、派遣社会教育主事制度はこれを奨励するためのものである。そのため、派遣社会教育主事制度が社会教育主事未設置の市町村の肩代りにならないよう、既に設置されている市町村への派遣を原則としている。ただし、未設置市町村の解消のため、派遣期間中に独自の社会教育主事を設置するならば派遣するという方針がとられている。
 派遣にあたっては、市町村における社会教育指導体制の整備を図るために計画的なローテーションを組むようにされている。そのことによって、社会教育指導体制を広く整備するとともに、派遣された社会教育主事が専門性を高めることができるよう配慮されている。また、教員の派遣も多く、結果として、学社連携の促進にも貢献しているといえる。
[最近のその他の動向]学校教員と社会教育主事との人事交流については従来から盛んであり、それは両者の専門性を互いに生かすという意味では学社連携を促進する積極面も持っているが、処遇上の格差や現実の社会教育行政に教員の識見を生かすことの難しさなどの問題も抱えている。
 最近では、社会教育主事資格を学校教員が取得して、本人はその後も教員として勤めたまま社会教育主事の発令も受けるという自治体が出てきている(仙台市など)。これなどは、社会教育主事の制度を活用した新しい学社連携の形といえる。
 また、前述の報告「社会教育主事の養成について」では、民間の教育・文化・スポーツ事業や企業内教育等の学習関連部門においても、社会教育主事と同様な資質・能力を持って学習事業の企画・立案・実施に当たる人材が必要になっている、として、大学における社会教育主事養成コースにおいて民間への人材育成をも図り、そのコースの履修者が自己の適性に応じて、行政部門のほかに、そのような民間の機関・部門にも進路を選択できるようにすることを提言している。
 社会教育主事の資格を持つ人が、行政に置かれる社会教育主事としてだけではなく、広く生涯学習関連事業に携わるようになる可能性もある。 〈西村美東士〉

社会教育主事講習
[法的根拠]社会教育法第9条の5に、社会教育主事の講習は文部大臣の委嘱を受けた大学その他の教育機関が行う、とあり、それを受けて、社会教育主事講習等規程(1951(昭和26)年文部省令第12号)で、講習の科目等が定められている。
[経緯]社会教育主事制度を新設した1951(昭和51)年に、同時に法に盛り込まれた。ねらいは、社会教育主事の養成とそれによる自治体への社会教育主事の迅速な配置である。
 大学のほかの「その他の教育機関」については、1959(昭和34)年の法改正において追加され、実際には1972(昭和47)年度から国立社会教育研修所でも講習が始まった。
 1986(昭和61年)10月に、社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」が出され、翌年2月に社会教育主事講習等規程が改正されて、講習で修得すべき科目が大きく変わった。
[受講資格]社会教育主事講習を受けることができる者は、次の五つのうちのいずれかに該当するものである(同規程第2条)。@大学等に2年以上在学して62単位以上を修得した者。A教育職員の普通免許状を有する者。B4年以上社会教育に関係のある職にあった者。C6年以上教育に関する職にあった者。D上記の者に相当するものとして文部大臣の認める者。
 なお、ここで、大学とは短大を含む。また、Dに該当する者は、高卒以上で、8年以上社会教育関係団体の会長、副会長の職であった者(都道府県規模の団体の場合は事務局長等を含む)などである(昭和35年文社社第71号社会教育局長通知)。
[科目とその事項]講習で修得すべき科目は、それまでは、社会教育概論、社会教育史、社会教育行政、青少年教育、成人教育、体育及びレクリエーション、社会教育演習、社会教育特殊講義などとなっていたが、規程の改正によって、社会教育の基礎(社会教育概論)、社会教育計画、社会教育演習、社会教育特講の4科目に組み変えられた。
 社会教育の基礎としては、社会教育の意義、生涯教育と社会教育、社会教育と学校教育、社会教育と社会教育行政、一般行政と社会教育行政、社会教育の内容・方法・形態・学習者、社会教育指導者の各事項が挙げられている。
 社会教育計画としては、地域社会と社会教育、社会教育調査とデータの活用、社会教育事業計画、社会教育の対象の理解と組織化、学習情報提供と学習相談、社会教育と広報・広聴、社会教育施設の経営、社会教育の評価の各事項が挙げられている。
 社会教育特講としては、国際化、高齢化、情報化、家庭教育、青少年問題、婦人問題、環境問題、同和問題、社会福祉などと社会教育(の関連)、社会教育行政、視聴覚教育、学校開放、ボランティア活動、社会体育、健康教育、消費者教育、文化財の保護、企業内教育・職業訓練、民間の教育・学習機関の各事項が挙げられ、そこから選択して行うことになっている。
 科目とその内容については最善の組み合せがなされているとは必ずしもいえないが、各科目の単位数との調整の面からやむを得ない点もあったのであろう。それよりも、むしろそれぞれの事項に注目すべきである。前述報告では、社会教育が当面する課題を様々な角度から解明し得るように総合的な編成をするとともに、実践的な能力の養成を図るため、演習・実習や実地調査等をできるだけ取り入れることなどを提言しているが、その考え方が各事項や講習全体の学習方法に反映しているのである。 〈西村美東士〉

青年海外派遣事業
[経緯]1959(昭和34)年度、皇太子殿下(現在の天皇陛下)の御成婚を記念して、青年海外派遣事業が開始された。1981(昭和56)年度からは、派遣先を開発途上国に絞り、各班1ヶ国を3週間程度、訪問するようになって現在に至っている。このほか、1967(昭和42)年度からは青年の船、1974(昭和49)年度からは東南アジア青年の船、1979(昭和54)年度からは日本・中国青年親善交流、1987(昭和62)年度からは日本・韓国青年親善交流、1988(昭和63)年度からは、明治百年記念事業として、青年の船を発展的に改組して世界各国の青年も乗船するようになった世界青年の船などの事業が行われている。
[派遣と招へい]上に掲げた事業は総務庁の青少年国際交流事業として行われているが、同庁ではほかに1962(昭和37)年度から外国青年招へい、1985(昭和60)年度から国際青年の村などの事業を行い、外国の青年を招へいして日本の青年との交流を図っている。また、上の青年の船や親善交流の事業においても、外国青年の招へいを行っている。
[他省庁等の事業]外務省では、指導的地位に就くであろう有為な青年を対象にした青年日本研修、所管の特殊法人国際協力事業団(JICA)の実施による地方におけるホームステイプログラムを含めた21世紀のための友情計画の招へい事業を行っている。文部省では、全国的な組織をもつ青少年団体による派遣・招へいの事業に対して補助金を交付しており、それらの団体が実施する国際交流事業も盛んである。その他、青年技能労働者や農村青少年などの国際交流事業が関係省庁・機関によって実施されている。また、自治体による青年の船、青年の翼などの事業も各地で行われている。
[事後活動]総務庁の各事業に参加した青年たちが「日本青年国際交流機構」を自主的に組織するなど、それぞれの事業を契機にさまざまな事後活動が行われている。事業で得た経験が将来にわたって本当に生かされるためには、これらの活動が重要であり、地域の関係諸機関においても彼らがボランティアとして活躍できる場を提供するなどの配慮が求められる。 〈西村美東士〉

長寿学園
 1989(平成元)年度に開始された。国がこの事業を開設する都道府県に対して定額補助を行う。この事業は、多様化、高度化する高齢者の学習要求に対応して、幅広い分野と高度で専門的な内容をもつ講座を開設するとともに、修了者を地域活動等の指導者として積極的に活用することをねらったものである。
 長寿学園は単位制をとり、1単位の授業時間は15時間を標準としている。課程には、基礎課程と専門課程がある。基礎課程では、高齢者が生きがいをもって生活する上で必要な生活・健康に関する共通科目と、地域の指導者として必要な基礎的教養を養うための基礎科目が開設される。専門課程では、地域活動の指導者として基本的に必要とされる資質を身につける内容の共通科目と、専門性を高める内容の専門科目が開設される。その他、研究科、通信制コースの開設や、特別講座、クラブ活動、学生相談事業などが行われる。
 単位の授与については、長寿学園が直接開講するもののほか、地域の大学、民間教育事業、放送大学、市町村の学級・講座、職業訓練校、農業大学校等における学習なども課程として指定する。学習場所についても、生涯学習センター等のほか、同様の広がりをもたせることとなっている。また、指導者の資格取得者を専門分野に従い人材バンクに登録するなどして、広く周知、派遣するとともに、活動の場の開発に当たっては、教育委員会、首長部局、学校、社会教育施設、社会福祉施設、民間教育事業、企業等の地域の関係機関と積極的に連携・協力し、これらの機関が実施する事業に学園修了者や指導者の資格取得者を派遣しようとしている。
 このように長寿学園は、高齢者の学習の特性を考慮しつつ、関連諸機関の連携の上で、広く地域にその知恵や経験を生かしてもらうことによって、生きがい対策の充実とふるさとづくりの推進を行おうとするものである。 〈西村美東士〉

公民館が仕掛ける出入り自由の「こころのネットワーク」
 −狛江市中央公民館青年教室のなかでの相互理解−
                昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

1 プータローの自由な精神を求めて

 プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。
 私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。
 狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。

 以上は、ぼくが一九九二年度狛江市青年教室の企画委員の青年たちに提案したチラシの前書きである。この前書きに基づいて、教室の名称を「狛江プータロー教室」(狛プー)とした。参加者の中には、この前書きの文章にひかれて応募したという人もいる。

2 アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物

 しかし、このチラシの一番の魅力は、なんといっても企画委員の青年たちが作ったわけのわからないプログラムだろう。毎月いろんなことをスキゾ的にやってしまおうというのだ。過去に各地で行なわれていた青年学級も、目的的なテーマをひとつだけ設定するということをしないで、高校に行かない青年たちのための総合的な学習カリキュラムを提供していたが、狛プーのプログラムはそれとも少し違う。狛プーでは、企画委員の青年があくまでも自己の関心・興味からばらばらなアイデアを出したのである。
 だが、ぼくなどにとっては最初は理解できないようなアイデアであっても、提案者の話をよく聞いてみると意外に面白そうなものが多かった。「紙芝居」のアイデアが出たときは、ぼくは最初は「そんなもの、今の若者がやりたがるものか」と内心では思っていた。しかし、あっという間に、「自転車に『狛プー紙芝居軍団』というのぼりを立てて、市民祭で練り歩こう」という所まで青年たちの話は発展していた。あとになって、この「紙芝居」はぼくたちにとっての素晴らしい自己変容のきっかけのひとつになったのである。
 そんなことから、ぼくは、「グループによる発想法などが企業などで研究されているけれども、そんなテクニックなどそんなに使わなくても、一人ひとりの心が解放されていて、メンバー間に受容的な雰囲気さえあれば、青年たちがいくらでもアイデアを披露してくれる」と思えるようになった。それぞれのアイデアは素晴らしい宝石である。しかも、その一つひとつが色も種類も異なる宝石である。

3 プータローの自由のつらさ

 例の前書きを書いたとき、ぼくはつぎのように考えていた。
 「現代青年が、いま、もっとも求めているものは、自分たち一人ひとりがそれぞれの個性を発揮できる場と、そういう場を創り出すあたたかい仲間関係なのではないだろうか。それを『支持的風土の集団』ということもできるし、『サンマ』(心を開いて交流できる時間・空間・仲間の3つのマ)ということもできる。ネットワークの本当の意味はこれだろう。」
 だが、そういうネットワークの場は、本人にとって最初はかえってつらいものになるときがある。自分の責任でその自由を行使しなければいけないからである。今まで、保護されたり、管理されたりしたことはあっても、自由になったときの恐ろしさは味わったことがない。自由のつらさはプータローの宿命である。だが、このようにして苦しみながらも自由を行使したことがないと、結局は、「保護のしかたが足りない」「管理のしかたが悪い」などと言っていつも社会や他人のせいにして被害者を演じて生きていく人生の構えが身にしみついてしまう。
 狛プーは、一人ひとりの個性をできるかぎり尊重することによって、青年が自由の楽しさとともにその怖さを体験し、自己の非主体的な思い込みから自らを解放していく場になっているのである。

4 撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」

 「いったん集団に入ってしまったら、そこから抜けることは無責任である」という考え方があるが、ぼくはそれを「不幸の手紙」のような「不幸の分かち合い」や「不幸の押し付け」として感じる。他者に対して自分や自分の帰属する集団に「同一化」するように迫るピア・コンセプト(仲間意識)の逆機能(否定的側面)そのものではないか。
 これに対して、狛プーは出入り自由のネットワークとして運営されている。だから、「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」と新規参入(ニュー・カマー)を歓迎するだけでなく、来なくなってしまった人に撤退した責任を問うこともしない。せいぜい「たまには顔を見せて」と電話をするぐらいである。
 ある人の突然の撤退によって抜けた穴でも、残った人で何とかなるものだ(担当者は大変だろうけれども、それが社会教育職員の援助者としての役割なのだから仕方がない)。ただ、その日に役割をもっているのに抜けたくなった人は、仲間のだれかに連絡するぐらいのことは最低限のルールだと思う。そういうルールが学習できるのも、自由なネットワークだからこそのものだ。
 撤退の自由がなければ、本人がそこに参加するのも「お義理」になってしまうこともありうる。だから、ネットワークには撤退の自由が必要なのだ。しかし、撤退する本人が運営に関して撤退後も発言したり(OBによる現役支配の弊害がそれである)、残っている人を個人攻撃したりするなどの、「立つ鳥あとを濁す」ような未練がましい行為があると本当にいやなものだ。自分の「未練」を他人に押し付けるのは、プータローの自由な精神に反する。ネットワークに撤退の自由が求められるとともに、撤退する本人には「潔さ」が要求されるのである。

5 出入り自由の淋しさを受容する

 狛プーのメンバーが撤退するとき、本当は内心淋しいのかもしれないがニコニコして去っていく。おとな心も適度に持ち合わせているのだろう。キャンプだけ参加して、あとはまったく出てこない人もいたが、その人などは最初から「みんなでキャンプに行くのが好きだから、キャンプだけ参加します」と言って、キャンプ場では常連メンバーのように振舞って楽しんでいた。
 問題は、残された仲間たちの淋しさである。それは、つまり、「出入り自由の淋しさ」である。しかし、一人ひとりがこの淋しさとうまくつき合えないと、いつまでたってもピア・コンセプトの逆機能は乗り越えられないし、ネットワーク型のコミュニケーションを創り出す主体性を身につけることができない。現代青年は、コミュニケーションをすることによって相手を傷つけたり自分が傷ついたりすることを極端に恐れている。これは良い意味での「現代青年の優しさ」でもある。しかし、その優しさは、「だからコミュニケーションしない」という彼らの敗北主義の象徴のような「山アラシジレンマ」(接近したいが、かといって、お互いの針で傷つけ合いたくはないというジレンマ)に陥る危険にも結びついているのだ。
 狛プーで「出入り自由の淋しさ」を感じながらもその淋しさを受容することは、「結果を恐れるがあまり、したい交流もしない」人間から、「したい交流はするが、自分の期待どおりに交流してくれない相手の存在も受け入れる」人間に自己変容することにつながっていく。そういう人間をネットワーカーと呼んでもいいだろう。これこそが「山アラシジレンマ」を正面から突破するための唯一の筋道なのだと思う。

6 狛江市にとっての「流入青年」たち

 狛プーの「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」の精神(ネットワーク・マインド)は、当然、狛江市外から、なかには一時間以上もかけて、通ってくる青年たちの参加を増やす結果につながっている。これは「地域に根ざす社会教育であれ」というスローガンを平面的にしかとらえようとしない人には、好ましくない現象として映るかもしれない。
 しかし、狛プーは、現代青年にとっての「アジール」のひとつである。アジールとはもともとは「(自治的な都市などの)不可侵の領域」という意味だが、ここでは「駆け込み寺」として理解しておけばよいだろう。「正統派」からはじきとばされた人たち(プータロー)は、そんな自分が受容されるサンマを感覚的にかぎつけてアジールに集まってくる。そこでは、仲間の活動に加わらずに(参加できずに)その活動を眺めていることだって許される。そういう所からユース・カルチャー(若者文化)が生まれ、社会の「正統派」の文化に影響を与えていく。
 だから、狛プーがアジールであるとすれば、狛江はユース・カルチャーの発信基地のひとつと呼べるわけだ。そこでの活動は、狛江市に若々しい息吹を吹き込んでくれるだろう。現に、狛プーの紙芝居は、市民祭で市内の多くの子どもやその親たちに歓迎された。もちろん、たった一カ月の練習でプロ並みの腕ができあがるわけがない。紙芝居の面白さを知った「一時的流入青年たち」の気持ちが狛江市民の気持ちと触れ合って、市民祭の場で共感的な世界を創り上げたのである。
 「地域に根ざす」といっても、それを機械的に推し進めようとすると「土壌」はいつまでたっても豊かにならず、草木は「根腐れ」してしまう。「アジールへの流入青年」たちが吹き込む新しい風が狛江の土の上を吹いてこそ、その土(地域文化)も豊かになるのである。
 また、流入青年たちの中には大学生も多い。一昔前の青年教育は、大学に行かない(行けない)勤労青年のための福祉的、恩恵的な意味合いをもって行なわれていたといえよう。しかし、現代の山アラシジレンマの青年たちにとっては、本人が大学生だろうが勤労青年だろうが、社会教育の世界を知ってネットワーク・マインドを身につけることが緊急課題になっていることには変わりがないのではないか。
 むしろ、高等教育(大学の授業)は本来、自己教育力(「学びたい」という意欲など)を前提に成立するのだが、その前提そのものが成立していない現状のもとでは、狛プーのような「社会教育」によって、高等教育を成立させるための大学生の側の主体的条件がつくられるというだいそれた考えさえ、ぼくは抱いている。なぜなら、今日の大学生の学習意欲の喪失のおおもとには、彼らの生きる主体性そのものの喪失があると考えられるからだ。狛プーは、勤労青年にとっても大学生にとっても「何を楽しみに自分は生きるのか」を見つける場所である。

7 キャンプは夜だ

 過去の青年教育においては、サークルなどの目的集団に対して、青年団などの生活集団の意義が叫ばれたことがある。そこでは、生活に根ざした総合的な人間交流の意義があらためて評価されていた。もし、そういう人間交流が可能になるならば、それは現代管理社会の一端に人間解放のユートピアを実現することにも近い。しかし、これといったほかの目的を持たずに、生活の中での人間交流そのものを目的とする試みなどに現代青年が関心を持つだろうか。私たちのそういうためらいに答えを出してくれるひとつの仕掛けが、キャンプであり、キャンプの夜であり、キャンプの夜の「空白のプログラム」である。
 そこでは、気楽なおしゃべりや「打ち明け話」とともに、一人ひとりの「生活文化」が自然にしみだしてくる。共通の文化の確認も楽しいが、異なる文化との出会いは「えっ、君っておもしろいね」という感じで、より刺激的である。「仲間との楽しさ」とは本当はこういうものであり、キャンプは新しい「生活集団」として、新しい教育的効果を発揮してくれる。
 日中の正式のプログラムが終わって、夜、寝床で昼の議論の延長戦を行うことを「寝床分科会」と呼んで、その意義が注目されていたことが過去の青年教育にもある。本音の交流ができるというのである。このような「寝床分科会」の意義も軽視できないとは思うが、狛プーのキャンプは分科会の延長でさえありえない。鉄板焼の肉や野菜、アルコールで盛り上がる一方で、個人がそれまで持ってきた「文化」や「生活」そのものがぽつりぽつりと出される。「たんなる飲み会」ゆえの魅力とも言えようか。思いもしなかった他者の枠組に出会って自分の枠組との違いに驚き、「おもしろい奴だなあ」と感じ、しかもそれなりに他者を共感的に理解する。
 人間は仕事や学業に追われる昼間よりも、夜のほうが自然体になりやすい。だから、夜になると「悪いこと」もしてしまうのだろうが(それは、ある意味での「人間らしさ」である)、夜はそういう魔力をもっているからこそ、プータローの自由な精神にあこがれる青年たちにとって魅力的なのである。

8 青年が自分のお金を払う時

 大学生でさえ、教科書をなかなか買ってくれない。貧乏だからなのかとも思うが、彼らどうしの飲み会では二千円、三千円と気前よく払っている。飲み会は現代人にとって「天国から地獄に降りてきた蜘蛛の糸」のようなものかもしれない。ただし、そのわりには、「一気飲み」や「瞬間芸」など、それぞれの本心は大切に隠して背中を向け合っているような淋しい飲み会のほうが主流のようだ。
 しかし、狛プーの飲み会はそれとは違っている。終了後は、毎回、飲み屋に流れていく。用事のある人や飲みたくない人はさっさと帰っていくが、飲めない人でもこれを楽しみにしてジュースで参加する人がいるし、狛プーの終了時刻にぎりぎりにしか間に合わないために、公民館ではなく、その飲み屋に直行して待っているという人もけっこういる。
 狛プーの飲み会は一人二千円くらいかかるが、その金額以上の魅力があるのだろう。ぼくは、これを、「飲み屋での自己解放と相互解放」ととらえている。実際、ぼく自身、その飲み屋で、「ここにいるときが一番mitoさんらしい」とメンバーによく言われる。メンバーもぼくも、公的社会教育の参加者や援助者という社会的位置づけから解放されて役割演技の仮面をはずすことができるのである。
 これは、自前の金をおたがいに払い合っているからではないかと思う。

9 空白のプログラム

 狛プーのキャンプの魅力が「空白のプログラム」であることはすでに述べたが、通常のプログラムにもそのような仕掛けが配置されている。それは計画が「いい加減」ということでもある。しかし、いい加減はよい加減でもある。何をやるかきっちりと決まっているからこそ「来よう」という気もおきるのだが、そればかりでは参加者は「やらされている感じ」になってしまう。たとえば、狛プーのプログラムの中の「温泉に行こう」だの「連続お別れパーティー」だのという月は、じつは何も決まっていないに等しい。そのほか、月の切れ目なども「良い加減」に運営している。
 たとえば、メンバーの一人が玉乗りのプロであると知ると、さっそく翌週のプログラムは玉乗りの練習にしてしまったり、「正月だからカルタとりをやろう」と一人が言い出すと、「やろう、やろう」ということになって誰かが百人一首を持ってくる。その「良い加減さ」が、参加者をその気にさせるのである。それに目くじらを立てる青年はまずいない。狛プーでは青年たちは自由を使いこなそうとしている。ぼくは、これを、フリースペースの社会的教育力、自己治癒力だと考えている。
 ぼくは、狛プーの通年講師として、ある反省をしたことがある(そういう反省の機会はけっこう多い)。報告書に掲載する図について話し合っていたとき、ぼくは早く完成させようと焦っていた。担当者(ぼくの古くからの友人である)がいつもののんきな口調で雑談をしばしばはさんでいた。ぼくは、「おいおい、早く片づけちゃおうよ」と言った。そうしたら、その夜の飲み会で、ある女性メンバーに、「mitoさん、焦ってるんじゃない?」と言われてしまったのだ。担当者のペースのほうがいいと言う。彼女にその理由を聞いたところ、「今日はプログラムが何も決まっていなかったから、久しぶりに飲み屋さん以外でもおしゃべりのためのおしゃべりができると思って楽しみに来たのに……」と言うのである。
 プログラムを決めて、その目標に向かって参加者を楽しませる、そんな「過去の社会教育の枠組」にぼくのほうこそ縛られていたのかもしれない。逆に、担当者の「職員らしからぬ言動」は、彼の本領発揮、面目躍如の行為であり、さらにはユースワーカーとしての社会教育主事の存在意義そのものを示すものであったのだ。
 フリースペースの創造のための職員や講師の働きかけのあり方は、簡単そうで難しいし、難しそうで簡単なのである。

10 狛プーは癒しのネットワークである

 ぼくが大学の授業で、最近出会った過去を断ち切るために行なう「偶像崇拝的」なある活動について、依存の表れであると批判したところ、ある学生に「あなたは傷ついたことがないのではないか」と出席ペーパーに書かれてしまった。「その人がそれを信じていて幸せになれるのならいいではないか。だから、批判すべきではない」というのである。しかし、そのようにして批判を避けて生きていくとしたら、そのあとに残るコミュニケーションとは何と空疎なものだろうか。また、特定の個人を偶像崇拝するファシズムが現れても、ぼくたちは「一部の人が幸せになれるのなら」と言って批判を避けなければならないのだろうか。社会は個人がばらばらに生きていける所ではないはずだ。しかも、自称「傷ついた人」は、偶像崇拝を許す「優しさ」のわりには、ぼくの触れられたくない過去の傷の有無まで問うてくる身勝手さをも兼ね備えている。
 人間は親に全面的に依存できる時期を過ぎて、現実原則を働かさなければいけない社会に出ていく。それを「楽園追放」という。そのときにすでに「痛み」は不可避的に生じるのである。「痛み」を経験していない人はいない。もちろん、気づかないようにすることは大いにありうる。しかし、そういう「痛み」をつらくて乗り越えられないでいる人が、「深み」をもっていることを証明された人間のようにほかの人を見下し、結局はかえって威張っているような状況に、ぼくは異議を申し立てたい。「個の深み」とは、「痛み」の大きさなのではなく、その人が自分自身の「痛み」や自己の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているかなのではないか。
 この事例にぼくは現代青年のもっている変な思考回路を感じる。快適なコミュニケーションのためには「心を開く」ことが不可欠であるが、だからといって、「開きたくないこと」まで無理に開くことはないし、また、逆に、「心を開かせることが必要だから」といって、相手の人格にまで立ち入って論じたり過去を詮索したりすることなどは誰にもできないはずだ。その相互認識なしには心を開くコミュニケーションなどできるわけがないし、山アラシ・ジレンマに陥ってしまうことも目に見えている。もしかしたら、何人かの現代青年は、「心を開くコミュニケーション」を非主体(偶像崇拝)的に憧れすぎているため、その結果として、実際にはそういうコミュニケーションができなくなってしまっているのかもしれない。
 傷ついた青年たちのもっている敗北主義は、現在、「被害者」を演じようとする思考回路にはまっていて、それがそれなりの自分勝手な安定感を生み出してしまっていると思われる。そういう現代社会において、狛プーの青年たちが培ってきたネットワーク・マインドの「朗らかさと潔さ」は、とても重要な役割を果たすことができよう。狛プーの役割は、「自分への信頼(自信)や他人への信頼」を失いつつある現代青年にとっての、その基本的信頼感を回復するための、心を開いて交流できる「癒し」(いやし)のネットワークとして機能しているといえるのである。
まちを創るリーダーたち 栃木県佐野市
 全国生涯学習まちづくり研究会福留強『まちを創るリーダーたち・パート2』学文社

1 伝統と産業、恵まれた自然と公共施設整備のまち、佐野

 佐野は、さかのぼれば、万葉の昔から歌にうたわれ、名将藤原秀郷をうみ、その名は歴史に古くから刻まれている。近世に入り、日光例弊使街道の宿場町として栄え、天明(命)鋳物、節句品などはその伝統と技術を今に伝えている。また、越名河岸は当時交通の主力だった河川交通のかなめであり、江戸と直結した流通の大動脈として、物資だけではなく、進んだ文化や流行風俗も佐野に運んできた。さらに、田中正造は、卓越した思想、行動力で流域の農民救済に奔走し、足尾鉱毒事件の解決のために一生をささげた。佐野市小中町にある生家は今も保存され、正造関係の遺品や資料は郷土博物館に収蔵展示されている。
 現在の佐野市は、人口約8万5千人、工業、農業、商業等が調和した都市で、美しい自然環境と首都圏に位置するという好条件に加え、東北自動車道、国道50号が通過し、市北部地域には北関東自動車道とインターチェンジが予定されており、市内全域にバランスのとれた発展が約束されている。
 佐野は、自然にも恵まれている。市の北域にあたる後山の一角に、名水百選に選ばれた「出流原弁天湧水」があり、また、三毳山山麓には万葉自然公園かたくりの里があり、三月下旬の開花時期には、かたくりの花が咲き乱れ可憐な花のじゅうたんが出現し、そのあとも季節のうつろいに従って、ニリンソウ、ヤブレガサ、ホタルブクロ、ツリガネニンジン、ヤクシソウと山野草が山麓をかざる。
 一方、市内各所には公共施設の整備が進んでおり、市民スポーツの拠点として、32haの敷地に各種競技施設を備えた運動公園、大小ホール、展示室等を備えた文化会館、13万冊の蔵書がある市立図書館、田中正造を中心として郷土の歴史をわかりやすく展示した郷土博物館、生涯学習の拠点となる8ヵ所の地区公民館、また、福祉や健康増進のために、総合福祉センター、保健センター等も整備されている。このように佐野市では、先人から受け継いだ自然、歴史、文化を大切に守るとともに、市民生活向上のための産業振興や、新しい時代に対応したまちづくりに取り組んでいるのである。
 佐野では、豊かな伝統が根づき、そのうえで産業が振興されており、また、自然と人情に恵まれ、そのうえで公共施設の整備などの行政施策が進められている。毛塚吉太郎市長(平成3年5月から)は、そういう佐野の優れた条件を大切にして最大限に活かしつつ、これをいっそう盛り立てるかたちで生涯学習を振興しようとしている。

2 私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野

 平成4年12月、佐野市生涯学習推進協議会から市長に「佐野市生涯学習推進基本構想」が答申された。そのキャッチ・フレーズは「私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野」である。これは、この構想の中間報告を提起した推進協議会からの呼びかけに応じて市民から寄せられた多数のアイデアから採用されたものだ。そのキャッチ・フレーズのとおり、構想のポイントは、「私らしさ」と「楽習」にある。
 この構想では、市民一人ひとりが、私(わたし)すなわち個人の生活や人生を充実させることを、一番の基本においている。もちろん、学習者がグループや集団を作って地域活動や学習を進めることは、生涯学習の推進にとって欠かせないことだろう。しかし、それでさえも、根本的には一人ひとりのメンバーがよりよい充実した人生を送るためにあるはずである。佐野市の生涯学習の推進においては、あくまでも私(わたし)を大切にして、個性を活かし、自発的意思に基づくそれぞれの楽習が進められるよう配慮する必要があるというのである。そして、さらには、「なにからでも学ぼうとする本人の主体的で積極的な生き方や姿勢」をめざして、「佐野市の生涯学習の推進をとおしておたがいを高めあっていこう」と市民に呼びかけている。生涯学習推進の中心に、近代的な「個の確立」を据えているのだといえる。
 また、そこでの生涯学習は、他人から強いられて学ぶ受動的な「学習」ではなく、みずから進んで「楽しく学ぶ」という考えに立って「楽習」と呼ばれている。趣味・教養に関する学習活動、文化・芸術活動、健康・スポーツの活動、レジャー・レクリエーション、そして、ボランティア活動・社会参加活動までもが、楽しさを感じながら行われ、しかも、それぞれの「自分」が生きている価値をよく噛みしめて味わうことにつながっているという。もちろん、そこでの楽習の「楽」は、「ラク」という意味ではなくて「本当の楽しさ」という意味である。

3 私(わたし)の生涯学習がよりよいまちづくりにつながる

 しかし、このように「私」の尊重ばかり強調していると、もう一方では「私利私欲のために他人の幸せを犠牲にしたり、社会の秩序を乱したりすることになるのでは」という批判も生まれよう。答申は、この点について、「私(わたし)の生涯学習がよりよいまちづくりにつながる」として、次のようにいっている。

 実際、自発的意思のもとに自由に進められている市民の活動が、ほかの市民の関心をひいたり、見知らぬ人の楽しみや支えにもなっていく場面を、私たちはさまざまな生涯学習活動の中でたくさん見聞きすることができます。「自分のため」が「人のため」につながっているのです。逆に、義務感や強制を伴って行われていることには、今や魅力が少なくなりつつあります。
 個は他者と関わることによってより深まる、と言われます。ボランティア活動であっても、「犠牲になっている」という意識よりは、むしろ、「自分がいろいろな人との出会いから学ばせてもらい、成長させてもらっている」という意識で行われているのだと考えられます。そのような意味で、生涯学習の観点からは、「自分のためにやっている」と胸を張って言えることこそ、大切なことだといえるでしょう。
 さらに、生涯学習のまちづくりという広い視点に立ったとき、そのことはいっそうはっきりします。
 現代社会において生涯学習の推進に向けた新しい波が大きな高まりを見せていることは、生涯学習がただ単に市民個人の問題として重要であるという理由だけによるものではありません。この波は、個人が人間らしい幸福な生活を実感しながら生きていける真に豊かな社会への展望を示すものであり、間近に迫った21世紀に向けて、そういう社会を創造する新しい波、そのものなのだと思われます。
 私たちは、自分のための生涯学習が、ほかの人びとにとっての住みよいまちをつくることにもつながるというすばらしいチャンスに、今、出会おうとしています。私(わたし)の生涯学習が、生涯学習のまちづくりにつながるのです。
 この「佐野市生涯学習推進基本構想」は、生涯学習のまちづくりによって私(わたし)の充実を支援し、その個人は私(わたし)の生涯学習を通してまちづくりに参加、参画する、という個人と社会の双方向の理想的道筋を示そうとしたものです。

 この「自分のための生涯学習が、ほかの人びとにとっての住みよいまちをつくることにもつながる」という考え方は、都市型の「生涯学習のまちづくり」の新しいあり方を示しているといえるのではないだろうか。

4 毛塚市長のロマンと現代的リーダーシップ

 毛塚市長は、子ども会活動の実践者としての豊富な経験を有しており、また、ビデオマニアとしても本格的なものがあり、市長という重職に就いている今でもビデオ編集をやり始めるとつい徹夜してしまうほどだという。市長自身が体験してきたこれらの社会教育活動のもっている人間的なふれ合いの温かさや、あるいは、現代の科学技術の成果への関心は、生涯学習推進に関する市長の発言のなかにもいきいきと反映されている。
 佐野市の生涯学習推進のあり方を考えるにあたって、筆者が市長に直接インタビューしたところ、つぎのようなアイデアが氏の口からポンポンと飛び出してきて、その豊かさと斬新さに驚かされたものである。

 ビデオ技術指導者講習会などをどんどん行って、そういう有志に生涯学習や町づくりの振興に関わる映像の制作に協力してもらったらどうか。また、郷土芸能などの地域に蓄えられている映像を、埋没させることなく収集・整理・保管し、CATVの番組にも積極的に取り入れていったらどうか。
 生涯学習センターは佐野の中心地に設置し、その1階部分には、市民がふらっと入りやすい広いエントランスホールを備え、観光客も意識して、物産展示などを常設したオープンスペースにしたい。そこでは、さまざまな親しみやすいイベントを常時行うようにする。このようにして、生涯学習センターを、佐野のなかでも市民のこころがもっともゆきかうもっとも佐野らしい拠点にしたい。また、1階部分には2階部分につながるエスカレーターを設置し、2階以上の階も個人でも気軽に入れるよう配慮する。そこでは、音楽、ダンス、演劇、展示発表など、市民の能動的な文化・芸術活動が盛んに行われるようにしたい。
 今度新しくオープンするキャンプ場は、佐野市らしい生涯学習を表すという意味で非常に重要な役割をもっている。キャンプ場では、子どもの顔がもっともいい顔になる。大人も子どもの笑顔を見て、また、自らも他の人たちと交流して、いい顔になる。そんなキャンプ場にするために、キャンプ場の中ではなるべく管理的事項を排除し、大人も子どももチャレンジする機会に十分恵まれたものにしたい。また、学校や社会教育団体などの組織的、教育的なキャンプのほか、家族連れなどの気軽な利用も促進し、そこでの自然発生的な市民どうしのふれあいの場を提供して、すべての市民の生涯学習の拠点のひとつとなるようにしたい。

 社会教育の見識とともに市長個人のもつ雄大なロマンをも感じさせるアイデアである。しかし、市長は、そういう自分の考え方を部下の幹部職員にごり押しするようなことはしない。それぞれの現場からの現実的な意見や声をきちんと尊重して政策を決定していく。これは、トップとしては当然もっているべきバランス感覚ともいえるが、都市型の生涯学習推進行政には不可欠のリーダーシップのあり方を示すものとして評価することができよう。市長自ら働きかけることはあっても、功を焦ることなく、それが市民や職員の自発的な意思として熟してくるまでじっくりと待つのである。つまり、進取の精神に基づく市長としてのリーダーシップは、佐野市の生涯学習推進行政が守旧に陥らないように発揮されてはいるが、それは、現代の行政システムにマッチした現代的な形態で、あくまでも「堅実に」そして「穏やかに」発揮されているといえるのである。
 市長のこのようないわば「現代的リーダーシップ」は、たとえば、つぎに紹介するようなユニークな関連事業に職員がのびのびと取り組み、また、市民もその事業に安心して参加できる雰囲気をつくりだす重要な要素になっている。

5 生涯学習推進のためのユニークな取り組み

 前出の答申では、図の「植野ふるさとマップ」のような地域のすみずみの生涯学習資源まで紹介するきめ細やかさをもった楽習マップがすべての地区ごとに作成されるよう呼びかけている。ザリガニのいる所、ふなが釣れる所、コスモスがきれいな所、などのこの地図のもつ人間味あふれた地域情報は、生涯学習にとっても欠かせない情報だというのである。そして、地区ごとのマップの作成にあたっては、この「植野ふるさとマップ」のように、その地区に実際に住んでいる関係者の意見や要望を最大限にとらえたものとすること、たくさんの住民の参加を得て住民主体で作成することによって、生涯学習に関して地域全体の関心が高まるよう配慮すること、などを挙げている。
 実際の社会教育の事業も、それぞれなかなかユニークである。「ウィークエンドセミナー」は、余暇時間の増大に対応して、週末に、多様化した学習ニーズに応える学習機会を提供しようとするものである。この講座は、生涯学習関連施設を結んで実施しており、実際、そのネットワークのメリットを活かした多様なプログラムの展開になっている。「アートゼミナール」は、絵画、陶芸、写真、音楽、演劇などの芸術系学習講座である。このような事業は、終了後は、自主的なサークルとしてその活動が発展的に展開されている。なお、このようなサークルと教育行政の関係者が一堂に会してサークル活動のあり方を考える事業として、「サークル活動フォーラム」も開かれている。
 教育委員会以外の一般部局の生涯学習関連事業も盛んであるため、その連携が検討されている。たとえば、体育課では、市内を4ブロックに分け、ニュースポーツの普及指導など、高齢者スポーツ活動を行なっているが、高齢対策課でも、「新スポーツ紹介事業」など、高齢者の生きがいと健康づくりモデル推進事業を実施している。また、生涯学習課では、創作やレクリエーションをおもな内容とする「子どもフェスティバルわんぱく王国」を開催しているが、児童家庭課でも、「親から子、子から孫へ」の「手作りおもちゃ展」を行なっている。そして、平成5年5月5日(子どもの日)には、日本で初めての「こどもの街宣言」を行ない、子どもたちを日本一大切にする街づくりもめざしている。このような事業の相互連携が検討されているのも、一般行政部局においても生涯学習関連事業が主体的に取り組まれているからこそのことである。
 さらに、平成5年10月には、「全国生涯学習まちづくり研究大会」が、この生涯学習推進の機運高まる佐野市を会場にして開かれることになっている。そこでは、全国の関係者が一堂に会するとともに、広い層の市民の参加を得て、「ただの豊かさから、ほんとうの豊かさへ」(仮題)と名付けられた第4回佐野市生涯学習フォーラムも同時に開かれる予定である。それによって、市を挙げた生涯学習への関心の高まりの中で平成5年の市制50周年を迎え、市民自身の生涯学習の盛り上りとその成果をその後の発展につなげようとしている。その意味では、市制50周年は、佐野市民の手による生涯学習のまちづくりの本格化の元年としても位置づけられている。
 なお、この「生涯学習フォーラム」では、従来から「佐野市民憲章賞」の表彰を行なっている。これは、市民憲章の精神を生かして献身的で奉仕的な活動をしている市民及び団体を表彰しているものだが、ボランタリーな生涯学習活動を続けている人びとの励みになっている。
 市民一人ひとりの「私」の生涯学習を施策の中心あるいは頂点にはっきりと据えたうえで、市全体の生涯学習を推進しようとする佐野市の姿や、その推進にあたっての市長の現代的かつ穏やかなリーダーシップの発揮の姿は、これからの都市型の「生涯学習のまちづくり」のあり方を示すパイオニアとして、今後も注目すべき存在であり続けるだろう。

図版及び写真の表題
1 栃木県佐野市の位置図
2 佐野市生涯学習都市構想図
3 毛塚吉太郎佐野市長
4 郷土芸能フェスティバル
5 植野ふるさとマップ
6 ウィークエンドセミナー
7 アートゼミナール
8 サークル活動フォーラム
9 からっ風ドッジボール
  (青年会議所との連携による市制50周年記念事業)
10 佐野市生涯学習フォーラム

執筆者
西村 美東士 (にしむら みとし)
 昭和音楽大学短期大学部 助教授
〒176 東京都練馬区豊玉南2−23−6−208
 ・電話   03(3992)5105
佐野市担当者
 生涯学習課田中さん 0283−24−5331
地方自治体における生涯学習計画の実際
 −東京都生涯教育計画策定までのあゆみ−

はじめに
 東京都はけっして生涯教育計画の先進自治体ではない。むしろ、他県の動向を見てから、それらより遅れて計画を策定したといったほうがよいだろう。しかし、それだけに計画化にいたるプロセスを細かく見てみると、これから述べるような長い「前史」と「準備期」の蓄積が消化され反映されていることがわかると思う。そのため、他の先発自治体の生涯教育計画がとりこめなかった先進的部分をかなり指摘できるのである。したがって、このプロセスを分析することは、各地の地方自治体における今後の生涯学習推進計画のあり方を考えるためにもかなり有効なものになると考えられる。
 さらに大規模自治体であるがゆえに、一般行政の多様な関連事業などのさまざまな要素が生涯教育計画に複雑な影響を与えているという側面がある。この複雑さの正当な意味での統合は、生涯学習推進計画の現代的な眼目の一つである。
 一般行政や民間における生涯学習関連事業が全国的に発展し、その意義の評価が進むにしたがって、東京にみられるこのような複雑さは、各自治体においてもますます広がってくるだろう。つまり、東京都の生涯教育計画を生んだ状況が、今後は全国にも普及すると考えられるのである。
 このようなことから、東京都における生涯教育計画策定までの経緯を分析することは、これからの生涯学習時代においても普遍的な意味をもつということができる(なお、今日では、生涯教育計画は生涯学習推進計画などとよばれることが多くなっている)。

一 東京都生涯教育計画前史(一九七〇年代まで)
一・一 現実と理想の乖離
 一九六五年一〇月、「東京都社会教育長期計画」が東京都社会教育委員の会議から答申される。そこにはすでに次のような記述が見られる。
 「現代社会の経済・政治・文化・科学などの高度な発展の段階においては、幼児、児童、青年、成人(高年層を含む)のすべてを含めた組織的、継続的な社会教育が必要となってきた。フランスで永久教育、イギリスで継続教育ということばが用いられるようになったのも、こうした新しい社会教育の重要性が認められたからである」。
 生涯にわたる社会教育の意義を説き、その展開について計画するならば、そのような社会教育計画はすべて生涯教育計画でもあるととらえることもできよう。そして、その考え方によれば、この長期計画もすでに生涯教育計画の一つとして数えるべきということになるのだろう。
 しかし、本論では、東京都の生涯教育計画の誕生をもっとのちの一九八〇年代後半ととらえた。ある計画を生涯教育計画とよぶためには、その計画はどうあればよいか。その要件をどうとらえることが妥当かが問題になる。ここでは、八〇年代後半の生涯教育計画に至るまでの関連する諸計画の事例を追うなかから、本論なりに考えるその要件を次第に浮かび上がらせていくことにしたい。
 さて、この「社会教育長期計画」では、一九六三年に正式発表された都政全体に関する「東京都長期計画」との関連についてこう述べている。
 「(東京都長期計画は)激動期にある今日の都行政のあるべき姿が深く追求されているが、明日の東京都を創造すべき教育、とりわけ社会教育については、考慮されるところがはなはだ乏しい」、そして、「東京都教育委員会においては、長期的な見通しの上に立って、社会教育の基本的なあり方を確立し、都の長期計画をより完全なものとしなければならない」。
 つまり、行政全体の長期計画においては残念ながら社会教育の観点が欠落しているので、社会教育長期計画によって補完しようとしているのである。それだけに、総合社会教育施設をサービスエリアによって第一線から第五線までに分類して位置づけるよう提起するなど、社会教育長期計画としての面目躍如といえる側面もある。しかし、いかんせん、行政全体の長期計画との相互の連動がないのでは、それらのビジョンも実際の行政においては現実性の乏しい理想論としてしか見なされない。すなわち、一般行政と社会教育行政との、そして現実論と理想論との乖離をひき起こすのである。この傾向は八〇年代に入るまで続くことになる。
 一九七一年一〇月、「東京都社会教育振興整備計画」が策定される。これは、前月の社会教育委員の助言を受けて、東京都教育委員会として決定されたものである。ここでは、既存としては一館あるだけの社会教育会館を都内交通ターミナル地区を中心に一三館、既存としては七館の都立青年の家を一五館にするなどの大胆な方針が打ち出された。しかし、実際にはそれらの施設は、それ以降今日までじつに一館も増えていない。(一九七三年に青年の家が一館廃止されて、新しく倍の規模の一五〇ベッドの青年の家が開設されただけである)。そういうものを行政計画とよんでもよいのか、疑問の残るところである。
 ただ、計画そのものについては、
(一) 一九六五年の「社会教育長期計画」の「五線施設構想」を発展的に継承している、
(二) 区市町村社会教育施設や他行政関連施設にまで、よく目配りした施設配置を計画している、
(三) 「財政措置」「情報処理態勢」などにまでふれている、
などの、発展的な側面を見いだすことができる。
 「振興整備計画」がもつこのような、継続性、総合性、細やかさは、計画が行政計画であるためには必要不可欠の条件ということができよう。とりわけこの計画において、近隣生活圏から都域生活圏まで、社会教育施設から既存関連施設まで、それらを包括して図式的に整理した施設計画に注目したい。それは、タテ割り行政の観点ではなく、住民の学習の視点から統合的に編まれている。この統合の視点は今日でも非常に重要であり、生涯教育計画の立案において欠かせない条件である。(図@)

一・二 生涯教育計画の萌芽
 一九七三年七月、社会教育委員の会議から「東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方について」が答申される。市民運動を「人間形成の視点から考察すると」大きな教育的価値を有しているとして最大限に評価している特徴的な答申である。この答申のなかで、「区市町村が社会教育行政施策推進の基盤である」としたうえで、広域行政としての都の役割は次のように示された。
(一) 区市町村の行っている事業の成果の交流につとめる。
(二) 広域的課題にも意欲的にとりくみ、都民の学習要求にこたえる。
(三) 社会教育施設および学習機会の研究開発ならびに相互協力(ネットワーク)をすすめる。
 都道府県と区市町村の社会教育行政の役割分担については、国レベルでは、「第一次的には市町村であり、これを広域的に補完するものは都道府県である」(一九七一年「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」社会教育審議会答申)とすでに明示されていた。また、この答申の写しの送付に伴って、「都道府県教育委員会は、(略)直接に都道府県民を対象とする社会教育事業を行なうことはできるかぎり抑制すること」という通知も出されている(同年、社会教育局長通知)。
 東京都の答申のいう「三本柱」は、この社会教育行政の原則を東京都の実態にあてはめて表現したものといえる。そしてこれは「広域・交流・補完」と集約的によばれて、東京都の社会教育行政の役割としてその後もひきつがれている。生涯教育計画においては、この都道府県社会教育行政の役割の「限定論」を機械的に適用できない面もあろうが、今日の「生涯学習熱」のなかで見過ごしてしまってはならない基本的原則であることも否めない事実であろう。
 同じく一九七三年七月、「東京都社会教育振興整備計画の改定について」が社会教育委員の会議から助言される。これは前述の「市民教育のあり方について」の答申の結果を受けた内容になっている。とくに「従前の計画は『物中心』の計画であって、社会教育振興の三つの要件のうちの『人の問題』と『事業の問題』が含められていなかった」という反省のもとに、事業と職員の充実を細かく各論的に施策化している点が注目される。ただし、のちの生涯教育計画においては、ソフト面、システム面での計画に、施設配置などのハード面での計画と同等またはそれ以上の比重が置かれるのだが、それに比べて当時のこの助言では、あくまで社会教育施設を中心にして、それに伴う事業と職員の問題をおもに論じている。
 一九七六年二月、「東京都社会教育行政体系化にあたっての課題」が社会教育委員の会議から助言される。これは、一九七三年の「市民教育のあり方について」の答申後、インフレ、不況に伴う財政危機という状況の悪化のなかで、先の答申を継承しながら基本的方向を検討したものである。そこでは、「社会教育における『財政上の制約』はなにもいまはじまったことではない」として区市町村の努力と住民の権利意識の高まりに状況打開の期待をかけている。たしかにそれらも重要な要素ではあろう。
 しかし、われわれは、その後の生涯教育計画が財政合理化を使命の一つとしながらも、たんなる「節約型」にはとどまらなかった事実に注目する必要がある。合目的的な施策には、現実に大きな予算が措置されることもありうる。すなわち、現代的要請への対応は「目玉」としてとらえ、特別に集中的に財政上の措置を行うのである。これと比べると、当時の計画にはそのような意味でのプライオリティ(優先順位づけ)の思想が欠けていたといえる。
 ただ、社会教育行政の独自の役割を強調する「タテ割り責任論」と、他行政の社会教育的事業にばかり重きをおいて相互協力関係の必要だけを強調する「ヨコ割り責任論」の、どちらにも偏ることのない行政相互の責任分担と協力関係の検討を提言していること、さらには、民間諸施設の活用にも触れていることなどは、生涯教育計画の萌芽として評価することもできよう。
 この助言の最後は、「おわりに・具体化の努力を・」という章で締めくくられている。そこでは、「現在の自治体財政の窮迫化という事情のもとでは、施設や職員の画期的充実にはいくたの障害がある」ので、この助言で示した施策を「自治体の現実的条件を顧慮しつつ、一つ一つ具体化していく努力が必要」としている。社会教育委員の会議の願いがいかに強く、助言の見識がいかに高くても、それが施策として具体化して表現されなければ行政計画にはならない。この助言がことさら「具体化の努力を」という標題を掲げていることは、裏返せば、その当然のことが充分になされなかった残念な現実をはっきりと物語っているのである。
 生涯教育計画も同じく「具体化の努力」すなわち生涯教育行政計画の策定と実施を伴っていなければ、全体としては「生涯教育計画」とはよべない。次の助言、「当面の社会教育施設の整備について」(一九七八年七月)は、この本質的障害をもっと明確に文面に表しながら、東京都生涯教育計画前史の最後に象徴的に登場する。最初の章の標題が「この憂慮すべき事態について・助言の背景とわれわれの意図するもの・」である。「現下の都財政の危機は、社会教育関係予算に対する厳しい削減、縮小となって表れた」という文で始まっている。
 この章のなかでもとくに重要なのは、「(社会教育施設の拡充策に関して)社会教育委員の会議がこれまで努力と創意を傾注して『答申』『助言』してきた方策が、都の行政計画に果たしてどの程度に具体化されてきたか、という点についてはわれわれは満足していない」と述べている箇所である。さらに、「(今までの提言が)形式的にのみ評価され、なかには、明らかに空文に終わってしまっている部分が少なくない経過それ自体もまた憂慮されるべき事態」と指摘している。社会教育委員がこのような告発を含んだ提言を公表すること自体、そうたびたびあることではないだろう。委員の重大な決意を示したものといえよう。しかしながら、そのうえで、たとえば従来から提言してきた念願の二三区のなかでの都立社会教育会館の建設をあらためて強調したのだが、それでもなおかつその建設は実現しなかったのである。

一・三 東京都生涯教育前史のまとめ
 まとめておこう。ここで東京都生涯教育計画前史とした時期においても、次のような生涯教育計画の萌芽ともいえるような特徴を、社会教育計画のなかにすでに指摘することができる。
(一) 生涯教育の意義について論及し、その実現を目標としている。
(二) 一般行政の教育的機能との連携・協力など、生涯教育的施策を含んでいる。
(三) 計画が一定の総合性と継続性をもっており、その意味では文字どおり「計画的」である。
 しかし、次の理由から、それを生涯教育計画とよべるような要件はいまだ満たしていないと考えるほうが妥当であると思われる。
(一) 一般行政全体の長期計画などと相互に連動していない。
(二) 構想を具体化、施策化するための実行力のある「行政計画」を伴っていない。
(三) 「ソフト」や「システム」に関わる計画が、「ハード」に関するものほどには高く位置づけられていない。
(四) 現代的要請に関わる生涯教育施策を財政的に優先するプライオリティ(優先順位づけ)の観点が欠けている。

二 東京都生涯教育計画準備期(一九八〇年代前半)
二・一 「コミュニティ・カレッジ構想」の出現
 一九七九年四月に鈴木都政がスタートし、同年八月、「マイタウン構想懇談会」が発足する。これは都政全体に関わる懇談会である。この懇談会が翌八〇年一〇月、「コミュニティ部会報告」を提出する。以後一貫して東京都生涯教育政策の目玉の一つとなる「コミュニティ・カレッジ構想」はここではじめて登場した。ほかに、この報告では、地域住民の身近なコミュニティ施設として「コミュニティ・セントウ」(銭湯)の設置などを提案している。
 しかし、コミュニティ・カレッジについては、それよりやや広域的な区市町村のレベルの施設として設置する、都立高校や職業訓練校を活用する、などの簡単な説明しか見られない。つまり、確たる実体的なイメージはじつは最初からあったわけではないのである。だが、「コミュニティ・カレッジ構想」はそのあいまいさにもかかわらず、「全都政」に関する全都的課題として登場し、次第にその実体を育てながら、のちの生涯教育計画においてもっとも重要な地位を占め続ける。このように、生涯教育・成人教育にかかわる特定の施策が都政全体の計画のなかで誕生し、その後も一貫してとりあげられ続けたことはそれまではなかったことであり、注目に値するできごとである。
 一九八一年一月、「東京都総合実施計画(マイタウン東京81)」が出される。これは、「安心して住めるまち」、「いきいきと暮らせるまち」、「ふるさとと呼べるまち」のまちづくりを柱とする「マイタウン東京構想」を推進するための計画である。そして、都政全体の総合計画でもある。
 そのなかで、「諸大学の公開講座、民間のカルチャー・センターの盛況等にみられるように、都民の生涯を通じた学習を望む声は高まりつつある」と生涯教育の意義を現実に即して明らかにし、これに対応する必要を説いている。そして、そのうえで「都立教育施設のコミュニティ・カレッジ化」の検討が表明された。
 一九八二年八月、「ともに生きるための生涯学習をめざして」という助言が出る。これは、東京都社会教育委員の会議として初めて生涯学習・生涯教育をテーマにしてまとめたものである。その「新しい生命の誕生と教育計画」という項では、「いままでのように、各行政がばらばらに乳幼児に対して行っている施策から、それらが協同の実をあげうるものにしていかなければならない」として、既存の各行政の関連機能の統合的発揮のための具体的諸施策を打ち出している。また、「高齢化社会の到来と教育計画」という項では、「従来のいわゆる『老後問題学習』の域をこえて、新しい社会基盤の創出とその担い手の養成という観点から進められる必要がある」として、高齢化への全面的対応の構えを見せている。
 しかも、これらの施策としては、たとえば「子どもの生育環境基準の策定」、「高齢期準備教育のシステム化」などのように、ソフトやシステムによる課題解決を重視して位置づけている。「とにかく施設を」ではなく、全体的な視野をもって総合的に対処しようとしている。このようにして、一つには、社会教育計画が内容面で生涯教育計画に近づき始めているといえるのである。
 そのうえで、小中学校を「新しいコミュニティ・スクール」に、高校・大学を「新しいコミュニティ・カレッジ」にしようと助言している。学校教育をトータルに「人間形成のための新しい基盤づくりに対応」すべきものとしてとらえたこの発想は、社会教育の見識に基づいて先の「コミュニティ・カレッジ構想」を継承・発展させるものといえる。すなわち、二つには、「都政全体の計画」における構想と、社会教育委員の会議による社会教育計画が連動し始めているといえるのである。
 そして、この助言は最後に「すべての都民にとっての生涯学習情報センター」としての「生涯教育センター」の設置と「生涯教育推進会議」の設置を提言している。前者はその後、「生涯学習情報センター」として施策化される。後者は一年後にはさっそく「生涯教育推進懇談会」として発足する。社会教育委員の会議の答申・助言が「形式的にのみ評価され」、「空文に終わって」しまうと、会議自らが指摘したのは一九七八年であった(前出助言「当面の社会教育施設の整備について」)。それとは対照的に、三つには、社会教育の答申・助言が施策として具現化され、実現されるようになり始めているといえるのである。
 本助言については、以上の三つの特徴が指摘できる。
 一九八二年一二月、「長期計画懇談会」の報告を受けて「東京都長期計画」が東京都企画報道室から発表される。低経済成長のもとでの民間の活力と資源の活用や、あらゆる事業への都民参加の推進などをめざす都政全体の基本的な長期(一〇年)の計画である。そこでは、「コミュニティ・カレッジ構想の推進」という事業名が明示されている。そして、区市町村および都レベルの既存の施設・事業をコミュニティ・カレッジとして活用する構想が明らかにされている。しかも、すでに一部行っている都立短期大学と都立高校の公開講座を「コミュニティ・カレッジ構想の推進」の「現況」として位置づけたり、今後一〇年間に都立の大学、短期大学、高校、職業訓練校を地域、社会人に開放する数と方法の見通しを示すなど、かなり具体的かつ現実的な計画になっている。
 一九八三年五月、「都民の生涯学習需要予測研究調査報告書」が発行される。これは生涯学習の意欲をもちながら実際には学習活動に参加しないなどの「参加と不参加のメカニズム」を解明しようとする調査の報告である。調査は、東京都教育委員会が財団法人日本都市センターに委託して行われた。同年一二月には、同じく東京都教育委員会から「東京都・区市町村における生涯学習関連事業調査報告書」が発行される。これはあらゆる部局の二万二千もの関連事業をコンピュータ処理によって分析した結果の報告である。
 この二つは、かなり本格的な調査である。それだけに、その後の生涯教育計画策定のための基礎データとして大きな意味をもち続けることができた。たとえば道路政策の決定のために科学的で正確なデータが必要なように、とくに都市部での生涯教育計画策定のためには、このように財政的措置をして組織的かつ本格的な調査を行う必要がある。職員個人の力量と負担に頼って調査をすませてしまってはいけない。

二・二「推進懇談会」の発足と当時の状況
 一九八三年七月、「東京都生涯教育推進懇談会」が発足する。これは都知事の依頼のもとに、学識経験者二四人の委員によって構成する懇談会である。全局的にとりくむ懇談会なので、幹事として各局の関連部長が名を連ねていること、そして、事務局は教育委員会社会教育部が受けもっていることに注目したい。
 この懇談会の発足によって、都政全体における生涯教育の重要性が各局に再確認されると同時に、生涯教育計画を最も中心的に担当する行政部局として、教育委員会が実際に専門的役割を発揮する場をもった。生涯教育計画策定のためのプロジェクトにおいて、このように各局の部長クラス(この場合は、一二局二二部長)が幹事として参加することは、現実にはさらに大きい意味をもっている。行政の場合、その部長を派遣することは、その部の組織的意思による。部長による自発的参加とは違う。そのため、生涯教育推進の課題も、参加している部長個人の課題ではなく、その部の組織的課題として主体的に受けとめられるのである。このことは、計画策定作業がスタートするための最低条件といえる。
 このようにして東京都生涯教育推進懇談会は発足したのだが、各局の生涯教育関連施策も、一九七九年に鈴木都政がスタートして数年経てから懇談会発足の頃までに各種の報告の形で出はじめている。年代順に簡単に触れておきたい。
 一九八〇年一二月、「消費者行政における情報活動と消費者教育に関する答申」(東京都消費生活対策審議会)が出される。そこでは、消費者の自己学習や自己教育を援助すること、消費者が必要な情報を得られるようにすることなどの重要性を説いたうえで、各種の具体的方策を提言している。
 一九八一年一月、「港湾計画の基本的方向」(東京都港湾審議会)が出される。そこでは、人工なぎさの造成や海上公園の建設などのレクリエーションの場としての海の活用を提言している。同年三月、「東京都職業訓練計画」(労働経済局)が策定される。五年計画で、高学歴化、産業構造の変化、余暇の増大などに対応する新しい職業訓練を実現しようとするものである。
 一九八二年二月、「高齢化社会にむけての東京都の老人福祉施策とそのあり方について」(東京都社会福祉審議会)が答申される。そこでは、高齢者が生きがいをもつために老若男女の相互理解と相互協力を進める新しい福祉教育のあり方を提言している。同年三月、「国際障害者年東京都行動計画」(福祉局)が策定される。「ともに生きる」という理念のもとに、障害をもつ人ともたない人の地域における交流事業などを計画している。同じく三月、「今後の保育行政のあり方について」(東京都児童福祉審議会)が答申される。そこでは、地域ぐるみの社会的保育の全体的向上などを提言している。同年八月には、前述したように「ともに生きるための生涯学習をめざして」(東京都社会教育委員の会議)が助言される。
 一九八三年一月、「婦人問題解決のための新東京都行動計画」(生活文化局)が策定される。そこでの五つの課題のうちの一つが「男女平等観にたった人間形成」で、そこでは生涯教育施策も重視されてとりこまれている。同年二月、「世界の文化都市をめざして」(東京都文化懇談会、担当は知事部局の生活文化局)という報告書が提出される。文化を「生きがいの問題を含めて、幅広く人間的にとらえること」を基本として、行政の行うべき事業などを提言している。同年四月、「東京都における今後の中小企業勤労者福祉対策について」(労働審議会)が答申される。そこでは知的向上のための施策として「文化教養講座の充実」、「能力向上への援助」などの施策が挙げられている。同年五月、「東京都における青少年健全育成のための行動計画策定にあたっての基本的考え方と施策の方向について」(東京都青少年問題協議会)の中間報告が提出される(最終報告は一九八四年一月)。そこでは、青少年が社会のメンバーの一人として参加し、成長する「ユースコミュニティ計画」を提起している。
 「生涯教育推進懇談会」の発足までには、じつにこれだけの「生涯教育関連施策」(すなわち生涯教育計画の「部分」である)が各局各様にそれなりの形で出そろっていた。総合的な生涯教育計画の策定のためには、このような状況はたいへん有利である。あるいは、こういう状況がなければ、あとで述べる「東京都生涯教育計画」の策定は日の目を見なかったかもしれないのである。
 それでは、このようないわば「行政各部局の生涯教育化」が展開していない自治体ではどうすればよいのか。このときの東京都のように明確な「生涯教育関連施策」は、一般部局の諸計画には見当たらない自治体も多いかもしれない。しかし、それでも、まずは各部局の諸施策を丹念に読み込んで該当しそうなものを拾い出そうとすべきであろう。さらには、各部局の諸計画に新たにとりあげてもらえるよう、生涯教育担当部局がセクションの壁を越えて働きかける積極性が求められるのではないだろうか。
 このようにして「生涯教育推進懇談会」は開始されたが、その後、一九八三年九月に、「活力ある都政をすすめる懇談会」が発足し、都政全体に対して非常にきびしい影響を与えた。まず、その年の一二月、中間報告が出され、施設運営の民間委託化などの「民間活力の活用」が提起される。それを受けて年が明けて一月には、たとえば社会教育施設では全部で七つの青年の家の民間委託化がさっそく決定する。一九八四年八月には最終報告が出る。そこでは、中間報告にいう「民間活力の活用」のほかに、「行政の簡素化・効率化」の視点に基づいて「組織の細分化の是正」などを提言している。これにより、実際にたくさんの課が統廃合された。
 このような「衝撃」は、自治体においてときどき表れるものである。すべての部局がその強烈な波をかぶることになる。各局の各個の施策におかまいなく影響力が行使される。どこもその影響を免れることはできない。すなわち、その「衝撃」とは「超行政計画」といえるのである。逆説的であるが、だからこそ現実的で実効性があるともいえる。
 しかし、この「超行政計画」も対象施策によりその力を使い分ける。拡張すべきと判断する施策には、むしろ大幅な財政的措置を認めることもある。生涯教育計画は、少なくとも削減・縮小すべき施策とはされずに、その後も発展し続けたのである。そもそも「生涯教育推進懇談会」はゼロから突然できたのではない。各局にわたってそれぞれの関連施策がすでに積み上げられつつあり、その統合の必要が必然化してはじめて、横断的な計画策定の準備作業が始まったのである。この既存施策の「統合」は、「行政の簡素化・効率化」の思想に一致する。また、主要にはソフトに属することである。それゆえ、「超行政計画」がこの「生涯教育計画」を削減する対象としてとらえるはずはないのである。
 最初に断ったように、本論では「生涯にわたる教育」を実現しようとする社会教育計画であっても、それを「生涯教育計画」とは切り離してとらえた。後者の「生涯教育計画」は、他の一般の行政計画とは現実的にかなり違うからである。後者は、たとえばこのような緊急事態においても、各局の個別の多くの施策とは異なる特別なとりあつかいを受けることになる。

二・三 社会教育計画と生涯教育計画の連動の前兆
 一九八四年八月、「生涯学習情報システムの確立について」が社会教育委員の会議から助言される。二カ月後には「生涯教育推進懇談会」から「東京における生涯教育の推進について」が出されるのだから、両方の事務局を受けもった教育委員会(社会教育部計画課)は大変な苦労だっただろう。しかし、それだけにこの二つの報告はよく連携がとれたものになっている。
 「生涯学習情報システムの確立について」の助言では、「はじめに」において、先の「ともに生きるための生涯学習をめざして」(一九八二年八月)の助言で提言した「生涯教育センターの創設」について次のように述べている。
 「『生涯教育センターの創設』は、長年にわたる『区部にも都民の集まる社会教育会館の創設を』の念願もこめた提言であった。そこで今期は、このセンターが創設されることを期待して、その中心の事業となるべき『生涯学習に関する情報システムの確立について』を協議することにしたものである」。
 そして、本文でその方向についてのべたのち、「おわりに」では「生涯教育センター」の設置場所や運営などについても具体的に提言している。「東京都生涯教育計画前史」において、何度も提言されては消えていた二三区内の「都立社会教育会館」の構想が、このように形を変えて急に現実性を帯びてきたのである。
 一九八〇年代前半のほぼ終りの八四年一〇月、東京都生涯教育推進懇談会から「東京における生涯教育の推進について」が報告される。「生涯教育センター」については、二カ月前の社会教育委員の助言を引用して、再度、その設置を提言したうえ、「将来的にはコミュニティ・カレッジ≠フセンターにコンピュータの端末をつなぐことによって同センターに生涯教育センターの分室的機能を持たせたり、生涯教育センターでコミュニティ・カレッジ≠フ一環としての教室や講座を開くなど、両者が相互に連携」することを展望したのである。
 このようにして、社会教育委員の会議の提言が、都知事の諮問するレベルの懇談会の提言でも重視され、尊重されるという状況が生まれる。そして、それらはたがいに補い合って、いわば計画相互の関係の有機化を実現しているのである。
 また、この提言では「コミュニティ・カレッジ構想」について、都内をいくつかのブロックに分け、「そのブロック内の公私立高校や短大・大学の公開講座、都民大学、公共職業訓練校の地域開放、さらには、区市町村の教室・講座、専修・各種学校、民間社会教育機関などによって構成」するというソフトなシステムを提唱している。これは、提言のなかでも述べているとおり、マイタウン構想では欠けていた部分の改善・補完でもある。
 そのほかにも、この報告は都知事から検討を依頼されてから一年以上の審議の結果を、よく集大成して文章化してある。本報告はその名称どおり「東京における生涯教育の推進について」、そのあり方をていねいに論じたものになっているのである。
 しかし、生涯教育計画がこれによりスタートしたとは、なお、とらえないでおきたい。なぜなら、行政計画がまだ正式には伴っていないからである。行政計画、つまり行政による「実行計画」が策定され、それが生涯教育構想を支える時、はじめて生涯教育計画の開始ととらえられるのではないか。
 助言においても「コミュニティ・カレッジ≠ニいう名称、そのより具体的な内容及び具体化のステップなどについては、別途検討すべきであろう」と書かれているが、この「別途検討」という措置は、けっして逃げではなく、むしろ行政計画を含めた生涯教育計画の策定のためには必要な措置と考えられる。
 このような意味で、生涯教育計画の開始は次の一九八〇年代後半に譲ることになる。

三 東京都生涯教育計画開始期(一九八〇年代後半)
三・一 社会教育計画、生涯教育計画、総合計画の「同軸回転」
 この推進懇談会の報告「東京における生涯教育の推進について」を受けて、一九八五年一月、「東京都生涯教育推進本部」が設置される。「生涯教育施策に係る基本方針の策定に関すること」、「生涯教育に係る諸施策の協議及び推進に関すること」(設置要綱より)などを所掌する組織である。ここが生涯教育「行政計画」を策定することになる。
 知事が本部長を、各局局長が本部員を務めるという、都政の最高責任者による構成である。その下に幹事会が各局関連部長によって開かれている。生涯教育政策が高く位置づけられているのがわかる。幹事会の下には課長会が設置されている。これは、各局において生涯教育関連施策推進に最も直接的に関わる担当課長の会議ということになる。さらには、課長会のもとに担当者会が開かれている。これらの横断的組織によって計画そのものが現実性の高いものとなるし、施策が実際に実行されやすくもなる。また、そのような第一義的なメリットのほか、広く各部局の関連施策の相互認識と連絡・調整の実際的な機会にもなりうるという副次的効果も見逃せない。
 そして、事務局は教育委員会(社会教育部計画課)に置き、教育長が事務局長となっている。もちろん、知事部局である企画審議室からも調整部長および計画部長が幹事として参加しており、そこが本来的、普遍的に持っている総合企画調整機能の発揮も、当然、期待されている。それと同時に、教育委員会社会教育部が専門セクションとしてもっている社会教育に関わる企画調整機能を各局に対して発揮することが、それとは別に求められることになったととらえられる。実際、社会教育部は企画審議室とつねに連携しながら、その後の計画策定作業のかなめとしての役割を発揮することになる。
 そのほか、「生涯教育推進本部」のなかに「事項別ワーキンググループ」が作られた。「コミュニティ・カレッジ」と「システム開発」の二つの最重要課題に関するグループである。そこでは、社会教育セクションが専門的イニシアチブを発揮しながら、企画調整部局や関連事業担当部局も交えて、現実的な計画策定のための詳細な資料作成や綿密な理論構築を行なっている。
 その後、一九八六年一〇月、「東京都生涯教育推進懇談会」は、「東京都における生涯教育推進のための学校教育」を報告する。前回の「東京における生涯教育の推進について」の報告が出たのち、懇談会の事務局は、同じ教育委員会の学校教育のセクションである指導部指導企画課に移された。そして「生涯教育の視点から見た学校教育の在り方」にテーマを絞って検討が続けられていた。その検討の結果がこの報告に集約されている。
 そのおもな内容は、
(一) 学校教育を生涯教育の基礎づくりの場とするため、生涯教育の視点から教育目標や教育内容・方法を見直す。
(二) 学校教育を地域に開かれたものにするため、家庭や地域社会、近隣の学校等との連携を強める。
(三) いつでもどこでも学べる学習社会を形成するため、新しいタイプの高等学校や短期高等教育システムを創設する。
などである。
 学校教育は、それ自体が生涯教育の一部であり、生涯学習の基礎づくりの機会でもある。それゆえ、生涯教育計画が完結するためには、学校教育の側が生涯教育を理解し、生涯教育計画に学校教育の改革を組み込むことが必要である。その意味で、東京都が学校教育の専門的指導セクションに事務局を置いて懇談会を進め、このような報告を出したことには大きな意義があるといえる。
 一九八六年一一月、「東京都第二次長期計画」が発表される。生涯教育に関しては一九八二年の長期計画をさらに具体化しており、とくに「生涯学習情報センターの設置」が新しく加わったことが注目される(図A)。社会教育委員の会議が、古くは一九七〇年代初頭から提言してきた「都立社会教育会館の設置」や一九八〇年代前半の「生涯教育センター」が形を変えて都政全体の総合計画に採用されたのである。さらに「第二次長期計画」に登場したこのセンターは、一九八四年の社会教育委員の会議の助言「生涯学習情報システムの確立について」で提言された「生涯学習情報センター」と名称も同じであり、考え方も共通している。
 先の社会教育委員の会議の助言では、センターのおもな機能として収集・提供機能、助言・相談機能、研究・調査機能、交流機能の四つが挙げられていたが、本長期計画でも、情報提供、相談、交流など、と書かれている。相談や交流の機能もが共通していることに注目したい。すなわち、「単純な情報提供ではこと足りない」という学習援助サービスとしての社会教育的な見識が、都政全体の長期計画にもとりいれられたと見ることができるのである。
 そして、一九八七年六月、東京都生涯教育推進本部は「東京都生涯教育推進計画」を発表する。これは、策定主体から見ても、名称から見ても、まさにそれまで欠けていた行政計画そのものである。
 さらに、早くもその年の一一月には東京都教育委員会が「東京都生涯学習情報システム基本計画」を発表する。もちろん、これは、推進計画の具体化の一環として位置づけられるものである。
 このように、この時期に至って、教育委員会の生涯教育・社会教育計画、都政全体の生涯教育計画、そして都政全体の総合計画の三者がたがいに関連しながら回転するようになってきた。その回転の軸は三者で共有しているが、中心部は専門家としての社会教育セクションが「事務局」となって支えている。知事部局の企画セクションもそれを支援する。東京都生涯教育計画の策定経緯を見るなかで、このような新しい構造の成立が認められるのである。この構造は、社会教育の専門的観点と生涯教育の広い観点の両方から生涯教育計画を策定するためには必須の基盤といえるだろう。

三・二 「東京都生涯教育推進計画」における計画性
 この計画における推進事業の計画期間は昭和六一年度から七〇年度までの一〇年間である。また、計画実現の最終目標は「二十一世紀初頭」となっている。本計画の事業体系は表のとおりである(図B)。一から五の項目については、それぞれ数個の「長期目標」が掲げられている。右列の各項目については、「現状と課題」、「施策の方向」および「推進事業」が示されている。ちなみに、推進事業の総数は二三九事業にもなっている。
 もちろん、これらの事業のうち、新規に計画されたものは少ない。すでに実施されているものや、他で計画化されているもののほうがはるかに多い。しかし、だからといって計画としての価値を軽く見ることはできない。
 なぜなら、一つには「システム」としての価値がある。既存の生涯教育事業や計画が、体系化作業を通して統合されるのである(少なくとも体系図のうえでは)。
 二つには、「行政内部の意識変革」としての価値が考えられる。ある事業が実際には生涯教育を行うものであっても、必ずしも生涯教育の観点をきちんと踏まえたうえで実施されているとは限らない。生涯教育をはっきりとは意図していない関連事業もあるだろう。それらの事業をあらためて生涯教育の事業体系に組み入れることによって、生涯教育の発想にもとづいて、生涯学習の援助者としての意識を高める方向で担当セクションを触発することができる。
 このようなことから、生涯教育計画において問題とすべきは「どれだけ新しい事業を思いついたか」ではないということになる。むしろ、
(一) 生涯教育の視点のもとに各事業が体系化されているか。
(二) 既存事業を計画に組み入れる際、各部局、各事業の担当セクションが計画作業にどれだけ主体的に関わったか。
(三) 同様に、それぞれが計画をどれだけみずからの問題としてとらえているか。
ということのほうが大切なのである。それが不十分であれば、事業の体系化も結果としては形式的な分類作業にしかすぎないことになってしまう。
 また、本計画では表Bに見るとおり、推進事業を「(生涯教育の)推進課題別」に集約している。他の区分の基準としては、生涯各期の発達段階に応じた「発達段階別」、それに婦人などの学習主体の区別を加えた「対象別」、学習内容の種類に応じた「学習課題別」、簡単なものでは「行政セクション別」などが考えられる。機械的に所管別に事業を振り分けるだけの最後の区分を除くとして、いずれが良いのかは断定できない。もちろん、その「所管別」を含めて、「推進課題」、「学習課題」、「発達段階」、「対象」などのあらゆる次元のマトリックスに、各事業を当てはめて検討する作業は計画の途中ではいずれにせよ必要になる。そういうプロセスを省いてしまっては現実に基づいた計画にはならない。しかし、計画の最終的な表現においていずれを中心的な基準とするかには、計画の「思想」が表れている。本計画が「推進課題別」をとっていることは、生涯教育の推進体制の根本的変革をめざす目的意識を象徴していると考えられるのである。
 最後に、本計画の文面に表れた「計画論」をとりあげて考察しておきたい。本計画では、次の三点について言及が見られるが、これらはいずれも計画の中身というより、計画そのものに関する方法論すなわち計画論に近い。
(一) 長期総合計画との整合性
 計画には「東京都生涯教育推進懇談会の報告を踏まえるとともに『第二次東京都長期計画』との整合性をはかった」とある。そして、「推進事業」にも長期計画に計上された事業を数多く(六九事業)とりあげ、しかも、長期計画事業であることをとくに注記してあつかっている。
 そのことにより、一つには生涯教育計画に長期計画の裏付けがなされ、計画の実現可能性が強まる。すなわち、長期計画の支援を受けることになる。しかし、それだけでなく、生涯教育政策からの長期計画への支援にもなる。このような計画相互の支援の双方向性は、生涯教育の統合理念を中心軸とする「同軸回転」を実現するための必須条件である。
(二) 漸進的総合化と逐次改定
 計画では「各実施機関の独自性や主体性を損なわずに、当面、実現可能な事業から着手し、漸進的に総合化をすすめていく必要がある」としている。生涯教育施策が社会の変化に対応して随時変化する「生きもの」としての存在である以上、計画にあげられた諸事業がいっぺんに実現することはありえない。計画でもいうとおり、「学習社会の実現には長期的な視点が重要であり、その推進のためには地道な努力の積み重ねが必要」なのである。また、計画では「今後、各事業の実施状況を逐次掌握」し、「社会の変化に対応した見直しを行い、概ね三年を目途に必要な改定を行っていく」とある。つまり、計画は完璧なものではない、実際には実現しない事業があるかもしれない、しかも、三年で修正をされる箇所さえ出てくる、ということなのであろう。
 しかし、これは、先に「東京都生涯教育計画前史」で指摘した「現実と理想の乖離」の状況とどう違うのか。まず、現実と理想のギャップの大きさが違うだろう。すでに述べたように、本計画は既存の事業や計画が多く、実現可能性が高い。ギャップが小さいのである。だが、もっと根本的にはギャップの「質」が違うといえるのではないか。「前史」においては、都政全体の方向は社会教育行政の求める理想とは必ずしも一致していなかった。それに対して、本計画においては、両者の理想が基本的には一致したうえでの現実上でのギャップなので、あとは諸施策をどう調整し実施するかということ、端的にいえば技術上の問題に過ぎないのである。
 このようなことから、「漸進性」と「逐次改定」は、適時的な政策判断を可能にするという意味から、むしろ計画の柔軟性を保障するための仕掛けとして評価することができるのである。
(三) 民間などへの影響力
 計画は「東京都がめざす方向を示すことにより都民、区市町村、大学や民間教育機関、国などに対して、積極的な参加と協力を求めていくものである」としている。
 生涯学習は学習者の学習なくして成り立たない。しかし、その学習という行為自体は本質的に主体的行為以外のものではありえない。また、生涯学習の理念からいえば、さらに学習行動の決定に関してまで自発性が求められる。そうすると生涯教育政策ができることとは何なのだろうか。計画には、「東京都が目指す学習社会とは、都民のあらゆる年齢層や学習のレベルに応じて、様々な学習機会が体系的に整備され」とある。条件整備ということである。しかし、仮にそれだけにとどまるなら、かえって、学習する者だけがますます学習することから「学習格差」が広がるなどの危険もありうる。
 計画では「学習社会は、都民と行政が一体となって築いていくところに成り立つものであり、都民一人ひとりが、この計画の推進に積極的に参加することが強く期待される」と述べている。じつは生涯教育の推進とは、行政側の努力だけでは何ともしがたいものである。その困難を強く意識したところから、このような都民への「呼びかけ」が発したのであろう。
 そして、「東京都がめざす方向を示すことにより」という言葉は、生涯教育計画の一次的な役割としての「行政を」計画することに対して、見過ごされがちな二次的な役割を示唆しているととらえることができる。すなわちそれは、生涯教育計画の策定それ自体がもつ役割、すなわち、結果として住民の意識に呼びかけることになるという役割としてとらえることができるのである。
 また、区市町村については「住民の日常生活に密着した行政」として、民間教育機関については「生涯学習のための多種多様な学習機会」の提供体として、それぞれの「学習社会の実現に果たす役割」を高く位置づけている。そして、これらに対してもそれぞれの主体性を尊重しつつ連携することによって、「計画の着実な推進をはかっていく」としている。外部に対して参加や協力を呼びかける。そして、その呼びかけが実際に何らかの影響を及ぼす。生涯教育計画はそういう波及効果を発揮しうるのである。

三・三 まとめ(準備期から開始期まで)
 東京都の生涯教育計画のあゆみの中に、われわれは生涯教育計画の「要件」ともいうべきものを見てきた。東京都の計画がその「要件」を十分に満たしているということではないが、少なくとも方向性は明らかになってきたと思う。ここに、それをまとめておきたい。
(一) 生涯教育計画の重要性が行政全体の総合計画において強く認識されていること。
(二) 社会教育計画、生涯教育計画、総合計画が連動し、さらには「同軸回転」していること。
(三) 各行政セクションが生涯教育およびその計画に関心を持ち、計画の策定に主体的に関わっていること。
(四) 計画の実現が行政の効率化にもつながることが行政全体に認識されていること。
(五) 外部機関による答申・助言だけが独走するのではなく、行政側の現実的な「実行計画」が伴っていること。
(六) 社会の変化に対応しつつ施策の漸進的実行をめざすなど、柔軟であること。
(七) 以上の要因から、高い実現可能性をもっていること。
(八) 計画事業が生涯教育の観点から既存の事業を含めて総合的に体系化されていること。
(九) ハード(施設等)の新設だけでなく、ソフトやシステムの改革による問題解決を重視していること。
(一〇) 行政側の条件整備計画を掲げることだけにとどまらず、住民にも呼びかける姿勢をもっていること。
(一一) 民間や他行政の主体性を尊重しつつ、それと連携を図ろうとしていること。

おわりに
 この一九八七年の「東京都生涯教育推進計画」ののちにも、東京都は、「東京都における生涯体育の振興策と推進体制の整備について」(一九八七年七月、東京都スポーツ審議会答申)、「社会人学習の場『都民大学』の実現にむけて」(一九八八年一〇月、「都民大学」構想検討懇談会報告書)、「生涯学習情報センター整備計画」(一九八九年九月)などの各種の答申や計画を得る。また、一九八九年一二月に「教育庁生涯学習推進本部」が設置され、さらに、一九九〇年八月には、東京都教育庁の組織改正が行なわれ、社会教育部を生涯学習部に改めることになる。これらは、全庁的な体制である「東京都生涯教育推進本部」を基盤に、東京都および東京都教育委員会の総合的、体系的な生涯学習施策を推進する中核的組織として役割を発揮するよう期待されたものである。そして、一九九二年七月には「東京都生涯学習審議会」が発足して、生涯学習推進の基本的考え方や学習成果の還元活用について審議を始めた。これらの動きのなかでは、「生涯教育」という言葉遣いが「生涯学習」に全面的に変わってきた点などが注目される。また、施策実施の面でも、「とみん情報システム(生涯教育情報システム)」が稼働したり、「都民カレッジ(都民大学)」が開設されたりしている(ともに一九九一年四月)。
 しかしながら、今まで論じてきた「東京都生涯教育推進計画」成立までの歴史的経緯を振り返ってみると、ここまで計画化が進んできた今日でも、なお、生涯教育計画、生涯学習推進計画に関わって、次の課題が残されたままになっているようにわたしには思われる。
(一) 行政全体の総合計画においては生涯学習が重視されるようになってきていることがわかった。しかし、今日においてもなお、生涯学習支援の姿勢が一般行政の個別の各計画にまで浸透しているわけではない。じつは、そのような末端の諸計画における生涯教育計画の浸透こそが、行政の「生涯教育化」の本命のはずである。
(二) 生涯教育計画と社会教育計画とがお互いに支えあう時、両者の実効性は高まる。しかし、社会教育計画の独自の範疇のものは何だったのか。それについては拡散・消滅しつつあるかのように見える。過去の社会教育計画を復活することではなく、生涯学習時代における新しい社会教育計画の独自の役割を開拓することが求められているのではないか。
(三) 生涯教育の統合の理念が少しずつ現実のものになりつつあるいま、その計画化においても、統合理念の具現化のあり方が問われていると思われる。「分(ぶ)をわきまえる」といういやな言葉があるが、それがたんに禁欲や退嬰を示す言葉ではなく、むしろ行政の各セクションや社会の諸機能のそれぞれが生涯教育推進のなかでの個別で独自の役割に喜びと自負を感じるという積極的な意味をもった言葉として、根本的な転換がなされるようにならないだろうか。
 自己が全体のなかでの部分でしかないことを受容できないとすれば、それは自己の価値や文化を全体に押しつけようとする全体主義や、そういう他者の押しつけに服従する敗北主義にもつながりかねない。本文中では「同軸回転」の重要性を述べたが、それはけっして一方が他方に同化することによって成立するものではないはずである。生涯学習の理念は、同一化へのみずからの内なる誘惑に抗して、個々がたがいに異質であることを歓迎するネットワーク型の志向と特質をもっている。つまり、それは、自分が他とは個別で自立的な特性を有しながら他と連携することが喜ばしいという感覚であり、個と全体との新しい共存の方法でもある。それゆえ、生涯教育のめざす統合も、その計画化のなかでの具体的な姿としては、たがいに異質であることがそのまま生かされるゆるやかな統合であるべきということができるだろう。各セクションの個性がいきいきと表れる生涯教育計画を求めたい。
(四) 生涯教育計画は、いま、大いに現実性を獲得しつつあるといえる。しかし、そこに計画主体による現実への不当な妥協はなかっただろうか。現実自体が目まぐるしく変化する時代において、もし計画がその時点での現実の集約でしかないとすれば、計画としての独自の価値は少ないといわざるをえない。現実性に裏打ちされたうえで、「開発性」が求められていると考えられる。たとえば、計画のなかに新しいアイデアを盛り込むなどの、新しい現実を切り開くための能動的な計画性も必要であろう。
(五) 社会の変化に対応して適時的な政策判断を保障する柔軟さが東京都の生涯教育計画のなかに育っていることがわかった。しかし、もっと積極的に柔軟性を発展させて、偶然を取り込んで「自己成長」するようなシステム面での工夫をも計画のなかにとりこんでいけないだろうか。たとえば、「逐次改定」のための委員会の設置などが考えられよう。
(六) 生涯教育計画が生涯学習の支援のためにあるということを強調し、そのことによって学習者の自主性を尊重するという意味では、その計画の名称にも生涯学習という言葉を使うようになった今日の流れは大いに評価しうるものである。しかし、反面、生涯教育という言葉をあえて避けることは、学習援助として教育が存在しているということまで一面的に否定する「教育に対する敗北主義」にもつながりかねない。たとえ「生涯学習推進計画」などの表記をしたとしても、その計画は、人びとの生涯学習の有効な支援としての「教育」の意義と可能性をつねに新たに開発する視点が要請される。生涯学習という言葉の普及によって学習者の主体性が復権したとすれば、次に必要なことは、その有効な援助としての生涯教育のもつ意義と可能性を「生涯学習推進計画」のなかで復権させることであるといえよう。
(七) 生涯教育計画は「行政計画」をともなってこそ、計画の実効性が飛躍的に高まる。しかし、そもそも、生涯学習の推進そのものは、そのほとんどが行政の力だけではどうにもならないものである。全生活、全地域、全社会での生涯学習のための条件整備の営みが必要になる。それらのことについては行政は期待を述べるだけということでは、生涯教育の本格的な推進は現実には望めない。自治体行政だけでなく、地域のあらゆる構成メンバーの共同制作によって、全領域を統合したもっと大きな「生涯教育計画」をめざすことが期待される。
 さらには、主として条件整備面での計画化としての生涯教育計画の策定とともに、地球規模のゆがみやきしみのなかで、われわれはとくに何をどのように学習するのかということを、学習者や援助者が現代に生きる同時代人として協同して主体的に計画化するような文字どおりの「生涯学習計画」の実現も、今後は期待されるだろう。これは、現代社会のなかで主体性を失いつつあるわれわれが、生涯学習計画の共同制作のなかで学習計画能力を育て、そして、それによって、認知し、行為し、評価する主体性をとりもどし、みずからの学び生きる意欲と能力を身につけることによって、「学びたいことを学びたい手段で学ぶ」という生涯学習の理想を実現する学習主体としての力量を獲得し、現代社会のなかでその理想を現実に開花させることにつながるのである。

 これらは簡単に課題を列記しただけのものである。しかし、このように考えると、生涯学習計画はいま始まったばかりで、今後の課題のほうが多いということは確かなようである。また、その課題を解決してしまった自治体が東京都以外にはあるとも考えられない。本論が生涯教育計画の「開始期」で終わっているのもそのためである。
 学習社会とは、これらの課題解決のさきにある社会なのだろう。

参考文献
西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』(学文社、一九九一年四月)
西村美東士『こ・こ・ろ生涯学習 −いばりたい人、いりません−』(学文社、一九九三年三月)

図表タイトル

図@ 「東京都社会教育長期計画の5線施設構想と東京都社会教育振興整備計画施設計画との関係」
 出典 東京都社会教育振興整備計画(1971年10月)

図A 「コミュニティ・カレッジ構想と生涯学習情報センター」
 出典 東京都第2次長期計画(1986年11月)

図B 「東京都生涯教育推進計画の事業体系」
 出典 東京都生涯教育推進計画(1987年6月)
「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その4)
 −出席ペーパーに表れた学習者からの教育批判と教育評価@−
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(4)
 −The Criticism and Evaluation of Education by Learners appearing in Attendant-Papers@−

※ 印刷にあたっての筆者からのお願い
 文中のアタマのmitoという文字は、読みやすくするため、すべてゴチックにしてください。

1 今回の論文の位置づけ

 「個の深み」を鍵概念としたこれまでの一連の拙論の副題を挙げれば次のとおりである。その1(平成3年3月)−「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(副題なし)、その2(平成4年3月)−出席ペーパーに表れたその実態と可能性、その3(平成5年3月)−学習者の発言(ペーパー)に対する指導者の対応のあり方。
 今回は、学生の出席ペーパーをもとにしながら、現代青年の批判精神の所在について明らかにしたい。そして、とくに「mito的授業」への学生からの実際の批評をとりあげることによって、大学運営の目下の課題のひとつである学習者自身による授業評価(社会教育でいえば事業評価)のあり方をより本質的にとらえるための一助ともしたい。ちなみに、教育評価に関する私の問題意識としては、次の3つがある。
@ その教育を支持する人が量的にどれぐらいいるかを気にするだけの評価ではなく、たとえ1%の学習者の批判であっても、それを教育に反映できる評価にしたい。
A 良いか悪いかの「程度」だけを気にする平板で固定的な評価ではなく、新しい教育の方向を探り出せるような個性と開発性の豊かな評価にしたい。
B 学習者が被調査者として固定されることなく、名実ともに評価主体として成長できるよう、教育側と学習側とがともに育つという教育的観点をとりいれた評価のあり方を明らかにしたい。
 以上の教育評価の問題においても、そこで問われているのは、評価主体(ここでは学生)が真の意味での批判能力をどれだけもっているかということである。そのため、これらについてはかなりの分量の記述が必要になりそうである。簡単には語りつくせそうもない。そこで、下記の3以下に予定した内容については次回以降に譲ることにする。これに関わる出席ペーパーおよび私のコメントは事例としてはすでにまとめてあるので、それを希望される人にはMSDOS標準テキストの形態で提供する。
 1 今回の論文の位置づけ
 2 知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際
 3 教育「される」ことへの反発
 4 教師による学生批判
 5 楽園追放は受けとめるしかない
 6 批判は否定とは異なる
 7 批判は必ずそれなりの真実を表している
 8 真理には到達しえない
 9 批判の刃を自己にも向ける
10 他者の存在が自我を深める
11 自他批判を通して身を構え直す学習者たち
 なお、ここで紹介した「出席ペーパー」とは、学生が講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くものであり、それに対する私のコメントは翌週の授業の冒頭に行われる。また、ここに挙げた「S大・S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事の課程を学ぶ大学生と短大生であり、「T大T部・U部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の1部学生と社会人入学者を含む2部学生である。そして、mito以下のコメントは、それぞれの出席ペーパーについて私が授業までに準備しておいたメモである。

2 知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際(改訂後)

1992.12. 2. T大U部社会教育概論、男
 何か最近、mitoさんの講義って、説教くさくてつまらない。4月、5月の頃は、毎週、来るのが楽しみでしたが、今ではそれほどではありません。(全文)
mito 「説教くさい」というのは、ぼくにとって最大の批判に近い言葉だ。ちなみにぼくの授業に対する最大の批判は「退屈する」ということである。「説教」からは「反抗」が生まれるけれど、「退屈」からは「忍耐」ぐらいしか生まないからだ。幸い、「退屈」という批判は、今まで一回も受けたことがない。それにしても、ここまでものすごい言葉を使って批判するのなら、ぜひ、「どこが」説教くさいかということを付け加えてほしい。そうでないと、「学生からの批判(暴力は禁止)はすべて受けて立つ」と言っているぼくとしても、どう対応すればよいかわからなくて困ってしまうのだ。この状態のままだと、ぼくとしては、少なくともこの学生に対しては、「論争してぼくに負けるのが怖いから、理由は言って(書いて)こないのだろう」として片づけるしかなくなる。そして、社会的に見れば、批判をそのように片付けてしまったぼくのほうが正当だということになってしまう。そんなことでは、せっかくの批判が批判としての力を持たなくなってしまうのだ。もっと主体的な批評精神を身につけてほしい。
1992.12. 2. T大U部社会教育概論、女
 ちょっと今日は疲れていて、聞くことに身が入りません。はじめのほうは(パフォーマンスタイムで配られた)アンケートに答えていたので、レジメは目を通しただけです。ちょっとアンケートをした人へのつっこみがこわかったなあ。先生の質問が社会的権威に満ちて聞こえたのは気のせいでしょうか。早口なところもよくないのかもしれないです。
 自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです。
 眠くってなんにも考えられません。(障害者のための絵画教室の)ビデオは悪くなかったと思うけど、素直に感動できませんでした。こういう人もいる。わたしはわたし。自分なりに生きていくしかない。それが全て。ネットワークはあれば素敵だし、なければ淋しい。でも、なくてもとりあえず困らないから。
mito まず、「自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです」という指摘については、ぼく自身、「これだったんだ」という感動をもった。授業の心構えまで「まとめ」に入ってしまったぼくを、的確に批判している。
mito 「アンケートをした人へのつっこみがこわかった」というが、なぜこのアンケートをしたいのかを調査者自身が明らかにすることは回答者に対する礼儀だとぼくは思っているから、アンケートの説明の終了の後、「このアンケートであなた自身は何を知りたいのかも言ってください」と要請しただけである。調査者に対するつっこみというよりは、むしろ支援であったはずだ。それを「つっこみ」としてとらえるのは、被害者意識なのではないか(早口はたしかによくないだろうが)。実際、アンケートをした本人は、「先生にめぐりあえて良かった。今の私の本心です」とまで言っているのである。
mito そもそも、この授業では、ビデオは「素直に感動する」ために視聴しているのではない。だから、この学生の「こういう人もいる。わたしはわたし」というとらえ方もありうるのだ。感動しても素晴らしいし、感動しなくても感動しない深みがありうる。どちらでもよいではないか。ただ、授業を行なうぼく自身としては、「共感的理解」や「メディアからの主体的摂取態度」を体得することをねらいとしているのは確かである。
mito ネットワークは「すでにあるもの」や「エスタブリッシュメント」ではない。ヒエラルキーに抵抗する「個」から生まれるものであり、それをほしいと思う者が「つくりだそうとするもの」である。そして、人間同士がヒエラルキーを離れて完全に相互信頼することは究極的には不可能だから、最後まで「完成しないもの」でもある。そこに感じる「淋しさ」は受容するしかない。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)久しぶりにこの授業に出た。言うこと、言うことに、からみついてくる生徒。それについて真剣に考える先生。生徒の書くペーパーやつっこみにドキドキしたり、訳わからない質問に困ったり。すばらしい先生だと思った。だけど、顔が笑ってても目が笑ってない。余計なお世話か・・・。今日の話、私はほとんど先生の意見に賛成だった。なんか先生が生徒で、生徒が先生みたい。そういうのも大切だと思う。
mito 「顔が笑ってても目が笑ってない」というのは、じつはぼくの限界性を鋭く突いたものだと思うが、こればかりはどうしようもない。「演じているぼく」のほうを評価してもらうしかない。しかし、「先生が生徒で、生徒が先生」とはいい言葉だ。ぼくが先生病にかかっていない証拠として、肯定的に受けとめておきたい。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (mitoが講師をしている青年教室の参加者がモグリで出席)みとさんの「すばらしい」という意味は? みとさんの考える自己実現の意味は(仕事は入らないのか)? 社会にgiveしないといけないのか?
 何でも言える雰囲気とか、とってもよいと思う。でも、みとしさんは、今、何かにしばられていて、その中から声を出しているような気もする。(1時間目が)「まとめ」ということでなのかなあ? (ペーパーにあった)「説教」にはちょっと共感。なんとなく真剣になっていろいろな話ができる時間がもてるっていいな。
mito このペーパーを書いたこの人には、ぼくが1時間目に「自己表現できないことは不幸である」と言い切ってしまって、ある学生から批判を受けたことについて、2時間目の授業中、「みとしさんは本当に自己表現できないことは不幸だと思っているのですか」と指摘された。それは、ぼくが絶句してしまうほどの鋭い質問だった。「まとめなのだからある程度の言葉の捨象は仕方ない」と言って単純化して逃げようとしているぼくの首ねっこをつかまえられて引き戻されたような気がした。「何かにしばられていて、その中から声を出している」というのも、ぼくが教師という社会的役割を遂行している以上、仕方のないこととはいえ、もう少し発展して論ずれば、教師と学生との知的水平空間の質的深化の契機となりうるものであろう。
mito 社会にgiveしたくなければしなくてよいと思う。しかし、そのときは、人間の尊厳を守るための福祉的な意味以上の報酬や見返りを社会に期待することは筋違いであるということは知っておかなければならない。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (mitoが1時間目の授業である学生に「説教くさい」と書かれて興奮していたことについて)人にものを言われてカチンとくるというのは、その人がそのことを気にしているからなんだと思う。気にしていないことを人から言われてもあまりパッとしないし、それがとても第3者から見たらヒドイこと言われているとしても、本人は気にしないということは多くある。しかし、とても気にしていたり、相手に対してあまりいい思いを抱いていなかったりのどちらかが入ると、とても激しく怒る場合があると思う。
 人と人というのはわかり合わなくてはならない。相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならないと思う。今日のmitochanにはそれがなかった状態だったから、私は(授業中のフリーディスカッションで)瞬間の幸福感の持続が人生なんだと言った。コロコロ変わる人間は一貫性がない。普段のなかから、哲学性のあるニュアンスの響きがあるほうが、ずっとすごいのにと思う。口調ややり方を変えるだけじゃなく、内容を変えられないからやり方を変えているように思った。素直な人間と人間のぶつかりって、本音で語ることが第一!
mito たしかに「説教くさい」と評価されることは、ぼくが一番恐れていることだ。そうなりたくないと思って教師をやっているからだ。しかし、なぜ、それを学生から言われて動揺したらいけないのか。動揺して同然ではないか。あるいは、その動揺を口調ややり方に反映させてしまったからいけないのか。しかし、教師の口調のことなど、学生側は無視すればいいではないか。それこそ、授業内容が学習にとって有効だったかどうかこそを問えばよい。(もちろん、学生に対して「お前ら」とか「馬鹿野郎」とかの学生の人格を傷つける発言などがあれば糾弾されて当然だが、ぼくはそういうことは言わない)。
 今回の授業内容に新しいものがあったかどうかはともかく、少なくともぼくはけっして「内容を変えられないからやり方を変えた」のではないことは明らかにしておきたい。「相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならない」というのは同感であり、興奮して共感的理解ができないでいるぼくの弱さを指摘したものとして謙虚に受けとめたい。しかし、興奮してしゃべっているぼくに対する「内容を変えられないからしゃべり方を変えたのだろう」という言葉は、「えっ、ぜんぜん違うよ」という感じであり、それこそ共感的理解をされないまま勝手に診断された感じで、とてもいやな言葉である。(しかし、ぼくが自分で「どんな批判でも受けて立つ」と言った以上、学生は何を書いてもよい。ぼくは受けて立たなければならない。受けて立った結果が、このぼくの文章である。)
 ただ、教師自身の動揺(もちろん私生活のものでは論外だが)を口調ややり方に反映した(させてしまった)こと自体が不快に聞こえるというのなら、それはそうなのかもしれない。しかし、それはぼくの授業にとってはむしろ大切なことなのであり、ぼくの授業の個性だと思って受けとめてほしい。ぼくが言うこともコロコロ変わるかもしれないが、それに耐え勝ってほしい。profess というのは、公言する、(信仰を)告白するという意味なのである。学生はその「告白」から自分なりに学ぶ必要がある。ぼくの授業も、学生を気持ち良くさせるために行なっているのではない。そのときは教師も学生も苦しくていいから(つまらなければ困るが)、人間存在や幸福追求に関する真実に近づくために行なっているのだ。
mito 「人と人というのはわかり合わなくてはならない」というのは厳密に言うと間違いではないか。「わかり合うための有効な努力をしないまま不平を言ってはならない」というのが正しいのではないか。なぜなら、他者を完全に理解するというのは無理な話だし、また、「わかり合いたくない他者」がいる場合には、自分が不平さえ言わなければ、わかり合おうとする努力を放棄することがあってもかまわないからである(潔い撤退)。そして、その有効な努力とは、「相手の言うことの中に、実際に言葉にしていること以外に、本当は何が言いたいのかを引き出す」努力であると同時に、自分のほうは「自分が表現したいことを、きちんと言葉にして言う」努力なのである。教師にそういう努力の義務(社会的役割の遂行)があると同時に、学生にもその努力の仕方を学んで実践する「権利」(学習権)がある。権利だから放棄してもかまわないが、その場合はその学生は教師に抗議する権利も失う(潔い撤退)。全国的にも、学習者側から教育体制側に対して「学習権」が非主体的、体制依存的に叫ばれている実情が見られるが、本来の学習権とは、このように、厳しくさわやかなものであべきだと思う。
1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女
 mito的授業を批評せよということですが、私が出ている講義の中では、1〜2番のおもしろ味があると思います。(学生による授業評価のビデオの)アンケートにもありましたが、やっぱり会話が成り立つとか、自分なりに考える機会を持たせてくれる授業が刺激があって好きです。授業の内容はだいたい肯定的に受け取っています。理解するのが難しい(共感できないという意味で)ことでも、自分なりに歩み寄って、肯定できない自分は偏った視点にいるのかも、と柔軟性を持っていこうと努めています。
 以前に、頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ、というようなことを言っていましたが、これはかなりショックでした。話しかける勇気がなくて、仕方なく頬杖ついているしかない自分は、自分でも情けない姿でコンプレックスでもあるのですが、それは辛いことです。学生の核に迫っていこうという講義の中で、断定的な言動、姿勢はやや矛盾を感じます。出席ペーパーへのコメントにしても、反論的な意見に対し、どれだけやりこめられるかという対応をしているような感じを受けます。学生の意見に対して、先生の考えが変わること、影響を受けることがもっとあっても良いのではないかと思います。
mito 「頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ」は、厳密に言うと「相手がわかってくれないからといって、頬杖ついてその不平を相手に表そうとするぐらいなら、その相手に言葉で表現せよ」という意味である。「自分が言葉なんかに出さなくても、相手には自分の気持ちをわかってもらいたい」と愚痴をこぼす学生が多いので、この言葉を考え出したのだ。しかし、この言葉には、「その場しのぎのウソ」もたしかに混じっている。ごめんなさい。
 このように、「断定的なレトリック」には必ず多少のウソが混じっている。だが、そうでない意味でのレトリック(「○○であることはないことはない」「こうでもあり、また、こうでもない」など)では、何も言っていないのと同じだ。後者のレトリックも、答申作成の最終段階などでは妥協の産物として仕方なくやることがあるが(社会的役割遂行)、できればやりたくないこと(自己実現の面からは)である。一番望ましいのは、ショックを受けてしまった学生が自分自身を罰するのではなく、この知的水平空間(この言葉も重要ではあるがレトリックだ)においては、ぼくの「断定的なレトリック」に対して、それが通用しない事実を挙げてぼくのレトリックを破綻させることなのである。そこまでされれば、ぼくはそのレトリックを修正するであろう。そのことによってのみ、真実により近い(それでも到達はしない)レトリックへの発展がある。
1992.12. 9. T大U部社会教育概論、男
 mito先生の授業については、タメになって、また、型破りなところが良いと思っているが、どーも後期になって「mitoちゃん」から「先生」になってきているように感じている。先生だけが原因ではなく、われわれ学生側の態度にも問題があるのかもしれませんけど・・・(ぼくも今日、寝てしまいましたが)。
mito ぼくは学生を(退屈させて?)寝させてしまったなら、教師であるぼくのほうが悪いと思っている。なぜならば、授業は発表ではなくて教育(=学習者側の主体性の獲得)だからである。もちろん、疲れて寝てしまうぶんには、大きないびきをかかない限り、学生にも教師にも問題はない。しかし、そうではなくて退屈ならば、どこが退屈かを言ってほしい(われながらかなり無理な注文だとは思うが、あえて要請している)。後期になって、ぼくの授業は前より高等教育のあり方に近づいてきたとぼく自身は自負している。ぼくには、今のところ、先生病(自分は学生より立場が上で尊敬されるべき存在であると思い込む病気)にかかっている自覚症状はないのである(これが一番怖いのかも)。このペーパーのような学生側からの訴えは、具体的にどこがそうなのかは指摘してもらえないことが多く、ぼくのほうだって真綿で首をしめられているような焦燥感を感じるのだ。
1992.12.16. T大T部社会教育計画、男
 私は自分自身で授業料を払っているわけではない。したがって、私は間接的消費者であって、直接的消費者ではないのである。もし、自分で働いて、そのお金を授業料に当てているのであれば、それなりに授業に関して主体的になりうると思う。このことはその他多くの学生についても言えることである。だから、西村先生の「学生=消費者論」(教育の消費者としての主体者意識をもてということ)には致命的欠陥が内在していると考えられる。つまり、間接的消費者としての学生の位置づけがなされていないのである。
mito 本来は授業料を自分で払ってでも良い授業を受けたいのだが、自分には経済的能力がまだないから保護者等に支払いを(さわやかに)依存しているという意識を学生がもてれば、それは「間接的消費者」としての主体性と言えるだろう。
1992.12.16. T大U部社会教育概論、女
 (まとめの授業で)今回のテーマは「何で生きてるの?」ということですが、私はもう、何で生きているのか、はっきり目的もわかっているし、自分が、今、何をすべきなのかもよくわかっている。そして、実践しています。私は毎日幸せだし、目的を持って毎日行動しているから、やりがいがあるし忙しいです。
 先生は、今の若い人はヤル気もなく、倦怠感で充満していて、何で生きてるの?と聞かれたら心のポカッとあいた部分を突かれたようになるという(ことを前提としたような)聞き方をいつもしてきますよね。「今の若い人は学歴がないと社会では通用しないから勉強している。そのほうがあとが得だから」と先生は考えているから、かわいそうだ、何とかしてやりたいっていう気持ちが強すぎて、なんだか生徒をバカにしてる気がします。今日のテーマははっきり言って頭にきました。「おまえたち、ヤル気をなくして、毎日かわいそうだなあ。むなしいだろうなあ」って先生が思っているように私には感じて、ほんとうに失礼だと思います。でも、この内容は、先生がちょうど私たちぐらいの年齢のときに感じられたことだと思いますし、もしかしたら先生自身が今でもそういう気持ちがふっきれないのではと私は思いました。
 しかし、先生のことは尊敬しています。ただ今日は、このテーマに腹を立てただけです。たくさんの学生はそうなのかもしれませんが、私は目的を持って毎日過ごしていて幸せです。
mito ぼくが自分のことはさておいて、「今の若い人はかわいそうだ」という言い方をしたのなら謝りたい。その言葉を言ったのだとしたら、それは、ぼく自身に「自信がない」ところがあって、そういう非主体的な言葉が出てしまったのだろう。ぼく自身の「自信がある」部分でこのペーパーの訴えに応答するならば、この学生の察するとおりである。すなわち、ぼく自身が、「ヤル気をなくしたり」「倦怠感を感じたり」「心のポカッとあいた部分を持っていたり」「学歴に引きずられたり」「空しさを感じたり」する気持ちを「ふっきれていない」のである。そこからぼくの問題意識も生じているのだ。
 しかし、そういう消極的な気持ちを感じたことのない人とはどういう人間なのだろうか。ぼくは地球上にそんな人はいないと思う。現代社会において、一定の個人だけは「解放」されていて、その人たちは「自分の生きる目的」「自分のすべきこと」に疑問や不幸を感じることがなく、「楽しい忙しさ」しか感じていないとすれば、その人たちはほかの誰かを抑圧するなり傷つけるなりして生きているのではないかと思う。そんな人たちの人生は、小説の主人公にはなりようのない「個の深み」のないつまらない人生だ。このペーパーを書いた学生は、きっとそうではないのだと思う。自分や社会にマイナスの部分がないのではなく、そこで痛みを受け、しかし、それを受容した上で「目的を持った生活」をしているのだろう。だとすれば、そのマイナスの部分の存在をはっきりと認識したほうが、より積極的で深い人生が送れると思う。
1992.12.16. T大U部社会教育概論、男
 (新聞報道の形式で)どうした美東士!! おまえの授業はどこへ行った! 前期の勢いなく、mitoさんらしさの喪失か!! 
 T大U部水曜1限の時間が変わろうとしている。それは「社会教育概論」のmitoちゃんこと西村美東士氏に対し、学生からの不満が多発するということから始まった。前期に突然に行なった「ジェスチャーゲーム」などの勢いのある「恥ずかしい思いはするが、他の人と無邪気に騒げた」授業がなくなり、後期からONE WAY 的、または講義的授業が多くなったのは事実である。ここで学生の声を聞いてみよう。「今までのmitoちゃんの授業というのは、私語をする気が起こらなかったけど、これじゃあぼくの職場の年輩の先生と同じだから聴く耳がなくなっちゃいますね」「後期になってから、重苦しく息苦しい授業になっちゃったよね。失望しちゃいました」。どうやら『mito氏肯定派』と『mito氏否定派』とでは、後者の派閥のほうが多くなってきている模様。「白紙のC評価」という形の犯行声明(?)などが出ていることにより事態が緊迫化しているのは事実である。
 (一口コラム)mitoちゃん、最近の授業は本当に一方通行になってきております。「白紙C評価」については複雑だと思いますが、冬期休暇中、どうかもっと自分を磨いて、前期でやったような「飾り気のない授業」をしてください。期待してます。
 最近、mitoちゃんの授業に出ていて思うのは、「カッコつけ授業」をしているような気がします。出会ったばかりの授業では、飾り気のないナチュラルな授業(授業を感じさせない授業)をしていたのに、後期になってからは「大学の授業」になってしまっております。どうぞ、もっと「ジェスチャーゲーム」のようなTWO WAY の授業をしてください。私の友人に「あの人は偽善者だ!!」と言い放たれてしまいました。がんばれmitoちゃん、もっと自分をさらけ出せ! この際、この時間に討論会みたいなものをしたほうがよいのでは?
 (P.S.)もしかしたらVTRを見ている途中に、先生が(学生の私語を)注意してしまったことが原因になっているのかもしれませんよ!!
mito ぼくは、あのとき、私語を「注意した」のではない。人間のあんな場面において明るく私語ができるという鈍感さや人間性の欠如に対して「怒りを表した」のだ。
mito 「白紙C評価」と「友だちが偽善者だと言っていた」については、同様の問題であり、もう述べたとおりである。しかし、なぜ、ぼくの抗弁よりも、そういう無責任な発言のほうに、この学生までもが引きずられてしまうのか。ピア・コンセプトの恐ろしさを認識してほしい。
mito 「討論会」が効果的にできるのならやりたい。しかし、今の状況では、教師側がかなり工夫してうまくやらないと、「普通の(非主体的な)討論会」になってしまう。このように考えているぼくを学生のほうが失礼だと思うのなら、そう思った学生が授業中に例の「ちょっと待った」をやればいいじゃないか。ただ、今のぼくは、「結果を恐れるな」と学生には言いながら、自分自身は「結果を恐れている」のも事実である。
mito 「ジェスチャーゲーム」は、それを行なう時にもぼくがはっきりと言ったように、講義形態のこの授業においては本来的なものではなく、人の目に恐怖し、他人はいないほうがよいという一部の学生の危機的な状況を感じたからこその「緊急手段」だったのである。強烈な体験学習であるからこそ効果的である反面、一部の学生をいっそう傷つけてしまうものになる。実際、「もう絶対やらないでくれ」とか「こういうことをやるんだったらあらかじめ言っておいてくれ。そうしたら、欠席するから」という切実な訴えがあったのである。
 それならば、教師はどうすべきか。講義ではそれをきっぱりと諦めて、演習という条件(小人数)のときにやるべきなのである。演習なら、教師は、ワークをリタイアする人に対する他の学習者の非難がましい目(ピア・コンセプト)から、その人を少しは守ることができるかもしれないからである。実際、ぼくは演習形式の授業では、もっと「つらい」(=楽しい)授業を行なっている。それに対して、講義に向かうぼくの姿勢は「講義方式からの逃避」ではなく、「講義方式に対する敗北主義の克服」である。『生涯学習か・く・ろ・ん』を読んで理解してほしい。
mito 最近は以前より「カッコつけ授業」になっているという批判については、ぼくは弁解できない。そうかもしれないが、それはなぜだろう。どこが「カッコつけ」なのだろう。わからない。学生が「飾り気のない授業」や「ナチュラルな授業」を求める気持ちはとてもよくわかるだけに(ぼくも学習者だったら指導者にそれを求めるから)、これからのぼくの課題として重く受けとめていきたい。そのことに関する具体的な問題点や克服のノウハウについて気づくことがあったら、ぜひ情報提供してもらいたい。指導者にとっては気づきづらいことなのである。
1992.12.16. T大U部社会教育計画、男
 (「私の好きなこと」を全員がしゃべる授業で)今日の授業は美東士先生の授業らしくなかったような気がする。自己革命(?−mito)をめざす美東士先生は、学生には自発能動で授業に参加してもらうはずなのに、今日はやらされているような気がした。それがなぜだか自分でもわからない。昨年の美東士先生は、もっと楽しそうに授業をしていたように思える。自分らしさを取り戻してください。
mito 「カッコつけ授業」とは、このことかもしれない。つまり、教師自身が楽しんでいないということだ。ぼくの言いたいことが通じなければ通じなくてもいい、という自然な気持ちが欠けてきたのかもしれない。
1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男
 先生は、最初の講義のとき、「ペーパーにはどんなことを書いてもかまわない」と言った。だから、私は、自分がその時々に書きたいことを書いた。授業批判とか授業のテーマに沿った内容のものは、ほとんど書いていない。「お前の気持ちのマスターベーションにすぎないじゃないか」と言われてしまえばそれまでだが。で、先生にお尋ねしたいのは、ペーパーを読むにあたって、その選考の基準、今回のまとめに載せるか否かの基準は、何を基準にして選んでいるのだろうか。結局のところ、mito批評、授業の内容にまつわるものの是非、この2点に基準が絞られている気がする。
 人は人の考え、人の言葉、人の行動を見て、ひとつずつ、心の年輪を増やし、自分の根を張る。自分の葉を鮮やかにする。自分の存在と意志を主張していけるようになるのではないかと私は考える。生涯学習なんて大それた言葉を使うから、その言葉自身が偉そうに聞こえる気がする。人の話を聞くことは、人が生きていく中での学習と呼べないのだろうか。授業も大事だが、もっと一期一会を大事にし、ありとあらゆる人の言葉を聞ける、言える授業を期待していただけに、結局のところ自己中心的かつ画一的な授業になっていることに憤りを覚える。
 追記 この授業批判めいたペーパーをまた読んで弁解したら、先生の負けだ。
mito 負けたかどうかは本人が自分で決めることだ。知的水平空間において、他人の勝ち負けを最終的に判断してやる権利や能力を持っている人など、どこにもいない。自分が自分の負けを認めたときに、自分の考え方を変えればよいのだ。「弁解したらおまえの負け」というのは、ぼくにはルール違反のレトリックのように感じられる。
mito この文中において、「マスターベーション」は、むしろmito的授業にむけられた言葉であろう。ぼく自身、多少はそう認めるところもある。しかし、「マスターベーション」がそんなにいけないことなのか。先入観を捨てて考えてみてほしい。
mito 「マスターベーション」というと言い過ぎになるかもしれないが、「自己中心的授業」以外に、教師は学生に対して、あるいは、あなたは学習者に対して、どんなよい授業や学習援助ができるというのだろうか。もちろん、改善できる点はあるかもしれない(もっと学習者自身の学習要求の水準に合わせるとかして)。しかし、それはテクニックの問題であって、本質的な問題ではない。学生のほうも自己中心的(自分の学習関心を大切にし、「自分はこの授業をそのためにどう役立たせるか」に学習の目標を集中する、そのためには学習する側の権利も主張する)になればいいではないか。「自分のために生きる」とは、そういうことである。
 ただ、結局のところ、この学生に対しては効果的な学習援助にならなかったのならば、ぼくだけは授業で「自己実現」を味わっていたとしても、ぼくの教師として与えられた「社会的役割」は少なくともこの学生に対しては果たせなかったことになる(そうか、そういう意味で「弁解したら負け」と書いたのかもしれない)。「社会的役割の遂行」がうまくいかないということは、ぼく自身の「自己実現」の阻害要因でもある。そこで、この学生の枠組を変えるための契機には本当にならなかったのかどうか、ぜひ、この学生に聞きたいところである(もちろん、快、不快の快感原則からではなく)。まあ、ならなかったのかもしれない。しかし、ぼくはできるだけの努力をすればよいのであって、学生のほうはそれを待つのではなく、ぼくに逆提案を携えて要求すべきことなのである。それでもぼくが「聴く耳」を持っていなかったら、それこそ「学習権」を行使して、大学当局にぼくの罷免を要求すべきだろう(ちなみに、ぼくがその罷免に抵抗するかどうかは、ぼくが決めることだ)。
mito ぼくは出席ペーパーのことに関しては、ウソをついていないと思う。「学生は書きたいことを書く。教員に読ませたくないものは書かない。教員は読み上げたいものを読み上げる」という原則どおりである。それ以上の基準は設けていない。なぜ「採用基準」を明らかにしないかというと、そういう基準を設ける必要性を感じていないし、そもそも、授業は、その時その時に過ぎ去っていくものだからである。しかも、学生にとっても「比べられるためのものや選抜されるための文章作成」ではなく「自己管理としての文章作成」であるから、「公開」(「mitoがいやでも公開せよ」という意味)「非公開」「コメント希望」などのマークをつけることができる。ぼくはそのマークには忠実に対応してきたつもりだ。このような出席ペーパーのルールなどの大切な「学習情報」はきちんと把握しておいたほうがよい。ぼくはこのルールについては授業中、何回も説明しているはずだ。
mito 生涯学習という言葉を大それた言葉だと感じて反発し、人の話を聞くことなどの普段の「学習」こそ大切と考えるこの人の謙虚さには、ぼくは深みを感じる。ぼくは言葉をけっこう「便利に」使ってしまうクセがあるからである。たとえば、ぼくが「私は○○に関する学習を続けていきたい」と言ったとしても、ほかの人はその言葉はきっとウソではないと思うだろうが、他人に向かって「人間には生涯学習が必要です。みなさん、生涯学習しましょう」と言ったとしたら、ほかの人は「何でだろう、どうしてこの人は他人に生涯学習を呼びかけるのだろう。そのウラには何があるのだろう」と思ってしまうだろう。
 しかし、ぼく自身はどんなペーパーでも翌週までには3回、繰り返して読んで、「一期一会」を味わっている。どんなペーパーにも、それなりの「普段の学習」はできるのだ。そこには深いものもたくさんある。もちろん、時間の関係もあって、授業をそういう「普段の学習」ばかりにするわけにはいかないから、ぼくのフィルターを通して集約して紹介している。(このように「弁解」することは、はたして「負け」になるのだろうか。)
mito 「ありとあらゆる人の言葉を聞ける」という期待を裏切った点については、そういうわけなのだが(ちょっと逃げてる?)、「何でも言える授業」という期待についてはぼくは裏切っただろうか。少なくとも言葉のうえでは、つねに学生の発言を歓迎してきた。バフォーマンス・タイム、「ちょっと待った」方式、授業中の発問、そして出席ペーパー・・・。この学生がそれに応じなかっただけだ。教師が言葉で保証しただけではまだ足りないのか。「自分の発言が正しいこととして認められる」という確証が感じられないと、つまり教師がもっと「譲歩」して受容的雰囲気まで醸し出さないとしゃべれないということではないのか(まあ、それは人間としては当然の心理かもしれないが)。けれども、教師側が「何を言ってもいい」と言っているのに自分が言わないのは、「言わない自分にも問題がある」と考えることも必要だと思う。そのように自分をも「謙虚に」見つめるということが、この学生の言う「一期一会を大切にする」という言葉の持つ「謙虚な」意味合いであろう。馴れ合ってしまったうえでの「一期一会」なんておもしろくない。
mito 画一化については、ぼくもつねにその危機を感じながら授業を行なっている。今後、工夫していきたい。また、学生からの提案もつねに待ち続けたい。
1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男
 この授業も残りわずかになって久々に出席した。この1年を振り返ってみると、初めの頃の「自主性をもつ」とか「自分を見つめ直す」という授業スタイルに、自分は「フムフム、こういう授業もあるのだなあ」などと意気込んでいたのだけれど、後期にはまったくと言っていいほど出席しなくなった。何か疲れるのです(これは身体的に疲れるというのではなく、授業スタイルに疲れるのです)。だって、この授業は「社会教育概論」でしょ。社会教育って何ぞやと思って「社会教育」を勉強したい人だっていることをお忘れでは。そもそも自主性とか、恥ずかしさをさらけ出すことを学ぼうみたいなものは、その人自身の日々の生活の中で学ぶものであり、体験することだと最近思っている。何も大学の授業で学ぶことではないのでは?とも思い始めた。だから授業に出なくなったのか。そもそも、私自身の気持ちの問題か。
 はっきり言って、mito先生の授業は、社会教育概論であれ、社会教育計画であれ、心理学であれ、文学だって、経済学だって、課目名は何だっていいような気がしてなりません。水曜1限西村美東士だって通用するでしょう。私は保守的な面があるのかもしれないが、社会教育概論の授業というものもしてほしかった。
 出席もしないで、ペーパーでの指摘もしないで、最後の最後にこんなことを言うのも卑怯な気もしますが。
mito ぼくの研究テーマは自主性の促進ではない。人間の生きる主体性の獲得への援助としての社会教育のあり方だ。「うちの子どもは自主的に学習するようになった」などと言う教育ママの言葉とは無縁なのである。それから、「恥ずかしさをさらけ出せ」などという言葉も言ってない。むしろ、「恥ずかしさをさらけ出させることが心を開かせることである」という指導者側の傲慢な思い込みに忠告を発し続けてきたはずである。その上で、「一人で恥ずかしいと思い込んでいることでも、本当は恥ずかしくないことが多い」「隠したいことは隠していても、心を開いた交流はできる」ということを学習したり体得したりしてきてもらっているのだ。
mito たしかに社会教育概論と社会教育計画を明確に分けて授業をすることはしてこなかった。それは、それぞれの授業が深い意味をもっていればそれでいいと思っているからだ。ただし、この点について、たとえば「社会教育計画の○○について授業をやってほしい」という学生の要請があれば、次の週にでも対応していただろう。そのことについてぼくからの呼びかけはしたが、学生側からの応答や合意形成がなかっただけの話である。
mito この授業が「社会教育概論」ではないという話だが、社会教育の世界でもっとも求められているとぼくが考える基礎的教養に絞って話を進めてきたつもりだ。だから、この学生が「社会教育とは何だろう」という関心をもっているなら、興味深かったはずだ。また、そういう関心を掘り起こすような授業にするための工夫をしてきた。さらに、「ひとくちミニ知識」の形で基本的概念の説明も簡単だが行なってきた。そこで学生の関心が触発されればそれで十分だと思っている。ぼく以外のもっと優秀な研究者がどのような学説を打ち出しているかを知りたいのなら、活字メディアから学ぶのが一番であるし、そのための参考文献の紹介だってしてきたのだ。もしこれ以上、この授業を「概論的」(?)にしたならば、高等教育としてのmito的授業の生命は失われてしまうと思う。
mito 「社会教育概論」と「社会教育計画」の違いについては、先に述べたとおりなのだが(ちょっと逃げてる?)、mito的授業が「心理学」「文学」「経済学」などの課目名だってつけられるという指摘は、ぼくにとってはむしろ批判ではなく、過分(実際にはそこまですごくはないと思っているから)な誉め言葉としてとらえられる。ここでやっているのは、選抜試験対策講座などではなく高等教育なのである。高等教育が今日の研究の最高の到達段階を究めようとすれば、学際的になるのは当然である。「水曜1限西村美東士」というのも、過分である。今日の学問は「一人一学説」の個別化の時代にある。「西村美東士説」でぼくのすべての授業時間を貫徹できれば、それも高等教育の理想である。だからそれを目指してはいるが、ぼくが能力以上の無理をして結果としてはヤブヘビになることがぼくには怖いのだ。
 もっと本質的に論ずれば、「mito的授業がほかの課目名をつけても通用してしまう」ということを学生がマイナスに感じることのほうが、ぼくには深刻な問題だと思われる。この学生はそういう自分を「保守的な面があるのかもしれない」と言っているが、保守的であってもそうでなくてもどちらでもかまわないと思う。それよりも、問題は、「ほかの課目名をつけても通用してしまう」ことについて、この学生の主体的な選択行為として(従来の課目の概念を変えないこと、つまり保守的なほうにメリットを感じて)マイナスと判断したのかどうかである。もしかすると、この学生は、今まで社会やそこで行なわれてきた教育によって与えられた枠組に、自分は納得できないままに従ってしまって、その枠組を適用してぼくの授業に対してマイナスの判断をしているだけなのではないか。
 じつは、ぼくはほかの学生に対してもひとつの不満を持っている。それは「講義要項に書いてあることと、授業でやっていることが違う」という学生からのクレームが一回もつかなかったことである。講義要項は教師が学生に対して教育内容を約束する「契約書」である。それを読んで学生は、「これなら受けてみたい」と判断するのが高等教育のあり方であろう。ぼくは講義要項での文章表現にかなりの苦心をしているが、それでも1年間の授業の内実を示すのは難しい。あとで講義要項を読み返してみるとヒヤヒヤする。(だから、本当は、クレームがつかなくて助かったという気持ちもある。)
 しかし、本来は、講義要項はつぎのように使われなければならないだろう。講義要項を読んで期待をもった学生が、現実の授業とのギャップに異議を申し立てる。それを受けて、教師は弁明したり、授業を軌道修正したりする。そういう相互作用があって、初めて、授業内容が「今、この時」をもとにして講義要項から離れて流動的に展開されることが許されるのではないか。学生が授業内容に不満があれば、「先生はそんなことをおっしゃるけれども、講義要項にはこのように書いてあるじゃないですか」と教師に言えるのだから、講義要項は学生にとってはもっとも大切な授業評価の道具であるといえる。教師と学生とのあいだの社会的に位置づけされた「契約書」である。それを武器に授業を批評すればよいのだ。「保守的な面があるのかもしれない」などという「反省」(恥ずかしさ?)を「さらけ出す」必要は、(批判や要請のための戦略としては)このペーパーにおいてはなかったのだと思う。
mito 「主体性の獲得」「自分や他者に対する不合理な思い込みの克服」などのあり方を考えるためは、もちろん、この学生の言うように「その人自身の日々の生活の中で学び、体験したこと」が重要な基盤になる。しかし、それはレディネスの問題であり、その基盤の上で、それらの人間の内面的な営みや、その援助のための理論構築が学問には求められる。つまり、「大学の授業以外でも学ぶこと」であり、「大学の授業でも学ぶこと」なのである。
 これらのことは言葉としては、授業中、かなり言ってきたつもりだ。しかし、この授業にもっと実質的な双方向性さえ保証されていれば、この学生のような疑問や反発は、教師と学生の意見交換によって即時に具体的な解決に向かっていたはずである。双方向の授業を形式だけでなく内実を伴って創り出すということは、教師にとってだけでなく、学生にとってもなかなか難しいことなのだと痛感する。ぼくは自分が教師として堂々回りに陥っているような無力感さえ感じるのだ。これは、「ぼくは主体性を獲得することができるのか、できないのか」という問題とともに、「ぼくは他人(学生)の主体性の獲得を援助することができるのか、できないのか」という教育学のアポリアでもある。できるともいえるし、できないともいえるのだろう。
1993. 1.16. S大教育社会学、女
 (指導者は、まず、おこがましさを感ずべきという)今日の話はつまんない。言ってもわかんない人にはわかんないよ。よっぽど何か失敗しないと。おこがましいって人から思われたくないからおこがましくならないように気をつけるのって、みんなやりがちだけど、それって一番高ビー。本当におこがましくない人は、何かあって改心した人か、生まれつきか、だと思う。
 先生ってある意味でさらしものだと思う。短大の時も、今年度も、美東士先生の授業をとったけど、2年間、先生の本性は授業中には見れなかったような気がする。たしかに他の先生とはタイプが違うというか、意識的に違えているけど、なんかそれ以上の魅力は全然感じなくなった。他のときはどうかわかんないけど、いつも予防線を感じてしまいます。
mito この学生の出席は、今年度は、なんと3回である。それで、「つきあった」といえるのだろうか。真実の追求に対する態度がゆるんでいるのではないか。
mito 教師は授業中、本性をさらけだすべきか、そうでないか、難しい問題だと思う。この学生の発言にも重いものを感じる。ただ、「全然」を丸で囲んで強調しているのだが、それがかえって説得力を弱めている。そして、学生が教師に本性をさらけだすよう求めることは、その学生にとって主体的なことなのかについては、やはりぼくには疑問である。
1993. 1.20. T大T部社会教育計画、男
 (mitoが「どんな批判でもしてください」と言ったことについてか)mitoはリベラリストのおつもりですか? それとも独善者(注・ママ)? 御自身が御自身を、あるいはその講義を、どう性格づけ、または、(我々に対して)位置づけておられるかはわからないけど、私には空虚だった。今日も空虚だ。空虚からの返答を私は期待していない。得たところで、残るのは、ただ空虚のみだろう。そして、そのことを語る私の、私の言葉の、何と空虚なことよ! とは言いながら、何かを得たものと信じてみよう。そして、その「何か」が永遠に謎だとしたら、これは意外にも素晴らしい空虚かもしれない。ああ、何と無意味なつまらぬことを言っているのだろう。
mito この学生は、全部で27回の授業のうち、5回しか出席していないのだが、なんでここまで言い切れるのだろう。もしかすると、この学生は、自らが空虚に耐えようとせずに、「空虚でないもの」を受動的に求めているのではないか。
1992. 1.20. T大U部社会教育計画、女
 (社会教育のコンセプトとしての)自主的に学習するということは、それなりのトレーニングが必要ですよね。今の大学生はあまりにもそれができていなさすぎる。ルールの説明だけでこの方法をとると、結局は、「できないやつはドロップアウトしろ」と言っているように思います。3回来ればいいわけだから、頭っからそれしか考えないと思う。それでいいですか? 私は能力が少ないからそういうやりかたにはとても淋しくなります。もっとおせっかいになってもいいと思いました。2年間、ありがとうございました。
1993. 4.24. S短大教育社会学、女
 先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読んでほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな?
mito そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということが問題である。実際、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分が自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。そのように潔くできるのならば、「匿名といえどもみんなの前で公開しないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。
1993. 5.12. T大T部社会教育計画、女
 先生の授業は学生の興味を引く話もあって確かにおもしろい授業という気もするのですが、満足できません。何か雑談で授業が終わってしまうという感じがします。まだ3回しか授業が行なわれていないので、これから授業がどう進んでいくのか、はっきりつかめないせいもあるかもしれませんが。ある程度の知識は先生が学生に教えるという形で示した後で、はじめて学生が受身にならずに積極的に授業に参加する形の授業が成り立つのだと思います。これまでの先生の授業の方法だと、予備知識のまったくない私は、先生のおしゃべりに笑ったり、反感を持ったりと、その時はいろいろと考えて楽しいのですが、授業か終わると、何を学習したのかさっぱりわからないという状態なのです。とりあえず、これからの授業に期待して、評価はBにしました。
mito 高等教育のあり方を本質的に考えてほしい。教科書は書き言葉メディアであり、授業は話し言葉メディアである。話し言葉メディアには、体系的な知識の再構築よりも、それぞれの学習者が現在持っている枠組の揺り動かしの役割のほうが期待されるのではないか。
 もちろん、授業の中で、学生をおもしろがらせたり、満足させたりすることも、どちらも成功すれば、それにこしたことはないが、それよりも授業の中で大切なことは、「毒か薬か」のどちらかになる強烈な言葉をぼくが発し続けることだと思う。その点では、「毒にも薬にもならない」という意味での「雑談」をぼくが一言でも発しただろうか?(もちろん、学食やロビーなどではなく、講義中に、である)。ぼく自身は気づかないまま「雑談」をしている場合もあるかもしれないから、それをこそ指摘してほしい。
 また、このペーパーのように学習成果を確認しようとするまじめな人のためには、その回ごとの教育目標を提示するなど、手の内をさらしているのだから、それを最大限に活用して批判するなどの能動的な学習態度が、学習者側の方にこそ、求められているのではないか。学習者が受け身で構えていては、高等教育は成立しない。
1993. 6.16. T大T部社会教育計画、男
 ぼくは、今日、この授業に出るつもりはなかった。今もない。諸事情により来てしまったのだ。だからこれから出ていく。ぼくは、今、自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくないのです。
 ところで、この出席ペーパーは、ある意味でぼくらを試すものでもあるのだろう。それはたとえば、この講義の内容とか、mitoさんの発言についてとかに、ぼくらがどう思ったのかということを知るために、という意味でだ。
 けれども同時に、これらの出席ペーパーを読んでコメントされるmitoさんは、ぼくらによって試されている。いや、こういう言い方は良くないな。むしろ、mitoさんはそこに自らを置いている(出席ペーパーにコメントをつけている)のだから。
 ともあれ、ぼくは教室を出ます。
mito 「自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくない」という言葉は、基本的には潔い選択を表していると思う。ただ、「この講義のために」という言葉は、「もっといい講義ならよかったのに」とmitoのせいにする思考方法をやや感じさせるものでもある。実際にはどうなのかわからないが、もしこの授業に未練があるという理由で潔く撤退できないのだとしたら、撤退する前にもっと「自分の(学習する自由の行使の)ために」ぼくの講義を批判すべきである。
 出席ペーパーについては、ぼくが繰り返し言明しているように、比べたり、序列化したりするためのものではない。学生は書きたいことを書き、ぼくは読み上げたいことを読み上げ、コメントしたいようにコメントするものであり、ぼくがそこに「身を置いている」のは、ぼく自身が学生からの社会的承認を得たいからにすぎない。その目的は、たがいが自己や他者の存在を知るということである。そういう意味では、この学生が書いた「試す」という言葉が、人間の基本的信頼関係に基づく肯定的なことがらではなく、「比べられる」と同義のマイナスの言葉のように感じられる点が気になる。
1993. 6.16. T大U部社会教育概論、女
 (自己受容には1%のレイプの気持ちも含まれるというmitoの発言に対して)1%レイプしたい人は、どのようなsexをするのか。どのようなsexを相手、恋人、セックスフレンドに求めるのか。考えるとこわい。
 誰をレイプするの。誰がレイプされるの。人殺しだ。暴力しか存在しない。形成された人格が無視された体面。いわゆる出会い。10の段階をふんだ人間と10の段階をふんだ人間が出会って、ひとつも知らない0と0の状態で暴力を介して対面する。
 1%レイプしたいのが人間の本能なら、私は1%だけ、そんな人間は亡びてしまえと思う。ここでいう人間は、自分を含んだ人類のことだ。これは極端な考え方だとはわかっている。みとさんのいう敗北主義でしょうか。
mito 敗北主義は、男の1%のレイプの心を受容しようとしたぼくのほうだろう。その存在そのものは否定できないけれど、自己受容してはいけないものがやはりあるのだろう。ぼくは、それを男のレイプ願望を含めて、人間一般の「差別する心」として集約できると考えた。
1993. 7. 5. S大社会教育計画、男
 先生は自分の講義で人を変えてやろうと思いすぎなのではないでしょうか。人を変えようとするのは大変なことだと思います。変えるとかよくするとかというよりは、自分の考え方や思いの中で同感する部分、自分と同じ考えをしているなどの共通するところを一つでも多く探すことができればいいのではないでしょうか? 人はそれぞれいろいろな考え方をしていると思います。違う部分というのは仕方がないことで、社会のモラルに反しない限りはあまり触れずに、共通する部分を、同感する部分を、講義で探せればそれでいいと思います。「私はこう思う」と、他の人に意見を言ってもらってもいいと思いますが、人間の本質はそう変わらないのではないでしょうか。
mito ぼくは他人を変えたいなどとは言っていない(自分の期待に沿って相手を変えたいと願ってしまう弱さは、たしかにぼくにもあるけれど)。自分が自分の枠組を自ら変えたいと思って変えることが本当の学習であり、その学習の援助が教育であり、その両者とも可能なのではないかと言っているだけなのである。「人を変えてやる」ことと「人が変わろうとするのを援助する」こととの間には、それほど大きな隔たりがある。あるいは本質的にはまったく逆のものといってもよい。
 それよりも、あなた自身が「変わりたくない」と思っていることのほうが、あなたの学習や主体性の実現にとっての重要な問題なのではないか。「変わる」ということは、「自分の考え方や思いの中で同感する部分」や「自分と同じ考えをしているなどの共通するところ」を見つけるなどの些末なことだけでは実現できない。自分の枠組とは当然ながら異なる他者の枠組に逃げずに出会うこと、そしてそれを同感としてではなく、共感的に理解しようとすることが必要なのである。その場合、異なる枠組は「仕方がないこと」というマイナスのものではなく、「異なるからおもしろい」という意味で、あなたにとってもプラスのものである。それは、言いかえれば、他者の存在は邪魔なことなのではなく、素敵なことだと実感することでもある。そこから共感的理解に必要不可欠な自信と他信(自己と他者への基本的信頼)が生まれる。「ともに育つ」ことの本質は、そこにある。
 知的水平空間においては、自らの意志を曲げてまで、実体のあいまいな「社会のモラル」というプレッシャーに順応して同質化や同一化をする必要はない。むしろ、たがいが異質だからこそ、その異質の交流によって、それぞれが変わり続けること、成長し続けることができるのである。これは、ネットワーク型社会における「異質の交流」あるいは「異文化理解」の考え方にもつながるものだと思う。

●知的水平空間における学生からの教育批判とその対応(改訂前)
1992.12. 2. T大U部社会教育概論、男
 何か最近、mitoさんの講義って、説教くさくてつまらない。4月、5月の頃は、毎週、来るのが楽しみでしたが、今ではそれほどではありません。(全文)
mito 「説教くさい」というのは、僕にとって最大の批判に近い言葉だ。ちなみに僕の授業に対する最大の批判は「退屈する」ということである。「説教」からは「反抗」が生まれるけれど、「退屈」からは「忍耐」ぐらいしか生まないからだ。幸い、「退屈」という批判は、今まで一回も受けたことがない。それにしても、ここまでものすごい言葉を使って批判するのなら、ぜひ、「どこが」説教くさいかということを付け加えてほしい。そうでないと、「学生からの批判(暴力は禁止)はすべて受けて立つ」と言っている僕としても、どう対応すればよいかわからなくて困ってしまうのだ。この状態のままだと、僕としては、少なくともこの学生に対しては、「論争して僕に負けるのが怖いから、理由は言って(書いて)こないのだろう」として片付けるしかなくなる。そして、社会的に見れば、批判をそのように片付けてしまった僕のほうが正当だということになってしまう。そんなことでは、せっかくの批判が批判としての力を持たなくなってしまうのだ。もっと主体的な批評精神を身につけてほしい。
1992.12. 2. T大U部社会教育概論、女
 ちょっと今日は疲れていて、聞くことに身が入りません。はじめのほうは(パフォーマンスタイムで配られた)アンケートに答えていたので、レジメは目を通しただけです。ちょっとアンケートをした人へのつっこみがこわかったなあ。先生の質問が社会的権威に満ちて聞こえたのは気のせいでしょうか。早口なところもよくないのかもしれないです。
 自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです。
 眠くってなんにも考えられません。(障害者のための絵画教室の)ビデオは悪くなかったと思うけど、素直に感動できませんでした。こういう人もいる。わたしはわたし。自分なりに生きていくしかない。それが全て。ネットワークはあれば素敵だし、なければ淋しい。でも、なくてもとりあえず困らないから。
mito まず、「自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです」という指摘については、僕自身、「これだったんだ」という感動をもった。授業の心構えまで「まとめ」に入ってしまった僕を、的確に批判している。
mito 「アンケートをした人へのつっこみがこわかった」というが、なぜこのアンケートをしたいのかを調査者自身が明らかにすることは回答者に対する礼儀だと僕は思っているから、アンケートの説明の終了の後、「このアンケートであなた自身は何を知りたいのかも言ってください」と要請しただけである。調査者に対するつっこみというよりは、むしろ援助であったはずだ。それを「つっこみ」としてとらえるのは、被害者意識なのではないか(早口はたしかによくないだろうが)。実際、アンケートをした本人は、「先生にめぐりあえて良かった。今の私の本心です」とまで言っているのである。
mito そもそも、この授業では、ビデオは「素直に感動する」ために視聴しているのではない。だから、この学生の「こういう人もいる。わたしはわたし」というとらえ方もありうるのだ。感動しても素晴らしいし、感動しなくても感動しない深みがありうる。どちらでもよいではないか。ただ、授業を行なう僕自身としては、「共感的理解」や「メディアからの主体的摂取態度」を体得することをねらいとしているのは確かである。
mito ネットワークは「すでにあるもの」や「エスタブリッシュメント」ではない。ヒエラルキーに抵抗する「個」から生まれるものであり、それをほしいと思う者が「つくりだそうとするもの」である。そして、人間同士がヒエラルキーを離れて完全に相互信頼することは究極的には不可能だから、最後まで「完成しないもの」でもある。そこに感じる「淋しさ」は受容するしかない。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)久しぶりにこの授業に出た。言うこと、言うことに、からみついてくる生徒。それについて真剣に考える先生。生徒の書くペーパーやつっこみにドキドキしたり、訳わからない質問に困ったり。すばらしい先生だと思った。だけど、顔が笑ってても目が笑ってない。余計なお世話か・・・。今日の話、私はほとんど先生の意見に賛成だった。なんか先生が生徒で、生徒が先生みたい。そういうのも大切だと思う。
mito 「顔が笑ってても目が笑ってない」というのは、じつは僕の限界性を鋭く突いたものだと思うが、こればかりはどうしようもない。「演じている僕」のほうを評価してもらうしかない。しかし、「先生が生徒で、生徒が先生」とはいい言葉だ。僕が先生病にかかっていない証拠として、肯定的に受けとめておきたい。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (mitoが講師をしている青年教室の参加者がモグリで出席)みとさんの「すばらしい」という意味は? みとさんの考える自己実現の意味は(仕事は入らないのか)? 社会にgiveしないといけないのか?
 何でも言える雰囲気とか、とってもよいと思う。でも、みとしさんは、今、何かにしばられていて、その中から声を出しているような気もする。(1時間目が)「まとめ」ということでなのかなあ? (ペーパーにあった)「説教」にはちょっと共感。なんとなく真剣になっていろいろな話ができる時間がもてるっていいな。
mito このペーパーを書いたこの人には、僕が1時間目に「自己表現できないことは不幸である」と言い切ってしまって、ある学生から批判を受けたことについて、2時間目の授業中、「みとしさんは本当に自己表現できないことは不幸だと思っているのですか」と指摘された。それは、僕が絶句してしまうほどの鋭い質問だった。「まとめなのだからある程度の言葉の捨象は仕方ない」と言って単純化して逃げようとしている僕の首ねっこをつかまえられて引き戻されたような気がした。「何かにしばられていて、その中から声を出している」というのも、僕が教師という社会的役割を遂行している以上、仕方のないこととはいえ、もう少し発展して論ずれば、教師と学生との知的水平空間の質的深化の契機となりうるものであろう。
mito 社会にgiveしたくなければしなくてよいと思う。しかし、そのときは、人間の尊厳を守るための福祉的な意味以上の報酬や見返りを社会に期待することは筋違いであるということである。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)(このペーパーは、mitoが1時間目の授業である学生に「説教くさい」と書かれて興奮していたことについてだと思われる)人にものを言われてカチンとくるというのは、その人がそのことを気にしているからなんだと思う。気にしていないことを人から言われてもあまりパッとしないし、それがとても第3者から見たらヒドイこと言われているとしても、本人は気にしないということは多くある。しかし、とても気にしていたり、相手に対してあまりいい思いを抱いていなかったりのどちらかが入ると、とても激しく怒る場合があると思う。
 人と人というのはわかり合わなくてはならない。相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならないと思う。今日のmitochanにはそれがなかった状態だったから、私は瞬間の幸福感の持続が人生なんだと言った。コロコロ変わる人間は一貫性がない。普段のなかから、哲学性のあるニュアンスの響きがあるほうが、ずっとすごいのにと思う。口調ややり方を変えるだけじゃなく、内容を変えられないからやり方を変えているように思った。素直な人間と人間のぶつかりって、本音で語ることが第1!
mito たしかに「説教くさい」と評価されることは、僕が一番恐れていることだ。そうなりたくないと思って教師をやっているからだ。しかし、なぜ、それを学生から言われて動揺したらいけないのか。動揺して同然ではないか。あるいは、その動揺を口調ややり方に反映させてしまったからいけないのか。しかし、教師の口調のことなど、学生側は無視すればいいではないか。それこそ、授業内容が学習にとって有効だったかどうかこそを問えばよい。(もちろん、学生に対して「お前ら」とか「馬鹿野郎」とかの学生の人格を傷つける発言などがあれば糾弾されて当然だが、僕はそういうことは言わない)。
 今回の授業内容に新しいものがあったかどうかはともかく、少なくとも僕はけっして「内容を変えられないからやり方を変えた」のではないことは明らかにしておきたい。「相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならない」というのは同感であり、興奮して共感的理解ができないでいる僕の弱さを指摘したものとして謙虚に受けとめたいと思うが、興奮してしゃべっている相手に「内容を変えられないからしゃべり方を変えたのだろう」という言葉は、「えっ、ぜんぜん違うよ」という感じであり、それこそ共感的理解をされないまま勝手に診断された感じで、とてもいやな言葉である。(しかし、僕が自分で「どんな批判でも受けて立つ」と言った以上、学生は何を書いてもよい。僕は受けて立たなければならない。受けて立った結果が、この僕の文章である。)
 ただ、教師自身の動揺(もちろん私生活のものでは論外だが)を口調ややり方に反映した(させてしまった)こと自体が不快に聞こえるというのなら、それはそうなのかもしれない。しかし、それは僕の授業にとってはむしろ大切なことなのであり、僕の授業の個性だと思って受けとめてほしい。僕が言うこともコロコロ変わるかもしれないが、それに耐え勝ってほしい。profess というのは、公言する、(信仰を)告白するという意味なのである。学生はその「告白」から自分なりに学ぶ必要がある。僕の授業も、学生を気持ち良くさせるために行なっているのではない。そのときは教師も学生も苦しくていいから(つまらなければ困るが)、人間存在や幸福追求に関する真実に近づくために行なっているのだ。
mito 「人と人というのはわかり合わなくてはならない」というのは厳密に言うと間違いではないか。「わかり合うための有効な努力をせずに、不平を言ってはならない」というのが正しいのではないか。なぜなら、他者を完全に理解するというのは無理な話だし、また、「わかり合いたくない他者」がいる場合には、自分が不平さえ言わなければ、わかり合おうとする努力を放棄してもかまわないからである(潔い撤退)。そして、その有効な努力とは、「相手の言うことの中に、実際に言葉にしていること以外に、本当は何が言いたいのかを引き出す」努力であると同時に、自分のほうは「自分が言いたいことを、きちんと言葉にして言う」努力なのである。教師にそういう努力の義務(社会的役割の遂行)があると同時に、学生にもその努力の仕方を学んで実践する「権利」(学習権)がある。権利だから放棄してもかまわないが、その場合はその学生は教師に抗議する権利も失う(潔い撤退)。全国的にも、学習者側から教育体制側に対して「学習権」が非主体的、体制依存的に叫ばれている実情が見られるが、本来の学習権とは、このように、厳しくさわやかなものであべきだと思う。
1992.12. 7. S短大社会教育演習、女
 (mito的授業の評価について)たしかに社教の基礎知識などは頭にまったくと言っていいほど入っていません。でも、この授業をやっていて、いろいろな考え方ができるようになったと思います。例えば登校拒否の人たちのこと。前までは、そういう人たちのことを考えるときに、「なんで自分の将来のためにならないことをするのかな」と思っていたと思います。結局、学歴意識だけの考え方ですよね。でも、今は、「自分(その人)が本当にやりたいことが見つかるのなら、たとえ回り道をしても無駄ではないことなのだ」と考えることができるようになりました。
 先生は私たちが1年の4月に、このA202教室に入ってきたとき、私たちに2年間で何を教え、どういう力を身につけさせたい(身につけてほしい)と思いましたか? それとも、こういう力を身につけてほしいなんていうことは思わなかったのかな? 私は先生が学生に「基礎知識」を教えたい、身につけてほしいと思っていたら、なんとかしておもしろくそういう知識を身につけられるように考えるような気がするのです。でも、あえてそうしなかったのは、退屈させたくないという考えもあったのかもしれないけれども、でも、じつはもっとほかのことを身につけてほしいと思っていたからなのではないかと思ったのです。どうですか?
mito 「一口ミニ知識」をやったりして、僕にも迷いはある。でも、学生のほうでこういうふうに言ってくれてよかった。
1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女
 mito的授業を批評せよということですが、私が出ている講義の中では、1〜2番のおもしろ味があると思います。(学生による授業評価のビデオの)アンケートにもありましたが、やっぱり会話が成り立つとか、自分なりに考える機会を持たせてくれる授業が刺激があって好きです。授業の内容はだいたい肯定的に受け取っています。理解するのが難しい(共感できないという意味で)ことでも、自分なりに歩み寄って、肯定できない自分は偏った視点にいるのかも、と柔軟性を持っていこうと努めています。
 以前に、頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ、というようなことを言っていましたが、これはかなりショックでした。話しかける勇気がなくて、仕方なく頬杖ついているしかない自分は、自分でも情けない姿でコンプレックスでもあるのですが、それは辛いことです。学生の核に迫っていこうという講義の中で、断定的な言動、姿勢はやや矛盾を感じます。出席ペーパーへのコメントにしても、反論的な意見に対し、どれだけやりこめられるかという対応をしているような感じを受けます。学生の意見に対して、先生の考えが変わること、影響を受けることがもっとあっても良いのではないかと思います。
mito 「頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ」は、厳密に言うと「相手がわかってくれないからといって、頬杖ついてその不平を相手に表そうとするぐらいなら、その相手に言葉で表現せよ」という意味である。「自分が言葉なんかに出さなくても、相手には自分の気持ちをわかってもらいたい」と愚痴をこぼす学生が多いので、この言葉を考え出したのだ。しかし、この言葉には、「その場しのぎのウソ」もたしかに混じっている。ごめんなさい。
 このように、「断定的なレトリック」には必ず多少のウソが混じっている。だが、そうでない意味でのレトリック(「○○であることはないことはない」「こうでもあり、また、こうでもない」など)では、何も言っていないのと同じだ。後者のレトリックも、答申作成の最終段階などでは妥協の産物として仕方なくやることがあるが(社会的役割遂行)、できればやりたくないこと(自己実現の面からは)である。一番望ましいのは、ショックを受けてしまった学生が自分自身を罰するのではなく、この知的水平空間(この言葉も重要ではあるがレトリックだ)においては、僕の「断定的なレトリック」に対して、それが通用しない事実を挙げて僕のレトリックを破綻させることなのである。そこまでされれば、僕はそのレトリックを修正するであろう。そのことによってのみ、真実により近い(いつまでも到達はしない)レトリックへの発展がある。
1992.12. 9. T大T部社会教育計画、男
 「3回出席すれば単位はもらえる」というのは魅力的である。年間約25回ある授業の中の3回である。ただAではなくCというのは残念である。もし、自分の授業が本当に学生を引きつける自信があるのなら、授業に出ない学生など考えられないのだろうから、どうどうと「Aを与える」と宣言すべきである。そうできないのは、やはり、自分の中で弱気が生じているのではないか。授業の開始時に「今年の学習者すべてに、3回以上出席したら単位(A)を与える」と言って、それでも参加者が多数出席するようなら、そこで初めてビートたけしに肩を並べると言えよう。それまでは、間違っても、ビートたけしに勝つなどと公言しないことである。
mito まいった。そのとおりである。この学生は、僕の授業で全出席に近い学生である。その上で、こういうことを言う。僕は彼に尊敬の気持ちをもつ。「出席を厳しく取ってくれれば、自分もちゃんとこの授業に出れたのに」と最後の授業あたりに書いてくる学生と彼とは、どうしてこんなに大きな違いが生ずるのだろう。
 「ビートたけしに勝つ」と公言しているのは、じつは演出効果をねらったものである。少なくとも面白さの面では、僕の授業がたけしに勝っているとは僕自身は思っていない。僕の授業のオープニング・セールのためのウソがかなり混じっており、僕自身が授業に張り合いをもつための「負荷」を与えているにすぎないのである。Aを与えると言わずに、むしろ学生の評価を毎日コツコツとパソコンに入れているのは、そういうふうにしてA、B、C、Dの評価をすることが大切なことだと思っているからではさらさらなく、大学当局側から責められたときにきちんと弁解するためのものなのだ。僕に対して、「何かに縛られていて、その中から声を出している」という評価がほかにあったが、そのとおりである。しかし、誰だって縛られないで生きていける人はいないと思う。「縛り」のなかで何ができるかが個人の勝負どころである。本来あるべき評価についても、僕は出席ペーパーへのコメントの形で、僕にできる最大限の努力をしているではないか。少なくとも、Aを与えない理由が「自分の中で弱気が生じている」からではけっしてないことを弁明しておきたい(ちょっとは生じているけれど)。
 それはそうと、「mitoちゃんはずるい。学生全員の出席ペーパーを読めるんだから、いい授業ができて当り前だもの」と僕に指摘(ひやかし?)した学生がいるけれど、そのとおりである。このようにとても価値のある出席ペーパーが、1回の授業でザクザク出てくる。僕はそれを楽しく読んで吸い上げればよいだけなのだ。僕のことをずるいと思う人は、自分も同じようなことをすればいい。
1992.12. 9. T大U部社会教育概論、男
 mito先生の授業については、タメになって、また、型破りなところが良いと思っているが、どーも後期になって「mitoちゃん」から「先生」になってきているように感じている。先生だけが原因ではなく、われわれ学生側の態度にも問題があるのかもしれませんけど・・・(僕も今日、寝てしまいましたが)。
mito 僕は学生を(退屈させて?)寝させてしまったなら、教師である僕のほうが悪いと思っている。なぜならば、授業は発表ではなくて教育(=学習者側の主体性の獲得)だからである。もちろん、疲れて寝てしまうぶんには、大きないびきをかかない限り、学生にも教師にも問題はない。しかし、そうではなくて退屈ならば、どこが退屈かを言ってほしい(我ながらかなり無理な注文だとは思うが、あえて要請している)。後期になって、僕の授業は前より高等教育のあり方に近づいてきたと僕自身は自負している。僕には、今のところ、先生病(自分は学生より立場が上で尊敬されるべき存在であると思い込む病気)にかかっている自覚症状はないのである(これが一番怖いのかも)。このペーパーのような学生側からの訴えは、具体的にどこがそうなのかは指摘してもらえないことが多く、僕のほうだって真綿で首をしめられているような焦燥感を感じているのだ。
1992.12. 9. T大U部社会教育概論、女
 mito氏の考え方が好きだからこの授業に出てくるのではなく、授業の仕方に興味があるからだ。おもしろくないと思えば、おもしろくないと言えるチャンスがあるからだと思う。
1992.12.16. T大T部社会教育計画、男
 私は自分自身で授業料を払っているわけではない。したがって、私は間接的消費者であって、直接的消費者ではないのである。もし、自分で働いて、そのお金を授業料に当てているのであれば、それなりに授業に関して主体的になりうると思う。このことはその他多くの学生についても言えることである。だから、西村先生の「学生=消費者論」には致命的欠陥が内在していると考えられる。つまり、間接的消費者としての学生の位置づけがなされていないのである。
mito 学生が、本来は授業料を自分で払ってでも良い授業を受けたいのだが、自分には経済的能力がまだないから保護者等に支払いを(さわやかに)依存しているという自己意識を持てれば、それは「間接的消費者」としての主体性と言えるだろう。
1992.12.16. T大U部社会教育概論、女
 (まとめの授業で)今回のテーマは「何で生きてるの?」ということですが、私はもう、何で生きているのか、はっきり目的もわかっているし、自分が、今、何をすべきなのかもよくわかっている。そして、実践しています。私は毎日幸せだし、目的を持って毎日行動しているから、やりがいがあるし忙しいです。
 先生は、今の若い人はヤル気もなく、倦怠感で充満していて、何で生きてるの?と聞かれたら心のポカッとあいた部分を突かれたようになるという(ことを前提としたような)聞き方をいつもしてきますよね。「今の若い人は学歴がないと社会では通用しないから勉強している。そのほうがあとが得だから」と先生は考えているから、かわいそうだ、何とかしてやりたいっていう気持ちが強すぎて、なんだか生徒をバカにしてる気がします。今日のテーマははっきり言って頭にきました。「おまえたち、ヤル気をなくして、毎日かわいそうだなあ。むなしいだろうなあ」って先生が思っているように、私には感じて、ほんとうに失礼だと思います。でも、この内容は、先生がちょうど私たちぐらいの年齢のときに感じられたことだと思いますし、もしかしたら先生自身が今でもそういう気持ちがふっきれないのではと私は思いました。
 しかし、先生のことは尊敬しています。ただ今日は、このテーマに腹を立てただけです。たくさんの学生はそうなのかもしれませんが、私は目的を持って毎日過ごしていて幸せです。
mito 僕が自分のことはさておいて、「今の若い人はかわいそうだ」という言い方をしたのなら謝りたい。その言葉を言ったのだとしたら、それは、僕自身に自信が「ない」ところがあって、そういう非主体的な言葉が出てしまったのだろう。僕自身の自信が「ある」部分でこのペーパーの訴えに応答するならば、この学生の察するとおりである。すなわち、僕自身が、「ヤル気をなくしたり」「倦怠感を感じたり」「心のポカッとあいた部分を持っていたり」「学歴に引きずられたり」「空しさを感じたり」する気持ちを「ふっきれていない」のである。そこから僕の問題意識も生じているのだ。
 しかし、そういう消極的な気持ちを感じたことのない人とはどういう人間なのだろうか。僕は地球上にそんな人はいないと思う。現代社会において、一定の個人だけは「解放」されていて、その人たちは「自分の生きる目的」「自分のすべきこと」に疑問や不幸を感じることがなく、「楽しい忙しさ」しか感じていないとすれば、その人たちはほかの誰かを抑圧するなり傷つけるなりして生きていると思う。そんな人たちの人生は、小説の主人公にはなりようのない「個の深み」のないつまらない人生だ。このペーパーを書いた学生は、きっとそうではないのだと思う。自分や社会にマイナスの部分がないのではなく、そこで痛みを受け、しかし、それを受容した上で「目的を持った生活」をしているのだろう。だとすれば、そのマイナスの部分の存在をはっきりと認識したほうが、より積極的で深い人生が送れると思う。
1992.12.16. T大U部社会教育概論、男
 (新聞報道の形式で)どうした美東士!! おまえの授業はどこへ行った! 前期の勢いなく、mitoさんらしさの喪失か!! 
 T大U部水曜1限の時間が変わろうとしている。それは「社会教育概論」のmitoちゃんこと西村美東士氏に対し、学生からの不満が多発するということから始まった。前期に突然に行なった「ジェスチャーゲーム」などの勢いのある「恥ずかしい思いはするが、他の人と無邪気に騒げた」授業がなくなり、後期からONE WAY 的、または講義的授業が多くなったのは事実である。ここで学生の声を聞いてみよう。「今までのmitoちゃんの授業というのは、私語をする気が起こらなかったけど、これじゃあ僕の職場の年輩の先生と同じだから聴く耳がなくなっちゃいますね」「後期になってから、重苦しく息苦しい授業になっちゃったよね。失望しちゃいました」。どうやら『mito氏肯定派』と『mito氏否定派』とでは、後者の派閥のほうが多くなってきている模様。「白紙のC評価」という形の犯行声明(?)などが出ていることにより事態が緊迫化しているのは事実である。
 (一口コラム)mitoちゃん、最近の授業は本当に一方通行になってきております。「白紙C評価」については複雑だと思いますが、冬期休暇中、どうかもっと自分を磨いて、前期でやったような「飾り気のない授業」をしてください。期待してます。
 最近、mitoちゃんの授業に出ていて思うのは、「カッコつけ授業」をしているような気がします。出会ったばかりの授業では、飾り気のないナチュラルな授業(授業を感じさせない授業)をしていたのに、後期になってからは「大学の授業」になってしまっております。どうぞ、もっと「ジェスチャーゲーム」のようなTWO WAY の授業をしてください。私の友人に「あの人は偽善者だ!!」と言い放たれてしまいました。がんばれmitoちゃん、もっと自分をさらけ出せ! この際、この時間に討論会みたいなものをしたほうがよいのでは?
 (P.S.)もしかしたらVTRを見ている途中に、先生が(学生の私語を)注意してしまったことが原因になっているのかもしれませんよ!!
mito 本当は、私語を「注意した」のではない。人間のあんな場面において、明るく私語ができるという鈍感さや人間性の欠如に「怒りをぶつけた」のだ。
mito 「白紙C評価」と「友だちが偽善者だと言っていた」については、同様の問題であり、もう述べたとおりである。しかし、なぜ、僕の抗弁よりも、そういう無責任な発言のほうに、この学生までもが引きずられてしまうのか。ピア・コンセプトの恐ろしさを認識してほしい。
mito 「討論会」が効果的にできるのならやりたい。しかし、今の状況では、教師側がかなり工夫してうまくやらないと、「普通の(非主体的な)討論会」になってしまう。このように考えている僕を、学生の側が失礼だと思うのなら、そう思った学生が授業中、例の「ちょっと待った」をやればいいじゃないか。だが、今の僕は「結果を恐れるな」と学生には言いながら、自分自身は「結果を恐れている」のはたしかである。
mito 「ジェスチャーゲーム」は、それを行なう時にも僕がはっきりと言ったように、講義形態のこの授業においては、本来的なものではなく、人の目に恐怖し、他人はいないほうがよいという一部の学生の危機的な状況を感じたからこその「緊急手段」だったのである。強烈な体験学習であるからこそ効果的である反面、一部の学生をいっそう傷つけてしまうものになる。実際、「もう絶対やらないでくれ」とか「こういうことをやるんだったら、あらかじめ言っておいてください。そうしたら、欠席できるから」という切実な訴えが、毎回、必ずあるのである。それならば、教師はどうすべきか。講義ではそれをきっぱりと諦めて、演習という条件(小人数)のときにやるべきなのである。演習なら、教師は、ワークをリタイアする人に対する他の学習者の非難がましい目(ピア・コンセプト)から、その人を少しは守ることができるからである。実際、僕は演習形式の授業では、もっと「つらい」(=楽しい)授業を行なっている。それに対して、講義に向かう僕の姿勢は「講義方式からの逃避」ではなく、「講義方式に対する敗北主義の克服」である。『生涯学習か・く・ろ・ん』を読んで理解してほしい。
mito 最近は以前より「カッコつけ授業」になっているという批判については、僕は弁解できない。そうかもしれない。なぜだろう。どこがいけないのだろう。わからない。学生が「飾り気のない授業」や「ナチュラルな授業」を求める気持ちはとてもよくわかるだけに(僕も学習者だったら指導者にそれを求めるから)、これからの僕の課題として重く受けとめていきたい。そのことに関する具体的な問題点や克服のノウハウについて気づくことがあったら、ぜひ情報提供してもらいたい。指導者には気づきづらいことなのである。
1992.12.16. T大U部社会教育計画、男
 (「私の好きなこと」を全員がしゃべる授業で)今日の授業は美東士先生の授業らしくなかったような気がする。自己革命(?−mito)をめざす美東士先生は、学生には自発能動で授業に参加してもらうはずなのに、今日はやらされているような気がした。それがなぜだか自分でもわからない。昨年の美東士先生は、もっと楽しそうに授業をしていたように思える。自分らしさを取り戻してください。
mito 「カッコつけ授業」とは、このことかもしれない。つまり、自分が楽しんで授業をやればよい、あるいは、僕の言いたいことが通じなければ通じなくてもいい、という自然な気持ちが欠けてきたのかもしれない。
1992.12.16. T大U部社会教育計画、女
 (「私の好きなこと」を全員がしゃべる授業で)今日は気分が暗い。だから、あまり発表は気が進まない。−発表したらなんとなく気分が明るくなった。なんとなく教室の雰囲気がなごやかになったよーな。不思議だな。−みんなの好きなものがバラバラ。十人十色。そうですよね。みんな違うんだ。よかった。今日の授業に出て。
mito こういうペーパーを読むと、「やっぱり、明るい展望のもてる授業で通したほうがいいのかな」と思ってしまう。しかし、違う形態を希望している学生もいる。僕はどうしたらよいんだろう。
1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男
 先生は、最初の講義のとき、「ペーパーにはどんなことを書いても構わない」と言った。だから、私は、自分がその時々に書きたいことを書いた。授業批判とか授業のテーマに沿った内容のものは、ほとんど書いていない。「お前の気持ちのマスターベーションにすぎないじゃないか」と言われてしまえばそれまでだが。で、先生にお尋ねしたいのは、ペーパーを読むにあたって、その選考の基準、今回のまとめに載せるか否かの基準は、何を基準にして選んでいるのだろうか。結局のところ、mito批評、授業の内容にまつわるものの是非、この2点に基準が絞られている気がする。
 人は人の考え、人の言葉、人の行動を見て、ひとつずつ、心の年輪を増やし、自分の根を張る。自分の葉を鮮やかにする。自分の存在と意志を主張していけるようになるのではないかと私は考える。生涯学習なんて大それた言葉を使うから、その言葉自身が偉そうに聞こえる気がする。人の話を聞くことは、人が生きていく中での学習と呼べないのだろうか。授業も大事だが、もっと一期一会を大事にし、ありとあらゆる人の言葉を聞ける、言える授業を期待していただけに、結局のところ自己中心的かつ画一的な授業になっていることに憤りを覚える。
 追記 この授業批判めいたペーパーをまた読んで弁解したら、先生の負けだ。
mito 負けたかどうかは本人が自分で決めることだ。知的水平空間において、他人の勝ち負けを最終的に判断してやる権利や能力を持っている人など、どこにもいない。自分が負けを認めたときに、自分が自分の考え方を変えればよいのだ。「弁解したらおまえの負け」というのは、僕としてはルール違反のレトリックのように感じる。
mito この文中において、「マスターベーション」は、むしろmito的授業にむけられた言葉であろう。僕自身、多少はそう認めるところもある。しかし、「マスターベーション」はそんなにいけないことなのか。本質的に考えてみてほしい。
mito 「マスターベーション」というと言い過ぎになるかもしれないが、「自己中心的授業」以外に、教師は学生に対して、あるいは、あなたは学習者に対して、どんなよい授業や学習援助ができるというのだろうか。もちろん、改善できる点はあるかもしれない(もっと学習者自身の学習要求の水準に合わせるとかして)。しかし、それはテクニックの問題であって、本質的な問題ではない。学生のほうも自己中心的(自分の学習関心を大切にし、「自分はこの授業をそのためにどう役立たせるか」に学習の目標を集中する、そのためには学習する側の権利も主張する)になればいいではないか。「自分のために生きる」とは、そういうことである。
 ただ、結局のところ、この学生に対しては効果的な学習援助にならなかったのならば、僕だけは授業で「自己実現」を味わっていたとしても、僕の教師として与えられた「社会的役割」は少なくともこの学生に対しては果たせなかったことになる(そうか、そういう意味で「弁解したら負け」と書いたのかもしれない)。「社会的役割の遂行」がうまくいかないということは、僕自身の「自己実現」の阻害要因にもなりうる。そこで、この学生の枠組を変えるための契機には本当にならなかったのかどうか、ぜひ、この学生に聞きたいところである(もちろん、快、不快の快感原則からではなく)。まあ、ならなかったのかもしれない。しかし、それは僕ができるだけの努力をすべきことであって、学生のほうは、それを待つのではなく、逆提案を携えて僕に要求すべきことなのである。それでも僕が「聴く耳」を持っていなかったら、それこそ「学習権」を行使して、大学当局に僕の罷免を要求すべきだろう(僕がその罷免に抵抗するかどうかは、僕が決めることだ)。
mito 僕は出席ペーパーのことに関しては、ウソをついていないと思う。「学生は書きたいことを書く。教員に読ませたくないものは書かない。教員は読み上げたいものを読み上げる」という原則どおりである。それ以上の基準は設けていない。なぜ「採用基準」を明らかにしないかというと、そういう基準を設ける必要性を感じていないし、そもそも、授業は、その時、その時に過ぎ去っていくものだからである。しかも、学生にとっても「比べられるためのものや選抜されるための文章作成」ではなく「自己管理としての文章作成」であるから、「公開」(「mitoがいやでも公開せよ」という意味)「非公開」「コメント希望」などのマークをつけることができる。僕はそのマークには忠実に対応してきたつもりだ。このような出席ペーパーのルールなどの大切な「学習情報」はきちんと把握しておいたほうがよい。僕はこのルールについては授業中、何回も説明しているのだ。
mito 生涯学習という言葉を大それた言葉だと感じて反発し、人の話を聞くことなどの普段の「学習」こそ大切と考えるこの人の謙虚さには、僕は深みを感じる。僕は言葉をけっこう「便利に」使ってしまうクセがあるからである。たとえば、僕が「私は○○に関する学習を続けていきたい」と言ったとしても、ほかの人はその言葉はきっとウソではないと思うだろうが、他人に向かって「人間には生涯学習が必要です。みなさん、生涯学習しましょう」と言ったとしたら、ほかの人は「何でだろう、どうしてこの人は他人に生涯学習を呼びかけるのだろう。そのウラには何があるのだろう」と思ってしまうだろう。ただし、僕自身はどんなペーパーでも翌週までには3回、繰り返して読んで、「一期一会」を味わっている。どんなペーパーにも、それなりの「普段の学習」はできるのだ。そこには深いものもたくさんある。ただし、時間の関係もあって、授業をそういう「普段の学習」ばかりにするわけにはいかない。僕のフィルターを通して集約して紹介しているのだ。(このように「弁解」することが「負け」になるのだろうか。)
mito 「ありとあらゆる人の言葉を聞ける」という期待を裏切った点については、そういうわけなのだが(ちょっと逃げてる?)、「何でも言える授業」という期待については僕は裏切っただろうか。少なくとも言葉の上では、つねに学生の発言を歓迎してきた。バフォーマンス・タイム、「ちょっと待った」方式、授業中の発問、そして出席ペーパー・・・。この学生はそれに応じなかっただけだ。教師が言葉で保証しただけでは、まだ、足りないのか。「自分の発言が正しいこととして認められる」という確証が感じられないと、つまり教師がもっと「譲歩」して受容的雰囲気まで醸し出さないとしゃべれないのか(まあ、それは人間としては当然の心理かもしれないが)。けれども、教師側が「何を言ってもいい」と言っているのに自分が言わないのは、、「言わない自分にも問題がある」と考えることが必要だと思う。そのように自分をも「謙虚に」見つめるということが、この学生の言う「一期一会を大切にする」という言葉の持つ「謙虚な」意味合いであろう。馴れ合ってしまったら「一期一会」なんかおもしろくない。
mito 画一化については、僕もつねにその危機を感じながら授業を行なっている。今後、工夫していきたい。また、学生からの提案もつねに待ち続けたい。
1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男
 この授業も残りわずかになって久々に出席した。この1年を振り返ってみると、初めの頃の「自主性をもつ」とか「自分を見つめ直す」という授業スタイルに、自分は「フムフム、こういう授業もあるのだなあ」などと意気込んでいたのだけれど、後期にはまったくと言っていいほど出席しなくなった。何か疲れるのです(これは身体的に疲れるというのではなく、授業スタイルに疲れるのです)。だって、この授業は「社会教育概論」でしょ。社会教育って何ぞやと思って「社会教育」を勉強したい人だっていることをお忘れでは。そもそも自主性とか、恥ずかしさをさらけ出すことを学ぼうみたいなものは、その人自身の日々の生活の中で学ぶものであり、体験することだと最近思っている。何も大学の授業で学ぶことではないのでは?とも思い始めた。だから授業に出なくなったのか。そもそも、私自身の気持ちの問題か。
 はっきり言って、mito先生の授業は、社会教育概論であれ、社会教育計画であれ、心理学であれ、文学だって、経済学だって、課目名は何だっていいような気がしてなりません。水曜1限西村美東士だって通用するでしょう。私は保守的な面があるのかもしれないが、社会教育概論の授業というものもしてほしかった。
 出席もしないで、ペーパーでの指摘もしないで、最後の最後にこんなことを言うのも卑怯な気もしますが。
mito 僕の研究テーマは自主性の促進ではない。人間の生きる主体性の獲得への援助としての社会教育のあり方だ。「うちの子どもは自主的に学習するようになった」などと言う教育ママの言葉とは無縁なのである。それから、「恥ずかしさをさらけ出せ」などという言葉も言ってない。むしろ、「恥ずかしさをさらけ出させることが心を開かせることである」という教育側の傲慢な思い込みに忠告を発し続けてきたはずである。その上で、「一人で恥ずかしいと思い込んでいることでも、本当は恥ずかしくないことが多い」「隠したいことは隠していても、心を開いた交流はできる」ということを学習したり体得したりしてきてもらっているのだ。
mito たしかに社会教育概論と社会教育計画を明確に分けて授業をすることはしてこなかった。それは、それぞれの授業が深い意味をもっていればそれでいいと思っているからだ。ただし、この点について、たとえば「社会教育計画の○○について授業をやってほしい」という学生の要請があれば、次の週にでも対応していただろう。そのことについて僕からの呼びかけはしたが、学生側からの応答や合意形成がなかっただけの話である。
mito この授業が「社会教育概論」ではないという話だが、社会教育の世界でもっとも求められていると僕が考える基礎的教養に絞って話を進めてきたつもりだ。だから、この学生が「社会教育って何ぞや」という関心をもっているなら、興味深かったはずだ。また、そういう関心を掘り起こすような授業にするための工夫をしてきた。さらに、「ひとくちミニ知識」の形で基本的概念の説明も簡単だが行なってきた。そこで学生の関心が触発されればそれで十分だと思っている。僕以外のもっと優秀な研究者がどのような学説を打ち出しているかを知りたいのなら、活字メディアから学ぶのが一番であるし、そのための参考文献の紹介だってしてきたのだ。もしこれ以上、この授業を「概論的」(?)にしたならば、高等教育としてのmito的授業の生命は失われてしまうと思う。
mito 「社会教育概論」と「社会教育計画」の違いについては、先に述べたとおりなのだが(ちょっと逃げてる?)、mito的授業が「心理学」「文学」「経済学」などの課目名だってつけられるという指摘は、僕にとってはむしろ批判ではなく、過分(実際にはそこまですごくはないと思っているから)な誉め言葉としてとらえられる。ここでやっているのは、選抜試験対策講座などではなく、高等教育なのである。高等教育が今日の研究の最高の到達段階を究めようとすれば、学際的になるのは当然である。「水曜1限西村美東士」というのも、過分である。今日の学問は「一人一学説」の個別化の時代にある。「西村美東士説」で僕のすべての授業時間を貫徹できれば、それに越したことはない。だからそれを目指してはいるが、僕が能力以上の無理をして結果としてはヤブヘビになることが僕には怖いのだ。
 もっと本質的に論ずれば、「mito的授業がほかの課目名をつけても通用してしまう」ということを学生がマイナスに感じること自体、僕には重要な問題だと思われる。この学生はそういう自分を「保守的な面があるのかもしれない」と言っているが、保守的であってもそうでなくてもどちらでもかまわないと思う。それよりも、問題は、「ほかの課目名をつけても通用してしまう」ことについて、この学生の主体的な選択行為として(従来の課目の概念を変えないこと、つまり保守的なほうにメリットを感じて)マイナスと判断したのかどうかである。もしかすると、この学生は、今まで社会やそこで行なわれてきた教育によって与えられた枠組に、自分は納得できないままに従ってしまって、その枠組を適用して僕の授業に対してマイナスの判断をしているだけなのではないか。
 じつは、僕はほかの学生に対してもひとつの不満を持っている。それは「講義要項に書いてあることと、授業でやっていることが違う」という学生からのクレームが一回もつかなかったことである。講義要項は教師が学生に対して教育内容を約束する「契約書」である。それを読んで学生は、「これなら受けてみたい」と判断するのが高等教育の理想であろう。僕は講義要項での文章表現にかなりの苦心をしているが、それでも1年間の授業の内実を示すのは難しい。あとで講義要項を読み返してみるとヒヤヒヤする。(だから、本当は、クレームがつかなくて助かったという気持ちもある。)
 しかし、本来は、講義要項はつぎのように使われなければならないだろう。講義要項を読んで期待をもった学生が、現実の授業とのギャップに異議を申し立てる。それを受けて、教師は弁明したり、授業を軌道修正したりする。そういう相互作用があって、初めて、授業内容が「今、この時」をもとにして流動的に展開されることが許されるのではないか。学生が授業内容に不満があれば、「先生はそんなことをおっしゃるけれども、講義要項にはこのように書いてあるじゃないですか」と教師に言えるのだから、講義要項は学生にとってはもっとも大切な授業評価の道具である。教師と学生との社会的に位置づけされた「契約書」である。それを武器に授業を批評すればよいのだ。「保守的な面があるのかもしれない」などという「反省」(恥ずかしさ?)を「さらけ出す」必要は、(批判や要請のための戦略としては)このペーパーにおいてはなかったのだと思う。
mito 「主体性の獲得」「自分や他者に対する不合理な思い込みの克服」などのあり方を考えるためは、もちろん、この学生の言うように「その人自身の日々の生活の中で学び、体験したこと」が重要な基盤になる。しかし、それはレディネスの問題であり、その基盤の上で、それらの人間の内面的な営みや、その援助のための理論構築が学問には求められる。「大学の授業以外でも学ぶこと」であり、「大学の授業でも学ぶこと」なのである。
 これらのことは言葉としては、授業中、かなり言ってきたつもりだ。しかし、この授業にもっと実質的な双方向性さえ保証されていれば、この学生のような疑問や反発は、教師と学生の意見交換によって即時に具体的な解決に向かっていたはずである。双方向の授業を形式だけでなく内実を伴って創り出すということは、教師にとってだけでなく、学生にとってもなかなか難しいことなのだと痛感する。僕は自分が教師として堂々回りに陥っているような無力感さえ感じるのだ。これは、「僕は主体性を獲得することができるのか、できないのか」という問題とともに、「僕は他人の主体性の獲得を援助することができるのか、できないのか」という教育学のアポリアでもある。できるとも言えるし、できないとも言えるのだろう。
1993. 1.16. S大教育社会学、女
 今日の話はつまんない。言ってもわかんない人にはわかんないよ。よっぽど何か失敗しないと。おこがましいって人から思われたくないからおこがましくならないように気をつけるのって、みんなやりがちだけど、それって一番高ビー。本当におこがましくない人は、何かあって改心した人か、生まれつきか、だと思う。
 先生ってある意味でさらしものだと思う。短大の時も、今年度も、美東士先生の授業をとったけど、2年間、先生の本性は授業中には見れなかったような気がする。たしかに他の先生とはタイプが違うというか、意識的に違えているけど、なんかそれ以上の魅力は全然感じなくなった。他のときはどうかわかんないけど、いつも予防線を感じてしまいます。
mito この学生の今年度の出席は、なんと3回目である。それで、「つきあった」といえるのだろうか。真実の追求に対する態度がゆるんでいるのではないか。
mito 教師は授業中、本性をさらけだすべきか、そうでないか、難しく思う。しかし、この学生の発言は重いものを感じる。ただ、「全然」を丸で囲んで強調しているのだが、それがかえって説得力を弱めている。それから、学生が教師に本性をさらけだすよう求めることは、主体的なことなのかについては、ぼくは疑問がある。
1993. 1.20. T大T部社会教育計画、男
 (mitoが「どんな批判でもしてください」と言ったことについてか)mitoはリベラリストのおつもりですか? それとも独善者(注・ママ)? 御自身が御自身を、あるいはその講義を、どう性格づけ、または、(我々に対して)位置づけておられるかはわからないけど、私には空虚だった。今日も空虚だ。空虚からの返答を私は期待していない。得たところで、残るのは、ただ空虚のみだろう。そして、そのことを語る私の、私の言葉の、何と空虚なことよ! とは言いながら、何かを得たものと信じてみよう。そして、その「何か」が永遠に謎だとしたら、これは意外にも素晴らしい空虚かもしれない。ああ、何と無意味なつまらぬことを言っているのだろう。
mito この学生は、全部で27回の授業のうち、5回しか出席していないのだが、なんでここまで言い切れるのだろう。もしかすると、この学生は、自らが空虚に耐えようとせずに、「空虚でないもの」を受動的に求めているのではないか。
1992. 1.20. T大U部社会教育概論、男
 出席ペーパーを前回の授業で配りましたよね。あれはすごくいいですね。正直言って感動しました。本になって出版されたらいいと本気で思っています(中略)。普通こういう形で先生に提出するものって、嘘ばっかり書くでしょ。明らかにくだらねえ話してんのに、「先生の言葉に感動した」だの「この言葉に考えさせられた」での、心にもないことばっかり言って。かといって、本当のことを書いたら単位が取れなかったりしますからね。そんな大学において、これほどのレベルの授業の感想を書くなんて。素晴らしい。一昔前の伝言ダイアルみたいで。
1992. 1.20. T大U部社会教育概論、男
 mito氏のいつもどおりの過去の対応にはびっくりする。履修要覧をここまで引きずってくれる先生なんかほかにいない。その点でもmito氏は自分のすべてに責任をもち、すべての面倒をみるというすごさがある。これらが、私が大学に来て初めて体験するものだったし、その時間のかけ方に感謝したい。mito氏にとっては当り前だろうが、私には暖かく感じられる。
 私には先生の顔色をうかがう癖がついているのかもしれない。しかし、それが私には自然だ。だから私が批判する先生は、よほど合わないか、本当に間違っている先生だろうと自分では考える。
1992. 1.20. T大U部社会教育概論、女
 自然体授業って、どんなものかなあと思って来てみました(中略)。何か言いたいような気もするのに、正直、身がすくんでいます(中略)。しかし、出席ペーパーであれだけいろいろなことを書いている学生が、この場で発言しないっていうのは、歯がゆいっていうか、逆に面白いっていうか。みんなが私と同じように思っているわけではないと思うので、聞いてみれば面白いだろうなあって思いました。
1992. 1.20. T大U部社会教育計画、女
 (社会教育のコンセプトとしての)自主的に学習するということは、それなりのトレーニングが必要ですよね。今の大学生はあまりにもそれができていなさすぎる。ルールの説明だけでこの方法をとると、結局は、「できないやつはドロップアウトしろ」と言っているように思います。3回来ればいいわけだから、頭っからそれしか考えないと思う。それでいいですか? 私は能力が少ないからそーいうやりかたにはとても淋しくなります。もっとおせっかいになってもいいと思いました。2年間、ありがとうございました。
1992. 1.20. T大U部社会教育計画、女
 (久しぶりにモグリで出席して)mitoが押しつけがましいのは今さら始まったことじゃない。最初の年がいちばんすごかった。だからね、そんなにストイックにならないで。まあ、大きなお世話だけどね。なんか今日のmito、こわいよー。なにそんなにイライラしてるんだよー。まっ、たまにはそんなmitoもシブくていっか。険しい顔もステキよ。Pretty mitoと名づけましょう。
1993. 4.15. S短大社会教育概論、女
 mitoちゃんと私とは、ちょっとちがいすぎるから、私に社会教育は向いているかなー?なんて心配になっています。いくらmitoちゃんが比べるための授業ではないって言っても、頭のどこかにひっかかっているような気がします。
1993. 4.19. S大社会教育計画、男
 人に何かを教授するとき、ぼくは「めだかの学校」か「すずめの学校」か、今どちらの方が大切なのか、はっきりさせるべきだと思います。その方が能率がよいと思う。「めだかの学校」はだれが生徒か先生かと歌われるように、生徒と先生がいっしょにまざって授業している様子。「すずめの学校」はムチをふりふりチーパッパと歌われるように、先生が授業を進めていく様子。
 先生は「めだかの学校」にしたいと思っているように感じるんですが、聞いていると「すずめの学校」のように感じてしまいます。自由にするとか言っていますが、その自由にするということについて90分まるまるしゃべってしまうのは、もったいないのではないでしょうか?
 そのたび、そのたび、授業をしていき、生徒が先生から教わらず、自然に「この先生の授業は自由なんだ」とわかれば、そしてわからせるようなしゃべりをすれば(授業をすれば)いいことだと思います。
 先生のような授業は初めてなので期待しています。1年間よろしくお願いします。
mito 1を聞いて10を知るような教え方になっていなかったと反省している。
1993. 4.26. S短大社会教育計画、女
−めだかの学校−
 さあー、みなさん。人生は○○ヨオー。今日も○○を学びましょうね。私語はゼッタイダメヨ。
(マインドコントロールのなかで)
めだか1:センセーの言うことはぜったいヨ。
めだか2:ハーイ。
(マインドコントロールのそとで)
めだか3:ねえー、すずめさんの方がいいわよね。
めだか4:そうね。すずめの学校は楽しそうヨ・・・。すずめになりましょうヨ。
めだかは無言・・・。
−すずめの学校−
学習−ピーチクパーチク
1を言います。10を知ります。
すずめセンコー:今日はこのテーマについて言ってみたいんだけど、何かあったらみんな意見を言ってくれヨ。
すずめガキ1:あのね、あのね、私はね・・・。
すずめガキ2:あっ、そう? ぼくはこうよ・・・。(おかま?)
すずめセンコー:おおゥ、ワンダフォー、なるほどね。今日は君はぼくに気づかせてくれた!(愛を・・・?) ある意味での先生さっ。ぼくらは知ることをしあう仲間なのさっ。
すずめおじょう:わたくしも世界が広まりましたわ。
すずめっこ1、2:わたしたちは、口で言うのはまだできないから、ペーパーでねー。
1993. 4.24. S短大教育社会学、女
 先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読んでほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな?
mito そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということが問題である。実際、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分が自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。そのように潔くできるのならば、「匿名といえどもみんなの前で公開しないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。
1993. 5.12. T大T部社会教育計画、女
 先生の授業は学生の興味を引く話もあって確かにおもしろい授業という気もするのですが、満足できません。何か雑談で授業が終わってしまうという感じがします。まだ3回しか授業が行なわれていないので、これから授業がどう進んでいくのか、はっきりつかめないせいもあるかもしれませんが。ある程度の知識は先生が学生に教えるという形で示した後で、はじめて学生が受身にならずに積極的に授業に参加する形の授業が成り立つのだと思います。これまでの先生の授業の方法だと、予備知識のまったくない私は、先生のおしゃべりに笑ったり、反感を持ったりと、その時はいろいろと考えて楽しいのですが、授業か終わると、何を学習したのかさっぱりわからないという状態なのです。とりあえず、これからの授業に期待して、評価はBにしました。
mito 高等教育のあり方を本質的に考えてほしい。教科書は書き言葉メディアであり、授業は話し言葉メディアである。話し言葉メディアには、体系的な知識の再構築よりも、それぞれの学習者が現在持っている枠組の揺り動かしの役割のほうが期待されるのではないか。
 もちろん、授業の中で、学生をおもしろがらせたり、満足させたりすることも、どちらも成功すれば、それにこしたことはないが、それよりも授業の中で大切なことは、「毒か薬か」のどちらかになる強烈な言葉をぼくが発し続けることだと思う。その点では、「毒にも薬にもならない」という意味での「雑談」をぼくが一言でも発しただろうか?(もちろん、学食やロビーなどではなく、講義中に、である)。ぼく自身は気づかないまま「雑談」をしている場合もあるかもしれないから、それをこそ指摘してほしい。
 また、このペーパーのように学習成果を確認しようとするまじめな人のためには、その回ごとの教育目標を提示するなど、手の内をさらしているのだから、それを最大限に活用して批判するなどの能動的な学習態度が、学習者側の方にこそ、求められているのではないか。学習者が受け身で構えていては、高等教育は成立しない。
1993. 6.16. T大T部社会教育計画、男
 ぼくは、今日、この授業に出るつもりはなかった。今もない。諸事情により来てしまったのだ。だからこれから出ていく。ぼくは、今、自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくないのです。
 ところで、この出席ペーパーは、ある意味でぼくらを試すものでもあるのだろう。それはたとえば、この講義の内容とか、mitoさんの発言についてとかに、ぼくらがどう思ったのかということを知るために、という意味でだ。
 けれども同時に、これらの出席ペーパーを読んでコメントされるmitoさんは、ぼくらによって試されている。いや、こういう言い方は良くないな。むしろ、mitoさんはそこに自らを置いている(出席ペーパーにコメントをつけている)のだから。
 ともあれ、ぼくは教室を出ます。
mito 「自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくない」という言葉は、基本的には潔い選択を表していると思う。ただ、「この講義のために」という言葉は、「もっといい講義ならよかったのに」とmitoのせいにする思考方法をやや感じさせるものでもある。実際にはどうなのかわからないが、もしこの授業に未練があるという理由で潔く撤退できないのだとしたら、撤退する前にもっと「自分の(学習する自由の行使の)ために」ぼくの講義を批判すべきである。
 出席ペーパーについては、ぼくが繰り返し言明しているように、比べたり、序列化したりするためのものではない。学生は書きたいことを書き、ぼくは読み上げたいことを読み上げ、コメントしたいようにコメントするものであり、ぼくがそこに「身を置いている」のは、学生からの社会的承認を得たいからにすぎない。その目的は、お互いが自分や他者の存在を知るということである。この学生が書いた「試す」という言葉が、人間の基本的信頼関係に基づく肯定的なことがらではなく、「比べられる」と同義のマイナスの言葉のように感じられる点が気になる。
1993. 6.16. T大U部社会教育概論、女
 (自己受容には1%のレイプの気持ちも含まれるというmitoの発言に対して)1%レイプしたい人は、どのようなsexをするのか。どのようなsexを相手、恋人、セックスフレンドに求めるのか。考えるとこわい。
 誰をレイプするの。誰がレイプされるの。人殺しだ。暴力しか存在しない。形成された人格が無視された体面。いわゆる出会い。10の段階をふんだ人間と10の段階をふんだ人間が出会って、ひとつも知らない0と0の状態で暴力を介して対面する。
 1%レイプしたいのが人間の本能なら、私は1%だけ、そんな人間は亡びてしまえと思う。ここでいう人間は、自分を含んだ人類のことだ。これは極端な考え方だとはわかっている。みとさんのいう敗北主義でしょうか。
mito 敗北主義は、男の1%のレイプの心を受容しようとしたぼくのほうだろう。その存在そのものは否定できないけれど、自己受容してはいけないものがやはりあるのだろう。ぼくは、それを男のレイプ願望を含めて、人間一般の「差別する心」として集約できると考えた。ちなみに、自己嫌悪とは、差別したり、差別を受容したりしているときに、あるいはそれに気づいたときに、起こるものなのだと思う。
● 教育「される」ことへの反発
1992.10.12. S短大社会教育演習、女
 この間、ある人と話をしていて、ちょっとしたことで、社会教育の授業の話になったんです。「最近あまりこないネ。また、みんなで話そうよ」って言ったら、「うん。最近、社教にギゼンを感じてしまって・・・」って言うんです。思い切って話してくれたのだけど、バスに乗っていて他の誰かが社教のことを話していたらしいんです。その話を聞いて以来、そういう感じになってしまったそうです。話の内容とかくわしくは知りませんが、けっこう考えてしまっている様子でした。「ギゼン」って何でしょう。私も少し考えてしまいました。
mito 僕が偽善的だという批評は、かなりよく聞くことがある。しかし、残念ながら、それはすべて「友だちがそう言っていた」という形で間接的にしか聞くことができない。直接訴えてくれないということは、「どんな批評をしてもよい」と言っている僕にとってはとてもつらくて腹立たしいことだ。この気持ちは、学生でも僕の立場になって考えてくれればわかってもらえると思う。ある人になんとなく偽善を感じるから、そこから逃げ出すというのでは、その人はこれから社会でどのように生きていこうというのだろうか。しかし、人生の中で逃げ出したくなることはいくらでもあるだろうから、僕の授業から逃げ出すことはあってもかまわないけれど、その場合は、僕や大学制度や社会やそのヒエラルキーのせいにしないで自分のせいにしてほしい。
1992.11. 4. T大U部社会教育概論、女
 私は、この講義は生きていく上での考え方や、本当はとても大切なのに気づかずにいることを意識するきっかけとして、自分にとってとても大事な講義だと思っています。mitoさんの「知的水平空間」という考え方、とてもすばらしいと思った。何度も何度もそれに触れるmitoさんは、教壇に立つ人としては稀だと思います。
 生涯学習が息づく中で、この水平的考え方はとても重要だと思っています。あらゆる場面で、自分の位置をほかの人より高く意識するのではなく、同じ高さを意識することが大切だと思いますし、それが学習しやすい場をつくることになり、また、共有することにもつながるのではないかと思います。
mito ベタボメで照れくさいが嬉しい。なぜ僕が嬉しいかというと、「先生」つまり「教師という役割が偉い」というほめ方ではなく、「mitoさん」つまり僕自身の考え方や存在がこの人の役に立っているという強烈なプラスのストローク、社会的承認をこのペーパーからもらえたからであろう。
1992.11.30. S短大社会教育演習、女
 ミト先生の授業は、いつでも、「給料を取れるだけの講義をしている」という自信があって、「みんなからお金を払ってもらってやってるのだから、それなりの講義をする」というような姿勢があるのが、私はすごく好きです。というのは、本来はそれが当り前だと思うのに、世の先生方は「自分を何様だと思ってるの!」と言いたくなるようなバカ者どもが多すぎるからです。私は、日頃、このことにひじょーに頭にきています。「先生はなあー」とか「おまえらなあ」とか言っちゃって「単位ならくれてやるから、やる気なきゃ帰れ」とか言う先生を見ながら、私はいつも「私はあなたにお前呼ばわりされる覚えも、先生と認めた覚えも全然ありません」「給料なら払ってやるから、このくだらない授業、やめろ。恥ずかしくないのか、こんな授業して。お金払ってるのは私たちなんだ」と思っているのでした。だから、ミト先生のいつも変わらぬこの姿勢を見るたびに安心するのでした。
1992.12. 5. S短大社会教育概論、女
 (mito的授業の評価について)先生は良きにつけ悪しきにつけ、自己主張が強いような気がします。だから、話を聞いていて、どうしてこんなにこだわるのかなあ(ちょっと言葉が違うかも)、とか思う時があります。でも、私からすると、皆が普段思っていることや悩んでいることについて話してくれて助かります。
1992.12. 5. S短大社会教育概論、女
 (mito的授業の評価について)ある出席ペーパーの中に、mitoちゃんの授業をおしつけというように感じている人がいるという話を聞いて、私自身、自我が強い性格で、すぐに自分の考えを人におしつけてしまう所があるので、私の場合は、その逆に、mitoちゃんに私の考えをおしつけてしまうこともあったと思いますが、mitoちゃんの授業でおしつけと感じたことはありません。今までmitoちゃんの授業を受けてきて、私自身なかなか改善されない主観的なものの考え方だったのが、もっともっと広い視点から物事を見ることが少しずつですができるようになってきた気がします。mitoちゃんの授業を受けていると、自分で言うのもてれますが、少しずつ心の豊かな人間になっていっているような気がします。私は、mitoちゃんの授業を受けることで、すぐに落ち込んでしまう自分を変えていけているようでとてもうれしいです。
1992.12. 5. S短大社会教育概論、女
 (mito的授業の評価について)先生は「共感する」ことも大切なことですと言われました。私も大切なことだと思います。もしかしたら、この気持ちが強いために、数人の人が授業に不快感をもったりするのではないかと思う。多分、こういうのは、意識していなくても、先生の心のどこかにあるのでは・・・。ちがっていたらごめんなさい。
mito まったく教師である僕には思いもつかなかった観点である。僕の授業では、僕から共感を求められている感じがして、それをおしつけと感じるのかもしれない。僕はたしかに共感してもらいたいと思って僕の意見をしゃべっている。それはきっとかまわないことなのだろう。しかし、学生にとっては、僕の意見に対して共感などはしてもしなくてもよいのであり、それは学習者側の自由であるということを認識してもらわなければいけないのだろう。
1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女
 授業方法に関してどうこう考えるよりも、先生の場合は、先生の思想が強く出る授業であると思う。先生の強い意見の中に、反感を持つときもあるが。VTRを使うのみで、あとの時間はすべて先生の考えによる講義である。こんなものは他にないが、私はわりと好きです。姿勢を正して堪える授業はつらいが、この授業はVTRや先生の一言で、自分の中のいろいろな考えがポンポンと出てくる。他の授業では、このようなことも抑圧されてしまうものもある。だから、水曜は、この4限しかなくても、往復3時間かかっても来ようと思う。はりつめた雰囲気の授業のほうが、かえっていねむりしてしまう。この時間はなぜかいねむりしないのです。
1993. 1. 9. S短大社会教育概論、女
 先生の授業は、考えさせられることや重いものがある気はする。そして、もしそれで先生が悩んでいるのならば、私の思ったことを先生にアドバイスすると・・・。今の時期はみんなが悩んでいる時期だから、たまたまそういう話題に触れられたとき、先生を批判的に感じている人は、触れられたくないというだけで、それを防ぐためにうまく表現できなくて、そういう状況になっちゃうんじゃないかなあと思う。
 あと、口に出して言わなくても、一人で解決できる力を身につけないといけないと思う。だから、他人には(こういう言い方は失礼だけど、みとちゃんに対して他人と思っていると思うから)口をはさまれたくないんだと思うんだけど・・・。何かイミわかんなかったらごめんなさい。私は幸せでーす。でも、悩みはあるけど・・・。やっぱり、それは気の許せる人にしか言わないし、これでふつうなんだと思う。
mito たしかに自分の悩みをすべて他人に言うわけにはいかないだろう。僕もそれでよいと思う。しかし、この授業では人間の幸福の「追求について追求」しているのだから、僕からの話題提供としては触れざるをえない。「幸せの価値観は一人ひとり違うのだから、授業では扱わないでほしい」という学生もいたけれど、それでは真実は追求できないし、本当に必要な社会教育のあり方も明らかにできないのだと思う。
 しかし、このペーパーを書いた学生はmito的授業の「否定派」ではないと思われるが、その人たちの心情を非常に共感的に理解しているように思う。このペーパーを読んで、とくに僕がハッとしたのは、「一人で解決できる力を持たなければと思っていることがらに対しては、口をはさまれたくないのだと思う」ということについてである。そうだとしたら、そのときの嫌な気持ちはすごくよくわかる。「否定派」の人たちが、こういう理由を今まで僕に申し立てしてこなかったのが不思議なくらいだ。
 僕の授業が一部の学生にとって不快なのは、「価値観が違うから」ではなくて、「本当は自分で解決したいことだから」なのではないか。それは、つまり、似ている価値観から「答え」を言われてしまったからではないか。これからやろうと思っていたことを、先に他人からやれといわれてしまうと誰でも嫌なものである。それと同じように、自らの思考がすぐ近くまできていたのに、先に答えを言われた感じだったのではないか。そして、そういうとき、嫌な気持ちをもつ「従順でない」「素直でない」人間だからこそ、自己変容もあり、自己解決に向かうこともできる。もちろん、それは、自分でも考えつくような意見を教師から言われたから不快であるということに限るのであって、自分が思いもつかなかったような意見を言われて不快になるということとはまったく逆のことがらである。要は、本来の解答者は学生であって、教師は問題提起者であるということだ。
 僕はいつのまにか学生自身が答えるべき問題まで学生の前で解いてしまっていたのではないか。これをやり続けると、学生は、自分の考えを教師の考えに合わせるようになってしまうし、そのほかの場面では、自分の考え方を肯定してくれるものばかり求めるようになる。そうなった学生は、結局は、いっそう自信をなくして、真実から遠ざかっていく。さらには、その学生が考えもつかなかったような枠組が提示されることに対しては、「私の価値観とは違うから」「私は好きじゃないから」不愉快だという理由をどうどうと主張して、知的議論などの水平的空間においてもその中止と自分への「保護」をどうどうと要求するようになってしまう。学問を追求する者として、それはとても情けない姿だ。僕だって、異なる枠組と接してどうしても不快感を禁じえず、しかも真正面からぶつかる元気が出ないことがある。そういうとき、僕だったらコソコソとその場から逃げ出す。それが普通の神経の持主ではないか。
 以上の考察からは、僕の授業の改善すべき点も示されていると思う。つまり、学生がすぐに考えつくようなことしか教師として提示できないのだったら(そういうことはいくらでもありうることだ)、その話題について教師自身の意見を開陳することは潔くやめてしまったほうがよいということだ。もっと端的に言えば、「教師は当り前のことは言うな」ということである。答えが当り前の場合は、教師はその話題だけ提供して、あとは学生の独習、自己教育、相互教育による問題解決を待てばよいではないか。学習援助(授業)の眼目は学習者の自己変革なのだから。「先生の考え方を全面的に支持しています」と学生に言わせてしまうような授業だったら、それは学生の主体性を損なっているといえる。むしろ、授業は、「えっ、なに、それ」と思わせるような「概念崩し」の連続であることが理想なのだ。その点では、僕の授業も「ゆるんでいた」のかもしれない。もちろん、学習者のレディネスからあまりにも飛び離れていて、学生がまったく興味の持てないような枠組を提示するのでは、意味がない。その点では、学習ニーズの把握等が必要である。
 教師は学生とともに育つものである。だから、教師と異なる思考方法等の枠組をもつ学生の意見を歓迎して尊重することは教師としては当然の行為である。出席ペーパーへの僕の対応はその表れと言ってもよいだろう。教師自身も自分のために学んでいるのである。ただし、学生としては、教師の枠組とは異なる枠組を自分からつねに提示し続けることは「義務」ではない。異なった枠組から自分が学ぶことさえできれば、たとえ傍観者として学習していてもそれはそれでかまわないからである。しかし、教師は、学生の枠組とは異なる枠組をつねに提示し続けるよう努力する「義務」がある。教育という社会的役割の遂行が期待されているからである。教師や社会教育指導者は、学習者と「ともに学び」ながら、しかも、「ワン・オブ・ゼム」(学習者のうちの一人)になってはいけないということが、このことからも論証できるのだと思う。
1992. 1.20. T大U部社会教育概論、女
 先生という仕事をしている人は、自分が絶対と思っている傾向が強く、先生が間違っていてもごまかしたり、逆に生徒のあらを見つけて転嫁したりする人もみられます。mito先生の素直で寛大な心にふれたときは、なんだか胸がつまる思いがしました。また、私が就職活動中にスーツで先生の授業を受けたとき、「忙しいのに僕の授業を受けに来てくれてありがとう」と言葉をかけてくださいました。今まで生きてきて、学校の先生という人にそんなことを言われたのは初めてでした。大変感激しました。
 mito先生のことをおごっているという学生がいますが、私はそうは思いません。先生は謙虚な方だと私は感じています。それに、自分の授業に自信がないような教師の授業は、受けたくないと思っている学生が多いと思います。今後も、学生の主体性を大事にするユニークな授業の展開に期待します。
1993. 5.26. T大T部社会教育計画、女
 (性教育の)VTRは興味深かったが、なぜこの授業でとりあげるのかわからない。もしかして私たち「教育」されているのかな? 確かに勉強にはなりました。
mito 誰も他人を変えることはてきないけど、ぼくは、自己変革の援助としての教育は成り立つという方向で、その実現のための授業をしようと心がけている。ただし、押しつけがましくて反面教師にしかなれないようなセンスのない教育だけはしたくない。ぼくの考える学習援助としての「教育」は、むしろ強力に進めていきたい。
1993. 5.26. T大T部社会教育計画、男
 生きているということを無条件で是認できたらなあと思うことがある。しばしばある。もう、しょっちゅうというほどある。あるけれど、そんなことをmitoさんに言ってみたところで何も解決しやしないのであろう。
 誰も誰かを理解することなんてできやしないということは、体験的に知っている(といっても、たかだか20年そこそこしか生活していないので、その程度は大したものではないけれど)。
 相手を理解しようなどというのは、キレイゴトとしか思っていないのだ。その代価として、自分を理解されたいと思っているのだしね。もう、うんざりしてしまうよ!(ああ、文章がまとまらないなあ。これで文学部の学生とは聞いて呆れるぜ)
 ヤレヤレ、ぼくもそのうち、社会に従順に生きていくことになるんだろうなあ。何しに生きていくんだろう?
mito ぼくたちの問題解決型学習の学習課題は、楽園追放のその後の生き方ということになろう。そこで大切なことは、「疑り深く信頼せよ」という態度を、自己や他者にも向けていくことだと思う。それは学問をする姿勢とも共通している。
1993. 5.26. T大T部社会教育計画、男
 (授業中の私語を注意されて)100%の私語だったら謝りたいが、エゴグラムという私にとっての未知のものを彼は先生より詳しく教えてくれていたので、その瞬間は先生よりも有意義であった。静かな教室で目立ってしまったので注意を受けた、つまり交通事故のようなものだと思っています。先生の話で考えたことを、(mitoが勧めているように)いちいち教室の外に出て話し合うなんて馬鹿々々しい。第一、隣の席でコンパの話に盛り上がっていた者たちが指摘されなかったのがくやしい。
mito 私語に対してどう対処するかは本当に難しいと思う。ぼくは、話し手としてのぼく自身の都合にあわせて対応するしかないと考えている。私語が気になって話しにくく感じたら、注意するということだ。さらに、授業で触発されて生ずるこのような一応の「プラス方向」の私語については、5秒ルールを自主的に適用してもらうこととした。しかし、「その瞬間は先生よりも有意義であった」とこの学生は言うが、そんな事態なら、ほかにもいくらでも考えられる。その場合は、ほかの人の学習の自由を損なわずに自らの学習の自由を行使することが、他者と共存して生きるための最低のルールだと思う。また、彼の友だちの説明が本当に「先生よりも有意義」と思っても、それを一人で聞いているのは、他人に迷惑をかけても自分さえよければよいという自分の姿勢の証明になってしまうではないか。こういう場合は、ぜひ、ぼくの授業に「ちょっと待った」をかけて、ほかの人たちにも問題提起して、その友だちの説明を聞かせてやってほしい。
1993. 5.26. T大U部社会教育概論、女
 今日の授業は何とも形容しがたいものでした。鳥肌が立つ「ことば」が次から次へと。先生の熱弁の姿とともに記憶に残るように思われました。時間をかけてこだわって考えていきたい。「宝物」をいただきました。
 (次の回の授業で)前回の授業に感動したのはわたくしだけではなく、友人も同じでした。素晴らしい映画を観たあとに何も話せないのに似て、帰りの駅へ向かう道すがら、ようやく互いに口にできました。
mito ここまで強烈な支持的感情をぼくの授業に感じたのはごく少数の学生ではあろうが、それにしても、波長がぴったりあって知的共感の理想的な時間と空間を共有することができたのだと感じられて嬉しい。それらは、集合学習のなかでは、1%の批判と同様に、少数ながら重要な意味をもっている。願わくば、もっときちんと理由をつけて支持し、評価してもらいたい。
1993. 6.16. T大T部社会教育計画、男
 これを読んで喜ばないでください。
 この授業は、前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのか、ぐるぐるまわっているのか、よくわからない。この授業に出席すると、どうしても気持ち悪くなる。「私の授業は(または私たちが受けている授業は)、従来からある講義と比して、特異でポジティブで有効でetc・・・である」という気持ちは、そろそろ捨てたほうがよいのでは? いい(悪い)授業であるとか、自分はいい(悪い)授業をしているとかいうことは、自分で感じればよいわけで、いちいち毎日聞かされるのは、また、そのことについて意見するのは、時間の無駄だし、くだらない。非常にくだらん。授業方法に自信を持つのは勝手だが、それをあからさまにするのは、たとえ本当に良い授業であったとしても不快である。先生の顔や声自体がそんな感じで、先生の考えを素直に受けとめられない。一種の生理的拒絶反応をきたす。
 性を楽しむとは何か? たのしい性? まったくわからない。
mito 授業が相対的に特異であることなどで、ぼくが満足できるわけがない。あなたがそう聞こえただけなのではないか。ぼくが関心があり、学習者側に授業評価を求めているのは、個人個人の学習(=自己変容)にとってこの授業が「有効」であるかどうかなのだ。また、ぼくは自意識過剰気味かもしれないということは認めるが、「自信をあからさまに」した覚えなどはまったくない。むしろ自分の授業方法に不安を感じるからこそ、学習者側に率直にそれを問いかけているのではないか。あなたのほうが、そのぼくの態度を「自信の表れ」として勝手に裏読みしたり推測したりして、不快を感じているだけの話なのではないか。
 ぼくは少なくとも「暴力以外はなんでも受けて立つ」と約束しているのだから、「不快である」と泣き言をいうより、どこどこが間違っていると批判したほうがよい。実際に、ぼくを批判した学生のほうがぼくに勝った(ぼくが訂正した)例など、たくさんある(ぼくの自慢にはならないが)。教師を批判する場合は、「たとえ本当に良い授業であったとしても」などという本当は肯定なのか否定なのかわからないような社交儀礼は必要ない。そもそも、「教師の考えを素直に受けとめられるようになること」など、自分のために学ぶ高等教育の場合は考える必要のないことなのだ。ぼくを疑い深く信頼してほしい。ぼくはそれを「知的水平空間における批評的ストローク」とよんでいる。
1993. 6.23. T大T部社会教育計画、女
 mitoちゃんの授業はとても疲れる。特に今日はそう思った。これだけ人間がいるのだから、いろんな意見があっても不思議じゃないのに、mitoちゃんはそれを自分の観点で切っていく。私はひとつの問題にいくつもの意見が頭の中をかけまわっていて、すごく考えたのに結局、答えが見つからないことがある。だから、この授業が終わると、いつも頭の中がゴチャゴチャになって、それを整理するのに疲れる。
 それに、mitoちゃんがいつも自信満々でしゃべっているから、それを聞くのが疲れるのかもしれない。太陽がサンサンと照っている下で、水分を吸収される土のような気分になる。もう少しmitoちゃんには客観性をもってもらいたいなあ。あと、同じ調子でダーッと話すんじゃなくて、強弱をつけてもらいたいなあ。あと、もう少し興味のもてる題材を選んで(または、学生に選ばせて)もらいたいなあ。
mito 真実の追求とは、疲れて時間がかかるものだと思う。答えがわからなくなったり、見つからなかったりということがあっても当然である。そのこと自体を楽しく思えるようになるしか、主体的学習を獲得する方法はないのではないか。「水分を吸収される土のような気分」とあるが、スポンジだって、今まで溜め込んできた古い水分を絞らないと、栄養を新たに吸うことはできないのである。
 話に強弱をつけなかったことについては、今後改善の努力をしたい。しかし、題材については、学生が興味のもてるものをぼくなりに選んできたつもりだし、また、学生は出席ペーパーなどでテーマについての要望を出すことができるのだ。ただし、たとえば、そのようにして学生の関心が強いと思われる海外旅行について話すとすれば、免税店やホテルのプライベートビーチを喜ぶ日本人の非主体性などについて批判的に話すことになるだろう。それは、ぼくの授業には、当然ながらぼくの授業なりの教育目的や教育目標があるからである。しかし、それらは、あなたと離れたところにあるものではなく、あなたが潜在的にもっていると思われる学習関心を掘り起こそうとして設定されたものである。
● 教師による学生批判
1992.11.11. T大U部社会教育概論、男
 (成人ぜんそくのビデオを見ていて)私語はやはり気になる。頭にくるのは私だけではないと思います。先生の注意の後から、やっと静かになりました。
mito 僕にしては、私語を注意することはよくやることではないのだが、今回は怒ってビデオを一時停止してしまった。mito的授業の支持者の中からも、「ビデオを止めて注意をしたのはよくない」という批評があったが、今回はこんなに重い内容のビデオの途中なのにぺちゃくちゃ楽しそうにおしゃべりをしている学生を見て、僕は「こいつら、コンクリート詰め殺人でも平気でできる人間なのではないか」と感じてしまったのだ。あるいは、「こいつらが『ぼくは人生のなかで悲しい体験を引きずっているんです』なんて言ったら、絶対許さないぞ」とも思った。しかし、怒りを表したことはよかったと思っている。じつは、あとで知ったのだが、学生のなかには、あの内容のビデオなのに私語をしている人間を見て、「怖い」と思ってしまった学生がいたのである。これには僕も考え込んでしまった。「怖い」という感情には、「やっぱり人間はわかりあえない」という敗北感が漂っている。やはり、非人間的な行為には怒りを表すほうが、コミュニケーションに対して積極的なやり方だと思う。
mito 私語の扱いは注意を要する。1つは、教師の怠慢によるつまらない授業のせいで私語が出る場合がある。その際、叱られるべき教師が叱るのでは、筋道が逆である。2つは、授業の内容が学生にとってつらいときや、恥ずかしいときなどに、そこからの無意識の逃避行動として私語をする場合がある。これがあまりひどい場合は、教師は、「この授業とまともに対面している学生もいるのだから」と諭してパスする(席を外すなど)よう促さなければならない。3つは、まったく私語のない授業があるとすれば、それはよい授業などではなく、「死んだ授業である」ということである。むしろ、教室全体がざわめきたつような瞬間をどう創り出すかが、教師の勝負どころなのである。
1992.11.11. T大U部社会教育概論、男
 私は大学が嫌いです。高校の頃、大学っていうのは、高校までとは違って、数学や英語といった嫌いなものを勉強せずに済む、自分のやりたい勉強をする所と思っちゃったんですね。もちろん、卒業するために取得しなければならないものがあることも知っていました。しかし、大学で学ぶということに、何かワクワクするものを感じていたわけです。そして、今、どーして私は大学なんかに通っているのかなって思っているわけです。勉強に対して集中力がないんです。たとえば人口問題について考える時、1.53ショックだとか、中国の一人っ子政策だとか、「なるほど、ああ、そうなのか」というふうに興味はわくんですが、どうしてか、もっと深く知ろう、自分の力で新しい知識を身につけようと思って実行に移すことが、まず、ないんです。勉強は社会に出てからじゃ、そうそうできないから、とにかく学生のうちにしておきなさいなどと、よく親から言われたものですが、積極的な意欲が未だにないんですね。
 で、最近、大学についてひとつの解答が出たわけです。とにかく単位だけいただいて、大卒という資格だけいただこう、と。いい生き方だなとは思いませんが、そういうふうに大学を割り切って受け止めている私です。
mito それは、学校教育や家庭教育によって学ぶ主体性を奪われてきたからなのだ。「1.53ショック」などの外から与えられた教材すべてに自分自身が興味を感じなければいけないと思い込んでいるところに、むしろ、この人の依存的な学習態度が表れている。卒業できるように振舞うことも生きる力のひとつであるが、もうひとつの生きる力、すなわち「学びたいことを学ぶ」という学習の自由から逃げ出さずにそれを駆使することが大切だ。それは、「いい生き方だな」と自分が思うための重要な戦略でもある。
1992.11.11. T大U部社会教育概論、女
 この社会教育概論の授業は、2週に1回ぐらいの割合でしか出席していません。けれど、来るたびに思うことがあります。それは、この講義を「私たちに何か求めているモノ」に感じるのです。うまく文章にまとめることはできませんが、いつも同じ印象を受けるのです。
 さらに私は自分の考えや意見はあまりペーパーに真剣に書かないほうです。この間などは、何となく憲法第11条を書いてしまいました。でも、文章を書くことが嫌いなわけではないのです。逆に好きなほうだと思います。けれど、このペーパーに授業に対する何かを書くことを苦痛に感じるのです。いつも先生は前の週のペーパーを読んでくださいますが、それを聞く限り、みんな持論をうまく展開しているように思えます。それに対して、先生がコメントをするたび、なんだかそういう取り上げやすいモノを要求されている気がして、反対に、授業に対するコメントを何もつけずにペーパーを出してしまうのです。
 別にみんなの前でペーパーが読まれるのが嫌なわけでもありません。どちらかというと、私はすすんでみんなの前に立つほうだと思うし、周囲の人たちからもそう言われます。先生は何を書いてもかまわないと言っていましたが・・・。先生のことは好きだし、この講義は真剣に聞いていればおもしろいと思います。先生は一生懸命に講義をしてくれますが、何か参加しにくいような・・・。この私の独り言に関してのコメントがほしいなんて思ったりもします。でも、来週は来れないので無理ですね。
mito 複雑だが深い訴えになっている。しかし、いつも言っているように、学生は書きたいことを書く、教師は読みたいものを読むでは、なぜいけないのか。憲法第11条のペーパーも覚えているが、あれがなぜ悪いのか。自由に書くことを受け入れたくない自分自身をもう少し見つめ直してほしい。
 もしかすると、「書かされている」という教育の被害者の立場に固執する気持ちが奥底にあるのではないか。被害者を演じていれば、それ以上、敗北を味わうことはない。敗北の痛みから逃げようとするところに敗北主義の特徴があるのだ。たとえば、その延長線上では、「持論をうまく展開しているみんなは、じつは教師の取り上げやすいモノを書いている」という身勝手な論理も成立しかねない。
 実際、出席ペーパーに関して、「ほかの人は文章がうまい」という学生が新学期の頃はものすごく多い。これは意地悪く考えれば、「自分の考え方は本当は深くてそれなりに正しいのだけれど、文章として表したり、言葉として表したりすることについてはヘタである」と自己弁護していることにほかならないのではないか。しかし、論理は言語によって検証される。あるいは、論理は言語そのものである。敗北を恐れていては、論理構築に対する内なる敗北主義を克服することはできない。あるいは、どんな考え方を秘めていても自由だが、言語として外在化させないことを選ぶとすれば、その考え方が論理として社会的な意味をもちえないことについては容認するしかない。それを容認しているならば、それはそれで潔い態度だと思う。また、この人は「すすんでみんなの前に立つほう」なのだから、授業中の「パフォーマンスタイム」や「ちょっと待った」での口頭表現に力を傾けたっていいだろう。その場合は、ペーパーでの文章表現を放棄したってかまわないではないか。
 しかし、そもそも、僕が一生懸命に講義をしているからといって、別に無理して出席ペーパーを通した能動的な「参加」によってそれに応えようとする義務はこの学生にはない。僕が一生懸命に講義をするのは、教師の役割として当然のことだ。学習者としては、自らが「傍聴することにしよう」と決めて、意識的かつ積極的に「傍聴」することだって、ひとつの主体的な学習方法なのだ。また、次回出席できないのだったら、友だちに講義を録音してもらえばよい。僕は前から録音を許可しているのだが、学生がそうしようとしないのは不思議だ。著作権者である僕のほうが録音を勧めるなんて妙な話だが。
 そして、「学生に何かを求めること」は、僕としてはごく当然の行為である。なぜなら、現代社会における僕を含めた人間の主体性喪失の不幸な状況に対する挑発作用として、この授業を機能させたいと僕は希望しているからである。しかし、この挑発に応じるか応じないかは、学習主体である学生が各人で決定すべきことである。
1992.11.18. T大U部社会教育概論、男
 今日のレジメはなんか色々と書いてあり、うんすごいなと思ってしまったのでした。でも、まてよ。Two wayの原則になっていないぞと思ってしまったのでした。ペーパーとのTwo wayというのは、と思ってしまうのは私だけでしょうか。先週、mitoがビデオを止めて怒ったとのこと。そんなことしなくてもいいのに。学習者どうしの主体性(うるさいから学生同士で注意するようなこと)を待ちきれなかったのでしょうか。なんか先生が止めちゃうと、「私はこうだ」というのを押しつけてしまっているようで・・・。なんか違う(私はいませんでしたので、これぐらいしか)と思うのです。
 あと、今日のmitoのレジメのなかで、何からでも学ぶ人生と、何からも学ばない人生の二つがあるとありますけど、何からも学ばない人生ってなんでしょう。それは非主体的に学習してきた人の人生のことでしょうか。でも、そんな人はいないと思うのですが・・・と言ってしまう私は、主体的な学習ができているのかなと考えてしまうのです。本当の学習とはいったいなんでしょうか、生涯学習とはなんでしょうか、と考えてしまうのです(卒論の関係もあるのですが)。一般的に考えている生涯学習とは、なんかちがって。一般的なのは、絶対生涯学習しなきゃという感じで・・・。でも、違う。私は私の生涯学習というものを考えていきたいです。
mito 考えさせてほしい。しかし、「何からも学ばない人生」というのはないのかもしれないけれど、つまり「学んでしまう」のだけれど、そのようにして「学んでしまう」ことを受容できていない人はいるのではないか。そして、その非主体的な傾向は、私たち自身が多かれ少なかれ持っているのではないか。ただ、それにしても、「何からも学ばない人生」という言葉は「何からも学ぼうとしない人生」に書き換えるべきなのだろう。
1992.12. 2. T大T部社会教育計画、男
 (初めて授業に出席して)ひとことで言うなら「理論と実践」の講義というのが第一印象(感想)である。ビデオを見て、障害者についての自己意識の確認をして(正しいか、誤っているかではない)、実際、自分がその立場(障害者側とボランティア側)になったら、その確認した時の態度と変化があるかどうか考えてみることで疑似実践を体験しているようだ。この講義を好んで出席している人びとは、講義担当者からカウンセリングを受けているような気持ちになっているのではないだろうかと思った。(ネガティブな意味ではない。)
mito 客観的な授業評価になっている。ただ、「気づいていない深い自分に気づく」という意味ではこの授業はカウンセリング的であると思うが、その手法はむしろ教育的であり、すなわち、カウンセリングというよりもエンカウンター的であると僕は思っている。そして、どのようにカウンセリング的にしようかと探っているところでもある。この学生が僕の授業をネガティブではなく受けとめたのなら、「この講義を好んで出席している人びと」に対してレッテルを貼ることよりも、この授業が自分自身に得るところがないかどうか確認することに力を注いでもらいたい。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、男
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)めったに授業に出てこないくせに、どうこう言える立場ではないと思えるが、言おうと思う。ぼくは前期は比較的、先生の授業に出ていた。毎回、行くごとに、ものすごい自分への問いを発することができたし、先生の一言一言がズドンと胸にくる感じがあった。すごく楽しみにして授業に行っていた。しかし、最近、来るたびに、ものすごい疎外感にかられて、しばらく行きたくなくなるのである。1時間目も2時間目もである。ぼくは自分でバカだと思わないし、授業に対する自分の態度がいいかげんだとも決して思わない。ところが、ばぁーと話しまくる先生についていけないのである。必死になって先生の言うことを理解しようとしているうちに、ドキドキしてくるのである。なんか、一部の人だけを対象としているような疎外感を、いやがおうでも感じるのである。それなのにペーパーで自分を表現しなければならないのがすごくつらいのである。
 ぼくは先生のする授業形態は好きではあるが、最近の先生は自分の中でたたかっているのが、ぼくにはみょうにカリカリしているように感じて、前ほど安心して自分の心の中のたたかいに挑むことができないのである。先生は自分の自己実現のために授業をしているというふうに強く感じ、ぼくらに問いを提供するという前のようなすごい力がないように感じる。ぼくのような学生もいることを知ってほしい。これはぼくが社会学の生徒だからだろうか? (主体的な学習を援助する教授法を実践した)○○君はわかっていても、僕にはわからない。おもしろくなかった。
mito ツー・ウエイになっていないということだろう。そして、このペーパーの指摘はそのことをとくに強烈に訴えるものになっている。僕としても、重く受けとめたい。考えさせてもらいたい。しかし、ひとつだけ問題提起をしておきたい。広告の戦略では、「みなさん」と呼びかけるのではなく、「あなた」と呼びかける。広告の対象とする個人は受動的であることが前提だからである。しかし、「あなた」は、この授業においても本当に「あなた」と呼びかけられたいだろうか。現象的には一部の人が「陪審員」になっていたっていいじゃないか。「傍観者」のほうは「傍観者」なりに巻き込まれないがために「見える」ものがあるかもしれない。たとえば「自分の自己実現のためのカリカリした授業」をさらしている僕を見て、いろいろなことが学べるのではないか。「陪審員」になるか、「傍観者」になるかは自分が選択すればよい。そして、もし、「陪審員」になりたいのに教師がそうさせないのだったら、あなたは授業料を払っている学習主体なのだから、その権利を行使してこのペーパーのようにして僕に抗議すべきだ。
1992.12. 5. S短大社会教育概論、女
 (授業評価のビデオに出てきた)大学教師たちの中に、学生のことを「あんな連中」と書いている教師がいました。たしかに今の学生は遊ぶために大学に来ているとも言われています。でも、そんな言い方をされると悲しくなってしまいました。mitoちゃんの授業を受けると、自分らしくいられるような気がします。私にとってそれがmitoちゃんの授業の魅力です。
1992.12. 9. T大U部社会教育概論、女
 みとさんの授業は80%以上出席しています。毎回みんなのペーパーを楽しみにしているし、みとさんのレジュメ&授業の雰囲気も好きなので、単位を取る、取らないで来ているわけではないのです。で、みとさんは、説教くさい、社会的権威うんぬん、早口、とか書かれて考えているようですが、私は(2限の)主体的学習の授業の感想で「参加者側も、ためいきや恥ずかしいなどの声に出さずに、盛り上がらなきゃいけない」とペーパーに書いたら、みとさんが青年の家の国旗掲揚問題(朝のつどいに出る、出ないという事柄は「管理」であって、国旗に敬意を払うことが重要かどうかを教育系職員とつどいに出てこない青年とが水平に議論することが「教育」であるという意見)にまで話を発展させられました。私の考えがそこまでつながるのが、私にとっては理解できませんでした。私のペーパーに書いた考え方を、すべては生き方に反映はしていないのに。自分の言いたいことをみとさんのものさしの中で、勝手に解釈され、それをみんなの前で喋られると、自己表現がうまくできない人にとってはどんなもんなのでしょう。
 みとさんは、他の意見を殺すような攻撃性を感じるときがあります。でもそれは私のことだとも思います。だけど、みとさんの授業は興味があるので、出るし、批評するにはそれなりの情報を持たなければと思うし、おもしろいし、出席しています。みとさんの本も買いたいので、くわしく授業で言ってください。
mito 出版がそうなのだが、書いたものというのは、自分のコントロールを離れて一人歩きするのだ。それがいやだったら、それはプライバシーなのだから自分で守れば良い(非公開)。出版しなければいい。出版とはそういう「潔いもの」だと思っている。ただ、出席ペーパーの場合は少し性格を異にする。ペーパーは双方向授業の一環だからである。しかし、双方向というのは、学生側の意見がそのまま通用するということではない。その意見が公開された上でなら、教師はその意見をたくさんの学生の面前で「殺しても」よいのだ。しかし、それを殺そうとした教師の意見が、学生の批判によって殺され返すこともありうる。そういうほうが緊張感があっておもしろいじゃないか。これこそ知的刺激というべきである。ただし、そのためには、自分が負けたときには負けたと認めるゲーム感覚の潔さが教師にも必要であろう。一部の学生は大学教員には(本人と同じように)この潔さがないと思い込んでいるから、高等教育の授業そのものに不信感を持ってしまうのである。「自分は子どもが好きだから教師になりたい」と考えている教育系の学生の場合は、とくにこのことを考えておいてもらいたい。
1992.12. 9. T大U部社会教育計画、女
 (mito的授業の評価で)自分が疲れているとき、授業についていくのが大変なときもある。しかし、逃げ場があるので救われる。つまり、自分を第3者に置いておけるのである。皆の意見や美東先生のやりとりが、自分の鏡として存在する。その反面、自分自身に対しての葛藤も投げかけてくる。生の授業で、美東先生の自己表現が素直に出ている時と、葛藤している姿(だめな部分)が伝わってくる。おしきせの時代遅れの授業よりも、美東士先生や皆の現場の声があって私にとってはプラスになったと思う。
1992.12.16. T大T部社会教育計画、男
 (mitoもクビにならない程度に成績評価に関する妥協などはしていると言ったことについて)そんな妥協をするようなことでは、主体性がない。自分がやっていることが正しいと思うのなら、クビを覚悟でやったらいいし、学生の人気とりだけだったら、そもそもやらないほうがよいと思う。
mito この学生は、僕が何回クビになったら僕に主体性があると認めるつもりなのだろうか。自分の敗北の経験を忘れ、弱い部分、恥ずかしい部分を許してしまった上で他人を批評すると、こういうことになる。自分の考えと社会とが折り合いがつかないとき、自分だったらどうするか、自分は今までどうしてきたかを考えればすぐわかることだ。「学生の人気とり」云々については論外で、そんな発想が、この授業の単位認定に関する僕の説明を聞いたあとで出てくるはずがない。本人が自分の頭で考えたことを書いたわけではなく、これで何かを言ったことになるだろうと本人だけが勝手に思い込んでいるフレーズを常套句のように無意識に使ってしまったのだと思う。
1992.12.16. T大T部社会教育計画、男
 私は、この授業があまり好きになれなかったので、初めのほう、1、2回しか出席しないで、この授業を切ってしまおうと思っていました。でも、ずるいかもしれませんが、やっぱり単位はほしいので3回は出席します。今日の授業は「授業評価」だそうですが、美東ちゃんの授業を一言で言い表すとすれば、生徒とのなれ合いのような気がします。学生と仲良いほうがおたがいにやりやすいとは思いますが、それでは授業内容に重みが打ち消されてしまうような気がしてなりません。なるほど、こういう講義は、私たちにとって、簡単に単位が取れるし、教える側にとっても気が楽ですし、気をつかわなくてもよいかもしれません。しかし、これは、西村先生の責任逃れであって、私たちのためにならないと思います。やはり、講義にはある程度の緊張が必要だし、無理にでも出席すれば血になり、肉になるでしょう。私には、こんなことを言う資格はないと思いますが・・・。でも、みと先生のヤル気、熱意にはいつもながら感心させられます。努力していらっしゃると思います。
mito この授業では、教師と学生の双方が「何でもあり」でリラックスしているのにもかかわらず、「ある程度の緊張」どころかものすごい知的プレッシャーを学生も教師自身も感じるような内容をそれなりに実現しているつもりだ。そういう意味では、何も楽しいことばかりが学習ではない。3回の出席については、なるべく初期の頃に3回出てほしかった。そうすれば、「3度目の正直」で、僕の授業が「好き」になっていたかもしれないからだ。3回も出ないでおいて、この授業を「あまり好きになれない」と勝手に判断してしまうのは、「3回出てから自分にとって必要かどうかを判断してください」と公言して授業に勝負を賭けている僕に対して失礼だと思う。
 それにしても、学生自身が「無理にでも出席すれば血になり、肉になる」のだと思うのだったら、そうすればいいではないか。この学生も言うように、僕は自分に与えられた社会的責任(良い授業を創る努力をすること)からは逃れていないと思う。「教師が無理にでも出席させてくれないと、結果として私たちのためにならない」という言葉のほうが、学習者側の依存的姿勢を表しており、学習主体としての「責任逃れ」の言葉である。そして、この考え方のまま教師になると、学習者の依存的態度(または教師への無用な反発)を増大させる教師になってしまうのではないかと危惧される。
● 楽園追放は受けとめるしかない
1992. 9.30. T大U部社会教育概論、女
 今日は病み上がりなのでけっこう疲れています。ビデオを見ながら「うんうん、そうなんだよね」って思ったところがありました。前半、つどいで話し合っている場面。なんで自分がこうなったのかわからない、とか、どんどん自分を責めて追いつめてしまうというところなんかがそうです。
 また、後半、さいごに家族で助け合い涙ぐんでいた場面。これを見たとき、うらやましいという気分を通り越して、バカヤローという気分だった。やっぱり世の中、こんな家族もちゃんとあるんだなあーと思った。自分がこんな気持ちになるなんて・・・。なかなか超えられないぶ厚いものがまだまだ目の前にはだかっているのを感じたと同時に、ちょっと情けない気持ちかな。
mito 生育歴の問題は、本人がそれに気づくこと以外に解決に向かう方法はない。
1992.10.12. S大社会教育演習、女
 自分で決めるっていうことがどんなに難しいことか、22歳にもなって未だに悩んでいます。来年の就職のことなんですが、3つぐらいの道は考えているんだけど、どれにするかなかなか決断できません。友だちや親に相談しても、結局決めるのは自分になってしまうのです。昨日、テレビで大橋巨泉も言ってたけど、自分で決めることができるようになるということは、本当の大人になったということなのかなと思います。誰のせいにもできないで自分に責任をもつということはこわいことだし大変なことだと思うけど、逆に言うと、人生を充実して満足して生きている(おおげさかな?)ということになるんじゃないかと思います。
mito 就職には2方向の選択がある。一つは自分が会社を選ぶことで、もう一つは会社から人間が選ばれることである。その2つの事実を受容しなければならない。僕だって、いくつかの選択で落とされ続けてきている。たとえば、僕自身は総理大臣をやってみたいのに、今のところはやらせてもらえていない。
1992.10.15. S短大視聴覚教育、女
 半年前に彼と別れて、お互いのことを考えてみることにしました。私は彼のことを半年間、今も、好きで好きでたまらなかったのに、彼を忘れるために違う男の人とつき合ってしまったり、今もおじさん(親類ではない)などに遊びを誘われると断れず遊びに行ってしまいます。最近、彼に会うことができましたが、好きで好きで他の男の人を好きになれないのに、「私は遊び人だから、もうふさわしくないよ」と言ってしまい、連絡もしないと言ってしまいました。彼は以上のことをまったく知らないのでつらいのです。友だちに相談したところ、強がらないで思いを伝えた方がいいと言ってくれました。今朝、彼に電話をしてみました。彼とつき合い直すのには、おじさんと遊びに行くのはやめたほうがいいですよね。おこづかいももらっています。
mito 両方を選ぶことはできないだろうから、自分でどちらかを選択するしかないだろう。要は、この学生自身がどのように生きたいのかということだ。でも、この学生はちゃんと自己解決に向かっているのではないか。ただ、現代社会は少女の性がなんの努力もなしに商品になるという社会であることを少女自身が客観的に認識しておかないと(妊娠中絶をする少女の相手の大半は社会人である)、その少女は(安売りをしてしまうことになるということを含めて)大変な損をすることになるということを覚えておいた方がよいと思う。
1992.10.24. S大教育社会学、女
 先生は人間が向上心を持って生きていくための言葉の引出しをたくさん持っていらっしゃると思いました。私は今日初めて授業に出席しましたが、何というか、先生の授業は安心できるような気がします(変な言い方ですね)。何となく話を聞きながらでも、自分のことについて人間のことについて考えることができました。
 私は高校生の頃は考えたこともなかったけれど、最近はとても人間が好きなんだなあと思うようになりました。人間の感性って人それぞれだからこそ面白いものなのだなあと思います。でも、大学に入ってから割り切って人とつき合っていたような・・・。割り切って接することが認めること(美徳のような)と思っていたこともありました。今の私はその頃の私をさみしく思えます。もっともっと人間の研究をしてみたい。だから先生の講義は私の探求心を満たしてくれている気がします。私は片道2時間以上かけてここまで来ているのですが、今日は来たかいがあったと思いました。
mito 親から一方的に保護を受ける乳幼児期をすぎて、人間は楽園から追放されて(学校や友だち関係などの)社会に出ていく。そのときの痛みは誰にでもあるものだろう。パワフルな人というのは、その痛みがなかった人ではなく、その痛みを受容できている人だ。僕は、このような言葉は持っていても、内面的にはまだそこには至っていない。それを了解しておいてほしい。この人が「人間の感性って人それぞれだからこそ面白い」と思えていることは、自分や他人に対するOKマインドということであり、それは枠組が違う他人の存在やそういう文化との交流を歓迎するネットワークマインドにつながっている。しかし、自分と違う他人の存在がつらい人もいる。僕自身にもそういう傾向が見え隠れするときがある。そういう人にとっては、僕の授業もつらいのだろう。これは僕の授業の課題といえよう。
1992.11. 7. S大教育社会学、女
 (自分が好きな)彼の(電話での)話で、ショックなことがありました。今の彼女(自分とは違う)とつき合う前に彼には彼女がいたそうで、その別れた理由が、違う女の人と大人の関係をつくってしまったからだそうです。くわしくは聞きませんでしたが、もし、遊びだと考えると・・・。でも、どうみても、その人は遊びでそんなことをするようには見えないし・・・。お互いに好きな人同士でするものなのじゃないのかな・・・?
mito 男女の性欲の違いを認識しておいた方がよいと思う。その上でも、人間としての共通な感覚を追求することはできるのだ。
1992.11. 9. S短大社会教育計画、女
 愛とは何か考えています。私は許すことだと思っています。見返りなど期待しないもの、与えるものだと思います。でも、愛されたいです。愛している人から愛されたいです。私は家族には愛に包まれています。母からも父からも私は愛を感じます。私も両親を愛しています。忍耐と愛が大切だと思うんです。でも、足りないのでしょうか。伝わらないこともあるんでしょうか。
mito 愛は言葉にしないと伝わらない。その言葉は見返りを期待して発してよいのだと思う。精神的な見返り、つまり愛がむくわれることを期待してよいということである。「愛している人から愛されたい」という感情はやましいものではないからである。そして、相手が自分を愛するようになるかどうかは相手の自由だが、少なくとも自分の気持ちは伝わるだろうと、自分と相手を信頼して言葉を発することが、見返りを期待することの意味である。
1992.11.21. S大教育社会学、女
 先生が詩(ゲシュタルトの祈り)のことを言っていますが、「仕方ないじゃないか」なんてきれいごとだ。人間にはエゴがある。そのどろどろしたものを無視して芸術はありえない!!
mito 「ゲシュタルトの祈り」は、他人に自分の期待に沿った人生を送らせようとすることのくだらなさ、ばかばかしさ(仕方なさ)を指摘したものだ。そのくだらなさに気づいていないレベルの人間の葛藤を表現しても、あまり面白い芸術にはならないのではないか。なぜなら、それは、たんなる「わがままなことによるコミュニケーションの不能」あるいは「無知による不幸」を表現するにすぎないことになるからである。それよりも、その「くだらなさ」「ばかばかしさ」を認めつつも、なお、その上で「どろどろ」してしまう人間のエゴを表現することのほうが、レベルの高い芸術表現につながると思う。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)今回はなかなか考えさせられる部分があった。「自己表現できないのは不幸だ」(というmitoの問題発言)を考えた場合、自分を守ることからくるものなのか、反発も出てくる。自分自身の表と裏が見えてくる。自己認知している自分に気づいた。
 役割遂行と自己実現の関係も、なるほどと納得した。私もその間の葛藤でストレスがたまり、かなり苦しんだ過去があった。今もまだ少し残っているかもしれない。ただ、私自身は幸福だと思っている。瞬間、瞬間に驚きを感じる自分がそこにあり、役割遂行に割り切っている自分と、自己実現を追求する自分とがある。何もかも見えている中で、ストレスを感じないでひたっている雰囲気がそこにある。これは自分を守るためなのかもしれない。でも、そんな自分を許している自分がある。それでいいんだと思う。いつもおだやかな中にもキラキラしたものを持っていたいと思う。
1992.12. 5. S大教育社会学、女
 (不登校の理由のビデオを見て)登校拒否の話ですが、私も決められた枠組で生きることに疑問を感じて、3年間、いわゆる浪人生活をしました。登校拒否をしていながら学籍が抜けない人っていうのは、心の中で学歴とかにすごく執着している部分と、それに適応していけない部分の間で苦しんじゃっているんじゃないかな。「自由」に対するイメージを持たず、「束縛」から逃れたいとばかり思ってもうまくいかないですよね。
mito なんということだ、こんなに「超主体的」な学生がいる。彼女の場合、どこが主体的かというと、学籍を自らが抜いたかどうかということではなく、「自由に対するイメージを持たずに束縛から逃れたいとばかり思ってもうまくいかない」という自分の外の世界の環境をきちんと(僕にはそう思える)体得した上で生きてきていることだ。
1992.12. 9. T大U部社会教育概論、女
 授業の中で学生の受ける痛みについて、もっと共感的に話したいとmitoちゃんは言っていたけど、私個人としては痛みは痛みでいいんじゃないかと思う。私もこの授業で痛みを受けることがある。でも、そのとき、痛みを受けるのは嫌だというのではなく、その痛みを自分なりに私は考えてしまう。この痛みはどこからくるんだろう。私の何が痛みを感じさせるのか。この授業だけではなく、職場でも何か嫌なことがあったとき、痛みを感じたとき、必ず考えるようにしている。考えてみると、今いる自分がけっこう見えてくる。そういう状況にいるときのほうが、自分が見えてくるような気がする。考えてみると、だいたいの場合、自分のわがままとか自分の未熟さが、もとにあるように思う。それで自分を見直すことができるので、その人個人のうけとめ方しだいじゃないかなと思う。
mito これは重要な自己解決能力なのだろう。
1992.12. 9. T大U部社会教育計画、女
 しばらく出席していたが、出席ペーパーは書かずに帰っていた。何かまとまらないことを考えていた。いつも授業で、枠組の中で考えることを変えてみる、自分を見つめ直す、等々、最初フムフムと思っていた。そういうことで悩んでいる人はいる。でも、実際、それは先生の悩みそのもののような気がする。授業の底辺には「人間は絶対暗く迷っている動物」みたいなものを感じるようになった。だから、それに同感する人たちには楽しいもので、明石家さんまさんみたいに、人生楽しくて自分のことが大好きな人たちには、重く感じるかもしれない。最近、仕事の関係で全部は出席していないけど、その中で何度か感じたのは、私は普通だ、私は今の自分に別に不満はないと思っている人が、「よく胸に手を当てて考えてみよう。暗く悩んでいる部分があるだろう」と迫られているような感じがあった。これを説教的だと思った人もいるかもしれない。先生の中で何か悩んでいるもの、きついかもしれないけれど先生の中の病理を基本にして授業をしているような気がする。
mito 現代社会において、自分の今の枠組から自分を解放している人や100%自己肯定できている人など、本当にいるのだろうか。僕は、そんな人は地球上に一人もいないと思う。この学生は自分のことではなく「明石家さんま」という他人を例に挙げているが、そのことは、自分はそんなに明るいところばかりではないけれど、(真実を知らないことによって)明るいだけの人もいるのだからその人たちは真実を提起しないほうがよいということになる。これは大衆蔑視の「寝た子を起こすな」説や愚民化政策にもつながる。迷っていることや暗く悩んでいることが、たとえ、その教員の病理だとしても、教員は自己のその病理、すなわち教員自身が悩んでいることを基本にして授業を進める以外に真実を追求する方法はないのだ。「知的水平空間」とはそういうことである。もうひとつ言えば、逆説的だが、たとえ1%でも迷っている自分や暗く悩んでいる自分を認めたくないということのほうが深刻な病理と呼ぶのにふさわしいのだと思う。
1992.12.16. T大U部社会教育概論、女
 叱るということ自体、「引き合い叱り」だと思う。言葉には出さなくても叱るということは「弟はできるのに」「よその子はみんなちゃんとやっているのに」というような言葉を省略しただけのものであり、何かと比較してそのワクからハミ出した場合に叱るのが一般的ではないだろうか。それはどんなときに叱るのかということを考えればわかるはずである。
mito 親自身にも枠組があって(人間は枠組から逃げられない)、その枠組から叱っているということを親が意識していれば、そしてその枠組を自分にも子どもにもごまかそうとせずオープンにすれば、その枠組から叱ることはまったくかまわないし、それ以外の方法はないであろう。問題は、親自身が本来持っていた枠組が他の事情(世間体や愛情喪失など)によって「汚染」された枠組になっている場合なのではないか。
1993. 5.15. S短大教育社会学、女
 私がmitoちゃん先生の言葉の中で好きなものの一つに、「過去と他人は変えられない」があります。私は去年の社会教育で初めてこの言葉を耳にしたとき、「ハッ!」として、今までの自分を変えていく材料の一つになりそうでうれしかったのを覚えています。なかには、「さめた考えだ」と言う人がいます。(私は社会教育の営業ウーマンなので、みんなに宣伝しまくっているとき、こう言った人がいました。)でも、私はとても積極的な言葉だと思います。過去と他人は変えられない、「じゃあ、ダメだ」ではなくて、「それなら・・・、そう、自分を変えていけばよいのだ!」だと思います。潔く生きることともつながっていると思います。
mito 「過去と他人は変えられない」という言葉は、人間についてあまりまともに考えたことなくてぼんやりと過ごしている人にとっては、すぐには理解できないし、かえって「自分にとって不都合で不愉快な言葉」と感じられて、即座に排除しようという気持ちが働くのだろう。
1993. 6.12. S大教育社会学、女
 高校を卒業して初めて行ったバイト先で、同じバイト先の人(大学生)に、とてもひどいことを言われたんです。「進学するの?」って聞かれたので、「音大に行く」って答えたら、「音大行って何するの? アイドル歌手にでもなるの?」って言われました。ムッとしたけど「教師になりたいの」と答えました。そうしたら、その人は「あんた世間なめてんじゃない?」って言ったんです。きっとその人は、音大という所は遊んでいても卒業できると思っているんでしょう。それで私が教師になりたいなんて言ったから、そういうことを言ったんでしょうね。でも、私は、小学校からの夢をそんなふうに言われて、とてもくやしかったし、悲しくて涙が出そうになりました。
 この人の他にも、やっぱり、「音大に何しに行くの? アイドル歌手になるの?」って言われます、ちょっとバカにしたみたいに。
 一生懸命頑張って入った学校なのに、なんかそういうふうにしか言われないなんて淋しいです。だけど、音大がどういう所か知らないから仕方がないですよね。人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば、それでいいと思います。
mito そのバイト先の大学生のように、相手に言えないはずのことを言う人が、社会にはスパイのように配置されている。さわやかでない、攻撃的な自己主張しかできないタイプの人である。「私は(世間がつらい)」と主張できずに、「あなたは(世間をなめている)」と相手の人格を見抜いたふりのようなことしかできないのである。そういうスパイみたいな人のつらさを共感的に理解して受容できるようなものすごいレベルに到達するまでは、なるべくそういう人には巻き込まれないようにしたほうがよい。
 ただ、もう一方で、「人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば」という願望を実現することも、人間にとっては残念ながら困難である。人間は自己実現だけでなく社会的承認も得て、初めて自己を確立できるからである。そのためには、音楽を志す自分の生き方を支持してくれる他者を見つける必要がある。
1993. 6.16. T大U部社会教育概論、男
 ストロークの話はうなずけました。周りが敵意に満ちている場合、「自分がフランクにつき合えば、周りもなごみ、軟化してくる」というのはウソですよね。周りから嫌われている人が正直に自分をさらけだしたら、そこをつけこんでさらに攻め込まれてしまうというのは、ある意味では当然の反応ともいえましょう。
 「とにかく誰に対してでも、そしていかなる状況下でも、自分を出して、友だちをたくさんつくろう」ということを小学校の低学年で教えられ、愚直にもそれを実行していやな目に遭った子どもたちは少なくないのではないでしょうか。時として、自分を隠して人とつき合うことも必要なのでしょうね。「友だちをたくさんつくろう」というスローガンにしても、「なぜ」友だちをつくらなければならないのか、また、「なぜ、たくさん」つくらなければならないのかということにも疑問はありますが、「つねに自分をさらけだそう」というスローガンには、最近になって疑問を持つようになっていましたので大変にうなずけました。
 「周りが非友好的な雰囲気のときは、非積極的に振舞おう」という考え方は、時として、不健康な考え方として捉えられることもありますから、はっきりと先生がこのことを口にされた時は少々驚きました。
mito そのとおりだと思う。ストロークの法則を確認して、その力量を高めていってほしい。なお、別に、ゼミで上級生から批判された仲間のレポートを本当は私たちは評価していたというペーパーがあったが、そういう場合は、逆に、「支持をするのなら、なるべくその場で口に出して表す」ということがあえて必要になる。
1993. 6.16. T大U部社会教育概論、女
 大人たちも悲しい性を生きているという現状について・・・。mitoさんは「夫婦のあいだは安らぎじゃなくて、ある種の闘いなんだ」とおっしゃっていましたね。「いかに自らが自分の考えを口にしないで、自分の都合に沿うようにキモチよくなるか」を、私を含めて大人たちはsexというコミュニケーションに求めているのかもしれません。だから安らぎなんか得られない「闘い」なのかもしれませんね。でも、本当は心が通じ合うためのコミュニケーションのいちばんいい手段がsexなのだと思う。楽しまなくちゃ、やっぱり。そのためには、ふたりで徹底的にsexについて話し合わなくちゃ。「いかに言葉にせずに」じゃなくて、「どう言葉で伝えるか」ですよね。なんてエラソーなこと言って、なかなか難しいんだな、コレが。
mito 「言葉にせずに」コミュニケーションできると嬉しいけれど、実際にはそれだけではうまくいかない。「どう言葉で伝えるか」を模索することになる。だから夫婦の関係は、緊張関係でもあり、闘いにもなるのであろう。その現実は受けとめるしかない。それは、「楽園追放後の生き方」ともいえる。その現実に潔くなれない姿として、マザコンをとらえることができるだろう。
1993. 6.23. T大T部社会教育計画、男
 先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的と言われたと思いますが、私は司書さんが言ったことがわかるような気がします。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思います。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。どう考えればよいのでしょうか。
mito ボランティアの活用は住民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。そうでないと思うなら、そう批判すればよい。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは御都合主義といわざるをえない。
 専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で「代行」できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。「現在の」その仕事は、ボランティア養成・研修やその他、より専門的な仕事に「純化」すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は「当局側」の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずだったのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。だとすれば、幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。
 幸福とは達成されるものではない。社会教育職員の場合も、人の幸福追求の援助のなかで、自らの幸福も確認できる。それは、社会的役割遂行のなかで自己実現が可能であるということでもある。そのためには、自己の保護や安定だけ求めるのではなく、自分が働いている意味(働きがい)を自負(プライド)できる自律的な精神が求められる。
1993. 6.28. S短大社会教育概論、女
 社会教育概論の授業は今日で何回目かな? 私はこの授業で人づきあいについて(完全ではないが)たくさんの見方を学んだと思う。大学という今までとは違う環境で、初めてさまざまな場所から来た知らない人びとと、大人のつき合いというものになった。たくさんの考えの人がいて、もちろん好きな人ばかりではないので、五月病にもなったけれど、この授業のあとは少し晴れやかな気分になって頑張ってきた。私は人見知りというのか、外見で相手を枠にはめ、「こうだから、こうなはず」と思い込んでしまいがちで、自分の範囲をつねに狭くしてしまう。でも、自信をもつこと、自己主張などを少し実行してみたら、被害妄想が結構あったことに気づいた。最近は少ししっかりしてきたのかな?
mito 自分の不幸な状況を他人や社会のせいにする被害妄想の人は、その人が主観的に思っているよりも深い意味では、やはり本当に被害者なのかもしれない。それは、差別と序列付けの社会の価値観に染められてしまっていて、本当の自信をもったり、さわやかな自己主張をしたりすることなどができないという点で。しかし、それは、この学生のように教育という側面的援助によって自己解決に向かうことができるのである。
● 批判は否定とは異なる
1992.10.19. S大社会教育演習、女
 先生は絶対に生徒の意見を否定したりしませんよね。半年ちょっと授業を受けてみて、そう感じました。今まで頭ごなしに「ちがうー」と言われ続けてきたからでしょうか、こうなってしまったのは。それとも私が子どもなのでしょうか。それから、発言した後に「ありがとう」と言ってくださいますよね。それが、私自身とっても楽になれます。肩の力がスーッと抜けるみたいに・・・。少しずつ自信がもてるようになってきたような気がします。
mito 楽になることは大切だ。そもそも、ある人の意見を頭ごなしに否定する気になれない。誰でも他人の発言を全否定などできるわけがないのではないか。僕が学生と異なった意見を持っている場合は、それをぶつけることはする。全否定はしないし、できない。それでも傷ついてしまう学生もいるが、僕はこの出席ペーパーを読んで、それは傷ついてしまうほうが悪いのではないかと思った。
1992.10.22. S短大視聴覚教育、女
 先生の考え方は納得できるなあと思ったが、「それは違うと思います」とか、授業の中ではっきり言われていたのは、その内容を書いた人は大変傷ついていると思います。なんとなく言えているとは思っても、少し先生の気持ちの押し付けのような印象を持ちました(でも、授業ってそういうものかなあ・・・)。
1992.10.28. T大T部社会教育計画、女
 ボランティア活動に対して見方が変わりました。でも、私にできるかというとわかりません。私は思うのですが、自分よりも不利な状況、環境にあると考えている人たちに対して、(ボランティアをする人たちの中に)自分がある種の優越感を、そしてそう感じるうしろめたさを、感じることはないのでしょうか。でも、もしかしたら、活動を行っていくうちに、そういう感情が間違っていると実感し、わかるのでしょうか。そして、自分も成長するのでしょうか。そうだとしたら、ボランティア活動はすばらしいことですね。
mito 優越感があっても、それにうしろめたさを感じる人ならボランティア活動できるのではないか。
1992.10.28. T大U部社会教育概論、男
 諦めてしまうのは敗北主義だという考え方はありますが(そして諦めきれずにネチネチしている70年代の考え方です)、きっぱり諦めてしまって先に進もうという考え方もあります(80年代の考え方です)。これは前者のそれより敗北主義に見えるといった思いから出てきたものです。こう考えてみると、何を敗北主義と見るか分かりにくいですね。
 90年代は「肯定」の時代になるそうです。70年代が「否定」で、80年代が「批判」の時代だったのですが、この2つは何も生まなかった上に、現在誰もが誰かに批判されることを恐れているからだそうです。僕はこの考え方が好きです。たとえばそれが敗北主義的な生き方であっても、誰もがギリギリ踏んばって、時々負けながら生きているのだから、それはそれでいいじゃないかと。生きていることを喜び合えればそれでいいじゃないかと。
 こんなこと書いてケンカ売ってるわけじゃないです。コメントはしなくていいです。僕は前期に何度も読んでいただいたので。他の人のを読んでください。
mito 学生は書きたいことを書く。教師は読みたいものを読む。コメントしたいことをコメントする。それでいいと思う。
mito 知的水平空間やネットワークにおいては、批判者の心を開いた批判はディベートと違ってプラスのストロークだと思う。少なくとも僕はそう感じる。
1992.11. 4. T大T部社会教育計画、男
 今日は「潔く生きよ」の説明で登場した女性への雑誌の人生相談の答やmitoちゃんの解説がとくに印象に残りました。人生は選択の連続である、そこで自分が一番目の選択の条件にした以外のことには目をつぶることが大切だということは忘れがたいことです。私は、結婚ということが、自分を縛る行為だと思っているところがあり、実際に結婚して相手の嫌なところがわかったときのよい納得の仕方を知った気がします。しかし、mitoちゃんはそう言わないでしょうね。結婚は相手との長い対話だと言っていたこともありましたもんね。その長い対話も人生の一つの学習なのかもしれません。
mito 「よい納得の仕方を知った気がした」のは、正しいのでも間違っているのでもなく、この人にとっての真実なのである。僕が言おうとしたことなどどうでもよい。
mito 相手の嫌なところがわかったときは、相手の人格を受容して、その行為を否定すればよい。しかも、その「否定」とは自分の人格の範囲内でのものであることを認識しておく必要がある。
1992.11. 4. T大U部社会教育計画、女
 私は自信をあまりもっていない人間だと思う。他信もあまりしない。いつも「私らしさって何か」「私って何か」なんて考えてる。失敗しても最初は自分で失敗したとは思っていなくて、他人に言われて初めて気づく。で、自己嫌悪に陥って、気をつけようって思う。それでまた気づかないうちに失敗して、その繰り返し。同じ失敗ばかり。自分には学習機能がないのかななんて思ったりする。
 mitoちゃんの授業に来てるのは、こんな自分を認めてくれる受容的な雰囲気で、新しい発見がたくさんできるから。ここに来ると、自分もやっぱり学習してるんだって思う。失敗することで、いろいろ感じることがあるし、たとえまた同じ失敗をしても、忘れていたことを思い出すからいいのかもしれない。
 例の(雑誌の人生相談の)K子さんのことだけど、相手(夫)を理解していない、理解しようとしてない。「つまんない男」と決めつけて、良さを見つけようとしてない。それと同時に、自分で何かしようとしていないと思う。たとえば外出するときに、靴をはかせてもらっていながら、「自分に合わない」と言って「他の自分に合う靴をはかせてくれる」男を探している。ピッタリの靴を男の人にはかせてもらうんじゃなくて、合う靴を自分で探せばいいんだと思う。
mito この人は自分は自信がないと思っているようだが、僕の自信と同じ程度の自信なら持っているように感じる。この人が僕と違うのは、何度失敗しても繰り返してしまうとか、他人から言われて初めて気がつくなどの自分自身に対して嫌悪を感じてしまうという点だけだろう。僕は「そんなことはよくあることさ」と思って自分自身を許している。しかし、そんな僕でも、ほかのある場面では(二日酔いの朝など)、だらしない自分自身のことを「バカヤロウ」とか「アホ」とか言って責めることがある。
1992.11.14. S大教育社会学、女
 (会話術のビデオを見て)私は他人と会話するとき、聞く側にまわることが多く、話すことが苦手だ。また、自分にとって苦しいこと、都合の悪いことを指摘されると、そこからどうしても逃げようとしてしまう。それが自分の大きな欠点であると自覚している。私の欠点の指摘も素直に受け入れられるようになったら、私も相手と良い関係で誤解のない会話ができるようになるのかもしれない。
mito 友だちとの気持ちよい会話は、自己受容、他者受容のやりとりであって、勝ち負けではない。「欠点の指摘を素直に受け入れる」のも受容である。ついでながら、真実の追求のための論理構築には勝ち負けがある場合がある。しかし、その場合でも、負けてダメージを受けるわけではない。自信があれば、つまり自己受容さえできていれば、自分の論理の負けを認め、新しい枠組を身につけることによって充実した気持ち、学習に対するワクワクした気持ちをいっそう高めることができる。
1992.11.21. S短大社会教育特講、女
 (自己受容トレーニングで)今日のトレーニングはまたまたつらかったです。今までなんとなくでごまかしていたような気がします。内心ではいくつか思っていたことも、口に出すことはできなかった。口に出す前に「本当にこんなこと言ってしまってバカにされないかな」なんて考えてから言っていた。言ってしまったあとも、ちょっと考えてしまった。自分は○○だから自分が好きだ、と言い切ってしまう自信がないみたい。悪い所はいくつも見つかるのに。本当は、自分は○○だから好きだという自信がないから、自分自身に受け入れることを避けていたのかもしれない。自分が好きな部分を認めていないのかなあ。今日のトレーニングでKちゃんに感動してしまいました。Kちゃんは自分自身をものすごく受け入れているんだなあと思いました。口に出して言っているときも、すごく楽しそうだったし、本当に自分が好きなんだなあと思ってうらやましかった。一度、Kちゃんの心の構造をみてみたい、なんて思いました。
mito ここの場では「バカにされること」はないということを、これから何回も体験して学び取ろう。また、友だちの行動からもいろいろ学べる。どちらも、自分が学びたいと思うことだけ学び取ればよい。
1992.11.21. S短大社会教育特講、女
 今日は、自分のこんなところが好きだと言うトレーニングをやったけれど、日頃あまり好きではない自分を見つめることはあっても、好きな自分を見つめることはあまりなく、あらためて好きな自分を考えてみた時に、自分はうそを言っているのかもしれないという不安があったりして、話すときにてれてしまいました。みんなが自分の好きなところを順番に話していったけれど、私がその人について、こんな所が好ましいなあ、私にもあったら良いのになあ、と思っていることについても、その人が自分自身を見つめて話している姿勢にあらためて良いなという感じを受けました。
mito この学生は、「こんな所が好ましい」と他者を受容的に見る眼をもっているのだろう。尊敬に値する。
1992.12. 2. T大U部社会教育概論、女
 私は、現在、昼間は仕事、夜は大学という生活をしている。仕事中は自分でもなんでこんなにがんばるのだろうと思う時があるほどがんばってしまう。就職して3年目にもなると、後輩が入ってくる。私は指導的立場になるのだが、その子が積極的には仕事を覚えないということもあるが、ややこしい仕事が出てくると、教えるより先に自分でやってしまう。そのほうが仕事も早く片付くし、面倒くさくない。そんなわけで、忙しい思いを私だけがしているのかもしれない。もちろん、後輩にとっては、ためになっていないのはわかっている。この授業を受けてあらためてわかったのだが、私は単にがんばり屋なのではなく、依存の仕方がへたなのだと思う。
mito 自分が全部やってしまうというのは、僕がよく言う「先生病」の変形パターンだと思う。
1992.12. 5. S大教育社会学、女
 (不登校の理由のビデオを見て)私も中学から高校まで、親に言われることすべてが、何と言っていいのかうまく言えないけど、自分が非難されているように聞こえた。それで私は「じゃあ、私が悪いんだ。でも、どうすればいいのか」ということがさっぱりわからなくなってしまうことがあった。今、親と離れて生活し、ある程度当時の自分が遠く感じられるようになって、あの時の自分が、他人の言うことすべてを受け入れられず、かつ、それらが私に対する批判に聞こえたのは、自分自身が干渉されたくなかったのと、言いたいことが自分でもわからなくて殻にとじこもっていた時期だったんだと思う。今はそんなことはないけれども、ビデオに出てきた17歳の少女は、私の昔の部分、部分に当てはまっているように思えた。
1992.12. 7. S大社会教育演習、女
 (mito的授業の評価について)「批判する人」というのは怖い存在だけれども、批判する人がいなくなることのほうがもっと怖いことなのかもしれないと思った。それは、自分の存在があるから批判してくれるのだと思うからです。存在が認められていると感じることができる気がします。
mito そうだ! これは、僕が2年前に授業を始めたときの初心だった。
1992. 1.13. T大T部社会教育計画、女
 「言葉で議論して負けたほうが自分を変えればいい」というのには抵抗を感じます。(○○カウンセリングに関する訪問販売の中年女性が進めていることは)私もカウンセリングとは思わないけど、その人が信じていて幸せになれるのなら、いいと思います。西村先生がしたことは、その人の信じるものを否定したわけですよね。頭ごなしに否定する権利(といっていいのか?)みたいなものがあるんですか? もしかしたらその人だって、偶像崇拝にすぎないってどこかで気づいているのかもしれない。でも、苦しいとき、どうしようもないとき、何かにすがってしまうこと、ありませんか? 私の苦しさは微々たるものかもしれないけれど、人間の苦しさから宗教って生まれたんじゃないですか? そうやって、自己分析して、立派に人を批判する西村先生は、失礼ですけど、本当につらいことにあったことあるんですか? 自分を冷静に見れるうちは、まだ感情が生きているんじゃないですか?(意味がちょっとわからない。辛くて感情が「死んでしまう」ようなことさえあるという意味か?<mito) 講義してるんだから、冷静なのかもしれないけど。
 私は、言葉ではなくても伝わるものってあると思うし、言葉だけでは伝えきれないものってあると思います。理屈や論理だてた考え方も大切なのでしょうが、それだけじゃないと思います。私は、つらいこと、不安なことはあまり人に見せたくないし、見せるものではないと思います。何ていえばいいのかうまくまとまらないけど、自分をかわいがって、優しくして、元気になって、それで人にも優しくできればいいと思っています。
mito こういう人にこそ、僕の授業にもっと出席していてほしかった。僕はこのペーパーのような自分や他人に対する「ニセのやさしさ」をどう克服するかということに、かなり授業時間を割いてきたのに・・・。その僕の動機は、僕自身にそういう「ニセのやさしさ」(つまり、これが偽善である)を感じるときがあるからである。そして、自分のもっている「ニセのやさしさ」に気づいていない人が、僕の僕自身の関心を中心にして進めている授業を「自己中心的」だとして嫌っているのだろう。僕の授業の総まとめとして、このペーパーへの僕の「批判」(「批判」は「否定」ではない。なぜなら、このペーパーのおかげで、僕の考え方を整理することができるからである)を展開したい。
mito 社会教育行政やコミュニティ政策が、もし住民が互いに批判しあわないような集団形成を目指しているなら、これはたんなる「愚民化政策」にすぎない。社会教育で目指すべき集団風土とは(学校教育でも)、「支持的風土」である。そこでは、一人ひとりの「個の深み」を尊重し、枠組の違いを歓迎する(異質だからこそ交流しようとするネットワーク・マインド)。それゆえに、「触らぬ神に崇りなし」という敗北主義、すなわち、「自分も傷つきたくないし、相手も傷つけたくない。だから、交流できない」という人間関係の疎外状況(山アラシジレンマ)を乗り越えて、同調できないときには「自分は同調できない」ということをさわやかに言い合える社会の形成が不可欠である。相手もそれを平静心で受けとめるのである。
 さらに、その基盤としては、「自分と相手の枠組は違っても、双方とも基本的にはOKの存在である」という基本的信頼が必要である。これが、「支持的」という言葉の本当の意味である。人間が完全な基本的信頼に到達することは不可能だが、そのことを不満に思っているだけでは、支持的風土は創り出せない。自分が創り出す以外には、与えてくれる人はだれもいないし、だれも相手にしてくれないのである(ネットワーク型社会におけるギブ・アンド・テイクの厳しさ=自立的価値・主体性の要請)。基本的信頼に近づくためには、100%ではありえないアンビバレンツな存在としての自分や他者の存在を受容できなければならないし、しかも、それが相互教育(「ともに育つ」)の実現にまでつながらなければ「気をつかう」ばかりの「辛い人生」しか味わえない。
mito この学生が「私もカウンセリングとは思わない」のなら、どうして「その人が信じていて幸せになれるのならいい」「批判はしない」につながるのか。どうして「私はこう思う」というメッセージをさわやかに発することができないのか。他人の行為を許す、許さないの判断を自分でしてしまって、相手との議論によって自分の相手への批判を検証しようとしない人は、自分に対して神のような「全能感」をどこかで持っているのではないか。自分の批判を相手に対して明らかにすることもなく同情や憐れみをもってしまう場合の他者理解とは、同情や同感のレベルの理解であって、やっかいなコミュニケーションのあとで得られる共感的理解とは異なると思う。他人を勝手に推測している自分に傲慢さを感じることはないのか。「さわやかな自己主張」における「私メッセージ」とは、わがままなものではなくて、謙虚なものである。
mito 僕は訪問販売の人を否定していない。僕が「あなたは偽善者だ」とか「依存的だ」とかその人に言って、その人の人格そのものを批判したのなら、否定につながるだろう。僕はそんなことはしていない。なぜなら、人格までとやかく言う必要も能力も僕にはないのである。その人のそこでの行為や言動を「過度に依存的」(適度なら問題はない)、「偶像崇拝」の表れだとして「批判」したのである。「批判」がなぜ「否定」につながるのか。絶対的な神が存在するなら、その神による「批判」だけは即「否定」になるだろう。しかし、私たち人間の中にはそんな真実を知りつくした神などはいないはずだ。人を否定できる(してしまう)人がいるとしたら、それは本人が自分に対してだけであろう。Self-Directed とは、そういうことだ。
mito 不合理だとわかっていても何かに「すがる」・・・、まさにこれは「過度の依存」を指している。僕もそういうふうに「すがる」ことがある。あるというよりも、そういう依存傾向が強すぎると思っている。意志が弱いのである。けれども、そんな自分を正当化しようとはまったく思わない。そんなことは、他人に「販売」できるような商品にはなりえないはずだ。「私ってかわいそう」と思ってしまうことや「自分さえ幸せになれればよいから、何かにすがりたい」と思ってしまうことは、僕だけでなく、だれにでもあるだろう。しかし、それを他人にどうどうと売り込もうとするだろうか。僕だったら、何かにすがるときは、コソコソとすがる。同様に、この学生は「つらいこと、不安なことはあまり人に見せたくないし、見せるものではない」と言っているが、もしかすると、「つらいこと、不安なときに、不合理だとわかっていても何かに依存している、すがっている、そんな自分の姿は、人に見せたくないし、見せるものではない」という意味なのかもしれない。それだったら話はわかる。
mito 自己分析できる人、人をきちんと批判できる人(僕は本当はそんなに立派ではないと思う)を見たときに、「本当につらいことがなかったから、自己分析とか他者批判とかができるのでは」というふうに、相手の触れられたくない部分(プライバシー)にまで立ち入ってくる批判の仕方はフェアーではない。僕は僕が開こうと思った部分を開いているのだから、その開かれた部分を批判すべきである。また、相手の過去を勝手に推測する権利はだれにもないはずである。過去のことを批判されても、僕にとっては改善のしようがない。過去は変えられないのだから。「今、ここで」の僕を批判してほしい。
 じつは、講義中、何回か僕の痛みの体験を学生に披露したことがある。それは、僕がそのとき自分を開いてみたい気分になったからであるが、授業の本道とは外れるとは思っていた。事実、その日の授業では、学生からは、共感の言葉とともに、「授業中に学生という不特定多数に話すようなことではない」という批判もあった。
 人間は、親に全面的に依存できる時期を過ぎて、現実原則を働かさなければいけない「社会」に出ていく。それを「楽園追放」という。そのときに、すでに、「痛み」は不可避的に生じるのである。「痛み」を経験していない人はいない。気づかないようにしている人は、たくさんいる。しかし、そういう「痛み」をつらくて乗り越えられないでいる人が、「深み」をもっていることを証明された人間のようにほかの人を見下し、結局は、なんだかかえって威張っているような状況に、僕は異議を申し立てたい。「個の深み」とは、「痛み」の大きさなのではなく、その人がその「痛み」(だけではないが)とどれだけ深く対面できているかなのである。
mito 以上のようなことは、僕が「自己中心的だ」「社会教育の授業ではない」と批判されながらも、僕のこだわりのもとに随分と時間をかけてしゃべってきたことである。それなのに、このペーパーを書いた学生のような人があまり出席してくれていなかったのは悔やまれてならない。
 とりわけ、言葉によるコミュニケーションについてのこの学生の意見を読んだときに、僕の残念さは最大限に達する。「言葉ではなくても伝わるものってある」と「言葉だけでは伝えきれないものってある」とがふたつ並べて書かれてあるが、そんなことはわかっている。そのうえで、僕は、「愛(ストローク)は言葉にしないと伝わらない」と「さわやかな自己主張の方法」とについて、何コマも使って追求してきたのである。ちなみに、「さわやかな自己主張」の原則は、自分がどうしたいのかの認識を持つ、相手の反応を先取りしたり勝手に予測したりしない、自分の言い分を自分勝手だと思い込まない、結果を恐れない、相手を攻撃しない、などであり、なぜそういう自己主張が必要かというと、主張しない人は、仕草に出てしまう(頬杖、眼の光)、第3者に言ってしまう(陰口)、我慢できなくなったとき攻撃的になってしまう(爆発)などの結果になりがちだからである。言葉に対して無力感を感じているのだったら、ぜひ、これからでも参考文献を読んでほしい。
 そして、「言葉ではなくても伝わるものがある」ということについても、言葉を使って学生とずっと検討してきた。そのとき、なぜ言葉を使ったかというと、恥ずかしながらこの授業はそれなりに学問だからである。VTRの視聴と、個々の学生によるその映像評論や評価を交流することによる映像リテラシーの追求などは、そのよい例であろう。言葉のもつ難しさに恐怖して言語表現から逃避している所には学問はない。第一、「言葉ではなくても伝わるものがある」ということを、この学生は言葉で表現しているではないか。「言葉ではなくても伝わるもの」を言葉で検討することも、人間の幸福追求に関わる立派な学問である(オープニング・セールから言い続けてきたとおり、すべての学習内容は人間の存在や幸福追求と深く関わっている)。
 それにしても、この学生の心やさしい素晴らしいNP(保護的な親心)を、僕は感じないではいられない。過ぎ去ってしまった1年間の授業の中で、この人の心と触れ合うことができなかったこと、人間としての痛みを分かち合うことができなかったのが、とても残念なのだ。「学習もひとつの選択行為である」、「僕はよい授業をして、学生から選択されるよう努力していればそれでよい。あとは、出席したい学生が出席すればよい」、さらには、「過去と他人は変えられない」。これらのことを言ってきた僕が、最終回になってこんなことを言い出すのは奇妙に、あるいは不当に聞こえるかもしれない。けれども僕は本当は未練がましい人間なのだ。しかし、僕は当分、この調子でやっていくことになるだろう。以上の問題を一言でまとめるなら、「学習者の自発性に待つということは、指導者にとっていかにつらいことか」ということである。学生のほうは、「なんだ、そんなことは、自分が指導者だったらこういうふうに解決する」と思えるような何かを持っていさえすればよい。
1993. 6.19. S短大教育社会学、女
 私は人と喋るのがこわい時があります。というのは、自分で思うに、自分が頭が悪いから、何か難しいこと言われて答えられなかったら恥ずかしいとか考えてしまうからだと思うのです。別に恥じをかいてもいいじゃないとか思っても、こわいと思ってしまいます。また、自分のことも自分でよくわかりません。だから自分の意志があまり言えないし、自信かもてないのです。そんな自分がきらいです。
mito この人の「自己嫌悪」のおおもとは、「恥じをかいたらいやだ」という気持ちを受容できないところにあるのではないか。しかし、誰だって恥じはかきたくないのである。その恐怖を禁じようとするよりも、こういうことをしても恥じをかかないのだ、ばかにされないのだという支持的風土のサンマを見つけ、そこで受容される体験を重ねることのほうが大切である。
● 批判は必ずそれなりの真実を表している
1992.10.28. T大U部社会教育概論、男
 (障害者の夫婦のビデオを見て)何か感動しろ、感動しろ、と言われているみたいで、いいかげんにしろという感じ。障害者のことは障害者にしか理解できないはずなのに、分かったように意見を言っている人間の神経はどうなっているのだろう?
mito それなら、障害者にとっては、共感しあう健常者の存在などは不要ということになるのだろうか。障害者であろうと健常者であろうと、一人ひとりの枠組が違う。しかし、共感的理解はそれなりにできるのである。ただし、映像のもつ限界性はあるかもしれない。
1992.10.24. S大教育社会学、女
 今日、mito先生は、人を傷つけるのは誰でも同じだと言って、「もし、それで相手が怒ったら謝ればいいと思っている」って言ってたけど、そうやって怒ってくる人を傷つけて問題が済めばいいけど(?)、もしそんな風に怒ってこれない人だったらどーするの? 自分の心の中だけで悩んで苦しんでしまう人だったらどーするの? そういう感情を表に出せない人にでも、先生は謝れるんですか? 少し違うと思う。謝ってすむ問題じゃないこともあるでしょ。その人は許してくれても、その人の心の中に一生残る傷って、誰にでもあると思う。私自身もそういう思いをしたことがあるし、他の人も同じだと思う。深い傷じゃなくても、ときどきフッと思い出すいやなことってあると思う。それとも、先生はそういう思いをしたことがないんですか? 別に私は善人ぶっているわけじゃないです。先生の言っていることもわからないでもないです、正直言って・・・。でも、先生みたいに「あやまればいい」の一言で済ませてしまうのはどうかと思う。
mito 僕が「あやまりさえすればいい」という言葉をその一言だけで言ったとしたら、僕の明らかな間違いだから訂正したい。僕が言いたいのは、傷つけ合うことを恐れて山アラシジレンマに陥るような閉塞状況を打破し、傷つけられたらそれを相手に伝え、傷つけてしまったらそれを相手に謝るような主体的な人間関係を創り出そうということだ。そのときに、もう一つ重要なことは、相手の痛みを共感的に理解する力である。
1992.11. 4. T大T部社会教育計画、女
 先生のおっしゃった「自信のある人、自信のない人」のとらえ方は、今までの私の思っていたこととは異なっていたので、とても興味深かったです。先生は「自信のある人」は、学習によって自分の準拠枠を変えていくことができる人だとおっしゃっていました。ネットワーク社会では撤退の自由があるのだから、だめだったらやめるという勇気を持って、そこに入っていけばよいということでした。サークルが嫌だったらそこに我慢している必要はなく、やめればいい、いやいやそこにいるのは自分にとってもサークルにとっても良くないことだから、とおっしゃいました。
 現在は転職する人も多く、嫌なところに我慢していることはないという考えが強まってきていると思います。自分にとっても相手にとってもマイナスになる所にとどまる必要はないと私も思います。「辞める勇気」も評価します。でも、少しでも嫌な部分が見えたから辞めてしまうというのは、どうかなと思います。辞める勇気よりも続ける勇気を維持することのほうが、より大きなパワーが必要な時もあると思います。自分が何か一つのことを続けることができたということも、その人にとっての自信につながるものではないでしょうか。
 私が保守的で何かをやめたりする勇気のない自分を正当化しようとしているだけかもしれません。先生のおっしゃっている「自信のある人」というお話から少しずれてしまった気もしますが、思ったことを書かせていただきました。
mito 過去や他人のせいにして被害者を演じるということさえなければ、撤退しようが、そこで頑張ろうが、どちらでもかまわないのかもしれない。
1992.11. 4. T大U部社会教育計画、女
 (雑誌の人生相談の回答について)人を好きになるのは自由。精神は目に見えないけれど、時間を考えればダラダラと同じことを思っているのはつまらないと思う。肉体的なことよりも、精神的なことの方が尾を引くのではないだろうか。人を好きになるのは、その人の人生そのものが好きになると思うので、mitoちゃんの言う「(結婚とは)縛りあうこと」だとは思っていない。逆に、そのような価値観の人とでは、いくら好きでもやっていけないと思う。生き方(価値観)の方向性が同じ人と結婚したいと思う。結婚してから気づいて嘆くのではなく、長い目でつき合える人に決めたいと思う。気長に・・・。
mito 僕の言う「縛りあうこと」の意味は、とくに「夫婦がおたがいに他の人と異性としての関係を持たない」という意味である。他の異性に好感をもたないようにするということではない。
1992.11. 7. S短大教育社会学、女
 今の世の中は、情報がありすぎて夢がないと思います。もちろん、現実を教えること、知ることは大切です。でも、知識がない幼児や小学生(低学年)に本当のことを言うことは過激ではないかと思います。脳に刺激を与えて、今まで何とも思わなかった子が目覚めてしまうかも、と恐ろしい気がします。もし小学生が本当のことをそこらじゅうでしゃべっていたら、私は気味が悪い。はっきり言って、私は小学生高学年でもSEXのやり方を教えるのには反対です。大人の楽しみ(?)を、なぜ考えがしっかりしていない小学生に教えるのかがわかりません。
mito このペーパーは「寝た子を起こすな」説といえるだろう。この説をどうとらえるかは、教育を考えるにあたって非常に重要な問題である。
mito 大人だって情報過多のために、結局、本来のSEXの楽しみを失っているのだから(「嫌われたくないからさせてあげる」など)、SEX情報のもつ問題性は子どもにも大人にも同じようにあるのではないか。大切なのは「本当のことを教えること」と「あとは、本人の自主的な判断や選択に任せること」という教育の大原則なのではないか。
1992.11.11. T大T部社会教育計画、男
 そうか、生涯学習とは本当に自由な飾り気のない自分を出せるものなのか。でも、生涯学習体系には、当然、企業内教育も入ってくるはずである。各企業は利益を目指して活動しているわけで、そこでは当然、個人の行動もかなりの程度縛られるのではないだろうか。「仮面をかぶって行動すればいい」という(mitoの)考えを以前に講義で聞いたことがあるが、もし企業内教育において自分がいやだなあと思う場面で仮面をかぶっていたら、それは生涯学習で仮面をかぶることに他ならないのではないか。それとも企業内における教育活動は生涯学習に入らないのか。
mito 生涯学習と呼ぶ人はいるかもしれないが、本当の学習とはいえないということである。学習の本質は自己教育だからである。しかし、企業内教育においても本人が納得して内面に取り入れれば、それは自己教育である。「利益を目指して活動すること」を、このペーパーが言うようにそんなに悪いものとしてとらえなくてもよいのではないか。それよりも、企業内教育であろうと、公教育であろうと、教え込もうとしたり、他者の内面まで支配しようとしたりすることのバカバカしさを理解してほしい。
1992.11.11. T大U部社会教育概論、男
 (成人ぜんそくのビデオで)Aさんは実際に独白したわけですが、TVカメラや照明、局の人間などがいるなかで独白が行われていることでしょう。そうなっちゃうと、Aさんの集中力もちょっと散ってしまうのではないだろうか。それにTV局が入り込んでいると、やらせっぽい感じもするし。
mito 映像に共感する場合は、映像に対するこのような批評精神がとても重要である。それは、メディアリテラシーやメディアに対する自己の主体性の不可欠の要素だ。
1992.11.11. T大U部社会教育計画、女
 結婚うんぬんの悩み相談に関するペーパーで、主体性がないんじゃないかっていう言葉がたくさん出てきた。私も先週、もしかしたらそんなこと書いたり言ったりしているのかもしれないので、あまり大声では言えないけれど、なんかイヤだなと思う。もし、相談した人の立場でその言葉を聞いていたとしたら、どんなに参考になるアドバイスでも「主体性がない」なんて言われたとたんにぷんぷん怒りたくなってしまうかもしれない。「主体性がないよ」というセリフの影には、「もっとしっかりしなよ」などの思いがあるんだということはなんとなくわかる。だから、なおさら、プンプン! 影のいろんな言葉に置き換えることができるいろんな気持ちがあってアドバイスしてくれるのなら、そのままの言葉で聞きたいと思う(なんだか、わからなくなってしまいそうだな)。主体性という言葉自体に含まれる意味があるのだと思うから、他者の行動に対してそう簡単に使えるものではないような気がすると、それだけのことでした。
mito このペーパーは、僕の思考回路に対しても鋭い批評になっている。とくに、「主体性という言葉自体に含まれる意味」こそ、教育が学習者とともに解明していく学習テーマなのだということは、「主体性」という便利な言葉を使って、すぐ「まとめ」に入ろうとする教師の独善を的確に戒めてくれている。
1992.11.14. S大教育社会学、男
 (会話術のビデオを見て)はたして言葉でのコミュニケーションはそんなに大事なのだろうか。もちろん、大切かつ重要な一手段ではあると思うが、僕は言葉を用いないでコミュニケーションを図れるほうがはるかにすばらしいことだと考える。ビデオに出てきた「夫婦の会話」ではないが、本当に心が通じていれば、言葉はさほど重要な手段ではないのではないだろうか。目を見て、雰囲気を感じとって、気持ちが通じあえたら、そっちのほうがずっと良いだろう。
mito 残念ながら、愛は言葉にしなければ伝わらないことが実際には多いと思う。なぜなら、現代社会の中で私たちは人間交流の力を損なわれているからだ。ただし、自分自身は、相手が言葉にしなくても相手の自分に対する愛を感じとる努力をしたほうがよいだろう。そうしたほうが、コミュニケーションはうまくいく。しかし、その逆に、相手にそれを要求することはやめたほうがよい。だいたいうまくいかなくなって、「なんで私のことをわかってくれないんだろう」とますます暗い顔をして頬杖をつく例の「魔術的な思い込み」にかかる危険性が大きいからである。
1992.11.18. T大T部社会教育計画、男
 「自分のために生きる」ことは大切であると思うが、それでは利己主義社会を肯定しているととらえかねない。「人のために生きる」なんてきれいごとだと思うが、「自分だけよければ」ととらえると、「自分のために生きる」ことにもあまり同意できない。
mito 「自分だけよければ」というのは、本当にいけないことなのだろうか。自分が幸せになるため以外の努力って本当にあるのだろうか。大切なことは、どうすれば「自分が本当によくなるか」を探ることではないか。「いけない」ととらえるからいけないのであって、「自分だけよければ」などという「馬鹿なまね」はなるべくしないようにしようととらえればよいのではないか。「見返りを期待して行動せよ」というのは、そういう意味である。このペーパーでは、現在の社会を「利己主義社会」と規定して批判しようとしているが、「自分さえよければ」という利己的な行動をとる人が今の社会でけっこう挫折して不幸な人生を送っているのを見ると、今の社会も捨てたものではないと僕は思う。そして、社会は、現象的にはともかく、本質的には「共生」の志向をもっているのではないかと思う。
1992.11.18. T大T部社会教育計画、女
 幸福の追求には「自分のために生きる」ということが重要なテーマだとおっしゃっています。確かに私もそう思うのだけど、最近、私自身が友だちや他の人に行なっている行為は、結局は自分の損得を考えてから行なっている。どちらかというと得だけ考えている自分に気がついています。自分のために生きるのも必要だけど、ほかのことにも目を配らないと・・・。
mito 「気がついてしまうと得でなくなるもの」は、もともと得ではないのだ。S大の授業の帰りの電車の中で、S大の男子学生から、S大の女子学生たちは人間や社会のことをあまりよく知らないがゆえに本人たちは幸せだと思っているのだから、mito的授業によって真実を知らせてわざわざ不幸にすることはないのではないかと言われたことがある。いわゆる「寝た子を起こすな」説である。僕は、「私は人間に関する本当のことなど知らなくてよい」などという人間が一人でもいるのだろうかと反論した。もし、そんな人がいるのだったら、彼の言うことも一理あることになる。しかし、教育において大切なことは、顕在的学習要求に応えることだけでなく、潜在的な学習要求を引き出すための的確な援助を与えることだと思う。それは、すべての人間の成長の可能性を信頼するという教育学の基本的テーマにつながることでもある。
1992.11.18. T大U部社会教育概論、女
 (「学習とは自分が自分を変えること」というまとめの授業で)今日は聞いていて少し辛い話です。敗北主義が基本的信頼と対をなすことや、負け犬という表現が、自分が人間として最悪だと言われているような気もします。でも、本当にはめげないでいます。そういう意味では、自分の枠組というのがかなり固定化した石頭人間なのかもしれません。本来、わたしは非常に依存度の高い人間で、他人の言動に左右されやすいのです。それは自分の枠組をきちんと持てないでいたために、他人と迎合することで、自分の存在を守っていたのではないかと思います。他人の気持ちを理解して意に沿うように行動することが、自分を認めてもらう唯一の方法だと思っていたのです。「他人をその人の枠組ごと理解する」という本来の意味を歪めて、他人に依存していたのだと思います。でも、それは結局、自分で自分の首を締めることにほかならないとわかったので(きっかけについては触れません)、やめるように心がけています。
 まず、今の自分を自分で認めてあげることをしました。他人からどう見られるかということを気にしないということが、今は他人をシャットアウトするという形になって出てきています。うわべの理解(あるいは思い込んだ勝手な理解)に頭が慣れてしまっているので、とりあえず距離をおかないことには他人の感情に巻き込まれてしまうからです。
 一人の人間ですら、そのすべてを理解することは不可能だし、すべての人間を理解するのは到底不可能です。「共感的理解」ができることは幸せなことだと思いますけど、至上主義では疲れてしまうし、シャットアウトしてもいいんじゃないかと思っています。「何からでも学ぶ、誰からでも学ぶ」というスローガンは、わたしには疲れます。学ぼうと思えば何処にでも素材があることは頭のスミに置きつつ、自分の中に学習意欲がわくまで待っているつもりです。
 話を聞きながらコメントを書くのは難しくて、文脈がめちゃくちゃになってしまうし、気がつくと話題はすっかり変わってて困ってしまいます。
 学習意欲ってないはずないんでしょうか? 何かに抑圧されているということなんでしょうか? うーん、よくわかりません。今のわたしの目的は、お金をためて実家を出て、独り暮しをすることです。学習という言葉がつくるイメージとのギャップですか? とりあえず何か意欲があれば、それでいいと思っています。さらに、なんにも意欲がない時があってもいいと思います。ずっとない状態では人間は生きていけませんが、時にはなんにも考えずにぼーっとする期間はわたしには必要です。(多分、先生はそれを否定しているわけじゃないのでしょうけど、なんとなく言いたかったです。)
 非公開と書きましたが、こんな文でも使えれば使ってもかまいません。でも、文章には自信はない。(全文)
mito すべてをよくわかっている人だ。この文章には哲学の匂いさえする。ただひとつ弁解させてもらうとすれば、今回の授業は「まとめ」に入っており、レジメも口述も、かなりのことを捨象しているから、そのなかの言葉には「その場しのぎのウソ」(スローガン)が混じってしまっているのだ。
1992.11.30. S短大社会教育概論、女
 (「熱血先生」の授業のビデオを見て)シンセサイザーの音がすばらしくよかった。この先生自身が音に入り込んでいて、この先生の信念が感じられた。でも、先生の生徒に対する思い入れというか、気持ちがとても強くて、見ていて圧力を感じてしまいました。この先生から「ものすごい熱心さ」が感じられた。
mito このように学習者を「引かせてしまった」場合には、教師はその「引いてしまった」学習者を責めるのではなく、教師自身のいっそうの自己変革に努めなければならないと思う。
1992.12. 2. T大T部社会教育計画、男
 (障害者のための絵画教室のビデオを見て)人間の自分を表現することへの欲求は、あんなに強烈な形を取り得るのかと驚いた。そのエネルギーには圧倒されるものがあった。しかし、映像を見ていて気持ちが悪くなったりもした。それが差別であるとわかってはいるが、その感情を抑えることができなかった。(障害者の娘が冗談を言って家族を笑わせたりするので我が家の福の神であるという)母親の言葉を耳にして、一瞬、偽善を感じてしまった。いくら愛情があっても、あの状況なら、疲れやときには疎ましさを感じるのが普通ではないかと思った。
mito 「差別であるとわかる」というA(客観的に判断する心)を大切にして、自らの差別意識を鋭く問うてほしい。このように文章にして外在化することは、そのためにも有効であろう。そのことこそがもっとも重要な差別との戦いなのである。
mito 我が子というのは、親にとって「福の神」であると同時に「疎ましい」存在である。その点では、この学生の指摘は真実に迫るためのものとして評価できる。ただし、それは「健常児」であっても同様のことが言えるのである。
1992.12. 2. T大T部社会教育計画、男
 (障害者のための絵画教室のビデオを見て)現在、モラトリアム期間として学生生活を送っている私が自覚的に所有しているのは、中途半端な退屈とバクゼンとした将来への希望・絶望のみである。今日は重大な警鐘として観賞した。
 「江戸時代の人たちは過労死もなく楽しく暮らしていた」? どういう文脈上の発言かを伺っていないので、たいしたことは言えないが、少なくともこれだけの内容で判断するなら、無知と想像力の無さをわざわざさらけだしているようなものです。
mito 「江戸時代の人たち、たとえば職人は過労死もなく楽しく暮らしていた」というのは、僕が伝聞したものだ。僕も、この意見をある日本文学者から聞いて、最初は信じなかったが、その人に質問してある程度は納得した。つまり、僕は自分の枠組を少し変えたのだ。
 私たちは学校教育で、文明化、産業化、民主化によって人間は以前(封建時代)よりは解放されて幸せになったと教え込まれているが、それを鵜のみにすることのほうが、「無知と想像力の無さ」をさらけだすことになると思う。与えられた程度の内容で判断することには、この学生のようにそれを断っておきさえすれば、全然問題がないと思う。それより、他者の発言に対して、その発言の内容そのものを批判することなしに、発言全体や発言者のことを「無知」だとか「想像力の欠如」だとか診断するのは、やめておいたほうがよいと思う。
1992.12. 2. T大U部社会教育概論、男
 気をつかわない人は、裏を返せば、自分勝手な人だと私は思う。人間関係を円滑にして生活していくためには、気をつかうだろう。例えば、その人が暑いと思っても、周りの人は暑くないかもしれない。そういったときに窓を開けるということは、自分勝手な行為であると思う。ただ、私自身も他の人に気をつかって接してほしくない。だからといって、まったく気をつかわない人がいいかというと、そうも思わない。だから、ある程度気をつかうということが、他人と接するときには必要ではないかと思う。
mito 理屈で考えるとたしかにそうなのかもしれない。しかし、僕は、気をつかいあって交流できない今の閉塞状況をこそ問題にしたい。みんなが暑いと思っていても、気をつかってしまって、それを心に秘めているだけなので、結局、窓は開けられないままなのである。その反対に、もし窓を開けようとしても、実際に寒くて困る人がいれば、その存在を知って閉め直すなどの結果に落ち着くのではないか。
1992.12. 5. S短大社会教育概論、女
 (mito的授業の評価について)99%と1%の話は、本当にそうだなあって思っちゃいました。自分と人とそれぞれ価値観も考え方も違うので、人から批判されてもそんなに気にすることもないと思うし、それに、その批判されたことを自分の頭のかたすみに置いておくだけで、自分自身もずいぶん変わっていくのではないかと思います。(でも、これって、気にしていることになるのかな??)
1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女
 今日のビデオは、評価についてのものでしたが、あまり興味がわきませんでした。私は評価するということがあまり好きではありません。人が人を評価することは、時には必要でしょうが、今、評価(良い・悪い)ということに重点をおきすぎているように思う。
mito この学生は(たとえば)教員になったらどうするのか。本来の他者評価は「良い・悪い」を判断することではない。究極的には自己評価のための援助にすぎない。選抜試験での「評価」は、むしろ例外である。ただし、評価のメタ評価においては、「良い・悪い」があるかもしれない。「自分が好きではないから」と言って、望ましい他者評価のあり方を追求しないのでは、教員になったとき、結局は、子ども自身には役に立たない「悪い」評価しかできない教員になってしまう。しかし、この学生の言いたいことは、今の社会の現実の評価が望ましいものになっていないということなのかもしれない。だとすれば、評価は、「時には必要」なのではなく、つねに必要だが現在の評価は間違っているということを指摘しなければいけない。
 しかし、もう一歩深く考えてみよう。「人が人を評価すること」がそもそも可能なのかということである。これを拒否して、「人それぞれが自然体で生きたいように生きればよい」という思想にまで徹するなら、評価否定論も成り立つと思う。それは、「人の主体性の獲得を他人が援助する」(評価は学習援助の一形態であるから)ことをめざす教育そのものに対する根底的な懐疑であり、難問(アポリア=ある命題に二つの対立した結論があること)とも言える。これは、向上心や生産性などの概念そのものがクサイという、道家(どうか=老壮派の虚無・恬淡・無為の説を奉じた学者の総称)の思想にもつながるのだろう(老壮思想のことはよく知らないが)。この学生にはそういう思いがあったのかもしれない。そうならば、本人がそのことを意識さえしていれば、「好きではないけど、時には必要」と書かずに、他者評価の意義そのものを否定した文章を書いたほうが時代批評としてはよい批評になるのである。
(だけど、そうか、この「批評」自体が不要だという論も成り立つのか。一人ひとりが「好きかどうか」のほうが価値として大切なのか。そうなってくると、僕にもわからなくなってきた。MAZEだ・・・。)
1993. 4.21. T大T部社会教育計画、女
 ミトチャンという呼び名はどうも業界人ぽくてなじめないので美東士さんと呼ばせていただきます。今日の講義で美東士さんと私とは異人種なんだなァと強く感じました。私は、今でこそ、社会教育主事でもとろうかな、と文学部の授業をわざわざとっていますが、本当は社会教育のサークルに所属し、1年から何のかんのと勉強してきましたので、今、周りに座っている人を見回しては「どうせ資格目当てだろう」と小バカにしている非常にゴーマンな人間です。
 しかし、3年、4年と資格取得のための社会教育の授業を受けるうちに、自分がだんだん、小難しいが内容を何も理解していないただのイヤな奴に思えてきています。初めに「美東士さんと私とは異人種」と書きましたが、たとえばすべての学習者に学習機会を、とか、国民のニーズを知ることが大切とか、もっともなことをエラそうに言う私と、雄弁をふるって楽しそうに講義する美東士さんとはやはり完全に違う。もちろん、美東士さんがうらやましくてそう思うのです。いわば理論のみでガチガチの全共闘カタギの学生が、オールラウンドサークルで楽しそうにしている人たちをうらやむのと一緒かも。
 今、就職活動をしていますが、企業は個性的、自由な発想、明るい性格を人材としてほしがっています。ハタと気づくと私にはないものばかりだなァと途方にくれる今日この頃です。美東士さんのような人を認める時がきたなァと、今ぼんやり考えています。昨年の私だったら、「アンタなんか大キライ」と思ったかも。1年間楽しみたいと思いますので、よろしくお願いします。
mito 本当の「闘士」とは何か(ぼくは闘士ではないけれど)。
1993. 4.21. T大T部社会教育計画、男
 たとえば中学や高校の頃、授業の初日で、担任が「いいか、何か悩みごとがあったら、オレんとこにじゃんじゃん相談しに来い!」てなことを言ったりする。兄貴カゼをふかせる輩だ。ぼくはこういう輩が嫌いである。
 履修要覧に載っているこの授業のコメントを読んだとき、ぼくはあからさまに言うと、「うー、胡散臭え」と思った。思ったが、実際にこの目で見てみなければ何とも言えんなーと思って出てきた。
 慌ただしい・・・。
 ぼくがこの紙に何やら書いているのは、もしもぼくが教壇に立つ側だとしたら、やっぱり聴いている側の人間の反応を知りたいと思うからだった。うーむ、まとまらん。時間がない。また来ます。
mito 「生まれちゃったから生きている」への批判については、若干反省して修正を加えている。
1993. 4.26. S短大社会教育概論、女
 生命をうけたら・・・。いっしょうけんめい生きる。「しょうがないから生きてる」なんて思ったことない、私は。だって、母さんのおなかから出た時、泣いたからねえ。
 しょうがないから生きてる人だって、きっとおいしい物たべれば「おいしい」と思うし、キレイな物を見れば「キレイ」だと思うし、それがあたり前だとは思わないけど、でも、息してるし、体を動かすし、ボーッとするし、泣くし、楽しいし、うれしいし、悲しいし・・・。だから生きてるし。
 生きてるって思えることじたいスゴイ。植物人間の人はどうだろうッ。しようがないから生きてる人なのかも、考えられないのだろうか。生きてるって思えるのかなあ。どうだろう。
 木がはえてるのと同じ。私もはえているのである。植物の芽が出たのと同じ。私も出たのである。木ははえちゃったなんて思わないと思う。芽は出ちゃったなんて思わないと思う。でも、木の気持ちはわからない。芽の気持ちはわからない。
● 真理には到達しえない
1992. 9.16. T大U部社会教育計画、女
 (金魚鉢トレーニングで)今日のものは会議術とはちょっと違った方法のように思います。ただ話し合ったというだけだと井戸端会議的になってしまいます。やはりリーダー役がないと会議としては発展していかないと思います。会議というからには目的があり、その意図がはっきりしないと今日のような具合になると思います。
mito 会議術よりもおしゃべりサロンの教育的効果があったと思う。
1992.10.22. S短大視聴覚教育、女
 学生のスルドイ考え方や質問に対して、いちいちりくつで答えられるmitoちゃんはスゴいと思う。また、りくつっぽいとも思う。私の場合、自分が「絶対こうだ」と思っていても、そのことについて納得いくような他人(この「他人」は先生や年上の人など、目上の人にほとんど限定される)の意見を聞くと、すぐに自分の意見がその他人によってせんのうされてしまう。タダの単純なのか、意志が弱いのか。しっかりした意見を持ちたいが、なかなか難しい。mitoちゃんの授業でも、たった2回だけだが、かなりmitoちゃんの言葉に洗脳された。なるほどと思うとすぐにそっちに傾く。でも、そういう意見を持っている人はウラヤマシイ。そんな私でも、他人に結構えらそうな口をたたいたりする。人生は矛盾が多い。つかれる。
1992.10.28. T大U部社会教育概論、女
 よく障害者を通じて仕事をしている人たちは、「教えられることが多い」とか言うけれども、一体、何を得られるのでしょうか。漠然とは私にもわかりますが、いつも「何を」得られるのか疑問に思います。みとちゃんはどう思いますか。
mito 生涯学習とは、何からでも誰からでも学びたいことを学ぶことである。
1992.11. 4. T大U部社会教育概論、女
 共感的理解について思うこと。私の仕事(看護)は、共感的理解なしにはやっていけない。そして、看護学生は同感しなければ看護できないと言ってくる場合が多い。たとえば、手術を受ける患者さんの心理を理解できない。では、自分自身が手術を受けなければ良い看護ができないかというとそうではない。私が実習担当している産科の分野では、とくに、「自分は子どもを産んでいないから、産婦さんの気持ちがわからない」とよく言う。しかし、私は、実際に自分が出産体験をしている助産婦さんから以下のようなことを聞いたことがある。「自分の分娩体験ばかりを強調してしまっていることがあるの。たとえば、自分の陣痛の時はこうだったから、と助産婦さんに押し付けてしまっていることが多いのよ。だから、産婦さんの本当の気持ちを理解しないで押し付けの看護をしていることもあったのよ」。
 体験していることは同じであっても、分娩経験が何回あっても、その人のその時の感じ方、状況によっても違ってくる。その時、その時、その人を理解しようとする気持ちが大切だと思う。最後に「ターミナル・ケアは、死んでみないとわからない看護ではない」と話すと、学生は納得した表情を示す。(同感は客観性を欠いてしまうこともあり、看護の判断を鈍くすることもある。)
1992.11.18. T大T部社会教育計画、女
 社会教育の授業は、その時その時はすごくおもしろくて、自分なりに納得して「勉強した」という気になるのですが、あとで思い返してみると、なんだかよくわからなくなってしまうことがよくあります。漠然としすぎていて、奥深くて、難しいなあと思いました。全授業が終わったとき、何か心に残るようなものがつかめたらいいなと思います。
mito 教師としては、学習者を「納得して勉強したという気になった」で終わらせたらいけないのではないか。いったんは納得しても、「やっぱりアレッ」と思うことが大切だ。そうでなければ、教師の手の平の上で学生は学習するということになってしまう。僕の授業は、自分自身では、むしろその問題点をもっていると感じるときがある。学習者に、自分がわかっていないということを認識させることは、「個の深み」の深化のためにとても重要であり、授業という「話し言葉メディア」においてはそこが勝負どころになると思う。「勉強したという気に」させるためには活字メディアだけでも十分なのである。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、男
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)先生の授業を聞いて、自信という言葉の意味や、指導や教育にあたるときのオープンマインドというか、自分のわからないことや迷いを表しながらの接し方に学ぶところがありました。自分を見つめるということはなかなか難しいことだと思いますが、あわただしい日常の中で自分を見つめることの少なくなっている自分に気づかされました。授業はおもしろかったと思います。
mito 教師がわからないとき、迷ったときは、「その場しのぎのウソ」だけはついてはいけない。あとは、その教師の個性でどうにでもなるものだ。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、男
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)mitoさん、なんか頭の中でぐるぐる回ってません? でも、いいな。ぐるぐるしちゃうときってあるし、それを素直に自己表現できているのかな?(どうなのかは意見が分かれるところでしょうけど)。私もいっしょに回ってしまうのでありました。しゃべっていない人がいますよね。その人たちの自己表現は表面的には見えないですよね(見えないようにしか見ていないのか)。でも、自己表現はそういう問題じゃないような気がします。黙っていても自己表現できるようなことではないかなという気がしております。それは何なのかわかりませんが、でもなんかわかったような、という気持ちです。今日はおもしろかったというか、mitoさんもこういう授業が必要であると思います。mitoさんが心を開くというのか、mitoさんとみんなのTwo Way なのかな。投げかけ方がmitoさんの実存から出てるのかなという気がします。
mito 「自己表現できないのは不幸だ」と僕が言い切ったことがなぜ間違っているのか、このペーパーはその本質に迫ろうとする内容だと思う。そして、私たちがめざすべきTwo Way の授業とは、ただ単に全員がしゃべったかどうかを問うような戦後民主主義の形式的な「会議術」を超えたこのような次元にあるのだと思う。
1992.12. 9. T大U部社会教育計画、男
 (mito的授業の評価で)今日のペーパーで言っていましたが、先生の授業で何を習っているのか説明できないとありましたが、私も、どんな授業なの?と聞かれたら明確には言い表せないです。しかし、私は、自分に対して考え悩むことが、ほとんど毎回の授業中にあると思う。ということは、つまり、そういう授業なんですね。
1992.12.16. T大U部社会教育計画、女
 (「私の好きなこと」をしゃべる授業で)自分を表現することがとても苦手で、誤解されることが多いと思っていたけれど、「1」を表現することの下手さがそういう結果を招いていたのかなって、今日の授業で感じました。表現することの大切さを少し知りました。
mito 10を知ってもらう必要はない。1を話せば、相手が勝手に10を知ってくれる。これを歓迎することは教授法のポイントでもある。ただし、その場合、自分が伝えようとした10とは違う10になりうる。それは相手の側の枠組が影響するからである。しかし、そのことは、自分の思い通りになる10よりも、本来、よっぽど楽しいことなのではないか。
● 批判の刃を自己にも向ける
1992. 9.12. S短大社会教育特講、女
 (金魚鉢トレーニングで)めちゃくちゃ緊張した。いつも人の目を気にする方なんだけど、こうも「見てます」というふうな状況におかれることは全然なかったので、ほんと、疲れた。
mito 思い切ってまともに対面してしまうのがエンカウンターの特徴である。それは「普段でもいつもそうするとよい」という意味ではない。
1992. 9.16. T大T部社会教育計画、男
 VTRに関してだが、見ていてなんだか見にくかった。見にくかったというのは、画像が悪くて見にくかったという面もあるが、自分の弱い部分を見せつけられているようで、多少つらかったという面もある。フリースペースに集まっていた若者たちは決して特異な存在ではないように思えた。私たち、平均的な普通の人といわれている者の中にも同じような心理的葛藤は少なからずあるだろう。人間の誰にでもあるような弱い部分が、たまたま社会的、対人的影響を受ける過程で顕著化したのが、引きこもる若者たちのような気がした。
mito 現代社会の私たちの問題は、同じ穴のムジナと言うべきなのだろう。
1992. 9.30. T大U部社会教育概論、男
 どんな理由にせよ、学校をやめていった人が学校を批判しないでほしい。そういうことは、学校にちゃんと行っている人が言うべきだと思います。
mito これを言い過ぎと感じる人も多いだろう。しかし、僕は、この人がこの言葉を自分自身に対して言う分にはとてもいいことだと思う。つまり、良い批判者であるためには自分に厳しくあれ、ということである。
1992.11. 4. T大U部社会教育概論、男
 とくに私の興味を引いたのは(2)の教育目標(自らの内なる差別と偏見を克服して、主体性を主体的に自己管理できるようになる=メタ主体性)なんですが、やっぱり自分の内世界に差別、偏見を見いだすことが少なくなっているような気がしているんです。なぜかというと、自分の基準だけで物事や人の人格を見ようとする人が増えているように感じられるからです。私自身も、時々、自分自身の個の部分(自主的、主体的に自主性について考える時)でさえ、自分中心主義になってしまうことがあるんですよ、残念ながら。
 自分自身のコントロールや自分の内世界をストイックかつアクティブに表現したり、また、自分自身の内世界に多くの基礎的な方向指示機をもつことによって内世界の幅を拡大しようとしたりすることで、今まで自分自身ですら気がつかないロジックなどを見いだすことができるようになればいいんでしょうけれど、それまでには、いろいろなことを学んだり、よい遊び友だちをつくったりしないと、自分自身と違う基準や対応方法などがあること自体を理解できなくなってしまうと思えてならないんですよね。言い替えれば「よく遊び、よく学べ」ってことではないかと私は考えています。
 みとさんの生涯学習論(自分を変え続けること)については、私も同感です。ちょっと私も自信過剰なほうだと友人によく言われます。ただ、それは自分に自信があるからではなく、自分のやりたいことが自分自身でまだまだ「漠然」としているからなんですよね、私の場合。それと、まだまだ自分自身、知りたいことが山ほどあるんですよ。なんせまだ私は23年間しか生きていないのですから。まだまだ多くを学び取りたいと思っています。「私自身、自分自身でありたいからどん欲に」ってことですかね。
mito この人の「よく遊び、よく学べ」の解釈には鋭いものがある。自分の枠組を変える覚悟ができているのだろう。それはつまり自信があるのだといえる。「それなりに20年近く生きてきて価値観を築き上げてきたのに、それを崩されるようなことを言われるのはつらい」と僕の授業で感じてしまう学生もいる。このような所で、それぞれの人びとの自らの成長に関する要求水準の差が表れてしまうのだろう。
1992.11.11. T大U部社会教育概論、男
 「FCを取り戻そう」というのは、とても大事なことだと思う。たとえば、歳をとっておじいさんになっているのに、バイクに乗り回したり、世界一周を企てたりするのは、本当に素晴らしいことだろう。ただ、歳をとっていてFCの強い人は、日本のようなムラ的意識の強い社会では「変人扱い」されるきらいがある。口に出して言わなくても、どこかで社会的集団から一線を引かれてしまうのである。「人がどう思っていようと勝手にしろ!」と開き直ってしまえばいいのかもしれないが、やはりそれではさびしいだろう。
 とにかく日本は異質なものを区別しすぎだと思う。アメリカのような多民族多価値の国では、さまざまな考え方を認め合う動きがみられる(もっとも同様に差別もあるが)。日本人一人ひとりがさまざまな個性を受容できるようにならない限り、個人がFCを取り戻しても孤独になってしまうのではないか。
mito 本当に私たちの問題ではなくて社会の問題なのだろうか。もちろん、たとえばNPが極端に低いなど、バランスが悪いと孤立してしまうかもしれないが、社会の実際の場面でこのことを考えてみよう。会社で人間関係をうまくやっていける人は、目上の人ばかりにヘエコラしていて部下には口うるさいCPとACの強い人よりも、のびのびしていて誰にも親切で独創性のある人ではないか。夫婦関係でも、ただ厳格か(CP)従順な(AC)だけで自分らしい楽しみ(FC)をもっていない伴侶だったら、いっぺんにいやになってしまうだろう。むしろ、自分自身の内面に社会に対する過剰適応の傾向がないか、点検することが大切だと思う。
1992.11.11. T大U部社会教育概論、女
 先生がよく口にする「さわやかな自己主張」に関して、この言葉のもつ意味の奥深さや広さを考えたら、よくここまで簡潔に言葉として表現できたものだと感心します。(封建的な会社で上司に自己主張して)結局、私は自己主張したがゆえに1つの社会から排除されて「The end」となったわけです。一時は自分の無力さと、とても立ち向かうことのできない世の中の大きな壁、矛盾を感じても日本の社会制度の中で生きていくには自己を押し殺していかなければやっていかれないことなど・・・、いろいろなことに悩み苦しみました。
 そんなある日、ふっと頭の中に1つの言葉が浮かびました。「私はベルリンの壁の前の1匹のノミなのだ」。決して崩壊されることはないと言われていたあの大きな壁も撤去され、はや3年・・・。そして、どんな小さなノミだって、一生懸命にジャンプすればいつかは大きな壁でも越えられるかもしれないし、たとえ越えられなくても、小さな壁のすき間から向こう側へ行かれるかもしれない。だから、どんなに眼の前の壁が厚くても、決してあきらめずに、つねに前向きに自分の信じた道を歩んでいこうと思いました。他人の意見の大切さと、受け入れることの重要さをふまえた上で自分の考えを出す。これはとても難しいことだと思いますが、いつどんな時でも「さわやかな自己主張」ができる自分を求めて、これが今後の私の課題です。
mito もし、個の存立を許さない社会の側の問題があったとしても、個のほうに主体性が備わっていれば、それに適応するのではなく、このように自己解決に向かうことができるのであろう。僕自身はこの人の境地にまでは至っていないが。
1992.11.16. S短大社会教育概論、女
 先週の(成人ぜんそくの)ビデオは結構つらかったです。私はどうしてあの場面をテレビに映してしまったのかと思いました。誰も悪くはありません。でも、一度出た怒りや憎しみはなかなかおさまりません。主張することによって相手にそれをわかってもらったらぜんそくも治るかもしれません。しかし、「私はあの人に傷つけられた」と、人はみんな「私は、私は」と思います。それぞれみんなつらいことはあります。自分がつらい時は自分のつらさの大きさしかわかりません。あのビデオを例にとって説明するとしたら、「お父さんはお父さんなりにつらかった」、「息子はお父さんから苦悩を与えられた」、この事実しかビデオではわからなかったけれども、もしかしたら、あのぜんそくになった男の人も、また、家族に、他の人に、悩ませる要因をつくっているかもしれません。(中略)(自分の体験によって)私がつらかった要因から影響を受けてつらい思いをした人もいたことに気づきました。だから、私だけがとはもう思えません。(中略)(主張しても受容されなかったさらに悲しい体験があったが)悲しいのはそのままとっておきます。
mito 「さわやかな自己主張」の本質は理念あるいはレトリックであって、実体ではないのかもしれない。実体のほうを描ききれれば良質の小説が書けるであろう。しかし、実生活の上では、主張のあとで、相互受容つまり「許し合い」があって初めて問題は解決されるのである。その場合の「許し」とは、「悲しいのはそのままとっておきます」というこの人の言葉に近いのかもしれないが、僕にはこの言葉を完全に理解する力はまだない。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で、mitoの授業が説教くさいということなどについて)こちらの未熟さによる不快といったところでしょうか。美東士先生は反面教師ではなく(私にとっては)、私がついていけないだけ・・・。それを何とも思わなくなりつつある今の状態は、私にとっての危機で。先生はそのままでどうぞ。
1992. 1.20. T大U部社会教育概論、男
 私はこの講義の本質、先生の言いたいことを理解せずに終わってしまった。私がこの講義を取って得たものといえば「むなしさ」のみであった。自分という人間があまりにもつまらなくちっぽけな人間でしかないこと。何のために大学に来ているのか、入学当初の気持ちはどこへ行ってしまったのか。なぜ、この人は「出席ペーパーを3回出せば単位をやる」と言ったのか。その言葉に甘え切って自分にプラスになったことは? また、マイナスになったことは? 次から次へと自分の1年間の行動に嫌気がさすことばかりになってしまう。
1993. 4.17. S短大教育社会学、女
 久しぶりです。去年の視聴覚教育の時間以来ですね。あの時、私はミトちゃんにラベリングという行為を受けて泣いたことのある者です。あの時は本当にむかついてミトちゃんの言うことすべてに反抗的になってしまい、こ・こ・ろ生涯学習P93にのっていることを書きました。あれから1年近くたって、落ち着いて考えてみると、あの時の私の怒りはうまく言えないけれど、自分に対する負い目があったからのように思います。レッテルを貼られるような行為をした自分に自己嫌悪に陥ってしまいました。そのうえに素直に謝られてしまい、その時は、良い先生ぶっているようにしか思えなかったのです。
 短大2年になって、「教育社会学」の講師が「西村美東士」なのを見て、ああやっぱりって思いました。去年のことを思い出してしまい、嫌な気分にもなっていました。ただ、今思っていることは、去年の思いは捨てて、新しい始めての先生として接していこうということです。ミトちゃんの去年のイメージを真っ白にして、好意的になりたいと思っています。ミトちゃんのことを好意的に思っている子が、自然に「ミトちゃん」と呼んでいるように、私もすらすらと「ミトちゃん」と呼べたらいい。とりあえず、去年から昨日までは、私はミトちゃんのことを「あいつ」と呼んでいました。とにかく、ゼロから、ミトちゃんの授業や考え、言わんとしていることを見直したいと思っています。
 少しひねくれている自分の性格を直すためにも。
 これから私の考えがどう変わっていくかはわかりませんが、今はこう思っています。続くかぎりよろしくお願いします。
1993. 5.26. T大U部社会教育概論、男
 (学園祭でアダルトビデオ女優の水着姿を見て)僕を含めて、なぜ、飯島愛のようなスタイル(ふんいき)の女性に目がギラギラして下半身がうずくのであろうか。それは本能であろう。たぶん本能ではあるのだが、どういった本能なのか。また飯島愛のふんいきといったが、それはどんなふんいきなのか。彼女のしぐさなのか、トローンとした目なのか、言葉では表現できないあのなんともいえない足のラインなのか。あるいはそれらの全体的バランスか、目に見えないフェロモン、オーラを発しているのか。
 仕事がバリバリできて、ものごとをはっきり言えて、具体例を出すなら土井たか子さんのようなタイプの女性より、飯島愛のようなセックスアピールいっぱいの女性に、世の多くの男性は下半身を熱くしてしまう。なぜだろう。
 (授業で視聴した性教育の)ビデオで、河野さん(産婦人科の女医)がいまのポルノの氾濫について、次のようなことを言っていた。「どの雑誌を見ても、女性をレイプするといったシーンが多く、女性をモノとして見ているようだ」。僕もふくめて世の男性は女性を見る心をマインドコントロールされてしまっているのだろうか。また、なぜ、女性をモノとして見るような雑誌が多く売られているのか。それは、僕たちがそれを求めるからなのか。そうではない気がする。
mito 先生ヅラしていない発言である。ただ、ぼくたちが異性をモノとして求めるように仕向けられているのだとしても、モノとして実際に求めている主体はぼくたち自身である。状況のせいにするのではなく、自分や他者を信頼するとともに、自分や他者の主体を問うこともときには必要である。
1993. 6.12. S大教育社会学、女
 自分を変えることって、とても難しいことだと思います。できることかもしれないけれど、勇気のいることだし、口で言うほど簡単じゃないと思う。自分を変えるというのは表面的なことではなくて、心の中を変えるということでもあると思う。私も自分のいやな部分を自分で発見することができて、「直さなくては」と思い、まあ固く言ってしまえば、「自分を変えようとする気持ち」がわくのですが、とても難しい自分に対する課題で、ある意味で今まで自分の持っていた性格、自分の財産みたいなものを捨てなければならないことでもあると思う。自分のいやな部分を発見しても、高校の頃は「それでも私なんだ」と思って強がっていましたが、それって自分へのごまかしだし、逃げていることなんだなあと、最近よく思います。だから、時間はかかっても、自分と自分が向い合う必要があると思います。
mito 学習とは今までの自分の知識や態度の枠組を変えることである。しかし、「自分のいやな部分」と言うが、ほかの人から見ると、あなたが思っているほどにはあなたは「いやなやつ」ではないのである。逆に、ほんとうに「いやなやつ」とは、自分の「いやな部分」に対してそのように気づいたり、悩んだりしない人間である(ぼくには少しそういう傾向がありそうだ)。「自分のいやな部分」に気づいたうえで、「自分を変える」主体的な学習と、自己受容や自己信頼(自信)の両方が、統一的に成り立つのである。
1993. 6.28. S短大社会教育計画、女
 今日のmitoちゃんの話の中で、批判してくれた人への信頼が持てるかどうかという問題について、無意識のうちに自分はすばらしい人間だという意識がどこかにあるから、その部分が傷つけられたような気がして信頼を妨げると、そして、ありのままの自分を認める心の強さが大切だと言っていました。私は、この話を聞いて、私自身、何かに傷ついたときに、いつもそのような弱い気持ちがあったような気がしてドキッとしました。でも、この社会教育課程の授業の中で、批判することと批判を受けることの意味が少しわかったような気がしました。
mito 支持的風土における批判のあり方は、自他の存在の否定ではなく肯定のうえに成り立っている。批判は否定の逆なのである。また、相手への批判の刃(やいば)は、自己にも向けられるものである。そして、そういう批判の根底には、自己・他者受容と共感的理解が息づいている。
● 他者の存在が自我を深める
1992.10.28. T大T部社会教育計画、女
 私は最近ほとんど学校に来ていません。やりたいことがあったはずなのに、どうでもよくなってしまい、専門の授業は苦痛でしかなくなってしまいました。そのかわりに一生の仕事にしたいというものを見つけて、そっちのほうの勉強はしっかりとやっています。結局、学科、大学とはまるで関係のないほうに進もうとしているわけで、親に言わせれば「何のために大学に」ということになってしまいますが、大学に来たからいろいろなことを考え迷い、「自分」を保ち続けていられるようになったんだと思います。
 今、出席ペーパーの中身を聞いていて、なんだかわけのわからない気分になりました。言葉にすると変なふうになってしまうけれど、言葉にならない言葉が心の中で叫んでるって、そんな感じです。(文になってなくてすみません。)
 私は自分が何なのか、どーゆー人間なのかよくわかっていません。わかることを拒否しているのかもしれない。でも自分で立ちつづけたい。自分で在りつづけたい。そう思います。そのためには何をすべきか、何をしたいのか。それを自分の中で探しながら生きていくのは大変だし辛かったりもするけど、やっぱり自分で在りたい。だから何とか生きていけてるような気がします。
 今までほとんど出たことがなかったけど、”大学”に来てから今まででいちばん真面目に受けた授業のような気がします。関係ないことですみません。
1992.11.11. T大T部社会教育計画、女
 やめるときより、続けるときのほうが勇気がいる、というペーパーにはうなづけます。私が1年生のときは、すべての授業に出ていて、休むことができませんでした。みんなは出なくていい授業には出ないことができるのに、私にはできなかった。高校の頃の延長なのかどうか、とにかく全出席していました。それが2年になり、3年になって、どんどんと出席する授業の数が減っていきました。出なくてもいい授業には出ないことを始めたら、自由な時間がたくさんできて、ずっと生活がラクになったのです。そして、自由な時間にはバイトをしたり、趣味のことをしたり、ゆっくり眠ったりして、今までになくゆったりとした生活を送っています。しかし、よく考えてみると、これが学生のすることなのでしょうか。授業に出なくなることは、慣れてしまえば簡単でした。でも、誰も出ない授業に一人だけで出席することは? きっと今の私には難しいでしょう。ちょっとニュアンスが違ったかもしれないけれど、やめるにしても、続けるにしても、人と違うことをするのは大変なことです。
mito 自分の「実存」が何を学習することを欲しているかを探ることが学習にとって重要なのである。生涯学習で「学びたいことを学ぶ」とは、そういうことである。
1992.11.18. T大U部社会教育概論、女
 まとめに入り、「自分のために生きよ」「潔く生きよ」に関しては、とてもウンウンと納得することができた。自分自身、それらの目標に向かって生きていけるように、と思っていた。しかし、最後の「さわやかに依存する」だけは、自分には、頭ではわかっていても、たぶん自分自身できないだろうなと思っていた。依存は、自分自身に対する「負け」だと感じていたからである。
 しかし、突然、降って湧いたように結婚することが決まり、やっと、この「さわやかに依存」することの心地よさがわかってきた。今まで「私が、私が!!」という頑張りだけだったが、少し肩の力が抜けて楽に生きていけるような気がしている。お互いにじょうずに依存しあって生きていける社会になればいいなァと・・・。
1992.11.21. S短大社会教育特講、女
 (自己受容トレーニングで)私が「自分が自分を好きなところ」を言うのも、友だちのを聞くのも、楽しかったと思えたのは−、そうです、わかりました! この時間・空間・仲間だから、そう感じることができたのです。mitoちゃん先生や社教の友だちに対して「ありのままの私を受けとめてくれるだろう」という信頼があるから、私はわりと気軽に、自分の中では楽しく過ごせたのではないかと思います。
 1%でも「そうじゃない」と考えると、言ったら嘘を言うような気が前はしていたけれど、それって違いますよね。私は社教によって感化されている自分が好きです。自分や他人を、そのまま受け入れることの幸せや嬉しさを感じられるようになりつつあることが、楽しくて、ラクで、mitoちゃん先生と社教の仲間に感謝しています。
 今、なんだか真面目な気分。「何か、もうちょっと深くみんなでor1人で考えたい」という感じです。そういうときの自分も好き。社教の授業も好き。そして、授業が終わったあとの(毎回違った)こういう不思議な気持ちになるのも好き! 今、私の周りの人、環境、ぜんぶ、すきっ!
1992.12. 2. T大T部社会教育計画、女
 (障害者のための絵画教室のビデオを見て)自分が恥ずかしくなってしまいました。障害をもって、でも、あんなにいっしょうけんめいに生きている人もいるというのに、私は何をしているというのでしょう。いかにラクに生きるか、うまく生きていくかを考えていた今日この頃の私の甘えた考え方を思うと、つくづくイヤになりました。障害者を差別するとかしないとか、そんなことより、みんな同じ人間で同じように生きているのだ、いいえ、健常者以上にいっしょうけんめいに生きているのだということを強く感じました。ともすれば、生きていても死んでいてもたいして変わらないやと思いながら生活している私にとって、このビデオは何かを、まだ何だとはっきり言えないけれど、確かに与えてくれたものがあると思いました。自分の気持ちを表現するのは、障害者の人でなくてもたいへんだと思います。もっともっと、誰もが自分を表現して、それを認めあえる社会になってほしいな、と思いました。
 潜在的学習要求について。すべての人にあるとは思えません。本人が知りたくないと思うならば、それは知らせるべきではないと思うのです。それを知って、その時はショックを受けても、乗り越えられる人ならいい。でも、乗り越えられないから、自分にその力はないということが、なんとなくでもわかっているから、知ろうとしていない人たちだって多くいるのではないでしょうか? すべての人が知りたいと思っているとはとても思えません。たとえばmitoさんがチラッとおっしゃった「生まれたから生きているだけ」の人たちにとって、多くを知ろうという気があるのかどうか。どう思われますか? 「まとめ」の授業だったけど、(前回は「新しいこと(もの)にあまり出会えず、ちょっとものたりない気もする」と書いたが)今日の授業はけっこう考える所があって良かったと思います。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、男
 役割遂行から給料という話だが、当り前でつまらなかった。他の人(生徒)が興味をもっているのが(意見しているのを見て)不思議だった。先生にあわせようとしているのでは?! 当然のことで、話題にするまでのものではないと思う。3回出席したら単位はくれるんですよね。あと1回で3回です。
mito 僕の言ったのはこういうことである。素晴らしい人間であるからといって、その分の給料がもらえるわけではない。その素晴らしさを社会に出した分だけ、社会から還元されるだけの話だ。「こんな素晴らしい自分がなぜむくわれないのか」などと愚痴をこぼして社会のせいにするのはやめたほうがよい。自分がどれだけ社会に対して役割遂行しているか、役割遂行できるようになるか、その役割遂行に対してきちんと見返りがあるだろうか、ということを悩んだほうがよい。そして、自己実現は自己実現で潔く「自分のために」追求すべきだ。つまり、役割遂行と自己実現は異なるものなのだ。
 たしかに僕はこの話をするとき、「当り前すぎて学生にとってはつまらないかな」という不安をもち、それを実際、話の途中で何回も口に出して学生に聞いたのを覚えている。なぜなら、僕自身がこの自分の話を素直に受け入れられるほど「潔く」ないために、つい社会に対して不満を持ってしまう人間だから、この話にこだわりをもっているだけで、もしこういう僕を超えたレベルの学生がいた場合、そんな当り前の話はつまらないのではないかと心配になったからである。だが、この話に噛みついてくる学生がいたので、やっぱり問題提起してよかったと安心した。
 そう思っていたところに、このペーパーである。「先生にあわせようとしているのではないか」・・・、他者に対するこの傲慢な不信感はどこからきているのだろう。なぜ、「ほかの仲間がこんなことで興味をもっているということは、もしかすると、自分のほうが無知なだけなのではないか」と考えないのだろう。なぜ、「こういう授業にずっと出席しなくて(できなくて)人生の大きな損失だったかもしれない。それを取り戻せないか」というように考えないのだろう。ぼくが「当り前すぎて、つまらないかもしれない」と心配したのは、この学生の言う「当り前」とは違うレベルにおいてである。
 皮肉な言い方に聞こえるかもしれないが、僕はこの学生を気の毒に思う。「個の深み」を楽しみ、人生をていねいに生きる力をかなり失ってしまっているのではないか。単位取得などの「社会的制度」を完全に人格の中にまで受け入れてしまっていて、憲法で自分に保障されているはずの幸福追求の権利を忘れ去ってしまっている。
 と、僕自身を中心に考えるとこうなるが、しかし、客観的には、僕の授業が少なくとも一部の学生にはツー・ウエイでなくなっていることへの訴えととらえることも必要かもしれない。また、もっと冷めた目で、このように教師と「そりが合わない」学生は必ずいるのだから、そしてそれはどちらが悪いということではないのだから、「3回出席単位認定制度」はそういう意味でも有益である、ととらえておいてよいのかもしれない。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 今日は授業(先生と一部の生徒とのやりとり)を聴いているのみでした。役割遂行は自己実現とは違うことなど、身近なテーマからの問題(?)でしたが、みなさんの発言のレベルが、私の考えつく内容とはかなり違っていたため、自分がとまどってしまいました。違う視点から1つの観点について論じるとおもしろい見解があるんだなーと思いました。教え、指導する側としての美東ちゃん、個人としての美東ちゃん、何を話すにしても、話すときの立場を問われ、難しいですね。私も教職をとっているのですが、ちょっと考えさせられました。
mito 自分とは違う枠組の他者がいるから、人間やその世界はおもしろいということであろう。
1992.12. 9. T大U部社会教育概論、女
 mito先生の授業の評価の例にあるように、1つのことが、A学生には○印(良い点)に見え、B学生には×に見える両面があるわけです。理屈ではわかっていたのですが、mito先生のこの例で具体的になりました。
mito 人間存在だけでなく、その授業もアンビバレンツなのだろう。だとすると、教師も学生もアンビバレンツを克服するのではなく、アンビバレンツとともにやっていける力が必要なのかもしれない。
1992.12. 9. T大U部社会教育計画、女
 出席ペーパーから、mito先生の評価を、先生自身が細かい分析をされました。その熱心さに心をうたれ、うなずかされた授業でした。珍しい教授の一人です。しかし、学生の皆さんのコメントのすばらしさに感心させられ、自分の愚かさに気づかされました。もっともっと洞察力を身につけねばとあらためて思った次第です。「自分」という存在をよくよく見つめ、ほんとうの自分を早く見つけ納得させたいのです。ついつい自分でない自分を演じてしまっていることの多い今日この頃です。mito先生の講義になると、いろいろ考えさせられます。普段、職場でも、学生仲間でも語ることのできない分野の講義です。このスタイルの講義方法に賛成です。主体性がだんだんと身につけさせられていくように思います。
1993. 4.24. S大教育社会学、女
 よく「自由になりたい」とかって言うけど、自由って一番自分に責任のかかること、じゃないでしょうか。自由にやれ!と言われると、しっかりしなきゃ、と思ってしまう。今日、講義中に、私のななめ後ろの人が競馬新聞を広げて大声で話していたけど、いったい自由って何なの?と思ってしまった。でも、私たちは学生だし、選んでこの講義を取っているんだから、もっと自分に責任をもって行動していくべきだと思う。
mito その人が競馬新聞を読んでいたって、別にかまわないのではないか。後ろの人が黒板が見えなくなるような新聞の広げ方をしてさえいなければ。もしかすると、その人にとっては、ぼくの授業を聴いているよりも、競馬に詳しくなるほうがこれからの世の中では出世につながるかもしれない。あなた自身が、「今、ここで、自分で選んで、自分のために学んでいる」という原点を確認してほしい。だとすれば、ほかの人が「競馬新聞を読んでいること」を気にするのではなく、「大声で話していること」に焦点を絞ってその人が自分にかけている迷惑を糾弾すべきなのである。
 ぼくの授業中、競馬新聞を読んでいたってかまわない。面白いと思った所だけ聴いてくれれば、ぼくにとっては十分だ。だが、このペーパーを書いたような人の人生を邪魔してはいけない。自分が授業に興味が感じられないからといって、大声で話して、ぼくの授業を静かに聴いていたいという人たちの邪魔をするのは、潔くない生き方だ。そういう潔くない人には、いつか、人生の中で挫折を感じてほしいとぼくは思う。さぼったってかまわないから、自分の人生を潔く生きてほしい。ぼくの授業がつまらならないのなら、「ちょっと待った」をかけるか、レッドカードを出すか、文句を書くか、あるいは、静かに退出すればよいのだ。暴力とセックス以外のすべての自由が、この授業では保障されているのだから。授業中に競馬新聞を読める人のFC(フリーチャイルド)は評価したいが、そのFCが潔くないほかの自分によって汚染されないよう進言したい。
1993. 6.23. T大U部社会教育計画、女
 人それぞれの幸せの瞬間があるんだなと思った。十人十色、百人百色、まさに個人、個人、それぞれの考え、生き方はさまざまなんだなと思いました。共感できても、やっぱり、その心の根本は違うのではないかなと思いました。それは、それまでのその人の人生が、発言した「幸せの瞬間」の中に凝縮されているように感じたからです。ブレスト−幸せの瞬間−は、皆が「幸せ」について考え、共感していたので、教室にいるのがとても楽でした。
mito その人の人生が凝縮されたもの、それがまさに「準拠枠」なのだろう。そして、共感とは、本質的にはその他者の枠組ごと他者を理解することなのだろう。その完全な理解は不可能だが、どこまでも近付いていくことはできるのである。
1993. 7. 7. T大T部社会教育計画、男
 久しぶりにこの講義に出た。過労死のビデオを観た。ぼくの知らない人間、ぼくが「関係ない」とそう判断している人間たちが100人死のうと1000人殺されようと、そんなことはぼくにとってどうでもいいことだ。ぼくの知らない女の学生さんが強姦されたところで、ぼくの知ったことではないのだ。実際、ぼくが誰かに殺されたところで、mitoさんがこれといって何も感じないように。ぼくはmitoさんを知っている。しかし、mitoさんはぼくを知らないのだからね。ぼくが知っている人間が過労死なんぞというつまらない死に方、殺され方をしたら困るなあ、と思っただけであった。
mito 「関係ないと判断している」と言うが、そこで自己との関係が見えないのは、社会のなかでの自己の位置の客観視ができてないからという厳しい見方もできる。自分や人間や自然を客観視するために、そもそも学問があるのではないかということである。しかし、このペーパーを、人間が宿命的にもっている無常観がしっかりと表現されているという点で評価することも、あるいはできるかもしれない。
● 自他批判を通して身を構え直す学習者たち
1992. 9.16. T大U部社会教育概論、女
 今まで決して遊び感覚のつもりで大学に通っていたつもりはありませんが(私はガリ勉タイプでもありません)、大学に来て勉強できるということが、今とってもうれしく幸せに感じます。まるで小学生が遠足を待っているような感じです。5月からの入院生活が長びき、まだまったく退院の見込みはないのですが・・・。
 入院中のベッドの中でいろいろ考え、本を読んだりして、私にとって大学で学ぶというのは、いったいどんな意味があるのだろう、本当に私は何を学びたいのだろう、など、考え、自分なりに答えがつかめました。病院から大学に通学するなんて無理だとは思っていましたが、自分の今の気持ちを担当医に一生懸命伝えたところ、体調の良いときは少しくらいなら行ってもよいということで許可を得て、今日、授業に出席することができました。病気や治療はいやなものですが、今あらためて学ぶことに対してこのような新鮮な気持ちや喜びを感じることができたことを私はとても幸せに感じます。
mito このような意味ある学習者のためだったら、それがたとえ一人だけでも、その人に喜んでもらえるような授業を行えることは教師の冥利に尽きる。こういう学習者は、ある面で僕を完全に越えており、僕にとっての「意味ある他者」なのである。
1992. 9.28. S大社会教育演習、女
 社会教育の勉強はとても頭を使うし、また、いろいろな方面からものを考えなければならないんだなと思った。つねにテーマについて話し合ったり、考えたり、計画を立てたりと、私にとっては一番苦手なことばかりのような気がします。大変そうだけど、やっていけるか心配です。
mito その大変さは、仕事や生きていくことの大変さと同じではないかな。
1992.10. 7. T大U部社会教育計画、女
 「主体的な学習を援助する教授法」は、かなり難しいテーマだと思った。私は小学校の頃から、ずっと「与えられる課題」だけをこなしてきた。自ら率先して勉強するなどということはまったくなかったのだ。大学に入学してからも同様で、教授から出される問題に対し、答えを見つけるだけで精いっぱいだった。正直言って「主体的に」学習するということがどういうことなのか理解できない。「主体的」という言葉にさえ抵抗がある。なぜならすべて自分が発見(開拓)していかなければならないのでしょう? それに加え、それを援助するなんてできるのかな? 人の何かを助けるということは、自分がその何かについて深く知らなければなかなか難しいことだと思う。今後、この講義で「主体性」の「しゅ」だけでもわかればなあと考えている。
1992.10.12. S短大社会教育演習、女
 (主体的な学習を援助する教授法で)本当にこういう学習ができる機会はこれから先、ないんだろうと思うのですが、だれか一人がやり始めれば次々と皆やり始めると思います。キッカケがないんだと思います。皆、難しく考えすぎていると思います。誰か一人がやれば、「こういう風にやればいいんだ」と理解できると思います。しかし・・・。私がその最初の一人になるのも抵抗があるのです。矛盾かな? 皆が新鮮な驚きをする学習ができれば良いのですがね・・・。
mito 最初の一人になる人は、とりあえずは一人いればよい。それを、キーパーソンまたはネットワーク型リーダーというのだろう。全員がそうならなくてもよい。キーパーソンをサポートするメンバーにだって主体性が必要なのだ。
1992.10.12. S短大社会教育演習、女
 (主体的な学習を援助する教授法を)私以外の人は、まだ準備ができそうにないようですが、私もなぜこんなにやりたい気が起こっているのか不思議です。とりあえずテーマが決まればできるのではないかと思います。
1992.11.11. T大U部社会教育概論、女
 (成人ぜんそくのビデオを見て)さわやかな自己主張って何なのだろう。自己主張の苦手な私も、きっと誰かにわかってもらいたくて、泣くのかもしれない。なぜ、私はすぐに泣いてしまうのか、少しわかった気がした。今日は眠くてこのビデオの半分もまともに見ていなかったけれど、私の涙は(成人ぜんそくの)彼の咳と同じなんだって思った。泣き虫なのは私の個性だと思っていたけど、確かにイライラした時、わあーっと泣けばスッキリしたけど、泣く前に言葉で伝えるようにしていこうと思った。そう簡単にはなおらないと思うけど。泣いたって私の主張がすべて相手に伝わるわけじゃないんだし、人前で泣くなんて、いい年してみっともないから。それと、人間誰でも自分が思ったことを100%他人に伝えることはできないんだ。会話は、全部言おうと思っていてはひとりよがりになって、相手もうんざりしてしまう。潔くなろう。100%言わなくってもいいんだ。
 さいごに、いつも前向きな私になれるんだけど、また普段のネガティブな私にすぐに戻ってしまう。・・・どうにかしたい。
(休み時間による中断のあと)さっき屋上に行ってきました。ボイラーのゴオーッという音に紛れてしまうのをいいことに、大声で歌ってきました。そして、満月と東京の夜景に心が洗われた気がしました。私も自分自身の立ち直りの早さにびっくりしています。泣いたっていいじゃないって思うようになった。何がいい自己表現の方法かわからない。でも、それを探しながら生きるのもいいんじゃないかって思えてきた。潔くない自分も自分なんだ。くよくよしている自分も、泣いている自分も、自分の一部なんだ。少し自分がいとおしく思えてきた。東京も捨てたもんじゃない。私も捨てたもんじゃない。訳がわからなくなったので、ここまで。
mito 女の涙は男にとってふたとおりあると思う。ひとつは、「こんな不幸な私をどうしてくれるのよ」と訴える被害者面をした涙だ。ふつうの神経をもった男なら、その涙を見ただけで、その女の人生までしょいこまされる感じになってうんざりしてしまうだろう。もうひとつは、男がひかれる「いい女の涙」だ。この人の場合は、僕は後者だと感じた。つねに元気なことが人間として素晴らしいのではない。いい女とは、気持ちがネガティブになっているときは教室の隅で静かに微笑んでいる、そんな女ではないか。
1992.12.16. T大U部社会教育計画、女
 私がペーパーに(他の意見を殺すようなmitoの攻撃性を)「でもそれは私のことだとも思います」と書いたのは、自分が思っていることをmitoさんに意見されて、それに対して自分が受容(「そういう考えもあるんだ」みたいな)できなかったからです。それと、私は、昔、教師に攻撃性のことで同じことを言われ、妥協するのも必要と言われたことがあったからです。いままで、そういう考えのキャッチボール、ぶつかりあいはしたことがなかったし、避けてきたし、そんな環境もなかったのです。でも、ペーパーの形で書くことにより、他人の考えと自分の考えの違いにも気づくことができ、ぶつかりあいができて、楽しかったです。書いては意見を聞き、悩み、また、書いてはそれを繰り返すことによって、お互い成長できるのだと思い、やっぱり大学って社会に出る前の大切な場所なんだと思います。
mito 他人の考えが自分の考えと違うことを楽しいと感じる、つまり他者の枠組を受容できるということは、高等教育の知的訓練としては非常に似つかわしいと思う。僕もそうなりたいと思っている。
1993. 5.17. S短大社会教育計画、女
 父兄会連合会と銘打った手紙は先生のところにも行きましたか? 手紙の内容はともかく、書き方に私は怒りをおぼえました。「教授という重要な立場にいる者が」と書いてありました。(実際は「大学教育上大変重要な地位にまで昇進している」という書き方である) だったら、講師ならば罪は軽くなるのでしょうか。職業上えらい立場にいる人がかならずしも人間的にほかの人よりもえらいということはないんじゃないかと思います。
mito このペーパーを書いた学生は、1年間以上社会教育を学んできた人である。人間存在に関して、このような本質的な見方ができていることに、ぼくは大きな喜びを感じる。何人かの学生は、このペーパーとはまったく逆に、身元を明らかにしないこの種の「謀略文書」に動揺し、右往左往しているのだ。そして、その動揺をぼくが批判し、メディア・リテラシーの重要性を訴えたところ、「火のない所に煙は立たぬ」と反論してきた学生もいた。ぼくには、それが現代人の非主体性の表れととらえられるし、流言蜚語に惑わされて他民族を差別・虐殺する人間の残酷さとも通じると感じられる。情報や状況を冷静、公平に判断するA(大人心)も、大切な人間性の一つといえるだろう。
1993. 6.12. S大教育社会学、女
 今、自分が何をしたいのか、わからなくなっている。今まで、私は、音楽とは「人間の生活」または「人間そのもの」を表現するものだと思っていた。かつてバーンスタインが「私は人間が好きです。とても興味があります」というようなことを言っていた。私も前述のように思っていたので、バーンスタインの言葉は当然だと思った。しかし、今は、彼はもっと深い意味で言ったのではと感じ始めている。
 今、私は、音楽とは、人間探求、人間追求ではないのかと思う。哲学や心理学と同じなのではないか。芸術といわれているものは、みな同じなのではないか。自分を省みたとき、自分で把握できない自分が存在している。それでも知りたいと思う欲求がある。どんなに科学が進んでも、人間あるいはこの世界を、理論ですべて説明することは不可能だろう。しかし、わからないということは、不安を引き起こす。昔の人は、ヘビやトラなどの人間より強い生物に不安を抱くとともに、あこがれを持っていたのだろう。そういうものに畏敬の念を抱いたらしい。人間も含め、すべてを超越したものを欲する気持ちから生まれたものが神だろう。しかし、それは自然あるいは宇宙と言いかえられるかもしれない。
 私自身が私のことを知りたいように、わからないとはわかっていても、それでも知りたいという欲求が人間にはあるのではないか。哲学や心理学、芸術などは、ある意味で神に挑戦しているのではないか。これは人間のエゴかもしれない。うまく言えないが、音楽は音楽そのものが目的ではなく、あくまでも手段であり、音楽という手段を使って、人生観、人間観、あるいはその人の価値観を表現したいのではないかと思い始めたのだ。
 私は今まで、この大学から技術を習うのだとわりきって考えていたのですが、それすらわからなくなってきたのです。音楽をやるうえでの技術、感情表現、理論などの当然わかっておくべきものと、上に書いたこととの接点を見つけるには、私にはあまりにその基盤がないのではないか。今、私が一番欲しているもの、知りたいと思っているものは何なのか、わからなくなってしまったのです。
mito アンビバレンツが人間存在の真実であるのだから、そのアンビバレンツを音楽的に表現できなければ、本当の人間表現とはいえないのだろう。たとえば、明るい音楽には、そのなかに人間存在の根源的な暗さが前提として秘められていなければ高度な芸術にはなりえない。
 高等教育はたんに「技術を習う」だけの場ではない。「人生観、人間観、あるいはその人の価値観を表現」するという高度な音楽表現に接近するための知的訓練の場である。そこで大切なことは、あなたのように「わからなくなる」ことである。そこから「どこまでも知りたい」という学芸追求への欲求が生ずる。そこでの「基盤」としては、あなたはすでに「自分のなかの真実」をもっている。大切なことは、その存在に気づくことである。その真実は、音楽的真実ともよぶことができよう。
1993. 6.16. T大U部社会教育概論、男
 「やさしい人だね」とよく耳にする。この「やさしさ」というのは、その人が本来、親切にしてあげようと思ってしているのか。逆に、やさしい人といわれたいからやさしくしている、いわゆる偽善者なのか。ある友だちは「ほとんどは偽善者だ」と言っていたが、私は正直言ってわからない。でも、たとえ偽善者でも、やさしくしてあげることは必要だと思う。やらないよりも偽善者と呼ばれたほうがいいと思う。先生はどう思いますか?
mito 「人からよく思われたい」という気持ちを自己否定せずに、当然の気持ちとして受容せよ。これを偽善として否定している人たちの多くは、「自分はよく思われようと努力しなくても、他人からはよく思われて当然のはずの人間だ」という無茶な思い込みをもっている。そういう人たちが、実際にはそううまくいかない社会の現実に直面して感じる劣等感などの生産的でない感情に、あなたまで巻き込まれる必要はない。
1993. 6.28. S短大社会教育計画、女
 (あるボランティア養成講座に参加して)午後はエコ・ディスカバリーをしました。変な話ですが、私、虫がきらいなんです。くもの巣が張っていたり、木にびっちりついたうじゃうじゃした虫や葉っぱや虫のたまごや幼虫なんて、とてもとても。きらいなもの、きたないものがさわれない、というのは土曜日までの話。なぜ、きたないもの、と思っていたのか不思議です。「目かくしトレイル」や「カモフラージュ」というゲームをしていて、どんどん森の中に入っていって、どんなものでもさわれる自分に初めて会いました。靴下のまま草や土の上も歩けたし、虫がたかっていても手でつかんだり、虫がいっぱいいる木に抱きついたり、さわりまくったり。土がついた食器で物を食べようなんてこと、今までは絶対できなかったのに、食べられちゃったり。
 母にこのことを報告すると驚いていました。そして、「私、自分が怖がりだから、あなたが小さいころ、何もさせなかったのに」と一言。なるほどアスレチックもやったことないし、ジェットコースターは心臓が弱いからとかなんとか言われて、乗れなかったし、自転車でどこかに行くのも制限されていた。その割には、怒ると、私のことを暗い部屋に入れてしまう。こんなことをずっとしていて、いつしか、先端、閉所、高所の三大恐怖症(?)になっていました。挑戦と我慢の心を幼少時代に養うことができなかったと気づきました。でも、きのう、「よし、いくぞ」と思ったあの瞬間の気持ちはとても貴重なものだったと思っています。達成感も味わえたし。やっぱり、行ってよかった。
mito 今まで自分を育ててくれた親に感謝しつつも、自立の過程では、その生育歴の中の断ち切りたい過去が人間にはある。そういう過去を断ち切るためには、いままで気づかなかったその過去に、この学生のように真正面から気づくことが必要である。そこからしか自己変容は始まらない。本来の教育とは、この体験学習のように、気づきのための有効な契機を提供することなどによって、その自己変容を援助することである。
● 

旧版

「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その4)
 −出席ペーパーに表れた学習者からの教育批判と教育評価@−
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(4)
 −The Criticism and Evaluation of Education by Learners appearing in Attendant-Papers@−


1 今回の論文の位置づけ

 「個の深み」を鍵概念としたこれまでの一連の拙論の副題を挙げれば次のとおりである。その1(平成3年3月)−「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(副題なし)、その2(平成4年3月)−出席ペーパーに表れたその実態と可能性、その3(平成5年3月)−学習者の発言(ペーパー)に対する指導者の対応のあり方。
 今回は、学生の出席ペーパーをもとにしながら、現代青年の批判精神の所在について明らかにしたい。そして、とくに「mito的授業」への学生からの実際の批評をとりあげることによって、大学運営の目下の課題のひとつである学習者自身による授業評価(社会教育でいえば事業評価)のあり方をより本質的にとらえるための一助ともしたい。ちなみに、教育評価に関する私の問題意識としては、次の3つがある。
@ その教育を支持する人が量的にどれぐらいいるかを気にするだけの評価ではなく、たとえ1%の学習者の批判であっても、それを教育に反映できる評価にしたい。
A 良いか悪いかの「程度」だけを気にする平板で固定的な評価ではなく、新しい教育の方向を探り出せるような個性と開発性の豊かな評価にしたい。
B 学習者が被調査者として固定されることなく、名実ともに評価主体として成長できるよう、教育側と学習側とがともに育つという教育的観点をとりいれた評価のあり方を明らかにしたい。
 以上の教育評価の問題においても、そこで問われているのは、評価主体(ここでは学生)が真の意味での批判能力をどれだけもっているかということである。そのため、これらについてはかなりの分量の記述が必要になりそうである。簡単には語りつくせそうもない。そこで、下記の3以下に予定した内容については次回以降に譲ることにする。これに関わる出席ペーパーおよび私のコメントは事例としてはすでにまとめてあるので、それを希望される人にはMSDOS標準テキストの形態で提供する。
 1 今回の論文の位置づけ
 2 知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際
 3 教育「される」ことへの反発
 4 教師による学生批判
 5 楽園追放は受けとめるしかない
 6 批判は否定とは異なる
 7 批判は必ずそれなりの真実を表している
 8 真理には到達しえない
 9 批判の刃を自己にも向ける
10 他者の存在が自我を深める
11 自他批判を通して身を構え直す学習者たち
 なお、ここで紹介した「出席ペーパー」とは、学生が講義を聴いている中で、関心をもったこと、感じたこと、関連して考えたこと、関連する情報の提供、それらの考察などを、口語体でもイラスト入りでもよいから自由に書くものであり、それに対する私のコメントは翌週の授業の冒頭に行われる。また、ここに挙げた「S大・S短大」の学生は、音楽を専攻しながら教職や社会教育主事の課程を学ぶ大学生と短大生であり、「T大T部・U部」の学生は、おもに教育学部、社会学部の1部学生と社会人入学者を含む2部学生である。そして、mito以下のコメントは、それぞれの出席ペーパーについて私が授業までに準備しておいたメモである。

2 知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際

1992.12. 2. T大U部社会教育概論、男
 何か最近、mitoさんの講義って、説教くさくてつまらない。4月、5月の頃は、毎週、来るのが楽しみでしたが、今ではそれほどではありません。(全文)
mito 「説教くさい」というのは、ぼくにとって最大の批判に近い言葉だ。ちなみにぼくの授業に対する最大の批判は「退屈する」ということである。「説教」からは「反抗」が生まれるけれど、「退屈」は「忍耐」ぐらいしか生まないからだ。幸い、「退屈」という批判は、今まで一回も受けたことがない。それにしても、ここまでものすごい言葉を使って批判するのなら、ぜひ、「どこが」説教くさいかということを付け加えてほしい。そうでないと、「学生からの批判(暴力は禁止)はすべて受けて立つ」と言っているぼくとしても、どう対応すればよいかわからなくて困ってしまうのだ。この状態のままだと、ぼくとしては、少なくともこの学生に対しては、「論争してぼくに負けるのが怖いから、理由は言って(書いて)こないのだろう」として片づけるしかなくなる。そして、社会的に見れば、批判をそのように片付けてしまったぼくのほうが正当だということになってしまう。そんなことでは、せっかくの批判が批判としての力を持たなくなってしまうのだ。もっと主体的な批評精神を身につけてほしい。
1992.12. 2. T大U部社会教育概論、女
 ちょっと今日は疲れていて、聞くことに身が入りません。はじめのほうは(パフォーマンスタイムで配られた)アンケートに答えていたので、レジメは目を通しただけです。ちょっとアンケートをした人へのつっこみがこわかったなあ。先生の質問が社会的権威に満ちて聞こえたのは気のせいでしょうか。早口なところもよくないのかもしれないです。
 自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです。
 眠くってなんにも考えられません。(障害者のための絵画教室の)ビデオは悪くなかったと思うけど、素直に感動できませんでした。こういう人もいる。わたしはわたし。自分なりに生きていくしかない。それが全て。ネットワークはあれば素敵だし、なければ淋しい。でも、なくてもとりあえず困らないから。
mito まず、「自己表現しないことが不幸と言い切ってしまうところがきらいです」という指摘については、ぼく自身、「これだったんだ」という感動をもった。授業の心構えまで「まとめ」に入ってしまったぼくを、的確に批判している。
mito 「アンケートをした人へのつっこみがこわかった」というが、なぜこのアンケートをしたいのかを調査者自身が明らかにすることは回答者に対する礼儀だとぼくは思っているから、アンケートの説明の終了の後、「このアンケートであなた自身は何を知りたいのかも言ってください」と要請しただけである。調査者に対するつっこみというよりは、むしろ支援であったはずだ。それを「つっこみ」としてとらえるのは、被害者意識なのではないか(早口はたしかによくないだろうが)。実際、アンケートをした本人は、「先生にめぐりあえて良かった。今の私の本心です」とまで言っているのである。
mito そもそも、この授業では、ビデオは「素直に感動する」ために視聴しているのではない。だから、この学生の「こういう人もいる。わたしはわたし」というとらえ方もありうるのだ。感動しても素晴らしいし、感動しなくても感動しない深みがありうる。どちらでもよいではないか。ただ、授業を行なうぼく自身としては、「共感的理解」や「メディアからの主体的摂取態度」を体得することをねらいとしているのは確かである。
mito ネットワークは「すでにあるもの」や「エスタブリッシュメント」ではない。ヒエラルキーに抵抗する「個」から生まれるものであり、それをほしいと思う者が「つくりだそうとするもの」である。そして、人間同士がヒエラルキーを離れて完全に相互信頼することは究極的には不可能だから、最後まで「完成しないもの」でもある。そこに感じる「淋しさ」は受容するしかない。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (教師と学生とのフリーディスカッションの授業で)久しぶりにこの授業に出た。言うこと、言うことに、からみついてくる生徒。それについて真剣に考える先生。生徒の書くペーパーやつっこみにドキドキしたり、訳のわからない質問に困ったり、すばらしい先生だと思った。だけど、顔が笑ってても目が笑ってない。余計なお世話か・・・。今日の話、私はほとんど先生の意見に賛成だった。なんか先生が生徒で、生徒が先生みたい。そういうのも大切だと思う。
mito 「顔が笑ってても目が笑ってない」というのは、じつはぼくの限界性を鋭く突いたものだと思うが、こればかりはどうしようもない。「演じているぼく」のほうを評価してもらうしかない。しかし、「先生が生徒で、生徒が先生」とはいい言葉だ。ぼくが先生病にかかっていない証拠として、肯定的に受けとめておきたい。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (mitoが講師をしている青年教室の参加者がモグリで出席)みとさんの「すばらしい」という意味は? みとさんの考える自己実現の意味は(仕事は入らないのか)? 社会にgiveしないといけないのか?
 何でも言える雰囲気とか、とってもよいと思う。でも、みとしさんは、今、何かにしばられていて、その中から声を出しているような気もする。(1時間目が)「まとめ」ということでなのかなあ? (ペーパーにあった)「説教」にはちょっと共感。なんとなく真剣になっていろいろな話ができる時間がもてるっていいな。
mito このペーパーを書いたこの人には、ぼくが1時間目に「自己表現できないことは不幸である」と言い切ってしまって、ある学生から批判を受けたことについて、2時間目の授業中、「みとしさんは本当に自己表現できないことは不幸だと思っているのですか」と指摘された。それは、ぼくが絶句してしまうほどの鋭い質問だった。「まとめなのだからある程度の言葉の捨象は仕方ない」と言って単純化して逃げようとしているぼくの首ねっこをつかまえられて引き戻されたような気がした。「何かにしばられていて、その中から声を出している」というのも、ぼくが教師という社会的役割を遂行している以上、仕方のないこととはいえ、もう少し発展して論ずれば、教師と学生との知的水平空間の質的深化の契機となりうるものであろう。
mito 社会にgiveしたくなければしなくてよいと思う。しかし、そのときは、人間の尊厳を守るための福祉的な意味以上の報酬や見返りを社会に期待することは筋違いであるということは知っておかなければならない。
1992.12. 2. T大U部社会教育計画、女
 (mitoが1時間目の授業である学生に「説教くさい」と書かれて興奮していたことについて)人にものを言われてカチンとくるというのは、その人がそのことを気にしているからなんだと思う。気にしていないことを人から言われてもあまりパッとしないし、それがとても第三者から見たらヒドイこと言われているとしても、本人は気にしないということは多くある。しかし、とても気にしていたり、相手に対してあまりいい思いを抱いていなかったりのどちらかが入ると、とても激しく怒る場合があると思う。
 人と人というのはわかり合わなくてはならない。相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならないと思う。今日のmitochanにはそれがなかった状態だったから、私は(授業中のフリーディスカッションで)瞬間の幸福感の持続が人生なんだと言った。コロコロ変わる人間は一貫性がない。普段のなかから、哲学性のあるニュアンスの響きがあるほうが、ずっとすごいのにと思う。口調ややり方を変えるだけじゃなく、内容を変えられないからやり方を変えているように思った。素直な人間と人間のぶつかりって、本音で語ることが第一!
mito たしかに「説教くさい」と評価されることは、ぼくが一番恐れていることだ。そうなりたくないと思って教師をやっているからだ。しかし、なぜ、それを学生から言われて動揺したらいけないのか。動揺して当然ではないか。あるいは、その動揺を口調ややり方に反映させてしまったからいけないのか。しかし、教師の口調のことなど、学生側は無視すればいいではないか。それこそ、授業内容が学習にとって有効だったかどうかこそを問えばよい。(もちろん、学生に対して「お前ら」とか「馬鹿野郎」とかの学生の人格を傷つける発言などがあれば糾弾されて当然だが、ぼくはそういうことは言わない)。
 今回の授業内容に新しいものがあったかどうかはともかく、少なくともぼくはけっして「内容を変えられないからやり方を変えた」のではないことは明らかにしておきたい。「相手の言うことの中に、何が言いたいのかを引き出す能力がなくてはならない」というのは同感であり、興奮して共感的理解ができないでいるぼくの弱さを指摘したものとして謙虚に受けとめたい。しかし、興奮してしゃべっているぼくに対する「内容を変えられないからしゃべり方を変えたのだろう」という言葉は、「えっ、ぜんぜん違うよ」という感じであり、それこそ共感的理解をされないまま勝手に診断された感じで、とてもいやな言葉である。(しかし、ぼくが自分で「どんな批判でも受けて立つ」と言った以上、学生は何を書いてもよい。ぼくは受けて立たなければならない。受けて立った結果が、このぼくの文章である。)
 ただ、教師自身の動揺(もちろん私生活のものでは論外だが)を口調ややり方に反映した(させてしまった)こと自体が不快に聞こえるというのなら、それはそうなのかもしれない。しかし、それはぼくの授業にとってはむしろ大切なことなのであり、ぼくの授業の個性だと思って受けとめてほしい。ぼくが言うこともコロコロ変わるかもしれないが、それに耐え勝ってほしい。profess というのは、公言する、(信仰を)告白するという意味なのである。学生はその「告白」から自分なりに学ぶ必要がある。ぼくの授業も、学生を気持ち良くさせるために行なっているのではない。そのときは教師も学生も苦しくていいから(つまらなければ困るが)、人間存在や幸福追求に関する真実に近づくために行なっているのだ。
mito 「人と人というのはわかり合わなくてはならない」というのは厳密に言うと間違いではないか。「わかり合うための有効な努力をしないまま不平を言ってはならない」というのが正しいのではないか。なぜなら、他者を完全に理解するというのは無理な話だし、また、「わかり合いたくない他者」がいる場合には、自分が不平さえ言わなければ、わかり合おうとする努力を放棄することがあってもかまわないからである(潔い撤退)。そして、その有効な努力とは、「相手の言うことの中に、実際に言葉にしていること以外に、本当は何が言いたいのかを引き出す」努力であると同時に、自分のほうは「自分が表現したいことを、きちんと言葉にして言う」努力なのである。教師にそういう努力の義務(社会的役割の遂行)があると同時に、学生にもその努力の仕方を学んで実践する「権利」(学習権)がある。権利だから放棄してもかまわないが、その場合はその学生は教師に抗議する権利も失う(潔い撤退)。全国的にも、学習者側から教育体制側に対して「学習権」が非主体的、体制依存的に叫ばれている実情が見られるが、本来の学習権とは、このように、厳しくさわやかなものであるべきだと思う。
1992.12. 9. T大T部社会教育計画、女
 mito的授業を批評せよということですが、私が出ている講義の中では、1〜2番のおもしろ味があると思います。(学生による授業評価のビデオの)アンケートにもありましたが、やっぱり会話が成り立つとか、自分なりに考える機会を持たせてくれる授業が刺激があって好きです。授業の内容はだいたい肯定的に受け取っています。理解するのが難しい(共感できないという意味で)ことでも、自分なりに歩み寄って、肯定できない自分は偏った視点にいるのかも、と柔軟性を持っていこうと努めています。
 以前に、頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ、というようなことを言っていましたが、これはかなりショックでした。話しかける勇気がなくて、仕方なく頬杖ついているしかない自分は、自分でも情けない姿でコンプレックスでもあるのですが、それは辛いことです。学生の核に迫っていこうという講義の中で、断定的な言動、姿勢はやや矛盾を感じます。出席ペーパーへのコメントにしても、反論的な意見に対し、どれだけやりこめられるかという対応をしているような感じを受けます。学生の意見に対して、先生の考えが変わること、影響を受けることがもっとあっても良いのではないかと思います。
mito 「頬杖ついているヒマがあったら話しかけろ」は、厳密に言うと「相手がわかってくれないからといって、頬杖ついてその不平を相手に表そうとするぐらいなら、その相手に言葉で表現せよ」という意味である。「自分が言葉なんかに出さなくても、相手には自分の気持ちをわかってもらいたい」と愚痴をこぼす学生が多いので、この言葉を考え出したのだ。しかし、この言葉には、「その場しのぎのウソ」もたしかに混じっている。ごめんなさい。
 このように、「断定的なレトリック」には必ず多少のウソが混じっている。だが、そうでない意味でのレトリック(「○○であることはないことはない」「こうでもあり、また、こうでもない」など)では、何も言っていないのと同じだ。後者のレトリックも、答申作成の最終段階などでは妥協の産物として仕方なくやることがあるが(社会的役割遂行)、できればやりたくないこと(自己実現の面からは)である。一番望ましいのは、ショックを受けてしまった学生が自分自身を罰するのではなく、この知的水平空間(この言葉も重要ではあるがレトリックだ)においては、ぼくの「断定的なレトリック」に対して、それが通用しない事実を挙げてぼくのレトリックを破綻させることなのである。そこまでされれば、ぼくはそのレトリックを修正するであろう。そのことによってのみ、真実により近い(それでも到達はしない)レトリックへの発展がある。
1992.12. 9. T大U部社会教育概論、男
 mito先生の授業については、タメになって、また、型破りなところが良いと思っているが、どーも後期になって「mitoちゃん」から「先生」になってきているように感じている。先生だけが原因ではなく、われわれ学生側の態度にも問題があるのかもしれませんけど・・・(ぼくも今日、寝てしまいましたが)。
mito ぼくは学生を(退屈させて?)寝させてしまったなら、教師であるぼくのほうが悪いと思っている。なぜならば、授業は発表ではなくて教育(=学習者側の主体性の獲得)だからである。もちろん、疲れて寝てしまうぶんには、大きないびきをかかない限り、学生にも教師にも問題はない。しかし、そうではなくて退屈ならば、どこが退屈かを言ってほしい(われながらかなり無理な注文だとは思うが、あえて要請している)。後期になって、ぼくの授業は前より高等教育のあり方に近づいてきたとぼく自身は自負している。ぼくには、今のところ、先生病(自分は学生より立場が上で尊敬されるべき存在であると思い込む病気)にかかっている自覚症状はないのである(これが一番怖いのかも)。このペーパーのような学生側からの訴えは、具体的にどこがそうなのかは指摘してもらえないことが多く、ぼくのほうだって真綿で首をしめられているような焦燥感を感じるのだ。
1992.12.16. T大T部社会教育計画、男
 私は自分自身で授業料を払っているわけではない。したがって、私は間接的消費者であって、直接的消費者ではないのである。もし、自分で働いて、そのお金を授業料に当てているのであれば、それなりに授業に関して主体的になりうると思う。このことはその他多くの学生についても言えることである。だから、西村先生の「学生=消費者論」(教育の消費者としての主体者意識をもてということ)には致命的欠陥が内在していると考えられる。つまり、間接的消費者としての学生の位置づけがなされていないのである。
mito 本来は授業料を自分で払ってでも良い授業を受けたいのだが、自分には経済的能力がまだないから保護者等に支払いを(さわやかに)依存しているという意識を学生がもてれば、それは「間接的消費者」としての主体性と言えるだろう。
1992.12.16. T大U部社会教育概論、女
 (まとめの授業で)今回のテーマは「何で生きてるの?」ということですが、私はもう、何で生きているのか、はっきり目的もわかっているし、自分が、今、何をすべきなのかもよくわかっている。そして、実践しています。私は毎日幸せだし、目的を持って毎日行動しているから、やりがいがあるし忙しいです。
 先生は、今の若い人はヤル気もなく、倦怠感で充満していて、何で生きてるの? と聞かれたら心のポカッとあいた部分を突かれたようになるという(ことを前提としたような)聞き方をいつもしてきますよね。「今の若い人は学歴がないと社会では通用しないから勉強している。そのほうがあとが得だから」と先生は考えているから、かわいそうだ、何とかしてやりたいっていう気持ちが強すぎて、なんだか生徒をバカにしてる気がします。今日のテーマははっきり言って頭にきました。「おまえたち、ヤル気をなくして、毎日かわいそうだなあ。むなしいだろうなあ」って先生が思っているように私には感じて、ほんとうに失礼だと思います。でも、この内容は、先生がちょうど私たちぐらいの年齢のときに感じられたことだと思いますし、もしかしたら先生自身が今でもそういう気持ちがふっきれないのではと私は思いました。
 しかし、先生のことは尊敬しています。ただ今日は、このテーマに腹を立てただけです。たくさんの学生はそうなのかもしれませんが、私は目的を持って毎日過ごしていて幸せです。
mito ぼくが自分のことはさておいて、「今の若い人はかわいそうだ」という言い方をしたのなら謝りたい。その言葉を言ったのだとしたら、それは、ぼく自身に「自信がない」ところがあって、そういう非主体的な言葉が出てしまったのだろう。ぼく自身の「自信がある」部分でこのペーパーの訴えに応答するならば、この学生の察するとおりである。すなわち、ぼく自身が、「ヤル気をなくしたり」「倦怠感を感じたり」「心のポカッとあいた部分を持っていたり」「学歴に引きずられたり」「空しさを感じたり」する気持ちを「ふっきれていない」のである。そこからぼくの問題意識も生じているのだ。
 しかし、そういう消極的な気持ちを感じたことのない人とはどういう人間なのだろうか。ぼくは地球上にそんな人はいないと思う。現代社会において、一定の個人だけは「解放」されていて、その人たちは「自分の生きる目的」「自分のすべきこと」に疑問や不幸を感じることがなく、「楽しい忙しさ」しか感じていないとすれば、その人たちはほかの誰かを抑圧するなり傷つけるなりして生きているのではないかと思う。そんな人たちの人生は、小説の主人公にはなりようのない「個の深み」のないつまらない人生だ。このペーパーを書いた学生は、きっとそうではないのだと思う。自分や社会にマイナスの部分がないのではなく、そこで痛みを受け、しかし、それを受容した上で「目的を持った生活」をしているのだろう。だとすれば、そのマイナスの部分の存在をはっきりと認識したほうが、より積極的で深い人生が送れると思う。
1992.12.16. T大U部社会教育概論、男
 (新聞報道の形式で)どうした美東士!! おまえの授業はどこへ行った! 前期の勢いなく、mitoさんらしさの喪失か!! 
 T大U部水曜1限の時間が変わろうとしている。それは「社会教育概論」のmitoちゃんこと西村美東士氏に対し、学生からの不満が多発するということから始まった。前期に突然に行なった「ジェスチャーゲーム」などの勢いのある「恥ずかしい思いはするが、他の人と無邪気に騒げた」授業がなくなり、後期からONE WAY 的、または講義的授業が多くなったのは事実である。ここで学生の声を聞いてみよう。「今までのmitoちゃんの授業というのは、私語をする気が起こらなかったけど、これじゃあぼくの職場の年輩の先生と同じだから聴く耳がなくなっちゃいますね」「後期になってから、重苦しく息苦しい授業になっちゃったよね。失望しちゃいました」。どうやら『mito氏肯定派』と『mito氏否定派』とでは、後者の派閥のほうが多くなってきている模様。「白紙のC評価」という形の犯行声明(?)などが出ていることにより事態が緊迫化しているのは事実である。
 (一口コラム)mitoちゃん、最近の授業は本当に一方通行になってきております。「白紙C評価」については複雑だと思いますが、冬期休暇中、どうかもっと自分を磨いて、前期でやったような「飾り気のない授業」をしてください。期待してます。
 最近、mitoちゃんの授業に出ていて思うのは、「カッコつけ授業」をしているような気がします。出会ったばかりの授業では、飾り気のないナチュラルな授業(授業を感じさせない授業)をしていたのに、後期になってからは「大学の授業」になってしまっております。どうぞ、もっと「ジェスチャーゲーム」のようなTWO WAY の授業をしてください。私の友人に「あの人は偽善者だ!!」と言い放たれてしまいました。がんばれmitoちゃん、もっと自分をさらけ出せ! この際、この時間に討論会みたいなものをしたほうがよいのでは?
 (P.S.)もしかしたらVTRを見ている途中に、先生が(学生の私語を)注意してしまったことが原因になっているのかもしれませんよ!!
mito ぼくは、あのとき、私語を「注意した」のではない。人間のあんな場面において明るく私語ができるという鈍感さや人間性の欠如に対して「怒りを表した」のだ。
mito 「白紙C評価」と「友だちが偽善者だと言っていた」については、同様の問題であり、もう述べたとおりである。しかし、なぜ、ぼくの抗弁よりも、そういう無責任な発言のほうに、この学生までもが引きずられてしまうのか。ピア・コンセプトの恐ろしさを認識してほしい。
mito 「討論会」が効果的にできるのならやりたい。しかし、今の状況では、教師側がかなり工夫してうまくやらないと、「普通の(非主体的な)討論会」になってしまう。このように考えているぼくを学生のほうが失礼だと思うのなら、そう思った学生が授業中に例の「ちょっと待った」をやればいいじゃないか。ただ、今のぼくは、「結果を恐れるな」と学生には言いながら、自分自身は「結果を恐れている」のも事実である。
mito 「ジェスチャーゲーム」は、それを行なう時にもぼくがはっきりと言ったように、講義形態のこの授業においては本来的なものではなく、人の目に恐怖し、他人はいないほうがよいという一部の学生の危機的な状況を感じたからこその「緊急手段」だったのである。強烈な体験学習であるからこそ効果的である反面、一部の学生をいっそう傷つけてしまうものになる。実際、「もう絶対やらないでくれ」とか「こういうことをやるんだったらあらかじめ言っておいてくれ。そうしたら、欠席するから」という切実な訴えがあったのである。
 それならば、教師はどうすべきか。講義ではそれをきっぱりと諦めて、演習という条件(小人数)のときにやるべきなのである。演習なら、教師は、ワークをリタイアする人に対する他の学習者の非難がましい目(ピア・コンセプト)から、その人を少しは守ることができるかもしれないからである。実際、ぼくは演習形式の授業では、もっと「つらい」(=楽しい)授業を行なっている。それに対して、講義に向かうぼくの姿勢は「講義方式からの逃避」ではなく、「講義方式に対する敗北主義の克服」である。『生涯学習か・く・ろ・ん』を読んで理解してほしい。
mito 最近は以前より「カッコつけ授業」になっているという批判については、ぼくは弁解できない。そうかもしれないが、それはなぜだろう。どこが「カッコつけ」なのだろう。わからない。学生が「飾り気のない授業」や「ナチュラルな授業」を求める気持ちはとてもよくわかるだけに(ぼくも学習者だったら指導者にそれを求めるから)、これからのぼくの課題として重く受けとめていきたい。そのことに関する具体的な問題点や克服のノウハウについて気づくことがあったら、ぜひ情報提供してもらいたい。指導者にとっては気づきずらいことなのである。
1992.12.16. T大U部社会教育計画、男
 (「私の好きなこと」を全員がしゃべる授業で)今日の授業は美東士先生の授業らしくなかったような気がする。自己革命(?−mito)をめざす美東士先生は、学生には自発能動で授業に参加してもらうはずなのに、今日はやらされているような気がした。それがなぜだか自分でもわからない。昨年の美東士先生は、もっと楽しそうに授業をしていたように思える。自分らしさを取り戻してください。
mito 「カッコつけ授業」とは、このことかもしれない。つまり、教師自身が楽しんでいないということだ。ぼくの言いたいことが通じなければ通じなくてもいい、という自然な気持ちが欠けてきたのかもしれない。
1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男
 先生は、最初の講義のとき、「ペーパーにはどんなことを書いてもかまわない」と言った。だから、私は、自分がその時々に書きたいことを書いた。授業批判とか授業のテーマに沿った内容のものは、ほとんど書いていない。「お前の気持ちのマスターベーションにすぎないじゃないか」と言われてしまえばそれまでだが。で、先生にお尋ねしたいのは、ペーパーを読むにあたって、その選考の基準、今回のまとめに載せるか否かの基準は、何を基準にして選んでいるのだろうか。結局のところ、mito批評、授業の内容にまつわるものの是非、この2点に基準が絞られている気がする。
 人は人の考え、人の言葉、人の行動を見て、ひとつずつ、心の年輪を増やし、自分の根を張る、自分の葉を鮮やかにする、自分の存在と意志を主張していけるようになるのではないかと私は考える。生涯学習なんて大それた言葉を使うから、その言葉自身が偉そうに聞こえる気がする。人の話を聞くことは、人が生きていく中での学習と呼べないのだろうか。授業も大事だが、もっと一期一会を大事にし、ありとあらゆる人の言葉を聞ける、言える授業を期待していただけに、結局のところ自己中心的かつ画一的な授業になっていることに憤りを覚える。
 追記 この授業批判めいたペーパーをまた読んで弁解したら、先生の負けだ。
mito 負けたかどうかは本人が自分で決めることだ。知的水平空間において、他人の勝ち負けを最終的に判断してやる権利や能力を持っている人など、どこにもいない。自分が自分の負けを認めたときに、自分の考え方を変えればよいのだ。「弁解したらおまえの負け」というのは、ぼくにはルール違反のレトリックのように感じられる。
mito この文中において、「マスターベーション」は、むしろmito的授業にむけられた言葉であろう。ぼく自身、多少はそう認めるところもある。しかし、「マスターベーション」がそんなにいけないことなのか。先入観を捨てて考えてみてほしい。
mito 「マスターベーション」というと言い過ぎになるかもしれないが、「自己中心的授業」以外に、教師は学生に対して、あるいは、あなたは学習者に対して、どんなよい授業や学習援助ができるというのだろうか。もちろん、改善できる点はあるかもしれない(もっと学習者自身の学習要求の水準に合わせるとかして)。しかし、それはテクニックの問題であって、本質的な問題ではない。学生のほうも自己中心的(自分の学習関心を大切にし、「自分はこの授業をそのためにどう役立たせるか」に学習の目標を集中する、そのためには学習する側の権利も主張する)になればいいではないか。「自分のために生きる」とは、そういうことである。
 ただ、結局のところ、この学生に対しては効果的な学習援助にならなかったのならば、ぼくだけは授業で「自己実現」を味わっていたとしても、ぼくの教師として与えられた「社会的役割」は少なくともこの学生に対しては果たせなかったことになる(そうか、そういう意味で「弁解したら負け」と書いたのかもしれない)。「社会的役割の遂行」がうまくいかないということは、ぼく自身の「自己実現」の阻害要因でもある。そこで、この学生の枠組を変えるための契機には本当にならなかったのかどうか、ぜひ、この学生に聞きたいところである(もちろん、快、不快の快感原則からではなく)。まあ、ならなかったのかもしれない。しかし、ぼくはできるだけの努力をすればよいのであって、学生のほうはそれを待つのではなく、ぼくに逆提案を携えて要求すべきことなのである。それでもぼくが「聴く耳」を持っていなかったら、それこそ「学習権」を行使して、大学当局にぼくの罷免を要求すべきだろう(ちなみに、ぼくがその罷免に抵抗するかどうかは、ぼくが決めることだ)。
mito ぼくは出席ペーパーのことに関しては、ウソをついていないと思う。「学生は書きたいことを書く。教員に読ませたくないものは書かない。教員は読み上げたいものを読み上げる」という原則どおりである。それ以上の基準は設けていない。なぜ「採用基準」を明らかにしないかというと、そういう基準を設ける必要性を感じていないし、そもそも、授業は、その時その時に過ぎ去っていくものだからである。しかも、学生にとっても「比べられるためのものや選抜されるための文章作成」ではなく「自己管理としての文章作成」であるから、「公開」(「mitoがいやでも公開せよ」という意味)「非公開」「コメント希望」などのマークをつけることができる。ぼくはそのマークには忠実に対応してきたつもりだ。このような出席ペーパーのルールなどの大切な「学習情報」はきちんと把握しておいたほうがよい。ぼくはこのルールについては授業中、何回も説明しているはずだ。
mito 生涯学習という言葉を大それた言葉だと感じて反発し、人の話を聞くことなどの普段の「学習」こそ大切と考えるこの人の謙虚さには、ぼくは深みを感じる。ぼくは言葉をけっこう「便利に」使ってしまうクセがあるからである。たとえば、ぼくが「私は○○に関する学習を続けていきたい」と言ったとしても、ほかの人はその言葉はきっとウソではないと思うだろうが、他人に向かって「人間には生涯学習が必要です。みなさん、生涯学習しましょう」と言ったとしたら、ほかの人は「何でだろう、どうしてこの人は他人に生涯学習を呼びかけるのだろう。そのウラには何があるのだろう」と思ってしまうだろう。
 しかし、ぼく自身はどんなペーパーでも翌週までには3回、繰り返して読んで、「一期一会」を味わっている。どんなペーパーでも、それなりの「普段の学習」はできるのだ。そこには深いものもたくさんある。もちろん、時間の関係もあって、授業をそういう「普段の学習」ばかりにするわけにはいかないから、ぼくのフィルターを通して集約して紹介している。(このように「弁解」することは、はたして「負け」になるのだろうか。)
mito 「ありとあらゆる人の言葉を聞ける」という期待を裏切った点については、そういうわけなのだが(ちょっと逃げてる?)、「何でも言える授業」という期待についてはぼくは裏切っただろうか。少なくとも言葉のうえでは、つねに学生の発言を歓迎してきた。パフォーマンス・タイム、「ちょっと待った」方式、授業中の発問、そして出席ペーパー・・・。この学生がそれに応じなかっただけだ。教師が言葉で保証しただけではまだ足りないのか。「自分の発言が正しいこととして認められる」という確証が感じられないと、つまり教師がもっと「譲歩」して受容的雰囲気まで醸し出さないとしゃべれないということではないのか(まあ、それは人間としては当然の心理かもしれないが)。けれども、教師側が「何を言ってもいい」と言っているのに自分が言わないのは、「言わない自分にも問題がある」と考えることも必要だと思う。そのように自分をも「謙虚に」見つめるということが、この学生の言う「一期一会を大切にする」という言葉の持つ「謙虚な」意味合いであろう。馴れ合ってしまったうえでの「一期一会」なんておもしろくない。
mito 画一化については、ぼくもつねにその危機を感じながら授業を行なっている。今後、工夫していきたい。また、学生からの提案もつねに待ち続けたい。
1992. 1.13. T大U部社会教育概論、男
 この授業も残りわずかになって久々に出席した。この1年を振り返ってみると、初めの頃の「自主性をもつ」とか「自分を見つめ直す」という授業スタイルに、自分は「フムフム、こういう授業もあるのだなあ」などと意気込んでいたのだけれど、後期にはまったくと言っていいほど出席しなくなった。何か疲れるのです(これは身体的に疲れるというのではなく、授業スタイルに疲れるのです)。だって、この授業は「社会教育概論」でしょ。社会教育って何ぞやと思って「社会教育」を勉強したい人だっていることをお忘れでは。そもそも自主性とか、恥ずかしさをさらけ出すことを学ぼうみたいなものは、その人自身の日々の生活の中で学ぶものであり、体験することだと最近思っている。何も大学の授業で学ぶことではないのでは?とも思い始めた。だから授業に出なくなったのか。そもそも、私自身の気持ちの問題か。
 はっきり言って、mito先生の授業は、社会教育概論であれ、社会教育計画であれ、心理学であれ、文学だって、経済学だって、課目名は何だっていいような気がしてなりません。水曜1限西村美東士だって通用するでしょう。私は保守的な面があるのかもしれないが、社会教育概論の授業というものもしてほしかった。
 出席もしないで、ペーパーでの指摘もしないで、最後の最後にこんなことを言うのも卑怯な気もしますが。
mito ぼくの研究テーマは自主性の促進ではない。人間の生きる主体性の獲得への援助としての社会教育のあり方だ。「うちの子どもは自主的に学習するようになった」などと言う教育ママの言葉とは無縁なのである。それから、「恥ずかしさをさらけ出せ」などという言葉も言ってない。むしろ、「恥ずかしさをさらけ出させることが心を開かせることである」という指導者側の傲慢な思い込みに忠告を発し続けてきたはずである。その上で、「一人で恥ずかしいと思い込んでいることでも、本当は恥ずかしくないことが多い」「隠したいことは隠していても、心を開いた交流はできる」ということを学習したり体得したりしてきてもらっているのだ。
mito たしかに社会教育概論と社会教育計画を明確に分けて授業をすることはしてこなかった。それは、それぞれの授業が深い意味をもっていればそれでいいと思っているからだ。ただし、この点について、たとえば「社会教育計画の○○について授業をやってほしい」という学生の要請があれば、次の週にでも対応していただろう。そのことについてぼくからの呼びかけはしたが、学生側からの応答や合意形成がなかっただけの話である。
mito この授業が「社会教育概論」ではないという話だが、社会教育の世界でもっとも求められているとぼくが考える基礎的教養に絞って話を進めてきたつもりだ。だから、この学生が「社会教育とは何だろう」という関心をもっているなら、興味深かったはずだ。また、そういう関心を掘り起こすような授業にするための工夫をしてきた。さらに、「ひとくちミニ知識」の形で基本的概念の説明も簡単だが行なってきた。そこで学生の関心が触発されればそれで十分だと思っている。ぼく以外のもっと優秀な研究者がどのような学説を打ち出しているかを知りたいのなら、活字メディアから学ぶのが一番であるし、そのための参考文献の紹介だってしてきたのだ。もしこれ以上、この授業を「概論的」(?)にしたならば、高等教育としてのmito的授業の生命は失われてしまうと思う。
mito 「社会教育概論」と「社会教育計画」の違いについては、先に述べたとおりなのだが(ちょっと逃げてる?)、mito的授業が「心理学」「文学」「経済学」などの課目名だってつけられるという指摘は、ぼくにとってはむしろ批判ではなく、過分(実際にはそこまですごくはないと思っているから)な誉め言葉としてとらえられる。ここでやっているのは、選抜試験対策講座などではなく高等教育なのである。高等教育が今日の研究の最高の到達段階を究めようとすれば、学際的になるのは当然である。「水曜1限西村美東士」というのも、過分である。今日の学問は「一人一学説」の個別化の時代にある。「西村美東士説」でぼくのすべての授業時間を貫徹できれば、それも高等教育の理想である。だからそれを目指してはいるが、ぼくが能力以上の無理をして結果としてはヤブヘビになることがぼくには怖いのだ。
 もっと本質的に論ずれば、「mito的授業がほかの課目名をつけても通用してしまう」ということを学生がマイナスに感じることのほうが、ぼくには深刻な問題だと思われる。この学生はそういう自分を「保守的な面があるのかもしれない」と言っているが、保守的であってもそうでなくてもどちらでもかまわないと思う。それよりも、問題は、「ほかの課目名をつけても通用してしまう」ことについて、この学生の主体的な選択行為として(従来の課目の概念を変えないこと、つまり保守的なほうにメリットを感じて)マイナスと判断したのかどうかである。もしかすると、この学生は、今まで社会やそこで行なわれてきた教育によって与えられた枠組に、自分は納得できないままに従ってしまって、その枠組を適用してぼくの授業に対してマイナスの判断をしているだけなのではないか。
 じつは、ぼくはほかの学生に対してもひとつの不満を持っている。それは「講義要項に書いてあることと、授業でやっていることが違う」という学生からのクレームが一回もつかなかったことである。講義要項は教師が学生に対して教育内容を約束する「契約書」である。それを読んで学生は、「これなら受けてみたい」と判断するのが高等教育のあり方であろう。ぼくは講義要項での文章表現にかなりの苦心をしているが、それでも1年間の授業の内実を示すのは難しい。あとで講義要項を読み返してみるとヒヤヒヤする。(だから、本当は、クレームがつかなくて助かったという気持ちもある。)
 しかし、本来は、講義要項はつぎのように使われなければならないだろう。講義要項を読んで期待をもった学生が、現実の授業とのギャップに異議を申し立てる。それを受けて、教師は弁明したり、授業を軌道修正したりする。そういう相互作用があって、初めて、授業内容が「今、ここで」をもとにして講義要項から離れて流動的に展開されることが許されるのではないか。学生が授業内容に不満があれば、「先生はそんなことをおっしゃるけれども、講義要項にはこのように書いてあるじゃないですか」と教師に言えるのだから、講義要項は学生にとってはもっとも大切な授業評価の道具であるといえる。教師と学生とのあいだの社会的に位置づけされた「契約書」である。それを武器に授業を批評すればよいのだ。「保守的な面があるのかもしれない」などという「反省」(恥ずかしさ?)を「さらけ出す」必要は、(批判や要請のための戦略としては)このペーパーにおいてはなかったのだと思う。
mito 「主体性の獲得」「自分や他者に対する不合理な思い込みの克服」などのあり方を考えるためは、もちろん、この学生の言うように「その人自身の日々の生活の中で学び、体験したこと」が重要な基盤になる。しかし、それはレディネスの問題であり、その基盤の上で、それらの人間の内面的な営みや、その援助のための理論構築が学問には求められる。つまり、「大学の授業以外でも学ぶこと」であり、「大学の授業でも学ぶこと」なのである。
 これらのことは言葉としては、授業中、かなり言ってきたつもりだ。しかし、この授業にもっと実質的な双方向性さえ保証されていれば、この学生のような疑問や反発は、教師と学生の意見交換によって即時に具体的な解決に向かっていたはずである。双方向の授業を形式だけでなく内実を伴って創り出すということは、教師にとってだけでなく、学生にとってもなかなか難しいことなのだと痛感する。ぼくは自分が教師として堂々回りに陥っているような無力感さえ感じるのだ。これは、「ぼくは主体性を獲得することができるのか、できないのか」という問題とともに、「ぼくは他人(学生)の主体性の獲得を援助することができるのか、できないのか」という教育学のアポリアでもある。できるともいえるし、できないともいえるのだろう。
1993. 1.16. S大教育社会学、女
 (指導者は、まず、おこがましさを感ずべきという)今日の話はつまんない。言ってもわかんない人にはわかんないよ。よっぽど何か失敗しないと。おこがましいって人から思われたくないからおこがましくならないように気をつけるのって、みんなやりがちだけど、それって一番高ビー。本当におこがましくない人は、何かあって改心した人か、生まれつきか、だと思う。
 先生ってある意味でさらしものだと思う。短大の時も、今年度も、美東士先生の授業をとったけど、2年間、先生の本性は授業中には見れなかったような気がする。たしかに他の先生とはタイプが違うというか、意識的に違えているけど、なんかそれ以上の魅力は全然感じなくなった。他のときはどうかわかんないけど、いつも予防線を感じてしまいます。
mito この学生の出席は、今年度は、なんと3回である。それで、「つきあった」といえるのだろうか。真実の追求に対する態度がゆるんでいるのではないか。
mito 教師は授業中、本性をさらけだすべきか、そうでないか、難しい問題だと思う。この学生の発言にも重いものを感じる。ただ、「全然」を丸で囲んで強調しているのだが、それがかえって説得力を弱めている。そして、学生が教師に本性をさらけだすよう求めることは、その学生にとって主体的なことなのかについては、やはりぼくには疑問である。
1993. 1.20. T大T部社会教育計画、男
 (mitoが「どんな批判でもしてください」と言ったことについてか)mitoはリベラリストのおつもりですか? それとも独善者(注・ママ)? 御自身が御自身を、あるいはその講義を、どう性格づけ、または、(我々に対して)位置づけておられるかはわからないけど、私には空虚だった。今日も空虚だ。空虚からの返答を私は期待していない。得たところで、残るのは、ただ空虚のみだろう。そして、そのことを語る私の、私の言葉の、何と空虚なことよ! とは言いながら、何かを得たものと信じてみよう。そして、その「何か」が永遠に謎だとしたら、これは意外にも素晴らしい空虚かもしれない。ああ、何と無意味なつまらぬことを言っているのだろう。
mito この学生は、全部で27回の授業のうち、5回しか出席していないのだが、なんでここまで言い切れるのだろう。もしかすると、この学生は、自らが空虚に耐えようとせずに、「空虚でないもの」を受動的に求めているのではないか。
1992. 1.20. T大U部社会教育計画、女
 (社会教育のコンセプトとしての)自主的に学習するということは、それなりのトレーニングが必要ですよね。今の大学生はあまりにもそれができていなさすぎる。ルールの説明だけでこの方法をとると、結局は、「できないやつはドロップアウトしろ」と言っているように思います。3回来ればいいわけだから、頭っからそれしか考えないと思う。それでいいですか? 私は能力が少ないからそういうやりかたにはとても淋しくなります。もっとおせっかいになってもいいと思いました。2年間、ありがとうございました。
1993. 4.24. S短大教育社会学、女
 先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読んでほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな?
mito そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということが問題である。実際、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分が自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。そのように潔くできるのならば、「匿名といえどもみんなの前で公開しないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。
1993. 5.12. T大T部社会教育計画、女
 先生の授業は学生の興味を引く話もあって確かにおもしろい授業という気もするのですが、満足できません。何か雑談で授業が終わってしまうという感じがします。まだ3回しか授業が行なわれていないので、これから授業がどう進んでいくのか、はっきりつかめないせいもあるかもしれませんが。ある程度の知識は先生が学生に教えるという形で示した後で、はじめて学生が受身にならずに積極的に授業に参加する形の授業が成り立つのだと思います。これまでの先生の授業の方法だと、予備知識のまったくない私は、先生のおしゃべりに笑ったり、反感を持ったりと、その時はいろいろと考えて楽しいのですが、授業か終わると、何を学習したのかさっぱりわからないという状態なのです。とりあえず、これからの授業に期待して、評価はBにしました。
mito 高等教育のあり方を本質的に考えてほしい。教科書は書き言葉メディアであり、授業は話し言葉メディアである。話し言葉メディアには、体系的な知識の再構築よりも、それぞれの学習者が現在持っている枠組の揺り動かしの役割のほうが期待されるのではないか。
 もちろん、授業の中で、学生をおもしろがらせたり、満足させたりすることも、どちらも成功すれば、それにこしたことはないが、それよりも授業の中で大切なことは、「毒か薬か」のどちらかになる強烈な言葉をぼくが発し続けることだと思う。その点では、「毒にも薬にもならない」という意味での「雑談」をぼくが一言でも発しただろうか?(もちろん、学食やロビーなどではなく、講義中に、である)。ぼく自身は気づかないまま「雑談」をしている場合もあるかもしれないから、それをこそ指摘してほしい。
 また、このペーパーのように学習成果を確認しようとするまじめな人のためには、その回ごとの教育目標を提示するなど、手の内をさらしているのだから、それを最大限に活用して批判するなどの能動的な学習態度が、学習者側の方にこそ、求められているのではないか。学習者が受け身で構えていては、高等教育は成立しない。
1993. 6.16. T大T部社会教育計画、男
 ぼくは、今日、この授業に出るつもりはなかった。今もない。諸事情により来てしまったのだ。だからこれから出ていく。ぼくは、今、自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくないのです。
 ところで、この出席ペーパーは、ある意味でぼくらを試すものでもあるのだろう。それはたとえば、この講義の内容とか、mitoさんの発言についてとかに、ぼくらがどう思ったのかということを知るために、という意味でだ。
 けれども同時に、これらの出席ペーパーを読んでコメントされるmitoさんは、ぼくらによって試されている。いや、こういう言い方は良くないな。むしろ、mitoさんはそこに自らを置いている(出席ペーパーにコメントをつけている)のだから。
 ともあれ、ぼくは教室を出ます。
mito 「自分の人生の持ち時間を、この講義のために費やしたくない」という言葉は、基本的には潔い選択を表していると思う。ただ、「この講義のために」という言葉は、「もっといい講義ならよかったのに」とmitoのせいにする思考方法をやや感じさせるものでもある。実際にはどうなのかわからないが、もしこの授業に未練があるという理由で潔く撤退できないのだとしたら、撤退する前にもっと「自分の(学習する自由の行使の)ために」ぼくの講義を批判すべきである。
 出席ペーパーについては、ぼくが繰り返し言明しているように、比べたり、序列化したりするためのものではない。学生は書きたいことを書き、ぼくは読み上げたいことを読み上げ、コメントしたいようにコメントするものであり、ぼくがそこに「身を置いている」のは、ぼく自身が学生からの社会的承認を得たいからにすぎない。その目的は、たがいが自己や他者の存在を知るということである。そういう意味では、この学生が書いた「試す」という言葉が、人間の基本的信頼関係に基づく肯定的なことがらではなく、「比べられる」と同義のマイナスの言葉のように感じられる点が気になる。
1993. 6.16. T大U部社会教育概論、女
 (自己受容には1%のレイプの気持ちも含まれるというmitoの発言に対して)1%レイプしたい人は、どのようなsexをするのか。どのようなsexを相手、恋人、セックスフレンドに求めるのか。考えるとこわい。
 誰をレイプするの。誰がレイプされるの。人殺しだ。暴力しか存在しない。形成された人格が無視された体面。いわゆる出会い。10の段階をふんだ人間と10の段階をふんだ人間が出会って、ひとつも知らない0と0の状態で暴力を介して対面する。
 1%レイプしたいのが人間の本能なら、私は1%だけ、そんな人間は亡びてしまえと思う。ここでいう人間は、自分を含んだ人類のことだ。これは極端な考え方だとはわかっている。みとさんのいう敗北主義でしょうか。
mito 敗北主義は、男の1%のレイプの心を受容しようとしたぼくのほうだろう。その存在そのものは否定できないけれど、自己受容してはいけないものがやはりあるのだろう。ぼくは、それを男のレイプ願望を含めて、人間一般の「差別する心」として集約できると考えた。
1993. 7. 5. S大社会教育計画、男
 先生は自分の講義で人を変えてやろうと思いすぎなのではないでしょうか。人を変えようとするのは大変なことだと思います。変えるとかよくするとかというよりは、自分の考え方や思いの中で同感する部分、自分と同じ考えをしているなどの共通するところを一つでも多く探すことができればいいのではないでしょうか? 人はそれぞれいろいろな考え方をしていると思います。違う部分というのは仕方がないことで、社会のモラルに反しない限りはあまり触れずに、共通する部分を、同感する部分を、講義で探せればそれでいいと思います。「私はこう思う」と、他の人に意見を言ってもらってもいいと思いますが、人間の本質はそう変わらないのではないでしょうか。
mito ぼくは他人を変えたいなどとは言っていない(自分の期待に沿って相手を変えたいと願ってしまう弱さは、たしかにぼくにもあるけれど)。自分が自分の枠組を自ら変えたいと思って変えることが本当の学習であり、その学習の援助が教育であり、その両者とも可能なのではないかと言っているだけなのである。「人を変えてやる」ことと「人が変わろうとするのを援助する」こととの間には、それほど大きな隔たりがある。あるいは本質的にはまったく逆のものといってもよい。
 それよりも、あなた自身が「変わりたくない」と思っていることのほうが、あなたの学習や主体性の実現にとっての重要な問題なのではないか。「変わる」ということは、「自分の考え方や思いの中で同感する部分」や「自分と同じ考えをしているなどの共通するところ」を見つけるなどの些末なことだけでは実現できない。自分の枠組とは当然ながら異なる他者の枠組に逃げずに出会うこと、そしてそれを同感としてではなく、共感的に理解しようとすることが必要なのである。その場合、異なる枠組は「仕方がないこと」というマイナスのものではなく、「異なるからおもしろい」という意味で、あなたにとってもプラスのものである。それは、言いかえれば、他者の存在は邪魔なことなのではなく、素敵なことだと実感することでもある。そこから共感的理解に必要不可欠な自信と他信(自己と他者への基本的信頼)が生まれる。「ともに育つ」ことの本質は、そこにある。
 知的水平空間においては、自らの意志を曲げてまで、実体のあいまいな「社会のモラル」というプレッシャーに順応して同質化や同一化をする必要はない。むしろ、たがいが異質だからこそ、その異質の交流によって、それぞれが変わり続けること、成長し続けることができるのである。これは、ネットワーク型社会における「異質の交流」あるいは「異文化理解」の考え方にもつながるものだと思う。


狛プーはどうしてネオ・トラなのか
狛プー年間講師(昭和音楽大学短期大学部助教授)
                 西村美東士

1 ネオ(新しい)でトラ(伝統的)な狛プー

 先日、「二一世紀の青年事業を探る」という研究会が開かれた。それは、東京都青年の家の主催で、都内の青年事業担当者が集まって一泊二日で話し合いなどを行なうというものであった。わが「狛江ヤングプータロー教室」も、「ネオ・トラ部門」として事例発表を行なった。青年事業担当者のあいだでも、狛プーが注目されているのである。
 事例発表を任されたぼくは、最初、恥ずかしながらネオ・トラという意味がわからなかった。研究会の担当の人に聞いてみると、新しいトラディッショナル(伝統的)という意味だそうである。ぼくはそれを聞いて、最初は「フーン」ぐらいにしか思っていなかったが、事例発表の準備を進めるにつれて、「そうか、狛プーは、ネオ・トラなんだ」と、妙に納得してしまった。ここでは、そのことについて説明してみたい。
 ちなみに、当日の研究会には何人かの狛プーメンバーが参加してくれて、「ネオ・トラ部門」として与えられた発表時間のなかで、青年事業担当者の前で飛び入りで直接話しをしてくれた。それが、また、過去に体験したマルチ商法のなかの切ない仲間関係と、いま体験している狛プーの仲間関係との鮮やかな対照などが、彼ら自身の言葉で語られたものだから、聴く人たちの関心を呼び、研究会はますます盛り上がっていった。

2 アイデアばらばらなごった煮の年間計画

 とりあえずは、この二年間の月別計画を見てみよう。
一九九二年度(初年度)
 七月 おもしろいやつらがそろったぞ
 八月 自然キャンプの計画・準備
 九月 テニスへたどうし大会
一〇月 われら紙芝居軍団
一一月 在日外国人と鎌倉ツアーなど
一二月 ジャージで踊るジャズダンス教室(みんなノリノリXマスパーティー)
 一月 新年会+温泉と自然を楽しむ会
 二月 そっと教えます手品のタネ
 三月 毎週連続お別れパーティー
一九九三年度(本年度)
 六月 おもしろいやつらがそろったぞ
 七月 青春の食卓(講師のいない料理教室)
 八月 キャンプだほい!(自然キャンプの計画・準備)
 九月 チャレンジ!ゲートボール(毎週土曜日午後)
一〇月 大道芸人養成講座
一一月 市民祭りの参加と茶道A・B・C
一二月 みんなノリノリXマスパーティー(盆踊り・ディスコ等)
 一月 新年会+温泉と自然を楽しむ会+伝承遊び
 二月 パフォーマンス練習だぁー(「公民館のつどい」で発表)
 三月 毎週連続お別れパーティー
 このアイデアばらばらのごった煮ぶりはなんということだろうか。しかし、これがまずトラディッショナルだとぼくには思えるのである。そもそも、社会教育の世界には、なんでもかんでも詰め込んでしまうごった煮のよさがあったのではないか。もちろん、ぼくは、演劇なり、英会話なりを、固定メンバーで、年間を通した系統的なカリキュラム(少なくとも依頼された講師の頭のなかには、それが存在すると思われる)によって深めたり高めたりしていく今日の社会教育、青年教育の傾向を否定しようとするものではないが、戦後、住民が公民館に集まってなんでもかんでもやってしまっていた頃の、いわば「B級グルメの面白さ」も捨てたものではないと思うのだ。

3 いかにもトラ(伝統)的な狛プー

 もうひとつの社会教育の大きな伝統的特徴として、メンバーのあいだの相互関係や相互作用を重視し、尊重するということがあげられる。この伝統は、いまでも、全国のどこの社会教育現場においても大切にされていると思う。狛プーでも同様に、メンバー間の仲間関係が大切にされ、育まれてきた。その証拠に、この記録集にもあるように、おびただしい数の「番外編狛プー」が日毎夜毎に勝手に行われている。
 ただ、狛プーでは、そういう仲間関係を、「自分らしさを見つけたい、発揮したい」という現代青年の願望と表裏一体のかたちで展開している。だれだって、自分にもっとも関係が深い人は自分であり、だから、自分がもっとも関心をもっているのは、自分や自分の生き方なのではないかと思うのだ。
 しかし、そういう個人が自分に気づき、自分らしさを見つけるためには、「癒しの場」として「安心して開きたい心を開いて交流できるサンマ(時間・空間・仲間)」が必要になる。狛プーのメンバーは、これをみずから創り出してきたのである。ぼくは、彼らの行動を人間の意識的、主体的な営みとして評価している。なぜなら、サンマを求めてコミュニケーションしようとしても、もしかしたらそれによってかえって自分が傷つけられたり相手を傷つけたりしてしまうかもしれない。そういう内なる恐怖と闘いながら、そして相手から断られるかもしれない、裏切られるかもしれないというリスクを背負いながら、あえて行われてきた行為だからである。また、たとえば、サンマ創出のためには、「一人でだらしなくしてるときの自分もだいじなんだ」というように、いまの自分を認めてあげることによって、仲間関係から自分を守ることが大切なときもある。自分の思いどおりになってくれない相手の存在を認める潔さも要請される。だから、おたがいを認めあわなければならないということなど人間として当然のこととはいえ、あるいは、社会教育としてはあたりまえのトラ(伝統)とはいえ、それを実際に行動に移し、サンマを創り出してきた狛プーのメンバーは、なかなかたいしたものだと思うのだ。
 たとえば紙芝居をやったとき、もちろん、じょうずな人とそうでない人とがいた。でも、うまい具合いに、どんな人でも一人ひとりの持ち味がなぜかしみじみと伝わってくるのである。そのとき、中央公民館の一室には、それぞれの人が、おたがいの持ち味を認めあう受容的な雰囲気があふれていた。仲間は大切である。しかし、仲間を大切にするということは、自分が仲間と同一化することではない。むしろ、みずからの「自分らしさ」と相手の「自分らしさ」の違いを喜んで味わうことなのだといえよう。

4 狛プーのネオ(新しさ)は、どこにある?

 それにしても、社会教育の関係者からいろいろなところで「ところで、狛プーのどこが斬新なんですか」とあらためて聞かれると、ぼくもわからなくなる。べつに狛プーのどこが特別ということはないのではないか、どこの公民館でもこんなことはやっているのではないかという気もする。
 しかし、その質問にあえて答えるとすると、それは「恐れを知らないいい加減さ」ではないかと思う。普通の青年教育であれば、「健全青少年育成」ということで、人間のもっている毒々しい部分はなるべく切り捨てて「善なるもの」をめざしたり、あるいは「善でない自己」への反省を促すことが多いのかもしれない。ところが、事実は、人間には毒があるのだ。また、ホンモノにも毒がある。たとえば、教育紙芝居でない過去の本当の紙芝居にはかなりの毒がある。狛プーは、面白そうならばなんでもやってみるという「恐れを知らないいい加減さ」をもっている。おとなのほうで薬になる部分だけ精選して提供するなどというおせっかいなことはしない。その毒を受け入れるか、薬を受け入れるかは、各自が決めればいいことなのだ。
 また、それと関連して、「プータローの自由の精神」があげられるかもしれない。狛プーのプーは、プータローのプーである。プータローは、現代社会のヒエラルキー(階層制度)によって自分の個性や自分らしさが奪われることに抵抗している姿であるととらえられる。プータローではない私たちにとって、学校や職業を放棄してしまうことなどできないけれど、みずからの内面まで、そのヒエラルキーに従属するのはいやなものである。それに気づいてしまった「いい子ちゃん」が、今までのいい子の自分をけとばす場、いい子でいるのをやめてひかれたレールから降りる場が狛プーなのだともいえよう。
 「いい子ちゃん」は、目上の人や権威あるものの支配を自己の内面にまで受け入れ、自由を売り払うという見返りに、じつは、それによって自分の存在を認められたい、愛されたい、手厚く保護されるのが当然だという依存的な期待を秘めていることが多いのではないか。そういう期待は、当然、現実の他者や社会から裏切られることになる。赤ん坊のときのなんでもしてもらえる「楽園」から、能動的に働きかけないとどうにもならない「社会」へと放り出されるのである。このように楽園から追放された青年は、どうしても他者や社会の秩序に対して不安をもったり、被害者意識をもったりして生きていくことになってしまうだろう。そういうとき、「自分はゴタクを並べていただけなんだ」と気づき、「いい子」でいようとする自分と決別して、社会のなかで自分で自分の人生を決めて生きていく自由を行使できる力を取り戻すことが必要になる。そのためには、おとなが「善なるもの」だけを与えてますます「いい子」にしようとしていたのでは援助にならない。ホンモノの毒のある人間と社会のなかで自分の判断で飛び回る自由を与えなければならない。そういう場のひとつが狛プーなのである。

5 これからのネットワーク社会を担う人間の育ち方

 狛プーの自由とは、たとえば参入と撤退の自由である。狛プーでは、毎月、毎回、新規募集を繰り返しているし、「一年に一回来るだけの人もメンバーだ!」ということで撤退の自由も保障している。また、何かやりたいことがあるのなら言い出しっぺになればいい。その言い出しっぺがそれをやればいいのだ。しかも、言い出しっぺをやる人はころころ変わる。これを称して「流動的リーダーシップ」と呼ぶことができる。それもネットワークの特徴のひとつだ。
 市民の感覚のなかには、行政の行う事業に参加してやっているのだから楽しませろ、自分の言うことを聞け、協力してあげてるのだから特別扱いせよ、見返りをよこせという行政依存的な側面もあると思う。市民のそういう腐敗構造を突き崩して、人間が主体的に水平に対面するネットワーク型社会を創出するために狛プーも一役買っているといえよう。
 つぎに、その「狛プーの自由」を実現するために年間講師としてのぼくはどんな役割を果たしているのかということが問題になる。さきほど述べたように新規参入がたびたび起こりうるので、狛プーには「あらためて自己紹介」という機会が多い。ぼくはそのたびに、「年間講師のmitoちゃんです。どこが講師なんだかわかりませんが」とやや卑屈になって自己紹介しているし、また、そのたびにメンバーたちから「そうだ、そうだ」といわんばかりに笑われる。実際、ぼくは料理教室でも不器用だし、紙芝居の練習も一番へたなほうだ。でも、それだけではちょっとくやしいので、ここで年間講師としてのぼくの役割について述べてみたい。
 その役割とは、狛プーのなかに社会のヒエラルキーのサブシステムとしてのミニ・ヒエラルキーが形成されることを阻止することなのではないか。とくに、人間はだれでもちょっと慣れてくると、先輩ヅラ、指導者ヅラ、先生ヅラをしたくなるものだと思う。狛プーの集団風土のなかにそういう傾向が表われたとき、それをどう排除するかということが重要である。
 そのために、ぼくは、具体的にはつぎのようなことを心がけている。
@ ニューカマー(新規参加者)をさっそく主役にする。
A もうすでに歩いている人よりも、これから足をおずおずと踏み出そうとしている人の「初めの一歩」を支援し、評価し、気を楽にさせる。
B 撤退を望む人には、さわやかに潔く撤退できるように仕向ける。
 実際にこれらの役割をぼくがうまく果たしているかどうかは、もちろん、わからない。

6 狛プーはノリのよい狛江だけでしかできないものか?

 他市区の青年事業担当者から「狛プーのような青年事業は、ノリがよいという狛江の地域性があるからこそできたもので、一般的にはいまの青年にそんなノリは望めないし、そもそも集まってくれないのではないか」と言われることがある。これだけは反論しておきたい。
 狛プーも、一年目は、常識的なものさしからいえば悲惨な状況もあった。今でも思い出すのだが、紙芝居のとき、4人ということがあった。紙芝居の先生と、担当職員と、ぼくと、そして青年の4人である。ほかのメンバーの残業などの事情が重なってしまったのだろう。でも、4人でけっこう楽しくサンマを味わいながら紙芝居を練習したのを覚えている。だから、ほんとうは悲惨でもなんでもなかったのである(担当職員は胃が痛くなったと思うが)。評論家になって「いまどきの青年はこういう事業に参加する積極性を失っている」といってあきらめてしまうのではなく、意義深いサンマを実際につくりだしていくことこそが私たち青年事業担当者に求められている。そうしていれば、そのサンマの匂いを嗅ぎつけて、青年たちは自分の意志で集まってくる。ちなみに、行政当局は、参加者数のことで頭や胃を痛める管下職員をむしろ支援しなければならない。
 狛プーのひとりが、飲み会のとき、新規参加した初日の様子を話してくれた。公民館の玄関先まできたのだけれど、やっぱりいったん引き返して、また公民館に戻ってきて狛プーに参加したというのである。この人を、はたして、「積極性が足りない」と批評してよいのだろうか。青年に限らず、私たち現代人一般は、サンマをあがき求めながらも、そのプロセスのなかで傷ついたりおびえたりして生きている。そういう心の傷を引きずっていない「健全青年」ばかりの町なんて、そもそも存在しないのではないか。だから、狛プーにおずおずと集まってくる青年たちこそが一般的なのだといえよう。
 現代社会教育は、生涯にわたる発達の場であるとともに、「癒しのサンマ」でもなければならないと考えられる。青年教育が「出会いの場」であることは従来からいわれてきたことだが、ぼくは、これからの青年教育は「いい男といい女が出会う場」でなければならないと思う。ここで、いい男とかいい女とかいうのは、家族や学校や職場や社会のコミュニケーションのなかで痛みや悲しみは当然だれにでもあっただろうが、その痛みや悲しみをその人なりに受けとめてきた彼と彼女という意味である。そういういい男やいい女は、狛江市内だけでなく、ほかの市町村にも存在しているはずだ。
「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その5)
 −真実を追求する知的水平空間−
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(5)
 −"Intellectual Horizontal Space" for the Truth−

※ 印刷にあたっての筆者からのお願い
 文中のアタマのmitoという文字は、読みやすくするため、すべてゴチックにしてください。

1 今回の論文の位置づけ
 前回は、教育評価への問題意識のもとに、「知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際」の概観を紹介した。そのときの筆者の計画では、すでに掲載した下記の2までを除き、3以降のテーマに沿って順次述べていく予定であった。
 1今回の論文の位置づけ、2知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際、3教育「される」ことへの反発、4教師による学生批判、5楽園追放は受けとめるしかない、6批判は否定とは異なる、7批判は必ずそれなりの真実を表している、8真理には到達しえない、9批判の刃を自己にも向ける、10他者の存在が自我を深める、11自他批判を通して身を構え直す学習者たち。
 しかし、例年と同じく、今年も本研究紀要への研究報告としてまとめたい「出席ペーパー」とそれへの筆者(mito)のレスポンスを中心とする事例が新たに多数発生したため、そういう今年の新しい事例を精選して紹介するということに変更したい。ただし、この研究にあたっての視点は、前回、「知的水平空間における学生からの教育批判とその対応の実際」を考察したときに引き起こされた問題関心に基づくものであるから、「出席ペーパー」や「知的水平空間」などの意味については従来の拙論を参照していただきたい。
 また、今回以降の掲載が予定されていた上記の3以下の記事と、今回の範疇のものでありながら掲載しきれなかった今年度の事例についてはすでに電子形態ではまとめてあるので、希望される人にはMSDOS標準テキストの形態で提供する。

2 「進路」という社会の事実と真実
(1) 大学生のための進路指導のあり方 (略)
(2) 個人の素晴らしさと、社会にそれを認めさせることの違い (略)
(3) どこまでも知りたい=事実よりも真実を追求する生涯学習
駒田信二『「藤野先生」における真実』(『ユリイカ』昭和五十一年四月号)より
 今では(魯迅の)「藤野先生」にフィクションの部分の多いことは広く知られている事実である。
 「わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった」。
 「藤野先生」のはじめのこの部分の、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年の明治三十八年四月に開設されたということ、また、当時、仙台医学専門学校は第二高等学校と同じ構内にあり、その第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているということが、半沢正二郎氏を会長とする「魯迅の記録を調べる会」によって明らかにされている。
 しかし、「藤野先生」に於て「・・・日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」と書いたこと、「中国の学生はまだ誰もいなかった」と書いたことは、事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。
 幻燈事件も、事実としては「藤野先生」や『吶喊』の自序に書かれているとおりではなかったかもしれない。それを虚構と考えてみることは、尾崎氏のいうとおり、より深く当時の魯迅に迫る道の一つであろう。「藤野先生」の他の部分についても、同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。
mito 起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、「どこまでも知りたい」という自然発生的な欲求を生涯学習の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、その「どこまでも知りたい」という場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」であるということである。事実の積み重ねに終わるのでは、駒田のいう「深い感動」もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかでいわゆる「社会教育の知識」が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」というワンダーランドとしての学習が疎外されているからである。
 もちろん、枠組みは変えないままその枠組みに知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じるという人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識が豊富になった人を見るときのような、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいと思うが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。
 ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だって多いのだ。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。
 魯迅の例でいえば、「日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」という言語表現には、「当時は日暮里駅などできていなかった」という事実しか見えない人のつまらない詮索を越えた魯迅の思考のなかにある真実が隠されているのである。すなわち、その真実とは、日本人から抑圧され日本で銃殺されようとしている中国人を、同じ抑圧を受けているはずの中国人がのんきに見物しているという場面を見つめる魯迅の思考のなかにある。ただし、これは虚偽に対置される虚構、すなわち「小説的真実」についての話ではある。
 さて、さきに「大学生のための進路指導のあり方(その1)」において、ぼくは、「mito的授業は、本当の夢の方への支援だと思ってほしい。学生の就職活動に対する大学学生部の役割は求人情報の提供などにあると思うが、教育的専門職員である大学教員の役割は、就職活動のプロセスのなかでの自己確立への教育的援助にあると思う」と書いた。事実と真実は異なるという今回の視点から、これをもう少し深めてみたい。
 事実は小説よりも奇なり、という。一生懸命、採用試験の勉強をして、合格する実力(真実)を身につけたとしても、そういう人が落ちて、入るはずのない人がたまたま受かってしまうこと(事実)だってありうる。しかし、自分は、どの瞬間に自分をほめてやるべきなのだろうか。それは、挑戦可能なチャンスを見つけてきて、一生懸命に採用試験の準備を重ね、試験当日は「もしかしたら落ちるかもしれない」という恐怖に打ち勝って試験場に行き、そして、最後の試験の最後のチャイムが鳴ったときなのではないか。けっして、試験終了後、しばらく過ぎてから、合格通知がきたときにほめ、不合格だった場合はほめないということではないと思う。合格、不合格は「小説よりも奇なり」の事実にすぎないからである。ここでも、ラッキー、アンラッキーという事実によって右往左往させられてしまう主観的な態度から、自分の人生のうち自己決定できる部分を自己決定して生きているのかという真実の部分を重視する客観的な態度に転換することが求められる。
 つぎに、採用試験に合格する実力を身につけたかという真実に属する部分と、実際の合格、不合格の結果という事実に属する部分との関係について、つぎの4つのケースを想定してより具体的に考察してみたい。
 真実        事実
  (合格する実力)  (試験結果)
T ○         ○
U ○         ×
V ×         ○
W ×         ×
 Tについては問題ないだろう。Wについても、結果をみて初めて落胆する人もいるかもしれないが、それはその人にとっては社会のもつ「真実」の側面に関するよい学習機会になったということにすぎない。実際、「落ちるべくして落ちた」という場合には、「自分は敗北主義に逃げることなく与えられたチャンスに向かってチャレンジできた」という充実感が、満足と自信(個人が社会に生きるにあたって必要な厚かましさ)につながることが多いようだ。
 Vについては最初はぼくは問題ないと思っていたのだが、S大の男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたので、ぼくも認識を新たにした。つまり、採用後にサービス対象や仕事仲間に迷惑をかけ続けることになり、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、この話をしたら、他の学生が、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達にもうしわけなくて会うことができなくなる」という。このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまったのだ。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決める非主体的な態度(敗北主義)としてぼくは批判していたが、どうもそれだけではなく、現代青年のもつそれなりの繊細な深みもあると思われた。
 そこで、Vについてのぼくの意見をまとめておこう。もし採用試験に「はからずも」(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで「正当な劣等感や罪悪感」(真実)をもつことは本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた能力を発揮できるようになるかもしれない。生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習(リカレント)を社会的活動に入ってから継続できる人なのかどうかのほうが重要になるからである。思うに、これは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということの表れなのである。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その持ち味を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうる。
 最後にUについてである。ここで、ぼくは、今まで述べてきた「真実=合格する実力」という図式を否定しなければならなくなる。はたして、合格する実力を身につけることは真実に属することがらなのであろうか。現在の採用試験の評価基準は、採用後の仕事に必要な資質と能力を客観的に測りうるものになっているのか。そうなっているといえる人は、企業の採用担当者であっても、まずいないであろう。企業としては本人の貢献能力を正当に評価するための必死の努力は行なっているだろうが、評価の適正化そのものが未知の課題なのである。しかしながら、就職するためには、そういう社会から自分に与えられた不十分なチャンスを自分としてはどう活かしきるか、戦術を立てて臨むしかないだろう。つまり、合格する実力を身につけること自体は、真実(就職による自己実現そのもの)に属することではなく、事実(就職のための作戦)に属することなのである。
 この点について、もう少し端的にいえば、一つひとつの採用試験の合否の結果は、ちっぽけな事実にすぎないということである。もちろん、少なくとも本人の「実生活」(事実)に対してはかなりの影響を与えるものではあるが、その影響がプラスかマイナスかは、じつは断言できないものなのである。私たちは、いろいろな情報を得て「ここがいいだろう」と予測してそこを目指しているのにすぎないのである。「事実は小説よりも奇なり」であるから、親が、学校が、友達が、社会が、そして自分が「いい」と判断している就職先であっても、実際に入ってみたらつまらなかったなどという「事件」は当たり前のように世間で起こっている。たとえば、いい教育をやりたいという志から晴れて教員になり、初めて配置されたところの学校が、そういう教育をやらせてくれない所だったなどという「悲劇」はごく普通に起こっている。そうなる危険性を覚悟して、そのうえでどう自分の志を社会適応させた形で実現するかということが、大人になる、社会に出て働く、自己実現するということなのである。合否の事実がプラスになるかマイナスになるかは、わからないことだ。「人間万事塞翁が馬」(人の世は禍福の定めがなくて、災いが福に変わり、福が災いとなるものであるとのたとえ)なのであり、ラッキー、アンラッキーという事実に自分の内面まで振り回されている姿は、少し客観視してみれば滑稽なことがわかるだろう。それがわかっていても一喜一憂してしまう自分を、もう一人の自分がそれを見ていて嗤ってやるのが、この場合の自己の客観視(自己認知)なのである。
 それでは、「受かるべくして落ちた人」の真実とは何だったのかについて、ぼくの考えを述べてみたい。自分が今は何を求めて生きているのか、これについて社会のさまざまな事実に惑わされない何か(主我)があるのなら、少なくとも今は自分がそれを求めていることだけは、自分にとっての真実として確信できるのではないかと思う。それが真実なのである。だから、「安定した生活を送るために大企業にぶら下がれればよいのだ」と思っているのなら、それもひとつの真実なのだろう。しかし、それだけでは不満を感じたり、潔く自己受容できないとしたら、それは社会が悪い、アンラッキーなどという問題なのではなく、自分が今は何を求めて生きているのか、本当の自分の欲求に気づいていないという自己認知の欠如の問題なのである。
 「受かるべくして落ちた人」のほとんどは、合格する実力をそれだけ蓄えることのできたエネルギー源として、ある社会的な役割を遂行したいという欲求をもっているのだと思われる。じつは、その社会的役割遂行の欲求こそが、その人にとっての真実なのではないか。その人は、この欲求を自己認知する必要がある。それは本当の意味での自信(自分への信頼)をもつことともいえる。
 たとえば、教師になりたいという人は、きっと「いい教育をしたい」という欲求があるのだろう。だから、「教育公務員特例法」に基づく給料をもらいながらその欲求を実現する方策として、教員採用試験を受けるのであろう。それは教師になることを第一希望にする根拠としてはかなり妥当であるといえる。ただし、「人間万事塞翁が馬」であることは受容しておいたほうがよい。教員が学校に配置されるにあたって、校長の指名などはできないのである。しかし、その人の第二希望、第三希望は、どうなっているのか。受験者側には受験の自由が与えられているけれど、反面、採用者側には選別の自由が与えられているのである。そうだとすれば、受験者側が自分の就職先を勝手に一つに絞りこんでしまうのは、社会のなかの自己の位置という事実を客観視(自己認知)していないことの表れであるといえる。教員採用試験に受かることなどというのが「本当の夢」などであるはずはない。それは「本当の夢」を実現するためのただの作戦の一つにすぎないのである。だから「数打ちゃ当たる」という実践的態度が必要になる。もちろん、幸いにも自分が就職浪人させてもらえる状況(ラッキーな事実)にあるのなら話は別だが。
 たとえば、学習塾の講師になるのはどうだろうか。「学歴偏重社会の手先になるのはいやだ」という人もいるかもしれないが、そういう人は学校だって「学歴偏重社会の発生源」としての残りかすを引き継いでいるのだから、正規教員として採用されても、同じように「いやだ」といって、その不快な事実から逃げ出そうとするのではないかとぼくは思う。そういう場合は、非常勤採用をねらったほうが、自分の思う教育がやりやすいかもしれない。あるいは、まったく異分野の職業に就いておいて、あるいは、専業主婦、専業主夫になって、ヒエラルキーから管理されないところで、あるいは社会教育のような(少なくとも理念としては)活動する市民が主体として尊重される世界で、地域の子育てネットワークに関わってもよいだろう。現実社会においては、そちらのほうが実際にはあなたのせっかくの志が実現しやすいかもしれないのだ。実際、望ましい意欲・資質・能力をもっていて、それを地域の子ども会活動の援助という形で活かしたいという住民が一人でもいるのなら、そういう人はあっという間に地域教育活動の主人公として、貴重なリーダーになりうるというのが残念ながら全国的な状況なのである。
 これらの社会的役割遂行の豊かな可能性はすべて、自己の「社会的役割遂行の欲求」という真実の部分に本人が気づいたところから広がっている。事実(世間の物差し)ばかりに惑わされている人には気づけないことであろう。ぼくが「大学は学生が夢を見つけ出すためのところ」と考えているのも、そういう理由からである。また、生涯学習の「どこまでも知りたい」という欲求も、事実より真実こそを追求しようとする欲求なのだと思う。だからこそ、社会全体としても、そういう生涯学習の支援のための体系化をするのだと考えたい。人びとが自由に行なっているそれぞれの生涯学習の内容が、今の社会に直接的に還元するか否かを、公金を使って支援するかどうかの判断基準にすることには、ぼくは反対である。憲法第13条(個人の尊重)が「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という場合の「幸福追求」の権利とは、「社会に対して役割遂行しなければならない」という個人としてではなく、「自己実現したい」「役割遂行したい」という個人としての真実の追求の権利というべきである。

3 真実追求の辛さはどこにあるか
(1) 社会的役割遂行としての教育の特殊性 (略)
(2) 学習者にとっての教師の不快な言葉と無益な言葉の違い
1994. 5.14. S大教育社会学、女
 先生の話しはクドくて生々しすぎて嫌です。性問題も大切だとは思いますが、すぐ恋愛やSEXに結び付けないでください。
mito 現代社会においては、たとえ恋愛やSEXという個人的なことがらであっても、それが「社会的問題」(ここでは性問題)として存在してしまうのである。ぼくは、これを「現代人の性の非主体性」(対等な人間関係のなかでの恋愛やSEXを味わえない問題など)という視点から考えている。その「現代人」には、ぼくもこのペーパーを書いた学生も入ってしまうのである。ただし、各人の主体(認知・行為・評価する我)によっては、その社会的影響を内面的にはかなり払拭できている人もいるかもしれない。程度の差はあるということは、ぼくも認めなければならないと思う。
 それでも、ぼくは、このペーパーでそれ以上にどきっとしたのだ。それは、「クドくて生々しすぎる」という指摘に関してである。ぼくは、「『膣外射精による避妊の失敗』は、自分の性欲までコントロールできるという性に関する男の自信過剰と、女性に対する生意気で傲慢な姿勢からくるものであり、性の非主体性を表わしているのではないか」と言った。そこまでは言ってもよいと今でも思っているが、相手に対する「してあげる」喜びとしてのSEXになっていないこと、それを女性がきちんと拒否できないことを批判するために、「顔面発射」という俗語まで持ち出して、「そんなことが女性にとって気持ちいいわけないですよね」と言ったのだ。「顔面発射」という俗語は、そのことをいうためには無益であり、女性にとっては不快な言葉であったと思う。そこまで言ってしまったのはなぜだろうか。「不快なこと、きわどいことを言って衝撃を与えたい」というセクハラの気持ち、意地悪な気持ちがぼくにあったのではないかと、このペーパーを読んで思ったのである。あるいは、性に関する現代人の不幸な状況を今すぐ変えたいという無茶な思いがあったのかもしれない。いずれにせよ、各人の思考における決断については各人に任せるという知的水平空間にはなじまない言葉であった。ぼくの言葉の被害にあった学生には申し訳なかった。
 ただ、mito的授業において、現代社会における人びとの非主体性の本質という真実に迫るための言葉については、「クドくて生々しすぎて」も、あるいはクラく見えても、できるかぎり真正面から受けとめてほしい。それは、個人と社会の関係を考えるためには、あるいは、他者の学習や幸福追求を援助しようとする教育や教育学を学ぶためには必要不可欠なことなのである。そして、学習者にとっては無益なぼくの屈折の授業における表れについては、きちんと自分なりに見分けて、これからも批判し、批評し続けてほしい。
(3) 「ただのろくでなし」と「ましなろくでなし」
1994. 4.20. T大U部社会教育計画、女
 神経症もちなので先週のゲームはけっこう辛かった。偶数日だけ出席しようかと思う。でも、講義を受けていても(中略)手は震えるし、思考力もものすごく鈍っている。きたない字ですが、本人はものすごくゆっくりていねいに書いているつもり。耳をとがらせてでもよく聴いて、いろんな情報を聞いたり考えたりしたいと思っています。本当は奇数日も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか。
mito ぼくは、この学生の真摯な態度に敬意の念を感じる。ぼくの授業では無理をしないようにしてもらいたい。すでに公言してあるとおり、出席、入退室はすべて自由であり、ぼくにはきがねなく自己決定してほしい。
 mito的授業、とくにこの授業のような態度変容をねらいとする体験学習においては、次のような参加の仕方が考えられる。これらを、自分で選択して行動するということが大切である。@欠席する(授業より有意義なことをする、ボーッとしているなど。その時間の使い方を総括するレポートが翌週に提出されれば出席扱い)、A出席するけれど、出ていきたくなったら出ていく(出席扱い)、B参加したくなかったら、どいてしまって、授業を観察している(高見の見物)、C参加するけれど、発言したくないときはパスする(しゃべりたくないことはしゃべらない権利の行使)、Dバカになって参加する(非力の自覚)、E批評的に参加しつつ、あとで批判する。最後のEは、体験学習においてはそれを体験してからの話である。そうでないと批判にならない。また、@からCまでの行動は、ネットワーク型社会において求められる「潔い撤退」である可能性がある。
 ここで困るのは、撤退をしながら撤退仲間(ピア)とこの授業の陰口を言い合って満足している態度である。ぼくは、それを「ただのろくでなしの行為」とよんでいる。撤退は自由なのだが、残留者は残留者で自分にとっての意味を見つけてこの授業に参加しているのである。残留者のことがどうしても気になるのなら、その残留者と率直に意見を闘わせればよいではないか。以前、6月中旬という時期に「私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのかわかりません。しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに『変に理解しあってしまう』という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです」と書いてきた学生がいた。個人の事情で欠席していたことはかまわないのだ。しかし、「真剣に」「興味深く」参加している他者について勝手に推測したりする権利にはつながらないはずだ。ぼくは、「この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて『真剣に』受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう」とコメントした。こういう学生の行為を、「潔くない撤退」、または、「ただのろくでなし」とよぶことができるとぼくは考えている。社会教育団体においても、撤退したはずのメンバーや元リーダーのような人が、いつまでも「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみついて、現在の団体運営に干渉をして団体の自主性を損なっている例があるが、これなども「潔くない撤退」なのである。
 「ただのろくでなし」には、もうひとつのタイプがある。途中退出が認められ、実際に何人かがそうしている状況のなかで、また、せっかく授業を聴くのを楽しみにしているのに私語がうるさくて聞きずらいという学生のペーパーを読み上げているのに、なおかつ、おしゃべりばかりしていて退出してくれない学生がいるのだ。あるいは、熱心に受講している学生を冷やかに笑っていてくれればよいのに、それさえもできない。これは、まわりの人への迷惑よりおしゃべり仲間との「つながり」を優先するピアコンセプトの表れであり、かといって、他の学生に迷惑をかけてでもそういう学生の学習から落ちこぼれたくないから退出しておしゃべりを続けることもできないという、非常に惨めで情けない破廉恥なピアコンセプトの表れなのだと考えられる。
 このように考えると、「本当は奇数日(体験学習の日)も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか」と言う学生の言動との質の違いは明白である。人間は、ピアコンセプト(仲間意識)などの自己の内面的要因や現代管理社会による外部からの抑圧などのなかで、他者の目におびえ、潔く参加や撤退ができない「弱い存在」である。すなわち、「ろくでなし」である。しかし、それは、まだましな「ろくでなし」なのであって、そこで葛藤して自己解決に向かう姿は、「ただのろくでなし」とはずいぶん違うのだと思う。「ただのろくでなし」の存在は事実であってもくだらなすぎて小説のネタにもならないが、「ましなろくでなし」の葛藤は小説でも追求しているメインテーマなのであり、人間的真実そのものなのである。
1994. 4.27. T大U部社会教育概論、男
 私語の話はやめにしていただきたい。せっかく仕事を終えてメシも食わずに教室に駆け込んでくるのに、何回も私語の話などというクダラナイ話で時間を潰している。こんな話で時間を拘束されるのであれば、「これから20分、私語の話をしまーす」と宣言してほしい。その間、寝るなり、学食へ行くなり、有効に時間を使えるではないか。
mito ぼく流に、この学生の言いたいことを翻訳すれば、「ただのろくでなしのことなど、そもそも関心がない。そんなやつらのことなどほっておいて、もっと本質に迫る話をしろ」ということだと思う。主体的な学習者の態度として、これでよいと思う(こんな評価は、彼にとっては余計なお世話かもしれないが)。学習者は本質的に「自分のために学習する」のである。自分の学習のために無益であると思えば、彼のように教育側を批判することによって、「メシも食わずに教室に駆け込んできた」自らの学習権を行使すべきである。なお、いずれにせよ、私語の話はmito的授業の初期のころにする話であり、中盤以降はほとんど話題にならないから安心してほしい。
 ほくが私語の話をするのは、ひとつには、おしゃべりする学生の自由を認めたうえで(退出して廊下などでおしゃべりをしてよいことになっている)、自由を欲していて、しかもその自由を認められている自分こそが、他者の自由(学習したい者の学習権)を侵害しているのだという事実を知らせ、「相手が悪い(授業がつまらない)からそのせいでしゃべっているのではなく、おしゃべりしている自分がろくでなしなのだ」という真実に気づかせ、他者や社会のせいにできない状態に追い込むことによって、「ただのろくでなし」の状態でいる人に「自由の恐怖」を味あう機会を提供し、自由の行使の大切さを認識させるためである。
 それでは、ほかの「ましなろくでなし」である人たちにとって、私語に関する話は無益であろうか。普通なら無益なのかもしれない。たった一度しかない人生を、つまらない人の生き方やつまらないことがらとつきあってわざわざ無駄にすることはないからである。しかし、この授業は「教育学」の一環なのである。現代人の主体性獲得への援助者としての力量を身につけるためには、この「ただのろくでなし」の問題を本質的にどうとらえ、どう対処すべきかということが重要になる。援助者にとって大切なのは、「ただのろくでなし」に対する「否定」ではなく、「共感的理解」である(ちなみにけっして同感したり同情したりする必要はない)。「ただの」か「ましな」かは違っても、同じ「ろくでなし」の部分を共有しているのだから、理論的には共感は可能なのである。とくに、自らの「個の深み」や主体性を発揮するときの阻害要因としてのピアコンセプトについては、「ましなろくでなし」の人にとっても思い当たる節が多いのではないだろうか。
(4) 社会人入学の本質的な意味
1994. 4.20. T大U部社会教育概論、女
 大学生活3年目にして異質の先生に出会い、教室の雰囲気と学生のレポート(出席ペーパー)の内容にカルチャーショックを受け、後席の若い子に「反応の鈍い私はついてゆけそうにない」と話しました。事実、呆然自失の状態でした。その子は、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれました。
 私の年代の人間は、全力投球型の馬車馬的タイプが多いのかもしれません。そして、あらためて生涯学習とは何なのか、大学に何を求めているのかを考えさせられました。歳をとると頑固になるといいますが、気づかずに私は自分で垣根を作り、囲いのなかで自分の殻に閉じこもっていたのですね。
 学ぶということは、新しい自分を発見することにほかならないことで、異質と感じる心は動脈硬化の始まりであることをあらためて知らされました。若々しい空気、自由な雰囲気に触れることで、私のなかの何かが変わればと思います。私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せです。
 お願いがあります。もう少しゆっくりお話ししていただきたいことと、英語より日本語を少し多めに使っていただけたらありがたいのですが。(以下略)
mito これは自宅で書かれて翌週にマル秘で提出されたペーパーを、ぼくが本人に頼んで紹介させてもらったものである。まず、早口であることと専門用語の濫用についておわびしたい。これは、ぼくのある意味での「詰め込み主義」と、「わかりやすい言葉で説明できない力量不足」のせいである。ほかの学生からもそういう苦情は受けており、改善の努力をしたい。
 そして、この社会人入学の学生の不安に対して、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれた学生にもお礼を言いたい。ぼくも心からこの人にそうお願いしたい。そして、早口などについて謝りたい。「呆然自失の状態」から「私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せ」と書いてくださっていることにぼくは救われた思いである。一人ひとりが「学習しなければならない」から「〜を学習したい」という本当の学習主体に内面から変わっていくことこそ、学歴偏重社会から生涯学習社会への変革の真のエネルギーになるのであろう。
 企業研修を受け入れている大学のある教育系の教授に、ぼくは、「企業のほうが大学より教育ノウハウをもっていると思うんですけど、なぜそういう企業が教育学を学ばせるためにわざわざ社員を大学に派遣するんでしょうね」という失礼な質問をしたことがある。その教授は、「哲学を学ぶためでしょう」と即答した。社会人入学の本質的な意味は、そこにあるのではないか。そして、そういう大学で学ぶべき「哲学」とは、けっして実社会からかけ離れたものではなく、むしろ現代社会が切実に求めている学問といえるのである。
(5) mitoという呼称について (略)
(6) スクエアヘッドを乗り越えて、いい加減さとMAZEの知的水平空間を (略)
(7) 幸福追求の援助者としての幸福追求
1994. 6. 6. T大U部社会教育概論、女
 私は高校生のときに妊娠をしました。相手は、私のクラスの担任でした。しかも、その人は奥さんがいる人でした。それでも私たちはたがいへの想いをおさえることができませんでした。
 私たちが肉体的関係をもったのは、今日ビデオで流れたような「無理矢理に」や「戸惑い(ながらも男の欲求に屈して)」ということではありませんでしたが、やはり私自身は受け身であったような気がします。正直、このとき、私は奥さんに勝ったつもりでいました。しかし、私の妊娠がわかり、2人で話し合った結果、人工中絶をし、私たちは別れました。結局、相手はもとのサヤにおさまり、私は身も心も傷つくというお定まりの経験をしました。
 恋人と別れたという事実は、時がたち新しい人が現れれば、私のなかから消えると思いましたが、1つの命を殺した事実はこれからの人生から決して消すことができません。街や近所などで、よく幼児をみかけます。そのたびに胸が苦しくなります。将来、子どもができたら、私ができる限りの愛情をその子に与えてやりたいと思っています。そして、自分の子どもが性にめざめたら、私のこの事実を話してやり、同じあやまちを繰り返させないつもりです。
mito 「奥さんに勝ったつもりでいた」過去の自分をきちんと客観視しているこの出席ペーパーを高く評価したい。
 この種の問題に対して、「教師は道徳的であれ」というべきであろうか。ぼくはそうではないと思う。教師が本来は尊敬語である「先生」であることを自他ともに認めてしまうことから、すべての矛盾が始まっているのだと思う。「教師は先生であるべき」などという無茶なことを考えるから、それが「がんばる」「無理をする」というプレッシャーになり、このペーパーのようなことが起こってしまうのではないか。この教師は、生徒を全面的にしょいこむような「熱血先生」だったのかもしれない。けれども、フツウの勤め人だったら、商品やお客さんに手をつけるだろうか(そういう人もいるけれど)。フツウの人のフツウの社会的役割遂行の意識さえあれば、こんなことはおこらなかったのだと思う。相手の将来のことを考えて、せめて避妊ぐらいはするだろう。教師の社会的役割とは、学習者の幸福追求の援助なのではないか。道徳的であろうとすることよりも、「お客さんには手を出さない」という援助者としてのフツウの感覚さえもっていれば、こんな不幸は起らなかったのだと思う。
 学習援助者としての幸福とは、援助活動のなかで自分や他者と出会うことができるという幸福である。ところが、教師のなかには、自分が学び変化するということの喜びを感じることのできない人がいる。生涯学習時代に不適応を起こしている人たちである。こういう人たちが教師をしているということは、本人にとっても、学習者にとっても不幸なことである。

4 知的水平空間における感情表出と「求め学ぶ」学習態度
1994. 6. 6. S短大社会教育特講、男
 ペーパーがストロークの一手段であるとするならば、ある意味においてこの講義の時間は同時に演習であるともいえる。
 人が人の心に思う本当のかたちの在り方を情報として提供し、又、提供される。私が今これに思うことは、決して「提供される」といった他者(mito、社会、親、年長者、会社、学校)からの手助け、ないし使役の形を伴った行動学習の在り方ではなく、私たち学生は自ら提供を受け入れる存在であるべきたることである。すなわち、主体性を体得することにほかならない。それなくして批評精神など至らぬ。
 プリントで様々なペーパーを通読した。成程、啓発を促すための所作のひとつとして「刺激」もしくは「毒」を多方面に渡ってなげかけて居られるようだ。授業計画の記述に、ペーパーは、これを学生が書くことによって知的に自己客観視を含め、人間社会生活の行動学を認識するのに役立つ、らしき内容をみた。文章という媒体(メディア)も使い方により誤りも生じ、多数のペーパーの傾向を追うに、講師との密な個人的係わり色濃いものが多く、それは断ち切らなくてはならないのではあるまいかと切に思う。教師との信頼も、それが過密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに停滞しているどころではない。
 幸い、出席ペーパーは(あるいは幸か不幸か)感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える。それに安心するのは、ストローク(人は信頼し得るものだという試み)に於いては有効であろうが、求め学んでゆく学生の時機に休息の糧を得て、本当に先々個人という主義を担って生きていかれようかと危惧の念を抱くのである。
1994. 6.29. T大U部社会教育概論、男
 「出席ペーパーは感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える」という(注・S大男子学生の出席ペーパーでの)意見があったが、授業で紹介される出席ペーパーはむやみやたらと感情を出しているだろうか。紹介されるペーパーは少なくとも、それを読む他者、聞く人々という対象を意識して書いているように思えるし、自分のためだけに書いた日記調のものではないと思う。(注・ペーパーを読まれるということは、むしろ)さながら、ラジオの深夜放送で読まれているのに近い感じだと思う。
 さらに、このことについて、僕の個人的意見を述べさせてもらうなら、ある程度の感情をはき出す必要があると思う。感情とは、本音であるところのもっとも原始的なところではないか。むしろ、こういった本音の感情をはき出すことは歓迎すべきことだ。なぜなら、現代社会においては、タテマエと本音を使い分けて生きていかなければならない局面が多々あるからだ。このことは、ともすると、本音(感情)をごまかすということになる。つまり、ある意味で自分を殺すということだ。これはだれもが程度の差こそあれ経験していることだと思う。本音で感じていることと、口で言葉にすることが、ぜんぜん違っているということが。もちろん、この本音とタテマエはある程度必要だが(mitoちゃんはヒエラルキーの中で仮面をかぶるという)、その許容範囲を越える事態(注・個に対する社会的抑圧の、あるいは自己抑圧の、過剰の意味か?)が生まれている。現に、神経科、精神科の病院が大はやりだ。そこで、会社のような利害責任を問われない大学(授業)、教室という空間においては、本音の感情をぶつけあうことが行われていいと思う。僕は大賛成だ。とかく、感情(本音)を出して表現できる空間あるいは仲間が少ないだけに。
mito mito的授業のなかで学生が出席ペーパーを通して感情を表出することは、知的水平空間を維持し、発展させるという観点からは、プラスなのか、マイナスなのか。なかなか微妙で興味深い問題である。たしかに、感情の交流は、「知的発達」よりも「癒し」や「信頼」の、ストロークに傾いた行為であるといえそうだ。だから、従来の教育においてはそういうものが排除され、「自分の言い分は本当に自分勝手ではないかを考えてみよ」と親や教師からいわれて、「知育」の名のもとに、もっと一般的、普遍的な言い方をするように求められてきたのだと思う。
 しかし、「アサーティブトレーニング(さわやかな自己主張訓練)」においては、「自分の言い分は本当に自分勝手なのかを考えてみよ」が引っ込み思案の人たちへの重要なアドバイスの一つになっている。ぼくは、前者の訓示にはむしろ虚偽を感じ、後者のアドバイスに人間の真実を感じるのだ。自分勝手で不当な感情をもつことも人間だからときにはあるかもしれないが、それよりも、誰でも一回しか生きられない自分の人生に関心をもっているということから発するやむにやまれぬさまざまな感情は、何らかの深い「人間的真実」に基づいている場合が多いのではないか。むしろ、個人の感情を「自分勝手だ」と自他が決めつけてしまって、最初からしかめつらをした「一般論」で論じようとすることのほうに、真実の追求からの逃避の匂いをぼくは嗅ぎとってしまうのである(前者のペーパーの書き手に対してではない)。自らの深い「人間的真実」に主体的に迫ってこそ、深いところで他者と認識を共有することができるのだと思う。
 学問とは「世渡り術を習うこと」ではないのだから、授業では学生は自分の感情をペーパーや口頭や頭のなかで言語表現することによって自己の客観視に接近することのほうが重要なのではないか。ぼくは学生に「mito的授業においては、あなた自身があなたにとっての最適の教材である」と宣言している。それは、「自分に出会い、自分のもっている無限の可能性に少しでも気づくこと」と言い換えてもよいだろう。これは人間の学習活動の大きな意義なのだ。ぼくが生涯学習活動において、「開きたい心を安心して開いて交流できる時間・空間・仲間のサンマ」を重視するのも、そういう理由からである。「アサーティブトレーニング」の効果の一つとして、「安心して自分を開くことができる。したがって、自己洞察の機会も広がる」が挙げられているのも同様の意味であろう。
 ぼくは、前者のペーパーが「むやみやたらと伝達の為に感情をはき出して、それに安心して、求め学んで行く学生の時機に休息の糧を得てしまう」と指摘しているその鋭さに、敬意さえ抱くものである。しかし、そこで表明された「危惧の念」は、実際には、むしろ逆のことに対して表明されるべきだったのではないかとも思う。すなわち、自己の感情や思考方法を言語表現することを避けて、もうすでに権威化された一般論しか述べずにいて、それで「学んでいる」と安心してしまっている姿に対してこそ、「求め学ぶ」学生の姿ではないというべきではなかったのか。
 ぼくは「生涯学習はドキドキワクワクのワンダーランドであるべきだ」といっているが、じつは、自己の感情や思考を表現することは、しばしば、心を平安にしてくれずに、むしろ自己の思考を波立たせていっとき不安定にさせる作用を及ぼすと感じている。だから、その「ドキドキ」がつらいという人だっているだろう。それでは、そういう人に対して「危惧の念」を表明すべきだろうか。ぼくとしては、大人の学習は本質的に「問題解決型学習」であると考えているから、「そんなことで苦しんでまで学習したくない」という人がもしいるのならば、そういう人はさしあたって生活に必要な知識だけ身につけておけば当面はよいのではないかと思う。別に無理して教育を受けたり、学問をしたりしなくてもよいのではないか。生涯学習の原則は、「学びたいことを学びたい手段で」なのだ。リカレント学習の考え方でいえば、その人は学びたくなるときまで待ってから学んだほうがよいということだ。
 しかし、実際には、ペーパーで自己を開くことによって、「休息の糧」を得るどころか、あえて自分を辛辣に表現する学生が多い。たとえば、高校時代の自分が担任の教師の「不倫相手」や「恋愛対象」になったとき、「先生の奥さんに勝った」とか「先生のファンである同級生たちに勝った」と思っていたことを、きちんと文章として外在化させる学生もいるのだ。こうした自己への気づきは、出席ペーパーというチャンスがなければありえなかったのではないか。それは、自分という人間の滑稽さを客観的に認識するということであり(自己洞察)、自分も愚かな存在の一員であることを知ることである(無知の自覚)。このことによってこそ、自己受容ができ、その後の自己変容の主体になりうるのである。ぼくは、それを称して「個人の内側にさわやかな風が吹いている状態」と呼んでいる(さわやかな風)。
 また、このような出席ペーパーは、他の学生にとっても興味深いもののはずである。他者の感情表現のなかにある真実を垣間見ることができるからである。他者は自己の鏡である。狛プーのある女性メンバーが記録集に、こう書いている。「私もみんなの心の中を写し出す鏡です。いろいろな自分を知りたい人は、どうぞ姿を写しにきてくださいな。もっとも、この鏡はナマモノなもんでねえ。いつでも等身大にきれいに写るかどうかはわからないよお」。
 川喜田二郎は、自らが開発したKJ法という発想法を解説した『続・発想法』(中公新書)の「情念の情報キャッチと理性の確認」という項目のなかで、科学や学問や問題解決などの発想について、「情念がとらえ、理性がこれについで確認する」と表現している。それにも関わらず、私たちは、理性の確認のあとにできあがった完成品としての学問の姿ばかり習ってきたのではないか。「学ぶ」という言葉は「まねぶ」(まねをする)という語義をもつ。ぼくは、『生涯学習か・く・ろ・ん』では、この言葉を消極的、受動的だとしてやや批判的に解説したが、今は、「まねぶ」こと自体は学習にとって非常に重要なことなのだと思う。ただし、それが、学問生成の初期形態としての「情念がとらえる」部分からも学ぶことになるのでなければ、やはり「求め学ぶ」積極性にはつながらないといわざるをえない。そうでなければ、つまり、完成品としての学問だけしか与えられないのであれば、一人一学説といわれる現代という時代においてさえ、私たちはいつまでたっても学問を創造する側にはなれないのである。
生涯学習時代における大学の役割 
-平成6年度神奈川の大学における生涯学習関連事業実施状況調査結果から-
昭和音楽大学短期大学部
助教授(社会教育学)       西村美東士

はじめに
 −現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として−

 今回の調査結果全体からは、施設開放で66.7%、公開講座で74.6%、社会人入学特別選抜制度で39.7%、科目等履修生制度で73.0%、単位互換制度で50.8%、生涯学習推進組織で61.9%など、多くの大学(短大を含む)が生涯学習関連事業を実施していることがわかる(平成6年、図表1)。この調査結果からは、まずは、市民や学生の生涯学習への関心の高まりを大学側がかなりよく反映していると評価することができよう。
図表1 神奈川の大学における生涯学習関連事業(平成6年度実績)
 市民や学生の大学への関心の1つには、社会人入学、科目等履修生制度、単位互換制度などに見られるように、大学卒業資格や単位を取得するための学習結果重視型のやや「きびしい生涯学習」を行なうことによって変化の激しい今日の社会を生き抜こうとするものがある。しかし、現代人の生涯学習欲求の高まりは、「厳しさ」だけに向けられているわけではない。2つには、公開講座など、どちらかというと学習過程重視型の「たのしい生涯学習」への欲求を満たすものがある。このような「厳しさ」と「楽しさ」の2つの側面からの両方の生涯学習への現代人の欲求に、多くの大学は応えようとしているといえる。
 従来の高等教育(大学・短大)においては、学生の恒常化した私語によって授業が妨げられるなどのことから、いまや学生の学習意欲の存在そのものさえ疑う大学関係者もいるほどだ。こういう高等教育の「権威失墜」が生み出された社会的要因としては、--1.従来の「学歴偏重」(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を育てたり評価したりできないという社会的な認識が普及しつつあるため、2.逆に「学校歴偏重」(どこの大学のどの学部の卒業か)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしているため--という2つの理由があげられよう。だから、ごく一部の大学・学部の「自他ともに認めるエリート予備軍」を除いた大多数の学生が、「賢明にも」学士になるだけのための教育には、過大な期待や、その受け手としての自負をあまりもたなくなっているのだ。
 そういう状況の一方で、現役学生を含めた多くの現代人のなかで、生きがい創出、自分さがしなどの自己実現や、職業、ボランティア活動などの社会的役割遂行のための切実な学習欲求が、急激な広がりと深まりを見せている。これらのニーズ全体が、生涯学習社会形成に向けた社会創造のパワーとしてふくらみ始めているのである。そのふくらみは、革新のない過去の高等教育が色あせていく道程(みちのり)と、あたかも反比例するかのような目覚ましさである。生涯学習関連事業の実施のなかでそういう人びとの猛烈な学習欲求に接している大学のほうも、新しい出会いと気づきの体験と自己革新をしている最中といえるだろう。
 また、こういう大学の革新によってこそ、従来の学歴偏重社会の「エリート」を育てる方向ではなく、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」(学校教育法第52条「大学の目的」、短大は若干異なる)という方向での高等教育の根幹部分自体の進化・発展も可能になると考えられる。つまり、大学の枝葉の役割としての狭義の生涯学習関連事業だけでなく、高等教育全体のあり方が生涯学習社会の形成というフレームのなかで考え直されなければならない時期にきているのである。

[本論に掲載した図表(グラフ)に関する注意事項]
@ 凡例の数字は大学と短大の合計である。
A 平成元年、2年については、大学の項目に単独大学院(総合研究大学院大学、東京工業大学大学院)
 を含む。
B 施設開放及び公開講座の内訳数字は、複数回答のため、大学数とは一致しない。
C 「聴講生」及び「科目等履修生」の項目については、聴講生制度を科目等履修生制度に変更した大
 学、聴講生制度及び科目等履修生制度併置大学、新たに科目等履修生制度を設置した大学があり、前
 年度と単純に比較できない。
D 動向を把握するためにスムージング処理を施してある。

1 市民の多様化・高度化する学習ニーズへの対応を

 生涯学習あるいは成人の学習の特徴として、自己管理型学習(self-directed learning)であるということがあげられる。すなわち、--みずからが学びたいと思うこと(欲求中心の自発的学習)や学ぶ必要があると思うこと(課題中心の問題解決型学習)を、学びたい手段で学ぼうとする--のである。そういうニーズが多様化、高度化する現在、大学の生涯学習関連事業もそれに対応しなければならないのは当然である。
 たとえば大学公開講座では、その生成期においては、「一般市民のために」という名目のもとに高等教育としてのレベルを根本からないがしろにしたり、「教員の公平な分担」という名目のもとに焦点化されていない総花的で非体系的なプログラムに陥ったりする傾向があったようである。しかし、最近の公開講座は、多様化し、高度化する市民の生涯学習ニーズに応えて、本来の高等教育機能の拡張としての公開講座を志向する大学が増えている。これは、最近の発展段階のひとつとして評価されよう。
 神奈川県リカレント学習セミナー事業(平成6年度)では、「食品・栄養分野の新しい視点」(相模女子大)、「パソコン基礎知識と情報化社会へ向けて」(産能大)、「管理職を目指す女性のために」(フェリス女学院大)など、各大学の特性を生かして、ある程度焦点化され、系統化されたプログラムが実施されている。また、専修学校においても、「合唱指導法」(昭和音楽芸術学院)、「専門家のための造形講座」(早見芸術学院専門学校)などのプログラムが指導者や専門家のために特化したかたちで提供されている。全国的にも、文部省のまとめた国立大学の公開講座開設予定調査(平成6年度)によれば、「プロフェッショナルを目指す人のための経営の基礎」(福島大)、「教育実践研究講座」(愛媛大)などの専門的な講座が開かれている。
 大学の生涯学習関連事業全体についても同様のことがいえるだろう。今後も、学習者層の拡大のためには、親しみやすい入門的で広い範囲の学習内容の提供が必要ではあろうが、大学側がそれだけに甘んじていて、市民の多様化、高度化する学習ニーズに対しては、「人がたくさんは集まらない」「手間がかかる」などの消極的な理由から対応できないままでいると、その事業を「大学が」行なっているからこその魅力を失い、よって、学問の深い意味での楽しさをも失って、いずれは市民から見離されることにもつながりかねないのだ。
図表2 公開講座実施大学数

2 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を

 今回の調査によると、県内の3/4近くもの大学で公開講座が行なわれていることがわかる。しかし、その経年変化をみると、実施大学数としては、「県の委託」が減っている分、「市町村と」や「自主開設」が増えているだけで、全体の数は頭打ちになっている(図表2)。この背景には、地域に根ざした大学拡張や大学側の主体性の拡大を重視する県の方針があるのだと思われる。むしろそれは望ましい傾向として評価することができよう。ただし、実施大学数の増加が緊急課題であった段階はすでに過ぎ去りつつあることだけは確かなようである。
 そうだとすると、県内の生成期の大学公開講座のままでは限界に達しており、今はそれを実施する大学を増やすことではなく、講座の質を進化させることが求められているといえるだろう。数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行なっているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題なのではないか。
 先に述べた市民の多様化、高度化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。
 さらに、そこで大学側が率先して主体性を発揮することが期待されるのは、学習内容の研究の側面はもちろんのこと、学習方法の開発の側面にまで及ぶ。たとえば、社会教育の世界では、すでに1971(昭和46)年に社会教育審議会答申「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」において、「個人学習の促進」の重要性が指摘されている。これは、当初はおもに放送教育や通信教育が想定されていたが、その後は、学習情報提供や学習相談などの支援形態としても発展してきている。これらの動きは、社会教育というと学級・講座一辺倒のマス(集団)至上主義という昔からのイメージがあって、それが時代にそぐわなくなってきたため、集合学習(講演会、音楽会、映写会などの「集会学習」と、学級・講座、団体活動、宿泊訓練などの「集団学習」)への支援を、個人学習への支援と統合的にとらえて発展させようとするものとして評価することができよう。
 また、高等教育の世界でも、たとえばロンドン大学では、「学習は個人的事象である」ことを基本テーゼとして、「多人数で行なう講義」については「教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離」などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」とし、そういう従来の「講義法」に「小集団討議法」「個別的・自主的教授法」などを対置させた教授法の手引きを、教員訓練研修プログラムのテキストとしている。( ロンドン大学教授法研究部、喜多村和之他訳『大学教授法入門−大学教育の原理と方法』玉川大学出版部、1982年)
 学習内容の工夫だけでなく、大学公開講座の受講という学習プロセスのなかで学習者がよりいっそう主体性を獲得できるような学習方法をこのように講ずることによってこそ、自己の潜在的学習欲求に学習者みずからが気づき、それを顕在的学習欲求に転化させることができるのである。少なくとも「一斉承り型学習」と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが、今後の大学公開講座の運営には求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。

3 高等教育の制度等の柔軟化と個性化を

 つぎに、従来から行なわれてきた高等教育自体の制度等が、生涯学習の観点のもとにどのように再編されつつあるのかをみてみたい。今回の調査によると、社会人入学特別選抜制度、科目等履修生制度、単位互換制度などが、それぞれ急速に整備されつつある(図表3)。たとえば、科目等履修生制度は、制度化している大学、在籍者がいる大学ともに、直線的な伸びを示しており、従来からの聴講生制度の後退を補って余りあるものがある。
図表3 制度等の整備大学数

 過去の学歴偏重社会においては、固定的な年代や時期の、固定的な一定期間の、固定的な場で行なわれる高等教育に重きがおかれ、それ以外の学習や卒業後の学習には比較的、関心が払われてこなかった。しかし、今後の生涯学習社会においては、社会の変化や進展に応じて、卒業後も繰り返し教育の場に立ち返って学習(リカレント学習)を進めることが求められていることから、大学の側もそういうニーズにいっそう柔軟に対応していく必要がある。
 このことに関連して、2つの重要な生涯学習の観点を述べておきたい。それは、--1.人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、なるべくその時期を逸しないようにして、それぞれの時期の課題に適した学習を行なうことが望まれるという観点、2.人間は一生のあいだ、さまざまなかたちでつねに変化・発達を続けることが可能な存在であるのだから、生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができるという観点--である。従来、とくにあらたまった論議などでは、ややもすると1ばかりが強調され、生涯の各時期における「教育目標」が固定的に受けとめられてきてしまった傾向があったのではないか。大学の側が本音のところではそういう前者の考え方だけに固執しているのだとすれば、せっかく大学の扉をたたいてくれている社会人や大学既卒業者は救われない思いになるだろう。「思い立ったが吉日」「人生のすべてが勉強」などのごくあたりまえの庶民感覚を大学も大切にしなければならない。
 さらにいえば、これらの制度が柔軟になり、学ぶ人やときや機会に関して融通がきくようになるということは、もうひとつの側面からいえば、それぞれの大学の場で提供されるカリキュラム自体は個性的で独自なものであるということが前提となる。つまり、その大学のカリキュラムが社会のなかで自立的価値をもっていることが自他ともに認識されているからこそ、他大学、職域、地域や社会で広く行なわれている学習の機会に対しても、自大学とは異なる価値を寛容に認めることができ、依存すべき点はさわやかに依存することができ、連携を考える精神的ゆとりもできてくるのである。また、これらの制度の柔軟化によって、大学が他の学習機会との互換性をよくしたり、外からの風を呼び込んだりすることは、その大学にもいきいきとした個性とさわやかな自信を与えてくれるだろう。
 このような「自立と依存の統合的発展」ともよぶべき現象は、じつはネットワークの特性そのものを表わしている。県内の多くの大学が先に述べたような制度の柔軟化を図っているということは、大学ネットワークや生涯学習ネットワークの形成につながるのだ。

4 市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を

 1988年に開設され、社会人が入学できる大学や大学院の募集状況や試験科目を紹介している民間団体「大学入学情報図書館RENA」は、「社会人に開かれた大学展」を開催して約40の大学・短大が社会人入学や公開講座、通信教育の情報を公開している。このような団体やイベントが民間ベースで運営されるようになってきたことは、それだけ大学に関する情報への人びとの関心が高まっていることを示している。
 このような情報ニーズの高まりに大学側が応えようとする場合、つぎの2つを考えなければならないだろう。--1.パブリシティ(広告・宣伝)として、2.情報提供として--である。1については、従来の入学募集案内の枠を越えた、人びとの生涯学習への関心を掘り起こすようなメッセージ性のあるものをめざす必要がある。
 また、とくに2については、学習者の側が知りたい情報が的確に掲載されていて、なおかつ、なるべくたくさんの網羅的な大学の情報を学習者が比較・検討できるようなサービスが求められている。これについては、全国で公的に整備が進められている生涯学習情報提供システムと連動させるかたちで対応することが考えられるのではないか。
図表4 施設開放実施大学数

 たとえば、神奈川県生涯学習推進協議会は、平成元年9月、「神奈川におけるリカレント学習システムの整備について」を提言し、その後、「リカレント学習推進専門部会」で、「神奈川におけるリカレント学習機会に関する情報の整備・提供」と、その情報提供に相談・助言のサービスを加えた「コーディネート機能」を検討事項の柱に掲げて議論を進めているところである。さらには、「生涯大学システム企画専門部会」では、大学を含めた生涯学習の推進に関わるさまざまな県内の機関が提供する学習機会を体系的・総合的な学習機会として県民にわかりやすく提供する「生涯大学システム」を構想しようとしている。大学と県とがたがいに主体性を発揮しながら、このような生涯学習の統合的情報の提供のために有機的な連携を図ることが望まれよう。とくに後者の情報提供にあたって重要なことは、学習者主体の情報提供によって学習者自身の自己決定を促すという触発の姿勢とともに、「(情報を)こちらから届ける」というサービスの姿勢である。
 生涯学習関連事業においては、こういう学習者中心のサービス姿勢を、情報提供においてのみならず、施設開放や公開講座の実施においても徹底することが今後の重要な課題となろう。いまや2/3の大学が施設開放を行なっており(図表4)、大学の市民への開放性の高まりを感じさせるが、その「開放性」がどれだけ市民の実際のニーズとマッチしているかについては、まだまだ覚束ない大学のほうが多いのではないだろうか。「大学教育に支障のない限り、自由にご利用ください」という姿勢も発展のひとつだろうが、生涯学習の時代はそのつぎの段階への発展を大学に求めているのである。それは、先の大学情報のように「届ける」「触発する」という姿勢である。
 まさか校舎や体育館やグランドなどの施設は「届ける」というわけにはいかないが、大学を訪れたいと思った市民が「どれだけ容易に目的地に到達できるか」(アクセシビリティ)を配慮する精神が求められる。車のない人はどうか、お年寄りはどうか。また、車椅子でも、大学の玄関から2階の開放している図書館に昇れるだろうか。さらには、バス停を降りてから大学の玄関までの歩道はどうなっているか。居合わせた自校の学生は、お手伝いするだろうか。こういう心配りをすることをオープンマインド(開かれた心)というのである。
 平成6年10月、横浜市立大学は街づくりが進むヨコハマポートサイド地区ビル内に「よこはまアーバンカレッジ」を開設した。これは、リカレント講座などを開催するための会場として、研修室、セミナールーム、ラウンジなどを備えたもので、同大学としては、この会場を市内や県内の他の大学にも開放し、共同講義の開催も手がけたいということである。全国的にも「エクステンションセンター」の名称などで、それを大学の立地とは別に街中に設置する同様の動きが見られるが、最大限のアクセシビリティとして評価できる。そして、これらの動きこそ、公開講座の「デタッチドワーク」(Detached Work)の萌芽といってよいだろう。
 「デタッチドワーク」とは、英国で行なわれているユースワークの形態のひとつである。それは、「施設を基盤としないユースワークという程度の意味であり、適切な日本語の訳はない。これは、ユースセンターやユースクラブなどの施設に青少年を集めてユースワークを行なうのではなしに、青少年が正に生活している街角、喫茶店、パブなどにユースワーカーの方が出かけて行き、青少年に関わろうとするものである。これは先に述べたように、従来のユースサービスに参加してこない層にアプローチする方法として実施されているものである」(田中治彦『学校外教育論』学陽書房)。
 大学が施設を開放する。つぎには、公開講座などによって機能(教員の教育機能等)を開放する。さらには、「よこはまアーバンカレッジ」のように市民のアクセシビリティ優先の拠点を配置する。このような施設開放と機能開放の進化の方向の先には、街のいたるところに大学のポスターが貼られ、街じゅうのさまざまな生涯学習の場で大学の教員が活躍する「デタッチドワーク」の姿が見え始めているのだ。

5 市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を

 生涯学習の要点のひとつに「自己管理型学習」があるということはすでに述べたとおりである。ゆえに、学習の評価については本人の「自己評価」がもっとも重要である。しかし、一方で、学歴偏重社会から生涯学習社会への転換にあたって、本人の「学校歴」に偏らない「学習歴」などに対する「社会的評価」の適正化が重要な課題になる。その場合、とくに「きびしい生涯学習」については、どうしても高等教育の過去のイメージを引きずってしまい、市民側も大学側もともに、教える側の制度化された「権威」が至上のものになりがちである。そして、「学びたいから学びたいことを学んでいる」という自己責任の原則が忘れ去られ、学習態度を依存的なものにしてしまうのである。これでは、生涯学習も、過去の教授者主体の「一斉承り学習」とあまり変わらない結果になってしまう。
 もちろん、大学卒業資格や単位の取得という学習結果の存在意義を全否定することはだれにもできないだろう。しかし、生涯学習社会への転換において大切なことは、そういう資格・単位の認定に関わる制度的な改善をも含めた「評価の適正化」である。「学校歴」に偏ることなく、「学習歴」を問わなければならないし、また、単位や資格の取得を争う大人どうしの受験地獄にしないためには、学習結果としての「学習歴」に偏ることなく、一人ひとりの多様な個性と持ち味のある学習経過をも尊重しなければならない。
 さらには、学習成果の評価についてのより本質的で積極的な意義としては、何よりも学習者本人がつぎの学習行動を主体的に決定するために不可欠であるということがあげられる。それゆえ、適正な評価のためには、ガイダンスやコンサルティングなど、学習者と援助者との相互的な営みが必要になる。したがって、生涯学習関連事業においてなされるべき学習成果の評価のあり方を検討することは、--従来の高等教育が学生の主体的な学習能力の向上を本当に評価できていたのか、社会教育が市民みずからのもっていた学習目標の講座修了時の到達の成否に関心をもっていたのか--というように、今までの教育への鋭い問い直しにもなるのだ。
 以上に述べた「学習成果の評価」にならんで、「大学教育への評価」も重要である。今まで学習者側から批評を受けることなく過ごしてきた高等教育にとって、学習者主体の生涯学習とその支援の理念は、自己評価の充実の面でも大きな契機となるだろう。18歳人口の激減を目の前にして、多くの大学で「サバイバル」をめざして「自己点検・自己評価活動」の取り組みが行なわれ始めている。しかし、もし18歳人口が減る見込みがなかったら、そういう活動をしなかったのか。しかも、「大学の自治」の名のもとに。「大学の自治」とは、ときの権力の干渉を許さず、しかし、学習者や世間の評価も参考にして、教員が厳しく「自己点検・自己評価」を行なうという前提があるからこそ成り立つことではないか。
 昭和音楽大学生涯学習センターでは、リカレント学習推進モデル事業として、アート・マネジメントに関する講座を開いている。そのアンケートを見ると、受講者の評判はおおよそ良好といえるが、そんなことは当たり前のことであって、「自己点検・自己評価」をするためにはそれで安心してしまってはいけない。とくに自由記述の項目では、「新鮮であった」「鼓舞された」などの肯定的評価とともに、「だいたいは知っていた」「定刻に終了せよ」「テ−マと内容が少し違う」「もう少しちゃんと知りたかった」「いささか平凡であった」「もう少し実例を立てて、現状を踏まえて」などの批判のほか、「○○先生はやめたほうがよい」というものまである。こういう指摘が事業者側の「自己点検・自己評価」に役立つのである。
 もちろん、「○○先生はやめたほうがよい」と一人に書かかれたからといって、かならずしも、次の事業からはその○○先生を依頼しないようにするということではない。学習者からのこういう事業評価に対して事業者は、「少なくとも、この回答者はそう感じた」という事実を逃げずにありのままに受けとめ(受容)、そのうえで主体的に判断すべきなのである。とくに、大学の授業を学生に評価させる場合などに教員の抵抗が強いのは、相手からの評価のこういう受けとめ方について、まだ理解が十分には広まっていないからなのではないか。教育側と学習側の相互の批評は、否定ではなく批判であり、主体的な両者の基本的信頼にもとづく協働の「共生活動」なのである。市民や学生からの評価を率直に受けとめてこそ、大学みずからも主体的に自己評価することができるのだ。
 昭和音楽大学では、リカレント学習推進事業の自己評価や、そこでの厳しく熱意ある社会人からの指摘も参考のひとつにして、平成6年度に、4年制大学としてはわが国では初めて、音楽芸術運営(アート・マネジメント)学科を開設した。これは、各地で増加しつつある文化会館やホールにアート・マネジメントの資質・能力をもつ人材があまり配置されていないために適切な運営がされていないという全国的な文化状況を打開しようとするものである。
 学習側が教育側を批評するということは、自己管理型の生涯学習にとって重要なことである。学習者が事業評価や授業評価をするということは、学習者が学習者としての責任を果たすということである。かれらの否定ではない批判は、主体的な学習態度の一環であり、ともに生きる(共生)ための信頼と共感にたどりつくまでのプロセスである。その批評を誠実に積み重ねることによって、学習者の主体性もいっそう確かなものに育っていく。つまり、事業・授業評価は、大学と市民・学生がともに育つための「共育活動」の一環なのである。

6 学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を

 神奈川県生涯学習推進協議会は、平成6年2月、「神奈川における生涯学習ネットワーク整備に係る方策について」を提言し、「各個別の機関における生涯学習担当組織の整備・充実」について、つぎのように述べている。
 「生涯学習ネットワークを推進するためには、各生涯学習関係機関に社会人一般の学習ニーズに対応するための受け皿となる窓口を整備することが必要である。例えば、大学・短期大学にあっては、近年、学内組織として『生涯学習センター』あるいは『エクステンションセンター』等を設置する動きが県内でも増しつつある。ただ、必ずしもこうした大がかりな組織の整備に限らず、各大学・短期大学や地域実情に応じて、学内に『生涯学習(あるいはリカレント学習)担当』として業務に当たる者を特定するなど、他機関とのネットワーク窓口機能を整備することが望まれる」(下線は筆者)。
図表5 生涯学習推進組織をもつ大学数
(後方のグラフは全大学数の経緯)
 実際に、今回の調査では、何らかの生涯学習推進組織をもつ大学がこの2年間で大きく増えたことが明らかになっている(図表5)。しかし、つぎの段階の課題は、本提言もいうように「必ずしも大がかりな組織の整備」をすることではなく、推進組織を大学経営全体から位置づけるという質的課題であると思われる。提言では、その窓口の意味を「他機関とのネットワーク窓口」としているが、筆者としては、「大学全体の総合的な生涯学習推進のための学内窓口」という役割を付け加えたい。そうだとすると、たとえば窓口が教務部の下に置かれてそのラインのもとに入るのでは、総務部、学生部としての取り組みがその分、弱くなって、学内全体の取り組みにはなりえない恐れがある。推進組織自体は大がかりでなくてもよいが、大学の総合的な経営のひとつとして専門的に関われる位置づけをする必要があるのだ。企画や調整というラインのひとつとしてか、あるいは、いずれかのセクションの下に置くのであれば、そのラインからやや外れて独自の実行機能をもち、ほかのセクションに対しても調整力を行使しうるスタッフ機能として位置づけたほうがよいと考えられる。
 現在、生涯学習推進行政の体系化にあたって、各地の自治体で生涯学習推進のための中核セクションをどこに置くかが問題となっている。具体的にどこに置くかは、大学の推進窓口の設置と同様に、それぞれの組織体の実情に応じて判断すべきことであり、ひとつの決まった答えがあるわけではないが、たとえば教育委員会のなかで学校教育課等と並列に置かれてしまっては困るのである。なぜなら、生涯学習時代においては、学校教育も大きく生涯学習推進施策の一環として他の推進機能と統合的に展開される必要があるし、そればかりか、他の一般行政部局にも生涯学習理念の貫徹が必要になるからである。そのためには、ピラミッド型の権力的な作用としてではなく、ネットワーク型の生涯学習的な作用としてだが、どこのセクションとも対等な連絡調整機能が発揮できるように位置づけておかなければならない。たとえば、文部省では生涯学習局が昭和63年7月に誕生したが、従来の筆頭局の初等中等教育局に代わって、生涯学習局が筆頭局として位置づけられいてる。
 これは大学においても同様である。学内の生涯学習推進組織または窓口をどう整備するかということは、来たるべき生涯学習社会に向かっての大学経営全体の基本的・総合的理念を表すものであり、企業のCIに匹敵するほどの大学のアイデンティティそのものに関わる重要なことがらなのである。

7 他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を

 学都復活へかける京都市では、平成5年3月に「大学のまち21プラン」をまとめ、これを受けて7月には、京都府下42(市内39)の大学が参加して、履修単位の互換、共同講義の開催、大学経営の共同研究、図書館等の施設の相互利用、文化施設の割引等の特典を備える学生共通カードの発行、リカレント教育等の生涯学習プログラムの開発・開講などに取り組む全国初の大学連合組織「大学センター」の準備組織が発足した。また、その京都市が呼びかけて大学の集積度の高い9市が全国から集まって「大学都市連合」が発足し、同年9月には「地域における生涯学習と大学」というテーマで「大学都市会議」が開かれた。そこでは、「開かれた大学の実現は地域社会との連携や支援から」、「大学は貴重な都市資源」という論調のもとに議論が進められた。ほかにも「大学の街」の構想としては、西宮市の「カレッジタウン西宮」(期間を定めての全大学開放等)、八王子市の「学園都市づくり」(市民との交流センター計画等)、福岡市の「福岡研究学園都市」(アジアの交流拠点づくり等)などがあげられる。
 このように、大学どうしで、あるいは行政等の他機関と、さらには地域社会全体と、ネットワークを形成することが生涯学習推進事業を行なおうとする大学には必要である。まずは、さしあたり、他大学、放送大学や専修学校との単位互換を考えるべきであろうし、研究や生涯学習推進の面などでの企業との連携も考えられよう。そもそも大学が市民にも目を向けるということは、基本的にはこのような他大学、他機関、地域社会に対して自信にあふれたネットワークマインドをもっているからこそのことである。
 ネットワークの特性のひとつは、すでに述べたように、「自立と依存の統合的発展」であると思われる。大学としての独自の存在意義をもっているからこそ、異なる自立的価値をもつ他者と対等に連携することができる。また、そういうネットワークにおいては一方的な関係ではなく、相互のギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。たとえば、大学は行政や地域に対して「有益な都市資源」としての存在価値を発揮し、行政や地域はそういう大学を信頼し支えようとするのである。このような対等で相互に主体的な協働の関係が、大学の生涯学習ネットワークには求められている。
 神奈川県生涯学習審議会は、平成6年5月、「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」を答申した。そこでは、行政と民間等の関係について、「協働」という言葉がキーワードになっている。これは、--1.「役割」の違いをふまえた上で施策や事業の推進を協力しあうという「役割関係」の重視、2.県民を客体(対象)としてとらえるのではなく、県民の「主体的参加」の重視--の2点を強調しようとする言葉であるという。答申もまさにネットワーク型の関係を志向しているといえる。
 本答申は、リカレント学習の総合的展開を含めた県の生涯学習振興の基本的方策を示したものである。この種の答申が最終的にめざすものは、地域や社会全体における生涯学習推進計画の樹立であるといえよう。この計画の一番の担い手は誰か。それは市民自身である。しかし、社会は、学習を望む者が「学びたいことを学びたい手段で学べる」条件を整備することによって、その学習を支援しようとする。こういう社会を生涯学習社会と呼ぶことができる。生涯学習社会は、当然ながら、行政の力だけで実現するものではない。関係諸機関や地域全体という支え手が必要になる。それゆえ、生涯学習時代を迎えるにあたって、大学も、地域や社会の生涯学習推進計画の重要な支え手としての自意識をもつことが期待されるのである。

おわりに
 −生涯学習理念にもとづく大学の自己革新をー

 今まで述べてきたことをもとにして、「生涯学習時代における大学の役割」を筆者流に簡潔にまとめていうとすれば、つぎの3点になると思う。

(1) 生涯学習社会を担う学生を養成する役割−学内で生涯学習を

 現代青年としての学生は、生きる主体性の喪失の危機に瀕している。「保護と管理」ばかりを学校、家庭、社会から与えられ続けてきたことによって、学習やコミュニケーションなどにおける自己決定、自己管理、自己責任の能力がかなり損なわれているのだ。大学が生涯学習の観点に立って学生の主体的学習を支援し、自己管理能力の向上を促すことによって、かれらを今後の生涯学習社会を担う人材として養成することが求められている。

(2) 社会の変化を先取りし、リードする役割−学内の高等教育を学外に

 急激に変化する現代社会は、つねに自己革新を続けて時代を先取りするリーダーとしての役割を大学等に求めている。とくに職業人は、知識・技術等の急激で高度な発展のなかで、学校卒業後も繰り返し教育を受けて今日の到達点を学び直す「リフレッシュ学習」の必要を感じている。また、高等教育とは別の形態としての生涯学習関連事業においても、時代のつぎの方向を示す役割が大学に求められている。

(3) 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割−学外の生涯学習を学内でも

 成熟化する現代社会においては、人びとの関心はモノからココロに移りつつある。そして、「(地位や財産を)もつための学習」(have)より「(人間らしく)あるための学習」(be)に価値がおかれる。そこでは「癒しと発達」の両方が求められる。その学習は、生涯にわたって行なわれる「リカレント学習」である。これに対する大学の支援が大いに期待されるとともに、その出会いは大学にとっても「生涯学習の新しい風」として重要である。

 今回の調査では、多くの大学で生涯学習関連事業が積極的に取り組まれつつあるということが明らかになったといえる。しかし、その努力が、迫りくる18歳人口の激減に対しての「大学サバイバル」のための延命策としてだけに終わってしまう大学があるとすれば、それはたんなる「サバイバル・ノイローゼ」の一過性の症状でしかなく、生産的な結果にはつながらないことが容易に想像できるし、また、第一、あまりにも切ない「わが身かわいさ」の御都合主義でもある。もっと、何のための大学か、何のための大学拡張なのかという本筋から事業を発想する必要があるだろう。
 ゆえに、大学の「生涯学習化」(生涯学習理念にもとづく自己革新)の成否は、学内の教員と職員の意識変革にかかっているといってもよいと思う。「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的な守りの大学経営から、「学習者の支援という大学の社会的な役割をより時代にあったかたちで遂行し、みずからもそれを味わい、喜ぶ」という積極的な攻めの大学経営に転換する必要があるのだ。これは大学に求められている「経営革新」であるといえよう。
 最近のちょっとした企業は、収益を上げるだけでなく、その他の社会貢献活動や文化支援活動などにもまともに取り組むようになりつつある。しかし、大学においては、教育(学習援助)をとおした社会貢献や文化支援という活動はそもそも本来の責務である。だからこそ、私学に対しても、やや貧弱とはいえ、国民の税金が支出されるのであろう。ただし、そういう大学の新しい責務の遂行とそのための革新は大学の自己決定によるべきものであり、また、惨めな「サバイバル・ノイローゼ」などとは異なる自信に満ちた「楽しい」営みでもあるはずだ。
 ひとは自己と他者への受容(無知と非力の自他をあるがままに受け入れ、なおかつ、そういう自他への基本的信頼感をもつこと)ができてこそ、自己変容に向かうことができる。そこでの変容とは、固定化した枠組みをそのままにして知識や技術などを詰め込むことではなく、外界の異なる枠組みを取り入れて自己の枠組み全体を変化させることである。大学が生涯学習関連事業などに取り組み、生涯学習支援のネットワークを形成することによってみずからの「生涯学習化」を進めていくことは、過去の学歴偏重社会につくられた大学の枠組みを自己変容させることにほかならない。そして、そういう大学の変容は、個人のレベルでの学習行為と本質的にはまったく同じ経緯をたどるものであり、自己管理型の生涯学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくできる世界)と出会うのと同様に、大学も自己管理型の「生涯学習化」のなかで自己変容という学習の楽しみと出会うことができるのである。

参考文献(拙著)
『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社
『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』 学文社



著者紹介
 昭和音楽大学短期大学部助教授。社会教育主事課程担当。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。
 生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報提供、パソコン通信、パソコン活用などを研究中。神奈川県、県内各市町村の生涯学習関連委員、神奈川県青少年協会中長期計画策定委員のほか、総務庁、文部省、第二国立劇場、千葉県などの情報システム関連委員、東京都、佐野市、桶川市、葛飾区、中野区、練馬区、大和市などの生涯学習関連委員、全日本社会教育連合会月刊誌「社会教育」の編集委員などを務める。また、狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師など、社会教育現場でも頻繁に活動している。
問い合わせ先 〒243 神奈川県厚木市関口808 昭和音楽大学 PHONE 0462−45−1055
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練馬に元気と癒しの「サンマのネットワーク」を

『元気がでる講座』講師
(昭和音楽大学短期大学部助教授) 西村美東士

練馬区春日町青少年館『元気がでる講座』平成6年度活動記録集原稿(平成7年3月)

 まあ、とにかくみんな元気ですよね、とくに女性が。これが、6月当初に講座のメンバーと出会ったときのぼくの一番の感想です。その後もときどきみんなと会いましたが、この元気の基本線はかわらないようで、ぼくにはそれがとにかく楽しいです。
 しかし、元気だということは、ちょっと無理をしているのだと思います。人間ですから、悲しいときや苦しいときや淋しいときがあって当たり前。−−でも、ふさぎこんでいてもしかたないし・・・。ほかのひとを心配させたくないし・・・。まっ、いいか。陽気にやっちゃおう−−、他者に対してそういうふうに思える心やさしいひとたちが、がんばって元気を出し続けているのでしょう。だって、他者に対するそういうやさしさや配慮の足りないひと(めめしいぼくなんか)だったら、−−わたし、こんなに不幸せなの。だれか、なんとかしてちょうだいよ−−という他罰と甘えの気持ちのほうが先にくるはずで、けっして自分が無理して元気をだして、しかもその元気を他人に配ってあげるなんてことは思いもつかないでしょうから(ふたたび、めめしいぼくなど)。だから、元気がでる講座にはきっといい男といい女が集まっているんだなあ。あるいは、いい男やいい女になりたいと現在努力中のひとかもしれない。
 でもね、「めめしいぼく」から、ひとこと提案があります。−−あんまり無理しないでね−−という提案です。だれだって、悲しいときはだれか安心できるひとの前でわんわん泣きたいし、淋しいときはかえって一人になってその淋しさをじっくり受けとめていたい、そういうときがあるんじゃないでしょうか。そういうときは無理をしないで自分のままでいるようにしませんか。元気がでる講座を、そういうばかな自分を安心して出せる「癒しの場」にしませんか。「自分はいい男やいい女でなくてもいい」というひとにこんなことをいうつもりはありません。しかし、いい男やいい女が集まる元気がでる講座に対しては、ぼくはぜひ提案したい。ここだけは、おたがいがあるがままの自分でいて、そういう自分と相手との異なりをおたがいに尊重しあう「時間・空間・仲間」(3つのマだからサンマ)にしましょうよ。
 ぼくは、ご存じのかたも多いと思いますが、『狛プー』(狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」)にもしっかりハマっています。1週間に1度はかならず味わえるぼくにとっての「癒しのサンマ」です。狛プーなどの場を社会教育や生涯学習とよびます。そういう大人の自己成長の場では、義務教育と違って、「自分が行きたい(学習欲求)から、行きたいところ(学習手段)に行く」という個人の自己決定と自己管理が尊重されます。どこまでも知りたいけれど、癒されもしたい。だからこそ、仲間と出会う。そして、だからこそ、あなたは元気がでる講座に参加しているのではないでしょうか。無理をして「違う自分」を演ずるのではなく、泣きべそで淋しがり屋のあるがままの自分自身や、無知で非力なあるがままの自分自身であってよいし、そういう他者の存在をも受け入れることができる。それが癒しの基本原理でしょう。
 話はぶっ飛びますが、これを「信頼・共感・自立のトライアングル(三角形)」とぼくはよんでいます。いい男といい女は、現代社会の「不信・孤立・甘えの魔のトライアングル」(不信と孤立が自立につながらずにかえって甘えという結果を呼び起こすというありがちな事実を思い起こしてください)から脱して、「信頼・共感・自立」のもっといい男ともっといい女になる権利と可能性をもっているのだと思います。
 自分と、自分と異なる相手との、両方を認めあい、対等に(上下関係からではなく)手を結ぶ関係を「ネットワーク」とよぶことができるでしょう。ネットワークはピア(同一化をめざすなかよし仲間)とは違います。ここでぼくが元気がでる講座に提案していること、つまり、個人が無理をしなくていいサンマにしようということは、結局は、元気がでる講座を、−−無理に仲間にあわせる甘えとなれあいのピア型ではなく、異なりを受け入れあう自立した者どうしのネットワーク型で−−ということなのです。
 ネットワーク型とは、具体的には、たとえばつぎのようになるはずです。参入は歓迎するけれども、撤退も自由。撤退するひとに「どうしたの? 何かあったの?」と声をかけるぐらいのことはするけれども、撤退したことを責めたり、逆に撤退させたことの責任を勝手に感じたり、撤退したひとを深追いしたりはしない。それぞれのひとは、それぞれの事情と心情というものをもっているのですから。撤退するひとも、ほかのひとや社会のせいにしたりしないで潔く撤退する。実際、狛プーが「出入り自由」であることを初めて聞いた人が、「そりゃあ、それが許されるのだったら、わたしだって参加したいわ」というのです。今までの社会教育が「出入り自由」のネットワーク型でなかったことこそ、あるいはそれが許されないという誤解を与えていたことこそ、問題なのでしょう。
 元気がでる講座を元気と癒しのサンマのネットワークにしたいものですね。
 ただ、よけいなことかもしれないけれど、元気がでる講座といえども(狛プーといえども)けっして現代社会のなかでは「信頼・共感・自立の理想社会」そのものではありえないのですから、自分のあるがままを「無理して」さらけだすなんてことのないように。そんなことをして、あとで悔やむのはあなた自身です。「開きたいと思う部分」の自分の心を安心して開くことこそ、「今ここで」のあるがままのあなたの願望であるはずです。ああ、占星術のノリになってしまった・・・。
 でもね、とにかく無理は禁物です、「無理な変身」も禁物です。「あなたは変わらなければならない」「あなたを変えてあげる」という世間の一部からのあなたへのささやきは、いっときは魅力的に見えるかもしれないけれど、そんなささやきに対しては、「おいおい、ほんとかよ」と反発する強さを身につけてください。そのために、自分のことをあるがままに知ってください。それから、そのうえでもうひとつ、自分のことをもっとだいじにしてください。
講師紹介 
〒243 神奈川県厚木市関口808 昭和音楽大学 PHONE0462−45−1055

 昭和音楽大学短期大学部助教授。社会教育主事課程担当。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。
 生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報提供、パソコン通信、パソコン活用などを研究中。春日町青少年館「元気がでる講座」講師、練馬区生涯学習推進懇談会委員のほか、総務庁、文部省、第二国立劇場、千葉県などの情報システム関連委員、東京都、神奈川県、佐野市、桶川市、葛飾区、中野区などの生涯学習関連委員、全日本社会教育連合会月刊誌「社会教育」の編集委員などを務める。また、狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師など、社会教育現場でも頻繁に活動している。

初めての人のための「狛プーとは何か」

                狛プー通年講師(昭和音楽大学短期大学部助教授)
                 西村美東士

はじめに

 平成4年6月から狛プー(狛江市立中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」)が始まって3年ほどたった。ぼくは、ちゃっかり、狛プーをみずからの癒しの場ともしているのだが、さらに、次のように狛プーに関するぼくの考え方をまとめて発表している。
平成 5年 3月 「狛プーは出入り自由のこころのネットワークだ」
          (「平成4年度青年教室活動記録」 狛江市立中央公民館)
平成 5年 8月 「公民館が仕掛ける出入り自由のこころのネットワーク
          −狛江市中央公民館青年教室のなかでの相互理解」
          (「社会教育」第48巻第8号 全日本社会教育連合会)
平成 6年 3月 「狛プーはどうしてネオ・トラなのか」
          (「平成5年度青年教室活動記録」 狛江市立中央公民館)
平成 6年10月 「狛プーはどうしてネオ・トラなのか」
          (「社会教育」第49巻第10号 全日本社会教育連合会)
 やや余談になるが、こういうふうに、ぼくが社会教育の世界でも、論文や講演で「狛プーネタ」を乱発していることについて、「mitoちゃんの論文を読んで、狛プーに入りました」とか、「読んでから狛プーが好きになりました」とかいう人が当然のことながら皆無であるとともに、「ぼくらの意見もちゃんと聞いてからでないと、狛プーのことは世の中に発表しないでほしい」などというケチなことをいうメンバーも皆無であるから安心してほしい(「また、論文のネタに使うつもりでしょう!」と冷やかされることはある)。たまたまぼくの意見に関心をもったメンバーが、ときどき、ぼくの狛プーの分析について共感を示したり、議論をふっかけてきたりするだけのことである。
 ぼくはこのことについて、「私は私、あなたはあなた」という人間関係の厳然たる真実のなかで、暖かさや安らぎを探し出してラクに楽しくやっていく資質と能力が、狛プーにはみなぎっていることの表れだと評価している。この資質と能力は、すなわち、今後のネットワーク型社会のなかでの「生きる力」そのものであるといえる。ちなみに、「私は私、あなたはあなた」の関係を受容したうえでのこういう人間関係を、本当の意味での信頼関係ということができよう。
 要は、「mitoちゃんが勝手に分析したり、意見を発表したりしている」というだけのことであって、狛プーの「組織代表」として公式見解を述べているわけではない。この文章を読んでくださっている「初めての人」も、ぼくの「通年講師」というだいそれた肩書きに惑わされずに、自分の眉に自分の唾をつけて読んでいただきたい。
 最近、狛プーの「名声」は、東京・神奈川を中心に、全国の青年行政担当者や青年活動関係者のあいだに(とは言っても、そのうちの一部の人にだが)知られるようになり、網走などの遠くの地からも含めて、見学や交流のために狛プー開催日の木曜日の夜に狛江においでになる人たちがでてきている。狛プーとしては大歓迎である。もともと狛プーは出入り自由のフリースペースとしての側面をもっているからでもあるが、それよりもなによりも、同時代を生きている人との「出会い」を楽しみたいからである。ふだんの狛プーなら、その日のプログラムに「出会い」を組み込んで柔軟に展開できるだろうし、また、プログラム自体は変えられないような日でも(狛プーでは、来訪者のために自分たちが「犠牲になって」プログラムを変更するようなことはしない)、その日のプログラムを楽しんでいただければ、きっと狛プーの受容的な雰囲気を味わうことができると思う。ひとことでいえば、「気軽においでください」ということになる。
 そこで、この文章では、今まで述べた前提のもとに、初めての人のために、とくに青年行政担当者や青年活動関係者が関心をもつと思われる狛プーの特徴について、基本的なものをまとめておくことにしたい。より詳しくは、前掲拙論や「いなほ」(青年教室活動記録)でのそれぞれのメンバーの文章をお読みいただきたい。

1 ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」

 今日までの学校歴偏重社会では、人を上下に並べてひとつの物差しで比べる。それは、結局は、偏差値を代表とする画一化した価値のもとに、個性による「逸脱」を外からも内からも抑制する「同一化」の圧力として作用してきた。そして、この学校歴偏重の価値観と、その価値観を内面化してしまった私たちが、社会全体のヒエラルキー(階層)構造を支えてきた。それらすべてに共通する特徴は、上下関係による支配と服従、多様な異なる価値の排除と画一化などである。
 これからの形成が期待される生涯学習社会においては、一人ひとりの異なる個性が認められ、歓迎されるはずだ。人間関係においても、ヒエラルキーの上下関係のなかでの地位・肩書きや制度上の権威などよりも、水平関係のなかでの異なる個性(「個の深み」とぼくはよびたい)との出会いが求められる。しかし、そういう生涯学習社会を気持ちよく生きるためには、私たち自身に、内なるヒエラルキーと闘い、「自由な遊び心」をみずから取り戻すことによって、無知で非力な自己を受容し、自己と異なる他者と共感することが求められる。狛プーがめざす「プータロー精神」とは、そういうことである。
 初年度の狛プーのチラシの呼びかけ文はつぎのとおりである。

 プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。
 私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。
 狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。

 この呼びかけ文の第2段落は、ぼくとしては、ヒエラルキーの人間疎外について批判的に書いたつもりである。しかし、このぼくの思いは、いまだにメンバーから「共感できない」といわれることが多い。メンバーのなかには、仕事や学業だってそれなりに個性を発揮しながら楽しんでいきたいと考えている人が多いし、実際に、ヒエラルキーのなかでの「ゲーム」を「自由な遊び心」でそれなりにこなしてしまう人も多いのだ。あるいは、仕事や学業については、「自分の人生」そのものとは切り離して考えている人もいるかもしれない。その場合は、本人の自己認知の有無はともかく、「自分の人生」のうちで精神的に大切な部分は「ヒエラルキー以外のところで」と考えているのだろう。
 後者だとしたら、社会と自己の関係のさらなる客観視という課題が、狛プーの今後の課題としてあげられるだろう。狛プーの番外編で、自発的で自然発生的な勉強会として「セカンドステージ」が運営されている。通常の狛プーのプログラムとは別に、メンバー同士でじっくりおしゃべりしてみたいというのである。これなどは、仕事や学業に対する他者の姿勢や意見に、自然なかたちでふれる機会として期待してよいだろう。
 そこで重要なことは、公民館の職員や講師が直接には発問することがなくても、社会とそれぞれの自己との関係が受容的・共感的雰囲気のなかで語り合われているということである。「セカンドステージ」は、公民館の担当専門職員が夜間勤務のときの夜に不定期に行なわれている。そこでの職員の役割は、非指示的であり、不定形である。これは、学級・講座での司会業や講師代行業などと悪口をいわれるような、現代化しすぎて型にはまってしまった社会教育的支援を、もう一度、本来の人間的な「なまの営み」に戻すという意味ももっている。

2 自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定

 自己の「仕事や学業」についての狛プーの認識の現段階は以上のとおりであるが、それよりもメンバーから今日まで強烈な支持を集め続けているのは、「かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きる」というフレーズである。この言葉は、コマーシャルなどのふつうの世の中の感覚では当たり前すぎて青年にとってのインパクトなどないと思うが、青年活動や青少年教育・青少年行政の世界ではけっこう目新しいことといえよう。今でも、何人かの他の自治体の関係者は、この呼びかけ文を読んで、狛プーの限界として「ミーイズム(自分主義)」を指摘するかもしれない。
 しかし、ぼくはつぎのようにいいたい。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」と思うことがミーイズムだとしたら、ミーイズムのどこが悪いのか。狛プー=ミーイズムでけっこうではないか。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」からこそ、学習する、仲間を見つける、社会参加する、社会変革をめざすなどに、自発的に発展するのであって、参加した一人ひとりが、そのどこに向かって発展しようとかまわないではないか。リーダーやボランティアだって、これからの時代は、「自分のためにやっている」といえることがさわやかさの条件なのである。
 あるいは、占星術や新・新宗教、偏狭な自己啓発セミナーなどにはまってしまう人もいるかもしれない。それだって、本人の自己決定の一環として行なわれるのであれば、援助者側がその結果に「責任を感じてしまう」のは、むしろ傲慢なことではないか。あとで「自分の人生をていねいに大切に生きる」ということにつながらないと本人が考えるようになるのだったら、そう考え直したときに本人が軌道修正を自己決定するだろう。
 何がよくて、何が悪いのかなど、具体的に教えられるものではない。私たちができることは、本人みずからの気づきのためのチャンスをふんだんに提供することだけなのだ。これに比べて、従来の多くの青年活動や青少年教育・青少年行政においては、援助者としてのその潔い自覚(「非力の自覚」または禁欲)が欠けていたのではないか。

3 善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心

 狛プーにはこれといったスローガンがない。先日、狛プーでキャンプに行くとき、担当者が子どもの野外活動向けの他事業の文書を活かしながらしおりを作ってくれた。そこには「来たときよりも美しく」というキャンプ生活のうえでのスローガンが書かれていて、それを読んだぼくらはいっせいに吹き出してしまったのを覚えている。いつもの狛プーの風土からは、そういうスローガンはかなりミスマッチなのだ。
 狛プーのいつものペースだと、つぎのようになるだろう。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。気の利かない幾人かの者(ぼくなど)は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べて「ふとん干し」をしている者さえいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかで感動する。ただ、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。
 つまり、狛プーというところは、「善導」とかスローガンとかの言葉とは無縁の空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーでの大切な言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そして、そのアンビバレンツななまの言葉を受け取る相手にとっては、薬にもなり、毒にもなる。薬にするか、毒として飲むかは、聞く側の自由であり責任である。
 では、なぜ、そういう人間存在の真実を狛プーのメンバーが共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(先述のミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自分を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が「自分を写し出す鏡」になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることは魅力的なのである。
 2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組みが、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これが、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間の根源的な欲求である。
 3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さ(私は私、あなたはあなた)が、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかでの「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると解釈することができるのである。

4 共生社会創造のための公的サービス

 狛プーは狛江市中央公民館の青年教室事業として、つまり、公式の青年教育の一環として行なわれているものである。そういう場合、主催者側は、公金を支出したり専門職員等を配置したりして参加者を援助する根拠をきちんと示せるようにしなければならない。社会教育活動自体の主人公は住民の側にあり、その自由は最大限に保障されなければならないのだが、社会教育行政の側には、公金を支出してその事業を行なう意味を明らかにする義務がある。
 青年教育の場合、青年期特有の課題として、望ましい恋愛や結婚の相手を見つけるということが重視される。そのための援助サービスも、かならずしも一概に「税金の無駄遣い」と非難することはできないだろう。これによって、個人の幸福追求などに資することができるだろうからである。しかし、青年教育が「結婚相談所」やたんなる「お見合いパーティー」の場になってしまっていいのかという疑問は残る。個人レベルの問題解決にはとどまらず、社会創造としての意義にまで発展するからこそ、青年教育はほかの民間サービスとは異なる独自の教育的役割を発揮できるのではないか。
 狛プーの場合にも、メンバーのあいだに恋愛関係が生まれることがある。しかし、そのとたんに二人は狛プーの活動から遠ざかってしまうなどという、よく見られる「つまらないミーイズム」の現象はまったく起こらない。むしろ、その二人がますます「番外編」の仕掛け人として活発に活動している。二人だけで過ごす時間も大切にするけれども、「癒しのサンマ」(前掲拙論参照)のなかでの二人の存在も大切にするのである。みんなと過ごす時間も、二人にとってはそれはそれで充実していて楽しいからだろう。ぼくは、これこそ「ミーイズムの功績」だと思っている。そもそも、狛プーには若い主婦だって参加している。「主婦業に埋没するのはいやだ。癒しのサンマのなかで、たくさんのいい仲間たちと出会っていきたい」という彼女の願いは、きっとよい妻や、よい主婦業の遂行者としての自己成長という望ましい結果につながるだろう。つまり、それは、会社人間であった男たちの最近の変化としての「自分探し」と同様の意義をもっているのだ。
 今日の社会においては、恋愛や結婚は、基本的には二人だけの幸せや不幸せの問題として閉塞してしまいがちである。ところが、狛プーにおいては、二人が仲間のなかで愛を育み、仲間が二人の愛を応援するのである(反面、「恋のさやあて」も起こりうるが、それは仕方ないとぼくは思う)。この「仲間」を「社会」に置き換えて考えてみれば、狛プーの場の提供という公的サービスが、ほかの行政分野では困難な役割を果たしていることが理解されよう(なにも恋愛や結婚に限ったことばかりではないが)。すなわち、ともに生きる社会(共生社会)やコミュニティの創造の一端を担っているといえる。
 また、このようにここちよい人間関係を実際にこの現代社会において創り出しているということは、現状否定や告発だけに終始するような受動的な運動とは異なり、競争一辺倒の学校歴偏重社会から、異なる他者をたがいに受容しあってともに生きようとする生涯学習社会に転換するという社会的課題を、実質的に達成していくという提案型の能動的な営みであるということができるのだ。

5 いい男、いい女さえ支援すればよい

 それにしても、恋愛問題をはじめとして、このように「いい男といい女」が期せずして狛プーに集まっているのはなぜだろうか。その積極的原因としては、狛プーが最初に述べたような「自分の人生をていねいに大切に生きたい」という彼らの心に呼びかけ続けていることと、彼らが「自由への恐怖」を突きつけられるなかで、みずからの内なる差別意識や被害者意識と闘い、たくましく自己成長し続けてきたことがあげられる。そして、本節ではつぎのことをいいたいのだが、消極的原因としては、いい男やいい女ではない人、あるいはそうであろうとして努力する気がまだわいていない人がいるとしたら、そういう人は狛プーから自然に「排除」されていくということなのである。
 たとえば、今の世の中の風潮では、「人を傷つけてもいいから、自分の傷を癒したい」という不幸な認識をもっている人たち(「イヤなヤツ」)は残念ながら多いだろう。現実社会では、そういう人が幅をきかせたりしている。たとえば、相手の女性が傷ついてでも、自分のナンパが成功すればよいなどという男性は、たくさんいる。しかし、そういう現代社会の人間関係がいやで狛プーにきている人たちにとっては、狛プーに「イヤなヤツ」が入ってきては困るのである。ただし、狛プーは出入りの自由を原則としている。新規参入も自由なのである。そこで、担当の職員や講師のぼくに、そういう人の排除を頼む人もいる。しかし、その排除行為をぼくらが請け負ってしまったら、狛プーの存在価値はなくなるとぼくは思っている。ネットワークではなく、ファシズムになってしまうからである。
 やはり、望ましいのは、「いやだ」と思った人が「あなたの○○という行為は、私はいやだ」とさわやかに自己主張することなのだ。その人から電話がかかってくるのがいやだったら、「あなたからの電話はほしくない」ときちんというべきなのだ。ちゃんとそういうふうに主張できる人も狛プーにはいる。そのことによって、いい男いい女になる気のない人は狛プーから自然に排除されていく。つまり、ここでの排除とは、規制や規則などによってではなく、個々人が内面的に排除することなのである。だから、逆にいえば、狛プーのメンバーがこの世の中でたくましく生き抜いていくためには、「イヤなヤツ」が(単純なナンパ目的などで)少しは入ってくれるのも、「人びとがいがみあう現実社会のなかでどう生きるか」の絶好のトレーニングの機会になるのだ。それに、さわやかな自己主張ができれば、それは基本的信頼を示す行為の一環でもあるのだから、もしかしたら、「イヤなヤツ」にとっては生まれて初めてのいい体験になり、「イヤなヤツ」から「いい男いい女」に自己変容する可能性さえなくはない。人間は無限の変容の可能性をもっているのだから。まあ、どちらにせよ、いい男といい女だけが狛プーに残るという同じ結果になる。
 ここで、いい男いい女の定義は、まだしていない。前掲拙論に「家族や学校や職場や社会のコミュニケーションのなかで痛みや悲しみは当然だれにでもあっただろうが、その痛みや悲しみをその人なりに受けとめてきた人」と書いたことがあるが、「人に傷つけられることよりも、人を傷つけてしまうことを心配する人」、「被害者意識に陥らず、さわやかに主張できる人」、あるいは、「いやなときは、潔く撤退して静かに微笑んでいる人」などと定義ができるかもしれない。どの場合でも、もともと弱い存在としての人間が、それほどの徹底したいい男いい女になれるわけがないとも考えられる(人間はだれでも「ろくでなし」であることにはかわりない=他拙論参照)。だから、実際には、いい男いい女になりたいと思って生きている人たちのことを「いい男いい女」ということになるのかもしれない。
 人が偏差値や学校歴などの画一的な物差しで比べられてきた学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、「人が個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、資格取得などによって他者を打ち負かすことを目的にした非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に沿うものとはいえないであろう。狛プーは、「イヤなヤツ」がおいしい目にあうのではなく、いい男やいい女こそが正当に評価される社会を創り出そうとする営みの一環といえるのである。
 社会教育の全国的状況からみても、前節で述べた公的サービスの存在意義を考えると、よっぽどの人的・財的余裕のない限り、いい男いい女になりたいという意思のない「イヤなヤツ」に追従するようなサービスをする必要はないといえる。そんな余裕があるのなら、本来は社会からいい男いい女として評価されてよいはずの一部の青年たちが、現代社会では「癒しのサンマ」を味わうことなく疎外されて生きている現実を、関係者はもっと深刻にとらえて、せめて「何とかしたい」ぐらいには思ってもらいたい。もちろん、実際には、全国の青年教育の場で、いい男いい女が集まってくれているとは思う。ただ、行政側や担当者が、「公平の原則」を機械的に解釈してしまって、参加者が少ないなどの理由からその事業に消極的になったり、表層的な事業展開をしたりすることによって、そのせっかくのいい男いい女の参加をいかしきれていない結果に陥っていると思うのだ。

おわりに ー癒しと成長、受容と変容の循環ー

 最後に、メンバー一人ひとりの自己成長の側面から狛プーの特徴をひとことで表わすならば、次のようなことになるだろう。それは、「癒しと成長」あるいは「受容と変容」ということである。しかも、それがよい意味での相互の循環効果を及ぼすのだ。
 競争社会におけるキャッチアップ型(追い付け、追い越せ)の教育は、学習者の成長・発達だけを重視してきた。しかし、本人が個人として生きているときの意味としては、癒し・安らぎという要素も重要なのである。生涯学習時代の社会からの援助は、これを重視して行なう必要がある。癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向にも望ましく作用する。言葉をかえれば、受容と変容は循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組みを自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善する(変容)勇気をもつことができるのだ(ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容はかならずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う)。
 開きたい心を安心して開くことのできる狛プーのサンマ(時間・空間・仲間)は、癒しと受容を創り出し、そのことによって、成長と変容を実現する新しい援助形態として現代学歴社会に抗して存立しているのである。
先生という言葉をやめてみよう
社会教育「くえすちょん あんど あんさー」5月号

 ともこさん、はじめまして、こんにちは。それから、こぶとり小父さん、笑う事務職・まみさん、楽しいやりとりをありがとうございます。さて、このように、ふつう、ひとを呼ぶときは「さん」ですよね、やっぱり。ところが、社会教育の世界では、ひとを「先生」と呼ぶことがけっこう多いのです。そこで、きょうは、「社会教育では、先生という言葉をやめてみよう」という提案をしたくて手紙を書きます。
 ぼくは社会教育の仕事を13年やり、いまは大学の教員をやって5年になるところです。どちらもとても楽しくやらせてもらってきましたが、ときどき「先生」と呼ばれることがあって、そんなときは、「あっ、そんなに立派な人物ではありません」と言い訳したり、こそこそと逃げ出したくなったりして、そして、なんだかうしろめたい気持ちになります。よっぽどやましいところがぼくにあるのかもしれませんが。ああっ、たしかにあったりしますけど・・。
 そこで、ぼくは、授業や社会人研修などで「mitoちゃんと呼んでね」とお願いしています(まあ、ぼくは残念ながらそんなにかわいらしい外見ではないですから、実際には「mitoさん」ぐらいのところが多いですが)。学生なんかはそれを聞くと、「mitoちゃんだって! キャッキャッキャッ」と笑っています。出席ペーパー(自由なコメントのシステム)に「40過ぎても、ハタチ前のわたしたちにmitoちゃんと呼ばれたいなんてずうずうしいわね〜。でも呼んであげる、mitoちゃ〜ん」と書かれたりもします。
 しかし、なかには教師を先生以外の呼称で呼ぶことにマジで反発する学生もいます。あるペーパーに(mitoちゃんという呼称は)「おしつけだ」と書かれていたので、翌週の授業で、「まあ、軽い提案ぐらいの気持ちで受け取ってください」とコメントしたら、「その提案が余計なのです」としぶとく食い下がられたことがあります。彼女のペーパーによれば、「わたしたちが先生、先生なんて言っているのは表だけで、友達同士ではイヤな先公なんか『あのジジイ』と呼んでいる。それは先生なんかは知りたくても知ることのできない世界なのです」ということでした。コノヤローという気もしましたが、ナルホドーとも思いました。「先生」という言葉は、本来は「教師」という意味ではなくて尊敬語なんだと思います。でも、むしろ現実には自分たちのこころから教師をシャットアウトするための言葉として使われているのかもしれません。このひとにも尊敬できるところがあると感じる前から相手をセンセイと呼ぶということは、奴隷が使用者を「御主人様」と呼ぶのと同じことで、かえって信頼を放棄する結果になっているのではないでしょうか。
 ぼくは、先生という言葉をつぎの3つに分類しています。@尊敬先生−−「○○先生はぼくにとって大切な先生なんだ」、A便利先生−−「(あっ、名前忘れちゃった・・)センセエ、こんにちは」「(キャバレーのホステスさんが)社長さん、センセエー」、B皮肉先生−−「ほら、うわさをすれば影だね。大先生がいらしたぞ。くわばらくわばら」。だから、まあ、言葉はそれなりに妥当に使われているのだともいえなくはないのですが・・。
 しかし、せめて、学校では、教師が自分のことを「ぼくは先生です」と言ってしまったり、職員室で「先生」、「先生」と呼びあったりすることをやめるようにちょっと気をつけたら、学校はもっと居心地がよい世界になるのではないでしょうか。また、とくに、「一斉承り学習」の打破をめざす社会教育としては、学習者の前で講師や社会教育主事の名前を「先生」付けで紹介することは、社会教育の将来にとっても(!?)よくないことではないかと思います。たとえば教育実習などでは実習生の学生が学校現場で「教師としての役割の自覚を高めるために」、「先生」と自称するように、生徒にもそう呼ばせるように、指導されるのです。指導してくれる現場の教師のみなさんの教職にかける自負の高さはわかるのですが・・。もちろん、センセイと呼ばれてちょっとうれしいという学生もいますが、感じなくてもよい余計な重圧を感じてしまう学生もいるのです。「さん」でいいじゃないのでしょうか。自分のことをいうのだったら「ぼくは」「わたしは」でいいじゃないのでしょうか。
 社会教育の場などでは、ぼくも、姓で「西村先生」と呼ばれたり、名で「みとし先生」(おっと、これでフルネームを言ってしまった)と呼ばれたりすることがあります。なぜか、名で呼ばれた場合はさほど違和感はなくて、けっこううれしかったりもしますが・・。また、学生などのなかには、「mitoちゃん」のほか、「mitoちゃん先生」という人もいれば、「西村さん」「mito氏(これを音読したら呼び捨てだあ)」「mitoティーチャー」などと書く人もいます。怒って書く人は「あなたは」と書きます。各自、工夫のあとが見られるのです。その人たちには面倒な思いをさせて恐縮ではありますけれど、「教師への呼称などというどうでもいいことで言葉さがしに苦労するのも、たまにはいいことだよね」とも思うのです。ともこさんはどう思われますか?
ps ちなみにmitoはもともとはパソコン通信でのぼくのハンドル(ペンネームのようなもの)です。
mito

mitoちやん
 お手紙ありがとうございました。40過ぎのオバサンが、mitoちゃんって呼ぶのはあつかましいのかしらね〜とも思いましたが、そんなことは気にせず、無礼講で行きましょうね、mitoちゃん〜。
 ご提案の「先生」という呼称について、ナルホド、ウンウン、と読ませていただきました。昨今、教育の場では「先生」という呼称はもはや尊敬語ではなく、師弟の間に一線を引くために存在しているというのが大方の実情ではないでしょうか。
 私が近年参加したワークショップ等では、ほとんど「先生」という呼称をつかいませんでした。師弟共に名(ファーストネーム)を書いた名札をつけ「さん」づけで呼び合う形式が一番多かったですね。他に、名を呼び捨てにする、とか、自分の呼ばれたい呼称を名札に書く(途中で変更も可)というのもありました。
 名で呼び合う方がより早く、より親しくなれるようです。呼び捨ての方が更に親近感を増します。
 自分に好きな名前を付けて皆から呼ばれるのも、なかなかいい気分でした。「ウランちゃん」「たまちゃん」「ブギーマン」「オザキコノヤロー」エトセトラ。この時の仲間は今でも私のことを「ホリー」と呼んでいます。
 お手紙を読んでいて、mitoちゃんはもしかして「mitoちゃんと呼んで」ということに少してらいを持っておられるのではないかナーと感じました。(違っていたらゴメンナサイ)でも遠慮はいりません。どんどんmito方式を実行してください。良い体験学習になると思います。
 ところで、あれは私がハタチ前の学生だった頃のこと。クラブの後輩に手芸を伝授していたことがありました。れっきとした先生を紹介するというのに、「あたしたち、ともこ
さんでいいの」という訳。
 ある日キャンパスで教授と話していると「あっ、センセーだ」「センセーッ」大声で叫びながら彼女達が駆け寄って来るではありませんか。「センセーッ」「ともこセンセーッ」「・・・」
 初めて「先生」と呼ばれた日の、忘れられない思い出です。
 楽しいお手紙にウキウキとお返事させていただきました。又お便りいただけるようでしたら、40過ぎのオバサンがmitoちゃんと呼んでも不快でないかどうかお知らせください。やはり少し自信が持てませんので。
ともこ

かそけき時空間
社会教育「くえすちょん あんど あんさー」6月号

ともこさん
 ギクーッ。「mitoちゃんはもしかして『mitoちゃんと呼んで』ということに少してらいを持っておられるのではないかナー」(←ともこ)……、きっとそうなんですよ。妻は、「あなた、40過ぎて、自分でmitoちゃんなんて呼ぶのはミョー」と言い切ります。うーむ、ここがきっと勘所なんですね。
 まず、40過ぎたぼくが自分で「mitoちゃんはね」などと言ったりしたら、これはやっぱり気持ち悪いですよね。実際には、授業でも「ぼくは……」という感じです。ただし、決して「先生はね」なんてことはいいたくもありませんが。とにかく、ぼく自身が自分のことをmitoちゃんと呼ぶのはミョーなので、それと「mitoちゃんと呼んで」ということとを、ぼく自身の思考のなかで混同してしまうときがあるのでしょう。
 それから、学食などで「キャーッ、mitoちゃんだ」とか騒がれるときは、少しテレもしますが、それよりも「ともこセンセーッ」と同じで、ウレシーという感じのほうが強いのですが、とくに事務室やほかの教員などがいるところで学生からそういうかたちで声をかけられると、今度はウレシーもあるけど、テレのほうが大きくなるのです。直接のサービス対象である学生にぼくの存在を受け入れてもらっていることのうれしさよりも、同じ年代や立場の人間にどう思われるかのほうが気になってしまうのですね。ぼくにも、当然のことながら、場面によっては、「先生であること」を演じたり仮面をかぶったりする気持ちが出てきてしまうということでしょうか。
 でも、教師仲間である著名なピアニストなど(ぼくは音楽はディスコとカラオケだけですが)からもmitoちゃんと呼ばれるときがあって、そんなときはほんとうにほっとしてうれしくなってしまいます。自分が素のままで受け入れてもらえたみたいな……・。この気持ち、わかっていただけますよね、ホリーさん! だから、ぼくはこれからも自分が続けたいと思うかぎりは「mitoちゃん」による「mito的授業」を続けていきますので、ご安心ください。あたたかい励ましありがとう。
 「40過ぎのオバサンがmitoちゃんと呼んでも不快でないかどうか」というお尋ねに対しては、これでもうお答えしたようなものだと思います。受講者や社会教育職員の「熟年女性」などからも「mitoちゃん」と呼ばれた経験が何度かありますが、ぼくもうれしいけど、なんだか相手も一瞬「子ども」に返っているようで、ちょっとキケンなウキウキ時空間という感じが楽しめます(あぶないヤツ……)。
 話は飛躍しますが、ぼくは最近、結婚するとなんでほかの異性の友だちとのつきあいが少なくなるのだろうと疑問に感じるようになってきました。結婚した途端、とつぜん異性のともだちがつれあい以外にいなくなることのほうがアヤシイ現象だと思うのです。ぼく自身の覚えているところでは、不特定多数の異性の手を握ったり、肩を抱いたりしてどきどきできたのは、小学校中頃のオクラホマ・ミキサーまででした。
 こんなことを話すと、若い人たちは、「mitoちゃん、そんなこと心配する必要はないよ。いまの高校生なんか、恋人でなくたって平気で抱き合ったりしてるよ」といいますが、ほんとうに楽しく抱き合ってるのかなあ。このまえ、女子高生の話を耳をダンボにして聞いていたら、「ねえ、あいつら、つきあってるわけじゃないのに、わたしたちのいるところのすみでキスしてるのよ」「あいつらなんか、勝手にやらせときゃいいんだよ」という会話でした。高校生自身が、「異性交遊」(すごい言葉!)を肯定的にはとらえていないのではないだろうか(そういえば「悲しみの性」というような題名の本もありました)。そんなことがあるので、ぼくには、話題の二人のキスは、なんだか楽しいキスには思えないのです。かれらは、愛を求めすぎるがゆえに、愛から遠ざかっているように思えるのです。キスに至る前のもっと自然な「ふれあい」こそが肝心なのに、それは小学校高学年以降、高齢期まで一貫して欠けているように思います。
 話を戻しまして、ぼくは恋愛や結婚の主体的、精神的な成立条件としては、「世界中でこの人だけ」と思いあうことだと考えている「ふるい」人間です。しかし、それは、ひきかえにいっさい異性の友だちを絶つことを意味するのではなく、ほかの人ともそれなりにウキウキ時空間をつくりだすことのできる自立した者どうしの自信にあふれたひとつだけの関係でありたいと思うのです。そして、妻以外の40過ぎの「オバサン」だろうが、20前の「小便臭い娘」だろうが、女という性をもつ人間として生きているのであり、そういう生命体(!)から「西村先生」ではなく「mitoちゃん」と呼びかけられることは、「唯一の関係」の楽しみとは別の「もうひとつの」ぼくのひそやかな(でもないか)ドキドキワクワクなんです。じつは、男性からmitoちゃんと呼ばれたときでさえ、なんか「オーッ」とかいって肩を抱いてしまいたくなってしまうんですよ(ウヒャーッ)。まあ、ぼくは抑圧が強いほうですから、実際にはそんなことしませんので、男性の方も安心してmitoちゃんと呼んでください。
 ところで、じゃあ、せめてどのくらいなら恋人や夫婦はおたがいの自他を縛りあうことができるのか。ぼくは、つぎの歌の題のとおりだと思っています。それは、「ラストダンスは私と」です。そのぐらいのわがままなら出し合って当然だと思うのです。いかがでしょうか。
自分でもマジメなのかキケンなのかわからないmito

mitoちやん
 「ラストダンスは私と」ですって! うふ、素敵なご夫婦! でも早いうちに奥様の同意を得ておいてくださいね。
 ところで「てらい」についてあれこれ考えてみました。mitoちゃんの「てらい」の原因は「ちゃん」という接尾語が主として子供の名前に使われるというところにあるのではないかしら。40も過ぎちゃうと「そこまで可愛くはないよなぁ」と、ふと思ってしまう……。
 これを姓の頭文字にくっつけると、大人っぽくなるんだけど。松ちゃん、浜ちゃん、山ちゃん等々。
 私は中学、高校時代の友人達と集まると「ミコ」「マコ」「チコ」などと呼び合っております。仲間内では全く問題ないのですが、喫茶店、電車の中といった公共の場で思わずボリュームが上がってしまうと、なかなか恥ずかしい、衆人の冷ややかな視線にさらされる結果となるのです。チコは(キャッ!)今これを書きながらも大いにテレております。
 呼び名における「てらい」のTPOといったところでしょうか。
 さて、「mitoちゃん」について更に考察を深めて参りましょう。
 「ミョー」「テレ」等の感情に揺れながらも、西村ミトシ氏は何故に「mitoちゃん」と呼ばれると「ウレシー」のでしょうか。
 ものは試し。あれこれ呼んでみましょう。
 mitoさん、mito氏、mitoshiちやん、mitoshiさん、西ちゃん、ニッシー、mitoちゃん……ウーン、やっぱりmitoちゃんが一番ピッタリしますね。呼びやすく、親しみやすく。ご自分でも「自分が素のまま受け入れられたように感じられる」とのことですし。
 ま、実際に面と向かって呼ぶ場合には、呼ぶ側にも「てらい」のTPOがあるわけですが。
 ここでちよっと筆を止めて思いめぐらしている内にハッとひらめいたのですが、mitoちゃんと呼ばれることは、開かれた社会教育を目指すmitoちゃんの成果そのものではないでしょうか。しかもその成果はかなり挙がっていると推察されるのですが、いかがでしょう。
 それからドキドキワクワク既婚者の異性交遊について。何人かの友人と話してみたのですが、結婚前とぜんぜん変わらないよ、という人もいましたが(ウラヤマシイ)大半は激減しています。伴侶への気がね(ジェラシー)、古来からの道徳観、他に、家庭のために費やす時間が多い。自由になる時間がズレる。
 それぞれうなずける理由です。思い当たります。熟年男女の正しい異性交遊を実現するためには、開かれた社会教育、男女平等な役割分担、育児や介護に対する福祉の充実が望まれます。
 恋愛に発展することへの危機回避のため異性交遊を避ける、という答えもありました。意外でした。この「もしかして恋愛に発展するかもしれない危機意識」がドキドキワクワクの素ではないかしら。
 世の中、頻繁に発展してしまう人がいる割に、一般にはめったに危機が訪れないのですが、でも可能性がゼロではないというところに一抹のドキドキワクワクのウキウキ時空間というのが存在し、こうして私もその時空間内でお手粧したためている次第です。
 又お便りいただけますか? こころ待ちにしております。
 二人はペンフレンド
ともこ

ドキドキワクワクのウキウキ時空間を味わいたい
社会教育「くえすちょん あんど あんさー」7月号

 お手紙、ありがとうございます。読んでると楽しくなって、ついニヤニヤしてしまいます。どうして楽しいのか、考えてみました。それは、自分と相手の過去の文化遺産や、外からたまたま与えられた肩書きなどを「見比べあう視線」などとは違う、その人そのものへの関心とそれなりの信頼関係から、この「お手紙ごっこ」が成り立っているからではないでしょうか。こぶとり小父さんやまみさんの手紙もそうだと思います。ぼくは、その心地好さを、交流分析という手法にでてくる「いまここで」(のわたしとあなたに関心をもつ)という言葉で表わせると思います。
 いきなり理屈っぽくなってしまいましたが、じつは何を隠そう、ぼくは小さいときから親に「屁理屈ばっかり」といわれ、今でも妻から「銭湯(言う=ユウだけ)」と断言されている人間なのです。でも、社会教育や生涯学習のすてきなところを発信するといういまの仕事はかなり気に入っていまして、そこでは、とくに、「ひとが上下に比べられる学歴偏重社会」を蹴飛ばしたあとの「してあげる=してもらうの交換が気持ちよく行き交う生涯学習社会」のつくり方がぼくにとっての最大重要関心事項なのです。だって、誰だって、「比べられるために生まれてきた」なんていう人はいないと思うのです。また、ぼくが書かせてもらった(出版社に赤字覚悟で出してもらった)本『こ・こ・ろ生涯学習』の副題も「いばりたい人いりません」なのです。だから、このへんの水平な人間交流の話になると、ついリキが入ってしまうのです。
 そして、このことは、たしかに「mitoちゃん問題」にも通じているのでしょう。ともこさんからは、「mitoちゃんと呼ばれることは、開かれた社会教育を目指すmitoちゃんの成果そのものではないでしょうか」などと過大な評価をいただきました。ありがとう。まあ、ぼく自身の「mitoちゃん」という呼び名の理由は、正直なところ、語呂がいいからとか、かわいく聞こえるかもしれないからとかの程度です。でも、ぼくには、「わたしの支配を受けないあなただけど、そういうあなたが生きてくれていてうれしい」とたがいに思いあえる「個人に開かれた社会」を社会教育・生涯学習をとおしてつくっていきたいという「野望」(ぼくはこのために生きているのかもしれない……)があります。この野望を率直に反映した直感的な言葉(ほかではぼくは理屈っぽい)が、「ぼくは先生なんかじゃない、mitoちゃんにすぎないんだ」ということなのかもしれません。
 ところで、「恋愛に発展することへの危機回避のため(結婚後の)異性交遊を避ける」というご友人の言葉、ぼくもすごいなあと思います。ただし、ぼくの「すごい」は、ぼくもかなりの臆病者なので、「あたってるなあ」、「自分の核心をそんなにずばりと平気でいえちゃう友人関係っていいなあ」という意味での「すごい」なのです。でも、結婚による相互抑圧作用の見返りに安心を求めるよりは、ほかの異性との交遊に心ときめかせながらも、「やっぱりいまの連れ合いが世界一だ」となるほうがよっぽどいいでしょうね。リスクを臆病に回避しているくせに、こんなとんでもない夢を見ているこういう状態を、ぼく自身は「ろくでなし状態」と呼んでいます。しかし、「どうせ人間はみんなろくでなしなんだ。だから、“ただのろくでなし”から“ましなろくでなし”になれれば、それで十分なんだ」と居直ることにしています。
 いずれにせよ、ともこさんのいう「一抹のドキドキワクワクのウキウキ時空間」、やっぱりこれが臆病者のぼくにとっても「生きている理由」なんですよね。ぼくは生涯学習は「生きている理由」から発するものだと思っていますから、「ワンダーランドでなければ生涯学習じゃない」なんて叫んでいます。大学の授業でも、初回には必ず「なんで生きてるの?」という発問から始めることにしています。「生まれたから」という当然すぎる答えが一番多いのですが、「死ぬのが恐いから」というのもけっこう多いんですよね。これってぼくは「そうだよなあ」と共感しちゃうところもあるのですが、「恋愛に発展することへの危機回避のため」というのとも通じていますよね。やっぱりぼくはワンダーランドの世界で生きていきたいな。
 おっと、いつものごとくスキゾかつ冗長になってしまった。それでは、スキゾついでに、どうしたら社会教育や生涯学習がワンダーランドになるかということだけ、ぼくが最近考えていることを手短かに紹介しておきますね。
 1つめは、「発達だけでなく癒しも」です。人間、日々発達しているのを実感するのもうれしいことですが、実際には、それだけじゃなく、「癒されたい、安らぎたい」という欲望もあるのが自然だと思います。前者だけを声高に相手に押しつけるのって「ウソだな」と思うのです。
 2つめは、「事実よりも真実を」です。学習というのが、つまらない事実の集積に圧迫されることであるようなマイナスイメージが、小学校以来、ぼくたちにありまして、これがワンダーランドとしての生涯学習への接近を妨げている。ほんとうのところは、事実なんかはおもしろくない。ぼくたちは、事実のインプットのためではなく、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、出会い、生きているのだ。事実は、その集積が真実に近づくときだけおもしろいのだ。と、このように思うのです。だって、ともこさんだって、ご自分の歌詞を「事実と違うわね」といわれたって「当たり前でしょ」と思うだけでしょうけど、もし、「真実とは無縁ね」などという失礼なやつがいたら、「どうしてよ」となりますよね。歌詞も、人間存在の真実に接近するすばらしい虚構のひとつなのだと思います。
 3つめは、「積極的積極性とともに積極的消極性を」です。「誰からでも何からでも学びたい」という積極的な生き方をするひとを見ていると、じつは、撤退せざるをえないような場面の多いこの世の中で、積極性発揮の一方で、他者のせいにすることなく、さわやかな撤退をどこかでじょうずにしている。ぼくはこのような自己決定・自己管理型の「潔い撤退」を「積極的消極性」と呼んでいます。生涯学習や人間交流のような「積極的積極性」の行為は、この「積極的消極性」と連動関係にあると思うのです。この2つに対して、「消極的積極性」(やりたくないけど頑張っている)、「消極的消極性」(被害を受けているからできないでいる)の2つが、ワンダーランド発見のネックになっていると思います(じつはぼく自身のことですが)。
 遅ればせながらの自己紹介のようになってしまいました。
ps ともこさんの作品をご紹介ください(作品は“過去の文化遺産!”にあたるけど、「いまここで」のともこさんに関心があるからこそのお願いです)。
mito

mitochan in wonderland

 またまたノロケられてしまいましたね。イイナ、イイナ。とりあえずお返しするネタがないので、ただただ羨んでいる次第。トホホ……
 今回のお手紙、ドキンとさせられることがいろいろあって、ちょっとだけ深く考え込んでしまったりしておりました。
 「なんで生きてるの?」まずここでドキン。で、このQに対して咄嗟にAを見出だせずにドキンとしてしまった自分に気がついてドキン。あれ、これって今までさんざん考えてきたことじゃなかったっけ。ある時はルンルンと、又ある時はフンフンと、それなりに自分なりに答えをだしていたつもりだったのに……、そう言えば長いことこんなこと考えていなかったわねえ。流されていただけなのかしら。それとも年のせい??? アッいけない、いけない。ここへ逃げ込んだら老け込んでしまう。そうよ、ウキウキワクワクでなくっちゃあ。
 と、まあ最初のドキンから脱出し、気を取り直して読み進みます。
 後半、ワンダーランドへの道しるべということで、読むのにもグッとリキが入ってしまいました。
 「発達だけでなく癒しも」なんて読むと、そうよ、そうよ、癒されたいのよ。嬉しいこと言ってくれるわねえ。と、それだけですっかり癒された気分になってしまえる私って、きっともうワンダーランドの住人なのね。(オメデタイだけかもしれないけれど)
 気持ち良く読みすすんでいると「消極的消極性」なんて言葉に出くわしました。
 ガーン。
 コレハワタシノコトデハナイカシラン。
 以前こぶとり小父さんとのお手紙ごっこで「与えられたどのような状況の中でも常にオメデタくノーテンキに生きてゆきたい」というようなことを書いたことがあるのです。でもこれって状況打破を諦めた態度ではないかしら。いけないことではないかしら。確か昔はこんなじゃなかったはずよ。もっと燃えるような想いが…… でも今だってちょびっと位は……、それにしても……、年のせい??? アッいけない、いけない。
 と、ここでも又ちょっとだけ深く考え込んでしまったのでした。
 で、いつもの私のクセで、きっと友人達もドキンとするに違いないわと思い立ち、早速ダイアルをピ、ポ、パ。
 「もしもし」と聞こえるや、いきなり「ね、ね、何で生きてるの?」
 「え? まあ自分自身の修行のためってとこかな。アッハッハッ」
 あまりにも即、あっけらかんと答えられて、ポカンとしてしまいました。(彼女は特に信仰を持っている訳ではありません)
 ま、ああなりたい、こうなりたいと思いながらも思う程には発達できず、時に癒されたい。真実にふれたくて、ある時は積極的に、又ある時は消極的に生きる。人生それぞれに修行であったり、ワンダーランドであったり、ノーテンキであったり……ウーン、やっぱりノーテンキはまずいんじゃないかな……よく考えてみることにします。

 「ありがとう」
なぜ生まれてきたの?
笑うため?
喜ぶため?
愛するため?

神様にありがとうをいうために

 これは、かくありたい、あって欲しいという願望です。
 mitoちゃん、楽しいお手紙ごっこをありがとう!

いつかきっと聴講生 ともこ

山田とも子の作詞した歌(圧縮編)

まる・さんかく・しかく
※まる・さんかく・しかく/まる・さんかく・しかく/三つの星があったとさ/宇宙のはてのまだむこう/まだむこう まだむこう//コロコロふとったまんまる人は/まるい机にまるいイス/まるいおへやでとびはねりゃ/まるいおうちがころげだす/トンガリあたまのさんかく人は/さんかく窓のさんかくテント/さんかくベッドでねているが/さんかくまくらがちと困る/(※くりかえし)//オカッパあたまのしかく人は/しかくい坂道しかく山/しかくい車でドライブだけど/しかくいタイヤがまわらない/(※くりかえし)
まる・さんかく・しかく/まる・さんかく・しかく/まる・さんかく・しかく/まる・さんかく・しかく/ラララララララ…………

子供のサンバ
手をつなごう花のように/輪になって月を囲もう/楡の木陰の月を囲んで/歌おうよ子供のサンバ//駆けて行こう どこまでも/春の風を追って行こう/麦のかおりに つつまれて/歌おうよ 子供のサンバ

ティラノザウルスの子守唄
北京原人 歩いていると/ウサギ ピョンと出て言いました/北京原人 もう春だ/花見に行こう もう春だ//オランウータン 歩いていると/ミミズ にょろにょろ 言いました/オランウータン もう夏だ/泳ぎに行こう もう夏だ//バクがモグモグ 夢食べてると/落葉ハラホロ 言いました/バクさん もう秋だ/焼イモ焼いてよ もう秋だ//ピテカントロプス 歩いていると/カエル ねぼけて 言いました/ピテカントロプス もう冬だ/おやすみなさい もう冬だ//ある朝 ボクの夢の中/北京原人 言いました/息子よ 起きなさい/明るい朝だ 起きなさい

木漏れ日のように
出かけるあてのない日曜日/机の抽出しあけてみた/なつかしい匂いがして/想い出が目をさます/古びたノート/黄ばんだ写真/あいつとの出逢い/ひとつひとつを手にとって/そっともとに戻す//ふり返れば過ぎた日々/木漏れ日のように/きらめいて見えかくれ//誰とも会わない雨の午後/古い手帳を開けてみた/なつかしさめくるたびに/過ぎた日がよみがえる/一人旅の記録/野球のスコア/あいつとの別れ/あの日この日をたどっては/そっともとに戻す//ふり返れば今日の日も/木漏れ日のように/きらめいているだろうか

いいじゃないか
いいじゃないか 一人で/生きているのさ/どんなに愛しあっていても/一人になりたい時もある//いいじゃないか たまには/旅に出たって/君を愛していることは/神にかけて嘘じゃない//愛していても愛していても/淋しい時もあるのさ/信じていても 信じていても/信じられない時もあるのさ/だから/いいじゃないか 笑っておくれ/いつもみたいに/君もきっといつか気がつく/一人で生きていることに ララララ

りんごの木の下で
りんごの木の下で/さよなら言いました/まだ青い りんごの実ひとつ/かじってみました/口の中いっぱい/すっぱい汁/にじみました//りんごの木の下で/さよなら言いました/まだ固い りんごの実ひとつ/かじってみました/頭のなかいっぱい/涙じーんと/にじみました//りんごの木の下て/さよなら言いました

青い鞄
青い鞄 ひとつさげて/旅に出たけれど/行くあてもない/帰る家もない/想い出をつめた/青い鞄があるきり//青い鞄ひとつさげて/わたしは船にのる/遠くへ行くの/知らない国へ/悲しみに鍵をかけた/青い鞄があるきり//わたしは旅に出て/夜がやってきて/あなたはひとりで泣いて/世界は終わるの//青い鞄とわたしの旅/いつまで続くだろ/空に浮かぶ/雲の上/歩いて行きたい/ふるさとをみつけるまで

ゆがんだ女がおりました
ゆがんだ女がおりました/ゆがんだ女がおりました/ゆがんだ女は恋を/いびつな男に恋を/ゆがんだ心で恋をしました//ゆがんだ女がおりました/ゆがんだ女がおりました/ゆがんだ女の恋は/やっぱりゆがんだ恋は/パチンとはじけて散ってゆきました//ゆがんだ女/まんまるな涙 流しながら/ゆがんだ恋のかけら ひろいました

わたしはわたし
わたしはわたし/走ってみても/さかだちしてみても/やっぱり/世界中に一人しかいない/わたしはわたし//わたしはわたし/あかんべしても/死んだふりしてみても/やっぱり/世界中に一人しかいない/わたしはわたし//わたしはわたし/タワシじゃないよ



山田とも子の作詞した歌

フジテレビ幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」より
山田とも子作詞/小山田 暁作曲・編曲
まる・さんかく・しかく
唄:のこ いのこ

※まる・さんかく・しかく
まる・さんかく・しかく
三つの星があったとさ
宇宙のはてのまだむこう
まだむこう まだむこう

コロコロふとったまんまる人は
まるい机にまるいイス
まるいおへやでとびはねりゃ
まるいおうちがころげだす
トンガリあたまのさんかく人は
さんかく窓のさんかくテント
さんかくベッドでねているが
さんかくまくらがちと困る
(※くりかえし)

オカッパあたまのしかく人は
しかくい坂道しかく山
しかくい車でドライブだけど
しかくいタイヤがまわらない
(※くりかえし)

まる・さんかく・しかく
まる・さんかく・しかく
まる・さんかく・しかく
まる・さんかく・しかく
ラララララララ…………
〈演奏時間 3分06秒〉

子供のサンバ

手をつなごう花のように
輪になって月を囲もう
楡の木陰の月を囲んで
歌おうよ子供のサンバ

駆けて行こう どこまでも
春の風を追って行こう
麦のかおりに つつまれて
歌おうよ 子供のサンバ

ティラノザウルスの子守唄

北京原人 歩いていると
ウサギ ピョンと出て言いました
北京原人 もう春だ
花見に行こう もう春だ

オランウータン 歩いていると
ミミズ にょろにょろ 言いました
オランウータン もう夏だ
泳ぎに行こう もう夏だ

バクがモグモグ 夢食べてると
落葉ハラホロ 言いました
バクさん もう秋だ
焼イモ焼いてよ もう秋だ

ピテカントロプス 歩いていると
カエル ねぼけて 言いました
ピテカントロプス もう冬だ
おやすみなさい もう冬だ

ある朝 ボクの夢の中
北京原人 言いました
息子よ 起きなさい
明るい朝だ 起きなさい

木漏れ日のように

出かけるあてのない日曜日
机の抽出しあけてみた
なつかしい匂いがして
想い出が目をさます
古びたノート
黄ばんだ写真
あいつとの出逢い
ひとつひとつを手にとって
そっともとに戻す

ふり返れば過ぎた日々
木漏れ日のように
きらめいて見えかくれ

誰とも会わない雨の午後
古い手帳を開けてみた
なつかしさめくるたびに
過ぎた日がよみがえる
一人旅の記録
野球のスコア
あいつとの別れ
あの日この日をたどっては
そっともとに戻す

ふり返れば今日の日も
木漏れ日のように
きらめいているだろうか

いいじゃないか

いいじゃないか 一人で
生きているのさ
どんなに愛しあっていても
一人になりたい時もある

いいじゃないか たまには
旅に出たって
君を愛していることは
神にかけて嘘じゃない

愛していても愛していても
淋しい時もあるのさ
信じていても 信じていても
信じられない時もあるのさ
だから
いいじゃないか 笑っておくれ
いつもみたいに
君もきっといつか気がつく
一人で生きていることに ララララ

りんごの木の下で

りんごの木の下で
さよなら言いました
まだ青い りんごの実ひとつ
かじってみました
口の中いっぱい
すっぱい汁
にじみました

りんごの木の下で
さよなら言いました
まだ固い りんごの実ひとつ
かじってみました
頭のなかいっぱい
涙じーんと
にじみました

りんごの木の下て
さよなら言いました

青い鞄

青い鞄 ひとつさげて
旅に出たけれど
行くあてもない
帰る家もない
想い出をつめた
青い鞄があるきり

青い鞄ひとつさげて
わたしは船にのる
遠くへ行くの
知らない国へ
悲しみに鍵をかけた
青い鞄があるきり

わたしは旅に出て
夜がやってきて
あなたはひとりで泣いて
世界は終わるの

青い鞄とわたしの旅
いつまで続くだろ
空に浮かぶ
雲の上
歩いて行きたい
ふるさとをみつけるまで

ゆがんだ女がおりました

ゆがんだ女がおりました
ゆがんだ女がおりました
ゆがんだ女は恋を
いびつな男に恋を
ゆがんだ心で恋をしました

ゆがんだ女がおりました
ゆがんだ女がおりました
ゆがんだ女の恋は
やっぱりゆがんだ恋は
パチンとはじけて散ってゆきました

ゆがんだ女
まんまるな涙 流しながら
ゆがんだ恋のかけら ひろいました

わたしはわたし

わたしはわたし
走ってみても
さかだちしてみても
やっぱり
世界中に一人しかいない
わたしはわたし

わたしはわたし
あかんべしても
死んだふりしてみても
やっぱり
世界中に一人しかいない
わたしはわたし

わたしはわたし
タワシじゃないよ
大学生のための進路指導のあり方
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S短大社会教育概論、女)
 社会教育主事課程は以前から取りたいとは思っていて、どんな内容の授業なのかと楽しみにしていました。けれど今までいくつかの講義を受けてみて少し不安になりました。人はこういうときどう感じるのかとか、このことについてどんなふうに考えるのかなどという抽象的な心理学のような授業を、どんなふうに吸収して学んでいけばよいのかわからないのです。予習・復習というような科目ではないし、やはり自分の考えをしっかり持っていることが大切だと思うのですが、いまいち授業の波に乗れません。堅く考えすぎなのかもしれませんが、今の正直な気持ちです。けれど先生の授業はなんだかとてもリラックスして受けることができます。
学生の出席ペーパーより((T大T部社会教育計画、女)
 先生がもっとゆっくり話してくださればいいと思います。あまり早口でずっと話していると疲れるでしょう。私は他学科なので生涯教育については何も知識がないので、一般人にもわかりやすく教えてください。
mito 第1回の「オープニングセール」において、このmito的授業の目的について、一応は、「幸せになるために生きている」→「生きることを学ぶために学生をしている」→「だから、この授業では、幸せに生きるということを考える」→「幸せ(コミュニケーション)を相手に与えることができるから自分自身も幸せになる」→「そのために、他者の幸福追求の援助者(幸福配達人)としての社会教育主事の資質・能力を身につける」というオリエンテーションをしたと思う。しかし、ここでは、もう少し別の視点から説明してみよう。社会教育主事課程を学ぶということには、社会教育主事としての資質・能力を身につけるということと、採用試験に合格する力をつけることの2つの目的がありうるのだろう。人によって、そのどちらでもいいと、ぼくは考えている。
 前者の社会教育主事としての資質・能力については、社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」(昭和61年10月)において、@ 学習課題の把握と企画立案の能力、A コミュニケーションの能力、B 組織化援助の能力、C 調整者としての能力、D 幅広い視野と探求心、の5つが挙げられている。これが現在のわが国の社教主事養成の基本指針である。mito的授業も、これらの資質・能力の獲得を目指したものと考えてもらってよい。そして、このような資質・能力は、学習者がたとえ社会教育主事にならなくても、この現代社会で、一度しか生きられない人生を大切にていねいに生きていくためには、いろいろと役に立つだろう。
 しかし、後者の採用試験に合格する力については、前者の努力のほかに、ほかの努力も必要になる。この種の質問が多いので、ここでそれについて触れておこう。まず、5年間分くらいの「カコモン」(過去の問題)を解いて「傾向と対策」を把握することが必要だ。それは、今の自分のままでは、どこが採用側から切られる要因になるかを客観的に自己評価するために必要なことなのである。そのうえで、今の自分には足りない知識については、社会教育の基礎であれば『こ・こ・ろ生涯学習』の「ひとくちミニ知識」、生涯学習理念の関係であれば「生涯学習理念はなぜ新しいのか」、社会教育計画であれば『生涯学習か・く・ろ・ん』の「地方自治体における学習プログラム作成の視点」などによって、フォローするとよいだろう。そういうものは「書き言葉メディア」から学んだほうが、効率的だし、主体的な学習方法といえる。そして、ここに著者がいるのだから、声をかけてくれれば、(本心から)喜んで質問にも答えるし、ほかの参考書も紹介できる。
 ただ、mito的授業自体も、社会教育主事採用試験に合格する力と無関係なわけではない。そもそも時代の流れは、mito的授業がキーコンセプト(鍵概念)にしている個の深みを重視するネットワーク型社会に向かっていると思われる。これからの採用試験には、それに近い事項の理解度を計るための出題が多くなるだろう。また、自己の思考を言語化して表わすトレーニングは、面接や小論文で自分の考え方を述べるときなどには、かなり役立つことと思う。
 さらに、どうしても社会教育職員になりたければ、つぎのような就職活動が必要になる。mito的授業で身についたコミュニケーション能力、ネットワーク能力(ノウ・フウ)を生かして、全国の社会教育関係職員採用のチャンスを探し出し、手当たり次第に50箇所ぐらい受けるつもりになるのである。「数打ちゃ当たる」である。これが社会からあなたに与えられるチャンスをものにするコツである。これは、社会から許される範囲での賢い「厚かましさ」ともいえる。大切なときに厚かましくなれないと負け犬になってしまう。厚かましさもときには必要なのである。ネットワークも作らずにただチャンスを待っているだけのあなたをわざわざ誘ってくれる社会ではないからだ。社会があなたを選択する(切り捨てる)権限をもっていることをきちんと認識できて、はじめて、今度はあなたが社会から与えられた選択の自由を最大限に行使することができるのである。「落ちるのは劣等感を刺激されるから、合格する可能性の大きい選び抜いた所しか受けない」という姿勢で就職活動をする人がいるけれども、そういう敗北主義的な態度だと、社会教育主事という職業にかけるその人の情熱を社会が認めてくれるということは難しい。mito的授業における「人が生きること」(幸福追求)についての学習は、そういう敗北主義を克服して選択の自由の権利を行使するような実際の生きる力につなげることができるのではないか。余談になるが、社会教育を学んでいると演奏の力まで伸びるという今までの履修者の実績も、ひとつには、こういうところからきているのではないかとぼくは思っている。
 mito的授業のもうひとつのポイントは、「夢(自分の生き方、自己の存在証明)を見つける」ということである。ここでいう「夢」とは、「社会教育主事採用試験に合格する」などというものではない。あなたの本当の夢は、「私だったらこういうふうに社会教育を進めていきたい」「聴衆を前にしてこの曲をこういうふうに演奏して感動を伝えたい」ということのはずである。今のところその夢を実現するために一番有利な近道だと思われるものが社会教育主事専門職やプロの演奏家として採用されることであるというだけの話なのである。社会教育の活動などは、極端にいえば、ボランティア活動であっても、その夢が実現できるかもしれない。実際にはどちらが有利かは、やってみないとわからないものだ。世間の物差しなど当てにならないものだ。大学だって合格したという事実だけで幸せな気分でいられたのは束の間であったことを思い出していただければ、そのことは理解されよう。「自分はどこに入るか」ではなく、「自分はどう生きるか」がまだはっきりしないから、高等教育のなかでそれを探し出すのである。これは、すなわち、生きることを学ぶということであり、自己を確立するということである。
 mito的授業は、本当の夢の方への支援だと思ってほしい。学生の就職活動に対する大学学生部の役割は求人情報の提供などにあると思うが、教育的専門職員である大学教員の役割は、就職活動のプロセスのなかでの自己確立への教育的援助にあると思う。学生自らが「有利」になるために活動することはその人にとってはとても大切なことで悪いことではないが、特別な事情でもない限り、そんな個人的なことを教員として援助する気にはとうていなれない。ぼくが援助したいのは、自分の存在価値を求めて本当の夢を見つけようとする学生の自発的な営みである。ほかの教員だってそうであろう。これが高等教育における進路指導のあり方だと考える。そして、確かな夢をもっている人が必ずしも希望する会社や職種に就けるというわけではないというのも残念ながら現実だが、それでもかなりの人が結局は第2希望、第3希望ぐらいには入っていく。その学生の本当の夢を聞くことができれば、教員も精一杯応援する気にならざるをえないのだ。しかし、主体的な理念や考え方ももたずに社会的に有利だとされているところに入ろうと思う人がいても、これはまず間違いなく落とされるだろうということは、ほぼ確実にいえることなのである。社会は、そんな個人の勝手な都合などいちいち聞いてはくれないからである。
 本人が本当の夢をはっきり認識できさえすれば、何らかの形でそれを実現することができるだろう。たとえば、ぼくの友だちは、「ユースワーカー」になりたくて、ぼくといっしょに就職活動をし、現在はY市ボランティア協会の職員をやっているが、彼は就職活動中、「就職がうまくいかなくても、ラーメン屋の屋台をやりながらでも、ユースワークはできる」と言っていた。今や図書館活動のメッカである日野市も、「リヤカー引っ張っても図書館だ」というたくましいやり方でスタートしたのである。このような意味から、mito的授業は、自分の現代社会との関わり方をあらためて考え直す機会としてとらえてほしい。

● 個人の素晴らしさと、社会にそれを認めさせることの違い
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S短大教育社会学、女)
 初めてこの用紙に書きます。mitoちゃんの授業は、とても楽しいし、個性的だと思います。それで私が最近思うのは、他の大学では「教育社会学」という授業をどのようにやっているのかなということです。他の大学の教育社会学の授業でも、こういう内容をやっているのでしょうか。もし全然違う内容で、教員採用試験に出るようなことを毎週やっているとしたら、教員採用試験を受けようと思っている私にとって、とても心配です。私は教育社会学という授業はmitoちゃんの授業しか出ていませんから、今やっているこういう内容が教育社会学というものなんだと思っています。別にmitoちゃんの授業が不満なわけではありません。とても楽しいし、勉強になるし、これからも毎週出ようと思っています。ただ、ちょっと不安になったので書いてみました。
mito
 mito的授業について「楽しいし、勉強になるし、これからも毎週出よう」と感じながらも、実際の教員採用試験を考えると不安になる気持ちは、ぼくにもよくわかるので、一般論にはなるかもしれないが、ていねいに答えてみたい。
 教育社会学の「知識の量」を試す問題は、教員採用試験においてはあまり出題されない。社会学というものが、そもそも範囲が広すぎる学問だからということもあろう。教育社会学についても、教育が社会に及ぼす影響、社会が教育に及ぼす影響、そして教育のなかの社会など、その範囲はかなり幅広い。しいて言えば、「ピアグループ」の教育的機能と逆機能の理解などは押さえておいた方がよいかもしれない。そのほかの教員採用試験の「知識の量」を試す部分については、各自が「カコモン」(過去の問題)を解いて「傾向と対策」を把握することから始めなければならない。教育社会学では必須のデュルケームなどについては、「教育史」あたりの自己学習でカバーできるであろう。これらは、「話し言葉メディア」ではなく、「書き言葉メディア」(本)から効率的に学ばなければならない。
 しかし、そういう自己学習を、問題関心なしに進めるのは至難の技である。「頑張ろう」という気持ちだけで頑張り続けられるものではない。学習はもともと関心があるからこそ行うものだから、ガンバリズムだけでは学習者は疎外感を感じてしまうのである。これが「受験地獄」と呼ばれる現象ではないか。ぼくの授業は、ひとつには、少しでも楽しく受験勉強をするために、そのことがらに対して問題意識をもつためのものととらえてほしい。
 また、各地の教育委員会も、最近はとくに、表現力やコミュニケーション能力など、生涯学習時代の学校教育の役割(自己教育力の育成)を実現できる主体的な力量を、新規採用教師に求めるようになってきている。自分の頭で考えて、言語表現を使ってその思考を相手にもわかりやすく外在化させることができる力量を求めるようになってきているのだ。論文や面接などで、そういう力が試されることになる。そういうとき、ぼくの授業で、ああでもない、こうでもないと、自分の頭を使って考えた時間は、きっと役に立つと思う。自分のフィルターを通して、そのテーマについて話し、書くことができるようになるだろう。それができるようになれば、「自分は知っていると思う」「自分はこう思っていると思う」という状態から、自分が無知で非力であることや思考に欠陥があることを具体的に自覚したり、そのなかでも知っていること、思っていることを言語で表現したりできる状態に発展させることができるのである。しかも、授業で扱っているテーマは、身近なことばかりのようだが、じつは、学習者という個人と、ときには個人の個性を抑圧する親や教師や友達など(社会)との関係を、個人の学習援助としての教育という視点から追求しようとするものであり、教育社会学の本質的なテーマとも一致しているのである。あとのテーマの料理の仕方は、高等教育においては、教員一人ひとりによってまったく異なるものだ。今や学問は「一人一学説」の時代なのだから。
 社会(ここでは新卒者を採用する人事窓口)は、個人に「素晴らしさ」そのものを要請しているのではないのではないか。なぜなら、そんなことをいえば、だれだってそれなりに素晴らしい存在だからである。それよりも、各人がさまざまにもっている素晴らしさを、社会に対してどう理解されるように表現し、実際にどう仕事に役立てることができるかを知りたいのである。これを学習者個人の立場からいえば、高等教育の授業を受ける場合、賢くなることとともに、その賢さを生きる力に結びつけることも自律的に考えておくことが必要といえるだろう。言い換えれば、頭がよくなる(知識を増やす)ことだけでなく、その頭を使えるようになることのふたつが必要なのである。「自分自身はわかっているんだけど」という状態から、「自分自身がわかっていないことをわかったからこそ、わかったことからいまの自分は始める」という状態に発展させるのである。これは、人間が生きていくための主体性とよんでいいだろう。

● 社会的役割遂行としての教育の特殊性
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)
 言いたい放題、書きたい放題のこのペーパーを実行しているmito先生は、それだけでも本当にすごい人です。この強さはどこからくるのですか。この説明をどのように表現したらわかってもらえるのか困っていますが、臆することもなく向かっていけるこのエネルギー(精神)はどこからくるのでしょうか。mito先生は、私にはしたくてもできないもっともしたくない方法ばかりとっています。すべて(注・アンビバレンツまたは1%の批判)を受け入れてしまえばOKよ、というだけの説明では納得しません。言いたい放題、書きたい放題で、皆が先生に甘えているように思えてならない。
mito
 だれでも、給料付きの役割遂行であることを自覚し、少し自負をもっていれば、あとは「強さ」がなくても「元気」があればこのような程度にはやっていけると思う。それでも、なお、元気の源は、と問われれば、「ごはん、おふろ、ふとんの幸せ」と「癒しのサンマ」(フリースペース、狛プー)という答えになるであろうか。
 出席ペーパーシステムは、学生の批評精神を支援しようとするものであり、心にもないことや根も葉もない誹謗中傷は別として、思ったことは何を書いてもよい。このシステムによって、ぼくは、批評精神の欠如という現代の主体性の喪失と信頼関係の崩壊の進行に異議申し立てをしようとしているのだ。批判は知的水平空間においては一種のストロークであり、それを受けて立つのは教師としてのぼくの社会的役割である。だから、もし、日常の社会の、ときには仮面をかぶらなければならない人間関係において、ぼくが同じようにあけすけな批判をされたら、「ぼくのことをわかりもしないのに、ほっといてくれよ」と怒りだすかもしれない。それはわからないし、ぼくがどうするかを責任をもって公言しなければならないことではない。

● 学習者にとっての教師の不快な言葉と無益な言葉の違い
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S大教育社会学、女)
 先生の話しはクドくて生々しすぎて嫌です。性問題も大切だとは思いますが、すぐ恋愛やSEXに結び付けないでください。
mito
 現代社会においては、たとえ恋愛やSEXという個人的なことがらであっても、それが「社会的問題」(ここでは性問題)として存在してしまうのである。ぼくは、これを「現代人の性の非主体性」(対等な人間関係のなかでの恋愛やSEXを味わえない問題など)という視点から考えている。その「現代人」には、ぼくもこのペーパーを書いた学生も入ってしまうのである。ただし、各人の主体(認知・行為・評価する我)によっては、その社会的影響を内面的にはかなり払拭できている人もいるかもしれない。程度の差はあるということは、ぼくも認めなければならないと思う。
 それでも、ぼくは、このペーパーでそれ以上にどきっとしたのだ。それは、「クドくて生々しすぎる」という指摘に関してである。ぼくは、「『膣外射精による避妊の失敗』は、自分の性欲までコントロールできるという性に関する男の自信過剰と、女性にたいする生意気で傲慢な姿勢からくるものであり、性の非主体性を表わしているのではないか」と言った。そこまでは言ってもよいと今でも思っているが、相手に対する「してあげる」喜びとしてのSEXになっていないこと、それを女性がきちんと拒否できないことを批判するために、「顔面発射」という俗語まで持ち出して、「そんなことが女性にとって気持ちいいわけないですよね」と言ったのだ。「顔面発射」という俗語は、そのことをいうためには無益であり、女性にとっては不快な言葉であったと思う。そこまで言ってしまったのはなぜだろうか。「不快なこと、きわどいことを言って衝撃を与えたい」というセクハラの気持ち、意地悪な気持ちがぼくにあったのではないかと、このペーパーを読んで思ったのである。あるいは、性に関する現代人の不幸な状況を今すぐ変えたいという無茶な思いがあったのかもしれない。いずれにせよ、各人の思考における決断については各人に任せるという知的水平空間にはなじまない言葉であった。ぼくの言葉の被害にあった学生には申し訳なかった。
 ただ、mito的授業において、現代社会における人びとの非主体性の本質という真実に迫るための言葉については、「クドくて生々しすぎて」も、あるいはクラく見えても、できるかぎり真正面から受けとめてほしい。それは、個人と社会の関係を考えるためには、あるいは、他者の学習や幸福追求を援助しようとする教育や教育学を学ぶためには必要不可欠なことなのである。そして、学習者にとっては無益なぼくの屈折の授業における表れについては、きちんと自分なりに見分けて、これからも批判、批評し続けてほしい。

● 見返りの期待を相手に押し付けるな、見返りが期待できるような行為をせよ
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S短大教育社会学、女)
 気をつかうということは、今の自分に無理をしている状態で、気がきく人とは、つねにいいことをしてあげようとしていて、人に与えることができる人なんですね。今、私は彼に与えることをしていないような気がします。でも、自分がこの人に何かをしてあげるんだ、なんて思ってしまうと、なんだか見返りを求めてしまいそうです。よくわからない文章になってしまいましたが、コメントください。
mito
 ストロークの基本は、自分と相手を基本的に信頼することである。たとえば、このペーパーの言葉を使えば、「いいことをしてあげよう」としている今の自分の気持ちはけっして非常識ではないというように自分を信頼(自信)し、そういう自分の好意を相手は受け入れる力をもっているだろうというように相手を信頼(他信)することである。だから、相手のためにしてあげるある重大な行為について、受け入れてもらえるという自信や他信がまだもてないときに、「自分がこの人に何かをしてあげるんだ」と頑張って無理にその行為をしてしまうことはたいへん危険だと思う。まだ不安な場合は、相手に「どう?」と聞いてみればよいではないか。聞いてみることも信頼に基づくストロークのひとつなのである。あるいは、小さなプレゼントをたびたびあげるなどして、少しずつ信頼関係をつくりあげていく手もある。ディスコミュニケーションの現代社会においては、「気がきく」というのは、自分勝手に判断することではなく、相手に聞けることであり、信頼関係が最初からあることではなく、少しずつつくりだせることなのである。
 さて、「見返り」についてであるが、以上の趣旨から、「見返りを期待しない一方的な好意と行為」こそが、コミュニケーションのない自分勝手な思い込みに陥る危険性をもっているということが理解されよう。ここで「見返り」とは、打算的、実利主義的なものとは違い、もっと精神的で微妙な見返りである。これは、最近、ボランティア活動の魅力についてもそういわれているところである。しかし、もう一方で、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない、あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という人間関係の真実がある。「自分のために自分の人生を生きている」といえることと、自分の期待を相手に押し付けないことの両方が必要なのである。そこで、ぼくは、このようにまとめておきたい。「見返りの期待を相手に押し付けることはできない。しかし、好意をもつ相手からの見返りが期待できるような行為をすることは、自分の責任においてできることである」。

● 「ただのろくでなし」と「ましなろくでなし」
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)
 神経症もちなので先週のゲームはけっこう辛かった。偶数日だけ出席しようかと思う。でも、講義を受けていても(中略)手は震えるし、思考力もものすごく鈍っている。きたない字ですが、本人はものすごくゆっくりていねいに書いているつもり。耳をとがらせてでもよく聴いて、いろんな情報を聞いたり考えたりしたいと思っています。本当は奇数日も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか。
mito
 ぼくは、この学生の真摯な態度に敬意の念を感じる。ぼくの授業では無理をしないようにしてもらいたい。すでに公言してあるとおり、出席、入退室はすべて自由であり、ぼくにはきがねなく自己決定してほしい。
 mito的授業、とくにこの授業のような態度変容をねらいとする体験学習においては、次のような参加の仕方が考えられる。これらを、自分で選択して行動するということが大切である。@欠席する(授業より有意義なことをする、ボーッとしているなど。その時間の使い方を総括するレポートが翌週に提出されれば出席扱い)、A出席するけれど、出ていきたくなったら出ていく(出席扱い)、B参加したくなかったら、どいてしまって、授業を観察している(高見の見物)、C参加するけれど、発言したくないときはパスする(しゃべりたくないことはしゃべらない権利の行使)、Dバカになって参加する(非力の自覚)、E批評的に参加しつつ、あとで批判する。最後のEは、体験学習においてはそれを体験してからの話である。そうでないと批判にならない。また、@からCまでの行動は、ネットワーク型社会において求められる「潔い撤退」である可能性がある。
 ここで困るのは、撤退をしながら撤退仲間(ピア)とこの授業の陰口を言い合って満足している態度である。ぼくは、それを「ただのろくでなしの行為」とよんでいる。撤退は自由なのだが、残留者は残留者で自分にとっての意味を見つけてこの授業に参加しているのである。残留者のことがどうしても気になるのなら、その残留者と率直に意見を闘わせればよいではないか。以前、6月中旬という時期に「私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのかわかりません。しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに『変に理解しあってしまう』という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです」と書いてきた学生がいた。個人の事情で欠席していたことはかまわないのだ。しかし、「真剣に」「興味深く」参加している他者について勝手に推測したりする権利にはつながらないはずだ。ぼくは、「この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて『真剣に』受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう」とコメントした。こういう学生の行為を、「潔くない撤退」、または、「ただのろくでなし」とよぶことができるとぼくは考えている。社会教育団体においても、撤退したはずのメンバーや元リーダーのような人が、いつまでも「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみついて、現在の団体運営に干渉をして団体の自主性を損なっている例があるが、これなども「潔くない撤退」なのである。
 「ただのろくでなし」には、もうひとつのタイプがある。途中退出が認められ、実際に何人かがそうしている状況のなかで、また、せっかく授業を聴くのを楽しみにしているのに私語がうるさくて聞きずらいという学生のペーパーを読み上げているのに、なおかつ、おしゃべりばかりしていて退出してくれない学生がいるのだ。あるいは、熱心に受講している学生を冷やかに笑っていてくれればよいのに、それさえもできない。これは、まわりの人への迷惑よりおしゃべり仲間との「つながり」を優先するピアコンセプトの表れであり、かといって、他の学生に迷惑をかけてでもそういう学生の学習から落ちこぼれたくないから退出しておしゃべりを続けることもできないという、非常に惨めで情けない破廉恥なピアコンセプトの表れなのだと考えられる。
 このように考えると、「本当は奇数日(体験学習の日)も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか」と言う学生の言動との質の違いは明白である。人間は、ピアコンセプト(仲間意識)などの自己の内面的要因や現代管理社会による外部からの抑圧などのなかで、他者の目におびえ、潔く参加や撤退ができない「弱い存在」である。すなわち、「ろくでなし」である。しかし、それは、まだましな「ろくでなし」なのであって、そこで葛藤して自己解決に向かう姿は、「ただのろくでなし」とはずいぶん違うのだと思う。「ただのろくでなし」の存在は事実であってもくだらなすぎて小説のネタにもならないが、「ましなろくでなし」の葛藤は小説でも追求しているメインテーマなのであり、人間的真実そのものなのである。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、男)
 私語の話はやめにしていただきたい。せっかく仕事を終えてメシも食わずに教室に駆け込んでくるのに、何回も私語の話などというクダラナイ話で時間を潰している。こんな話で時間を拘束されるのであれば、「これから20分、私語の話をしまーす」と宣言してほしい。その間、寝るなり、学食へ行くなり、有効に時間を使えるではないか。
mito
 ぼく流に、この学生の言いたいことを翻訳すれば、「ただのろくでなしのことなど、そもそも関心がない。そんなやつらのことなどほっておいて、もっと本質に迫る話をしろ」ということだと思う。主体的な学習者の態度として、これでよいと思う(こんな評価は、彼にとっては余計なお世話かもしれないが)。学習者は本質的に「自分のために学習する」のである。自分の学習のために無益であると思えば、彼のように教育側を批判することによって、「メシも食わずに教室に駆け込んできた」自らの学習権を行使すべきである。なお、いずれにせよ、私語の話はmito的授業の初期のころにする話であり、中盤以降はほとんど話題にならないから安心してほしい。
 ほくが私語の話をするのは、ひとつには、おしゃべりする学生の自由を認めたうえで(退出して廊下などでおしゃべりをしてよいことになっている)、自由を欲していて、しかもその自由を認められている自分こそが、他者の自由(学習したい者の学習権)を侵害しているのだという事実を知らせ、「相手が悪い(授業がつまらない)からそのせいでしゃべっているのではなく、おしゃべりしている自分がろくでなしなのだ」という真実に気づかせ、他者や社会のせいにできない状態に追い込むことによって、「ただのろくでなし」の状態でいる人に「自由の恐怖」を味あう機会を提供し、自由の行使の大切さを認識させるためである。
 それでは、ほかの「ましなろくでなし」である人たちにとって、私語に関する話は無益であろうか。普通なら無益なのかもしれない。たった一度しかない人生を、つまらない人の生き方やつまらないことがらとつきあってわざわざ無駄にすることはないからである。しかし、この授業は「教育学」の一環なのである。現代人の主体性獲得への援助者としての力量を身につけるためには、この「ただのろくでなし」の問題を本質的にどうとらえ、どう対処すべきかということが重要になる。援助者にとって大切なのは、「ただのろくでなし」に対する「否定」ではなく、「共感的理解」である(ちなみにけっして同感したり同情したりする必要はない)。「ただの」か「ましな」かは違っても、同じ「ろくでなし」の部分を共有しているのだから、理論的には共感は可能なのである。とくに、自らの「個の深み」や主体性を発揮するときの阻害要因としてのピアコンセプトについては、「ましなろくでなし」の人にとっても思い当たる節が多いのではないだろうか。


● 社会人入学の本質的な意味
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)
 大学生活3年目にして異質の先生に出会い、教室の雰囲気と学生のレポート(出席ペーパー)の内容にカルチャーショックを受け、後席の若い子に「反応の鈍い私はついてゆけそうにない」と話しました。事実、呆然自失の状態でした。その子は、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれました。
 私の年代の人間は、全力投球型の馬車馬的タイプが多いのかもしれません。そして、あらためて生涯学習とは何なのか、大学に何を求めているのかを考えさせられました。歳をとると頑固になるといいますが、気づかずに私は自分で垣根を作り、囲いのなかで自分の殻に閉じこもっていたのですね。
 学ぶということは、新しい自分を発見することにほかならないことで、異質と感じる心は動脈硬化の始まりであることをあらためて知らされました。若々しい空気、自由な雰囲気に触れることで、私のなかの何かが変わればと思います。私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せです。
 お願いがあります。もう少しゆっくりお話ししていただきたいことと、英語より日本語を少し多めに使っていただけたらありがたいのですが。(以下略)
mito
 これは自宅で書かれて翌週にマル秘で提出されたペーパーを、ぼくが本人に頼んで紹介させてもらったものである。まず、早口であることと専門用語の濫用についておわびしたい。これは、ぼくのある意味での「詰め込み主義」と、「わかりやすい言葉で説明できない力量不足」のせいである。ほかの学生からもそういう苦情は受けており、改善の努力をしたい。
 そして、この社会人入学の学生の不安に対して、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれた学生にもお礼を言いたい。ぼくも心からこの人にそうお願いしたい。そして、早口などについて謝りたい。「呆然自失の状態」から「私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せ」と書いてくださっていることにぼくは救われた思いである。一人ひとりが「学習しなければならない」から「〜を学習したい」という本当の学習主体に内面から変わっていくことこそ、学歴偏重社会から生涯学習社会への変革の真のエネルギーになるのであろう。
 企業研修を受け入れている大学のある教育系の教授に、ぼくは、「企業のほうが大学より教育ノウハウをもっていると思うんですけど、なぜそういう企業が教育学を学ばせるためにわざわざ社員を大学に派遣するんでしょうね」という失礼な質問をしたことがある。その教授は、「哲学を学ぶためでしょう」と即答した。社会人入学の本質的な意味は、そこにあるのではないか。そして、そういう大学で学ぶべき「哲学」とは、けっして実社会からかけ離れたものではなく、むしろ現代社会が切実に求めている学問といえるのである。


● スクエアヘッドを乗り越えて、いい加減さとMAZEの知的水平空間を
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)
 先生は出席ペーパーの批判に丁寧に答えていますが、そのなかに偽善はありませんか。こういう考え方もできるし、あれもいいんじゃないですか、こういうのもいいんじゃないですか、と話す。一体全体何が本当に先生自身はいいと思っているんですか。mito的授業といいながら、形式はそうですが、内容が本当に先生らしいのでしょうか。先生は何か私たちに訴えていますか。まだ私には何も伝わってきません。
mito
 ぼくは、この世の中に「間違っている人」というのはいないのではないかと思っている。今まで、たくさんの出席ペーパーを読んできて、「あっ、とにかくこれは間違っているぞ」と思ったことがないのだ。もちろん、違う枠組みもありうるではないかという「批評」や「批判」はぼくの思考のなかにも起こるし、それは授業でもぶつけているはずだ(エンカウンターと呼ぶことができる)。しかし、同時に、相手には相手がそう考える根拠や相手なりの事情と理由があるのだと思ってしまう。その事情と理由の具体的な内容はわからないけれど、「何かがある」ということは確かに感じるのだ。根拠も何もなしに非常識なことを考えている人などいないのではないか。そう思うと、「この人の言っていることは、きっとこういうことなのかな」という気持ちが自然に芽生えてくる。そして、その人の文章から、その人の思考の真実のうちのごく限られた一部の断片が見えてくる。問題は、その人がまるっきり根拠のない心にもないウソ(虚偽)を書いている場合であろうが、4年間のすべてのペーパーのなかで、まったくのウソだと感じたものは一枚もないのだ(まったくのウソであった場合は、逆の真実が読み取れるかもしれない)。
 つぎに、「ぼくが訴えたいことは何か」ということについてであるが、このペーパーに対してであれば、「いい加減はよい加減」と「MAZE」ということになる。熱い風呂や水風呂の良さを主張する人がいてもよいけれど、そのどちらでもなく「よい加減」を見分ける力量も今後の多様でファジーな価値の交錯する社会においては必要である。一所懸命になりすぎて一つの所にはまり込んで結局は自らが閉塞してしまうのではなく、「いい加減」に渡り歩く力が必要なのである。MAZEとは、ミスマッチでアバウトでジグザクでイージーゴーイングな知の迷路をさまようことの楽しさを表わすぼくの造語だが、これについては「生涯学習か・く・ろ・ん」に書いたとおりである。そして、「こ・こ・ろ生涯学習」では、L.ベラックの言葉を引き、物事の白黒をはっきりさせないとイライラする権威主義的な「スクエアヘッド」から、曖昧さに対する許容度が大きい柔軟思考の「エッグヘッド」への転換を主張している。これも参考にしていただきたい。

● 知的水平空間と貧富の差
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、男)
 今までの授業を聴いて、たしかに先生の授業は面白いというか、興味がわくというか、まあ印象はよいようです。でも、結局、何が残るのかよくわかりません。今回はけっこう良かったと思っても、そのうち、あれっ、何をやったのかと、引き潮のように忘れてしまうタイプの授業だと思えてきました。でも、そのうち、出席していれば何かは身につくでしょう。とりあえず来週は出席します。でも、てきとうにサボタージュもする予定。五月病がはやるこの季節ですから。
 なんでTEXTは自著でありながら買わせるのでしょうか。そんなに印税がほしい? 私たちは一授業に数万円払っているのに、TEXTを持っているほうがトクな授業をするのはやめてほしい。この授業だけではないけれど。
mito
 この人が「書き言葉メディア」としての本からは学ぶものがないと考えていて教科書を読まないのなら、それはこの人の自由な個人的判断に基づくものであり、ぼくの「話し言葉メディア」としての授業から学べるものを学びとればよいだけのことである。教科書をもっている人がトクをするからといって文句をいう筋合いのものでもないだろう。ぼくのほうも、どうしても買ってほしいと懇願したり、買わないと単位を出さないなどと脅迫したりするつもりはさらさらない。
 問題は、この人がお金に余裕がないために教科書を買いたくても買えないという場合である。知的水平空間も、現代社会の貧富の格差の影響を受けるのである。そのことについて、ぼくは、「教科書をもっていない人のために、ぼくは実物投影機やパソコンで必要箇所を映し出したりするけれど、そういうサービスには(見ずらいなどの)限界がある。しかし、学生が教科書を買えないことは、教師のぼくの責任ではない。余計なお世話かもしれないが、できれば、無理して教科書を買うか、先輩から安く譲ってもらうか、それができなければ、授業の終了後に書店で立ち読みするなど、『書き言葉メディア』でのフォローを、『話し言葉メディア』の授業に対してしておいたほうがよい。それは、より効果的な学習をしたほうが学習者にとってトクだからである」といったのである。教科書による学習の相乗効果が大きい場合、授業料や受講に費やすお金や時間を考えれば、教科書購入に関わる出費は各人が何とかしたほうがよい課題だと思われる。実際、「引き潮のように忘れてしまうタイプ」というのは、この人にとって、mito的授業の特徴であると同時に、「書き言葉メディア」でのフォローをしないこの人の学習方法自体の特徴でもあるのではないか。そういう学習方法を自らが選んだのなら、逆に、「引き潮のように忘れてしまう」のもよしとする潔さが必要なのではないか。
 なお、なぜ「自著でありながら」教科書に指定したかという問いには、「自著であるからこそ」教科書に指定したと答えておきたい。高等教育においての教授活動とは、教員の自己の研究の現在の到達段階の告白(profess )だからである。


● 知的水平空間のつくり方
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、女)
 今日の授業はこじつけでした。御自身でもそうおっしゃっていたようですが。夫婦や性のVTRが、どう大人の指導につながるのでしょう。まず、(mito注・今回の教育目標の)(3)大人に「幸福を配る」とは何ですか。自分の勝手な思いあがりを見つけるんじゃなかったんですか。先生の授業は社会教育のために私たちに自己発見させようとするものだと解釈していましたが、最近わかりません。今日の夫婦のVTRの「相手」と「自分」を大人という共通点で学習者にあてはめるんでしょうか。大人に「幸福を配る」自分とは、その人たちにとって子どもととらえられてしまう自分なのですか。どこに社会教育としての自分の存在を位置するかわからなくなります。それくらい考えるべきですか。いや、先生がヘタです。学生にわかりやすい材料を使っているつもりかもしれないけど、ただ先生が使いたかっただけ。性のビデオとか、先生は何を使ってもいい権利をもっているわけですから。使ってみてから批判されるまで。少なくとも、社会教育としてのVTRとのとっかかりくらい説明してみなさい。VTRの内容だけやりたいのではと言われたくないのなら。それは個人によって得るものが別、などと逃げるな。
 少なくとも私は、社会教育の知識をこの授業で得ることを要求している。方法の自由が、先生には与えられているのですよ。私だって、先生の授業において、余談のような、人生について考えられる話は面白く聞いている。しかし、それは「得した」という程度のものだ。もしかして、VTRと社会教育とは、ひと〜〜つも関りがなかったのかしら。もしそうなら、「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。
 ヒハンする前に、先生の答を正答としてしまう人もいる。先生は問題を提起した以上、答える義務はあるのでしょうが、それを選ぶかどうかは、その人次第ですものね。私は先生にも変わってほしい。その押しつけがましさから抜け出したいと感じてしまうときもある。影響を与える人ならば、影響を与えられる人になれ。そのためのペーパーだとも思い、感心もしますが(いや、自分のやりたいこと[意図すること]のためということもあるでしょう)、そのすべてに答えようとする姿勢は、悩んでしまう人と共通するものがあるのでしょうか。先生は悩みそうもない。それで、悩む人にはカリスマならぬ変なカリスマ(妥当な言葉が見つからない)になるおそれだってあると思うよ。気になる所だけふれられ、ふれたくない所はふれない人になれば楽でしょうが、そんな人間は人生の発達・成長において困るし・・・。
 まとまらないけれど、わかりますか、伝えたいこと。また書きます。
 (mito注・授業で)読んでも(mito注・読み上げても)いいけど、勝手に(mito注・実物投影機で)人の字を出さないでください(mito注・「人の字=名前と同じ」という注釈あり)。6/15によく考えて読んでください。
 先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は。

mito
 このペーパーは、毒にも薬にもならない社交的な仮面の会話を捨てて、mito的授業の本質を否定的側面からずばりと突いたものだと思う。それだけに、ぼくはかなり動揺してしまった。このペーパーの出たその日のすぐあとの授業で、ほかの学生からさっそく「早く内部葛藤を解決して、いつもの自信にあふれた授業に戻ってください」と注文を受けたり、あるいは、数日後のS大の授業で話題にしたときも、「今日、出席ペーパーのことを話してるみとちゃん、すごいこわいとか思っちゃった。それじゃあ、受けて立ってるんじゃなくて、ただその女の人に文句を言ってるだけだよ。それじゃあ、みとちゃんのこと、よくわかんないと思うよ」と書かれたりしてしまった。かなり冷静を装おうと努力はしたのだが、ぼくの内部の自信喪失がマイナスに反映してはいけない授業という公的な場面で、実際にはかなり反映してしまったのだ。そのことで、そのときの授業を受けた学生にも不快な感情を与えてしまったと思う。しかし、それより、「教師というのは、劣等感を刺激される職業である」と聞いたことがあるが、「ああ、このことなのかもしれない」という気づきがぼく自身には大きかった。こういう場面では、教師は、学生と対等な立場なのではなく、学生の踏み台として利用されるべき立場なのである。「他人が入り込むべきじゃない所までペーパー書いた人が入り込んじゃっているから、途中から読むのがいやになってしまった」というS大学生のペーパーもあったとおり、たしかに、ふつうの対等な人間関係であったら「あなたとは出会わなかったことにしよう」とぼくはこの人にいってもよいのだろう。そして、自己抑制がきかずにこのようにしてすぐ葛藤してしまうぼくが、「暴力とセックス以外の申し入れはすべて受けて立つ」と宣言していること自体、無謀な話なのかもしれない。
 しかし、この学生は「また書きます」といってくれている。これは、ぼくにとっては、細いけれども一本の糸がまだつながっているのだという救いを感じさせてくれる文章であった。知的水平空間における批判は相手への基本的信頼に基づく肯定的ストロークの一種だ、とぼくは前からいっているが、それはぼくの強がりにしかすぎないのかなとも思うときもあるが、やはり知的水平空間における他者批判は、相手の存在の否定とは異なる大きな可能性をもっていると思う。また、批判の刃(やいば)はそれが研ぎ澄まされれば、自然に自己にも向いていくものなのである。ペーパーによるこれらの批判をきちんと受けとめることによって(当然、それは批判に無原則的に同調することではない)、「本人の主体性の獲得を他者が援助できるのか」という教育の本質的難問(アポリア)に挑んでいくのもなかなか意味のあることではないかとも思う。
 S大の男子学生が、この批判のペーパーやその他のmito的授業への共感や批判のペーパーとぼくのコメントを読んで、「教師との信頼関係も、それが濃密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに拘泥しているどころではない」とし、出席ペーパーシステムに対しても、「出席ペーパーは感想であってもよいことになっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達のために感情を吐き出すためのものではないと考える。感情の吐露に安寧するのは、ストローク(人は信頼しうるものだとする試み)においては有効であろうが、自らが求め学んでいく学生の時期に休息を得てしまって、本当に先々個人という主義を担って生きていかれるのかと危惧の念を抱く」と書いてきた。授業への共感を書くことも、批判を書くことも、ともに感情を表現することにつながっており、それは依存を助長し、主体的な学習をむしろ阻害してしまうのではないか、ということであろう。教育のアポリアとはこのことである。しかし、ぼくは、こう考える。たとえばこの批判のペーパーを書いた学生は、これを書いたことによって今までの彼女の主体性を減ずることになっただろうか。そんなことはないだろう。ゼロかプラスのどちらかであろう。また、批判のペーパーのやりとりを見守っているほかの学生の学習にとっては、「漁夫の利」もあるだろう。それなら教師は教育のアポリアにチャレンジしてもよいのではないか。そして、このアポリアにおいて重要とされる現代社会における個人の主体性の獲得のためにもっとも必要でかつ今は欠けていることとして、ぼくは、他者への関心と、自己と他者への基本的信頼と、他者への共感的理解の3つを考えているのである(これは、他者との同一化や協調とは異なる。むしろ、それらとはまったく逆といっていい)。
 それでは、彼女の批判にひとつずつ対応していきたい。
 ぼくが自分で「こじつけ」といったのは、むしろ「社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識」についてである。ぼくにとっての本命はあくまでもVTR「教えます、心を伝える会話術」である。上映時間は15分であった。夫に自分の心を伝えられなかった妻や、妻を「おのれの妻」としか認知していなかった夫が、地域活動や社会教育(父親学級)での対等な人間関係のなかで業務連絡ではない「夫婦の会話」ができるようになったという映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。しかし、そういうふうには学ばないという学生がいてもかまわない。「得したという程度のもの」でも、それを意味あるものと受けとめる学生がいたっていいだろう。
 この批判のペーパーを読んで、4年越しにぼくの授業に出席しているT大のある女子学生が次のように書いてきた。「mitoちゃんの持ってくるVTRはかならずしもわかりやすいものではないと思う。むしろむずかしいのではないかと思うこともある。(中略)VTRのなかの主体性をなくしてしまっている(そうでない場合もあるけれど)人の状況を見ながら、どんなことが契機になって主体性をとりもどすことができるのかということを考えることも意義があると思っている。VTRのなかの人びとが自分とはまったく考え方が違うとしたら、私はこの人たちの考え方のどの部分は共感ができて、どの部分に反発を感じるのかと考えることによって、いまの自分自身がどんな価値観をもっているのかを知る機会にもなると思う。他人の主体性獲得を援助するためには、援助する側の主体性も大切なのはもちろんのことだと思うし、いろんな人のいろんな事情やちょっとした弱さをそっとわかってあげる(変な言い方)やさしさ(?)も大切ではないかなと思う」。
 これに対して、ミニ知識のほうは、このときは「ペダゴジーとアンドラゴジーとの違い」についてであり、これは、ぼくでなくても、他の研究者も注目しているところである。むしろ、これを深く研究している研究者の書いた本を読んだほうがよいだろう。ミニ知識は、学生が教科書を出発点とするなどして書き言葉メディアから学べばよいことであり、ぼくがしゃべらなくてもよいことかもしれない。ただ、彼女に限らず、「社会教育の知識を学びたい」という学生も多いので、折り合いをつける形で、さらっと、ただしぼくの評論をまじえて説明しただけなのである。だから、時間がない場合は、ミニ知識の解説を省略して項目の紹介だけにとどめることもぼくの授業では多い。
 「大人に幸福を配る」ためには、「自分の勝手な思いあがりを見つけること」(ぼくの言葉でいうと「援助者側の無知と非力の自覚」)が最低必要条件になる。「大人に幸福を配るとき」も「子どもに幸福を配るとき」も、同様に援助者が「上位の大人でありたい」、「上位の大人でなければならない」という「思いあがり」を捨てることが必要になると思う。それが、社会教育(の援助者)の存在位置である。なお、このペーパーを読んで、ひとつ、ぼくの説明もれに気づいた。「配る」という言葉は、役所や社会教育施設に座り込んでしまって学習者を待っている社会教育職員の受動的な姿勢にたいするぼくなりの批判を表わしている。このあたりは、今までずっと説明を忘れていたぼくのミスである。ぼくがそれに気づいたのは、この批判のペーパーのおかげであり、また、他の学生にとっては「漁夫の利」といったところであろう。
 性のビデオなど、ぼくは何を使ってもいい権利(教育権)をもっているわけだが、それを行使するにあたって、ぼく自身が教師としての自分に与えられた役割と自分なりの教育意図を確認するとともに、「批判されるまでは、使ってみる」という姿勢も学生に示している。また、学生から批判されても、ぼく自身がそのVTRを使う自分の教育意図を肯定できるのなら、使い続けることだってあるだろう。しかし、教師が「学生からの批判を受けて立つ」以上に学生(不快を感じている数%の学生)に「配慮」をするとしたら、いったい何を配慮しろというのか。「社会教育としてのVTRとのとっかかり」を説明することの要求はわからなくはないが、彼女はそれに「少なくとも」という言葉をつけているのである。また、「社会教育にどう関りがあるか」ということについても、ぼくが説明したほうがよい範疇もあるし、学生が自分で考えたほうがよい範疇もある。そして、「個人によって得るものが別」というのは、ぼくが逃げのために使う言葉でもあるかもしれないが、事実を表わした言葉でもある。援助者側の価値観とは違う多様な受けとめ方が学習者側に存在してよいではないか。ぼくは「VTRの内容だけやりたいのでは」といわれたっていいのである。なぜなら、そういいたい人は、「出席ペーパー」や「ちょっと待った」や「パフォーマンスタイム」でそういう批判を行う自由をぼくは保障しているからである。今回だって、そういわれたから、このVTRを選択した教育意図を(再度)説明したではないか。学生からの批判や質問にきちんと答えていく双方向性の確保さえ行なえれば、教師はそんなに完璧な計画を立てたり説明をしたりしなくても、あるいは完璧であったかどうか非生産的にくよくよしなくても、高等教育や社会教育ではそれなりに役割が果たせるのだと思う。知的水平空間は、援助者と学習者の協働によってつくりだされるものなのである。
 教育学には人文系としての側面があると思う。「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである。だとすれば、mito的授業という知的水平空間などを利用しながら、学習者が主体的に学習するしかない。
 ぼくだけが、「大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場」ではない。げんに彼女もこのように問題を提起しているし、そのほか、パフォーマンスタイムを使って(その使用時間についてはぼくと相談のうえだが)、学生は個人の自分なりの問題を提起することだってできるのだ。ぼくの問題選択に不満な人がいるのなら、その人は、ぼくの「立場」に期待するのではなく、自分に与えられた批判の自由をこそ使いこなしてほしい。
 mito的授業について「人を崩していくやり方」と書かれているが、崩れるのを恐れなければいけないほどの素晴らしい枠組みをすでに備えてしまっている人などいるのだろうか。また、ぼくは、教育の役割は概念崩しであるとする論にはやや疑問も表明している。どちらかというと、ぼくの表現は、学習者本人の枠組みの変化への「援助」である。
 ぼくの授業がつらいという人はたしかにいる。ぼくはそういう人には「無理しないで元気になったらおいでよ」といっている。それ以上のことをいおうとしたら、相手の人生をぼくが背負込んでしまおうとすることと同じになってしまう。学習者が、自分ではなく、ほかの学習者のなかから、「ヒハンができなくて崩れていってしまう人」や「落ちる人」や「教師に信頼度が高くなる人」や「そーだんにきたりする人」や「教師の答を正答としてしまう人」が生まれることを心配することも、同様の「背負込み」の行為だと考える。当の学生にとっては余計なお世話なのではないか。たとえばだれかに相談するという行為は、その人にとっては問題解決に向かう主体的な姿である場合だって多い。「自分のために学ぶ」のであるから、一般化して論じようとせずに、自分の主体的な学習にとってぼくの授業がどう無益であるかを訴えたほうがいいと思う。
 「先生にも変わってほしい」とあるが、ぼくがどう変わるかは、ぼくが決めることだ。そして、学習者がどう変わるかは、学習者が決めることだ。たしかにぼくは、「影響を与える人」としての教師の立場にいると思う。しかし、情報化社会において情報に対する主体性としての情報リテラシーが求められるように、マスプロの大衆化した高等教育を受けている学生には、「主体的な授業の受け方」が求められているのである。
 出席ペーパーには、「比べられるために書く」ことばかりの被抑圧体験から、「書きたいことを書く」という解放体験への転換という「教育意図」が明確に存在している。しかし、彼女の「自分のやりたいこと、意図することのため」というぼくへの分析には、そのことへの不快感が表明されているのであろう。現代学生には、どうも教師の学生に対する「教育意図」が存在すること自体に抵抗感があるようだ。そういう抵抗感も大切だろうが、それを「教育意図」の内容に対する抵抗感に止揚することが必要なのではないか。また、大学教員には研究という役割もあり、ペーパーを研究成果に結びつけるというほかの「意図」もぼくにはある。しかし、そうだとしても、学生がそれに目くじらをたてることもないだろうと思うのだが、どうだろうか。
 彼女がほかの一部の学生を「悩んでしまう人」とレッテルを貼っていることに対しては異議を申し立てておきたい。彼女はそういうレッテルを貼って、「悩んでしまう人」と共感的な出会いをもつことから逃避しようとしているといえるのではないか。「先生は悩みそうもない」という言葉に対しては、「ぼくはそのことについては今は話したくない」という応じ方がぼくにできる最善の対応であると考えたが、どうだろうか。
 カリスマ性については、ぼくは、「授業で退屈させる教師」のつぎに悪い教師像として、「学習者の依存的学習を増大させる教師」という規定をしてきただけに、かなり考え込んでしまった。そこで、自信の回復方法として、「信頼している人たちに聞いてまわる」という手段があるのだが、それを実行した。フリースペースで学生にこのことを聞いてみたのだ。すると、「カリスマ性がたしかにある」というのである。「でも、尊敬を感じてしまうのだから、いい意味でのカリスマじゃないですか」という。ちょっと面映かったが、それどころの話ではない。理論的には、教育のアポリアのうちの否定的側面の証明になってしまうではないか。尊敬されているから嬉しいと教師には感じられも、学習者にとっては主体性の獲得の阻害要因になってしまう。しかし、もう一人の学生がこういった。「mitoちゃんにはたしかにカリスマ性を感じるけど、依存させてくれないカリスマだよね」。これを聞いて、「そうだ、大丈夫だ」とぼくは再確認できた。
 たとえば、今まででもぼくは、学生が「そーだんにきたり」しても、「ぼくはカウンセラーとしての専門性をもっているわけではないんだから、カウンセリングはできないよ」と「自制」を表明している。そして、「社交的な会話ではない真実の話を聴けることは、ぼくにとっても興味深いから、ぼくのために聴いている」という姿勢を示しているし、学生とは異なるぼくの枠組みを伝えたいとぼく自身が思ったときは、遠慮なくエンカウンターしている。そういうとき、ぼくはとても充実している。ぼくにとっては、学生の相談に乗ることは、水平な出会いの至福が感じられるかなり大きな楽しみなのである。だいたいは、「ああ、この人もこの人なりの理由と事情をもって生きているんだなあ」という実感をしみじみと味わう結果になる。だから、カリスマなのではなく、「相互依存」に近いのかもしれない。一回限りの人生のなかで、人と人とが立場や身分を越えて「同じ人間」という感覚を確かめながら、本当の気持ちが出会うことなど、何回あるのだろうか。また、ぼくは、ほかの学生をシャットアウトして個人の相談にのるということは原則的にはしていない。フリースペースなどで相談を受け、そこにいる人たちで話に加わりたい人がいれば自由に加わるという社会教育的な方式なのである。そして、ぼくが専門性をいかして行なっている相談者に役立つための社会教育的な情報提供としては、「おたがいのあるがままを尊重しあって、開きたい心を安心して開くことができ、いつ行っても自分を両手を広げて歓迎してくれるサンマ」(フリースペースや青年学級)の意義と所在の紹介が多い。
 教師は、このようにして、カリスマにならないままで学習者からの信頼を獲得するということができるのではないか。だとすれば、教育のアポリアは肯定的な解決の方向に一歩近づいたと解釈できるのである。
 実物投影機で人の字を出すのは、ほかの学生の学習の便宜のためである。「人の字=名前と同じ」というのは、ここでそんなに一般化して断じるほどのことでもないだろう。彼女が「私は自分の名前がほかの学生に知られてしまう危険を感じるので映さないでください」と書いておけばいいだけの話なのである。いや、投影拒否の理由さえもほんとうは書かなくてもよい。堂々と「禁投影」というマークをつけておけばよいのだ。逆に「自分に著作権があるのだから氏名を公表せよ」(著作権の一部としての「氏名表示権」)と要請する人がいてもよいだろう。「非公開」でもかまわない。自分の著作物に限っては、すべて自分の管理下に置いていいのである。なお、投稿などの場合には、「自分の文章の改竄はするな」とはいえるが、「自分の文章を必ず公開(採用)せよ」とはいえない。しかし、mito的授業においては、「公開せよ」と書いてよい。さらに、それに、「禁コメント」とつけ加えてもよい。これらは知的水平空間を実現するためという特殊な事情によるものである。
 「6/15によく考えて読んでください」の期日指定の部分については、ぼくの事情からいえば、授業準備の能率化のためには少し困るところがあるが(即決主義)、このペーパーの場合は、内容が重大であるだけに、ぼくはその要請を受け入れる必要があるだろう。しかし、「よく考えて」という言葉は筆者として読者に直接的にいえる言葉ではないと思う。人との対等な関り合いのなかでは、「余計なお世話」に類する言葉であろう。筆者は自分の説が「よく考えて」受けとめられるように自らが一生懸命書くということ以上のことはできないはずである。実際には、ぼくは、この批判のペーパーを数十回繰り返し読んでいるが、それは、ぼくが何回も読んでよく考えたい内容だったからであり、「よく考えて読んでください」といわれたからではない。何を書くかは彼女の自由だし、それを読んでよく考えるかどうかはぼくの自由だ。
 「先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は」というのは、「こんな批判は数多く受けているはずなのに、そういう批判を聞いているのにも関わらず続ける根拠は」という意味だと思う。ぼくは、いまの教育に欠けていることは、学習者に管理や保護を与えることではなく、自由を与えてそれに恐怖する機会を提供することだと考えている。そのことから(批判の)自由を行使する主体性が学習者自身のなかに育つだろう。たとえば、自分が批判したからといって社会がそれにあわせて変わってくれるとは限らないのだ。批判の自由が保障されて、保護され管理されてきた自分にはその自由がなかなかやっかいなものだという現実をまのあたりにして戸惑い、そこから気を取り直して、その自由を使って他者に通じるように自己の思考を表現できるようになることこそ、今後のネットワーク型社会が現代人に求めている主体性なのだと思う。しかし、彼女のこの言葉を受けて、ぼくのこの問題に対する昨年までの到達点を紹介したいという気になった。そこで、このあと、紙量が膨大になるが、それを再掲載する。
 こういうペーパーに葛藤しながらなんとか対応しようと燃えている自分に気づくとき、ぼくはぼくの自我がなんとかかんとかして拡大しつつあるのを実感することができる(枠組みが変わらないまま関係性をその枠組みのなかに詰め込む自己肥大かもしれないという危険は感じるが)。批判的ペーパーとの出会いは、ぼくにとって意味ある他者との意味ある出会いの重要なひとつなのであろう。そういう意味では、最大の「漁夫の利」を得たのはぼく自身なのかもしれない。


● どこまでも知りたい=事実よりも真実を追求する生涯学習
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

駒田信二『「藤野先生」における真実』(『ユリイカ』昭和五十一年四月号)より

 今では(魯迅の)「藤野先生」にフィクションの部分の多いことは広く知られている事実である。

 わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。

 「藤野先生」のはじめのこの部分の、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年の明治三十八年四月に開設されたということ、また、当時、仙台医学専門学校は第二高等学校と同じ構内にあり、その第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているということが、半沢正二郎氏を会長とする「魯迅の記録を調べる会」によって明らかにされている。
 しかし、「藤野先生」に於て「・・・日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」と書いたこと、「中国の学生はまだ誰もいなかった」と書いたことは、事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。
 幻燈事件も、事実としては「藤野先生」や『吶喊』の自序に書かれているとおりではなかったかもしれない。それを虚構と考えてみることは、尾崎氏のいうとおり、より深く当時の魯迅に迫る道の一つであろう。「藤野先生」の他の部分についても、同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。

mito

 起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして-練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、「どこまでも知りたい」という自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、その「どこまでも知りたい」という場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」であるということである。事実の積み重ねに終わるのでは、駒田のいう「深い感動」もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかでいわゆる「社会教育の知識」が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」というワンダーランドとしての学習が疎外されているからである。
 もちろん、枠組みは変えないままその枠組みに知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じるという人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識が豊富になった人を見るときのような、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいと思うが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。
 ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だって多いのだ。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。
 魯迅の例でいえば、「日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」という言語表現には、「当時は日暮里駅などできていなかった」という事実しか見えない人のつまらない詮索を越えた魯迅の思考のなかにある真実が隠されているのである。すなわち、その真実とは、日本人から抑圧され日本で銃殺されようとしている中国人を、同じ抑圧を受けているはずの中国人がのんきに見物しているという場面を見つめる魯迅の思考のなかにある。ただし、これは虚偽に対置される虚構、すなわち「小説的真実」についての話ではある。
 さて、さきに「大学生のための進路指導のあり方(その1)」において、ぼくは、「mito的授業は、本当の夢の方への支援だと思ってほしい。学生の就職活動に対する大学学生部の役割は求人情報の提供などにあると思うが、教育的専門職員である大学教員の役割は、就職活動のプロセスのなかでの自己確立への教育的援助にあると思う」と書いた。事実と真実は異なるという今回の視点から、これをもう少し深めてみたい。
 事実は小説よりも奇なり、という。一生懸命、採用試験の勉強をして、合格する実力(真実)を身につけたとしても、そういう人が落ちて、入るはずのない人がたまたま受かってしまうこと(事実)だってありうる。しかし、自分は、どの瞬間に自分をほめてやるべきなのだろうか。それは、挑戦可能なチャンスを見つけてきて、一生懸命に採用試験の準備を重ね、試験当日は「もしかしたら落ちるかもしれない」という恐怖に打ち勝って試験場に行き、そして、最後の試験の最後のチャイムが鳴ったときなのではないか。けっして、試験終了後、しばらく過ぎてから、合格通知がきたときにほめ、不合格だった場合はほめないということではないと思う。合格、不合格は「小説よりも奇なり」の事実にすぎないからである。ここでも、ラッキー、アンラッキーという事実によって右往左往させられてしまう主観的な態度から、自分の人生のうち自己決定できる部分を自己決定して生きているのかという真実の部分を重視する客観的な態度に転換することが求められる。
 つぎに、採用試験に合格する実力を身につけたかという真実に属する部分と、実際の合格、不合格の結果という事実に属する部分との関係について、つぎの4つのケースを想定してより具体的に考察してみたい。
 真実        事実
  (合格する実力)  (試験結果)
T ○         ○
U ○         ×
V ×         ○
W ×         ×
 Tについては問題ないだろう。Wについても、結果をみて初めて落胆する人もいるかもしれないが、それはその人にとっては社会のもつ「真実」の側面に関するよい学習機会になったということにすぎない。実際、「落ちるべくして落ちた」という場合には、「自分は敗北主義に逃げることなく与えられたチャンスに向かってチャレンジできた」という充実感が、満足と自信(個人が社会に生きるにあたって必要な厚かましさ)につながることが多いようだ。
 Vについては最初はぼくは問題ないと思っていたのだが、S大の男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたので、ぼくも認識を新たにした。つまり、採用後にサービス対象や仕事仲間に迷惑をかけ続けることになり、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、この話をしたら、他の学生が、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達にもうしわけなくて会うことができなくなる」という。このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまったのだ。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決める非主体的な態度(敗北主義)としてぼくは批判していたが、どうもそれだけではなく、現代青年のもつそれなりの繊細な深みもあると思われた。
 そこで、Vについてのぼくの意見をまとめておこう。もし採用試験に「はからずも」(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで「正当な劣等感や罪悪感」(真実)をもつことは本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた能力を発揮できるようになるかもしれない。生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習(リカレント)を社会的活動に入ってから継続できる人なのかどうかのほうが重要になるからである。思うに、これは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということの表れなのである。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その持ち味を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうる。
 最後にUについてである。ここで、ぼくは、今まで述べてきた「真実=合格する実力」という図式を否定しなければならなくなる。はたして、合格する実力を身につけることは真実に属することがらなのであろうか。現在の採用試験の評価基準は、採用後の仕事に必要な資質と能力を客観的に測りうるものになっているのか。そうなっているといえる人は、企業の採用担当者であっても、まずいないであろう。企業としては本人の貢献能力を正当に評価するための必死の努力は行なっているだろうが、評価の適正化そのものが未知の課題なのである。しかしながら、就職するためには、そういう社会から自分に与えられた不十分なチャンスを自分としてはどう活かしきるか、戦術を立てて臨むしかないだろう。つまり、合格する実力を身につけること自体は、真実(就職による自己実現そのもの)に属することではなく、事実(就職のための作戦)に属することなのである。
 この点について、もう少し端的にいえば、一つひとつの採用試験の合否の結果は、ちっぽけな事実にすぎないということである。もちろん、少なくとも本人の「実生活」(事実)に対してはかなりの影響を与えるものではあるが、その影響がプラスかマイナスかは、じつは断言できないものなのである。私たちは、いろいろな情報を得て「ここがいいだろう」と予測してそこを目指しているのにすぎないのである。「事実は小説よりも奇なり」であるから、親が、学校が、友達が、社会が、そして自分が「いい」と判断している就職先であっても、実際に入ってみたらつまらなかったなどという「事件」は当たり前のように世間で起こっている。たとえば、いい教育をやりたいという志から晴れて教員になり、初めて配置されたところの学校が、そういう教育をやらせてくれない所だったなどという「悲劇」はごく普通に起こっている。そうなる危険性を覚悟して、そのうえでどう自分の志を社会適応させた形で実現するかということが、大人になる、社会に出て働く、自己実現するということなのである。合否の事実がプラスになるかマイナスになるかは、わからないことだ。「人間万事塞翁が馬」(人の世は禍福の定めがなくて、災いが福に変わり、福が災いとなるものであるとのたとえ)なのであり、ラッキー、アンラッキーという事実に自分の内面まで振り回されている姿は、少し客観視してみれば滑稽なことがわかるだろう。それがわかっていても一喜一憂してしまう自分を、もう一人の自分がそれを見ていて嗤ってやるのが、この場合の自己の客観視(自己認知)なのである。
 それでは、「受かるべくして落ちた人」の真実とは何だったのかについて、ぼくの考えを述べてみたい。自分が今は何を求めて生きているのか、これについて社会のさまざまな事実に惑わされない何か(主我)があるのなら、少なくとも今は自分がそれを求めていることだけは、自分にとっての真実として確信できるのではないかと思う。それが真実なのである。だから、「安定した生活を送るために大企業にぶら下がれればよいのだ」と思っているのなら、それもひとつの真実なのだろう。しかし、それだけでは不満を感じたり、潔く自己受容できないとしたら、それは社会が悪い、アンラッキーなどという問題なのではなく、自分が今は何を求めて生きているのか、本当の自分の欲求に気づいていないという自己認知の欠如の問題なのである。
 「受かるべくして落ちた人」のほとんどは、合格する実力をそれだけ蓄えることのできたエネルギー源として、ある社会的な役割を遂行したいという欲求をもっているのだと思われる。じつは、その社会的役割遂行の欲求こそが、その人にとっての真実なのではないか。その人は、この欲求を自己認知する必要がある。それは本当の意味での自信(自分への信頼)をもつことともいえる。
 たとえば、教師になりたいという人は、きっと「いい教育をしたい」という欲求があるのだろう。だから、「教育公務員特例法」に基づく給料をもらいながらその欲求を実現する方策として、教員採用試験を受けるのであろう。それは教師になることを第一希望にする根拠としてはかなり妥当であるといえる。ただし、「人間万事塞翁が馬」であることは受容しておいたほうがよい。教員が学校に配置されるにあたって、校長の指名などはできないのである。しかし、その人の第二希望、第三希望は、どうなっているのか。受験者側には受験の自由が与えられているけれど、反面、採用者側には選別の自由が与えられているのである。そうだとすれば、受験者側が自分の就職先を勝手に一つに絞りこんでしまうのは、社会のなかの自己の位置という事実を客観視(自己認知)していないことの表れであるといえる。教員採用試験に受かることなどというのが「本当の夢」などであるはずはない。それは「本当の夢」を実現するためのただの作戦の一つにすぎないのである。だから「数打ちゃ当たる」という実践的態度が必要になる。もちろん、幸いにも自分が就職浪人させてもらえる状況(ラッキーな事実)にあるのなら話は別だが。
 たとえば、学習塾の講師になるのはどうだろうか。「学歴偏重社会の手先になるのはいやだ」という人もいるかもしれないが、そういう人は学校だって「学歴偏重社会の発生源」としての残りかすを引き継いでいるのだから、正規教員として採用されても、同じように「いやだ」といって、その不快な事実から逃げ出そうとするのではないかとぼくは思う。そういう場合は、非常勤採用をねらったほうが、自分の思う教育がやりやすいかもしれない。あるいは、まったく異分野の職業に就いておいて、あるいは、専業主婦、専業主夫になって、ヒエラルキーから管理されないところで、あるいは社会教育のような(少なくとも理念としては)活動する市民が主体として尊重される世界で、地域の子育てネットワークに関わってもよいだろう。現実社会においては、そちらのほうが実際にはあなたのせっかくの志が実現しやすいかもしれないのだ。実際、望ましい意欲・資質・能力をもっていて、それを地域の子ども会活動の援助という形で活かしたいという住民が一人でもいるのなら、そういう人はあっという間に地域教育活動の主人公として、貴重なリーダーになりうるというのが残念ながら全国的な状況なのである。
 これらの社会的役割遂行の豊かな可能性はすべて、自己の「社会的役割遂行の欲求」という真実の部分に本人が気づいたところから広がっている。事実(世間の物差し)ばかりに惑わされている人には気づけないことであろう。ぼくが「大学は学生が夢を見つけ出すためのところ」と考えているのも、そういう理由からである。また、生涯学習の「どこまでも知りたい」という欲求も、事実より真実こそを追求しようとする欲求なのだと思う。だからこそ、社会全体としても、そういう生涯学習の支援のための体系化をするのだと考えたい。人びとが自由に行なっているそれぞれの生涯学習の内容が、今の社会に直接的に還元するか否かを、公金を使って支援するかどうかの判断基準にすることには、ぼくは反対である。憲法第13条(個人の尊重)が「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という場合の「幸福追求」の権利とは、「社会に対して役割遂行しなければならない」という個人としてではなく、「自己実現したい」「役割遂行したい」という個人としての真実の追求の権利というべきである。


● 知的水平空間における感情表出と「求め学ぶ」学習態度
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S短大社会教育特講、男)
 ペーパーがストロークの一手段であるとするならば、ある意味においてこの講義の時間は同時に演習であるとも云える。
 人が人の心に思う本当のかたちの在り方を情報として提供し、又、提供される。私が今これに思うことは、決して「提供される」といった他者(mito、社会、親、年長者、会社、学校)からの手助け、ないし使役の形を伴った行動学習の在り方ではなく、私たち学生は自ら提供を受け入れる存在であるべきたることである。すなわち、主体性を体得することにほかならない。それなくして批評精神など至らぬ。
 プリントで様々なペーパーを通読した。成程、啓発を促すための所作のひとつとして「刺激」もしくは「毒」を多方面に渡ってなげかけて居られるようだ。授業計画の記述に、ペーパーは、これを学生が書くことによって知的に自己客観視を含め、人間社会生活の行動学を認識するのに役立つ、らしき内容をみた。文章という媒体(メディア)も使い方により誤りも生じ、多数のペーパーの傾向を追うに、講師との密な個人的係わり色濃いものが多く、それは断ち切らなくてはならないのではあるまいかと切に思う。教師との信頼も、それが過密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性と云うことばに停滞しているどころではない。
 幸い、出席ペーパーは(あるいは幸か不幸か)感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える。それに安心するのは、ストローク(人は信頼し得るものだと云う試み)に於いては有効であろうが、求め学んで行く学生の時機に休息の糧を得て、本当に先々個人という主義を担って生きて行かれようかと危惧の念を抱くのである。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、男)
 「出席ペーパーは感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える。」という(注・S大男子学生の出席ペーパーでの)意見があったが、授業で紹介される出席ペーパーはむやみやたらと感情を出しているだろうか。紹介されるペーパーは少なくとも、それを読む他者、聞く人々という対象を意識して書いているように思えるし、自分のためだけに書いた日記調のものではないと思う。(注・ペーパーを読まれるということは、むしろ)さながら、ラジオの深夜放送で読まれているのに近い感じだと思う。
 さらに、このことについて、僕の個人的意見を述べさせてもらうなら、ある程度の感情をはき出す必要があると思う。感情とは、本音であるところのもっとも原始的なところではないか。むしろ、こういった本音の感情をはき出すことは歓迎すべきことだ。なぜなら、現代社会においては、タテマエと本音を使い分けて生きていかなければならない局面が多々あるからだ。このことは、ともすると、本音(感情)をごまかすということになる。つまり、ある意味で自分を殺すということだ。これはだれもが程度の差こそあれ経験していることだと思う。本音で感じていることと、口で言葉にすることが、ぜんぜん違っているということが。もちろん、この本音とタテマエはある程度必要だが(mitoちゃんはヒエラルキーの中で仮面をかぶるという)、その許容範囲を越える事態(注・個に対する社会的抑圧の、あるいは自己抑圧の、過剰の意味か?)が生まれている。現に、神経科、精神科の病院が大はやりだ。そこで、会社のような利害責任を問われない大学(授業)、教室という空間においては、本音の感情をぶつけあうことが行われていいと思う。僕は大賛成だ。とかく、感情(本音)を出して表現できる空間あるいは仲間が少ないだけに。

mito
 mito的授業のなかで学生が出席ペーパーを通して感情を表出することは、知的水平空間を維持し、発展させるという観点からは、プラスなのか、マイナスなのか。なかなか微妙で興味深い問題である。たしかに、感情の交流は、「知的発達」よりも「癒し」や「信頼」の、ストロークに傾いた行為であるといえそうだ。だから、従来の教育においてはそういうものが排除され、「自分の言い分は本当に自分勝手ではないかを考えてみよ」と親や教師からいわれて、「知育」の名のもとに、もっと一般的、普遍的な言い方をするように求められてきたのだと思う。
 しかし、「アサーティブトレーニング(さわやかな自己主張訓練)」においては、「自分の言い分は本当に自分勝手なのかを考えてみよ」が引っ込み思案の人たちへの重要なアドバイスの一つになっている。ぼくは、前者の訓示にはむしろ虚偽を感じ、後者のアドバイスに人間の真実を感じるのだ。自分勝手で不当な感情をもつことも人間だからときにはあるかもしれないが、それよりも、誰でも一回しか生きられない自分の人生に関心をもっているということから発するやむにやまれぬさまざまな感情は、何らかの深い「人間的真実」に基づいている場合が多いのではないか。むしろ、個人の感情を「自分勝手だ」と自他が決めつけてしまって、最初からしかめつらをした「一般論」で論じようとすることのほうに、真実の追求からの逃避の匂いをぼくは嗅ぎとってしまうのである(前者のペーパーの書き手に対してではない)。自らの深い「人間的真実」に主体的に迫ってこそ、深いところで他者と認識を共有することができるのだと思う。
 学問とは「世渡り術を習うこと」ではないのだから、授業では学生は自分の感情をペーパーや口頭や頭のなかで言語表現することによって自己の客観視に接近することのほうが重要なのではないか。ぼくは学生に「mito的授業においては、あなた自身があなたにとっての最適の教材である」と宣言している。それは、「自分に出会い、自分のもっている無限の可能性に少しでも気づくこと」と言い換えてもよいだろう。これは人間の学習活動の大きな意義なのだ。ぼくが生涯学習活動において、「開きたい心を安心して開いて交流できる時間・空間・仲間のサンマ」を重視するのも、そういう理由からである。「アサーティブトレーニング」の効果の一つとして、「安心して自分を開くことができる。したがって、自己洞察の機会も広がる」が挙げられているのも同様の意味であろう。
 ぼくは、前者のペーパーが「むやみやたらと伝達の為に感情をはき出して、それに安心して、求め学んで行く学生の時機に休息の糧を得てしまう」と指摘しているその鋭さに、敬意さえ抱くものである。しかし、そこで表明された「危惧の念」は、実際には、むしろ逆のことに対して表明されるべきだったのではないかとも思う。すなわち、自己の感情や思考方法を言語表現することを避けて、もうすでに権威化された一般論しか述べずにいて、それで「学んでいる」と安心してしまっている姿に対してこそ、「求め学ぶ」学生の姿ではないというべきではなかったのか。
 ぼくは「生涯学習はドキドキワクワクのワンダーランドであるべきだ」といっているが、じつは、自己の感情や思考を表現することは、しばしば、心を平安にしてくれずに、むしろ自己の思考を波立たせていっとき不安定にさせる作用を及ぼすと感じている。だから、その「ドキドキ」がつらいという人だっているだろう。それでは、そういう人に対して「危惧の念」を表明すべきだろうか。ぼくとしては、大人の学習は本質的に「問題解決型学習」であると考えているから、「そんなことで苦しんでまで学習したくない」という人がもしいるのならば、そういう人はさしあたって生活に必要な知識だけ身につけておけば当面はよいのではないかと思う。別に無理して教育を受けたり、学問をしたりしなくてもよいのではないか。生涯学習の原則は、「学びたいことを学びたい手段で」なのだ。リカレント学習の考え方でいえば、その人は学びたくなるときまで待ってから学んだほうがよいということだ。
 しかし、実際には、ペーパーで自己を開くことによって、「休息の糧」を得るどころか、あえて自分を辛辣に表現する学生が多い。たとえば、高校時代の自分が担任の教師の「不倫相手」や「恋愛対象」になったとき、「先生の奥さんに勝った」とか「先生のファンである同級生たちに勝った」と思っていたことを、きちんと文章として外在化させる学生もいるのだ。こうした自己への気づきは、出席ペーパーというチャンスがなければありえなかったのではないか。それは、自分という人間の滑稽さを客観的に認識するということであり(自己洞察)、自分も愚かな存在の一員であることを知ることである(無知の自覚)。このことによってこそ、自己受容ができ、その後の自己変容の主体になりうるのである。ぼくは、それを称して「個人の内側にさわやかな風が吹いている状態」と呼んでいる(さわやかな風)。
 また、このような出席ペーパーは、他の学生にとっても興味深いもののはずである。他者の感情表現のなかにある真実を垣間見ることができるからである。他者は自己の鏡である。狛プーのある女性メンバーが記録集に、こう書いている。「私もみんなの心の中を写し出す鏡です。いろいろな自分を知りたい人は、どうぞ姿を写しにきてくださいな。もっとも、この鏡はナマモノなもんでねえ。いつでも等身大にきれいに写るかどうかはわからないよお」。
 川喜田二郎は、自らが開発したKJ法という発想法を解説した『続・発想法』(中公新書)の「情念の情報キャッチと理性の確認」という項目のなかで、科学や学問や問題解決などの発想について、「情念がとらえ、理性がこれについで確認する」と表現している。それにも関わらず、私たちは、理性の確認のあとにできあがった完成品としての学問の姿ばかり習ってきたのではないか。「学ぶ」という言葉は「まねぶ」(まねをする)という語義をもつ。ぼくは、『生涯学習か・く・ろ・ん』では、この言葉を消極的、受動的だとしてやや批判的に説明したが、今は、「まねぶ」こと自体は学習にとって非常に重要なことなのだと思う。ただし、それが、学問生成の初期形態としての「情念がとらえる」部分からも学ぶことになるのでなければ、やはり「求め学ぶ」積極性にはつながらないといわざるをえない。そうでなければ、つまり、完成品としての学問だけしか与えられないのであれば、一人一学説といわれる現代という時代においてさえ、私たちはいつまでたっても学問を創造する側にはなれないのである。


● 2つの積極と2つの消極(生涯学習とは何か)
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)
 積極的積極性(以下4パターン)の話はとても面白かったです。このように4パターンに整理した話は初めて聞きました。似たような話としては、一生懸命ボーッとしたいという話を友達としたことがあります。
mito
 偶発的学習も生涯学習の一環として考えようというのが、ぼくの主張である。そうしないと、生涯学習実態調査などで、「継続的・計画的学習」をしている人たちだけをとらえて「わが町で生涯学習をしている人は何%、生涯学習していない人は何%」などという忌まわしい言い方が、いつまでもなくなりそうにないからである。
 しかし、各市の委員会などの場で、社会教育や生涯学習の関係者の前で、ぼくが「勝手に散歩でもしていて、でもそこで感動して何らかの自己変容があれば、それはその人にとっては大切な生涯学習だ」と発言すると、必ずといっていいほどひんしゅくを買うことになる。関係者から、「それじゃあ、人間のすべての行動が生涯学習だということになってしまうではないですか」といわれるのである。ぼくは人間のすべての行動に生涯学習としての側面があるととらえるのならば、それはそれでもよいと思っている。市の道路行政による散歩道の保守管理が生涯学習支援の側面からもとらえられるようになることこそ、「行政の生涯学習化」といえると思うからである。だが、ひんしゅくを買いっぱなしでいるのもどうかと思い、人間の活動のなかに生涯学習と呼べない活動があるとしたら何なのかを考えた結果が、この「2つの積極と2つの消極」論である。
 練馬区の生涯学習推進懇談会の答申の作成に関わって懇談会委員同士で議論を重ねることによって、ぼくは、生涯学習が「どこまでも知りたい・上手になりたい(発達・成長したい)」と「癒されたい・安らぎたい」の2つの欲望から発すると考えると、とても自然な理解ができることに気づかされた。「教育」という名がつく世界にいるうちに、「人間はつねに発達していくべき存在」という考えを知らず知らずのうちに身に付けていたぼくが、日本文学専攻のある委員から「西村さんは、何かにとらわれているのではないか」と指摘されたことから、その議論は始まった。そして、とうとうも、「人間はつねに発達していくべき」すなわち「学習すべき」という姿勢を払拭した画期的なものになった。
 この「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに自らの欲望を充足しようとする自己の意思から発した積極性の発現としてとらえることができる。論をつぎに進める前にここでとくに留意しておきたいことは、「癒されたい」という欲望から発する行動も、ここでは「消極」ではなく「積極」としてとらえているということである。なぜなら、人が癒されるためには、他者からのストロークが必要であり、ストロークをうまくもらうためには、相手にうまくストロークを出したり、開きたい心を安心して開いて交流できる水平なネットワークを見つけ出したり創り出したりする積極性が必要になるからである。「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに積極的な行為につながらざるをえないのである。
 これを前述の「人間のすべての行動が生涯学習ということになってしまう」という反論への反・反論として活かすならば、次のようになる。「そうではない。どこまでも知りたい、癒されたい、などの欲望から発する積極的な行為だけが生涯学習なのであって、テレビも見ずに自分の部屋でボーッとしているなどの消極的な行為は生涯学習とは呼ばない」。そして、こう付け加えるべきだ。「生涯学習活動や積極的行為だけがすばらしいということをいいたいのではない。ボーッとしている時間(無為)もその人にとっては大切なのだ。それは、つまらない欲望を捨てた潔い消極性というべきであろう」。
 今回提示した「2つの積極と2つの消極」論は、以上の議論の経緯のうえに立ち、それを発展させたものである。生涯学習においては自分の欲望や意思に基づく「自己決定」という要素が重要である。結果的、外見的には同じ積極性であっても、それが本来の自己決定でなければ、従来の学校歴偏重社会における受験勉強(これもまた、単純にけなすことはできないが)と生涯学習活動とは、変わりないものということになってしまう。ここで「自己の欲望に基づく本来の自己決定」とは、すなわち、社会や人のせいにしていない、すなわち「自分のため」に、主体的にやっているということである。ちなみに、生涯学習活動だけでなく、ボランティア活動にとっても、この「自己決定」は重要である。そこで、同じ積極性でも、同じ消極性でも、それぞれをはっきり別のものとして考えるために、次の4タイプを整理して提示したのが今回のぼくの議論である。
  主体  結果・外見
T 積極的 積極性  自己決定
        (生涯学習)
U 消極的 積極性  仮面・戦術
        (受験勉強)
V 消極的 消極性  敗北主義
        (被害者意識)
W 積極的 消極性  自己決定
        (無為・潔い撤退)
 ぼくは、あとから、この4パターンがぼくが予期した以上になかなか有益な分類であることに気づいた。たとえば、生涯学習活動や地域活動やボランティア活動をしている人のなかにも、その活動をしていない人に対して「けしからん」「〜すべき」といういい方をする人がいる。そういう人は、いわば「過去と他人は変えられない」という厳然たる事実にイライラしているのである。潔くなれないのであろう。じつはこの人たちは、本来の「自己決定」の生涯学習としてのTの状態にあるのではなく、「不幸の手紙」をもらった人のようにUの状態にあるのではないか。もし、Tだったら、「この活動はとても魅力的だよ、素敵だよ」「いつでもおいでよ、歓迎するよ」と言うことはあっても、そういう活動をしない人を見て責任を追及する欲求に駆られてイライラするなどという不幸には陥らないと思われるのである。Tの人は、むしろWの人と連帯しやすいのではないかと思う。どちらも「自己決定」であり、「潔さ」が共通しているからである。
 しかし、Uの状態も、ヒエラルキー社会においては、残念ながら、完全には回避することはできないだろう。仮面や戦術を使わなければ、あっという間に世間から干されてしまうからである。Uについては、回避が不利になるのならば、これを無理に避けるのではなく、むしろ、仮面・戦術としてきちんと意識してこれを選び(これもひとつの自己決定である)、仮面・戦術であることをつねに思い出しながら「頑張る」のがよいと思う。そうすれば、「頑張らなくちゃいけない」などという不合理な思い込みから自由になることができる。また、ときには、その活動の意義に気づいたり、うまく楽しむ方法を発見したりして、途中でTに切り替わるような幸運も訪れるかもしれない。
 Vの状態の人は、本人にとっても社会にとっても最悪であろう。そうはわかっていても、自分の消極性を「過去と他人のせいにして、空しい自己満足と安定を図ろうとする」弱さは誰でももっている。もっているからこそ、こういう4パターン分類法の活用による「客観視」が有益であるということができるだろう。TからWの分類は、さまざまな人間がこの4つに分けられるというよりは、一人の人間のなかに4パターンの状態が混在しており、それを整理して判断基準とするために有益であるととらえてほしい。つまり、「よし、今回はわたしはこれでいこう」という、客観視と主体的納得を伴う自己決定のために活用できると思うのだ。
 Wの状態というのは、これはもうすごいとしかいいようがない。広大な時空における自己の小ささを穏やかに受け止め、ときの権力や価値観に惑わされず自己に与えられた人生のひとときを静かに味わう。ぼくはその潔さにあこがれや尊敬さえ感じるのだがどうだろうか。社会にとっては直接的利益にはつながらないかもしれないけれど、「立つ鳥、あとを濁さず」「潔い撤退」などのさわやかさは、今後のネットワーク型社会の創造にとってはむしろ重要な要素のひとつというべきであろう。そういう「潔い撤退」などのWの状態なら、ぼくたちでもそれなりに実現できる状態であろう。
 生涯学習は「学びたいことを学びたい手段で学ぶこと」であり、「自己管理型学習」であることから、本質的にはTの状態のものといえよう。Tの状態としての規定は、先に述べた「生涯学習は積極的な行為」という規定よりは的確であり、Uの状態での従来の「させられている学習」などとの違いをより明確に位置づけることのできる規定としても、なかなか有益であるとぼく自身は考えている。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)
 (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定、潔さが持てるのだと思います。
mito
 ぼくが言ったのは、Tの人はUの人にではなく、Wの人に連帯感を感じるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは連動関係にあるということなのだろう。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということである。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人が「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がないのであり、それより「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会における自己決定のあり方を探るということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。


● 空しさに耐える自己管理型体験学習-結果を恐れるな
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)
 (奇数日の)ゲ-ムの日に出席しないのは、多分に私のワガママです。性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからないという・・・。グル-プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ-ムをやるときのメンバ-がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ-ムを「こなす」という感じで終わってしまうんですよね。それはけっこうみんなそうじゃないのかなあ? で、そういう「中途半端な」楽しさは、すぐに空しさ(寂しさ)に変わってしまうから、それが嫌なんですよ。そういうわけで、ゲ-ムの日は完全にパスさせてもらっています。
mito
 ぼくは、授業自体も、生涯学習の「学びたいから学びたい手段で学ぶ」という「自己管理型」で行なおうとしているから、このような「潔い撤退」に類した例はたくさん経験している。「こ・こ・ろ生涯学習」にも書いたとおり、基本的には「元気になったら出ておいでよ」という対応でいいのだと思っていた。しかし、今回のこのペ-パ-は、体験学習による擬似的時空の空虚さを鋭くついたものであり、そういうペ-パ-に対しては、「無理して出席しなくてもいいんだよ」とぼくが対応することは、教師としての責任逃れにもつながりかねないと思われる。そこで、少し立ち入って考えてみたい。
 このペ-パ-は、じつは4枚にわたる長編(?)で、先に引用した部分は、その追記である。本文では、偶数日の「講義型学習」を含めて「あまり得るものがない」、他の学生の出席ペ-パ-も「面白そうだね」というものはあるが、「まあ、時間に余裕があれば」という程度で、それよりは、この授業をパスして他の授業で出された課題などをこなすことが多い、などという自己の状況を述べたうえで、「(そういうふうにパスすることも)美東士先生の方針ではOKになるんだと思いますが、それで一年間終わってしまったら、何のために『社会教育計画』の講義を取ったのか、何も残らないと思いませんか?」と穏やかな口調ながら、ぼくを厳しく突きつめている。
 しかし、これだけであれば、ぼくは、「履修要覧やテキストを読んで、ぼくやぼくの授業が自分にとって必要かどうかを判断して、出席するかどうかを自己決定せよ」と答えればよいだけだと考えている。ところが、この学生はどちらも読んでいるという。また、最初の3回目の授業までは、きちんと出席している。「まずはぼくの授業の様子を探ってくれ」というぼくの要請に応じてくれている。彼は次のように書いている。「(高等教育においては)基本的にはどの科目を取るか、それを決めるのは学生側の『権利』として与えられているわけですよね。そして、判断のための情報として、『履修要覧』があり『お試し期間』があり、それでも足りなければ、直接、担当の先生のところへ質問しにいくことだってできるわけです。それだけのものを与えられていながら、あとから文句を言うような選択しかできないというのでは、学生側がなかば選択権を放棄しているようなものだと思うわけです。たしかに、私も選択したあとで、『あっ、これはハズレだったな』と思ったものもありました。でも、そういうときでも、せっかく高いお金を払って買ったんだから、テキストだけは一通り読んでみようとか、講義の『おいしいところ』だけはある程度頂戴しておいて、そこから『独自路線』を展開しようとか考える。そうして、それなりに、この講義を取ってよかったなというものを作ってきました」。ところが、彼は、ぼくの授業だけは、履修要覧や教科書からは「見えない」「読み切れない」というのである。
 ぼくは、いつも、授業のシラバスを、大学当局から与えられた字数制限いっぱいに書いて提出している(内容はともかく)。ボリュ-ムばかり多くて「ひんしゅくもの」ではないかと不安を感じるぐらいだ。授業スケジュ-ルなどは、一字も余らせないなどのノイロ-ゼ的なまでの記述をしている。ただ、T大学の場合は、授業スケジュ-ルの欄の字数が非常に少ないので、この学生がほかで指摘しているように、よくわからない代物になっているとも考えられる。これについては、来年度からは、もっと詳しいシラバスを、初回の授業に別途配ることにしたい。
 それにしても、このペ-パ-の主張は、その程度のことでは本質的には解決し得ない深い問題を提起している。この学生のように主体的に自己決定をした場合であっても、「学びたいから学ぶ」という自己管理型学習がうまくいかないことがあるということを示しているのだ。それは、「書き言葉メディア」とは異なる「話し言葉メディア」としての授業(ぼくは、mito的授業がそれをねらったものであることを公言している)の特殊性の表れであるともいえよう。「話し言葉メディア」としての授業は、学習者側としては、「書き言葉メディア」である履修要覧やテキストを読んでも、最初からは自分にとっての授業の意義が「読み切れない」のである。だから、「先生のいうことにはしたがっていればよい」というような教師への無条件的信用(基本的信頼ではない!)をしないこの学生に代表される「正しい学習態度」の主体的学習者にとっては、かえってその学習結果が恐ろしくて、「話し言葉メディア」としての授業には踏み込みずらいということになる。
 それが、態度変容を意図した体験学習の「奇数日」になると、その状況はますます決定的である。体験学習の場合は、よく吟味したうえで「よし、参加しよう」と自己決定した場合であっても、「出なければよかった」と後悔することが多々あるだろうからである。この学生のいうような「中途半端な楽しさが、すぐに空しさに変わってしまう」などという事態は、日常茶飯事でさえある。「結果が恐ろしい」どころか、「恐ろしい結果」(空しさの逆襲など)をすでに何回か味わっているのである。
 しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。この学生は次のように書いている。「性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからない」、「グル-プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ-ムをやるときのメンバ-がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ-ムを『こなす』という感じで終わってしまう」。その気持ちはよくわかるが、現代社会のヤマアラシジレンマに立ち向かうためには、その空しさはあえて受け入れなければならないのではないか。「祭りのあとの空しさ」というではないか。祭りを楽しんだとしたなら、祭りが終わったあとは、その空しさをじっと受けとめなければならない。それが祭りの定めであり、人間関係の宿命なのだ。そこから逃避しようとして「いつも同じメンバ-」に固執したとしても、そこで感じるだろう空しさは、これと同質、または、それ以上のものかもしれない。
 また、社会教育の援助者に求められるコミュニケ-ションや組織化のための資質・能力についても、今後重要になるのは、特定の住民とべったりつきあったり、「教祖様」になったりすることなく、ときには、情報提供や一過性の学習者へのサ-ビスなどの「ちょっと間をおいた」、あるいは間接的な援助をしなやかに行なえることである。そういう仕事の仕方では、従来の社会教育の直接的援助や指導の魅力に固執する援助者の目には、まさに「虚業=空しい仕事」に映り、不満を感じるかもしれない。だが、こういう仕事を「自分(の気づきや出会い)のためにやっています」とさわやかに言える「発想の転換」がこれからの援助職員に求められるのである。そのためには、人間関係のための洗練されたセンスが必要になる。
 それゆえ、自己管理型学習、とりわけ自己管理型体験学習には、「空しさへの予感や恐怖に耐える力」が必要とされているといえるのではないか。このペ-パ-の学生のような、かなりの自己管理ができている学習者に限っては、ぼくは「潔い撤退」への肯定的態度を変えてみたい。「いや、だまされたつもりでもいいから、とにかく出てみたらどうだろうか」といおうと思うのである。そういう自己管理型の人にとっては、他の「自己管理ができている」ほかの授業への出席や宿題をさぼってでも、mito的授業のような「自己管理のしずらい」授業に参加することのほうが、自己成長にとって有益だと考えられるからである。そうでないと、せっかくの自己管理型学習であっても、「書き言葉メディア」による自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組みを変化させる本来の意味での学習、または革新型学習につながらなくなる恐れがある。ちょっと「余計なお世話」かもしれないが。(もちろん、単位を出さないなどの強制につながる行為をするつもりはない。学習の自己管理の原則はあくまでも貫かれなければならない)。
 そこで、つぎに、同日に提出されたほかの人のペ-パ-を、もうひとつ紹介しておく。ここには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表わされている。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)
 (前回のパズルゲ-ム-スクエアゲ-ムについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲ-ムでは、カ-ドを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャ-したりしてはならないということだったけれども、たかがカ-ドの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。
 (体験学習を行なうということに定められている)奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲ-ムを始める前、このゲ-ムでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグル-プになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。
 7月ぐらいまでは、ゲ-ムに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。
 この前のパズルゲ-ムのときと、その前のゲ-ムのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。
mito
 エンカウンタ-グル-プは、日常の人間関係とは離れた「文化的孤島」で行なわれなければならない。奇数日の授業も、これに似た意義(「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」)があるのだろう。また、引っ込み思案の克服方法のポイントのひとつは、「結果を恐れるな」(自他への不信から結果を先回りして勝手に決めつけるな)である。この言葉も参考になると思う。

● 自己受容と自己変容-自己の枠組み自体が変化する生涯学習
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
mito
 ぼくは、今まで、枠組み自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組みを変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。その(認知説に?)偏った考え方には変わりがない。急速に発展・変化する生涯学習社会において、枠組みを変えないまま、固定化した枠組みのなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと思うからだ。
 しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、ぼくのこの「学習論」への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。ぼくにとっては、それが逆に不思議だった。そこで、ぼくは「じゃあ、ぼくは自分を変化させたいと思うか」と自問自答してみようとした。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。
 もともと、ぼく自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での学習をしたい)というとき、楽しいイメ-ジとして「変化したい」という言葉を使っていた。ぼ-っと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人と出会ったとき、その人の枠組みのよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときは「至福」ともいうべき自己充実感を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「自分をどんどん変えたい」という程度の軽い気持ちなのだ。例の「どこまでも知りたい」(練馬区生涯学習推進構想)という生涯学習の原始的欲望の一種と考えてもよい。
 ところが、ちょっとマイナ-な気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみたのだが、とてもみじめな感じになることに気づいた。そりゃあそうだろう。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを権力側(この場合は教師)から「自分を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうが健康的である。
 「自分を変えたい」という欲求は、じつは、2つに分類できるのではないか。

T 自己否定としての変身欲求-今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。
U 自己受容による学習欲求 -今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。

 ぼくが今まで提唱し続けてきた「枠組み自体を変化させる生涯学習」というのは、当然、Uということになる。最近の臨床心理関係者の話(嗜僻、依存症など)を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラ-が、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ることと自分を大切にすることは重要である」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたはぼくの胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。ぼくの言葉で言い直せば、「客観視」と「自分のために生きる」ことの大切さということになろうか。Tだけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組みのまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍になるような生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容につながるのである。
 「自己の枠組み自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。でも、わくわくすること(ワンダ-ランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということであり、その援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「こんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。


● 自罰のデリケ-ト、他罰のデリケ-ト
(加害者の被害者ヅラ、淋しがり屋のタカビ-)
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、男)
 このところ、この授業に出るのが嫌になって、あまり出ていませんでした。それは、授業のなかでもふれられていたように、授業のなかで出てきたことに突きつけられて、これまでの自分のまちがっていることを認めるのが嫌だったからだと思います。そこへきて、自分の自罰的傾向(「ちゃんと現実を見すえなくてはいけない」「逃げてはいけない」)や自信のなさ(「自分にはこの授業を受けるだけの包容力や人間性が欠けているのではないか」「他の受講者が自己変容しているあいだに、自分は低いところで堂々めぐりをしているのではないか」)があるものだから、事態は深刻だったといえましょう。
 しかし、今日、ある意味ではたまたま、この授業に出て、本当によかったと思います。もともと自分は、社会教育主事資格ほしさとはいえ、好きで(=主体的に?)この授業をとったのでした。ならば、そういう自分を受容して、そして自分を変えていけばよい(どこまで変われるかは別として)わけです。だから、今後は、もっと積極的に出席して、自己変容や自己管理につなげていければと思います。自罰しすぎないように、自分に自信をもてるように(しかし、肩で風を切ったりうぬぼれない程度に)していければと思います。
mito
 この学生のようなデリケ-トさ(本人は自罰傾向と分析しているが)は、本人の個の深みのひとつであり、そういうデリケ-トさが欠けていると自覚するぼくは尊敬する。彼は人生を真剣に生きている、あるいは、自己評価の水準のレベルが高いと思うのである。そんなぼくがかれらに何かいえるとしたら、つぎのようなことである。「批判は歓迎せよ、否定は受け流せ」。本来の批判は基本的信頼にもとづくものである。自分にも刃(やいば)を突きつけながら、なおかつ、そんな非力な自分と相手を受け入れているからこそ、批判ができるのである。「非力でない場合だけ(自他を)信頼できる」という人がいるとしたら、その人のいっている「信頼」は本来の信頼ではない。ただの「信用」である。信用に値するような完璧な「先生」や「人格者」など、この世に一人もいないはずだ。「信用される人間」になろうとする態度は、じつは、競争主義の学歴偏重社会に過剰適応しようとしている無茶なガンバリズムであり、不合理な思い込みにすぎないのである。だれかがそんな競争主義にもとづいてあなたを「否定」(批判ではなく)したとしても、そんな否定は受け流すにこしたことはない。あるいは、そういう「否定」は、その人自らの不安の表明にすぎないのだから、自分を否定しようとする他者の「弱さ」を共感的に理解して処理することができればベストである。学歴偏重のヒエラルキ-的価値観を内面化しているかぎり、その人は他者を否定しかできないのであるから(その弱さは、多かれ少なかれすべての現代人がもっているだろうが)。
 さて、ここで、最近ぼくが気になっているもうひとつのデリケ-トの傾向について述べておきたい。それは、自罰傾向のデリケ-トに鮮やかに対比される他罰傾向のデリケ-トである。たとえば、恋愛問題にしても、自分だけを相手が愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないというのである。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際しようとしている。だが、そこまではいいのだ。見方によっては、そういう生き方も本人がそれで納得して生きているならたくましくていいじゃないかとも思う。別に他人であるぼくが気にかける必要はない。ところが、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。デリケ-トなのである。もちろん、真剣に相手のことを怒っている場合もあれば、「悲しいけれど事実として受けとめる」という場合もある。しかし、いずれにせよ、自分自身については甘やかしておきながら、相手を罰していることにはかわりない。現代社会において、幸福追求の援助者として教育が存在しようとするのならば、こういう場合はどうすればよいのか。これは、すなわち、他罰のデリケ-トに対する援助のあり方の問題である。
 授業中の私語の問題は、今や当たり前すぎて陳腐な話題だとぼくは思っている。授業中の「感動の私語」はむしろ歓迎し、これを積極的に組織化すること(その端的な表れは「ちょっと待った方式」)、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は双方の自由を保障するために、おしゃべりをするための中途退室と入室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、おしゃべりをやめさせるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。先日、50人くらいが受講する授業で、男性2人だけが小声でひそひそしゃべっていて気になってしかたがないことがあったが、しばらく我慢しているとその人たちは荷物を置いたまま自発的に退室してくれたのだ。もちろん、あとで戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。
 しかし、そううまくはいかない場合も多い。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば、その授業とは無縁の「余計な私語」はそういうほかの学生に迷惑をかけていることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ(ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の学生は、その人の学習の自由を保障するために、退室しないままの余計な私語を禁欲せよ」という考え方である。念のため)。人間は何か迷惑行動を起こすときでも、自分の心の中ではなんらかの形でその行為を「正当化」しているはずだ。私語学生はどのように自らの退室しないままの私語を正当化しているのだろうか。
 ここに、「他罰のデリケ-ト」のロジック(レトリック?)が適用できるのではないか。「ほかの人は、私みたいな(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな授業をまじめに聴いていられるのよ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、自分を許して他者を罰しているのではないか。つまり、自分が傷つくことばかりに対してデリケ-トだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向やピア・コンセプト(仲間意識)の表れにすぎないのだが、それを、「おしゃべり仲間をちゃんと大切にしている友達を大切にしている自分」として逆に正当化してしまっている。この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピアが介在していて、個人の個の発現を抑圧しているのは社会そのものではなく、じつはピアであり、すなわち、その人自身の内なる認識なのである。
 電車の中で迷惑行動をしている人の顔つきを見ても、かれらはけっして楽しそうな顔をしていない。股を大きく開いて3人分ぐらいの席を占有している人も、「3人分の着席の幸せ」を奪っているのにけっして幸せそうではなく、むしろ疲れた辛そうな表情をしている。社会や他者に対して、何か不愉快なことがあるのだろう。これをぼくは「加害者の被害者ヅラ」と呼んでいる。そういう例は、いやというほど周辺で見受けられるだろう。だが、よく考えてみれば、そういう加害者たちが幸せになれるのだったら、本当の被害者たちにとってはたまったものではない。水平なネットワ-ク社会(ぼくはそれを学歴社会に対する生涯学習社会だと考えている)における「してあげる、してもらう」のストロ-ク交流の関係しか、自分自身も幸せになれる方法はないのだという「嬉しい確認」ができたと考えればよいのだ。
 ただ、そうはいっても、援助者としての社会的役割の遂行が期待されている人は、そういう「他罰のデリケ-ト」の自己変容に対する援助のあり方を考えなければならないだろう。そこで、デリケ-トの種類を次の2つに分類して整理してみたい(本当はそのどちらでもない個の深みそのものともいうべき「デリケ-ト」を入れて3つだと思う)。

「種類」-「不安の動機」-「関係性の悩みの内容」
T自罰的デリケ-ト-相手を傷つけたのではないか。-自分は他者を愛せない。
U他罰的デリケ-ト-相手から傷つけられた。-他者が自分を愛してくれない。

 もちろん、私語程度の「何気ない迷惑行動」と「確信犯的な迷惑行動」を同一に論ずることには危険性がある。ここでは、程度の差はあれ、アンビバレンツな人間存在としては、すべての人が、「自罰・他罰」「デリケ-ト・たくましさ」「大・小」のどちらの要素ももっているという前提で論を進めたい。
 ここで問題にしたいのは、Uである。社会的に客観視した場合は論ずるまでもなく「不当な態度」として処理すればよいのだろうが、その人は主観的には「本当に悩んでいる」のである。すなわち「問題があることを自覚している」のである。学習は問題の自己解決の行為(問題解決型学習)の一環だとして、教育はそのための援助だとすると、本人が主観的には問題をかかえているということ自体は、援助の唯一の拠り所として非常に重要なポイントなのである。
 ぼくは「淋しがり屋のタカビ-」という言葉をつくった。タカビ-とは高飛車な人のことを指す流行語である。相手の人生を、自分の都合にあわせて影響させたり、支配したりするようなことが多い「迷惑な人」のことである。しかし、そうい人のなかに、じつは「淋しがり屋」が多いのだと思われる。「淋しがり屋」と「タカビ-」の素質は、そういう人のなかでは、悪循環を繰り返しているのだ。愛されないからますます淋しくなり、だからこそ、ますますタカビ-になる。さて、ここまで論じてきて、ひとつ重大なことに気づかないだろうか。すなわち、「そんなことだったら、自分にだってある」「そんなことだったら、わかる」ということである。この「そんなことだったら」が重要である。援助者だって同じ人間なのだから、「淋しがり屋のタカビ-」や「他罰的デリケ-ト」の行為に対して、そんなに苦労しなくても、ごく当たり前に共感ができるのである。これをぼくは「教育的可能性」のひとつととらえる。

 つぎに、これと関連して、「援助者としての責任と無責任」について考えてみたい。授業中に登校拒否(不登校)や拒食症(摂食障害)のビデオを共感的に理解することをねらいとして視聴しても、なおかつ、一部の学生から「共感できない」「かれらは甘えている」というペ-パ-が出されるmito的授業の実情について、「援助者としては不適応症状の人を共感的に理解してあげなければいけないのではないか」、それなのに「十分に症状を理解できるだけの情報を与えないまま、VTRで不十分な情報を流して、共感的理解ができない結果を生み出すのは、教師として無責任なのではないか」という、深く鋭く指摘するペ-パ-があったのだ(「非公開希望」なので全文の紹介はできない)。
 まず、言明しておかなければならないことは、ぼくの勉強不足におおもとの原因があることは明らかである。ただし、ぼくの学習援助者としてのスタンスは、「ぼくが、いま、与えられた学習課題に関連してもっとも関心をもっていることを伝える」ということである。そこさえ責任をもって役割遂行すれば、あとは学習者がそれをどう受け取って取捨選択するかについてはぼくの援助者としての責任の範疇ではないと考えている。そんなことは学習者の自己責任でないか。たとえ、学習者側のなかに、その問題に関してぼくよりすぐれた知識・見識をもっている人がいても、ぼくは平気でそのテ-マについて「教授」するだろう。あとは、ぼくは、批判を「受けて立つ」、指摘を「受け入れる」という覚悟さえ決めておけばよいのだ。

● 援助者としての責任と無責任(共感的理解をめぐって)
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

 不登校事例に対する一部の学生の「かれらは甘えている」という発言は、たしかに他罰的な傾向を秘めていると思われる。そこで、このことについて考えてみることにする。
 第1に、学生の「(不適応の人たちは)甘えている」という判断は「1%の真実」を表わしている。「甘えている」と書いた学生たちはただ単純に「甘えている」と書いているのではない。かれらがこれまでのみずからの人生を生きていくなかで、@社会やひとに甘えてはいけない、それが自立だ、A家族やまわりのひとが自分にしてくれたことに感謝したい、あるいはそういう人たちの期待に沿いたい、Bいやなことでも頑張ってやっていかなくてはこの世ではうまく生きていけない、などの価値観を身につけ、自分とは異なる不適応の人たちを「甘えている」と判断すること(他罰)を選択することによって、今までそういうふうにがんばってきた自分の生き方を否定しなくてもすんでいるのである。
 つまり、不適応を起こして「本当の自分を大切にする」というだれにとっても「それなりに魅力的な生き方」のその魅力に打ち勝つためには、不適応行動を「甘えている」と切り捨てることを選ぶしかないのである。不適応が現代社会における自己保存の「ぎりぎりの選択行為」だとすれば、そういう人たちを「甘えている」と切り捨てることも、現代社会においてはそれなりに「ぎりぎりの選択行為」なのである。その証拠に、かれらは「(不適応に対して)共感『できない』」「共感『したくない』」と書いてくる。無価値的に「共感『しない』」とは書いてこないのである。他者を共感的に理解したいという要求は潜在的にはだれにでもあるのではないか。ただ、それと自己保存本能とが、現代学歴偏重競争社会の疎外状況においては対立してしまうのである。
 このように考えると、不適応を「甘えている」といって切り捨てて現代社会で生きていこうとする「戦術」は、だれにとっても、まったく意味のないこととはいえないだろう。同時代の他の99%のそれぞれの人が少なくとも1%ぐらいずつは共感できる「1%の真実」を表わした生き方のひとつなのではないか。問題は、シロかクロかではなく、シロ何%かクロ何%かなのであり、出席ペ-パ-の場合は、もっと根本的には、「どれだけシロの深みを表わしているか」、「どれだけクロの深みを表わしているか」なのである。
 第2に言いたいことは、援助者側は、「他者を共感的に理解できるようになることが、どれだけすてきなことなのか」ということを、その方法論とともに提案する責任はあると思うが、自分にできる範囲で一生懸命にそれを提案した結果、学習者側がそれを受け入れなかったとしても、そこには何の問題もないということである。人それぞれなのである。教育目標を学習者に提示し、その目標に沿って授業を進めても、なおかつ、相手が自分の思うように変化してくれなくても、それはそれでよいのだ。援助者側にも学習者側にも問題はない。援助者側が「学習者を変えられない」という問題に固執するとすれば、それは相手の人生をしょいこもうとする「熱血先生」の傲慢さとさえいえるのではないか。ぼくは、共生の要素を@共有(価値や文化の共通点を探ったり創ったりすること)とA共存(価値や文化の異なりを受容しあうこと)の2つだと考えている。「相手の人生をしょいこまない態度」は、この場合のAに当たるのである。
 ただし、これは原則論であって、ぼくの場合は、その学生の指摘するとおり、教材研究をもっとしっかりやっておけばさらによかったのではないかとは思う。つまり、それは、ぼくが「自分にできる範囲」にまで到達していなかったということであり、その面では、十分には責任を果たしていなかったというべきである。自分がいま関心をもっていることについては、いっそう深く考えていきたいと思っていることをここで表明しておく。
 第3には、「(不適応について)共感的に理解しなければいけない」ということを最優先する立場は、ぼくはとっていないということである。ぼくは「共感的に理解できたらいいね」といっているのである。「共感しなければいけない」といわれたのでは、なんだかそれまでの自分が共感的理解能力に欠けた冷血人間としての烙印を押されたようで消極的ないやな気分しか残らないではないか。ぼくは「人間をよりいっそう共感的に理解できるような自分でありたい」というみずからの動機を自分のなかに探りながら、授業を進めている。だから、学生に対しても、一人ひとりのなかに「他者を共感的に理解したい」という顕在的・潜在的欲求が存在するであろうことを基本的には信頼して、その欲求に訴える授業を組み立てようとしている。もちろん、共感的理解能力の発達は、信頼・共感・自立の人間関係の創出やその援助のためには不可欠な要素だと思っているからである。「〜しなければならない」ではなく、「〜するほうがすてきだ」という提案を行なうことこそ、ネットワ-ク型の水平社会における援助者としての個の発揮の有効な方法なのではないか。
 援助者といえども、社会という幹に対する枝葉にすぎない。その枝葉が自己実現と社会的承認のために果たすべき責任とは、自分の考え方を押しつけたり、その結果、幹がそのとおりに変わってくれなかったからといって不平に思ったりすることではなく、自分の生きてきた範囲でできることを実際にどれだけ幹(この場合は学習者集団全体)に提言できたかを(たとえば「先週は授業で何回、どのように提言したか」などと)なるべく客観的に自己評価することなのである。


● ぼくたちはいったい何のために学んでいるのか--学問とは何か、生涯学習とは何か
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

学生の出席ペーパーより(S大社会教育計画、女)
 わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。
 今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいって言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。
 人には、その人に見合った世界があって、その世界の中での上を目指すことはかまわないけど、その上の世界を目指すのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。
 私は、そんなものなの?、と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。
mito
 そういう過去の遺物のような人間に対してのぼくの基本的なスタンスは、「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」である。だから、ペーパーの書き手に対するアドバイスとしては、ひとことでいえば、「ケッ」と言って笑い飛ばす能力が大切であるということになる。まあ、心配しなくても、その手の「アパルトヘイト」(南アフリカ共和国の1989年以前の人種隔離政策)みたいな、唯々諾々と「頑張ってきた」だけの人たちは、社会ではいずれ挫折するだろう。たまたま出世するかもしれないけれど(本当は管理職には適していないのだけど)、人間としての味が薄いため、他者からの信頼や愛情という人間の生活や仕事にとっての肝心の財産を獲得することができないまま生きていくことになるからである。
 学生が一流企業をめざすこと自体は、けっして不合理なことではない。ぼくだって、「生活の安定をめざすならば、可能なら大企業にぶらさがれ」と学生に言っているぐらいだ。しかし、そういう自己保存のための「作戦」の部分だったはずのものが、たまたま「成就」した事実があったからといって、「本気」になって、「自分は上の世界の人だ」と思い込んでしまう人間がいるというのにはびっくりしてしまう。自己の合格・不合格などは、客観的にはちっぽけな事実にすぎないのに・・・。学校歴偏重社会の価値観の個人的な精神世界への侵略は、目に余るものがあるのだなあと思う。
 例の友人は、AC(従順な子ども心)とCP(厳格な親心)ばかりで生きてきた人なのだろう。そういう人たちの幸せのためには、なるべく早いうちに挫折を自覚して、「ただのろくでなし」(平気で差別したり迷惑をかけたりする人たち。自称「成功者」たちの差別や、頑張って授業には出てきてしまう自称「被害者」たちの私語など)から「ましなろくでなし」(そのほかの、しかし「不完全」な私たち)として立ち直る機会が訪れるよう祈るばかりである。
 ところでこのペーパーについてT大学でも簡単にコメントしたところ、次のようなレスポンスがあった。それによって、このトピックスに関する考察は、もう一段、ぐんと深まることになる。これだから出席ペーパーシステムはやめられない。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)
 一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。「ケッ」と思う気持ちや、(注=彼らに対して)負け犬にならないということは大切ですが、いきなり「ばか」と切り捨ててしまうことの方が、ある意味では「負け犬」なのではないでしょうか。(注=合格・不合格の)つまらない事実であっても、わたしはその事実は事実として認めるべきだと思いますし、その人の努力の結果には敬意を表わしたいとも思います。その上で、自分は自分なりのものを作り上げ、それに自尊心をもてばいいと思うのですが。(あ、時間がない・・・。)
 フリースペース、その時間、わたしは授業ですので、ちとキツイです。出たいとは思うのですが・・・。わたしも酒好きですし(笑)。
mito
 ぼくは、「馬鹿という言葉は、少し違うなあ」とは感じながらコメントしていたのだ。しいていえば、「あほ」という言葉のほうが適切だったかもしれない。つまり、嗤う(ばかにしてわらう)という感じである。庶民が「ばか殿様」を笑い飛ばす、あの感じである。
 さて、このペーパーによって、「その人の努力」に対する評価のあり方が問題として焦点化されてきた。これは、このペーパーの書き手一人にとどまらず、「心優しい」現代青年の普遍的な傾向であると思うのだが、「そんなこと言ったって、その人なりに努力してきたのだから」とか、「がんばってきたのだから」とかいって、客観的にはその「努力」が不当であることを感じながらも、個人の主観的なストーリーとしては容認してやろうとしてしまうのである。ぼくは、声を大にして言いたい。努力してればよいというものじゃないし、頑張っていればえらいというものじゃない。
 例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる「人類の幸福追求の敵」としての役割を果たすからである。
 このような客観的には「不当なこと」(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張った」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」が滑稽であることを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだといえよう。
 それでは、なぜ、学習権がかなり保障されているはずの現代青年までもが、そういう「人類への裏切り者」を許そうとするのかというと、それはおたがいに「頑張らせられてきた」学校歴偏重社会の被害者としての仲間意識が根にあるのだとぼくは思う。これこそ、まさに、ピア・コンセプト(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)の逆機能といえよう。ヒエラルキー(階層制度)の上位にあって下位の自己を抑圧する相手に対してまで、「同じ苦労をしてきた」(ただし、相手は「成功」した!)という思いから、批判することを回避している。これは、自称「上の世界の人間」もそうでない人も、「(受験勉強はいやなのに)頑張らせられてきた」という意識・無意識の被害者意識を、社会変革主体としての「自尊心」に転化するに至らないまま、自身の根っこの問題として引きずっていることの表れといえるのではないか。つまり、端的にいえば、負け犬同士が傷をなめあっている姿ではないか。どちらの側も、学校歴偏重の上下競争の価値観を内面では蹴飛ばしきれていないからである。
 さて、ぼく(mito)自身はどうなのか。「やっぱり負け犬の一種でしょうね。そりゃあ、こんな社会に生きていて、あるいは人間存在の空虚さという本質から、まったく敗北主義にならないというほうが、かえって不思議ですよ」。こういって、ぼくは、そういう自分の「ろくでなし」の部分を、「まあ、事情が事情なんだから、今までのことはしかたないよ」という感じで許してやっている。しかし、「せめてこれからは」という気持ちで打ち出しているのが、つぎの3つのテーゼである。
 「今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて」(『こ・こ・ろ生涯学習-いばりたい人いりません-』p106より)。
 ヒエラルキーのなかにあっても個人が意味をもって生きるためには、うえの3つとも必要であろう。しかし、学問とは、問うということを学ぶということでもある。不易の部分、本質の部分を求めて、「ぼくはいったい何のために学んでいるのか」と自問したとき、とくにこの3番目の、いわば「正義の行使の裏付け」ともいえる、自己にも批判の刃(やいば)を向ける真実の追求の重要性に思い当たるのである。
 「ばか殿様」からも、それを反面教師とすることによって、学ぶことはできる。しかし、それよりも手っ取り早いのは、さわやかに生きていく力をもっている人、「ああ、この人って、いい生き方してるな」と自分までうきうきしてしまう人との出会いを多くすることである。そのことによって、自分も「さわやかに生きていく力」をもつことができる。「大人になりたくない」なんていう青少年が多いが、それは、たまたま、いいモデルとしての大人にめぐりあったことがないかから、あるいは、本人がそういう出会いから逃げようとしているからかのどちらかであろう。
 ぼくがフリースペースを個人的にも楽しみにしているのは、「おお、いいなあ」と心からあこがれてしまうような他者の生き様と出会い、癒され、こちらまで元気が出るからである。相手は学生ではあるが、ぼくなんかよりよっぽどかっこいい潔い自己決定の生き方や、自分に厳しい深い生き方をしていて、教師のぼくが思わず尊敬してしまうような学生もごろごろいるのである。こういう人との出会いを避ける手はない。このペーパーの書き手にも勧めたい。フリースペースは、参入も撤退も自由のネットワークの場である。「1年に1回だけ来てもメンバーだ」。何回も来なくてもいいが、授業が休講のときなど、1回ぐらいは来る価値はあるだろう。
 最後に、蛇足になるが、その自称「上の世界の人間」が実際に学生としてぼくに接してきたとしたら、ぼくは教師として「どう受けて立つか」を述べておきたい。教師は学習者の援助者であるから、今まで述べたようなことはそのままの形ではいわない。教育効果(変容)が期待薄だからである。今まで述べたことは、客観的には自分にも迷惑をかけている「ただのろくでなし」をさえ、「頑張っているんだから」といって認めてしまおうとする「心やさしい人びと」への忠告であったのだ。
 自称「上の世界の人間」の本人に対しては、ぼくはあざ笑ったりすることなく、その人の過剰で屈折したACとCPの悲しい事実を探り出し、本人の目の前につきつけようとするだろう。そうすれば、遠い先にあった挫折の自覚が早く訪れる結果になってしまうかもしれないが、その場合の「挫折」は現実よりも本人の理性的認識によるシミュレーションに近いものであり、また、それゆえ本人の「自己決定」の要素が比較的大きいと思われるからである。個人の幸福追求への援助のためには、教育は本当はそうあらねばならないのではないだろうか。

学生の出席ペーパーより(S大教育社会学、女)
(注=自分のことをワガママだと批判していた彼氏が、最近やけに自分にまとわりついたりプレゼントをしたりするので「あやしい」という前置きがあったあと)たぶんわたしの夜遊びのせいだと思う。わたしの夜遊びははんぱじゃなく、男友達5、6人とギャーギャーさわぐ。朝まで激論を交わすことも多い。激論のテーマは人種差別、宗教、音楽などだが、二日酔いをともなうとっても充実した朝を迎える。かれらは愛すべき Friendsである。わたしの友達はブラックが多いので、人種差別についてはすごくきびしく、わたしは日本代表としてせめられている。
 それ(注=ほかの男友達との「夜遊び」)が彼には気に入らないらしく(わたしがそのことを楽しそうに話すらしい。だって、ほんとうに楽しいんだもん)、また、わたしがあんまり彼と遊ばなくなったので不安らしい。「おまえが離れていくような気がする」のだそうです。わたしはそうでなくても離れていくのよ、と思ったけどね。プレゼントがなんぼのものじゃい。アパルトヘイトを知らない彼にもっと勉強してもらいたいと思う。彼はマンデラがどこの国の人か知らなかった・・・。
mito
 ほら、こんなに「雄々しい」いい女がやっぱりいるんだ。このペーパーには「雑談」という彼女なりのマークが付いていて、それにしてはこういう深い内容であり、そのことだけでも彼女のその「潔さ」にぼくはうれしくなってしまう。だけど、知らないということは仕方のないことだから許してほしい(マンデラはアフリカ民族会議(ANC)議長で、現在、南アフリカ共和国大統領)。問題は、差別やその他の社会の不当性、人間存在、芸術表現などの事実を知っているかどうかよりも、その本質(真実)の追求自体にそもそも関心があるかどうかだ。
 ここからは、「彼」本人からの話を聞かないまま論を進めるので、実際の彼の姿を推測するものではないということをお断わりしておきます。
 きっとあなたの今までの彼は、そういう関心そのものがまだ育ってないのではないか。世の中には、大人になってもそういう「ガキ」状態にとどまっている男が(女も!)かなりいる。社会や自己の姿をなるべく正確にとらえようとするA(大人心)を使い慣れていないのである。そういう人は、相手に「自分のために生きてほしい」と一方的に依存してくるし、自分勝手に独占的な愛を求めてくる。それは、他者(社会)との関係のなかでの自己を客観視できていないからであり、つまり、自立できていないということなのである。遊んでくれなくなると「離れていくような気がする」と相手に不安だけを訴える姿は、その淋しい気持ちもわからなくはないが、彼がまだ自己を主観だけでしかとらえられず、他者から見た自分の姿を推察する能力が育っていない証拠ともいえる。あなたのような大人の女には、そういう自立できていない男は残念ながら似合わないのだろう。
 世の中には、あなたとの「激論」に耐えうる「いい男」がいっぱいいるのだから、いい女になりつつあるあなたが、過去のそんなつまらないつきあいにあまりとらわれすぎるのはもったいないことだと思う。ぼくはそんなに雄々しい男ではないけれど、そんなぼくだって、このペーパーを読んで、「ああ、彼女みたいな人と『激論』するのは楽しいだろうな」と思う。そうは思えずに、「社会や人間のことなんかことさら考えなくたって」と思う男は、同じように思っている女とつきあって満足していれば、それで世の中は安泰だろう。
 「わがまま」には2つの種類があると思う。「わたしの人生はわたしが歩きたい」という「いいわがまま」と、「あなたの人生をわたしのために曲げて生きてほしい」という「悪いわがまま」の2つである。自分の力で自分の自立を実現して大人の「いい女」になるためには、前者のわがままであるのなら必要なことである(後者の「悪いわがまま」も愛にとっては不可避だが)。こういう「いい女」と「いい男」が居心地よく交流できるサンマ(時間・空間・仲間)を、ぼくはこの世の中にいっぱいつくりだしていきたい。
mito Lネット原稿 LNET9507.DOC 95/07/11 31


初めての人のための「狛プーとは何か」

はじめに

 最近、狛プーの「名声」は、東京・神奈川を中心に、全国の青年行政担当者や青年活動関係者のあいだに(とは言っても、そのうちの一部の人にだが)知られるようになり、網走などの遠くの地からも含めて、見学や交流のために狛プー開催日の木曜日の夜に狛江においでになる人たちがでてきている。狛プーとしては大歓迎である。もともと狛プーは出入り自由のフリースペースとしての側面をもっているからでもあるが、それよりもなによりも、同時代を生きている人との「出会い」を楽しみたいからである。ふだんの狛プーなら、その日のプログラムに「出会い」を組み込んで柔軟に展開できるだろうし、また、プログラム自体は変えられないような日でも(狛プーでは、来訪者のために自分たちが「犠牲になって」プログラムを変更するようなことはしない)、その日のプログラムを楽しんでいただければ、きっと狛プーの受容的な雰囲気を味わうことができると思う。ひとことでいえば、「気軽においでください」ということになる。
 そこで、この文章では、今まで述べた前提のもとに、初めての人のために、とくに青年行政担当者や青年活動関係者が関心をもつと思われる狛プーの特徴について、基本的なものをまとめておくことにしたい。より詳しくは、これまでの拙論や「いなほ」(青年教室活動記録)でのそれぞれのメンバーの文章をお読みいただきたい。

1 ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」

 今日までの学校歴偏重社会では、人を上下に並べてひとつの物差しで比べる。それは、結局は、偏差値を代表とする画一化した価値のもとに、個性による「逸脱」を外からも内からも抑制する「同一化」の圧力として作用してきた。そして、この学校歴偏重の価値観と、その価値観を内面化してしまった私たちが、社会全体のヒエラルキー(階層)構造を支えてきた。それらすべてに共通する特徴は、上下関係による支配と服従、多様な異なる価値の排除と画一化などである。
 これからの形成が期待される生涯学習社会においては、一人ひとりの異なる個性が認められ、歓迎されるはずだ。人間関係においても、ヒエラルキーの上下関係のなかでの地位・肩書きや制度上の権威などよりも、水平関係のなかでの異なる個性(「個の深み」とぼくはよびたい)との出会いが求められる。しかし、そういう生涯学習社会を気持ちよく生きるためには、私たち自身に、内なるヒエラルキーと闘い、「自由な遊び心」をみずから取り戻すことによって、無知で非力な自己を受容し、自己と異なる他者と共感することが求められる。狛プーがめざす「プータロー精神」とは、そういうことである。
 初年度の狛プーのチラシの呼びかけ文はつぎのとおりである。

 プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。
 私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。
 狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。

 この呼びかけ文の第2段落は、ぼくとしては、ヒエラルキーの人間疎外について批判的に書いたつもりである。しかし、このぼくの思いは、いまだにメンバーから「共感できない」といわれることが多い。メンバーのなかには、仕事や学業だってそれなりに個性を発揮しながら楽しんでいきたいと考えている人が多いし、実際に、ヒエラルキーのなかでの「ゲーム」を「自由な遊び心」でそれなりにこなしてしまう人も多いのだ。あるいは、仕事や学業については、「自分の人生」そのものとは切り離して考えている人もいるかもしれない。その場合は、本人の自己認知の有無はともかく、「自分の人生」のうちで精神的に大切な部分は「ヒエラルキー以外のところで」と考えているのだろう。
 後者だとしたら、社会と自己の関係のさらなる客観視という課題が、狛プーの今後の課題としてあげられるだろう。狛プーの番外編で、自発的で自然発生的な勉強会として「セカンドステージ」が運営されている。通常の狛プーのプログラムとは別に、メンバー同士でじっくりおしゃべりしてみたいというのである。これなどは、仕事や学業に対する他者の姿勢や意見に、自然なかたちでふれる機会として期待してよいだろう。
 そこで重要なことは、公民館の職員や講師が直接には発問することがなくても、社会とそれぞれの自己との関係が受容的・共感的雰囲気のなかで語り合われているということである。「セカンドステージ」は、公民館の担当専門職員が夜間勤務のときの夜に不定期に行なわれている。そこでの職員の役割は、非指示的であり、不定形である。これは、学級・講座での司会業や講師代行業などと悪口をいわれるような、現代化しすぎて型にはまってしまった社会教育的支援を、もう一度、本来の人間的な「なまの営み」に戻すという意味ももっている。

2 自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定

 自己の「仕事や学業」についての狛プーの認識の現段階は以上のとおりであるが、それよりもメンバーから今日まで強烈な支持を集め続けているのは、「かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きる」というフレーズである。この言葉は、コマーシャルなどのふつうの世の中の感覚では当たり前すぎて青年にとってのインパクトなどないと思うが、青年活動や青少年教育・青少年行政の世界ではけっこう目新しいことといえよう。今でも、何人かの他の自治体の関係者は、この呼びかけ文を読んで、狛プーの限界として「ミーイズム(自分主義)」を指摘するかもしれない。
 しかし、ぼくはつぎのようにいいたい。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」と思うことがミーイズムだとしたら、ミーイズムのどこが悪いのか。狛プー=ミーイズムでけっこうではないか。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」からこそ、学習する、仲間を見つける、社会参加する、社会変革をめざすなどに、自発的に発展するのであって、参加した一人ひとりが、そのどこに向かって発展しようとかまわないではないか。リーダーやボランティアだって、これからの時代は、「自分のためにやっている」といえることがさわやかさの条件なのである。
 あるいは、占星術や新・新宗教、偏狭な自己啓発セミナーなどにはまってしまう人もいるかもしれない。それだって、本人の自己決定の一環として行なわれるのであれば、援助者側がその結果に「責任を感じてしまう」のは、むしろ傲慢なことではないか。あとで「自分の人生をていねいに大切に生きる」ということにつながらないと本人が考えるようになるのだったら、そう考え直したときに本人が軌道修正を自己決定するだろう。
 何がよくて、何が悪いのかなど、具体的に教えられるものではない。私たちができることは、本人みずからの気づきのためのチャンスをふんだんに提供することだけなのだ。これに比べて、従来の多くの青年活動や青少年教育・青少年行政においては、援助者としてのその潔い自覚(「非力の自覚」または禁欲)が欠けていたのではないか。

3 善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心

 狛プーにはこれといったスローガンがない。先日、狛プーでキャンプに行くとき、担当者が子どもの野外活動向けの他事業の文書を活かしながらしおりを作ってくれた。そこには「来たときよりも美しく」というキャンプ生活のうえでのスローガンが書かれていて、それを読んだぼくらはいっせいに吹き出してしまったのを覚えている。いつもの狛プーの風土からは、そういうスローガンはかなりミスマッチなのだ。
 狛プーのいつものペースだと、つぎのようになるだろう。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。気の利かない幾人かの者(ぼくなど)は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べて「ふとん干し」をしている者さえいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかで感動する。ただ、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。
 つまり、狛プーというところは、「善導」とかスローガンとかの言葉とは無縁の空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーでの大切な言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そして、そのアンビバレンツななまの言葉を受け取る相手にとっては、薬にもなり、毒にもなる。薬にするか、毒として飲むかは、聞く側の自由であり責任である。
 では、なぜ、そういう人間存在の真実を狛プーのメンバーが共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(先述のミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自分を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が「自分を写し出す鏡」になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることは魅力的なのである。
 2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組みが、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これが、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間の根源的な欲求である。
 3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さ(私は私、あなたはあなた)が、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかでの「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると解釈することができるのである。

4 共生社会創造のための公的サービス

 狛プーは狛江市中央公民館の青年教室事業として、つまり、公式の青年教育の一環として行なわれているものである。そういう場合、主催者側は、公金を支出したり専門職員等を配置したりして参加者を援助する根拠をきちんと示せるようにしなければならない。社会教育活動自体の主人公は住民の側にあり、その自由は最大限に保障されなければならないのだが、社会教育行政の側には、公金を支出してその事業を行なう意味を明らかにする義務がある。
 青年教育の場合、青年期特有の課題として、望ましい恋愛や結婚の相手を見つけるということが重視される。そのための援助サービスも、かならずしも一概に「税金の無駄遣い」と非難することはできないだろう。これによって、個人の幸福追求などに資することができるだろうからである。しかし、青年教育が「結婚相談所」やたんなる「お見合いパーティー」の場になってしまっていいのかという疑問は残る。個人レベルの問題解決にはとどまらず、社会創造としての意義にまで発展するからこそ、青年教育はほかの民間サービスとは異なる独自の教育的役割を発揮できるのではないか。
 狛プーの場合にも、メンバーのあいだに恋愛関係が生まれることがある。しかし、そのとたんに二人は狛プーの活動から遠ざかってしまうなどという、よく見られる「つまらないミーイズム」の現象はまったく起こらない。むしろ、その二人がますます「番外編」の仕掛け人として活発に活動している。二人だけで過ごす時間も大切にするけれども、「癒しのサンマ」(前掲拙論参照)のなかでの二人の存在も大切にするのである。みんなと過ごす時間も、二人にとってはそれはそれで充実していて楽しいからだろう。ぼくは、これこそ「ミーイズムの功績」だと思っている。そもそも、狛プーには若い主婦だって参加している。「主婦業に埋没するのはいやだ。癒しのサンマのなかで、たくさんのいい仲間たちと出会っていきたい」という彼女の願いは、きっとよい妻や、よい主婦業の遂行者としての自己成長という望ましい結果につながるだろう。つまり、それは、会社人間であった男たちの最近の変化としての「自分探し」と同様の意義をもっているのだ。
 今日の社会においては、恋愛や結婚は、基本的には二人だけの幸せや不幸せの問題として閉塞してしまいがちである。ところが、狛プーにおいては、二人が仲間のなかで愛を育み、仲間が二人の愛を応援するのである(反面、「恋のさやあて」も起こりうるが、それは仕方ないとぼくは思う)。この「仲間」を「社会」に置き換えて考えてみれば、狛プーの場の提供という公的サービスが、ほかの行政分野では困難な役割を果たしていることが理解されよう(なにも恋愛や結婚に限ったことばかりではないが)。すなわち、ともに生きる社会(共生社会)やコミュニティの創造の一端を担っているといえる。
 また、このようにここちよい人間関係を実際にこの現代社会において創り出しているということは、現状否定や告発だけに終始するような受動的な運動とは異なり、競争一辺倒の学校歴偏重社会から、異なる他者をたがいに受容しあってともに生きようとする生涯学習社会に転換するという社会的課題を、実質的に達成していくという提案型の能動的な営みであるということができるのだ。

5 いい男、いい女の支援さえすればよい

 それにしても、恋愛問題をはじめとして、このように「いい男といい女」が期せずして狛プーに集まっているのはなぜだろうか。その積極的原因としては、狛プーが最初に述べたような「自分の人生をていねいに大切に生きたい」という彼らの心に呼びかけ続けていることと、彼らが「自由への恐怖」を突きつけられるなかで、みずからの内なる差別意識や被害者意識と闘い、たくましく自己成長し続けてきたことがあげられる。そして、本節ではつぎのことをいいたいのだが、消極的原因としては、いい男やいい女ではない人、あるいはそうであろうとして努力する気がまだわいていない人がいるとしたら、そういう人は狛プーから自然に「排除」されていくということなのである。
 たとえば、今の世の中の風潮では、「人を傷つけてもいいから、自分の傷を癒したい」という不幸な認識をもっている人たち(「イヤなヤツ」)は残念ながら多いだろう。現実社会では、そういう人が幅をきかせたりしている。たとえば、相手の女性が傷ついてでも、自分のナンパが成功すればよいなどという男性は、たくさんいる。しかし、そういう現代社会の人間関係がいやで狛プーにきている人たちにとっては、狛プーに「イヤなヤツ」が入ってきては困るのである。ただし、狛プーは出入りの自由を原則としている。新規参入も自由なのである。そこで、担当の職員や講師のぼくに、そういう人の排除を頼む人もいる。しかし、その排除行為をぼくらが請け負ってしまったら、狛プーの存在価値はなくなるとぼくは思っている。ネットワークではなく、ファシズムになってしまうからである。
 やはり、望ましいのは、「いやだ」と思った人が「あなたの○○という行為は、私はいやだ」とさわやかに自己主張することなのだ。その人から電話がかかってくるのがいやだったら、「あなたからの電話はほしくない」ときちんというべきなのだ。ちゃんとそういうふうに主張できる人も狛プーにはいる。そのことによって、いい男いい女になる気のない人は狛プーから自然に排除されていく。つまり、ここでの排除とは、規制や規則などによってではなく、個々人が内面的に排除することなのである。だから、逆にいえば、狛プーのメンバーがこの世の中でたくましく生き抜いていくためには、「イヤなヤツ」が(単純なナンパ目的などで)少しは入ってくれるのも、「人びとがいがみあう現実社会のなかでどう生きるか」の絶好のトレーニングの機会になるのだ。それに、さわやかな自己主張ができれば、それは基本的信頼を示す行為の一環でもあるのだから、もしかしたら、「イヤなヤツ」にとっては生まれて初めてのいい体験になり、「イヤなヤツ」から「いい男いい女」に自己変容する可能性さえなくはない。人間は無限の変容の可能性をもっているのだから。まあ、どちらにせよ、いい男といい女だけが狛プーに残るという同じ結果になる。
 ここで、いい男いい女の定義は、まだしていない。前掲拙論に「家族や学校や職場や社会のコミュニケーションのなかで痛みや悲しみは当然だれにでもあっただろうが、その痛みや悲しみをその人なりに受けとめてきた人」と書いたことがあるが、「人に傷つけられることよりも、人を傷つけてしまうことを心配する人」、「被害者意識に陥らず、さわやかに主張できる人」、あるいは、「いやなときは、潔く撤退して静かに微笑んでいる人」などと定義ができるかもしれない。どの場合でも、もともと弱い存在としての人間が、それほどの徹底したいい男いい女になれるわけがないとも考えられる(人間はだれでも「ろくでなし」であることにはかわりない=他拙論参照)。だから、実際には、いい男いい女になりたいと思って生きている人たちのことを「いい男いい女」ということになるのかもしれない。
 人が偏差値や学校歴などの画一的な物差しで比べられてきた学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、「人が個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、資格取得などによって他者を打ち負かすことを目的にした非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に沿うものとはいえないであろう。狛プーは、「イヤなヤツ」がおいしい目にあうのではなく、いい男やいい女こそが正当に評価される社会を創り出そうとする営みの一環といえるのである。
 社会教育の全国的状況からみても、前節で述べた公的サービスの存在意義を考えると、よっぽどの人的・財的余裕のない限り、いい男いい女になりたいという意思のない「イヤなヤツ」に追従するようなサービスをする必要はないといえる。そんな余裕があるのなら、本来は社会からいい男いい女として評価されてよいはずの一部の青年たちが、現代社会では「癒しのサンマ」を味わうことなく疎外されて生きている現実を、関係者はもっと深刻にとらえて、せめて「何とかしたい」ぐらいには思ってもらいたい。もちろん、実際には、全国の青年教育の場で、いい男いい女が集まってくれているとは思う。ただ、行政側や担当者が、「公平の原則」を機械的に解釈してしまって、参加者が少ないなどの理由からその事業に消極的になったり、表層的な事業展開をしたりすることによって、そのせっかくのいい男いい女の参加をいかしきれていない結果に陥っていると思うのだ。


おわりに ー癒しと成長、受容と変容の循環ー

 最後に、メンバー一人ひとりの自己成長の側面から狛プーの特徴をひとことで表わすならば、次のようなことになるだろう。それは、「癒しと成長」あるいは「受容と変容」ということである。しかも、それがよい意味での相互の循環効果を及ぼすのだ。
 競争社会におけるキャッチアップ型(追い付け、追い越せ)の教育は、学習者の成長・発達だけを重視してきた。しかし、本人が個人として生きているときの意味としては、癒し・安らぎという要素も重要なのである。生涯学習時代の社会からの援助は、これを重視して行なう必要がある。癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向にも望ましく作用する。言葉をかえれば、受容と変容は循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組みを自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善する(変容)勇気をもつことができるのだ(ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容はかならずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う)。
 開きたい心を安心して開くことのできる狛プーのサンマ(時間・空間・仲間)は、癒しと受容を創り出し、そのことによって、成長と変容を実現する新しい援助形態として現代学歴社会に抗して存立しているのである。
(注)狛プーとは、狛江市中央公民館で行われている青年教室「狛江プータロー教室」の愛称である。
西村美東士・昭和音楽大学短期大学部助教授
狛プー年間講師
狛江市中央公民館(担当岩崎)
VOICE 03(3488)4411
mito 原稿 コマプ全社.DOC 95/02/20 4

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大学生のための進路指導のあり方
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S短大社会教育概論、女)
 社会教育主事課程は以前から取りたいとは思っていて、どんな内容の授業なのかと楽しみにしていました。けれど今までいくつかの講義を受けてみて少し不安になりました。人はこういうときどう感じるのかとか、このことについてどんなふうに考えるのかなどという抽象的な心理学のような授業を、どんなふうに吸収して学んでいけばよいのかわからないのです。予習・復習というような科目ではないし、やはり自分の考えをしっかり持っていることが大切だと思うのですが、いまいち授業の波に乗れません。堅く考えすぎなのかもしれませんが、今の正直な気持ちです。けれど先生の授業はなんだかとてもリラックスして受けることができます。
学生の出席ペーパーより((T大T部社会教育計画、女)
 先生がもっとゆっくり話してくださればいいと思います。あまり早口でずっと話していると疲れるでしょう。私は他学科なので生涯教育については何も知識がないので、一般人にもわかりやすく教えてください。
mito 第1回の「オープニングセール」において、このmito的授業の目的について、一応は、「幸せになるために生きている」→「生きることを学ぶために学生をしている」→「だから、この授業では、幸せに生きるということを考える」→「幸せ(コミュニケーション)を相手に与えることができるから自分自身も幸せになる」→「そのために、他者の幸福追求の援助者(幸福配達人)としての社会教育主事の資質・能力を身につける」というオリエンテーションをしたと思う。しかし、ここでは、もう少し別の視点から説明してみよう。社会教育主事課程を学ぶということには、社会教育主事としての資質・能力を身につけるということと、採用試験に合格する力をつけることの2つの目的がありうるのだろう。人によって、そのどちらでもいいと、ぼくは考えている。
 前者の社会教育主事としての資質・能力については、社会教育審議会成人教育分科会の報告「社会教育主事の養成について」(昭和61年10月)において、@ 学習課題の把握と企画立案の能力、A コミュニケーションの能力、B 組織化援助の能力、C 調整者としての能力、D 幅広い視野と探求心、の5つが挙げられている。これが現在のわが国の社教主事養成の基本指針である。mito的授業も、これらの資質・能力の獲得を目指したものと考えてもらってよい。そして、このような資質・能力は、学習者がたとえ社会教育主事にならなくても、この現代社会で、一度しか生きられない人生を大切にていねいに生きていくためには、いろいろと役に立つだろう。
 しかし、後者の採用試験に合格する力については、前者の努力のほかに、ほかの努力も必要になる。この種の質問が多いので、ここでそれについて触れておこう。まず、5年間分くらいの「カコモン」(過去の問題)を解いて「傾向と対策」を把握することが必要だ。それは、今の自分のままでは、どこが採用側から切られる要因になるかを客観的に自己評価するために必要なことなのである。そのうえで、今の自分には足りない知識については、社会教育の基礎であれば『こ・こ・ろ生涯学習』の「ひとくちミニ知識」、生涯学習理念の関係であれば「生涯学習理念はなぜ新しいのか」、社会教育計画であれば『生涯学習か・く・ろ・ん』の「地方自治体における学習プログラム作成の視点」などによって、フォローするとよいだろう。そういうものは「書き言葉メディア」から学んだほうが、効率的だし、主体的な学習方法といえる。そして、ここに著者がいるのだから、声をかけてくれれば、(本心から)喜んで質問にも答えるし、ほかの参考書も紹介できる。
 ただ、mito的授業自体も、社会教育主事採用試験に合格する力と無関係なわけではない。そもそも時代の流れは、mito的授業がキーコンセプト(鍵概念)にしている個の深みを重視するネットワーク型社会に向かっていると思われる。これからの採用試験には、それに近い事項の理解度を計るための出題が多くなるだろう。また、自己の思考を言語化して表わすトレーニングは、面接や小論文で自分の考え方を述べるときなどには、かなり役立つことと思う。
 さらに、どうしても社会教育職員になりたければ、つぎのような就職活動が必要になる。mito的授業で身についたコミュニケーション能力、ネットワーク能力(ノウ・フウ)を生かして、全国の社会教育関係職員採用のチャンスを探し出し、手当たり次第に50箇所ぐらい受けるつもりになるのである。「数打ちゃ当たる」である。これが社会からあなたに与えられるチャンスをものにするコツである。これは、社会から許される範囲での賢い「厚かましさ」ともいえる。大切なときに厚かましくなれないと負け犬になってしまう。厚かましさもときには必要なのである。ネットワークも作らずにただチャンスを待っているだけのあなたをわざわざ誘ってくれる社会ではないからだ。社会があなたを選択する(切り捨てる)権限をもっていることをきちんと認識できて、はじめて、今度はあなたが社会から与えられた選択の自由を最大限に行使することができるのである。「落ちるのは劣等感を刺激されるから、合格する可能性の大きい選び抜いた所しか受けない」という姿勢で就職活動をする人がいるけれども、そういう敗北主義的な態度だと、社会教育主事という職業にかけるその人の情熱を社会が認めてくれるということは難しい。mito的授業における「人が生きること」(幸福追求)についての学習は、そういう敗北主義を克服して選択の自由の権利を行使するような実際の生きる力につなげることができるのではないか。余談になるが、社会教育を学んでいると演奏の力まで伸びるという今までの履修者の実績も、ひとつには、こういうところからきているのではないかとぼくは思っている。
 mito的授業のもうひとつのポイントは、「夢(自分の生き方、自己の存在証明)を見つける」ということである。ここでいう「夢」とは、「社会教育主事採用試験に合格する」などというものではない。あなたの本当の夢は、「私だったらこういうふうに社会教育を進めていきたい」「聴衆を前にしてこの曲をこういうふうに演奏して感動を伝えたい」ということのはずである。今のところその夢を実現するために一番有利な近道だと思われるものが社会教育主事専門職やプロの演奏家として採用されることであるというだけの話なのである。社会教育の活動などは、極端にいえば、ボランティア活動であっても、その夢が実現できるかもしれない。実際にはどちらが有利かは、やってみないとわからないものだ。世間の物差しなど当てにならないものだ。大学だって合格したという事実だけで幸せな気分でいられたのは束の間であったことを思い出していただければ、そのことは理解されよう。「自分はどこに入るか」ではなく、「自分はどう生きるか」がまだはっきりしないから、高等教育のなかでそれを探し出すのである。これは、すなわち、生きることを学ぶということであり、自己を確立するということである。
 mito的授業は、本当の夢の方への支援だと思ってほしい。学生の就職活動に対する大学学生部の役割は求人情報の提供などにあると思うが、教育的専門職員である大学教員の役割は、就職活動のプロセスのなかでの自己確立への教育的援助にあると思う。学生自らが「有利」になるために活動することはその人にとってはとても大切なことで悪いことではないが、特別な事情でもない限り、そんな個人的なことを教員として援助する気にはとうていなれない。ぼくが援助したいのは、自分の存在価値を求めて本当の夢を見つけようとする学生の自発的な営みである。ほかの教員だってそうであろう。これが高等教育における進路指導のあり方だと考える。そして、確かな夢をもっている人が必ずしも希望する会社や職種に就けるというわけではないというのも残念ながら現実だが、それでもかなりの人が結局は第2希望、第3希望ぐらいには入っていく。その学生の本当の夢を聞くことができれば、教員も精一杯応援する気にならざるをえないのだ。しかし、主体的な理念や考え方ももたずに社会的に有利だとされているところに入ろうと思う人がいても、これはまず間違いなく落とされるだろうということは、ほぼ確実にいえることなのである。社会は、そんな個人の勝手な都合などいちいち聞いてはくれないからである。
 本人が本当の夢をはっきり認識できさえすれば、何らかの形でそれを実現することができるだろう。たとえば、ぼくの友だちは、「ユースワーカー」になりたくて、ぼくといっしょに就職活動をし、現在はY市ボランティア協会の職員をやっているが、彼は就職活動中、「就職がうまくいかなくても、ラーメン屋の屋台をやりながらでも、ユースワークはできる」と言っていた。今や図書館活動のメッカである日野市も、「リヤカー引っ張っても図書館だ」というたくましいやり方でスタートしたのである。このような意味から、mito的授業は、自分の現代社会との関わり方をあらためて考え直す機会としてとらえてほしい。

● 個人の素晴らしさと、社会にそれを認めさせることの違い
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S短大教育社会学、女)
 初めてこの用紙に書きます。mitoちゃんの授業は、とても楽しいし、個性的だと思います。それで私が最近思うのは、他の大学では「教育社会学」という授業をどのようにやっているのかなということです。他の大学の教育社会学の授業でも、こういう内容をやっているのでしょうか。もし全然違う内容で、教員採用試験に出るようなことを毎週やっているとしたら、教員採用試験を受けようと思っている私にとって、とても心配です。私は教育社会学という授業はmitoちゃんの授業しか出ていませんから、今やっているこういう内容が教育社会学というものなんだと思っています。別にmitoちゃんの授業が不満なわけではありません。とても楽しいし、勉強になるし、これからも毎週出ようと思っています。ただ、ちょっと不安になったので書いてみました。
mito
 mito的授業について「楽しいし、勉強になるし、これからも毎週出よう」と感じながらも、実際の教員採用試験を考えると不安になる気持ちは、ぼくにもよくわかるので、一般論にはなるかもしれないが、ていねいに答えてみたい。
 教育社会学の「知識の量」を試す問題は、教員採用試験においてはあまり出題されない。社会学というものが、そもそも範囲が広すぎる学問だからということもあろう。教育社会学についても、教育が社会に及ぼす影響、社会が教育に及ぼす影響、そして教育のなかの社会など、その範囲はかなり幅広い。しいて言えば、「ピアグループ」の教育的機能と逆機能の理解などは押さえておいた方がよいかもしれない。そのほかの教員採用試験の「知識の量」を試す部分については、各自が「カコモン」(過去の問題)を解いて「傾向と対策」を把握することから始めなければならない。教育社会学では必須のデュルケームなどについては、「教育史」あたりの自己学習でカバーできるであろう。これらは、「話し言葉メディア」ではなく、「書き言葉メディア」(本)から効率的に学ばなければならない。
 しかし、そういう自己学習を、問題関心なしに進めるのは至難の技である。「頑張ろう」という気持ちだけで頑張り続けられるものではない。学習はもともと関心があるからこそ行うものだから、ガンバリズムだけでは学習者は疎外感を感じてしまうのである。これが「受験地獄」と呼ばれる現象ではないか。ぼくの授業は、ひとつには、少しでも楽しく受験勉強をするために、そのことがらに対して問題意識をもつためのものととらえてほしい。
 また、各地の教育委員会も、最近はとくに、表現力やコミュニケーション能力など、生涯学習時代の学校教育の役割(自己教育力の育成)を実現できる主体的な力量を、新規採用教師に求めるようになってきている。自分の頭で考えて、言語表現を使ってその思考を相手にもわかりやすく外在化させることができる力量を求めるようになってきているのだ。論文や面接などで、そういう力が試されることになる。そういうとき、ぼくの授業で、ああでもない、こうでもないと、自分の頭を使って考えた時間は、きっと役に立つと思う。自分のフィルターを通して、そのテーマについて話し、書くことができるようになるだろう。それができるようになれば、「自分は知っていると思う」「自分はこう思っていると思う」という状態から、自分が無知で非力であることや思考に欠陥があることを具体的に自覚したり、そのなかでも知っていること、思っていることを言語で表現したりできる状態に発展させることができるのである。しかも、授業で扱っているテーマは、身近なことばかりのようだが、じつは、学習者という個人と、ときには個人の個性を抑圧する親や教師や友達など(社会)との関係を、個人の学習援助としての教育という視点から追求しようとするものであり、教育社会学の本質的なテーマとも一致しているのである。あとのテーマの料理の仕方は、高等教育においては、教員一人ひとりによってまったく異なるものだ。今や学問は「一人一学説」の時代なのだから。
 社会(ここでは新卒者を採用する人事窓口)は、個人に「素晴らしさ」そのものを要請しているのではないのではないか。なぜなら、そんなことをいえば、だれだってそれなりに素晴らしい存在だからである。それよりも、各人がさまざまにもっている素晴らしさを、社会に対してどう理解されるように表現し、実際にどう仕事に役立てることができるかを知りたいのである。これを学習者個人の立場からいえば、高等教育の授業を受ける場合、賢くなることとともに、その賢さを生きる力に結びつけることも自律的に考えておくことが必要といえるだろう。言い換えれば、頭がよくなる(知識を増やす)ことだけでなく、その頭を使えるようになることのふたつが必要なのである。「自分自身はわかっているんだけど」という状態から、「自分自身がわかっていないことをわかったからこそ、わかったことからいまの自分は始める」という状態に発展させるのである。これは、人間が生きていくための主体性とよんでいいだろう。

● 社会的役割遂行としての教育の特殊性
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)
 言いたい放題、書きたい放題のこのペーパーを実行しているmito先生は、それだけでも本当にすごい人です。この強さはどこからくるのですか。この説明をどのように表現したらわかってもらえるのか困っていますが、臆することもなく向かっていけるこのエネルギー(精神)はどこからくるのでしょうか。mito先生は、私にはしたくてもできないもっともしたくない方法ばかりとっています。すべて(注・アンビバレンツまたは1%の批判)を受け入れてしまえばOKよ、というだけの説明では納得しません。言いたい放題、書きたい放題で、皆が先生に甘えているように思えてならない。
mito
 だれでも、給料付きの役割遂行であることを自覚し、少し自負をもっていれば、あとは「強さ」がなくても「元気」があればこのような程度にはやっていけると思う。それでも、なお、元気の源は、と問われれば、「ごはん、おふろ、ふとんの幸せ」と「癒しのサンマ」(フリースペース、狛プー)という答えになるであろうか。
 出席ペーパーシステムは、学生の批評精神を支援しようとするものであり、心にもないことや根も葉もない誹謗中傷は別として、思ったことは何を書いてもよい。このシステムによって、ぼくは、批評精神の欠如という現代の主体性の喪失と信頼関係の崩壊の進行に異議申し立てをしようとしているのだ。批判は知的水平空間においては一種のストロークであり、それを受けて立つのは教師としてのぼくの社会的役割である。だから、もし、日常の社会の、ときには仮面をかぶらなければならない人間関係において、ぼくが同じようにあけすけな批判をされたら、「ぼくのことをわかりもしないのに、ほっといてくれよ」と怒りだすかもしれない。それはわからないし、ぼくがどうするかを責任をもって公言しなければならないことではない。

● 学習者にとっての教師の不快な言葉と無益な言葉の違い
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S大教育社会学、女)
 先生の話しはクドくて生々しすぎて嫌です。性問題も大切だとは思いますが、すぐ恋愛やSEXに結び付けないでください。
mito
 現代社会においては、たとえ恋愛やSEXという個人的なことがらであっても、それが「社会的問題」(ここでは性問題)として存在してしまうのである。ぼくは、これを「現代人の性の非主体性」(対等な人間関係のなかでの恋愛やSEXを味わえない問題など)という視点から考えている。その「現代人」には、ぼくもこのペーパーを書いた学生も入ってしまうのである。ただし、各人の主体(認知・行為・評価する我)によっては、その社会的影響を内面的にはかなり払拭できている人もいるかもしれない。程度の差はあるということは、ぼくも認めなければならないと思う。
 それでも、ぼくは、このペーパーでそれ以上にどきっとしたのだ。それは、「クドくて生々しすぎる」という指摘に関してである。ぼくは、「『膣外射精による避妊の失敗』は、自分の性欲までコントロールできるという性に関する男の自信過剰と、女性にたいする生意気で傲慢な姿勢からくるものであり、性の非主体性を表わしているのではないか」と言った。そこまでは言ってもよいと今でも思っているが、相手に対する「してあげる」喜びとしてのSEXになっていないこと、それを女性がきちんと拒否できないことを批判するために、「顔面発射」という俗語まで持ち出して、「そんなことが女性にとって気持ちいいわけないですよね」と言ったのだ。「顔面発射」という俗語は、そのことをいうためには無益であり、女性にとっては不快な言葉であったと思う。そこまで言ってしまったのはなぜだろうか。「不快なこと、きわどいことを言って衝撃を与えたい」というセクハラの気持ち、意地悪な気持ちがぼくにあったのではないかと、このペーパーを読んで思ったのである。あるいは、性に関する現代人の不幸な状況を今すぐ変えたいという無茶な思いがあったのかもしれない。いずれにせよ、各人の思考における決断については各人に任せるという知的水平空間にはなじまない言葉であった。ぼくの言葉の被害にあった学生には申し訳なかった。
 ただ、mito的授業において、現代社会における人びとの非主体性の本質という真実に迫るための言葉については、「クドくて生々しすぎて」も、あるいはクラく見えても、できるかぎり真正面から受けとめてほしい。それは、個人と社会の関係を考えるためには、あるいは、他者の学習や幸福追求を援助しようとする教育や教育学を学ぶためには必要不可欠なことなのである。そして、学習者にとっては無益なぼくの屈折の授業における表れについては、きちんと自分なりに見分けて、これからも批判、批評し続けてほしい。

● 見返りの期待を相手に押し付けるな、見返りが期待できるような行為をせよ
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S短大教育社会学、女)
 気をつかうということは、今の自分に無理をしている状態で、気がきく人とは、つねにいいことをしてあげようとしていて、人に与えることができる人なんですね。今、私は彼に与えることをしていないような気がします。でも、自分がこの人に何かをしてあげるんだ、なんて思ってしまうと、なんだか見返りを求めてしまいそうです。よくわからない文章になってしまいましたが、コメントください。
mito
 ストロークの基本は、自分と相手を基本的に信頼することである。たとえば、このペーパーの言葉を使えば、「いいことをしてあげよう」としている今の自分の気持ちはけっして非常識ではないというように自分を信頼(自信)し、そういう自分の好意を相手は受け入れる力をもっているだろうというように相手を信頼(他信)することである。だから、相手のためにしてあげるある重大な行為について、受け入れてもらえるという自信や他信がまだもてないときに、「自分がこの人に何かをしてあげるんだ」と頑張って無理にその行為をしてしまうことはたいへん危険だと思う。まだ不安な場合は、相手に「どう?」と聞いてみればよいではないか。聞いてみることも信頼に基づくストロークのひとつなのである。あるいは、小さなプレゼントをたびたびあげるなどして、少しずつ信頼関係をつくりあげていく手もある。ディスコミュニケーションの現代社会においては、「気がきく」というのは、自分勝手に判断することではなく、相手に聞けることであり、信頼関係が最初からあることではなく、少しずつつくりだせることなのである。
 さて、「見返り」についてであるが、以上の趣旨から、「見返りを期待しない一方的な好意と行為」こそが、コミュニケーションのない自分勝手な思い込みに陥る危険性をもっているということが理解されよう。ここで「見返り」とは、打算的、実利主義的なものとは違い、もっと精神的で微妙な見返りである。これは、最近、ボランティア活動の魅力についてもそういわれているところである。しかし、もう一方で、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない、あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」という人間関係の真実がある。「自分のために自分の人生を生きている」といえることと、自分の期待を相手に押し付けないことの両方が必要なのである。そこで、ぼくは、このようにまとめておきたい。「見返りの期待を相手に押し付けることはできない。しかし、好意をもつ相手からの見返りが期待できるような行為をすることは、自分の責任においてできることである」。

● 「ただのろくでなし」と「ましなろくでなし」
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)
 神経症もちなので先週のゲームはけっこう辛かった。偶数日だけ出席しようかと思う。でも、講義を受けていても(中略)手は震えるし、思考力もものすごく鈍っている。きたない字ですが、本人はものすごくゆっくりていねいに書いているつもり。耳をとがらせてでもよく聴いて、いろんな情報を聞いたり考えたりしたいと思っています。本当は奇数日も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか。
mito
 ぼくは、この学生の真摯な態度に敬意の念を感じる。ぼくの授業では無理をしないようにしてもらいたい。すでに公言してあるとおり、出席、入退室はすべて自由であり、ぼくにはきがねなく自己決定してほしい。
 mito的授業、とくにこの授業のような態度変容をねらいとする体験学習においては、次のような参加の仕方が考えられる。これらを、自分で選択して行動するということが大切である。@欠席する(授業より有意義なことをする、ボーッとしているなど。その時間の使い方を総括するレポートが翌週に提出されれば出席扱い)、A出席するけれど、出ていきたくなったら出ていく(出席扱い)、B参加したくなかったら、どいてしまって、授業を観察している(高見の見物)、C参加するけれど、発言したくないときはパスする(しゃべりたくないことはしゃべらない権利の行使)、Dバカになって参加する(非力の自覚)、E批評的に参加しつつ、あとで批判する。最後のEは、体験学習においてはそれを体験してからの話である。そうでないと批判にならない。また、@からCまでの行動は、ネットワーク型社会において求められる「潔い撤退」である可能性がある。
 ここで困るのは、撤退をしながら撤退仲間(ピア)とこの授業の陰口を言い合って満足している態度である。ぼくは、それを「ただのろくでなしの行為」とよんでいる。撤退は自由なのだが、残留者は残留者で自分にとっての意味を見つけてこの授業に参加しているのである。残留者のことがどうしても気になるのなら、その残留者と率直に意見を闘わせればよいではないか。以前、6月中旬という時期に「私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのかわかりません。しかし、他の授業の様子(西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに『変に理解しあってしまう』という理由から僕の授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです」と書いてきた学生がいた。個人の事情で欠席していたことはかまわないのだ。しかし、「真剣に」「興味深く」参加している他者について勝手に推測したりする権利にはつながらないはずだ。ぼくは、「この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて『真剣に』受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう」とコメントした。こういう学生の行為を、「潔くない撤退」、または、「ただのろくでなし」とよぶことができるとぼくは考えている。社会教育団体においても、撤退したはずのメンバーや元リーダーのような人が、いつまでも「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみついて、現在の団体運営に干渉をして団体の自主性を損なっている例があるが、これなども「潔くない撤退」なのである。
 「ただのろくでなし」には、もうひとつのタイプがある。途中退出が認められ、実際に何人かがそうしている状況のなかで、また、せっかく授業を聴くのを楽しみにしているのに私語がうるさくて聞きずらいという学生のペーパーを読み上げているのに、なおかつ、おしゃべりばかりしていて退出してくれない学生がいるのだ。あるいは、熱心に受講している学生を冷やかに笑っていてくれればよいのに、それさえもできない。これは、まわりの人への迷惑よりおしゃべり仲間との「つながり」を優先するピアコンセプトの表れであり、かといって、他の学生に迷惑をかけてでもそういう学生の学習から落ちこぼれたくないから退出しておしゃべりを続けることもできないという、非常に惨めで情けない破廉恥なピアコンセプトの表れなのだと考えられる。
 このように考えると、「本当は奇数日(体験学習の日)も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか」と言う学生の言動との質の違いは明白である。人間は、ピアコンセプト(仲間意識)などの自己の内面的要因や現代管理社会による外部からの抑圧などのなかで、他者の目におびえ、潔く参加や撤退ができない「弱い存在」である。すなわち、「ろくでなし」である。しかし、それは、まだましな「ろくでなし」なのであって、そこで葛藤して自己解決に向かう姿は、「ただのろくでなし」とはずいぶん違うのだと思う。「ただのろくでなし」の存在は事実であってもくだらなすぎて小説のネタにもならないが、「ましなろくでなし」の葛藤は小説でも追求しているメインテーマなのであり、人間的真実そのものなのである。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、男)
 私語の話はやめにしていただきたい。せっかく仕事を終えてメシも食わずに教室に駆け込んでくるのに、何回も私語の話などというクダラナイ話で時間を潰している。こんな話で時間を拘束されるのであれば、「これから20分、私語の話をしまーす」と宣言してほしい。その間、寝るなり、学食へ行くなり、有効に時間を使えるではないか。
mito
 ぼく流に、この学生の言いたいことを翻訳すれば、「ただのろくでなしのことなど、そもそも関心がない。そんなやつらのことなどほっておいて、もっと本質に迫る話をしろ」ということだと思う。主体的な学習者の態度として、これでよいと思う(こんな評価は、彼にとっては余計なお世話かもしれないが)。学習者は本質的に「自分のために学習する」のである。自分の学習のために無益であると思えば、彼のように教育側を批判することによって、「メシも食わずに教室に駆け込んできた」自らの学習権を行使すべきである。なお、いずれにせよ、私語の話はmito的授業の初期のころにする話であり、中盤以降はほとんど話題にならないから安心してほしい。
 ほくが私語の話をするのは、ひとつには、おしゃべりする学生の自由を認めたうえで(退出して廊下などでおしゃべりをしてよいことになっている)、自由を欲していて、しかもその自由を認められている自分こそが、他者の自由(学習したい者の学習権)を侵害しているのだという事実を知らせ、「相手が悪い(授業がつまらない)からそのせいでしゃべっているのではなく、おしゃべりしている自分がろくでなしなのだ」という真実に気づかせ、他者や社会のせいにできない状態に追い込むことによって、「ただのろくでなし」の状態でいる人に「自由の恐怖」を味あう機会を提供し、自由の行使の大切さを認識させるためである。
 それでは、ほかの「ましなろくでなし」である人たちにとって、私語に関する話は無益であろうか。普通なら無益なのかもしれない。たった一度しかない人生を、つまらない人の生き方やつまらないことがらとつきあってわざわざ無駄にすることはないからである。しかし、この授業は「教育学」の一環なのである。現代人の主体性獲得への援助者としての力量を身につけるためには、この「ただのろくでなし」の問題を本質的にどうとらえ、どう対処すべきかということが重要になる。援助者にとって大切なのは、「ただのろくでなし」に対する「否定」ではなく、「共感的理解」である(ちなみにけっして同感したり同情したりする必要はない)。「ただの」か「ましな」かは違っても、同じ「ろくでなし」の部分を共有しているのだから、理論的には共感は可能なのである。とくに、自らの「個の深み」や主体性を発揮するときの阻害要因としてのピアコンセプトについては、「ましなろくでなし」の人にとっても思い当たる節が多いのではないだろうか。


● 社会人入学の本質的な意味
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)
 大学生活3年目にして異質の先生に出会い、教室の雰囲気と学生のレポート(出席ペーパー)の内容にカルチャーショックを受け、後席の若い子に「反応の鈍い私はついてゆけそうにない」と話しました。事実、呆然自失の状態でした。その子は、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれました。
 私の年代の人間は、全力投球型の馬車馬的タイプが多いのかもしれません。そして、あらためて生涯学習とは何なのか、大学に何を求めているのかを考えさせられました。歳をとると頑固になるといいますが、気づかずに私は自分で垣根を作り、囲いのなかで自分の殻に閉じこもっていたのですね。
 学ぶということは、新しい自分を発見することにほかならないことで、異質と感じる心は動脈硬化の始まりであることをあらためて知らされました。若々しい空気、自由な雰囲気に触れることで、私のなかの何かが変わればと思います。私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せです。
 お願いがあります。もう少しゆっくりお話ししていただきたいことと、英語より日本語を少し多めに使っていただけたらありがたいのですが。(以下略)
mito
 これは自宅で書かれて翌週にマル秘で提出されたペーパーを、ぼくが本人に頼んで紹介させてもらったものである。まず、早口であることと専門用語の濫用についておわびしたい。これは、ぼくのある意味での「詰め込み主義」と、「わかりやすい言葉で説明できない力量不足」のせいである。ほかの学生からもそういう苦情は受けており、改善の努力をしたい。
 そして、この社会人入学の学生の不安に対して、「気楽に楽しくやればいいと思いますよ」と言ってくれた学生にもお礼を言いたい。ぼくも心からこの人にそうお願いしたい。そして、早口などについて謝りたい。「呆然自失の状態」から「私の年齢で若い人たちとともに学べることは本当に幸せ」と書いてくださっていることにぼくは救われた思いである。一人ひとりが「学習しなければならない」から「〜を学習したい」という本当の学習主体に内面から変わっていくことこそ、学歴偏重社会から生涯学習社会への変革の真のエネルギーになるのであろう。
 企業研修を受け入れている大学のある教育系の教授に、ぼくは、「企業のほうが大学より教育ノウハウをもっていると思うんですけど、なぜそういう企業が教育学を学ばせるためにわざわざ社員を大学に派遣するんでしょうね」という失礼な質問をしたことがある。その教授は、「哲学を学ぶためでしょう」と即答した。社会人入学の本質的な意味は、そこにあるのではないか。そして、そういう大学で学ぶべき「哲学」とは、けっして実社会からかけ離れたものではなく、むしろ現代社会が切実に求めている学問といえるのである。


● スクエアヘッドを乗り越えて、いい加減さとMAZEの知的水平空間を
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、女)
 先生は出席ペーパーの批判に丁寧に答えていますが、そのなかに偽善はありませんか。こういう考え方もできるし、あれもいいんじゃないですか、こういうのもいいんじゃないですか、と話す。一体全体何が本当に先生自身はいいと思っているんですか。mito的授業といいながら、形式はそうですが、内容が本当に先生らしいのでしょうか。先生は何か私たちに訴えていますか。まだ私には何も伝わってきません。
mito
 ぼくは、この世の中に「間違っている人」というのはいないのではないかと思っている。今まで、たくさんの出席ペーパーを読んできて、「あっ、とにかくこれは間違っているぞ」と思ったことがないのだ。もちろん、違う枠組みもありうるではないかという「批評」や「批判」はぼくの思考のなかにも起こるし、それは授業でもぶつけているはずだ(エンカウンターと呼ぶことができる)。しかし、同時に、相手には相手がそう考える根拠や相手なりの事情と理由があるのだと思ってしまう。その事情と理由の具体的な内容はわからないけれど、「何かがある」ということは確かに感じるのだ。根拠も何もなしに非常識なことを考えている人などいないのではないか。そう思うと、「この人の言っていることは、きっとこういうことなのかな」という気持ちが自然に芽生えてくる。そして、その人の文章から、その人の思考の真実のうちのごく限られた一部の断片が見えてくる。問題は、その人がまるっきり根拠のない心にもないウソ(虚偽)を書いている場合であろうが、4年間のすべてのペーパーのなかで、まったくのウソだと感じたものは一枚もないのだ(まったくのウソであった場合は、逆の真実が読み取れるかもしれない)。
 つぎに、「ぼくが訴えたいことは何か」ということについてであるが、このペーパーに対してであれば、「いい加減はよい加減」と「MAZE」ということになる。熱い風呂や水風呂の良さを主張する人がいてもよいけれど、そのどちらでもなく「よい加減」を見分ける力量も今後の多様でファジーな価値の交錯する社会においては必要である。一所懸命になりすぎて一つの所にはまり込んで結局は自らが閉塞してしまうのではなく、「いい加減」に渡り歩く力が必要なのである。MAZEとは、ミスマッチでアバウトでジグザクでイージーゴーイングな知の迷路をさまようことの楽しさを表わすぼくの造語だが、これについては「生涯学習か・く・ろ・ん」に書いたとおりである。そして、「こ・こ・ろ生涯学習」では、L.ベラックの言葉を引き、物事の白黒をはっきりさせないとイライラする権威主義的な「スクエアヘッド」から、曖昧さに対する許容度が大きい柔軟思考の「エッグヘッド」への転換を主張している。これも参考にしていただきたい。

● 知的水平空間と貧富の差
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、男)
 今までの授業を聴いて、たしかに先生の授業は面白いというか、興味がわくというか、まあ印象はよいようです。でも、結局、何が残るのかよくわかりません。今回はけっこう良かったと思っても、そのうち、あれっ、何をやったのかと、引き潮のように忘れてしまうタイプの授業だと思えてきました。でも、そのうち、出席していれば何かは身につくでしょう。とりあえず来週は出席します。でも、てきとうにサボタージュもする予定。五月病がはやるこの季節ですから。
 なんでTEXTは自著でありながら買わせるのでしょうか。そんなに印税がほしい? 私たちは一授業に数万円払っているのに、TEXTを持っているほうがトクな授業をするのはやめてほしい。この授業だけではないけれど。
mito
 この人が「書き言葉メディア」としての本からは学ぶものがないと考えていて教科書を読まないのなら、それはこの人の自由な個人的判断に基づくものであり、ぼくの「話し言葉メディア」としての授業から学べるものを学びとればよいだけのことである。教科書をもっている人がトクをするからといって文句をいう筋合いのものでもないだろう。ぼくのほうも、どうしても買ってほしいと懇願したり、買わないと単位を出さないなどと脅迫したりするつもりはさらさらない。
 問題は、この人がお金に余裕がないために教科書を買いたくても買えないという場合である。知的水平空間も、現代社会の貧富の格差の影響を受けるのである。そのことについて、ぼくは、「教科書をもっていない人のために、ぼくは実物投影機やパソコンで必要箇所を映し出したりするけれど、そういうサービスには(見ずらいなどの)限界がある。しかし、学生が教科書を買えないことは、教師のぼくの責任ではない。余計なお世話かもしれないが、できれば、無理して教科書を買うか、先輩から安く譲ってもらうか、それができなければ、授業の終了後に書店で立ち読みするなど、『書き言葉メディア』でのフォローを、『話し言葉メディア』の授業に対してしておいたほうがよい。それは、より効果的な学習をしたほうが学習者にとってトクだからである」といったのである。教科書による学習の相乗効果が大きい場合、授業料や受講に費やすお金や時間を考えれば、教科書購入に関わる出費は各人が何とかしたほうがよい課題だと思われる。実際、「引き潮のように忘れてしまうタイプ」というのは、この人にとって、mito的授業の特徴であると同時に、「書き言葉メディア」でのフォローをしないこの人の学習方法自体の特徴でもあるのではないか。そういう学習方法を自らが選んだのなら、逆に、「引き潮のように忘れてしまう」のもよしとする潔さが必要なのではないか。
 なお、なぜ「自著でありながら」教科書に指定したかという問いには、「自著であるからこそ」教科書に指定したと答えておきたい。高等教育においての教授活動とは、教員の自己の研究の現在の到達段階の告白(profess )だからである。


● 知的水平空間のつくり方
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、女)
 今日の授業はこじつけでした。御自身でもそうおっしゃっていたようですが。夫婦や性のVTRが、どう大人の指導につながるのでしょう。まず、(mito注・今回の教育目標の)(3)大人に「幸福を配る」とは何ですか。自分の勝手な思いあがりを見つけるんじゃなかったんですか。先生の授業は社会教育のために私たちに自己発見させようとするものだと解釈していましたが、最近わかりません。今日の夫婦のVTRの「相手」と「自分」を大人という共通点で学習者にあてはめるんでしょうか。大人に「幸福を配る」自分とは、その人たちにとって子どもととらえられてしまう自分なのですか。どこに社会教育としての自分の存在を位置するかわからなくなります。それくらい考えるべきですか。いや、先生がヘタです。学生にわかりやすい材料を使っているつもりかもしれないけど、ただ先生が使いたかっただけ。性のビデオとか、先生は何を使ってもいい権利をもっているわけですから。使ってみてから批判されるまで。少なくとも、社会教育としてのVTRとのとっかかりくらい説明してみなさい。VTRの内容だけやりたいのではと言われたくないのなら。それは個人によって得るものが別、などと逃げるな。
 少なくとも私は、社会教育の知識をこの授業で得ることを要求している。方法の自由が、先生には与えられているのですよ。私だって、先生の授業において、余談のような、人生について考えられる話は面白く聞いている。しかし、それは「得した」という程度のものだ。もしかして、VTRと社会教育とは、ひと〜〜つも関りがなかったのかしら。もしそうなら、「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。
 ヒハンする前に、先生の答を正答としてしまう人もいる。先生は問題を提起した以上、答える義務はあるのでしょうが、それを選ぶかどうかは、その人次第ですものね。私は先生にも変わってほしい。その押しつけがましさから抜け出したいと感じてしまうときもある。影響を与える人ならば、影響を与えられる人になれ。そのためのペーパーだとも思い、感心もしますが(いや、自分のやりたいこと[意図すること]のためということもあるでしょう)、そのすべてに答えようとする姿勢は、悩んでしまう人と共通するものがあるのでしょうか。先生は悩みそうもない。それで、悩む人にはカリスマならぬ変なカリスマ(妥当な言葉が見つからない)になるおそれだってあると思うよ。気になる所だけふれられ、ふれたくない所はふれない人になれば楽でしょうが、そんな人間は人生の発達・成長において困るし・・・。
 まとまらないけれど、わかりますか、伝えたいこと。また書きます。
 (mito注・授業で)読んでも(mito注・読み上げても)いいけど、勝手に(mito注・実物投影機で)人の字を出さないでください(mito注・「人の字=名前と同じ」という注釈あり)。6/15によく考えて読んでください。
 先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は。

mito
 このペーパーは、毒にも薬にもならない社交的な仮面の会話を捨てて、mito的授業の本質を否定的側面からずばりと突いたものだと思う。それだけに、ぼくはかなり動揺してしまった。このペーパーの出たその日のすぐあとの授業で、ほかの学生からさっそく「早く内部葛藤を解決して、いつもの自信にあふれた授業に戻ってください」と注文を受けたり、あるいは、数日後のS大の授業で話題にしたときも、「今日、出席ペーパーのことを話してるみとちゃん、すごいこわいとか思っちゃった。それじゃあ、受けて立ってるんじゃなくて、ただその女の人に文句を言ってるだけだよ。それじゃあ、みとちゃんのこと、よくわかんないと思うよ」と書かれたりしてしまった。かなり冷静を装おうと努力はしたのだが、ぼくの内部の自信喪失がマイナスに反映してはいけない授業という公的な場面で、実際にはかなり反映してしまったのだ。そのことで、そのときの授業を受けた学生にも不快な感情を与えてしまったと思う。しかし、それより、「教師というのは、劣等感を刺激される職業である」と聞いたことがあるが、「ああ、このことなのかもしれない」という気づきがぼく自身には大きかった。こういう場面では、教師は、学生と対等な立場なのではなく、学生の踏み台として利用されるべき立場なのである。「他人が入り込むべきじゃない所までペーパー書いた人が入り込んじゃっているから、途中から読むのがいやになってしまった」というS大学生のペーパーもあったとおり、たしかに、ふつうの対等な人間関係であったら「あなたとは出会わなかったことにしよう」とぼくはこの人にいってもよいのだろう。そして、自己抑制がきかずにこのようにしてすぐ葛藤してしまうぼくが、「暴力とセックス以外の申し入れはすべて受けて立つ」と宣言していること自体、無謀な話なのかもしれない。
 しかし、この学生は「また書きます」といってくれている。これは、ぼくにとっては、細いけれども一本の糸がまだつながっているのだという救いを感じさせてくれる文章であった。知的水平空間における批判は相手への基本的信頼に基づく肯定的ストロークの一種だ、とぼくは前からいっているが、それはぼくの強がりにしかすぎないのかなとも思うときもあるが、やはり知的水平空間における他者批判は、相手の存在の否定とは異なる大きな可能性をもっていると思う。また、批判の刃(やいば)はそれが研ぎ澄まされれば、自然に自己にも向いていくものなのである。ペーパーによるこれらの批判をきちんと受けとめることによって(当然、それは批判に無原則的に同調することではない)、「本人の主体性の獲得を他者が援助できるのか」という教育の本質的難問(アポリア)に挑んでいくのもなかなか意味のあることではないかとも思う。
 S大の男子学生が、この批判のペーパーやその他のmito的授業への共感や批判のペーパーとぼくのコメントを読んで、「教師との信頼関係も、それが濃密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに拘泥しているどころではない」とし、出席ペーパーシステムに対しても、「出席ペーパーは感想であってもよいことになっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達のために感情を吐き出すためのものではないと考える。感情の吐露に安寧するのは、ストローク(人は信頼しうるものだとする試み)においては有効であろうが、自らが求め学んでいく学生の時期に休息を得てしまって、本当に先々個人という主義を担って生きていかれるのかと危惧の念を抱く」と書いてきた。授業への共感を書くことも、批判を書くことも、ともに感情を表現することにつながっており、それは依存を助長し、主体的な学習をむしろ阻害してしまうのではないか、ということであろう。教育のアポリアとはこのことである。しかし、ぼくは、こう考える。たとえばこの批判のペーパーを書いた学生は、これを書いたことによって今までの彼女の主体性を減ずることになっただろうか。そんなことはないだろう。ゼロかプラスのどちらかであろう。また、批判のペーパーのやりとりを見守っているほかの学生の学習にとっては、「漁夫の利」もあるだろう。それなら教師は教育のアポリアにチャレンジしてもよいのではないか。そして、このアポリアにおいて重要とされる現代社会における個人の主体性の獲得のためにもっとも必要でかつ今は欠けていることとして、ぼくは、他者への関心と、自己と他者への基本的信頼と、他者への共感的理解の3つを考えているのである(これは、他者との同一化や協調とは異なる。むしろ、それらとはまったく逆といっていい)。
 それでは、彼女の批判にひとつずつ対応していきたい。
 ぼくが自分で「こじつけ」といったのは、むしろ「社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識」についてである。ぼくにとっての本命はあくまでもVTR「教えます、心を伝える会話術」である。上映時間は15分であった。夫に自分の心を伝えられなかった妻や、妻を「おのれの妻」としか認知していなかった夫が、地域活動や社会教育(父親学級)での対等な人間関係のなかで業務連絡ではない「夫婦の会話」ができるようになったという映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。しかし、そういうふうには学ばないという学生がいてもかまわない。「得したという程度のもの」でも、それを意味あるものと受けとめる学生がいたっていいだろう。
 この批判のペーパーを読んで、4年越しにぼくの授業に出席しているT大のある女子学生が次のように書いてきた。「mitoちゃんの持ってくるVTRはかならずしもわかりやすいものではないと思う。むしろむずかしいのではないかと思うこともある。(中略)VTRのなかの主体性をなくしてしまっている(そうでない場合もあるけれど)人の状況を見ながら、どんなことが契機になって主体性をとりもどすことができるのかということを考えることも意義があると思っている。VTRのなかの人びとが自分とはまったく考え方が違うとしたら、私はこの人たちの考え方のどの部分は共感ができて、どの部分に反発を感じるのかと考えることによって、いまの自分自身がどんな価値観をもっているのかを知る機会にもなると思う。他人の主体性獲得を援助するためには、援助する側の主体性も大切なのはもちろんのことだと思うし、いろんな人のいろんな事情やちょっとした弱さをそっとわかってあげる(変な言い方)やさしさ(?)も大切ではないかなと思う」。
 これに対して、ミニ知識のほうは、このときは「ペダゴジーとアンドラゴジーとの違い」についてであり、これは、ぼくでなくても、他の研究者も注目しているところである。むしろ、これを深く研究している研究者の書いた本を読んだほうがよいだろう。ミニ知識は、学生が教科書を出発点とするなどして書き言葉メディアから学べばよいことであり、ぼくがしゃべらなくてもよいことかもしれない。ただ、彼女に限らず、「社会教育の知識を学びたい」という学生も多いので、折り合いをつける形で、さらっと、ただしぼくの評論をまじえて説明しただけなのである。だから、時間がない場合は、ミニ知識の解説を省略して項目の紹介だけにとどめることもぼくの授業では多い。
 「大人に幸福を配る」ためには、「自分の勝手な思いあがりを見つけること」(ぼくの言葉でいうと「援助者側の無知と非力の自覚」)が最低必要条件になる。「大人に幸福を配るとき」も「子どもに幸福を配るとき」も、同様に援助者が「上位の大人でありたい」、「上位の大人でなければならない」という「思いあがり」を捨てることが必要になると思う。それが、社会教育(の援助者)の存在位置である。なお、このペーパーを読んで、ひとつ、ぼくの説明もれに気づいた。「配る」という言葉は、役所や社会教育施設に座り込んでしまって学習者を待っている社会教育職員の受動的な姿勢にたいするぼくなりの批判を表わしている。このあたりは、今までずっと説明を忘れていたぼくのミスである。ぼくがそれに気づいたのは、この批判のペーパーのおかげであり、また、他の学生にとっては「漁夫の利」といったところであろう。
 性のビデオなど、ぼくは何を使ってもいい権利(教育権)をもっているわけだが、それを行使するにあたって、ぼく自身が教師としての自分に与えられた役割と自分なりの教育意図を確認するとともに、「批判されるまでは、使ってみる」という姿勢も学生に示している。また、学生から批判されても、ぼく自身がそのVTRを使う自分の教育意図を肯定できるのなら、使い続けることだってあるだろう。しかし、教師が「学生からの批判を受けて立つ」以上に学生(不快を感じている数%の学生)に「配慮」をするとしたら、いったい何を配慮しろというのか。「社会教育としてのVTRとのとっかかり」を説明することの要求はわからなくはないが、彼女はそれに「少なくとも」という言葉をつけているのである。また、「社会教育にどう関りがあるか」ということについても、ぼくが説明したほうがよい範疇もあるし、学生が自分で考えたほうがよい範疇もある。そして、「個人によって得るものが別」というのは、ぼくが逃げのために使う言葉でもあるかもしれないが、事実を表わした言葉でもある。援助者側の価値観とは違う多様な受けとめ方が学習者側に存在してよいではないか。ぼくは「VTRの内容だけやりたいのでは」といわれたっていいのである。なぜなら、そういいたい人は、「出席ペーパー」や「ちょっと待った」や「パフォーマンスタイム」でそういう批判を行う自由をぼくは保障しているからである。今回だって、そういわれたから、このVTRを選択した教育意図を(再度)説明したではないか。学生からの批判や質問にきちんと答えていく双方向性の確保さえ行なえれば、教師はそんなに完璧な計画を立てたり説明をしたりしなくても、あるいは完璧であったかどうか非生産的にくよくよしなくても、高等教育や社会教育ではそれなりに役割が果たせるのだと思う。知的水平空間は、援助者と学習者の協働によってつくりだされるものなのである。
 教育学には人文系としての側面があると思う。「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである。だとすれば、mito的授業という知的水平空間などを利用しながら、学習者が主体的に学習するしかない。
 ぼくだけが、「大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場」ではない。げんに彼女もこのように問題を提起しているし、そのほか、パフォーマンスタイムを使って(その使用時間についてはぼくと相談のうえだが)、学生は個人の自分なりの問題を提起することだってできるのだ。ぼくの問題選択に不満な人がいるのなら、その人は、ぼくの「立場」に期待するのではなく、自分に与えられた批判の自由をこそ使いこなしてほしい。
 mito的授業について「人を崩していくやり方」と書かれているが、崩れるのを恐れなければいけないほどの素晴らしい枠組みをすでに備えてしまっている人などいるのだろうか。また、ぼくは、教育の役割は概念崩しであるとする論にはやや疑問も表明している。どちらかというと、ぼくの表現は、学習者本人の枠組みの変化への「援助」である。
 ぼくの授業がつらいという人はたしかにいる。ぼくはそういう人には「無理しないで元気になったらおいでよ」といっている。それ以上のことをいおうとしたら、相手の人生をぼくが背負込んでしまおうとすることと同じになってしまう。学習者が、自分ではなく、ほかの学習者のなかから、「ヒハンができなくて崩れていってしまう人」や「落ちる人」や「教師に信頼度が高くなる人」や「そーだんにきたりする人」や「教師の答を正答としてしまう人」が生まれることを心配することも、同様の「背負込み」の行為だと考える。当の学生にとっては余計なお世話なのではないか。たとえばだれかに相談するという行為は、その人にとっては問題解決に向かう主体的な姿である場合だって多い。「自分のために学ぶ」のであるから、一般化して論じようとせずに、自分の主体的な学習にとってぼくの授業がどう無益であるかを訴えたほうがいいと思う。
 「先生にも変わってほしい」とあるが、ぼくがどう変わるかは、ぼくが決めることだ。そして、学習者がどう変わるかは、学習者が決めることだ。たしかにぼくは、「影響を与える人」としての教師の立場にいると思う。しかし、情報化社会において情報に対する主体性としての情報リテラシーが求められるように、マスプロの大衆化した高等教育を受けている学生には、「主体的な授業の受け方」が求められているのである。
 出席ペーパーには、「比べられるために書く」ことばかりの被抑圧体験から、「書きたいことを書く」という解放体験への転換という「教育意図」が明確に存在している。しかし、彼女の「自分のやりたいこと、意図することのため」というぼくへの分析には、そのことへの不快感が表明されているのであろう。現代学生には、どうも教師の学生に対する「教育意図」が存在すること自体に抵抗感があるようだ。そういう抵抗感も大切だろうが、それを「教育意図」の内容に対する抵抗感に止揚することが必要なのではないか。また、大学教員には研究という役割もあり、ペーパーを研究成果に結びつけるというほかの「意図」もぼくにはある。しかし、そうだとしても、学生がそれに目くじらをたてることもないだろうと思うのだが、どうだろうか。
 彼女がほかの一部の学生を「悩んでしまう人」とレッテルを貼っていることに対しては異議を申し立てておきたい。彼女はそういうレッテルを貼って、「悩んでしまう人」と共感的な出会いをもつことから逃避しようとしているといえるのではないか。「先生は悩みそうもない」という言葉に対しては、「ぼくはそのことについては今は話したくない」という応じ方がぼくにできる最善の対応であると考えたが、どうだろうか。
 カリスマ性については、ぼくは、「授業で退屈させる教師」のつぎに悪い教師像として、「学習者の依存的学習を増大させる教師」という規定をしてきただけに、かなり考え込んでしまった。そこで、自信の回復方法として、「信頼している人たちに聞いてまわる」という手段があるのだが、それを実行した。フリースペースで学生にこのことを聞いてみたのだ。すると、「カリスマ性がたしかにある」というのである。「でも、尊敬を感じてしまうのだから、いい意味でのカリスマじゃないですか」という。ちょっと面映かったが、それどころの話ではない。理論的には、教育のアポリアのうちの否定的側面の証明になってしまうではないか。尊敬されているから嬉しいと教師には感じられも、学習者にとっては主体性の獲得の阻害要因になってしまう。しかし、もう一人の学生がこういった。「mitoちゃんにはたしかにカリスマ性を感じるけど、依存させてくれないカリスマだよね」。これを聞いて、「そうだ、大丈夫だ」とぼくは再確認できた。
 たとえば、今まででもぼくは、学生が「そーだんにきたり」しても、「ぼくはカウンセラーとしての専門性をもっているわけではないんだから、カウンセリングはできないよ」と「自制」を表明している。そして、「社交的な会話ではない真実の話を聴けることは、ぼくにとっても興味深いから、ぼくのために聴いている」という姿勢を示しているし、学生とは異なるぼくの枠組みを伝えたいとぼく自身が思ったときは、遠慮なくエンカウンターしている。そういうとき、ぼくはとても充実している。ぼくにとっては、学生の相談に乗ることは、水平な出会いの至福が感じられるかなり大きな楽しみなのである。だいたいは、「ああ、この人もこの人なりの理由と事情をもって生きているんだなあ」という実感をしみじみと味わう結果になる。だから、カリスマなのではなく、「相互依存」に近いのかもしれない。一回限りの人生のなかで、人と人とが立場や身分を越えて「同じ人間」という感覚を確かめながら、本当の気持ちが出会うことなど、何回あるのだろうか。また、ぼくは、ほかの学生をシャットアウトして個人の相談にのるということは原則的にはしていない。フリースペースなどで相談を受け、そこにいる人たちで話に加わりたい人がいれば自由に加わるという社会教育的な方式なのである。そして、ぼくが専門性をいかして行なっている相談者に役立つための社会教育的な情報提供としては、「おたがいのあるがままを尊重しあって、開きたい心を安心して開くことができ、いつ行っても自分を両手を広げて歓迎してくれるサンマ」(フリースペースや青年学級)の意義と所在の紹介が多い。
 教師は、このようにして、カリスマにならないままで学習者からの信頼を獲得するということができるのではないか。だとすれば、教育のアポリアは肯定的な解決の方向に一歩近づいたと解釈できるのである。
 実物投影機で人の字を出すのは、ほかの学生の学習の便宜のためである。「人の字=名前と同じ」というのは、ここでそんなに一般化して断じるほどのことでもないだろう。彼女が「私は自分の名前がほかの学生に知られてしまう危険を感じるので映さないでください」と書いておけばいいだけの話なのである。いや、投影拒否の理由さえもほんとうは書かなくてもよい。堂々と「禁投影」というマークをつけておけばよいのだ。逆に「自分に著作権があるのだから氏名を公表せよ」(著作権の一部としての「氏名表示権」)と要請する人がいてもよいだろう。「非公開」でもかまわない。自分の著作物に限っては、すべて自分の管理下に置いていいのである。なお、投稿などの場合には、「自分の文章の改竄はするな」とはいえるが、「自分の文章を必ず公開(採用)せよ」とはいえない。しかし、mito的授業においては、「公開せよ」と書いてよい。さらに、それに、「禁コメント」とつけ加えてもよい。これらは知的水平空間を実現するためという特殊な事情によるものである。
 「6/15によく考えて読んでください」の期日指定の部分については、ぼくの事情からいえば、授業準備の能率化のためには少し困るところがあるが(即決主義)、このペーパーの場合は、内容が重大であるだけに、ぼくはその要請を受け入れる必要があるだろう。しかし、「よく考えて」という言葉は筆者として読者に直接的にいえる言葉ではないと思う。人との対等な関り合いのなかでは、「余計なお世話」に類する言葉であろう。筆者は自分の説が「よく考えて」受けとめられるように自らが一生懸命書くということ以上のことはできないはずである。実際には、ぼくは、この批判のペーパーを数十回繰り返し読んでいるが、それは、ぼくが何回も読んでよく考えたい内容だったからであり、「よく考えて読んでください」といわれたからではない。何を書くかは彼女の自由だし、それを読んでよく考えるかどうかはぼくの自由だ。
 「先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は」というのは、「こんな批判は数多く受けているはずなのに、そういう批判を聞いているのにも関わらず続ける根拠は」という意味だと思う。ぼくは、いまの教育に欠けていることは、学習者に管理や保護を与えることではなく、自由を与えてそれに恐怖する機会を提供することだと考えている。そのことから(批判の)自由を行使する主体性が学習者自身のなかに育つだろう。たとえば、自分が批判したからといって社会がそれにあわせて変わってくれるとは限らないのだ。批判の自由が保障されて、保護され管理されてきた自分にはその自由がなかなかやっかいなものだという現実をまのあたりにして戸惑い、そこから気を取り直して、その自由を使って他者に通じるように自己の思考を表現できるようになることこそ、今後のネットワーク型社会が現代人に求めている主体性なのだと思う。しかし、彼女のこの言葉を受けて、ぼくのこの問題に対する昨年までの到達点を紹介したいという気になった。そこで、このあと、紙量が膨大になるが、それを再掲載する。
 こういうペーパーに葛藤しながらなんとか対応しようと燃えている自分に気づくとき、ぼくはぼくの自我がなんとかかんとかして拡大しつつあるのを実感することができる(枠組みが変わらないまま関係性をその枠組みのなかに詰め込む自己肥大かもしれないという危険は感じるが)。批判的ペーパーとの出会いは、ぼくにとって意味ある他者との意味ある出会いの重要なひとつなのであろう。そういう意味では、最大の「漁夫の利」を得たのはぼく自身なのかもしれない。


● どこまでも知りたい=事実よりも真実を追求する生涯学習
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

駒田信二『「藤野先生」における真実』(『ユリイカ』昭和五十一年四月号)より

 今では(魯迅の)「藤野先生」にフィクションの部分の多いことは広く知られている事実である。

 わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。

 「藤野先生」のはじめのこの部分の、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年の明治三十八年四月に開設されたということ、また、当時、仙台医学専門学校は第二高等学校と同じ構内にあり、その第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているということが、半沢正二郎氏を会長とする「魯迅の記録を調べる会」によって明らかにされている。
 しかし、「藤野先生」に於て「・・・日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」と書いたこと、「中国の学生はまだ誰もいなかった」と書いたことは、事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。
 幻燈事件も、事実としては「藤野先生」や『吶喊』の自序に書かれているとおりではなかったかもしれない。それを虚構と考えてみることは、尾崎氏のいうとおり、より深く当時の魯迅に迫る道の一つであろう。「藤野先生」の他の部分についても、同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。

mito

 起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして-練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、「どこまでも知りたい」という自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、その「どこまでも知りたい」という場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」であるということである。事実の積み重ねに終わるのでは、駒田のいう「深い感動」もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかでいわゆる「社会教育の知識」が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」というワンダーランドとしての学習が疎外されているからである。
 もちろん、枠組みは変えないままその枠組みに知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じるという人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識が豊富になった人を見るときのような、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいと思うが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。
 ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だって多いのだ。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。
 魯迅の例でいえば、「日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている」という言語表現には、「当時は日暮里駅などできていなかった」という事実しか見えない人のつまらない詮索を越えた魯迅の思考のなかにある真実が隠されているのである。すなわち、その真実とは、日本人から抑圧され日本で銃殺されようとしている中国人を、同じ抑圧を受けているはずの中国人がのんきに見物しているという場面を見つめる魯迅の思考のなかにある。ただし、これは虚偽に対置される虚構、すなわち「小説的真実」についての話ではある。
 さて、さきに「大学生のための進路指導のあり方(その1)」において、ぼくは、「mito的授業は、本当の夢の方への支援だと思ってほしい。学生の就職活動に対する大学学生部の役割は求人情報の提供などにあると思うが、教育的専門職員である大学教員の役割は、就職活動のプロセスのなかでの自己確立への教育的援助にあると思う」と書いた。事実と真実は異なるという今回の視点から、これをもう少し深めてみたい。
 事実は小説よりも奇なり、という。一生懸命、採用試験の勉強をして、合格する実力(真実)を身につけたとしても、そういう人が落ちて、入るはずのない人がたまたま受かってしまうこと(事実)だってありうる。しかし、自分は、どの瞬間に自分をほめてやるべきなのだろうか。それは、挑戦可能なチャンスを見つけてきて、一生懸命に採用試験の準備を重ね、試験当日は「もしかしたら落ちるかもしれない」という恐怖に打ち勝って試験場に行き、そして、最後の試験の最後のチャイムが鳴ったときなのではないか。けっして、試験終了後、しばらく過ぎてから、合格通知がきたときにほめ、不合格だった場合はほめないということではないと思う。合格、不合格は「小説よりも奇なり」の事実にすぎないからである。ここでも、ラッキー、アンラッキーという事実によって右往左往させられてしまう主観的な態度から、自分の人生のうち自己決定できる部分を自己決定して生きているのかという真実の部分を重視する客観的な態度に転換することが求められる。
 つぎに、採用試験に合格する実力を身につけたかという真実に属する部分と、実際の合格、不合格の結果という事実に属する部分との関係について、つぎの4つのケースを想定してより具体的に考察してみたい。
 真実        事実
  (合格する実力)  (試験結果)
T ○         ○
U ○         ×
V ×         ○
W ×         ×
 Tについては問題ないだろう。Wについても、結果をみて初めて落胆する人もいるかもしれないが、それはその人にとっては社会のもつ「真実」の側面に関するよい学習機会になったということにすぎない。実際、「落ちるべくして落ちた」という場合には、「自分は敗北主義に逃げることなく与えられたチャンスに向かってチャレンジできた」という充実感が、満足と自信(個人が社会に生きるにあたって必要な厚かましさ)につながることが多いようだ。
 Vについては最初はぼくは問題ないと思っていたのだが、S大の男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたので、ぼくも認識を新たにした。つまり、採用後にサービス対象や仕事仲間に迷惑をかけ続けることになり、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、この話をしたら、他の学生が、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達にもうしわけなくて会うことができなくなる」という。このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまったのだ。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決める非主体的な態度(敗北主義)としてぼくは批判していたが、どうもそれだけではなく、現代青年のもつそれなりの繊細な深みもあると思われた。
 そこで、Vについてのぼくの意見をまとめておこう。もし採用試験に「はからずも」(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで「正当な劣等感や罪悪感」(真実)をもつことは本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた能力を発揮できるようになるかもしれない。生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習(リカレント)を社会的活動に入ってから継続できる人なのかどうかのほうが重要になるからである。思うに、これは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということの表れなのである。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その持ち味を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうる。
 最後にUについてである。ここで、ぼくは、今まで述べてきた「真実=合格する実力」という図式を否定しなければならなくなる。はたして、合格する実力を身につけることは真実に属することがらなのであろうか。現在の採用試験の評価基準は、採用後の仕事に必要な資質と能力を客観的に測りうるものになっているのか。そうなっているといえる人は、企業の採用担当者であっても、まずいないであろう。企業としては本人の貢献能力を正当に評価するための必死の努力は行なっているだろうが、評価の適正化そのものが未知の課題なのである。しかしながら、就職するためには、そういう社会から自分に与えられた不十分なチャンスを自分としてはどう活かしきるか、戦術を立てて臨むしかないだろう。つまり、合格する実力を身につけること自体は、真実(就職による自己実現そのもの)に属することではなく、事実(就職のための作戦)に属することなのである。
 この点について、もう少し端的にいえば、一つひとつの採用試験の合否の結果は、ちっぽけな事実にすぎないということである。もちろん、少なくとも本人の「実生活」(事実)に対してはかなりの影響を与えるものではあるが、その影響がプラスかマイナスかは、じつは断言できないものなのである。私たちは、いろいろな情報を得て「ここがいいだろう」と予測してそこを目指しているのにすぎないのである。「事実は小説よりも奇なり」であるから、親が、学校が、友達が、社会が、そして自分が「いい」と判断している就職先であっても、実際に入ってみたらつまらなかったなどという「事件」は当たり前のように世間で起こっている。たとえば、いい教育をやりたいという志から晴れて教員になり、初めて配置されたところの学校が、そういう教育をやらせてくれない所だったなどという「悲劇」はごく普通に起こっている。そうなる危険性を覚悟して、そのうえでどう自分の志を社会適応させた形で実現するかということが、大人になる、社会に出て働く、自己実現するということなのである。合否の事実がプラスになるかマイナスになるかは、わからないことだ。「人間万事塞翁が馬」(人の世は禍福の定めがなくて、災いが福に変わり、福が災いとなるものであるとのたとえ)なのであり、ラッキー、アンラッキーという事実に自分の内面まで振り回されている姿は、少し客観視してみれば滑稽なことがわかるだろう。それがわかっていても一喜一憂してしまう自分を、もう一人の自分がそれを見ていて嗤ってやるのが、この場合の自己の客観視(自己認知)なのである。
 それでは、「受かるべくして落ちた人」の真実とは何だったのかについて、ぼくの考えを述べてみたい。自分が今は何を求めて生きているのか、これについて社会のさまざまな事実に惑わされない何か(主我)があるのなら、少なくとも今は自分がそれを求めていることだけは、自分にとっての真実として確信できるのではないかと思う。それが真実なのである。だから、「安定した生活を送るために大企業にぶら下がれればよいのだ」と思っているのなら、それもひとつの真実なのだろう。しかし、それだけでは不満を感じたり、潔く自己受容できないとしたら、それは社会が悪い、アンラッキーなどという問題なのではなく、自分が今は何を求めて生きているのか、本当の自分の欲求に気づいていないという自己認知の欠如の問題なのである。
 「受かるべくして落ちた人」のほとんどは、合格する実力をそれだけ蓄えることのできたエネルギー源として、ある社会的な役割を遂行したいという欲求をもっているのだと思われる。じつは、その社会的役割遂行の欲求こそが、その人にとっての真実なのではないか。その人は、この欲求を自己認知する必要がある。それは本当の意味での自信(自分への信頼)をもつことともいえる。
 たとえば、教師になりたいという人は、きっと「いい教育をしたい」という欲求があるのだろう。だから、「教育公務員特例法」に基づく給料をもらいながらその欲求を実現する方策として、教員採用試験を受けるのであろう。それは教師になることを第一希望にする根拠としてはかなり妥当であるといえる。ただし、「人間万事塞翁が馬」であることは受容しておいたほうがよい。教員が学校に配置されるにあたって、校長の指名などはできないのである。しかし、その人の第二希望、第三希望は、どうなっているのか。受験者側には受験の自由が与えられているけれど、反面、採用者側には選別の自由が与えられているのである。そうだとすれば、受験者側が自分の就職先を勝手に一つに絞りこんでしまうのは、社会のなかの自己の位置という事実を客観視(自己認知)していないことの表れであるといえる。教員採用試験に受かることなどというのが「本当の夢」などであるはずはない。それは「本当の夢」を実現するためのただの作戦の一つにすぎないのである。だから「数打ちゃ当たる」という実践的態度が必要になる。もちろん、幸いにも自分が就職浪人させてもらえる状況(ラッキーな事実)にあるのなら話は別だが。
 たとえば、学習塾の講師になるのはどうだろうか。「学歴偏重社会の手先になるのはいやだ」という人もいるかもしれないが、そういう人は学校だって「学歴偏重社会の発生源」としての残りかすを引き継いでいるのだから、正規教員として採用されても、同じように「いやだ」といって、その不快な事実から逃げ出そうとするのではないかとぼくは思う。そういう場合は、非常勤採用をねらったほうが、自分の思う教育がやりやすいかもしれない。あるいは、まったく異分野の職業に就いておいて、あるいは、専業主婦、専業主夫になって、ヒエラルキーから管理されないところで、あるいは社会教育のような(少なくとも理念としては)活動する市民が主体として尊重される世界で、地域の子育てネットワークに関わってもよいだろう。現実社会においては、そちらのほうが実際にはあなたのせっかくの志が実現しやすいかもしれないのだ。実際、望ましい意欲・資質・能力をもっていて、それを地域の子ども会活動の援助という形で活かしたいという住民が一人でもいるのなら、そういう人はあっという間に地域教育活動の主人公として、貴重なリーダーになりうるというのが残念ながら全国的な状況なのである。
 これらの社会的役割遂行の豊かな可能性はすべて、自己の「社会的役割遂行の欲求」という真実の部分に本人が気づいたところから広がっている。事実(世間の物差し)ばかりに惑わされている人には気づけないことであろう。ぼくが「大学は学生が夢を見つけ出すためのところ」と考えているのも、そういう理由からである。また、生涯学習の「どこまでも知りたい」という欲求も、事実より真実こそを追求しようとする欲求なのだと思う。だからこそ、社会全体としても、そういう生涯学習の支援のための体系化をするのだと考えたい。人びとが自由に行なっているそれぞれの生涯学習の内容が、今の社会に直接的に還元するか否かを、公金を使って支援するかどうかの判断基準にすることには、ぼくは反対である。憲法第13条(個人の尊重)が「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という場合の「幸福追求」の権利とは、「社会に対して役割遂行しなければならない」という個人としてではなく、「自己実現したい」「役割遂行したい」という個人としての真実の追求の権利というべきである。


● 知的水平空間における感情表出と「求め学ぶ」学習態度
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(S短大社会教育特講、男)
 ペーパーがストロークの一手段であるとするならば、ある意味においてこの講義の時間は同時に演習であるとも云える。
 人が人の心に思う本当のかたちの在り方を情報として提供し、又、提供される。私が今これに思うことは、決して「提供される」といった他者(mito、社会、親、年長者、会社、学校)からの手助け、ないし使役の形を伴った行動学習の在り方ではなく、私たち学生は自ら提供を受け入れる存在であるべきたることである。すなわち、主体性を体得することにほかならない。それなくして批評精神など至らぬ。
 プリントで様々なペーパーを通読した。成程、啓発を促すための所作のひとつとして「刺激」もしくは「毒」を多方面に渡ってなげかけて居られるようだ。授業計画の記述に、ペーパーは、これを学生が書くことによって知的に自己客観視を含め、人間社会生活の行動学を認識するのに役立つ、らしき内容をみた。文章という媒体(メディア)も使い方により誤りも生じ、多数のペーパーの傾向を追うに、講師との密な個人的係わり色濃いものが多く、それは断ち切らなくてはならないのではあるまいかと切に思う。教師との信頼も、それが過密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性と云うことばに停滞しているどころではない。
 幸い、出席ペーパーは(あるいは幸か不幸か)感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える。それに安心するのは、ストローク(人は信頼し得るものだと云う試み)に於いては有効であろうが、求め学んで行く学生の時機に休息の糧を得て、本当に先々個人という主義を担って生きて行かれようかと危惧の念を抱くのである。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育概論、男)
 「出席ペーパーは感想であってもよいこととなっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達の為に感情をはき出すためのものではないと考える。」という(注・S大男子学生の出席ペーパーでの)意見があったが、授業で紹介される出席ペーパーはむやみやたらと感情を出しているだろうか。紹介されるペーパーは少なくとも、それを読む他者、聞く人々という対象を意識して書いているように思えるし、自分のためだけに書いた日記調のものではないと思う。(注・ペーパーを読まれるということは、むしろ)さながら、ラジオの深夜放送で読まれているのに近い感じだと思う。
 さらに、このことについて、僕の個人的意見を述べさせてもらうなら、ある程度の感情をはき出す必要があると思う。感情とは、本音であるところのもっとも原始的なところではないか。むしろ、こういった本音の感情をはき出すことは歓迎すべきことだ。なぜなら、現代社会においては、タテマエと本音を使い分けて生きていかなければならない局面が多々あるからだ。このことは、ともすると、本音(感情)をごまかすということになる。つまり、ある意味で自分を殺すということだ。これはだれもが程度の差こそあれ経験していることだと思う。本音で感じていることと、口で言葉にすることが、ぜんぜん違っているということが。もちろん、この本音とタテマエはある程度必要だが(mitoちゃんはヒエラルキーの中で仮面をかぶるという)、その許容範囲を越える事態(注・個に対する社会的抑圧の、あるいは自己抑圧の、過剰の意味か?)が生まれている。現に、神経科、精神科の病院が大はやりだ。そこで、会社のような利害責任を問われない大学(授業)、教室という空間においては、本音の感情をぶつけあうことが行われていいと思う。僕は大賛成だ。とかく、感情(本音)を出して表現できる空間あるいは仲間が少ないだけに。

mito
 mito的授業のなかで学生が出席ペーパーを通して感情を表出することは、知的水平空間を維持し、発展させるという観点からは、プラスなのか、マイナスなのか。なかなか微妙で興味深い問題である。たしかに、感情の交流は、「知的発達」よりも「癒し」や「信頼」の、ストロークに傾いた行為であるといえそうだ。だから、従来の教育においてはそういうものが排除され、「自分の言い分は本当に自分勝手ではないかを考えてみよ」と親や教師からいわれて、「知育」の名のもとに、もっと一般的、普遍的な言い方をするように求められてきたのだと思う。
 しかし、「アサーティブトレーニング(さわやかな自己主張訓練)」においては、「自分の言い分は本当に自分勝手なのかを考えてみよ」が引っ込み思案の人たちへの重要なアドバイスの一つになっている。ぼくは、前者の訓示にはむしろ虚偽を感じ、後者のアドバイスに人間の真実を感じるのだ。自分勝手で不当な感情をもつことも人間だからときにはあるかもしれないが、それよりも、誰でも一回しか生きられない自分の人生に関心をもっているということから発するやむにやまれぬさまざまな感情は、何らかの深い「人間的真実」に基づいている場合が多いのではないか。むしろ、個人の感情を「自分勝手だ」と自他が決めつけてしまって、最初からしかめつらをした「一般論」で論じようとすることのほうに、真実の追求からの逃避の匂いをぼくは嗅ぎとってしまうのである(前者のペーパーの書き手に対してではない)。自らの深い「人間的真実」に主体的に迫ってこそ、深いところで他者と認識を共有することができるのだと思う。
 学問とは「世渡り術を習うこと」ではないのだから、授業では学生は自分の感情をペーパーや口頭や頭のなかで言語表現することによって自己の客観視に接近することのほうが重要なのではないか。ぼくは学生に「mito的授業においては、あなた自身があなたにとっての最適の教材である」と宣言している。それは、「自分に出会い、自分のもっている無限の可能性に少しでも気づくこと」と言い換えてもよいだろう。これは人間の学習活動の大きな意義なのだ。ぼくが生涯学習活動において、「開きたい心を安心して開いて交流できる時間・空間・仲間のサンマ」を重視するのも、そういう理由からである。「アサーティブトレーニング」の効果の一つとして、「安心して自分を開くことができる。したがって、自己洞察の機会も広がる」が挙げられているのも同様の意味であろう。
 ぼくは、前者のペーパーが「むやみやたらと伝達の為に感情をはき出して、それに安心して、求め学んで行く学生の時機に休息の糧を得てしまう」と指摘しているその鋭さに、敬意さえ抱くものである。しかし、そこで表明された「危惧の念」は、実際には、むしろ逆のことに対して表明されるべきだったのではないかとも思う。すなわち、自己の感情や思考方法を言語表現することを避けて、もうすでに権威化された一般論しか述べずにいて、それで「学んでいる」と安心してしまっている姿に対してこそ、「求め学ぶ」学生の姿ではないというべきではなかったのか。
 ぼくは「生涯学習はドキドキワクワクのワンダーランドであるべきだ」といっているが、じつは、自己の感情や思考を表現することは、しばしば、心を平安にしてくれずに、むしろ自己の思考を波立たせていっとき不安定にさせる作用を及ぼすと感じている。だから、その「ドキドキ」がつらいという人だっているだろう。それでは、そういう人に対して「危惧の念」を表明すべきだろうか。ぼくとしては、大人の学習は本質的に「問題解決型学習」であると考えているから、「そんなことで苦しんでまで学習したくない」という人がもしいるのならば、そういう人はさしあたって生活に必要な知識だけ身につけておけば当面はよいのではないかと思う。別に無理して教育を受けたり、学問をしたりしなくてもよいのではないか。生涯学習の原則は、「学びたいことを学びたい手段で」なのだ。リカレント学習の考え方でいえば、その人は学びたくなるときまで待ってから学んだほうがよいということだ。
 しかし、実際には、ペーパーで自己を開くことによって、「休息の糧」を得るどころか、あえて自分を辛辣に表現する学生が多い。たとえば、高校時代の自分が担任の教師の「不倫相手」や「恋愛対象」になったとき、「先生の奥さんに勝った」とか「先生のファンである同級生たちに勝った」と思っていたことを、きちんと文章として外在化させる学生もいるのだ。こうした自己への気づきは、出席ペーパーというチャンスがなければありえなかったのではないか。それは、自分という人間の滑稽さを客観的に認識するということであり(自己洞察)、自分も愚かな存在の一員であることを知ることである(無知の自覚)。このことによってこそ、自己受容ができ、その後の自己変容の主体になりうるのである。ぼくは、それを称して「個人の内側にさわやかな風が吹いている状態」と呼んでいる(さわやかな風)。
 また、このような出席ペーパーは、他の学生にとっても興味深いもののはずである。他者の感情表現のなかにある真実を垣間見ることができるからである。他者は自己の鏡である。狛プーのある女性メンバーが記録集に、こう書いている。「私もみんなの心の中を写し出す鏡です。いろいろな自分を知りたい人は、どうぞ姿を写しにきてくださいな。もっとも、この鏡はナマモノなもんでねえ。いつでも等身大にきれいに写るかどうかはわからないよお」。
 川喜田二郎は、自らが開発したKJ法という発想法を解説した『続・発想法』(中公新書)の「情念の情報キャッチと理性の確認」という項目のなかで、科学や学問や問題解決などの発想について、「情念がとらえ、理性がこれについで確認する」と表現している。それにも関わらず、私たちは、理性の確認のあとにできあがった完成品としての学問の姿ばかり習ってきたのではないか。「学ぶ」という言葉は「まねぶ」(まねをする)という語義をもつ。ぼくは、『生涯学習か・く・ろ・ん』では、この言葉を消極的、受動的だとしてやや批判的に説明したが、今は、「まねぶ」こと自体は学習にとって非常に重要なことなのだと思う。ただし、それが、学問生成の初期形態としての「情念がとらえる」部分からも学ぶことになるのでなければ、やはり「求め学ぶ」積極性にはつながらないといわざるをえない。そうでなければ、つまり、完成品としての学問だけしか与えられないのであれば、一人一学説といわれる現代という時代においてさえ、私たちはいつまでたっても学問を創造する側にはなれないのである。


● 2つの積極と2つの消極(生涯学習とは何か)
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)
 積極的積極性(以下4パターン)の話はとても面白かったです。このように4パターンに整理した話は初めて聞きました。似たような話としては、一生懸命ボーッとしたいという話を友達としたことがあります。
mito
 偶発的学習も生涯学習の一環として考えようというのが、ぼくの主張である。そうしないと、生涯学習実態調査などで、「継続的・計画的学習」をしている人たちだけをとらえて「わが町で生涯学習をしている人は何%、生涯学習していない人は何%」などという忌まわしい言い方が、いつまでもなくなりそうにないからである。
 しかし、各市の委員会などの場で、社会教育や生涯学習の関係者の前で、ぼくが「勝手に散歩でもしていて、でもそこで感動して何らかの自己変容があれば、それはその人にとっては大切な生涯学習だ」と発言すると、必ずといっていいほどひんしゅくを買うことになる。関係者から、「それじゃあ、人間のすべての行動が生涯学習だということになってしまうではないですか」といわれるのである。ぼくは人間のすべての行動に生涯学習としての側面があるととらえるのならば、それはそれでもよいと思っている。市の道路行政による散歩道の保守管理が生涯学習支援の側面からもとらえられるようになることこそ、「行政の生涯学習化」といえると思うからである。だが、ひんしゅくを買いっぱなしでいるのもどうかと思い、人間の活動のなかに生涯学習と呼べない活動があるとしたら何なのかを考えた結果が、この「2つの積極と2つの消極」論である。
 練馬区の生涯学習推進懇談会の答申の作成に関わって懇談会委員同士で議論を重ねることによって、ぼくは、生涯学習が「どこまでも知りたい・上手になりたい(発達・成長したい)」と「癒されたい・安らぎたい」の2つの欲望から発すると考えると、とても自然な理解ができることに気づかされた。「教育」という名がつく世界にいるうちに、「人間はつねに発達していくべき存在」という考えを知らず知らずのうちに身に付けていたぼくが、日本文学専攻のある委員から「西村さんは、何かにとらわれているのではないか」と指摘されたことから、その議論は始まった。そして、とうとうも、「人間はつねに発達していくべき」すなわち「学習すべき」という姿勢を払拭した画期的なものになった。
 この「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに自らの欲望を充足しようとする自己の意思から発した積極性の発現としてとらえることができる。論をつぎに進める前にここでとくに留意しておきたいことは、「癒されたい」という欲望から発する行動も、ここでは「消極」ではなく「積極」としてとらえているということである。なぜなら、人が癒されるためには、他者からのストロークが必要であり、ストロークをうまくもらうためには、相手にうまくストロークを出したり、開きたい心を安心して開いて交流できる水平なネットワークを見つけ出したり創り出したりする積極性が必要になるからである。「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに積極的な行為につながらざるをえないのである。
 これを前述の「人間のすべての行動が生涯学習ということになってしまう」という反論への反・反論として活かすならば、次のようになる。「そうではない。どこまでも知りたい、癒されたい、などの欲望から発する積極的な行為だけが生涯学習なのであって、テレビも見ずに自分の部屋でボーッとしているなどの消極的な行為は生涯学習とは呼ばない」。そして、こう付け加えるべきだ。「生涯学習活動や積極的行為だけがすばらしいということをいいたいのではない。ボーッとしている時間(無為)もその人にとっては大切なのだ。それは、つまらない欲望を捨てた潔い消極性というべきであろう」。
 今回提示した「2つの積極と2つの消極」論は、以上の議論の経緯のうえに立ち、それを発展させたものである。生涯学習においては自分の欲望や意思に基づく「自己決定」という要素が重要である。結果的、外見的には同じ積極性であっても、それが本来の自己決定でなければ、従来の学校歴偏重社会における受験勉強(これもまた、単純にけなすことはできないが)と生涯学習活動とは、変わりないものということになってしまう。ここで「自己の欲望に基づく本来の自己決定」とは、すなわち、社会や人のせいにしていない、すなわち「自分のため」に、主体的にやっているということである。ちなみに、生涯学習活動だけでなく、ボランティア活動にとっても、この「自己決定」は重要である。そこで、同じ積極性でも、同じ消極性でも、それぞれをはっきり別のものとして考えるために、次の4タイプを整理して提示したのが今回のぼくの議論である。
  主体  結果・外見
T 積極的 積極性  自己決定
        (生涯学習)
U 消極的 積極性  仮面・戦術
        (受験勉強)
V 消極的 消極性  敗北主義
        (被害者意識)
W 積極的 消極性  自己決定
        (無為・潔い撤退)
 ぼくは、あとから、この4パターンがぼくが予期した以上になかなか有益な分類であることに気づいた。たとえば、生涯学習活動や地域活動やボランティア活動をしている人のなかにも、その活動をしていない人に対して「けしからん」「〜すべき」といういい方をする人がいる。そういう人は、いわば「過去と他人は変えられない」という厳然たる事実にイライラしているのである。潔くなれないのであろう。じつはこの人たちは、本来の「自己決定」の生涯学習としてのTの状態にあるのではなく、「不幸の手紙」をもらった人のようにUの状態にあるのではないか。もし、Tだったら、「この活動はとても魅力的だよ、素敵だよ」「いつでもおいでよ、歓迎するよ」と言うことはあっても、そういう活動をしない人を見て責任を追及する欲求に駆られてイライラするなどという不幸には陥らないと思われるのである。Tの人は、むしろWの人と連帯しやすいのではないかと思う。どちらも「自己決定」であり、「潔さ」が共通しているからである。
 しかし、Uの状態も、ヒエラルキー社会においては、残念ながら、完全には回避することはできないだろう。仮面や戦術を使わなければ、あっという間に世間から干されてしまうからである。Uについては、回避が不利になるのならば、これを無理に避けるのではなく、むしろ、仮面・戦術としてきちんと意識してこれを選び(これもひとつの自己決定である)、仮面・戦術であることをつねに思い出しながら「頑張る」のがよいと思う。そうすれば、「頑張らなくちゃいけない」などという不合理な思い込みから自由になることができる。また、ときには、その活動の意義に気づいたり、うまく楽しむ方法を発見したりして、途中でTに切り替わるような幸運も訪れるかもしれない。
 Vの状態の人は、本人にとっても社会にとっても最悪であろう。そうはわかっていても、自分の消極性を「過去と他人のせいにして、空しい自己満足と安定を図ろうとする」弱さは誰でももっている。もっているからこそ、こういう4パターン分類法の活用による「客観視」が有益であるということができるだろう。TからWの分類は、さまざまな人間がこの4つに分けられるというよりは、一人の人間のなかに4パターンの状態が混在しており、それを整理して判断基準とするために有益であるととらえてほしい。つまり、「よし、今回はわたしはこれでいこう」という、客観視と主体的納得を伴う自己決定のために活用できると思うのだ。
 Wの状態というのは、これはもうすごいとしかいいようがない。広大な時空における自己の小ささを穏やかに受け止め、ときの権力や価値観に惑わされず自己に与えられた人生のひとときを静かに味わう。ぼくはその潔さにあこがれや尊敬さえ感じるのだがどうだろうか。社会にとっては直接的利益にはつながらないかもしれないけれど、「立つ鳥、あとを濁さず」「潔い撤退」などのさわやかさは、今後のネットワーク型社会の創造にとってはむしろ重要な要素のひとつというべきであろう。そういう「潔い撤退」などのWの状態なら、ぼくたちでもそれなりに実現できる状態であろう。
 生涯学習は「学びたいことを学びたい手段で学ぶこと」であり、「自己管理型学習」であることから、本質的にはTの状態のものといえよう。Tの状態としての規定は、先に述べた「生涯学習は積極的な行為」という規定よりは的確であり、Uの状態での従来の「させられている学習」などとの違いをより明確に位置づけることのできる規定としても、なかなか有益であるとぼく自身は考えている。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、女)
 (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定、潔さが持てるのだと思います。
mito
 ぼくが言ったのは、Tの人はUの人にではなく、Wの人に連帯感を感じるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは連動関係にあるということなのだろう。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということである。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人が「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がないのであり、それより「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会における自己決定のあり方を探るということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。


● 空しさに耐える自己管理型体験学習-結果を恐れるな
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)
 (奇数日の)ゲ-ムの日に出席しないのは、多分に私のワガママです。性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからないという・・・。グル-プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ-ムをやるときのメンバ-がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ-ムを「こなす」という感じで終わってしまうんですよね。それはけっこうみんなそうじゃないのかなあ? で、そういう「中途半端な」楽しさは、すぐに空しさ(寂しさ)に変わってしまうから、それが嫌なんですよ。そういうわけで、ゲ-ムの日は完全にパスさせてもらっています。
mito
 ぼくは、授業自体も、生涯学習の「学びたいから学びたい手段で学ぶ」という「自己管理型」で行なおうとしているから、このような「潔い撤退」に類した例はたくさん経験している。「こ・こ・ろ生涯学習」にも書いたとおり、基本的には「元気になったら出ておいでよ」という対応でいいのだと思っていた。しかし、今回のこのペ-パ-は、体験学習による擬似的時空の空虚さを鋭くついたものであり、そういうペ-パ-に対しては、「無理して出席しなくてもいいんだよ」とぼくが対応することは、教師としての責任逃れにもつながりかねないと思われる。そこで、少し立ち入って考えてみたい。
 このペ-パ-は、じつは4枚にわたる長編(?)で、先に引用した部分は、その追記である。本文では、偶数日の「講義型学習」を含めて「あまり得るものがない」、他の学生の出席ペ-パ-も「面白そうだね」というものはあるが、「まあ、時間に余裕があれば」という程度で、それよりは、この授業をパスして他の授業で出された課題などをこなすことが多い、などという自己の状況を述べたうえで、「(そういうふうにパスすることも)美東士先生の方針ではOKになるんだと思いますが、それで一年間終わってしまったら、何のために『社会教育計画』の講義を取ったのか、何も残らないと思いませんか?」と穏やかな口調ながら、ぼくを厳しく突きつめている。
 しかし、これだけであれば、ぼくは、「履修要覧やテキストを読んで、ぼくやぼくの授業が自分にとって必要かどうかを判断して、出席するかどうかを自己決定せよ」と答えればよいだけだと考えている。ところが、この学生はどちらも読んでいるという。また、最初の3回目の授業までは、きちんと出席している。「まずはぼくの授業の様子を探ってくれ」というぼくの要請に応じてくれている。彼は次のように書いている。「(高等教育においては)基本的にはどの科目を取るか、それを決めるのは学生側の『権利』として与えられているわけですよね。そして、判断のための情報として、『履修要覧』があり『お試し期間』があり、それでも足りなければ、直接、担当の先生のところへ質問しにいくことだってできるわけです。それだけのものを与えられていながら、あとから文句を言うような選択しかできないというのでは、学生側がなかば選択権を放棄しているようなものだと思うわけです。たしかに、私も選択したあとで、『あっ、これはハズレだったな』と思ったものもありました。でも、そういうときでも、せっかく高いお金を払って買ったんだから、テキストだけは一通り読んでみようとか、講義の『おいしいところ』だけはある程度頂戴しておいて、そこから『独自路線』を展開しようとか考える。そうして、それなりに、この講義を取ってよかったなというものを作ってきました」。ところが、彼は、ぼくの授業だけは、履修要覧や教科書からは「見えない」「読み切れない」というのである。
 ぼくは、いつも、授業のシラバスを、大学当局から与えられた字数制限いっぱいに書いて提出している(内容はともかく)。ボリュ-ムばかり多くて「ひんしゅくもの」ではないかと不安を感じるぐらいだ。授業スケジュ-ルなどは、一字も余らせないなどのノイロ-ゼ的なまでの記述をしている。ただ、T大学の場合は、授業スケジュ-ルの欄の字数が非常に少ないので、この学生がほかで指摘しているように、よくわからない代物になっているとも考えられる。これについては、来年度からは、もっと詳しいシラバスを、初回の授業に別途配ることにしたい。
 それにしても、このペ-パ-の主張は、その程度のことでは本質的には解決し得ない深い問題を提起している。この学生のように主体的に自己決定をした場合であっても、「学びたいから学ぶ」という自己管理型学習がうまくいかないことがあるということを示しているのだ。それは、「書き言葉メディア」とは異なる「話し言葉メディア」としての授業(ぼくは、mito的授業がそれをねらったものであることを公言している)の特殊性の表れであるともいえよう。「話し言葉メディア」としての授業は、学習者側としては、「書き言葉メディア」である履修要覧やテキストを読んでも、最初からは自分にとっての授業の意義が「読み切れない」のである。だから、「先生のいうことにはしたがっていればよい」というような教師への無条件的信用(基本的信頼ではない!)をしないこの学生に代表される「正しい学習態度」の主体的学習者にとっては、かえってその学習結果が恐ろしくて、「話し言葉メディア」としての授業には踏み込みずらいということになる。
 それが、態度変容を意図した体験学習の「奇数日」になると、その状況はますます決定的である。体験学習の場合は、よく吟味したうえで「よし、参加しよう」と自己決定した場合であっても、「出なければよかった」と後悔することが多々あるだろうからである。この学生のいうような「中途半端な楽しさが、すぐに空しさに変わってしまう」などという事態は、日常茶飯事でさえある。「結果が恐ろしい」どころか、「恐ろしい結果」(空しさの逆襲など)をすでに何回か味わっているのである。
 しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。この学生は次のように書いている。「性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからない」、「グル-プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ-ムをやるときのメンバ-がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ-ムを『こなす』という感じで終わってしまう」。その気持ちはよくわかるが、現代社会のヤマアラシジレンマに立ち向かうためには、その空しさはあえて受け入れなければならないのではないか。「祭りのあとの空しさ」というではないか。祭りを楽しんだとしたなら、祭りが終わったあとは、その空しさをじっと受けとめなければならない。それが祭りの定めであり、人間関係の宿命なのだ。そこから逃避しようとして「いつも同じメンバ-」に固執したとしても、そこで感じるだろう空しさは、これと同質、または、それ以上のものかもしれない。
 また、社会教育の援助者に求められるコミュニケ-ションや組織化のための資質・能力についても、今後重要になるのは、特定の住民とべったりつきあったり、「教祖様」になったりすることなく、ときには、情報提供や一過性の学習者へのサ-ビスなどの「ちょっと間をおいた」、あるいは間接的な援助をしなやかに行なえることである。そういう仕事の仕方では、従来の社会教育の直接的援助や指導の魅力に固執する援助者の目には、まさに「虚業=空しい仕事」に映り、不満を感じるかもしれない。だが、こういう仕事を「自分(の気づきや出会い)のためにやっています」とさわやかに言える「発想の転換」がこれからの援助職員に求められるのである。そのためには、人間関係のための洗練されたセンスが必要になる。
 それゆえ、自己管理型学習、とりわけ自己管理型体験学習には、「空しさへの予感や恐怖に耐える力」が必要とされているといえるのではないか。このペ-パ-の学生のような、かなりの自己管理ができている学習者に限っては、ぼくは「潔い撤退」への肯定的態度を変えてみたい。「いや、だまされたつもりでもいいから、とにかく出てみたらどうだろうか」といおうと思うのである。そういう自己管理型の人にとっては、他の「自己管理ができている」ほかの授業への出席や宿題をさぼってでも、mito的授業のような「自己管理のしずらい」授業に参加することのほうが、自己成長にとって有益だと考えられるからである。そうでないと、せっかくの自己管理型学習であっても、「書き言葉メディア」による自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組みを変化させる本来の意味での学習、または革新型学習につながらなくなる恐れがある。ちょっと「余計なお世話」かもしれないが。(もちろん、単位を出さないなどの強制につながる行為をするつもりはない。学習の自己管理の原則はあくまでも貫かれなければならない)。
 そこで、つぎに、同日に提出されたほかの人のペ-パ-を、もうひとつ紹介しておく。ここには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表わされている。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)
 (前回のパズルゲ-ム-スクエアゲ-ムについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲ-ムでは、カ-ドを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャ-したりしてはならないということだったけれども、たかがカ-ドの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。
 (体験学習を行なうということに定められている)奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲ-ムを始める前、このゲ-ムでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグル-プになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。
 7月ぐらいまでは、ゲ-ムに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。
 この前のパズルゲ-ムのときと、その前のゲ-ムのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。
mito
 エンカウンタ-グル-プは、日常の人間関係とは離れた「文化的孤島」で行なわれなければならない。奇数日の授業も、これに似た意義(「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」)があるのだろう。また、引っ込み思案の克服方法のポイントのひとつは、「結果を恐れるな」(自他への不信から結果を先回りして勝手に決めつけるな)である。この言葉も参考になると思う。

● 自己受容と自己変容-自己の枠組み自体が変化する生涯学習
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055
mito
 ぼくは、今まで、枠組み自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組みを変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。その(認知説に?)偏った考え方には変わりがない。急速に発展・変化する生涯学習社会において、枠組みを変えないまま、固定化した枠組みのなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと思うからだ。
 しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、ぼくのこの「学習論」への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。ぼくにとっては、それが逆に不思議だった。そこで、ぼくは「じゃあ、ぼくは自分を変化させたいと思うか」と自問自答してみようとした。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。
 もともと、ぼく自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での学習をしたい)というとき、楽しいイメ-ジとして「変化したい」という言葉を使っていた。ぼ-っと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人と出会ったとき、その人の枠組みのよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときは「至福」ともいうべき自己充実感を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「自分をどんどん変えたい」という程度の軽い気持ちなのだ。例の「どこまでも知りたい」(練馬区生涯学習推進構想)という生涯学習の原始的欲望の一種と考えてもよい。
 ところが、ちょっとマイナ-な気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみたのだが、とてもみじめな感じになることに気づいた。そりゃあそうだろう。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを権力側(この場合は教師)から「自分を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうが健康的である。
 「自分を変えたい」という欲求は、じつは、2つに分類できるのではないか。

T 自己否定としての変身欲求-今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。
U 自己受容による学習欲求 -今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。

 ぼくが今まで提唱し続けてきた「枠組み自体を変化させる生涯学習」というのは、当然、Uということになる。最近の臨床心理関係者の話(嗜僻、依存症など)を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラ-が、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ることと自分を大切にすることは重要である」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたはぼくの胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。ぼくの言葉で言い直せば、「客観視」と「自分のために生きる」ことの大切さということになろうか。Tだけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組みのまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍になるような生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容につながるのである。
 「自己の枠組み自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。でも、わくわくすること(ワンダ-ランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということであり、その援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「こんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。


● 自罰のデリケ-ト、他罰のデリケ-ト
(加害者の被害者ヅラ、淋しがり屋のタカビ-)
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

学生の出席ペーパーより(T大T部社会教育計画、男)
 このところ、この授業に出るのが嫌になって、あまり出ていませんでした。それは、授業のなかでもふれられていたように、授業のなかで出てきたことに突きつけられて、これまでの自分のまちがっていることを認めるのが嫌だったからだと思います。そこへきて、自分の自罰的傾向(「ちゃんと現実を見すえなくてはいけない」「逃げてはいけない」)や自信のなさ(「自分にはこの授業を受けるだけの包容力や人間性が欠けているのではないか」「他の受講者が自己変容しているあいだに、自分は低いところで堂々めぐりをしているのではないか」)があるものだから、事態は深刻だったといえましょう。
 しかし、今日、ある意味ではたまたま、この授業に出て、本当によかったと思います。もともと自分は、社会教育主事資格ほしさとはいえ、好きで(=主体的に?)この授業をとったのでした。ならば、そういう自分を受容して、そして自分を変えていけばよい(どこまで変われるかは別として)わけです。だから、今後は、もっと積極的に出席して、自己変容や自己管理につなげていければと思います。自罰しすぎないように、自分に自信をもてるように(しかし、肩で風を切ったりうぬぼれない程度に)していければと思います。
mito
 この学生のようなデリケ-トさ(本人は自罰傾向と分析しているが)は、本人の個の深みのひとつであり、そういうデリケ-トさが欠けていると自覚するぼくは尊敬する。彼は人生を真剣に生きている、あるいは、自己評価の水準のレベルが高いと思うのである。そんなぼくがかれらに何かいえるとしたら、つぎのようなことである。「批判は歓迎せよ、否定は受け流せ」。本来の批判は基本的信頼にもとづくものである。自分にも刃(やいば)を突きつけながら、なおかつ、そんな非力な自分と相手を受け入れているからこそ、批判ができるのである。「非力でない場合だけ(自他を)信頼できる」という人がいるとしたら、その人のいっている「信頼」は本来の信頼ではない。ただの「信用」である。信用に値するような完璧な「先生」や「人格者」など、この世に一人もいないはずだ。「信用される人間」になろうとする態度は、じつは、競争主義の学歴偏重社会に過剰適応しようとしている無茶なガンバリズムであり、不合理な思い込みにすぎないのである。だれかがそんな競争主義にもとづいてあなたを「否定」(批判ではなく)したとしても、そんな否定は受け流すにこしたことはない。あるいは、そういう「否定」は、その人自らの不安の表明にすぎないのだから、自分を否定しようとする他者の「弱さ」を共感的に理解して処理することができればベストである。学歴偏重のヒエラルキ-的価値観を内面化しているかぎり、その人は他者を否定しかできないのであるから(その弱さは、多かれ少なかれすべての現代人がもっているだろうが)。
 さて、ここで、最近ぼくが気になっているもうひとつのデリケ-トの傾向について述べておきたい。それは、自罰傾向のデリケ-トに鮮やかに対比される他罰傾向のデリケ-トである。たとえば、恋愛問題にしても、自分だけを相手が愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないというのである。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際しようとしている。だが、そこまではいいのだ。見方によっては、そういう生き方も本人がそれで納得して生きているならたくましくていいじゃないかとも思う。別に他人であるぼくが気にかける必要はない。ところが、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。デリケ-トなのである。もちろん、真剣に相手のことを怒っている場合もあれば、「悲しいけれど事実として受けとめる」という場合もある。しかし、いずれにせよ、自分自身については甘やかしておきながら、相手を罰していることにはかわりない。現代社会において、幸福追求の援助者として教育が存在しようとするのならば、こういう場合はどうすればよいのか。これは、すなわち、他罰のデリケ-トに対する援助のあり方の問題である。
 授業中の私語の問題は、今や当たり前すぎて陳腐な話題だとぼくは思っている。授業中の「感動の私語」はむしろ歓迎し、これを積極的に組織化すること(その端的な表れは「ちょっと待った方式」)、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は双方の自由を保障するために、おしゃべりをするための中途退室と入室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、おしゃべりをやめさせるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。先日、50人くらいが受講する授業で、男性2人だけが小声でひそひそしゃべっていて気になってしかたがないことがあったが、しばらく我慢しているとその人たちは荷物を置いたまま自発的に退室してくれたのだ。もちろん、あとで戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。
 しかし、そううまくはいかない場合も多い。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば、その授業とは無縁の「余計な私語」はそういうほかの学生に迷惑をかけていることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ(ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の学生は、その人の学習の自由を保障するために、退室しないままの余計な私語を禁欲せよ」という考え方である。念のため)。人間は何か迷惑行動を起こすときでも、自分の心の中ではなんらかの形でその行為を「正当化」しているはずだ。私語学生はどのように自らの退室しないままの私語を正当化しているのだろうか。
 ここに、「他罰のデリケ-ト」のロジック(レトリック?)が適用できるのではないか。「ほかの人は、私みたいな(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな授業をまじめに聴いていられるのよ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、自分を許して他者を罰しているのではないか。つまり、自分が傷つくことばかりに対してデリケ-トだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向やピア・コンセプト(仲間意識)の表れにすぎないのだが、それを、「おしゃべり仲間をちゃんと大切にしている友達を大切にしている自分」として逆に正当化してしまっている。この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピアが介在していて、個人の個の発現を抑圧しているのは社会そのものではなく、じつはピアであり、すなわち、その人自身の内なる認識なのである。
 電車の中で迷惑行動をしている人の顔つきを見ても、かれらはけっして楽しそうな顔をしていない。股を大きく開いて3人分ぐらいの席を占有している人も、「3人分の着席の幸せ」を奪っているのにけっして幸せそうではなく、むしろ疲れた辛そうな表情をしている。社会や他者に対して、何か不愉快なことがあるのだろう。これをぼくは「加害者の被害者ヅラ」と呼んでいる。そういう例は、いやというほど周辺で見受けられるだろう。だが、よく考えてみれば、そういう加害者たちが幸せになれるのだったら、本当の被害者たちにとってはたまったものではない。水平なネットワ-ク社会(ぼくはそれを学歴社会に対する生涯学習社会だと考えている)における「してあげる、してもらう」のストロ-ク交流の関係しか、自分自身も幸せになれる方法はないのだという「嬉しい確認」ができたと考えればよいのだ。
 ただ、そうはいっても、援助者としての社会的役割の遂行が期待されている人は、そういう「他罰のデリケ-ト」の自己変容に対する援助のあり方を考えなければならないだろう。そこで、デリケ-トの種類を次の2つに分類して整理してみたい(本当はそのどちらでもない個の深みそのものともいうべき「デリケ-ト」を入れて3つだと思う)。

「種類」-「不安の動機」-「関係性の悩みの内容」
T自罰的デリケ-ト-相手を傷つけたのではないか。-自分は他者を愛せない。
U他罰的デリケ-ト-相手から傷つけられた。-他者が自分を愛してくれない。

 もちろん、私語程度の「何気ない迷惑行動」と「確信犯的な迷惑行動」を同一に論ずることには危険性がある。ここでは、程度の差はあれ、アンビバレンツな人間存在としては、すべての人が、「自罰・他罰」「デリケ-ト・たくましさ」「大・小」のどちらの要素ももっているという前提で論を進めたい。
 ここで問題にしたいのは、Uである。社会的に客観視した場合は論ずるまでもなく「不当な態度」として処理すればよいのだろうが、その人は主観的には「本当に悩んでいる」のである。すなわち「問題があることを自覚している」のである。学習は問題の自己解決の行為(問題解決型学習)の一環だとして、教育はそのための援助だとすると、本人が主観的には問題をかかえているということ自体は、援助の唯一の拠り所として非常に重要なポイントなのである。
 ぼくは「淋しがり屋のタカビ-」という言葉をつくった。タカビ-とは高飛車な人のことを指す流行語である。相手の人生を、自分の都合にあわせて影響させたり、支配したりするようなことが多い「迷惑な人」のことである。しかし、そうい人のなかに、じつは「淋しがり屋」が多いのだと思われる。「淋しがり屋」と「タカビ-」の素質は、そういう人のなかでは、悪循環を繰り返しているのだ。愛されないからますます淋しくなり、だからこそ、ますますタカビ-になる。さて、ここまで論じてきて、ひとつ重大なことに気づかないだろうか。すなわち、「そんなことだったら、自分にだってある」「そんなことだったら、わかる」ということである。この「そんなことだったら」が重要である。援助者だって同じ人間なのだから、「淋しがり屋のタカビ-」や「他罰的デリケ-ト」の行為に対して、そんなに苦労しなくても、ごく当たり前に共感ができるのである。これをぼくは「教育的可能性」のひとつととらえる。

 つぎに、これと関連して、「援助者としての責任と無責任」について考えてみたい。授業中に登校拒否(不登校)や拒食症(摂食障害)のビデオを共感的に理解することをねらいとして視聴しても、なおかつ、一部の学生から「共感できない」「かれらは甘えている」というペ-パ-が出されるmito的授業の実情について、「援助者としては不適応症状の人を共感的に理解してあげなければいけないのではないか」、それなのに「十分に症状を理解できるだけの情報を与えないまま、VTRで不十分な情報を流して、共感的理解ができない結果を生み出すのは、教師として無責任なのではないか」という、深く鋭く指摘するペ-パ-があったのだ(「非公開希望」なので全文の紹介はできない)。
 まず、言明しておかなければならないことは、ぼくの勉強不足におおもとの原因があることは明らかである。ただし、ぼくの学習援助者としてのスタンスは、「ぼくが、いま、与えられた学習課題に関連してもっとも関心をもっていることを伝える」ということである。そこさえ責任をもって役割遂行すれば、あとは学習者がそれをどう受け取って取捨選択するかについてはぼくの援助者としての責任の範疇ではないと考えている。そんなことは学習者の自己責任でないか。たとえ、学習者側のなかに、その問題に関してぼくよりすぐれた知識・見識をもっている人がいても、ぼくは平気でそのテ-マについて「教授」するだろう。あとは、ぼくは、批判を「受けて立つ」、指摘を「受け入れる」という覚悟さえ決めておけばよいのだ。

● 援助者としての責任と無責任(共感的理解をめぐって)
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

 不登校事例に対する一部の学生の「かれらは甘えている」という発言は、たしかに他罰的な傾向を秘めていると思われる。そこで、このことについて考えてみることにする。
 第1に、学生の「(不適応の人たちは)甘えている」という判断は「1%の真実」を表わしている。「甘えている」と書いた学生たちはただ単純に「甘えている」と書いているのではない。かれらがこれまでのみずからの人生を生きていくなかで、@社会やひとに甘えてはいけない、それが自立だ、A家族やまわりのひとが自分にしてくれたことに感謝したい、あるいはそういう人たちの期待に沿いたい、Bいやなことでも頑張ってやっていかなくてはこの世ではうまく生きていけない、などの価値観を身につけ、自分とは異なる不適応の人たちを「甘えている」と判断すること(他罰)を選択することによって、今までそういうふうにがんばってきた自分の生き方を否定しなくてもすんでいるのである。
 つまり、不適応を起こして「本当の自分を大切にする」というだれにとっても「それなりに魅力的な生き方」のその魅力に打ち勝つためには、不適応行動を「甘えている」と切り捨てることを選ぶしかないのである。不適応が現代社会における自己保存の「ぎりぎりの選択行為」だとすれば、そういう人たちを「甘えている」と切り捨てることも、現代社会においてはそれなりに「ぎりぎりの選択行為」なのである。その証拠に、かれらは「(不適応に対して)共感『できない』」「共感『したくない』」と書いてくる。無価値的に「共感『しない』」とは書いてこないのである。他者を共感的に理解したいという要求は潜在的にはだれにでもあるのではないか。ただ、それと自己保存本能とが、現代学歴偏重競争社会の疎外状況においては対立してしまうのである。
 このように考えると、不適応を「甘えている」といって切り捨てて現代社会で生きていこうとする「戦術」は、だれにとっても、まったく意味のないこととはいえないだろう。同時代の他の99%のそれぞれの人が少なくとも1%ぐらいずつは共感できる「1%の真実」を表わした生き方のひとつなのではないか。問題は、シロかクロかではなく、シロ何%かクロ何%かなのであり、出席ペ-パ-の場合は、もっと根本的には、「どれだけシロの深みを表わしているか」、「どれだけクロの深みを表わしているか」なのである。
 第2に言いたいことは、援助者側は、「他者を共感的に理解できるようになることが、どれだけすてきなことなのか」ということを、その方法論とともに提案する責任はあると思うが、自分にできる範囲で一生懸命にそれを提案した結果、学習者側がそれを受け入れなかったとしても、そこには何の問題もないということである。人それぞれなのである。教育目標を学習者に提示し、その目標に沿って授業を進めても、なおかつ、相手が自分の思うように変化してくれなくても、それはそれでよいのだ。援助者側にも学習者側にも問題はない。援助者側が「学習者を変えられない」という問題に固執するとすれば、それは相手の人生をしょいこもうとする「熱血先生」の傲慢さとさえいえるのではないか。ぼくは、共生の要素を@共有(価値や文化の共通点を探ったり創ったりすること)とA共存(価値や文化の異なりを受容しあうこと)の2つだと考えている。「相手の人生をしょいこまない態度」は、この場合のAに当たるのである。
 ただし、これは原則論であって、ぼくの場合は、その学生の指摘するとおり、教材研究をもっとしっかりやっておけばさらによかったのではないかとは思う。つまり、それは、ぼくが「自分にできる範囲」にまで到達していなかったということであり、その面では、十分には責任を果たしていなかったというべきである。自分がいま関心をもっていることについては、いっそう深く考えていきたいと思っていることをここで表明しておく。
 第3には、「(不適応について)共感的に理解しなければいけない」ということを最優先する立場は、ぼくはとっていないということである。ぼくは「共感的に理解できたらいいね」といっているのである。「共感しなければいけない」といわれたのでは、なんだかそれまでの自分が共感的理解能力に欠けた冷血人間としての烙印を押されたようで消極的ないやな気分しか残らないではないか。ぼくは「人間をよりいっそう共感的に理解できるような自分でありたい」というみずからの動機を自分のなかに探りながら、授業を進めている。だから、学生に対しても、一人ひとりのなかに「他者を共感的に理解したい」という顕在的・潜在的欲求が存在するであろうことを基本的には信頼して、その欲求に訴える授業を組み立てようとしている。もちろん、共感的理解能力の発達は、信頼・共感・自立の人間関係の創出やその援助のためには不可欠な要素だと思っているからである。「〜しなければならない」ではなく、「〜するほうがすてきだ」という提案を行なうことこそ、ネットワ-ク型の水平社会における援助者としての個の発揮の有効な方法なのではないか。
 援助者といえども、社会という幹に対する枝葉にすぎない。その枝葉が自己実現と社会的承認のために果たすべき責任とは、自分の考え方を押しつけたり、その結果、幹がそのとおりに変わってくれなかったからといって不平に思ったりすることではなく、自分の生きてきた範囲でできることを実際にどれだけ幹(この場合は学習者集団全体)に提言できたかを(たとえば「先週は授業で何回、どのように提言したか」などと)なるべく客観的に自己評価することなのである。


● ぼくたちはいったい何のために学んでいるのか--学問とは何か、生涯学習とは何か
西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

学生の出席ペーパーより(S大社会教育計画、女)
 わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。
 今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいって言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。
 人には、その人に見合った世界があって、その世界の中での上を目指すことはかまわないけど、その上の世界を目指すのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。
 私は、そんなものなの?、と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。
mito
 そういう過去の遺物のような人間に対してのぼくの基本的なスタンスは、「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」である。だから、ペーパーの書き手に対するアドバイスとしては、ひとことでいえば、「ケッ」と言って笑い飛ばす能力が大切であるということになる。まあ、心配しなくても、その手の「アパルトヘイト」(南アフリカ共和国の1989年以前の人種隔離政策)みたいな、唯々諾々と「頑張ってきた」だけの人たちは、社会ではいずれ挫折するだろう。たまたま出世するかもしれないけれど(本当は管理職には適していないのだけど)、人間としての味が薄いため、他者からの信頼や愛情という人間の生活や仕事にとっての肝心の財産を獲得することができないまま生きていくことになるからである。
 学生が一流企業をめざすこと自体は、けっして不合理なことではない。ぼくだって、「生活の安定をめざすならば、可能なら大企業にぶらさがれ」と学生に言っているぐらいだ。しかし、そういう自己保存のための「作戦」の部分だったはずのものが、たまたま「成就」した事実があったからといって、「本気」になって、「自分は上の世界の人だ」と思い込んでしまう人間がいるというのにはびっくりしてしまう。自己の合格・不合格などは、客観的にはちっぽけな事実にすぎないのに・・・。学校歴偏重社会の価値観の個人的な精神世界への侵略は、目に余るものがあるのだなあと思う。
 例の友人は、AC(従順な子ども心)とCP(厳格な親心)ばかりで生きてきた人なのだろう。そういう人たちの幸せのためには、なるべく早いうちに挫折を自覚して、「ただのろくでなし」(平気で差別したり迷惑をかけたりする人たち。自称「成功者」たちの差別や、頑張って授業には出てきてしまう自称「被害者」たちの私語など)から「ましなろくでなし」(そのほかの、しかし「不完全」な私たち)として立ち直る機会が訪れるよう祈るばかりである。
 ところでこのペーパーについてT大学でも簡単にコメントしたところ、次のようなレスポンスがあった。それによって、このトピックスに関する考察は、もう一段、ぐんと深まることになる。これだから出席ペーパーシステムはやめられない。

学生の出席ペーパーより(T大U部社会教育計画、男)
 一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。「ケッ」と思う気持ちや、(注=彼らに対して)負け犬にならないということは大切ですが、いきなり「ばか」と切り捨ててしまうことの方が、ある意味では「負け犬」なのではないでしょうか。(注=合格・不合格の)つまらない事実であっても、わたしはその事実は事実として認めるべきだと思いますし、その人の努力の結果には敬意を表わしたいとも思います。その上で、自分は自分なりのものを作り上げ、それに自尊心をもてばいいと思うのですが。(あ、時間がない・・・。)
 フリースペース、その時間、わたしは授業ですので、ちとキツイです。出たいとは思うのですが・・・。わたしも酒好きですし(笑)。
mito
 ぼくは、「馬鹿という言葉は、少し違うなあ」とは感じながらコメントしていたのだ。しいていえば、「あほ」という言葉のほうが適切だったかもしれない。つまり、嗤う(ばかにしてわらう)という感じである。庶民が「ばか殿様」を笑い飛ばす、あの感じである。
 さて、このペーパーによって、「その人の努力」に対する評価のあり方が問題として焦点化されてきた。これは、このペーパーの書き手一人にとどまらず、「心優しい」現代青年の普遍的な傾向であると思うのだが、「そんなこと言ったって、その人なりに努力してきたのだから」とか、「がんばってきたのだから」とかいって、客観的にはその「努力」が不当であることを感じながらも、個人の主観的なストーリーとしては容認してやろうとしてしまうのである。ぼくは、声を大にして言いたい。努力してればよいというものじゃないし、頑張っていればえらいというものじゃない。
 例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる「人類の幸福追求の敵」としての役割を果たすからである。
 このような客観的には「不当なこと」(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張った」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」が滑稽であることを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだといえよう。
 それでは、なぜ、学習権がかなり保障されているはずの現代青年までもが、そういう「人類への裏切り者」を許そうとするのかというと、それはおたがいに「頑張らせられてきた」学校歴偏重社会の被害者としての仲間意識が根にあるのだとぼくは思う。これこそ、まさに、ピア・コンセプト(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)の逆機能といえよう。ヒエラルキー(階層制度)の上位にあって下位の自己を抑圧する相手に対してまで、「同じ苦労をしてきた」(ただし、相手は「成功」した!)という思いから、批判することを回避している。これは、自称「上の世界の人間」もそうでない人も、「(受験勉強はいやなのに)頑張らせられてきた」という意識・無意識の被害者意識を、社会変革主体としての「自尊心」に転化するに至らないまま、自身の根っこの問題として引きずっていることの表れといえるのではないか。つまり、端的にいえば、負け犬同士が傷をなめあっている姿ではないか。どちらの側も、学校歴偏重の上下競争の価値観を内面では蹴飛ばしきれていないからである。
 さて、ぼく(mito)自身はどうなのか。「やっぱり負け犬の一種でしょうね。そりゃあ、こんな社会に生きていて、あるいは人間存在の空虚さという本質から、まったく敗北主義にならないというほうが、かえって不思議ですよ」。こういって、ぼくは、そういう自分の「ろくでなし」の部分を、「まあ、事情が事情なんだから、今までのことはしかたないよ」という感じで許してやっている。しかし、「せめてこれからは」という気持ちで打ち出しているのが、つぎの3つのテーゼである。
 「今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて」(『こ・こ・ろ生涯学習-いばりたい人いりません-』p106より)。
 ヒエラルキーのなかにあっても個人が意味をもって生きるためには、うえの3つとも必要であろう。しかし、学問とは、問うということを学ぶということでもある。不易の部分、本質の部分を求めて、「ぼくはいったい何のために学んでいるのか」と自問したとき、とくにこの3番目の、いわば「正義の行使の裏付け」ともいえる、自己にも批判の刃(やいば)を向ける真実の追求の重要性に思い当たるのである。
 「ばか殿様」からも、それを反面教師とすることによって、学ぶことはできる。しかし、それよりも手っ取り早いのは、さわやかに生きていく力をもっている人、「ああ、この人って、いい生き方してるな」と自分までうきうきしてしまう人との出会いを多くすることである。そのことによって、自分も「さわやかに生きていく力」をもつことができる。「大人になりたくない」なんていう青少年が多いが、それは、たまたま、いいモデルとしての大人にめぐりあったことがないかから、あるいは、本人がそういう出会いから逃げようとしているからかのどちらかであろう。
 ぼくがフリースペースを個人的にも楽しみにしているのは、「おお、いいなあ」と心からあこがれてしまうような他者の生き様と出会い、癒され、こちらまで元気が出るからである。相手は学生ではあるが、ぼくなんかよりよっぽどかっこいい潔い自己決定の生き方や、自分に厳しい深い生き方をしていて、教師のぼくが思わず尊敬してしまうような学生もごろごろいるのである。こういう人との出会いを避ける手はない。このペーパーの書き手にも勧めたい。フリースペースは、参入も撤退も自由のネットワークの場である。「1年に1回だけ来てもメンバーだ」。何回も来なくてもいいが、授業が休講のときなど、1回ぐらいは来る価値はあるだろう。
 最後に、蛇足になるが、その自称「上の世界の人間」が実際に学生としてぼくに接してきたとしたら、ぼくは教師として「どう受けて立つか」を述べておきたい。教師は学習者の援助者であるから、今まで述べたようなことはそのままの形ではいわない。教育効果(変容)が期待薄だからである。今まで述べたことは、客観的には自分にも迷惑をかけている「ただのろくでなし」をさえ、「頑張っているんだから」といって認めてしまおうとする「心やさしい人びと」への忠告であったのだ。
 自称「上の世界の人間」の本人に対しては、ぼくはあざ笑ったりすることなく、その人の過剰で屈折したACとCPの悲しい事実を探り出し、本人の目の前につきつけようとするだろう。そうすれば、遠い先にあった挫折の自覚が早く訪れる結果になってしまうかもしれないが、その場合の「挫折」は現実よりも本人の理性的認識によるシミュレーションに近いものであり、また、それゆえ本人の「自己決定」の要素が比較的大きいと思われるからである。個人の幸福追求への援助のためには、教育は本当はそうあらねばならないのではないだろうか。

学生の出席ペーパーより(S大教育社会学、女)
(注=自分のことをワガママだと批判していた彼氏が、最近やけに自分にまとわりついたりプレゼントをしたりするので「あやしい」という前置きがあったあと)たぶんわたしの夜遊びのせいだと思う。わたしの夜遊びははんぱじゃなく、男友達5、6人とギャーギャーさわぐ。朝まで激論を交わすことも多い。激論のテーマは人種差別、宗教、音楽などだが、二日酔いをともなうとっても充実した朝を迎える。かれらは愛すべき Friendsである。わたしの友達はブラックが多いので、人種差別についてはすごくきびしく、わたしは日本代表としてせめられている。
 それ(注=ほかの男友達との「夜遊び」)が彼には気に入らないらしく(わたしがそのことを楽しそうに話すらしい。だって、ほんとうに楽しいんだもん)、また、わたしがあんまり彼と遊ばなくなったので不安らしい。「おまえが離れていくような気がする」のだそうです。わたしはそうでなくても離れていくのよ、と思ったけどね。プレゼントがなんぼのものじゃい。アパルトヘイトを知らない彼にもっと勉強してもらいたいと思う。彼はマンデラがどこの国の人か知らなかった・・・。
mito
 ほら、こんなに「雄々しい」いい女がやっぱりいるんだ。このペーパーには「雑談」という彼女なりのマークが付いていて、それにしてはこういう深い内容であり、そのことだけでも彼女のその「潔さ」にぼくはうれしくなってしまう。だけど、知らないということは仕方のないことだから許してほしい(マンデラはアフリカ民族会議(ANC)議長で、現在、南アフリカ共和国大統領)。問題は、差別やその他の社会の不当性、人間存在、芸術表現などの事実を知っているかどうかよりも、その本質(真実)の追求自体にそもそも関心があるかどうかだ。
 ここからは、「彼」本人からの話を聞かないまま論を進めるので、実際の彼の姿を推測するものではないということをお断わりしておきます。
 きっとあなたの今までの彼は、そういう関心そのものがまだ育ってないのではないか。世の中には、大人になってもそういう「ガキ」状態にとどまっている男が(女も!)かなりいる。社会や自己の姿をなるべく正確にとらえようとするA(大人心)を使い慣れていないのである。そういう人は、相手に「自分のために生きてほしい」と一方的に依存してくるし、自分勝手に独占的な愛を求めてくる。それは、他者(社会)との関係のなかでの自己を客観視できていないからであり、つまり、自立できていないということなのである。遊んでくれなくなると「離れていくような気がする」と相手に不安だけを訴える姿は、その淋しい気持ちもわからなくはないが、彼がまだ自己を主観だけでしかとらえられず、他者から見た自分の姿を推察する能力が育っていない証拠ともいえる。あなたのような大人の女には、そういう自立できていない男は残念ながら似合わないのだろう。
 世の中には、あなたとの「激論」に耐えうる「いい男」がいっぱいいるのだから、いい女になりつつあるあなたが、過去のそんなつまらないつきあいにあまりとらわれすぎるのはもったいないことだと思う。ぼくはそんなに雄々しい男ではないけれど、そんなぼくだって、このペーパーを読んで、「ああ、彼女みたいな人と『激論』するのは楽しいだろうな」と思う。そうは思えずに、「社会や人間のことなんかことさら考えなくたって」と思う男は、同じように思っている女とつきあって満足していれば、それで世の中は安泰だろう。
 「わがまま」には2つの種類があると思う。「わたしの人生はわたしが歩きたい」という「いいわがまま」と、「あなたの人生をわたしのために曲げて生きてほしい」という「悪いわがまま」の2つである。自分の力で自分の自立を実現して大人の「いい女」になるためには、前者のわがままであるのなら必要なことである(後者の「悪いわがまま」も愛にとっては不可避だが)。こういう「いい女」と「いい男」が居心地よく交流できるサンマ(時間・空間・仲間)を、ぼくはこの世の中にいっぱいつくりだしていきたい。
mito Lネット原稿 LNET9507.DOC 95/07/11 31


チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?
 -新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス-
昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?

 悲観的な言い方をすれば、たしかに、現代は、学校も職場も家庭も社会も、そして、地域も病んでいるといえる。「地球規模の歪み」ということもできる。このような「社会の急激な変化」のなかでの社会性、公共性、現代性、緊急性に満ちた学習課題を、文部省生涯学習審議会「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)」(平成四年七月二九日)では「現代的課題」と呼んで、その学習を積極的に取り上げるよう提言している。
 地域教育力の回復も、いうまでもなく現代的課題のひとつである。しかし、病んでいる学校、職場、家庭、社会が、みずからが病んだまま、地域にだけは救世主のような教育力を期待する姿はどうみても滑稽である。受験地獄といじめに窒息する学校があり、家族を省みさせない過労死の職場があり、不和と暴力の家庭があり、不信と争いに支配された社会がある。地域教育力の弱体化も、その現代社会の不幸の反映であるにすぎない。そのみずからの不幸には口を拭っておいて、青少年だけは地域のなかで幸せにさせてやろうとするのは、気持ちはわからないでもないが、そもそも虫が良すぎる話なのだ(逆に、現代社会にも当然ながら「幸福」の部分もあるだろうが、ここではふれない)。
 大人たちが「自分はともかく、せめて青少年には幸せを」といって、自分たち自身の不幸で非主体的な状況には批判の刃(やいば)を向けないまま地域教育力に期待を寄せるとき、そこで想定される地域は「善」ばかりの現実感に欠ける空想の産物でしかありえない。そして、「地域教育力の回復」という言葉は、空しいスローガンになり、空念仏と化すのである。うそくさい空念仏をいったんやめにしてみないか。
 それでは、そのとき、ぼくたちは地域をどうとらえればよいのか。ぼくは地域を「善と悪」や「毒と薬」の混じりあう「アンビバレンツ」(両面価値)の場としてとらえる。これが地域の現実であり、そこには現代人の生きざまの真実の姿が渦巻いている。地域には、現代社会のヒエラルキー(階層)による秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。だからこそ地域はおもしろい。そういうなまの水平な出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。
 他者がきれいに整理した「事実」を自己の思考の枠組のなかにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達し得ないが、人間にはそれをどこまでも知ろうとする潜在的欲望がある。これが生涯学習の本当の姿であろう。「事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を」ということである。
 この「どこまでも知りたい」という自然な人間の欲望が触発され、充足され、際限なく広がる場のひとつが、地域である。もちろん、学校、職場、家庭、社会のそれぞれにおいても、このようなワンダーランド(わくわくする世界)としての側面を強めていきたい。善だけ、薬だけの空念仏や、事実だけの一方的注入はもう飽き飽きした。そして、虚偽や上っ面を拒絶して、このように果てしない真実追究に向かう一貫した姿勢のもとに、地域教育力の回復もめざされるべきなのである。

若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか

 ぼくは、狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(略称=狛プー)に年間を通して関わっている。狛プーでは、「プータローの自由な精神」をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。狛プーはぼくにとっても一週間に一度くる「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つのマ)」である。
 そこには、東京、神奈川はもちろん、埼玉や千葉からも若者がやってくる。かれらは若い旅人である。よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる。余談だが、主催者側は、そういう旅人を、門前払いするようなもったいないまねを夢にもしてはならない。
 その若い旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江って、いいところだよ」と、まんざらではなさそうだ。実際、なかには、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。
 地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元せよ」という言い方である。相手の若者だって憲法で住居と移転の自由が保障されているはずなのに、視野の狭い地域主義にこり固まった大人の都合から若者の巣立ちを引きとめようとする。過保護・過干渉の教育ママみたいだ。これを「御都合主義」と呼ぶ。御都合主義からの言葉も、空念仏と同様、うそくさくて第三者には聞いていられない。
 狛プーの活動も四年目に入り、キーパーソン(鍵になる人物)であった何人かが狛江から巣立っていった。T子は、ワーキングホリデーでニュージーランドの牧場に働きにいってしまった。公務員のN夫は、念願の社会教育職場に異動して忙しくなってからは、狛プーから足が遠のいている。保健婦のM子は、昇進試験に合格し、希望通り、かねてからあこがれていた小笠原に異動になった。残ったぼくらは淋しさを感じないわけではないが、会いたくなれば会いにいけばよいのだ。実際、会いにいったメンバーもいる。それでいい。少なくとも、彼女たちが「狛江を見限った」ことを責める若者はいない。そんなこと、当たり前のことのようだが、居住している地域で永続的に活動することを必然としてしまうような大人の「御都合主義」は、その逆のことをやっている。
 若者にとって地域は巣立ちの場である。自分で空を飛べるようになるまで、いっとき、その地域という巣で、若い羽を育てたり傷を癒したりする。そういう若者が巣から飛び立つとき、大人のほうは定住型が多いので、空しさや淋しさを感じるのかもしれない。しかし、巣(地域)の維持のために鳥(人間)があるのではなく、鳥(人間)の自己成長のために巣(地域)があると考えたい。そこにずっととどまって癒され成長するのも良いが、飛び立っていくのも良し、なのである。地域自身が、若者の巣立ちの場としての自己の存在をあるがままに「良し」として受け入れることができるということが重要である。これこそ、ほんとうの地域のプライドのあり方だ。

新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス

 先述の保健婦のM子は、仕事でアルコール依存症の家庭などを訪問した日の夜は、しばらく寝つかれないときがあると、ぼくにいったことがある。だから、狛プーでは、そういうことを忘れてのびのびと過ごしたいともいっていた。彼女は、自他の人間存在の真実の重さに向き合って生きているのである。また、それからいっとき逃れて、安心できる仲間のなかで癒されようとすることもある。彼女は一度しかない人生をあるがままに自然に生き、そして、大切にていねいに生きようとしているのだ。
 彼女は、今までの青年活動のリーダー像とはかなり異なる。「団体活動のために」というお題目が彼女の内側にはまったくないといってよいだろう。そして、マス(人のかたまり)よりも一人ひとりの個とていねいに出会おうとする。また、その個に対しても、「活発に活動しているかどうか」より、個の姿そのもの(ぼくの言葉では「個の深み」)に関心をもつ。実際に提案することは軽やかで、花火大会見物など、自己の嗜好に基づいている。仕事の忙しさもあってか、狛プーへの出席率も皆勤というほどではない。しかし、そういう彼女こそ狛プーのキーパーソンのひとりであり、ほかのメンバーも、自然で自発的な支持を彼女に寄せているのである。
 ぼくは、これを、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という従来型のリーダーシップとの対比から、「あなたはあなた、私は私」タイプの新型キーパーソンの登場とみている。「私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。私は、あなたの期待に沿うためにこの世に生きているのではない。あなたも、私の期待に沿うためにこの世に生きているのではない。あなたはあなた、私は私である。しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい。もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである」(パールズ「ゲシュタルトの祈り」)という詩があるが、彼女はまさにそれを地でいっているといえよう。
 彼女の生き方は、人間関係疎外の現代社会において、自立した人間どうしが関係を回復するための大いなる希望の営みといえるのではないか。人間は、みな、無知(宇宙さえわかっていない)と非力(過去と他人は変えられない)である。また、交流することによって、相手を傷つけ、相手に傷つけられる予感の恐怖にたじろぐという意味で「ろくでなし」でもある。しかし、このような無知と非力とろくでなしである自他の状態を自覚し、受容できたときに初めて、自他という人間に対する「基本的信頼」と「共感的理解」に基づく関係がつくられるのである。
 自己のろくでなし状態や他者の痛みについては気づかないまま、他者や社会のせいにしてすませている人、それゆえ悩まないでいられる人は、「ただのろくでなし」でしかない。しかし、その反対に、現代社会においても、枠組みの異なる他者となんとか共生しようと模索している「ましなろくでなし」になろうとしている若者たち(いい男、いい女)は現在でも各地に生き残っているのである。未来型の公的生涯学習支援とは、こういう「いい男、いい女」の居場所を地域に創り出すことである。
 狛プーのメンバーが「狛プーは、いついっても、あるがままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」と言ったことがある。変容(成長・発達)するためには受容(癒し・安らぎ)が必要だ。若者の「よりましなろくでなし」への変容のためには、地域のあらゆるところにそういう「無条件肯定ストローク」(ストロークとは交流分析の用語で、相手の存在に気づいていることを伝える行為)を安心してやりとりできる「癒しのサンマ」が必要なのだ。そこでの信頼と共感の関係が、若者の自立を育むのである。
 従来の青年教育には、娯楽性が重視される一方で、歯を食いしばってでも、頑張って成長・発達し、自己を充実させ、組織や地域に貢献するというガンバリズム(勤勉主義)の傾向も強かった。これには、戦後の後期中等教育の代替えの場としての青年団や青年学級の位置づけの歴史の影響があるのだろう。しかし、今の時代に、「高校や大学に、行けない人のために、それを補完するような青年教育をめざす」などと主張する人は少ないだろう。現に、大学生が、「大学ではない生涯学習の場」として青年教育に参加する時代なのである。地域の青年教育は、過去の青年「補習」教育の思想とはすみやかに決別して未来型生涯学習支援サービスに向けて脱皮しなければならない。

筆者注=拙著『生涯学習か・く・ろ・ん-主体・情報・迷路を遊ぶ』、『こ・こ・ろ生涯学習-いばりたい人いりません』(ともに学文社)を参照していただければ幸いです。
mito 原稿 神研地域.DOC 96/02/09 1


生涯学習時代における大学の役割
-平成6年度神奈川の大学における生涯学習関連事業実施状況調査結果から-
西村美東士 昭和音楽大学短期大学部助教授

はじめに -現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として-

 本調査結果(平成6年度、図表1)から、まずは、市民や学生の生涯学習への関心の高まりを大学側がかなりよく反映していると評価することができる。
●図表1 神奈川の大学における生涯学習関連事業(平成6年度実績)
 従来の高等教育(大学・短大)においては、学生の恒常化した私語によって授業が妨げられるなどのことから、いまや学生の学習意欲の存在そのものさえ疑う大学関係者もいるほどだ。こういう高等教育の「権威失墜」が生み出された社会的要因としては、--1.従来の「学歴偏重」(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を育てたり評価したりできないという社会的な認識が普及しつつあるため、2.逆に「学校歴偏重」(どこの大学のどの学部の卒業か)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしているため--という2つの理由があげられよう。だから、ごく一部の大学・学部の「自他ともに認めるエリート予備軍」を除いた大多数の学生が、「賢明にも」学士になるだけのための教育には、過大な期待や、その受け手としての自負をあまりもたなくなっているのだ。
 そういう状況の一方で、現役学生を含めた多くの現代人のなかで、生きがい創出、自分さがしなどの自己実現や、職業、ボランティア活動などの社会的役割遂行のための切実な学習欲求が、急激な広がりと深まりを見せている。これらのニーズ全体が、生涯学習社会形成に向けた社会創造のパワーとしてふくらみ始めているのである。そのふくらみは、革新のない過去の高等教育が色あせていく道程(みちのり)と、あたかも反比例するかのような目覚ましさである。生涯学習関連事業の実施のなかでそういう人びとの猛烈な学習欲求に接している大学のほうも、新しい出会いと気づきの体験と自己革新をしている最中といえるだろう。
 また、こういう大学の革新によってこそ、従来の学歴偏重社会の「エリート」を育てる方向ではなく、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」(学校教育法第52条「大学の目的」、短大は若干異なる)という方向での高等教育の根幹部分自体の進化・発展も可能になると考えられる。つまり、大学の枝葉の役割としての狭義の生涯学習関連事業だけでなく、高等教育全体のあり方が生涯学習社会の形成というフレームのなかで考え直されなければならない時期にきているのである。

1 市民の多様化・高度化する学習ニーズへの対応を

 生涯学習あるいは成人の学習の特徴として、自己管理型学習(self-directed learning)であるということがあげられる。すなわち、--みずからが学びたいと思うこと(欲求中心の自発的学習)や学ぶ必要があると思うこと(課題中心の問題解決型学習)を、学びたい手段で学ぼうとする--のである。そういうニーズが多様化、高度化する現在、大学の生涯学習関連事業もそれに対応しなければならないのは当然である。
 たとえば大学公開講座では、その生成期においては、「一般市民のために」という名目のもとに高等教育としてのレベルを根本からないがしろにしたり、「教員の公平な分担」という名目のもとに焦点化されていない総花的で非体系的なプログラムに陥ったりする傾向があったようである。しかし、最近の公開講座は、多様化し、高度化する市民の生涯学習ニーズに応えて、本来の高等教育機能の拡張としての公開講座を志向する大学が増えている。これは、最近の発展段階のひとつとして評価されよう。
 神奈川県リカレント学習セミナー事業(平成6年度)では、「食品・栄養分野の新しい視点」(相模女子大)、「パソコン基礎知識と情報化社会へ向けて」(産能大)、「管理職を目指す女性のために」(フェリス女学院大)など、各大学の特性を生かして、ある程度焦点化され、系統化されたプログラムが実施されている。また、専修学校においても、「合唱指導法」(昭和音楽芸術学院)、「専門家のための造形講座」(早見芸術学院専門学校)などのプログラムが指導者や専門家のために特化したかたちで提供されている。
 大学の生涯学習関連事業全体についても同様のことがいえるだろう。今後も、学習者層の拡大のためには、親しみやすい入門的で広い範囲の学習内容の提供が必要ではあろうが、大学側がそれだけに甘んじていて、市民の多様化、高度化する学習ニーズに対しては、「人がたくさんは集まらない」「手間がかかる」などの消極的な理由から対応できないままでいると、その事業を「大学が」行なっているからこその魅力を失い、よって、学問の深い意味での楽しさをも失って、いずれは市民から見離されることにもつながりかねないのだ。

2 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を

 今回の調査によると、県内の3/4近くもの大学で公開講座が行なわれていることがわかる。しかし、その経年変化をみると、実施大学数としては、「県の委託」が減っている分、「市町村と」や「自主開設」が増えているだけで、全体の数は頭打ちになっている(図表2)。この背景には、地域に根ざした大学拡張や大学側の主体性の拡大を重視する県の方針があるのだと思われる。むしろそれは望ましい傾向として評価することができよう。ただし、実施大学数の増加が緊急課題であった段階はすでに過ぎ去りつつあることだけは確かなようである。
●図表2 公開講座実施大学数
 そうだとすると、県内の生成期の大学公開講座のままでは限界に達しており、今はそれを実施する大学を増やすことではなく、講座の質を進化させることが求められているといえるだろう。数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行なっているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題なのではないか。
 市民の多様化、高度化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。
 さのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも「一斉承り型学習」と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが、今後の大学公開講座の運営には求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。

3 高等教育の制度等の柔軟化と個性化を

 今回の調査によると、社会人入学特別選抜制度、科目等履修生制度、単位互換制度などが、それぞれ急速に整備されつつある(図表3)。たとえば、科目等履修生制度は、制度化している大学、在籍者がいる大学ともに、直線的な伸びを示しており、従来からの聴講生制度の後退を補って余りあるものがある。
●図表3 制度等の整備大学数
 過去の学歴偏重社会においては、固定的な年代や時期の、固定的な一定期間の、固定的な場で行なわれる高等教育に重きがおかれ、それ以外の学習や卒業後の学習には比較的、関心が払われてこなかった。しかし、今後の生涯学習社会においては、社会の変化や進展に応じて、卒業後も繰り返し教育の場に立ち返って学習(リカレント学習)を進めることが求められていることから、大学の側もそういうニーズにいっそう柔軟に対応していく必要がある。
 このことに関連して、2つの重要な生涯学習の観点を述べておきたい。それは、--1.人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、なるべくその時期を逸しないようにして、それぞれの時期の課題に適した学習を行なうことが望まれるという観点、2.人間は一生のあいだ、さまざまなかたちでつねに変化・発達を続けることが可能な存在であるのだから、生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができるという観点--である。従来、とくにあらたまった論議などでは、ややもすると1ばかりが強調され、生涯の各時期における「教育目標」が固定的に受けとめられてきてしまった傾向があったのではないか。大学の側が本音のところではそういう前者の考え方だけに固執しているのだとすれば、せっかく大学の扉をたたいてくれている社会人や大学既卒業者は救われない思いになるだろう。「思い立ったが吉日」「人生のすべてが勉強」などのごくあたりまえの庶民感覚を大学も大切にしなければならない。

4 市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を

 神奈川県生涯学習推進協議会は、平成元年9月、「神奈川におけるリカレント学習システムの整備について」を提言し、その後、「リカレント学習推進専門部会」で、「神奈川におけるリカレント学習機会に関する情報の整備・提供」と、その情報提供に相談・助言のサービスを加えた「コーディネート機能」を検討事項の柱に掲げて議論を進めているところである。さらには、「生涯大学システム企画専門部会」では、大学を含めた生涯学習の推進に関わるさまざまな県内の機関が提供する学習機会を体系的・総合的な学習機会として県民にわかりやすく提供する「生涯大学システム」を構想しようとしている。大学と県とがたがいに主体性を発揮しながら、このような生涯学習の統合的情報の提供のために有機的な連携を図ることが望まれよう。とくに後者の情報提供にあたって重要なことは、学習者主体の情報提供によって学習者自身の自己決定を促すという触発の姿勢とともに、「(情報を)こちらから届ける」というサービスの姿勢である。
 生涯学習関連事業においては、こういう学習者中心のサービス姿勢を、情報提供においてのみならず、施設開放や公開講座の実施においても徹底することが今後の重要な課題となろう。いまや2/3の大学が施設開放を行なっており(図表4)、大学の市民への開放性の高まりを感じさせるが、その「開放性」がどれだけ市民の実際のニーズとマッチしているかについては、まだまだ覚束ない大学のほうが多いのではないだろうか。「大学教育に支障のない限り、自由にご利用ください」という姿勢も発展のひとつだろうが、生涯学習の時代はそのつぎの段階への発展を大学に求めているのである。それは、先の大学情報のように「届ける」「触発する」という姿勢である。
●図表4 施設開放実施大学数
 まさか校舎や体育館やグランドなどの施設は「届ける」というわけにはいかないが、大学を訪れたいと思った市民が「どれだけ容易に目的地に到達できるか」(アクセシビリティ)を配慮する精神が求められる。車のない人はどうか、お年寄りはどうか。また、車椅子でも、大学の玄関から2階の開放している図書館に昇れるだろうか。さらには、バス停を降りてから大学の玄関までの歩道はどうなっているか。居合わせた自校の学生は、お手伝いするだろうか。こういう心配りをすることをオープンマインド(開かれた心)というのである。
 平成6年10月、横浜市立大学は街づくりが進むヨコハマポートサイド地区ビル内に「よこはまアーバンカレッジ」を開設した。これは、リカレント講座などを開催するための会場として、研修室、セミナールーム、ラウンジなどを備えたもので、同大学としては、この会場を市内や県内の他の大学にも開放し、共同講義の開催も手がけたいということである。全国的にも「エクステンションセンター」の名称などで、それを大学の立地とは別に街中に設置する同様の動きが見られるが、最大限のアクセシビリティとして評価できる。

5 市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を

 とくに「きびしい生涯学習」については、どうしても高等教育の過去のイメージを引きずってしまい、市民側も大学側もともに、教える側の制度化された「権威」が至上のものになりがちである。そして、「学びたいから学びたいことを学んでいる」という自己責任の原則が忘れ去られ、学習態度を依存的なものにしてしまうのである。これでは、生涯学習も、過去の教授者主体の「一斉承り学習」とあまり変わらない結果になってしまう。
 もちろん、大学卒業資格や単位の取得という学習結果の存在意義を全否定することはだれにもできないだろう。しかし、生涯学習社会への転換において大切なことは、そういう資格・単位の認定に関わる制度的な改善をも含めた「評価の適正化」である。「学校歴」に偏ることなく、「学習歴」を問わなければならないし、また、単位や資格の取得を争う大人どうしの受験地獄にしないためには、学習結果としての「学習歴」に偏ることなく、一人ひとりの多様な個性と持ち味のある学習経過をも尊重しなければならない。
 さらには、学習成果の評価についてのより本質的で積極的な意義としては、何よりも学習者本人がつぎの学習行動を主体的に決定するために不可欠であるということがあげられる。それゆえ、適正な評価のためには、ガイダンスやコンサルティングなど、学習者と援助者との相互的な営みが必要になる。したがって、生涯学習関連事業においてなされるべき学習成果の評価のあり方を検討することは、--従来の高等教育が学生の主体的な学習能力の向上を本当に評価できていたのか、社会教育が市民みずからのもっていた学習目標の講座修了時の到達の成否に関心をもっていたのか--というように、今までの教育への鋭い問い直しにもなるのだ。
 以上に述べた「学習成果の評価」にならんで、「大学教育への評価」も重要である。今まで学習者側から批評を受けることなく過ごしてきた高等教育にとって、学習者主体の生涯学習とその支援の理念は、自己評価の充実の面でも大きな契機となるだろう。18歳人口の激減を目の前にして、多くの大学で「サバイバル」をめざして「自己点検・自己評価活動」の取り組みが行なわれ始めている。しかし、もし18歳人口が減る見込みがなかったら、そういう活動をしなかったのか。しかも、「大学の自治」の名のもとに。「大学の自治」とは、ときの権力の干渉を許さず、しかし、学習者や世間の評価も参考にして、教員が厳しく「自己点検・自己評価」を行なうという前提があるからこそ成り立つことではないか。
 昭和音楽大学生涯学習センターでは、リカレント学習推進モデル事業として、アート・マネジメントに関する講座を開いている。そのアンケートを見ると、受講者の評判はおおよそ良好といえるが、そんなことは当たり前のことであって、「自己点検・自己評価」をするためにはそれで安心してしまってはいけない。とくに自由記述の項目では、「新鮮であった」「鼓舞された」などの肯定的評価とともに、「だいたいは知っていた」「定刻に終了せよ」「テ−マと内容が少し違う」「もう少しちゃんと知りたかった」「いささか平凡であった」「もう少し実例を立てて、現状を踏まえて」などの批判のほか、「○○先生はやめたほうがよい」というものまである。こういう指摘が事業者側の「自己点検・自己評価」に役立つのである。
 もちろん、「○○先生はやめたほうがよい」と一人に書かかれたからといって、かならずしも、次の事業からはその○○先生を依頼しないようにするということではない。学習者からのこういう事業評価に対して事業者は、「少なくとも、この回答者はそう感じた」という事実を逃げずにありのままに受けとめ(受容)、そのうえで主体的に判断すべきなのである。とくに、大学の授業を学生に評価させる場合などに教員の抵抗が強いのは、相手からの評価のこういう受けとめ方について、まだ理解が十分には広まっていないからなのではないか。教育側と学習側の相互の批評は、否定ではなく批判であり、主体的な両者の基本的信頼にもとづく協働の「共生活動」なのである。市民や学生からの評価を率直に受けとめてこそ、大学みずからも主体的に自己評価することができるのだ。
 昭和音楽大学では、リカレント学習推進事業の自己評価や、そこでの厳しく熱意ある社会人からの指摘も参考のひとつにして、平成6年度に、4年制大学としてはわが国では初めて、音楽芸術運営(アート・マネジメント)学科を開設した。これは、各地で増加しつつある文化会館やホールにアート・マネジメントの資質・能力をもつ人材があまり配置されていないために適切な運営がされていないという全国的な文化状況を打開しようとするものである。
 学習側が教育側を批評するということは、自己管理型の生涯学習にとって重要なことである。学習者が事業評価や授業評価をするということは、学習者が学習者としての責任を果たすということである。かれらの否定ではない批判は、主体的な学習態度の一環であり、ともに生きる(共生)ための信頼と共感にたどりつくまでのプロセスである。その批評を誠実に積み重ねることによって、学習者の主体性もいっそう確かなものに育っていく。つまり、事業・授業評価は、大学と市民・学生がともに育つための「共育活動」の一環なのである。

6 学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を

 今回の調査では、何らかの生涯学習推進組織をもつ大学がこの2年間で大きく増えたことが明らかになっている(図表5)。
●図表5 生涯学習推進組織をもつ大学数
(後方のグラフは全大学数の経緯)
 その組織自体は大がかりでなくてもよいが、大学の総合的な経営のひとつとして専門的に関われる位置づけをする必要がある。企画や調整というラインのひとつとしてか、あるいは、いずれかのセクションの下に置くのであれば、そのラインからやや外れて独自の実行機能をもち、ほかのセクションに対しても調整力を行使しうるスタッフ機能として位置づけたほうがよいと考えられる。
 学内の生涯学習推進組織または窓口をどう整備するかということは、来たるべき生涯学習社会に向かっての大学経営全体の基本的・総合的理念を表すものであり、企業のCIに匹敵するほどの大学のアイデンティティそのものに関わる重要なことがらなのである。

7 他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を

 大学どうしで、あるいは行政等の他機関と、さらには地域社会全体と、ネットワークを形成することが生涯学習推進事業を行なおうとする大学には必要である。まずは、さしあたり、他大学、放送大学や専修学校との単位互換を考えるべきであろうし、研究や生涯学習推進の面などでの企業との連携も考えられよう。そもそも大学が市民にも目を向けるということは、基本的にはこのような他大学、他機関、地域社会に対して自信にあふれたネットワークマインドをもっているからこそのことである。
 ネットワークの特性のひとつは、「自立と依存の統合的発展」であると思われる。大学としての独自の存在意義をもっているからこそ、異なる自立的価値をもつ他者と対等に連携することができる。また、そういうネットワークにおいては一方的な関係ではなく、相互のギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。たとえば、大学は行政や地域に対して「有益な都市資源」としての存在価値を発揮し、行政や地域はそういう大学を信頼し支えようとするのである。このような対等で相互に主体的な協働の関係が、大学の生涯学習ネットワークには求められている。

おわりに -生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を-

 今まで述べてきたことをもとにして、「生涯学習時代における大学の役割」を筆者流に簡潔にまとめていうとすれば、つぎの3点になると思う。
(1) 生涯学習社会を担う学生を養成する役割 -学内で生涯学習を-
 現代青年としての学生は、生きる主体性の喪失の危機に瀕している。「保護と管理」ばかりを学校、家庭、社会から与えられ続けてきたことによって、学習やコミュニケーションなどにおける自己決定、自己管理、自己責任の能力がかなり損なわれているのだ。大学が生涯学習の観点に立って学生の主体的学習を支援し、自己管理能力の向上を促すことによって、かれらを今後の生涯学習社会を担う人材として養成することが求められている。
(2) 社会の変化を先取りし、リードする役割 -学内の高等教育を学外に-
 急激に変化する現代社会は、つねに自己革新を続けて時代を先取りするリーダーとしての役割を大学等に求めている。とくに職業人は、知識・技術等の急激で高度な発展のなかで、学校卒業後も繰り返し教育を受けて今日の到達点を学び直す「リフレッシュ学習」の必要を感じている。また、高等教育とは別の形態としての生涯学習関連事業においても、時代のつぎの方向を示す役割が大学に求められている。
(3) 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割 -学外の生涯学習を学内でも-
 成熟化する現代社会においては、人びとの関心はモノからココロに移りつつある。そして、「(地位や財産を)もつための学習」(have)より「(人間らしく)あるための学習」(be)に価値がおかれる。そこでは「癒しと発達」の両方が求められる。その学習は、生涯にわたって行なわれる「リカレント学習」である。これに対する大学の支援が大いに期待されるとともに、その出会いは大学にとっても「生涯学習の新しい風」として重要である。

 今回の調査では、多くの大学で生涯学習関連事業が積極的に取り組まれつつあるということが明らかになったといえる。しかし、その努力が、迫りくる18歳人口の激減に対しての「大学サバイバル」のための延命策としてだけに終わってしまう大学があるとすれば、それはたんなる「サバイバル・ノイローゼ」の一過性の症状でしかなく、生産的な結果にはつながらないことが容易に想像できるし、また、第一、あまりにも切ない「わが身かわいさ」の御都合主義でもある。もっと、何のための大学か、何のための大学拡張なのかという本筋から事業を発想する必要があるだろう。
 ゆえに、大学の「生涯学習化」(生涯学習理念にもとづく自己革新)の成否は、学内の教員と職員の意識変革にかかっているといってもよいと思う。「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的な守りの大学経営から、「学習者の支援という大学の社会的な役割をより時代にあったかたちで遂行し、みずからもそれを味わい、喜ぶ」という積極的な攻めの大学経営に転換する必要があるのだ。これは大学に求められている「経営革新」であるといえよう。
 最近のちょっとした企業は、収益を上げるだけでなく、その他の社会貢献活動や文化支援活動などにもまともに取り組むようになりつつある。しかし、大学においては、教育(学習援助)をとおした社会貢献や文化支援という活動はそもそも本来の責務である。だからこそ、私学に対しても、やや貧弱とはいえ、国民の税金が支出されるのであろう。ただし、そういう大学の新しい責務の遂行とそのための革新は大学の自己決定によるべきものであり、また、惨めな「サバイバル・ノイローゼ」などとは異なる自信に満ちた「楽しい」営みでもあるはずだ。
 ひとは自己と他者への受容(無知と非力の自他をあるがままに受け入れ、なおかつ、そういう自他への基本的信頼感をもつこと)ができてこそ、自己変容に向かうことができる。そこでの変容とは、固定化した枠組みをそのままにして知識や技術などを詰め込むことではなく、外界の異なる枠組みを取り入れて自己の枠組み全体を変化させることである。大学が生涯学習関連事業などに取り組み、生涯学習支援のネットワークを形成することによってみずからの「生涯学習化」を進めていくことは、過去の学歴偏重社会につくられた大学の枠組みを自己変容させることにほかならない。そして、そういう大学の変容は、個人のレベルでの学習行為と本質的にはまったく同じ経緯をたどるものであり、自己管理型の生涯学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくできる世界)と出会うのと同様に、大学も自己管理型の「生涯学習化」のなかで自己変容という学習の楽しみと出会うことができるのである。
(注) 本稿は、「平成6年度神奈川の大学における生涯学習関連事業実施状況調査結果報告書」(神奈川県教育庁)に執筆した拙稿を要約したものである。
「発表申込」原稿
生涯学習とは何か
 −現代的課題の認識のもとでの再定義の試み−

 現代人の意識を表わすいくつかのトピックスに基づき、生涯学習支援の実践的、体験的な問題意識から、つぎの3点にわたって生涯学習に関する新定義を提案する。@「発達だけでなく癒しも」=発達・成長の欲望だけでなく、「癒されたい、安らぎたい」という人間の自然な欲望も、生涯学習の動機である。A「事実よりも真実を」=生涯学習は、事実のインプットのためよりも、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、行われる。B「積極的積極性とともに積極的消極性を」=生涯学習を、「誰からでも何からでも学びたい」という「積極的積極性」の行為と定義するとともに、それを持続するための、ほかの側面での潔い撤退、すなわち、「積極的消極性」の意義をも明らかにしたい。

「発表要旨収録」原稿
生涯学習とは何か
 −現代的課題の認識のもとでの再定義の試み−
昭和音楽大学 西村美東士

発表要旨
 現代人の意識を表わすいくつかのトピックスに基づき、生涯学習支援の実践的、体験的な問題意識から、つぎの3点にわたって生涯学習に関する新定義を提案する。@「発達だけでなく癒しも」=発達・成長の欲望だけでなく、「癒されたい、安らぎたい」という人間の自然な欲望も、生涯学習の動機である。A「事実よりも真実を」=生涯学習は、事実のインプットのためよりも、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、行われる。B「積極的積極性とともに積極的消極性を」=生涯学習を、「誰からでも何からでも学びたい」という「積極的積極性」の行為と定義するとともに、それを持続するための、ほかの側面での潔い撤退、すなわち、「積極的消極性」の意義をも明らかにしたい。

最近の関係記事(拙論)
 1つめは、「発達だけでなく癒しも」です。人間、日々発達しているのを実感するのもうれしいことですが、実際には、それだけじゃなく、「癒されたい、安らぎたい」という欲望もあるのが自然だと思います。前者だけを声高に相手に押しつけるのって「ウソだな」と思うのです。
 2つめは、「事実よりも真実を」です。学習というのが、つまらない事実の集積に圧迫されることであるようなマイナスイメージが、小学校以来、ぼくたちにありまして、これがワンダーランドとしての生涯学習への接近を妨げている。ほんとうのところは、事実なんかはおもしろくない。ぼくたちは、事実のインプットのためではなく、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、出会い、生きているのだ。事実は、その集積が真実に近づくときだけおもしろいのだ。と、このように思うのです。だって、ともこさんだって、ご自分の歌詞を「事実と違うわね」といわれたって「当たり前でしょ」と思うだけでしょうけど、もし、「真実とは無縁ね」などという失礼なやつがいたら、「どうしてよ」となりますよね。歌詞も、人間存在の真実に接近するすばらしい虚構のひとつなのだと思います。
 3つめは、「積極的積極性とともに積極的消極性を」です。「誰からでも何からでも学びたい」という積極的な生き方をするひとを見ていると、じつは、撤退せざるをえないような場面の多いこの世の中で、積極性発揮の一方で、他者のせいにすることなく、さわやかな撤退をどこかでじょうずにしている。ぼくはこのような自己決定・自己管理型の「潔い撤退」を「積極的消極性」と呼んでいます。生涯学習や人間交流のような「積極的積極性」の行為は、この「積極的消極性」と連動関係にあると思うのです。この2つに対して、「消極的積極性」(やりたくないけど頑張っている)、「消極的消極性」(被害を受けているからできないでいる)の2つが、ワンダーランド発見のネックになっていると思います(じつはぼく自身のことですが)。
(全日本社会教育連合会『社会教育』「くえすちょん あんど あんさー」平成7年7月号より)

参考
@「発達だけでなく癒しも」−情報化との関連でいえば…
 情報化の「光と影」の存在は、従来から指摘されてきた。しかし、その「影」のひとつとしての人間疎外の問題を究明しようとする場合、従来の研究方法においては、情報化社会のなかで生きる人間を客体としてとらえたうえで、その客体をどう保護するかという問題に終始してきた観がある。これは、成長・発達や癒し・安らぎをみずから求める存在として学習者をとらえるという生涯学習支援の観点が欠落していたからではないか。従来のような研究方法にとどまる限り、情報流通を人間的交流のためのより有効な手段としたり、ネットワーク型社会を創造する主体の成長を図ったりするための方途を探り出すことは、行き詰まりになるだろうと思われる。
 もっと現代人の内面により深く立ち入って考察し、その「不信・孤立・甘え」の悪循環を繰り返す主体としての問題を本質的に明らかにしたい。そして、ともに育ち、情報リテラシーを獲得しようとする教育的観点から、この問題に根本から立ち向かって議論を深め、そのことによって、「異質情報」を主体的・批判的に摂取するネットワーク型の「信頼・共感・自立」の情報受発信主体の成長と共生社会の創造に向けた展望を明らかにしたい。そのためには、成長・発達だけでなく、癒し・安らぎを求める心も生涯学習の動機として重視する必要がある。
A「事実よりも真実を」
 起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、「どこまでも知りたい」という自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、その「どこまでも知りたい」という場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」であるということである。事実の積み重ねに終わるのでは、駒田のいう「深い感動」(省略)もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかでいわゆる「社会教育の知識」が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」というワンダーランドとしての学習が疎外されているからである。
 もちろん、枠組みは変えないままその枠組みに知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じるという人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識が豊富になった人を見るときのような、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいと思うが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。
 ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だって多いのだ。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。
B「積極的積極性とともに積極的消極性を」
 偶発的学習も生涯学習の一環として考えようというのが、ぼくの主張である。そうしないと、生涯学習実態調査などで、「継続的・計画的学習」をしている人たちだけをとらえて「わが町で生涯学習をしている人は何%、生涯学習していない人は何%」などという忌まわしい言い方が、いつまでもなくなりそうにないからである。
 しかし、各市の委員会などの場で、社会教育や生涯学習の関係者の前で、ぼくが「勝手に散歩でもしていて、でもそこで感動して何らかの自己変容があれば、それはその人にとっては大切な生涯学習だ」と発言すると、必ずといっていいほどひんしゅくを買うことになる。関係者から、「それじゃあ、人間のすべての行動が生涯学習だということになってしまうではないですか」といわれるのである。ぼくは人間のすべての行動に生涯学習としての側面があるととらえるのならば、それはそれでもよいと思っている。市の道路行政による散歩道の保守管理が生涯学習支援の側面からもとらえられるようになることこそ、「行政の生涯学習化」といえると思うからである。だが、ひんしゅくを買いっぱなしでいるのもどうかと思い、人間の活動のなかに生涯学習と呼べない活動があるとしたら何なのかを考えた結果が、この「2つの積極と2つの消極」論である。
 練馬区の生涯学習推進懇談会の答申の作成に関わって懇談会委員同士で議論を重ねることによって、ぼくは、生涯学習が「どこまでも知りたい・上手になりたい(発達・成長したい)」と「癒されたい・安らぎたい」の2つの欲望から発すると考えると、とても自然な理解ができることに気づかされた。「教育」という名がつく世界にいるうちに、「人間はつねに発達していくべき存在」という考えを知らず知らずのうちに身に付けていたぼくが、日本文学専攻のある委員から「西村さんは、何かにとらわれているのではないか」と指摘されたことから、その議論は始まった。そして、とうとう、「人間はつねに発達していくべき」すなわち「学習すべき」という姿勢を払拭した画期的なものになった。
 この「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに自らの欲望を充足しようとする自己の意思から発した積極性の発現としてとらえることができる。論をつぎに進める前にここでとくに留意しておきたいことは、「癒されたい」という欲望から発する行動も、ここでは「消極」ではなく「積極」としてとらえているということである。なぜなら、人が癒されるためには、他者からのストロークが必要であり、ストロークをうまくもらうためには、相手にうまくストロークを出したり、開きたい心を安心して開いて交流できる水平なネットワークを見つけ出したり創り出したりする積極性が必要になるからである。「どこまでも知りたい」と「癒されたい」とは、ともに積極的な行為につながらざるをえないのである。
 これを前述の「人間のすべての行動が生涯学習ということになってしまう」という反論への反・反論として活かすならば、次のようになる。「そうではない。どこまでも知りたい、癒されたい、などの欲望から発する積極的な行為だけが生涯学習なのであって、テレビも見ずに自分の部屋でボーッとしているなどの消極的な行為は生涯学習とは呼ばない」。そして、こう付け加えるべきだ。「生涯学習活動や積極的行為だけがすばらしいということをいいたいのではない。ボーッとしている時間(無為)もその人にとっては大切なのだ。それは、つまらないと自覚する欲望を捨てた潔い消極性というべきであろう」。
 今回提示した「2つの積極と2つの消極」論は、以上の議論の経緯のうえに立ち、それを発展させたものである。生涯学習においては自分の欲望や意思に基づく「自己決定」という要素が重要である。結果的あるいは外見的には同じ積極性であっても、それが本来の自己決定でなければ、従来の学校歴偏重社会における受験勉強(これもまた、単純にけなすことはできないが)と生涯学習活動とは、変わりないものということになってしまう。ここで「自己の欲望に基づく本来の自己決定」とは、すなわち、社会や人のせいにしていない、すなわち「自分のため」に、主体的にやっているということである。ちなみに、生涯学習活動だけでなく、ボランティア活動にとっても、この「自己決定」は重要である。そこで、同じ積極性でも、同じ消極性でも、それぞれをはっきり別のものとして考えるために、次の4タイプを整理して提示したのが今回のぼくの議論である。
  主体  結果・外見
T 積極的 積極性   自己決定(生涯学習・ボランティア)
U 消極的 積極性   仮面・戦術(受験勉強)
V 消極的 消極性   敗北主義(被害者意識)
W 積極的 消極性   自己決定(無為・潔い撤退)
 ぼくは、あとから、この4パターンがぼくが予期した以上になかなか有益な分類であることに気づいた。たとえば、生涯学習活動や地域活動やボランティア活動をしている人のなかにも、その活動をしていない人に対して「けしからん」「〜すべき」といういい方をする人がいる。そういう人は、いわば「過去と他人は変えられない」という厳然たる事実にイライラしているのである。潔くなれないのであろう。じつはこの人たちは、本来の「自己決定」の生涯学習としてのTの状態にあるのではなく、「不幸の手紙」をもらった人のようにUの状態にあるのではないか。もし、Tだったら、「この活動はとても魅力的だよ、素敵だよ」「いつでもおいでよ、歓迎するよ」と言うことはあっても、そういう活動をしない人を見て責任を追及する欲求に駆られてイライラするなどという不幸には陥らないと思われるのである。Tの人は、むしろWの人と連帯しやすいのではないかと思う。どちらも「自己決定」であり、「潔さ」が共通しているからである。
 しかし、Uの状態も、ヒエラルキー社会においては、残念ながら、完全には回避することはできないだろう。仮面や戦術を使わなければ、あっという間に世間から干されてしまうからである。Uについては、回避が不利になるのならば、これを無理に避けるのではなく、むしろ、仮面・戦術としてきちんと意識してこれを選び(これもひとつの自己決定である)、仮面・戦術であることをつねに思い出しながら「頑張る」のがよいと思う。そうすれば、「頑張らなくちゃいけない」などという不合理な思い込みから自由になることができる。また、ときには、その活動の意義に気づいたり、うまく楽しむ方法を発見したりして、途中でTに切り替わるような幸運も訪れるかもしれない。
 Vの状態の人は、本人にとっても社会にとっても最悪であろう。そうはわかっていても、自分の消極性を「過去と他人のせいにして、空しい自己満足と安定を図ろうとする」弱さは誰でももっている。もっているからこそ、こういう4パターン分類法の活用による「客観視」が有益であるというほかにない。TからWの分類は、さまざまな人間がこの4つに分けられるというよりは、一人の人間のなかに4パターンの状態が混在しており、それを整理して判断基準とするために有益であるととらえてほしい。つまり、「よし、今回はわたしはこれでいこう」という、客観視と主体的納得を伴う自己決定のために活用できると思うのだ。
 Wの状態というのは、これはもうすごいとしかいいようがない。広大な時空における自己の小ささを穏やかに受け止め、ときの権力や価値観に惑わされず自己に与えられた人生のひとときを静かに味わう。ぼくはその潔さにあこがれや尊敬さえ感じるのだがどうだろうか。社会にとっては直接的利益にはつながらないかもしれないけれど、「立つ鳥、あとを濁さず」「潔い撤退」などのさわやかさは、今後のネットワーク型社会の創造にとってはむしろ重要な要素のひとつというべきであろう。そういう「潔い撤退」などのWなら、ぼくたちのような俗人にでもそれなりに実現できる状態であろう。
 生涯学習は「学びたいことを学びたい手段で学ぶこと」であり、「自己管理型学習」であることから、本質的にはTの状態のものといえよう。Tの状態としての規定は、先に述べた「生涯学習は積極的な行為」という規定よりは的確であり、Uの状態での従来の「させられている学習」などとの違いをより明確に位置づけることのできる規定としても、なかなか有益であるとぼく自身は考えている。
 なお、TとWは連動関係にあるのだろう。ある一人の人がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだ。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人が「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がないのであり、それよりも「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会における自己決定のあり方を探るということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。
生涯学習社会が大学の授業を変える
 −高等教育内容7つの転換−

学内でも生涯学習を
 ぼくは昨年の本誌1995年10月号で、「生涯学習時代における大学の役割」と題した拙稿を発表し、「生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を」というまとめとして、つぎの3点の大学の役割を提起した。
@ 生涯学習社会を担う学生を養成する役割 −学内で生涯学習を−
A 社会の変化を先取りし、リードする役割 −学内の高等教育を学外に−
B 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割 −学外の生涯学習を学内でも−
 この高等教育の転換の成否を決める最後の分かれ道になるのは、正規の授業内容自体をも生涯学習的に転換することによって@が実現するかどうかにあるとぼくは思う。そこで今回は、高等教育内容(方法を含む)の7つの転換の方向を提案したい。

転換1−自己決定・自立支援型にする
 成人の学習の本質は自己管理型学習である。高等教育もこれに習い、「学びたいことと学びたい手段を自分で決定して学ぶ」という原則をできる限り取り入れる必要がある。
 ぼくの授業では、出欠、遅刻、早退、途中入退室、そしてもぐりも、すべて自由ということにしている。個人には個人の事情と個人のレディネス(準備性)があるからである。ぼくの責任は魅力的な授業をすることであり、他の用事をさしおいてもその授業を選ぶかどうかは、ぼくの責任ではなく学生が自分の責任で決めることではないか。
 たとえば、私語の問題は、今や陳腐な話題であると思う。授業中の「感動の私語」はむしろ歓迎し、これを積極的に組織化すること、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は学習したい者とおしゃべりをしたい者の双方の自由を保障するために、中途退室と入室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、講義に集中させるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。
 先日、50人くらいが受講する授業で、男性二人だけが煮詰まったようすでひそひそしゃべっていて気になってしかたなかったが、しばらく我慢していると、その二人は荷物を置いたまま自発的に退室し、あとで静かに戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。
 しかし、そうはうまくいかない場合もある。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば(ちなみに、ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の聴きたくない学生は、その人の学習権を保障するために退席せよ」という考え方であるが)、その授業とは無縁の余計な自分たちの私語がほかの学生に迷惑をかけていることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ。だから、自分の心の中ではなんらかの形でみずからの私語を正当化しているのだろう。退室の自由が認められている条件のもとで、退室しないままの私語を彼らはどのように正当化しているのか。
 ここに、「他罰のデリケート」のロジックが適用できる。「ほかの人は、私のような(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな授業をまじめに聴いていられるのよ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、自分を許して他者を罰しているのではないか。つまり、自分が傷つくことに対してばかりデリケートだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向やピア・コンセプト(ピアとは仲良し仲間のこと)の表れにすぎないのだが、それを、「友達を大切にしている自分」として逆に正当化してしまっている。
 この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピア意識が介在していて、個人の個の発現を抑圧しているものは社会そのものではなく、じつはピアであり、すなわち、その人自身の内なる認識にあるのである。
 このように私語の問題ひとつをとっても、教育が学習者に自己決定をさせてこなかったがゆえの主体喪失状況は背筋が寒くなるほどである。これ以上、学生に「こんなつまんない授業なのに出席ばかり厳しくとるんだから」などと思わせてはならない。それは、結局、他者や社会のせいにして安定しようとする学生を、内面から許し、甘やかせていることになるのだ。教員は授業にいっそう勝負をかけて自己決定して着席する学生を増やし、そのうえで、退室の自由を行使できない学生に、その不行使が本人の自己決定以外のなにものでもないことを知らしめなければならない。
 このようにして、保護や管理ではなく自由に恐怖する機会を与え、ときには「潔い撤退」、すなわち「積極的消極」をすることの大切さを伝えることが、本来の学問の「学びたくて学ぶ」という「積極的積極」の姿勢を育てることにつながるのだと思う。人生が自己選択の連続である以上、「積極的積極」のためには「積極的消極」は必須である。

転換2−双方向・水平交流型にする
 教員の楽しみは学生一人ひとりの「個の深み」との交流にあると、ぼくは思っている。とくに、学生が自由に書く出席ペーパーのおかげで、授業がかなり刺激的な仕事になっている。過去の一方通行の講義型授業では、教員も学生も手応えに欠ける。
 大学の自己点検・自己評価の動きのなかで、学生に教員の授業を評価させる試みがいくつかの大学で生まれている。よいことだとは思うが、それがたんに人気度や教育技術を数字で表すだけのものであるなら「高等な」教育とはいえないだろう。社会教育・生涯学習がアマチュア学習者とプロフェッショナル学習援助者との相互的関与や「共育」をめざしているのと同じく、高等教育でもたがいに触発しあって、現在の研究水準の一歩上をめざす必要がある。大学教員が過去の研究業績という遺産だけで食っていける時代は終わろうとしている。学歴偏重社会から生涯学習社会に移行する段階で、教員の方も自己の文化遺産を急激な社会進展にあわせてリフレッシュしなければいけない時代になっているのだ。
 そのためには、自らの教育内容についてまで学生に自由に授業評価させ、大小の批判も含めてすべて受けて立つことが効果的であるし、また、それは刺激的で楽しいことだ。ただし、その場合、教員は授業で学習者のように「学びたいことを学びたい手段で」学んでいるわけではないのだから、教員がワン・オブ・ゼム(学習者集団の一員)であってはならない。第一、それでは学習援助者としての存在意義がなくなる。教育意図をもち、その意図を公にすべきである。受けて立つということは、学生のニーズに追従することではないのだ。専門分野に関する過去の文化遺産や、現在の鋭い問題意識をフルに働かせて当たる必要がある。しかしながら、教員としての権力に頼ってもいけない。教員から学生への双方向教育は、ネットワーク型の「異質間の水平交流」でありたい。
 これらは教授者としての社会的役割についていっているのであって、教員の日常の人格にまで期待して論じているのではない。次のような出席ペーパーがあった。
 言いたい放題、書きたい放題のこのペーパーを実行しているmitoさんは、それだけでも本当にすごい人です。この強さはどこからくるのですか。この説明をどのように表現したらわかってもらえるのか困っていますが、臆することもなく向かっていけるこのエネルギー(精神)はどこからくるのでしょうか。mitoさんは、私にはしたくてもできない、もっともしたくない方法ばかりとっています。「すべてを受け入れてしまえばOKよ」(注・アンビバレンツまたは1%の批判についてのぼくの私見)というだけの説明では納得できません。言いたい放題、書きたい放題で、皆が先生に甘えているように思えてならないのです。(T大U部社会教育概論、女)
 これについてぼくは「社会的役割遂行としての教育の特殊性」と題して次のようにコメントした。
 出席ペーパーシステムは、学生の批評精神を支援しようとするものであり、心にもないことや根も葉もない誹謗中傷は別として、思ったことは何を書いてもよい。このシステムによって、ぼくは、批評精神の欠如という現代の主体性の喪失と信頼関係の崩壊の進行に異議申し立てをしようとしているのだ。批判は知的水平空間においては一種のストロークであり、それを受けて立つのは教師としてのぼくの社会的役割である。だから、もし、日常の社会の、ときには仮面をかぶらなければならない人間関係において、ぼくが同じようにあけすけな批判をされたら、「ぼくのことをわかりもしないのに、ほっといてくれよ」と怒りだすかもしれない。

転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする
 生涯学習の理想主義的なスローガンとして「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」がある。大学でもこれをめざすことができないだろうか。
 日本のある大学が米国に分校を開いたときの日本人学生向けのコピーは「アメリカ全土が君たちのキャンパスだ」というようなものだった。それならば、国内の大学においても「学生が学べる場は日本全土だ」といってよいはずだ。
 米国の大学の「履修要覧」には各教員のオフィスアワーが載っているものがある。これは、何曜日の何時ころにはいつもその教員が研究室にいるから、学生が質問や議論をしにきてくださいというシステムである。このような教員のオープンマインド(学習者に対して開かれた心)が求められている。
 ぼくは、授業の評価は原則として平常点(出席率)に拠っているが、出席不良学生の救済措置として「自己の偶発的学習への気づき」と題するつぎのレポートを課している。授業の聴講以外での「いつ・どこ・だれ・なに」の学習効果を自己認識させ、客観的に証明させるためである。大学の授業に希望をなくしつつある学生などが、張り切っていいレポートを出してくる。参考までにそのルールを紹介する。
@ 最近の数年間で、学校の授業以外で自分の勉強になったことを列挙する(そのすべてについて時期、場所、関係者・関係機関、方法、内容を思い出せるかぎり列挙する)。
A そのことによって、自分がどう気づき、どう成長したか述べる(どんなにささいなことでもよい。一つひとつのことについて、たくさんの気づきがあると思われる)。
B 以上のことを踏まえて、学校の授業以外のそれらのことがらがなぜ自分に対して影響を与えたのか、自分の考えをまとめる。
C このレポートを書くことによって、自分にとってどのようなことがプラスになったか、感想を述べる(レポートを作成した自分をも振り返ることになる)。

転換4−おもしろ・感動型にする
 前述のように、ぼくは授業を勝負の場ととらえている。私たちは、雇用対策で大学当局に雇われているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会においては、テレビ番組や出版などによって、おもしろくてそれなりに役に立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業がそれらの情報より何らかの意味で「勝っていなければ」ならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思に基づくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。
 だから、ぼくは初回の授業で「ビートたけしに勝つ」ことを宣言している。これが一部の学生には不快感を与えているようだ。小学校以来、植えつけられてきた「学習はつまらなくても我慢するもの」という敗北主義的だがそれなりに安定した人生の構えに動揺をきたすからであろう。しかし、そういう反応に対して指導者がうまく対応すれば、学習者の主体性獲得に向けた気づきと態度変容のきっかけにもなりうるのだと思う。
 蛇足ながら、ぼく自身は、じつは、つねにビートたけしに勝っているという自信をもって授業をしているわけではない。むしろ、「学生の学習ニーズは本当は何なのか」「ぼくの授業は本当におもしろいのか」などという不安にいつもさいなまされているのが現実である。ただ、学生の支持や批判の反応を直接知りながら話を進めることができるという点では、授業はもともとテレビのビートたけしよりも有利な条件にあるといえる。
 テレビでは、「おもしろくなければテレビじゃない」というコピーがあった。社会教育では、留意点のひとつとして「娯楽性」が挙げられる。生涯学習では、あえて「楽習」と表現する動きもある。高等教育内容も、生涯学習のようにワンダーランド(遊園地)でありたい。学習の中には、気づきや自己の深い部分の発見など、ドキドキワクワクできることがあふれているはずだ。そのためには、受験勉強のような事実の詰め込みではなく、真実にふれる思いで感動できる迫力のある教育内容を用意する必要がある(事実より真実)。
 また、このように高等教育内容を楽しいものにするためには、知的刺激を好む「知識人の風土」が必要である。「知識人」とは、本来、「エッグヘッド」であるという。これは「一般に知的で、柔軟思考ができ、曖昧さに対する許容度が大きいタイプ」で、ユーモア好きで、「抽象的な議論を好み、それに没頭しがちな」人間をさす。その反対が「スクエアヘッド」で、「いわゆる石頭的人物。権威主義的で、物事の白黒をはっきりさせないといらいらするタイプの人間」である(L.ベラック)。高等教育は「スクエアヘッド」ではなく「エッグヘッド」の場でありたい。

転換5−課題提起・解決型にする
 学校での学習への導入が科目中心なのに対して、成人の学習は課題中心であるという(M.ノールズ)。初等教育などでも、同様の課題中心の教育がかなり普及しつつある。心と体の病いを治すのを援助してくれるのはお医者さんであっても、実際に治しているのは本人である(自己治癒力)のと同様に、課題を認知してこそ主体的な学習が成り立ち、それが自己教育力の発揮につながるのである。学生の課題意識を呼び起こさないままに教え込むのでは教育効果が薄い。
 さらに、そこで呼び起こそうとする課題自体も、日常生活の事実に埋没するなかでは気づきそうもない、真実にふれる感動と気づきを与えるような深みのある課題でなくてはならない。次のような出席ペーパーがあった。
 わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。
 今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいって言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。
 人には、その人に見合った世界があって、その世界の中での上を目指すことはかまわないけど、その上の世界を目指すのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。私は、そんなものなの?、と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。(S大社会教育計画、女)
 これについてぼくは「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」とコメントした。これに対し、次のようなレスポンスがあった。これだから出席ペーパーシステムはやめられない。
 一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。(T大U部社会教育計画、男)
 これに対しては、ぼくは、「ぼくたちはいったい何のために学んでいるのか」と題して次のようにコメントした。
 例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる「人類の幸福追求の敵」としての役割を果たすからである。このような客観的には「不当なこと」(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張った」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。
 たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」が滑稽であることを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだといえよう。
 授業も社会教育でいう集合学習である。そこでは、せっかく時空間を共有するのだから、同時代性のある授業でなければ、集合する意味がないし、学生も教師もおもしろくない。そのためには、上のような問題についても、学生の「偽りのやさしさ」に追従するのではなく、同時代に生きる者が直面している共通の課題を鋭く抉り出して提起する授業が求められている。これは学問や芸術の重要な意義のひとつであろうし、先の生涯学習審議会答申の提唱する「現代的課題の学習」も、そういうことを意味しているのだろう。

転換6−生きがい創出型にする
 高齢化にともなってライフプランづくりのための学習が盛んになっている。その学習は、より賢い生き方のためでもあり、より充実した生きがいのためでもある。時代がそういう学習を求めているのだろう。また、学校教育でも、道徳教育はすべての一般教科に共通する課題だといわれる。しかし、自己の人生の内容とは遊離した過去の高等教育に慣れ親しんだ「まじめ」な学生からは、「人生を考えさせる授業」は反発を受けることがある。
 「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。(T大T部社会教育計画、女)
 ぼくは次のようにコメントした。
 ぼくは、今回の映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。
 教育学には人文系としての側面があると思う。「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである(無知と非力の自覚)。だとすれば、あとは、mito的授業という知的水平空間などを利用しつつ、学習者が主体的に学習するしかない。

転換7−信頼・共感・癒し型にする
 最初に述べた自己管理型学習、とりわけ体験学習には、「空しさへの予感や恐怖に耐える力」が必要とされていると思う。この覚悟がないと、せっかくの自己管理型学習が逃避としての「書き言葉メディア」による自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組みを変化させる本来の意味での学習、または革新型学習につながらなくなる恐れがある。次のペーパーには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表わされている。
 (前回のパズルゲーム−スクエアゲームについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲームでは、カードを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャーしたりしてはならないということだったけれども、たかがカードの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。
 (体験学習を行なうということに定められている)奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲームを始める前、このゲームでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグループになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。
 7月ぐらいまでは、ゲームに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。
 この前のパズルゲームのときと、その前のゲームのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。(T大U部社会教育計画、男)
 授業の時間・空間・仲間(サンマ)も、やはり、ほんとうの信頼や共感とは何なのかを味わえる「癒しのサンマ」でありたい。ぼくは、そもそも知的水平空間自体が本質的に「支持的風土」であるべきだと考えている。「支持的風土」とは、「仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーへの肯定的な感情をもっている」という集団風土である(J・R・ギッブ)。同調していないのに同調したふりをするのは学問の態度ではないし、自分と相手を信頼している態度でもないのである。
 生涯学習時代は「モノからココロへ」という人びとの価値観の転換の反映でもある。また、学問の世界においても、経済学者がボランティア活動の意義を先頭切って論ずる時代になってきた。学歴社会が崩れようとしているいま、大学の授業を受けようとする学生の本音のところでの動機自体も、出世競争から幸福追求へと変化しているようだ。大学の授業をこういう「こころの時代」に対応させる必要がある。そういう授業のなかで生まれる信頼と共感の「サンマ」こそが、ほんとうに自立した学習者を育てるのである。
筆者注・・・文中の唐突なレトリックについては、恐縮ですが、おもに拙著『こ・こ・ろ生涯学習』、つぎには『生涯学習か・く・ろ・ん』(ともに学文社)をご参照ください。
「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その6)
 −生涯学習とは何か−
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(6)
 −What is "Life-Long Learning"?−

1 今回の論文の位置づけ
 前回まで、「個の深み」をはぐくむ「知的水平空間」としての生涯学習を、「学生からの教育批判」(その4)、「真実追求の意味」(その5)などの側面から検討してきた。今回は、その議論の到達点の地平から、あらためて「生涯学習とは何か」についての新しい視座を、やや冒険的ではあるが提示したい。
 また、今回までの掲載原稿と、掲載しきれなかった原稿については電子形態ではまとめてあるので、希望される人にはMSDOS標準テキストの形態で提供する。

2 生涯学習とは何か=積極的消極のうえでの積極的積極
1994. 9.28. T大U部社会教育計画、女
 積極的積極性(以下4パターン)の話はとても面白かったです。このように4パターンに整理した話は初めて聞きました。似たような話としては、一生懸命ボーッとしたいという話を友達としたことがあります。
mito
 偶発的学習も生涯学習の一環として考えようというのが、ぼくの主張である。そうしないと、生涯学習実態調査などで、「継続的・計画的学習」をしている人たちだけをとらえて「わが町で生涯学習をしている人は何%、生涯学習していない人は何%」などという忌まわしい言い方が、いつまでもなくなりそうにないからである。
 しかし、各市の委員会などの場で、社会教育や生涯学習の関係者の前で、ぼくが「勝手に散歩でもしていて、でもそこで感動して何らかの自己変容があれば、それはその人にとっては大切な生涯学習だ」と発言すると、必ずといっていいほどひんしゅくを買うことになる。関係者から、「それじゃあ、人間のすべての行動が生涯学習だということになってしまうではないですか」といわれるのである。ぼくは人間のすべての行動に生涯学習としての側面があるととらえるのならば、それはそれでもよいと思っている。市の道路行政による散歩道の保守管理が生涯学習支援の側面からもとらえられるようになることこそ、「行政の生涯学習化」といえると思うからである。だが、ひんしゅくを買いっぱなしでいるのもどうかと思い、人間の活動のなかに生涯学習と呼べない活動があるとしたら何なのかを考えた結果が、この「2つの積極と2つの消極」論である。
 練馬区の生涯学習推進懇談会の答申の作成に関わって懇談会委員同士で議論を重ねることによって、ぼくは、生涯学習が「どこまでも知りたい・上手になりたい(発達・成長したい)」と「癒されたい・安らぎたい」の2つの欲望から発すると考えると、とても自然な理解ができることに気づかされた。「教育」という名がつく世界にいるうちに、「人間はつねに発達していくべき存在」という考えを知らず知らずのうちに身に付けていたぼくが、日本文学専攻のある委員から「西村さんは、何かにとらわれているのではないか」と指摘されたことから、その議論は始まった。そして、とうとうも、「人間はつねに発達していくべき」すなわち「学習すべき」という姿勢を払拭した画期的なものになった。
 この「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに自らの欲望を充足しようとする自己の意思から発した積極性の発現としてとらえることができる。論をつぎに進める前にここでとくに留意しておきたいことは、「癒されたい」という欲望から発する行動も、ここでは「消極」ではなく「積極」としてとらえているということである。なぜなら、人が癒されるためには、他者からのストロークが必要であり、ストロークをうまくもらうためには、相手にうまくストロークを出したり、開きたい心を安心して開いて交流できる水平なネットワークを見つけ出したり創り出したりする積極性が必要になるからである。「どこまでも知りたい」と「癒されたい」は、ともに積極的な行為につながらざるをえないのである。
 これを前述の「人間のすべての行動が生涯学習ということになってしまう」という反論への反・反論として活かすならば、次のようになる。「そうではない。どこまでも知りたい、癒されたい、などの欲望から発する積極的な行為だけが生涯学習なのであって、テレビも見ずに自分の部屋でボーッとしているなどの消極的な行為は生涯学習とは呼ばない」。そして、こう付け加えるべきだ。「生涯学習活動や積極的行為だけがすばらしいということをいいたいのではない。ボーッとしている時間(無為)もその人にとっては大切なのだ。それは、つまらない欲望を捨てた潔い消極性というべきであろう」。
 今回提示した「2つの積極と2つの消極」論は、以上の議論の経緯のうえに立ち、それを発展させたものである。生涯学習においては自分の欲望や意思に基づく「自己決定」という要素が重要である。結果的、外見的には同じ積極性であっても、それが本来の自己決定でなければ、従来の学校歴偏重社会における受験勉強(これもまた、単純にけなすことはできないが)と生涯学習活動とは、変わりないものということになってしまう。ここで「自己の欲望に基づく本来の自己決定」とは、すなわち、社会や人のせいにしていない、すなわち「自分のため」に、主体的にやっているということである。ちなみに、生涯学習活動だけでなく、ボランティア活動にとっても、この「自己決定」は重要である。そこで、同じ積極性でも、同じ消極性でも、それぞれをはっきり別のものとして考えるために、次の4タイプを整理して提示したのが今回のぼくの議論である。
  主体  結果・外見
T 積極的 積極性   自己決定(生涯学習)
U 消極的 積極性   仮面・戦術(受験勉強)
V 消極的 消極性   敗北主義(被害者意識)
W 積極的 消極性   自己決定(無為・潔い撤退)
 ぼくは、あとから、この4パターンがぼくが予期した以上になかなか有益な分類であることに気づいた。たとえば、生涯学習活動や地域活動やボランティア活動をしている人のなかにも、その活動をしていない人に対して「けしからん」「〜すべき」といういい方をする人がいる。そういう人は、いわば「過去と他人は変えられない」という厳然たる事実にイライラしているのである。潔くなれないのであろう。じつはこの人たちは、本来の「自己決定」の生涯学習としてのTの状態にあるのではなく、「不幸の手紙」をもらった人のようにUの状態にあるのではないか。もし、Tだったら、「この活動はとても魅力的だよ、素敵だよ」「いつでもおいでよ、歓迎するよ」と言うことはあっても、そういう活動をしない人を見て責任を追及する欲求に駆られてイライラするなどという不幸には陥らないと思われるのである。Tの人は、むしろWの人と連帯しやすいのではないかと思う。どちらも「自己決定」であり、「潔さ」が共通しているからである。
 しかし、Uの状態も、ヒエラルキー社会においては、残念ながら、完全には回避することはできないだろう。仮面や戦術を使わなければ、あっという間に世間から干されてしまうからである。Uについては、回避が不利になるのならば、これを無理に避けるのではなく、むしろ、仮面・戦術としてきちんと意識してこれを選び(これもひとつの自己決定である)、仮面・戦術であることをつねに思い出しながら「頑張る」のがよいと思う。そうすれば、「頑張らなくちゃいけない」などという不合理な思い込みから自由になることができる。また、ときには、その活動の意義に気づいたり、うまく楽しむ方法を発見したりして、途中でTに切り替わるような幸運も訪れるかもしれない。
 Vの状態の人は、本人にとっても社会にとっても最悪であろう。そうはわかっていても、自分の消極性を「過去と他人のせいにして、空しい自己満足と安定を図ろうとする」弱さは誰でももっている。もっているからこそ、こういう4パターン分類法の活用による「客観視」が有益であるということができるだろう。TからWの分類は、さまざまな人間がこの4つに分けられるというよりは、一人の人間のなかに4パターンの状態が混在しており、それを整理して判断基準とするために有益であるととらえてほしい。つまり、「よし、今回はわたしはこれでいこう」という、客観視と主体的納得を伴う自己決定のために活用できると思うのだ。
 Wの状態というのは、これはもうすごいとしかいいようがない。広大な時空における自己の小ささを穏やかに受け止め、ときの権力や価値観に惑わされず自己に与えられた人生のひとときを静かに味わう。ぼくはその潔さにあこがれや尊敬さえ感じるのだがどうだろうか。社会にとっては直接的利益にはつながらないかもしれないけれど、「立つ鳥、あとを濁さず」「潔い撤退」などのさわやかさは、今後のネットワーク型社会の創造にとってはむしろ重要な要素のひとつというべきであろう。そういう「潔い撤退」などのWの状態なら、ぼくたちでもそれなりに実現できる状態であろう。
 生涯学習は「学びたいことを学びたい手段で学ぶこと」であり、「自己管理型学習」であることから、本質的にはTの状態のものといえよう。Tの状態としての規定は、先に述べた「生涯学習は積極的な行為」という規定よりは的確であり、Uの状態での従来の「させられている学習」などとの違いをより明確に位置づけることのできる規定としても、なかなか有益であるとぼく自身は考えている。

1994.10. 5. T大U部社会教育計画、女
 (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定、潔さが持てるのだと思います。
mito
 ぼくが言ったのは、Tの人はUの人にではなく、Wの人に連帯感を感じるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは連動関係にあるということなのだろう。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということである。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人が「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がないのであり、それより「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会における自己決定のあり方を探るということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。

3 生涯学習とは何か=空しさに耐える自己管理型体験学習(結果を恐れるな)
1994.10.26. T大U部社会教育計画、男
 (奇数日の)ゲ−ムの日に出席しないのは、多分に私のワガママです。性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからないという・・・。グル−プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ−ムをやるときのメンバ−がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ−ムを「こなす」という感じで終わってしまうんですよね。それはけっこうみんなそうじゃないのかなあ? で、そういう「中途半端な」楽しさは、すぐに空しさ(寂しさ)に変わってしまうから、それが嫌なんですよ。そういうわけで、ゲ−ムの日は完全にパスさせてもらっています。
mito
 ぼくは、授業自体も、生涯学習の「学びたいから学びたい手段で学ぶ」という「自己管理型」で行なおうとしているから、このような「潔い撤退」に類した例はたくさん経験している。「こ・こ・ろ生涯学習」にも書いたとおり、基本的には「元気になったら出ておいでよ」という対応でいいのだと思っていた。しかし、今回のこのペ−パ−は、体験学習による擬似的時空の空虚さを鋭くついたものであり、そういうペ−パ−に対しては、「無理して出席しなくてもいいんだよ」とぼくが対応することは、教師としての責任逃れにもつながりかねないと思われる。そこで、少し立ち入って考えてみたい。
 このペ−パ−は、じつは4枚にわたる長編(?)で、先に引用した部分は、その追記である。本文では、偶数日の「講義型学習」を含めて「あまり得るものがない」、他の学生の出席ペ−パ−も「面白そうだね」というものはあるが、「まあ、時間に余裕があれば」という程度で、それよりは、この授業をパスして他の授業で出された課題などをこなすことが多い、などという自己の状況を述べたうえで、「(そういうふうにパスすることも)美東士先生の方針ではOKになるんだと思いますが、それで一年間終わってしまったら、何のために『社会教育計画』の講義を取ったのか、何も残らないと思いませんか?」と穏やかな口調ながら、ぼくを厳しく突きつめている。
 しかし、これだけであれば、ぼくは、「履修要覧やテキストを読んで、ぼくやぼくの授業が自分にとって必要かどうかを判断して、出席するかどうかを自己決定せよ」と答えればよいだけだと考えている。ところが、この学生はどちらも読んでいるという。また、最初の3回目の授業までは、きちんと出席している。「まずはぼくの授業の様子を探ってくれ」というぼくの要請に応じてくれている。彼は次のように書いている。「(高等教育においては)基本的にはどの科目を取るか、それを決めるのは学生側の『権利』として与えられているわけですよね。そして、判断のための情報として、『履修要覧』があり『お試し期間』があり、それでも足りなければ、直接、担当の先生のところへ質問しにいくことだってできるわけです。それだけのものを与えられていながら、あとから文句を言うような選択しかできないというのでは、学生側がなかば選択権を放棄しているようなものだと思うわけです。たしかに、私も選択したあとで、『あっ、これはハズレだったな』と思ったものもありました。でも、そういうときでも、せっかく高いお金を払って買ったんだから、テキストだけは一通り読んでみようとか、講義の『おいしいところ』だけはある程度頂戴しておいて、そこから『独自路線』を展開しようとか考える。そうして、それなりに、この講義を取ってよかったなというものを作ってきました」。ところが、彼は、ぼくの授業だけは、履修要覧や教科書からは「見えない」「読み切れない」というのである。
 ぼくは、いつも、授業のシラバスを、大学当局から与えられた字数制限いっぱいに書いて提出している(内容はともかく)。ボリュ−ムばかり多くて「ひんしゅくもの」ではないかと不安を感じるぐらいだ。授業スケジュ−ルなどは、一字も余らせないなどのノイロ−ゼ的なまでの記述をしている。ただ、T大学の場合は、授業スケジュ−ルの欄の字数が非常に少ないので、この学生がほかで指摘しているように、よくわからない代物になっているとも考えられる。これについては、来年度からは、もっと詳しいシラバスを、初回の授業に別途配ることにしたい。
 それにしても、このペ−パ−の主張は、その程度のことでは本質的には解決し得ない深い問題を提起している。この学生のように主体的に自己決定をした場合であっても、「学びたいから学ぶ」という自己管理型学習がうまくいかないことがあるということを示しているのだ。それは、「書き言葉メディア」とは異なる「話し言葉メディア」としての授業(ぼくは、mito的授業がそれをねらったものであることを公言している)の特殊性の表れであるともいえよう。「話し言葉メディア」としての授業は、学習者側としては、「書き言葉メディア」である履修要覧やテキストを読んでも、最初からは自分にとっての授業の意義が「読み切れない」のである。だから、「先生のいうことにはしたがっていればよい」というような教師への無条件的信用(基本的信頼ではない!)をしないこの学生に代表される「正しい学習態度」の主体的学習者にとっては、かえってその学習結果が恐ろしくて、「話し言葉メディア」としての授業には踏み込みずらいということになる。
 それが、態度変容を意図した体験学習の「奇数日」になると、その状況はますます決定的である。体験学習の場合は、よく吟味したうえで「よし、参加しよう」と自己決定した場合であっても、「出なければよかった」と後悔することが多々あるだろうからである。この学生のいうような「中途半端な楽しさが、すぐに空しさに変わってしまう」などという事態は、日常茶飯事でさえある。「結果が恐ろしい」どころか、「恐ろしい結果」(空しさの逆襲など)をすでに何回か味わっているのである。
 しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。この学生は次のように書いている。「性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからない」、「グル−プのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲ−ムをやるときのメンバ−がいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲ−ムを『こなす』という感じで終わってしまう」。その気持ちはよくわかるが、現代社会のヤマアラシジレンマに立ち向かうためには、その空しさはあえて受け入れなければならないのではないか。「祭りのあとの空しさ」というではないか。祭りを楽しんだとしたなら、祭りが終わったあとは、その空しさをじっと受けとめなければならない。それが祭りの定めであり、人間関係の宿命なのだ。そこから逃避しようとして「いつも同じメンバ−」に固執したとしても、そこで感じるだろう空しさは、これと同質、または、それ以上のものかもしれない。
 また、社会教育の援助者に求められるコミュニケ−ションや組織化のための資質・能力についても、今後重要になるのは、特定の住民とべったりつきあったり、「教祖様」になったりすることなく、ときには、情報提供や一過性の学習者へのサ−ビスなどの「ちょっと間をおいた」、あるいは間接的な援助をしなやかに行なえることである。そういう仕事の仕方では、従来の社会教育の直接的援助や指導の魅力に固執する援助者の目には、まさに「虚業=空しい仕事」に映り、不満を感じるかもしれない。だが、こういう仕事を「自分(の気づきや出会い)のためにやっています」とさわやかに言える「発想の転換」がこれからの援助職員に求められるのである。そのためには、人間関係のための洗練されたセンスが必要になる。
 それゆえ、自己管理型学習、とりわけ自己管理型体験学習には、「空しさへの予感や恐怖に耐える力」が必要とされているといえるのではないか。このペ−パ−の学生のような、かなりの自己管理ができている学習者に限っては、ぼくは「潔い撤退」への肯定的態度を変えてみたい。「いや、だまされたつもりでもいいから、とにかく出てみたらどうだろうか」といおうと思うのである。そういう自己管理型の人にとっては、他の「自己管理ができている」ほかの授業への出席や宿題をさぼってでも、mito的授業のような「自己管理のしずらい」授業に参加することのほうが、自己成長にとって有益だと考えられるからである。そうでないと、せっかくの自己管理型学習であっても、「書き言葉メディア」による自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組みを変化させる本来の意味での学習、または革新型学習につながらなくなる恐れがある。ちょっと「余計なお世話」かもしれないが。(もちろん、単位を出さないなどの強制につながる行為をするつもりはない。学習の自己管理の原則はあくまでも貫かれなければならない)。
 そこで、つぎに、同日に提出されたほかの人のペ−パ−を、もうひとつ紹介しておく。ここには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表わされている。

1994.10.26. T大U部社会教育計画、男
 (前回のパズルゲ−ム−スクエアゲ−ムについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲ−ムでは、カ−ドを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャ−したりしてはならないということだったけれども、たかがカ−ドの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。
 (体験学習を行なうということに定められている)奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲ−ムを始める前、このゲ−ムでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグル−プになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。
 7月ぐらいまでは、ゲ−ムに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。
 この前のパズルゲ−ムのときと、その前のゲ−ムのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。
mito
 エンカウンタ−グル−プは、日常の人間関係とは離れた「文化的孤島」で行なわれなければならない。奇数日の授業も、これに似た意義(「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」)があるのだろう。また、引っ込み思案の克服方法のポイントのひとつは、「結果を恐れるな」(自他への不信から結果を先回りして勝手に決めつけるな)である。この言葉も参考になると思う。

4 生涯学習とは何か=自己受容と自己変容(自己の枠組み自体が変化する生涯学習)
mito
 ぼくは、今まで、枠組み自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組みを変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。その(認知説に?)偏った考え方には変わりがない。急速に発展・変化する生涯学習社会において、枠組みを変えないまま、固定化した枠組みのなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと思うからだ。
 しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、ぼくのこの「学習論」への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。ぼくにとっては、それが逆に不思議だった。そこで、ぼくは「じゃあ、ぼくは自分を変化させたいと思うか」と自問自答してみようとした。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。
 もともと、ぼく自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での学習をしたい)というとき、楽しいイメ−ジとして「変化したい」という言葉を使っていた。ぼ−っと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人と出会ったとき、その人の枠組みのよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときは「至福」ともいうべき自己充実感を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「自分をどんどん変えたい」という程度の軽い気持ちなのだ。例の「どこまでも知りたい」(練馬区生涯学習推進構想)という生涯学習の原始的欲望の一種と考えてもよい。
 ところが、ちょっとマイナ−な気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみたのだが、とてもみじめな感じになることに気づいた。そりゃあそうだろう。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを権力側(この場合は教師)から「自分を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうが健康的である。
 「自分を変えたい」という欲求は、じつは、2つに分類できるのではないか。

T 自己否定としての変身欲求−今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。
U 自己受容による学習欲求 −今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。

 ぼくが今まで提唱し続けてきた「枠組み自体を変化させる生涯学習」というのは、当然、Uということになる。最近の臨床心理関係者の話(嗜僻、依存症など)を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラ−が、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ることと自分を大切にすることは重要である」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたはぼくの胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。ぼくの言葉で言い直せば、「客観視」と「自分のために生きる」ことの大切さということになろうか。Tだけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組みのまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍になるような生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容につながるのである。
 「自己の枠組み自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。でも、わくわくすること(ワンダ−ランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということであり、その援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「こんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。

5 生涯学習とは何か=自罰のデリケ−ト、他罰のデリケ−ト(加害者の被害者ヅラ、淋しがり屋のタカビ−)

1994.10.26. T大T部社会教育計画、男
 このところ、この授業に出るのが嫌になって、あまり出ていませんでした。それは、授業のなかでもふれられていたように、授業のなかで出てきたことに突きつけられて、これまでの自分のまちがっていることを認めるのが嫌だったからだと思います。そこへきて、自分の自罰的傾向(「ちゃんと現実を見すえなくてはいけない」「逃げてはいけない」)や自信のなさ(「自分にはこの授業を受けるだけの包容力や人間性が欠けているのではないか」「他の受講者が自己変容しているあいだに、自分は低いところで堂々めぐりをしているのではないか」)があるものだから、事態は深刻だったといえましょう。
 しかし、今日、ある意味ではたまたま、この授業に出て、本当によかったと思います。もともと自分は、社会教育主事資格ほしさとはいえ、好きで(=主体的に?)この授業をとったのでした。ならば、そういう自分を受容して、そして自分を変えていけばよい(どこまで変われるかは別として)わけです。だから、今後は、もっと積極的に出席して、自己変容や自己管理につなげていければと思います。自罰しすぎないように、自分に自信をもてるように(しかし、肩で風を切ったりうぬぼれない程度に)していければと思います。
mito
 この学生のようなデリケ−トさ(本人は自罰傾向と分析しているが)は、本人の個の深みのひとつであり、そういうデリケ−トさが欠けていると自覚するぼくは尊敬する。彼は人生を真剣に生きている、あるいは、自己評価の水準のレベルが高いと思うのである。そんなぼくがかれらに何かいえるとしたら、つぎのようなことである。「批判は歓迎せよ、否定は受け流せ」。本来の批判は基本的信頼にもとづくものである。自分にも刃(やいば)を突きつけながら、なおかつ、そんな非力な自分と相手を受け入れているからこそ、批判ができるのである。「非力でない場合だけ(自他を)信頼できる」という人がいるとしたら、その人のいっている「信頼」は本来の信頼ではない。ただの「信用」である。信用に値するような完璧な「先生」や「人格者」など、この世に一人もいないはずだ。「信用される人間」になろうとする態度は、じつは、競争主義の学歴偏重社会に過剰適応しようとしている無茶なガンバリズムであり、不合理な思い込みにすぎないのである。だれかがそんな競争主義にもとづいてあなたを「否定」(批判ではなく)したとしても、そんな否定は受け流すにこしたことはない。あるいは、そういう「否定」は、その人自らの不安の表明にすぎないのだから、自分を否定しようとする他者の「弱さ」を共感的に理解して処理することができればベストである。学歴偏重のヒエラルキ−的価値観を内面化しているかぎり、その人は他者を否定しかできないのであるから(その弱さは、多かれ少なかれすべての現代人がもっているだろうが)。
 さて、ここで、最近ぼくが気になっているもうひとつのデリケ−トの傾向について述べておきたい。それは、自罰傾向のデリケ−トに鮮やかに対比される他罰傾向のデリケ−トである。たとえば、恋愛問題にしても、自分だけを相手が愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないというのである。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際しようとしている。だが、そこまではいいのだ。見方によっては、そういう生き方も本人がそれで納得して生きているならたくましくていいじゃないかとも思う。別に他人であるぼくが気にかける必要はない。ところが、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。デリケ−トなのである。もちろん、真剣に相手のことを怒っている場合もあれば、「悲しいけれど事実として受けとめる」という場合もある。しかし、いずれにせよ、自分自身については甘やかしておきながら、相手を罰していることにはかわりない。現代社会において、幸福追求の援助者として教育が存在しようとするのならば、こういう場合はどうすればよいのか。これは、すなわち、他罰のデリケ−トに対する援助のあり方の問題である。
 授業中の私語の問題は、今や当たり前すぎて陳腐な話題だとぼくは思っている。授業中の「感動の私語」はむしろ歓迎し、これを積極的に組織化すること(その端的な表れは「ちょっと待った方式」)、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は双方の自由を保障するために、おしゃべりをするための中途退室と入室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、おしゃべりをやめさせるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。先日、50人くらいが受講する授業で、男性2人だけが小声でひそひそしゃべっていて気になってしかたがないことがあったが、しばらく我慢しているとその人たちは荷物を置いたまま自発的に退室してくれたのだ。もちろん、あとで戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。
 しかし、そううまくはいかない場合も多い。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば、その授業とは無縁の「余計な私語」はそういうほかの学生に迷惑をかけていることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ(ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の学生は、その人の学習の自由を保障するために、退室しないままの余計な私語を禁欲せよ」という考え方である。念のため)。人間は何か迷惑行動を起こすときでも、自分の心の中ではなんらかの形でその行為を「正当化」しているはずだ。私語学生はどのように自らの退室しないままの私語を正当化しているのだろうか。
 ここに、「他罰のデリケ−ト」のロジック(レトリック?)が適用できるのではないか。「ほかの人は、私みたいな(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな授業をまじめに聴いていられるのよ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、自分を許して他者を罰しているのではないか。つまり、自分が傷つくことばかりに対してデリケ−トだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向やピア・コンセプト(仲間意識)の表れにすぎないのだが、それを、「おしゃべり仲間をちゃんと大切にしている友達を大切にしている自分」として逆に正当化してしまっている。この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピアが介在していて、個人の個の発現を抑圧しているのは社会そのものではなく、じつはピアであり、すなわち、その人自身の内なる認識なのである。
 電車の中で迷惑行動をしている人の顔つきを見ても、かれらはけっして楽しそうな顔をしていない。股を大きく開いて3人分ぐらいの席を占有している人も、「3人分の着席の幸せ」を奪っているのにけっして幸せそうではなく、むしろ疲れた辛そうな表情をしている。社会や他者に対して、何か不愉快なことがあるのだろう。これをぼくは「加害者の被害者ヅラ」と呼んでいる。そういう例は、いやというほど周辺で見受けられるだろう。だが、よく考えてみれば、そういう加害者たちが幸せになれるのだったら、本当の被害者たちにとってはたまったものではない。水平なネットワ−ク社会(ぼくはそれを学歴社会に対する生涯学習社会だと考えている)における「してあげる、してもらう」のストロ−ク交流の関係しか、自分自身も幸せになれる方法はないのだという「嬉しい確認」ができたと考えればよいのだ。
 ただ、そうはいっても、援助者としての社会的役割の遂行が期待されている人は、そういう「他罰のデリケ−ト」の自己変容に対する援助のあり方を考えなければならないだろう。そこで、デリケ−トの種類を次の2つに分類して整理してみたい(本当はそのどちらでもない個の深みそのものともいうべき「デリケ−ト」を入れて3つだと思う)。

「種類」    「不安の動機」       「関係性の悩みの内容」
T自罰的デリケ−ト − 相手を傷つけたのではないか。 − 自分は他者を愛せない。
U他罰的デリケ−ト − 相手から傷つけられた。    − 他者が自分を愛してくれない。

 もちろん、私語程度の「何気ない迷惑行動」と「確信犯的な迷惑行動」を同一に論ずることには危険性がある。ここでは、程度の差はあれ、アンビバレンツな人間存在としては、すべての人が、「自罰・他罰」「デリケ−ト・たくましさ」「大・小」のどちらの要素ももっているという前提で論を進めたい。
 ここで問題にしたいのは、Uである。社会的に客観視した場合は論ずるまでもなく「不当な態度」として処理すればよいのだろうが、その人は主観的には「本当に悩んでいる」のである。すなわち「問題があることを自覚している」のである。学習は問題の自己解決の行為(問題解決型学習)の一環だとして、教育はそのための援助だとすると、本人が主観的には問題をかかえているということ自体は、援助の唯一の拠り所として非常に重要なポイントなのである。
 ぼくは「淋しがり屋のタカビ−」という言葉をつくった。タカビ−とは高飛車な人のことを指す流行語である。相手の人生を、自分の都合にあわせて影響させたり、支配したりするようなことが多い「迷惑な人」のことである。しかし、そうい人のなかに、じつは「淋しがり屋」が多いのだと思われる。「淋しがり屋」と「タカビ−」の素質は、そういう人のなかでは、悪循環を繰り返しているのだ。愛されないからますます淋しくなり、だからこそ、ますますタカビ−になる。さて、ここまで論じてきて、ひとつ重大なことに気づかないだろうか。すなわち、「そんなことだったら、自分にだってある」「そんなことだったら、わかる」ということである。この「そんなことだったら」が重要である。援助者だって同じ人間なのだから、「淋しがり屋のタカビ−」や「他罰的デリケ−ト」の行為に対して、そんなに苦労しなくても、ごく当たり前に共感ができるのである。これをぼくは「教育的可能性」のひとつととらえる。

 つぎに、これと関連して、「援助者としての責任と無責任」について考えてみたい。授業中に登校拒否(不登校)や拒食症(摂食障害)のビデオを共感的に理解することをねらいとして視聴しても、なおかつ、一部の学生から「共感できない」「かれらは甘えている」というペ−パ−が出されるmito的授業の実情について、「援助者としては不適応症状の人を共感的に理解してあげなければいけないのではないか」、それなのに「十分に症状を理解できるだけの情報を与えないまま、VTRで不十分な情報を流して、共感的理解ができない結果を生み出すのは、教師として無責任なのではないか」という、深く鋭く指摘するペ−パ−があったのだ(「非公開希望」なので全文の紹介はできない)。
 まず、言明しておかなければならないことは、ぼくの勉強不足におおもとの原因があることは明らかである。ただし、ぼくの学習援助者としてのスタンスは、「ぼくが、いま、与えられた学習課題に関連してもっとも関心をもっていることを伝える」ということである。そこさえ責任をもって役割遂行すれば、あとは学習者がそれをどう受け取って取捨選択するかについてはぼくの援助者としての責任の範疇ではないと考えている。そんなことは学習者の自己責任でないか。たとえ、学習者側のなかに、その問題に関してぼくよりすぐれた知識・見識をもっている人がいても、ぼくは平気でそのテ−マについて「教授」するだろう。あとは、ぼくは、批判を「受けて立つ」、指摘を「受け入れる」という覚悟さえ決めておけばよいのだ。
 しかし、それにしても、一部の学生の「かれらは甘えている」という発言は、たしかに他罰的な傾向を秘めていると思われる。そこで、このことについて考えてみることにする。

6 生涯学習とは何か=援助者としての責任と無責任(共感的理解をめぐって)
mito
 第1に、「(不適応の人たちは)甘えている」という判断は「1%の真実」を表わしている。「甘えている」と書いた学生たちはただ単純に「甘えている」と書いているのではない。かれらがこれまでのみずからの人生を生きていくなかで、@社会やひとに甘えてはいけない、それが自立だ、A家族やまわりのひとが自分にしてくれたことに感謝したい、あるいはそういう人たちの期待に沿いたい、Bいやなことでも頑張ってやっていかなくてはこの世ではうまく生きていけない、などの価値観を身につけ、自分とは異なる不適応の人たちを「甘えている」と判断すること(他罰)を選択することによって、今までそういうふうにがんばってきた自分の生き方を否定しなくてもすんでいるのである。
 つまり、不適応を起こして「本当の自分を大切にする」というだれにとっても「それなりに魅力的な生き方」のその魅力に打ち勝つためには、不適応行動を「甘えている」と切り捨てることを選ぶしかないのである。不適応が現代社会における自己保存の「ぎりぎりの選択行為」だとすれば、そういう人たちを「甘えている」と切り捨てることも、現代社会においてはそれなりに「ぎりぎりの選択行為」なのである。その証拠に、かれらは「(不適応に対して)共感『できない』」「共感『したくない』」と書いてくる。無価値的に「共感『しない』」とは書いてこないのである。他者を共感的に理解したいという要求は潜在的にはだれにでもあるのではないか。ただ、それと自己保存本能とが、現代学歴偏重競争社会の疎外状況においては対立してしまうのである。
 このように考えると、不適応を「甘えている」といって切り捨てて現代社会で生きていこうとする「戦術」は、だれにとっても、まったく意味のないこととはいえないだろう。同時代の他の99%のそれぞれの人が少なくとも1%ぐらいずつは共感できる「1%の真実」を表わした生き方のひとつなのではないか。問題は、シロかクロかではなく、シロ何%かクロ何%かなのであり、出席ペ−パ−の場合は、もっと根本的には、「どれだけシロの深みを表わしているか」、「どれだけクロの深みを表わしているか」なのである。
 第2に言いたいことは、援助者側は、「他者を共感的に理解できるようになることが、どれだけすてきなことなのか」ということを、その方法論とともに提案する責任はあると思うが、自分にできる範囲で一生懸命にそれを提案した結果、学習者側がそれを受け入れなかったとしても、そこには何の問題もないということである。人それぞれなのである。教育目標を学習者に提示し、その目標に沿って授業を進めても、なおかつ、相手が自分の思うように変化してくれなくても、それはそれでよいのだ。援助者側にも学習者側にも問題はない。援助者側が「学習者を変えられない」という問題に固執するとすれば、それは相手の人生をしょいこもうとする「熱血先生」の傲慢さとさえいえるのではないか。ぼくは、共生の要素を@共有(価値や文化の共通点を探ったり創ったりすること)とA共存(価値や文化の異なりを受容しあうこと)の2つだと考えている。「相手の人生をしょいこまない態度」は、この場合のAに当たるのである。
 ただし、これは原則論であって、ぼくの場合は、その学生の指摘するとおり、教材研究をもっとしっかりやっておけばさらによかったのではないかとは思う。つまり、それは、ぼくが「自分にできる範囲」にまで到達していなかったということであり、その面では、十分には責任を果たしていなかったというべきである。自分がいま関心をもっていることについては、いっそう深く考えていきたいと思っていることをここで表明しておく。
 第3には、「(不適応について)共感的に理解しなければいけない」ということを最優先する立場は、ぼくはとっていないということである。ぼくは「共感的に理解できたらいいね」といっているのである。「共感しなければいけない」といわれたのでは、なんだかそれまでの自分が共感的理解能力に欠けた冷血人間としての烙印を押されたようで消極的ないやな気分しか残らないではないか。ぼくは「人間をよりいっそう共感的に理解できるような自分でありたい」というみずからの動機を自分のなかに探りながら、授業を進めている。だから、学生に対しても、一人ひとりのなかに「他者を共感的に理解したい」という顕在的・潜在的欲求が存在するであろうことを基本的には信頼して、その欲求に訴える授業を組み立てようとしている。もちろん、共感的理解能力の発達は、信頼・共感・自立の人間関係の創出やその援助のためには不可欠な要素だと思っているからである。「〜しなければならない」ではなく、「〜するほうがすてきだ」という提案を行なうことこそ、ネットワ−ク型の水平社会における援助者としての個の発揮の有効な方法なのではないか。
 援助者といえども、社会という幹に対する枝葉にすぎない。その枝葉が自己実現と社会的承認のために果たすべき責任とは、自分の考え方を押しつけたり、その結果、幹がそのとおりに変わってくれなかったからといって不平に思ったりすることではなく、自分の生きてきた範囲でできることを実際にどれだけ幹(この場合は学習者集団全体)に提言できたかを(たとえば「先週は授業で何回、どのように提言したか」などと)なるべく客観的に自己評価することなのである。

7 生涯学習とは何か=ぼくたちはいったい何のために学んでいるのか(学問とは何か)

1995. 5.22. S大社会教育計画、女
 わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。
 今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいって言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。
 人には、その人に見合った世界があって、その世界の中での上を目指すことはかまわないけど、その上の世界を目指すのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。
 私は、そんなものなの?、と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。
mito
 そういう過去の遺物のような人間に対してのぼくの基本的なスタンスは、「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」である。だから、ペーパーの書き手に対するアドバイスとしては、ひとことでいえば、「ケッ」と言って笑い飛ばす能力が大切であるということになる。まあ、心配しなくても、その手の「アパルトヘイト」(南アフリカ共和国の1989年以前の人種隔離政策)みたいな、唯々諾々と「頑張ってきた」だけの人たちは、社会ではいずれ挫折するだろう。たまたま出世するかもしれないけれど(本当は管理職には適していないのだけど)、人間としての味が薄いため、他者からの信頼や愛情という人間の生活や仕事にとっての肝心の財産を獲得することができないまま生きていくことになるからである。
 学生が一流企業をめざすこと自体は、けっして不合理なことではない。ぼくだって、「生活の安定をめざすならば、可能なら大企業にぶらさがれ」と学生に言っているぐらいだ。しかし、そういう自己保存のための「作戦」の部分だったはずのものが、たまたま「成就」した事実があったからといって、「本気」になって、「自分は上の世界の人だ」と思い込んでしまう人間がいるというのにはびっくりしてしまう。自己の合格・不合格などは、客観的にはちっぽけな事実にすぎないのに・・・。学校歴偏重社会の価値観の個人的な精神世界への侵略は、目に余るものがあるのだなあと思う。
 例の友人は、AC(従順な子ども心)とCP(厳格な親心)ばかりで生きてきた人なのだろう。そういう人たちの幸せのためには、なるべく早いうちに挫折を自覚して、「ただのろくでなし」(平気で差別したり迷惑をかけたりする人たち。自称「成功者」たちの差別や、頑張って授業には出てきてしまう自称「被害者」たちの私語など)から「ましなろくでなし」(そのほかの、しかし「不完全」な私たち)として立ち直る機会が訪れるよう祈るばかりである。
 ところでこのペーパーについてT大学でも簡単にコメントしたところ、次のようなレスポンスがあった。それによって、このトピックスに関する考察は、もう一段、ぐんと深まることになる。これだから出席ペーパーシステムはやめられない。

1995. 5.24. T大U部社会教育計画、男
 一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。「ケッ」と思う気持ちや、(注=彼らに対して)負け犬にならないということは大切ですが、いきなり「ばか」と切り捨ててしまうことの方が、ある意味では「負け犬」なのではないでしょうか。(注=合格・不合格の)つまらない事実であっても、わたしはその事実は事実として認めるべきだと思いますし、その人の努力の結果には敬意を表わしたいとも思います。その上で、自分は自分なりのものを作り上げ、それに自尊心をもてばいいと思うのですが。(あ、時間がない・・・。)
 フリースペース、その時間、わたしは授業ですので、ちとキツイです。出たいとは思うのですが・・・。わたしも酒好きですし(笑)。
mito
 ぼくは、「馬鹿という言葉は、少し違うなあ」とは感じながらコメントしていたのだ。しいていえば、「あほ」という言葉のほうが適切だったかもしれない。つまり、嗤う(ばかにしてわらう)という感じである。庶民が「ばか殿様」を笑い飛ばす、あの感じである。
 さて、このペーパーによって、「その人の努力」に対する評価のあり方が問題として焦点化されてきた。これは、このペーパーの書き手一人にとどまらず、「心優しい」現代青年の普遍的な傾向であると思うのだが、「そんなこと言ったって、その人なりに努力してきたのだから」とか、「がんばってきたのだから」とかいって、客観的にはその「努力」が不当であることを感じながらも、個人の主観的なストーリーとしては容認してやろうとしてしまうのである。ぼくは、声を大にして言いたい。努力してればよいというものじゃないし、頑張っていればえらいというものじゃない。
 例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる「人類の幸福追求の敵」としての役割を果たすからである。
 このような客観的には「不当なこと」(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張った」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」が滑稽であることを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだといえよう。
 それでは、なぜ、学習権がかなり保障されているはずの現代青年までもが、そういう「人類への裏切り者」を許そうとするのかというと、それはおたがいに「頑張らせられてきた」学校歴偏重社会の被害者としての仲間意識が根にあるのだとぼくは思う。これこそ、まさに、ピア・コンセプト(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)の逆機能といえよう。ヒエラルキー(階層制度)の上位にあって下位の自己を抑圧する相手に対してまで、「同じ苦労をしてきた」(ただし、相手は「成功」した!)という思いから、批判することを回避している。これは、自称「上の世界の人間」もそうでない人も、「(受験勉強はいやなのに)頑張らせられてきた」という意識・無意識の被害者意識を、社会変革主体としての「自尊心」に転化するに至らないまま、自身の根っこの問題として引きずっていることの表れといえるのではないか。つまり、端的にいえば、負け犬同士が傷をなめあっている姿ではないか。どちらの側も、学校歴偏重の上下競争の価値観を内面では蹴飛ばしきれていないからである。
 さて、ぼく(mito)自身はどうなのか。「やっぱり負け犬の一種でしょうね。そりゃあ、こんな社会に生きていて、あるいは人間存在の空虚さという本質から、まったく敗北主義にならないというほうが、かえって不思議ですよ」。こういって、ぼくは、そういう自分の「ろくでなし」の部分を、「まあ、事情が事情なんだから、今までのことはしかたないよ」という感じで許してやっている。しかし、「せめてこれからは」という気持ちで打ち出しているのが、つぎの3つのテーゼである。
 「今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーの中で演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて」(『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人いりません−』p106より)。
 ヒエラルキーのなかにあっても個人が意味をもって生きるためには、うえの3つとも必要であろう。しかし、学問とは、問うということを学ぶということでもある。不易の部分、本質の部分を求めて、「ぼくはいったい何のために学んでいるのか」と自問したとき、とくにこの3番目の、いわば「正義の行使の裏付け」ともいえる、自己にも批判の刃(やいば)を向ける真実の追求の重要性に思い当たるのである。
 「ばか殿様」からも、それを反面教師とすることによって、学ぶことはできる。しかし、それよりも手っ取り早いのは、さわやかに生きていく力をもっている人、「ああ、この人って、いい生き方してるな」と自分までうきうきしてしまう人との出会いを多くすることである。そのことによって、自分も「さわやかに生きていく力」をもつことができる。「大人になりたくない」なんていう青少年が多いが、それは、たまたま、いいモデルとしての大人にめぐりあったことがないかから、あるいは、本人がそういう出会いから逃げようとしているからかのどちらかであろう。
 ぼくがフリースペースを個人的にも楽しみにしているのは、「おお、いいなあ」と心からあこがれてしまうような他者の生き様と出会い、癒され、こちらまで元気が出るからである。相手は学生ではあるが、ぼくなんかよりよっぽどかっこいい潔い自己決定の生き方や、自分に厳しい深い生き方をしていて、教師のぼくが思わず尊敬してしまうような学生もごろごろいるのである。こういう人との出会いを避ける手はない。このペーパーの書き手にも勧めたい。フリースペースは、参入も撤退も自由のネットワークの場である。「1年に1回だけ来てもメンバーだ」。何回も来なくてもいいが、授業が休講のときなど、1回ぐらいは来る価値はあるだろう。
 最後に、蛇足になるが、その自称「上の世界の人間」が実際に学生としてぼくに接してきたとしたら、ぼくは教師として「どう受けて立つか」を述べておきたい。教師は学習者の援助者であるから、今まで述べたようなことはそのままの形ではいわない。教育効果(変容)が期待薄だからである。今まで述べたことは、客観的には自分にも迷惑をかけている「ただのろくでなし」をさえ、「頑張っているんだから」といって認めてしまおうとする「心やさしい人びと」への忠告であったのだ。
 自称「上の世界の人間」の本人に対しては、ぼくはあざ笑ったりすることなく、その人の過剰で屈折したACとCPの悲しい事実を探り出し、本人の目の前につきつけようとするだろう。そうすれば、遠い先にあった挫折の自覚が早く訪れる結果になってしまうかもしれないが、その場合の「挫折」は現実よりも本人の理性的認識によるシミュレーションに近いものであり、また、それゆえ本人の「自己決定」の要素が比較的大きいと思われるからである。個人の幸福追求への援助のためには、教育は本当はそうあらねばならないのではないだろうか。

1995. 5.20. S大教育社会学、女
(注=自分のことをワガママだと批判していた彼氏が、最近やけに自分にまとわりついたりプレゼントをしたりするので「あやしい」という前置きがあったあと)たぶんわたしの夜遊びのせいだと思う。わたしの夜遊びははんぱじゃなく、男友達5、6人とギャーギャーさわぐ。朝まで激論を交わすことも多い。激論のテーマは人種差別、宗教、音楽などだが、二日酔いをともなうとっても充実した朝を迎える。かれらは愛すべき Friendsである。わたしの友達はブラックが多いので、人種差別についてはすごくきびしく、わたしは日本代表としてせめられている。
 それ(注=ほかの男友達との「夜遊び」)が彼には気に入らないらしく(わたしがそのことを楽しそうに話すらしい。だって、ほんとうに楽しいんだもん)、また、わたしがあんまり彼と遊ばなくなったので不安らしい。「おまえが離れていくような気がする」のだそうです。わたしはそうでなくても離れていくのよ、と思ったけどね。プレゼントがなんぼのものじゃい。アパルトヘイトを知らない彼にもっと勉強してもらいたいと思う。彼はマンデラがどこの国の人か知らなかった・・・。
mito
 ほら、こんなに「雄々しい」いい女がやっぱりいるんだ。このペーパーには「雑談」という彼女なりのマークが付いていて、それにしてはこういう深い内容であり、そのことだけでも彼女のその「潔さ」にぼくはうれしくなってしまう。だけど、知らないということは仕方のないことだから許してほしい(マンデラはアフリカ民族会議(ANC)議長で、現在、南アフリカ共和国大統領)。問題は、差別やその他の社会の不当性、人間存在、芸術表現などの事実を知っているかどうかよりも、その本質(真実)の追求自体にそもそも関心があるかどうかだ。
 ここからは、「彼」本人からの話を聞かないまま論を進めるので、実際の彼の姿を推測するものではないということをお断わりしておきます。
 きっとあなたの今までの彼は、そういう関心そのものがまだ育ってないのではないか。世の中には、大人になってもそういう「ガキ」状態にとどまっている男が(女も!)かなりいる。社会や自己の姿をなるべく正確にとらえようとするA(大人心)を使い慣れていないのである。そういう人は、相手に「自分のために生きてほしい」と一方的に依存してくるし、自分勝手に独占的な愛を求めてくる。それは、他者(社会)との関係のなかでの自己を客観視できていないからであり、つまり、自立できていないということなのである。遊んでくれなくなると「離れていくような気がする」と相手に不安だけを訴える姿は、その淋しい気持ちもわからなくはないが、彼がまだ自己を主観だけでしかとらえられず、他者から見た自分の姿を推察する能力が育っていない証拠ともいえる。あなたのような大人の女には、そういう自立できていない男は残念ながら似合わないのだろう。
 世の中には、あなたとの「激論」に耐えうる「いい男」がいっぱいいるのだから、いい女になりつつあるあなたが、過去のそんなつまらないつきあいにあまりとらわれすぎるのはもったいないことだと思う。ぼくはそんなに雄々しい男ではないけれど、そんなぼくだって、このペーパーを読んで、「ああ、彼女みたいな人と『激論』するのは楽しいだろうな」と思う。そうは思えずに、「社会や人間のことなんかことさら考えなくたって」と思う男は、同じように思っている女とつきあって満足していれば、それで世の中は安泰だろう。
 「わがまま」には2つの種類があると思う。「わたしの人生はわたしが歩きたい」という「いいわがまま」と、「あなたの人生をわたしのために曲げて生きてほしい」という「悪いわがまま」の2つである。自分の力で自分の自立を実現して大人の「いい女」になるためには、前者のわがままであるのなら必要なことである(後者の「悪いわがまま」も愛にとっては不可避だが)。こういう「いい女」と「いい男」が居心地よく交流できるサンマ(時間・空間・仲間)を、ぼくはこの世の中にいっぱいつくりだしていきたい。
「おうち」としての狛プー
  −狛プーの公的・現代的意義−
昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
(狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」年間講師)

 先日、見学者との交流会で、ある狛プーメンバーが「狛プーはおうちだ」と言った。学校や職場も、疲れるときはあるけれど、それなりに楽しい。充実している。しかし、狛プーはそういう「外の世界」のワン・オブ・ゼム(一部)ではなく、それらの外の世界から帰ってきて、また外に出かけていくための足場、つまり「おうち」だと彼はいいたかったのだと思う。
 そして、少なくともその交流会では、狛プーのメンバー全員が、「狛プー自体が全体でボランティア活動などによって社会に参加することになるとしたらいやだ」と言っていた。狛プーに関わりはじめてから、多くのメンバーが自信と元気を獲得し、自分にあったそれぞれのかたちでの多様な社会参加を、いつのまにか、ちゃっかりと、したたかに始めている。それにも関わらず、狛プーは「おうち」のままであったほうがいいというのだ。
 これは、最初、ぼくには意外だった。人間は元気がでてきたら社会にも主体的に関われるようになる。もうすでにいろいろなところで何回も述べたとおり、「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つのマ)」としての狛プーの、しかも公的社会教育の一環としての意義は、ぼくもつくづく感じていて、狛プーが開かれる毎週木曜日の夜をぼく自身も楽しみにしているぐらいだ。しかし、「狛プー自体は社会参加しないで」というかれらの気持ちに「えっ」と思ってしまったのは、まず癒される、そうしたら次に社会参加(ボランティア、地域活動、市民活動)に発展するというような過去の社会教育指導者にありがちな固定的で図式的な思考がぼく自身のなかにもあったからではないかと思う。
 そのこりかたまった抑圧されたぼくの思考が、「狛プーはおうちだ」という言葉によってするすると解き放たれていった。ああ、そうだ、そういえば「おうち」というのは、どんなに大人になったっていつまでも必要だ・・・・。「おうち」も「外の世界への参加」も、どっちもすてきなものになればよいのだ。
 以前、ある女子学生メンバーが、自分が受講している大学の社会教育系のゼミで狛プーの良さを発表したら、他の男子学生から「癒しのようなそんな私的なこと、公民館や社会教育主事に頼らずに、自分たちの力でやるべきだ」と言われたといって考え込んでいたことがある。ぼくも、彼女からそれを聞いて、その男子学生の発言が頭に引っかかっていたらしい。そして、狛プーのメンバーの何人かが各様にといういまの到達段階だけではなく、狛プー自体が社会参加して地域や社会に対して公共的役割が果たせるようにならないか、などと勝手なことを思っていたのかもしれない。
 しかし、いま考えれば、その男子学生は、社会教育のいう「自主性の尊重」の意味をまだ生半可にしか理解できていなかったから、そして、現代社会に生きる人びとの癒しへの願望の正当性を(「私的である」という理由で!)十分には支持し得ていなかったから、そんな発言をしたのではないかと思う。いまのぼくなら彼にこう言うだろう。「いまの公民館や社会教育、青年教育というのは、しかめつらをしないでもっとのびのびと楽しみ、安らげるところになりつつあるんですよ」。
 ひとは「おうち」すなわち癒しのサンマがあるからこそ、「外の世界」すなわち社会に出かけ、また帰ってくることができる。だから、だれにだってそういう「おうち」が必要ではないか。もちろん、もしそういう居心地のよい「おうち」をつくれる環境を、いまの社会が十分に提供できているのなら、その「おうち」づくりは自分たちで勝手にやれと突き放してもいいだろう。だが、不信と孤立の現代社会の状況を考えると、そんなに楽観的なことはとうていいえない。「自分たちでやれ」と言って突き放した人自身だって、現代社会では実際には不十分な「おうち」しかもっていないはずである。「おうち」は緊急に整備が要請されているインフラストラクチャー(社会的基盤)なのである。
 逆に、むしろ社会に関わる運動こそ「自主的に」、つまり自分たちで勝手にやるべきではないか。また、行政側が、青年や市民の一人ひとりに対して、ちゃんと社会参加につながったかどうかを気にすることも、考えてみればちょっと余計なお世話だ(その気持ちはよくわかるが)。社会参加をする、しないは、ごく個人的な決断に委ねられるべき事項だからである。そんなことよりも、おのずから社会参加したくなるような元気が出る信頼と共感と自立のサンマづくりこそ、公的社会教育が責任をもって、しかも青年自身が主体となって進めていくことが、いま強く求められているのではないか。このようにして、市民と行政との協働関係を、もっと本気になって現実のものとして取り組くことが必要である。
 この世はいまだ生涯学習社会への移行期であり、学校歴偏重社会の上下競争の価値観という遺物が青年の内面に癒しがたい傷として残っている。そういういま、「おうち」としての狛プーの公的・現代的意義は大きい。なぜなら、個人の「発達と癒し」を温かく見守る、信頼と共感と自立の水平的人間交流が行われるきたるべき社会やコミュニティのあり方を、狛プーはこの世において先駆的に実現しているからである。そういう意味から、現在の狛プーが追求しているものは、まさに、公的課題であり、現代的課題であるといえる。
(参考 拙著『こ・こ・ろ生涯学習』学文社)
狛プーという新しい教育
−保護や管理より自由の恐怖を−
昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
(狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」年間講師)

 青年教育は日本では壊滅したといわれ始めたときから数年が過ぎ、いま、全国各地でちらほらとだが、青年が元気になれる「青年教育」が誕生しつつある。この新型の青年教育の全国的に有名なメッカを3つ挙げるとすれば、新潟市(社会教育課が仕掛けた青年のネットワーク)、鹿児島県(青年団協議会)、そして狛江市中央公民館のプータロー教室(狛プー)ということになるだろう。
 狛プーの最大の特色は、「一年に一回来ればメンバーだ」というゆるやかな癒しのネットワークにある。現代青年が、いま、もっとも求めているものは、自分たち一人ひとりがそれぞれの個性を発揮できる場と、そういう場を創り出すあたたかい仲間関係である。それを「支持的風土の集団」(同調できないときには同調できないと安心して言える関係!)ということもできるし、「サンマ」(心を開いて交流できる時間・空間・仲間の3つの「マ」)ということもできる。ネットワークの意味とはこれであろう。
 だが、そういうネットワークの場は、本人にとって最初はかえってつらいものになるときがある。自分の責任でその自由を行使しなければいけないからである。「去る者は追わず」「私は私、あなたはあなた」のもつ淋しさにも耐えなければならない。いままで保護されたり管理されたりしたことはあっても、自立して自由を行使するときの恐ろしさは味わったことがない。新型の教育は、そういう彼らに対して、保護や管理に明け暮れていたずらに屋上屋を重ねるのではなく、自由に恐怖したり使いこなしたりする機会を提供する場として転換されなければならない。
 この世はいまだ生涯学習社会への移行期であり、学校歴偏重社会の上下競争の価値観という遺物が青年の内面に癒しがたい傷として残っている。そういういま、狛プーの公的・現代的意義は大きい。なぜなら、信頼と共感と自立の水平的人間交流のネットワークのあり方を、狛プーはこの世において温かくかつ鋭く実現しているといえるからである。(参考 拙著『こ・こ・ろ生涯学習』学文社)
東社懇だより 巻頭言
先生という呼称をやめてみよう
 −生涯現役宣言だ!−
昭和音楽大学短期大学部助教授
 西村美東士(mito)

 ぼくは社会教育の仕事を13年やったあと、いまは大学の教員をやっている。どちらもとても楽しくやらせてもらってきたが、ときどき「先生」と呼ばれることがあって、そんなときは、うしろめたくてこそこそと逃げ出したくなる。ぼくにもやましいところがあるからだろうが、先生という言葉が減ったら、社会教育の場はもっともっと居心地のよい場になるのにと思うと残念だ。
 ぼくは東社懇のよさは、ちょっとアクが強すぎるけれども、強烈な個性の、でもこれ以上はやばいというときには少しだけ大人になれる、そういう人たちの集まりであるところにあると思っている。つまり、先生という尊敬語で呼ぶに値する立派な思想と経験を、退職した今でも生かしている人たちなのだ。
 しかし、現役時代の人のネットワークを生かして童謡のよさを現在の子どもたちに伝えようとしている先輩、高齢のいまでも演劇普及活動にのめり込んだままの先輩など、「いいなあ、この人の生き方!」と思える「生涯現役」の人間に東社懇で実際に出会ったとき、ぼくはその人を「○○先生」という白々しい「尊敬語」(それとも便利語?)では呼びたくなくなってしまうのだ。
 経験ではなく、過去の「経歴」にこだわり、「先生」と呼ばれなければ気がすまない人は、こういう社会教育の水平ネットワークを楽しむことができないのだろう。だから、「生涯現役」であるためのコツは、権威ある者とでもこだわらずにタメグチ(対等な口ぶり)をききあう「子ども心」と、さっきいったちょっとした折り合いをつけるための「大人心」なのだと思う。ついでにいうと、若い?ぼくたちの参入を無条件で歓迎してくれる東社懇の先輩たちの「親心」がぼくにはとても温かい。
 ぼくはこれからもmitoちゃんとかミトシさんとか呼ばれたいし、年下に対しても年上に対しても「○○さん」と呼びたい。そう呼び合っている方が居心地がよいからだ。
 でも、「先生」は便利な言葉でもある。ぼくも、まだ、あまり親しくないときとか、名前を忘れたときは先生と呼ぶ。また、尊敬しすぎてしまって、どうしても依存せざるをえない相手には「○○先生」としか呼べなくなる。
 ただし、あたかも人名のように、先生、先生と呼び合うのは、減らしたいものだ。いつもの笑顔で反省して、10回言っていたのを、7、8回にしよう。ぼくたちは(タメグチきいてすみません!)、何といっても、生涯、成熟途中の現役の人間にしかすぎないのだから・・・・。
体験活動はワンダーランドな社会教育
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士(mito)

 ぼくは次のように問うてみたい。社会教育って何だろうか。教育されたい人っているの? 指導されたい人っているの? この世の中、親でも教師でも、相手を教育したい人、指導したい人ばかりが目立つ。それゆえぼくには、社会教育の「教育」という言葉がどうも変に感じられたり、青少年指導者の「指導」という言葉が空々しく感じられたりする。
 在日韓国人に日本語を教えるボランティアをやっているある学生が出席ペーパー(拙著『生涯学習か・く・ろ・ん』『こ・こ・ろ生涯学習』参照、ともに学文社)に、次のように書いてきた。「時間をあせって答を教えてしまったところ、オモニ(ハングルでお母さんのこと)に『私が学びたいのです』と叱られてしまった。そこでmitoちゃん(ぼくのこと)のいう主体性の意味に思い当たりました。でも、それでは教える私の主体性はどこにあるのでしょうね」。この学生のようにちゃんと悩んで教えたり、指導したりするのならば、その教育や指導は歓迎されるのではないか。
 それにしても、そのオモニの「私が学びたいのです」という言葉こそ、社会教育の原点であり、体験活動の意義を如実に示す言葉でもある。ふと山を見てきのうまでの自分とちょっと変わるというような偶発的学習を含めて、みずからの感動、納得を伴う学習をぼくは「ワンダーランド(不思議の国)」と呼んでいる。ワンダーランドでなければ社会教育じゃない! ワンダーランドによってみずからの枠組み自体が変容するのでなければ生涯学習じゃない! 体験活動を含めてこういうワンダーランドを日々味わうことを生涯学習という。生涯学習とは、自分の人生を大切にていねいに生きることであり、社会教育もまたその一環である。あなたはこの一週間で、いくつぐらいのワンダーランドと出会っただろうか?
 つぎに、人との出会いの体験について述べたい。社会教育・生涯学習の援助においては、発達・成長だけではなく、癒し・安らぎを大切にする必要がある。「ぼくが宇宙で一人だけで生きているのなら、もっと自分らしさを守れるのに」という出席ペーパーがあった。人間存在というものの切ない否定的真実を的確に言い表した言葉だ。しかし、勤労体験学習やボランティア体験学習などには、これを上回る人間の肯定的真実がある。「あなたがいてくれてよかった」ということを伝えてもらう体験(ストローク)は、体験者にしかわからない至福のワンダーランドである。そして、これらの出会いがつぎのテーゼを確信させてくれる。
 個は他者と関わることによってより深まる。
 人によって傷ついた心は、人によってしか癒せない。
 このような自他肯定の出会いと気づきの体験が、「他者がいてくれるから、わたしはますます自分らしさを守り育てることができる」というもうひとつの真実のワンダーランドの幸せを味わわせてくれるのである。
神奈川県青少年関係調査研究報告書18
 「出会いと交流の場 −青年期の新しい地域活動のあり方」

まとめ フツーの大人のフツーの青少年育成地域活動をめざして

1 自然体の育成活動を

 自分でも書いているので、ほんとに手前味噌になってしまって恐縮だが、この本は真実に向かうすばらしいテキストになったと思う。それは、ぼくが書いた部分より、他の全体を通して、「教育とはかくあるべし」というほんとはまったく根拠のない思い込みを振り回す通常の行政資料と違って、自然体の人間が生きていくなかで出会う真実のかけらが散りばめられているからである。この本を手にしたあなたはラッキーだ!
 これは、とりわけ、編集を担当された神奈川県青少年総合研修センターの原淳二さん自身が、飄々とした自然体の人だからだと思う。こんなところに担当職員の個人名を挙げるのはどうかとも思うが、行政組織の中で個人が「自分が書いたことは自分が責任をもつ(批判を受けて立つということ)」という潔い覚悟のもとに個性をのびのびと発揮していること、そしてそういう個の自由な発揮を許す本センターのネットワーク的経営の双方に対してぼくは支持を表明したいのである。
 1章「若者・社会参加活動・地域の理解」のV「若者にとっての地域」では、「自然体で若者とともに暮らす」として、次のような青少年指導者のフツーな発想が紹介されている。
 ??私が暮らす地域を考えたときに、そこには大人がいて、子どもがいて、若い人がいてと、いろんな年代の人がいて当たり前なのに、とくに若い人の姿が目に入らなくなってしまいました。そのことをあまりみなさん考えようとしない。学校にお任せ、学校に行っていれば安心というが、学校からはみ出した子どもはどうするか。そう考えたら知らん顔はできません。??
 ??機会があれば、どの年代の人ともお付き合いしたいと思います。この年代の人とは付き合わない、付き合いたくないというのは不自然でしょ・・・・。私自身、だんだん歳をとるにつれて人生が面白くなってきたので、若い人たちにも、これから楽しいことがいっぱいあるんだよという気持ちが伝わればいいですね。??
 このようなフツー感覚が青少年育成活動に求められているのだ。本節では、「若者を対象とした行政関係の行う事業に人が集まらないのは、集団を強制されかねない匂いを感じさせてしまっているからかもしれない」とあるが、もしそういう危険な事業があるとすれば、そこにはフツーの若者が集まらなくなる現状の方が、若者たちが精神的に健康である証拠といえるのである。
 本節の締めくくりの文章は、「フツーの大人」のための青少年育成地域活動の新しいあり方を次のようにさらりと表現しきっている。
 ??一人でいたいときは一人でいればいいし、人の温もりがほしくなれば、ふれあいと交流のネットワークのなかに身をおけばいい。地域は学校や職場とは違って、フツーのオジサンやオバサンとフツーの若者とが、自然体で付き合いができうる場所である。保護や管理とは無縁な、個と個の対等な交流が可能な空間であり、そこを舞台にしたさまざまな活動が現に行われている。そんな若者と大人たちに対して、行政や各施設がシステム的に連携・対応し、若者たちにとって「出会い」「交流」「くつろぎ」「癒し」となるような活動を支援できないものだろうか。??
 人間は、自己否定の上で自己変容に向かうのではない。それなのに、今までの教育はややもすると、「生涯にわたって一瞬も怠ることなく学ぶべし、成長すべし」という無茶なことをいってきた。学ぶということは、自己変容するということであり、自己の枠組み自体が変化するというダイナミックな営みを指す。そういう学びを可能にする基盤としては、自己嫌悪や自己否定ではなく、むしろ、自分と相手のあるがままを基本的には肯定的に受け入れる自他受容の状態が必要になるのである。これが自己変容につながり、自己決定の生涯学習につながる(●図1)。文中の「フツーのオジサンやオバサンとフツーの若者とが、自然体で付き合いができうる場所」というのは、こういう気持ちのよい自然なサイクルが成立する条件を示しているといえよう。
 また、3章「出会いと交流の実践」のV「友だちとオシャベリしてますか?」(茅ヶ崎市中学生広場)では、「君たち中学生が自由に使える空間(フリースペース)として用意しています」というメッセージのもと、「来たい者だけが来る」というスタンスで中学生の自由な活動が行われている。「せっかく苦労してやっているのだから」というのは大人の立場で、「面白ければ行く、つまらなそうだったら無視する」のがごく当たり前だという。それを支えている青少年指導員は次のように述べている。
 ??学校はしばしば生徒を授業と部活で囲い込みたがり、その管理からはみ出した者は学校との接点が希薄になりがちである。そんな子たちとも接点を持ちたい。??
 ??子どもたちを理解したい、子どもたちと接点を持ちたいと思っているのは大人たちだけで、普段子どもは別に大人を理解したいとも話したいとも思っていない。それを前提に、子どもたちに何をしてやれるのかを考えている。??
 気負いのないこういう「育成活動」のなかからしか、新しい世代間共生の道は開けないと思われる。今回、育成活動がまだ生命力を発揮し続けている少年対象事業ではなく、「青年期の新しい地域活動のあり方」にテーマを絞ったこともかえって幸いしているのかもしれない。
 なお、ここで何が「フツー」なのかについて予告しておきたい。学校に行きたくなくなるときもある。人生の無常を感じて自殺したくなるときもある。退屈な日常生活のなかで、つい、はめを外し、それを自己抑圧しようとしてある種の依存症になることさえある。それがフツーなのであって、「頑張らなくてはいけない」、「人並みでなくてはならない」、そして「つねに健全でなくてはならない」という方が、よく考えてみるとフツーではないということに気づくのである。
 つまり、ここでいうフツーとは、自然体の人間の姿であり、ときにはエゴイスティックで、そのくせ弱い、危なっかしい状態である。それから、もうひとつ・・・・。「ちょっとヘン」ぐらいがちょうどフツーぐらいである。この現代においてヘンじゃない人、つまり画一化された人間像で生きている人がいるとしたら、気持ち悪い。ぼくは、そんな人はほんとうはいないと思う。いるとしたら、その人は周りに無理して合わせているだけなのであって、内心まで穏やかに過ごしているわけがないと思う。

2 地域と人間の真実に出会う

 狛プーにはぼくも毎週木曜日楽しみに関わっているのだが、そこでの話しを一つ。ある青年が、開講して半年ぐらいしてから、半年前のお誘いのチラシを持ってやってきた。そのチラシを見ると、ちょっと大袈裟だがぼろぼろになっている。来ても来なくてもどっちでもよかったから無視していた、というのではないことが一目瞭然だった。あるいは、狛プーに来始めて1年ぐらいたった青年が、「mitoさん、じつはぼくはこういうふうに参加する前、公民館の玄関まで来てやっぱり帰ってしまうということを何回も繰り返していたんですよ」という。
 これを「山アラシジレンマ」という。近づきたいけど、近づくと、その棘で相手を傷つけ、自分が傷つけられる恐れがあるのだ。この恐れをぼくは人間関係の深い真実として認めたい。「そんなに臆病なことではだめじゃないか、恐れを知らずにチャレンジしなさい」などという無責任なことをいう気にはなれない。いままで、「だれとでも仲良くなりなさい」、「みんなに心を開きなさい」、しかも「人に迷惑をかけないような人になりなさい」などと、あまりにも無茶なことをセットにして要請され続けてきたものだから、かえって、そのアドバイスとは矛盾する人間関係の真実の方を嗅ぎ取ってしまって、恐れおののいてこじんまりと生きていると思われるのである。大人は、そして地域は、空しい言葉を青少年に繰り返すのではなく、もっと自然体のわれ(我)の内側から発する真実の言葉をぶつけるようにしたらどうか。
 健全とは「ものごとに欠陥やかたよりがないこと」だという。そんな馬鹿馬鹿しいことをめざすよりは、山アラシジレンマのなかで生きる現代人の姿などの、人間の真実の姿に出会っていくことの方がよっぽどおもしろいし感動的だ。
 1章「若者・社会参加活動・地域の理解」のT「大人になること」では、「大人になる気構え」自体がこんな世の中でそう簡単には健康的、肯定的に育まれるはずがないということを、調査データも数多く示しながら、次のような例を挙げて訴えている。
 ??グループのもつ厳しい閉鎖性を実感している中学生には、グループに分かれてワイワイやって昼食を食べているクラスは「あまり仲がよくない」と見える。??
 ??彼らにとって「自分らしく生きる」ためには、意識的に接する世間を狭くして、同質の仲間とぬくぬく暮らすことしかない。??
 個が自己抑圧され、管理下におかれる現代社会においては、同僚同士で飲み屋で上司への不満をくどくどと言い合って鬱憤を晴らす大人と同じような習性を、子どものうちから身につけなければならないのだろう。それは、それなりに、組織や社会から個を自己防衛するための、悲しい、一定の側面での真実の姿というべきだ。だから、「グループに分かれてワイワイ昼食を食べる」などの大人好みの「仲良しの子どもたちの姿」については、もしかしたら、「仲がよくない」という彼の見方の方が真実なのかもしれない。
 「大人になる気構え」どころか、「加齢したら社会に出なければならない」という「あきらめ」こそを、じつは、これまでの社会は目に見えないところで青少年に要請し続けてきたのではないか。その真実を本能的に敏感に察知しているからこそ、進歩のない同質集団に逃げ込み、「気構え」というより「諦観」というべき、それなりに高尚な人生哲学(彼らがそれを潔く受け入れていればの話だが)を体得してきてしまったのではないか。ヒエラルキー、ピア、ネットワークの三者を比較して図示しておきたい(●図2)。
 本節は次のように続く。
 ??地域や地域社会という言葉にコミュニティを感じ、それが好ましいとイメージするが、それは必ずしも現実の生活感覚のなかから出てきたものではない。??
 ??ことさらに地域生活を必要な者として意識しないでもすむ若者にとっては、今の時点は地域生活を営むための準備期間と考えるべきで、大人にとって日常生活圏たる地域をもって若者の地域概念とすることには無理があろう。??
 ぼくは思う。たしかに、「日常生活圏たる地域」という雑多な事実の集合体が生み出すものは、「好ましい」と一面的に評価できるような代物ではない。エゴであったり、助平であったりする。しかし、だからこそ「日常生活圏たる地域」は真実の姿が渦巻く興味深い世界であるとして受容する以外に、大人も若者も、地域に生きようとする生産的な「気構え」をみずからの内側に育めるはずがない。
 そして、もう一方で、現実の生活感覚から遊離したところから若者が発想する「コミュニティ」も、また、人間という存在の真実が求めているこれからの地域のあり方を示しているといえよう。しかし、そのための地域変革も、やはり、地域がアンビバレンツ(両面価値)な真実を有することを若者たちが受容するところから始まるのである。
 このように、地域と人間の真実に出会うためには、ひとつの大きなコツがある。それは、「完璧であろうとするのではなく、いい加減であれ」である。いい加減はよい加減なのである。

3 対象から主体へ、対策よりも支援を

 2章「新しい共同性と地域活動のあり方」のT「都市青年の抱える諸問題」(芳賀学)では、現代青年の「自分らしさ」重視、私生活主義の深まりが指摘された後、「現代において個人が確実に制御できるものは、自己の努力しかない」という努力至上主義、「傷ついた自己を明かしあい癒しあうやさしさ」から「お互いを傷つけあわないようにするやさしさ」への変化、そのために意見を他人事やフィクションのように語る「和」のコミュニケーション・スタイルなどの努力が悲しく積み重ねられていく様子がまざまざと示されている。芳賀は、「自分らしさとは、自由に書き込みができるがゆえに、何物にも確定しがたい空白」として、現代青年の「自分らしさ」重視のライフスタイルが内包するパラドクスを衝いている。
 さらに、芳賀は、深いコミュニケーションに付随する「不自由=しがらみ」から解放された、コンサート会場、サッカー場、ディスコ、電話風俗、パソコン通信などの、「親密さと自由を同時に感じさせる場」の現代的意義を説く。そして、商業ベースのそれらの欠陥を乗り越えるものとして、現代青年のアイデンティティを支える地域の役割に期待しつつも、次のようにその課題を述べている。
 ??青年たちの結節点を形成しうる、魅力を持ちかつ熱心なリーダーたちがどれだけ地域に存在するのか。もし、存在したとして、行政は、果たして彼/彼女らの活動内容に大きく踏み込むことなく、箱(会場)の提供を中心とする環境整備にどれだけ尽力できるのか。これを考えただけでも、この可能性を実現していくには、多大なマンパワーとそれを支える意欲が必要不可欠なことは間違いないといえる。??
 同章のU「青少年の新しい共同性」(藤井東)では、いまの子どもたちの「本質的な意味での自分自身と遊ぶことの怯え」の心情を指摘し、次のように述べている。
 ??いま子どもたちのあいだに「みんな一緒に」とか、「みんな仲良く」ということが繰り返し教育され、一種の強迫観念のように浸透しています。一人でいることの不安を形成している背景のひとつに、一人遊びの段階の消滅と物との遊びがあるといえそうです。それゆえに、「自分が自分と対話する」という個の確立の契機が希薄になっているともいえます。さらに、学校教育に象徴される均質的、画一的な集団性優先の思考が強制されますから、集団に「合わせる」身体をいかに形成するかという緊張が子どもたちに負荷されているのではないでしょうか。??
 さらに、藤井は、地域社会も「大人と商品設備の介入なしに成立するのは不可能に近い」ものになり、学校と同じような指導や集団性の雰囲気を感じさせるという「地域社会の学校化」の実態を鋭く批判している。こういうなかで、「消費感覚が身体化された現在の子どもたちの個別的な感受性」と、「依然として集団的、均質的、画一的な空間としての学校的な感受性」とのずれが日々生成されているとし、こうした「学校・地域・家庭に張り巡らされた大人の視線や教育的視線」を無化する子どもたちのインターネット的な「群れ遊び」といえるスタイルの新しい共同性を次のように評価している。
 ??集団的身体から個別的身体へ、と志向している若い人たちの意志は、共同体(集団性)からの自立、個の確立にある。個として自閉せずに、個の独自性は維持しつつ、未知の他者、共同性へと自己を開いてゆこうとしています。そのため自尊感情が育まれています。このような身体を「遊泳する身体」とぼくはよんでいます。??
 このような観点から、藤井は彼らが自由に活動できる場・空間の創設を提唱し、また、コミュニケーション革命下の今日、不確かなスタイルのように見える「やわらかな関係性と個別性を核にした若い人たちの新しい共同性」を、「未知な時代の多様な生き方を肯定する」共生への新たな段階としてとらえている。
 ぼくは思う。いま、時代が青少年育成に求めていることは、すでに自分の足で歩き始めている青少年の歩く方向を変えることより、「頑張らなくてはいけない」と思い込みすぎているがゆえに自分の足で歩けていない青少年に対して、初めの一歩を励ますことなのではないか。しかも、「頑張れ」ではなく、「気楽に(Take it easy!)」「ドーンと大きく踏み出すことが勇気ではないんだよ」と言って・・・・。これが支援の方向であろう。
 もうひとつは、とくに中学生以降の青年に対しては、ヤングアダルト(若いけど、もう大人)としてとらえることである。図書館のヤングアダルトサービスでは、青年の読書ニーズに対して、保護・管理の対象ではなく、知的権利主体の権利として尊重する。青少年育成活動においても、学歴偏重社会のせいで中学生以降の参加が少ないと嘆いてばかりいるのではなく、権利主体として認めることによって彼らの主体性の獲得を支援する必要があるのではないか。「今の青年にそんな主体性を期待しても裏切られるだけだよ」というあなた、あなたの今の主体性だってどこかで認められる場、発揮できる場に巡り合ったからこそ今のようにまで育まれてきたのである。
 青年を育成の対象としてではなく、自己成長の主体としてとらえなおすべきであろう。

4 不幸せな現代社会と大人たち

 1章「若者・社会参加活動・地域の理解」のU「若者にとっての社会参加」では、従来の主要な青少年社会参加施策のポイントも押さえながら、「過去と相手」のせいにすることによってリスクを背負う種類の自発的行動、たとえば、主体的社会参加から逃げようとする若者の敗北主義を、大人のみずからの痛みも交えつつ、次のように指摘している。
 ??どんな大人も(引用者注=つまり「フツーの大人」だったら)、経験的に知識の量なんて、長い人生を送っていくうえでさして役に立たないことを知ってはいるが、とりあえず自分の子どもが「みんな」に後れをとってはいけない、頭一歩抜きんでたいという潜在的強迫観がこの流れを生み出す。??
 ??若者だけが社会に主体的にコミットする機会に恵まれていないのではなく、子育て真っ最中のヤンママ(引用者注=ここではたんに若い母親のことか)だって、会社勤めのオジサンだって、家や職場を除けば、そのネットワークは意外に乏しい。??
 そんな大人である私たちだが、次のように若者に期待するという。
 ??日常の淀みに浮かび、責任を取ることを忘れた大人たちが、若者にこんなことを期待するのも、若者にとっては迷惑な話だろう。だけれど、大人は若者とともに生きざるを得ないのである。??
 若者にとっての社会参加、地域活動の疎外状況は、現代社会の不幸に通ずるものである。あるいは、むしろ、その状況は、現代社会全体のおもに大人たちの不幸の反映にすぎないととらえるべきであろう。
 そういう状況のなかで、育成活動に携わる大人たちなどは、世にもまれな自己実現と社会的承認と幸福追求の恵まれた機会を与えられた(みずから獲得した)人たちだ。
 3章「出会いと交流の実践」のW「ねいちゃるど活動報告書」(斎藤裕子)では、「自然を愛し、子どもとのふれあいを大切にする」活動のなかで、メンバーがどのように自己成長してきたかがよく表れている。
 ??参加した子どもたちは、私たちに体ごとぶつかってくる。それを受け止められない自分たちにいらだったり、子どもたちの笑顔に安心したり、帰りがけにお父さんやお母さんに「来年も来ますよ」と言われワクワクしたりと、キャンプ中の私たちの心中はクルクルとよく変化していた。??
 斎藤は「いろいろな人間が集まった私たちのサークルは、いろいろな方面に長けた人の集まりでもある」と書いているが、まさにその通りなのだろう。保健衛生に関しては現職の看護婦や助産婦、若く活力あるエネルギーは学生たち、たまねぎ染めや鉄砲づくりなどを得意とする人・・・・。斎藤は次のように願っている。
 ??みんな、いろんな事情があるのだから、動ける人が動けるときに活動すればいい。来られなかったといって何か後ろめたさを感じさせないアットホームな雰囲気づくりを大切にしていきたい。??
 ここでも、フツーの人たちの自然体の育成活動の楽しさと居心地のよさがいかんなく示されている。

6 フツーの大人たちも幸せになれる育成活動

 2章「新しい共同性と地域活動のあり方」のW「研究ノート 青年の地域活動とグループワーク」(菊池裕生)では、「同じ境遇に悩む仲間を獲得し、なんらかの癒しを感じると同時に、様々な集団に帰属する自信を深めていく」グループワークの意義を紹介し、青年の地域活動においては、ワーカーは専門的な訓練を受けた者でなくてもよいとして、次のように見解を述べている。
 ??もちろん、既述のグループワークやワーカーの条件をめぐる最低限の知識は必要だが、あくまでワーカーは会の援助者であり、メンバーであることが自覚されていればよい。ワーカーもメンバーとともに成長していけばよいのである。??
 そして、このようにして進められるグループワークの場は、阪神大震災におけるボランティア活動と同様、「自ら考え、人とふれあえる場」として、「とりわけ現代の青年層にも欠けているがゆえに重要である」としている。
 菊地は、グループワークに専門性が必要であることを力説することによって、それがごく限られた場で行われるようになることよりも、地域のフツーの大人たちも「ともに成長していく」という姿勢でフツーに幅広くユースワークやグループワークを味わうよう望んでいるのだとぼくは思う。
 さて、このようなフツーの大人たちも幸せになれる育成活動を実現するためには、どうしたらよいのだろうか。
 よく「あなたは、なぜ、生涯学習活動をしないのか」「ボランティア活動をしないのか」という調査が行われるが、必ず「関心はあるけれども、時間がない」という答が圧倒的に返ってくる。だから、そんなことを聞いても面白くもなんともない。
 ここで大切なのは、育成活動を含むそれらの活動が、ややもすると「暇つぶし」に近い感覚でとらえられていることである。「そりゃあ、暇のある人はやればいいでしょう。でも、わたし(=フツーの人)にはもっと差し迫ったことがあるので・・・・」という奴隷の習性なり、あきらめのようなものなりがあるのではないか。そうすると、そういうフツーの人たちは、たとえ、育成活動の役員などになる機会があっても、「わたしも我慢して役員を1年やってきたんだから、今度はあなたがやる番よ」という「不幸の手紙」(「この手紙を次の人に書かないと、書かない人は不幸になります」といういたずら)の状態に陥ることになる。この育成活動における不幸の手紙状況を打破し、フツーの大人たちが活動のなかで幸せを手にするためのポイントは何なのか。
 3章「出会いと交流の実践」のU「児童文化教室」(松本光世)では、「こども心をヒントに、五感をつかって、あそび心を刺激してみませんか? 意外なおもしろさや楽しくオトナする道が見えてくるかも・・・・」というキャッチフレーズで事業が行われている。
 この「こども心」が、地域の中で大人も青年も幸せになるためのキーワードであろう。交流分析でいうと、「こども心」には2つあって、1つは、AC(アダプティッド・チャイルド)で目上の者や権威ある者に従う「適応しようとする子ども心」で、いわば「いい子ちゃん」の心である。2つめはFC(フリー・チャイルド)でちょっとわがままだけれど好奇心にあふれた「自由な子ども心」で、いわば「野生児」の心である。もちろん、「児童文化教室」で青年たちが取り戻しつつあるのは後者のFCの心だろう。
 本節には、この「FC=自由なこども心」を発揮するコツが満ちあふれている。この本の読者はほんとうに幸運である。いくつか、きらきらぼくに輝きかけてくる言葉を拾ってみよう。
 ??こどもの視点とおとなの視点の“それぞれのよさ”をほどよく混ぜ合わせ、あそび心を加えて、こどももおとなも楽しむもの。??
 ??参加の若者たちの反応が刺激となって、また次々と新しい遊びのヒントを思いつくことができるので、まだまだ当分の間、ネタが尽きることはなさそうです。??
 ??ひとりひとり、テーマも画材も描き方も、金子みす●さんの詞のように、「みんなちがってみんないい」という感じでした。??
 ??ここでの私はウソをついていない気がした(メンバーの感想)??
 ??実際につきあっているのは数字でなく、ひとりひとりの若者です。ひとりひとりが、いろいろな事情を抱えています。??
 ??いろんな事情を乗り越えて、何回に1回でも来るなんて、物好きで、非合理的で、ちょっと変。そこがなかなか魅力的な若者たちです。??
 ??ここに来ている一見ちょっと変かもしれない若者たちは、実は、“ホントにいいおとな”になる素質がおおいにあるのではないか、と、密かに楽しみにしています。??
 ??(小学生の教室に若者を誘うとき)「ちょっと大きいお兄さん・お姉さんっていう感じで、ふらっと遊びに来てみれば?」というのですが、とても自然ないい感じの関係でつきあっているようです。??
 ??(「日曜児童文化講座」は)“若者からおとなまで”というのがねらいで、お互いに、親子・師弟・上司と部下・・・・という関係でない、若者と大人が横並びでつきあう機会。??
 現代社会でも自由な子ども心さえ失わなければ、ここまで「人間っていいな」と思えるような癒しのサンマ(時間・空間・仲間)がつくれるものなのだ。さらに、松本は、地域のよさについて次のように表現している。
 ??家庭のように、よくもわるくも感情に左右されやすい濃密な関係ではなく、かといって、学校や職場のように、成績や賃金など何らかの数値で評価されるクールな関係でもない、その中間的な関係のもてる場所??
 ??必要に応じて、適度な距離をとることができ、快適な温度を保つことができて、その上、ちょっとした刺激と安らぎがあって、望むだけの自由と関わりがある所??
 そして、地域で若者とつきあう大人の役割としては、「自分がおもしろいと思ったことや、魅力あると思った人を、若者に紹介し続けること」として、「おとなは、けっして完成してしまったり、完成したふりをせず、失敗したり戸惑ったりしながら、しかも楽しく生き続けること」と述べている。
 「こども心」を回復するコツをちょっとおわかりいただけただろうか(ぼく自身は苦手なので松本さんに習いたいのだが・・・・)。
 そのほかに、次のように、地域の育成活動のなかに、外からの風として、若者ボランティアの開放的な刺激を吹き込ませるというのもなかなか魅力的な手である。
 3章「出会いと交流の実践」のX「いい汗かいてみない?」(横浜市都筑区キッズ・パーティ)は、親たちの「自分さがし」の場でもある。
 ??実行委員のお母さんやボランティアは、家では主婦であり、学生、会社員であるので、都合のつく日に無理なく活動している。そこでは、子どもの居場所づくりとともに、親のたまり場としての役割も果たしており、子育ての悩みを話し合ったり、アドバイスを受けたり、元気をもらったりする場所でもあり、教育相談も受けられる。??
 ??母親と子どもを中心とした活動に若いボランティアが加わると、小中学生らは「お兄さん・お姉さん」感覚で異年齢の人間と自然体で接することができる。また、若者が子どもを知る機会になるとともに、学校や職場とは異なった人とも交わりを持つことができ、さらに母親にしても普段話をする機会がまれな若者と知り合うことができる。大人・若者・子どもの三者にとって好都合なのである。??
 ??若者が加わることで、母親にとっても子どもにとっても活動に広がりが生まれる。親同士の内輪の閉鎖的ムードに陥ることなく、開放された社会性を持つことができる。??

7 フツーだからこそ、ワガママだからこその、自立の地域活動

 1章「若者・社会参加活動・地域の理解」のV「若者にとっての地域」では、地域を「出会いと交流のステージ」にしようと呼びかけている。そこで、一つ、問題として挙げられているのが、若者のワガママにどう対処するかということである。
 ??移動性の高い若者にとって、地域とは、居住空間というよりはむしろ出会いと交流を通じた成人への巣立ちの場であり、彼らや彼らの活動を受け入れ、見守るのが、地域に根を生やした大人の役割となる。??
 だから、「彼らはここの住人じゃないからオレは知らないと拒むことは、その地域にとってもマイナス」というのである。そして、次のようなある青少年施設職員の言葉を紹介している。
 ??昔は冷房があるだけでも若者が魅力を感じた青少年会館でしたが、今では時代遅れになっています・・・・。現在、彼らの活動を保障してやれるような青少年施設ではないことだけは確かです。ロックバンドなんかは、この象徴的なことだと思います。若者の活動領域が広がっているにも関わらず、そのような活動への対応は必要ないと考えていました。若者のわがままかもしれませんが、そのわがままを聞く耳を持たなかったために、若者一般が離れていってしまったのだと思います。??
 しかし、論は次のように進められている。
 ??わがままといっても、若者の狭い範囲にのみ通用するわがままを、大人が聞く必要はまったくない。世の中を甘く見て、社会をなめきった言動に対しては、それがもたらす結果を周知させることが必要であり、その先の、それから生じる責任は本人に取らせればよいのである。それが「自由と責任」の社会である。だが、若者が自己を表現しようとし、社会に働きかけようとする意識や行動は、身勝手な世間知らずのわがままとして抑圧してはならない。??
 揚げ足を取るようだが、ぼくはこういうことだと思う。大人は、若者のわがままだと思うことでも、誠心誠意聞いてやる必要がある。これを共感的理解のための「傾聴」ということができる。ただし、若者の気持ちは受け入れてあげても、わがままな要望までそのまま受け入れてやる必要はない。(大人との交渉に慣れている青年活動家の一部を除いて)フツーの若者だったら、しかも自分の意見をよく聞いてもらったうえでだったら、そんなことで文句をいうはずがないと思う。傾聴したうえであるのなら、わがままについてはわがままだとさわやかに批判してもよいのである。
 若者のわがままの本質をもっと突き詰めていくと、これは、大人も含めた個人と、他者、組織、社会との真実の関係に行き当たるはずだ。ぼくは、わがままには、いいわがままと悪いわがままの2つがあると考えている。いいわがままとは、「自分は自分の思うように生きたい。相手の期待に沿うために自分を曲げたくない」というものであり、悪いわがままとは、「相手が自分の思うように生きてほしい。自分の期待に沿って相手が自分に合わせてほしい」というものである。自立した人間同士のさわやかな関係とは、いいわがままがぶつかりあって、折り合いをつけていく関係をいうのだと思う。わがままじゃないことがフツーなのではなくて、いいわがままなら認めてほしいというのがフツーなのだ。
 3章「出会いと交流の実践」のT「インタビュー ボランティア活動と若者たち」では、木村好親さんが、自分にとってのボランティア活動の魅力についてインタビューに答えたうえで、次のように発言している。
 ??ボランティア活動は、自分がやりたいからやっている、楽しいからやっているという感じです。ほかに楽しいことがある人はそれをやればいいでしょう。だけども、ボランティア活動は、仲間ができて楽しいですよ」。??
 「自分がやりたいからやっている」というのは、なんとフツーで、なんとさわやかなわがままさであろう。生涯学習やボランティア活動は、自己決定が生命だが、それはこのような潔さ、さわやかさにつながっているのである。
 同章のY「スペースPOOH」」(吉浜暢恭)では、狛プー(狛江プータロー教室)のプログラムが、毎週木曜日、参加メンバーで話し合って、数珠つなぎ状態で展開されていることが示されている。二次会、番外編、チラシ、活動記録などのそれぞれが、それぞれのメンバーにとって、それぞれの意味を持っているのだ。
 吉浜は、狛プーという「自分を写し出す鏡」のなかで、「自分から話しかけないくせに、相手から話しかけてもらいたい私。猜疑心が強く、すぐヘソを曲げる私」と自己への気づきを深め、「ココロをジャブジャブ」洗っていく。そして、「いまどき青年教室なんて開講したって、若いやつが来るわけないよ」という青年事業担当職員に対して、次のように胸を張るまでに至っている。「そんなことはありません。20代の若者が新・新宗教やマルチ商法に集まってくるのはどうしてなのでしょうか」。
いま、現代社会は、画一的物差しで人が上下に競争する学歴偏重社会を乗り越えて、違いを認め合いつつ水平に交流する支持的風土の生涯学習社会に転換しようとしている。この転換に失敗すれば、あとは日本の将来は暗いであろう。成功すれば、本来人間が潜在的にはもっていると思われる共感、信頼、自立の共生能力をおおいに発揮させ、その好循環を可能にしてくれるはずだ(●図3)。そのような大切な課題(現代的課題とよぶ)を先取りして展望を示しうる場のひとつとして期待できるのが、青年期の地域活動である。この活動が、フツーの大人を巻き込みながら、若者も大人も自然体の地域でともに幸せになれるよう、ごく当たり前に育成活動を進めていきたいものだ。


図1 自他受容、自己変容、自己決定










図2 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ

ヒエラルキーの側面図   ピアの平面図 ネットワークの平面図
    ○ ○ ○
○ ○ ○ ○
● ● ●
○ ○ ○ ○
○ ○ ○ ○ ○

  (個の抑圧)   (個の規制)   (個の発揮)


図3 共感→信頼→自立→共生の好循環




ジャンル別ブックガイド 青少年編
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士(mito)

私のすすめるベスト10
1 「青年期の教育」 宮原誠一 岩波新書 (絶版) 03−5210−4000
2 「現代の青少年−自立とネットワークの技法」 柴野昌山 学文社 1854円 03−3715−1501
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9 「メディア革命と青年」 高橋勇悦他 恒星社厚生閣 1751円 03−3359−7371
10 「都市青年の意識と行動」 高橋勇悦他 恒星社厚生閣 6695円 03−3359−7371
11 「こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−」 西村美東士 学文社 2000円 03−3715−1501
12 「生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−」 西村美東士 学文社 2000円 03−3715−1501

キャッチ 40字
1件 16字*32行*3段=1536字=40字*38行

「生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−」 西村美東士 学文社

メディア革命の時代だからこそ青少年と「個の深み」のワンダーランドを遊ぶ

 ほかの人のすぐれた文献が多くあるなかで、拙い自著を臆面もなくひとさまに紹介するのはあまりにも厚かましいとは思うが、一人でも多くの人にお読みいただき、また、批評という水平のストローク(存在確認のやりとり)をもらいたいというわがままから、ここでは『か・く・ろ・ん』と『こ・こ・ろ』の2つの拙著を紹介させていただく。
 まず、『か・く・ろ・ん』についてだが、日本教育新聞(91年7月)ではつぎのように評論された。
 −−青少年教育やパソコン通信での第一人者として長い間社会教育の世界にいた著者が、昨年、大学の教員になりこの本を書いた。第1部では大学や社会教育での講義型学習、第2部ではパソコン・ネットワークと青年、第3部では子どもたちの団体活動、などについて説明している。これらはすべて著者が体験した中からの生涯学習各論である。各論をつらぬいているのは、これからの生涯学習では人のつながりがネットワーク型であること、また、個人の主体性があくまでも尊重されることという著者の観点である。ここからは生涯学習はワクワクする、自由な、おもしろいものだというメッセージが伝わってくる。中身は相当重要な問いかけをしているにもかかわらず、教師一年目で悪戦苦闘している著者の授業風景のコラムなど”遊び”が随所にあるのがうれしい。−−
 第2部「現代都市青年と情報」に関しては、中央青少年団体連絡協議会機関誌「なかまたち」(89年12月)において、茨城大学教授菊池龍三郎からつぎのように評論された。
 −−氏は若者に必要な情報とはどんな情報かという問題について興味ある問題提起を行っている。・・・・そうした新しい情報とチャンネルは多分彼らと地域との関係をひっくり返し、地域を彼らにとっての人間形成空間につくり変えるに役立つと思われる。−−
 同「パソコン・パソコン通信と青年」に関しては、金子書房「青年心理」(90年1月)において、大阪大学教授井上俊からつぎのように評論された。
 −−パソコン通信のネットワークのなかに「自立」と「依存」の統合の可能性を見出し、そこからさらに「知」と「集団」の新しいあり方、新しい情報文化の可能性を遠望したもので、文章と議論の運びには生彩があり、楽しく説得されてしまう。−−
 また、第3部第1章「子どもたちの団体活動−そこに秘められている大いなる教育力−」では、つぎのような認識のもと、「子どもにだって『個の深み』がある」と主張している。
 −−団体が子どもたちに伝えたいことをもっているということは、少年団体活動が教育的意義をもつための基本的条件にはなるが、それを子どもたちにお説教するだけなら、そんなものは何回繰り返しても本当の教育にはならない。子ども自身が自分でワクワクしてこそ、子どもは確かな成長をするのである。教育的センスさえあれば、少年団体活動は、そういう「ワクワク」を与えるワンダーランド(不思議の国)の局面を本質的にたくさんもっている。−−
 「個の深み」への関心こそが、「個性重視」の合い言葉を超えた、もっと刺激的でしみじみとした出会いをわたしたちが味わうための鍵であると本書はたびたび繰り返し述べているのである。本書はいう。
 −−率直に言って、一人ひとりの「個の深み」は現在の組織運営にはむしろ邪魔にさえなりかねない。だが、やっかいだけれどもそれとつきあっていく覚悟を決めなければならない。「個の深み」は、本人の目先の利益には役立つかどうかもわからない。だが、それを支援するのは今後の社会への教育の責任である。−−


「こ・こ・ろ生涯学習 −いばりたい人、いりません−」 西村美東士 学文社

保護や管理ではなく自由への恐怖を与えよ、若者はその恐怖を受容して楽しみに転化せよ

 −−飲食や入退室がオールフリーの教室で、学生のこころをえぐる時間・空間が展開される。そして、教育と学習の双方向のやりとりのなかで、幸福追求の人生や学習から逃げ出そうとする私たち現代人の敗北主義があらわにされていく。−−
 いま思うと、本書の袖のこの文章は少々過激で宙に浮いている感もある。だが、日本教育新聞(94年2月)は次のように評論してくれた。
 −−本書は、『生涯学習か・く・ろ・ん』に続く、著者第二弾の生涯学習論である。とにかく、ユニークな本である。「なんで生きてるの?」「時間/空間/仲間というサンマ」「フリーチャイルド」「自分さがし」「さわやかな自己主張」「共感/ストローク/エンカウンター」「自由への恐怖」。これらは、表紙に踊るキーワードである。豊かな感性としたたかな自己主張を感じさせる。ところで、本書の特徴は、自分が担当する大学での授業風景を、学生に課す「出席ペーパー」なるものを通じて赤裸々に紹介していることである。本論とそれとの二重進行が、読み手の興味を一層そそるものとなっている。「個の深まり」としての学習の復権(主体性の回復)を、受験学習との対決の中で、自ら実践しようとする著者の姿勢が垣間見られる。本書は、新しい大学教育の実践を、教官と学生の双方向の学習交流として位置づけ、受験体制下で呻吟している現代若者に対して送る「私的メッセージ」という感が強い。一つの、大学教育の変革者と映る。(堂本彰夫)−−
 本書の最終章もことさらに過激である。そのメッセージは「若者に保護や管理ではなく自由への恐怖を与えよ」である。学習者の立場からいえば、「みずからの主体性のなさを他人や社会の保護や管理が至らなかったせいにするのではなく、自由の恐怖を受容して楽しみに転化せよ」ということになる。実際のユースワークや講義、授業では「何でもアリで、楽しく面白く」が筆者のモットーなのだが、青少年活動において何かにつまづいたとき、指導者自身の思考方法においては、この「保護や管理を与えるのではない」にもどる必要があると本書では説いているのである。ただし、それを可能にする条件としては、本書の副題のとおり、「いばりたい人、いりません」ということになろう。
 この最終章では、コミュニケーションを心の底では求めながらも、それによって傷つきたくないとおののいている若者たちのこころを受容的に受けとめたうえで、しかしながら、軽やかな無内容の「双方向の一方通行」ともいうべき彼らの「おしゃべり症候群」には強く異議を唱えて、つぎのように提唱している。
 −−どんなストロークも自分の判断で出せるという自由の場に彼らを引きずりこんでこそ、自分がストロークを本当は求めながらも、それを出すことによって傷つくことを恐怖している、という自分に気づくだろう。・・・・このように誰のせいにもできない状況では、その人のすべてのストローク発信をその人の責任にすることができる。そこでどうするか、ということこそが、本来の現実原則の学習につながる。自由への恐怖を味わうことなしには、何も始まらないのである。−−
 指導者が(わたしが世話をして青少年が恐怖しないように守ってあげないと)「何も始まらない」と思い込んでいる限り、青少年が自由を使って自己とは異なる枠組みをもつ他者やものごとと出会う力の獲得は「何も始まらない」というべきだろう。
 なお、第2部「こころを開く態度変容の学習」では、その方法論、実践論が、第3部「主体的学習へのいざない方」では、とくに「学習相談」の傾聴・共感の技術が書かれている。
生涯学習時代における公運審の役割と課題

〜異質が水平に交流する出会いと気づきの公民館活動・委員活動をめざして〜

西村美東士
(昭和音楽大学短期大学部助教授)
〒243 神奈川県厚木市関口808
TEL 0462(45)1055

1 利用者、委員、職員それぞれの主体性による協働
(1) トップ・ダウン論からの脱却を
 公民館運営審議会(公運審)は社会教育法第29条によると「館長の諮問に応じ、公民館における各種の事業の企画実施につき調査審議するもの」とされている。しかし、実際の委員活動においては「調査審議」をするだけというわけにはいかないだろう。「調査審議」を中心としながらもそれをとおして、公民館活動に幅広く関わり、よきリーダーシップを発揮することが求められる。そのときの問題は、何をすることが公運審委員のリーダーシップなのかということである。
 いうまでもなく、公民館は学習者の主体的な活動によって成立するところである。万一、公運審の活動がそれを阻害するようなものであるのならば、それはリーダーシップとはいえない。ところが、そういう本末転倒な状況もあながちないとはいえないのである。たとえば、「わが町の住民は学習欲求水準が低いから、公運審委員等の高い見識による啓発が期待される」などというトップ・ダウン(上から下へ)の考え方が会議の席上で堂々と披露されたりしている。学習欲求水準が低いということは、自らが生きるということに関心がないということである。いったい、どこにそんな住民がいるのか。そんなことをいう余裕があるのなら、その前に、住民のリアルな学習欲求に気づかない自分のアンテナのお粗末さを恥じたらどうか。住民の潜在的学習欲求を顕在化できない公民館活動の貧困をどうにかしたいと思ったらどうか。
(2) ワン・オブ・ゼム論からの脱却を
 上のトップ・ダウン論の裏返しが「ワン・オブ・ゼム(彼らのうちの一人)論」である。「自分たち委員だって住民の一人でしかない」という言葉は、一見、謙虚で民主的なことのように感じられる。たしかに「私は住民の一人である」というのはごく当たり前のことなのだが、それでは、どんな姿勢で公運審活動に臨むのか。そこには、「自分は住民の一人であるのだから、意識せずとも住民の意見を代表できる」という安易な姿勢や、場合によっては「自分は住民の代表であるのだから、自分に反対する者は住民の敵である」という傲慢な姿勢が隠されていないか。住民は「自らが学びたいことを学びたい手段で学ぶ」という生涯学習主体であるが、「ワン・オブ・ゼム論」はそれとは異質な委員としての自らの立場を忘れている、あるいはそこから逃げ出している(この場合は、「よきリーダーシップなんかありえない」という敗北主義)といわざるをえない。
 蛇足になるが、職員にさえそういう人がいるのだから驚いてしまう。そんな人は、さっさと辞表を出して、言葉どおり住民の一員として自主的活動を行えばよいのだ。職員や委員は、住民と水平に、しかし、異質を交流しあうべきであって、「ワン・オブ・ゼム論」で住民と同一化してしまうのでは非民主的である。そもそも、住民にだってただの「ワン・オブ・ゼム」はいない。みんな、個性をもった別個の存在のはずである。「ワン・オブ・ゼム論」は、「みんな同じ考え方と意見をもつ仲間だ」というぼくたちが陥りがちな現実逃避の妄想にすぎないのかもしれない。
(3) 公運審と利用者、職員との協働
 トップ・ダウン論とワン・オブ・ゼム論の双方からの脱却のためには、次のヘッドシップとリーダーシップとの違いがヒントになる。--ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」であり、リーダーシップとは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」である。(見田宗介他『社会学事典』弘文堂)--。ゆえにリーダーシップは流動的で柔軟なものであり、トップ・ダウンでもワン・オブ・ゼムでもなく、住民が自発的に支持を寄せることによって成立する、異質どうしが水平に交流するネットワークの関係であるといえる。
 このネットワーク型の関係を「協働」と言い換えることができる。神奈川県生涯学習審議会答申「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」(平成6年5月)では、次の2つの視点から、行政と民間とのこれからの望ましい関係を「協働」であるとしている。--@役割の違いを踏まえた上で、施策や事業の推進を協力しあうという「役割関係」の重視、A県民を客体(対象)としてとらえるのではない、県民の「主体的参加」の重視--。このように、協働とは、双方の主体性がともに発揮される関係である。そして、公運審活動においても、利用者や職員との協働関係をつくりだすことが必要なのである。

2 公民館で、公運審で、すてきな人間関係を
(1) 「1%の批判」を歓迎する
 以前、ぼくはある公民館の公運審委員の研修会に呼ばれたことがある。いつもの講演のとおり、開口一番、「mitoちゃんといいます。疑問や反論があったらいつでもぼくの講義をさえぎって言ってください」といった。これを「ちょっと待った方式」と呼んでいる。大学の授業もこれでやっているが、実際に「ちょっと待った」がかかるのは幸か不幸か年間に1、2回であり、授業の進行にさしつかえて困ったという経験はない。ところが、その公運審では様子が違っていた。講義の半ばあたりから、元気印の婦人委員たちのあちこちから「ちょっと待った」がかかったのである。ぼくにとっても刺激的でおもしろかったし、ほかの委員もライブ感覚を楽しめたのではないかと思う。ただし、予定した話をする時間がなくなってしまってちょっと困ってしまったが……。
 ぼくは「1%の批判」という言葉(レトリック)を使っている。100 人のうちの1人があることに批判をもったとする。たとえば1%の登校拒否児のように。その「1%の批判」の気持ちは、他の99%の支持的な人も各人が1%ぐらいずつもっているはずなのである。だから、「1%の批判」がのびのびと表明されれば、それは必ず他の99%の人からも共感されることになる(共感は同感とは違う!)。学生がなかなかそれをできないのは、本質的にはあとに述べるピア・コンセプトのせいだと思われるのだが、要は、「これは自分だけの考えなのだから、他の学生の学習にとっては迷惑かもしれない」と恐れるからである。学習はそもそも自分のためにするのに……。そのわりには、他者の学習権を侵害する私語等の行為は無意識のうちに蔓延する。これに対して、さまざまな「1%の批判」(異質の個性)が飛び交う学習の場は、おもしろくなるし、アンビバレンツ(両面価値)である真実により一歩近づく結果にもつながるのである。
(2) ピア・コンセプトの悲しみ
 生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、なかなかこの公運審委員の研修会のようにはいかない。それは、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならない「防衛的風土」に満ちているからである。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピア・コンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだが、それは個を自己抑圧して仲間と同一化しようとする意識にもつながりがちなのである。
 現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と『出席ペーパー』に怒ったように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。ちなみに、学生の授業中の私語も、ぼくはピア・コンセプトの悲しい表れであるととらえている。熱心に授業を聞いている他の学生への迷惑よりも、仲良しの友達への同調が優先される。また、まじめな学生が、他者の私語を「やめてくれ」といえないでいるのも、「仲間から浮き上がりたくない」というピア・コンセプトの表れである。学習権とは、こういうとき、みずからが必死になってみずからのピア・コンセプトを乗り越えて主張すべき権利なのである。
(3) 信頼と共感にもとづくネットワークを
〜異質が水平に交流する支持的風土〜
 公民館や公運審の活動は「防衛的風土」と反対の「支持的風土」でありたい。この風土の特徴は次のとおりである。--@仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。A組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。B目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。(J・R・ギッブ)--。
 みせかけの同調をすることが「支持的風土」なのではない。人間は無知であり、非力である。それを自覚(無知と非力の自覚)してもなおかつそれを受容してこそ、自他への信頼と共感が生まれる。自分が、あるいは、特定の人物だけが、真実を完璧に把握しているというはずはないのだ。だから、せっかく思い切って発言したのに公運審全体としては聞き入れてくれなかったからといって不満をもつのも間違いだと思う。自分の話をすべての委員が心から聞いてくれたのならば、それをもって良しとしなければならない。公運審全体という「幹」に対する一委員の「枝葉」としての存在確認とは、どれだけ自分の納得のいく提案の仕方を「自分が」できたかどうかということであり(幹と枝葉)、それが満足できるものならば自分の胸のうちには「さわやかな風」が吹き抜けているはずなのである。これが枝葉同士の「支持的風土」をつくりだすための心構えであろう。
 この世のだれが宇宙の全体像を把握しているというのか。しかし、それでも人間は生きている。生きているから真実を知りたいと思う(どこまでも知りたい)(事実より真実)。真実に接近するためには、十人十色、百人百様のたくさんの答が安心して行き交うことのできる支持的風土を必要としている。さらに、その風土のうえでも「私は私、あなたはあなた」という事実は厳然と存在する。しかし、その事実を肯定的に受け入れたうえでさわやかに必要な依存ができることこそ自立の姿であるし、それが異なる自立した価値どうしの交流を可能にするのである(自立と依存の統一)。これこそが信頼と共感にもとづく人間のネットワークの本質的なあり方といえよう。

3 みずからの生涯学習としての委員活動
 生涯学習はみずからが学びたいこと(学習・文化・スポーツ・レクリエーション等)を学びたい手段で学ぶことである。根本的には「自分のため」なのである。公運審活動の根本はそれとは違って、委員としての大切な役割を遂行することになる。しかし、それでも、なおかつ、「あなたはなぜ公運審委員をやっているのですか」と聞かれたときには、「自分のためなんです」と答えてほしい。それが一番さわやかなのではないか。ボランティアの場合も同様だそうである。ボランティアは他者や自分自身と出会う行為である。また、「ボランティアは見返り(ただし、微妙で精神的な)が得られる行為」という言葉もある。さらに、教員研修の場合でさえ、「子どもたちのため」や「よい授業をするため」ではなく、「自分のため」といえる教師こそが「本当に必要な研修」をしている教師なのだという。このことは、学習というものの本質を表わしていると思われる。
 それでは、公運審活動はどうして生涯学習なのか。1つには、公運審は、ボランティアと同様に、「出会いと気づき」の格好の場になりうるからである。公運審は、自分自身の存在を確認し、また、他の委員からも自己の存在が認知される「時間・空間・仲間」(癒しのサンマ)でなければならない。そこでの地位や肩書きをはずした水平な交流は、本当の意味での出会いだといえる。そのほか、委員活動のなかでのひとやものごととのさまざまな出会いは、とりわけ自己の無限の可能性の一部に気づかせてくれる(出会いと気づき)。これこそが、きのうの自分より、またひとつ、自我が拡大する、枠組が変化するというダイナミックな学習になりうるのである。「受容があってこそ、変容がある」と言い換えてもよい。2つには、公運審は、教師の仕事と同様に、学習支援活動の一環だからである。そもそも、みずから学ぼうとしない、あるいは、学習者とともに学ぼうとしない学習支援活動などが、自己の存在価値をほかに見つけることなどできるわけがないではないか。

 本論の後半で、いかにもあやしいレトリック(カッコ内の傍線ゴチの部分)を急ぎ足で並べ立ててしまったが、より詳しくは以下の拙著を参考にしていただきたい。『生涯学習か・く・ろ・ん〜主体・情報・迷路を遊ぶ』、『こ・こ・ろ生涯学習〜いばりたい人いりません』、ともに学文社。

(注) 本論は、平成8年1月28日「第34回東京都公民館大会」の分科会「公民館と公運審」の助言者として筆者が問題提起をまとめたものである。
mito Lネット原稿 Lネット公運.DOC 95/10/30 1


7章 『ネットワークのつくり方』
U 楽しい学習法−生涯学習の基礎づくり−

 本章では、人間関係のネットワークのつくり方を考えながら、生涯学習の楽しさに近づいていきたい。

1 奴隷の覚悟をしなくちゃ?
   −自発性とは何か−
 「もう一つの自分」や「ほんとうの自分」を見つけたい、あるいは「自分らしさを大切にしたい」という現代人の「自分探し」の願望はかなり真剣である。この願望は生涯学習の大きな動機ともなっている。その場合、教育者は本人のもつ無限の可能性を信じて援助するだろうし、社会学者は現代社会において個がいかに疎外されているかを唱えるだろう。しかし、ここではこうした現代人のもつ「個の深み」が葛藤するいくつかの「事件」を通して、その現実にもっと近づいてみることにしよう。
街頭説教事件=大人になってくると、この世が思い通りにはいかないことに気づいてくる。これを「楽園追放」という。ある学生が出席ペーパー(授業中、自由に書くもの)に、つぎのように書いてきた。

S大教育社会学、女 (「自分とはなにかを考え、アイデンティティ=自我同一性を獲得することは青年期の重要な発達課題である」という授業において)人間の短い寿命の中で、「どうすれば自分を見つめたことになるのか」について、私は考える気はありません。「思い切り貪欲でありたい」という欲求に忠実でありたいというのみです。
 以前、街頭で心理関係の会社の人に声をかけられ、話をしたとき、「きらいなものはしない」と言い切った私に、彼は勝ち誇ったように「きらいなものはしないというのは子どもです」などとのたまわったのです。こんな話題で悦に入る人のほうがよっぽど子どもではないでしょうか。その方は、「世の中すべて愛ですよ」とおっしゃいました。彼は自分の得たものをかたくなに他に主張して、自分を肯定したがっているだけではないでしょうか。「時間がありません」という私に彼はなおもお説教し、私は待ち合わせに遅れてしまいました。
mito(mitoはそのときのぼくのコメント、以下同じ)
 「いやだけれどもやる」という消極的積極性の行為は「きらい」(悪)ではあろうが、現代社会で生きるためには必要(悪)でもある。その説明の前に、この人の「街頭説教事件」に関するコメントをしておきたい。
 さわやかな自己主張のコツは「私は今は」である。「私は今はあなたの話を聞きたくありません」ということにでもなろうか。これを自他への信頼に満ちた生産的構えということができる。人によっては、「なんで自分だけがわざわざそんな主張のための努力をしなければならないのか」と感じ、その努力を「きらいなもの」に思ってしまうかもしれない。しかし、他者や社会との関係の中で「きらいなものは(なるべく)しない」という態度を貫くためには、たとえその努力は「きらい」でも、このような生産的構えを自らの内面にはぐくんでいくことが重要になるのだ。
 とはいえ、この人の「きらいなものはしない」(積極的消極性)という気持ちの潔さの部分は、現代社会において自我やアイデンティティを守るためにはとても重要なことであり、これからもぜひ大切にしてほしい。しかし、逆に、「きらいだけれどもがんばってやる」という「消極的積極性」は、社会においては「仮面・戦術の必要性」として不可避でもある。ただし、大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、基本的信頼を基調とする仲間、恋人、家族の関係などにまで持ち込まないようにする必要があるということだ。言い換えれば、「消極的積極性」の本質的な問題は、心から自己の仮面と戦術の奴隷になってしまってアイデンティティを見失い、自他に対する信頼感を失う危険に陥ることにあるといえる。だから、「きらいなものはしない」というこの学生の大切な思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すと、いっそう正確でリアルな思考になるとぼくは考える。
 「消極的積極性」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極性(仮面・戦術)や消極的消極性(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の覚悟)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」というのは酷だろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定というよりも社会的存在としての人間の宿命なのである。

 このことを別の視点から整理・分類すると、次の表のようになろう(●図表1)。主人が「したくないことはしない」立場であるのに対して、奴隷は「したくないこともする」立場である。それは主人−奴隷のヒエラルキー的関係に基づいている。奴隷の覚悟とはすなわち、自己の個が抑圧されることがあっても「負け犬」にならずに、頑張っているふりをしたり(消極的積極)、やり過ごしたり(積極的消極)できることである。そのことによって「自分探し」にとって大切な「今、ここで」というときに(たとえ賃労働のなかでも)自ら進んで個を発揮する(積極的積極)ことができる。つまり、奴隷の覚悟をすることによって、逆に、生涯学習、ボランティア、地域という自己決定の場面などでは、「やりたいからやる」という自己の人生の主人の立場(=主人公)にもなろうと思えばなれるのである。「いつでもわけもわからず頑張っていればいつかは報われる(他者の主人になれる?)」という今までのガンバリズムでは、自己決定型の生涯学習はできない。ネットワークの主体になるためには、まず、ここのところが肝心である。
 ぼくは狛江プータロー教室(狛プー)という青年教室の講師をしている。狛プーでは「1年に1回来ればメンバーだ」、「来たくないときには来ない方がよい(潔い撤退)」というネットワーク型の運営が行われている。あるメンバーが「狛プーはありのままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」と言った。しかし、同じ彼が「狛プーはぼくにとって安らぎの場ではない。あるときにはつらい鍛練の場だ」とも言う。そのときのつらさは、奴隷のつらさではなく、それとは正反対の自己決定のネットワークのなかでの自由のつらさだ。従来の主人か奴隷かという「たて社会」(ヒエラルキー)の人間関係のなかで奴隷として適応しようと頑張ってきてしまった私たちには、奴隷ではない者同士の「私は私、あなたはあなた」の狛プーのネットワーク型運営が寂しかったり辛かったりするときもある。しかし、狛プーがそのように職場や学校での奴隷たちにとってのオルタナティブ(あるものとは違うもう一つの)な積極的積極の自己決定によるネットワークだからこそ、狛プーは自由を愛するプータローのこころが交流する癒しのサンマ(時間・空間・仲間という3つのマ)になりえているといえるのである。

2 パソコン通信によるネットワークの知
   −事実よりも真実に接近しようとする人生−
 ぼくは以前、@孤立化、A没主体化、B物神化というパソコン利用の3つの逆機能を指摘し、それを打開するムーブメント(社会的運動)としてのパソコン通信における新しい知のあり方を次のように評価した。@ボランタリズム化、Aアマチュア化、B個別化、C雑多化、D民主化、E非体系化。そして、そこで形成される「電子的仮想空間」を媒体とする新しい(偶発的学習の)集団がどのような意味でトレンディーなネットワークなのかを考察した。
 また、パソコン通信でやりとりされる「ミスマッチ、アバウト、ジグザグ、イージー」の情報から、各自は最初、気づかなかったけれどもじつは必要だったという情報を発見している点を指摘した。頭文字を並べると「MAZE」になる。誤解の積み重ね、いい加減、迷走、気楽などの特性をもつパソコン通信には、硬直化した情報内容にはない良さがあるのだ。そういうMAZE(迷路)としての学習手段を、「いま求めている情報を能率良く獲得するためには不都合に見えても、創造的学習にとっては有効なツール(道具)」として評価した(●図表2)。
 さて、そういうMAZEのなかで出会える大切なものとして、事実を伝える情報もさることながら、ぼくはそれ以上に「個の深み」を挙げたい。透明(トランスペアレンシー)と表現されるぐらいにマシンが成熟したあとでも大切なものとして残るのは、コミュニケーション内容そのものであり、まだ見ぬ他者の「個の深み」との偶然の出会いである。だから、パソコン通信だけの出会いでは物足りなくなった人はバーンアウト(燃え尽き)して直接の出会い(フェース・ツー・フェース)のネットワーク(オフラインの集会活動)に走っていく。これはコミュニケーションの成熟化としてとらえればよいのである。
 それにしても、このような人びとがそこまでして求め続けるものは何なのか。ぼくはそれを「感動」だと考える。感動するからこそ、きのうまでの自分の枠組みが変化するという本来のダイナミックな学習(自己変容)が成立するのであるが、本人にとっては学習になっているかどうかなどはほとんどどうでもよいことである。それよりもワクワクすること(ワンダーランド・・・・これが生涯学習なのだが)と出会いながら人生を過ごしたいという自然な欲求に「貪欲」だというだけのことなのだろう。
 もちろん、感動を生み出すのは他者の「個の深み」との出会いばかりではない。ぼくはさきほど、「事実を伝える情報」も大切だと述べたが、気づいて感動するような事実もあろう。その気づきは、自己の「個の深み」への気づきといってよいかもしれない。そういう種類の事実や「個の深み」などの、その人の人生にとってほんとうに意味のあることがらを、ぼくは事実と区別して「真実」と呼びたい。
 魯迅は差別を受けつつ学んでいた日本で、次のようなフィクションを書いている(小説『藤野先生』)。
 ??わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。??
 じつは、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年に開設されたのだ。また、当時、仙台医学専門学校と同じ構内にある第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているそうだ。この魯迅のフィクションについて、駒田信二は次のように述べている。
 ??事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。(中略)同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。??
 つまらない事実(ときには虚偽である)を詰め込むためにぼくたちは生きているのではない。だが、今までの学歴偏重の上下競争社会では、社会から与えられたカギカッコ付きの「権威」(地位、肩書き)や、その権威を代弁するマスメディアが大量放出する「事実」という「権威」にぼくたちの内面はややもすると従おうとしてきた。しかし、他方で古くから人びとが愛してきたこの魯迅の著作などに見られる小説的真実や、パソコン通信のなかでの「善と悪」の入り交じったコミュニケーション内容は、そういう「権威」に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)として、学歴偏重社会の価値観に異議申立てをしている。すなわち、これらは生涯学習社会への転換を進めるためのカウンター・カルチャー(対抗文化)としての役割を果たしているのである。
 このように心から感動できる真実と出会うためには、ぼくたち自身が、ヒエラルキーが依拠する制度上の権威に惑わされずに、それを「ケッ」と言って笑い飛ばし、自立的な価値を有するもの同士で水平に交流しようとするネットワーク・マインド(対等な考えや態度)を身につけることが必要である。そういえば、パソコン通信で外側から与えられた地位や肩書きを振り回す人は、江戸時代の馬鹿殿様や、部下を従えてふんぞり返って大蔵省の廊下を歩く幼稚なエリート官僚たちと同様、物笑いのタネだ。これに対して、知的世界に遊ぼうとする人は頭が柔らかく(エッグヘッドという)、権威主義者をからかってジョークを飛ばすネットワーカーのはずである。そもそも、学問だって、世俗の権威を超越した世界になければならない。宴会の席順を争い合うような研究者がいたらお笑いぐさだ。
 学生の就職戦線においても、この事実と真実の峻別は重要である。採用試験などは、「人間万事塞翁が馬」の代表格であり、また、事実(合否)と真実(実力)は必ずしも一致しないものだ(●図表3)。そういうとき、みずからの真実を大切にする生き方こそ、客観的にはもっとも幸福を追求する生き方といえるのである。
 合格は不幸?事件=この事実と真実の対応表について、授業で「Vは問題ないよね」と軽く流そうとしたところ、ある学生から「個の深み」あふれるレスポンス(反応)が「ちょっと待った方式」(授業中いつでも勝手に反論してよいというシステム)で提示されたことがある。
 S大の男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたのだ。Vとは受かる実力もないのに、事実としてはたまたま運良く(?)受かってしまった場合だ。彼がいうには、採用された後、自分の力不足のために仕事の相手や仲間に迷惑をかけ続けることになり、劣等感も刺激され、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、他の学生も、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達に申し訳なくて会うことができなくなるし・・・」という。
 このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまった。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決める非主体的な態度(敗北主義)としてぼくは批判していたが、どうもそれだけではなく、現代青年のもつそれなりの繊細な深みもあると思われた。
 そこで、Vについてのぼくの意見をまとめておこう。もし採用試験に「はからずも」(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで「正当な劣等感や罪悪感」(真実)をもつことは本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた能力を発揮できるようになるかもしれない。
 生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習(リカレント)を社会的活動に入ってから継続できる人なのかどうかのほうが重要になる。思うにこれは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということなのかもしれない。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その「自己への厳しさ」という持ち味(真実)を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうる。

3 ピアコンセプト=仲間意識って何だ?
   −協調や仲良しよりも知的水平空間のネットワークを−
 みんなも事件=「みんなのために」とか「みんなだって」とかいう認識が、みずからの個の発現を自己抑圧する結果につながっている。ひとつの事例を挙げてみよう。
S短大教育社会学、女 先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読み上げてほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな?
mito そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということがあなたにとって重要である。実際、あなたの希望とは逆に、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。もともと匿名であるにも関わらず「みんなの前で読まないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなたがそのように潔くできるのならば、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。
 生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピア・コンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識(卑屈な自己疎外!)にもつながりがちなのである。
 現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と出席ペーパーでぼくに怒りをぶつけるように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。ちなみに、学生の授業中の私語も、ぼくは仲間意識の悲しい表れであるととらえている。熱心に授業を聞いている他の学生への迷惑よりも、仲良しの友達への同調が優先されるからだ。また、まじめな学生が、他者の私語を「やめてくれ」といえないでいるのも、「主張することによって仲間から浮き上がりたくない」というピア・コンセプトの表れである。これではまさに「みんなぼっちの世界」だ。
 このようなピア・コンセプトによる卑屈な自己疎外の事例は、今日の生涯学習の場でも無数に出現する。ピアコンセプトは、ヒエラルキーの支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだろうが、ピアだけでは残念ながら本質的な問題解決にはつながらない。かえって、現在のたての人間関係(ヒエラルキー)を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくるだけの結果になったりしてしまうのだ。ピアコンセプトはネットワークへの情的動機の一つであるとは考えられるが、ネットワーカーたちは、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心とともに、これらのみずからの内なるピア・コンセプトをも意識的・理性的に乗り越えなければならないのである。ヒエラルキー、ピア、ネットワークの相違を表に示すと次のようになろうか(●図表4)。
 もちろん、ネットワークは冷たいこころのものではない。むしろ、ほんとうの意味での信頼の関係といえる。それは「防衛的風土」とは反対の「支持的風土」に基づいている。この風土の特徴は次のとおりである。??@仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。A組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。B目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。(J・R・ギッブ)??。
 みせかけの同調をすることが「支持的風土」なのではない。人間は無知であり、非力である。それを自覚(無知と非力の自覚)してもなおかつそれを受容してこそ、自他への信頼と共感が生まれる。自分が、あるいは、特定の人物だけが、真実を完璧に把握しているというはずはないのだ。だから、せっかく思い切って発言したのにネットワークの仲間たちが聞き入れてくれなかったからといって不満をもつのも間違いだと思う。自分の話をほかの仲間が心から聞いてくれたのならば、それをもって良しとしなければならない。
 ヒエラルキーがツリー(樹木)であるのに対して、ネットワークはリゾーム(地下茎)になぞらえられる。しかし、ネットワークの全体を幹と考えれば、やはりネットワーカーの一人ひとりは「枝葉」にすぎない。そこでのネットワーカーの「枝葉」としての存在確認とは、どれだけ自分の納得のいく提案の仕方を「自分が」できたかどうかということであり(幹と枝葉)、それが満足できるものならば自分の胸のうちには「さわやかな風」が吹き抜けているはずなのである。これが枝葉同士の「支持的風土」をつくりだすための心構えであるといえよう。

4 枝葉としてのネットワーカーの心構え
   −積極的積極と積極的消極の連動と連帯−
 ぼくは、ネットワークの特性は自立と依存の統一であると考えている。いわゆる「一蓮托生の同志」でもなく、かと言って孤立でもない。一つひとつの大豆が集まって納豆という一つの味になるのだ。それぞれが一つでも十分意味のある大豆同士がかそけき柔らかな糸でつながっている。納豆が嫌いな関西人だったらお好み焼きにたとえてもよい。
 ヒエラルキー、ピア、ネットワークのなかでの個人の存在価値を、個人の視点から表してみた(●図表5)。たとえヒエラルキーのなかにあっても、自己の位置を外側から客観的に説明できるようになることを自己客観視、あるいは自己への気づき、自己認知ということができるだろう。自己客観視(人類と自分との、世界と自分との、宇宙と自分との!)は学習や学問の重要な目的のひとつだ。
 本図のネットワークにおいて個人が存在価値をもつためには、個人の視点からいうと、その人は他者に対して「さわやかな自己主張」と「さわやかな依存」ができなければならない。「さわやかな自己主張」とは、自分と相手の両方の存在を認めたうえで攻撃的にならずに「私は〜したい」とみずからを主張することである。「さわやかな依存」とは、相手の得意とすることについては、相手が喜んで受けとめられるように、「お願いね」と言って相手に寄り掛かってしまうことであり、なおかつ、双方に生産的な構えがつくられる場合をさす。主張は自他への基本的信頼感に基づくものであり、依存はそういう信頼感によるギブ・アンド・テイクの心地よい双方向交流である。
 連帯連動勘違い事件=そして、もうひとつ、ネットワーカーにとって重要な能力が、先に述べた「積極的消極」であり、「潔い撤退」だと思う。これに関して、授業で「積極的積極と積極的消極は連帯できるのではないか」と言ったところ、次のようなすばらしい勘違いのペーパーが提出された。
T大U部社会教育計画、女 (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」と前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。mito先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定、潔さが持てるのだと思います。
mito
 ぼくが言ったのは、Tの人はUの人とではなく、Wの人と連帯できるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは自己の内部で連動関係にあるということである。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということなのだ。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人は「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がない。それよりも、「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会において、この学生のいうように撤退の権利をさわやかに行使する根拠になるということにこそ、この4パターン分類の意義があるのだろう。
 この「潔い撤退」については、現実の人間関係においてはさらに複雑な様相を示すことになる。なぜなら、自己決定できるのは自分のことについてであって、他者のことについてまで決定できないからである。それが「枝葉」としての個人が決定できることの限界である。ネットワークにおいて枝葉は他の枝葉に対してどのようにふるまえばよいのか。次の事例を通して考えてみたい。
 狛プー曜日事件=狛プーは木曜日に開かれる。木曜の夜が「狛プー曜日」だ。ところが最近ずっと出れなくなってしまったあるメンバーから、「自分の職場では木曜は恒常的に残業が続くことになってしまった。狛プーの曜日を、社会一般でいわれているノー残業デーの水曜などに変えてほしい」という提案が狛プーにされたのだ。狛プーは「1年に1回来ればメンバーだ」という方針でやっているから、いつでもだれでもふらっと参加できるように、なるべくなら数年間問題なく続いている今までどおりの木曜にやりたいという気持ちがほかのみんなにはある。また、もちろん、残業を恒常化させる賃労働のあり方という社会の問題もあるし、狛プーお得意の「この指とまれ方式」の番外編で自分の都合のいいときに人を集めるという手もある。しかし、彼は本番の狛プーに出たいのだ。さあ、どう考えればよいか。
 提案した彼は「自分でメンバー全員に電話アンケートをするので任せてほしい」と言う。これが「枝葉」にできることだ。みんなも賛成した。ただ、「その結果をみて、責任もって自分が曜日を決めるから任せてほしい」とも言った。これはだめである。最終決断をするのは、残念ながら自分一人ではなく、あくまでも狛プー全体の意思という、ネットワーク的であるほどやっかいさの増す正体不明の「幹」なのである。
 ところで、彼の提案には2つの動機がある。「自分の職場では」と「社会一般では」だ。ぼくは前者の動機を支持した。後者は、中小・自営などの多くの青年にとっては関係ないことで、「社会一般では」などという言葉は意外に当てにならないのだ。それよりもみんなに電話するなら、「自分は木曜日に出れないのが残念だから曜日を変えてほしい」と率直に言って同意を求めた方がよいだろう。ぼくがそう言ったところ、メンバーからあっさり総すかんを食らってしまった。「一般の青年たちにも都合がいいというならともかく、そんな個人的な事情じゃ、ただのわがままだよ」というのだ。ぼくが「ほかのまだ見ぬ人の心配なんかする必要ないよ。今ここで『来たいのに来れない』と言っている人とみんなとで折り合いをつけられないかなあ」と切り返すと、「だって、1年に1回来てもメンバーなんだから、そういうたまにしか来ない人たちのことも考えなきゃいけないわ」という声。ぼくは「あれっ、へんだぞ。『あの人のために』というのはネットワーク的じゃないぞ」と思ったが、みんなから相手にされず、時間も押していたので、それまでとなった。
 ぼくたちは、「わがままであるな」「ひとに迷惑をかけるな」「自分勝手に主張する前に、みんなはどうなのかを考えてみよ」などの「禁止令」を受けすぎていて、主張したり依頼したりする力を去勢されているのではないか。そして、「紳士淑女」になってしまった分、ひとが本来持っていた「折り合いをつける能力」を失いつつあるのではないか。
 「枝葉」の人生だって、本人にとってはとってもだいじな人生だ。狛プーは、その人生のなかで出会っただいじなネットワークだ。そのネットワークがいらない人は、撤退すればよい。また、たまたま狛プーと出会えなかった人の心配までする必要はない。そんなことを心配するよりも、今ここで、たまたま出会った者同士がなんとか折り合いをつけようとすることの方が大切だ。その双方が支持しあう温かい努力をしたあとで、よい結果が出なかったときこそ、片方が「しかたない」とあきらめて「潔い撤退」をすべきなのだ。
枝葉としてのネットワーカーの心構えは次の詩に集約されよう。

 私は私のことをする。
 あなたはあなたのことをする。
 私は、あなたの期待に沿うためにこの世に生きているのではない。
 あなたも、私の期待に沿うためにこの世に生きているのではない。
 あなたはあなた、私は私である。
 しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい。
 もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである。
  (パールズ「ゲシュタルトの祈り」)
 これは決して投げやりなコミュニケーション放棄の詩ではない。「あなたはあなた、私は私」という自立の厳しい真実を受けとめたうえで、出会いのために自分が可能な範囲での努力をする者のための詩といえよう。このように、過去や他人のせいにすることなく、「自分のできることをできる範囲でしようとする生産的な姿勢」が枝葉としてのネットワーカーに求められているのだ。

5 気づきと癒しのネットワーク
   −不信と孤立の同質上下競争から、信頼と共感の異質水平共生へ−
 世間なめてんじゃない?事件=アイデンティティの獲得のためには、自己の可能性を実現するとともに、それを他者が認知してくれている状態が必要になる(自己確立=自己実現+社会的承認)。しかし、学歴偏重社会のこの世の現実は、むしろたがいに競争相手として、すなわち傷つけあう他者同士として、存在しあっているかのようである。次の事例も「傷つける人の悲しさ」を如実に表している。
S大教育社会学、女 高校を卒業して初めて行ったバイト先で、同じバイト先の大学生に、とてもひどいことを言われたんです。「進学するの?」って聞かれたので、「音大に行く」って答えたら、「音大に行って何するの? アイドル歌手にでもなるの?」って言われました。ムッとしたけど「教師になりたいの」と答えました。そうしたら、その人は「あんた世間なめてんじゃない?」って言ったんです。きっとその人は、音大という所は遊んでいても卒業できると思っているんでしょう。それで私が教師になりたいなんていったから、そういうことをいったんでしょうね。でも、私は、小学校からの夢をそんなふうにいわれて、とてもくやしかったし、悲しくて涙が出そうになりました。
 この人の他にも、やっぱり、「音大に何しに行くの? アイドル歌手になるの?」って言われます、ちょっとバカにしたみたいに。
 一生懸命頑張って入った学校なのに、なんかそういうふうにしか言われないなんて淋しいです。だけど、人は音大がどういう所か知らないから仕方がないですよね。人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば、それでいいと思います。
mito
 そのバイト先の大学生のように、相手に言えないはずのことを言う人が、社会にはスパイのように配置されている。さわやかでない、攻撃的な自己主張しかできないタイプの人である。「私は(世間がつらい)」と主張できずに、「あなたは(世間をなめている)」と相手の人格を見抜いたふりのようなことしかできないのである。そういうスパイみたいな人のつらさを共感的に理解して受容できるようなものすごいレベルに到達するまでは、なるべくそういう人の感情には巻き込まれないようにしたほうがよい。
 ただ、もう一方で、「人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば」という願望を自分一人で実現することも、人間にとっては残念ながら困難である。人間は自己実現だけでなく社会的承認も得て、初めて自己を確立できるからである。そのためには、音楽を志す自分の生き方を支持してくれる他者を見つける必要がある。
 ネットワークにとっては個が重要である。しかし、その個は他者と関わることによってより深まる。上の事例のように傷つけあい、非生産的構えを身につけつつある個人にとっても、同様である。引きこもる若者たちとつきあっているカウンセラーの富田富士也は「人によって傷ついた心は、人によってしか癒されない」といっている。
 そこでの癒しのポイントになるのが共感である。共感は同感とは違う。異なる枠組みをもつ他者と心を響かせあうのである。異質が水平に交流するネットワークには、こういう共感のチャンスがみちあふれている。共感は感動に、そして先に述べたような学習につながる。ほんとうの他者と出会いながらも、それと同質化することなく自己の枠組みを変容させる。そのことによって、自他両方への基本的信頼感が高まり、ほんとうの自立が可能になる。このように自立した市民が「共生社会」をつくるのである。これを単純に図式化すると次のようになる(●図表6)。
 ぼくは共生=共有+共存と考えている。共に生きること(共生)とは、ひとつには共感などによって何かを共有することであり、もうひとつはたがいに異なる文化や価値観の存在を認め合うことである。ヒエラルキーを中心とした関係においては、ピア・コンセプトとセクショナリズムの関係のように、共有と共存の2つの関係が相互排他的に進められて最後には必ず分裂して破綻することになる。これに対して、ネットワークにおいては、異なりが障害にならず、むしろ歓迎されるわけだから、この共有と共存とは最初から一連のものとして統合的に進められるのである。また「折り合いをつける潜在的能力」ものびのびと発揮されるだろう。
 この世のだれも宇宙の全体像を把握していないのだ。しかし、それでも人間は生きている。生きているから真実を知りたいと思う。真実に接近するためには、十人十色、百人百様のたくさんの答が安心して行き交うことのできる支持的風土を必要としている。さらに、その風土のうえでも「私は私、あなたはあなた」というネットワークなりの事実は厳然と存在する。しかし、その事実を肯定的に受け入れたうえでさわやかに必要な依存ができることこそ自立の姿であるし、それが異なる自立した価値どうしの交流を可能にし、共生社会創造の基盤をつくりだす。信頼と共感にもとづく人間のネットワークの本質的なあり方はここにあるといえよう。
 最後にネットワークのつくり方をひとことでまとめるとするならば、「いばるな、へつらうな、そして、同質の仲間を求めるのではなく異質の他者を歓迎せよ」ということになるだろうか。


参考文献
西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』学文社、1991年、237頁。
西村美東士『こ・こ・ろ生涯学習 −いばりたい人、いりません−』学文社、1993年、246頁。
西村美東士「若者にとってのネットワーク形成の困難と可能性」(高橋勇悦編『都市青年の意識と行動−若者たちの東京・神戸90's分析編−』恒星社厚生閣、1995年、155頁〜174頁。

著者のプロフィール
 昭和音楽大学短期大学部助教授。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。国や自治体の情報システム関連委員、生涯学習関連委員などを務める。また、狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師など、社会教育現場でも頻繁に活動している。


●図表1 積極的積極性としての生涯学習

主体・内面 結果・外見 特徴
T 積極的 積極性 自己決定(生涯学習)
U 消極的 積極性 仮面・戦術(受験勉強)
V 消極的 消極性 敗北主義(被害者意識)
W 積極的 消極性 自己決定(無為・潔い撤退)

● 図表2 MAZE











● 図表3 真実は事実とは異なる

タイプ 真実 事実 どこが真実か
採用試験の場合 合格する実力 試験結果 評価すべき真実の部分
T ○ ○ 問題なし
U ○ × 合否を超えた自己決定の真実
V × ○ ラッキー???
W × × チャレンジした自己決定の真実
図表4 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ
側面 項目 ヒエラルキー ピア ネットワーク
基本的関係 上下 同質 水平
相互関係 支配と服従 仲良し・われわれ意識 自立と連帯
関係性 交流パターン 役割遂行と役割演技 人格的交流と仮面的交流 流動的役割遂行と共生
関係維持の方法 差別的同一化 共同的同一化 異質の交流と受容
経済的関係 従順さへの報奨 見返りを期待しない ギブ&テイク
友達への態度 同調または否定 同調または内面的排除 共感と自己主張の両立
個の扱い 個への外的抑圧 個の自己抑圧 個(個の深み)の発揮
現実への姿勢 勤勉主義 敗北主義 積極と消極の自己管理
個の安定 制度的安定 主観的永続性 変化(可塑性・流動性)の受容
新規参入の条件 競争 排他的 開放的(個々人の自発的意思)
個人的 撤退の状況 敗北 異質化・分派 潔い撤退
意味 依存の心理状態 一方的依存・共依存※3 相互の甘え さわやかな依存
要請される資質 厳しさと従順さ 優しさと協調性 自他に対する基本的信頼感
行動目的 組織と秩序の維持 自己保存 自己実現と社会的認知の獲得
行動原理 現実原則 快感原則 共生欲求に基づく自己管理
学習動機 成長(上昇) 癒し 成長と癒しの統合
自分らしさ 規制と喪失 渇望と挫折 現在の自己の受容と今後の変容
社会的 文化 支配的文化 下位文化 対抗文化
意味 集団風土 防衛的 支持的かつ防衛的 支持的
社会的教育体制 学歴(学校歴)偏重社会 制度としての教育の忌避 生涯学習社会
※1 この表は、現実の組織や集団の実態よりも、それぞれの概念的な特徴を重視して整理したものである。
※2 斜体字は筆者がつくったレトリックである。(西村美東士「こ・こ・ろ生涯学習」学文社 参照)
※3 共依存とは、依存する他者を支配することによって充実感をもつ人と、他者を心配させることによってその人を心理的に支配する人との硬直した関係をさす。


●図表5 個人にとってのヒエラルキー、ピア、ネットワーク

ヒエラルキーの側面図   ピアの平面図 ネットワークの平面図

    ○ ○ ○
○ ○ ○ ○
● ● ●
○ ○ ○ ○
○ ○ ○ ○ ○

  (個の抑圧)   (個の規制)   (個の発揮)






●図表6 共感→信頼→自立→共生の好循環


キーワード
ネットワーク
 網状組織、同じ目的をもった人などの連帯組織。従来からのピラミッド型の組織形態への「対案」としての意味をもつ。ただし、最近の市民の自発的なネットワークなどを「組織」の一形態と解することには異論がありうる。

ピア(ピーア)
 同輩、仲間。公式の集団・組織内の正式な関係よりも、「われわれ意識」による非公式な関係を重視する志向に基づく。個人の社会化の促進の場としても機能するが、逆に、個性の獲得や発揮を抑圧する場としても機能する。
希望 いまとは違う何か?
昭和音楽大学短期大学部助教授
 西村美東士
14字×29行×2段
=812字


 先日、授業で、社員の自立を促すために企業全体で取り組むボランティア活動の意義を取り上げた。予想どおり「企業ぐるみということが個人を抑圧するのでは」という反論が多くの学生から出されるなか、一人の学生が次のように書いてきた。
 「企業だからできること、サラリーマンは給料でるから。ボランティアは個人的なものではない。ボランティアでは食えない。個人でボランティアをやっているのはバカである。ある程度のゆとりがあって、やること。これから何かをやろうとしている若者たちにとっては無駄な時間である。自分の欲を満たさずしてどうする」。
 ぼくにはこれが現代人の真実の叫びのように聞こえた。実際、このペーパーを他の学生に紹介したところ、「そういう自分を隠さずに書けるなんてすごい」という賞賛の声が挙がった。ボランティア研修会の若者さえ、「共感できるわけではないけど否定はできない」といった。ぼくは思った。このペーパーは、上下競争のせちがらい現代社会に生きる人間が、それでも「希望にあふれた人生でありたい」という願いを捨てられないとき、「私はふつうの人とは比べものにならないほどの自分だけの希望をもっている」と思い込もうとしている姿なのではないか。しかも、その自分の「希望」というものが、じつはただのないものねだりにすぎないことにも気づかないようにして・・・・。そして、ぼくにも同じ気持ちがあったから、このペーパーに真実を感じたのではないか。
 ところが、タイでの少女買春反対のボランティア活動に楽しく参加している女子高校生が、このペーパーについてあっさりこう言った。「この人、ボランティアのいい世界を知らないだけじゃない?」。彼女の言葉はもう一つの真実だ。希望は、彼女がいうとおり、自分が見ようとしさえすれば身近にごろごろところがっているものなのかもしれない。「いまとは違う何か」があると自分に言い聞かせるのはもうやめたいと思った。

本文58行

印刷上のお願い
 ボランティア活動に楽しく参加している女子高校生
のうち、「楽しく」に傍点を振ってください。
「個の深み」を支援する新しい社会教育の理念と技術(その7)
 −癒しの双方向高等教育をめざして−
               昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
A New Idea and Technique in Adult Education to support the "Depth of Individuality"(7)
 −Healing two-way Higher Education−

400字×50枚=20000字=40字×500行

1 防衛的態度に追い込む家族関係の病理

 ぼくが個人に自己防衛を要請する現代社会の要因として出席ペーパーなどから感じているのは端的にいえば次の3つになる。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピア・コンセプト(仲間意識)。@の家族関係については、「子を持って親になる」という状況が崩れ始め、「子を持ってもまだ大人になれない、なりたくない」という親たちが出現しているのである。今回は、まず、このことについて述べてみたい。

S短大教育社会学、女
1週目
 家族の中で、いつも私を「おまえはこういう娘になれ」と強制的な言い方をする人がいた。彼が私のことを「人間的に薄っぺらい」と言っているのを立ち聞きしたときは悲しかった。「彼にとってOK」になることはできず、苦しい毎日だった。顔を見れば否定語がとんでくるという恐怖があった。
 私はいい子ちゃんできた子です。なので自分を語調も荒く批判してくる人の言葉を受け流すことができず、まに受けて傷つくことしかできません。でも、mito先生の授業中にいくつか気づいた。私は友だちや恋人に目に見える形での「優しさ」や愛情を求めているということを。
2週目
 以前、父に私の存在を非難されました。「おまえなんかいなくたっていいんだ」などなど。書いていったらきりがないのですが・・・・。私が自分の考えをもつことに不満を覚えてきているのかどうか、進学についても反対され、受験勉強のできない環境を作られっぱなしでした。
 親の不仲+父親の態度、そればかりでなく、母親から聞かされる話。子どもに聞かせるべき内容じゃないものばかり。誰にも言うことのできない話なので、私が聞いてあげなければならないのですが、私は母の話を聞いていると、母に言ってはならないこと、「なぜ私を産んだの? 苦しい思いばかりさせて!」ということを言いそうになるのです。でも、それを言ったら母を壊してしまうことになります。私にはそれよりも自分ががまんすることで母を守っていくことしかできません。
 でも父に対してはまったく別になっています。今ではお父さんと呼べなくなっています。以前は言われたことに傷ついていましたが、今は、自分の子どもをそういうふうにしか見れない父をかわいそうな人だと思っています。

 次の授業(3週目)で、このペーパーに対しては何とかぼくがコメントできたことは、一つは、「わたしのことが心配で離婚しないのなら、そんなことは心配しなくていいよ」、もう一つは、「わたしはお母さんと違って幸せになるからね」、という二つのことをお母さんに言ってあげたらどうかということであった。その人の娘としての自立と幸福追求を願って、また教育というものの現代社会でのあり方を考えて、多くの学生の前で(匿名だが)コメントできることは、せいぜいそれぐらいだ。だが、結果的にはそれでよかったようだ。

3週目
 コメントありがとうございました。今までの私の行動は間違いではないと自信がつきました。
 母にはもう「離婚していいよ」と(私の方が強く願っているのですが)言ってあります。しかし私には弟がいます。まだまだ精神年齢が子どもで、離婚家庭になったらかわいそうだと思ってたんです。弟も別れないことを望んでいました。
 でも、今ではあんな父親(この前書いたことばかりでなく、もっともっとひどいこと、人間としてはやってはいけないことをしてる人)の姿を見せたくないんです。私の味わったような気持ちを味わわせたくないんです(でも、それがあったからこそ今の自分があるんだと思うと、あんな父でもそういう意味では感謝しているんですけど)。
 私は母に「私は幸せになるよ。お母さんが味わえなかった幸せまで手に入れてみせる」と言いました。母は喜びました。私は母から聞きたくない話をされても母を愛しています。母もです。今では姉妹のような友だちのような母子です。私の幸せは、ただ好きな人と結婚して新しい家庭をつくることなのではなく、「母と一緒に二人だけで暮らしたい」というのもあるのです。父のことで悩んでいても、そう未来を考えるだけで幸せです。それに私には両親以上に私を思ってくれている、おじ、おばがいます。友人もいます。自分だけが不幸なんだと思ったことはありませんが(これ、本当なんです)、今あらためて自分は幸せなんだと思いました。
 ただ、mitoちゃんが言ったように、トラウマは残るでしょう。でも、プラスにもっていきます。そのために私は教師をめざします。ちゃんとした動機じゃないかもしれません。きれいごとかもしれない。でも・・・・。
 私は中学生のころから父のことで悩んでいました。それがいろんなものにどんどん感染して、毎日が余裕のない心でした。今の子どもたちにも、そういう子たちが多いと思うのです。私は話を聞いてあげたいのです。解決できなくても、軽くしてあげたいんです。教師になることに不安があるなんて言っときながら矛盾ですね(笑)。

 子を持っても、なお、親である自分自身が家族や他者から愛されているかどうかのほうが不安なために、大人として、あるいは親として、子を愛することができない親が増えているのである。「子どもがかわいく思えない」という追いつめられた状況のなかで、親から子への暴力や、性的虐待などさえ起こりうる。その具体例を一つひとつここで紹介するわけにはいかないが、親の日常的な不機嫌や夫婦間の不和などは、もっと一般的な状況として蔓延している。

S短大教育社会学、女
 mitoちゃんの言っていた「親の不機嫌は子どもに対する暴力」についてほんとうに同感です。
 私は毎週レッスンに連れていってもらう車の中で、母の機嫌が悪く、いつも私にあたっていました。私はその時間がとても苦痛で気分がすさんでしまって、せっかく練習していっても、先生のところでまったく弾けなくなってしまうのです。
 私が帰ってきて、上手に弾けなかったため一人で泣いていると、その姿を見た父が直感的に母が私に何か言ったのだろうと感じ取り、夫婦でけんかが始まるのです。私が一人暮らしをした理由は母から離れるためでした。でも、またいつか家に帰ると同じことになるのではと思っています。
S短大教育社会学、女
 (授業で聴いた子育ての歌の歌詞の)「お母さんに聞かせて」というところがいいですね。私の母なんか、いっつも「なんで?」とか「正直に言いなさい」とか問い詰めるようにしか言わない。「言いなさい」と言われると逆に言いたくなくなっちゃって、ついうそついたりしてしまう・・・・。でも、最近は、なんだかどんどん母親が子どもに見えてくる・・・・。でも、わかんない。これ以上はうまく書けないけど、今日はあてはまることだらけで何か良かったです。
S短大社会教育概論、女
 朝、起こしに来るときの母さんと父さんの違いに気がつきました。
 母さん 「いつまで寝てるのー。毎朝、毎朝、いーかげんにしなさい!(とにかく怒る) なんにもしないで。(関係ないことまでついでに怒る) 本当、起きたためしがない。(一度もしたことないように言う。私はこれに切れます)」
 父さん 「おーい。(40すぎの男が娘に、おーい、ですよ) 2回目だぞー。遅れるぞー。大丈夫かぁー。(心配されたらがんばりますよ) 起きれるかぁー。がんばれよー。(ごめんね父ちゃん、と素直に言える) 歯みがきしちゃうと少しはラクだぞー。(思わず笑っちゃいますよ。ありがとってカンジです) 10分後にまた来るから。(これもとてもうれしい。次来たときは起きてようと思う) がんばっとけー!(もうほとんど起きてる。不思議と・・・・)」
 どう思います? ちなみに私は父が好きです。母とは風呂に入りたくないけど、父ならいいです。父のならパンツだってたたんであげる。ファザコンじゃないけど。
 上の会話は、妹を起こしに来る両親の声を部屋で聞いたものです。そして妹は父の2回目の声がけのあと、起きてきました。でも、下へ降りて母にまた「遅い!」と怒られました。とうとう朝からけんかです。父さんの努力のかいなし。チーン。

 子どもとしては、そういう家族関係のなかで、どのように「自己防衛」したらよいのか。先の「おまえなんかいなくたっていいんだ」といわれた娘のペーパーについて、他大学で、次のようなレスポンス(反応)が返ってきた。

T大T部社会教育計画、女
 (酒とギャンブルにあけくれ、「おまえなんかどうにでもなれ」と言うサラリーマンの父について述べたうえで)ちなみに、私も自分が不幸な境遇だなんて思わない。むしろラッキーかもしれない。だって、その分、いろんな心の痛みが手に取るようにわかるから。それに底辺を経験しちゃえば、あとは上がるだけだし。私はこんなことで負けてられないと、いつも自分を奮い立たせています。
T大T部社会教育計画、女
 (酒びたりで、自分の受験を邪魔していたのに、いざ進学校に受かると、自分の手柄のようにまわりの人に自慢していた離婚前の父について述べたうえで)最近では、両親が仲良くなかったりして悩んで愚痴をいっている友達の苦痛がわかるようになってきた。その子たちが私の苦しみを完全に理解できないように、私も彼女たちの苦しみを完全には理解できない。当たり前ですよね。おたがい違う人間なんですから。だから、少しでもわかってあげようとすることはできるとわかりました。

 これらについて、次の2通りのペーパーがさらに返ってきた。

T大T部社会教育計画、男(過去のU部学生のもぐり)
 家庭での不和を苦しんだのだろうが、「私は不幸ではない、ラッキーかもしれない」、「苦しみを知っているがゆえに、ひとの苦しみを理解できる」というそんなとらえかたができてとてもすごいと思う。すごいなどという言葉で相手を見るのは軽率かもしれませんね。
 私自身はどうなのだろうか。絶望や困難に向き合い、自分の生き方を通して主題を追求していく。そんな人生を歩んでいきたい。そんなことを、片意地はらず、自然に思っていきたい。
T大T部社会教育計画、男
 不幸は不幸でしょ。「それでも自分は不幸だとは思わなかった」というセリフが気になる。気に入らない。「○○のために」幸せになるというようなセリフも気に入らない。まず、自分が一番幸せになろうとしてほしい。自己中心的な意味ではなく。

 上下競争の現代社会においては、後者のペーパーも悲劇的だが真実である。「ぼくがもし宇宙で一人で生きているのなら、もっと自分らしさを守れるのに」というペーパーも前にあった。あるとき、過労死をテーマにして、現代社会において主体的に自己を主張し、家族関係や夫婦関係を守ることについて考えるという授業を行ったところ、次のようなペーパーが提出された。

T大U部社会教育計画、男
 (過労死について)他人事。どうでもいい。俺に関係ない。自分の親父だったらかなり泣けてくると思うが。でも、過労死だとか登校拒否だとか、そういった他人事について大勢の人間で考えるみたいなところが、この授業の嫌いなところです。ある日、ふっと一人で心の中で考えたり感じたりするのが人間だと思う。大勢の前で口にするなら、それらをすべて証明して、すべて背負ってくれ。たのむ。
 過労死だって夫が選んだことだ。嫌なら仕事をやめればいいだろう。それなのに死んだのだから、私はそれでいいと思う。笑ってやれよと思われる。子どもはおまえ(「残された妻」のこと)が支えろよ。でなきゃ、やめちまえと思われる。日本のせいにするなよ、自分が頑張れよと思われる。

 ぼくは、これに対して、「この学生も、ほかの人も、自分一人で頑張るなんてことはしなくてよい。どんな人もそれぞれの事情があって生きているのだ。自分の今の気持ちを自分自身が本当の意味で認めてあげられるようになると、優しくなれるのでは」とコメントした。しかし、この学生は、そのコメントではきっと満足しなかったと思う。上下競争のなかで、ガンバリズム(「頑張らなくてはいけない」という精神風土)に毒され、しかし、それだけではとうていどうにもならないという客観的事実に直面し、その事実を認識するための自己客観視(ここでは自己の現代社会のなかでの位置づけ)を避けて、またガンバリズムという不幸な思考方法に戻って、自分の悩みに無理に決着をつけようとする。そんなことの繰り返しだから、「他人事だから俺には関係ない」という排他的、閉鎖的な傾向がますます強まっていく。
 そこまで悲観と絶望を深めている現代人は、どのようにしたら、癒しと成長の機会を得て、自己と他者への信頼を深め、上下競争の社会で病んでしまった家族関係を回復する家族の一員としての主体になることができるのだろうか。

2 奴隷の覚悟と自己決定

 次に、青年が家族から経済的に自立し、賃労働者等になるなど社会に出て行こうとするとき、逆に「自分らしさを大切にしたい」という願望がかえって強く自覚されるようになる。そもそも、「もう一つの自分」や「ほんとうの自分」を見つけたいという現代人の「自分探し」の願望はかなり真剣である。この願望は生涯学習の大きな動機ともなっている。その場合、教育者は本人のもつ無限の可能性を信じて援助するだろうし、社会学者は現代社会において個がいかに疎外されているかを唱えるだろう。しかし、ここではこうした現代人のもつ「個の深み」が葛藤するいくつかの「事件」を通して、その現実にもっと近づいてみることにしよう。
 街頭説教事件=大人になってくると、この世が思い通りにはいかないことに気づいてくる。これを「楽園追放」という。ある学生が出席ペーパー(授業中、自由に書くもの)に、つぎのように書いてきた。

S大教育社会学、女
 (「自分とはなにかを考え、アイデンティティ=自我同一性を獲得することは青年期の重要な発達課題である」という授業において)人間の短い寿命の中で、「どうすれば自分を見つめたことになるのか」について、私は考える気はありません。「思い切り貪欲でありたい」という欲求に忠実でありたいというのみです。
 以前、街頭で心理関係の会社の人に声をかけられ、話をしたとき、「きらいなものはしない」と言い切った私に、彼は勝ち誇ったように「きらいなものはしないというのは子どもです」などとのたまわったのです。こんな話題で悦に入る人のほうがよっぽど子どもではないでしょうか。その方は、「世の中すべて愛ですよ」とおっしゃいました。彼は自分の得たものをかたくなに他に主張して、自分を肯定したがっているだけではないでしょうか。「時間がありません」という私に彼はなおもお説教し、私は待ち合わせに遅れてしまいました。

 「いやだけれどもやる」という消極的積極性の行為は「きらい」(悪)ではあろうが、現代社会で生きるためには必要(悪)でもある。その説明の前に、この人の「街頭説教事件」に関するコメントをしておきたい。
 さわやかな自己主張のコツは「私は今は」である。「私は今はあなたの話を聞きたくありません」ということにでもなろうか。これを自他への信頼に満ちた生産的構えということができる。人によっては、「なんで自分だけがわざわざそんな主張のための努力をしなければならないのか」と感じ、その努力を「きらいなもの」に思ってしまうかもしれない。しかし、他者や社会との関係の中で「きらいなものは(なるべく)しない」という態度を貫くためには、たとえその努力は「きらい」でも、このような生産的構えを自らの内面にはぐくんでいくことが重要になるのだ。
 とはいえ、この人の「きらいなものはしない」(積極的消極性)という気持ちの潔さの部分は、現代社会において自我やアイデンティティを守るためにはとても重要なことであり、これからもぜひ大切にしてほしい。しかし、逆に、「きらいだけれどもがんばってやる」という「消極的積極性」は、社会においては「仮面・戦術の必要性」として不可避でもある。ただし、大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、基本的信頼を基調とする仲間、恋人、家族の関係などにまで持ち込まないようにする必要があるということだ。言い換えれば、「消極的積極性」の本質的な問題は、心から自己の仮面と戦術の奴隷になってしまってアイデンティティを見失い、自他に対する信頼感を失う危険に陥ることにあるといえる。だから、「きらいなものはしない」というこの学生の大切な思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すと、いっそう正確でリアルな思考になるとぼくは考える。
 「消極的積極性」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極性(仮面・戦術)や消極的消極性(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の覚悟)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」というのは酷だろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定というよりも社会的存在としての人間の宿命なのである。
 ついでに「街頭説教事件」の彼の「世の中すべて愛ですよ」という言葉は、「世の中すべて愛と憎しみ(と無関心)ですよ」というと正確に言い直すことができると思う。「世の中すべて愛ですよ」というのは、この学生の指摘するように「自分の得たものをかたくなに他に主張」する子どもっぽい主観にすぎない。真実はもっとアンビバレンツ(両面価値)なものなのである。アンビバレンツを受容せずして真実には接近できない。
 さて、「消極的積極性」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極性(仮面・戦術)や消極的消極性(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の自覚)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」ということはできないだろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定ではなく、社会的存在としての人間の宿命なのである。
 つまり、賃労働に代表されるような職業的な役割遂行においては、潔く奴隷の覚悟をする消極的積極性が必要になるということになる。これには例外はある。貧乏な芸術家や職業革命家などがそうである。また、過労死の問題を授業で扱ったとき、「プロボクサーになろうとしていたときの自分は充実していた。そのときには死をも賭していた」というペーパーがあったが、これなどは職業であるのに積極的積極性(死んでもいいからやりたい!)であるという好事例であろう。
 だが、「貧乏な芸術家」などの例は一般的ではない。たとえば、作品が少しでも売れ出した芸術家などは、バイヤーやユーザーなどの他者からのなんらかの社会的しがらみに縛られ始めてしまうのである。まして、一般的な職業においては、「働き甲斐」(積極的積極性)とともに「働かなければならない」(消極的積極性)が不可避である。だからこそ、一般人(ぼくたち)にとって、そういう職業的役割遂行とは異なる「自己決定」の行為としての生涯学習活動やボランティア活動の独自の存在意義が明らかになるのである。
 死をも賭しているプロボクサーが「自分探し」のために別に生涯学習やボランティアをするということは、あまり考えられないだろう。問題は、奴隷の自覚に欠けたサラリーマンが、家族や市民の一員としての「もうひとつの自分」を見失い、職業だけを頑張りすぎてバーンアウトしてしまったり過労死してしまったりする点である。この問題については、現代社会における生きる主体性の喪失として、すなわち、積極的積極性と積極的消極性の喪失の問題としてとらえるべきなのである。
 以上に述べた意味から、消極的積極性や消極的消極性については、生涯学習やボランティアなどのような自己決定行動の範疇からは外してとらえるほうが思考の発展のためのメリットが大きいとぼくは考える。
 主人が「したくないことはしない」立場であるのに対して、奴隷は「したくないこともする」立場である。それは主人−奴隷のヒエラルキー的関係に基づいている。奴隷の覚悟とはすなわち、自己の個が抑圧されることがあっても「負け犬」にならずに、頑張っているふりをしたり(消極的積極)、やり過ごしたり(積極的消極)できることである。そのことによって「自分探し」にとって大切な「今、ここで」というときに(たとえ賃労働のなかでも)自ら進んで個を発揮する(積極的積極)ことができる。つまり、奴隷の覚悟をすることによって、逆に、生涯学習、ボランティア、地域という自己決定の場面などでは、「やりたいからやる」という自己の人生の主人の立場(=主人公)にもなろうと思えばなれるのである。「いつでもわけもわからず頑張っていればいつかは報われる(他者の主人になれる?)」という今までのガンバリズムでは、自己決定型の生涯学習はできない。ネットワークの主体になるためには、まず、ここのところが肝心である。
 ぼくは狛江プータロー教室(狛プー)という青年教室の講師をしている。狛プーでは「1年に1回来ればメンバーだ」、「来たくないときには来ない方がよい(潔い撤退)」というネットワーク型の運営が行われている。あるメンバーが「狛プーはありのままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」と言った。しかし、同じ彼が「狛プーはぼくにとって安らぎの場ではない。あるときにはつらい鍛練の場だ」とも言う。そのときのつらさは、奴隷のつらさではなく、それとは正反対の自己決定のネットワークのなかでの自由のつらさだ。従来の主人か奴隷かという「たて社会」(ヒエラルキー)の人間関係のなかで奴隷として適応しようと頑張ってきてしまった私たちには、奴隷ではない者同士の「私は私、あなたはあなた」の狛プーのネットワーク型運営が寂しかったり辛かったりするときもある。しかし、狛プーがそのように職場や学校での奴隷たちにとってのオルタナティブ(あるものとは違うもう一つの)な積極的積極の自己決定によるネットワークだからこそ、狛プーは自由を愛するプータローのこころが交流する癒しのサンマ(時間・空間・仲間という3つのマ)になりえているといえるのである。

3 「防衛→批判→主体性獲得」の双方向教育

 このような自己防衛の現代社会において「心に響く」双方向教育をしようとすると、それは、すなわち、「心に響く」=「触れられたくない話題に触れられる」教育ということにもなる。そこで当然のように生ずる学習者からの「反発」に対しては、どう対応すればよいのか。そこでのもっとも基本的な原則として、前年までにすでに述べてきたように、知的水平空間においては批評が歓迎される。そこでの「歓迎」とは、もちろん、癒しを提供するために、そういう反発に対して迎合し、緊張関係を避けるということを意味するものではない。ぼくは、癒しと自立の統合の観点から双方向教育を進めることによって、学習者の「防衛→批判→主体性獲得」のプロセスを支援したいのである。しかし、これがなかなか難しい。

T大T部社会教育計画、女
 今日の授業はこじつけでした。御自身でもそうおっしゃっていたようですが。夫婦や性のVTRが、どう大人の指導につながるのでしょう。まず、(mito注・今回の教育目標の)(3)大人に「幸福を配る」とは何ですか。自分の勝手な思いあがりを見つけるんじゃなかったんですか。先生の授業は社会教育のために私たちに自己発見させようとするものだと解釈していましたが、最近わかりません。今日の夫婦のVTRの「相手」と「自分」を大人という共通点で学習者にあてはめるんでしょうか。大人に「幸福を配る」自分とは、その人たちにとって子どもととらえられてしまう自分なのですか。どこに社会教育としての自分の存在を位置するかわからなくなります。それくらい考えるべきですか。いや、先生がヘタです。学生にわかりやすい材料を使っているつもりかもしれないけど、ただ先生が使いたかっただけ。性のビデオとか、先生は何を使ってもいい権利をもっているわけですから。使ってみてから批判されるまで。少なくとも、社会教育としてのVTRとのとっかかりくらい説明してみなさい。VTRの内容だけやりたいのではと言われたくないのなら。それは個人によって得るものが別、などと逃げるな。
 少なくとも私は、社会教育の知識をこの授業で得ることを要求している。方法の自由が、先生には与えられているのですよ。私だって、先生の授業において、余談のような、人生について考えられる話は面白く聞いている。しかし、それは「得した」という程度のものだ。もしかして、VTRと社会教育とは、ひと〜〜つも関りがなかったのかしら。もしそうなら、「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。
 ヒハンする前に、先生の答を正答としてしまう人もいる。先生は問題を提起した以上、答える義務はあるのでしょうが、それを選ぶかどうかは、その人次第ですものね。私は先生にも変わってほしい。その押しつけがましさから抜け出したいと感じてしまうときもある。影響を与える人ならば、影響を与えられる人になれ。そのためのペーパーだとも思い、感心もしますが(いや、自分のやりたいこと[意図すること]のためということもあるでしょう)、そのすべてに答えようとする姿勢は、悩んでしまう人と共通するものがあるのでしょうか。先生は悩みそうもない。それで、悩む人にはカリスマならぬ変なカリスマ(妥当な言葉が見つからない)になるおそれだってあると思うよ。気になる所だけふれられ、ふれたくない所はふれない人になれば楽でしょうが、そんな人間は人生の発達・成長において困るし・・・。
 まとまらないけれど、わかりますか、伝えたいこと。また書きます。
 授業で読み上げてもいいけど、勝手に実物投影機で人の字を出さないでください(「人の字=名前と同じ」という注釈あり)。
 先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は。

 このペーパーは、毒にも薬にもならない社交的な仮面の会話を捨てて、mito的授業の本質を否定的側面からずばりと突いたものだと思う。それだけに、ぼくはかなり動揺してしまった。このペーパーの出たその日のすぐあとの授業で、ほかの学生からさっそく「早く内部葛藤を解決して、いつもの自信にあふれた授業に戻ってください」と注文を受けたり、あるいは、数日後のS大の授業で話題にしたときも、「今日、出席ペーパーのことを話してるみとちゃん、すごいこわいとか思っちゃった。それじゃあ、受けて立ってるんじゃなくて、ただその女の人に文句を言ってるだけだよ。それじゃあ、みとちゃんのこと、よくわかんないと思うよ」と書かれたりしてしまった。かなり冷静を装おうと努力はしたのだが、ぼくの内部の自信喪失がマイナスに反映してはいけない授業という公的な場面で、実際にはかなり反映してしまったのだ。そのことで、そのときの授業を受けた学生にも不快な感情を与えてしまったと思う。しかし、それより、「教師というのは、劣等感を刺激される職業である」と聞いたことがあるが、「ああ、このことなのかもしれない」という気づきがぼく自身には大きかった。こういう場面では、教師は、学生と対等な立場なのではなく、学生の踏み台として利用されるべき立場なのである。「他人が入り込むべきじゃない所までペーパー書いた人が入り込んじゃっているから、途中から読むのがいやになってしまった」というS大学生のペーパーもあったとおり、たしかに、ふつうの対等な人間関係であったら「あなたとは出会わなかったことにしよう」とぼくはこの人にいってもよいのだろう。そして、自己抑制がきかずにこのようにしてすぐ葛藤してしまうぼくが、「暴力とセックス以外の申し入れはすべて受けて立つ」と宣言していること自体、無謀な話なのかもしれない。
 しかし、この学生は「また書きます」といってくれている。これは、ぼくにとっては、細いけれども一本の糸がまだつながっているのだという救いを感じさせてくれる文章であった。知的水平空間における批判は相手への基本的信頼に基づく肯定的ストロークの一種だ、とぼくは前からいっているが、それはぼくの強がりにしかすぎないのかなとも思うときもあるが、やはり知的水平空間における他者批判は、相手の存在の否定とは異なる大きな可能性をもっていると思う。また、批判の刃(やいば)はそれが研ぎ澄まされれば、自然に自己にも向いていくものなのである。ペーパーによるこれらの批判をきちんと受けとめることによって(当然、それは批判に無原則的に同調することではない)、「本人の主体性の獲得を他者が援助できるのか」という教育の本質的難問(アポリア)に挑んでいくのもなかなか意味のあることではないかとも思う。
 S大の男子学生が、この批判のペーパーやその他のmito的授業への共感や批判のペーパーとぼくのコメントを読んで、「教師との信頼関係も、それが濃密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに拘泥しているどころではない」とし、出席ペーパーシステムに対しても、「出席ペーパーは感想であってもよいことになっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達のために感情を吐き出すためのものではないと考える。感情の吐露に安寧するのは、ストローク(人は信頼しうるものだとする試み)においては有効であろうが、自らが求め学んでいく学生の時期に休息を得てしまって、本当に先々個人という主義を担って生きていかれるのかと危惧の念を抱く」と書いてきた。授業への共感を書くことも、批判を書くことも、ともに感情を表現することにつながっており、それは依存を助長し、主体的な学習をむしろ阻害してしまうのではないか、ということであろう。教育のアポリアとはこのことである。しかし、ぼくは、こう考える。たとえばこの批判のペーパーを書いた学生は、これを書いたことによって今までの彼女の主体性を減ずることになっただろうか。そんなことはないだろう。ゼロかプラスのどちらかであろう。また、批判のペーパーのやりとりを見守っているほかの学生の学習にとっては、「漁夫の利」もあるだろう。それなら教師は教育のアポリアにチャレンジしてもよいのではないか。そして、このアポリアにおいて重要とされる現代社会における個人の主体性の獲得のためにもっとも必要でかつ今は欠けていることとして、ぼくは、他者への関心と、自己と他者への基本的信頼と、他者への共感的理解の3つを考えているのである(これは、他者との同一化や協調とは異なる。むしろ、それらとはまったく逆といっていい)。
 それでは、彼女の批判にひとつずつ対応していきたい。
 ぼくが自分で「こじつけ」といったのは、むしろ「社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識」についてである。ぼくにとっての本命はあくまでもVTR「教えます、心を伝える会話術」である。上映時間は15分であった。夫に自分の心を伝えられなかった妻や、妻を「おのれの妻」としか認知していなかった夫が、地域活動や社会教育(父親学級)での対等な人間関係のなかで業務連絡ではない「夫婦の会話」ができるようになったという映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。しかし、そういうふうには学ばないという学生がいてもかまわない。「得したという程度のもの」でも、それを意味あるものと受けとめる学生がいたっていいだろう。
 この批判のペーパーを読んで、4年越しにぼくの授業に出席しているT大のある女子学生が次のように書いてきた。「mitoちゃんの持ってくるVTRはかならずしもわかりやすいものではないと思う。むしろむずかしいのではないかと思うこともある。(中略)VTRのなかの主体性をなくしてしまっている(そうでない場合もあるけれど)人の状況を見ながら、どんなことが契機になって主体性をとりもどすことができるのかということを考えることも意義があると思っている。VTRのなかの人びとが自分とはまったく考え方が違うとしたら、私はこの人たちの考え方のどの部分は共感ができて、どの部分に反発を感じるのかと考えることによって、いまの自分自身がどんな価値観をもっているのかを知る機会にもなると思う。他人の主体性獲得を援助するためには、援助する側の主体性も大切なのはもちろんのことだと思うし、いろんな人のいろんな事情やちょっとした弱さをそっとわかってあげる(変な言い方)やさしさ(?)も大切ではないかなと思う」。
 これに対して、ミニ知識のほうは、このときは「ペダゴジーとアンドラゴジーとの違い」についてであり、これは、ぼくでなくても、他の研究者も注目しているところである。むしろ、これを深く研究している研究者の書いた本を読んだほうがよいだろう。ミニ知識は、学生が教科書を出発点とするなどして書き言葉メディアから学べばよいことであり、ぼくがしゃべらなくてもよいことかもしれない。ただ、彼女に限らず、「社会教育の知識を学びたい」という学生も多いので、折り合いをつける形で、さらっと、ただしぼくの評論をまじえて説明しただけなのである。だから、時間がない場合は、ミニ知識の解説を省略して項目の紹介だけにとどめることもぼくの授業では多い。
 「大人に幸福を配る」ためには、「自分の勝手な思いあがりを見つけること」(ぼくの言葉でいうと「援助者側の無知と非力の自覚」)が最低必要条件になる。「大人に幸福を配るとき」も「子どもに幸福を配るとき」も、同様に援助者が「上位の大人でありたい」、「上位の大人でなければならない」という「思いあがり」を捨てることが必要になると思う。それが、社会教育(の援助者)の存在位置である。なお、このペーパーを読んで、ひとつ、ぼくの説明もれに気づいた。「配る」という言葉は、役所や社会教育施設に座り込んでしまって学習者を待っている社会教育職員の受動的な姿勢にたいするぼくなりの批判を表わしている。このあたりは、今までずっと説明を忘れていたぼくのミスである。ぼくがそれに気づいたのは、この批判のペーパーのおかげであり、また、他の学生にとっては「漁夫の利」といったところであろう。
 性のビデオなど、ぼくは何を使ってもいい権利(教育権)をもっているわけだが、それを行使するにあたって、ぼく自身が教師としての自分に与えられた役割と自分なりの教育意図を確認するとともに、「批判されるまでは、使ってみる」という姿勢も学生に示している。また、学生から批判されても、ぼく自身がそのVTRを使う自分の教育意図を肯定できるのなら、使い続けることだってあるだろう。しかし、教師が「学生からの批判を受けて立つ」以上に学生(不快を感じている数%の学生)に「配慮」をするとしたら、いったい何を配慮しろというのか。「社会教育としてのVTRとのとっかかり」を説明することの要求はわからなくはないが、彼女はそれに「少なくとも」という言葉をつけているのである。また、「社会教育にどう関りがあるか」ということについても、ぼくが説明したほうがよい範疇もあるし、学生が自分で考えたほうがよい範疇もある。そして、「個人によって得るものが別」というのは、ぼくが逃げのために使う言葉でもあるかもしれないが、事実を表わした言葉でもある。援助者側の価値観とは違う多様な受けとめ方が学習者側に存在してよいではないか。ぼくは「VTRの内容だけやりたいのでは」といわれたっていいのである。なぜなら、そういいたい人は、「出席ペーパー」や「ちょっと待った」や「パフォーマンスタイム」でそういう批判を行う自由をぼくは保障しているからである。今回だって、そういわれたから、このVTRを選択した教育意図を(再度)説明したではないか。学生からの批判や質問にきちんと答えていく双方向性の確保さえ行なえれば、教師はそんなに完璧な計画を立てたり説明をしたりしなくても、あるいは完璧であったかどうか非生産的にくよくよしなくても、高等教育や社会教育ではそれなりに役割が果たせるのだと思う。知的水平空間は、援助者と学習者の協働によってつくりだされるものなのである。
 教育学には人文系としての側面があると思う。「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである。だとすれば、mito的授業という知的水平空間などを利用しながら、学習者が主体的に学習するしかない。
 ぼくだけが、「大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場」ではない。げんに彼女もこのように問題を提起しているし、そのほか、パフォーマンスタイムを使って(その使用時間についてはぼくと相談のうえだが)、学生は個人の自分なりの問題を提起することだってできるのだ。ぼくの問題選択に不満な人がいるのなら、その人は、ぼくの「立場」に期待するのではなく、自分に与えられた批判の自由をこそ使いこなしてほしい。
 mito的授業について「人を崩していくやり方」と書かれているが、崩れるのを恐れなければいけないほどの素晴らしい枠組みをすでに備えてしまっている人などいるのだろうか。また、ぼくは、教育の役割は概念崩しであるとする論にはやや疑問も表明している。どちらかというと、ぼくの表現は、学習者本人の枠組みの変化への「援助」である。
 ぼくの授業がつらいという人はたしかにいる。ぼくはそういう人には「無理しないで元気になったらおいでよ」といっている。それ以上のことをいおうとしたら、相手の人生をぼくが背負込んでしまおうとすることと同じになってしまう。学習者が、自分ではなく、ほかの学習者のなかから、「ヒハンができなくて崩れていってしまう人」や「落ちる人」や「教師に信頼度が高くなる人」や「そーだんにきたりする人」や「教師の答を正答としてしまう人」が生まれることを心配することも、同様の「背負込み」の行為だと考える。当の学生にとっては余計なお世話なのではないか。たとえばだれかに相談するという行為は、その人にとっては問題解決に向かう主体的な姿である場合だって多い。「自分のために学ぶ」のであるから、一般化して論じようとせずに、自分の主体的な学習にとってぼくの授業がどう無益であるかを訴えたほうがいいと思う。
 「先生にも変わってほしい」とあるが、ぼくがどう変わるかは、ぼくが決めることだ。そして、学習者がどう変わるかは、学習者が決めることだ。たしかにぼくは、「影響を与える人」としての教師の立場にいると思う。しかし、情報化社会において情報に対する主体性としての情報リテラシーが求められるように、マスプロの大衆化した高等教育を受けている学生には、「主体的な授業の受け方」が求められているのである。
 出席ペーパーには、「比べられるために書く」ことばかりの被抑圧体験から、「書きたいことを書く」という解放体験への転換という「教育意図」が明確に存在している。しかし、彼女の「自分のやりたいこと、意図することのため」というぼくへの分析には、そのことへの不快感が表明されているのであろう。現代学生には、どうも教師の学生に対する「教育意図」が存在すること自体に抵抗感があるようだ。そういう抵抗感も大切だろうが、それを「教育意図」の内容に対する抵抗感に止揚することが必要なのではないか。また、大学教員には研究という役割もあり、ペーパーを研究成果に結びつけるというほかの「意図」もぼくにはある。しかし、そうだとしても、学生がそれに目くじらをたてることもないだろうと思うのだが、どうだろうか。
 彼女がほかの一部の学生を「悩んでしまう人」とレッテルを貼っていることに対しては異議を申し立てておきたい。彼女はそういうレッテルを貼って、「悩んでしまう人」と共感的な出会いをもつことから逃避しようとしているといえるのではないか。「先生は悩みそうもない」という言葉に対しては、「ぼくはそのことについては今は話したくない」という応じ方がぼくにできる最善の対応であると考えたが、どうだろうか。
 カリスマ性については、ぼくは、「授業で退屈させる教師」のつぎに悪い教師像として、「学習者の依存的学習を増大させる教師」という規定をしてきただけに、かなり考え込んでしまった。そこで、自信の回復方法として、「信頼している人たちに聞いてまわる」という手段があるのだが、それを実行した。フリースペースで学生にこのことを聞いてみたのだ。すると、「カリスマ性がたしかにある」というのである。「でも、尊敬を感じてしまうのだから、いい意味でのカリスマじゃないですか」という。ちょっと面映かったが、それどころの話ではない。理論的には、教育のアポリアのうちの否定的側面の証明になってしまうではないか。尊敬されているから嬉しいと教師には感じられも、学習者にとっては主体性の獲得の阻害要因になってしまう。しかし、もう一人の学生がこういった。「mitoちゃんにはたしかにカリスマ性を感じるけど、依存させてくれないカリスマだよね」。これを聞いて、「そうだ、大丈夫だ」とぼくは再確認できた。
 たとえば、今まででもぼくは、学生が「そーだんにきたり」しても、「ぼくはカウンセラーとしての専門性をもっているわけではないんだから、カウンセリングはできないよ」と「自制」を表明している。そして、「社交的な会話ではない真実の話を聴けることは、ぼくにとっても興味深いから、ぼくのために聴いている」という姿勢を示しているし、学生とは異なるぼくの枠組みを伝えたいとぼく自身が思ったときは、遠慮なくエンカウンターしている。そういうとき、ぼくはとても充実している。ぼくにとっては、学生の相談に乗ることは、水平な出会いの至福が感じられるかなり大きな楽しみなのである。だいたいは、「ああ、この人もこの人なりの理由と事情をもって生きているんだなあ」という実感をしみじみと味わう結果になる。だから、カリスマなのではなく、「相互依存」に近いのかもしれない。一回限りの人生のなかで、人と人とが立場や身分を越えて「同じ人間」という感覚を確かめながら、本当の気持ちが出会うことなど、何回あるのだろうか。また、ぼくは、ほかの学生をシャットアウトして個人の相談にのるということは原則的にはしていない。フリースペースなどで相談を受け、そこにいる人たちで話に加わりたい人がいれば自由に加わるという社会教育的な方式なのである。そして、ぼくが専門性をいかして行なっている相談者に役立つための社会教育的な情報提供としては、「おたがいのあるがままを尊重しあって、開きたい心を安心して開くことができ、いつ行っても自分を両手を広げて歓迎してくれるサンマ」(フリースペースや青年学級)の意義と所在の紹介が多い。
 教師は、このようにして、カリスマにならないままで学習者からの信頼を獲得するということができるのではないか。だとすれば、教育のアポリアは肯定的な解決の方向に一歩近づいたと解釈できるのである。
 実物投影機で人の字を出すのは、ほかの学生の学習の便宜のためである。「人の字=名前と同じ」というのは、ここでそんなに一般化して断じるほどのことでもないだろう。彼女が「私は自分の名前がほかの学生に知られてしまう危険を感じるので映さないでください」と書いておけばいいだけの話なのである。いや、投影拒否の理由さえもほんとうは書かなくてもよい。堂々と「禁投影」というマークをつけておけばよいのだ。逆に「自分に著作権があるのだから氏名を公表せよ」(著作権の一部としての「氏名表示権」)と要請する人がいてもよいだろう。「非公開」でもかまわない。自分の著作物に限っては、すべて自分の管理下に置いていいのである。なお、投稿などの場合には、「自分の文章の改竄はするな」とはいえるが、「自分の文章を必ず公開(採用)せよ」とはいえない。しかし、mito的授業においては、「公開せよ」と書いてよい。さらに、それに、「禁コメント」とつけ加えてもよい。これらは知的水平空間を実現するためという特殊な事情によるものである。
 「○月○日によく考えて読んでください」の期日指定の部分については、ぼくの事情からいえば、授業準備の能率化のためには少し困るところがあるが(即決主義)、このペーパーの場合は、内容が重大であるだけに、ぼくはその要請を受け入れる必要があるだろう。しかし、「よく考えて」という言葉は筆者として読者に直接的にいえる言葉ではないと思う。人との対等な関り合いのなかでは、「余計なお世話」に類する言葉であろう。筆者は自分の説が「よく考えて」受けとめられるように自らが一生懸命書くということ以上のことはできないはずである。実際には、ぼくは、この批判のペーパーを数十回繰り返し読んでいるが、それは、ぼくが何回も読んでよく考えたい内容だったからであり、「よく考えて読んでください」といわれたからではない。何を書くかは彼女の自由だし、それを読んでよく考えるかどうかはぼくの自由だ。
 「先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにも関わらず続ける根拠は」というのは、「こんな批判は数多く受けているはずなのに、そういう批判を聞いているのにも関わらず続ける根拠は」という意味だと思う。ぼくは、いまの教育に欠けていることは、学習者に管理や保護を与えることではなく、自由を与えてそれに恐怖する機会を提供することだと考えている。そのことから(批判の)自由を行使する主体性が学習者自身のなかに育つだろう。たとえば、自分が批判したからといって社会がそれにあわせて変わってくれるとは限らないのだ。批判の自由が保障されて、保護され管理されてきた自分にはその自由がなかなかやっかいなものだという現実をまのあたりにして戸惑い、そこから気を取り直して、その自由を使って他者に通じるように自己の思考を表現できるようになることこそ、今後のネットワーク型社会が現代人に求めている主体性なのだと思う。
 こういうペーパーに葛藤しながらなんとか対応しようと燃えている自分に気づくとき、ぼくはぼくの自我がなんとかかんとかして拡大しつつあるのを実感することができる(枠組みが変わらないまま関係性をその枠組みのなかに詰め込む自己肥大かもしれないという危険は感じるが)。批判的ペーパーとの出会いは、ぼくにとって意味ある他者との意味ある出会いの重要なひとつなのであろう。そういう意味では、最大の「漁夫の利」を得たのはぼく自身なのかもしれない。

「いい世界だよ」

昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
(狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」年間講師)

 非常勤でいっているT大の授業で次のような出席ペーパーが出された。

 (障害者の妻に支えられながら、訪問看護の活動をし、「欠点をさらけ出して本音で生きる」という内容の)ビデオを見る前、別に関係ないね。見た後、まったく関係ない。こういう内容のものはとくにきらいです。この用紙を出すのは最初なんですけど、授業は3回目です。最初の授業で自分にとても合わないと思い、そのとおりでした。過去2回もすべてが役立たずで、何も得るところがないです。とにかくあたりまえのところでしかない。今回のことについては、主人公のやりたいようにしているのでいいんじゃないの、と思った。それだけだ。

 さらに、その人は翌週に次のように書いてきた。

 (企業ぐるみのボランティア活動が自立した個人のボランティア活動の補助器になるというビデオを見て)企業だからできることだと思う。サラリーマンは給料でるから。それは個人的なものではないのである。ボランティアでは食えない。個人でボランティアをやっているのはバカである。ある程度のゆとりがあって、やることである。これから何かをやろうとしている若者等にとっては、とっても無駄な時間である。自分の欲を満たさずしてどうする。

 この2つのペーパーは、人間的な真実にあふれている。空虚な「あるべき論」などはいっぺんに色あせてしまって、いきなり「さあ、どうすればいいんだ」という本質論に迫ることができる。このペーパーを他の授業で紹介したところ、「そういう自分を隠さずに書けるなんてすごい。えらい」という賞賛の声の方が多数派であった。
 狛プーはどうなんだろうか。狛プーのメンバーはまわりの人から、自分が狛プーに参加していることについて、「やりたいようにしているんだからいいんじゃないの」などといわれているのではないだろうか。あるいは、その言葉の背後に「若者なんだから、もっとほかにやることがあるんじゃないの」などという否定的なニュアンスなどを感じて、いやな気持ちになったこともあるのではないだろうか。
 ぼくがあるNPO(民間非営利団体)の研修に講師として行ったとき、この「やりたいようにしているのでいいんじゃないの」というペーパーを読み上げたところ、ほかのメンバーが「共感はできないが、ふつうは隠すことを言えるという点はすごい」などと評価するなか、その団体のタイでの少女買春反対のボランティア活動に参加している女子高校生が、「ペーパーの人はボランティアのいい世界を知らないだけだと思います」という反応をあっさりと返してくれた。
 彼女の言葉はぼくには新鮮だった。自分自身については、狛プーといういい世界とたまたま出会ったと思えばいいだけだ。また、こういう世界のよさを知らない人に対しては、その人は知らないというだけの理由なのだから、抗弁したり非難したりすることもない。もし、相手の生き方がいかに利己主義的で問題があるかを述べ立てたとしたら、それは過去の「告発型」のやり方と同じになってしまう。でも、「こんなにいい世界があるんだよ」という「提案型」のメッセージだけは、狛プーからこの競争社会に送っていきたいとぼくは思う。(たとえば熟年の人たちだって、平気で狛プーに遊びに来ている。狛プーが若者向きであることをその人がかまわないのだったら、一年に一回だけでも気軽に参加できる)。
 それから、もうひとつ、この上下競争社会のなかで水平異質交流の居心地のよい共生のサンマの内実をつくりだしている主体は、狛プーというシステムでもなければ、担当職員やぼくでもない。たまたま「今、ここで」集まっている人たちが創り出しているのだ。もちろん、だからこそ、こわれるかもしれない危うい存在である。だが、今のところはそれぞれの人なりに関わっているのだから、「自分も、このいい世界の作り手の一人である」と思ったほうがよい。
(参考 自著『癒しの生涯学習−水平異質共生のためのシドウ論』学文社)
中野区地域センター部女性・青少年課『えるぶ』(平成9年3月)特集
 「若者文化をのぞいてみれば」

何にムカツいているのか?
 −癒されない若者文化たち−


仲間とムカツく

 「今の若者はけしからん」、「なってない」などの言葉はよく聞く。おもしろいのは、そういう壮年層や高齢者だって、若いときには同じようにいわれて眉をひそめられていたということだ。
 「時代は繰り返す、心配しなくても時代は若者文化を取り入れながら進んでいくよ」。さて、ぼくたち大人はこういうふうにいって安心することができるだろうか。ぼくは、今の子どもや若者たちだけでなく、時代や、社会や、そしてぼくたち大人のあり方自体にも、そんな「悩みのない言葉」などいっていられないほどの不幸な状況を感じる。それは、『えるぶ』前号の子どもの虐待の問題を読んだだけでも明らかだ。
 若者は何かというと「ムカツく」という。「ムカツく」とは、吐き気がする、腹が立つという意味である。でも、腹が立つ相手に正々堂々と自己主張するのはおしゃれではないと思い込んでいるから、自分をよくわかってくれている「仲良し友達」に、「ムカツいた」と伝える。友達は、タイミングよく相槌をうってそれにあわせてくれる。このようにして、自分の主観的な怒りがそれなりに「社会的に」承認されたような気になって安心することができる。
 このように、同質の仲間関係を大切にし、その集団とあわせて仲良くやっていこうとする志向を「ピアコンセプト」という。ピアとは仲良し仲間、コンセプトとは意識という意味である。学校で教わり続けてきた協調心の大切さが、彼らのピアコンセプトをますます強化、自動化(主体的意識なしに同じ行動パターンを繰り返すこと)させる。『えるぶ』前々号では、いじめも、画一・同一を願う「仲間意識」が前提であると指摘されている。そこまでして、つまり仲間集団に無理にあわせてまで、承認してもらわなければならないムカツきとは何なのだろうか。

怒りにならない?

 過去の若者文化などの、「良識ある大人たちに眉をひそめられた文化」は対抗文化としての役割を果たしていた。そこには、支配的文化のもつ矛盾や不合理への怒りがあって、支配的文化を支える文化(下位文化)としてではおさまりきれず、社会や文化の変革のエネルギーに結びついていた。このようにして、権威に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)は、学歴偏重などの社会の画一的価値観に異議申立てをする。この場合は、上下同質競争の価値観に侵された文化に風穴をあけ、生涯学習社会への転換を進めるためのカウンター・カルチャー(対抗文化)としての役割を果たすことになる。ところが、ぼくは、今日の若者文化には、そういう健康な反抗心を感じられないのである。若者たちはムカツいているだけであって、怒りといえるほどの感情レベルにまでは達していないのかもしれない。
 最近人気の歌には、「自分を信じる」とか「自分らしく生きる」とかの歌詞が多いことに気づく。しかし、その結論は、だいたいが、「君に会えてよかった」、さらには「君のためにがんばる」といって満足して終わってしまう。つまり、個を抑圧する社会に対しては閉ざされ、ムカツきか絶望のままに自己完結してしまうのである。
 「自分らしさ」を大切に育んでいきたいという現代人の願望は、今後のしなやかな個人主義社会を創り出すために非常に重要な要素である。現代社会に生きる切なる願いである。しかし、その願いは、少なくともこの歌のような、彼女が見つかってツーショットになってしまえばそれで十分満たされるという程度のみみっちい願望ではないはずだ。もちろん、恋も大切だが、彼女ができただけで「自分らしさ」が満たされるのなら、「自分らしさを守りたい」などというおおげさな言葉は使わないでほしい。同時代の人びとが、「自分らしさ」を守りながら生きるために必死になっているのだから。
 死んだ尾崎豊は、「何のために生きているのかわからなくなる」、「手を差し伸べやしないこの街」だけれど「どんな生き方になるにしても自分を捨てやしない」(17歳の地図)と歌った。また、一部の熱狂的なファンを獲得していたエコーズは、「やれるかこんな仕事」といって職を転々と変え、理屈ばかりいってなぐりあいになってほされた街で、つまづいて転んでも起き上がらずに「大地を抱きしめて」街に根ざそうとする若者の「独立記念日」を歌った(デラシネ)。今の若者たちは、そういう音楽文化を支える気はないのだろうか。セックスする年齢は良くも悪くも低年齢化していて、恋愛や肉体関係だって、形だけなら多くの若者が憧れにとどまらずに現実に体験しているはずなのに、ハタチすぎても「彼氏、彼女ができたら自分らしさを大切にできる」などと本気になって歌い続けるつもりなのだろうか。

もうがんばれない

 ぼくたちが、杉並と震災前の神戸の青年の意識調査をしたところ、若者たちは「自分には自分らしさがある」(そう思う+まあそう思う=89.1%、n=1116)と答えており、「どんな場面でも自分らしさを貫くのが大切」とさえ多くの者が(同69.0%)答えた。しかし、一方で、自分を大切にしてくれない社会に対して、「自分の努力によって社会が変わるとは思えない」(同64.7%)とあきらめているのである。ところが、「自分の人生は何が影響しているか」について、@生まれつきのもの(生得)、A自分の努力、B運や偶然、の3つの配分をたずねたところ、「現在まで」の典型的パターンは5:3:2なのだが、「将来」については3:5:2になって、努力が生得に勝つことになる(本調査については高橋勇悦他『都市青年の意識と行動』恒星社厚生閣)。
 まとめれば、「自分らしさへの関心は高い。しかし、その期待の強さと過信とはうらはらに、自己確立への主体的意欲や自己と社会の客観的認識にはつながらず、やみくもで主観的な努力至上主義で自分を納得させようとする非生産的傾向に陥っている」ということができよう。この主観的な努力至上主義を、ぼくは「ガンバリズム」(勤勉主義)と呼んで批判している。努力重視は国際比較の上でも日本の青少年の顕著な特徴である。このガンバリズムが、若者の「まともな怒りの感情にはレベルアップしえないただのムカツき」の本質的根源だと思うのだ。
 だから、あえて若者たちの本当の怒りのおおもとをあげるのならば、多くは、「がんばらなくちゃ、でも、がんばれない」というにっちもさっちもいかない自己循環的なジレンマに向けられているのではないかと思われる。このことは、多くの若者たちは無自覚か、または承認したくないだろうが・・・・。これは、いわば、競争主義を内面化してしまった「いい子ちゃん」のジレンマだ。デリケートでもろい。頑張ることを迫られている客我(客体としての我)と、頑張れない主我(主体としての我)とが混同されているために、頑張れない自分を受容できないでいるのだ。
 もっとひどい「デリケート」もある。たとえば、恋愛問題にしても、相手が自分だけを愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないという。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際する若者までいる。それでも、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。自分自身については甘やかしておきながら、相手は罰しているのだ。これをぼくは「他罰のデリケート」と呼ぶ。
 ぼくは「淋しがり屋のタカビー」という言葉もつくった。タカビーとは高飛車な人という意味の語である。自分の都合にあわせて相手を生きさせようとしたり、支配したりすることが多い迷惑な人のことだ。当然、愛されないから淋しくなり、ますますタカビーになる。このようにしてタカビーと淋しがり屋の素質は、悪循環を繰り返して強化、自動化される。

癒しのサンマ

 「いい子ちゃん」も「淋しがり屋のタカビー」も、いま、癒されようとして必死の「努力」をしている。ヒーリング(癒し)のための音楽を聴く、オイル、ハーブを買う、イルカと泳ぐ、クジラの鳴き声を聞く・・・・。しかし、根本的にはそれだけで癒されるはずがないことは明らかである。本当は、青少年健全育成活動や生涯学習・ボランティア活動こそ、この癒しの場を提供できるのではないか。
 従来の教育は、ややもすると対抗文化の発展を妨げる一方、青少年個人には成長・発達ばかりを期待してきた。学校歴偏重、上下競争主義の弊害がここまできた今日、非効率的に見えようとも、癒しや安らぎを得ることのできる時間・空間・仲間のサンマ(3つのマ)を地域や公的な場に広げていくことに力を入れなければならない。このことについて、自著『癒しの生涯学習ーネットワークのあじわい方とはぐくみ方ー』(学文社)で、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つの自己決定の集団の人間関係がもつ癒しの機能の重要性を訴えている。
 ぼくは、数年、東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)に年間を通して講師として関わっている。狛プーでは、プータローの自由な精神をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。中心となる活動内容はとくには定まっていない。マルチ商法から狛プーに移ってきて「早く狛プーに出会えていればよかった」といっている若者が、「狛プーはあるがままの自分が両手を広げて歓迎される場だ」といったことがある。若者にとって、マルチ商法も、「儲けることができる力のある自分」の確認と、「仲間とのおしゃべり」が期待できる場である。わたしたち大人には、これに対抗し、上下同質競争のみずからの価値観を乗り越えて、異質の他者の存在を対等に認めあう水平異質共生の「癒しのサンマ」を、この世にたくさんつくっていく責務がある。
 そういうサンマは、個人の内面的な成長にとってどういう成果をもたらすか。それは「無知と非力の自覚と受容」である。じつはこれが、個人と社会との関係、主我と客我との関係を生産的にとらえていくためのポイントになる。つまり、自己確立に向けた望ましい自己客観視と、成長・発達につながると思われるのである。
 社会教育の場に関わってきて感じる、ここ1年ぐらいのごく最近の傾向が、「自分らしさを大切にする」、「安心できる仲間と出会う」などの、これといった活動目的がない学級・講座に若者を含めて多くの人びとが応募する状況である。過去のコミュニティが崩壊し、活動目的のはっきりした機能集団にしか帰属感をもたなくなった人たちが、あらためて他者との出会いや自己への気づきそのものを求めるようになってきたのであろう。これを社会教育より先行して吸収しようとしたのが、営利目的の自己啓発セミナーや新・新宗教などなのだろうが、それにはあわないと考える人たちが地域活動や公的な場に「癒しのサンマ」を求め始めているのだ。
 このサンマは、今日の上下同質競争の社会においては、いまだ突出的な存在といわざるをえない。しかし、そういう自他受容と自己変容が両立するサンマにおいてこそ、対抗文化としてのいきいきとした若者文化が育まれるのである。
社会教育関係者にとっての電子メールの存在価値
 −自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権の誕生−

 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

1 N対Nのコミュニケーションの「道具」としての電子メール
 インターネットというとホームページばかりが脚光を浴びている印象がある。しかし、いにしえの(!?)パソコン通信(略称パソ通)マニアのぼくとしては、そして、10年以上前から(当時東京都社会教育主事補、現在社会教育主事課程担当教員)、生涯学習社会への移行のために市民発信型のパソ通のパワーを導入しようと提案し、少なくともそのときは果たせなかったぼくとしては、ここで、ぜひ、社会教育関係者に電子メールの活用を呼びかけたいのである。
 もちろん、そこには、電子メールが郵便よりも早くて便利であるという理由もある。しかし、それだけだったら、ここで力説するほどのことではないとぼくは思う。便利だと思う人が使えばよいからである。実際、ぼくなどは、その逆に、青年教室での青年とのつきあいなど、最近はオフラインでの出会いばかりに夢中で、パソコンのメールボックスをたびたびあけるのが面倒くさく、せっかくメールを送ってくれた人たちが業を煮やして「早く読んでレスポンス(反応)をください」と口頭で伝えてきたり、別途、郵便で送ってきたりするなど、かえって迷惑をかけまくっている有り様なのだ。
 ぼくがここで呼びかけたいのは、N対N(不特定多数同士)のコミュニケーションツール(道具)としての電子メールの活用である。N対Nの電子メールは、全世界に直接通じているなどのプラスアルファをおいても、パソ通の過去の「電子掲示板」(BBS)や現在の「電子会議室」と同様に、現代社会のディス・コミュニケーション状況の打破のための強力なツールになりうる。
 ちなみに、すべての通信技術は、あくまでも通信内容のための合目的的なツールであって、即目的的な価値そのものではない。道具に価値をおいてしまうことは、物神化、物神崇拝として批判される。ここでの本当の神(価値)は、道具にではなく、コミュニケーション内容にある。あるいは、通信内容の背後にある「自己への気づきと癒し」、あるいはひとことで「愛」にあるといってもよいかもしれない。
 なお、ぼくは、「電子掲示板」という古き呼び名がどちらかというと好きだ。今では、この言葉は、一方的通知の場合に使われることが多いようだが、そんなに限定的に使用する必然性はあるまい。誰かが、通りや公園の掲示板に勝手に自分の意見を貼り出す。すると、その意見に関心をもった人が、その横に支持や批判のレスポンスを貼り出す。その経緯を楽しみにして読んでいるだけの人もいる。これは社会教育が今まで求めてきた住民の自由な自己教育、相互教育の姿と一致するではないか。

2 社会教育職員のメーリングリストの活用
 その事例として、東京都及び東京都特別区の社会教育主事を中心とするメーリングリストの活用を紹介する(研究会通信オフライン版特別号の写真)。現在は、社会教育の雑誌などで、「社会教育関係職員や研究者ばかりでなく、幅広く会社員、編集者、教員、団体職員等」にも参加を呼びかけている(全日本社会教育連合会「社会教育」1997年2月号)。ぼくもこれに入れてもらった。主宰者の新宿区社会教育主事の吉田嘉秀さんの自由に愛を受発信する公務員としての生き方に共感したからである。コミュニケーションとはそんなものであるとぼくは思う。
 加入して1週間後にメールボックスをあけてみると、メンバー間のメールのやりとりで、あっという間にボックスがいっぱいになっている。今までぽつぽつとしかメールをもらっていなかったぼくとしては、そのときはなんだか仲間が増えた感じで嬉しかったが、実際に全部のメールを読んだら1時間以上もかかってしまった。はっきりいってぼくは恐れを感じた。「ぼくはこれに全部つきあわなければいけないのか。でも、加入した以上、積極的に参加するのがネットワーカーとしての責任なのではないか・・・・」。そうしたら、吉田さんから「タイトルを見て、好きなものだけ読めばいいんです。あとは自分のボックスからはどんどん削除していいんですよ」というぼく宛のメール(1対1のメールもそれなりの意味がある!)がきて、ほっとした。このグループでは、現在は、「相槌を打つだけのレスポンスは、メーリングリストには載せないようにしよう」、「種別をいれるなど、題名をわかりやすくしよう」などのネチケット(ネットワークのエチケット)が確立しつつある。
 ただし、吉田さん自身は、このようなフォローを含め、朝晩の自宅からのアクセスに加えて、パームトップ(掌上サイズの)マシンと携帯電話とのコネクトによる昼休みのアクセスも考えているほどである。ボランティアやネットワークの本質は「自分のため」であるとはいえ、世話人になるのならそのぐらいは覚悟して、それを楽しいと思っておいたほうがよい。というより、電子メールネットワークにおいては、そのネットワークのどこ(垂直方向ではなく、水平方向)に自分が位置するかを自己決定すればよいのである。世話人をやってくれる人がいない場合はどうすればよいか。あきらめるか、正規の職務(研修扱い)として認めてもらうか、のどちらかだと思う。少なくとも、「だれもなり手がいないから、仕方なしに自分がやる」という自己犠牲の精神は、ボランタリーなネットワークにはなじまない。
 なお、テーマからはやや外れるが、現在、多くの自治体で構築が進んでいる生涯学習情報データベースについて提言を述べておきたい。そこでの担当者の悩みは、アクセスが少ないことだ。なぜ、多くの人が利用しようとしないかというと、それは、先述のような選択に迷うほど魅力的なデータがたくさん入っているという状態にはなっていないからである。ガイドブックですむぐらいのデータ数ならコンピュータなんか面倒くさい。ぼくも、システム構築のお先棒を担いだ人間の一人であるから責任はある。だが、ここでいいたいのは、学習者発信型のN対Nの双方向コミュニケーションの魅力(神!)と、それによるアクティブな反復利用者(リピーター)の拡大とデータ数の等比級数的増大、そして、その自然な結果としての利用拡大である。ぜひ、市民発信型の生涯学習情報システムにしてほしい。

3 水平異質共生の出会いによる気づきと癒しの仮想的コミュニティ
 現代社会は残念ながら学歴偏重など、画一的な物差しのもとに、同質の価値観をもつものが上下に競いあう「上下同質競争社会」であるとぼくは考える。しかし、だからこそ、社会教育は、従来から暖かみのあるコミュニティ意識の涵養というかたちで、突出的サンマ(時間・空間・仲間)を創り出そうとしてきたのだ。
 しかし、これから求められるコミュニティとは何なのだろうか。ぼくが年間講師をしている狛プー(狛江プータロー教室、狛江市中央公民館主催の青年教室)が2年目を迎えるときだったか、やっとメンバーが定着し、よい関係ができ始めたときだったので、ぼくは従来のグループの形成過程の理論に則って、新メンバーを募集するのを控えて現在のメンバー間のより深い信頼関係を築こうと提案したことがある。すると、キーパーソン(鍵になる人物)の一人、保健婦のM子が、「もっとたくさんの人と出会いたい」といって、チラシを積極的にまくよう主張したのである。しかも、彼女は、数年後、かねてからあこがれていた小笠原に異動になって喜んで行ってしまっている。
 彼女は、今までの青年活動のリーダー像とはかなり異なる。「みんなのため」「団体のため」というお題目が彼女の内側にはまったくないといってよい。そして、自分らしさを大切にすると同時に、マス(人のかたまり)よりも一人ひとりの異なる個との対等な出会いを大切にする。また、その個に対しても、「団体の維持・発展のために活発に活動しているかどうか」より、他者の個そのもの(ぼくの言葉では「個の深み」)に関心をもつのである。彼女が求めているものは、水平異質共生の出会いといえるだろう。その出会いには、ピアコンセプト(同質の仲良し仲間を求める意識)を切り捨てることによるネットワーク独特の淋しさもあるが、それゆえに、社会教育が本来追求してきたはずの自立に向かう気づきがあり、教育が忘れがちであった「あるがままの自他を両手を広げて歓迎しあうサンマ(時間・空間・仲間)」による本当の癒しがあるのである。
 今、自立した市民が求めるコミュニティとは、このようなネットワーク型の水平異質共生の出会いによる癒されるコミュニティなのではないか。そして、メーリングリストには、そういう交流を可能にする仮想的コミュニティとしての特性があるのだとぼくは思う。
 その理由としては、ぼくは次のように考えている。平成3年4月『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』(学文社)においては、N対Nのパソコン通信のMAZE(迷路)における新しい知が、以下の特性をもっていることを主張した。@ボランタリズム化、Aアマチュア化、B個別化、C雑多化、D民主化、E非体系化。集団的な特性については、@撤退する自由がある、A個人主義が障害にならない、Bバーンアウト(燃え尽き)が、むしろコミュニケーションの成熟化につながる、を挙げた。平成5年3月『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません』(同)においては、トランスペアレンシー(ツールの透明感)というパソ通の成熟したコミュニケーションが、ストローク(相手への認知の伝達)の自由と恐怖を純化して味わえる重要な機会であることを指摘した。また、パソ通などの「書き言葉メディア」(しかも、話し言葉的な気楽さを兼ね備えている!)がもつ可能性を訴えた。平成9年3月『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』(同)においては、ネットワークの「指導」という困難な課題に対して、シンパシー、ストローク、エンカウンターの3要素のもつ可能性を追求している。この3要素の営みが、@双方向的、A即時的、B空間超越的、C検索可能、D蓄積可能、E端末処理自由(前掲『かくろん』)という特性のもとに、かつ水平にやりとりできるのがパソ通であり、現在のメーリングリストなのである。
 さらに、このパソ通の電子掲示板的特性に、今日のインターネットとしての特性を付加して考えるならば、ユニバーサルアクセスの可能性とともに、インターネットという言葉のとおり、さまざまな大小ネットワークが水平に結ばれることの可能性に注目したい。すなわち、インターネット以前の情報システムがどうしても中央集権的なヒエラルキー(上下階層制度)の呪縛から抜け出せなかったのに対して、ネットワークがあちこちでボランタリーに勝手につくられても、必要なときはインターネットすればよいのだから困ることはないということから、本来のネットワーク型の権限移譲の情報交流が可能になったのである。

4 自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権
 そうはいっても、最初に述べたような市民発信型(または職員個人発信型)の電子的コミュニケーションについては、行政側の抵抗感や恐怖心は並み大抵のものではない。行政は撤退してしまって、ボランティア個人や非営利組織、または営利組織の責任でシステムを運用した方が結果としてはよいものになるという思いさえもぼくにはある。しかし、共生社会創造のための現代の行政独自の役割を考えた場合、社会教育行政や生涯学習推進行政が先頭を切って、市民が自由に発信する電子的コミュニケーションのための条件整備に乗り出すことは本当は行政としての責務とも思えるのだ。
 ぼくが社会教育職員としてこれを提案した当時は、「パソコンをもっていない人に対して不公平ではないか」、「信用できない情報も入れられてしまうのではないか」、「人権侵害や猥褻な書き込みをされたらどうするのか」などの反対理由が多かった。最近、自治体の委員会などで行政関係者がこの提案に対して心配するおもな事項は、上に加えてプライバシーと著作権である。たしかに、行政の公平性、信頼性はもちろん重要だし、プライバシーや著作権の保護などについては、現代社会全体においてはむしろお寒い状況である。ぼくも、行政職員はもっとこれらのことに神経質になってもなりすぎることはないと思っている。
 では、どうすればよいか。パソコンをもっていない人にも、公共施設などに自由にさわれるインターネット端末を配置して、コンピュータリテラシー(読み書き能力)の習得を援助する必要がある(公平性)。困った書き込みをしてくる人もいるかもしれないが、自由なネットワークのなかだからこそ、批判され、相互教育が可能になる(ネットワークの教育力と自浄作用)。また、受信者の側も、行政依存型の態度をあらため、行政の運用する情報システムに対し、自分自身の批評的な目と主体的な判断で接するべきである。ただし、行政側の運用自体に問題があると思えば、率直に批判し、よりよい対案を提起するのがネットワーカーとしての責任であろう(市民と行政の本来の信頼関係に基づく協働)。さらに、プライバシーや著作権については、発信者の意思を今まで以上に尊重する態度が必要である。このような能動的な対応こそが、情報化の望ましい進展のために求められる行政の役割なのである。
 その到達点のもうひとつ先の段階に、生涯学習社会の移行途中の今日、突出的空間として見え隠れしている水平異質共生のコミュニティがある。それは、「私はこれだったら得意だから、みんなに教えてあげるよ」という生涯学習ボランティア、「こういうことを考えたからアップロードしておきます。よかったらぜひこれをほかにもどんどん紹介してください。著作料(財産権)はいりません。でも出所は私であることは明らかにしてくださいね(氏名表示権)」という情報ボランティア、そういう人たちが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界である。アマチュアによる知的生産や情報発信にはそういう強みがある。ぼくは、これを、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼んでいる。上下同質競争に飽き足りなくなって、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが、突出的水平空間においては生まれつつあるのだ。
 こういう自立した市民同士の人間交流こそ本当の癒しを与えてくれる。そういう個人と社会の望ましい好循環の関係に対して、行政が最大限の関心をはらうことは当然のことである。本来の地縁的コミュニティの回復にもつながることさえ期待できるのだから。ただし、そこでのコミュニティ回復とは、従来型の上下同質競争のヒエラルキーとしてではなく、未来型の水平異質共生のネットワークとしてのものである。
論文 ボランティア指導者を「指導」できるのか
 ー(財)埼玉県県民活動総合センター「市民講師ゼミナール」の講師として

 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士



1 ボランティアコーディネータは
   ボランティアを「指導」できるのか
 平成7年1月17日の阪神大震災の救援ボランティアに全国の若者たちが駆けつけたことから、「日本の若者はしらけており、ボランティアの風土はない」という論調は崩されたといえよう。むしろ、せっかくボランティアをしたい人がいるのに、社会がそれを需要と結びつけるコーディネート機能をもたないことこそ問題であることが明らかになった。ボランティアコーディネータとは、ボランティアをしたい人と必要とする所をつなげる者という意味である。全国ボランティア活動振興センターでは、ボランティアコーディネータの業務内容に、学習の援助及び場の提供、相談・助言などを入れているが、それらの役割が社会教育指導者の役割と大きく重なっていることは興味深い。
 一方、生涯学習ボランティアについては、生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(平成4年7月)が、@ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習になる、Aボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための学習として生涯学習があり、学習の成果を生かし、深める実践としてボランティア活動がある、B人々の生涯学習を支援するボランティア活動によって、生涯学習の振興が一層図られる、の3点を生涯学習とボランティア活動との関連の視点として指摘している。ボランティアそのものが学びであり、ボランティアするために学び、その学びを生かすためにボランティアがあるということである。ただし、狭義の生涯学習ボランティアとは、Bの人々の生涯学習を支援するボランティアのことをさす。本論でもこれを前提とする。ただし、その場合でも、ここで挙げる市民講師などの「指導的な活動」のほかに、会場整備などの「お手伝い的な活動」も、その意思が尊重されるべきである。
 さて、今回取り上げた市民講師のような生涯学習の指導的なボランティア(若干の謝金程度の収入はあるかもしれないが)の独自な学習要求や学習必要に対して、生涯学習推進行政や機関等は、学習機関・場所、支援・育成プログラムなどの提供を十分に行なっているかどうか。「やるだけのことはやっている」と答えるとしても心許ない。生涯学習ボランティアをコーディネートすることは難しいことだからである。なぜ難しいのか。ボランティアも生涯学習も、自己決定の活動だからである。ボランティア活動とは、お金をもらうためではなく、自分から進んで、だれかの役に立とうとする活動のことであり、また、生涯学習活動とは、学びたい手段を自ら選んで、自らが学びたいことを学ぶことである。
 ぼくは、自己決定の社会的活動として、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つを挙げている。それ以外の社会的活動(たとえば職業)には、純粋な自己決定の場は見当たらないのだ。ところが、自分が自分の人生を決めたいとは誰もが思うことである。だからこそこの3つは、現代社会における「もうひとつの生き方」として、現代人の普遍的課題となりつつあるのだ。そういう自己決定の本質を損なうことなく、生涯学習ボランティアを支援するということはできるのか。しかも、ここで挙げる支援対象は、市民講師という専門的な指導者であり、ここで挙げる支援方法とは、その人たちに講師の「指導」を通した学習機会を提供するということである。つまり、本論は、ボランティアコーディネータが自己決定のボランティアを「指導」できるのかというアポリア(行き詰まりの難問)に挑戦しようとするものである。

 ここで、とりあえずひとつだけ、その答の糸口になるとぼくなりに思うことを提示しておきたい。自己決定であるはずのボランティアや生涯学習の場が、自己決定ではないこともあるのだ。ある市の公民館事業の市民企画委員会(これも生涯学習ボランティア活動である)の研修の講師に行ったとき、「○○をやりたい」という新人委員に、ベテラン委員が「婦人教室で趣味の講座をやるのはだめです。必ず女性問題を学習するという、先輩委員たちが蓄積してきた民主的伝統があるのです」といっているのに出くわしたことがある。ぼくは、さっそく、「女性問題をなぜやりたいのか、あなた自身の意見を述べたらどうですか」と横ヤリを入れた。自分の意見ではなく、「民主的」とか「蓄積」とか「経緯」とかの「言葉の権威」を盾にするのはフェアではない。自己決定の発言というリスクを背負っていないからだ。このように、自己決定で生きること、自立すること、は簡単ではない。完全な自己決定の世界とは、現在の到達段階でも、近い将来の到達目標でもなくて、主体性をともに獲得していく共育の営みの到達し得ない最終目的なのである。

2 「個の深み」と出会うコーディネート

 そんなことを考えていたぼくに、(財)埼玉県県民活動総合センターから「市民講師ゼミナール」の事業計画が持ち込まれ、プログラムの企画から、全5回分のすべての講師まで含めて、全面的に関与してほしいという依頼があったので、喜んで引き受けた。案の定、県全域から集まった市民講師29人はとても楽しい人たちで、ぼくにとっても「意味ある他者」のそれぞれの「個の深み」(『かくろん』p4)との意義深い出会いを得ることができた。
 支援内容(目標を含む)は次のように多彩である(、以下の並列はマルチタレント等の一個人を意味する)。油絵、デッサン、水彩画。水墨、墨彩、囲碁、太極拳。着付け。社交ダンス。陶芸指導。木彫り。俳句クラブのボランティア講師。市の案内人(ガイド)。書道、絵画の部長。読書会リーダー。読書グループをつくりたい。絵本の読み聞かせ。シニアリーダーとしての成人との対話。シニアの仲間づくり支援講座準備中。福祉ボランティア。女性史、女性問題。女性の生きがい探しの会代表。女性に関する何でも学習会。今の生活にあきらめやがまんをしている主婦に生き方を変えられることを身をもって示すことができるようになりたい。カラオケ教室。生涯学習のコミュニティづくり。地域の生涯学習推進・支援見習い中。余暇生活支援、ライフプラン設計。行政のイベントコーディネータ、地域イベントプランナー、地域人間マップ作成中。自己表現トレーニング。老人会会長。生活クラブ生協班活動。心の健康等のソフトボランティア探し中。成人男子に生涯学習を勧めるため見習い中。会社人間からの脱皮努力中。コーディネート能力習得中。自分で何ができるか探検中。自己開発学習サークル会員。自己開発スキルのチュータをめざしている。吃音を克服した芸能人であり、体験発表の場をつくりたい。何にしぼるか検討中・・・・。
 従来から行政はリーダー研修等は行なってきた。しかし、それがややもすると、団体の「ヘッド」を集めて組織力を強めようとするヒエラルキー的な性格の強いものになってしまうきらいもあった。そんなことでは、地位・肩書きなどの制度的権威への執着を嗤い、「経歴を捨てて、経験を生かせ」とするせっかくのボランティア精神は無に帰されてしまう。社会教育団体においても、ネットワーク型経営のためには、会長職を、制度的権威ではなく、ひとつの役割としてとらえる思考様式を広めなければならない。そうすれば、せっかく適任だと思われるのに、「私なんかが」といってリーダーになるのを固辞する人に対しても、「もっと肩の荷をおろしていいんですよ」というアピールになるだろう。
 今後の研修は、ヘッドシップ型からリーダーシップ型への、ヒエラルキー型からネットワーク型への、転換を図る必要がある。それは、生涯学習支援が組織的動員から個人的支援へと、ぼくの言葉でいえばマス(かたまり)から「個の深み」との出会いへと、転換することと軌を一にしている。その面からも、生涯学習ボランティアのコーディネート機能は、必要性も実現性も高い(リーダー研修等の既存予算をそのまま活用できるから)といえる。とくに県などにとっては、それが広域行政の新しい役割として重要であると同時に、そこで出会うボランティアの「個の深み」は、支援行政自体にも新しい風を吹き込み、市民感覚の行政を育ててくれる。

3 アダルトティーチングのための
   ティーチング
 ぼくは企画にあたって、アダルトティーチング(成人の教え方)のあり方をアダルトに教えることが、このゼミナールの最大の目標だと考えた。そんなことが、このぼくに可能だろうか。自信なんかないのに、一方でぼくは、日頃から、双方向教育は双方向教育システムをうまく使えばだれにでも可能であると公言している。「指導者や『先生』になるには、『器(うつわ)』であることが必要である」という考え方を否定したいからだ。


 すでに多くの自治体で、市民講師や生涯学習施設での支援活動、講座・イベントの支援や手伝いなどをする希望のある人を登録して、リスト化し、需要に対して情報提供等を行うボランティアバンクというシステムがつくられているようだ。だが、次のような問題点もある。@バンクへの問い合わせ自体が少なく、せっかく登録し、研修なども受けたのに、お呼びがかからないというクレームが多い。A学習者のニーズにあわない教育内容・方法(たとえば「今のだらしない若者に説教したい」など)での活動を希望する者もあり、生涯学習社会への移行をむしろ阻むような結果にもなりうる。B教育委員会などが実施すると、そのお墨付きを得ることを目的に登録する人がいて、生涯学習に権威主義を持ち込む結果になる場合がある。Cその逆に、水平異質共生(異なる枠組をもつもの同士が対等に共存と共有を行う関係)の生涯学習に向いている人が権威をきらったり、遠慮したりなどの理由から登録してくれないことが多い。
 ぼくは次のように考える。@については、最近は、その人の顔や、息遣いの聞こえるような詳細なアピール文、さらには、その人の提供できるプログラムの具体的な姿など、リアリティの感じられるバンクにするための工夫が模索されている。また、ボランティア自身も、待ちの姿勢ではなく、積極的に社会に出てニーズを探し出し、そこで自分をアピールすることが望ましい。Aについては、学習者のニーズにあわない人を無理に排除するのではなく、アダルト・ティーチングの習熟のための研修等を通じて、その人自身の気づきと態度変容を促す配慮が必要である。Bについては、市民の権威依存のうえに運営されてきた行政自体のほうからも、体質改善しなければならない。それは行政改革の重要な一環である。Cについては、生涯学習における学習者と支援者の関係が上下関係ではなく、「学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人」という水平な交換関係にあるという認識を、生涯学習の町づくりをとおして町の風土として広めていく必要がある。生涯学習ボランティアは「先生」である必要はない。もし、「自分は先生の器であり、教える自信がある」などという人がいたら、その人はあとに述べる「無知と非力の自覚」のための態度変容から始めてもらわないと、かえって生涯学習社会への移行の妨げになる。
 このように、生涯学習ボランティアの自覚に求められるものは多い。なかでも、望ましいアダルトティーチングのための資質と能力は重要である。その本質は、自己の生涯学習とボランティアのなかでの自己決定と同時に、学習者側の自己決定をともに大切にして歓迎するネットワーク型の「水平異質共生」の心である。
 このようにしてこそ、学習者も市民講師も自己管理型学習(self-directed learning)とその支援に近づくことができる。そもそも成人の学習は、その計画、実施、評価に至るまで自律的(self-directed)に行なわれうるという。よって、成人教育に携わる者は、成人のすべての学習プロセスに対して双方向的に関わる必要がある。こういう教え方を、ペダゴジー(子どもへの教授法)に対するアンドラゴジー(大人への教授法)という。アダルトティーチングはアンドラゴジーの考え方に基づかなければならない。そして、双方向教育システムの導入によって、どんな講師にもそれは可能になると思う。ただし、講師自身が、他からの強制によってではなく、そのシステムを取り入れようと自己決定した場合においてのみであるが。

4 態度変容の研修の必要性
 本ゼミナールのプログラムのほとんどは、表に示したようにワークショップ型、体験学習型の態度変容の研修方法によって構成されている。
 一般的に研修には、@知識習得、A技能向上、B態度変容の3つの目的がある。講師は目的を絞り、意図的、意識的に研修を進める必要がある。生涯学習の指導者のための研修のうち、現在とくに欠けているのはBの態度変容目的の研修であろう。しかし、アダルト・ティーチング(大人への教授)を志す者にとっては、態度変容のための学習がもっとも重要だと思う。「現在の態度がよくないから」という理由ではない。それでは、あとに述べるように自他の否定になってしまう。態度変容は、学習の本質である「枠組の変容」の象徴であり、それらが生涯にわたって充実して進められることこそ生涯学習のそもそもの楽しみだからである。
 たとえば、校長退職者が市民講師になってくれたとする。しかし、その人が制度的権威にすぎない「校長」という過去の経歴にこだわるとするならば、大人同士の水平的な出会いとしての生涯学習は望めないだろう。「過去の経歴に比べて遇されていない」という不満をもつかもしれない。そういう場合、過去の立派な経歴より、これまでのすべての自己の教職や管理職としての深い経験こそを、あるいはその結果としての今の「個の深み」こそを、アダルトティーチングに生かそうとする態度に変容することが第一である。こういう態度変容は学社融合の思想的基盤としても重要だ。
 しかし、ここまで書き進めたところだけみると、mitoちゃんでしかないぼくなのに(本誌1995年5月号「先生という言葉をやめてみよう」参照)、講師の態度変容を「指導」するなんて、とてもおこがましいことをいっているような気がする。これについては、まず、ぼくは「自己受容こそが望ましい自己変容につながる」(『癒しの生涯学習』p.48)と考えていることを明らかにしておきたい。
 ぼくは、ある県の看護職員の継続教育のための検討委員会に関わっているが、委員会での調査項目に、「個人の態度変容」「人と人のつながり」の研修への期待を入れてもらった。すると、その調査結果としては、病院総婦長に飛びぬけて積極的肯定が多かったのである(ともに75%、その他の看護職員は45%)。また、この点について、部会長の医師からは「血の通った研修を」、他の医師委員から「厚みのある人間性に基づいた専門性を育てる研修を」などの的確な表現をいただいた。しかし、ある看護関係の委員から「態度変容は研修の根本である。しかし、短期間の研修成果だけでそれを評価してしまうのは酷ではないか。態度変容についてはもっと長い目で評価すべき」という指摘を受けた。ぼくはそれを聞いて、まったくそのとおりだと感じた。そこで、態度変容の研修のあり方について、看護職員の継続教育を例にとって次のように補足しておきたい。
 態度変容は、その看護職員の職務や全生活をとおして、生涯にわたって自律的に行われるべき営みである。しかし、継続教育がこれに対して無関心であるということがあってはならない。なぜならば、組織として取り組んでいる看護の全体を客観的にとらえた場合、人と人とのつながりや、そのほかの個人の望ましい方向での態度変容の促進が、現代社会においては非常に重要な教育的事項になっているからである。

5 受容と共感の態度変容
 しかし、それは、けっして上から無理に押し付けるものであってはならない。むしろ、看護職員を現代社会の一員でもあるとしてとらえた場合、本人自身の顕在的、潜在的関心として、仕事のなかで自分らしさを守り、育て、発揮し、働きがい、生きがいをもちたいという気持ちが存在するはずである。そういう本人の自発的な意向を尊重してこれを援助するという考え方が継続教育の側に求められているのである。そのことによって、教育を受ける側にとっては、教育が自己受容にもつながるものになり、「自分にとっての意味ある学習」という能動的な受けとめ方が可能になる。
 そのためには、学習方法としては、従来の知識詰め込み型の受動的学習から問題解決型の主体的な学習への転換が必要になる。また、学習内容としては、従来の専門分野ごとのたてわりの内容だけではなく、看護全体にわたって必要な、さらには本人の生産的な構えや人間関係全般にとって必要な資質と能力を高めるような学習内容が必要になる。その根底には、人間存在に対する基本的信頼(自分への信頼=自信を含む)と共感能力に基づいた望ましい社会性の獲得が必要である。これを実現する具体的な学習方法・内容としては、コミュニケーションやカウンセリングマインド、グループワークやチームワークのトレーニングが考えられる。
 そして、効果的な態度変容のためには、それらの研修が体験学習として、あくまでも楽しく、感動にあふれたものであることが望まれる。つまり、人と人とのつながりや、そのほかの態度変容のための看護職員の卒後教育は、まず第一に、日頃の看護の精神的な疲れやストレスを癒し、組織の中で閉ざされがちな心を解放してくれるような「生涯学習=楽習」の一環でなければならないということである。
 ボランタリーな市民講師活動については、職務として行われる看護とは本質的に異なるところがあるだろうが、両者とも他者への援助の活動であり、しかもそれが組織的な取り組みであることが多いという点で、その態度変容の研修の必要性とあり方についてはほぼ同様のことがいえるだろう。すなわち、学習が「楽習」になり、自己受容にもなり、それゆえ、「自分のため」、「楽しいから」、「自分が学べることだから」という主体的態度で研修を受ける結果につながるということが態度変容の研修の要件なのである。
 たとえば、3日目の午後のブレーンストーミングは「幸せの瞬間」で始まる。ブレーンストーミングとは発想法のひとつで、そのルールは、批判禁止、自由奔放、質より量、結合便乗の4つである。ぼくは授業でもこの「幸せの瞬間」のブレーンストーミングを行なっているが、まったく違ったそれぞれの人の「幸せの瞬間」を聞いていて、「これはまったく共感できない」などと感じたものは今まで一つもなかった。たとえば、「ジェットコースターで一番てっぺんまで登りつめて、これから落ちようとするとき」というのがあったが、お金を出してまでジェットコースターに乗るわけのない高所恐怖症のぼくでさえ、彼の表情を見ながら彼のその言葉を聞いたとき、「ああ、なるほど」と思えたのである。自分とは異なる他者の幸せの枠組に出会い、自然なかたちで「うんうん」と共感的、受容的に受けとめ、だから楽しく、しかも、自分の枠組を否定することなしに、自分の幸せの枠組がきのうまでより少しだけ大きくなっている(自己拡大)のである。これによって期待できるのは、生産的な構えの獲得という態度変容の学習である。
 ただし、知的水平空間であるはずの生涯学習の場においては、ブレーンストーミングの「批判禁止」さえも超えて、批判されても傷つかない、批判しても傷つけないような、自分と相手への信頼と共感にあふれた自立した者同士の支持的風土の形成を、次の段階での目標として設定しておくべきだろう。

6 受講者事前アンケートの意味
   ー1%の批判
 態度変容の研修にとってもうひとつ重要な要素は、受講者の関心に基づいて出発し、また、少数者の批判といえども受けとめることである。ぼくは、今回、各回のそれぞれのテーマについて、「あなたの課題」「あなたの期待」を書いてもらった(全体的傾向についてはグラフのとおり)。これに対して、「セミナー開講前にアンケートが送られてきたのは初めての体験です。講師のこの講座に対する意気込みが伝わってくる感じがする。講師から余すことなく吸収しようと、今から予定しているところです」という回答もいただいた。これは嬉しかったが、ほんとうは喜んではいられない事態なのである。学習者は、つまり、少なくとも開講前には講師側から今まで置き去りにされ続けてきたということなのだ。

 ぼくの場合も、事前の学習ニーズ調査をするほど講師としての講座への主体的な関わりができたのは、正直にいうと今回が初めてだ。しかし、アメリカでは、講師が自分で研修のねらいを訴え、学習者一人ひとりのそのねらいに関する学習ニーズを尋ねる手紙を受講予定者全員に送ってくることもあるという(岸恒男『あなたも名講師になれるパートU』日経連広報部)。アメリカでは講師業で身を立てるのも大変だ。日本でも、講師がそれをやらないのならば、主催者側が事前アンケート結果を講師に送っておくなどのことをしたらどうか。このようにして、講師依頼側は講師のアダルトティーチングをサポートする役割がある。ぼくはこれを学習支援者による「講師教育の役割」と呼んでいる。今回の場合も、じつは、当センターのほうで送付、受け取り業務をやっていただいている。
 受講者の学習ニーズ調査については、1つには、「1%の批判を歓迎せよ」といいたい。たとえば、4日目の「先輩・関係者から学べ」については、消極否定がいないのに、積極否定の人が1人いた。その人は「シニアの視点より新しいアイデアのある講師に巡り合っていないし、企業の方が地域より進んでいるのであまり期待していない」(定年後のシニアへの市民講師活動をしたいという会社員)と回答している。こういう「1%の人の実感」は、他の99%の多数派の一人ひとりの実感のなかに必ず同じように1%ずつ存在していて、共感できるものがあるはずである。
 2つには、「潜在的学習関心を信頼せよ」といいたい。藤岡英雄はNHK学習関心調査から、学習行動を海面上の頂点とする「学習関心の氷山モデル」をまとめている。海面下に隠れている大きな部分は、顕在的学習関心と潜在的学習関心の2つによって構成されている。「関心ある学習項目」のうち、個人面接や自由回答で得られたものが顕在、調査票の学習項目を見てから得られたものが潜在である。後者は「外からの刺激や手がかりが与えられてはじめて意識される」ものである。しかもこれが一番大きい未知の部分というのだ。たしかに私たちはせっかくのワンダーランドのうちのごくわずかにしか出会わないまま寿命が尽きることになる。しかし、せめて生涯学習の指導者は、学習者の潜在的学習関心まで含めて本人の可能性を信頼する姿勢をもちたい。
 受講者事前アンケートには、潜在的学習関心を顕在化する作用がある。すなわち、これは、事前教育の一環でもあるのだ。

7 偶発的学習による態度変容
   ー毒と薬の両面価値の真実

 ぼくは、平成3年4月、『かくろん』において、遊び型学習の支援を提唱するため、偶発的学習の意味について次のように述べた。
 「ここで、注目しておきたいことは、それらの遊びは、ある意識的な学習目的に対する効果的な学習方法として行われているのではないということである。このような学習目的のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つがじょうずに遊ぶ能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える望ましくない遊びを禁止することよりも、望ましい遊びの素材を提供することなのである」。
 たとえば、3日目のビデオフォーラムなどは偶発的要素が強い。視聴者は映像の切り取りのどこを見ようが、何を感じようが自由だからである。そこに個別で多様な気づきがある。
 2日目のロールプレイ「成人がもつ講師への不満」も、ぼくはそういう学習機会として展開した。じつは講師としては恐かった。市民講師からどんな「学習者とのトラブル」が提起されるか予想がつかないからだ。だが、実際には、「ほかの市民の方々も、もっと自発的に生涯学習活動に取り組んでほしい」という市民講師側の実感と、その言葉にたじろいでしまう一般市民側の実感に基づいたリアルなやりとりができた。指導者側の予想しえない展開であるだけに、真実により近づくことができるのである。始まってしまえば、あとはロールチェンジ(役割交換)などをしながら多様な個性がどんどんと発揮される。これを「臨床の知」(中村雄二郎)の一種ということもできよう。
 これらを「教育内容不定の偶発的学習」と呼んでおく。このような学習を仕掛けるために、指導者には、「真実は毒と薬のアンビハレンツ(両面価値)であるのだから、最終的には学習者側がどちらでも好きなものをとればいい」という潔さが求められる。禁欲または諦観ともいえようか。このようにして「学習者側が選択する」と思えるようになれば、「先生」としての余計な気負いもゆるんで、こういう「教育内容不定の偶発的学習」を「指導」するときも、少しは気が楽になる。
 もうひとつは、パーティーなどの「教育意図不在の偶発的学習」のプログラムである。2日目の番外編の意味はここにある。まさか「教育的パーティー」などとはだれもいわないだろう。そんなことをいってしまったら、来る人も来なくなる。しかし、そういう「非教育的パーティー」のなかでこそ、たとえば、「潔い撤退」や「来るものを拒まず、去るものを追わず」のネットワーク精神などを参加者は偶発的に学びとるのである。実際、このパーティーには、前回の「親父の会」のサラリーマン講師が地ビールならぬ自ビールをもってきて、学習仲間として参加してくれた。まさに「教える人は学ぶ人」である。ついでにいうと、パーティーには、「祭りのあとの空しさに耐える」(『癒しの生涯学習』p.46)という現代社会の幸福追求にとって必須の「生きる力」の教育作用までおまけについてくる。
 『かくろん』において、ぼくはパソコン通信における偶発的学習を例に引いて「パーティー型学習」の意義を述べた。じつは、ぼくは、公民館で一つの部屋をオープンスペースに確保して毎晩パーティーを開いておき、一人でもファミリーでも夕食後にふらっと遊びにこれるようにするという夢を以前からもっていた。
 教育内容不定の偶発的学習については、適正な教育的意図の媒介によって、より効果的に促進することができるだろう。また、あぜ道を散策していてよい思考がひらめいたとすれば、これは教育意図不在の偶発的学習だが、行政がそういう市民の散策のための配慮から、その道を舗装せずに土のまま整備するとしたら、それは生涯学習推進事業の一環として高く評価されるべきであろう。

8 ネットワーカーとしての態度変容
 ぼくは、ネットワーカーになるためには、ヒエラルキー意識からの脱却とともに、同質の仲間を求めるピアコンセプト(仲間意識)の逆機能の克服も必要になると考えている。そのためには、異質同士の交流と共生(「共生=共存+共有」とぼくは定義している)の面白さと心地よさ(または癒し)を味わう体験をすることが一番である。
 たとえば、1日目の人間関係づくりのバズ・セッションのときに「第一印象ゲーム」(坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』日本生産性本部)を行った。これは「相手は何色が好きか」などの印象を当てあうゲームで、過去の文化遺産を比べあうみじめな態度の従来の自己紹介を革新し、自分らしさと相手らしさの出会いを促してくれる。ぼくは、これによって、氷のような人間関係の緊張を解き、自分とは異なる他者が存在することを楽しく面白く感じることができるようになることをねらった。番外編のパーティーなども同様の効果が期待できる。


9 成人学習者としての態度変容
 学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人だという。アダルトティーチャーはアダルトラーナー(成人学習者)でもある。
 ぼくが考える主体的学習の条件の1つは、「主体的関与」である。すべてのグループワークの発表は、原則として「バナナの叩き売り方式」で行うこととした。これは、グループごとに他のグループの「自分たちの売りの部分」の叩き売り(成果発表)を聞きにいき、双方向(当然だが)の対話をし、また、すべてのメンバーが少なくとも1回は、他のグループに対して1人で叩き売りをするという趣向のものである。これは、あらたまった全体発表をするのとはひと味違ったおもしろ味があり、学習者の能動的参加やプレゼンテーションの意欲を高めてくれる。

 2つは、「異質の枠組との出会い」である。2日目のグループワークの最初は、価値観ゲームで始めた。これは前掲坂口『実践・教育訓練ゲーム』を参考にしたもので、健康、愛、富、奉仕、自己実現、正義に、地位を加え、一対比較法で各人の結果を出してグループ内で発表しあうものである。一対比較法とは、すべての組み合わせを一対一で比較して集計して順序づける手法である。これを授業で結婚相手の選択基準について行ったところ、短大女子のほとんどが容姿を最下位(第7位)としたが、まれに上位とする女性もおり、その理由を聞くと実際にはうなずいてしまう。どちらの価値観にも共感はできるのである。このような異なりとの出会いをとおした自己の価値観への気づきによる枠組の変容は、本来の学習のあり方のひとつだといえる。つまり、異なる枠組をもつ他者から自己を学ぶのである。
 3つは、「対話」である。対話はソクラテス以来、教育の原点である。1日目のインタビューダイアローグは、ぼくがインタビュアーになって、地域活動をするサラリーマンとダイアローグ(対話)を行うというものである。「仕事だって忙しいのになぜやるのか?」、「奥さんは怒っていないか?」などの対話によって、その人の生き様から、たんなる事実ではなく真実の姿勢を学びとろうとするものである。また、2回目から毎回実施した出席ペーパーシステム(ディスクジョッキータイム)は、受講者とのダイアローグである。ぼくはこれによって、一方通行の教授者としての宿命的な不安からかなり免れている。これらの対話のなかから、シンパシー(共感的理解)、ストローク(相手への認知の伝達)、エンカウンター(異なる枠組との出会い)が生まれる。ぼくは、これを、指導の本質的3要素と考えている。

10 ボランティアとしての態度変容
 「市民講師ゼミナール」には、「目立ちたい」、「有名になりたい」と堂々といってのける参加者もいて、とても楽しい。人びとの最近の社会貢献志向のひとつは、こうした自然で健康的な欲求から発しているのではないか。
 また、本事業では全回を通して市民ビデオサークルの中高年の方々が記録をとりに来てくれている。そして、その記録は、参加者の振り返りに役立つばかりでなく、この研修に参加できなくて残念に思う全県、全国の人に学習成果を「おすそわけ」するのにも役立つだろう。
 一般的に、社会教育・生涯学習は市民の自由な私的行為であることが多いが、その記録作りを行政が振興することは、私的行為のもつ公的存在価値を高める作用を及ぼすことになる。とくに、上司からの勤務評定をあまり受けない専門職員などは、自己の事業等をしっかり記録して、市民から広く評価を受けようとする態度が望まれる。そして、自分たちの学習記録を広く配布したいという受講者の気持ちは、先の社会貢献志向と原点を同じくするものである。行政は大いに奨励すべきだ。
 ぼくはこれを「自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権」と呼び、現代社会のプライバシーや著作権の保護思想の徹底の次の段階に見えている展望ととらえている。これは、今のところ、生涯学習ボランティアなどの自己決定の突出空間にしか存在しないとぼくは思う。
 本事業には「個の深み」たちが集まって、自立と社会貢献に向かう受容的雰囲気を醸し出している。この雰囲気が、「ボランティアするための元気のもと」として、参加者個人個人にまた戻っていく。この突出空間の社会的価値は大きい。

11 無知と非力の自覚と受容
   ー「ましなろくでなし」であればよい
 最後に、ぼくは市民講師の方々に何を「指導」したかったのかについて述べる。それはひとことでいえば、「無知と非力の自覚と受容」である。たとえば、アダルトティーチャーにとっては、「バカになれる」ということがとても重要だとぼくは思っている。今の若者たちは、公式の場になるとなかなかこれができない。上下同質競争社会の価値観に侵されて、「笑われたらいやだ」、「変だと思われたら困る」などとびくびくしているからだ。だから、ぼくの授業や講義は、あまりアカデミックではないが、そういう引込思案の人たちからは「肩の荷がおりた思い」という評価を受けることはよくある。ぼくは、アダルトティーチャーにも、まっさきに「カッコつけなくていいんですよ」と伝えていきたい。

 人間はどうせ「ろくでなし」だとぼくは思っている。世や自分の無常や有限性に不安を感じ、不幸を過去やひとのせいにして苦しむことが多い。しかし、そういう弱い人間存在自体を否定
Personal Data 西村美東士
 昭和音楽大学 TEL 0462(45)1055
         昭和音楽大学短期大学部助教授。東洋  
         大学講師。学生や社会教育職員は、
         mitoさん、mitoちゃんと呼
         ぶ。生涯学習、社会教育、青少年教育、
         学習情報提供、パソコン通信、パソコ
         ン活用などに関心をもつ。
主な著書 『生涯学習か・く・ろ・んー主体・情報・迷路を遊ぶ』、『こ・こ・ろ生涯学習ーいばりたい人いりません』、『癒しの生涯学習ーネットワークのあじわい方とはぐくみ方』(ともに学文社)
ACCESS
 (財)埼玉県県民活動総合センター 生涯学習課
  担当 小野塚 通子
 〒340 埼玉県伊奈町小針内宿1600
TEL 048(728)7111
FAX 048(728)7130
してしまうのではなく、ひとの痛みに無関心な「ただのろくでなし」から、せめて痛みを分かちあおうとする「ましなろくでなし」になろうとすることこそ大切なことなのではないか。そのためにも、「一瞬も怠ることなく学問に励みなさい」などの「悩みのない先生の言葉」や空しいスローガンを繰り返すような「アダルトティーチング」は、もうやめにしたい。学習の場を、もっとふつうの実感と臨床的な真実に根ざした言葉が行き交う解放された場にしたい。

 実感を捨象した「信念」という罠は、生涯学習やボランティアの世界にも「真偽の不毛な勝負」を持ち込んできた。この罠から抜け出すためには、発問または自問によって無知と非力を自覚することが必要である。生涯学習ボランティアの態度変容のための「指導」とは、この目標を「指」さし、それにいたる過程を示すことによって「導」くことではないか。そこでとくに重要になる指導者の働きかけとは、「ゆさぶり発問」である。「あなたはなぜそう感じたのでしょうね」とか、「なるほどそうですねえ。でも、こういう場合はどうでしょうか」とかの発問によって、たとえば「勤勉でなければならない」、「だれにとっても正しいと思えることをいわなければならない」などという「信念」に揺らぎを与えるのである。
 市民講師は水平異質共生の生涯学習社会の創造主体の一員である。そういう市民講師を支援するための教育プログラムのあり方とは、共感と伝達のうえでの異なった枠組の提示である。そして、そこでもっとも高い価値がおかれる学習とは、楽しく癒される態度変容の学習である。これが生涯学習ボランティアのコーディネータの指導的役割のあり方に関するぼくなりの答えである。
mito ボランティア指導者を指導できるか 1997_4 社会教育 1


癒しの生涯学習
  Lifelong Learning for Healing
−ネットワークの
  あじわい方とはぐくみ方−

本 書 の 特 徴
この本は、教育、社会、心理のそれぞれの学の成果を援用しつつも、従来の学にあまりこだわることなく、現実社会においての癒しと成長と、その援助のあり方について、経験的、臨床的にまとめたものである。
◇自己決定の世界のマインドを知る
 本書では、おもに、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動という自己決定の世界に気持ちよく関わるためのマインド(心)を追求する。
◇癒しのサンマのコツを知る
 本書の主題である癒しについては、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答の一つが「癒されること」であるという気持ちで本書を書き通している。しかし、同時に、本書では、癒されるためには、@自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はないという主張もしている。ただし、それは、「自分のために」「面白いから」であり、本書ではそう思えるためのコツを探ろうとした。
◇臨床的記述
 本文においては臨床的な記述が中心である。それ以外にいい方法が見つからなかった。mito的授業と同様にライブ感覚の記述をめざしている。
◇息詰まる知的水平空間
 途中から、出席ペーパーとそれに対するmitoのコメントというかたちで、学生との仮面のない息詰まるやり取りが続出する。mito的授業で、知的水平空間をめざし、毒にも薬にもならない社交辞令を捨てた結果である。「読んでいて息苦しくなる」という人もいる。無理して読む必要はないかもしれないが、指導者や指導ということに対して真正面から対面し、その意味を再認識するためには、できれば不快感をこらえて読み通してから意見を聞かせてほしい。
◇従来のシドウに対する疑義
 自己決定の世界において、その指導者とはいったい何なのか。あるいは、「者」という特定の人物へ
の固定までいかなくても、機能としての指導だったら存在しうるのか。ぼくは本書では水平異質共生における「共育」という概念でそれを説明している。指導者には、自他への基本的信頼が求められる。
◇問い続ける問題解決型の研究
 それぞれの節の表題の右隣には、テーマに関わるぼくなりの問題提起を書いた。かなり本質的なアポリア(行き詰まりの難問)が多く、よって、必ずしも文中に完璧な解答があるわけではない。たとえば「なぜ人は学ぶのか」という問いがあるとしたら、それに対してただ一つの最終的な答というものは存在しないだろう。ぼくとしては、たくさんの人にたくさんの答を出してもらいながら、問題解決型でともに考えていきたい。また、本文自体も、同様に、問いを重視した内容になっている。
◇単刀直入な◆生涯学習用語解説◆
 生涯学習関係者のあいだで使われる用語、および本文中に使用した用語で補足説明が必要なものについて、生涯学習用語解説において、なるべく簡潔な解説を心がけた。途中、差し障りのありそうな部分もあったが、思い切って単刀直入に表現した。これは現場ではむしろリアリティになりうると期待している。なお、紙面編集の都合から必ずしも章の内容と対応していないので注意してほしい。
◇拾い読みしやすい工夫
 拾い読みをしたり、あとから必要なところを探し出したりしやすいように、左欄にキーポイントを抜き出してある。また、索引もなるべく詳細にした。
◇コンパクトな紙面
 やや活字が小さいかもしれないが、なるべく一覧性の便利さと凝縮した情報としての役割をねらったためである。その分、コンパクトになっているので、携帯して自己決定のサンマなどで引用や批評に活用していただければ幸いである。
 注
mitoとは筆者のことである(パソコン通信のハンドル)。
サンマとは時間・空間・仲間の3つのマ(間)のことである。
<○○はパソコン通信で○○が発言したことを示す記号である。
『かくろん』は自著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』をさす。
『こころ』は自著『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』をさす。

もくじ
本書の特徴・・・・・・1
もくじ・・・・・・・・2
トラブル・シューティング・・・5
まずは頭の体操を・・・6
はじめに
 ぼく(mito)の双方向高等教育システムと、この本の意味・・・・・8

第1章 癒されない3つの病理
1 家族関係の病理・・・・・14
2 教育システムの歪み・・・・・22
 −ぼくたちはいったい何のために学んでいたのか−
3 自分自身の内なるピアコンセプト・・・・・30

第2章 癒しと貢献の自己決定入門
1 事実よりも真実・・・・・34
2 合格はラッキーではなく不幸なのか・・・・・38
3 奴隷の覚悟を決める・・・・・40
 −積極的積極性と消極的積極性−
4 空しさに耐える・・・・・44
5 自己受容による自己変容・・・・・50
6 自罰と他罰のデリケート・・・・・54
 −淋しがり屋のタカビー−
7 指導者としての責任のもち方・・・・・58
 −共感的理解は義務なのか−

第3章 気づきと癒しのネットワーク心得
 −自他否定と仮面演技の上下同質競争から、
    基本的信頼と共感的理解の水平異質共生へ−
1 あんた世間なめてんじゃない?・・・・・62
2 見返りを押しつけるな、見返りが期待できるような行為をせよ・・・・64
3 「ましなろくでなし」であればよい・・・・・66
4 枝葉としての幸福追求・・・・・70
 −積極的積極と積極的消極の連動−
第4章 知的水平空間における指導批判の方法
1 権力にしっぽを振るな・・・・・74
 −教師の葛藤より学習に重大なもの−
参考資料 「先生という言葉をやめてみよう」・・・・・77
2 教える側の義務の限定と、学ぶ側の批判範囲の限定・・・・・78
3 「ヒハンのペーパー」の存在価値・・・・・82

第5章 癒しのサンマのつくり方
1 チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?・・・・・92
 −未来型生涯学習支援サービスをめざして−
◇学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?…◇若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか…◇新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス
2 出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法・・・・・98
◇ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」…◇自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定…◇アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物…◇プータローの自由のつらさ…◇撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」…◇出入り自由の淋しさを受容する…◇よその地域の青年たちの意味…◇キャンプは夜だ…◇若者が自分のお金を払う時…◇空白のプログラム…◇善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心…◇狛プーはスムーズな自己開示のネットワークである…◇男と女の出会いのための公的サービス…◇いい男、いい女さえ支援すればよい…◇「おうち」としての狛プー(狛プーの公的・現代的意義)…◇癒しと成長、受容と変容の好循環

第6章 生涯学習時代における大学の役割
1 高等教育の根底的転換・・・・・118
◇現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として…◇市民の多様化・高度化する学習ニーズへの対応を…◇市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を…◇高等教育の制度等の柔軟化と個性化を…◇市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を…◇市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を…◇学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を…◇他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を…◇生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を
2 高等教育内容7つの転換・・・・・128
◇転換1−自己決定・自立支援型にする…◇転換2−双方向・水平交流型にする…◇転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする…◇転換4−おもしろ・感動型にする…◇転換5−課題提起・解決型にする…◇転換6−生きがい創出型にする…◇転換7−信頼・共感・癒し型にする
参考資料 「生涯学習の再定義」・・・・・・・131

第7章 ボランタリズムのシドウ
1 大人社会の御都合主義批判・・・・・134
 −楽しい生涯学習施設経営と楽しいボランティアのために−
2 おわりに−ボランタリズムとその指導・・・・・140
 −アンビバレンツな人間存在と、善と悪の真実を追求する方法−

『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』目次・・・・・・・148
『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』目次・・・・・・・150
目で見る生涯学習・・・・・・・152
さくいん・・・・・・・153

自己一致  52 地域の教育力   97
自己管理型学習  13  交流分析 リーダーシップ
発達課題     21  基本的構え 公民館   117
生育歴  問題解決学習  57 青年教育
家庭教育  カウンセリングマインド  61 集団学習
信頼       36  登校拒否と引きこもり 公的課題の優先
生涯学習 37  学習交換  65 学校開放   126
生涯教育  ストローク 定型的教育  127
社会教育  アガペ 大学の自己点検・自己評価
社会教育行政  mito的授業  69 継続高等教育
癒しのサンマ  ヒエラルキー  73 ボランティア・コーディネータ
学校歴より学習歴 39  ネットワーク 成功のシンボル   132
研修の目的    48  ピア 幸福追求権
体験学習 49  ボランティア 潜在的学習関心  133
準拠枠組  レクリエーション  81 ボランティアバンク
共感的理解  社会教育指導者 自己決定 
エンカウンター  対話(ダイアローグ) 生涯学習ボランティア 139
価値観ゲーム  3化け  96 ワン・オブ・ゼム論
自己受容     52 コミュニティ 97 協働

トラブル・シューティング

つぎのような問題が生じた場合は、順序にこだわらずに→以下のページを参照してください。

Q 私は著者が結局何をいいたいのかを最初にわからないと、安心して読めない性格です。
 なるべくひとことで教えてください。
A ぼくのいいたいことは「現在の上下同質競争社会のなかでも、突出的に癒しと成長のネットワークをつくることができる。その突出的時間・空間・仲間は今後の水平異質交流の共生社会の先駆けである」ということです。(→p9の図表1「癒しと成長のサンマ」)
Q これからの生涯学習のあり方について、筆者のオリジナルな見解を手っ取り早く知りたいのだが……。
A 社会教育の雑誌にごく簡単に紹介したことがあります。本書でもこれを資料として収録しておきました。(→p131の参考資料「生涯学習の再定義」)
Q 今の若者(生徒・学生、部下)に媚びず、かつ、支持的に対応するための示唆がほしい。
A この本は、学生の出席ペーパーへのぼくの実際の対応にもとづいて編まれています。
 出席ペーパー(小さい字の部分)をまず読んで、ご自分だったらどう対応するかをお考えになったうえで、ぼくの対応の仕方も参考にしていただければと思います。
 (→たとえばp82「ヒハンのペーパーの存在価値」)
Q 理屈はもういい。実際にどうしたらネットワークをつくったり、楽しんだりできるかを知りたい。
A ネットワークには癒しや楽しさと同時に、「出入り自由の淋しさ」など、個人に自立を求めるという点で厳しさもあります。狛プーの運営方法が参考になると思います。
 (→p98「出入り自由のこころのネットワークの運営法」)
Q 他者や社会のことなんかより、何をしても癒されない思いの自分がどうしたら癒されるのかを私は知りたかったのだ。
A 「この人、いい生き方をしているなあ」と思える人とのいい出会いを豊かにもつことができないと、結局のところ人は癒されないとぼくは思っています。
 (p27「フリースペースの意義」、p62「あんた世間なめてんじゃない事件」など)
Q 教員採用試験などの就職試験に役立てたい。
A 知識だけを問う○×などのペーパーテストにはあまり役立たないと思いますが、本書全体が自己管理型の思考と、それによる「個の深み」に最高の価値をおいて書かれていますので、小論文や面接などには予期せざる大きな効果をもたらしてくれるかもしれません。
 (→p12「就職3条件」、p38「合格はラッキーではなく不幸なのか」)
Q 自分は別に癒されなければならないなどとは思っていない。元気にやっている。「癒しの生涯学習」なんて余計なお世話だ。
A ぼくの専門は社会教育や生涯学習ですので、どちらかというと、むしろそういう「一般的な」人びとの交流の世界に関心があって、この本を書いたのです。ですから、「フツーの人びと」のよりよき自他受容と自己変容を支援するための本だと考えてください。ぼくは、自己否定による変身願望などについては、かえってマイナスの結果をもたらすと考えているぐらいなのです。(→p50「自己受容による自己変容」)

まずは頭の体操を……何がそうで、何がそうではないのか。
 生涯学習・生涯教育や社会教育(p37)、ボランティア(p73)とは何なのか?
 じつはいろいろな説がある。まずはぼくなりの見分け方を提示しておきたい。

1 社会教育であるのに生涯学習には含まれないという学習はない。
2 生涯学習ではあっても社会教育とはよばない学習はある。
 生涯学習活動の範疇に入る事例 一方、社会教育は
 偶発性 = 人や自然と出会い、感動して、自分の何かが変わった。←→意図的行為
 個人性 = 就職のため、ひとりで参考書で受験勉強をしている。 ←→相互作用
 反社会性= 自分は立派なヤクザになるために修行・研鑚している。←→社会性
 学校教育= 学校教育は生涯学習の基礎・基本づくりである。 ←→非公式教育
3 しかし、つぎの留意点は生涯学習でも社会教育でも共通である。
 自主性・自発性の尊重 =学習者の学習関心から出発する。
 娯楽性の重視=学習者が楽しかったと思って帰ってもらえるようにする。
 個人学習の重視=学習者をつねにマス(集団)としてしかとらえない悪癖を改める。
 教育行政以外の一般行政のもつ教育機能の重視=タテ割り的発想を改める。
 企業や民間営利事業のもつ教育機能の重視=単眼的な執着から複眼的なゆとりへ。
4 ボランティアは自分のために自らすすんで他者を利する行為である。
 自発性×内申書による評価に有利なボランティア活動を探して、その活動を始めた。
    ○人淋しさのあまり始めてみたが、いつのまにかやめられなくなった。
 無償性×生涯学習施設でボランティアをやっているが、職員並みの手当がほしい。
    ○その施設への往復の交通費が支給されるので、私費を出さずに活動できる。
 公共性×ある人のためには死をもいとわない。(これが悪いという意味ではない)
    ○家の前を掃いていて、ついでに隣の家の前まで掃いておいた。
5 迷惑ボランティアにならないためには、相手の気持ちや結果も重視する必要がある。
 偽善  ×お年寄りが「けっこうです」といっているのに、無理に席を譲った。
 自己満足×みんなが喜ぶだろうから、カラオケのマイクを独り占めして歌ってあげた。
 偽悪  ×ボランティアをやっている人たちは偽善者だから、私はやらない。
 潔い撤退○ボランティア以外のあることに夢中になっているので、私はやらない。
6 社会教育や生涯学習の活動は、ほとんどがボランティア活動そのものである。
 成果発表○市民祭りで、自分たちの手芸サークルの作品を展示した。
 教える ○社交ダンスサークルで、初心者にステップを教えてあげた。
 地域活動○公民館主催のわが町の開発計画についての学習会に参加した。
7 ところで、遊びや「放電」行為まで生涯学習と呼んでいいのですか?

一人ひとりが個性的な異なる考え方をもてばそれでよいと思うが、本書では、当然、
上の考え方にもとづいて議論を展開する。

 癒しの生涯学習

はじめに
 ぼく(mito)の双方向高等教育システムと、この本の意味

 癒しとは何か。また、癒しを求める現代人に対して、従来の一方通行の教育では、どうして力をもちえないのか。かといって、教育システムが双方向であるということだけでは学習者に癒しを与えることができるとは限らない。なぜ双方向なのかを、教育や指導の本質にもとづいて考え直さなければならないのではないか。

 ここで癒しとは、心の傷をなおすことである。英語でヒール(heal)という。
 ある学生が卒業後もぼくに「出席ペーパー」(後述)を渡し続けてくれている。そこには人間疎外の現代に生きる心を的確に表すたくさんの真実の言葉がひしめきあっている。「私は夜中一人で動き出すおもちゃです」。自分は自分らしくありたい、他者によって取り替えることのできない自分の人生を実感したいと思ったとき、昼間の世界の仮面や演技に耐えられなくなって、夜中の一人ぼっちの世界で自己のアイデンティティを見つけようとするのだ。しかし、彼女はこのようにも書いている。「放っておいてほしい、でも、気にかけてほしい」。落ち込んでいたいときには一人で落ち込んでいたい。自分のことをよくわかってくれていない人からの中途半端な慰めや、現代の競争主義にはまりこんでいる人からの優越感を伴った励ましは、かえって自分がみじめになるだけだ。だが、もし本当にだれもかまってくれなくなってしまったら、それでは人は淋しくて生きていけなくなってしまうということなのだろう。
 引きこもりのカウンセラー富田富士也は「人は人によって傷つき、人によって癒される」といっている。また、「個は他者と関わることによってより深まる」という言葉も真実を感じさせる。ぼくの提唱している「個の深み」の味わいも、このような他者との出会いと自己への気づきのなかで肯定的に味わうことができるものだ。しかし、同質の者たちが画一化した価値基準のままに上下競争に追いまくられる現代社会(学校歴偏重社会)においては、人とのせっかくの出会いが仮面や役割演技に侵食されて、彼女のようにかえって苦しみ、個性を自己抑圧する結果を生じがちである。
 このようにして現代人は癒しを必要とする状態に落ち込む。それゆえ、癒しとは、傷ついた心がもとの状態に戻ることをいう。今までの教育がつねに成長や生涯にわたる発達を第一義としてきたのに対して、癒しとは回復やいっときの安らぎしか表さない。そんな癒しの観点を後ろ向きだと批判する教育関係者もいるだろう。しかし、イルカと泳ぐ、水晶玉を買ってきて見つめる、など、若者たちが癒されようとしてさまざまな工夫をし、なおかつ癒されていない今日、彼らが後ろ向きだろうが何だろうが、彼らの幸福追求の営みにとって有効な、かつ、社会的にも望ましい結果が期待できるような支援の手を社会から差し伸べる必要がある。あるいは、「社会に適応するために成長、発達ばかり追い求め続けること自体が空しい。生きる意味をあえてあげるならば癒ししかないのではないか」と考えることもできる。
 ぼくは、人びとを癒されない状態に追い込む「上下同質競争社会」において、癒しを提供する「水平異質交流」を生み出す時間・空間・仲間(3つの間でサンマという)が突出的に存在していると考えている。それは、自己決定のサンマとしての@生涯学習、Aボランティア、B地域活動(市民活動)の3つである。そこでは、「仕方ないから頑張る」などというぼくたちのいつもの奴隷の習性などはいらない。そういう人がいたらかえって邪魔になる。自立した者どうしが相互承認しあい、あるがままの自他を肯定的に受け入れあって(自他受容)、のびのびと異なった個性を育くみ、発揮しあうというところがサンマの魅力なのである。さらには、そこで、他者や社会に貢献できる有用な自己を再発見し、また、他者からその認知を受けて自他への信頼を深め、個を深めることができる。そこでは図表1のような好循環が成立する。本書では、このような現代のリアリティを探りたい。

 図表1 癒しと成長のサンマ(時間・空間・仲間)

 受容を促す契機
  素のままの自分が両手を広げて歓迎される。
 変容の理由
  人生の風景を味わって生きていきたい。
 自己決定する動機
  どこまでも知りたい、癒されたい。

 本書では、学生の「出席ペーパー」(出席証明の代わりというほどの意味)と、大学教員としてのぼく(mitoと称している)との双方向のやりとりがたくさん出てくる。「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつはつぎのとおりである。数年前に社会教育の仕事をやめて、初めて教壇に立ち、学生の注視を一身に受ける立場になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。しかし、多人数の学生のなかで仲間意識(ピアコンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。
 その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下のほうに書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられたのだ。学生のほうも、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」という不合理な思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためにかなり役立ったようである。
 このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。そのへんの事情は最初の著『かくろん』(『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』)に詳しい。

 出席ペーパーに対する「mito的コメント」は読んでいてじつに面白い。所々にユニークなフレーズが出てきて、言葉遣いそのものとしては思わず「ハハハ・・・」と笑わせられるのである。しかし、そのユニークさの一方では、このうえもないほど的確に問題の核心を言い当て、バッサリと切り裂いているのである。さすがは「ビートたけしに勝つ」(これなんかもまさにそう!)ことを目標にして授業を展開しているだけのことはあるといえよう。(失礼しました!?)

 「ビートたけしに勝つ」は、すべての授業の最初の回に学生に宣言するぼく流の大ぼらであるが、それによって自らに心地よいプレッシャーをかけることにもなる。ぼくは、高等教育も生涯学習と同様、ワンダーランド(ドキドキワクワクする世界)でなければ意味がないと考えているのだ。また、時空間を共有した双方向システムにおいては、能力的にはビートたけしにとうてい勝てないぼくでも、ビートたけしのテレビ以上のワンダーランドを提供できるときがある。もしそういう瞬間がまったくないとすれば、学生はわざわざ教室に足を運ぶ意味がなくなるのである。学習を自己決定の場にするためには、こういう教師みずからへのプレッシャーも必要である。
 ぼくが編集委員を務めている雑誌「社会教育」(全日本社会教育連合会)の「お便りごっこ」の連載で、ぼくの「手紙」に対して、作詞家の山田とも子さんがつぎのように書いてくれたことがある。

 「なんで生きてるの?」 まずここでドキン。で、このQに対して咄嗟にAを見出せずにドキンとしてしまった自分に気がついてドキン。あれ、これって今までさんざん考えてきたことじゃなかったっけ。ある時はルンルンと、またある時はフンフンと、それなりに自分なりに答えをだしていたつもりだったのに・・・、そう言えば長いことこんなこと考えていなかったわねえ。流されていただけなのかしら。それとも年のせい??? アッいけない、いけない。ここへ逃げ込んだら老け込んでしまう。そうよ、ウキウキワクワクでなくっちゃあ。

 「なんで生きてるの?」も「ビートたけしに勝つ」と同様、授業の初回でのぼく流の発問である。ぼくが答をもっていたり自信をもっていたりするわけではないので、「せっかく信じたのに・・・」とあとでがっかりする学生もいるかもしれないが、それが双方向高等教育システムの特徴だと思って面白がってもらうほかない。その答を探し続けることが学問である。
 つぎに、なぜぼくはこの双方向高等教育システムに燃えているのか。それは、まず、職業としてとはいえ、自己決定の生涯学習やボランティアと同じく「自分のため」である。そちらの方が一方通行の授業をするより自分自身が楽しいから、気づくことができるからなのである。しかし、その場合の楽しさ、気づきの本質は何だろうか。
 就職活動が一段落した秋口に初めてぼくの授業に出てきた4年の男子大学生が、こう書いてきた。「ぼくは来年は就職浪人することが決まった。なぜなら、@大企業であること、A残業がないこと、B転勤がないこと、のぼくなりに決めた就職3条件にあう企業に採用されなかったからだ。こういう就職浪人のぼくを世間は差別の目で見るだろう。そういう差別される者の痛みは、先生のように差別されたことのない人にはわかるまい。しかし、先生はぼくが知りたいと思っている差別のことについて話しているようだ。だから、あと1回ぐらいはこの授業に出席しようと思うので、ぼくの期待に応えてほしい」。
 ぼく自身、じつは、就職浪人をしたことがあり、しかもそのときは差別の目で見られる辛さより、自立できずに親に迷惑をかけることの方が申しわけないと思ったものだ。だから、正直いって、最初はこの文章に馬鹿馬鹿しさや憤りを感じた。そのほか、知に対する安易な態度、世間を甘く見ていることなどの彼の欠点を指摘して、教師の立場から彼をへこますことはできるかもしれない。しかし、そんなことが何になるのか。彼の主体性の増大や態度変容につながらないことは明らかである。そんな説教は、教師が学生より上位者であることを確認して安心する行為にしかならないのではないか。しかし、今までの教育は意外に平気でそんなことを繰り返してきたように思う。
 教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、以下のように情緒的な表現になってしまうことをお許しいただきたい。教育=学習支援の等号には深くて昏い河が流れているとぼくは思う。ぼくは、まず、この深くて昏い河の存在を伝えていきたい。つぎに、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この「上下同質競争社会」の同時代に命を燃やしている。ぼくはたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい。
 たとえば、先の就職浪人が決定した彼に対して教師はどう対応すればよいのだろうか。ぼくは、指導の要素をシンパシー、ストローク、エンカウンターの3つと考えている。まず、彼の存在に対して、肯定的に関心をもち、共感的に理解しようとする態度が必要であろう(シンパシー)。考えてみれば、彼の就職の条件の@は安定した収入、Aは自由時間、Bは家族の安心を求めるもっともな願いであり、だれもそれを責めたりできないはずだ。それよりも、世間から差別の目で見られるだろうから辛いという言葉を彼なりの真実としてとらえ、そうとらえたことを伝えることのほうが大切だ(ストローク)。その上でこそ、「上下同質競争社会」に気づかないままそのなかで苦しんで生きている彼と出席ペーパーへのコメントという形で真正面から対話し、本音でぶつかりあって(エンカウンター)、自己と現実社会との関係の客観的認識(「奴隷の覚悟」<mito)と、彼自身のもっている内なる差別の存在や社会の画一的価値観の内面化への気づき(「批判の刃を自己にも向けよ」<mito)を促すことができるのである。これが、本当の意味での「自分を否定しなくてもよい」「そんなに頑張らなくてもよい」という自己受容につながり、さらには、「差別されたことのない人にはわかるまい」という絶望感を乗り越えて、「人間は共感しあうことができる」という他者受容と肯定的関心につながるかもしれないのだ。自己防衛的な就職浪人の彼は、このような癒しのプロセスを経てこそ、生きていて社会に意味を与えることのできる自己を発見しようとする元気が出てくるのではないか。(注 <はパソコン通信の発言者を表す記号の借用)
 ぼくが双方向高等教育に夢中になっていることも、この本を書きたいと思っていることも、以上の事情による。このような癒しと貢献の生涯学習が、そしてその「指導」が、現代人が不信と絶望に苦しむ上下同質競争社会において、突出的とはいえ水平異質交流の共生社会を創り出すとしたら、また、そのためにこの本がごくわずかでも役に立つことができるとしたら、それはすなわちぼくにとってのうれしい「癒しと貢献」でもあり、ぼくがこの世に存在する証拠にもなる。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
自己管理型学習 英語でself-directed learning という。成人の学習は、その計画、実施、評価に至るまで自律的(self-directed)に行われうる。よって、成人教育に携わる者は、成人のすべての学習プロセスに対して双方向的に関わる必要がある。これをペダゴジー(子どもへの教授法)に対するアンドラゴジー(大人への教授法)という。ぼくは、これに加えて自己管理型人生の重要性を提唱したい。

第1章 癒されない3つの病理

1 家族関係の病理

 家族は言葉にしなくても気持ちが伝わる安心できる場であってほしいとは思う。しかし、それなら、なぜ児童虐待が起こるのか。子どもに孝行心を教える、というだけでは解決しないだろう。交流分析では「生育歴が人生の脚本を決定している」という。これからの家族には意識や理性による努力の営みが必要なようだ。

 個人を癒されない状態に追い込む現代社会の要因として、出席ペーパーなどからぼくが感じているのは端的にいえばつぎの3つになる。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピアコンセプト(仲間意識)。@の家族関係については、「子を持って親になる」という状況が崩れ始め、「子を持ってもまだ大人になれない、なりたくない」という親たちが出現している。

1週目
 家族のなかで、いつも私を「おまえはこういう娘になれ」と強制的な言い方をする人がいた。彼が私のことを「人間的に薄っぺらい」と言っているのを立ち聞きしたときは悲しかった。「彼にとってOK」になることはできず、苦しい毎日だった。顔を見れば否定語がとんでくるという恐怖があった。
 私はいい子ちゃんできた子です。なので自分を語調も荒く批判してくる人の言葉を受け流すことができず、まに受けて傷つくことしかできません。でも、mito先生の授業中にいくつか気づいた。私は友だちや恋人に目に見える形での「優しさ」や愛情を求めているということを。
2週目
 以前、父に私の存在を非難されました。「おまえなんかいなくたっていいんだ」などなど。書いていったらきりがないのですが・・・・。私が自分の考えをもつことに不満を覚えてきているのかどうか、進学についても反対され、受験勉強のできない環境を作られっぱなしでした。
 親の不仲+父親の態度、そればかりでなく母親から聞かされる話。子どもに聞かせるべき内容じゃないものばかり。誰にも言うことのできない話なので、私が聞いてあげなければならないのですが、私は母の話を聞いていると、母に言ってはならないこと、「なぜ私を産んだの? 苦しい思いばかりさせて!」ということを言いそうになるのです。でも、それを言ったら母を壊してしまうことになります。私にはそれよりも自分ががまんすることで母を守ることしかできません。
 でも父に対してはまったく別になっています。今ではお父さんと呼べなくなっています。以前は言われたことに傷ついていましたが、今は、自分の子どもをそういうふうにしか見れない父をかわいそうな人だと思っています。

 つぎの授業(3週目)で、このペーパーに対してぼくが何とかコメントできたことは、一つは、「わたしのことが心配で離婚しないのなら、そんなことは心配しなくていいよ」、もう一つは、「わたしはお母さんと違って幸せになるからね」という二つのことをお母さんに言ってあげたらどうかということであった。その学生の娘としての自立と幸福追求を願って、また教育というものの現代社会でのあり方を考えて、多くの学生の前で(匿名だが)コメントできることは、せいぜいそれぐらいだ。だが、結果的にはそれでよかったようだ。

3週目
 コメントありがとうございました。今までの私の行動は間違いではないと自信がつきました。母にはもう「離婚していいよ」と(私の方が強く願っているのですが)言ってあります。しかし私には弟がいます。まだまだ精神年齢が子どもで、離婚家庭になったらかわいそうだと思ってたんです。弟も別れないことを望んでいました。
 でも、今ではあんな父親(この前書いたことばかりでなく、もっともっとひどいこと、人間としてはやってはいけないことをしている)の姿を見せたくない。私の味わったような気持ちを味わわせたくないんです(それがあったからこそ今の自分があるんだと思うと、あんな父でもそういう意味では感謝してますが)。
 私は母に「私は幸せになるよ。お母さんが味わえなかった幸せまで手に入れてみせる」と言いました。母は喜びました。私は母から聞きたくない話をされても母を愛しています。母もです。今では姉妹のような友だちのような母子です。私の幸せは、ただ好きな人と結婚して新しい家庭をつくることなのではなく、「母と一緒に二人だけで暮らしたい」というのもあるのです。父のことで悩んでいても、そう未来を考えるだけで幸せです。それに私には両親以上に私を思ってくれている、おじ、おばがいます。友人もいます。自分だけが不幸なんだと思ったことはありませんが(これ、本当なんです)、今あらためて自分は幸せなんだと思いました。
 ただ、mitoちゃんが言ったように、トラウマは残るでしょう。でも、プラスにもっていきます。そのために私は教師をめざします。ちゃんとした動機じゃないかもしれません。きれいごとかもしれない。でも・・・・。
 私は中学生のころから父のことで悩んでいました。それがいろんなものにどんどん感染し、毎日が余裕のない心でした。今の子どもたちにも、そういう子たちが多いと思う。私は話を聞いてあげたい。解決できなくても、軽くしてあげたいんです。教師になることに不安があるなんて言っときながら矛盾ですね(笑)。

 子を持っても、なお、親である自分自身が家族や他者から愛されているかどうかのほうが不安なために、大人として、あるいは親として、子を愛することができない親が増えているのである。「子どもがかわいく思えない」という追いつめられた状況のなかで、親から子への暴力や、性的虐待などさえ起こりうる。その具体例を一つひとつここで紹介するわけにはいかないが、親の日常的な不機嫌や夫婦間の不和などのレベルであれば、もっと一般的な状況として蔓延している。

 mitoちゃんの言っていた「親の不機嫌は子どもに対する暴力」についてほんとうに同感です。私は毎週レッスンに連れていってもらう車のなかで、母の機嫌が悪く、いつも私にあたっていました。私はその時間がとても苦痛で気分がすさんでしまって、せっかく練習していっても、先生のところでまったく弾けなくなってしまうのです。私が帰ってきて、上手に弾けなかったため一人で泣いていると、その姿を見た父が直感的に母が私に何か言ったのだろうと感じ取り、夫婦でけんかが始まるのです。私が一人暮らしをした理由は母から離れるためでした。でも、またいつか家に帰ると同じことになるのではと思っています。
−−−−×××−−−−
 (授業で聴かせた子育ての歌の歌詞の)「お母さんに聞かせて」というところがいいですね。私の母なんか、いっつも「なんで?」とか「正直に言いなさい」とか問い詰めるようにしか言わない。「言いなさい」と言われると逆に言いたくなくなっちゃって、ついうそついたりしてしまう・・・・。でも、最近は、なんだかどんどん母親が子どもに見えてくる・・・・。でも、わかんない。これ以上はうまく書けないけど、今日はあてはまることだらけで何か良かったです。
−−−−×××−−−−
 朝、起こしに来るときの母さんと父さんの違いに気がつきました。
 母さん 「いつまで寝てるのー。毎朝、毎朝、いーかげんにしなさい!(とにかく怒る) なんにもしないで。(関係ないことまでついでに怒る) 本当、起きたためしがない。(一度もしたことないように言う。私はこれに切れます)」
 父さん 「おーい。(40すぎの男が娘に、おーい、ですよ) 2回目だぞー。遅れるぞー。大丈夫かぁー。(心配されたらがんばりますよ) 起きれるかぁー。がんばれよー。(ごめんね父ちゃん、と素直に言える) 歯みがきしちゃうと少しはラクだぞー。(思わず笑っちゃいますよ。ありがとってカンジです) 10分後にまた来るから。(これもとてもうれしい。次来たときは起きてようと思う) がんばっとけー!(もうほとんど起きてる。不思議と・・・・)」
 どう思います? ちなみに私は父が好きです。母とは風呂に入りたくないけど、父ならいいです。父のならパンツだってたたんであげる。ファザコンじゃないけど…。上の会話は、妹を起こしに来る両親の声を部屋で聞いたものです。そして妹は父の2回目の声がけのあと、起きてきました。でも、下へ降りて母にまた「遅い!」と怒られました。とうとう朝からけんかです。父さんの努力のかいなし。チーン。

 子どもとしては、そういう家族関係のなかで、どのように癒され、安心することができるというのか。先の「おまえなんかいなくたっていいんだ」(p14)といわれた娘のペーパーについて、他大学で、つぎのようなレスポンス(反応)が返ってきた。

 (酒とギャンブルにあけくれ、「おまえなんかどうにでもなれ」と言うサラリーマンの父について述べたうえで)ちなみに、私も自分が不幸な境遇だなんて思わない。むしろラッキーかもしれない。だって、その分、いろんな心の痛みが手に取るようにわかるから。それに底辺を経験しちゃえば、あとは上がるだけだし。私はこんなことで負けてられないと、いつも自分を奮い立たせています。
−−−−×××−−−−
 (酒びたりで、自分の受験を邪魔していたのに、いざ進学校に受かると、自分の手柄のようにまわりの人に自慢していた離婚前の父について述べたうえで)最近では、両親が仲良くなかったりして悩んで愚痴をいっている友達の苦痛がわかるようになってきた。その子たちが私の苦しみを完全に理解できないように、私も彼女たちの苦しみを完全には理解できない。当たり前ですよね。おたがい違う人間なんですから。だから、少しでもわかってあげようとすることはできるとわかりました。

 これらについて、さらにつぎの2通りのペーパーが返ってきた。

 家庭での不和を苦しんだのだろうが、「私は不幸ではない、ラッキーかもしれない」、「苦しみを知っているがゆえに、ひとの苦しみを理解できる」というそんなとらえかたができてとてもすごいと思う。すごいなどという言葉で相手を見るのは軽率かもしれませんね。私自身はどうなのだろうか。絶望や困難に向き合い、自分の生き方をとおして主題を追求していく。そんな人生を歩んでいきたい。そんなことを、片意地はらず、自然に思っていきたい。
−−−−×××−−−−
 不幸は不幸でしょ。「それでも自分は不幸だとは思わなかった」というセリフが気になる。気に入らない。「○○のために」幸せになるというようなセリフも気に入らない。まず、自分が一番幸せになろうとしてほしい。自己中心的な意味ではなく。

 上下競争の現代社会においては、後者のペーパーも悲劇的だが真実である。「ぼくがもし宇宙で一人で生きているのなら、もっと自分らしさを守れるのに」というペーパーも前にあった。あるとき、過労死をテーマにして、現代社会において主体的に自己を主張し、家族関係や夫婦関係を守ることについて考えるという授業を行ったところ、つぎのようなペーパーが提出された。

 (過労死について)他人事。どうでもいい。俺に関係ない。自分の親父だったらかなり泣けてくると思うが。でも、過労死だとか登校拒否だとか、そういった他人事について大勢の人間で考えるみたいなところが、この授業の嫌いなところです。ある日、ふっと一人で心のなかで考えたり感じたりするのが人間だと思う。大勢の前で口にするなら、それらをすべて証明して、すべて背負ってくれ。たのむ。過労死だって夫が選んだことだ。嫌なら仕事をやめればいいだろう。それなのに死んだのだから、私はそれでいいと思う。笑ってやれよと思われる。子どもはおまえ(「残された妻」のこと)が支えろよ。でなきゃ、やめちまえと思われる。日本のせいにするなよ、自分が頑張れよと思われる。

 ぼくは、これに対して、「この学生も、自分一人で頑張るなんてことはしなくてよい。どんな人もそれぞれの事情があって生きているのだ。自分の今の気持ちを自分自身が本当の意味で認めてあげられるようになると、優しくなれるのでは」とコメントした。しかし、この学生は、そのコメントではきっと満足しなかったと思う。上下競争のなかで、ガンバリズム(「頑張らなくてはいけない」という精神風土)に毒され、しかし、それだけではとうていどうにもならないという客観的事実に直面し、その事実を認識するための自己客観視(ここでは自己の現代社会のなかでの位置づけ)を避けて、またガンバリズムという不幸な思考方法に戻って、自分の悩みに無理に決着をつけようとする。そんなことの繰り返しの回路だから、「他人事だから俺には関係ない」という排他的、閉鎖的な傾向がますます強まっていく。
 安心できる家族関係の回復のために、ぼくがひとつ考えているのは、「真偽の勝負からの脱却」である。3人称の関係であれば「どちらも一理ある」としてあきらめて終わることでも、「私とあなた」の1人称と2人称の家族関係だと、あきらめきれずに、「私のいうことが真で、あなたのいうことは偽」と互いに主張して譲らない不毛な争いを延々と続けることになる。なぜそれが不毛かといえば、たとえ正反対のことを感じたとしても、どちらの実感にも「間違い」などというものは存在しないからである(アンビバレンツな真実)。ただし、いつも大酒を飲んで帰る夫がたまにしらふで帰ってきたとき、@大いに肯定的に反応するか、A明日また飲むのではないかと不安になって肯定できないか。そのどちらも妻の実感から生ずる真の反応なのだが、どちらが生産的かというと当然前者の@ではあろう。
 間違うとすれば、「であるべき」「であるはず」「みんなそうしているのだから」などという不合理な思い込みや信念のレベルにおいてである。そういうもともと歪んだレベル同士で真偽を争うとしたら、これは気が遠くなるような不毛な争いである。ところが、「思い込みや信念のレベルでも自分は正しくなければいけない」などという客観的には明らかに無茶なことを考えるものだから、相手が偽であることの証明に執着しがちになる。本当は、「あなたはあなた、私は私」(p72)こそが人間関係の真実の姿であり、実感レベルでは、どちらも理があり、真であるということに気がつきたいものだ。
 たとえば、「さぼりたい」「がんばりたい」「がんばりたいけど、さぼっちゃった」などのおおもとの気持ちはおおむね真である。ところが、「がんばらなければならないのだから、がんばりたい」や「がんばりたいけど、がんばれないから、さぼりたい」は、偽である。なぜなら、前者は客我(がんばらなければならない社会の客体としての自分)と主我(がんばりたい主体としての自分)とを混同しているし、後者は主我のなかで「がんばりたい」と「さぼりたい」が矛盾しているからである。人間はややもするとこういう混同や矛盾に陥る宿命にあるが、そういう自分の滑稽さに本当に気づけばやっと解放の笑いが出てくる。ちなみに、「がんばらなければならないのだから、がんばろう」、「がんばれないから、さぼろう」とすると真になる。

図表2 真偽の勝負から無知と非力の自覚へ
正しくなければいけない

自分は正しい

真偽の勝負

ゆさぶり発問(または自問)

わからなくなっちゃった

そんなこと、わかる自分ではまだない

適正な自己評価

無知と非力の自覚と受容

自己と他者への基本的信頼

 たとえば、部屋を掃除するか、ほうっておいて遊びに行くか、どちらが真かという議論は不毛だ。感情交流を伴うコミュニケーションをして、そのときどき現実生活のレベルで折り合いをつけるしかない。
 そのためには、「私は真、あなたは偽」と思い込んでいる人にとっては「自分がわかっていないことに気づくこと」(無知の知)が重要である。では、わからなくなれない人はどうしたらよいか。わかっていないということを自覚させる学習指導者からの質問が有効である。これを「ゆさぶり発問」という。そういう指導者がいない場合は、あとは自問という手段しか期待できない。こういうゆさぶりを経て、無知と非力の自覚が生まれ、「まあ、いいか。これから少しずつやっていこう」という自他の欠点や弱点をも抱え込んだ受容につながり、自信(自分への信頼)と「他信」(他者への信頼)が形成される。
 自信をもつためには、この点が重要である。指導者にとっても、もちろん謙虚さは大切だが、「わたしは指導者の器ではない」と規定するところまでいってしまうと、それはじつは「指導する人とされる人の固定的役割分担」という上下同質競争の価値観の非主体的な内面化の表れにすぎず、非生産的な自己否定(p50)に陥る。ぼくはこれを過剰反省と呼ぶ。これは大勢の前でしゃべるときにあがるという問題についてもいえることである。「みんな、じゃがいも」と思うより、個の深みを感じてある程度は緊張するほうが当然だし、いい結果も出よう。問題は過剰緊張である。指導者はカウンセラーのような完全な自己一致(p52)よりは、むしろ「ちょっと反省する」ぐらいの態度が必要だ。そのコツは「今の自分よりちょっと上」をつねにめざすということである。そのためには、自己卑下でも自信過剰でもない適正な自己評価(主体の3要素、認知、行為、評価のうちの一つ)が必要である。さらに、不安傾向の高い人に共通な思考様式の特徴に、「失敗の原因を、どうにもできない事項(幼児期の環境等)や、どうにもできないと思われる事項(根源不安等)に求める」がある。これに対し、不安傾向の低い人は「失敗の原因を、自分の対処の仕方の間違いに求める」のである(生月誠『不安の心理学』講談社)。どうにもならない「自分そのもの」を否定するのではなく、今後は正せる「自分の行為」をちょっと反省すればよいのではないだろうか。
 そもそも、宇宙の概要を知り尽くしたうえで、地球に生きている人など誰もいないし(無知)、過去や他人を正当な手段で自由に変えることのできる人など、一人もいないのである(非力)。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
発達課題 R.J.ハヴィガーストによれば、人間の生涯のそれぞれの時期において学習することが望ましい課題。これに失敗すれば、その後の課題の達成は困難になるといわれ、生涯学習の必要性を表す。だが、逆に、「気づいたときから始められるのが生涯学習」という見方もなければ淋しすぎる。
生育歴 交流分析では生育歴によってその人の「人生脚本」が書かれてしまっていると考え、問題解決のためにそれを書き直そうとする。「三つ子の魂百まで」の魂の書き直しである。最近は、臨床の研究などから、ほとんどの社会的不適応の原因を幼少期からの家族関係に求める議論も多い。スイスの思想家アリス・ミラーは、大人が子どもに加える侮辱や暴力、管理は子どもの人生を深く傷つけると警告している(『魂の殺人』)。その指摘は重要だが、男女間の固定的役割分担の解消、教育システムの問題などのマクロな社会的視点での検討、個人の自己変革主体としての可能性の評価なども別途必要だ。
家庭教育 親が子どもに対して行う教育。不定型教育(informal education)のひとつ。子どもにとっても生涯学習の一環であるが、「子育ては親育ち」というように親自身の自己への気づきの場でもある。社会教育行政は、家庭教育の振興にかなり力点をおいている。しかし、義務教育と違い、学習者の自発性・自主性に任されるので、学んでほしいと思われる親ほど参加してくれないという皮肉な実態がある。そこでわれわれが考えなければならないことは、親の学習の義務化ではなく、その親自身が夫婦・親子関係における不幸に気づき、幸福追求にみずから向かおうとするように仕掛けることである。

2 教育システムの歪み
 −ぼくたちはいったい何のために学んでいたのか− 

 教育は個人の社会化を促すためにある。しかし、学校歴偏重の教育システムを内面から受け入れて、「自信たっぷり」に人を差別する人たちまでいる。さらに、若者たちはそういう差別者を「彼なりに努力したのだから」といって許してしまう。私たちは、あるいは社会は、差別主義者に対してどう対処すべきなのか。

 差別の話について。「東大卒、元弁護士」と差出人の自分の名前の前に書いた手紙に対して、先生はそんなことを書くのはくだらない人だとおっしゃったが、それは先生の東大卒の人に対する差別なんじゃないですか?
 世界中に自分一人しか人間がいなければ差別はおこらないと思うが、複数の人間が存在すれば、人間の心のなかに差別の心は必ずあるものだと思う。人によって差別の大小は極端に違うとは思うけれど。

 この話題は、ぼくもパネラーとして参加したS市の生涯学習大会における作家のN氏の話を聴いて、その一部をぼくが引用して授業で紹介したものである。N氏の出演する子ども向けのラジオ番組のなかでのN氏の挨拶の仕方がなっていないというクレームの手紙が、未知の人から寄せられ、その手紙の終わりの差出人の名前の前に「東大卒、元弁護士」と書いてあったというのである。N氏は、普通の人は手紙に学歴や元の肩書など書かないだろう、きっとこの人は暇を持て余しているのだろうと言った。ぼくも授業でN氏の発言を支持して、手紙にそんなことを書くなんてくだらない人だと発言した。
 ぼくの言ったことは、「東大卒の人に対する差別」ではないと思う。ぼくは、東大卒の人にはくだらない人が多いと言ったわけではないからだ。実際、東大卒の人のなかにもおもしろい人はたくさんいると思っている。ぼくは、手紙の自分の名前に過去の学歴や肩書を添えるなんてくだらない奴だと言っただけだ。この手紙の主は、自分に与えられた地位や肩書を自分そのものの価値のように錯覚して、その与えられた権威に頼って他者を糾弾しているのであり、そんなことは、それを見た人まで赤面するほどの差別的な行為であることを知るべきだということだ。この手紙の主の過剰なCP(批判的な親心)による権力志向の行為は、現実の社会に生きていくために(保身)ぼくたちが履歴書に学歴や肩書を記入することなどとはまったく質の異なる重大な問題をはらんでいる。しかも、この「くだらない人」という判断は、ぼく自身の実感と思考によってつくりあげられた物差によるものであり、人を比べて序列をつけて差別するために社会からあてがわれた物差による差別とは質が異なると考える。それでも、特定の人を否定することにつながるのだから、ぼくのこの言動は差別だといわれるかもしれない。それならそれでもよい。差別を嘲笑するという意味をもった差別なのだから。
 それよりも、学歴や肩書に頼ることの愚かさを指摘することまで差別だとしてしまうとすると、結局は愚かしい(非主体的な)差別を許容してしまうことにつながるのではないか。ちなみに、「複数の人間が存在すれば、人間の心のなかに差別の心は必ずある」というペーパーの後段の言葉は、事実の一面を表しているのかもしれないが、ネットワーク型の水平空間の創出に対する敗北主義でもあると思う。そこには、社会的抑圧に対するAC(従順な子ども心)(<交流分析、p53)の働きによる無理な過剰適応の傾向が感じられる。
 しかし、敗北主義的で悲観的な傾向もたしかに差別の実態の一面を表している。ぼくも、自分自身のなかに教師の役割にかこつけた権威主義的な傾向(CP)を秘めているのだろう。それは、教師としての職業病といえるかもしれない。「批判の刃を自己にも向けよ」ということだ。ただし、その職業病は、「自分自身が偉い」あるいは「偉い人でなければならない」と本気で思い込む先生病ほどには愚かではないと思う。その差は、学習者側からの批判を大切に受けとめ、きちんと受けて立つ姿勢があるかないかというところにあると思う。このようにして、双方向性さえ確保できれば、先生病という重大な病いには至らないのではないか。

 わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。
 今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいと言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。
 人には、その人に見合った世界があって、その世界のなかでの上をめざすことはかまわないけど、その上の世界をめざすのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。
 私は、そんなものなの? と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。

 そういう過去の遺物のような人間に対してのぼくの基本的なスタンスは、「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」である。だから、ペーパーの書き手に対するアドバイスとしては、ひとことでいえば、「ケッ」と言って笑い飛ばす能力が大切であるということになる。まあ、心配しなくても、その手の「アパルトヘイト」(南アフリカ共和国の1989年以前の人種隔離政策)みたいな、唯々諾々と「頑張ってきた」だけの人たちは、社会ではいずれ挫折するだろう。たまたま出世するかもしれないけれど(本当は管理職には適していないのだけど)、ひとの痛みを知らず、人間としての厚みがないため、他者からの信頼や愛情という人間の生活や仕事にとっての肝心の財産を獲得することができないまま生きていくことになるからである。差別された者も、このことを知らないと負け犬になってしまう。
 学生が一流企業をめざすこと自体は、けっして不合理なことではない。ぼくだって、「生活の安定をめざすならば、可能なら大企業にぶらさがれ」と学生にいっているぐらいだ。しかし、そういう自己保存のための作戦の部分だったはずのものが、たまたま成就した事実があったからといって、本気になって、「自分は上の世界の人だ」と思い込んでしまう人間がいるというのにはびっくりしてしまう。自己の合格・不合格などは、客観的にはちっぽけな事実にすぎないのに……。上下同質競争、学校歴偏重社会の価値観の個人的な精神世界への侵略は、目に余るものがあるのだなあと思う。
 例の友人は、AC(従順な子ども心)とCP(厳格な親心)ばかりで生きてきた人なのだろう。そういう人たちの幸せのためには、なるべく早いうちに挫折を自覚して、「ただのろくでなし」(平気で差別したり迷惑をかけたりする人たち。自称「成功者」たちの差別や、頑張って授業には出てきてしまう自称「被害者」たちの私語など)から「ましなろくでなし」(そのほかの、しかし「不完全」な私たち)として立ち直る機会が訪れるよう祈るばかりである(p66)。
 ところでこのペーパーについてつぎのようなレスポンス(反応)があった。それによって、このトピックスに関する考察は、もう一段、ぐんと深まることになる。出席ペーパーシステムは、このように、教師の能力を超えた自動増幅機能を内包している。

 一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。「ケッ」と思う気持ちや、(注=彼らに対して)負け犬にならないということは大切ですが、いきなり「ばか」と切り捨ててしまうことの方が、ある意味では「負け犬」なのではないでしょうか。(注=合格・不合格の)つまらない事実であっても、わたしはその事実は事実として認めるべきだと思いますし、その人の努力の結果には敬意を表したいとも思います。その上で、自分は自分なりのものをつくりあげ、それに自尊心をもてばいいと思うのですが。(あ、時間がない……。)
 フリースペース、その時間、わたしは授業ですので、ちとキツイです。出たいとは思うのですが……。わたしも酒好きですし(笑)。

 ぼくは、「馬鹿という言葉は、少し違うなあ」とは感じながらコメントしていたのだ。しいていえば、「あほ」という言葉のほうが適切だったかもしれない。つまり、嗤う(ばかにしてわらう)という感じである。庶民が「ばか殿様」を笑い飛ばす、あの感じである。
 さて、このペーパーによって、「その人の努力」に対する評価のあり方が問題として焦点化されてきた。これは、このペーパーの書き手一人にとどまらず、「心優しい」現代青年の普遍的な傾向であると思うのだが、「そんなこと言ったって、その人なりに努力してきたのだから」とか、「がんばってきたのだから」とかいって、客観的にはその「努力」が不当であることを感じながらも、個人の主観的なストーリーとしては容認してやろうとしてしまうのである。
 例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる人類の幸福追求の敵としての役割を果たすからである。
 このような客観的には不当なこと(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張ったのだから」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」の滑稽さを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだ。
 それでは、なぜ、ほとんどの人が高校まで通えるようになった現代青年までもが、そういう「人類への裏切り者」を許そうとするのかというと、それはおたがいに「頑張らせられてきた」学校歴偏重社会の被害者としての仲間意識が根にあるのだとぼくは思う。これこそ、まさに、ピアコンセプト(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)の逆機能といえよう。ヒエラルキー(階層制度)の上位にあって下位の自己を抑圧する相手に対してまで、「同じ苦労をしてきた」(ただし、相手は「成功」した!)という思いから、批判することを回避している。これは、自称「上の世界の人間」もそうでない人も、「(受験勉強はいやなのに)頑張らせられてきた」という意識・無意識の被害者意識を、社会を良くする主人公としての自尊心に転化するに至らないまま、自身の根っこの問題として引きずっていることの表れといえるのではないか。つまり、端的にいえば、負け犬同士が傷をなめあっている姿ではないか。どちらの側も、学校歴偏重の上下競争の価値観を内面では蹴飛ばしきれていないからである。
 さて、ぼく(mito)自身はどうなのか。「やっぱり負け犬の一種でしょうね。そりゃあ、こんな社会に生きていて、あるいは人間存在の空虚さという本質から、まったく敗北主義にならないというほうが、かえって不思議ですよ」。こういって、ぼくは、そういう自分の「ろくでなし」の部分を、「まあ、事情が事情なんだから、今までのことはしかたないよ」という感じで許してやっている。しかし、「せめてましなろくでなしになりたい」という気持ちで打ち出しているのが、つぎの3つのテーゼである。
 「今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーのなかで演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて」(『こころ』p106)。
 「ばか殿様」からも、それを反面教師とすることによって、学ぶことはできる。しかし、自分が元気に学び続けるためにそれより手っ取り早いのは、さわやかに生きていく力をもっている人、「ああ、この人が生きてくれていてよかった」と自分までうきうきしてしまう人との出会いを多くすることである。そのことによって、自分もさわやかに生きていく力をもつことができる。「大人になりたくない」などという青少年が多いが、それは、たまたま、いいモデルとしての大人にめぐりあったことがないからか、あるいは、本人がそういう出会いから逃げようとしているからかのどちらかであろう。
 ぼくがフリースペースを個人的にも楽しみにしているのは、「おお、いいなあ」と心からあこがれてしまうような他者の生き様と出会い、癒され、こちらまで元気が出るからである。相手は学生ではあるが、ぼくなんかよりよっぽどかっこいい潔い自己決定の生き方や、自分に厳しい深い生き方をしていて、教師のぼくが思わず尊敬してしまうような学生もごろごろいるのである。こういう人との出会いを避ける手はない。このペーパーの書き手にも勧めたい。フリースペースは、参入も撤退も自由のネットワークの場である。「1年に1回だけ来てもメンバーだ」。何回も来なくてもいいが、授業が休講のときなど、1回ぐらいは来る価値はあるだろう。
 蛇足だが、その自称「上の世界の人間」が実際に学生としてぼくに接してきたとしたら、ぼくは教師として「どう受けて立つか」を述べておきたい。教師は学習者の援助者であるから、今まで述べたようなことはそのままの形ではいわない。教育効果(変容)が期待薄だからである。今まで述べたことは、客観的には自分にも迷惑をかけている「ただのろくでなし」をさえ、「頑張っているんだから」といって認めてしまおうとする「心やさしい人びと」への忠告であったのだ。
 自称「上の世界の人間」の本人に対しては、ぼくは嫌悪や嘲笑を押さえて、本人の過剰で屈折したガンバリズムの悲しい事実を探り出し、本人の目の前に提示しようとするだろう。そうすれば、遠い先にあった挫折の自覚が早く訪れる結果になってしまうかもしれないが、その場合の挫折は現実体験というより本人の理性的認識によるシミュレーションに近いものであり、それゆえ本人の「自己決定」の要素が比較的大きいと思われるからである。個人の幸福追求への援助のためには、教育は本当はそうあらねばならないのではないだろうか。

(注=自分をワガママだと批判していた彼氏が、最近やけに自分にまとわりついたりプレゼントをしたりするので「あやしい」という前置きがあったあと)たぶんわたしの夜遊びのせいだと思う。わたしの夜遊びははんぱじゃなく、男友達5、6人とギャーギャーさわぐ。朝まで激論を交わすことも多い。激論のテーマは人種差別、宗教、音楽などだが、二日酔いをともなうとっても充実した朝を迎える。かれらは愛すべき Friendsである。わたしの友達はブラックが多いので、人種差別についてはすごくきびしく、わたしは日本代表としてせめられている。
 それ(注=ほかの男友達との「夜遊び」)が彼には気に入らないらしく(わたしがそのことを楽しそうに話すらしい。だって、ほんとうに楽しいんだもん)、また、わたしがあんまり彼と遊ばなくなったので不安らしい。「おまえが離れていくような気がする」のだそうです。わたしはそうでなくても離れていくのよ、と思ったけどね。プレゼントがなんぼのものじゃい。アパルトヘイトを知らない彼にもっと勉強してもらいたいと思う。彼はマンデラがどこの国の人か知らなかった……。

 ほら、こんなに「雄々しい」いい女がやっぱりいるんだ。このペーパーには「雑談」という彼女なりのマークが付いていて、それにしてはこういう深い内容であり、そのことだけでも彼女のその「潔さ」にぼくはうれしくなってしまう。だけど、知らないということは仕方のないことだから許してあげてほしい(マンデラはアフリカ民族会議議長で、のちの南アフリカ共和国大統領)。問題は、差別やその他の社会の不当性、人間存在、芸術表現などの事実を知っているかどうかよりも、その本質(真実)の追求自体にそもそも関心があるかどうかだ(生きる力や個の魅力としての関心・意欲・態度)。ここからは、「彼」本人からの話を聞かないまま論を進めるので、実際の彼の姿を推測するものではないということをお断わりしておく。
 きっとあなたの今までの彼は、そういう関心そのものがまだ育ってないのではないか。世の中には、大人になってもそういう「ガキ」状態にとどまっている男が(女も!)かなりいる。社会や自己の姿をなるべく正確にとらえようとする「大人心」を使い慣れていないのである。そういう人は、相手に「自分のために生きてほしい」と一方的に依存してくるし、自分勝手に独占的な愛を求めてくる。それは、他者(社会)との関係のなかでの自己を客観視できていないからであり、つまり、自立できていないということなのである。遊んでくれなくなると「離れていくような気がする」と相手に自己の不安だけを訴える姿は、その淋しい気持ちもわからなくはないが、彼がまだ自己を主観だけでしかとらえられず、他者から見た自分の姿を推察する能力が育っていない証拠ともいえる。あなたのような大人の女には、そういう自立できていない男は残念ながら似合わないのだろう。
 世の中には、あなたとの「激論」に耐えうる「いい男」がいっぱいいるのだから、いい女になりつつあるあなたが、過去のそんなつまらないつきあいにあまりとらわれすぎるのはもったいないことだと思う。ぼくはそんなに雄々しい男ではないけれど、そんなぼくだって、このペーパーを読んで、「ああ、彼女みたいな人と『激論』するのは楽しいだろうな」と思う。そうは思えずに、「社会や人間のことなんかことさら考えなくたって」と思う男は、同じように思っている女とつきあって満足していれば、それで世の中は安泰だろう。
 「わがまま」には2つの種類があると思う。「わたしの人生はわたしが歩きたい」という「良いわがまま」と、「あなたの人生をわたしのために曲げて歩いてほしい」という「悪いわがまま」の2つである。自分の力で自立を実現して大人の「いい女」になるためには、前者のわがままであるのなら必要なことである。ただし、後者の「悪いわがまま」も愛にとっては残念ながら不可避のようだが……。
 この微妙な状況のなか、ぼくが「癒しの教育」を追求していることについて、あるペーパーで、「宗教や神秘主義によって現在の自己を肯定して癒す」のと、mito的授業の「知的水平空間、地域的連帯などによって精神的疲れを癒す」のとは、同じ「癒し」という言葉を使ってはいるが、違う意味なのではないか、という指摘があった。たしかに違う。後者は、@現代社会の上下同質競争のヒエラルキーに直面して、それを強く意識し、Aそこから逃げ出そう(逃避)とするのではなく、突出的水平空間や文化的孤島などにいったん避難(回避)し、B仮面や演技のない「個の深み」との出会いと気づきを味わうというものである。さらには、それらの到達点の先には、C結局、自己決定のサンマでの積極的積極と、それ以外での積極的消極の自己管理にしか、癒しはないのだという、諦観と希望の見通しが広がっているのである(p70)。これがほかの世界での癒しと異なるmito的授業での癒しの意味なのだ。今後の教育は、発達・成長だけでなく、指導者それぞれのの個性を生かして、突出的な癒しと水平異質共生の世界を創り出すことによって、社会全体の教育システムに生涯学習社会への移行のための楔(くさび)を打ち込むことが期待される。

3 自分自身の内なるピアコンセプト

 ピアコンセプトとは仲間を大切にする意識のことである。そこには連帯感や役割意識などの肯定的側面もあり、ふつうはいいことのように思える。しかし、実際には、ピアは個人の主体性を自己抑圧する否定的側面としても機能している。なぜ、そんな逆機能が起こるのだろうか。そして、本当はどうすればよいのか。

 「みんなのために」とか「みんなだって」とかいう認識が、みずからの個の発現を自己抑圧する結果につながっている。こんなペーパーがあった。

 先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読み上げてほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな?

 ぼくはつぎのようにコメントした。そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということがあなたにとって重要である。実際、あなたの希望とは逆に、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。もともと匿名であるにもかかわらず「みんなの前で読まないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなたがそのように潔くできるのならば、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。
 生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピアコンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識(卑屈な自己疎外!)にもつながりがちなのである。
 現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と出席ペーパーでぼくに怒りをぶつけるように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。ちなみに、学生の授業中の私語も、ぼくは仲間意識の悲しい表れであるととらえている。熱心に授業を聞いている他の学生への迷惑よりも、仲良しの友達への同調が優先されるからだ。また、まじめな学生が、他者の私語を「やめてくれ」といえないでいるのも、「主張することによって仲間から浮き上がりたくない」というピアコンセプトの表れである。これではまさに「みんなぼっちの世界」だ。
 このようなピアコンセプトによる卑屈な自己疎外の事例は、今日の生涯学習の場でも無数に出現する。ピアコンセプトは、ヒエラルキーの支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだろうが、ピアだけでは残念ながら本質的な問題解決にはつながらない。かえって、現在のたての人間関係(ヒエラルキー)を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくったりするだけの結果になってしまうのだ。ピアコンセプトはネットワークへの情的動機の一つであるとは考えられるが、ネットワーカーたちは、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心を嗤うとともに、自己の内なるピアコンセプトをも意識的・理性的に乗り越えなければならないのである。ヒエラルキー、ピア、ネットワークの相違を表に示すとつぎのようになろう。

図表3 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ
ヒエラルキーの側面図  ピアの平面図 ネットワークの平面図
(個の抑圧)      (個の規制)      (個の発揮)

 もちろん、ネットワークは冷たいこころのものではない。むしろ、ほんとうの意味での信頼の関係といえる。それは防衛的風土とは反対の支持的風土にもとづいている(J・R・ギッブ)。これらの2つの風土の特徴はつぎのとおりである。

 支持的風土=@仲間としては、自信と信頼がみられる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。A組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。B目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。
 防衛的風土=@仲間としては、恐れや不信がみられる。例えば、自分がこの集団に適応していないと恐れ、律法主義になり、枝葉末節にこだわり、かばいあう徒党が互いにせめぎあい、一方ではやたらに同調性がみられる。A組織としては、統制と服従が強調される。例えば、権威に頼る一方では、統制に対して敵対心があふれ、主導争いがみられ、地位や権力に異常なほど関心が強い。B目標追求に関しては、操作と策略が多い。例えば、トリックが多く、秘密主義であり、上から下へのコミュニケーションばかりで、参加度が低く、画一的な押しつけの評価が多く、仕事ぶりは規則に縛られ、保守的である。

 片岡徳雄は、ギッブのこの分析を紹介したうえで、前者の風土は非定型の集団、後者は定型集団に多いと述べている(放送大学テキスト「学習と指導−教室の社会学」)。
 ここでいうように、「支持的風土」とは、みせかけの同調をすることではない。人間は無知であり、非力である。それを自覚(無知と非力の自覚)してもなおかつそれを受容してこそ、自他への信頼と共感が生まれる。自分が、あるいは、特定の人物だけが、真実を完璧に把握しているというはずはないのだ。だから、せっかく思い切って発言したのにネットワークの仲間たちが聞き入れてくれなかったからといって不満をもつのも潔くないと思う。自分の話をほかの仲間が心から聞いてくれたのならば、それをもって良しとしなければならない。
 ヒエラルキーがツリー(樹木)であるのに対して、ネットワークはリゾーム(地下茎)になぞらえられる。しかし、ネットワークの全体を幹と考えれば、やはりネットワーカーの一人ひとりは「枝葉」にすぎない。そこでのネットワーカーの「枝葉」としての存在確認とは、どれだけ自分の納得のいく提案の仕方を自分ができたかどうかということであり(幹と枝葉)、それが満足できるものならば自分の胸のうちにはさわやかな風が吹き抜けているはずなのである。ぼくは元気がなくなると、元気に活動している人とおしゃべりして、元気をもらう。そこで気づいたことは、彼らがたまたま枝葉としての不運な目に会っていないから元気、ということではないという事実である。彼らは幹を変えられたからではなく、変えようとして行為できた自分に満足するのである。これが枝葉同士のピアコンセプトとは異なるネットワーク型の支持的風土をつくりだすための心構えであるといえよう。

図表4 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ

側面
項目
ヒエラルキー
ピア
ネットワーク

関係性

基本的関係
上下同質
水平同質
水平異質

相互関係
支配と服従
仲良し・われわれ
自立と連帯

交流パターン
役割遂行と役割演技
人格的・仮面的交流
流動的役割遂行と共生

関係維持の方法
差別的同一化
共同的同一化
異質の交流と相互受容

経済関係
従順さへの報奨
見返りを期待しない
ギブ&テイク

友達への態度
同調または否定
同調または内面的排除
共感と自己主張の統合

個の扱い
上からの抑圧
自己抑圧
個の深みの発揮

現実への姿勢
勤勉主義
敗北主義
積極と消極の自己管理

個の安定
制度的安定
主観的永続
変化の受容

新規参入の条件
競争
排他
開放(個人の自発意思)

個人的意味

撤退の状況
敗北
異質化・分派
潔い撤退

依存の心理状態
一方向依存・共依存※3
相互の甘え
相互のさわやかな依存

要請される資質
厳しさと従順さ
優しさと協調性
自他への基本的信頼感

行動目的
組織と秩序の維持
自己保存
自己実現と社会的承認

行動原理
現実原則
快感原則
共生欲求からの自己決定

学習動機
成長(上昇)
癒し(停滞)
成長と癒しの統合

自分らしさ
規制と喪失
渇望と挫折
現在の受容と今後の変容

社会的意味

文化の性格
支配的文化
下位文化
対抗文化

集団風土
防衛的
支持的に見えて防衛的
支持的

社会的教育体制
学校歴偏重社会
教育制度の忌避
生涯学習体系

注1 この表は、現実の組織や集団の実態よりもそれぞれの概念的な特徴を重視して整理したものである。
注2 斜体は筆者がつくったレトリックである。(『こころ』参照)
注3 共依存とは、依存する他者を支配することによって充実感をもつ人と、他者を心配させることによってその人を心理的に支配する人との硬直した関係をさす。

第2章 癒しと貢献の自己決定入門

1 事実よりも真実

 なぜ人は学ぶのか。受験勉強で知識を詰め込むだけでは感動がない。また、他人の出世の程度について嗅ぎまわって詳しくなっても、それでも「学習」なのかもしれないが、みじめで情けない。生涯学習は「学びたいことや学びたい手段を自己選択、自己決定して」という。でも、何を、なぜ、学びたくなるのだろうか。

 人びとが生涯学習などの自己決定の世界を求め続けるおおもとの動機は何なのか。ぼくはそれを感動だと考える。感動するからこそ、きのうまでの自分の枠組が変化するという本来のダイナミックな学習(自己変容)が成立するのであるが、本人にとっては学習になっているかどうかなどはほとんどどうでもよいことである。それよりもワクワクすること(ワンダーランド・・・・これが生涯学習なのだが)と出会いながら人生を過ごしたいという自然な欲求に貪欲なだけのことなのだろう(生涯学習の即目的的本質)。
 もちろん、感動を生み出すのは他者の「個の深み」との出会いばかりではない。事実を伝える情報も大切だ。事実に気づいて感動するようなこともあろう。しかし、それらの気づきの本質は、自己の「個の深み」への気づきといってよいかもしれない。そういう種類の事実や「個の深み」などの、その人の人生にとってほんとうに意味のあることがらを、ぼくは事実と区別して「真実」と呼びたい。
 起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、どこまでも知りたいという自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、そのどこまでも知りたいという場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」ということである。事実の積み重ねに終わるのでは、「深い感動」(駒田、p36)もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかで社会教育の知識が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」という自己決定のワンダーランドとしての学習が根底から疎外されているからである。
 もちろん、なかには、枠組は変えないままその枠組に知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じる、だからそれも自己決定だ、という人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識だけが豊富になった人に対するときと同様の、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。
 ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だってあるだろう。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。
 魯迅は差別を受けつつ学んでいた日本で、つぎのようなフィクションを書いている(小説『藤野先生』)。

 わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。

 じつは、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年に開設されたのだ。また、当時、仙台医学専門学校と同じ構内にある第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているそうだ。この魯迅のフィクションについて、駒田信二はつぎのように述べている。

 事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。(中略)同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。

 つまらない事実(ときには虚偽である)を詰め込むためにぼくたちは生きているのではない。だが、今までの学歴偏重の上下競争社会では、社会から与えられたカギカッコ付きの「権威」(地位、肩書)や、その権威を代弁するマスメディアが大量放出する「事実という権威」にぼくたちの内面はややもすると従おうとしてきた。しかし、他方で古くから人びとが愛してきたこの魯迅の著作などに見られる小説的真実や、パソコン通信のなかでの「善と悪」の入り交じったコミュニケーション内容は、そういう「権威」に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)として、学歴偏重社会の価値観に異議申立てをしている。すなわち、これらは生涯学習社会への転換を進めるためのカウンター・カルチャー(対抗文化)としての役割を果たしているのである。
 このように心から感動できる真実と出会うためには、ぼくたち自身が、ヒエラルキーが依拠する制度上の権威に惑わされずに「ケッ」と言って笑い飛ばし、自立的な価値を有するもの同士で水平に交流しようとするネットワークマインド(対等な考えや態度、p73)を身につけることが必要である。そういえば、パソコン通信で外側から与えられた地位や肩書きを振り回す人は、江戸時代の馬鹿殿様や、部下を従えてふんぞり返って大蔵省の廊下を歩く幼稚なエリート官僚たちと同様、物笑いのタネだ。これに対して、知的世界に遊ぼうとする人は頭が柔らかく(エッグヘッド)、権威主義者をからかってジョークを飛ばすネットワーカーのはずである。そもそも、学問だって、世俗の権威を超越した世界になければいけない。宴会の席順を争い合うような研究者がいたらお笑いぐさだ。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
信頼 信用が確かだと信じて人を用いることであるのに対して、信頼は信じて人に頼る(頼り合う)ことである。互いに欠点や弱点をもっており、無知で非力であることは前提のうえである。後者の信頼にもとづく人間関係こそが、現実的であり、ギブ・アンド・テイクとしてのネットワークや「さわやかな依存」(<mito)に裏打ちされた自立を可能にすると考えられる。しかし、上下競争の学校歴偏重社会において、人間が本来もっているこの基本的信頼能力が失われつつあるようだ。このことからも、学歴偏重社会から生涯学習社会への転換が人類史的にも急務であるということができる。
生涯学習 「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」という言葉に示されるように、人びとが生涯にわたって学びたいことを、その手段をみずから選んで学ぶこと。そこでは自発的意思が尊重され、その範囲は学習・文化・芸術・スポーツ・レクリエーションさらにはボランティア活動まで幅広くとらえられる。また、昔から「一瞬も怠ることなく学問に励みなさい」などというような類似の考え方はあるが、今日いわれる生涯学習は、現代社会の急激な変化やさまざまな歪み、危機の表れを意識した現代的かつ社会的な理念としての意味のほうが大きい。
生涯教育 生涯学習を支援する社会のさまざまな教育的諸機能。そこでは、統合(integration)の概念が重要だ。統合には、生涯各時期にわたる時系列的な垂直的統合と、社会のあらゆる場のさまざまな教育機能の空間的な水平的統合との2つがある。後者においては、学校や地域、行政全体、企業等のもつ教育機能がすべて含まれる。たとえば学校に関しては社会教育との連携(学社連携)を超えて融合(学社融合)の重要性が叫ばれるようになるなど、統合に関する実質的な深化・発展が始まりつつある。
社会教育 大正10年以来、公けにこの名で呼ばれるようになったが、現在いう社会教育は、戦前の国民教化の歴史を反省し、戦後の住民、国民を主人公とする公民館活動などの蓄積にもとづくものである。教育基本法7条では「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育」とされている。社会教育法2条では「学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動」とされている。ここで重要なことは、生涯教育と違って学校教育は除くが、それ以外の公共、民間、企業、教育産業等の教育活動はすべて社会教育の範疇に入るということである。狭い範囲でのいわゆる「社会教育行政」の事業だけが社会教育なのではない。
社会教育行政 一般的には、上に述べた広い範囲の社会教育を促進・援助するための、しかもそれを専門に受け持つ行政をさす。社会教育法3条では、国及び地方公共団体の任務として「社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない」とされている。社会教育行政には、学習者自身の学びのための環境醸成、条件整備者として、学習者の自主性を侵害しないような禁欲と諦観が求められているのだ。
癒しのサンマ サンマとは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが、今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けていると提起した言葉である。たしかに、今の子どもたちは、与えられた課題をこなす時間の過密化による自由時間(時間)の不足、冒険できる場(空間)の不足、群れて遊ぶ友達(仲間)の不足にあえいでいる。しかし、青年や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。ぼくはそこで現代人が求めているものを「癒しのサンマ」と呼ぶ。サンマであるから、日常の家庭、学校、職場のすべての時間を癒しの時間に当てようというわけではない。せめて1週間に1回くらいはサンマがあって、「ああ、○曜が近づいてきたな」と思えるだけでも、その1週間は元気に暮らせよう。サンマが癒しとして機能するための条件としては、相互承認、自他受容、支持的風土、水平異質交流などが考えられる。

2 合格はラッキーではなく不幸なのか

 事実は小説よりも奇なりという。入学試験や採用試験などでも、努力や実力とは異なった結果(事実)が出てしまうことがある。そんな「奇」のために頑張り、「奇」に左右されながら生きていくというのは、自分の人生としては許せない気がする。本当の自分はどこにあるのか。いったい事実をどう考えればよいのか。

 学生の就職戦線においても、事実と真実の峻別は重要である。採用試験などは、「人間万事塞翁が馬」の代表格であり、また、事実(合否)と真実(実力)は必ずしも一致しないものだ。そういうとき、みずからの真実を大切にする生き方こそ、この上下同質競争社会において、客観的にはもっとも幸福を追求する生き方といえるのである。
 この事実と真実の対応を示した図表5について、授業で「Vは問題ないよね」と軽く流そうとしたところ、ある学生から「個の深み」あふれるレスポンス(反応)が「ちょっと待った方式」(授業中いつでも勝手に反論してよいというシステム)で提示されたことがある。
 男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたのだ。Vとは受かる実力もないのに、事実としてはたまたま運良く(?)受かってしまった場合だ。彼がいうには、採用された後、自分の力不足のために仕事の相手や仲間に迷惑をかけ続けることになり、劣等感も刺激され、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、他の学生も、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達に申し訳なくて会うことができなくなるし・・・」という。
 このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまった。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決め込む敗北主義としてぼくは批判していたが、それだけでは現代青年のもつ傷と繊細な深みはとらえきれないことに気づいた。
 そこで、Vについてのぼくの意見をあらためてまとめて学生に提示した。もし採用試験に、はからずも(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで正当な劣等感や罪悪感をもつこと(真実)は本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた役割遂行ができるようになるかもしれない。
 生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習を社会的活動に入ってから継続(リカレント学習)できる人なのかどうかのほうが重要になる。思うにこれは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということだととらえられる。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その「自己への厳しさ」という持ち味(真実)を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうるのだ。

図表5 事実よりも真実を追求する受験態度


真実
事実
受験主体としての感覚
真実を大切にして生きるためのコツ

T ○ ○
自信と報われた感覚
自己の真実と社会のもつ真実の側面を肯定

U ○ ×
不公平感または充実感
自己の内なる真実の肯定と社会の事実への諦観

V × ○
幸福感または罪悪感
「今ここでの自分」により罪悪感を止揚

W × ×
敗北感または充実感
挑戦した自己の真実と社会の真実の側面を肯定

注 真実の○×は実力、事実の○×は合否結果を表す。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
学校歴より学習歴 急激に変化・進展する現代社会においては、適応ばかりでなく組織や社会に対して主体的に個性を発揮できる人材や、卒業後も自己開発を続けられる人材が求められるようになってきた。そのため、若い頃に完結する学校歴より、どのように学び続けてきたのかという学習歴が重視されるようになった。大学入試の合否は「小説より奇なる」事実にすぎない。その人がどう学んできたのかというプロセスにこそ、その人の真実がある。たとえば貧乏海外旅行などの「体験学習」も高い評価に値する。ところが最近は、高く評価されたいがために貧乏海外旅行に行くという逆転現象も起きている。さらには、過去の文化遺産としての「歴」にではなく、「今、ここで」(<交流分析)の私とあなたの出会いにしか真実はないとも考えられる。他者の真実を評価すること自体、大切だが難しいことなのだ。

3 奴隷の覚悟を決める
 −積極的積極性と消極的積極性−

 自分らしく生きたい、自分らしさを大切にしたい、とは誰もが思う。だが、他者や社会がそれを邪魔する場合もある。「したくないことはしない」と突っ張っているだけでは、この世では結局は自分らしさを守りきれないようだ。自分を中心にしては回ってくれない現実社会のなかで、私たちはどう生きればよいのか。

 「もう一つの自分」や「ほんとうの自分」を見つけたい、あるいは「自分らしさを大切にしたい」という現代人の自分さがしの願望はかなり真剣である。この願望は生涯学習の大きな動機にもなっている。その場合、教育は本人のもつ無限の可能性を信じて援助するだろうし、社会学は現代社会において個がいかに疎外されているかを唱えるだろう。しかし、ここではこうした現代人のもつ「個の深み」が葛藤するいくつかの事例をとおして、教育学にも社会学にもこだわることなく、その臨床的リアリティにもっと近づいてみることにしよう。
 大人になってくると、この世が思い通りにはいかないことに気づいてくる。これを楽園追放という。

 (「自分とはなにかを考え、アイデンティティ=自我同一性を獲得することは青年期の重要な発達課題である」という授業において)人間の短い寿命のなかで、「どうすれば自分を見つめたことになるのか」について私は考える気はありません。「思い切り貪欲でありたい」という欲求に忠実でありたいというのみです。
 以前、街頭で心理関係の会社の人に声をかけられ、話をしたとき、「きらいなものはしない」と言い切った私に、彼は勝ち誇ったように「きらいなものはしないというのは子どもです」などとのたまわったのです。こんな話題で悦に入る人のほうがよっぽど子どもではないでしょうか。その方は、「世の中すべて愛ですよ」とおっしゃいました。彼は自分の得たものをかたくなに他に主張して、自分を肯定したがっているだけではないでしょうか。「時間がありません」という私に彼はなおもお説教し、私は待ち合わせに遅れてしまいました。

 ぼくの答はこうだ。「いやだけれどもやる」という消極的積極の行為は彼女にとってきらいなことかもしれないが、現代社会で生きるためには必要でもある。この消極的積極の説明の前に、彼女の「街頭説教事件」に関するコメントをしておきたい。
 さわやかな自己主張のコツは「私は今は」である。「私は今はあなたの話を聞きたくありません」ということにでもなろうか。これを自他への信頼に満ちた生産的構えということができる。人によっては、「なんで自分だけがわざわざそんな主張のための努力をしなければならないのか」と感じ、その努力を「きらいなもの」に思ってしまうかもしれない。しかし、他者や社会との関係のなかで「きらいなものは(なるべく)しない」という態度を貫くためには、結局は、「きらい」でも、このような生産的構えを自らの内面にはぐくむしかない。
 とはいえ、この人の「きらいなものはしない」(積極的消極性)という気持ちの潔さの部分は、現代社会において自我やアイデンティティを守るためにはとても重要なことである。しかし、逆に、「きらいだけれどもがんばってやる」という「消極的積極性」は、社会においては仮面・戦術の必要性として不可避でもある。ただし、大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、あるいは、基本的信頼を基調とする仲間、恋人、家族の関係などにまで持ち込まないようにする必要があるということだ。言い換えれば、「消極的積極性」の本質的な問題は、心から自己の仮面と戦術の奴隷になってしまってアイデンティティを見失い、自他に対する信頼感を失う危険に陥ることにあるといえる。だから、「きらいなものはしない」というこの学生の大切な思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すと、いっそう正確でリアルな思考になるとぼくは考える。
 ついでにいうと、街頭説教の彼の「世の中すべて愛ですよ」という言葉は、「世の中すべて愛か憎しみか無関心か、ですよ」というと正確に言い直すことができると思う。彼の発言のままだと、この学生の指摘するように「自分の得たものをかたくなに他に主張」する子どもっぽい主観にすぎない。真実はもっとアンビバレンツ(両面価値)である。アンビバレンツを受容せずして真実には接近できない。

図表6 「積極的積極性」の行為としての生涯学習

主体
外見
勤勉度
自己決定
決定要因と動機
特徴と変化への姿勢

T
積極的
積極


したいからする
自己決定(生涯学習)
逃避せずに挑戦
自分のためにする
変化を歓迎

U
消極的
積極


せねばならないからする
仮面・戦術(受験勉強)
不安からの逃避
ひとのためにする
変化を受け入れ

V
消極的
消極


せねばならないけどできない
敗北主義(被害者意識)
自己嫌悪・不安
ひとのせいでできない
変化を恐怖

W
積極的
消極


しないことをあえて選ぶ
自己決定(無為・潔い撤退)
危険だから回避
自分のために、無理しないようにする。
変化を取捨選択

 さて、「消極的積極」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極(仮面・戦術)や消極的消極(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の覚悟)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」ということはできないだろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定ではなく、社会的存在としての人間の宿命なのである。
 つまり、賃労働に代表されるような職業的な役割遂行においては、潔く奴隷の覚悟をする消極的積極性が必要になるということになる。これには例外はある。貧乏な芸術家などがそうである。また、過労死の問題を授業で扱ったとき、「プロボクサーになろうとしていたときの自分は充実していた。そのときには死をも賭していた」というペーパーがあったが、これなどは職業であるのに積極的積極(死んでもいいからやりたい!)であるという好事例であろう。
 だが、これらの例は一般的ではない。たとえば、作品が少しでも売れ出した芸術家などは、バイヤーやユーザーなどの他者からのなんらかの社会的しがらみに縛られ始めてしまうのである。売れなくてはいやだが、縛られたくもないというのでは、ただの他者の存在や痛みに気づかない人にすぎない。まして、一般的な職業においては、働きがい(積極的積極)とともに「働かなければならない」(消極的積極)も不可避である。だからこそ、一般人(ぼくたち)にとって、そういう職業的役割遂行とは異なる自己決定の行為としての生涯学習活動やボランティア活動の独自の魅力が鮮明になるのである。
 ぼくが奴隷の覚悟という言葉をいい出したのは、最近の賃労働の過酷な実態を卒業生からたびたび聞き、暗然たる気持ちになったからである。第一、サラリーマン(賃労働者)になることもままならず、せっかくのモラトリアムの時期を学生食堂でリクルートスーツに身を固めて飯をボソボソ食べている学生を見ると、「夢のある仕事を探そう」などという無責任なことはいえなくなってしまうのである。
 死をも賭しているプロボクサーが「自分さがし」のために別に生涯学習やボランティアをするということは、あまり考えられないだろう。問題は、奴隷の自覚に欠けたサラリーマンが、家族や市民の一員としてのもうひとつの自分を見失い、職業だけを頑張りすぎてバーンアウト(燃え尽き)や過労死をしてしまったりすることである。あるいは、若者たちが、「本当は何をやりたいのか」という自分への気づきを経ないまま、サラリーマンになるのは既定の事実だからという理由で、奴隷の覚悟をしなければいけないと思い、しかしやっぱりそこまでは覚悟できないこともある。たしかに、まともな神経なら、そんな精神状態で奴隷の自発的覚悟なんてできるわけはないだろう。しかし、実際には、奴隷候補者が、支配される世界とは別のもうひとつの自己決定の世界をもたないまま、もう社会に出る歳なんだからといって奴隷になる覚悟をしようとする姿と、そのように適応できずに落ち込んでいく姿は、ともにあまりにも悲しい。これらの問題については、冷酷なようだが、現代社会における生きる主体性の喪失、すなわち、積極と消極の自己管理能力の欠如の問題としてとらえられる。
 主人が「したくないことはしない」という立場であるのに対して、奴隷は「したくないこともする」立場である。それは主人−奴隷のヒエラルキー的関係にもとづいている。奴隷の覚悟とはすなわち、自己の個が抑圧されることがあっても「負け犬」にならずに、頑張っているふりをしたり(消極的積極)、やり過ごしたり(積極的消極)できることである。そのことによって「自分さがし」にとって大切ないざというときに(たとえ賃労働のなかでも)自ら進んで個を発揮する(積極的積極)ことができる。つまり、奴隷の覚悟をすることによって、逆に、自己決定の要素の強い場面などでは、「やりたいからやる」という自己の人生の主人の立場(=主人公)にもなれるのだ。「いつでもわけもわからず頑張っていればいつかは報われる(他者の主人になれる?)」という今までの主観的なガンバリズムだけでは、自己決定の幸せな生き方はできない。
 この論議については、次には積極的消極の重要性を中心として、p70の「枝葉としての幸福追求」においてさらに展開していきたい。本項では上下同質競争社会のヒエラルキーの歯車にならざるをえない場合の、個人の自己実現と役割遂行のコツとして「奴隷の覚悟」をあげた。しかし、じつは水平異質共生のネットワークにおいてさえも、個人は全体という幹に対しては枝葉にすぎないのである。ネットワークでうまくやっていくポイントは、ヒエラルキーでの「奴隷の覚悟」に対する「枝葉としての潔さ」とでも表現できるかもしれない。

4 空しさに耐える

 「祭りのあとの空しさ」という言葉がある。だとすれば、私たちは祭りさえも心からは楽しむことができないのか。昔から「教養のある人たち」はこの世に無常感を感じていた。どうも空しさは人や世の真実の姿のようだ。そんな現実のなかで、ぼくの体験学習に参加することなんかに、どういう意味があるのか。

 (奇数日の)ゲームの日に出席しないのは、多分に私のワガママです。性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからないという・・・・。グループのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲームをやるときのメンバーがいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲームを「こなす」という感じで終わってしまうんですよね。それはけっこうみんなそうじゃないのかなあ? で、そういう「中途半端な」楽しさは、すぐに空しさ(寂しさ)に変わってしまうから、それが嫌なんですよ。そういうわけで、ゲームの日は完全にパスさせてもらっています。

 この授業では、ゲームを奇数日に行うこととし、体験がつらい人には奇数日を潔くパスするよう勧めている。ぼくは、授業自体も、生涯学習の「学びたいから学びたい手段で学ぶ」という「自己管理型」で行おうとしているから、とくに奇数日には、このような「潔い撤退」に類した例はたくさんある。『こころ』にも書いたとおり、基本的には「元気になったら出ておいでよ」という対応でいいのだと思っていた。しかし、今回のこのペーパーは、体験学習という擬似的時空の空虚さを鋭くついたものであり、そういうペーパーに対しては、「無理して出席しなくてもいいんだよ」とぼくが対応することは、教師としての責任逃れにもつながりかねないと思われる。そこで、少し立ち入って考えてみたい。
 このペーパーは、じつは4枚にわたる「長編」で、いま引用した部分は、その追記である。本文では、偶数日の「講義型学習」を含めて「あまり得るものがない」、他の学生の出席ペーパーも「面白そうだね」というものはあるが、「まあ、時間に余裕があれば」という程度で、それよりは、この授業をパスして他の授業で出された課題などをこなすことが多い、などという自己の状況を述べたうえで、「(そういうふうにパスすることも)先生の方針ではOKになるんだと思いますが、それで一年間終わってしまったら、何のためにこの講義を取ったのか、何も残らないと思いませんか?」と穏やかな口調ながら、学習権者としてぼくを厳しく追い詰めている。
 しかし、これだけであれば、ぼくは、「履修要覧やテキストを読んで、ぼくやぼくの授業が自分にとって必要かどうかを判断して、出席するかどうかを自己決定せよ」と答えればよいと考える。ところが、この学生はどちらも読んでいるという。また、最初の3回目の授業まではきちんと出席もして、「お試し期間」も活用している。

(高等教育においては)基本的にはどの科目を取るか、それを決めるのは学生側の「権利」として与えられているわけですよね。そして、判断のための情報として、「履修要覧」があり「お試し期間」があり、それでも足りなければ、直接、担当の先生のところへ質問しにいくことだってできるわけです。それだけのものを与えられていながら、あとから文句をいうような選択しかできないというのでは、学生側がなかば選択権を放棄しているようなものだと思うわけです。たしかに、私も選択したあとで、「あっ、これはハズレだったな」と思ったものもありました。でも、そういうときでも、せっかく高いお金を払って買ったんだから、テキストだけは一通り読んでみようとか、講義の「おいしいところ」だけはある程度頂戴しておいて、そこから「独自路線」を展開しようとか考える。そうして、それなりに、この講義を取ってよかったなというものを作ってきました。

 立派である。ところが、その彼が、ぼくの授業だけは、履修要覧や教科書からは「見えない」「読み切れない」というのである。
 ぼくは、いつも、授業のシラバスを、大学当局から与えられた字数制限いっぱいに書いて提出している(内容はともかく)。ボリュームばかり多くてひんしゅくものではないかと不安を感じるぐらいだ。授業スケジュールなどは、一字も余らせないなどのノイローゼ的なまでの記述をしている。ただ、この大学の場合は、許された字数が非常に少ないので、この学生がほかで指摘しているように、よくわからない代物になっているとも考えられる。これについては、次年度から、もっと詳しいシラバスを、初回の授業に別途配るようにした。
 それにしても、このペーパーの主張は、その程度のことでは本質的には解決しえない深い問題を提起している。この学生のように主体的に自己決定をした場合であっても、「学びたいから学ぶ」という自己管理型学習がうまくいかないことがあるということを示しているのだ。それは、書き言葉メディアとは異なる話し言葉メディアとしての授業(ぼくは、mito的授業がそれをねらったものであることを公言している)の特殊性の表れであるともいえよう。教師への無条件的信用をしない、この学生に代表される「正しい学習態度」の主体的学習者にとっては、かえってその学習結果が恐ろしくて、「話し言葉メディア」としての授業には踏み込みずらいということになる。とくに体験学習の場合は、よく吟味したうえで「よし、参加しよう」と自己決定した場合であっても、「出なければよかった」と後悔することが多々あるだろうからである。この学生のいうような「中途半端な楽しさが、すぐに空しさに変わってしまう」などという事態は、日常茶飯事でさえある。「結果が恐ろしい」どころか、「恐ろしい結果」(空しさの逆襲)をすでに何回か味わっているのである。
 しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。この学生はつぎのように書いている。「性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからない」、「グループのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲームをやるときのメンバーがいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲームを『こなす』という感じで終わってしまう」。その気持ちはよくわかるが、現代社会の山アラシジレンマに立ち向かうためには、その空しさはあえて受け入れなければならないのではないか。祭りのあとの空しさというではないか。祭りを楽しんだとしたなら、祭りが終わったあとは、その空しさをじっと受けとめなければならない。それが祭りの定めであり、人間関係の宿命なのだ。そこから逃避しようとして「いつも同じメンバー」に固執したとしても、そういうピアコンセプトで感じるだろう空しさは、これと同質、または、それ以上のものかもしれない。
 それゆえ、社会教育の援助者に求められるコミュニケーションや組織化援助のための資質・能力についても、今後重要になるのは、特定の住民とべったりつきあったり、「教祖様」になったりすることなく、ときには、情報提供や一過性の学習者へのサービスなどのちょっと間をおいた援助、あるいは間接的な援助をしなやかに行えることである。そういう仕事の仕方では、従来の社会教育の直接的援助や「指導」の魅力に固執する援助者の目には、まさに虚業(空しい仕事)に映り、不満を感じるかもしれない。だが、こういう虚業に近い仕事を「自分(の気づきや出会い)のためにやっています」とさわやかに言える発想の転換がこれからの援助職員に求められるのである。そのためには、人間関係のための洗練されたセンスが必要になる。
 しかしそのうえで、自己管理型学習、とりわけ自己管理型体験学習には、空しさの予感と恐怖に耐える力が学習者にも求められているといえるのではないか。だから、このペーパーの学生のような、かなりの自己管理ができている学習者に限っては、ぼくは「潔い撤退」への肯定的態度を変えてみたい。「いや、だまされたつもりでもいいから、とにかく出てみたらどうだろうか」といおうと思うのである。そういう自己管理型の人にとっては、他の「自己管理ができている」ほかの授業への出席や宿題をさぼってでも、mito的授業のような自己管理のしずらい授業に出席することのほうが、自己成長にとって有益だと考えられる。そうしないと、せっかくの彼の自己管理型学習は、書き言葉メディアを中心とする自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組を変化させる本来の意味での学習、つまり革新型学習につながらなくなる恐れがあるのだ。ちょっと余計なお世話かもしれないが……。もちろん、ぼくが出席を勧めることになったとしても、「学生が自己決定して参加する」という原則はつねに貫かれなければならないと思う。ぼくは「出席しないと単位を出さない」などの強制につながる行為をする気にはとうていなれない。
 たしかに学習の究極の姿は独学だろうし、活字からだと思う。しかし、ではなぜソクラテス(p81)以来、話し言葉メディアの対話(授業)が、書き言葉とは別に存在してきたのか。それは、すぐれた対話には、自己管理を超えた学びがあるからだろう。書き言葉メディアは拾い読みができるがゆえに、学習者の認知構造や構えの強化、自動化という逆機能をもつのに対して、よい授業は、学習者に絶え間なく「ゆさぶり発問」(p20)を与え続けることができるのである。
 そこで、つぎに、同日に提出されたほかの人のペーパーを、もうひとつ紹介しておく。ここには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表されている。

 (前回の授業で行なった、グループで無言でパズルを解くゲームについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲームでは、カードを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャーしたりしてはならないということだったけれども、たかがカードの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。
 奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲームを始める前、このゲームでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグループになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。
 7月ぐらいまでは、ゲームに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥をかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。
 この前のパズルゲームのときと、その前のゲームのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。

 エンカウンターグループは、日常の人間関係とは離れた文化的孤島で行われなければならない。だからこそ安心して本音をいったり、自己開示したりできる。奇数日の授業もこれに似て、「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけ」、「この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうのだから、恥をかいてもいいや」という積極的な意味があるのだろう。また、引っ込み思案の克服方法のポイントのひとつは、結果を恐れるな(自他への不信から結果を先回りして勝手に決めつけるな)である。この言葉も参考になると思う。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
研修の目的 研修には@知識習得、A技能向上、B態度変容の3つの目的がある。講師は目的を絞り、意図的、意識的に研修を進める必要がある。現在の生涯学習指導者のための研修のうち、とくに欠けているのはBの態度変容目的の研修であろう。アダルト・ティーチング(成人教育)の指導者であろうとする者は、無知と非力を自覚し、かつ受容するための態度変容の学習が必要不可欠である。
体験学習 野外活動、グループ活動、社会参加、勤労体験、困難克服の活動など、自然、人間、社会と出会う自らの体験をとおして学習すること。「出会いと気づき」とも言い換えられよう。そもそも、教育されたい人、指導されたい人はいるのか。この教育への根底的疑義に対する答は体験学習にあるだろう。山を見てきのうまでの自分と変わるというような偶発的学習を含めて、みずからの感動、納得を伴う学習こそ誰もが望む「ワンダーランドとしての生涯学習」であり、その促進のために教育や指導者が存在するといえる。講義型学習も同様でありたい。
準拠枠組 英語でframe of referenceという。さまざまな考えや複雑な感情をとらえる場合の、その人の認識、評価、判断の枠組。互いの準拠枠組の理解や共有から相互理解が可能になる。他者を理解するということは、出会いと気づきをとおして、その人の準拠枠組ごと、共感的に理解することである。
共感的理解 ロジャーズは、そのカウンセリング理論において、カウンセラーが患者に対して共感的理解をどこまでできるかを中心の一つにおいた。共感(シンパシー)とは、相手の言葉等を、その背後にある相手の準拠枠組ごと理解することである。それは「あたかも」相手と同じように感じることであって、自分の今までの枠組と「事実、同じだ」というときの同感とはまったく異なる。指導者は薬物依存の青年に対して、自分までいっしょに薬物を試みることによって彼に同感しようとする必要はないが、意識的な傾聴などによって共感的に理解しようと努力する必要がある。これによって、指導者自身の準拠枠組も相手とともに拡大、変化することになる。これが自己拡大であり、教育の根底的な目的でもある。すなわち、共感的理解のための意識的な努力によって、指導者も共に育つ(共育)のである。
エンカウンター 遭遇。仮面や演技ではない出会いを意味する。そこには異なる枠組や価値観をもつ他者との出会いがある。自己疎外、人間疎外の現代社会においては、そういう出会いを意図的・意識的に創り出し、回復しようとする動きが見られる。これがエンカウンターグループである。そこでは、組織の奴隷としての時空間から離れた一時的な「文化的孤島」(1週間の合宿など)をメンバーの同意にもとづいて人口的に設定し、本音で出会うための構成的または非構成的なプログラムが提供される。しかし、自己決定の生涯学習、ボランティア、地域・市民活動においては、文化的孤島をことさら人口的に設定しなくても、メンバー同士のエンカウンターが期待できる。また、そういう自己決定のサンマの指導者には、毒にも薬にもならない仮面の社交辞令で無難にこなす技術よりも、共感的理解の努力のもとにエンカウンターする態度と意識が求められる。
価値観ゲーム ネットワークの担い手になるためには、他者が異なる多様な価値観をもっていることに気づき、認め、さらには面白がる態度が必要である。坂口順治は『実践・教育訓練ゲーム』(日本生産性本部)でつぎのような価値観ゲームを紹介している。@価値の序列づくり=健康、愛、富、奉仕、自己実現、正義。A一対比較法=地位、時間、収入、評価、保障、人間関係、仕事。B同(結婚相手)=容姿、人柄、資産、愛情、将来性、健康、経歴。一対比較法とは、すべての組み合わせを一対一で比較して集計して順序づける手法である。Bで短大女子のほとんどが容姿を最下位(第7位)としたので意外だったが、まれに上位とする女性もおり、その理由を聞くと実際にはうなずいてしまう。どちらにも共感はできるのである。このように異なる価値観を相互受容する体験によって共生能力が培われる。

5 自己受容による自己変容

 母親が「あなたはだめな子ねえ。もっとしっかりしなさい」と子どもに言ったとする。子どもはそれを機にしっかりするようになる努力をするだろうか。つまり、自己変容するだろうか。どうも無理なような気がする。なぜだろうか。それでは、自己変容はどうしたら可能になるのか。変容を促す指導のコツはあるのか。

 ぼくは、今まで、枠組自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組を変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。その(認知説に?)偏った考え方には変わりがない。急速に発展・変化する生涯学習社会において、枠組を変えないまま、固定化した枠組のなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと考えるからだ。
 しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、ぼくのこの学習論への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。ぼくにとっては、それが逆に不思議だった。そこで、ぼくは「じゃあ、ぼくは自分を変えたいのか」と自問自答してみた。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。どちらかというと妙に落ち着かない嫌な気持ちだ。
 もともと、ぼく自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での「学習をしたい」と同義)というとき、楽しいわくわくするイメージとして「変えたい」という語を使っていた。ぼうっと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人とたまたま出会ったとき、その人の枠組のよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときに自己充実感を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「変わっていくのって面白い」という程度の軽い気持ちなのだ。例の「どこまでも知りたい」(練馬区生涯学習推進構想、p34)という生涯学習の原始的欲求の一種と考えてもよい。ただし、例にあげたのは偶発的学習だが……。
 ところが、ちょっとマイナーな気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみた。すると、とてもみじめな感じになることに気づいたのだ。それはそうだろう。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを制度的権威の側(この場合は教師)から「自分自身を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうがむしろ健康的である。
 「自分を変えたい」という欲求は、じつは、つぎの2つに分類できるのだろう。

図表7 受容と変容の生涯学習

欲求の種類
欲求の動機
T
自己否定としての変身欲求
今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。
U
自己受容による変容欲求
今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。

 ぼくが今まで提唱し続けてきた「枠組自体を変化させる生涯学習」というのは、当然、Uということになる。最近の臨床心理関係者の嗜僻などの話を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラーが、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ってと、自分を大切にとの2つをいうことは意味があると思う」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたはぼくの胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。ぼくの言葉で言い直せば、自己客観視と自分のために生きることの大切さの2ついうことになろうか。Tだけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組のまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍を引き起こした自らの生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容に有効に結びつくのである。
 このことから、「自己の枠組自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。よくやってきた。でも、わくわくすること(ワンダーランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということである。交流分析では「I am OK, You are OK」を理想的な基本的構えとしているが、それは、このことを表しているのだろう。そのための援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「まだまだこんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
自己受容 自分をあるがままに受け入れること。その特徴は、@欠点や弱点もあることを認めてのうえであること、A人より優れているという比較の意識ではないこと、Bそれでも、なお、自分自身に対して積極的な肯定的関心をもっていること、の3つであるとぼくは考える。つまり「今の自分が好き」という状態である。自己受容から他者受容が始まり、そういう指導者のもとで、学習者自身も肩の荷をおろして安心して自己受容に向かうことができる。
自己一致 自分があるがままの自分でいられること。自信のある状態。現代社会では、家庭教育、学校教育などの影響などにより、「こうあらねばならぬ」という不合理な「信念」(<論理療法)が、現実の自己と理想の自己との乖離を生む。平木典子は『カウンセリングの話』(朝日選書)でつぎのように述べている。「自己一致とは、理想と現実の自己が一致することではなく、一致していないことをありのまま認め、受け入れることであろう」。たとえば、講義が退屈な場合、なるべく興味がもてるように主体的に聴こうとする努力はするが(現実を理想に近づける)、あくびがしたければ無理に噛み殺すこともしない(退屈したという現実のとおりにいる)ということなのだろう。ただし、壇上から「生涯にわたって学ぶべし」という「指導者」の言葉はさぼりたい自他の心を受容できていない空虚な言葉だ。
交流分析 英語でtransactional analysys=TAという。1950年後半、アメリカのバーンが開発し、1970年代から日本に広がった。その理論は5つの基本概念で構成される。@ストローク、A自我状態(3つの私)、B交流パターン、Cゲーム、D人生脚本。Dでは、幼児期に親から与えられたメッセージをきっかけとして、その後の対人関係によって強化され、「してはならぬ」「ねばならぬ」という禁止令に縛られて、あるテーマを繰り返して生きるようになるという。これを「自動化」と表現することができる。交流分析は、その解釈にとどまらず、人生脚本を理想的な基本的構えをめざして意識的、建設的に書き換えようとする実践的な学問である。
基本的構え 交流分析の理想的な基本的構えとは、「私はOK、他人もOK」である。これは、自他への基本的信頼にもとづいた人生態度である。しかし、上下同質競争の現代社会において、そういう構えが自然に身につくとは考えられない。そこで、交流分析では、そうでない自分に気づき、意識的に取り組むことを大切にする。同様の意味で、「気づいたときから始められる生涯学習」の意義がそこにある。生涯学習などの自己決定のサンマは、各人の理想的な基本的構えの獲得の場にもなりうるのだ。

図表8 交流分析=人間の3つの心

  マイナスに働くとき プラスに働くとき

   非難・叱責  きまりや約束を守る
   偏見 CP  文化・伝統を重視
   威圧的    理想の追求

   過保護・過干渉  思いやり・愛情
   おせっかい NP  支持的
   えこひいき  養育的


   打算的  冷静・沈着
   人間味に欠ける A  情報の収集
   数字優先  合理的・客観的


   自己中心的  天真らんまん
   わがまま FC  好奇心・積極性
   衝動的・本能的  創造性・直感力

   主体性がない  協調性
   消極的 AC  素直
   ひねくれる  我慢強い

 福間笙子「望ましい人間関係をもつために」より
        (ガールスカウト日本連盟『リーダーの友』1993.12)

 [CP]    [NP]    [A]     [FC]     [AC]
 クリティカル ナーサリー アダルト フリー アダプティッド
  ペアレント  ペアレント  チャイルド  チャイルド
 批判的な親心  保護的な親心  大人の理性   自由な子ども心  適応する子ども心
 がんこ親父   マリアさま   コンピュータ  自由人      いい子ちゃん
注1 最下段は、それぞれの特徴を誇張してmitoが呼んだ言葉である。
注2 CPをFP(父性的)、NPをMP(母性的)ともいうが、最近はあまりにも実態がかけ離れているためか、FPやMPが使わているのをあまり見たことがない。
注3 ここでのACは、最近話題のAC(アダルトチュルドレン)とは異なる。
(『こころ』p222参照)

6 自罰と他罰のデリケート

 若者や学生を見ていると、いろいろに傷つき悩みながらも、そういう自分の「デリケートさ」をいつまでも大切にしたいと思う人が増えているように思う。これも「自分らしさを大切にしたい」という流れなのか。だが、自己と他者・社会との関係に気づかずにムカツクようになると、それは滑稽だし社会の迷惑にもなる。

 このところ、この授業に出るのが嫌になって、あまり出ていませんでした。それは、授業のなかでもふれられていたように、授業のなかで出てきたことに突きつけられて、これまでの自分のまちがっていることを認めるのが嫌だったからだと思います。そこへきて、自分の自罰的傾向(「ちゃんと現実を見すえなくてはいけない」「逃げてはいけない」)や自信のなさ(「自分にはこの授業を受けるだけの包容力や人間性が欠けているのではないか」「他の受講者が自己変容しているあいだに、自分は低いところで堂々めぐりをしているのではないか」)があるものだから、事態は深刻だったといえましょう。
 しかし、今日、ある意味ではたまたま、この授業に出て、本当によかったと思います。もともと自分は、社会教育主事資格ほしさとはいえ、好きで(=主体的に?)この授業をとったのでした。そうならば、そういう自分を受容して、そして自分を変えていけばよい(どこまで変われるかは別として)わけです。だから、今後は、もっと積極的に出席して、自己変容や自己管理につなげていければと思います。自罰しすぎないように、自分に自信をもてるように(しかし、肩で風を切ったりうぬぼれたりしない程度に)していければと思います。

 この学生のようなデリケートさ(本人は自罰傾向と分析しているが)は、本人の個の深みのひとつであり、そういうデリケートさが欠けていると自覚するぼくは尊敬する。彼は人生を真剣に生きている、あるいは、自己評価や自己への要求の水準が高いと思うのである。そんなぼくがかれらに何かいえるとしたら、つぎのようなことである。「批判は歓迎せよ、否定は受け流せ」。
 ここでは、それよりも、最近ぼくが気になっているもうひとつのデリケートの傾向について述べておきたい。それは、自罰傾向のデリケートに鮮やかに対比される他罰傾向のデリケートである。たとえば、恋愛問題にしても、相手が自分だけを愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないというのである。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際しようとしている。だが、そこまではまだいいのだ。見方によっては、そういう生き方も本人がそれで納得して生きているならたくましくていいじゃないかとも思う。別に他人であるぼくが気にかける必要はない。ところが、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。自分自身については甘やかしておきながら、相手は罰している。現代社会において、幸福追求の援助者として教育が存在しようとするのならば、こういう場合はどう対処すればよいのか。これは、すなわち、他罰のデリケートに対する援助のあり方の問題である。
 授業中の私語の問題は、今や当たり前すぎて陳腐な話題だとぼくは思っている。授業中の感動の私語はむしろ歓迎し、これを積極的に授業に組み込むこと(「つぶやきの組織化」、その象徴的な表れは「ちょっと待った方式」)、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は双方の自由を保障するために、おしゃべりをするための中途退室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、おしゃべりをやめさせるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。先日、50人くらいが受講する授業で、男性2人だけが小声でひそひそしゃべっていて気になってしかたがないことがあったが、しばらく我慢しているとその人たちは荷物を置いたまま自発的に退室してくれた。そして、あとで戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。
 しかし、そううまくはいかない場合も多い。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば、その授業とは無縁の余計な私語はそういうほかの学生に迷惑をかける結果になることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ(ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の学生は、その人の学習の自由を保障するために、退室しないままの余計な私語を禁欲せよ」という考え方である。念のため)。人間は何か迷惑行動を起こすときでも、自分の心のなかではなんらかの形でその行為を「正当化」しているはずだ。私語学生はどのように退室しないままの自らの私語を正当化しているのだろうか。
 ここに、「他罰のデリケート」のロジック(論理)またはレトリック(詭弁)が適用されているのではないか。「ほかの人は、私みたいな(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな嫌な授業をまじめに聴いていられるのさ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、内面で他者を罰して責めることによって、他者に迷惑をかけている自分を許しているのではないか。つまり、自分が傷つくことばかりに対してデリケートだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向、すなわちピアコンセプト(仲間意識)の表れにすぎないのだが、それを、「おしゃべり仲間をちゃんと大切にしている自分」「友達からのおしゃべりを聞いてあげている自分」として逆に正当化してしまっている。この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピアが介在していて、個の発現を抑圧しているのは社会そのものではなく、じつはピアコンセプトであり、すなわち、その人自身の内なる認識なのである。
 電車のなかで迷惑行動をしている人の顔つきを見ても、かれらはけっして楽しそうな顔をしていない。股を大きく開いて3人分ぐらいの席を占有している人も、「3人分の着席の幸せ」を奪っているのに幸せそうではなく、むしろ辛そうな疲れた表情をしている。社会や他者に対して、何か不愉快なことがあるのだろう。これをぼくは「加害者の被害者ヅラ」と呼んでいる。そういう例は、いやというほど身の回りで見かける。だが、よく考えてみれば、そういう加害者たちが幸せになれるのだったら、本当の被害者たちにとっては報われないし、たまったものではない。水平なネットワーク社会(ぼくはそれを学歴社会に対する生涯学習社会だと考えている)における「してあげる、してもらう」のストローク交流の関係しか、自分自身も幸せになれる方法はないのだという嬉しい確認ができたと考えればよいのだ。
 ただ、そうはいっても、援助者としての社会的役割の遂行が期待されている人は、そういう「他罰のデリケート」の人たちの自己変容に対する援助のあり方を考えなければならないだろう。そこで、つぎの図表9のようにデリケートの種類を分類して整理してみた。図表では、上のどちらでもない「個の深み」そのものともいうべきデリケートを入れてある。知的水平空間や出席ペーパーの世界においては、実際には、このVが多い。しかし、TやUにも深いものがある。

図表9 3とおりの「デリケート」

種類
不安のきっかけ
基本的な悩み

T
自罰的デリケート
相手を傷つけたかも?
相手を愛していない?

U
他罰的デリケート
相手に傷つけられた!
相手から愛されていない?

V
個の深みのデリケート
人間や宇宙は有限である
存在や愛の確証はない

 もちろん、確信犯的な迷惑行動と、私語程度の何気ない迷惑行動とを同一に論ずることには危険性がある。が、ここでは、程度の差はあれ、すべての人が、「自罰・他罰」「デリケート・たくましさ」「大・小」のどちらの要素ももっているという前提で論を進めたい。実際、自罰のデリケートの行き着く先が他罰であるということは、よくある話である。すなわち、「自分はこれだけ真剣に自分について悩んでいるのに比べ、悩んでいない人はなんて鈍感で無責任な人なんだろう」という思考様式に陥りがちなのである。
 さて、ここで問題にしたいのは、Uである。社会的に客観視した場合は論ずるまでもなく「不当な態度」として処理すればよいのだろうが、その人は主観的には「本当に悩んでいる」。すなわち「問題があることを自覚している」のである。学習が問題の自己解決の行為(問題解決型学習)の一環だとして、教育はそのための援助だとすると、本人が主観的には問題をかかえているということ自体は、援助の唯一の拠り所として非常に重要なポイントになりうる。
 ぼくは「淋しがり屋のタカビー」という言葉をつくった。タカビーとは高飛車な人という意味の流行語である。自分の都合にあわせて相手を生きさせようとしたり、支配したりすることが多い迷惑な人のことだ。当然、愛されないから淋しくなり、ますますタカビーになる。このようにしてタカビーと淋しがり屋の素質は、悪循環を繰り返して強化、自動化される。しかし、そうい人たちが淋しいという気持ちを感じていることは、指導者にとっては援助の強力な手掛かりである。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
問題解決学習 学校教育でも、子どもたちの関心・意欲・態度(<「新しい学力観」)を養う観点から、主体的な問題意識をもち、解決に向かうプロセスを重視する問題解決学習が取り組まれつつある。これに対して、大人の学習はそもそもが問題解決型である。だが、学習が問題意識を失ったまま目的化し始めると、学習していること自体が麻薬のような役割を果たすことになる。これを学習中毒と呼べるだろう。その学習は自由だが、公的社会教育が優先して支援すべきものでもないことは確かだろう。

7 指導者としての責任のもち方

 いじめや不登校が問題になる今日、教師に対してもカウンセリングマインドが要請されるようになってきた。たしかにそれが重視する共感的理解は、指導者にとっては必要不可欠と思われる。しかし、共感なんかしたくないという人や、「共感できない」という実感をもつ人もいる。そういう人はどうすればよいのか。

 授業中に共感的に理解することをねらいとして、登校拒否(不登校)や拒食症(摂食障害)のビデオを視聴しても、なおかつ、一部の学生から「かれらは甘えている」、「共感できない」というペーパーが出されるmito的授業の実情について、「援助者としては不適応症状の人を共感的に理解してあげなければいけないのではないか」、それなのに「十分に症状を理解できるだけの情報を与えないまま、VTRで不十分な情報を流して、共感的理解ができない結果を生み出すのは、教師として無責任ではないか」とぼくに鋭く抗議するペーパーがあったのだ(「非公開希望」だったので全文の紹介はできない)。
 まず、言明しておかなければならないことは、ぼくの勉強不足におおもとの原因があることである。ただし、ぼくの教師=学習援助者としてのスタンスは、「与えられた学習課題に関連して、ぼくが、いま、もっとも関心をもっていることを伝える」ということだ。そこさえ責任をもって役割遂行すれば、あとは学習者がそれをどう受け取って取捨選択するかについてはぼくの援助者としての責任の範疇ではないと考えている。毒を飲むか、薬とするか(p108)は学習者の自己責任でないか。たとえ、学習者側のなかに、その問題に関してぼくよりすぐれた知識・見識をもっている人がいても、ぼくは平気でそのテーマについて「教授」するだろう(p80)。あとは、ぼくが、批判を受けて立つ、指摘を受け入れるという覚悟さえ決めておけばよい。
 しかし、それにしても、一部の学生の「かれらは甘えている」という発言は、たしかに他罰的な傾向を秘めていると思われる。そこで、このことについて考えてみることにする。
 第1に、「(不適応の人たちは)甘えている」という判断は、他罰的ながらも「1%の真実」を表している。「甘えている」と書いた学生たちはただ単純に「甘えている」と書いているのではない。かれらがこれまでのみずからの人生を生きていくなかで、@社会やひとに甘えてはいけない、それが自立だ、A家族やまわりのひとが自分にしてくれたことに感謝したい、あるいはそういうひとたちの期待に沿いたい、Bいやなことでも頑張ってやっていかなくてはこの世ではうまく生きていけない、などの価値観を身につけ、自分とは異なる不適応のひとたちを「甘えている」と判断すること(他罰)を選択することによって、今までそういうふうにがんばってきた自分の生き方を否定しないですまそうとしているのである。
 つまり、社会的不適応を起こして「本当の自分を大切にする」というだれにとってもそれなりに「魅力的な生き方」の、その魅力に打ち勝つためには、不適応行動を「甘えている」といって切り捨てることを選ぶしかないのである。不適応が現代社会における自己保存のぎりぎりの選択行為だとすれば、そういうひとたちを「甘えている」と切り捨てることも、現代社会においてはそれなりに自己保存のためのぎりぎりの選択行為なのである。その証拠に、かれらは不適応に対して共感「できない」、共感「したくない」と書いてくる。価値中立的に共感「しない」とは書いてこないのである。他者を共感的に理解したいという要求は潜在的にはだれにでもあるのではないか。ただ、それと自己保存本能(ホメオスタシス)とが、現代上下同質競争社会の疎外状況のなかでは不可避的に対立してしまうのである。
 このように考えると、不適応を「甘えている」といって切り捨てて現代を生きていこうとする戦術は、だれにとっても、まったく意味のないこととはいえないだろう。同時代の他の99%のそれぞれのひとが少なくとも1%ぐらいずつは共感できる「1%の真実」を表した生き方のひとつなのではないか。問題は、シロかクロかではなく、シロ何%かクロ何%かなのであり、出席ペーパーの場合は、もっと根本的には、シロまたはクロの深みをどれだけ表しているかなのである。
 第2に言いたいことは、援助者側(教師)は、「他者を共感的に理解できるようになることが、どれだけすてきなことなのか」ということを、その方法論とともに提案する責任はあると思うが、自分にできる範囲で一生懸命にそれを提案した結果、学習者側がそれを受け入れなかったとしても、そこには何の問題もないということである。ひとそれぞれなのである。教育意図を学習者に提示し、その目標に沿って授業を進めても、なおかつ、相手が自分の思うように変化してくれなくても、それはそれでよいのだ。援助者側にも学習者側にも問題はない。援助者側が「学習者を変えられない」という問題に執着するとすれば、それは相手の人生をしょいこもうとする「熱血先生」の傲慢さとさえいえるのではないか。
 ぼくは、共生の要素を@共有(価値や文化の共通点を探ったり創ったりすること)とA共存(価値や文化の異なりを受容しあうこと)の2つだと考えている。共感は、この場合の@に当たり、「相手の人生をしょいこまない態度」は、この場合のAに当たるのである。
 共に生きること(共生)とは、ひとつには共感などによって何かを共有することであり、もうひとつはたがいに異なる文化や価値観の存在を認め合うことである。ヒエラルキーの関係においては、ピアコンセプトとセクショナリズムがマイナスに働くため、共有と共存の2つの関係が相互排他的に進められて最後には必ず分裂して破綻することになる。これに対して、ネットワークにおいては、異なりが障害にならずに歓迎されるわけだから、この共有と共存とは最初から一連のものとして統合的に進められるのである。また「折り合いをつける潜在的能力」ものびのびと発揮(外在化)されるだろう。
 この世のだれも宇宙の全体像を把握していないのだ。しかし、それでも人間は生きている。生きているから真実を知りたいと思う。真実に接近するためには、十人十色、百人百様のたくさんの答を安心して行き交わすことのできる支持的風土を必要としている。さらに、その風土のうえでも「あなたはあなた、私は私」というネットワークなりの事実は厳然と存在する。しかし、その事実を肯定的に受け入れたうえでさわやかに必要な依存ができることこそ自立の姿であるし、それが異なる自立した価値どうしの交流を可能にし、共生社会創造の基盤をつくりだすのである。信頼と共感にもとづく人間のネットワークの本質的なあり方はここにあるといえよう。だから、ネットワークのつくり方をひとことでまとめるとするならば、「いばるな、へつらうな、そして、同質の仲間を求めるのではなく異質の他者を歓迎せよ」ということになるだろうか。
 ただし、これは原則論であって、ぼくの場合は、その学生の指摘するとおり、教材研究をもっとしっかりやっておけばさらによかったのではないかとは思う。つまり、それは、ぼくが自分にできる範囲にまでも到達していなかったということであり、その面では、十分には責任を果たしていなかったというべきである。このことについては自分もいま関心をもっているので、いっそう深く考えていきたい。
 第3には、「(不適応について)共感的に理解しなければいけない」ということを最優先する立場は、ぼくはとっていないということである。ぼくは「共感的に理解できたらいいね」といっているのである。「共感しなければいけない」といわれたのでは、なんだかそれまでの自分が共感的理解能力に欠けた冷血人間としての烙印を押されたようで消極的ないやな気分しか残らないではないか。ぼくは「よりいっそう他者を共感的に理解できるような自分でありたい」というみずからの動機を自分のなかに探りながら、授業を進めているだけだ。だから、学生に対しても、一人ひとりのなかに「他者を共感的に理解したい」という顕在的・潜在的欲求が存在するであろうことを基本的には信頼して、その欲求に訴える授業を組み立てようとしている。もちろん、共感的理解能力の発達は、信頼・共感・自立の人間関係の創出やその援助のためには不可欠な要素だと思っているからである。「〜しなければならない」という押しつけではなく、「〜するほうがすてきだ」という提案を行うことこそ、ネットワーク型の知的水平空間における援助者としての個の発揮の有効な方法なのだと思う。
 教師といえども、社会という幹に対する枝葉にすぎない。その枝葉が自己実現と社会的承認のために果たすべき責任とは、自分の考え方を押しつけたり、その結果、幹がそのとおりに変わってくれなかったからといって不平を言ったりすることではなく、自分の生きてきた範囲でできることを実際にどれだけ幹(この場合は学習者集団全体)に提言できたかを、たとえば「先週は授業で何回、どのように提言できたか」などと、なるべく客観的に自己評価することなのである。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
カウンセリングマインド カウンセリングは一つずつのケースから学ぶ臨床の学である。指導者も同様に、世界に一人だけの取り替え不能な学習者一人ひとりと向き合う。そこから、共感的理解による援助を中心とするカウンセリングの精神を学ぶことの重要性が生ずる。指導者はややもすると学習者集団というマス(かたまり)と向かい合っているような錯覚に陥りがちだが、マスのうちの一人にすぎない平面的な人間など、じつは一人も存在しない。個の確かな存在を嗅ぎ取るとき、さらには共感の瞬間が訪れるとき、指導者の仕事は俄然面白くなる。登校拒否と引きこもり 登校拒否の事例において、学校に行くべしという価値観を押しつけるのではなく、本人を信じて内面的成長を見守ることが大切という認識は幸いにも共通のものになりつつあるようだ。しかし、引きこもる若者たちのカウンセラー富田富士也は、彼らが同世代からの置き去り感、社会や親からの見捨てられ感のなか、就職もできないでいることを訴えている。これこそ「行っても行かなくてもどっちでもいい」ではなく、すべての若者が人間への基本的信頼感を取り戻して社会参加できるよう、社会が責任をもって方策を考えるべきことだ。

第3章 気づきと癒しのネットワーク心得
 −自他否定と仮面演技の上下同質競争から、
   基本的信頼と共感的理解の水平異質共生へ−

1 あんた世間なめてんじゃない?事件

 現代社会には、信頼能力に欠けた、人の心を傷つけずには生きていけない悲しい人たちがスパイのように配置されている。どうしたらそういう人たちから自分の身と心を守れるのか。また、そういうスパイがうようよいる現代社会で水平な共生のネットワークをつくることは、可能なのか。それはどんな意味をもつのか。

 アイデンティティの獲得のためには、自己の可能性を実現するとともに、他者が認知してくれることが必要だ(自己確立=自己実現+社会的承認)。だが、学歴偏重社会では、むしろたがいに競争相手として、傷つけあう者同士として、存在しあっているかのようである。つぎの事例も傷つける人、傷つけられる人の痛みを如実に表している。

 高校を卒業して初めて行ったバイト先で、同じバイト先の大学生に、とてもひどいことを言われたんです。「進学するの?」って聞かれたので、「音大に行く」って答えたら、「音大に行って何するの? アイドル歌手にでもなるの?」って言われました。ムッとしたけど「教師になりたいの」と答えました。そうしたら、その人は「あんた世間なめてんじゃない?」って言ったんです。
 きっとその人は、音大という所は遊んでいても卒業できると思っているんでしょう。それで私が教師になりたいなんていったから、そういうことをいったんでしょうね。でも、私は、小学校からの夢をそんなふうにいわれて、とてもくやしかったし、悲しくて涙が出そうになりました。この人の他にも、やっぱり、「音大に何しに行くの? アイドル歌手になるの?」って言われます、ちょっとバカにしたみたいに。
 一生懸命頑張って入った学校なのに、なんかそういうふうにしか言われないなんて淋しいです。だけど、人は音大がどういう所か知らないから仕方がないですよね。人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば、それでいいと思います。

 そのバイト先の大学生のように、相手に言えないはずのことを言う人が、世界中にスパイ(または暗殺者)のように配置されている。さわやかでない、攻撃的な自己主張しかできないタイプの人である。「私は(世間がつらい)」と主張できずに、「あなたは(世間をなめている)」と相手の人格を見抜いたふりのようなことしかできないのである。そういうスパイみたいな人のつらさを共感的に理解して受容できるような超人的なレベルに到達するまでは、なるべくそういう人の感情には巻き込まれないようにしたほうがよい。
 ぼくがなぜそういう人たちをスパイ呼ばわりするかというと、映画のスパイのように世界に配置されていて、逃げてくる人を待ち受けているからである。スパイから逃げ切ることは考えても無駄である。日本がいやだからといってアフリカに逃げても、そこにもやはりそういう人が待ち伏せしている。だから、スパイから逃げ切ることではなく、スパイから自己防衛する方法を考えるしかないのである。
 もう一方で、「人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば」という願望を自分一人で実現することも、人間にとっては残念ながら困難である。人間は自己実現だけでなく社会的承認も得て、初めて自己を確立できるからである。そのためには、音楽を志す自分の生き方を支持してくれる他者、「ああ、この人が生きてくれていてよかった」といえる人を見つける必要がある。
 ネットワークにとっては個が重要である。しかし、その個は他者と関わることによってより深まる。上の事例のように傷つけあい、非生産的構えを身につけつつある個人にとっても、同様である。
 そこでの癒しのポイントは共感である。共感はシンパシーというが、同感とは異なる。異なる枠組をもつ他者と心を響かせあう。共感は感動に、そして学習につながる。他者と出会い、同質化することなく自己の枠組を変容させる。そのことによって、自他両方への基本的信頼感が高まり、ほんとうの自立が可能になる。異質が水平に交流するネットワークには、こういう共感のチャンスがみちあふれている。
 ただし、一方では、「あなたはあなた、私は私、出会わなくても仕方ない」(p72)という真実の一面からも逃げられない。先のデリケート問題(p54)で、ある学生が「ある意味ではデリケートになりたくない。傷ついたり、傷つけたりせずにすむなら、それがいい。デリケートな部分は、詩や小説でも書くところで使えばいいんでしょう」と書いてきた。相互理解不能の出会いなど、よくあることだ。そういうときは、このような諦観があってこそ、実現可能なものへの自然な流転、あるいは芸術表現活動などのより高いレベルへの昇華もある。

2 見返りを押しつけるな、見返りが期待できる行為をせよ

 恋の告白ができないという相談を友達から受けたときなど、私たちは、「見返りを求めずに!」などとアドバイスして相手を勇気づけたつもりになっている。でも、自分自身は今までどうだったのか。告白などのときの、自分の行為に見返りがほしいという気持ちは、はたして本当にいけないことなのだろうか。

 気をつかうということは、今の自分に無理をしている状態で、気がきく人とは、つねにいいことをしてあげようとしていて、人に与えることができる人なんですね。今、私は彼に与えることをしていないような気がします。でも、自分がこの人に何かをしてあげるんだ、なんて思ってしまうと、なんだか見返りを求めてしまいそうです。よくわからない文章になってしまいましたが、コメントください。

 ストロークの基本は、自分と相手を信頼することである。たとえば、このペーパーの言葉を使えば、「いいことをしてあげよう」としている今の自分の気持ちはけっして非常識ではないというように自分を信頼(自信)し、そういう自分の行動を相手は好意的に受け入れる力をもっているだろうというように相手を信頼(他信)することである。だから、相手のためにしてあげるある重大な行為について、受け入れてもらえるという自信や他信がまだもてないときに、「自分がこの人に何かをしてあげるんだ」と頑張って無理にその行為をしてしまうことはかえって危険だと思う。
 まだ不安な場合は、相手に「どう?」と聞いてみればよいではないか。眉を動かすだけでもいい。聞いてみることも信頼にもとづくストロークのひとつなのである。あるいは、小さなプレゼントをたびたびあげるなどして、少しずつ信頼関係をつくりあげていく手もある。ディスコミュニケーションの現代社会においては、「気がきく」というのは、自分勝手に判断することではなく、相手に聞けることである。信頼関係ができるということは最初からあることではなく、少しずつつくりだせることである。
 さて、「見返り」についてであるが、以上の趣旨から、「見返りを期待しない一方的な好意と行為」こそが、コミュニケーションのない自分勝手な思い込みに陥る危険性をもっているということが理解されよう。ここで見返りとは、打算的、実利主義的なものとは違い、もっと精神的で微妙な見返りである。これは、最近、ボランティア活動の魅力についてもそういわれているところである。しかし、もう一方で、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない、あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」(ゲシュタルトの祈り、p72)という人間関係の真実がある。@「自分のために自分の人生を生きている」といえること、A自分の期待を相手に押しつけないことの両方が必要なのである。そこで、ぼくは、このようにまとめておきたい。「見返りの期待を相手に押しつけることはできない。しかし、好意をもつ相手からの見返りが期待できるような行為を自らがすることは、自己決定によってできることである」。過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられるのである(<交流分析)。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
学習交換 英語でlearning exchange、学習ネットワーク(learning network)とも呼ばれる。アメリカの成人教育の取り組み。三浦清一郎は『比較生涯教育』(全日本社会教育連合会)で、「特定の知識や技術を教えたい人とそれを学びたい人とを電話によってつなぐ仲介機能を果たしている」と紹介している。この「交換」の発想こそ、ネットワークのギブ・アンド・テイクを体現するものと考えられ、インターネット等の今後の情報・通信技術の進展も活かした生涯学習での活用が望まれる。
ストローク 交流分析の用語。「私はあなたの存在に気づいていますよ」と伝える行為。自分の時間を相手に与える愛の行為ともいえる。身体的(スキンシップ)、言語的(挨拶、励まし等)、非言語的(まなざし、うなずき、傾聴等)の3種、肯定的、否定的の2種、条件付、無条件の2種がある。ストロークなしでは生きていけないのは万人共通だが、その受け方、与え方にはそれぞれ特有の癖があるといわれる。また、「貧しいものはさらに貧しく、富めるものはますます富を増す」という言葉もあり、ストローク経済の法則と呼ばれる。ストロークは、上手な、あるいは悪い、ほめ方や叱り方にもつながるという意味からも、親や指導者にとって大切だが臨床的で難しい問題でもある。どんな種類のストロークがよいのかは一概にはいえないのである。「おまえなんかいなくたっていいんだ」(p14)などの無条件否定のストロークについては論外だが……。
アガペ 西欧において、性愛のエロスと対照の、精神的な愛を意味するキリスト教の言葉。アガペは、自己犠牲的な無私の愛である。問題は、学生などが見返りを期待しない行為へのあこがれというかたちで、このアガペ的な愛の姿を、宗教的な背景なしにやみくもにあがめているということである。しかも、実際生活においては、自分からよりも先に相手から与えられたいという、一方向かつ受け身の都合のよい主観的物語に埋没している。それはネットワークにおけるギブ・アンド・テイク、気持ちのよいストロークのやりとり(相補的交流という)、さわやかな依存(<mito)などの力を獲得するにあたっての内的阻害要因になっている。また、学ぶことやボランティアなどの活動が本質的に「自分のため」であることの理解をも阻んでいる。ぼくが交流分析という臨床の学を援用するのは、そういう埋没状況に対して自己客観視の機会を提供するためである。

3 「ましなろくでなし」であればよい

 人間はすべて無知で非力だ。欠点や弱点も多い。残念ながら自分もそうだ。最初から明らかなもの(自明)などはない。そういうなかで、ネットワーカーとしてのプライドをどのように持つか。たとえば、自分は全然面白くないのに、少数の学習者が興味深く聴講している学習の場で、友と話したいときどうするか。

 神経症もちなので先週のゲームはけっこう辛かった。偶数日だけ出席しようかと思う。講義を受けていても手は震えるし、思考力もものすごく鈍っている。きたない字ですが、本人はものすごくゆっくりていねいに書いているつもり。耳をとがらせてでもよく聴いて、いろんな情報を聞いたり考えたりしたいと思っています。本当は奇数日も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか。

 ぼくは、この学生の真摯な人生と学習の態度に敬意の念を感じる。ぼくの授業では無理をしないようにしてもらいたいし、すでに学生には初回に公言してあるとおり、出席、入退室はすべて自由であり、ぼくにはきがねなく自己決定してほしい。
 mito的授業、とくにこのゲームのような態度変容をねらいとする体験学習においては、つぎのような参加の仕方が考えられる。これらを、自分で選択して行動するということが大切である。@欠席する(授業より有意義なことをする、ボーッとしているなど。その時間の使い方を総括するレポートが翌週に提出されれば出席扱い)、A出席するけれど、出ていきたくなったら出ていく(出席扱い)、B参加したくなかったら、どいてしまって、授業を観察している(高みの見物)、C参加するけれど、発言したくないときはパスする(しゃべりたくないことはしゃべらない権利の行使)、Dバカになって参加する(非力の自覚と開示)、E批評的に参加しつつ、あとで批判する。最後のEは、体験学習においてはそれを体験してからの話である。そうでないと批判にならない。また、@からCまでの行動は、ネットワーク型社会において求められる「潔い撤退」にもつながる可能性がある。
 ここで困るのは、撤退をしながら撤退仲間(ピア)とこの授業の無意味さを確認し合って満足している態度である。ぼくは、それをただのろくでなしの行為と呼んでいる。撤退は自由なのだが、残留者はその人なりに自分にとっての意味を見つけてこの授業に参加しているのである。残留者のことがどうしても気になるのなら、その残留者と率直に意見を闘わせればよいではないか。
 以前、6月中旬という時期につぎのように書いてきた学生がいた。「私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのかわかりません。しかし、他の授業の様子(注・西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに『変に理解しあってしまう』という理由からぼくの授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです」。個人の事情で欠席していたことはかまわない。しかし、「真剣に」「興味深く」参加している他者について勝手に推測したりする権利にはつながらないはずだ。ぼくは、「この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて『真剣に』受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう」とコメントした。こういう学生の行為を、潔くない撤退、または、ただのろくでなしと呼ぶことができると思う。生涯学習やボランティア、地域・市民活動の団体においても、撤退したはずのメンバーや元リーダーのような人が、いつまでも「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみついて、現在の変化しつつある団体運営に干渉して団体の自主性と活力を損なっている例があるが、これなども「潔くない撤退」なのである。
 「ただのろくでなし」には、もうひとつのタイプがある。途中退出が認められ、実際に何人かがそうしている状況のなかで、また、せっかく授業を聴くのを楽しみにしているのに私語がうるさくて聞きずらいという学生のペーパーを読み上げているのに、なおかつ、おしゃべりばかりしていて退出してくれない学生がいるのだ。あるいは、熱心に受講している学生を冷やかに笑っていてくれればよいのに、それさえもできない。これは、まわりの人への迷惑よりおしゃべり仲間との「つながり」を優先するピアコンセプトの表れであり、かといって、他の学生に迷惑をかけてでもそういう学生の学習から落ちこぼれたくないから退出しておしゃべりを続けることもできないという、非常に惨めで情けない破廉恥なピアコンセプトの表れなのだと考えられる。
 このように考えると、「本当は奇数日(体験学習の日)も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか」という学生の言動との質の違いは明白である。すべての人間は、ピアコンセプト(仲間意識)などの自己の内面的要因や現代管理社会による外部からの抑圧などのなかで、他者の目におびえるがゆえに、潔く参加や撤退ができなくなる弱者としての存在である。すなわち、ろくでなしである。しかし、それは、「ましなろくでなし」なのであって、そこで葛藤して自己解決に向かっている姿は、「ただのろくでなし」とはずいぶん違うのだと思う。「ただのろくでなし」の存在は事実であってもくだらなすぎて小説のネタにもならないが、「ましなろくでなし」の葛藤は小説でも追求しているメインテーマなのであり、人間的真実そのものなのである。

 私語の話はやめにしていただきたい。せっかく仕事を終えてメシも食わずに教室に駆け込んでくるのに、何回も私語の話などというクダラナイ話で時間を潰している。こんな話で時間を拘束されるのであれば、「これから20分、私語の話をしまーす」と宣言してほしい。その間、寝るなり、学食へ行くなり、有効に時間を使えるではないか。

 ぼく流に、この学生の言いたいことを翻訳すれば、「ただのろくでなしのことなど、そもそも関心がない。そんなやつらのことなどほっておいて、もっと本質に迫る話をしろ」ということだと思う。主体的な学習者の態度として、これでよいと思う(こんな評価は、彼にとっては余計なお世話かもしれないが)。学習者は本質的に「自分のために学習する」のである。自分の学習のために無益であると思えば、彼のように教育側を批判することによって、この学生のように「メシも食わずに教室に駆け込んできた」自らの学習権を行使すべきである。なお、いずれにせよ、私語の話はmito的授業の初期のころにする話であり、中盤以降はほとんど話題にならないから安心してよい。
 ぼくが私語の話をするのは、ひとつには、おしゃべりする学生の自由を認めたうえで(退出して廊下などでおしゃべりをしてよいことになっている)、自由を欲していて、しかもその自由を認められているのにおしゃべりしている自分こそが、他者の自由(学習したい者の学習権)を侵害しているのだという事実を知らせ、「相手が悪い(授業がつまらない)からそのせいでしゃべっているのではなく、おしゃべりしている自分がろくでなしなのだ」という真実に気づかせ、他者や社会のせいにできない状態に追い込むことによって、「ただのろくでなし」の状態でいる人に自由の恐怖を味あう機会を提供し、自由の行使の大切さを認識させるためである。
 それでは、ほかの「ましなろくでなし」である人たちにとって、私語に関する話は無益であろうか。普通なら無益なのかもしれない。たった一度しかない人生を、つまらない人の生き方やつまらないことがらとつきあってわざわざ無駄にすることはないからである。しかし、この授業は教育学の一環なのである。現代人の主体性獲得への援助者、指導者としての力量を身につけるためには、この「ただのろくでなし」の問題を本質的にどうとらえ、どう対処すべきかということが重要になる。援助者にとって大切なのは、「ただのろくでなし」に対する否定ではなく、共感的理解である(ちなみにけっして同感したり同情したりする必要はない)。「ただの」か「ましな」かは違っても、同じ「ろくでなし」の部分を共有しているのだから、理屈のうえでは共感は可能なのである。とくに、自らの「個の深み」や主体性を発揮するときの阻害要因としてのピアコンセプトについては、「ましなろくでなし」の人にとっても思い当たる節が多いのではないだろうか。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
(ここではmito的授業について)
mito的授業 双方向システムにより学生の主体的な学習態度を培おうとするぼくの授業を、自分で勝手にそう呼んでいる。双方向システムのしかけはいまのところ4つある。@出席ペーパー、Aシグナルカード、Bちょっと待った方式、Cパフォーマンスタイムである。Aは、学生が、退屈や反感を感じたらレッドカード(警告)、言葉が難しいなどの技術的問題があればイエローカード(教育的指導)を授業中に個人で掲げる権利を認めたもので、あまり意味のないグリーンカード(賛成・共感)を入れれば信号機(シグナル)の3色になる。カードを振れば指名され、意見も発表できる。Bでは、個人の判断でいつでも授業を止めて意見を述べる権利を与えている。これがときどきあるが、ほかの学生まで面白がったり、ぼくの話よりちょっと待ったをかけた学生側に共感したりして聞いている(漁夫の利<mito)。あまり発言が長くなって授業の進行にさしつかえる場合は、お願いして途中で手短かにまとめてもらえばよい。Cは、学生が教壇から受講者に意見の発表やサークルの宣伝などをしたいとき、授業の最初の何分間かを相談のうえで決めてその学生に与えるというものである。これらの双方向システムは、「教師には何をいっても聞いてもらえないから」といういつもの逃げ口上の道をふさぐことによって、自由の恐怖を味わい、学習権を使いこなす主体として成長するよう支援する意図をもっている。

4 枝葉としての幸福追求
 −積極的積極と積極的消極の連動−

 すでに、積極的積極や消極的積極の必要性と、これに対応する奴隷の覚悟の重要性は述べてある(p40)。しかし、できれば自己決定の積極的積極だけで生きていきたいと思うのが人情だ。ところがネットワーカーでさえ、そうもいかないときがある。そんなときはどうすればよいのか。さわやかな撤退のコツはあるのか。

 授業で「積極的積極と積極的消極は連帯できるのではないか」と言ったところ、つぎのようなすばらしい勘違いのペーパーが提出された。

 (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」と前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。mito先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定や潔さが持てるのだと思います。

 ぼくが言ったのは、Tの人はUの人とではなく、Wの人と連帯できるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは自己の内部で連動関係にあるということである。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということなのだ。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人は「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がない。それよりも、「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会において、この学生のいうように撤退の権利をさわやかに行使する根拠になるということにこそ、この4パターン分類の意義がある。
 この「潔い撤退」については、現実の人間関係においてはさらに複雑な様相を示すことになる。なぜなら、自己決定できるのは自分の行為についてであって、他者の行為についてまでは決定できないからである。それが「枝葉」としての個人が決定できることの限界である。ネットワークにおいて枝葉は他の枝葉に対してどのようにふるまえばよいのか。つぎの事例をとおして考えてみたい。
 狛プー(5章参照)は木曜日に開かれる。木曜の夜が「狛プー曜日」だ。ところが最近ずっと出られなくなってしまったあるメンバーから、「自分の職場では木曜は恒常的に残業が続くことになってしまった。狛プーの曜日を、社会一般でいわれているノー残業デーの水曜などに変えてほしい」という提案が狛プーにされたのだ。狛プーは「1年に1回来ればメンバーだ」という方針でやっているから、いつでもだれでもふらっと参加できるように、なるべくなら数年間問題なく続いている今までどおりの木曜にやりたいという気持ちがほかのみんなにはあった。また、もちろん、残業を恒常化させる賃労働のあり方という社会の問題もあるし、狛プーお得意の「この指とまれ方式」の番外編で自分の都合のいいときに人を集めるという手もある。しかし、彼は本番の狛プーに出たいのだ。さあ、どう考えればよいか。
 提案した彼は「自分でメンバー全員に電話アンケートをするので任せてほしい」という。これが枝葉にできることだ。みんなも賛成した。ただ、「その結果をみて、責任もって自分が曜日を決めるから任せてほしい」とも言った。これはいけない。最終決断をするのは、残念ながら自分一人ではなく、あくまでも狛プー全体の意思という、ネットワーク的であるほどやっかいさの増す正体不明の幹なのである。
 ところで、彼の提案には2つの動機がある。「自分の職場では」と「社会一般では」だ。ぼくは前者の動機を支持した。後者は、中小・自営などの多くの青年にとっては関係ないことで、「社会一般では」などという言葉は意外に当てにならないのだ。それよりもみんなに電話するなら、「自分は木曜日に出られないのが残念だから曜日を変えてほしい」と率直に言って同意を求めた方がよいだろう。ぼくがそう言ったところ、メンバーからあっさり総すかんを食らってしまった。「一般の青年たちにも都合がいいというならともかく、そんな個人的な事情じゃ、ただのわがままだよ」というのだ。ぼくが「ほかのまだ見ぬ人の心配なんかする必要ないよ。今ここで『来たいのに来れない』と言っている人とみんなとで折り合いをつけられないかなあ」と切り返すと、「だって、1年に1回来てもメンバーなんだから、そういうたまにしか来ない人たちのことも考えなきゃいけないわ」という声。ぼくは「あれっ、へんだぞ。『ここにはいないあの人のために』というのはネットワーク的じゃないぞ」と思ったが、みんなから相手にされず、時間も押していたので、それまでとなった。
 ぼくたちは、「わがままであるな」「ひとに迷惑をかけるな」「自分勝手に主張する前に、みんなはどうなのかを考えてみよ」などの禁止令を受けすぎていて、主張したり依頼したりする力を去勢されているのではないか。そして、「紳士淑女」になってしまった分、ひとが本来持っていた折り合いをつける能力を失いつつあるのではないか。
 「枝葉」の人生だって、本人にとってはとってもだいじな人生だ。自分の人生は大切にていねいに生きたいと誰もが思う。狛プーは、その人生のなかで出会っただいじなネットワークだ。そのネットワークがいらない人は、撤退すればよい。また、たまたま狛プーと出会えなかった人の心配までする必要はない。そんなことを心配するよりも、今ここで、たまたま出会った者同士がなんとか折り合いをつけようとすることの方が大切だ。その双方が支持しあう温かい努力をしたあとで、よい結果が出なかったときこそ、片方が「しかたない」とあきらめて「潔い撤退」をすべきなのだ。
 枝葉としてのネットワーカーの心構えはつぎの詩に集約されよう。

 私は私のことをする。
 あなたはあなたのことをする。
 私は、あなたの期待に沿うためにこの世に生きているのではない。
 あなたも、私の期待に沿うためにこの世に生きているのではない。
 あなたはあなた、私は私である。
 しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい。
 もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである。
                   (パールズ「ゲシュタルトの祈り」)

 これは決して投げやりなコミュニケーション放棄の詩ではない。「あなたはあなた、私は私」という自立の厳しい真実を受けとめたうえで、出会いのために自分が可能な範囲での最大限の努力をした者の、しかもそれがどうしてもうまくいかなかった場合の、諦観のあり方を示した詩といえよう。このように、過去や他人のせいにすることなく、自分のできることをできる範囲でしようとする生産的な構えが枝葉としてのネットワーカーに求められているのだ。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
ヒエラルキー ピラミッド型に組織された階層組織。位階制。階層制。ヒエラルヒーと発音するが、一般にはヒエラルキーと呼ぶ。原理的には価値秩序とは無関係であるが、実際には、官僚制などに見られるように上位に権限が集中し、支配−従属関係を生み出す。本書では、ピラミッド型の上意下達機構を意味する用語として、一般的な言葉でヒエラルキーと呼んでいる。ここではとくに、ヒエラルキーの上位から下位までにわたって、じつは異質の価値を排し、同じ価値観が貫徹されていることに注目したい。本書ではこれを上下同質競争と名づけて、ネットワークの水平異質共生と対比して批判している。
ネットワーク 網状組織。同じ目的をもった人などの連帯組織。従来からのピラミッド型の組織形態(ヒエラルキー)への「対案」としての意味をもつ。ただし、最近の市民の自発的なネットワークなどを「組織」の一形態と解することには異論がありうる。今日いわれるネットワークとは、組織であることへの拒絶なのかもしれない。いずれにせよ、そこでは、自立的価値(スタンドアロン)をもつもの・物・者が、それぞれ自律的に連帯・連携・依存しあう。パソコンが1台でもスタンドアロンとして汎用的なのに、他のパソコンとネットワークすることによって、個としての価値をいっそう発揮する様子になぞらえることができる。ネットワークにおいては、生涯学習、ボランティア、地域活動に見られるように、地位や肩書きにしがみつく人を軽蔑する傾向がある。同時に、「みんなもぼくと同じだね」というピアコンセプトの精神的安定をも蹴飛ばし、一人ひとりの異なる個性や役割発揮を承認しあう。これを本書では水平異質共生と呼ぶ。ネットワークにはかなりの潔さが必要とされる。それでもきわどい流動性のもとにあり、その淋しい宿命は避けられない。
ピア 同輩、仲間。公式の集団・組織内の正式な関係よりも、「われわれ意識」による非公式な関係を重視する志向にもとづく。ピーア(peer)と発音するが、世間一般ではピアと呼ぶことが多いようだ。ピアグループは、個人の社会化の促進の場としても機能するが、逆に、個性の獲得や発揮をみずからが抑圧する場としても機能する。本書では、ヒエラルキーが解消されて、単純にネットワークに発展するのではなく、その重要な介在項としてピアが存在することを強調したい。とくに、そこでのピアコンセプト(仲間意識)が、仲間から変に思われたくないなどの現代人の強烈な不安のなか、協調の名のもとに個性の発揮を自己抑圧するというみじめな逆機能の結果に陥っていることを力説しておきたい。しかも、それは、同輩や仲間に協調しようとすることにとどまるものであって、現実社会に歯向かう力にもならなければ、かといってヒエラルキーに適応してうまく個性を発揮する結果にもつながらないという皮肉な実態があることも指摘しておきたい。
ボランティア ボランティア活動の3原則は、自発性、公共性、無償性である。自主性・主体性、社会性・連帯性、無償性・無給性などともいわれる。ほかには、先駆性、開拓性、創造性などがあげられる(東京ボランティア・センター)。ぼくは、とくに重要なのは自発性(ボランタリズム)だと考える。ボランティアという言葉は、従来は狭い意味での社会福祉の活動に限定して使われていたが、生涯学習や町づくりなどにおいてもその社会的な重要性が認識されるようになってきた。社会教育・生涯学習や地域・市民活動などの自己決定活動は、そもそもボランタリズムにもとづくボランティア活動そのものである。生涯学習の学びは、充電としての学習にとどまることこそ(学習者の自由だが)まれであり、ふつうは、仲間に教えてあげたい、地域をよくしたいなどの社会的関与に結びついて行われてきたのだ。

第4章 知的水平空間における指導批判の方法

1 権力にしっぽをふるな
 −教師の葛藤より学習に重大なもの−

 学問にとっては批評精神がいのちである。指導者は、地位や肩書きが自分より下の人からの批判でも、その批判が主体的であれば真剣に受けとめるだろう。面白がって心から歓迎するかもしれない。これをぼくは知的水平空間と呼ぶ。しかし、どういう批判のしかたが、知的世界になじむ主体的な批判といえるのだろうか。

 (注−初めてmitoの授業を受けて)もう少し静かに話してほしいと思います。私は少し疲れてしまいました。私は先生のことをmitoちゃんなどと呼ぶことに抵抗を感じます。ニックネームはだんだん親しくなってから、こちらから親しみをこめてつけて呼ぶものだと思うのです。

 教師の声が小さく聞きずらくて疲れるというのはよくありそうだが、この人のように教師が大声のために学生側が疲れるということもあるのかもしれない。そういえば、ぼくの授業を「けたたましい」と評するペーパーも過去にあった。また、「疲れる」という言葉は、子どもから大人まで現代では「心が疲れる」という意味でよく使われている。しかし、この言葉をあまり無意識に使っていると、自己暗示のような作用が働いて、自分や他人に対する不信感が自己の内面に無自覚のまま広がってしまう危険性があるように思う。無意識に言葉を使っているうちに、その言葉の暗示にかかってしまうのである(予言の自己成就)。そういう意味で、「疲れる」という言葉には、過剰なAC(従順な子ども心)の挫折から生じた敗北主義の傾向があると思う。もっと堂々と教師の授業内容を批判したほうがよいのだ。
 呼称については、ぼくに親しみを感じていない場合は、もちろん無理をしてmitoちゃんなどと呼ぶ必要はない。「先生という尊敬語で呼ばないと申し訳ない」という教師に対する学生側の遠慮を捨ててもらうために提案しただけのことである。以前にぼくのことを「ただのおっさんとしか思えない」と書いた学生がいたが、それなら「おっさん」と呼べばいいのだ。ぼくに嫌悪を感じるときは「あなたは」とか「おまえは」とか書いて批判してもよい。ここは学生自身が学習主体である知的水平空間なのだから、一般社会のように仮面をかぶる必要などない。そんなことよりも、この授業を、自分の背後の気持ちまで伝えるコミュニケーションの訓練の場としてとらえるように提案したい。教師としてのぼくには、それを受けて立つ義務がある。

 (注−2回目の授業で、上のペーパーとは違う人である)大声だからうるさいんではなく、自分の意見を押しつけるかのようにしゃべるのがうるさいんです。言葉の暗示ということを言っていましたが、それは私たちだけでなく、自分にもあてはまっていることがわかってますか? 学生の前で教壇に立って授業をするという時点で、その「言葉の暗示」を使っていると思います。
 それから私たちの話題の中に「先生」(この場合はただの先生)のことも出ますが、自分たちから見ていい先生は「○○先生」ですが、嫌いな先生は「○○」と呼び捨てです。中高生の場合は、生徒の間だけの通称、ニックネームで呼んでいました。だから、生徒が教師のことをどう呼ぶかは、生徒の判断です。「mitoちゃん」という提案は余計なものです。

 まずは、このペーパーの批判精神を評価しなければならない。たしかに、押しつけるしゃべり方は、聴く人にとっては不愉快である。たとえ、1%の人だけがそう感じたのだとしても、ぼくはその批判をしっかりと受けとめる必要がある。
 しかし、同時に批判の刃を自己にも向けよということがいえる。すなわち、「押しつけている」と受け取らざるをえなかった学習者自身に、逃げや責任転嫁はなかったかどうかということである。つまり、ぼくの言い方自体は客観的には押しつけがましい言い方ではなかったのに、ぼくの言葉の内容自体が、その人にとっては、内面に踏み込まれ、触れられたくない部分に触れられてしまったと感じたから、「押しつけている」という非難の言葉を使っただけなのではないかということも考えられるのである。ぼくの問題提起の内容に反発したのなら、その内容こそを書けばよいはずだ。たしかに、教師による「言葉の暗示」という側面はあるかもしれない(レトリックの効果と問題点)が、それなら、そのぼくの「暗示の言葉」を具体的に指摘して批判すればよいのである。ぼくは「すべて受けて立つ」と言っているのだから、学生は、この授業を自らの批評精神の絶好のトレーニングの場ととらえてもよいのではないだろうか。
 「mitoちゃん」という呼称の提案は、本来は尊敬語である「先生」という呼称を学習者側が仮面をかぶって指導者側に使う必要があるのかという問題提起として受けとめてほしい。つまり、これは知的水平空間のあり方を考えるためにいったことであって、「生徒の間だけの通称やニックネーム」についてまで、ぼくが希望を述べたわけではない。この人にとってはぼくが「嫌いな先生」なのなら、学習権をもっている学習者側のほうから仮面をかぶる必要はないのだから、学生同士の会話においてだけでなく、授業やペーパーにおいても自分の背後の気持ちを呼称に投影してくれてよいのだ。「おまえ」ではひどいから「あなた」ぐらいでどうか。しかし、少なくとも「先生」などという尊敬語を使う必要はない。
 正直にいうと、このペーパーを読んで、ぼくに葛藤が生じなかったわけではない。「自分にもあてはまっていることがわかってますか?」などという表現方法は、エラソー(CP)に感じてしまうし、ぼくの思考まで指図する押しつけがましさも感じる。言葉の暗示の問題がぼくに「あてはまっていること」はその人の想定にすぎないのに、「わかってますか」によって既定の事実として押しつけられているように感じるのだ。ディベートで勝つためのアンフェアーなレトリックにすぎないのではないかとも思う。また、たとえば、実際に20歳も年下の学生に呼び捨てにされたとしたら、葛藤を禁じえないだろう。でも、この学生のいうように陰で呼び捨てにされていることを知ったら、それもやはり、それが自分に対する拒否感にもとづくものなのかどうか、教師としては気になるところであろう。知らせないことが相手の幸せのためということですませてしまってはいけないと思う。
 このような私的な葛藤のため、ぼくの内部の攻撃性(ぼくが教師をやり始めてから、やや増大しているのかも=教師の職業病?)が、皮肉な言動や表情、ほめているようでいてじつはけなしているダブルメッセージ、ある行動をしないことを非難しておきながら、それをしたとしてもやっぱりケチをつけるダブルバインド(二重拘束)などの屈折した形をとって、ぼくの言動に(この学生に対して個人的にということはぼくはしないが)表れるかもしれない。しかし、そういうぼくの葛藤は教師の役割とは離れた私的なものにすぎないのだから、その屈折を授業のなかに見つけたら批判してほしい。そういう批判も受けて立つ、つまりきちんと受け答えすることはすでに約束してある。
 その約束まで破るようになったら、それはすでに教師の職業病という域を越えて、もっとみにくく罪深い先生病ということになる。先生病とは「自分は尊敬語で『先生』と呼ばれるべき人物である」と思い込む病気である。自分を尊敬してくれない人を責めたり罰したりする。先生病は職業病と違って、その病気の責任はおもに本人にある。

参考資料 「先生という言葉をやめてみよう」
(社会教育「くえすちょん あんど あんさー」全日本社会教育連合会、1996年5月号より)

 ぼくは社会教育の仕事を13年やってから、いまは大学の教員をやっているところです。どちらもとても楽しくやらせてもらってきましたが、ときどき「先生」と呼ばれることがあって、そんなときは、「あっ、そんなに立派な人物ではありません」と言い訳したり、こそこそと逃げ出したくなったりして、そして、なんだかうしろめたい気持ちになります。よっぽどやましいところがぼくにあるのかもしれませんが。ああっ、たしかにあったりしますけど・・。
 そこで、ぼくは、授業や社会人研修などで「mitoちゃんと呼んでね」とお願いしています(まあ、ぼくは残念ながらそんなにかわいらしい外見ではないですから、実際には「mitoさん」ぐらいのところが多いですが)。学生なんかはそれを聞くと、「mitoちゃんだって! キャッキャッキャッ」と笑っています。出席ペーパー(自由なコメントのシステム)に「40過ぎても、ハタチ前のわたしたちにmitoちゃんと呼ばれたいなんてずうずうしいわね〜。でも呼んであげる、mitoちゃ〜ん」と書かれたりもします。
 しかし、なかには教師を先生以外の呼称で呼ぶことにマジで反発する学生もいます。あるペーパーに(mitoちゃんという呼称は)「押しつけだ」と書かれていたので、翌週の授業で、「まあ、軽い提案ぐらいの気持ちで受け取ってください」とコメントしたら、「その提案が余計なのです」としぶとく食い下がられたことがあります。彼女のペーパーによれば、「わたしたちが先生、先生なんて言っているのは表だけで、友達同士ではイヤな先公なんか『あのジジイ』と呼んでいる。それは先生なんかは知りたくても知ることのできない世界なのです」ということでした。コノヤローという気もしましたが、ナルホドーとも思いました。「先生」という言葉は、本来は「教師」という意味ではなくて尊敬語なんだと思います。でも、むしろ現実には自分たちのこころから教師をシャットアウトするための言葉として使われているのかもしれません。このひとにも尊敬できるところがあると感じる前から相手をセンセイと呼ぶということは、奴隷が使用者を「御主人様」と呼ぶのと同じことで、かえって信頼を放棄する結果になっているのではないでしょうか。
 ぼくは、先生という言葉をつぎの3つに分類しています。
@尊敬先生=「○○先生はぼくにとって大切な先生なんだ」
A便利先生=「(あっ、名前忘れちゃった・・)センセエ、こんにちは」
      「(キャバレーのホステスさんが)社長さん、センセエー」
B皮肉先生=「ほら、うわさをすれば影だね。大先生がいらしたぞ。くわばらくわばら」
 だから、まあ、言葉はそれなりに妥当に使われているのだともいえなくはないのですが・・。
 しかし、せめて、学校では、教師が自分のことを「ぼくは先生です」と言ってしまったり、職員室でお互いに先生、先生と呼びあったりすることをやめるようにちょっと気をつけたら、学校はもっと居心地がよい世界になるのではないでしょうか。また、とくに、「一斉承り学習」の打破をめざす社会教育としては、学習者の前で講師や社会教育主事の名前を「先生」付けで紹介することは、社会教育の将来にとっても(!?)よくないことではないかと思います。
 学生などのなかには、「mitoちゃん」のほか、「mitoちゃん先生」という人もいれば、「西村さん」「mito氏(これを音読したら呼び捨てだあ)」「mitoティーチャー」などと書く人もいます。怒って書く人は「あなたは」と書きます。各自、工夫のあとが見られるのです。その人たちには面倒な思いをさせて恐縮ではありますけれど、「教師への呼称などというどうでもいいことで言葉さがしに苦労するのも、たまにはいいことだよね」とも思うのです。 mito

2 教える側の義務の限定と、学ぶ側の批判範囲の限定

 教職志望の学生で、「自分は教師になれるような器ではない」という理由で希望を断念する人がいる。生涯学習ボランティアの振興においても、そういう「謙虚さ」が邪魔になることが多い。指導とはそんなに難しいことなのか。また、学ぶ側は、教授者や指導者に対してどこまで役割と資質を求めることができるのか。

 あのさ、(注ーゲームの説明におけるmitoの)「ルール説明はヘタです。あなたたちはもっとうまくなってください」の発言は違うと思う。ヘタを認めるのは一見潔さそうだけど、それは自分を正当化した逃げだと思う。こちらだって説明のヘタな人がいる。その人たちは、先生ができないことがぼくたちにできるわけないと考える。うまくなりたいと思うのではなく、プレッシャーとしてうけとる。説明が少なくとも先生より上手にできるかもしれないと思っている側から見れば、ヘタだといった奴がごちゃごちゃ期待するなと思ってしまう。ヘタだと認めた以上、自分がうまくなりたいという姿勢を見せてほしい。ヘタだというカラに閉じこもらず、こういう所がヘタだから、こうしたいと思っているという発言を期待したい。

 明らかにぼくの言葉が足りなかった。この人をイライラさせてしまって申し訳なく思っている。体験学習の時間を確保するために、ぼくの言いたいことを無理して象徴的に集約して発言してしまったのだ。タイムキーパーとしての教師の職業病であるとともに、この言葉の背後に「そんなのはヘタでいいじゃないか」という居直りの気持ちがあったのをぼくは認めざるをえない。そういう気持ちはぼくは自己受容している。しかし、教師の意図することを自分の頭のなかだけでなく、学習者側にきちんと言葉にして表さないと、教師の独善というそしりを免れないのは明らかである。
 ぼくは、あのとき、ゲーム説明が上手というイメージとして、ベテランのレクリエーション・リーダーのようにあざやかに説明するというイメージを頭のなかで描いていた。そういうあざやかさは、この授業の教育目標からいえば必ずしも必要ではないし、そもそもぼくの持ち味とは異なると思っている。ゲームの説明と実践を通じて学習者側の主体性の獲得の援助ができれば、ぼくの教師としての役割は十分果たされると考えているのだ。だから、「ゲームの説明がわかりにくい」というあるペーパーの指摘に対して、「あざやかさを求める人は、ご自分で努力してください」という意味を勝手に込めて発言してすませてしまったのだ。そんな発言は、非生産的な皮肉にすぎなかった。このペーパーの書き手は、その皮肉を敏感に感じとってしまったのだろう。だから、もしかすると、イライラして、「あのさ」のあとは心にもないことを一気に書いてしまったのかもしれない。その場合は、以下のぼくのコメントは、一般論として聞き流してほしい。
 「説明の下手な人」が「先生ができないことがぼくたちにできるわけない」と考え、プレッシャーとしてうけとること自体に、ぼくは「それは学習者側の主体性喪失の表れである」として異議を申し立てたい。権力に弱いAC(従順な子ども心)に支配されているのではないか。また、「説明が少なくとも先生より上手にできるかもしれないと思っている人」が、「ヘタだといった奴がごちゃごちゃ期待するな」ということについては、「あなたたちはもっとうまくなってください」という期待の言葉を選択してしまったぼくが一番悪いとはいえ、それを聞いてイライラしてしまうというのは、少しCP(批判的な親心)が強すぎるのではないかとも思う。「ごちゃごちゃ期待するな」などと目くじらを立てずに、「無責任なことを言ってやがる」と言って、教師を笑って許してしまう手もあるのではないか。
 そして、「ヘタだと認めた以上」という言葉もひっかかるがそれは筆の勢いだとしても、なぜ他者に対して「ヘタだというカラに閉じこもらず」「自分がうまくなりたいという姿勢を見せる」ことをこの人は要求するのだろうか。よけいなお世話ではないか。ぼくの授業から上手なルール説明の仕方を学びたいという学習要求をもっていて、それをぼくに表明したのなら話は別だが、それよりも、この人はぼくの姿勢そのものに反発を感じたのではないかと思われる。ぼくは、『こころ』の冒頭を、いきなり、「ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる」で始めているぐらいなのだ。なぜ、自分の教育目標としては考えていないことにまで、「こういう所がヘタだから、こう努力したいと思っている」などと発言して、みずからが頑張る姿勢を表明することを学習者側から要請されなければならないのか。説明が流暢ではなくても、ヘタウマ(へたのように見えるけど、あとからよく考えてみるとうまかった)ということだってある。学習者側にとってはわかりにくい説明であっても、かえって学習者をその気にさせ、ルール以外の何かを伝え、結果として学習者の主体性の獲得を有効に援助できる場合だってあるのだ。主体性の獲得の援助方法については、この授業で、教育目標をあらかじめはっきり提示することなどによって、一貫して追求し続けているとおりである。
 この点に関して、以前、「ちょっとおしゃれな教授法」と名づけた演習で、ぼくが「目玉焼きの作り方」という「模範授業」を行ったときのことを思い出す。あるおとなしい女子学生が、突然、意を決したように「mitoちゃんは私たちよりも目玉焼きについてよく知っているんですか」と聞くのである。「ふたをした方がおいしくできあがることなど、目玉焼きの作り方に関して伝えたいことはあるけど、学習者側より知っているかどうかはわからない」と答えた。すると、彼女は「そんな人が教える側に立つこと自体、いけないことなのではないか」という趣旨のことをいったのである。たしかに彼女は、自分よりはるかに優秀な先生から音楽を習うことに慣れているから、そういういい加減な指導に抵抗を感じたのだろう。この場合は教授法のシミュレーション(模擬訓練)であったが、ぼくは、たとえ本番の教授活動においても、教授者が学習者より知識・技能が劣るということがあってもよいと思っている。指導者側に無知と非力の自覚さえあれば、双方向教育などによって、むしろ結果的にはより効果的に学習者側の主体的な学習を支援することにつながるかもしれないのだ。
 つぎに「先生」という用語についてである。前から言っているとおり、ぼくは学習や主体性獲得の援助者としての教師の役割を果たさなければならないとは思っているが、その役割は、必ずしもぼく自身が尊敬語で呼ばれる先生としての高い人格をもっていなくても遂行できると思っている。居直りといわれても仕方ないが、だいたい、自分が尊敬されるべき人物としての先生であると思い込んでいる人の存在を想像してみるだけで、ぼくはおぞましくさえ感じる。自分自身がそんな人間になるなんて、絶対にいやだ。だから、このペーパーで「先生」と書かれると、それだけで違和感や、「ちょっと違うよ」という感じや、迷惑なプレッシャーを感じてしまうのだ。もし、このぼくの文章を読んで「先生のくせに」と感じている人がいるのなら、それは「〜のくせに」と他者を批判する行き過ぎたCP(批判的な親心)の表れだと思う。「教師の役割として」と言い替えてぼくを批判し直すことが必要である。そうすれば、ずいぶん感じが変わると思う。つまり、あくまでも自分の学習を援助すべき立場にある者としての教師を批判するということである。また、これは、「自分のために生きる」や「さわやかな自己主張」などのレトリックと関連している。
 ただし、教師として、いますでに立派な人格であるとうぬぼれることは論外として(先生病)、つねに自らの人格形成をめざしていくという姿勢は、学習援助の専門的役割遂行のための基本的条件として必要不可欠なのであろう。「ともに育つ」ということをつきつめて考えると、この問題にぶつからざるをえない。この点については、わたくしごとながら、CPが低すぎるぼくにはそれなりの問題があるのだと思う。「まあ、いいか」と自分を許してしまうからである。これに対して、他人にも厳しいかわりに、「自分は先生と呼ばれるのにふさわしい人格をもっていなければならない」と自分をも厳しくコントロールしようとするCPの強い教師は、当面は本人もつらいかもしれないけれど、その自己批判を生産的な方向に向かわせることができれば、ぼくには望みえないありえない「個の深み」をもつことができるのだと思う。このようにCPについてまで、肯定的にとらえるとするならば、『かくろん』で展開した個の深みの考え方は、交流分析などによる個人的な問題解決の志向よりも、メタ・レベル(一段階高い次元)の理念だといってもよいのではないかと恐れ多くも思っている。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
レクリエーション 戦後、占領軍は日本の民主化のためにグループワーク理論を持ち込んだ。そこではレクリエーションが、ディスカッションなどとともに重視された(ションション社会教育)。その後、レクリエーション指導の三種の神器としてゲーム、ソング、ダンスが定着した。社会教育指導者にもその能力は必要不可欠だと考えられてきた。しかし、現在、生涯学習時代への移行をめざし、レクリエーションも質的な転換を迎えつつある。それは、ワークショップ(参加者主体の参加・体験型の学習)などの現代社会の人間の回復のためのプログラム提供の役割の発揮である。上下同質競争の価値観にもとづく教祖的なレクリエーション指導は今や必要ない。
社会教育指導者 民間指導者としては団体指導者、施設指導者、講師、各種委員(社会教育委員、各種運営審議会委員等)、行政職員としては社会教育主事、社会教育施設職員、非常勤指導員など。また、一般行政職員や民間企業、ボランティアなども広くとらえておく必要がある。そのいずれの人であっても、アダルト・ティーチングに求められる態度を自己確立していく必要がある。加えて、水平異質共生の生涯学習社会創造の阻害要因になるような非主体的な学習や権威主義的な態度を学習者に促す結果に陥るとするならば、その指導はむしろマイナスであるといいたい。実際にそんな「指導者」も多いのだ。指導者は学習と教育の間に横たわる深くて昏い河をいつも意識しておくことが大切だろう。
対話(ダイアローグ) ソクラテスは対話によって相手がみずから真理(子)を生み出すように手助け(助産)をした。これは助産術といわれ、教育の原点でもある。そこでは、発問しても結論に至らないときがあるが、それよりも考える過程を重視する。

3 「ヒハンのペーパー」の存在価値

 学習は自分の枠組自体の変容を伴う。mito的授業ではとくに態度変容のきっかけを提供することを重視している。しかし、そこでは、「今までの自分が崩されてしまう」ことへの抵抗も生ずる。指導者はこのもっともな抵抗にどう対応すべきか。その個人への個別な対応は、他の受講者にはどんな意味があるか。

 あるとき、つぎのような大変厳しい出席ペーパーが提出された。

 今日の授業はこじつけでした。御自身でもそうおっしゃっていたようですが。夫婦や性のVTRが、どう大人の指導につながるのでしょう。まず、(mito注・今回の教育目標の)(3)大人に「幸福を配る」とは何ですか。自分の勝手な思いあがりを見つけるんじゃなかったんですか。先生の授業は社会教育のために私たちに自己発見させようとするものだと解釈していましたが、最近わかりません。今日の夫婦のVTRの「相手」と「自分」を大人という共通点で学習者にあてはめるんでしょうか。大人に「幸福を配る」自分とは、その人たちにとって子どもととらえられてしまう自分なのですか。どこに社会教育としての自分の存在を位置するかわからなくなります。それくらい考えるべきですか。いや、先生がヘタです。学生にわかりやすい材料を使っているつもりかもしれないけど、ただ先生が使いたかっただけ。性のビデオとか、先生は何を使ってもいい権利をもっているわけですから。使ってみてから批判されるまで。少なくとも、社会教育としてのVTRとのとっかかりくらい説明してみなさい。VTRの内容だけやりたいのではと言われたくないのなら。それは個人によって得るものが別、などと逃げるな。
 少なくとも私は、社会教育の知識をこの授業で得ることを要求している。方法の自由が、先生には与えられているのですよ。私だって、先生の授業において、余談のような、人生について考えられる話は面白く聞いている。しかし、それは「得した」という程度のものだ。もしかして、VTRと社会教育とは、ひと〜〜つも関りがなかったのかしら。もしそうなら、「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。
 ヒハンする前に、先生の答を正答としてしまう人もいる。先生は問題を提起した以上、答える義務はあるのでしょうが、それを選ぶかどうかは、その人次第ですものね。私は先生にも変わってほしい。その押しつけがましさから抜け出したいと感じてしまうときもある。影響を与える人ならば、影響を与えられる人になれ。そのためのペーパーだとも思い、感心もしますが(いや、自分のやりたいこと[意図すること]のためということもあるでしょう)、そのすべてに答えようとする姿勢は、悩んでしまう人と共通するものがあるのでしょうか。先生は悩みそうもない。それで、悩む人にはカリスマならぬ変なカリスマ(妥当な言葉が見つからない)になるおそれだってあると思うよ。気になる所だけふれられ、ふれたくない所はふれない人になれば楽でしょうが、そんな人間は人生の発達・成長において困るし……。
 まとまらないけれど、わかりますか、伝えたいこと。また書きます。
 授業で読み上げてもいいけど、勝手に実物投影機で人の字を出さないでください(「人の字=名前と同じ」という注釈あり)。○月○日によく考えて読んでください。
 先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにもかかわらず続ける根拠は?

 このペーパーは、毒にも薬にもならない社交的な仮面の会話を捨てて、mito的授業の本質を否定的側面からずばりと突いたものだと思う。それだけに、ぼくはかなり動揺してしまった。このペーパーの出たその日のすぐあとの授業で、ほかの学生からさっそく「早く内部葛藤を解決して、いつもの自信にあふれた授業に戻ってください」と注文を受けたり、あるいは、数日後のS大の授業で話題にしたときも、「今日、出席ペーパーのことを話してるmitoちゃん、すごいこわいとか思っちゃった。それじゃあ、受けて立ってるんじゃなくて、ただその女の人に文句を言ってるだけだよ。それじゃあ、mitoちゃんのこと、よくわかんないと思うよ」と書かれたりしてしまった。かなり冷静を装おうと努力はしたのだが、ぼくの内部の自信喪失がマイナスに反映してはいけない授業という公的な場面で、実際にはかなり反映してしまったのだ。そのことで、そのときの授業を受けた学生にも不快な感情を与えてしまったと思う。しかし、それより、「教師は劣等感を刺激される職業である」と聞いたことがあるが、「ああ、このことなのかもしれない」という気づきがぼく自身には大きかった。こういう場面では、教師は、学生と対等な立場なのではなく、学生の踏み台として利用されるべき立場なのである。「他人が入り込むべきじゃない所までペーパー書いた人が入り込んじゃっているから、途中から読むのがいやになってしまった」というS大学生のペーパーもあったとおり、たしかに、ふつうの対等な人間関係であったら「あなたとは出会わなかったことにしよう」とぼくはこの人にいってもよいのだろう。そして、自己抑制がきかずにこのようにしてすぐ葛藤してしまうぼくが、「暴力とセックス以外の申し入れはすべて受けて立つ」と宣言していること自体、身の程知らずの無謀な話なのかもしれない。
 しかし、この学生は「また書きます」といってくれている。これは、ぼくにとっては、細いけれども一本の糸がまだつながっているのだという救いを感じさせてくれる一文であった。知的水平空間における批判は相手への基本的信頼にもとづく肯定的ストロークの一種(批評的ストローク<mito)だとぼくは前からいっているが、それはぼくの強がりにしかすぎないのかなとも思うときもあったが、やはり知的水平空間における他者批判は、相手の存在の否定とは異なる大きな可能性をもっていると思った。また、批判の刃(やいば)はそれが研ぎ澄まされれば、自然に自己にも向いていくものなのである。ペーパーによるこれらの批判をきちんと受けとめることによって(当然、それは批判に無原則的に同調することではない)、「本人の主体性の獲得を他者が援助できるのか」という教育の本質的難問(アポリア)に挑んでいくのもなかなか意義深いことではないかとも思う。
 ある男子学生が、この批判のペーパーやその他のmito的授業への共感や批判のペーパーとぼくのコメントを読んで、「教師との信頼関係も、それが濃密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに拘泥しているどころではない」とし、出席ペーパーシステムに対しても、「出席ペーパーは感想であってもよいことになっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達のために感情を吐き出すためのものではないと考える。感情の吐露に低迷するのは、ストローク(人は信頼しうるものだとする試み)においては有効であろうが、自らが求め学んでいく学生の時期に休息を得てしまって、本当に先々個人という主義を担って生きていかれるのかと危惧の念を抱く」と書いてきた。授業への共感を書くことも、批判を書くことも、ともに感情を表現することにつながっており、それは依存を助長し、主体的な学習をむしろ阻害してしまうのではないか、ということであろう。教育のアポリアとはこのことである。しかし、ぼくは、こう考える。たとえばこの批判のペーパーを書いた彼女は、これを書いたことによって今までの彼女の主体性を減ずることになっただろうか。そんなことはないだろう。ゼロかプラスかのどちらかであろう。また、批判のペーパーのやりとりを見守っているほかの学生の学習にとっては、漁夫の利もあるだろう。それなら教師は教育のアポリアにチャレンジしてもよいのではないか。
 それでは、彼女の批判にひとつずつ対応していきたい。
 ぼくが自分で「こじつけ」といったのは、むしろ「社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識」についてである。ぼくにとっての本命はあくまでもVTR「教えます、心を伝える会話術」である。上映時間は15分だ。夫に自分の心を伝えられなかった妻や、妻を「おのれの妻」としか認知していなかった夫が、地域活動や社会教育(父親学級)での対等な人間関係のなかで業務連絡ではない感情の通った夫婦の会話ができるようになったという映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。しかし、そういうふうには学ばないという学生がいてもかまわない。「得したという程度のもの」でも、それを意味あるものと受けとめる学生がいたっていいだろう。
 この批判のペーパーを読んで、4年越しにぼくの授業にもぐりで出席しているある女子学生がつぎのように書いてきた。「mitoちゃんの持ってくるVTRは必ずしもわかりやすいものではないと思う。むしろむずかしいのではないかと思うこともある。(中略)VTRのなかの主体性をなくしてしまっている(そうでない場合もあるけれど)人の状況を見ながら、どんなことが契機になって主体性をとりもどすことができるのかということを考えることも意義があると思っている。VTRのなかの人びとが自分とはまったく考え方が違うとしたら、私はこの人たちの考え方のどの部分は共感ができて、どの部分に反発を感じるのかと考えることによって、いまの自分自身がどんな価値観をもっているのかを知る機会にもなると思う。他人の主体性獲得を援助するためには、援助する側の主体性も大切なのはもちろんのことだと思うし、いろんな人のいろんな事情やちょっとした弱さをそっとわかってあげる(変な言い方)やさしさ(?)も大切ではないかと思う」。
 これに対して、ミニ知識のほうは、このときは「ペダゴジーとアンドラゴジーとの違い」についてであり、これは、ぼくでなくても、他の研究者も注目しているところである。むしろ、これを深く研究している研究者の書いた本を読んだほうがよいだろう。ミニ知識は、学生が教科書を出発点とするなどして書き言葉メディアから学べばよいことであり、ぼくがしゃべらなくてもよいことかもしれない。ただ、彼女に限らず、「社会教育の知識を学びたい」という学生も多いので、折り合いをつける形で、さらっと、ただしぼくの評論をまじえて説明しただけなのである。だから、時間がない場合は、ミニ知識の解説を省略して項目の紹介だけにとどめることさえぼくの授業では多い。
 「大人に幸福を配る」ためには、「自分の勝手な思いあがりを見つけること」(ぼくの言葉でいうと「援助者側の無知と非力の自覚」)が最低必要条件になる。「大人に幸福を配るとき」も「子どもに幸福を配るとき」も、同様に援助者が「上位の大人でありたい」、「上位の大人でなければならない」という思いあがりを捨てることが必要になると思う。それが、社会教育(の援助者)の存在位置である。なお、このペーパーを読んで、ひとつ、ぼくの説明もれに気づいた。配るという言葉は、役所や社会教育施設に座り込んでしまって学習者を待っている社会教育職員の受動的な姿勢にたいするぼくなりの批判を表している。待つのではなく出前せよということだ。このあたりは、今までずっと説明を忘れていたぼくのミスである。ぼくがそれに気づいたのは、この批判のペーパーのおかげであり、また、他の学生にとっては漁夫の利といったところであろう。
 性のビデオなど、ぼくは何を使ってもいい権利(教育権)をもっているわけだが、それを行使するにあたって、ぼく自身が教師としての自分に与えられた役割と自分なりの教育意図を確認するとともに、「批判されるまでは、使ってみる」という姿勢も学生に示している。また、学生から批判されても、ぼく自身がそのVTRを使う自分の教育意図を肯定できるのなら、使い続けることだってあるだろう。しかし、教師が「学生からの批判を受けて立つ」以上に学生(不快を感じている数%の学生)に配慮をするとしたら、いったい何を配慮しろというのか。「社会教育としてのVTRとのとっかかり」を説明することの要求はわからなくはないが、彼女はそれに「少なくとも」という言葉をつけているのである。また、「社会教育にどう関りがあるか」ということについても、ぼくが説明したほうがよい範疇もあるし、学生が自分で考えたほうがよい範疇もある。そして、「個人によって得るものが別」というのは、ぼくが逃げのために使う言葉でもあるかもしれないが、学びの真実を表した言葉でもある。援助者側の価値観とは違う多様な受けとめ方が学習者側に存在してよいではないか。ぼくは「VTRの内容だけやりたいのでは」といわれたっていいのである。なぜなら、そういいたい人は、「出席ペーパー」や「ちょっと待った」や「パフォーマンスタイム」で批判を行う自由をぼくは保障しているからである。今回だって、そういわれたから、このVTRを選択した教育意図を(再度)説明したのだ。学生からの批判や質問にきちんと答えていく双方向性の確保さえ行えれば、教師はそんなに完璧な計画を立てたり説明をしたりしなくても、あるいは完璧であったかどうかを非生産的にくよくよ悩まなくても、高等教育や社会教育ではそれなりに役割が果たせるのだと思う。知的水平空間は、援助者と学習者の協働によってつくりだされるものなのである。
 教育学には人文系としての側面があると思う。社会教育の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである。だとすれば、人生を考えるためには、mito的授業という知的水平空間などを利用しながらも、本質的には学習者が自己管理型で「自己教育」するしかないのだ。
 ぼくだけが、「大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場」ではない。げんに彼女もこのように出席ペーパーで問題を提起しているし、そのほか、パフォーマンスタイムを使って(その使用時間についてはぼくと相談のうえだが)、学生は自分なりの個人的問題を提起することだってできるのだ。ぼくの問題選択に不満な人がいるのなら、その人は、ぼくの「立場」に期待するのではなく、自分に与えられた批判の自由をこそ使いこなしてほしい。
 mito的授業について「人を崩していくやり方」と書かれているが、崩れるのを恐れなければいけないほどの素晴らしい枠組をすでに備えてしまっている人などいるのだろうか。もちろん、それは、学習者の今の枠組を否定しようというのではない。ぼくは、教育の役割は概念崩しであるとする論には疑問も表明している。どちらかというと、ぼくの表現は、学習者本人の枠組の変容への援助である。
 ぼくの授業がつらいという人はたしかにいる。それは知っている。ぼくはそういう人には「無理しないで元気になったらおいでよ」といっている。それ以上のことをいおうとしたら、相手の人生をぼくが背負込んでしまおうとすることと同じになってしまう。学習者が、自分ではなく、ほかの学習者のなかから、「ヒハンができなくて崩れていってしまう人」や「落ちる人」や「教師に信頼度が高くなる人」や「そーだんにきたりする人」や「教師の答を正答としてしまう人」が生まれることを推測して心配することも、同様の「背負込み」の行為だと考える。その人たちにとっては余計なお世話なのではないか。たとえばだれかに相談するという行為は、その人にとっては問題解決に向かう主体的な姿である場合だって多い。「自分のために学ぶ」のであるから、一般化して論じようとせずに、自分の主体的な学習にとってぼくの授業がどう無益であるかを訴えたほうがいいと思う。
 「先生にも変わってほしい」とあるが、ぼくがどう変わるかは、ぼくが決めることだ。そして、学習者がどう変わるかは、学習者が決めることだ。変化の願望は自分にしか向けられない。たしかにぼくは、「影響を与える人」としての教師の立場にいるとは思う。しかし、情報化社会において情報に対する主体的能力(情報リテラシー)が求められるように、マスプロの大衆化した高等教育を受けている学生だからこそ、主体的な授業の受け方が求められているのである。
 出席ペーパーには、比べられるために書くという被抑圧体験から、書きたいことを書くという解放体験への転換という態度変容の教育意図が明確に存在している。しかし、彼女の「自分のやりたいこと、意図することのため」というぼくへの分析には、そのことへの不快感が表明されているのであろう。現代学生には、学生に対する教師の教育意図が存在すること自体に抵抗感があるようだ。そういう抵抗感も大切だろうが、それを教育意図の内容に対する抵抗感に止揚することが必要なのだ。また、大学教員には研究という役割もあり、ペーパーを研究成果に結びつけるというほかの意図もぼくにはある。しかし、そうだとしても、学生がそれに目くじらをたてることもないだろう。
 彼女がほかの一部の学生を「悩んでしまう人」とレッテルを貼っていることに対しては異議を申し立てておきたい。彼女は他者にそういうレッテルを貼ることによって、「悩んでしまう人」と共感的な出会いをもつことから逃避しようとしているのではないか。レッテルを貼ることによって安心してその後の主体的思考を停止してしまうことをラベリングという。また、「先生は悩みそうもない」という言葉に対しては、「ぼくはそのことについては今は話したくない」という応じ方がぼくにできる最善の対応であると考えるが、どうか。
 カリスマ性については、ぼくは、「授業で退屈させる教師」のつぎに悪い教師像として、「学習者の依存的学習を増大させる教師」という規定をしてきただけに、かなり自信を失い、考え込んでしまった。そこで、自信の回復方法として、信頼している人たちに聞いてまわるという手段があるのだが、それを実行した。フリースペースで学生にこのことを聞いてみたのだ。すると、意外にも「カリスマ性がたしかにある」というのである。「でも、尊敬を感じてしまうのだから、いい意味でのカリスマじゃないですか」という。ちょっと面映かったが、それどころの話ではない。理論的には、教育のアポリアのうちの否定的側面の証明になってしまうではないか。尊敬されているから嬉しいと教師には感じられても、学習者にとっては主体性の獲得の阻害要因になってしまう。しかし、もう一人の学生がこういってくれた。「mitoちゃんにはたしかにカリスマ性を感じるけど、依存させてくれないカリスマだと思うよ」。これを聞いて、「ああ、それなら大丈夫だ」とぼくは安心し、自信を回復することができた。
 たとえば、今まででもぼくは、学生が「そーだんにきたり」しても、「ぼくはカウンセラーとしての専門性をもっているわけではないんだから、カウンセリングはできないよ」と自制を表明している。そして、「社交的な会話ではない真実の話を聴けることは、ぼくにとっても興味深いから聴いている」という姿勢を示しているし、学生とは異なるぼくの枠組を伝えたいとぼく自身が思ったときは、遠慮なくエンカウンターしている(ゆさぶり発問、p20)。そういうとき、ぼくはとても充実している。ぼくにとって、これは、水平な出会いの至福が感じられるかなり大きな楽しみなのである。だいたいは、「ああ、この人もこの人なりの理由と事情をもって生きているんだなあ」という実感をしみじみと味わう結果になる。だから、カリスマというよりも相互依存に近いのかもしれない。一回限りの人生のなかで、人と人とが立場や肩書を越えて「同じ人間」という感覚を確かめながら、本当の気持ちが出会うことなど、何回あるのだろうか。また、ぼくは、ほかの学生をシャットアウトして個人の相談にのるということは原則的にはしていない。フリースペースなどで相談を受け、そこにいる人たちで話に加わりたい人がいれば自由に加わるという社会教育的、たまり場的な方式なのである。そして、ぼくが専門性をいかして行っている相談者に役立つための社会教育的な情報提供としては、フリースペースや青年学級などのサンマの意義と所在の紹介が多い。
 教師は、このようにして、カリスマにならないままで学習者からの信頼を獲得するということができるのではないか。その信頼の特徴は、カリスマとは違って「唯一の絶対的な信頼」にはなりえないところにある。だとすれば、教育のアポリアは解決のための生産的な方向に一歩近づいたと解釈できるのである。
 実物投影機で人の字を出すのは、ほかの学生の学習の便宜のためである。「人の字=名前と同じ」というのは、ここでそんなに一般化して断じるほどのことでもないだろう。彼女が「私は自分の名前がほかの学生に知られてしまう危険を感じるので映さないでください」と書いておけばいいだけの話なのである。いや、投影拒否の理由さえも書かなくてよい。「禁投影」というマークを堂々とつけておけばよいだけの話だ。逆に「自分に著作権があるのだから氏名を公表せよ」(著作権の一部としての氏名表示権)と要請する人がいてもよいだろう。「非公開」でもかまわない。自分の著作物に限っては、すべて自分の管理下に置いていいのである。なお、投稿などの場合には、「自分の文章の改竄はするな」とはいえるが、「自分の文章を必ず公開(採用)せよ」とはいえない。しかし、mito的授業においては、「公開せよ」と書いてよい。さらに、それに、「禁コメント」とつけ加えてもよい。これらは知的水平空間を実現するためという特殊な事情によって、現行の著作権よりも強い権利を学習者に認めたものである。
 もっと先の突出的空間として見え隠れしている水平異質共生の世界もある。それは、「私はこれだったら得意だから、みんなに教えてあげるよ」という生涯学習ボランティア、「こういうことを考えたからアップロードしておきます。よかったらぜひこれをほかにもどんどん紹介してください。著作料(財産権)はいりません。でも出所は私であることは明らかにしてくださいね(氏名表示権)」という情報・通信ボランティア、そういう人たちが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界である。アマチュアによる知的生産や情報発信にはそういう強みがある。ぼくは、これを、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼んでいる。現段階としては、全般的にはいまだプライバシーと著作権の保護を叫ばなければならない状況だが、さらには、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが、突出的水平空間においては生まれつつあるのだ。
 「先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにもかかわらず続ける根拠は」というのは、「こんな批判は数多く受けているはずなのに、そういう批判を聞いているのにもかかわらず続ける根拠は」という意味だと思う。ぼくは、いまの教育に欠けていることは、学習者に管理や保護を与えることではなく、自由を与えてそれに恐怖する機会を提供することだと考えている。そのことから(批判の)自由を行使する主体性が学習者自身のなかに育つだろう。まずは、学習者(=自己)が批判したからといって教育側(=他者)がそれにあわせて変わってくれるとは限らないという現実を知ったほうがよい。批判の自由が保障されて、保護され管理されてきた自分にはその自由がなかなかやっかいなものだという現実をまのあたりにして戸惑い、そこから気を取り直して、その自由を使って他者に通じるように自己の思考を表現できるようになることこそ、今後のネットワーク型社会が現代人に求めている主体性なのだとぼくは思う。これは「枝葉としての幸福追求」や「潔い撤退」に通ずる課題である(p70)。
 こういうペーパーに葛藤しながらも、なんとか対応しようと夢中になっている自分にふと気づくとき、ぼくはぼくの自我が紆余曲折しながらも拡大しつつあるのを実感することができる(自分の枠組は変わらないまま異質な他者の存在という事実だけを詰め込む自己肥大かもしれないが)。批判的ペーパーとの出会いは、ぼくにとって意味ある他者との意味ある出会いの重要なひとつなのである。そういうことから、最大の「漁夫の利」を得たのはぼく自身だといえる。つまり、指導者が学習者の主体的学習の援助を志向するならば、その援助は、結果としても指導者自身の「自分のため」であったということになるのである。職業的学習指導者の活動は自己決定活動そのものとは異なるが、そうではあっても、内的動機としては「奴隷の覚悟」とは異質な側面があるのは、この予感があるからであるといえよう。

第5章 癒しのサンマのつくり方

1 チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?
 −未来型生涯学習支援サービスをめざして−

 地域に根ざす教育、地域の教育力、生涯学習の町づくり、そしてコミュニティ意識の高揚など、生涯学習でも地域を重視することが多い。しかし、地域は上下同質競争社会の延長という側面ももっている。私たちは、新しいもう一つの未来型支援サービスの視点から、地域主義の意義と展望を見出す必要がある。

図表10 現代的課題の学習(1992.7 生涯学習審議会、図式化はmitoによる)

◆学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?
 悲観的な言い方をすれば、たしかに、現代は、学校も職場も家庭も社会も、そして、地域も病んでいるといえる。「地球規模の歪み」ともいえよう。このような社会の急激な変化のなかでの社会性、公共性、現代性、緊急性に満ちた学習課題を、文部省生涯学習審議会「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)」(平成4年7月)は現代的課題と呼んで、それを学習課題として積極的に取り上げるよう提言している。また、ぼくは、『かくろん』において、「公的課題の優先(プライオリティ)」を主張している。
 地域教育力の弱体化も、いうまでもなく現代的課題のひとつである。しかし、病んでいる学校、職場、家庭、社会が、みずからが病んだまま、地域にだけは救世主のような教育力を期待するのはどうみても滑稽だ。受験地獄といじめに窒息する学校があり、家族を省みさせない過労死の職場があり、不和と暴力の家庭があり、不信と争いに支配された社会がある。地域教育力の弱体化も、その現代社会の不幸の反映であるにすぎない。そのみずからの不幸には口を拭っておいて、青少年だけは地域のなかで幸せにさせてやろうとするのは、気持ちはわからないでもないが、そもそも虫が良すぎる話なのだ(逆に、現代社会にも当然ながら幸福の部分もあろうが、ここではふれない)。
 大人たちが「自分はともかく、せめて青少年には幸せを」といって、批判の刃(やいば)を自分たち大人に向けないまま地域教育力に期待を寄せるとき、そこで想定される地域は「善」ばかりの、現実感に欠ける空想の産物でしかありえない。このようにして、地域教育力の回復という言葉は、空しいスローガンになり、空念仏と化すのである。うそくさい空念仏をいったんやめにしてみないか。
 それでは、そのとき、ぼくたちは地域をどうとらえればよいのか。ぼくは地域を「善と悪」や「毒と薬」の混じりあうアンビバレンツ(両面価値)の場としてとらえる。これが地域の現実であり、そこには同時代の現代人の生きざま、真実の姿が渦巻いている。だからこそ地域はおもしろい。地域には、現代社会のヒエラルキーによる秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。そういうなまの出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。
 他者がきれいに整理した事実を、自己の思考の枠組のままにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。なまの出会いによって、真実にふれた思いがして、自己の枠組自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達しえないが、それをどこまでも知ろうとする。これが生涯学習の本当の姿であろう。つまり、事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を、ということである。
 この「(真実を)どこまでも知りたい」という自然な人間の欲望が触発され、充足され、際限なく広がる場のひとつが、地域なのである。もちろん、学校、職場、家庭、社会のそれぞれにおいても、このようなワンダーランドとしての側面を強めていきたい。善だけ、薬だけの空念仏や、事実だけの一方的注入はもう飽き飽きした。それよりも、空念仏の虚偽や上っ面を拒絶して、果てしない真実追究に向かう一貫した姿勢のもとに、地域教育力は解釈されるべきなのである。
◆ 若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか
 ぼくは、東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)に年間をとおして講師として関わっている。狛プーでは、プータローの自由な精神をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。狛プーはぼくにとっても一週間に一回は必ず回って来る癒しのサンマである。
 そこには、東京、神奈川はもちろん、埼玉や千葉からも若者がやってくる。かれらは若き旅人である。よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる。余談だが、主催者側は、そういう旅人を、夢にも、門前払いするようなもったいないまねをしてはならない。その旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江って、いいところだよ」とまんざらではなさそうだ。実際、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。
 地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元するための活動を」という地域から若者への押しつけである。相手の若者だって憲法で居住、移転及び職業選択の自由(22条)が保障されている国民の一員なのに、視野の狭い地域主義に凝り固まった大人の都合で若者の巣立ちを引き止めようとする。過保護・過干渉の教育ママみたいだ。これを御都合主義と呼ぶ。御都合主義の発言も、空念仏と同様、うそくさくて、第三者だったら聞いてらいれないはずだ。
 狛プーの活動も四年目に入り、キーパーソン(鍵になる人物)であった何人かが狛江から巣立っていった。T子は、ワーキングホリデーでニュージーランドの牧場に働きにいってしまった。保健婦のM子は、昇進試験に合格し、希望どおり、かねてからあこがれていた小笠原に異動になった。残ったぼくらは淋しさを感じないわけではないが、会いたくなった人は会いにいけばよい。実際、会いにいったメンバーもいるが、それでいい。少なくとも、彼女たちが「狛江を見限った」ことを責める若者はいない。「責めない」なんて当たり前のことのようだが、居住している地域で永続的に活動することを必然としてしまうような御都合主義は、えてしてその逆の非常識なことをやってしまう。
 若者にとって地域は巣立ちの場である。自分で空を飛べるようになるまで、いっとき、その地域という巣で、若い羽を育てたり癒したりする。そういう若者が巣から飛び立つとき、大人の人は定住型が多いので、空しさや淋しさを感じるのかもしれない。しかし、巣(地域)の維持のために鳥(若者)があるのではなく、鳥の自己成長のために巣があると考えたいものだ。巣にずっととどまって癒され成長するも良いが、巣から飛び立っていくのも良し、なのである。地域自身が、若者の巣立ちの場としての自己の存在をあるがままに良しとして受け入れることができる(地域の自己受容)ということが重要である。これこそ、ほんとうの地域のプライドの持ち方といえよう。
◆ 新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス
 さきほど紹介した保健婦のM子は、仕事でアルコール依存症の人の家庭などを訪問した日の夜は、しばらく寝つかれないときがあると、ぼくにいっていた。だから、狛プーでは、そういうことを忘れてのびのびと過ごしたいともいっていた。彼女は、ほかのところ(職業)でも、自他の人間存在の真実の悲しみと重さに向き合って生きているのである。だから、それからいっとき逃れて、安心できる仲間のなかで癒されようとすることもある。彼女は一度しかない人生をあるがままに、自然体で、そして大切にていねいに生きようとしているのだ。
 彼女は、今までの青年活動のリーダー像とはかなり異なる。「みんなのため」「団体のため」というお題目が彼女の内側にはまったくないといってよい。そして、マス(人のかたまり)よりも一人ひとりの個との出会いを大切にする。また、その個に対しても、「活発に活動しているかどうか」より、個そのもの(ぼくの言葉では「個の深み」)に関心をもつ。実際に提案することは軽やかで、花火大会見物など、自己の嗜好にもとづいている。仕事の忙しさもあってか、狛プーへの出席率も皆勤というほどではない。しかし、そういう彼女が狛プーのキーパーソンのひとりであり、ほかのメンバーも、自然で自発的な支持を彼女に寄せていたのである。ぼくは、これを、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という従来型のグループ運営やリーダーシップとの対比から、「あなたはあなた、私は私」(p72)タイプの新型キーパーソンの登場とみている。
 狛プーのメンバーが「狛プーは、あるがままの自分が、両手を広げて歓迎される場だ」と言ったことがある。変容(成長・発達)するためには受容(承認・癒し)が必要不可欠である。若者の「ましなろくでなし」への変容のためには、地域のあらゆるところにそういう無条件肯定ストローク(ストロークとは交流分析の用語で相手の存在に気づいていることを伝える行為、p65)をやりとりできるサンマが必要なのだ。
図表11 求められる3つのちから
 相互否定・上下同質競争の魔のトライアングルから、相互承認・水平異質共生の癒しのネットワークへ
上下競争
自他否定 同一化演技 敗北主義
癒しのサンマ
水平共生
自他受容 共感的理解 自立の連帯

 従来の青年教育には、娯楽性が重視される一方で、歯を食いしばってでも、頑張って成長・発達し、自己を充実させ、組織や地域に貢献するというガンバリズム(勤勉主義)を奨励する傾向も強かった。これは、戦後の後期中等教育の代替えの場としての青年団や青年学級の位置づけの影響があるのだろう。それらの存在価値は軽視できない。しかし、今の時代に、青年教育について、「高校や大学に行けない人のために、それを補完するような教育をめざす」などと主張する人はいないだろう。現に、高等教育ではない生涯学習の場としての青年教育に大学生が参加する時代なのである。地域の青年教育は、青年補習教育という過去の発想とはすみやかに決別しなければならない。
◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
3化け 昭和46年の社会教育審議会答申では、生涯学習を必要とさせる社会構造の急激な変化として、人口構造の変化、家庭生活の変化、都市化、高学歴化、工業化などをあげているが、情報化、国際化、高齢化は、一般的にもとりわけ重要な変化とみなされている。これを俗に3化けという。平成4年7月の生涯学習審議会答申でも、これに科学技術の高度化を加えて、現代的課題の学習の必要性が提起された。ここで注意すべきは「化」という接尾語である。量的変化だけなら「化」とはいわないだろう。質的にはどう化けるのか。生涯学習の観点からいえば、情報化は価値がモノから情報に交代すること、国際化はアイデンティティが異文化受容によってしか確保できなくなること、高齢化は現役から引退したあとも生きがいづくりや自分さがしが求められるようになることなどが大きな転換といえようか。
コミュニティ 地域共同体。地域性と共同性の2つが成立の要件。社会教育はもともとはコミュニティにおいて展開されてきた。地域住民は戦後の公民館で地域の共通課題の解決のための学習を続けてきたのだ。しかし、都市化のなかで過去のコミュニティはほとんど崩壊し、町づくりなどの観点からその回復が叫ばれるようになった。社会教育ではコミュニティ意識の涵養、生涯学習推進においては生涯学習の町づくりを進めることは、今や各自治体の常識である。しかし、昭和61年、『社会教育の終焉』(筑摩書房)を書いて全国の社会教育(行政)を震撼させたのは、コミュニティ論者の憲法学者、松下圭一である。松下は「教え育てる」社会教育のあり方を痛烈に批判し、市民文化活動への転換を主張した。そして、指導系職員のいる公民館を嫌い、住民の自主管理によるコミュニティセンターへの転換を訴えた。これが全国自治体の財政当局による社会教育財政締め付けの理論的武器になり、社会教育関係部署に深刻な影響を与えたのである。しかし、そのお陰で、社会教育は、コミュニティ創造の主体としての市民と、それを学びの側面から支援する主体としての社会教育行政という協働の重要性にあらためて気づくことにもなった。今日、そのときの気づきを財産として大事にする必要がある。万一、社会教育行政が「コミュニティ意識の涵養」という名目のもとに住民を「啓蒙」しようとするならば、社会教育は松下のいうとおり終焉するのが望ましいということになってしまう。しかし、これに反して、とくに都市部などでの社会教育の現状は、少なくとも子育てや環境等の公的課題解決のための「テーマコミュニティ」などの学習の支援に関してはかなり有効に機能していると評価できる。ただし、いわゆる旧住民の本来のコミュニティ活動にはあまりうまく機能していないようだ。生涯学習社会にはなじまないヒエラルキーの側面が本来の地縁的コミュニティにはあるからなのだろう。また、それとは逆に、農村部のなかには、結果的には従来の地縁的コミュニティの上下同質競争の性格の存続・強化のために「貢献」してしまっている社会教育まであるかもしれない。いずれにせよ、今後は、テーマコミュニティなどの新しい生涯学習社会に向けた活力を、旧住民を含めた本来の地縁的コミュニティ形成に無理のないかたちでどう生かし、つなげるかが、コミュニティ形成に資する社会教育の課題になるといえる。
地域の教育力 地域には学校だけでなく、公共施設、民間施設などの施設・設備があり、自然がある。また、ソフト面では、文化があり、人がいる。これらのもつ意図、無意図の教育機能の活用の重要性が叫ばれている。また、子どもにとっては、地域は、自治や異年齢交流を体験できる場である。しかし、そういう期待に反して、地域の現実は青少年の人間形成にとってむしろ危機的状況にあるといわれる。地域が青少年にとってそのような居心地の悪い場だとすれば、それは大人にとっても同じことのはずだ。支持的風土にあふれた生涯学習の町づくりをめざすことこそ、子どもにとっても大人にとっても地域教育力の根底的回復につながるのだろう。
リーダーシップ 制度的権威に依拠するヘッドシップ(ボス、会長など)と異なり、メンバーが自発的に支持を寄せる人格的権威に依拠する。ゆえに、本質的にネットワーク型であり、さまざまなメンバーが流動的かつ多様にリーダーシップを発揮する。

2 出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法

 前項でも述べた狛プーのもっとも大きな特徴はネットワーク型運営である。しかも、その癒しのサンマは、公民館の青年教育事業として、公的なかたちで運営されている。そこでの癒しのサンマづくりの実践的な各論を探りたい。また、人びとの自己決定の癒しのサンマを公(おおやけ)が支援する根拠は何なのか。

◆ ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」
 今日までの学歴社会では、多様な人間存在を、偏差値や学校歴などの画一化した物差しで上下に並べて比べる。それは、個性による逸脱を外からも内からも抑制する同質化の圧力として作用する。そして、この上下同質競争の価値観を前提とする社会システムと、その価値観を蹴飛ばせずに内面化してしまった私たちとが、社会全体としてのヒエラルキー存続に貢献してきた。そこでは、上下関係による支配と服従、多様な異質の価値の排除などがますます強化される。しかも、それは、たとえば企業活動においても大企業病等の停滞を及ぼすなど、政治、経済、社会、文化のすべてにわたってネックになりつつある。
 これから期待される生涯学習社会においては、一人ひとりの異なる個性が認められ歓迎されるはずだ。人間関係においても、ヒエラルキーの上下関係のなかでの地位・肩書きや制度上の権威などよりも、水平関係のなかでの異なる個性(個の深み)との出会いが求められる。しかし、そういう生涯学習社会を気持ちよく生きるためには、私たち自身に、内なるヒエラルキーと闘い、自由な遊び心をみずから取り戻すことによって、無知で非力な自己を受容し、自己とは異なる他者と共生しようとする精神あるいは主体性(認知、行為、評価)が求められる。狛プーがめざすプータロー精神とは、そういうことである。
 初年度の狛プーのチラシの呼びかけ文はつぎのとおりである。

 プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。
 私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。
 狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。

 この呼びかけ文の第2段落は、ぼくとしては、ヒエラルキーの人間疎外について批判的に書いたつもりである。しかし、意外にも、このぼくの思いは、メンバーから共感できないといわれることが多い。メンバーのなかには、仕事や学業だってそれなりに個性を発揮しながら楽しんでいきたいと考えている人が多いし、実際に、ヒエラルキーのなかでの「ゲーム」を自由な遊び心でそれなりにこなしてしまう人も多いのだ。あるいは、仕事や学業については、「自分の人生」そのものとは切り離して考えている人もいるかもしれない。その場合は、本人が自覚しているかどうかはともかく、自分の人生のうちで精神的に大切な部分は「ヒエラルキー以外のところで」と考えているのだろう。後者だとしたら、社会と自己の関係のさらなる客観視という課題が、狛プーの今後のテーマとしてあげられる。
 狛プーの番外編で、自発的で自然発生的な勉強会が運営されていたことがある。通常の狛プーのプログラムとは別に、メンバー同士でじっくりおしゃべりしてみたいというのである。これなどは、現実社会における仕事や学業に対する他者の姿勢や意見に、自然なかたちでふれる機会として期待してよいだろう。
 そこで重要なことは、公民館の職員や講師が直接発問したり、教えたりすることではなく、それぞれの自己と現実社会との関係が受容的・共感的雰囲気のなかで語り合われるということである。勉強会は、公民館の担当専門職員が夜間勤務のときの夜に不定期に行われた。そこでの職員の役割は、非指示的であり、不定形である。これは、学級・講座での司会業や講師代行業などと悪口をいわれるような、現代化しすぎて型にはまってしまった社会教育的支援を、もう一度、本来のなまの人間的な営みに戻すという意味ももっている。
◆ 自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定
 自己の「仕事や学業」についての狛プーの認識の現段階は以上のとおりだが、それよりもメンバーから今日まで強烈な支持を集め続けているのは、「かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために」というフレーズである。この言葉は、コマーシャルなどのふつうの世の中の感覚では当たり前すぎると感じられるかもしれないが、青年活動や青少年教育・青少年行政の世界ではけっこう目新しいことだったようだ。今でも、狛プーの限界としてミーイズム(自己中心主義−利己主義とは異なる)を指摘する青年教育関係者がいる。社会変革の主体形成のための自己教育・相互教育にならないというのだ。
 しかし、ぼくはつぎのようにいいたい。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」と思うことがミーイズムだとしたら、ミーイズムのどこが悪いのか。狛プー=ミーイズムでけっこうである。自分の人生を大切にていねいに生きたいからこそ、学習する、仲間を見つける、社会参加する、社会変革をめざすなどに、多様かつ自発的に発展するのであって、参加した一人ひとりが、そのどこに向かって発展しようとかまわないではないか。リーダーやボランティアでさえ、「自分のためにやっている」といえることがさわやかさの条件なのである。
 あるいは、つぎのように心配する関係者もいるかもしれない。「ミーイズムが昂じて占星術や新・新宗教、偏狭な自己啓発セミナーなどにはまってしまう場合もあるのでは……」。それだって、もし本人の主体的な自己決定の一環として行われるのであれば、援助者側がその結果にまで責任を負おうとするのは、むしろ傲慢である。あとで「自分の人生をていねいに大切に生きる」につながらないと本人が考えるようになったら、そのとき本人が軌道修正を自己決定すればよい。
 何がよくて、何が悪いのかなど、具体的に教えられるものではない。私たちができることは、本人みずからの気づきのチャンスをなるべくふんだんに提供することだけなのだ。これに比べて、従来の多くの青年活動や青少年教育・青少年行政においては、援助者としての潔い諦観(「非力の自覚」または禁欲)が欠けていたのではないか。
◆ アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物
 なんといっても、狛プーのチラシの一番の魅力は、メンバーたちが作る訳のわからないプログラムだ。毎月、いろんなことを、スキゾ的(分裂的)にやってしまう。過去に各地で行われていた青年学級も、今日の一般的な青年教室のようにテーマを絞って目的的に追求するなどということをしないで、高校に行かない青年たちのための総合的な学習カリキュラムを提供していた。狛プーのプログラムは、それに似てはいる。ただし、狛プーでは、メンバー個人個人が、あくまでも自分の関心・興味からバラバラなアイデアを出すのである。
 でも、それはバラバラながらも、ちゃんとほかの青年たちに通用するものである。通用しそうもないものも出るには出るが、担当職員やぼくが「えっ、それはどうかな」と言うまでもなく、発案者自身が「あっ、これはだめだな」と言って引っ込めたり、ほかの青年から「〜だから、うまくいかないんじゃない?」と言われて、発案者も「やっぱり、そう? 私もそういうふうにも思ったのよね」とか言って引っ込めてしまうことが多いのである。
 むしろ、つね日頃は自らの常識的な枠組を打ち破りたいと思っているのになかなか打ち破れないぼくなどにとっては、「なに、それ?」と思われるようなものの中に、話をよく聞いてみると、「いやあ、やっぱり面白そうだな」と心変わりしてしまうものが多かった。そういうアイデアは、とくに光っていた。「紙芝居」のアイデアが出たときは、ぼくは最初は、「そんなもの、今の青年がやりたがるものか」と内心では思っていた。しかし、あっという間に、「自転車に『狛プー紙芝居軍団』というのぼりを立てて、市民祭で練り歩こう」という所まで話は発展していて、そのときにはぼくも、すでに積極的な支持派に回っていた(ぼく以外に紙芝居反対派はいなかった)。あとになって、この「紙芝居」は、青年たちにとっての、そしてぼくにとっての、素晴らしい自己変容のチャンスのひとつになったのである。
 そのことから、ぼくは、「グループによる発想法などが企業などで研究されているけれども、そんなテクニックなんかあまり使わなくても、一人ひとりの心が解放されていて、メンバー間に受容的な雰囲気さえあれば、若者たちはいくらでもアイデアを出せるものなのだ」と思うようになった。それぞれのアイデアは素晴らしい宝石である。しかも、そのひとつひとつが色も種類も異なる宝石だ。
◆ プータローの自由のつらさ
 話を戻そう。ぼくは、呼びかけ文を書いたとき、つぎのように考えていた。「現代青年がいまもっとも求めているものは、自分たち一人ひとりがそれぞれの個性と役割を発揮できる場と、そういう場を創り出すあたたかい仲間関係なのではないか。それは支持的風土の集団ということもできるし、サンマということもできる。狛プーでなぜネットワークをつくるかといえば、本当の理由はこれではないか」。
 だが、そういうネットワークの場は、本人にとって最初はかえってつらいものになるときがある。自分の責任でその自由を行使しなければいけないからである。今まで、保護されたり、管理されたりしたことはあっても、自由になったときの恐ろしさは味わったことがないのだ。自由のつらさはプータローの宿命である。だが、このようにして苦しみながらも自由を行使したことがないと、結局は、「保護が足りない」「管理が悪い」などと言って、いつまでも社会や他人のせいにして被害者を演じて生きていく人生の構えが身についてしまう。狛プーは、一人ひとりの個性をできるかぎり尊重することによって、青年が自由の楽しさとともにその怖さを体験し、自己の非主体的な思い込みから自らを解放できるようにするためのサンマなのである。
◆ 撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」
 「いったん集団に入って役割を果たすことになった以上、そこから抜けることは無責任である」、ぼくにはこういう言葉が「不幸の手紙」(同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもの、チェーンレター)のような不幸の分かち合いとして感じられる。他者に対して自分や自分の帰属する集団に同一化するように迫る、ピアコンセプト(p73)の逆機能(否定的側面)そのものではないか。
 狛プーは出入り自由のネットワークとして運営されている。だから、「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」と新規参入者(ニュー・カマー)を歓迎するだけでなく、来なくなってしまった人には、「元気? たまには顔を見せてよ」と呼びかけることはあっても、撤退したそのことについての責任を問うことはしない。つまり、反復参加者(リピーター)になることを強要はしないのである。
 突然の撤退によって抜けた穴でも、残った人で何とかなるものだ。担当職員は大変だろうけれども、それは学習者の自発性を重んじる社会教育の職員の根源的なつらさである。まあ、役割分担があるのに抜けたくなった場合は、連絡ぐらいすることはネットワークのエチケット(ネチケット<パソコン通信)と思う。このようにしてルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそなのだ。
 このように、撤退の自由がなければ、本人がそこに参加しているのもお義理になり、自発性阻害の要因になるのだから、ネットワークには撤退の自由が不可欠であるといえる。しかし、ネットワークは、撤退者にもネチケット以上のネットワーク的資質を要請する。撤退したはずの人がその後の運営に介入したり(OBによる現役支配)、現役への個人攻撃をしたりするなどの「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為をよく見かけるが、ぼくは本当に嫌だなあと思う。自分の未練を他人に押しつけるのは、プータローの自由な精神に反する「悪いわがまま」だ(p29)。ネットワークに撤退の自由の許容を求めるとともに、撤退する個人には潔い「良いわがまま」を求めたい。
 ちなみに、ある市の男子成人のグループF会(仮名)の「守っていること」を紹介しておきたい。@政治・宗教を持ち込まない(議員メンバーは複数いる)、A会長をおかない(対外的にはおくときもある)、B会費をとらない、C職場の肩書、社会的地位、過去の経緯を持ち込まない、D来るのも去るのも拒まない、Eさん付けで呼びあう、F多様性を尊ぶ(排他的にならず、少数意見を尊重する)、G集まるときは、自分で作ったツマミと自分の飲み物を持参する。
 このようないわゆる「親父の会」が現在、増えつつある。職場での自分だけではあき足らず、地域で他の親父たちとのまさに水平異質交流と友達づきあいを求め、そこで自分らしさの発見や町づくりなどの社会貢献の楽しみを味わうのだ。F会の「守っていること」には、メンバーの親父たちの潔さと、それゆえの楽しさがにじみ出ている。
◆ 出入り自由の淋しさを受容する
 話を戻して、狛プーのメンバーたちも、その辺のところは大丈夫のようだ。撤退するときは、内心は淋しいのかもしれないが、ニコニコして去っていく。適度のおとな心を持ち合わせているからだろう。キャンプだけ参加してあとはまったく出てこない人もいるが、その人などは最初から「みんなでキャンプに行くのが好きだから、それだけ参加します」と言って、キャンプ場では常連のように振舞っていた。
 問題は、残された仲間たちの淋しさである。これをぼくは「出入り自由の淋しさ」と呼ぶ。一人ひとりがこの淋しさとうまくつき合えないと、いつまでたってもピアコンセプトの逆機能は乗り越えられないし、ネットワーク型のコミュニケーションを創り出す主体性を身につけることができない。ところが現代青年は、へたに交流することによって相手を傷つけたり自分が傷ついたりすることを極端に恐れている。これは良い意味での自他への優しさでもあるが、その優しさは、「だからコミュニケーションしない」という敗北主義の象徴のような「山アラシジレンマ」(接近したいが、かといって、お互いの針で傷つけ合いたくはないというジレンマ)にも彼らを陥らせるのだ。
 狛プーで「出入り自由の淋しさ」を感じながらもその淋しさを受容することは、「結果を恐れるがあまり、したい交流もしない」から、「したい交流はするが、自分の期待どおりに交流してくれない他者の存在も受け入れる」人間に自己変容することにつながっていく。これがネットワーカーとしての資質である。そして、これこそが「山アラシジレンマ」を突破するための唯一の方法なのだと思う。
◆ よその地域の青年たちの意味
 狛プーの「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」の精神(ネットワークマインド)は、当然、狛江市外から、なかには一時間以上もかけて通ってくる青年たちの参加を増やす結果につながっている。これは「地域に根ざす社会教育であれ」というスローガンを平面的にしかとらえようとしない関係者には、好ましくない現象として映るかもしれない。「自分の地域でやればいいだろう」というわけだ。
 しかし、ちょっと待ってほしい。狛プーは、今や、現代都市青年にとって、アジールのひとつとしての役割を果たしている。アジールとはもともとは「(自治的な都市などの)不可侵の領域」という意味だが、いわば駆け込み寺であるとして理解しておけばよいと思う。職場や地域の上下同質競争の「正統派」からはじきとばされた人たち(プータロー)は、そんな自分が受容されるサンマを感覚的にかぎつけてアジールに集まってくる。そこでは、活動に加わらずにぼうっと眺めていることだって許されるが、そういう所からこそユース・カルチャー(若者文化)が生まれ、カウンター・カルチャー(対抗文化)として社会の「正統派」の文化に影響を与えて時代を進展させるのだ。だから、狛プーがアジールであるとすれば、それを擁する狛江はユース・カルチャーの発信基地のひとつと呼べるようになるわけである。これは、市全体の風土に若々しい息吹を吹き込んでくれるだろう。
 たとえば、狛プーの紙芝居は、市民祭で市内の多くの子どもたちに、そして、その親たちに歓迎された。しかし、ほんとうは、たった一カ月の練習でプロ並みの腕ができあがるわけがない。紙芝居の面白さにはまってしまった気持ちが、狛江市民の気持ちと触れ合って、市民祭の場で共感的な世界を創り上げたのである。
◆ キャンプは夜だ
 過去の青年教育においては、サークル等の目的集団に対する青年団等の生活集団の意義が叫ばれたことがある。そこでは、生活に根ざした総合的な人間交流の意義があらためて評価されていた。もし、そういう人間交流が可能になるならば、それは上下競争社会の一端に風穴を開け、人間解放のユートピアを実現することに近い。しかし、これといった具体的な到達目標を持たずに、生活のなかでの人間交流そのものを目的とする試みなどに現代青年が関心を持つだろうか。私たちのそういうためらいに答えを出してくれるのが、キャンプであり、キャンプの夜であり、キャンプの夜の「空白のプログラム」なのである。
 そこでは、気楽なおしゃべりや打ち明け話のなかに、一人ひとりの生活文化が自然にしみだしてくる。共通の文化の確認も楽しいが、異なる文化との出会いは「えっ、君っておもしろいねえ」という感じで、よりいっそう刺激的である。仲間とのつきあいの楽しさとは本当はこういうものである。キャンプは、過去の青年団活動に匹敵する新しい生活集団としての新しい教育効果を発揮してくれるのである。
 過去の青年教育にも、日中の正式のプログラムが終わって、夜、寝床で昼の議論の延長戦を行うことを寝床分科会と呼んで、その意義が注目されていたことがある。本音の交流ができるからである。この寝床分科会の意義も軽視できないとは思うが、狛プーのキャンプは分科会の延長でさえもありえない。「寝床分科会だね」なんて言われても、狛プーのメンバーはきょとんとしてしまうだろう。キャンプにつき物のカレーライスではなく、汚いロッジの中だが、ちょっとおしゃれなフランス料理やスープをつくり、ワインなどで盛り上がる一方、個人がそれまで持ってきた「文化」や「生活」そのものがポツリポツリと出される。思いもしなかった他者の枠組に出会って、自分の枠組との違いに驚き、「おもしろい奴だなあ」と感じ、しかも、「そうか。わかる、わかる」と、それなりに共感してしまうのである。
 人間は仕事や学業に追われる昼間より、夜のほうが自然体になりやすい。だからこそ、夜になると悪いこともしてしまうのだろうが、それはある意味では人間らしさの表れでもある。「人間らしさ」とは善と悪の混合体である。夜はそういう魔力があるから魅力的なのだ。
◆ 若者が自分のお金を払う時
 大学生でさえ、教科書をなかなか買ってくれない。貧乏なのかなと思うと、彼らどうしの飲み会では割り勘で気前よく払っている。正直言ってコノヤローという気もするが、巷にあふれる若者たちの飲み会は、天から降りてきたクモの糸のようなものなのだろう。ただし、そのわりには、一気飲みや瞬間芸など、それぞれの本心は大切に隠しているような、背中を向け合った淋しい飲み会のほうが主流のようだ。
 しかし、狛プーの飲み会は、それとは違っている。狛プーの終了後は、ほとんど毎回、ある飲み屋に流れていく。用事のある人や飲みたくない人は「バイバイ」と帰っていくが、酒を飲めない人でもこれを楽しみにしてジュースで参加する人もいるし、すごいのは、狛プーの終了時刻にぎりぎりにしか間に合わないので、公民館ではなく、その飲み屋に直行して待っているという人がけっこういるということだ。
 狛プーの飲み会だってお金はかかるが、それ以上の魅力があるのだろう。ぼくは、これを、飲み屋での自己解放と相互解放ととらえている。ぼく自身も、その飲み屋で、「ここにいるときが一番mitoさんらしい」とメンバーによく言われる。解放されているのだ。依存しているのかもしれない。まあ、たがいに、公的社会教育の参加者や援助者という社会的位置づけから解放されているからであろうが、もうひとつは、おたがいに自前の金を払っているからではないかと思う。
◆ 空白のプログラム
 狛プーのキャンプの魅力が空白のプログラムにあることは先に述べたが、通常のプログラムにもそのような仕掛けが配置されている。というと聞こえはよいが、ようは計画がいい加減ということなのである。しかし、いい加減はよい加減でもある。何をやるかきっちりと決まっているからこそ参加してみようかという気になる、という人たちは多いが、それでは実際には参加者は「やらされている感じ」になってしまう。過剰適応の若者などは、そういう集まりにまでうまく自分を合わせようとしてしまうので、見ていて痛々しいぐらいだ。
 これに対して、たとえば、狛プーのプログラムの中の「温泉に行こう」だの「連続お別れパーティー」だのという月は、じつは何も決まっていないに等しい。そのほか、月の切れ目、切れ目も「よい加減」に運営している。たとえば、メンバーの一人が玉乗りのプロであると知ると、さっそく翌週のプログラムは玉乗りの練習にしてしまったり、「正月だからカルタとりをやろう」と一人が言い出すと、「やろう、やろう」ということになって、言い出しっぺが百人一首を持ってくる。そのいい加減さが、参加者をその気にさせるのである。
 「せっかく来たのに、予定と違うなんて、どうなっているんだ」と目くじらを立てる人はまずいない。今の若者とはそんなものだ。狛プーのような自由な場では、現代青年でも自由を使いこなせるのである。ぼくはこれをフリースペースの治癒力・教育力だと考えている。
 ぼくは、狛プーの通年講師として、ある反省をしたことがある(講師をやっていると反省することはけっこう多い)。記録集のまとめの部分を作っていたとき、ぼくは早く完成させようとやっきになっていた。担当職員がいつものように無駄話的な茶々をしばしば入れていた。ぼくは、「おいおい、早く片づけちゃおうよ」と言った。そうしたら、その夜の飲み会で、ある女性メンバーに、「mitoさん、焦ってるんじゃない? ○○さん(担当職員)のペースのほうが私はいいわ」と言われてしまったのだ。彼女にその理由を聞いたところ、「今日は、プログラムが何も決まっていなかったから、久しぶりに飲み屋さん以外でも、おしゃべりのためのおしゃべりができると思って楽しみに来たのよ」と言う。それで、ぼくは反省したのだ。
 たしかに、効率的にまとめができあがったからといって、それが何になるのだろう。プログラムを自分で設定して、その設定に沿って参加者を楽しませる、そんな過去の社会教育の枠組に、ぼくのほうこそ縛られていたのだ。逆に、担当職員の「職員らしからぬ言動」は、彼の本領発揮、面目躍如の行為であり、さらにはユースワーカーとしての社会教育主事の存在意義そのものであったのだ。もちろん、彼は一方で、市内のすべての独身寮を調べ上げて、自転車でチラシを下足入れにまきにまわるなど、広報等のための最大限の努力はしている。
 フリースペースの創造のための職員や講師の働きかけのあり方は、簡単そうで難しいし、難しそうで簡単だ。ぼくは、狛プーで、そういう意味でもおもしろい体験をさせてもらっている。
◆ 善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心
 狛プーにはこれといったスローガンがない。あるとき、狛プーでキャンプに行くとき、担当者が子どもの野外活動向けの事業の文書を使ってしおりを作ってくれた。そこには「来たときよりも美しく」というキャンプ生活のうえでのスローガンが書かれていて、それを読んだぼくらはいっせいに吹き出してしまったのだ。いつもの狛プーの風土からは、そういうスローガンはかなりのミスマッチだ。
 狛プーのいつものペースだとつぎのようになる。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。ぼくなどの気の利かない幾人かの者は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べてふとん干しをしている者までいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかでは感動する。もちろん、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。
 つまり、狛プーというところは、善導とかスローガンとかの言葉とは無縁の時空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーが大切にする言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そういうなまの言葉は、受け取る相手によって、薬にもなり、毒にもなる。どちらにするかは、聞く側の自由であり、自己決定に任される。
 では、なぜ、狛プーのメンバーはそういう真実の人間存在との出会いを共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(ミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自己を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が自分を写し出す鏡になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることが魅力的なのだ。
 2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組が、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これは、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間存在が発する根源的な欲求であるといえよう。
 3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さが、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかで「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると評価することができるのである。
◆ 狛プーはスムーズな自己開示のネットワークである
 ぼくが大学のある授業で、人間の偶像崇拝的なある行為について依存の表れであると批判したところ、ある学生に「先生は傷ついたことがないんですか」と書かれてしまった。「それを信じてその人が幸せになれるのならいいではないか。だから、批判すべきではない」というのである。批判しないで、つまり批判事項だけ除いて交流するコミュニケーションの何と空疎なことよ。あるいはまた、あるボスを偶像崇拝するファシズムが表れても、ぼくたちは「その人たちが幸せになれるのなら」と言って批判を避けなければならないのか。社会とはそんなに個人がばらばらに生きていけるものではない。しかも、その優しさのわりには、自称「傷ついた人」は、ぼくが触れられたくない過去に傷ついたかどうかまで問うてくる身勝手さをも兼ね備えている。
 人間は、親に全面的に依存できる時期を過ぎて、現実原則を働かさなければいけない社会に出ていく。それを楽園追放という。そのときに、すでに、痛みは不可避的に生じるのである。痛みを経験していない人などはいない。気づかないようにしている人は、たくさんいるかもしれない。しかし、そういう痛みをつらくて乗り越えられないでいる人が、深みをもっていることを証明された人間のようにほかの人を見下し、責め、結局はなんだかかえって威張っているような今日の状況に、ぼくは異議を申し立てたい。「個の深み」とは、痛みの大きさによるのではなく、その人が自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているかによるのではないか。
 この事例にぼくは現代青年のもっている変な思考回路を感じる。快適なコミュニケーションのためには相手に心を開くこと(自己開示)が不可欠であるが、だからといって、開きたくない心まで無理に開くことはないし、また、逆に、「心を開かせることが必要だから」といって、相手の人格にまで立ち入って論じたり、過去を詮索したりすることなどは誰にもできないはずだ。その双方の暗黙の合意なしには、心を開くコミュニケーションなどできるわけがないし、山アラシジレンマに陥ってしまうことも目に見えている。若者たちの多くが、心を開きあうコミュニケーションや完全な相互理解を非主体的にでありながら、憧れすぎているために、その結果、実際には安心して自己開示できないという皮肉な結果に陥っているのではないか。
 傷ついた若者たちがもっている敗北主義は、現在、被害者を演じようとする思考回路にはまっていて、それがそれなりの自分勝手な安定感を生み出し(自動化、p52)、本当は癒されたいのに、このようにニッチもサッチもいかない状況になってしまっていると思われる。そういう現代社会において、狛プーの青年たちが培ってきたネットワークマインドの朗らかさと潔さは、とても重要な役割を果たすことができよう。ぼくは狛プーでの若者たちの自然なコミュニケーションを見ていて、つぎのように考えた。「開きたい心を開きたいときに安心して開くのが、自己開示のコツである」。狛プーの存在は、自他への信頼を失いつつある現代青年にとって、基本的信頼感を回復するための、スムーズなコミュニケーションのサンマとして機能している。
◆ 男と女の出会いのための公的サービス
 狛プーは狛江市中央公民館の青年教室事業として、つまり、公式の青年教育の一環として行われているものである。そういう場合、主催者側は、公金を支出したり専門職員等を配置したりしているのだから、その公的根拠をきちんと示せるようにしなければならない。社会教育活動自体の主人公は住民の側にあり、その自由は最大限に保障されるのだが、社会教育行政の側には、公金を支出してその事業を行うことがどんな公的意味をもつかを明らかにする義務がある。
 たとえば青年教育の場合、青年期特有の課題として、望ましい恋愛や結婚の相手を見つけるということが今まで重視されてきた。そのための援助サービスも、必ずしも一概に税金の無駄遣いと非難することはできない。それは青年期の不易の課題だし、これによって個人の幸福追求などに資することができるだろうからである。しかし、青年教育が結婚相談所やたんなるお見合いパーティーの場になってしまっていいのかという疑義は残る。個人レベルの問題解決にはとどまらず、社会創造の意義などにまで発展するからこそ、公的社会教育は他の民間サービスとは異なる独自の教育的役割を発揮できるのだから。
 狛プーの場合にも、メンバーのあいだに恋愛関係が生まれることがある。しかし、そのとたんに二人は狛プーの活動から遠ざかってしまうなどという、ほかでよく見られる「くだらないミーイズム」の現象はまったく起こらない。むしろ、その二人がますます「番外編」の仕掛け人として活発に活動したりしている。二人だけで過ごす時間も大切にするけれども、狛プーのなかで二人としての価値を発揮する時間も大切にする。みんなと過ごす時間も、二人にとってはそれはそれで充実していて楽しいからだ。これこそ「報われるミーイズム」の姿である。さらには狛プーには若い主婦だって参加している。「主婦業だけに埋没するのはいやだ。まだまだ青年として、たくさんのいい仲間たちと出会っていきたい」という彼女の参加動機は、きっとよりよい妻や、よりよい母としての自己成長という望ましい結果にもつながるだろう。それは、会社人間であった男たちの最近の変化としての家庭復帰や自分さがしと同様の意義をもっている。つまり、自分を○○さんの奥さんや○○ちゃんのお母さんと呼ばれるような固有名詞のないばらばらな存在としてではなく、ひとつの統合された自分自身(アイデンティティ)としてとらえたうえで、家庭・地域・職場でのそれぞれの自分の存在価値をバランスよく発揮しようとするのである。
 今日の社会においては、恋愛や結婚は、基本的には二人だけの幸せや不幸せの問題として自己完結しがちである。ところが、狛プーにおいては、男と女がいつのまにか一対一で出会っていると同時に、ネットワークのなかでの二人の役割発揮を味わう。反面、恋のさやあても起こりうるが、それは仕方ない。ここでいう仲間を社会に置き換えて考えてみれば、狛プーの場の提供という公的サービスが、ほかの行政分野では遂行困難な役割を実現していることが理解されよう。
 このように心地よい男女関係を実際にこの現代社会において創り出しているということは、上下競争一辺倒の学校歴偏重社会から、異なる他者をたがいに受容しあってともに生きようとする生涯学習社会に転換するという社会的課題を、ここでは男女の出会いの面から実質的に達成しつつあるということになる。それは、現状否定や告発だけに終始するような他者依存的な運動とは違って、提案型のネットワークであるといえる。ただし、もちろん、青年教室という公的社会教育に支援された突出的時空間において、という限定付きであるが……。
◆ いい男といい女さえ支援すればよい
 それにしても、恋愛問題をはじめとして、このように「いい男といい女」が期せずして狛プーに集まっているのはなぜだろうか。その積極的理由としては、狛プーが最初に述べたような「自分の人生をていねいに大切に生きたい」という彼らの心に呼びかけ続けていることと、彼らが「自由への恐怖」を突きつけられるなかで、みずからの内なる差別意識や被害者意識と闘い、たくましく自己成長し続けてきたことがあげられる。そして、本項ではつぎのことをいいたいのだが、逆に消極的理由としては、いい男やいい女ではない人、あるいはそうであろうとする気がまだわいていない人がいるとしたら、そういう人は狛プーから自然に「排除」されていくということなのである。
 たとえば、今の世の中の風潮では、「人を傷つけてもいいから、自分の傷を癒したい」という不幸な認識をもっている人たち(スパイ)は残念ながら多い。現実社会では、そういう人が幅をきかせたりしている。たとえば、相手の女性が傷ついてでも、自分のナンパが成功すればよいなどという男性は、たくさんいる。狛プーに来ている人たちは、そういう現代社会の人間関係がいやで狛プーに来ているのだから、上下同質競争社会からの「スパイ」が入ってきては困るのである。ところが狛プーでは出入り自由が原則だ。スパイの新規参入も自由なのである。そういうとき、担当の職員や講師のぼくに、そういう人の排除を頼むメンバーもいる。しかし、その排除行為をぼくらが請け負ってしまったら、狛プーの存在価値はなくなるとぼくは思う。ネットワークの支援ではなく、ファシズムになってしまうからである。
 やはり、望ましいのは、「いやだ」と思った人が「あなたの○○という行為は、私はいやだ」とさわやかに自己主張することなのだ。その人から電話がかかってくるのがいやだったら、「あなたからの電話はほしくない」ときちんというべきなのだ。ちゃんとそういうふうに主張できる人も狛プーにはいる。これが自立したネットワーカーの態度である。そのことによって、スパイたちは狛プーから自然に排除されていく。相手には弱みにつけいる隙がなく、これ以上関わるとかえって自分の内面にダメージを受けることに気づくからである。つまり、ここでの排除とは、規制や規則などによってではなく、さわやかな自己主張などをとおして個々人が内面的に排除することである。
 だから、逆にいえば、狛プーのメンバーが狛プーのサンマ以外の場でもこの世でたくましく生き抜いていくためには、スパイが単純なナンパ目的などで少しは入ってくれるのも、人びとがいがみあう現実社会のなかでどう生きるかという現実原則を学ぶ絶好のトレーニングの機会になるのだ。それに、さわやかな自己主張ができれば、それは基本的信頼を示す行為の一環でもあるのだから、もしかしたら、スパイにとっては生まれて初めてのいい体験になり、「イヤなヤツ」から「いい男いい女」への自己変容の可能性さえなくはない。人間は無限の変容の可能性をもっているのだから。どちらにせよ、いい男といい女だけが狛プーに残るという同じ結果になる。
 ここで、「いい男いい女」の定義は、まだしていない。p110に「自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているか」と書いたが、そのほか、「人に傷つけられることよりも、人を傷つけてしまうことを心配する人」、「被害者意識に陥らず、さわやかに主張できる人」、あるいは、「いやなときは、潔く撤退して静かに微笑んでいる人」などと定義ができるかもしれない。どの場合でも、もともと弱い存在としての人間が、それほどの徹底したいい男いい女になれるわけがないとも考えられる。人間はだれでも「ろくでなし」であることにはかわりない。だから、実際には、いい男いい女になりたいと思って生きている人、つまり変容等の対象を自分自身に向けている人たちのことを「いい男いい女」というべきかもしれない。
 学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、「人が多様な個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、他者を打ち負かすことを目的にした資格取得などばかりが評価されて非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に資するものとはいえない。狛プーなどのネットワークでは、イヤなヤツが得する目にあうのではなく、いい男やいい女こそが報われる関係を自然に創り出す評価システムを内包しているのである。
 社会教育の全国的状況からみても、前項で述べた公的サービスの存在意義を考えると、よっぽどの人的・財的余裕のない限り、いい男いい女になりたいという意思のないスパイやイヤなヤツに追従するようなサービスをする必要はないといえる。そんな余裕があるのなら、本来は社会からいい男いい女として評価されてよいはずの一部の青年たちが、現代社会では癒しのサンマを味わうことなく疎外されて生きている現実を、関係者はもっと深刻にとらえて、せめて「何とかしたい」ぐらいには思うべきである。現実には、全国の青年教育の場で、いい男いい女が集まってくれているとは思う。ただ、行政側や担当者が、「行政の公平の原則」を機械的に適用してしまって、参加者が少ないなどの理由からその事業に消極的になったり、表層的な事業展開をしたりしがちであり、そのためにせっかくのいい男いい女の参加を生かしきれていない結果に陥っていると思うのだ。いい男いい女や、そうなろうとしている人をこそ、行政は支援すべきである。
◆ 「おうち」としての狛プー(狛プーの公的・現代的意義)
 先日、見学者との交流会で、ある狛プーのメンバーが「狛プーはおうちだ」と言った。学校や職場も、疲れるときはあるけれど、それなりに楽しい。充実している。しかし、狛プーはそういう「外の世界」の延長ではなく、それらの外の世界から帰ってきて、また外に出かけていくための安心できる足場、つまり「おうち」のままであってほしいと彼はいいたかったのだと思う。
 そして、少なくともその交流会では、狛プーのメンバー全員が、「狛プー自体が全体でボランティア活動などによって社会に参加することになるとしたらいやだ」と言っていた。狛プーに関わりはじめてから、多くのメンバーが自信と元気を獲得し、自分にあったそれぞれのかたちでの多様な社会参加を、いつのまにか、ちゃっかりと、したたかに始めている。それにもかかわらず、狛プーについては「おうち」のままであったほうがいいというのだ。
 ぼくには、最初、これが意外だった。人間は元気がでてきたら社会にも主体的に関われるようになる。もうすでに何回も述べたとおり、癒しのサンマとしての狛プーの、しかも公的社会教育の一環としての意義はぼくもつくづく感じていて、狛プーが開かれる毎週木曜日の夜をぼく自身も楽しみにしているぐらいだ。しかし、「狛プー自体は社会参加しないで」というかれらの気持ちに「えっ」と思ってしまったのだ。それは、まず癒される、そうしたら次に社会参加(ボランティア、地域活動、市民活動)に発展するというような過去の社会教育指導者にありがちな固定的で図式的な思考と、狛プー自体も社会参加に発展しないかという期待が、ぼく自身のなかにもあったからだろう。
 その抑圧されてこりかたまったぼくの思考が、「狛プーはおうちだ」という言葉によってするすると解き放たれていった。そういえばおうちというのは、どんなに大人になってもいつまでも必要なものなのだ・・・・。おうちにとどまっていては発展がないというのではなく、おうちも外の世界への参加も、どちらも同時進行的に癒しと変容のサンマになればよいというだけの話なのだ。
 以前、狛プーの女子学生メンバーが、自分が受講している大学の社会教育系のゼミで狛プーの実践を発表したら、他の男子学生から「癒しのようなそんな私的なことだったら、公民館や社会教育主事に頼らずに、自分たち自身でやるべきだ」と言われたといって考え込んでいたことがあった。彼女からそれを聞いて、ぼくもその男子学生の発言が頭に引っかかっていたらしい。そのため、狛プーのメンバーの何人かが自発的に各様に社会参加するという「いまの到達段階」だけではなく、狛プー自体が社会参加して地域や社会に対して公共的役割を果たすようにならないか、などと勝手なことを思っていたのだろう。
 しかし、いま考えれば、その男子学生は、社会教育のいう「自主性の尊重」の意味をまだ生半可にしか理解できていなかったから、そして、現代社会に生きる人びとの癒しへの願望の正当性を十分には支持し得ていなかったから(私的であるという理由で!)、さらには公的社会教育がそもそも私的である個人の成長をなぜ支援するかを自分の頭で主体的にはとらえていなかったから、そんな発言をしたのではないかと思う。いまのぼくなら彼にこう言うだろう。「現在の公民館や社会教育、青年教育というのは、しかめつらをしないでもっとのびのびと楽しみ、安らげるところになりつつあるんです。そして、そういうサンマをつくることこそ、現代社会に生きる人類の幸福追求のために行政が優先して支援すべき緊急な公的課題なんですよ」。
 ひとは「おうち」すなわち癒しのサンマがあるからこそ、「外の世界」すなわち社会に出かけ、また帰ってくることができる。だから、だれにだってそういうおうちが必要である。もちろん、もしそういう居心地のよいおうちをつくれる環境を、いまの社会が十分に提供できているのなら、おうちづくりなんか自分たちで勝手にやれと突き放してもいいだろう。だが、不信と孤立の現代社会の状況を考えると、そんなに楽観的なことはとうていいえない。「自分たちでやれ」と突き放した人自身だって、現代社会では実際には不十分なおうちしかもっていないはずである。「おうち」は緊急に整備が要請されている心のインフラストラクチャー(社会的基盤)なのである。
 逆に、むしろ社会に関わる運動こそ自主的に、つまり自分たちで勝手にやるべきではないか。また、行政側が、青年や市民の一人ひとりに対して、ちゃんと社会参加につながったかどうかを気にすることも、考えてみればちょっと余計なお世話だ(行政が行政効率の向上の面からそうしたくなる気持ちはよくわかるが)。社会参加をする、しないは、ごく個人的で微妙な決断に委ねられるべき事項だからである。そんなことよりも、全国民がおのずから社会参加することを自己決定したくなるような、元気が出る自他受容と自己変容のサンマ(図表1、p9)をあちこちにつくることこそ、公的社会教育が責任をもってその社会的基盤づくりのための条件整備をし、参加者主導で進めていくことが、いま強く求められているのではないか。
◆ 癒しと成長、受容と変容の循環
 上下同質競争社会におけるキャッチアップ型教育(追い付け、追い越せの教育)は、学習者の成長・発達ばかり重視してきた。しかし、本人が生きる意味としては、本音の部分では、癒し・安らぎという要素も、成長・発達と同様に大切だ。それはなぜか。
 孔子の「川上の嘆き」はつぎのとおりである。「子、川の上に在りて曰わく、逝者は斯くの如きかな。昼夜を舎かず」。通釈は「孔子が、川の岸辺に立って言った。昼も夜も、一瞬もとどまることなく流れ続ける、この川のように、学問もまた、そうでなければならない」。ところが、駒田信二は、この通釈の後半部分をつぎのように批判している(『論語−聖人の虚像と実像』岩波書店)。

 川のほとりにたたずんで自らを嘆く孔子の姿には、人間的な大きなひろがりがある。だが、時はこの川の流れのように過ぎてゆくものゆえ、瞬時もおこたることなく学問にはげみなさい、などと教訓を垂れる孔子の姿には、それがない。「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」(伝、朱子「偶成」)という、口やかましく窮屈な、しかめつらしい顔をした、しかし、なんのなやみもなく自分の言葉に満足している先生の姿があるだけである。なんと魅力のない聖人像であろう。孔子がそんな小さな人であるはずはない。

 宇宙や人間が有限なゆえに、また愛や存在の確証がないがゆえに、宿命としての無常観や、現代社会による個の抑圧にさいなまれている人間に対して、癒しを捨象したうわべだけの教育は非力(善導やスローガンという虚偽)である。その逆に、非力(無常という真実)を自覚した教育こそが現代人に癒しをもたらす可能性をもつのである。
 開きたい心を安心して開くことのできる水平異質交流の突出的なネットワーク(p110)によって癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向でもスムーズに作用する。ひとことでいえば、受容と変容は好循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組を自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善する(変容)ことができるのだ。これが潔い自己決定につながる(図表1、p9)。ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容は必ずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う。また、ここでの癒しのサンマは、きたるべき社会やコミュニティのあり方の予言者であり先駆者である。そういう意味から、狛プーが追求しているものは、まさに、公的課題であり、現代的課題であるといえるのだ。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
公民館 戦後、当時の文部省社会教育局社会教育課長、寺中作雄の公民館構想(「寺中構想」)は昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実した。この通達では、公民館の運営上の方針としてつぎの7つがあげられている。@町村民が相集まって教え合い、導き合い互いの教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である。A町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある。B町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である。C町村民の民主主義的な訓練の実習場である。D中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所である。E全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する。F郷土振興の基礎を作る機関である。上の7つから、公民館の職員が上から住民を「教え育てる」(松下圭一)などという発想はもともとはなかったといえる。町村民主体の相互学習の場だったのだ。その後の公民館にそういう発想があったとすれば、その後の行政や職員のセンスの欠如や勉強不足の問題なのだろう。
青年教育 戦後の社会教育の主要事業の一つであった。団体活動においては青年団、学級講座においては青年学級である。しかし、高度経済成長などの社会の急激な変化のなかで地域青年団は減少の一途をたどり、青年学級にも若者が集まらないようになった。当時の青年教育担当者は、青年にはほかに楽しく遊べる場がいっぱいあるのだ、まじめな学習なんかしたくないのでは、といって青年教育から撤退していった。たしかに、婦人、高齢者など、講座を開けば来るという人を対象にした事業のほうが住民ニーズに沿っているようにも見える。しかし、「集まらない青年」に責任転嫁する前に、みずからの企画が時代の青年のニーズや社会的要請に応えているのかという自己点検の努力が必要だったのではないか。集団学習 集合学習のうち、団体活動や学級・講座など、学習者どうしの相互教育が期待される学習方法。集団というと全体主義的なマイナスイメージもあるが、社会教育では民主性が重んじられてきた。そして、現代社会に生きる人びとが求めているのは、人間関係がゆるやかに連帯するネットワークによる癒しのサンマという「集団」なのだと思われる。
公的課題の優先 平成3年4月、『かくろん』においてぼくが提案した概念。翌年7月には、生涯学習審議会答申が、ぼくの趣旨には近いが、もっと高い視点から洗練されたかたちで「現代的課題の学習」の提言を行っている。しかし、ぼくの提案の場合は、市民の自由な生涯学習を支援するための学習プログラム提供において、行政がなぜ、何を根拠に、学習課題を取捨選択するのかという、公的社会教育の存在理由を問う、よりどろどろした問題意識から発していた。そこでの「公的課題の優先」の論旨はつぎのとおりである。生涯学習のネットワークは自治というよりも「個治」であり、どの学習課題も差別されない。それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政職員の個人の意図によってではなく、行政課題の遂行という責務のもとに行動を決定する。そこでは、たとえ市民の自由な生涯学習のネットワークに対する援助や問題提起であっても、その学習課題に優先順位がつけられていく。まずは、行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先すべきである。ただし、私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としている。だが、これを操作概念として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられる。なお、これはあくまでも「優先順位付け」(プライオリティ)の問題であって、市民の自由な生涯学習に対する選別行為とは無縁のものである。

第6章 生涯学習時代における大学の役割

1 高等教育の根底的転換

 最近、大学がますます大衆化し、さらには今後の生涯学習時代に向かって、「継続高等教育」すなわち大学を本格的な生涯学習機関としてとらえなおす動きがある。しかし、他方、それが大学入学者人口の激減を目前とした大学側のただのサバイバル戦略にすぎないとしたら今までの大学の存在価値まで失うことになる。

◆ 現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として
 いまや高等教育(大学・短大)においては、学生の恒常化した私語によって授業が妨げられる、大学生なのに知的に幼稚であるなどのことから、大学の授業が存在する意味さえ疑う教員もいるほどだ。こういう高等教育の権威失墜が生み出された社会的背景としては、@従来の学歴偏重(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を評価することはできないという社会的な認識が普及しつつある、A逆に学校歴偏重(どこの大学のどの学部の卒業か、など)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしている、という2つの理由があげられよう。だから、ごく一部の大学・学部の「自他ともに認めるエリート予備軍」を除いた大多数の学生が、「賢明にも」学士になるだけのための教育には、過大な期待や、その受け手としての自負をあまりもたなくなっているのだ。
 そういう状況の一方で、現役学生を含めた多くの現代人のなかで、生きがい創出、自分さがしなどの自己実現や、職業、ボランティア活動などの社会的役割遂行のための切実な学習欲求が、急激な広がりと深まりを見せている。これらのニーズ全体が、生涯学習社会形成に向けた社会創造のパワーとしてふくらみ始めているのである。そのふくらみは、革新のない過去の高等教育が色あせていく道程と、あたかも反比例するかのような目覚ましさである。生涯学習関連事業の実施のなかでそういう人びとの猛烈な学習欲求に接している大学のほうも、新しい出会いと気づきの体験による自己革新をしている最中である。
 こういう大学の革新によってこそ、従来の学歴偏重社会のエリートを育てる方向ではなく、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」(学校教育法第52条「大学の目的」、短大は若干異なる)という本来の方向での高等教育の根幹部分の進化・発展も可能になる。つまり、大学の枝葉の役割としての狭義の生涯学習関連事業だけでなく、高等教育全体のあり方が生涯学習社会の形成というフレームのなかで考え直されなければならない時期にきているのである。
◆ 市民の高度化・多様化する学習ニーズへの対応を
 生涯学習あるいは成人の学習の特徴として、自己管理型学習(self-directed learning)であるということがあげられる。すなわち、みずからが学びたいと思うこと(欲求中心の即目的的学習)や学ぶ必要があると思うこと(課題中心の問題解決学習)を、学びたい手段で学ぼうとするのである。大学の生涯学習関連事業もそれに対応しなければならないのは当然であるが、その場合、これらの市民の学習ニーズの高度化、多様化に留意する必要がある。
 たとえば大学公開講座では、その生成期においては、「一般市民のため」という名目のもとに、市民に対しては高等教育としてのレベルを根本からないがしろにしたり、「教員の公平な分担」という名目のもとに、テーマの焦点化されていない総花的で非体系的なプログラムに陥ったりする傾向があったようである。しかし、最近の公開講座は、高度化する市民の生涯学習ニーズに応えて、本来の高等教育機能の拡張としてのレベルの高い公開講座を志向する大学が増えている。
 今後も、学習者層の拡大のためには、入門的で広い範囲の親しみやすい学習内容の提供が必要ではあろうが、大学側がそれだけに甘んじていて、市民の高度化、多様化する学習ニーズに対しては、人がたくさんは集まらない、手間がかかる、などの消極的な理由から対応できないままでいると、その事業を大学が行っているからこその魅力を失い、よって、深い意味での学問の楽しさをも失って、いずれは市民から見離されることにもつながりかねない。
◆ 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を
 数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。
 市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。
 そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。
◆ 高等教育の制度等の柔軟化と個性化を
 過去の学歴偏重社会においては、固定的な年代や時期の、固定的な一定期間の、固定的な場で行われる高等教育に重きがおかれ、それ以外の学習や卒業後の学習には比較的、関心が払われてこなかった。しかし、今後の生涯学習社会においては、社会の変化や進展に応じて、卒業後も繰り返し教育の場に立ち返って学習(リカレント学習)を進めることが求められていることから、大学の側もそういうニーズにいっそう柔軟に対応していく必要がある。これが継続高等教育機関としての大学の役割である。
 このことに関連して、2つの重要な生涯学習の観点を述べておきたい。それは、@人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、なるべくその時期を逸しないようにして、それぞれの時期の課題に適した学習を行うことが望まれるという観点、A人間は一生のあいだ、さまざまなかたちでつねに変化・発達を続けることが可能な存在であるのだから、生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができるという観点、である。従来、とくにあらたまった論議などでは、ややもすると@ばかりが強調され、生涯の各時期における発達課題が固定的に受けとめられてきてしまった傾向があったのではないか。大学側が本音のところではそういう前者の考え方だけに固執しているのだとすれば、せっかく大学の扉をたたいてくれている社会人や大学既卒業者は救われない。「思い立ったが吉日」「人生、すべて勉強」などのごくあたりまえの庶民感覚を大切にしなければならない。
◆ 市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を
 現在、欧米では大学拡張と呼ぶより継続高等教育と呼び、生涯学習機関としての自らの役割への自覚をますます高めている。大学の生涯学習関連事業においても、学習者中心のサービス姿勢を徹底することが今後の重要な課題となろう。いまや多くの大学が施設開放を行っており、大学の市民への開放性の高まりを感じさせるが、その開放性がどれだけ市民の実際のニーズとマッチしているかについては、まだまだ覚束ない大学のほうが多いのではないだろうか。「大学教育に支障のない限り、自由にご利用ください」という姿勢も発展のひとつだろうが、生涯学習の時代はそのつぎの段階への発展を大学に求めているのである。それは、届ける、触発する、という姿勢である。
 校舎や体育館やグランドなどの施設はまさか「届ける」というわけにはいかないが、大学を訪れたいと思った市民がどれだけ容易に目的地に到達できるか(アクセシビリティ)を配慮する精神が求められる。車のない人はどうか、お年寄りはどうか。また、車椅子でも、大学の玄関から2階の開放している図書館に上れるだろうか。さらには、バス停を降りてから大学の玄関までの歩道はどうなっているか。居合わせた自校の学生は、お手伝いするだろうか。こういう心配りをすることをオープンマインド(開かれた心)というのである。全国的にもエクステンションセンターの名称などで、市民開放用の施設を大学の立地とは別に街中に設置する同様の動きが見られるが、最大限のアクセシビリティのための試みとして評価できる。
◆ 市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を
 とくに「きびしい生涯学習」については、どうしても高等教育の過去のイメージを引きずってしまい、市民側も大学側もともに、教える側の制度化された権威が至上のものになりがちである。そして、「学びたいから学びたいことを学んでいる」という自己責任の原則が忘れ去られ、市民側の学習態度を依存的なものにしてしまうのである。これでは、生涯学習も、過去の教授者主体の「一斉承り型学習」とあまり変わらない非主体的な学習という結果になってしまう。
 もちろん、大学卒業資格や単位の取得という学習結果の存在意義を全否定することはだれにもできないだろう。しかし、生涯学習社会への転換において大切なことは、そういう資格・単位の認定に関わる制度的な改善をも含めた評価の適正化である。学校歴に偏ることなく、学習歴を問わなければならないし、また、単位や資格の取得を争う大人同士の受験地獄にしないためには、学習結果としての学習歴にも偏ることなく、一人ひとりの多様な個性と持ち味のある学習の経過をも尊重しなければならない(p39)。
 さらには、学習成果の評価についてのより本質的で積極的な意義としては、何よりも学習者本人がつぎの学習行動を主体的に決定するために不可欠であるということがあげられる。それゆえ、適正な評価のためには、アンドラゴジー(p13)の考え方に則り、ガイダンスやコンサルティングなど、学習者と援助者との相互的な営みが必要になる。したがって、生涯学習関連事業においてなされるべき学習成果の評価のあり方を検討することは、従来の高等教育は学生の主体的な学習能力の向上を本当に評価できていたのか、社会教育は市民みずからのもっていた学習目標の講座修了時の到達の成否に関心をもっていたのか、というように、自らの教育姿勢への鋭い問い直しにもなるのだ。
 以上に述べた学習成果の評価にならんで、大学教育への評価も重要である。今まで学習者側からはほとんど批評を受けることなく過ごしてきた高等教育にとって、学習者主体の生涯学習とその支援の理念は、自己評価の充実の面でも大きな契機となるだろう。18歳人口の激減を目前にして、多くの大学でサバイバル(生き残り)をめざして自己点検・自己評価活動の取り組みが行われている。しかし、もし18歳人口が減る見込みがなかったら、そういう活動をしなかったのか。それも、「大学の自治」の名のもとに。大学の自治とは、ときの権力の干渉を許さず、しかし、学習者や世間の評価も参考にして、教員が厳しく自己点検・自己評価を行うという前提があるからこそ成り立つことではないか。大学は自己評価することを自己決定すべきである。
 もちろん、たとえば、「○○先生はやめたほうがよい」と一人に書かかれたからといって、必ずしも、つぎの事業からはその○○先生を依頼しないようにするということではない。学習者からのこういう事業評価に対して事業者は、「少なくとも、この回答者はそう感じた」という事実を逃げずにありのままに受けとめ(受容)、そのうえで主体的に判断すべきなのである。とくに、大学の授業を学生に評価させる場合などに教員の抵抗が強いのは、相手からの評価のこういう受けとめ方について、まだ理解が十分には広まっていないからなのではないか。教育側と学習側の相互の批評は、否定ではなく批判であり、主体的な両者の基本的信頼にもとづく協働の知的共生活動なのである(批評的ストローク、p84)。このように、市民や学生からの評価を率直に受けとめてこそ、大学の主体的な自己評価は可能になる。
 学習側が教育側を批評するということは、自己管理型の生涯学習にとっても非常に重要なことである。学習者が事業評価や授業評価をするということは、学習者が学習者自らの責任を果たすということである。かれらの否定ではない批判は、主体的な学習態度の一環であり、ともに生きる(共生)ための信頼と共感にたどりつくまでのプロセスである。その批評を誠実に積み重ねることによって、学習者の主体性もいっそう確かなものに育っていく。つまり、事業・授業評価は、大学と市民・学生がともに育つための共育活動の一環なのである。
◆ 学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を
 学内の推進組織自体は大がかりでなくてもよいが、大学の総合的な経営のひとつとして専門的に関われる位置づけをする必要がある。企画や調整というラインのひとつとしてか、あるいは、いずれかのセクションの下に置くのであれば、そのラインからやや外れて独自の実行機能をもち、ほかのセクションに対しても全体的に調整力を行使しうるスタッフ機能として位置づけたほうがよいと考えられる。
 学内の生涯学習推進組織または窓口をどう整備するかということは、来たるべき生涯学習社会に向かっての大学経営全体の基本的・総合的理念を表すものであり、企業のCIに匹敵するほどの大学のアイデンティティそのものに関わる重要なことがらなのである。
◆ 他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を
 大学どうしで、あるいは行政等の他機関と、さらには地域社会全体と、ネットワークを形成することが生涯学習推進事業を行おうとする大学には必要である。まずは、さしあたり、他大学、放送大学や専修学校との単位互換を考えるべきであろうし、研究や生涯学習推進の面などでの企業との連携も考えられよう。そもそも大学が市民にも目を向けるということは、基本的にはこのような他大学、他機関、地域社会に対して自信にあふれたネットワークマインドをもっているからこそのことである。
 ネットワークの特性のひとつは、自立と依存の統合的発展(『かくろん』p168)であると思われる。大学としての独自の存在意義をもっているからこそ、異なる自立的価値をもつ他者と対等に連携することができるのだ。また、そういうネットワークにおいては一方的な関係ではなく、相互のギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。たとえば、大学は行政や地域に対して有益な学園都市の資源としての存在価値を発揮し、行政や地域はそういう大学を信頼し支えようとするのである。このような双方が対等で主体的な協働の関係が、大学の生涯学習ネットワークには求められている。
◆ 生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を
 今まで述べてきたことをもとにして、「生涯学習時代における大学の役割」をぼくの生涯学習に関する基本的な主張を交えて簡潔にまとめていうとすれば、つぎの3点になる。
@ 生涯学習社会を担う学生を養成する役割
   −学内で生涯学習を学生に−
 現代青年としての学生は、生きる主体性の喪失の危機に瀕している。保護と管理ばかりを学校、家庭、社会から与えられ続けてきたことによって、学習やコミュニケーションなどにおける自己決定、自己管理、自己責任の能力がかなり損なわれているのだ。生涯学習の観点に立って学生の主体的学習を支援し、自己管理能力の向上を促すことによって、かれらを今後の生涯学習社会を担う人材として養成することがこれからの大学には求められている。
A 社会の変化を先取りし、リードする役割
   −学内の高等教育を学外に−
 急激に変化する現代社会は、つねに自己革新を続けて時代を先取りするリーダーとしての役割を大学等に求めている。とくに職業人は、知識・技術等の急激で高度な発展のなかで、学校卒業後も繰り返し教育を受けて今日の到達点を学び直すリフレッシュ学習の必要を感じている。また、高等教育とは別の形態としての生涯学習関連事業においても、時代のつぎの方向を示す役割が大学・教員に求められている。
B 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割
    −学外の生涯学習を学内でも−
 成熟化する現代社会においては、人びとの関心はモノからココロに移りつつある。そこでは地位や財産をもつ(have)ための学習より人間らしくある(be)ための学習に価値がおかれる。そのため、癒しと発達の両方が求められる。その学習は、生涯にわたって行われるリカレント学習である。これに対する大学の支援が大いに期待されるとともに、そういう市民の生涯学習との出会いは、大学にとっても学内に吹く「生涯学習の新しい風」として重要である。

 多くの大学で生涯学習関連事業が積極的に取り組まれつつある。しかし、その努力が、迫りくる18歳人口の激減に対しての大学サバイバルのための対処療法的な延命策としてだけに終わってしまう大学があるとすれば、それはたんなるサバイバル・ノイローゼの一過性の症状でしかなく、生産的な結果につながらないことは容易に想像できる。もっと、何のための大学か、何のための大学拡張なのかという、大学の本質的な存在確認から事業を発想する必要があるだろう。
 ゆえに、大学の生涯学習化(生涯学習理念にもとづく自己革新)の成否は、学内の教員と職員の意識変革にかかっているといってもよい。「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的な守りの経営や、過去の最高学府という空洞化した「権威」への依存から脱却して、主体的学習の支援という大学の社会的な役割を、より時代にあったかたちで遂行し、そのことによってみずからもその役割を味わい、喜ぶ、積極的な攻めの経営に転換する必要がある。これが大学の経営革新の姿である。
 最近のまともな企業は、収益を上げるだけでなく、その他の社会貢献活動(フィランソロピー)や文化支援活動(メセナ)などにも積極的に取り組むようになりつつある。これに対して、大学においては、教育(学習援助)をとおした社会貢献や文化支援という活動は、幸せにもそもそも本来的責務である。だからこそ、私学に対しても、やや貧弱とはいえ、国民の税金が支出されているととらえるべきだろう。ただし、そういう大学の新しい責務の遂行とそのための革新は大学の自己決定によるべきものであるし(大学の自治、p127)、それゆえ、惨めなサバイバル・ノイローゼなどとは異なる、自信に満ちた営みでなければならない。大学の変容も、個人のレベルでの学習行為と本質的にはまったく同じ経緯をたどるものであり、自己管理型の生涯学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくできる世界)と出会うのと同様に、大学も自己管理型の生涯学習化のなかで自己変容という本来の学習の楽しみと出会うことができるのである。
 自己決定活動の真の動機は「自分のため」である。たとえ指導者が研修を受ける場合でも、「学習者のため」ではなく、「自分のため」といえる人が、学ぶことの意味を知るよい指導者である。また、ボランティアについては7章で述べるが、他の人から「えらいですね」とか「奇特な方ですね」といわれると、嫌な気持ちになるものだ。そういうときは「自分のためにやっています」と答えればさわやかでいられる。自分で「ボランティアをやっています」と言い切る人はあまりいない。それよりは、「こういう活動をやっている」と具体的にいうだろう。ボランティア活動は、ボランティアになるためではなく、何かをするために自己決定したものなのだ。ただ、ボランティア活動をしているある学生が、あまりつきあいのない友達に、自分が何をやっているのかを手っ取り早く答えるためには、ボランティアは便利な言葉だといっていたが……。いずれにせよ、人目ばかり気にする横並び意識や自己卑下のサバイバルと違って、自己決定・自己管理型の自己変容は人間にも大学にも気持ちのよいものである。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
学校開放 学校の施設等を住民による生涯学習等の活用ために提供すること。社会教育法44条には「学校の管理機関は、学校教育上支障がないと認める限り、その管理する学校の施設を社会教育のために利用に供するように努めなければならない」とある。ここで学校の管理機関とは教育委員会等であるが、実際に事故が起こると校長に責任が発生することが多い。学校開放を進めるためには、保険制度の整備のほか、住民やマスコミ等の何でも校長に責任を転嫁するという依存的な悪習を改める必要がある。また、住民によって学校の備品がこわされた場合など、正規の教育課程に支障がないように、教育行政は即日修繕をするなどの優先的措置が大切だ。現在、「余裕教室」(生徒数が減ったため使わなくなった教室)などの増加のなか、学校施設の生涯学習での活用方策を早急に立てることが望まれている。さらに、学校開放には、以上の「施設開放」のほか、教師を始めとする教育・研究機能を住民のために提供する「機能開放」というものがある。公開講座などがその例だ。これも最初は子ども人口の減少や財政削減のなか、「このままだと学校がつぶれる」「教師がクビになる」という危機意識から、「負担は大変だけど仕方ないから」としぶしぶやられてきた。しかし、なかには、自治体によっては「コミュニティ・スクール」などと称して、毎日、住民の生涯学習機関の一つとして本格的に稼動している小・中学校もある。そこでは、先の「学校教育上支障がないと認める限り」という消極論を乗り越えて、「生涯学習する地域の大人たちと生徒を交流させたい」という学校も現れ始めている。そういう学校の校長や教師たちは、自分たち自身の生涯学習をも楽しみ始めている。善も悪も入り混じった地域の真実のなかに「生きる力」としての学習があるからだ。学校の教育施設・教育機能は、地域住民の生涯学習にとっての「宝の箱」であるといえよう。
定型的教育 すべての学習(Total Learning)は、定型的教育(Formal Education)と非定型教育(Non FE)と不定型教育(In FE)、そして偶発的学習(Incidental L)からなる。これを、TL=FE+NFE+IFE+IL という式で表すことができる。成人教育、企業内教育などの非定型教育(NFE)が、多様性、現実性、自主・自発性、評価(フィードバック)の可能性、(社会の諸活動の教育的側面としての)統合性などが豊かであるのに比べて、大学等の学校教育による定型的教育(Formal Education)は、ややもすると杓子定規なつまらない内容になりがちだ。最近はカリキュラムの柔軟化などが叫ばれているが……。しかし、そもそも、高等教育などは学生の自己選択、自己決定の学習としての要素が強く求められていたはずだ。それなのに、なぜ、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動などの「学びたいから学ぶ」という自己決定活動なども参考にして、もっと早くから自己変革ができなかったのか。それは、自己革新の困難という定型的教育ならではの宿命があるからなのだろう。たとえば、ある教員が、つまらない授業を何の工夫もせずに毎年繰り返していたとしても、猫の首に鈴をつけるネズミがいないのと同じように、大学事務局だろうが、教員仲間だろうが、受講学生だろうが、だれも自分からはクレームをつける人がいないのである。だから、定型的教育のシステム自体の変容をねらうのも一つの手である。それは、学生の市民講座(NFE)への参加、ボランティアやアルバイト先(IFE)での体験学習、そして海外放浪体験(IL)などの学習を正規のFEとしての評価に取り込んでしまって、FEとしての高等教育の風土自体の変化を期待するということである。
大学の自己点検・自己評価 平成3年2月、大学審議会は「大学教育の改善について(答申)」を行った。そこでは、「大学が、教育研究活動の活性化を図り、質の向上に努めるとともに、その社会的責任を果たしていくためには、不断の自己点検を行い、改善への努力を行っていくことが必要である」として、教育理念・目標等、教育活動、研究活動、教員組織、施設設備、国際交流、社会との連携、管理運営・財政、自己評価体制などの自己点検・自己評価が求められた。なぜ「自己」かというと、学問の自由(憲法23条)に根拠をもつ「大学の自治」が尊重されるからである。よって、教育・研究の高度な専門性をもつと期待される大学教員は、自治を侵されない代わりに、当然、自己の責任において自己の教育研究活動を適正に自己評価する義務がある。また、評価は、選抜のための評価を除けば、そもそもが主体性の構成要素であって、本質的には本人の自己評価を意味する。ところが、大学教員のみならず、社会教育の指導系専門職員も含め、他者から勤務評定されにくい職種の人たちさえ、実際にはこの自己評価を怠りがちな実態がある。もちろん、制度的権威に迎合して、それからの評価を唯々諾々と受け入れる必要はない。しかし、適正な自己評価をするためには、たとえば学習者側に評価してもらったり、職員・教員間でシビアに批評しあったり、年間の事業・授業の実施記録を出して部外者も含めて広く批判を仰ぐなどの自己努力をすることは義務であるといえる。そうすることこそ、共に育つ姿勢であり、自己評価が前提の、やや自己決定に近い指導者というまれなる職業の面白さを楽しむ方法でもある。
継続高等教育 19世紀後半のイギリスを源流とする大学拡張(university extention)が、市民に対する周辺的なサービスとして「高等教育」を提供するというイメージがあるのに対して、その後いわれ始めた継続高等教育(continuing higher education)は、コミュニテイ・カレッジ・ブームなどを背景とし、成人継続教育の本来的な場として「高等継続教育」を提供しようとする言葉だといえる。
ボランティア・コーディネータ ボランティアをしたい人と必要とする所をつなげる者。全国ボランティア活動振興センターでは、その業務内容を、@ボランティア活動推進のための調査・企画・実施、A情報の整備及び提供活動、B学習の援助及び場の提供、C相談・助言ならびに需給調整、Dボランティアセンター機能と他機関・団体との連携、としている。これが社会教育主事の役割とかなり重なっていることは興味深い。平成7年1月17日の阪神大震災の救援ボランティアに全国の若者たちが駆けつけたことから、「日本の若者はしらけており、ボランティアの風土はない」という論調が崩された。むしろ、せっかくボランティアをしたい人がいるのに、社会がそれを需要と結びつけるコーディネート機能をもたないことこそ問題だったのである。

2 高等教育内容 7つの転換

 上下同質競争の頂点をめざすための「最適な手段」としての過去の陳腐な教育内容はそのままで、それを少しだけ市民にも開放するという程度の改革だけにとどまるならば、大学は生涯学習社会の形成には貢献できない。教育内容自体が転換されるべきだ。しかし、時代は高等教育内容にどんな転換を求めているのか。 本提案は、この図に示されたぼくなりに考える生涯学習の観点のもとに述べられている。

 図表12 生涯学習の再定義(p132参照)
現代の生涯学習
成長だけでなく癒しも
事実よりも真実を
積極的積極性とともに積極的消極性を

◆ 転換1−自己決定・自立支援型にする
 成人の学習の本質は自己管理型学習である。高等教育もこれに習い、「学びたいことと学びたい手段を自分で決定して学ぶ」という原則をできる限り取り入れる必要がある。
 ぼくの授業では、出欠、遅刻、早退、途中入退室、そしてもぐりも、すべて自由ということにしている。個人には個人の事情と個人のレディネス(準備性)があるからである。ぼくの責任は魅力的な授業をすることであり、他の用事をさしおいてもその授業を選ぶかどうかは、ぼくの責任ではなく学生が自分の責任で決めることではないか。
 私語の問題ひとつをとっても、教育が学習者に自己決定をさせてこなかったがゆえの学生の主体喪失状況は背筋が寒くなるほどである。これ以上、学生に「こんなつまんない授業なのに、出席ばかり厳しくとるんだから」などと思わせてはならない。それは、結局、他者や社会のせいにして安定しようとする学生を、内面から許し、甘やかせていることになるのだ。教員は授業にいっそう勝負をかけて着席を自己決定する学生を増やし、そのうえで、退室の自由を行使できないままおしゃべりする学生に、その不行使が本人の自己決定以外のなにものでもないことを知らしめなければならない。
◆ 転換2−双方向・水平交流型にする
 教員の楽しみは学生一人ひとりの「個の深み」との交流にあると、ぼくは思っている。とくに、学生が自由に書く出席ペーパーのおかげで、授業がかなり刺激的な仕事になっている。過去の一方通行の講義型授業だけでは、教員も学生も手応えに欠ける。
 大学の自己点検・自己評価の動きのなかで、学生に教員の授業を評価させる試みがいくつかの大学で生まれている。よいことだとは思うが、それがたんに人気度や教育技術を数字で表すだけのものであるなら高等な教育とはいえないだろう。社会教育・生涯学習がアマチュア学習者とプロフェッショナル学習援助者との相互的関与や共育をめざしているのと同じく、高等教育でもたがいに触発しあって、現在の研究水準の一歩上をめざす必要がある。大学教員が過去の研究業績という遺産だけで食っていける時代は終わろうとしている。学歴偏重社会から生涯学習社会に移行する段階で、教員の方も自己の文化遺産を急激な社会進展や学生の学習ニーズの時代的変化にあわせてリフレッシュしなければいけない時代になっているのだ。
 そのためには、自らの教育内容についてまで学生に自由な感性と実感にもとづいて授業評価させ、大小の批判も含めてすべて受けて立つことが効果的であるし、また、それは刺激的で楽しいことだ。ただし、その場合、教員は授業で学習者のように「学びたいことを学びたい手段で」学んでいるわけではないのだから、教員が学生集団のワン・オブ・ゼムであってはならない。そんなことでは学習援助者としての存在意義がなくなる。教育意図をもち、その意図する内容を公にすべきである。受けて立つということは、学生のニーズに追従することではないのだ。専門分野に関する過去の文化遺産や、現在の鋭い問題意識をフルに働かせて当たる必要がある。しかしながら、教員としての権力に頼ってもいけない。教員から学生への双方向教育は、ネットワーク型の異質間の水平交流でありたい。
◆ 転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする
 生涯学習の理想主義的なスローガンとして「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」がある。大学でもこれをめざすことができないだろうか。
 日本のある大学が米国に分校を開いたときの日本人学生向けのキャッチコピーは「アメリカ全土が君たちのキャンパスだ」というようなものだった。それならば、国内の大学においても学生に「君たちが学べる場は日本全土だ」といってよいはずだ。
 また、米国の大学の「履修要覧」には各教員のオフィスアワーが載っているものがある。オフィスアワーとは、何曜日の何時ころにはいつもその教員が研究室にいるから、学生が個人でも質問や議論をしにきてよいというシステムである。このようなオープンマインド(学習者に対して開かれた心)が教員に求められている。
◆ 転換4−おもしろ・感動型にする
 前述のように、ぼくは授業を勝負の場ととらえている。私たちは、雇用対策で大学当局に雇われているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会は、テレビや出版などによって、おもしろくて役立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業が、メディアの流すそれらの情報より何らかの意味で勝っていなければならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思にもとづくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。だから、選択に堪えるものでなければならない。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。
◆ 転換5−課題提起・解決型にする
 学校での学習への導入が科目中心なのに対して、成人の学習は課題中心であるという(M.ノールズ)。初等教育などでも、同様の課題中心の教育がかなり普及しつつある。心と体の病いを治すのを援助してくれるのはお医者さんであっても、実際に治しているのは本人である(自己治癒力)のと同様に、課題を認識してこそ主体的な学習が成り立ち、それが自己教育力の発揮につながるのである。学生の課題意識を呼び起こさないままに教え込むのでは教育効果が薄い。
 さらに、そこで呼び起こそうとする課題自体も、日常生活の事実に埋没するなかでは気づきそうもない、真実にふれる感動と気づきを与えるような深みのある課題でなくてはならない。
 授業も社会教育でいうと学級講座のような集合学習(p117)である。そこでは、せっかく時空間を共有するのだから、同時代性のある授業でなければ、集合する意味がないし、学生も教師もおもしろくない。そのためには、学生に追従するのではなく、同時代に生きる者が直面している共通の課題を鋭く抉り出して提起する教育内容が求められている。生涯学習審議会答申の提唱する現代的課題の学習も、そういうことを意味しているのだろう。
◆ 転換6−生きがい創出型にする
 高齢化にともなってライフプランづくりのための学習が盛んになっている。その学習は、より賢い生き方のためでもあり、より充実した生きがいのためでもある。時代がそういう学習を求めているのだ。また、学校教育でも、道徳教育はすべての一般教科に共通する課題だといわれる。しかし、自己の人生の内容とは遊離した過去の高等教育に慣れ親しんだ「まじめな」学生などからは、「人生を考えさせる授業」は反発を受けることがある。しかし、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである(p82)。「生きることを学ぶ」内容をめざしたい。
◆ 転換7−信頼・共感・癒し型にする
 生涯学習時代は人びとの「モノからココロへ」という価値観の転換の反映でもある。また、学問の世界においても、経済学者がボランティア活動の意義を先頭切って論ずる時代になってきた。ぼくは、そもそも知的水平空間自体が本質的に支持的風土としての性格をもっていると考えている。学歴社会が崩れようとしているいま、大学の授業を受けようとする学生の本音のところでの動機自体も、出世競争から幸福追求へと変化しているようだ。大学の授業をこういう「こころの時代」に対応させる必要がある。そういう授業のなかで生まれる信頼と共感の癒しのサンマこそが、真に自立した学習者を育てるのである。

参考資料 「生涯学習の再定義」
(社会教育「くえすちょん あんど あんさー」全日本社会教育連合会、1996年7月号より)
 1つめは、「発達だけでなく癒しも」です。人間、日々発達しているのを実感するのもうれしいことですが、実際には、それだけじゃなく、「癒されたい、安らぎたい」という欲望もあるのが自然だと思います。発達や成長だけを声高に相手に押しつけるのって「ウソだな」と思うのです。
 2つめは、「事実よりも真実を」です。学習というのが、つまらない事実の集積に圧迫されることであるようなマイナスイメージが、小学校以来、ぼくたちにありまして、これがワンダーランドとしての生涯学習への接近を妨げている。ほんとうのところは、事実なんかはおもしろくない。ぼくたちは、事実のインプットのためではなく、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、出会い、生きているのだ。事実は、その集積が真実に近づくときだけおもしろいのだ。と、このように思うのです。だって、ともこさん(本掲載の「お手紙ごっこ」の相手、作詞家)だって、ご自分の歌詞を「事実と違うわね」といわれたって「当たり前でしょ」と思うだけでしょうけど、もし、「真実とは無縁ね」などという失礼なやつがいたら、「どうしてよ」となりますよね。歌詞も、人間存在の真実に接近するすばらしい虚構のひとつなのだと思います。
 3つめは、「積極的積極性とともに積極的消極性を」です。「誰からでも何からでも学びたい」という積極的な生き方をするひとを見ていると、じつは、撤退せざるをえないような場面の多いこの世の中で、積極性発揮の一方で、他者のせいにすることなく、さわやかな撤退をどこかでじょうずにしている。ぼくはこのような自己決定・自己管理型の「潔い撤退」を「積極的消極性」と呼んでいます。生涯学習や人間交流のような「積極的積極性」の行為は、この「積極的消極性」と連動関係にあると思うのです。この2つに対して、「消極的積極性」(やりたくないけど頑張っている)、「消極的消極性」(被害を受けているからできないでいる)の2つが、ワンダーランド発見のネックになっていると思います(じつはぼく自身のことですが)。
 遅ればせながらの自己紹介のようになってしまいました。 mito

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
成功のシンボル 人は、なぜ、大学にまで行こうとするのか。「人生に成功するため」という答え方もあろう。ジェイムス・ロバートソン『未来の仕事』(小池和子訳、勁草書房)によると、成功のシンボルの変化は次とおりである。過去…名声、知名度、高収入、高級住宅、セカンドハウス、住み込みの使用人、役員としての地位、毎年の新車、頻繁な世界旅行。未来…自由時間、創造的人間としての認知、仕事と遊びの一体化、金銭より尊敬と愛情で報われる、大切な社会コミットメント(社会参加)、よく笑う人・涙する人、愛情行為、自我とのふれあい。
幸福追求権 教育を受ける権利は、一般には、憲法26条の「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」が根拠とされる。しかし、ぼくはあえて13条(個人の尊重)の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」に規定された「幸福追求権」に、生涯学習活動と、その公的支援活動等の根拠をおきたい。ぼくは、学校教育についても同様にとらえる。もちろん、社会が「平和的な国家及び社会の形成者として(略)心身ともに健康な国民の育成を期して」(教育基本法2条)、つまり社会に望ましい形で貢献できる人を育成するために教育を行うという側面があることは明らかである。しかし、人類史や自然史がここで途絶える危険さえ内包している現代社会において、そういう「心身ともに健康な国民」という楽天的な見通しは、一人ひとりが少なくとも潜在的には「幸福追求」の願いをもっているのだという再確認と、社会がそれを尊重し、実現できるよう支援することこそ社会のためにもなるのだという確信なしには成立しえないと思う。たとえば、「学校は社会のためにあるのであって、君たちのためにあるのではないのだ。学校に対して甘い期待はするな」と生徒に言ってのける教師もいる。その正直さは賞賛に値いするとしても、その教師の職業人としての自己卑下と、そういわれた生徒たちの落胆を、まずは何とかしたい。だからこそ、ぼくは、「教育は学習者一人ひとりの幸福追求を支援するためにある」と強弁するのだ。また、指導者研修の講義などでは、「みなさんは幸福配達人です」といっているのである。
潜在的学習関心 藤岡英雄はNHK学習関心調査から、学習行動を海面上の頂点とする「学習関心の氷山モデル」をまとめている。海面下に隠れている大きな部分は、顕在的学習関心と潜在的学習関心の2つによって構成されている。「関心ある学習項目」のうち、個人面接や自由回答で得られたものが顕在、調査票の学習項目を見てから得られたものが潜在である。後者は「外からの刺激や手がかりが与えられてはじめて意識される」ものである。しかもこれが一番大きい未知の部分というのだ。たしかに私たちはせっかくのワンダーランドのうちのごくわずかにしか出会わないまま寿命が尽きる。しかし、せめて指導者は、学習者の潜在的学習関心まで含めて本人の可能性を信頼して援助することが大切である。
ボランティアバンク 市民講師や生涯学習施設での支援活動、講座・イベントの支援や手伝いなどをする希望のある人を登録して、リスト化し、需要に応じて情報提供等を行うシステム。問題点はつぎのとおりである。@バンクへの問い合わせ自体が少なく、せっかく登録し、研修なども受けたのに、お呼びがかからないというクレームが多い。A学習者のニーズにあわない教育内容・方法(たとえば「今のだらしない若者に説教したい」など)での活動を希望する者もあり、生涯学習社会への移行をむしろ阻むような結果にもなりうる。B教育委員会などが実施すると、そのお墨付きを得ることを目的に登録する人がいて、生涯学習に権威主義を持ち込む結果になる場合がある。Cその逆に、水平異質共生の生涯学習に向いている人が権威をきらったり、遠慮したりして登録してくれないことが多い。@については、最近は、その人の顔や、息遣いの聞こえるような詳細なアピール文、さらには、その人の提供できるプログラムの具体的な姿など、リアリティの感じられるバンクにするための工夫が模索されている。また、ボランティア自身も、待ちの姿勢ではなく、積極的に社会に出てニーズを探し出し、そこで自分をアピールすることが望ましい。Aについては、学習者のニーズにあわない人を無理に排除するのではなく、アダルト・ティーチングの習熟のための研修等を通じて、その人自身の気づきと態度変容を促す配慮が必要である。Bについては、市民の権威依存のうえに運営されてきた行政自体のほうから、体質改善しなければならない。それは行政改革の重要な一環でもある。Cについては、生涯学習における学習者と支援者の関係が上下関係ではなく、「学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人」という水平な交換関係にあるという認識を、生涯学習の町づくりをとおして町の風土として広めていく必要がある。生涯学習ボランティアは「先生」である必要はない。もし、「自分は先生の器であり、教える自信がある」などという人がいたら、その人はまず「無知と非力の自覚」のための態度変容から始めてもらわないと、かえって生涯学習社会への移行の邪魔になる。
自己決定 ぼくは、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つをあげている。それ以外の社会的活動には、純粋な自己決定の場は見当たらないのだ。だが、自分の人生は全体として自己決定でありたい、つまり、自分が自分の人生を決めたいとは誰もが思うことである。だからこそ上の3つは、現代社会における「もうひとつの生き方」として、現代人の普遍的課題となりつつある。ただし、自己決定の場でも、自己決定ではないこともある。ある市の公民館事業の市民企画委員会の研修の講師に行ったとき、「○○をやりたい」という新人委員に、ベテラン委員が「婦人教室で趣味の講座をやるのはだめです。必ず女性問題を学習するという、先輩委員たちが蓄積してきた民主的伝統があるのです」といっているのに出くわしたのである。ぼくは、さっそく、「女性問題をなぜやりたいのか、あなた自身の意見を述べたらどうですか」と横ヤリを入れた。自分の意見ではなく、「民主的」とか「蓄積」とか「経緯」とかの「言葉の権威」を盾にするのはフェアではない。リスクを背負っていないからだ。

第7章 ボランタリズムのシドウ

1 大人社会の御都合主義批判
 −楽しい生涯学習施設経営と楽しいボランティアのために−

 ボランタリズムはすべての人がもっている資質であり、願いである。人はみな自己実現と社会貢献によって癒され、成長し、かけがえのない自分を確認しようとするからだ。しかし、現代社会は、このあたりまえの願いを押しつぶす方向でも機能する。さらに、ボランタリズムを阻害する心の要因についても探りたい。

 ボランタリズムの指導などという自己矛盾ともいえるテーマに立ち向かう前に、まずはこれまでの生涯学習やボランティアに関する本書での議論を、この2ページを使って補足しつつまとめておきたい。
 ぼくも起草に関わった栃木県佐野市の生涯学習推進基本構想(平成5年4月)では、「私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野」というキャッチフレーズのもとに、「楽しい生涯学習=楽習」を大切にと呼びかけている。そして、「何からでも学び成長する私(わたし)」を基本として自発的意思のもとに自由に進められている市民の生涯学習活動がよりよいまちづくりにもつながると述べている。
 なぜ人びとが生涯学習をするのかといえば、その大きな理由のひとつは、生涯学習が楽しいからだ。それでは、どこがどのように楽しいのか。そのヒントは、今日の人びとのボランティア志向のなかに見出すことができる。生涯学習の活動も、佐野市の構想がいうように「私のためにやっていること」がよりよいまちづくりにもつながるという意味で、ボランティア活動と共通の楽しさをもっているのである。
 ボランティア活動とは、お金をもらうためではなく、自分から進んで、だれかの役に立とうとする活動のことである。これを、自発性、無償性、公共性の原則という。また、生涯学習活動とは、いつでも、どこでも、だれでも、なんでも、学びたいことを学びたい手段で学ぶことである。生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(平成4年7月)では、生涯学習とボランティア活動との関連の視点として、@ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習になる、Aボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための学習として生涯学習があり、学習の成果を生かし、深める実践としてボランティア活動がある、B人びとの生涯学習を支援するボランティア活動によって、生涯学習の振興が一層図られる、の3点を指摘している(p139)。
 さらに、ボランティアと生涯学習の2つの活動がとくに最近人びとから関心をもたれるようになった理由としては、自分のこれまでの枠組を変化・成長させる楽しさ(自己実現)と、自分の存在が他者に受け入れられる楽しさ(社会的認知)の2つがあげられる。人間は一度しか生きられないわけであるから、一人ひとりはこのようにして自分自身の存在価値や生きている証明を見つけ出そうとする。それらの活動は、外からの抑圧をみずからの内面に取り込んで仮面をかぶって交流する現代の状況下においては、自己確立、あるいは、自分さがしのための懸命な幸福追求の姿としてとらえてよいのかもしれない。
 ぼくも起草に関わった東京都練馬区生涯学習推進懇談会提言「土とみどりとひとと自分に出会えるねりまをめざして」(平成6年2月、p34)では、「この提言で何か生涯学習の理想像を描き、それに向かって進まなくてはいけないということになるとそれは一つの心理的圧迫になるだろう。これまでいわれ続けてきた、発達すべし、成長すべし、という強迫観念に追い回されるのはもうやめよう。こうした圧迫になる要素をすべて捨て去ったとき、私たちは地域社会に何を求めるのだろうか。それは、個人として尊重される場であり、自分をすなおに出せる場であり、あたたかな人間関係をもてる場であり、疲れた心を休める癒しと安らぎの場であり、生きていることを実感できる場である」として、どこまでも知りたいという発達や成長の欲求とともに、癒されたい、安らぎたいという欲求を生涯学習への志向として大切にしようと提起している。
 生涯学習の世界は、「教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人」「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」という混沌とした世界である。「受信」や「充電のための学習」ばかりでなく、学習成果を他者に伝えたり、発表したりする学習成果の「発信」や「放電」によって、「学ぶ」と「教える」が水平に双方向で行き交うのである。そこでは、権威を振りかざしたり、権威に従属しようとしたりして上下の関係に引きずられることはくだらないことと嗤われ、「してあげる」と「してもらう」の相互の働きかけが水平にスムーズに交流する。それは、いつ裏切られるかわからないとおたがいにびくびくしている現代の人間関係のなかでは、ボランティア活動とならんで、なかなか得難いホッとできる時間・空間・仲間関係でもありうる。これを癒しのサンマと呼ぶことができる。生涯学習やボランティアは、生涯にわたる発達・成長とともに、癒し・安らぎをも提供するのである。

 生涯学習施設が、そういう生涯学習活動の拠点として、サンマのなかでの交流を支援しようとすることは当然の役割である。施設ボランティアを導入することの意義もそこにある。その形態は、簡単なお手伝いから、かなり高度な見識を要する専門的支援活動にいたるまで多様に考えられるが、いずれにせよ、そのなかで、生涯学習施設ボランティアはつぎのような3つの他者との水平な出会いをもてると考えられる。@ボランティアと施設利用者、Aボランティアどうし、Bボランティアと施設職員。そして、これらの他者や、その生涯学習施設が固有にもっているそのほかの学習資源との出会いをとおして、ボランティアは人間としてもっている自分自身の無限の可能性のいくつかに出会うことができるのである。このように、生涯学習施設では出会いのチャンスにあふれたサンマをつくりうるのである。
 「そんな理想社会のようなことが現実社会で実現するわけがない」という人もいるかもしれない。たしかに、ここでいうサンマは、施設側が意識と理性を働かせないでも自然に形成されるというような代物ではない。しかし、それは、働きかけ方の問題でもある。たとえば、ぼくは授業で何回か「幸せの瞬間」というブレーンストーミングを行っている。ブレーンストーミングとは、「無礼講の話し合い」のような発想法の一種で、ルールは、@ひとのアイディアを批判しない(批判禁止)、A変わったアイディアでも自由に出す(自由奔放)、Bできるだけ多くのアイディアを出す(質より量)、C出されたアイディアを改良するようにアイディアを出す(結合便乗)、の4つである。このルールによって、いくらかは安心して「自分らしさ」を出すことができ、自由な発想のきっかけになるのである。「物差しで比べられること」に反発を感じながらも、そのあてがわれた物差しを内面に受け入れてしまって非生産的に自己を抑圧している私たちではあるが、それをみずから解放することも、まったく不可能なこととは言い切れないのである。ぼくも、まったく違ったそれぞれの人の「幸せの瞬間」を聞いていて、「これはまったく共感できない」などと感じたものは今まで一つもなかった。たとえば、「ジェットコースターで一番てっぺんまで登りつめて、これから落ちようとするとき」というのがあったが、お金を出してまでジェットコースターに乗るわけのない高所恐怖症のぼくでさえ、「ああ、なるほど」と思えたのである。このブレーンストーミングのような仕掛けはほかにもいろいろと考えられる。さらには、生涯学習施設においては、ブレーンストーミングの「批判禁止」をも超えて、批判されても傷つかない、批判しても傷つけないような、自分と相手への信頼と共感にあふれた自立した者同士の支持的風土(p32)にまで発展できるかもしれない。
 むしろ、問題は、生涯学習施設側の姿勢にあるのではないだろうか。ぼくが生涯学習施設ボランティアの導入を「出会いの拡大」として支持する立場からある県でパネルディスカッションの司会をしていたところ、その司会のやり方に対して県内のある図書館司書から批判を受けたことがある。それを大学の授業で紹介したところ、一人の学生がつぎのように出席ペーパーに書いてきた。

 先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的だといわれたと思いますが、私は司書さんがいったことがわかるような気がする。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思う。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。

 この出席ペーパーに対して、翌週の授業で、ぼくはつぎのようにコメントした。
 生涯学習施設へのボランティアの導入は、市民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。その図書館司書がそうでないと思うなら、そう批判すればよいではないか。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは、労働者としての自己客観視を忘れた御都合主義といわざるをえない。
 専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で代行できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。現在のその仕事は、ボランティアコーディネートやその他の、より専門的な仕事に純化すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は当局側の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずなのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。しかし、だとすれば、その図書館司書は、住民の幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。
 幸福とは自然に達成されるものではない。生涯学習援助職員の場合も、学習者の幸福追求への意図的、意識的な援助の営みのなかで、自らの幸福も確認できる。そのためには、自己の保護や安定だけ求めて自分の都合に理屈を合わせる御都合主義ではなく、自分が働いている意義を自負できる自律的な精神が求められる。これが職員としての現実原則に即したプライドの守り方、育て方である。

図表13 行政課題・行政改革としての生涯学習推進
 主体の3要素
 1 (自分のあたまで)認知する我
 2 (自分の決定で)行為する我
 3 (自分で適正に)評価する我
生涯学習推進事業
市民の主体性 私の楽習
職員の主体性 行政課題
行政の主体性 行政改革

 以上のように、ぼくは、生涯学習施設ボランティア活動を阻む施設側の要因として、2つの御都合主義が問題だと考えている。「出会いの援助よりも、従来の仕事の安定的な存続を優先する御都合主義」と「出会いの援助よりも、経費や人員の削減を優先する御都合主義」の2つである。前者に対しては「それなら、失業対策事業とどう違うのか」と問いたいし、後者に対しては「それなら、現在、公金を使って施設を運営し、しかも、専門職員まで配置している理由をどう答えるのか」と問いたいのである。
 日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べている。国民の幸福追求の重要な営みとして認識されるべきボランティア活動に対して、生涯学習施設がその援助者としての役割の自負と喜びを主体的に意識することができるかどうか、そこで生涯学習施設の将来が決まるといっても過言ではないだろう。
 そもそも、生涯学習施設職員が、現代の上下同質競争の価値観を乗り越えて、学習者や施設ボランティアとともに水平異質共生の突出的サンマをともに創造する営みに本気で、そして本務として関われるようになれば、それは職員自身にとっても至上の幸福といえるはずである。じつは、ぼくは、生涯学習施設へのボランティア導入は、一般の利用者との関係以上に、職員にとっての自分らしさや相手の「個の深み」と出会える楽しいものになるのではないかとうきうきしながら予想している。生涯学習が楽しい活動であるのと同様に、生涯学習の支援も楽しい活動であってほしいものだ。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
生涯学習ボランティア ボランティアそのものが学びであり、ボランティアするために学び、その学びを生かすためにボランティアがある。ただし、狭義の生涯学習ボランティアとは、人びとの生涯学習を支援するボランティアをさす。市民講師などの「指導的な活動」のほかに、会場整備などの「お手伝い的な活動」も、その意思が尊重されるべきだ。
ワン・オブ・ゼム論 職員や指導者のあり方を考える際、「住民(メンバー)の一員のつもりで働きます」という人がいる。ぼくはこれを「ワン・オブ・ゼム論」として批判する。住民の上には立てない、立ちたくないという謙虚さは立派だ。しかし、ネットワークにおいては、住民と行政のそれぞれが異なった自立的価値と役割を発揮する必要がある。住民のなかにも、自分たちの団体の活動で必要になった作業まで職員にやってもらおうとし、やってくれる職員を「いい職員」とする人もいるが、ぼくはそれを「市民の側の腐敗構造」と呼んでいる。本当のネットワーカーであれば、公務員に対してむしろ全体の奉仕者としてのいい仕事をするように要請するだろう。また、「ボランティアを導入すると私たちの仕事がなくなる」という専門職の発言は、謙虚さの表れではなく、じつは自己卑下にほかならない。ボランティアは自己決定の世界だが、それを職業的に支援するのが専門職の役割である。たとえば、情報提供、相談、研修プログラムの提供、ボランティアの適正配置、スーパーバイズなど、専門的資質・力量を要する仕事は、ボランティア導入によってむしろ増えるだろう。ただし、ルーティンワーク(決まりきった仕事の繰り返し)が増えるのではなく、ボランティアをはじめとする学習者とのより深い出会いや専門的助言など、生涯学習の専門的支援者としての仕事に純化することになるのである。それは専門職にとっても、仕事の楽しみとプライドが増すことにつながる。職員はボランティア集団のなかのワン・オブ・ゼムになってはいけないのである。
協働 ぼくも起草に関わった平成6年5月の神奈川県生涯学習審議会答申「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」では、行政と県民との関係を考えるにあたって「協働」をキーワードにした。そのポイントは、@役割の違いをふまえた上で施策や事業の推進を協力しあうという意味での「役割関係の重視」、A県民が客体(対象)ではなく、一方の主体としてとらえられるという意味での「県民の主体的参加の重視」、の2点である。双方に主体性の発揮が求められるのである。

2 おわりに−ボランタリズムとその指導
 −アンビバレンツな人間存在と、善と悪の真実を追求する方法−

 なぜ、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動などを、人はわざわざ自発的(ボランタリー)に行うのか。その人が暇なら別だが、若者だったらもっと欲や希望に燃えてやるべきことがあるだろう。この問いにどう答えるか。そもそも、自己決定の世界であるボランタリズムを「指導する」とはどういうことなのか。

 (障害者の妻に支えられながら、訪問看護の活動をし、「欠点をさらけ出して本音で生きる」という内容の)ビデオを見る前、別に関係ないね。見た後、まったく関係ない。こういう内容のものはとくにきらいです。この用紙を出すのは最初なんですけど、授業は3回目です。最初の授業で自分にとても合わないと思い、そのとおりでした。過去2回もすべてが役立たずで、何も得るところがないです。とにかくあたりまえのところでしかない。今回のことについては、主人公のやりたいようにしているのでいいんじゃないの、と思った。それだけだ。

 こういう根底的な問題提起が出ると、空虚な「あるべき論」などいっぺんに色あせてしまって、いきなり「さあ、どうすればいいんだ」という本質論に迫ることができる。
 ぼくはつぎの授業で、このペーパーで気づいた2つのことを述べた。1つは、「あたりまえ」といいながら、「いいんじゃないの」と距離を置いていることの矛盾である。ぼくの授業は、他者に対する共感的理解の努力を社会教育主事(または支援者一般)になるための必須要件としている。これに対して、「各人それぞれでいいと思えばいい、共感しようなどというのは余計なお世話だ」という反対意見が出て当然なのである。ただし、その場合、明らかにぼくの授業内容に対する反論であって、「あたりまえ」という批判は妥当ではない。もし、ぼくの主張があたりまえすぎてつまらないならば、ぼくの授業を勝手に卒業してしまえばよいのだ。その際の単位は保障している。それとは反対に、卒業後ももぐりを数年続けていた人なのに、あるときmito的授業からの卒業宣言をしてフリースペースだけ来ている人がいる。「mitoちゃんのいう意見に同感だからつまらない」というのだ。他者の枠組と出会う共感ならワンダーランドになりうるが、自己の枠組と一致することを喜ぶ同感の場合は、依存的な学習態度になってしまうし、同一化志向のピアコンセプトになってしまう。そういう「自主卒業」までは、大いにぼくとの異質性を探ってほしい。
 2つは、「すべてが役立たずで、何も得るところがない」という点についてである。これは教授者に対する学習者からの非常に重要な異議申立てである。教育提供者側の契約違反にもつながりかねない問題だ。ただし、ぼく自身にとっても答えるのが難しいかなり高等な問いを発しさせてもらうならば、「それでは自分は何を求めているのか」というところまで願わくば書いてもらいたいということである。そのことによって、批判を受ける側も、する側も、ともにいっそう真実に迫ることができる。他の受講者さえもが漁夫の利を得ることができるのだ。これを、ぼくは、「批判の刃を自己にも向けよ」というレトリックで表している(『こころ』p152)。

 批判的なメッセージに対するmitoちゃんの対応について。私は正直言って、その出席ペーパーに腹が立った。そして、今の(偏見かな!)若者はこんなにしらけている。こんなにどうでもいいと思うなら来なければいいと思ってあきらめてしまう。しかし、先生はそれをとても重視し、よい刺激になると受けとめている。どうしてプラス思考できるのだろうか。これらは、ものごとのとらえ方の違いなのかもしれないが、私は感情のほうが先走り、怒る。反面、自分が教師であれば、どのように反応するだろうか。「どうでもいい、あたりまえのこと」という言葉に反論して、相手の間違いを正そうとするかもしれない。それは自分の価値観を押しつけようとする以外の何ものでもないように思う。そして、不快の感情で終わらせてしまう。mitoちゃんの反応を見て、まずは人の言っていることを様々な見方をして、肯定的に受け入れてみることにしよう。

 彼女のこの気づきが、ぼくのいう漁夫の利である。このように出席ペーパーシステムをとおして、授業はワンダーランドに変身する。しかし、ぼくは、「来なければいいと思ってあきらめてしまう」は別として、不快の感情をぶつけ、相手の言葉に反論して間違いを正そうとすることについては、そういう教師があってもいいと思う。ただし、教師という制度的上位者が、知的水平空間における双方向の対話の状況を創り出そうとするならば、という前提のもとにである。ぼくが葛藤を押さえたのは、ぼく自身が自己の葛藤自体に自信が持てなかったからともいえるのだ。ぼくは、指導の究極的本質とは、@シンパシー(共感する)、Aストローク(認める、認めたことを伝える)、Bエンカウンター(出会う)の3つだと考えている。基本的には対話から@が始まり、Aを発信する。Bは、ここでは、仮面を越えた異質の枠組の出会いを意味する。人間に対する肯定的関心のマインドさえあれば、この3つにたどりつく道はいくとおりもあるはずだ。

 (企業ぐるみのボランティア活動が、自立した個人のボランティア活動の補助器になるというビデオを見て)企業だからできることだと思う。サラリーマンは給料でるから。それは個人的なものではないのである。ボランティアでは食えない。個人でボランティアをやっているのはバカである。ある程度のゆとりがあって、やることである。これから何かをやろうとしている若者等にとっては、とっても無駄な時間である。自分の欲を満たさずしてどうする。

 さきほどの彼の翌週のペーパーである。とても重要な指摘である。もちろん、多くの他の学生からは「企業ぐるみということが個人を抑圧するのでは」という健全な反発のペーパーが提出されており、ぼくは力量の範囲内でその当然予想された批判に応えていこうと思うが、このペーパーはそのまた裏をかく現代人の真実の叫びのようにぼくには聞こえる。実際、このペーパーを他の短大の授業で紹介したところ、「そういう自分を隠さずに書けるなんてすごい。えらい」という賞賛の声の方が多数派であった。上下競争の現代社会に生きる人間の真実の側面なのである。ここで、まず、ぼくの基本的スタンスを振り返っておきたい。それは、p9で述べた@生涯学習、Aボランティア、B地域(市民)活動の3つの自己決定の活動は、他者を利すること(利他的利己主義という)、または、他者とともに生きること(共生という)であり、「そうあらねばならぬ」ではなく、「そうありたい」という自発にもとづく行為であるということである。言い換えれば「自分のため」の行為なのである。これに反した、生涯にわたって学ばなければならぬ、自己犠牲の精神をもたなければならぬ、地域や社会の一員として貢献しなければならぬ、などという空虚な言葉は、まったく無力である。その認識なくして、彼のペーパーを上回る真実を提示することはできないだろう。
 わたしたちは、まず、彼のペーパーから、生涯学習等をしない自由を保障することがいかに大切かを再確認しなければならない。つぎに、「ある程度のゆとりがあってやること。これから何かをやろうとしている若者には無駄」という発言をどう受けとめるかである。彼のさきほどの「いいんじゃないの」という距離は、正当にもここから発していたのだ。たしかに、若者などの人間が、地域ではなく巷でさまよったり、ひとりぽっちの思考の世界にはまり込んだりすることは、社会的活動と並んで濃密な時間の過ごし方ではあると思う。しかし、先の3つの自己決定の活動以外で、「これからやろうとする何か」というべき社会的活動は存在するのだろうか。ぼくは、少なくとも、現代社会における社会的な自己決定活動については、上の3つ以外には基本的にはありえないと思う。だからこそ、ぼくは3つを上下同質競争社会のなかでの突出的水平異質共生のサンマと呼んでいるのだ。
 この点については過去に学生から例外が提示されている。「ぼくがプロボクサーをめざしていた頃は、それで過労死してもよいと思っていた」というものである。その頃の彼に、生涯学習やボランティアを勧めるというのはたしかにどうかと思う。また、売れない(売るために迎合しない)芸術家であれば、自己表現活動そのものが癒しや自己の存在確認そのものになるであろうから、同様である。しかし、そういう場合でも、もし、異質の他者との水平な交流の機会がなく、これを本人が求めるならば、上の3つの存在は情報提供する必要があろう。先日、狛プーで招聘した前衛芸術の講師が、その飲み会において、「こういう場が社会全体にあったらいいのに」と言っていた。「何かをやろうとしている」ためにほかにゆとりのないはずの人でさえ、そういう場を求めるということもあるのである。
 話を戻して、スポーツ選手、売れない芸術家、そのほか、脱サラの第一次産業従事者などを除いて、とくに、賃労働者への道をあえて選択する場合について考えたい。これは選択自体は自己決定ではあるが、その後の働き方は本質的には「消極的積極」に属するものであり、ぼくはむしろ「奴隷の覚悟」をすることによって、そのあとから自己決定による個性の発揮の可能性が獲得できる世界だと考えている。そのため、自己決定の社会的活動からは除外して取り扱っている。この世界に対して、「これから何かをやろうとしている若者が、自分の欲を満たそうとして」立ち向かうとすれば、それは客観的には筋違いの部分があり(もちろん、主観的、および結果的には、偶然に「正解」になる場合もないとは限らないが)、自らの事実誤認に対するしっぺ返しが予想されるのである。なお、ぼくは、ペーパーの彼については、賃労働はめざしていないような気もしており、この部分は実在しない「一般的現代青年像」を念頭に書いている。
 以上のようなことから、空虚なスローガンとしてではなく、現代人の真実の叫びとしての「自己決定の社会的活動」への希求が明らかになっていく。それは、同時期に出されたつぎの2つのペーパーに表れている。これらは、さきほどのペーパーとは逆の、あるいは表裏一体の、人間の真実のもう一つの側面を表している。1つめは、男女共同参画型社会においては、「性の商品化をしてはいけないからしない」のではなく、男女の間の深くて昏い河をわたる共感があるからこそ「したくない」という真実である。また、2つめは、ボランティア活動はえらいから、あるいは、悩みがないからするものではなく、自分の命や時間を意味の充満したものにしたいという切なる願いがあるからこそ続けていくものだという真実である。

 私は今年、就職しません。就職できなかったわけではありません。4月に内内定をある企業からもらったのですが断わってしまいました。中国への1年間の留学経験もあり、語学もけっこうできるという特技を生かした仕事がしたいというのが、その頃の私の希望でした。その会社は中国の○○に工場を進出するという計画をもっていたので、まさに渡りに舟とばかりにセミナーに行きました。会社の人事部長も私のことを気に入ったのか、この不景気のご時勢だというのに、私を飲みに誘ったりしてくれて、ほとんど噂に聞くバブル時代の学生のようでした。自分が高く評価されたと感じた私はとても感激してしまいました。私の内内定が決まった夜、会社の人に例によって飲みに誘われました。最初の飲み屋を出たあと、「面白いところに連れていってやるから」と、私は薄暗いバーに連れていかれました。そこはタイ人バーでタイの女の子がいろいろ「サービス」をしてくれるという所でした。そこでの盛り上がり方はひどいものでした。気の弱い女の子ならば失神しかねないくらいでした。詳しくは書けませんが、性的な「サービス」をタイ人のホステスに強要して、会社の人たち数名が盛り上がっていたのです。私もそれに巻き込まれました。正直いって嫌悪感と怒りで気が変になりそうでした。吐き気がしてトイレに駆け込み、本当に吐いてしまいました。
 何が嫌だったかといえば、女性に性的「サービス」を強要することも嫌といえば嫌ですが、それはある意味では仕方ないでしょう。しかし、そこにアジア人、外国人を見下した差別の匂いが充満していたからです。私は中国に留学していました。留学中にさまざまなトラブルが起きましたが、そのたびに中国の方々に助けていただきました。私はどう考えても彼らアジア外国人を差別的な目で見ることはできません。きれいごとでも何でもなく、これだけは譲れないと主張して、その会社の内内定をけりました。

 これについては、後日、タイ人バーの女性は自己決定ではないか、いやだったら日本に来なければいいではないか、というほかの青年からの反論があった。そのことについてのディスカッションも必要かもしれない。しかし、ぼくは、そのディスカッションよりも前に、この学生の真実の共感の思いに対して共感できる自分のかけらの存在に気づいたことを喜びたい。ぼくはおかげさまでいい友をもっている!

 ボランティアをしていると、「他人のために時間を使うことができるなんてえらい」とか、「べつに悪いことをしているわけじゃないからいいじゃん」など、いろいろ言われる。養護学校でまったく反応がないまま自分の世界にいる子どもと接すると、つぎの日まで落ち込むことが多い。その子どもたちは常に奇声を発している。排泄は調整できない。ぼくが抱いても、親が抱いても、ほぼ同じ反応(じたばたあばれる)をする。はっきりいって、人間として対応することができない。親は人形を扱っているようにぼくには見える。子どもがほとんど違いのない行動をとっているにもかかわらず、「あっ、○○ちゃんも喜んでいるわ」、「あら、この子はおこっているのかしら」などと「自分勝手」に判断しているように思える。この子のためというのが何なのか。何がしてあげられるのか。また、ぼくがその場にいても、いなくても、その子にとって何も問題ないような気がする(食事、排泄介助を除く)。ボランティアをやっていると、自分のとった行動に相手が反応してくれることにいかに自分が期待していたかを反省する。その反応が、だっこしたら落ちないように体重移動をしてくれたというようなものでも。相手のための利他的行動とは、相手に恩着せがましくない、純に相手のためを考えてする行動だとは思う。しかし、相手からは反応がないし、自分がいても問題ない。「相手のため」なんか見つからない。これは相手のためだと思ってとった行動でも、メガネをふっとばされるほどの平手打ちで返ってきたりする(一応、反応があったと思ってうれしいのだが)。
 養護学校にボランティアに行って気づいたことは、自分は他人に対してできることなんてたいしてないんだなということである(食事、排泄等の生理的機能に関しては別)。自己顕示欲というのだろうか、相手に反応を期待しすぎていた。「思いやりをもって相手に接する」……。うーん、あの子たちにぼくの優しさ、思いやりはわかっているのだろうか。このように考えること自体、相手を尊敬していない思いやりのない考えなのだろうか。ボランティアはぼくを変えてしまった。
 書くのを忘れてしまった。ボランティアは楽しいし、心あたたまることがたくさんある。悩みながらもぼくは続けていきたい。

 これらのペーパーから表出された「個の深み」に対しては、ぼくのほうこそ「指導者」としてどうしたら存在価値を発揮できるのか、その重みに不安になるほどだ。しかし、ぼくがあるNPO(民間非営利団体)の研修に講師として行ったとき、その団体のタイでの少女買春反対のボランティア活動に参加している女子高校生が、先の「やりたいようにしているのでいいんじゃないの」というペーパーに対して、ほかのメンバーが「共感はできないが、ふつうは隠すことを言えるという点はすごい」などと評価するなか、「ペーパーの人はボランティアのいい世界を知らないだけだと思います」という反応をあっさりと返してくれた。彼女の言葉はぼくには新鮮だった。そうだ、先生ではない無知と非力のぼくであっても、3つの社会的自己決定活動の幸せを配ろうとすることはできるし、それはとても大切なことだと自負していいのだ。現に、ぼくの「ボランティア活動はえらいから、あるいは、悩みがないからするものではなく、自分の命や時間を意味の充満したものにしたいという切なる願いがあるから続けていくもの」という先述の言葉を、上の養護学校ボランティアの本人が、「自分が表現し得なかった自分の思いにぴったりの言葉」と称賛してくれた。書いているうちに自分の力量を越えることを書けるときがある。ぼくはこれを神がかりの一瞬と呼ぶ。うれしいことだ。
 しかし、一方で、「そんなにいい世界があるなら、ぼくの目の前で見せてくれ。そうでないとぼくは」というところでとぎれてしまったmito的授業を受講した学生からの出席ペーパーや、「それではどこで何をしたらよいのか、もっと具体的な受入れ先を教えてほしかった」というぼくの講演を聴講した年輩者からのお叱りを受けることもある。だが、突出的水平異質共生なんてものは、質的には突出的とはいえ、量的にはこの上下同質競争の渦巻くまちなのにごろごろところがっているほどで、「目をむけてみよう」という気さえあればいくらでも見つかるものだ。その人の主体的な意思によって、そのときから外的世界自体が違って見えてくるのだ。ぼくの授業や講義に欲求不満を感じる人には、いったん謝ったうえではあるが、そう答えるしかないことに気づいた。もしかしたらこの本の読者も同様の不満を感じたかもしれないが……。
 突出的水平異質共生は自己決定の世界であり、最初の一歩の選択においても「選択の自由の恐怖」を感じるぐらいたくさんある。しかし、ボランタリズムの本質はここにある。たとえば自分にあいそうなNPOの門をたたいてみるのもよいかもしれない。でも、べつにNPOではなくてもよいのだ。「自分が学びたい内容を学びたい手段で学ぶ」のが生涯学習である。だから、ぼくがある具体的な内容と手段を望ましいものとして提示するとしたら、それ自体に疑義がある。それはある音楽を「こう感じましょう」とシドウするようにナンセンスなことだ。具体的な情報提供をするのだったら、たくさんの「いい世界」を提示して、本人に選択を任せればよい。指導に関するぼくなりの今の考え方をつぎのようにまとめて提示して、この本の終わりとする。

図表14 自己決定活動の「指導」とは何か(まとめ)

項目
@
A
B

現代社会の病理 だれか助けてよ!
家族関係の病い 不毛な真偽の勝負
教育システムの歪み 画一的物差の内面化
ピアコンセプト みんなの目が恐い

生涯学習の再定義 自分らしく生きたい
発達とともに癒しも=あるがままの自分
事実よりも真実を=ワンダーランド
積極的消極性も大切=立つ鳥跡を濁さず

個の深みと出会う開かれた心の持ち方
内容の専門家=指導主体
方法の専門家=支援主体
人生の専門家=学習主体

個と出会えない閉ざされた心
教条主義=事大主義
御都合主義=合理化
敗北主義=消極的消極

今後のトレンド ビジネスも成立?!
癒しのサンマの提供=無条件相互肯定
社会貢献の提供=フィランソロピー
MAZEの提供=スキゾなプロセス

他者の幸福追求援助 3大スキル
対話とシンパシー 個の深みとの対話
ストローク 存在の認知の伝達
エンカウンター 異なる枠組と出会う

社会教育における自己決定の指導の発展
集団動員→個の尊重→個の回復(主体)
上下同質→水平同質→水平異質(共生)
行政主導→市民主体→公民協働(共育)

ネットワーク型の指導者の役割遂行
初めの一歩を励ます=開きたい心を開く
ミニ・ヒエラルキーの形成を早めにつぶす
潔い撤退を促す=積極的消極の潔さ

(増補)『癒しの生涯学習』その後

1 3つの学歴社会を打破し、水平異質共生社会へ
 ぼくは本書で「従来の学歴偏重(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を評価することはできないという社会的な認識が普及しつつある」としつつ、「逆に学校歴偏重(どこの大学のどの学部の卒業か、など)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしている」とした(p118)。この「最終卒業大学」偏重が、本項でいう学歴社会の1つ目の要素である。
 つぎに、学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、 「人が多様な個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、他者を打ち負かすことを目的にした資格取得などばかりが評価されて非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に資するものとはいえない」ともしている(p113)。学校卒業後の資格取得、これも実質的には学の歴ということだから、偏重すれば、生涯学習的とはいえども、学歴社会の2つ目の要素になりかねない。
 そこで、ぼくは、これに対して、「狛プーなどのネットワークでは、イヤなヤツが得する目にあうのではなく、いい男やいい女こそが報われる関係を自然に創り出す評価システムを内包している」として、癒しの生涯学習の意義を主張したのである。
 リカレント教育の場合、皮肉っぽくなるが、社会人の(2つ目の)学歴社会適応対策という性格があるのだろう。ただ、それが、人生の早い時期に決定してしまうのではなく、「気がついたときからいつでも始められる」という点では救いがある。だが、将来のためだけに生きることよりも、「今ここで」の「楽習」としてのリカレントこそ意図的に広めていくべきではないかとは思う。
 一方、ぼくは、最近、人が将来に有利になろうとして頑張って受験勉強をすること自体は、それはそれで偉いことではあるのだろう、と思うようになってきた。なぜなら、有利になろうとして頑張る、などという努力をまったくしようとしない人間(それはそれで「潔い撤退」ならば、その人のよい面でもあるのだが)が多いなか、結果として、「異質の価値」を社会に提供することになりうるからである。「今ここで」の楽しみ、あるいは「今ここだけ」の悲観的な楽しみも含め、そういう誘惑の多いなか、これをあえて振り切って頑張る人は、それはそれで立派なことなのだろう。
 問題は、結果が思わしくなかった場合に、諦観、自己評価基準の適正な修正、そして立ち直りというプロセスをたどれるかどうかである。また、頑張りもしなかった人が、上下競争の結果がだめだったという理由で、世間に対して不平ばかりいっているのは、ぼくにもその側面はあるが、もっと醜い姿だと思う。ようは、積極的消極、潔い撤退の重要性ということであろう。
 学歴社会の3つ目の要素として、ぼくは、学校、とくに高校の卒業を最低資格要件として問うような職種の存在を挙げておきたい。「高校ぐらい出ておかないと不利になるから」という理由で行きたくもない高校に通う若者たちは、この高校中退者続出のなかで、かわいそうだと思う。ある職種において、たとえば世界史の教養が必要というのなら、養成施設への入学時にその試験をする、あるいは現職研修に組み込むなどの工夫を社会の側も考える必要があるといえよう。
 このように、「癒しの生涯学習」のためには、個人の価値観の転換だけではなく、社会の側も、価値基準の大きな転換が求められていることを、増補の最初にあたって述べておきたい。

2 自己決定や共感はしてもしなくてもよいものか
 いまの時代状況をどんな言葉で表せばよいのか。
 生涯学習、ボランティア、地域活動における自己決定の重要性を授業で述べたとき、ある男子学生が「mitoちゃんは、本気になって人生には自己決定が重要だと思っているの? そんなわけないでしょう?」とぼくに言った。彼は、親の願うことだからある採用試験を受けるという。ただし、どうしてもそこに入らなければ困るというわけではないから、一生懸命、受験勉強をするというつもりはない、試験を受けさえすれば親も納得してくれるだろうというのだ。たしかに、その後も親元にいてあげて、あくせくせずにそれなりの仕事をして暮らしていけば、親も本人もそれで幸せ、ということかもしれない。
 短大1年女子学生から次のような出席ペーパーが提出された。

 自己決定自体、しても、しなくても、どちらでもよい。ただ、迷惑をかけたり、かけられたりするのはいやだけど。
 (思春期の少女の摂食障害のビデオを見て)私は彼女たちのことを可哀相とは思わない。本人はつらいとかいっているけれど、本人の願いどおり体重が激減しただけのこと。ビデオで彼女たちもいっていたとおり、「病気になって、かまってもらいたかった」からそうなった、つまり自己決定なのだから。

 ぼくは彼女の文章自体には誤りはないと思う。自己決定は権利であって、しなければいけないというものでもないし、また、現代社会においては、自己決定しても通らない、かえって損をするなどということがあまりにも多すぎる。だから自己決定すなわち自立をめざして周りに波乱を巻き起こすよりは、迷惑をかけないようにおたがいが気遣って生きるほうが大切、ということになる。ほかの学生の中には「自己決定活動の中に癒しなんかがあるはずがない」という者さえいるのだ。しかし、一方、それは、たがいが縮こまって生きているという現代の状況をも生み出す結果にもつながっている。
 次に、「可哀相とは思わない」である。文面上は、これもかなり正しいと思う。自分の行為が失敗したからといって、「同情」されるのはいやなものである。
 しかし、そもそも、これらの思春期の逸脱行動さえも自己決定に含めてしまってよいのか。「自己決定、つまり、自分で決めたことなんでしょ」と突き放してしまってよいのか。ぼくは、自己決定とは、選択の自由だけでなく、撤退、無為を含めて3つの自由の前提のもとに、過去や他人のせいにすることなく、「やりたいから」「自分のために」自分の行動を決定することだと考えている。そして、さらには、そうできない事情がある他者に対しては(じつは自分自身にも自己決定できない事情はいつまでもいくらでもあるはず)、同情ではなく、相手の枠組で相手を理解しようとすること、つまり、共感すること、人の痛みを知ることがとても重要だ。
 だが、もう一度ひっくり返させてもらおう。たとえば教師には学習者に対する共感的理解が必要だといわれるが、それは教師の義務としてなのか。共感が義務だなんて、ちょっとおかしい。
 先のペーパーに対して、ある社会人女子学生から、次のようなレスポンスのペーパーがあった。

 私は以前まで共感ということができない人間でした。心の中では共感していないのに、表面だけは共感しているようなフリをしてずっと過ごしてきました。私が「共感」を実感できるようになったきっかけは、勉強のために行ったエンカウンター(注・本音の出会い)のグループによる体験学習です。その特殊な環境の中で、情動を激しく揺さぶられ、初めて他人の考えを、感情を、感じられたことがありました。でも、その時は初めての体験だったのでよく理解できなかった。
 ところが、そのあと、3年ぐらいたったら、人に「共感」できる自分がありました。自分とは違う枠組を認められるようになったっていうか。そうしたら、他人にイライラすることも少なくなって、いわゆる社会的に「いい人」ではない自分のことも好きになれるようになりました。
 今日、紹介された「可哀相とは思わない」という人は、もしかしたら以前の私と同じように、共感の体験をもっていない人なのでは、と思いました。

 たしかに、人に迷惑をかけることはいけないことといわれている。これに対して、自己決定や共感は、しなければいけないというほどのものではない。しかし、社会人の彼女の場合は、共感体験によって社会性のほか、自己受容や自信までも獲得することができ始めている。このように、自己決定の人生を歩きたい、自他を信頼し、共感しあって生きていきたいという願いは禁欲できない潜在的願望であるはずだ。それを「してもしなくてもよいもの」と割り切ってしまおうとする時代の心理の奥底には、何か暗澹たる敗北感が流れているように思える。
 先日、ある青少年施設の運営会議で、現代の時代の気分を「鬱」とする論議があった。躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽きてしまっているのではないか。そういう時代に人々が求めている自己決定活動とは、大騒ぎできる華々しいイベントなどではなく、一人ひとりの「個の深み」と静かに対面し、出会いの体験を味わうことのできる「癒しのサンマ」なのではないか。

3 生涯学習と癒し=内なる敗北主義から抜け出す方法
 癒しの語感は、一般的にはたしかに後向きなのであろう。そういうことが、多くの生涯学習援助職員にとって、癒しのサンマの提供を仕事として取り組むことへの抵抗感となっているのかもしれない。
 しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、後向きの価値観を最初から排除することはしないものの(そこが従来の教育の価値観と違うところである、後述)、結果としてはむしろ前向きに終わるはずのものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク型の態度を指す。
 「『癒しの生涯学習』(本書)を考える」(伊藤学、全日本社会教育連合会「社会教育」、1997年8月号)は、たとえば、カウンセリングやガーデニングのブームを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている」ので、そういう当然の「欲求」を、「教育者は無視できなくなっている」としている。
 伊藤の若者の現実のニーズから立脚した論旨はぼくの本などよりもよっぽどわかりやすい。しかし、じつは、ここに、現代社会における一般的な「癒し」と、ぼくが提起する生涯学習における「癒し」との決定的な違いがあると思う。
 そもそも、ぼくは「癒しのサンマ」と表現している。このサンマという言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの「自由なはずの」授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。このような学生の批判は、「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」というような関係者にありがちな批判より、ずっと的を射た抵抗だと思う。生涯学習のような自己決定活動とは異なる学校教育の場においては、そういう学生にぼくが言えるのは「無理して出席しないで、元気になったらぼくの授業に出ておいで」ということぐらいである。
 ここまでいうと、「そんな教育の、どこが癒しなんだ」とも言われそうである。実際、心優しい人なのだろう、ある市民講座の受講者の主婦が、この本をさっと眺めて、「教師が弱い若者たちをやりこめているだけのような気がする」と出席ペーパーで訴えてきたことがある。しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質があるのだ。つまり、ぼくが進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う一般的な現代社会からの「いい男、いい女」のための逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃げてしまおうという場ではない。むしろ、人と信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容の突出的なサンマを創り出すという、なかなか面倒な営みなのである。しかも、自助グループが「自分だけではなく、みんなも同じ悩みをもっているのだなあ」という気づきを促すものだとすれば、それとも異なり、ピアコンセプト(p30)さえも乗り越えて、「あなたはあなた、私は私」というネットワーク型関係への気づきを促そうとするものである。考えてみれば、学習することが即目的であるような学習中毒のほうがよっぽど楽だ。
 しかし、このような「出会いの努力」を本人がしない限り、本当に癒されることはありえないだろうとぼくは思っている。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の「癒し」志向の事態に対して、本当に癒される人間関係を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざすべき個人の自立や、望ましいコミュニティ形成、ネットワークづくりなどはできようがない。

4 自己決定の人生と生涯学習
 ぼくは教育の根拠を憲法13条の「幸福追求権」においている(p132)。法学の世界では、この13条が「自己決定権」との関連で論議されるようになってきているそうだ。
 ぼくは1998年3月まで昭和音楽大学で社会教育主事課程を教えていた。
 チエちゃんという学生は、短大に入学してすぐのぼくの最初の授業で、講義が終わったとき、ぼくのところに来てこう言った。
「mitoちゃん(ぼくのこと)、わたし、いい女になるつもりだからよろしくね」。
 ぼくは、これはすごい人が入学してきた、と思った。大人の女でも、ふつう、どこかにいい男がいないかしら、となるものである。それに対して、18歳のいわばまだ「小娘」であるはずのチエちゃんが、きちんと自分自身の成長に希望を持ってまっすぐに目を向けているのである。このように自分にきちんと目を向けられる人は強い。思ったとおり、彼女は声楽家の卵としてもずば抜けた成長を示し、現在、憧れのオペラの舞台を目指して一生懸命生きている。
 チエちゃんが2年になったとき、また、「ねえ、mitoちゃん、わたし、すごいこと思いついちゃった」と呼びかけられた。こういうことは、青年期真最中の多くの学生にとってよくあることなので、ぼくはいつものように「なあに」とふつうに応じた。
 彼女がそのとき言ったのはこういうことである。きのう、おうち(この場合は下宿先)に帰る途中、これって人生みたいだな、と思った。おうちが「死」であるとすると、それに向かって歩いていくのが人生だ。
 彼女も青年期真っ只中だから、やはり生きることとは、とか、死ぬこととは、とか、まともに考える時期なのだなあ、とぼくは思った。しかし、彼女の話は次のように続いた。
 おうち=死に向かって帰るとき、二つの帰り方がある。ひとつは、おうちだけを目指して、寄り道もしないで、まっしぐらに効率よく歩く帰り方だ。そういう人たちをあざ笑ったり、ましてや責めたりする気持ちはまったくない。でも、自分自身はもうひとつの帰り方をしたいということに気づいたのだそうだ。それは、友だちのところに会いに行ったり、途中の森に入り込んで散歩してみたりして、「人生の風景を味わいながら帰る」という帰り方である。
 ぼくはこれを聞いて、それが大きな発見であることを認めた。まさに自己決定の人生のあり方ではないか。そして、生涯学習やボランティア活動、市民活動などは、そういう「自分がやろうとしてやる」自己決定の活動である。ほんとうに自己決定で生きることができている人は、たしかに、そうでない人がいるからといって、干渉したり、とやかく言ったりしないものだ。そういうことまで、ぴったりと説明しきれている。多くの人がそうありたいと思っている当たり前のことだが気づかない「自己決定」のあり方を、チエちゃんははっきりと示してくれたのだ。
 ぼくは、その後、ちゃっかり、この話を授業やいろいろな講演などでしゃべらせてもらっていた(もちろんチエちゃんの話という前置き付きで)。青年教室にときどき顔を見せていたチエちゃんが、それを聞いて、ある日、二次会の席でぼくにこう言った。「mitoちゃん、わたしの話、ほかの人にどんどん話していいわよ。でもね、私がそのとき言ったことで一番大事なことを、mitoちゃんは忘れてる」。すなわち、「エネルギーを使うけど」という前置きの言葉を、「人生の風景を味わって生きていきたい」という言葉の前につけていたはずだ。それが大切な発見だったのに、とぼくは注意されたのである。
 そうだ。自己決定の活動をしようとすると、「効率よく生きる」のとは違って、多大のエネルギーを消費する。自分がやろうとしてやり始めた生涯学習活動なのに、人と出会うことによってかえって自分自身が傷ついてしまったり、専門の世界を散歩しているうちにさ迷い込んでしまって、自分がその世界のどこを歩いているのだか見当がつかなくなってしまったり・・・・。自己決定の人生や、自己決定の生涯学習活動というのは、「エネルギーを使うけど」という前提も含めて自己決定することなのだろう。
 ぼくの追加意見も述べておきたい。ぼくはチエちゃんみたいな人たちから、たくさんエネルギーをもらって生きているけれど、それでも元気がなくなるときもままある。そういうときに思う。人には「エネルギーを使うけど」という前提そのものがしんどいときがある。そういうとき、自己決定活動の場合なら、潔くお休みさせてもらえばいいのだ。それは、自己決定活動が元気にできている人からは、けっして非難されたりすることはないだろう。そのことはチエちゃんの言葉が保障してくれている。

5 レスポンスの獲得方法
 パソコン通信あるいはインタネット利用のメーリングリストにおいて、その発信内容の質が問われることが多い。ぼくは、電子的コミュニケーション全体においては、「濃い議論」も「峠の茶屋」もどちらもあっていいと思う。ぼんやりとした全体の流れは自然に出てくるだろう。読んでいるだけ(ROM)の多くの人たちも、実際にはそんなところだ。だからアクティブな人の発信に対して、あえてレスポンスするまでには至らないことが多い。「濃い議論」が行き交うことはいや、という人は、ごく少数だと思われる。読まずに捨ててしまえばいいだけの話だからだ。
 一方、「濃い議論」をアクティブに発信する人にとっては、レスポンスをもらえないことを淋しがる気持ちになることが多い。なんといっても、「レスポンス至上主義」(『かくろん』p133)だからである。しかし、レスポンスを獲得したいと思うのなら、相手側の義務感や協調心ではなく、自発的にレスポンスしたいと思わせ、その自己決定を促すような発信をしなければならない。「フェア」に発信することによってレスポンスをもらうのである。ということは、「○○についてどう思いますか」などという一方的なアンケート調査のような発問では効果がない。自らが「こういう理由から関心をもっている」「こういうふうに困っている」、そして「こういう考え方はどうかとは思っている」などと、まずは自分の手の内をさらして自己開示、自己主張し、あとの結論はそれに基づいて発言した人(「枝葉」としての自分を含む)の議論の流れにまかせるという潔い態度が必要になるのだ。

6 後向きを否定しないで=積極・消極の自己決定の尊重
 よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己管理できていないから、とさえいえるかもしれない。
 自己決定活動のエネルギー消耗について、ぼくの関わっているメーリングリストから。
 「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。
 人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。
 この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。
 違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。
 「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。
 後向きになっているときも個人にとっての大切な時間なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは生産的な生き方のひとつだといえよう。

7 受容と共感の態度変容の支援方法
 学習援助、とくに態度変容のためのそれは、けっして上から無理に押し付けるものであってはならない。たとえば、看護職員の現職研修において、職員を現代社会の一員でもあるとしてとらえた場合、本人自身の顕在的、潜在的関心として、仕事のなかで自分らしさを守り、育て、発揮し、働きがい、生きがいをもちたいという気持ちが存在するはずである。そういう本人の自発的な意向を尊重してこれを援助するという考え方が教育の側に求められているのである。そのことによって、教育を受ける側にとっては、教育が自己受容にもつながるものになり、「自分にとっての意味ある学習」という能動的な受けとめ方が可能になる。
 そのためには、学習方法としては、従来の知識詰め込み型の受動的学習から問題解決型の主体的な学習への転換が必要になる。また、学習内容としては、従来の専門分野ごとのたてわりの内容だけではなく、看護全体にわたって必要な、さらには本人の生産的な構えや人間関係全般にとって必要な資質と能力を高めるような学習内容が必要になる。その根底には、人間存在に対する基本的信頼(自分への信頼=自信を含む)と共感能力に基づいた望ましい社会性の獲得が必要である。これを実現する具体的な学習方法・内容としては、コミュニケーションやカウンセリングマインド、グループワークやチームワークのトレーニングが考えられる(『こころ』参照)。
 そして、効果的な態度変容のためには、それらの研修が体験学習として、あくまでも楽しく、感動にあふれたものであることが望まれる。つまり、人と人とのつながりや、そのほかの態度変容のための看護職員の卒後教育は、まず第一に、日頃の看護の精神的な疲れやストレスを癒し、組織の中で閉ざされがちな心を解放してくれるような「生涯学習=楽習」の一環でなければならないということである。
 生涯学習ボランティアについては、職務として行われる看護とは本質的に異なるところがあるだろうが、両者とも他者への援助の活動であり、しかもそれが組織的な取り組みであることが多いという点で、その態度変容の研修の必要性とあり方についてはほぼ同様のことがいえるだろう。すなわち、学習が「楽習」になり、自己受容にもなり、それゆえ、「自分のため」、「楽しいから」、「自分が学べることだから」という主体的態度で研修を受ける結果につながるということが態度変容の研修の要件なのである。
 たとえば、「幸せの瞬間」(p136)によって期待できるのは、生産的な構えの獲得という態度変容の学習である。

8 偶発的学習による態度変容=毒と薬の両面価値の真実
 ぼくは『かくろん』において、遊び型学習の支援を提唱するため、偶発的学習の意味について次のように述べた。
 「ここで、注目しておきたいことは、それらの遊びは、ある意識的な学習目的に対する効果的な学習方法として行われているのではないということである。このような学習目的のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つがじょうずに遊ぶ能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える望ましくない遊びを禁止することよりも、望ましい遊びの素材を提供することなのである」。
 たとえば、ビデオフォーラムなどでは、視聴者は映像の切り取りのどこを見ようが、何を感じようが自由である。そこに個別で多様な気づきがある。ロールプレイも、ぼくはそういう学習機会として展開している。これは、講師としてのぼく自身、恐ろしい方法ではある。学習者側からどんなケースが提起されるか予想がつかないからだ。だが、実際にやってみると、実感に基づいた互いのロール(役割)のリアルなやりとりができるものだ。指導者側の予想しえない展開であるだけに、真実により近づくことができるのである。始まってしまえば、あとはロールチェンジ(役割交換)などをしながら多様な個性がどんどんと発揮される。これを「臨床の知」(中村雄二郎)の一種ということができよう。
 これらを「教育内容不定の偶発的学習」と呼んでおく。このような学習を仕掛けるために、指導者には、「真実は毒と薬のアンビハレンツ(両面価値)であるのだから、最終的には学習者側がどちらでも好きなものをとればいい」という潔さが求められる。禁欲または諦観ともいえようか。このようにして「学習者側が選択する」と思えるようになれば、「先生」としての余計な気負いもゆるんで、こういう「教育内容不定の偶発的学習」を「指導」するときも、少しは気が楽になる。
 もうひとつは、パーティーなどの「教育意図不在の偶発的学習」のプログラムである。まさか「教育的パーティー」などとはだれもいわないだろう。そんなことをいってしまったら、来る人も来なくなる。しかし、そういう「非教育的パーティー」のなかでこそ、たとえば、「潔い撤退」や「来るものを拒まず、去るものを追わず」のネットワーク精神などを参加者は偶発的に学びとるのである。ついでにいうと、パーティーには、「祭りのあとの空しさに耐える」(p46)という現代社会の幸福追求にとって必須の「生きる力」の教育作用というおまけまでついてくる。あるいは、これからは、全体の盛り上がりなどより、「鬱の時代」に対応した「しみじみ系」のパーティーが求められるようになるのかもしれない。どちらにせよ、すばらしい偶発的学習の契機になる。
 『かくろん』においてパソコン通信における偶発的学習を例に引き、「パーティー型学習」の意義を述べた。じつは、ぼくは、公民館で一つの部屋をオープンスペースに確保して毎晩パーティーを開いておき、一人でもファミリーでも夕食後にふらっと遊びにこれるようにするという夢を以前からもっていた。
 教育内容不定の偶発的学習については、適正な教育的意図の媒介によって、より効果的に促進することができるだろう。また、あぜ道を散策していてよい思考がひらめいたとすれば、これは教育意図不在の偶発的学習だが、行政がそういう市民の散策のための配慮から、その道を舗装せずに土のまま整備するとしたら、それは生涯学習推進事業の一環として高く評価されるべきである。
 この認識方法は、生涯学習推進をすべての行政セクションを越えた全行政的課題として貫徹するための重要な視点だとぼくは認識している。ちょっとした路地裏の整備でさえも、ただたんに無機的にきれいにするというだけでなく、「偶発的学習」(思索のための散歩など)がスムーズに起こりうるように、という教育的、文化的配慮をもって設計するということなのだから。少し古い言葉になるが、これこそを行政の文化化というべきなのだろう。

9 成人学習者としての態度変容
 学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人だという。アダルトティーチャーはアダルトラーナー(成人学習者)でもある。
 それを実現するためにぼくが考える主体的学習の条件の1つは、「主体的関与」である。グループワークの発表は「バナナの叩き売り方式」で行うとよい。これは、グループごとに他のグループの「自分たちの売りの部分」の叩き売り(成果発表)を聞きにいき、双方向(当然だが)の対話をし、また、すべてのメンバーが少なくとも1回は、他のグループに対して1人で叩き売りをするという趣向のものである。これは、あらたまった全体発表をするのとはひと味違ったおもしろ味があり、学習者の能動的参加やプレゼンテーションの意欲を高めてくれる。
 2つは、「異質の枠組との出会い」である。価値観ゲーム(p49)のような異なりとの出会いをとおした自己の価値観への気づきによる枠組の変容は、本来の学習のあり方のひとつだといえる。つまり、異なる枠組をもつ他者から自己を学ぶのである。
 3つは、「対話」である。対話はソクラテス以来、教育の原点である。たとえばインタビューダイアローグでは、ぼくがインタビュアーになって、地域活動をするサラリーマンとダイアローグ(対話)を行ったとする。「仕事だって忙しいのになぜやるのか?」、「奥さんは怒っていないか?」などの対話によって、その人の生き様から、たんなる事実ではなく真実の姿勢を学びとろうとするのである。また、出席ペーパーシステム(ディスクジョッキータイム)は、受講者とのダイアローグである。ぼく自身、これによって、一方通行の教授者としての宿命的な不安からかなり免れている。これらの対話のなかから、シンパシー、ストローク、エンカウンターが生ずる(p141)。ぼくは、これを、指導の本質的3要素と考える。

10 大人に対する心の教育や指導は可能か
 「人の心を育てることは可能か」という問いに対するぼくの結論は「可能」である。これに対し、教育懐疑派のようにすべての人の単純な自己教育しか認めない人が不可能と答えるならともかく、子どもにだけは可能だが大人には不可能という素朴肯定派の答えは、絶望的ともいえる大きな問題をはらんでいる。その人がふと我に返ったとき、「だったら、子どもにとっても地獄のような教育や指導なんだろうな」と気づくはずではないか。それでも、過去の一部の縦社会のように「自分も我慢してきたんだから、今の子どもも社会のために我慢しろ」というのか。
 やはり、ここで「心を育てる」学校教育や社会教育をめざす場合、今までわたしたちが思い込んできた教育の姿とは異なる「もうひとつの教育」(『こころ』p6)の姿を探し出し、自信をもって、楽しげに、「できる!」と答えたい。ただし、それは「できる」であって、「できている」では決してない。
 心を育てるという教育の可能性を考えるにあたって、ここではあえて、最も抵抗が強いと考えられる大人に対する心の教育的指導のあり方について踏み込んでみることとしよう。
 指導は「指さし導く」と書く。
 何を指さすかというと教育目標(=学習の到達目標)であろう。だから、自分には教育目標があるのにそれを学習者側には秘密にしておくような指導は、本当の指導ではないということになろう。次に「心を育てる」などといわれても、そんな面での教育目標なんかおこがましくてもてないという指導者もいるだろう。そういう人は、指導者としての資質がかなりあるとぼくは思うが、オルタナティブな(もうひとつの)教育や指導の存在の可能性をも考えて、これ以降のぼくの文も読んでほしい。
 次に、導くということは、その教育目標の方向に手を引いてあげることであり、これも大変なことだ。自分だって健全(まったく欠け目なく異常がないこと)な心をもっているはずがないのだから。だが、「不完全な自己への自覚」さえあれば、これから述べるような導き方ならできるはずだとぼくは考える。
 なお、これから述べる「大人に対する(心の)指導」のあり方は、じつは子どもにとっても、「地獄ではない、もうひとつの教育や指導」のあり方を示すものなのではないかとぼくは思っている。
@ 非日常的な相互関与を意図的に深める。
 ぼくは、本学大学開放実践センターのこれからの役割として「情報提供を乗り越えて相互関与へ」という提起をしている。その前に、メーリングリスト仲間と議論していた「指導」という言葉の是非を紹介していたのだが、「指導に代わるいい言葉」として、その「相互関与(interaction)」にヒントがあるのではないかという指摘があった。その指摘を受けて、指導の本質は、とくに心を育てるという場面においては、指導者と学習者の相互関与を非日常的な深いものにして、学習者の気づきのあるものになるように、意図的に行為することなのではないかと思ったのである。たしかに、これができれば、すばらしい指導といえるだろう。
 小児精神科医の河合洋は、今日の子どもたちのぎりぎりの状況をふまえて、「ほざくんじゃねえ」と訴えている。子どもにではなく、子どもを取り巻く親や教師などの大人に対してである。他人の痛みがわからない大人たちから発せられる、感情を伴わない意味のない言葉の洪水(ほざき)に、子どもたちはSOSを発しているというのである。「意味のある言葉」をたくさん受けるために生まれてきたはずの大人たちに対しても、ほざきの連続の不幸な日常のなかで、もし、指導によって日常では得られない学習者との深い相互関与が実現できるのなら、その指導はこの社会における突出的な意図的教育行為といえるのではないか。
A 指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する。
 これについては、すでに説明したところである。p20においては「不毛な真偽の勝負」を「無知と非力の自覚」によって克服するプロセスについて、p80においては教授者に「無知と非力の自覚」さえあれば、学習者より知識・技能が劣るということがあってもよいということについて説明した。
 ぼくの授業を受けている学生のなかには、「無知と非力の自覚」というぼくの言葉を聞いて、「無知と非力を自覚してしまったからこそ、私はつらいのに」と反発してくる者がいるが、ぼくがいいたいのはそういうことではない。指導者自体が自己の無知と非力を認めて、受け入れようとしないままで、学習者にだけはそのような気づきを援助するなどということができるわけがない。
B 教育と学習の間に流れる深くて昏い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。
 教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、p12では情緒的な表現になってしまった。
 学習者の「自分の心を教育されることへの抵抗心」を尊重しつつ、学習者主体の指導を試みようとする指導者にとっては、つねに自己の指導の有効性が疑わしいものに思えてくることだろう。しかも、「ところで、自分のほうの指導者としての主体性はどうなってしまうんだ?」という最後の問いも残ったままである。逆に、学習者からのねぎらいや感謝のちょっとした一言でささやかな自信がもてたりするときもあるだろう。とくに「心を育てる」教育、ぼくの言葉でいえば学習者の態度変容のための指導においては、厳しいいい方になるがその繰り返しをするしか方法はないと思う。男と女の間にも、最終的には理解し合えない「深くて昏い河」が流れている。しかし、だからといって、ふてくされてしまって、相手という彼岸に向かって舟を漕ぐことさえしなくなったら、その人の姿はもうかわいくない。

11 わたしたちはどんな心をもちたいのか
 最近の青少年対策の文献の特徴は、ここ数年の文献で散見された青少年育成に関わる社会や大人の責任を問う姿勢が普遍化してきていることである(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年発行)。また、中央教育審議会答申「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機」(平成10年6月)も同様の趣旨である。
 青少年「対策」だけに終始していた時から比べれば、よいことだとは思う。しかし、じつは、ぼくには、その議論のなかにも、今ひとつしっくりこないものを感じることが多い。わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたいではないか。むしろ、「自分のため」と潔くは思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。
 以前から、親の期待に沿おうとして過剰な努力をしてしまう子どもたちの苦しみが問題になっているが、同様に、親だって、子どもの期待に沿おうとして過剰な努力をするなんて本当はまっぴらごめんのはずだ。
 「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」というものが、教育を受けるものにとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、これは指導行為など成り立つわけがない。空しく響くだけだ。極端にいえば、人々から本音のところではいやがられてきた教育や指導の再来ともとらえられかねない。もっと、子育てを含めた大人の幸福追求全体にとって、「今ここで」(p72)の実感からの展望をもちたい。
 そこで、ぼくが音楽大学を去るにあたって、大学の授業の締めくくりに、2年間「mito的授業」に付き合ってもらった短大2年生に、その印象に関する自分個人にとってのキーワードを一人一人出してもらってまとめた図を掲載する。図を見て気づくように、そのほとんどが、態度や雰囲気に関することである(図表15)。さらに単位認定に結びつかない青年教室(p98)においては、なおのこと、これらの「心」に関することがぼくの存在の意味だったといえるのではないかと思う。
 しかし、一方で、「自分は、親や恋人以外の他者にとっても意味のある存在でありたい」という願望そのものが感じられない若い人たちと出会うこともある。そこでは、社会的な自己決定活動を「自分のため」の「癒しのサンマ」ととらえようとする本書の議論の動機や前提自体が成立しない。しかし、ぼくは、「そういう願望のない人」をけしからんとは思えない。むしろ、時代の「悲惨さ」を感じる。その悩ましい願望がないとすれば、悩む必要もない分、報われて癒されるということも期待できないと思われるからだ。そういう人たちの「心を育てる」ことなどできるのか。人間は社会的存在でもあるのだから、本人も気づいていない願望、潜在的欲求としては、その願望があるはずであると信頼して接するしかないのだろう。まさに深くて昏い困難な課題である。
 本稿においてさえ、学習者自身に対しては、指導という用語自体をオープンに示して積極的に使うかどうかは保留の状態である。じつは、この『癒しの生涯学習』の副題も、当初、「ネットワーク指導論」とする予定であった。しかし、まわりの若者たちが、「指導論」はどうも感じが悪いというのである。今まで指導という言葉が個人の幸福追求とはあまりにも対立的にとらえられてきたからなのだろう。ただ、「自己決定活動の『指導』とは何か」という「まとめ」の簡単な表はp147につけてある。

1991.4月
西村美東士『生涯学習 か・く・ろ・ん』 目次
 −主体・情報・迷路を遊ぶ−
       学文社 四六判上製カバー 1942円(税別)

第1部  「個の深み」への注目、そして、支援      
 はじめに −「個の深み」とは何か−          
 1 社会教育における組織と個人            
 2 講義型学習と社会教育、高等教育          
 3 「個の深み」を支援する講義技術          
 視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点    
     −西武ロフトがとらえた若者たち−       
 視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業  
     −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE− 
 視点3 「個人」がいきいきするしかけ         
     −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−   
 視点4 「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態  
                            
第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして       
1 現代都市青年と情報                 
 −ヤングアダルト情報サービスの提唱−         
  はじめに                      
  (1) 青年と情報環境                 
  (2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱−
  (3) ヤングアダルトのための情報           
  (4) 青年とともに育つ情報サービス          
2 パソコン・パソコン通信と青年            
 −成熟したネットワークとは何か−           
  (1) パソコンの急速な普及と未成熟性         
  (2) ネットワークを体現するパソコン通信       
  (3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」   
3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか        
  (1) 「在来型の生涯学習」を支援する         
  (2) 「新型の生涯学習」とは何か           
  (3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ         
  (4) コミュニケーション型学習            
  (5) ネットワークによる知的生産           
 視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク     
     −AV−PUBのサロンで「私的」交流−     
 視点2 学習情報提供事業の企画と展開          
     −人間が学習情報を求めている−         
 視点3 学習情報提供の実際               
                             
第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために       
1 子どもたちの団体活動                 
 −そこに秘められている大いなる教育力−         
  (1) 教育とは子どもがワクワクする営み         
  (2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動
  (3) 少年団体活動には教育力があふれている       
  (4) 子どもにだって「個の深み」がある         
2 地方自治体における学習プログラム作成の視点      
 (1) 知と健康のネットワークを支援するシステム      
   (1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義  
   (1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ     
   (1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起
 (2) 年間事業計画の作成                 
   (2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる     
   (2) −2 学習要求をとらえる            
   (2) −3 「公的課題」の優先            
   (2) −4 学習課題を整理する            
 (3) 個別事業計画                    
   (3) −1 「学習ニーズ」の優先           
   (3) −2 参加対象をどう設定するか         
   (3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 (4) 学習プログラム作成上の今後の課題          

 視点1 あたたかいディスコダンス            
 視点2 レクリエーション的な要求への対応        
 視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方      
 視点4 グループリーダーの新しい形           
 視点5 リーダー研修に望まれる内容           
 視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデン 
     ティティ −東京都足立区の生涯学習推進構想−  

1993.3月
西村美東士『こ・こ・ろ 生涯学習』 目次
 −いばりたい人、いりません−
       学文社 四六判上製カバー 1942円(税別)

第1部 生涯学習するこころとは何か
1 フリーチャイルドの心をとりもどす
 (1) ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる
 (2) 人間らしい心を取り戻す
 (3) フリーチャイルドの心で学ぶ
 (4) 学習とは、自分が自分を変えること
 (5) 学習とは、水平なギブ・アンド・テイクのネットワーク
 (6) 何で生きてるの?
 (7) 生きる力としての主体性をはぐくむ学習を
2 生涯学習理念はなぜ新しいのか
 (1) あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町
 (2) 傷つけあう関係ではなく、支えあう関係にあふれる町
 (3) 人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町
 (4) 一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町
 (5) 地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町
 (6) 一人ひとりの個性がのびのびと発揮される町
3 学校週5日制で問われる大人の主体性
 (1) 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論
 (2) 新しい土曜日の個別性
 (3) 新しい土曜日が求める主体性
 (4) ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ
 (5) 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開)
 (6) マニュアルを越えて

第2部 こころを開く態度変容の学習
 1 こころを開いて交流できる仲間づくりの方法
 2 授業の主体的な楽しみ方
 (1) まじめな人の問題点
 (2) 君の主体を問う
 (3) 知のヒエラルキー vs ネットワーク
 3 情報へのネットワーク型アクセス
 (1) 過去の知の重力圏からの脱出
 (2) 本の私有と共有の方法
 (3) 電子化された情報・映像化された情報
 (4) 情報とストロークの発信
第3部 主体的学習へのいざない方
1 学習相談がめざすもの
 (1) 日常的相談でも、学習情報提供でもない
 (2) 学習相談とは何か
 (3) コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性
 (4) 生涯学習の主体としての自立への援助
 (5) ネットワークの中でともに育つ
2 保護や管理ではなく自由への恐怖を与える
 (1) 自分は求めるけれど、人にはあげられない
 (2) 現実原則の中でのストロークの自己管理を
 (3) コミュニケーションの成熟化と無力化
 (4) 管理や保護よりも自由を

ボクと出席ペーパー
  学校教育への恨み        強力な幸福願望と自分の幸せ
  勤勉主義のごまかし       についての懐疑
  授業は勝負だ          アイデンティティの喪失
  ―ビートたけしに勝つ      今の自分や他人を判断したく
  学習に対する強迫観念      ない気持ち
  学生の敗北主義に対す      他人の「聞く耳」がこわい
  る教師のエンカウンタ      人間不信の深み
  身勝手な恋愛観         集団への帰属に対する拒否感
  対等な人間関係の中での性的興奮 山アラシジレンマ
  や快感を受容できない      自己表現の不器用さと解放
  気をつかうな、気のきく人になれ 共感的理解の能力
  教師や他人の自信を不快に    自分のために生きる
  思う敗北主義          −ギブ・アンド・テイク
  ヒエラルキーへの抵抗      仲間の撤退を許すネット
  信用ではなく信頼を       ワークマインドを身につけよ

 巻末資料1 社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識
 巻末資料2 自分を知ろう−エゴグラム
 巻末資料3 友だちとやってみよう−グループワーク
 巻末資料4 mito的授業シラバス

mito的授業の印象
癒しのサンマの図(A5に縮小)

さくいん(フレーズ・レトリック)
「相手の幸せのため」ですませてはいけない 76 ◆あなたはあなた、私は私 72 19 60 95◆あるがままの自分が、両手を広げて歓迎されるサンマ 96 9 ◆あんた世間なめてんじゃない 62 ◆いい男いい女 112 28 ◆いい男といい女さえ支援すればよい 111 ◆いい加減はよい加減 106 ◆生きる意味をあえてあげるならば癒ししかないのではないか 9 ◆潔い撤退 70 44 47 102 ◆依存させてくれないカリスマ 89 ◆一年に一回来てもメンバーだ 94 ◆1%の真実 58 ◆1%の批判 75 ◆いばるな、へつらうな、同質の仲間ではなく異質の他者を歓迎せよ 60 ◆癒されたい、安らぎたい 135 ◆癒しとは傷ついた心がもとの状態に戻ること 8 ◆教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人 135 ◆「おうち」はインフラストラクチャー 115 ◆おまえなんかいなくたっていいんだ 17 ◆かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために 99 95 ◆過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる 65 ◆家族は意識や理性による努力の営み 14 ◆神がかりの一瞬 146 ◆「我慢して出席しなさい」では、忍耐心しか育てられない 130 ◆君たちが学べる場は日本全土だ 130 ◆教師は劣等感を刺激される職業である 84 ◆漁夫の利 141 69 85 ◆薬にするか毒として飲むかを自己決定せよ 108 ◆「くだらないミーイズム」と「報われるミーイズム」 110 ◆「ケッ」と言って笑い飛ばす能力を育てる 24 36 ◆権力・ヒエラルキーにしっぽを振るな 74 26 ◆この人が生きていてくれてよかった 27 63 ◆個は他者と関わることによってより深まる 63 ◆淋しがり屋のタカビー 57 ◆さわやかな自己主張 41 112 ◆3人分の着席の幸せ 56 ◆してあげる、してもらう 56 ◆指導したい人はいても、指導されたい人はいない 12 ◆市民の側の腐敗構造 139 ◆「社会一般では」は意外に当てにならない 71 ◆生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができる 120 21 ◆真偽の勝負から無知と非力の自覚へ 19 ◆真実の共感の思いに対して共感できる自分のかけらの存在 145 ◆信頼している人たちに聞いてまわる 89 ◆自己受容による自己変容 50 ◆事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を 93 ◆事実は小説よりも奇なり 38 ◆自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権 90 ◆自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているか 109 ◆自分の命や時間を意味の充満したものにしたい 144 ◆自分一人で頑張ることはない 18 ◆自分を知って、自分を大切に 51 ◆ジモティーはラッキー 94 ◆人生の風景を味わって生きていきたい 9 ◆スパイから逃げ切ることは考えても無駄 63 ◆スムーズな自己開示のネットワーク 109 ◆積極的積極と消極的積極 40 132 ◆積極的積極と積極的消極 70 29 ◆先生病は職業病と違って、その病気の責任はおもに本人にある 76 ◆相互否定・上下同質競争の魔のトライアングルから、相互承認・水平異質共生の癒しのネットワークへ 96 ◆「そのことについては今は話したくない」が最善の対応である 89 ◆その人はその行為を選ぶべくして選んでいる 51 ◆「ただのろくでなし」と「ましなろくでなし」 24 ◆「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為 102 ◆友達から変と思われたらもう終わり 30 ◆どこに向かって発展しようとかまわない 100 ◆どこまでも知りたい、癒されたい 9 ◆どこまでも知りたい 34 50 108 135 ◆奴隷の覚悟を決める 40 13 42 143 ◆なんで生きてるの 11 ◆熱血先生の傲慢 60 ◆ネットワークのなかでの二人の役割発揮 111 ◆発達だけでなく癒しも 131 ◆人は人によって傷つき、人によって癒される 8 ◆批判の刃を自己にも向けよ 75 13 84 93 141 ◆批判は歓迎せよ、否定は受け流せ 54 ◆開きたい心を開きたいときに安心して開く 110 ◆ビートたけしに勝つ 11 ◆深くて昏い河で舟を漕ぐ 12 144 ◆「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみつく人 67 ◆変化の願望は自分にしか向けられない 88 ◆放っておいてほしい、でも、気にかけてほしい 8 ◆ボランティアのいい世界を知らないだけ 146 ◆「ましなろくでなし」であればよい 66 113 ◆待つのではなく出前せよ 86 ◆見返りを押しつけるな、見返りが期待できるような行為をせよ 64 ◆幹と枝葉 70 32 43 61 ◆無知と非力の自覚 20 32 66 87 100 ◆良いわがままと悪いわがまま 29 102 ◆ルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそ 102 ◆わたしの人生はわたしが歩きたい 29 ◆私は夜中一人で動き出すおもちゃ 8 ◆私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野 134 

さくいん(ワード)

A 28 
AC 23 79 
CP 79 22 76 81 
FC 36 
NPO 146 
VTR 85 
haveからbeへ 124 
mito的授業 69 
 −おしゃべりの自由 55 
 −ちょっと待った方式 55 
 −パフォーマンスタイム 87 
 −暴力とセックスの禁止 67 84 
アイデア 100 
アイデンティティ 111 8 62 
アガペ 65 
アクセシビリティ 121 
アジール 104 
アンドラゴジー 122 
アンビバレンツ 108 19 42 93 
エッグヘッド 36 
エンカウンター 49 13 141 
オープンマインド 121 130 
オフィスアワー 130 
カウンセリングマインド 61 58 
カウンター・カルチャー 104 36 
カリスマ 89 46 90 
ガンバリズム 18 25 43 79 96 
キーパーソン 95 
キャッチアップ型教育 115 
キャンプ 104 
ゲーム 44 
ゲシュタルトの祈り 72 
コミュニケーション 72 46 109 
コミュニケーション訓練 74 
コミュニティ 97 92 
サン(3)化け 96 
サンマ 9 
シミュレーション 27 
シラバス 45 
シンパシー 63 13 141 
スキゾ 100 
スタッフ機能 123 
ストーリー 25 
ストローク 65 13 84 96 141 
スパイ 112 
スローガン 107 93 116 143 
セクショナリズム 60 
ソクラテス 47 
ダブルバインド 76 
ダブルメッセージ 76 
ツリーとリゾーム 32 
ディスコミュニケーション 64 
デリケート 54 
ニュー・カマー 102 
ネットワーカー 36 70 103 
ネットワーク 73 31 33 56 60 72 98 102 123 129 
 −ギブ・アンド・テイク 123 
 −マインド 36 110 123 
 −自浄作用 112 
 −自立と依存の統合 123 
 −社会 91 
バーンアウト 43 
パソコン通信 36 
ヒエラルキー 73 26 29 31 33 43 60 93 98 
ピア 73 31 33 
ピアコンセプト 30 10 26 56 60 67 102 
フィランソロピー 125 
フリースペース 27 89 107 
 −治癒力・教育力 106 
ブレーンストーミング 136 
プータロー精神 98 
プライオリティ 92 
ホメオスタシス 59 
ボランタリズム 146 
ボランティア 73 6 9 142 
ボランティア・コーディネータ 127 
ボランティアバンク 133 
マス 95 6 
マスメディア 36 
マンデラ大統領 28 
ミーイズム 100 108 
メセナ 125 
メタ・レベル 81 
メディア 130 
モラトリアム 42 
ヤマアラシジレンマ 46 
ユース・カルチャー 104 
ライフプラン 131 
ラベリング 89 
リーダーシップ 97 95 
リカレント学習 120 39 124 
リピーター 102 
リフレッシュ学習 124 
レクリエーション 81 78 
レディネス 128 
ワン・オブ・ゼム 139 129 
ワンダーランド 11 34 52 125 


愛 55 28 
与えられた権威 22 
甘え 55 
安心できる足場 114 
言い出しっぺ 106 
生きがい創出型 131 
異議申立て 36 141 
異質性 141 
痛み 109 
いつ・どこ・だれ・なに 134 130 
一気飲み 105 
一斉承り型学習 120 
意図的行為 6 
居場所 92 
今ここで 72 
意味ある他者 91 
癒し 8 29 63 115 
癒しと貢献の生涯学習 13 
癒しと成長の好循環 115 
癒しのサンマ 37 9 92 98 110 115 116 131 135 
受けて立つ 83 27 58 75 86 
お試し期間 45 
思い立ったが吉日 120 
おもしろ・感動型 130 
親父の会 103 
折り合い 20 71 


解放の笑い 19 
加害者の被害者ヅラ 56 
書き言葉メディア 46 86 
革新型学習 47 
過剰緊張 21 
過剰適応 23 106 
過剰で屈折したACとCP 27 
過剰反省 21 
家族関係の病理 14 
課題中心 130 
課題中心の問題解決学習 119 
価値観ゲーム 49 
家庭教育 21 
仮面 135 
仮面・戦術 41 
空念仏 93 
過労死 18 
感情交流 20 
関心・意欲・態度 28 
感動 34 
感動の私語 55 
学社連携・学社融合 37
楽習 134 
学習課題 92 58 
学習経過 122 
学習権 55 68 76 
学習交換 65 
学習しない自由 142 
学習者の自己責任 58 
学習者の責任 123 
学習者の選択行為 130 
学習者の不快 86 
学習需要調査 119 
学習ニーズの高度化・多様化 119 
学生の主体性喪失状況 128 
学問 36 
学歴偏重 118 
学歴偏重社会 34 
学校開放 126 
学校教育 6 
学校歴偏重 118 22 
学校歴偏重社会 24 
学校歴より学習歴 39 
聞いてみればよい 64 
企業ボランティア 142 
気づき 34 29 43 100 
基本的構え 52 
基本的信頼 84 41 
共育 129 81 123 
教育 22 
教育意図 88 
教育意図の明示 59 80 
教育権 86 
教育システムの歪み 22 
教育のアポリア 12 84 89 
教育批判 74 66 80 123 140
教育批判範囲の限定 82 
共依存 33 
強化 47 
共感 58 63 85 89 104 136 
共感的理解 49 58 69 
教師の呼称問題 77 80 
教師への無条件的信用 46 
教授法 80 
共生 60 98 142 
教祖 46 
協働 139 87 122 
居住、移転及び職業選択の自由 94 
禁止令 72 
偽悪 6 
擬似的時空 44 
偽善 6 
行政改革としての生涯学習推進 138 
空白のプログラム 106 104 
偶像崇拝 109 
偶発性 6 
偶発的学習 50 
継続高等教育 127 118 120 
結果を恐れるな 48 
結合便乗 136 
権威 36 
研修の目的 48 
健全な抵抗 51 
現役支配 102 
現実原則 109 112 
現代社会の不幸 93 
現代青年 38 
現代的課題 92 116 131 
公共性 6 
孔子 116 
肯定的関心 142 
公的意味 110 
公的課題 116 
公的課題の優先 117 92 
公的社会教育の意義 110 35 114 
高等教育の権威失墜 118 
幸福追求権 132 138 
公平の原則 113 
公民館 117 
交流分析 52 
個人学習 6 
個人的問題の提起 87 
個人の幸福追求 110 
個人の幸福追求の援助 115 131 
個人の事情 128 
固定的役割分担 20 
言葉の暗示 74 
個の深み 81 8 34 38 40 95 109 129 146 
個の深みのデリケート 57 
駒田信二 116 35 
御都合主義 137 94 108 125 
娯楽性 6 96 


採用試験 38 
作戦 24 
佐野市生涯学習推進基本構想 134 
差別 22 12 35 
さわやかな依存 60 
さわやかな風 32 
さん付け 103 
幸せの瞬間 136 
私語問題 55 31 67 128 
支持的風土 32 131 
施設開放 121 
自然体 95 
質より量 136 
指導 147 47 
 −提案型 52 
 −なまの人間的な営み 99 
 −非指示的 99 
 −不定形 99 
指導者
 −潔い諦観 100 
 −器 20 78 
 −虚業としての指導 47 
 −禁欲 100 37
 −義務の限定 82 
 −屈折 79 
 −幸福追求の援助者 85 
 −傲慢 100 
 −至上の幸福 139 
 −施設職員の役割 137 
 −私的葛藤 76 83 141 
 −自制 89 109 
 −自転車で広報 107 
 −職業病 76 23 
 −上位者 12 
 −図式的思考 114 
 −制度的上位者 141 
 −背負込みの行為 88 
 −責任 58 44 
 −先生病 76 23 
 −専門職員 137 
 −存在位置 86 
 −タイムキーパーとして 78 
 −つらさ 102 
 −独善 78 
 −奴隷の覚悟との違い 91 
 −プライド 138 
 −役割 84 57 69 78 107 
 −らしからぬ言動 107 
 −枠組の変容の援助者 88 
嗜僻 51 
氏名表示権 90 
社会化 22 
社会教育 37 6 
社会教育行政 37 
社会教育指導者 81 
社会教育的フリースペース 90 
社会貢献 125 103 
社会参加 114 
社会的基盤 115 
社会的承認 61 
社会的認知 135 
社会的不適応 59 
社会変革 100 
集合学習 131 
就職3条件 12 
集団
 −新しい生活集団 105 
 −生活集団 104 
 −非定型・定型 32 
 −目的集団 104 
集団学習 117 
主我と客我 19 
主体性 138 98 
主体性喪失 43 124 
主体性の阻害要因 89 69 
主体的学習の援助 124 
主体的な授業の受け方 88 
出席ペーパー 88 10 129 
主婦の参加 110 
瞬間芸 105 
昇華 63 
生涯学習 37 6 9 70 142 
生涯学習社会 34 
生涯学習社会への移行 29 
生涯学習審議会答申 92 134 
生涯学習とボランティア 134 
生涯学習の再定義 131 128 
生涯学習の町づくり 92 
生涯学習ボランティア 139 78 
生涯教育 37 
小説的真実 35 68 
庶民感覚 120 
真偽の勝負からの脱却 19 
真実 34 42 93 130 142 
 −人文系の真実 87 
信念 19 52 
信頼 36 20 41 
信頼能力の欠如 62 
自己一致 52 21 
自己開示 109 48 
自己拡大と自己肥大 91 
自己確立 62 
自己管理型学習 13 47 55 87 119 123 128 
自己管理型学習の困難 46 
自己管理能力 43 
自己管理能力の向上 124 
自己客観視 18 28 39 51 61 99 143 
自己教育力 130 
自己決定 133 11 35 42 46 65 66 70 100 115 124 129 
自己決定の生き方 27 
自己決定の社会的活動 142 41 
自己主張 72 
自己実現 62 135 
自己受容 52 13 
自己責任 124 
自己選択行為 59 
自己卑下 21 
自己否定 20 
自己評価 54 61 
自己への厳しさ 39 
自己変容 103 56 125 
自己保存本能 59 
自己満足 6 
自己抑圧 30 
地獄の奇数日 44 
自主性 6 114 
自主卒業 141 
自称「上の世界の人間」 26 
自称「傷ついた人」 109 
自信過剰 21 
自信と他信 64 20 
事実という「権威」 36 
事実よりも真実 131 34 
自尊心 26 
自他受容 9 
実物投影機 90 
自動化 47 110 
自発性 6 
自発性、無償性、公共性 134 
自発的意思 10 
自発的撤回 101 
自罰と他罰 54 
自分さがし 135 40 111 118 
自分に厳しい生き方 27 
自分のため 88 11 51 65 68 91 95 125 
自分らしさ 103 54 
自由な遊び心 98 
自由の恐怖 101 69 91 108 
自由の行使 108 55 87 91 129 
自由奔放 136 
授業という公的な場面 83 
受験 39 
受験地獄の再現 113 
受容 98 96 122 
受容的・共感的雰囲気 99 
受容と変容の好循環 115 
準拠枠組 49 
上下同質競争 98 29 92 104 128 143 
情報提供 90 
情報リテラシー 88 
自立 72 15 28 58 60 
人生脚本 14 
人生の主人公 43 
人文系の真実 131 
人類の幸福追求の敵 25 
水平異質共生 139 146 
水平異質交流 63 103 129 135 
巣立ち 95 
生育歴 21 14 
生活文化 105 
成功のシンボル 132 
生産的構え 72 41 56 
精神的で微妙な見返り 65 
成熟化 124 
成長 111 
制度化された権威 121 
青年期特有の課題 110 
青年教育 117 
青年補習教育 96 
潜在的学習関心 132 
潜在的学習欲求 119 
潜在的能力 60 
戦術 41 
川上の嘆き 116 
善と悪 105 93 
善導 116 
相互承認 9 
相談 89 
双方向教育 129 8 87 


体験学習 49 44 
態度変容 82 
対話 81 47 
高みの見物 66 
他罰的デリケート 109 
大学
 −アイデンティティ 123 
 −企業との連携 123 
 −教育主体としての大学 120 
 −教育内容の転換 128 
 −経営革新 125 
 −サバイバル 125 122 
 −生涯学習化 125 
 −自己革新 124 
 −自己点検・自己評価 127 122 129 
 −自治 125 122 
 −授業評価 129 
 −単位互換 123 
 −目的 118 
 −有益な都市資源 123 
大企業病 98 
団体運営 67 
団体のため 95 
地域主義 92 
地域生涯学習推進計画 123 
地域に根ざす社会教育 104 
地域の教育力 97 93 
地域の自他受容 95 
地域のプライド 95 
小さなプレゼント 64 
地球規模の歪み 92 
知的水平空間 74 84 90 131 
著作権 90 
ちょっとおしゃれな教授法 80 
賃労働 42 143 
疲れる 74 
提案型 61 
提案型のネットワーク 111 
諦観 63 29 
定型的教育 126 
適度のおとな心 103 
撤退の自由 66 102 
出会い 108 29 63 89 95 136 
出会いの拡大 137 
出入り自由 102 112 
出入り自由の淋しさ 103 
登校拒否と引きこもり 61 
同感 140 
同時代 93 
同時代性 131 
道徳教育 131 
独学 47 
毒と薬 108 93 
突出的サンマ 139 
突出的時空間 111 
突出的水平異質共生 143 
突出的水平空間 29 
届ける、触発する 121 


内面的排除 112 
なまの出会い 93 
人間的真実 108 38 68 
人間的真実のもう一つの側面 144 
人間万事塞翁が馬 38 
人間らしさ 105 
認知・行為・評価 138 21 98 
認知説 50 
寝床分科会 105 
練馬区生涯学習推進懇談会 34 
飲み屋での自己解放・相互解放 106 


背後の気持ち 74 
敗北主義 109 38 42 103 
発信 135 
発想法 101 
発達課題 21 
発達段階論 120 
話し言葉メディア 46 
反社会性 6 
反応・発展の個別化 10 
被害者意識 26 
卑屈な自己疎外 30 
非生産的な皮肉 79 
引っ込み思案 48 
否定ではなく批判 122 
批判禁止 136 
評価 113 
評価の適正化 121 
不安傾向 21 
夫婦間の不和 16 
深い意味での学問の楽しさ 119 
不幸の手紙 102 
不合理な思い込み 10 19 102 
不毛な争い 19 
文化支援 125 
文化的孤島 48 29 
変身願望 51 
変容 96 
べき論からの脱却 135 34 61 140 142 
放電 135 
防衛的風土 32 30 
暴力としての言葉 67 


負け犬 43 24 
まちづくり 134 
祭りのあとの空しさ 46 44 
見返り 64 
みんなのため 95 
みんなぼっちの世界 31 
無償性 6 
無常観 116 
無常という真実 116 
空しさに耐える 44 
空しさの逆襲 46 
空しさの予感と恐怖 47 
迷惑ボランティア 6 
迷惑をかけるな 72 38 
もうひとつの自分 43 
持ち味 39 
問題解決学習 57 

や・ら・わ
山アラシジレンマ 103 
ゆさぶり発問 20 47 
余計なお世話 115 91 
欲求中心の自発的学習 119 
夜の魔力 105 
楽園追放 40 109 
履修要覧 45 
利他的利己主義 142 
流転 63 
劣等感 38 
魯迅 35 
わがまま 71 
枠組 50 35 82 88 108 140 
私は今は 41 

[著者のプロフィール]

 徳島大学大学開放実践センター助教授。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員、昭和音楽大学短期大学部助教授を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。
 生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報提供、パソコン通信、パソコン活用などに関心をもつ。現職のほか、総務庁、文部省、新国立劇場、千葉県などの情報システム関連委員、東京都、神奈川県、佐野市、桶川市、葛飾区、新宿区、中野区、練馬区、大和市などの生涯学習・社会教育関連委員、東京都青少年センター運営委員、神奈川県保健医療人材育成検討委員会委員、神奈川県青少年協会、横浜市港南区役所まちづくり塾運営委員会委員、全日本社会教育連合会月刊誌「社会教育」の編集委員、徳島市学遊塾運動アドバイザー、看護学校講師などを務める。また、狛江プータロー教室(狛江市青年教室)、練馬元気が出る講座(春日町青少年館)の年間講師など、社会教育現場でも頻繁に活動し、現在は大学公開講座「私らしさのワークショップ」等で張り切っている。

初出
 本書は、授業での出席ペーパーとのやりとりを中心として構成されているが、ほかに、筆者が全日本社会教育連合会「社会教育」に数回にわたって執筆した論文も、かなり手を入れた上で組み込まれている。その他、5章の1「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」は、神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」(1995.9)、6章の1「高等教育の根底的転換」は、神奈川県「平成6年度神奈川の大学における生涯学習関連事業実施状況調査結果報告書」(1995.3)に寄稿したそれぞれの論文をもとにして書かれている。また、赤尾勝巳・山本慶裕編『学びのスタイル−生涯学習入門』(玉川大学出版部、1996.10)においても、筆者が「ネットワークのつくり方」という章を分担して執筆している。

癒しの生涯学習
 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−
1997年4月5日 第一版第一刷発行
1999年3月10日 増補版第一刷発行


 〒153−0061 東京都目黒区中目黒1−2−6 学文社
 TEL 03−3715−1501 FAX 03−3715−2012

「狛江の教育」 狛江市教育委員会
 480字
狛プーにおいでよ
−癒しの生涯学習−
昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士
(狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室(狛プー)」年間講師)
(未定稿のため転載厳禁)

 狛プーには全国各地から見学者が来る。そういう人たちをメンバーは「気楽に遊びにおいでよ」と歓迎する。「来る者拒まず、去る者追わず」のネットワークである。最近はMXテレビの取材まであった。各地の一般の青年教室が思いもつかなかった新しい学習テーマに取り組んでいるわけではない。むしろ、「活動内容なんて、楽しければいいじゃない」と居直ってしまっているところに狛プーの特徴がある。一人ひとりの自由なプータロー精神と、今あるがままの自他を認め合う肯定的な雰囲気が、狛プーの特徴である。これが魅力なのだ。
 それはそうだろう。狛プーの「一年に一回来ればメンバーだ」、「いい加減はよい加減」という「お約束」を聞けば、多くの人は「それなら行ってみたい」と思うはずだ。これに対して、従来の教育は、成長ばかりに関心をもち、人びとをガンバリズムに追いやってきた。いま、若者や現代人が求めているのは、自分らしくいられるときと場、すなわち居場所であり、これを創り出すひとのネットワーク、すなわち異質同士の水平な交流である。それがあってこそ、自発的に成長に向かう元気だってわいてくる。ぼくはこれを「癒しのサンマ」(心を開いて交流できる時間・空間・仲間の3つの「マ」)と呼んで、いま、そのサンマづくりに夢中になっている。(参考 自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』学文社)
神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」原稿

情報化時代のコミュニケーション
昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

1 「新しい民主主義」としての情報化
 現代青年にとって、本当は必要だが実際には一番遠い所にある情報として、地域や行政の情報があげられる。青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。非日常志向は、青年期の独自の発達課題の表れの一つでもある。しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そのためには、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれたワンダーランドであることに青年が気づくことができるよう援助する情報提供を実現したい。
 そのうえで、@これらの情報が現代都市青年に充分には提供されていない現実を認識すべき、A今あるこれらの情報を、偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」に縛られない開かれたものに、B非日常としての魅力をもった地域情報、行政情報をと、ぼくは自著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』(平成3年4月、学文社)において提言した。
 じつは、今日のインターネットなどの情報通信技術は、とくにAなどの提言をいやおうなしに実現しつつある。たとえば、去年から今年にかけてインターネットのホームページをもつ自治体が急激に増えつつあるが(財団法人AVCC『インターネットと生涯学習1997』より)、そこでは、該当地域の人たち、しかも、実質的には行政に関係する一部の市民だけが見てくれればよい、という馴れ合い的な広報の姿勢では明らかに見劣りすることになる。オープンマインド(開かれた心)のもとに、どれだけ全地球的視点、即時の柔軟な対応、市民参加型の双方向交流が盛り込めるかが勝負どころとなる。
 そもそも、情報化の進展は、光の側面(影の側面も別にあるが)においては、専制国家がいくら情報を操作しようとしても、空(衛星放送等)などからほんとうの情報(?)が人民の上に降ってきてしまうという情報民主主義の性格を有している。この側面は十分活用するのが生産的だといえよう。

2 自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権
 市民発信型の今日の通信は、どういう点でネットワーク的なのか。まず、「撤退の自由」がある。電子的仮想空間であるから、撤退しても生活に響かない。「親しくなりたいけれども、傷つけたり、傷つけられたりしたくない」という「山アラシのジレンマ」 の若者にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。年齢や外見なども知られずにすむ。さらに、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向と考えられる。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることができる。本来のフェース・ツー・フェースのコミュニケーションに向かっていく自信や意欲も、そこからわいてくるかもしれない。
 さらに、情報化の進む現在、課題となっているプライバシーや著作権の保護の到達点のもうひとつ先の段階に、生涯学習社会の移行途中の今日、突出的空間として見え隠れしている水平異質共生のコミュニティがある。そのひとつは、「私はこれだったら得意だから、みんなに教えてあげるよ」という生涯学習ボランティア、「こういうことを考えたからアップロードしておきます。よかったらぜひこれをほかにもどんどん紹介してください。著作料(財産権)はいりません。でも出所は私であることは明らかにしてくださいね(氏名表示権)」という情報ボランティア、そういう人たちが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界である。アマチュアによる知的生産や情報発信にはそういう強みがある。ぼくは、これを、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼んでいる。上下同質競争に飽き足りなくなって、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが生まれつつあるのだ。こういう自立した人間同士の交流こそ本当の癒しを与えてくれる。

3 実感に裏打ちされた言葉を求めて
 しかし、いまだに、この世の主流は、多様な価値を受容できない上下同質競争社会だ。そこでは、たとえば家族関係が病んでいく。病理とまではいかなくても次のようなことはごく当たり前に起こりうる。
 3人称の関係であれば「どちらも一理ある」としてあきらめて終わることでも、「私とあなた」の1人称と2人称の家族関係だと、あきらめきれずに、「私のいうことが真で、あなたのいうことは偽」と互いに主張して譲らない不毛な争いを延々と続ける状況がある。なぜそれが不毛かといえば、たとえ正反対のことを感じたとしても、どちらの実感にも「間違い」などというものは存在しないはずだからである(アンビバレンツな真実)。間違うとすれば、「であるべき」「であるはず」「みんなそうしているのだから」などという不合理な思い込みや信念のレベルにおいてである。そういうもともと歪んだレベル同士で真偽を争うとしたら、これは気が遠くなるような不毛な争いである。ところが、「思い込みや信念のレベルでも自分は正しくなければいけない」などという客観的には明らかに無茶な考え方を植え付けられているものだから、相手が偽であることの証明に執着しがちになる。本当は、「あなたはあなた、私は私」こそが人間関係の真実の姿であり、実感レベルでは、どちらも理があり、真であるということに気がつきたいものだ(自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』、平成9年4月、学文社)。
 今や、子どもや若者たちの頭上に、メディアが、学校が、親が、大人たちが、自分たちの実感を大切にしないまま、そして自分自身のことにほとんど気づかないまま、深い感情に裏打ちされることのないほとんど無意味な言葉を洪水のように浴びせかけている。青少年を取り巻く大人たちは、まさに「ほざいている」(小児精神科医河合洋の表現)だけの状況なのだ。
そこで悲鳴をあげている若者たちに、ぼくはこう呼びかけたい。「インターネットやパソコン通信に逃げておいで。そこで、自負をもって君の実感を語ろうよ」。また、青少年指導者の皆さんには、「ご苦労さまです」ではなく、「ラッキーなお仕事をされていますよね。一回しかない人生を実感を交流し、味わいながら生きていけるわけですから」といいたい。ぼくは、青少年や他者の「個の深み」との出会いを味わい、癒されるコツとして、次の3つをあげている。@対話と共感(シンパシー)、A共感したことの伝達(ストローク)、Bこちら側の枠組の開示(エンカウンター)。(前出『癒しの生涯学習』参照)
若者が癒され認められる教育を

 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

 快楽殺人、超異常犯罪など、とんでもなく悲惨な事件を、いま、一部の若者たちが引き起こしている。大多数の若者は、これに対して「ばかなことをするものだ」という程度に思っているのだろう。共感もしないけれど、批判もしないというところか。しかし、多くの大人は、とくに青少年に関係する大人たちは、このままでは世の中は大変なことになると危機感を募らせていると思う。だが、ぼくは、こういうショッキングな出来事に対しては、少し距離を置いて、なおかつ現代のふつうの若者たちの、あるいは大人たちの、一人ひとりの心の中にゼロ・コンマ・何%かは共通するかけらがあって当たり前だというぐらいの冷静な感覚で、これらの異常な出来事を見つめていく必要があると思う。
 若者も大人も、自分にとって大切な実感をどこかに置き忘れて、自分自身に気づかないまま、「今の若者はけしからん」、「警察はもっとしっかりしろ」、「いや、学校が悪い」、「いや、今の家庭がだめなのだ」などと、自己の本当の痛みにさえも気づかず、ヒステリックに叫びあう姿こそ、現代のぼくを含めた一般多数の人たちの不幸を表していると思うのだ。異常者はどんな世の中になっても、確率的に何人かは出てくるはずなのだから、「誰が悪かった」という犯人探しのようなことはあまり意味がない。それよりも、そういう「例外的な」人間による悲惨な犯罪の発生を最小限におさえるために、家庭、学校、地域、社会のたくさんの人たちが力を合わせることのほうが緊急に必要なことなのではないか。
 さて、現代人はそんなことを近いうちにできるようになるだろうか。これはなかなか難しいことだと思う。ここに、現代の青少年育成活動のより根底的な問題があるのだ。突出的に悲惨な犯罪が起こるたびに対処療法的な方法を求めて右往左往することよりも、多様な価値観の渦巻くなか、奇妙に画一的に進みつつある一般多数の人びと同士の関係のなかにごくふつうにぽっかりあいた空虚こそ、ぼくたち自身が真正面から見つめて寄り添っていかなければならない人間的、時代的真実なのだ。その点では、悲惨な犯罪の行為に対しては厳しく糾弾しながらも、それを起こした「例外的な」犯人の若者に対しては、ぼくたちのゼロ・コンマ・何%かの共通するかけらから共感的に理解しようとすることこそ、実感に立ち戻り、本当の自分に気づき、ひいては今後の共生社会の創出につながることなのだと思われる。異常犯罪は、一般多数のぼくたちの影の部分の極端な象徴にすぎない。
 先日、ある研修会の講師として「幸せの瞬間」を出し合うゲームを行ない、ぼくは100%共感可能性を主張した。100個の幸せが出されたとする。ぴんとこないものがあっても、「どんな気持ちなんでしょう?」と聞こうとするだけの相手をわかりたい気持ちと、許された時間さえあるのならば、100個のうちの99個ではなく、100個のうちの100個すべてを、時空間をともにするすべての人が「ああ、そうか」といって共感することができるのである。しかし、ある人が出席ペーパー(講師に対して何を書いてもよいというシステム)に「100%というのは、99.9%の間違いではないのか。なぜなら、超異常犯罪者が『人を殺しているとき』と言ったとしたのなら、私たちは共感できないだろうから」と書いてきた。その日のディスクジョッキータイム(ぼくから出席ペーパーを紹介し、コメントする時間)で、ぼくはこの人の「人を傷つける喜びには共感したくない」という気持ちに共感を覚えながらも、「殺人犯に対してでさえも、だれでも本当は共感できるものをもっているのではないか」と答えた。「人の不幸は蜜の味」というではないか。写真情報誌だって、他人のハッピーな様子よりは、失敗や不幸の様子を覗き見る楽しみが満たされるように編集されている。むしろ、問題は、そういうわれわれに共通する「悪の部分」を見て見ぬふりをして、すなわち自己抑圧をして、社会の物差しにあわせるための無理な「信念」を貫こうとするところにあるのではないか。この「信念」によって実感や共感がないがしろにされてしまっているのだ。
 本当は、悪への共感さえ、恐いことではない。なぜなら、共感とは1%あるいはゼロ・コンマ・何%以下の一致や理解であって、一人ひとりにはもっと異なる楽しいかけらもいっぱいあるからである。青少年の育成や教育は、善と悪の入り交じった一般多数の若者たちのアンビバレンツ(両面価値)な実感を共感的に理解しつつ、とくに彼らの「人の不幸は蜜の味」ではない方のかけらを探し出し、大いに認めようとする営みにほかならない。ただし、100%の理解には到達しえないという宿命については、「そんなものさ」とあきらめておいたほうがよい。このことをぼくは「無知と非力の自覚と受容」と呼ぶ。「男と女の間には暗くて深い河がある」という。相手の岸辺にはいつまでたってもたどり着けないのである。そればかりか、自分自身についてだって、わからないことがいっぱいあるではないか。100%の真実や自己理解に到達してしまうことが万一あるとしたら、かえって、生涯学習だって面白くないし、その後の生きていく意味だって見失ってしまうのである。
 一般の若者たちをはじめとする一般多数が、無自覚にせよ、深く傷ついた状況のなかで、いま何を求めているのか。それは「かまってもらうこと」であろう。人間は、かまってもらえなければ生きていけないという社会的存在なのである。これに関連して、多くの若者たちが支持し、一世を風靡したアニメ「エヴァンゲリオン」の基本的テーマは、「ヤマアラシのジレンマ」だとぼくは思っている。これは、寄り添いあいたいが、かといって、お互いの針で傷つけ合いたくはないというジレンマのことである。コミュニケーションをすることは確かに恐い。それなのに、やはりかまってもらいたいのである。
 ぼくは、東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)に年間をとおして講師として関わっている。狛プーでは、プータローの自由な精神をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。そのメンバーの一人が「狛プーは、あるがままの自分が、両手を広げて歓迎される場だ」と言ったことがある。変容(成長・発達)するためには受容(承認・癒し)が必要不可欠である。若者の「人の不幸は蜜の味」ではない方への変容のためには、地域のあらゆるところにそういう無条件肯定ストロークをやりとりできる「癒しのサンマ」(サンマとは時間・空間・仲間の3つの間)が必要なのだ。そこでの体験からどんな自己変容が期待できるか。ぼくの答は「人の幸せが蜜の味」という人生の生産的構えへの変容である。これが社会的存在である人間が幸福になるための必須条件なのである。
 人びとを癒されない状態に追い込む上下同質競争社会において、このようにして水平異質共生という「もう一つの価値観」の居心地のよさを提案する仕掛け人の存在は非常に重要である。ぼくは、これを、教師、職員、有志指導者(ボランティア)などの指導者の現代的な役割だと考えている。彼の存在に対して、肯定的に関心をもち、共感的に理解しようとして対話し(ダイアローグ)、彼に対して理解できたことについて伝えることによって存在を承認し(ストローク)、その上でこそ、上下同質競争の不当性に気づかないままそのなかで苦しんで生きている彼と本音でぶつかりあって(エンカウンター)、水平異質共生に向かった気づきを促すのである。教育という仕事、あるいは指導者の仕事は、彼らの「個の深み」に水平に出会えるこのようなチャンスがあふれているはずだ。
 ぼくは、教育=学習支援、またはぼくの言葉では教育=幸福追求支援、の等号には暗くて深い河が流れていると思う。ぼくは、まず、この暗くて深い河の存在を伝えていきたい。つぎに、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人がいる。たどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿なのではないか。

筆者紹介
西村美東士
 学生や職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。1953年生まれ。東京都社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て、現在、昭和音楽大学短期大学部助教授。関心は、生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報提供、学習相談など。著書に『生涯学習か・く・ろ・ん』『こ・こ・ろ生涯学習』『癒しの生涯学習』(ともに学文社)がある。狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師など、社会教育現場で意欲的に活動している。総務庁青少年対策本部や本協会中長期構想策定委員のほか、県生涯学習ボランティア活動推進委員、県保健医療人材確保対策推進委員、厚木市社会教育委員、横浜市港南区役所まちづくり塾運営委員会委員など、県内の各種委員も数多く務めている。

写真説明
1 狛プーの富士五湖キャンプにて
2 狛プーと網走の青年団体との交流会(筆者は左一番手前)
   (中央のネクタイ姿は狛プー担当職員の岩崎さん
     連絡先 狛江市中央公民館 03-3488-4411)

自分らしさを見つけようとする学習者たち

5000字=40字×125行

昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

 江戸川区で、本年平成9年の2月から3月にかけて計6回の「区民カレッジ“自分らしさ”ってなに?」が開かれた。ぼくは担当の高野さん(一般事務)から全回にわたる講師として依頼されたので、企画段階から張り切って関わらせていただいた。この事業のメッセージは次のとおりである。
 「自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶ。生涯学習の時代といわれる現在、生きがいを求め、また、自由時間を充実させるための、さまざまな学習機会があります。この講座では、ワークショップ方式をとり入れ、受講者のみなさんで講座をつくっていき、楽しく学ぶことを通して“自分らしさ”をワクワク・ドキドキしながら発見していきます」。
 日時は毎週水曜日午後7時〜9時で対象は区内在住・在勤者30人で、申込多数の場合は抽選の予定であった。じつは、ぼくは、「自分らしさってなに?」というキャッチフレーズついては「目的の見えにくいそんなテーマで人が集まるのだろうか」と、最初はやや懐疑的であった。ところが、広報えどがわ2月1日号と区施設へのチラシ1,600枚(40施設)によって、実際に募集を始めたところ、高野さんが次の葉書を応募者に送るまでに至った。
 「区民カレッジ『“自分らしさ”ってなに?』にご応募いただきありがとうございました。定員30名のところ、70名の応募がありました。本来なら、抽選をしなくてはならないのですが、講師の好意により全員受講できることとなりました。会場が多少せまく、窮屈になるかとは存じますが、ご参加をお待ちしています」。
 講師の好意なんてものじゃないとぼくは思う。ぼくはむしろ見通しを誤ったのであって、高野さんの若いセンスが市民(おもに中高年)に受け入れられたのである。ぼくとしては、せっかく応募してくれた人を一人でも門前払いにすることは辛くてできない。大学だって、本当は入学を希望する人なら全員入れてあげたいぐらいなのだ。狭くて窮屈な会場がいやになった人や、ほかの事情で途中でやめたくなった人は、潔く撤退してもらえばよいだけの話だ。そんなことよりも、「自分らしさ」を見つけたい、見つめたいという市民の要求の高まりに対して、言葉ではわかっていたつもりでも、実感としてはきちんと感じ取っていなかったぼく自身が認識を新たにしたことであった。
 プログラムは次のとおりである。ワークショップ(ゲーム)の実際の進行方法などについては自著『こ・こ・ろ生涯学習』の巻末資料や『癒しの生涯学習』(ともに学文社)を参照していただきたい。

江戸川区民カレッジ「“自分らしさ”ってなに?」プログラム
回 テーマ 内容 ゲーム名等

1 私らしさってなんだろう? 自分さがしの相互承認の出会い 第一印象ゲーム
2 コミュニケーションはキャッチボール 共感能力を高める ジェスチャーゲーム
3 空白のプログラム??? 講師なし
4 さわやかな自己主張 引っ込み思案をなおすコツ ブレーンストーミング(幸せの瞬間)およびロールプレイ(お願いトレーニング)
5 自分のためのボランティア 自分らしさを感じるとき 価値観ゲームおよびスクエアゲーム
6 学習の達人になる 自分らしさの楽習  拍手で合図および銭まわし

 参加者へのお知らせについては、ぼくとの相談のうえで、高野さんが次の「講義の進め方」という案内を事前に参加者に郵送してくれた。

1 講義はすべてミニレクチャー(1回15分程度)方式です。
2 講義では、ゲームによる楽しくかつ盛り沢山のメニューが組み込まれています。しかし、皆さんの中には、ゲームに抵抗がある方もいらっしゃると思いますが、なるべく抵抗の少ないものを行う予定でいます。(ゲーム途中は、パスや高見の見物も結構です。)
3 毎回出席ペーパーというものを提出していただきます。ルールは次の通りです(略・どんなことでも自由に記述するもの。毎週、次回の講義の前半の「ディスクジョッキータイム」のなかで紹介し、コメントした)。
4 講義が終わったら・・・講義中、講師と話せなかったこと、講義後でないと話せない内容など、講師とのおしゃべりを希望する方のために、通称“フリースペース”という名の懇談を催します。お時間の許す方はどなたでも可能です。
ひとくちメモ〜ワークショップ〜=@一人一人の個性やアイデアを引き出しながら、進むべき方向をみんなで模索していく方法、A協働作業を通じて、参加者の前向きな意欲を引き出し、お互いの考えや立場を学びながら、合意形成を図っていく集会の形式、などと定義づけられています。

 初回は各参加者から提出された「受講理由」に、2回目以降は「出席ペーパー」に基づいてディスクジョッキータイムを行なったが、そのいくつかを紹介したい。矢印以下はぼくのコメントのキーワードである。
@ 初回の受講理由
◇欠点の固まりの様な私は何事にも臆病で苦痛な事が多いのです。自分に自信の持てるものがないからなのでしょうね。とくに言葉づかいのヘタな私は上手に表現できず誤解されることが多いのです。人をうらやましく思っても仕方のないことなのですが、自分らしく暮らすということは難しいことです。50歳も過ぎるというのに少しも進歩しない私は、いくじなしです。こんな大人で恥ずかしい限りです。このチャンスに自分を見直すことができればと思いまして「区民カレッジ」の趣旨に反するかも知れませんが勇気を出して応募してみました。→自己受容トレーニング「私は私が好きです。なぜならば・・・」
◇自分を省みる暇もなく、ただひたすらに60歳の定年まで仕事々々に没頭してきた。今、自分に自由に使える時間が与えられたのに、どうしていいか迷うのみで手がつかず、1つの悩みとなっている。人に指図されたものをこなすだけだった過去の人生。これからどうやって自分らしく生きていくべきか悩んでいる。→エネルギーを使うが人生の風景を味わうことの意味
◇自分って何だ。人とのかかわりあい、生きかた、人生のすばらしさ、皆と仲よく生きたいのにごたごたしている、それは悲しい事である。喜びと感謝の人生を求めて。→本当の仲良しとは何か=支持的風土
◇自分を知り、自立することについてあらためて考えたい。一生(高齢者になっても)社会に関わり、社会に自分の居場所のある人生を送りたいと思い、今回参加させて頂きました。→癒しのサンマによる社会的承認と社会貢献
◇子育ても一段落をし「あれ、自分っていったい何者なのだろう」と考えたり、本を読んだりすることが多くなりました。そして今小学校のコーラスにも参加をしており、もっと伸びやかに楽しく自己表現できたら周囲ともに向上していきそうです。→過去の文化遺産の比べあいの自己紹介から、「今ここで」の私とあなたの自己紹介の意味
◇お姑さん、義姉の介護、その後、孫のおもり等、今までは自分の自由な時間を考えての生活がなかったので前々から私の生きがいとはなんだろうか、私にできるものはなんだろうかと思っておりました時に、この講座を見ましたので申込みました。→ボランティアの合い言葉=経歴を捨てて経験を活かせ
◇皮細工5年、民謡10年以上、手芸5年、詩吟1年カルチャーでお世話になりました。今年はこのようなこともよいと思い希望しました。→研修の目的は、知識の修得、技能の向上のほかに、態度の変容がある。ただし、自他受容の態度変容。
A 第一印象ゲーム
◇私らしさってなんだろう?はじめての人ととってもおもしろく話せた。みとちゃんステキ。→自然体か。授業では難しい。
◇今日のゲームの何のイミがあっのか。充実感なかった。→1%の批判の意味。自己開示のコツは「かけら」の開示。
◇グループの中で最低の得点だった。いかに人のことには関心がないかがわかった。「自分にだけに関心がある性格」だと再認識。→ひとへの関心=自分への関心
◇とても楽しいひとときでした。人間っていいなという感じをもちました。自分ってわかっているようでわかっていない。人にどのようにみられているのか、とても興味がありました。→相手に対する無条件肯定的関心
◇生涯学習(何のために、何をやったら)がわからなくて迷っています。今日のゲームでいろいろとヒントになりそうな気はしますが、とにかく楽しくやっているうちにその辺が見えてくるのか期待しながら続けていきたい。→自分のため
◇自分で思っている自分と、人から見た自分が違い、自分のことってけっこう知らないものだと思いました。→無限の可能性
◇今日は、自分の本当の姿を出すことをこわがっている自分を発見しました。→自己開示のコツ=開きたい心を開きたい場面で開く
◇先生のおっしゃる“居場所”とか“人との関係”って、BF(恋人)にもつうじますか? 大変興味有ります。Help Me!!→いい男といい女のサンマ、でも彼は特別。
◇お話ばかりだと昼間精一杯働いて直接来るので、とも思ったのですが、意外なレクリエーション、とても楽しかったです。こういう風だと、しゃべるのが苦手な人でも楽しく過ごせると思いました。来週が楽しみです。→パスもあり。その人なりの参加の仕方で。
◇自分らしさ、その人らしさとの出合いのテストにて、自分がほんのちょっと見えた感じで何だかうれしい気持ちです。このようにみられたのかと本当にとってよいのやら。でも、幸せな感じでいます。→気持ちのよい笑い、共感の笑い。
Bジェスチャー
◇女子校に通っているせいか、“いろいろな男の子(人)を知った上で、BFができる”状態になることがかなり無理です。どちらかと言うと、「今の若い子に多い」と先生がおっしゃった恋愛に近い気がします。ちょっぴり悲しいけど、“恋愛だけが人生ではない”なんて強がってみたりして…。→ツーショット願望からのシフトアップ
◇ジェスチャーゲームは今までやったことがありそうでなかった。TVではよく見ていたけど、実際やってみるとかなり難しかった。当ててもらった時の喜びは何ともいえないうれしさだというのを実感した。→ひとから関心をもたれること、わかってくれようとしていることの喜び
◇短時間に内容をまとめて皆さんにわかるよう表す難しさ。どんどん解答してくださる方にすがりたくなります。協力って大切ですね。→迷惑をかけない関係よりも「してあげる、してもらう」のネットワーク型の関係へ
◇いろいろやっているうちに、本来引込み思案と思っていたのに、だんだん図々しくなってきたのは年のせい? 本当はものすごくおせっかいで、だまっていられない性格なのかも。今日は楽しかったです。→若さ=自由な子ども心の回復
◇ジェスチャーゲーム、子どもになれた。大勢が集まるとなんでも答が出るのに驚いた。ポイントをつかむことが大事だなあ。自分を表現する芽が出た感じ!→わかろうとしてくれる支持的風土
◇ジェスチャーなんて見る方は楽しいが、やる方は難しいですが、早くあててくれたのでホッといたしました。→「全部わかってほしい」から「数打ちゃ当たる」へ
◇本日は久々に大きな声を出せたと思います。元気が出ました。→「出さされる」のとは違う喜び
B空白のプログラム
◇今日は17人の皆さんと本当にたのしい語らいができ、うれしい気分になりました。いつも会社とかの上下関係の中で言いたいこともいえず、ちょっぴり不満をもつことがあります。そのようなものをふきとばすこころよい二時間でした。みんな話せばわかるはずですのに…、ギクシャクしてしまいがちです。あと3回の講座をたのしみにしています。→空白の意味、職員には辛いけれども
◇今まで会ったこともない人たちだから素直に自分を見せられるのかなと思います。でも意見や感想を話したあと、あの人いやなこというわねなどと思われたかと気になるのを何とかしたいです。→文化的孤島の意義
◇前回は出席できなかったので、今日先生がお休みであることも知らずにきていました。7時10分くらい前に来て、私が3人目だったので「帰ろうかなあ」と思ったけれど、「自分が参加したくなければいつ退場してもいいし、パスしてもいい」という言葉を思い出して一応座りました。自己紹介が始まって、あとのトークまで、おもしろくて楽しくてホワッとした空気のなかであっという間に終りの時間がきてしまいました。それにしても、年齢も職業も性別も違う人たちが、これといった共通の目的もなくフワッと集まっているこのサークルは不思議な場所だと思います。→目的集団に対する生活集団
◇おしゃべりだけの時間になったが楽しかった。人がそれぞれ生活してきて、何を感じ、何を考えているのか教えてもらい、とてもおもしろい。これは16〜20歳位に悩むのと同じようだけど、思いかえせば若いころは、生活感がないだけに思いもまた違っていたなと思った。違う世代の人、環境の人といることで違いがあり、自分らしさがそこでわかるのかもしれない。今は何の欲もなく、ただ受け入れる毎日がとても気持ちがよいのです。→水平異質交流による人間の真実との出会い
◇いっぱい話し合いができました。いろいろな日常生活の人たちで私のような凡人の日常がうそみたい。皆さん働き者で感心。→潔い怠け者も歓迎される。
◇残業して遅くなったんだけど、今日はmitoさんがお休みで、高野さん一人だということで急いでかけつけました。思った通り人数が少なかったんですが、一人づつ自己紹介、その後、盛り上がる盛り上がる、皆さんのとても貴重なお話、本音でのお話、来てよかったなあと思いました。人と人との触れ合いって本当にいいものですね。→職員は住民に愛され育てられる。
C幸せの瞬間とお願いトレーニング
◇今日の「幸せの瞬間」はおもしろかった。幸せっていっぱいあるんだということがわかったので、小さな幸せを毎日さがしていきたい。お願いのゲームはつらかった。断るのがすごくへたで、悪いと思っちゃうくらいだから…。でも、お願いするのも大変だった。日頃他人様に迷惑はかけないというのが生活信条なので、お願いがこんなにへただったなんて…、甘えるのとは別なんですね。いろんな感情を経験できるっていいなあ。→さわやかな依存=自立
◇お願いトレーニングは、とても自分の性格が出るゲームだと思った。絶対に妥協しない自分、あの人に頼まれても絶対やってやるものかということが、今まで何回かありました。最後まで断り続けました。でも、うまいお願いの仕方ってあるんですね!→ひとから学ぶ
◇お願いでは苦しまぎれに口から出まかせを並べました。責任のない良さなのでしょうか。日常生活でも“かるいうそ”をとりいれるのも悪くないのではと。→うそにならない言い方もある。「かけら」をしゃべる。
◇根本は同じ考えでも、各々感じ方が違っていたり同感だったり、ちょっと自己嫌悪になったり。でも、それが自分なのだと思いました。勉強になりました。→受容=いつもの笑顔で反省
◇お願いするってとても難しい。こんなに難しいとは思わなかっただけにちょっとショックを受けました。ちょっぴりくやしい感じ。→「正しい人が勝つ」のではなく、そうでない人同士の頼り合い、助け合いが信頼である。
◇幸せの瞬間のことを考えていると自然に顔がにんまりしてしまう。みんなの幸せの瞬間をきくと「ああ、そうそう」と思うことがたくさんあった。自分で思いついたことは少なかったけど、実は幸せっていっぱいあふれているんだと気づきました。落ち込んだときは、幸せを感じる時のことを想像して、せめて顔だけでもリラックスしよう!→他者の幸せの枠組との出会い
◇お願いゲーム、相手の申し出を断ることの難しさを実感。どうしてもワンパターンになってしまいます。→本当の「許し」とは、最初にきちんと断ることから始まる。
◇断わるのって難しいですね。今日のゲームみたいに楽しく日常生活のお断わりができたらいいな。とにかく後々を考えて、自分の意見がいえない私。今度機会があったら今日のようにやってみます。→結果を恐れない。「しようがない」は、そのあとで。
◇さわやかな厚かましさ、見かけより非常に遠慮ぶかく、お願いする前にあきらめてしまう性格、もう少し厚かましくしたら、また、違う自分を見い出せるのかもしれない。→負け犬にならないためのあつかましさを。
◇笑って笑って笑いまくった一時間でした。ありがとうございました。→共感の笑い
◇お願いトレーニングは、仕事でお願いばかりしているつもりでしたが、いざというと思いうかばないものですね。汗かきました!(冷汗かな?)→仕事なら楽なので、そこから入る手もあり。
◇幸せの瞬間って意外にあるものなのだとわかった。それを日常生活では気づかずにすごしている…。→気づきによる潜在の顕在化
◇普通でしたら初めから厚かましいと思ってあきらめていることを頼んでみると、面白くて大いに笑えました。→あとから結局「エーッ」と思わせるよりは親切。
D価値観ゲームとスクエアゲーム
◇5回出席して感じたことは、自分も幸せ、皆も幸せになるような気がしました。→限りある地球に対する限りなき学習
◇価値観ゲームのうち自己実現/正義/時間の比較でペンが止まってしまった。奉仕はしたい心があっても一番あとになってしまった。生き方のせいか・・・。→あるサークル会長の言葉「奉仕だと思ったことがない」。
◇“価値観”って人によってずいぶん違うものだと感心した。とてもユニークな講座で、色々な人と気さくな話ができたのがとても有意義。ありのままの自分を出せるようになって、引込み思案で人見知りがちな自分が少しは変わってきたかも。→人間に対する基本的信頼の感覚
◇スクエアゲームが難しかった。自分が完成すると安心してしまうが、人にも気づかうことの大切さを改めて感じた。思いやりのある気づかいを心がけていきたいと思った。→気をつかうから、気がきく、気を配るへ。「あげることによってもらえる」という大技がある。
◇スクエアゲームを通して自分がそろってほっとしてしまいますが、全員がそろうまで力を合わせるという感じがとても楽しかったです。異なった価値観ゲームは、色々な人が色々な感じ方をしているのでなるほどなあと思い、とても楽しかったです。→互いに認め合う雰囲気さえあれば、十人十色は楽しいこと。
◇価値観ゲームで愛が1位で奉仕が6位、意外な結果でした。いつもはどちらかというと冷静で、人にはおせっかいと思っていましたから。ただし今回の愛は親子とか夫婦のような愛ではなく、もっと広い意味ですべての愛とし、生きるものへの愛と考えました。→その判断の仕方にその人らしさがある。
◇今日は行くのを迷ったけど来て良かったです。→自主休講、自主卒業
◇今日のスクエアゲームで口をきけない、態度で示してもいけない、といわれているのについ手が出てきてしまい苦笑。手持ちが一つもなくなって(少し気前が良すぎたのかな)、でも新しい展開ができてうれしかった。→自分を嗤う=自己客観視
◇今日は遅刻してしまいましたが、すぐゲームに入れてよかったと思います。スクエアゲームの「無言でグループの人たちのために考える」って素敵ですね。→神様が通った=実感あふれる心の交流としての沈黙

 ぼくは、計6回の講座をとおして、他者がどんな枠組をもっていて、どんな実感を感じているのかを知ることこそ、自分らしさを見つける最高の方法だと感じた。
グループ活動はなぜ楽習か
 昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士(mito)

楽習と共育
 学習は苦虫をかみつぶしたような顔をして行うもの、教育は上の者が下の者に一方向的に教え育てるものというのは、誤った考え方ではないか。そんなことから、学習を、自分が楽しいから行う、すなわち「楽習」としてとらえ、教育を、教える人も教わる人から学ぶ、あるいは教えあう、学びあう、すなわち「共育」としてとらえようという考え方が出てきている。「楽しく習う“とも育ち”」というわけである。生涯学習も「学びたいことを、学びたい手段で学ぶ」という自主性、主体性の世界であるから、この楽習と共育の考え方がぴったり当てはまる。
 なかでも、この世に多様に展開されているグループ活動においては、ほかでは得られないような出会いと気づきの学習機会があふれている。それは、本号に収録された活動事例を見るだけでも実感を伴って読み取ることができるだろうが、ここでは、ぼくは、グループ活動がなぜ代表的な楽習の場になりうるのかということについて考えてみたい。

自己決定や共感が失われつつある現代
 先日、短大1年女子学生から次のような出席ペーパー(自由記述)が提出された。

 自己決定自体、しても、しなくても、どちらでもよい。ただ、迷惑をかけたり、かけられたりするのはいやだけど。
 (思春期の少女の摂食障害のビデオを見て)私は彼女たちのことを可哀相とは思わない。本人はつらいとかいっているけれど、本人の願いどおり体重が激減しただけのこと。ビデオで彼女たちもいっていたとおり、「病気になって、かまってもらいたかった」からそうなった、つまり自己決定なのだから。

 切ない話である。たしかに、自己決定は権利であって、しなければいけないというものでもないし、また、現代社会においては、自己決定しても通らない、かえって損をするなどということがあまりにも多すぎる。だから自己決定すなわち自立をめざして周りに波乱を巻き起こすよりは、迷惑をかけないようにおたがいが気遣って生きるほうが大切、ということになる。しかし、一方、それは、おたがいが縮こまって生きているという現代の状況をも生み出す結果にもつながっている。
 生涯学習、ボランティア、市民・地域活動の3つの社会的活動を、ぼくは自己決定の活動ととらえる(西村『癒しの生涯学習』学文社、97年)。一方、強制されたために、あるいは、本人に自己決定能力が欠けているために「自己決定」した行動については、これを自己決定とは呼ばないことにしている。なぜなら、たとえばやむなく奴隷になることを「自己決定」した人に向かって「あなたが奴隷になったのも自己決定なのでしょう」ということは不当だと思うからだ。これに対して、グループ活動は、当然、メンバー一人ひとりの自己決定活動でありたい。そこにさわやかさと潔さが生ずる。
 自己決定についてもう少し詳しくいうと、選択の自由だけでなく、撤退、無為を含めて3つの自由の前提のもとに、過去や他人のせいにすることなく、「やりたいから」「自分のために」自分の行動を決定することだとぼくは考える。そういう者同士のあいだに自己とは異なる他者への共感も生まれるのだが、さらには、そうできない事情がある他者に対しても(じつは自分自身にも自己決定できない事情はいつまでもいくらでもあるはず)、同情ではなく、相手の枠組で相手を理解しようとすること、つまり、共感すること、人の痛みを知ることが、とても重要だ。
 自己決定や共感は義務ではない。しかし、自己決定の人生を歩きたい、自他を信頼し、共感しあって生きていきたいという願いは禁欲できない潜在的願望であるはずだ。それを「してもしなくてもよいもの」と割り切ってしまおうとする時代の心理の奥底には、何か暗澹たる敗北感が流れているように思える。
 先日、ある青少年施設の運営会議で、現代の時代の気分を「鬱」とする論議があった。躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽きてしまっているのではないか。そういう時代に人々が求めている自己決定活動とは、大騒ぎできる華々しいイベントなどではなく、一人ひとりの「個の深み」(西村『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社、91年)と静かに対面し、出会いの体験を味わうことのできる「癒しのサンマ」(時間・空間・仲間の三間)なのであろう。これがグループ活動における楽習を創り出すのだ。

信頼と共感の活動を
 信頼は、信じて用いる信用とは違い、「欠点だらけでごめんね」、「いいよ。でも、これは頼むね」、「ああ、いいよ」といって、信じて頼りあうことである。ぼくはこれを「さわやかな依存」と呼んでいる。共感は、同じ枠組で同じように感じる同感とは違い、自分の枠組(判断基準)で相手を推し測ることなく、自分とは異なる相手の気持ちで相手を理解することである。実感が疎外され、各人の物差しが画一化(同質化)されがちな現代においては、かなり困難な課題といえるが、これにより異質のひと同士の水平な、癒される、自立のネットワークが実現する。
 その点、グループ活動のような生涯学習時代における自己決定活動は、「自分のためにやっています」という人たちの実感あふれる癒しと成長の出会いである。そこでは、人々のあいだに基本的信頼と共感的理解が根づいてゆく。そのことは、社会的にいえば、上下同質競争社会から水平異質共生社会への望ましい転換を促す先駆的、突出的な要因になる。
 そのためには、グループ活動は支持的風土のネットワークであることが大切である。
 生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピアコンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識にもつながりがちなのである。現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と出席ペーパーでぼくに怒りをぶつけるように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。
 ピアコンセプトは、ヒエラルキー(階層構造)の支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだが、ピアだけでは残念ながら、癒され、自分らしく生きることのできる関係にはならない。かえって、現在のたての人間関係(ヒエラルキー)を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくったりするだけの結果に陥ってしまう。ピアコンセプトはネットワークへの情的動機の一つであるとは考えられるが、ネットワークにおいては、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心を嗤うとともに、そのような自己の内なるピア意識をも意識的・理性的に乗り越えなければならないのである。
 もちろん、ここでのネットワークは冷たいこころのものではない。むしろ、ほんとうの意味での信頼の関係といえる。これを支持的風土ということができる。それは、みせかけの同調をすることではない。仲間に同調しない場合もそれを安心して示すことができる。人間はもともと無知であり、非力であるのだから、それを自覚してもなおかつそれを受容してこそ(無知と非力の自覚)、自他への信頼と共感が生まれるのだ。ネットワーク型のグループ活動は大いなる癒しのサンマ、楽習のサンマになりうるのである。

注:「サンマ」のあり方については、自著『癒しの生涯学習 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、一九九七年)を見ていただけるとうれしい。

にしむらみとし
1953年生まれ。東京都社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員を経て、1990年から昭和音楽大学短期大学部助教授。担当は社会教育主事課程。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。
〈著書〉
『生涯学習か・く・ろ・ん −主体・情報・迷路を遊ぶ−』1991年
『こ・こ・ろ生涯学習 −いばりたい人、いりません−』1993年
『癒しの生涯学習 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』1997年
(ともに学文社)
ニューメディアをひっかきまわす若い母親たち
国立婦人教育会館新教育メディア研究開発事業 高知市初月小学校PTA
昭和音楽大学短期大学部助教授
   西村美東士
 国立婦人教育会館(以下、たんに会館と呼ぶ)の「新教育メディア研究開発事業」も3年目を迎えている。この事業は「人びとの多様化、個別化する学習ニーズへの対応や家庭教育に関する学習方法の改善、充実を図るため、通信系マルチメディアを活用した遠隔講座のあり方、家庭教育に関するマルチメディアデータベースの開発、提供方法について調査研究を行う」ものである。
 第1年次の平成7年度は会館と北海道札幌市道民活動センターの2会場を結び、フォーラム「家庭教育」として、基調講演とパネルディスカッションが行われた。翌8年度は、1会場の参加者を30人程度、すなわち教室程度の中規模として、会館と、千葉県、新潟県の3会場を結び、3回にわたって遠隔講座「父親の子育て」が実施された。その際、会館が開発したマルチメディアデータベースやインターネットによる情報が活用されている。
 本年度は、これをさらに小規模化して発展させ(!)、遠隔講座「子育てにやさしいまちづくり」と題して、東京の烏山プレーパークをつくる会、大阪のミズ・プランニング、高知の初月(みかづき)小学校PTAという3つのボランタリーなグループをテレビ会議システムを使って結び、千葉大学延藤安弘研究室からの遠隔授業や、グループ間の交流学習が、第4ステージに至るまで展開されている。技術的には、財団法人AVCCなどがバックアップしている。ぼくは本年9月9日の第1ステージに初月小をたずねた。
 初月小PTAは、3年前に2年生の親子行事として「みかづきまちかど探検隊」を実施するなど、いきいきとPTA活動を行っている。これは子どもたちがまちの宝物を発見して地図上に表現するという試みで、学校の先生も「ナゾの人物」として関守の役を買って出るなど、幅広い層のサポーターの大人たちまでもが大いに楽しんだということである(本誌●年●月号参照)。このような地図をガリバーマップという。あたかもガリバーになったかのように、自分たちのまち全体の大地図を眺めることは、いろいろな効能があるようだ。
 午前中、各会場に分散した研究協力者の会議がテレビ会議を通して開かれ、ぼくも一委員として参加した。自画面に自分の顔が写るので緊張してしまった。午後、いよいよ遠隔講座の本番が開かれた。講師の延藤教授「参加者の自由な発想を大切にし、枠にとらわれないプログラム運営を」の考え方のもとに、各地自慢のお菓子の交換会、プラカードによるアンケート実施など、リアルタイムで互いの顔やしぐさが見える通信とマルチメディアの楽しさをうまく活かした交流と学習のプログラムが展開された。
 初月小に集まった高知の若い母親たちは、これらのメディアを十分ひっかきまわして遊んでいたというのが、ぼくの感想である。カメラの準備中も、いつものPTA活動の打ち合わせを平気で楽しげにしている。自画面に写っていた人がいたので、ぼくが「写っているよ」というと、カメラに向かって科をつくるし、写りが悪いので「被写体が悪いんじゃない」とつぶやくと、バシッとたたくふりをする。
 ただ、延藤教授に関しては高知にもファン(?)が多く、画面での登場に親しげな歓声が上がったが、ほかのグループの画面に対しては、活動そのものへの関心はあっても、個人的な関心や知り合いの関係があっての上ではないので、「いまひとつ気軽におしゃべりできない」という母親たちの感想であった。このへんは、やはり、マルチメディアがフェース・ツー・フェースの直接交流の補完、促進の手段としての役割は果たすことができても、直接交流を不要とするまでの効力はないということを示しているのであろう。
 しかし、さすがに「のびのび風土」の初月小PTAてある。今回の遠隔講座についても、「チラッとのぞきにきませんか」というおしゃべり感覚のもと、学年通信で会員に参加を呼びかけている。実際、初月ばかりでなく、どの会場もふだんの活動の場でざわざわした様子が画面に写っており、その限りでは自然体での交流が深まったように思われる。母親たちが緊張しそうになっても、連れてきた子どもたちがいつもどおり騒いでしまうのだ。
 話しあわれた内容は、初月小のほか、次のとおりである。烏山プレーパークをつくる会は、自分の責任で自由に遊ぶプレーパークの意義と、それを役所まかせにしてはいけないということ、大阪のミズ・プランニングは、パソコン通信や電子メールも活用して「子連れだから〜できない」から「子どもがいるからこそ〜できる」という街をめざして、子連れ情報誌や育成講座を実施したことなどについてテレビカメラに向かって語りかけていた。
 初月小PTAにおいては、その会員であるとともにまちづくりのデザインに公私ともに関わっている畠中智子さんあたりが仕掛け人の一人のようである。彼女のように楽しいことが好きで、何でも面白がってやってしまう個性をもった人たちの役割は大きい。まさに「気軽におしゃべりする」ような自然体の水平な感覚で、今後のマルチメディアや通信技術などを「学習ツール」、「新教育メディア」としてひっかきまわして使ってくれると、ニューメディアも人間の匂いのする魅力ある道具に変身できるのだろう。

(ACCESS)
内容面 国立婦人教育会館
TEL 0493(62)6711
技術面 財団法人AVCC
TEL 03(3239)1121

掲載してほしい図・写真について
1 遠隔講座のシステム図
2 初月小PTA学年通信プクプクパットより
 (「チラッとのぞきにきませんか」の部分だけでも可)
自己決定や共感はしてもしなくてもよいものか

昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士(mito)

自己決定しなけりゃいけないの?

 いまの時代状況をどんな言葉で表せばよいのか。
 生涯学習、ボランティア、地域活動における自己決定の重要性(西村『癒しの生涯学習』学文社、97年)を授業で述べたとき、ある男子学生が「mitoちゃんは、本気になって人生には自己決定が重要だと思っているの? そんなわけないでしょう?」とぼくに言った。彼は、親の願うことだからある採用試験を受けるという。ただし、どうしてもそこに入らなければ困るというわけではないから、一生懸命、受験勉強をするというつもりはない、試験を受けさえすれば親も納得してくれるだろうというのだ。たしかに、その後も親元にいてあげて、あくせくせずにそれなりの仕事をして暮らしていけば、親も本人もそれで幸せ、ということかもしれない。
 先日、短大1年女子学生から次のような出席ペーパーが提出された。

 自己決定自体、しても、しなくても、どちらでもよい。ただ、迷惑をかけたり、かけられたりするのはいやだけど。
 (思春期の少女の摂食障害のビデオを見て)私は彼女たちのことを可哀相とは思わない。本人はつらいとかいっているけれど、本人の願いどおり体重が激減しただけのこと。ビデオで彼女たちもいっていたとおり、「病気になって、かまってもらいたかった」からそうなった、つまり自己決定なのだから。

 ぼくはこの文章自体には誤りはないと思う。自己決定は権利であって、しなければいけないというものでもないし、また、現代社会においては、自己決定しても通らない、かえって損をするなどということがあまりにも多すぎる。だから自己決定すなわち自立をめざして周りに波乱を巻き起こすよりは、迷惑をかけないようにおたがいが気遣って生きるほうが大切、ということになる。ほかの学生の中には「自己決定活動の中に癒しなんかがあるはずがない」という者さえいるのだ。しかし、一方、それは、おたがいが縮こまって生きているという現代の状況をも生み出す結果にもつながっている。

共感は義務ではない

 次に、「可哀相とは思わない」である。文面上は、これもかなり正しいと思う。自分の行為が失敗したからといって、「同情」されるのはいやなものである。
 しかし、そもそも、これらの思春期の逸脱行動さえも自己決定に含めてしまってよいのか。さらには「自己決定、つまり、自分で決めたことなんでしょ」と突き放してしまってよいのか。ぼくは、自己決定とは、選択の自由だけでなく、撤退、無為を含めて3つの自由の前提のもとに、過去や他人のせいにすることなく、「やりたいから」「自分のために」自分の行動を決定することだと考えている。そして、さらには、そうできない事情がある他者に対しては(じつは自分自身にも自己決定できない事情はいつまでもいくらでもあるはず)、同情ではなく、相手の枠組で相手を理解しようとすること、つまり、共感すること、人の痛みを知ることがとても重要だ。
 だが、もう一度ひっくり返させてもらおう。たとえば教師には生徒に対する共感的理解が必要だといわれるが、それは教師の義務としてなのか。共感が義務だなんて、ちょっとおかしい。
 先のペーパーに対して、ある社会人女子学生から、次のようなレスポンスのペーパーがあった。

 私は以前まで共感ということができない人間でした。心の中では共感していないのに、表面だけは共感しているようなフリをしてずっと過ごしてきました。私が「共感」を実感できるようになったきっかけは、勉強のために行ったエンカウンター(注・ホンネの出会い)のグループによる体験学習です。その特殊な環境の中で、情動を激しく揺さぶられ、初めて他人の考えを、感情を、感じられたことがありました。でも、その時は初めての体験だったのでよく理解できなかった。
 ところが、そのあと、3年ぐらいたったら、人に「共感」できる自分がありました。自分とは違う枠組を認められるようになったっていうか。そうしたら、他人にイライラすることも少なくなって、いわゆる社会的に「いい人」ではない自分のことも好きになれるようになりました。
 今日、紹介された「可哀相とは思わない」という人は、もしかしたら以前の私と同じように、共感の体験をもっていない人なのでは、と思いました。

鬱の時代のなかで

 たしかに、人に迷惑をかけることはいけないことといわれている。これに対して、自己決定や共感は、しなければいけないというものではない。しかし、社会人の彼女の場合は、共感体験によって社会性のほか、自己受容や自信までも獲得することができ始めている。このように、自己決定の人生を歩きたい、自他を信頼し、共感しあって生きていきたいという願いは禁欲できない潜在的願望であるはずだ。それを「してもしなくてもよいもの」と割り切ってしまおうとする時代の心理の奥底には、何か暗澹たる敗北感が流れているように思える。
 先日、ある青少年施設の運営会議で、現代の時代の気分を「鬱」とする論議があった。躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽きてしまっているのではないか。そういう時代に人々が求めている自己決定活動とは、大騒ぎできる華々しいイベントなどではなく、一人ひとりの「個の深み」(西村『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社、91年)と静かに対面し、出会いの体験を味わうことのできる「癒しのサンマ」(時間・空間・仲間の三間)なのであろう。
注:「癒しのサンマ」については、自著『癒しの生涯学習 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、一九九七年)を見ていただけるとうれしい。

【ACCESS】
E-MAIL:mitochan@ppp.bekkoame.or.jp
教育課程改定の中間まとめを読んで

 自己革新を阻む者は自分自身

昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

 現代社会における教育は、子どもたちの発達や成長ばかりでなく、癒しや安らぎをも重視することが必要だとぼくは考えている(自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』学文社、一九九七年四月)。そして、今度の教育課程改定における「総合的学習」やゆとりのある教育時間などの考え方にも、その萌芽となる志向を感じる。
 こういうと、「いや、学校現場の現実はもっと厳しいものだ。教育課程が改定されたって、どうせ今までと変わらないか、悪くなるだけさ」という悲鳴にも諦めにも似た教師からの反論が今にも聞こえてきそうだ。しかし、そのように自己革新を阻むものがあるとすれば、それは何なのか。今回の中間まとめの「教育課程の基準の弾力化の趣旨を踏まえ、各学校において創意工夫を生かした特色ある教育課程編成・実施が一層可能となるよう」という文面にあるように、いや、この文を待つまでもなく、学校現場には主体的な変化や創造が求められているはずだ。「私たちがそうしようと思っても、文部省はそれを許さないよ」という言葉はよく聞く。だが、その言葉は、本当に文部省が弾圧してくることを確かめてから発されているのだろうか。
 高度な政治的判断に抵触する事項についてはともかく、そのほかの一般的な教育課程の編成については、せいぜい市町村や県の指導主事の個人的な考え方とぶつかるという程度のことである場合が多くないか。今の時代、文部省のトップは、むしろ、地域や学校現場のいきいきとした独創的、個性的な取り組みに教育活性化の展望を見出そうとしている。もしかしたら、あなたの考える教育課程の編成・実施こそが、子どもたちや地域ばかりでなく、首長や国などの「権力」からも歓迎される結果になるかもしれないのだ。だとしたら、同僚や「少し上の人」とはのびのびと論争し合っていただいて、ぜひ教師自らが楽しく実施できる教育課程を編み出してほしい。論争さえ吹っかけたことがないというのなら、それは権力による弾圧のせいではなく、本質的には、教師自身の中にある「変化を恐れる心」や「自己決定を回避しようとする心」のせいではないかと自省してみることも必要だろう。
 ぼくは、大学教員の一人として、大学の生涯学習理念にもとづく自己革新の成否は学内の意識変革にかかっているとし、「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的なサバイバルや、制度的権威への依存の姿勢から脱却して、自己決定の学習の支援という大学の社会的な役割を、より時代にあったかたちで遂行し、そのことによってみずからもその役割を味わい喜ぶ積極的な攻めの経営に転換する必要があると訴えた(前掲著)。その自己革新は大学の自己決定によるものであり、それゆえ惨めなサバイバル・ノイローゼなどとは異なる自信に満ちた楽しい営みである。自己決定の学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくする世界)と出会えるのと同様に、学校教育自身も、自己決定の生涯学習化のなかで自己変容という本来の学習の楽しみと出会うことができるのだろう。その意味では、今回の教育課程改定も、学校現場の自己革新の道具としてのびのびと活用されることを期待している。

「自由な女たち」にひっかきまわされることによる新教育メディアの活性化を
昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

 本年度、ぼくは本事業の研究協力者として、第1ステージの高知市初月小学校PTAの様子を現地で見学させていただいた。そして、全日本社会教育連合会『社会教育』1997年12月号において、その報告「ニューメディアをひっかきまわす若い母親たち−国立婦人教育会館新教育メディア研究開発事業」を以下のように発表した。

 国立婦人教育会館(以下、たんに会館と呼ぶ)の「新教育メディア研究開発事業」も3年目を迎えている。この事業は「人びとの多様化、個別化する学習ニーズへの対応や家庭教育に関する学習方法の改善、充実を図るため、通信系マルチメディアを活用した遠隔講座のあり方、家庭教育に関するマルチメディアデータベースの開発、提供方法について調査研究を行う」ものである。
 第1年次の平成7年度は会館と北海道札幌市道民活動センターの2会場を結び、フォーラム「家庭教育」として、基調講演とパネルディスカッションが行われた。翌8年度は、1会場の参加者を30人程度、すなわち教室程度の中規模として、会館と、千葉県、新潟県の3会場を結び、3回にわたって遠隔講座「父親の子育て」が実施された。その際、会館が開発したマルチメディアデータベースやインターネットによる情報が活用されている。
 本年度は、これをさらに小規模化して発展させ(!)、遠隔講座「子育てにやさしいまちづくり」と題して、東京の烏山プレーパークをつくる会、大阪のミズ・プランニング、高知の初月(みかづき)小学校PTAという3つのボランタリーなグループをテレビ会議システムを使って結び、千葉大学延藤安弘研究室からの遠隔授業や、グループ間の交流学習が、第4ステージに至るまで展開されている。技術的には、財団法人AVCCなどがバックアップしている。ぼくは本年9月9日の第1ステージに初月小をたずねた。
 初月小PTAは、3年前に2年生の親子行事として「みかづきまちかど探検隊」を実施するなど、いきいきとPTA活動を行っている。これは子どもたちがまちの宝物を発見して地図上に表現するという試みで、学校の先生も「ナゾの人物」として関守の役を買って出るなど、幅広い層のサポーターの大人たちまでもが大いに楽しんだということである。このような地図をガリバーマップという。あたかもガリバーになったかのように、自分たちのまち全体の大地図を眺めることは、いろいろな効能があるようだ。
 午前中、各会場に分散した研究協力者の会議がテレビ会議を通して開かれ、ぼくも一委員として参加した。自画面に自分の顔が写るので緊張してしまった。午後、いよいよ遠隔講座の本番が開かれた。講師の延藤教授「参加者の自由な発想を大切にし、枠にとらわれないプログラム運営を」の考え方のもとに、各地自慢のお菓子の交換会、プラカードによるアンケート実施など、リアルタイムで互いの顔やしぐさが見える通信とマルチメディアの楽しさをうまく活かした交流と学習のプログラムが展開された。
 初月小に集まった高知の若い母親たちは、これらのメディアを十分ひっかきまわして遊んでいたというのが、ぼくの感想である。カメラの準備中も、いつものPTA活動の打ち合わせを平気で楽しげにしている。自画面に写っていた人がいたので、ぼくが「写っているよ」というと、カメラに向かって科をつくるし、写りが悪いので「被写体が悪いんじゃない」とつぶやくと、バシッとたたくふりをする。
 ただ、延藤教授に関しては高知にもファン(?)が多く、画面での登場に親しげな歓声が上がったが、ほかのグループの画面に対しては、活動そのものへの関心はあっても、個人的な関心や知り合いの関係があっての上ではないので、「いまひとつ気軽におしゃべりできない」という母親たちの感想であった。このへんは、やはり、マルチメディアがフェース・ツー・フェースの直接交流の補完、促進の手段としての役割は果たすことができても、直接交流を不要とするまでの効力はないということを示しているのであろう。
 しかし、さすがに「のびのび風土」の初月小PTAてある。今回の遠隔講座についても、「チラッとのぞきにきませんか」というおしゃべり感覚のもと、学年通信で会員に参加を呼びかけている。実際、初月ばかりでなく、どの会場もふだんの活動の場でざわざわした様子が画面に写っており、その限りでは自然体での交流が深まったように思われる。母親たちが緊張しそうになっても、連れてきた子どもたちがいつもどおり騒いでしまうのだ。
 話しあわれた内容は、初月小のほか、次のとおりである。烏山プレーパークをつくる会は、自分の責任で自由に遊ぶプレーパークの意義と、それを役所まかせにしてはいけないということ、大阪のミズ・プランニングは、パソコン通信や電子メールも活用して「子連れだから〜できない」から「子どもがいるからこそ〜できる」という街をめざして、子連れ情報誌や育成講座を実施したことなどについてテレビカメラに向かって語りかけていた。
 初月小PTAにおいては、その会員であるとともにまちづくりのデザインに公私ともに関わっている畠中智子さんあたりが仕掛け人の一人のようである。彼女のように楽しいことが好きで、何でも面白がってやってしまう個性をもった人たちの役割は大きい。まさに「気軽におしゃべりする」ような自然体の水平な感覚で、今後のマルチメディアや通信技術などを「学習ツール」、「新教育メディア」としてひっかきまわして使ってくれると、ニューメディアも人間の匂いのする魅力ある道具に変身できるのだろう。

 以上述べたことを、ニューメディアを運用する側から言い換えれば、「自由な女たちにひっかきまわされることによって活性化を図ろう」ということである。今回の研究開発事業の成果を活かして、市民が気軽にひっかきまわすことのできる身近で小規模な「新教育メディア」をぜひ普及してほしい。
江戸川区民カレッジ第2次「いま、わたしにできること」報告
−自分を大切にするボランティア準備者たち−

昭和音楽大学短期大学部助教授 西村美東士

 江戸川区で、前年度(本誌97年10月号参照)に引き続き、本年平成10年の2月から3月にかけて計5回の「区民カレッジ」が開かれた。ぼくは担当の高野さんから全回にわたる講師として関わらせていただいた。
 この事業のメッセージは次のとおりである。「あなたにとって自分が生かされ、癒される場所はありますか。いま、私たちにできる社会的活動とはいったい何でしょう。この講座では、自己実現と社会貢献によって成長し、癒されるサンマ(時間・空間・仲間)づくりをして、自分を再確認するとともに、地域で活動するコツを学んでいきます」。これに対するぼくなりに用意した答えは「水平異質交流」である。
 例によって表に示したようにワークショップ型の学習形態をとった。

江戸川区民カレッジ「いま、わたしにできること−癒しのサンマを求めて−」プログラム
回 テーマ 内容 ワークショップ・ゲーム等
1 無限の可能性眠っていませんか? 自分を知る、相手も知る 受講動機のディスクジョッキー、第一印象ゲーム
2 あなたの居場所はどこですか? 癒しのサンマづくり 価値観ゲーム(みんな違ってみんないい)
3 ボランティアって誰のため? 地域活動参加のコツ 私の音ゲーム、ブレーンストーミング
4 ボランティアは恋のようなもの きっかけは偶然の出会い ロールプレイ準備(社会に役に立ちたいけれど)
5 自分と下町の未来は変えられる! 経歴を捨てて経験を生かそう ロールプレイ(こんなときどうするビタミン愛)

 毎回、各個人から提出された「出席ペーパー」に基づいてディスクジョッキータイムを行なった。最終回のもらいっぱなしのペーパーに関して、この紙面でディスクジョッキータイムを再現してみたい。
◆今回もとても楽しかったです。これからもこういう講座がたくさんあったらいいし、ずっと続けてもらいたいと思います。(mito)→ ありがとう。今、振り返ってみて、自分個人の学習が、現代的課題(ぼくの言葉では公的課題)の学習になっていたと思いませんか? これからも上下同質競争社会のなかでのオアシス(癒しのサンマ)をめざします。
◆1週お休みしましたが、大変お世話になりました。皆様の機転のするどさに感心しました。ロールプレイは、あ・あ・あというくらいに皆さんがまとめられていて感心しました。楽しい頭の運動をしました。(mito)↓ 感性と知性の刺激にあふれてましたよね。「おもしろくなければ生涯学習じゃない」、これでやっていきたい。
◆毎回楽しい時間をありがとうございました。楽しいだけではなく、自分を見つめ直し、深く考えることができ、とっても勉強した気がいたします。生涯学習を身近な所に見つけ、これからも前向きに小さな一歩を歩んでいきたいと思います。(mito)↓ 自己認識、自己洞察のきっかけづくりは、教育(社会教育)の重要な働きです。
◆とても楽しかったです。区民カレッジがなくなることはとても残念です。これからは生涯学習が必要になると思うし、子どもの手が離れてこれから好きな勉強をしたいと思っていたところでしたので残念です。時代に逆境していると思います。(mito)↓ そうですね、ちょっと残念です。まあ、今回のように「魂のある人」が集まりさえすれば、どんどん自発的にいくらでもやれますので、深刻な問題ではないとは思いますが。
◆今日が最後だということでとても淋しいです。もう少しmitoちゃんと勉強したいので次もお願いします。ステキな出会いでした。ビタミン愛とは素晴らしい愛だと思います。楽しかったです。自分のまわりの方々がとても立派にみえました。(mito)↓ いい感じ! 普通の上下競争社会では、「まわりの方々がとても立派にみえる」のはつらいことなのにね。
◆攻撃的な言い方でなく、さわやかな自己主張「私は今は‥・」という断り方で、自分の首を絞めないように話をする方法というか、きちんと主張すること、そうしたらいろいろな人たちと交流する時に感じよく伝わるかなと思いました。気がついたら自分のためになっていたというボランティアをできたらと思いました。(mito)↓ 自他への信頼がさわやかな自己主張(アサーション)の基盤であり、それが共感や共生を可能にするということができるでしょう。
◆全5回中1回欠席、他の4回すべて遅刻でした。申し訳ありません。毎回とまどいながらも結果的に楽しい時間を過ごすことができました。計10回位あれば良かったのに‥と勝手に思ってしまいました。残念です。mitoさんのお話はとても楽しかったのですが、ある意味では「独自の見解」で話をしているようにも思えましたので、70%位の受け止め方でいます。(mito)↓ そうです、ぼくの話は、ぜひ、「まゆつば」で聞いてください。それは主体的学習態度のひとつだと思います。
◆自分が疑問になっていたことをmito先生が教えてくださり勉強になりました。(mito)↓ 疑うこと、疑問を持つことは、重要な学習権です。自分が知らないということを知ることです。これを無知の知といいます。
◆「ロールプレイ」どうなることやら‥と思っていましたが、話し合っているうちに解決の糸口が見えて(mitoさんのお陰で)見ている方たちにも納得していただいたようなのでよかったと思いました。色々なやり方を教えてくださり有り難うございました。皆様全員に感謝します。(mito)↓ どうなるかわからない状態、ぼくもみなさんもそれが不安なのも事実だけど、じつはその状態が、「みんな違ってみんないい」という支持的風土さえあれば楽しい状態でもあるんだということでしょうね。それは、『かくろん』で展開したMAZE(迷路)を楽しむ自由でわがままな子ども心の発想なんだと思います。
◆今回のmitoさんの講義はほとんど出席できなくて残念でした。ロールプレイは難しかったですが、楽しかったです。今後は自分らしく少しずつでも誰かのためになり、しいては自分のためにもなる何かをしたいと思っています。(mito)↓ 「自分のためにやってます」という言葉は、潔くて気持ちのいい自己決定の言葉ですよね。
◆5回出席できました。久しぶり新鮮な時間を過ごせました。家庭に引きこもっていたので、お話にすんなり入るのに少し努力が必要でしたけど、とにかく皆勤できました。ありがとうございました。(mito)↓ 家庭に引きこもっていた主婦が社会参加するときのためらいの一番の原因は、理由のはっきりしない漠然とした「変化を恐れる心」なんでしょう。そのときのコツは、「初めの一歩」を何メートルもという無茶をせずに、「何センチか少しずつコケないように」ということなのでしょう。
◆みとちゃんのお話って表現はかるーくなんですが、とっても深いんですよね。生活のなかでいろいろと、こんなことって‥みとちゃんだったらどんな風に話すのかなあって考えています。難しいことを言うのって簡単ですよね。でも分かりやすく伝えることってとても大切な気がします。たくさん伝えてくださってありがとうございました。自分自身、らせん状に少しずつ変わっている気がします。今までは、まだここにとどまってる!と思っていたんですが、まてまて違うぞ!って気づかせていただきました。たくさんのカケラをいただいたので、宝物にします。(mito)↓ 自分が自分と向き合っているとき、つまり自分の快感の実感と、そのための自分の行為の現実検討を大切にていねいに続けているかぎり、人は螺旋状の成長ができるのでしょう。その方向が変えることのできない「過去と他人」に向いて固定化してしまったとき、悩みは自動化し、自身がロボット化し、無限ループ(繰り返し)にはまってしまうのでしょう。でも、そういう落ち込みのときって大いにありますよね。ぼくなんか、そういう潔くない学ばない部分がとても大きいと自覚しています。その場合は、それでもなおかつそういう自分を受容し、「できないものはできないんだから仕方ない」という諦観を得ることが大切なんでしょうね。
◆ロールプレイ、先週の時点ではどうなることと思いましたがとても素晴らしかったです。どのグループも皆さん考えや思いか深いなあ...とあたたかい気持ちになりました。そう、今回区民カレッジに参加した大きな収穫の1つに、「何と魅力的な熟女が多いことか!」と感心したことがあります。年代が違う人たちと触れ合うのは貴重な体験なのです、私にとって。自分にとって本当に大事なこと、気の持ちよう、本当に素敵と思える人、感心できる人などが新しく認識できるカレッジでした。(mito)↓ 数年前に、18、19歳の女子学生たちが、「ハタチすぎたらもうオバサン」ということをしきりに言っていた時期があります。それって、時代の文化がますます「死に急ぎ」の精神的老化に向かっていることの表われだと思います。この出席ペーパーは、そういう現代の「おばすて的価値観」に対抗する、とても若々しい文章だと思います。すてきな高齢社会を作り上げたいものですね。
◆mitoさんのこと、わたしはやっぱり先生と呼びたい。mitoさんは「先生と呼ばれたくない」と言ってましたが、私は呼びたいのです。それは教えてくれるエラい人という意味ではなく、わたしが大学の教授からの講義を受けたことがないから、大学で学んだことがないからです。高校の先生とは違う大学の先生を知ったうれしさから、大学に(mitoの?)行きたかったんですよ。5回にわたっての講座、とてもタメになりました。結局は自分に自信をもつこと(私にとってはたぶんそうなんです)、それが第一歩につながるのですね。その自信のつくりかたの大きなきっかけになりました。(mito)↓ 自分を信じて生きていけるって素晴らしいことですよね。そのためにも、生涯学習、ボランティア、市民活動などの貴重な自己決定活動のなかで、この世にまれなる「癒しのサンマ」をこれからも味わっていきたいです。

注:「サンマ」のあり方については、自著『癒しの生涯学習 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、一九九七年)を見ていただけるとうれしい。

「江戸川区民カレッジ」
江戸川区教育委員会学習・スポーツ振興課生涯学習係
担当:高野正樹
5662-1628(直通)
心を育てる・・・ええっ、なんということを
−成人教育の視点から「心を育てる」をとらえ直す−

 徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士(図表●)

1 わたしたち大人自身の心に問題がある

 中央教育審議会は、1998年4月、「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機−(中間報告)」を発表した。
 「ふむふむ、そうだよな。今の子どもたちの心は問題あるからな」ですませてしまう人(素朴肯定派)、ちょっと待ってほしい。
 一方、「ええっ、なんということを。だから、教育は押し付けがましくていやなんだよ。まあ、わたしたちは大人だから、教育から自分の『心を育てられる』なんてことはないからいいけど」と感じる人(教育懐疑派)、まあそういわずに、心を育てる教育や指導の意味を、この際、あらためて考え直す機会にしてほしい。もしかしたら、本当の「心を育てる教育や指導」にあなた自身が出会ったことがないだけの話なのかもしれないのだから。

 ぼくは、今回の中間報告の副題の「次世代を育てる心」という言葉に注目する。これは、もっぱら今のわたしたち大人の心を指していて、それが危機だといっているのである。実際、第1章のテーマは「未来に向けてもう一度我々の足元を見直そう」であり、「我々大人が、大人社会全体、家庭、地域社会、学校の足元を見直し、改めるべきことは改め、様々な工夫と努力をしていこう」といい、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝えようとしない大人、子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人、子どもを育てることをわずらわしく感じる大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、我が国の抱えている根本的な問題である」とまでいい切っているのである。
 たしかに、青少年問題に関する文献においても、最近数年の傾向として、現代社会における大人自身の不幸に言及する論調が増えてきている(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年度末発行)。
 ここまでくると、「素朴肯定派」は、「だけど、大人は、子どもと違って心の教育なんてできないからな」といってすませようとし、「わたしたちは大人だからいいけど」と思っていた「教育懐疑派」の人は、「大人まで教育しようなんて余計なお世話だ」と反発を強める人が多いのではないか。あるいは、ここまできてもなお、「たしかにひどい大人はいるから」といって他人事にしようとするか、「わたしはすでに責任のある指導者だから」といって、少なくとも自分だけはそういう「教育対象」であることから免れようとする人もいるかもしれない。そういう一般的と思われる状態と比べれば、ぼくは、「教育懐疑派」の最初の「ええっ、なんということを」という直感こそが、かなり本質を突いたものだと思う。「自分の心まで教育されてしまうことへの抵抗心」、これを大切にしたい。
 以上の前提のもとで、「子どもの心を育てることのできる成人」の心を育てることはできるか、という問題に進むことにする。結論だけいっておくと、先に述べた「抵抗心」の尊重にもかかわらず、ぼくの答えは「できる」である。なぜなら、公民館はじめ成人教育の場で、現に、当たり前のように大人が生涯にわたって成長し続けているのだから。

2 用語の言い換えだけでは問題は解決しない

 ぼくが参加しているあるメーリングリスト(インターネットによるグループ内での手紙のやり取り、以下MLと略す)において、先日、次のような問題が提起された。
 図書館での「指導サービス instruction service」について、アメリカの図書館界では普通に使われているようなのに、日本の公共図書館の司書の中には「市民に奉仕するべきサービスの現場で『指導』などという思い上がった考えは絶対にいけない」という拒否反応を示す人が相当数いたということなのである。
 たしかに、大人(この場合は市民)に対して「指導」という概念を用いることは、最初、ほかのメンバーにも、ぼくにも抵抗があった。ぼくも、最初、次のように「教育懐疑」的なレスポンス(返事)をしていた。

指導という言葉を聞くと、引きこもりの若者たちのカウンセラー富田富士也さんが、ぼくがある「青少年指導者」の講座のメンバーを引き連れて話を伺いにいったとき、「指導したい人はこの世にたくさんいるでしょうけど、指導されたい人なんているんですかね」と強烈過ぎる一言を穏やかににこやかに発せられたことを、いつも思い出します。
市民に「あなたを指導しますよ」という言葉は使わないんじゃないかなあ。
市民に使わない業界用語、役所用語は、内部でも避けたほうがよいのでは。
(メディアリテラシー教育について)問題は、(援助ではなく)instruction(指導)の方になるのかな。メディア活用技能についてはinstructionはあっても、メディアリテラシーにおける主体性の涵養においてのinstructionは、「ちょっとおまえ、そんなにえらいのか」という感じですよね。

 しかし、問題提起者(仁上幸治(ルビ=にかみ・こうじ)さん/ 早稲田大学図書館)の緻密で丁寧なリ・レスポンス(返事に対する返事)によって、指導という言葉を単純に忌避するだけであれば、次のような問題が生ずることが明らかになってきた。

広報サービスや案内サービスとは異なる次のレベルの専門性の高いサービスとしての指導サービスが、案内サービスのレベルと同等になるおそれがある。
大学では「卒論指導」などという言葉があるけれど、誰も抗議しない。市民には控えるべき言葉づかいが、学校や大学では堂々と罷り通っているということになる。
学校や大学や企業では「指導」という用語を使い、社会教育の現場でだけ別な用語を使う場合、生涯学習の観点からは、議論のための共通の用語を失うことになる。
指導はダメで、英語のインストラクションならいいということなら、逆に、指導という言葉にこびりついている日本的なマイナスイメージを上回るプラスイメージを押し出して、ふつうに使える言葉にすればよい話なのではないか。

 今回の問題提起のおかげで、とくにテクニカル(技能的)な、初歩から専門までの知識と技能のハウツー伝授の場合は、指導という言葉は問題ないだろうという、本ML内での一応の「収まり」は見えてきたように思う。しかし、その「指導呼称容認」の結論は、あくまでも問題提起者の仁上さんが明瞭に述べたように、「いかに生きるべきか」というような人生論や主体性論とはまったく別のものとして切り離した場合、という条件付きのものである。
 それでは「心を育てる」という場合はどうなるのか。ぼくは、この「収まり」に関して次のようにコメントした(軟弱なコメントではあるが)。

そういわれても、教育の主要な目的は人間形成ですからねえ。最近は「生きる力」とかもいわれてる。そして図書館も社会「教育」施設だし(その法的位置づけには昔から司書の反対運動があったようですけど)。それに情報リテラシー教育の主眼は、なんといっても、テクニカルな面ではなく、あふれる情報に対して主体的に取捨選択するという「態度形成」の問題でしょう。
やっぱり、学校教育や社会教育は文字通り教育であり、指導者は文字通り指導をする人なのでしょう。国民が主人公という建前の社会教育においても、教える側に立つ講師という「教育者」はいますし、さらには社会教育の理想郷(生涯学習社会)に至るまでの長い過渡期間においては、「社会教育する」専門職員、「指導する」指導者がいて当然でしょう。でも、これは学校教育でも同じなんですが、「教える人は(学習者から)学ぶ人」であり、指導者は指導される人の自発的動機に依拠して指導するんですよね。それから大切なのは、やっぱり、教育者側、指導者側の、「無知と非力の自覚と受容」(後述)なんだと思います。
(言葉の言い換えですまそうとする問題について)生涯教育を生涯学習に言い換えることによってだけ「国民主体」になったような雰囲気をつくろうなんて、なんだか姑息ですよね。もともと、生涯学習を支援する社会の教育的諸機能全体が生涯教育なんですから。
問題は、「態度変容の学び」において、教育や指導という言葉が成立するかどうか、そして、その「手の内」を学習者側にどういう言葉で(内部で本当に使うのだったら、外部でもそのまま使え、というのがぼくの意見)表現するかということでしょう。

3 大人に対する心の教育や指導は可能か

 繰り返しになるが、この章の問いに対するぼくの結論は、可能、である。教育懐疑派のようにすべての人の単純な自己教育しか認めない人が不可能と答えるならともかく、子どもにだけは可能だが大人には不可能という素朴肯定派の答えは、絶望的ともいえる大きな問題をはらんでいる。その人がふと我に返ったとき、「だったら、子どもにとっても地獄のような教育や指導なんだろうな」と気づくはずではないか。それでも、一部の体育会系のように「自分も我慢してきたんだから、今の子どもも社会のために我慢しろ」というのか。
 やはり、ここで「心を育てる」学校教育や社会教育をめざす場合、今までわたしたちが思い込んできた教育の姿とは異なる「もうひとつの教育」の姿を探し出し、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝える」(中央教育審議会)ような自信をもって、楽しげに、できる!、と答えたいのである。ただし、それは「できる」であって、「できている」では決してない。あとで述べるように(無知と非力の自覚)、「できている」などという大それた自信はぼくにもない。
 大人の心を育てるという教育の可能性を考えるにあたって、ここではあえて、最も抵抗が強いと考えられる大人に対する教育的指導のあり方について踏み込んでみることとしよう。
 指導は「指さし導く」と書く。
 何を指さすかというと教育目標(=学習の到達目標)であろう。だから、自分には教育目標があるのにそれを学習者側には秘密にしておくような指導は、本当の指導ではないということになろう。次に「心を育てる」などといわれても、そんな面での教育目標なんかおこがましくてもてないという指導者もいるだろう。そういう人は、指導者としての資質がかなりあるとぼくは思うが、先に述べた「もうひとつの」教育や指導の存在の可能性をも考えて、これ以降のぼくの文も読んでほしい。
 次に、導くということは、その教育目標の方向に手を引いてあげることであり、これも大変なことだ。自分だって健全(まったく欠け目なく異常がないこと)な心をもっているはずがないのだから。だが、先のMLでは、大学でのゼミの教師が「教えない教師をめざす」といっていたという発言もあった。これも上手な導き方のひとつなのかもしれない。そして、「不完全な自己への自覚」さえあれば、これから述べるような導き方ならできるはずだとぼくは考える。
 なお、これから述べる「大人に対する(心の)指導」のあり方は、じつは子どもにとっても、「地獄ではない、もうひとつの教育や指導」のあり方を示すものなのではないかとぼくは思っている。

@ 非日常的な相互関与を意図的に深める。
 徳島大学大学開放実践センターの研究会で、ぼくは、センターのこれからの役割として「情報提供を乗り越えて相互関与へ」という文脈で提起したことがあったのだが、今回のMLでの議論を同研究会で紹介したところ、「指導に代わるいい言葉」として、その「相互関与(interaction)」にヒントがあるのではないかという指摘があった。その指摘を受けて、指導の本質は、とくに心を育てるという場面においては、指導者と学習者の相互関与を非日常的な深いものにして、学習者の気づきのあるものになるように、意図的に行為することなのではないかとぼくは思った。たしかに、これができれば、すばらしい指導といえるだろう。
 小児精神科医の河合洋は、今日の子どもたちのぎりぎりの状況をふまえて、「ほざくんじゃねえ」と訴えている。子どもにではなく、子どもを取り巻く親や教師などの大人に対してである。他人の痛みがわからない大人たちから発せられる、感情を伴わない意味のない言葉の洪水(ほざき)に、子どもたちはSOSを発しているというのである。「意味のある言葉」をたくさん受けるために生まれてきたはずの大人たちに対して、ほざきの連続の不幸な日常のなかで、もし、指導によって日常では得られない学習者との深い相互関与が実現できるのなら、その指導はこの社会における突出的な意図的行為といえるのではないか。
 公民館では、それができるのではないですか?

A 指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する。
 「私は真、あなたは偽」と思い込んで(信念に凝り固まって)いる人にとっては「自分がわかっていないことに気づくこと」(無知の知)が重要である。わからなくなることによって、答を出すのを保留して問い続けるという生産的な構え(交流分析では、幼児期に親とのふれあい等によって培われた人間と人生に対する態度を「基本的構え」といい、基本的信頼に基づく構えを「生産的」とする)に戻ることができるのである。では、わからなくなれない人はどうしたらよいか。わかっていないということをその人に自覚させるような学習指導者からの質問が有効である。これを「ゆさぶり発問」という。そういう指導者がいない場合は、あとは自問という手段しか期待できない。こういうゆさぶりを経て、無知と非力の自覚が生まれ、「まあ、いいか。これから少しずつやっていこう」という自他の欠点や弱点をも抱え込んだ受容につながり、自信(自分への信頼)と他信(他者への信頼)が形成される。(図表●)
 以前、「ちょっとおしゃれな教授法」という音楽大学での演習で、ぼくが「目玉焼きの作り方」という「模範授業」を行ったとき、あるまじめな学生が「mitoちゃんは私たちよりも目玉焼きについてよく知っているんですか」と聞いてきた。ぼくは「ふたをした方がおいしくできあがることなど、目玉焼きの作り方に関して伝えたいことはあるけど、学習者側より知っているかどうかはわからない」と答えた。すると、彼女は「そんな人が教える側に立つこと自体、いけないことなのではないか」といったのである。たしかに彼女は、自分よりはるかに優秀な先生から音楽を習うことに慣れているから、そういう「いい加減な指導」に抵抗を感じたのだろう。この場合は教授法のシミュレーション(模擬訓練)であったが、ぼくは、たとえ本番の教授活動においてもそういうことがあってもよいと思っている。指導者側に無知と非力の自覚さえあれば、双方向教育などによって、むしろ結果的にはより効果的に学習者側の主体的な学習を支援することにつながるかもしれないのだ。
 上の2段は自著『癒しの生涯学習』から引用した。ぼくの授業を受けている学生のなかには、「無知と非力の自覚」というぼくの言葉を聞いて、「無知と非力を自覚してしまったからこそ、私はつらいのに」と反発してくる者がいるが、ぼくがいいたいのはそういうことではない。前段は学習者の無知と非力の自覚と受容のための指導のあり方について触れたものだが、その場合でも、指導者側自体が自己の無知と非力を認めて、受け入れようとしないままで、学習者にだけはそのような気づきを援助するなどということができるわけがない。

B 教育と学習の間に流れる暗くて深い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。
 教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、以下のように情緒的な表現になってしまうことをお許しいただきたい。教育=学習援助の等号には暗くて深い河が流れているとぼくは思う。ぼくは、まず、この暗くて深い河の存在を伝えていきたい。次に、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この「上下同質競争社会」の同時代に命を燃やしている。ぼくはたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい。
 上も『癒しの生涯学習』からの引用である。先に述べたように、学習者の「自分の心を教育されることへの抵抗心」を尊重しつつ、学習者主体の指導を試みようとする指導者にとっては、つねに自己の指導の有効性が疑わしいものに思えてくることだろう。「ところで、自分のほうの指導者としての主体性はどうなってしまうんだ?」というわけである。逆に、学習者からのねぎらいや感謝のちょっとした一言でささやかな自信がもてたりするときもあるだろう。とくに「心を育てる」教育、ぼくの言葉でいえば学習者の態度変容のための指導においては、厳しいいい方になるがその繰り返しであってほしいと思う。男と女の間にも、最終的には理解し合えない「暗くて深い河」が流れている。しかし、だからといって、ふてくされてしまって、相手という彼岸に向かって舟を漕ぐことさえしなくなったら、その人の姿はもうかわいくない。

4 おわりに−わたしたちはどんな心をもちたいのか

 本稿の最初に述べたように、中央教育審議会の中間報告は、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝えようとしない大人、子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人、子どもを育てることをわずらわしく感じる大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、我が国の抱えている根本的な問題である」といっている。
 じつは、ぼくには、この表現が今ひとつしっくりきていない。わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか(そう思ってしまうところが「根本的な問題」のひとつだという人もいるかもしれないが)。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたいのである。むしろ、潔くそのように「自分のため」と思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。
 以前から、親の期待に沿おうとして過剰な努力をしてしまう子どもたちの苦しみが問題になっているが、最近気づいたことだが、同様に、親だって、子どもの期待に沿おうとして過剰な努力をするなんて本当はまっぴらごめんのはずだ。
 「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」というものが、教育を受けるものにとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、これは指導行為など成り立つわけがない。空しく響くだけだ。極端にいえば、人々から本音のところではいやがられてきた教育や指導の再来ともとらえられかねない。
 本来なら、そこまでいうためには、報告の各論にわたって逐次的に検討しなければならないところだろうが、今回はその余裕がないことをお許しいただきたい。たしかに、たとえば、名実ともに一体感あふれる「コンテナー家族」から、個の人格の存在を認識し合って意識的にコミュニケーションを行う「ネットワーク家族」への転換の提案ともとらえられるところなど、現代社会の動向に敏感に対応した部分は数多く認められる。それらは十分評価されるべきである。しかし、全体的にはこの報告の趣旨からいって仕方ないことかもしれないが、題名どおり「危機対応型」で、「子どものため」を主体とした提案が多いのである。ぼくは、少なくともこの報告が基調とする「新しい時代」や「未来」のためという言葉は、やや「感情を伴わない意味のない言葉」のような感じがするということを指摘しておきたい。
 もっと、子育てを含めた大人の幸福追求全体にとって、「今ここで」の実感から「夢を語り」、それが結果として「未来を切り拓く」ことにもつながるという「楽習」の展望を指させないのだろうか。もっとも、それは、中央教育審議会の役割なのではなく、公民館をはじめとするわれわれ社会教育現場の役割なのかもしれないが。
 そこで、ぼくが、この春、音楽大学を去るにあたって、大学の授業の締めくくりに、2年間お付き合いいただいた短大2年生に「mito的授業の印象」に関する自分個人にとってのキーワードを一人一人出してもらってまとめた図を掲載する(図表●)。図を見て気づくように、そのほとんどが、態度や雰囲気に関することである。
 さらに単位認定に結びつかない狛プー(東京都狛江市中央公民館青年教室)においては、なおのこと、これらの「心」に関することがぼくの存在の意味だったといえるのではないかと思う。無知と非力のぼくではあるが、それだからこそ現代社会の、そして人間存在の、孤独な宿命のなかで、ぼくなりに大学教師や公民館講師という「指導者」として役に立つことができたのだと思いたい。そこでのぼくは、わずかながら、いわばネットワーク型の指導者の役割を果たしたのだといえよう。それはあとの表に示すように、@初めの一歩を励ます、Aミニ・ヒエラルキーを早めにつぶす、B潔い撤退を促す、の3点だと考えている。
 さらに、 神奈川県藤沢市青少年協会の若者たちが、ぼくが「指さそう」としたサンマ(時間・空間・仲間)のあり方について、絵にしてくれたものがあるので、これを紹介しておく。(図表●)
 しかし、本稿においてさえ、指導という用語自体を学習者に対してオープンにし、積極的に使うかどうかは保留の状態である。じつは、本稿の基調となっている自著『癒しの生涯学習』の副題も、「ネットワーク指導論」とする予定であった。しかし、若者たちが、「指導論」はどうも感じが悪いというのである。ただ、「自己決定活動の『指導』とは何か」という「まとめ」の簡単な表はその本の巻末につけておいたので、最後にこれを掲載してまとめの代わりとする。(図表●)
 「大人の心を育てる」指導のあり方については、公民館関係者のみなさんと、逃げず、急がず、これからもじっくりと考えていきたい。

ホームページ http://ha5.seikyou.ne.jp/home/mitochan/
電子メール  mitochan@ias.tokushima-u.ac.jp
自宅ファックス(終日可) 0886-26-8007
参考文献
西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』学文社
西村美東士『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人いりません』学文社
西村美東士『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』学文社
※本稿で取り上げた「ML」の詳細については、個人的にお知らせします。
狛プーと大学のなかでのぼく

昭和音楽大学短期大学部助教授
 西村美東士(mito)

 狛プーが始まって6年が経った。ぼくは、毎年度、狛プー記録集『いなほ』で、次のように「ぼくにとっての狛プー」を書き続けてきた。

一九九二年度 「狛プーは出入り自由の"こころのネットワーク"だーぼくと狛プーの関係」
 1プータローの自由な精神を求めて、2アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物、3プータローの自由のつらさ、4撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」、5出入り自由の淋しさを受容する、6狛江市にとっての「流入青年」たち(を歓迎する)、7キャンプは夜だ、8青年が自分のお金を払う時、9空白のプログラム、10狛プーは癒しのネットワークである。
一九九三年度 「狛プーはどうしてネオ・トラなのか」
 1ネオ(新しい)でトラ(伝統的)な狛プー、2アイデアばらばらなごった煮の年間計画、3いかにもトラ(伝統)的な狛プー、4狛プーのネオ(新しさ)は、どこにある?、5これからのネットワーク社会を担う人間の育ち方、6狛プーはノリのよい狛江だけでしかできないものか?。
一九九四年度 「初めての人のための"狛プーとは何か"」
 1ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」、2自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定、3善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心、4共生社会創造のための公的サービス、5いい男、いい女さえ支援すればよい、6おわりにー癒しと成長、受容と変容の循環。
一九九五年度 「 "おうち"としての狛プーー狛プーの公的・現代的意義」
 こりかたまって抑圧されたぼくの思考が、「狛プーはおうちだ」という言葉によってするすると解き放たれていった。ああ、そうだ、そういえば「おうち」というのは、どんなに大人になったっていつまでも必要だ・・・・。「おうち」も「外の世界への参加」も、どっちもすてきなものになればよいのだ。
一九九六年度 「いい世界だよ」
 狛プーといういい世界とたまたま出会ったと思えばいい。こういう世界のよさを知らない人に対しては、その人は知らないというだけの理由なのだから、抗弁したり非難したりすることもない。でも、「こんなにいい世界があるんだよ」という「提案型」のメッセージだけは、狛プーからこの競争社会に送っていきたい。また、この上下競争社会のなかで水平異質交流の居心地のよい共生のサンマの内実をつくりだしている主体は、狛プーというシステムでもなければ、担当職員やぼくでもない。たまたま「今、ここで」集まっている人たちが創り出しているのだ。もちろん、だからこそ、こわれるかもしれない危うい存在である。だが、今のところはそれぞれの人が、このいい世界の作り手の一人である。

 上の最後にあるように、狛プーの作り手は「たまたま"今、ここで"集まっている人たち」である。でも、ぼくだってそこにいた。このぼくはどんな価値をもっていたのか。年間講師としてのぼくの役割については、すでに、「ミニ・ヒエラルキー形成の阻止」として、そのために@ニューカマー(新規参加者)をさっそく主役にする、Aもうすでに歩いている人よりも、これから足をおずおずと踏み出そうとしている人の「初めの一歩」を支援し、評価し、気を楽にさせる、B撤退を望む人には、さわやかに潔く撤退できるように仕向ける、の3つを留意点として挙げている(一九九三年度)。そこで、ここでは、ぼく個人の態度等が狛プーや大学の雰囲気づくりに与えた影響をまとめておきたい。
 先日、大学の授業の締めくくりにあたり、2年間おつきあいいただいた短大2年生に「mito的授業の印象」に関する自分個人にとってのキーワードを一人ひとり出してもらった。これをまとめたものが本図である。図を見て気づくように、そのほとんどが、態度や雰囲気に関することである。単位認定に結びつかない狛プーにおいては、なおのこと、それがぼくの存在の意味だったといえるのではないか。子どもっぽくて寂しがり屋のぼくではあるが、それだからこそ現代社会の、そして人間存在の、孤独な宿命のなかで、8年間の大学の授業や6年間の狛プーで、ぼくなりに役に立つことができたのだと思いたい。
(参照 自著『癒しの生涯学習ーネットワークのあじわい方とはぐくみ方』学文社、1997年4月)

【ACCESS】
E-MAIL:mitochan@ppp.bekkoame.or.jp
徳島市学遊塾広報誌『ぶどうの木』原稿

チエちゃんの話
 −自己決定の人生と生涯学習−
徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士(mito)

 ぼくは今年の3月まで昭和音楽大学で社会教育主事課程を教えていた。
 チエちゃんという学生は、短大に入学してすぐのぼくの最初の授業で、講義が終わったとき、ぼくのところに来てこう言った。
「mitoちゃん(ぼくのこと)、わたし、いい女になるつもりだからよろしくね」。
 ぼくは、これはすごい人が入学してきた、と思った。大人の女でも、ふつう、どこかにいい男がいないかしら、となるものである。それに対して、18歳のいわばまだ「小娘」であるはずのチエちゃんが、きちんと自分自身の成長に希望を持ってまっすぐに目を向けているのである。このように自分にきちんと目を向けられる人は強い。思ったとおり、彼女は声楽家の卵としてもずば抜けた成長を示し、現在、憧れのオペラの舞台を目指して一生懸命生きている。
 ぼくは最初、「これは愛の告白なのかな」などと思ってドキドキしてしまったが、彼女にはそのつもりは幸か不幸かまったくなかったということを、あとになって本人から聞いた。彼女は「やあねえ、mitoちゃん、そんなこと考えてたの」と笑った。いい女というのは、本人が気づかないうちに、男にとっては罪作りなことを言ったりしたりするものだとぼくは思った。
 チエちゃんが2年になったとき、また、「ねえ、mitoちゃん、わたし、すごいこと思いついちゃった」と呼びかけられた。こういうことは、青年期真最中の多くの学生にとってよくあることなので、ぼくはいつものように「なあに」とふつうに応じた。
 彼女がそのとき言ったのはこういうことである。きのう、おうち(この場合は下宿先)に帰る途中、これって人生みたいだな、と思った。おうちが「死」であるとすると、それに向かって歩いていくのが人生だ。
 彼女も青年期真っ只中だから、やはり生きることとは、とか、死ぬこととは、とか、まともに考える時期なのだなあ、とぼくは思った。しかし、彼女の話は次のように続いた。
 おうち=死に向かって帰るとき、二つの帰り方がある。ひとつは、おうちだけを目指して、寄り道もしないで、まっしぐらに効率よく歩く帰り方だ。そういう人たちをあざ笑ったり、ましてや責めたりする気持ちはまったくない。でも、自分自身はもうひとつの帰り方をしたいということに気づいたのだそうだ。それは、友だちのところに会いに行ったり、途中の森に入り込んで散歩してみたりして、「人生の風景を味わいながら帰る」という帰り方である。
 ぼくはこれを聞いて、それが大きな発見であることを認めた。まさに自己決定の人生のあり方ではないか。そして、生涯学習やボランティア活動、市民活動などは、そういう「自分がやろうとしてやる」自己決定の活動である。ほんとうに自己決定で生きることができている人は、たしかに、そうでない人がいるからといって、干渉したり、とやかく言ったりしないものだ。そういうことまで、ぴったりと説明しきれている。多くの人がそうありたいと思っている当たり前のことだが気づかない「自己決定」のあり方を、チエちゃんははっきりと示してくれたのだ。
 ぼくは、その後、ちゃっかり、この話を授業やいろいろな講演などでしゃべらせてもらっていた(もちろんチエちゃんの話という前置き付きで)。青年教室にときどき顔を見せていたチエちゃんが、それを聞いて、ある日、二次会の席でぼくにこう言った。「mitoちゃん、わたしの話、ほかの人にどんどん話していいわよ。でもね、私がそのとき言ったことで一番大事なことを、mitoちゃん忘れてる。もう、しようがないんだから」。
 彼女のこの言葉もけっこうぼくをドキドキさせたが、そのあとの彼女の言葉は、ぼくの思い過ごしとは違う意味でたしかにドキドキさせる本質的な発言だった。「エネルギーを使うけど」という前置きの言葉を、「人生の風景を味わって生きていきたい」という言葉の前につけていたはずだ。それが大切な発見だったのに、とぼくは注意されたのである。
 そうだ。自己決定の活動をしようとすると、「効率よく生きる」のとは違って、多大なエネルギーを消費する。自分がやろうとしてやり始めた生涯学習活動なのに、人と出会うことによってかえって自分自身が傷ついてしまったり、専門の世界を散歩しているうちにさ迷い込んでしまって、自分がその世界のどこを歩いているのだか見当がつかなくなってしまったり・・・・。自己決定の人生や、自己決定の生涯学習活動というのは、「エネルギーを使うけど」という前提も含めて自己決定することなのだろう。
 最後にぼくの追加意見を述べたい。ぼくはチエちゃんみたいな人たちから、たくさんエネルギーをもらって生きているけど、それでも元気がなくなるときもままある。そういうときに思う。人には「エネルギーを使うけど」という前提そのものがしんどいときがある。そういうときは、自己決定活動の場合なら、潔くお休みさせてもらえばいいのだ。それは、けっして、自己決定活動が元気にできている人からは、非難されたりすることはないだろう。そのことはチエちゃんの言葉が保障してくれている。
国立教育会館通信 原稿(案) 23字×65行
生涯学習と癒し
徳島大学大学開放実践センター助教授西村美東士

 ぼくの著『癒しの生涯学習』(学文社、1997年4月)について、東京都青少年センター専門員の伊藤学は、その特異性を評価しつつも、「自分が癒されたいときにはバイブルとなる」が、「それを"お仕事"としていくことで、プラス面に作用しなくなること」という「警戒」を表している(全日本社会教育連合会「社会教育」1997年8月号)。
 癒しの語感は、一般的にはたしかに後向きだ。それが理由で、多くの生涯学習援助職員にとって、癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)に取り組むことに抵抗があるのかもしれない。
 しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、つねに前向きであれとする無茶な態度を排しながらも(そこが従来の教育と違う点である)、結果はむしろ前向きになるはずのものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク的態度のことである。
 伊藤は、カウンセリングやガーデニングのブームなどを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い」ので、教育者はその当然の欲求を無視できなくなっているとしている。
 伊藤の論は正当だと思う。しかし、ぼくの提起したかった「癒しの生涯学習」は、そういう若者の顕在化したニーズを重視する議論とは発想が異なる。
 ぼくの「癒しのサンマ」という言葉は、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのよい関係づくりによって、癒し、癒されようとする志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの授業が一番疲れるとか辛いとか訴える人が例年、出現するのだろう。彼らの批判は、関係者にありがちな「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」という批判より、いっそう的を射ている。生涯学習のような自己決定活動とは異なる学校教育の場においては、そういう学生にぼくが言えるのは「無理して出席しないで、元気になったらぼくの授業に出ておいで」ということぐらいである。
 ここまでくると、「そんな教育の、どこが癒しなんだ」といわれそうである。しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質がある。つまり、ぼくが進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う現代社会「一般」からの逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃がれようという場ではない。むしろ、人との信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容のサンマを創り出すことによって癒されようとする、なかなかやっかいで突出的な営みなのである。学習が即癒しであるような学習中毒のほうがよっぽど楽だ。
 しかし、このような「出会いの努力」を本人が自己決定しない限り、本当に癒されることはないとぼくは思っている。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の拝「癒し」、没主体の事態に対して、本当に癒される人間関係のあり方を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざす個人の自立や、望ましいコミュニティおよびネットワークの形成などはできようがない。
青少年問題研究会『青少年問題』45巻11号原稿

癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)と若き旅人たち
 −地域若者文化のはぐくみ方−
 西村美東士

はじめに
 −癒される地域文化創出の可能性

 まわりの大人や友達に対する「いい子ちゃん」も「淋しがり屋のタカビー」も、いま、癒されようとして必死の「努力」をしている。ヒーリング(癒し)のための音楽を聴く、オイルやハーブを買う、イルカと泳ぐ、クジラの鳴き声を聞く・・・・。しかし、それだけでは根本的には癒されるはずはないであろう。
 ここでは、文化としてのコミュニケーションやその他の文化活動がどのようにあれば、そういう現代の若者たちに心からの癒しを与えられるのか、そして、そのことによって、文化の継承や建設的な対抗文化としての役割を若者文化が果たせるようになるのか、考えることにする。その際、地域だからこそ期待できる可能性とは何なのか、ということが重要になる。
 従来の教育は、ややもすると対抗文化の発展を妨げる一方、青少年個人には成長・発達ばかりを期待してきた。しかし、学校歴偏重、上下競争主義の弊害がここまできた今日、非効率的に見えようとも、癒しや安らぎを得ることのできるサンマを広げていくことに力を入れることの方が先決である。
 サンマとは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが、今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けていると提起したときの言葉である。しかし、若者や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。「癒しのサンマ」の概念を絵にしたものが図1である。
 このことについて、自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(平成9年4月、学文社)では、癒されるためには、@自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はないと主張した。そして、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つの自己決定の集団の人間関係がもつ癒しの機能の重要性を訴えた。
 地域は、その実態はともかく、本来的には縦よりも横の関係が基調になる場である。それゆえ、文化活動においても、上からの命令ではない自己決定と、対等な人間的交流が基盤になり、文化創造を含めた上の3つの自己決定活動の主人公として活躍する余地の大きい場の「はず」である。だとすれば、地域文化は「癒しのサンマ」に支えられ、そのサンマをより確かな信頼と共感に基づくものにしてくれる「はず」だろう。
 「はず」であるのに、地域の実態がそうではないとすれば、今の若者を責める前に、地域自体の意識的な変革によって、これを少しでも、あるいは突出的にでも、改善していくことが大切ではないか。以下、サンマの視点に基づいて、そのための提案をする。

1 地域に囲い込もうとしないで
 −若き旅人たちの巣立ちの場

 ぼくが関わっていた東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)では、他市、他県からも若者がやってくる。彼らは、よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる若き旅人である。主催者側は、そういう旅人を、ゆめにも、門前払いするようなもったいないことをしてはならない。
 その旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江っていいところだよ」とまんざらでもなさそうだ。実際、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。しかし、彼らとて、また、いつ巣立ってしまうかはわからない。
 地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元するための活動を」という地域からの若者への押しつけである。相手の若者だって憲法で居住、移転及び職業選択の自由(22条)が保障されている国民の一員なのに、視野の狭い地域主義に凝り固まった大人の御都合主義が若者の巣立ちを引き止めようとする。
 地域自身がオープンマインド(開かれた心)を取り戻す必要がある。

2 ノリを押しつけないで
 −鬱の時代の「個の深み」

 東京都青少年センターの運営会議で、ぼくがあるにぎやかなイベントを提案したところ、同じく委員をしていた狛プーの前衛芸術の女性講師から、「西村さんね、いまの時代の気分は『鬱』なのよ」と言われた。たしかに、躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽き飽きしているようだ。
 ぼくのメーリングリスト(インターネットを利用したグループ内での手紙のやり取り)に参加しているある若者の発言(概要)を聞いてほしい。
 「実行委員とかいう言葉には、なぜか拒絶反応がでるんですよ。どうも、大学の時の学園祭実行委員会(≒自治会)のイメージが強烈で…。なんというか、単一のノリしか認められないような感じとでもいうんでしょうか。結局、今の自分のノリがその集団のノリとあうような人じゃないと定着しないんですよね。そしてますますその集団内部で閉じた世界ができちゃって、強化されていく。その最悪なところは、彼らのノリでの参加を強要されてしまうということです」。
 このように個を大切にする現在の若者が求めている出会いとは、一人ひとりの「個の深み」(自著『生涯学習か・く・ろ・ん』学文社、平成3年4月)と静かに対面し、しみじみと体験を味わえるサンマでの出会いなのだろう。
 ノリは、結局は「視線」を獲得するための行為につながっているようだ。それはそれでよい。しかし、鬱の時代には、もっと意味を込めた「まなざし」こそを求める若者が増えているのではないか。ノリに無理して付き合うことなく、かといって乱暴にならずに自己の鬱を大切に扱って生きている若者に対して「まなざし」を投げかける地域や文化であってほしい。

3 個人としてとらえて
 −学習は個人的事象

 同じメーリングリストから。
 「以前、大阪にいる頃はハードロックバンドを組んでライブハウスを回っていました。今の仕事を始めてからは音楽から離れていたのですが、最近またバンドを組み、ギターも習いはじめました。ゴキゲンな毎日です。団体行動は苦手。でも楽しいお酒は好きです。仲良くしてください」。
 ぼくは次のようなレスポンス(反応の投稿)を出した。
 「そうなんです。このメーリングリストでもそういう人が多くて・・・。でも、ここはイベントバリバリの人たちも水平に交流するという特異な場だと思います。なんだかおもしろいですよね」。
 指導者は、表面的には集団を相手にしていても、心底そう思いこむようになったら大間違い。学習は本質的には個人的事象であり、教育はその異なる学習者一人一人に働きかけていく営みである。文化活動もそうだろう。「みんな違ってみんないい」(金子みすゞ「わたしと小鳥とすずと」)のである。

4 大人や紳士淑女としてとらえて
 −青年は保護や管理の対象ではなく、自己決定主体

 子どもは子どもと呼べばいい。しかし、青年を、青年と呼ぶか、若者と呼ぶか、ぼくは現在、ほかのメーリングリストで論議中だが(一応のぼくなりの結論はひらがなの「わかもの」である)、少なくとも中学生を過ぎたら、どう呼ぶかは別として、「まだ子ども」ではなく、「もう大人」として接し、「若い大人」すなわち「ヤングアダルト」としてとらえるよう主張したい。
 「子ども」と呼ばれるのではなく、「知る権利」などを保有し、よって責任があるという意味での「アダルト」と呼ばれることによって、そう呼ばれた人自身が、保護と管理のもとに置かれ続けすぎた「子ども」ではなく、自己決定する「成人」になることができる。場合によっては、子どもに対してだって「紳士淑女」として扱えばいいではないか。

5 後向きを否定しないで
 −積極・消極の自己決定の尊重

 よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己決定できていないとさえいえるかもしれない。
 自己決定活動のエネルギー消耗について、ふたたびメーリングリストから。
 「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。
 人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。
 この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。
 違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。
 「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。
 後向きになっているときも個人にとっての「文化」の契機なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは建設的な生き方のひとつなのである。

6 教育っぽくないのが好き
 −双方向ライブこそ教育や地域若者文化の姿

 ある青少年センターの若手スタッフが、違うメーリングリストで次のように発言していた。
 「よく利用者や関係職員には『教育っぽくなくていいよね』とか、『なんでそんな事業ができるの』っていわれることがあります」。
 ぼくは次のようにレスポンスした。
 「センターの事業は教育じゃないからなんでしょうね。社会「教育」の世界のぼくとしては悔しいです。でも、教育に対する固定観念に安住している人が教育をやっていると、マイナスとしての『教育っぽさ』が生ずるのであって、ほんとうは教育は『教育っぽい』ものではないと思います(矛盾した表現!)。
 たとえば、校長が朝礼台に立つのは、数百人もの子どもたちから見えやすいようにという配慮であるはずであって、もし、これが過疎の村の数人の学校でも同じようにやっているとしたら、教育者としての見識が疑われるわけです。幸いにもそんなに小人数なら、子どもたちの視点まで降りていって、まさに双方向リアルタイムのおしゃべりをすればよい。そういうライブ(生演奏)感覚こそがほんとうは『教育っぽい』姿なのだと思います。
 それにしても、朝礼って、なんだか教育の代表的存在みたい。あれって、やられるほうはコケにされてるみたいでたまらなく嫌なものですが、やっているほうはめちゃくちゃ快感感じてるんでしょうね。ずるいよねえ」。
 同じ彼が次のように、ふたたびレスポンスしてきた。
 「私個人の話で恐縮ですが、私が中学校の教壇に立ってたときより、今の仕事の方がおもろいです。なぜか? ある意味、無責任だから楽なんでしょうねえ。マイナスとしての教育っぽさ=説得、というイメージがあるんでしょうか」。
 ぼくは次のように返した。
 「説得じゃないでしょうね。だって、ぼくだったら、いっしょうけんめい包み隠さずに、真正面からぼくを説得しようとする人がいたら、その人の言葉を少なくともよく聴きたいとは思うもの。ただし、最後に決めるのは自分ですけど。
 マイナスとしての教育っぽさ=説得、ではなくて、=説教、なんでしょう。自分の本音や心配事は隠しておいて、なんの痛みや悩みも感じてないふりをして、とくとくと朝礼台から語られることを聞く側の苦痛、というか馬鹿馬鹿しさ、これが、マイナスとしての教育っぽさなのだと思います」。
 以上は教育についての話題ではあるが、文化活動、とくに地域文化においても、まったく同じことがいえるのではないか。文化を享受する側が個人として大切に扱われる。ときには双方向の参加が可能である。決まりきったことを上から押しつけられることだけでは、けっして個人は我慢できないのである。

7 中高年みずからが地域文化を楽しまなくっちゃ
 −「今しかここだけしか」から「今ここで」へ

 狛プーで紙芝居教室をやったとき(狛プーは月替りメニューである)、講師の紙芝居屋さんのおじいさんの態度がとても魅力的だった。参加者が一人一人順番にアドリブで紙芝居(本物の)をやっているときさえも、講師本人は自分の紙芝居の準備に熱中している。もちろん、言葉少なげに的確な専門的アドバイスをしてはくれるのだが、基本的にはそのおじいさんは「好きでやっている」だけなのである。だから、太極拳だかなんだか、関係ないけれど自分がいま関心を持っている話題については一生懸命しゃべる。こういう「自然体」で「ほんもの」の生き方に、若者は憧れるのである。
 地域の心ある大人たちが危機感に駆られて、しかめっ面で「滅びゆく地域文化を継承しなければならない」と訴えたとしても、多くの若い旅人たちは自己決定してまではついてきてはくれないだろう。失礼な言い方で恐縮だが、その言葉に「うそ」が混じっているように感じられるからである。
 それよりも、少しでも多くの中高年たち自身が、地域文化をみずから楽しみ、地域の横のつながりによって生ずる癒しのサンマにみずから癒される思いをもてるようになることこそ大切なのではないか。
 「今ここで」あるいは「今を生きる」という言葉がある。学歴などの過去の文化遺産を比べあったり、「次の世代のために」と演説したりすることより、「今ここで」の自他の個の深みとの出会いこそ、若者も中高年も心の奥底では求めていることなのだろう。「今ここで」は文化の本質でもあろう。
 しかし、現代文明がここにまで至って、「今ここで」ではなくて、「今しかここだけしか」(どうせ将来は自己決定の生き方など無理だから)という絶望的な時代の気分が高校生などの若者たちを支配しているように思える。地域文化創造の主人公になるなどという意識が芽生えないのも無理はない。
 そういうとき、中高年こそ、「落ち込んでいる自分自身に飽きて」、いわば居直って、「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」の生涯にわたる「今ここで」の文化の楽しみ方を示すことができるのではないか。地域文化活動等の横のつながりによる自己決定活動に限っては、主体的、意識的な営みさえあれば、それはすぐ手の届くところにあると思う。そういう中高年たちが地域にいれば、若者にとってはたまらなく魅力的な姿に映ることだろう。
(にしむら みとし
徳島大学大学開放実践センター 助教授)
徳島市学遊塾広報誌『ぶどうの木』第15号原稿

「今しかここだけしか」から「今ここで」へ
 −中高年みずからが地域の楽しみ方を若者たちに示そう−
徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士(mito)

 ぼくが今年の3月まで年間講師として関わっていた東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)での話だが、紙芝居教室をやったとき(狛プーは月替りメニューである)、講師の紙芝居屋さんのおじいさんの態度がとても魅力的だった。参加者が一人一人順番にアドリブで紙芝居(本物の)をやっているときさえも、講師本人は自分の紙芝居の準備に熱中している。もちろん、言葉少なげに的確な専門的アドバイスをしてはくれるのだが、基本的にはそのおじいさんは「好きでやっている」だけなのである。だから、太極拳だかなんだか、関係ないけれど自分がいま関心を持っている話題については一生懸命しゃべる。こういう「自然体」で「ほんもの」の生き方に、若者は憧れるのである。
 地域の心ある大人たちが危機感に駆られて、しかめっ面で「地域に根づかなければならない」と訴えることより、少しでも多くの中高年たち自身が、地域をみずから楽しみ、地域の横のつながりに癒される思いをもてるようになることこそ大切なのではないか。
 「今ここで」あるいは「今を生きる」という言葉がある。学歴などの過去の文化遺産を比べあったり、「次の世代のために」と演説したりすることより、「今ここで」の自他の個の深みとの出会いこそ、若者も中高年も心の奥底では求めていることなのだろう。
 しかし、現代文明がここにまで至って、「今ここで」ではなくて、「今しかここだけしか」(どうせ将来は自己決定の生き方など無理だから)という絶望的な時代の気分が高校生などの若者たちを支配しているように思える。
 そういうとき、中高年こそ、現実の地域と生活に根ざして、「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」の生涯にわたる「今ここで」の地域の楽しみ方を示すことができるのではないか。地域活動等の自己決定活動に限っては、主体的、意識的な営みさえあれば、それはすぐ手の届くところにあると思う。そういう中高年たちが地域にいれば、若者にとってはたまらなく魅力的な姿に映ることだろう。
全日本社会教育連合会『社会教育』99年3月号原稿
 特集テーマ;『公民館の21世紀モデル』

癒しの公民館
 −新しき伝統−
  徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士

1 癒される場としての公民館
   −寺中構想の再評価

 寺中作雄の公民館構想(寺中構想)は、昭和24年の社会教育法より一足早く、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実し、公民館の普及に大きな役割を果たした。この通達では、@公民館は、町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である、A公民館は、町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある、B公民館は、町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である、C公民館は、町村民の民主主義的な訓練の実習場である、D公民館は、中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所、E公民館は、全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する、F公民館は、郷土振興の基礎を作る機関である、と述べた。
 Aの「社交機関」については、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」とし、Bについても、「性別や老若貧富で差別することなく、自由な討論と他人の意見への傾聴」などとされている。「民主主義的訓練」だけでなく、戦時の暗く傷ついた人々の心を、社交や自由な雰囲気によってなんとか癒そうとしたものと考えられる。
 これに対して、社会教育法では、「実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与する」とされ、法的根拠が与えられた。このことについて、「あまり明確ではないが、(寺中構想の)郷土復興・町村自治振興機関という性格はうすれ、(社会教育法では)社会教育施設という性格が強まったといえる。その設置主体は、公民館が地域を基盤としその地域内の住民全員の参加と支持と協力とにより成り立つものであるという建前から、市町村および公民館設立を目的に結成した法人−部落・字の公民館−に限定された。当然のことながら、その公共性、公益性が前面に出されたのである」(碓井正久編「戦後日本の教育改革10−社会教育」東京大学出版会、カッコ内は引用者)などというように、一定の進歩としての評価をするほうがふつうである。
 しかし、ぼくは、公民館の公共性とか教育機関としての性格とかいうものは、人々が心傷ついた現代社会においては、むしろ寺中構想の「伝統」を基盤にした方がよいのではないかと考える。正確にいうと、ネオ・トラディショナル(新しい・伝統)だが。
 今日、癒されない現代社会において「癒されるコミュニティ」を創り出そうとするならば、社会教育機関として「純化」される前の、今でいう自治公民館のもつ「社交機関」のような性格の意義が再認識されるべきではないか。なぜならば、生涯学習、ボランティア、地域市民活動という3つの社会的自己決定活動においてこそ、この現代社会においてさえ人が人によって癒される「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)」創出の可能性があるからである。そして、むしろ、社会教育法に則った公民館のほうこそ、自治公民館以上の教育的、公共的役割として、サンマの支援に力を傾けるべきである。
 さらに、全国公民館連合会「公民館のあるべき姿と今日的指標」(昭和42年)では公民館の理念を、@公民館活動の基底は、人間尊重の精神にある、A公民館活動の核心は、国民の生涯教育の態勢を確立するにある、B公民館活動の究極のねらいは、住民の自治能力の向上にあるとし、その役割を、@集会と活用、A学習と創造、B総合と調整の3点とした。いわゆる「つどい」「まなび」「つなぐ」である。
 もちろん、ここでは心のつながりなどの要素も意識されてはいたはずだが、公民館の現場では、表面的に受けとめられ、個人の学習課題の解決(生涯学習)と、それによる住民としての自治能力の向上ばかりが叫ばれ、そのスローガンが不信と孤立の一般社会において空しく響いているだけのようにぼくには感じられる。「公民館活動の究極のねらい」として、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」としての「社交機関」が現代的に転化した形での「癒される居場所づくり」の役割を自覚すべきである。

2 血縁・地縁から問題縁へ
   −水平異質共生のコミュニティ

 本誌1997年5月号で斉藤学は、「今、第四の領域といって学校、家庭、地域それら以外の領域も大切ではないかと言われだしているんですが」というインタビューに答えて、次のように述べている。
 「ある家庭教育についての懇談会があって、すぐ父親参加をいうんです。でも、父親を集めようとしたって集まりませんよ。団地とか新興住宅地くらいですよ。妻にそむかれて一人になったシングルファザーの会だとか、家庭内暴力におびえている母の会といったら、すぐ集まります。こういうのを問題縁というんです。
 今は地縁というのはないことを前提に考えた方がいい。学校は強制された地縁みたいなものですね。もう一つの縁は家庭です。家は血縁でしょ。血縁というのは、それ自体危ないんです。さっきから言っているような理由で。血縁、地縁もあまり頼るなといいたいですね。これからは、問題縁ですよ。私は、魂の家族と言っている」。
 ぼくは、こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにぼくらのワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。
 たしかに、斉藤のいうように、血縁・地縁による暗黙のうちの強制の伴う人間関係には、多くの現代人が傷ついてきた。しかし、公民館は、戦後から一貫してそういう縁とは異なる近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきたはずではないか(戦後の新生活運動を想起していただきたい)。
 問題縁に希望があるというが、コミュニティを貫き通す問題縁は存在しないのか。もし、存在しないとするなら、地域活動・学習の総合的拠点としての公民館のすべきことなどもはやないといってよいだろう。しかし、個々人の抱える依存やハンディキャップの「種類」によって分断されたグループ(それが不要ということではないが)だけでなく、「地域でさえ癒されない。そういう今の地域を自分らしくいられる癒される地域にしたい」という「問題縁」は、潜在的には多数の住民に存在するはずだ。
 幸い、地域での人間関係には「間(マ)」が存在している。その間を尊重しながらであれば、あるがままを認め合う水平異質共生(自著「癒しの生涯学習」学文社)の地域創造は可能なはずだ。ここが寺中構想とは異なるネオ(新しい)の部分だ。
 現実の公民館には「癒しのサンマ」がふんだんにある。斉藤は同記事で「有能なリーダーなんていらない。自分たちで集まって、自分たちの言葉で語る。語るものは、体験しかないんです」、「単に地域だからといって、母親集めたって烏合の衆です。子育てに悩む母親だったら集まる意義がある」と述べているが、少なくとも「リーダー」としての公民館主事は、住民が安心して「自分たちの言葉で体験を語」れるようにするために仕事をしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけの、ごく当然なケースがたくさんあるだけの話だ。

3 住民の自治能力を向上させることよりも、まず大切なのは癒しと安心
   −過去の学校のような集団づくりはもうやめよう

 ぼくの関わっているメーリングリストで、多くの講座が次のような学級講座の運営方式をとっているという話題があった。@班にわけ、班長を決め、役員を決め、委員長を決める。A当番を決め、準備等の役割を決める。B連絡網を作る。C学級日誌をつける。D講座が終われば、編集委員による「まとめ」の作成。Eそして、自主グル−プの結成へ。住民の自治能力や民主的能力の育成という眼目のもとに取り組まれてきたのであろう。しかし、そのような役割をやらされるのはごめん、という住民が増えてきたというのだ。連絡網にしたって、最近の住民はプライバシーの観点から、強制されることをいやがるという。
 こういう「公民館側の悩み」に共感するリーダーは多いと思う。しかし、ぼくは、逆に、現代社会においてはそういう住民のほうがむしろ当然だと思う。ここも「ネオ」な部分といえる。ぼくが年間講師として関わってきた狛江市中央公民館の青年教室(狛プー)には、半年ほども躊躇した上で、ボロボロになったチラシを握り締めて、やっと教室に入ってきた若者がいる。「学校の教室のようだったら絶対いやだったから」というのである。また、狛プーでバンガローに泊まり、最後の撤収の朝、ある若者が裏のほうで貸し布団まで干していた。それをたまたま見かけたぼくたちメンバーは、みな感心してしまった。役割分担は、このように自発的、流動的であるべきである。固定的になってしまったら、自立と共生をめざす公民館の教育的機能は薄れる。
 @からEまでずらっと並べると、生涯学習時代以前の学校教育でさんざんやらされてきた「縦社会づくり(委員長、役員)」「固定的役割分担(当番制)」「みんな仲良く(連絡網)」の再来でしかないのではないかと感じる。学校教育の教科だけではなく、あの暗黙のうちの強制の匂いのする集団主義に心からはついていけないのである。「ここはまさか、学校みたいなことはさせられないだろうな」と思って、おずおずと、しかし、勇気をふるって参加した人に、いきなり、「ここはみなさんが主人公として活躍する学習の場です」というとしたら・・・、これは残酷な話だと思う。DとEは、もしやりたい人がいたら公民館がどんどん支援すればいい。Cも、買って出てくれる人がいる場合は、その人にやってもらうのならいいだろう。ただ、Dについては、公民館の講座は自主グループではないのだから、公民館主事ができるだけ講座の中味にも参加して、質の高いリーダーシップを発揮し、きちんとした記録を作ってほしい。
 いずれにせよ、住民は生涯学習という自己決定活動の一環として学級講座に参加してくるのだ、ということを公民館側は再認識しなければいけない。この世知辛い現代社会なのにわざわざ自己決定で参加してきた住民に対して、公民館が、即、自治能力向上などの名のもとに集団主義を押し付けるのは、アダルトティーチングとしての教育的センスに欠けているといわざるをえない。
 公民館は、自治能力向上等の公的課題(=現代的課題)の教育的意図を参加者にフェアに明示しつつ、まずは「ここは自分らしくいられる場所である」と安心してもらえるように心がける必要がある。

4 「地域社会に役立っている私」という住民の存在確認
   −コミュニティに癒しを広げる公民館の公的役割

 最後に、公民館側が意図的に提起している公的課題の学習と、それによる「住民の自治能力の向上」は、どのように個々人の癒しとつながるのかを述べておきたい。
 生涯学習は個人の「どこまでも知りたい」という内発的動機に基づくもっぱら自己実現の行為といえよう。しかし、その自己実現は、社会的認知・承認の欲求の充足なくしては、ほぼ達成不可能である。その点では、マズローが社会的欲求を、自己実現の欲求や自我欲求よりも前のレベルに位置づけたことは現在でも通用する。
 ただし、現代社会においては社会的欲求こそ一番満たされにくく、それゆえ多くの個人にとっては最高次の欲求にまで高まっているのかもしれない。本論も、この現代の欲求に応える公民館経営を提起しようとしたものである。
 もちろん、社会的承認は、先述の3つの自己決定活動以外にも、本来、家族や職場への帰属意識などによって満たされるはずのものである。しかし、そこに頼りすぎることがむしろ病理を生み出しているのが現代である。これに気づいた一部の市民たちが自己決定活動に踏み出しているのだろう。そこで得られるのが、社会的役割の遂行と、それによる社会的承認を実感できる社会貢献のチャンスである。そして、公的課題の学習も、公民館が地域の総合的な教育施設であるがゆえに、学習者がその学習成果を社会貢献につなげていく条件を十分に備えている。
 今日、多くの若者が「自分は社会において意味のある存在である」と胸を張れない状況がある。そういう人たちに対して、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居心地よいサンマにおける癒しだけにとどまらず、さらには「地域社会に役立っている私」という究極の癒しのチャンスまでをも提供する公民館であってほしい。今後の公民館活動の「究極の」ねらいは、「住民の自治能力の向上」ではなく、学習者一人一人にとっての、その二つの癒しにおくべきではないか。

西村美東士プロフィール

 平成10年4月から徳島大学大学開放実践センター助教授。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員、昭和音楽大学短期大学部助教授を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。狛江プータロー教室(狛江市青年教室)の年間講師などを務めたのち、現在は、同センターの公開講座『私らしさのワークショップ』で張り切るかたわら、徳島市学遊塾運動やヤングフェスティバル等で人々との「癒しのサンマ」づくりに励んでいる。著書に、『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』(平成3年4月)、『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません』(平成5年3月)、『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』(平成9年4月)。いずれも学文社。




旧版
癒しの公民館
 −新しき伝統
  徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士

1 癒される場としての公民館
   −寺中構想の再評価

 寺中作雄の公民館構想(寺中構想)は、昭和24年の社会教育法より一足早く、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実し、公民館の普及に大きな役割を果たした。この通達では、@公民館は、町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である、A公民館は、町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある、B公民館は、町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である、C公民館は、町村民の民主主義的な訓練の実習場である、D公民館は、中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所、E公民館は、全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する、F公民館は、郷土振興の基礎を作る機関である、と述べた。
 Aの「社交機関」については、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」とし、Bについても、「性別や老若貧富で差別することなく、自由な討論と他人の意見への傾聴」などとされている。「民主主義的訓練」だけでなく、戦時の暗く傷ついた人々の心を、社交や自由な雰囲気によってなんとか癒そうとしたものと考えられる。
 これに対して、社会教育法では、「実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与する」とされ、法的根拠が与えられた。このことについて、「あまり明確ではないが、(寺中構想の)郷土復興・町村自治振興機関という性格はうすれ、(社会教育法では)社会教育施設という性格が強まったといえる。その設置主体は、公民館が地域を基盤としその地域内の住民全員の参加と支持と協力とにより成り立つものであるという建前から、市町村および公民館設立を目的に結成した法人−部落・字の公民館−に限定された。当然のことながら、その公共性、公益性が前面に出されたのである」(碓井正久編「戦後日本の教育改革10−社会教育」東京大学出版会、カッコ内は引用者)などというように、一定の進歩としての評価をするほうがふつうである。
 しかし、ぼくは、公民館の公共性とか教育機関としての性格とかいうものは、人々が心傷ついた現代社会においては、むしろ寺中構想の「伝統」を基盤にした方がよいのではないかと考える。正確にいうと、ネオ・トラディショナル(新しい・伝統)だが。
 今日、癒されない現代社会において「癒されるコミュニティ」を創り出そうとするならば、社会教育機関として「純化」される前の、今でいう自治公民館のもつ「社交機関」のような性格の意義が再認識されるべきではないか。なぜならば、生涯学習、ボランティア、地域市民活動という3つの社会的自己決定活動においてこそ、この現代社会においてさえ人が人によって癒される「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)」創出の可能性があるからである。そして、むしろ、社会教育法に則った公民館のほうこそ、自治公民館以上の教育的、公共的役割として、サンマの支援に力を傾けるべきである。
 さらに、全国公民館連合会「公民館のあるべき姿と今日的指標」(昭和42年)では公民館の理念を、@公民館活動の基底は、人間尊重の精神にある、A公民館活動の核心は、国民の生涯教育の態勢を確立するにある、B公民館活動の究極のねらいは、住民の自治能力の向上にあるとし、その役割を、@集会と活用、A学習と創造、B総合と調整の3点とした。いわゆる「つどい」「まなび」「つなぐ」である。
 もちろん、ここでは心のつながりなどの要素も意識されてはいたはずだが、公民館の現場では、表面的に受けとめられ、個人の学習課題の解決(生涯学習)と、それによる住民としての自治能力の向上ばかりが叫ばれ、そのスローガンが不信と孤立の一般社会において空しく響いているだけのようにぼくには感じられる。「公民館活動の究極のねらい」として、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」としての「社交機関」が現代的に転化した形での「癒される居場所づくり」の役割を自覚すべきである。

2 今の地域はジェンダーバイアスの宝庫? 女同士の監視の牢獄?
   −女の癒し、男の癒しを地域に求めて

 先日、徳島で、国際婦人教育振興会徳島セミナー「メディアの中の女性−ネットワーク・21世紀に向けて」が行われた。ぼくはそこで「チイキから発信する女たち−メディア・ジェンダー・コミュニティ」というメッセージを掲げて「地域社会分科会」の助言者として参加した。
 分科会では、事例発表者の元小学校長で現在、市の公民館主事のTさんに、思いきって本音で発表していただいた。彼女は、地域の女性のエンパワーメントを掲げたまちづくり事業を進めているが、彼女の発表は、冒頭から「地域はジェンダーバイアスの『宝庫』である」という言葉で始まった。さらには、女同士でも監視しあう牢獄のような要素が地域にはあるという。異質を歓迎しあう水平交流にはまだまだほど遠いのが地域一般の実態なのである。公民館が、そんな癒されないコミュニティを「回復」してしまってはいけないだろう。
 彼女が公民館主事になったときの感想は、「学校では学習者が自分の話を聞いてくれて当たり前だったが、社会教育では聞いてもらえるようになることから始めなければいけない」ということだ。そういう出発点から、地域のエンパワーメントに取り組んだ。そうしたら、若い子育てママの一人が、イベントのチラシをごっそり持っていって、スーパーのレジの前で配り出したという。チラシを受け取った人とはおしゃべりをし、ちゃっかり、連絡先まで書いてもらっていた。スーパーの店長だって、おいそれとは禁止できないのだろう。Tさんは、「元教員の私が彼女たちから学ぶ喜びを教わった」という。
 さらには、「男社会」の象徴のような従来の地域団体をも巻き込み、盆踊りの練習をしたあとに地域の子育てトーキングをするなどの地域活動を展開している。彼女は、「地域にいてもジェンダーに縛られている男たちはかわいそう」という。彼女がめざしている公民館の地域活動は、女だけではなく、男たちにも、ジェンダーフリーの水平交流によるこのような癒しを与えるものといえよう。

3 血縁・地縁から問題縁へ
   −水平異質共生のコミュニティ

 本誌1997年5月号で斉藤学は、「今、第四の領域といって学校、家庭、地域それら以外の領域も大切ではないかと言われだしているんですが」というインタビューに答えて、次のように述べている。
 「ある家庭教育についての懇談会があって、すぐ父親参加をいうんです。でも、父親を集めようとしたって集まりませんよ。団地とか新興住宅地くらいですよ。妻にそむかれて一人になったシングルファザーの会だとか、家庭内暴力におびえている母の会といったら、すぐ集まります。こういうのを問題縁というんです。
 今は地縁というのはないことを前提に考えた方がいい。学校は強制された地縁みたいなものですね。もう一つの縁は家庭です。家は血縁でしょ。血縁というのは、それ自体危ないんです。さっきから言っているような理由で。血縁、地縁もあまり頼るなといいたいですね。これからは、問題縁ですよ。私は、魂の家族と言っている」。
 ぼくは、こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにぼくらのワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。
 たしかに、斉藤のいうように、血縁・地縁による暗黙のうちの強制の伴う人間関係には、多くの現代人が傷ついてきた。しかし、公民館は、戦後から一貫してそういう縁とは異なる近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきたはずではないか(戦後の新生活運動を想起していただきたい)。
 問題縁に希望があるというが、コミュニティを貫き通す問題縁は存在しないのか。もし、存在しないとするなら、地域活動・学習の総合的拠点としての公民館のすべきことなどもはやないといってよいだろう。しかし、個々人の抱える依存やハンディキャップの「種類」によって分断されたグループ(それが不要ということではないが)だけでなく、「地域でさえ癒されない。そういう今の地域を自分らしくいられる癒される地域にしたい」という「問題縁」は、潜在的には多数の住民に存在するはずだ。
 幸い、地域での人間関係には「間(マ)」が存在している。その間を尊重しながらであれば、ジェンダーフリーの宝庫、監視しあわないあるがままを認め合う水平異質共生(自著「癒しの生涯学習」学文社)の地域創造は可能なはずだ。ここが寺中構想とは異なるネオ(新しい)の部分だ。
 最近、コギャルを卒業した若い女性たちや、普通のサラリーマンたちなどが、ヒーリング(心と体の癒し)とともに、家や地元でゆったりと過ごし、ジモティ(地元)の仲間とジモティの店で過ごす傾向を見受けるようになった。こういう一般の人たちに、人による本当の癒しを与える公民館であってほしい。人は人によって傷つくが、人によって癒される(富田富士也)という。
 現実の公民館には「癒しのサンマ」がふんだんにある。斉藤は同記事で「有能なリーダーなんていらない。自分たちで集まって、自分たちの言葉で語る。語るものは、体験しかないんです」、「単に地域だからといって、母親集めたって烏合の衆です。子育てに悩む母親だったら集まる意義がある」と述べているが、少なくとも「リーダー」としての公民館主事は、住民が安心して「自分たちの言葉で体験を語」れるようにするために仕事をしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけの、ごく当然なケースがたくさんあるだけの話だ。

4 住民の自治能力を向上させることよりも、まず大切なのは癒しと安心
   −過去の学校のような集団づくりはもうやめよう

 ぼくの関わっているメーリングリストで、多くの講座が次のような学級講座の運営方式をとっているという話題があった。@班にわけ、班長を決め、役員を決め、委員長を決める。A当番を決め、準備等の役割を決める。B連絡網を作る。C学級日誌をつける。D講座が終われば、編集委員による「まとめ」の作成。Eそして、自主グル−プの結成へ。住民の自治能力や民主的能力の育成という眼目のもとに取り組まれてきたのであろう。しかし、そのような役割をやらされるのはごめん、という住民が増えてきたというのだ。連絡網にしたって、最近の住民はプライバシーの観点から、強制されることをいやがるという。
 こういう「公民館側の悩み」に共感するリーダーは多いと思う。しかし、ぼくは、逆に、現代社会においてはそういう住民のほうがむしろ当然だと思う。ここも「ネオ」な部分といえる。ぼくが年間講師として関わってきた狛江市中央公民館の青年教室(狛プー)には、半年ほども躊躇した上で、ボロボロになったチラシを握り締めて、やっと教室に入ってきた若者がいる。「学校の教室のようだったら絶対いやだったから」というのである。また、狛プーでバンガローに泊まり、最後の撤収の朝、ある若者が裏のほうで貸し布団まで干していた。それをたまたま見かけたぼくたちメンバーは、みな感心してしまった。役割分担は、このように自発的、流動的であるべきである。固定的になってしまったら、自立と共生をめざす公民館の教育的機能は薄れる。
 @からEまでずらっと並べると、生涯学習時代以前の学校教育でさんざんやらされてきた「縦社会づくり(委員長、役員)」「固定的役割分担(当番制)」「みんな仲良く(連絡網)」の再来でしかないのではないかと感じる。学校教育の教科だけではなく、あの暗黙のうちの強制の匂いのする集団主義に心からはついていけないのである。「ここはまさか、学校みたいなことはさせられないだろうな」と思って、おずおずと、しかし、勇気をふるって参加した人に、いきなり、「ここはみなさんが主人公として活躍する学習の場です」というとしたら・・・、これは残酷な話だと思う。DとEは、もしやりたい人がいたら公民館がどんどん支援すればいい。Cも、買って出てくれる人がいる場合は、その人にやってもらうのならいいだろう。ただ、Dについては、公民館の講座は自主グループではないのだから、公民館主事ができるだけ講座の中味にも参加して、質の高いリーダーシップを発揮し、きちんとした記録を作ってほしい。
 いずれにせよ、住民は生涯学習という自己決定活動の一環として学級講座に参加してくるのだ、ということを公民館側は再認識しなければいけない。この世知辛い現代社会なのにわざわざ自己決定で参加してきた住民に対して、公民館が、即、自治能力向上などの名のもとに集団主義を押し付けるのは、アダルトティーチングとしての教育的センスに欠けているといわざるをえない。
 公民館は、自治能力向上等の公的課題(=現代的課題)の教育的意図を参加者にフェアに明示しつつ、まずは「ここは自分らしくいられる場所である」と安心してもらえるように心がける必要がある。

5 「地域社会に役立っている私」という住民の存在確認
   −コミュニティに癒しを広げる公民館の公的役割

 最後に、公民館側が意図的に提起している公的課題の学習と、それによる「住民の自治能力の向上」は、どのように個々人の癒しとつながるのかを述べておきたい。
 生涯学習は個人の「どこまでも知りたい」という内発的動機に基づくもっぱら自己実現の行為といえよう。しかし、その自己実現は、社会的認知・承認の欲求の充足なくしては、ほぼ達成不可能である。その点では、マズローが社会的欲求を、自己実現の欲求や自我欲求よりも前のレベルに位置づけたことは現在でも通用する。
 ただし、現代社会においては社会的欲求こそ一番満たされにくく、それゆえ多くの個人にとっては最高次の欲求にまで高まっているのかもしれない。本論も、この現代の欲求に応える公民館経営を提起しようとしたものである。
 もちろん、社会的承認は、先述の3つの自己決定活動以外にも、本来、家族や職場への帰属意識などによって満たされるはずのものである。しかし、そこに頼りすぎることがむしろ病理を生み出しているのが現代である。これに気づいた一部の市民たちが自己決定活動に踏み出しているのだろう。そこで得られるのが、社会的役割の遂行と、それによる社会的承認を実感できる社会貢献のチャンスである。そして、公的課題の学習も、公民館が地域の総合的な教育施設であるがゆえに、学習者がその学習成果を社会貢献につなげていく条件を十分に備えている。
 今日、多くの若者が「自分は社会において意味のある存在である」と胸を張れない状況がある。そういう人たちに対して、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居心地よいサンマにおける癒しだけにとどまらず、さらには「地域社会に役立っている私」という究極の癒しのチャンスまでをも提供する公民館であってほしい。今後の公民館活動の「究極の」ねらいは、「住民の自治能力の向上」ではなく、学習者一人一人にとっての、その二つの「癒し」におくべきではないか。
癒しの生涯学習
  Lifelong Learning for Healing
−ネットワークの
  あじわい方とはぐくみ方−

本 書 の 特 徴
この本は、教育、社会、心理のそれぞれの学の成果を援用しつつも、従来の学にあまりこだわることなく、現実社会においての癒しと成長と、その援助のあり方について、経験的、臨床的にまとめたものである。
◇自己決定の世界のマインドを知る
 本書では、おもに、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動という自己決定の世界に気持ちよく関わるためのマインド(心)を追求する。
◇癒しのサンマのコツを知る
 本書の主題である癒しについては、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答の一つが「癒されること」であるという気持ちで本書を書き通している。しかし、同時に、本書では、癒されるためには、@自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はないという主張もしている。ただし、それは、「自分のために」「面白いから」であり、本書ではそう思えるためのコツを探ろうとした。
◇臨床的記述
 本文においては臨床的な記述が中心である。それ以外にいい方法が見つからなかった。mito的授業と同様にライブ感覚の記述をめざしている。
◇息詰まる知的水平空間
 途中から、出席ペーパーとそれに対するmitoのコメントというかたちで、学生との仮面のない息詰まるやり取りが続出する。mito的授業で、知的水平空間をめざし、毒にも薬にもならない社交辞令を捨てた結果である。「読んでいて息苦しくなる」という人もいる。無理して読む必要はないかもしれないが、指導者や指導ということに対して真正面から対面し、その意味を再認識するためには、できれば不快感をこらえて読み通してから意見を聞かせてほしい。
◇従来のシドウに対する疑義
 自己決定の世界において、その指導者とはいったい何なのか。あるいは、「者」という特定の人物へ
の固定までいかなくても、機能としての指導だったら存在しうるのか。ぼくは本書では水平異質共生における「共育」という概念でそれを説明している。指導者には、自他への基本的信頼が求められる。
◇問い続ける問題解決型の研究
 それぞれの節の表題の右隣には、テーマに関わるぼくなりの問題提起を書いた。かなり本質的なアポリア(行き詰まりの難問)が多く、よって、必ずしも文中に完璧な解答があるわけではない。たとえば「なぜ人は学ぶのか」という問いがあるとしたら、それに対してただ一つの最終的な答というものは存在しないだろう。ぼくとしては、たくさんの人にたくさんの答を出してもらいながら、問題解決型でともに考えていきたい。また、本文自体も、同様に、問いを重視した内容になっている。
◇単刀直入な◆生涯学習用語解説◆
 生涯学習関係者のあいだで使われる用語、および本文中に使用した用語で補足説明が必要なものについて、生涯学習用語解説において、なるべく簡潔な解説を心がけた。途中、差し障りのありそうな部分もあったが、思い切って単刀直入に表現した。これは現場ではむしろリアリティになりうると期待している。なお、紙面編集の都合から必ずしも章の内容と対応していないので注意してほしい。
◇拾い読みしやすい工夫
 拾い読みをしたり、あとから必要なところを探し出したりしやすいように、左欄にキーポイントを抜き出してある。また、索引もなるべく詳細にした。
◇コンパクトな紙面
 やや活字が小さいかもしれないが、なるべく一覧性の便利さと凝縮した情報としての役割をねらったためである。その分、コンパクトになっているので、携帯して自己決定のサンマなどで引用や批評に活用していただければ幸いである。
 注
mitoとは筆者のことである(パソコン通信のハンドル)。
サンマとは時間・空間・仲間の3つのマ(間)のことである。
<○○はパソコン通信で○○が発言したことを示す記号である。
『かくろん』は自著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』をさす。
『こころ』は自著『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』をさす。

もくじ
本書の特徴・・・・・・1
もくじ・・・・・・・・2
トラブル・シューティング・・・5
まずは頭の体操を・・・6
はじめに
 ぼく(mito)の双方向高等教育システムと、この本の意味・・・・・8

第1章 癒されない3つの病理
1 家族関係の病理・・・・・14
2 教育システムの歪み・・・・・22
 −ぼくたちはいったい何のために学んでいたのか−
3 自分自身の内なるピアコンセプト・・・・・30

第2章 癒しと貢献の自己決定入門
1 事実よりも真実・・・・・34
2 合格はラッキーではなく不幸なのか・・・・・38
3 奴隷の覚悟を決める・・・・・40
 −積極的積極性と消極的積極性−
4 空しさに耐える・・・・・44
5 自己受容による自己変容・・・・・50
6 自罰と他罰のデリケート・・・・・54
 −淋しがり屋のタカビー−
7 指導者としての責任のもち方・・・・・58
 −共感的理解は義務なのか−

第3章 気づきと癒しのネットワーク心得
 −自他否定と仮面演技の上下同質競争から、
    基本的信頼と共感的理解の水平異質共生へ−
1 あんた世間なめてんじゃない?・・・・・62
2 見返りを押しつけるな、見返りが期待できるような行為をせよ・・・・64
3 「ましなろくでなし」であればよい・・・・・66
4 枝葉としての幸福追求・・・・・70
 −積極的積極と積極的消極の連動−
第4章 知的水平空間における指導批判の方法
1 権力にしっぽを振るな・・・・・74
 −教師の葛藤より学習に重大なもの−
参考資料 「先生という言葉をやめてみよう」・・・・・77
2 教える側の義務の限定と、学ぶ側の批判範囲の限定・・・・・78
3 「ヒハンのペーパー」の存在価値・・・・・82

第5章 癒しのサンマのつくり方
1 チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?・・・・・92
 −未来型生涯学習支援サービスをめざして−
◇学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?…◇若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか…◇新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス
2 出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法・・・・・98
◇ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」…◇自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定…◇アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物…◇プータローの自由のつらさ…◇撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」…◇出入り自由の淋しさを受容する…◇よその地域の青年たちの意味…◇キャンプは夜だ…◇若者が自分のお金を払う時…◇空白のプログラム…◇善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心…◇狛プーはスムーズな自己開示のネットワークである…◇男と女の出会いのための公的サービス…◇いい男、いい女さえ支援すればよい…◇「おうち」としての狛プー(狛プーの公的・現代的意義)…◇癒しと成長、受容と変容の好循環

第6章 生涯学習時代における大学の役割
1 高等教育の根底的転換・・・・・118
◇現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として…◇市民の多様化・高度化する学習ニーズへの対応を…◇市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を…◇高等教育の制度等の柔軟化と個性化を…◇市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を…◇市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を…◇学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を…◇他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を…◇生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を
2 高等教育内容7つの転換・・・・・128
◇転換1−自己決定・自立支援型にする…◇転換2−双方向・水平交流型にする…◇転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする…◇転換4−おもしろ・感動型にする…◇転換5−課題提起・解決型にする…◇転換6−生きがい創出型にする…◇転換7−信頼・共感・癒し型にする
参考資料 「生涯学習の再定義」・・・・・・・131

第7章 ボランタリズムのシドウ
1 大人社会の御都合主義批判・・・・・134
 −楽しい生涯学習施設経営と楽しいボランティアのために−
2 おわりに−ボランタリズムとその指導・・・・・140
 −アンビバレンツな人間存在と、善と悪の真実を追求する方法−

『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』目次・・・・・・・148
『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』目次・・・・・・・150
目で見る生涯学習・・・・・・・152
さくいん・・・・・・・153

自己一致  52 地域の教育力   97
自己管理型学習  13  交流分析 リーダーシップ
発達課題     21  基本的構え 公民館   117
生育歴  問題解決学習  57 青年教育
家庭教育  カウンセリングマインド  61 集団学習
信頼       36  登校拒否と引きこもり 公的課題の優先
生涯学習 37  学習交換  65 学校開放   126
生涯教育  ストローク 定型的教育  127
社会教育  アガペ 大学の自己点検・自己評価
社会教育行政  mito的授業  69 継続高等教育
癒しのサンマ  ヒエラルキー  73 ボランティア・コーディネータ
学校歴より学習歴 39  ネットワーク 成功のシンボル   132
研修の目的    48  ピア 幸福追求権
体験学習 49  ボランティア 潜在的学習関心  133
準拠枠組  レクリエーション  81 ボランティアバンク
共感的理解  社会教育指導者 自己決定 
エンカウンター  対話(ダイアローグ) 生涯学習ボランティア 139
価値観ゲーム  3化け  96 ワン・オブ・ゼム論
自己受容     52 コミュニティ 97 協働

トラブル・シューティング

つぎのような問題が生じた場合は、順序にこだわらずに→以下のページを参照してください。

Q 私は著者が結局何をいいたいのかを最初にわからないと、安心して読めない性格です。
 なるべくひとことで教えてください。
A ぼくのいいたいことは「現在の上下同質競争社会のなかでも、突出的に癒しと成長のネットワークをつくることができる。その突出的時間・空間・仲間は今後の水平異質交流の共生社会の先駆けである」ということです。(→p9の図表1「癒しと成長のサンマ」)
Q これからの生涯学習のあり方について、筆者のオリジナルな見解を手っ取り早く知りたいのだが……。
A 社会教育の雑誌にごく簡単に紹介したことがあります。本書でもこれを資料として収録しておきました。(→p131の参考資料「生涯学習の再定義」)
Q 今の若者(生徒・学生、部下)に媚びず、かつ、支持的に対応するための示唆がほしい。
A この本は、学生の出席ペーパーへのぼくの実際の対応にもとづいて編まれています。
 出席ペーパー(小さい字の部分)をまず読んで、ご自分だったらどう対応するかをお考えになったうえで、ぼくの対応の仕方も参考にしていただければと思います。
 (→たとえばp82「ヒハンのペーパーの存在価値」)
Q 理屈はもういい。実際にどうしたらネットワークをつくったり、楽しんだりできるかを知りたい。
A ネットワークには癒しや楽しさと同時に、「出入り自由の淋しさ」など、個人に自立を求めるという点で厳しさもあります。狛プーの運営方法が参考になると思います。
 (→p98「出入り自由のこころのネットワークの運営法」)
Q 他者や社会のことなんかより、何をしても癒されない思いの自分がどうしたら癒されるのかを私は知りたかったのだ。
A 「この人、いい生き方をしているなあ」と思える人とのいい出会いを豊かにもつことができないと、結局のところ人は癒されないとぼくは思っています。
 (p27「フリースペースの意義」、p62「あんた世間なめてんじゃない事件」など)
Q 教員採用試験などの就職試験に役立てたい。
A 知識だけを問う○×などのペーパーテストにはあまり役立たないと思いますが、本書全体が自己管理型の思考と、それによる「個の深み」に最高の価値をおいて書かれていますので、小論文や面接などには予期せざる大きな効果をもたらしてくれるかもしれません。
 (→p12「就職3条件」、p38「合格はラッキーではなく不幸なのか」)
Q 自分は別に癒されなければならないなどとは思っていない。元気にやっている。「癒しの生涯学習」なんて余計なお世話だ。
A ぼくの専門は社会教育や生涯学習ですので、どちらかというと、むしろそういう「一般的な」人びとの交流の世界に関心があって、この本を書いたのです。ですから、「フツーの人びと」のよりよき自他受容と自己変容を支援するための本だと考えてください。ぼくは、自己否定による変身願望などについては、かえってマイナスの結果をもたらすと考えているぐらいなのです。(→p50「自己受容による自己変容」)

まずは頭の体操を……何がそうで、何がそうではないのか。
 生涯学習・生涯教育や社会教育(p37)、ボランティア(p73)とは何なのか?
 じつはいろいろな説がある。まずはぼくなりの見分け方を提示しておきたい。

1 社会教育であるのに生涯学習には含まれないという学習はない。
2 生涯学習ではあっても社会教育とはよばない学習はある。
 生涯学習活動の範疇に入る事例 一方、社会教育は
 偶発性 = 人や自然と出会い、感動して、自分の何かが変わった。←→意図的行為
 個人性 = 就職のため、ひとりで参考書で受験勉強をしている。 ←→相互作用
 反社会性= 自分は立派なヤクザになるために修行・研鑚している。←→社会性
 学校教育= 学校教育は生涯学習の基礎・基本づくりである。 ←→非公式教育
3 しかし、つぎの留意点は生涯学習でも社会教育でも共通である。
 自主性・自発性の尊重 =学習者の学習関心から出発する。
 娯楽性の重視=学習者が楽しかったと思って帰ってもらえるようにする。
 個人学習の重視=学習者をつねにマス(集団)としてしかとらえない悪癖を改める。
 教育行政以外の一般行政のもつ教育機能の重視=タテ割り的発想を改める。
 企業や民間営利事業のもつ教育機能の重視=単眼的な執着から複眼的なゆとりへ。
4 ボランティアは自分のために自らすすんで他者を利する行為である。
 自発性×内申書による評価に有利なボランティア活動を探して、その活動を始めた。
    ○人淋しさのあまり始めてみたが、いつのまにかやめられなくなった。
 無償性×生涯学習施設でボランティアをやっているが、職員並みの手当がほしい。
    ○その施設への往復の交通費が支給されるので、私費を出さずに活動できる。
 公共性×ある人のためには死をもいとわない。(これが悪いという意味ではない)
    ○家の前を掃いていて、ついでに隣の家の前まで掃いておいた。
5 迷惑ボランティアにならないためには、相手の気持ちや結果も重視する必要がある。
 偽善  ×お年寄りが「けっこうです」といっているのに、無理に席を譲った。
 自己満足×みんなが喜ぶだろうから、カラオケのマイクを独り占めして歌ってあげた。
 偽悪  ×ボランティアをやっている人たちは偽善者だから、私はやらない。
 潔い撤退○ボランティア以外のあることに夢中になっているので、私はやらない。
6 社会教育や生涯学習の活動は、ほとんどがボランティア活動そのものである。
 成果発表○市民祭りで、自分たちの手芸サークルの作品を展示した。
 教える ○社交ダンスサークルで、初心者にステップを教えてあげた。
 地域活動○公民館主催のわが町の開発計画についての学習会に参加した。
7 ところで、遊びや「放電」行為まで生涯学習と呼んでいいのですか?

一人ひとりが個性的な異なる考え方をもてばそれでよいと思うが、本書では、当然、
上の考え方にもとづいて議論を展開する。

 癒しの生涯学習

はじめに
 ぼく(mito)の双方向高等教育システムと、この本の意味

 癒しとは何か。また、癒しを求める現代人に対して、従来の一方通行の教育では、どうして力をもちえないのか。かといって、教育システムが双方向であるということだけでは学習者に癒しを与えることができるとは限らない。なぜ双方向なのかを、教育や指導の本質にもとづいて考え直さなければならないのではないか。

 ここで癒しとは、心の傷をなおすことである。英語でヒール(heal)という。
 ある学生が卒業後もぼくに「出席ペーパー」(後述)を渡し続けてくれている。そこには人間疎外の現代に生きる心を的確に表すたくさんの真実の言葉がひしめきあっている。「私は夜中一人で動き出すおもちゃです」。自分は自分らしくありたい、他者によって取り替えることのできない自分の人生を実感したいと思ったとき、昼間の世界の仮面や演技に耐えられなくなって、夜中の一人ぼっちの世界で自己のアイデンティティを見つけようとするのだ。しかし、彼女はこのようにも書いている。「放っておいてほしい、でも、気にかけてほしい」。落ち込んでいたいときには一人で落ち込んでいたい。自分のことをよくわかってくれていない人からの中途半端な慰めや、現代の競争主義にはまりこんでいる人からの優越感を伴った励ましは、かえって自分がみじめになるだけだ。だが、もし本当にだれもかまってくれなくなってしまったら、それでは人は淋しくて生きていけなくなってしまうということなのだろう。
 引きこもりのカウンセラー富田富士也は「人は人によって傷つき、人によって癒される」といっている。また、「個は他者と関わることによってより深まる」という言葉も真実を感じさせる。ぼくの提唱している「個の深み」の味わいも、このような他者との出会いと自己への気づきのなかで肯定的に味わうことができるものだ。しかし、同質の者たちが画一化した価値基準のままに上下競争に追いまくられる現代社会(学校歴偏重社会)においては、人とのせっかくの出会いが仮面や役割演技に侵食されて、彼女のようにかえって苦しみ、個性を自己抑圧する結果を生じがちである。
 このようにして現代人は癒しを必要とする状態に落ち込む。それゆえ、癒しとは、傷ついた心がもとの状態に戻ることをいう。今までの教育がつねに成長や生涯にわたる発達を第一義としてきたのに対して、癒しとは回復やいっときの安らぎしか表さない。そんな癒しの観点を後ろ向きだと批判する教育関係者もいるだろう。しかし、イルカと泳ぐ、水晶玉を買ってきて見つめる、など、若者たちが癒されようとしてさまざまな工夫をし、なおかつ癒されていない今日、彼らが後ろ向きだろうが何だろうが、彼らの幸福追求の営みにとって有効な、かつ、社会的にも望ましい結果が期待できるような支援の手を社会から差し伸べる必要がある。あるいは、「社会に適応するために成長、発達ばかり追い求め続けること自体が空しい。生きる意味をあえてあげるならば癒ししかないのではないか」と考えることもできる。
 ぼくは、人びとを癒されない状態に追い込む「上下同質競争社会」において、癒しを提供する「水平異質交流」を生み出す時間・空間・仲間(3つの間でサンマという)が突出的に存在していると考えている。それは、自己決定のサンマとしての@生涯学習、Aボランティア、B地域活動(市民活動)の3つである。そこでは、「仕方ないから頑張る」などというぼくたちのいつもの奴隷の習性などはいらない。そういう人がいたらかえって邪魔になる。自立した者どうしが相互承認しあい、あるがままの自他を肯定的に受け入れあって(自他受容)、のびのびと異なった個性を育くみ、発揮しあうというところがサンマの魅力なのである。さらには、そこで、他者や社会に貢献できる有用な自己を再発見し、また、他者からその認知を受けて自他への信頼を深め、個を深めることができる。そこでは図表1のような好循環が成立する。本書では、このような現代のリアリティを探りたい。

 図表1 癒しと成長のサンマ(時間・空間・仲間)

 受容を促す契機
  素のままの自分が両手を広げて歓迎される。
 変容の理由
  人生の風景を味わって生きていきたい。
 自己決定する動機
  どこまでも知りたい、癒されたい。

 本書では、学生の「出席ペーパー」(出席証明の代わりというほどの意味)と、大学教員としてのぼく(mitoと称している)との双方向のやりとりがたくさん出てくる。「出席ペーパー」を始めたきっかけは、じつはつぎのとおりである。数年前に社会教育の仕事をやめて、初めて教壇に立ち、学生の注視を一身に受ける立場になった時、そのプレッシャーから逃れ、どれだけしてしまうか心配でたまらない失敗を最小限に抑えるための方法として考えたのが、学生から私への率直な意見の表明というフィードバックである。しかし、多人数の学生のなかで仲間意識(ピアコンセプト)が働く中、それを抑圧なく口頭で表明することのできる者はそういない。そこで思いついたのが「出席ペーパー」である。若い世代、とくに女性は、仲間との「交換ノート」などをよく書いている。そういう軽い感覚なら、彼らも書きやすいのではないか。
 その結果は、予想以上のものだった。初期に「黒板の下のほうに書かれた字は見えにくい」「(大教室のため)字を大きく」などの指摘をさかんに受け、そのような簡単な改善は最初の数回で完了してしまった(と思う)。それ以上に、さまざまな学生のペーパーを読むことによって、まったく自分の話が通じていないということはなく、そればかりかいろいろ思わぬ所で理解や考察を深めてもらえているということがわかったので、大いに安心し勇気づけられたのだ。学生のほうも、自分の身近な問題や関心事まで書いてよいということに最初は驚き戸惑ったようだが、「授業は我慢して聴くもの」という不合理な思い込みを少なくして、「自らの意思で」座席に座りなおすためにかなり役立ったようである。
 このように「出席ペーパー」は、とくに初期の頃には、「反応・発展の個別化の促進」の下部構造としての「教授者の不安の解決」や「学習者の主体性の確保」にも大いに貢献するものとなった。そのへんの事情は最初の著『かくろん』(『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ−』)に詳しい。

 出席ペーパーに対する「mito的コメント」は読んでいてじつに面白い。所々にユニークなフレーズが出てきて、言葉遣いそのものとしては思わず「ハハハ・・・」と笑わせられるのである。しかし、そのユニークさの一方では、このうえもないほど的確に問題の核心を言い当て、バッサリと切り裂いているのである。さすがは「ビートたけしに勝つ」(これなんかもまさにそう!)ことを目標にして授業を展開しているだけのことはあるといえよう。(失礼しました!?)

 「ビートたけしに勝つ」は、すべての授業の最初の回に学生に宣言するぼく流の大ぼらであるが、それによって自らに心地よいプレッシャーをかけることにもなる。ぼくは、高等教育も生涯学習と同様、ワンダーランド(ドキドキワクワクする世界)でなければ意味がないと考えているのだ。また、時空間を共有した双方向システムにおいては、能力的にはビートたけしにとうてい勝てないぼくでも、ビートたけしのテレビ以上のワンダーランドを提供できるときがある。もしそういう瞬間がまったくないとすれば、学生はわざわざ教室に足を運ぶ意味がなくなるのである。学習を自己決定の場にするためには、こういう教師みずからへのプレッシャーも必要である。
 ぼくが編集委員を務めている雑誌「社会教育」(全日本社会教育連合会)の「お便りごっこ」の連載で、ぼくの「手紙」に対して、作詞家の山田とも子さんがつぎのように書いてくれたことがある。

 「なんで生きてるの?」 まずここでドキン。で、このQに対して咄嗟にAを見出せずにドキンとしてしまった自分に気がついてドキン。あれ、これって今までさんざん考えてきたことじゃなかったっけ。ある時はルンルンと、またある時はフンフンと、それなりに自分なりに答えをだしていたつもりだったのに・・・、そう言えば長いことこんなこと考えていなかったわねえ。流されていただけなのかしら。それとも年のせい??? アッいけない、いけない。ここへ逃げ込んだら老け込んでしまう。そうよ、ウキウキワクワクでなくっちゃあ。

 「なんで生きてるの?」も「ビートたけしに勝つ」と同様、授業の初回でのぼく流の発問である。ぼくが答をもっていたり自信をもっていたりするわけではないので、「せっかく信じたのに・・・」とあとでがっかりする学生もいるかもしれないが、それが双方向高等教育システムの特徴だと思って面白がってもらうほかない。その答を探し続けることが学問である。
 つぎに、なぜぼくはこの双方向高等教育システムに燃えているのか。それは、まず、職業としてとはいえ、自己決定の生涯学習やボランティアと同じく「自分のため」である。そちらの方が一方通行の授業をするより自分自身が楽しいから、気づくことができるからなのである。しかし、その場合の楽しさ、気づきの本質は何だろうか。
 就職活動が一段落した秋口に初めてぼくの授業に出てきた4年の男子大学生が、こう書いてきた。「ぼくは来年は就職浪人することが決まった。なぜなら、@大企業であること、A残業がないこと、B転勤がないこと、のぼくなりに決めた就職3条件にあう企業に採用されなかったからだ。こういう就職浪人のぼくを世間は差別の目で見るだろう。そういう差別される者の痛みは、先生のように差別されたことのない人にはわかるまい。しかし、先生はぼくが知りたいと思っている差別のことについて話しているようだ。だから、あと1回ぐらいはこの授業に出席しようと思うので、ぼくの期待に応えてほしい」。
 ぼく自身、じつは、就職浪人をしたことがあり、しかもそのときは差別の目で見られる辛さより、自立できずに親に迷惑をかけることの方が申しわけないと思ったものだ。だから、正直いって、最初はこの文章に馬鹿馬鹿しさや憤りを感じた。そのほか、知に対する安易な態度、世間を甘く見ていることなどの彼の欠点を指摘して、教師の立場から彼をへこますことはできるかもしれない。しかし、そんなことが何になるのか。彼の主体性の増大や態度変容につながらないことは明らかである。そんな説教は、教師が学生より上位者であることを確認して安心する行為にしかならないのではないか。しかし、今までの教育は意外に平気でそんなことを繰り返してきたように思う。
 教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、以下のように情緒的な表現になってしまうことをお許しいただきたい。教育=学習支援の等号には深くて昏い河が流れているとぼくは思う。ぼくは、まず、この深くて昏い河の存在を伝えていきたい。つぎに、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この「上下同質競争社会」の同時代に命を燃やしている。ぼくはたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい。
 たとえば、先の就職浪人が決定した彼に対して教師はどう対応すればよいのだろうか。ぼくは、指導の要素をシンパシー、ストローク、エンカウンターの3つと考えている。まず、彼の存在に対して、肯定的に関心をもち、共感的に理解しようとする態度が必要であろう(シンパシー)。考えてみれば、彼の就職の条件の@は安定した収入、Aは自由時間、Bは家族の安心を求めるもっともな願いであり、だれもそれを責めたりできないはずだ。それよりも、世間から差別の目で見られるだろうから辛いという言葉を彼なりの真実としてとらえ、そうとらえたことを伝えることのほうが大切だ(ストローク)。その上でこそ、「上下同質競争社会」に気づかないままそのなかで苦しんで生きている彼と出席ペーパーへのコメントという形で真正面から対話し、本音でぶつかりあって(エンカウンター)、自己と現実社会との関係の客観的認識(「奴隷の覚悟」<mito)と、彼自身のもっている内なる差別の存在や社会の画一的価値観の内面化への気づき(「批判の刃を自己にも向けよ」<mito)を促すことができるのである。これが、本当の意味での「自分を否定しなくてもよい」「そんなに頑張らなくてもよい」という自己受容につながり、さらには、「差別されたことのない人にはわかるまい」という絶望感を乗り越えて、「人間は共感しあうことができる」という他者受容と肯定的関心につながるかもしれないのだ。自己防衛的な就職浪人の彼は、このような癒しのプロセスを経てこそ、生きていて社会に意味を与えることのできる自己を発見しようとする元気が出てくるのではないか。(注 <はパソコン通信の発言者を表す記号の借用)
 ぼくが双方向高等教育に夢中になっていることも、この本を書きたいと思っていることも、以上の事情による。このような癒しと貢献の生涯学習が、そしてその「指導」が、現代人が不信と絶望に苦しむ上下同質競争社会において、突出的とはいえ水平異質交流の共生社会を創り出すとしたら、また、そのためにこの本がごくわずかでも役に立つことができるとしたら、それはすなわちぼくにとってのうれしい「癒しと貢献」でもあり、ぼくがこの世に存在する証拠にもなる。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
自己管理型学習 英語でself-directed learning という。成人の学習は、その計画、実施、評価に至るまで自律的(self-directed)に行われうる。よって、成人教育に携わる者は、成人のすべての学習プロセスに対して双方向的に関わる必要がある。これをペダゴジー(子どもへの教授法)に対するアンドラゴジー(大人への教授法)という。ぼくは、これに加えて自己管理型人生の重要性を提唱したい。

第1章 癒されない3つの病理

1 家族関係の病理

 家族は言葉にしなくても気持ちが伝わる安心できる場であってほしいとは思う。しかし、それなら、なぜ児童虐待が起こるのか。子どもに孝行心を教える、というだけでは解決しないだろう。交流分析では「生育歴が人生の脚本を決定している」という。これからの家族には意識や理性による努力の営みが必要なようだ。

 個人を癒されない状態に追い込む現代社会の要因として、出席ペーパーなどからぼくが感じているのは端的にいえばつぎの3つになる。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピアコンセプト(仲間意識)。@の家族関係については、「子を持って親になる」という状況が崩れ始め、「子を持ってもまだ大人になれない、なりたくない」という親たちが出現している。

1週目
 家族のなかで、いつも私を「おまえはこういう娘になれ」と強制的な言い方をする人がいた。彼が私のことを「人間的に薄っぺらい」と言っているのを立ち聞きしたときは悲しかった。「彼にとってOK」になることはできず、苦しい毎日だった。顔を見れば否定語がとんでくるという恐怖があった。
 私はいい子ちゃんできた子です。なので自分を語調も荒く批判してくる人の言葉を受け流すことができず、まに受けて傷つくことしかできません。でも、mito先生の授業中にいくつか気づいた。私は友だちや恋人に目に見える形での「優しさ」や愛情を求めているということを。
2週目
 以前、父に私の存在を非難されました。「おまえなんかいなくたっていいんだ」などなど。書いていったらきりがないのですが・・・・。私が自分の考えをもつことに不満を覚えてきているのかどうか、進学についても反対され、受験勉強のできない環境を作られっぱなしでした。
 親の不仲+父親の態度、そればかりでなく母親から聞かされる話。子どもに聞かせるべき内容じゃないものばかり。誰にも言うことのできない話なので、私が聞いてあげなければならないのですが、私は母の話を聞いていると、母に言ってはならないこと、「なぜ私を産んだの? 苦しい思いばかりさせて!」ということを言いそうになるのです。でも、それを言ったら母を壊してしまうことになります。私にはそれよりも自分ががまんすることで母を守ることしかできません。
 でも父に対してはまったく別になっています。今ではお父さんと呼べなくなっています。以前は言われたことに傷ついていましたが、今は、自分の子どもをそういうふうにしか見れない父をかわいそうな人だと思っています。

 つぎの授業(3週目)で、このペーパーに対してぼくが何とかコメントできたことは、一つは、「わたしのことが心配で離婚しないのなら、そんなことは心配しなくていいよ」、もう一つは、「わたしはお母さんと違って幸せになるからね」という二つのことをお母さんに言ってあげたらどうかということであった。その学生の娘としての自立と幸福追求を願って、また教育というものの現代社会でのあり方を考えて、多くの学生の前で(匿名だが)コメントできることは、せいぜいそれぐらいだ。だが、結果的にはそれでよかったようだ。

3週目
 コメントありがとうございました。今までの私の行動は間違いではないと自信がつきました。母にはもう「離婚していいよ」と(私の方が強く願っているのですが)言ってあります。しかし私には弟がいます。まだまだ精神年齢が子どもで、離婚家庭になったらかわいそうだと思ってたんです。弟も別れないことを望んでいました。
 でも、今ではあんな父親(この前書いたことばかりでなく、もっともっとひどいこと、人間としてはやってはいけないことをしている)の姿を見せたくない。私の味わったような気持ちを味わわせたくないんです(それがあったからこそ今の自分があるんだと思うと、あんな父でもそういう意味では感謝してますが)。
 私は母に「私は幸せになるよ。お母さんが味わえなかった幸せまで手に入れてみせる」と言いました。母は喜びました。私は母から聞きたくない話をされても母を愛しています。母もです。今では姉妹のような友だちのような母子です。私の幸せは、ただ好きな人と結婚して新しい家庭をつくることなのではなく、「母と一緒に二人だけで暮らしたい」というのもあるのです。父のことで悩んでいても、そう未来を考えるだけで幸せです。それに私には両親以上に私を思ってくれている、おじ、おばがいます。友人もいます。自分だけが不幸なんだと思ったことはありませんが(これ、本当なんです)、今あらためて自分は幸せなんだと思いました。
 ただ、mitoちゃんが言ったように、トラウマは残るでしょう。でも、プラスにもっていきます。そのために私は教師をめざします。ちゃんとした動機じゃないかもしれません。きれいごとかもしれない。でも・・・・。
 私は中学生のころから父のことで悩んでいました。それがいろんなものにどんどん感染し、毎日が余裕のない心でした。今の子どもたちにも、そういう子たちが多いと思う。私は話を聞いてあげたい。解決できなくても、軽くしてあげたいんです。教師になることに不安があるなんて言っときながら矛盾ですね(笑)。

 子を持っても、なお、親である自分自身が家族や他者から愛されているかどうかのほうが不安なために、大人として、あるいは親として、子を愛することができない親が増えているのである。「子どもがかわいく思えない」という追いつめられた状況のなかで、親から子への暴力や、性的虐待などさえ起こりうる。その具体例を一つひとつここで紹介するわけにはいかないが、親の日常的な不機嫌や夫婦間の不和などのレベルであれば、もっと一般的な状況として蔓延している。

 mitoちゃんの言っていた「親の不機嫌は子どもに対する暴力」についてほんとうに同感です。私は毎週レッスンに連れていってもらう車のなかで、母の機嫌が悪く、いつも私にあたっていました。私はその時間がとても苦痛で気分がすさんでしまって、せっかく練習していっても、先生のところでまったく弾けなくなってしまうのです。私が帰ってきて、上手に弾けなかったため一人で泣いていると、その姿を見た父が直感的に母が私に何か言ったのだろうと感じ取り、夫婦でけんかが始まるのです。私が一人暮らしをした理由は母から離れるためでした。でも、またいつか家に帰ると同じことになるのではと思っています。
−−−−×××−−−−
 (授業で聴かせた子育ての歌の歌詞の)「お母さんに聞かせて」というところがいいですね。私の母なんか、いっつも「なんで?」とか「正直に言いなさい」とか問い詰めるようにしか言わない。「言いなさい」と言われると逆に言いたくなくなっちゃって、ついうそついたりしてしまう・・・・。でも、最近は、なんだかどんどん母親が子どもに見えてくる・・・・。でも、わかんない。これ以上はうまく書けないけど、今日はあてはまることだらけで何か良かったです。
−−−−×××−−−−
 朝、起こしに来るときの母さんと父さんの違いに気がつきました。
 母さん 「いつまで寝てるのー。毎朝、毎朝、いーかげんにしなさい!(とにかく怒る) なんにもしないで。(関係ないことまでついでに怒る) 本当、起きたためしがない。(一度もしたことないように言う。私はこれに切れます)」
 父さん 「おーい。(40すぎの男が娘に、おーい、ですよ) 2回目だぞー。遅れるぞー。大丈夫かぁー。(心配されたらがんばりますよ) 起きれるかぁー。がんばれよー。(ごめんね父ちゃん、と素直に言える) 歯みがきしちゃうと少しはラクだぞー。(思わず笑っちゃいますよ。ありがとってカンジです) 10分後にまた来るから。(これもとてもうれしい。次来たときは起きてようと思う) がんばっとけー!(もうほとんど起きてる。不思議と・・・・)」
 どう思います? ちなみに私は父が好きです。母とは風呂に入りたくないけど、父ならいいです。父のならパンツだってたたんであげる。ファザコンじゃないけど…。上の会話は、妹を起こしに来る両親の声を部屋で聞いたものです。そして妹は父の2回目の声がけのあと、起きてきました。でも、下へ降りて母にまた「遅い!」と怒られました。とうとう朝からけんかです。父さんの努力のかいなし。チーン。

 子どもとしては、そういう家族関係のなかで、どのように癒され、安心することができるというのか。先の「おまえなんかいなくたっていいんだ」(p14)といわれた娘のペーパーについて、他大学で、つぎのようなレスポンス(反応)が返ってきた。

 (酒とギャンブルにあけくれ、「おまえなんかどうにでもなれ」と言うサラリーマンの父について述べたうえで)ちなみに、私も自分が不幸な境遇だなんて思わない。むしろラッキーかもしれない。だって、その分、いろんな心の痛みが手に取るようにわかるから。それに底辺を経験しちゃえば、あとは上がるだけだし。私はこんなことで負けてられないと、いつも自分を奮い立たせています。
−−−−×××−−−−
 (酒びたりで、自分の受験を邪魔していたのに、いざ進学校に受かると、自分の手柄のようにまわりの人に自慢していた離婚前の父について述べたうえで)最近では、両親が仲良くなかったりして悩んで愚痴をいっている友達の苦痛がわかるようになってきた。その子たちが私の苦しみを完全に理解できないように、私も彼女たちの苦しみを完全には理解できない。当たり前ですよね。おたがい違う人間なんですから。だから、少しでもわかってあげようとすることはできるとわかりました。

 これらについて、さらにつぎの2通りのペーパーが返ってきた。

 家庭での不和を苦しんだのだろうが、「私は不幸ではない、ラッキーかもしれない」、「苦しみを知っているがゆえに、ひとの苦しみを理解できる」というそんなとらえかたができてとてもすごいと思う。すごいなどという言葉で相手を見るのは軽率かもしれませんね。私自身はどうなのだろうか。絶望や困難に向き合い、自分の生き方をとおして主題を追求していく。そんな人生を歩んでいきたい。そんなことを、片意地はらず、自然に思っていきたい。
−−−−×××−−−−
 不幸は不幸でしょ。「それでも自分は不幸だとは思わなかった」というセリフが気になる。気に入らない。「○○のために」幸せになるというようなセリフも気に入らない。まず、自分が一番幸せになろうとしてほしい。自己中心的な意味ではなく。

 上下競争の現代社会においては、後者のペーパーも悲劇的だが真実である。「ぼくがもし宇宙で一人で生きているのなら、もっと自分らしさを守れるのに」というペーパーも前にあった。あるとき、過労死をテーマにして、現代社会において主体的に自己を主張し、家族関係や夫婦関係を守ることについて考えるという授業を行ったところ、つぎのようなペーパーが提出された。

 (過労死について)他人事。どうでもいい。俺に関係ない。自分の親父だったらかなり泣けてくると思うが。でも、過労死だとか登校拒否だとか、そういった他人事について大勢の人間で考えるみたいなところが、この授業の嫌いなところです。ある日、ふっと一人で心のなかで考えたり感じたりするのが人間だと思う。大勢の前で口にするなら、それらをすべて証明して、すべて背負ってくれ。たのむ。過労死だって夫が選んだことだ。嫌なら仕事をやめればいいだろう。それなのに死んだのだから、私はそれでいいと思う。笑ってやれよと思われる。子どもはおまえ(「残された妻」のこと)が支えろよ。でなきゃ、やめちまえと思われる。日本のせいにするなよ、自分が頑張れよと思われる。

 ぼくは、これに対して、「この学生も、自分一人で頑張るなんてことはしなくてよい。どんな人もそれぞれの事情があって生きているのだ。自分の今の気持ちを自分自身が本当の意味で認めてあげられるようになると、優しくなれるのでは」とコメントした。しかし、この学生は、そのコメントではきっと満足しなかったと思う。上下競争のなかで、ガンバリズム(「頑張らなくてはいけない」という精神風土)に毒され、しかし、それだけではとうていどうにもならないという客観的事実に直面し、その事実を認識するための自己客観視(ここでは自己の現代社会のなかでの位置づけ)を避けて、またガンバリズムという不幸な思考方法に戻って、自分の悩みに無理に決着をつけようとする。そんなことの繰り返しの回路だから、「他人事だから俺には関係ない」という排他的、閉鎖的な傾向がますます強まっていく。
 安心できる家族関係の回復のために、ぼくがひとつ考えているのは、「真偽の勝負からの脱却」である。3人称の関係であれば「どちらも一理ある」としてあきらめて終わることでも、「私とあなた」の1人称と2人称の家族関係だと、あきらめきれずに、「私のいうことが真で、あなたのいうことは偽」と互いに主張して譲らない不毛な争いを延々と続けることになる。なぜそれが不毛かといえば、たとえ正反対のことを感じたとしても、どちらの実感にも「間違い」などというものは存在しないからである(アンビバレンツな真実)。ただし、いつも大酒を飲んで帰る夫がたまにしらふで帰ってきたとき、@大いに肯定的に反応するか、A明日また飲むのではないかと不安になって肯定できないか。そのどちらも妻の実感から生ずる真の反応なのだが、どちらが生産的かというと当然前者の@ではあろう。
 間違うとすれば、「であるべき」「であるはず」「みんなそうしているのだから」などという不合理な思い込みや信念のレベルにおいてである。そういうもともと歪んだレベル同士で真偽を争うとしたら、これは気が遠くなるような不毛な争いである。ところが、「思い込みや信念のレベルでも自分は正しくなければいけない」などという客観的には明らかに無茶なことを考えるものだから、相手が偽であることの証明に執着しがちになる。本当は、「あなたはあなた、私は私」(p72)こそが人間関係の真実の姿であり、実感レベルでは、どちらも理があり、真であるということに気がつきたいものだ。
 たとえば、「さぼりたい」「がんばりたい」「がんばりたいけど、さぼっちゃった」などのおおもとの気持ちはおおむね真である。ところが、「がんばらなければならないのだから、がんばりたい」や「がんばりたいけど、がんばれないから、さぼりたい」は、偽である。なぜなら、前者は客我(がんばらなければならない社会の客体としての自分)と主我(がんばりたい主体としての自分)とを混同しているし、後者は主我のなかで「がんばりたい」と「さぼりたい」が矛盾しているからである。人間はややもするとこういう混同や矛盾に陥る宿命にあるが、そういう自分の滑稽さに本当に気づけばやっと解放の笑いが出てくる。ちなみに、「がんばらなければならないのだから、がんばろう」、「がんばれないから、さぼろう」とすると真になる。

図表2 真偽の勝負から無知と非力の自覚へ
正しくなければいけない

自分は正しい

真偽の勝負

ゆさぶり発問(または自問)

わからなくなっちゃった

そんなこと、わかる自分ではまだない

適正な自己評価

無知と非力の自覚と受容

自己と他者への基本的信頼

 たとえば、部屋を掃除するか、ほうっておいて遊びに行くか、どちらが真かという議論は不毛だ。感情交流を伴うコミュニケーションをして、そのときどき現実生活のレベルで折り合いをつけるしかない。
 そのためには、「私は真、あなたは偽」と思い込んでいる人にとっては「自分がわかっていないことに気づくこと」(無知の知)が重要である。では、わからなくなれない人はどうしたらよいか。わかっていないということを自覚させる学習指導者からの質問が有効である。これを「ゆさぶり発問」という。そういう指導者がいない場合は、あとは自問という手段しか期待できない。こういうゆさぶりを経て、無知と非力の自覚が生まれ、「まあ、いいか。これから少しずつやっていこう」という自他の欠点や弱点をも抱え込んだ受容につながり、自信(自分への信頼)と「他信」(他者への信頼)が形成される。
 自信をもつためには、この点が重要である。指導者にとっても、もちろん謙虚さは大切だが、「わたしは指導者の器ではない」と規定するところまでいってしまうと、それはじつは「指導する人とされる人の固定的役割分担」という上下同質競争の価値観の非主体的な内面化の表れにすぎず、非生産的な自己否定(p50)に陥る。ぼくはこれを過剰反省と呼ぶ。これは大勢の前でしゃべるときにあがるという問題についてもいえることである。「みんな、じゃがいも」と思うより、個の深みを感じてある程度は緊張するほうが当然だし、いい結果も出よう。問題は過剰緊張である。指導者はカウンセラーのような完全な自己一致(p52)よりは、むしろ「ちょっと反省する」ぐらいの態度が必要だ。そのコツは「今の自分よりちょっと上」をつねにめざすということである。そのためには、自己卑下でも自信過剰でもない適正な自己評価(主体の3要素、認知、行為、評価のうちの一つ)が必要である。さらに、不安傾向の高い人に共通な思考様式の特徴に、「失敗の原因を、どうにもできない事項(幼児期の環境等)や、どうにもできないと思われる事項(根源不安等)に求める」がある。これに対し、不安傾向の低い人は「失敗の原因を、自分の対処の仕方の間違いに求める」のである(生月誠『不安の心理学』講談社)。どうにもならない「自分そのもの」を否定するのではなく、今後は正せる「自分の行為」をちょっと反省すればよいのではないだろうか。
 そもそも、宇宙の概要を知り尽くしたうえで、地球に生きている人など誰もいないし(無知)、過去や他人を正当な手段で自由に変えることのできる人など、一人もいないのである(非力)。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
発達課題 R.J.ハヴィガーストによれば、人間の生涯のそれぞれの時期において学習することが望ましい課題。これに失敗すれば、その後の課題の達成は困難になるといわれ、生涯学習の必要性を表す。だが、逆に、「気づいたときから始められるのが生涯学習」という見方もなければ淋しすぎる。
生育歴 交流分析では生育歴によってその人の「人生脚本」が書かれてしまっていると考え、問題解決のためにそれを書き直そうとする。「三つ子の魂百まで」の魂の書き直しである。最近は、臨床の研究などから、ほとんどの社会的不適応の原因を幼少期からの家族関係に求める議論も多い。スイスの思想家アリス・ミラーは、大人が子どもに加える侮辱や暴力、管理は子どもの人生を深く傷つけると警告している(『魂の殺人』)。その指摘は重要だが、男女間の固定的役割分担の解消、教育システムの問題などのマクロな社会的視点での検討、個人の自己変革主体としての可能性の評価なども別途必要だ。
家庭教育 親が子どもに対して行う教育。不定型教育(informal education)のひとつ。子どもにとっても生涯学習の一環であるが、「子育ては親育ち」というように親自身の自己への気づきの場でもある。社会教育行政は、家庭教育の振興にかなり力点をおいている。しかし、義務教育と違い、学習者の自発性・自主性に任されるので、学んでほしいと思われる親ほど参加してくれないという皮肉な実態がある。そこでわれわれが考えなければならないことは、親の学習の義務化ではなく、その親自身が夫婦・親子関係における不幸に気づき、幸福追求にみずから向かおうとするように仕掛けることである。

2 教育システムの歪み
 −ぼくたちはいったい何のために学んでいたのか− 

 教育は個人の社会化を促すためにある。しかし、学校歴偏重の教育システムを内面から受け入れて、「自信たっぷり」に人を差別する人たちまでいる。さらに、若者たちはそういう差別者を「彼なりに努力したのだから」といって許してしまう。私たちは、あるいは社会は、差別主義者に対してどう対処すべきなのか。

 差別の話について。「東大卒、元弁護士」と差出人の自分の名前の前に書いた手紙に対して、先生はそんなことを書くのはくだらない人だとおっしゃったが、それは先生の東大卒の人に対する差別なんじゃないですか?
 世界中に自分一人しか人間がいなければ差別はおこらないと思うが、複数の人間が存在すれば、人間の心のなかに差別の心は必ずあるものだと思う。人によって差別の大小は極端に違うとは思うけれど。

 この話題は、ぼくもパネラーとして参加したS市の生涯学習大会における作家のN氏の話を聴いて、その一部をぼくが引用して授業で紹介したものである。N氏の出演する子ども向けのラジオ番組のなかでのN氏の挨拶の仕方がなっていないというクレームの手紙が、未知の人から寄せられ、その手紙の終わりの差出人の名前の前に「東大卒、元弁護士」と書いてあったというのである。N氏は、普通の人は手紙に学歴や元の肩書など書かないだろう、きっとこの人は暇を持て余しているのだろうと言った。ぼくも授業でN氏の発言を支持して、手紙にそんなことを書くなんてくだらない人だと発言した。
 ぼくの言ったことは、「東大卒の人に対する差別」ではないと思う。ぼくは、東大卒の人にはくだらない人が多いと言ったわけではないからだ。実際、東大卒の人のなかにもおもしろい人はたくさんいると思っている。ぼくは、手紙の自分の名前に過去の学歴や肩書を添えるなんてくだらない奴だと言っただけだ。この手紙の主は、自分に与えられた地位や肩書を自分そのものの価値のように錯覚して、その与えられた権威に頼って他者を糾弾しているのであり、そんなことは、それを見た人まで赤面するほどの差別的な行為であることを知るべきだということだ。この手紙の主の過剰なCP(批判的な親心)による権力志向の行為は、現実の社会に生きていくために(保身)ぼくたちが履歴書に学歴や肩書を記入することなどとはまったく質の異なる重大な問題をはらんでいる。しかも、この「くだらない人」という判断は、ぼく自身の実感と思考によってつくりあげられた物差によるものであり、人を比べて序列をつけて差別するために社会からあてがわれた物差による差別とは質が異なると考える。それでも、特定の人を否定することにつながるのだから、ぼくのこの言動は差別だといわれるかもしれない。それならそれでもよい。差別を嘲笑するという意味をもった差別なのだから。
 それよりも、学歴や肩書に頼ることの愚かさを指摘することまで差別だとしてしまうとすると、結局は愚かしい(非主体的な)差別を許容してしまうことにつながるのではないか。ちなみに、「複数の人間が存在すれば、人間の心のなかに差別の心は必ずある」というペーパーの後段の言葉は、事実の一面を表しているのかもしれないが、ネットワーク型の水平空間の創出に対する敗北主義でもあると思う。そこには、社会的抑圧に対するAC(従順な子ども心)(<交流分析、p53)の働きによる無理な過剰適応の傾向が感じられる。
 しかし、敗北主義的で悲観的な傾向もたしかに差別の実態の一面を表している。ぼくも、自分自身のなかに教師の役割にかこつけた権威主義的な傾向(CP)を秘めているのだろう。それは、教師としての職業病といえるかもしれない。「批判の刃を自己にも向けよ」ということだ。ただし、その職業病は、「自分自身が偉い」あるいは「偉い人でなければならない」と本気で思い込む先生病ほどには愚かではないと思う。その差は、学習者側からの批判を大切に受けとめ、きちんと受けて立つ姿勢があるかないかというところにあると思う。このようにして、双方向性さえ確保できれば、先生病という重大な病いには至らないのではないか。

 わたしの友人でいわゆる一流大学に通っている人がいます。その人は、一流企業に入るために一流大学に行ったんだそうです。
 今、就職で、みんな四苦八苦していて、やっぱり一流企業へのあこがれというか、入りたいという気持ちはあると思うんですけど、一流大学以外の人がそんなふうに思うのはおかしいと言うんです。自分は一流企業に行くために一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、そのとき遊んでいた一流大学へ入れなかった人が、自分と同じ立場になろうと思うなんておかしいのだそうです。
 人には、その人に見合った世界があって、その世界のなかでの上をめざすことはかまわないけど、その上の世界をめざすのはむだな努力だし、自分が下の世界の人と一緒に仕事をするなんて考えたくない、と言っていました。
 私は、そんなものなの? と考えてしまったんですけど、どうなんでしょう。

 そういう過去の遺物のような人間に対してのぼくの基本的なスタンスは、「そんな馬鹿、あざ笑って内心で唾を吐きかけるか、いっそのこと、いつかは打ち負かすための現在の自己のばねにせよ」である。だから、ペーパーの書き手に対するアドバイスとしては、ひとことでいえば、「ケッ」と言って笑い飛ばす能力が大切であるということになる。まあ、心配しなくても、その手の「アパルトヘイト」(南アフリカ共和国の1989年以前の人種隔離政策)みたいな、唯々諾々と「頑張ってきた」だけの人たちは、社会ではいずれ挫折するだろう。たまたま出世するかもしれないけれど(本当は管理職には適していないのだけど)、ひとの痛みを知らず、人間としての厚みがないため、他者からの信頼や愛情という人間の生活や仕事にとっての肝心の財産を獲得することができないまま生きていくことになるからである。差別された者も、このことを知らないと負け犬になってしまう。
 学生が一流企業をめざすこと自体は、けっして不合理なことではない。ぼくだって、「生活の安定をめざすならば、可能なら大企業にぶらさがれ」と学生にいっているぐらいだ。しかし、そういう自己保存のための作戦の部分だったはずのものが、たまたま成就した事実があったからといって、本気になって、「自分は上の世界の人だ」と思い込んでしまう人間がいるというのにはびっくりしてしまう。自己の合格・不合格などは、客観的にはちっぽけな事実にすぎないのに……。上下同質競争、学校歴偏重社会の価値観の個人的な精神世界への侵略は、目に余るものがあるのだなあと思う。
 例の友人は、AC(従順な子ども心)とCP(厳格な親心)ばかりで生きてきた人なのだろう。そういう人たちの幸せのためには、なるべく早いうちに挫折を自覚して、「ただのろくでなし」(平気で差別したり迷惑をかけたりする人たち。自称「成功者」たちの差別や、頑張って授業には出てきてしまう自称「被害者」たちの私語など)から「ましなろくでなし」(そのほかの、しかし「不完全」な私たち)として立ち直る機会が訪れるよう祈るばかりである(p66)。
 ところでこのペーパーについてつぎのようなレスポンス(反応)があった。それによって、このトピックスに関する考察は、もう一段、ぐんと深まることになる。出席ペーパーシステムは、このように、教師の能力を超えた自動増幅機能を内包している。

 一流大学に入り、天狗になってしまっている人に対して、mitoさんは「ばか」で切り捨ててしまわれましたが、それはいかがなものでしょうか? 確かにその人の簡単に人を見下す態度はあまり感心できたものではないと思います。しかし、自分の努力の結果に自負を持ち、自尊心を持つのはいいと思いますし、わたしはその努力は認めたいと思います。「ケッ」と思う気持ちや、(注=彼らに対して)負け犬にならないということは大切ですが、いきなり「ばか」と切り捨ててしまうことの方が、ある意味では「負け犬」なのではないでしょうか。(注=合格・不合格の)つまらない事実であっても、わたしはその事実は事実として認めるべきだと思いますし、その人の努力の結果には敬意を表したいとも思います。その上で、自分は自分なりのものをつくりあげ、それに自尊心をもてばいいと思うのですが。(あ、時間がない……。)
 フリースペース、その時間、わたしは授業ですので、ちとキツイです。出たいとは思うのですが……。わたしも酒好きですし(笑)。

 ぼくは、「馬鹿という言葉は、少し違うなあ」とは感じながらコメントしていたのだ。しいていえば、「あほ」という言葉のほうが適切だったかもしれない。つまり、嗤う(ばかにしてわらう)という感じである。庶民が「ばか殿様」を笑い飛ばす、あの感じである。
 さて、このペーパーによって、「その人の努力」に対する評価のあり方が問題として焦点化されてきた。これは、このペーパーの書き手一人にとどまらず、「心優しい」現代青年の普遍的な傾向であると思うのだが、「そんなこと言ったって、その人なりに努力してきたのだから」とか、「がんばってきたのだから」とかいって、客観的にはその「努力」が不当であることを感じながらも、個人の主観的なストーリーとしては容認してやろうとしてしまうのである。
 例の友人は、持ち前の差別観・被差別観によって、まわりの人びとにこれからも多大な迷惑をかけ続けるだろう。なぜならば、今後の社会が克服しなければならない学校歴偏重の、あるいはヒエラルキー上下競争の価値観の残りかす(とはいっても、いまだ「健在」だが)を温存させる人類の幸福追求の敵としての役割を果たすからである。
 このような客観的には不当なこと(その判断は難しく、継続的な検証が必要になるが)を、「(その個人は)頑張ったのだから」という理由だけで許してしまうのでは、わたしたちがせっかく学んできた学問の価値も、すべて白紙に戻ってしまう。たとえば、差別の問題でいえば、それを不快なこと、不当なことと感じ、社会の差別構造や内なる差別意識を解明したかったからこそ、わたしたちは学問(とりわけ人文系の)を続けてきたのではないか。言い換えれば、差別観の上にあぐらをかく自称「上の世界の人間」の滑稽さを知り、「ケッと言って笑い飛ばす」思考方法や生きる姿勢を身につけるためにこそ、人間は学問や芸術を積み上げ、また、その蓄積から学ぼうとし続けているのだ。
 それでは、なぜ、ほとんどの人が高校まで通えるようになった現代青年までもが、そういう「人類への裏切り者」を許そうとするのかというと、それはおたがいに「頑張らせられてきた」学校歴偏重社会の被害者としての仲間意識が根にあるのだとぼくは思う。これこそ、まさに、ピアコンセプト(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)の逆機能といえよう。ヒエラルキー(階層制度)の上位にあって下位の自己を抑圧する相手に対してまで、「同じ苦労をしてきた」(ただし、相手は「成功」した!)という思いから、批判することを回避している。これは、自称「上の世界の人間」もそうでない人も、「(受験勉強はいやなのに)頑張らせられてきた」という意識・無意識の被害者意識を、社会を良くする主人公としての自尊心に転化するに至らないまま、自身の根っこの問題として引きずっていることの表れといえるのではないか。つまり、端的にいえば、負け犬同士が傷をなめあっている姿ではないか。どちらの側も、学校歴偏重の上下競争の価値観を内面では蹴飛ばしきれていないからである。
 さて、ぼく(mito)自身はどうなのか。「やっぱり負け犬の一種でしょうね。そりゃあ、こんな社会に生きていて、あるいは人間存在の空虚さという本質から、まったく敗北主義にならないというほうが、かえって不思議ですよ」。こういって、ぼくは、そういう自分の「ろくでなし」の部分を、「まあ、事情が事情なんだから、今までのことはしかたないよ」という感じで許してやっている。しかし、「せめてましなろくでなしになりたい」という気持ちで打ち出しているのが、つぎの3つのテーゼである。
 「今後のネットワーク社会にたえられる人間であるためには、現在のヒエラルキーの中をどう生きればよいか。1つには、ヒエラルキーにしっぽを振るな、2つには、必要とあればヒエラルキーのなかで演技せよ、3つには、しかし、自分の根っこには、ヒエラルキーの支えがなくてもさわやかに生きていける力をもて」(『こころ』p106)。
 「ばか殿様」からも、それを反面教師とすることによって、学ぶことはできる。しかし、自分が元気に学び続けるためにそれより手っ取り早いのは、さわやかに生きていく力をもっている人、「ああ、この人が生きてくれていてよかった」と自分までうきうきしてしまう人との出会いを多くすることである。そのことによって、自分もさわやかに生きていく力をもつことができる。「大人になりたくない」などという青少年が多いが、それは、たまたま、いいモデルとしての大人にめぐりあったことがないからか、あるいは、本人がそういう出会いから逃げようとしているからかのどちらかであろう。
 ぼくがフリースペースを個人的にも楽しみにしているのは、「おお、いいなあ」と心からあこがれてしまうような他者の生き様と出会い、癒され、こちらまで元気が出るからである。相手は学生ではあるが、ぼくなんかよりよっぽどかっこいい潔い自己決定の生き方や、自分に厳しい深い生き方をしていて、教師のぼくが思わず尊敬してしまうような学生もごろごろいるのである。こういう人との出会いを避ける手はない。このペーパーの書き手にも勧めたい。フリースペースは、参入も撤退も自由のネットワークの場である。「1年に1回だけ来てもメンバーだ」。何回も来なくてもいいが、授業が休講のときなど、1回ぐらいは来る価値はあるだろう。
 蛇足だが、その自称「上の世界の人間」が実際に学生としてぼくに接してきたとしたら、ぼくは教師として「どう受けて立つか」を述べておきたい。教師は学習者の援助者であるから、今まで述べたようなことはそのままの形ではいわない。教育効果(変容)が期待薄だからである。今まで述べたことは、客観的には自分にも迷惑をかけている「ただのろくでなし」をさえ、「頑張っているんだから」といって認めてしまおうとする「心やさしい人びと」への忠告であったのだ。
 自称「上の世界の人間」の本人に対しては、ぼくは嫌悪や嘲笑を押さえて、本人の過剰で屈折したガンバリズムの悲しい事実を探り出し、本人の目の前に提示しようとするだろう。そうすれば、遠い先にあった挫折の自覚が早く訪れる結果になってしまうかもしれないが、その場合の挫折は現実体験というより本人の理性的認識によるシミュレーションに近いものであり、それゆえ本人の「自己決定」の要素が比較的大きいと思われるからである。個人の幸福追求への援助のためには、教育は本当はそうあらねばならないのではないだろうか。

(注=自分をワガママだと批判していた彼氏が、最近やけに自分にまとわりついたりプレゼントをしたりするので「あやしい」という前置きがあったあと)たぶんわたしの夜遊びのせいだと思う。わたしの夜遊びははんぱじゃなく、男友達5、6人とギャーギャーさわぐ。朝まで激論を交わすことも多い。激論のテーマは人種差別、宗教、音楽などだが、二日酔いをともなうとっても充実した朝を迎える。かれらは愛すべき Friendsである。わたしの友達はブラックが多いので、人種差別についてはすごくきびしく、わたしは日本代表としてせめられている。
 それ(注=ほかの男友達との「夜遊び」)が彼には気に入らないらしく(わたしがそのことを楽しそうに話すらしい。だって、ほんとうに楽しいんだもん)、また、わたしがあんまり彼と遊ばなくなったので不安らしい。「おまえが離れていくような気がする」のだそうです。わたしはそうでなくても離れていくのよ、と思ったけどね。プレゼントがなんぼのものじゃい。アパルトヘイトを知らない彼にもっと勉強してもらいたいと思う。彼はマンデラがどこの国の人か知らなかった……。

 ほら、こんなに「雄々しい」いい女がやっぱりいるんだ。このペーパーには「雑談」という彼女なりのマークが付いていて、それにしてはこういう深い内容であり、そのことだけでも彼女のその「潔さ」にぼくはうれしくなってしまう。だけど、知らないということは仕方のないことだから許してあげてほしい(マンデラはアフリカ民族会議議長で、のちの南アフリカ共和国大統領)。問題は、差別やその他の社会の不当性、人間存在、芸術表現などの事実を知っているかどうかよりも、その本質(真実)の追求自体にそもそも関心があるかどうかだ(生きる力や個の魅力としての関心・意欲・態度)。ここからは、「彼」本人からの話を聞かないまま論を進めるので、実際の彼の姿を推測するものではないということをお断わりしておく。
 きっとあなたの今までの彼は、そういう関心そのものがまだ育ってないのではないか。世の中には、大人になってもそういう「ガキ」状態にとどまっている男が(女も!)かなりいる。社会や自己の姿をなるべく正確にとらえようとする「大人心」を使い慣れていないのである。そういう人は、相手に「自分のために生きてほしい」と一方的に依存してくるし、自分勝手に独占的な愛を求めてくる。それは、他者(社会)との関係のなかでの自己を客観視できていないからであり、つまり、自立できていないということなのである。遊んでくれなくなると「離れていくような気がする」と相手に自己の不安だけを訴える姿は、その淋しい気持ちもわからなくはないが、彼がまだ自己を主観だけでしかとらえられず、他者から見た自分の姿を推察する能力が育っていない証拠ともいえる。あなたのような大人の女には、そういう自立できていない男は残念ながら似合わないのだろう。
 世の中には、あなたとの「激論」に耐えうる「いい男」がいっぱいいるのだから、いい女になりつつあるあなたが、過去のそんなつまらないつきあいにあまりとらわれすぎるのはもったいないことだと思う。ぼくはそんなに雄々しい男ではないけれど、そんなぼくだって、このペーパーを読んで、「ああ、彼女みたいな人と『激論』するのは楽しいだろうな」と思う。そうは思えずに、「社会や人間のことなんかことさら考えなくたって」と思う男は、同じように思っている女とつきあって満足していれば、それで世の中は安泰だろう。
 「わがまま」には2つの種類があると思う。「わたしの人生はわたしが歩きたい」という「良いわがまま」と、「あなたの人生をわたしのために曲げて歩いてほしい」という「悪いわがまま」の2つである。自分の力で自立を実現して大人の「いい女」になるためには、前者のわがままであるのなら必要なことである。ただし、後者の「悪いわがまま」も愛にとっては残念ながら不可避のようだが……。
 この微妙な状況のなか、ぼくが「癒しの教育」を追求していることについて、あるペーパーで、「宗教や神秘主義によって現在の自己を肯定して癒す」のと、mito的授業の「知的水平空間、地域的連帯などによって精神的疲れを癒す」のとは、同じ「癒し」という言葉を使ってはいるが、違う意味なのではないか、という指摘があった。たしかに違う。後者は、@現代社会の上下同質競争のヒエラルキーに直面して、それを強く意識し、Aそこから逃げ出そう(逃避)とするのではなく、突出的水平空間や文化的孤島などにいったん避難(回避)し、B仮面や演技のない「個の深み」との出会いと気づきを味わうというものである。さらには、それらの到達点の先には、C結局、自己決定のサンマでの積極的積極と、それ以外での積極的消極の自己管理にしか、癒しはないのだという、諦観と希望の見通しが広がっているのである(p70)。これがほかの世界での癒しと異なるmito的授業での癒しの意味なのだ。今後の教育は、発達・成長だけでなく、指導者それぞれのの個性を生かして、突出的な癒しと水平異質共生の世界を創り出すことによって、社会全体の教育システムに生涯学習社会への移行のための楔(くさび)を打ち込むことが期待される。

3 自分自身の内なるピアコンセプト

 ピアコンセプトとは仲間を大切にする意識のことである。そこには連帯感や役割意識などの肯定的側面もあり、ふつうはいいことのように思える。しかし、実際には、ピアは個人の主体性を自己抑圧する否定的側面としても機能している。なぜ、そんな逆機能が起こるのだろうか。そして、本当はどうすればよいのか。

 「みんなのために」とか「みんなだって」とかいう認識が、みずからの個の発現を自己抑圧する結果につながっている。こんなペーパーがあった。

 先生に忠告! 出席ペーパーはできるだけ全部読み上げてほしい。みんなも多分、それを楽しみにしているんじゃないかな?

 ぼくはつぎのようにコメントした。そんなことは物理的に不可能である。そもそも、「みんな」がどう希望しているかなど、あなたには関係ないことだ。それよりも、「あなた」がこの授業でどのように学習したいかということがあなたにとって重要である。実際、あなたの希望とは逆に、「絶対秘密」というマークのついたペーパーもたくさんあるのだ。自分の文章をみんなの前に公表したければ、「読み上げて」と書けばよい。もともと匿名であるにもかかわらず「みんなの前で読まないでほしい」という希望が多数派である現状において、あなたがそのように潔くできるのならば、あなた個人の「みんなの前で読み上げられたい」という願望は貴重な存在である。
 生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふり(仮面)をしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピアコンセプトによって支えられている。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識(卑屈な自己疎外!)にもつながりがちなのである。
 現にこの話をした大学の授業で、「友達から変と思われたらもう終わりだ」と出席ペーパーでぼくに怒りをぶつけるように書いてきた女子学生がいる。現代社会のなかで、そこまで縮こまって生きている人たちがいるのだ。ちなみに、学生の授業中の私語も、ぼくは仲間意識の悲しい表れであるととらえている。熱心に授業を聞いている他の学生への迷惑よりも、仲良しの友達への同調が優先されるからだ。また、まじめな学生が、他者の私語を「やめてくれ」といえないでいるのも、「主張することによって仲間から浮き上がりたくない」というピアコンセプトの表れである。これではまさに「みんなぼっちの世界」だ。
 このようなピアコンセプトによる卑屈な自己疎外の事例は、今日の生涯学習の場でも無数に出現する。ピアコンセプトは、ヒエラルキーの支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだろうが、ピアだけでは残念ながら本質的な問題解決にはつながらない。かえって、現在のたての人間関係(ヒエラルキー)を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくったりするだけの結果になってしまうのだ。ピアコンセプトはネットワークへの情的動機の一つであるとは考えられるが、ネットワーカーたちは、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心を嗤うとともに、自己の内なるピアコンセプトをも意識的・理性的に乗り越えなければならないのである。ヒエラルキー、ピア、ネットワークの相違を表に示すとつぎのようになろう。

図表3 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ
ヒエラルキーの側面図  ピアの平面図 ネットワークの平面図
(個の抑圧)      (個の規制)      (個の発揮)

 もちろん、ネットワークは冷たいこころのものではない。むしろ、ほんとうの意味での信頼の関係といえる。それは防衛的風土とは反対の支持的風土にもとづいている(J・R・ギッブ)。これらの2つの風土の特徴はつぎのとおりである。

 支持的風土=@仲間としては、自信と信頼がみられる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。A組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。B目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。
 防衛的風土=@仲間としては、恐れや不信がみられる。例えば、自分がこの集団に適応していないと恐れ、律法主義になり、枝葉末節にこだわり、かばいあう徒党が互いにせめぎあい、一方ではやたらに同調性がみられる。A組織としては、統制と服従が強調される。例えば、権威に頼る一方では、統制に対して敵対心があふれ、主導争いがみられ、地位や権力に異常なほど関心が強い。B目標追求に関しては、操作と策略が多い。例えば、トリックが多く、秘密主義であり、上から下へのコミュニケーションばかりで、参加度が低く、画一的な押しつけの評価が多く、仕事ぶりは規則に縛られ、保守的である。

 片岡徳雄は、ギッブのこの分析を紹介したうえで、前者の風土は非定型の集団、後者は定型集団に多いと述べている(放送大学テキスト「学習と指導−教室の社会学」)。
 ここでいうように、「支持的風土」とは、みせかけの同調をすることではない。人間は無知であり、非力である。それを自覚(無知と非力の自覚)してもなおかつそれを受容してこそ、自他への信頼と共感が生まれる。自分が、あるいは、特定の人物だけが、真実を完璧に把握しているというはずはないのだ。だから、せっかく思い切って発言したのにネットワークの仲間たちが聞き入れてくれなかったからといって不満をもつのも潔くないと思う。自分の話をほかの仲間が心から聞いてくれたのならば、それをもって良しとしなければならない。
 ヒエラルキーがツリー(樹木)であるのに対して、ネットワークはリゾーム(地下茎)になぞらえられる。しかし、ネットワークの全体を幹と考えれば、やはりネットワーカーの一人ひとりは「枝葉」にすぎない。そこでのネットワーカーの「枝葉」としての存在確認とは、どれだけ自分の納得のいく提案の仕方を自分ができたかどうかということであり(幹と枝葉)、それが満足できるものならば自分の胸のうちにはさわやかな風が吹き抜けているはずなのである。ぼくは元気がなくなると、元気に活動している人とおしゃべりして、元気をもらう。そこで気づいたことは、彼らがたまたま枝葉としての不運な目に会っていないから元気、ということではないという事実である。彼らは幹を変えられたからではなく、変えようとして行為できた自分に満足するのである。これが枝葉同士のピアコンセプトとは異なるネットワーク型の支持的風土をつくりだすための心構えであるといえよう。

図表4 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ

側面
項目
ヒエラルキー
ピア
ネットワーク

関係性

基本的関係
上下同質
水平同質
水平異質

相互関係
支配と服従
仲良し・われわれ
自立と連帯

交流パターン
役割遂行と役割演技
人格的・仮面的交流
流動的役割遂行と共生

関係維持の方法
差別的同一化
共同的同一化
異質の交流と相互受容

経済関係
従順さへの報奨
見返りを期待しない
ギブ&テイク

友達への態度
同調または否定
同調または内面的排除
共感と自己主張の統合

個の扱い
上からの抑圧
自己抑圧
個の深みの発揮

現実への姿勢
勤勉主義
敗北主義
積極と消極の自己管理

個の安定
制度的安定
主観的永続
変化の受容

新規参入の条件
競争
排他
開放(個人の自発意思)

個人的意味

撤退の状況
敗北
異質化・分派
潔い撤退

依存の心理状態
一方向依存・共依存※3
相互の甘え
相互のさわやかな依存

要請される資質
厳しさと従順さ
優しさと協調性
自他への基本的信頼感

行動目的
組織と秩序の維持
自己保存
自己実現と社会的承認

行動原理
現実原則
快感原則
共生欲求からの自己決定

学習動機
成長(上昇)
癒し(停滞)
成長と癒しの統合

自分らしさ
規制と喪失
渇望と挫折
現在の受容と今後の変容

社会的意味

文化の性格
支配的文化
下位文化
対抗文化

集団風土
防衛的
支持的に見えて防衛的
支持的

社会的教育体制
学校歴偏重社会
教育制度の忌避
生涯学習体系

注1 この表は、現実の組織や集団の実態よりもそれぞれの概念的な特徴を重視して整理したものである。
注2 斜体は筆者がつくったレトリックである。(『こころ』参照)
注3 共依存とは、依存する他者を支配することによって充実感をもつ人と、他者を心配させることによってその人を心理的に支配する人との硬直した関係をさす。

第2章 癒しと貢献の自己決定入門

1 事実よりも真実

 なぜ人は学ぶのか。受験勉強で知識を詰め込むだけでは感動がない。また、他人の出世の程度について嗅ぎまわって詳しくなっても、それでも「学習」なのかもしれないが、みじめで情けない。生涯学習は「学びたいことや学びたい手段を自己選択、自己決定して」という。でも、何を、なぜ、学びたくなるのだろうか。

 人びとが生涯学習などの自己決定の世界を求め続けるおおもとの動機は何なのか。ぼくはそれを感動だと考える。感動するからこそ、きのうまでの自分の枠組が変化するという本来のダイナミックな学習(自己変容)が成立するのであるが、本人にとっては学習になっているかどうかなどはほとんどどうでもよいことである。それよりもワクワクすること(ワンダーランド・・・・これが生涯学習なのだが)と出会いながら人生を過ごしたいという自然な欲求に貪欲なだけのことなのだろう(生涯学習の即目的的本質)。
 もちろん、感動を生み出すのは他者の「個の深み」との出会いばかりではない。事実を伝える情報も大切だ。事実に気づいて感動するようなこともあろう。しかし、それらの気づきの本質は、自己の「個の深み」への気づきといってよいかもしれない。そういう種類の事実や「個の深み」などの、その人の人生にとってほんとうに意味のあることがらを、ぼくは事実と区別して「真実」と呼びたい。
 起草委員としてぼくも関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、どこまでも知りたいという自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、そのどこまでも知りたいという場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。これに関してぼくがいいたいことは、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」ということである。事実の積み重ねに終わるのでは、「深い感動」(駒田、p36)もないであろう。社会教育の授業においても、学習者の頭のなかで社会教育の知識が肥大化するだけの結果に終わるのであれば、それは生涯学習社会が打倒しようとしている学歴偏重社会と同じ穴を掘っている蟹にすぎなくなるのである。どちらも「学びたいから学ぶ」という自己決定のワンダーランドとしての学習が根底から疎外されているからである。
 もちろん、なかには、枠組は変えないままその枠組に知識を詰め込むことにこそ「学習欲求」を感じる、だからそれも自己決定だ、という人もいるかもしれない。しかし、ぼくには、そこに、「職場の誰がどこの出身で、どこの派閥に属していて、どこから異動してきて、今度はどこに異動するか」をつねに嗅ぎまわっているためにそういう知識だけが豊富になった人に対するときと同様の、やりきれない切なさを感じるのである。その人は学びたいことを自由に学べばよいが、そんなタイプの学習にとどまっているあいだは、社会が人や金を使ってそれを援助することもないであろう。
 ぼくは、ここで現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとしているのではない。実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合だってあるだろう。ただし、その場合でも、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という主体的な目的意識が求められる。
 魯迅は差別を受けつつ学んでいた日本で、つぎのようなフィクションを書いている(小説『藤野先生』)。

 わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。

 じつは、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年に開設されたのだ。また、当時、仙台医学専門学校と同じ構内にある第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているそうだ。この魯迅のフィクションについて、駒田信二はつぎのように述べている。

 事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。(中略)同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。

 つまらない事実(ときには虚偽である)を詰め込むためにぼくたちは生きているのではない。だが、今までの学歴偏重の上下競争社会では、社会から与えられたカギカッコ付きの「権威」(地位、肩書)や、その権威を代弁するマスメディアが大量放出する「事実という権威」にぼくたちの内面はややもすると従おうとしてきた。しかし、他方で古くから人びとが愛してきたこの魯迅の著作などに見られる小説的真実や、パソコン通信のなかでの「善と悪」の入り交じったコミュニケーション内容は、そういう「権威」に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)として、学歴偏重社会の価値観に異議申立てをしている。すなわち、これらは生涯学習社会への転換を進めるためのカウンター・カルチャー(対抗文化)としての役割を果たしているのである。
 このように心から感動できる真実と出会うためには、ぼくたち自身が、ヒエラルキーが依拠する制度上の権威に惑わされずに「ケッ」と言って笑い飛ばし、自立的な価値を有するもの同士で水平に交流しようとするネットワークマインド(対等な考えや態度、p73)を身につけることが必要である。そういえば、パソコン通信で外側から与えられた地位や肩書きを振り回す人は、江戸時代の馬鹿殿様や、部下を従えてふんぞり返って大蔵省の廊下を歩く幼稚なエリート官僚たちと同様、物笑いのタネだ。これに対して、知的世界に遊ぼうとする人は頭が柔らかく(エッグヘッド)、権威主義者をからかってジョークを飛ばすネットワーカーのはずである。そもそも、学問だって、世俗の権威を超越した世界になければいけない。宴会の席順を争い合うような研究者がいたらお笑いぐさだ。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
信頼 信用が確かだと信じて人を用いることであるのに対して、信頼は信じて人に頼る(頼り合う)ことである。互いに欠点や弱点をもっており、無知で非力であることは前提のうえである。後者の信頼にもとづく人間関係こそが、現実的であり、ギブ・アンド・テイクとしてのネットワークや「さわやかな依存」(<mito)に裏打ちされた自立を可能にすると考えられる。しかし、上下競争の学校歴偏重社会において、人間が本来もっているこの基本的信頼能力が失われつつあるようだ。このことからも、学歴偏重社会から生涯学習社会への転換が人類史的にも急務であるということができる。
生涯学習 「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」という言葉に示されるように、人びとが生涯にわたって学びたいことを、その手段をみずから選んで学ぶこと。そこでは自発的意思が尊重され、その範囲は学習・文化・芸術・スポーツ・レクリエーションさらにはボランティア活動まで幅広くとらえられる。また、昔から「一瞬も怠ることなく学問に励みなさい」などというような類似の考え方はあるが、今日いわれる生涯学習は、現代社会の急激な変化やさまざまな歪み、危機の表れを意識した現代的かつ社会的な理念としての意味のほうが大きい。
生涯教育 生涯学習を支援する社会のさまざまな教育的諸機能。そこでは、統合(integration)の概念が重要だ。統合には、生涯各時期にわたる時系列的な垂直的統合と、社会のあらゆる場のさまざまな教育機能の空間的な水平的統合との2つがある。後者においては、学校や地域、行政全体、企業等のもつ教育機能がすべて含まれる。たとえば学校に関しては社会教育との連携(学社連携)を超えて融合(学社融合)の重要性が叫ばれるようになるなど、統合に関する実質的な深化・発展が始まりつつある。
社会教育 大正10年以来、公けにこの名で呼ばれるようになったが、現在いう社会教育は、戦前の国民教化の歴史を反省し、戦後の住民、国民を主人公とする公民館活動などの蓄積にもとづくものである。教育基本法7条では「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育」とされている。社会教育法2条では「学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動」とされている。ここで重要なことは、生涯教育と違って学校教育は除くが、それ以外の公共、民間、企業、教育産業等の教育活動はすべて社会教育の範疇に入るということである。狭い範囲でのいわゆる「社会教育行政」の事業だけが社会教育なのではない。
社会教育行政 一般的には、上に述べた広い範囲の社会教育を促進・援助するための、しかもそれを専門に受け持つ行政をさす。社会教育法3条では、国及び地方公共団体の任務として「社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない」とされている。社会教育行政には、学習者自身の学びのための環境醸成、条件整備者として、学習者の自主性を侵害しないような禁欲と諦観が求められているのだ。
癒しのサンマ サンマとは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが、今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けていると提起した言葉である。たしかに、今の子どもたちは、与えられた課題をこなす時間の過密化による自由時間(時間)の不足、冒険できる場(空間)の不足、群れて遊ぶ友達(仲間)の不足にあえいでいる。しかし、青年や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。ぼくはそこで現代人が求めているものを「癒しのサンマ」と呼ぶ。サンマであるから、日常の家庭、学校、職場のすべての時間を癒しの時間に当てようというわけではない。せめて1週間に1回くらいはサンマがあって、「ああ、○曜が近づいてきたな」と思えるだけでも、その1週間は元気に暮らせよう。サンマが癒しとして機能するための条件としては、相互承認、自他受容、支持的風土、水平異質交流などが考えられる。

2 合格はラッキーではなく不幸なのか

 事実は小説よりも奇なりという。入学試験や採用試験などでも、努力や実力とは異なった結果(事実)が出てしまうことがある。そんな「奇」のために頑張り、「奇」に左右されながら生きていくというのは、自分の人生としては許せない気がする。本当の自分はどこにあるのか。いったい事実をどう考えればよいのか。

 学生の就職戦線においても、事実と真実の峻別は重要である。採用試験などは、「人間万事塞翁が馬」の代表格であり、また、事実(合否)と真実(実力)は必ずしも一致しないものだ。そういうとき、みずからの真実を大切にする生き方こそ、この上下同質競争社会において、客観的にはもっとも幸福を追求する生き方といえるのである。
 この事実と真実の対応を示した図表5について、授業で「Vは問題ないよね」と軽く流そうとしたところ、ある学生から「個の深み」あふれるレスポンス(反応)が「ちょっと待った方式」(授業中いつでも勝手に反論してよいというシステム)で提示されたことがある。
 男子学生のなかに「Vが一番不幸だ」と強く主張した学生がいたのだ。Vとは受かる実力もないのに、事実としてはたまたま運良く(?)受かってしまった場合だ。彼がいうには、採用された後、自分の力不足のために仕事の相手や仲間に迷惑をかけ続けることになり、劣等感も刺激され、それがとてもつらいことになるだろうというのだ。また、他の学生も、「それに、もし、勉強も十分しないのに受かってしまったら、一生懸命勉強してきて落ちてしまった友達に申し訳なくて会うことができなくなるし・・・」という。
 このような自分に厳しい劣等感や罪悪感は、そういう感覚の少ないぼくにとっては、その人なりの素晴らしい「個の深み」(人間的真実)を感じさせるものであり感心してしまった。現代青年が就職活動において「数打ちゃ当たる」という実践的態度がとれずに「受かる実力がないから受けない」というようになってしまう傾向について、負けることの屈辱に耐えられずに、自己決定を回避して、初めから逃げを決め込む敗北主義としてぼくは批判していたが、それだけでは現代青年のもつ傷と繊細な深みはとらえきれないことに気づいた。
 そこで、Vについてのぼくの意見をあらためてまとめて学生に提示した。もし採用試験に、はからずも(事実)受かってしまった場合、自分の努力と能力を客観視したうえで正当な劣等感や罪悪感をもつこと(真実)は本人の生き方にとってとても重要なことである。では、この真実の力を生産的な方向で生かすためにはどうすればよいか。採用後、給料をもらって働きながら、勤務時間外に一生懸命勉強して、何年かをかけて、採用時に求められる実力を身につければよいのである。そうすれば、結果としては、もしかすると、受かるべくして受かった人よりも優れた役割遂行ができるようになるかもしれない。
 生涯学習時代においては、学卒時の到達点よりも、激変する環境に対応した学習を社会的活動に入ってから継続(リカレント学習)できる人なのかどうかのほうが重要になる。思うにこれは、「学卒時の到達点」というつまらない事実よりも、「そのあとの、その人の今ここでの生き方」という真実のほうを、やっと社会も重視するようになってきたということだととらえられる。自分に厳しい劣等感や罪悪感をもつタイプの人は、その「自己への厳しさ」という持ち味(真実)を生かせば、飛躍的な自己成長のためのバネになりうるのだ。

図表5 事実よりも真実を追求する受験態度


真実
事実
受験主体としての感覚
真実を大切にして生きるためのコツ

T ○ ○
自信と報われた感覚
自己の真実と社会のもつ真実の側面を肯定

U ○ ×
不公平感または充実感
自己の内なる真実の肯定と社会の事実への諦観

V × ○
幸福感または罪悪感
「今ここでの自分」により罪悪感を止揚

W × ×
敗北感または充実感
挑戦した自己の真実と社会の真実の側面を肯定

注 真実の○×は実力、事実の○×は合否結果を表す。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
学校歴より学習歴 急激に変化・進展する現代社会においては、適応ばかりでなく組織や社会に対して主体的に個性を発揮できる人材や、卒業後も自己開発を続けられる人材が求められるようになってきた。そのため、若い頃に完結する学校歴より、どのように学び続けてきたのかという学習歴が重視されるようになった。大学入試の合否は「小説より奇なる」事実にすぎない。その人がどう学んできたのかというプロセスにこそ、その人の真実がある。たとえば貧乏海外旅行などの「体験学習」も高い評価に値する。ところが最近は、高く評価されたいがために貧乏海外旅行に行くという逆転現象も起きている。さらには、過去の文化遺産としての「歴」にではなく、「今、ここで」(<交流分析)の私とあなたの出会いにしか真実はないとも考えられる。他者の真実を評価すること自体、大切だが難しいことなのだ。

3 奴隷の覚悟を決める
 −積極的積極性と消極的積極性−

 自分らしく生きたい、自分らしさを大切にしたい、とは誰もが思う。だが、他者や社会がそれを邪魔する場合もある。「したくないことはしない」と突っ張っているだけでは、この世では結局は自分らしさを守りきれないようだ。自分を中心にしては回ってくれない現実社会のなかで、私たちはどう生きればよいのか。

 「もう一つの自分」や「ほんとうの自分」を見つけたい、あるいは「自分らしさを大切にしたい」という現代人の自分さがしの願望はかなり真剣である。この願望は生涯学習の大きな動機にもなっている。その場合、教育は本人のもつ無限の可能性を信じて援助するだろうし、社会学は現代社会において個がいかに疎外されているかを唱えるだろう。しかし、ここではこうした現代人のもつ「個の深み」が葛藤するいくつかの事例をとおして、教育学にも社会学にもこだわることなく、その臨床的リアリティにもっと近づいてみることにしよう。
 大人になってくると、この世が思い通りにはいかないことに気づいてくる。これを楽園追放という。

 (「自分とはなにかを考え、アイデンティティ=自我同一性を獲得することは青年期の重要な発達課題である」という授業において)人間の短い寿命のなかで、「どうすれば自分を見つめたことになるのか」について私は考える気はありません。「思い切り貪欲でありたい」という欲求に忠実でありたいというのみです。
 以前、街頭で心理関係の会社の人に声をかけられ、話をしたとき、「きらいなものはしない」と言い切った私に、彼は勝ち誇ったように「きらいなものはしないというのは子どもです」などとのたまわったのです。こんな話題で悦に入る人のほうがよっぽど子どもではないでしょうか。その方は、「世の中すべて愛ですよ」とおっしゃいました。彼は自分の得たものをかたくなに他に主張して、自分を肯定したがっているだけではないでしょうか。「時間がありません」という私に彼はなおもお説教し、私は待ち合わせに遅れてしまいました。

 ぼくの答はこうだ。「いやだけれどもやる」という消極的積極の行為は彼女にとってきらいなことかもしれないが、現代社会で生きるためには必要でもある。この消極的積極の説明の前に、彼女の「街頭説教事件」に関するコメントをしておきたい。
 さわやかな自己主張のコツは「私は今は」である。「私は今はあなたの話を聞きたくありません」ということにでもなろうか。これを自他への信頼に満ちた生産的構えということができる。人によっては、「なんで自分だけがわざわざそんな主張のための努力をしなければならないのか」と感じ、その努力を「きらいなもの」に思ってしまうかもしれない。しかし、他者や社会との関係のなかで「きらいなものは(なるべく)しない」という態度を貫くためには、結局は、「きらい」でも、このような生産的構えを自らの内面にはぐくむしかない。
 とはいえ、この人の「きらいなものはしない」(積極的消極性)という気持ちの潔さの部分は、現代社会において自我やアイデンティティを守るためにはとても重要なことである。しかし、逆に、「きらいだけれどもがんばってやる」という「消極的積極性」は、社会においては仮面・戦術の必要性として不可避でもある。ただし、大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、あるいは、基本的信頼を基調とする仲間、恋人、家族の関係などにまで持ち込まないようにする必要があるということだ。言い換えれば、「消極的積極性」の本質的な問題は、心から自己の仮面と戦術の奴隷になってしまってアイデンティティを見失い、自他に対する信頼感を失う危険に陥ることにあるといえる。だから、「きらいなものはしない」というこの学生の大切な思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すと、いっそう正確でリアルな思考になるとぼくは考える。
 ついでにいうと、街頭説教の彼の「世の中すべて愛ですよ」という言葉は、「世の中すべて愛か憎しみか無関心か、ですよ」というと正確に言い直すことができると思う。彼の発言のままだと、この学生の指摘するように「自分の得たものをかたくなに他に主張」する子どもっぽい主観にすぎない。真実はもっとアンビバレンツ(両面価値)である。アンビバレンツを受容せずして真実には接近できない。

図表6 「積極的積極性」の行為としての生涯学習

主体
外見
勤勉度
自己決定
決定要因と動機
特徴と変化への姿勢

T
積極的
積極


したいからする
自己決定(生涯学習)
逃避せずに挑戦
自分のためにする
変化を歓迎

U
消極的
積極


せねばならないからする
仮面・戦術(受験勉強)
不安からの逃避
ひとのためにする
変化を受け入れ

V
消極的
消極


せねばならないけどできない
敗北主義(被害者意識)
自己嫌悪・不安
ひとのせいでできない
変化を恐怖

W
積極的
消極


しないことをあえて選ぶ
自己決定(無為・潔い撤退)
危険だから回避
自分のために、無理しないようにする。
変化を取捨選択

 さて、「消極的積極」などの議論に関連して、あるペーパーで「消極的積極(仮面・戦術)や消極的消極(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。しかし、社会において職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある(奴隷の覚悟)。そのとき、奴隷に向かって「あなたが奴隷になったのも、あなたが自己決定したことでしょう」ということはできないだろう。奴隷の部分を受け入れざるをえないのは、自己決定ではなく、社会的存在としての人間の宿命なのである。
 つまり、賃労働に代表されるような職業的な役割遂行においては、潔く奴隷の覚悟をする消極的積極性が必要になるということになる。これには例外はある。貧乏な芸術家などがそうである。また、過労死の問題を授業で扱ったとき、「プロボクサーになろうとしていたときの自分は充実していた。そのときには死をも賭していた」というペーパーがあったが、これなどは職業であるのに積極的積極(死んでもいいからやりたい!)であるという好事例であろう。
 だが、これらの例は一般的ではない。たとえば、作品が少しでも売れ出した芸術家などは、バイヤーやユーザーなどの他者からのなんらかの社会的しがらみに縛られ始めてしまうのである。売れなくてはいやだが、縛られたくもないというのでは、ただの他者の存在や痛みに気づかない人にすぎない。まして、一般的な職業においては、働きがい(積極的積極)とともに「働かなければならない」(消極的積極)も不可避である。だからこそ、一般人(ぼくたち)にとって、そういう職業的役割遂行とは異なる自己決定の行為としての生涯学習活動やボランティア活動の独自の魅力が鮮明になるのである。
 ぼくが奴隷の覚悟という言葉をいい出したのは、最近の賃労働の過酷な実態を卒業生からたびたび聞き、暗然たる気持ちになったからである。第一、サラリーマン(賃労働者)になることもままならず、せっかくのモラトリアムの時期を学生食堂でリクルートスーツに身を固めて飯をボソボソ食べている学生を見ると、「夢のある仕事を探そう」などという無責任なことはいえなくなってしまうのである。
 死をも賭しているプロボクサーが「自分さがし」のために別に生涯学習やボランティアをするということは、あまり考えられないだろう。問題は、奴隷の自覚に欠けたサラリーマンが、家族や市民の一員としてのもうひとつの自分を見失い、職業だけを頑張りすぎてバーンアウト(燃え尽き)や過労死をしてしまったりすることである。あるいは、若者たちが、「本当は何をやりたいのか」という自分への気づきを経ないまま、サラリーマンになるのは既定の事実だからという理由で、奴隷の覚悟をしなければいけないと思い、しかしやっぱりそこまでは覚悟できないこともある。たしかに、まともな神経なら、そんな精神状態で奴隷の自発的覚悟なんてできるわけはないだろう。しかし、実際には、奴隷候補者が、支配される世界とは別のもうひとつの自己決定の世界をもたないまま、もう社会に出る歳なんだからといって奴隷になる覚悟をしようとする姿と、そのように適応できずに落ち込んでいく姿は、ともにあまりにも悲しい。これらの問題については、冷酷なようだが、現代社会における生きる主体性の喪失、すなわち、積極と消極の自己管理能力の欠如の問題としてとらえられる。
 主人が「したくないことはしない」という立場であるのに対して、奴隷は「したくないこともする」立場である。それは主人−奴隷のヒエラルキー的関係にもとづいている。奴隷の覚悟とはすなわち、自己の個が抑圧されることがあっても「負け犬」にならずに、頑張っているふりをしたり(消極的積極)、やり過ごしたり(積極的消極)できることである。そのことによって「自分さがし」にとって大切ないざというときに(たとえ賃労働のなかでも)自ら進んで個を発揮する(積極的積極)ことができる。つまり、奴隷の覚悟をすることによって、逆に、自己決定の要素の強い場面などでは、「やりたいからやる」という自己の人生の主人の立場(=主人公)にもなれるのだ。「いつでもわけもわからず頑張っていればいつかは報われる(他者の主人になれる?)」という今までの主観的なガンバリズムだけでは、自己決定の幸せな生き方はできない。
 この論議については、次には積極的消極の重要性を中心として、p70の「枝葉としての幸福追求」においてさらに展開していきたい。本項では上下同質競争社会のヒエラルキーの歯車にならざるをえない場合の、個人の自己実現と役割遂行のコツとして「奴隷の覚悟」をあげた。しかし、じつは水平異質共生のネットワークにおいてさえも、個人は全体という幹に対しては枝葉にすぎないのである。ネットワークでうまくやっていくポイントは、ヒエラルキーでの「奴隷の覚悟」に対する「枝葉としての潔さ」とでも表現できるかもしれない。

4 空しさに耐える

 「祭りのあとの空しさ」という言葉がある。だとすれば、私たちは祭りさえも心からは楽しむことができないのか。昔から「教養のある人たち」はこの世に無常感を感じていた。どうも空しさは人や世の真実の姿のようだ。そんな現実のなかで、ぼくの体験学習に参加することなんかに、どういう意味があるのか。

 (奇数日の)ゲームの日に出席しないのは、多分に私のワガママです。性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからないという・・・・。グループのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲームをやるときのメンバーがいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲームを「こなす」という感じで終わってしまうんですよね。それはけっこうみんなそうじゃないのかなあ? で、そういう「中途半端な」楽しさは、すぐに空しさ(寂しさ)に変わってしまうから、それが嫌なんですよ。そういうわけで、ゲームの日は完全にパスさせてもらっています。

 この授業では、ゲームを奇数日に行うこととし、体験がつらい人には奇数日を潔くパスするよう勧めている。ぼくは、授業自体も、生涯学習の「学びたいから学びたい手段で学ぶ」という「自己管理型」で行おうとしているから、とくに奇数日には、このような「潔い撤退」に類した例はたくさんある。『こころ』にも書いたとおり、基本的には「元気になったら出ておいでよ」という対応でいいのだと思っていた。しかし、今回のこのペーパーは、体験学習という擬似的時空の空虚さを鋭くついたものであり、そういうペーパーに対しては、「無理して出席しなくてもいいんだよ」とぼくが対応することは、教師としての責任逃れにもつながりかねないと思われる。そこで、少し立ち入って考えてみたい。
 このペーパーは、じつは4枚にわたる「長編」で、いま引用した部分は、その追記である。本文では、偶数日の「講義型学習」を含めて「あまり得るものがない」、他の学生の出席ペーパーも「面白そうだね」というものはあるが、「まあ、時間に余裕があれば」という程度で、それよりは、この授業をパスして他の授業で出された課題などをこなすことが多い、などという自己の状況を述べたうえで、「(そういうふうにパスすることも)先生の方針ではOKになるんだと思いますが、それで一年間終わってしまったら、何のためにこの講義を取ったのか、何も残らないと思いませんか?」と穏やかな口調ながら、学習権者としてぼくを厳しく追い詰めている。
 しかし、これだけであれば、ぼくは、「履修要覧やテキストを読んで、ぼくやぼくの授業が自分にとって必要かどうかを判断して、出席するかどうかを自己決定せよ」と答えればよいと考える。ところが、この学生はどちらも読んでいるという。また、最初の3回目の授業まではきちんと出席もして、「お試し期間」も活用している。

(高等教育においては)基本的にはどの科目を取るか、それを決めるのは学生側の「権利」として与えられているわけですよね。そして、判断のための情報として、「履修要覧」があり「お試し期間」があり、それでも足りなければ、直接、担当の先生のところへ質問しにいくことだってできるわけです。それだけのものを与えられていながら、あとから文句をいうような選択しかできないというのでは、学生側がなかば選択権を放棄しているようなものだと思うわけです。たしかに、私も選択したあとで、「あっ、これはハズレだったな」と思ったものもありました。でも、そういうときでも、せっかく高いお金を払って買ったんだから、テキストだけは一通り読んでみようとか、講義の「おいしいところ」だけはある程度頂戴しておいて、そこから「独自路線」を展開しようとか考える。そうして、それなりに、この講義を取ってよかったなというものを作ってきました。

 立派である。ところが、その彼が、ぼくの授業だけは、履修要覧や教科書からは「見えない」「読み切れない」というのである。
 ぼくは、いつも、授業のシラバスを、大学当局から与えられた字数制限いっぱいに書いて提出している(内容はともかく)。ボリュームばかり多くてひんしゅくものではないかと不安を感じるぐらいだ。授業スケジュールなどは、一字も余らせないなどのノイローゼ的なまでの記述をしている。ただ、この大学の場合は、許された字数が非常に少ないので、この学生がほかで指摘しているように、よくわからない代物になっているとも考えられる。これについては、次年度から、もっと詳しいシラバスを、初回の授業に別途配るようにした。
 それにしても、このペーパーの主張は、その程度のことでは本質的には解決しえない深い問題を提起している。この学生のように主体的に自己決定をした場合であっても、「学びたいから学ぶ」という自己管理型学習がうまくいかないことがあるということを示しているのだ。それは、書き言葉メディアとは異なる話し言葉メディアとしての授業(ぼくは、mito的授業がそれをねらったものであることを公言している)の特殊性の表れであるともいえよう。教師への無条件的信用をしない、この学生に代表される「正しい学習態度」の主体的学習者にとっては、かえってその学習結果が恐ろしくて、「話し言葉メディア」としての授業には踏み込みずらいということになる。とくに体験学習の場合は、よく吟味したうえで「よし、参加しよう」と自己決定した場合であっても、「出なければよかった」と後悔することが多々あるだろうからである。この学生のいうような「中途半端な楽しさが、すぐに空しさに変わってしまう」などという事態は、日常茶飯事でさえある。「結果が恐ろしい」どころか、「恐ろしい結果」(空しさの逆襲)をすでに何回か味わっているのである。
 しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。この学生はつぎのように書いている。「性格的にいって、4〜5人くらいならまだしも、あれだけの人数がいると、そのなかで自分がどう振る舞ったらよいものか、よくわからない」、「グループのなかに普段から親しくつきあっている人とかがいれば、それか、あらかじめ班みたいなものをつくって、ゲームをやるときのメンバーがいつも同じというのならともかく、まったくの初対面というんじゃ、おたがいに相手の出方をうかがってしまって、なんとなくゲームを『こなす』という感じで終わってしまう」。その気持ちはよくわかるが、現代社会の山アラシジレンマに立ち向かうためには、その空しさはあえて受け入れなければならないのではないか。祭りのあとの空しさというではないか。祭りを楽しんだとしたなら、祭りが終わったあとは、その空しさをじっと受けとめなければならない。それが祭りの定めであり、人間関係の宿命なのだ。そこから逃避しようとして「いつも同じメンバー」に固執したとしても、そういうピアコンセプトで感じるだろう空しさは、これと同質、または、それ以上のものかもしれない。
 それゆえ、社会教育の援助者に求められるコミュニケーションや組織化援助のための資質・能力についても、今後重要になるのは、特定の住民とべったりつきあったり、「教祖様」になったりすることなく、ときには、情報提供や一過性の学習者へのサービスなどのちょっと間をおいた援助、あるいは間接的な援助をしなやかに行えることである。そういう仕事の仕方では、従来の社会教育の直接的援助や「指導」の魅力に固執する援助者の目には、まさに虚業(空しい仕事)に映り、不満を感じるかもしれない。だが、こういう虚業に近い仕事を「自分(の気づきや出会い)のためにやっています」とさわやかに言える発想の転換がこれからの援助職員に求められるのである。そのためには、人間関係のための洗練されたセンスが必要になる。
 しかしそのうえで、自己管理型学習、とりわけ自己管理型体験学習には、空しさの予感と恐怖に耐える力が学習者にも求められているといえるのではないか。だから、このペーパーの学生のような、かなりの自己管理ができている学習者に限っては、ぼくは「潔い撤退」への肯定的態度を変えてみたい。「いや、だまされたつもりでもいいから、とにかく出てみたらどうだろうか」といおうと思うのである。そういう自己管理型の人にとっては、他の「自己管理ができている」ほかの授業への出席や宿題をさぼってでも、mito的授業のような自己管理のしずらい授業に出席することのほうが、自己成長にとって有益だと考えられる。そうしないと、せっかくの彼の自己管理型学習は、書き言葉メディアを中心とする自己完結型学習の範囲にとどまってしまい、自らの枠組を変化させる本来の意味での学習、つまり革新型学習につながらなくなる恐れがあるのだ。ちょっと余計なお世話かもしれないが……。もちろん、ぼくが出席を勧めることになったとしても、「学生が自己決定して参加する」という原則はつねに貫かれなければならないと思う。ぼくは「出席しないと単位を出さない」などの強制につながる行為をする気にはとうていなれない。
 たしかに学習の究極の姿は独学だろうし、活字からだと思う。しかし、ではなぜソクラテス(p81)以来、話し言葉メディアの対話(授業)が、書き言葉とは別に存在してきたのか。それは、すぐれた対話には、自己管理を超えた学びがあるからだろう。書き言葉メディアは拾い読みができるがゆえに、学習者の認知構造や構えの強化、自動化という逆機能をもつのに対して、よい授業は、学習者に絶え間なく「ゆさぶり発問」(p20)を与え続けることができるのである。
 そこで、つぎに、同日に提出されたほかの人のペーパーを、もうひとつ紹介しておく。ここには、意識的に、すなわち自己管理的に、あえて「不安に耐えつつ」体験学習に参加することの重大な教育的意義が明快に表されている。

 (前回の授業で行なった、グループで無言でパズルを解くゲームについて)自分はこういうのを考えるのもいやだったので、いい加減にやっていた。しかし、みんなが一人ひとり考えてできあがっていったので、残りのぼくは自然とできあがっていた。このゲームでは、カードを取り替えるのみで、いっさいしゃべったり、表情に出したり、ジェスチャーしたりしてはならないということだったけれども、たかがカードの交換という行為だけでも、人が集まれば、意見を伝えあい、協力関係ができるということがわかり、人ってすごいなあと感心した。
 奇数日になれてきた。最近何か忘れているなというものがあった。それは何かというと、ゲームを始める前、このゲームでおれは恥じをかいてしまうのか、どんな人とグループになるんだ、などの不安な気持ち、どきどきした感じを忘れていることと、手に汗をべったりかかなくなってきたことである。
 7月ぐらいまでは、ゲームに出るのに覚悟を決めていた。「どうせ恥をかいても、みんなと会うのはこの授業だけだ。この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうから、恥じをかいてもいい!」というようなことを。笑顔も、自分では頬がピクピクしているのがわかっていた。
 この前のパズルゲームのときと、その前のゲームのとき、手に汗かくこともなく、ドキドキせず、リラックスしていた。しかも、自分から話しかけもした。自分は引っ込み思案から抜け出たのかとまで思って、ちょっとそんな自分がうれしかった。仕事先で、女性とも変に意識して話せなかったのが、このごろ、何のこともなく話しかけられるようになった。彼女ができるのも時間の問題だとまで思ってしまう自分に、「いい気になるな!」と一人ツッコミを入れて高まる気分を押さえている。

 エンカウンターグループは、日常の人間関係とは離れた文化的孤島で行われなければならない。だからこそ安心して本音をいったり、自己開示したりできる。奇数日の授業もこれに似て、「どうせ恥じをかいても、みんなと会うのはこの授業だけ」、「この大学だって、あと1年ちょっとで卒業してしまうのだから、恥をかいてもいいや」という積極的な意味があるのだろう。また、引っ込み思案の克服方法のポイントのひとつは、結果を恐れるな(自他への不信から結果を先回りして勝手に決めつけるな)である。この言葉も参考になると思う。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
研修の目的 研修には@知識習得、A技能向上、B態度変容の3つの目的がある。講師は目的を絞り、意図的、意識的に研修を進める必要がある。現在の生涯学習指導者のための研修のうち、とくに欠けているのはBの態度変容目的の研修であろう。アダルト・ティーチング(成人教育)の指導者であろうとする者は、無知と非力を自覚し、かつ受容するための態度変容の学習が必要不可欠である。
体験学習 野外活動、グループ活動、社会参加、勤労体験、困難克服の活動など、自然、人間、社会と出会う自らの体験をとおして学習すること。「出会いと気づき」とも言い換えられよう。そもそも、教育されたい人、指導されたい人はいるのか。この教育への根底的疑義に対する答は体験学習にあるだろう。山を見てきのうまでの自分と変わるというような偶発的学習を含めて、みずからの感動、納得を伴う学習こそ誰もが望む「ワンダーランドとしての生涯学習」であり、その促進のために教育や指導者が存在するといえる。講義型学習も同様でありたい。
準拠枠組 英語でframe of referenceという。さまざまな考えや複雑な感情をとらえる場合の、その人の認識、評価、判断の枠組。互いの準拠枠組の理解や共有から相互理解が可能になる。他者を理解するということは、出会いと気づきをとおして、その人の準拠枠組ごと、共感的に理解することである。
共感的理解 ロジャーズは、そのカウンセリング理論において、カウンセラーが患者に対して共感的理解をどこまでできるかを中心の一つにおいた。共感(シンパシー)とは、相手の言葉等を、その背後にある相手の準拠枠組ごと理解することである。それは「あたかも」相手と同じように感じることであって、自分の今までの枠組と「事実、同じだ」というときの同感とはまったく異なる。指導者は薬物依存の青年に対して、自分までいっしょに薬物を試みることによって彼に同感しようとする必要はないが、意識的な傾聴などによって共感的に理解しようと努力する必要がある。これによって、指導者自身の準拠枠組も相手とともに拡大、変化することになる。これが自己拡大であり、教育の根底的な目的でもある。すなわち、共感的理解のための意識的な努力によって、指導者も共に育つ(共育)のである。
エンカウンター 遭遇。仮面や演技ではない出会いを意味する。そこには異なる枠組や価値観をもつ他者との出会いがある。自己疎外、人間疎外の現代社会においては、そういう出会いを意図的・意識的に創り出し、回復しようとする動きが見られる。これがエンカウンターグループである。そこでは、組織の奴隷としての時空間から離れた一時的な「文化的孤島」(1週間の合宿など)をメンバーの同意にもとづいて人口的に設定し、本音で出会うための構成的または非構成的なプログラムが提供される。しかし、自己決定の生涯学習、ボランティア、地域・市民活動においては、文化的孤島をことさら人口的に設定しなくても、メンバー同士のエンカウンターが期待できる。また、そういう自己決定のサンマの指導者には、毒にも薬にもならない仮面の社交辞令で無難にこなす技術よりも、共感的理解の努力のもとにエンカウンターする態度と意識が求められる。
価値観ゲーム ネットワークの担い手になるためには、他者が異なる多様な価値観をもっていることに気づき、認め、さらには面白がる態度が必要である。坂口順治は『実践・教育訓練ゲーム』(日本生産性本部)でつぎのような価値観ゲームを紹介している。@価値の序列づくり=健康、愛、富、奉仕、自己実現、正義。A一対比較法=地位、時間、収入、評価、保障、人間関係、仕事。B同(結婚相手)=容姿、人柄、資産、愛情、将来性、健康、経歴。一対比較法とは、すべての組み合わせを一対一で比較して集計して順序づける手法である。Bで短大女子のほとんどが容姿を最下位(第7位)としたので意外だったが、まれに上位とする女性もおり、その理由を聞くと実際にはうなずいてしまう。どちらにも共感はできるのである。このように異なる価値観を相互受容する体験によって共生能力が培われる。

5 自己受容による自己変容

 母親が「あなたはだめな子ねえ。もっとしっかりしなさい」と子どもに言ったとする。子どもはそれを機にしっかりするようになる努力をするだろうか。つまり、自己変容するだろうか。どうも無理なような気がする。なぜだろうか。それでは、自己変容はどうしたら可能になるのか。変容を促す指導のコツはあるのか。

 ぼくは、今まで、枠組自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組を変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。その(認知説に?)偏った考え方には変わりがない。急速に発展・変化する生涯学習社会において、枠組を変えないまま、固定化した枠組のなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと考えるからだ。
 しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、ぼくのこの学習論への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。ぼくにとっては、それが逆に不思議だった。そこで、ぼくは「じゃあ、ぼくは自分を変えたいのか」と自問自答してみた。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。どちらかというと妙に落ち着かない嫌な気持ちだ。
 もともと、ぼく自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での「学習をしたい」と同義)というとき、楽しいわくわくするイメージとして「変えたい」という語を使っていた。ぼうっと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人とたまたま出会ったとき、その人の枠組のよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときに自己充実感を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「変わっていくのって面白い」という程度の軽い気持ちなのだ。例の「どこまでも知りたい」(練馬区生涯学習推進構想、p34)という生涯学習の原始的欲求の一種と考えてもよい。ただし、例にあげたのは偶発的学習だが……。
 ところが、ちょっとマイナーな気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみた。すると、とてもみじめな感じになることに気づいたのだ。それはそうだろう。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを制度的権威の側(この場合は教師)から「自分自身を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうがむしろ健康的である。
 「自分を変えたい」という欲求は、じつは、つぎの2つに分類できるのだろう。

図表7 受容と変容の生涯学習

欲求の種類
欲求の動機
T
自己否定としての変身欲求
今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。
U
自己受容による変容欲求
今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。

 ぼくが今まで提唱し続けてきた「枠組自体を変化させる生涯学習」というのは、当然、Uということになる。最近の臨床心理関係者の嗜僻などの話を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラーが、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ってと、自分を大切にとの2つをいうことは意味があると思う」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたはぼくの胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。ぼくの言葉で言い直せば、自己客観視と自分のために生きることの大切さの2ついうことになろうか。Tだけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組のまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍を引き起こした自らの生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容に有効に結びつくのである。
 このことから、「自己の枠組自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。よくやってきた。でも、わくわくすること(ワンダーランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということである。交流分析では「I am OK, You are OK」を理想的な基本的構えとしているが、それは、このことを表しているのだろう。そのための援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「まだまだこんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
自己受容 自分をあるがままに受け入れること。その特徴は、@欠点や弱点もあることを認めてのうえであること、A人より優れているという比較の意識ではないこと、Bそれでも、なお、自分自身に対して積極的な肯定的関心をもっていること、の3つであるとぼくは考える。つまり「今の自分が好き」という状態である。自己受容から他者受容が始まり、そういう指導者のもとで、学習者自身も肩の荷をおろして安心して自己受容に向かうことができる。
自己一致 自分があるがままの自分でいられること。自信のある状態。現代社会では、家庭教育、学校教育などの影響などにより、「こうあらねばならぬ」という不合理な「信念」(<論理療法)が、現実の自己と理想の自己との乖離を生む。平木典子は『カウンセリングの話』(朝日選書)でつぎのように述べている。「自己一致とは、理想と現実の自己が一致することではなく、一致していないことをありのまま認め、受け入れることであろう」。たとえば、講義が退屈な場合、なるべく興味がもてるように主体的に聴こうとする努力はするが(現実を理想に近づける)、あくびがしたければ無理に噛み殺すこともしない(退屈したという現実のとおりにいる)ということなのだろう。ただし、壇上から「生涯にわたって学ぶべし」という「指導者」の言葉はさぼりたい自他の心を受容できていない空虚な言葉だ。
交流分析 英語でtransactional analysys=TAという。1950年後半、アメリカのバーンが開発し、1970年代から日本に広がった。その理論は5つの基本概念で構成される。@ストローク、A自我状態(3つの私)、B交流パターン、Cゲーム、D人生脚本。Dでは、幼児期に親から与えられたメッセージをきっかけとして、その後の対人関係によって強化され、「してはならぬ」「ねばならぬ」という禁止令に縛られて、あるテーマを繰り返して生きるようになるという。これを「自動化」と表現することができる。交流分析は、その解釈にとどまらず、人生脚本を理想的な基本的構えをめざして意識的、建設的に書き換えようとする実践的な学問である。
基本的構え 交流分析の理想的な基本的構えとは、「私はOK、他人もOK」である。これは、自他への基本的信頼にもとづいた人生態度である。しかし、上下同質競争の現代社会において、そういう構えが自然に身につくとは考えられない。そこで、交流分析では、そうでない自分に気づき、意識的に取り組むことを大切にする。同様の意味で、「気づいたときから始められる生涯学習」の意義がそこにある。生涯学習などの自己決定のサンマは、各人の理想的な基本的構えの獲得の場にもなりうるのだ。

図表8 交流分析=人間の3つの心

  マイナスに働くとき プラスに働くとき

   非難・叱責  きまりや約束を守る
   偏見 CP  文化・伝統を重視
   威圧的    理想の追求

   過保護・過干渉  思いやり・愛情
   おせっかい NP  支持的
   えこひいき  養育的


   打算的  冷静・沈着
   人間味に欠ける A  情報の収集
   数字優先  合理的・客観的


   自己中心的  天真らんまん
   わがまま FC  好奇心・積極性
   衝動的・本能的  創造性・直感力

   主体性がない  協調性
   消極的 AC  素直
   ひねくれる  我慢強い

 福間笙子「望ましい人間関係をもつために」より
        (ガールスカウト日本連盟『リーダーの友』1993.12)

 [CP]    [NP]    [A]     [FC]     [AC]
 クリティカル ナーサリー アダルト フリー アダプティッド
  ペアレント  ペアレント  チャイルド  チャイルド
 批判的な親心  保護的な親心  大人の理性   自由な子ども心  適応する子ども心
 がんこ親父   マリアさま   コンピュータ  自由人      いい子ちゃん
注1 最下段は、それぞれの特徴を誇張してmitoが呼んだ言葉である。
注2 CPをFP(父性的)、NPをMP(母性的)ともいうが、最近はあまりにも実態がかけ離れているためか、FPやMPが使わているのをあまり見たことがない。
注3 ここでのACは、最近話題のAC(アダルトチュルドレン)とは異なる。
(『こころ』p222参照)

6 自罰と他罰のデリケート

 若者や学生を見ていると、いろいろに傷つき悩みながらも、そういう自分の「デリケートさ」をいつまでも大切にしたいと思う人が増えているように思う。これも「自分らしさを大切にしたい」という流れなのか。だが、自己と他者・社会との関係に気づかずにムカツクようになると、それは滑稽だし社会の迷惑にもなる。

 このところ、この授業に出るのが嫌になって、あまり出ていませんでした。それは、授業のなかでもふれられていたように、授業のなかで出てきたことに突きつけられて、これまでの自分のまちがっていることを認めるのが嫌だったからだと思います。そこへきて、自分の自罰的傾向(「ちゃんと現実を見すえなくてはいけない」「逃げてはいけない」)や自信のなさ(「自分にはこの授業を受けるだけの包容力や人間性が欠けているのではないか」「他の受講者が自己変容しているあいだに、自分は低いところで堂々めぐりをしているのではないか」)があるものだから、事態は深刻だったといえましょう。
 しかし、今日、ある意味ではたまたま、この授業に出て、本当によかったと思います。もともと自分は、社会教育主事資格ほしさとはいえ、好きで(=主体的に?)この授業をとったのでした。そうならば、そういう自分を受容して、そして自分を変えていけばよい(どこまで変われるかは別として)わけです。だから、今後は、もっと積極的に出席して、自己変容や自己管理につなげていければと思います。自罰しすぎないように、自分に自信をもてるように(しかし、肩で風を切ったりうぬぼれたりしない程度に)していければと思います。

 この学生のようなデリケートさ(本人は自罰傾向と分析しているが)は、本人の個の深みのひとつであり、そういうデリケートさが欠けていると自覚するぼくは尊敬する。彼は人生を真剣に生きている、あるいは、自己評価や自己への要求の水準が高いと思うのである。そんなぼくがかれらに何かいえるとしたら、つぎのようなことである。「批判は歓迎せよ、否定は受け流せ」。
 ここでは、それよりも、最近ぼくが気になっているもうひとつのデリケートの傾向について述べておきたい。それは、自罰傾向のデリケートに鮮やかに対比される他罰傾向のデリケートである。たとえば、恋愛問題にしても、相手が自分だけを愛してほしいというところまではだれでももつ当然の感覚ではあると思うが、そういうふうに独占的に自分を愛してくれない相手を理解できない、あるいは許せないというのである。そして、自分のほうは、一方で、他の新しい異性とも交際しようとしている。だが、そこまではまだいいのだ。見方によっては、そういう生き方も本人がそれで納得して生きているならたくましくていいじゃないかとも思う。別に他人であるぼくが気にかける必要はない。ところが、本人は、悩んでいるし、傷ついたという。自分自身については甘やかしておきながら、相手は罰している。現代社会において、幸福追求の援助者として教育が存在しようとするのならば、こういう場合はどう対処すればよいのか。これは、すなわち、他罰のデリケートに対する援助のあり方の問題である。
 授業中の私語の問題は、今や当たり前すぎて陳腐な話題だとぼくは思っている。授業中の感動の私語はむしろ歓迎し、これを積極的に授業に組み込むこと(「つぶやきの組織化」、その象徴的な表れは「ちょっと待った方式」)、それ以外の他の学習者の自由を奪うような「おしゃべりの自由」については、教師は双方の自由を保障するために、おしゃべりをするための中途退室を認めればよいだけのことだと思う(もちろん、おしゃべりをやめさせるためのテクニックも一方では重要だが)。そのことによって、自己管理型学習への援助が貫徹できるはずだ。先日、50人くらいが受講する授業で、男性2人だけが小声でひそひそしゃべっていて気になってしかたがないことがあったが、しばらく我慢しているとその人たちは荷物を置いたまま自発的に退室してくれた。そして、あとで戻ってきた。かれらは、他者の学習の自由を侵害することなく、mito的授業で与えられている自由を行使してくれたのである。これはとても嬉しかった。
 しかし、そううまくはいかない場合も多い。ほかの学生が静かに授業を聴いている状況ならば、その授業とは無縁の余計な私語はそういうほかの学生に迷惑をかける結果になることなど、どんなおしゃべり好きな学生だって教師に言われなくても心の底ではわかっているはずだ(ぼくは「100 人のうち1人でも熱心にその授業を聴いているなら、ほかの99人の学生は、その人の学習の自由を保障するために、退室しないままの余計な私語を禁欲せよ」という考え方である。念のため)。人間は何か迷惑行動を起こすときでも、自分の心のなかではなんらかの形でその行為を「正当化」しているはずだ。私語学生はどのように退室しないままの自らの私語を正当化しているのだろうか。
 ここに、「他罰のデリケート」のロジック(論理)またはレトリック(詭弁)が適用されているのではないか。「ほかの人は、私みたいな(恋愛、学業、家族、交友関係などにおける)不幸に、今のところ、出会っていないのよ」とか、「ガリ勉だから、鈍感だから、こんな嫌な授業をまじめに聴いていられるのさ」とか、無意識のうちに言い訳をつけて、内面で他者を罰して責めることによって、他者に迷惑をかけている自分を許しているのではないか。つまり、自分が傷つくことばかりに対してデリケートだからこそ、他者への「多少の迷惑」をかけている自分については許せてしまうのである。おしゃべりしたくても退室できないのは、「ほかの仲間から外れたくない」という非生産的な同一化志向、すなわちピアコンセプト(仲間意識)の表れにすぎないのだが、それを、「おしゃべり仲間をちゃんと大切にしている自分」「友達からのおしゃべりを聞いてあげている自分」として逆に正当化してしまっている。この場合は、社会が個人を直接的に抑圧しているのではない。個人と社会のあいだにピアが介在していて、個の発現を抑圧しているのは社会そのものではなく、じつはピアコンセプトであり、すなわち、その人自身の内なる認識なのである。
 電車のなかで迷惑行動をしている人の顔つきを見ても、かれらはけっして楽しそうな顔をしていない。股を大きく開いて3人分ぐらいの席を占有している人も、「3人分の着席の幸せ」を奪っているのに幸せそうではなく、むしろ辛そうな疲れた表情をしている。社会や他者に対して、何か不愉快なことがあるのだろう。これをぼくは「加害者の被害者ヅラ」と呼んでいる。そういう例は、いやというほど身の回りで見かける。だが、よく考えてみれば、そういう加害者たちが幸せになれるのだったら、本当の被害者たちにとっては報われないし、たまったものではない。水平なネットワーク社会(ぼくはそれを学歴社会に対する生涯学習社会だと考えている)における「してあげる、してもらう」のストローク交流の関係しか、自分自身も幸せになれる方法はないのだという嬉しい確認ができたと考えればよいのだ。
 ただ、そうはいっても、援助者としての社会的役割の遂行が期待されている人は、そういう「他罰のデリケート」の人たちの自己変容に対する援助のあり方を考えなければならないだろう。そこで、つぎの図表9のようにデリケートの種類を分類して整理してみた。図表では、上のどちらでもない「個の深み」そのものともいうべきデリケートを入れてある。知的水平空間や出席ペーパーの世界においては、実際には、このVが多い。しかし、TやUにも深いものがある。

図表9 3とおりの「デリケート」

種類
不安のきっかけ
基本的な悩み

T
自罰的デリケート
相手を傷つけたかも?
相手を愛していない?

U
他罰的デリケート
相手に傷つけられた!
相手から愛されていない?

V
個の深みのデリケート
人間や宇宙は有限である
存在や愛の確証はない

 もちろん、確信犯的な迷惑行動と、私語程度の何気ない迷惑行動とを同一に論ずることには危険性がある。が、ここでは、程度の差はあれ、すべての人が、「自罰・他罰」「デリケート・たくましさ」「大・小」のどちらの要素ももっているという前提で論を進めたい。実際、自罰のデリケートの行き着く先が他罰であるということは、よくある話である。すなわち、「自分はこれだけ真剣に自分について悩んでいるのに比べ、悩んでいない人はなんて鈍感で無責任な人なんだろう」という思考様式に陥りがちなのである。
 さて、ここで問題にしたいのは、Uである。社会的に客観視した場合は論ずるまでもなく「不当な態度」として処理すればよいのだろうが、その人は主観的には「本当に悩んでいる」。すなわち「問題があることを自覚している」のである。学習が問題の自己解決の行為(問題解決型学習)の一環だとして、教育はそのための援助だとすると、本人が主観的には問題をかかえているということ自体は、援助の唯一の拠り所として非常に重要なポイントになりうる。
 ぼくは「淋しがり屋のタカビー」という言葉をつくった。タカビーとは高飛車な人という意味の流行語である。自分の都合にあわせて相手を生きさせようとしたり、支配したりすることが多い迷惑な人のことだ。当然、愛されないから淋しくなり、ますますタカビーになる。このようにしてタカビーと淋しがり屋の素質は、悪循環を繰り返して強化、自動化される。しかし、そうい人たちが淋しいという気持ちを感じていることは、指導者にとっては援助の強力な手掛かりである。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
問題解決学習 学校教育でも、子どもたちの関心・意欲・態度(<「新しい学力観」)を養う観点から、主体的な問題意識をもち、解決に向かうプロセスを重視する問題解決学習が取り組まれつつある。これに対して、大人の学習はそもそもが問題解決型である。だが、学習が問題意識を失ったまま目的化し始めると、学習していること自体が麻薬のような役割を果たすことになる。これを学習中毒と呼べるだろう。その学習は自由だが、公的社会教育が優先して支援すべきものでもないことは確かだろう。

7 指導者としての責任のもち方

 いじめや不登校が問題になる今日、教師に対してもカウンセリングマインドが要請されるようになってきた。たしかにそれが重視する共感的理解は、指導者にとっては必要不可欠と思われる。しかし、共感なんかしたくないという人や、「共感できない」という実感をもつ人もいる。そういう人はどうすればよいのか。

 授業中に共感的に理解することをねらいとして、登校拒否(不登校)や拒食症(摂食障害)のビデオを視聴しても、なおかつ、一部の学生から「かれらは甘えている」、「共感できない」というペーパーが出されるmito的授業の実情について、「援助者としては不適応症状の人を共感的に理解してあげなければいけないのではないか」、それなのに「十分に症状を理解できるだけの情報を与えないまま、VTRで不十分な情報を流して、共感的理解ができない結果を生み出すのは、教師として無責任ではないか」とぼくに鋭く抗議するペーパーがあったのだ(「非公開希望」だったので全文の紹介はできない)。
 まず、言明しておかなければならないことは、ぼくの勉強不足におおもとの原因があることである。ただし、ぼくの教師=学習援助者としてのスタンスは、「与えられた学習課題に関連して、ぼくが、いま、もっとも関心をもっていることを伝える」ということだ。そこさえ責任をもって役割遂行すれば、あとは学習者がそれをどう受け取って取捨選択するかについてはぼくの援助者としての責任の範疇ではないと考えている。毒を飲むか、薬とするか(p108)は学習者の自己責任でないか。たとえ、学習者側のなかに、その問題に関してぼくよりすぐれた知識・見識をもっている人がいても、ぼくは平気でそのテーマについて「教授」するだろう(p80)。あとは、ぼくが、批判を受けて立つ、指摘を受け入れるという覚悟さえ決めておけばよい。
 しかし、それにしても、一部の学生の「かれらは甘えている」という発言は、たしかに他罰的な傾向を秘めていると思われる。そこで、このことについて考えてみることにする。
 第1に、「(不適応の人たちは)甘えている」という判断は、他罰的ながらも「1%の真実」を表している。「甘えている」と書いた学生たちはただ単純に「甘えている」と書いているのではない。かれらがこれまでのみずからの人生を生きていくなかで、@社会やひとに甘えてはいけない、それが自立だ、A家族やまわりのひとが自分にしてくれたことに感謝したい、あるいはそういうひとたちの期待に沿いたい、Bいやなことでも頑張ってやっていかなくてはこの世ではうまく生きていけない、などの価値観を身につけ、自分とは異なる不適応のひとたちを「甘えている」と判断すること(他罰)を選択することによって、今までそういうふうにがんばってきた自分の生き方を否定しないですまそうとしているのである。
 つまり、社会的不適応を起こして「本当の自分を大切にする」というだれにとってもそれなりに「魅力的な生き方」の、その魅力に打ち勝つためには、不適応行動を「甘えている」といって切り捨てることを選ぶしかないのである。不適応が現代社会における自己保存のぎりぎりの選択行為だとすれば、そういうひとたちを「甘えている」と切り捨てることも、現代社会においてはそれなりに自己保存のためのぎりぎりの選択行為なのである。その証拠に、かれらは不適応に対して共感「できない」、共感「したくない」と書いてくる。価値中立的に共感「しない」とは書いてこないのである。他者を共感的に理解したいという要求は潜在的にはだれにでもあるのではないか。ただ、それと自己保存本能(ホメオスタシス)とが、現代上下同質競争社会の疎外状況のなかでは不可避的に対立してしまうのである。
 このように考えると、不適応を「甘えている」といって切り捨てて現代を生きていこうとする戦術は、だれにとっても、まったく意味のないこととはいえないだろう。同時代の他の99%のそれぞれのひとが少なくとも1%ぐらいずつは共感できる「1%の真実」を表した生き方のひとつなのではないか。問題は、シロかクロかではなく、シロ何%かクロ何%かなのであり、出席ペーパーの場合は、もっと根本的には、シロまたはクロの深みをどれだけ表しているかなのである。
 第2に言いたいことは、援助者側(教師)は、「他者を共感的に理解できるようになることが、どれだけすてきなことなのか」ということを、その方法論とともに提案する責任はあると思うが、自分にできる範囲で一生懸命にそれを提案した結果、学習者側がそれを受け入れなかったとしても、そこには何の問題もないということである。ひとそれぞれなのである。教育意図を学習者に提示し、その目標に沿って授業を進めても、なおかつ、相手が自分の思うように変化してくれなくても、それはそれでよいのだ。援助者側にも学習者側にも問題はない。援助者側が「学習者を変えられない」という問題に執着するとすれば、それは相手の人生をしょいこもうとする「熱血先生」の傲慢さとさえいえるのではないか。
 ぼくは、共生の要素を@共有(価値や文化の共通点を探ったり創ったりすること)とA共存(価値や文化の異なりを受容しあうこと)の2つだと考えている。共感は、この場合の@に当たり、「相手の人生をしょいこまない態度」は、この場合のAに当たるのである。
 共に生きること(共生)とは、ひとつには共感などによって何かを共有することであり、もうひとつはたがいに異なる文化や価値観の存在を認め合うことである。ヒエラルキーの関係においては、ピアコンセプトとセクショナリズムがマイナスに働くため、共有と共存の2つの関係が相互排他的に進められて最後には必ず分裂して破綻することになる。これに対して、ネットワークにおいては、異なりが障害にならずに歓迎されるわけだから、この共有と共存とは最初から一連のものとして統合的に進められるのである。また「折り合いをつける潜在的能力」ものびのびと発揮(外在化)されるだろう。
 この世のだれも宇宙の全体像を把握していないのだ。しかし、それでも人間は生きている。生きているから真実を知りたいと思う。真実に接近するためには、十人十色、百人百様のたくさんの答を安心して行き交わすことのできる支持的風土を必要としている。さらに、その風土のうえでも「あなたはあなた、私は私」というネットワークなりの事実は厳然と存在する。しかし、その事実を肯定的に受け入れたうえでさわやかに必要な依存ができることこそ自立の姿であるし、それが異なる自立した価値どうしの交流を可能にし、共生社会創造の基盤をつくりだすのである。信頼と共感にもとづく人間のネットワークの本質的なあり方はここにあるといえよう。だから、ネットワークのつくり方をひとことでまとめるとするならば、「いばるな、へつらうな、そして、同質の仲間を求めるのではなく異質の他者を歓迎せよ」ということになるだろうか。
 ただし、これは原則論であって、ぼくの場合は、その学生の指摘するとおり、教材研究をもっとしっかりやっておけばさらによかったのではないかとは思う。つまり、それは、ぼくが自分にできる範囲にまでも到達していなかったということであり、その面では、十分には責任を果たしていなかったというべきである。このことについては自分もいま関心をもっているので、いっそう深く考えていきたい。
 第3には、「(不適応について)共感的に理解しなければいけない」ということを最優先する立場は、ぼくはとっていないということである。ぼくは「共感的に理解できたらいいね」といっているのである。「共感しなければいけない」といわれたのでは、なんだかそれまでの自分が共感的理解能力に欠けた冷血人間としての烙印を押されたようで消極的ないやな気分しか残らないではないか。ぼくは「よりいっそう他者を共感的に理解できるような自分でありたい」というみずからの動機を自分のなかに探りながら、授業を進めているだけだ。だから、学生に対しても、一人ひとりのなかに「他者を共感的に理解したい」という顕在的・潜在的欲求が存在するであろうことを基本的には信頼して、その欲求に訴える授業を組み立てようとしている。もちろん、共感的理解能力の発達は、信頼・共感・自立の人間関係の創出やその援助のためには不可欠な要素だと思っているからである。「〜しなければならない」という押しつけではなく、「〜するほうがすてきだ」という提案を行うことこそ、ネットワーク型の知的水平空間における援助者としての個の発揮の有効な方法なのだと思う。
 教師といえども、社会という幹に対する枝葉にすぎない。その枝葉が自己実現と社会的承認のために果たすべき責任とは、自分の考え方を押しつけたり、その結果、幹がそのとおりに変わってくれなかったからといって不平を言ったりすることではなく、自分の生きてきた範囲でできることを実際にどれだけ幹(この場合は学習者集団全体)に提言できたかを、たとえば「先週は授業で何回、どのように提言できたか」などと、なるべく客観的に自己評価することなのである。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
カウンセリングマインド カウンセリングは一つずつのケースから学ぶ臨床の学である。指導者も同様に、世界に一人だけの取り替え不能な学習者一人ひとりと向き合う。そこから、共感的理解による援助を中心とするカウンセリングの精神を学ぶことの重要性が生ずる。指導者はややもすると学習者集団というマス(かたまり)と向かい合っているような錯覚に陥りがちだが、マスのうちの一人にすぎない平面的な人間など、じつは一人も存在しない。個の確かな存在を嗅ぎ取るとき、さらには共感の瞬間が訪れるとき、指導者の仕事は俄然面白くなる。登校拒否と引きこもり 登校拒否の事例において、学校に行くべしという価値観を押しつけるのではなく、本人を信じて内面的成長を見守ることが大切という認識は幸いにも共通のものになりつつあるようだ。しかし、引きこもる若者たちのカウンセラー富田富士也は、彼らが同世代からの置き去り感、社会や親からの見捨てられ感のなか、就職もできないでいることを訴えている。これこそ「行っても行かなくてもどっちでもいい」ではなく、すべての若者が人間への基本的信頼感を取り戻して社会参加できるよう、社会が責任をもって方策を考えるべきことだ。

第3章 気づきと癒しのネットワーク心得
 −自他否定と仮面演技の上下同質競争から、
   基本的信頼と共感的理解の水平異質共生へ−

1 あんた世間なめてんじゃない?事件

 現代社会には、信頼能力に欠けた、人の心を傷つけずには生きていけない悲しい人たちがスパイのように配置されている。どうしたらそういう人たちから自分の身と心を守れるのか。また、そういうスパイがうようよいる現代社会で水平な共生のネットワークをつくることは、可能なのか。それはどんな意味をもつのか。

 アイデンティティの獲得のためには、自己の可能性を実現するとともに、他者が認知してくれることが必要だ(自己確立=自己実現+社会的承認)。だが、学歴偏重社会では、むしろたがいに競争相手として、傷つけあう者同士として、存在しあっているかのようである。つぎの事例も傷つける人、傷つけられる人の痛みを如実に表している。

 高校を卒業して初めて行ったバイト先で、同じバイト先の大学生に、とてもひどいことを言われたんです。「進学するの?」って聞かれたので、「音大に行く」って答えたら、「音大に行って何するの? アイドル歌手にでもなるの?」って言われました。ムッとしたけど「教師になりたいの」と答えました。そうしたら、その人は「あんた世間なめてんじゃない?」って言ったんです。
 きっとその人は、音大という所は遊んでいても卒業できると思っているんでしょう。それで私が教師になりたいなんていったから、そういうことをいったんでしょうね。でも、私は、小学校からの夢をそんなふうにいわれて、とてもくやしかったし、悲しくて涙が出そうになりました。この人の他にも、やっぱり、「音大に何しに行くの? アイドル歌手になるの?」って言われます、ちょっとバカにしたみたいに。
 一生懸命頑張って入った学校なのに、なんかそういうふうにしか言われないなんて淋しいです。だけど、人は音大がどういう所か知らないから仕方がないですよね。人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば、それでいいと思います。

 そのバイト先の大学生のように、相手に言えないはずのことを言う人が、世界中にスパイ(または暗殺者)のように配置されている。さわやかでない、攻撃的な自己主張しかできないタイプの人である。「私は(世間がつらい)」と主張できずに、「あなたは(世間をなめている)」と相手の人格を見抜いたふりのようなことしかできないのである。そういうスパイみたいな人のつらさを共感的に理解して受容できるような超人的なレベルに到達するまでは、なるべくそういう人の感情には巻き込まれないようにしたほうがよい。
 ぼくがなぜそういう人たちをスパイ呼ばわりするかというと、映画のスパイのように世界に配置されていて、逃げてくる人を待ち受けているからである。スパイから逃げ切ることは考えても無駄である。日本がいやだからといってアフリカに逃げても、そこにもやはりそういう人が待ち伏せしている。だから、スパイから逃げ切ることではなく、スパイから自己防衛する方法を考えるしかないのである。
 もう一方で、「人が音大をどう思っていても、自分が一生懸命頑張って夢がかなえば」という願望を自分一人で実現することも、人間にとっては残念ながら困難である。人間は自己実現だけでなく社会的承認も得て、初めて自己を確立できるからである。そのためには、音楽を志す自分の生き方を支持してくれる他者、「ああ、この人が生きてくれていてよかった」といえる人を見つける必要がある。
 ネットワークにとっては個が重要である。しかし、その個は他者と関わることによってより深まる。上の事例のように傷つけあい、非生産的構えを身につけつつある個人にとっても、同様である。
 そこでの癒しのポイントは共感である。共感はシンパシーというが、同感とは異なる。異なる枠組をもつ他者と心を響かせあう。共感は感動に、そして学習につながる。他者と出会い、同質化することなく自己の枠組を変容させる。そのことによって、自他両方への基本的信頼感が高まり、ほんとうの自立が可能になる。異質が水平に交流するネットワークには、こういう共感のチャンスがみちあふれている。
 ただし、一方では、「あなたはあなた、私は私、出会わなくても仕方ない」(p72)という真実の一面からも逃げられない。先のデリケート問題(p54)で、ある学生が「ある意味ではデリケートになりたくない。傷ついたり、傷つけたりせずにすむなら、それがいい。デリケートな部分は、詩や小説でも書くところで使えばいいんでしょう」と書いてきた。相互理解不能の出会いなど、よくあることだ。そういうときは、このような諦観があってこそ、実現可能なものへの自然な流転、あるいは芸術表現活動などのより高いレベルへの昇華もある。

2 見返りを押しつけるな、見返りが期待できる行為をせよ

 恋の告白ができないという相談を友達から受けたときなど、私たちは、「見返りを求めずに!」などとアドバイスして相手を勇気づけたつもりになっている。でも、自分自身は今までどうだったのか。告白などのときの、自分の行為に見返りがほしいという気持ちは、はたして本当にいけないことなのだろうか。

 気をつかうということは、今の自分に無理をしている状態で、気がきく人とは、つねにいいことをしてあげようとしていて、人に与えることができる人なんですね。今、私は彼に与えることをしていないような気がします。でも、自分がこの人に何かをしてあげるんだ、なんて思ってしまうと、なんだか見返りを求めてしまいそうです。よくわからない文章になってしまいましたが、コメントください。

 ストロークの基本は、自分と相手を信頼することである。たとえば、このペーパーの言葉を使えば、「いいことをしてあげよう」としている今の自分の気持ちはけっして非常識ではないというように自分を信頼(自信)し、そういう自分の行動を相手は好意的に受け入れる力をもっているだろうというように相手を信頼(他信)することである。だから、相手のためにしてあげるある重大な行為について、受け入れてもらえるという自信や他信がまだもてないときに、「自分がこの人に何かをしてあげるんだ」と頑張って無理にその行為をしてしまうことはかえって危険だと思う。
 まだ不安な場合は、相手に「どう?」と聞いてみればよいではないか。眉を動かすだけでもいい。聞いてみることも信頼にもとづくストロークのひとつなのである。あるいは、小さなプレゼントをたびたびあげるなどして、少しずつ信頼関係をつくりあげていく手もある。ディスコミュニケーションの現代社会においては、「気がきく」というのは、自分勝手に判断することではなく、相手に聞けることである。信頼関係ができるということは最初からあることではなく、少しずつつくりだせることである。
 さて、「見返り」についてであるが、以上の趣旨から、「見返りを期待しない一方的な好意と行為」こそが、コミュニケーションのない自分勝手な思い込みに陥る危険性をもっているということが理解されよう。ここで見返りとは、打算的、実利主義的なものとは違い、もっと精神的で微妙な見返りである。これは、最近、ボランティア活動の魅力についてもそういわれているところである。しかし、もう一方で、「私はあなたの期待に沿うために生きているのではない、あなたも私の期待に沿うために生きているのではない」(ゲシュタルトの祈り、p72)という人間関係の真実がある。@「自分のために自分の人生を生きている」といえること、A自分の期待を相手に押しつけないことの両方が必要なのである。そこで、ぼくは、このようにまとめておきたい。「見返りの期待を相手に押しつけることはできない。しかし、好意をもつ相手からの見返りが期待できるような行為を自らがすることは、自己決定によってできることである」。過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられるのである(<交流分析)。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
学習交換 英語でlearning exchange、学習ネットワーク(learning network)とも呼ばれる。アメリカの成人教育の取り組み。三浦清一郎は『比較生涯教育』(全日本社会教育連合会)で、「特定の知識や技術を教えたい人とそれを学びたい人とを電話によってつなぐ仲介機能を果たしている」と紹介している。この「交換」の発想こそ、ネットワークのギブ・アンド・テイクを体現するものと考えられ、インターネット等の今後の情報・通信技術の進展も活かした生涯学習での活用が望まれる。
ストローク 交流分析の用語。「私はあなたの存在に気づいていますよ」と伝える行為。自分の時間を相手に与える愛の行為ともいえる。身体的(スキンシップ)、言語的(挨拶、励まし等)、非言語的(まなざし、うなずき、傾聴等)の3種、肯定的、否定的の2種、条件付、無条件の2種がある。ストロークなしでは生きていけないのは万人共通だが、その受け方、与え方にはそれぞれ特有の癖があるといわれる。また、「貧しいものはさらに貧しく、富めるものはますます富を増す」という言葉もあり、ストローク経済の法則と呼ばれる。ストロークは、上手な、あるいは悪い、ほめ方や叱り方にもつながるという意味からも、親や指導者にとって大切だが臨床的で難しい問題でもある。どんな種類のストロークがよいのかは一概にはいえないのである。「おまえなんかいなくたっていいんだ」(p14)などの無条件否定のストロークについては論外だが……。
アガペ 西欧において、性愛のエロスと対照の、精神的な愛を意味するキリスト教の言葉。アガペは、自己犠牲的な無私の愛である。問題は、学生などが見返りを期待しない行為へのあこがれというかたちで、このアガペ的な愛の姿を、宗教的な背景なしにやみくもにあがめているということである。しかも、実際生活においては、自分からよりも先に相手から与えられたいという、一方向かつ受け身の都合のよい主観的物語に埋没している。それはネットワークにおけるギブ・アンド・テイク、気持ちのよいストロークのやりとり(相補的交流という)、さわやかな依存(<mito)などの力を獲得するにあたっての内的阻害要因になっている。また、学ぶことやボランティアなどの活動が本質的に「自分のため」であることの理解をも阻んでいる。ぼくが交流分析という臨床の学を援用するのは、そういう埋没状況に対して自己客観視の機会を提供するためである。

3 「ましなろくでなし」であればよい

 人間はすべて無知で非力だ。欠点や弱点も多い。残念ながら自分もそうだ。最初から明らかなもの(自明)などはない。そういうなかで、ネットワーカーとしてのプライドをどのように持つか。たとえば、自分は全然面白くないのに、少数の学習者が興味深く聴講している学習の場で、友と話したいときどうするか。

 神経症もちなので先週のゲームはけっこう辛かった。偶数日だけ出席しようかと思う。講義を受けていても手は震えるし、思考力もものすごく鈍っている。きたない字ですが、本人はものすごくゆっくりていねいに書いているつもり。耳をとがらせてでもよく聴いて、いろんな情報を聞いたり考えたりしたいと思っています。本当は奇数日も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか。

 ぼくは、この学生の真摯な人生と学習の態度に敬意の念を感じる。ぼくの授業では無理をしないようにしてもらいたいし、すでに学生には初回に公言してあるとおり、出席、入退室はすべて自由であり、ぼくにはきがねなく自己決定してほしい。
 mito的授業、とくにこのゲームのような態度変容をねらいとする体験学習においては、つぎのような参加の仕方が考えられる。これらを、自分で選択して行動するということが大切である。@欠席する(授業より有意義なことをする、ボーッとしているなど。その時間の使い方を総括するレポートが翌週に提出されれば出席扱い)、A出席するけれど、出ていきたくなったら出ていく(出席扱い)、B参加したくなかったら、どいてしまって、授業を観察している(高みの見物)、C参加するけれど、発言したくないときはパスする(しゃべりたくないことはしゃべらない権利の行使)、Dバカになって参加する(非力の自覚と開示)、E批評的に参加しつつ、あとで批判する。最後のEは、体験学習においてはそれを体験してからの話である。そうでないと批判にならない。また、@からCまでの行動は、ネットワーク型社会において求められる「潔い撤退」にもつながる可能性がある。
 ここで困るのは、撤退をしながら撤退仲間(ピア)とこの授業の無意味さを確認し合って満足している態度である。ぼくは、それをただのろくでなしの行為と呼んでいる。撤退は自由なのだが、残留者はその人なりに自分にとっての意味を見つけてこの授業に参加しているのである。残留者のことがどうしても気になるのなら、その残留者と率直に意見を闘わせればよいではないか。
 以前、6月中旬という時期につぎのように書いてきた学生がいた。「私は今日で2度目の受講なのですが、はっきり言ってあなたが一体何を言いたいのかわかりません。しかし、他の授業の様子(注・西村以外の教授の授業)から比べてみても、生徒たちが真剣にというか、興味深くあなたの講義を聴講していると思います。しかし、あなたの発する言葉はとても危険であると思います。それは、言うなれば”暴力”に限りなく近いと思います。なぜならば私には、あなたの話が暴力やセックス(ともに『変に理解しあってしまう』という理由からぼくの授業において禁止している行為)のように妙に納得させられる事があるからです」。個人の事情で欠席していたことはかまわない。しかし、「真剣に」「興味深く」参加している他者について勝手に推測したりする権利にはつながらないはずだ。ぼくは、「この時期にきて2回目の受講とはどういうことだろうか。それで理解できてしまうような授業なら、いままで毎回受講している人は、何のために今まで受講してきたことになると思っているのか。受講しないのもあなたの選択結果であり仕方ないのだが、この授業の価値を認めて『真剣に』受講し続けている人の存在も認めたほうがよいだろう」とコメントした。こういう学生の行為を、潔くない撤退、または、ただのろくでなしと呼ぶことができると思う。生涯学習やボランティア、地域・市民活動の団体においても、撤退したはずのメンバーや元リーダーのような人が、いつまでも「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみついて、現在の変化しつつある団体運営に干渉して団体の自主性と活力を損なっている例があるが、これなども「潔くない撤退」なのである。
 「ただのろくでなし」には、もうひとつのタイプがある。途中退出が認められ、実際に何人かがそうしている状況のなかで、また、せっかく授業を聴くのを楽しみにしているのに私語がうるさくて聞きずらいという学生のペーパーを読み上げているのに、なおかつ、おしゃべりばかりしていて退出してくれない学生がいるのだ。あるいは、熱心に受講している学生を冷やかに笑っていてくれればよいのに、それさえもできない。これは、まわりの人への迷惑よりおしゃべり仲間との「つながり」を優先するピアコンセプトの表れであり、かといって、他の学生に迷惑をかけてでもそういう学生の学習から落ちこぼれたくないから退出しておしゃべりを続けることもできないという、非常に惨めで情けない破廉恥なピアコンセプトの表れなのだと考えられる。
 このように考えると、「本当は奇数日(体験学習の日)も出席したいけれど、辛くなったら教室を出ていってもいいでしょうか」という学生の言動との質の違いは明白である。すべての人間は、ピアコンセプト(仲間意識)などの自己の内面的要因や現代管理社会による外部からの抑圧などのなかで、他者の目におびえるがゆえに、潔く参加や撤退ができなくなる弱者としての存在である。すなわち、ろくでなしである。しかし、それは、「ましなろくでなし」なのであって、そこで葛藤して自己解決に向かっている姿は、「ただのろくでなし」とはずいぶん違うのだと思う。「ただのろくでなし」の存在は事実であってもくだらなすぎて小説のネタにもならないが、「ましなろくでなし」の葛藤は小説でも追求しているメインテーマなのであり、人間的真実そのものなのである。

 私語の話はやめにしていただきたい。せっかく仕事を終えてメシも食わずに教室に駆け込んでくるのに、何回も私語の話などというクダラナイ話で時間を潰している。こんな話で時間を拘束されるのであれば、「これから20分、私語の話をしまーす」と宣言してほしい。その間、寝るなり、学食へ行くなり、有効に時間を使えるではないか。

 ぼく流に、この学生の言いたいことを翻訳すれば、「ただのろくでなしのことなど、そもそも関心がない。そんなやつらのことなどほっておいて、もっと本質に迫る話をしろ」ということだと思う。主体的な学習者の態度として、これでよいと思う(こんな評価は、彼にとっては余計なお世話かもしれないが)。学習者は本質的に「自分のために学習する」のである。自分の学習のために無益であると思えば、彼のように教育側を批判することによって、この学生のように「メシも食わずに教室に駆け込んできた」自らの学習権を行使すべきである。なお、いずれにせよ、私語の話はmito的授業の初期のころにする話であり、中盤以降はほとんど話題にならないから安心してよい。
 ぼくが私語の話をするのは、ひとつには、おしゃべりする学生の自由を認めたうえで(退出して廊下などでおしゃべりをしてよいことになっている)、自由を欲していて、しかもその自由を認められているのにおしゃべりしている自分こそが、他者の自由(学習したい者の学習権)を侵害しているのだという事実を知らせ、「相手が悪い(授業がつまらない)からそのせいでしゃべっているのではなく、おしゃべりしている自分がろくでなしなのだ」という真実に気づかせ、他者や社会のせいにできない状態に追い込むことによって、「ただのろくでなし」の状態でいる人に自由の恐怖を味あう機会を提供し、自由の行使の大切さを認識させるためである。
 それでは、ほかの「ましなろくでなし」である人たちにとって、私語に関する話は無益であろうか。普通なら無益なのかもしれない。たった一度しかない人生を、つまらない人の生き方やつまらないことがらとつきあってわざわざ無駄にすることはないからである。しかし、この授業は教育学の一環なのである。現代人の主体性獲得への援助者、指導者としての力量を身につけるためには、この「ただのろくでなし」の問題を本質的にどうとらえ、どう対処すべきかということが重要になる。援助者にとって大切なのは、「ただのろくでなし」に対する否定ではなく、共感的理解である(ちなみにけっして同感したり同情したりする必要はない)。「ただの」か「ましな」かは違っても、同じ「ろくでなし」の部分を共有しているのだから、理屈のうえでは共感は可能なのである。とくに、自らの「個の深み」や主体性を発揮するときの阻害要因としてのピアコンセプトについては、「ましなろくでなし」の人にとっても思い当たる節が多いのではないだろうか。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
(ここではmito的授業について)
mito的授業 双方向システムにより学生の主体的な学習態度を培おうとするぼくの授業を、自分で勝手にそう呼んでいる。双方向システムのしかけはいまのところ4つある。@出席ペーパー、Aシグナルカード、Bちょっと待った方式、Cパフォーマンスタイムである。Aは、学生が、退屈や反感を感じたらレッドカード(警告)、言葉が難しいなどの技術的問題があればイエローカード(教育的指導)を授業中に個人で掲げる権利を認めたもので、あまり意味のないグリーンカード(賛成・共感)を入れれば信号機(シグナル)の3色になる。カードを振れば指名され、意見も発表できる。Bでは、個人の判断でいつでも授業を止めて意見を述べる権利を与えている。これがときどきあるが、ほかの学生まで面白がったり、ぼくの話よりちょっと待ったをかけた学生側に共感したりして聞いている(漁夫の利<mito)。あまり発言が長くなって授業の進行にさしつかえる場合は、お願いして途中で手短かにまとめてもらえばよい。Cは、学生が教壇から受講者に意見の発表やサークルの宣伝などをしたいとき、授業の最初の何分間かを相談のうえで決めてその学生に与えるというものである。これらの双方向システムは、「教師には何をいっても聞いてもらえないから」といういつもの逃げ口上の道をふさぐことによって、自由の恐怖を味わい、学習権を使いこなす主体として成長するよう支援する意図をもっている。

4 枝葉としての幸福追求
 −積極的積極と積極的消極の連動−

 すでに、積極的積極や消極的積極の必要性と、これに対応する奴隷の覚悟の重要性は述べてある(p40)。しかし、できれば自己決定の積極的積極だけで生きていきたいと思うのが人情だ。ところがネットワーカーでさえ、そうもいかないときがある。そんなときはどうすればよいのか。さわやかな撤退のコツはあるのか。

 授業で「積極的積極と積極的消極は連帯できるのではないか」と言ったところ、つぎのようなすばらしい勘違いのペーパーが提出された。

 (「自分は積極的消極性に欠けているのではないか」と前置きしたうえで)積極的消極性の場合、ある目的に向かって前進する行動から退いて、別の目的に向かって前進する行動、あるいは停滞したままでいることを自己決定する潔さだと思うのです。結局、自分はそういう真の自己決定ができていないのではないでしょうか。2つの選択があって1つを選択するのに迷ったり、選択した後もその決断に自信がもてなかったりするけれども、その選択を捨ててまで別の道に進むことができないで、ただそのまま進んでいく。そのように潔さのない行動が私にはあります。mito先生は積極的積極性と積極的消極性には連帯関係があるとおっしゃっていましたね。私もそう思います。その両方を持ちえてこそ、真の自己決定や潔さが持てるのだと思います。

 ぼくが言ったのは、Tの人はUの人とではなく、Wの人と連帯できるのではないかという程度のことである。この学生のペーパーは、もっと重要なことを言っていると思う。つまり、TとWは自己の内部で連動関係にあるということである。「ある一人の人」がTのような生涯学習をするためには、どこかでWの「潔い撤退」をしているはずだということなのだ。この4パターンの分類が、Tのタイプの生き方(積極的積極)の人は「生涯学習的」であるなどという機械的なタイプ分けだけで終わるのなら、実質的には意味がない。それよりも、「潔い撤退」が許されるネッワーク型社会において、この学生のいうように撤退の権利をさわやかに行使する根拠になるということにこそ、この4パターン分類の意義がある。
 この「潔い撤退」については、現実の人間関係においてはさらに複雑な様相を示すことになる。なぜなら、自己決定できるのは自分の行為についてであって、他者の行為についてまでは決定できないからである。それが「枝葉」としての個人が決定できることの限界である。ネットワークにおいて枝葉は他の枝葉に対してどのようにふるまえばよいのか。つぎの事例をとおして考えてみたい。
 狛プー(5章参照)は木曜日に開かれる。木曜の夜が「狛プー曜日」だ。ところが最近ずっと出られなくなってしまったあるメンバーから、「自分の職場では木曜は恒常的に残業が続くことになってしまった。狛プーの曜日を、社会一般でいわれているノー残業デーの水曜などに変えてほしい」という提案が狛プーにされたのだ。狛プーは「1年に1回来ればメンバーだ」という方針でやっているから、いつでもだれでもふらっと参加できるように、なるべくなら数年間問題なく続いている今までどおりの木曜にやりたいという気持ちがほかのみんなにはあった。また、もちろん、残業を恒常化させる賃労働のあり方という社会の問題もあるし、狛プーお得意の「この指とまれ方式」の番外編で自分の都合のいいときに人を集めるという手もある。しかし、彼は本番の狛プーに出たいのだ。さあ、どう考えればよいか。
 提案した彼は「自分でメンバー全員に電話アンケートをするので任せてほしい」という。これが枝葉にできることだ。みんなも賛成した。ただ、「その結果をみて、責任もって自分が曜日を決めるから任せてほしい」とも言った。これはいけない。最終決断をするのは、残念ながら自分一人ではなく、あくまでも狛プー全体の意思という、ネットワーク的であるほどやっかいさの増す正体不明の幹なのである。
 ところで、彼の提案には2つの動機がある。「自分の職場では」と「社会一般では」だ。ぼくは前者の動機を支持した。後者は、中小・自営などの多くの青年にとっては関係ないことで、「社会一般では」などという言葉は意外に当てにならないのだ。それよりもみんなに電話するなら、「自分は木曜日に出られないのが残念だから曜日を変えてほしい」と率直に言って同意を求めた方がよいだろう。ぼくがそう言ったところ、メンバーからあっさり総すかんを食らってしまった。「一般の青年たちにも都合がいいというならともかく、そんな個人的な事情じゃ、ただのわがままだよ」というのだ。ぼくが「ほかのまだ見ぬ人の心配なんかする必要ないよ。今ここで『来たいのに来れない』と言っている人とみんなとで折り合いをつけられないかなあ」と切り返すと、「だって、1年に1回来てもメンバーなんだから、そういうたまにしか来ない人たちのことも考えなきゃいけないわ」という声。ぼくは「あれっ、へんだぞ。『ここにはいないあの人のために』というのはネットワーク的じゃないぞ」と思ったが、みんなから相手にされず、時間も押していたので、それまでとなった。
 ぼくたちは、「わがままであるな」「ひとに迷惑をかけるな」「自分勝手に主張する前に、みんなはどうなのかを考えてみよ」などの禁止令を受けすぎていて、主張したり依頼したりする力を去勢されているのではないか。そして、「紳士淑女」になってしまった分、ひとが本来持っていた折り合いをつける能力を失いつつあるのではないか。
 「枝葉」の人生だって、本人にとってはとってもだいじな人生だ。自分の人生は大切にていねいに生きたいと誰もが思う。狛プーは、その人生のなかで出会っただいじなネットワークだ。そのネットワークがいらない人は、撤退すればよい。また、たまたま狛プーと出会えなかった人の心配までする必要はない。そんなことを心配するよりも、今ここで、たまたま出会った者同士がなんとか折り合いをつけようとすることの方が大切だ。その双方が支持しあう温かい努力をしたあとで、よい結果が出なかったときこそ、片方が「しかたない」とあきらめて「潔い撤退」をすべきなのだ。
 枝葉としてのネットワーカーの心構えはつぎの詩に集約されよう。

 私は私のことをする。
 あなたはあなたのことをする。
 私は、あなたの期待に沿うためにこの世に生きているのではない。
 あなたも、私の期待に沿うためにこの世に生きているのではない。
 あなたはあなた、私は私である。
 しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい。
 もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである。
                   (パールズ「ゲシュタルトの祈り」)

 これは決して投げやりなコミュニケーション放棄の詩ではない。「あなたはあなた、私は私」という自立の厳しい真実を受けとめたうえで、出会いのために自分が可能な範囲での最大限の努力をした者の、しかもそれがどうしてもうまくいかなかった場合の、諦観のあり方を示した詩といえよう。このように、過去や他人のせいにすることなく、自分のできることをできる範囲でしようとする生産的な構えが枝葉としてのネットワーカーに求められているのだ。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
ヒエラルキー ピラミッド型に組織された階層組織。位階制。階層制。ヒエラルヒーと発音するが、一般にはヒエラルキーと呼ぶ。原理的には価値秩序とは無関係であるが、実際には、官僚制などに見られるように上位に権限が集中し、支配−従属関係を生み出す。本書では、ピラミッド型の上意下達機構を意味する用語として、一般的な言葉でヒエラルキーと呼んでいる。ここではとくに、ヒエラルキーの上位から下位までにわたって、じつは異質の価値を排し、同じ価値観が貫徹されていることに注目したい。本書ではこれを上下同質競争と名づけて、ネットワークの水平異質共生と対比して批判している。
ネットワーク 網状組織。同じ目的をもった人などの連帯組織。従来からのピラミッド型の組織形態(ヒエラルキー)への「対案」としての意味をもつ。ただし、最近の市民の自発的なネットワークなどを「組織」の一形態と解することには異論がありうる。今日いわれるネットワークとは、組織であることへの拒絶なのかもしれない。いずれにせよ、そこでは、自立的価値(スタンドアロン)をもつもの・物・者が、それぞれ自律的に連帯・連携・依存しあう。パソコンが1台でもスタンドアロンとして汎用的なのに、他のパソコンとネットワークすることによって、個としての価値をいっそう発揮する様子になぞらえることができる。ネットワークにおいては、生涯学習、ボランティア、地域活動に見られるように、地位や肩書きにしがみつく人を軽蔑する傾向がある。同時に、「みんなもぼくと同じだね」というピアコンセプトの精神的安定をも蹴飛ばし、一人ひとりの異なる個性や役割発揮を承認しあう。これを本書では水平異質共生と呼ぶ。ネットワークにはかなりの潔さが必要とされる。それでもきわどい流動性のもとにあり、その淋しい宿命は避けられない。
ピア 同輩、仲間。公式の集団・組織内の正式な関係よりも、「われわれ意識」による非公式な関係を重視する志向にもとづく。ピーア(peer)と発音するが、世間一般ではピアと呼ぶことが多いようだ。ピアグループは、個人の社会化の促進の場としても機能するが、逆に、個性の獲得や発揮をみずからが抑圧する場としても機能する。本書では、ヒエラルキーが解消されて、単純にネットワークに発展するのではなく、その重要な介在項としてピアが存在することを強調したい。とくに、そこでのピアコンセプト(仲間意識)が、仲間から変に思われたくないなどの現代人の強烈な不安のなか、協調の名のもとに個性の発揮を自己抑圧するというみじめな逆機能の結果に陥っていることを力説しておきたい。しかも、それは、同輩や仲間に協調しようとすることにとどまるものであって、現実社会に歯向かう力にもならなければ、かといってヒエラルキーに適応してうまく個性を発揮する結果にもつながらないという皮肉な実態があることも指摘しておきたい。
ボランティア ボランティア活動の3原則は、自発性、公共性、無償性である。自主性・主体性、社会性・連帯性、無償性・無給性などともいわれる。ほかには、先駆性、開拓性、創造性などがあげられる(東京ボランティア・センター)。ぼくは、とくに重要なのは自発性(ボランタリズム)だと考える。ボランティアという言葉は、従来は狭い意味での社会福祉の活動に限定して使われていたが、生涯学習や町づくりなどにおいてもその社会的な重要性が認識されるようになってきた。社会教育・生涯学習や地域・市民活動などの自己決定活動は、そもそもボランタリズムにもとづくボランティア活動そのものである。生涯学習の学びは、充電としての学習にとどまることこそ(学習者の自由だが)まれであり、ふつうは、仲間に教えてあげたい、地域をよくしたいなどの社会的関与に結びついて行われてきたのだ。

第4章 知的水平空間における指導批判の方法

1 権力にしっぽをふるな
 −教師の葛藤より学習に重大なもの−

 学問にとっては批評精神がいのちである。指導者は、地位や肩書きが自分より下の人からの批判でも、その批判が主体的であれば真剣に受けとめるだろう。面白がって心から歓迎するかもしれない。これをぼくは知的水平空間と呼ぶ。しかし、どういう批判のしかたが、知的世界になじむ主体的な批判といえるのだろうか。

 (注−初めてmitoの授業を受けて)もう少し静かに話してほしいと思います。私は少し疲れてしまいました。私は先生のことをmitoちゃんなどと呼ぶことに抵抗を感じます。ニックネームはだんだん親しくなってから、こちらから親しみをこめてつけて呼ぶものだと思うのです。

 教師の声が小さく聞きずらくて疲れるというのはよくありそうだが、この人のように教師が大声のために学生側が疲れるということもあるのかもしれない。そういえば、ぼくの授業を「けたたましい」と評するペーパーも過去にあった。また、「疲れる」という言葉は、子どもから大人まで現代では「心が疲れる」という意味でよく使われている。しかし、この言葉をあまり無意識に使っていると、自己暗示のような作用が働いて、自分や他人に対する不信感が自己の内面に無自覚のまま広がってしまう危険性があるように思う。無意識に言葉を使っているうちに、その言葉の暗示にかかってしまうのである(予言の自己成就)。そういう意味で、「疲れる」という言葉には、過剰なAC(従順な子ども心)の挫折から生じた敗北主義の傾向があると思う。もっと堂々と教師の授業内容を批判したほうがよいのだ。
 呼称については、ぼくに親しみを感じていない場合は、もちろん無理をしてmitoちゃんなどと呼ぶ必要はない。「先生という尊敬語で呼ばないと申し訳ない」という教師に対する学生側の遠慮を捨ててもらうために提案しただけのことである。以前にぼくのことを「ただのおっさんとしか思えない」と書いた学生がいたが、それなら「おっさん」と呼べばいいのだ。ぼくに嫌悪を感じるときは「あなたは」とか「おまえは」とか書いて批判してもよい。ここは学生自身が学習主体である知的水平空間なのだから、一般社会のように仮面をかぶる必要などない。そんなことよりも、この授業を、自分の背後の気持ちまで伝えるコミュニケーションの訓練の場としてとらえるように提案したい。教師としてのぼくには、それを受けて立つ義務がある。

 (注−2回目の授業で、上のペーパーとは違う人である)大声だからうるさいんではなく、自分の意見を押しつけるかのようにしゃべるのがうるさいんです。言葉の暗示ということを言っていましたが、それは私たちだけでなく、自分にもあてはまっていることがわかってますか? 学生の前で教壇に立って授業をするという時点で、その「言葉の暗示」を使っていると思います。
 それから私たちの話題の中に「先生」(この場合はただの先生)のことも出ますが、自分たちから見ていい先生は「○○先生」ですが、嫌いな先生は「○○」と呼び捨てです。中高生の場合は、生徒の間だけの通称、ニックネームで呼んでいました。だから、生徒が教師のことをどう呼ぶかは、生徒の判断です。「mitoちゃん」という提案は余計なものです。

 まずは、このペーパーの批判精神を評価しなければならない。たしかに、押しつけるしゃべり方は、聴く人にとっては不愉快である。たとえ、1%の人だけがそう感じたのだとしても、ぼくはその批判をしっかりと受けとめる必要がある。
 しかし、同時に批判の刃を自己にも向けよということがいえる。すなわち、「押しつけている」と受け取らざるをえなかった学習者自身に、逃げや責任転嫁はなかったかどうかということである。つまり、ぼくの言い方自体は客観的には押しつけがましい言い方ではなかったのに、ぼくの言葉の内容自体が、その人にとっては、内面に踏み込まれ、触れられたくない部分に触れられてしまったと感じたから、「押しつけている」という非難の言葉を使っただけなのではないかということも考えられるのである。ぼくの問題提起の内容に反発したのなら、その内容こそを書けばよいはずだ。たしかに、教師による「言葉の暗示」という側面はあるかもしれない(レトリックの効果と問題点)が、それなら、そのぼくの「暗示の言葉」を具体的に指摘して批判すればよいのである。ぼくは「すべて受けて立つ」と言っているのだから、学生は、この授業を自らの批評精神の絶好のトレーニングの場ととらえてもよいのではないだろうか。
 「mitoちゃん」という呼称の提案は、本来は尊敬語である「先生」という呼称を学習者側が仮面をかぶって指導者側に使う必要があるのかという問題提起として受けとめてほしい。つまり、これは知的水平空間のあり方を考えるためにいったことであって、「生徒の間だけの通称やニックネーム」についてまで、ぼくが希望を述べたわけではない。この人にとってはぼくが「嫌いな先生」なのなら、学習権をもっている学習者側のほうから仮面をかぶる必要はないのだから、学生同士の会話においてだけでなく、授業やペーパーにおいても自分の背後の気持ちを呼称に投影してくれてよいのだ。「おまえ」ではひどいから「あなた」ぐらいでどうか。しかし、少なくとも「先生」などという尊敬語を使う必要はない。
 正直にいうと、このペーパーを読んで、ぼくに葛藤が生じなかったわけではない。「自分にもあてはまっていることがわかってますか?」などという表現方法は、エラソー(CP)に感じてしまうし、ぼくの思考まで指図する押しつけがましさも感じる。言葉の暗示の問題がぼくに「あてはまっていること」はその人の想定にすぎないのに、「わかってますか」によって既定の事実として押しつけられているように感じるのだ。ディベートで勝つためのアンフェアーなレトリックにすぎないのではないかとも思う。また、たとえば、実際に20歳も年下の学生に呼び捨てにされたとしたら、葛藤を禁じえないだろう。でも、この学生のいうように陰で呼び捨てにされていることを知ったら、それもやはり、それが自分に対する拒否感にもとづくものなのかどうか、教師としては気になるところであろう。知らせないことが相手の幸せのためということですませてしまってはいけないと思う。
 このような私的な葛藤のため、ぼくの内部の攻撃性(ぼくが教師をやり始めてから、やや増大しているのかも=教師の職業病?)が、皮肉な言動や表情、ほめているようでいてじつはけなしているダブルメッセージ、ある行動をしないことを非難しておきながら、それをしたとしてもやっぱりケチをつけるダブルバインド(二重拘束)などの屈折した形をとって、ぼくの言動に(この学生に対して個人的にということはぼくはしないが)表れるかもしれない。しかし、そういうぼくの葛藤は教師の役割とは離れた私的なものにすぎないのだから、その屈折を授業のなかに見つけたら批判してほしい。そういう批判も受けて立つ、つまりきちんと受け答えすることはすでに約束してある。
 その約束まで破るようになったら、それはすでに教師の職業病という域を越えて、もっとみにくく罪深い先生病ということになる。先生病とは「自分は尊敬語で『先生』と呼ばれるべき人物である」と思い込む病気である。自分を尊敬してくれない人を責めたり罰したりする。先生病は職業病と違って、その病気の責任はおもに本人にある。

参考資料 「先生という言葉をやめてみよう」
(社会教育「くえすちょん あんど あんさー」全日本社会教育連合会、1996年5月号より)

 ぼくは社会教育の仕事を13年やってから、いまは大学の教員をやっているところです。どちらもとても楽しくやらせてもらってきましたが、ときどき「先生」と呼ばれることがあって、そんなときは、「あっ、そんなに立派な人物ではありません」と言い訳したり、こそこそと逃げ出したくなったりして、そして、なんだかうしろめたい気持ちになります。よっぽどやましいところがぼくにあるのかもしれませんが。ああっ、たしかにあったりしますけど・・。
 そこで、ぼくは、授業や社会人研修などで「mitoちゃんと呼んでね」とお願いしています(まあ、ぼくは残念ながらそんなにかわいらしい外見ではないですから、実際には「mitoさん」ぐらいのところが多いですが)。学生なんかはそれを聞くと、「mitoちゃんだって! キャッキャッキャッ」と笑っています。出席ペーパー(自由なコメントのシステム)に「40過ぎても、ハタチ前のわたしたちにmitoちゃんと呼ばれたいなんてずうずうしいわね〜。でも呼んであげる、mitoちゃ〜ん」と書かれたりもします。
 しかし、なかには教師を先生以外の呼称で呼ぶことにマジで反発する学生もいます。あるペーパーに(mitoちゃんという呼称は)「押しつけだ」と書かれていたので、翌週の授業で、「まあ、軽い提案ぐらいの気持ちで受け取ってください」とコメントしたら、「その提案が余計なのです」としぶとく食い下がられたことがあります。彼女のペーパーによれば、「わたしたちが先生、先生なんて言っているのは表だけで、友達同士ではイヤな先公なんか『あのジジイ』と呼んでいる。それは先生なんかは知りたくても知ることのできない世界なのです」ということでした。コノヤローという気もしましたが、ナルホドーとも思いました。「先生」という言葉は、本来は「教師」という意味ではなくて尊敬語なんだと思います。でも、むしろ現実には自分たちのこころから教師をシャットアウトするための言葉として使われているのかもしれません。このひとにも尊敬できるところがあると感じる前から相手をセンセイと呼ぶということは、奴隷が使用者を「御主人様」と呼ぶのと同じことで、かえって信頼を放棄する結果になっているのではないでしょうか。
 ぼくは、先生という言葉をつぎの3つに分類しています。
@尊敬先生=「○○先生はぼくにとって大切な先生なんだ」
A便利先生=「(あっ、名前忘れちゃった・・)センセエ、こんにちは」
      「(キャバレーのホステスさんが)社長さん、センセエー」
B皮肉先生=「ほら、うわさをすれば影だね。大先生がいらしたぞ。くわばらくわばら」
 だから、まあ、言葉はそれなりに妥当に使われているのだともいえなくはないのですが・・。
 しかし、せめて、学校では、教師が自分のことを「ぼくは先生です」と言ってしまったり、職員室でお互いに先生、先生と呼びあったりすることをやめるようにちょっと気をつけたら、学校はもっと居心地がよい世界になるのではないでしょうか。また、とくに、「一斉承り学習」の打破をめざす社会教育としては、学習者の前で講師や社会教育主事の名前を「先生」付けで紹介することは、社会教育の将来にとっても(!?)よくないことではないかと思います。
 学生などのなかには、「mitoちゃん」のほか、「mitoちゃん先生」という人もいれば、「西村さん」「mito氏(これを音読したら呼び捨てだあ)」「mitoティーチャー」などと書く人もいます。怒って書く人は「あなたは」と書きます。各自、工夫のあとが見られるのです。その人たちには面倒な思いをさせて恐縮ではありますけれど、「教師への呼称などというどうでもいいことで言葉さがしに苦労するのも、たまにはいいことだよね」とも思うのです。 mito

2 教える側の義務の限定と、学ぶ側の批判範囲の限定

 教職志望の学生で、「自分は教師になれるような器ではない」という理由で希望を断念する人がいる。生涯学習ボランティアの振興においても、そういう「謙虚さ」が邪魔になることが多い。指導とはそんなに難しいことなのか。また、学ぶ側は、教授者や指導者に対してどこまで役割と資質を求めることができるのか。

 あのさ、(注ーゲームの説明におけるmitoの)「ルール説明はヘタです。あなたたちはもっとうまくなってください」の発言は違うと思う。ヘタを認めるのは一見潔さそうだけど、それは自分を正当化した逃げだと思う。こちらだって説明のヘタな人がいる。その人たちは、先生ができないことがぼくたちにできるわけないと考える。うまくなりたいと思うのではなく、プレッシャーとしてうけとる。説明が少なくとも先生より上手にできるかもしれないと思っている側から見れば、ヘタだといった奴がごちゃごちゃ期待するなと思ってしまう。ヘタだと認めた以上、自分がうまくなりたいという姿勢を見せてほしい。ヘタだというカラに閉じこもらず、こういう所がヘタだから、こうしたいと思っているという発言を期待したい。

 明らかにぼくの言葉が足りなかった。この人をイライラさせてしまって申し訳なく思っている。体験学習の時間を確保するために、ぼくの言いたいことを無理して象徴的に集約して発言してしまったのだ。タイムキーパーとしての教師の職業病であるとともに、この言葉の背後に「そんなのはヘタでいいじゃないか」という居直りの気持ちがあったのをぼくは認めざるをえない。そういう気持ちはぼくは自己受容している。しかし、教師の意図することを自分の頭のなかだけでなく、学習者側にきちんと言葉にして表さないと、教師の独善というそしりを免れないのは明らかである。
 ぼくは、あのとき、ゲーム説明が上手というイメージとして、ベテランのレクリエーション・リーダーのようにあざやかに説明するというイメージを頭のなかで描いていた。そういうあざやかさは、この授業の教育目標からいえば必ずしも必要ではないし、そもそもぼくの持ち味とは異なると思っている。ゲームの説明と実践を通じて学習者側の主体性の獲得の援助ができれば、ぼくの教師としての役割は十分果たされると考えているのだ。だから、「ゲームの説明がわかりにくい」というあるペーパーの指摘に対して、「あざやかさを求める人は、ご自分で努力してください」という意味を勝手に込めて発言してすませてしまったのだ。そんな発言は、非生産的な皮肉にすぎなかった。このペーパーの書き手は、その皮肉を敏感に感じとってしまったのだろう。だから、もしかすると、イライラして、「あのさ」のあとは心にもないことを一気に書いてしまったのかもしれない。その場合は、以下のぼくのコメントは、一般論として聞き流してほしい。
 「説明の下手な人」が「先生ができないことがぼくたちにできるわけない」と考え、プレッシャーとしてうけとること自体に、ぼくは「それは学習者側の主体性喪失の表れである」として異議を申し立てたい。権力に弱いAC(従順な子ども心)に支配されているのではないか。また、「説明が少なくとも先生より上手にできるかもしれないと思っている人」が、「ヘタだといった奴がごちゃごちゃ期待するな」ということについては、「あなたたちはもっとうまくなってください」という期待の言葉を選択してしまったぼくが一番悪いとはいえ、それを聞いてイライラしてしまうというのは、少しCP(批判的な親心)が強すぎるのではないかとも思う。「ごちゃごちゃ期待するな」などと目くじらを立てずに、「無責任なことを言ってやがる」と言って、教師を笑って許してしまう手もあるのではないか。
 そして、「ヘタだと認めた以上」という言葉もひっかかるがそれは筆の勢いだとしても、なぜ他者に対して「ヘタだというカラに閉じこもらず」「自分がうまくなりたいという姿勢を見せる」ことをこの人は要求するのだろうか。よけいなお世話ではないか。ぼくの授業から上手なルール説明の仕方を学びたいという学習要求をもっていて、それをぼくに表明したのなら話は別だが、それよりも、この人はぼくの姿勢そのものに反発を感じたのではないかと思われる。ぼくは、『こころ』の冒頭を、いきなり、「ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる」で始めているぐらいなのだ。なぜ、自分の教育目標としては考えていないことにまで、「こういう所がヘタだから、こう努力したいと思っている」などと発言して、みずからが頑張る姿勢を表明することを学習者側から要請されなければならないのか。説明が流暢ではなくても、ヘタウマ(へたのように見えるけど、あとからよく考えてみるとうまかった)ということだってある。学習者側にとってはわかりにくい説明であっても、かえって学習者をその気にさせ、ルール以外の何かを伝え、結果として学習者の主体性の獲得を有効に援助できる場合だってあるのだ。主体性の獲得の援助方法については、この授業で、教育目標をあらかじめはっきり提示することなどによって、一貫して追求し続けているとおりである。
 この点に関して、以前、「ちょっとおしゃれな教授法」と名づけた演習で、ぼくが「目玉焼きの作り方」という「模範授業」を行ったときのことを思い出す。あるおとなしい女子学生が、突然、意を決したように「mitoちゃんは私たちよりも目玉焼きについてよく知っているんですか」と聞くのである。「ふたをした方がおいしくできあがることなど、目玉焼きの作り方に関して伝えたいことはあるけど、学習者側より知っているかどうかはわからない」と答えた。すると、彼女は「そんな人が教える側に立つこと自体、いけないことなのではないか」という趣旨のことをいったのである。たしかに彼女は、自分よりはるかに優秀な先生から音楽を習うことに慣れているから、そういういい加減な指導に抵抗を感じたのだろう。この場合は教授法のシミュレーション(模擬訓練)であったが、ぼくは、たとえ本番の教授活動においても、教授者が学習者より知識・技能が劣るということがあってもよいと思っている。指導者側に無知と非力の自覚さえあれば、双方向教育などによって、むしろ結果的にはより効果的に学習者側の主体的な学習を支援することにつながるかもしれないのだ。
 つぎに「先生」という用語についてである。前から言っているとおり、ぼくは学習や主体性獲得の援助者としての教師の役割を果たさなければならないとは思っているが、その役割は、必ずしもぼく自身が尊敬語で呼ばれる先生としての高い人格をもっていなくても遂行できると思っている。居直りといわれても仕方ないが、だいたい、自分が尊敬されるべき人物としての先生であると思い込んでいる人の存在を想像してみるだけで、ぼくはおぞましくさえ感じる。自分自身がそんな人間になるなんて、絶対にいやだ。だから、このペーパーで「先生」と書かれると、それだけで違和感や、「ちょっと違うよ」という感じや、迷惑なプレッシャーを感じてしまうのだ。もし、このぼくの文章を読んで「先生のくせに」と感じている人がいるのなら、それは「〜のくせに」と他者を批判する行き過ぎたCP(批判的な親心)の表れだと思う。「教師の役割として」と言い替えてぼくを批判し直すことが必要である。そうすれば、ずいぶん感じが変わると思う。つまり、あくまでも自分の学習を援助すべき立場にある者としての教師を批判するということである。また、これは、「自分のために生きる」や「さわやかな自己主張」などのレトリックと関連している。
 ただし、教師として、いますでに立派な人格であるとうぬぼれることは論外として(先生病)、つねに自らの人格形成をめざしていくという姿勢は、学習援助の専門的役割遂行のための基本的条件として必要不可欠なのであろう。「ともに育つ」ということをつきつめて考えると、この問題にぶつからざるをえない。この点については、わたくしごとながら、CPが低すぎるぼくにはそれなりの問題があるのだと思う。「まあ、いいか」と自分を許してしまうからである。これに対して、他人にも厳しいかわりに、「自分は先生と呼ばれるのにふさわしい人格をもっていなければならない」と自分をも厳しくコントロールしようとするCPの強い教師は、当面は本人もつらいかもしれないけれど、その自己批判を生産的な方向に向かわせることができれば、ぼくには望みえないありえない「個の深み」をもつことができるのだと思う。このようにCPについてまで、肯定的にとらえるとするならば、『かくろん』で展開した個の深みの考え方は、交流分析などによる個人的な問題解決の志向よりも、メタ・レベル(一段階高い次元)の理念だといってもよいのではないかと恐れ多くも思っている。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
レクリエーション 戦後、占領軍は日本の民主化のためにグループワーク理論を持ち込んだ。そこではレクリエーションが、ディスカッションなどとともに重視された(ションション社会教育)。その後、レクリエーション指導の三種の神器としてゲーム、ソング、ダンスが定着した。社会教育指導者にもその能力は必要不可欠だと考えられてきた。しかし、現在、生涯学習時代への移行をめざし、レクリエーションも質的な転換を迎えつつある。それは、ワークショップ(参加者主体の参加・体験型の学習)などの現代社会の人間の回復のためのプログラム提供の役割の発揮である。上下同質競争の価値観にもとづく教祖的なレクリエーション指導は今や必要ない。
社会教育指導者 民間指導者としては団体指導者、施設指導者、講師、各種委員(社会教育委員、各種運営審議会委員等)、行政職員としては社会教育主事、社会教育施設職員、非常勤指導員など。また、一般行政職員や民間企業、ボランティアなども広くとらえておく必要がある。そのいずれの人であっても、アダルト・ティーチングに求められる態度を自己確立していく必要がある。加えて、水平異質共生の生涯学習社会創造の阻害要因になるような非主体的な学習や権威主義的な態度を学習者に促す結果に陥るとするならば、その指導はむしろマイナスであるといいたい。実際にそんな「指導者」も多いのだ。指導者は学習と教育の間に横たわる深くて昏い河をいつも意識しておくことが大切だろう。
対話(ダイアローグ) ソクラテスは対話によって相手がみずから真理(子)を生み出すように手助け(助産)をした。これは助産術といわれ、教育の原点でもある。そこでは、発問しても結論に至らないときがあるが、それよりも考える過程を重視する。

3 「ヒハンのペーパー」の存在価値

 学習は自分の枠組自体の変容を伴う。mito的授業ではとくに態度変容のきっかけを提供することを重視している。しかし、そこでは、「今までの自分が崩されてしまう」ことへの抵抗も生ずる。指導者はこのもっともな抵抗にどう対応すべきか。その個人への個別な対応は、他の受講者にはどんな意味があるか。

 あるとき、つぎのような大変厳しい出席ペーパーが提出された。

 今日の授業はこじつけでした。御自身でもそうおっしゃっていたようですが。夫婦や性のVTRが、どう大人の指導につながるのでしょう。まず、(mito注・今回の教育目標の)(3)大人に「幸福を配る」とは何ですか。自分の勝手な思いあがりを見つけるんじゃなかったんですか。先生の授業は社会教育のために私たちに自己発見させようとするものだと解釈していましたが、最近わかりません。今日の夫婦のVTRの「相手」と「自分」を大人という共通点で学習者にあてはめるんでしょうか。大人に「幸福を配る」自分とは、その人たちにとって子どもととらえられてしまう自分なのですか。どこに社会教育としての自分の存在を位置するかわからなくなります。それくらい考えるべきですか。いや、先生がヘタです。学生にわかりやすい材料を使っているつもりかもしれないけど、ただ先生が使いたかっただけ。性のビデオとか、先生は何を使ってもいい権利をもっているわけですから。使ってみてから批判されるまで。少なくとも、社会教育としてのVTRとのとっかかりくらい説明してみなさい。VTRの内容だけやりたいのではと言われたくないのなら。それは個人によって得るものが別、などと逃げるな。
 少なくとも私は、社会教育の知識をこの授業で得ることを要求している。方法の自由が、先生には与えられているのですよ。私だって、先生の授業において、余談のような、人生について考えられる話は面白く聞いている。しかし、それは「得した」という程度のものだ。もしかして、VTRと社会教育とは、ひと〜〜つも関りがなかったのかしら。もしそうなら、「社会教育」の名目で人生を考えさせるのはやめなさい。夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、先生はこれらのことを考えつくしているのですか。先生は、大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場なのですよ。もっと立場を問え。このような意味で、私は、先生が人を崩していくやり方にはあまり賛成できない。なかには、ヒハンができなくて崩れていってしまうものもいる。そうなれば落ちる人もいる。先生に信頼度が高くなる人もいる。もろさをつくということは、そういう人も生むんですよ。先生に指摘されて初めて崩れる人は、先生にそーだんに行ったりするでしょう。そこからどうなるのでしょう。それをめざしてやっているんですか? このようなヒハンのペーパーをめざしているのですか? イヤですね。
 ヒハンする前に、先生の答を正答としてしまう人もいる。先生は問題を提起した以上、答える義務はあるのでしょうが、それを選ぶかどうかは、その人次第ですものね。私は先生にも変わってほしい。その押しつけがましさから抜け出したいと感じてしまうときもある。影響を与える人ならば、影響を与えられる人になれ。そのためのペーパーだとも思い、感心もしますが(いや、自分のやりたいこと[意図すること]のためということもあるでしょう)、そのすべてに答えようとする姿勢は、悩んでしまう人と共通するものがあるのでしょうか。先生は悩みそうもない。それで、悩む人にはカリスマならぬ変なカリスマ(妥当な言葉が見つからない)になるおそれだってあると思うよ。気になる所だけふれられ、ふれたくない所はふれない人になれば楽でしょうが、そんな人間は人生の発達・成長において困るし……。
 まとまらないけれど、わかりますか、伝えたいこと。また書きます。
 授業で読み上げてもいいけど、勝手に実物投影機で人の字を出さないでください(「人の字=名前と同じ」という注釈あり)。○月○日によく考えて読んでください。
 先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにもかかわらず続ける根拠は?

 このペーパーは、毒にも薬にもならない社交的な仮面の会話を捨てて、mito的授業の本質を否定的側面からずばりと突いたものだと思う。それだけに、ぼくはかなり動揺してしまった。このペーパーの出たその日のすぐあとの授業で、ほかの学生からさっそく「早く内部葛藤を解決して、いつもの自信にあふれた授業に戻ってください」と注文を受けたり、あるいは、数日後のS大の授業で話題にしたときも、「今日、出席ペーパーのことを話してるmitoちゃん、すごいこわいとか思っちゃった。それじゃあ、受けて立ってるんじゃなくて、ただその女の人に文句を言ってるだけだよ。それじゃあ、mitoちゃんのこと、よくわかんないと思うよ」と書かれたりしてしまった。かなり冷静を装おうと努力はしたのだが、ぼくの内部の自信喪失がマイナスに反映してはいけない授業という公的な場面で、実際にはかなり反映してしまったのだ。そのことで、そのときの授業を受けた学生にも不快な感情を与えてしまったと思う。しかし、それより、「教師は劣等感を刺激される職業である」と聞いたことがあるが、「ああ、このことなのかもしれない」という気づきがぼく自身には大きかった。こういう場面では、教師は、学生と対等な立場なのではなく、学生の踏み台として利用されるべき立場なのである。「他人が入り込むべきじゃない所までペーパー書いた人が入り込んじゃっているから、途中から読むのがいやになってしまった」というS大学生のペーパーもあったとおり、たしかに、ふつうの対等な人間関係であったら「あなたとは出会わなかったことにしよう」とぼくはこの人にいってもよいのだろう。そして、自己抑制がきかずにこのようにしてすぐ葛藤してしまうぼくが、「暴力とセックス以外の申し入れはすべて受けて立つ」と宣言していること自体、身の程知らずの無謀な話なのかもしれない。
 しかし、この学生は「また書きます」といってくれている。これは、ぼくにとっては、細いけれども一本の糸がまだつながっているのだという救いを感じさせてくれる一文であった。知的水平空間における批判は相手への基本的信頼にもとづく肯定的ストロークの一種(批評的ストローク<mito)だとぼくは前からいっているが、それはぼくの強がりにしかすぎないのかなとも思うときもあったが、やはり知的水平空間における他者批判は、相手の存在の否定とは異なる大きな可能性をもっていると思った。また、批判の刃(やいば)はそれが研ぎ澄まされれば、自然に自己にも向いていくものなのである。ペーパーによるこれらの批判をきちんと受けとめることによって(当然、それは批判に無原則的に同調することではない)、「本人の主体性の獲得を他者が援助できるのか」という教育の本質的難問(アポリア)に挑んでいくのもなかなか意義深いことではないかとも思う。
 ある男子学生が、この批判のペーパーやその他のmito的授業への共感や批判のペーパーとぼくのコメントを読んで、「教師との信頼関係も、それが濃密であれば、外への発展の度合も少なかろうと思われる。カリスマ性ということばに拘泥しているどころではない」とし、出席ペーパーシステムに対しても、「出席ペーパーは感想であってもよいことになっている。だが、感想とは、まとまりある考えや思いを記すことであって、むやみやたらと伝達のために感情を吐き出すためのものではないと考える。感情の吐露に低迷するのは、ストローク(人は信頼しうるものだとする試み)においては有効であろうが、自らが求め学んでいく学生の時期に休息を得てしまって、本当に先々個人という主義を担って生きていかれるのかと危惧の念を抱く」と書いてきた。授業への共感を書くことも、批判を書くことも、ともに感情を表現することにつながっており、それは依存を助長し、主体的な学習をむしろ阻害してしまうのではないか、ということであろう。教育のアポリアとはこのことである。しかし、ぼくは、こう考える。たとえばこの批判のペーパーを書いた彼女は、これを書いたことによって今までの彼女の主体性を減ずることになっただろうか。そんなことはないだろう。ゼロかプラスかのどちらかであろう。また、批判のペーパーのやりとりを見守っているほかの学生の学習にとっては、漁夫の利もあるだろう。それなら教師は教育のアポリアにチャレンジしてもよいのではないか。
 それでは、彼女の批判にひとつずつ対応していきたい。
 ぼくが自分で「こじつけ」といったのは、むしろ「社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識」についてである。ぼくにとっての本命はあくまでもVTR「教えます、心を伝える会話術」である。上映時間は15分だ。夫に自分の心を伝えられなかった妻や、妻を「おのれの妻」としか認知していなかった夫が、地域活動や社会教育(父親学級)での対等な人間関係のなかで業務連絡ではない感情の通った夫婦の会話ができるようになったという映像から、学生に、相手が人間として生きていることを基本的に信頼し、対等な立場から尊重し、相手への関心を表現するためのストロークの発信の仕方を学んでほしかったのである。これは他者の幸福追求の援助者としては必須の条件だと思っている。しかし、そういうふうには学ばないという学生がいてもかまわない。「得したという程度のもの」でも、それを意味あるものと受けとめる学生がいたっていいだろう。
 この批判のペーパーを読んで、4年越しにぼくの授業にもぐりで出席しているある女子学生がつぎのように書いてきた。「mitoちゃんの持ってくるVTRは必ずしもわかりやすいものではないと思う。むしろむずかしいのではないかと思うこともある。(中略)VTRのなかの主体性をなくしてしまっている(そうでない場合もあるけれど)人の状況を見ながら、どんなことが契機になって主体性をとりもどすことができるのかということを考えることも意義があると思っている。VTRのなかの人びとが自分とはまったく考え方が違うとしたら、私はこの人たちの考え方のどの部分は共感ができて、どの部分に反発を感じるのかと考えることによって、いまの自分自身がどんな価値観をもっているのかを知る機会にもなると思う。他人の主体性獲得を援助するためには、援助する側の主体性も大切なのはもちろんのことだと思うし、いろんな人のいろんな事情やちょっとした弱さをそっとわかってあげる(変な言い方)やさしさ(?)も大切ではないかと思う」。
 これに対して、ミニ知識のほうは、このときは「ペダゴジーとアンドラゴジーとの違い」についてであり、これは、ぼくでなくても、他の研究者も注目しているところである。むしろ、これを深く研究している研究者の書いた本を読んだほうがよいだろう。ミニ知識は、学生が教科書を出発点とするなどして書き言葉メディアから学べばよいことであり、ぼくがしゃべらなくてもよいことかもしれない。ただ、彼女に限らず、「社会教育の知識を学びたい」という学生も多いので、折り合いをつける形で、さらっと、ただしぼくの評論をまじえて説明しただけなのである。だから、時間がない場合は、ミニ知識の解説を省略して項目の紹介だけにとどめることさえぼくの授業では多い。
 「大人に幸福を配る」ためには、「自分の勝手な思いあがりを見つけること」(ぼくの言葉でいうと「援助者側の無知と非力の自覚」)が最低必要条件になる。「大人に幸福を配るとき」も「子どもに幸福を配るとき」も、同様に援助者が「上位の大人でありたい」、「上位の大人でなければならない」という思いあがりを捨てることが必要になると思う。それが、社会教育(の援助者)の存在位置である。なお、このペーパーを読んで、ひとつ、ぼくの説明もれに気づいた。配るという言葉は、役所や社会教育施設に座り込んでしまって学習者を待っている社会教育職員の受動的な姿勢にたいするぼくなりの批判を表している。待つのではなく出前せよということだ。このあたりは、今までずっと説明を忘れていたぼくのミスである。ぼくがそれに気づいたのは、この批判のペーパーのおかげであり、また、他の学生にとっては漁夫の利といったところであろう。
 性のビデオなど、ぼくは何を使ってもいい権利(教育権)をもっているわけだが、それを行使するにあたって、ぼく自身が教師としての自分に与えられた役割と自分なりの教育意図を確認するとともに、「批判されるまでは、使ってみる」という姿勢も学生に示している。また、学生から批判されても、ぼく自身がそのVTRを使う自分の教育意図を肯定できるのなら、使い続けることだってあるだろう。しかし、教師が「学生からの批判を受けて立つ」以上に学生(不快を感じている数%の学生)に配慮をするとしたら、いったい何を配慮しろというのか。「社会教育としてのVTRとのとっかかり」を説明することの要求はわからなくはないが、彼女はそれに「少なくとも」という言葉をつけているのである。また、「社会教育にどう関りがあるか」ということについても、ぼくが説明したほうがよい範疇もあるし、学生が自分で考えたほうがよい範疇もある。そして、「個人によって得るものが別」というのは、ぼくが逃げのために使う言葉でもあるかもしれないが、学びの真実を表した言葉でもある。援助者側の価値観とは違う多様な受けとめ方が学習者側に存在してよいではないか。ぼくは「VTRの内容だけやりたいのでは」といわれたっていいのである。なぜなら、そういいたい人は、「出席ペーパー」や「ちょっと待った」や「パフォーマンスタイム」で批判を行う自由をぼくは保障しているからである。今回だって、そういわれたから、このVTRを選択した教育意図を(再度)説明したのだ。学生からの批判や質問にきちんと答えていく双方向性の確保さえ行えれば、教師はそんなに完璧な計画を立てたり説明をしたりしなくても、あるいは完璧であったかどうかを非生産的にくよくよ悩まなくても、高等教育や社会教育ではそれなりに役割が果たせるのだと思う。知的水平空間は、援助者と学習者の協働によってつくりだされるものなのである。
 教育学には人文系としての側面があると思う。社会教育の名目で人生を考えさせるのはやめなさい、というが、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである。もちろん、ぼくは「夫婦や性の問題を簡単に提供できるほど、これらのことを考えつくしている」わけではない。しかし、「自分は考えつくした」と自負する人からの教授を期待しても、それは不可能である。なぜなら、真実に迫ろうとしている人ほど、自分の無知に気づくことになるからである。だとすれば、人生を考えるためには、mito的授業という知的水平空間などを利用しながらも、本質的には学習者が自己管理型で「自己教育」するしかないのだ。
 ぼくだけが、「大勢の聴くだけの受講者に対して、唯一問題を提供できる立場」ではない。げんに彼女もこのように出席ペーパーで問題を提起しているし、そのほか、パフォーマンスタイムを使って(その使用時間についてはぼくと相談のうえだが)、学生は自分なりの個人的問題を提起することだってできるのだ。ぼくの問題選択に不満な人がいるのなら、その人は、ぼくの「立場」に期待するのではなく、自分に与えられた批判の自由をこそ使いこなしてほしい。
 mito的授業について「人を崩していくやり方」と書かれているが、崩れるのを恐れなければいけないほどの素晴らしい枠組をすでに備えてしまっている人などいるのだろうか。もちろん、それは、学習者の今の枠組を否定しようというのではない。ぼくは、教育の役割は概念崩しであるとする論には疑問も表明している。どちらかというと、ぼくの表現は、学習者本人の枠組の変容への援助である。
 ぼくの授業がつらいという人はたしかにいる。それは知っている。ぼくはそういう人には「無理しないで元気になったらおいでよ」といっている。それ以上のことをいおうとしたら、相手の人生をぼくが背負込んでしまおうとすることと同じになってしまう。学習者が、自分ではなく、ほかの学習者のなかから、「ヒハンができなくて崩れていってしまう人」や「落ちる人」や「教師に信頼度が高くなる人」や「そーだんにきたりする人」や「教師の答を正答としてしまう人」が生まれることを推測して心配することも、同様の「背負込み」の行為だと考える。その人たちにとっては余計なお世話なのではないか。たとえばだれかに相談するという行為は、その人にとっては問題解決に向かう主体的な姿である場合だって多い。「自分のために学ぶ」のであるから、一般化して論じようとせずに、自分の主体的な学習にとってぼくの授業がどう無益であるかを訴えたほうがいいと思う。
 「先生にも変わってほしい」とあるが、ぼくがどう変わるかは、ぼくが決めることだ。そして、学習者がどう変わるかは、学習者が決めることだ。変化の願望は自分にしか向けられない。たしかにぼくは、「影響を与える人」としての教師の立場にいるとは思う。しかし、情報化社会において情報に対する主体的能力(情報リテラシー)が求められるように、マスプロの大衆化した高等教育を受けている学生だからこそ、主体的な授業の受け方が求められているのである。
 出席ペーパーには、比べられるために書くという被抑圧体験から、書きたいことを書くという解放体験への転換という態度変容の教育意図が明確に存在している。しかし、彼女の「自分のやりたいこと、意図することのため」というぼくへの分析には、そのことへの不快感が表明されているのであろう。現代学生には、学生に対する教師の教育意図が存在すること自体に抵抗感があるようだ。そういう抵抗感も大切だろうが、それを教育意図の内容に対する抵抗感に止揚することが必要なのだ。また、大学教員には研究という役割もあり、ペーパーを研究成果に結びつけるというほかの意図もぼくにはある。しかし、そうだとしても、学生がそれに目くじらをたてることもないだろう。
 彼女がほかの一部の学生を「悩んでしまう人」とレッテルを貼っていることに対しては異議を申し立てておきたい。彼女は他者にそういうレッテルを貼ることによって、「悩んでしまう人」と共感的な出会いをもつことから逃避しようとしているのではないか。レッテルを貼ることによって安心してその後の主体的思考を停止してしまうことをラベリングという。また、「先生は悩みそうもない」という言葉に対しては、「ぼくはそのことについては今は話したくない」という応じ方がぼくにできる最善の対応であると考えるが、どうか。
 カリスマ性については、ぼくは、「授業で退屈させる教師」のつぎに悪い教師像として、「学習者の依存的学習を増大させる教師」という規定をしてきただけに、かなり自信を失い、考え込んでしまった。そこで、自信の回復方法として、信頼している人たちに聞いてまわるという手段があるのだが、それを実行した。フリースペースで学生にこのことを聞いてみたのだ。すると、意外にも「カリスマ性がたしかにある」というのである。「でも、尊敬を感じてしまうのだから、いい意味でのカリスマじゃないですか」という。ちょっと面映かったが、それどころの話ではない。理論的には、教育のアポリアのうちの否定的側面の証明になってしまうではないか。尊敬されているから嬉しいと教師には感じられても、学習者にとっては主体性の獲得の阻害要因になってしまう。しかし、もう一人の学生がこういってくれた。「mitoちゃんにはたしかにカリスマ性を感じるけど、依存させてくれないカリスマだと思うよ」。これを聞いて、「ああ、それなら大丈夫だ」とぼくは安心し、自信を回復することができた。
 たとえば、今まででもぼくは、学生が「そーだんにきたり」しても、「ぼくはカウンセラーとしての専門性をもっているわけではないんだから、カウンセリングはできないよ」と自制を表明している。そして、「社交的な会話ではない真実の話を聴けることは、ぼくにとっても興味深いから聴いている」という姿勢を示しているし、学生とは異なるぼくの枠組を伝えたいとぼく自身が思ったときは、遠慮なくエンカウンターしている(ゆさぶり発問、p20)。そういうとき、ぼくはとても充実している。ぼくにとって、これは、水平な出会いの至福が感じられるかなり大きな楽しみなのである。だいたいは、「ああ、この人もこの人なりの理由と事情をもって生きているんだなあ」という実感をしみじみと味わう結果になる。だから、カリスマというよりも相互依存に近いのかもしれない。一回限りの人生のなかで、人と人とが立場や肩書を越えて「同じ人間」という感覚を確かめながら、本当の気持ちが出会うことなど、何回あるのだろうか。また、ぼくは、ほかの学生をシャットアウトして個人の相談にのるということは原則的にはしていない。フリースペースなどで相談を受け、そこにいる人たちで話に加わりたい人がいれば自由に加わるという社会教育的、たまり場的な方式なのである。そして、ぼくが専門性をいかして行っている相談者に役立つための社会教育的な情報提供としては、フリースペースや青年学級などのサンマの意義と所在の紹介が多い。
 教師は、このようにして、カリスマにならないままで学習者からの信頼を獲得するということができるのではないか。その信頼の特徴は、カリスマとは違って「唯一の絶対的な信頼」にはなりえないところにある。だとすれば、教育のアポリアは解決のための生産的な方向に一歩近づいたと解釈できるのである。
 実物投影機で人の字を出すのは、ほかの学生の学習の便宜のためである。「人の字=名前と同じ」というのは、ここでそんなに一般化して断じるほどのことでもないだろう。彼女が「私は自分の名前がほかの学生に知られてしまう危険を感じるので映さないでください」と書いておけばいいだけの話なのである。いや、投影拒否の理由さえも書かなくてよい。「禁投影」というマークを堂々とつけておけばよいだけの話だ。逆に「自分に著作権があるのだから氏名を公表せよ」(著作権の一部としての氏名表示権)と要請する人がいてもよいだろう。「非公開」でもかまわない。自分の著作物に限っては、すべて自分の管理下に置いていいのである。なお、投稿などの場合には、「自分の文章の改竄はするな」とはいえるが、「自分の文章を必ず公開(採用)せよ」とはいえない。しかし、mito的授業においては、「公開せよ」と書いてよい。さらに、それに、「禁コメント」とつけ加えてもよい。これらは知的水平空間を実現するためという特殊な事情によって、現行の著作権よりも強い権利を学習者に認めたものである。
 もっと先の突出的空間として見え隠れしている水平異質共生の世界もある。それは、「私はこれだったら得意だから、みんなに教えてあげるよ」という生涯学習ボランティア、「こういうことを考えたからアップロードしておきます。よかったらぜひこれをほかにもどんどん紹介してください。著作料(財産権)はいりません。でも出所は私であることは明らかにしてくださいね(氏名表示権)」という情報・通信ボランティア、そういう人たちが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界である。アマチュアによる知的生産や情報発信にはそういう強みがある。ぼくは、これを、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼んでいる。現段階としては、全般的にはいまだプライバシーと著作権の保護を叫ばなければならない状況だが、さらには、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが、突出的水平空間においては生まれつつあるのだ。
 「先生はこんなヒハンなれてるでしょう。それにもかかわらず続ける根拠は」というのは、「こんな批判は数多く受けているはずなのに、そういう批判を聞いているのにもかかわらず続ける根拠は」という意味だと思う。ぼくは、いまの教育に欠けていることは、学習者に管理や保護を与えることではなく、自由を与えてそれに恐怖する機会を提供することだと考えている。そのことから(批判の)自由を行使する主体性が学習者自身のなかに育つだろう。まずは、学習者(=自己)が批判したからといって教育側(=他者)がそれにあわせて変わってくれるとは限らないという現実を知ったほうがよい。批判の自由が保障されて、保護され管理されてきた自分にはその自由がなかなかやっかいなものだという現実をまのあたりにして戸惑い、そこから気を取り直して、その自由を使って他者に通じるように自己の思考を表現できるようになることこそ、今後のネットワーク型社会が現代人に求めている主体性なのだとぼくは思う。これは「枝葉としての幸福追求」や「潔い撤退」に通ずる課題である(p70)。
 こういうペーパーに葛藤しながらも、なんとか対応しようと夢中になっている自分にふと気づくとき、ぼくはぼくの自我が紆余曲折しながらも拡大しつつあるのを実感することができる(自分の枠組は変わらないまま異質な他者の存在という事実だけを詰め込む自己肥大かもしれないが)。批判的ペーパーとの出会いは、ぼくにとって意味ある他者との意味ある出会いの重要なひとつなのである。そういうことから、最大の「漁夫の利」を得たのはぼく自身だといえる。つまり、指導者が学習者の主体的学習の援助を志向するならば、その援助は、結果としても指導者自身の「自分のため」であったということになるのである。職業的学習指導者の活動は自己決定活動そのものとは異なるが、そうではあっても、内的動機としては「奴隷の覚悟」とは異質な側面があるのは、この予感があるからであるといえよう。

第5章 癒しのサンマのつくり方

1 チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?
 −未来型生涯学習支援サービスをめざして−

 地域に根ざす教育、地域の教育力、生涯学習の町づくり、そしてコミュニティ意識の高揚など、生涯学習でも地域を重視することが多い。しかし、地域は上下同質競争社会の延長という側面ももっている。私たちは、新しいもう一つの未来型支援サービスの視点から、地域主義の意義と展望を見出す必要がある。

図表10 現代的課題の学習(1992.7 生涯学習審議会、図式化はmitoによる)

◆学校・職場・家庭・社会からの地域教育力への空念仏をやめてみたら?
 悲観的な言い方をすれば、たしかに、現代は、学校も職場も家庭も社会も、そして、地域も病んでいるといえる。「地球規模の歪み」ともいえよう。このような社会の急激な変化のなかでの社会性、公共性、現代性、緊急性に満ちた学習課題を、文部省生涯学習審議会「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)」(平成4年7月)は現代的課題と呼んで、それを学習課題として積極的に取り上げるよう提言している。また、ぼくは、『かくろん』において、「公的課題の優先(プライオリティ)」を主張している。
 地域教育力の弱体化も、いうまでもなく現代的課題のひとつである。しかし、病んでいる学校、職場、家庭、社会が、みずからが病んだまま、地域にだけは救世主のような教育力を期待するのはどうみても滑稽だ。受験地獄といじめに窒息する学校があり、家族を省みさせない過労死の職場があり、不和と暴力の家庭があり、不信と争いに支配された社会がある。地域教育力の弱体化も、その現代社会の不幸の反映であるにすぎない。そのみずからの不幸には口を拭っておいて、青少年だけは地域のなかで幸せにさせてやろうとするのは、気持ちはわからないでもないが、そもそも虫が良すぎる話なのだ(逆に、現代社会にも当然ながら幸福の部分もあろうが、ここではふれない)。
 大人たちが「自分はともかく、せめて青少年には幸せを」といって、批判の刃(やいば)を自分たち大人に向けないまま地域教育力に期待を寄せるとき、そこで想定される地域は「善」ばかりの、現実感に欠ける空想の産物でしかありえない。このようにして、地域教育力の回復という言葉は、空しいスローガンになり、空念仏と化すのである。うそくさい空念仏をいったんやめにしてみないか。
 それでは、そのとき、ぼくたちは地域をどうとらえればよいのか。ぼくは地域を「善と悪」や「毒と薬」の混じりあうアンビバレンツ(両面価値)の場としてとらえる。これが地域の現実であり、そこには同時代の現代人の生きざま、真実の姿が渦巻いている。だからこそ地域はおもしろい。地域には、現代社会のヒエラルキーによる秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。そういうなまの出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。
 他者がきれいに整理した事実を、自己の思考の枠組のままにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。なまの出会いによって、真実にふれた思いがして、自己の枠組自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達しえないが、それをどこまでも知ろうとする。これが生涯学習の本当の姿であろう。つまり、事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を、ということである。
 この「(真実を)どこまでも知りたい」という自然な人間の欲望が触発され、充足され、際限なく広がる場のひとつが、地域なのである。もちろん、学校、職場、家庭、社会のそれぞれにおいても、このようなワンダーランドとしての側面を強めていきたい。善だけ、薬だけの空念仏や、事実だけの一方的注入はもう飽き飽きした。それよりも、空念仏の虚偽や上っ面を拒絶して、果てしない真実追究に向かう一貫した姿勢のもとに、地域教育力は解釈されるべきなのである。
◆ 若者の巣立ちの場としての地域を地域自身が受容できるか
 ぼくは、東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)に年間をとおして講師として関わっている。狛プーでは、プータローの自由な精神をめざして、「一年に一回来てもメンバーだ」というネットワーク型運営が行われている。狛プーはぼくにとっても一週間に一回は必ず回って来る癒しのサンマである。
 そこには、東京、神奈川はもちろん、埼玉や千葉からも若者がやってくる。かれらは若き旅人である。よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる。余談だが、主催者側は、そういう旅人を、夢にも、門前払いするようなもったいないまねをしてはならない。その旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江って、いいところだよ」とまんざらではなさそうだ。実際、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。
 地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元するための活動を」という地域から若者への押しつけである。相手の若者だって憲法で居住、移転及び職業選択の自由(22条)が保障されている国民の一員なのに、視野の狭い地域主義に凝り固まった大人の都合で若者の巣立ちを引き止めようとする。過保護・過干渉の教育ママみたいだ。これを御都合主義と呼ぶ。御都合主義の発言も、空念仏と同様、うそくさくて、第三者だったら聞いてらいれないはずだ。
 狛プーの活動も四年目に入り、キーパーソン(鍵になる人物)であった何人かが狛江から巣立っていった。T子は、ワーキングホリデーでニュージーランドの牧場に働きにいってしまった。保健婦のM子は、昇進試験に合格し、希望どおり、かねてからあこがれていた小笠原に異動になった。残ったぼくらは淋しさを感じないわけではないが、会いたくなった人は会いにいけばよい。実際、会いにいったメンバーもいるが、それでいい。少なくとも、彼女たちが「狛江を見限った」ことを責める若者はいない。「責めない」なんて当たり前のことのようだが、居住している地域で永続的に活動することを必然としてしまうような御都合主義は、えてしてその逆の非常識なことをやってしまう。
 若者にとって地域は巣立ちの場である。自分で空を飛べるようになるまで、いっとき、その地域という巣で、若い羽を育てたり癒したりする。そういう若者が巣から飛び立つとき、大人の人は定住型が多いので、空しさや淋しさを感じるのかもしれない。しかし、巣(地域)の維持のために鳥(若者)があるのではなく、鳥の自己成長のために巣があると考えたいものだ。巣にずっととどまって癒され成長するも良いが、巣から飛び立っていくのも良し、なのである。地域自身が、若者の巣立ちの場としての自己の存在をあるがままに良しとして受け入れることができる(地域の自己受容)ということが重要である。これこそ、ほんとうの地域のプライドの持ち方といえよう。
◆ 新型キーパーソンの登場と未来型生涯学習支援サービス
 さきほど紹介した保健婦のM子は、仕事でアルコール依存症の人の家庭などを訪問した日の夜は、しばらく寝つかれないときがあると、ぼくにいっていた。だから、狛プーでは、そういうことを忘れてのびのびと過ごしたいともいっていた。彼女は、ほかのところ(職業)でも、自他の人間存在の真実の悲しみと重さに向き合って生きているのである。だから、それからいっとき逃れて、安心できる仲間のなかで癒されようとすることもある。彼女は一度しかない人生をあるがままに、自然体で、そして大切にていねいに生きようとしているのだ。
 彼女は、今までの青年活動のリーダー像とはかなり異なる。「みんなのため」「団体のため」というお題目が彼女の内側にはまったくないといってよい。そして、マス(人のかたまり)よりも一人ひとりの個との出会いを大切にする。また、その個に対しても、「活発に活動しているかどうか」より、個そのもの(ぼくの言葉では「個の深み」)に関心をもつ。実際に提案することは軽やかで、花火大会見物など、自己の嗜好にもとづいている。仕事の忙しさもあってか、狛プーへの出席率も皆勤というほどではない。しかし、そういう彼女が狛プーのキーパーソンのひとりであり、ほかのメンバーも、自然で自発的な支持を彼女に寄せていたのである。ぼくは、これを、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という従来型のグループ運営やリーダーシップとの対比から、「あなたはあなた、私は私」(p72)タイプの新型キーパーソンの登場とみている。
 狛プーのメンバーが「狛プーは、あるがままの自分が、両手を広げて歓迎される場だ」と言ったことがある。変容(成長・発達)するためには受容(承認・癒し)が必要不可欠である。若者の「ましなろくでなし」への変容のためには、地域のあらゆるところにそういう無条件肯定ストローク(ストロークとは交流分析の用語で相手の存在に気づいていることを伝える行為、p65)をやりとりできるサンマが必要なのだ。
図表11 求められる3つのちから
 相互否定・上下同質競争の魔のトライアングルから、相互承認・水平異質共生の癒しのネットワークへ
上下競争
自他否定 同一化演技 敗北主義
癒しのサンマ
水平共生
自他受容 共感的理解 自立の連帯

 従来の青年教育には、娯楽性が重視される一方で、歯を食いしばってでも、頑張って成長・発達し、自己を充実させ、組織や地域に貢献するというガンバリズム(勤勉主義)を奨励する傾向も強かった。これは、戦後の後期中等教育の代替えの場としての青年団や青年学級の位置づけの影響があるのだろう。それらの存在価値は軽視できない。しかし、今の時代に、青年教育について、「高校や大学に行けない人のために、それを補完するような教育をめざす」などと主張する人はいないだろう。現に、高等教育ではない生涯学習の場としての青年教育に大学生が参加する時代なのである。地域の青年教育は、青年補習教育という過去の発想とはすみやかに決別しなければならない。
◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
3化け 昭和46年の社会教育審議会答申では、生涯学習を必要とさせる社会構造の急激な変化として、人口構造の変化、家庭生活の変化、都市化、高学歴化、工業化などをあげているが、情報化、国際化、高齢化は、一般的にもとりわけ重要な変化とみなされている。これを俗に3化けという。平成4年7月の生涯学習審議会答申でも、これに科学技術の高度化を加えて、現代的課題の学習の必要性が提起された。ここで注意すべきは「化」という接尾語である。量的変化だけなら「化」とはいわないだろう。質的にはどう化けるのか。生涯学習の観点からいえば、情報化は価値がモノから情報に交代すること、国際化はアイデンティティが異文化受容によってしか確保できなくなること、高齢化は現役から引退したあとも生きがいづくりや自分さがしが求められるようになることなどが大きな転換といえようか。
コミュニティ 地域共同体。地域性と共同性の2つが成立の要件。社会教育はもともとはコミュニティにおいて展開されてきた。地域住民は戦後の公民館で地域の共通課題の解決のための学習を続けてきたのだ。しかし、都市化のなかで過去のコミュニティはほとんど崩壊し、町づくりなどの観点からその回復が叫ばれるようになった。社会教育ではコミュニティ意識の涵養、生涯学習推進においては生涯学習の町づくりを進めることは、今や各自治体の常識である。しかし、昭和61年、『社会教育の終焉』(筑摩書房)を書いて全国の社会教育(行政)を震撼させたのは、コミュニティ論者の憲法学者、松下圭一である。松下は「教え育てる」社会教育のあり方を痛烈に批判し、市民文化活動への転換を主張した。そして、指導系職員のいる公民館を嫌い、住民の自主管理によるコミュニティセンターへの転換を訴えた。これが全国自治体の財政当局による社会教育財政締め付けの理論的武器になり、社会教育関係部署に深刻な影響を与えたのである。しかし、そのお陰で、社会教育は、コミュニティ創造の主体としての市民と、それを学びの側面から支援する主体としての社会教育行政という協働の重要性にあらためて気づくことにもなった。今日、そのときの気づきを財産として大事にする必要がある。万一、社会教育行政が「コミュニティ意識の涵養」という名目のもとに住民を「啓蒙」しようとするならば、社会教育は松下のいうとおり終焉するのが望ましいということになってしまう。しかし、これに反して、とくに都市部などでの社会教育の現状は、少なくとも子育てや環境等の公的課題解決のための「テーマコミュニティ」などの学習の支援に関してはかなり有効に機能していると評価できる。ただし、いわゆる旧住民の本来のコミュニティ活動にはあまりうまく機能していないようだ。生涯学習社会にはなじまないヒエラルキーの側面が本来の地縁的コミュニティにはあるからなのだろう。また、それとは逆に、農村部のなかには、結果的には従来の地縁的コミュニティの上下同質競争の性格の存続・強化のために「貢献」してしまっている社会教育まであるかもしれない。いずれにせよ、今後は、テーマコミュニティなどの新しい生涯学習社会に向けた活力を、旧住民を含めた本来の地縁的コミュニティ形成に無理のないかたちでどう生かし、つなげるかが、コミュニティ形成に資する社会教育の課題になるといえる。
地域の教育力 地域には学校だけでなく、公共施設、民間施設などの施設・設備があり、自然がある。また、ソフト面では、文化があり、人がいる。これらのもつ意図、無意図の教育機能の活用の重要性が叫ばれている。また、子どもにとっては、地域は、自治や異年齢交流を体験できる場である。しかし、そういう期待に反して、地域の現実は青少年の人間形成にとってむしろ危機的状況にあるといわれる。地域が青少年にとってそのような居心地の悪い場だとすれば、それは大人にとっても同じことのはずだ。支持的風土にあふれた生涯学習の町づくりをめざすことこそ、子どもにとっても大人にとっても地域教育力の根底的回復につながるのだろう。
リーダーシップ 制度的権威に依拠するヘッドシップ(ボス、会長など)と異なり、メンバーが自発的に支持を寄せる人格的権威に依拠する。ゆえに、本質的にネットワーク型であり、さまざまなメンバーが流動的かつ多様にリーダーシップを発揮する。

2 出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法

 前項でも述べた狛プーのもっとも大きな特徴はネットワーク型運営である。しかも、その癒しのサンマは、公民館の青年教育事業として、公的なかたちで運営されている。そこでの癒しのサンマづくりの実践的な各論を探りたい。また、人びとの自己決定の癒しのサンマを公(おおやけ)が支援する根拠は何なのか。

◆ ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」
 今日までの学歴社会では、多様な人間存在を、偏差値や学校歴などの画一化した物差しで上下に並べて比べる。それは、個性による逸脱を外からも内からも抑制する同質化の圧力として作用する。そして、この上下同質競争の価値観を前提とする社会システムと、その価値観を蹴飛ばせずに内面化してしまった私たちとが、社会全体としてのヒエラルキー存続に貢献してきた。そこでは、上下関係による支配と服従、多様な異質の価値の排除などがますます強化される。しかも、それは、たとえば企業活動においても大企業病等の停滞を及ぼすなど、政治、経済、社会、文化のすべてにわたってネックになりつつある。
 これから期待される生涯学習社会においては、一人ひとりの異なる個性が認められ歓迎されるはずだ。人間関係においても、ヒエラルキーの上下関係のなかでの地位・肩書きや制度上の権威などよりも、水平関係のなかでの異なる個性(個の深み)との出会いが求められる。しかし、そういう生涯学習社会を気持ちよく生きるためには、私たち自身に、内なるヒエラルキーと闘い、自由な遊び心をみずから取り戻すことによって、無知で非力な自己を受容し、自己とは異なる他者と共生しようとする精神あるいは主体性(認知、行為、評価)が求められる。狛プーがめざすプータロー精神とは、そういうことである。
 初年度の狛プーのチラシの呼びかけ文はつぎのとおりである。

 プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。
 私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。
 狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。

 この呼びかけ文の第2段落は、ぼくとしては、ヒエラルキーの人間疎外について批判的に書いたつもりである。しかし、意外にも、このぼくの思いは、メンバーから共感できないといわれることが多い。メンバーのなかには、仕事や学業だってそれなりに個性を発揮しながら楽しんでいきたいと考えている人が多いし、実際に、ヒエラルキーのなかでの「ゲーム」を自由な遊び心でそれなりにこなしてしまう人も多いのだ。あるいは、仕事や学業については、「自分の人生」そのものとは切り離して考えている人もいるかもしれない。その場合は、本人が自覚しているかどうかはともかく、自分の人生のうちで精神的に大切な部分は「ヒエラルキー以外のところで」と考えているのだろう。後者だとしたら、社会と自己の関係のさらなる客観視という課題が、狛プーの今後のテーマとしてあげられる。
 狛プーの番外編で、自発的で自然発生的な勉強会が運営されていたことがある。通常の狛プーのプログラムとは別に、メンバー同士でじっくりおしゃべりしてみたいというのである。これなどは、現実社会における仕事や学業に対する他者の姿勢や意見に、自然なかたちでふれる機会として期待してよいだろう。
 そこで重要なことは、公民館の職員や講師が直接発問したり、教えたりすることではなく、それぞれの自己と現実社会との関係が受容的・共感的雰囲気のなかで語り合われるということである。勉強会は、公民館の担当専門職員が夜間勤務のときの夜に不定期に行われた。そこでの職員の役割は、非指示的であり、不定形である。これは、学級・講座での司会業や講師代行業などと悪口をいわれるような、現代化しすぎて型にはまってしまった社会教育的支援を、もう一度、本来のなまの人間的な営みに戻すという意味ももっている。
◆ 自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定
 自己の「仕事や学業」についての狛プーの認識の現段階は以上のとおりだが、それよりもメンバーから今日まで強烈な支持を集め続けているのは、「かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために」というフレーズである。この言葉は、コマーシャルなどのふつうの世の中の感覚では当たり前すぎると感じられるかもしれないが、青年活動や青少年教育・青少年行政の世界ではけっこう目新しいことだったようだ。今でも、狛プーの限界としてミーイズム(自己中心主義−利己主義とは異なる)を指摘する青年教育関係者がいる。社会変革の主体形成のための自己教育・相互教育にならないというのだ。
 しかし、ぼくはつぎのようにいいたい。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」と思うことがミーイズムだとしたら、ミーイズムのどこが悪いのか。狛プー=ミーイズムでけっこうである。自分の人生を大切にていねいに生きたいからこそ、学習する、仲間を見つける、社会参加する、社会変革をめざすなどに、多様かつ自発的に発展するのであって、参加した一人ひとりが、そのどこに向かって発展しようとかまわないではないか。リーダーやボランティアでさえ、「自分のためにやっている」といえることがさわやかさの条件なのである。
 あるいは、つぎのように心配する関係者もいるかもしれない。「ミーイズムが昂じて占星術や新・新宗教、偏狭な自己啓発セミナーなどにはまってしまう場合もあるのでは……」。それだって、もし本人の主体的な自己決定の一環として行われるのであれば、援助者側がその結果にまで責任を負おうとするのは、むしろ傲慢である。あとで「自分の人生をていねいに大切に生きる」につながらないと本人が考えるようになったら、そのとき本人が軌道修正を自己決定すればよい。
 何がよくて、何が悪いのかなど、具体的に教えられるものではない。私たちができることは、本人みずからの気づきのチャンスをなるべくふんだんに提供することだけなのだ。これに比べて、従来の多くの青年活動や青少年教育・青少年行政においては、援助者としての潔い諦観(「非力の自覚」または禁欲)が欠けていたのではないか。
◆ アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物
 なんといっても、狛プーのチラシの一番の魅力は、メンバーたちが作る訳のわからないプログラムだ。毎月、いろんなことを、スキゾ的(分裂的)にやってしまう。過去に各地で行われていた青年学級も、今日の一般的な青年教室のようにテーマを絞って目的的に追求するなどということをしないで、高校に行かない青年たちのための総合的な学習カリキュラムを提供していた。狛プーのプログラムは、それに似てはいる。ただし、狛プーでは、メンバー個人個人が、あくまでも自分の関心・興味からバラバラなアイデアを出すのである。
 でも、それはバラバラながらも、ちゃんとほかの青年たちに通用するものである。通用しそうもないものも出るには出るが、担当職員やぼくが「えっ、それはどうかな」と言うまでもなく、発案者自身が「あっ、これはだめだな」と言って引っ込めたり、ほかの青年から「〜だから、うまくいかないんじゃない?」と言われて、発案者も「やっぱり、そう? 私もそういうふうにも思ったのよね」とか言って引っ込めてしまうことが多いのである。
 むしろ、つね日頃は自らの常識的な枠組を打ち破りたいと思っているのになかなか打ち破れないぼくなどにとっては、「なに、それ?」と思われるようなものの中に、話をよく聞いてみると、「いやあ、やっぱり面白そうだな」と心変わりしてしまうものが多かった。そういうアイデアは、とくに光っていた。「紙芝居」のアイデアが出たときは、ぼくは最初は、「そんなもの、今の青年がやりたがるものか」と内心では思っていた。しかし、あっという間に、「自転車に『狛プー紙芝居軍団』というのぼりを立てて、市民祭で練り歩こう」という所まで話は発展していて、そのときにはぼくも、すでに積極的な支持派に回っていた(ぼく以外に紙芝居反対派はいなかった)。あとになって、この「紙芝居」は、青年たちにとっての、そしてぼくにとっての、素晴らしい自己変容のチャンスのひとつになったのである。
 そのことから、ぼくは、「グループによる発想法などが企業などで研究されているけれども、そんなテクニックなんかあまり使わなくても、一人ひとりの心が解放されていて、メンバー間に受容的な雰囲気さえあれば、若者たちはいくらでもアイデアを出せるものなのだ」と思うようになった。それぞれのアイデアは素晴らしい宝石である。しかも、そのひとつひとつが色も種類も異なる宝石だ。
◆ プータローの自由のつらさ
 話を戻そう。ぼくは、呼びかけ文を書いたとき、つぎのように考えていた。「現代青年がいまもっとも求めているものは、自分たち一人ひとりがそれぞれの個性と役割を発揮できる場と、そういう場を創り出すあたたかい仲間関係なのではないか。それは支持的風土の集団ということもできるし、サンマということもできる。狛プーでなぜネットワークをつくるかといえば、本当の理由はこれではないか」。
 だが、そういうネットワークの場は、本人にとって最初はかえってつらいものになるときがある。自分の責任でその自由を行使しなければいけないからである。今まで、保護されたり、管理されたりしたことはあっても、自由になったときの恐ろしさは味わったことがないのだ。自由のつらさはプータローの宿命である。だが、このようにして苦しみながらも自由を行使したことがないと、結局は、「保護が足りない」「管理が悪い」などと言って、いつまでも社会や他人のせいにして被害者を演じて生きていく人生の構えが身についてしまう。狛プーは、一人ひとりの個性をできるかぎり尊重することによって、青年が自由の楽しさとともにその怖さを体験し、自己の非主体的な思い込みから自らを解放できるようにするためのサンマなのである。
◆ 撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」
 「いったん集団に入って役割を果たすことになった以上、そこから抜けることは無責任である」、ぼくにはこういう言葉が「不幸の手紙」(同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもの、チェーンレター)のような不幸の分かち合いとして感じられる。他者に対して自分や自分の帰属する集団に同一化するように迫る、ピアコンセプト(p73)の逆機能(否定的側面)そのものではないか。
 狛プーは出入り自由のネットワークとして運営されている。だから、「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」と新規参入者(ニュー・カマー)を歓迎するだけでなく、来なくなってしまった人には、「元気? たまには顔を見せてよ」と呼びかけることはあっても、撤退したそのことについての責任を問うことはしない。つまり、反復参加者(リピーター)になることを強要はしないのである。
 突然の撤退によって抜けた穴でも、残った人で何とかなるものだ。担当職員は大変だろうけれども、それは学習者の自発性を重んじる社会教育の職員の根源的なつらさである。まあ、役割分担があるのに抜けたくなった場合は、連絡ぐらいすることはネットワークのエチケット(ネチケット<パソコン通信)と思う。このようにしてルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそなのだ。
 このように、撤退の自由がなければ、本人がそこに参加しているのもお義理になり、自発性阻害の要因になるのだから、ネットワークには撤退の自由が不可欠であるといえる。しかし、ネットワークは、撤退者にもネチケット以上のネットワーク的資質を要請する。撤退したはずの人がその後の運営に介入したり(OBによる現役支配)、現役への個人攻撃をしたりするなどの「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為をよく見かけるが、ぼくは本当に嫌だなあと思う。自分の未練を他人に押しつけるのは、プータローの自由な精神に反する「悪いわがまま」だ(p29)。ネットワークに撤退の自由の許容を求めるとともに、撤退する個人には潔い「良いわがまま」を求めたい。
 ちなみに、ある市の男子成人のグループF会(仮名)の「守っていること」を紹介しておきたい。@政治・宗教を持ち込まない(議員メンバーは複数いる)、A会長をおかない(対外的にはおくときもある)、B会費をとらない、C職場の肩書、社会的地位、過去の経緯を持ち込まない、D来るのも去るのも拒まない、Eさん付けで呼びあう、F多様性を尊ぶ(排他的にならず、少数意見を尊重する)、G集まるときは、自分で作ったツマミと自分の飲み物を持参する。
 このようないわゆる「親父の会」が現在、増えつつある。職場での自分だけではあき足らず、地域で他の親父たちとのまさに水平異質交流と友達づきあいを求め、そこで自分らしさの発見や町づくりなどの社会貢献の楽しみを味わうのだ。F会の「守っていること」には、メンバーの親父たちの潔さと、それゆえの楽しさがにじみ出ている。
◆ 出入り自由の淋しさを受容する
 話を戻して、狛プーのメンバーたちも、その辺のところは大丈夫のようだ。撤退するときは、内心は淋しいのかもしれないが、ニコニコして去っていく。適度のおとな心を持ち合わせているからだろう。キャンプだけ参加してあとはまったく出てこない人もいるが、その人などは最初から「みんなでキャンプに行くのが好きだから、それだけ参加します」と言って、キャンプ場では常連のように振舞っていた。
 問題は、残された仲間たちの淋しさである。これをぼくは「出入り自由の淋しさ」と呼ぶ。一人ひとりがこの淋しさとうまくつき合えないと、いつまでたってもピアコンセプトの逆機能は乗り越えられないし、ネットワーク型のコミュニケーションを創り出す主体性を身につけることができない。ところが現代青年は、へたに交流することによって相手を傷つけたり自分が傷ついたりすることを極端に恐れている。これは良い意味での自他への優しさでもあるが、その優しさは、「だからコミュニケーションしない」という敗北主義の象徴のような「山アラシジレンマ」(接近したいが、かといって、お互いの針で傷つけ合いたくはないというジレンマ)にも彼らを陥らせるのだ。
 狛プーで「出入り自由の淋しさ」を感じながらもその淋しさを受容することは、「結果を恐れるがあまり、したい交流もしない」から、「したい交流はするが、自分の期待どおりに交流してくれない他者の存在も受け入れる」人間に自己変容することにつながっていく。これがネットワーカーとしての資質である。そして、これこそが「山アラシジレンマ」を突破するための唯一の方法なのだと思う。
◆ よその地域の青年たちの意味
 狛プーの「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」の精神(ネットワークマインド)は、当然、狛江市外から、なかには一時間以上もかけて通ってくる青年たちの参加を増やす結果につながっている。これは「地域に根ざす社会教育であれ」というスローガンを平面的にしかとらえようとしない関係者には、好ましくない現象として映るかもしれない。「自分の地域でやればいいだろう」というわけだ。
 しかし、ちょっと待ってほしい。狛プーは、今や、現代都市青年にとって、アジールのひとつとしての役割を果たしている。アジールとはもともとは「(自治的な都市などの)不可侵の領域」という意味だが、いわば駆け込み寺であるとして理解しておけばよいと思う。職場や地域の上下同質競争の「正統派」からはじきとばされた人たち(プータロー)は、そんな自分が受容されるサンマを感覚的にかぎつけてアジールに集まってくる。そこでは、活動に加わらずにぼうっと眺めていることだって許されるが、そういう所からこそユース・カルチャー(若者文化)が生まれ、カウンター・カルチャー(対抗文化)として社会の「正統派」の文化に影響を与えて時代を進展させるのだ。だから、狛プーがアジールであるとすれば、それを擁する狛江はユース・カルチャーの発信基地のひとつと呼べるようになるわけである。これは、市全体の風土に若々しい息吹を吹き込んでくれるだろう。
 たとえば、狛プーの紙芝居は、市民祭で市内の多くの子どもたちに、そして、その親たちに歓迎された。しかし、ほんとうは、たった一カ月の練習でプロ並みの腕ができあがるわけがない。紙芝居の面白さにはまってしまった気持ちが、狛江市民の気持ちと触れ合って、市民祭の場で共感的な世界を創り上げたのである。
◆ キャンプは夜だ
 過去の青年教育においては、サークル等の目的集団に対する青年団等の生活集団の意義が叫ばれたことがある。そこでは、生活に根ざした総合的な人間交流の意義があらためて評価されていた。もし、そういう人間交流が可能になるならば、それは上下競争社会の一端に風穴を開け、人間解放のユートピアを実現することに近い。しかし、これといった具体的な到達目標を持たずに、生活のなかでの人間交流そのものを目的とする試みなどに現代青年が関心を持つだろうか。私たちのそういうためらいに答えを出してくれるのが、キャンプであり、キャンプの夜であり、キャンプの夜の「空白のプログラム」なのである。
 そこでは、気楽なおしゃべりや打ち明け話のなかに、一人ひとりの生活文化が自然にしみだしてくる。共通の文化の確認も楽しいが、異なる文化との出会いは「えっ、君っておもしろいねえ」という感じで、よりいっそう刺激的である。仲間とのつきあいの楽しさとは本当はこういうものである。キャンプは、過去の青年団活動に匹敵する新しい生活集団としての新しい教育効果を発揮してくれるのである。
 過去の青年教育にも、日中の正式のプログラムが終わって、夜、寝床で昼の議論の延長戦を行うことを寝床分科会と呼んで、その意義が注目されていたことがある。本音の交流ができるからである。この寝床分科会の意義も軽視できないとは思うが、狛プーのキャンプは分科会の延長でさえもありえない。「寝床分科会だね」なんて言われても、狛プーのメンバーはきょとんとしてしまうだろう。キャンプにつき物のカレーライスではなく、汚いロッジの中だが、ちょっとおしゃれなフランス料理やスープをつくり、ワインなどで盛り上がる一方、個人がそれまで持ってきた「文化」や「生活」そのものがポツリポツリと出される。思いもしなかった他者の枠組に出会って、自分の枠組との違いに驚き、「おもしろい奴だなあ」と感じ、しかも、「そうか。わかる、わかる」と、それなりに共感してしまうのである。
 人間は仕事や学業に追われる昼間より、夜のほうが自然体になりやすい。だからこそ、夜になると悪いこともしてしまうのだろうが、それはある意味では人間らしさの表れでもある。「人間らしさ」とは善と悪の混合体である。夜はそういう魔力があるから魅力的なのだ。
◆ 若者が自分のお金を払う時
 大学生でさえ、教科書をなかなか買ってくれない。貧乏なのかなと思うと、彼らどうしの飲み会では割り勘で気前よく払っている。正直言ってコノヤローという気もするが、巷にあふれる若者たちの飲み会は、天から降りてきたクモの糸のようなものなのだろう。ただし、そのわりには、一気飲みや瞬間芸など、それぞれの本心は大切に隠しているような、背中を向け合った淋しい飲み会のほうが主流のようだ。
 しかし、狛プーの飲み会は、それとは違っている。狛プーの終了後は、ほとんど毎回、ある飲み屋に流れていく。用事のある人や飲みたくない人は「バイバイ」と帰っていくが、酒を飲めない人でもこれを楽しみにしてジュースで参加する人もいるし、すごいのは、狛プーの終了時刻にぎりぎりにしか間に合わないので、公民館ではなく、その飲み屋に直行して待っているという人がけっこういるということだ。
 狛プーの飲み会だってお金はかかるが、それ以上の魅力があるのだろう。ぼくは、これを、飲み屋での自己解放と相互解放ととらえている。ぼく自身も、その飲み屋で、「ここにいるときが一番mitoさんらしい」とメンバーによく言われる。解放されているのだ。依存しているのかもしれない。まあ、たがいに、公的社会教育の参加者や援助者という社会的位置づけから解放されているからであろうが、もうひとつは、おたがいに自前の金を払っているからではないかと思う。
◆ 空白のプログラム
 狛プーのキャンプの魅力が空白のプログラムにあることは先に述べたが、通常のプログラムにもそのような仕掛けが配置されている。というと聞こえはよいが、ようは計画がいい加減ということなのである。しかし、いい加減はよい加減でもある。何をやるかきっちりと決まっているからこそ参加してみようかという気になる、という人たちは多いが、それでは実際には参加者は「やらされている感じ」になってしまう。過剰適応の若者などは、そういう集まりにまでうまく自分を合わせようとしてしまうので、見ていて痛々しいぐらいだ。
 これに対して、たとえば、狛プーのプログラムの中の「温泉に行こう」だの「連続お別れパーティー」だのという月は、じつは何も決まっていないに等しい。そのほか、月の切れ目、切れ目も「よい加減」に運営している。たとえば、メンバーの一人が玉乗りのプロであると知ると、さっそく翌週のプログラムは玉乗りの練習にしてしまったり、「正月だからカルタとりをやろう」と一人が言い出すと、「やろう、やろう」ということになって、言い出しっぺが百人一首を持ってくる。そのいい加減さが、参加者をその気にさせるのである。
 「せっかく来たのに、予定と違うなんて、どうなっているんだ」と目くじらを立てる人はまずいない。今の若者とはそんなものだ。狛プーのような自由な場では、現代青年でも自由を使いこなせるのである。ぼくはこれをフリースペースの治癒力・教育力だと考えている。
 ぼくは、狛プーの通年講師として、ある反省をしたことがある(講師をやっていると反省することはけっこう多い)。記録集のまとめの部分を作っていたとき、ぼくは早く完成させようとやっきになっていた。担当職員がいつものように無駄話的な茶々をしばしば入れていた。ぼくは、「おいおい、早く片づけちゃおうよ」と言った。そうしたら、その夜の飲み会で、ある女性メンバーに、「mitoさん、焦ってるんじゃない? ○○さん(担当職員)のペースのほうが私はいいわ」と言われてしまったのだ。彼女にその理由を聞いたところ、「今日は、プログラムが何も決まっていなかったから、久しぶりに飲み屋さん以外でも、おしゃべりのためのおしゃべりができると思って楽しみに来たのよ」と言う。それで、ぼくは反省したのだ。
 たしかに、効率的にまとめができあがったからといって、それが何になるのだろう。プログラムを自分で設定して、その設定に沿って参加者を楽しませる、そんな過去の社会教育の枠組に、ぼくのほうこそ縛られていたのだ。逆に、担当職員の「職員らしからぬ言動」は、彼の本領発揮、面目躍如の行為であり、さらにはユースワーカーとしての社会教育主事の存在意義そのものであったのだ。もちろん、彼は一方で、市内のすべての独身寮を調べ上げて、自転車でチラシを下足入れにまきにまわるなど、広報等のための最大限の努力はしている。
 フリースペースの創造のための職員や講師の働きかけのあり方は、簡単そうで難しいし、難しそうで簡単だ。ぼくは、狛プーで、そういう意味でもおもしろい体験をさせてもらっている。
◆ 善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心
 狛プーにはこれといったスローガンがない。あるとき、狛プーでキャンプに行くとき、担当者が子どもの野外活動向けの事業の文書を使ってしおりを作ってくれた。そこには「来たときよりも美しく」というキャンプ生活のうえでのスローガンが書かれていて、それを読んだぼくらはいっせいに吹き出してしまったのだ。いつもの狛プーの風土からは、そういうスローガンはかなりのミスマッチだ。
 狛プーのいつものペースだとつぎのようになる。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。ぼくなどの気の利かない幾人かの者は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べてふとん干しをしている者までいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかでは感動する。もちろん、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。
 つまり、狛プーというところは、善導とかスローガンとかの言葉とは無縁の時空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーが大切にする言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そういうなまの言葉は、受け取る相手によって、薬にもなり、毒にもなる。どちらにするかは、聞く側の自由であり、自己決定に任される。
 では、なぜ、狛プーのメンバーはそういう真実の人間存在との出会いを共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(ミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自己を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が自分を写し出す鏡になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることが魅力的なのだ。
 2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組が、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これは、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間存在が発する根源的な欲求であるといえよう。
 3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さが、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかで「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると評価することができるのである。
◆ 狛プーはスムーズな自己開示のネットワークである
 ぼくが大学のある授業で、人間の偶像崇拝的なある行為について依存の表れであると批判したところ、ある学生に「先生は傷ついたことがないんですか」と書かれてしまった。「それを信じてその人が幸せになれるのならいいではないか。だから、批判すべきではない」というのである。批判しないで、つまり批判事項だけ除いて交流するコミュニケーションの何と空疎なことよ。あるいはまた、あるボスを偶像崇拝するファシズムが表れても、ぼくたちは「その人たちが幸せになれるのなら」と言って批判を避けなければならないのか。社会とはそんなに個人がばらばらに生きていけるものではない。しかも、その優しさのわりには、自称「傷ついた人」は、ぼくが触れられたくない過去に傷ついたかどうかまで問うてくる身勝手さをも兼ね備えている。
 人間は、親に全面的に依存できる時期を過ぎて、現実原則を働かさなければいけない社会に出ていく。それを楽園追放という。そのときに、すでに、痛みは不可避的に生じるのである。痛みを経験していない人などはいない。気づかないようにしている人は、たくさんいるかもしれない。しかし、そういう痛みをつらくて乗り越えられないでいる人が、深みをもっていることを証明された人間のようにほかの人を見下し、責め、結局はなんだかかえって威張っているような今日の状況に、ぼくは異議を申し立てたい。「個の深み」とは、痛みの大きさによるのではなく、その人が自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているかによるのではないか。
 この事例にぼくは現代青年のもっている変な思考回路を感じる。快適なコミュニケーションのためには相手に心を開くこと(自己開示)が不可欠であるが、だからといって、開きたくない心まで無理に開くことはないし、また、逆に、「心を開かせることが必要だから」といって、相手の人格にまで立ち入って論じたり、過去を詮索したりすることなどは誰にもできないはずだ。その双方の暗黙の合意なしには、心を開くコミュニケーションなどできるわけがないし、山アラシジレンマに陥ってしまうことも目に見えている。若者たちの多くが、心を開きあうコミュニケーションや完全な相互理解を非主体的にでありながら、憧れすぎているために、その結果、実際には安心して自己開示できないという皮肉な結果に陥っているのではないか。
 傷ついた若者たちがもっている敗北主義は、現在、被害者を演じようとする思考回路にはまっていて、それがそれなりの自分勝手な安定感を生み出し(自動化、p52)、本当は癒されたいのに、このようにニッチもサッチもいかない状況になってしまっていると思われる。そういう現代社会において、狛プーの青年たちが培ってきたネットワークマインドの朗らかさと潔さは、とても重要な役割を果たすことができよう。ぼくは狛プーでの若者たちの自然なコミュニケーションを見ていて、つぎのように考えた。「開きたい心を開きたいときに安心して開くのが、自己開示のコツである」。狛プーの存在は、自他への信頼を失いつつある現代青年にとって、基本的信頼感を回復するための、スムーズなコミュニケーションのサンマとして機能している。
◆ 男と女の出会いのための公的サービス
 狛プーは狛江市中央公民館の青年教室事業として、つまり、公式の青年教育の一環として行われているものである。そういう場合、主催者側は、公金を支出したり専門職員等を配置したりしているのだから、その公的根拠をきちんと示せるようにしなければならない。社会教育活動自体の主人公は住民の側にあり、その自由は最大限に保障されるのだが、社会教育行政の側には、公金を支出してその事業を行うことがどんな公的意味をもつかを明らかにする義務がある。
 たとえば青年教育の場合、青年期特有の課題として、望ましい恋愛や結婚の相手を見つけるということが今まで重視されてきた。そのための援助サービスも、必ずしも一概に税金の無駄遣いと非難することはできない。それは青年期の不易の課題だし、これによって個人の幸福追求などに資することができるだろうからである。しかし、青年教育が結婚相談所やたんなるお見合いパーティーの場になってしまっていいのかという疑義は残る。個人レベルの問題解決にはとどまらず、社会創造の意義などにまで発展するからこそ、公的社会教育は他の民間サービスとは異なる独自の教育的役割を発揮できるのだから。
 狛プーの場合にも、メンバーのあいだに恋愛関係が生まれることがある。しかし、そのとたんに二人は狛プーの活動から遠ざかってしまうなどという、ほかでよく見られる「くだらないミーイズム」の現象はまったく起こらない。むしろ、その二人がますます「番外編」の仕掛け人として活発に活動したりしている。二人だけで過ごす時間も大切にするけれども、狛プーのなかで二人としての価値を発揮する時間も大切にする。みんなと過ごす時間も、二人にとってはそれはそれで充実していて楽しいからだ。これこそ「報われるミーイズム」の姿である。さらには狛プーには若い主婦だって参加している。「主婦業だけに埋没するのはいやだ。まだまだ青年として、たくさんのいい仲間たちと出会っていきたい」という彼女の参加動機は、きっとよりよい妻や、よりよい母としての自己成長という望ましい結果にもつながるだろう。それは、会社人間であった男たちの最近の変化としての家庭復帰や自分さがしと同様の意義をもっている。つまり、自分を○○さんの奥さんや○○ちゃんのお母さんと呼ばれるような固有名詞のないばらばらな存在としてではなく、ひとつの統合された自分自身(アイデンティティ)としてとらえたうえで、家庭・地域・職場でのそれぞれの自分の存在価値をバランスよく発揮しようとするのである。
 今日の社会においては、恋愛や結婚は、基本的には二人だけの幸せや不幸せの問題として自己完結しがちである。ところが、狛プーにおいては、男と女がいつのまにか一対一で出会っていると同時に、ネットワークのなかでの二人の役割発揮を味わう。反面、恋のさやあても起こりうるが、それは仕方ない。ここでいう仲間を社会に置き換えて考えてみれば、狛プーの場の提供という公的サービスが、ほかの行政分野では遂行困難な役割を実現していることが理解されよう。
 このように心地よい男女関係を実際にこの現代社会において創り出しているということは、上下競争一辺倒の学校歴偏重社会から、異なる他者をたがいに受容しあってともに生きようとする生涯学習社会に転換するという社会的課題を、ここでは男女の出会いの面から実質的に達成しつつあるということになる。それは、現状否定や告発だけに終始するような他者依存的な運動とは違って、提案型のネットワークであるといえる。ただし、もちろん、青年教室という公的社会教育に支援された突出的時空間において、という限定付きであるが……。
◆ いい男といい女さえ支援すればよい
 それにしても、恋愛問題をはじめとして、このように「いい男といい女」が期せずして狛プーに集まっているのはなぜだろうか。その積極的理由としては、狛プーが最初に述べたような「自分の人生をていねいに大切に生きたい」という彼らの心に呼びかけ続けていることと、彼らが「自由への恐怖」を突きつけられるなかで、みずからの内なる差別意識や被害者意識と闘い、たくましく自己成長し続けてきたことがあげられる。そして、本項ではつぎのことをいいたいのだが、逆に消極的理由としては、いい男やいい女ではない人、あるいはそうであろうとする気がまだわいていない人がいるとしたら、そういう人は狛プーから自然に「排除」されていくということなのである。
 たとえば、今の世の中の風潮では、「人を傷つけてもいいから、自分の傷を癒したい」という不幸な認識をもっている人たち(スパイ)は残念ながら多い。現実社会では、そういう人が幅をきかせたりしている。たとえば、相手の女性が傷ついてでも、自分のナンパが成功すればよいなどという男性は、たくさんいる。狛プーに来ている人たちは、そういう現代社会の人間関係がいやで狛プーに来ているのだから、上下同質競争社会からの「スパイ」が入ってきては困るのである。ところが狛プーでは出入り自由が原則だ。スパイの新規参入も自由なのである。そういうとき、担当の職員や講師のぼくに、そういう人の排除を頼むメンバーもいる。しかし、その排除行為をぼくらが請け負ってしまったら、狛プーの存在価値はなくなるとぼくは思う。ネットワークの支援ではなく、ファシズムになってしまうからである。
 やはり、望ましいのは、「いやだ」と思った人が「あなたの○○という行為は、私はいやだ」とさわやかに自己主張することなのだ。その人から電話がかかってくるのがいやだったら、「あなたからの電話はほしくない」ときちんというべきなのだ。ちゃんとそういうふうに主張できる人も狛プーにはいる。これが自立したネットワーカーの態度である。そのことによって、スパイたちは狛プーから自然に排除されていく。相手には弱みにつけいる隙がなく、これ以上関わるとかえって自分の内面にダメージを受けることに気づくからである。つまり、ここでの排除とは、規制や規則などによってではなく、さわやかな自己主張などをとおして個々人が内面的に排除することである。
 だから、逆にいえば、狛プーのメンバーが狛プーのサンマ以外の場でもこの世でたくましく生き抜いていくためには、スパイが単純なナンパ目的などで少しは入ってくれるのも、人びとがいがみあう現実社会のなかでどう生きるかという現実原則を学ぶ絶好のトレーニングの機会になるのだ。それに、さわやかな自己主張ができれば、それは基本的信頼を示す行為の一環でもあるのだから、もしかしたら、スパイにとっては生まれて初めてのいい体験になり、「イヤなヤツ」から「いい男いい女」への自己変容の可能性さえなくはない。人間は無限の変容の可能性をもっているのだから。どちらにせよ、いい男といい女だけが狛プーに残るという同じ結果になる。
 ここで、「いい男いい女」の定義は、まだしていない。p110に「自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているか」と書いたが、そのほか、「人に傷つけられることよりも、人を傷つけてしまうことを心配する人」、「被害者意識に陥らず、さわやかに主張できる人」、あるいは、「いやなときは、潔く撤退して静かに微笑んでいる人」などと定義ができるかもしれない。どの場合でも、もともと弱い存在としての人間が、それほどの徹底したいい男いい女になれるわけがないとも考えられる。人間はだれでも「ろくでなし」であることにはかわりない。だから、実際には、いい男いい女になりたいと思って生きている人、つまり変容等の対象を自分自身に向けている人たちのことを「いい男いい女」というべきかもしれない。
 学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、「人が多様な個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、他者を打ち負かすことを目的にした資格取得などばかりが評価されて非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に資するものとはいえない。狛プーなどのネットワークでは、イヤなヤツが得する目にあうのではなく、いい男やいい女こそが報われる関係を自然に創り出す評価システムを内包しているのである。
 社会教育の全国的状況からみても、前項で述べた公的サービスの存在意義を考えると、よっぽどの人的・財的余裕のない限り、いい男いい女になりたいという意思のないスパイやイヤなヤツに追従するようなサービスをする必要はないといえる。そんな余裕があるのなら、本来は社会からいい男いい女として評価されてよいはずの一部の青年たちが、現代社会では癒しのサンマを味わうことなく疎外されて生きている現実を、関係者はもっと深刻にとらえて、せめて「何とかしたい」ぐらいには思うべきである。現実には、全国の青年教育の場で、いい男いい女が集まってくれているとは思う。ただ、行政側や担当者が、「行政の公平の原則」を機械的に適用してしまって、参加者が少ないなどの理由からその事業に消極的になったり、表層的な事業展開をしたりしがちであり、そのためにせっかくのいい男いい女の参加を生かしきれていない結果に陥っていると思うのだ。いい男いい女や、そうなろうとしている人をこそ、行政は支援すべきである。
◆ 「おうち」としての狛プー(狛プーの公的・現代的意義)
 先日、見学者との交流会で、ある狛プーのメンバーが「狛プーはおうちだ」と言った。学校や職場も、疲れるときはあるけれど、それなりに楽しい。充実している。しかし、狛プーはそういう「外の世界」の延長ではなく、それらの外の世界から帰ってきて、また外に出かけていくための安心できる足場、つまり「おうち」のままであってほしいと彼はいいたかったのだと思う。
 そして、少なくともその交流会では、狛プーのメンバー全員が、「狛プー自体が全体でボランティア活動などによって社会に参加することになるとしたらいやだ」と言っていた。狛プーに関わりはじめてから、多くのメンバーが自信と元気を獲得し、自分にあったそれぞれのかたちでの多様な社会参加を、いつのまにか、ちゃっかりと、したたかに始めている。それにもかかわらず、狛プーについては「おうち」のままであったほうがいいというのだ。
 ぼくには、最初、これが意外だった。人間は元気がでてきたら社会にも主体的に関われるようになる。もうすでに何回も述べたとおり、癒しのサンマとしての狛プーの、しかも公的社会教育の一環としての意義はぼくもつくづく感じていて、狛プーが開かれる毎週木曜日の夜をぼく自身も楽しみにしているぐらいだ。しかし、「狛プー自体は社会参加しないで」というかれらの気持ちに「えっ」と思ってしまったのだ。それは、まず癒される、そうしたら次に社会参加(ボランティア、地域活動、市民活動)に発展するというような過去の社会教育指導者にありがちな固定的で図式的な思考と、狛プー自体も社会参加に発展しないかという期待が、ぼく自身のなかにもあったからだろう。
 その抑圧されてこりかたまったぼくの思考が、「狛プーはおうちだ」という言葉によってするすると解き放たれていった。そういえばおうちというのは、どんなに大人になってもいつまでも必要なものなのだ・・・・。おうちにとどまっていては発展がないというのではなく、おうちも外の世界への参加も、どちらも同時進行的に癒しと変容のサンマになればよいというだけの話なのだ。
 以前、狛プーの女子学生メンバーが、自分が受講している大学の社会教育系のゼミで狛プーの実践を発表したら、他の男子学生から「癒しのようなそんな私的なことだったら、公民館や社会教育主事に頼らずに、自分たち自身でやるべきだ」と言われたといって考え込んでいたことがあった。彼女からそれを聞いて、ぼくもその男子学生の発言が頭に引っかかっていたらしい。そのため、狛プーのメンバーの何人かが自発的に各様に社会参加するという「いまの到達段階」だけではなく、狛プー自体が社会参加して地域や社会に対して公共的役割を果たすようにならないか、などと勝手なことを思っていたのだろう。
 しかし、いま考えれば、その男子学生は、社会教育のいう「自主性の尊重」の意味をまだ生半可にしか理解できていなかったから、そして、現代社会に生きる人びとの癒しへの願望の正当性を十分には支持し得ていなかったから(私的であるという理由で!)、さらには公的社会教育がそもそも私的である個人の成長をなぜ支援するかを自分の頭で主体的にはとらえていなかったから、そんな発言をしたのではないかと思う。いまのぼくなら彼にこう言うだろう。「現在の公民館や社会教育、青年教育というのは、しかめつらをしないでもっとのびのびと楽しみ、安らげるところになりつつあるんです。そして、そういうサンマをつくることこそ、現代社会に生きる人類の幸福追求のために行政が優先して支援すべき緊急な公的課題なんですよ」。
 ひとは「おうち」すなわち癒しのサンマがあるからこそ、「外の世界」すなわち社会に出かけ、また帰ってくることができる。だから、だれにだってそういうおうちが必要である。もちろん、もしそういう居心地のよいおうちをつくれる環境を、いまの社会が十分に提供できているのなら、おうちづくりなんか自分たちで勝手にやれと突き放してもいいだろう。だが、不信と孤立の現代社会の状況を考えると、そんなに楽観的なことはとうていいえない。「自分たちでやれ」と突き放した人自身だって、現代社会では実際には不十分なおうちしかもっていないはずである。「おうち」は緊急に整備が要請されている心のインフラストラクチャー(社会的基盤)なのである。
 逆に、むしろ社会に関わる運動こそ自主的に、つまり自分たちで勝手にやるべきではないか。また、行政側が、青年や市民の一人ひとりに対して、ちゃんと社会参加につながったかどうかを気にすることも、考えてみればちょっと余計なお世話だ(行政が行政効率の向上の面からそうしたくなる気持ちはよくわかるが)。社会参加をする、しないは、ごく個人的で微妙な決断に委ねられるべき事項だからである。そんなことよりも、全国民がおのずから社会参加することを自己決定したくなるような、元気が出る自他受容と自己変容のサンマ(図表1、p9)をあちこちにつくることこそ、公的社会教育が責任をもってその社会的基盤づくりのための条件整備をし、参加者主導で進めていくことが、いま強く求められているのではないか。
◆ 癒しと成長、受容と変容の循環
 上下同質競争社会におけるキャッチアップ型教育(追い付け、追い越せの教育)は、学習者の成長・発達ばかり重視してきた。しかし、本人が生きる意味としては、本音の部分では、癒し・安らぎという要素も、成長・発達と同様に大切だ。それはなぜか。
 孔子の「川上の嘆き」はつぎのとおりである。「子、川の上に在りて曰わく、逝者は斯くの如きかな。昼夜を舎かず」。通釈は「孔子が、川の岸辺に立って言った。昼も夜も、一瞬もとどまることなく流れ続ける、この川のように、学問もまた、そうでなければならない」。ところが、駒田信二は、この通釈の後半部分をつぎのように批判している(『論語−聖人の虚像と実像』岩波書店)。

 川のほとりにたたずんで自らを嘆く孔子の姿には、人間的な大きなひろがりがある。だが、時はこの川の流れのように過ぎてゆくものゆえ、瞬時もおこたることなく学問にはげみなさい、などと教訓を垂れる孔子の姿には、それがない。「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」(伝、朱子「偶成」)という、口やかましく窮屈な、しかめつらしい顔をした、しかし、なんのなやみもなく自分の言葉に満足している先生の姿があるだけである。なんと魅力のない聖人像であろう。孔子がそんな小さな人であるはずはない。

 宇宙や人間が有限なゆえに、また愛や存在の確証がないがゆえに、宿命としての無常観や、現代社会による個の抑圧にさいなまれている人間に対して、癒しを捨象したうわべだけの教育は非力(善導やスローガンという虚偽)である。その逆に、非力(無常という真実)を自覚した教育こそが現代人に癒しをもたらす可能性をもつのである。
 開きたい心を安心して開くことのできる水平異質交流の突出的なネットワーク(p110)によって癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向でもスムーズに作用する。ひとことでいえば、受容と変容は好循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組を自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善する(変容)ことができるのだ。これが潔い自己決定につながる(図表1、p9)。ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容は必ずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う。また、ここでの癒しのサンマは、きたるべき社会やコミュニティのあり方の予言者であり先駆者である。そういう意味から、狛プーが追求しているものは、まさに、公的課題であり、現代的課題であるといえるのだ。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
公民館 戦後、当時の文部省社会教育局社会教育課長、寺中作雄の公民館構想(「寺中構想」)は昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実した。この通達では、公民館の運営上の方針としてつぎの7つがあげられている。@町村民が相集まって教え合い、導き合い互いの教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である。A町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある。B町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である。C町村民の民主主義的な訓練の実習場である。D中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所である。E全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する。F郷土振興の基礎を作る機関である。上の7つから、公民館の職員が上から住民を「教え育てる」(松下圭一)などという発想はもともとはなかったといえる。町村民主体の相互学習の場だったのだ。その後の公民館にそういう発想があったとすれば、その後の行政や職員のセンスの欠如や勉強不足の問題なのだろう。
青年教育 戦後の社会教育の主要事業の一つであった。団体活動においては青年団、学級講座においては青年学級である。しかし、高度経済成長などの社会の急激な変化のなかで地域青年団は減少の一途をたどり、青年学級にも若者が集まらないようになった。当時の青年教育担当者は、青年にはほかに楽しく遊べる場がいっぱいあるのだ、まじめな学習なんかしたくないのでは、といって青年教育から撤退していった。たしかに、婦人、高齢者など、講座を開けば来るという人を対象にした事業のほうが住民ニーズに沿っているようにも見える。しかし、「集まらない青年」に責任転嫁する前に、みずからの企画が時代の青年のニーズや社会的要請に応えているのかという自己点検の努力が必要だったのではないか。集団学習 集合学習のうち、団体活動や学級・講座など、学習者どうしの相互教育が期待される学習方法。集団というと全体主義的なマイナスイメージもあるが、社会教育では民主性が重んじられてきた。そして、現代社会に生きる人びとが求めているのは、人間関係がゆるやかに連帯するネットワークによる癒しのサンマという「集団」なのだと思われる。
公的課題の優先 平成3年4月、『かくろん』においてぼくが提案した概念。翌年7月には、生涯学習審議会答申が、ぼくの趣旨には近いが、もっと高い視点から洗練されたかたちで「現代的課題の学習」の提言を行っている。しかし、ぼくの提案の場合は、市民の自由な生涯学習を支援するための学習プログラム提供において、行政がなぜ、何を根拠に、学習課題を取捨選択するのかという、公的社会教育の存在理由を問う、よりどろどろした問題意識から発していた。そこでの「公的課題の優先」の論旨はつぎのとおりである。生涯学習のネットワークは自治というよりも「個治」であり、どの学習課題も差別されない。それに対して、行政が行うべき「問題提起」は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政職員の個人の意図によってではなく、行政課題の遂行という責務のもとに行動を決定する。そこでは、たとえ市民の自由な生涯学習のネットワークに対する援助や問題提起であっても、その学習課題に優先順位がつけられていく。まずは、行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先すべきである。ただし、私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としている。だが、これを操作概念として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられる。なお、これはあくまでも「優先順位付け」(プライオリティ)の問題であって、市民の自由な生涯学習に対する選別行為とは無縁のものである。

第6章 生涯学習時代における大学の役割

1 高等教育の根底的転換

 最近、大学がますます大衆化し、さらには今後の生涯学習時代に向かって、「継続高等教育」すなわち大学を本格的な生涯学習機関としてとらえなおす動きがある。しかし、他方、それが大学入学者人口の激減を目前とした大学側のただのサバイバル戦略にすぎないとしたら今までの大学の存在価値まで失うことになる。

◆ 現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として
 いまや高等教育(大学・短大)においては、学生の恒常化した私語によって授業が妨げられる、大学生なのに知的に幼稚であるなどのことから、大学の授業が存在する意味さえ疑う教員もいるほどだ。こういう高等教育の権威失墜が生み出された社会的背景としては、@従来の学歴偏重(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を評価することはできないという社会的な認識が普及しつつある、A逆に学校歴偏重(どこの大学のどの学部の卒業か、など)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしている、という2つの理由があげられよう。だから、ごく一部の大学・学部の「自他ともに認めるエリート予備軍」を除いた大多数の学生が、「賢明にも」学士になるだけのための教育には、過大な期待や、その受け手としての自負をあまりもたなくなっているのだ。
 そういう状況の一方で、現役学生を含めた多くの現代人のなかで、生きがい創出、自分さがしなどの自己実現や、職業、ボランティア活動などの社会的役割遂行のための切実な学習欲求が、急激な広がりと深まりを見せている。これらのニーズ全体が、生涯学習社会形成に向けた社会創造のパワーとしてふくらみ始めているのである。そのふくらみは、革新のない過去の高等教育が色あせていく道程と、あたかも反比例するかのような目覚ましさである。生涯学習関連事業の実施のなかでそういう人びとの猛烈な学習欲求に接している大学のほうも、新しい出会いと気づきの体験による自己革新をしている最中である。
 こういう大学の革新によってこそ、従来の学歴偏重社会のエリートを育てる方向ではなく、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」(学校教育法第52条「大学の目的」、短大は若干異なる)という本来の方向での高等教育の根幹部分の進化・発展も可能になる。つまり、大学の枝葉の役割としての狭義の生涯学習関連事業だけでなく、高等教育全体のあり方が生涯学習社会の形成というフレームのなかで考え直されなければならない時期にきているのである。
◆ 市民の高度化・多様化する学習ニーズへの対応を
 生涯学習あるいは成人の学習の特徴として、自己管理型学習(self-directed learning)であるということがあげられる。すなわち、みずからが学びたいと思うこと(欲求中心の即目的的学習)や学ぶ必要があると思うこと(課題中心の問題解決学習)を、学びたい手段で学ぼうとするのである。大学の生涯学習関連事業もそれに対応しなければならないのは当然であるが、その場合、これらの市民の学習ニーズの高度化、多様化に留意する必要がある。
 たとえば大学公開講座では、その生成期においては、「一般市民のため」という名目のもとに、市民に対しては高等教育としてのレベルを根本からないがしろにしたり、「教員の公平な分担」という名目のもとに、テーマの焦点化されていない総花的で非体系的なプログラムに陥ったりする傾向があったようである。しかし、最近の公開講座は、高度化する市民の生涯学習ニーズに応えて、本来の高等教育機能の拡張としてのレベルの高い公開講座を志向する大学が増えている。
 今後も、学習者層の拡大のためには、入門的で広い範囲の親しみやすい学習内容の提供が必要ではあろうが、大学側がそれだけに甘んじていて、市民の高度化、多様化する学習ニーズに対しては、人がたくさんは集まらない、手間がかかる、などの消極的な理由から対応できないままでいると、その事業を大学が行っているからこその魅力を失い、よって、深い意味での学問の楽しさをも失って、いずれは市民から見離されることにもつながりかねない。
◆ 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を
 数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。
 市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。
 そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。
◆ 高等教育の制度等の柔軟化と個性化を
 過去の学歴偏重社会においては、固定的な年代や時期の、固定的な一定期間の、固定的な場で行われる高等教育に重きがおかれ、それ以外の学習や卒業後の学習には比較的、関心が払われてこなかった。しかし、今後の生涯学習社会においては、社会の変化や進展に応じて、卒業後も繰り返し教育の場に立ち返って学習(リカレント学習)を進めることが求められていることから、大学の側もそういうニーズにいっそう柔軟に対応していく必要がある。これが継続高等教育機関としての大学の役割である。
 このことに関連して、2つの重要な生涯学習の観点を述べておきたい。それは、@人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、なるべくその時期を逸しないようにして、それぞれの時期の課題に適した学習を行うことが望まれるという観点、A人間は一生のあいだ、さまざまなかたちでつねに変化・発達を続けることが可能な存在であるのだから、生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができるという観点、である。従来、とくにあらたまった論議などでは、ややもすると@ばかりが強調され、生涯の各時期における発達課題が固定的に受けとめられてきてしまった傾向があったのではないか。大学側が本音のところではそういう前者の考え方だけに固執しているのだとすれば、せっかく大学の扉をたたいてくれている社会人や大学既卒業者は救われない。「思い立ったが吉日」「人生、すべて勉強」などのごくあたりまえの庶民感覚を大切にしなければならない。
◆ 市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を
 現在、欧米では大学拡張と呼ぶより継続高等教育と呼び、生涯学習機関としての自らの役割への自覚をますます高めている。大学の生涯学習関連事業においても、学習者中心のサービス姿勢を徹底することが今後の重要な課題となろう。いまや多くの大学が施設開放を行っており、大学の市民への開放性の高まりを感じさせるが、その開放性がどれだけ市民の実際のニーズとマッチしているかについては、まだまだ覚束ない大学のほうが多いのではないだろうか。「大学教育に支障のない限り、自由にご利用ください」という姿勢も発展のひとつだろうが、生涯学習の時代はそのつぎの段階への発展を大学に求めているのである。それは、届ける、触発する、という姿勢である。
 校舎や体育館やグランドなどの施設はまさか「届ける」というわけにはいかないが、大学を訪れたいと思った市民がどれだけ容易に目的地に到達できるか(アクセシビリティ)を配慮する精神が求められる。車のない人はどうか、お年寄りはどうか。また、車椅子でも、大学の玄関から2階の開放している図書館に上れるだろうか。さらには、バス停を降りてから大学の玄関までの歩道はどうなっているか。居合わせた自校の学生は、お手伝いするだろうか。こういう心配りをすることをオープンマインド(開かれた心)というのである。全国的にもエクステンションセンターの名称などで、市民開放用の施設を大学の立地とは別に街中に設置する同様の動きが見られるが、最大限のアクセシビリティのための試みとして評価できる。
◆ 市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を
 とくに「きびしい生涯学習」については、どうしても高等教育の過去のイメージを引きずってしまい、市民側も大学側もともに、教える側の制度化された権威が至上のものになりがちである。そして、「学びたいから学びたいことを学んでいる」という自己責任の原則が忘れ去られ、市民側の学習態度を依存的なものにしてしまうのである。これでは、生涯学習も、過去の教授者主体の「一斉承り型学習」とあまり変わらない非主体的な学習という結果になってしまう。
 もちろん、大学卒業資格や単位の取得という学習結果の存在意義を全否定することはだれにもできないだろう。しかし、生涯学習社会への転換において大切なことは、そういう資格・単位の認定に関わる制度的な改善をも含めた評価の適正化である。学校歴に偏ることなく、学習歴を問わなければならないし、また、単位や資格の取得を争う大人同士の受験地獄にしないためには、学習結果としての学習歴にも偏ることなく、一人ひとりの多様な個性と持ち味のある学習の経過をも尊重しなければならない(p39)。
 さらには、学習成果の評価についてのより本質的で積極的な意義としては、何よりも学習者本人がつぎの学習行動を主体的に決定するために不可欠であるということがあげられる。それゆえ、適正な評価のためには、アンドラゴジー(p13)の考え方に則り、ガイダンスやコンサルティングなど、学習者と援助者との相互的な営みが必要になる。したがって、生涯学習関連事業においてなされるべき学習成果の評価のあり方を検討することは、従来の高等教育は学生の主体的な学習能力の向上を本当に評価できていたのか、社会教育は市民みずからのもっていた学習目標の講座修了時の到達の成否に関心をもっていたのか、というように、自らの教育姿勢への鋭い問い直しにもなるのだ。
 以上に述べた学習成果の評価にならんで、大学教育への評価も重要である。今まで学習者側からはほとんど批評を受けることなく過ごしてきた高等教育にとって、学習者主体の生涯学習とその支援の理念は、自己評価の充実の面でも大きな契機となるだろう。18歳人口の激減を目前にして、多くの大学でサバイバル(生き残り)をめざして自己点検・自己評価活動の取り組みが行われている。しかし、もし18歳人口が減る見込みがなかったら、そういう活動をしなかったのか。それも、「大学の自治」の名のもとに。大学の自治とは、ときの権力の干渉を許さず、しかし、学習者や世間の評価も参考にして、教員が厳しく自己点検・自己評価を行うという前提があるからこそ成り立つことではないか。大学は自己評価することを自己決定すべきである。
 もちろん、たとえば、「○○先生はやめたほうがよい」と一人に書かかれたからといって、必ずしも、つぎの事業からはその○○先生を依頼しないようにするということではない。学習者からのこういう事業評価に対して事業者は、「少なくとも、この回答者はそう感じた」という事実を逃げずにありのままに受けとめ(受容)、そのうえで主体的に判断すべきなのである。とくに、大学の授業を学生に評価させる場合などに教員の抵抗が強いのは、相手からの評価のこういう受けとめ方について、まだ理解が十分には広まっていないからなのではないか。教育側と学習側の相互の批評は、否定ではなく批判であり、主体的な両者の基本的信頼にもとづく協働の知的共生活動なのである(批評的ストローク、p84)。このように、市民や学生からの評価を率直に受けとめてこそ、大学の主体的な自己評価は可能になる。
 学習側が教育側を批評するということは、自己管理型の生涯学習にとっても非常に重要なことである。学習者が事業評価や授業評価をするということは、学習者が学習者自らの責任を果たすということである。かれらの否定ではない批判は、主体的な学習態度の一環であり、ともに生きる(共生)ための信頼と共感にたどりつくまでのプロセスである。その批評を誠実に積み重ねることによって、学習者の主体性もいっそう確かなものに育っていく。つまり、事業・授業評価は、大学と市民・学生がともに育つための共育活動の一環なのである。
◆ 学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を
 学内の推進組織自体は大がかりでなくてもよいが、大学の総合的な経営のひとつとして専門的に関われる位置づけをする必要がある。企画や調整というラインのひとつとしてか、あるいは、いずれかのセクションの下に置くのであれば、そのラインからやや外れて独自の実行機能をもち、ほかのセクションに対しても全体的に調整力を行使しうるスタッフ機能として位置づけたほうがよいと考えられる。
 学内の生涯学習推進組織または窓口をどう整備するかということは、来たるべき生涯学習社会に向かっての大学経営全体の基本的・総合的理念を表すものであり、企業のCIに匹敵するほどの大学のアイデンティティそのものに関わる重要なことがらなのである。
◆ 他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を
 大学どうしで、あるいは行政等の他機関と、さらには地域社会全体と、ネットワークを形成することが生涯学習推進事業を行おうとする大学には必要である。まずは、さしあたり、他大学、放送大学や専修学校との単位互換を考えるべきであろうし、研究や生涯学習推進の面などでの企業との連携も考えられよう。そもそも大学が市民にも目を向けるということは、基本的にはこのような他大学、他機関、地域社会に対して自信にあふれたネットワークマインドをもっているからこそのことである。
 ネットワークの特性のひとつは、自立と依存の統合的発展(『かくろん』p168)であると思われる。大学としての独自の存在意義をもっているからこそ、異なる自立的価値をもつ他者と対等に連携することができるのだ。また、そういうネットワークにおいては一方的な関係ではなく、相互のギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。たとえば、大学は行政や地域に対して有益な学園都市の資源としての存在価値を発揮し、行政や地域はそういう大学を信頼し支えようとするのである。このような双方が対等で主体的な協働の関係が、大学の生涯学習ネットワークには求められている。
◆ 生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を
 今まで述べてきたことをもとにして、「生涯学習時代における大学の役割」をぼくの生涯学習に関する基本的な主張を交えて簡潔にまとめていうとすれば、つぎの3点になる。
@ 生涯学習社会を担う学生を養成する役割
   −学内で生涯学習を学生に−
 現代青年としての学生は、生きる主体性の喪失の危機に瀕している。保護と管理ばかりを学校、家庭、社会から与えられ続けてきたことによって、学習やコミュニケーションなどにおける自己決定、自己管理、自己責任の能力がかなり損なわれているのだ。生涯学習の観点に立って学生の主体的学習を支援し、自己管理能力の向上を促すことによって、かれらを今後の生涯学習社会を担う人材として養成することがこれからの大学には求められている。
A 社会の変化を先取りし、リードする役割
   −学内の高等教育を学外に−
 急激に変化する現代社会は、つねに自己革新を続けて時代を先取りするリーダーとしての役割を大学等に求めている。とくに職業人は、知識・技術等の急激で高度な発展のなかで、学校卒業後も繰り返し教育を受けて今日の到達点を学び直すリフレッシュ学習の必要を感じている。また、高等教育とは別の形態としての生涯学習関連事業においても、時代のつぎの方向を示す役割が大学・教員に求められている。
B 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割
    −学外の生涯学習を学内でも−
 成熟化する現代社会においては、人びとの関心はモノからココロに移りつつある。そこでは地位や財産をもつ(have)ための学習より人間らしくある(be)ための学習に価値がおかれる。そのため、癒しと発達の両方が求められる。その学習は、生涯にわたって行われるリカレント学習である。これに対する大学の支援が大いに期待されるとともに、そういう市民の生涯学習との出会いは、大学にとっても学内に吹く「生涯学習の新しい風」として重要である。

 多くの大学で生涯学習関連事業が積極的に取り組まれつつある。しかし、その努力が、迫りくる18歳人口の激減に対しての大学サバイバルのための対処療法的な延命策としてだけに終わってしまう大学があるとすれば、それはたんなるサバイバル・ノイローゼの一過性の症状でしかなく、生産的な結果につながらないことは容易に想像できる。もっと、何のための大学か、何のための大学拡張なのかという、大学の本質的な存在確認から事業を発想する必要があるだろう。
 ゆえに、大学の生涯学習化(生涯学習理念にもとづく自己革新)の成否は、学内の教員と職員の意識変革にかかっているといってもよい。「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的な守りの経営や、過去の最高学府という空洞化した「権威」への依存から脱却して、主体的学習の支援という大学の社会的な役割を、より時代にあったかたちで遂行し、そのことによってみずからもその役割を味わい、喜ぶ、積極的な攻めの経営に転換する必要がある。これが大学の経営革新の姿である。
 最近のまともな企業は、収益を上げるだけでなく、その他の社会貢献活動(フィランソロピー)や文化支援活動(メセナ)などにも積極的に取り組むようになりつつある。これに対して、大学においては、教育(学習援助)をとおした社会貢献や文化支援という活動は、幸せにもそもそも本来的責務である。だからこそ、私学に対しても、やや貧弱とはいえ、国民の税金が支出されているととらえるべきだろう。ただし、そういう大学の新しい責務の遂行とそのための革新は大学の自己決定によるべきものであるし(大学の自治、p127)、それゆえ、惨めなサバイバル・ノイローゼなどとは異なる、自信に満ちた営みでなければならない。大学の変容も、個人のレベルでの学習行為と本質的にはまったく同じ経緯をたどるものであり、自己管理型の生涯学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくできる世界)と出会うのと同様に、大学も自己管理型の生涯学習化のなかで自己変容という本来の学習の楽しみと出会うことができるのである。
 自己決定活動の真の動機は「自分のため」である。たとえ指導者が研修を受ける場合でも、「学習者のため」ではなく、「自分のため」といえる人が、学ぶことの意味を知るよい指導者である。また、ボランティアについては7章で述べるが、他の人から「えらいですね」とか「奇特な方ですね」といわれると、嫌な気持ちになるものだ。そういうときは「自分のためにやっています」と答えればさわやかでいられる。自分で「ボランティアをやっています」と言い切る人はあまりいない。それよりは、「こういう活動をやっている」と具体的にいうだろう。ボランティア活動は、ボランティアになるためではなく、何かをするために自己決定したものなのだ。ただ、ボランティア活動をしているある学生が、あまりつきあいのない友達に、自分が何をやっているのかを手っ取り早く答えるためには、ボランティアは便利な言葉だといっていたが……。いずれにせよ、人目ばかり気にする横並び意識や自己卑下のサバイバルと違って、自己決定・自己管理型の自己変容は人間にも大学にも気持ちのよいものである。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
学校開放 学校の施設等を住民による生涯学習等の活用ために提供すること。社会教育法44条には「学校の管理機関は、学校教育上支障がないと認める限り、その管理する学校の施設を社会教育のために利用に供するように努めなければならない」とある。ここで学校の管理機関とは教育委員会等であるが、実際に事故が起こると校長に責任が発生することが多い。学校開放を進めるためには、保険制度の整備のほか、住民やマスコミ等の何でも校長に責任を転嫁するという依存的な悪習を改める必要がある。また、住民によって学校の備品がこわされた場合など、正規の教育課程に支障がないように、教育行政は即日修繕をするなどの優先的措置が大切だ。現在、「余裕教室」(生徒数が減ったため使わなくなった教室)などの増加のなか、学校施設の生涯学習での活用方策を早急に立てることが望まれている。さらに、学校開放には、以上の「施設開放」のほか、教師を始めとする教育・研究機能を住民のために提供する「機能開放」というものがある。公開講座などがその例だ。これも最初は子ども人口の減少や財政削減のなか、「このままだと学校がつぶれる」「教師がクビになる」という危機意識から、「負担は大変だけど仕方ないから」としぶしぶやられてきた。しかし、なかには、自治体によっては「コミュニティ・スクール」などと称して、毎日、住民の生涯学習機関の一つとして本格的に稼動している小・中学校もある。そこでは、先の「学校教育上支障がないと認める限り」という消極論を乗り越えて、「生涯学習する地域の大人たちと生徒を交流させたい」という学校も現れ始めている。そういう学校の校長や教師たちは、自分たち自身の生涯学習をも楽しみ始めている。善も悪も入り混じった地域の真実のなかに「生きる力」としての学習があるからだ。学校の教育施設・教育機能は、地域住民の生涯学習にとっての「宝の箱」であるといえよう。
定型的教育 すべての学習(Total Learning)は、定型的教育(Formal Education)と非定型教育(Non FE)と不定型教育(In FE)、そして偶発的学習(Incidental L)からなる。これを、TL=FE+NFE+IFE+IL という式で表すことができる。成人教育、企業内教育などの非定型教育(NFE)が、多様性、現実性、自主・自発性、評価(フィードバック)の可能性、(社会の諸活動の教育的側面としての)統合性などが豊かであるのに比べて、大学等の学校教育による定型的教育(Formal Education)は、ややもすると杓子定規なつまらない内容になりがちだ。最近はカリキュラムの柔軟化などが叫ばれているが……。しかし、そもそも、高等教育などは学生の自己選択、自己決定の学習としての要素が強く求められていたはずだ。それなのに、なぜ、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動などの「学びたいから学ぶ」という自己決定活動なども参考にして、もっと早くから自己変革ができなかったのか。それは、自己革新の困難という定型的教育ならではの宿命があるからなのだろう。たとえば、ある教員が、つまらない授業を何の工夫もせずに毎年繰り返していたとしても、猫の首に鈴をつけるネズミがいないのと同じように、大学事務局だろうが、教員仲間だろうが、受講学生だろうが、だれも自分からはクレームをつける人がいないのである。だから、定型的教育のシステム自体の変容をねらうのも一つの手である。それは、学生の市民講座(NFE)への参加、ボランティアやアルバイト先(IFE)での体験学習、そして海外放浪体験(IL)などの学習を正規のFEとしての評価に取り込んでしまって、FEとしての高等教育の風土自体の変化を期待するということである。
大学の自己点検・自己評価 平成3年2月、大学審議会は「大学教育の改善について(答申)」を行った。そこでは、「大学が、教育研究活動の活性化を図り、質の向上に努めるとともに、その社会的責任を果たしていくためには、不断の自己点検を行い、改善への努力を行っていくことが必要である」として、教育理念・目標等、教育活動、研究活動、教員組織、施設設備、国際交流、社会との連携、管理運営・財政、自己評価体制などの自己点検・自己評価が求められた。なぜ「自己」かというと、学問の自由(憲法23条)に根拠をもつ「大学の自治」が尊重されるからである。よって、教育・研究の高度な専門性をもつと期待される大学教員は、自治を侵されない代わりに、当然、自己の責任において自己の教育研究活動を適正に自己評価する義務がある。また、評価は、選抜のための評価を除けば、そもそもが主体性の構成要素であって、本質的には本人の自己評価を意味する。ところが、大学教員のみならず、社会教育の指導系専門職員も含め、他者から勤務評定されにくい職種の人たちさえ、実際にはこの自己評価を怠りがちな実態がある。もちろん、制度的権威に迎合して、それからの評価を唯々諾々と受け入れる必要はない。しかし、適正な自己評価をするためには、たとえば学習者側に評価してもらったり、職員・教員間でシビアに批評しあったり、年間の事業・授業の実施記録を出して部外者も含めて広く批判を仰ぐなどの自己努力をすることは義務であるといえる。そうすることこそ、共に育つ姿勢であり、自己評価が前提の、やや自己決定に近い指導者というまれなる職業の面白さを楽しむ方法でもある。
継続高等教育 19世紀後半のイギリスを源流とする大学拡張(university extention)が、市民に対する周辺的なサービスとして「高等教育」を提供するというイメージがあるのに対して、その後いわれ始めた継続高等教育(continuing higher education)は、コミュニテイ・カレッジ・ブームなどを背景とし、成人継続教育の本来的な場として「高等継続教育」を提供しようとする言葉だといえる。
ボランティア・コーディネータ ボランティアをしたい人と必要とする所をつなげる者。全国ボランティア活動振興センターでは、その業務内容を、@ボランティア活動推進のための調査・企画・実施、A情報の整備及び提供活動、B学習の援助及び場の提供、C相談・助言ならびに需給調整、Dボランティアセンター機能と他機関・団体との連携、としている。これが社会教育主事の役割とかなり重なっていることは興味深い。平成7年1月17日の阪神大震災の救援ボランティアに全国の若者たちが駆けつけたことから、「日本の若者はしらけており、ボランティアの風土はない」という論調が崩された。むしろ、せっかくボランティアをしたい人がいるのに、社会がそれを需要と結びつけるコーディネート機能をもたないことこそ問題だったのである。

2 高等教育内容 7つの転換

 上下同質競争の頂点をめざすための「最適な手段」としての過去の陳腐な教育内容はそのままで、それを少しだけ市民にも開放するという程度の改革だけにとどまるならば、大学は生涯学習社会の形成には貢献できない。教育内容自体が転換されるべきだ。しかし、時代は高等教育内容にどんな転換を求めているのか。 本提案は、この図に示されたぼくなりに考える生涯学習の観点のもとに述べられている。

 図表12 生涯学習の再定義(p132参照)
現代の生涯学習
成長だけでなく癒しも
事実よりも真実を
積極的積極性とともに積極的消極性を

◆ 転換1−自己決定・自立支援型にする
 成人の学習の本質は自己管理型学習である。高等教育もこれに習い、「学びたいことと学びたい手段を自分で決定して学ぶ」という原則をできる限り取り入れる必要がある。
 ぼくの授業では、出欠、遅刻、早退、途中入退室、そしてもぐりも、すべて自由ということにしている。個人には個人の事情と個人のレディネス(準備性)があるからである。ぼくの責任は魅力的な授業をすることであり、他の用事をさしおいてもその授業を選ぶかどうかは、ぼくの責任ではなく学生が自分の責任で決めることではないか。
 私語の問題ひとつをとっても、教育が学習者に自己決定をさせてこなかったがゆえの学生の主体喪失状況は背筋が寒くなるほどである。これ以上、学生に「こんなつまんない授業なのに、出席ばかり厳しくとるんだから」などと思わせてはならない。それは、結局、他者や社会のせいにして安定しようとする学生を、内面から許し、甘やかせていることになるのだ。教員は授業にいっそう勝負をかけて着席を自己決定する学生を増やし、そのうえで、退室の自由を行使できないままおしゃべりする学生に、その不行使が本人の自己決定以外のなにものでもないことを知らしめなければならない。
◆ 転換2−双方向・水平交流型にする
 教員の楽しみは学生一人ひとりの「個の深み」との交流にあると、ぼくは思っている。とくに、学生が自由に書く出席ペーパーのおかげで、授業がかなり刺激的な仕事になっている。過去の一方通行の講義型授業だけでは、教員も学生も手応えに欠ける。
 大学の自己点検・自己評価の動きのなかで、学生に教員の授業を評価させる試みがいくつかの大学で生まれている。よいことだとは思うが、それがたんに人気度や教育技術を数字で表すだけのものであるなら高等な教育とはいえないだろう。社会教育・生涯学習がアマチュア学習者とプロフェッショナル学習援助者との相互的関与や共育をめざしているのと同じく、高等教育でもたがいに触発しあって、現在の研究水準の一歩上をめざす必要がある。大学教員が過去の研究業績という遺産だけで食っていける時代は終わろうとしている。学歴偏重社会から生涯学習社会に移行する段階で、教員の方も自己の文化遺産を急激な社会進展や学生の学習ニーズの時代的変化にあわせてリフレッシュしなければいけない時代になっているのだ。
 そのためには、自らの教育内容についてまで学生に自由な感性と実感にもとづいて授業評価させ、大小の批判も含めてすべて受けて立つことが効果的であるし、また、それは刺激的で楽しいことだ。ただし、その場合、教員は授業で学習者のように「学びたいことを学びたい手段で」学んでいるわけではないのだから、教員が学生集団のワン・オブ・ゼムであってはならない。そんなことでは学習援助者としての存在意義がなくなる。教育意図をもち、その意図する内容を公にすべきである。受けて立つということは、学生のニーズに追従することではないのだ。専門分野に関する過去の文化遺産や、現在の鋭い問題意識をフルに働かせて当たる必要がある。しかしながら、教員としての権力に頼ってもいけない。教員から学生への双方向教育は、ネットワーク型の異質間の水平交流でありたい。
◆ 転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする
 生涯学習の理想主義的なスローガンとして「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」がある。大学でもこれをめざすことができないだろうか。
 日本のある大学が米国に分校を開いたときの日本人学生向けのキャッチコピーは「アメリカ全土が君たちのキャンパスだ」というようなものだった。それならば、国内の大学においても学生に「君たちが学べる場は日本全土だ」といってよいはずだ。
 また、米国の大学の「履修要覧」には各教員のオフィスアワーが載っているものがある。オフィスアワーとは、何曜日の何時ころにはいつもその教員が研究室にいるから、学生が個人でも質問や議論をしにきてよいというシステムである。このようなオープンマインド(学習者に対して開かれた心)が教員に求められている。
◆ 転換4−おもしろ・感動型にする
 前述のように、ぼくは授業を勝負の場ととらえている。私たちは、雇用対策で大学当局に雇われているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会は、テレビや出版などによって、おもしろくて役立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業が、メディアの流すそれらの情報より何らかの意味で勝っていなければならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思にもとづくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。だから、選択に堪えるものでなければならない。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。
◆ 転換5−課題提起・解決型にする
 学校での学習への導入が科目中心なのに対して、成人の学習は課題中心であるという(M.ノールズ)。初等教育などでも、同様の課題中心の教育がかなり普及しつつある。心と体の病いを治すのを援助してくれるのはお医者さんであっても、実際に治しているのは本人である(自己治癒力)のと同様に、課題を認識してこそ主体的な学習が成り立ち、それが自己教育力の発揮につながるのである。学生の課題意識を呼び起こさないままに教え込むのでは教育効果が薄い。
 さらに、そこで呼び起こそうとする課題自体も、日常生活の事実に埋没するなかでは気づきそうもない、真実にふれる感動と気づきを与えるような深みのある課題でなくてはならない。
 授業も社会教育でいうと学級講座のような集合学習(p117)である。そこでは、せっかく時空間を共有するのだから、同時代性のある授業でなければ、集合する意味がないし、学生も教師もおもしろくない。そのためには、学生に追従するのではなく、同時代に生きる者が直面している共通の課題を鋭く抉り出して提起する教育内容が求められている。生涯学習審議会答申の提唱する現代的課題の学習も、そういうことを意味しているのだろう。
◆ 転換6−生きがい創出型にする
 高齢化にともなってライフプランづくりのための学習が盛んになっている。その学習は、より賢い生き方のためでもあり、より充実した生きがいのためでもある。時代がそういう学習を求めているのだ。また、学校教育でも、道徳教育はすべての一般教科に共通する課題だといわれる。しかし、自己の人生の内容とは遊離した過去の高等教育に慣れ親しんだ「まじめな」学生などからは、「人生を考えさせる授業」は反発を受けることがある。しかし、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである(p82)。「生きることを学ぶ」内容をめざしたい。
◆ 転換7−信頼・共感・癒し型にする
 生涯学習時代は人びとの「モノからココロへ」という価値観の転換の反映でもある。また、学問の世界においても、経済学者がボランティア活動の意義を先頭切って論ずる時代になってきた。ぼくは、そもそも知的水平空間自体が本質的に支持的風土としての性格をもっていると考えている。学歴社会が崩れようとしているいま、大学の授業を受けようとする学生の本音のところでの動機自体も、出世競争から幸福追求へと変化しているようだ。大学の授業をこういう「こころの時代」に対応させる必要がある。そういう授業のなかで生まれる信頼と共感の癒しのサンマこそが、真に自立した学習者を育てるのである。

参考資料 「生涯学習の再定義」
(社会教育「くえすちょん あんど あんさー」全日本社会教育連合会、1996年7月号より)
 1つめは、「発達だけでなく癒しも」です。人間、日々発達しているのを実感するのもうれしいことですが、実際には、それだけじゃなく、「癒されたい、安らぎたい」という欲望もあるのが自然だと思います。発達や成長だけを声高に相手に押しつけるのって「ウソだな」と思うのです。
 2つめは、「事実よりも真実を」です。学習というのが、つまらない事実の集積に圧迫されることであるようなマイナスイメージが、小学校以来、ぼくたちにありまして、これがワンダーランドとしての生涯学習への接近を妨げている。ほんとうのところは、事実なんかはおもしろくない。ぼくたちは、事実のインプットのためではなく、真実に少しでもふれてワクワクするためにこそ、出会い、生きているのだ。事実は、その集積が真実に近づくときだけおもしろいのだ。と、このように思うのです。だって、ともこさん(本掲載の「お手紙ごっこ」の相手、作詞家)だって、ご自分の歌詞を「事実と違うわね」といわれたって「当たり前でしょ」と思うだけでしょうけど、もし、「真実とは無縁ね」などという失礼なやつがいたら、「どうしてよ」となりますよね。歌詞も、人間存在の真実に接近するすばらしい虚構のひとつなのだと思います。
 3つめは、「積極的積極性とともに積極的消極性を」です。「誰からでも何からでも学びたい」という積極的な生き方をするひとを見ていると、じつは、撤退せざるをえないような場面の多いこの世の中で、積極性発揮の一方で、他者のせいにすることなく、さわやかな撤退をどこかでじょうずにしている。ぼくはこのような自己決定・自己管理型の「潔い撤退」を「積極的消極性」と呼んでいます。生涯学習や人間交流のような「積極的積極性」の行為は、この「積極的消極性」と連動関係にあると思うのです。この2つに対して、「消極的積極性」(やりたくないけど頑張っている)、「消極的消極性」(被害を受けているからできないでいる)の2つが、ワンダーランド発見のネックになっていると思います(じつはぼく自身のことですが)。
 遅ればせながらの自己紹介のようになってしまいました。 mito

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
成功のシンボル 人は、なぜ、大学にまで行こうとするのか。「人生に成功するため」という答え方もあろう。ジェイムス・ロバートソン『未来の仕事』(小池和子訳、勁草書房)によると、成功のシンボルの変化は次とおりである。過去…名声、知名度、高収入、高級住宅、セカンドハウス、住み込みの使用人、役員としての地位、毎年の新車、頻繁な世界旅行。未来…自由時間、創造的人間としての認知、仕事と遊びの一体化、金銭より尊敬と愛情で報われる、大切な社会コミットメント(社会参加)、よく笑う人・涙する人、愛情行為、自我とのふれあい。
幸福追求権 教育を受ける権利は、一般には、憲法26条の「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」が根拠とされる。しかし、ぼくはあえて13条(個人の尊重)の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」に規定された「幸福追求権」に、生涯学習活動と、その公的支援活動等の根拠をおきたい。ぼくは、学校教育についても同様にとらえる。もちろん、社会が「平和的な国家及び社会の形成者として(略)心身ともに健康な国民の育成を期して」(教育基本法2条)、つまり社会に望ましい形で貢献できる人を育成するために教育を行うという側面があることは明らかである。しかし、人類史や自然史がここで途絶える危険さえ内包している現代社会において、そういう「心身ともに健康な国民」という楽天的な見通しは、一人ひとりが少なくとも潜在的には「幸福追求」の願いをもっているのだという再確認と、社会がそれを尊重し、実現できるよう支援することこそ社会のためにもなるのだという確信なしには成立しえないと思う。たとえば、「学校は社会のためにあるのであって、君たちのためにあるのではないのだ。学校に対して甘い期待はするな」と生徒に言ってのける教師もいる。その正直さは賞賛に値いするとしても、その教師の職業人としての自己卑下と、そういわれた生徒たちの落胆を、まずは何とかしたい。だからこそ、ぼくは、「教育は学習者一人ひとりの幸福追求を支援するためにある」と強弁するのだ。また、指導者研修の講義などでは、「みなさんは幸福配達人です」といっているのである。
潜在的学習関心 藤岡英雄はNHK学習関心調査から、学習行動を海面上の頂点とする「学習関心の氷山モデル」をまとめている。海面下に隠れている大きな部分は、顕在的学習関心と潜在的学習関心の2つによって構成されている。「関心ある学習項目」のうち、個人面接や自由回答で得られたものが顕在、調査票の学習項目を見てから得られたものが潜在である。後者は「外からの刺激や手がかりが与えられてはじめて意識される」ものである。しかもこれが一番大きい未知の部分というのだ。たしかに私たちはせっかくのワンダーランドのうちのごくわずかにしか出会わないまま寿命が尽きる。しかし、せめて指導者は、学習者の潜在的学習関心まで含めて本人の可能性を信頼して援助することが大切である。
ボランティアバンク 市民講師や生涯学習施設での支援活動、講座・イベントの支援や手伝いなどをする希望のある人を登録して、リスト化し、需要に応じて情報提供等を行うシステム。問題点はつぎのとおりである。@バンクへの問い合わせ自体が少なく、せっかく登録し、研修なども受けたのに、お呼びがかからないというクレームが多い。A学習者のニーズにあわない教育内容・方法(たとえば「今のだらしない若者に説教したい」など)での活動を希望する者もあり、生涯学習社会への移行をむしろ阻むような結果にもなりうる。B教育委員会などが実施すると、そのお墨付きを得ることを目的に登録する人がいて、生涯学習に権威主義を持ち込む結果になる場合がある。Cその逆に、水平異質共生の生涯学習に向いている人が権威をきらったり、遠慮したりして登録してくれないことが多い。@については、最近は、その人の顔や、息遣いの聞こえるような詳細なアピール文、さらには、その人の提供できるプログラムの具体的な姿など、リアリティの感じられるバンクにするための工夫が模索されている。また、ボランティア自身も、待ちの姿勢ではなく、積極的に社会に出てニーズを探し出し、そこで自分をアピールすることが望ましい。Aについては、学習者のニーズにあわない人を無理に排除するのではなく、アダルト・ティーチングの習熟のための研修等を通じて、その人自身の気づきと態度変容を促す配慮が必要である。Bについては、市民の権威依存のうえに運営されてきた行政自体のほうから、体質改善しなければならない。それは行政改革の重要な一環でもある。Cについては、生涯学習における学習者と支援者の関係が上下関係ではなく、「学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人」という水平な交換関係にあるという認識を、生涯学習の町づくりをとおして町の風土として広めていく必要がある。生涯学習ボランティアは「先生」である必要はない。もし、「自分は先生の器であり、教える自信がある」などという人がいたら、その人はまず「無知と非力の自覚」のための態度変容から始めてもらわないと、かえって生涯学習社会への移行の邪魔になる。
自己決定 ぼくは、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つをあげている。それ以外の社会的活動には、純粋な自己決定の場は見当たらないのだ。だが、自分の人生は全体として自己決定でありたい、つまり、自分が自分の人生を決めたいとは誰もが思うことである。だからこそ上の3つは、現代社会における「もうひとつの生き方」として、現代人の普遍的課題となりつつある。ただし、自己決定の場でも、自己決定ではないこともある。ある市の公民館事業の市民企画委員会の研修の講師に行ったとき、「○○をやりたい」という新人委員に、ベテラン委員が「婦人教室で趣味の講座をやるのはだめです。必ず女性問題を学習するという、先輩委員たちが蓄積してきた民主的伝統があるのです」といっているのに出くわしたのである。ぼくは、さっそく、「女性問題をなぜやりたいのか、あなた自身の意見を述べたらどうですか」と横ヤリを入れた。自分の意見ではなく、「民主的」とか「蓄積」とか「経緯」とかの「言葉の権威」を盾にするのはフェアではない。リスクを背負っていないからだ。

第7章 ボランタリズムのシドウ

1 大人社会の御都合主義批判
 −楽しい生涯学習施設経営と楽しいボランティアのために−

 ボランタリズムはすべての人がもっている資質であり、願いである。人はみな自己実現と社会貢献によって癒され、成長し、かけがえのない自分を確認しようとするからだ。しかし、現代社会は、このあたりまえの願いを押しつぶす方向でも機能する。さらに、ボランタリズムを阻害する心の要因についても探りたい。

 ボランタリズムの指導などという自己矛盾ともいえるテーマに立ち向かう前に、まずはこれまでの生涯学習やボランティアに関する本書での議論を、この2ページを使って補足しつつまとめておきたい。
 ぼくも起草に関わった栃木県佐野市の生涯学習推進基本構想(平成5年4月)では、「私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野」というキャッチフレーズのもとに、「楽しい生涯学習=楽習」を大切にと呼びかけている。そして、「何からでも学び成長する私(わたし)」を基本として自発的意思のもとに自由に進められている市民の生涯学習活動がよりよいまちづくりにもつながると述べている。
 なぜ人びとが生涯学習をするのかといえば、その大きな理由のひとつは、生涯学習が楽しいからだ。それでは、どこがどのように楽しいのか。そのヒントは、今日の人びとのボランティア志向のなかに見出すことができる。生涯学習の活動も、佐野市の構想がいうように「私のためにやっていること」がよりよいまちづくりにもつながるという意味で、ボランティア活動と共通の楽しさをもっているのである。
 ボランティア活動とは、お金をもらうためではなく、自分から進んで、だれかの役に立とうとする活動のことである。これを、自発性、無償性、公共性の原則という。また、生涯学習活動とは、いつでも、どこでも、だれでも、なんでも、学びたいことを学びたい手段で学ぶことである。生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(平成4年7月)では、生涯学習とボランティア活動との関連の視点として、@ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習になる、Aボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための学習として生涯学習があり、学習の成果を生かし、深める実践としてボランティア活動がある、B人びとの生涯学習を支援するボランティア活動によって、生涯学習の振興が一層図られる、の3点を指摘している(p139)。
 さらに、ボランティアと生涯学習の2つの活動がとくに最近人びとから関心をもたれるようになった理由としては、自分のこれまでの枠組を変化・成長させる楽しさ(自己実現)と、自分の存在が他者に受け入れられる楽しさ(社会的認知)の2つがあげられる。人間は一度しか生きられないわけであるから、一人ひとりはこのようにして自分自身の存在価値や生きている証明を見つけ出そうとする。それらの活動は、外からの抑圧をみずからの内面に取り込んで仮面をかぶって交流する現代の状況下においては、自己確立、あるいは、自分さがしのための懸命な幸福追求の姿としてとらえてよいのかもしれない。
 ぼくも起草に関わった東京都練馬区生涯学習推進懇談会提言「土とみどりとひとと自分に出会えるねりまをめざして」(平成6年2月、p34)では、「この提言で何か生涯学習の理想像を描き、それに向かって進まなくてはいけないということになるとそれは一つの心理的圧迫になるだろう。これまでいわれ続けてきた、発達すべし、成長すべし、という強迫観念に追い回されるのはもうやめよう。こうした圧迫になる要素をすべて捨て去ったとき、私たちは地域社会に何を求めるのだろうか。それは、個人として尊重される場であり、自分をすなおに出せる場であり、あたたかな人間関係をもてる場であり、疲れた心を休める癒しと安らぎの場であり、生きていることを実感できる場である」として、どこまでも知りたいという発達や成長の欲求とともに、癒されたい、安らぎたいという欲求を生涯学習への志向として大切にしようと提起している。
 生涯学習の世界は、「教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人」「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」という混沌とした世界である。「受信」や「充電のための学習」ばかりでなく、学習成果を他者に伝えたり、発表したりする学習成果の「発信」や「放電」によって、「学ぶ」と「教える」が水平に双方向で行き交うのである。そこでは、権威を振りかざしたり、権威に従属しようとしたりして上下の関係に引きずられることはくだらないことと嗤われ、「してあげる」と「してもらう」の相互の働きかけが水平にスムーズに交流する。それは、いつ裏切られるかわからないとおたがいにびくびくしている現代の人間関係のなかでは、ボランティア活動とならんで、なかなか得難いホッとできる時間・空間・仲間関係でもありうる。これを癒しのサンマと呼ぶことができる。生涯学習やボランティアは、生涯にわたる発達・成長とともに、癒し・安らぎをも提供するのである。

 生涯学習施設が、そういう生涯学習活動の拠点として、サンマのなかでの交流を支援しようとすることは当然の役割である。施設ボランティアを導入することの意義もそこにある。その形態は、簡単なお手伝いから、かなり高度な見識を要する専門的支援活動にいたるまで多様に考えられるが、いずれにせよ、そのなかで、生涯学習施設ボランティアはつぎのような3つの他者との水平な出会いをもてると考えられる。@ボランティアと施設利用者、Aボランティアどうし、Bボランティアと施設職員。そして、これらの他者や、その生涯学習施設が固有にもっているそのほかの学習資源との出会いをとおして、ボランティアは人間としてもっている自分自身の無限の可能性のいくつかに出会うことができるのである。このように、生涯学習施設では出会いのチャンスにあふれたサンマをつくりうるのである。
 「そんな理想社会のようなことが現実社会で実現するわけがない」という人もいるかもしれない。たしかに、ここでいうサンマは、施設側が意識と理性を働かせないでも自然に形成されるというような代物ではない。しかし、それは、働きかけ方の問題でもある。たとえば、ぼくは授業で何回か「幸せの瞬間」というブレーンストーミングを行っている。ブレーンストーミングとは、「無礼講の話し合い」のような発想法の一種で、ルールは、@ひとのアイディアを批判しない(批判禁止)、A変わったアイディアでも自由に出す(自由奔放)、Bできるだけ多くのアイディアを出す(質より量)、C出されたアイディアを改良するようにアイディアを出す(結合便乗)、の4つである。このルールによって、いくらかは安心して「自分らしさ」を出すことができ、自由な発想のきっかけになるのである。「物差しで比べられること」に反発を感じながらも、そのあてがわれた物差しを内面に受け入れてしまって非生産的に自己を抑圧している私たちではあるが、それをみずから解放することも、まったく不可能なこととは言い切れないのである。ぼくも、まったく違ったそれぞれの人の「幸せの瞬間」を聞いていて、「これはまったく共感できない」などと感じたものは今まで一つもなかった。たとえば、「ジェットコースターで一番てっぺんまで登りつめて、これから落ちようとするとき」というのがあったが、お金を出してまでジェットコースターに乗るわけのない高所恐怖症のぼくでさえ、「ああ、なるほど」と思えたのである。このブレーンストーミングのような仕掛けはほかにもいろいろと考えられる。さらには、生涯学習施設においては、ブレーンストーミングの「批判禁止」をも超えて、批判されても傷つかない、批判しても傷つけないような、自分と相手への信頼と共感にあふれた自立した者同士の支持的風土(p32)にまで発展できるかもしれない。
 むしろ、問題は、生涯学習施設側の姿勢にあるのではないだろうか。ぼくが生涯学習施設ボランティアの導入を「出会いの拡大」として支持する立場からある県でパネルディスカッションの司会をしていたところ、その司会のやり方に対して県内のある図書館司書から批判を受けたことがある。それを大学の授業で紹介したところ、一人の学生がつぎのように出席ペーパーに書いてきた。

 先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的だといわれたと思いますが、私は司書さんがいったことがわかるような気がする。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思う。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。

 この出席ペーパーに対して、翌週の授業で、ぼくはつぎのようにコメントした。
 生涯学習施設へのボランティアの導入は、市民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。その図書館司書がそうでないと思うなら、そう批判すればよいではないか。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは、労働者としての自己客観視を忘れた御都合主義といわざるをえない。
 専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で代行できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。現在のその仕事は、ボランティアコーディネートやその他の、より専門的な仕事に純化すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は当局側の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずなのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。しかし、だとすれば、その図書館司書は、住民の幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。
 幸福とは自然に達成されるものではない。生涯学習援助職員の場合も、学習者の幸福追求への意図的、意識的な援助の営みのなかで、自らの幸福も確認できる。そのためには、自己の保護や安定だけ求めて自分の都合に理屈を合わせる御都合主義ではなく、自分が働いている意義を自負できる自律的な精神が求められる。これが職員としての現実原則に即したプライドの守り方、育て方である。

図表13 行政課題・行政改革としての生涯学習推進
 主体の3要素
 1 (自分のあたまで)認知する我
 2 (自分の決定で)行為する我
 3 (自分で適正に)評価する我
生涯学習推進事業
市民の主体性 私の楽習
職員の主体性 行政課題
行政の主体性 行政改革

 以上のように、ぼくは、生涯学習施設ボランティア活動を阻む施設側の要因として、2つの御都合主義が問題だと考えている。「出会いの援助よりも、従来の仕事の安定的な存続を優先する御都合主義」と「出会いの援助よりも、経費や人員の削減を優先する御都合主義」の2つである。前者に対しては「それなら、失業対策事業とどう違うのか」と問いたいし、後者に対しては「それなら、現在、公金を使って施設を運営し、しかも、専門職員まで配置している理由をどう答えるのか」と問いたいのである。
 日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べている。国民の幸福追求の重要な営みとして認識されるべきボランティア活動に対して、生涯学習施設がその援助者としての役割の自負と喜びを主体的に意識することができるかどうか、そこで生涯学習施設の将来が決まるといっても過言ではないだろう。
 そもそも、生涯学習施設職員が、現代の上下同質競争の価値観を乗り越えて、学習者や施設ボランティアとともに水平異質共生の突出的サンマをともに創造する営みに本気で、そして本務として関われるようになれば、それは職員自身にとっても至上の幸福といえるはずである。じつは、ぼくは、生涯学習施設へのボランティア導入は、一般の利用者との関係以上に、職員にとっての自分らしさや相手の「個の深み」と出会える楽しいものになるのではないかとうきうきしながら予想している。生涯学習が楽しい活動であるのと同様に、生涯学習の支援も楽しい活動であってほしいものだ。

◆ 生 涯 学 習 用 語 解 説 ◆
生涯学習ボランティア ボランティアそのものが学びであり、ボランティアするために学び、その学びを生かすためにボランティアがある。ただし、狭義の生涯学習ボランティアとは、人びとの生涯学習を支援するボランティアをさす。市民講師などの「指導的な活動」のほかに、会場整備などの「お手伝い的な活動」も、その意思が尊重されるべきだ。
ワン・オブ・ゼム論 職員や指導者のあり方を考える際、「住民(メンバー)の一員のつもりで働きます」という人がいる。ぼくはこれを「ワン・オブ・ゼム論」として批判する。住民の上には立てない、立ちたくないという謙虚さは立派だ。しかし、ネットワークにおいては、住民と行政のそれぞれが異なった自立的価値と役割を発揮する必要がある。住民のなかにも、自分たちの団体の活動で必要になった作業まで職員にやってもらおうとし、やってくれる職員を「いい職員」とする人もいるが、ぼくはそれを「市民の側の腐敗構造」と呼んでいる。本当のネットワーカーであれば、公務員に対してむしろ全体の奉仕者としてのいい仕事をするように要請するだろう。また、「ボランティアを導入すると私たちの仕事がなくなる」という専門職の発言は、謙虚さの表れではなく、じつは自己卑下にほかならない。ボランティアは自己決定の世界だが、それを職業的に支援するのが専門職の役割である。たとえば、情報提供、相談、研修プログラムの提供、ボランティアの適正配置、スーパーバイズなど、専門的資質・力量を要する仕事は、ボランティア導入によってむしろ増えるだろう。ただし、ルーティンワーク(決まりきった仕事の繰り返し)が増えるのではなく、ボランティアをはじめとする学習者とのより深い出会いや専門的助言など、生涯学習の専門的支援者としての仕事に純化することになるのである。それは専門職にとっても、仕事の楽しみとプライドが増すことにつながる。職員はボランティア集団のなかのワン・オブ・ゼムになってはいけないのである。
協働 ぼくも起草に関わった平成6年5月の神奈川県生涯学習審議会答申「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」では、行政と県民との関係を考えるにあたって「協働」をキーワードにした。そのポイントは、@役割の違いをふまえた上で施策や事業の推進を協力しあうという意味での「役割関係の重視」、A県民が客体(対象)ではなく、一方の主体としてとらえられるという意味での「県民の主体的参加の重視」、の2点である。双方に主体性の発揮が求められるのである。

2 おわりに−ボランタリズムとその指導
 −アンビバレンツな人間存在と、善と悪の真実を追求する方法−

 なぜ、生涯学習、ボランティア、地域・市民活動などを、人はわざわざ自発的(ボランタリー)に行うのか。その人が暇なら別だが、若者だったらもっと欲や希望に燃えてやるべきことがあるだろう。この問いにどう答えるか。そもそも、自己決定の世界であるボランタリズムを「指導する」とはどういうことなのか。

 (障害者の妻に支えられながら、訪問看護の活動をし、「欠点をさらけ出して本音で生きる」という内容の)ビデオを見る前、別に関係ないね。見た後、まったく関係ない。こういう内容のものはとくにきらいです。この用紙を出すのは最初なんですけど、授業は3回目です。最初の授業で自分にとても合わないと思い、そのとおりでした。過去2回もすべてが役立たずで、何も得るところがないです。とにかくあたりまえのところでしかない。今回のことについては、主人公のやりたいようにしているのでいいんじゃないの、と思った。それだけだ。

 こういう根底的な問題提起が出ると、空虚な「あるべき論」などいっぺんに色あせてしまって、いきなり「さあ、どうすればいいんだ」という本質論に迫ることができる。
 ぼくはつぎの授業で、このペーパーで気づいた2つのことを述べた。1つは、「あたりまえ」といいながら、「いいんじゃないの」と距離を置いていることの矛盾である。ぼくの授業は、他者に対する共感的理解の努力を社会教育主事(または支援者一般)になるための必須要件としている。これに対して、「各人それぞれでいいと思えばいい、共感しようなどというのは余計なお世話だ」という反対意見が出て当然なのである。ただし、その場合、明らかにぼくの授業内容に対する反論であって、「あたりまえ」という批判は妥当ではない。もし、ぼくの主張があたりまえすぎてつまらないならば、ぼくの授業を勝手に卒業してしまえばよいのだ。その際の単位は保障している。それとは反対に、卒業後ももぐりを数年続けていた人なのに、あるときmito的授業からの卒業宣言をしてフリースペースだけ来ている人がいる。「mitoちゃんのいう意見に同感だからつまらない」というのだ。他者の枠組と出会う共感ならワンダーランドになりうるが、自己の枠組と一致することを喜ぶ同感の場合は、依存的な学習態度になってしまうし、同一化志向のピアコンセプトになってしまう。そういう「自主卒業」までは、大いにぼくとの異質性を探ってほしい。
 2つは、「すべてが役立たずで、何も得るところがない」という点についてである。これは教授者に対する学習者からの非常に重要な異議申立てである。教育提供者側の契約違反にもつながりかねない問題だ。ただし、ぼく自身にとっても答えるのが難しいかなり高等な問いを発しさせてもらうならば、「それでは自分は何を求めているのか」というところまで願わくば書いてもらいたいということである。そのことによって、批判を受ける側も、する側も、ともにいっそう真実に迫ることができる。他の受講者さえもが漁夫の利を得ることができるのだ。これを、ぼくは、「批判の刃を自己にも向けよ」というレトリックで表している(『こころ』p152)。

 批判的なメッセージに対するmitoちゃんの対応について。私は正直言って、その出席ペーパーに腹が立った。そして、今の(偏見かな!)若者はこんなにしらけている。こんなにどうでもいいと思うなら来なければいいと思ってあきらめてしまう。しかし、先生はそれをとても重視し、よい刺激になると受けとめている。どうしてプラス思考できるのだろうか。これらは、ものごとのとらえ方の違いなのかもしれないが、私は感情のほうが先走り、怒る。反面、自分が教師であれば、どのように反応するだろうか。「どうでもいい、あたりまえのこと」という言葉に反論して、相手の間違いを正そうとするかもしれない。それは自分の価値観を押しつけようとする以外の何ものでもないように思う。そして、不快の感情で終わらせてしまう。mitoちゃんの反応を見て、まずは人の言っていることを様々な見方をして、肯定的に受け入れてみることにしよう。

 彼女のこの気づきが、ぼくのいう漁夫の利である。このように出席ペーパーシステムをとおして、授業はワンダーランドに変身する。しかし、ぼくは、「来なければいいと思ってあきらめてしまう」は別として、不快の感情をぶつけ、相手の言葉に反論して間違いを正そうとすることについては、そういう教師があってもいいと思う。ただし、教師という制度的上位者が、知的水平空間における双方向の対話の状況を創り出そうとするならば、という前提のもとにである。ぼくが葛藤を押さえたのは、ぼく自身が自己の葛藤自体に自信が持てなかったからともいえるのだ。ぼくは、指導の究極的本質とは、@シンパシー(共感する)、Aストローク(認める、認めたことを伝える)、Bエンカウンター(出会う)の3つだと考えている。基本的には対話から@が始まり、Aを発信する。Bは、ここでは、仮面を越えた異質の枠組の出会いを意味する。人間に対する肯定的関心のマインドさえあれば、この3つにたどりつく道はいくとおりもあるはずだ。

 (企業ぐるみのボランティア活動が、自立した個人のボランティア活動の補助器になるというビデオを見て)企業だからできることだと思う。サラリーマンは給料でるから。それは個人的なものではないのである。ボランティアでは食えない。個人でボランティアをやっているのはバカである。ある程度のゆとりがあって、やることである。これから何かをやろうとしている若者等にとっては、とっても無駄な時間である。自分の欲を満たさずしてどうする。

 さきほどの彼の翌週のペーパーである。とても重要な指摘である。もちろん、多くの他の学生からは「企業ぐるみということが個人を抑圧するのでは」という健全な反発のペーパーが提出されており、ぼくは力量の範囲内でその当然予想された批判に応えていこうと思うが、このペーパーはそのまた裏をかく現代人の真実の叫びのようにぼくには聞こえる。実際、このペーパーを他の短大の授業で紹介したところ、「そういう自分を隠さずに書けるなんてすごい。えらい」という賞賛の声の方が多数派であった。上下競争の現代社会に生きる人間の真実の側面なのである。ここで、まず、ぼくの基本的スタンスを振り返っておきたい。それは、p9で述べた@生涯学習、Aボランティア、B地域(市民)活動の3つの自己決定の活動は、他者を利すること(利他的利己主義という)、または、他者とともに生きること(共生という)であり、「そうあらねばならぬ」ではなく、「そうありたい」という自発にもとづく行為であるということである。言い換えれば「自分のため」の行為なのである。これに反した、生涯にわたって学ばなければならぬ、自己犠牲の精神をもたなければならぬ、地域や社会の一員として貢献しなければならぬ、などという空虚な言葉は、まったく無力である。その認識なくして、彼のペーパーを上回る真実を提示することはできないだろう。
 わたしたちは、まず、彼のペーパーから、生涯学習等をしない自由を保障することがいかに大切かを再確認しなければならない。つぎに、「ある程度のゆとりがあってやること。これから何かをやろうとしている若者には無駄」という発言をどう受けとめるかである。彼のさきほどの「いいんじゃないの」という距離は、正当にもここから発していたのだ。たしかに、若者などの人間が、地域ではなく巷でさまよったり、ひとりぽっちの思考の世界にはまり込んだりすることは、社会的活動と並んで濃密な時間の過ごし方ではあると思う。しかし、先の3つの自己決定の活動以外で、「これからやろうとする何か」というべき社会的活動は存在するのだろうか。ぼくは、少なくとも、現代社会における社会的な自己決定活動については、上の3つ以外には基本的にはありえないと思う。だからこそ、ぼくは3つを上下同質競争社会のなかでの突出的水平異質共生のサンマと呼んでいるのだ。
 この点については過去に学生から例外が提示されている。「ぼくがプロボクサーをめざしていた頃は、それで過労死してもよいと思っていた」というものである。その頃の彼に、生涯学習やボランティアを勧めるというのはたしかにどうかと思う。また、売れない(売るために迎合しない)芸術家であれば、自己表現活動そのものが癒しや自己の存在確認そのものになるであろうから、同様である。しかし、そういう場合でも、もし、異質の他者との水平な交流の機会がなく、これを本人が求めるならば、上の3つの存在は情報提供する必要があろう。先日、狛プーで招聘した前衛芸術の講師が、その飲み会において、「こういう場が社会全体にあったらいいのに」と言っていた。「何かをやろうとしている」ためにほかにゆとりのないはずの人でさえ、そういう場を求めるということもあるのである。
 話を戻して、スポーツ選手、売れない芸術家、そのほか、脱サラの第一次産業従事者などを除いて、とくに、賃労働者への道をあえて選択する場合について考えたい。これは選択自体は自己決定ではあるが、その後の働き方は本質的には「消極的積極」に属するものであり、ぼくはむしろ「奴隷の覚悟」をすることによって、そのあとから自己決定による個性の発揮の可能性が獲得できる世界だと考えている。そのため、自己決定の社会的活動からは除外して取り扱っている。この世界に対して、「これから何かをやろうとしている若者が、自分の欲を満たそうとして」立ち向かうとすれば、それは客観的には筋違いの部分があり(もちろん、主観的、および結果的には、偶然に「正解」になる場合もないとは限らないが)、自らの事実誤認に対するしっぺ返しが予想されるのである。なお、ぼくは、ペーパーの彼については、賃労働はめざしていないような気もしており、この部分は実在しない「一般的現代青年像」を念頭に書いている。
 以上のようなことから、空虚なスローガンとしてではなく、現代人の真実の叫びとしての「自己決定の社会的活動」への希求が明らかになっていく。それは、同時期に出されたつぎの2つのペーパーに表れている。これらは、さきほどのペーパーとは逆の、あるいは表裏一体の、人間の真実のもう一つの側面を表している。1つめは、男女共同参画型社会においては、「性の商品化をしてはいけないからしない」のではなく、男女の間の深くて昏い河をわたる共感があるからこそ「したくない」という真実である。また、2つめは、ボランティア活動はえらいから、あるいは、悩みがないからするものではなく、自分の命や時間を意味の充満したものにしたいという切なる願いがあるからこそ続けていくものだという真実である。

 私は今年、就職しません。就職できなかったわけではありません。4月に内内定をある企業からもらったのですが断わってしまいました。中国への1年間の留学経験もあり、語学もけっこうできるという特技を生かした仕事がしたいというのが、その頃の私の希望でした。その会社は中国の○○に工場を進出するという計画をもっていたので、まさに渡りに舟とばかりにセミナーに行きました。会社の人事部長も私のことを気に入ったのか、この不景気のご時勢だというのに、私を飲みに誘ったりしてくれて、ほとんど噂に聞くバブル時代の学生のようでした。自分が高く評価されたと感じた私はとても感激してしまいました。私の内内定が決まった夜、会社の人に例によって飲みに誘われました。最初の飲み屋を出たあと、「面白いところに連れていってやるから」と、私は薄暗いバーに連れていかれました。そこはタイ人バーでタイの女の子がいろいろ「サービス」をしてくれるという所でした。そこでの盛り上がり方はひどいものでした。気の弱い女の子ならば失神しかねないくらいでした。詳しくは書けませんが、性的な「サービス」をタイ人のホステスに強要して、会社の人たち数名が盛り上がっていたのです。私もそれに巻き込まれました。正直いって嫌悪感と怒りで気が変になりそうでした。吐き気がしてトイレに駆け込み、本当に吐いてしまいました。
 何が嫌だったかといえば、女性に性的「サービス」を強要することも嫌といえば嫌ですが、それはある意味では仕方ないでしょう。しかし、そこにアジア人、外国人を見下した差別の匂いが充満していたからです。私は中国に留学していました。留学中にさまざまなトラブルが起きましたが、そのたびに中国の方々に助けていただきました。私はどう考えても彼らアジア外国人を差別的な目で見ることはできません。きれいごとでも何でもなく、これだけは譲れないと主張して、その会社の内内定をけりました。

 これについては、後日、タイ人バーの女性は自己決定ではないか、いやだったら日本に来なければいいではないか、というほかの青年からの反論があった。そのことについてのディスカッションも必要かもしれない。しかし、ぼくは、そのディスカッションよりも前に、この学生の真実の共感の思いに対して共感できる自分のかけらの存在に気づいたことを喜びたい。ぼくはおかげさまでいい友をもっている!

 ボランティアをしていると、「他人のために時間を使うことができるなんてえらい」とか、「べつに悪いことをしているわけじゃないからいいじゃん」など、いろいろ言われる。養護学校でまったく反応がないまま自分の世界にいる子どもと接すると、つぎの日まで落ち込むことが多い。その子どもたちは常に奇声を発している。排泄は調整できない。ぼくが抱いても、親が抱いても、ほぼ同じ反応(じたばたあばれる)をする。はっきりいって、人間として対応することができない。親は人形を扱っているようにぼくには見える。子どもがほとんど違いのない行動をとっているにもかかわらず、「あっ、○○ちゃんも喜んでいるわ」、「あら、この子はおこっているのかしら」などと「自分勝手」に判断しているように思える。この子のためというのが何なのか。何がしてあげられるのか。また、ぼくがその場にいても、いなくても、その子にとって何も問題ないような気がする(食事、排泄介助を除く)。ボランティアをやっていると、自分のとった行動に相手が反応してくれることにいかに自分が期待していたかを反省する。その反応が、だっこしたら落ちないように体重移動をしてくれたというようなものでも。相手のための利他的行動とは、相手に恩着せがましくない、純に相手のためを考えてする行動だとは思う。しかし、相手からは反応がないし、自分がいても問題ない。「相手のため」なんか見つからない。これは相手のためだと思ってとった行動でも、メガネをふっとばされるほどの平手打ちで返ってきたりする(一応、反応があったと思ってうれしいのだが)。
 養護学校にボランティアに行って気づいたことは、自分は他人に対してできることなんてたいしてないんだなということである(食事、排泄等の生理的機能に関しては別)。自己顕示欲というのだろうか、相手に反応を期待しすぎていた。「思いやりをもって相手に接する」……。うーん、あの子たちにぼくの優しさ、思いやりはわかっているのだろうか。このように考えること自体、相手を尊敬していない思いやりのない考えなのだろうか。ボランティアはぼくを変えてしまった。
 書くのを忘れてしまった。ボランティアは楽しいし、心あたたまることがたくさんある。悩みながらもぼくは続けていきたい。

 これらのペーパーから表出された「個の深み」に対しては、ぼくのほうこそ「指導者」としてどうしたら存在価値を発揮できるのか、その重みに不安になるほどだ。しかし、ぼくがあるNPO(民間非営利団体)の研修に講師として行ったとき、その団体のタイでの少女買春反対のボランティア活動に参加している女子高校生が、先の「やりたいようにしているのでいいんじゃないの」というペーパーに対して、ほかのメンバーが「共感はできないが、ふつうは隠すことを言えるという点はすごい」などと評価するなか、「ペーパーの人はボランティアのいい世界を知らないだけだと思います」という反応をあっさりと返してくれた。彼女の言葉はぼくには新鮮だった。そうだ、先生ではない無知と非力のぼくであっても、3つの社会的自己決定活動の幸せを配ろうとすることはできるし、それはとても大切なことだと自負していいのだ。現に、ぼくの「ボランティア活動はえらいから、あるいは、悩みがないからするものではなく、自分の命や時間を意味の充満したものにしたいという切なる願いがあるから続けていくもの」という先述の言葉を、上の養護学校ボランティアの本人が、「自分が表現し得なかった自分の思いにぴったりの言葉」と称賛してくれた。書いているうちに自分の力量を越えることを書けるときがある。ぼくはこれを神がかりの一瞬と呼ぶ。うれしいことだ。
 しかし、一方で、「そんなにいい世界があるなら、ぼくの目の前で見せてくれ。そうでないとぼくは」というところでとぎれてしまったmito的授業を受講した学生からの出席ペーパーや、「それではどこで何をしたらよいのか、もっと具体的な受入れ先を教えてほしかった」というぼくの講演を聴講した年輩者からのお叱りを受けることもある。だが、突出的水平異質共生なんてものは、質的には突出的とはいえ、量的にはこの上下同質競争の渦巻くまちなのにごろごろところがっているほどで、「目をむけてみよう」という気さえあればいくらでも見つかるものだ。その人の主体的な意思によって、そのときから外的世界自体が違って見えてくるのだ。ぼくの授業や講義に欲求不満を感じる人には、いったん謝ったうえではあるが、そう答えるしかないことに気づいた。もしかしたらこの本の読者も同様の不満を感じたかもしれないが……。
 突出的水平異質共生は自己決定の世界であり、最初の一歩の選択においても「選択の自由の恐怖」を感じるぐらいたくさんある。しかし、ボランタリズムの本質はここにある。たとえば自分にあいそうなNPOの門をたたいてみるのもよいかもしれない。でも、べつにNPOではなくてもよいのだ。「自分が学びたい内容を学びたい手段で学ぶ」のが生涯学習である。だから、ぼくがある具体的な内容と手段を望ましいものとして提示するとしたら、それ自体に疑義がある。それはある音楽を「こう感じましょう」とシドウするようにナンセンスなことだ。具体的な情報提供をするのだったら、たくさんの「いい世界」を提示して、本人に選択を任せればよい。指導に関するぼくなりの今の考え方をつぎのようにまとめて提示して、この本の終わりとする。

図表14 自己決定活動の「指導」とは何か(まとめ)

項目
@
A
B

現代社会の病理 だれか助けてよ!
家族関係の病い 不毛な真偽の勝負
教育システムの歪み 画一的物差の内面化
ピアコンセプト みんなの目が恐い

生涯学習の再定義 自分らしく生きたい
発達とともに癒しも=あるがままの自分
事実よりも真実を=ワンダーランド
積極的消極性も大切=立つ鳥跡を濁さず

個の深みと出会う開かれた心の持ち方
内容の専門家=指導主体
方法の専門家=支援主体
人生の専門家=学習主体

個と出会えない閉ざされた心
教条主義=事大主義
御都合主義=合理化
敗北主義=消極的消極

今後のトレンド ビジネスも成立?!
癒しのサンマの提供=無条件相互肯定
社会貢献の提供=フィランソロピー
MAZEの提供=スキゾなプロセス

他者の幸福追求援助 3大スキル
対話とシンパシー 個の深みとの対話
ストローク 存在の認知の伝達
エンカウンター 異なる枠組と出会う

社会教育における自己決定の指導の発展
集団動員→個の尊重→個の回復(主体)
上下同質→水平同質→水平異質(共生)
行政主導→市民主体→公民協働(共育)

ネットワーク型の指導者の役割遂行
初めの一歩を励ます=開きたい心を開く
ミニ・ヒエラルキーの形成を早めにつぶす
潔い撤退を促す=積極的消極の潔さ

(増補)『癒しの生涯学習』その後

1 3つの学歴社会を打破し、水平異質共生社会へ
 ぼくは本書で「従来の学歴偏重(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を評価することはできないという社会的な認識が普及しつつある」としつつ、「逆に学校歴偏重(どこの大学のどの学部の卒業か、など)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしている」とした(p118)。この「最終卒業大学」偏重が、本項でいう学歴社会の1つ目の要素である。
 つぎに、学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、 「人が多様な個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、他者を打ち負かすことを目的にした資格取得などばかりが評価されて非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に資するものとはいえない」ともしている(p113)。学校卒業後の資格取得、これも実質的には学の歴ということだから、偏重すれば、生涯学習的とはいえども、学歴社会の2つ目の要素になりかねない。
 そこで、ぼくは、これに対して、「狛プーなどのネットワークでは、イヤなヤツが得する目にあうのではなく、いい男やいい女こそが報われる関係を自然に創り出す評価システムを内包している」として、癒しの生涯学習の意義を主張したのである。
 リカレント教育の場合、皮肉っぽくなるが、社会人の(2つ目の)学歴社会適応対策という性格があるのだろう。ただ、それが、人生の早い時期に決定してしまうのではなく、「気がついたときからいつでも始められる」という点では救いがある。だが、将来のためだけに生きることよりも、「今ここで」の「楽習」としてのリカレントこそ意図的に広めていくべきではないかとは思う。
 一方、ぼくは、最近、人が将来に有利になろうとして頑張って受験勉強をすること自体は、それはそれで偉いことではあるのだろう、と思うようになってきた。なぜなら、有利になろうとして頑張る、などという努力をまったくしようとしない人間(それはそれで「潔い撤退」ならば、その人のよい面でもあるのだが)が多いなか、結果として、「異質の価値」を社会に提供することになりうるからである。「今ここで」の楽しみ、あるいは「今ここだけ」の悲観的な楽しみも含め、そういう誘惑の多いなか、これをあえて振り切って頑張る人は、それはそれで立派なことなのだろう。
 問題は、結果が思わしくなかった場合に、諦観、自己評価基準の適正な修正、そして立ち直りというプロセスをたどれるかどうかである。また、頑張りもしなかった人が、上下競争の結果がだめだったという理由で、世間に対して不平ばかりいっているのは、ぼくにもその側面はあるが、もっと醜い姿だと思う。ようは、積極的消極、潔い撤退の重要性ということであろう。
 学歴社会の3つ目の要素として、ぼくは、学校、とくに高校の卒業を最低資格要件として問うような職種の存在を挙げておきたい。「高校ぐらい出ておかないと不利になるから」という理由で行きたくもない高校に通う若者たちは、この高校中退者続出のなかで、かわいそうだと思う。ある職種において、たとえば世界史の教養が必要というのなら、養成施設への入学時にその試験をする、あるいは現職研修に組み込むなどの工夫を社会の側も考える必要があるといえよう。
 このように、「癒しの生涯学習」のためには、個人の価値観の転換だけではなく、社会の側も、価値基準の大きな転換が求められていることを、増補の最初にあたって述べておきたい。

2 自己決定や共感はしてもしなくてもよいものか
 いまの時代状況をどんな言葉で表せばよいのか。
 生涯学習、ボランティア、地域活動における自己決定の重要性を授業で述べたとき、ある男子学生が「mitoちゃんは、本気になって人生には自己決定が重要だと思っているの? そんなわけないでしょう?」とぼくに言った。彼は、親の願うことだからある採用試験を受けるという。ただし、どうしてもそこに入らなければ困るというわけではないから、一生懸命、受験勉強をするというつもりはない、試験を受けさえすれば親も納得してくれるだろうというのだ。たしかに、その後も親元にいてあげて、あくせくせずにそれなりの仕事をして暮らしていけば、親も本人もそれで幸せ、ということかもしれない。
 短大1年女子学生から次のような出席ペーパーが提出された。

 自己決定自体、しても、しなくても、どちらでもよい。ただ、迷惑をかけたり、かけられたりするのはいやだけど。
 (思春期の少女の摂食障害のビデオを見て)私は彼女たちのことを可哀相とは思わない。本人はつらいとかいっているけれど、本人の願いどおり体重が激減しただけのこと。ビデオで彼女たちもいっていたとおり、「病気になって、かまってもらいたかった」からそうなった、つまり自己決定なのだから。

 ぼくは彼女の文章自体には誤りはないと思う。自己決定は権利であって、しなければいけないというものでもないし、また、現代社会においては、自己決定しても通らない、かえって損をするなどということがあまりにも多すぎる。だから自己決定すなわち自立をめざして周りに波乱を巻き起こすよりは、迷惑をかけないようにおたがいが気遣って生きるほうが大切、ということになる。ほかの学生の中には「自己決定活動の中に癒しなんかがあるはずがない」という者さえいるのだ。しかし、一方、それは、たがいが縮こまって生きているという現代の状況をも生み出す結果にもつながっている。
 次に、「可哀相とは思わない」である。文面上は、これもかなり正しいと思う。自分の行為が失敗したからといって、「同情」されるのはいやなものである。
 しかし、そもそも、これらの思春期の逸脱行動さえも自己決定に含めてしまってよいのか。「自己決定、つまり、自分で決めたことなんでしょ」と突き放してしまってよいのか。ぼくは、自己決定とは、選択の自由だけでなく、撤退、無為を含めて3つの自由の前提のもとに、過去や他人のせいにすることなく、「やりたいから」「自分のために」自分の行動を決定することだと考えている。そして、さらには、そうできない事情がある他者に対しては(じつは自分自身にも自己決定できない事情はいつまでもいくらでもあるはず)、同情ではなく、相手の枠組で相手を理解しようとすること、つまり、共感すること、人の痛みを知ることがとても重要だ。
 だが、もう一度ひっくり返させてもらおう。たとえば教師には学習者に対する共感的理解が必要だといわれるが、それは教師の義務としてなのか。共感が義務だなんて、ちょっとおかしい。
 先のペーパーに対して、ある社会人女子学生から、次のようなレスポンスのペーパーがあった。

 私は以前まで共感ということができない人間でした。心の中では共感していないのに、表面だけは共感しているようなフリをしてずっと過ごしてきました。私が「共感」を実感できるようになったきっかけは、勉強のために行ったエンカウンター(注・本音の出会い)のグループによる体験学習です。その特殊な環境の中で、情動を激しく揺さぶられ、初めて他人の考えを、感情を、感じられたことがありました。でも、その時は初めての体験だったのでよく理解できなかった。
 ところが、そのあと、3年ぐらいたったら、人に「共感」できる自分がありました。自分とは違う枠組を認められるようになったっていうか。そうしたら、他人にイライラすることも少なくなって、いわゆる社会的に「いい人」ではない自分のことも好きになれるようになりました。
 今日、紹介された「可哀相とは思わない」という人は、もしかしたら以前の私と同じように、共感の体験をもっていない人なのでは、と思いました。

 たしかに、人に迷惑をかけることはいけないことといわれている。これに対して、自己決定や共感は、しなければいけないというほどのものではない。しかし、社会人の彼女の場合は、共感体験によって社会性のほか、自己受容や自信までも獲得することができ始めている。このように、自己決定の人生を歩きたい、自他を信頼し、共感しあって生きていきたいという願いは禁欲できない潜在的願望であるはずだ。それを「してもしなくてもよいもの」と割り切ってしまおうとする時代の心理の奥底には、何か暗澹たる敗北感が流れているように思える。
 先日、ある青少年施設の運営会議で、現代の時代の気分を「鬱」とする論議があった。躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽きてしまっているのではないか。そういう時代に人々が求めている自己決定活動とは、大騒ぎできる華々しいイベントなどではなく、一人ひとりの「個の深み」と静かに対面し、出会いの体験を味わうことのできる「癒しのサンマ」なのではないか。

3 生涯学習と癒し=内なる敗北主義から抜け出す方法
 癒しの語感は、一般的にはたしかに後向きなのであろう。そういうことが、多くの生涯学習援助職員にとって、癒しのサンマの提供を仕事として取り組むことへの抵抗感となっているのかもしれない。
 しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、後向きの価値観を最初から排除することはしないものの(そこが従来の教育の価値観と違うところである、後述)、結果としてはむしろ前向きに終わるはずのものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク型の態度を指す。
 「『癒しの生涯学習』(本書)を考える」(伊藤学、全日本社会教育連合会「社会教育」、1997年8月号)は、たとえば、カウンセリングやガーデニングのブームを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている」ので、そういう当然の「欲求」を、「教育者は無視できなくなっている」としている。
 伊藤の若者の現実のニーズから立脚した論旨はぼくの本などよりもよっぽどわかりやすい。しかし、じつは、ここに、現代社会における一般的な「癒し」と、ぼくが提起する生涯学習における「癒し」との決定的な違いがあると思う。
 そもそも、ぼくは「癒しのサンマ」と表現している。このサンマという言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの「自由なはずの」授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。このような学生の批判は、「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」というような関係者にありがちな批判より、ずっと的を射た抵抗だと思う。生涯学習のような自己決定活動とは異なる学校教育の場においては、そういう学生にぼくが言えるのは「無理して出席しないで、元気になったらぼくの授業に出ておいで」ということぐらいである。
 ここまでいうと、「そんな教育の、どこが癒しなんだ」とも言われそうである。実際、心優しい人なのだろう、ある市民講座の受講者の主婦が、この本をさっと眺めて、「教師が弱い若者たちをやりこめているだけのような気がする」と出席ペーパーで訴えてきたことがある。しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質があるのだ。つまり、ぼくが進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う一般的な現代社会からの「いい男、いい女」のための逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃げてしまおうという場ではない。むしろ、人と信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容の突出的なサンマを創り出すという、なかなか面倒な営みなのである。しかも、自助グループが「自分だけではなく、みんなも同じ悩みをもっているのだなあ」という気づきを促すものだとすれば、それとも異なり、ピアコンセプト(p30)さえも乗り越えて、「あなたはあなた、私は私」というネットワーク型関係への気づきを促そうとするものである。考えてみれば、学習することが即目的であるような学習中毒のほうがよっぽど楽だ。
 しかし、このような「出会いの努力」を本人がしない限り、本当に癒されることはありえないだろうとぼくは思っている。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の「癒し」志向の事態に対して、本当に癒される人間関係を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざすべき個人の自立や、望ましいコミュニティ形成、ネットワークづくりなどはできようがない。

4 自己決定の人生と生涯学習
 ぼくは教育の根拠を憲法13条の「幸福追求権」においている(p132)。法学の世界では、この13条が「自己決定権」との関連で論議されるようになってきているそうだ。
 ぼくは1998年3月まで昭和音楽大学で社会教育主事課程を教えていた。
 チエちゃんという学生は、短大に入学してすぐのぼくの最初の授業で、講義が終わったとき、ぼくのところに来てこう言った。
「mitoちゃん(ぼくのこと)、わたし、いい女になるつもりだからよろしくね」。
 ぼくは、これはすごい人が入学してきた、と思った。大人の女でも、ふつう、どこかにいい男がいないかしら、となるものである。それに対して、18歳のいわばまだ「小娘」であるはずのチエちゃんが、きちんと自分自身の成長に希望を持ってまっすぐに目を向けているのである。このように自分にきちんと目を向けられる人は強い。思ったとおり、彼女は声楽家の卵としてもずば抜けた成長を示し、現在、憧れのオペラの舞台を目指して一生懸命生きている。
 チエちゃんが2年になったとき、また、「ねえ、mitoちゃん、わたし、すごいこと思いついちゃった」と呼びかけられた。こういうことは、青年期真最中の多くの学生にとってよくあることなので、ぼくはいつものように「なあに」とふつうに応じた。
 彼女がそのとき言ったのはこういうことである。きのう、おうち(この場合は下宿先)に帰る途中、これって人生みたいだな、と思った。おうちが「死」であるとすると、それに向かって歩いていくのが人生だ。
 彼女も青年期真っ只中だから、やはり生きることとは、とか、死ぬこととは、とか、まともに考える時期なのだなあ、とぼくは思った。しかし、彼女の話は次のように続いた。
 おうち=死に向かって帰るとき、二つの帰り方がある。ひとつは、おうちだけを目指して、寄り道もしないで、まっしぐらに効率よく歩く帰り方だ。そういう人たちをあざ笑ったり、ましてや責めたりする気持ちはまったくない。でも、自分自身はもうひとつの帰り方をしたいということに気づいたのだそうだ。それは、友だちのところに会いに行ったり、途中の森に入り込んで散歩してみたりして、「人生の風景を味わいながら帰る」という帰り方である。
 ぼくはこれを聞いて、それが大きな発見であることを認めた。まさに自己決定の人生のあり方ではないか。そして、生涯学習やボランティア活動、市民活動などは、そういう「自分がやろうとしてやる」自己決定の活動である。ほんとうに自己決定で生きることができている人は、たしかに、そうでない人がいるからといって、干渉したり、とやかく言ったりしないものだ。そういうことまで、ぴったりと説明しきれている。多くの人がそうありたいと思っている当たり前のことだが気づかない「自己決定」のあり方を、チエちゃんははっきりと示してくれたのだ。
 ぼくは、その後、ちゃっかり、この話を授業やいろいろな講演などでしゃべらせてもらっていた(もちろんチエちゃんの話という前置き付きで)。青年教室にときどき顔を見せていたチエちゃんが、それを聞いて、ある日、二次会の席でぼくにこう言った。「mitoちゃん、わたしの話、ほかの人にどんどん話していいわよ。でもね、私がそのとき言ったことで一番大事なことを、mitoちゃんは忘れてる」。すなわち、「エネルギーを使うけど」という前置きの言葉を、「人生の風景を味わって生きていきたい」という言葉の前につけていたはずだ。それが大切な発見だったのに、とぼくは注意されたのである。
 そうだ。自己決定の活動をしようとすると、「効率よく生きる」のとは違って、多大のエネルギーを消費する。自分がやろうとしてやり始めた生涯学習活動なのに、人と出会うことによってかえって自分自身が傷ついてしまったり、専門の世界を散歩しているうちにさ迷い込んでしまって、自分がその世界のどこを歩いているのだか見当がつかなくなってしまったり・・・・。自己決定の人生や、自己決定の生涯学習活動というのは、「エネルギーを使うけど」という前提も含めて自己決定することなのだろう。
 ぼくの追加意見も述べておきたい。ぼくはチエちゃんみたいな人たちから、たくさんエネルギーをもらって生きているけれど、それでも元気がなくなるときもままある。そういうときに思う。人には「エネルギーを使うけど」という前提そのものがしんどいときがある。そういうとき、自己決定活動の場合なら、潔くお休みさせてもらえばいいのだ。それは、自己決定活動が元気にできている人からは、けっして非難されたりすることはないだろう。そのことはチエちゃんの言葉が保障してくれている。

5 レスポンスの獲得方法
 パソコン通信あるいはインタネット利用のメーリングリストにおいて、その発信内容の質が問われることが多い。ぼくは、電子的コミュニケーション全体においては、「濃い議論」も「峠の茶屋」もどちらもあっていいと思う。ぼんやりとした全体の流れは自然に出てくるだろう。読んでいるだけ(ROM)の多くの人たちも、実際にはそんなところだ。だからアクティブな人の発信に対して、あえてレスポンスするまでには至らないことが多い。「濃い議論」が行き交うことはいや、という人は、ごく少数だと思われる。読まずに捨ててしまえばいいだけの話だからだ。
 一方、「濃い議論」をアクティブに発信する人にとっては、レスポンスをもらえないことを淋しがる気持ちになることが多い。なんといっても、「レスポンス至上主義」(『かくろん』p133)だからである。しかし、レスポンスを獲得したいと思うのなら、相手側の義務感や協調心ではなく、自発的にレスポンスしたいと思わせ、その自己決定を促すような発信をしなければならない。「フェア」に発信することによってレスポンスをもらうのである。ということは、「○○についてどう思いますか」などという一方的なアンケート調査のような発問では効果がない。自らが「こういう理由から関心をもっている」「こういうふうに困っている」、そして「こういう考え方はどうかとは思っている」などと、まずは自分の手の内をさらして自己開示、自己主張し、あとの結論はそれに基づいて発言した人(「枝葉」としての自分を含む)の議論の流れにまかせるという潔い態度が必要になるのだ。

6 後向きを否定しないで=積極・消極の自己決定の尊重
 よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己管理できていないから、とさえいえるかもしれない。
 自己決定活動のエネルギー消耗について、ぼくの関わっているメーリングリストから。
 「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。
 人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。
 この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。
 違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。
 「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。
 後向きになっているときも個人にとっての大切な時間なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは生産的な生き方のひとつだといえよう。

7 受容と共感の態度変容の支援方法
 学習援助、とくに態度変容のためのそれは、けっして上から無理に押し付けるものであってはならない。たとえば、看護職員の現職研修において、職員を現代社会の一員でもあるとしてとらえた場合、本人自身の顕在的、潜在的関心として、仕事のなかで自分らしさを守り、育て、発揮し、働きがい、生きがいをもちたいという気持ちが存在するはずである。そういう本人の自発的な意向を尊重してこれを援助するという考え方が教育の側に求められているのである。そのことによって、教育を受ける側にとっては、教育が自己受容にもつながるものになり、「自分にとっての意味ある学習」という能動的な受けとめ方が可能になる。
 そのためには、学習方法としては、従来の知識詰め込み型の受動的学習から問題解決型の主体的な学習への転換が必要になる。また、学習内容としては、従来の専門分野ごとのたてわりの内容だけではなく、看護全体にわたって必要な、さらには本人の生産的な構えや人間関係全般にとって必要な資質と能力を高めるような学習内容が必要になる。その根底には、人間存在に対する基本的信頼(自分への信頼=自信を含む)と共感能力に基づいた望ましい社会性の獲得が必要である。これを実現する具体的な学習方法・内容としては、コミュニケーションやカウンセリングマインド、グループワークやチームワークのトレーニングが考えられる(『こころ』参照)。
 そして、効果的な態度変容のためには、それらの研修が体験学習として、あくまでも楽しく、感動にあふれたものであることが望まれる。つまり、人と人とのつながりや、そのほかの態度変容のための看護職員の卒後教育は、まず第一に、日頃の看護の精神的な疲れやストレスを癒し、組織の中で閉ざされがちな心を解放してくれるような「生涯学習=楽習」の一環でなければならないということである。
 生涯学習ボランティアについては、職務として行われる看護とは本質的に異なるところがあるだろうが、両者とも他者への援助の活動であり、しかもそれが組織的な取り組みであることが多いという点で、その態度変容の研修の必要性とあり方についてはほぼ同様のことがいえるだろう。すなわち、学習が「楽習」になり、自己受容にもなり、それゆえ、「自分のため」、「楽しいから」、「自分が学べることだから」という主体的態度で研修を受ける結果につながるということが態度変容の研修の要件なのである。
 たとえば、「幸せの瞬間」(p136)によって期待できるのは、生産的な構えの獲得という態度変容の学習である。

8 偶発的学習による態度変容=毒と薬の両面価値の真実
 ぼくは『かくろん』において、遊び型学習の支援を提唱するため、偶発的学習の意味について次のように述べた。
 「ここで、注目しておきたいことは、それらの遊びは、ある意識的な学習目的に対する効果的な学習方法として行われているのではないということである。このような学習目的のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つがじょうずに遊ぶ能力であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える望ましくない遊びを禁止することよりも、望ましい遊びの素材を提供することなのである」。
 たとえば、ビデオフォーラムなどでは、視聴者は映像の切り取りのどこを見ようが、何を感じようが自由である。そこに個別で多様な気づきがある。ロールプレイも、ぼくはそういう学習機会として展開している。これは、講師としてのぼく自身、恐ろしい方法ではある。学習者側からどんなケースが提起されるか予想がつかないからだ。だが、実際にやってみると、実感に基づいた互いのロール(役割)のリアルなやりとりができるものだ。指導者側の予想しえない展開であるだけに、真実により近づくことができるのである。始まってしまえば、あとはロールチェンジ(役割交換)などをしながら多様な個性がどんどんと発揮される。これを「臨床の知」(中村雄二郎)の一種ということができよう。
 これらを「教育内容不定の偶発的学習」と呼んでおく。このような学習を仕掛けるために、指導者には、「真実は毒と薬のアンビハレンツ(両面価値)であるのだから、最終的には学習者側がどちらでも好きなものをとればいい」という潔さが求められる。禁欲または諦観ともいえようか。このようにして「学習者側が選択する」と思えるようになれば、「先生」としての余計な気負いもゆるんで、こういう「教育内容不定の偶発的学習」を「指導」するときも、少しは気が楽になる。
 もうひとつは、パーティーなどの「教育意図不在の偶発的学習」のプログラムである。まさか「教育的パーティー」などとはだれもいわないだろう。そんなことをいってしまったら、来る人も来なくなる。しかし、そういう「非教育的パーティー」のなかでこそ、たとえば、「潔い撤退」や「来るものを拒まず、去るものを追わず」のネットワーク精神などを参加者は偶発的に学びとるのである。ついでにいうと、パーティーには、「祭りのあとの空しさに耐える」(p46)という現代社会の幸福追求にとって必須の「生きる力」の教育作用というおまけまでついてくる。あるいは、これからは、全体の盛り上がりなどより、「鬱の時代」に対応した「しみじみ系」のパーティーが求められるようになるのかもしれない。どちらにせよ、すばらしい偶発的学習の契機になる。
 『かくろん』においてパソコン通信における偶発的学習を例に引き、「パーティー型学習」の意義を述べた。じつは、ぼくは、公民館で一つの部屋をオープンスペースに確保して毎晩パーティーを開いておき、一人でもファミリーでも夕食後にふらっと遊びにこれるようにするという夢を以前からもっていた。
 教育内容不定の偶発的学習については、適正な教育的意図の媒介によって、より効果的に促進することができるだろう。また、あぜ道を散策していてよい思考がひらめいたとすれば、これは教育意図不在の偶発的学習だが、行政がそういう市民の散策のための配慮から、その道を舗装せずに土のまま整備するとしたら、それは生涯学習推進事業の一環として高く評価されるべきである。
 この認識方法は、生涯学習推進をすべての行政セクションを越えた全行政的課題として貫徹するための重要な視点だとぼくは認識している。ちょっとした路地裏の整備でさえも、ただたんに無機的にきれいにするというだけでなく、「偶発的学習」(思索のための散歩など)がスムーズに起こりうるように、という教育的、文化的配慮をもって設計するということなのだから。少し古い言葉になるが、これこそを行政の文化化というべきなのだろう。

9 成人学習者としての態度変容
 学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人だという。アダルトティーチャーはアダルトラーナー(成人学習者)でもある。
 それを実現するためにぼくが考える主体的学習の条件の1つは、「主体的関与」である。グループワークの発表は「バナナの叩き売り方式」で行うとよい。これは、グループごとに他のグループの「自分たちの売りの部分」の叩き売り(成果発表)を聞きにいき、双方向(当然だが)の対話をし、また、すべてのメンバーが少なくとも1回は、他のグループに対して1人で叩き売りをするという趣向のものである。これは、あらたまった全体発表をするのとはひと味違ったおもしろ味があり、学習者の能動的参加やプレゼンテーションの意欲を高めてくれる。
 2つは、「異質の枠組との出会い」である。価値観ゲーム(p49)のような異なりとの出会いをとおした自己の価値観への気づきによる枠組の変容は、本来の学習のあり方のひとつだといえる。つまり、異なる枠組をもつ他者から自己を学ぶのである。
 3つは、「対話」である。対話はソクラテス以来、教育の原点である。たとえばインタビューダイアローグでは、ぼくがインタビュアーになって、地域活動をするサラリーマンとダイアローグ(対話)を行ったとする。「仕事だって忙しいのになぜやるのか?」、「奥さんは怒っていないか?」などの対話によって、その人の生き様から、たんなる事実ではなく真実の姿勢を学びとろうとするのである。また、出席ペーパーシステム(ディスクジョッキータイム)は、受講者とのダイアローグである。ぼく自身、これによって、一方通行の教授者としての宿命的な不安からかなり免れている。これらの対話のなかから、シンパシー、ストローク、エンカウンターが生ずる(p141)。ぼくは、これを、指導の本質的3要素と考える。

10 大人に対する心の教育や指導は可能か
 「人の心を育てることは可能か」という問いに対するぼくの結論は「可能」である。これに対し、教育懐疑派のようにすべての人の単純な自己教育しか認めない人が不可能と答えるならともかく、子どもにだけは可能だが大人には不可能という素朴肯定派の答えは、絶望的ともいえる大きな問題をはらんでいる。その人がふと我に返ったとき、「だったら、子どもにとっても地獄のような教育や指導なんだろうな」と気づくはずではないか。それでも、過去の一部の縦社会のように「自分も我慢してきたんだから、今の子どもも社会のために我慢しろ」というのか。
 やはり、ここで「心を育てる」学校教育や社会教育をめざす場合、今までわたしたちが思い込んできた教育の姿とは異なる「もうひとつの教育」(『こころ』p6)の姿を探し出し、自信をもって、楽しげに、「できる!」と答えたい。ただし、それは「できる」であって、「できている」では決してない。
 心を育てるという教育の可能性を考えるにあたって、ここではあえて、最も抵抗が強いと考えられる大人に対する心の教育的指導のあり方について踏み込んでみることとしよう。
 指導は「指さし導く」と書く。
 何を指さすかというと教育目標(=学習の到達目標)であろう。だから、自分には教育目標があるのにそれを学習者側には秘密にしておくような指導は、本当の指導ではないということになろう。次に「心を育てる」などといわれても、そんな面での教育目標なんかおこがましくてもてないという指導者もいるだろう。そういう人は、指導者としての資質がかなりあるとぼくは思うが、オルタナティブな(もうひとつの)教育や指導の存在の可能性をも考えて、これ以降のぼくの文も読んでほしい。
 次に、導くということは、その教育目標の方向に手を引いてあげることであり、これも大変なことだ。自分だって健全(まったく欠け目なく異常がないこと)な心をもっているはずがないのだから。だが、「不完全な自己への自覚」さえあれば、これから述べるような導き方ならできるはずだとぼくは考える。
 なお、これから述べる「大人に対する(心の)指導」のあり方は、じつは子どもにとっても、「地獄ではない、もうひとつの教育や指導」のあり方を示すものなのではないかとぼくは思っている。
@ 非日常的な相互関与を意図的に深める。
 ぼくは、本学大学開放実践センターのこれからの役割として「情報提供を乗り越えて相互関与へ」という提起をしている。その前に、メーリングリスト仲間と議論していた「指導」という言葉の是非を紹介していたのだが、「指導に代わるいい言葉」として、その「相互関与(interaction)」にヒントがあるのではないかという指摘があった。その指摘を受けて、指導の本質は、とくに心を育てるという場面においては、指導者と学習者の相互関与を非日常的な深いものにして、学習者の気づきのあるものになるように、意図的に行為することなのではないかと思ったのである。たしかに、これができれば、すばらしい指導といえるだろう。
 小児精神科医の河合洋は、今日の子どもたちのぎりぎりの状況をふまえて、「ほざくんじゃねえ」と訴えている。子どもにではなく、子どもを取り巻く親や教師などの大人に対してである。他人の痛みがわからない大人たちから発せられる、感情を伴わない意味のない言葉の洪水(ほざき)に、子どもたちはSOSを発しているというのである。「意味のある言葉」をたくさん受けるために生まれてきたはずの大人たちに対しても、ほざきの連続の不幸な日常のなかで、もし、指導によって日常では得られない学習者との深い相互関与が実現できるのなら、その指導はこの社会における突出的な意図的教育行為といえるのではないか。
A 指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する。
 これについては、すでに説明したところである。p20においては「不毛な真偽の勝負」を「無知と非力の自覚」によって克服するプロセスについて、p80においては教授者に「無知と非力の自覚」さえあれば、学習者より知識・技能が劣るということがあってもよいということについて説明した。
 ぼくの授業を受けている学生のなかには、「無知と非力の自覚」というぼくの言葉を聞いて、「無知と非力を自覚してしまったからこそ、私はつらいのに」と反発してくる者がいるが、ぼくがいいたいのはそういうことではない。指導者自体が自己の無知と非力を認めて、受け入れようとしないままで、学習者にだけはそのような気づきを援助するなどということができるわけがない。
B 教育と学習の間に流れる深くて昏い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。
 教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、p12では情緒的な表現になってしまった。
 学習者の「自分の心を教育されることへの抵抗心」を尊重しつつ、学習者主体の指導を試みようとする指導者にとっては、つねに自己の指導の有効性が疑わしいものに思えてくることだろう。しかも、「ところで、自分のほうの指導者としての主体性はどうなってしまうんだ?」という最後の問いも残ったままである。逆に、学習者からのねぎらいや感謝のちょっとした一言でささやかな自信がもてたりするときもあるだろう。とくに「心を育てる」教育、ぼくの言葉でいえば学習者の態度変容のための指導においては、厳しいいい方になるがその繰り返しをするしか方法はないと思う。男と女の間にも、最終的には理解し合えない「深くて昏い河」が流れている。しかし、だからといって、ふてくされてしまって、相手という彼岸に向かって舟を漕ぐことさえしなくなったら、その人の姿はもうかわいくない。

11 わたしたちはどんな心をもちたいのか
 最近の青少年対策の文献の特徴は、ここ数年の文献で散見された青少年育成に関わる社会や大人の責任を問う姿勢が普遍化してきていることである(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年発行)。また、中央教育審議会答申「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機」(平成10年6月)も同様の趣旨である。
 青少年「対策」だけに終始していた時から比べれば、よいことだとは思う。しかし、じつは、ぼくには、その議論のなかにも、今ひとつしっくりこないものを感じることが多い。わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたいではないか。むしろ、「自分のため」と潔くは思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。
 以前から、親の期待に沿おうとして過剰な努力をしてしまう子どもたちの苦しみが問題になっているが、同様に、親だって、子どもの期待に沿おうとして過剰な努力をするなんて本当はまっぴらごめんのはずだ。
 「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」というものが、教育を受けるものにとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、これは指導行為など成り立つわけがない。空しく響くだけだ。極端にいえば、人々から本音のところではいやがられてきた教育や指導の再来ともとらえられかねない。もっと、子育てを含めた大人の幸福追求全体にとって、「今ここで」(p72)の実感からの展望をもちたい。
 そこで、ぼくが音楽大学を去るにあたって、大学の授業の締めくくりに、2年間「mito的授業」に付き合ってもらった短大2年生に、その印象に関する自分個人にとってのキーワードを一人一人出してもらってまとめた図を掲載する。図を見て気づくように、そのほとんどが、態度や雰囲気に関することである(図表15)。さらに単位認定に結びつかない青年教室(p98)においては、なおのこと、これらの「心」に関することがぼくの存在の意味だったといえるのではないかと思う。
 しかし、一方で、「自分は、親や恋人以外の他者にとっても意味のある存在でありたい」という願望そのものが感じられない若い人たちと出会うこともある。そこでは、社会的な自己決定活動を「自分のため」の「癒しのサンマ」ととらえようとする本書の議論の動機や前提自体が成立しない。しかし、ぼくは、「そういう願望のない人」をけしからんとは思えない。むしろ、時代の「悲惨さ」を感じる。その悩ましい願望がないとすれば、悩む必要もない分、報われて癒されるということも期待できないと思われるからだ。そういう人たちの「心を育てる」ことなどできるのか。人間は社会的存在でもあるのだから、本人も気づいていない願望、潜在的欲求としては、その願望があるはずであると信頼して接するしかないのだろう。まさに深くて昏い困難な課題である。
 本稿においてさえ、学習者自身に対しては、指導という用語自体をオープンに示して積極的に使うかどうかは保留の状態である。じつは、この『癒しの生涯学習』の副題も、当初、「ネットワーク指導論」とする予定であった。しかし、まわりの若者たちが、「指導論」はどうも感じが悪いというのである。今まで指導という言葉が個人の幸福追求とはあまりにも対立的にとらえられてきたからなのだろう。ただ、「自己決定活動の『指導』とは何か」という「まとめ」の簡単な表はp147につけてある。

1991.4月
西村美東士『生涯学習 か・く・ろ・ん』 目次
 −主体・情報・迷路を遊ぶ−
       学文社 四六判上製カバー 1942円(税別)

第1部  「個の深み」への注目、そして、支援      
 はじめに −「個の深み」とは何か−          
 1 社会教育における組織と個人            
 2 講義型学習と社会教育、高等教育          
 3 「個の深み」を支援する講義技術          
 視点1 イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点    
     −西武ロフトがとらえた若者たち−       
 視点2 個としての主張を援助する新しい民間教育事業  
     −東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE− 
 視点3 「個人」がいきいきするしかけ         
     −横浜女性フォーラムの情報・施設・講座−   
 視点4 「個の深み」を尊重し助長する団体活動の形態  
                            
第2部 情報の主体的な受信・発信をめざして       
1 現代都市青年と情報                 
 −ヤングアダルト情報サービスの提唱−         
  はじめに                      
  (1) 青年と情報環境                 
  (2) 公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱−
  (3) ヤングアダルトのための情報           
  (4) 青年とともに育つ情報サービス          
2 パソコン・パソコン通信と青年            
 −成熟したネットワークとは何か−           
  (1) パソコンの急速な普及と未成熟性         
  (2) ネットワークを体現するパソコン通信       
  (3) パソコン通信における新しい「知」と「集団」   
3 パソコン通信は生涯学習に何を与えるか        
  (1) 「在来型の生涯学習」を支援する         
  (2) 「新型の生涯学習」とは何か           
  (3) ミスマッチ、アバウト、ジグザグ         
  (4) コミュニケーション型学習            
  (5) ネットワークによる知的生産           
 視点1 生涯学習関係者のパソコン・ネットワーク     
     −AV−PUBのサロンで「私的」交流−     
 視点2 学習情報提供事業の企画と展開          
     −人間が学習情報を求めている−         
 視点3 学習情報提供の実際               
                             
第3部 主体的な学習を個人がとりもどすために       
1 子どもたちの団体活動                 
 −そこに秘められている大いなる教育力−         
  (1) 教育とは子どもがワクワクする営み         
  (2) 少年団体活動とは子どもの「準拠枠」に迫っていく活動
  (3) 少年団体活動には教育力があふれている       
  (4) 子どもにだって「個の深み」がある         
2 地方自治体における学習プログラム作成の視点      
 (1) 知と健康のネットワークを支援するシステム      
   (1) −1 過去の団体中心主義と現在の施設中心主義  
   (1) −2 ピラミッド型からネットワーク型へ     
   (1) −3 啓蒙主義の発展的解消としてのネットワーク型問題提起
 (2) 年間事業計画の作成                 
   (2) −1 地域の実態、行政の実態をとらえる     
   (2) −2 学習要求をとらえる            
   (2) −3 「公的課題」の優先            
   (2) −4 学習課題を整理する            
 (3) 個別事業計画                    
   (3) −1 「学習ニーズ」の優先           
   (3) −2 参加対象をどう設定するか         
   (3) −3 各コマの学習目標・学習主題・学習内容を設定する
 (4) 学習プログラム作成上の今後の課題          

 視点1 あたたかいディスコダンス            
 視点2 レクリエーション的な要求への対応        
 視点3 高齢者教育における学習課題のとらえ方      
 視点4 グループリーダーの新しい形           
 視点5 リーダー研修に望まれる内容           
 視点6 学習圏構想によって生み出される自治体のアイデン 
     ティティ −東京都足立区の生涯学習推進構想−  

1993.3月
西村美東士『こ・こ・ろ 生涯学習』 目次
 −いばりたい人、いりません−
       学文社 四六判上製カバー 1942円(税別)

第1部 生涯学習するこころとは何か
1 フリーチャイルドの心をとりもどす
 (1) ガンバリズムで自分をごまかすことをやめる
 (2) 人間らしい心を取り戻す
 (3) フリーチャイルドの心で学ぶ
 (4) 学習とは、自分が自分を変えること
 (5) 学習とは、水平なギブ・アンド・テイクのネットワーク
 (6) 何で生きてるの?
 (7) 生きる力としての主体性をはぐくむ学習を
2 生涯学習理念はなぜ新しいのか
 (1) あらゆるひと・機関・施設が生涯学習の振興のために手をつなぐ町
 (2) 傷つけあう関係ではなく、支えあう関係にあふれる町
 (3) 人間が疎外されることなく、ともに幸福を追求しあう町
 (4) 一人ひとりが楽しくいきいきと仕事や学習に励める町
 (5) 地球や人類の将来を憂えるグローバルでやさしいこころをもつ町
 (6) 一人ひとりの個性がのびのびと発揮される町
3 学校週5日制で問われる大人の主体性
 (1) 青少年団体自身が拒否すべき安易な受け皿論
 (2) 新しい土曜日の個別性
 (3) 新しい土曜日が求める主体性
 (4) ヒエラルキーへの従属からネットワークの主体へ
 (5) 「個の深み」とMAZE(社会教育の新しい展開)
 (6) マニュアルを越えて

第2部 こころを開く態度変容の学習
 1 こころを開いて交流できる仲間づくりの方法
 2 授業の主体的な楽しみ方
 (1) まじめな人の問題点
 (2) 君の主体を問う
 (3) 知のヒエラルキー vs ネットワーク
 3 情報へのネットワーク型アクセス
 (1) 過去の知の重力圏からの脱出
 (2) 本の私有と共有の方法
 (3) 電子化された情報・映像化された情報
 (4) 情報とストロークの発信
第3部 主体的学習へのいざない方
1 学習相談がめざすもの
 (1) 日常的相談でも、学習情報提供でもない
 (2) 学習相談とは何か
 (3) コンピュータの効果的活用と人間の介在の必要性
 (4) 生涯学習の主体としての自立への援助
 (5) ネットワークの中でともに育つ
2 保護や管理ではなく自由への恐怖を与える
 (1) 自分は求めるけれど、人にはあげられない
 (2) 現実原則の中でのストロークの自己管理を
 (3) コミュニケーションの成熟化と無力化
 (4) 管理や保護よりも自由を

ボクと出席ペーパー
  学校教育への恨み        強力な幸福願望と自分の幸せ
  勤勉主義のごまかし       についての懐疑
  授業は勝負だ          アイデンティティの喪失
  ―ビートたけしに勝つ      今の自分や他人を判断したく
  学習に対する強迫観念      ない気持ち
  学生の敗北主義に対す      他人の「聞く耳」がこわい
  る教師のエンカウンタ      人間不信の深み
  身勝手な恋愛観         集団への帰属に対する拒否感
  対等な人間関係の中での性的興奮 山アラシジレンマ
  や快感を受容できない      自己表現の不器用さと解放
  気をつかうな、気のきく人になれ 共感的理解の能力
  教師や他人の自信を不快に    自分のために生きる
  思う敗北主義          −ギブ・アンド・テイク
  ヒエラルキーへの抵抗      仲間の撤退を許すネット
  信用ではなく信頼を       ワークマインドを身につけよ

 巻末資料1 社会教育・生涯学習ひとくちミニ知識
 巻末資料2 自分を知ろう−エゴグラム
 巻末資料3 友だちとやってみよう−グループワーク
 巻末資料4 mito的授業シラバス

mito的授業の印象
癒しのサンマの図(A5に縮小)

さくいん(フレーズ・レトリック)
「相手の幸せのため」ですませてはいけない 76 ◆あなたはあなた、私は私 72 19 60 95◆あるがままの自分が、両手を広げて歓迎されるサンマ 96 9 ◆あんた世間なめてんじゃない 62 ◆いい男いい女 112 28 ◆いい男といい女さえ支援すればよい 111 ◆いい加減はよい加減 106 ◆生きる意味をあえてあげるならば癒ししかないのではないか 9 ◆潔い撤退 70 44 47 102 ◆依存させてくれないカリスマ 89 ◆一年に一回来てもメンバーだ 94 ◆1%の真実 58 ◆1%の批判 75 ◆いばるな、へつらうな、同質の仲間ではなく異質の他者を歓迎せよ 60 ◆癒されたい、安らぎたい 135 ◆癒しとは傷ついた心がもとの状態に戻ること 8 ◆教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人 135 ◆「おうち」はインフラストラクチャー 115 ◆おまえなんかいなくたっていいんだ 17 ◆かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために 99 95 ◆過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる 65 ◆家族は意識や理性による努力の営み 14 ◆神がかりの一瞬 146 ◆「我慢して出席しなさい」では、忍耐心しか育てられない 130 ◆君たちが学べる場は日本全土だ 130 ◆教師は劣等感を刺激される職業である 84 ◆漁夫の利 141 69 85 ◆薬にするか毒として飲むかを自己決定せよ 108 ◆「くだらないミーイズム」と「報われるミーイズム」 110 ◆「ケッ」と言って笑い飛ばす能力を育てる 24 36 ◆権力・ヒエラルキーにしっぽを振るな 74 26 ◆この人が生きていてくれてよかった 27 63 ◆個は他者と関わることによってより深まる 63 ◆淋しがり屋のタカビー 57 ◆さわやかな自己主張 41 112 ◆3人分の着席の幸せ 56 ◆してあげる、してもらう 56 ◆指導したい人はいても、指導されたい人はいない 12 ◆市民の側の腐敗構造 139 ◆「社会一般では」は意外に当てにならない 71 ◆生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができる 120 21 ◆真偽の勝負から無知と非力の自覚へ 19 ◆真実の共感の思いに対して共感できる自分のかけらの存在 145 ◆信頼している人たちに聞いてまわる 89 ◆自己受容による自己変容 50 ◆事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を 93 ◆事実は小説よりも奇なり 38 ◆自負できるプライバシー、二次利用されたい著作権 90 ◆自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているか 109 ◆自分の命や時間を意味の充満したものにしたい 144 ◆自分一人で頑張ることはない 18 ◆自分を知って、自分を大切に 51 ◆ジモティーはラッキー 94 ◆人生の風景を味わって生きていきたい 9 ◆スパイから逃げ切ることは考えても無駄 63 ◆スムーズな自己開示のネットワーク 109 ◆積極的積極と消極的積極 40 132 ◆積極的積極と積極的消極 70 29 ◆先生病は職業病と違って、その病気の責任はおもに本人にある 76 ◆相互否定・上下同質競争の魔のトライアングルから、相互承認・水平異質共生の癒しのネットワークへ 96 ◆「そのことについては今は話したくない」が最善の対応である 89 ◆その人はその行為を選ぶべくして選んでいる 51 ◆「ただのろくでなし」と「ましなろくでなし」 24 ◆「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為 102 ◆友達から変と思われたらもう終わり 30 ◆どこに向かって発展しようとかまわない 100 ◆どこまでも知りたい、癒されたい 9 ◆どこまでも知りたい 34 50 108 135 ◆奴隷の覚悟を決める 40 13 42 143 ◆なんで生きてるの 11 ◆熱血先生の傲慢 60 ◆ネットワークのなかでの二人の役割発揮 111 ◆発達だけでなく癒しも 131 ◆人は人によって傷つき、人によって癒される 8 ◆批判の刃を自己にも向けよ 75 13 84 93 141 ◆批判は歓迎せよ、否定は受け流せ 54 ◆開きたい心を開きたいときに安心して開く 110 ◆ビートたけしに勝つ 11 ◆深くて昏い河で舟を漕ぐ 12 144 ◆「古き良き日々」や「過去の栄光」にしがみつく人 67 ◆変化の願望は自分にしか向けられない 88 ◆放っておいてほしい、でも、気にかけてほしい 8 ◆ボランティアのいい世界を知らないだけ 146 ◆「ましなろくでなし」であればよい 66 113 ◆待つのではなく出前せよ 86 ◆見返りを押しつけるな、見返りが期待できるような行為をせよ 64 ◆幹と枝葉 70 32 43 61 ◆無知と非力の自覚 20 32 66 87 100 ◆良いわがままと悪いわがまま 29 102 ◆ルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそ 102 ◆わたしの人生はわたしが歩きたい 29 ◆私は夜中一人で動き出すおもちゃ 8 ◆私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野 134 

さくいん(ワード)

A 28 
AC 23 79 
CP 79 22 76 81 
FC 36 
NPO 146 
VTR 85 
haveからbeへ 124 
mito的授業 69 
 −おしゃべりの自由 55 
 −ちょっと待った方式 55 
 −パフォーマンスタイム 87 
 −暴力とセックスの禁止 67 84 
アイデア 100 
アイデンティティ 111 8 62 
アガペ 65 
アクセシビリティ 121 
アジール 104 
アンドラゴジー 122 
アンビバレンツ 108 19 42 93 
エッグヘッド 36 
エンカウンター 49 13 141 
オープンマインド 121 130 
オフィスアワー 130 
カウンセリングマインド 61 58 
カウンター・カルチャー 104 36 
カリスマ 89 46 90 
ガンバリズム 18 25 43 79 96 
キーパーソン 95 
キャッチアップ型教育 115 
キャンプ 104 
ゲーム 44 
ゲシュタルトの祈り 72 
コミュニケーション 72 46 109 
コミュニケーション訓練 74 
コミュニティ 97 92 
サン(3)化け 96 
サンマ 9 
シミュレーション 27 
シラバス 45 
シンパシー 63 13 141 
スキゾ 100 
スタッフ機能 123 
ストーリー 25 
ストローク 65 13 84 96 141 
スパイ 112 
スローガン 107 93 116 143 
セクショナリズム 60 
ソクラテス 47 
ダブルバインド 76 
ダブルメッセージ 76 
ツリーとリゾーム 32 
ディスコミュニケーション 64 
デリケート 54 
ニュー・カマー 102 
ネットワーカー 36 70 103 
ネットワーク 73 31 33 56 60 72 98 102 123 129 
 −ギブ・アンド・テイク 123 
 −マインド 36 110 123 
 −自浄作用 112 
 −自立と依存の統合 123 
 −社会 91 
バーンアウト 43 
パソコン通信 36 
ヒエラルキー 73 26 29 31 33 43 60 93 98 
ピア 73 31 33 
ピアコンセプト 30 10 26 56 60 67 102 
フィランソロピー 125 
フリースペース 27 89 107 
 −治癒力・教育力 106 
ブレーンストーミング 136 
プータロー精神 98 
プライオリティ 92 
ホメオスタシス 59 
ボランタリズム 146 
ボランティア 73 6 9 142 
ボランティア・コーディネータ 127 
ボランティアバンク 133 
マス 95 6 
マスメディア 36 
マンデラ大統領 28 
ミーイズム 100 108 
メセナ 125 
メタ・レベル 81 
メディア 130 
モラトリアム 42 
ヤマアラシジレンマ 46 
ユース・カルチャー 104 
ライフプラン 131 
ラベリング 89 
リーダーシップ 97 95 
リカレント学習 120 39 124 
リピーター 102 
リフレッシュ学習 124 
レクリエーション 81 78 
レディネス 128 
ワン・オブ・ゼム 139 129 
ワンダーランド 11 34 52 125 


愛 55 28 
与えられた権威 22 
甘え 55 
安心できる足場 114 
言い出しっぺ 106 
生きがい創出型 131 
異議申立て 36 141 
異質性 141 
痛み 109 
いつ・どこ・だれ・なに 134 130 
一気飲み 105 
一斉承り型学習 120 
意図的行為 6 
居場所 92 
今ここで 72 
意味ある他者 91 
癒し 8 29 63 115 
癒しと貢献の生涯学習 13 
癒しと成長の好循環 115 
癒しのサンマ 37 9 92 98 110 115 116 131 135 
受けて立つ 83 27 58 75 86 
お試し期間 45 
思い立ったが吉日 120 
おもしろ・感動型 130 
親父の会 103 
折り合い 20 71 


解放の笑い 19 
加害者の被害者ヅラ 56 
書き言葉メディア 46 86 
革新型学習 47 
過剰緊張 21 
過剰適応 23 106 
過剰で屈折したACとCP 27 
過剰反省 21 
家族関係の病理 14 
課題中心 130 
課題中心の問題解決学習 119 
価値観ゲーム 49 
家庭教育 21 
仮面 135 
仮面・戦術 41 
空念仏 93 
過労死 18 
感情交流 20 
関心・意欲・態度 28 
感動 34 
感動の私語 55 
学社連携・学社融合 37
楽習 134 
学習課題 92 58 
学習経過 122 
学習権 55 68 76 
学習交換 65 
学習しない自由 142 
学習者の自己責任 58 
学習者の責任 123 
学習者の選択行為 130 
学習者の不快 86 
学習需要調査 119 
学習ニーズの高度化・多様化 119 
学生の主体性喪失状況 128 
学問 36 
学歴偏重 118 
学歴偏重社会 34 
学校開放 126 
学校教育 6 
学校歴偏重 118 22 
学校歴偏重社会 24 
学校歴より学習歴 39 
聞いてみればよい 64 
企業ボランティア 142 
気づき 34 29 43 100 
基本的構え 52 
基本的信頼 84 41 
共育 129 81 123 
教育 22 
教育意図 88 
教育意図の明示 59 80 
教育権 86 
教育システムの歪み 22 
教育のアポリア 12 84 89 
教育批判 74 66 80 123 140
教育批判範囲の限定 82 
共依存 33 
強化 47 
共感 58 63 85 89 104 136 
共感的理解 49 58 69 
教師の呼称問題 77 80 
教師への無条件的信用 46 
教授法 80 
共生 60 98 142 
教祖 46 
協働 139 87 122 
居住、移転及び職業選択の自由 94 
禁止令 72 
偽悪 6 
擬似的時空 44 
偽善 6 
行政改革としての生涯学習推進 138 
空白のプログラム 106 104 
偶像崇拝 109 
偶発性 6 
偶発的学習 50 
継続高等教育 127 118 120 
結果を恐れるな 48 
結合便乗 136 
権威 36 
研修の目的 48 
健全な抵抗 51 
現役支配 102 
現実原則 109 112 
現代社会の不幸 93 
現代青年 38 
現代的課題 92 116 131 
公共性 6 
孔子 116 
肯定的関心 142 
公的意味 110 
公的課題 116 
公的課題の優先 117 92 
公的社会教育の意義 110 35 114 
高等教育の権威失墜 118 
幸福追求権 132 138 
公平の原則 113 
公民館 117 
交流分析 52 
個人学習 6 
個人的問題の提起 87 
個人の幸福追求 110 
個人の幸福追求の援助 115 131 
個人の事情 128 
固定的役割分担 20 
言葉の暗示 74 
個の深み 81 8 34 38 40 95 109 129 146 
個の深みのデリケート 57 
駒田信二 116 35 
御都合主義 137 94 108 125 
娯楽性 6 96 


採用試験 38 
作戦 24 
佐野市生涯学習推進基本構想 134 
差別 22 12 35 
さわやかな依存 60 
さわやかな風 32 
さん付け 103 
幸せの瞬間 136 
私語問題 55 31 67 128 
支持的風土 32 131 
施設開放 121 
自然体 95 
質より量 136 
指導 147 47 
 −提案型 52 
 −なまの人間的な営み 99 
 −非指示的 99 
 −不定形 99 
指導者
 −潔い諦観 100 
 −器 20 78 
 −虚業としての指導 47 
 −禁欲 100 37
 −義務の限定 82 
 −屈折 79 
 −幸福追求の援助者 85 
 −傲慢 100 
 −至上の幸福 139 
 −施設職員の役割 137 
 −私的葛藤 76 83 141 
 −自制 89 109 
 −自転車で広報 107 
 −職業病 76 23 
 −上位者 12 
 −図式的思考 114 
 −制度的上位者 141 
 −背負込みの行為 88 
 −責任 58 44 
 −先生病 76 23 
 −専門職員 137 
 −存在位置 86 
 −タイムキーパーとして 78 
 −つらさ 102 
 −独善 78 
 −奴隷の覚悟との違い 91 
 −プライド 138 
 −役割 84 57 69 78 107 
 −らしからぬ言動 107 
 −枠組の変容の援助者 88 
嗜僻 51 
氏名表示権 90 
社会化 22 
社会教育 37 6 
社会教育行政 37 
社会教育指導者 81 
社会教育的フリースペース 90 
社会貢献 125 103 
社会参加 114 
社会的基盤 115 
社会的承認 61 
社会的認知 135 
社会的不適応 59 
社会変革 100 
集合学習 131 
就職3条件 12 
集団
 −新しい生活集団 105 
 −生活集団 104 
 −非定型・定型 32 
 −目的集団 104 
集団学習 117 
主我と客我 19 
主体性 138 98 
主体性喪失 43 124 
主体性の阻害要因 89 69 
主体的学習の援助 124 
主体的な授業の受け方 88 
出席ペーパー 88 10 129 
主婦の参加 110 
瞬間芸 105 
昇華 63 
生涯学習 37 6 9 70 142 
生涯学習社会 34 
生涯学習社会への移行 29 
生涯学習審議会答申 92 134 
生涯学習とボランティア 134 
生涯学習の再定義 131 128 
生涯学習の町づくり 92 
生涯学習ボランティア 139 78 
生涯教育 37 
小説的真実 35 68 
庶民感覚 120 
真偽の勝負からの脱却 19 
真実 34 42 93 130 142 
 −人文系の真実 87 
信念 19 52 
信頼 36 20 41 
信頼能力の欠如 62 
自己一致 52 21 
自己開示 109 48 
自己拡大と自己肥大 91 
自己確立 62 
自己管理型学習 13 47 55 87 119 123 128 
自己管理型学習の困難 46 
自己管理能力 43 
自己管理能力の向上 124 
自己客観視 18 28 39 51 61 99 143 
自己教育力 130 
自己決定 133 11 35 42 46 65 66 70 100 115 124 129 
自己決定の生き方 27 
自己決定の社会的活動 142 41 
自己主張 72 
自己実現 62 135 
自己受容 52 13 
自己責任 124 
自己選択行為 59 
自己卑下 21 
自己否定 20 
自己評価 54 61 
自己への厳しさ 39 
自己変容 103 56 125 
自己保存本能 59 
自己満足 6 
自己抑圧 30 
地獄の奇数日 44 
自主性 6 114 
自主卒業 141 
自称「上の世界の人間」 26 
自称「傷ついた人」 109 
自信過剰 21 
自信と他信 64 20 
事実という「権威」 36 
事実よりも真実 131 34 
自尊心 26 
自他受容 9 
実物投影機 90 
自動化 47 110 
自発性 6 
自発性、無償性、公共性 134 
自発的意思 10 
自発的撤回 101 
自罰と他罰 54 
自分さがし 135 40 111 118 
自分に厳しい生き方 27 
自分のため 88 11 51 65 68 91 95 125 
自分らしさ 103 54 
自由な遊び心 98 
自由の恐怖 101 69 91 108 
自由の行使 108 55 87 91 129 
自由奔放 136 
授業という公的な場面 83 
受験 39 
受験地獄の再現 113 
受容 98 96 122 
受容的・共感的雰囲気 99 
受容と変容の好循環 115 
準拠枠組 49 
上下同質競争 98 29 92 104 128 143 
情報提供 90 
情報リテラシー 88 
自立 72 15 28 58 60 
人生脚本 14 
人生の主人公 43 
人文系の真実 131 
人類の幸福追求の敵 25 
水平異質共生 139 146 
水平異質交流 63 103 129 135 
巣立ち 95 
生育歴 21 14 
生活文化 105 
成功のシンボル 132 
生産的構え 72 41 56 
精神的で微妙な見返り 65 
成熟化 124 
成長 111 
制度化された権威 121 
青年期特有の課題 110 
青年教育 117 
青年補習教育 96 
潜在的学習関心 132 
潜在的学習欲求 119 
潜在的能力 60 
戦術 41 
川上の嘆き 116 
善と悪 105 93 
善導 116 
相互承認 9 
相談 89 
双方向教育 129 8 87 


体験学習 49 44 
態度変容 82 
対話 81 47 
高みの見物 66 
他罰的デリケート 109 
大学
 −アイデンティティ 123 
 −企業との連携 123 
 −教育主体としての大学 120 
 −教育内容の転換 128 
 −経営革新 125 
 −サバイバル 125 122 
 −生涯学習化 125 
 −自己革新 124 
 −自己点検・自己評価 127 122 129 
 −自治 125 122 
 −授業評価 129 
 −単位互換 123 
 −目的 118 
 −有益な都市資源 123 
大企業病 98 
団体運営 67 
団体のため 95 
地域主義 92 
地域生涯学習推進計画 123 
地域に根ざす社会教育 104 
地域の教育力 97 93 
地域の自他受容 95 
地域のプライド 95 
小さなプレゼント 64 
地球規模の歪み 92 
知的水平空間 74 84 90 131 
著作権 90 
ちょっとおしゃれな教授法 80 
賃労働 42 143 
疲れる 74 
提案型 61 
提案型のネットワーク 111 
諦観 63 29 
定型的教育 126 
適度のおとな心 103 
撤退の自由 66 102 
出会い 108 29 63 89 95 136 
出会いの拡大 137 
出入り自由 102 112 
出入り自由の淋しさ 103 
登校拒否と引きこもり 61 
同感 140 
同時代 93 
同時代性 131 
道徳教育 131 
独学 47 
毒と薬 108 93 
突出的サンマ 139 
突出的時空間 111 
突出的水平異質共生 143 
突出的水平空間 29 
届ける、触発する 121 


内面的排除 112 
なまの出会い 93 
人間的真実 108 38 68 
人間的真実のもう一つの側面 144 
人間万事塞翁が馬 38 
人間らしさ 105 
認知・行為・評価 138 21 98 
認知説 50 
寝床分科会 105 
練馬区生涯学習推進懇談会 34 
飲み屋での自己解放・相互解放 106 


背後の気持ち 74 
敗北主義 109 38 42 103 
発信 135 
発想法 101 
発達課題 21 
発達段階論 120 
話し言葉メディア 46 
反社会性 6 
反応・発展の個別化 10 
被害者意識 26 
卑屈な自己疎外 30 
非生産的な皮肉 79 
引っ込み思案 48 
否定ではなく批判 122 
批判禁止 136 
評価 113 
評価の適正化 121 
不安傾向 21 
夫婦間の不和 16 
深い意味での学問の楽しさ 119 
不幸の手紙 102 
不合理な思い込み 10 19 102 
不毛な争い 19 
文化支援 125 
文化的孤島 48 29 
変身願望 51 
変容 96 
べき論からの脱却 135 34 61 140 142 
放電 135 
防衛的風土 32 30 
暴力としての言葉 67 


負け犬 43 24 
まちづくり 134 
祭りのあとの空しさ 46 44 
見返り 64 
みんなのため 95 
みんなぼっちの世界 31 
無償性 6 
無常観 116 
無常という真実 116 
空しさに耐える 44 
空しさの逆襲 46 
空しさの予感と恐怖 47 
迷惑ボランティア 6 
迷惑をかけるな 72 38 
もうひとつの自分 43 
持ち味 39 
問題解決学習 57 

や・ら・わ
山アラシジレンマ 103 
ゆさぶり発問 20 47 
余計なお世話 115 91 
欲求中心の自発的学習 119 
夜の魔力 105 
楽園追放 40 109 
履修要覧 45 
利他的利己主義 142 
流転 63 
劣等感 38 
魯迅 35 
わがまま 71 
枠組 50 35 82 88 108 140 
私は今は 41 

[著者のプロフィール]

 徳島大学大学開放実践センター助教授。東京都教育委員会社会教育主事、国立社会教育研修所専門職員、昭和音楽大学短期大学部助教授を経て現職に。学生や社会教育職員は、mitoさん、mitoちゃんと呼ぶ。
 生涯学習、社会教育、青少年教育、学習情報提供、パソコン通信、パソコン活用などに関心をもつ。現職のほか、総務庁、文部省、新国立劇場、千葉県などの情報システム関連委員、東京都、神奈川県、佐野市、桶川市、葛飾区、新宿区、中野区、練馬区、大和市などの生涯学習・社会教育関連委員、東京都青少年センター運営委員、神奈川県保健医療人材育成検討委員会委員、神奈川県青少年協会、横浜市港南区役所まちづくり塾運営委員会委員、全日本社会教育連合会月刊誌「社会教育」の編集委員、徳島市学遊塾運動アドバイザー、看護学校講師などを務める。また、狛江プータロー教室(狛江市青年教室)、練馬元気が出る講座(春日町青少年館)の年間講師など、社会教育現場でも頻繁に活動し、現在は大学公開講座「私らしさのワークショップ」等で張り切っている。

初出
 本書は、授業での出席ペーパーとのやりとりを中心として構成されているが、ほかに、筆者が全日本社会教育連合会「社会教育」に数回にわたって執筆した論文も、かなり手を入れた上で組み込まれている。その他、5章の1「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」は、神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」(1995.9)、6章の1「高等教育の根底的転換」は、神奈川県「平成6年度神奈川の大学における生涯学習関連事業実施状況調査結果報告書」(1995.3)に寄稿したそれぞれの論文をもとにして書かれている。また、赤尾勝巳・山本慶裕編『学びのスタイル−生涯学習入門』(玉川大学出版部、1996.10)においても、筆者が「ネットワークのつくり方」という章を分担して執筆している。

癒しの生涯学習
 −ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−
1997年4月5日 第一版第一刷発行
1999年3月10日 増補版第一刷発行


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狛プーの「一年に一回来ればメンバーだ」ということについて

            狛プー前年間講師(徳島大学大学開放実践センター助教授)
                 西村美東士

 東京を離れ、狛プー(狛江プータロー教室=狛江市青年教室)と会わなくなってから一年になろうとしている。現在は、元狛プーメンバーの一人で、社会教育やぼくの「いい加減はよい加減」などという言葉に関心をもっている榊原正博さんが年間講師を引き継いでくれている。
 さて、それでは、今のぼくにとって、現在の狛プーはどんな位置を占めているのか。以前のように毎週木曜日に狛江市中央公民館に通い続けているわけではないぼくにとって、である。
 もちろん、赴任先の徳島でもだんだんとおもしろい人たちと知り合い、たとえばヤングフェスティバルの実行委員の若者たちが、街の中のぼくの魚釣りポイントまで来てバーベキューをしてくれたり、ぼくの講座「私らしさのワークショップ」を受講する人たちとは毎週、フリースペース的飲み会をやっている。
 しかし、ほかの人があるグループにのみ準拠しているわけではないように、ぼくの心も徳島だけに生きているのではなく、徳島のいくつかのサンマ(時間・空間・仲間の三つの間)と並んで、依然として狛プーはぼくにとっての「心の居場所」の一つである。そこで新たな感慨をもって思い出す狛プーの合言葉が「一年に一回来ればメンバーだ」なのである。
 狛プーの年間講師をしていたとき、この合言葉を知ったある人から「ああ、それなら行ってみたくなるわけですよね」といわれ、ぼくは「そうだなあ。単純なことだけど、そういう参加の仕方さえ許されていない教室や講座って多いのだなあ」と思ったことがあった。「一年に一回来ればメンバーだ」という言葉は、個々人にすべてそれなりの心と時空間の「事情」があり、それを詮索したり、ましてや追及したりすることなく、今、参加しているあるがままのあなたを両手を広げて歓迎する、という気持ちを表している。これと比べて、他の一般の社会教育に対しては、若者たちは「自分の個人の事情なんかで行動することはきっと許してもらえない」という先入観をもっているのだろう。しかも、社会教育の側からも、この先入観が間違っているとは断言できないところがますます悲しい。
 「一年に一回来ればメンバーだ」という言葉は、ある意味で、ネットワーク特有の「撤退の自由」という淋しさを表してもいる。たとえば、きれいな女性がある日、参加してくれたとする。ぼくを含めたその気のある男性はワクワクし、翌週は彼女と会えることを楽しみにそこに出かける。しかし、そこにはもう彼女はいない。
 そんなとき、一回申し込めば、その後は出席することが半ば当然視されていた従来の社会教育においては、そのことを根拠にあまり心理的な葛藤を経ずして、当たり前のように「来週は出席してくださいね」とお願いすることができたのだろう。しかし、「一年に一回来れば」という合言葉は、それを許さない。あとは、彼女に出席してもらいたいという自分のほうの気持ちを彼女にわかってもらったり、あるいは、次回がどのように彼女にとって魅力的な時間になるかを訴えるしか方法はないのだ。これは、恋を告白するときに似た心理的葛藤を伴うだろう。
 しかし、だからこそ、一人一人は「自分の事情が尊重されている」という実感をもつことができるのだといえる。過去の「義務参加」とは異なる「個々人の自己決定参加」の生み出す一連の淋しさの受容と、そこから始まる能動的な人間関係の努力なくして、現代青年が求める個人の自由の保障と、自他信頼の人間関係との両立はありえないのである。
 ぼくの最近の気持ちに話を戻せば、この「一年に一回来ればメンバーだ」という合言葉が、期せずしていまのぼく自身にとって、とてもやさしくありがたい言葉に感じられる。「みんなに会いに行かない、あるいは行けないことが申し訳ないことなのではないか」という心配なしに、「狛プーでいい仲間と出会えたなあ」という自分の思いを素直に受け容れることができるからだ。だから狛プーは今でもぼくにとっての「心の居場所」の一つなのだ。この思いの上で、ぼくは今を生きている。
 そして、若者にとっての「巣立ちの場」であろうとしている地域なら、きっと他に転出した若者にとって、巣立つ前のその地域は、ぼくがいま感じているのと同じような温かな感情を与え続けるに違いない。これを「心のふるさと」といってよいだろう。
 恋人ではないのだから、ぼくにとって狛プーはいつもべったり会っている関係でなくてもよい。まさに間(一定の心理的、物理的距離)のある関係である。それでも、せめて「一年に一回」ぐらい、ぼくは狛プーに会いに行きたいと思う。ぼくにとって「心のふるさと」なのだから。
徳島市学遊塾広報誌『ぶどうの木』原稿

私らしさの生涯学習
 −きらっと輝くかけら
徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士(mito)

 今日、若者、サラリーマン、主婦など、たくさんの人が、生涯学習活動のほか、ボランティア、地域・市民活動などの社会的自己決定活動を忙しい時間を割いて行っている。その理由の一つに、「私らしく生きたい」というものがある。ぼくも委員として関わっている栃木県佐野市の生涯学習推進の合言葉も「私らしさ咲かせます」である。
 なぜ、そういう場面では私らしくいられるのか。@自分自身がやろうとしてやっていることだから、A暗黙のうちの強制ではなく、そのように自己決定で集まってきた仲間たちとの時間を過ごせるから、Bその仲間関係が、職場などと違って、基本的に水平の関係だから、などが考えられる。
 しかし、確信できる「私らしさ」を見つけることは容易なことではない。もともとは白紙の状態である自分に「私らしさ」を書き込んでいくことが生きていくことであろうし、また、状況に応じてくるくると変化するのも「私らしさ」の実際の姿であるから、どれと確定することは困難だからである。
 先日、入学試験の監督をした。ちょっとしたミスもあってはならないという緊張を感じながら、なお、受験生が待機している教室に入るとき、彼らにペコッとお辞儀をしている自分に気づいておもしろかった。これも、ぼくの「私らしさ」であろう。ただし、それは「かけら」として表れたにすぎない。ぼくがつねにそういう謙虚(?)な人であるというわけではない。
 水平かつ個性的に人やものごとと出会う生涯学習の活動においても、それぞれの「私らしさ」は、きっとこのように「かけら」としてときどき表れるものなのではないか。ただし、「教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人」という関係のなかでは、それはきらっと輝く「かけら」なのだろう。
 ぼくは、いま、センターで公開講座『私らしさのワークショップ』を行っている。楽しく学ぶことを通してワクワク、ドキドキしながら自分らしさを発見しようというものだ。来年度は、居心地よい人間関係のつくり方などのテーマで年間を通して実施する。
 この講座で出会う人たちと過ごす「フリースペース的飲み会」を含めた時間は、ぼくにとっても、互いに安心して「かけら」を光らせあうことのできる時間だ。これは、生涯学習以前の見比べあう視線の上下同質競争の場ではもちえない居心地のよい時間である。
「生涯学習の未来像に関する調査研究」原稿
 徳島大学大学開放実践センター 西村美東士

第U章 地域・公民館活動における現状と未来
 −癒されるコミュニティの創出に向けて−

1 心を育てるということについて
   −わたしたち大人自身の心に問題がある

 とくに子どもの教育を考えるとき、家庭、学校だけでなく、地域の教育力が注目される。地域には、「心を育てる」あるいは「生きる力を育てる」教育力が強く内包されていると考えられるからだ(地域・団体の教育力については自著『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』平成3年4月、学文社、P174〜185)。
 中央教育審議会は、1998年6月、「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機−(答申)」を発表した。「そうだな、今の子どもたちの心は問題あるからな」ですませてしまう人(素朴肯定派)も、「ええっ、なんということを。だから、教育は押し付けがましくていやなんだよ。まあ、わたしたちは大人だから、教育から自分の『心を育てられる』なんてことはないからいいけど」と感じる人(教育懐疑派)もいるだろう。しかし、いずれにせよ、心を育てる教育や指導の意味を、この際、あらためて考え直す機会にすべきである。
 ぼくは、副題の「次世代を育てる心」という言葉に注目する。これは、もっぱら今のわたしたち大人の心を指していて、それが危機だといっているのである。たしかに、青少年問題に関する文献においても、最近数年の傾向として、現代社会における大人自身の不幸に言及する論調が増えてきている(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年度末発行)。
 ここまでくると、「素朴肯定派」は、「だけど、大人は、子どもと違って心の教育なんてできないからな」といってすませようとし、「わたしたちは大人だからいいけど」と思っていた「教育懐疑派」の人は、「大人まで教育しようなんて余計なお世話だ」と反発を強める人が多いのではないか。あるいは、ここまできてもなお、「たしかにひどい大人はいるから」といって他人事にしようとするか、「わたしはすでに責任のある指導者だから」といって、少なくとも自分だけはそういう「教育対象」であることから免れようとする人もいるかもしれない。そういう一般的と思われる状態と比べれば、ぼくは、「教育懐疑派」の最初の「ええっ、なんということを」という直感こそが、かなり本質を突いたものだと思う。「自分の心まで教育されてしまうことへの抵抗心」、これを大切にしたい。
 以上の前提のもとで、「子どもの心を育てることのできる成人」の心を育てることはできるか、という問題に進むことにする。結論だけいっておくと、先に述べた「抵抗心」の尊重にもかかわらず、ぼくの答えは「できる」である。なぜなら、成人教育の場で、地域で、現に、当たり前のように大人が生涯にわたって成長し続けているのだから。

2 用語の言い換えだけでは問題は解決しない

 ぼくが参加しているあるメーリングリスト(インターネットによるグループ内での手紙のやり取り、以下MLと略す)において、先日、次のような問題が提起された。
 図書館での「指導サービス instruction service」について、アメリカの図書館界では普通に使われているようなのに、日本の公共図書館の司書の中には「市民に奉仕するべきサービスの現場で『指導』などという思い上がった考えは絶対にいけない」という拒否反応を示す人が相当数いたということなのである。
 たしかに、大人(この場合は市民)に対して「指導」という概念を用いることは、最初、ほかのメンバーにも、ぼくにも抵抗があった。ぼくも、最初、次のように「教育懐疑」的なレスポンス(返事)をしていた。

指導という言葉を聞くと、引きこもりの若者たちのカウンセラー富田富士也さんが、ぼくがある「青少年指導者」の講座のメンバーを引き連れて話を伺いにいったとき、「指導したい人はこの世にたくさんいるでしょうけど、指導されたい人なんているんですかね」と強烈過ぎる一言を穏やかににこやかに発せられたことを、いつも思い出します。
市民に「あなたを指導しますよ」という言葉は使わないんじゃないかなあ。
市民に使わない業界用語、役所用語は、内部でも避けたほうがよいのでは。
(メディアリテラシー教育について)問題は、(援助ではなく)instruction(指導)の方になるのかな。メディア活用技能についてはinstructionはあっても、メディアリテラシーにおける主体性の涵養においてのinstructionは、「ちょっとおまえ、そんなにえらいのか」という感じですよね。

 しかし、問題提起者(仁上幸治、 早稲田大学図書館)の緻密で丁寧なリ・レスポンス(返事に対する返事)によって、指導という言葉を単純に忌避するだけであれば、次のような問題が生ずることが明らかになってきた。

広報サービスや案内サービスとは異なる次のレベルの専門性の高いサービスとしての指導サービスが、案内サービスのレベルと同等になるおそれがある。
大学では「卒論指導」などという言葉があるけれど、誰も抗議しない。市民には控えるべき言葉づかいが、学校や大学では堂々と罷り通っているということになる。
学校や大学や企業では「指導」という用語を使い、社会教育の現場でだけ別な用語を使う場合、生涯学習の観点からは、議論のための共通の用語を失うことになる。
指導はダメで、英語のインストラクションならいいということなら、逆に、指導という言葉にこびりついている日本的なマイナスイメージを上回るプラスイメージを押し出して、ふつうに使える言葉にすればよい話なのではないか。

 今回の問題提起のおかげで、とくにテクニカル(技能的)な、初歩から専門までの知識と技能のハウツー伝授の場合は、指導という言葉は問題ないだろうという、本ML内での一応の「収まり」は見えてきたように思う。しかし、その「指導呼称容認」の結論は、あくまでも問題提起者の仁上さんが明瞭に述べたように、「いかに生きるべきか」というような人生論や主体性論とはまったく別のものとして切り離した場合、という条件付きのものである。
 それでは「心を育てる」という場合はどうなるのか。ぼくは、この「収まり」に関して次のようにコメントした(軟弱なコメントではあるが)。

そういわれても、教育の主要な目的は人間形成ですからねえ。最近は「生きる力」とかもいわれてる。そして図書館も社会「教育」施設だし(その法的位置づけには昔から司書の反対運動があったようですけど)。それに情報リテラシー教育の主眼は、なんといっても、テクニカルな面ではなく、あふれる情報に対して主体的に取捨選択するという「態度形成」の問題でしょう。
やっぱり、学校教育や社会教育は文字通り教育であり、指導者は文字通り指導をする人なのでしょう。国民が主人公という建前の社会教育においても、教える側に立つ講師という「教育者」はいますし、さらには社会教育の理想郷(生涯学習社会)に至るまでの長い過渡期間においては、「社会教育する」専門職員、「指導する」指導者がいて当然でしょう。でも、これは学校教育でも同じなんですが、「教える人は(学習者から)学ぶ人」であり、指導者は指導される人の自発的動機に依拠して指導するんですよね。それから大切なのは、やっぱり、教育者側、指導者側の、「無知と非力の自覚と受容」(後述)なんだと思います。
(言葉の言い換えですまそうとする問題について)生涯教育を生涯学習に言い換えることによってだけ「国民主体」になったような雰囲気をつくろうなんて、なんだか姑息ですよね。もともと、生涯学習を支援する社会の教育的諸機能全体が生涯教育なんですから。
問題は、「態度変容の学び」において、教育や指導という言葉が成立するかどうか、そして、その「手の内」を学習者側にどういう言葉で(内部で本当に使うのだったら、外部でもそのまま使え、というのがぼくの意見)表現するかということでしょう。

(注)態度変容の学びについて
 一般的に研修には、@知識習得、A技能向上、B態度変容の3つの目的がある。講師は目的を絞り、意図的、意識的に研修を進める必要がある。たとえば生涯学習の指導者のための研修のうち、現在とくに欠けているのはBの態度変容目的の研修であろう。しかし、アダルト・ティーチング(大人への教授)を志す者にとっては、態度変容のための学習がもっとも重要だと思われる。「現在の態度がよくないから」という理由ではない。それでは、自他の否定になってしまう。態度変容は、学習の本質である「枠組の変容」の象徴であり、それらが生涯にわたって充実して進められることこそ生涯学習のそもそもの楽しみだからである。

3 大人に対する心の教育や指導は可能か

 繰り返しになるが、この章の問いに対するぼくの結論は、可能、である。教育懐疑派のようにすべての人の単純な自己教育しか認めない人が不可能と答えるならともかく、子どもにだけは可能だが大人には不可能という素朴肯定派の答えは、絶望的ともいえる大きな問題をはらんでいる。その人がふと我に返ったとき、「だったら、子どもにとっても地獄のような教育や指導なんだろうな」と気づくはずではないか。それでも、一部の体育会系のように「自分も我慢してきたんだから、今の子どもも社会のために我慢しろ」というのか。
 やはり、ここで「心を育てる」学校教育や社会教育をめざす場合、今までわたしたちが思い込んできた教育の姿とは異なる「もうひとつの教育」の姿を探し出し、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝える」(中央教育審議会)ような自信をもって、楽しげに、できる!、と答えたいのである。ただし、それは「できる」であって、「できている」では決してない。あとで述べるように(無知と非力の自覚)、「できている」などという大それた自信はぼくにもない。
 大人の心を育てるという教育の可能性を考えるにあたって、ここではあえて、最も抵抗が強いと考えられる大人に対する教育的指導のあり方について踏み込んでみることとしよう。
 指導は「指さし導く」と書く。
 何を指さすかというと教育目標(=学習の到達目標)であろう。だから、自分には教育目標があるのにそれを学習者側には秘密にしておくような指導は、本当の指導ではないということになろう。次に「心を育てる」などといわれても、そんな面での教育目標なんかおこがましくてもてないという指導者もいるだろう。そういう人は、指導者としての資質がかなりあるとぼくは思うが、先に述べた「もうひとつの」教育や指導の存在の可能性をも考えて、これ以降のぼくの文も読んでほしい。
 次に、導くということは、その教育目標の方向に手を引いてあげることであり、これも大変なことだ。自分だって健全(まったく欠け目なく異常がないこと)な心をもっているはずがないのだから。だが、先のMLでは、大学でのゼミの教師が「教えない教師をめざす」といっていたという発言もあった。これも上手な導き方のひとつなのかもしれない。そして、「不完全な自己への自覚」さえあれば、これから述べるような導き方ならできるはずだとぼくは考える。
 なお、これから述べる「大人に対する(心の)指導」のあり方は、じつは子どもにとっても、「地獄ではない、もうひとつの教育や指導」のあり方を示すものなのではないかとぼくは思っている。

@ 非日常的な相互関与を意図的に深める。
 徳島大学大学開放実践センターの研究会で、ぼくは、センターのこれからの役割として「情報提供を乗り越えて相互関与へ」という文脈で提起したことがあったのだが、今回のMLでの議論を同研究会で紹介したところ、「指導に代わるいい言葉」として、その「相互関与(interaction)」にヒントがあるのではないかという指摘があった。その指摘を受けて、指導の本質は、とくに心を育てるという場面においては、指導者と学習者の相互関与を非日常的な深いものにして、学習者の気づきのあるものになるように、意図的に行為することなのではないかとぼくは思った。たしかに、これができれば、すばらしい指導といえるだろう。
 小児精神科医の河合洋は、今日の子どもたちのぎりぎりの状況をふまえて、「ほざくんじゃねえ」と訴えている。子どもにではなく、子どもを取り巻く親や教師などの大人に対してである。他人の痛みがわからない大人たちから発せられる、感情を伴わない意味のない言葉の洪水(ほざき)に、子どもたちはSOSを発しているというのである。「意味のある言葉」をたくさん受けるために生まれてきたはずの大人たちに対して、ほざきの連続の不幸な日常のなかで、もし、指導によって日常では得られない学習者との深い相互関与が実現できるのなら、その指導はこの社会における突出的な意図的行為といえるのではないか。

A 指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する。
 「私は真、あなたは偽」と思い込んで(信念に凝り固まって)いる人にとっては「自分がわかっていないことに気づくこと」(無知の知)が重要である。わからなくなることによって、答を出すのを保留して問い続けるという生産的な構え(交流分析では、幼児期に親とのふれあい等によって培われた人間と人生に対する態度を「基本的構え」といい、基本的信頼に基づく構えを「生産的」とする)に戻ることができるのである。では、わからなくなれない人はどうしたらよいか。わかっていないということをその人に自覚させるような学習指導者からの質問が有効である。これを「ゆさぶり発問」という。そういう指導者がいない場合は、あとは自問という手段しか期待できない。こういうゆさぶりを経て、無知と非力の自覚が生まれ、「まあ、いいか。これから少しずつやっていこう」という自他の欠点や弱点をも抱え込んだ受容につながり、自信(自分への信頼)と他信(他者への信頼)が形成される(図表●)。
 以前、「ちょっとおしゃれな教授法」という音楽大学での演習で、ぼくが「目玉焼きの作り方」という「模範授業」を行ったとき、あるまじめな学生が「mitoちゃんは私たちよりも目玉焼きについてよく知っているんですか」と聞いてきた。ぼくは「ふたをした方がおいしくできあがることなど、目玉焼きの作り方に関して伝えたいことはあるけど、学習者側より知っているかどうかはわからない」と答えた。すると、彼女は「そんな人が教える側に立つこと自体、いけないことなのではないか」といったのである。たしかに彼女は、自分よりはるかに優秀な先生から音楽を習うことに慣れているから、そういう「いい加減な指導」に抵抗を感じたのだろう。この場合は教授法のシミュレーション(模擬訓練)であったが、ぼくは、たとえ本番の教授活動においてもそういうことがあってもよいと思っている。指導者側に無知と非力の自覚さえあれば、双方向教育などによって、むしろ結果的にはより効果的に学習者側の主体的な学習を支援することにつながるかもしれないのだ。
 ぼくの授業を受けている学生のなかには、「無知と非力の自覚」というぼくの言葉を聞いて、「無知と非力を自覚してしまったからこそ、私はつらいのに」と反発してくる者がいるが、ぼくがいいたいのはそういうことではない。前段は学習者の無知と非力の自覚と受容のための指導のあり方について触れたものだが、その場合でも、指導者側自体が自己の無知と非力を認めて、受け入れようとしないままで、学習者にだけはそのような気づきを援助するなどということができるわけがない。

B 教育と学習の間に流れる暗くて深い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。
 教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、以下のように情緒的な表現になってしまうことをお許しいただきたい。教育=学習援助の等号には暗くて深い河が流れているとぼくは思う。ぼくは、まず、この暗くて深い河の存在を伝えていきたい。次に、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この「上下同質競争社会」の同時代に命を燃やしている。ぼくはたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい。
 先に述べたように、学習者の「自分の心を教育されることへの抵抗心」を尊重しつつ、学習者主体の指導を試みようとする指導者にとっては、つねに自己の指導の有効性が疑わしいものに思えてくることだろう。「ところで、自分のほうの指導者としての主体性はどうなってしまうんだ?」というわけである。逆に、学習者からのねぎらいや感謝のちょっとした一言でささやかな自信がもてたりするときもあるだろう。とくに「心を育てる」教育、ぼくの言葉でいえば学習者の態度変容のための指導においては、厳しいいい方になるがその繰り返しであってほしいと思う。男と女の間にも、最終的には理解し合えない「暗くて深い河」が流れている。しかし、だからといって、ふてくされてしまって、相手という彼岸に向かって舟を漕ぐことさえしなくなったら、その人の姿はもうかわいくない。

4 わたしたちはどんな心をもちたいのか

 本章の最初に紹介した中央教育審議会答申は、「新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝えようとしない大人、子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人、子どもを育てることをわずらわしく感じる大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、我が国の抱えている根本的な問題である」といっている。
 しかしながら、じつは、ぼくには、この表現が今ひとつしっくりきていない。わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか(そう思ってしまうところが「根本的な問題」のひとつだという人もいるかもしれないが)。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたいのである。むしろ、潔くそのように「自分のため」と思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。
 以前から、親の期待に沿おうとして過剰な努力をしてしまう子どもたちの苦しみが問題になっているが、最近気づいたことだが、同様に、親だって、子どもの期待に沿おうとして過剰な努力をするなんて本当はまっぴらごめんのはずだ。
 「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」というものが、教育を受けるものにとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、これは指導行為など成り立つわけがない。空しく響くだけだ。極端にいえば、人々から本音のところではいやがられてきた教育や指導の再来ともとらえられかねない。この答申の趣旨からいって仕方ないことかもしれないが、題名どおり「危機対応型」で、「子どものため」を主体とした提案が多いのである。ぼくは、少なくともこの報告が基調とする「新しい時代」や「未来」のためという言葉は、やや「感情を伴わない意味のない言葉」のような感じがするということを指摘しておきたい。
 もっと、子育てを含めた大人の幸福追求全体にとって、「今ここで」の実感から「夢を語り」、それが結果として「未来を切り拓く」ことにもつながるという「楽習」の展望を指させないのだろうか。もっとも、それは、中央教育審議会の役割なのではなく、公民館をはじめとする地域での生涯学習活動の役割なのかもしれないが。
 そのためには地域における「癒しのサンマ(時間・空間・仲間)」が重要であるとぼくは考える。神奈川県藤沢市青少年協会の若者たちが、ぼくが「指さそう」としたサンマのあり方について、絵にしてくれたものがあるので、これを紹介しておく(図表●)。詳しくは自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』(平成9年4月、学文社)を参照されたい。

5 地域での癒される場としての公民館
   −寺中構想の再評価

 安原昇は『公民館−青少年が「地域に生きるカ」を育むために』(青少年問題研究会「青少年問題」45巻2号、p28〜33、平成10年2月)で、公民館の果たすべき役割について次のような趣旨で説明し、期待を述べている。

 公民館は、住民の日常生活に必要な情報や交流の場と機会を提供し、住民相互の自発的な教育・学習と地域活動を支援し、その参加過程を通じて住民の自治能力の向上を図る多目的な社会教育施設であり、集会、学習、交流と情報の4機能を総合的螺旋的に発揮しながら住民の多様な要求に応える地域基幹施設である。
 我が国の社会教育では、欧米の成人・継続教育に比較して、従前から学校補完的な青少年の学校外活動は成人教育と並立する二大領域であり、公民館も時代の要請に応じた対応を行ってきた。学校週五日制がはじめて導入されるようになった当初、地域に学校と類似の児童生徒のための「受け皿」が必要であり、地域にもっとも普及している公民館等がその役割を担うべきだとする学校外教育論もその文脈の中にあった。このような旧態依然とした議論が再燃する背景には、今日における学校外教育(社会教育)の発展に関する認識が浅く、地域に学校しかみられなかった時代の学校依存・学校万能観が見て取れる。
 その後の学校教育は、自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる自己教育力(生涯学習能力)の育成を実践的課題とするなど自己変革を遂げようと務めている。このように学校自体が変化する時、社会教育としての学校外教育も変革され、学校と連携協力し、内容によっては学社融合の試みも必要となってくる。公民館が保有する地域資源や人的ネットワークがもっと活用されてよい。また、高度情報社会の子どもは、学校だけで学んだ私たちの時代とは異なり、学校でも学び、学校外でも学ぶマルチ学習の環境の中にいる。同様に子どもだけが大人から学ぶのでなく、大人も子どもから学ぶ相互学習が生涯学習の基本となる。公民館には、成人学習のみでなく子どもぐるみの地域活動の場と機会が用意される必要がある。公民館における「子どもがつくり地域が支える学校外活動」の実践こそ、「地域に生きる力」を子どもに育む。

 掲載誌の性格からこの論は、もっぱら子どもにとっての公民館の教育機能について述べているが、ここでは大人にとって、公民館が地域の教育力の要(かなめ)の一つとして、どのように機能することが望まれるかを述べてみたい。
 寺中作雄の公民館構想(寺中構想)は、昭和24年の社会教育法より一足早く、昭和21年に「公民館の設置運営について」(文部次官通達)として結実し、公民館の普及に大きな役割を果たした。この通達では、@公民館は、町村民が相集まって教え合い、導き合い互の教養文化を高めるための民主的な社会教育機関である、A公民館は、町村民の親睦交友を深め、相互の協力和合を培い、以て町村自治向上の基礎となる社交機関でもある、B公民館は、町村民の教養文化を基礎として、郷土産業活動を振い興す原動力となる機関である、C公民館は、町村民の民主主義的な訓練の実習場である、D公民館は、中央の文化と地方の文化とが接触交流する場所、E公民館は、全町村民のものであり、全町村民を対象として活動する、F公民館は、郷土振興の基礎を作る機関である、と述べた。
 Aの「社交機関」については、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」とし、Bについても、「性別や老若貧富で差別することなく、自由な討論と他人の意見への傾聴」などとされている。「民主主義的訓練」だけでなく、戦時の暗く傷ついた人々の心を、社交や自由な雰囲気によってなんとか癒そうとしたものと考えられる。
 これに対して、社会教育法では、「実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与する」とされ、法的根拠が与えられた。このことについて、「あまり明確ではないが、(寺中構想の)郷土復興・町村自治振興機関という性格はうすれ、(社会教育法では)社会教育施設という性格が強まったといえる。その設置主体は、公民館が地域を基盤としその地域内の住民全員の参加と支持と協力とにより成り立つものであるという建前から、市町村および公民館設立を目的に結成した法人−部落・字の公民館−に限定された。当然のことながら、その公共性、公益性が前面に出されたのである」(碓井正久編「戦後日本の教育改革10−社会教育」東京大学出版会、カッコ内は引用者)などというように、一定の進歩としての評価をするほうがふつうである。
 しかし、ぼくは、公民館の公共性とか教育機関としての性格とかいうものは、人々が心傷ついた現代社会においては、むしろ寺中構想の「伝統」を基盤にした方がよいのではないかと考える。正確にいうと、ネオ・トラディショナル(新しい・伝統)だが。
 今日、癒されない現代社会において「癒されるコミュニティ」を創り出そうとするならば、社会教育機関として「純化」される前の、今でいう自治公民館のもつ「社交機関」のような性格の意義が再認識されるべきではないか。なぜならば、生涯学習、ボランティア、地域市民活動という3つの社会的自己決定活動においてこそ、この現代社会においてさえ人が人によって癒される「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)」創出の可能性があるからである。そして、むしろ、社会教育法に則った公民館のほうこそ、自治公民館以上の教育的、公共的役割として、サンマの支援に力を傾けるべきである。
 さらに、全国公民館連合会「公民館のあるべき姿と今日的指標」(昭和42年)では公民館の理念を、@公民館活動の基底は、人間尊重の精神にある、A公民館活動の核心は、国民の生涯教育の態勢を確立するにある、B公民館活動の究極のねらいは、住民の自治能力の向上にあるとし、その役割を、@集会と活用、A学習と創造、B総合と調整の3点とした。いわゆる「つどい」「まなび」「つなぐ」である。
 もちろん、ここでは心のつながりなどの要素も意識されてはいたはずだが、公民館の現場では、表面的に受けとめられ、個人の学習課題の解決(生涯学習)と、それによる住民としての自治能力の向上ばかりが叫ばれ、そのスローガンが不信と孤立の一般社会において空しく響いているだけのようにぼくには感じられる。「公民館活動の究極のねらい」として、「堅苦しく窮屈な場でなく、明朗な楽しい場所」としての「社交機関」が現代的に転化した形での「癒される居場所づくり」の役割を自覚すべきである。

6 今の地域はジェンダーバイアスの宝庫? 女同士の監視の牢獄?
   −女の癒し、男の癒しを地域に求めて

 徳島市内で、国際婦人教育振興会徳島セミナー「メディアの中の女性−ネットワーク・21世紀に向けて」が行われた。ぼくはそこで「チイキから発信する女たち−メディア・ジェンダー・コミュニティ」というメッセージを掲げて「地域社会分科会」の助言者として参加した。
 分科会では、事例発表者の元小学校長で現在、市の公民館主事のTさんに、思いきって本音で発表していただいた。彼女は、地域の女性のエンパワーメントを掲げたまちづくり事業を進めているが、彼女の発表は、冒頭から「地域はジェンダーバイアスの『宝庫』である」という言葉で始まった。さらには、女同士でも監視しあう牢獄のような要素が地域にはあるという。異質を歓迎しあう水平交流にはまだまだほど遠いのが地域一般の実態なのである。公民館が、そんな癒されないコミュニティを「回復」してしまってはいけないだろう。
 彼女が公民館主事になったときの感想は、「学校では学習者が自分の話を聞いてくれて当たり前だったが、社会教育では聞いてもらえるようになることから始めなければいけない」ということだ。そういう出発点から、地域のエンパワーメントに取り組んだ。そうしたら、若い子育てママの一人が、イベントのチラシをごっそり持っていって、スーパーのレジの前で配り出したという。チラシを受け取った人とはおしゃべりをし、ちゃっかり、連絡先まで書いてもらっていた。スーパーの店長だって、おいそれとは禁止できないのだろう。Tさんは、「元教員の私が彼女たちから学ぶ喜びを教わった」という。
 さらには、「男社会」の象徴のような従来の地域団体をも巻き込み、盆踊りの練習をしたあとに地域の子育てトーキングをするなどの地域活動を展開している。彼女は、「地域にいてもジェンダーに縛られている男たちはかわいそう」という。彼女がめざしている公民館の地域活動は、女だけではなく、男たちにも、ジェンダーフリーの水平交流によるこのような癒しを与えるものといえよう。

7 血縁・地縁から問題縁へ
   −水平異質共生のコミュニティ

 全日本社会教育連合会「社会教育」平成9年5月号で斉藤学は、「今、第四の領域といって学校、家庭、地域それら以外の領域も大切ではないかと言われだしているんですが」というインタビューに答えて、次のように述べている。
 「ある家庭教育についての懇談会があって、すぐ父親参加をいうんです。でも、父親を集めようとしたって集まりませんよ。団地とか新興住宅地くらいですよ。妻にそむかれて一人になったシングルファザーの会だとか、家庭内暴力におびえている母の会といったら、すぐ集まります。こういうのを問題縁というんです。
 今は地縁というのはないことを前提に考えた方がいい。学校は強制された地縁みたいなものですね。もう一つの縁は家庭です。家は血縁でしょ。血縁というのは、それ自体危ないんです。さっきから言っているような理由で。血縁、地縁もあまり頼るなといいたいですね。これからは、問題縁ですよ。私は、魂の家族と言っている」。
 ぼくは、こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにぼくらのワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。
 たしかに、斉藤のいうように、血縁・地縁による暗黙のうちの強制の伴う人間関係には、多くの現代人が傷ついてきた。しかし、公民館は、戦後から一貫してそういう縁とは異なる近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきたはずではないか(戦後の新生活運動を想起していただきたい)。
 問題縁に希望があるというが、コミュニティを貫き通す問題縁は存在しないのか。もし、存在しないとするなら、地域活動・学習の総合的拠点としての公民館のすべきことなどもはやないといってよいだろう。しかし、個々人の抱える依存やハンディキャップの「種類」によって分断されたグループ(それが不要ということではないが)だけでなく、「地域でさえ癒されない。そういう今の地域を自分らしくいられる癒される地域にしたい」という「問題縁」は、潜在的には多数の住民に存在するはずだ。
 幸い、地域での人間関係には「間(マ)」が存在している。その間を尊重しながらであれば、ジェンダーフリーの宝庫、監視しあわないあるがままを認め合う水平異質共生(自著『癒しの生涯学習』学文社)の地域創造は可能なはずだ。ここが寺中構想とは異なるネオ(新しい)の部分だ。
 最近、コギャルを卒業した若い女性たちや、普通のサラリーマンたちなどが、ヒーリング(心と体の癒し)とともに、家や地元でゆったりと過ごし、ジモティ(地元)の仲間とジモティの店で過ごす傾向を見受けるようになった。こういう一般の人たちに、人による本当の癒しを与える公民館であってほしい。人は人によって傷つくが、人によって癒される(富田富士也)という。
 現実の公民館には「癒しのサンマ」がふんだんにある。斉藤は同記事で「有能なリーダーなんていらない。自分たちで集まって、自分たちの言葉で語る。語るものは、体験しかないんです」、「単に地域だからといって、母親集めたって烏合の衆です。子育てに悩む母親だったら集まる意義がある」と述べているが、少なくとも「リーダー」としての公民館主事は、住民が安心して「自分たちの言葉で体験を語」れるようにするために仕事をしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけの、ごく当然なケースがたくさんあるだけの話だ。

8 住民の自治能力を向上させることよりも、まず大切なのは癒しと安心
   −過去の学校のような集団づくりはもうやめよう

 ぼくの関わっているメーリングリストで、多くの講座が次のような学級講座の運営方式をとっているという話題があった。@班にわけ、班長を決め、役員を決め、委員長を決める。A当番を決め、準備等の役割を決める。B連絡網を作る。C学級日誌をつける。D講座が終われば、編集委員による「まとめ」の作成。Eそして、自主グル−プの結成へ。住民の自治能力や民主的能力の育成という眼目のもとに取り組まれてきたのであろう。しかし、そのような役割をやらされるのはごめん、という住民が増えてきたというのだ。連絡網にしたって、最近の住民はプライバシーの観点から、強制されることをいやがるという。
 こういう「公民館側の悩み」に共感するリーダーは多いと思う。しかし、ぼくは、逆に、現代社会においてはそういう住民のほうがむしろ当然だと思う。ここも「ネオ」な部分といえる。ぼくが年間講師として関わってきた狛江市中央公民館の青年教室(狛プー)には、半年ほども躊躇した上で、ボロボロになったチラシを握り締めて、やっと教室に入ってきた若者がいる。「学校の教室のようだったら絶対いやだったから」というのである。また、狛プーでバンガローに泊まり、最後の撤収の朝、ある若者が裏のほうで貸し布団まで干していた。それをたまたま見かけたぼくたちメンバーは、みな感心してしまった。役割分担は、このように自発的、流動的であるべきである。固定的になってしまったら、自立と共生をめざす公民館の教育的機能は薄れる。
 @からEまでずらっと並べると、生涯学習時代以前の学校教育でさんざんやらされてきた「縦社会づくり(委員長、役員)」「固定的役割分担(当番制)」「みんな仲良く(連絡網)」の再来でしかないのではないかと感じる。学校教育の教科だけではなく、あの暗黙のうちの強制の匂いのする集団主義に心からはついていけないのである。「ここはまさか、学校みたいなことはさせられないだろうな」と思って、おずおずと、しかし、勇気をふるって参加した人に、いきなり、「ここはみなさんが主人公として活躍する学習の場です」というとしたら・・・、これは残酷な話だと思う。DとEは、もしやりたい人がいたら公民館がどんどん支援すればいい。Cも、買って出てくれる人がいる場合は、その人にやってもらうのならいいだろう。ただ、Dについては、公民館の講座は自主グループではないのだから、公民館主事ができるだけ講座の中味にも参加して、質の高いリーダーシップを発揮し、きちんとした記録を作ってほしい。
 いずれにせよ、住民は生涯学習という自己決定活動の一環として学級講座に参加してくるのだ、ということを公民館側は再認識しなければいけない。この世知辛い現代社会なのにわざわざ自己決定で参加してきた住民に対して、公民館が、即、自治能力向上などの名のもとに集団主義を押し付けるのは、アダルトティーチングとしての教育的センスに欠けているといわざるをえない。
 公民館は、自治能力向上等の公的課題(=現代的課題)の教育的意図を参加者にフェアに明示しつつ、まずは「ここは自分らしくいられる場所である」と安心してもらえるように心がける必要がある。

9 「地域社会に役立っている私」という住民の存在確認
   −コミュニティに癒しを広げる公民館の公的役割

 ここで、公民館側が意図的に提起している公的課題の学習と、それによる「住民の自治能力の向上」は、どのように個々人の癒しとつながるのかを述べておきたい。
 生涯学習は個人の「どこまでも知りたい」という内発的動機に基づくもっぱら自己実現の行為といえよう。しかし、その自己実現は、社会的認知・承認の欲求の充足なくしては、ほぼ達成不可能である。その点では、マズローが社会的欲求を、自己実現の欲求や自我欲求よりも前のレベルに位置づけたことは現在でも通用する。
 ただし、現代社会においては社会的欲求こそ一番満たされにくく、それゆえ多くの個人にとっては最高次の欲求にまで高まっているのかもしれない。本論も、この現代の欲求に応える公民館経営を提起しようとしたものである。
 もちろん、社会的承認は、先述の3つの自己決定活動以外にも、本来、家族や職場への帰属意識などによって満たされるはずのものである。しかし、そこに頼りすぎることがむしろ病理を生み出しているのが現代である。これに気づいた一部の市民たちが自己決定活動に踏み出しているのだろう。そこで得られるのが、社会的役割の遂行と、それによる社会的承認を実感できる社会貢献のチャンスである。そして、公的課題の学習も、公民館が地域の総合的な教育施設であるがゆえに、学習者がその学習成果を社会貢献につなげていく条件を十分に備えている。
 今日、多くの若者が「自分は社会において意味のある存在である」と胸を張れない状況がある。そういう人たちに対して、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居心地よいサンマにおける癒しだけにとどまらず、さらには「地域社会に役立っている私」という究極の癒しのチャンスまでをも提供する公民館であってほしい。その関連を「社会貢献のチャンスとしての個人の学習課題」として図に示した(図表●)。今後の公民館活動の「究極」のねらいは、「住民の自治能力の向上」ではなく、学習者一人一人にとっての、その二つの「癒し」におくべきではないか。

10 地域は若者の居場所になりうるか

 次に青少年、とくに若者にとっての地域がいかにあるべきかを考えたい。そこで注目すべきは、平成9年度の文献(総務庁青少年対策本部『青少年問題に関する文献集』毎年発行)に目立って増えてきた「居場所」の議論である。
 大下勝巳「新しい地縁社会の創造をめざして−一サラリーマンの地域体験活動から」(全日本社会教育連合会「社会教育」52巻5号、p22〜24、平成9年5月)の趣旨は次のとおりである。

 おやじの会「いたか」は、父親たちの子育てをきっかけとした川崎のネットワークである。筆者は「新しい自分を発見し、開発する」と題し、地域参加方式である目的指向型の本会の活動の経緯について次のように述べている。1983年の発足以来、一貫して新住民サラリーマンのライフスタイルの構築をテーマに活動してきた。職業人であり父親であり同時に市民であることのバランスをとりつつ、一人の人間としてのトータルな生き方とは何かを模索してきた。個人としての「私」を取り戻して子どもに向き合い、大人のネットワークづくりを進めてきた。地縁はとはいっても、町内会・自治会の地縁よりはるかに広い。目的指向型のテーマ・コミュニティは、テーマと参加方式が明確であれば地域的な距離は問題ではなくなる。そして、地域社会における自分の居場所を確保できると、川崎都民から川崎市民へという意識改革、自己変革が起こる。
 筆者は、最後に、「まちづくりは生涯学習の格好の素材」と題して、次のように述べている。昨年6月の父の日に、川崎市企画室の職員の参加を得て、おやじ連で「まちづくりフォーラム」を開催した。行政とのパートナーシップを今後も考えていきたい。そのとき問われるのは、行政の政策立案能力であり市民としての力量であろう。そのためにも、地域社会への参加の仕組みをつくり、参加のチャネルを増やし、だれもが気軽に地域に出ていけるようにする必要がある。それには、生きがい、自己実現、人間関係の増幅という三つの要素を内包した会の運営を心掛けたい。地域参加することが市民経験の蓄積となって、市民としての成熟をもたらす。そういうプロセスを大事にしながら参加の仕組みを考えたい。それを可能にしてくれるのは生涯学習である。まちづくりへの参加を通した生涯学習こそ、人々の生きがいと自己実現を充足させる有効な方法であり、ひいては地域社会の成熟と力量アップをもたらす。

 父親たちの地域への関心と、それによる「地域社会における自分の居場所」の確保の意義が示されている。
 萩原建次郎「若者にとっての『居場所』の意味」(日本社会教育学会「日本社会教育学会紀要」33号、p37〜44、平成9年6月)の趣旨は次のとおりである。

 筆者は「居場所とはなにか」について、@存在が認められること、A自前で自分の位置をつくりだすこと、B生きられた身体として世界に住み込むこと、C「私」が住み込む場所を制限する「まなざし」、D「居場所とはなにか」と論じる。
 その上で、「居場所の観点から見た青年期教育の課題」として次のように述べる。若者の居場所となりうるような場をどのように保障するか。これまでの検討から明らかなように、居場所喪失の問題は若者の自己形成の危機的状況を示している。そこから、次の課題が導かれる。@若者の居場所となりうる場のデザインの観点は何か。Aそこでの指導者(大人)はどのような役割を担うのか。Bそのような場における学習の内容・方法とはなにか。
 これらの課題にたいして、筆者は留意すべき点を次のように指摘している。@そこが居場所になるか否かは、あくまで若者の側にゆだねられる。居場所はつねに流動する可能性をもっているため、大人が用意した場を必ずしも居場所にするとは限らない。A居場所になりうるか否かは指導者の在り方にかかわってくる。少なくとも若者の自己形成過程を、意図的操作的な教育意志によって教育過程に引き込んでいくことは、彼らの居場所を失わせる危険性をはらんでいる。多くの若者はそのような「教育的まなざし」に満ちた場には寄りつこうとはしない。そこにはすでに大人にとっての若者や人間についての意味づけや価値づけや方向づけが強く働いているために、その中で若者は居心地の悪さを感じてしまう。むしろ、若者たちにその場のデザインの自由をできるだけ保障することによって、彼らが生きられた身体としての「私」を住み込ませていく余地をつくることが大切になる。それは若者たちを一方的に大人の側から規定される存在としてではなく、大人と共に相互に規定し合う存在としてとらえることである。そのような関係性において若者の居場所は保障される。

 筆者の主張する「大人と共に相互に規定し合う」双方向の関わりの重要性を確認するとともに、本章では「教育的まなざし」のあり方について肯定的に探ってみたい。
 伊藤学「『癒しの生涯学習』を考える」(前掲「社会教育」52巻8号、p66〜67、平成9年8月)は、筆者の前掲自著『癒しの生涯学習』について論評したものであり、その趣旨は次のとおりである。

 現在、筆者(東京都青少年センター専門員)が携わっている青少年施設や、それに係る職員の機能や役割を議論するとき、その示唆的なキーワードとして、「癒し」や「居場所」をよく耳にするようになった。また、「人はなぜ学習するのか」という、本質的で非常に難解な問いに対して私たち一人一人は、明確な答えを出すことはできないだろう。ましてや、生涯学習にたずさわるものとしては、行政の声高なかけごえにどこかしら疑問を感じつつ、この本質的な問題と実践との間でゆれ動いているのではないか。西村美東士の『癒しの生涯学習』は上の問いに対し、「癒されること」が有効な答えの一つだと述べる。自身の大学講義における「出席ペーパー」をこれでもか、というくらいとりあげてそれを臨床的に実証しようとしている。それらは現代の若者の多くが抱える、自己矛盾や「より良く生きるには」という、人間としての素朴な疑問を如実にあらわしている。
 社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている。つまり、現代社会において心を癒したい、という欲求は当然のことであり、またそれが学習の目的になる場合も少なくない、ということを教育者は無視できなくなっている。これは、ラングランの提唱した生涯教育論とは、明らかに違うものであり、発達や成長を前提とした学校教育や社会教育の従来の理論に含まれないものである。こうしたことから、学会等においてもなかなか理解されないし、議論もされにくいテーマであるが、前述した状況などを鑑みれば、従来の論調ばかりでは将来的に教育全体が空虚なものになってしまう。本来保守的な営みである教育において、生涯学習社会に向けて様々な視点から、実践的な方法やシステムを検証し、再構築しなければならない。

 その他、伊藤が述べていることについてはあとで述べる。
 東京都生活文化局「中学・高校生の生活と意識に関する調査−子どもの健やかな成長を社会全体で支えるために」(平成9年12月)の趣旨は次のとおりである。

 本調査は系統無作為抽出で回収数は2,200(43.1%)である。
 「流行、アイテム」は次のとおりである。@中高生の間で流行している「プリント倶楽部」の交換・収集は、中学男子14.5%、中学女子81.2%、高校男子32.7%、高校女子89.5。A通学にルーズソックスを身につけている女子は、中学生の20.2%、高校生の44.0%。Bピアスをしているのは全体の8.8%で、昨年よりわずかに減少。C髪の毛を染めたり脱色している、いわゆる「茶髪」は22.9%で、全体では昨年をわずかに下回ったが、中学男子、高校男子、高校女子では増加。Dポケットベルの所有率は中学男子3.6%、中学女子9.2%、高校男子21.8%、高校女子48.3%。E携帯電話・PHSの所有率は、全体で18.0%、中学男子5.6%、中学女子6.5%、高校男子26.3%、高校女子28.3%と、昨年(全体で6.6%)をかなり上回った。Fテレクラなどに電話をした経験は、中学女子15.6%、高校女子31.5%で、昨年を下回った。
 「自分の居場所がない」は次のとおりである。@「ない感じがする」と回答したのは23.9%。A「学校生活に息苦しさを感じる」者は47.9%。B「同じ学校に通っていないがよく遊ぶ友人」が「5人以上いる」者は46.8%。C「遊んでいて帰宅が午後9時以降になる」ことが「週に一度以上ある」者が、中学生では5.1%だが、高校生では18.8%。D学校の帰りに寄り道を「たいていする」者は21.1%。E「(学校以外で)友達とちょっとおしゃべりをする場所」として「友達または自分の家」とする者が20.5%いるものの、「路上・街頭」が30.3%と最も多く、次に「ファーストフード店」が21.4%。「コンビニの前」も6.0%いる。F「誰にも邪魔されずに一人で過ごす時間が欲しい」者が63.3%おり、「友人といるより、一人でいる方が気持ちが落ち着く」と回答した者は34.6%。「一日のうちで一番好きな時間」として「家の自室などで一人で過ごす時間」をあげる者が34.4%で最も多い。

 彼らにとっての「居場所」は、ごくふつうに考えれば、「友達または自分の家」、「路上・街頭」、「ファーストフード店」、あるいは「コンビニの前」であり、「一日のうちで一番好きな時間」は「家の自室などで一人で過ごす時間」なのである。この役割を地域あるいは公民館等の地域の教育機関が担えるのかどうかが課題になる。
 戸澤正行「児童青少年センターの取り組みから」(前掲「青少年問題」45巻 1号、p32〜37、平成10年1月)の趣旨は次のとおりである。

 平成5年、児童福祉センターの移転改築が区の長期計画に取り上げられることとなり、センター職員で構成される「児童館の建設・運営の在り方」検討会が設置された。その報告の中で「中・高校生の居場所づくり」や「中・高校生の活動への支援」など中・高校生への取り組みが打ち出された。そのころ、杉並区の児童館全体にとっても中・高校生の利用促進が大きな課題となっていた。ジュニアリーダーやボランティアでなく、幼児や小学生と同じように、ひとりであるいは仲間とおしゃべりしたり遊ぶことが中・高校生にとって大切だと自分の経験から思っていた。また、彼らが自主的に何か活動しようと思っても利用できる公共施設は意外と少ない。こうした背景から、移転改築後、大型児童センターとして位置付け、中・高校生の文化的・体育的要望に応えられる設備を備えたものとする方針が出された。
 開設までに建設と運営に関するアンケート調査を、それぞれ区内の中学校8校・高等学校4校の生徒全員を対象に実施した。職員への要望については、「細かいことを注意する先生はいらないけれど、専門的な技術を教えてくれたり、必要なときにアドバイスしてくれる大人はいた方がいい」という意見などが出た。平成6年、区では基本設計に先立って、関係団体推薦者や一般区民、学識経験者から成る「建設協議会」を設置した。そこで、区内在住の中・高校生に呼び掛け、「中・高校生委員会」を設置した。その委員会は、その後様々なところで評価され、これを受け「中・高校生運営委員会」が設置された。運営委員会は、区内中・高校生15名(現在は23名)により構成され、児童青少年センターの規則や運営事項、講座、大会等事業に関する意見、事業の企画を主な活動としている。中・高校生には、やりたいことを見つけ、そのやりたいことを共感できる仲間と一緒に実現できる、こうした施設がせめて各市町村に一つは必要なのではないか。

 児童館が中・高校生に対して、「ジュニアリーダーやボランティアでなく、幼児や小学生と同じように、ひとりであるいは仲間とおしゃべりしたり遊ぶ」ための居場所を提供することの意義を認識し始めているのである。
 茨木市青少年問題協議会「平成9年度青少年を理解するための講座集録」(平成10年3月)の中の「現代の若者が置かれている環境」の趣旨は次のとおりである。

 千葉と大阪で不登校・就職拒否の若者たちの支援をしているフレンドスペース代表荒井俊は次のように述べている。まわりに合わせようとしすぎてしまう「過適応」の状態が長期になると、他人との関わりを拒否して自分の世界に引き込もる現象になる。その中には家族とは普通に会話している者もいるし、家族とは一切会話しない、顔も合わせない、一緒の家に住んでいるが子どもの顔を数年見ていない例もある。「過適応」の場合、自分が「こうしたい」という気持ちより、他人やまわりにいる人の意見をつねに優先させてしまう。自分も親になって「親ほど好き勝手をいうわがままな存在はない」とつくづく思った。自分が忙しい時は「早く食べなさい」と急がせるし、ゆっくりしたい時は「ガツガツ食べるんじゃない」という。多くの子どもは親の言葉を適当に受け流して成長するが、親の言葉に100%合わせようとする子の場合はパンクしてしまう。このようにして合わせることに疲れ切った若者が、家や自室にしか居場所がなくなる。このような若者たちや非行に走る若者たち、そして一般的な子どもたちが共通して大人に対して望んでいることは、「何も言うな。ただ黙って聞いてほしい」ということであり、それがわかりにくいがポイントになる。

 先の東京都生活文化局の調査結果と対応して、「家や自室にしか居場所がなくなる」ことの問題点が浮き彫りになる。また、「何も言わずに、ただし、聞いてほしい」という言葉はカウンセリングマインドの重要性を示している。
 国立オリンピック記念青少年総合センター「登校拒否等青少年の問題行動に関する調査研究報告書」(平成10年3月)の趣旨は次のとおりである。

 本文献は、9名の学識経験者から構成される「青少年の問題行動に関する研究会」が、家庭・学校・地域社会の連携の在り方について研究を行うため、青少年の問題行動、特に登校拒否等を解決するために実施した全国悉皆調査の結果を報告書としてまとめたものである。
 研究委員の一人である筑波大学教授飯田稔は、キャンプ療法の一目的である「学校復帰」について次のように述べている。登校拒否の初期の段階では、何とか学校に復帰させようとする親や学校関係者の願望が強く、このことが登校拒否を長期化、複雑化させる原因になっている。また、長期化した場合は、学校復帰とは別の解決手法を見出すこともある。キャンプ療法の目的は、「心の居場所」を確保し、社会で生きていくのに必要な社会性を身につけることであり、学校復帰は、その副産物としてとらえるのが妥当ではないか。しかし、本調査の学校等復帰への状況を見ると、不明を除く1,540人のうち910人(59%)が「状況が少しよくなった」と回答しており、学校復帰への改善が約6割に認められた。宿泊数別に分析してみると、日帰り(50.3%)、2泊以下(54.3%)、3泊以上(66.0%)となっていて、宿泊数が多ければ多いほど改善する率も高いという結果が得られた。筆者ら筑波大学の研究グループは、登校拒否中学生と一般中学生を含む、より長い10日間の統合キャンプを5年間実施した。その結果、精神医学的、心理学的、行動的側面の改善が認められ、登校拒否中学生51人中35人(68.6%)がキャンプ10か月後に再登校している。これは、本調査の結果よりも高い率である。キャンプや自然体験事業で改善された人間関係能力、自主性・自立性、その他のパーソナリティが、どのようなメカニズムで学校復帰に結びつくのかを解明する必要がある。自然体験やキャンプは登校拒否の問題解決に糸口を与えることは確かだが、参加すればすべてが解決するといった過信は禁物である。

 「心の居場所」の確保について、不登校児の学校復帰のための一義的な目的としてしまってはいけないという指摘は重要である。
 久田邦明他「子どもと若者の居場所−今、職員のできること」(東京都教育庁生涯学習部、平成10年3月)の趣旨は次のとおりである。

 本文献は、平成9年度家庭教育に関する調査研究委員によって執筆されている。委員は次のとおりである。久田邦明(神奈川大学講師)、桜井通(足立区青年センター所長)、鈴木雄司(杉並区立高円寺南児童館館長)、佐藤章(世田谷区「ほっとスクール城山」職員)、伊東静一(福生市公民館白梅分館職員)。
 久田は青少年の居場所の確保のために「期待される施策の方向」として、次のように述べている。@首長をはじめとする行政の責任者が、住民に向けて、若い世代のための施策の必要を繰り返し提起すること。若い世代がトラブルを起こすのは、当たり前のことである。トラブルが起これば、住民から苦情がもちこまれることになる。現場の職員だけに負担を押し付けないようにするには、行政の責任者による住民の理解を求める働きかけが必要不可欠である。A若い世代への支援には、とりわけ熱心な職員や、有能な職員を想定するのでなく、どのような職員にも可能な基準を設けて対応の方法や技術を工夫すること。施設の職員は、ほんの数年の在職期間で配置転換になる場合が多い。熱心な職員や有能な職員を想定した支援の在り方を想定するのは、現実的ではない。B熱心な職員や、有能な職員の活躍を妨げないよう、他の職員がそれぞれ可能な範囲で彼らの活動を支える仕組みをつくること。これまで、ともすると、少数の熱心な職員と、そのほかの職員とのあいだに溝が生まれる傾向があった。C民間(住民)とのあいだのパートナーシップづくりをすすめること。これまで行政が当てにしてきたのは、地元の地縁団体や世話役だった。しかしそれらは、地域共同体の解体とともに、十分に機能しなくなっている。これまでと同じような関係によっては行政施策の効果を期待することはできない。これまで地元の地縁団体や世話役が果たしていた役割を、今後はボランタリーな意志をもつ個人や団体に期待するようにしていく必要がある。

 行政施設において「居場所」を確保するにあたって、熱心な職員や、有能な職員を支える仕組みづくりや、民間(住民)とのあいだのパートナーシップづくりの必要を考慮する必要があるといえよう。
 あしたの日本を創る協会「子どもをすこやかに育むコミュニティづくり−平成9年度記録」(平成10年3月)の趣旨は次のとおりである。

 本シンポジウムで、東京都立大学教授高橋勇悦は「子どもの心安らぐ場がない」として、次のように述べている。いま子どもたちがどこへ行って安らげる場を求めるかというと、コンビニの前、公園のベンチである。これらが第5の生活空間になっている。第1の生活空間は家庭、第2は学校、第3は地域、第4はマスメディアがつくる情報空間である。第5番目の空間として、特定の場所ではないのだが、自分たちの心安らぐ場を無意識のうちに求めて浮遊して歩く状況に置かれている。つまり、居場所がない。居場所は、自分の部屋とは違い、他の人との関係があるところに成立する。
 「自主性、自立性の欠如」としては、次のように述べている。自立性とは、自分の行動を自分で決定し、その決定にしたがって行動するということである。社会性というのはその過程の中で人との係わり合いをもち、社会の一員として活動するということである。これが遅れている。自立の問題は大人の問題であり、日本人の問題である。調和が重視され、自分の意見を最後まで貫き通すということはなるべく控え、みんなに迷惑をかけないように同じように行動してしまう。そして、親の過度の保護が結局は子どもの自立性を損なってしまう。子どものために何かやるというのは親の自立心が足りないということではないか。
 「子どもと大人とが協力して地域社会を創る」としては、次のように述べている。地域社会の中に居場所を、人々の触れ合いの場を確保できないか。地域社会の子どもは地域が育てるということである。地域というのは多様な人間の触れ合いができるという意味で一番勝っている。家庭や学校よりも地域には多様な人間が住んでおり、子どもたちの自立性、社会性を育成する場としてもっともふさわしい。今回発表された活動事例のように、ささやかながらでも子どもたちと一緒に大人がまちづくりをすることが触れ合いの場をつくるだろう。

 高橋の「居場所は、自分の部屋とは違い、他の人との関係があるところに成立する」という指摘は、「居場所」の本質を指し示すものといえよう。

 さて、前掲自著『癒しの生涯学習』について、伊藤学は、先に紹介した論文により、従来の生涯教育論とは、明らかに違うもの、発達や成長を前提とした学校教育や社会教育の従来の理論に含まれないものとして評価した。
 しかし、同時に、伊藤は、「この本は、(引用者注・東京都青少年センターの専門員としての)一日が始まる出勤途中の電車の中では読みたくない。ただ、自分が癒されたいときにはバイブルとなる」とし、「自分自身の『癒し』はともかく、それを“お仕事”としていくことで、プラス面に作用しなくなること」への警戒を述べている。
 ぼくも伊藤の言葉に共感する。癒しの語感は、一般的にはたしかに後向きなのであろう。そういうことが伊藤だけでなく、多くの生涯学習援助職員にとって、癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)の提供を“お仕事”として取り組むことへの抵抗感となっているのかもしれない。
 しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、後向きの価値観を最初から排除することはしないものの(そこが従来の教育の価値観と違うところである)、結果としてはむしろ前向きに終わるであろうものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク型の態度を指す。
 伊藤は、たとえば、カウンセリングやガーデニングのブームを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている」ので、そういう当然の「欲求」を、「教育者は無視できなくなっている」としている。
 伊藤の若者の現実のニーズから立脚した論旨はぼくの本などよりもよっぽどわかりやすい。しかし、このような論旨だけでは、職員が本来の職務として援助するような代物ではないのではないかという「恐れ」が芽生えても不思議ではない。
 じつは、ここに、現代社会における一般的な「癒し」と、ぼくが提起する生涯学習における「癒し」との決定的な違いがあると思う。
 そもそも、ぼくは、生涯学習において「癒しのサンマ」と表現している。この言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。これは、「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」というような関係者にありがちな批判より、さらに的を射た抵抗だと思う。生涯学習のような自己決定活動とは異なる学校教育の場においては、そういう学生にぼくが言えるのは「無理して出席しないで、元気になったらぼくの授業に出ておいで」ということぐらいである。
 ここまでくると、「そんな教育の、どこが癒しなんだ」と言われそうである。しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質があるのだ。つまり、ぼくが進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う一般的な現代社会からの「いい男、いい女」のための逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃げてしまおうという場ではない。むしろ、人と信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容の突出的なサンマを創り出すという、なかなか面倒な営みなのである。学習することが即目的であるような学習中毒のほうがよっぽど楽だ。
 しかし、このような「出会いの努力」を本人がしない限り、本当に癒されることはありえないだろうとぼくは思っている。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の「癒し」志向の事態に対して、本当に癒される人間関係を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざすべき個人の自立や、望ましいコミュニティ形成、ネットワークづくりなどはできようがない。

11 癒される地域若者文化創出の可能性

 まわりの大人や友達に対する「いい子ちゃん」も「淋しがり屋のタカビー」も、いま、癒されようとして必死の「努力」をしている。ヒーリング(癒し)のための音楽を聴く、オイルやハーブを買う、イルカと泳ぐ、クジラの鳴き声を聞く・・・・。しかし、それだけでは根本的には癒されるはずはないであろう。
 ここでは、文化としてのコミュニケーションやその他の文化活動がどのようにあれば、そういう現代の若者たちに心からの癒しを与えられるのか、そして、そのことによって、文化の継承や建設的な対抗文化としての役割を若者文化が果たせるようになるのか、考えることにする。その際、地域だからこそ期待できる可能性とは何なのか、ということが重要になる。
 従来の教育は、ややもすると対抗文化の発展を妨げる一方、青少年個人には成長・発達ばかりを期待してきた。しかし、学校歴偏重、上下競争主義の弊害がここまできた今日、非効率的に見えようとも、癒しや安らぎを得ることのできるサンマを広げていくことに力を入れることの方が先決である。
 サンマとは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが、今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けていると提起したときの言葉である。しかし、若者や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。
 このことについて、前掲自著『癒しの生涯学習』では、癒されるためには、@自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はないと主張した。そして、@生涯学習、Aボランティア、B地域・市民活動の3つの自己決定の集団の人間関係がもつ癒しの機能の重要性を訴えた。
 地域は、その実態はともかく、本来的には縦よりも横の関係が基調になる場である。それゆえ、文化活動においても、上からの命令ではない自己決定と、対等な人間的交流が基盤になり、文化創造を含めた上の3つの自己決定活動の主人公として活躍する余地の大きい場の「はず」である。だとすれば、地域文化は「癒しのサンマ」に支えられ、そのサンマをより確かな信頼と共感に基づくものにしてくれる「はず」だろう。
 「はず」であるのに、地域の実態がそうではないとすれば、今の若者を責める前に、地域自体の意識的な変革によって、これを少しでも、あるいは突出的にでも、改善していくことが大切ではないか。以下、サンマの視点に基づいて、そのための提案をする。

提案1 地域に囲い込もうとしないで
 −若き旅人たちの巣立ちの場

 ぼくが関わっていた東京都狛江市中央公民館の青年教室「狛江プータロー教室」(通称狛プー)では、他市、他県からも若者がやってくる。彼らは、よその地域からの風を狛江に吹き込んでくれる若き旅人である。主催者側は、そういう旅人を、ゆめにも、門前払いするようなもったいないことをしてはならない。
 その旅人たちが口をそろえて言う、「ジモティーはラッキーだなあ」。ジモティーとは地元民のことである。夜、遅くまでいても、楽に帰宅できるのがうらやましいのだ。ジモティーとしても「狛江っていいところだよ」とまんざらでもなさそうだ。実際、職場から遠くなるのに、狛江に引っ越してきてしまったメンバーさえいる。しかし、彼らとて、また、いつ巣立ってしまうかはわからない。
 地域に対する若者の愛着や帰属意識は、こんなところで十分だと思う。「みずからが居住する地域で活動しないなんて」と考えるのは、「若者にとって地域とは」というのではなく、「地域のために若者をどう活用するか」という逆立ちした発想である。これに似た逆立ちが、もうひとつある。「この地域で育ったのだから、この地域に還元するための活動を」という地域からの若者への押しつけである。相手の若者だって憲法で居住、移転及び職業選択の自由(22条)が保障されている国民の一員なのに、視野の狭い地域主義に凝り固まった大人の御都合主義が若者の巣立ちを引き止めようとする。
 地域自身がオープンマインド(開かれた心)を取り戻す必要がある。

提案2 ノリを押しつけないで
 −鬱の時代の「個の深み」

 東京都青少年センターの運営会議で、ぼくがあるにぎやかなイベントを提案したところ、同じく委員をしていた狛プーの前衛芸術の女性講師から、「西村さんね、いまの時代の気分は『鬱』なのよ」と言われた。たしかに、躁の時代のバブリーな空騒ぎにはみんな飽き飽きしているようだ。
 ぼくのメーリングリスト(インターネットを利用したグループ内での手紙のやり取り)に参加しているある若者の発言(概要)を聞いてほしい。
 「実行委員とかいう言葉には、なぜか拒絶反応がでるんですよ。どうも、大学の時の学園祭実行委員会(≒自治会)のイメージが強烈で…。なんというか、単一のノリしか認められないような感じとでもいうんでしょうか。結局、今の自分のノリがその集団のノリとあうような人じゃないと定着しないんですよね。そしてますますその集団内部で閉じた世界ができちゃって、強化されていく。その最悪なところは、彼らのノリでの参加を強要されてしまうということです」。
 このように個を大切にする現在の若者が求めている出会いとは、一人ひとりの「個の深み」(前掲自著『生涯学習か・く・ろ・ん』)と静かに対面し、しみじみと体験を味わえるサンマでの出会いなのだろう。
 ノリは、結局は「視線」を獲得するための行為につながっているようだ。それはそれでよい。しかし、鬱の時代には、もっと意味を込めた「まなざし」こそを求める若者が増えているのではないか。ノリに無理して付き合うことなく、かといって乱暴にならずに自己の鬱を大切に扱って生きている若者に対して「まなざし」を投げかける地域や文化であってほしい。

(注)「個の深み」について
 「個の深み」という言葉は、青少年団体の全国的連絡組織である「中央青少年団体連絡協議会」によって設置された「特別研究委員会」の提言、「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」(平成2年3月)の中で提起された。ぼくもその委員会のメンバーとして起草に携わった。そして、青少年団体が今日の人々のニーズにこたえ、社会の新しい変化に対応するために、委員会は「個の深み」の概念を打ち出したのである。
 そこでは、「個の深み」を、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの「方向性」をもつ「個人」として生きること、そして、固有の方向に向かって深く踏み入ること、あるいは踏み入ろうとすることとして定義した。このような確かな「個の深み」ともいうべきものが、これからの社会の中で育つ可能性があるとするならば、その獲得を尊重・助長するための教育技術のあり方について考察することは意義深いと考えられる。

提案3 個人としてとらえて
 −学習は個人的事象

 同じメーリングリストから。
 「以前、大阪にいる頃はハードロックバンドを組んでライブハウスを回っていました。今の仕事を始めてからは音楽から離れていたのですが、最近またバンドを組み、ギターも習いはじめました。ゴキゲンな毎日です。団体行動は苦手。でも楽しいお酒は好きです。仲良くしてください」。
 ぼくは次のようなレスポンス(反応の投稿)を出した。
 「そうなんです。このメーリングリストでもそういう人が多くて・・・。でも、ここはイベントバリバリの人たちも水平に交流するという特異な場だと思います。なんだかおもしろいですよね」。
 指導者は、表面的には集団を相手にしていても、心底そう思いこむようになったら大間違い。学習は本質的には個人的事象であり、教育はその異なる学習者一人一人に働きかけていく営みである。文化活動もそうだろう。「みんな違ってみんないい」(金子みすゞ「わたしと小鳥とすずと」)のである。

提案4 大人や紳士淑女としてとらえて
 −青年は保護や管理の対象ではなく、自己決定主体

 子どもは子どもと呼べばいい。しかし、青年を、青年と呼ぶか、若者と呼ぶか、ぼくは現在、ほかのメーリングリストで論議中だが(一応のぼくなりの結論はひらがなの「わかもの」である)、少なくとも中学生を過ぎたら、どう呼ぶかは別として、「まだ子ども」ではなく、「もう大人」として接し、「若い大人」すなわち「ヤングアダルト」としてとらえるよう主張したい。
 「子ども」と呼ばれるのではなく、「知る権利」などを保有し、よって責任があるという意味での「アダルト」と呼ばれることによって、そう呼ばれた人自身が、保護と管理のもとに置かれ続けすぎた「子ども」ではなく、自己決定する「成人」になることができる。場合によっては、子どもに対してだって「紳士淑女」として扱えばいいではないか。

提案5 後向きを否定しないで
 −積極・消極の自己決定の尊重

 よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己決定できていないとさえいえるかもしれない。
 自己決定活動のエネルギー消耗について、ふたたびメーリングリストから。
 「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。
 人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。
 この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。
 違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。
 「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。
 後向きになっているときも個人にとっての「文化」の契機なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは建設的な生き方のひとつなのである。

提案6 教育っぽくないのが好き
 −双方向ライブこそ教育や地域若者文化の姿

 ある青少年センターの若手スタッフが、違うメーリングリストで次のように発言していた。
 「よく利用者や関係職員には『教育っぽくなくていいよね』とか、『なんでそんな事業ができるの』っていわれることがあります」。
 ぼくは次のようにレスポンスした。
 「センターの事業は教育じゃないからなんでしょうね。社会「教育」の世界のぼくとしては悔しいです。でも、教育に対する固定観念に安住している人が教育をやっていると、マイナスとしての『教育っぽさ』が生ずるのであって、ほんとうは教育は『教育っぽい』ものではないと思います(矛盾した表現!)。
 たとえば、校長が朝礼台に立つのは、数百人もの子どもたちから見えやすいようにという配慮であるはずであって、もし、これが過疎の村の数人の学校でも同じようにやっているとしたら、教育者としての見識が疑われるわけです。幸いにもそんなに小人数なら、子どもたちの視点まで降りていって、まさに双方向リアルタイムのおしゃべりをすればよい。そういうライブ(生演奏)感覚こそがほんとうは『教育っぽい』姿なのだと思います。
 それにしても、朝礼って、なんだか教育の代表的存在みたい。あれって、やられるほうはコケにされてるみたいでたまらなく嫌なものですが、やっているほうはめちゃくちゃ快感感じてるんでしょうね。ずるいよねえ」。
 同じ彼が次のように、ふたたびレスポンスしてきた。
 「私個人の話で恐縮ですが、私が中学校の教壇に立ってたときより、今の仕事の方がおもろいです。なぜか? ある意味、無責任だから楽なんでしょうねえ。マイナスとしての教育っぽさ=説得、というイメージがあるんでしょうか」。
 ぼくは次のように返した。
 「説得じゃないでしょうね。だって、ぼくだったら、いっしょうけんめい包み隠さずに、真正面からぼくを説得しようとする人がいたら、その人の言葉を少なくともよく聴きたいとは思うもの。ただし、最後に決めるのは自分ですけど。
 マイナスとしての教育っぽさ=説得、ではなくて、=説教、なんでしょう。自分の本音や心配事は隠しておいて、なんの痛みや悩みも感じてないふりをして、とくとくと朝礼台から語られることを聞く側の苦痛、というか馬鹿馬鹿しさ、これが、マイナスとしての教育っぽさなのだと思います」。
 以上は教育についての話題ではあるが、文化活動、とくに地域文化においても、まったく同じことがいえるのではないか。文化を享受する側が個人として大切に扱われる。ときには双方向の参加が可能である。決まりきったことを上から押しつけられることだけでは、けっして個人は我慢できないのである。

提案7 中高年みずからが地域文化を楽しまなくっちゃ
 −「今しかここだけしか」から「今ここで」へ

 狛プーで紙芝居教室をやったとき(狛プーは月替りメニューである)、講師の紙芝居屋さんのおじいさんの態度がとても魅力的だった。参加者が一人一人順番にアドリブで紙芝居(本物の)をやっているときさえも、講師本人は自分の紙芝居の準備に熱中している。もちろん、言葉少なげに的確な専門的アドバイスをしてはくれるのだが、基本的にはそのおじいさんは「好きでやっている」だけなのである。だから、太極拳だかなんだか、関係ないけれど自分がいま関心を持っている話題については一生懸命しゃべる。こういう「自然体」で「ほんもの」の生き方に、若者は憧れるのである。
 地域の心ある大人たちが危機感に駆られて、しかめっ面で「滅びゆく地域文化を継承しなければならない」と訴えたとしても、多くの若い旅人たちは自己決定してまではついてきてはくれないだろう。失礼な言い方で恐縮だが、その言葉に「うそ」が混じっているように感じられるからである。
 それよりも、少しでも多くの中高年たち自身が、地域文化をみずから楽しみ、地域の横のつながりによって生ずる癒しのサンマにみずから癒される思いをもてるようになることこそ大切なのではないか。
 「今ここで」あるいは「今を生きる」という言葉がある。学歴などの過去の文化遺産を比べあったり、「次の世代のために」と演説したりすることより、「今ここで」の自他の個の深みとの出会いこそ、若者も中高年も心の奥底では求めていることなのだろう。「今ここで」は文化の本質でもあろう。
 しかし、現代文明がここにまで至って、「今ここで」ではなくて、「今しかここだけしか」(どうせ将来は自己決定の生き方など無理だから)という絶望的な時代の気分が高校生などの若者たちを支配しているように思える。地域文化創造の主人公になるなどという意識が芽生えないのも無理はない。
 そういうとき、中高年こそ、「落ち込んでいる自分自身に飽きて」、いわば居直って、「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」の生涯にわたる「今ここで」の文化の楽しみ方を示すことができるのではないか。地域文化活動等の横のつながりによる自己決定活動に限っては、主体的、意識的な営みさえあれば、それはすぐ手の届くところにあると思う。そういう中高年たちが地域にいれば、若者にとってはたまらなく魅力的な姿に映ることだろう。

12 支持的風土のネットワークを創る

 上記のような「癒される地域」とは、すなわち前出高橋勇悦の「居場所は、自分の部屋とは違い、他の人との関係があるところに成立する」という指摘と深く関連している。
 J.R.ギッブは、支持的風土の集団の特徴として次のように述べている(片岡徳雄『学習と指導−教室の社会学』放送大学テキスト)。

@ 仲間としては、自信と信頼がみえる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている。
A 組織としては、寛容と相互扶助がみられる。例えば、潜在的な敵意が少なく、争いが少なく、組織や役割が流動的である。
B 目標追求に関しては、自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる。

 ギッブのいう支持的風土と防衛的風土を対比すると次の表のようになる(図表●)。とくに、「仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができる」ことを信頼関係の表れとして肯定的にとらえている点が示唆深い。
 本章の最後に、このような支持的風土のネットワークとしての「居場所」を「創る」ということについて、ぼくが委員長を務める「平成10年度東京都青少年センター運営委員会」において、関連する論議があったのでこれを紹介しておきたい。その論議の概要は以下の通りである。

 青少年の「居場所」づくりについて、その意義を踏まえつつ、これが都内の関連行政においても広まりつつあることから、本センターでは東京都としての先導的役割に鑑み、青少年育成の視点から、さらに次のような意味での「居場所」の発展的展開を試みるべきである。
 たまたまセンターを訪れた若者も含め、その一人一人が個性を再発見できる時間・空間・仲間関係を提供する。そこでは、居心地がよい、大人からの過剰な禁止、抑圧がない、という「居場所」としての条件整備に加え、若者一人一人が自分の頭でものごとを深く考え、さらには個性を輝かせて役割を発揮できるための配慮が必要である。
 これが、若者たちの一般の「居場所」とは異なる、自立と社会性を意図的に育む東京都青少年センターとしての「居場所」の独自の役割と考える。

 このように、他者との関係性があり、それが支持的風土に基づくものであること、さらには、そこで一人一人が「個性を輝かせて役割を発揮できる」ことが「居場所」の理想形であるといえよう。そして、そのためには、居心地のよい場所を提供するというだけではなく、支持的風土と個性的役割発揮にあふれた他者との関係性が失われつつある現代において、それを新たに「創り出す」という生涯学習支援の意識的な営みが、いま強く求められているのである。



第W章 ボランタリズムと官民パートナーシップとしての生涯学習活動の現状と未来
 −ネットワーク型活動としての充実をめざして−

1 ボランタリズムを支援する地域施設

 ボランタリズムはすべての人がもっている資質であり、願いである。人はみな自己実現と社会貢献によって癒され、成長し、かけがえのない自分を確認しようとするからだ。しかし、現代社会は、このあたりまえの願いを押しつぶす方向でも機能する。さらに、ボランタリズムを阻害する心の要因についても探りたい。そのことによって、地域における自発的な生涯学習活動や市民活動などのボランティア活動としての側面を支援する地域施設のあり方について明らかにしたい。
 ぼくも起草に関わった栃木県佐野市の生涯学習推進基本構想(平成5年4月)では、「私らしさ咲かせます、楽習のまち佐野」というキャッチフレーズのもとに、「楽しい生涯学習=楽習」を大切にと呼びかけている。そして、「何からでも学び成長する私(わたし)」を基本として自発的意思のもとに自由に進められている市民の生涯学習活動がよりよいまちづくりにもつながると述べている。
 なぜ人びとが生涯学習をするのかといえば、その大きな理由のひとつは、生涯学習が楽しいからだ。それでは、どこがどのように楽しいのか。そのヒントは、今日の人びとのボランティア志向のなかに見出すことができる。生涯学習の活動も、佐野市の構想がいうように「私のためにやっていること」がよりよいまちづくりにもつながるという意味で、ボランティア活動と共通の楽しさをもっているのである。
 ボランティア活動とは、お金をもらうためではなく、自分から進んで、だれかの役に立とうとする活動のことである。これを、自発性、無償性、公共性の原則という。また、生涯学習活動とは、いつでも、どこでも、だれでも、なんでも、学びたいことを学びたい手段で学ぶことである。生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(平成4年7月)では、生涯学習とボランティア活動との関連の視点として、@ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習になる、Aボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための学習として生涯学習があり、学習の成果を生かし、深める実践としてボランティア活動がある、B人びとの生涯学習を支援するボランティア活動によって、生涯学習の振興が一層図られる、の3点を指摘している。
 さらに、ボランティアと生涯学習の2つの活動がとくに最近人びとから関心をもたれるようになった理由としては、自分のこれまでの枠組を変化・成長させる楽しさ(自己実現)と、自分の存在が他者に受け入れられる楽しさ(社会的認知)の2つがあげられる。人間は一度しか生きられないわけであるから、一人ひとりはこのようにして自分自身の存在価値や生きている証明を見つけ出そうとする。それらの活動は、外からの抑圧をみずからの内面に取り込んで仮面をかぶって交流する現代の状況下においては、自己確立、あるいは、自分さがしのための懸命な幸福追求の姿としてとらえてよいのかもしれない。
 ぼくも起草に関わった東京都練馬区生涯学習推進懇談会提言「土とみどりとひとと自分に出会えるねりまをめざして」(平成6年2月)では、「この提言で何か生涯学習の理想像を描き、それに向かって進まなくてはいけないということになるとそれは一つの心理的圧迫になるだろう。これまでいわれ続けてきた、発達すべし、成長すべし、という強迫観念に追い回されるのはもうやめよう。こうした圧迫になる要素をすべて捨て去ったとき、私たちは地域社会に何を求めるのだろうか。それは、個人として尊重される場であり、自分をすなおに出せる場であり、あたたかな人間関係をもてる場であり、疲れた心を休める癒しと安らぎの場であり、生きていることを実感できる場である」として、どこまでも知りたいという発達や成長の欲求とともに、癒されたい、安らぎたいという欲求を生涯学習への志向として大切にしようと提起している。
 生涯学習の世界は、「教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人」「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」という混沌とした世界である。「受信」や「充電のための学習」ばかりでなく、学習成果を他者に伝えたり、発表したりする学習成果の「発信」や「放電」によって、「学ぶ」と「教える」が水平に双方向で行き交うのである。そこでは、権威を振りかざしたり、権威に従属しようとしたりして上下の関係に引きずられることはくだらないことと嗤われ、「してあげる」と「してもらう」の相互の働きかけが水平にスムーズに交流する。それは、いつ裏切られるかわからないとおたがいにびくびくしている現代の人間関係のなかでは、ボランティア活動とならんで、なかなか得難いホッとできる時間・空間・仲間関係でもありうる。これを癒しのサンマと呼ぶことができる。生涯学習やボランティアは、生涯にわたる発達・成長とともに、癒し・安らぎをも提供するのである。
 生涯学習施設が、そういう生涯学習活動の拠点として、サンマのなかでの交流を支援しようとすることは当然の役割である。施設ボランティアを導入することの意義もそこにある。その形態は、簡単なお手伝いから、かなり高度な見識を要する専門的支援活動にいたるまで多様に考えられるが、いずれにせよ、そのなかで、生涯学習施設ボランティアはつぎのような3つの他者との水平な出会いをもてると考えられる。@ボランティアと施設利用者、Aボランティアどうし、Bボランティアと施設職員。そして、これらの他者や、その生涯学習施設が固有にもっているそのほかの学習資源との出会いをとおして、ボランティアは人間としてもっている自分自身の無限の可能性のいくつかに出会うことができるのである。このように、生涯学習施設では出会いのチャンスにあふれたサンマをつくりうるのである。
 「そんな理想社会のようなことが現実社会で実現するわけがない」という人もいるかもしれない。たしかに、ここでいうサンマは、施設側が意識と理性を働かせないでも自然に形成されるというような代物ではない。しかし、それは、働きかけ方の問題でもある。たとえば、ぼくは授業で何回か「幸せの瞬間」というブレーンストーミングを行っている。ブレーンストーミングとは、「無礼講の話し合い」のような発想法の一種で、ルールは、@ひとのアイディアを批判しない(批判禁止)、A変わったアイディアでも自由に出す(自由奔放)、Bできるだけ多くのアイディアを出す(質より量)、C出されたアイディアを改良するようにアイディアを出す(結合便乗)、の4つである。このルールによって、いくらかは安心して「自分らしさ」を出すことができ、自由な発想のきっかけになるのである。「物差しで比べられること」に反発を感じながらも、そのあてがわれた物差しを内面に受け入れてしまって非生産的に自己を抑圧している私たちではあるが、それをみずから解放することも、まったく不可能なこととは言い切れないのである。ぼくも、まったく違ったそれぞれの人の「幸せの瞬間」を聞いていて、「これはまったく共感できない」などと感じたものは今まで一つもなかった。たとえば、「ジェットコースターで一番てっぺんまで登りつめて、これから落ちようとするとき」というのがあったが、お金を出してまでジェットコースターに乗るわけのない高所恐怖症のぼくでさえ、「ああ、なるほど」と思えたのである。このブレーンストーミングのような仕掛けはほかにもいろいろと考えられる。さらには、生涯学習施設においては、ブレーンストーミングの「批判禁止」をも超えて、批判されても傷つかない、批判しても傷つけないような、自分と相手への信頼と共感にあふれた自立した者同士の支持的風土(p32)にまで発展できるかもしれない。
 むしろ、問題は、生涯学習施設側の姿勢にあるのではないだろうか。ぼくが生涯学習施設ボランティアの導入を「出会いの拡大」として支持する立場からある県でパネルディスカッションの司会をしていたところ、その司会のやり方に対して県内のある図書館司書から批判を受けたことがある。それを大学の授業で紹介したところ、一人の学生がつぎのように出席ペーパーに書いてきた。

 先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的だといわれたと思いますが、私は司書さんがいったことがわかるような気がする。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思う。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。

 この出席ペーパーに対して、翌週の授業で、ぼくはつぎのようにコメントした。

 生涯学習施設へのボランティアの導入は、市民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。その図書館司書がそうでないと思うなら、そう批判すればよいではないか。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは、労働者としての自己客観視を忘れた御都合主義といわざるをえない。
 専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で代行できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。現在のその仕事は、ボランティアコーディネートやその他の、より専門的な仕事に純化すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は当局側の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずなのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。しかし、だとすれば、その図書館司書は、住民の幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。
 幸福とは自然に達成されるものではない。生涯学習援助職員の場合も、学習者の幸福追求への意図的、意識的な援助の営みのなかで、自らの幸福も確認できる。そのためには、自己の保護や安定だけ求めて自分の都合に理屈を合わせる御都合主義ではなく、自分が働いている意義を自負できる自律的な精神が求められる。これが職員としての現実原則に即したプライドの守り方、育て方である。

 以上に示したように、ぼくは、生涯学習施設ボランティア活動を阻む施設側の要因として、2つの御都合主義が問題だと考えている。「出会いの援助よりも、従来の仕事の安定的な存続を優先する御都合主義」と「出会いの援助よりも、経費や人員の削減を優先する御都合主義」の2つである。前者に対しては「それなら、失業対策事業とどう違うのか」と問いたいし、後者に対しては「それなら、現在、公金を使って施設を運営し、しかも、専門職員まで配置している理由をどう答えるのか」と問いたいのである。
 日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べている。国民の幸福追求の重要な営みとして認識されるべきボランティア活動に対して、生涯学習施設がその援助者としての役割の自負と喜びを主体的に意識することができるかどうか、そこで生涯学習施設の将来が決まるといっても過言ではないだろう。
 そもそも、生涯学習施設職員が、現代の上下同質競争の価値観を乗り越えて、学習者や施設ボランティアとともに水平異質共生の突出的サンマをともに創造する営みに本気で、そして本務として関われるようになれば、それは職員自身にとっても至上の幸福といえるはずである。じつは、ぼくは、生涯学習施設へのボランティア導入は、一般の利用者との関係以上に、職員にとっての自分らしさや相手の「個の深み」と出会える楽しいものになるのではないかとうきうきしながら予想している。生涯学習が楽しい活動であるのと同様に、生涯学習の支援も楽しい活動であってほしいものだ。

2 地方行政とコミュニティとのパートナーシップに向けて

 ぼくも起草に関わった平成6年5月の神奈川県生涯学習審議会答申「学習社会かながわを展望した生涯学習振興の基本的方策について」では、行政と県民との関係を考えるにあたって「協働」をキーワードにした。そのポイントは、@役割の違いをふまえた上で施策や事業の推進を協力しあうという意味での「役割関係の重視」、A県民が客体(対象)ではなく、一方の主体としてとらえられるという意味での「県民の主体的参加の重視」、の2点である。双方に主体性の発揮が求められるのである。「協働」は「パートナーシップ」と言い替えることもできよう。そして、そこで問われているのは、ボランタリズムの支援の場合と同様に、双方の主体性である。地方行政と市民とのパートナーシップとしての生涯学習推進のあり方を図に示すと次のようになる(図表●)。

3 不幸の手紙からの脱却の方法−ネットワーク型活動への転換を

 「いきいきどきどき徳島学遊塾運動」は、まち全体を学び舎として、市民のだれもが学ぶことができ、教えることのできる「共育システム」である。そして、その主体はつねに市民であり、市民自らの発想と実践によって運営されることが基本とされる。学遊塾推進本部や企画、広報等を担当する各専門部会は、公募による市民ボランティアが活動の中心となる。
 もちろん、これに対して、徳島市(事務局は社会教育課)はできる限りの支援をしようとしている。しかし、だからこそ、そこで問われるのは市民参画の実体であり、官民パートナーシップの成熟度である。
 ぼくは本年度から澤田順子さんとともに本運動のアドバイザーをやらせてもらっている。これは、ぼく自身にとってもボランタリーな活動である。澤田さんは6年目であったが、ぼくはまだ1年しか経過しておらず、まだまだ「実体」としての本運動を把握しているとはいえない状態だが、ぼくなりにいまの学遊塾が突き当たっている究極の問題点として感じている点を述べてみたい。
 それは、参加・参画する市民の側にややもすると「不幸の手紙」と似た心理的状況が垣間見られ、そのことが市民参画や官民パートナーシップの阻害要因になっているのではないかということである。「不幸の手紙」とは、同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもので、チェーンレターの一種である。市民の自己決定活動の一環であるはずの生涯学習なのだが、とくにそういう活動のなかで役員などをやっている人は「なんで自分ばかりこんな苦労をしなければならないのだろう」という非生産的な気持ちにさいなまれることがあるのだ。これをそのままほかの人に訴えて協力を得ようとしても、相手だっていやな苦労はしたくないわけで、進んで協力しようという気持ちになれないため、「不幸の手紙」をもらったときのようないやな気持ちになるだけの非生産的な結果しか残らない。
 もちろん、行政側にもこのような運動への対処の未成熟な部分も残っていて、それも阻害要因のひとつにはなっているとは思うが、市民の側に行政とのパートナーシップ能力が培われれば、それは市民の力で次第に解消されよう。
 なお、本稿は問題点とその対処法を考察することを主眼としており、実際の学遊塾運動は、ほとんどの場面でまさに「いきいきどきどき」と運営されていることを念のため言明しておきたい。
 1997年度の『1年間の活動報告』において、徳島学遊塾運動推進委員会委員長の山本忠男さんは、「学びたい人々はたくさんいる。また、自分のもっている知識技能を多くの人々に広めたいと思っている人も少なくないと思う。そんな人々の、共に教えあい学びあう場が学遊塾である。師弟とか金銭とかに関係ない、遊び心から学び心への共育であり楽習である。企画運営に当たる推進委員も、市民教授も、みんなボランティアであるのが特色で、理想的な市民手づくりの生涯学習」としつつ、「道いまだ遠しという感がする」と述べている。
 澤田さんは、「互いに教え、教えられる双方向の関係に戸惑いを覚えたようだ。はじめは市民教授というと、特別な資格であると錯覚を起こした向きもあった」、「各部会や推進委員の意向が反映されてきているとはいえ、まだまだ主体性を持つところまでいっていない。『私にできることがあればお手伝いします』の域を越えないまま指示を待ち、事務局に頼る部分が多いようだ」と述べている。
 共育と楽習は、ある意味で「わがまま」(わが思いのあるがまま)に積極的に関与する行為であり、しかもそれは「自分のため」の行為であるといえよう。だが、徳島の人たちの「控え目さ」ゆえにか、そういうとらえ方ができずにいる面がありそうだ。これはこれで徳島の人たちの味わい深さを表しているのかもしれない。げんに阿波踊りのときなどは身も心も大いに解放し、ハレの日を十分味わうことができる。ぼくも3日間踊りっぱなしであったが、とくに学遊塾の連で踊ったときは、超ベテランの三味線(これもボランティア)のメロディーというぜいたくな条件のもとで、下手も上手もごく当たり前にいっしょになり、地元の路地や、いつものなじみの盛り場や商店街を踊り歩くことができて、一番楽しかった。
 しかし、日常の日々における「控え目さ」のほうは、それが何かの拍子に潜行するようなことがあると、先述の「不幸の手紙」のような非生産的状況に陥ることにもなる。「これだけ自分はやってきたのに、ほかの人がやってくれないのはおかしい」、「行政はこういう私たちにこそもっと面倒を見てほしい」というわけである。ややもするとそういう気持ちになることは無理もないこととは思うが、これが市民の自己決定活動という本質を歪ませ、市民参画や官民パートナーシップを難しいものにしてしまう。
 ぼくは平成11年2月に本運動の市民教授研修会において「さて困った、大人への教え方」というワークショップを行い、引き続き推進委員研修会で討論と懇談会をさせてもらった。
 「よそでたまったストレスを学遊塾で発散している」という元気な意見もあったが、「役員をやっているとストレスがたまることが多い」という訴えもあった。その理由は、まわりの人が協力してくれない、あるいはちゃんと理解してくれていない、会議でなかなか全体の意見がまとまらない、などである。高齢のため体がついていかないという人もいた。市民教授登録者からは、他県の例と同じく、講師としてお呼びがかからないという問題が大きかった。
 一方、環境問題に関する活動をやっている人からは「活動を、自分の生きてきた証しだと感じている」、民謡の人からは「徳島の宝を伝えるお世話をしたい」などの意見もあった。このような「使命感としての生涯学習」という側面も忘れてはなるまい。しかし、それにしても学遊塾運動が本質的に市民の自己決定活動であり続けるためには、「不幸の手紙状況」からはなんとしても脱却し、「使命感」にしても「潔い使命感」が求められているといえよう。
 そのときぼくは次のようにコメントした。

1 教授法の実際の様子がわかる「市民教授リスト」
 市民教授のさらなる活用といっても、あまり関心がわかない人に講師を依頼するということがあるとしたら、それ自体が生涯学習活動としては好ましくない。ただの無機質なリストではなく、もっとその人の顔がわかり、メッセージや雰囲気が伝わり、どんな教え方をしてくれるのか、プログラムまでわかるリストが必要である。また、今後ますます重要になる学校教育への協力については、専門の分野についてだけでなく、教育についての見識をもち、学校側にもそれが伝わるリストにすべきである。
2 活躍場所の自己開発
 町内会、婦人会など地域はだれもが主人公になれる場である。また、市民教授同士でチームを組み、市側にいくつかの会場を提供してもらって、自分たちでキャラバン隊のように各地域に教えてまわるということも考えられる。
3 自己決定活動はグループ活動
 ボランタリーな活動は、実際にはそのほとんどがグループ活動として行われるものなのではないか。そういう意味では、まずは市民教授や役員同士が日常的に教えあったり学びあったりすることが楽しいと思う。
4 自分のための活動
 いったん役員を引き受けたのならば責任を持って会合にも出席すべき、という感覚はそれが自分自身に向かっている限りは敬意に値すると思う。しかし、責任感以上に、そこに行けば歓迎される、だから仲間と会いたい、役員自身が学べる、おしゃべりできる、だから会合は楽しい、といういわば「自分のため」という感覚こそが大切なのではないか。欠席した人に「もっと責任をもって出席して」ではなく、「この前は来れなくて残念だったね」といえるような活動を目指したい。役員の会合であっても、学遊塾運動が自己決定活動の一環である限りはそういう活動にすることが大切である。
5 ネットワーク型の運営
 大人はそれぞれの事情をもって生きているのだから、会合にたまたま参加できた人でそのときの合意を作り出せばよいし、該当する役員にはなっていなくてもメンバーはだれでも会合に参加でき、意見も述べられるということにしたらどうか。来るものを拒まず、去るものを追わずという自由で柔軟なネットワーク型の運営のための工夫が望まれる。

 徳島学遊塾運動のような行政が支援する、あるいは行政が仕掛ける市民参画、市民主体の生涯学習事業には、市民の独立型の生涯学習活動とは異なる独自の困難が見え隠れしている。「不幸の手紙状況」に陥る危険性が大きいのである。しかし、その状況からの脱却に向けた市民と行政の努力は、問題が精神構造にまで及ぶというその困難さゆえに、もし成功すれば、きっと市民参画や官民パートナーシップの実体をより確かなものにすることになるだろう。

(付記)
 本章のうち、「心を育てる」については、平成10年7月「月刊公民館」第494号(全国公民館連合会)、「癒される場としての公民館」については、平成11年3月「社会教育」第53巻7号(全日本社会教育連合会)、「癒される地域若者文化」については、平成10年11月「青少年問題」第45巻11号(青少年問題研究会)、「ボランタリズム支援」については、「癒しの生涯学習」(学文社)に発表したそれぞれの自論を基本にして執筆した。

【以下カット】
 しかしながら、これを進めるにあたって、とくに地域の生涯学習関連施設職員が頭を悩まし、場合によっては無気力に陥るような難題も多い。そこで、「地方行政(生涯学習推進)の市民とのパートナーシップに関する課題」について図表で整理してみた(図表●)。右方に記したキーワードは、ぼくが考える解決の道筋であり、数字は次に掲げる参考資料「生涯学習と社会教育事業のあり方」で一番関連が深いと思われる◆の場所を示している。本参考資料は東京都社会教育主事会城北ブロック社会教育主事研修(平成8年10月9日)でのぼくの講義内容をまとめたものであり、文責はぼくにあるが、講義の文章化にあたっては、本研修会の担当の北区社会教育主事の石井達馬さんから多大な協力を得た。

【参考資料】

西村美東士「生涯学習と社会教育事業のあり方」
 東京都社会教育主事会城北ブロック社会教育主事研修(平成8年10月9日)にて

mitoちゃんといいます。よろしくお願いいたします。
 それでははじめますが、途中でおかしいなと思ったら、指摘してください。ぼくの話はスキゾといいまして分裂的にいろいろな所に行ってしまうと思われるので、すみませんがあきらめるか、あるいはチェックしておいて指摘するかしてください。
 それでは、さっそくみなさんの研究成果である資料のコメントをします。

◆01 ガサガサした生活の学習の場を
 保育室のことについては、ぼくは、今後赤ちゃんが泣いたり、小学生の子どもが室内や廊下を走ったりするなかで、生活臭さあふれる学習が進められるのは当たり前のことじゃないかと思います。保育室が学習の妨げになる子どもを預かる場ではないことを伝えるという今の到達点があると思いますが、これからは、ガサガサしたままでの賑やかな学習の場をつくっていけないものかと思っています。

◆02 出席ペーパーに表れる個の深み
 感想メモについては、これはぼくの関心ともとても近いです。ぼくは出席ペーパーと呼んでいますが、そういう書き言葉メディアの併用も通して、一般の世の社交辞令とは一味違う意見の相互交流ができると思います。パソコン通信はレスポンス至上主義の世界ですが、これはそういう世界に近いものだと思います。
 それからレジメには個の深みと書いておきましたけれども、結局、生涯学習や社会教育において何が魅力かというと、その人が生きているということそのものと触れ合えることが魅力なのであって、例えば今日の家族関係の病理とかの現状がいろいろありますけれど、その中でも人間は少なくとも自分には関心をもち、自分は幸せになろうとして生きているわけです。どんな人でもです。だからこそ、関心を持ちすぎて自殺する場合だってあるわけです。それぐらい自己の存在の意味に関心を持っているということから、人間はとても深い存在であるとぼくは思っているわけです。私たちの世界では、そういう個の深みと交流できるんです。一方的な講義だけだとそういう所から離れてしまう部分が結構多いです。そういうことで、ここでいう感想メモの意義は、出席ペーパーシステムの意義に近いと思います。

◆03 講義を双方向にするための職員の講師教育の役割
 講義だけの一方通行にならないためにというのがありますが、これは重要です。しかし、ぼくには引っかかるところがあります。講義だけの一方通行にならないように主体的学習方法を入れるというのが、ちょうど地球的規模でいえば、大学がそろそろ気づきだしていて、イギリスのロンドン大学では教員を集めて教授法のトレーニングをしているのですが、その内容は、視聴覚機器の活用とかディスカッションの方法とかそういうようなものを大学教員を集めて、トレーニングさせるわけです。そのテキストの文面に、「講義型授業はやめた方がよい」という考え方が示されています。
 ぼくはこれに対して、それは講義に対する敗北主義だと思います。講義というのはやりようによっては、それなりに大いに主体的な学習を組織できると考えております。社会教育の学級講座でいうと、お呼びした講師は「学習内容の専門家」ではあるけれども、職員はそれに対して手放しでお願いするのではなくて、例えば出席ペーパーシステムなどの双方向システムを導入するなどして、「学習方法の専門家」として主体的に関与すべきだというのがぼくの考え方です。それをぼくは講師教育と呼んでいるのですが、ロンドン大学の事例からも、講師を教育するのは職員の役割であると考えております。
 ただ、実際に講師を呼んだときに、こういう内容についてはこの様な結論を出して下さいというようなことは良くないと思いますね。そのような意味で方法的な部分の専門家として関与するという自制の態度が大事だろうと思うわけです。
 アダルトティーチングという言葉があるのですが、子どもと違って、まあ子どもも同じなのかもしれませんが、紳士淑女に対する教え方というのをちゃんと知っておかなければいけない。それを専門の講師を呼んだとしても、そういう意味での良い講義をしてもらえるようにやっていく必要があるだろうと思います。このように、講義の中で主体的学習を促進するということが重要です。

◆04 テーマコミュニティから地域コミュニティへ
 それから、次は、地域への広がりのことです。これは、せっかくの出会いを大切にしたいとこうことから発展していくわけですが、子育てとか環境問題とかの何らかの問題に応じて人が地域でつながる場合、それをテーマコミュニティーということができます。これはとても大切な動きですが、ただし、地域のコミュニティー形成は、テーマコミュニティーだけでは不十分なんだということを知っておいた上で、そのテーマコミュニティーを支援していく必要があると思います。テーマコミュニティーは社会教育の得意なところなんですが、行政職員として重要なのは、本来のベーシックなコミュニティー、これが現代社会の中で再構築できるのかということです。しかも、それは過去の農村型コミュニティの復活だけではなく、共生のコミュニティーというんでしょうか、これは同じテーマを持つ人の学習グル−プでは得意なところなんですけれども、それ以上の基本的コミュニティの場でどう共生を創り出すかということを、意識的に関わっていく必要があります。

◆05 対象外の人の参加
 次に女性教育への男性の参加のことですけれども、青少年の時にも問題になりますが、対象輪切り教育でいいのかどうかという問題です。ぼくは対象輪切り教育は必ずしも輪切りだから良くないとはいえないと思います、学習対象を少年、青年や高齢者などのそれぞれに焦点化した事業は必要でしょう。問題はたとえば青年教室としてやっているのにおじいちゃんが入ろうとしたときに、定員にあきがあるのに、定員というのも問題ですが、職員が参加を断わったなどというときに生じます。ぼくは、相手が知っていてそれでもかまわないからというのなら、受け入れてもまったくかまわないと思います。ですから女性教育をやっているのに、男性が入っても、それは原則的には同じで構わないというのが第一点です。
 第二点はもし排除したければ排除してもかまわないということです。その時には排除する理由というのを、企画者側が持っていれば良いというのがぼくの考え方です。例えば青年の料理教室であれば、元気印の中年女性が入ったら、その人たちが料理を全部やってしまうからだめ、という理由があるのなら、断わってもいいでしょう。でも"?"を付けておいた方がいいですよね。「本当にそうだろうか?」と。かえって主婦と学生が交流することがとても良いことじゃないのかとか、いろいろ迷うべきです。もう一方の視点を持ちながら、そのときどき決定していくという複眼的な視点が大事です。

◆06 ネットワーク型の市民企画制度を
 資料の右側にいきます。この学習者の企画・立案への参加に関して、「主体的に学習していく過程(プロセス)が実は潜在する女性の能力を開く機会を提供する」という表現を、ぼくはじつは気に入っています。企画参加は、潜在する能力を開く機会であり、しかも、それは本人が主体的に参加した場合ということを表わしているのでしょう。
 しかし、一方で、これについてはいろいろな問題も生ずると思います。まず第1に、ほかの人や行政もそれぞれの意見や役割の主体として関わってくるのです。例えば企画委員制度などでも同じことがいえます。一人ひとりが自分の個性でのびのびと発言すればよいのですが、「自分の意見が通らなければいけない」とか「前からこうすることになっている」などの無茶を言い出すと困るのです。そんな「悪いわがまま」を許すと、ネットワーク型の運営ができなくなります。「あなたはあなた、私は私」というのがネットワークの基本ですが、そういう厳しい寂しさを基本的に受容するしかないと思います。
 第2に、学習者が主人公になって、職員はなるべく手を出さないということが職員の役割ということになれば、それは教育そのものがいらないということになるわけです。これは、教育に対する敗北主義ということになるわけです。

◆07 学習と教育の間に流れる暗くて深い河
 ただし、そういう基本的な疑問はつねにもちながら学習支援を進めていく必要があると思います。これは教育のアポリア、行き詰まりの難問といいまして、教育がなければもっと一人ひとりが主体的に学習できる、例えば子どもたちは学校がなければもっと主体的に学習できるようになるという「脱学校論」などもまともな議論のひとつなのです。そういう教育否定論の仮説を、ゼロまで否定してしまうとか、全くなきものにしてしまえるほどの強力な論拠はぼくたちはもっていないと思います。
 ということで、教育は学習の支援でありたいと位置づけた場合に、じつは学習と教育の間には暗くて深い河が流れていて、この河というのは野坂昭如の唄にありますが、「えんやこら今宵も舟を漕ぐ」ということです。たどり着けないのに舟を漕ぐという姿が、つまり、自分たちのやっている社会教育というものが主体的な学習支援につながっていく実態をめざして舟を漕ぐ姿が、人間のあり方として可愛いあり方なのではないかと思うわけです。自己への気づきとか相互理解なんていうものは本当は百パーセントには到達し得ないものです。問題はそう知った時に、じゃあやめてしまうのか、それとも限りなく接近することはできるわけで、そうしていくのかというところが、ぼくたちに問われるのではないでしょうか。

◆08 行政主導のリーダー研修会批判
 次はリーダー研修会の必要性についてですが、なぜ「行政が」リーダー研修会という事業を提供するのかということを考えたい。そういう根底的な問いが今、欠けているのではないでしょうか。行政主催のリーダー研修の内容が、なんだかものすごく精神論的なものに陥ってしまったりするなどの状況に、ぼくは疑問を持っています。行政主催のリーダー研修会そのものの意義は否定できないかもしれないけれど、行政側の市民に対する行政主導型の姿勢の表れなのではないかという気もしていまして、この辺はぼくも"?"のままなのですが、少なくとも精神論だけでないものにする必要がある。たとえば、今とくに大事なのが、たとえば、発表の技術などの知的生産の技術に類するものなど、そして、アダルトティーチングの方法論でしょう。大人が自分が学んだことを大人の相手に伝えていくときには、自分が過去に習った学校教育のやり方を思いだしてやりがちですが、それはよい教授法ではないのだということを、それをティーチングの「技術」を通して納得してもらう必要がある。こういう技術的な研修というのが必要なのではないかと思います。それはリーダー以外からも強く求められていて、視聴覚機器の活用方法だとか、発表の仕方だとか、論文の書き方だとか、そういう専門的・技術的なものを参加者の活動内容や現在のポジションにこだわらずにどんどん提供していったらよいと考えます。

◆09 広報は青年に対するストロークである
 青少年については、ジュニアリーダーやサークルリーダーとしての研修だけではなく、つまり私たち大人が見えている既成の枠組みの中だけではなく、私たちの及び知らないインフォーマルな集団においてもさわやかなリーダーシップを発揮できる力、これが現代の若者たちにとって非常に重要だと思います。
 例えば先ほどの成人式の企画委員募集のお知らせに、何パーセントにも満たない人数しか手を挙げてこない。そういう時に財政当局からは、郵送料がもったいないというように攻められるということですね。これは次のように当局に言ったらどうでしょう。企画委員募集のお知らせは、「あなたのことに関心を持っていますよ」と伝える行為(ストローク)です。すべての人はストロークを求めて生きています。つまり、これが社会的認知のひとつになるのです。行政側がその人を認知しているのを伝えるという意味で重要ですし、もう一つはこんなことをやっていますということが伝わるという意味でもダイレクトメールは重要です。そのためには、職員自身が見えている範囲や自分の企画に参加した人だけがサービス対象ではないのだということ、自分は全体の奉仕者なのであるということ、そういう自己確認をする必要があると思います。

◆10 制度的権威に依拠しないリーダーシップ
 リーダーシップというものはもともとヘッドシップとは違います。役割分担等が流動的で、例えば宴会の時のリーダーというのはまた別にいるわけでして、それが正しい意味でのリーダーのとらえ方なんです。会長、社長、校長などの制度的な権威に基づくものにも、これはこれで指導力が必要なんですが、そういう指導力はヘッドシップといいまして、帝王学の世界です。社会教育でやっているリーダー研修は、ヘッドシップの研修ではなく、本来の意味でのリーダーシップの研修をやっているのだということを自覚する必要がある。だから、必ずしもサークルの会長などの長を集める必要はないのです。

◆11 つぶれるものはほっておけ
 それから単位子ども会についてです。とくに青年団などになると、都会でいまさらそんな話をしても仕方がないくらいの衰退ぶりです。先ほどの話に当てはめていうと、子ども会の活動というのは都市部ではテーマコミュニティーとしてのに近いのだろうと思うんですけれども、実際には地縁という意味では、ベーシックなコミュニティーや生活集団としての性格もまだまだ色濃いと思うのです。この問題では、ただ単につぶれかけているものを何とか活性化させるとかして、持続させるというのは基本的には良くないという立場をぼくはとっています。なぜかというと、つぶれることによって次の新しい時代に適応した新しいグル−プ活動が生まれてくる契機になるわけだからです。むりに維持存続させることは、そういう時代の進歩を人為的に妨げることになってしまいますから、むしろ、つぶれる運命のものはつぶれた方がいいわけです。

◆12 貢献主体としての青少年
 そこでこれから求められるトレンドということで考えたいのです。そこでは、社会貢献とそれを通した存在価値のある自分の発見ということが重要であるということで、子どもでさえもそうだと考えたい。
 例えばボランティア研修というのは、全国的には、青少年教育などの面で今しきりに行われています。これは現代的には大きな意味を持つと思います。なぜかというと、青少年は今まで「保護と管理」の対象でしかなかった。そうすると、いつまでたっても、自分は生きていて意味があるんだという存在価値の確証がもてずに、また、自信がもてずに生きているわけです。親や友達など、まわりの目を気にして、自分は生きていていいのだろうかというような悩みをもっている。そんなことの解決はほとんどは簡単なことで、子どもたちの世話でもして「おにいちゃんありがとう」などと何回か言われれば、すぐに元気がでてくると思います。「ああそうか、自分は生きていていいんだ」ということがわかるわけですから、とても簡単にできる社会貢献であり、体験学習です。本質的には、青少年をこのように「貢献」の主体として尊重する考え方が重要になってきていると思います。

◆13 キーパーソンのネットワーク
 次はB区女性学級のことですね。ここで意識されているPTA、母の会、町内会、婦人会、このあたりはかなりベーシックなコミュニティーに近くなります、PTAはともかく。何でこういう会に問題が多いのかというと、従来のヒエラルキー構造が多いからなんです。それはピラミッド型のものです。例えば町内会長の奥さんは婦人会の会長であることは自明、というような変な慣習もあります。だから新しい形での再構築をすることが重要です。そんなこと、ぼくたちが勝手にできるわけじゃないですけれど。
 さて、そこでどうしても、女性学級の場合だと家庭の主婦が中心で、幅広い世代が集まらないということになりますが、ぼくもできれば幅広い世代が集まった方がいいと思いますが、レジメには3人で可と書きました。3人ぐらいキーパーソンが集まれば、あるいはネットワークできれば、あとは何でもその人がやりたいことはできるだろうと思っています。パソコン通信で言えば、一人アクティブな書き込みをよくする人がいて、それが人気のある人だと、背後には大体百人ぐらいは普通の読者がついてるといわれておりまして、3人を支援したということは背後の300人を支援したということにもなるのです。もしこのようにキーパーソンが頼りにしてくれる社会教育事業が成立するなら、全員を集めて一斉集団承り型学習をするというような学習形態は早晩古くなると思います。極端な話、集めるのは3人でもいい。ですけれど、2人ではやっぱりできないようですね。ここがまた面白いところなんですが。聞いた話ですが、イギリスのナショナルトラスト運動の発祥というのは3人で始まったというのです。これが地球規模にまでふくらんできたのです。大切な人が3人集まれば地球を救うことさえできるということだと思います。

◆14 講師交渉は自分にとっての最高の学習形態
 次に、講師交渉は学習者が行うということです。これはかなりすごいと思います。市民が企画をしても、講師交渉となると予算も絡みますから職員がやってしまうというところが多いのだと思います。でも、ぼくの本音をいえば、もしぼくがそこの職員だったら、やっぱりもったいない、渡したくないと思うでしょうね。講師交渉というのは、職員にとっての一番のうま味です。それは編集者は3日やったら辞められないということと同じです。講義を聞くのもいいのだけれども、じつはその前にその先生のところに訪ねていって、お茶でも飲みながらいろいろな話を聞いたり、質問したりというのが一番刺激的な学習形態なんです。「ソクラテスの対話」ということです。講師交渉をする人というのは、編集者に似ていて、そういう意味でやめられない職業なんです。ですから、本当に学習したい市民は、それが任されたら喜ぶでしょうね。

◆15 自己規制よりはむしろ個性発揮
 次は、自分たちの社会教育の事業を、一般行政や民間の成人対象の講座とどう違いをつけるかということです。よく企業などでもどう他の商品と差別化するかなどという形で出ていますが、学習プログラムなどが実態部分で競合するのなら、どんどん競合して良いのが勝ち残ればいいというのがぼくの考え方です。教育委員会や文部行政はなんだか禁欲的で、教育の分野をわざわざ狭めてそのなかで頑張っているのですが、例えば労働行政などがボランティア講座をやったり、ファミリー野球大会をやったり、などの根拠がよくわからないことを平気でやっているわけです。行政行政もそれぐらいあつかましくてもいいだろうと思います。そうすれば、いろいろな所で楽しいことをやっていて、住民はどこでも好きなところを選べるということになります。そこで各セクションに求められることは、自己規制よりはむしろ個性の発揮が魅力ということになります。どう個性を出すかということについては後で述べましょう。

◆16 市民と行政がともにでしゃばる協働
 次に協働ということですが、これはぼくの関わった神奈川県生涯学習審議会の答申で打ち出しました。たしかに、行政主導型というのはよくないわけです。それでは行政はなるべく関与しないで、施設だけ作っていればいいんだというぐあいに、行政が引っ込んでいくというような時代がこれまであったと思うんですけれども、あるいは引っ込むどころか、社会教育行政など全部なくしてしまえという議論もありました。これに対して、協働の考え方というのは、それぞれの固有の役割と主体性を発揮するということです。横浜市ではパートナーシップと呼んでいるらしいです。ぼくは協働という言葉の方が面白いと思っています。ぼくは、協働を、共にでしゃばろうとする行為だととらえるからです。これからは、行政は行政としての役割の発揮の面から、大いにでしゃばっていく必要があるという考え方を持っているわけです。市民企画委員方式ですとか、連携、役割分担というものは、その上で考えていく必要があると思います。

◆17 虚偽の社交辞令ではなく、真実の言葉の交流を
 次が、みなさんの作った資料へのコメントの最後になります。戦争を知らない世代に対して知っている世代がどう伝えるかという一面的な見方ではなくて、知らない世代の参加があってこそ双方にとって考える場になったとあります。実態はつねにこうだと思うんです。戦争を知らない世代でも学習の中でそれなりの役割があるということで、これは面白いと思いました。それは、現代という同時代に生きているという意味で、すべての人が真実のなかでいきているからでしょう。
 でも、双方がディスカッションをやると、白熱してくると時間切れになるとあります。これはお決まりのパターンのようですが、それはそれで意味があると思います。ぼくが思うに、議論していて白熱すると、「よい企画でしたね」と喜んで帰ってくださいますけれども、そのディスカッションの内容によりますが、その白熱の種類というのでしょうか、じつはみんながそのようによかったとはいうんだけれども、それは社交辞令であって、誰も、その後、次の話し合いにまともに没入してこないということも結構多いですね。それは例えばディベートのように是か非かというような議論をした時、何かもう一つ大事なことが他にあるんじゃないかということです。これにふれたとき、つまりそこでふれたものが「真実」なんでしょうけれども、そういうときに心から感動し、また話をしたい、聞きたいということになるのではないでしょうか。ぼくたちは事実ではなくて真実を求めて生きているのではないかということを考えているんです。
 さきほどプロセスという言葉が出ていましたが、プロセスを重視するというのもそういうことだと思います。例えば米軍基地は日本にあった方がいいのか、ない方がいいのか、どちらかに決めるという「正誤の争い」は当然政治レベルでは必要なんですけれども、学習の場においては、本質的にはそういう決着が求められているではないと思います。むしろ学習の場においては、どちらも実感レベルにおいては正しい、というよりけっして非常識ではないそれなりの情緒と思考で各人の最後の結論を出しているのでしょう。その人の正しさということ、その人の答の正しさではなくてプロセスの正しさを共感できることが共生社会の創造において大切でしょう。人はさまざまな事情があって生きているわけですから、それなりの個々人の正当性にどれだけ踏み込めるか、共感できるかということが重要です。
 もちろん相手には閉ざす自由があるわけですから、相手の自由意思で「じつはね、自分は本当はこういう事で迷っている、困っている、悩んでいるんだよ」というようなことをいうとしたら、それは自分を開く、つまり自己開示ですが、そういう問わず語りの言葉にこそ真実があるのではないでしょうか。

◆18 無知と非力の自覚と受容
 これは最終的にはどうなるかというと、お互いに無知であり、非力であることの自覚と受容につながる。無知とは、たとえば、自分はどの位置に生きているのかを知りたくても、宇宙の存在自体がまだ未解明の部分がたくさんあるから、無知でない人はいないということです。自分は無知ではないと思い込んでいるために、本人はいっこうに現代社会の不正や人生の無常を悩む気配がない人、つまりくだらない人はいますが、これは論外です。非力というのは、たとえば、相手にこうあってほしい、こう生きてほしいと思っても、そのように都合よく相手を変えることのできる人はいないということです。本人が自己治癒力、自己教育力で自分自身を変えているのですから。他者である自分にできることは、援助することだけです。そういう無知と非力の自覚によってこそ、知の世界の面白さというものがわかってくるのではないかと思います。ですから、無知と非力の自覚とぼくがいう場合、自覚というのは自己の否定ではなくて、むしろ自他の受容、あるいは自信をもつということです。無知と非力を自覚することで、学歴偏重、上下競争の価値観から脱して、本当の意味での自他への信頼感を回復することができるとぼくは考えます。これが、学歴社会から生涯学習社会に移行するための市民の主体的必須要件だと思います。

◆19 公的課題の問題提起者としての役割
 アンケートの結果については、まとめ的にお話します。教育的な人間関係や学ぶ過程を重視することについては、これは社会教育の独自性と評価できます。それから、人権や平和の学習ということですけれども、公的課題を取り上げるということは重要でしょう。ただし、ぼくとしてはそれがネットワーク型の場合だからこそ許せるんです。これがもし、上意下達の行政主導型というか、協働ではない形で行政側から提起するのなら、過去の啓蒙主義と同じで、たとえ立派な公的課題をテーマにしていても、どんなに立派なことを職員がいったとしても、それはやらないほうがましだと思います。もっと、ネットワーク型の中での対等な、ただし住民とは異質の役割を担う問題提起者としての行政の役割を発揮しなければいけません。例えば核廃絶のためにはどうしようとか、オゾン層の破壊をどう食い止めるかということは、そういう地球規模の歪みやきしみのもとでは、行政職員が市民に対してむしろ率直に問題提起する必要があると思います。このような議論を『生涯学習か・く・ろ・ん』では述べているつもりです。その後、国の生涯学習審議会が「現代的課題の学習」を提起しました。それらの一般行政の各部署にまたがる公的課題を、学習という側面から部署横断的に取り扱うという意味で、社会教育の独自性というのは大きいものがあるのだろうと思います。

◆20 組織の中での枝葉としての自己実現の方法
 それから、「自分で直接担当していない事業について」という記述がありますね、ほかの職員などに立場上、助言ができないということでしょう。知らない人がこれを見るとなんて傲慢な人なんだろうなどと思うかも知れませんが、ぼくはなんだかすごくよくわかるんです。しかし、ぼくはここで「幹と枝葉」という言葉を書き入れておきました。ぼくたちは枝葉でしかない。これに対して幹というのは住民の総意であったりするわけで、区長でさえもある意味では枝葉でしかないと思うんです。いや、ちょっと太い枝あたりかな(笑)。職業の中で枝葉はどうしたら自己実現できるのでしょうか。幹が自分の思うとおりに変わらなければ自己実現できないと規定するとしたら、枝葉というのは幹にならない限り、最後まで自己実現できないということになってしまいます。ぼくは、枝葉の中にいるのに元気にやっている人たち、職員や若者と話をするのが好きです。その人たちから学んだことというのは、幹が変わってくれないからといって悩んでいない、むしろ明るく過ごしていることです。ぼくはこの点を不思議に思いました。そこで、楽しく話しを重ねることによってわかったことは、次のようなことです。例えば、先週、自分は機会をとらえて何回くらいさわやかに自分の意見を相手に言えたか、提案できたかということで、そういう自分の行動が満足できるものであれば、幹自体は変わってくれなくても本人は意外に幸せでいられるということです。例えば週に2回や3回は、みんなお茶でも飲んでいるという瞬間はあるはずで、そういう時にさわやかに自分の意見を「ちょっとしつこくてすみませんが」などといいながら、あつかましく、かつ、さわやかにいえてる人というのは、たとえみんなが「君、またその話か」などといっても、聞いてさえくれれば自分の胸には「さわやかな風」が吹きぬけているものなのです。ほかの枝葉が自分の思うとおりに行動してくれなくても、つまり自分が他人の人生の支配者にはなれなくても、自分自身に限っては十分幸せ、あるいは個性の発揮ができているんではないでしょうか。ですから、さきほどのようなことを書いた人には、ぜひ、さわやかな形でいろいろと自分の個性的な提言をしてほしいなと思います。

◆21 自転車でまわるイメージ
 自分たちの考えている理想を行政全体の価値に高めていくことが必要という記述に対して、ぼくはと「自転車で」と書きました。これは象徴的な表現です。図書館ではヤングアダルトサービスといいまして、チラシを作って自転車で学校をまわって中学生や高校生に学校から配ってもらった司書がいます。この「自転車で」というイメージが大切で、生涯学習時代のコーディネータとして社会教育主事が行くべき所というのは、まだまだたくさん残っていると思います。「リヤカーでまわっても図書館だ」というのが全国の図書館活動のメッカの日野市の図書館の発祥ですが、図書館がなくてもリヤカーがあれば、そして職員の魂さえあれば、全国一の図書館活動ができる、これが日野市の図書館活動の礎をつくった砂川雄一さんの言葉です。

◆22 シフト(止揚)をいかに援助するか
 次はシフトの話で、主催事業から住民の自主的な活動への発展について述べている人がいます。自主グループなどもそうかもしれません。本などを読んでいて、「あっ、そうだ。そうだったんだ」というような気づきがあったとき、それがその人にシフトをもたらすといわれます。自主グル−プ活動でも同じだと思いますが、シフトというのは本人がその気になったときに生ずるものです。しかし、ぼくたちの事業がどれだけシフトに耐えうる、つまり、実感とか真実が伴った営みになっているかというところはぼくたちの勝負どころでしょう。それにしても、実際にそれでシフトするかどうかというのは各人の問題ですから、別に自主グル−プにはシフトしない自由があってもそれはそれで構わないと思います。要は個人の自己成長の成果がどうだったかです。しかもこれについては指導者が責任を持ち切れるようなことではありませんし、そんな他者の学習の結果だけを気にする指導者がいるとしたら、その人の傲慢を表わす行為にほかなりません。

◆23 学習者に寄り添った共感的理解
 学習者に「寄り添いながら」という記述もいいなと感じました。共感というのはかなり真実に近いものだと思います。例え意見は同じにならなくてもよいというのが、その場合の基本です。要は相手の枠組みで相手を理解したかどうかです。「なるほどねえ・・・。あなたのいうことがよくわかった気がする」という感じである。その上であったら、「でも、ぼくはあなたの考え方には反対だけれどね」といってもよいと思う。ここがカウンセリングと違うところです。間を含めた「なるほどね・・・」という言葉が非常に大事なんじゃないかと思います。

◆24 個の深みと出会う至上の喜び
 「民主的な人権を尊重した事業展開」とあります。これについては、ぼくは個の深みという言葉を使っています。ぼくにとってはそれが一番ぴったりきます。社会教育主事の仕事の醍醐味というのは、結局は個の深みと接することができるということだと思います。個の深みとの出会いは、現代社会の差別的価値観では味わうことのできない至上の幸福です。ただし、一人ひとりは潜在的にせよ、個の深みを持っているのですが、日常生活ではそんなことをいったら笑われる、変な人だと思われるなどの気持ちから、封じ込められているわけです。ぼくたちは学習者のそういう個の深みと接することができて、そういった時に感動を、尊敬の念とか感動とかというものを覚えるわけです。こういう魅力が社会教育の仕事にはあるのではないでしょうか。

◆25 ネットワーク型援助のあり方
 教育専門職としてか、行政職員の一員としてかということについては、これは両方の意識がどちらも大事だと思います。行政課題を総合的に解決していこうとすることは、公務員として当然もつであろう課題意識です。それはある意味ではぼくは生涯学習理念でもあると思っています。例えば納税者としての主体的な意識を市民の間にいかに形成するかということだったら、税務署の職員が考えなければならないことです。しかし、ぼくたちはそれを横断的に全体を通して考えていくことになります。それは、教育専門職としての仕事でもあります。まあ、どちらも大切だということです。
 ぼくは、それよりも次の点が重要だと思います。「私は住民の一員として、住民の仲間の一人として仕事をしていく」という「良心的」な職員がときにいます。One of Them、彼らのうちの一人という意味です。ぼくは学習援助職員に対しては、そうではないものを求めます。つまり、「あなたは」住民とは異なる役割の公務員としていったい何ができるのと問いたいのです。例えばわかっていない住民団体などのなかには、公務員が勤務内に例えば封筒の宛名書きなどを一緒になって手伝ってあげれば喜ぶ人もいるかもしれないけれど、本当に主体者としての意識が進んでくれば、あなたはなんで私と一緒にやっているの、あなたは行政職員なんだから行政職員としての異質な役割を果してほしいというようになると思うんです。「住民と仲良しです」というだけではなくて、水平ではあるが異質な役割を発揮するということがネットワーク型の援助者のあり方だと思っています。

◆26 答のない問いを発し続ける
 アンケートの最後は、方法論に偏重するのではなくて、どのような視点を持って事業をやっていくべきなのかを考えようという問題提起です。ぼくは「社会教育主事がもつべき視点」については普遍的な答を出すべきではないと考えます。学生時代、ぼくは授業にはまじめに出ていませんでしたが、インカレの社会教育の学生の勉強会などについては楽しみながらやっていて、その司会をやっていたとき、晩年の宮原誠一がひょっこりと顔を出してくれて、「私たち学生が、いま、本当に学ぶべきことは何でしょうか」という一女子大学生の質問に対して、「そんなものはないよ」と答えていました。学びたいことを学べばよいというのです。あまりにもそっけなくて司会者としては困りましたが、やはり学習の真実とは宮原誠一の断言するとおりなのでしょう。あなたが、今学びたいことを学ぶのが学習なんだということです。それと同様に、どういう視点を持って事業をやったらよいかということに対する共通の答はないのだと思います。このアンケートの人のいうように、自問することと、相互交流することは大切ですが。ぼくは、それよりも、その人自身が、自分なりの視点に対してだけは気合いが入っているかどうかが重要なのではないかと思っています。気合さえ入っていれば、どんな生き方であろうとすばらしいと思います。それは視点を変えないということではなくて、むしろ、無知と非力を自覚し、受容しているがゆえに、喜んで他者の異質の個の深みと水平的交流を行うということです。

(以下は当日のレジメの「生涯学習と社会教育−支援とは何か」の資料について)
(図表●)

◆27 限りある地球、限りなき学習
 現代社会の病理、そして「誰か助けてよ」というところに、今日の生涯学習の出発点があると思います。社会教育が戦後の民主主義理念を支え、育ててきたとすれば、現代がそれに加えて病いを生じ、例えばオゾン層破壊や資源・エネルギーの問題などの「限りある地球」が自覚され、新たな学習が提唱されました。そこでいわれたのは、地球には限りないものが一つだけあって、それが学習であるということです。これが生涯学習のスローガンのひとつ、「限りある地球、限りなき学習」です。学習は、どんどん広がっていく。人にどんどん学習を渡してあげても、財産とは違って、自分までますます豊かになっていくんです。

◆28 @教育システムの歪み
 しかし、そういう中で1つには教育システムの歪みがある。これに対して、「みんな違ってみんないい」という言葉があります。今日の同質の者同士が上下に競争する社会においては、つねに勝ちの続けていかないと不幸になるということや、ピアコンセプト(仲間意識)といって、みんなと同じでなければならない、仲間には協調しなければならないという不合理な思い込みや信念が、自分自身を苦しめる結果になっているのではないでしょうか。これが学校歴偏重社会での問題です。それをもっと多様な価値観や一人ひとりの個性を認め合う共生社会に転換させていくというのが、生涯学習の理念です。

◆29 A家族関係の病い
 2つには、家族関係の病いがあります。「子を持って親になる」といわれていますが、なんだか親になれなくて、なりたくなくて、出席ペーパーにもいろいろな状況が示されています。うちの親父は、家族が言うことを聞いてくれないと、2、3日、部屋に閉じ込もって飯も食いにこないから何とかしたいというのがありました(笑)。自分の思いどおりにならないからといって、だだをこねていれば、相手が何とかしてくれるべきだと本人は本気になって思い込んでいるのでしょう。
 人間には、泣いていれば、なぜ私は泣くのかを伝えなくても、お母さんが何とかしてくれるという時代がのがあって、これを「楽園の時代」といいます。赤ちゃんのときは、おぎゃあと泣けば、おっぱいが欲しいのか、おむつを替えて欲しいのか、相手がちゃんとわかってくれるのです。大人になるにしたがって、さらには親という立場になって、この楽園から追放されるのですが、そういう自らの楽園追放を認めない親が増えているのです。ぼく自身もできれば追放されたくなかったとは思っていますが(笑)。でも諦観は大事です。そんなぜいたくはあきらめるしかないのです。あきらめきれない人が、つまり自立できないまま大人になってしまった親たちが、家族関係の問題や、児童虐待などの、子どもにとっては悲惨な家族をつくるのでしょう。母から息子、父から娘への性的虐待まで含めて、出席ペーパーには、トラウマを引きずる若者たちの悲鳴があたりまえのようにたびたび出てきます。

◆30 B内なるピアコンセプト
 3つには、内なるピアコンセプトですが、これについては個人の内面の主体性喪失の問題です。、ピアというのは仲間、仲良し仲間ということで、ピアコンセプトは仲間意識ということになります。それはよいことのように聞こえるでしょうが、仲良し仲間を大事にする意識というのが、一人ひとりの主体性を損なっているとぼくは明瞭に感じるのです。例えば個性を尊重するとか、一人ひとりがさわやかに自己主張するとか、主張できる女であることの意味などを、ぼくは授業でしゃべります。そんな時、なかにはこれを受け入れないペーパーもありまして、これを1%の批判の1%の真実の重要性とぼくは呼ぶのですが、「先生なんかからはどう思われたっていい。でも友達から一度変だと思われたらもうおしまいなんです」と怒ったように書きなぐってくる学生がいるのです。ひどく悲しい生き方だと思いませんか。友達から変に思われないために、一生懸命、相手にあわせて生きている。だから、「誰か助けてよ」となるわけです。

◆31 @発達だけでなく癒しも
 そういう現代社会の病いのなかで生涯学習の理念というのが生まれてきたわけですが、その根底には、「人生を大切にていねいに生きたい」という個人の欲望があるのではないかと思います。この欲望をどのように支援していけばよいのか。1つには、教育というのが本当に発達や成長ということばかりに関心を持ってきたのかというと実際にはそうではないでしょうが、建前になると発達や成長の大切さばかりが物知り顔にいわれ続けてきたと思います。教育の世界は、もっと癒し(ヒール)とか安らぎを重視する必要があると思います。例えば新・新宗教など、彼らは癒しを求めていると考えることができるわけです。それから、占いなどによって、他者から断片的なストーリーを与えられて癒されようとしている若者も多いのです。そもそも、なぜ、公民館で、人々は出会い、結び、つながってきたのでしょうかし。昨日の自分より今日の自分がより一つ大きくなったという自我の拡大という発達・成長の喜びももちろんあるでしょう。しかし、それだけではなくて、そんな拡大などしなくてもよいから、今ここでのいい仲間と出会ってほっとしたいという、癒しの求めもあったからなのではないでしょうか。この癒しの機能を、社会教育事業ではもっと重視しなければいけないと思います。

◆32 A事実よりも真実
 2番目に「事実よりも真実」です。学習者の枠組は変化しないまま、事実だけ詰め込んでいるのでは、受験勉強と同じになってしまいます。

◆33 B積極的消極、潔い撤退
 3番目に積極的消極です。生涯学習、ボランティア、地域・市民活動は自己決定、自己選択によるものです。しかし、現実には一つ落し穴ともいうべきものがあります。仕方なしに義務感でやっているという人は、自己決定の活動の邪魔になるだけですから、やめてもらった方がいいわけです。それなのに、そういう人たちが「立つ鳥跡を濁さず」というような気持ちのよい撤退をしてくれないことが多いのです。これに対して、さわやかに積極的積極の活動をしている人もいます。そういう人たちというのはよっぽど元気な人たちであって、ぼくたち凡人とは違うのかという問題があるわけです。
 それについて、ぼくはフリースペースなどでの元気な人たちとの出会いから、次のようなことに気づきました。消極性、つまりやらない、パスをするということもひとつの大事なことなんです。やらないこと、やめることを潔く自己決定してしまえばよいのです。そうすれば、本当にやりたいこと、やれることを潔くやることができるようになるのです。考えてみれば、人間がすべてのチャンスを生かしきるわけにはいくはずないのですから。「潔い撤退」とぼくはいっています。つねにすべての問題に対して自発的かつ積極的に関わるなどということは不可能である。それなのに、指導者は、過去のガンバリズムの価値観のもと、積極的な学習や活動ばかり重視している。自己決定の活動を元気にやっていくコツは、撤退するとき、つまり消極を選択する場面においては、自罰や他罰に走ることなく、さわやかに消極でいようということです。中国哲学の道教でいう無為自然ということにもつながるのでしょうか。何もなさないことこそ最高の価値であるという考え方もあるぐらいですから。

◆34 人生の専門家は誰か
 社会教育事業における内容の専門家、方法の専門家については先ほどお話ししました。それでは、人生の専門家というのは誰なのでしょう。カウンセリングの分野でカール・ロジャースの言葉で、「カウンセラーは人生の専門家ではない。相談に来たその人のことを一番良くわかっているのはカウンセラーではなく、その人自身である」という趣旨の言葉があります。最近では、人は不適応行動を含めて最善の選択をしているという考え方もあります。カウンセラーは臨床心理の専門家であり、その専門性に依拠して他者を援助していくわけですけれども、それでもなお人生の専門家は他の誰でもなく被援助者自身なのです。その真実を認識することが、援助者の開かれた心、オープンマインドのあり方としてとりわけ重要なのだと思います。

◆35 @御都合主義
 これに対して、出会えない閉ざされた心というのは、次のようなことです。
 社会教育施設に於けるボランティアの導入に関する討論会で、ぼくが司会をしていたとき、ある市の図書館司書がフロアから次のようにぼくにクレームをつけました。「司会者はボランティア導入が良いことであることを前提として話しているが、われわれ職員は減らされてしまうのではないかと不安にさいなまれているのです。もっと現状を勉強して話してほしい」。この司書は職員という自分の立場の都合で物を見ているわけで、全体の奉仕者としてペイを受けている公務員としては、自分が住民の幸福追求を支援する立場なのだという自己客観視が足りないのではないかと思います。自分の御都合にあわせて、議論をねじ曲げる「合理化」だとぼくは思うのです。住民と資料の、あるいは住民同士の出会いを援助する司書としての高度な専門性は、ボランティア導入によって、むしろ純化され、増加する道筋をとるべきなのです。
 もちろん当局側の御都合主義、合理化というのもあって、コンピュータを導入することによって純粋に人間と人間とが接する部分というのをきちんと図書館司書にやってもらうということこそ、本来のツールとしてのコンピュータ導入の意味なのですが、ところが実際には、人減らしのための道具として使われてしまうとか、もっとひどいのは上の人にコンピュータを導入しましたと報告するためにコンピュータを導入するという、本当に税金の無駄使いをやっているわけですから、どっちもどっちなんですけど。

◆36 A教条主義
 2番目に教条主義、事大主義です。これは、大きなもの、既成のもの、有力なものにつこうとする非主体的態度のことです。むしろ、社会教育や生涯学習の支援は、「何でもアリ」の楽しさをうまく活用したほうが、楽しい仕事の仕方ができると思います。

◆37 B敗北主義
 3番目に敗北主義です。よく学生から誤解されるのですが、そんなことを言ったって人生うまくいかないこともあるよといわれます。しかし、失敗してからあきらめることを敗北主義とはいわないのです。うまくいかないことがあったらあきらめようとするのは当然です。問題は、うまくいくことばかりでないのに元気な人がいるのに、もう一方で、「どうせだめさ」といって敗北主義的な悪循環を繰り返している人もいるというところにあります。それは、その人が思い込んでいるような、たまたま不幸の星のもとに生まれた、親や教師が悪かったということばかりではないような気がします。敗北主義というのは負けることを勝手に決めつけて、挑戦から逃避する態度なのです。例えば、試験に落ちることが恐くて、「数打ちゃ当たる」という生産的な態度がとれなくて、結局は試験を受けることさえやめてしまったというようなことを敗北主義というのです。今の多くの若者たちは、傷つくことを恐れ、負けないように頑張って生き続けてきたがあまり、この非生産的な態度に陥っています。

◆38 @癒しのサンマ
 社会教育でいわれてきた、また、ぼくも言い続けてきた生涯学習情報とか出会いとかの大切さは、不思議ですけれど、キオスクで平積みになって売れるなど、本当に商売になっているんです。「ケイコとマナブ」とか「じゃマール」とかです。そこで、ぼくはくやしいので(笑)、その先を予告しておきたいと思います(笑)。今はまだ商売になっていないけれど、今後は商売になるよ、ヘタをするとまたリクルート社においしい所をとられてしまうよ、ということを3つあげておきました。
 その1つは「癒しのサンマ」です。サンマというのは「時間・空間・仲間」の3つの「間」なんです。そこで、無条件相互肯定の場をつくるということです。次の言葉は、マルチ商法から狛プー(狛江市中央公民館青年教室)に移ってきた若者がいった言葉です。「狛プーはあるがままの自分が、そのままでも装わなくても、みんなにあわせなくても、両手を広げて歓迎される」。こういうものを世の中に作り出すということは、本当は社会教育、生涯学習支援の非常に重要な課題だと思っています。癒しを求めて、それが商業的に利用されて、ねじ曲げられ、どんどん悲しい不信と孤立の世界に若者が落とされていく現状を見たとき、ぼくたちはそんななかで癒しのサンマの旗を振りたいと思います。そこで重要なのは、「みんな違ってみんないい」ということなのでしょう。

◆39 A社会貢献
 2つには社会貢献です。「あなたはここに行けばあなたらしい役割が発揮できるよ」という情報提供がまずは商売になるでしょう。自分は役に立つ、誰かに喜ばれる存在なんだということを、社会貢献によって確認できるのです。

◆40 BMAZE
 3つにはMAZEです。MAZE(メイズ)というのは、パソコン通信での学習形態をみて、ぼくが作った言葉なんですが、迷路という意味です。何が幸せなのかはわからないけれど、一方通行のトンネルではなくて、迷路をさまよっていることこそ人生の楽しみであって、そこにいろいろな知の楽しみもある。また、そのプロセスこそが生きている意味なのではないかということです。一直線に死に向かって生きていきたい人がいればそうすればいいが、でも普通は一回しかない人生なのだから、ちょっとそれはいやでしょう。だったら少しエネルギーを使ってでも、寄り道をしたり、人と出会ったりして人生で出会う風景を味わって生きていこうということです。
 過去の教育が、みんなに一つの出口に向かって進め、進めといってきたのとは違って、むしろ迷路を楽しめるようにさせてあげることが大切です。子どもたちは迷路遊びが好きですね。それはフリーチャイルド(自由な子ども心)がまだつぶされきっていないからです。学習者が迷えば迷うほどよい迷路だといえるでしょう。こういうちょっと非常識な教育の提供もこれからは商売になってしまうかもしれません。

◆41 ネットワーク型の指導のあり方
 こういうぼくの思考過程のなかで、あえて「教育の指導性」と書きました。生涯学習推進行政のなかでも、社会教育は、そして専門職である社会教育主事等は、やはり教育プロパーとしての指導性というのをもっているのだろうと思います。その指導性のあり方ですが、上下同質、ヒエラルキーの中では、役所が上から下の住民を援助するという感じになります。それに対して、社会教育のやってきた「みなさんはお仲間です」、「私も皆さんの考えていることと同じ考えです」というのは水平同質だと思うんです。ネットワーク型の支援においては、これを乗り越えて水平異質の役割を発揮しなければいけない。住民も、援助職員に対して、「あなたはあなたの公務員としての独自の役割を発揮してください」といわなければいけないと思います。
 違う観点からいうと、過去に、行政主導型のあり方が反省されて、教育の営みが撤退され始めたことがあります。でも、それは本当の発展にはならないのであって、そういう教育の撤退から、次はむしろ「協働」の考え方が重要になります。それは、住民側も行政側も、学習主体と援助主体の双方が共に主体性を発揮するということです。そこでは、実際には喧嘩をすることもあるだろうというのが前提です。それぞれの個性と役割があるのだからそれでいいではないかということです。

◆42 @(ダイアローグによる)シンパシー
 他者の幸福追求を援助する3大テクニックについてですが、そのおおもとには、ダイアローグ(対話)というものが非常に重要だなと感じています。これはソクラテスの対話にもあるように、教育の原点です。結局は、一対一で対話をしていて、他の人はそれを見ているのも良い。それがシンパシー(共感)の世界を創り出すのです。

◆43 Aストローク
 つぎにストロークです。人間はストロークを求めて生きているといわれています。ストロークというのは、「私はあなたの存在に気づいていますよ」と伝える言語、非言語の行為のことです。それがほしくて、でもうまくいかなくて、人間はいろんな非生産的なこともしてしまうのですが、少なくとも援助者は仕事においてはストロークの達人であってほしいと思います。例えば独学で英会話を勉強してきた人がいた場合、「いやあ、それは大変なご苦労だったことでしょうねえ」と即座に心からいえるということでしょうか。

◆44 Bエンカウンター
 そのうえで、共感や水平性を前提にしているのですが、3つめにエンカウンターがあります。ほんねの出会い、あるいは異なった枠組との直接的な遭遇ということです。社交辞令を交わすために住民がここに来ているわけではないのです。もちろん、最初のうちは、社交辞令的な話から入ることは多いでしょうが、次第にそういうものをはずした交流、「自分は本当はこう考えているんだよ」とか、「あなたのこういうところが自分にとってはおかしいと思う」とか、そういうことを安心していいあう関係、これをエンカウンター(遭遇、出会い)というのです。
 カウンセリングでは自己一致という言葉もあります。相談に来た人が話をしていて、それが本当につまらなくて退屈したら、我慢をしないでそんな話は退屈なんですがといえること、極端にいえばこれが相談を受ける者の自己一致です。つまり自分の気持ちを自己受容しているから、無理に我慢したり、装ったりしなくてもいいということです。

◆45 @始めの一歩を励ます
 最後に支援者のネットワーク型の役割遂行ということです。これは狛プーの年間講師としてのぼくに、どんな存在価値があるのかということから考えたことです。
 1つには、「始めの一歩」というのは誰でも恐い、これを踏み出すための励ましというのはとても重要なのではないかということです。指導者は、そういう人よりもすでに実際に歩いている人にこっちに歩いた方がいいなどと余計なことをいいがちなんですが、そんなことよりもどっちに歩こうとかまわないけれど、始めの一歩を踏み出す人を励ますことこそ肝心なのではないでしょうか。
 その励まし方ですが、どーんと踏み込んでしまってよろけて倒れてしまったら、その人にはかえってマイナスになるわけですから、むしろ1センチとか、2センチとか、おずおずと恐がりながら踏み込むほうがいいということを教えてあげること、これが重要ではないかと思います。
 自己開示についても同様です。自分はこうなんだよということを伝えたい、心を開きたいという気持ちは誰もが一方ではもっているものです。しかし、始めの一歩の話からいえば、本人が開きたくもないときに、「みんな仲間なんだから思いきって打ち明けましょう」などということではいけません。無理に打ち明けさせて傷ついてしまった時に、どう責任をとればいいのでしょうか。それよりも、「あなた自身がみんなにいってもいいなと思うことをいえばよい」、「このメンバーにはいえないなと思うことは無理していわない方がいい」、「開きたい心を、安心して開けそうだなと思った場で、開くということが重要なんだよ」と教えてあげること、これがぼくは大事だと思います。これが始めの一歩の励まし方です。

◆46 Aミニ・ヒエラルキーをつぶす
 2つには「ミニ・ヒエラルキーの形成を食い止めよ」です。ディスカッションなどの際に、ニュー・カマー(新規参入者)などの発言に対して、それはだめだよ、無理ですよ、などと先輩面していう人がいます。生涯学習やボランティア活動は自己決定に基づいた水平の関係のはずなのに、このように水平を越えた上下の関係を求めるような言動が出てきた場合には、早めにつぶす必要があります。

◆47 B潔い撤退を促す
 3つには「潔い撤退を促す」です。もし、「自分はみんなのために仕方なしに来ているんだ」という人がいたら、「そういう場合は来ないほうが正しいんだよ」というべきなのです。生涯学習においては、「学びたいことを学びたい手段を自らが選んで」という自己決定の原則が重要ですから、来たくないときには来ないということが正しいわけです。それなのに無理に来ることが続くと最後はどうなるかというと、「立つ鳥跡を濁す」という結果になるわけです。

(以下は質疑応答)

司会:どうもありがとうございました。城北ブロックのわれわれが書いたペーパーへのコメントと、生涯学習から社会教育主事の役割、あり方までにわたって、お話をいただきました。
 皆さんも今日までにいろいろとお考えになっていると思いますので、課題なり、ご意見、ご質問なりがありましたら、自由に出していただきたいと思います。

◆48 成果は「質×量」
Q:長く関わってきて、こういう不景気の財政基盤が緊迫してきて、事業の見直しをされたときにわれわれに迫られてくるのは事業の評価ではないかと思うのですが、われわれ専門職員として、どこを評価のポイントにするかということを迫られるんですね。単純にいえば、これだけのお金をかけるのだから、学習者の数や効率みたいなものを財政課はいってくる。われわれの立場はどちらかといえば、学習者の質の高まりみたいなものを切札としてもっていきたい。その辺のことがいつも悩みの種なんですが、いかがでしょうか。
mito:成果というのは「質×量」でしょうね。例えば一斉承り型学習をしてしまった場合には、主体的な学習の援助としてはゼロまたはマイナスになるわけですから、千人来たとしても生涯学習社会への移行の立場から見たらマイナスになるのです。数はもちろん多い方がいいわけですが、キーパーソンなどの支援の場合は×100ぐらいで計算してもいいんだとぼくは思っています。3人来れば300人と数えてよいということです。まあ、財政当局にはわからないかもしれませんが。これだけの人が、何十万程度の予算だけで、これだけの感動をもって学習し、そこで自立を獲得していったんだということで突っ張るしかないんじゃないかと思います。

◆49 大切な市民感覚
Q:先ほどの成人式の企画委員を募集するのに、18万円かけて10人というのは、私は大成功だと思っているんですが、トップからみると無駄じゃないかということになるんですよね。その時にわれわれが専門職員の立場で説得をしていかなければいけないんじゃないかと思うんですが。
mito:そうですね、正道を歩んでいるのはこちらだということではないですか、どう考えても。例えば財政とかいうと何かバランス感覚にあふれた専門家のように思われますけれど、意外に普通の市民感覚からずれていることがあります。官官接待が問題になっている時に、食糧費も削られましたけれども、何を削ったかというと、市民や有識者などの民間の人との会議での時間を変更して、昼食をとって官民がいっしょに話し合っていたのをやめて食糧費を削っているんです。ピントが全然あっていないんです。市民感覚がマヒしているのではないでしょうか。社会教育の世界では普通の市民感覚に接しているんですから、それを活かしていくしかないでしょうね。正義は勝つとぼくは言いたいです。

◆50 価値あるものを見つける方法
Q:方法の専門家ということに関係すると思うんですが、何に価値を見つけるかということはすごく大事なことだと思うんですが、結局は自分で考えてこれは価値があるだろうと思ってやるわけなんだけれども、その価値の根拠になるものって一体どの辺なのでしょうか。
mito:基本的には法律に縛られて公務を遂行しているわけです。憲法で国民には幸福追求権があってそれを最大限に尊重すると書いてあるわけですから、基本的にはそれを根拠に遂行できると思います。でも、プライオリティー(優先順位)というのがありまして、これが難しいですね。ぼくは、公的課題というのは、社会教育事業のテーマ設定において、プライオリティの上の方に位置させてよいと思っています。しかし、それではどういうものが公的課題としての性質が強いのかというと、やはり難しいです。例えば、今まで通りのつまらない青少年健全育成をやっているとしたら、それは公的課題ではあっても真実の部分では高まっていかなくて、逆に、暴走族を集めて彼らが喜ぶようなことをやったとすれば、今までの健全育成の上をいくプライオリティとして評価してよいと思うのです。
 ただ、ぼくはさきほど「何でもアリ」の精神でといいましたが、癒しのサンマをつくるなどのことは私的課題に見えても、じつは非常に重要な公的課題だと考えています。しかし、そういうことなら自主グル−プで勝手にやればよいじゃないかという議論も強いと思いますが、現代社会の病理をとらえると、癒しのサンマづくりは「公的にも」どうしても必要だということになるのです。そういう論理構成は、教育の世界では許されているのではないでしょうか。
 許されながらも時々チクチクとやられている。上司の問題というのもありますけれど。民間企業のなかには、新人には似つかわしくない大資金を貸与して、成果があがるまで3年も待ってくれるなど、人材を育てるためには並々ならぬ犠牲を払うすぐれた企業もあります。結局は、会社にとってはこれがもっとも得な人事政策であるということなんです。こういう所のいい部分は、行政も学ばなければいけないと思います。
 本当は、もし今後のトレンドなんかがつかめる人がいたら、その人は簡単に大金持ちになるわけで、実際にはそんな神様みたいな人は一人もいないわけで、私たちは右往左往しているだけなんです。やってみなければわからないのです。だから効果が出るまで少し待ってもらいたいですね。参加者が少なかった時、そういう時こそ、参加した一人ひとりや職員、講師までもが楽しくやることがポイントです。そうすると、その感触をかぎつけて、ほかの人も「なんだ、それだったら私も行く」といって来はじめる。ぼく流に言い換えると、マス(集団)の効率ではなく、個の深みと出会うことを心から喜びながらやっているかどうかということが、ぼくらには問われているのではないでしょうか。

◆51 潜在的ニーズへの関心・信頼
Q:今までの社会教育の仕事が何をやってきたかということを再確認したかったんですけれども、人としての人権を尊重するような支援をすることが私たちの仕事で、3人以上集まればというのは社会教育の本質だと私も思うんですけれども、そこに集団が存在しその中で個と集団の関係性というか、一人ひとりが主体的な権利を持つ人間としてどのように尊重しあえる受容関係を持つのかというようなことが今の社会には欠けていて、若い人も年をとった方も含めて非常に求められている環境の中でどういう事業をしていくのかということを構造的に捉える必要があるのではないかということをmitoさんのお立場からおっしゃったように私は聞いたんですが、今私の立場で社会教育に欠けていたのではないかと思うのは、教条主義と重なると思うのですが、学んだことであたかも自分が正解になったと錯覚してしまう構造をそのままにしてきたツケがまわっていると私は思うんです。そこをどういう形で突破していったら良いかということが課題です。それから量では把握できないと言うのは確かにそうなんですが、ニーズをどうつかむかというのは、という問題で、量というのはすなわちニーズであると考えることも必要なのではないかと思っています。つまり今何をしなければいけないのかというところに、どこまで触覚をあてて対象化した形で事業が展開できているのかというのが、こういう状況だからこそ問われてきていてると思います。自分たちがいままでやってきたことを今の時代にすり合わせて、どういう意味を持つのかというところを潰していく作業というのが、今何が求められているのかを探っていく作業を一緒にやろうよということをおっしゃったように思いました。
mito:集団についてですが、「HaveからBeへ」というのはよく言われますが、出世したり何かを持つための学習ではなく、人間らしくありたいというのがBe(〜である)というのが生涯学習でHaveからBeへということで、最近さらにいわれてきていることとして、「BeからWithへ」というのがあります。Beだけ、つまり自己実現だけでは人間は幸せにはなれないということです。Withというのは共に生きるという共生社会のテーマなんですが、もともと「個は他者と関わることによってより深まる」というテーゼがありまして、一人では深まらない、他者と関わることによって、つまりそれは本当の出会いを表わすのです。引きこもりのカウンセラー富田富士也は、「人は人に傷つき、人に癒される」といっています。アロマテラピーとかは、ぼくもやっているんですが、やっぱりそれだけでは癒されないですね。
 それから教条主義をどう突破するかということについては、これはわかりません。
 トレンド、ニーズのことでひとつ言いたいのは、潜在的ニーズということです。その時には、やっぱり数ではなくて、例えば0.%以下の学習要求というのがありまして、NHKの調査で、お茶とかお花は例外的に何十パーセントか獲得できるんですが、それ以外というのはほとんどがアラビア語とかの0.何パーセントの学習要求が並んでしまうんですね。そうした場合、0.何パーセントという事業の方がヒットするものなんです。それでも、実際には、何万人かの所でやっても、数人しか来てくれないかもしれないけれども、それが次の時代を支えていくわけです。時代を創り出していくエネルギーというのは、もちろんお茶お花にもあるわけですが、0.何パーセントというものも、職員の好みに応じて、個人的なそれなりの見通しに基づいて、どんどんやっていくということであってよいとぼくは考えています。それよりも、職員がその事業に気合を入れているかどうかの方が大事かと思います。ニーズというのをそのようにとらえています。

◆52 コンピュータは仕事の純化の道具
Q:さきほどコンピュータの話で、図書館にコンピュータを入れることが合理化で税金の無駄使いという風に私は捉えてしまったんですが・・・・
mito:コンピュータというのは道具(ツール)です。図書館司書が機械的雑務を省力化して、専門的な仕事としてもっと市民とつき合えるようになるための手段なのです。コンピュータに任せられるものはコンピュータに任せて、専門性の純化をするというのがぼくの考え方です。ただ、合理化というのは理屈を自分の都合にねじ曲げることで、当局がサービスを低下させてでもコンピュータによって人員を削減しようなどとなってくると、コンピュータ導入というのは問題であると思います。
 逆に、司書から、労働者側からの問題で、ボランティアやコンピュータの導入、即、危険だから有無をいわさず反対というのは、この時代にはそもそも説得力がないわけです。自分のやっている仕事というのがいかに幸福追求の援助として意味があるのかという論拠に基づいて、ボランティアやコンピュータの導入反対の議論を立て直せば説得力もありましょう。ぼくはそういうわけではないと思いますが。これは労働者の問題で、前者の当局側の問題とあわせて、両面を言ったつもりです。

◆53 対象別事業の是非
Q:青年関係でおじいちゃんが来ても構わないというお話でしたが、そういう対象別事業で青年の場合、どのように他では取り組んでいるのでしょうか。行政でやっているので、マガジンハウスがやっているようなわけにもいかないと思いますが。これから先、そのような対象別事業をどこまでもっていったらよいのか、あるいはミニマムでよいのかという気もしないでもないのですが、その辺どの様にお考えでしょうか。
mito:ぼくは対象別事業でなくてもいいものまで対象別にしているのはおかしいと思いますが、一方で対象別事業のなかでも青年対象の事業というのはまだまだ足りないと思っています。青年教育担当者の研修などで狛プーの事例を発表すると、狛江の青年が元気だからできたことだとよくいわれますが、そんなことはないとぼくは思っています。癒しのサンマ、つまり、相互承認の中で自分があるがままで承認され、両手を広げて歓迎される場というのは、今、現代社会においては、地方であってさえも青年の共通の切実な願望だと思うんです。それはかなり意識的なネットワーク型の社会教育がないと、そこが「あなたの存在を認めているよ」という安心できるストロークを出してあげないとできあがらないのです。それは上下同質競争の現代社会の中ですから当然です。
 もう一方で、社会学の人などは本質的にものごとを考えますから、そんなことはありえない、人間疎外の現代管理社会のなかで、しかも行政権力のやることで、そんなことができるはずがない、権力行為としてなじまないというようなことをいいますが、実際には社会教育の場ではそういう突出的世界ができているわけです。ぼくは、この現代管理社会においても、人間解放のサンマはつくることができると思っています。
 そういえば、狛プーには、主婦も参加しています。若い主婦は「誰々の奥さん」というだけではなく、自分はまだ青年としても認知されたいという気持ちをもっている。アイデンティティとはいろいろな自分のトータルな統一なのです。だから、主婦であっても青年として来るぶんには一向にかまわないわけです。むしろちょっと変わった独自の役割をちゃんと果たしてくれるわけです。狛プーでも練馬の元気が出る講座でも、それは最近の新しい傾向ですね。おじいちゃんが来たいのなら来ればよい。いやになったらやめればよい。もちろん、対象別事業のほうが対象外の人に無理に合わせる必要はないのです。

◆54 青年事業に望まれる指導者
Q:以前に町会青年部の人たちに集まってもらい話し合ったことがあるのですが、ある程度落ち着かないとこういう講座とかに出てくる時間もないよという、それができるのが子どもが少し大きくなったくらいかなということでした。そうなってくると主婦もいてもいいやというよりは、むしろ主婦や子持ちのわれわれくらいのおじさんの年齢層が中心となってしまって、本当に若い人はポツポツと何人かということが現状です。
mito:その逆が本当はいいんですけどね。面白そうだというので若くない人が若い人の中に入ってくる場合にはとてもうまくいくんですけど、その逆だとちょっとね。それからテーマよりも内容です。さらに、青年教室については、じつはぼくはカリスマ的指導者が必要だと思っているんです。ただし、それは「依存させてくれないカリスマ」でなければいけません。

司会:それでは時間になってしまいましたので、まだ質問のある方は個別にお願いします。今日はありがとうございました。



第X章 市民への大学開放の現状と未来
 −徳島大学大学開放実践センター公開講座「私らしさのワークショップ」受講者との双方向教育から−

1 継続高等教育への関心

 平成7年度に日本生涯教育学会は年報(第16号、平成7年11月)のテーマに「大学改革と生涯学習」を掲げた。
 年報の中で、山田礼子「アメリカの継続高等教育の社会的機能−UCLAエクステンション・プログラムの事例分析を中心に」として、次のような趣旨の報告をしている。

 本論の目的は、継続高等教育の代表例であるUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)エクステンションの事例分析を行なうことにより、継続高等教育の社会的機能、すなわち職業人に対する再教育機会と地域社会へのサービス提供という機能を明らかにするものである。本論は以下の順に従って進められている。@アメリカでの継続高等教育の歴史と現状を紹介する。AUCLAエクステンション・プログラムの事例を通して、その発展段階、組織の特徴、プログラム内容、学生の属性を明らかにする。事例分析に関しては.UCLAエクステンション副学部長、継続教育カリキュラム担当者、マーケティング担当者との面接調査、内部資料、過去のカタログ分析をもとに行なう。B上記の分析をもとに、総合大学を中心とした継続高等教育機関の社会での役割と機能、ならびに今後の課題を考察する。
 筆者は次のようにまとめている。本論ではアメリカの都市部における総合大学の代表例であるUCLAの継続教育部門を事例として扱ったが、他のUCの大学、あるいは都市周辺の総合大学なども連邦政府の継続高等教育政策、職業資格に対する評価の社会での確立などから判断して、規模の違いはあるにせよ、継続高等教育の方向性は同じであると推測される。総合大学の継続教育部門は、大学本体の苦手な部門のプログラム開設、地域サービスなどを果たす補完的な部門であると同時に、高学歴職業人のニーズに迅速に応えた職業人への再教育機能を果たしているとまとめられる。しかし、受講生のニーズに迅速に応えられ、実質的なカリキュラムを達成できるということは、産業構造の変化や技術の進歩などの要因に大きな影響を受けやすいともいいかえられる。そうなると、新しい産業技術を反映した実質的なカリキュラムを常に提供しなければならない宿命を継続高等教育は負っていることになる。その場合、実質的で最先端のカリキュラムに対し、いかに質の管理を行なっていくか、今後注目する必要がある。

 また、同じ年度の平成8年3月に発行された萩原敏朗他「ドイツ継続高等教育の基礎的研究」(東北大学教育学部附属大学教育開放センター)の趣旨は次のとおりである。

 本文献は、本センターの「研究ノート・大学と社会」第29号、平成7年度の第2号として発行された論集である。本学部社会教育学講座の高橋満助教授やドイツの研究者からの寄稿も含めてまとめられている。本書の巻頭で、東北大学教育学部附属大学教育開放センター萩原敏朗教授は、以下の国際的動向をふまえ、本書の意義について次のように述べている。「今回の特集については、ドイツの継続高等教育について、きわめて詳細、緻密な基礎的分析とそれに基づいた研究報告がなされており、わが国における、この分野におけるこれからの基礎的文献になりうる内容である」。
 萩原は、欧米の継続高等教育の状況について次のように述べている。19世紀の後半、イギリスを源流として世界各国に広まっていったUniversity Extention(大学開放、大学教育開放、大学拡張)の活動は、欧米社会では20世紀の早い時期から、むしろ、継続教育という言葉にとってかわられていくという傾向にあった。たとえば、アメリカ合衆国では、20世紀の第一4半期が終わる頃から、University ExtentionからContinuing Educationへという方向で議論が展開されている。これは、大学自体の変質と深く関わっている。すなわち、University Extentionという言葉は、大学資源、大学の諸機能の大学キャンパス外への物理的な拡張、延長をイメージさせるものだったが、大学の巨大化、大衆化が進み、キャンパスの境界が次第にあやふやになるなかで、多くの大学開放機関は自らの看板として、University ExtentionよりContinuing Educationという看板を組み込んだ名称を使うようになってきたのである。また、ヨーロッパでは、中世以来、もともと大学キャンパスの境界があやふやな国々もあった。世界規模でみれば、大学がおこなう成人教育、生涯学習活動としては、職業教育制度の発展とあいまって、University ExtentionよりContinuing Educationのほうがむしろ主流であるといってもよいかもしれない。

 さらに同年度6月の藤村好美「アメリカの高等教育機関と生涯学習−“Continuing Higher Education”概念の検討を中心に」(「日本社会教育学会紀要」31号、p73〜82)の趣旨は次のとおりである。

 筆者は1960年代のアメリカ成人継続教育について次のように述べている。コミュニテイ・カレッジ・ブームに代表されるように、成人の学習の場としての高等教育機関の役割が増大し、高等教育と成人継続教育の境界線が薄くなった成人継続教育概念転換の節目の時期であるということができる。本論では、1960年代から現在までを、アメリカにおける“Continuing Higher Education”(継続教育)概念の成立期ととらえ、高等教育機関がアメリカ市民の生涯学習に果たす役割を、“Continuing Higher Education”(継続高等教育)概念の観点から検討している。
 筆者は、アメリカの高等教育機関において日常化している成人学生の存在と、それら成人の学習要求に柔軟に対応している高等教育機関の姿を、コミュニテイ・カレッジや大学拡張部における教育実践に見ているが、その背景には、18歳人口の減少下のいわゆる大学の生き残り戦略としての成人学生の受け入れという経済的意味よりも、19世紀末の大学拡張運動以来連綿と続いている高等教育と成人教育の融合とそれを支える理念を感じ取るという。そして、継続高等教育とは、成人の高等教育への参加を表す概念であり、また、高等教育機関の成人継続教育機関化・生涯学習機関化を表す観念であり、高等教育と成人継続教育の統合を表す概念に他ならないと述べている。
 筆者は本論を次のようにまとめている。継続高等教育の源は英国の大学拡張であり、その理念が形を変えながらも今日まで連綿と続いていることも再確認できた。しかし、かつて大学拡張が大学のマージナル(周辺的)な機能として行われていたのとは異なり、継続高等教育は成人継続教育を高等教育の主要な機能として捉え、高等教育と成人継続教育の新たな展開の可能性を秘めているものといえよう。アメリカにおける継続高等教育協会の活動は、成人継続教育研究において今後も注目に値するものである。

 このように、19世紀後半のイギリスを源流とする大学拡張(university extention)が、市民に対する周辺的なサービスとして「高等教育」を提供するというイメージがあるのに対して、その後いわれ始めた継続高等教育(continuing higher education)は、コミュニテイ・カレッジ・ブームなどを背景とし、成人継続教育の本来的な場として「高等継続教育」を提供しようとする言葉だといえる。
 本章では、最初に、その視点に基づき、前掲自著『癒しの生涯学習』から、高等教育の根底的転換のあり方について述べることとする。

2 高等教育の根底的転換

 最近、大学がますます大衆化し、さらには今後の生涯学習時代に向かって、「継続高等教育」すなわち大学を本格的な生涯学習機関としてとらえなおす動きがある。しかし、他方、それが大学入学者人口の激減を目前とした大学側のただのサバイバル戦略にすぎないとしたら今までの大学の存在価値まで失うことになる。

◆ 現代人の生涯学習欲求の高まりの反映として

 いまや高等教育(大学・短大)においては、学生の恒常化した私語によって授業が妨げられる、大学生なのに知的に幼稚であるなどのことから、大学の授業が存在する意味さえ疑う教員もいるほどだ。こういう高等教育の権威失墜が生み出された社会的背景としては、@従来の学歴偏重(高卒か大卒か、など)の価値観だけでは有為な人材を評価することはできないという社会的な認識が普及しつつある、A逆に学校歴偏重(どこの大学のどの学部の卒業か、など)の価値観は依然として残っていたり、あるいは場合によってはかえって強化されたりしている、という2つの理由があげられよう。だから、ごく一部の大学・学部の「自他ともに認めるエリート予備軍」を除いた大多数の学生が、「賢明にも」学士になるだけのための教育には、過大な期待や、その受け手としての自負をあまりもたなくなっているのだ。
 そういう状況の一方で、現役学生を含めた多くの現代人のなかで、生きがい創出、自分さがしなどの自己実現や、職業、ボランティア活動などの社会的役割遂行のための切実な学習欲求が、急激な広がりと深まりを見せている。これらのニーズ全体が、生涯学習社会形成に向けた社会創造のパワーとしてふくらみ始めているのである。そのふくらみは、革新のない過去の高等教育が色あせていく道程と、あたかも反比例するかのような目覚ましさである。生涯学習関連事業の実施のなかでそういう人びとの猛烈な学習欲求に接している大学のほうも、新しい出会いと気づきの体験による自己革新をしている最中である。
 こういう大学の革新によってこそ、従来の学歴偏重社会のエリートを育てる方向ではなく、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」(学校教育法第52条「大学の目的」、短大は若干異なる)という本来の方向での高等教育の根幹部分の進化・発展も可能になる。つまり、大学の枝葉の役割としての狭義の生涯学習関連事業だけでなく、高等教育全体のあり方が生涯学習社会の形成というフレームのなかで考え直されなければならない時期にきているのである。

◆ 市民の高度化・多様化する学習ニーズへの対応を

 生涯学習あるいは成人の学習の特徴として、自己管理型学習(self-directed learning)であるということがあげられる。すなわち、みずからが学びたいと思うこと(欲求中心の即目的的学習)や学ぶ必要があると思うこと(課題中心の問題解決学習)を、学びたい手段で学ぼうとするのである。大学の生涯学習関連事業もそれに対応しなければならないのは当然であるが、その場合、これらの市民の学習ニーズの高度化、多様化に留意する必要がある。
 たとえば大学公開講座では、その生成期においては、「一般市民のため」という名目のもとに、市民に対しては高等教育としてのレベルを根本からないがしろにしたり、「教員の公平な分担」という名目のもとに、テーマの焦点化されていない総花的で非体系的なプログラムに陥ったりする傾向があったようである。しかし、最近の公開講座は、高度化する市民の生涯学習ニーズに応えて、本来の高等教育機能の拡張としてのレベルの高い公開講座を志向する大学が増えている。
 今後も、学習者層の拡大のためには、入門的で広い範囲の親しみやすい学習内容の提供が必要ではあろうが、大学側がそれだけに甘んじていて、市民の高度化、多様化する学習ニーズに対しては、人がたくさんは集まらない、手間がかかる、などの消極的な理由から対応できないままでいると、その事業を大学が行っているからこその魅力を失い、よって、深い意味での学問の楽しさをも失って、いずれは市民から見離されることにもつながりかねない。

◆ 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を

 数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。
 市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。
 そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。

◆ 高等教育の制度等の柔軟化と個性化を

 過去の学歴偏重社会においては、固定的な年代や時期の、固定的な一定期間の、固定的な場で行われる高等教育に重きがおかれ、それ以外の学習や卒業後の学習には比較的、関心が払われてこなかった。しかし、今後の生涯学習社会においては、社会の変化や進展に応じて、卒業後も繰り返し教育の場に立ち返って学習(リカレント学習)を進めることが求められていることから、大学の側もそういうニーズにいっそう柔軟に対応していく必要がある。これが継続高等教育機関としての大学の役割である。
 このことに関連して、2つの重要な生涯学習の観点を述べておきたい。それは、@人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、なるべくその時期を逸しないようにして、それぞれの時期の課題に適した学習を行うことが望まれるという観点、A人間は一生のあいだ、さまざまなかたちでつねに変化・発達を続けることが可能な存在であるのだから、生涯学習は気づいたときにいつからでも始めることができるという観点、である。従来、とくにあらたまった論議などでは、ややもすると@ばかりが強調され、生涯の各時期における発達課題が固定的に受けとめられてきてしまった傾向があったのではないか。大学側が本音のところではそういう前者の考え方だけに固執しているのだとすれば、せっかく大学の扉をたたいてくれている社会人や大学既卒業者は救われない。「思い立ったが吉日」「人生、すべて勉強」などのごくあたりまえの庶民感覚を大切にしなければならない。

◆ 市民・学生のための大学からの情報発信と、大学へのアクセシビリティの確保を

 現在、欧米では大学拡張と呼ぶより継続高等教育と呼び、生涯学習機関としての自らの役割への自覚をますます高めている。大学の生涯学習関連事業においても、学習者中心のサービス姿勢を徹底することが今後の重要な課題となろう。いまや多くの大学が施設開放を行っており、大学の市民への開放性の高まりを感じさせるが、その開放性がどれだけ市民の実際のニーズとマッチしているかについては、まだまだ覚束ない大学のほうが多いのではないだろうか。「大学教育に支障のない限り、自由にご利用ください」という姿勢も発展のひとつだろうが、生涯学習の時代はそのつぎの段階への発展を大学に求めているのである。それは、届ける、触発する、という姿勢である。
 校舎や体育館やグランドなどの施設はまさか「届ける」というわけにはいかないが、大学を訪れたいと思った市民がどれだけ容易に目的地に到達できるか(アクセシビリティ)を配慮する精神が求められる。車のない人はどうか、お年寄りはどうか。また、車椅子でも、大学の玄関から2階の開放している図書館に上れるだろうか。さらには、バス停を降りてから大学の玄関までの歩道はどうなっているか。居合わせた自校の学生は、お手伝いするだろうか。こういう心配りをすることをオープンマインド(開かれた心)というのである。全国的にもエクステンションセンターの名称などで、市民開放用の施設を大学の立地とは別に街中に設置する同様の動きが見られるが、最大限のアクセシビリティのための試みとして評価できる。

◆ 市民・学生の学習成果への評価と、市民・学生からの事業・授業への評価を

 とくに「きびしい生涯学習」については、どうしても高等教育の過去のイメージを引きずってしまい、市民側も大学側もともに、教える側の制度化された権威が至上のものになりがちである。そして、「学びたいから学びたいことを学んでいる」という自己責任の原則が忘れ去られ、市民側の学習態度を依存的なものにしてしまうのである。これでは、生涯学習も、過去の教授者主体の「一斉承り型学習」とあまり変わらない非主体的な学習という結果になってしまう。
 もちろん、大学卒業資格や単位の取得という学習結果の存在意義を全否定することはだれにもできないだろう。しかし、生涯学習社会への転換において大切なことは、そういう資格・単位の認定に関わる制度的な改善をも含めた評価の適正化である。学校歴に偏ることなく、学習歴を問わなければならないし、また、単位や資格の取得を争う大人同士の受験地獄にしないためには、学習結果としての学習歴にも偏ることなく、一人ひとりの多様な個性と持ち味のある学習の経過をも尊重しなければならない(p39)。
 さらには、学習成果の評価についてのより本質的で積極的な意義としては、何よりも学習者本人がつぎの学習行動を主体的に決定するために不可欠であるということがあげられる。それゆえ、適正な評価のためには、アンドラゴジー(p13)の考え方に則り、ガイダンスやコンサルティングなど、学習者と援助者との相互的な営みが必要になる。したがって、生涯学習関連事業においてなされるべき学習成果の評価のあり方を検討することは、従来の高等教育は学生の主体的な学習能力の向上を本当に評価できていたのか、社会教育は市民みずからのもっていた学習目標の講座修了時の到達の成否に関心をもっていたのか、というように、自らの教育姿勢への鋭い問い直しにもなるのだ。
 以上に述べた学習成果の評価にならんで、大学教育への評価も重要である。今まで学習者側からはほとんど批評を受けることなく過ごしてきた高等教育にとって、学習者主体の生涯学習とその支援の理念は、自己評価の充実の面でも大きな契機となるだろう。18歳人口の激減を目前にして、多くの大学でサバイバル(生き残り)をめざして自己点検・自己評価活動の取り組みが行われている。しかし、もし18歳人口が減る見込みがなかったら、そういう活動をしなかったのか。それも、「大学の自治」の名のもとに。大学の自治とは、ときの権力の干渉を許さず、しかし、学習者や世間の評価も参考にして、教員が厳しく自己点検・自己評価を行うという前提があるからこそ成り立つことではないか。大学は自己評価することを自己決定すべきである。
 もちろん、たとえば、「○○先生はやめたほうがよい」と一人に書かかれたからといって、必ずしも、つぎの事業からはその○○先生を依頼しないようにするということではない。学習者からのこういう事業評価に対して事業者は、「少なくとも、この回答者はそう感じた」という事実を逃げずにありのままに受けとめ(受容)、そのうえで主体的に判断すべきなのである。とくに、大学の授業を学生に評価させる場合などに教員の抵抗が強いのは、相手からの評価のこういう受けとめ方について、まだ理解が十分には広まっていないからなのではないか。教育側と学習側の相互の批評は、否定ではなく批判であり、主体的な両者の基本的信頼にもとづく協働の知的共生活動なのである(批評的ストローク、p84)。このように、市民や学生からの評価を率直に受けとめてこそ、大学の主体的な自己評価は可能になる。
 学習側が教育側を批評するということは、自己管理型の生涯学習にとっても非常に重要なことである。学習者が事業評価や授業評価をするということは、学習者が学習者自らの責任を果たすということである。かれらの否定ではない批判は、主体的な学習態度の一環であり、ともに生きる(共生)ための信頼と共感にたどりつくまでのプロセスである。その批評を誠実に積み重ねることによって、学習者の主体性もいっそう確かなものに育っていく。つまり、事業・授業評価は、大学と市民・学生がともに育つための共育活動の一環なのである。

◆ 学内に全体的・総合的な生涯学習推進組織を

 学内の推進組織自体は大がかりでなくてもよいが、大学の総合的な経営のひとつとして専門的に関われる位置づけをする必要がある。企画や調整というラインのひとつとしてか、あるいは、いずれかのセクションの下に置くのであれば、そのラインからやや外れて独自の実行機能をもち、ほかのセクションに対しても全体的に調整力を行使しうるスタッフ機能として位置づけたほうがよいと考えられる。
 学内の生涯学習推進組織または窓口をどう整備するかということは、来たるべき生涯学習社会に向かっての大学経営全体の基本的・総合的理念を表すものであり、企業のCIに匹敵するほどの大学のアイデンティティそのものに関わる重要なことがらなのである。

◆ 他大学・他機関との生涯学習ネットワークの形成と地域生涯学習推進計画の実現を

 大学どうしで、あるいは行政等の他機関と、さらには地域社会全体と、ネットワークを形成することが生涯学習推進事業を行おうとする大学には必要である。まずは、さしあたり、他大学、放送大学や専修学校との単位互換を考えるべきであろうし、研究や生涯学習推進の面などでの企業との連携も考えられよう。そもそも大学が市民にも目を向けるということは、基本的にはこのような他大学、他機関、地域社会に対して自信にあふれたネットワークマインドをもっているからこそのことである。
 ネットワークの特性のひとつは、自立と依存の統合的発展(『かくろん』p168)であると思われる。大学としての独自の存在意義をもっているからこそ、異なる自立的価値をもつ他者と対等に連携することができるのだ。また、そういうネットワークにおいては一方的な関係ではなく、相互のギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。たとえば、大学は行政や地域に対して有益な学園都市の資源としての存在価値を発揮し、行政や地域はそういう大学を信頼し支えようとするのである。このような双方が対等で主体的な協働の関係が、大学の生涯学習ネットワークには求められている。

◆ 生涯学習理念にもとづく大学の自己革新を

 以上述べてきたことをもとにして、「生涯学習時代における大学の役割」をぼくの生涯学習に関する基本的な主張を交えて簡潔にまとめていうとすれば、つぎの3点になる。

@ 生涯学習社会を担う学生を養成する役割
   −学内で生涯学習を学生に−
 現代青年としての学生は、生きる主体性の喪失の危機に瀕している。保護と管理ばかりを学校、家庭、社会から与えられ続けてきたことによって、学習やコミュニケーションなどにおける自己決定、自己管理、自己責任の能力がかなり損なわれているのだ。生涯学習の観点に立って学生の主体的学習を支援し、自己管理能力の向上を促すことによって、かれらを今後の生涯学習社会を担う人材として養成することがこれからの大学には求められている。

A 社会の変化を先取りし、リードする役割
   −学内の高等教育を学外に−
 急激に変化する現代社会は、つねに自己革新を続けて時代を先取りするリーダーとしての役割を大学等に求めている。とくに職業人は、知識・技術等の急激で高度な発展のなかで、学校卒業後も繰り返し教育を受けて今日の到達点を学び直すリフレッシュ学習の必要を感じている。また、高等教育とは別の形態としての生涯学習関連事業においても、時代のつぎの方向を示す役割が大学・教員に求められている。

B 「癒しと発達」の市民の学習を支援する役割
    −学外の生涯学習を学内でも−
 成熟化する現代社会においては、人びとの関心はモノからココロに移りつつある。そこでは地位や財産をもつ(have)ための学習より人間らしくある(be)ための学習に価値がおかれる。そのため、癒しと発達の両方が求められる。その学習は、生涯にわたって行われるリカレント学習である。これに対する大学の支援が大いに期待されるとともに、そういう市民の生涯学習との出会いは、大学にとっても学内に吹く「生涯学習の新しい風」として重要である。

 多くの大学で生涯学習関連事業が積極的に取り組まれつつある。しかし、その努力が、迫りくる18歳人口の激減に対しての大学サバイバルのための対処療法的な延命策としてだけに終わってしまう大学があるとすれば、それはたんなるサバイバル・ノイローゼの一過性の症状でしかなく、生産的な結果につながらないことは容易に想像できる。もっと、何のための大学か、何のための大学拡張なのかという、大学の本質的な存在確認から事業を発想する必要があるだろう。
 ゆえに、大学の生涯学習化(生涯学習理念にもとづく自己革新)の成否は、学内の教員と職員の意識変革にかかっているといってもよい。「儲けたいとは思わないけれども、かといって、大学がつぶれてしまうのも困る」という消極的な守りの経営や、過去の最高学府という空洞化した「権威」への依存から脱却して、主体的学習の支援という大学の社会的な役割を、より時代にあったかたちで遂行し、そのことによってみずからもその役割を味わい、喜ぶ、積極的な攻めの経営に転換する必要がある。これが大学の経営革新の姿である。
 最近のまともな企業は、収益を上げるだけでなく、その他の社会貢献活動(フィランソロピー)や文化支援活動(メセナ)などにも積極的に取り組むようになりつつある。これに対して、大学においては、教育(学習援助)をとおした社会貢献や文化支援という活動は、幸せにもそもそも本来的責務である。だからこそ、私学に対しても、やや貧弱とはいえ、国民の税金が支出されているととらえるべきだろう。ただし、そういう大学の新しい責務の遂行とそのための革新は大学の自己決定によるべきものであるし(大学の自治、p127)、それゆえ、惨めなサバイバル・ノイローゼなどとは異なる、自信に満ちた営みでなければならない。大学の変容も、個人のレベルでの学習行為と本質的にはまったく同じ経緯をたどるものであり、自己管理型の生涯学習のなかで個人がワンダーランド(わくわくできる世界)と出会うのと同様に、大学も自己管理型の生涯学習化のなかで自己変容という本来の学習の楽しみと出会うことができるのである。
 自己決定活動の真の動機は「自分のため」である。たとえ指導者が研修を受ける場合でも、「学習者のため」ではなく、「自分のため」といえる人が、学ぶことの意味を知るよい指導者である。また、ボランティアについては7章で述べるが、他の人から「えらいですね」とか「奇特な方ですね」といわれると、嫌な気持ちになるものだ。そういうときは「自分のためにやっています」と答えればさわやかでいられる。自分で「ボランティアをやっています」と言い切る人はあまりいない。それよりは、「こういう活動をやっている」と具体的にいうだろう。ボランティア活動は、ボランティアになるためではなく、何かをするために自己決定したものなのだ。ただ、ボランティア活動をしているある学生が、あまりつきあいのない友達に、自分が何をやっているのかを手っ取り早く答えるためには、ボランティアは便利な言葉だといっていたが……。いずれにせよ、人目ばかり気にする横並び意識や自己卑下のサバイバルと違って、自己決定・自己管理型の自己変容は人間にも大学にも気持ちのよいものである。

3 高等教育内容 7つの転換

 上下同質競争の頂点をめざすための「最適な手段」としての過去の陳腐な教育内容はそのままで、それを少しだけ市民にも開放するという程度の改革だけにとどまるならば、大学は生涯学習社会の形成には貢献できない。教育内容自体が転換されるべきだ。しかし、時代は高等教育内容にどんな転換を求めているのか。
 一つに、本提案は、この図に示されたぼくなりに考える生涯学習の観点のもとに述べられていることをあらかじめ述べておきたい(図表●)。つぎに、したがって、市民に対する「継続高等教育」の内容についても、いっそう同様の趣旨が実現することが望ましいと考えるものである。

◆ 転換1−自己決定・自立支援型にする
 成人の学習の本質は自己管理型学習である。高等教育もこれに習い、「学びたいことと学びたい手段を自分で決定して学ぶ」という原則をできる限り取り入れる必要がある。
 ぼくの授業では、出欠、遅刻、早退、途中入退室、そしてもぐりも、すべて自由ということにしている。個人には個人の事情と個人のレディネス(準備性)があるからである。ぼくの責任は魅力的な授業をすることであり、他の用事をさしおいてもその授業を選ぶかどうかは、ぼくの責任ではなく学生が自分の責任で決めることではないか。
 私語の問題ひとつをとっても、教育が学習者に自己決定をさせてこなかったがゆえの学生の主体喪失状況は背筋が寒くなるほどである。これ以上、学生に「こんなつまんない授業なのに、出席ばかり厳しくとるんだから」などと思わせてはならない。それは、結局、他者や社会のせいにして安定しようとする学生を、内面から許し、甘やかせていることになるのだ。教員は授業にいっそう勝負をかけて着席を自己決定する学生を増やし、そのうえで、退室の自由を行使できないままおしゃべりする学生に、その不行使が本人の自己決定以外のなにものでもないことを知らしめなければならない。

◆ 転換2−双方向・水平交流型にする
 教員の楽しみは学生一人ひとりの「個の深み」との交流にあると、ぼくは思っている。とくに、学生が自由に書く出席ペーパーのおかげで、授業がかなり刺激的な仕事になっている。過去の一方通行の講義型授業だけでは、教員も学生も手応えに欠ける。
 大学の自己点検・自己評価の動きのなかで、学生に教員の授業を評価させる試みがいくつかの大学で生まれている。よいことだとは思うが、それがたんに人気度や教育技術を数字で表すだけのものであるなら高等な教育とはいえないだろう。社会教育・生涯学習がアマチュア学習者とプロフェッショナル学習援助者との相互的関与や共育をめざしているのと同じく、高等教育でもたがいに触発しあって、現在の研究水準の一歩上をめざす必要がある。大学教員が過去の研究業績という遺産だけで食っていける時代は終わろうとしている。学歴偏重社会から生涯学習社会に移行する段階で、教員の方も自己の文化遺産を急激な社会進展や学生の学習ニーズの時代的変化にあわせてリフレッシュしなければいけない時代になっているのだ。
 そのためには、自らの教育内容についてまで学生に自由な感性と実感にもとづいて授業評価させ、大小の批判も含めてすべて受けて立つことが効果的であるし、また、それは刺激的で楽しいことだ。ただし、その場合、教員は授業で学習者のように「学びたいことを学びたい手段で」学んでいるわけではないのだから、教員が学生集団のワン・オブ・ゼムであってはならない。そんなことでは学習援助者としての存在意義がなくなる。教育意図をもち、その意図する内容を公にすべきである。受けて立つということは、学生のニーズに追従することではないのだ。専門分野に関する過去の文化遺産や、現在の鋭い問題意識をフルに働かせて当たる必要がある。しかしながら、教員としての権力に頼ってもいけない。教員から学生への双方向教育は、ネットワーク型の異質間の水平交流でありたい。

◆ 転換3−いつ・どこ・だれ・なに型にする
 生涯学習の理想主義的なスローガンとして「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」がある。大学でもこれをめざすことができないだろうか。
 日本のある大学が米国に分校を開いたときの日本人学生向けのキャッチコピーは「アメリカ全土が君たちのキャンパスだ」というようなものだった。それならば、国内の大学においても学生に「君たちが学べる場は日本全土だ」といってよいはずだ。
 また、米国の大学の「履修要覧」には各教員のオフィスアワーが載っているものがある。オフィスアワーとは、何曜日の何時ころにはいつもその教員が研究室にいるから、学生が個人でも質問や議論をしにきてよいというシステムである。このようなオープンマインド(学習者に対して開かれた心)が教員に求められている。

◆ 転換4−おもしろ・感動型にする
 前述のように、ぼくは授業を勝負の場ととらえている。私たちは、雇用対策で大学当局に雇われているわけではない。自分にしかできない授業を売り物にしたい。現代社会は、テレビや出版などによって、おもしろくて役立つ情報が簡単に手に入るようになっているが、自分の授業が、メディアの流すそれらの情報より何らかの意味で勝っていなければならないと思う。なぜなら、本来、学習は学習者の自発的意思にもとづくものであり、学生が授業に出席するのも「今は他を捨てて授業を選ぶ」という学生自身の選択行為の一環であるべきだからである。だから、選択に堪えるものでなければならない。「我慢して出席しなさい」というのでは、忍耐心ぐらいしか育てることができない。

◆ 転換5−課題提起・解決型にする
 学校での学習への導入が科目中心なのに対して、成人の学習は課題中心であるという(M.ノールズ)。初等教育などでも、同様の課題中心の教育がかなり普及しつつある。心と体の病いを治すのを援助してくれるのはお医者さんであっても、実際に治しているのは本人である(自己治癒力)のと同様に、課題を認識してこそ主体的な学習が成り立ち、それが自己教育力の発揮につながるのである。学生の課題意識を呼び起こさないままに教え込むのでは教育効果が薄い。
 さらに、そこで呼び起こそうとする課題自体も、日常生活の事実に埋没するなかでは気づきそうもない、真実にふれる感動と気づきを与えるような深みのある課題でなくてはならない。
 授業も社会教育でいうと学級講座のような集合学習(p117)である。そこでは、せっかく時空間を共有するのだから、同時代性のある授業でなければ、集合する意味がないし、学生も教師もおもしろくない。そのためには、学生に追従するのではなく、同時代に生きる者が直面している共通の課題を鋭く抉り出して提起する教育内容が求められている。生涯学習審議会答申の提唱する現代的課題の学習も、そういうことを意味しているのだろう。

◆ 転換6−生きがい創出型にする
 高齢化にともなってライフプランづくりのための学習が盛んになっている。その学習は、より賢い生き方のためでもあり、より充実した生きがいのためでもある。時代がそういう学習を求めているのだ。また、学校教育でも、道徳教育はすべての一般教科に共通する課題だといわれる。しかし、自己の人生の内容とは遊離した過去の高等教育に慣れ親しんだ「まじめな」学生などからは、「人生を考えさせる授業」は反発を受けることがある。しかし、逆に人間の生き方を考えることから逃避しながら人文系の真実に迫ろうとすることのほうが無理なのである(p82)。「生きることを学ぶ」内容をめざしたい。

◆ 転換7−信頼・共感・癒し型にする
 生涯学習時代は人びとの「モノからココロへ」という価値観の転換の反映でもある。また、学問の世界においても、経済学者がボランティア活動の意義を先頭切って論ずる時代になってきた。ぼくは、そもそも知的水平空間自体が本質的に支持的風土としての性格をもっていると考えている。学歴社会が崩れようとしているいま、大学の授業を受けようとする学生の本音のところでの動機自体も、出世競争から幸福追求へと変化しているようだ。大学の授業をこういう「こころの時代」に対応させる必要がある。そういう授業のなかで生まれる信頼と共感の癒しのサンマこそが、真に自立した学習者を育てるのである。

 そこで、ぼくが、平成10年の春、音楽大学を去るにあたって、大学の授業の締めくくりに、2年間お付き合いいただいた短大2年生に「mito的授業の印象」に関する自分個人にとってのキーワードを一人一人出してもらってまとめた図を掲載する(図表●)。図を見てわかるように、そのほとんどが、態度や雰囲気に関することである。

4 大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?
   −徳島大学大学開放実践センター公開講座「私らしさのワークショップ」における双方向教育−

 徳島大学大学開放実践センターが平成10年度に開始したぼくの担当講座「私らしさのワークショップ」の各回のテーマと概要は次のとおりである(図表●)。
 それぞれの回に対する受講した市民の反応(出席ペーパー)を通して特徴的なことは、「大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?」というペーパーに象徴されるような、現代人としての市民一人一人の大学開放を通じた生涯学習への関心であり、とりわけ講座自体を「癒しのサンマ」の一つとしてとらえようとする信頼、共感、自立に向かう潜在的願望である。そこで感じられる市民のニーズは次のようにまとめられよう(図表●)。 本章の最後に、平成10年度「私らしさのワークショップ」におけるカード式発想法の成果を掲げておきたい。これらは、それぞれ、「社会に役立つわたし」、「私がもらった『いい言葉』『いい影響』」、「わたしにとっての『私らしさのワークショップ』」というテーマに基づいて受講者がカードに自由に記入し、ぼくが「対話」をしながらまとめたものである(図表●)。
 これらの図は、市民への大学開放の新しい方向を示唆するものといえよう。

【以下カット】
【参考資料】

私らしさのワークショップT第1回
テーマ 私らしさってなんだろう?
内容  自分さがしの相互承認の出会い=第一印象ゲーム
ねらい
(1) 自分らしさとは何か、考える。
(2) 人と出会うということは何か、考える。
(3) 相互承認の人間関係づくりのコツに気づく。
出席ペーパー(受講者の反応)
 次のような出席ペーパーが提出された。なお、mito>以下はぼくが予定、または行ったコメントの内容である。
●最初はドキドキ、どうなるんだろう、など、自分がいちばん不得意なパターンのゼミかな、と思ったのですが、いろんな人たちがいて、これからが楽しみです。でも、今日は、少し時間が短い感じがしました。
mito>初対面なのにいきなりやるの?、ということでしょうね。指導者はそういうマイナスの気持ちを大切に保っていてほしい。それから、時間については、ぼくがじつは「詰め込み主義」になっちゃう癖があるんです。勝負のかけすぎ、というところかな?
●できることから始めよう。
mito>んっ? 始めの一歩の話ですか? それなら、ぼくも。「大胆に、ではなく、何cmかをおずおずと踏み出すのがコツ」!
●第一印象ゲームはおもしろかったです。これからどんな講座になるのか楽しみです。
mito>はい。あれは坂口順治さんの本からのパクリですが、妙に自然で、自他への肯定的な関心が高まるゲームだと、ぼくも感じています。
●第一印象ゲームが楽しかったです!! でも、自分の見る目って、案外ないなぁーと思いました。あまりにも当たらなかったので・・・。学生時代に戻ったような新鮮さがありました。
mito>うーん、学生時代に戻った・・・、授業ですか、友達関係ですか? 後者が大きいのでしょうね。友達は何歳になってもほしいのに、卒業、就職、結婚、出産などがあるたびに、どんどん減っていく。とくに異性の友達が(^^;。
●第一印象ゲームでは、自分の第一印象があまりあてにならないのでは、と思った。第一印象にこだわらず、人とおつきあいしていきたいと思った。グループ内では雑談などして、とても打ち解けたように思った。
mito>偏見の恐さ、というところでしょうかね。それから、雑談も、歯の浮くような社交辞令と違ったからこそ楽しかったのでしょうね。
●「他人に関心を寄せる」、その言葉にいまさらですが、なんとなく、意外にも得心したりしています。講座のあとも時間を割いてくださり、集まる、と聞いて、なんだかわからないけれど楽しみな気分です。
mito>比べる視線、ではなく、その人のありのままへの眼差し、これがもらったほうも、あげたほうも、気持ちいいんでしょうね。これを肯定的ストロークといいます。もしかしたら、さらに無条件肯定的ストロークの雰囲気ができつつあるのかもしれません。
●人前に出ることが少なく引っ込み思案の私。でも、西村先生の最初のひとこと、「ぼくはしゃべりすぎるから・・・(mito>気をつけなくちゃ、と言ったと思う)」etcで、なんだかスコーンと気が抜けてしまった。身構えることなんて何も必要なかった。自分をよく見せようなんて、いみじい気持ちがなくなってしまった。これが本当に大学の公開講座なのかしら・・・。
mito>ぼくは授業でもいつも最初の10分ほどの立ち上がりが重いのです(;_;)。不安のせいだと思います。でも、そのぼやきともいうべき言葉が「有効技」?だったなんて、意外です。儀式のようにしゃちほこばらずに、のびのびと好奇心を働かせる。これが高等教育や学問のあり方だと思います。ぼくは、これを、知的水平空間と呼んでいます。
●こんな軽いノリでいいのだろうか・・・。んー、慣れればこれもなかなかよい。聞きながら(mito>出席ペーパーを)書くのはつらい。時間が足りん。開放講座では私は一度は居眠りするのですが、今回はありませんでした。またお茶飲ませてください。
mito>飲食自由です。フランス革命も市民のコーヒーを飲みながらのサロンが学習?や合意形成?の場であったとか。それから、出席ペーパーについては、慣れもありますし、あるいは、相性(たとえば集中して受講していたい人は書けない、でも、それはそれでいい)の問題もあるでしょう。気にしないでください。出席ペーパーの本質は「何でもアリ」と「自己表現の完全自己管理システム」にあるとぼくは思っています。マル秘、強制公開、発信者名公開、コメント希望、コメント不可など、どんなマークをつけていただいてもけっこうです。
●最初のビデオで、天声人語をコンピュータに読み上げさせていたのには、何か理由があるのですか? 何か理由があると思うのですが・・・。
mito>(コメント略)

私らしさのワークショップT第2回
テーマ コミュニケーションはキャッチボール
内容  共感能力を高める=ブレーンストーミング(幸せの瞬間)
ねらい
(1) 他者に対する共感的理解が可能であることを実感する。
(2) 自分とは異なる枠組をもつ他者が与えるよい影響を知る。
(3) アンビバレンツ(両面価値)な実感を受容できるようになる。
出席ペーパー
●(当日は)日本シリーズがなくてよかった。
mito>はい、あったらもっと少なかったでしょうね。
●他人を「受け入れる」と「受け流す」って、表面的には似て見えるような気がします。どうでしょう?
mito>「受け入れる」を「許す」に変えると、きょうのロールプレイでやる課題です。なんでつながるんだろう、不思議だな。「許し」というのは「主張する」(「断る」)があってこその「許し」なんですね。
●コンピュータに読み上げさせていた理由を尋ねたのは、前にどこかで似たようなものを見た気がしたからです。コンピュータ読み上げの不利な問題として、機械的な感じがするとか、双方向性が確保できないという2点が挙げられたけれども、それをわかっていてもやるだけの価値はあるのかなと思っていました。
mito>幸か不幸か、読み上げる者の余計な感情のフィルターを通さないで聞けるということでしょうか。
●幸せを感じるときって、若いときよりなんだか少なくなってきているように思うのは何ででしょう? それにしても人数が少なくなっているのも何ででしょう? こんなに楽し〜い講座なのにね、mito chan☆
mito>社会教育の場合、学校教育と違って、7割も出席すればすごい。個人がさまざまな事情のなかから自己決定で参加してくる。ただ、お金をもらってる関係から、ぼくにとってはプレッシャーである。
●女子大でブレーンストーミングを行ったとき、2/3が退席? これって何だろう。今日のワークショップ、もっと人数が多かったらおもしろかったと思う。
mito>今日のお願いトレーニングのほうがより過激である。加藤諦三が、現代の心理的特徴を「敵意と不満」として、次のように述べている。そういうなかで、今日のトレーニングは「さわやかに依存しちゃおう」ということだから、やっぱりカルチャーショックが強すぎるのでしょう。でも、加藤のいう「ふれあい」を、ぼくはストロークと呼ぶ。人間はストロークをもらうために生きているという。まあ、楽しくやりましょう。
(続いて次の文献を紹介)

 「青少年の健全育成を推進する都民集会(特集)−TOKYOティーンズ'97青少年健全育成キャンペーン」(東京都生活文化局女性青少年部青少年課「青少年問題研究」188号、平成10年3月)。
 本集会の基調講演で加藤諦三は「青少年の自立と社会とのかかわり」と題し、次のように述べて「ふれあいの重要さの確認を」と訴えている。成績が悪かった時に、そのことを親との間で話すのが居心地良かったかどうかの質問をすると、有意の差がある。言える雰囲気を持たなかった子どもの方が、大学生になる時にシャイになり、自信がない。異性も誘えない。望ましくないことがあった時に、そのことを気にならないで話し合って対策を講じられる環境がふれあいの環境である。そのふれあいがあって、自立できるようになる。今の青少年にはそういう環境がなくなっている。
 また、「自立社会は中毒社会」として次のように述べている。「自立社会」という言葉の裏側は「中毒社会」である。アメリカではアディクティブ・ソサエティーという言葉が、心理学の本などに出てくる。中毒というのは、本人が望ましくないとわかっているけれども、それをしないではいられないということである。仕事、薬物、アルコール、セックス、惨め、宗教など、多様な中毒がある。この関係は自分にとって望ましくないとわかっていても、その関係から逃れることができない。とくに日本は、職場でも、学校でも、住所についても、満足していない人がアメリカより多いのにそこにとどまって我慢している。ふれあっていないのである。その心理的特徴は敵意と不満である。この中毒社会を変えないと基本的には青少年問題は解決できない。
 さらに、「大切なのは真面目さではない」として次のように述べている。中毒社会の価値観は真面目さである。しかし、真面目であるからふれあえるというものではない。ふれあいこそを価値にしないと、真面目ならすべてが許されるという価値観になってしまう。そもそも真面目でなく、いい加減な人のほうが自殺しない。われわれ大人が子どもたちにふれあいの仕方やコミュニケーションの仕方を伝えていかなければいけない。

●女の人は、子どもとか、他者評価で生きている。これっていったいなんだろう。
mito>適正な自己評価のあり方について説明。ストロークのついでに横文字でいうとジェンダー(社会的文化的性差)という。ただし、最近は、男性のほうが社会的弱者のような気がする。自己決定活動にたずさわろうとするとき、変化を理由なく恐れるのである。
●紙切れ法はとてもおもしろかった。「幸せを感じたとき」は十人十色だけど、共感するものも「ン?」と思ったものもあった。時間が足りなくて残念。もっとやりたかった。
mito>やっぱり、ワークショップは、ぼくなんかがいなくても、仲間同士で楽しくみっちりやるのが本当なんでしょうね。

私らしさのワークショップT第3回
テーマ さわやかな自己主張
内容  引っ込み思案をなおすコツ=ロールプレイ(お願いトレーニング)
ねらい
(1) フラストレーションに耐えて自己主張を続けられるようになる。
(2) ちょっとしたことぐらいでは負け犬にならない自信をつける。
(3) 人それぞれの自己主張法を知り、自分の主張法を改善する。
出席ペーパー
●お願いすることも断るのもとっても苦手です。要するに人が良すぎる。長所であり、短所です。今日のワークショップはハートが疲れた。
mito>すみません。たしかに人が良いのは、長所であり、短所でもありますね。まあ、それこそが自分らしさなのでしょうか。ただ、「生きづらい」と感じたときには、少し、ほかの「物語」を取り入れるとよいのかもしれません。
●お願いすること、それもあつかましくすることは、とっても大変だった。心のすみで、「ああ、申し訳ないなあ」と思いながらプレイしていたから、それがかえってストレスになったかな? でも、また演じてみたい気もする。
mito>けっして「あつかましくすること」だけが「お願い」の方法ではないでしょうが(^^;。他者のいろいろな方法から、取り入れられるものは取り入れられればいいですね。
●頼むのも断るのも難しいですね。基本的に頼まれた場合は、できることならだいたい受けるんですが、頼む場合は一度断られたら、何度も頼むことはしないです。
mito>頼むのも断るのも2回目からが難しいんですよね。「もう、いいや」という感じで。でも、ほんとうの許しは断りのあとにくる。それこそが「信じて頼りあう信頼」の本質だ。現実には難しいかもしれないけれど、そういうふうに思うのです。
●男は女の涙には弱いってことか。
mito>ははは(^^)。たしかに弱いとは思います。ただ、「あなたが、どうにかしてちょうだい」という依存的な涙はいやですけど、「とにかく泣かせて」という涙はいいもんですね。
●自己主張はしたいのですが、意志が弱いので発言はしないで終わることがほとんどです。上手に話しができればと思います。
mito>上手な話し方のほうは、上手な自己開示のほうに深く関連しているのではないでしょうか。自己主張のほうは、自他への信頼感の獲得が大きいと思います。
●ロールプレイの目的と違うかもしれませんが、相手の考えていることを早くつかまないと断れないし、お願いできないと感じました。また、1回ロールプレイすると、普通の会話より同志的な感じになって、おもしろかったです。でも、少しストレスになりましたが。
mito>同志的になる、というのがおもしろいですね。あれだけ、断ったり、逆にずーずーしくお願いしたりするのに、そこにこそ信頼関係が生ずるということではないでしょうか。
●どうして少ないのかなあ。本当にもったいない。楽しい授業なのに。「今の女はジェンダーフリーだ」とmitoさんは言ってましたが、そうでもないですよ。学生のころなら平等だったかもしれないけど、社会、家庭では、ジェンダーバイアスがあります。なぜ、女は黙ってしまうのでしょうか? 愛しすぎる女・・・、女になっちゃうんですよね。
mito>このように、講義のテーマと関係ない出席ペーパーも、不思議に講義と連動して重要な刺激を投げかけてくれます。講義はライブだ、というところなんでしょう。
mito>付記
 ・・・ということで、今回は少し過激すぎたようです。終了後、例によって、フリースペース(今回は串天の店「ちょっと」)をやりましたが、みなさん、心がしんどかったようです。今回のトレーニングの基盤となる「言いたいことは言っていいんだよ。どうにかなるよ」という支持的風土の共生社会を、今後、敵意と不満の自立=中毒社会全体では無理でも、このワークショップだけでもゆっくりと創り出していきたいと思います。

私らしさのワークショップT第4回
テーマ 自分のためのボランティア
内容  自分らしさを感じるとき=価値観ゲーム
ねらい
(1) 自分らしさについて再確認する。
(2) 他者に対する関心の持ち方を体得する。
(3) 自分さがしをする現代人のこころを理解する。
[資料]異なった価値観と出会い、共感するおもしろさ−『価値観ゲーム』(略)
結婚相手の判断基準(一対比較法) 数字は順位
容姿   4   7   6    4      3自分にない1タイプ
人柄   2   1   1マイナスの愛3      4     2
資産   6   6   5    7      4     5
愛情   1   1   2    5      1     4
将来性  3向上心5   4    2生きる姿勢 4     3
健康   5   1   3    1生きてなきゃ2     6
経歴   7   4生き様7    6      7     7
出席ペーパー
●愛情のある暴力はないと思いますヨオ〜。今日は(価値を)選択するのが難しかった。容姿はやっぱりキムタク+竹野内豊みたいな人がスキなのに〜。なぜ?! 心って正直だわ〜。愛情1位なんて。
mito>容姿1位ではなく、愛情1位だったことで、「心って正直」というのが、とても面白く感じました。
●他人に肯定的関心をもつ・・・。共感能力に自信がないので、心してつとめよう。
mito>つとめなくても、楽しく味わってください。
●自分はこんな価値観をもっていたんだなあと、あらためて思った。でも、このゲームをプレイする前の自分の予測と違っていたのは意外だった。価値観って、一生変わることはないのかしら・・・。
mito>日々、どんどん変わっていくのでしょう。これを「変容」といいます。気合を入れた「自己変革」とはちょっと違うと思います。他者の異なる「枠組」と出会う「楽習」により、自己の価値観、判断基準等の「枠組」「準拠枠組」に気づき、そのことによって自己の「枠組」そのものが変容します。「枠組変容」こそがダイナミックな学習の意味合いなのでしょう。
●自分の価値観がはっきり出ることに驚きました。各人それぞれの価値が異なることが面白かったです。
mito>そう、意外に思われるでしょうが、他者の価値が自分と異なることは、そこに支持的風土があるという条件のもとに限り、「面白い」ことなんですよね。
●「言いたいことは言っていいんだよ」という社会の実現は難しいでしょうねえ。その言葉は、社会を構成する各個人に対して、かなり高いレベルの要求を出しているように思います。やっぱり言わないほうがいいことというのはあるわけで・・・。でも、言いたいことを「タブー」として不必要に言わないというのもどうかと思うし。落としどころが難しいですね。
mito>現実社会、現実の人間関係ではそうでしょうねえ。その場合、「落としどころ」という表現がとてもぴったりしていると思います。ただ、受容的、支持的雰囲気が社会にもっとあればいいのにな、と思います。
●今の若い人(30代以下)って自己開示しないですね。安心してコミュニケーションできる場面がないのかもしれない。人と違っていいという安心できる社会がないのかもしれない。今回のワークショップで、容姿が一番でしたが、容姿は人柄です。よくばりな私です。愛って何ですか? (フリースペースにて飲みながら執筆(^^;)
mito>自己開示については、ジョハリの4つの窓という考え方があって、たしか、自分も相手も知っている自分の窓(領域)を広げればいい、ということだったと思いますが、「ちょっとどうだかなあ」とぼくは思っちゃいます。それよりぼくは、「開きたい自分(のカケラ)を開きたい所で開けばいい」というレトリックを作っています。

私らしさのワークショップT第5回
まとめ=楽習の達人になる=スクエアゲーム
 自分らしさを表現する=インタネットで発信!
(1) 相互協力過程を理解し、他者を配慮する経験をもつ。
(2) 集団の形成プロセスについての理解を深める。
(3) ネットワーク的なギブ・アンド・テイクの精神を理解する。
出席ペーパー
●秋の講座は終わってしまったけれど、これから何かが始まるような気がする。
mito>秋の講座は、たまり場、居場所を開始するための雰囲気づくりをした、というところですかね。
●ポーカーフェイスでいることのむずかしさ。言葉も表情も出さずに、相互協力をするということは、日常経験していないだけに、とても大変なことだった。今日は秋の最終回だったけど、結構楽しい講座でした。冬も続けます。よろしくお願いします。
mito>説明不足だったかもしれませんが、このゲームのねらいは、ポーカーフェイスというよりも、言葉でほしがったり、指図してはならないという意味で沈黙であり、カードをほしいという目つきをするのも禁止、ということです。でも、そういう各人の自発性に基づく「あげる」と「もらう」だけの相互協力が、ネットワークのギブ・アンド・テイクのあり方を教えてくれているのでしょう。
●途中参加で戸惑いましたが、メンバーに救われて、すぐにゲームに参加できました。意思表示ができないのが、こんなに大変なことなんだと思いました。しきりたい自分がはっきりして、面白かったです。今回の講座に参加して、緊張したり、勇気をふりしぼったりと、普通の講座とは違って、自分の確認が少しできたかなという感じです。
mito>「しきりたい自分」の発見は意外だったでしょうね。
●自己開示については先生のご意見と同じです。スクエアゲームでは、全体を見る目が全然ないことに気づかせられました。インターネット、パソコンについては何もわかりません。まったくの機械音痴です。ちょっとのぞきたいだけです。ご迷惑とは思いますがよろしくお願いします。
mito>とうぞ、お気軽に徳島大学大学開放実践センターにのぞきにきてください。
●秋期の講座は今日で終わりですが、これから裏講座や冬講座、合宿等で楽しくなりそうですね。よろしくお願いします。
mito>「裏講座」というネーミング、ぼくも気に入りました。さっそくパクらせてもらいます。
●Dear mitochan。今日で一応私らしさのワークショップTが終わりましたが、11/24から、また、みなさん、そしてmitochanにお会いできるというサプライズ、どうもありがとうございます。あっ! きょうの感想、ポーカーフェイスはむずかしい・・・。
mito>喜んでもらえてうれしいです。「そんなの、別にいらない」といわれそうで不安だったのです。まあ、裏講座ですから、どなたでも、無理せず、来たいときに来てください。
●ワークショップ、楽しく参加させていただき、ありがとうございました。小川くんに会えなくて残念です。
mito>ですね。

私らしさのワークショップ「裏講座」第1回
 職員旅行中に神戸から寄ってくれたメール仲間、A市公民館主事Sさんをお迎えし、「最近食べたおいしかったもの」を含めた自己紹介をした。話題は、「なぜ、このワークショップに参加しているか」などであった。その後のフリースペースで痛飲してしまい(^^ゞ、くわしい内容は思い出せない。フリースペースには、K君や徳島市社会教育課のO君も、忙しい仕事をなんとか終わらせて駆けつけてくれた。
 次のメッセージを送った。
 「ご事情で秋の表講座に数回しか出れなかった方なども、もしよろしければ、お気楽に裏講座やフリースペースでのおしゃべりにご参加いただければ幸いです。また、西村美東士までお申し付けいただければ、欠席されたときの資料を差し上げます。
 なお、メンバーの一人Yさんのホームページ開設の申し入れを受け、さっそくアップしました。アドレスは下記のとおりです。(略)」

私らしさのワークショップ「裏講座」第2回
 もう、みんな飽きたころかな、と危ぶんでいたが、フリースペースから遅れて参加した人を含めると、女性3人、男性1人とぼくのにぎやかなおしゃべりになった。
 おしゃべりしていたら、これがいろいろとNPOやってる人たちだった。LD(学習障害)児・ADHD(注意欠陥多動症候群)児自助グループ関係もいれば、特定の病気の子どもをもつ親の会(だったか)関係もいまして、飲んでて話題になったのは、異種グループ(主に障害者グループ)のネットワークのことで、まず障壁になるのが、「そちらの種類は障害の程度が軽いから」というようなグループ同士で連帯しづらい風土についてである。これを徳島県の保健行政が、異種を乗り越えて障害者グループのネットワークを仕掛けていた。これに励まされたグループがたくさんあるようである。徳島県行政も、進んでいない所もあれば、進んでいる所もあるんだ、という当たり前の結論に落ちついた。まあ、べつに、どうしてもネットワークに加わらなきゃいけないというわけでもないのだけれど。
 それから、ジェンダー問題がつねに話題に入っている。一人の人間に、全部の課題がからんでるんだなあ、という感じである。
 次のメッセージを送った。
 「ホームページを作る条件のない人には、ぼくが半分仕事として提供しています。ほかの人たちも、関心を示していました。ただ、初期投資の15万円程度が厳しいようです。まあ、ぼくのところで、無料のメールアドレスを取得して、とにかく始めてみたら、と言っています。
 LD児関係のアドレスは(略)です。今のところ、ただ載せただけ、という感じですが見てやってください。
 なお、次のような欠席連絡がメールで入ってきました。(略)」

私らしさのワークショップ「裏講座」第3回
 女性1人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、徳島市ヤングフェスティバルの実行委員の若者が2人、手作りのOHP利用の野外映写装置をテストしにきて、ちょっとおしゃべりした。12月19日のヤングフェスティバルは、ロマンチックなイベントになりそうである。また、8時が過ぎて、これからフリースペースに行こうという矢先、徳島在住のKちゃんがH大学の友人2人(全員ギャル(^^))を連れて来てくれた。
 Kさんが、先週の日曜日にやった駅伝の記録表と写真アルバムをもってきてくれました。N大学留学生の「Asian Express」というチームである。31チーム出場で、なんとトップランナーはKさん。しかも、なんと、区間順位も最終順位も31位である(^^;。でも、そのあとのパーティーの写真を見せてもらったら、とてもゆったり交流できて楽しそうだった。
 参加者の一人、韓国のIさん(韓国・仁川市出身。仁川教育大学校数学教育科に在籍し、交換留学生として今年10月に来日。現在はN大学学校教育学部3年に在学中)の徳島新聞12月8日の記事(略)を紹介し、次のようにコメントした。
 「うーん。ぼくはこの文章にとても好感をもちました。みなさんはいかがでしょう。
 ただ、Iさんが留学して「そのような先入観(日本人は礼儀正しく、親切でもあるが、それ以上の親密な関係に発展するのはなかなか難しい)は間違いである」と気づいたのは、徳島だったからかもしれません。東京だったら、どうかなあ。それから、なんといってもあのやさしいスマイルのKさんも、そこにいたしねえ。
 Iさんを含めた鳴門教育大学の留学生の「アジアンエクスプレス(どこがじゃ(^^;)」の人たち(韓国、カンボジア、ミャンマー、メキシコなど)も、場を設定してくれたら、鳴門から来てくれるんじゃないかということです。「私らしさのワークショップ」で交流料理パーティーでもやりませんか?」

私らしさのワークショップ「裏講座」第4回
 本年最後の裏講座だった。女性2人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、ヤングフェスティバルのKさんがタイのJさんが来ているというので、仕事を中抜けして(^^;フリースペースに会いに来てくれた。
 KさんがJさんを連れてきてくれたので自己紹介をした。Jさんは、タイのある体育大学の教師(柔道!?)で、日本では生理学を勉強中である。
 フリースペースでJさんは、日本の女の人がわからない、という話になった。ちなみに彼は独身である。その結末は、「日本の女の人は心で思っていることを言わないから」ということになった。でも、フリースペースでは、日本人のぼくたちがビールを飲んでるのに、熱燗の日本酒を飲み、「いっしょにお酒を飲める人がいつもは少ないから」ということでご機嫌であった。ぼくたちの雰囲気を「フレンドリーな雰囲気で楽しい」と言ってくれた。
 なお、Kちゃんも参加してくれて、活気のある裏講座になった。彼女はポケベル(文字)の話では、ちょうど高校時代に当事者だったので、とても面白かった。以前報告した「絵文字」についても全部知っていた。また、中学時代は数字のポケベルだったので、その話も聞いた。「当時の子たちはケータイおやじを本当に馬鹿にしていたの?」と聞いたところ本当だそうである。
 当時の彼女たちのコミュニケーションを追加して紹介する。
数字ポケベル
86−(あいさつの基本)
084−53103
8(21010900461(これはどう読むか忘れた)
35−(徳島ローカルネタ−待ち合わせ場所です)
10940410−(徳島ローカルネタ−待ち合わせ場所)
ヒント 3は「さ」だから「す」や「そ」にもなる。
    0は「間」だから?「ま」にもなる。
    10はテンだから「て」にもなる。
ホゴ(保護)られた絵文字たちの追加
((-U-)) これはふくろう。
(-U-)  これは「おやすみ」。

私らしさのワークショップ U第1回
1 導入−新規参加者の本講座への期待から
「自分の気持ちを言葉にして出せるようになりたい」

困難さの分類
 1 うまく言葉にできない。
 (1) ボキャブラリー(馬券を当てたときの「してやったり」など)不足
 (2) 言葉の選択の困難
 (3) 身体性としての「気持ち」
 2 相手を傷つけてしまうのではないかという恐れがある。

 その他、秋講座参加者から「第一印象ゲーム」で「青色が好き」と当たったからといって、「さわやか」とは限らないという感想が出た。これを受け、相手の「自分らしさ」を本当に理解しようとするなら、準拠枠組(フレーム・オブ・レファレンス)に対して理解、共感しようとすることが大切、という説明をした。

2 本題−感情、情緒を受け入れあう雰囲気づくり 『カード式自他紹介』
 参考 坂口順治「実践・教育訓練ゲーム」日本生産性本部

ポイント
@ 強制的な役割取得による遠慮の打破。
A 内容中心にならないようにする。心の交流。
B メンバーにあった問題を。ロールプレイをしても、おもしろい。

文章例
あなたの真正面の人に対して、次の事柄について尋ねて下さい。自分の趣味について、自分の道楽について。(約2分間)
あなたの両隣りの人にインタビューをして下さい。ご本人の長所、短所をどうとらえているか。(一人約2分間)
あなたにとってぜひ話してみたい人をこのグループの中から一人選んで、その人から、「いままでの人生で、一番うれしかったあるいはよかったと思われる至高経験はどんなものだったか」を聴き出して下さい。(約3分間)
あなた自身の将来計画(向う5か年ぐらいまで)について、全員に向って語って下さい。(約3分間)そして、質問を受け、応答して下さい。
グループの中から一人を選び、その人から「小・中学生時代の想い出」を語ってもらい、現在の自分のあり方に影響しているかどうかなどを話し合って下さい。(約5分間)
いま、あなたは百万円の宝くじがあたりました。あなたはそれを何に使いますか、まず、自分の使途を述べて、隣りの人にも同じ質問をして下さい。(約3分間)
2、3人に対してインタビューして下さい。「あなたの尊敬している人は誰ですか。その理由は。また、あなたはいま幸せですか。それはなぜですか」といった具合に。トピックスは自由に発展させて下さい。(約5分間)
グループを3人1組ぐらいに分け、3人がそれぞれ、「自分の父や母について語り合い、また、父親像や母親像について」話し合って下さい。(約5分間)
グループのメンバー1人ずつが順番に話して下さい。「自分が将来住みたい家についてのユメを語って下さい」。

追加(mito)
あなたの両隣の人にインタビューをしてください。今までに一番印象に残っている映画またはテレビ番組は何ですか。それは、どういうところがよかったのですか。(一人約2分間)
グループのメンバー1人ずつが順番に話して下さい。この1ヶ月でいちばんおいしかったものは何ですか。(1人約1分間)
真正面の人にインタビューをしてください。今までに一番印象に残っている映画またはテレビ番組は何ですか。それは、どういうところがよかったのですか。(約2分間)
グループの中から2人選び、好きな異性のタイプを聴き出して話し合って下さい。(1人約2分間)
2、3人に対してインタビューして下さい。「あなたが『ああ、これって自分らしいな』と思った場面はありますか。その理由は」といった具合に。トピックスは自由に発展させて下さい。(約5分間)
あなたの両隣の人にインタビューをしてください。人からなんと呼ばれるのがよいですか。相手によってどのような違いがありますか。(一人約2分間)
あなたの両隣の人に質問してください。職業生活で大切なものは何ですか。収入ですか。地位ですか。時間ですか。保障ですか。その理由も聞いてください。(一人約1分間)
真正面の人に質問してください。欲求不満になったときどうしますか。引きこもってしまう。心を合理化して鎮める。欲求を他のものへ転嫁する。何とか突き破ってみる。(約2分間)

結果(記録のあったもののみ)
映画−顔のない天使、レインマン、タイタニック
食べ物−梅酒豚肉、お雑煮、母のカレー、息子とのビール、実家の正月料理、友とのキムチ鍋、家族で主婦もちゃんと確保できたフグ料理
自分らしい場面−試験監督、学校で人と違うこと
など、しみじみ系のおしゃべりができた。

出席ペーパー
●普通に自己紹介するんじゃなくて、今日やったみたいにいろいろな質問をランダムにするほうが、もっとその人のことがわかるような気がします。楽しかったです。ところで、やっぱり自分の気持ちを相手に伝えるのってむずかしいですね。いろいろな立場の人と話ができる機会ってなかなかないのでうれしいです。
●与えられた時間を活かせなくて、「なんと自分が情けない」と思えました。言葉による表現力のとぼしさを思い知りました。でも、また、いつかどこかで、このゲームをもう一度やってみたい。
●きょうはちょっと変わった自己紹介でしたが、今まで経験した自己紹介よりも、もっと一人一人を理解できたような気がします。こんな形の自己紹介のほうが親近感がわいてよいと思います。
●初めは人数が少なくてどうなることかと思いましたが、皆さん出席できてホッとしました。カード式の自己紹介、人数が多かったらもっと盛り上がったでしょうね。今年もよろしく。楽しくやりましょう。
●遅参してすみません。お若い方々のお話しは本音が聞けるようで嬉しいです。勤めをやめて一般社会のおつきあいの中では、いろいろのことを経験しています。
●1時間遅れの参加で、着いた時には、すでに自己紹介が始まっていて、説明を聞けなかったのが残念です。今年もよろしくお願いします。
●今日は大変遅くなり申し訳ありません。今回も楽しい(苦しいも含めて)講座になりそうで楽しみです。

私らしさのワークショップ U第2回
1 導入−今日の若い女の子たちの専業主婦願望について
「主婦業をやっていると、日々単調で、社会との関係から取り残されているというあせりを感じていたころがあった」
「病気の親の介護、子育てなど、総合的知恵をフルに発揮し、障害のある子どもを社会の中で育てるなど、社会的つながりも求められる。そこでは、主婦業をプロってるというプライドさえ感じられるときもある」
「子どもや夫のための主婦業もきちんとやりながら、自分のやりたい深夜カラオケでのびのび遊べる友の母親にあこがれる。しかし、自分自身は、そのような専業主婦になれる自信がない」
 ぼくは次のようにコメントした。
 若い女の子たちの専業主婦願望(相手は高収入に限る)は、それはそれで正しい選択なのではないか。ただし、「かわいい嫁さん」を求める相手の男たちは、彼女たちが深夜カラオケなどで自由に振舞うことを許さないのではないか。そこのところにも男と女の深くて昏い河がある。
 また、妻が起きて待っていてくれたらうれしい、でも、寝ていてくれたほうがほっとする、という酒飲みの男のコマーシャルがある。これもなかなか深いリアリズムだ。
 次に、「このようなワークショップやエンカウンターグループなどで人間関係のトレーニングをしなくても、たとえば芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかなと思う」という発言があり、本ワークショップとエンカウンターグループ、さらには自己啓発セミナーとの違いについての話をした。内容は以下の通り。
 自己否定に陥りがちな人たちが「今の自分をなんとかして変えたい」と思い、その思いを共通項目とする問題縁として自助グループをつくったりすることは意義深いことであろう。そこでは、世知辛い世の中とは別の受容的な「文化的孤島」を作り出すことになる。ただし、そこで最終的にめざされるのは、自他の受容と世俗の社会への復帰という「自立」であろう。なぜなら、自己否定からは自己変容は生じないからである。自他受容からこそ自己変容、自立が可能になると考えられる。
 さて、世の中には、「今の自分をなんとかして変えたい」ではない人たち、つまり、それなりに自他受容ができている人たちがいる。これを「フツーの人たち」としておく。このフツーの人たちだって、信頼できる友達がほしい、などの気持ちをもっている。これが保障される場が現代社会にあまりにも少ない。本ワークショップは、このようなフツーの人たちの、しかし人を傷つけたり人から傷つけられたりすることを悲しむ心のある、いい女やいい男たちのための場である。そこで水平異質共生の「私らしさ」が安心して交流できるサンマ(時間・空間・仲間)をめざしたい。
 したがって、「今の自分をなんとかして変えたい」という気持ちがあるとすれば、むしろそれを「今の自分もまんざらではない」という気持ちに昇華し、「芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかな」と思えるようになることこそ、本ワークショップのねらいといえるのではないか。気軽に楽しんでもらえればありがたい。

2 本題
本日のテーマ「伝える方法・わかりあう方法」
 自己表現の技術、相手の自己表現を支援する技術=ジェスチャー大会
 (友だちとやってみよう−グループワーク)
資料 ジェスチャーゲーム(mitoオリジナルルール)(略)
ポイント
1 わかってやろうとするサポートこそ、表現にとって重要である。
2 表現の敗北主義に対して、「数打ちゃ当たる」が有効である。
3 わかってもらえたときは、とてもうれしい。

出席ペーパー
●相手に自分の意思を伝える方法、相手の言いたいことをわかってあげようとする気持ちがとけあってジェスチャーが成り立つのだということがよくわかりました。私にはとても無理と、挑戦しないのはずるかったと反省しています。
mito>無理なさらないでください。初めの一歩は数センチずつ、行きましょう。
●ゲームに夢中になる、こんな真剣さが久々で、充足感を味わったかな、という感じ。・・・ということは、ふだん空虚だったりするのかしら。
●ジェスチャーゲーム、今回やったお題がとても難しいのに、不思議と最後は当たるのがおもしろかったです。ジェスチャーの答え方とかで、すごくその人の個性が出てるなあと思いました。
●専業主婦問題に対する主婦のみなさんの意見が聞けたのは貴重だったと思います。やっぱり私は専業主婦にはむいていないなと思いました。
●きょうのジェスチャーゲームはけっこう大変で、演じるのも、当てるのも苦労しました。声を出さずにわかってもらうことなど、日常ではあまり経験がないので。でも、ふだん経験しないことをやってみると案外楽しいものでした。自分の表現方法の貧しさに少しガックリしましたが。
●なんじゃ、この問題はー!!と叫びたくなるようなジェスチャーゲームでした。BUT、答える人がすばらしいというか。特にBさんはスゴイの一言、バンバン当てちゃうもんね。楽しかったです。
●今回も遅れての参加で、さらに今日の内容(ジェスチャーゲーム)がすごく難しそうだったので、教室に着いた時に、ちょっとしまったと思いました。実際、自分が表現する時には「これはちょっとわからないかも」と思いましたが(お題は「終身雇用」)、終身の2文字を表現したところで正解が出たのでびっくりしました。「雇用」をどうするか悩んでいたので助かりました、ホントの話。

フリースペース
1 将来のめずさものをしっかり持てないと、なんだか不安である。しかし、世の中ではそう計画的には生きていけない。どうするか。
2 人から迷惑をかけられても、まあ我慢できるが、しかも相手から素直に「ごめんね」といわれたらますます許せてしまうが、自分から人に迷惑をかけるのは、たとえ謝る手段があったとしてもいやなのである。どうするか。
3 たとえ妻には悪い浮気ばかりしている夫でも、子ども(とくに娘)からは「父親」として愛されていることがある。バカヤロー、とも思うけど。どうするか。

私らしさのワークショップ U第3回
1 導入−モラトリアムの評価について
 自分の子どもたちが青年期を経て自立していく過程で、ずいぶん紆余曲折があり、そのあいだ、親は「しっかり展望をもっていないでだらだら生きている」という不安と不満をもつものだが、子育ての経験上、その長いトンネルを抜けたとき、「ああ、人間はなんとかなっていくものだ」ということを感じる、という体験談が出された。
 そこで今日の青年の特徴のひとつである「モラトリアム人間」の説明をした。自立して社会に出るという「刑」を「執行猶予」してもらい、大学で留年を続けたりするという傾向のことである。
 これを「嘆かわしい」とするのが、過去の論調の主流であったが、最近では「個人にとっての成長のプロセス」という意味があるととらえられるようになってきているという説明も加えた。
 これに対して、昭和18年に半年早く学校を卒業させられてしまったような世代からは、「私たちにはそんなことを考える余裕もなかった。むしろそれよりもっと前は、そういうことが許されていたかもしれない。だから、現代的特徴とはいえないかもしれない」という興味深い指摘がなされた。
 つぎに、この「最近の若者」の話題に関して、会社の新人歓迎会を担当した若者から、「自分が呼ばれる飲み会だというのに、今の新入社員は参加してくれない」という話題が提起された。彼の会社は「自由な会社」なので、それは許されて「来たい人だけ来た飲み会」でそれはそれで盛り上がったが、なかには不自由(上司にビールついだり…)な会社もあるという話になった。
 ぼくは「よいわがまま、悪いわがまま」の説明をした。「よい」は、わたしがおもうようにわたしは生きたいで、「悪い」は、わたしがおもうように相手に生きてほしい、である。また、個人の自由と、親密な人間関係という両者を求める矛盾が、今日の若者を苦しめているのではないか、と発展させた。
 しかし、これに対して彼から「そういうことに苦しんでいないからこそ、新人歓迎会を平気で欠席してしまうのではないか」と異論が提起された。高齢の世代からも、「欠席はやはりわがままではないか」と意見が出された。
 そして、自由と親密は両立するのではないか、そのためには、(1)歓迎側の相手への配慮とともに、新人側の相手への配慮が求められること、(2)みんなで決めたことには従うこと、(3)自由には責任が伴うこと、(4)「あなたには関係ない」という考え方は改めること、(5)自分の自由だけでなく「ほかの人の自由」も考えること、の5点が必要という意見になった。ぼく自身は、これ以上、わからなくなってしまった。

2 本題
本日のテーマ「楽習図解ワークショップT−自分のための社会貢献」
 ひとの幸せは蜜の味・・・それってきれいごと?
ブレーンストーミングについて(自著『癒しの生涯学習』より)
1 ひとのアイディアを批判しない(批判禁止)
2 変わったアイディアでも自由に出す(自由奔放)
3 できるだけ多くのアイディアを出す(質より量)
4 出されたアイディアを改良するようにアイディアを出す(結合便乗)

3 出席ペーパー
●社会に役立つ人間になりたいとは誰もが願ってることです。しかし現実にはなかなか実現できません。自分の気持ちのなかでこうありたいと思うことを書きましたが、皆さんの観点が随分ひろがっているので感心させられました。考えさせられる授業でした。
●今日も遅れてしまいましてすみません。よくわからないままに参加してしまって、すこしのりおくれたという感じでした。「役に立つ」という言葉をどんなふうにとらえたら良いかわからずに、すこしとまどってしまいました。自分の中の人からみたら役に立っている行為でも、自分にとったらただの遊び、社会に対しての「役に立つ」という役に立ってるから行動するという気持ちやスタンスを否定的にとらえている自分を発見しました。
●「社会に役立つ私」という題で考えをだしあったけれど、個人的には「子どもを育てる」≒「次の社会をつくる」というのが一番むずかしいと思いました(実行・実現するのが)。なぜなら、他に出てきた「社会に役立つ」という概念を全て理解(もしくは意識)していないと進めないステップだから。子供を育てることってやっぱり大変だなぁと改めて思いました。PS 基本的には僕も、飲み会に参加しない新人には反対です。考慮すべき点が多いことは確かですが…。
●社会に役立つをテーマに授業をしましたが、社会という言葉から入って来たのは学校、子ども、税金、グループ(PTAや友人たちとの活動)のなかにいる私しか出なかった。個人としてちょっと見つめ直しが必要かなと気付いたワークでした。
●日頃自分は誰からも必要とされない人間のような気がしていたが、自分が社会や他人に役に立てたら…、存在意義をつかめたら、張り合いがでて、結果、社会にも役立つ循環ができるんでしょうね。
●今日はモラトリアムについて、また個人と秩序について、立場によって全く考えが違うんだな、ということが分かりました。すこし話に出た、良いわがまま悪いわがままの2つにわけられるというのは、「なるほど!」と思いました。思っていた以上に、ちょっとしたことで社会の役に立てているんだな、と思うとちょっとうれしいです。みなさんの考え(やってること)ってすごいなーと感心しました。

4 カード式発想法の成果(図表●)

私らしさのワークショップ U第4回
1 導入−モラトリアムの評価について(続き)
 まず、前回の話題に関連して、次のぼくのメーリングリストでの発言を紹介した。

Date: Tue, 09 Feb 1999 12:56:38 +0900
From: mitochan@ias.tokushima-u.ac.jp (西村 美東士)
Subject: 再論「親の背中」子育て論

 以前、「父権の回復」について動揺した文章を発信して、おさがわせしました。きのう、眠れない夜を息子と話し込んでいて考えたことです。親の背中を見て育つ、ということについてですが、次のようなことに気がつきました。
 「自分には言うべきことで、相手に言ってはいけないことというのがあるのではないか」ということです。それをきちんとできていることが「自分の背中で相手を育てる姿」なのではないかということです。(ちなみにぼくは、下記のことが相手には言えても、自分には言えないタイプなんでしょう(^^;)
該当例
(1)「不透明な時代ではあっても、明るい希望をもって生きていったほうが幸せである」
(2)「もっと明るい展望を見つけ出すために、やれることから始めたほうがよい」
(3)「○○は依存している証拠だから、それを克服して、もっと自立に向かって努力したほうがよい」
(4)「以前の友達関係に未練をもつより、現在の環境で可能な友達をつくることを考えたほうがよい」
(5)【以下は追加−昨晩の話題とは違います】「ふられることを恐れていては愛は獲得できない。勇気をもって見返りを期待せずに告白したほうがよい」
(6)「ふられたとしてもほかにもいっぱい異性はいるのだから、そちらのほうに目を向けたほうが得策である」
(7)「わかってもらえないからといってふてくされていても、結果はますます悪いほうに向かってしまうんだよ」

 ようは「わかってはいるけど手につかない」ということについて、相手にそれを指摘しても相手は頭ではわかっていることだから他者(対等な親友を除く)や親から言われても逆効果になってしまうが、親自身は「自分は変えられないから」といって居直ることなく、少しずつそういう努力をしていればよいのではないかということです。そして、相手(この場合は子ども)に対しては、本人がその気になるまでは本人の内面的成長の可能性を信頼して見守りつづけるということです。
 繰り返しますが、ぼくにはその自信はありません。ただ、ぼくがチラッとだけ考えていた「始めの一歩の励まし方」(『癒しの生涯学習』p147)には通じるものがあると思います。

 受講者からは、次のような話が出た。「まわりから見れば、ただ、だらだらしているようにしか見えないのだろうが、本人は真剣に考えている」、「考えないで暮らしている人はいない。スパンを長く見てあげたい」など。
 モラトリアム真最中の人、子育て真最中の人、なんとか子育てを終えようとしている人、モラトリアムなんか許されなかった時代の人、多様な人たちが分かり合おうとする話し合いになった。ぼくは、受容、信頼、見守ることの大切さとしてまとめた。

2 本題
本日のテーマ「楽習図解ワークショップU−楽しい学習と双方向教育−」
 学習と教育の間に流れる暗くて深い河をわたる方法
本当は「教育=学習の援助」といえるのだろうが、実際には「主体的な学習」を阻害するような結果に陥りがちな実情のなかで、これをイコールに近づけるためにはどうしたらよいか。ぼくの結論は「たどりつかない彼岸(イコール)に向かって、深くて昏い河で船を漕ぐしかない」というものだが、今回、「私がもらった『いい言葉』『いい影響』」というテーマで、一人一人の宝物のような体験を紙切れ法(カード式発想法)で出し合ってもらって、これを探ることにした。

3 出席ペーパー
●永い年月の間に、いい言葉はたくさんたくさんもらってるはずなのに、私の人生を変えたと思われる程の言葉はすぐには思い出せませんでした。相手や自分が豊かになれるいい言葉を持ちたいと思います。
●子どものときあれほどいやだった勉強が今はとても楽しい。今からでも遅くないと思って、これからもいろいろなことに挑戦したい。有能な人間とは常に学ぶ者である。
●授業はすこしだけわからないところもあったけど、あとはおもしろかったです。ありがとうございます。私が先生になるとき、今日の授業のような方法を使いたいとおもいました。本当に良かったです。ありがとうございます。(ゲスト参加の留学生)
●よかったと思えた言葉が浮かんでこないのに愕然とした(授業が終わった後でいくつか思い出されたが)。今後、私も人によかったと思ってもらえる言葉がけを心掛けよう。
●今日はみなさんの大切な宝物を分けてもらったような、とてもほかほかした気分です。私は今回、友達のことばっかり書いたのですが、考えてみれば歌詞や詩などにもジーンとくるものがたくさんありますね。今回、自分は、友達(親友)に恵まれているなとうれしく思いました。「自分には言うべきで、相手には言ってはいけない言葉」について、いろいろ該当例がありましたが、私はいってもかまわないと思います。でも、「だからどうするべきか」「こうやってみては」など具体的にいってもらいたいです。
●ワークショップはなかなかでなかったなあ(時間がかかりました)。忘れかけていたのか、いつも言葉がけをされるからか? 認められる以前に「ほめられる」ということが、2カードしかなかった。ほめられたいけど、自分もほめないな、子育てについて。

4 カード式発想法の成果(図表●)

私らしさのワークショップ U第5回
1 導入−気づいたときから始められる生涯学習
 前回の出席ペーパー「子どものときあれほどいやだった勉強が今はとても楽しい。今からでも遅くないと思って、これからもいろいろなことに挑戦したい。有能な人間とは常に学ぶ者である」と、カード式発想法の「成長には時期がある。その時に必要な学習がある。格言=彼岸すぎの麦の肥」との関連をどうとらえればよいかということをテーマとして、「生涯学習は気づいたときから始められる」ということについて説明した。その内容は次のとおりである。
 最近、AC問題が盛んにいわれており、その背景として、交流分析でいう「生育歴」による人生脚本と、その書き直しが注目されている。一方、ぼくは、生涯学習については「気づいた時から始められる」という見方を主張している。たとえば、発達段階の初期のころに人間に対する絶対的な信頼感を十分には獲得できなかった人はどうなるのか。その後の、「癒しのサンマ」との出会いなどにより、それは回復しうると考えるべきなのではないか。しかし、それは、交流分析による生育歴の書き直しに匹敵するのものなのかもしれない。いずれにせよ、以前から述べているとおり、いわゆる「ふつうの人々」にとっての「癒しのサンマ」の重要性を認識すべきなのだろう。
 つぎに、出席ペーパー「自分には言うべきで、相手には言ってはいけない言葉について、いろいろ該当例がありましたが、私はいってもかまわないと思います。でも、だからどうするべきか、こうやってみては、など具体的にいってもらいたいです」について、他者の援助の言葉のあり方について考えた。
 1自らもリスク(危険)を背負って発言する(例=私だったらこうする)、2批判するときは、心を痛めながらも批判する、に、今回の発言を採用し、3なるべく具体的な方法を述べる、を加えて整理して提示した。

2 本題
本日のテーマ「楽習図解ワークショップV−自分らしさを世界に発信!」
 楽習の図解の成果でインタネットのホームページを作成して送信
であったが、すでにホームページには今までの成果等を掲載しているので、それに引き続き、「わたしにとっての私らしさのワークショップ」というテーマで、これまでの振り返り(シェアリング)のためのカード式発想法を行った。

3 出席ペーパー
●本当に今回講座に参加してよかったです。たくさんのいろいろな人と出会えて(紹介していただいて)、今までの自分を再度見つめ直すことができ、また自分にとって興味あるものがなんとなくですがわかってきました。4月からは○○大学でがんばります。引き続き受講したいのですが残念です(もし学校が休みの日なら参加したいです!)。ありがとうございました。フリースペースも、今回、ほぼ毎回参加させてもらいました。お酒好きの私にとってとてもうれしかったです。今日少し話に出ましたが、「自分の枠」から出て話ができる(しかも全く違うかたと)のはここぐらいじゃないかと思います。
●北海道はどうでしたか? 一番雪が降った時じゃなかったかしら。ワークショップでもっと皆がしゃべれる時間がほしかったかな? 「一応おつかれさまでした」。
●今回で最後というのが意外でした。なんだかすごく早く終わったような気がします。前期、後期の講座で教えてもらったゲームを使ってみたいと思います。他人との出会いや他人との関わりをすこしだけ楽しく感じた時間でした。
●世の中にはいろんな人がいるなあと思った。講座に参加して人と出会うのが楽しくなった。
●一方的ではなく、一人一人を大切にしてくださる講座に参加できて本当によかったと思います。受講者の方々はどちらかといえば引っ込み思案の方が多いと思われましたが、常に意見を引き出すような進め方だったので、みんな楽しかったのだと思いました。ありがとうございました。
●「違うからよかった」というグループが、今回のカード式発想法で出てきましたが、どうもこれには引っかかります。本当に違うからよいのか? 違うという言葉はどういう意味で使われているのか? ぼくは違うからよいのではなくて、「違う」の向こうにある「同じ」のゆらぎがよいと思う理由ではないかなと思います。何もかもまったく違う者は、理解も共感もできないのではないかと思っています。短くうまくまとまりませんがなんとなく疑問を感じたので。
mito>鋭い指摘に感謝するとともに、尊敬の念を覚えます。今回のカード式発想法の成果に採り入れさせていただきました。
●今までの講座を振り返って、心の揺れとか振動を味わったかしらと思います。やはり実感をともなった心のふれあいを再認識できたのがよかったし、今後こんな体験を実生活で生かせたらいいかなと、今そんなことを考えています。10回にわたりありがとうございました。インフルエンザにかかり2回ほどお休みみさせていただきました。でも家にいる間、今日の講座はどんなテーマだろうか、フリースペースではどんな話題が出たのかしら、とずっと気になっていました。
●この講座に参加した最初の頃、テーマのとらえ方がわからなかったり、どう表現すればよいのかとか、いろいろ悩みました。あとになればなるほど自然体のままでいいんだ、わからなければそれなりの答えがあるから最後まで答えが出なくてもいいんだ、と思うようになりました。飾らなくてよい自分を再発見しました。ありがとうございました。

4 カード式発想法の成果(図表●)
徳島市学遊塾『1年間の活動報告』原稿

不幸の手紙からの脱却の方法−ネットワーク型活動への転換を

徳島学遊塾運動アドバイザー
徳島大学大学開放実践センター助教授
 西村美東士

 「いきいきどきどき徳島学遊塾運動」は、まち全体を学び舎として、市民のだれもが学ぶことができ、教えることのできる「共育システム」である。そして、その主体はつねに市民であり、市民自らの発想と実践によって運営されることが基本とされる。学遊塾推進本部や企画、広報等を担当する各専門部会は、公募による市民ボランティアが活動の中心となる。
 もちろん、これに対して、徳島市(事務局は社会教育課)はできる限りの支援をしようとしている。しかし、だからこそ、そこで問われるのは市民参画の実体であり、官民パートナーシップの成熟度である。
 ぼくは本年度から澤田順子さんとともに本運動のアドバイザーをやらせてもらっている。これは、ぼく自身にとってもボランタリーな活動である。澤田さんは6年目であったが、ぼくはまだ1年しか経過しておらず、まだまだ「実体」としての本運動を把握しているとはいえない状態だが、ぼくなりにいまの学遊塾が突き当たっている究極の問題点として感じている点を述べてみたい。
 それは、参加・参画する市民の側にややもすると「不幸の手紙」と似た心理的状況が垣間見られ、そのことが市民参画や官民パートナーシップの阻害要因になっているのではないかということである。「不幸の手紙」とは、同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもので、チェーンレターの一種である。市民の自己決定活動の一環であるはずの生涯学習なのだが、とくにそういう活動のなかで役員などをやっている人は「なんで自分ばかりこんな苦労をしなければならないのだろう」という非生産的な気持ちにさいなまれることがあるのだ。これをそのままほかの人に訴えて協力を得ようとしても、相手だっていやな苦労はしたくないわけで、進んで協力しようという気持ちになれないため、「不幸の手紙」をもらったときのようないやな気持ちになるだけの非生産的な結果しか残らない。
 もちろん、行政側にもこのような運動への対処の未成熟な部分も残っていて、それも阻害要因のひとつにはなっているとは思うが、市民の側に行政とのパートナーシップ能力が培われれば、それは市民の力で次第に解消されよう。
 なお、本稿は問題点とその対処法を考察することを主眼としており、実際の学遊塾運動は、ほとんどの場面でまさに「いきいきどきどき」と運営されていることを念のため言明しておきたい。
 1997年度の『1年間の活動報告』において、徳島学遊塾運動推進委員会委員長の山本忠男さんは、「学びたい人々はたくさんいる。また、自分のもっている知識技能を多くの人々に広めたいと思っている人も少なくないと思う。そんな人々の、共に教えあい学びあう場が学遊塾である。師弟とか金銭とかに関係ない、遊び心から学び心への共育であり楽習である。企画運営に当たる推進委員も、市民教授も、みんなボランティアであるのが特色で、理想的な市民手づくりの生涯学習」としつつ、「道いまだ遠しという感がする」と述べている。
 澤田さんは、「互いに教え、教えられる双方向の関係に戸惑いを覚えたようだ。はじめは市民教授というと、特別な資格であると錯覚を起こした向きもあった」、「各部会や推進委員の意向が反映されてきているとはいえ、まだまだ主体性を持つところまでいっていない。『私にできることがあればお手伝いします』の域を越えないまま指示を待ち、事務局に頼る部分が多いようだ」と述べている。
 共育と楽習は、ある意味で「わがまま」(わが思いのあるがまま)に積極的に関与する行為であり、しかもそれは「自分のため」の行為であるといえよう。だが、徳島の人たちの「控え目さ」ゆえにか、そういうとらえ方ができずにいる面がありそうだ。これはこれで徳島の人たちの味わい深さを表しているのかもしれない。げんに阿波踊りのときなどは身も心も大いに解放し、ハレの日を十分味わうことができる。ぼくも3日間踊りっぱなしであったが、とくに学遊塾の連で踊ったときは、超ベテランの三味線(これもボランティア)のメロディーというぜいたくな条件のもとで、下手も上手もごく当たり前にいっしょになり、地元の路地や、いつものなじみの盛り場や商店街を踊り歩くことができて、一番楽しかった。
 しかし、日常の日々における「控え目さ」のほうは、それが何かの拍子に潜行するようなことがあると、先述の「不幸の手紙」のような非生産的状況に陥ることにもなる。「これだけ自分はやってきたのに、ほかの人がやってくれないのはおかしい」、「行政はこういう私たちにこそもっと面倒を見てほしい」というわけである。ややもするとそういう気持ちになることは無理もないこととは思うが、これが市民の自己決定活動という本質を歪ませ、市民参画や官民パートナーシップを難しいものにしてしまう。
 ぼくは平成11年2月に本運動の市民教授研修会において「さて困った、大人への教え方」というワークショップを行い、引き続き推進委員研修会で討論と懇談会をさせてもらった。
 「よそでたまったストレスを学遊塾で発散している」という元気な意見もあったが、「役員をやっているとストレスがたまることが多い」という訴えもあった。その理由は、まわりの人が協力してくれない、あるいはちゃんと理解してくれていない、会議でなかなか全体の意見がまとまらない、などである。高齢のため体がついていかないという人もいた。市民教授登録者からは、他県の例と同じく、講師としてお呼びがかからないという問題が大きかった。
 一方、環境問題に関する活動をやっている人からは「活動を、自分の生きてきた証しだと感じている」、民謡の人からは「徳島の宝を伝えるお世話をしたい」などの意見もあった。このような「使命感としての生涯学習」という側面も忘れてはなるまい。しかし、それにしても学遊塾運動が本質的に市民の自己決定活動であり続けるためには、「不幸の手紙状況」からはなんとしても脱却し、「使命感」にしても「潔い使命感」が求められているといえよう。
 そのときぼくは次のようにコメントした。

1 教授法の実際の様子がわかる「市民教授リスト」
 市民教授のさらなる活用といっても、あまり関心がわかない人に講師を依頼するということがあるとしたら、それ自体が生涯学習活動としては好ましくない。ただの無機質なリストではなく、もっとその人の顔がわかり、メッセージや雰囲気が伝わり、どんな教え方をしてくれるのか、プログラムまでわかるリストが必要である。また、今後ますます重要になる学校教育への協力については、専門の分野についてだけでなく、教育についての見識をもち、学校側にもそれが伝わるリストにすべきである。
2 活躍場所の自己開発
 町内会、婦人会など地域はだれもが主人公になれる場である。また、市民教授同士でチームを組み、市側にいくつかの会場を提供してもらって、自分たちでキャラバン隊のように各地域に教えてまわるということも考えられる。
3 自己決定活動はグループ活動
 ボランタリーな活動は、実際にはそのほとんどがグループ活動として行われるものなのではないか。そういう意味では、まずは市民教授や役員同士が日常的に教えあったり学びあったりすることが楽しいと思う。
4 自分のための活動
 いったん役員を引き受けたのならば責任を持って会合にも出席すべき、という感覚はそれが自分自身に向かっている限りは敬意に値すると思う。しかし、責任感以上に、そこに行けば歓迎される、だから仲間と会いたい、役員自身が学べる、おしゃべりできる、だから会合は楽しい、といういわば「自分のため」という感覚こそが大切なのではないか。欠席した人に「もっと責任をもって出席して」ではなく、「この前は来れなくて残念だったね」といえるような活動を目指したい。役員の会合であっても、学遊塾運動が自己決定活動の一環である限りはそういう活動にすることが大切である。
5 ネットワーク型の運営
 大人はそれぞれの事情をもって生きているのだから、会合にたまたま参加できた人でそのときの合意を作り出せばよいし、該当する役員にはなっていなくてもメンバーはだれでも会合に参加でき、意見も述べられるということにしたらどうか。来るものを拒まず、去るものを追わずという自由で柔軟なネットワーク型の運営のための工夫が望まれる。

 徳島学遊塾運動のような行政が支援する、あるいは行政が仕掛ける市民参画、市民主体の生涯学習事業には、市民の独立型の生涯学習活動とは異なる独自の困難が見え隠れしている。「不幸の手紙状況」に陥る危険性が大きいのである。しかし、その状況からの脱却に向けた市民と行政の努力は、問題が精神構造にまで及ぶというその困難さゆえに、もし成功すれば、きっと市民参画や官民パートナーシップの実体をより確かなものにすることになるだろう。

1 癒しの大学開放をめざして

 ぼくは、自称「癒しのサンマづくり」提唱者である。詳細は自著『癒しの生涯学習―ネットワークのあじわい方とはぐくみ方―』(学文社、1997年4月、1998年3月増補)を参照していただきたいのだが、いずれにせよ、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答えの一つが「癒されること」であるという気持ちで本書を書き通した。しかし、同時に、本書では、癒されるためには、
@ 自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、
A 他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、
B 社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる。
以外に方法はないという主張もしている。
 前年度から、ぼくは、徳島大学大学開放実践センターに勤めている。そこでも、大学教育や、その重要な一環としての大学開放において、「癒しのサンマづくり」が重要であるという思いを強くしている。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピアコンセプト(同一化に向かう仲間意識)によって個人が傷つけられ続ける現代日本において、大学の授業にせよ、市民のための大学公開講座にせよ、真実に気づくことによって、あるいは他者との意味ある出会いをすることによって人間が癒されることの意義の大きさを、大学教育側は十分理解する必要があると思う。それは、最近の悲惨な暴力的事象を考えても、逆に市民の自己決定活動などにおいて見えてきた共生への展望を考えても、緊急の課題といえるのではないか。また、これは、大学教育において最近ますます軽視されがちなリベラルアーツ(一般教養)の教育的意義の再評価にもつながると考えている。
 「サンマ」とは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが「今の子どもにとって『遊びのサンマ』が欠けている」と提起したときの言葉である。たしかに、今の子どもたちは、与えられた課題をこなす時間の過密化による自由時間(時間)の不足、冒険できる場(空間)の不足、群れて遊ぶ友達(仲間)の不足にあえいでいる。しかし、青年や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。ぼくはそこで現代人が求めているものを「癒しのサンマ」と呼ぶ。サンマであるから、日常の家庭、学校、職場のすべての時間を癒しの時間に当てようというわけではない。せめて1週間に1回くらいはサンマがあって、「ああ、○曜が近づいてきたな」と思えるだけでも、その1週間を元気に暮らせると思うのだ。
 生涯学習の学習方法についても、とりわけ「集団学習」について、その観点から問題提起したい気持ちがぼくには強い。「集団学習」とは、集合学習のうち、団体活動や学級・講座などの学習者同士の相互教育が期待される学習方法である。集団というと全体主義的なマイナスイメージもあるが、現代の人々が求めているのは、集団というよりもゆるやかな人間関係のネットワークによる癒しのサンマなのだと思う。もちろん、きのうの自分より今日の自分が、また一つ大きくなった、または変容したという成長の喜びにも大きいものがある。しかし、もう一方の「自他が両手を広げて歓迎しあえる」という現代社会では突出的ともいえる無条件肯定の関係性も、自己成長と並んで重要な生涯学習活動の魅力ととらえるべきであろう。癒しのサンマでは、あるいは知的水平空間では、批判さえも、相手の気持ちを思っての心を痛めながらの批判であり、相手の存在の否定にはならないのである。

2 自己中心主義の評価

 それにしても、癒しというと、一般的には後向きにとらえられるかもしれない。しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、後向きの価値観を最初から排除することはしないものの(そこが従来の教育の価値観と違うところである)、結果としてはむしろ前向きに終わるであろうものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク型の態度を指す。そもそも「癒しのサンマ」という言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。
 だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。一部の敏感な今の学生のなかには、次のようにいうものがいる。「癒しの生涯学習という言葉が悪いのではない。それよりも、それで私がほんとに癒されるの? 私はちょっと信じる気にはなれない」。社会教育現場でよく言われがちな「あなたの立場を考えれば、癒しのような個人的なことがらはなるべく避けて、地域や社会の改善のための学習をすべきだ」という言葉などより、彼女の言葉は、自己の臨床的真実に基づいた実感の伴った「私メッセージ」になっているのである。
 先日、A市公民館職員の自発的な勉強会が主催する会で講演をした。そこにぼくを呼んでくれたSさんが、インターネットのメーリングリストで、次のように事後報告をしてくれた。

 実は、公開講座のある参加者に、「癒しはエゴだ」「なぜ公民館で『癒し』という利己的な課題を取り上げなければならないのだ」「あなたたちの作ったピンクの表紙の冊子は、『公民』というところが出ていてよかったが、なぜみとちゃんを呼んだのだ」等等ということを言われました。
 mito理論をまだ十分に思想化できていない私は、「たぶんmitoさんは、『エゴで何が悪い』と言うと思う」「mitoさんは、癒しという私的課題と、社会貢献ということを、統一させることをめざしているのだ」と反論するのが精一杯でした。
 おそらく、批判者は、「現実から、癒しへ逃げるのではなく、現実と格闘せよ。そこから自己のアイデンティティを確立せよ」「現実から逃避しようとする、今の『やさしい』若者達は、いずれ破綻せざるをえない」というような考え方なのだと思います。

 これに対してぼく(mito)は次のようにレスポンスした。

 すみません。そういわれたとき、いわれたほうはどういうふうにその人に共感すればよいかということについて、ぼくの考えを述べます。
 公民館なんだから「公民」であるべきだ、と思っている人の信念と、「いや、じつは癒しのサンマの創出こそが、現代社会において突出的な公共的課題なのだ」と思っている私たちの信念と、どっちが真でとっちが偽か、という争いをした場合、これは不毛な結果に終わるでしょう。
 そんなつまらないことよりも、そのクレームをつけてくれた人「自身」が、少なくとも公民館においては自分は「公民」として学習したいと心から思っている、その「実感」については、私たちはだれもあざけったり、否定したりすることはできないと思います。いや、むしろ、それはそれでとてもすてきなその人の人間としての可能性といえるのではないでしょうか。
 このように考えれば、多くの住民の存在を肯定的にとらえることができるでしょう。すなわち、「個の深み」こそが、私たちの出会うべき焦点であるということです。

 また、Sさんは次のようにも書いてくれた。

 ちなみに、私がmito理論に惹かれたのは、「ミーイズムのどこが悪いのか」「あなたはあなた、私は私」という主張に「癒し」を感じたからなのだと思います。

 これに対しては次のようにレスポンスした。

 ぼくもそういうぼく自身の思考方法に魅力を感じています(へんな表現ですね)。人間は自分自身(の存在価値や生き方や快感)にとてつもない関心を払って生きている存在だから、出会ってもおもしろいのじゃないでしょうか。もしそれがなければ、自殺も考えないし、嫉妬もしないし、犯罪も起こす気にならないつまらない存在に陥ります。そこでの葛藤に人間的真実がある。もちろん、ほんとうは自分を中心にして地球が回っているのではない、という気づき(これを「楽園追放」という)は大切です。しかし、その気づきの上で、なお、それでも自分の人生を大切に生きていきたいという住民の欲求の実現を支援するのが社会教育職員の役割なのでしょう。
 そのためには、利他的利己主義という言葉がとてつもない強力なヒントを与えてくれると思います。自己中心主義どころか、利己主義であってもいいじゃないですか。真に自己の快感欲求を充足しようとするのなら、1週間に1回ぐらい癒しのサンマという「おうち」を得た上で、さらには「社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はない」(ああ、また言ってしまった)といえるでしょう。公民館には、住民がそういうことをできるチャンスがいっぱいあると思います。
 それから、最初の「あなたたちの作ったピンクの表紙の冊子は、『公民』というところが出ていてよかったが、なぜみとちゃんを呼んだのだ」と言ってくれた人についても、その人が公民館で「公民」として活動することによって「利他的利己主義」が満たされているというその人自身の実感の言葉をしゃべってもらえば、これはとても意味のあるけんちゃんとその人との出会いに転換することができると思います。やっぱ、人間っていつかは死ぬし、つまり人生って有限なんだから、ディベートのようなつまらない時間より、意味の充満した時間を過ごしたいですよね。

 これから報告する「私らしさのワークショップ」も、市民の実感の伴う「自己中心主義」を掘り起こし、「癒しのサンマ」の提供と、その作り手としての自己変容につなげようとしたものである。

3 公開講座「私らしさのワークショップ」

 ぼくが勤め始めた平成10年度、徳島大学大学開放実践センターの公開講座は13年目となり、約70科目の公開講座を市民に届け、夏季・冬学期講座、土曜・夜間講座の拡充、リカレント教育講座の新設、郷土関連の講座の拡充、放送公開講座に連動した講座、市民と高校生がともに学ぶ講座などに重点的に取り組んだ。
 そこでぼくが企画した講座が「私らしさのワークショップ」である。その趣旨は次のとおりである。

 現代人の生涯学習に向かう主要な動機の一つとしての「自分らしさ」の危機と、それへの願いを取り上げ、参加者一人ひとりの臨床的真実を引き出しながら、生涯学習、ボランティア活動、市民活動等の自己決定活動のあり方を明らかにする。
 このワークショップにより、「笑い声の絶えない」「一人ひとりが自然にその気になる」ような成人の能動的な「楽習」を実現するとともに、地域のキーパーソンを育て、インターネットを通して、その成果を、大学や社会全体にアピールする。

 秋学期でのパンフレットの市民に向けたメッセージは次のとおりである。

 私らしさってなんだろう。自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶ生涯学習が大切にされる今日、若者、サラリーマン、主婦など、たくさんの人が、生涯学習活動のほか、ボランティア、市民活動などの自己決定の生き方を味わっていらっしゃいます。
 この講座では、ワークショップ方式をとり入れ、「もう、やってるよ」という人も、「ちょっと照れるぜ」という人も、対等の立場でいっしょに講座をつくっていき、楽しく学ぶことを通してワクワク、ドキドキしながら"自分らしさ"を発見します。さらには、その成果をインタネットで発信することも計画しています。

 冬学期は次のとおりである。

 私らしく生きたい。あるがままの自分が両手を広げて歓迎されるサンマ(時間・空間・仲間のサンマ)がほしい。生涯学習活動や、ボランティア、市民活動などの自己決定活動のなかで、そのような相互受容のサンマが、現代社会のなかで生まれつつあります。
 この講座では、秋学期に引き続き、ワークショップ方式をとり入れ、癒される「楽習」(楽しく学ぶこと)のあり方を探っていきます。今回はそれを図解する作業を試みます。そこで作られた成果は、インタネットでも発信する予定です。

 各回のテーマと要点は図表●のとおりである。なお、それぞれのワークショップの技法については前出『癒しの生涯学習』のほか、『こ・こ・ろ生涯学習―いばりたい人、いりません―』(学文社、1993年3月)を参照していただきたい。
 また、講座閉講中も、火曜日についてはセンターにて自主的な集まりをもつことができることとした。これはあとになってメンバーから「裏講座」と名づけられ、毎回の「表講座」の終了後に行った「フリースペース」とともに、自然体の交流ができたように思う。ぼくなどは大したアカデミズムをもっていない人間だが、それでも教員の研究室や、ときには自宅にまで押しかけて自然体の交流をするという現役学生の大いなる特権を、学生ではない市民にも味わってもらえたということは、「裏側の大学開放」として重要だったと思う。本稿では、その成果についても報告したい。
 それぞれの回に対する受講した市民の反応(出席ペーパー)を通して特徴的なことは、「大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?」というペーパーに象徴されるような、現代人としての市民一人一人の大学開放を通じた生涯学習への関心であり、とりわけ講座自体を「癒しのサンマ」の一つとしてとらえようとする信頼、共感、自立に向かう潜在的願望である。そこで感じられる市民のニーズは次のようにまとめられよう(図表●)。

4 他人に関心を寄せることの意味

 秋講座第1回は「第一印象ゲーム」(坂口順治「実践・教育訓練ゲーム」日本生産性本部)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@自分らしさとは何か、考える。
A人と出会うということは何か、考える。
B相互承認の人間関係づくりのコツに気づく。
 次のような出席ペーパーが提出された。なお、mito∨以下はぼくが次の回で行ったコメントの内容である。これらはすべて受講者にインターネットメールで随時フィードバックした。
■最初はドキドキ、どうなるんだろう、など、自分がいちばん不得意なパターンのゼミかな、と思ったのですが、いろんな人たちがいて、これからが楽しみです。でも、今日は、少し時間が短い感じがしました。
mito∨初対面なのにいきなりやるの?、ということでしょうね。指導者はそういうマイナスの気持ちを大切に保っていてほしい。それから、時間については、ぼくがじつは「詰め込み主義」になっちゃう癖があるんです。勝負のかけすぎ、というところかな?
■できることから始めよう。
mito∨んっ? 始めの一歩の話ですか? それなら、ぼくも。「大胆に、ではなく、何cmかをおずおずと踏み出すのがコツ」!
■第一印象ゲームはおもしろかったです。これからどんな講座になるのか楽しみです。
mito∨はい。あれは坂口順治さんの本からのパクリですが、妙に自然で、自他への肯定的な関心が高まるゲームだと、ぼくも感じています。
■第一印象ゲームが楽しかったです!! でも、自分の見る目って、案外ないなぁーと思いました。あまりにも当たらなかったので・・・。学生時代に戻ったような新鮮さがありました。
mito∨うーん、学生時代に戻った・・・、授業ですか、友達関係ですか? 後者が大きいのでしょうね。友達は何歳になってもほしいのに、卒業、就職、結婚、出産などがあるたびに、どんどん減っていく。とくに異性の友達が。
■第一印象ゲームでは、自分の第一印象があまりあてにならないのでは、と思った。第一印象にこだわらず、人とおつきあいしていきたいと思った。グループ内では雑談などして、とても打ち解けたように思った。
mito∨偏見の恐さ、というところでしょうかね。それから、雑談も、歯の浮くような社交辞令と違ったからこそ楽しかったのでしょうね。
■「他人に関心を寄せる」、その言葉にいまさらですが、なんとなく、意外にも得心したりしています。講座のあとも時間を割いてくださり、集まる、と聞いて、なんだかわからないけれど楽しみな気分です。
mito∨比べる視線、ではなく、その人のありのままへの眼差し、これがもらったほうも、あげたほうも、気持ちいいんでしょうね。これを肯定的ストロークといいます。もしかしたら、さらに無条件肯定的ストロークの雰囲気ができつつあるのかもしれません。
■人前に出ることが少なく引っ込み思案の私。でも、西村先生の最初のひとこと、「ぼくはしゃべりすぎるから・・・(mito∨気をつけなくちゃ、と言ったと思う)」etcで、なんだかスコーンと気が抜けてしまった。身構えることなんて何も必要なかった。自分をよく見せようなんて、いみじい気持ちがなくなってしまった。これが本当に大学の公開講座なのかしら・・・。
mito∨ぼくは授業でもいつも最初の10分ほどの立ち上がりが重いのです(;_;)。不安のせいだと思います。でも、そのぼやきともいうべき言葉が「有効技」?だったなんて、意外です。儀式のようにしゃちほこばらずに、のびのびと好奇心を働かせる。これが高等教育や学問のあり方だと思います。ぼくは、これを、知的水平空間と呼んでいます。
■こんな軽いノリでいいのだろうか・・・。んー、慣れればこれもなかなかよい。聞きながら(mito∨出席ペーパーを)書くのはつらい。時間が足りん。開放講座では私は一度は居眠りするのですが、今回はありませんでした。またお茶飲ませてください。
mito∨飲食自由です。フランス革命も市民のコーヒーを飲みながらのサロンが学習?や合意形成?の場であったとか。それから、出席ペーパーについては、慣れもありますし、あるいは、相性(たとえば集中して受講していたい人は書けない、でも、それはそれでいい)の問題もあるでしょう。気にしないでください。出席ペーパーの本質は「何でもアリ」と「自己表現の完全自己管理システム」にあるとぼくは思っています。マル秘、強制公開、発信者名公開、コメント希望、コメント不可など、どんなマークをつけていただいてもけっこうです。

5 幸せを感じるときに気づく

 第2回はブレーンストーミング「幸せの瞬間」をカード式発想法(紙切れ法)で行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@他者に対する共感的理解が可能であることを実感する。
A自分とは異なる枠組をもつ他者が与えるよい影響を知る。
Bアンビバレンツ(両面価値)な実感を受容できるようになる。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■(当日は)日本シリーズがなくてよかった。
mito∨はい、あったらもっと少なかったでしょうね。
■他人を「受け入れる」と「受け流す」って、表面的には似て見えるような気がします。どうでしょう?
mito∨「受け入れる」を「許す」に変えると、きょうのロールプレイでやる課題です。なんでつながるんだろう、不思議だな。「許し」というのは「主張する」(「断る」)があってこその「許し」なんですね。
■幸せを感じるときって、若いときよりなんだか少なくなってきているように思うのは何ででしょう? それにしても人数が少なくなっているのも何ででしょう? こんなに楽し〜い講座なのにね。
mito∨社会教育の場合、学校教育と違って、7割も出席すればすごい。個人がさまざまな事情のなかから自己決定で参加してくる。ただ、お金をもらってる関係から、ぼくにとってはプレッシャーである。
■女子大でブレーンストーミングを行ったとき、2/3が退席? これって何だろう。今日のワークショップ、もっと人数が多かったらおもしろかったと思う。
mito∨今日のお願いトレーニングのほうがより過激である。加藤諦三が、現代の心理的特徴を「敵意と不満」として、次のように述べている(敵意と不満の自立=中毒社会ということについて、略)。そういうなかで、今日のトレーニングは「さわやかに依存しちゃおう」ということだから、やっぱりカルチャーショックが強すぎるのでしょう。でも、加藤のいう「ふれあい」を、ぼくはストロークと呼ぶ。人間はストロークをもらうために生きているという。まあ、楽しくやりましょう。
■女の人は、子どもとか、他者評価で生きている。これっていったいなんだろう。
mito∨適正な自己評価のあり方について説明。ストロークのついでに横文字でいうとジェンダー(社会的文化的性差)という。ただし、最近は、男性のほうが社会的弱者のような気がする。自己決定活動にたずさわろうとするとき、変化を理由なく恐れるのである。
■紙切れ法はとてもおもしろかった。「幸せを感じたとき」は十人十色だけど、共感するものも「ン?」と思ったものもあった。時間が足りなくて残念。もっとやりたかった。
mito∨やっぱり、ワークショップは、ぼくなんかがいなくても、仲間同士で楽しくみっちりやるのが本当なんでしょうね。

6 ハートが疲れたロールプレイ

 第3回はロールプレイ「お願いトレーニング」を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@フラストレーションに耐えて自己主張を続けられるようになる。
Aちょっとしたことぐらいでは負け犬にならない自信をつける。
B人それぞれの自己主張法を知り、自分の主張法を改善する。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■お願いすることも断るのもとっても苦手です。要するに人が良すぎる。長所であり、短所です。今日のワークショップはハートが疲れた。
mito∨すみません。たしかに人が良いのは、長所であり、短所でもありますね。まあ、それこそが自分らしさなのでしょうか。ただ、「生きづらい」と感じたときには、少し、ほかの「物語」を取り入れるとよいのかもしれません。
■お願いすること、それもあつかましくすることは、とっても大変だった。心のすみで、「ああ、申し訳ないなあ」と思いながらプレイしていたから、それがかえってストレスになったかな? でも、また演じてみたい気もする。
mito∨けっして「あつかましくすること」だけが「お願い」の方法ではないでしょうが・・・。他者のいろいろな方法から、取り入れられるものは取り入れられればいいですね。
■頼むのも断るのも難しいですね。基本的に頼まれた場合は、できることならだいたい受けるんですが、頼む場合は一度断られたら、何度も頼むことはしないです。
mito∨頼むのも断るのも2回目からが難しいんですよね。「もう、いいや」という感じで。でも、ほんとうの許しは断りのあとにくる。それこそが「信じて頼りあう信頼」の本質だ。現実には難しいかもしれないけれど、そういうふうに思うのです。
■男は女の涙には弱いってことか。
mito∨ははは。たしかに弱いとは思います。ただ、「あなたが、どうにかしてちょうだい」という依存的な涙はいやですけど、「とにかく泣かせて」という涙はいいもんですね。
■自己主張はしたいのですが、意志が弱いので発言はしないで終わることがほとんどです。上手に話しができればと思います。
mito∨上手な話し方のほうは、上手な自己開示のほうに深く関連しているのではないでしょうか。自己主張のほうは、自他への信頼感の獲得が大きいと思います。
■ロールプレイの目的と違うかもしれませんが、相手の考えていることを早くつかまないと断れないし、お願いできないと感じました。また、1回ロールプレイすると、普通の会話より同志的な感じになって、おもしろかったです。でも、少しストレスになりましたが。
mito∨同志的になる、というのがおもしろいですね。あれだけ、断ったり、逆にずうずうしくお願いしたりするのに、そこにこそ信頼関係が生ずるということではないでしょうか。
■どうして少ないのかなあ。本当にもったいない。楽しい授業なのに。「今の女はジェンダーフリーだ」とmitoさんは言ってましたが、そうでもないですよ。学生のころなら平等だったかもしれないけど、社会、家庭では、ジェンダーバイアスがあります。なぜ、女は黙ってしまうのでしょうか? 愛しすぎる女・・・、女になっちゃうんですよね。
mito∨このように、講義のテーマと関係ない出席ペーパーも、不思議に講義と連動して重要な刺激を投げかけてくれます。講義はライブだ、というところなんでしょう。
mito∨付記
 ・・・ということで、今回は少し過激すぎたようです。終了後、例によって、フリースペースをやりましたが、みなさん、心がしんどかったようです。今回のトレーニングの基盤となる「言いたいことは言っていいんだよ。どうにかなるよ」という支持的風土の共生社会を、今後、敵意と不満の自立=中毒社会全体では無理でも、このワークショップだけでもゆっくりと創り出していきたいと思います。

7 自分の価値観に気づく

 第4回は「価値観ゲーム」(前掲坂口)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@自分らしさについて再確認する。
A他者に対する関心の持ち方を体得する。
B自分さがしをする現代人のこころを理解する。
 テーマは結婚相手の判断基準(一対比較法)とし、図表●のような結果となった。数字は順位であり、コメントは本人の判断基準である。

 出席ペーパーは次のとおりである。
■愛情のある暴力はないと思いますよお〜。今日は(価値を)選択するのが難しかった。容姿はやっぱりキムタク+竹野内豊みたいな人がスキなのに〜。なぜ?! 心って正直だわ〜。愛情1位なんて。
mito∨容姿1位ではなく、愛情1位だったことで、「心って正直」というのが、とても面白く感じました。
■他人に肯定的関心をもつ・・・。共感能力に自信がないので、心してつとめよう。


■自分はこんな価値観をもっていたんだなあと、あらためて思った。でも、このゲームをプレイする前の自分の予測と違っていたのは意外だった。価値観って、一生変わることはないのかしら・・・。
mito∨日々、どんどん変わっていくのでしょう。これを「変容」といいます。気合を入れた「自己変革」とはちょっと違うと思います。他者の異なる「枠組」と出会う「楽習」により、自己の価値観、判断基準等の「枠組」「準拠枠組」に気づき、そのことによって自己の「枠組」そのものが変容します。「枠組変容」こそがダイナミックな学習の意味合いなのでしょう。
■自分の価値観がはっきり出ることに驚きました。各人それぞれの価値が異なることが面白かったです。
mito∨そう、意外に思われるでしょうが、他者の価値が自分と異なることは、そこに支持的風土があるという条件のもとに限り、「面白い」ことなんですよね。
■「言いたいことは言っていいんだよ」という社会の実現は難しいでしょうねえ。その言葉は、社会を構成する各個人に対して、かなり高いレベルの要求を出しているように思います。やっぱり言わないほうがいいことというのはあるわけで・・・。でも、言いたいことを「タブー」として不必要に言わないというのもどうかと思うし。落としどころが難しいですね。
mito∨現実社会、現実の人間関係ではそうでしょうねえ。その場合、「落としどころ」という表現がとてもぴったりしていると思います。ただ、受容的、支持的雰囲気が社会にもっとあればいいのにな、と思います。
■今の若い人(30代以下)って自己開示しないですね。安心してコミュニケーションできる場面がないのかもしれない。人と違っていいという安心できる社会がないのかもしれない。今回のワークショップで、容姿が一番でしたが、容姿は人柄です。よくばりな私です。愛って何ですか? (フリースペースにて飲みながら執筆)
mito∨自己開示については、ジョハリの4つの窓という考え方があって、たしか、自分も相手も知っている自分の窓(領域)を広げればいい、ということだったと思いますが、「ちょっとどうだかなあ」とぼくは思っちゃいます。それよりぼくは、「開きたい自分(のカケラ)を開きたい所で開けばいい」というレトリックを作っています。

8 「あげる」と「もらう」だけの相互協力

 第5回は「スクエアゲーム」(前掲坂口)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@相互協力過程を理解し、他者を配慮する経験をもつ。
A集団の形成プロセスについての理解を深める。
Bネットワーク的なギブ・アンド・テイクの精神を理解する。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■秋の講座は終わってしまったけれど、これから何かが始まるような気がする。
mito∨秋の講座は、たまり場、居場所を開始するための雰囲気づくりをした、というところですかね。
■ポーカーフェイスでいることのむずかしさ。言葉も表情も出さずに、相互協力をするということは、日常経験していないだけに、とても大変なことだった。今日は秋の最終回だったけど、結構楽しい講座でした。冬も続けます。よろしくお願いします。
mito∨説明不足だったかもしれませんが、このゲームのねらいは、ポーカーフェイスというよりも、言葉でほしがったり、指図してはならないという意味で沈黙であり、カードをほしいという目つきをするのも禁止、ということです。でも、そういう各人の自発性に基づく「あげる」と「もらう」だけの相互協力が、ネットワークのギブ・アンド・テイクのあり方を教えてくれているのでしょう。
■途中参加で戸惑いましたが、メンバーに救われて、すぐにゲームに参加できました。意思表示ができないのが、こんなに大変なことなんだと思いました。しきりたい自分がはっきりして、面白かったです。今回の講座に参加して、緊張したり、勇気をふりしぼったりと、普通の講座とは違って、自分の確認が少しできたかなという感じです。
mito∨「しきりたい自分」の発見は意外だったでしょうね。
■自己開示については先生のご意見と同じです。スクエアゲームでは、全体を見る目が全然ないことに気づかせられました。インターネット、パソコンについては何もわかりません。まったくの機械音痴です。ちょっとのぞきたいだけです。ご迷惑とは思いますがよろしくお願いします。
mito∨とうぞ、お気軽に徳島大学大学開放実践センターにのぞきにきてください。
■秋期の講座は今日で終わりですが、これから裏講座や冬講座、合宿等で楽しくなりそうですね。よろしくお願いします。
mito∨「裏講座」というネーミング、ぼくも気に入りました。さっそくパクらせてもらいます。
■今日で一応私らしさのワークショップTが終わりましたが、11/24から、また、みなさん、そしてmitochanにお会いできるというサプライズ、どうもありがとうございます。あっ! きょうの感想、ポーカーフェイスはむずかしい・・・。
mito∨喜んでもらえてうれしいです。「そんなの、別にいらない」といわれそうで不安だったのです。まあ、裏講座ですから、どなたでも、無理せず、来たいときに来てください。

9 裏講座で多角的交流

 「裏講座」第1回は、職員旅行中に神戸から寄ってくれたメール仲間、A市公民館主事Sさん(前出)をお迎えし、「最近食べたおいしかったもの」を含めた自己紹介をした。話題は、「なぜ、このワークショップに参加しているか」などであった。その後のフリースペースで痛飲してしまい、くわしい内容は思い出せない。フリースペースには、K君や徳島市社会教育課のO君も、忙しい仕事をなんとか終わらせて駆けつけてくれた。
 受講者には次のメッセージを送った。「ご事情で秋の表講座に数回しか出れなかった方なども、もしよろしければ、お気楽に裏講座やフリースペースでのおしゃべりにご参加いただければ幸いです。また、西村美東士までお申し付けいただければ、欠席されたときの資料を差し上げます。なお、受講メンバーの一人Yさんのホームページ開設の申し入れを受け、さっそくアップしました。アドレスは下記のとおりです。(略)」
 第2回は、もう、みんな飽きたころかな、と危ぶんでいたが、フリースペースから遅れて参加した人を含めると、女性3人、男性1人とぼくのにぎやかなおしゃべりになった。おしゃべりしていたら、これがいろいろとNPOやってる人たちだった。LD(学習障害)児・ADHD(注意欠陥多動症候群)児自助グループ関係もいれば、特定の病気の子どもをもつ親の会(だったか)関係もいて、飲んでいて話題になったのは、異種グループ(主に障害者グループ)のネットワークのことで、まず障壁になるのが、「そちらの種類は障害の程度が軽いから」というようなグループ同士で連帯しづらい風土についてである。これを徳島県の保健行政が、異種を乗り越えて障害者グループのネットワークを仕掛けていた。これに励まされたグループがたくさんあるようである。徳島県行政も、進んでいない所もあれば、進んでいる所もあるんだ、という当たり前の結論に落ちついた。まあ、べつに、どうしてもネットワークに加わらなきゃいけないというわけでもないのだけれど。
 それから、ジェンダー問題がつねに話題に入っている。一人の人間に、全部の課題がからんでるんだなあ、という感じである。
 次のメッセージを送った。「ホームページを作る条件のない人には、ぼくが半分仕事として提供しています。ほかの人たちも、関心を示していました。ただ、初期投資の15万円程度が厳しいようです。まあ、ぼくのところで、無料のメールアドレスを取得して、とにかく始めてみたら、と言っています。LD児関係のアドレスは(略)です。今のところ、ただ載せただけ、という感じですが見てやってください。なお、次のような欠席連絡がメールで入ってきました。(略)」
 第3回は女性1人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、徳島市ヤングフェスティバルの実行委員の若者が2人、手作りのOHP利用の野外映写装置をテストしにきて、ちょっとおしゃべりした。12月19日のヤングフェスティバルは、ロマンチックなイベントになりそうである。また、8時が過ぎて、これからフリースペースに行こうという矢先、徳島在住の違う大学の女子学生が友人2人(全員ギャル)を連れて来てくれた。
 Kさんが、先週の日曜日にやった駅伝の記録表と写真アルバムをもってきてくれた。N大学留学生の「Asian Express」というチームである。31チーム出場で、なんとトップランナーはKさん。しかも、なんと、区間順位も最終順位も31位である。でも、そのあとのパーティーの写真を見せてもらったら、とてもゆったり交流できて楽しそうだった。
 参加者の一人、韓国のIさん(韓国・仁川市出身。仁川教育大学校数学教育科に在籍し、交換留学生として今年10月に来日。現在はN大学学校教育学部3年に在学中)の徳島新聞12月8日の記事(略)を紹介し、次のようなコメントをインターネットで発信した。
 うーん。ぼくはこの文章にとても好感をもちました。みなさんはいかがでしょう。ただ、Iさんが留学して『そのような先入観(日本人は礼儀正しく、親切でもあるが、それ以上の親密な関係に発展するのはなかなか難しい)は間違いである』と気づいたのは、徳島だったからかもしれません。東京だったら、どうかなあ。それから、なんといってもあのやさしいスマイルのKさんも、そこにいたしねえ。
 Iさんを含めた鳴門教育大学の留学生の「アジアンエクスプレス(どこがじゃ)」の人たち(韓国、カンボジア、ミャンマー、メキシコなど)も、場を設定してくれたら、鳴門から来てくれるんじゃないかということです。「私らしさのワークショップ」で交流料理パーティーでもやりませんか?
 第4回は本年最後の裏講座だった。女性2人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、ヤングフェスティバルのKさんがタイのJさんが来ているというので、仕事を中抜けしてフリースペースに会いに来てくれた。KさんがJさんを連れてきてくれたので自己紹介をした。Jさんは、タイのある体育大学の教師(柔道!?)で、日本では生理学を勉強中である。
 フリースペースでJさんは、日本の女の人がわからない、という話になった。ちなみに彼は独身である。その結末は、「日本の女の人は心で思っていることを言わないから」ということになった。でも、フリースペースでは、日本人のぼくたちがビールを飲んでるのに、熱燗の日本酒を飲み、「いっしょにお酒を飲める人がいつもは少ないから」ということでご機嫌であった。ぼくたちの雰囲気を「フレンドリーな雰囲気で楽しい」と言ってくれた。
 なお、女子学生のK子さんも参加してくれて、活気のある裏講座になった。彼女はポケベル(文字)の話では、ちょうど高校時代に当事者だったので、とても面白かった。以前報告した「絵文字」についても全部知っていた。また、中学時代は数字のポケベルだったので、その話も聞いた。「当時の子たちはケータイおやじを本当に馬鹿にしていたの?」と聞いたところ、そうだということである。
(以下、次号に続く)


10 自分の気持ちを相手に伝える

 冬学期の第1回の導入は、新規参加者と本講座への期待についておしゃべりをし、「自分の気持ちを言葉にして出せるようになりたい」という話題になった。
 その困難さを分類し、次のような結果となった。
@うまく言葉にできない。
 ア ボキャブラリー(馬券を当てたときの「してやったり」など)不足
 イ 言葉の選択の困難
 ウ 「気持ち」には身体性が伴う
A相手を傷つけてしまうのではないかという恐れがある。
 その他、秋講座参加者から「第一印象ゲーム」で「青色が好き」と当たったからといって、「さわやか」とは限らないという感想が出た。これを受け、相手の「自分らしさ」を本当に理解しようとするなら、準拠枠組(フレーム・オブ・レファレンス)に対して理解、共感しようとすることが大切、という説明をした。
 本題としては、『カード式自他紹介』(前掲坂口)を行った。ぼくとしてのポイントは次のとおりである。
@強制的な役割取得による遠慮の打破。
A内容中心にならないようにする。心の交流。
Bメンバーにあった問題を。ロールプレイをしても、おもしろい。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■普通に自己紹介するんじゃなくて、今日やったみたいにいろいろな質問をランダムにするほうが、もっとその人のことがわかるような気がします。楽しかったです。ところで、やっぱり自分の気持ちを相手に伝えるのってむずかしいですね。いろいろな立場の人と話ができる機会ってなかなかないのでうれしいです。
■与えられた時間を活かせなくて、「なんと自分が情けない」と思えました。言葉による表現力のとぼしさを思い知りました。でも、また、いつかどこかで、このゲームをもう一度やってみたい。
■きょうはちょっと変わった自己紹介でしたが、今まで経験した自己紹介よりも、もっと一人一人を理解できたような気がします。こんな形の自己紹介のほうが親近感がわいてよいと思います。
■初めは人数が少なくてどうなることかと思いましたが、皆さん出席できてホッとしました。カード式の自己紹介、人数が多かったらもっと盛り上がったでしょうね。今年もよろしく。楽しくやりましょう。
■遅参してすみません。お若い方々のお話しは本音が聞けるようで嬉しいです。勤めをやめて一般社会のおつきあいの中では、いろいろのことを経験しています。
■1時間遅れの参加で、着いた時には、すでに自己紹介が始まっていて、説明を聞けなかったのが残念です。今年もよろしくお願いします。
■今日は大変遅くなり申し訳ありません。今回も楽しい(苦しいも含めて)講座になりそうで楽しみです。

11 わかってもらうこと、わかってあげようとすること

 第2回の導入は、おしゃべりの中から「今日の若い女の子たちの専業主婦願望について」ということになった。「主婦業をやっていると、日々単調で、社会との関係から取り残されているというあせりを感じていたころがあった」、「病気の親の介護、子育てなど、総合的知恵をフルに発揮し、障害のある子どもを社会の中で育てるなど、社会的つながりも求められる。そこでは、主婦業をプロってるというプライドさえ感じられるときもある」、「子どもや夫のための主婦業もきちんとやりながら、自分のやりたい深夜カラオケでのびのび遊べる友の母親にあこがれる。しかし、自分自身は、そのような専業主婦になれる自信がない」などの話が出た。
 ぼくは次のようにコメントした。
 若い女の子たちの専業主婦願望(相手は高収入に限る)は、それはそれで正しい選択なのではないか。ただし、「かわいい嫁さん」を求める相手の男たちは、彼女たちが深夜カラオケなどで自由に振舞うことを許さないのではないか。そこのところにも男と女の深くて昏い河がある。
 また、妻が起きて待っていてくれたらうれしい、でも、寝ていてくれたほうがほっとする、という酒飲みの男のコマーシャルがある。これもなかなか深いリアリズムだ。
 次に、「このようなワークショップやエンカウンターグループなどで人間関係のトレーニングをしなくても、たとえば芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかなと思う」という発言があり、本ワークショップとエンカウンターグループ、さらには自己啓発セミナーとの違いについての話をした。内容は以下のとおりである。
 自己否定に陥りがちな人たちが「今の自分をなんとかして変えたい」と思い、その思いを共通項目とする問題縁として自助グループをつくったりすることは意義深いことであろう。そこでは、世知辛い世の中とは別の受容的な「文化的孤島」を作り出すことになる。ただし、そこで最終的にめざされるのは、自他の受容と世俗の社会への復帰という「自立」であろう。なぜなら、自己否定からは自己変容は生じないからである。自他受容からこそ自己変容、自立が可能になると考えられる。
 さて、世の中には、「今の自分をなんとかして変えたい」ではない人たち、つまり、それなりに自他受容ができている人たちがいる。これを「フツーの人たち」としておく。このフツーの人たちだって、信頼できる友達がほしい、などの気持ちをもっている。これが保障される場が現代社会にあまりにも少ない。本ワークショップは、このようなフツーの人たちの、しかし人を傷つけたり人から傷つけられたりすることを悲しむ心のある、いい女やいい男たちのための場である。そこで水平異質共生の「私らしさ」が安心して交流できるサンマ(時間・空間・仲間)をめざしたい。
 したがって、「今の自分をなんとかして変えたい」という気持ちがあるとすれば、むしろそれを「今の自分もまんざらではない」という気持ちに昇華し、「芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかな」と思えるようになることこそ、本ワークショップのねらいといえるのではないか。気軽に楽しんでもらえればありがたい。
 本題としては、ぼくのオリジナルルールでジェスチャー大会を行った。そのポイントは次のとおりである。
@わかってやろうとするサポートこそ、表現にとって重要である。
A表現の敗北主義に対して、「数打ちゃ当たる」が有効である。
Bわかってもらえたときは、とてもうれしい。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■相手に自分の意思を伝える方法、相手の言いたいことをわかってあげようとする気持ちがとけあってジェスチャーが成り立つのだということがよくわかりました。私にはとても無理と、挑戦しないのはずるかったと反省しています。
mito∨無理なさらないでください。初めの一歩は数センチずつ、行きましょう。
■ゲームに夢中になる、こんな真剣さが久々で、充足感を味わったかな、という感じ。・・・ということは、ふだん空虚だったりするのかしら。
■ジェスチャーゲーム、今回やったお題がとても難しいのに、不思議と最後は当たるのがおもしろかったです。ジェスチャーの答え方とかで、すごくその人の個性が出てるなあと思いました。
■専業主婦問題に対する主婦のみなさんの意見が聞けたのは貴重だったと思います。やっぱり私は専業主婦にはむいていないなと思いました。
■きょうのジェスチャーゲームはけっこう大変で、演じるのも、当てるのも苦労しました。声を出さずにわかってもらうことなど、日常ではあまり経験がないので。でも、ふだん経験しないことをやってみると案外楽しいものでした。自分の表現方法の貧しさに少しガックリしましたが。
■なんじゃ、この問題はー!!と叫びたくなるようなジェスチャーゲームでした。BUT、答える人がすばらしいというか。特にBさんはスゴイの一言、バンバン当てちゃうもんね。楽しかったです。
■今回も遅れての参加で、さらに今日の内容(ジェスチャーゲーム)がすごく難しそうだったので、教室に着いた時に、ちょっとしまったと思いました。実際、自分が表現する時には「これはちょっとわからないかも」と思いましたが(お題は「終身雇用」)、終身の2文字を表現したところで正解が出たのでびっくりしました。「雇用」をどうするか悩んでいたので助かりました、ほんとうの話。
 フリースペースでは次の話題になった。
@将来のめずさものをしっかり持てないと、なんだか不安である。しかし、世の中ではそう計画的には生きていけない。どうするか。
A人から迷惑をかけられても、まあ我慢できるが、しかも相手から素直に「ごめんね」といわれたらますます許せてしまうが、自分から人に迷惑をかけるのは、たとえ謝る手段があったとしてもいやなのである。どうするか。
Bたとえ妻には悪い浮気ばかりしている夫でも、子ども(とくに娘)からは「父親」として愛されていることがある。バカヤローとも思うけど。どうするか。

12 社会に役立つわたしという存在

 第3回の導入は、モラトリアムの評価についての話題になった。
 まず、自分の子どもたちが青年期を経て自立していく過程で、ずいぶん紆余曲折があり、そのあいだ、親は「しっかり展望をもっていないでだらだら生きている」という不安と不満をもつものだが、子育ての経験上、その長いトンネルを抜けたとき、「ああ、人間はなんとかなっていくものだ」ということを感じる、という体験談が出された。
 そこで今日の青年の特徴のひとつである「モラトリアム人間」の説明をした。自立して社会に出るという「刑」を「執行猶予」してもらい、大学で留年を続けたりするという傾向のことである。これを「嘆かわしい」とするのが、過去の論調の主流であったが、最近では「個人にとっての成長のプロセス」という意味があるととらえられるようになってきているという説明も加えた。
 これに対して、昭和18年に半年早く学校を卒業させられてしまった世代からは、「私たちにはそんなことを考える余裕もなかった。むしろそれよりもっと前は、そういうことが許されていたかもしれない。だから、現代的特徴とはいえないかもしれない」という興味深い指摘がなされた。
 つぎに、この「最近の若者」の話題に関して、会社の新人歓迎会を担当した若者から、「自分が呼ばれる飲み会だというのに、今の新入社員は参加してくれない」という話題が提起された。彼の会社は「自由な会社」なので、それは許されて「来たい人だけ来た飲み会」でそれはそれで盛り上がったが、なかには不自由(上司にビールついだり…)な会社もあるという話になった。
 ぼくは「よいわがまま、悪いわがまま」の説明をした。「よい」は、わたしがおもうようにわたしは生きたいで、「悪い」は、わたしがおもうように相手に生きてほしい、である。また、個人の自由と、親密な人間関係という両者を求める矛盾が、今日の若者を苦しめているのではないか、と発展させた。
 しかし、これに対して彼から「そういうことに苦しんでいないからこそ、新人歓迎会を平気で欠席してしまうのではないか」と異論が提起された。高齢の世代からも、「欠席はやはりわがままではないか」と意見が出された。
 そして、自由と親密は両立するのではないかということになった。しかし、そのためには、次の5点が必要という意見にまとまった。
@歓迎側の相手への配慮とともに、新人側の相手への配慮が求められること。
Aみんなで決めたことには従うこと。
B自由には責任が伴うこと。
C「あなたには関係ない」という考え方は改めること。
D自分の自由だけでなく「ほかの人の自由」も考えること。
 だが、ぼく自身は混乱して、これ以上はわからなくなってしまった。
 本題としては、「楽習図解ワークショップ―自分のための社会貢献」を、ブレーンストーミングおよびカード式発想法に基づいて行った。
 その成果は図表●のとおりであるが、出席ペーパーにもあるように、個人の立場や価値と社会貢献とが絡み合って多様な側面からカードが出され、対話をし、マップとして統合されたことは、一人一人にさまざまな気づきをもたらせてくれた。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■社会に役立つ人間になりたいとは誰もが願ってることです。しかし現実にはなかなか実現できません。自分の気持ちのなかでこうありたいと思うことを書きましたが、皆さんの観点が随分ひろがっているので感心させられました。考えさせられる授業でした。
■今日も遅れてしまいましてすみません。よくわからないままに参加してしまって、すこしのりおくれたという感じでした。「役に立つ」という言葉をどんなふうにとらえたら良いかわからずに、すこしとまどってしまいました。自分の中の人からみたら役に立っている行為でも、自分にとったらただの遊び、社会に対しての「役に立つ」という役に立ってるから行動するという気持ちやスタンスを否定的にとらえている自分を発見しました。
■「社会に役立つ私」という題で考えをだしあったけれど、個人的には「子どもを育てる」≒「次の社会をつくる」というのが一番むずかしいと思いました(実行・実現するのが)。なぜなら、他に出てきた「社会に役立つ」という概念を全て理解(もしくは意識)していないと進めないステップだから。子供を育てることってやっぱり大変だなぁと改めて思いました。PS 基本
的には僕も、飲み会に参加しない新人には反対です。考慮すべき点が多いことは確かですが…。
■社会に役立つをテーマに授業をしましたが、社会という言葉から入って来たのは学校、子ども、税金、グループ(PTAや友人たちとの活動)のなかにいる私しか出なかった。個人としてちょっと見つめ直しが必要かなと気付いたワークでした。
■日頃自分は誰からも必要とされない人間のような気がしていたが、自分が社会や他人に役に立てたら…、存在意義をつかめたら、張り合いがでて、結果、社会にも役立つ循環ができるんでしょうね。
■今日はモラトリアムについて、また個人と秩序について、立場によって全く考えが違うんだな、ということが分かりました。すこし話に出た、良いわがまま悪いわがままの2つにわけられるというのは、「なるほど!」と思いました。思っていた以上に、ちょっとしたことで社会の役に立てているんだな、と思うとちょっとうれしいです。みなさんの考え(やってること)ってすごいなーと感心しました。

13 他者が存在していてよかったということに気づく

 第4回の導入は、前回に引き続き、モラトリアムの評価についての話題になった。
 まず、前回の話題に関連して、次のぼくのメーリングリストでの発言を紹介した。

 以前、「父権の回復」について動揺した文章を発信して、おさがわせしました。きのう、眠れない夜を息子と話し込んでいて考えたことです。親の背中を見て育つ、ということについてですが、次のようなことに気がつきました。
 「自分には言うべきことで、相手に言ってはいけないことというのがあるのではないか」ということです。それをきちんとできていることが「自分の背中で相手を育てる姿」なのではないかということです。
該当例
@「不透明な時代ではあっても、明るい希望をもって生きていったほうが幸せである」
A「もっと明るい展望を見つけ出すために、やれることから始めたほうがよい」
B「○○は依存している証拠だから、それを克服して、もっと自立に向かって努力したほうがよい」
C「以前の友達関係に未練をもつより、現在の環境で可能な友達をつくることを考えたほうがよい」
(以下は追加―昨晩の話題とは異なる)
D「ふられることを恐れていては愛は獲得できない。勇気をもって見返りを期待せずに告白したほうがよい」
E「ふられたとしてもほかにもいっぱい異性はいるのだから、そちらのほうに目を向けたほうが得策である」
F「わかってもらえないからといってふてくされていても、結果はますます悪いほうに向かってしまうんだよ」
 ようは「わかってはいるけど手につかない」ということについて、相手にそれを指摘しても相手は頭ではわかっていることだから他者(対等な親友を除く)や親から言われても逆効果になってしまうが、親自身は「自分は変えられないから」といって居直ることなく、少しずつそういう努力をしていればよいのではないかということです。そして、相手(この場合は子ども)に対しては、本人がその気になるまでは本人の内面的成長の可能性を信頼して見守りつづけるということです。
 繰り返しますが、ぼくにはその自信はありません。ただ、ぼくがチラッとだけ考えていた「始めの一歩の励まし方」には通じるものがあると思います。

 受講者からは、次のような話が出た。「まわりから見れば、ただ、だらだらしているようにしか見えないのだろうが、本人は真剣に考えている」、「考えないで暮らしている人はいない。スパンを長く見てあげたい」など。モラトリアム真最中の人、子育て真最中の人、なんとか子育てを終えようとしている人、モラトリアムなんか許されなかった時代の人、多様な人たちが分かり合おうとする話し合いになった。ぼくは、受容、信頼、見守ることの大切さとしてまとめた。
 本題としては、「楽習図解ワークショップ―楽しい学習と双方向教育」を行った。本当は「教育=学習の援助」になるべきなのだろうが、実際には「主体的な学習」を阻害するような結果に陥りがちな実情のなかで、これをイコールに近づけるためにはどうしたらよいか。ぼくの結論は「たどりつかない彼岸(イコール)に向かって、深くて昏い河で船を漕ぐしかない」というものだが、今回、「私がもらった『いい言葉』『いい影響』」というテーマで、一人一人の宝物のような体験を紙切れ法(カード式発想法)で出し合ってもらって、これを探ることにした。
 その成果は図表●のとおりであるが、出席ペーパーにもあるように、他者からもらったいい影響を、さらにこのワークショップで伝えたり、伝えてもらったりすることによって、「大切な宝物」を分かち合うという「とてもほかほかした気分」のサンマを味わうことができたと考えられる。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■永い年月の間に、いい言葉はたくさんたくさんもらってるはずなのに、私の人生を変えたと思われる程の言葉はすぐには思い出せませんでした。相手や自分が豊かになれるいい言葉を持ちたいと思います。
■子どものときあれほどいやだった勉強が今はとても楽しい。今からでも遅くないと思って、これからもいろいろなことに挑戦したい。有能な人間とは常に学ぶ者である。
■授業はすこしだけわからないところもあったけど、あとはおもしろかったです。ありがとうございます。私が先生になるとき、今日の授業のような方法を使いたいとおもいました。本当に良かったです。ありがとうございます。(ゲスト参加の留学生)
■よかったと思えた言葉が浮かんでこないのに愕然とした(授業が終わった後でいくつか思い出されたが)。今後、私も人によかったと思ってもらえる言葉がけを心掛けよう。
■今日はみなさんの大切な宝物を分けてもらったような、とてもほかほかした気分です。私は今回、友達のことばっかり書いたのですが、考えてみれば歌詞や詩などにもジーンとくるものがたくさんありますね。今回、自分は、友達(親友)に恵まれているなとうれしく思いました。「自分には言うべきで、相手には言ってはいけない言葉」について、いろいろ該当例がありましたが、私はいってもかまわないと思います。でも、「だからどうするべきか」「こうやってみては」など具体的にいってもらいたいです。
■ワークショップはなかなかでなかったなあ(時間がかかりました)。忘れかけていたのか、いつも言葉がけをされるからか? 認められる以前に「ほめられる」ということが、2カードしかなかった。ほめられたいけど、自分もほめていないな、子育てについて。

14 いつもの「自分の枠」から出て話ができる

 最終回の第5回の導入は、「気づいたときから始められる生涯学習」の話題をぼくのほうから提起した。
 前回の出席ペーパー「子どものときあれほどいやだった勉強が今はとても楽しい。今からでも遅くないと思って、これからもいろいろなことに挑戦したい」と、カード式発想法の「成長には時期がある。その時に必要な学習がある。格言=彼岸すぎの麦の肥」をもとにして、その関連をどうとらえればよいかということについて説明した。その内容は次のとおりである。
 最近、AC問題が盛んにいわれており、その背景として、交流分析でいう「生育歴」による人生脚本の重みと、その書き直しの意義が注目されている。一方、ぼくは、生涯学習については「気づいた時から始められる」という見方を主張している。たとえば、発達段階の初期のころに人間に対する絶対的な信頼感を十分には獲得できなかった人はどうなるのか。その後の、「癒しのサンマ」との出会いなどにより、それは回復しうると考えるべきなのではないか。しかし、それは、交流分析による生育歴の書き直しに匹敵するのものなのかもしれない。いずれにせよ、以前から述べているとおり、いわゆる「ふつうの人々」にとっての「癒しのサンマ」の重要性を認識すべきなのだろう。
 つぎに、出席ペーパー「自分には言うべきで、相手には言ってはいけない言葉について、いろいろ該当例がありましたが、私はいってもかまわないと思います。でも、だからどうするべきか、こうやってみては、など具体的にいってもらいたいです」について、他者の援助の言葉のあり方について考えた。
 話し合いの結果、次のようにBを加えて整理した。
@自らもリスク(危険)を背負って発言する(例=私だったらこうする)。
A批判するときは、心を痛めながらも批判する。
Bなるべく具体的な方法を述べる。
 本題としては、「楽習図解ワークショップ―自分らしさを世界に発信!」の予定であったが、すでにホームページには今までの成果等を掲載しているので、それに引き続き、「わたしにとっての私らしさのワークショップ」というテーマで、これまでの振り返り(シェアリング)のためのカード式発想法を行った。
 その成果は図表●のとおりである。「わからなければわからないなりにそれなりの答えがあるから最後まで答えが出なくてもいいんだ」という出席ペーパーからもわかるように、自己の「無知と非力」や「あなたはあなた、私は私」という真実に気づくのみならず、その受容(自己受容)に至る個人の深いプロセスにまで、「私らしさのワークショップ」がそれなりに役立てたことをぼくは自負したい。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■本当に今回講座に参加してよかったです。たくさんのいろいろな人と出会えて(紹介していただいて)、今までの自分を再度見つめ直すことができ、また自分にとって興味あるものがなんとなくですがわかってきました。4月からは○○大学でがんばります。引き続き受講したいのですが残念です(もし学校が休みの日なら参加したいです!)。ありがとうございました。フリースペースも、今回、ほぼ毎回参加させてもらいました。お酒好きの私にとってとてもうれしかったです。今日少し話に出ましたが、「自分の枠」から出て話ができる(しかも全く違うかたと)のはここぐらいじゃないかと思います。
■(mitoが出張した)北海道はどうでしたか? 一番雪が降った時じゃなかったかしら。ワークショップでもっと皆がしゃべれる時間がほしかったかな? 「一応おつかれさまでした」。
■今回で最後というのが意外でした。なんだかすごく早く終わったような気がします。前期、後期の講座で教えてもらったゲームを使ってみたいと思います。他人との出会いや他人との関わりをすこしだけ楽しく感じた時間でした。
■世の中にはいろんな人がいるなあと思った。講座に参加して人と出会うのが楽しくなった。
■一方的ではなく、一人一人を大切にしてくださる講座に参加できて本当によかったと思います。受講者の方々はどちらかといえば引っ込み思案の方が多いと思われましたが、常に意見を引き出すような進め方だったので、みんな楽しかったのだと思いました。ありがとうございました。
■「違うからよかった」というグループが、今回のカード式発想法で出てきましたが、どうもこれには引っかかります。本当に違うからよいのか? 違うという言葉はどういう意味で使われているのか? ぼくは違うからよいのではなくて、「違う」の向こうにある「同じ」のゆらぎがよいと思う理由ではないかなと思います。何もかもまったく違う者は、理解も共感もできないのではないかと思っています。短くうまくまとまりませんがなんとなく疑問を感じたので。
mito∨鋭い指摘に感謝するとともに、尊敬の念を覚えます。今回のカード式発想法の成果に採り入れさせていただきました。
■今までの講座を振り返って、心の揺れとか振動を味わったかしらと思います。やはり実感をともなった心のふれあいを再認識できたのがよかったし、今後こんな体験を実生活で生かせたらいいかなと、今そんなことを考えています。10回にわたりありがとうございました。インフルエンザにかかり2回ほどお休みみさせていただきました。でも家にいる間、今日の講座はどんなテーマだろうか、フリースペースではどんな話題が出たのかしら、とずっと気になっていました。
■この講座に参加した最初の頃、テーマのとらえ方がわからなかったり、どう表現すればよいのかとか、いろいろ悩みました。あとになればなるほど自然体のままでいいんだ、わからなければわからないなりにそれなりの答えがあるから、最後まで答えが出なくてもいいんだ、と思うようになりました。飾らなくてよい自分を再発見しました。ありがとうございました。














































































































mito  原稿 社協ラシサ.doc 印刷日時:99/03/31 19:14  8/24

mito  原稿 社協ラシサ.doc 印刷日時:99/03/31 19:14  21/24

弘文堂『福祉社会事典』原稿
 徳島大学大学開放実践センター助教授 西村美東士

リカレント教育
 教育をこれまでのように人生の初期に集中させるのではなく、個人の生涯に分配し、必要に応じて反復的に受けられるようにすること。1970年代にOECD(経済協力開発機構)が提唱した。なかでも、高等教育機関が職業人を対象に職業上の知識・技術を学習内容として行ういわば狭義のリカレント教育を、文部省は「リフレッシュ教育」として推進している。さらに、リカレント教育の意義を広くとらえると、従来の学歴偏重社会における固定的な高等教育ではなく、人生の生涯にわたって行われる生きた学習こそを重視することになる。これは、個人に対しては、「過去の文化遺産」にしがみつく生き方から「今を生きる」生き方への転換を可能にする考え方でもある。
(西村美東士)

発達課題
 R.J.ハヴィガースト(Robert James Havighurst)によれば、人間の生涯にわたるそれぞれの時期において学習することが望ましい課題。1950年前後にハヴィガーストは、たとえば青年期の発達課題については、「結婚と家庭生活の準備」などを挙げた。しかし、1960年代、E.H.エリクソン(Erik Homburger Erikson)は、青年期の発達課題をアイデンティティ(identity、同一性)の獲得とした。これは、楽観的なハヴィガーストの説とは対照的に、現代社会におけるその獲得の危機を前提としている。さらには、自分の所属する企業と一体化してそこにアイデンティティを求めてきた会社人間、そういう夫から疎外された妻たち、核家族化の進行の中での高齢者などの現代人の姿は、アイデンティティの確立が、青年期ばかりでなく、すべての世代にわたって危機的な状況にあり、重要な課題であることを表している。この例のように、発達課題は、そもそも全生涯にわたる適応過程として存在する。一方、発達には「順序性の原理」が働く。そして、発達課題の達成については、これに失敗すれば、その後の課題の達成は困難になるといわれる。最近は、臨床の研究などから、ほとんどの社会的不適応の原因を幼少期からの家族関係に求める議論等もあるが、その場合、この「順序性の原理」だけを機械的に適用すれば悲観論に陥ることになる。男女共同の子育ての風土づくりや教育システムの改革などの社会的視点、個人の自己変革主体としての可能性の評価などの教育的視点などによる変革の要素が重要である。生涯学習の議論においても、固定的な発達課題論から脱却し、個々人の多様な発達のあり方を柔軟に受け止め、「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも、気づいたときから始められる」という姿勢が求められる。
[主要文献]
R.J.Havighurst, Developmental Tasks and Education, David Mckay, 1948.
E.H.Erikson, Identity and the Life Cycle,International Universities Press,1959(エリクソン著/小此木啓吾訳編『自我同一性』誠信書房,1973).
(西村美東士)

生涯発達
 人が誕生してから死に至るまで、常に絶え間なく発達しつづけること。80年代ごろにこの概念が普及するまでは、成人期前期の「頂上」以降、上昇ではなく、下降として考えられていた。しかし、高齢化の進行と、それに伴う研究の深化等により、老年期であっても成人期以上の水準を示すものがあることが明らかになり、発達が全生涯過程においてとらえられるようになってきた。生涯発達の社会的支援のあり方に関しては、@人間には生涯の各時期に応じた発達課題があるのだから、それぞれの時期の課題に適した学習を行えるようにする、A人間は一生涯、つねに多様に発達し続ける存在なのだから、本人が気づいたときにいつからでも何でも始められるようにする、という2つの観点が成立しうる。しかし、少なくとも、生涯の各時期における「発達課題」を固定的に受け止め、そのまま各時期の「教育目標」として、対象に押し付けるようなことがあってはならない。さらには、発達だけを重視する価値観自体さえ、現代においては疑問視される。家族関係の病理、教育システムの弊害、内なる同一化志向などから、人びとの心が傷つきがちな現代社会においては、勤勉主義的に発達を追求するだけではなく、生涯にわたって「癒される」機会を意識的に創造する必要がある。この点で注目すべきは、セルフヘルプグループのほか、生涯学習、ボランティア活動、地域活動などの活動である。これらの活動は、多様な価値基準をもつ各人の自己決定を前提としたネットワークであるがゆえに、たがいにピア・コンセプト(同輩意識)の抑圧から解放され、あるがままの自他が相互に受容される条件をもっている。そこでは、教育が追求してきた発達・成長だけでなく、癒し・安らぎの場が保障される。個人にとっては、その自他受容は、建設的な自己変容の基盤にもなる。それは、たとえば基本的信頼感の獲得という課題について、全生涯過程において継続的に発達し続けることを示している。
[主要文献]
東洋他編『発達心理学ハンドブック』福村出版,1992.
西村美東士『癒しの生涯学習』学文社,1997.
(西村美東士)
癒しの大学開放
 −徳島大学大学開放実践センター公開講座「私らしさのワークショップ」報告−

西村美東士


University extension for healing:
A report of an extention course, "Workshop of real SELF"

Mitoshi Nishimura

1 癒しの大学開放をめざして

 ぼくは、自称「癒しのサンマづくり」提唱者である。詳細は自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、1997年4月、1998年3月増補)を参照していただきたいのだが、いずれにせよ、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答えの一つが「癒されること」であるという気持ちで本書を書き通した。しかし、同時に、本書では、癒されるためには、
@ 自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、
A 他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、
B 社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる。
以外に方法はないという主張もしている。
 前年度から、ぼくは、徳島大学大学開放実践センターに勤めている。そこでも、大学教育や、その重要な一環としての大学開放において、「癒しのサンマづくり」が重要であるという思いを強くしている。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピアコンセプト(同一化に向かう仲間意識)によって個人が傷つけられ続ける現代日本において、大学の授業にせよ、市民のための大学公開講座にせよ、真実に気づくことによって、あるいは他者との意味ある出会いをすることによって人間が癒されることの意義の大きさを、大学教育側は十分理解する必要があると思う。それは、最近の悲惨な暴力的事象を考えても、逆に市民の自己決定活動などにおいて見えてきた共生への展望を考えても、緊急の課題といえるのではないか。また、これは、大学教育において最近ますます軽視されがちなリベラルアーツ(一般教養)の教育的意義の再評価にもつながると考えている。
 「サンマ」とは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが「今の子どもにとって『遊びのサンマ』が欠けている」と提起したときの言葉である。たしかに、今の子どもたちは、与えられた課題をこなす時間の過密化による自由時間(時間)の不足、冒険できる場(空間)の不足、群れて遊ぶ友達(仲間)の不足にあえいでいる。しかし、青年や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。ぼくはそこで現代人が求めているものを「癒しのサンマ」と呼ぶ。サンマであるから、日常の家庭、学校、職場のすべての時間を癒しの時間に当てようというわけではない。せめて1週間に1回くらいはサンマがあって、「ああ、○曜が近づいてきたな」と思えるだけでも、その1週間を元気に暮らせると思うのだ。
 生涯学習の学習方法についても、とりわけ「集団学習」について、その観点から問題提起したい気持ちがぼくには強い。「集団学習」とは、集合学習のうち、団体活動や学級・講座などの学習者同士の相互教育が期待される学習方法である。集団というと全体主義的なマイナスイメージもあるが、現代の人々が求めているのは、集団というよりもゆるやかな人間関係のネットワークによる癒しのサンマなのだと思う。もちろん、きのうの自分より今日の自分が、また一つ大きくなった、または変容したという成長の喜びにも大きいものがある。しかし、もう一方の「自他が両手を広げて歓迎しあえる」という現代社会では突出的ともいえる無条件肯定の関係性も、自己成長と並んで重要な生涯学習活動の魅力ととらえるべきであろう。癒しのサンマでは、あるいは知的水平空間では、批判さえも、相手の気持ちを思っての心を痛めながらの批判であり、相手の存在の否定にはならないのである。

2 自己中心主義の評価

 それにしても、癒しというと、一般的には後向きにとらえられるかもしれない。しかし、ぼくがこの本でいいたかった「癒しの生涯学習」は、後向きの価値観を最初から排除することはしないものの(そこが従来の教育の価値観と違うところである)、結果としてはむしろ前向きに終わるであろうものである。ここでの後向きとは「口は災いの元、だから表現しない」などの敗北主義、前向きとは「表現して、わかりあえればすばらしい、わかりあえなくても仕方ない」というネットワーク型の態度を指す。そもそも「癒しのサンマ」という言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。
 だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういうぼくの主張を嗅ぎ取って、ぼくの授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。一部の敏感な今の学生のなかには、次のようにいうものがいる。「癒しの生涯学習という言葉が悪いのではない。それよりも、それで私がほんとに癒されるの? 私はちょっと信じる気にはなれない」。社会教育現場でよく言われがちな「あなたの立場を考えれば、癒しのような個人的なことがらはなるべく避けて、地域や社会の改善のための学習をすべきだ」という言葉などより、彼女の言葉は、自己の臨床的真実に基づいた実感の伴った「私メッセージ」になっているのである。
 先日、A市公民館職員の自発的な勉強会が主催する会で講演をした。そこにぼくを呼んでくれたSさんが、インターネットのメーリングリストで、次のように事後報告をしてくれた。

 実は、公開講座のある参加者に、「癒しはエゴだ」「なぜ公民館で『癒し』という利己的な課題を取り上げなければならないのだ」「あなたたちの作ったピンクの表紙の冊子は、『公民』というところが出ていてよかったが、なぜみとちゃんを呼んだのだ」等等ということを言われました。
 mito理論をまだ十分に思想化できていない私は、「たぶんmitoさんは、『エゴで何が悪い』と言うと思う」「mitoさんは、癒しという私的課題と、社会貢献ということを、統一させることをめざしているのだ」と反論するのが精一杯でした。
 おそらく、批判者は、「現実から、癒しへ逃げるのではなく、現実と格闘せよ。そこから自己のアイデンティティを確立せよ」「現実から逃避しようとする、今の『やさしい』若者達は、いずれ破綻せざるをえない」というような考え方なのだと思います。

 これに対してぼく(mito)は次のようにレスポンスした。

 すみません。そういわれたとき、いわれたほうはどういうふうにその人に共感すればよいかということについて、ぼくの考えを述べます。
 公民館なんだから「公民」であるべきだ、と思っている人の信念と、「いや、じつは癒しのサンマの創出こそが、現代社会において突出的な公共的課題なのだ」と思っている私たちの信念と、どっちが真でとっちが偽か、という争いをした場合、これは不毛な結果に終わるでしょう。
 そんなつまらないことよりも、そのクレームをつけてくれた人「自身」が、少なくとも公民館においては自分は「公民」として学習したいと心から思っている、その「実感」については、私たちはだれもあざけったり、否定したりすることはできないと思います。いや、むしろ、それはそれでとてもすてきなその人の人間としての可能性といえるのではないでしょうか。
 このように考えれば、多くの住民の存在を肯定的にとらえることができるでしょう。すなわち、「個の深み」こそが、私たちの出会うべき焦点であるということです。

 また、Sさんは次のようにも書いてくれた。

 ちなみに、私がmito理論に惹かれたのは、「ミーイズムのどこが悪いのか」「あなたはあなた、私は私」という主張に「癒し」を感じたからなのだと思います。

 これに対しては次のようにレスポンスした。

 ぼくもそういうぼく自身の思考方法に魅力を感じています(へんな表現ですね)。人間は自分自身(の存在価値や生き方や快感)にとてつもない関心を払って生きている存在だから、出会ってもおもしろいのじゃないでしょうか。もしそれがなければ、自殺も考えないし、嫉妬もしないし、犯罪も起こす気にならないつまらない存在に陥ります。そこでの葛藤に人間的真実がある。もちろん、ほんとうは自分を中心にして地球が回っているのではない、という気づき(これを「楽園追放」という)は大切です。しかし、その気づきの上で、なお、それでも自分の人生を大切に生きていきたいという住民の欲求の実現を支援するのが社会教育職員の役割なのでしょう。
 そのためには、利他的利己主義という言葉がとてつもない強力なヒントを与えてくれると思います。自己中心主義どころか、利己主義であってもいいじゃないですか。真に自己の快感欲求を充足しようとするのなら、1週間に1回ぐらい癒しのサンマという「おうち」を得た上で、さらには「社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる以外に方法はない」(ああ、また言ってしまった)といえるでしょう。公民館には、住民がそういうことをできるチャンスがいっぱいあると思います。
 それから、最初の「あなたたちの作ったピンクの表紙の冊子は、『公民』というところが出ていてよかったが、なぜみとちゃんを呼んだのだ」と言ってくれた人についても、その人が公民館で「公民」として活動することによって「利他的利己主義」が満たされているというその人自身の実感の言葉をしゃべってもらえば、これはとても意味のあるけんちゃんとその人との出会いに転換することができると思います。やっぱ、人間っていつかは死ぬし、つまり人生って有限なんだから、ディベートのようなつまらない時間より、意味の充満した時間を過ごしたいですよね。

 これから報告する「私らしさのワークショップ」も、市民の実感の伴う「自己中心主義」を掘り起こし、「癒しのサンマ」の提供と、その作り手としての自己変容につなげようとしたものである。

3 公開講座「私らしさのワークショップ」

 ぼくが勤め始めた平成10年度、徳島大学大学開放実践センターの公開講座は13年目となり、約70科目の公開講座を市民に届け、夏季・冬学期講座、土曜・夜間講座の拡充、リカレント教育講座の新設、郷土関連の講座の拡充、放送公開講座に連動した講座、市民と高校生がともに学ぶ講座などに重点的に取り組んだ。
 そこでぼくが企画した講座が「私らしさのワークショップ」である。その趣旨は次のとおりである。

 現代人の生涯学習に向かう主要な動機の一つとしての「自分らしさ」の危機と、それへの願いを取り上げ、参加者一人ひとりの臨床的真実を引き出しながら、生涯学習、ボランティア活動、市民活動等の自己決定活動のあり方を明らかにする。
 このワークショップにより、「笑い声の絶えない」「一人ひとりが自然にその気になる」ような成人の能動的な「楽習」を実現するとともに、地域のキーパーソンを育て、インターネットを通して、その成果を、大学や社会全体にアピールする。

 秋学期でのパンフレットの市民に向けたメッセージは次のとおりである。

 私らしさってなんだろう。自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶ生涯学習が大切にされる今日、若者、サラリーマン、主婦など、たくさんの人が、生涯学習活動のほか、ボランティア、市民活動などの自己決定の生き方を味わっていらっしゃいます。
 この講座では、ワークショップ方式をとり入れ、「もう、やってるよ」という人も、「ちょっと照れるぜ」という人も、対等の立場でいっしょに講座をつくっていき、楽しく学ぶことを通してワクワク、ドキドキしながら"自分らしさ"を発見します。さらには、その成果をインタネットで発信することも計画しています。

 冬学期は次のとおりである。

 私らしく生きたい。あるがままの自分が両手を広げて歓迎されるサンマ(時間・空間・仲間のサンマ)がほしい。生涯学習活動や、ボランティア、市民活動などの自己決定活動のなかで、そのような相互受容のサンマが、現代社会のなかで生まれつつあります。
 この講座では、秋学期に引き続き、ワークショップ方式をとり入れ、癒される「楽習」(楽しく学ぶこと)のあり方を探っていきます。今回はそれを図解する作業を試みます。そこで作られた成果は、インタネットでも発信する予定です。

 各回のテーマと要点は表●のとおりである。なお、それぞれのワークショップの技法については前出『癒しの生涯学習』のほか、『こ・こ・ろ生涯学習−いばりたい人、いりません−』(学文社、1993年3月)を参照していただきたい。
 また、講座閉講中も、火曜日についてはセンターにて自主的な集まりをもつことができることとした。これはあとになってメンバーから「裏講座」と名づけられ、毎回の「表講座」の終了後に行った「フリースペース」とともに、自然体の交流ができたように思う。ぼくなどは大したアカデミズムをもっていない人間だが、それでも教員の研究室や、ときには自宅にまで押しかけて自然体の交流をするという現役学生の大いなる特権を、学生ではない市民にも味わってもらえたということは、「裏側の大学開放」として重要だったと思う。本稿では、その成果についても報告したい。
 それぞれの回に対する受講した市民の反応(出席ペーパー)を通して特徴的なことは、「大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?」というペーパーに象徴されるような、現代人としての市民一人一人の大学開放を通じた生涯学習への関心であり、とりわけ講座自体を「癒しのサンマ」の一つとしてとらえようとする信頼、共感、自立に向かう潜在的願望である。

4 他人に関心を寄せることの意味

 秋講座第1回は「第一印象ゲーム」(坂口順治「実践・教育訓練ゲーム」日本生産性本部)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@自分らしさとは何か、考える。
A人と出会うということは何か、考える。
B相互承認の人間関係づくりのコツに気づく。
 次のような出席ペーパーが提出された。なお、mito>以下はぼくが次の回で行ったコメントの内容である。これらはすべて受講者にインターネットメールで随時フィードバックした。
■最初はドキドキ、どうなるんだろう、など、自分がいちばん不得意なパターンのゼミかな、と思ったのですが、いろんな人たちがいて、これからが楽しみです。でも、今日は、少し時間が短い感じがしました。
mito>初対面なのにいきなりやるの?、ということでしょうね。指導者はそういうマイナスの気持ちを大切に保っていてほしい。それから、時間については、ぼくがじつは「詰め込み主義」になっちゃう癖があるんです。勝負のかけすぎ、というところかな?
■できることから始めよう。
mito>んっ? 始めの一歩の話ですか? それなら、ぼくも。「大胆に、ではなく、何cmかをおずおずと踏み出すのがコツ」!
■第一印象ゲームはおもしろかったです。これからどんな講座になるのか楽しみです。
mito>はい。あれは坂口順治さんの本からのパクリですが、妙に自然で、自他への肯定的な関心が高まるゲームだと、ぼくも感じています。
■第一印象ゲームが楽しかったです!! でも、自分の見る目って、案外ないなぁーと思いました。あまりにも当たらなかったので・・・。学生時代に戻ったような新鮮さがありました。
mito>うーん、学生時代に戻った・・・、授業ですか、友達関係ですか? 後者が大きいのでしょうね。友達は何歳になってもほしいのに、卒業、就職、結婚、出産などがあるたびに、どんどん減っていく。とくに異性の友達が。
■第一印象ゲームでは、自分の第一印象があまりあてにならないのでは、と思った。第一印象にこだわらず、人とおつきあいしていきたいと思った。グループ内では雑談などして、とても打ち解けたように思った。
mito>偏見の恐さ、というところでしょうかね。それから、雑談も、歯の浮くような社交辞令と違ったからこそ楽しかったのでしょうね。
■「他人に関心を寄せる」、その言葉にいまさらですが、なんとなく、意外にも得心したりしています。講座のあとも時間を割いてくださり、集まる、と聞いて、なんだかわからないけれど楽しみな気分です。
mito>比べる視線、ではなく、その人のありのままへの眼差し、これがもらったほうも、あげたほうも、気持ちいいんでしょうね。これを肯定的ストロークといいます。もしかしたら、さらに無条件肯定的ストロークの雰囲気ができつつあるのかもしれません。
■人前に出ることが少なく引っ込み思案の私。でも、西村先生の最初のひとこと、「ぼくはしゃべりすぎるから・・・(mito>気をつけなくちゃ、と言ったと思う)」etcで、なんだかスコーンと気が抜けてしまった。身構えることなんて何も必要なかった。自分をよく見せようなんて、いみじい気持ちがなくなってしまった。これが本当に大学の公開講座なのかしら・・・。
mito>ぼくは授業でもいつも最初の10分ほどの立ち上がりが重いのです(;_;)。不安のせいだと思います。でも、そのぼやきともいうべき言葉が「有効技」?だったなんて、意外です。儀式のようにしゃちほこばらずに、のびのびと好奇心を働かせる。これが高等教育や学問のあり方だと思います。ぼくは、これを、知的水平空間と呼んでいます。
■こんな軽いノリでいいのだろうか・・・。んー、慣れればこれもなかなかよい。聞きながら(mito>出席ペーパーを)書くのはつらい。時間が足りん。開放講座では私は一度は居眠りするのですが、今回はありませんでした。またお茶飲ませてください。
mito>飲食自由です。フランス革命も市民のコーヒーを飲みながらのサロンが学習?や合意形成?の場であったとか。それから、出席ペーパーについては、慣れもありますし、あるいは、相性(たとえば集中して受講していたい人は書けない、でも、それはそれでいい)の問題もあるでしょう。気にしないでください。出席ペーパーの本質は「何でもアリ」と「自己表現の完全自己管理システム」にあるとぼくは思っています。マル秘、強制公開、発信者名公開、コメント希望、コメント不可など、どんなマークをつけていただいてもけっこうです。

5 他者の幸せを感じるときに共感する

 第2回はブレーンストーミング「幸せの瞬間」をカード式発想法(紙切れ法)で行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@他者に対する共感的理解が可能であることを実感する。
A自分とは異なる枠組をもつ他者が与えるよい影響を知る。
Bアンビバレンツ(両面価値)な実感を受容できるようになる。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■(当日は)日本シリーズがなくてよかった。
mito>はい、あったらもっと少なかったでしょうね。
■他人を「受け入れる」と「受け流す」って、表面的には似て見えるような気がします。どうでしょう?
mito>「受け入れる」を「許す」に変えると、きょうのロールプレイでやる課題です。なんでつながるんだろう、不思議だな。「許し」というのは「主張する」(「断る」)があってこその「許し」なんですね。
■幸せを感じるときって、若いときよりなんだか少なくなってきているように思うのは何ででしょう? それにしても人数が少なくなっているのも何ででしょう? こんなに楽し〜い講座なのにね。
mito>社会教育の場合、学校教育と違って、7割も出席すればすごい。個人がさまざまな事情のなかから自己決定で参加してくる。ただ、お金をもらってる関係から、ぼくにとってはプレッシャーである。
■女子大でブレーンストーミングを行ったとき、2/3が退席? これって何だろう。今日のワークショップ、もっと人数が多かったらおもしろかったと思う。
mito>今日のお願いトレーニングのほうがより過激である。加藤諦三が、現代の心理的特徴を「敵意と不満」として、次のように述べている(敵意と不満の自立=中毒社会ということについて、略)。そういうなかで、今日のトレーニングは「さわやかに依存しちゃおう」ということだから、やっぱりカルチャーショックが強すぎるのでしょう。でも、加藤のいう「ふれあい」を、ぼくはストロークと呼ぶ。人間はストロークをもらうために生きているという。まあ、楽しくやりましょう。
■女の人は、子どもとか、他者評価で生きている。これっていったいなんだろう。
mito>適正な自己評価のあり方について説明。ストロークのついでに横文字でいうとジェンダー(社会的文化的性差)という。ただし、最近は、男性のほうが社会的弱者のような気がする。自己決定活動にたずさわろうとするとき、変化を理由なく恐れるのである。
■紙切れ法はとてもおもしろかった。「幸せを感じたとき」は十人十色だけど、共感するものも「ン?」と思ったものもあった。時間が足りなくて残念。もっとやりたかった。
mito>やっぱり、ワークショップは、ぼくなんかがいなくても、仲間同士で楽しくみっちりやるのが本当なんでしょうね。

6 ハートが疲れたロールプレイ

 第3回はロールプレイ「お願いトレーニング」を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@フラストレーションに耐えて自己主張を続けられるようになる。
Aちょっとしたことぐらいでは負け犬にならない自信をつける。
B人それぞれの自己主張法を知り、自分の主張法を改善する。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■お願いすることも断るのもとっても苦手です。要するに人が良すぎる。長所であり、短所です。今日のワークショップはハートが疲れた。
mito>すみません。たしかに人が良いのは、長所であり、短所でもありますね。まあ、それこそが自分らしさなのでしょうか。ただ、「生きづらい」と感じたときには、少し、ほかの「物語」を取り入れるとよいのかもしれません。
■お願いすること、それもあつかましくすることは、とっても大変だった。心のすみで、「ああ、申し訳ないなあ」と思いながらプレイしていたから、それがかえってストレスになったかな? でも、また演じてみたい気もする。
mito>けっして「あつかましくすること」だけが「お願い」の方法ではないでしょうが・・・。他者のいろいろな方法から、取り入れられるものは取り入れられればいいですね。
■頼むのも断るのも難しいですね。基本的に頼まれた場合は、できることならだいたい受けるんですが、頼む場合は一度断られたら、何度も頼むことはしないです。
mito>頼むのも断るのも2回目からが難しいんですよね。「もう、いいや」という感じで。でも、ほんとうの許しは断りのあとにくる。それこそが「信じて頼りあう信頼」の本質だ。現実には難しいかもしれないけれど、そういうふうに思うのです。
■男は女の涙には弱いってことか。
mito>ははは。たしかに弱いとは思います。ただ、「あなたが、どうにかしてちょうだい」という依存的な涙はいやですけど、「とにかく泣かせて」という涙はいいもんですね。
■自己主張はしたいのですが、意志が弱いので発言はしないで終わることがほとんどです。上手に話しができればと思います。
mito>上手な話し方のほうは、上手な自己開示のほうに深く関連しているのではないでしょうか。自己主張のほうは、自他への信頼感の獲得が大きいと思います。
■ロールプレイの目的と違うかもしれませんが、相手の考えていることを早くつかまないと断れないし、お願いできないと感じました。また、1回ロールプレイすると、普通の会話より同志的な感じになって、おもしろかったです。でも、少しストレスになりましたが。
mito>同志的になる、というのがおもしろいですね。あれだけ、断ったり、逆にずうずうしくお願いしたりするのに、そこにこそ信頼関係が生ずるということではないでしょうか。
■どうして少ないのかなあ。本当にもったいない。楽しい授業なのに。「今の女はジェンダーフリーだ」とmitoさんは言ってましたが、そうでもないですよ。学生のころなら平等だったかもしれないけど、社会、家庭では、ジェンダーバイアスがあります。なぜ、女は黙ってしまうのでしょうか? 愛しすぎる女・・・、女になっちゃうんですよね。
mito>このように、講義のテーマと関係ない出席ペーパーも、不思議に講義と連動して重要な刺激を投げかけてくれます。講義はライブだ、というところなんでしょう。
 なお、ぼくは次のように付記した。「今回は少し過激すぎたようです。終了後、例によって、フリースペースをやりましたが、みなさん、心がしんどかったようです。今回のトレーニングの基盤となる「言いたいことは言っていいんだよ。どうにかなるよ」という支持的風土の共生社会を、今後、敵意と不満の自立=中毒社会全体では無理でも、このワークショップだけでもゆっくりと創り出していきたいと思います」。

7 自分の価値観に気づく

 第4回は「価値観ゲーム」(前掲坂口)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@自分らしさについて再確認する。
A他者に対する関心の持ち方を体得する。
B自分さがしをする現代人のこころを理解する。
 テーマは結婚相手の判断基準(一対比較法)とした。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■愛情のある暴力はないと思いますよお〜。今日は(価値を)選択するのが難しかった。容姿はやっぱりキムタク+竹野内豊みたいな人がスキなのに〜。なぜ?! 心って正直だわ〜。愛情1位なんて。
mito>容姿1位ではなく、愛情1位だったことで、「心って正直」というのが、とても面白く感じました。
■他人に肯定的関心をもつ・・・。共感能力に自信がないので、心してつとめよう。
■自分はこんな価値観をもっていたんだなあと、あらためて思った。でも、このゲームをプレイする前の自分の予測と違っていたのは意外だった。価値観って、一生変わることはないのかしら・・・。
mito>日々、どんどん変わっていくのでしょう。これを「変容」といいます。気合を入れた「自己変革」とはちょっと違うと思います。他者の異なる「枠組」と出会う「楽習」により、自己の価値観、判断基準等の「枠組」「準拠枠組」に気づき、そのことによって自己の「枠組」そのものが変容します。「枠組変容」こそがダイナミックな学習の意味合いなのでしょう。
■自分の価値観がはっきり出ることに驚きました。各人それぞれの価値が異なることが面白かったです。
mito>そう、意外に思われるでしょうが、他者の価値が自分と異なることは、そこに支持的風土があるという条件のもとに限り、「面白い」ことなんですよね。
■「言いたいことは言っていいんだよ」という社会の実現は難しいでしょうねえ。その言葉は、社会を構成する各個人に対して、かなり高いレベルの要求を出しているように思います。やっぱり言わないほうがいいことというのはあるわけで・・・。でも、言いたいことを「タブー」として不必要に言わないというのもどうかと思うし。落としどころが難しいですね。
mito>現実社会、現実の人間関係ではそうでしょうね。その場合、「落としどころ」という表現がとてもぴったりしていると思います。ただ、受容的、支持的雰囲気が社会にもっとあればいいのにな、と思います。
■今の若い人(30代以下)って自己開示しないですね。安心してコミュニケーションできる場面がないのかもしれない。人と違っていいという安心できる社会がないのかもしれない。今回のワークショップで、容姿が一番でしたが、容姿は人柄です。よくばりな私です。愛って何ですか? (フリースペースにて飲みながら執筆)
mito>自己開示については、ジョハリの4つの窓という考え方があって、たしか、自分も相手も知っている自分の窓(領域)を広げればいい、ということだったと思いますが、「ちょっとどうだかなあ」とぼくは思っちゃいます。それよりぼくは、「開きたい自分(のカケラ)を開きたい所で開けばいい」というレトリックを作っています。

8 「あげる」と「もらう」だけの相互協力

 第5回は「スクエアゲーム」(前掲坂口)を行った。ぼくのねらいは次のとおりである。
@相互協力過程を理解し、他者を配慮する経験をもつ。
A集団の形成プロセスについての理解を深める。
Bネットワーク的なギブ・アンド・テイクの精神を理解する。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■秋の講座は終わってしまったけれど、これから何かが始まるような気がする。
mito>秋の講座は、たまり場、居場所を開始するための雰囲気づくりをした、というところですかね。
■ポーカーフェイスでいることのむずかしさ。言葉も表情も出さずに、相互協力をするということは、日常経験していないだけに、とても大変なことだった。今日は秋の最終回だったけど、結構楽しい講座でした。冬も続けます。よろしくお願いします。
mito>説明不足だったかもしれませんが、このゲームのねらいは、ポーカーフェイスというよりも、言葉でほしがったり、指図してはならないという意味で沈黙であり、カードをほしいという目つきをするのも禁止、ということです。でも、そういう各人の自発性に基づく「あげる」と「もらう」だけの相互協力が、ネットワークのギブ・アンド・テイクのあり方を教えてくれているのでしょう。
■途中参加で戸惑いましたが、メンバーに救われて、すぐにゲームに参加できました。意思表示ができないのが、こんなに大変なことなんだと思いました。しきりたい自分がはっきりして、面白かったです。今回の講座に参加して、緊張したり、勇気をふりしぼったりと、普通の講座とは違って、自分の確認が少しできたかなという感じです。
mito>「しきりたい自分」の発見は意外だったでしょうね。
■自己開示については先生のご意見と同じです。スクエアゲームでは、全体を見る目が全然ないことに気づかせられました。インターネット、パソコンについては何もわかりません。まったくの機械音痴です。ちょっとのぞきたいだけです。ご迷惑とは思いますがよろしくお願いします。
mito>どうぞお気軽に徳島大学大学開放実践センターにのぞきにきてください。
■秋期の講座は今日で終わりですが、これから裏講座や冬講座、合宿等で楽しくなりそうですね。よろしくお願いします。
mito>「裏講座」というネーミング、ぼくも気に入りました。さっそくパクらせてもらいます。
■今日で一応私らしさのワークショップTが終わりましたが、11/24から、また、みなさん、そしてmitochanにお会いできるというサプライズ、どうもありがとうございます。あっ! きょうの感想、ポーカーフェイスはむずかしい・・・。
mito>喜んでもらえてうれしいです。「そんなの、別にいらない」といわれそうで不安だったのです。まあ、裏講座ですから、どなたでも、無理せず、来たいときに来てください。

9 裏講座で多角的交流

 「裏講座」第1回は、職員旅行中に神戸から寄ってくれたメール仲間、A市公民館主事Sさん(前出)を迎え、「最近食べたおいしかったもの」を含めた自己紹介をした。話題は、「なぜ、このワークショップに参加しているか」などであった。
 受講者には次のメッセージを送った。「ご事情で秋の表講座に数回しか出れなかった方なども、もしよろしければ、お気楽に裏講座やフリースペースでのおしゃべりにご参加いただければ幸いです。また、西村美東士までお申し付けいただければ、欠席されたときの資料を差し上げます。なお、受講メンバーの一人Yさんのホームページ開設の申し入れを受け、さっそくアップしました。アドレスは下記のとおりです。(略)」
 第2回は、もう、みんな飽きたころかと危ぶんでいたが、フリースペースから遅れて参加した人を含めると、女性3人、男性1人とぼくのにぎやかなおしゃべりになった。そこで、集まった人はいろいろとNPOをやってる人たちであることがわかった。LD(学習障害)児・ADHD(注意欠陥多動症候群)児自助グループ関係もいれば、特定の病気の子どもをもつ親の会関係もいて、飲んでいて話題になったのは、異種グループ(主に障害者グループ)のネットワークのことであった。まず障壁になるのが、「そちらの種類は障害の程度が軽いから」というようなグループ同士で連帯しづらい風土についてである。これを徳島県の保健行政が、異種を乗り越えて障害者グループのネットワークを仕掛けていた。これに励まされたグループがたくさんあるようである。徳島県行政も、進んでいない所もあれば、進んでいる所もあるんだ、という当たり前の結論に落ちついた。また、ジェンダー問題がつねに話題に入っている。一人の人間に、全部の課題がからんでいるのだ。
 受講者には次のメッセージを送った。「ホームページを作る条件のない人には、ぼくが半分仕事として提供しています。ほかの人たちも、関心を示していました。ただ、初期投資の15万円程度が厳しいようです。まあ、ぼくのところで、無料のメールアドレスを取得して、とにかく始めてみたら、と言っています。LD児関係のアドレスは(略)です。今のところ、ただ載せただけ、という感じですが見てやってください。なお、次のような欠席連絡がメールで入ってきました。(略)」
 第3回は女性1人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、徳島市ヤングフェスティバルの実行委員の若者がイベントの準備のためにやってきて、ちょっとおしゃべりした。
 第4回は本年最後の裏講座だった。女性2人、男性2人とぼくが参加した。そのほか、ヤングフェスティバルのKさんがタイのJさんが来ているというので、仕事を中抜けしてフリースペースに会いに来てくれた。
 フリースペースでJさんは、日本の女の人がわからない、という話になった。ちなみに彼は独身である。その結末は、「日本の女の人は心で思っていることを言わないから」ということになった。でも、フリースペースでは彼は熱燗の日本酒を飲み、「いっしょにお酒を飲める人がいつもは少ないから」ということでご機嫌であった。ぼくたちの雰囲気を「フレンドリーな雰囲気で楽しい」と言ってくれた。
 なお、女子学生のK子さんも参加してくれて、活気のある裏講座になった。彼女はポケベル(文字)の話では、ちょうど高校時代に当事者だった。以前報告した「絵文字」についても全部知っていた。また、中学時代は数字のポケベルだったので、その話も聞いた。「当時の子たちはケータイおやじを本当に馬鹿にしていたの?」と聞いたところ、そうだということであった。

10 自分の気持ちを相手に伝える

 冬学期の第1回の導入は、新規参加者と本講座への期待についておしゃべりをし、「自分の気持ちを言葉にして出せるようになりたい」という話題になった。
 その困難さを分類し、次のような結果となった。
@うまく言葉にできない。
 ア ボキャブラリー(馬券を当てたときの「してやったり」など)不足
 イ 言葉の選択の困難
 ウ 「気持ち」には身体性が伴う
A相手を傷つけてしまうのではないかという恐れがある。
 その他、秋講座参加者から「第一印象ゲーム」で「青色が好き」と当たったからといって、「さわやか」とは限らないという感想が出た。これを受け、相手の「自分らしさ」を本当に理解しようとするなら、準拠枠組(フレーム・オブ・レファレンス)に対して理解、共感しようとすることが大切、という説明をした。
 本題としては、『カード式自他紹介』(前掲坂口)を行った。ぼくとしてのポイントは次のとおりである。
@強制的な役割取得による遠慮の打破。
A内容中心にならないようにする。心の交流。
Bメンバーにあった問題を。ロールプレイをしても、おもしろい。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■普通に自己紹介するんじゃなくて、今日やったみたいにいろいろな質問をランダムにするほうが、もっとその人のことがわかるような気がします。楽しかったです。ところで、やっぱり自分の気持ちを相手に伝えるのってむずかしいですね。いろいろな立場の人と話ができる機会ってなかなかないのでうれしいです。
■与えられた時間を活かせなくて、「なんと自分が情けない」と思えました。言葉による表現力のとぼしさを思い知りました。でも、また、いつかどこかで、このゲームをもう一度やってみたい。
■きょうはちょっと変わった自己紹介でしたが、今まで経験した自己紹介よりも、もっと一人一人を理解できたような気がします。こんな形の自己紹介のほうが親近感がわいてよいと思います。
■初めは人数が少なくてどうなることかと思いましたが、皆さん出席できてホッとしました。カード式の自己紹介、人数が多かったらもっと盛り上がったでしょうね。今年もよろしく。楽しくやりましょう。
■遅参してすみません。お若い方々のお話しは本音が聞けるようで嬉しいです。勤めをやめて一般社会のおつきあいの中では、いろいろのことを経験しています。
■1時間遅れの参加で、着いた時には、すでに自己紹介が始まっていて、説明を聞けなかったのが残念です。今年もよろしくお願いします。
■今日は大変遅くなり申し訳ありません。今回も楽しい(苦しいも含めて)講座になりそうで楽しみです。

11 わかってもらうこと、わかってあげようとすること

 第2回の導入は、おしゃべりの中から「今日の若い女の子たちの専業主婦願望について」ということになった。「主婦業をやっていると、日々単調で、社会との関係から取り残されているというあせりを感じていたころがあった」、「病気の親の介護、子育てなど、総合的知恵をフルに発揮し、障害のある子どもを社会の中で育てるなど、社会的つながりも求められる。そこでは、主婦業をプロってるというプライドさえ感じられるときもある」、「子どもや夫のための主婦業もきちんとやりながら、自分のやりたい深夜カラオケでのびのび遊べる友の母親にあこがれる。しかし、自分自身は、そのような専業主婦になれる自信がない」などの話が出た。
 ぼくは次のようにコメントした。
 若い女の子たちの専業主婦願望(相手は高収入に限る)は、それはそれで正しい選択なのではないか。ただし、「かわいい嫁さん」を求める相手の男たちは、彼女たちが深夜カラオケなどで自由に振舞うことを許さないのではないか。そこのところにも男と女の深くて昏い河がある。また、妻が起きて待っていてくれたらうれしい、でも、寝ていてくれたほうがほっとする、という酒飲みの男のコマーシャルがある。これもなかなか深いリアリズムだ。
 次に、「このようなワークショップやエンカウンターグループなどで人間関係のトレーニングをしなくても、たとえば芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかなと思う」という発言があり、本ワークショップとエンカウンターグループ、さらには自己啓発セミナーとの違いについての話をした。内容は以下のとおりである。
 自己否定に陥りがちな人たちが「今の自分をなんとかして変えたい」と思い、その思いを共通項目とする問題縁として自助グループをつくったりすることは意義深いことであろう。そこでは、世知辛い世の中とは別の受容的な「文化的孤島」を作り出すことになる。ただし、そこで最終的にめざされるのは、自他の受容と世俗の社会への復帰という「自立」であろう。なぜなら、自己否定からは自己変容は生じないからである。自他受容からこそ自己変容、自立が可能になると考えられる。
 さて、世の中には、「今の自分をなんとかして変えたい」ではない人たち、つまり、それなりに自他受容ができている人たちがいる。これを「フツーの人たち」としておく。このフツーの人たちだって、信頼できる友達がほしい、などの気持ちをもっている。これが保障される場が現代社会にあまりにも少ない。本ワークショップは、このようなフツーの人たちの、しかし人を傷つけたり人から傷つけられたりすることを悲しむ心のある、いい女やいい男たちのための場である。そこで水平異質共生の「私らしさ」が安心して交流できるサンマをめざしたい。
 したがって、「今の自分をなんとかして変えたい」という気持ちがあるとすれば、むしろそれを「今の自分もまんざらではない」という気持ちに昇華し、「芸術などで一人でくつろいだり、一人で深まっていくことでもいいかな」と思えるようになることこそ、本ワークショップのねらいといえるのではないか。気軽に楽しんでもらえればありがたい。
 本題としては、ぼくのオリジナルルールでジェスチャー大会を行った。そのポイントは次のとおりである。
@わかってやろうとするサポートこそ、表現にとって重要である。
A表現の敗北主義に対して、「数打ちゃ当たる」が有効である。
Bわかってもらえたときは、とてもうれしい。
 出席ペーパーは次のとおりである。
■相手に自分の意思を伝える方法、相手の言いたいことをわかってあげようとする気持ちがとけあってジェスチャーが成り立つのだということがよくわかりました。私にはとても無理と、挑戦しないのはずるかったと反省しています。
mito>無理なさらないでください。初めの一歩は数センチずつ、行きましょう。
■ゲームに夢中になる、こんな真剣さが久々で、充足感を味わったかな、という感じ。・・・ということは、ふだん空虚だったりするのかしら。
■ジェスチャーゲーム、今回やったお題がとても難しいのに、不思議と最後は当たるのがおもしろかったです。ジェスチャーの答え方とかで、すごくその人の個性が出てるなあと思いました。
■専業主婦問題に対する主婦のみなさんの意見が聞けたのは貴重だったと思います。やっぱり私は専業主婦にはむいていないなと思いました。
■きょうのジェスチャーゲームはけっこう大変で、演じるのも、当てるのも苦労しました。声を出さずにわかってもらうことなど、日常ではあまり経験がないので。でも、ふだん経験しないことをやってみると案外楽しいものでした。自分の表現方法の貧しさに少しガックリしましたが。
■なんじゃ、この問題はー!!と叫びたくなるようなジェスチャーゲームでした。BUT、答える人がすばらしいというか。特にBさんはスゴイの一言、バンバン当てちゃうもんね。楽しかったです。
■今回も遅れての参加で、さらに今日の内容(ジェスチャーゲーム)がすごく難しそうだったので、教室に着いた時に、ちょっとしまったと思いました。実際、自分が表現する時には「これはちょっとわからないかも」と思いましたが(お題は「終身雇用」)、終身の2文字を表現したところで正解が出たのでびっくりしました。「雇用」をどうするか悩んでいたので助かりました、ほんとうの話。
 フリースペースでは次の話題になった。
@将来のめずさものをしっかり持てないと、なんだか不安である。しかし、世の中ではそう計画的には生きていけない。どうするか。
A人から迷惑をかけられても、まあ我慢できるが、しかも相手から素直に「ごめんね」といわれたらますます許せてしまうが、自分から人に迷惑をかけるのは、たとえ謝る手段があったとしてもいやなのである。どうするか。
Bたとえ妻には悪い浮気ばかりしている夫でも、子ども(とくに娘)からは「父親」として愛されていることがある。バカヤローとも思うけど。どうするか。

12 社会に役立つわたしという存在

 第3回の導入は、モラトリアムの評価についての話題になった。
 まず、自分の子どもたちが青年期を経て自立していく過程で、ずいぶん紆余曲折があり、そのあいだ、親は「しっかり展望をもっていないでだらだら生きている」という不安と不満をもつものだが、子育ての経験上、その長いトンネルを抜けたとき、「ああ、人間はなんとかなっていくものだ」ということを感じる、という体験談が出された。
 そこで今日の青年の特徴のひとつである「モラトリアム人間」の説明をした。自立して社会に出るという「刑」を「執行猶予」してもらい、大学で留年を続けたりするという傾向のことである。これを「嘆かわしい」とするのが、過去の論調の主流であったが、最近では「個人にとっての成長のプロセス」という意味があるととらえられるようになってきているという説明も加えた。
 これに対して、昭和18年に半年早く学校を卒業させられてしまった世代からは、「私たちにはそんなことを考える余裕もなかった。むしろそれよりもっと前は、そういうことが許されていたかもしれない。だから、現代的特徴とはいえないかもしれない」という興味深い指摘がなされた。
 つぎに、この「最近の若者」の話題に関して、会社の新人歓迎会を担当した若者から、「自分が呼ばれる飲み会だというのに、今の新入社員は参加してくれない」という話題が提起された。彼の会社は「自由な会社」なので、それは許されて「来たい人だけ来た飲み会」でそれはそれで盛り上がったが、なかには上司にビールをつぐことを強制されるなど、不自由な会社もあるという話になった。
 ぼくは「よいわがまま、悪いわがまま」の説明をした。「よい」は、わたしがおもうようにわたしは生きたいで、「悪い」は、わたしがおもうように相手に生きてほしい、である。また、個人の自由と、親密な人間関係という両者を求める矛盾が、今日の若者を苦しめているのではないか、と発展させた。
 しかし、これに対して彼から「そういうことに苦しんでいないからこそ、新人歓迎会を平気で欠席してしまうのではないか」と異論が提起された。高齢の世代からも、「欠席はやはりわがままではないか」と意見が出された。
 そして、自由と親密は両立するのではないかということになった。しかし、そのためには、次の5点が必要という意見にまとまった。
@歓迎側の相手への配慮とともに、新人側の相手への配慮が求められること。
Aみんなで決めたことには従うこと。
B自由には責任が伴うこと。
C「あなたには関係ない」という考え方は改めること。
D自分の自由だけでなく「ほかの人の自由」も考えること。
 だが、ぼく自身は混乱して、これ以上はわからなくなってしまった。
 本題としては、「楽習図解ワークショップ−自分のための社会貢献」を、ブレーンストーミングおよびカード式発想法に基づいて行った。その成果は図●のとおりである。
 出席ペーパーにもあるように、個人の立場や価値と社会貢献とが絡み合って多様な側面からカードが出され、対話をし、マップとして統合されたことは、一人一人にさまざまな気づきをもたらせてくれた。それは次のような出席ペーパーに表れている。
■社会に役立つ人間になりたいとは誰もが願ってることです。しかし現実にはなかなか実現できません。自分の気持ちのなかでこうありたいと思うことを書きましたが、皆さんの観点が随分ひろがっているので感心させられました。考えさせられる授業でした。
■今日も遅れてしまいましてすみません。よくわからないままに参加してしまって、すこしのりおくれたという感じでした。「役に立つ」という言葉をどんなふうにとらえたら良いかわからずに、すこしとまどってしまいました。自分の中の人からみたら役に立っている行為でも、自分にとったらただの遊び、社会に対しての「役に立つ」という役に立ってるから行動するという気持ちやスタンスを否定的にとらえている自分を発見しました。
■「社会に役立つ私」という題で考えをだしあったけれど、個人的には「子どもを育てる」≒「次の社会をつくる」というのが一番むずかしいと思いました(実行・実現するのが)。なぜなら、他に出てきた「社会に役立つ」という概念を全て理解(もしくは意識)していないと進めないステップだから。子供を育てることってやっぱり大変だなぁと改めて思いました。PS 基本的には僕も、飲み会に参加しない新人には反対です。考慮すべき点が多いことは確かですが…。
■社会に役立つをテーマに授業をしましたが、社会という言葉から入って来たのは学校、子ども、税金、グループ(PTAや友人たちとの活動)のなかにいる私しか出なかった。個人としてちょっと見つめ直しが必要かなと気付いたワークでした。
■日頃自分は誰からも必要とされない人間のような気がしていたが、自分が社会や他人に役に立てたら…、存在意義をつかめたら、張り合いがでて、結果、社会にも役立つ循環ができるんでしょうね。
■今日はモラトリアムについて、また個人と秩序について、立場によって全く考えが違うんだな、ということが分かりました。すこし話に出た、良いわがまま悪いわがままの2つにわけられるというのは、「なるほど!」と思いました。思っていた以上に、ちょっとしたことで社会の役に立てているんだな、と思うとちょっとうれしいです。みなさんの考え(やってること)ってすごいなーと感心しました。

13 「大切な宝物」を分かち合うほかほかした気分のサンマ

 第4回の導入は、前回に引き続き、モラトリアムの評価についての話題になった。
 まず、前回の話題に関連して、次のぼくのメーリングリストでの発言を紹介した。

 以前、「父権の回復」について動揺した文章を発信して、おさがわせしました。きのう、眠れない夜を息子と話し込んでいて考えたことです。親の背中を見て育つ、ということについてですが、次のようなことに気がつきました。
 「自分には言うべきことで、相手に言ってはいけないことというのがあるのではないか」ということです。それをきちんとできていることが「自分の背中で相手を育てる姿」なのではないかということです。
該当例
@「不透明な時代ではあっても、明るい希望をもって生きていったほうが幸せである」
A「もっと明るい展望を見つけ出すために、やれることから始めたほうがよい」
B「○○は依存している証拠だから、それを克服して、もっと自立に向かって努力したほうがよい」
C「以前の友達関係に未練をもつより、現在の環境で可能な友達をつくることを考えたほうがよい」
(以下は追加−昨晩の話題とは異なる)
D「ふられることを恐れていては愛は獲得できない。勇気をもって見返りを期待せずに告白したほうがよい」
E「ふられたとしてもほかにもいっぱい異性はいるのだから、そちらのほうに目を向けたほうが得策である」
F「わかってもらえないからといってふてくされていても、結果はますます悪いほうに向かってしまうんだよ」
 ようは「わかってはいるけど手につかない」ということについて、相手にそれを指摘しても相手は頭ではわかっていることだから他者(対等な親友を除く)や親から言われても逆効果になってしまうが、親自身は「自分は変えられないから」といって居直ることなく、少しずつそういう努力をしていればよいのではないかということです。そして、相手(この場合は子ども)に対しては、本人がその気になるまでは本人の内面的成長の可能性を信頼して見守りつづけるということです。
 繰り返しますが、ぼくにはその自信はありません。ただ、ぼくがチラッとだけ考えていた「始めの一歩の励まし方」には通じるものがあると思います。

 受講者からは、次のような話が出た。「まわりから見れば、ただ、だらだらしているようにしか見えないのだろうが、本人は真剣に考えている」、「考えないで暮らしている人はいない。スパンを長く見てあげたい」など。モラトリアム真最中の人、子育て真最中の人、なんとか子育てを終えようとしている人、モラトリアムなんか許されなかった時代の人、多様な人たちが分かり合おうとする話し合いになった。ぼくは、受容、信頼、見守ることの大切さとしてまとめた。
 本題としては、「楽習図解ワークショップ−楽しい学習と双方向教育」を行った。本当は「教育=学習の援助」になるべきなのだろうが、実際には「主体的な学習」を阻害するような結果に陥りがちな実情のなかで、これをイコールに近づけるためにはどうしたらよいか。ぼくの結論は「たどりつかない彼岸(イコール)に向かって、深くて昏い河で船を漕ぐしかない」というものだが、今回、「私がもらった『いい言葉』『いい影響』」というテーマで、一人一人の宝物のような体験を紙切れ法(カード式発想法)で出し合ってもらって、これを探ることにした。その成果は図●のとおりである。
 「今日はみなさんの大切な宝物を分けてもらったような、とてもほかほかした気分です。私は今回、友達のことばっかり書いたのですが、考えてみれば歌詞や詩などにもジーンとくるものがたくさんありますね。今回、自分は、友達(親友)に恵まれているなとうれしく思いました」という出席ペーパーがあったことからもわかるように、他者からもらったいい影響を、さらにこのワークショップで伝えたり、伝えてもらったりすることによって、「大切な宝物」を分かち合うという「とてもほかほかした気分」のサンマを味わうことができたと考えられる。

14 わからなければわからないなりにそれなりの答えがある

 最終回の第5回の導入は、「気づいたときから始められる生涯学習」の話題をぼくのほうから提起した。
 前回の出席ペーパー「子どものときあれほどいやだった勉強が今はとても楽しい。今からでも遅くないと思って、これからもいろいろなことに挑戦したい」と、カード式発想法の「成長には時期がある。その時に必要な学習がある。格言=彼岸すぎの麦の肥」をもとにして、その関連をどうとらえればよいかということについて説明した。その内容は次のとおりである。
 最近、AC問題が盛んにいわれており、その背景として、交流分析でいう「生育歴」による人生脚本の重みと、その書き直しの意義が注目されている。一方、ぼくは、生涯学習については「気づいた時から始められる」という見方を主張している。たとえば、発達段階の初期のころに人間に対する絶対的な信頼感を十分には獲得できなかった人はどうなるのか。その後の、「癒しのサンマ」との出会いなどにより、それは回復しうると考えるべきなのではないか。しかし、それは、交流分析による生育歴の書き直しに匹敵するのものなのかもしれない。いずれにせよ、以前から述べているとおり、いわゆる「ふつうの人々」にとっての「癒しのサンマ」の重要性を認識すべきなのだろう。
 つぎに、出席ペーパー「自分には言うべきで、相手には言ってはいけない言葉について、いろいろ該当例がありましたが、私はいってもかまわないと思います。でも、だからどうするべきか、こうやってみては、など具体的にいってもらいたいです」について、他者の援助の言葉のあり方について考えた。
 話し合いの結果、次のようにBを加えて整理した。
@自らもリスク(危険)を背負って発言する(例=私だったらこうする)。
A批判するときは、心を痛めながらも批判する。
Bなるべく具体的な方法を述べる。
 本題としては、「楽習図解ワークショップ−自分らしさを世界に発信!」の予定であったが、すでにホームページには今までの成果等を掲載しているので、それに引き続き、「わたしにとっての私らしさのワークショップ」というテーマで、これまでの振り返り(シェアリング)のためのカード式発想法を行った。その成果は図●のとおりである。
 「わからなければわからないなりにそれなりの答えがあるから最後まで答えが出なくてもいいんだ」という出席ペーパーがあった。このように、自己の「無知と非力」や「あなたはあなた、私は私」という真実に気づくのみならず、その受容(自己受容)に至る個人の深いプロセスにまで、「私らしさのワークショップ」がそれなりに役立てたことをぼくは自負したい。癒しの大学開放 −「私らしさのワークショップ」から

 徳島大学大学開放実践センター 西村美東士

1 癒しのサンマ(時間・空間・仲間の3つの間)
 ぼくは、自著『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』(学文社、1997年4月、1998年3月増補)を、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答えの一つが「癒されること」であるという気持ちで書き通した。同時に、本書では、癒されるためには、@ 自己決定の水平異質交流のサンマにおいて、A 他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、B 社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる、以外に方法はないという主張もしている。
 前年度から、ぼくは、徳島大学大学開放実践センターに勤めている。そこでも、大学教育や、その重要な一環としての大学開放において、「癒しのサンマづくり」が重要であるという思いを強くしている。@家族関係の病理、A教育システムの弊害、B内なるピアコンセプト(同一化に向かう仲間意識)によって個人が傷つけられ続ける現代日本において、大学の授業にせよ、市民のための大学公開講座にせよ、真実に気づくことによって、あるいは他者との意味ある出会いをすることによって人間が癒されることの意義の大きさを、大学教育側は十分理解する必要があると思う。それは、最近の悲惨な暴力的事象を考えても、逆に市民の自己決定活動などにおいて見えてきた共生への展望を考えても、緊急の課題といえるのではないか。また、これは、大学教育において最近ますます軽視されがちなリベラルアーツ(一般教養)の教育的意義の再評価にもつながると考えている。

2 大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?
 ぼくが担当した公開講座「私らしさのワークショップ」の趣旨は次のとおりである。
 現代人の生涯学習に向かう主要な動機の一つとしての「自分らしさ」の危機と、それへの願いを取り上げ、参加者一人ひとりの臨床的真実を引き出しながら、生涯学習、ボランティア活動、市民活動等の自己決定活動のあり方を明らかにする。このワークショップにより、「笑い声の絶えない」「一人一人が自然にその気になる」ような成人の能動的な「楽習」を実現するとともに、地域のキーパーソンを育て、インターネットを通して、その成果を、大学や社会全体にアピールする。
 各回のテーマ・要点と出席ペーパーから抽出した成果は次のとおりである。秋学期@私らしさってなんだろう? 自分さがしの相互承認の出会い=第一印象ゲーム 他人に関心を寄せることの意味を実感、Aコミュニケーションはキャッチボール 共感能力を高める=ブレーンストーミング(幸せの瞬間) 幸せを感じるときに気づく、Bさわやかな自己主張 引っ込み思案をなおすコツ=ロールプレイ(お願いトレーニング) ハートが疲れた、C自分のためのボランティア 自分らしさを感じるとき=価値観ゲーム 自分の価値観に気づく、Dまとめ=楽習の達人になる スクエアゲーム 「あげる」と「もらう」だけの相互協力を体験。冬学期@見比べあう自己紹介を蹴っ飛ばせ 自分らしさの出会い=楽しい自己紹介の方法 自分の気持ちを相手に伝える、A伝える方法・わかりあう方法 自己表現の技術、相手の自己表現を支援する技術=ジェスチャー大会 わかってもらうこと、わかってあげようとすることを体験、B楽習図解ワークショップT−自分のための社会貢献− 社会に役立つわたし、CU−私がもらったいい言葉・いい影響 他者が存在していてよかったということに気づく、DV−私にとってのワークショップ 講座でいつもの「自分の枠」から出て話ができた。
 また、講座閉講中も、火曜日についてはセンターにて自主的な集まりをもった。これはあとになってメンバーから「裏講座」と名づけられ、毎回の「表講座」の終了後に行った「フリースペース」とともに、自然体の交流ができたように思う。大学教官の研究室や、ときには自宅にまで押しかけて自然体の交流をするという現役学生の大いなる特権を、学生ではない市民にも味わってもらえた。
 それぞれの回に対する受講した市民の反応(出席ペーパー)を通して特徴的なことは、「大学でこんな楽しいことをやってもよかったの?」というペーパーに象徴されるような、現代人としての市民一人一人の大学開放を通じた生涯学習への関心であり、とりわけ講座自体を「癒しのサンマ」の一つとしてとらえようとする信頼、共感、自立に向かう潜在的願望である。

3 問題提起
 1997/6中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」では、教育を「自分さがしの旅」をたすける営みとした。たしかに「本当の自分とは何か」を自ら問うように仕向けることは教育の目的である。しかし、本人の幸福追求にとっては、もともと「空白」である「本当の自分」を、教育によって輪をかけて問わされつつある現状は望ましいことなのだろうか。しかも「見られる自己の肥大」から「あるがままの自分であれ」へと転換したメディアからのメッセージがこれに追い討ちをかける。
 人びとの「自分とは何か」という問いは学問に向かう重要な内発的動機である。しかし、本人の学習欲求に基づいて支援すべき教育の側は、もともと「空白」であるものを確かな「何か」という手持ちがあるように見せかけたり、ましてや「今のあなたは本当のあなたではない」などと脅迫したりしようとする誘惑を自ら厳しく断ち切ることが求められよう。
 ぼくの講座がうまくいったというわけではないが、「指導者」として、せめて気づくこと以前に癒されることを大切にし、生産的な相互批判より以前に自己とは異なる他者に対する共感的理解を先行させる態度を貫いた、つもりである。しかし、それにしても、上記の「誘惑」を超える魅力をもった「私らしさ」支援のあり方そのものについてはいまだ不明である。

癒しの大学開放

−「私らしさのワークショップ」から−

日本社会教育学会第46回研究大会
平成11年9月11日13:30-14:00
自由研究発表(学習活動・教育事業T)
徳島大学大学開放実践センター助教授
西村美東士(mito)

[ねがいはこれかな?]
『個の深み』と出会う

趣旨 大学が現代人の自己決定を支援す



mito「現代人が求める人間関係=信頼と共感」
=水平異質共生による癒しのサンマづくり
生涯学習は、人から学ぶこと、人と出会うこと!
(富田富士也「人は人に傷つき、人に癒される」)


[求められる3つのちから]
相互否定・同質上下競争の魔のトライアングルから、相互承認・異質水平交流の癒しのネットワークへ



[みんなちがって、みんないい]

わたしと小鳥とすずと(金子みすゞ)


わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
じべたをはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。


[あなたはあなた、私は私]

ゲシュタルトの祈り(パールズ)

私は私のことをする。
あなたはあなたのことをする。
私は、あなたの期待に沿うために、この世に生きているのではない。
あなたも、私の期待に沿うために、この世に生きているのではない。
あなたはあなた、私は私である。
しかし、もし、機会があって私たちが出会うことがあれば、それはすばらしい。
もし出会うことがなくても、それはいたしかたのないことである。

“癒しのサンマ”について

自著『癒しの生涯学習』より
mito


癒されること
自著『癒しの生涯学習』の主題である癒しについては、「人間はなぜ生きるのか」という問いへのもっとも有効な答えの一つが「癒されること」であるという気持ちで本書を書き通している。しかし、同時に、本書では、癒されるためには、
@ 自己決定の水平異質交流のサンマにおいて
A 他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら
B 社会貢献も含めてボランタリー(自発的)に共生創造主体として生きる
以外に方法はないという主張もしている。ただし、それは、「自分のために」「面白いから」であり、本書ではそう思えるためのコツを探ろうとした。


癒しのサンマについて
“サンマ”とは時間、空間、仲間の3つのマ(間)のことで、本来は、子ども会関係者などが“今の子どもにとって「遊びのサンマ」が欠けている”と提起したときの言葉である。たしかに、今の子どもたちは、与えられた課題をこなす時間の過密化による自由時間(時間)の不足、冒険できる場(空間)の不足、群れて遊ぶ友達(仲間)の不足にあえいでいる。しかし、青年や大人たちはどうだろうか。子どもたちと同様にサンマの不足にあえいでいるではないか。ゆっくりしたい、自分らしさを取り戻したい、本当の友達がほしい……。ぼくはそこで現代人が求めているものを「癒しのサンマ」と呼ぶ。サンマであるから、日常の家庭、学校、職場のすべての時間を癒しの時間に当てようというわけではない。せめて1週間に1回くらいはサンマがあって、「ああ、○曜が近づいてきたな」と思えるだけでも、その1週間を元気に暮らせると思う。

集団学習について
集合学習のうち、団体活動や学級・講座などの学習者同士の相互教育が期待される学習方法。集団というと全体主義的なマイナスイメージもある。現代青年が求めているのは、集団というよりもゆるやかな人間関係のネットワークによる癒しのサンマなのだと思う。



1 「私らしさ」のパラドックス

(1) 距離を保った親密さ
 若者たちは、本名も顔も知らないのに親密になれるなど、従来の浅い/深い、素顔の自分/仮面の自分、という枠組では理解し得ない新しいコミュニケーションをインターネットを通して行おうとしている。
 このコミュニケーションのプラス面とは、一言でいえば「状況主義的自分らしさ」(自己の複数性)の許容である。「本当の自分」とはそもそもが空白に書き込んでいく性格のものであるし、それゆえかなり歳をとってから気づくとしたら、それでもよいものなのかもしれない。それなのに、現実の社会は、就職時にはさっそく会社から「エントリーシート」を書かされ、「自分とはどういう人間なのか」という箱に入れられてしまうような社会である。また、若者たち自身も、その多くが「世間からよく思われたい」という理由で、そういう社会に無理に順応しようとしている。

(2) 「状況主義的自分らしさ」の受容を
 しかし、せめて教育においては、このコミュニケーションを通じて「状況主義的自分らしさ」を許容したい。これにより、従来の教育が否定してきた「後向き」の態度も受容でき、また、「今のあなたは本当の自分ではない」という脅迫じみた行為も回避できよう。一方、若者たちも「自分はこうだ」という勘違いから自由になれる。インターネットであれば、今までとは違う世界に飛び込むことに多大な勇気は必要ないからである。世界が広がることによって、今まで思い込んでいた「自分」というものから解き放たれる。
 逆にこのコミュニケーションのマイナス面は、それが無意図的に行われている場合は、本人が求めていたはずの「距離を保った親密性」ではなく、現代社会一般にはありがちな回避したかった関係、すなわち、内面まで踏み込んでくるからうざったい、あるいは逆に、距離があるからわかりあえない、という感覚をもたらすものになってしまうことが実際には多いということである。これでは「ヤマアラシジレンマ」や「みんなぼっち」が再確認されるだけの結末になってしまう。その端的な例が多様なネチケット違反であり、いまだ絶えない「悲しみの性」である。
 これに対し、今後の情報処理教育は、同一化志向のピアコンセプトから彼らを解放し、信頼と共感に基づいた人間関係の味わいを伝え、対メディア批評精神を保持しつつ使いこなすネットワーカーとしての資質を身に付けるようになることをめざす必要がある。
 たとえば、掲示板で他者の秘密を暴露してしまうようなテクノな若者たちがいる。これに対して、いくら机上でモラルやマナーを習得させようとしても効果はないだろう。彼らも根からの悪人ではあるまい。むしろ、彼らの可能性を信じて共感的に接し、彼らのテクノロジー能力を活かし、自信につなげてやる教育のプロが介在する必要があるのだ。
 そのための教育のあり方として、次のような筋道が考えられる。メディアを通した共感的な相互理解->自他受容の体験->基本的信頼の獲得->支持的風土の形成。これにより、自立(適度な距離)と共有(親密さ)を身に付けて生涯学習社会あるいは共生社会を楽しく生き抜くことのできる人材が養成できると考えられる。
 なお、具体的教育方法に関しては、ぼくは情報処理教育のワークショップ型への転換を模索しているところである。これにより、「距離を保った親密性」や主体的学習・発信能力が実現できるのではないか。
注 本発表については、ぼくも所属する青少年研究会でとりまとめた富田英典・藤村正之編「みんなぼっちの世界−若者たちの東京・神戸90・展開編」(恒星社厚生閣、1999.5)に大いに示唆を受けた。また、徳島ヤングフェスティバルの川田春夫さんとのおしゃべりがとても参考になった。
(以上は平成11年度情報処理教育研究集会発表予定)

2 「後向き」の肯定
(1) 生産性及び変身への強迫観念からの解放

 転職のことですか、僕はその前に正式に就職しなければなりません。でもなんか就職してしまうと大切な何かを失ってしまうような・・・。それが何かはっきりと分からないけど両親はおまえはだいぶ損してるとボーナス期になるというけど(私はボーナスがないので)世の中お金じゃないと思うし、決して負け惜しみじゃない。結局自分が納得した人生を送ったらいいと思う。偉そうなこと言えないけどそんなわけで先生のアドバイス そうそう、その調子。なにも自分を無理して変える必要はないんじゃないかな。 は、心がなんか軽くなりました。感謝、感謝。ただ僕は、生き生きと生きたい。人生は難しいけどなんか楽しいです。それではまた。(受講者のメールより)

(2) 後向きを否定しないで=積極・消極の自己決定の尊重

 よくいわれることで、「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」というのがある。しかし、注意深く個人を見てほしい。必ずしも、いつも後向きというわけではない。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己管理できていないから、とさえいえるかもしれない。
 自己決定活動のエネルギー消耗について、ぼくの関わっているメーリングリストから。
 「やりたくてやること(楽しいこと)に使うエネルギーと、あんまり乗り気じゃないけどやらないといけないからやること(楽しくないこと)に使うエネルギーがある。たとえば、人に会いにいって、かえってうまくいかなくて落ち込んだりする。それをまた、しばらくして気を取りなおして、違う人に会いに行く、そんな感じときのことです。
 人に会いに行く…エネルギー消費量・小/気分・楽しい。→落ち込んだけど、気を取りなおす…エネルギー消費量・大/気分・楽しくない。→違う人に会いに行く…エネルギー消費量・やや大/気分・やや楽しい」。
 この「気を取りなおす」前の落ち込みにあるとき、それを静かに受けとめている彼は、たとえ外からは後向きに見えようとも、個の深いプロセスにいるのである。そういうときは、檄を飛ばしたりせずに、そっとしておいてあげてほしい。
 違う若者のメーリングリストから。今度は女性。しなやかでたくましい。
 「エネルギーの流出に神経質になると、小さなことに感動できるようになります。道端の花の色だとか、空気に混じる匂いだとか、友達が何気なくいった言葉だとか。そうした感動をコツコツため込んでいるうちに、ある日いきなり復活の日が訪れます。復活の呪文はたいてい『あーっ、もう、めんどくさい!』。何のことはない、落ち込んでいる自分自身に飽きるのです。どんな状況も面白がることさえできれば、パワーに変換できるんだなと思います」。
 後向きになっているときも個人にとっての大切な時間なのだ。また、森田正馬の臨床心理学では、彼女のいう「ある日いきなりの復活」を「流転」と呼び、「気になることは気にすればよい」と説いている。状況による後向きというのは、じつは生産的な生き方のひとつだといえよう。(自著『癒しの生涯学習』)

3 自己決定活動の傷と癒し
(1) 人生の風景を味わうか、味わわないか。

 ぼくは教育の根拠を憲法13条の「幸福追求権」においている(p132)。法学の世界では、この13条が「自己決定権」との関連で論議されるようになってきているそうだ。
 ぼくは1998年3月まで昭和音楽大学で社会教育主事課程を教えていた。
 チエちゃんという学生は、短大に入学してすぐのぼくの最初の授業で、講義が終わったとき、ぼくのところに来てこう言った。
「mitoちゃん(ぼくのこと)、わたし、いい女になるつもりだからよろしくね」。
 ぼくは、これはすごい人が入学してきた、と思った。大人の女でも、ふつう、どこかにいい男がいないかしら、となるものである。それに対して、18歳のいわばまだ「小娘」であるはずのチエちゃんが、きちんと自分自身の成長に希望を持ってまっすぐに目を向けているのである。このように自分にきちんと目を向けられる人は強い。思ったとおり、彼女は声楽家の卵としてもずば抜けた成長を示し、現在、憧れのオペラの舞台を目指して一生懸命生きている。
 チエちゃんが2年になったとき、また、「ねえ、mitoちゃん、わたし、すごいこと思いついちゃった」と呼びかけられた。こういうことは、青年期真最中の多くの学生にとってよくあることなので、ぼくはいつものように「なあに」とふつうに応じた。
 彼女がそのとき言ったのはこういうことである。きのう、おうち(この場合は下宿先)に帰る途中、これって人生みたいだな、と思った。おうちが「死」であるとすると、それに向かって歩いていくのが人生だ。
 彼女も青年期真っ只中だから、やはり生きることとは、とか、死ぬこととは、とか、まともに考える時期なのだなあ、とぼくは思った。しかし、彼女の話は次のように続いた。
 おうち=死に向かって帰るとき、二つの帰り方がある。ひとつは、おうちだけを目指して、寄り道もしないで、まっしぐらに効率よく歩く帰り方だ。そういう人たちをあざ笑ったり、ましてや責めたりする気持ちはまったくない。でも、自分自身はもうひとつの帰り方をしたいということに気づいたのだそうだ。それは、友だちのところに会いに行ったり、途中の森に入り込んで散歩してみたりして、「人生の風景を味わいながら帰る」という帰り方である。
 ぼくはこれを聞いて、それが大きな発見であることを認めた。まさに自己決定の人生のあり方ではないか。そして、生涯学習やボランティア活動、市民活動などは、そういう「自分がやろうとしてやる」自己決定の活動である。ほんとうに自己決定で生きることができている人は、たしかに、そうでない人がいるからといって、干渉したり、とやかく言ったりしないものだ。そういうことまで、ぴったりと説明しきれている。多くの人がそうありたいと思っている当たり前のことだが気づかない「自己決定」のあり方を、チエちゃんははっきりと示してくれたのだ。
 ぼくは、その後、ちゃっかり、この話を授業やいろいろな講演などでしゃべらせてもらっていた(もちろんチエちゃんの話という前置き付きで)。青年教室にときどき顔を見せていたチエちゃんが、それを聞いて、ある日、二次会の席でぼくにこう言った。「mitoちゃん、わたしの話、ほかの人にどんどん話していいわよ。でもね、私がそのとき言ったことで一番大事なことを、mitoちゃんは忘れてる」。すなわち、「エネルギーを使うけど」という前置きの言葉を、「人生の風景を味わって生きていきたい」という言葉の前につけていたはずだ。それが大切な発見だったのに、とぼくは注意されたのである。
 そうだ。自己決定の活動をしようとすると、「効率よく生きる」のとは違って、多大のエネルギーを消費する。自分がやろうとしてやり始めた生涯学習活動なのに、人と出会うことによってかえって自分自身が傷ついてしまったり、専門の世界を散歩しているうちにさ迷い込んでしまって、自分がその世界のどこを歩いているのだか見当がつかなくなってしまったり・・・・。自己決定の人生や、自己決定の生涯学習活動というのは、「エネルギーを使うけど」という前提も含めて自己決定することなのだろう。
 ぼくの追加意見も述べておきたい。ぼくはチエちゃんみたいな人たちから、たくさんエネルギーをもらって生きているけれど、それでも元気がなくなるときもままある。そういうときに思う。人には「エネルギーを使うけど」という前提そのものがしんどいときがある。そういうとき、自己決定活動の場合なら、潔くお休みさせてもらえばいいのだ。それは、自己決定活動が元気にできている人からは、けっして非難されたりすることはないだろう。そのことはチエちゃんの言葉が保障してくれている。(自著『癒しの生涯学習』)
mito>大学のアカデミズムは、この自己決定を支援するものでありたい。
(2) 自己決定活動における癒し

 ぼくは、人びとを癒されない状態に追い込む「上下同質競争社会」において、癒しを提供する「水平異質交流」を生み出す時間・空間・仲間(3つの間でサンマという)が突出的に存在していると考えている。それは、自己決定のサンマとしての@生涯学習、Aボランティア、B地域活動(市民活動)の3つである。そこでは、「仕方ないから頑張る」などというぼくたちのいつもの奴隷の習性などはいらない。そういう人がいたらかえって邪魔になる。自立した者どうしが相互承認しあい、あるがままの自他を肯定的に受け入れあって(自他受容)、のびのびと異なった個性を育くみ、発揮しあうというところがサンマの魅力なのである。さらには、そこで、他者や社会に貢献できる有用な自己を再発見し、また、他者からその認知を受けて自他への信頼を深め、個を深めることができる。そこでは図表1(略)のような好循環が成立する。本書(自著『癒しの生涯学習』)では、このような現代のリアリティを探りたい。
mito>公開講座への参加も、市民にとっては自己決定であるからこそ、受講者間に「癒しのサンマ」が形成される条件下にある。(自著『癒しの生涯学習』)

4 技術屋としての大学への期待−会社のためではなく、自分のため

技術屋が個人として学びたいこと
 川田春夫さんは10年以上勤めた会社を今年、退職した。去年のヤングフェスティバルで仕事がなおざりになりがちで、会社や顧客に迷惑をかけていると感じたからだ。一番勉強したのは、電気工事施行管理技士資格取得(1級)のときだそうで、ヤングフェスティバルと同時進行で集中して勉強した。その次が徳島大学工学部への編入のときで、10日間ほど集中して勉強した。また、夜間部のときは、各専門分野の仲間が集まって、夏休みに編入をめざして勉強会をした。彼は数学を教えた。夜10時までみっちりやり、それ以降切り上げて毎晩のように遊びに行った。楽しかったと彼はいう。
 しかし、コンピュータのハード、ソフトなど、どんどん新しくなるので、独自の勉強だけでは追いつけない。機材も手に入らない。とくに徳島では、技術が陳腐化しており、リニューアルが必要と彼はいう。
 彼は自治体のある講習会に私費で申し込もうとしたことがあるが、企業からの参加ではなく、個人参加であるという理由から断られた。その講習は企業を育てるという目的で開かれているからだ。彼はいう。自分は、技術屋個人として勉強したい。
 必要になったときは、今でも徳島大学に当時の化学の先生を訪ねて、食品工業の生物制御などについて教えてもらっている。自分より下の世代はそういうことはしていないようだが、自分たちの世代は、忙しい先生だが、連絡をとって、違和感なくやっている。
 ただ、コンピュータについては、教えてもらう相手がいない。中小企業には最先端知識が必要なのではなく、新しく出た安い商品をいかに使うかがポイントになる。
 リカレントも必要かもしれないが、それよりも基礎的なことが欠けている。具体的には数学、物理、国語などである。国語についていえば、工学部時代、ノートに写すだけであり、考察といっても、教師の提起した課題を解くという「考察」であった。しかし、実際の仕事では、課題というよりも問題を見つけ、それを考察し、書かなければならない。これは自分の会社がたまたま提案型の仕事だったからかもしれない。彼は、基礎学力に欠ける新入社員のために、数Vなどの教科書をつくったことがある。
 自身については、発想法、計画力が重要と考え、70万円の私費を払って、ビジネススクールの通信教育を今でも受けている。会社はそれをプラスとは考えていない。彼自身も自分の財産づくりだととらえている。これをしなければ、客への提案はできないと思った。そうしないと自分自身が枯れてくる。「会社のため」ではなく「自分のため」という気持ちである。ヤングフェスティバルについても、同様に「自分のため」と思っている。自分より若い人たちと共同で何かを作りあげるなかで、時代の風がわかるという。
(川田春夫さんインタビューまとめより)

5 裏講座・フリースペースの存在意義
(1) 「学生の特権」の市民への開放

 ぼく個人としては、大学教官と時には酒も交えて自由闊達な知的議論をするという学生だけの特権だった喜びを市民にも「開放」するということは、少し大げさだが大学開放の新しい段階を切り開くものととらえている。

(2) 自然体の交流

キャンプは夜だ
 過去の青年教育においては、サークル等の目的集団に対する青年団等の生活集団の意義が叫ばれたことがある。そこでは、生活に根ざした総合的な人間交流の意義があらためて評価されていた。もし、そういう人間交流が可能になるならば、それは上下競争社会の一端に風穴を開け、人間解放のユートピアを実現することに近い。しかし、これといった具体的な到達目標を持たずに、生活のなかでの人間交流そのものを目的とする試みなどに現代青年が関心を持つだろうか。私たちのそういうためらいに答えを出してくれるのが、キャンプであり、キャンプの夜であり、キャンプの夜の「空白のプログラム」なのである。
 そこでは、気楽なおしゃべりや打ち明け話のなかに、一人ひとりの生活文化が自然にしみだしてくる。共通の文化の確認も楽しいが、異なる文化との出会いは「えっ、君っておもしろいねえ」という感じで、よりいっそう刺激的である。仲間とのつきあいの楽しさとは本当はこういうものである。キャンプは、過去の青年団活動に匹敵する新しい生活集団としての新しい教育効果を発揮してくれるのである。
 過去の青年教育にも、日中の正式のプログラムが終わって、夜、寝床で昼の議論の延長戦を行うことを寝床分科会と呼んで、その意義が注目されていたことがある。本音の交流ができるからである。この寝床分科会の意義も軽視できないとは思うが、狛プーのキャンプは分科会の延長でさえもありえない。「寝床分科会だね」なんて言われても、狛プーのメンバーはきょとんとしてしまうだろう。キャンプにつき物のカレーライスではなく、汚いロッジの中だが、ちょっとおしゃれなフランス料理やスープをつくり、ワインなどで盛り上がる一方、個人がそれまで持ってきた「文化」や「生活」そのものがポツリポツリと出される。思いもしなかった他者の枠組に出会って、自分の枠組との違いに驚き、「おもしろい奴だなあ」と感じ、しかも、「そうか。わかる、わかる」と、それなりに共感してしまうのである。
 人間は仕事や学業に追われる昼間より、夜のほうが自然体になりやすい。だからこそ、夜になると悪いこともしてしまうのだろうが、それはある意味では人間らしさの表れでもある。「人間らしさ」とは善と悪の混合体である。夜はそういう魔力があるから魅力的なのだ。(自著『癒しの生涯学習』)


(3) 臨床的真実との出会い

平成11年度 私らしさのワークショップ  裏講座第1回報告
実施月日 1999年6月29日
 大雨警報が出されたなか、Mさんが来てくれた。小人数ではあったが、ぼくとぼくの長男といっしょに、「芳水」を飲みながらしみじみと語り合った。Mさんの生い立ちや夫が亡くなってからの3年間のお話、人とのめぐり合いに関する考え方また、お仕事である掃除の話などを聞いた。彼女は几帳面な性格なので、いろいろと仕事を任されて大変だとぼくは感じた。
 うれしいことに(夜遅くなのに強引にお誘いしたのですが(^^;)本センターのスタッフの心理学のK先生も同席してくださり、親が子どもに教える2つのこと、自立と自律についてや、「正しい自分である必要はないが、正しく自分であれ」という興味深い言葉について教わり(正確には未確認)、ぼくたちはいたく感動した。

6 活動している人の大学開放への期待
(1) 活動とは異なる出会い−自分をつくらなくてよい

公開講座「私らしさのワークショップ」でまったく異なる出会いの体験
 川田さんは本センターの公開講座「私らしさのワークショップ」を受講している。彼にとってはほかの体験とまったく異なる出会いであった。受講者の年齢が高く、それなのに元気であることに彼は衝撃を受けた。
 ヤングフェスティバルなどの場では、たとえば許したくても許してはいけないなど、リーダーとして「自分をつくる部分」が必要だが、講座ではそれがない。講座自体が、自分の気持ちをさらけ出す怖さを感じさせる。しかし、自分も相手も気持ちをさらけ出し、またフリースペースや裏講座などもあるので、とくに最初の秋講座では、5回だけで、そういう異年齢の人と数年来のつきあいをしているような感じになれた。
 知識や技能を習うという目的だけなら、ふつうの講義のように顔見知りになるころには終了ということがあってもよいかもしれない。しかし、それでも友達をつくるということは、横のネットワークができて教えてもらえるということであり、大切なことだと彼は考えている。

(2) キーパーソンが生涯学習を学ぶ拠点として

国立大学の門をもっと外に向けてほしい
 最近、国立大学の独立行政法人化、エージェンシー化への動きが急である。彼はいう。国立大学はお金がかからないから自分でも行けた。また、たとえ授業は40人が受けたとしても、5、6人で気軽に先生のところに遊びに行ったり、教えてもらったりすることができた。そのスペースもふんだんにあった。それが自分には楽しかった。サロンのように、教師と学生が同じ高さで接する機会をこれからも大切にしてほしい。
 自分は本センターのスタッフが翻訳した『大人を教える』(学文社)を読み、ほんとうに勉強になった。たとえば講師の姿勢、部屋の様子、入り口で迎えることなど、その姿勢は、ヤングフェスティバルや学遊塾でミーティングが煮詰まってしまったときなど、有効なアドバイスにつながった。大学教師は専門知識には優れているが、とくに工学部は社会教育や生涯学習についての理解がない。人、とくに大人を教える場合は、それが必要になると思う。
 また、社会教育や生涯学習についてセンターの教官とは話すことができるが、行政にはそのような相談相手がいない。社会教育のこと、イベント、青少年団体などについて、人事異動が激しく、あまり知らない職員が多い。たしかに生涯学習という言葉は盛んに使われてはいるが、自分の話が、とくに役所には伝わらないというもどかしい思いをもっている。
 生涯学習についての勉強会をしたい。本センター教官から紹介されたメーリングリストでは、生涯学習についての議論が盛んにやりとりされている。話し合える人が全国規模だといるということは、徳島にも本当はいるのだろう。きちっと社会教育や生涯学習を学んでいて活動している人たちの中核組織としての連絡会がほしい。そういうキーパーソンをセンターの8人の教官の専門性をいかしてフォローしてほしい。自分自身、センターの教官と出会う以前は、生涯学習によってこんなことができるとは知らなかった。
 30代の人たちで何かをしたい。何をすればよいかわからない人、自分だけで考えている人などがいるだろう。その人たちがアクセスできる場になってほしい。
 自分は徳島大学出身なので気軽に徳島大学に行けるが、そうでない県外出身者、高卒者、他大学出身者にとっては塀が高いと思う。それに対して、徳島大学大学開放実践センターは大学の外に向かって開かれているという実感がある。これを活かしてほしい。
 徳島では青年層リーダーが元気なようでいて、実際には40代以上に、「口先ばかりで行動しない」といって頭を押さえつけられている部分があると思う。そういうとき、センターのようなアドバイザー的な存在があれば、青年層の悩みも「口先ばかり」ではなく、より具体的になるのではないか。
 また、起業については、県や市の補助金なしには、この不況下では不可能、理念などはいっていられない、従業員に給料を払わなければ、という実態と雰囲気がある。起業家の若返りを図り、青年層(30代から40代)に設定するべきだと思う。徳島大学が起業のための発信をしてほしい。CATVなら放送枠にまだゆとりがある。CATVは、見る人はけっこう見ている。徳島大学の教員がニュースに出てくることはときどきあるが、起業の件ばかりでなく、もっとシステム的に地域に発信することを考えてほしい。
 川田さんのようなおだやかで物静かな新しいタイプのキーパーソンが、大学開放にエールを送ってくれている。取材者としては、そのことを心強く思うとともに、こういう人たちの議論の場を提供し、学習支援を強めていきたいと感じた。
(ともに川田春夫さんインタビューまとめより)
mito>国立大学開放機関としては、いわば「知的水平勉強会」によって、大学と市民の知的協働を進め、それをよりいっそう高次のものとすること、さらには国立大学の存在を自発的に支持する市民集団を形成することによって、迫りくる大学の「独立行政法人化」の嵐に向かう準備が必要であると思う。これによって、産学官民の知的協働、さらには、それらキーパーソンの拠点として、開放機関が新しい役割を発揮することが重要である。

7 アカデミズムとしてのリベラルアーツ

平成11年度 私らしさのワークショップ  春学期第6回報告
実施月日 1999年6月22日
導入−授業は勝負だ
 自分の書いた出席ペーパーの文中の「恋人同志」が前回、mitoに「恋人同士」と訂正されたが、辞書で調べたり、知識のある人に聞いてみたが、「恋人同志」も間違いではないようである、という発言が参加者の一人からあった。ぼくは「間違いだと思う。書き順などはどうでもいいが、誤字は訂正したほうがよい」と答えた。その上で、教師に「かみつく」ことの大切さを評価し、その場合、子どもの辞書でもよいから調べて、教師の間違いを指摘できる部分をコピーして示すなどの「もう一歩」があるとさらにすばらしいとコメントした。
 また、次の体験を披露した。「重複」を「じゅうふく」とぼくが発言したところ、ある学生が「ぼくは日本語を愛している。じゅうふくではなく、ちょうふくと読むのが正しい。教師として恥ずかしいことだ」と出席ペーパーに書いてきた。ぼくは悔しくて、辞書を調べてみたら、確かに「重複」の「じゅうふく」という読み方には×が付いていた。これも、授業の場では、「本人がじゅうふくと読みたいのなら、そう読んだっていいじゃないか」という話にはならないのである。本人なりの意識化された特別な理由があれば別だが。
 自分では自明だと思い込んでいたことが覆ってしまうことが学問の魅力であり、それを「恥ずかしいこと」と思わず、「知っていることを知っていると言って教えてあげ、知らないことを知らないと言って教えてもらう」ことこそ知識人の姿である、と思えばよいのである。
 その人の「ちょっと待った」的な発言のおかげで、いつものなごやかさに比して、ぼくも久々にヒートアップし、ぼくが学生相手の授業で掲げていた「授業は教師の勝負どころである。ビートたけしに勝つ。ただし、フリースペースではただのmitoちゃんでしかないけれど」という状況になった。ただし、このことについては「一人だけで気負っちゃって」とか「勝負ではなく、許し合うことが現代では大切でしょう」などということで、不愉快さを表明する学生がいつもいたのだが、この講座に参加している市民の人たちは、このぼくの考え方に同意してくれたようだ。現役学生と自己決定学習をする市民との、教師に対する期待の仕方の違いというところであろう。
 なお、無責任に感じられるかもしれないが、その後、「恋人同志」について調べているのだが、それが間違いであるという論拠をいまだつかめていない。

8 臨床的真実との出会い
(1) みんなちがって、みんないい。

 「違うからよかった」というグループが、今回のカード式発想法で出てきましたが、どうもこれには引っかかります。本当に違うからよいのか? 違うという言葉はどういう意味で使われているのか? ぼくは違うからよいのではなくて、「違う」の向こうにある「同じ」のゆらぎがよいと思う理由ではないかなと思います。何もかもまったく違う者は、理解も共感もできないのではないかと思っています。短くうまくまとまりませんがなんとなく疑問を感じたので。
(受講者の出席ペーパーより)

(2) 出席ペーパーシステム

 これ(状況主義的自分らしさ)は出席ペーパーを提出する学生の多くが、ぼくから顔と名前が一致されないように希望することにも通じている。出席ペーパーは、あくまでもそれを書いているときの「いま、ここでの」自分の表現であって、それがぼくから「この人はこうなのだ」と誤解されたくないし、あるいは他の状況でもそこに書いた「自分らしさ」が貫徹されているはずだ、などという無言のプレッシャーを他者から受けたくないのだろう。それだけに、出席ペーパーには虚偽や無理が少なく、本人の臨床的真実に迫るものが多い。
(平成11年度情報処理教育研究集会発表予定)

(3) 公開講座のワークショップ型への転換

 ワークショップとは
(1)作業場、(手工業的な)工場
(2)(小規模な)研究(集)会、研修会
をさす。これは一斉集団承り学習という受動的学習方法の打破に通ずるものである。笑い声が絶えない、学習者自らがその気になる、などの特徴がある。
◆ 市民の潜在的学習欲求の顕在化のための学習内容・方法の開発を
 数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。
 市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、先に述べたように、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。
 そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知されるのである。(自著『癒しの生涯学習』)
mito>ワークショップは承り型から参加・参画型学習に転換するための大きな可能性をもっている。そして、ワークショップにおいては、出席ペーパーと同様に、一般社会と比べてかなり突出的な臨床的真実の相互関与が行われるがゆえに、アカデミズムの新しい役割の発揮が期待できる。

2.1990年代の若者やこどもの「個」の支援 −その転換と課題
  −10年間の青少年問題文献から
 (西村美東士=にしむらみとし、徳島大学大学開放実践センター) 

(1) 1990年代初頭の動き
   −臨教審/個性重視/生涯学習

 本稿は、私が平成元年度(1989年度)から青少年問題ドキュメンテーション研究会委員(平成10年度からは協力者)として関わってきた『青少年問題に関する文献集』(総務庁青少年対策本部)における計2238件の関連文献の解題をもとにして、90年代(注、90年バブル崩壊)の全国各地の青少年教育の施策と理論を総括しようとするものである。研究会での私の担当分野は「社会」と「文化」であり、青少年対策や青少年の生涯教育・社会教育に関する行政資料と論文が主である。なお、ここで、青少年教育とは、学校教育以外の社
会教育、生涯学習における若者やこどもを主対象とした教育をさす。ちなみに、他の研究会委員が担当したカテゴリーは、意識、心身の発達、家庭、学校、職場、非行であり、したがってこれを一義的テーマとする文献はほとんど含まれていない。
 85年6月、臨時教育審議会「教育改革に関する第1次答申」(85/6)は、欧米へのキャッチアップを実現した我が国の教育改革の基本的考え方として、個性重視の原則を挙げ、生涯学習体系への移行を訴えた。「個性重視」はその後の審議でも中心課題であり、最終答申である第4次答申(87/8)は、教育の基本的在り方と視点として、@個性重視、A生涯学習、B変化への対応、を提示した。90年代の青少年教育は、この考え方に大きな影響を受けながら展開する。
 ただし、臨教審のいう「個性重視」という言葉については、第1部会では新しい教育理念として「個性主義」(個性の最大限の開発)が提起されており、これを「現状の教育の枠内での言葉に置き換えられてしまった」(第1部会委員中内功)結果のもの、すなわち妥協の産物とみることができる。ここには、社会的機能としての教育と、個人的活動としての学習との、折り合いをつけることの難しさが表れている。
 その後、生涯学習局を筆頭局として設置するなど文部省の組織の大規模な改革(88/7)や生涯学習の基盤整備を図ることを目的としたいわゆる「生涯学習振興法」の公布(90/6)があった。中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」(90/1)は、生涯学習を振興するに際して国や地方公共団体に期待される役割は、人々の学習が円滑に行われるよう、生涯学習の基盤を整備して人々の生涯学習を支援していくことであるとし、生涯学習の推進体制や地域における生涯学習推進の中心機関となる生涯学習センターの設置などの基盤整備の具体策を提言した。また、留意点として、次のように述べた。@生涯学習は、生活の向上、職業上の能力の向上や、自己の充実を目指し、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本をするものであること。A生涯学習は、必要に応じ、可能なかぎり自己に適した手段及び方法を自ら選びながら、生涯を通じて行うものであること。B生涯学習は、学校や社会の中で意図的、組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われるものであること。同審議会答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」(91/4)は、学校教育を生涯学習の一環としてとらえ、過度の受験競争など学校教育が抱えている問題点を解決するためにも、生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果を評価するような生涯学習社会を築いていくことが望まれるとした。
 生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(92/7)は、人々が生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果が適切に評価されるような生涯学習社会の構築を目指すべきであるとし、当面の重点課題として、@社会人になってからでも再び教育を受けられるリカレント教育の推進、Aボランティア活動の支援・推進、B青少年の学校外活動の充実、C環境、情報の活用等の現代的な課題に関する学習機会の提供を挙げた。

(2) 大人の個が問われている
   −学校週5日制/個の深み/心を育てる

 92年9月、毎月第2土曜日を休業日とする学校週5日制が実施され、2002年には完全実施される。
 中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言「学校週5日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動」(91/3)は、既成の青少年団体が安易に請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、土曜日の子育てを地域の親たちの共同作業(共働)にしようと呼びかけた。私も委員として、「地域子育てネットワーク」において、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもつ個人として生きるという意味の「個の深み」が重要であることを文中で提起した。
 これは、学校週5日制の受け皿として青少年団体がたんなる数量的な拡張をするだけではなく、5日制をひとつの契機として、青少年団体の活動スタイルそのものを時代に対応して変化、発展させようとする提起であり、そこで問われるのは指導者や大人自身の「個の深み」の発揮である。
 京都府では「京都府青少年プラン」(91/3)が策定され、その視点として、大人一人ひとりが青少年を育てることが挙げられた。大阪府では「大阪府青少年育成計画(プラネット計画)」の計画期間の終了に伴い、「第2次大阪府青少年育成計画(新プラネット計画)」(92/1)を策定した。この計画作りの視点としては、おとな社会の問い直し、青少年文化の積極的評価、おとなと青少年の共育、などが挙げられている。「大阪府青少年白書」は、これを受け、青少年が「心の豊かさや精神的なたくましさに欠ける」とか「自立がおくれている」とかいわれていることに対して、そのような指摘のあたる面もいくつか見られるが、一方では、青少年がおとな以上に優れた感性や能力をもっている面もあるという認識から、彼らのためにいかなる環境をつくるかについての大人の責任が重大である、と提起している。
 青少年育成国民運動に関しては、93年3月、青少年育成国民会議が『生かそう、学校週5日制』を発行し、具体的条件づくりとして、@地域の育成体制の充実、Aヤル気のある指導者のネットワークづくり、B活動の場の整備・充実、C子どもたちに魅力ある活動を、D非行防止への配慮を、E安全対策と情報提供を、と提案し、同会議におかれた特別研究委員会は「21世紀に向けての青少年育成構想」を報告し、「少子化と青少年育成」に関して、@育児条件の整備、A子育てを社会的な視点で、B男性の育児参加、C育児に対する職場での理解、D地域の中で子育てネットワークを、と提言した。
 岐阜県個性を活かす社会づくり懇談会「個性を活かす社会づくりに向けて」(94/3)は、その視点として、@個性を活かす社会づくりと教育、A自己教育力の養成、B生涯教育の体系化、C人間観の変革、D教師観の変革・教師自身に対する視点の見直しなどを提言し、その青少年対策検討委員会報告書は、方策推進のための基本方向として、@自主性の尊重、A知的好奇心の尊重、B発達段階に応じた対応と体験的活動の重視、C21世紀に向かう社会的潮流を見据えた展開、D役割の明確化と連携のとれた取組みなどを提起した。報告では、一人ひとりの個性を尊重することにより、「個人の幸福」と「社会の発展」の両面の達成が可能になり、その社会は、長所優先主義で、個性の多様性、異質性が尊重されるとした。社会そのものに「個性を活かす」ことを求めたのである。
 山梨県青少年総合対策本部「やまなし青少年プラン」(94/3)は、「教育」から「共生」への意識改革を訴え、「青少年問題は大人の問題」とした。横浜市青少年問題協議会「青少年の主体的成長・発達をめざして」(同)は、彼らの健全な発達を保障する環境づくりについて提言したうえで、青少年自身がこの世に生まれでた命を自らが誇りとすることができ、また自覚と自律心のある人間として健やかに成長することを願い、青少年に対して「君たちの心を親はわかってくれているか」と呼びかけた。
 『富山の青少年』(95/1)は、青少年問題の対策に関する基本的認識として、「青少年はその時代を写し出す鏡でもある」とし、青少年問題は社会全体とりわけ大人の姿勢の問題であるということを常に認識し、家庭、学校、職場、地域社会等、社会の各分野において大人たちが、それぞれの役割と責任を果たすよう提唱した。「わかやまの青少年プラン」(95/10)は、「大人自身が青少年とともに学び、育つ姿勢を堅持します」という視点のもと、「青少年が世代をつなぐ意思を持って自立していくために、大人もともに働き、ともに生活し、次代を育てる喜びと意味を自覚する必要があります。そのためには、大人自身が健やかに育ち、また、育とうとする努力が大切であり、新しい年齢観や世代役割を考え、創造し、ともに学び育つ姿勢を持ち続ける、いわゆる生涯学習の視点が重要」とした。「守口市青少年健全育成計画」(95/4)は、「青少年が変わったとか、理解できないとか嘆くのではなく、彼らの持つ新しい感性や表現方法を積極的に理解し、認知していく」とした上で、「人間や自然との共生を図り、ゆとりとぬくもりのある豊かな都市環境をつくる」、「青少年の夢を育て、生かすという視点に立って、青少年育成の観点を組み込んだ地域環境のあり方を見直す」としている。福岡市の「青少年対策の基本方向」(95/12)は、青少年の非行等問題行動への対応について、「単に対症療法的な対応や事後的措置だけでなく、大人社会の問題でもあるとの認識のもとに広く青少年の健全育成を基本とした総合的な取組を推進する必要がある」とした。
 東京都青少年問題協議会答申「青少年の自立と社会性を育むために東京都のとるべき方策について」(96/2)は、いじめ問題への対応について、「どうしたら社会全体に、正義が尊重され、勇気をもつことが価値とされるような文化を作り出すか、大人の姿勢が問われている。大人たちがボランティア活動にかかわる姿を一般化させ、ボランティアが日常化している社会的風土を広げることが必要である。こうして、社会全体が人にやさしい社会となる時、いじめは限りなく終息に近づくことであろう」としている。「埼玉の青少年」(96/3)は、青少年育成の基本理念として、「青少年問題は大人の問題」とし、「大人自身の生き方や社会のあり方を問い直し、大人一人ひとりが青少年育成に対する責任を自覚する必要がある」と述べている。そして、「〜してはいけない」と禁止的に働きかけるのではなく「〜しよう」と積極的に関わるよう提起している。「三重県青少年対策」(96/4)は、いじめについて「人権に係わる重大な問題」であることを社会全体の共通認識として位置づけるという方針のもと、父親の出番を重要な要素として受けとめるよう提唱した。
 また、私は、「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」(95/9、神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」)で、大人たちが「せめて青少年には幸せを」と言って、自分たち自身の不幸で非主体的な状況を批判しないまま地域教育力に期待を寄せることの滑稽さを指摘し、地域の「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずる、とした。さらに、岡山県社会教育委員の会議提言「青少年の学校外活動の充実について」(96/3)は、学校外の生活体験・自然体験のあり方について、「私たち大人が、星空の瞬きに、海岸の潮騒に、そして山々の薫りに関心を持つことができる生活態度を回復しなければならない」と提言している。大人個々人の実感の乏しさにまで踏み込んで指摘されるようになったのである。
 このように、90年代中盤、青少年対策や国民運動において、その活動が単なる「青少年対策」にとどまるものではなく、現代社会の大人自身がもっと人間的に成長することや、社会自体がもっと生きやすく、他者とともに生きることのできる社会になることと重なっているという認識、すなわち青少年健全育成の現代的・社会的課題としての認識が深まっていった。
 一方、日本ユニセフ(国連児童基金)協会『ユニセフ年次報告』(97/3)で、事務局長キャロル・ベラミーは、「児童の権利条約」批准状況等の今日までの大きな前進を認めつつも、予防できるはずの人権侵害による死亡、不就学、厳しい貧しさ、その他搾取的な工場や戦場あるいは不健康な都市、とりわけ女の子への差別などの緊急な課題を提起した。同「世界子供白書」(98/12)は、テーマを教育とし、「なによりもまず学校教育は生涯学習の基礎にならなければならず、アクセス可能で、質が高く、柔軟で、ジェンダーに配慮し、女子教育を重視するものでなければならない」として、教育の権利、教育革命、人権に投資する、の3点を主張した。国際的にも、子どもの加害者としての大人や社会の問題が重視され、生涯学習の意義が強調された。
 東京都児童福祉審議会は「子育て支援のための新たな児童福祉・母子保健施策のあり方について」(92/11)は、福祉、保健、医療にとどまらず、関係各行政分野や家庭、地域社会、企業を含めた社会全体が総合的な取り組みを行なうよう提言した。そこでの「子育て支援」の理念とは、「子どもを産み育てることは、個人の自由意思に属することが尊重されるべきものである」としつつ、「行政は都民が希望と喜びをもって子どもを産み育てたいという動機づけになるような基盤づくりと、子どもを産み育てたいと希望する人々への支援策を行なうものである」というものであり、出産・育児に関する不安などの適切な情報提供と発見のシステムを要する問題をも児童福祉施策の対象に含めていくべきとして、大人の生涯学習支援の性格を強めていく。また、93年11月には、東京都福祉局、衛生局、教育庁の関係職員による「児童虐待防止マニュアル作成検討委員会」が発足し、『子どもの虐待防止マニュアル』(95/3)が作成された。
 国のエンゼルプランを受け、97年3月、「やまなしエンゼルプラン」は、@子どもの視点にたった施策の展開、A安心して子どもを生み育てることができる環境づくり、B子育て支援の社会環境づくりを、「摂津市児童育成計画」は、@最善の利益は子どもに、A地域や社会による子育て支援、B子どもとともに育つ都市づくり、を掲げた。後者は、誰もが楽しく子育てができ、子育てを通じて社会参加・参画ができるよう、親とともに、地域や行政が一体となって子育てに取り組むとしている。
 これらの動きのなかで、団体活動に関しても、97年度、仙台市青少年問題協議会報告「子ども会活性化方策について」が地域の多様な年齢層との関係の樹立による再生を、岡山県FOS少年団連盟専門委員会報告が家族的雰囲気による少人数団活動の工夫などを提言し、静岡県「青少年活動の活性化について(報告書)」は親たちや地域社会がコミュニケーションを行えるゆとりがなければならないとした。大下勝巳は、個人としての「私」を取り戻して子どもに向き合い、大人のネットワークづくりを進めてきた「おやじの会」の報告を通して、新しい地縁社会の創造をめざすテーマコミュニティにおける市民の意識改革の意義を主張した(97/5、全日本社会教育連合会『社会教育』)。
 香川県では、CAP(Child Assault Prevention:子どもへの暴力防止)事業や「青少年の自立支援事業」を実施した。これは、ワークショップを通して県民のCAPプログラムへの理解を深めるとともに、子どもが暴力から自分の身を守る知識と手段の習得を図るものである(99/3、青少年育成香川県民会議『青少年の自立支援事業実践事例集』より)。
 これら、大人の問題を問い、大人の心の転換を求める動きを、青少年教育において結実させた答申が、中央教育審議会「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機」(98/6)である。これは、「子どもたちに豊かな人間性がはぐくまれるためには、大人社会全体のモラルの低下を問い直す必要がある。子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、根本的な問題。今後、我々大人が率先してモラルの低下を是正し、この危機を乗り越えていこう」、「悪いことは悪いとしっかりしつけよう」などと訴えた。
 学校週5日制完全実施に向けて、地域において子どもたちに豊かで多彩な体験活動の機会を用意するため、文部省は1999年度を初年度とする「地域で子どもを育てよう緊急3カ年戦略(全国子どもプラン)」を策定した。国立信州高遠少年自然の家等では、青少年とくに中学生による憂慮すべき事件などについて、子どもたちのサインを大人が見落としているのではないかということから、前年度半ばの「子どもと話そう全国キャンペーン」に呼応した事業を春休みに展開した。静岡県では、文部省「子どもの『心の教育』全国アクションプラン」委嘱事業として「こどもの心を取り戻す教育推進事業」を実施した。兵庫県社会教育委員の会議は「子どもたちに生きる力を育む社会教育の推進」を報告した。神戸市須磨区の事件以来、「心の教育」の一層の充実を図ることの大切さを改めて認識し、前年度から、公立中学校2年生全員が、地域でボランティア体験や勤労体験等を行う「トライやる・ウィーク」推進事業等を実施しているが、本会議はこれを受けて青少年の心の居場所づくりなどを提言した。
 私は「心を育てる」について「心を育てるといわれたとき、その指さされた心のあり方が、教育を受けるものにとって本気になれないものだとしたら、指導行為など成り立つわけがない」と述べた(詳細は3章)。青少年教育において「心を育てる」ためには、「青少年対策」だけでなく、何よりも大人の個の自己確立にまで踏み込まざるをえないという認識には、90年代終わりの時点ですでに到達しているといってよいだろう。しかし、依然として残っている問題は、青少年にとっても、それを取り巻く大人にとっても、「自らが自らの心を育てる」という個の学習はどうしたら実現するか、そのための有効な支援方策は何なのか、ということである。


(3) 個は個別に多義的に生きている
   −自由時間/ソロ/自分さがし

 神奈川県「かながわ青少年プラン改定実施計画」(91/3)は、「大人のつくった社会参加観の中での活動を期待したり、青少年に特別な行為を要求するのでは、青少年の自主性の芽は育ちません」とした。青少年への大人や社会の側から期待するだけでは、青少年個人にとっては意味あるものにならないということであろう。91年度からの「新富山県民総合計画」は、若者の定着と流入のため、若者の感性にあった都市、深夜まで楽しめるまちづくり等をめざした。ただし、沖縄県ではのちに「青少年の深夜はいかい防止県民一斉行動」(95年度から)を始め、青少年の夜遊びや深夜はいかいの現状に対し、全県民が生活リズムの確立を図り、大人自らが夜型社会を是正するよう求めている。
 埼玉県青少年問題協議会意見具申「青少年健全育成の進め方について」(92/2)は、青少年健全育成の3つの原則として、@科学性−専門的知識や技術の活用、A計画性−長期的視点に立った目標の設定と実行、B総合性−密接な相互連帯と全人性の形成を挙げ、「さいたま青少年育成指針」(92/9)について、行為主体である青少年の活動の実効性や定着を図り、受け入れやすいものにするよう具申した。山形県では、共生、融合、創造、自己実現、関係の5つをテーマとする「新アルカディア構想」に基づいて「やまがた青少年プラン」(92/9)を策定し、青少年の自主性を大切にし、自立と連帯を推進する、などの視点を提示した。群馬県「群馬県青少年健全育成マスタープラン」(93/3)は、「21世紀の主役を育てる」ため、青少年の主体的、積極的な社会参加の実現をめざし、青少年の自主的な活動の促進を計画した。「行為主体である青少年」個人に対して、青少年教育はいかに関われば実効性をもつのか。
 「京都市青少年育成計画」(93/6)は、73年以降「ユース・サービス」(青少年の自己成長の援助)を青少年育成の基本理念に掲げている京都市において、成長のモデルを大人に求めることができた時代が過去のものとなり、子どもから大人へと発達課題を達成しながら成長することが困難となった今の時代にあって、青少年の立場に立った育成の理念と方向性を、新しいユース・サービスの展開として提案した。計画策定の視点は、「現代の青少年への視点−『個』の尊重」を挙げ、従来のように青少年を『集合』としてとらえることから離れて、まさに『個』としてみつめ、基本的人権の尊重を出発点として、個人差の大きさもそれ自身、独自の価値をもつものとして尊重する、というものである。岡山県青少年問題協議会意見具申「少子化社会と青少年の健全育成」(95/3)は、画一を是とする誤解の解消として、「みんなと違うからこそ価値があること」「みんなと同じようにしないこと、あるいはできないことがあること、それこそが人間一人ひとりの尊厳であり、かけがえのない価値の証明である」ということを子どもたちに伝えていくような教育を展開するよう訴えた。
 東京都青少年問題協議会意見具申「青少年が主体的、創造的に生きる21世紀を−『自由時間』の中での成長」(94/3)は、学校に代表される計画され、整えられ、課題の用意された時間(課題のある時間)の中での成長のほかに、遊びに代表される自由な時間の中でのもうひとつの成長を重視し、「自由時間」の中での今日の青少年の成長の機会が欠けていたのではないかと指摘した。そして、青少年の新しいライフスタイル確立のためには、自由時間を主体的・創造的に活用し、活動を展開できるような精神や態度をも含むいわば「余暇(活用)能力」が必要であるとし、青少年が「自由時間」を十分活用できるように、あるいは青少年の余暇活動を十分サポートできるように、社会システムを構築することなどを提言した。これは、従来の自主性の尊重から、外から与えられた課題のない自由時間の尊重への姿勢の進展である。
 また、93年から94年にかけて、前出『社会教育』誌が、青少年への「死への準備教育」等を意識しつつ外的環境と精神世界の調和を論じた「アメニティと生涯学習ライフ」、生きがいや自己実現のための生涯設計について学校教育や民間の就職活動準備セミナー等の事例を扱った「ライフプランと学習活動」、学校教育から「生涯自己発見学習」への転換を論じた「個人の成長と生涯学習論1994」など、青少年一人一人の人生にも関わるテーマを立て続けに特集している。
 これらの動きと並行して、体験学習の分野においては、ソロ(単独行)という形での「独りでいること」の実施が試みられた。山口県野外教育活動研究会「グッド・ジョブの声が響く中で−新しい野外教育活動の取り組み」(92/1)では、3日3晩続く孤独と反省の時期として行われるソロなどを、その指導法とするOBS(アウトワードバウンド・スクール、後述)のプログラムが導入された。神奈川県中央青年の家「かもしかキャンプ実施報告書」(92/2)には、自分自身を見つめ直し、自然を認識するための、山中で一人で過ごす2泊3日のソロプログラムが含まれている。その後、ソロは、各地の文献に散見されるようになる。
 このような個人の個別性の認識、自由時間の評価、固有の人生への関心、さらには「独りでいられること」の意義への気づきなどの教育的な視点の深化は、いじめ問題やその他の社会動向にも関わって進んできたのであろうが、同時にそれは一般に「行為主体である青少年」に対して青少年教育が実効性をもつための有力な糸口を示すものといえよう。
 そして、中央教育審議会第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」(96/7)は、次のように述べた。教育は、「自分さがしの旅」を扶ける営みと言える。子どもたちは、教育を通じて、社会の中で生きていくための基礎・基本を身に付けるとともに、個性を見出し、自らにふさわしい生き方を選択していく。子どもたちは、こうした一連の過程で、試行錯誤を経ながら様々な体験を積み重ね、自己実現を目指していくのであり、それを的確に支援することが、教育の最も重要な使命である。このような教育本来の在り方からすれば、一人一人の個性をかけがえのないものとして尊重し、その伸長を図ることを、教育改革の基本的な考え方としていくべきである。
 これは「自分さがしの旅」を公教育が援助していくのだといういわば「決意表明」である。まずは個性尊重の表れとして評価できよう。しかし、その功罪をしっかりと考えなければならない地点に、私たちはいるのだろう。現在、初等・中等教育だけでなく、いくつかの大学でも、自分が何をやりたいかを気づかせたり、自分を見つめさせる授業などが試みられている。「自分さがし」とは本当にそういうものなのなのか。「本当の自分」とは、学校教育のような強固に意図的・組織的な営みのなかで支援されるべきものなのか。少なくともいえることは、「本当の自分」があるとしても、それは多義的、状況的な性格を有しているということである。
 河合隼雄『子どもと悪』(97/5)は、「端的に言ってしまうと、個性の顕現は、どこかで『悪』の臭いがするのではないか」として、好きなことへの熱中による個性の発揮や集団になじめない人の創造性などについて述べた。そのうえで、大人が子どもの悪に対して「ここからは許さない」という「強い壁として立つ」よう求めた。しかし、それは「何があたってきても退かない強さであって、それが動いて他を圧迫することではない」とした。
 その点からも、インフォーマルな青少年教育の施策と理論の到達点は示唆深い。繰り返すが、それは個別性、自由時間、固有の人生、そして独りの世界の発見、さらには悪の存在である。私は、これをまとめて「個は個別に多義的に生きている」と理解する。



(4) 個は固有の身体をもって生きている
   −臨床の知/体験と冒険/生きる力/科学

 神奈川県青少年総合対策本部「かながわの青少年」(90/3)によると、81年の知事の呼びかけに始まる県民総ぐるみの「騒然たる教育論議」に始まる「ふれあい教育運動」が取り組まれており、89年3月の提言「翔べ!神奈川のこどもたち」に至った。そこでは、「ふれあい教育」を、「科学の知」による教育から「臨床の知」を基本とする教育とし、「単に自然や人とのふれあいだけではなく、すべての教育活動の基盤であり、最も本質的な柱」と位置づけている。提言は、その基本理念に基づいて、現代社会の新しい貧しさの克服、共生関係の学習などの実践化へ向けて一歩踏み出すよう訴えた。「臨床の知」とは中村雄二郎の術語で、近代科学の<普遍性><論理性><客観性>を批判し、近代科学が排除してしまった<コスモス><シンボリズム><パフォーマンス>、すなわち<固有世界><事物の多義性><身体性をそなえた行為>の大切さを訴える言葉である。
 このように個人が固有の身体を伴って、それぞれの世界で受苦し、受動しつつ生きているという真実をまともにとらえるとき、青少年教育は、それが提供する対自然、対社会の疑似体験の意義を今まで以上に自負するとともに、疑似とはいえ、青少年個人の体や心の内面により肉薄する体験の提供を志向することになる。
 国立オリンピック記念青少年総合センターの『自然生活へのチャレンジ推進事業事例集−フロンティア・アドベンチャー』(90/3)は、88年から始まった文部省補助事業としての本推進事業が全国各地で展開されていることを表しており、山奥や無人島等の大自然の中で、異年齢構成の少年50人が10泊もの長期間の原生活体験を行うことによる欠損体験の擬似的な体験の顕著な効果を示している。
 群馬県では、登校拒否や青少年のひきこもりといった問題の増加などの状況の中、たくましい体と優しい心をもった青少年の育成を図って、新総合計画「新ぐんま2010」(92/3)を策定した。自然生活へのチャレンジ推進事業「おもいっきり冒険隊」などが、その青少年健全育成事業として位置づけられている。また、山口県教育委員会『原始に生きる防長っ子キャンプ報告書』(92/3)によると、他者理解、自然理解、自己理解、集団理解の4つの視点から、人とのふれあい、自然とのふれあい、生命体とのふれあい、文化とのふれあいを重視し、その指導目標を好奇心の活性化、不撓不屈の根性、探求心の強化、自己抑制、おもいやりの心におき、対人関係におけるコミュニケーションと協力関係を強化するための指導法を伴う米国OBS(アウトワードバウンド・スクール)のプログラムを展開した。この試みは、自然生活へのチャレンジ推進事業の新しい進展のひとつの方向を示すものとしてとらえられる。
 94年ぐらいの文献からは、それらの体験学習の意義が、自ら望んで安全な世界から踏み出そうとする冒険教育の意義として主張されるようになる。国立赤城青年の家『自然教室に取り組む指導者のために』(96/1)で、飯田稔は「冒険教育のすすめ」と題し、冒険のもつ4つの要素を次のように提示している。@危険を冒そうとすること。特にケガ、時には生命の危険をともなう点である。大なり小なり生命と引換えの部分を含んでいる。A自ら望んで安全な世界から踏み出そうとするエネルギー。行為者の自主性である。B新しい知識や体験に対する憧れ。ある程度の危険を冒してもそれを得ようとする意欲である。C非日常性。日常生活上のきまりや利害関係とかけ離れた行為や活動で、非日常的な状況の中で行われる。したがって、冒険の多くは一般社会にとっては無価値なもので、時には非社会的なものといえる。個人の
 これら全国各地の「自然生活」や「自然体験」の重視の傾向(図表1−ここでヒット率とは、題名や解題者による要旨にその語が含まれている文献の割合である)の強力な先導的役割を果たしたのが、国立青年の家・少年自然の家、とりわけ少年自然の家である。一方、青年の家、少年自然の家などの文部省所轄の国立の社会教育施設に対する総務庁の行政監察(94年)ののち、国立青年の家少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議報告「国立青年の家少年自然の家の改善について−より魅力ある施設に生まれ変わるために」(95/7)は、「多様なニーズヘの対応と柔軟な運営」などの提言をした。全国青年の家協議会『青春カルシウム−体験学習のすすめ』(96/3)で、全国青年の家協議会会長・国立中央青年の家所長の内田忠平は、施設実態調査の結果から、「青年の家は、新しい社会の流れを必ずしもうまく捉えられたと思われない。豊かな社会であるがゆえに、疎となりがちな人との心の交流という青年の家が有する機能を生かしながら、青年が求める基本的な快適性の充足を考えていくべき」と提唱した。同書によると、大雪では教える者、教えられる者という関係ばかりではない受入れ事業に意味を提起、江田島では「指導系職員が見た青年の家考」を発行、岩手山では全国規模の青少年団体や地域の青少年団体等により組織された実行委員会による交流活動を展開、赤城では自然教室指導者のガイドブックを発行、能登では障害児者の施設利用に関する調査研究協力者会議、乗鞍では視覚障害者の雪とのふれあい、沖縄では無人島に挑む全国青年のつどいを実施した。一部の突出した少年自然の家が従来から提起していた新しい経営姿勢が、国立青年の家などに普遍化していった。青少年個々の身体にとって過酷な疑似体験と、快適な居心地の両者がともにめざされたのである。

図表1 「自然生活」「自然体験」ヒット率の経年変化 (n=2238)










 前出、中央教育審議会第一次答申(96/7)は、「ゆとり」の中で子どもたちに「生きる力」をはぐくむことを基本に、学校の教育内容を厳選するとともに家庭や地域社会における教育を充実すること、21世紀初頭を目途に学校週5日制を完全実施すること、社会の変化に対応した学校教育の改善を図ることなどを提言した。ここで「生きる力」とは、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力、自らを律しつつ、他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性とたくましく生きるための健康や体力を指す。青少年の野外教育の振興に関する調査研究協力者会議(主査飯田稔)報告「青少年の野外教育の充実について」(96/7)は、青少年の野外教育について「全人的成長を支援するための教育」ととらえ、「生きる力」の育成を図る上で極めて重要と主張した。同答申を受け、97年度の文献によると、青少年の「生きる力」を育成するため、ウィークエンド・サークル活動推進事業、アドベンチャーキャンプ、野外体験事業などが盛んに行われた。文部省では同年度から新たに「青少年の野外教育体験月間」を設けた。98年度には、青少年問題審議会が「青少年の問題行動への対策を中心とした西暦2000年に向けての青少年の育成方策について」審議している。また、内閣総理大臣のもと、関係審議会の代表者等の有識者から成る「次代を担う青少年について考える有識者会議」は、98年4月、自然体験、生活体験の重視や、学校外での青少年の居場所づくりなどを提言した。99年度には、文部省は、休業となる土曜日などに、地域において子どもたちに豊かで多彩な体験活動の機会を用意していくため、2001年度までに地域ぐるみで子育てを支援する基盤を整備し、夢を持ったたくましい子どもを地域で育てるための「地域で子どもを育てよう緊急3カ年戦略(全国子どもプラン)」を始めた。
 一方、93年ごろまで、各地で「青少年科学活動促進事業」が盛んに実施されていた。これは、地域の教育力を活用して、科学に関する特定の興味・関心を自発的、かつ継続的に追求できる社会教育の特色を生かし、青少年の科学する心を育む活動を推進するために、青少年科学教室の開設のほか、科学グループの育成、科学会議の開催などを行うものである。そして、青少年の科学離れがいわれる中、95年度から文部省が「博物館、少年自然の家等における科学教室等特別事業の研究開発事業」の委嘱を開始した。
 国立オリンピック記念青少年総合センター『夏休み中学生科学実験教室報告書』(97/3)は、本事業の趣旨について次のように述べている。本センターでは、94年度から全国の中学生を対象に、寝食をともにしながら、日頃経験しない手作りの実験を通して、科学の楽しさを体験させることを目的とし、青少年教育施設としては先駆けの事業として「夏休み中学生科学実験教室」を実施してきた。中央教育審議会の答申等にも謳われているように、座学中心で知識偏重の教育を改め、様々な体験を通して「生きる力」を培うことは、21世紀に向けて、我が国の教育における最大のテーマである。科学の分野においても、いわゆる理科離れ現象が指摘される一方で、科学に興味・関心を持ち、より深く学習したい、好きな科学に思いきり打ち込んでみたいと願っている青少年に対し、そのような機会を学校外においても提供することが強く求められている。本センターは、科学実験教室を行う上で施設・設備・指導等において決して充分とはいえないが、青少年教育施設の特色を生かして、大学・高等学校・中学校との連携を図ることにより、学校の授業とは違った青少年教育事業として実施することができた。4泊5日で寝食を共にしながらの実験、講演、施設見学、レクリエーションと多彩なプログラムを用意し、特に中心となる実験については、身近にある素材を利用した手作りのものを基本に、創造することの喜びと科学することの面白さを満喫できるように心がけた。
 また、97年度には、同研究開発事業として、「同時中継おもしろ自然体験」が開始された。これは国立日高少年自然の家、国立那須甲子少年自然の家、国立室戸少年自然の家、国立諌早少年自然の家、日本余暇文化振興会の共催により企画・実施された連携・協力事業で、子どもたちが恵まれた自然の中でさまざまな体験活動を行い、そこから得た感動や思い出をパソコンで整理・表現し、自然体験活動グループごとのホームページを作成して参加者の相互交流を図り、また、テレビ会議システムを利用して親交を深めた。
 「臨床の知」や個人の身体と90年代の青少年教育との関わりについて、私はまずは自然生活や自然体験、さらには身体の危険をあえて自主的に冒す冒険教育に注目した。しかし、後半に示したような科学教育の実践についても、青少年教育の面目が表れていると思う。私はそれを「身近にある素材を利用した手作りのものを基本」、「感動や思い出をパソコンで整理・表現」などの文献の言葉から感じるのだ。「実験設備の不備」等の瑣末な問題を越えて、そこに青少年個人個人の体感を通した「臨床の知」や「生きる力」につながる科学、「近代科学」とは異なる科学の存在を感じる。科学教育においても、青少年という個人学習者は固有の身体をもってこれに臨むのである。

(5) 個は他者の個との関係のなかで生きている
   −癒し/居場所/準拠個人/第4の生活の場

 横浜市青少年問題協議会意見具申「共生社会に向けての青少年の役割と活動」(89/11)は、「共生」の概念を「情報化・国際化・高齢化の進展による人間や人間関係への影響の中で、青少年の内部の成長・発達を鍵概念として、共によりよく生きていくことのできる社会の実現をめざすもの」と提起した。栃木県では、「いきいき栃木っ子3あい運動」(学びあい、喜びあい、はげましあおう)を県独自の教育運動として、90年度から2期目として引き続き推進した。秋田県では、91年度から、「自立と連帯をめざすふきのとうユースプラン」と題した第6次秋田県青少年育成総合基本計画を推進した。横浜市青少年問題協議会意見具申「こころ豊かな市民への成長をめざして」(92/1)は、今日の青少年、とくに大学生の生活が私生活優先意識に極めて強く彩られていて、個人単位の生活を追求して個人の関心や要求の充足を志向する傾向(個人化)と、公共的・社会的な関心を失って私的な生活への関心・欲求のみを肥大化させる傾向(私化)とが見いだされ、しかも彼らの生活における直接体験は希薄化の一途を進み、その反面、「個室」の中での間接的な疑似体験は拡大してきている、という問題意識のもとに、人と人との血のかよった関係を形成することや異なった価値観や生活文化を尊重しあってともに生きることが大切であるとした。
 埼玉県青少年問題協議会「ゆとり社会における青少年の育成」(94/3)は、「三間」(時間・空間・仲間)の減少などの青少年を取り巻く環境と、青少年自身の問題や学校週5日制の問題を指摘したうえで、「互いこそ人の心の輪をつくる」(共に生きる社会)などとした。第21期東京都青少年問題協議会答申「青少年の自立と社会性を育むために東京都のとるべき方策について」(96/2)に関して、高橋勇悦は、@対人親和性を育てる、A他人への共感性を育てる、B愛他心を発達させる、C人びとの多様性を受け入れる態度を育てる、D自己価値観を育てる、の5点を重点として挙げた。
 このような青少年教育の努力にもかかわらず、青少年の不登校や引きこもりは進行していく。95年度には、「地域少年少女サークル活動促進事業」(92年度開始、後出)などとともに、「不登校の児童生徒を自然の中に連れ出し、自然に触れ体を動かし、仲間とともに汗を流す」(秋田県教育委員会「フレッシュ体験交流活動事業」)、「障害のある子供たちと障害のない子供たちが大自然の中で長期の共同生活を体験する」(栃木県教育委員会「青少年自然体験活動推進事業交流教育キャンプ」)などのかたちでの自然体験活動事業の発展が見られる。
 青少年教育にとって、「個人化」した現代青少年の個人個人をよりよく「社会化」するためにはどうしたらよいか。この課題に関して、90年代半ばから新たに提起された議論が、「癒し」「居場所」など、青少年を逆に「個人」としてとらえ返す視点である。
 私は「公民館が仕掛ける出入り自由のこころのネットワーク」(93/8、前出『社会教育』誌)において、自ら年間講師を務める狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」における相互理解の試みから、この事業が「自分や他者への信頼」を失いつつある現代青年にとっての、心を開いて交流できる癒しのネットワークであると位置づけて、その信頼感回復機能を主張した。また、前出『癒しの生涯学習』(97/4)において、引きこもり問題のカウンセラー富田富士也の言葉、「人は人によって傷つき、人によって癒される」を引き、若者が癒されるためには、自己決定活動において、他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、社会貢献も含めてボランタリーに共生創造主体として生きる以外に方法はないと主張した。
 第22期東京都社会教育委員の会議助言「新しい青少年社会教育施設ユース・プラザのあり方」(96/6)は、「一つの固定的な理想像を求めようとする単線型健全育成を前面に掲げる従来の青少年施設は、もはや現代の青少年にとっては魅力がない」として、出会いとやすらぎの場、体験の場、創造・自己実現の場としての、青少年の自己形成のためのユース・プラザの設置を助言した。東京都青少年問題協議会答申「大人も青少年も自立した社会づくり−青少年の自立と社会活動のための行動プラン策定に当たっての基本的考え方について」(98/2)は、自然発生的に生まれた特定の場所をもたない「第5の生活空間」に着目するとともに、青少年の「居場所」を創るよう提言した。国立オリンピック記念青少年総合センター『登校拒否等青少年の問題行動に関する調査研究報告書』(98/3)において、飯田稔は、キャンプ療法の目的は「心の居場所」を確保し、社会で生きていくのに必要な社会性を身につけることであり、学校復帰はその副産物とし、参加すればすべてが解決するといった過信は禁物と警告した。
 萩原建次郎「若者にとっての『居場所』の意味」(97/6、日本社会教育学会紀要33号)は、「若者の自己形成過程を、意図的操作的な教育意志によって教育過程に引き込んでいくことは、彼らの居場所を失わせる危険性をはらんでいる」とした。久田邦明他は『子どもと若者の居場所』(98/3、東京都教育庁生涯学習部社会教育課)において、その確保を訴えた。田中治彦「生涯学習と市民社会」(98/6、日本社会教育学会紀要34号)は、次のように述べた。「上下関係」や「肩書」がないNPOは、若者の自己形成の場であるのみならず、「肩書」や「ノルマ」に疲れた公務員や会社員の「癒し」の場でもある。NPOはかつて青年団や婦人会が地域社会で担っていた役割を、居場所が見つけにくい孤独な都会において新たに担おうとしている。
 また、『都市青年の意識と行動−若者たちの東京・神戸90's』(95/5、恒星社厚生閣)で、監修者の高橋勇悦は、現代青年にとっての準拠集団ならぬ準拠個人の存在意義を説いた。東京都「青少年の健全育成を推進する都民集会」で、加藤諦三は、「自立社会」という言葉の裏側は「中毒社会」であるとし、次のように訴えた。中毒社会の価値観は真面目さである。しかし、真面目であるからふれあえるというものではない。ふれあいこそを価値にしないと、真面目ならすべてが許されるという価値観になってしまう。そもそも真面目でなく、いい加減な人のほうが自殺しない(98/3、東京都生活文化局『青少年問題研究』188号)。
 たとえ相手が現代青少年といえども、「社会化」や「自立」などのための教育行為をあせることなく、癒し、居場所、準拠個人などの個人的と思われる事項も大切にし、その個が他者の個との関係のなかでどのように生きようとしているのかにじっくりと迫るのならば、有効な青少年教育は可能になるだろう。なぜなら、人は人によって傷つくが、「人によって癒される」からである。
 それが象徴的に表れる一つとして「メディア」がある。現代青少年は、メディアを通して他者の個と関係をもつ。高橋勇悦他『メディア革命と青年−新しい情報文化の誕生』(90/3、恒星社厚生閣)は、今日の青少年がテレビなどを生まれたときから享受して育った初めての世代であるとの認識のもとに、青少年とテレビ、電話、ファミコン、パソコン、パソコン通信との接触を共感的に分析した上で、「青年を中心として軽いメディア文化が洗練される」として、情報化の主体としての青少年の形成に期待をかけた。本書で私は、パソコンの急速な普及とその文化の未成熟性について述べた上で、当時、その問題点を克服してネットワークを体現しつつあったパソコン通信に着目し、そこでの新しい「知」と「集団」の形成を指摘した。
 国の青少年問題審議会は意見具申「高度情報通信社会に向けた青少年育成の基本的方向」(97/4)で、@自分に必要な情報を主体的に探し出し、活用する能力、A送り手側からの多量な情報に流されず、自分の必要に応じて情報を選択できる能力、B悪質な情報を見分け、トラブルを回避し、身を守る判断力などを身につける必要、を強調した。また、青少年が自分の発信した情報を社会から評価されるという経験を容易にするという利点を十分に生かすためには、「バーチャル・コミュニティ」への参加者には青少年の発信した内容を公正に評価することが求められる、とした。「青少年の自立と社会活動のための東京都行動プラン」(98/3)は、東京都青少年問題協議会答申を受け、今日の青少年の、多様化したマス・メディアによってもたらされる情報により非現実的、心理的に構成される世界を第4の生活の場として捉え、重視した。文部省は、98年度補正予算での「エル・ネット」(衛星通信利用による公民館等の学習機能高度化推進事業)を利用して、「全国子どもプラン」の一環として、子どもたちの夢や希望をはぐくむ番組を放送する「子ども放送局」を始めた。その目的は、子どもたちの憧れのヒーロー、ヒロインが直接子どもに語りかることにより「心の教育」に役立て、内外の一流の科学者が子どもたちに「科学技術への夢と希望」を伝えることである。総務庁青少年対策本部『青少年とパソコンなどに関する調査研究報告書』(98/10)は、利用実態や有害情報への接触実態などを明らかにしたが、民放連は、放送基準審議会を中核に「番組規制問題」および「青少年と放送」について検討を進め、番組格付けやVチップ制度について拙速を避けるよう主張した(99/3、日本民間放送連盟『テレビと児童・青少年に関する調査報告書』など)。
 青少年教育におけるメディアへの態度はこのように複雑な様相を呈しているが、疑似体験やバーチャルを安易に排除して「フェース・ツー・フェース」の関係のみに固執する姿勢は改めなければならないといえよう。なお、佐々木玲子「若者の活字離れは進んでいるか−消費者調査からの考察」(99/11、青少年問題研究会『青少年問題』46巻11号)は、マンガやコミック誌を除く読書について好きかどうかを尋ねた結果、「好き」と「まあ好き」の20代の「愛好派」は7割を超え、各年代の中で最も高い割合を占めたと報告した。読書も、個人的で一方的ではあるが、書き手と読み手の関係性のひとつである。読み手にとって書き手は、よき準拠個人の一人となりうるのである。

(6) 個は共同体のなかで生きている
   −団体活動/学社融合/第4の領域

 文部省は89年度に「青少年ふるさと学習特別推進事業」を開始し、都道府県は、それに基づき、青少年がふるさとについて総合的に学習し、その成果を踏まえての実践活動を展開するモデル事業を多分野の諸団体・機関との連携のもとに推進した。宮崎県『宮崎の青少年』(90/3)は、団体指導者の養成として「新ひむか企画スタッフ交流セミナー」を紹介している。これは88年度から始めたもので、対象を女性や壮年層にまで広げ、地域間、異業種間、世代間交流を狙いとしている。内容は、活動事例発表、講演、夜なべ討論などである。地域づくり運動を青年たちにも担ってもらおうとしたのである。神奈川県では、91年に「かながわ青年行動計画」の改訂を行い、従来、大人に任せきりの形をとっていた「社会がなすべきこと」についても、青年自身が核となって課題解決に取り組む姿勢を示した。『秋田県青年の家紀要−青年団体の組織づくりの方策を探る』(91/3)は、新たに組織された青年団体の事例として、農業近代化ゼミナール、地域振興、ふるさと探検隊、ふるさと創生、イベント演出集団、パーティー仕掛人集団などを紹介した。日本青年館青年問題研究所『生涯学習と青年期教育』(92/3)は、青年の主体形成のための生涯学習の重要性を指摘したうえで、共同学習の再評価を主張した。92年度からは学校週5日制の実施を契機にした「地域少年少女サークル活動促進事業」の報告書が目立つようになる。これは、地域(=地域共同体、筆者注)における異年齢集団の仲間との切磋琢磨など豊富な活動体験の機会を確保し、地域の青少年活動の総合的な振興を図ることを目的としたものであった。
 93年度には、全国子ども会連合会が「子ども会活動等の団体活動経験者の行動特性に関する調査」で、子ども会会員と子ども会の非会員との比較調査において、地域の大人との関わり度合い、異年齢集団の経験度合い、年下の子の世話度合い等に統計的有意差を立証し、94年度には、青森県総合社会教育センターが、団体活動をしている青少年(会員)としていない青少年(非会員)では、対人関係、リーダー性、自己意識の高揚、社会参加、余暇の活用等、意識・行動に差異があるのではないか、などの仮説のもと、『団体活動と青少年の意識・行動に関する調査集計結果』(94/4)を報告した。
 これらの動きのなか、生涯学習審議会答申「地域における生涯学習機会の充実方策について」(96/4)は、地域社会の中で様々な学習機会を提供している機関や施設の生涯学習機能の充実方策を示し、「学校教育と社会教育がそれぞれの役割分担を前提とした上で、そこから一歩進んで、学習の場や活動など両者の要素を部分的に重ね合わせながら、一体となって子供たちの教育に取り組んでいこうとする考え方」としての新概念、「学社融合」を提起した。前出『社会教育』誌は「学社融合」を特集し(96/2)、山本恒夫が次の融合パターンを提起した。@教育活動の相互の一部取り込み、A双方の教育活動の一部取り出しと組合せ、B双方の既存の教育活動のそのままでの共有化。『日本生涯教育学会年報17号』(96/11)では、山本は、自発的組織化の視点を用いて学社融合論の理論化を試み、自発的組織化は自己組織化とは異なり、「無秩序又は一定の秩序を持つ存在が、外的又は内的条件の変化がもたらす存在内要素の相互作用によって指向性を創出し、それがもたらす要素間の相互作用によって新たな秩序を創出することである」とした。
 この新概念は前出「国立青年の家少年自然の家の改善について」(95/7)において、3本柱のひとつとして示されたもので、そこでは、青少年教育施設の教育力をフルに発揮、調査研究の充実、成果の適切な普及、長期利用への対応などが挙げられた。学社融合は、とくに国立少年自然の家が先駆的に実践してきた概念であるといえるが、私は、より本質的には、学校教育が「実践の本場(アリーナ)を当初からかいま見させる」(2章、佐伯胖『状況に埋め込まれた学習−正統的周辺参加』訳者あとがき)ためには学社融合が不可欠であったと考える。すなわち、学社融合を、学校教育が社会教育に代表される共同体における学習のなかにあらためて取り込まれようとする動きとしてとらえるのである。越田幸洋は「学校と地域の連携を探る」(99/3、社会教育協会『生涯フォーラム』1188号)などで、自らの鹿沼市の学社融合の事例を紹介し、次のように述べている。その「学」は学校の教育課程に基づく教育活動を指しており、放課後のクラブ活動とか課外授業とかではなく、正規の授業そのものである。社会教育の方はすべての分野を含む。公的機関が行うものだけでなく、民間が行うものも含む幅広い内容である。
 ただし、青少年個人が参加する対象としての「共同体」自体は、急激に変化しており、また、青少年教育においては、その共同体が青少年一人一人の成長にとってより望ましいものに変化するよう求めることになる。
 神奈川県青少年総合研修センター『出会いと交流−青年期の新しい地域活動のあり方』(96/6)を監修した私は、本書で、@自然体の育成活動を、A地域と人間の真実に出会う、B対象から主体へ、対策よりも支援を、C不幸せな現代社会と大人たち、Dフツーの大人たちも幸せになれる育成活動、Eフツーだからこそ、ワガママだからこその、自立の地域活動、とまとめて新しい青年教育のあり方を提起し、次のように述べた。
 ぼくは地域を「善と悪」や「毒と薬」の混じりあう「アンビバレンツ」(両面価値)の場としてとらえる。これが地域の現実であり、そこには現代人の生きざまの真実の姿が渦巻いている。地域には、現代社会のヒエラルキー(階層)による秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。だからこそ地域はおもしろい。そういうなまの水平な出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。他者がきれいに整理した「事実」を自己の思考の枠組のなかにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達し得ないが、人間にはそれをどこまでも知ろうとする潜在的欲望がある。これが生涯学習の本当の姿であろう。「事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を」ということである。
 前出、中央教育審議会第一次答申(96/7)は、従来の学校・家庭・地縁的な地域社会とは異なる「第4の領域」の育成を次のように提唱した。地域社会における教育力の低下が指摘される中にあって、従来の地縁的な活動から目的指向的な活動へと人々が参加意欲を移しつつある傾向がうかがえる。このような状況を踏まえ、これからの地域社会における教育は、同じ目的や興味・関心に応じて、大人たちを結びつけ、そうした活動の中で子供たちを育てていくという、従来の学校・家庭・地縁的な地域社会とは違う「第4の領域」とも言うべきものを育成する必要がある。例えば、青少年団体では、地縁的なものよりも、最近ではむしろ、スポーツやキャンプ、ボランティアといった目的指向的なものの方が人気が高いと言われているが、これなどは、ここでいう「第4の領域」の一つの例と言えよう。また、日常生活圏を離れて、豊かな自然の中で、青年の家、少年自然の家などの青少年教育施設を活用した活動や、民間教育事業者などが提供する体験学習のプログラムを利用した活動も、「第4の領域」の例と考えられ、今後ニーズが高まっていくものと考えられる。行政としては、こうした状況を踏まえつつ、目的指向的な様々な団体・サークルの育成や、日常生活圏を離れた広域的な活動の場や機会の充実、効果的な情報提供活動、民間教育事業者との連携などを通じて、「第4の領域」の育成に積極的に取り組んでいってほしい。
 青少年育成国民運動を担う青少年育成国民会議の『のびのびユースネットガイド』(97/3)は、従来の地域の縦割り型組織形態にとどまらず、子どもや若者と直接かかわる親・教師・青少年指導者や、さまざまな活動の場や機会づくりをすすめている青少年関係団体や機関などが、ともに手を携えて青少年育成に取り組む「のびのびユースネット」を形成するよう提起した。静岡県青少年問題協議会意見具申「豊かな感性と新しい市民性をはぐくむ青少年の参加・体験活動の推進方策」(97/12)は、従来ともすると学業の妨げになるなどの理由で制限されていた高校生のアルバイトについて、原則として家庭の責任においてアルバイトができるように、柔軟に対応するよう求めた。高校生が働く場としての地域や職場の共同体を重視する動きといえる。
 98年3月には特定非営利活動促進法(NPO法)が成立し、団体活動が新たに注目をされるようになった。横浜市港南区まちづくり塾では市民と行政のパートナーシップが目指され、「子育てまち育て塾」などが市の助成金を受けて展開された(98/10、加藤隆章「港南まちづくり塾事業における支援」、前出『社会教育』誌)。神奈川県青少年総合研修センター『神奈川県青少年体験活動実態調査』(99/1)は、青少年の体験活動を行う草の根の団体の網羅的な把握を試みた。
 私は、「癒しの公民館−新しき伝統」(99/3、前出『社会教育』誌)において、同誌の「問題縁でつながる」(97/5)における斉藤学の発言、「縁というのは、それ自体危ない。血縁、地縁もあまり頼るなといいたい。これからは、問題縁である。私は魂の家族と言っている」を批判し、次のように述べた。こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。公民館は近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきた。コミュニティを貫き通す問題縁が存在するはずである。公民館主事は、住民が安心して自分たちの言葉で体験を語れるようにしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけのことである。
(7) 個は他者から認められることによって生きられる
   −カウンセリングマインド/自己決定能力/癒しのサンマ

 中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」(90/3)は、「個の深み」などの新しいキーワードを示しながら、グループワーク理論の再構築、カウンセリングマインドに根ざしたコミュニケーションの創造などによる、青少年の「個」を大切にする団体運営への方向を提起した。
 全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題第20集』(92/3)は、「魅力ある青年の家をめざして」をテーマとして、カウンセリングなどの他分野の研究から、現代青年のニーズに対応する運営のあり方について考察し、国立妙高少年自然の家所長五十川隆夫が、少年自然の家創設の視点から青年の家の運営に対して次のように提案した。@運営のメニューをいくつか持つこと、A青年の裁量に委ねる部分を多く用意すること、B完全週休2日制、学校5日制試行に応じ得る体制づくりをすること、C個への対応の在り方を研究・開発すること。カウンセリングマインドの評価などは、個として存在する青少年に向き合い、その個を承認することを意味しているといえる。
 しかし、93年から宮台真司が「ブルセラ論戦」を始め、『制服少女たちの選択』(94/11、講談社)で次のように述べた。「社会システムは、人格システムの集まりではない。心理的な問題解決(外部帰属化)は、社会的な問題解決とは何の関係もなく、個人的な正しさの信念は、社会の未来をすこしも方向づけない。『社会は個人の集まりではない』『社会の動きは個人の動きの集まりではない』というこの命題は、社会学が練りあげてきたもっとも重要な命題のひとつである。社会システム理論は言う。親の立つ瀬があろうがなかろうが、胸がスッとしようがしまいが、『それでも社会は回り』、娘たちはパンツや肉体(のパーツ)を売りつづけるだろう」。そして、宮台は、その道を進むことがもたらす不可逆な感覚変容についての知識不足は、彼女たちをきわめて不自由な場所に追い込んでしまうことになるとして、「先に進むのがいいか、引き返すのがいいかを、いったん立ちどまって『選べる』ようにしておく」というワクチン戦略を提起しつつ、「わかっていながらその道を選ぶ」というのであれば、彼女たちの意思や自己決定の問題とした。また、宮台は、『終わりなき日常を生きろ』(95/7、筑摩書房)では、「輝かしき自分」などめざさずに「まったりと」脱力して生きることが「終わらない日常」を生きる知恵に通じるとした。このように宮台は、社会システムの優位性を打ち出し、学校、家庭、地域等の青少年個人に対する社会化役割の無力を主張したのである。
 私は、宮台の議論は、青少年個人より高い視点から「青少年健全育成」に関わるお題目を念仏のように唱えてきた指導者にとっては重要な指摘になりうると考える。しかし、多くの青少年教育が支援しようとしてきた自己決定能力とは、「わかっていながらその道を選ぶのであれば、それは自己決定なんだから」とすますような「脱力」や「虚無」などではなく、「社会システム」のなかで指導者自身も青少年とともに追求してきた永遠の「理念」である。そして実際にも、青少年教育の指導者のなかには、「輝かしき非日常」を日常的な活動のなかで味わって生きている大人の個人が、私は除かれるが、たくさんいる。彼らは青少年にとっての準拠個人になりうる。
 東京都では、97年10月、東京都青少年問題協議会中間答申「性の商品化が進む中での青少年健全育成」(97/3)を受けて、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の一部改正が成立した。これは他県の「淫行処罰規定」のようないわゆる「淫行」概念をとらず、売買春等の相手方となった大人を処罰する買春等処罰規定を導入した点などに特徴がある。中間答申は次のように述べた。「淫行処罰規定」は、相手方となる大人を処罰する規定であっても、行為自体を「淫行、みだらな性行為」と定義することで、青少年の性に関する行動全般を不良視し、青少年に対する心理的な抑制効果をもたらすなど、かえって青少年の性的自己決定能力を育む機会を失わせる危険性もあるという認識をもちつつ、大人を処罰する「買春等処罰規定」を設けることはやむをえないとの結論に達し、青少年の性的自己決定能力の育成のために、家庭、学校、地域社会それぞれが情報を発信する場となるよう提言する。
 東京都は、個人の自己決定がきわめて尊重されるべき性に関する行動に対して、青少年育成の観点からあえて大人を処罰する法的規制に踏み込んだのである。しかし、家庭、学校、地域社会それぞれが情報を発信することによって、その性的自己決定能力を育てようとしたところに、より重要な本質がある。川崎市青少年問題協議会意見具申「青少年の健全育成に向けた社会環境健全化の具体的推進策について」(97/4)は、大人がまず変わるために学ばなければならないとして、カウンセリングマインドとグループワークの能力の取得等を挙げた。
 そして、『<宮台真司>をぶっとばせ!』(99/1、星雲社)で編著者の諸富祥彦は次のように述べた。「宮台は『意味から強度へ』と、“終わりなき日常”を生きる知恵を説くのであるが、これでは、生きる意味を求めずにはいられないまじめな若者はますます追い詰められていくばかり。“闘うカウンセラー”諸富が、宮台に代わり、こんな時代にあっても“夢と希望を持って生きる”ための人生観・世界観を説く」。自己決定能力の獲得や発揮のためには、たとえば、判断の材料としての情報提供なども大切であろう。しかし、私は、自己決定のために情報以上に重要なのは、自他への基本的信頼であると考える。これは、それぞれの個を承認しあう関係においてのみ形成される。宮台の指摘する「仲間以外はみな風景」(しかも、その仲間関係もピアコンセプトによって個が自己抑圧されている)という現代青少年に対して、自己が承認され、他者を承認する場を提供する青少年教育の有効性は大きい。諸富は「私が、ほんとうに糾弾したかったのは、宮台ではなく、そんな宮台に誰も本気でノーを突きつけない私たち日本人の情け無さである。『もう日本は、とことん“何でもあり”になってしまっているのだから、今さら宮台がそんなことを言ったからって、どうってことないじゃない』という諦めのムードである」と述べている。私も、2000年代の青少年教育が、現代青少年のニヒリズムを真正面から共感的に受け止めつつ、ニヒリズムを越える「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の三間)」を提供できるよう願うものである。

(8) 個は貢献することにより生きられる
   −ボランティア/青年海外派遣/情報ボランタリズム

 90年代初頭まで青少年ボランティア参加促進事業が盛んであった。この事業は、青少年及び青少年ボランティア活動の指導者に対してボランティア活動に対する知識・技術の修得及び資質の向上を図ることを趣旨として行われたもので、青少年ボランティア養成講座のほか、青少年ボランティアの集い、青少年ボランティアバンク事業などが実施された。本事業は91年から各地で生涯学習ボランティア活動総合推進事業として発展した。以後、文献における「ボランティア」のヒット率は増加し、後半には25〜30%の高率に至る(図表2)。また、90年代初頭から各自治体が行う青年海外派遣事業の文献が多かったが、これに対し、民間団体の機動力を活かした事業が特徴的だった。神奈川県青少年協会「海外派遣団」はタイで植林活動を、ガールスカウト日本連盟「開発教育プロジェクト」はネパールで簡易水道に水栓をつける事業を、新潟国際ボランティアセンター「スタディーツアー」は、タイのカンボジア国境やカオイダン難民キャンプでの活動などを行った。

図表2 「ボランティア」ヒット率の経年変化 (n=2238)










 愛知県青少年問題協議会「青少年の社会参加活動の促進方策について」(92/3)は、人類の存続すら危惧されるという地球規模での危機意識をもって、目前にせまった21世紀を担う青少年の社会参加を考えることなどが検討の方向とされ、青少年に地域を知らせる、地域に青少年の受け皿やたまり場をつくる、生涯学習時代にふさわしい地域づくりをする、などの施策が提言された。日本青年奉仕協会『ゆたかな学びの世界』(92/3)は、生涯学習社会において、ボランティア活動を通して豊かなこころを育む個性的な学習を自ら行うことの重要性を訴えている。
 前出『社会教育』誌が「生涯学習ボランティア」を特集し、松下倶子は、その青少年の活動の意義として、集団のなかで自分がどのような立場をとればよいかを自覚して進んで役割をはたす行動が、さまざまに異なる他者と関わりをもちながら生きていくための体験になると主張した。日本青年奉仕協会『ボランティア白書−社会奉仕から社会創造へ』(92/9)を発行し、現代社会の最大のテーマを「個人と社会の新しいあり方」、「人間としての新しい生き方」ととらえ、個人の尊厳と開かれた個人の日本だけにとどまらない共生の社会をらににという認識のもとに、ボランティア活動の動きのなかから「人間と自然の命あるものが豊かに生きるために、どんな社会を作っていくことがよいのか」を描いた。そこで、社会奉仕を「もうひとつの教育」としてとらえ、それが共生社会の創造につながるという視点を提示しい。
 田中治彦「NGO活動と社会教育団体の役割−開発教育を進めるYMCAのネットワーキング」(93/4、国土社『月刊社会教育』444号)は、社会教育と開発教育の関係について、YMCA、ガールスカウト、ユネスコ協会連盟など民間社会教育団体の取り組みが早かったのに比べて、行政社会教育は地域に密着している代わりに国際感覚には乏しかったこと、しかし、このことは逆に強みでもあり、日頃生の国際的な情報に乏しい農村部や、都市部であっても従来あまり関心を示さなかった層に浸透していく可能性をもっていることなどを示唆した。同氏は「社会教育概念理解(把握)の方法をめぐって−青少年教育の立場から」(93/6、『日本社会教育学会紀要』29号)では、望んで主体形成を避けるモラトリアム青年に対して、自己疎外を克服する形での主体形成という学習論は当てはまらないとし、日本と自分の存在を「加害者」としてとらえるNGOのなかでの社会改革意識、「もの」を大量に消費している自らのライフスタイルや生き方に目を向けるなどの、現代青年の新しい特徴を提示した。また、日本青年奉仕協会事務局長興梠寛「生涯学習ボランティアを検証する−草の根が主役の『在る』ための学びへ」(93/12、前出『月刊社会教育』誌)は、自主的主体的な草の根活動としてのボランティア活動の意義を強調し、それを人間存在のための学びとして位置づけた。同氏は「制度的評価」については、ボランティア活動は自分や社会の発見のプロセスであり、市民の自由意思による社会の改革や創造のためのプロセスなのではないか、として疑問を提起した。総務庁青少年対策本部『青少年白書』(95/1)は、青少年にとってのボランティア活動の意義を第1部に特集し、「青少年がそのみずみずしい感性をいかして、人と人とのネットワークの中に自らの居所を求め、さらにうちなる声に衝き動かされ、そのネットワーク自身をより高くへと持ち上げようとしていくことは、21世紀に向けて真に豊かさが実感できる社会、生きがいのある社会を実現していくための重要なステップであるともいえよう」と評価している。
 そして、95年1月の阪神大震災の救援ボランティアに全国の若者たちが駆けつけたことから、「日本の若者はしらけており、ボランティアの風土はない」という論調が崩された。むしろ、せっかくボランティアをしたい人がいるのに、社会がそれを需要と結びつけるコーディネート機能をもたないことこそ問題とされた。神戸市青少年育成推進本部「第3次神戸市青少年育成中期計画」(96/10)は、震災時のボランティアとして活躍した青少年の若い力に注目し、震災からの復興と21世紀への神戸のまちづくりを進める中心的担い手として、青少年の行動力と創造力に期待した。
 一方、電子的コミュニケーションにおける個人の貢献について、私は、前出『生涯学習かくろん』(91/4)でパソコン通信における情報ボランタリズムを評価し、「情報化時代のコミュニケーション」(97/7、前出「あすへの力」誌)で、インターネットなどの情報通信技術の発展によって現代青年にとって一番遠い所にある情報としての地域や行政の情報が開かれたものになり青少年の参加が可能になったと指摘した。さらに、生涯学習ボランティアや情報ボランティアが創り出している生涯学習空間および電子的仮想空間の世界を、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼び、上下同質競争に飽き足りなくなって、この競争社会の世では当然と思われてきた権利である自己のプライバシー権や著作権を、自分の意思で必要に応じて守ったり開放したりするという自己管理のできる市民のボランタリズムが生まれつつあるとした。

(9) 個性重視からの発展−自己決定能力の獲得と発揮の支援へ
   −MAZE/参画/ピアコンセプト

 私は前出中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言(90/3)において、次のように「個の深み」を提起した。個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入る、踏み入ろうとする、そのことによって自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、根本的には集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切と主張し、その視点として、「何が起こるかわからない『迷路』に挑戦する姿勢」や「ケ・セラ・セラのような軽い気持ち」を挙げ、「目的志向型からMAZE(迷路)型へ」「学習→活動型から活動=学習型へ」「研修会方式からたまり場方式へ」「一括方式から選択方式へ」「既製服型から注文仕立型へ」「スローガン型から遊び心型へ」などの提言を行った。「MAZE」(迷路)は、ミスマッチ、アバウト、ジグザグ、イージーゴーイングの頭文字を合わせた言葉で、指導者がお膳立てしたものではないもの、見通しをもちきっていないものなどを取り入れるという意味である。
 鹿児島県では、80年度から「心身ともにたくましく、思いやりの心とやさしさを持つ青少年の育成」をめざし「青少年自立自興運動」を推進してきた。しかし、90年度から新たに「未来へはばたけ青少年運動」を展開した。これは、次代を担う青少年に、たくましい自立の精神と、幅広い国際的感覚と未知に挑戦する気概をもってほしいという意図で始めたもので、青少年活動を青少年自身が企画・実践する青少年主体のものとした。
 東京都杉並区では、95年、児童福祉センター職員で構成される「児童館の建設・運営の在り方」検討会が設置され、「中・高校生の居場所づくり」や「中・高校生の活動への支援」など中・高校生への取り組みが打ち出された。96年、基本設計に先立ち、関係団体推薦者や一般区民、学識経験者から成る「建設協議会」とともに、「中・高校生委員会」が設置された。その後の「中・高校生運営委員会」は、センターの規則や運営事項、講座、大会等事業に関する意見、事業の企画を行った。「福岡市こども育成環境づくり指針」(96/10)は、こどもを固有の社会的存在(こども市民)としてとらえ、まち全体をあそび、活動できる場にしようと訴えた。また、地域住民が自らの目で地域のこどものための環境を見直し、そのあり方を考えていくため、限られた一部の人に任せてしまうのではなく、高校生、大学生、父親及び高齢者等の参画を得て、地域コミュニティとしてこどもの環境や活動を考え、地域社会全体の合意を作り出していくよう提起した。
 横浜市青少年問題協議会意見具申「青少年の発達と社会環境づくり」(98/4)は、大人が青少年のために社会環境を改善するということの他に、青少年自身が自らの問題を解決することができるように、青少年の発言の場や活動の場を広げる必要もあるとした。『大阪府青少年育成懇話会報告書』(99/3)は前出「新プラネット計画」に代わる新しい青少年育成計画の策定(2001年)に向けた検討を行い、「共育」「コミュニティの再構築」「予防的視点の重視」「未来への対応−積極的な成長の機会の提供」の視点を提起した。そこでは、青少年のニーズや意見を今後の計画づくりに反映させるため、青少年自身の参加による大阪府青年政策会議が設置された。
 そして、90年代終わりには青少年教育関連文献にもワークショップという言葉が多く見られるようになり、それとあいまって青少年自身の参画がキーワードになっていく。しかし、このような個性発揮を現代青少年に求めることは可能なのだろうか。
 私は、前出『癒しの生涯学習』(97/4)において、癒されない3つの病理として、@家族関係の病理、A教育システムの歪み、B自分自身の内なるピアコンセプトを挙げた。ピアコンセプトとは仲間を大切にする意識のことである。そこには連帯感や役割意識などの肯定的側面もあり、ふつうはいいことのように思える。しかし、実際には、ピアは個人の主体性を自己抑圧する否定的側面としても機能する。「みんなのために」とか「みんなだって」とかいう認識が、みずからの個の発現を自己抑圧する結果につながるのだ。生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふりをしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。このみじめな集団風土は、個々人の内面としてのピアコンセプトによって支えられる。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする意識(卑屈な自己疎外!)にもつながりがちである。「友達から変と思われたらもう終わり」という彼らの叫びは、まさに「みんなぼっちの世界」の象徴である。ピアコンセプトは、ヒエラルキーの支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだろうが、ピアだけでは残念ながら本質的な問題解決にはつながらない。かえって、現在のたての関係を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくったりするだけの結果になってしまう。個性を発揮するためには、彼ら自身、ヒエラルキーへのみずからの忠誠心を嗤うとともに、自己の内なるピアコンセプトをも意識的・理性的に乗り越えなければならない。
 総務庁青少年対策本部『青少年健全育成中央フォーラム−青少年健全育成のために薬物乱用の防止を考える』(98/3)で、和田清は、薬物乱用防止も必要だが、薬物依存は「治す」という区切りのある病気ではないとし、脱慣とその維持は、家庭、医療機関、教育機関、取り締まり機関等あらゆる所の連携的サポートなしには不可能に近いと訴えた。そして、害知識の無力さについて次のように述べた。「薬物使用に関する大規模中学生調査」で毎年認められることだが、害知識は薬物使用経験者の方がある。誘われた時に「NO」と言えるようにする指導こそが重要である。そのためには、薬物乱用・依存者に肌で接している人たちの話や、生徒にとっては心理的に仲間に近い元乱用者のノンフィクションの話が有効である。学校教育で知識を教えたら、それを強固なものにする必要がある。
 個性重視から始まった90年代の青少年教育は、2000年を迎え、逆に個性や自己決定能力の獲得に立ち戻りつつ、青少年の「参画」というかたちで彼らの個の発揮を支援する段階に発展しつつあるといえる。そこでは、ピアコンセプトを打破し、自他への基本的信頼の集団風土をユースコミュニティのなかに形成することが、情報や知識の提供以上にポイントになるだろう。


3. 個人の学習を支援するために
 (西村美東士=にしむらみとし、徳島大学大学開放実践センター) 

(1) 個人が学習すべき課題など他者からは提示できない
    −要求課題と必要課題/私的課題と公的課題/凝固と融解

 社会教育の世界では、操作概念として学習課題を要求課題と必要課題に分けて論じられていた。市民の学習要求が多様化、分散化するなか、社会教育で講座などを開こうとしても、大部分の人が実際に参加してくれるような、何か素晴らしい学習テーマがあるというのは幻想でしかない。また、そんなに多岐にわたる学習要求のすべてをテーマとして取り上げることもできない。それよりも、公共性のある学習課題や人間として共通に求められる学習課題を一番の根底に位置づけながら社会教育事業を進めるべきであるというのが必要課題重視の考え方である。
 ただ、その実際的な方法は定説があるわけではなかった。たとえ少ししか人が集まらなくても必要課題を正面からテーマに取り上げて市民に問いかけることもあってよいかもしれないし、要求課題を配列しつつ必要課題に導くさまざまな方法も考えられた。あるいは必要課題とは、学習者が自己の要求にもとづく学習の過程の中で自ら気づくものであり、他者である行政が先回りして考える必要や権限はないとする者もいる。
 いずれにせよ、この論議は、簡単にいえば社会教育をとりまく次のような環境が発端となったと考えられる。今日の学習社会においてはとくに都市部で民間カルチャー産業が発展し、学習要求が一定程度社会に存在すれば、その学習機会はそこが提供し、また市民も相当なお金を払ってでもそれを受講するようになっている。学習要求があるからといって、そのすべてを公的社会教育が準備し提供しなければならないという状況ではなくなっていたのである。さらに行政改革の観点から「持てる者」の個人の利益にとどまるような学習については、公税を支出してまでそれを保障する必要は認められないと財政当局なども考えるようになってきた。社会教育行政はきびしくその「公共的意義」を問われ始めたのである。もちろん、それとともに、公的社会教育の内実が文字どおり「公的」であるためにはどうあればよいかという理念的な問題意識、そして社会教育の現場からの「市民の多様な学習要求のすべてに対応することは不可能である。どうすればよいのか」という実践的な問題意識も影響していた。
 私は自著『生涯学習かくろん』において、「要求課題」と「必要課題」とは別に「公的課題」という用語を提起した。なぜならば、個人の学習テーマについて、その必要を逐一検討することは不可能であり、越権行為でもあり、それよりもむしろ公的社会教育の側が、自己の役割遂行という限定的視点からとらえることが必要だと考えたからである。そして、学習課題のなかに「私的課題」があったとしても、それを積極的に排除することではなく、「公的課題」を積極的に優先することこそが公的社会教育に求められているのだとした。なお、ここで、公的社会教育とは必ずしも公金の支出等によって行われる社会教育だけではなく、社会教育の本質からいって、国民が自ら行う社会教育においても成り立ちうるものであることを付け加えておきたい。
 公的課題の優先とは、行政(公民館等の教育機関を含む)が学習課題を新規開発することではなく、あくまでも現存する学習の要求課題やネットワークの中ですでに学習されている課題を、ネットワークに干渉することなく整理して拾い出す選択行為である。私は社会教育行政の役割をネットワーク型問題提起者として位置づけているが、それは、排除や選別ではなく、整理と選択の行為のもとに行われる。公的課題優先のもとに、個別事業計画においてはマーケティング会社にまさるとも劣らないニーズ最優先の姿勢が重要である。整理、選択した公的課題を、いろいろな機会を利用して住民にはっきりと示した上で、その課題につながる現存する学習ニーズを拾いあげてプログラム化して提供することが必要である。公的課題が、現存する学習ニーズと学習活動から選択され、いわば仮に凝固したものであるのに対して、直接の学習プログラムにおいては、住民の学習ニーズに呼応してそれが再び融解して学習機会として提供される。行政は行政の立場で公的課題を凝固させることしかできない。しかし、それを不変のものとしてそのまま住民に押しつけるとすれば問題がある。ネットワーク型援助は、行政と住民との関係が水平であるべきだ。行政がニーズに対応しないような公的課題の提起をするとすれば、それは行政の独善につながる。
 ただし、最近は公的社会教育のなかでも行政と市民のパートナーシップが進められようとしており、上のように公の側で学習プログラムを提供するのではなく、市民が直接、自らの個別で多様なニーズを公的課題に凝固させながら、同時進行的にプログラムとして融解する動きもある。その場合は、あとで述べるように行政には新たな役割が求められよう。しかし、行政主導にせよ、市民主導にせよ、いずれにおいても、公的社会教育が公的課題を整理、選択したからといって、それは個人の学習すべき課題を提示したわけではないということが重要である。個人学習者は、あくまでも、学びたいことを学ぶのである。そこにこそ学びの生命力が宿る。

(2) キーパーソンの拠点になる
   −リカレント/大学開放/産学官民の知的協働

 私は徳島で、ヤングフェスティバルの実行委員長などを務めてきた川田春夫さんと出会った。彼は10年以上勤めた会社をそのとき、退職していた。去年のヤングフェスティバルで仕事がなおざりになりがちで、会社や顧客に迷惑をかけていると感じたからだ。一番勉強したのは、電気工事施行管理技士資格取得(1級)のときだそうで、ヤングフェスティバルと同時進行で集中して勉強した。その次が徳島大学工学部への編入のときで、10日間ほど集中して勉強した。また、夜間部のときは、各専門分野の仲間が集まって、夏休みに編入をめざして勉強会をした。彼は数学を教えた。夜10時までみっちりやり、それ以降切り上げて毎晩のように遊びに行った。楽しかったと彼はいう。
 しかし、コンピュータのハード、ソフトなど、どんどん新しくなるので、独自の勉強だけでは追いつけない。機材も手に入らない。とくに徳島では、技術が陳腐化しており、リニューアルが必要と彼はいう。彼は自治体のある講習会に私費で申し込もうとしたことがあるが、企業からの参加ではなく、個人参加であるという理由から断られた。その講習は企業を育てるという目的で開かれているからだ。彼はいう。自分は、技術屋個人として勉強したい。
 必要になったときは、今でも徳島大学に当時の化学の先生を訪ねて、食品工業の生物制御などについて教えてもらっている。自分より下の世代はそういうことはしていないようだが、自分たちの世代は、忙しい先生だが、連絡をとって、違和感なくやっている。ただ、コンピュータについては、教えてもらう相手がいない。中小企業には最先端知識が必要なのではなく、新しく出た安い商品をいかに使うかがポイントになる。
 リカレントも必要かもしれないが、それよりも基礎的なことが欠けている。具体的には数学、物理、国語などである。国語についていえば、工学部時代、ノートに写すだけであり、考察といっても、教師の提起した課題を解くという「考察」であった。しかし、実際の仕事では、課題というよりも問題を見つけ、それを考察し、書かなければならない。これは自分の会社がたまたま提案型の仕事だったからかもしれない。彼は、基礎学力に欠ける新入社員のために、数Vなどの教科書をつくったことがある。自身については、発想法、計画力が重要と考え、70万円の私費を払って、ビジネススクールの通信教育を今でも受けている。会社はそれをプラスとは考えていない。彼自身も自分の財産づくりだととらえている。これをしなければ、客への提案はできないと思った。そうしないと自分自身が枯れてくる。「会社のため」ではなく「自分のため」という気持ちである。ヤングフェスティバルについても、同様に「自分のため」と思っている。自分より若い人たちと共同で何かを作りあげるなかで、時代の風がわかるという。
 川田さんは本センターの公開講座「私らしさのワークショップ」を受講している。彼にとってはほかの体験とまったく異なる出会いであった。受講者の年齢が高く、それなのに元気であることに彼は衝撃を受けた。ヤングフェスティバルなどの場では、たとえば許したくても許してはいけないなど、リーダーとして「自分をつくる部分」が必要だが、講座ではそれがない。講座自体が、自分の気持ちをさらけ出す怖さを感じさせる。しかし、自分も相手も気持ちをさらけ出し、またフリースペースや裏講座などもあるので、とくに最初の秋講座では、5回だけで、そういう異年齢の人と数年来のつきあいをしているような感じになれた。知識や技能を習うという目的だけなら、ふつうの講義のように顔見知りになるころには終了ということがあってもよいかもしれない。しかし、それでも友達をつくるということは、横のネットワークができて教えてもらえるということであり、大切なことだと彼は考えている。
 最近、国立大学の独立行政法人化、エージェンシー化への動きが急である。彼はいう。国立大学はお金がかからないから自分でも行けた。また、たとえ授業は40人が受けたとしても、5、6人で気軽に先生のところに遊びに行ったり、教えてもらったりすることができた。そのスペースもふんだんにあった。それが自分には楽しかった。サロンのように、教師と学生が同じ高さで接する機会をこれからも大切にしてほしい。自身は本センターのスタッフが翻訳した『大人を教える』(学文社)を読み、ほんとうに勉強になった。たとえば講師の姿勢、部屋の様子、入り口で迎えることなど、その姿勢は、ヤングフェスティバルや学遊塾でミーティングが煮詰まってしまったときなど、有効なアドバイスにつながった。大学教師は専門知識には優れているが、とくに工学部は社会教育や生涯学習についての理解がない。人、とくに大人を教える場合は、それが必要になると思う。
 また、社会教育や生涯学習についてセンターの教官とは話すことができるが、行政にはそのような相談相手がいない。社会教育のこと、イベント、青少年団体などについて、人事異動が激しく、あまり知らない職員が多い。たしかに生涯学習という言葉は盛んに使われてはいるが、自分の話が、とくに役所には伝わらないというもどかしい思いをもっている。生涯学習についての勉強会をしたい。本センター教官から紹介されたメーリングリストでは、生涯学習についての議論が盛んにやりとりされている。話し合える人が全国規模だといるということは、徳島にも本当はいるのだろう。きちっと社会教育や生涯学習を学んでいて活動している人たちの中核組織としての連絡会がほしい。そういうキーパーソンをセンターの8人の教官の専門性をいかしてフォローしてほしい。自分自身、センターの教官と出会う以前は、生涯学習によってこんなことができるとは知らなかった。
 30代の人たちで何かをしたい。何をすればよいかわからない人、自分だけで考えている人などがいるだろう。その人たちがアクセスできる場になってほしい。自分は徳島大学出身なので気軽に徳島大学に行けるが、そうでない県外出身者、高卒者、他大学出身者にとっては塀が高いと思う。それに対して、徳島大学大学開放実践センターは大学の外に向かって開かれているという実感がある。これを活かしてほしい。
 徳島では青年層リーダーが元気なようでいて、実際には40代以上に、「口先ばかりで行動しない」といって頭を押さえつけられている部分があると思う。そういうとき、センターのようなアドバイザー的な存在があれば、青年層の悩みも「口先ばかり」ではなく、より具体的になるのではないか。また、起業については、県や市の補助金なしには、この不況下では不可能、理念などはいっていられない、従業員に給料を払わなければ、という実態と雰囲気がある。起業家の若返りを図り、青年層(30代から40代)に設定するべきだと思う。徳島大学が起業のための発信をしてほしい。CATVなら放送枠にまだゆとりがある。CATVは、見る人はけっこう見ている。徳島大学の教員がニュースに出てくることはときどきあるが、起業の件ばかりでなく、もっとシステム的に地域に発信することを考えてほしい。
 川田さんの話はおおよそ以上のとおりであった。彼のようなおだやかで物静かな新しいタイプのキーパーソンが、大学開放にエールを送ってくれている。取材した私としては、そのことを心強く思うとともに、こういう人たちの議論の場を提供し、学習支援を強めていきたいと感じた。国立大学開放機関としては、いわば「知的水平勉強会」によって、大学と市民の知的協働を進め、それをよりいっそう高次のものとすること、さらには国立大学の存在を自発的に支持する市民集団を形成することが必要であると思う。これによって、産学官民の知的協働、さらには、それらキーパーソンの拠点として、大学開放機関が新しい役割を発揮することが重要である。
(3) 個人の参加・無為・撤退自由のネットワークをつくる
   −ヒエラルキー/ピア/ネットワーク

 同じ「ネットワーク」という言葉が使われる場合でも、今日の市民運動の動向を強く意識してそれを中心に論じられることもあれば、非対等な階層構造(ヒエラルキー)による統合として論じられることもある。後者は、大型コンピュータと端末機との交信や、行政内部での諸機関の連携などに関する議論においては顕著である。しかし、ここでは、現代社会を生きる個人の意識やふだんの生活にも深く関連する広い人間関係の概念として、そして、従来のヒエラルキー的な発想では行き詰まりになってしまったがゆえに生まれた個を生かすための新しい概念として、ネットワークをとらえておきたい。すなわち、ネットワークとは「自立的価値をもつもの同士の対等な関係のなかでの交流と連携」ということになる。
 私は高橋勇悦編『都市青年の意識と行動−若者たちの東京・神戸90's』(95/5、恒星社厚生閣)において、「若者にとってのネットワーク形成の困難と可能性」と題して次のように述べた。
 今回の調査結果から、一見、ヒエラルキーを嫌ってそれぞれの「自分らしさ」を尊重しあい、軽やかに多彩に展開されているように見える若者の交友関係も、実際には「浅いつきあい」への耐性が弱く、友人という限られた「他者」とだけ同一化しようとする志向のため、結局は、自己の個の確立を阻害する結果に陥っていることが読み取れた。このような限られたインフォーマルな仲間を、ピアと呼ぶ。ピアは、現代社会のヒエラルキーと競争によって疎外された自己を、自分と同種の仲間の集団のなかで回復しようとする「避難場」としてとらえることができるだろうが、ネットワークはそのピアとも異なるものである。そこで、図表1では、ヒエラルキーとネットワークとの間に、この「ピア」を仲介項としておき、やや冒険的ではあるが、それぞれの特徴を振り分けることによって、ネットワークの独自の意義を浮かび上がらせようと試みてみた。
 少なくとも右表では、ピアとネットワークの相違は明白である。「優しい」といわれているはずの青少年が、授業中、罪悪感なしに私語に没頭したり、「いじめ事件」を引き起こしたりする。これらは、「仲間をだいじにして、おしゃべりにつきあう」(私語)、「友達と同じ行動をする。異質な部分は自他ともに抑制・排除する」(いじめ)というピアコンセプトの表れでもあるのだ。しかし、私語やいじめの傍観者たちさえ、「まわりにあわせる」「自分がひとに迷惑をかけないことが先決」というヒエラルキーとピアの価値観に染まってしまっており、主体的な批評精神や、批判と信頼などの人間関係能力を失いつつある。

図表1 ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ























そういう若者たちにとっての自己確立のための課題とは、「同一化せずとも『異なる他者』を受容することができるようになるための基本的信頼感、多少迷惑をかけあっても折り合いをつけることができるようになるための共感的理解の能力、自分らしさを現実のなかで実現するための実践的な自立力」の3つであり、それらの課題は、ヒエラルキーでもピアでもなく、ネットワークの魅力と居心地のよさを実際に味わってこそ、学習され、獲得されると思われるのである。
 「いったん集団に入って役割を果たすことになった以上、そこから抜けることは無責任である」、私にはこういう言葉が「不幸の手紙」(同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもの、チェーンレター)のような不幸の分かち合いとして感じられる。他者に対して自分や自分の帰属する集団に同一化するように迫る、ピアコンセプトの逆機能(否定的側面)そのものではないか。
 私が年間講師を務めていた狛江市中央公民館青年教室(狛江プータロー教室=狛プー)は出入り自由のネットワークとして運営されている。だから、「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」と新規参入者(ニュー・カマー)を歓迎するだけでなく、来なくなってしまった人には、「元気? たまには顔を見せてよ」と呼びかけることはあっても、撤退したそのことについての責任を問うことはしない。つまり、反復参加者(リピーター)になることを強要はしないのである。
 突然の撤退によって抜けた穴でも、残った人で何とかなるものだ。担当職員は大変だろうけれども、それは学習者の自発性を重んじる社会教育の職員の根源的なつらさである。まあ、役割分担があるのに抜けたくなった場合は、連絡ぐらいすることはネットワークのエチケット(ネチケット)と思う。このようにしてルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそなのだ。
 このように、撤退の自由がなければ、本人がそこに参加しているのもお義理になり、自発性阻害の要因になるのだから、ネットワークには撤退の自由が不可欠であるといえる。しかし、ネットワークは、撤退者にもネチケット以上のネットワーク的資質を要請する。撤退したはずの人がその後の運営に介入したり(OBによる現役支配)、現役への個人攻撃をしたりするなどの「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為をよく見かけるが、私は本当に嫌だなあと思う。自分の未練を他人に押しつけるのは、プータローの自由な精神に反する「悪いわがまま」だ。ネットワークに撤退の自由の許容を求めるとともに、撤退する個人には潔い「良いわがまま」を求めたい。


(4) 市民とのパートナーシップをしかける
   −不幸の手紙状況/市民教授制度/ネットワーク型運営

 私は徳島学遊塾運動のアドバイザーをしている。この運動は、まち全体を学び舎として、市民のだれもが学ぶことができ、教えることのできる「共育システム」である。そして、その主体はつねに市民であり、市民自らの発想と実践によって運営されることが基本とされる。学遊塾推進本部や企画、広報等を担当する各専門部会は、公募による市民ボランティアが活動の中心となる。もちろん、これに対して、徳島市(事務局は社会教育課)はできる限りの支援をしようとしている。しかし、だからこそ、そこで問われるのは市民参画の実体であり、官民パートナーシップの成熟度である。
 私なりにいまの学遊塾が突き当たっている究極の問題点として感じている点は、参加・参画する市民の側にややもすると「不幸の手紙」と似た心理的状況が垣間見られ、そのことが市民参画や官民パートナーシップの阻害要因になっているのではないかということである。「不幸の手紙」とは、同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもので、チェーンレターの一種である。市民の自己決定活動の一環であるはずの生涯学習なのだが、とくにそういう活動のなかで役員などをやっている人は「なんで自分ばかりこんな苦労をしなければならないのだろう」という非生産的な気持ちにさいなまれることがあるのだ。これをそのままほかの人に訴えて協力を得ようとしても、相手だっていやな苦労はしたくないわけで、進んで協力しようという気持ちになれないため、「不幸の手紙」をもらったときのようないやな気持ちになるだけの非生産的な結果しか残らない。
 もちろん、行政側にもこのような運動への対処の未成熟な部分も残っていて、それも阻害要因のひとつにはなっているとは思うが、市民の側に行政とのパートナーシップ能力が培われれば、それは市民の力で次第に解消されよう。なお、本稿は問題点とその対処法を考察することを主眼としており、実際の学遊塾運動は、ほとんどの場面でまさに「いきいきどきどき」と運営されていることを念のため言明しておきたい。
 1997年度の『1年間の活動報告』において、徳島学遊塾運動推進委員会委員長山本忠男は、「学びたい人々はたくさんいる。また、自分のもっている知識技能を多くの人々に広めたいと思っている人も少なくないと思う。そんな人々の、共に教えあい学びあう場が学遊塾である。師弟とか金銭とかに関係ない、遊び心から学び心への共育であり楽習である。企画運営に当たる推進委員も、市民教授も、みんなボランティアであるのが特色で、理想的な市民手づくりの生涯学習」としつつ、「道いまだ遠しという感がする」と述べている。アドバイザーの澤田順子は、「互いに教え、教えられる双方向の関係に戸惑いを覚えたようだ。はじめは市民教授というと、特別な資格であると錯覚を起こした向きもあった」、「各部会や推進委員の意向が反映されてきているとはいえ、まだまだ主体性を持つところまでいっていない。『私にできることがあればお手伝いします』の域を越えないまま指示を待ち、事務局に頼る部分が多いようだ」と述べている。
 共育と楽習は、ある意味で「わがまま」(わが思いのあるがまま)に積極的に関与する行為であり、しかもそれは「自分のため」の行為であるといえよう。だが、徳島の人たちの「控え目さ」ゆえにか、そういうとらえ方ができずにいる面がありそうだ。これはこれで徳島の人たちの味わい深さを表しているのかもしれない。げんに阿波踊りのときなどは身も心も大いに解放し、ハレの日を十分味わうことができる。私も3日間踊りっぱなしであったが、とくに学遊塾の連で踊ったときは、超ベテランの三味線(これもボランティア)のメロディーというぜいたくな条件のもとで、下手も上手もごく当たり前にいっしょになり、地元の路地や、いつものなじみの盛り場や商店街を踊り歩くことができて、一番楽しかった。
 しかし、日常の日々における「控え目さ」のほうは、それが何かの拍子に潜行するようなことがあると、先述の「不幸の手紙」のような非生産的状況に陥ることにもなる。「これだけ自分はやってきたのに、ほかの人がやってくれないのはおかしい」、「行政はこういう私たちにこそもっと面倒を見てほしい」というわけである。ややもするとそういう気持ちになることは無理もないこととは思うが、これが市民の自己決定活動という本質を歪ませ、市民参画や官民パートナーシップを難しいものにしてしまう。
 私は99年2月に本運動の市民教授研修会において「さて困った、大人への教え方」というワークショップを行い、引き続き推進委員研修会で討論と懇談会をさせてもらった。「よそでたまったストレスを学遊塾で発散している」という元気な意見もあったが、「役員をやっているとストレスがたまることが多い」という訴えもあった。その理由は、まわりの人が協力してくれない、あるいはちゃんと理解してくれていない、会議でなかなか全体の意見がまとまらない、などである。高齢のため体がついていかないという人もいた。市民教授登録者からは、他県の例と同じく、講師としてお呼びがかからないという問題が大きかった。一方、環境問題に関する活動をやっている人からは「活動を、自分の生きてきた証しだと感じている」、民謡の人からは「徳島の宝を伝えるお世話をしたい」などの意見もあった。このような「使命感としての生涯学習」という側面も忘れてはなるまい。しかし、それにしても学遊塾運動が本質的に市民の自己決定活動であり続けるためには、「不幸の手紙状況」からはなんとしても脱却し、「使命感」にしても「潔い使命感」が求められているといえよう。
 そのとき私は次のようにコメントした。
@教授法の実際の様子がわかる「市民教授リスト」を
 市民教授のさらなる活用といっても、あまり関心がわかない人に講師を依頼するということがあるとしたら、それ自体が生涯学習活動としては好ましくない。ただの無機質なリストではなく、もっとその人の顔がわかり、メッセージや雰囲気が伝わり、どんな教え方をしてくれるのか、プログラムまでわかるリストが必要である。また、今後ますます重要になる学校教育への協力については、専門の分野についてだけでなく、教育についての見識をもち、学校側にもそれが伝わるリストにすべきである。
A活躍場所の自己開発を
 町内会、婦人会など地域はだれもが主人公になれる場である。また、市民教授同士でチームを組み、市側にいくつかの会場を提供してもらって、自分たちでキャラバン隊のように各地域に教えてまわるということも考えられる。
B自己決定活動はグループ活動で
 ボランタリーな活動は、実際にはそのほとんどがグループ活動として行われるものなのではないか。そういう意味では、まずは市民教授や役員同士が日常的に教えあったり学びあったりすることが楽しいと思う。
C自分のための活動を
 いったん役員を引き受けたのならば責任を持って会合にも出席すべき、という感覚はそれが自分自身に向かっている限りは敬意に値すると思う。しかし、責任感以上に、そこに行けば歓迎される、だから仲間と会いたい、役員自身が学べる、おしゃべりできる、だから会合は楽しい、といういわば「自分のため」という感覚こそが大切なのではないか。欠席した人に「もっと責任をもって出席して」ではなく、「この前は来れなくて残念だったね」といえるような活動を目指したい。役員の会合であっても、学遊塾運動が自己決定活動の一環である限りはそういう活動にすることが大切である。
Dネットワーク型の運営を
 大人はそれぞれの事情をもって生きているのだから、会合にたまたま参加できた人でそのときの合意を作り出せばよいし、該当する役員にはなっていなくてもメンバーはだれでも会合に参加でき、意見も述べられるということにしたらどうか。来るものを拒まず、去るものを追わずという自由で柔軟なネットワーク型の運営のための工夫が望まれる。

 徳島学遊塾運動のような行政が支援する、あるいは行政が仕掛ける市民参画、市民主体の生涯学習事業には、市民の独立型の生涯学習活動とは異なる独自の困難が見え隠れしている。「不幸の手紙状況」に陥る危険性が大きいのである。しかし、その状況からの脱却に向けた市民と行政の努力は、問題が精神構造にまで及ぶというその困難さゆえに、もし成功すれば、きっと市民参画や官民パートナーシップの実体をより確かなものにすることになるだろう。

(5) 個人の癒しを提供する
   −癒しと成長/受容と変容/私的充実と社会貢献

 上下同質競争社会におけるキャッチアップ型教育(追い付け、追い越せの教育)は、学習者の成長・発達ばかり重視してきた。しかし、個人が生きる意味としては、本音の部分では、癒し・安らぎという要素も、成長・発達と同様に大切だ。それはなぜか。
 孔子の「川上の嘆き」はつぎのとおりである。「子、川の上に在りて曰わく、逝者は斯くの如きかな。昼夜を舎かず」。通釈は「孔子が、川の岸辺に立って言った。昼も夜も、一瞬もとどまることなく流れ続ける、この川のように、学問もまた、そうでなければならない」。ところが、駒田信二は、この通釈の後半部分をつぎのように批判している(『論語−聖人の虚像と実像』岩波書店)。
 川のほとりにたたずんで自らを嘆く孔子の姿には、人間的な大きなひろがりがある。だが、時はこの川の流れのように過ぎてゆくものゆえ、瞬時もおこたることなく学問にはげみなさい、などと教訓を垂れる孔子の姿には、それがない。「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」(伝、朱子「偶成」)という、口やかましく窮屈な、しかめつらしい顔をした、しかし、なんのなやみもなく自分の言葉に満足している先生の姿があるだけである。なんと魅力のない聖人像であろう。孔子がそんな小さな人であるはずはない。
 宇宙や人間が有限なゆえに、また愛や存在の確証がないがゆえに、宿命としての無常観や、現代社会による個の抑圧にさいなまれている人間に対して、癒しを捨象したうわべだけの教育は非力(善導やスローガンという虚偽)である。その逆に、非力(無常という真実)を自覚した教育こそが現代人に癒しをもたらす可能性をもつのである。
 開きたい心を安心して開くことのできる水平異質交流の突出的なネットワークによって癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向でもスムーズに作用する。ひとことでいえば、受容と変容は好循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組を自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善(変容)することができるのだ。これが潔い自己決定につながる。ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容は必ずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う。また、ここでの癒しのサンマは、きたるべき社会やコミュニティのあり方の予言者であり先駆者である。
 生涯学習は個人の「どこまでも知りたい」という内発的動機に基づくもっぱら自己実現の行為といえよう。しかし、その自己実現は、社会的認知・承認の欲求の充足なくしては、ほぼ達成不可能である。その点では、マズローが社会的欲求を、自己実現の欲求や自我欲求よりも前のレベルに位置づけたことは現在でも通用する。ただし、現代社会においては社会的欲求こそ一番満たされにくく、それゆえ多くの個人にとってはときには最高次の欲求にまで高まるのかもしれない。
 もちろん、社会的承認は、先述の3つの自己決定活動以外にも、本来、家族や職場への帰属意識などによって満たされるはずのものである。しかし、そこに頼りすぎることがむしろ病理を生み出しているのが現代である。これに気づいた一部の市民たちが自己決定活動に踏み出しているのだろう。
 そこで得られるのが、個人の私的充実(癒し)に裏打ちされた社会的役割の遂行と、それによる社会的承認を実感できる社会貢献のチャンスである。そして、公的課題の学習により、それを学習した者がその学習成果を社会貢献につなげるチャンスは大きい。今日、多くの若者が「自分は社会において意味のある存在である」と胸を張れない状況がある。そういう人たちに対して、「あるがままの自分が両手を広げて歓迎される」居心地よいサンマにおける癒しだけにとどまらず、さらには「地域社会に役立っている私」という究極の癒しのチャンスまでをも提供する必要がある。
 ここで、ある市の男子成人のグループF会(仮名)の「守っていること」を紹介しておきたい。@政治・宗教を持ち込まない(議員メンバーは複数いる)、A会長をおかない(対外的にはおくときもある)、B会費をとらない、C職場の肩書、社会的地位、過去の経緯を持ち込まない、D来るのも去るのも拒まない、Eさん付けで呼びあう、F多様性を尊ぶ(排他的にならず、少数意見を尊重する)、G集まるときは、自分で作ったツマミと自分の飲み物を持参する。
 このようないわゆる「親父の会」が現在、増えつつある。職場での自分だけではあき足らず、地域で他の親父たちとのまさに水平異質交流と友達づきあいを求め、そこで自分らしさの発見や町づくりなどの社会貢献の楽しみを味わうのだ。F会の「守っていること」には、メンバーの親父たちの潔さと、それゆえの楽しさがにじみ出ている。まさに、突出的水平異質共生の世界といえるだろう。

(6) 個人の自己決定やボランタリズムを支援する
   −自己決定の「指導」/ボランティア/御都合主義

 突出的水平異質共生は自己決定の世界であり、最初の一歩の選択においても「選択の自由の恐怖」を感じるぐらいたくさんある。しかし、ボランタリズムの本質はここにある。たとえば自分にあいそうなNPOの門をたたいてみるのもよいかもしれない。でも、べつにNPOではなくてもよいのだ。「自分が学びたい内容を学びたい手段で学ぶ」のが生涯学習である。だから、私がある具体的な内容と手段を望ましいものとして提示するとしたら、それ自体に疑義がある。それはある音楽を「こう感じましょう」とシドウするようにナンセンスなことだ。具体的な情報提供をするのだったら、たくさんの「いい世界」を提示して、本人に選択を任せればよい。指導に関する私なりの今の考え方をつぎのようにまとめて提示しておきたい。








図表2 自己決定活動の「指導」とは何か















 ここで、生涯学習施設におけるボランティア導入について考えてみたい。楽しい生涯学習施設経営と楽しいボランティア活動を阻害する要因は、むしろ、生涯学習施設側の姿勢にあるのではないか。私が生涯学習施設ボランティアの導入を「出会いの拡大」として支持する立場からある県でパネルディスカッションの司会をしていたところ、その司会のやり方に対して県内のある図書館司書から批判を受けたことがある。それを大学の授業で紹介したところ、一人の学生がつぎのように出席ペーパーに書いてきた。
 先生が御都合主義の例として出された、あるパネルディスカッションのときの図書館司書の意見、ボランティアが導入されると自分たちの職がなくなる心配があるという理由で導入に反対しているということについて。住民の幸福追求の援助をするということが社会教育の目的だといわれたと思いますが、私は司書さんがいったことがわかるような気がする。人間は、まず、自分の幸福が達成されていないと、人の幸福追求の手助けなどもちろんできないと思う。自分の職がなくなることはないかとは思いますが、望まない配置転換という形にでもなれば、その人の一度の人生が幸福でなくなるかもしれません。
 この出席ペーパーに対して、翌週の授業で、私はつぎのようにコメントした。
 生涯学習施設へのボランティアの導入は、市民にとっても職員にとっても、その出会いの機会を増大させてくれるものであるという理由から、基本的に住民の幸福追求に貢献するものであると思われる。その図書館司書がそうでないと思うなら、そう批判すればよいではないか。自分の職がなくなるかもしれないから反対というのでは、労働者としての自己客観視を忘れた御都合主義といわざるをえない。
 専門職員の場合は、原則として、一般部局への人事異動はない。ボランティア導入で代行できるような仕事だったら、その部分の仕事は整理したほうがいい。現在のその仕事は、ボランティアコーディネートやその他の、より専門的な仕事に純化すればよいのだ。たしかに、実際にはそうならないで、専門職員が排除されてしまう場合もある。これは、今度は当局側の御都合主義といえる。なぜなら、本来、出会いを増やすためにボランティアを導入するはずなのに、人員削減の都合のためにボランティアを使ったということになるからである。しかし、だとすれば、その図書館司書は、住民の幸福追求の援助者としての立場から、その当局側の御都合主義をこそ批判すべきである。
 幸福とは自然に達成されるものではない。生涯学習援助職員の場合も、学習者の幸福追求への意図的、意識的な援助の営みのなかで、自らの幸福も確認できる。そのためには、自己の保護や安定だけ求めて自分の都合に理屈を合わせる御都合主義ではなく、自分が働いている意義を自負できる自律的な精神が求められる。これが職員としての現実原則に即したプライドの守り方、育て方である。
 以上のように、私は、生涯学習施設ボランティア活動を阻む施設側の要因として、2つの御都合主義が問題だと考えている。「出会いの援助よりも、従来の仕事の安定的な存続を優先してボランティアを排除する御都合主義」と「出会いの援助よりも、経費や人員の削減を優先してボランティアを導入する御都合主義」の2つである。前者に対しては「それなら、失業対策事業とどう違うのか」と問いたいし、後者に対しては「それなら、現在、公金を使って施設を運営し、しかも、専門職員まで配置している理由をどう答えるのか」と問いたいのである。
 日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べている。国民の幸福追求の重要な営みとして認識されるべきボランティア活動に対して、生涯学習施設がその援助者としての役割の自負と喜びを主体的に意識することができるかどうか、そこで生涯学習施設の将来が決まるといっても過言ではないだろう。
 そもそも、生涯学習施設職員が、現代の上下同質競争の価値観を乗り越えて、学習者や施設ボランティアとともに水平異質共生の突出的サンマをともに創造する営みに本気で、そして本務として関われるようになれば、それは職員自身にとっても至上の幸福といえるはずである。じつは、私は、生涯学習施設へのボランティア導入は、一般の利用者との関係以上に、職員にとっての自分らしさや相手の「個の深み」と出会える楽しいものになるのではないかと予想している。生涯学習が楽しい活動であるのと同様に、生涯学習の支援も楽しい活動であってほしい。

(7) 個人間の対話
   −ダイアローグ/シンパシー/ストローク/エンカウンター

 私は「心を育てる」について、「心を育てる・・・ええっ、なんということを−成人教育の視点からとらえ直す」(98/7、全国公民館連合会「月刊公民館」503号)において、次のように述べた。
 「自分の心まで教育されてしまうことへの抵抗心」を大切にしたい。その前提のもとで、「子どもの心を育てることのできる成人」の心を育てることはできる。なぜなら、公民館はじめ成人教育の場で、現に、当たり前のように大人が生涯にわたって成長し続けているのだから。大人に対する心の教育や指導は、以下の条件で可能である。@非日常的な相互関与を意図的に深める、A指導者自身が、無知と非力を自覚し、なおかつ、受容する、B教育と学習の間に流れる暗くて深い河を認識しつつ、舟を漕ぎ続ける。しかし、わたしたちは、第一義的に、将来の社会や次世代を担う子どもたちのために生きているのだろうか。わたしたち大人だって、本当は自分がより幸せになろうとして生きていてもよいのではないか。「自分がより幸せになる」ための一環として、子育て(親育ち)だって楽しませてもらいたい。むしろ、潔くそのように「自分のため」と思えないまま強迫観念で子育てにかかわっている人こそ、現代社会の不幸にすっぽりとはまってしまっている人たちなのではないか。「(あなたの)心を育てる」といわれたとき、その指さされた「心のあり方」が、教育を受ける個人にとってこのようにそもそも本気になれないものだとしたら、指導行為など成り立つわけがない。
 個人が本気になれる指導とは何か。それは対話(ダイアローグ)であると考える。ソクラテスは対話によって相手がみずから真理(子)を生み出すように手助け(助産)をした。これは助産術といわれ、教育の原点でもある。そこでは、発問しても結論に至らないときがあるが、それよりも考える過程を重視する。
 就職活動が一段落した秋口に初めて私の授業に出てきた4年の男子大学生が、こう書いてきた。「ぼくは来年は就職浪人することが決まった。なぜなら、@大企業であること、A残業がないこと、B転勤がないこと、のぼくなりに決めた就職3条件にあう企業に採用されなかったからだ。こういう就職浪人のぼくを世間は差別の目で見るだろう。そういう差別される者の痛みは、先生のように差別されたことのない人にはわかるまい。しかし、先生はぼくが知りたいと思っている差別のことについて話しているようだ。だから、あと1回ぐらいはこの授業に出席しようと思うので、ぼくの期待に応えてほしい」。
 私自身、じつは、就職浪人をしたことがあり、しかもそのときは差別の目で見られる辛さより、自立できずに親に迷惑をかけることの方が申しわけないと思ったものだ。だから、正直いって、最初はこの文章に馬鹿馬鹿しさや憤りを感じた。そのほか、知に対する安易な態度、世間を甘く見ていることなどの彼の欠点を指摘して、教師の立場から彼をへこますことはできるかもしれない。しかし、そんなことが何になるのか。彼の主体性の増大や態度変容につながらないことは明らかである。そんな説教は、教師が学生より上位者であることを確認して安心する行為にしかならないのではないか。
 私は、指導の要素をシンパシー、ストローク、エンカウンターの3つと考えている。まず、彼の存在に対して、肯定的に関心をもち、共感的に理解しようとする態度が必要であろう(シンパシー)。考えてみれば、彼の就職の条件の@は安定した収入、Aは自由時間、Bは家族の安心を求めるもっともな願いであり、だれもそれを責めたりできないはずだ。それよりも、世間から差別の目で見られるだろうから辛いという言葉を彼なりの真実としてとらえ、そうとらえたことを伝えることのほうが大切だ(ストローク)。その上でこそ、「上下同質競争社会」に気づかないままそのなかで苦しんで生きている彼と出席ペーパーへのコメントという形で真正面から対話し、本音でぶつかりあって(エンカウンター)、自己と現実社会との関係の客観的認識と、彼自身のもっている内なる差別の存在や社会の画一的価値観の内面化への気づき(「批判の刃を自己にも向けよ」)を促すことができるのである。これが、本当の意味での「自分を否定しなくてもよい」「そんなに頑張らなくてもよい」という自己受容につながり、さらには、「差別されたことのない人にはわかるまい」という絶望感を乗り越えて、「人間は共感しあうことができる」という他者受容と肯定的関心につながるかもしれない。自己防衛的な就職浪人の彼は、このような癒しのプロセスを経てこそ、生きていて社会に意味を与えることのできる自己を発見しようとする元気が出てくるのではないか。

(8) 普遍的事実よりも臨床的真実と出会う
   −遠隔教育/ワークショップ/臨床的真実

 私は、インターネット・SCSを活用した遠隔教育として、担当する大学公開講座「私らしさのワークショップ」におけるインターネット活用、公開講座「今日の教育問題を考える−徳島大学大学開放実践センターからのメッセージ」のSCSによる配信などに取り組んでいる。SCSとは、スペース・コラボレーション・システムの略称で、全国の国立大学等に衛星通信を利用した情報通信ネットワークを基盤整備し、高等教育の高度化・多様化を推進するものである。
 一斉集団承り学習においては、遠隔教育を無難に進行することはできよう。その効率性は否定できない。しかし、それゆえに、多くの学習者からは本音のところでは嫌われる原因にもなっているし、また、ひいてはそのことが生涯学習社会への転換の阻害要因にもなりうる。インターネットによるコミュニケーションを活かした市民への「癒し」の提供や、SCSにおける大学間、教官間、大学を抱える地域間の「協働」の視点が重要である。さらに、私は、その視点に立ち、遠隔教育における、一斉集団承り型学習から能動的参加のワークショップ型学習への転換を提唱したい。
 「今日の教育問題を考える」の第1回で、私は、ワークショップ(カード式発想法)と出席ペーパーシステム(ディスクジョッキータイム)により、徳島受講者については、記述した内容の紹介と組織化、私のコメントという形で、学習者参加型の講義を試みた。また、非常勤で担当している看護学校の授業「情報科学」では、ワープロや表計算ソフトを活用して、コミュニケーションゲームを行った。「印象ゲーム」で他者の「自分らしさ」に肯定的関心をもつ体験、「価値観テスト」で他者の異なる価値観を受容しあう体験を提供した(89/5、坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』日本生産性本部)。とくに表計算ソフトについては集計やグラフ作りが容易なため、パソコンの利点を活かせたと思う。データ通信を併用すれば、これは遠隔教育においても可能になる。
 しかし、受講者は、自分たちの成果のまとめは見たがっても、それを発信することについてはあまり関心を示してくれなかった。これは、衛星通信による遠隔交流でもぼくが感じたところであるが(国立婦人教育会館新教育メディア研究開発事業「遠隔講座 子育てにやさしいまちづくり」)(西村美東士「ニューメディアをひっかきまわす若い母親たち−高知市初月小学校PTA」,全日本社会教育連合会『社会教育』52巻第12号,p68-69,1997年12月)、見知らぬ人にあえて発信する動機がないということであろう。これに関する今後の課題としては、@「顔見知り」あるいはピア(仲間)ととらえられる範囲を広げること、A「顔見知り」以外からもフィードバックされるシステムを設定し、その面白さを味わう機会を提供すること、の2点が挙げられよう。それにしても、ほかのグループの画面に対しては、活動そのものへの関心はあっても、個人的な関心や知り合いの関係があっての上ではないので、「いまひとつ気軽におしゃべりできない」という母親たちの感想であった。もっともなことである。これは遠隔教育の致命的な限界なのか。
 この問題について、当時の私は、たんに「このへんは、やはり、マルチメディアがフェース・ツー・フェースの直接交流の補完、促進の手段としての役割は果たすことができても、直接交流を不要とするまでの効力はないということを示しているのであろう」としただけである(前掲自著「ニューメディアをひっかきまわす若い母親たち」)。だが、いまはもっと本質的な問題があると考えている。たとえ遠隔教育のように物理的距離がある場合でも、人との出会いが興味深いのは、その人の「個の深み」という「臨床的真実」に出会えるからなのではないか。ここで臨床的真実とは、個々のケースに寄り添ってこそ気づくことのできる生き様などをさす。それは場合によっては、フェース・ツー・フェースでなくてもよい。上質の私小説を読んだときの感動と同じである。「事実より真実」なのである。
 これと関連して、ワークショップとは、@作業場、(手工業的な)工場、A(小規模な)研究(集)会、研修会、をさす。これは一斉集団承り学習という受動的学習方法の打破に通ずるものである。笑い声が絶えない、学習者自らがその気になる、などの特徴がある。そして、そこでは、カード式発想法などに端的に表れるように、表層の「事実」という形骸に議論が陥ることなく、一人一人、一枚一枚のカードのもつ「真実」と臨床的に出会おうとして学習者が相互に自発的に全力を尽くす。遠隔教育においても、電波的仮想空間を共有する学習者間でこれを実現するよう努めるべきではないか。
 もちろん、いかなるコミュニケーションにおいても、顔見知りであるという前提は有効であろう。しかし、大学開放が提供しようとする出会いとは、皮肉な言い方だが「テレビでいつも見ているタレントだから顔見知りである」という種類のものではないはずだ。また、「双方向の一方通行」というのも悲しい。つまり、顔見知りであるかどうかなどということより、双方向の相互関与こそが本質なのであろう。さらには親密さ(ラポール)についても、重要であるとはいえ注意を要する。電子メディアは、第1次関係(情緒的)とも第2次関係(役割的)とも異なる新しい関係を提供しており、そこでのコミュニケーションによって癒される人もいる。親密/疎遠の判断基準自体が変化しつつある。逆に、過度な親密は、ややもすると個性の発揮を押しとどめ、個人を癒されない状況に追い込むピア(仲間)プレッシャーにもなる。仲間との同一化を装う防衛的風土に縛られ、個性ある発言が頭に浮かんだとしても、自己抑圧されてしまうのである。インターネット・SCSを活用した遠隔教育においては、「メディアを通してなら言える」という利点を活かしてワークショップを行うことにより、ピア・プレッシャーを少しでも除去し、異なる他者の臨床的真実に出会う機会を提供する必要があると考える。
 インターネット・SCSを活用した遠隔教育は、教官間、大学間、地域間の「協働」に支えられ、また、それをさらに促すものでなくてはならない。その際、どんな状況においてもワークショップの「形態」でやることが最善というわけではない。しかし、とくに一方的になりがちな遠隔教育においては、最初に述べたように、大人の生涯学習に対して、たとえ大学といえども教育や指導は可能なのかとつねに問い続け、双方の異なりを重視しあって、いっしょに何かを作り出そうとする姿勢が重要である。しかもそれは同一化志向のピアとは違う。むしろ水平異質交流(5)というべきである。そのためには、ワークショップの「形態」よりも、ワークショップが臨床的真実を尊重する「姿勢」から学ぶ必要がある。
 このようにして、リアルタイムな双方向性の確保という遠隔教育の課題は、電子・電波的仮想空間において、教官、市民一人一人の臨床的真実が相互関与する「協働」として実現することができるのではないか。これこそが、各人、各機関がそれぞれの独自の機能や役割を発揮して、主体的に参加・参画しあう本来の「協働」の姿であろう。つまり、協働とは、相手の「個の深み」と出会うための方法といえよう。
 数的に多くの市民がアンケートなどで学習したいと回答したテーマや、市民が実際に学習活動を行っているテーマを追うだけでは、市民の顕在的な学習欲求に後追い的に対応する結果にしかならない。人びとが学習して初めてその学習の本当の魅力に出会えるようなチャンス、すなわち潜在的学習欲求の顕在化の場として機能することが、大学公開講座のこれからの課題である。市民の高度化、多様化する学習ニーズを鋭敏にとらえるためにも、この潜在的学習欲求の重視の視点は欠かせない。潜在的学習欲求も視野にいれるからこそ、人間の学習ニーズは無限の可能性をもっているといえるし、大学も教育主体としての存在意義をもつのである。その方向は、大学公開講座の実施においては、本来の高等教育の機能を、しかも、日々進展する生涯学習社会に適合したかたちで市民に提供する方向と一致すると思われる。
 そのためには、学習者がよりいっそう主体性を獲得できる方向での学習内容と学習方法の工夫が必要である。少なくとも一斉承り型学習と揶揄されてもしかたないような非主体的なマスプロ講義は最少限度にとどめるなどのセンスが求められている。このようにしてこそ、大学は、今後の生涯学習社会のなかでの高等教育機関としての自己の教育的力量が世間からも認知される。その面で、ワークショップは承り型から参加・参画型学習に転換するための大きな可能性をもっている。そして、ワークショップにおいては、出席ペーパーと同様に、一般社会と比べてかなり突出的な臨床的真実の相互関与が行われるがゆえに、アカデミズムの新しい役割の発揮が期待できる。


4. 個人はなぜ学ぶのか
 (西村美東士=にしむらみとし、徳島大学大学開放実践センター) 

(1) フリーチャイルドの心が個人を学ばせる
   −ガンバリズム/交流分析/ギブ・アンド・テイク

 人間の人生は一生が勉強、などとよくいわれるが、そういう言葉を聞くと、多くの人はちょっといやな気持ちがするのではないだろうか。抵抗感とでもいえようか。生涯学習時代とは、ひとが生涯にわたって学習し続ける時代だということができるが、学習のもともとの意味が、目上の人、立派な人、偉い人などから、まねぶ(まねをする)、ならう、ということであることを考えると、「ちょっと面白くない」と思うほうが、むしろ当然なのかもしれない。「本当はいやだけれども、とにかく頑張って勉強しなければならない」ということのほうが不自然である。「人から押しつけられて勉強するなんて私はいやだ」という本当の自分の気持ちを、ガンバリズムなどによってごまかさないで、教育や学習に対する自分の抵抗感を大切にするということを、ここでは提案したい。生涯学習とは、本人が学習したいから学習したいことを学習することである。
 学習は、本当はいやなのに鞭打ってやるというようなものではない。本人がおもしろいと思えることこそが重要である。学習の中には、このように面白いと思える世界が渦巻いている。生涯学習は、ワンダーランド(遊園地)だということができるだろう。お茶にも、生け花にも、天文学にも、スポーツやダンスにも、気づきや自分の深い部分の発見やドキドキワクワクできることがあふれている。それらの活動はすべて生涯学習だといえる。面白いからやる、などということは、昔だったら許されなかったかもしれない。実際、少し昔にさかのぼれば、よく勉強する子どもは親に「そんなことして何になる」と叱られたものだし、大人だと穀潰しなどともいわれたものだ。しかし、生涯学習社会はそれが許される社会だ。好奇心にあふれた子ども心が、むしろ尊重される社会なのである。空想する、感動する、面白がる、天真爛漫にどんなことからでも楽しく学んでしまう、そんな人生を過ごすことができれば、どんなに素晴らしいことか。これらの態度や人生の構えは、フリーチャイルドの心の働きによって支えられる。
 教育という言葉には、悪いことを叱ったり批判したりする厳しい親心によって、それを素直に聞き入れる従順な子ども心を育てるというイメージがある。ここで、厳しい親心とか従順な子ども心とかいう言葉は、「交流分析」という臨床心理の用語を使っている。人間の心の状態とその他人との関わり合いを分析するのが交流分析である。
 交流分析では、この「従順な子ども心」が強すぎると、目上の人や権力に弱い不安なおどおどした気持ちに支配されがちになるといわれている。また、厳しい親心や従順な子ども心が強すぎると、高血圧、心臓病、胃潰瘍、成人ぜんそくなどの原因にもなる。それは、体が自分の心に対して、「私の人生はこのままでいいのか」という危険信号を出している表れなのである。こんなことをいうと、今はやりの心理ゲームのようでうさんくさいと思われる人もいるかもしれないが、一方では、「私の人生や人間関係はなんだかうまくいかない」と思っている人の中には思い当たる節があるはずである。交流分析はひとつの科学であり、人間を決めつけたり、占ったりするためのものではないのだ。とにかく、人を不幸にしたり病気にしたりするような教育だったらいらないということである。そして、生涯学習とは、趣味、教養、文化、芸術、スポーツ、レクリエーションなど、どんなことでも自分が学びたいことを、学びたい方法で、学びたいように学ぶことである。もっといえば、人間どうしの対等なネットワークの中で、教えあい、学びあうことともいえる。
 たしかに、さきほど述べた厳しい親心による教育も必要なときがある。交通道徳や安全管理に関わる教育などが、そうであろう。しかし、交流分析には、ほかに、保護的な親心、冷静な大人心、自由な子ども心、という言葉がある。ひとの心の状態は、大きくは、親の心、大人の心、子どもの心の3つ、細かくは、厳しい親心、保護的な親心、大人の心、自由な子ども心(フリーチャイルド)、従順な子ども心の5つに分けられる。子どもから年寄りまでのすべての人に、バランスの差はあっても5つの心があるし、どの心も欠かせない。しかし、子ども心を失ってしまって、精神的にはもう死んでしまっているような不幸な子どもだっている。これからの教育や生涯学習においては、人間らしい心の状態を一人ひとりの中に取り戻すことが大切だと考える。
 たとえば、ほめてあげる、かばってあげる、何かをしてあげる、そんな保護的な親心を自らの中に育てることも大切である。なぜなら、他人に何かをしてあげるからしてもらえるのであり、人間関係の基本はそういうギブ・アンド・テイクのネットワークだからである。今まで誰かにしてもらうことばかりで、これからも他者から守ってもらうことばかり考えていても、そのうち、だれも自分に目を向けてくれなくなるだろう。情報ボランティアが、より意味のある新しい情報を収集できるのは、それは彼が発信(ギブ)するからである。
(2) 個人の学習が真に自由であるための教育
   −教育と学習の乖離/現代的課題/柔らかい個人主義/勉強会

 90年代初めの中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」答申(90/1)、生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(92/7)は、個人の自由な学習としての生涯学習を評価するものであるが(1章参照)、じつはすでに社会教育審議会「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」答申(71/4)は、生涯教育について「生涯にわたる学習の継続を要求するだけでなく、家庭教育、学校教育、社会教育の三者を有機的に統合することを要求している」として、その必要性を提言している。中央教育審議会も「生涯教育について」(81/6)を答申している。
 前者は、@人口構造の変化(出生率、老齢化)、A家庭生活の変化(核家族化、家庭の教育機能の低下)、B都市化(都市問題、非行化、郷土意識の欠如)、C高学歴化(学習要求の高度化、学校不適応)、D工業化・情報化(人間疎外、情報過多、価値観の混乱)、E国際化(国際的視点の必要等)の6つの社会的変化をあげた上で、「今日の激しい変化に対処するためにも、また、各人の個性や能力を最大限に啓発するためにも、ひとびとはあらゆる機会を利用してたえず学習する必要がある。とくに社会構造の変化の一面としての寿命の延長、余暇の増大などの条件を考えるなら、生涯にわたる学習の機会をできるだけ多く提供することが必要となっている。また変動する社会ではそれに適応できない人も多くなり、変動に伴って各種の緊張や問題が生じており、これらに伴い、ひとびとの教育的要求は多様化するとともに高度化しつつある。こうした状況に対処するため、生涯教育という観点に立って、教育全体の立場から配慮していく必要がある」と述べている。
 そして、後者は、生涯学習と生涯教育の関係について次のように述べているのである。「今日、変化の激しい社会にあって、人々は、自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。この意味では、これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい。この生涯学習のために、自ら学習する意欲と能力を養い、社会の様々な教育機能を相互の関連性を考慮しつつ総合的に整備・充実しようとするのが生涯教育の考え方である。言い替えれば、生涯教育とは、国民の一人一人が充実した人生を送ることを目指して生涯にわたって行う学習を助けるために、教育制度全体がその上に打ち立てられるべき基本的な理念である」。
 90年代においては「生涯教育」という言葉はほとんど使われなくなり、「生涯学習」という言葉が使われている。一般には、生涯学習のほうが学習者の主体性を尊重した言葉だといわれているからだと考えられる。国際的にも同様のようだ。しかし、生涯教育が「教育制度全体がその上に打ち立てられるべき(生涯学習のための)基本的な理念」であるならば、その社会的責任は大きい。言葉の安易な言い換えは、この本質を見誤らせる結果にもなりかねない。その見誤ってはならない本質とは何か。つきつめていえば、「教育=学習支援」の等号が成立するかということである。
 教育は個人的事象である学習を支援する営みでなければならない。個人の主体性を重んじて生涯学習という言葉を使うのはよいが、子どもたちへの教育だけは、成人一般の「学習」とは違って「教育」であってもよいという論は大人の身勝手な議論であろう。私は、自著『癒しの生涯学習』で、この等号について次のように述べた。「教育=学習支援の等号には深くて昏い河が流れていると私は思う。私は、まず、この深くて昏い河の存在を伝えていきたい。つぎに、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この上下同質競争社会の同時代に命を燃やしている。私はたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい」。
 学習者個人にとって、生涯学習の時代は歓迎できる。しかし、教育や指導については自動的にシャットアウトしたままというのでは、自己の生涯学習の内実は得られない。個人の自由な学習の支援としての教育のあり方を、個人自身も理解する必要がある。
 92年の生涯学習審議会答申は「現代的課題」について次のように述べている。「社会の急激な変化に対応し、人間性豊かな生活を営むために、人々が学習する必要のある課題である。現代的課題については、学習者が学習しようと思っても学習機会がなかったり、自己の学習課題に結び付かなかったり、学習課題として意識されないものも多い。これからの我が国においては、人々がこのような現代的課題の重要性を認識し、これに関心を持って適切に対応していくことにより、自己の確立を図るとともに、活力ある社会を築いていく必要がある。そのためには、生涯学習の中で、現代的課題について自ら学習する意欲と能力を培い、課題解決に取り組む主体的な態度を養っていくことが大切である」。
 私は「現代的課題」というよりも「公的課題」というほうが、問題がよりはっきりすると思っており、答申以前から「公的課題」という用語を使っている。その場合、「公的課題」に対しては、臨教審のいう「個性重視」や、その第1部会の「個性主義」よりも、「個人主義」という言葉のほうが意味合いがはっきりすると思う(1章参照)。そして、公的課題の学習は、個人主義をより深く実現するものだと考える。現代的課題にせよ、公的課題にせよ、その課題を意識した「教育」は、個人の学習が真に自由であるためにむしろ望まれることであるといいたい。
 自著『生涯学習かくろん』(91/4、学文社)では、84年の山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』の「個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである」を引き、次のように述べた。もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は「派手だが空しい自己顕示」によるものとは本質的に異なる。私はこれを「個の深み」と呼んだ。
 生涯教育から生涯学習という言葉への転換の時流のなかで、「教育」と同様に「勉強」という言葉も「つとめしいる」だから強制的な意味あいが強いと決めつけ、それに比して「学習」という言葉は即主体的行為であるから好ましいとする議論がある。しかし、個人にとって、ほんとうに「勉強はいやな言葉で、学習はいい言葉」なのだろうか。
 学習の「学」は旧字体では「學」であり、「臼」(両方の手)で「子」が知識を授けられる「家」を意味しており、「爻」という二者間の相互の動作も含んでいるが、上の人を「まねぶ」(まねをする)ことでもある。「習」の「羽」と「白」は「ひな鳥がくりかえしはばたいて飛ぶ動作を身につける意」であるから、「ならう、なれる」ことである。たしかに学習者側からの表現ということはできるが、与えられた教育目標に対しては無批判的に受け入れることを前提とした言葉であるといえなくもない。「学習会」などというと、無意識のうちにどうしてもそういうニュアンスで感じとられてしまうのではないか。
 これに対して、勉強という言葉については、勉強会やパソコン通信での発言にしばしば見かける「私も勉強しておきます」などの表現に、新しい意味を見いだすことができる。「勉強」の「勉」は、「力」(りきむこと)と「免」(女がしゃがんで出産するさまの象形)である。「無理をおしてはげむ」ことである。「強」も「無理をおす」という意味である。その語感に軽やかな楽しさがないのは否めないが、他者からの強制を必然的にともなうものという意味は含まれていない。「まねび、ならうこと自体がもういやだ」、「学習するようにマインドコントロールさせられるより、自ら苦しみながらも勉強したほうがいい」という反骨精神を大切にしたい。

(3) 集団は一斉には学ばない
   −高等教育/個人的事象としての学習/一斉承り学習

 ここでは、アナロジーとしての高等教育をとりあげる。大学の目的については「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法第52条)とあり、短期大学の目的については「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成すること」(同法第69条の2)とある。「深く専門の学芸を教授」することについては共通している。なお、小・中・高等学校については「心身の発達に応じた教育を施すこと」となっており、その他に大学などと違って教育目標が定められているが、「学芸の教授」という言葉はない。
 学芸とは「学問と技芸」であり、教授とはそれらを「教えさずける」ことである。学問の「学」は旧字体では「學」であるが、「爻」という二者間の相互の動作も含んでいる。「問」とは、とびらで閉ざされている「門」、すなわちかくされていて分からない事を口でたずね出す意である。教授の「教」は、やはり「子」に対するという意が強いが、旧字体では「子」の上に「爻」が使われる。「授」には、「さずける」という師弟的な響きが強いが、解字では「手で受ける」という学習者側の能動性も意識したものと考えられる。
 このように、「学問の教授」という言葉のもともとの意味から言って、師弟関係を前提にしているとはいえ、それが非主体的な一斉承り学習によって実現できるものとは想定されていない。これは当然のことといえよう。しかし、実際の教育現場では教授側も学習側もその認識が十分とはいえない。
 高等教育における講義の位置づけについての現在の到達点を探るためには、ロンドン大学教育研究所大学教授法研究部が刊行した『大学教育の原理と方法』(喜多村和之他訳、玉川大学出版部、1982、もとの題名は「Improving Teaching in Higher Education」)に書かれている主張の吟味が有効である。本書は「学術研究の成果を次の世代に伝達していくという『第二次的』な任務(=教育)」を軽視しがちな大学教員の現状に対して、「高等教育における教員訓練研修プログラムに関連して利用してもらうのに適切なテキスト」として作られている。実際にロンドン大学では本書のような考え方のもとに教授法に関する教員の訓練などが行われている。
 そこでは、「学習は本来個人的事象であり、学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」であること、すなわち、学習は個人的事象であることが基本テーゼになっている。したがって、多人数で行なう講義については、教師と個々の学生との間の物理的・心理的距離などから「大学教育の教授形態として最も一般的なものではあるが、これまで述べてきた学習の諸原理とは最も相容れにくい形態でもある」としている。本書で講義法に対置されている教授法は、小集団討議法、個別的・自主的教授法などである。マスに対して一斉に説きあかそうとする講義(学習する側からいえば一斉承り学習)の逆機能は、高等教育においても生涯学習とまったく同じ問題として表れているのである。

(4) 個を学習に駆り立てるもの
   −実際生活に即する文化的教養/状況に埋め込まれた学習/臨床の知

 前出『大学教育の原理と方法』の「学習者自身が、自分のペースで、自らの興味や価値観、能力、レディネス(学習への準備状態)、背景となる体験、これまでの学習や訓練の機会といった要因に応じて達成していくもの」という言葉は、アメリカのM・ノールズがアンドラゴジー(おとなの教育学)の特徴としてまとめた成人の学習の形態、動機、基盤などとぴったり一致する。個人の主体的な学習のめざすものは、高等教育が今日模索している教授法のそれと、ほとんど同じものになるだろう。もちろん、学習内容については、社会教育法によれば「実際生活に即する文化的教養」(第3条)であるから、深く専門の学芸を教授研究する高等教育とは明らかにレベルが異なる。しかし、「実際生活に即する文化的教養」が、もし、いわゆる身のまわりの問題だけの学習や、うわべだけの文化・教養にとどまったとしたら、個人学習者にとって魅力あるものであるはずがない。人々の生活・文化・教養ニーズは、高等教育でいう学問に近づこうとしているのではないか。逆に、学問のほうも、学際の重視などから人々の生活、文化、教養に従来以上の関心を示しつつあるのではないか。先述の「つとめしいる」勉強に関心を示し自らそれを行なおうとする一般成人などは、その潮流の先駆者なのかもしれない。
 さらに、ジーン・レイヴ、エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習−正統的周辺参加』(93/8、産業図書出版社)において、正統的周辺参加論(LPP)の教育への示唆について、訳者佐伯胖は次のように述べている。
 LPPは、学習を教育とは独立の営みとみなした。学習を社会的実践の一部であるとする。学習というのは、「学び取る」とか「身につける」というよりも、「世の中のタメになること−いわば、シゴト−をやる」ことなんだという。しかも、個人の営みではなく、当人がそこに属している、あるいは属したいと願っているなんらかの「共同体」が想定されている。学習とは「参加」である。学習によって人は「実践(の)共同体」に貢献する、行為する、という「する側」にたち、「される側」/「見る側」ではない。そして、学習はアイデンティティの形成過程であるとする。ひとりひとりの「こだわり」から出発しつつ、それが「みんな」との共有と公的承認のなかで、自分の役割がはっきりしてくるし、また、それがどんどん「十全的なものに」展開していく。それによって共同体自体も「変容」し、再生産されていく。このことは、LPPが社会性とか共同体を強調しつつ、あくまで、個人の個性的な役割を大切にしている、という点で、LPP論をきわめてユニークなものとしているだけでなく、今日「個性化」がさけばれているときに、きわめて重要な示唆を与える理論的枠組みを提供している。LPPは、学習をアイデンティティ形成とみなす。すべての学習がいわば、「何者かになっていく」という、自分づくりなのであり、全人格的な意味での自分づくりができないならば、それはもともと学習ではなかった、ということである。そして、LPPでは、学習とは、共同体の再生産、変容、変化のサイクルの中にあるとし、学習をコントロールするのは実践へのアクセスであるとする。
 「共同体」のみにすべての学習の動機づけの源泉を求めることには異論はありうるが、それにしても学習における個人の個性の発揮やアイデンティティ形成と共同体の再生産を結びつけたこの論は、示唆するところが大きい。佐伯は次のように述べている。「教材や教師の役割がそこにあるとすれば、学習者をいかにホンモノの、円熟した実践の本場(アリーナ)を当初からかいま見させて、そこへ『行ける』実感をもたせ、また、たとえごくごく周辺的であっても、そこにつながっているということがなんとかわかるような、実践の手だてを講じてあげる、ということになる」。
 それにしても、このように高等教育における学問と市民個人の学習とを、共通に駆り立てているものは何なのか。佐伯は「LPPでは学習はアイデンティティの形成過程であるとする」として、次のように述べている。
 すべての学習がいわば、「何者かになっていく」という、自分づくりなのであり、全人格的な意味での自分づくりができないならば、それはもともと学習ではなかった、ということである。このことは、学習の動機づけの解釈を従来とはまるで異なるものにする。たとえば、従来の心理学では、「知ること自体が楽しいので」学習するのが「内発的動機づけ」とされたが、これはむしろ、こう解釈すべきだった。「ものごとを知りたいということだけを目的に没頭していることが、自分自身がこれまでにない、何者か−大げさにいえば、学的探求者−に少しでも近づいているということで、自分の熟練のアイデンティティが自覚され、参加意識が高まった結果、より一層深く、ものごとに自らコミットメントするようになっている」と見ることができる。こう考えると、何でもかでもに「内発的に動機づく」ということは(「勉強」だけをしたがる「お勉強マニア」以外には)ありえないわけで、そこには、追求していくべき「世界」のひろがりの実感とそれへの参加意識が芽生えているはずだ、ということが予想される。
 一方、中村雄二郎は前出「臨床の知」という術語により、近代科学の<普遍性><論理性><客観性>を批判し、近代科学が排除してしまった<コスモス><シンボリズム><パフォーマンス>、すなわち<固有世界><事物の多義性><身体性をそなえた行為>の大切さを訴えた。個人が固有の身体を伴って、それぞれの世界で受苦し、受動しつつ生きているという真実のなかでの「経験の教え告げる知」を復権させようとしたのである。中村の議論を学習についての議論に応用するとすれば、一般の人々のさまざまな学習の場面のなかで、その個人がそれぞれの身体と世界において受動(=能動と中村はいうが)的に学んでいること(臨床の知)にもっとも重きを置くことになろう。

(5) 事実よりも真実に出会いたい
   −事実と真実/主我主義/主体的行為としての学習

 上記の理論をなぞったうえで、なお、私は、個人が客我(客体としての我)よりむしろ主我(主体としての我)から、すなわち個人を取り巻く状況、個人が置かれた世界という規定要因から自由な「個人が学ぼうとする動機」を見いだす思いがする。たとえば、それは、読書を、研究を、あるいは自己決定活動を、深く進める市民のなかにである。そして、その人たちの学習を駆り立てているのは、たくさんの「事実」を知ることなどではなく、小説的真実などを例とする「真実」と出会うということなのではないか。それゆえ、私はそういう人々に出会うと「個の深み」を感じる。私は、ことに個人学習については、「主我主義」的に理解したい。生涯学習や社会教育でいわれる「学習者の自主性・自発性の尊重」の原点もここにあると考える。
 「事実より真実」といった場合、私は、現代の実証的学問の存在意義を全否定しようとするのではない。ただし、それは、実証の積み重ねが事実に関する知識の肥大化(暗記)にとどまることなく、真実の追求のために有効に機能する場合であれば、という条件付きである。近代科学は、中村のいう<普遍性><論理性><客観性>の傲慢を反省せねばならないだろう。しかし、個人が学習するにあたって、「真実をどこまでも知りたいから事実を知ろうとする」という目的意識があるとすれば、それは状況や受動からは少なくともいったんは自由な「主体的行為」といえるのではないか。
 魯迅は差別を受けつつ学んでいた日本で、つぎのようなフィクションを書いている(小説『藤野先生』)。
 わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。そのつぎは水戸を覚えているが、ここは明の道民の朱舜水先生が客死されたところである。仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった。
 じつは、日暮里駅は、魯迅がはじめて仙台へ行った翌年に開設されたのだ。また、当時、仙台医学専門学校と同じ構内にある第二高等学校には施霖という中国人学生がおり、魯迅はその施霖と同じ下宿にいたことがあって、いっしょにとった写真も残っているそうだ。この魯迅のフィクションについて、駒田信二はつぎのように述べている。
 事実ではないが真実なのである。真実を表現するために虚構を用いるのが小説である。虚構と虚偽とは別種のものであるが、虚構を用いることによって小説はまた虚偽におちいることもある。要は虚構が真実を表現しているかどうかである。「藤野先生」が魯迅にとって、動かしがたいほど切実な真実の表現であることはいうまでもなかろう。つまり「藤野先生」は単なる回想記でもなく、自伝の一節でもなく、「自伝的な小説」なのである。(中略)同じように読むことによって、少くとも私は深い感動を得ることができるのである。真実に触れる思いが深まるのである。
 つまらない事実(ときには虚偽である)を詰め込むために私たちは生きているのではない。古くから人びとが愛してきたこの魯迅の著作などに見られる小説的真実や、リアルやバーチャルなコミュニティのなかでの「善と悪」の入り交じったコミュニケーション内容は、権威に歯向かい、真実への好奇心を奔放に発揮するフリーチャイルド(自由で反抗的な子ども心)である。

(6) 即目的的な学習
   −生涯学習の即目的的本質/遊び型学習/偶発的学習

 人びとが生涯学習などの自己決定の世界を求め続けるおおもとの動機は何なのか。私はそれを感動だと考える。感動するからこそ、きのうまでの自分の枠組が変化するという本来のダイナミックな学習(自己変容)が成立するのであるが、本人にとっては学習になっているかどうかなどはほとんどどうでもよいことである。それよりもわくわくすること(ワンダーランド)と出会いながら人生を過ごしたいという自然な欲求に貪欲なだけのことなのだろう。そのわくわくする対象が真実だと思うのだ。私は、これを生涯学習の即目的的本質として評価したい。
 もちろん、事実を伝える情報も大切だ。事実に気づいて感動するようなこともあろう。しかし、それらの気づきの本質は、自己の「個の深み」への気づきでもある。そういう種類の事実や「個の深み」などの、その人の人生にとってほんとうに意味のあることがらを、私は事実と区別して「真実」と呼ぶ。
 私も起草委員として関わった練馬区生涯学習推進懇談会答申「土とみどりとひとと自分に出会える練馬をめざして−練馬区における生涯学習のあり方とその推進についての提言」(平成6年2月)においては、「人は生涯、学習すべし」という「べき論」を排除し、どこまでも知りたいという自然発生的な欲求を生涯学習論の根源的な動機として重視しようとした。しかし、さらには、そのどこまでも知りたいという場合の学習対象とは何かということを考えておかなければならないだろう。私なりの答は、「どこまでも知りたい」のは「事実を」ではなく「真実を」ということである。
 私は前出『生涯学習かくろん』(91/4)において、地方自治体における学習プログラム作成の視点のうち、今後学習ニーズが新しく生まれたり、ますます高まると考えられる「学習内容」として、知的生産の技術、コミュニケーション技術とともに、「遊び型内容」の意義を次のように提案した。
 難しい学習内容でも楽しく学ぶという学習方法の工夫も必要であるが、それとともに学習内容そのものを「遊び」にしてしまうのである。従来の学習という言葉には、何かを知る、わかるようになるためという印象が強い。もちろん、今後の学習社会においても、そういう性質の学習はますます必要になるだろう。しかし、そういう手段としての学習ばかりに偏重していては新しい学習ニーズに対応できない。今日、合目的的学習行動の他に即目的的学習行動が出現しつつあると思うのである。現在、生涯学習の進展の中で、学習とよばれている行動の中に、見通しのある学習目標を実際にはもたずに行われる行動が増えている。知的刺激が快いという、いわば快感覚の追求なのだが、それは麻薬などの快と違ってヘルシー(健康的)でハイ(高次)な快である。もっと極端な「遊び型学習」もある。たとえばパソコンマニアがそうである。コンピュータリテラシーは今後の技術革新の社会において必要不可欠の素養になるだろう。ところが、その素養を身につけるためという目的意識が彼らにはほとんどない。ゲームなどの簡単なプログラムを組んだり、それを実行させてみたりして、子どもが博物館のスイッチにやたらにさわって喜んでいるのとたいして変わらないレベルで遊んでいる。しかし、パソコンテキストを読破したり、パソコン教室に通ったりするよりも、そういう遊びのほうが結果としては効果的な学習になっているのだ。ここで、注目しておきたいことは、それらの「遊び」は、ある意識的な「学習目的」に対する効果的な「学習方法」として行われているのではないということである。このような「学習目的」のない行動を行政が援助すべき学習の範疇に入れることには議論もあろう。しかし、少なくとも、それらの学習が有効なインシデンタル・ラーニング(偶発的学習)になっていることは認めなければならない。自分の力で人生が楽しめるような個人の主体性を社会も求めている。その一つが「じょうずに遊ぶ能力」であろう。これに対して地方自治体ができることは、自治体として考える「望ましくない遊び」を禁止することよりも、「望ましい遊び」の素材を提供することなのである。
 前章で述べたような、青少年教育におけるその後の体験や冒険の再評価についても、ひとつには、この「即目的的」で「遊び型」の活動の偶発的な学習の意義に対する再認識としてとらえることができるのである。



(7) 積極的消極の働き
   −積極的積極/潔い撤退/職業の生涯学習化

 私は自著『癒しの生涯学習』で、生涯学習等の自己決定活動を、内面では積極的、かつ、行為としては積極という意味で「積極的積極」の行為とした。そして、消極的積極、消極的消極、積極的消極を合わせ、4類型の図式を提示した。
 一部の若者などにみられる「きらいなものはしない」(積極的消極)という気持ちの潔さの部分は、現代社会から自分を守るためには重要だ。しかし、同時に、「きらいだけれどもやる」(消極的積極)も、社会においては戦術的に必要な場合がある。私は次のように考える。大切なことは、それを自己決定型の生涯学習やボランティア活動、あるいは、基本的信頼を基調とすべき仲間、恋人、家族の関係などになるべく持ち込まないようにすることである。「消極的積極」の本質的な問題は、心から自己の戦術の奴隷になってしまって、自他に対する信頼感を失う危険に陥る場合に生ずる。それゆえ、「きらいなものはしない」という思考は、「きらいなものは心からはしない」と言い直すといっそう正確でリアルな思考になるのではないか。
 つぎに、ある学生から「消極的積極や消極的消極(敗北主義)だって自己決定ではないか」という指摘があった。文字通り解釈すればそのとおりである。しかし、前章で私が宮台真司の議論についてふれたように、生涯学習その他の自己決定活動がめざしている自己決定とは「わかったからこそ、その道を選ぶ」ということであって、けっして「わかっていながらも、その道を選んでしまった」ということではない。前者の場合、その道が撤退への道であれば積極的消極、参加への道であれば積極的積極ということになる。
 職業につくためには「やりたくなくてもやる」ことの覚悟が必要になるときがある。そのとき、その人に向かって「あなたがその職業について、そうしているのも、すべてあなたが自己決定したことでしょう」ということはできない。「やりたくなくてもやっている」のは、自己決定ではなく、社会的存在としての人間の宿命である。
 これには例外はある。貧乏な芸術家などがそうである。また、過労死の問題を授業で扱ったとき、「プロボクサーになろうとしていたときの自分は充実していた。そのときには死をも賭していた」というペーパーがあったが、これなどは職業であるのに積極的積極(死んでもいいからやりたい!)であるという事例であろう。だが、これらの例は一般的ではない。たとえば、作品が少しでも売れ出した芸術家などは、バイヤーやユーザーなどの他者からのなんらかの社会的しがらみに縛られ始めてしまう。売れないのはいやだが、縛られたくもないという「きらいなことはしない」は通用しない。まして、一般的な職業においては、働きがい(積極的積極)とともに「働かなければならない」(消極的積極)も不可避である。しかし、だからこそ、一般人にとって、そういう職業的役割遂行とは異なる「その個人が学びたいから学ぶ」生涯学習の独自の魅力が鮮明になる。
 このように、積極的積極の行為としての個人学習は、現代人にとって大きな魅力といえるのだが、これを進めるにあたって、その個人が実際には積極的積極とともに、積極的消極を使いこなすことが重要になる。積極的消極とは「潔い撤退」のことである。自分はその学習に参加したくないというときもあるだろうし、魅力は感じるが事情により残念ながら参加しないことを選ぶというときもあるだろう。どちらにせよ、決定後の本人の気持ちには大した違いはない。潔く撤退を決意し、そのあとにいやな気持ちを残さないということこそが、自己決定活動には重要なのだ。この「潔い撤退」については、現実の人間関係においてはさらに複雑な様相を示す。なぜなら、自己決定できるのは自分の行為についてであって、他者の行為についてまでは決定できないからである。たとえネットワーク型活動においても、本人は自己の撤退(参加でもよいが)しか決められないのである。これが「幹」ではなく「枝葉」としての一個人が決定できることの限界である。それゆえ、積極的積極と積極的消極は、ともに自己の実感レベルでの気づきを前提とし、それのみに基づいて個人が主我的に決定することを前提とする理念的な言葉といえる。
 「最近の若い人は積極性がない」、「気まぐれで信用できない」といわれる。しかし、注意深く個人を見ると、いつも後向きというわけではない。状況に応じて変化するのである。逆に、大人だって、だれだって、どんな状況でも積極的などという人はいない。もし、いるとしたら、その人はむしろ積極、消極を自己管理できていないから、とさえいえるかもしれない。落ち込み、後向きになっているとき、その人は個の深いプロセスのなかにある。その人自身と周りの人たちが、それを受け容れることこそ重要なのである。
 これまで自著『癒しの生涯学習』で述べたことを繰り返してきたが、最後に、今後予想される変化のひとつとして、職業について述べておきたい。『癒しの生涯学習』では賃労働等の職業は基本的には消極的積極の役割遂行としてとらえ、その意味では「奴隷の覚悟が必要」とまで書いたのだが、労働力の流動化やリカレント化などのなかで、「きらいなことはしない」という理由から退社(積極的消極)する若手社員が今後ますます増え、そういう個人を受け入れて「やりたいこと」をさせようとする雇用が広がる可能性も、私は最近感じるのである。つまり、少なくとも本人の仕事の内容については、主我的な自己決定を組織的決定より優先する可能性である。そのほうが、その個人の自己満足ばかりでなく、結果としてもよい仕事ができるのかもしれない。今日の状況では外資系の企業でさえそこまでには至っていないと思うが、このままでは企業活動のレベルがNPO等の自己決定活動より劣るという結果にさえなりかねない。それは、先にも述べたように、個人の純粋な積極的積極の行為としての自己決定活動と、個人の「働きがい」という積極的積極の行為に「働かなければならない」という消極的積極が混じってしまう職業活動との差異に由来すると思うのだ。じつは、このような社員一人一人の個人の主観が、企業活動全体の質を決定しているのではないか。
 前章で述べたように、ボランティア活動が学びの行為としてとらえられる今日、社員個人が真に「やりたいこと」として気づく仕事とは、自分自身がそれをとおして学んでいるということを実感できる仕事であろう。その意味で、社員が自身の「やりたいこと」に気づき、その「やりたいこと」だけをやるような企業が出現するならば、それはリカレント教育や教育有給休暇制度を上回る、職業活動の生涯学習化といえるだろう。

(8) 個人の変身欲求を満たす生涯学習
   −変身欲求/自己受容/学習中毒

 私は、今まで、枠組自体を変化させることが本来の学習だといってきた。そして、「自分の枠組を変化させたくない」という「学習拒否症」は、自信のなさの表れだといってきた。急激に変化する生涯学習社会において、自己の枠組を変えないまま、固定化した枠組のなかに知識と技術だけ詰め込むことしかしようとしないのでは、主体的学習とはいえないと考えるからだ。しかし、これをみずからの問題としてとらえなおしながら聴いている学生の場合、私のこの学習論への生理的ともいえるほどの抵抗感や嫌悪感が生まれることが多い。「たとえまだ20年間とはいえ、そのなかで自分なりの枠組をつくりだしてきたのだから」というわけである。そこで、私は「じゃあ、私は自分を変えたいのか」と自問自答してみた。そうすると、たしかに、変な気持ちがする。どちらかというと妙に落ち着かない嫌な気持ちだ。
 もともと、私自身は、「自分を変えたい」(=本来の意味での「学習をしたい」と同義)というとき、楽しいわくわくするイメージとして「変えたい」という語を使っていた。ぼうっと海を見つめているうちに自分のなかに何かが起こって、それまでの自分と少し違う自分になれたような気がするときがある。「ああ、この人の考え方はすてきだなあ」と思えるような人とたまたま出会ったとき、その人の枠組のよい部分を自分も取り入れることができたような気になるときがある。そういうときに充実を感じる。つまり、そういうふうに「自分を変えたい」といっているときは、「変わっていくのって面白い」という程度の軽い気持ちなのだ。「どこまでも知りたい」という生涯学習の原初的欲求の一種と考えてもよい。ところが、ちょっとマイナーな気分で重々しく「自分を変えたい」とつぶやいてみた。すると、とてもみじめな感じになることに気づいた。そういうときの「自分を変えたい」という言葉には、自己弱小感、他者依存などの否定的感覚が盛り沢山に込められている。人間なのだからだれでもそういう気分になるときもあるだろうが、それを制度的権威の側(この場合は教師)から「自分自身を変えよ」というかたちでいわれるのではたまったものではない。そんな権力側の勝手な言葉には抵抗するほうがむしろ健康的である。
 そこで私は「自分を変えたい」という欲求を、つぎの2つに分類した。T自己否定としての変身欲求=今の自分を肯定できないから、自分を変えたい。U自己受容による変容欲求=今の自分を肯定できるからこそ、自分を変えたいと思える。
 最近の臨床心理関係者の嗜僻などの話を聞くと、「たとえ社会的に不適応といわれる人であっても、その人はその行為を選ぶべくして選んでいる。その行為自体を『変えさせよう』と思うことは、無意味、または危険である」という考え方が強くなってきているようである。しかし、あるカウンセラーが、そういう認識のうえで、「ただし、自分を知ってと、自分を大切にとの2つをいうことは意味があると思う」と言っていた。神経性の胃潰瘍の患者が、「仕事をレベルダウンするわけにはいかないのだから、ほかのことはどうでもいいから、あなたは私の胃潰瘍だけ治してくれればいい」と訴えてくるというのだ。言い換えれば、自己客観視と自分のために生きることの大切さの2ついうことになろうか。自己否定としての変身欲求だけの願望で「学習」し続けることにとどまるならば、同じ枠組のまま処方箋的な知識が肥大化するだけで、「胃潰瘍にならない自分になる」という変身欲求は実現できない。これに対して、そこまで頑張ってきてしまった自分を本当に知ることができれば、「それはそれで無理もない状況だった」と今までの自分を受容することができるだろう。そういうふうに受容ができて、初めて、胃潰瘍を引き起こした自らの生活自体を主体的に革新する勇気もわいてくる。つまり、自己受容こそが自己変容に有効に結びつくのである。
 このことから、「自己の枠組自体が変化する生涯学習」というのは、「今の自分はだめだ、頑張らなくてはいけない」ではなく、「今の自分のままでもまんざらでもない。よくやってきた。でも、わくわくすること(ワンダーランドとしての生涯学習)に出会って変化するとしたら、ますますすばらしい」ということである。交流分析では「I am OK, You are OK」を理想的な基本的構えとしているが、それは、このことを表しているのだろう。そのための援助というのは、「けしからん、変えなさい」ではなく、「まだまだこんなにすてきなことがあるよ」という提案型であるべきだということになる。
 これらの変身欲求とは逆に、自己の枠組自体には変容のないまま、とにかく学習している自己の姿に安心するために学習するというケースもある。これを学習中毒ということができる。学習中毒の場合、少なくとも外見上は自己決定の積極的積極に見える。しかし、遊び型の「即目的的学習」とは異なり、「私は、その学習内容を楽しんでいる」ということよりも、「私は、学習している」ということに安心しようとする。なぜ、それだけで安心できるような気がするかというと、根底には学習という非日常とは切り離されたところに、学習していないときの日常があり、そこに自らが受容できないなにものかがあるからだろう。自己否定ではあるが、「自己否定としての変身欲求」とは異なって「変身」しようとはしない。
 しかし、前出『大学教育の原理と方法』は次のように述べている。講義方式に関して注目すべきことは、学生が教師の講義内容を自分の理解できる範囲で、習慣的にノートをとりながら聴く場合に、学生が講義終了後にその重要な情報の40%以上を記憶していることはまずなく、一週間後には更にその半分しか記憶に残らないということである。また、ヘイル委員会報告書の「講義方式の濫用は、その講義者にとっても受け手にとっても中毒性の麻薬と分類さるべきもの」という論評も支持している。
 積極的積極の学習と学習中毒としての学習との違いを、私は本人の内面に求める。本人自身は「学びたいから学ぶ」と思っていたとしても、「本当に学びたい」という実感が伴っていない場合、これを学習中毒としてとらえる。学習中毒の場合は「学んでいない自分は不安だから学ぶ」のであって、もう一方で「こんなこと(非日常としての学習)をしていて、いったい何になるんだ」という不安を解消することはできない。そういう「積極性」は、むしろ消極的積極に位置づけられるだろう。あるいは、本来あるはずの「本当にやりたいこと」を自己決定を経ずに放棄しているという意味では「消極的消極」の行為としてもとらえられる。
(9) 癒される生涯学習
   −本当の自分/自分さがし/癒しのサンマ

 『みんなぼっちの世界』(99/5、恒星社厚生閣)で、浅野智彦は、「目指すべき価値としての欲望を喚起し、人をつき動かすものでありながら、その内実は全くの空虚であるようななんとも奇妙な記号」としての「本当の自分」ということばに意味を与えるためのゲームを次のように4つの形態に分類した。@空白をごく身近で具体的な共同体の他者(典型的には「親子」「家族」「恋人」)にたよって充填しようとするもの。この親密さのゲームは非常にローカルな形でのみ展開可能。他のゲームに対しては基本的に寛容、あるいは無関心。Aある種の宗教団体に代表されるようにこの空白を何か超越的で普遍的な他者(典型的には「神」)にたよって充填しようとするもの。仲間との間でのみ親密な関係をもつファンダメンタリズムとなりやすい。B空白をメディアを介した他者にたよって充填しようとするもの。たとえばブランド・グッズの消費。モノの記号としての意味を共有している比較的広範な消費共同体(あるいはメディア共同体)の中で展開されるため、「終わり」がなく、絶えず古い「本当の自分」を脱ぎ捨て、最新のそれに着替え続けていかねばならない。C「本当の自分」などありはしないのだということをはじめから認めてしまうこと。そしてそれを他者にたよって充填しようとするあらゆる試みから降りてしまうこと。「本当」が多元的・多中心的であることを前提に、その都度の感覚・好み・趣味によってその都度の自分をどれもそれなりに自分らしい「私」として認めていこうとする試み。このゲームの中では親密さはその都度の文脈の中で、その都度の「私」によって創り出される。
 生涯学習やボランティアなどの自己決定活動によって「本当の自分」を見つけようとする人々が増えている。彼らにとっては、それらの活動は「自分さがし」の一環である。そこでは、仕事をしているときの自分、主婦業に専念しているときの自分とは異なる自分を見つけることができると考えられる。私は所属する徳島大学大学開放実践センターで「私らしさのワークショップ」と銘打って公開講座を開いている。そのこと自体、「そんなこと、本当に援助できる自信があるのか」というやましさを感じないわけではないが、浅野の指摘する「本当の自分」という空白に向かった現代人のゲームのなかで、突出的な意味としての「本当の自分」のあり方を模索する価値は高いと考える。そこで重要なのは、他者との関係性のなかで個人が存在しているということであり、さらに、そこには親密と距離感のあい矛盾した双方を求める現代人の葛藤がある。少なくとも、今日のメディアのように「すばらしい本当の私」があるかのような幻想をふりまいたり、教育の場で一部始められつつある「今の私は、本当の私ではない」という脅迫をしたりすることは、個人内の矛盾を拡大するだけだろう。
 むしろ、私は、「多元的・多中心的な本当の自分」のなかから、自己決定活動のなかで見いだした「自分らしさ」の「かけら」、ただし自分にとっては輝いていると思えるかけらを正当に自己評価できるようになることこそ、個人にとって、今、必要なことなのだと思う。そして、そのかけらは、最初は空白であった「本当の自分」というものの全体(アイデンティティ)にも肯定的な影響を与える。しかし、このような「本当の自分」への気づきを個人にもたらすためには、生涯学習等の自己決定活動が、その個人に社会的承認を与える突出的な「癒しのサンマ(時間・空間・仲間の三間)」である必要がある。
 癒しとは、傷ついた心がもとの状態に戻ることをいう。今までの教育がつねに成長や生涯にわたる発達を第一義としてきたのに対して、癒しとは回復やいっときの安らぎしか表さない。そんな癒しの観点を後ろ向きだと批判する教育関係者もいるだろう。しかし、イルカと泳ぐ、水晶玉を買ってきて見つめる、など、若者たちが癒されようとしてさまざまな工夫をし、なおかつ癒されていない今日、彼らが後ろ向きだろうが何だろうが、彼らの幸福追求の営みにとって有効な、かつ、社会的にも望ましい結果が期待できるような支援の手を社会から差し伸べる必要がある。あるいは、「社会に適応するために成長、発達ばかり追い求め続けること自体が空しい。生きる意味をあえてあげるならば癒ししかないのではないか」と考えることもできる。
 私は、人びとを癒されない状態に追い込む「上下同質競争社会」において、癒しを提供する「水平異質交流」を生み出す時間・空間・仲間が突出的に存在していると考えている。それは、自己決定のサンマとしての@生涯学習、Aボランティア、B地域活動(市民活動)の3つである。そこでは、「仕方ないから頑張る」などという私たちのいつもの奴隷の習性などはいらない。自立した者どうしが相互承認しあい、あるがままの自他を肯定的に受け入れあって(自他受容)、のびのびと異なった個性を育くみ、発揮しあうというところがサンマの魅力なのである。さらには、そこで、他者や社会に貢献できる有用な自己を再発見し、また、他者からその認知を受けて自他への信頼を深め、個を深めることができる。
 自著『癒しの生涯学習』について、「『癒しの生涯学習』を考える」(伊藤学、全日本社会教育連合会「社会教育」、1997年8月)は、たとえば、カウンセリングやガーデニングのブームを引いたほか、「失恋した女性は習い事に走る」という言葉が「癒しの生涯学習」を端的に表現しているとし、「社会教育の青年対象事業に参加してくる若者は、初めから学習に付随する人との出会いや語らいを求めて来る場合が多い。また、不登校や引きこもりの若者が、公教育から離れて学習する民間施設も注目されている」ので、そういう当然の欲求を教育者は無視できなくなっている、としている。伊藤の若者の現実のニーズから立脚した論旨は私の本などよりもよっぽどわかりやすい。しかし、じつは、ここに、現代社会における一般的な「癒し」と、私が提起する生涯学習における「癒し」との決定的な違いがあると思う。
 そもそも、私は「癒しのサンマ」と表現している。このサンマという言葉には、人に傷ついたあと、人から逃げるのではなく、人とのネットワークによって、癒し、癒されようとする「前向き」な志向が含まれている。この前向きさは尋常ではない。だからこそ、何らかの理由で傷心している学生のなかには、そういう私の主張を嗅ぎ取って、私の「自由なはずの」授業が一番疲れるとか辛いとか訴える学生が例年、出現するのであろう。このような学生の批判は、「癒しのサンマのような私的なことは、若者が自分でやればよい。行政が手伝いなどすべきでない」というような関係者にありがちな批判より、ずっと的を射た指摘だと思う。
 しかし、そこに、「癒しの生涯学習」の独特な本質があるのだ。つまり、私が進めようとしている生涯学習における癒しは、人と傷つけ合う一般的な現代社会からの「いい男、いい女」のための逃げ場ではあっても、他者との関係、すなわち社会自体から逃げてしまおうという場ではない。むしろ、人と信頼や共感の関係を築き上げ、自他受容と自己変容の突出的なサンマを創り出すという、なかなか面倒な営みなのである。しかも、自助グループが「自分だけではなく、みんなも同じ悩みをもっているのだなあ」という気づきを促すものだとすれば、それとも異なり、ピアコンセプトさえも乗り越えて、「あなたはあなた、私は私」というネットワーク型関係への気づきを促そうとするものである。
 しかし、このような「出会いの努力」を個人がしない限り、本当に癒されることはありえないだろう。また、社会の側も、「自分さえ癒されるのなら、社会や宇宙の客観的事実なんかどうでもよいから、とにかく信じてついていく」といった一部の若者の「癒し」志向の事態に対して、もうひとつの癒される人間関係の契機を提案することは、緊急事項というべきである。そうでなければ、教育がめざすべき個人の自立や、望ましいコミュニティ形成、ネットワークづくりなどはできようがない。この手法については、3章で述べることにする。
狛プー個人主義の意味するもの

 狛プー元年間講師(徳島大学大学開放実践センター助教授) 西村美東士

 狛プーのみなさん、元気?
 ぼくのほうは同じペースで楽しくやってるつもりだけど、なぜかフリースペースなどに若者や学生があまり来てくれなくて、ぼくのほうが年なのかなあ、時代から取り残されつつあるのかなあ、などと思ったりしている。
 いま書いている原稿は「個人学習の推進」に関する「1990年代の若者やこどもの『個』の支援−その転換と苦悩 −10年間の青少年問題文献から」で、その柱立てとして、次のように考えている。
(1) 1990年代初頭までの動き −個性重視/生涯学習/生涯教育
(2) 青少年個人の学習が真に自由であるために −教育と学習の乖離/現代的課題/個人主義
(3) 大人の個が問われている −学校週5日制/個の深み/心を育てる
(4) 個は一人で多義的に生きている −自由時間/ソロビバーク/自分さがし
(5) 個は固有の身体を伴って生きている −生きる力/擬似体験/冒険/科学教室
(6) 個は他者の個との関係のなかで生きている −不登校/対話/第4の生活空間/準拠個人/癒しと居場所
(7) 個は共同体のなかで生きている −正統的周辺参加/学社融合/第4の領域
(8) 個は他から承認を受けながら生きていく −自己責任/性の自己決定能力/社会的承認
(9) 個は貢献することにより生きられる −少子化/社会貢献/ボランティア/利他的利己主義
(10) 個性重視からの転換 −自己決定能力獲得の支援へ

 そこで思い出すのはやっぱり狛プーである。狛プーメンバーもぼくが年間講師をやっていたころより先に進んでいるだろうけど。そして、ぼくだって次に進もうと思ってはいる。
 しかし、狛プーのことで新しく思いついたことが「狛プー個人主義」である。人は一人で生きている、という宿命をもっているのではないだろうか。これを集団学習のなかで実現したのが狛プーだったのではないか。
 そして、ときどき、ある個人が生きていることが、ほかの個人にとって、生きている意味そのものになるときがある。それを「意味ある他者」といってよいだろう。これは、いるときには迷惑だったり、うざったかったりするけど、いざその人がいなくなると喪失の淋しさが襲ってくるという、やっかいな代物である。けっして、自分にとって有益だから、役に立つから、という合理的な理由ではない。理由が合理的ではないから、その他者が存在してくれていることのありがたさに気づくのが遅れる。
 単身赴任のぼくのところで1年間暮らしていた一人息子が、きのう東京に帰っていった。ぼくはそれでやっと気づいたのだ、「ありがとう」と。迷惑なんか、もっともっとかけあえばよかった。自立して俺に迷惑をかけないように生きろ? 彼に対するそんなぼくの言葉は、本当のぼくの心ではなかったんだ。自分の本当の気持ちを、今になって気づいた。
 狛プーは個人主義だと思う。けれども、なぜ、それが「癒しの三間」になるのか。それは、たがいに「意味ある他者」(「有益な他者」ではない)として存在しあうことに早くから気づき、自分も相手もとりあえずでも生きているということをいとおしむ風土があったからだと思う。もし、そういう相手が死んでしまったら、その葬式をとても悲しむことができるだろう。さっさと葬式をすませて、早く立ち直って、生き残っている者たちで今までの社会的活動に復帰しよう、なんて考えない。これが個人主義のいいところだ。
 個人主義を徹底しよう。そのことによって、他者の自己の存在のありがたさに早くから気づくことができるし、もっと自己中心的にいえば、何よりも他者と関わって生きていく自分の奥底の気持ちに気づくことができると思うのだ。

不幸の手紙からの脱却の方法−ネットワーク型活動への転換を

徳島学遊塾運動アドバイザー
徳島大学大学開放実践センター助教授
 西村美東士

 「いきいきどきどき徳島学遊塾運動」は、まち全体を学び舎として、市民のだれもが学ぶことができ、教えることのできる「共育システム」である。そして、その主体はつねに市民であり、市民自らの発想と実践によって運営されることが基本とされる。学遊塾推進本部や企画、広報等を担当する各専門部会は、公募による市民ボランティアが活動の中心となる。
 もちろん、これに対して、徳島市(事務局は社会教育課)はできる限りの支援をしようとしている。しかし、だからこそ、そこで問われるのは市民参画の実体であり、官民パートナーシップの成熟度である。
 ぼくは本年度から澤田順子さんとともに本運動のアドバイザーをやらせてもらっている。これは、ぼく自身にとってもボランタリーな活動である。澤田さんは6年目であったが、ぼくはまだ1年しか経過しておらず、まだまだ「実体」としての本運動を把握しているとはいえない状態だが、ぼくなりにいまの学遊塾が突き当たっている究極の問題点として感じている点を述べてみたい。
 それは、参加・参画する市民の側にややもすると「不幸の手紙」と似た心理的状況が垣間見られ、そのことが市民参画や官民パートナーシップの阻害要因になっているのではないかということである。「不幸の手紙」とは、同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもので、チェーンレターの一種である。市民の自己決定活動の一環であるはずの生涯学習なのだが、とくにそういう活動のなかで役員などをやっている人は「なんで自分ばかりこんな苦労をしなければならないのだろう」という非生産的な気持ちにさいなまれることがあるのだ。これをそのままほかの人に訴えて協力を得ようとしても、相手だっていやな苦労はしたくないわけで、進んで協力しようという気持ちになれないため、「不幸の手紙」をもらったときのようないやな気持ちになるだけの非生産的な結果しか残らない。
 もちろん、行政側にもこのような運動への対処の未成熟な部分も残っていて、それも阻害要因のひとつにはなっているとは思うが、市民の側に行政とのパートナーシップ能力が培われれば、それは市民の力で次第に解消されよう。
 なお、本稿は問題点とその対処法を考察することを主眼としており、実際の学遊塾運動は、ほとんどの場面でまさに「いきいきどきどき」と運営されていることを念のため言明しておきたい。
 1997年度の『1年間の活動報告』において、徳島学遊塾運動推進委員会委員長の山本忠男さんは、「学びたい人々はたくさんいる。また、自分のもっている知識技能を多くの人々に広めたいと思っている人も少なくないと思う。そんな人々の、共に教えあい学びあう場が学遊塾である。師弟とか金銭とかに関係ない、遊び心から学び心への共育であり楽習である。企画運営に当たる推進委員も、市民教授も、みんなボランティアであるのが特色で、理想的な市民手づくりの生涯学習」としつつ、「道いまだ遠しという感がする」と述べている。
 澤田さんは、「互いに教え、教えられる双方向の関係に戸惑いを覚えたようだ。はじめは市民教授というと、特別な資格であると錯覚を起こした向きもあった」、「各部会や推進委員の意向が反映されてきているとはいえ、まだまだ主体性を持つところまでいっていない。『私にできることがあればお手伝いします』の域を越えないまま指示を待ち、事務局に頼る部分が多いようだ」と述べている。
 共育と楽習は、ある意味で「わがまま」(わが思いのあるがまま)に積極的に関与する行為であり、しかもそれは「自分のため」の行為であるといえよう。だが、徳島の人たちの「控え目さ」ゆえにか、そういうとらえ方ができずにいる面がありそうだ。これはこれで徳島の人たちの味わい深さを表しているのかもしれない。げんに阿波踊りのときなどは身も心も大いに解放し、ハレの日を十分味わうことができる。ぼくも3日間踊りっぱなしであったが、とくに学遊塾の連で踊ったときは、超ベテランの三味線(これもボランティア)のメロディーというぜいたくな条件のもとで、下手も上手もごく当たり前にいっしょになり、地元の路地や、いつものなじみの盛り場や商店街を踊り歩くことができて、一番楽しかった。
 しかし、日常の日々における「控え目さ」のほうは、それが何かの拍子に潜行するようなことがあると、先述の「不幸の手紙」のような非生産的状況に陥ることにもなる。「これだけ自分はやってきたのに、ほかの人がやってくれないのはおかしい」、「行政はこういう私たちにこそもっと面倒を見てほしい」というわけである。ややもするとそういう気持ちになることは無理もないこととは思うが、これが市民の自己決定活動という本質を歪ませ、市民参画や官民パートナーシップを難しいものにしてしまう。
 ぼくは平成11年2月に本運動の市民教授研修会において「さて困った、大人への教え方」というワークショップを行い、引き続き推進委員研修会で討論と懇談会をさせてもらった。
 「よそでたまったストレスを学遊塾で発散している」という元気な意見もあったが、「役員をやっているとストレスがたまることが多い」という訴えもあった。その理由は、まわりの人が協力してくれない、あるいはちゃんと理解してくれていない、会議でなかなか全体の意見がまとまらない、などである。高齢のため体がついていかないという人もいた。市民教授登録者からは、他県の例と同じく、講師としてお呼びがかからないという問題が大きかった。
 一方、環境問題に関する活動をやっている人からは「活動を、自分の生きてきた証しだと感じている」、民謡の人からは「徳島の宝を伝えるお世話をしたい」などの意見もあった。このような「使命感としての生涯学習」という側面も忘れてはなるまい。しかし、それにしても学遊塾運動が本質的に市民の自己決定活動であり続けるためには、「不幸の手紙状況」からはなんとしても脱却し、「使命感」にしても「潔い使命感」が求められているといえよう。
 そのときぼくは次のようにコメントした。

1 教授法の実際の様子がわかる「市民教授リスト」
 市民教授のさらなる活用といっても、あまり関心がわかない人に講師を依頼するということがあるとしたら、それ自体が生涯学習活動としては好ましくない。ただの無機質なリストではなく、もっとその人の顔がわかり、メッセージや雰囲気が伝わり、どんな教え方をしてくれるのか、プログラムまでわかるリストが必要である。また、今後ますます重要になる学校教育への協力については、専門の分野についてだけでなく、教育についての見識をもち、学校側にもそれが伝わるリストにすべきである。
2 活躍場所の自己開発
 町内会、婦人会など地域はだれもが主人公になれる場である。また、市民教授同士でチームを組み、市側にいくつかの会場を提供してもらって、自分たちでキャラバン隊のように各地域に教えてまわるということも考えられる。
3 自己決定活動はグループ活動
 ボランタリーな活動は、実際にはそのほとんどがグループ活動として行われるものなのではないか。そういう意味では、まずは市民教授や役員同士が日常的に教えあったり学びあったりすることが楽しいと思う。
4 自分のための活動
 いったん役員を引き受けたのならば責任を持って会合にも出席すべき、という感覚はそれが自分自身に向かっている限りは敬意に値すると思う。しかし、責任感以上に、そこに行けば歓迎される、だから仲間と会いたい、役員自身が学べる、おしゃべりできる、だから会合は楽しい、といういわば「自分のため」という感覚こそが大切なのではないか。欠席した人に「もっと責任をもって出席して」ではなく、「この前は来れなくて残念だったね」といえるような活動を目指したい。役員の会合であっても、学遊塾運動が自己決定活動の一環である限りはそういう活動にすることが大切である。
5 ネットワーク型の運営
 大人はそれぞれの事情をもって生きているのだから、会合にたまたま参加できた人でそのときの合意を作り出せばよいし、該当する役員にはなっていなくてもメンバーはだれでも会合に参加でき、意見も述べられるということにしたらどうか。来るものを拒まず、去るものを追わずという自由で柔軟なネットワーク型の運営のための工夫が望まれる。

 徳島学遊塾運動のような行政が支援する、あるいは行政が仕掛ける市民参画、市民主体の生涯学習事業には、市民の独立型の生涯学習活動とは異なる独自の困難が見え隠れしている。「不幸の手紙状況」に陥る危険性が大きいのである。しかし、その状況からの脱却に向けた市民と行政の努力は、問題が精神構造にまで及ぶというその困難さゆえに、もし成功すれば、きっと市民参画や官民パートナーシップの実体をより確かなものにすることになるだろう。
<研究報告>
ワークショップ型授業の構成要素とその効果
 −学生の自己決定能力を高める授業方法

  西村美東士
  (徳島大学)

The Structure and Effect of Workshop-type Class:
Teaching method for improving student's self-determination ability

Mitoshi Nishimura
Tokushima University

I conducted a class "Outline of Lifelong-Learning" as an intensive course for two days. This class was carried out in the form of workshop. This class aims that the students do not hesitate to give self-expression during this class, and they will in future take part in social activities such as lifelong-learning, volunteer activities and the like also on the basis of self-determination. In this study, a process, in which each student becomes to obtain self-awareness as well as awareness of others during this class, is analyzed so as to show clearly structure of a class, which improves the self-determination ability of each student, and the effect obtained from such class.
From this study, two results are obtained. The first result is that the following two processes are shown clearly in the workshop-type class. One process is that what each student's awareness is directed to, is shifted from subjective-self to objective-self and from objective-self to objective-others. Another process is that what each student's awareness is directed to, is returned from objective-others to objective-self or subjective-self while such awareness has been promoted to be strong. The second result is necessity for strategic teaching plan and structure of class, which are decided according to a level of each student's self-determination ability.



[キーワード:授業方法、ワークショップ、自己表現能力、自己決定能力、即自・対自、生涯学習、教師の指導性]

はじめに

 学生生活にとって自己決定活動が大事な要素であることはいうまでもないが、高等教育や生涯学習を展開する指導者にとっても大事な要件であろう。
 生涯学習、ボランティア、地域活動における自己決定の重要性を授業で述べたとき、ある男子学生が「本気になって人生には自己決定が重要だと思っているのでしょうか。そんなわけないでしょう?」と言った。あくせくせずにそれなりの仕事をして暮らしていけば、親も本人もそれで幸せ、ということのようであった。また、ある女子学生は「自己決定自体、しても、しなくても、どちらでもよい。ただ、迷惑をかけたり、かけられたりするのはいやだけど」と述べている。(1)このような学生が多いのは確かである。
 一般に、「人に迷惑をかけることはいけない」と言われており、現代学生は頭ではわかっていて無自覚な強迫観念として作用した結果、自己決定にとってのマイナス要因になっている場合が見受けられる。しかし「自己決定」はしなければいけないとは必ずしも受け止められていないようである。しかし、我々は「人に迷惑をかけないで生きること」よりも、「自分の人生は自分で決めて歩きたい」という自己決定への願いの方が、強い潜在的願望であると考える。
 自己決定活動を高める授業には、それなりの工夫と指導技術が求められると考えたい。
 徳島大学学芸員課程科目の集中講義の機会を用いて、自己決定の生き方を自ら選択するよう導く授業方法を検討しようとした。学生の自己決定的な参加・参画に基づく手法であるワークショップ形態を中心にして、その指導の効果を明らかにしようとした。ワークショップは、各人の自己決定による言動が成果の共有のための必須条件として体験的に認識されると考えたからである。そして、得られた知見は、大学教育を受ける学生の態度をより自己決定的に変化させる指導のあり方を明らかにする重要な手がかりを与えると考えたからである。

1.研究の目的
 現代学生の自己決定能力が欠如しており、それは授業を受ける態度が消極的になるなどのマイナスの要因にもなっている。しかし、その原因は内的要因によるものが大きいといえる。このように考えると、「自分自身のためにこの授業が行なわれている」と気づき、実感することによって、安心して自己表現ができるようになると考えられる。その結果、学生一人一人が将来にわたって生涯学習やボランティアなどの社会的自己決定活動に関わることが期待できる。
 本研究では、学生の気づきの状態を「即自」と「対自」と「対他」に分け、その発展上に「対自=対他」を設定した。ここでの自は自己であり、他は他者である。「即自」とは無自覚に認識できる「そのままの自分」である。ただし、「対自」や「対他」から何度も立ち戻った末の深いレベルの「即自」は、いわゆる自然体の「あるがままの自分」が想定される。「対自」とは自己を客観的に認識する「もう一人の自分」を想定している。これも表層的な自己否定から深層の自己受容に至るまで、いくつかのレベルが想定される。「対他」とは「自己とは異なる他者の存在」への気づきである。これも自己からの関わり方に数段階のレベルを想定している。
 従来の議論では、「対自」は「自己洞察による客観化と主体化」であり、それゆえ「対象に対するときは、自分自身もその中に参加し、自分の問題として考える主体的な構えをもつ」(2)とされるが、筆者の経験によれば、「対自」は深まっても「対他」は苦手という若者が多く見受けられる。そのため、「対自」とは別にあえて便宜上の造語である「対他」を設定して研究を進めた。
 このように想定して次の仮説を設定した。[2日間の授業の中で学生の気づきが「即自」→「対自」→「対他」と経緯する]ということである。この仮説設定において「即自」から「対他」があって「対自」に経緯するという方が理屈にはあっているように思われるが、現代学生の現実の姿からいえば「対自」→「対他」が適していると考えられる。
 本研究の目的の第1は、学生が授業のどの場面でどのように気づきを得てゆくか、その変容過程を解明することである。第2は、ワークショップ型授業の構成要素とその効果を明らかにすることである。

2.研究の方法
 研究対象とした授業は、2000年度前期学芸員課程の科目「生涯学習概論」である。受講学生42名(うち男3名)に対して8コマ2日間にわたる集中講義で実施した。
 この授業の目的は次のとおりである。現代人が生涯学習に向かう主要な動機の一つとして「自分らしさ」の危機と、それへの願いがある。本授業では、学生一人ひとりの臨床的真実を引き出しながら、生涯学習、ボランティア活動、市民活動等の自己決定活動のあり方を明らかにすることをねらいにしている。教育方法は、ワークショップを取り入れ、成人教育における能動的な学習を実現しようとした。学生自らの生涯学習社会形成に向かう態度変容を促すとともに、成人の生涯学習支援についての見識を養うこととした。授業は図1のように進行させた。実施時期は2000年7月である。
 調査及び分析は、@授業イメージに関する調査、A学生の提出した文章、Bワークショップの成果、C映像による授業記録に関する調査を対象にして行なった。
 授業イメージの変容の検討は次のように行なった。3回にわたって「この授業について」のイメージ調査を質問紙により行なった。調査の構成はa「即自」13問、b「対自」13問、c「対他」11問である。調査の実施時期は図1の1a終了時と2d終了時とした。今回の報告では調査ABを用いている。有効データ数は33である。
 学生の記述した文章の分析は次のように行なった。1a終了時に文章表現@「私はどう生きてきて、この授業に何を期待しているか」、1d終了時にA「自分の自己決定を阻害する要因」、2a終了時にB「午後の授業に、私は今は何を期待しているか」、2d終了時にC「ワークショップを終えての感想」を、それぞれA6版1枚に書くよう学生に指示した。この内容を類型化して分析を行なった。
 ワークショップの成果の分析は次のように行なった。1dのワークショップ成果@「本日の授業における出会いと自己への気づき」(図解)、2bのA「価値観ゲーム」(メモ)(3)、2cdのB「自己決定阻害要因排除あの手この手」(図解)を、各班で作成し提出させ、内容を検討した。
 映像による授業記録の分析は次のように行なった。2日間の授業風景をビデオに録画し、教師の発言と学生の反応、彼らの自己表現を対照して分析した。そのことによって、教師の働きかけのどこがどのように彼らの気づきに影響を与えるかを明らかにしようとした。
 この他に、「生涯学習などの自己決定活動について」をテーマに提出を指示しているが、本報告では用いていない。

3.結果と考察
3-1.授業の進行に伴う学生の気づきの変容過程
 表1に分析結果を示した。×は否定的、△は中立的、○と◎は肯定的な反応であるが、自覚的な反応は◎とした。この表によると下記の諸点が指摘できる。
 第1に、「対自」への関心は、「あなたはどう生きてきたのか」と働きかけだけで十分に引き出すことができた。具体的には、短時間の一斉指導によって、「対自」の○と◎が「即自」を上回る結果(20対32)を得た。もともと学生には「対自」に関する自覚・無自覚の関心があり、「この授業の関心はそこにある」と教師が表明するだけで成立したと考えられる。
 第2に、カード式発想法による図解のグループワーク(図1の1d)では、「対他」に関する肯定的・自覚的記述が高い。午前の文章表現では「対自」と「対他」が32対7であるのに対し、14対38と逆転している。この状況は、他学生の文章表現とそれに対する教師のコメント、第一印象ゲームにおける「その人らしさ」との交流を経ることによって生じたと考えられる。他学生の文章表現を聞くとともに、初対面の人とも安心して出会えるワークを体験できれば、他者の存在に対して関心を向けさせることができるといえよう。
 第3に、価値観ゲーム(図1の2b)では、結果や「メモ」を見る限り、上で述べたような学生の変容は見られない。本授業のワーク等が効果をもつのは、もっぱら態度の変容に関してであって、短期間で学生一人一人の価値観を変えていくものとはなっていない。
 第4に、最後のワーク(図1の2cd)では、「対他」に匹敵する「対自」の増加(39対45)が見られた。これは、2日目午前のグループごとのプレゼンテーションや午後の価値観ゲームによる他者との出会いから生じ、それが自己の存在を振り返ることにつながったと考えられる。
 第5に、○に対する◎の割合については、1日目最後のワークでは「対自」で10対4、「対他」で32対6


であったのに対して、最後では28対17、23対16と増えている。特に「対他」においては、親やその他の自己決定阻害要因に対して「自己決定へのアドバイスとしてとらえる」、「相手と本気でやりあう」などの内容は注目すべきことといえる。さらに、「即自」に関しては、×と△と○の合計に対する◎の割合が、1日目午前35、1日目ワーク13に対してともに0であったものが、2日目最後のワークでは13対5に上がっている。そこでは、自己決定が運などの要因によって左右される人間の宿命を受容しつつ、しかも「他人があきれるような自分の世界を作る」などの方策が打ち出されていた。
 このように授業進行に伴う学生の気づきは、「即自」→「対自」→「対他」の単なる一方通行ではなく、「対他」に至った後「対自」に戻っている。このような、段階的に、しかも循環して深まっていく過程が明確に見出された。

3-2.授業イメージの変化
 図2は本授業に対する学生の受け止め方の水準である。「そう思う」を4、「ある程度そう思う」を3、「あまりそう思わない」を2、「そう思わない」を1として集計した。中間値の2.5は「どちらともいえない」を表している。また、標準偏差を棒グラフで示した。
 その結果の第1は、「有意義な時間である」が3.45とトップで、「そう思う」と「ある程度そう思う」の中間値(3.5)に位置している。変化量からみても、2日目のワークによってより肯定に動いたといえる。
 第2に、上位10位の内容によると、aが1、bが6、cが3で、グループワークが主体だったにも関わらずbが上位3位を占め、cは「相手のよいところを発見できる」が4位であるほかは、9、10位にとどまった。自己による教育と相互関与による教育に分けてとらえると、本授業は前者の効果の方が高かったといえる。
 第3に、「ある程度そう思う」の3.0付近の項目としては、「知識が増える」「自分と関係のある」「団体で行動ができるようになる」「わくわくする」「論理的になれる」などがある。上位の項目である自分や他者の存在への気づきに比べて、現実の日常の場で判断や行動するための知的・現実的能力については「まあまあ役立つ」と学生にはとらえられたといえよう。また、「人を信頼できる」「人の痛みがわかるようになる」「自信のもてる」はそれより少なく、2.88、2.82、2.64であり、現実の他者と接する場で上手に自己決定の生き方をするための能力が十分身につくという感覚はそれほどもててはいない。
 第4に、「効率が良い」は2.55でほぼ中立であるが、ワークショップ型よりも講義型の方が「効率が良い」と感じられるのは止むを得ないことであろう。しかし、「自分の目標をもてる」も2.61と小さい。「くよくよしなくなる」「夢がもてる」は、わずかながら否定に傾いている(2.42、2.39)。つまり、自己決定の生き方をしようと思ったとしても、どのような段取りでどういう具体的目標をめざして生きていくかといった現実場面における変容にはつながらなかったということがいえる。それゆえ「夢がもてなかった」という回答になったと推察できる。この段階までの変化のためには、互いに「自分をさらけ出す」持続的な機会の設定が必要と考えられる。
 1日目終了時と2日目終了時の本授業のイメージの変容量をランキングしたものを表2に示した。これは2日目に入ってのやや本格的なワークショップが学生にどのような変化をもたらすかを示している。その特徴は次のとおりである。
 第1に、「対自」では「感情を大切にできる」ようになり、「対他」では「気持ちを話したく」なっている。ともに同率1位を占めている。前者も「対自」とはいえ、ワークのなかで先述の思い込みが解消した結果ととらえられる。すなわち、2日目のワークは他者と出会うことについての彼らの不安・不快の予想から安心・快感に向けた固定観念の打破にとってもっとも効果的であったといえよう。
 第2に、「自分に気づける」、「自分の問題に気づける」は高く現れている。2日目のワークによる他者との相互関与がそれらの気づきを与えたといえよう。
 第3に、10位になって初めてaの「わくわくする」があがっている。ワークショップの効果は、学生の「即自」的な要求に応えるよりも、「対自」、「対他」の変容をもたらすものといえる。
 第4に、「自分と関係のある」が低い。学生にとって授業が「自分と関係のある」ものとなるためには、「講義かワークショップか」とは異なる別の授業構成要素の検討が必要と推察できる。
 第5に、微小な変容にとどまった下位5項目は、「わかりやすい」「人の痛みがわかるようになる」「授業に親しみがわく」「自分のペースで参加できる」「自分の目標をもてる」である。「人の痛みがわかるようになる」ためには、短期間のワークショップを行なうだけでは不十分といえる。しかし、「授業に親しみがわく」「自分のペースで参加できる」の低調さは、現代学生にとって対人ワークがあくまでも苦手な部類に属するということを裏付けている。

4.学生の文章表現における変容の検討
 ここでは、授業の過程で得られた学生の文章表現からその変容過程を検討する。
 多くの学生は、「最初はどうなることやら」と思いつつも「いろいろ意見が出てよかった」などとしている。「即自」の初期段階にある場合、ワークショップをのびのび楽しんでいる様子がみられた。これ以外の記述に重要な事項が含まれているので、ここではその事例について検討したい。
 「グループでの話し合いや皆の意見を聞いて、自分がどう生きていったらいいのかという迷いのようなものが断ち切れたような気がする」とまで書いている事例がある。授業に過大な期待をする学生にとっては、本授業は無理をしないで現実的に教育や自己成長に向かい直させる効果があったといえよう。
 1日目にすでに自省的に「私自身のブレーキ」を阻害要因としてあげていた学生は、「今までは『くだらない意見だと思われたらいやだから言わないでおこう』と思っていたが、口に出さないといい意見かどうかわからないし、大切ではなさそうな意見でもみんなが大事にしてくれるので話しやすい」としている。内省はできても、他者との距離取りや自分の位置決めに悩む学生には、ワークショップは効果を発揮すると考えられる。
 「価値観の違いという一言で、何もかもすまされてしまう。その言葉は人を理解することを拒否する言い訳のように聞こえる。午後の授業では、そんな言葉をなくせる人間関係の方法を知りたい」とした学生は、このワークショップの終りでは「今、何か考えがまとまりそうと思っているときに別のことを言われてわからなくなったりした」と書いている。このような先まで見ている学生には、一斉参加型のワークショップだけでなく、自己内の深い思考のための静寂の時間が必要だといえる。ワークでの他者との交流がかえって自己への気づきにとって邪魔になる場面もあると考えられる。

5.討論
5-1.自己決定能力を高める授業方法
 学生を自己や他者存在への気づきにまで導くためには、一方向の一斉承り型講義では時間がかかる。双方向の授業や学生同士の共同作業によるワークショップ型授業は、現代青年を自己決定の態度に向かって変容させるために一定の効果があるといえよう。
 学生の「即自」→「対自」→「対他」という気づきの発展過程の仮説は、部分的には検証された。しかし本研究では同時に、他者への気づきが「対自」や「即自」の気づきに再び転化して深まっていくことが確認された。
 気づきの循環を効果的に支援するためには、個人の生涯の時々と生活の各場面に、自己と他者とのトータルな相互関与を体験する機会をいくつか用意する必要がある。これを高等教育において実現するためには、「問わず語り」の場を数多く用意することが必要であろう。
 さらに、一人一人の自己内対話をどう促すかという教育的視点が求められる。ワークショップでの対他者の体験だけで自己を質的に高めることはできない。他者との相互関与とともに自己内対話の充実こそが、現在、若者が顕在的に求めている「癒し」「居場所」の中でのように「あるがままの自分」でいられることにつながり、さらには自己対社会・自己対歴史の学問の広がりにまで通ずるのである。自己決定能力はこのようにして育まれると考える。

5-2.ワークショップ型授業の構成要素とその効果
 上の視点に立ち、今後求められるワークショップ型授業の構成要素を考えたい。
 今回の授業における指導者の行為は、課題提示(問いかけ)、紹介(読み上げ)、回答(レスポンス)、指示(ワークの進め方)が頻繁に行なわれた。そのことによって、役割提供機能(ワーク)、表現支援機能(文章、話し合い、発表)、受容機能(学生の表現への評価)、課題解決機能(気づきの促進)、揺さぶり機能(固定概念の打破)を発揮していたと推察できる。
 しかし、その効果は、学生の到達段階やその循環の程度によって左右されることが明らかである。
 受動的に生きてきたと自己規定する学生にとっては、表現支援機能や受容機能による学習が大きな部分を占めていたと考えられる。日常で避けてきた「新しい関わり方」を体験し、他者への肯定的関心と自己への気づきにつながったといえる。
 次に、自己決定がしづらいと認識していた学生に対しては同様の効果があったと思われるが、それ以上のものは得られなかったようである。これらの学生に対しては、より質の高い課題を提示することによって、もっと高いレベルの気づきを促すことが重要といえよう。
 このように、ワークショップ型授業の構成にあたっては、学生の変容がどの段階にあるのかをたえず把握しながら、適切で柔軟な授業を組み立てることが求められる。学生が到達した質的内容に応じたグループ編成や展開方法も検討の価値がある。適時処理が行なわれず、終了後に教師が講評で補完する事態では、ワークショップ型授業の意義は薄いのである。
 また、学生のもつ固定概念を揺さぶり、自己と他者との関わりのとらえ直しを促すことが大切である。自己内対話の深化を含めた気づきの支援機能の充実が重視されるべきであろう。
 他者との距離を測ることによって自己の位置を客観的に認識し、役割発揮を自己決定する要素も重要である。本授業の図解ワークショップで自分のカードの主張がメンバーに共有され、全体の図のなかで位置づけられることは、その自己決定を促すものであった。
 以上の検討によって、ワークショップ型授業の構成要素(機能)の働き方ともたらす効果に一定の関係が見出せた。今後はこれらの関係に注目し、より洗練した授業に高めることを課題として深めてゆくこととしたい。
 終わりに本論文をまとめるに際し、貴重な示唆をいただいた徳島大学森和夫教授に感謝する次第である。

【注】
(1)西村美東士,『癒しの生涯学習増補版−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』,学文社,p.161,1999.
(2)西平直喜,『青年分析−人間形成の青年心理学』,大日本図書,pp.16-18,1964.
(3)「価値観ゲーム」「第一印象ゲーム」ともに坂口順治,『実践・教育訓練ゲーム』,日本生産性本部,1989.


別紙1 学生の文章表現

a文章表現@、b教師の指導内容、c当該学生の最終文章表現C
1a中学生のときアトピー性皮ふ炎がひどく元々の性格も暗いので傷ついた。地元を出るため大学に行った。1b重要でない人からいわれても傷つかないはず。1c文章に示すのは抵抗あるが、他人の意見を知る貴重な機会。2a確固たる意志や信念を貫いて生きてきたわけではない。自分の事だけど他人事のよう。2b自立しなければいけないと思っている。自立しないと親に悪いから?2cふだん自己実現の話や人生の過ごし方など話したことがない。同年代の人がどのように生き方をとらえているのか知る機会。3a自分の価値観を大切にし、それを壊さない意見や事象に対しては柔軟に対応し理解も示すが、壊すようなことには敵対心を抱くが戦おうとはせず逃げる生き方。3b「逃げるが勝ち」という言葉もある。3c形式はおもしろかったが、題についてはやりにくかった。ぼくらの班では何度も詰まってしまった。4a何とか自分のペースで生きてきた。多少流されたりしているかもしれないけど。4bマイペースと流されることとはアンビバレンツ。その受容こそが重要。4c楽しかった。いろいろ意見が出てよかった。最初はどうなることやらと思ったが。5a普通に生きてきた。生涯学習というのはどういう意味なのか分かるように期待。5bここまで普通に生きてきたと言い切るのもかなりの個性。5c自身の自発性、積極性のなさを知った。こうした授業が学校教育のなかで普通になっていけば、私のような消極的な人間には助けになる。6a好きなものに対してはものすごい情熱を傾ける。臆病なのでストレスをためこんだり、いやな思い出をいつまでも忘れられずウジウジもするが、それを昇華させてしまわず、根性にまかせてズルズル引っ張ってきた。退屈しない授業を。6b退屈はしない。あつかましく要求を。体験型の学習なので必ず体験して、批判したり、注文を出したりして。6c一つのキーワードについてもいろんな意見が出ておもしろかった。話し合いで進める授業は初めてで有意義。7a受動的に生きてきた。親にいわれるままで、自分の意見を持たず。今でも流されている。7b中村雄二郎は「受苦」という言葉を使い、受動は能動としている。7c見知らぬ人と情報交換できた。班に2人も同じ高校出身者がいた。8a普通に生きてきた。自分の考え方がどう変わるか楽しみ。8b教師に自分の枠組を変容させられることへの抵抗感もありうる。8cグループでやり遂げた。こんなに有意義な授業を受けたのは久しぶり。9a転学のとき、人から影響をうけたけれど、決定したのは私ただ一人。ほとんど相談しなかった。9b相談しない自己決定もある。ただ、相談も自己決定の一環。9cワークショップ型の授業はおもしろい。これからの講義もこんなふうに変わっていくのか。10a思うとおりに生きてきた。後悔しないように。でも、あまり努力せず、楽そうな方向を選んできた。10「となりのトトロ」で「トトロに会えるか」という娘たちの問いへの父の回答は「運がよければね」である。10cやってみると不安は残りつつもなんとかなるもの。ただ、もっと話題を引き出し、ふくらます力が自分自身にほしい。11a受動的に生きてきた。「みんなと同じ」だと安心するという部分もある。少しでも改善できれば。b本当に安心できていたのか。同じでなくて疎外される人と同様、同じであろうとして強迫しあう仲間関係もつらい。11c大学に入って初めてだったので戸惑ったが、グループ内の団結力ができた。いろいろな意見が出て、みんなが考えることがよくわかった。どの意見も大切にすることによって広がった。12a新しいものに首をつっこみたがるくせに、自己紹介とか自己表現はあまり得意でない。自己紹介の方法とかが気になる。12bA見比べあう自己紹介を蹴っ飛ばせというのが、そのテーマである。安心して。12c初対面では身構えていたが、ゲームで自己紹介をしたせいか、とても楽しくすごせた。一人暮しのせいもあり、人の話をあまりきかなくなりじたばたしていたが、意見を交わすうちに人の話もよくきけるようになっていた。私らしくいられないところは避けがちだったけれど、このワークショップで自分がそういう空間をつくることを働きかける糸口が少しだけ見つかった。13a学芸員だけでなく、生涯学習や人間関係とかを学ぶことは大切。今まで気づかなかった新しい自分を発見することを期待。相手を正しく理解し、自分の意思で悔いのない自分だけの人生を送る指針になれば。13b博物館は生涯学習そのもの。自分だけでなく、相手もかけがえのない人生を生きている。13c初めは少し抵抗。終えてみるとよかった。自分がどう生きていったらいいのかという迷いが断ち切れた。14aのんびりと暮らしてきたが、思春期を迎えて人生や人間性に興味を持ち始めた。過去の幼い頃の好奇心いっぱいの無邪気で貪欲な学習心をなくした気がした。これを取り戻したい。14b大学時代は、人間存在、なぜ何を学ぶか、社会の不正などの役にも立たないテーマでしゃべりあうことが重要。子ども心を失い、自分らしさを見失う大人にとって。生涯学習は「自分さがし」。14c自己決定はつらく苦しいイメージが濃かったが、肩の荷がおりた。不思議。
a文章表現A、b教師の指導内容、c当該学生の最終文章表現C
15a家族は好きだが、「あの子はこんなことしない」とか、「もちろんあの学校に行く」とか言われたら、自分がとる行動=親の面子になってしまう。実家にいるときはつねに他人の目を気にして「いい子」。将来についてでさえ思うままにしたことはほとんどない。bゲシュタルトの祈り(あなたはあなた、私は私)を紹介。自立とは何だろう。15c疲れた。神経を使う。出会いや対話は楽しかった。おもしろい授業の進め方だったが、先生の言っていることが皆理解できていないことが何回かあった。16a他者の否定というまなざし。一瞬ひるんでしまう。16「ほめてやらねば人は動かじ」という。でも、そういう環境でなかった人はどう生きればよいのか。16cしゃべる人は延々としゃべるし、しゃべらない人はまったくしゃべらない。2日間でのコミュニケーションの飛躍的な上達は難しいが、その糸口を教えてもらった。17a多くの人と語り合うことによって、自分の意見を見直さなきゃと考えだす。自己決定とは矛盾そのもの。17b準拠枠組の説明。他者を理解する、自分を理解してもらうことは、それと深く関わる。17cいやな発表者になったが、終わるとなんともいえない充実感。逃げるのも大切だが、逃げてばっかりじゃだめかな。18a私自身。「でも私には無理だろうな」とか「できなかったとき、自分がつらくなるからやめておこう」などと思う。自分でブレーキをかけてしまうことが問題。b自己決定を邪魔しているものの一番は自分であるとも考えられる。また、自己評価も内なる問題。18cぎこちなさはあったが、ある程度言いたいことが言えるようになった。口に出さないといい意見かどうかわからないし、大切ではなさそうな意見でもみんなが大事にしてくれるので話しやすい。先生に対し、「何言ってんの?」という気持ちがあったが、今では「ああ、そういうことを言ってたんだ」と。
a文章表現B、b教師の指導内容、c当該学生の最終文章表現C
19a基本的に価値観という言葉が嫌い。「価値観の違い」という一言で、何もかもすまされてしまいそう。その言葉は人を理解することを拒否する言い訳のよう。そんな言葉をなくせる人間関係の方法を。19b「価値観の違い」という言葉には、価値観が違うから交流しようというより、自分一人で生きていく、それが自己決定というニュアンスがある。今回は、価値観の違いを楽しく思う体験をする。19c楽しかったといえば楽しかった。一人で考えるのとは異なり、いろんな意見が出てきて、最終的にちゃんとまとめた。むずかしくてやりにくかった部分も。「今、何か、考えがまとまりそう」と思って考えているときに別のことを言われてわからなくなったりした。


抄録和訳
 私は2日間にわたる「生涯学習概論」の授業をワークショップ形式で行なった。その目的は、学生が安心して自己表現ができるようになり、将来にわたって生涯学習やボランティアなどの社会的自己決定活動に関わるという目標をもつことであった。本研究においては、この授業で学生がどのように自己や他者に対する気づきを得たのか、その変容の過程を解明することによって、学生の自己決定能力を高める授業の構成要素とその効果を明らかにすることを目的とした。
 研究の結果、第1は、ワークショップ型授業によって、即自から対自へ、対自から対他者へと学生の気づきが促される過程とともに、対他者から再び対自や即自のより深い気づきへと循環する過程が明らかになった。第2は、学生の自己決定能力の到達段階の把握に基づく戦略的な指導内容と授業構成の必要性が明らかになった。

狛プー個人主義の意味するもの

 狛プー元年間講師(徳島大学大学開放実践センター助教授) 西村美東士

 狛プーのみなさん、元気?
 ぼくのほうは同じペースで楽しくやってるつもりだけど、なぜかフリースペースなどに若者や学生があまり来てくれなくて、ぼくのほうが年なのかなあ、時代から取り残されつつあるのかなあ、などと思ったりしている。
 いま書いている原稿は「個人学習の推進」に関する「1990年代の若者やこどもの『個』の支援−その転換と苦悩 −10年間の青少年問題文献から」で、その柱立てとして、次のように考えている。
(1) 1990年代初頭までの動き −個性重視/生涯学習/生涯教育
(2) 青少年個人の学習が真に自由であるために −教育と学習の乖離/現代的課題/個人主義
(3) 大人の個が問われている −学校週5日制/個の深み/心を育てる
(4) 個は一人で多義的に生きている −自由時間/ソロビバーク/自分さがし
(5) 個は固有の身体を伴って生きている −生きる力/擬似体験/冒険/科学教室
(6) 個は他者の個との関係のなかで生きている −不登校/対話/第4の生活空間/準拠個人/癒しと居場所
(7) 個は共同体のなかで生きている −正統的周辺参加/学社融合/第4の領域
(8) 個は他から承認を受けながら生きていく −自己責任/性の自己決定能力/社会的承認
(9) 個は貢献することにより生きられる −少子化/社会貢献/ボランティア/利他的利己主義
(10) 個性重視からの転換 −自己決定能力獲得の支援へ

 そこで思い出すのはやっぱり狛プーである。狛プーメンバーもぼくが年間講師をやっていたころより先に進んでいるだろうけど。そして、ぼくだって次に進もうと思ってはいる。
 しかし、狛プーのことで新しく思いついたことが「狛プー個人主義」である。人は一人で生きている、という宿命をもっているのではないだろうか。これを集団学習のなかで実現したのが狛プーだったのではないか。
 そして、ときどき、ある個人が生きていることが、ほかの個人にとって、生きている意味そのものになるときがある。それを「意味ある他者」といってよいだろう。これは、いるときには迷惑だったり、うざったかったりするけど、いざその人がいなくなると喪失の淋しさが襲ってくるという、やっかいな代物である。けっして、自分にとって有益だから、役に立つから、という合理的な理由ではない。理由が合理的ではないから、その他者が存在してくれていることのありがたさに気づくのが遅れる。
 単身赴任のぼくのところで1年間暮らしていた一人息子が、きのう東京に帰っていった。ぼくはそれでやっと気づいたのだ、「ありがとう」と。迷惑なんか、もっともっとかけあえばよかった。自立して俺に迷惑をかけないように生きろ? 彼に対するそんなぼくの言葉は、本当のぼくの心ではなかったんだ。自分の本当の気持ちを、今になって気づいた。
 狛プーは個人主義だと思う。けれども、なぜ、それが「癒しの三間」になるのか。それは、たがいに「意味ある他者」(「有益な他者」ではない)として存在しあうことに早くから気づき、自分も相手もとりあえずでも生きているということをいとおしむ風土があったからだと思う。もし、そういう相手が死んでしまったら、その葬式をとても悲しむことができるだろう。さっさと葬式をすませて、早く立ち直って、生き残っている者たちで今までの社会的活動に復帰しよう、なんて考えない。これが個人主義のいいところだ。
 個人主義を徹底しよう。そのことによって、他者の自己の存在のありがたさに早くから気づくことができるし、もっと自己中心的にいえば、何よりも他者と関わって生きていく自分の奥底の気持ちに気づくことができると思うのだ。

 ホームページ http://ha5.seikyou.ne.jp/home/mitochan/

徳島大学大学開放実践センター紀要
 第12巻(2001)


親子関係における気づき過程とその支援
−公開講座による子育て支援の実践−

西村美東士

Process of Awareness in parental relation and its support:
Practice for Supporting Child Care in my Extension Courses

Mitoshi Nishimura

1. 研究の目的
2. 研究の方法
3. 支援内容とによる気づき過程の結果
4. 討論―気づきの支援方法とその効果について
5. 結論

1. 研究の目的

 本研究では、親子関係における親の気づきの諸側面や、それが他の親との学習の中でたどる過程を、教育実践の具体的内容・方法と照合しながら実証的に検討しようとした。そのために、公開講座「子育ての中の交流・コミュニケーション」における学習者の文章表現やワークショップの成果を主として分析した。
 自己の子育てに悩みをもつ親は、問題解決にとってもっとも有効な答や好ましいストーリーを求めて「子育て学習」を行おうとする。そして、他の親との交流や指導者からの支援を得て、多様な気づきを経験する。その気づきが、自分なりの答やストーリーの発見につながると考えられる。
 しかし、気づきとはいっても、本人が「子育ての答」と思ったものが単なる勘違いだったというケースもありうる。あるいは外から与えられる「子育てのストーリー」を鵜呑みにしてしまうなどのケースも考えられる。子育て学習において、親が客観的な妥当性のもとに、主体的に問題解決できるよう、その気づきを支援しなければならない。本研究では、この問題意識のもとに、望ましい気づきを効果的に促す支援のあり方について検討しようとした。
 本研究では、筆者の大学教育学会での研究の成果(1)に基づき、親の気づきの状態を「即自」と「対自」と「対他」に分けた。ここでの自は自己であり、他は他者である。「即自」とは無自覚に主観だけでも認識できる「そのままの自分」である。ただし、「対自」や「対他」から何度も立ち戻った末の深いレベルの「即自」においては、いわゆる自然体の「あるがままの自分」までも想定される。「対自」とは自己を客観的に認識する「もう一人の自分」を想定している。ただし、これにも、表層的な自己否定から深層の自己受容に至るまで、いくつかのレベルが想定される。「対他」とは「自己とは異なる他者の存在」への気づきである。これも自己からの関わり方に数段階のレベルが想定される。
 上記研究ではこのように想定して、ワークショップ型授業によって、即自から対自へ、対自から対他へと学生の気づきが促され、対他から再び対自や即自のより深い気づきへと循環する過程を検証した。
 そこで、本研究ではその成果をさらに進め、次の仮説を設定した。[学習集団に受容的雰囲気が形成され、互いに安心して自己開示を交換することによって、対自・対他の気づきが促される]ということである。このような相互受容体験は、互いの差異を認めつつ共感や信頼を深めることになるので、親としての自己確立に資すると思われる。
 本研究の目的の第1は、学習者としての親が、講座のどの場面でどのように即自、対自、対他の気づきを得てゆくか、その過程を解明することである。第2は、気づきが子育ての悩みの主体的な解決の展望につながらない場合の阻害要因を見出すことである。第3は、主体的解決につながる気づきを促進する支援内容、支援方法、集団内関係の構成要素を導き出し、今後の子育て学習支援の課題を明らかにすることである。

2. 研究の方法

 研究対象とした講座は、2000年度徳島大学大学開放実践センター公開講座「子育ての中の交流・コミュニケーション」である。小学校・中学校在学の子どもをもつ母親に対して、春期と冬期に週1回、1.5〜2時間、6週にわたって実施した。主として検討した春期講座は、5月16日〜6月20日に実施した。受講者は5名である。
 この講座の目的は次のとおりである。子育て問題の解決のためには、親自身が自他への信頼感や共感をとりもどすことが必要である。本講座では、主として小学校・中学校在学の子どもをもつ親同士で、子育てをしているときのうれしいことや悩んでいることなどの体験を交流した。学習方法は、ワークショップを取り入れ、受容的雰囲気のなかで安心して交流できるように配慮した。
 この他に、春期・冬期それぞれの受講者がその後も自主的に交流を続け、そのなかからパソコンを習いたいという希望が出されたため、冬期に「子育て交流のためのパソコン入門」を実施した。
 本研究は、春期講座を中心に分析した。春期講座は表1のとおり進行させた。

表1 各回の活動内容と支援のねらい
回 活動内容 分 気づき支援のねらい
1 1  講師からの一方向の説明
 1-5(振り返り)のシステムについて 15 「自己決定で書くこと」の意義に気づく。「答を聞く」ではなく、「自ら表現する」意欲をもつ。
2  講師指示型の個人による文章表現ワーク
 「心配なこと・聞いておきたいこと」
 文章表現1-@回収 5 今の気持ちを匿名で自由にカードに記入することにより、自らの今の不安や期待を確認する。
3  講師対学習者の1対nの講義型対話
 カード記入を介した講師との一問一答 20 受講仲間の考えていることを知る。一人一人の思いに講師が応えることにより、受講当初の不安を解消し、今後の受講に期待感をもつ。
4  講師主導型のn対nの出会いワーク
 「第一印象ゲーム」 45 他者の異質性と出会うことにより、共感を体験する。他者から見られる存在としての自己に気づく。
5  個人文章表現による振り返り
 文章表現1-A回収 5 「個人が自己管理のもと、どんなことでも自由に書くこと」により、自己内での気づきを振り返る。
2 1  1−Aの講師による読み上げと応答 20 異なる他者の存在に気づく。他者固有の関心が自己の関心にもつながることに気づく。
2  個人による文章表現ワーク
 「子育て中の母親にとっての就労・社会参加」 10 一人の学習者からの求めに応じて実施。自分が働く理由、働かない理由にあらためて気づく。
3  学習者個人からの1対nの口頭表現とn対nの交流ワーク(話し合い学習)
 文章表現2-@回収 30 他の母親にとっての子育てと就労の関係を知ることによって、子育てが自己と社会との関係性のなかで行われていることに気づく。
4  講師主導型のn対nの共感ワーク
 「幸せの瞬間」
−「みんな違ってみんないい」を実感 55 幸福追求に関する価値観の違いを越えて共感できることに気づく。幸福に関する自己の準拠枠組の変容に気づく。両面価値を受容できるようになる。
5  個人文章表現による振り返り
 文章表現2-A回収 5 1-5と同じ
3 1  2−Aの読み上げ・応答 20 2-1と同じ
2  偶発的交流
 −買い物の楽しみと罪悪感 20 席上で表明された学習者の関心に応え、「稼いでいない妻」としての知恵を交流する。
3  学習者個人による絵画表現と1対nの口頭発表
 絵画表現ワーク「子育ての楽しみ」 20 子育てにおいて楽しかった一コマを絵で表現することにより、自己がもっている子育てのイメージに気づく。
4  学習者個人による文章表現ワーク 20 自分の描いた絵を文章で説明することにより、自己の子育てイメージを言語化する。
5  学習者個人からの1対nの口頭表現
 WS口頭説明「子育ての楽しみ」
 文章表現3-@回収 35 自己の描いた絵を他者に口頭で説明しあうすることにより、たがいの自己表現を支えあう風土の重要性に気づく。
6  個人文章表現による振り返り
 文章表現3-A回収 5 1-5と同じ
4 1  3−Aの読み上げ・応答 20 2-1と同じ
2  導入(講師による一方向の講義)
 自己表現による気づきの意義 20 なやみを話すことが、自分が本当に問題にしていることの気づきにつながることを理解する。
3  個人による文章表現ワーク
 カード記入「子育てのなやみ」 10 なやみを言語化することにより、自分の子育てを客観的に表現する。対自の気づきを深める。
4  カード式発想法「子育てのなやみ」
 学習者間n対nの交流
 発想法成果4-@回収 45 他者の1枚1枚の「子育てのなやみ」のカードをよく吟味しあう。交流による自他受容体験をもつ。
5  個人文章表現による振り返り
 文章表現4-A回収 5 1-5と同じ
5 1  4−Aの読み上げ・応答 20 2-1と同じ
2  カード式発想法「子育てのなやみ」
 学習者間n対nの交流
 発想法成果5-@回収 155 ワークのなかで気づいた自己の「子育てのなやみ」を随時追加することによって、交流を深める。
3  個人文章表現による振り返り
 文章表現5-A回収 5 1-5と同じ
6 1  5−Aの読み上げ・応答 20 2-1と同じ
2  カード式発想法「期待と実像」
 講師対学習者集団の1対nの交流
 発想法成果6-@回収 95 4-4と5-2で得た気づきを、子どもや夫の実像から整理しなおすことによって、個々の状況に応じた気づきを深める。
3  個人文章表現による振り返り
 文章表現6-A回収 5 1-5と同じ

 分析は、@個人による文章表現ワークの成果、Aワークショップの成果、B各回終了時の個人による振り返りの文章を対象にして行なった。他に、C受講者1名に対する面接調査を行った。
 個人による文章表現ワークの成果の分析は次のように行なった。1-2終了時に文章表現1-@「心配なこと・聞いておきたいこと」、2-3終了時に2-@「自己の就労状況」、3-5終了時に3-@「絵画表現『子育ての楽しみ』説明」を、それぞれA6版1枚に記述したものを回収した。この内容を全体的傾向、個人別把握の両面から分析した。
 ワークショップ(WS)の成果の分析は次のように行なった。1-4の「第一印象ゲーム」(メモ)(2)、2-4のWS「幸せの瞬間」(図解)(3)、4-4、5-2のカード式発想法「子育てのなやみ」(図解)、6-2のカード式発想法「子育てのなやみ=期待と実像」(図解)を、各回終了後に表にまとめ直して内容を検討した。
 各回終了時の個人による振り返りの文章の分析は次のように行なった。毎回、終了時に、「どんなことでも自由に書く」という指示の上で、A6版1枚を配布し、記入後回収した。この内容を当日のWSとの関連の面から分析した。
 受講者1名に対する面接調査は次のように行った。2001年5月、現在も他の受講者と自主的に交流を続けている人1名に30分程度の面接調査を行った。会話形式で自由にしゃべってもらい、これを録音して発言のとおり文書化した(面1「当時の受講の様子」、面2「現在考える受講の意義」)。この資料を分析して、受講当時の戸惑い及びその後の自主的交流による気づきについて検討した。
 この他に、冬期講座6回のWS成果と個人の文章、パソコン講座6回の個人別発信内容を集約し、春期講座の検討に必要な部分を抜粋して比較分析した。

3. 支援内容による気づき過程の結果

3-1. 社会的気づきの促進期

 第1回はテーマを「出会いのワークショップ=本当の私と本当のあなたが出会う方法」とし、次のねらいで実施した。@初めて出会う受講者同士が知り合い、安心して話し合える雰囲気をつくる。A受講者同士がたがいに関心を持ち合う。B他者との出会いについて、日常の出会いの問題点に気づき、望ましいあり方を考える。
 1-@では、「ワークショップって何?」、「受講による自分自身の変化が楽しみ」、「どんな技法を使うか」、「話したことは、どこまで秘密か」、「自分にも子どもにも自信と気持ちの安定をもちたい」、「子どもに自信をつけるためには、私自身が子どもにかまいすぎる。どうしたものか」などが出された。延べ数は知識1、技能1、態度4である。
 これに対して、講師は、受動的学習方法の打破、「真実」との臨床的出会い、自己受容による自己変容、態度変容、エンカウンターグループの「文化的孤島」としての意味、本人の意思表明の尊重、「自他への信頼」と生産的構え、「かまってもらうこと」としてのストロークのあり方などについて紹介した。項目としては「態度」だが、それに関する「知識」を答えたといえる。また、1-3のまとめとして、童謡詩人金子みすゞの詩から「みんな違ってみんないい」という言葉を紹介した。
図1
1-A分析結果
社会的 B
C
D
E A
B
C
E 客体
個別的 A D 主体
 1-3で、講師は「態度」に関する「知識」を中心に回答した。しかし、第1回の終了時に記入した1-Aにはこれらに関する記述がない。
 1-4では、『第一印象ゲーム』(坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』日本生産性本部,1989)を行った。堅苦しい自己紹介の代わりに、自分は第一印象でどのように見られているか、他人に対する自分の第一印象はどのぐらい当たっているか、テストした。そのあと、それぞれの人が正解(自分の好み)を発表した。笑いの絶えないワークのなかで、「同感はしなくても、共感はできる」という体験をした。
 本ワークの終了後、講師は、「このゲームをしているときの気持ちのいい笑いの正体は何なのか」と発問し、各自の思考を促した。これは「信頼と共感」の心地よさについて気づいてもらおうとしたからである。
 1-5では別表1-1の結果を得た。1-4のゲームについての感想が多かった。そこに表れた気づき過程を分析し、その結果を図1に示した。キーワードとして、即自では「楽しい・面白い」3件、即自−対他の連動では「緊張せず思いを言葉に出す」「気持ちが自然に出てくるよう」2件、対他では「今までと違った自分表現」「皆の話楽しみ」2件がカウントできる。対自は、「頭をからっぽにして自分を信じるようになりたい」の1件である。

3-2. 気づきの深化・個別化期

 第2回はテーマを「共感のワークショップ=『みんな違ってみんないい』を実感」とし、次のねらいで実施した。@一受講者のリクエストに応え、受講者同士の就労の状況等を把握しあう。A他者に対する共感的理解の可能性を実感する。B異質の他者への共感的理解により、自己の枠組変容をもたらす学びの意義に気づく。
 2-1では、本講座での交流のあり方について主に態度の側面から述べた後、その象徴として、前回取り上げた金子みすゞ「みんなちがってみんないい」の詩全文を紹介した。
 2-2では、前回の1-Aの一個人のリクエストに応え、各人が自己の就労状況をまとめた。その結果は次のとおりである。
 仕事をしている者は「留守がちであることがストレス」、かといって「開業手伝いでは社会参加の実感が得られない」、していない者は「家族に迷惑をかけないように働きたい」、「自分の世界をもつという意味で働きたい」とした。「この子は私が育てた、ということに喜びを感じていた」などの自己開示は、次の2-3での交流のなかで行われた。
 2-3では口頭発表の後、n対nの交流が行われた。そこでは次のことが話し合われた。@結婚退職・出産退職の現状。A自分の居場所・自分の世界としての労働。B自分の時間がほしい。C子育てのなかのリフレッシュが必要だが、そのための一時保育などは世間から「ぜいたく」といわれる。そのとき、「もうなれた」「私の人生なのだから」と言えるうたれ強い人と、言えないうたれ弱い人がいる。
 2-4は、ブレーンストーミングの精神に基づき、各人の「幸せの瞬間」のカードをKJ法のやり方を応用してまとめる「カード式発想法」である。
 ブレーンストーミングの批判禁止、自由奔放、質より量、結合便乗のルールは、安心して「自分らしさ」を出すために有効と考えた。これを、理性よりもそのカードのもつ情念を大切にするKJ法に基づいて、グループ分けや表札作りを行ってみせた。KJ法は、自他の感情を的確に理解し、端的な言葉で表現するために有効と考えた(4)。
 ワークでは、1枚1枚のカードを書いた本人によって読み上げてもらい、それをもとに会話を進め、受講者同士が共感できるようにした。そして、講師主導型で、受講者にもアイデアを出してもらいながらグルーピングと表札作りを行い、別表2の成果を得た。
図2
2-A分析結果
社会的 →C
→E →B
↑D
→E 客体
個別的 →A
↓B
↓D ↓A
↓C 主体
 ワークで受講者は、最初は「飲食関係」など、理性が勝る分け方をしようとした。しかし、講師としては、1枚1枚のカードを書いた本人がその気持ちについて話すのをもっと聴こうとし、理解するよう促した。講師も、表札を決めるに当たって、最終的には書いた本人の気持ちに従った。結果としては、「ひとりでいるときの幸せ」(8件)が「家族といるときの幸せ」(8件)に匹敵している。
 2-5では別表1-2の結果を得た。その分析結果を図2に示した。矢印は気づきの種別の前回からの変化を表している。
 第3回はテーマを「子育ての楽しみ=ほかの親の楽しみに共感し、自分の楽しみとする」とし、次のねらいで実施した。@他の親の子育ての楽しみに共感することによって、新しい楽しみを見出す。A絵画表現をとおして、自己の子育てイメージを焦点化する。B文章表現をとおして、自己の子育てイメージを言語化する。
 3-1において、前回2-Aの「一つだけ、『それが私にはストレスになる』と思うものもあり、おもしろかった」をとりあげ、書いた本人に何のことか質問し、「自分のことだけ考えていてよい=自分の服をあれこれ迷いながら買い物しているとき」についてだという返答を得た。「主人の稼いだ金で買うことへの罪悪感」が理由という。
 これについて他の受講者のあいだに共感と違和感の両方が入り混じり、偶発的に話が盛り上がった。3-2において、即自−対夫としては「買い物でストレス解消して、きれいでいてあげるのが主人にとっても幸せ」、対自−対夫では「妻に我慢されて裏で不満に思われることよりも、妻から『ありがとう』といわれることのほうが夫もうれしいのではないか」という発言があり、合意された。
 3-3では、子育てにおいて楽しかったひとこまを各自、絵にして発表した。「絵が下手なので恥ずかしい」という人もいたが、講師も含めて全員が絵を発表した。落ち着いた受容的な雰囲気で交流を行った。
図3
3-A分析結果
社会的 ↑A
→C
→E →B
↑C
→D
→E 客体
個別的 →B
→D →A 主体
 3-4では、一人一人に発表した絵についての説明文を作ってもらった。その結果は別表3のとおりである。
 この結果から、家庭内で家族がともにしているときの情景や、子どもとの双方向的な場面、子どもの表情などが文章表現されたことがわかる。
 3-6では別表1-3の結果を得た。B「子どもを追いつめたり比較したりすることがとてもいけないことだと十分わかっているのに改まらない」、D「家に帰ったらそういうことも忘れて、また、子どもを怒っていると思う」の2件を重視する必要があろう。対自の重要な気づきであると同時に、解決の展望が見えない状態を表している。その分析結果を図3に示した。

3-3. 客体的理解から主体的理解への移行期

 第4回はテーマを「子育てのなやみ=『なんだ、自分だけではないんだ』と気づく」とし、次のねらいで実施した。@「なやみを表現することによって自分に気づくこと」に気づく。A文章表現をとおして、自己の子育てのなやみを言語化する。Bカード式発想法をとおして、自他の一つ一つの表現を大切に受けとめる。
 4-1での講師との雑談のなかで、次のように受講者同士の自主的な交流が進められていることがわかった。講座終了後のセンターのロビーでのおしゃべり、フィットネスルームの利用、学外のダンス教室への参加。そこで、センターとしてもロビーでの活用や、講座終了後の自主的つながりにおけるセンター教官の支援など、積極的に応援する方針であることを説明した。
 4-2では、今回のテーマ「子育てのなやみ」に関して、書いたり、発表したりして自己表現することの意義を次のように説明した。
図4
4-A分析結果
社会的 →A
→C
→E ↑A 客体
個別的 ↓A
→B
→D ↓B
↓C
↓D
↓E 主体
 先日の新聞の人生相談で、子どものいない女性から「世間の人から『お子さんは何人?』などと聞かれていつも傷ついている。夫も不妊症の検査などに協力してくれない」という訴えがあり、回答者のカウンセラーが、「世間の人はじつはそのことに関心をもって聞いているわけではない。自分だったら、そんなことは聞かないけれど。それより、あなたが本当に傷ついているのは、世間の人からの言葉ではなく、夫の非協力的な態度なのではないか」と答えていた。
 このように紹介したうえで、講師は、「自分の悩みを言葉に表現するということは、今自分が本当に悩んでいることは何なのかを気づくことにもつながるのではないか。それに気づけば、問題解決にもつながるのではないか」と説明した。
 4-4では、自主的な交流による学習集団内の支持的風土に基づき、n対nのワークショップを行い、講師主導型で表札をつけた。図解作成は次回に継続することとした。
 4-5では、別表1-4の結果を得た。その分析結果を図4に示した。なお、Aについては今回のみ「社会的」「個別的」の両方に分別した。
 第5回はテーマを「子育ての知恵=自分の本当の気持ちに気づき、相手を受け入れる」とし、次のねらいで実施した。@カード式発想法をとおして、子育ての知恵を出し合う。A他者への共感と受容をとおして、問題解決の方策を見出す。B他者の子育てに関するストーリーを知ることによって、自己のストーリーを修正する。
 5-1では、4-A個人振り返りに表れた個別化、多様化に基づき、「子どもをどうとらえているか。どうあってほしいか」について、より深く自己をとらえることの意義を説明した。そのため、論理療法のABC理論による「信念」のとらえ方を紹介し、自己開示により自らの「背後の思い」に気づくことの重要性を説明した。
 5-2では、受講者の了解を得て、全体で2時間半のワークを行なった。前回のものとあわせて、別表4の成果を得た。
図5
5-A分析結果
社会的 →A
↑B
→C
→E ↑C
↑D
↑E 客体
個別的 →D ↓A
→B
→C 主体
 5-2のワークにおいては、講師は「ぐうたらすることは、どうして悪いことなのか」、「不透明の時代にどう野心をもてというのか」、「無気力になることも本人の自己保存かも」などの問いかけと、「上手な質問のコツ」、「さわやかな自己主張の方法」など知識レベルの紹介を行った。
 5-3では、別表1-5の結果を得た。その分析結果を図5に示した。
 第6回はテーマを「子育ての悩み=期待と実像」とし、次のねらいで実施した。@自分が理想とする「子ども像」「夫像」に気づく。A各人の家族環境の現実に応じた子どもや夫の実像に気づく。B家族への期待と実像のギャップを埋めるストーリーを各人なりに生み出す。
図6
6-A分析結果
社会的 →C
→E 客体
個別的 ↓A
↓B
→D →A
→B
↓C
↓D
↓E 主体
 4-4と5-2の成果(後述)を考慮し、予定されたテーマ「子育てが楽しい社会とは−子育て支援のあり方を社会に提案する」を「子育ての悩み=期待と実像」に変更して実施した。これは、そのまま前回のテーマ「子育ての知恵」につながり、また、「子育てが楽しい社会とは」にリアルな示唆を与えるものと考えた。
 6-1では、「あなたはあなた、私は私」という出会いの本質を歌った「ゲシュタルトの祈り」(パールズ)を紹介し、6-2への導入とした。
 6-2では、新たな発言も取り入れながら、今までの一人一人の発言を、母親が期待していた「子ども像」と子どもの実像、母親が期待していた「夫(父親)像」と夫の実像、母親がなりたかった「自分(母親)像」と自分の実像に分類・整理した。今回は講師が学習者集団に対して問いかけながら進行し、別表5の成果を得た。
 6-3では表1-6の結果を得た。その分析結果を図6に示した。

4. 討論―気づきの支援方法とその効果について

4-1. 講師対学習者の講義型対話の効果

 1-Aの結果から、講師からの「知識」中心の話は対他体験と比べて、印象が薄かったと推察される。
冬第4回のカード式発想法「子育てのなやみ」では、講師が自らの抱える子育ての悩みから始めたところ、受講者から「悩みはなかなか次々出てくるものではないですが、先生がはじめに口火を切ってくださったので、話しやすかったです」という文章表現を得ている。講師対学習者の1対nの交流においても、知識中心より体験談中心のほうが、安心感や親密感のためには有効だと考えられる。
 ただ、「先生から知識的なことを言っていただいたおかげで、紹介していただいた本を読んでみようかな、とかなりましたし、私にはすごくよかった」という回答も得た(面-2)。講座で話された知識がそのまま気づきにつながるというよりも、知識獲得の動機付けとして有効であったといえる。
 2回目からは、最初に、前回の終わりのワーク「個人文章表現による振り返り」の成果を読み上げ、講師からの応答を行った。読み上げのねらいは、「異なる他者の存在に気づく」、「他者固有の関心が自己の関心にもつながることに気づく」である。応答については各回の「講師の応答内容」に掲げたとおり、本講座の進め方等に関する説明、関連する知識の提供、疑問の投げかけの3つが行われた。
 これらがどの程度、気づきの効果を表したかは確かめられなかったが、面-2では、「もう一度先週のことを振り返ることはよかった。そうだ、先週はこんなこと考えていたんだな、とか」という回答を得ている。前回のワークと当日のワークの仲介として有機的に連携できたかどうかが要点であるといえよう。
 その場合、「個人が自己管理のもと、どんなことでも自由に書く」という条件の功罪が問題になろう。この条件により学習者は次の感覚を得ることができると考える。第1には、どんな方向に進むかが予測できない「ライブ感覚」である。第2には、学習者の文章表現が講座で取り上げる題材、内容、方法に影響を与えているという「参与感覚」である。しかし、これらが当日のワークと有機的につながるためには、各回のカリキュラムの妥当性と当日の進行の柔軟性が必要になる。

4-2. 講師指示型の個人表現ワークの効果

 本講座では、講師の指定したテーマと方法による個人表現ワークが繰り返し行われた。
 1-2「心配なこと・聞いておきたいこと」で多くの学習者が、受講による自己の態度変容への期待と関心を示した。本講座の受講者の参加動機は、知識修得や技能向上よりも、態度変容に重きが置かれていたといえる。
 この場合、次の2点の配慮が子育て支援に当たって重要と考えられる。第1は、学習者が現在までの子育ての態度を自己否定するのではなく、むしろ自己受容することによって態度変容に結びつけるよう配慮することである。第2は、学習者の今までの「生きにくい」ストーリーに代わる新しいストーリーを「与える」のではなく、支援者が学習者の今のストーリーを明らかにしながら進行することによって、学習者自らがストーリーを必要に応じて修正するよう配慮することである。態度変容に対する有効な支援のためには、この受容性と主体性の点検が必要といえよう。
 2-2文章表現ワーク「子育て中の母親にとっての就労・社会参加」では、仕事をしている人もしていない人も、「社会参加をしているという実感をもちたい」、「自分の世界をもちたい」という仕事への即自的欲求と、「子どもや家族に迷惑をかけたくない」という対他(家族)の配慮とのジレンマを表現している。「この子は私が育てた、ということに喜びを感じていた」という対自の気づきとその開示や、結婚や出産で女が退職する社会的現状への気づきは、次の2-3での交流を通じて行われた。
 このことは次のようにとらえられる。交流を経る前の個人文章表現では、即自と対他(家族)が矛盾する自己の現状を再確認する段階にとどまった。次に、口頭表現と交流をとおして、学習仲間が同じ問題を抱え、同様の感じ方をしているということに気づき、励まされることによって、次の段階へと思考を発展させることができた。すなわち、最初の個人文章表現ワークは「自分が『思っている』と前から思っていること」を表現したにすぎなかったが、対他の気づきを経て、対自(自己の気負い)や対社会(女性の社会的現状)の気づきに発展したといえる。
 3-3の絵画表現「子育ての楽しみ」と口頭発表を経た3-4の文章表現では、普段は言語化することの少ない個々人の「家族イメージ」が文章表現された。これは上に述べた口頭表現と交流の効果とともに、絵画表現のもつ特殊な効果により、個々のイメージに焦点が当てられたからだと思われる。
 池見陽は「フォーカシング」という心理療法について次のように述べている。「自分の内側に感じられる『心の実感』に触れ続け、それが開かれるとき、アタマの知識を超える知恵が現れてくる。心理療法では、このようなプロセス、つまり実感からの発見や気づきがあるからこそ、成長や創造的な問題解決が可能なのである」(5)。
 ここで『心の実感』は「フェルト・センス」と呼ばれる。池見は、絵画を用いての集団でのフォーカシングに触れ、個人的変化を促進する「心の構え」として、「具体性」「間」「優しさ」の3つを挙げている(6)。
 3-3→3-4の結果からは、家族・子育てイメージの絵画化、文章化という面では「具体性」、1対nの口頭説明による相互受容という面では「優しさ」の両者について、一定の効果をあげたといえよう。相互受容については、3-Aでは、全員が受容に関連することを書いている。これらは、絵画表現によって、イメージや実感を伴なった共感→受容という対他の気づきが行われたことを示している。
 しかし、一方で、B「(共感したにもかかわらず)子どもを追いつめたり比較したりすることがとてもいけないことだと十分わかっているのに改まらない」、D「家に帰ったらそういうことも忘れて、また、子どもを怒っていると思う」の2件は、上述の気づきが対自の気づきを深めることとともに、それだけでは主体的な問題解決の展望にまでは至らないことを表している。
 これは、第1には、「同感」や「共通している」という対他の気づきが対自の気づきを促したが、それがふたたび「異なる他者の内面」という対他の気づきに還流しなかったからだと考えられる。態度変容にまで至るためには、即自・対自・対他の気づきの往復が必要といえよう。
 4-Aでは、3-A-Dについて「私もついこのあいだまでしていた。とてもよくわかる」としながらも、「でも最近は、宝物ではなく、神様からの預かり物かなと思うようになり、ふとさびしく思ったり、せつなくなったりする」と述べている。これらの学習仲間同士の実感の「差異」がスムーズに交流されるよう留意する必要があった。
 第2には、自己否定から自己受容への態度変容が伴わなかったからだと考えられる。
 池見は「間をおく」ことについて次のように説明している。「気になる事柄や状況が浮かんできたら、それに伴っている実感に触れ、その実感のもつ『質』をクレヨンで画用紙に描いてみるのである。何色のモヤモヤ? どんな形で表現するとピッタリ? 参加者は時間をかけて、丁寧に、内面に感じられる気がかりの実感を絵に表現し始めた」。その絵を楽になれる場所に置くことが、「間を置く」である。気がかりな状況や事柄から「間をおく」のではなく、それらの事柄に伴う「実感」から「間をおく」ことが重要である。そのことにより、「自分で自分を肯定できるようになる」という。
 本講座のワークでは、絵画表現とその交流によって一定程度、実感レベルの気づきに至ることはできたが、次にその自らの実感とは間をおいて自己洞察を深めることができなかったため、より深い受容にまで至ることが難しかったといえる。
 「子育ての楽しみ」の文章表現に表れた「子育ての気がかり」を拾い上げて学習集団にフィードバックし、そこで自己の否定的側面を他者から受容される体験を経て、さらには個人がワークに追いまわされずに自己の実感を「間をおいて」振り返る対自の時間を設定することが必要だったと考える。このような個々人の気づきの諸側面に合わせた支援が、受容をより深いものにすると考えられる。

4-3. 学習者間の相互関与を主眼とするワークショップの効果

4-3-1. 出会いワークの効果
 1-4「第一印象ゲーム」のキーワード分析の結果からは、安心感と期待感はほぼ得ることができたといえよう。しかし、本ワークのもう一方のねらいであった他者に共感する自己や、自己とは異なる他者の存在への自覚的な気づきにはあまり触れられていない。このことから、「自己紹介(見知らぬ他者との交流)は緊張するもの」という固定概念については容易に揺さぶり機能を発揮することができたが、気づきとしては即自にとどまることが多く、対他の気づきも即自的な安心や期待に類するものであったといえる。
 しかし、「頭をからっぽに」という対自の気づきに関しては、個人差の表れと見ることができる。これをWSのなかで学習者集団にフィードバックして検討する機会を与えることによって、各人の気づきをもっと深めることができたと考えられる。

4-3-2. 話し合い学習の効果
 2-3「子育て中の母親にとっての就労・社会参加」では、2-2において文章表現されたジレンマが、各人の自己開示をとおして明らかになった。この即自と対他との矛盾は、メンバーの価値観の相違を越えて共通することが確認された。しかし、「母親が働くことによる家族の幸福保証」という社会参加のもつ対他の積極的側面については、経済的理由以上のものには深まらなかった。
 社会参加が即自に与えるよい影響を確認することはできたが、自己の子育てを、自己と社会との関係性のなかで行われているものとしてとらえるまでには至らなかったといえる。そのため、問題が、「うたれ強い」「うたれ弱い」という個人差に解消されてしまった。これは、ジレンマの共通性が強調されすぎて、主体ごとの異質性を追求する観点が甘くなってしまったからだとも考えられる。

4-3-3. 共感ワークの効果
 2-4「幸せの瞬間」の結果を、前掲表1に示したねらいと対照させて考察すると、次のことが指摘できる。
@ 他者の異なる価値観への共感可能性の気づき
 一般的には、価値観が同じものに対してのみ共感できるという思い込みが強い。これに対して、本ワークによって、「幸せ」という異なる価値観に基づくテーマでも共感しあうことができたといえる。これまでのワークをとおして受容的雰囲気が形成されつつあったことも、その要因の一つとして指摘できる。
A 幸福に関する自己の準拠枠組の変容への気づき
 思考や認識の自己の枠組の変容のないままの学習は、学習とはいえない。本ワークでとりあげた「幸福感」は不確かなことがらではあるが、ワークをとおして「きのうまでの自分の幸せの枠組が、少しではあるが、確かに形を変え、拡大した」という実感をもつことをねらいとした。
 しかし、ワークがそういう効果をもつためには、「他者の話にあれこれ考えているあいだに、次の方や先生の話になる」(2-A)というケースへの対応が必要であった。個人ごとの関心やペースに基づいて自己の変容を振り返り、気づきを深めることのできる対自の個人ワークを、意図的、計画的に組み込むことが重要と考えられる。
B アンビバレンツ(両面価値)の受容
 「家族といるとき」に幸せと感じるべきで、「一人でいるとき」に幸せと感じる自分は問題がある、というような偏狭な二項対立は本人自身も苦しめることになる。ワークでは、他者の「幸せの瞬間」に共感するによって、アンビバレンツな自己の価値観にも気づき、さらにはこれを受容するよう促そうとした。
 結果としては、対家族(家族といるとき)と即自(一人でいるとき)とが両立する成果が導き出され、そのねらいを一通りは達成することができたといえる。これは、「ほかの人も同じなのだ」という対他における「共通性」への気づきによって、一定の自己受容の効果があり、その成果を増幅したと考えられる。
 しかし、ここで、「一つだけ、『それが私にはストレスになる』と思うものもあり、おもしろかった」という表現に注目する必要がある。このような対他における「差異性」の気づきは、自他のアンビバレンツの受容の重要な契機になると考えられる。
 ブレーンストーミングの「批判禁止」のルールに基づくとすれば、「結合便乗」の提案をするということになるだろう。だが、対他をとおした対自の気づきの深まりのためには、そのルールを越えて「語り込み」が行われるよう配慮する必要があるといえる。「他者の話にあれこれ考えているあいだに」の問題についても、ワークの個別化とともに、差異性を積極的に浮き彫りにすることが有効であると考えられる。とくに成人学習の場合、ルールの遵守や時間進行への協力の意識が強いと思われるので、注意が必要といえる。

4-3-4. 「子育てのなやみ」を話し合うカード式発想法の効果
 4-4「子育てのなやみ」では、4-Aの結果から、今回の学習内容・方法および自主的交流の両面の理由から共同性が高まっているにも関わらず、本人自身が重要な気づきとしてとらえるものは、個別化、多様化している傾向が指摘できる。その諸側面の要素としては、即自(「おもしろい」)、自己開示(「外に出せた」)、自己反省(「まず自分が」)、相手の成長と自分(「神様からの預かり物」)、生き方のコツ(「やってみなければわからない」)等が指摘できる。これらは、気づきの段階の差異だけでなく、方向も拡散していることを表している。これらの差異を、安易に共通性に依拠することなく、どう組織化するかという検討が求められる。
 「『なんだ、自分だけではないんだ』と気づく」というねらいは、Aの「子育ての悩みはどの方の話も共感できるものがあり、自分だけじゃないと思え、少し肩の荷が軽くなったような気がする」という言葉どおり、容易に達成できる気づきであった。計画的な気づき支援においては、むしろ上の差異性に注目し、これを明確化して、その上での「自他受容」をねらいとすることが求められると考えられる。
 5-2「子育てのなやみ」では、5-@の成果から、4-4と比較して気づきが深化していることが読み取れる。これは、5-2においては随時、文章や口頭でのカードを追加することにより、他者との受容や相互関与が深まったからだと考えられる。深化の特徴としては、第1には対子どもをとおして対自の気づきに戻っていること、第2には子どもだけではなく、夫を含めた家族全体の関係性に目が向き始めたことが指摘できる。
 しかし、5-Aの結果からは、4-5のときのような個別化、多様化が、再び減じていることがわかる。「自分の悩みを話せたし、聴いてももらえた」という自他受容の効果が顕著といえよう。しかし、Dの「やはり子どもの存在は大きい。将来主人と二人きりになるとき、自分のなかでそれを乗り越えられるかと思うとこわい」という不安は解決していない。また、他の人の「少し気持ちが軽くなった」、「同じような思いを皆がもっていることに安心」、「耳を傾けて聞いてもらえたことで、気持ちがすーっとした」などの表現も考え合わせると、次の傾向が推察される。第1には、「皆も同じ」というピアコンセプトの同質化傾向であり、第2には、日頃は言えなかった悩みを互いに語り合えたことによる一時的なカタルシスとしての傾向である。
 このことから、一定の受容効果は確かめられたと考えてよいだろうが、5-2における気づき支援の課題として次の点が挙げられる。第1に、共通性に偏りがちなときに、4-5について考察したような差異性にいかに引き戻したうえで受容を促すかということである。第2に、悩みの解決の具体的展望を各個人が獲得するために必要な対自の気づきをいかに促すかということである。

4-3-5. 「期待と実像」のギャップに気づくカード式発想法の効果
 6-2「期待と実像」では、6-A(本講座の最終到達段階)の結果から、次のような成果が指摘できる。第1に、無自覚な即自のみの表明はなくなった。第2に、子育てが自分自身の問題であるという対自の気づきを深めた。
 さらには、「自分にもこうありたいという像があり、子どもに対してもこうあってほしいという像があり、私はそのどこからわいたかわからない自分の勝手な像に常に突き動かされていた」、その気づきの上で、「実像に少し近づいていくか、近づいてもらうかによってずいぶん考え方が変わる」とした文章表現も見られた。これは、主観的には現状で両立しているはずの親の即自と対子どもが、客観的・社会的には引き裂かれがちな現代社会において、あるがままの事実を受け入れる深い受容をとおして引き裂かれずに親子関係をともに育むために欠かせない主体的な気づきといえる。
 このワークでは、講師が意図的に問いかけを行いながら、学習者にカードを追加記入してもらい、講師主導で整理の合意を形成しようとした。この積極的介入の意図は「期待と実像のギャップに気づく」ということであった。
 そのため、「私も普通の人なんだと思い切ることのできない自分がある」や、「自分が本当に考えていることがかえってうまくまとまらなくなってきた」などの「消化不良」も表明されたといえる。
 これに対して、冬の講座では「個々の悩みの解決までなかなかまとめきれなかったですが、大きな悩みに対する解決方法がみえたように思います。まとめきれなかったのでまとめてきていいですか」という文章表現があったため、講師はこれを支持し、次回には、数人の有志でまとめてきた成果を、当該発言者が中心になって説明した。講師主導型に対する学習者参画型であり、講師は主に評価機能(受容)を発揮した。
 その成果をすべて紹介する紙面はないが、「ありのままの自分を受け入れる」、「安心して本音を話せる人や場がある」、「何でも許せる親子関係を作る」、「人間なのだから両面価値を持って当然」、「理想を追い求めすぎない」、「その土地のマイナス面を見がちだが、プラスの面を見るようにする」などの解決方法がまとめられている。その特徴としては、第1に受容の精神に貫かれていること、第2に即自と対他・対家族の関係の楽観視、第3に実際的な展望が示されていることが指摘できる。
 冬の講座では当初からメンバー間の自己開示が進んだ。そのため、「今まで目を背けたがっていた自分に気がついた。いっしょに考えられる仲間がいたからこそ、勇気を出して悩みと向き合えたのだと思う。また泣いてしまった。あまり人に話さず、飲み込みつづけてきたものが、ここに出ているのか」という文章表現を得ている(第5回)。
 このような冬の講座の成果は、講師が当初から形成され始めたメンバー間の支持的風土を考慮して、学習者に対する受容機能や、学習者間の相互受容支援機能を中心に発揮したことが主な要因と考えられる。
 春の講座6-2における「消化不良」の表明は、これと対照的である。そこでは、講師主導型で期待と実像のギャップをあからさまにされた。そのため、「わからないことに気づかされてしまった」といえる。しかし、同時に、その「消化不良」の前者の表明者は「みんなと一緒とか、普通って、本当はどんなことなのか」、後者は「子育てとは自分の内面を今までとは違った角度で考えることなのかとも思う」としている。これは、対他、対自の気づきの深まりとしてとらえられる。

4-4. 偶発的交流の効果に関する考察

 3-2偶発的交流「買い物の楽しみと罪悪感」は、講師も何のことかはわからなかった「ストレス」をテーマに展開した。そのため、知恵の交流があることは予想できても、初めから気づきのねらいなどがあったわけではない。しかし、少なくとも夫という他者への気づきに関しては、即自や対自の気づきと循環しながら統合的に進められたといえる。
 しかし、家族以外の社会のなかでの「稼いでいない妻」としての自己の位置づけにまで気づきが広がることはなかった。講師としては、家事・育児の経済的価値の算出の動向等については情報提供はしたが、そのような知識だけでは、ここで取り上げた「ストレス」の訴えには応えられなかったと考えられる。
 冬のパソコン講座では、電子メールや電子掲示板システムを利用した交流であったため、その偶発性の要素が特段に強まった。文字入力の不慣れにより発信回数が少ないなか、「一人っ子ではかわいそう」と周りの人にいわれるという母親の悩みに関するレスポンスが第1回から4回まで大きな比重を占めた。また、最終回の文章表現でも、「素晴らしいパソコンの世界を垣間見ることができ」、「生まれて初めてこの様なパソコンに接する機会がもてて」、「毎週大学生になった様でとても嬉しかった」、「パソコンを買ったあと、すぐにメールが使えるようになれるといいな」、「パソコンを使っていろんな方と交流ができれば素晴らしい」、「最後までパソコンに振り回されていた」、「まだメール友達も少なく、メールの全く来ない日もあり寂しいかぎり」と7人全員がパソコン操作を中心とした記述を行っている。
 偶発的交流を進める場合、先に述べた「個人文章表現による振り返り」の成果の読み上げ・応答以上に、講師の機能が問われると考えられる。そこでは、「ライブ感覚」や「参与感覚」を損なわずにいかにして意図的な機能を発揮するかが要点になるといえる。

図7 各人の各回振り返りの文章表現に表れた気づき過程
(数字は回)
人 1 2 3 4 5 6 1 2 3 4 5 6
A 社会的



客体 ○




個別的 ○
○ ○ ○ 主体 ○
○ ○

B 社会的 ○


客体 ○




個別的 ○

○ ○ 主体 ○


C 社会的 ○




○ 客体 ○




個別的 主体 ○ ○


D 社会的 ○
客体




個別的 ○



○ 主体 ○ ○ ○
E 社会的 ○
○ ○ ○ ○ ○ 客体 ○




個別的 主体 ○ ○
4-5. 気づき過程の往復とその支援

 各回の個人振り返りの文章表現の分析結果を集約して検討し、その結果を図7に示した。社会的/個別的については個人によっては固定化傾向を破れないケースが見出された。しかし、客体としての気づきと主体としての気づきについては、往復しながら主体としての気づきを深めていく過程が明らかになった。
 さらに、気づき支援の分析をとおして、次の「往復」の効果が認められたと考える。
 第1に、気づきの過程において、「悩んでいるのは私だけではない」、「皆が同じ思いをもっている」という社会的な気づきが、個人の安心や集団による共同解決につながっていった。反面、「結局は自分の生き方について考えること」、「みんなと一緒とか、普通って、どんなことなのか」という個別的な気づきが、社会的な気づきと往復して深まっていった。
 第2に、気づきの過程において、講師や他の学習者から影響を受ける客体としての気づきと、影響を与えている主体としての気づきが往復していた。講師からの知識提供では、紹介された本を読もうと思ったり、学習者間の相互関与では、「私の話を皆が聞いてくれた」、「相手が話してくれた」ということから自己内対話を深めたりする過程が見られた。
 第3に、気づき支援において、講師によって意図的に構成された学習機会のなかで、学習者主体の偶発的な交流が行われた。そして、その成果に基づいて、次の学習機会がより意図的、効果的に構成された。
 第4に、気づき支援において、講義やワークショップ等をとおして子育ての知識・態度に関する概念の提供が行われるとともに、他者の異なる受け止め方を紹介することによって、その概念の「打破」が試みられた。そのために、「自分のためのショッピング」という合意に対して、翌週には「それが私にはストレスになる」という発言を取り上げるなどの指導行為が行われた。
 これを図8に示した。上下は学習者の気づきの諸側面、左右は支援の諸側面を表している。
図8 気づき過程とその支援の往復

社会的気づき 客体として
意図的支援

偶発的支援
概念の提供
概念の打破
個別的気づき 主体として

 本研究をとおして、安心感と緊張感、他者への気づきと自己への気づき、学習集団内の共通性と一人一人の個別性、個人の悩みの共同解決と自己解決等の往復が見られた。これらのペアを二項対立的にとらえるならば、どの気づきにはどの支援が効果的かという発想がなされよう。しかし、実際には、本研究では、現実の気づき過程は上下を往復しながら深まることが明らかになった。これに伴って、効果的な支援方策のためには、個人や集団の気づき過程を把握して、必要に応じて左右の二項を往復させ、気づき過程と交差させることが適切と考えたい。

5. 結論

 親が、子育てに関する自他の差異や、世間でいわれる「理想の子育て」と自己の子育てとのギャップに気づいて自己否定に陥った場合、対自、対他の気づきを経るよりも、直接的に問題解決の答やストーリーを求めようとすると考えられる。
 これに対して、本講座で行われたような「他の親との相互受容のなかでの悩みの交流」は、他者や自己への気づきを循環、深化させ、その過程のなかから自らの答を見出すための一定の効果をもつことが明らかになったといえよう。
 本研究では、学習集団に受容的雰囲気が形成され、互いに安心して自己開示を交換することによって、対自・対他の気づきが促されるという仮説は、部分的には検証された。また、講師がいくつかのワークショップの手法を活用することにより、同じ悩みを抱えた学習者のなかでは、受容的雰囲気は比較的容易に形成されることがわかった。
 しかし、本研究では同時に、「わかる」とか「同じ」などの受容をしあうことによって、逆に対自や対家族、対社会への気づきを阻害してしまう傾向を見出した。
 子育て学習において真に「自分なりの答を見つけた」と実感するためには、他者の子育てとの差異に関する個人の気づきを明確化し、学習集団のなかで組織化することによって、学習者の自他受容をより深いものにすることが重要であるといえる。

別表1 各回振り返りの個人文章表現と講師の応答内容
回 人 個人振り返りの内容 講師の応答内容
1 A ゲームが楽しかった。パッと見てすぐ考えるほうにいってしまう。「頭をからっぽにして自分を信じること」ができるようになりたい。遅参して申し訳ない。 個人の事情でかまわない。不在時のフォローもする。
B ゲームは今までと違った自分を表現できる方法。おもしろかった。自分の思いを言葉に出すのは緊張して苦手だが、今回はあまりそれもなかった。 言葉の背後には思いがある。氷山モデルを説明。
C 楽しかった。皆の子育てに関する話を聞くのが楽しみ。 知恵の交流の意義。
D 自分の心のなかにある気持ちが自然に出てくるよう。素直な自分が表現できそう。 ピアコンセプトではない安心のポイント。
E 子どもの学年、性別など知りたい。現在及び過去に働いているか、いつからか、働いていないならその理由と働く予定を知りたい。 このような個人的リクエストを自由に出してほしい。
2 A 他者の幸せなときが家族のなかにあるのに対して、私の幸せは自分中心で、家庭の外にあるかなと思った。私は変わった人かなと感じつつ、楽しい時間を過ごした。 母親、妻、社会人としての自己の存在。個人としての自由時間の意義
B 他者の話にあれこれ考えているあいだに、次の方や先生の話になり、ときどきいい話を聞き逃してしまっているように思う。何にしてもそうだが、気になることがあるとそればかりが気になり、気持ちの切り替えがうまくいかない。 個人の事情で全体の学習にストップをかけることの意義(個人の受け止め方は他者にとっても関心がある)
C 幸せの瞬間は、ほんとにそうだねー、わかるわかるー、という感じでおもしろかった。そこからどんどん交わりが深くなっていけそうな気がした。 エンカウンターグループの意味(出会いと社交辞令との違い)
D 人それぞれ幸福感があると思った。強弱はあるけれど納得するものがほとんどだった。一つだけ、「それが私にはストレスになる」と思うものもあり、とてもおもしろかった。 自己受容トレーニングの意義(アンビバレンツの受容)
E 5人中4人の人に小学2年生の子どもがいるのでびっくりした。皆の幸せの瞬間の話には共感できることがあり、おもしろかった。 同じ立場からの同感と、異なる他者への共感の差異
3 A 子どもとともに何をするでもなく、同じ空間に身をゆだねているときがいい、に同感。「何か話さなければ」「何か伝えなければ」という空気の中からは何も伝わらないし、できあがってこない。互いに自由な空気のなかで本音がいえる関係づくりが大切。 沈黙の意味、居心地のよさ
B 幼稚園生活について同じ体験をしてきたので、その気持ちがわかった。ただ、私の場合、子どもを追いつめたり比較したりすることがとてもいけないことだと十分わかっているのに、子どもが小学校になってもまだ改まらない。そのたびにかわいそうなことをしているなと思ったり、現実に学校から持って帰るテストを見てきつく言ってみたり。自己反省もしたが、みなさんの話はおもしろかった。 「自己改造」のコツ=自己否定せずに、1週間に何回という具体的目標を立てる。
悪い叱り方ワースト3=引き合い叱り、ついで叱り、感情叱り
C 「子育ての楽しみ」のコーナーは、子育てのだいご味とでもいうべきものだと思う。みなさんそれぞれに子育て=生き様という感じがした。 大人自身が「自分を知る」ことの大切さ
D 子どもとのふれあいのなかで、大人が感じること、学ぶことが、数知れずある。子どもってなんてかわいい宝物なんだろう。いつもは子どもってイライラする存在のときも多い。家に帰ったらそういうことも忘れて、また、子どもを怒っていると思う。 反省のコツ=いつもの笑顔で反省する
E 絵、説明、文章、人それぞれだったが、共通するのは我が子への愛情だと思う。 共生社会=共存+共有
親と子にとっての生きやすさ
4 A 「子どもってなんてかわいい宝物なんだろう」(3-A-04)という感じ方を、私もついこのあいだまでしていた。とてもよくわかる。「あなたたちは、パパとママの大切な大切な宝物よ」とつねに伝えてきた。でも最近は、宝物ではなく、神様からの預かり物かなと思うようになり、ふとさびしく思ったり、せつなくなったりする。宝物=いつまでも変わらない存在。神様からの預かり物=少しずつ変化し、成長していく存在。子育ての悩みはどの方の話も共感できるものがあり、自分だけじゃないと思え、少し肩の荷が軽くなったような気がする。 アンビバレンツ(子どもの自立のうれしさとさびしさ)
B 先生の子育てについてくわしく聞かせてほしい。いま自分が一番気になっている子どものことが、少しだが外に出せてよかった。 自己開示、ジョハリの窓
C 子育てのなやみのコーナーは、盛り上がっておもしろかった。これを言いたい、これが聞きたいばっかりに、この講座に参加したという感じ。来週も引き続きこの話題をふくらませるということなので楽しみにしている。 公園デビューとの違い
D 私の意見としては、子どもはどっちにしろ親の背中を見て、親と同じようにしゃべって話して怒っているような感じがする。まず自分が楽しくすごして毎日きげんよくありたい。なかなかむずかしいけれど。 親の不機嫌は子どもへの暴力
E 「何がいいのかやってみなければわからない。生きやすい生き方をしよう」(4aでの講師の発言「人間万事塞翁が馬」)というところが一番印象に残った。 ポイントは「いやな気持ちが残るか」
5 A 出席するたびに、私だけではないんだと思え、心がほだされる気がする。他者といろいろな気持ちを共感できる心地よさを感じた。自分の話を外でできたことで、少し気持ちが軽くなった。 自己開示=開きたい心を開きたいところで開く
B とても充実した時間だった。講座では思っていることをありのまま伝えられたと思うが、皆が話しやすい雰囲気で聞いてくれてよかった。同じような思いを皆がもっていることに安心した。 受容と許容との違い
C 本音の話を聞くことができて、とても興味深かった。また、私の話を耳を傾けて聞いてもらえたことで、気持ちがすーっとした。
D やはり子どもの存在は大きいと思うし、今の生活のなかではとても大きな位置を占めていることは事実。将来主人と二人きりになるとき、どうやって自分のなかでそれを乗り越えられるかなと思うとこわい感じがする。 いつまでたっても親は親だが・・・
E 前回に続いて今回もワークのなかでいろいろな話があり、楽しかった。
6 A 子育ての悩みを文章にしたり、言葉でしゃべったりしていくうちに、私の悩みは子育てにではなく、自分自身のなかにあったと気づいた。今まで自分を神(家族にとって)と信じていたことがとてもおろかしく思える反面、私も普通の人なんだと思い切ることのできない自分がある。みんなと一緒とか、普通って、本当はどんなことなのか。目に見えたらどんなに楽か。とりあえず神ではなくても「強い人」(やさしさも悲しさもわかる人)になりたいと感じた。よき母、よき妻より、楽しく、自分らしく生きていける「わたし」になりたい。
B 今日はいろいろ考えているうちに、自分が本当に考えていることがかえってうまくまとまらなくなってきた。子育てとは自分の内面を今までと違った角度で考えることなのかとも思う。
C 子育ての悩みについて話をすることは、結局は自分の生き方について考えることなのだなとつくづく思った。少人数の講座だったので、それがかえって活発に発言できて親密さが増した。人の話を聞くのも、自分の話を聞いてもらえるのもとても有意義で、火曜日を楽しみにしていた。
D 自分にもこうありたいという像があり、子どもに対してもこうあってほしいという像があり、私はそのどこからわいたかわからない自分の勝手な像に常に突き動かされていたように思う。実像に少し近づいていくか、近づいてもらうかによってずいぶん考え方が変わるような気がした。
E 一方的に話を聞くだけではなく、ワークショップ形式で楽しかった。子育てのなかの私には有意義な時間だった。


別表2 「幸せの瞬間」の分類
2-4表札
2-4幸せの瞬間(カード)
抱きついてくれた
A子どもが「ママ、抱っこしてあげる」といって、ギュッと抱きしめてくれたとき
C子どもが「お母さん大好き」といって、首に抱きついてきたとき
子どものうれしい顔
E子どもがとてもうれしい顔をしたとき
家族に喜ばれた
C夕食のとき、私が作った料理を家族が「おいしい」といって食べてくれたとき
ほのぼのしている
Dまだ片言の子どもが、おもしろい言葉を発して、長女や主人と一緒になって大笑いしたとき
他愛ないおしゃべり
B(いつもの小言などではなく)家族で他愛ない話が楽しくできたとき
同じだなあ B主人や友人と話をしていて、同じ考えをもっているなあと思えたとき
フフフン A家族のなかで朝一番早く目がさめて行動し、「フフフン、私ってやったらできるじゃない」と思ったとき
見つけた A素敵な食器を見つけたとき
はまってしまって
満足 D読書やマンガをときどき読むが、好きな本を読んで、とてもおもしろく読み終えた後の爽快感で幸せを感じるとき
知ること E講座などを受けて、知識が増えるというよりは、自分の知らないことを知ったとき
一人でゆったり A一人でさめていない紅茶を飲むとき
自分のことだけ
考えていてよい C自分の服をあれこれ迷いながら買い物しているとき
自分ひとりの時間 B夜、みんなが寝静まったあと、コーヒーを飲んでいるとき
D朝、子どもを送り出し、一人で家のなかでコーヒーを飲みながら、誰にも邪魔されずに、新聞を読んだり、本を読んだりしているとき
E子どもが小さくて毎日毎日24時間子どもと過ごしていたときに、子どもを預けて自分ひとりの時間がもてたとき

別表3 子育ての楽しみ(自己の絵画表現の文章化)

3-@子育ての楽しみ(自己の絵画表現の文章化)
A
親子ともに忙しい時間のなかで、家族4人がそろってお茶(食事ではなく!)をしている時間。そのとき、季節の花は欠かせません。テレビを消して、マンガを置いて、私の手作りのおやつをわれ先にとほおばっている子どもたちの笑顔が大好き。主人は日曜日が休みではなく、私もばたばたと毎日を過ごしているので、4人で同じ時を共有することにすごく安らぎを感じる。ふだんとは違った会話も飛び出したりして、「へーえ、子どもたちも大変なんだ」と思ったり、主人や私の仕事の話を、子どもたちが「でも、こうなんじゃない?」とか「じゃあ、こうすれば」とか受け止めてくれたりすることに、子どもをほったらかしにしている分、子どもたちは成長してきてるんだなと、うれしさとせつなさを感じます。外からはいってくる風が心地よく、楽しさだけを残してくれるような気がする。
B
家族といえば、思い浮かぶのは、居間で過ごすみんなの姿です。家にいるときはみんながこの部屋で過ごします。食事をするときも、子どもが勉強するのも、テレビを見るのも、本を読むのも、手紙を書くのも、それぞれの部屋があるのに全部この居間ですませています。怒るのも、泣くのも、笑うのも、全部この部屋であったできごとのように思います。最近、中学生になった長女が自分の部屋で過ごす時間が多くなり、4人いた部屋が3人になりました。これも成長かなと思います。
C
子どもが私に対して心のうちをそのままに話してくれたとき、子どもの気持ちにふれられたような気がするときがあります。話しても大丈夫だと信頼してくれているのだと思い、ちゃんと聞こうと思います。
D
3年間送り迎えのある幼稚園に通っていました。お迎えであるため、園の中に入って、他の親や子どもが自然に目に入るし、つきあいもするようになります。そうするうちに、自分自身や子どもと他の人とを比較して、子どもや自分自身を追いつめていく自分に気がつき始めました。子どもに「なんでこれができんの?」とか「もっといろんな子と遊びや!」とかいう自分がありました。そのうち「何か、これ違うな」「楽しくないな」と自分でも気づき始め、長女の素直な気持ち、自分の率直な気持ちをいつわってきたんだなあと、つくづく思うようになり、長女に本当に申し訳ないと思うと同時に、それを気づかせてくれた長女や、3年間の幼稚園生活がしみじみとしたものになり、子どもっていいなあとも思いました。
E
旅行に行ったとき、鯉がたくさん泳いでいる池があった。子どもがエサを与えると、鯉がたくさん寄ってきて、彼はめちゃくちゃ喜んだ。次々に「エサを買って」と要求し、こんなに喜んだ姿を見るのは初めてではないかというぐらいうれしそうな顔をしていた。今から4、5年くらい前のできごとだったが、彼のうれしそうな顔は一生忘れないと思う。

別表4 子育てのなやみ
表札 回-表現者-内容 ( )は口頭説明) →は他者の発言
これ以上どうしようもない 4-A子どもがテストの成績表をもらってきて、自分が吐きそうになった。(がんばっていたのに、それでもこんなひどい成績なんて)
→子どもに「それもあなたの人生」といいつつ、順位という現実が厳しい。
→頭ではわかっていても、心は「成績優秀でいてほしい」
4-A子どもに「自分の子どもを何様だと思っているの? 勝手に期待されても困る」と言われた。
→でも、子どもが努力すればできるものをしないのはいや。
4-D前は「いい子」だった子どもに、「生まれ変われるのなら、いい子だった時代に戻って、そのときからもっとチャランポランに生き直したい」と言われた。
子どもがまわりに気を使いすぎる 4-Bまだ7歳なのに、まわりの人たちにとても気を使うし、傷つきやすい。表面ではわからないけれど、心の中ではいろいろたまっていないか。
→うちの子も、7歳どころか幼稚園時代にそういうことがあった。「そんなこともあったね」といえる日が来るのでは。
これって不登校? 4-C子どもが学校に行き渋るときがあり、「不登校」の文字が頭に点滅し、不安になる。(母親失格と感じてしまう。保育所に通わせていたから?という罪悪感も)
子育てのあと、自分に何が残るの? 4-B子どもが生きがいというわけではないが、子どもが巣立ったあとの自分には何が残るのか。もっと自然でいいんだろうけど不安になるときも。
→ご主人とどう違うか?→「(将棋など)没頭するものがない」。
4-D子どもに「ぼくはしたいことがいっぱいあるから、死にたくない」と言われた。
心を開いてくれない 4-E学校でのことを聞いてもほとんどしゃべってくれないので、学校の様子がわからない。
ぐうたらしている 5-C中3の子が勉強しない。自分の将来に対して投げやりな態度なのが心配。無気力をどうにかしたい。(「まじめにコツコツ」がダサいと思っている。)(「これでもせいいっぱいがまんして授業を受けている、部活もやっている」というが、親にはただぐうたらしているようにしかみえない。)
ぐずぐずしている 5-Eいつもグズグズしていて、注意しても同じで、毎日が同じことの繰り返しでいやになることがある。(無力感)
期待してしまう 5-C自分がどうしても「優秀な子」を追い求めてしまうことが、子どもを追いつめているとわかっていながら、その価値観を捨てきれない。
→子どもが「コックになりたい」というがミーハー的に聞こえ、「心底なりたいの?」と疑問に思う。期待があった分、もったいないと感じる。
→「とりあえず」という子どもの口癖は正しいのではないか。
→でも野心は大切。
肩に力が入りすぎる 5-B子どものことをいちいち気にしたり、口出ししたりしてきたが、それに疲れを感じてきたし、子どもにとってもいけないことかなと思う。
→あまり子どもに聞くのもどうか。子どもへの手紙にしてみたらどうか。
規範を示す。でも待つ。 →最近の17歳の事件について、夫は「社会の規範が大切。親も規範を示すべき」といっている。私もそうかなと思う。
→子どもも親も血を流す子育てが必要だと思う。私も子をたたくが、たたいた親だって痛い。いっしょになって苦しんであげることが必要だと思う。
→心配していた子どもが、自分から「高校には行きたい」と言い出した。待ってあげることも必要だと思った。
よき母、よき妻としてがんばりすぎる 5-A吐くまでがんばってしまう自分がいやになる。(起きれなかった時期がある。「せねばならない」がいやになる。でも、家族はそんな自分を受け入れてくれた。ありがとう。ただ、外では出せない。受け止めてもらえないだろうから。一方、子どもにはさせてはいけない心配だったとも思う。)
5-A私はサービス満点のホテルマンのようだ。(手抜きできないし、手抜きをしたらしたでストレスになる。)
5-Aいいところを見せようとして、むきになって弁当づくりをしてしまう。(ありがた迷惑かも。夫にはかえって負担に感じられる。)
→それが原因でカリカリすると、夫としては「火の粉が飛んできた」と思ってしまう。
本当の自分の気持ちで生きていない 5-Dつねに「〜しなければならない」という思いで行動している自分がいやになるときがある。
親密も距離もどちらもほしい 5-B同年代の女性(とくに子どもの友達のお母さんたち)とうまくつきあえない。
→この講座やお稽古事でのつきあいに転換したらよい。
→子どもの友達のお母さんたちとのつきあいはどうしてもつきまとう。
あの子がどこかに行っちゃう 5-Cこれから役に立つであろうと思って私が選んだ塾を、子どもがほんとうに自分に必要なのかと言い出した。(ほかの塾に自分で聞きに行った。それを認めるべきか迷う。)
→子どもが小さい頃はいつも一緒だったのだが、小学校後半から子どもが自分で友達を選ぶようになったことに不快を感じてしまう。
5-E今は子どもが私を必要としているけれど、将来私の手から離れると思うととてもさびしい。
外側はあるけれど中身は何もない 5-A自分は運動会のダルマだと感じるときがある。(強そうだけど中身が空っぽ)
→子どもが私の身長を抜いたとき、「もうお母さんなんか恐くないよ」と言われた。
→ところで男親はなんで平気なんだろう?
私だけのものではないんだ 5-A子どもは私の宝物ではなく、神様からの預かり物だと気づいた。子どもは成長していっている。(社会に出るまで預かっているだけ。)
→でも、子離れできない・・・。
夫が聞いてくれない 5-B子どものことで父親に相談しても、話を聞いてくれない。(とるにたらないつまらないことだと思われてしまう。)
→夫のことはわかる。子どもも私には言ってくれる。でも、私は自分の気持ちを発信していない。
やさしいから頼ってしまう 5-D子どもや主人に依存している自分がいやになるときがある。(自分で解決していないという感じ。)
→「ありがとう」といって甘えてもよいのではないか。
→夫の手のひらの上にいる感じがする。私の勝手にさせてよと思うときがある。
うちの経済、先行き不安 5-C子どもが3人もいて、将来までうちの経済、続くかしら。(コツコツ貯めていくタイプではないし)
別表5 「子育ての悩み=期待と実像」(表札のみ掲載)

期待 実像
母親が期待していた「子ども像」と子どもの実像
成績は今よりいい 自分の子どもを何様だと思っているの?
そのままの自分をそのままに受け止めてほしい。
自分で考える
期待してしまう

でもこどもの可能性を信じたい
「お母さん、私はトマト(相田みつを「トマトとメロン」より)なのよ」
努力できる範囲では努力する子 ぐうたらしている
どこまで努力すればいいの?
でも、がり勉ではない。 いい子でいるのはつらい
おおらかに自己主張できる子
学校を元気に楽しむ子 したいことならいっぱいある
迷惑をかけない子 よそのどこの人が迷惑だといったの?
いろんなことを母親にしゃべってくれる子 自分から言い出したことについては、きちんと聞いてくれるとうれしい
いつまでたっても家族と喜んで外出してくれる子 親といっしょを見られるのはいや
母親の弁当に期待してくれる子 学食で食べたい
母親が期待していた「夫(父親)像」と夫の実像
親身になって相談にのってくれる夫 自分(夫)の意見を妻に尊重してほしい
やりすごしてきた→「器が大きい」という声あり→それでは娘のモデルになれない
子ども心も大人心も親心も兼ね備えた夫 ぜいたくはいえない
母親がなりたかった「自分(母親)像」と自分の実像
子どもを理想的に育てる私
家族を包み込むような私 よき母、よき妻としてがんばりすぎる
子どもをどんどん改善させていく母親 無力感を感じる
おおらかにものごとを見て、ポイントをおさえた母親 ささいなことも気になり口出しする
肩に力が入りすぎる
マリア様から家族を支えあう一人への転換 一方的にサービスする私に酔う私
子どものために親同士のおつきあいを上手にこなす母親 親密も距離もどちらもほしい
「規範」を示すことのできる私
「せねばならぬこと」をきちんとできる母親 「本当の自分の気持ち」で生きていない
子どもの自立を育む母親 「あの子がどこかに行っちゃう」
夫に頼らず自己解決できる私
自分から発信できる母親 私は受信だけの人
子どもの巣立ち後も自分らしく
幸せに生きる自分
うちの経済、先行き不安
子育てのあと、自分に何が残るの?
外側はあるけれど中身は何もない・・・私は運動会のダルマ
「私、ここにいてもいいの?」
自分自身が一人で生きていく意味はない?




(1) 西村美東士「ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高
める授業方法」,大学教育学会『大学教育学会誌』22巻2号研究報告,pp.120-128,2000.
(2) 坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』,日本生産性本部,pp.35-41,1989.
(3) 西村美東士『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方』,学文社,
p.136,1997.
(4) 川喜田二郎『続・発想法−KJ法の展開と応用−』,中公新書,1970.
(5) 池見陽『心のメッセージを聴く−実感が語る心理学』,講談社,p.122,1995.
(6) 同上,pp.164-192



青少年教育施策の進展に対応する施設経営の動向
−90年代の関連文献の分析から−


西村 美東士
(徳島大学)

【要旨】
 本研究では、[ときの青少年教育施策が次々と迫ってくるため、青少年教育施設はその対応と成果の開示に追われ、施策の理念に現代青年の価値観を反映させた実践の展開がおろそかになっている]という仮説を設定し、青少年教育施設に関する90年代の文献を分析した。その結果、青少年教育施策の進行と若干のタイムラグがあり、むしろ「あとになってから追い回され、成果を公開する余裕もない状態」と考察された。とくに公立施設については青少年教育施策への関与の低さが推察された。また、「生きる力」育成については、最近の傾向として、「自然体験活動への傾倒」と「総花化」を見出した。これらの結果から、本研究では、@受け身の自己都合の発想からの脱却、A公立施設の青少年教育施策との相互疎外の解消、B国立青少年教育施設の先導性の保持、C実践・研究の充実とその成果の開示・流通を討論として提起した。



はじめに
 青少年問題に関する90年代の文献からは、対策からサービスへ、サービスから教育(自己成長の援助)へ、という施策の大きな展開を見出すことができる1)。しかし、一方、施策、教育、研究、さらには世論やマスメディアの論調において、青少年問題が発生するたびに、当面の対応方法について互いに相容れない主張が繰り返されてきた。対策から教育へという青少年教育再評価に向けた重要な流れも、この繰り返しのなかでは実効性を大きく損なっていると考える。
 そのなかで、青少年教育職員を有する青少年教育施設の先導的・開発的役割は大きいと考えられる。しかし、青少年教育施設の設置推進、小中学校の「自然教室推進事業」等の取組にも関わらず、生活体験や自然体験の不足は十分には改善されていないという指摘もある2)。さらには、多くの自治体で、青少年教育施設の撤退という事態が進行しているのが現状である。
 本研究では、青少年教育施設に関する90年代の文献の分析から、施策の進展に対応した施設経営の動向を検討し、そこに見出される視点及び課題を明らかにしようとした。

1. 研究の目的
 上記の施設においては、多くの青少年教育職員が配置され、現代青少年と対面しながら日常の職務を遂行している。このような実践現場でこそ、青少年の本音に触れ、時代の価値観を敏感に察することができると考えられる。そして、そのことによって、わが国の教育改革実現の筋道を実践的に明らかにすることが期待される。
 しかし、実際には、青少年教育施設への社会的評価はいまだ十分とはいえない。その理由の一つとして、時々のめまぐるしく移り変わる施策に追随して仕事をしているような感覚に陥っている職員が多いからと考えた。
 このように想定して、次の仮説を設定した。[ときの青少年教育施策が次々と迫ってくるため、青少年教育施設はその対応と成果の開示に追われている。そのため、施策の理念に現代青年の価値観を反映させて実践を展開するという施設職員として最も大切なことがおろそかになっている]ということである。
 本研究の目的は、どのような青少年教育施設がどのように実践と研究の成果を公開しているかを検討し、青少年教育施策やひいては広く青少年施策、教育施策にどう関与してきたかを明らかにしようとするものである。

2. 研究の方法
 1989年度分から現在に至るまで総務庁青少年対策本部「青少年問題ドキュメンテーション研究会委員」(平成9・10年度分は研究協力者、11年度分から文部科学省所管)として、次の研究を進めてきた。担当分野「社会」と「文化」に関わる文献の解題。解題の項目は題名、筆者、出版社、誌紙名、巻号、ページ、出版年月、400字〜800字(12年度分のみ350字程度)の要旨である。
 文献資料の依頼先は関係省庁、都道府県・政令指定都市等で、市町村には直接は依頼していない。また、ニュースやたんなる感想文集等は収集していない。
 本研究では、その中から青少年教育施設に関する文献を抽出し、キーワード分析などの実証的検討を通して研究した。また、必要に応じて他の全文献と比較検討した。ちなみに2001年3月は国立青少年教育施設が独立行政法人に移行する直前の月である。スポーツ施設、私立施設、児童相談所等福祉施設、2000年度から急増した事業中心の子どもセンターは除いた。施設所管の事業は含めたが、他部署主催のたんなる施設提供だけの関わりについては除いた。年毎の文献数を第1表に示す。

第1表 研究対象文献数
年 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 計
対 11 9 18 16 24 47 55 72 75 57 70 45 500
全 102 168 178 172 213 221 255 287 335 364 469 216 2980
% 10.8 5.4 10.1 9.3 11.3 21.3 21.6 25.1 22.4 15.7 14.9 20.8
 ※1 対=研究対象文献数、全=全文献数。
 ※2 2001年は3月まで。

3. 結果と考察
(1) 国立とその他の公立施設との量的比較
 対象文献のうち、筆者、筆者の所属、発行元のいずれかが国立青年の家・国立少年自然の家(以下「国立施設」という)であったものを、第2表に示した。国立施設による協議会等の成果は、内容として公立施設を含めていても「国立」として集計した。


第2表 国立施設関連文献の数
年 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 計
数 7 4 12 12 16 33 44 57 57 42 49 333
% 63.6 44.4 66.7 75.0 66.7 70.2 80.0 79.2 76.0 73.7 70.0

 国立青年の家13・少年自然の家14を、宿泊型の都道府県立青年の家99・少年自然の家97の施設数3)と比較すると、資料収集の不備等は考慮にいれなければならないが、国立施設関連文献が公立を大きく上回っており、文献数と施設数の逆転現象が指摘できる。ちなみに国立オリンピック記念青少年総合センターのホームページで提供している青少年情報で1998年から2000年までの「行政資料」を調べると、国立307件、公立157件となり、国立の占める割合は本研究よりは低い率(66.2%)を示すものの国立優位には変わりがない。宿泊型施設に限らず多くの公立施設が設置されているにもかかわらず、その実践や研究の成果公表は30に満たない国立施設に頼っている。公立施設の事業開発や成果開示の機能の停滞を指摘せざるを得ない。
 また、その国立施設からの収集文献の占める割合も96〜97年をピークに漸減傾向にある点に注意を払っておきたい。公立施設からの発信が十分に活性化するまでは、国立施設の先導・開発の機能を衰退させることがあってはならないと考える。

(2) 公立施設の青少年教育施策への関与の低さ

第3表 青少年教育施策のヒット数
アドベンチャー 生涯学習ボランティア 少年少女サークル 子どもプラン
年 全文献 公立 国立 全文献 公立 国立 全文献 公立 国立 全文献 公立 国立
1990 4 1 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0
1991 13 1 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0
1992 14 2 4 5 0 0 0 0 0 0 0 0
1993 11 1 1 6 0 1 7 0 0 0 0 0
1994 11 1 3 7 0 0 13 0 0 0 0 0
1995 10 0 7 8 1 0 10 0 0 0 0 0
1996 3 0 2 6 0 0 8 1 0 0 0 0
1997 5 1 4 6 1 0 2 0 0 0 0 0
1998 3 0 2 4 0 0 1 0 0 2 0 0
1999 6 1 1 2 0 0 0 0 0 13 0 1
2000 5 1 3 3 0 0 0 0 0 18 0 2
計 85 9 31 48 3 1 41 1 0 33 0 3
 ※1 「全文献」は全文献(n=2,530)におけるヒット数である(以下同じ)。
 ※2 「公立」と「国立」は「全文献」の内数である(以下同じ)。
 ※3 2000年は3月まで(以下同じ)。
 前述のとおり、2000年4月分から要旨の文字数を削減したため、本項より以降の分析対象は比較対照のため2000年3月までの発行の文献とした。
 全国的に推進された青少年教育施策として、「自然生活へのチャレンジ推進事業−フロンティア・アドベンチャー」(1988)、「生涯学習ボランティア活動総合推進事業」(1991)、「地域少年少女サークル活動促進事業」(1992)、「地域で子どもを育てよう緊急3カ年戦略(全国子どもプラン)」(1999)(カッコ内はいずれも開始年度)を取り上げ、それぞれのキーワードで、題名、要旨のいずれかにおけるヒット数を調べた。青少年教育施設こそ、これらの施策を地域の実情にあわせて個性的、具体的に推進できると考えたからである。その結果を第3表に示した。
 「全文献」のデータからは、青少年教育施策が時の流れとともに地方に普及していく様子が確認できる。しかし、ほとんどの施設では、その施策推進に関わったとしても委員の派遣程度で、所管や参画には至っていない。これらの施策は施設を含めた教育委員会全体で取り組むことを前提にしていたものの、教育改革の流れの中で行政全体の重要な課題となり、反面、施設の役割は、専ら自然体験活動等に限定されてしまったと考えられる。

(3) 「生きる力」の育成への関与
 題名・要旨に「生きる力」という語を含む文献数を調べ、その結果を第4表に示した。

第4表 「生きる力」の文献数
年 全文献 % 公立 % 国立 %
1990 1 1.0% 0 0.0% 0 0.0%
1991 6 3.6% 0 0.0% 1 25.0%
1992 0 0.0% 0 0.0% 0 0.0%
1993 3 1.7% 0 0.0% 0 0.0%
1994 3 1.4% 0 0.0% 0 0.0%
1995 2 0.9% 0 0.0% 1 3.0%
1996 8 3.1% 1 1.9% 2 4.5%
1997 28 9.8% 2 3.4% 14 24.6%
1998 22 6.6% 1 1.4% 6 10.5%
1999 31 8.5% 1 2.1% 10 23.8%
2000 31 13.2% 6 13.0% 10 27.0%
計 135 5.3% 11 9.2% 44 13.7%

 中央教育審議会が「ゆとり」の中で子どもたちに「生きる力」を育むため、学校・家庭・地域社会が相互に連携しつつ、社会全体でこれに取り組むよう答申したのは1996年7月(審議は前年度から)であるから、それ以前のものはこれに先行した文献である。その中には県社会教育課等実施の資料が多くあり、ここでも青少年教育施策推進と施設経営とのタイムラグが見出される。また、2000年(3月まで)にまで至っても、全文献の中での該当文献の比重より公立施設のほうが僅かとはいえ低い。
 次に該当文献のキーワードを分析した。紹介・列挙以外については、それがもっとも「生きる力」の重点とする項目毎に分類した。項目は、生活体験、自然体験、その他の体験活動、厳しさ、科学的態度、自己決定、自信回復、問題解決、障害児者との共生、家学社連携、対社会、学校観の転換、総合的な学習の時間の13項目とし、項目ごとの経年変化を第1図に示した。

第1図 「生きる力」の項目ごとの経年変化
紹介列挙 生活体験 自然体験 体験活動 厳しさ 科学的態度 自己決定 自信回復 問題解決 共生 家学社連携 対社会 学校観転換 総合学習
1991 ○
1995 ○
1996 ○ ○ ●
1997 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ◎ ○ ○
○ ● ○
○ ○
● ○
1998 ○ ○ ○ ◎
○ ◎

1999 ○ ○ ○ ○ ○ ◎ ○




2000 ○ ○ ○ ○ ● ○ ○
○ ○ ●
○ ○
● ●


※○は国立施設、◎は国立施設のうち講演・寄稿、●は公立施設。公立施設の講演・寄稿分については該当するものがなかった。

 この図によると下記の諸点が指摘できる。
 第1に、1996年の中教審答申の翌年には、「生きる力」への関心が多様な方向に広がった。青少年の科学への興味の尊重、利用団体のプログラムの尊重や生活時間の弾力的運営、さらには「いま一人の自分」との出会いまでもが「生きる力」と関連付けられ、のびのびと語られた様子が示されている。
 第2に、「問題解決能力」や「学校観の転換」等の、「生きる力」の政策的根拠にあたる事項については、それを重点とした言及が少ない。数少ない言及も研究者等の講演や寄稿によるものであった。政策の本質を議論するよりも、目の前にいる青少年や差し迫った「生きる力」関連事業にどう対応するかということに施設は追われていたと推察される。
 第3に、「生きる力」と「総合的な学習の時間」との関連付けにタイムラグがあることと、絶対数も少ないことである。「総合的な学習の時間」について答申では繰り返し触れているが、答申文の「地域社会における様々な学習機会の提供」の項目にはたまたま直接的な記述はない。それも原因となっているとしたら、施策と現場との乖離に関する施設側の主体的問題として再点検する必要があるといえる。
 第4に、1999年から2000年にかけての自然体験活動への集中である。99年に生涯学習審議会が青少年の「生きる力」をはぐくむ地域社会の環境の充実方策について答申し、これに機敏に反応した結果と考えられる。
 しかし、生涯学習審議会はこれを大きく「地域社会の環境づくり」ととらえている。施設それぞれが今まで持ってきた野外教育の路線から外れてでも、これにどう主体的に関与して独自の「自然体験活動」を展開するかということが問われると考える。
 また、1996年の「青少年の野外教育の振興に関する調査協力者会議」報告は、野外教育の役割を「生きる力」の育成においたが、報告のいうそれは知的好奇心、自己発見などを含む概念である4)。このような意味での「生きる力」の育成に効果があったかどうかという面から、「自然体験」の指導についての自己評価がなされなければならないと考える。
 第5に、2000年に入ってからの列挙型の増加である。これは「生きる力」の項目を、当該事業からみた優先順位を付けずに並列したととらえられるものである。この種の文献の増加は、公立施設の該当文献の増加に負っているといえる。総合的な取組によって「生きる力」の育成が目指されているという積極的側面もあるだろうが、ねらいを焦点化できていないという不十分な側面も指摘される。そのいくつかは、多くのねらいを抱え込みすぎており、実際に到達するためには、繁忙や消化不良、到達度評価の困難などが推察される。
 第4の傾向は端的に言えば「自然体験活動への傾倒」であり、第5の傾向は「総花化」であると考えられる。これらの90年代末からの傾向の功罪を検討する必要がある。

4. 討論
(1) 受け身の自己都合の発想からの脱却
 青少年教育施設が時々の施策への対応に追い回されていては、施策が期待する教育改革による「生きる力」育成の役割を発揮することはできない。施設の中で、「仕事が増える」、「人が減らされる」などの理由から教育改革が「邪魔者扱い」されるような事態を招くことがあるとすれば、それは国家的損失ともいえる。また、施設の側も、地域やわが国の青少年教育施策に向け、施設だからこそできる大胆で個性的な実践を発信し続けることが求められている。
 「ときの青少年教育施策が次々と迫ってくるため、青少年教育施設はその対応と成果の開示に追われている」という仮説は、部分的には確かめられた。「生きる力」の育成への関与では、答申等の文面の言葉にキーワードが偏るなどの傾向が見られた。また、盛りだくさんのねらいが羅列された文献も散見された。
 しかし、本研究ではそれよりも、時の施策への対応が遅れる、成果の開示が少ないなどの事例を多く見出した。青少年教育施策の進行と若干のタイムラグがあり、むしろ「あとになってから追い回されている」、そして「成果を公開する余裕もない」と推察されよう。
 「ときの施策が次々と迫ってくる」というよりも、施設職員自らが繁忙を避ける等の自己の理由から施策との距離を置こうとし、しかしながらタイムラグの後、その施策の影響を受けることがあるということから、青少年教育施策に主体的に取り組む意欲がそがれたと考える。あとになってから「やらされる」のでは、本気にはなれないだろう。今後は他のデータベースも参照しながら、より正確な実態把握に努めたい。

(2) 公立青少年教育施設と青少年教育施策との相互疎外の解消
 本研究から、青少年教育施策が各自治体の教育行政全体の重要な課題となった反面、多くの公立青少年教育施設の役割は自然体験活動の拠点等に限定され、施策に直接的に関わる事業の実施には至らなかったと推察される。
 また、本研究で取り上げたそれぞれの施策についても、次のように阻害要因が考えられる。@アドベンチャーについては、無人島など、施設・設備の整っていない場所での実施が初期の前提であった。A生涯学習ボランティアは、総合行政としての性格を有する。B少年少女サークル活動は、各地域に対する働きかけが必要である。C子どもプランは1999年度が初年度で、当時は本庁止まりの段階であった。
 しかし、これらの阻害要因はそのまま、公立青少年教育施設と青少年教育施策との相互疎外状況を表しているともいえる。「施策推進は本庁で」という固定概念が、施設・本庁の双方において支配的であったと推察される。
 上記の阻害要因については、それぞれ次のように考えるべきではないか。@つねに自前の施設を使用するという前提は、公立施設の教育機能を萎縮させている。その自縛を解く必要がある。A公立施設が生涯学習推進に寄与するためには、総合行政としての機能の発揮が必要である。B公立施設が設置されている近隣の地域への働きかけも重要だが、今後はそれとともに自治体の守備範囲である「わが町」全体への役割発揮が求められる。C「子どもプラン」など、各種の新しい青少年教育施策を「本庁から下ろされた」という形で受けとめるのではなく、その意義を主体的に吟味し、施設にあった事業展開を能動的に提案する必要がある。そこにこそ施設のアイデンティティが生じよう。
 施設には青少年教育職員が配置されている。地方の青少年教育施策の推進において、それは貴重な専門的人材であり、自律的、積極的な活用が図られなければならないと考える。

(3) 国立青少年教育施設の先導性の保持
 本研究から、実践・研究成果の公表、「生きる力」の開発的取組など、国立青少年施設の先導的役割の重要性が明らかになった。
 たとえば、1990年にはすでに「長期にわたる少年の自然体験活動に関する調査研究U」(国立那須甲子少年自然の家)が公開された5)。これは事業前後のアンケート調査等により、長期にわたる自然体験活動が参加者の意識や行動に与えた教育効果を明らかにしたものである。そこでは標準化された検査を用いて自主性の変化が数量化された。
 前述の「生活体験や自然体験の不足が改善されていない」という問題についても、これらの先行研究を効果的に活用することが必要といえよう。また、国立青少年教育施設は、独立行政法人化以降も実践的研究・開発やその公開・普及の機能を維持・発展させることが期待されると考える。

(4) 実践・研究の充実とその成果の開示・流通
 本研究から、とくに1990年代の公立青少年教育施設の実践・研究の成果開示の停滞が示唆された。青少年教育施策実施の報告書は、主に教育委員会事務局の社会教育主事を中心として編まれていたと考えられる。しかし、本庁だけでなく、青少年教育施設にも専門職員を配置しているところは多い。青少年と対面しながら実践と研究を進めている青少年教育施設職員、とりわけ専門職員の青少年教育施策推進における役割は重要といえよう。
 もちろん、小さな施設でも現在の教育改革の先を行くような実践をしているところは多いと思われる。広く目にはとまらなくても、報告書等も作成しているのかもしれない。このような検討においては、前述のように『青少年問題に関する文献集』をはじめとするデータベースにおける資料収集の不備や限界を念頭におかなければならないだろう。
 しかし、少なくとも、その職員は、実践の成果を目に見える形にして、より広くわが国の施策にフィードバックする責務をもあわせもっていると考える。また、内容面においても、「成果」と「課題」は事業主体の責任として報告書に明記するなどの質的向上が必要と考える。主観的・義務的な報告ではなく、より適正な自己評価に基づいた科学的な事業評価及び研究成果の公表と流通を求めたい。
 そのためには、次の条件整備が緊急に求められていると考える。第1には、青少年教育施設の職員体制を充実する必要がある。時々の施策に追われてやっているだけの施設には、青少年教育施策や大きく教育改革への提言力は期待できない。第2には、施設職員が現代青年の意識や行動を的確に把握し、教育改革理念に基づく主体的な施設経営ができるよう、その研修体制の確立を急ぐ必要がある。事例の発表にとどまったり、逆に理論の承りで終わったりするのでは、教育改革が求める青少年教育施設職員としての専門性を獲得するには至らないだろう。実践と研究を継続的、計画的に往復する研修制度の確立が重要である。

注記・引用文献
1) 西村美東士「青少年問題の文献の動向−社会・文化」(総務庁青少年対策本部『青少年
 問題に関する文献集』22-31、1992-2001)
2) 結城光夫「青少年教育施設で『生きる力』を育む」(全国青年の家協議会『青年の家の
 現状と課題』28、pp.1-5、2000)p.3
  結城は「子どもの体験活動等に関するアンケート調査」(青少年教育活動研究会:代表
 平野吉直、1999)を引き、これまでの自然体験活動の施策にも関わらず「体験不足」の
 結果が出たことについて、「体験があっても根付いていない」と推察した。
3) 総務庁青少年対策本部『青少年問題の現状と課題』、2000、p.563
4) 青少年の野外教育の振興に関する調査研究協力者会議「青少年の野外教育の充実につ
 いて(報告)」、1996
5) 国立那須甲子少年自然の家『長期にわたる少年の自然体験活動に関する調査研究U』、
 1990
青少年教育施設の活動・経営をめぐる問題



1 青少年教育施設の基本的性格

表1 青少年教育施設数
年 計 少年自然の家 青年の家(宿泊型) 青年の家(非宿泊型) 児童文化センター その他
1975年 601 75 205 110 40 171
1978年 696 103 221 109 39 224
1981年 940 171 253 177 56 283
1984年 1,031 206 255 169 72 329
1987年 1,053 246 267 160 45 335
1990年 1,154 278 254 168 61 393
1993年 1,225 294 249 162 71 449
1996年 1,319 304 248 161 99 507
1999年 1,264 311 229 176 75 473
県立 222 98 94 8 − 22
市立 699 154 88 122 64 271
町村立 328 53 40 46 11 178
組合立 15 6 7 − − 2
注1 国立の青年の家、少年自然の家及び私立の施設は含まれていない。
注2 「県立」以下の内訳は1999年のものである。
(出所)文部科学省『平成11年度社会教育調査報告書』2001および同ホームページより作成。

 青少年教育施設の施設数は表1のとおりである(県立とは都道府県立。以下同じ)。他に公立より大規模な国立青年の家が13所、国立少年自然の家が14所と国立オリンピック記念青少年総合センターがある。
 青少年教育施設の職員数は表2のとおりである。表1と照合すると、指導系職員は平均で少年自然の家1.9人、青年の家(宿泊型)1.7人、青年の家(非宿泊型)1.0人、児童文化センター1.8人、その他1.0人配置されていることがわかる。指導系職員が宿泊機能をともなう少年自然の家と青年の家に多く配置されていることに注目しておきたい。あとでみるように、これらの職員が施設の「宿泊機能」のなかでどのようにその専門性を生かせばよいかという課題が繰り返し議論されている。この点で社会教育主事や公民館主事と異なる独自の課題がみられる。

表2 青少年教育施設職員数
区分 計 少年自然の家 青年の家(宿泊型) 青年の家(非宿泊型) 児童文化センター その他
1975年 2,449 420 998 445 194 392
1978年 2,743 619 999 457 200 468
1981年 4,025 956 1,084 850 237 898
1984年 3,992 1,143 1,086 712 246 805
1987年 3,743 1,233 1,023 503 179 805
1990年 3,963 1,351 1,018 504 275 815
1993年 4,155 1,429 1,008 500 270 948
1996年 4,051 1,302 1,031 515 296 907
1999年 4,158 1,422 948 471 283 1,034
施設の長 479 175 108 65 30 101
指導系職員 1,731 594 380 170 137 450
その他の職員 1,948 653 460 236 116 483
注1 国立の青年の家、少年自然の家及び私立の施設は含まれていない。
注2 数字は専任職員のみで兼任職員は含まれていない。
注3 「施設の長」以下の内訳は1999年のものである。
(出所)文部科学省『平成11年度社会教育調査報告書』2001および同ホームページより作成。

 国立青年の家は、自主性に満ちた健全な青年の育成をはかるため、団体宿泊訓練を通じて、次の各号に掲げる教育目標の達成に努めるものとされている。@規律、協同、友愛及び奉仕の精神をかん養すること。A自律性、責任感及び実行力を身につけること。B相互連帯意識を高め、郷土愛、祖国愛及び国際理解の精神を培うこと。C教養の向上、情操の純化及び体力の増強を図ること。1)
 国立少年自然の家も、同じく自主性に満ちた健全な少年の育成をはかるため、少年を自然に親しませ団体宿泊訓練を通じて、次の各号に掲げる教育目標の達成に努めるものとされている。@自然の恩恵に触れ、自然に親しむ心や自然に対する敬けんの念を培うこと。A規律、協同、友愛及び奉仕の精神をかん養すること。B自然の中で心身を鍛錬し、自ら実践し、創造する態度を育てること。2)
 以上から国立青年の家、国立少年自然の家に共通する特徴を指摘しておきたい。@青少年の健全育成を目的としている。A団体宿泊訓練を通じた規律、協同、友愛、奉仕の精神の涵養を目標としている。B広域交流や先導的な事業や運営により、その成果を広く公立青少年教育施設に及ぼし、水準向上に資することが求められている。C団体活動の助長および青少年教育指導者・関係者の研修のための事業が意図されている。D少年自然の家だけでなく青年の家も「引率責任者が定められ」「あらかじめ具体的な研修計画を定めている」いわば「しっかりした団体」の利用を想定している。
 とくに上の@とAについては、1959(昭和34)年4月の初の国立青年の家の中央青年の家が設置された際に、すでに「団体宿泊訓練を通じて健全な青年の育成を図るための機関」と法律に明記されているとおり、国立青少年教育施設の一貫した基本的性格ということができる。3)
 指導者養成事業については、国立施設ではボランティア養成事業が全施設で、青少年教育施設職員対象事業が8割強の施設で実施されているほか、野外教育指導者対象事業を7割強、学校教員対象事業を6割強の施設が実施している。公立施設では、ボランティア養成事業と集団宿泊担当者研修が多いが、それぞれ県立で5割弱、市町村立で3割5分弱の低率である。
 青少年・親子対象事業については、自然生活体験事業が国立全施設、県立9割強、市町村立8割弱で実施されている。公立施設では次にはスポーツ・レクリエーション、クラフトが5割前後で続く。国立では冒険、環境学習、科学教室を半数以上が実施しているが、それらは公立では1〜3割程度の施設でしか実施されていない。4)
 これは国立の公立に対する波及効果のあり方に関する課題とともに、公立施設側の施設・設備面および職員体制の課題を示すものといえる。
 利用者層は宿泊型青年の家においても、青年の家創設期に最も多かった勤労青年の利用が少なくなり、在学青年とくに少年が最も高くなっている。青年の家においても、少年の積極的受け入れおよび自然体験活動の場として少年に対応するプログラムが充実してきたことが原因とされる。5)

2 青少年教育施設の歴史

 かつて、国立中央青年の家所長足立浩は「青年の家の源流」として、わが国の漢学塾や塾風教育、欧米の組織キャンプのようなフォーマルな教育訓練の面と、若衆宿、ユースホステルのようなインフォーマルな面の2つの流れを指摘した。足立はとくに下村湖人の青年団講習所について、「昭和初頭の人間性を無視した強圧的な鍛錬主義の教育に反対して、良心をもった自主的人間の育成をめざした。そのために横の関係を緊密にする修練に重点をおき、温かな雰囲気の中で日常生活を深め高めることに努力した」とし、フォーマル、インフォーマルの両面を具備した教育として高く評価し、今後の青年の家のあり方と重ね合わせた。6)また、若衆宿との連続性の側面を認めつつ、「それとは区別されて青年倶楽部が位置づけられる」とする議論も出ている。7)
 1955(昭和30)年を境にして青年学級が全国的に停滞の傾向を示していた。このため文部省は青年学級の振興に努めるとともに、従来の「青少年野外訓練施設」等の規模を大きくし、職業に関する実験実習の施設整備を進めた。これらの施設を1958(昭和33)年からは「青年の家」と称し、地方公共団体に対して助成を始めた。翌年には国立中央青年の家を設置したこともあり、青年の家の名称と役割は全国的なものになっていった。8)
 1959(昭和34)年までは運輸省のユースホステル、労働省の勤労青少年ホームにも「青年の家」という名称が使われていたが、以降は「青年の家」の名称は文部省のみが使うことになった。ユースホステルの整備にともない「野外旅行の拠点」という性格は薄れていき、国立中央青年の家の設置にともない、公立青年の家の性格も「研修、野外活動、団体宿泊訓練」の方向へと向かった。9)
 1960年代には青年の都市集中が進んだ。そのため「青年の日常生活圏内にあり、いつでも容易に利用できる青年教育施設」が要請され、1964(昭和39)年から宿泊機能のない都市型青年の家が設置されることになった。10)
 1971(昭和46)年の約15万人をピークに国立中央青年の家の利用者は減少を始めたが、1972(昭和47)年自民党文教部会「社会教育振興5ヵ年計画」では「青年(15〜24歳)人口1727万人(1975年)の約70%が毎年1回、3泊4日の集団宿泊訓練をするのに必要な国立、公立青年の家の施設(12万床)」が目標とされ、県・市立で678ヵ所の整備計画が示された。全国青年の家協議会の文献では、これに対して「前途洋々」と評したうえで、1969(昭和44)年経済企画庁「全国総合開発計画」で広域施設として位置づけられた青年の家の「必要性がよく理解され、支持されなければならない」とし、投資効果を配慮した「青年の家の適正配置」の必要を説いている。11)これは、ときの青少年政策と団体宿泊訓練による教育機能との整合性を証明する事例といえよう。それとともに施設側の「広域施設」としての期待される機能発揮への戸惑いも示されているととらえられる。青年の家に関する補助金は1995(平成7)年度に廃止された。
 公立少年自然の家については1970(昭和45)年に補助が始まった。1973(昭和48)年には文部省社会教育局長通知「公立少年自然の家について」が出された。そこでは「学校と少年自然の家とは相互の教育機能を補完しあう関係」が強調され、学社連携が強く意識されていたことがわかる。少年自然の家に関する補助金は1996(平成8)年度に廃止された。12)国立青年の家は1976(昭和51)年に設置を完了している。また、国立少年自然の家については1975(昭和50)年に初めて設置され、1991(平成3)年の設置をもって完了した。
 2001(平成13)年4月には、行政改革の一環として全国の国立青年の家と少年自然の家がそれぞれ独立行政法人として再出発した。独立行政法人の設立は「事業のスリム化、効率の高まり、質の向上、透明性の高まり」をもめざすものであるが、このような状況のもと、「とくに近年の『生きる力』を育てるための学校外活動の充実が強調される動きのなかで重視され続けなければならず、事業の確実な継続が必要」と指摘されている。13)
 さらには、都市部の自治体ではその前後に公立青年の家の移管・統廃合等が検討されている。埼玉県は「勤労青少年を含む青少年の利用が徐々に減少」などを課題として、2002(平成14)年度末を目途に青年の家を廃止し、翌年度から「新しいタイプの青少年教育施設」の検討を進める。東京都は新たな青少年社会教育施設として「ユースプラザ整備方針」を策定したことにともない、2002(平成14)年度には7カ所のうち2カ所だけ残して閉所した。神奈川県では県と市町村の役割分担を理由として、青少年施設を「青少年の身近な活動の場」とし、地元市町へ移譲等を進めた。名古屋市では現在の青年の家に代えて都心部に新青少年教育施設の整備を検討している。このように、団体宿泊訓練を基本的性格とするこれまでの青少年教育施設は、都市部の、しかも県立の施設から、時代や行政改革の波に洗われつつある。14)
 これらの大きい変化以前の1995(平成7)年7月に、すでに国立青年の家・少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議(主査坂本昇一)は、前年の総務庁の行政監察の勧告を踏まえ、「国立青年の家・少年自然の家の改善について−より魅力ある施設に生まれ変わるために」を報告(以下「協力者会議報告」と呼ぶ)している。同報告は、文部省組織令の「団体宿泊訓練を通じて健全な青少年の育成を図る」ための施設という規定について、「これまでの施設の運営は、ともすれば規則に基づいた、指導者が一方的、形式的、画一的に行う訓練的なものになってしまい、また、利用者のイメージとしても、楽しさよりも厳しさ、堅苦しさが先行している面があった」のでこれを改め、「団体宿泊訓練という言葉は、理念そのものではなく、あくまで手段・手法」とした。15)
 しかし、「団体宿泊訓練」自体が否定されたわけではない。この言葉は、独立行政法人国立青年の家の2001(平成13)年度からの「中期計画」においても、基本方針冒頭に施設の目的として明記され、継続された。16)

3 宿泊型施設における指導性と専門性の困難

 宿泊型青年の家独自の教育機能としては、たとえば朝夕の「つどい」等を含む生活時間のなかで、「規律正しい集団生活・訓練を体験させる」こととされてきた。そのことについて「今日の社会的風潮からすれば、利用者が『自由に使えて便利な施設』ほど良い施設であるように考えられがちであるが、青年の家はもとからこのような施設ではない」という記述がみられる。17)当時の宿泊型施設、とくに国立施設は、生活指導に関してはこのように確固たるアイデンティティを自負していた。
 そこでの「生活指導」については、当時の次のような記述にその「教育性」を見いだすことができる。「青年の家の生活は、個人の目標と集団の目標を同時に達成していくことが必要であるが、究極は、個人がどのように生きていくかというものへのつながりを持たせる場である。このことから青年の家の生活指導は、ただ規律や規則を守らせるだけではなく、なぜ『きまり』が必要なのかを一人一人が納得するようなものでなくてはならない」。18)
 このような生活指導に支えられたアイデンティティに対して、研修指導については、1970年代には、「一人の職員がフォークダンスを指導し、職員の人間関係を講義し、青年の生き方を話すなど、スーパーマン的活躍をして自己満足をしているものもいる」という指摘がみられる。19)指導依頼の内容は、レクリエーション、野外活動、スポーツをあわせると73.5%にのぼった。一般教養、青年団体活動等に関する「文化」は15.3%であった。20)
 また、1979(昭和54)年の指導系職員の調査から、「青年の家は主催事業を主体とするか、受け入れ指導事業を主体とするかについて、指導系職員の意見は、宿泊型青年の家ではほぼ同じ割合で両論に分かれ、非宿泊型青年の家では主催事業主体が受け入れ指導事業主体の2倍になる」ことが報告された。そして、報告者は、青年の家が教育機関として存立するためにも主催事業を実施することが必要と主張している。21)
 このように、宿泊型であっても、施設提供に終始することなく、教育機関としての専門性の発揮のために主催事業に力点をおこうとする議論があった。それは従来の団体宿泊訓練における生活指導機能が、研修指導を含めた体系化という困難な課題に直面して戸惑い、さらには時代の変遷のなかで生活指導自体も発揮しづらくなってきたという状況を示している。かといって主催事業だけに完全に乗り換えてしまうのでは、独自の教育機関としての展望を見失うのは明らかである。なぜならば宿泊施設提供事業のなかでの指導性のあり方も、時代に適した新たな形で、なおかつ主催事業のなかでの指導性と両立する形で見いださないかぎり、「団体宿泊訓練」を独自の役割とする青少年教育施設の存在価値を示すことはできないからである。
 さらには、それに加えて宿泊型施設職員の勤務実態の厳しさも念頭におく必要がある。土・日曜日はもとより早朝や夜間にわたる勤務が恒常化し、そのうえ、多くの青年の家は、施設の性格上、市街地から遠く離れた山間や海浜に位置しているので、変則的勤務・交代制勤務の困難さは大きい。22)たとえば東京都青年の家の主催事業は、「国際青年年」であった1985(昭和60)年の記念事業を契機に、それ以降増えていったものである。青年の家開設当初の社会教育主事の役割は「受付から帰りまでのスローガンのもとにそれぞれの活動を助成」することであり、「利用団体への対応に追われ、主催事業の実施自体が困難だった」と指摘されている。23)
 さらに1999(平成11)年の調査では、6〜7割の県立施設が、事業運営上の課題として「施設・設備の老朽化」、「予算が少なく期待する事業ができない」をあげている。しかし、大規模な施設・設備を誇る国立施設においても「活動分野ごとの専門性のある職員の不在」等が課題としてあげられている。24)
 このことから、まずは、過去には意気込みをもって盛んにつくられ、職員も勤務の困難に耐えてきた多くの青少年教育施設、とくに宿泊型施設が、時代の変容のなかで老朽化すなわち「取り残され」「放置されている」問題が指摘される。しかし次に、たとえそれが改築され、デラックス化されたとしても、専門職員(指導系職員)がどのように配置され、どのように「専門性」「指導性」を発揮するかということが、より本質的な課題として残されている。
 宿泊施設特有の勤務の困難さの中で、指導系職員の専門性をどのように確保すればよいのか。協力者会議のいう「人材の計画的養成」による専門職員の専門分野の多様化25)は重要な指摘である。しかし、専門分野の多様化という場合、そのように多岐にわたる「専門性」の底を流れる共通の「教育性」の基盤をどこにおくのか、明らかにする必要がある。その基盤として、個人化/社会化の統合的教育機能を検討してみよう。

4 青少年教育施設に求められる個人化/社会化機能

 1973年、全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』創刊号は、青年の家の基本的性格を「集団を通じての教育機関である」と規定し、公立青年の家に共通する3要素として次の点をあげた。@個人利用ではなく、団体、グループによる利用。A日帰り研修ではなく、少なくとも1泊2日以上の宿泊による研修。B規律・協同・友愛・社会性・市民性等の涵養といった生活訓練。
 そして、このような団体宿泊訓練の教育がもつ独自性として次の3点を主張している。@知識の伝達だけでなく、生きていくための意欲を高める生活指導。A職員と青年、青年と青年との全人的な接触を前提とした教育。B集団生活における秩序と責任を重視した教育。さらに、標準的な教育目標として次の3項目を列挙している。@規律ある生活と時間厳守。A信頼される言動と相互教育。B友の発見と友情。26)
 今日盛んに叫ばれている「生きる力」やコミュニケーション能力の育成、「規範意識の形成」にも十分通じる考え方が、すでに当時示されたものととらえることができる。しかし、このような団体宿泊訓練のもつ従来からの教育性を今日に生かすためには、それをどのように新しいかたちで展開するかということが重要になる。
 1974(昭和49)年、『青年の家の現状と課題』第2集は、当時の青年について「自己主張が強すぎる」「国家・社会に関する意識が薄い」などの特性を指摘し、「青少年の自律性を高め、自己啓発を援助する作用」としての生活指導の重要性を訴えた。そして「自発的集団活動の意思決定に基づく集団規範の樹立と、その実践を促す場や時間の設定が位置づけられていない」と青年の家での生活時間の問題点を指摘した。27)
 これら、青少年の社会化に向けた主張が、個人が集団や社会に埋没することを促そうとするものではなく、むしろ個人が自己の体験によって気づきや深まりを自発的に獲得することを重視している点に注意しておきたい。それは前出論文「生活指導と研修指導」における「(生活指導の)究極は、個人がどのように生きていくかというものへのつながりを持たせる場」との主張と軌を一にするものである。28)
 しかし、そういう努力にもかかわらず青少年の団体活動は衰退していく。そのなか、1979(昭和54)年総理府の青少年問題審議会「青少年と社会参加」(意見具申)は青少年の社会参加・団体活動への参加は「孤独・不安・不信・無力感・混迷などというマイナスの側面を克服するためにも必要な営み」とした。これを受け、青年の家は、これらの団体・グループ活動に関して、@既成青少年団体への施設提供、A青少年団体結成・助長、B青年の家利用者への団体紹介等を通した役割を果たそうとした。29)
 しかし、その後、今度は逆に個人化重視の風が吹くことになる。
 1985(昭和60)年6月、臨時教育審議会「教育改革に関する第1次答申」は、欧米へのキャッチアップを実現したわが国の教育改革の基本的考え方として、個性重視の原則をあげ、生涯学習体系への移行を訴えた。「個性重視」はその後の審議でも中心課題であり、1987(昭和62)年の最終答申では、教育の基本的在り方と視点として、@個性重視、A生涯学習、B変化への対応を提示した。これ以降、青少年教育施設は、この考え方に大きな影響を受けながら展開する。
 1993(平成5)年の「全国青年の家実態調査」では公立青年の家ではボランティアを導入していない施設が半数を超えたが、国立施設においては逆に8割以上が活用していた。しかし、登録ボランティア数については「不足している」に比べ「余っている」という回答が多かった。そこで、調査結果としては「志願者は多いのに、施設によっては十分に活用しきれていない」と結論づけられている。30)
 さらに、このようなボランティア導入について、「なぜ本人の自発的意思に基づいて自由に行われるはずのボランティア活動を、『育成する』とか『活用する』とかいうことになるのか。本旨に立ち戻って考えると、支援とか助長とかいう表現の方がふさわしいと思われる」という指摘もされた。31)
 ボランティア活動は若者自身の社会参加欲求の表れとみることができる。しかも、それは本質的には個人的な行為である。このような活動を青少年教育施設がどう扱うかは、まさに新しい社会化機能のあり方が問われる事例といえる。
 1995(平成7)年1月の阪神大震災以降のボランティア志向の高まりのなか、青少年教育施設においてもボランティア導入が盛んにおこなわれたが、「施設の側も何のためにボランティアを受け入れ、養成事業を実施しなければならないのか施設職員間での共通理解もできないまま、ただ忙しくなっただけという不満が残るだけ」、「ボランティアの側も、体よく施設のお手伝いをさせられているだけという憤懣を抱くだけ」という状況が生じた。32)
 これについて青少年教育施設ボランティア研究会(加藤雅晴座長)報告書は、「ボランティア個々の特性を的確に把握し、活動を通して自己実現・自己開発ができるよう支援する」コーディネータの配置と養成などを提起し、さらに、「ボランティアと施設職員とのコミュニケーションの深化」として、「施設がボランティアに対応する際、ともすれば登録された集団とみなし画一的になりがちであるが、ボランティアを『個』としてとらえて、それぞれのボランティアの考え方や特性を把握し、個別に対応する」よう提起している。33)
 このように、施設ボランティアの導入は、不可避的に施設自身にボランタリズムの指導という困難な課題を持ち込み、団体宿泊訓練に象徴される従来のアイデンティティを、ボランティアに代表される個人化傾向という時の流れとどう整合させるかということが問われる結果をもたらした。
 そして、青少年教育施設におけるボランティア導入の結果が、職員の多忙感やボランティアの「やらせられ感」につながらないようにするためには、職員個人とボランティア個人との「対話」が必要ということが示唆された。
 また、個人の出会いの支援も主張された。前出「協力者会議報告」は、従来、学校や青少年団体などによる利用が中心となっていた施設利用について、これからは、施設を「青少年の出会いとコミュニケーションの場」と考え、少人数のグループや個人での利用についても受け入れていくよう提言した。34) このように、出会いやコミュニケーションの体験はたとえ「個人的」ではあっても、同時に欠かせない重要な「社会化」の行為といえる。
 前述の1979(昭和54)年の青少年問題審議会意見具申以降、青少年の個人化傾向に対処することが青年の家の諸事業でも課題になり始めた。ただし、理論面では社会化機能の究極のところに「個の重視」をみてきたが、実践面では、青少年の個人化傾向の否定的側面だけとらえて、団体活動の意義を単純に対置させるものが多かった。
 逆に、1984(昭和59)年の臨時教育審議会発足以来、個性重視が叫ばれてきたが、実践面では、それが社会化と有効に結びついて展開されることは難しかったようだ。そのため、前述のように現状を批判する議論が多かった。青少年が引き起こす「問題」が社会を大きく揺るがすたびに、個人化を否定し、規範意識の形成等による社会化等を説く議論が蒸し返されてきたといえる。
 このような個人化/社会化の二項対立と無限循環の問題は根が深い。この二項対立は個人にも深刻な影を落としている。他者との同質化というある種の社会化過程が、自己の異質性等をかなぐり捨ててでも実現しなければならない重荷として意識されている。
 しかし、このような状況だからこそ、青少年教育施設特有の教育機能は重要である。前述のような究極的には「個人がどのように生きていくか」につながるような「他者との出会い」を通して、結果的には社会化を促すというその教育機能は、青少年およびそれを取り巻く社会が直面する個人化/社会化の二項対立を実践的に乗り越える可能性をもっているからである。

5 団体宿泊訓練への新たな理解

 1996(平成8)年、中央教育審議会答申は、子どもたちの「生きる力」の育成を求めるとともに、「教育は子どもたちの『自分探しの旅』をたすける営み」と述べた。これを受け、当時の国立中央青年の家所長内田忠平は、「共に食べる・寝る・遊ぶ・風呂に入る・仕事をする」といった活動を、青年の家特有の「人と人との絆を作る上で最も基本的な要素」とし、「青年の家は『生きる力』をはぐくむための重要な基地」とした。35)
 そして、次のように「たまり場」の意義を提唱している。以前ならば「厳しい研修のイメージ」が先行し、「もう二度と行きたくない」という意識が利用者に先立ったが、「たまり場機能」を提供することによって、「あの研修はつらかったけれど、青年の家には素敵な場所がいっぱいある。今度は個人として自由に使ってみたい」というイメージを残すことが可能になる。36) これは学校側や企業主に「連れてこられる」青少年教育施設の、社会教育施設としての矛盾と苦悩をよく表していると同時に、それを乗り越えて徹底的に個人的ニーズに対応することによって、本来の「自主活動」を取り戻そうとする青年の家側の意思を示すものととらえられる。
 現代青少年の個人化傾向を否定的にしかみないとすれば、それは施設側の自己否定にもつながる行為といえよう。むしろ内田のいうように、個人的ニーズにきちんと対応することによってこそ、施設特有の社会化機能につなげることができるのであろう。
 さらに、吉永宏は青年の家のもつ「官性と私性を超える公性」を指摘し、次のように述べている。「官性と私性は対立、緊張、背反を招く異質の存在として表面化することが多い。それは『近頃の若者は社会性に乏しい』または『施設側は官僚的で頭が古い』という双方からの非難をもたらす。したがって、今後の課題は青年の家の目的・目標にそった運営管理と青年の成長体験に『私』の貢献と参加をどのように確保、発展させるかであろう」。37) 本稿の趣旨に添って言い換えれば、吉永は、青年の個人化と社会化の統合的発展の結節点として、「公性」という特性を指摘したものと考えられる。
 自らが所属する「団体」という枠組みを越えたところに「社会」があり「公共」がある。「訓練」する者とされる者との分裂を埋めるものとして「対話」があり、さらには「参画」がある。そして、それらの究極的な主体はあくまでも個人であり、その個人化は、敬遠されるどころか、より望ましい社会化につながるものとして歓迎され、支援される。
 青少年教育施設の伝統ともいえる「団体宿泊訓練」は、このような新たな展開によって、今日の時代に不可欠な独自の教育機能として蘇るのだと考えたい。

1)「国立青年の家の管理運営について」(文部省社会教育局長通知)1996.
2)「国立少年自然の家の管理運営について」(文部省社会教育局長通知)1996.
3)「文部省設置法の一部を改正する法律案」1959年2月3日、『衆議院内閣委員会議事録』第4号。宮本一「日本の青少年教育施設発展の歴史的研究」、『大正大学研究紀要』第85号、2000、p.351.
4)1999年青年の家・少年自然の家調査。澁谷健治・池田尚「青少年教育施設における社会教育事業の現状と運営改善」『国立オリンピック記念青少年総合センター研究紀要』第1号、2001、p.151-160.
5)「全国青年の家実態調査」全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第22集、1994, p.140-141. 1993年度で、勤労青年12.1%、小・中学生34.4%。
6)足立浩「青年の家の源流」、『国立中央青年の家紀要第1号』1964。全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第12集、1983に再掲、p.163-171.
7)上野景三「青年期施設の変遷と課題――倶楽部から公民館、青少年教育施設へ」日本社会教育学会『日本の社会教育』第46集、2002、p.38-50.
8)野村壽夫他「青年の家の発展と今日の基本的性格」、全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第12集、1983、p.8-9.
9)宮本一、op.cit.、p.356-359.
10)野村壽夫他、op.cit.、p.11.
11)全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第1集、1973、p.111-113.
12)宮本一、op.cit.、p.347-349.
13)松下倶子「国立青少年教育施設独立行政法人化へ」『青少年育成研究紀要』第1号、日本青少年育成学会、2001、p.79-81.
14)全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第30集、2002のうち、「都道府県・政令指定都市における青少年教育施設への行政の取組み」p.5-50.
15)国立青年の家・少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議「国立青年の家・少年自然の家の改善について――より魅力ある施設に生まれ変わるために」報告、1995、p.6.
16)独立行政法人国立青年の家「中期計画」2001.
17)野村壽夫他、op.cit.、p.27-29.
18)「生活指導と研修指導」全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第3集、1975、p.29.
19)「振興への具体的方策をさぐる」全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第2集、1974、p.151-153.
20)Ibid.、p.144-149.
21)吉川弘「主催事業の意義」全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第13集、1985、p.10-11.
22)野村壽夫他、op.cit.、p.29
23)「資料から見た青年の家」『東京都青年の家紀要』vol.16、2001、p.16.
24)澁谷健治・池田尚「青少年教育施設における社会教育事業の現状と運営改善」、『国立オリンピック記念青少年総合センター研究紀要』第1号、2001、p.158-159.
25)国立青年の家・少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議、op.cit.、p.12.
26)全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第1集、1973、p.4-5.
27)「振興への具体的方策をさぐる」、全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第2集、1974、p.142-144.
28)全国青年の家協議会、1975、op.cit.、p.29.
29)野村壽夫他、op.cit.、p.23-25.
30)「全国青年の家実態調査」全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第22集、1994、p.154-155.
31)坂本登「4つの課題と青年の家」全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第23集、1995、p.11.
32)青少年教育施設ボランティア研究会(加藤雅晴座長)『青少年教育施設ボランティア養成プログラム開発に関する調査研究報告書』1998. 事務局:国立信州高遠少年自然の家「はじめに」
33)Ibid.、p.58-59.
34)国立青年の家・少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議、op.cit.、p.6.
35)国立中央青年の家所長内田忠平「青年の家将来考」全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第25集、1997、p.90-91.
36)Ibid.、p.100.
37)吉永宏「地域に根ざす青少年教育施設の在り方」全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題』第25集、1997、p.13-14.
徳島大学大学開放実践センター紀要
 第14巻(2003)


学習ニーズの動向とプログラム提供のあり方
−受講者アンケート調査をとおして−


西 村 美東士

The trend of learners' needs and the learning program:
from Course Evaluation Investigation


Mitoshi Nishimura


1 調査の目的と方法

(1) 調査目的
 徳島大学大学開放実践センターでは、センターが開設している受講者や講座担当講師を対象にアンケート調査を定期的に実施している。平成6年度には、受講者を対象とした第2回目の調査を行うとともに、担当講師を対象としたはじめての本格的な調査を実施した。両調査の結果の一部は『センター紀要』第7巻に報告されている。また、平成9年度には、調査項目を大幅に見直して、今後の講座編成や大学事業の展開において参考となるよう質問を新設し、受講動機と受講満足度についての考察を深めた。平成12年度はこの成果を継承するとともに、新しい時代の変化に対応できるような調査・分析を目指した。
 本調査は既存受講者へのアンケートにより、新規施策に対する受けとめ方を探ろうとしたものである。新規施策としては、センター内の議論においては、インターネットによる遠隔講座、市民研究員制度、リカレント講座、市民参加型の学習や経営参画、クレジット付与講座などが考えられている。
 市民自身がこれらの新規事業を求めているのか。センターが目指す内実とは、違うことを市民が求めているとしたら、それは何なのか。もちろん、「現在の受講者層は求めていなくても、違う層が求めているかもしれない」と考えることはできる。しかし、現在の受講者層にアピールしないとしたら、ほかの人々にはもっと訴求力の弱いものであるという結果も予想できる。
 そこで、既存の受講者層が私たちの企画する新規事業にどのような意味をもって「参加意欲をもつ」のか、本調査で明らかにしようとした。
(2) 調査の方法
 郵送法
(3) 調査期間
2001年4月17日から30日まで。

2 調査内容

 調査項目は以下のとおりである。
(1) 学習ニーズと行動
 受講科目の分野
 大学開放以外の学習行動・市民活動
(2) 調査事項
@ 公開講座の受講理由
大学開放の魅力
公開講座受講の理由
大学教員との接触希望
A 研究や研究発表に関する希望
高等教育レベルの学習への戸惑いの要因
研究及び研究発表で希望する内容と方法
B 学習者同士の交流に関する希望
受講者同士の交流の体験内容
他者との意見交換に関する阻害要因
他者との意見交換への希望
C 仕事に関わる学習に関する希望
仕事や今の生き方のための学習に関する希望
希望するライフワークと過去の職業履歴との関連
D 公共的課題の学習に関する希望
市民の学習が必要だと思う公共的課題の内容
自分が参加したいと思う公共的課題の学習方法
E 単位や資格の取得に関する希望
公開講座修了時の単位認定への希望の有無
資格取得や単位認定によって期待できること
(3) センター経営関連調査
 公開講座パンフレットへの要望
 希望する受講登録・受講料納入手段
 その他、フェースシートなど

3 回答者の概要
 ―受講分野はパソコン、文化芸術、健康スポーツの3本柱―

 調査対象は2000年度受講者1028人(市内575・市外453)であった。有効回収数は485件で、回収率は47.2%であった。
 回答者の平均年齢は56.9歳であった。回答者のうち女性が317人(65.4%)で約2/3を占めた。新規受講者は164人(33.8%)で約1/3であった。
 回答者の受講分野(「1年間で大学開放実践センターで受講した科目の分野」)は図表3-1に示したとおり、受講者数からいえば、パソコン、文化芸術、健康スポーツの3本柱が主体で、次に語学であることがわかる。

分野 人数 %
パソコン 137 28.2%
文化芸術 135 27.8%
健康スポ 130 26.8%
外国語 78 16.1%
社会 37 7.6%
心理 33 6.8%
科学技術 31 6.4%
職業 14 2.9%








図表3-1受講分野(複数回答)

4 当センター以外での受講は公的機関が4割で、文化芸術、健康スポーツの2本柱

 1年間で大学開放実践センター以外で受講した講座のうち、3回以上継続して出席した講座の主催者を尋ねたところ図表4-1の結果を得た。
 当センター以外では講座を受講していない人は15%にも満たない点に注意したい。また、受講講座の主催者はおよそ公的機関4割、民間機関やサークル2割強、他大学1割弱である。ここで「公的機関」は「教育委員会、公民館、その他公的機関の開催する学級・講座」としており、その参加者が公開講座受講者全体の4割に迫るという点に注意したい。この結果は、大学公開講座が、他機関とりわけ公的機関との関連性や独自性を配慮したり、さらにはそれとの連携を進めたりする必要を示唆するものと考えられる。
主催者 人数 %
公的機関 193 39.8%
民間機関 124 25.6%
所属サークル 103 21.2%
なし 69 14.2%
大学・高校 41 8.5%
他サークル 37 7.6%
個人教授・塾 32 6.6%
PTA 13 2.7%
会社・組合 11 2.3%









図表4-1センター以外の受講講座の主催者(複数回答)

 次にそこでの受講講座の分野を尋ねたところ、図表4-2のとおり、文化芸術、健康スポーツの2本柱が浮かび上がった。当センターの受講分野ではパソコンが3本柱に入っていたのは、センターが他の機関、とくに公的機関に先駆けてパソコン講座を実施していたからととらえることができよう。
 また、同様の視点からとらえるとするならば、社会、職業、心理、科学技術については、たんにニーズが少ないからという理由だけではなく、「大学公開講座も、公的機関の主催する講座も」不十分だったからという理由も考えられる。大学公開講座の独自の高等教育としての役割発揮が望まれるところであろう。

分野 人数 %
文化芸術 162 33.4%
健康スポ 140 28.9%
外国語 58 12.0%
パソコン 57 11.8%
社会 30 6.2%
その他 27 5.6%
職業 18 3.7%
心理 11 2.3%
科学技術 7 1.4%











図表4-2センター以外の受講講座の分野(複数回答)
5 センターの講座の魅力は気楽、安さ、講師陣

 「大学開放実践センターで開かれている公開講座について、あなたが魅力を感じる項目」を尋ねたところ、図表5-1の結果を得た。
魅力項目 人数 %
気楽に学べる 272 56.1%
受講料安い 219 45.2%
講師陣の質 179 36.9%
交通便利 114 23.5%
徳島大学だから 104 21.4%
種類が豊富 101 20.8%
高度な専門性 92 19.0%
わかり易さ 79 16.3%
最先端学問 39 8.0%
施設設備の質 31 6.4%
学生と交流 20 4.1%
その他 12 2.5%













図表5-1センターの講座の魅力(max=3)

 大学の敷居が高いままでは、大学開放も市民の支持を得ることはできない。「気楽に学べる」が唯一過半数の受講者が肯定する項目であったことは、そのことを如実に示す結果と考えられよう。そして、講師陣の質、高度な専門性などの高等教育としての独自性も、決して不要ということではなく、「気楽に学べる」という前提があってこそ生きてくるものと解釈すべきなのであろう。

6 学習仲間を通して大学教員と学問の話を、センター教員とは受講テーマを深めるための相談を

 「講座以外で大学教員とどのような交流をしたいか」尋ねたところ、図表6-1の結果を得た。大学教員とは、学習仲間を通して交流したい、専門分野からの助言を得たい、心の交流より学問の話をしたいという願いをもっているということができる。
 また、「あなたがセンターのスタッフに相談したい内容はなんですか」と尋ねたところ、図表6-2のとおり、「受講したテーマを深めるための相談」が群を抜いてトップであった。
 以上のことから、一般の大学教員に対しては、それぞれの専門性に応じた学問の話を求めるとともに、センター教員に対しては、学習支援者としての役割を発揮するよう求めていることがわかる。大学教員としてはそれぞれの立場からの構造的な取組みが必要になるといえよう。

希望する交流 人数 %
教員と学習仲間との交流 208 42.9%
専門分野からの助言 194 40.0%
学問に関する広い会話 158 32.6%
心通じるおしゃべり 91 18.8%
教員と一対一で交流 8 1.6%
その他 16 3.3%












図表6-1大学教員との交流希望の内容(max=2)
相談したい内容 人数 %
受講テーマを深める 207 42.7%
広く学問の様子知る 131 27.0%
公開講座情報 126 26.0%
サークル活動 64 13.2%
資格単位取得 53 10.9%
ボランティア 42 8.7%
徳島大学情報 17 3.5%
教官の情報 15 3.1%
その他 14 2.9%










図表6-2センタースタッフに相談したい内容(max=3)

7 半数の人が何かを研究したいと思っている

 図表7-1に示したとおり、半数以上の人が「(センターまたは他のところで個人的に)何かを研究したいと思う」とした。希望する研究方法としては、図表7-2のとおり、「初心者でもわかりやすく」がもっとも多かった。また、「じっくり時間をかけて」や「一生のテーマを見つけたい」も10%以上あった。希望する研究内容としては、図表7-3のとおり、生活を豊かにするため、広く教養・趣味・文化・芸術を希望する人が多かった。「社会をよくする」も13.0%あった。しかも、187人(38.6%)が研究テーマを具体的に記述しているのである。
 このことから、ライフワークとして、特定の生涯学習に本格的に取り組みたいという要望と素地があることがわかる。大学開放においては、一斉講義型とは異なる、個の研究欲求に応える学習支援方策をも検討することが求められているといえよう。


はい 247 50.9%
いいえ 181 37.3%
無答 57 11.8%







図表7-1何かを研究したいと思うか

希望する研究方法 人数 %
初心者でもわかるように 129 26.6%
長期間かけてじっくり 89 18.4%
関連分野を幅広く 82 16.9%
一つの分野に絞って 69 14.2%
一生のテーマ見つけたい 69 14.2%
研究仲間をつくりたい 41 8.5%
今の課題を解決したい 39 8.0%
学問的に高度な研究を 35 7.2%
短期間で修了したい 21 4.3%
論文を作成したい 17 3.5%
研究成果を発表したい 15 3.1%
その他 2 0.4%



















図表7-2希望する研究方法(複数回答)

希望する研究内容 人数 %
生活豊かに 118 24.3%
広く教養を 102 21.0%
趣味的内容 98 20.2%
文化・芸術 96 19.8%
生き方考える 80 16.5%
実用的内容 68 14.0%
社会をよくする 63 13.0%
職業資格仕事 47 9.7%
ものを製作 34 7.0%
原理的内容 21 4.3%











図表7-3希望する研究内容(複数回答)

8 他者と出会い、学習仲間を見つけたい

 「この1年間で、講座の時間外に受講者同士で交流した体験はありますか」との問いに対して、「他の受講者と30分以上、おしゃべりしたことがある」が30%以上、「講座のテーマに関連した話題で意見交換をしたことがある」が20%弱、「センター以外の場所で、受講者同士で、自主的な勉強会をしたことがある」、「受講者同士で誘いあって、ほかの機関が主催する講座に出かけたことがある」もそれぞれ10%以上の回答があった(図表8-1)。
 公開講座のもつ、学習仲間と出会うチャンスとしての役割を自覚する必要がある。

受講者同士の交流実態 人数 %
30分以上おしゃべり 146 30.1%
テーマに関連して意見交換 96 19.8%
センター以外の場で勉強会 55 11.3%
他機関の講座に一緒に参加 53 10.9%
その他 53 10.9%










図表8-1講座時間外での受講者同士の交流(複数回答)
 さらに、希望する交流内容を尋ねたところ、図表8-2の結果を得た。ここで「自分とは異なる考え方や価値観にふれること」がトップの43.3%であることに注目する必要がある。
 「新しい友達や仲間を見つけること」、「講座のテーマに関連した、気楽なおしゃべり」、「講座での学習を深めるような情報や意見の交換」も同様に高率の支持を獲得している。しかし、それらのニーズの背景には、学習仲間の同一性を志向する「コミュニティ」というよりは、異なる個性を歓迎し交流しあおうとする「ネットワーク」が指摘できるのではないか。

希望する交流内容 人数 %
異なる考え方・価値観にふれる 210 43.3%
新しい友や仲間を見つける 199 41.0%
テーマ関連の気楽なおしゃべり 194 40.0%
学習を深める情報・意見の交換 186 38.4%
気持ちが通じ合うおしゃべり 131 27.0%
定期的な勉強会 70 14.4%
インターネットやファックス 58 12.0%
受講仲間の企画で公開講座開設 28 5.8%
掲示板での交流 17 3.5%
その他 8 1.6%














図表8-2希望する交流内容(複数回答)

9 高齢化、地球環境などについて学びたいが、難しいのが心配

 「市民として現代社会において必要な学習」のテーマ(現代的課題)を挙げ、「あなた自身が受講したいテーマ」を回答してもらった。その結果は図表9-1のとおりである。
 次に、「受講したいと思わない講座があるとしたら、その理由は何か」と聞いた。その回答結果は図表9-2のとおりである。現代的課題の講座を受講したくない理由は、生涯学習意識調査にはよくありがちな「忙しい」という消極的理由を大きく超えて、「難しそうだから」、「楽しくなさそうだから」という理由が受講者からいわば「積極的」に示されたのである。
 このような実態を把握するならば、公開講座提供側としては、学習の必要性を上から説くのではなく、自ら「現代的課題」の枠組みや内実に精通することによって、その学習の本当の意味での「楽しさ」をリアリティをもって「わかりやすく」説明しなければならないといえよう。

希望テーマ 人数 %
高齢化社会 171 35.3%
地球環境 142 29.3%
国際理解・交流 96 19.8%
家庭・家族 84 17.3%
科学技術情報 78 16.1%
共生バリアフリー 74 15.3%
生命倫理 63 13.0%
地域の連帯 59 12.2%
資源エネルギー 58 12.0%
消費者問題 54 11.1%
まちづくり 50 10.3%
児童・青少年 48 9.9%
子育て支援 38 7.8%
男女共同参画 30 6.2%
人権 29 6.0%
人口・食糧 27 5.6%
その他 19 3.9%
交通問題 11 2.3%
知的所有権(著作権) 6 1.2%





















図表9-1現代的課題の受講希望(max=3)

受講阻害要因 人数 %
難しそう 143 29.5%
楽しくなさそう 94 19.4%
忙しい 62 12.8%
自分で学ぶ 35 7.2%
他の講座で学ぶ 21 4.3%
受講料が高い 19 3.9%
その他 61 12.6%









図表9-2現代的課題の受講阻害要因(複数回答)
10 受講者の多様な「個」に積極的に対応することによって、国立大学としての公共的役割をいっそう発揮する公開講座の実現を

 本調査では、すでに述べたように、当センターの公開講座受講者のうち、半数は何かを研究したいと思っており、さらには受講者全体の40%にも上る人々が「研究したいテーマ」を具体的にもっていることがわかった。
 従来、公開講座では、とくに座学においては、マス(集団)に対する一方的な講義を提供し、それだけでも受講者からはある程度の満足を獲得していたといえるだろう。しかし、公的機関や民間機関等によって、多様な学習機会が提供され、充足されるようになり、さらには、受講者の側も、今回の調査に見られるように、それを超えた、より個人的な研究やライフワークへの願望を自覚するようになってきた今日、公開講座提供側は、従来の「講座」の枠組みを越えた対応を図らなければならないと考える。
 たしかに、多様な「個」への対応というと、ややもすると、現代社会において個人個人をいっそう分断し、学習テーマの際限ない細分化を進めるだけの結果に陥るとして危惧されるのかもしれない。
 しかし、本調査で見てきたように、受講者は第1に、自己の研究や学習の中で、自己に閉塞するだけでなく、他方でしなやかなネットワークを求めているといえるのではないか。それは同質化により閉塞していく過去の「コミュニティ」ではなく、異質を歓迎するゆるやかで互いに自律的な関わりと考えられるのである。第2に、社会とつながることを求めているのではないか。理解可能で、しかも楽しいことがわかれば、高齢化社会や地球環境のことについて学びたいと考えていることが今回の調査で明らかになった。第3に、他者や社会に役立ちたいと思っているのではないか。「社会をよくする」ための研究を希望する人も13%いた。また、それ以上に多くの人々が、生涯学習、とりわけ集団学習のもつ特性から、学習成果の活用や社会貢献を求めるようになると考えられるのである。
 このように、受講者の多様な「個」に積極的に対応することは、ネットワーク形成、現代的課題の解決、社会貢献などに結びつく学習支援活動として展開することができると考えられる。このことは、国立大学の経営が今後、表面的にはいかに変わろうとも、国立の教育研究機関として本質的に求められる公共的役割を発揮することにつながるであろう。そして、それが、市民の生涯学習という個人的行為をとおした公共性の実現として結実することが期待できるのである。

徳島大学高度情報化基盤センター『広報』第9巻 2003.12発行

人と学びのネットワークとしての情報教育
 徳島大学大学開放実践センター教授 西村美東士


1 人生や生活上の課題と密接に関連し、人と人とをつなげるコンピュータ


 写真1 新規オープンしたネットワーク教室

 高度情報化基盤センター教育用システムとして、これまで割り当てのなかった大学開放実践センターにも20台のパソコンを割り当てていただいた。大学開放実践センターではこれを活用し、従来の1階の「コンピュータ教室」に加え、平成15年4月、2階に「ネットワーク教室」をオープンすることができた。そのおかげで、平成15年度前期(春期・夏期)だけでも、既存の教室を含めて表1のようにバラエティ豊かな公開講座を開くことができた。
 「ネットワーク教室」のパソコンは写真1のとおり、グループで交流したり、共同作業したりすることができるような配置になっている。
 社会教育(学校教育以外の教育)では、「教える人は学ぶ人、学ぶ人は教える人」という合い言葉がある。また、知っていることを「知らない」と言い、知らないことを「知っている」と言うのがエセ・インテリの特徴といわれるが、学問の世界でも、知っていることは「知っている」と言って人に教え、知らないことは「知らない」と言って人から教えてもらう態度が求められる。そういうことをこの教室で実現したい。
 表1のうち、私は「ホームページを作る夏期集中講座」を担当した。「講座ガイドブック」では次のように受講を呼びかけた。

 「インターネット時代は、発信型、双方向交流型の交友関係が重要になると思われます。ホームページを見ているだけでは物足りなくなった方、どんなことでも結構ですからホームページで表現してみませんか。ご自分の趣味、ライフワーク、子育てなど、表現を工夫して楽しいホームページを作りましょう。それによって、共感しあえる仲間のネットワークが広がり、ご自身もあらためて自分の存在を確認することができることでしょう」。

 大学開放実践センターがサービスしている生涯学習の場面では、コンピュータは人生や生活で直面する課題をよりよく解決するための道具として使われる。

講  座  名 講     師
初めてのパソコン(Windows) −基本編 高度情報化基盤センター 大塚俊作
初めてのパソコン(Windows) −応用編 高度情報化基盤センター 大塚俊作
ホームページビルダー実践講座 (株)スタンシステム 大塚淑子
インターネットでビデオ配信しよう 鳴門教育大学情報処理センター 曽根直人
はじめての、デジタル写真活用 高度情報化基盤センター 高橋都郎・他
JavaScriptを用いた動くホームページ作成講座 工学部 葉田善章
ネットワーク管理者入門 ―PC-UNIXインストール編 大学開放実践センター 金西計英
自宅からインターネットに挑戦 ―常時接続インターネットの基礎知識 大学開放実践センター 金西計英
エクセル講座(初級)関数とグラフを使って入門脱出 大学開放実践センター 川野卓二
エクセル講座(初級)分析ツールを使ったデータ分析T 大学開放実践センター 川野卓二
ホームページを作る夏期集中講座 ―ホームページビルダーを使って 大学開放実践センター 西村美東士
生活・健康・環境−インターネットで調べよう!結果はワードとエクセルでまとめよう! 大学開放実践センター 森田秀芳
徳島大学PCスキル技能認定ToPS(トップス) 大学開放実践センター 吉田敦也
情報システムでNPO、ベンチャービジネスやってみよう! ―地域情報化入門 大学開放実践センター 吉田敦也
ホノルルマラソンをインターネット中継しよう!―生活情報システム入門1― 大学開放実践センター 吉田敦也
表1 平成15年度前期に開設された「情報技術」ジャンルの公開講座



2 言語能力を育てるコンピュータ活用
 私は工学部夜間主の全学共通教育授業「情報科学」を担当している。本授業はコンピュータをとおしたコミュニケーション能力を身につけることを目的としている。また、パワーポイント等のプレゼンテーションソフトには限定せずに、自分が身につけたパソコン技能を駆使してプレゼンテーションを行わせている。このことによって、コンピュータを主体的に使いこなして、職業人や市民として自分の個性を社会で発揮することのできる資質・能力を養おうとしているのだ。
 本年度の演習の課題としては、若者として社会、わが国、わが町、わが職場、わが大学、わが家の「どこをどうしたいか」を取り上げ、「若者から社会への発信」としてプレゼンテーションさせた。そこでは「なぜ私はそうしたいのか」ということに気づくことが大切であり、それが個性あるプレゼンテーションの根本になる。
 よりよいプレゼンテーションのため、各自ホームページでの探索を行うほか、インターネットの電子掲示板やチャットを利用して、若者が抱えている課題一般について、受講学生同士で受発信する。さらに、記事内容を編集したり、インターネット上の交流で成果をまとめたり、他者の作業を支援したりすることによって、バーチャル空間でのコミュニケーションや協働を行うにあたって必要な態度・資質・能力を身につけさせようとしている。
 学生にはシラバスで次のように呼びかけている。

 「この授業で支持的風土のインターネット交流を気軽に楽しんでください。文字入力やその他の具体的な操作が不得意な人も、自分の技能の範囲で実際にどれだけパソコンを使いこなせるかこそが重要になります。場合によっては、できないところは人に頼んでもかまいません。肝心なのはあなたの企画能力です」。

 このように、私は「パソコン操作能力の習得」もさることながら、パソコンで何ができるかを知った上で、それをどう活用するかを企画し、その企画を実現するために人に頼むなどの力が社会では求められていると考えている。その基本となるものは言語能力だといえよう。
 現代社会、とくに若者を取り巻くメディア環境におけるインターネットの普及状況にはめざましいものがある。私は一般の大学授業や看護学校における情報科学以外の科目でも、レポートや意見交流にeメールやiモードを利用している。
 ちなみに、このとき、顔文字の書き込みや閲覧を禁止はしていないが、学生の発言記録編集時には当方で勝手に削除してしまう旨、学生にあらかじめ伝えてある。「うれしいから(^^)」ではなく、うれしさに関する自己特有の「枠組」をも表現してこそ、「どのようにうれしいか」が伝わるのである。
 通常使われている言語だけでどこまで表現できるかが、彼らの学習課題だと私は考える。効果的な指導法を追求することにより、言語能力を育てる適切な道具としてコンピュータを活用したい。

3 若者の「自分らしさ」願望に対する情報科学の授業
 教育の重要な機能として「社会化」があげられる。他方で、学習者側には「自分らしく生きたい」という願望が強くなっている。
 私は大学教育学会「大学教育学会誌」(2000年11月)において、研究報告「ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高める授業方法」を行ったことがある。そこでは、第1は、ワークショップ型授業によって、即自から対自へ、対自から対他者へというステップで学生の気づきが促される過程を明らかにした。さらに、対他者から再び対自や即自のより深い気づきへと循環する過程を明らかにした。第2は、学生の自己決定能力の到達段階の把握に基づく戦略的な指導内容と授業構成の必要性を明らかにした。
 2001年度の大学教育学会では、それをもとに、「情報科学」の授業におけるインターネットを通したコミュニケーションによるワークショップ型授業を分析し、その結果を発表した。当該授業は、インターネットのもつ匿名性を利用して他者との関与を深め、「自分らしさ」への気づきを促そうとしたものである。そこでの対自、対他者、即自の気づきのための有効な指導のあり方を論じた。
 「自分らしさ」は、大多数の学生がいわば「自明」のものとして望んでいる。しかし、その内実は他者や社会のなかでの位置づけを欠いたものであることが多い。コンピュータやインターネットを通したワークショップ型授業のなかで、その「自明性」に疑問をもたせ、さらには、他者や社会との関わりのなかで「自分らしさ」を位置づけていくことが重要である。
 現代青年の意識と行動の傾向を考慮した場合、匿名性のネットでなら、対面では控えがちな次のような内容の発信ができると想定された。

@ 普段なら友達から揶揄されるような、自己の内面に関わる話。
A 正義感あるいは偽善と見られたくないため避けていた、社会性、公共性のある話題に関する話。
B 「見知らぬ他者」との共感の表明や、反論などの相互関与。

 そのため、電子掲示板システム(BBS)でハンドルネームを利用することにより、グループワークや意見交換において、対面では得られない深い相互関与ができるという仮説を設定した。

4 ワークショップ型授業におけるコンピュータ活用の効果
 研究では、学生の電子掲示板及び電子メールでの発言内容の変化を、個人ごと及び時系列に沿って整理し、検討した。また、4回目以降のワークについては、メディア教育開発センター通信研修「学生による授業評価実践」の支援を受け、同時期に実施した共通教育科目教育学「大学・市民・ボランティア」とともに授業イメージを調査し、比較検討した。
 「大学・市民・ボランティア」の「自分らしさ」に関する「対面」によるGWの結果(2回分、延39名)を、本授業第8回の結果(36名)と比較し、次の結果を得た。講義より「自分の気持ちを表現したくなる」、「没頭できる」がともに3.06(2.72、2.63)で、より高い評価を得た(「そう思う」4、「ある程度そう思う」3、「あまりそう思わない」2、「そう思わない」1。カッコ内は対面の場合。以下同じ)。「自分の問題に気づける」3.17(3.18)、「自分に気づける」3.00(3.05)はほとんど変わらない。逆に「判断力が身につく」「リーダーシップが身につく」は中間値の2.50より低い否定傾向の2.42(2.85)、2.14(2.58)である。
 コンピュータを導入したワークショップは、対自については、対面GWに匹敵する気づきをもたらすものであるといえよう。コンピュータを介することによってワークに「没頭」でき、自己表現もしようとする気になる。しかし、そのことは、対面よりも理性的、能動的に他者に関与することにはつながらなかったと考えられる。
 次に学生の交信内容を分析し、以下の結果を得た。「自分らしさの判断基準」について、最初は「人とは違ったことをする」、「人に流されない」などの意見が多かった。しかし、教師からの「マイルームにいるときの自分が、一番自分らしいということでよいか」という問題提起や、「自分らしさは大切だが、みんなと違うことは恐い」、「人の意見に流されやすいのも『自分らしい』といえる」などの学生間の交信を経て、「自分らしさを見つけるには他人が必要」、「人と交流することで、自分の知らない自分を知る」などの発言に至った。
 しかし、他方で、この流れに関与せず、最後まで「自分が自分らしいと感じること」などの即自的な結論にとどまる者も数人いた。これは、コンピュータを介したWS(=ワークショップ)においては、交流への参加度が、対面よりも他者の影響を受けにくいことの表れと考えられる。対面でなければ、自己内処理だけで完結することが容易なため、学生によっては、自己とは異なる他者の見解を自己内でとらえ返すことのないまま発信し続ける現象が生ずるのだろう。

5 学生同士のコンピュータによるコミュニケーションに対する教師の指導のあり方
 本授業で教師は、「マイルームでの自分らしさ」の自明性に疑義を提起し、また、テーマを「自分らしさ」に限定して交信させた。これは、普段の対他者関係においては話題になりにくいが、潜在的には知りたい事柄と考えたからである。実際に本授業において、このような教師の「揺さぶり」や「枠組の提示」によって、彼らが苦手とする相互関与を促す一定の効果が見られた。
 しかし、今日の多くの学生は、仲間以外の他者とのコミュニケーションに対して「苦手意識」をもっている。今回の授業では、コンピュータを介して匿名性を保障されても、その意識自体が解消されるわけではないことが示された。その根底には、他者に対する基本的信頼感の欠如があると考えられる。このことは、対面WSにしても、ネット上のWSにしても、共通の問題としてとらえることができよう。
 他方で、「内面性」「社会性」に関わる話題の展開に関しては、一定の側面からはコンピュータの導入の効果があったといえる。教師は、この効果をよりいっそう意識的に活かすことによって、異なる価値観をもつ他者への共感を促進し、信頼能力を培い、これを自己への信頼感へと還流させることが必要である。このようにして、自己や他者への気づきが深まる過程のなかで、より他者や社会との位置づけをもったものとしての「自分らしさ」が確立されることが期待できる。コンピュータを導入したWS型授業においては、教師は、ネット上での学生同士の交信に対して、役割提供、表現支援、受容、揺さぶりなどの指導機能をいかに有効に発揮するかが重要な課題になる。
 そのためには、一人一人の学生の対自、対他者の気づきの到達段階を教師が把握する必要がある。これを、「自分らしさ」に関する認識の深まりの段階に応じて、次のように整理しておきたい。

@ 即自の段階  ・・・自分が「自分らしい」と感じることが「自分らしさ」であるとする。
A 対自己の段階 ・・・「自分らしさ」の自明性を疑う。
B 対他者の段階 ・・・「自分らしさ」が、他者との関わりのなかで育まれることに気づく。
C 対社会の段階 ・・・自己の「自分らしさ」を、社会との関わりのなかに位置づける。

 この4段階は一方向のものではなく、むしろ循環して深まっていくものである。場合によっては@の深まりに戻るような気づきも含め、その循環をいかに有効に支援するかを検討する必要がある。

6 ネットワークにおける支持的風土形成の重要性
 上記の発展を阻害する最大の要因として「ピアコンセプト」(仲間と同一化して仲良くしようとする意識)を挙げたい。これは立場、意識、考え方などが相手と同質であることを確認しあって安心しようとするマイナスの側面をもつ。この志向こそ、個を発揮するネットワークを阻害する要因と私は考えている。
 さらにこの志向は次の防衛的風土(J・R・ギッブ)につながりやすい。

 「仲間としては、恐れや不信がみられる。例えば、自分がこの集団に適応していないと恐れ、律法主義になり、枝葉末節にこだわり、かばいあう徒党が互いにせめぎあい、一方ではやたらに同調性がみられる」。

 民間のBBSやチャットの世界も、その多くが「ピアコンセプト」や「防衛的風土」に冒されているように私には思える。
 教師は、学生に仲間への同調を求めるのではなく、相異なる自他への受容を促し、次のような「支持的風土」(同上)を形成するよう働きかける必要がある。

 「仲間としては、自信と信頼がみられる。例えば、自分がこの集団に適応しているという自信に満ち、みせかけを装う必要が少なく、感情と葛藤を気楽に示し、仲間に同調しない場合もそれを率直に示すことができるが、メンバーに肯定的な感情をもっている」。

 この支持的風土は、目標追求としては、「自発と多様が多い。例えば、その追求の方法は、正直で、率直で、開放的で、上下、左右のコミュニケーションが多く、積極的な参加が多く、全員が自発的・創造的に仕事にかかり、多様な評価がなされる」といわれる。
 学生同士のコンピュータによるコミュニケーションに対しても、教師はこのような風土の形成に心がける必要があるといえよう。

7 「いつ・どこ・だれ・なに」の生涯学習と情報インフラ整備
 生涯学習では「いつでも、どこでも、だれでも、なんでも」という合言葉が使われる。これは、オープンマインド(自他への基本的信頼に基づく開かれた心や態度)に支えられていると考えられる。これまで述べてきたような情報教育や、「いつ・どこ・だれ・なに」の生涯学習の観点から、情報教育のためのインフラ整備について、個人的ではあるが考えを述べておきたい。
 第1に、学生の冒険や失敗を許容できる柔軟なシステムにしてほしい。
 青少年教育(青少年に対する社会教育)の場では当然ながら「安全教育」が重視されてきた。自らの命や体を大切にすることを教えるのである。青少年教育のその使命は今も変わらないが、最近はそれに加えて「冒険教育」の重要性が叫ばれるようになっている。自らの頭と心を総動員し、身の危険を感じながらもチャレンジするという体験が、青少年の「生きる力」につながると考えられる。
 コンピュータについては、身の危険を感じるような「冒険」はあまりないだろうが、より自由にアップロード、ダウンロード、受発信ができ、いろいろな操作上の失敗ができるシステムが必要だと考える。
 「こわれないようにする」から、「こわれてもすぐ直せる」になったらと思う。
 第2に社会教育でいう「集団学習」ができるような施設・設備にしてほしい。
 社会教育では「集合学習」を「集団学習」と「集会学習」に区分けしている。集団学習では、ただ集まるだけでなく、学習者同士の関与(相互教育)が期待される。そして、学級・講座などは「集団学習」として位置づけられるのである。学内の「集合学習」もそうであってほしい。
 また、ワークショップの特徴の一つとして「笑いが絶えない」が挙げられる。1台のパソコンを囲んで、5人程度のグループがわいわい騒ぎながら、何か成果物をつくりだす。そういう光景が学内のあらゆるところで見られるようになると楽しいだろう。
 貸出用ノートパソコンを多数備えて、学内のすべての教育の場でコンピュータが使えるようにしておけば、それは実現可能と考える。
 公開講座や大学授業の情報教育の場で、「支持的風土」による「集団学習」が盛んになることを願っている。

【関連自著文献】
「パソコン・パソコン通信と青年」(高橋勇悦編『メディア革命と青年』p109-141) 恒星社厚生閣 1989
『癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方−』 学文社 1997
「ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高める授業方法」 大学教育学会『大学教育学会誌』22巻2号 p194-202 2000
クドバスを活用した子育て学習の内容編成
−高校生の子をもつ親のために−
(2004/12/10受理)
西村美東士

聖徳大学生涯学習研究所紀要『生涯学習研究3』(2005年3月)原稿



1 研究の意義
1-1 高校生の子をもつ親への「子育て支援」
 現在、少子高齢社会の活性化方策の一環として、「子育て支援」「次世代育成支援」の必要性が盛んに指摘されている。また、乳幼児期から児童期の子育てについては、PTA活動を含め、その支援の取り組みが行われ、実際にある程度の成果を挙げていると考えられる。
 しかし、高校生の子をもつ親は、小・中学校区でのPTAや公民館等での取り組みからも外れて、孤立して悩んでいる状況があると考える。あるいは、子が高校にまで至ると、児童期までと比べて「これ以上は変容する可能性はない」とあきらめている者も多いと推察される。
 高校生に対する親としての望ましい接し方は、けっして児童期までのそれよりも容易に習得できるわけではないことは言うまでもない。このようなことから、いわば「支援が手薄だった層」、「地域や子育て仲間から離れつつある層」としての高校生の子をもつ親に対して、「子育て支援」の一環としての学習機会提供事業を実施することの意義は大きいといえよう。そして、そのために、研究面においては、効果的な学習内容編成に関する研究が急務であると考える。

1-2 子育て学習の内容編成作業の組織化
 子育て学習の内容編成の現場では、ほとんどの場合、一人または少人数の事業担当者がその作業にあたっていると考えられる。もちろん、担当者に研修・研究の機会が与えられ、その成果を反映させているということは大いに考えられよう。しかし、その場合でも、一番重要な学習内容編成の最終段階においては、結局は自己の経験と主観に頼って作業せざるをえないのが実践現場の現実といえよう。
 本研究では、後述の「クドバス」という手法を導入し、その作業をグループワークとして組織的に行うことを試みる。そのことによって、学習プログラムがより組織的、合目的的、系統的に組み立てられるものと考えるからである。また、このような学習内容編成作業の組織化は、学習者参画型の学習機会提供にも道を開くものとして期待できる。市民参画型の学習機会提供事業は各地で試みられているのだが、それがプログラム作成の最終段階では結局は担当者と一握りの市民の手によるものであったという結果に陥らないようにするためには、このような学習内容編成作業の組織化が必要と考える。

1-3 学習機会提供事業の到達目標の設定
 本研究では、親として獲得すべき多様な能力を構造化し、それに基づいて学習内容を編成する。そのことによって1-2で述べたような「作業の組織化」が保障されるとともに、学習プログラムのなかのそれぞれの回について、獲得すべき能力を明示化することができる。
 このことにより、各回の目標の到達度をより適正に点検し、自己評価を行うことが可能になると考えられる。また、その学習プログラムのめざす「(親としての)最終的な仕上がり像」が構造化されて明らかにされることから、事業全体の到達目標の設定と評価も、より明確に行うことが期待できる。
 さらに、このような「目標の明示化」は、学習者の自己関与を促進する契機としても期待できる。
 かつて筆者は、「学習相談」の一形態として、「目標設定から学習評価までを一貫して学習者側と相互的に行うもの」を挙げたことがある。そこでは、「アメリカの学習契約(Learning Contract)などの事例があり 、わが国でもいくつかの市町村で『学習メニュー方式』などの実践の中にその萌芽が見いだされる」として、学習者個人の学習目標への自己関与の重要性を指摘した(1)。
しかし、このような自己関与については、わが国の社会教育等の実践においてはいまだ本格化されていないのが実態といえよう。その点で、学習目標の明示化は、学習者に対して自覚的学習行動と、学習目標への能動的関与を促す契
表 1 @ 学習プログラム作成課題シート
課題 下記の設定にしたがって学習プログラムを作成しなさい。
学習ニーズ  高校生は、自分の力で充実した生活を送り、また、親と相互に生活を支えあって、社会的自立に備えることが望まれる。しかし、そのための家庭の教育力が低下していると考えられる。このため、自分の子育てに問題を感じている親が、望ましい親像を理解し、それを実践できるようにする。
講座設定 講座名称 高校生の子を持つ親のための講座
受講人数 30人
受講期間 2005年9月6日(火)〜2006年3月14日(火)10:00〜12:00(28週)
ただし12月27日と1月3日を除く。初日はアイスブレーク。
受講時間 2時間×25週=50時間      
会場 S大学生涯学習センター(おもに50人規模の会議室を使用する)
合宿 学習時間の枠外で1泊2日の親睦旅行を行う(家族同伴可)
講座担当者 大学授業「家庭教育と社会教育」受講学生
受講対象 自分の子育てに問題を感じている高校生の子をもつ親
  @ 学習プログラム作成課題シート      
  A 必要能力・資質リスト        
  B 必要能力・資質構造図        
作成書類 C 科目別学習目標シート        
  D テーマ別学習目標シート        
  E 学習スケジュール表        
  F 学習設備・機器・物品準備計画書      


機になることが期待される。

2 研究の目的
2-1 能力分析
 本研究では、「職業能力分析」の手法を援用することにより、高校生の子をもつ親に求められる能力を分解してとらえた上でこれを構造化し、各科目の到達目標及び全体の「仕上がり像」が明示化された学習内容を編成して、学習プログラムを作成する。その成果の吟味により、学習内容編成において能力分析から積み上げていくことの妥当性を検討することを本研究の目的とする。

2-2 仮説の設定
 以上から、本研究では、次のとおり仮説を設定した。
 [高校生の子をもつ親の子育て能力を、「〜を知っている」(知識)、「〜ができる」(技能)、「〜の態度がとれる」(態度)の3種類の表現のいずれかで表記して、これを構造化することにより、明確な到達目標をもった効果的な学習プログラムを編成することができる。]

3 研究の方法
 2004年度後期の社会教育主事課程授業「家庭教育と社会教育」において、クドバスを活用して学習内容を編成し、その成果の妥当性を検討した。作成した書類は次の7点である。
@学習プログラム作成課題シート(表1)
A必要能力・資質リスト(表2)
B必要能力・資質構造図(表3)
C科目別学習目標シート(表4)
Dテーマ別学習目標シート(表5)


表 2 A CUDBAS必要能力・資質リスト「高校生の子をもつ親」(列・行ともに重要度順)




E学習スケジュール表(表6)
F学習設備・機器・物品準備計画書(表7)
 なお、作業にあたった者は、受講女子学生3人と指導教員である筆者の4人であった。最近まで高校生であった学生のリアルな意見を組織化することができたとともに、幸いにも学生の一人は子育て支援の活動経験のある社会人(以下学生01とする)であったため、多角的に検討することができた。
 そのほか、受講学生の感想、気づき等をBBS(電子掲示板システム)で毎回集約し、検討した。

4 クドバスの概要と活用の意義
4-1 クドバス開発の経緯
 クドバスの概要を、その創始者である森和夫による数点の文献からまとめれば、次のとおりである(2)。
 クドバス(CUDBAS=CUrriculum Development Method Based on Ability Structure)は1990年に開発されたカリキュラム開発手法である。1989年、労働省を中心に、森らはプロッツ(PROTS=Progressive Training System for Instructor)という指導技術訓練システムの開発に着手した。これは海外で技術指導にあたる指導者たちに特に必要性が高かった指導技術訓練システムを開発しようとしたものである。クドバスはその一環として開発された。

4-2 クドバスの特徴
 クドバスによって、教育内容項目を具体的な行動目標として能率的に記述し、カリキュラムもしくは教育計画を立案することができる。
 森はクドバスでできることとして、次の13点を例示している。
@保有する技術・技能の評価
A職員の能力におけるウイークポイントの検索
B新規事業の立ち上げ可能性についての能力面からの検証
C職員の現状把握と経営戦略への立案、教育計画の立案
D教育システムの確立
E継続教育マニュアルの作成
FOJTマニュアルの作成
Gテキスト、教材の開発
H管理職、マネジメント教育のツールとして実施
I人事考課への活用、処遇の決定
J人事配置・プロジェクト担当チームの編成
K問題解決手法への適用
L発想法としての応用
 クドバスの特徴としては、次の6点が挙げられている。
@「早くできる」
A「手続きがシンプルで簡単である」「あまり多くの教育は必要としない」
B「小集団の意思決定によるものである」
C「第一人者であれば説得力があるものになる」「分析する内容についてよく知る人であれば誰でも参加でき、安直である」
D「分析する途中の全てのプロセスが記録に残るため、改訂や見直しができ、他者への説明にも役立つ」
E「応用範囲が広い」

4-3 クドバスの進め方の概要
 進め方としては次の5つのステップを踏むことになる。これらは、参考文献やホームページなどで公開されている「マニュアル」を使って、読み上げながら実施することが可能である。
@職場の熟練者について「何ができるか」、「何を知っているか」、「どんな態度が取れるか」で1件につき1枚のカードに書き出す。
Aそれらのカードを仕事の単位でまとめていく。
B水準の順序で並べ直す。
Cカードごとの水準を書き入れる。
D能力資質リスト図に転記する。
 作業は、その職業について知る人5〜6人程度で行う。各方面からの参加が望ましい。その際の注意事項は次のとおりである。
@メンバーは同等の資格、権限で進めること。
A個人への批判や攻撃はしないこと。
B互いに協同して良いリストを作成すること。
C固定観念にとらわれず、柔軟に発想を出すこと。
 能力カード作成にあたっては、「人格的なものや性格などは除く」とされている。また、他の人との重複は気にしないで、いろいろな角度から書く。所要時間は1枚につき1分程度で、一人20枚程度が想定されている。
 書き込まれたすべてのカードを机の上に置く。同一内容のカードは重ね、類似カードは近くに置く。重ねたカードは内容を点検し、最も内容を代表するカードを一番上にする。適切なカードがなければ、新たに書き足す。確認してホチキスでとめる。ただし、少しでも違っていれば独立させる。
 次に、これらを見渡して仕事内容でグルーピングする。仕事カードの語尾は「〜をする」を使う。仕事カードごとに能力カードを右横に並べる。並んだ能力カードを重要度の高いものから順に右へ並べ直す。重要度のランクA、B、Cを決めて記入する。
 次に縦の配列を行なう。カード群を比較して重要度の高い分類から順に下へ向かって並べる。「必要能力・資質リスト」は以上で完成である。
 指導者がいなくてもできること、また、90分程度で作業が完成することが想定されていることは、学習内容編成者にとっての実用性を保障するものであると同時に、先に述べたような「学習者参画によるプログラム作成」や「学習者個人の学習目標への自己関与」を可能にする道具としても注目に値すると考える。

5 学習プログラム作成結果
5-1 学習プログラム作成課題シート
 結果は表1のとおりである。
 学生の参画意欲を高めるため、課題の設定自体を受講学生と相談して決定した。また、実際にこのプログラムを実施することをめざしている。そのため、次のようなBBS書き込みがあった。

 わからないながらも少しずつ形になり、その中でいろいろ学んでいる。できれば実現したい。そして手応えを得たい。せっかくのチャンスなのでいかせればと意気込んでいる。(学生01)

 この学生の記述内容からは、クドバスの参画システムとしての効力とともに、学習プログラムを実際に実施できる可能性が、クドバス作業への参加意欲との相乗効果をもたらしていると考えられる。

5-2 必要能力・資質リスト
 結果は表2のとおりである。
 4人だけで本リスト図を作成した翌週、100人規模の授業3コマにおいて、学生に自由意思でのBBSへの能力カードの

表 3 B 必要能力・資質構造図





表 4 C 科目別学習目標シート




表 5 D テーマ別学習目標シート



書き込みを求めた。17件の書き込みがあり、それを検討したところ、ほとんどが4人で書き出した能力カードと重複しており、1-3の1件だけを新たに加える結果になった。
 もちろん、「4-3 クドバスの進め方の概要」で述べられた「各方面からの参加」については今回は不十分な面はあることも考えられるが、それにしてもクドバスの先述のスピードと安直さという特徴が、このような「網羅性」や「普遍性」に裏打ちされていることは指摘しておきたい。
 「あまり考えこまずにカードが書けた」(学生01)などのBBSでの記述内容も、クドバスのこのような容易さと普遍性の両面に依拠したものと考えられる。ただし、重要度の判断にはやや戸惑いがあり、「高校生の子育てに必要なことを重要度に分けるのは思っていたよりも難しかった」(学生02)、「どれが一番重要か順位をつけるのは難しい」(学生03)、「どこまでAなのか決めるのは、考えているとどれも重要に思えるし、境目を決めるのが難しい」(同上)などの記述が見られた。とくに、循環関係があるカードについては迷うところが多々あったように思う。

5-3 必要能力・資質構造図
 結果は表3のとおりである。仕事カードとは別に科目を設定し、異なる仕事カードに所属する能力カードを横断的に組み合わせて、その科目を構成するように心がけた。そのことによって、仕事別の学習よりも動態的で魅力的な学習内容編成が可能になると考える。
 ここでは、5-2で述べた様相とは異なり、科目の設定において、アイデアやひらめきが強く求められた。しかし、「科目名を決めて、それに合うように分類するのが難しかった」(学生02)という記述もあったが、その学生は続けて「だんだん話し合いが抵抗なくできるようになってきた。次の授業でも発言するように心がけたい」(同上)と記述している。また、「多くの能力カードを含む科目名は考えるのは難しいけど、その科目にどんな能力カードが入るか考えるのは楽しかった」(学生03)という記述があった。
 クドバスの前述の注意事項である「固定観念にとらわれず、柔軟に発想を出すこと」は、この段階ぐらいから強く求められるようになるといえよう。そして、作業をする者も、それになじんでいく過程があると考えられる。
 正解が一つだけあってそれを教わるという「承り型学習」に慣れてしまった者にとっては、難しさを感じることがあると思われる。しかし、もう一方で、この作業をとおして話し合いや発言などの「能動的学習」への意欲が生ずることにも注目しておきたい。

5-4 科目別学習目標シート
 結果は表4のとおりである。ここでは学習時間と学習方

表 6 E 学習スケジュール表


法を決めることが眼目になる。それ以外は今までのカード
や電子ファイルを再利用、再編集するだけでよい。前述の「手続きがシンプル」、「分析する途中の全てのプロセスが記録に残る」などのクドバスのメリットは、このような要因から成り立っていると考える。
 また、前項の必要能力・資質構造図において「科目名の決定」には手こずったが、それは学習内容編成において避けてはいけない作業だけが純化されて浮かび上がったものとして解釈することができよう。

5-5 テーマ別学習目標シート
 結果は表5のとおりである。
 「テーマのキャッチコピーが難しい。これだというコピーが今ひとつ挙がらないのが辛い」(学生01)という記述があった。前項と同じく、その自由奔放な時間を楽しもうとするゆとりが求められるといえよう。
 なお、本表で「キャストゲーム」とは、各キャストを受け持つチームに分かれ、代表者がパネルディスカッションを行うものである。途中、作戦タイムなどを設けて盛り上がりをねらう。自分とは異なる立場の人の気持ちや痛みへの気づきが期待できる。「ロールプレイ」、「ケーススタディ」、「お願いトレーニング」においては、そのテーマごとの学習目標を達成できるような課題を提示する。「インタビューダイアローグ」とは、担当者または受講者代表がインタビュアーとなり、対話形式で講師から話を聞き出すという講義方式である。受講者からの質問を事前に整理しておいてインタビューに反映させることもできる。

5-6 学習スケジュール表
 結果は表6のとおりである。初級から上級へと移っていくように配慮した。また、連続して配置した方がよいテーマ、同じ科目のなかのテーマでも、時期を考慮して別々に配置した方がよいテーマなどについて配慮を加えた。
 なお、「旅行プランナー演習」では、客から家族旅行のプランニングの依頼を受け、インターネット等を活用して、それに応えるというワークショップを行う。その場合、2週目には学習目標に見合った「依頼者の家族の状況に関する新情報」を提示して目標の達成をねらいたい。

5-7 学習設備・機器・物品準備計画書
 結果は表7のとおりである。これを作成することにより、講座開講中の資料準備や経費支出が余裕をもって計画的にできると考えられる。
 なお、第22週の「公開パネルディスカッション」では、次年度関連講座のPRのためのチラシを配布することを企画した。

6 結果の検討と討論
6-1 仮説の妥当性
 本研究では、子育て能力を分解して、知識、技能、態度の3側面から表記し、これを構造化して、そのまま学習プログラムに反映させたのであるから、仮説で設定したように学習目標が明確化するのは当然の結果であったといえる。実際にも、学習スケジュール作成の段階にあっては、比較的容易に、テーマごとの学習目標を設定することができた。
 また、そこで設定された学習目標は、各回の担当者及び講師にも明確に認識されるし、他の回とは重複しないため、支援が責任をもって目的的に行われるという実践面での大きなメリットが期待できる。
 本研究で得られたこのような知見は、本論の冒頭で述べたような「子育て学習の内容編成作業の組織化」や「学習機会提供事業の到達目標の設定」の意義とあり方を示すものとしても有効であるといえよう。このことは次の学生の記述に如実に表されている。

 クドバスでは明確な目標設定に基づいて、必要な能力が重要度レベルの表記を伴って構成される。このようなものが家庭教育で使えることに驚いた。ここで編成された学習内容は、学習者としての親が、家庭教育を学びながら、そのなかで自己成長し、自己実現できるプログラムになっていると思う。なぜなら「達成できる」ことを前提にプログラムが構成されているからだ。今までの家庭教育の学習プログラムは、集団を相手にして、「(親は)こうでありましょう」という漠然としたメッセージを伝えようとするものが多かったのではないか。これに対して、クドバスの手法によって作成された学習プログラムでは、参加する親たちに、より強く「個人」を意識させることができると思う。また、自分自身にとっても、学習者が「できるようになること」を意識して学習プログラムを作成したことが良い経験になった。(学生01)

 本記述は、達成目標の明示化によって、「個人が消えない学習」が可能になることを指摘したものであり、注目に値しよう。

表 7 F 学習設備・機器・物品準備計画書


6-2 子育て実践能力としての「自信」の達成度評価
 しかし、他方で、その学習プログラムを十分に「効果的な」ものとするためには、本研究結果では明らかにできなかった課題が残されていると考える。
 われわれは大学公開講座における子育て支援の実践から、親子関係における気づき過程とその支援について次のような知見を得た(3)。

 (親たちの)学習集団に受容的雰囲気が形成され、互いに安心して自己開示を交換することによって、対自・対他の気づきが促されるという仮説は、部分的には検証された。また、講師がいくつかのワークショップの手法を活用することにより、同じ悩みを抱えた学習者のなかでは、受容的雰囲気は比較的容易に形成されることがわかった。しかし、本研究では同時に、「わかる」とか「同じ」などの受容をしあうことによって、逆に対自己や対家族、対社会への気づきを阻害してしまう傾向を見出した。
 また、子育て学習には、他者への気づきと自己への気づき、学習集団内の共通性と差異性、個人の悩みの共同解決と自己解決、気づきの支援としての受容と揺さぶり、知識・情報の提供と体験の語り合い、指導の計画性と偶発性、講師の介入と学習者の参加・参画などの拮抗がつねにつきまとう。気づきの効果的な支援のためには、個人や集団の気づき過程を把握して、適時的にこれらを往復、循環させる必要がある。

 このことから第1に、講座で得た知識、技能、態度を、実際の子育てに生かすためには、親の「自信」が必要になると考えられる。しかも、その自信は、学習者間の相互受容のなかで個人が埋没してしまうかたちでではなく、自己や家族に対して、個人として自覚的に向き合うかたちで形成されなければならない。
 大学授業においては学生に対して揺さぶりをかけ、一時的には「自信を失わせ」、その学生のより高度な学問の修得を図ることもあるだろう。しかし、自己の子育てのなかでの問題解決のために受講している学習者に対しては、成人教育の性格上、本人のニーズに応えることを最優先に扱うべきと考える。
 クドバスでは、すでに述べたとおり、人格的なものや性格などは能力カードからは除かれる。しかし、人格や性格がどうであろうと、子育て実践のためには、望ましいかたちでの自信の獲得が必要といえよう。そこで、その到達度を確かめるため、表8に示したような評価票を試作した。


表 8 学習目標別受講者評価票(縮小版)
「高校生の子を持つ親のための講座」受講者評価票
まず、あなたのことについておたずねします。あてはまるところに○をつけてください。 性別 女 男
職業経験年数 なし 3年まで 10年まで 20年まで 20年以上 現在 パート バイト 常勤 無職
欠席された回数 0回 3回まで 6回まで 9回まで 12回まで
13回以上
つぎに、下記のうち、もっともあてはまる数字に○をつけてください。
 受講いただきありがとうございました。今後、より効果的な講座を開くため、受講前と受講後のそれぞれの学習目標についての自信の有無をお答えください。ただし、どちらかといえば自信がない場合は「@」に、どちらかといえば自信がある場合は「B」に○をつけてください。どちらともいえない場合だけ「A」に、○をつけてください。 1受講前の状態 2受講後の状態
自信がない わからない 自信がある 自信がない わからない   自
  信
  が
  ある
01 人生に対して前向きな態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
02 人権を尊重する態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
03 自分が間違っていたら子に謝ることができる 1- 2 -3 1- 2 -3
04 親自身がうまくいかないとき、ヒステリックでない態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
05 家族旅行をしたとき楽しい態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
06 ほっといておくことができる 1- 2 -3 1- 2 -3
07 子のプライバシーを尊重する態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
08 知っていても知らない態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
09 子を信頼することができる 1- 2 -3 1- 2 -3
10 子にとっては家がわずらわしいことを知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
11 子の今の精神状態を知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
12 青年期は不安定な気持ちでいることを知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
13 青年期の心理的特徴を知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
14 すぐに反抗してくることを知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
15 子の生活態度を知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
16 親にうそをつくことを知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
17 子の友人関係を知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
18 彼(彼女)がいるのを知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
19 望ましい勉強方法を知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
20 子からの相談や話し合いに応ずることができる 1- 2 -3 1- 2 -3
21 何に関心があるかを知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
22 じっくり話を聞くことができる 1- 2 -3 1- 2 -3
23 わが子に注意ができる 1- 2 -3 1- 2 -3
24 子が悪いことをしたとき、き然とした態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
25 子がパニックにおちいっているとき冷静な態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
26 子が落ち込んでいるとき上手に励ますことができる 1- 2 -3 1- 2 -3
27 家では食事を一緒にするよう誘うことができる 1- 2 -3 1- 2 -3
28 わが子にあいさつができる 1- 2 -3 1- 2 -3
29 高校生に適した性教育ができる 1- 2 -3 1- 2 -3
30 子からの進路相談に応じることができる 1- 2 -3 1- 2 -3
31 現代社会の就職状況や仕事の内容について知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
32 部活のおっかけができる 1- 2 -3 1- 2 -3
33 学校の様子を知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
34 同じ高校生の子を持つ親と情報交換や相談をすることができる 1- 2 -3 1- 2 -3
35 学校側と緊密かつ自立的な連携ができる 1- 2 -3 1- 2 -3
36 家族との会話ができる 1- 2 -3 1- 2 -3
37 他愛ないおしゃべりができる 1- 2 -3 1- 2 -3
38 励ます時、子が何を食べたいかを知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
39 お願いの態度がとれる 1- 2 -3 1- 2 -3
40 そうじ、片づけを子にさせることができる 1- 2 -3 1- 2 -3
41 食事の仕度、洗たく、そうじができる 1- 2 -3 1- 2 -3
42 高校生に必要な栄養素について知っている 1- 2 -3 1- 2 -3
43 子にとっての必需品を買うことができる 1- 2 -3 1- 2 -3

 この評価票により、それぞれの学習目標に関して、そこで得られた能力を実践に結びつけられるかどうか、逐一的にその達成度と変容効果が測定できると考えた。
 なお、これができるのも、クドバスによって子育て能力を分解して書き出す作業があったからこそのものととらえることができよう。

6-3 子育て実践に求められる統合的能力の育成
 第2に、気づきの過程がつねに循環するものだとすれば、これらの気づきを統合的に処理するためのメタレベルでの能力が必要になると考えられる。
 クドバスでは、能力を分解してカードに書き出し、それを必ず一つの仕事だけに帰属させるため、ある仕事に対して必要な能力と、関連して活用すべき他の能力が、離ればなれになる危険性がある。もちろん、科目編成において、異なる仕事から横断的に能力を組み合わせたことは、そのような問題点を少しでも解消する意義があったと考える。しかし、到達目標を他の仕事や科目と重複させないというクドバスの原則は、先述のメリットとともに、このような問題点をはらむのである。
 これについては「統合的能力の育成」として、次のような新たな学習プログラムを考えたい。それは自分のもっている数種類の能力をフル動員させて「指令」を遂行するというプログラムである。そのプログラムは、当然、参加型、体験型になるだろうから、元の講座担当者が推進するほか、受講修了者の自主グループを組織して、そこが自主的、実践的に推進することも効果的と考える。




表 9 レッスンプラン(第1週の例)
今回の方法・テーマ 講義・インタビューダイアローグ「青年期の心理的特徴」
指導区分 時間 指導の要点 学習者の活動

本日の進行の説明
1分
担当者「みなさん、おはようございます。先週は講師の先生への質問票を提出していただきありがとうございました。これらの質問はあとでまとめて先生にインタビューしたいと思います」

1. 反抗期の理解
1-1.反抗の多様な形態 7分 担当者「みなさんの質問票のなかにも、反抗期に関するものが○○件ほどありました。親にとっては悩みの種の一つといえるのかもしれません。そこで、まず、反抗にはどんな形のものがあるか、考えてみることにしましょう。みなさんのお子さんは、どんな反抗をしてきますか?」 反抗の種類を自分の子育ての経験から考える

[●5人程度を指名して、その回答を担当者が簡潔にまとめて板書する]

受講者仲間の発言を聞く
担当者「私たちのあいだではこのような結果になりました。先生、それでは、この『反抗の種類』からお話を始めていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。」

講師登壇
講師歓迎の拍手
3分 講師(反抗の多様な形態について黒板に列挙する)


注 その後、講師は、簡単な自己紹介ののち、青年期の心理的特徴について、テキストの流れに沿って1時間の講義を行う。
  講義内容についても、わかる範囲で当レッスンプランに書き込む。


表 10 レッスンプラン(第20週の例)
今回の方法・テーマ ワークショップ「家事テキパキ段取り計画作成」
指導区分 時間 指導の要点 学習者の活動

本日の進行の説明

















1 ワーク開始
(写真配付と説明)


1分





3分











担当者「みなさん、おはようございます。先週までの学習で、子どもに食事を一緒にするよう誘うことができるようになりましたでしょうか? 今週は子どもと一緒に家事をしたり、子どもに家事をさせたりできるようになることを、学習目標に設定してあります。」

「自分は家事が得意と思う方、自分は家事が不得意と思う方、自分の子どもはすでにある程度家事ができると思う方、できないと思う方、それぞれ手を挙げてください。人数を数えさせていただきます。」

(親子不得意、親子得意、親得意+子不得意、子得意+親不得意の4つのパターン別に、人数を板書する。)

担当者「私たちのあいだではこのような結果になりました。今回の最後にはそれぞれのパターンにおける最善の解決策を見いだせるとよいですね。それでは、先生、よろしくお願いします。」

講師登壇








挙手











講師歓迎の拍手




注 その後、講師は、簡単な自己紹介ののち、乱雑に散らかったキッチンとリビング、子ども部屋の写真を各グループに配付
し、ワークの課題を与える。



を分解して書き出す作業があったからこそのものととらえることができよう。

6-3 子育て実践に求められる統合的能力の育成
 第2に、気づきの過程がつねに循環するものだとすれば、これらの気づきを統合的に処理するためのメタレベルでの能力が必要になると考えられる。
 クドバスでは、能力を分解してカードに書き出し、それを必ず一つの仕事だけに帰属させるため、ある仕事に対して必要な能力と、関連して活用すべき他の能力が、離ればなれになる危険性がある。もちろん、科目編成において、異なる仕事から横断的に能力を組み合わせたことは、そのような問題点を少しでも解消する意義があったと考える。しかし、到達目標を他の仕事や科目と重複させないというクドバスの原則は、先述のメリットとともに、このような問題点をはらむのである。

表11 CUDBAS必要能力・資質リスト図「現代青年の社会参画」(列・行ともに重要度順)




 これについては「統合的能力の育成」として、次のような新たな学習プログラムを考えたい。それは自分のもっている数種類の能力をフル動員させて「指令」を遂行するというプログラムである。そのプログラムは、当然、参加型、
体験型になるだろうから、元の講座担当者が推進するほか、受講修了者の自主グループを組織して、そこが自主的、実践的に推進することも効果的と考える。

6-4 レッスンプランの作成による事業計画と達成度評価の緻密化
 第3に、クドバスの最終目的がカリキュラム開発であるため、各テーマの学習方法・内容について、そのなかのどこが十分で、どこが不十分だったかまでは、正確に評価することができないという問題が考えられる。
 その点については先述のプロッツの手法に学び、表9、表10のとおり、レッスンプランの作成を考えた。これにより、講座担当者の指導の内実を計画化し、正確な事業評価に堪えるものとしたい。また、依頼した講師に対しても、講師が作成したテキスト原稿やレジメを参考にして講座担当者が原案をつくり、相談のうえ、相互関与によってレッスンプランを書き上げることが望ましいと考える。そのことによって、講師依頼の回においても、講座担当者の企画意図を反映させるとともに、講座全体をとおした指導の計画化と評価の緻密化に資することが期待できる。

6-5 青少年に対する社会的要請の学習プログラムへの織り込み
 少子高齢社会のなかで、現在、青少年の社会参画能力の育成の必要が叫ばれている。しかし、子育てに悩む多くの親たちにとって、わが子にそのような能力を身につけさせようと思うゆとりがあるのだろうか。あるいは、親自身、大人自身のなかに、どれだけ社会参画や社会貢献をしたいと考える者がいるのだろうか。本研究で構造化した「高校生の子をもつ親に必要な能力」のなかにも、直接的にそのことに言及したカードはなかった。
 しかし、実際に「社会参画能力」をクドバスでリスト化したところ、親がわが子に身につけさせたい能力、さらには親自身が身につけたいと思っているであろう能力と、まったくといっていいほど差異はないと推察された。表11は、筆者が全国規模の青少年教育施設職員数十人に対して「青少年の社会参画」についての1時間半の講義を行い、そのときに青年の社会参画に必要な能力を一人一枚以上で書き出してもらって、あとは筆者一人でクドバスの手法でそれをリスト化したものである。
 ロジャー・ハートは、子どもの参加を8つの段階(@操りの参画、Aお飾り参画、B形式的参画、C与えられた役割の内容を認識した上での参画、D大人主導で子どもの意見提供ある参画、E大人主導で意志決定に子どもも参画、F子ども主導の活動、G子ども主導の活動に大人も巻き込む)に区分し、「参画のはしご」という評価の視点を提起した(4)。はしごであるから、上の段も下の段もどちらも必要である。また、大人のほうも社会に参画することが前提となっている。
 しかし、そこでも、個人の主体性、他者とのコミュニケーション、多様性の許容などの能力が必要とされている。これらは、ほとんどすべて、青少年や大人たちが自らの能力として身につけたいと思うことと一致すると考える。
 このようなことから、社会の側からの「青少年の社会化」要請と、青少年自らの社会化ニーズとがかみ合っていないといえるのではないか。もちろん青少年の側のニーズには未成熟な点もあろう。しかし、クドバスの作業結果から明らかなとおり、青少年も大人も、社会参加、社会貢献、社会参画につながる能力をいらないと思っているわけではないのである。ただし、その活動をするよう社会の側から押しつけられていると感じた場合は拒否したくなるのだと考えられる。
 「社会参画をしよう」という「漠然としたメッセージ」を伝えることよりも、ロジャー・ハートの主張するような「はしご」をシステムとして用意することのほうが重要ではないか。そして、その一環として、クドバスのような手法で青少年や親が自ら求める能力を組織化、構造化、明示化し、その能力の目的的な獲得を支援する学習プログラムの提供が望まれているのではないか。
 以上の考察から、学習内容編成において社会的要請にどう対応すべきかということについて、次のように考えたい。
 たとえ、子育て支援側がすべてを企画する講座だとしても、受講者が身につけたい能力の達成こそを目標とすべきである。しかし、逆に、たとえ、受講者参画型の講座だとしても、子育て支援側は社会的に必要な学習課題をつねに認識し、それが受講者のニーズと整合するチャンスを鋭敏に見つけ出して、提案者、問題提起者としての役割を果たすべきである。とくに公務としてその役割を担っているときはなおさらである。
 すなわち、もし、一方的な「社会的要請」があるとしたら、それをクドバスの能力カードに入れ込む行為は、クドバスの良さを台無しにしてしまうことになろう。しかし、科目やテーマの設定において、受講者のニーズと社会的要請とが整合する企画は十分可能なはずである。たとえば本研究で作成した学習プログラムにおいても、「子育てのまちづくり」をいくつかの能力カードと結びつけ、一般の親を引きつける科目またはテーマを提起することは可能だったのかもしれない。なぜならば、社会化ニーズは、社会の側だけでなく、個人の側にも、それとは違ったかたちで顕在化、または潜在化して存在していると考えられるからである。両者の出会いこそが、今後の参画型社会をつくりだすと考える。

(1)西村美東士,『こ・こ・ろ生涯学習』,学文社,pp.144-145,1993.3
(2)森和夫ほか,『PROTS INSTRUCTER'S HANDBOOK - Drawing up a Training Program』,海外職業訓練協会,1990.7。森和夫,『現場でできる技術・技能伝承マニュアル』,日本プラントメンテナンス協会2002.2。同『職務分析から見た保健師の仕事と役割』,母子愛育会研修テキスト,2002.6。その他、同氏のホームページなど。
(3)西村美東士,「親子関係における気づき過程とその支援−公開講座による子育て支援の実践」,徳島大学大学開放実践センター『徳島大学大学開放実践センター紀要』,pp.71-95,2001.6
(4)ロジャー・ハート,『子どもの参画−コミュニティづくりと身近な環境ケアへの参画のための理論と実際』木下勇・田中治彦・南博文監修,IPA日本支部訳,萌文社,p42,2000.10




























学生の社会化支援の観点に立った「子育て支援」教育の研究
−「連鎖的参画による子育てのまちづくり」研究の一環として−

西村美東士

聖徳大学生涯学習研究所紀要『生涯学習研究4』(2006年3月)原稿


1 本稿の構成
 われわれは、平成17年度から、文部科学省「私立大学学術研究高度化推進事業」の「社会連携研究推進事業」の補助を受け、大学院を中心として「連鎖的参画による子育てのまちづくりに関する開発的研究」を進めている。
 その一環として、「地域・若者交流プロジェクト」による研究を行っている。そこでは院生・学生の社会参画力向上等をねらいとして、彼らの参加・参画による地域子育てプログラムの研究開発を進めている。
 一方、われわれは、学生に対して双方向やワークショップ型の授業を行い、その効果を検証しようとしてきた。そして、現在では、保育士、幼稚園教員、学校教員などの子ども支援者として求められる社会化を達成させるための授業開発とその研究を行っている。
 本稿では、上述の研究成果に基づき、現在、大学授業で学生に行わせている「子育て支援研究」の効果に関する検討を行い、学生の社会化支援の視点から、その意義と方法を明らかにしたい。
 本稿は、上述の流れに沿って進めることとする。その構成を図1に示す。












図1 本稿の構成

2 「連鎖的参画による子育てのまちづくり」研究の目的と方法
2-1 本研究の目的
 現在、少子化が進むなかで、多くの若い親たちは周りや地域に支えてくれる人もいないままに、メディアや本などから得た知識を頼りに、そして、子ども・子育て商品を受動的に受け取りながら子育てをしている。そのため、親の主体的、自発的な子育て意欲もなえ、子どもはその影響をまともに受けてしまっている。このままでは、少子化によるわが国のダメージは計り知れないものになる。
 そこで、本研究では、学内に「子育て支援社会連携研究センター」を新設するにあたって、大学院の総合的指導性のもとに、地域のすべての構成員の連鎖的参画による地域活性化と関連産業の振興に結びつけて「子育て支援」を実践し、子育てのまちづくりのための開発的研究を行うことにした。本研究は、子育ての学びと活動をとおして、人々の社会への参加意識が希薄な現状を打ち破り、数の少ない子どもたちではあるが、彼らが子どもの良さを十分に発揮できる地域をつくろうとする研究である。
 本研究により、学生、教員、市民、親子、関連産業、自治体のすべての連鎖的で主体的な参画を促進し、わが国の子育て支援、次世代育成と、子育てを中心とした地域振興の質的向上に資することによって、「自己形成と社会形成の一体化」を実現し、ひいては日本の子どもたちがすこやかに成長できるような地域環境づくりのために貢献しようとするものである。

2-2 本研究の仮説
 上記の目的を達成するため、3つのプロジェクトによる開発的研究を行う。各プロジェクトにおいて設定された研究仮説は次のとおりである。
@地域連鎖の形成支援プロジェクト
 「地域子育て支援と子ども・子育て産業との相互乗り入れ→子ども・親子向け産学民商品共同開発→子どもの生活習慣定着化→地域活動・経営活動双方の促進とネットワーク化→子育てに即反映→消費者全体の利益→経済的利益→『人に役立つ経営理念』構築→子育てのまちづくりの実現」というサイクルを、子育て支援センターのプロデュースのもとに、目に見えるかたちで実現することにより、子ども・親・市民・関連産業・まちが連鎖的に成長する。
A親能力確実習得プロジェクト
 職業能力開発の手法と能動的学習方法を活用することによって、親教育プログラムは[達成目標の明示→教育側との学習契約成立→自己決定による受講→終了後の達成度自己評価→学習者による教育評価→相互関与による契約見直し→学習者参画型親教育の実現]という好循環を実現できる。
B地域・若者交流プロジェクト
 院生・学生を地域の単位親の会等に派遣し、当該院生・学生に適宜適切な指導を与えることによって、自治体等ではなしえない地域子育て活動への若いセンスの導入と、大学から市民への直接的支援を行うことができる。その成果は、他プロジェクトとも連動して地域活性化に資するものとなる。さらに、この取組によって、院生・学生の社会参



画力を向上することができ、ひいては彼らに対して、今後の職業生活、地域生活における社会的リーダー養成という高等教育の役割を果たすことができる。

2-3 本研究の方法
 本研究は、図2に示した方法で、各プロジェクトにおける上記研究仮説の妥当性を検証し、「自己形成と社会形成の一体化」というコンセプトを実現しようとするものである。
 本研究は全学の学際的コーディネートのもとに進める。本研究における「学際」とは、具体的には、児童学、保育学、教育学、心理学、経営学、言語学、文化学、生活学、音楽学、文学学、介護福祉学、社会福祉学、図書館学、博物館学、保健学、栄養学、生涯学習学の境界領域をさし、家族問題論、子育て論、親教育論、コミュニティ形成論、市民活動論、自治体経営論、子ども・子育て産業経営論、ボランティア活動論、青少年育成論に関する開発的研究を意図している。
 地域の連携相手すべてと全学教職員、院生、学生がプロジェクトを越えて総合的に連携して、地域の隅々で実践を蓄積し、そのデータベース化と分析・研究を進める。

2-4 社会化支援の視点から見た本研究の意義
 現代社会において、青少年だけ、ましてや、学生だけが、望ましい社会化を達成したり、社会参画能力を身につけたりすることはできない。
 自分の子どものことだけしか視野になく、あとは「専門機関任せ」の親たちばかり、まちづくりに無関心の市民や産業ばかりだとしたら、その地域で学生だけが自己形成と社会形成を一体化して進めることは困難である。
 その点で、地域の市民、産業、行政、そして大学が連携し、連鎖的に参画する「子育てのまちづくり」の実践のなかで、学生にもそれに参画させるという本研究の構想は重要と考える。

3 「地域・若者交流プロジェクト」による研究の目的と方法
3-1 本研究の目的
本研究は、院生・学生と親との交流を基礎にした地域子育て活動の活性化をめざすものであり、地域子育てプログラムの研究開発への院生・学生の参加・参画を図るものである。

3-2 本研究の方法
 先述した仮説の妥当性を検証するため、次の実践を行う。
@地域の隅々の「親の会」と派遣学生グループとの交流
A地域子育て活動への学生の参画および大学の知的貢献(参加した院生、学生は、後半には派遣先の団体の年間活動計画と中長期活動計画を作成する。)
B青少年の社会的能力および社会参画力の育成と活用
 その特色は次の3点である。
@院生・学生と単位親の会等との交流をとおした地域のすみずみでの交流。
A院生・学生の参加・参画による「地域子育て学」研究と地域子育て活動プログラムの開発。
B院生・学生の社会参画力の育成と結びついた大学教育・研究活動の展開。
 本研究の成果として、地域子育て活動報告・評価シートや、院生、学生の変容過程とくに社会化の達成に関わる自己評価シートを電子化して、データベースを構築し、これを分析する。また、指導教員の検討を加えた「地域子育て活動モデルプログラム」を収録したハンドブックを出版し、その効果を検討する。

3-3 社会化支援の視点から見た本研究の意義
 本研究においては、地域の単位親の会等の協力を得て、院生・学生を当該団体に派遣し、これに教員が適切な指導を与えることによって、自治体等ではなしえない地域子育て活動への若いセンスの導入と、大学から市民への直接的支援としての実践を行う。その成果は、他プロジェクトと連動させ、地域活性化に資するものとすることになる。
 このような実践は、院生・学生の社会参画力を養うとともに、今後の職業生活、地域生活における社会的リーダーとしての自信を培うものになると考える。

4 学生の社会化支援としての双方向・ワークショップ型授業研究の成果と課題
4-1 双方向要素を取り入れた授業の研究
4-1-1 集中授業における授業イメージ等の分析結果
 2000年度前期の徳島大学学芸員課程の科目「生涯学習概論」の2日間の集中講義の機会を用いて、自己決定の生き方を自ら選択するよう導く授業方法を検討した。そのことによって、学生の自己決定的な参加・参画に基づく手法であるワークショップ形態を中心にして、その指導の効果について明らかにしようとした。
 学生の授業イメージの変容に関する質問紙調査や、学生の記述した文章及びワークショップ成果の分析の結果、学生の「即自」→「対自」→「対他(対他者)」の気づきの発展プロセスが検証された。しかし本研究では同時に、他者への気づきが「対自」や「即自」の気づきに再び転化して深まっていくことが確認された。学生の気づきのこのような「段階を踏んだ循環」を教師が予めよく理解し、それに沿った授業を展開する必要があることが明らかになった。*1

4-1-2 半期授業における各ワークの分析結果
 2000年度後期の共通教育(教育学)「大学・市民・ボランティア」においては、すべての回について学生の授業イメージを調査した。*2
 本授業は、「昨年当初は、半数近くの学生がこの授業を受ける理由について『単位取得以外に理由はない』とした。他方で、多くの市民が生涯学習に関心を示している。なぜ、このようなギャップが生ずるのか。市民の学びや、ボランティア活動の可能性を考えることによって、どのように学生として生きるか、市民として生きるか、他者にとって意味ある存在としての自分を発見するかという課題に対して、各人なりの答えがもてるようにする」ことを目標とした。また、ほとんどの回で「双方向要素」を取り入れた。以下の研究成果は大学の教育研究誌に公開した。*3
 初回の「カード式発想法」については、「進め方がおもしろい」、「わくわくする」、「授業に親しみがわく」、「退屈しない」、「わかりやすい」などのいわば「即自的」な項目において高い評定を得た。
 これは「なぜ、この授業を受けるのか」を各自がカードに記入して提出するワークショップであり、あとは教師が読み上げて黒板上で集計するのを観察していればよいというものであった。そのため、他者とのコミュニケーションが苦手な学生でも、気楽に参加することができたのだと推察された。
 第2回の「出席ペーパーシステム」についても、「即自的」な項目において高い評定を得た。しかし、同時に、「幅広い見方ができるようになる」、「自分に気づける」などの対自的項目、「友達にこのシステムについて話したくなる」などの対他的項目においても評定が高かった。ラジオのディスクジョッキーに投稿するような形態での文章表現と、顔の見えない他者のそれを聴くことは、学生に適度な距離感を保証しながら対他の気づきを促す点で有効だったと推察された。
 共同作業による「図解ワーク」は、前記2項目とは対照的に即自的項目の評定が低く、「心が安らぐ」、「くよくよしなくなる」などに対して平均値が中立値を大きく下回った。しかも、「人の痛みがわかるようになる」も低い。ただし、「団体で行動ができるようになる」、「リーダーシップが身につく」、「責任感が強くなる」に対しては肯定的であった。
 このことは、チームワークが苦手な学生に対して団体行動や統率力、さらには責任感をもつようにグループワークを強制しただけでは、かえって「人の痛み」などを無視して表面的なワークに走らせる危険性があることを示唆していると推察された。
 「価値観ゲーム」については、「心が安らぐ」ということはないものの、即自面でも「没頭できる」「退屈しない」という評定である。その上で、「自分に気づける」し、「団体で行動ができるようになる」、「相手のよいところを発見できる」という結果になった。
 「価値観ゲーム」とは、愛、自己実現、正義などの項目を一対比較法で順位付けし、自他の価値観を知るものである。*4 これをグループ内で発表させ、また、相手の判断基準を納得するまで質問させて、異なる価値観を受容させた。
 「対他は苦手」という学生の中には、社会化とは、先述のように自他の痛みを切り捨ててまで、組織や集団に奉仕することだと考えている学生もいると思われる。そういうタイプの学生には、望ましい社会化に向けた気づきにつながったと推察された。
 「全員インタビューダイアローグ」については、「没頭できる」、「心が安らぐ」、「夢がもてる」の即自的項目のみならず、「自分と関係のある」という対自、「人を信頼できるようになる」、「団体で行動ができるようになる」、「リーダーシップが身につく」などの対他の項目でも評定がかなり低かった。反面、「言葉をうまく使えるようになる」、「判断力が身につく」、「自発性が身につく」「相手のよいところを発見できる」については他から突出して高い。
 「インタビューダイアローグ」とは、「(司会者を置かずに)参加者の代表と講師(教師)との直接対談が行われるため、参加者の理解や問題意識が高められる」 *5(カッコ内は引用者)というものである。前回の授業で有志の学生から教師にインタビューさせた後、その回は全員にマイクをまわして「できるだけ何か一つでもインタビューするよう」指示したのである。
 調査結果から、次のように推察された。講義型授業だけでなく、グループワークであっても、積極的に参加しない学生がいる。周りの学生もその学生に発言を促すことまではしない。グループの成果を上げることよりは、距離を置いて衝突を避けることの方が優先されるのだろう。しかし、積極的に参加しない学生は、じつは自己内の思考さえしていないおそれがある。
 これに対して、その回は、教師がマイクをまわして発言を指示したことにより、そういう学生たちが仕方なく「自発的」に「自己の判断」を働かせて「言葉」を発し、他者にも気づいたのだろう。
 しかし、見知らぬ大勢の他者の前で、発言を強制されることは、「心が安らがない」ばかりか、少なくとも当初は、学生自身にとって納得できる意義を感じられないことであることは、教師は留意する必要があったといえよう。教師が学生に「発問」することは、しばしば見られる指導行為の一つであるだけに、それを意識することは重要である。
 しかも、その回、教師が学生に要請したことは、教師の問いに答えることではなく、教師に(「何でもいいから」ではあるが)インタビューせよということである。すなわち、問いを発するよう指示したのである。これは、「問うことを学ぶ」という学問の基本的姿勢を身につけさせるためのものであったのだが、「答えを教わる」ことに慣れてきて、しかもそれが正しい学習態度であると思い込んで安心している学生にとっては、いっそう衝撃が強かったものと推察される。

4-1-3 双方向授業による学生の社会化支援に関する考察
 本研究において、学生の社会化における可能性とともに、困難性が明らかになった。
 とくに、本授業の双方向要素の一定の部分は、一部の学生にとっては、主に即自的な面での不安、不快感が強く、そのため脱落者も多かったものと思われた。双方向授業と聞いて、初回の授業の途中ですでに、がっかりして出て行く学生の姿が、われわれには気になっていた。結果として、われわれは彼らを疎外したのではないか。
教師や親の言うとおりに「まじめに」勉強し、大学側も彼らの入学を認めたのである。われわれ教師はそういう青年たちを受け入れ、「まじめな勉強」とは異なる学問の魅力を伝える必要がある。
 そして、「社会性を身につけること」が「曲がりなりにも」彼ら自身の願いでもあることを思えば、双方向授業に耐える社会性をもった青年だけを相手にするのではなく、それを恐れる学生に対しても、教師は社会化支援機能を発揮する責務があるだろう。
 そのためには、学生個人個人の即自、対自、対他の気づきの状況、すなわち各人の個人化と社会化の状況に的確に対応した指導行為が大学授業に求められる。「十把一絡げ」では双方向授業は成立しない。

4-2 学生の社会化の段階及び類型の理解
 徳島大学2002年度共通教育(教育学)「大学・市民・ボランティア」において、「もし宇宙に他者がいなければ、自分らしさはもっともよく守ることができるということになってしまうのか」という教師からの「揺さぶり」の発問ののち、「自分らしさを守り育てることと、社会性を身につけることはどういう関係にあるか」について学生56人に対して文章表現を提出させ、その記述内容を分析して類型化した。また、次の回にすべての記述を学生に示し、自分は他者のどの発言に共感したり、あこがれたりするかを回答させ、集約した。 *6
 記述内容を分析した結果、以下の4つの意見が象徴的、代表的なものとして浮かび上がった。また、これらは、次の回のアンケートでも、多くの学生が「共感する」、「(自分は違うタイプだけど)あこがれる」などと回答した。

T 「自分らしく生きたい」と思っている今その全てが「自分らしさ」。社会性が身に付いていてもいなくても、それがそのまま「自分らしさ」。言葉に振り回されてはいけない。結局自分自身で認めるかどうかの問題。
U 他人と違う行為や言動で仲間から外されるという恐怖があって自分の意見を言えない。意思を押し通そうとすれば「協調性がない」と煙たがられる。自分らしさを守り育てることと、社会性を身につけることは相反する。
V 自分らしさを守り育てることは、社会性を身につけることの中に含まれる。社会性を身につけた上での、社会に受け入れられる自分らしさじゃないと価値がない。両者は同時に並行して行われなければならない。
W 自分らしさは、人と接することでさらに磨かれる。健全な両者を持つということは他者へも良い刺激となり、再び自分へつながる。よってこれら2つの関係は、お互いに盛りたてあう関係にある。木と根っこのようにも思える。

 Tを「主観的自分らしさ優先型」と名付けた。彼らにとっては自分の中にもともとある自分らしさが大切であり、たとえ社会性が身についていなくても自分らしさの存在には疑いをもたない。その点から、社会にはあまりプレッシャーを感じないままに、能動的に働きかけることができると推察される。
 Uを「同化圧力としての社会化型」と名付けた。彼らも自分の中にもともとある自分らしさを本当は大切にしたいのだが、同化圧力を敏感に感じるため、自分らしさを出すことは苦手である。とくにピア・プレッシャーが強いと考えられる。この回答自体が、広い意味での社会性ではなく、「仲間」からの圧力を前提としている。これらの点から、社会に対して基本的には受動的であると推察される。
 Vを「社会への組込まれ必然型」と名付けた。第T類型とは反対に、自分らしさも社会に受け入れられなければ価値がないとしているからだ。社会によって規定される現実を受け入れている。「社会に受け入れられる」ことを優先しているので、社会に対して受動的と推察される。
 Wを「社会と自己相互発展型」と名付けた。社会の中にあってこそ、自分らしさが磨かれるというのだ。そして、自己が社会を「盛りたてる」というところから、社会に対して能動的と推察された。

自己の中での
自分らしさ

    U同化圧力としての  T主観的自分らしさ
     社会化型       優先型
受動的                     能動的

    V社会への組込まれ  W社会と自己
     必然型        相互発展型


社会の中での
自分らしさ

図3 学生の社会化類型

 このようなことから、図3のとおり「学生の社会化類型」を設定した。56人の記述分析をしたところ、Tは6人、Uは14人、Vは13人、Wは14人が該当した。価値中立または無価値型が6人いた。
 ところが、「共感する」、「あこがれる」発言を集約したところ、Tは8人、Uは5人、Vは4人、Wは4人が支持を表明した。結果として、少数派の類型に所属するTが一番支持を集めたのである。
この点について、われわれは次のように考察した。 母数は小さいが、このデータの限りでは、(主観的には)社会から自由な「自己内自分らしさ型」が、逆にワークショップ型授業等での学生同士の関係において他の学生によい刺激を与える可能性を示唆している。大学授業において「自己内自分らしさ型」の欠点を補いつつも、力点は彼らの長所を発揮させるところにおくことが重要と考えられた。
 各類型における社会化の特徴や問題点については、それぞれ次のように推察された。Tは自己を守ろうとする純潔さゆえに、組織や社会に対しては「仮所属」になりがち。Uは表面上は外部からの同化圧力に屈服した形をとり、主体的には社会に関わらない恐れがある。Vは過度に社会に適応しようとし、組織や社会になじめない自他の個性については否定しがち。Wは実際に自分らしさの危機に陥ったときに、それを認めようとしなかったり、挫折したりする恐れがある。
 このように、4類型でとらえてみると、それぞれの類型ごとに異なる問題を抱えていると考察された。われわれは、この研究結果から、望ましい社会化のための近道や、ましてや普遍的な「唯一の道」などは期待できないと結論づけた。

5 学生による「子育て支援研究」の目的と方法
5-1 授業の目的
 2005年度後期、聖徳大学学部1年生100人前後のクラスを毎週3コマ、2年生50人程度のクラスを1コマ担当し、標記の研究をさせる機会を得た。すべて女子学生であり、大多数が何らかの子ども支援者としての職業に就くことをめざしている。そこで、次のように授業の目的を設定した。
 子育て支援が、「わが子さえよければ」という親ばかり生み出しているのでは、結局はよりよい子育ては実現できない。まちに「あなたまかせ」の親や大人たちしかいないのでは、「子育てのまち」「こどものまち」は実現できない。子育てのまちづくりのためには、子どもたちのほか、親、大人たち、指導者、商店主、行政などの参画が求められている。若い女性に子どもを生むように仕向けて、出生率を向上することだけでは、わが国の少子化インパクトを防ぐことはできないといえよう。
本授業では、学生自らが、授業だけでなく、研究活動にも参画し、卒業時には社会に通用し、社会で自己を発揮する能力を身につけ、群れから離れて社会に「一匹で」飛び出していけるよう、学生の成長を促す。

5-2 授業の目標
 授業の目標については、上記研究の成果、とくに現代学生の社会化過程における困難性の理解を踏まえ、次の3つを受講学生に対して提示した。
@親の気持ちがわかり、親や大人と向き合い、子育てを支援することができるようになる。
A親たちが地域や親の会で積極的に活動し、主体的に参画することの意義を知っている。
Bまちづくりや社会全体の観点から、子ども支援を考えることができるようになる。

5-3 学生による研究の種類と方法

表1 親の会調査様式例
回数 調査日時 調査時間 被調査者 調査者 調査方法 調査項目 調査結果
第1回 ○月
○○日20:42 25分 仮名にする インタビュー Q1−1
PTAの経歴
Q1−2
以下略 A1
−1
以下

第2回 ○月
○○日22:10 0分 メールで回答 Q2−1
役員の期間
Q2−2
以下略
第3回 ○月
○○日13:10 40分 インタビュー Q3−1 
大学在学中のクラブ活動
Q3−2
以下略

 希望する「自由課題」に応じて各グループに分け、すべてのグループに、次の3つの研究課題を提示した。
@ 親の子育て研究
 以下のとおり、個人課題とグループ課題とを提示した。
個人課題=年表作成、子育ての喜びとうれしかった時、子育ての悩みとつらかった時、など。
グループ課題=他者の「個人課題」研究成果とあわせて一覧表をつくって比較し、一致点と相違点を見いだす。
A 親の会研究
 調査内容記録のための様式例として、表1を示した。
注意事項としては、「被調査者の承諾を得た上で、なおかつ、相手のプライバシーを守ること。個人情報を他に流出しないこと」を挙げた。
B 自由課題研究
研究方法としては、学生に次のように示した。
 見取り図、マップ、チラシ、ポスター、進行表、年間計画表、まちの人材リスト、グラフ、文章などの研究成果のまとめ方が考えられる。研究と同時進行で、とりあえずだれかがこれを試作し、その後、グループワークとして、研究で得た知見をもとにこれを改善していく。
 研究課題としては、事前に記述させた学生個人の関心をもとに、教師が次の研究課題として編成して提示し、学生に選択させた。
( 1) ネットコミュニケーション研究
( 2) 三世帯家族代替え方策研究
( 3) 親の相談したい内容と対応方法研究
( 4) 安全冒険公園づくり研究
( 5) 親子交換日記の意義と方法研究
( 6) 公民館・児童館子育て支援研究
( 7) 親子参加イベント・施設研究
( 8) 親子カフェ開発経営計画研究
( 9) あいさつ促進指導法研究
(10) 子どもの自己決定権拡張研究
(11) 子どもが愛しくなる方法研究
(12) 親と子どもの居場所づくり研究
(13) 地域親密化あの手この手研究
(14) 母親たちによる起業計画研究
(15) 父親の子育て参加支援研究
(16) 父親の地域活動開発研究
(17) 親子参加レクリエーション研究
(18) 子どもを取り巻く環境網羅的把握研究
(19) 親子のコミュニケーション研究
(20) 親子自然体験研究
(21) 指導者と保護者間の連絡ノート研究
(22) 母と娘のいい関係研究
(23) 親離れ、子離れ研究
(24) 親子関係にもたらすペットの意義研究
(25) しつけの悩みと解決方法研究
(26) 子どもの病院研究
(27) 親の権利保護と子どもの成長の両立に関する研究
(28) 親子・子育て支援商品開発研究
(29) 田舎と地域の子育て環境比較研究
 結果としては、研究グループが成立しなかった課題もあったし、学生が上記リストとは別に新たに希望して採用された課題(「ヤンママの生態学研究」など)もあった。

6 学生による「子育て支援研究」の効果と社会化支援の視点から見た意義
6-1 研究の方法
 調査および分析は、以下のデータを対象に行なった。なお、下記データについては、本稿執筆中の現在も、収集および入力を継続している。
@ 学生の記述内容(自己表現)
A 学生の研究成果
B 音声・映像による授業記録
 学生の記述内容の分析は次のように行なった。毎回の授業ごとに、パソコンまたは携帯電話から、インターネットのBBS(電子掲示板)に、「授業中や研究活動中に気づいたこと」または「研究活動報告」を書き込むよう指示した。この内容を類型化して分析を行なった。
 学生の研究成果の分析は次のように行なった。次の研究成果を各グループで作成、提出させ、内容を検討した。
@ 「自由課題に関する問題点と解決策」(図解)
A 中間発表における投影資料(図表等)
B 最終発表における投影資料(図表等、予定)
 また、個人に対しては、次の課題をレポートとして提出させ、内容を検討する。
@ 「子育て支援研究の意義と課題」(文章記述)
A 研究論文(選択課題)
 音声・映像による授業記録の分析は次のように行なった。各回の教師の発言と学生の反応、彼らの自己表現や研究成果を対照して分析した。そのことによって、教師の働きかけのどこがどのように彼らの社会化に影響を与えるのかを分析しようとした。
 本稿では、「親の子育て研究」、「親の会研究」、「自由課題研究」に関する中間報告における投影資料を用いて考察する。

6-2 結果と考察
6-2-1 親の子育て研究
 グループ01から04までの研究成果を、それぞれ表2から表5までに示した。
 中間発表の段階では、表2から4までは、一覧表にさせることによって、親の間の共通点、差異などを、明らかにすることができたと考える。しかし、それをどのように整理したらよいのかということが学生には難しかったのであろう。

表2 グループ01の「親の子育て」研究中間成果
A B C
子育ての苦労 思い通りにいかない
自分の時間が予定通りにいかない
病気のとき 両親が早婚だったので、白い目で見られたからママ友だちがいなかったからつらかった
年齢的に若く経済的に苦しく休日も子どもに接してあげられなかった 周りに同世代の子どもがいなかったから幼稚園に行って友だちを増やすようにしてあげた
二人目だから、あまり苦労していない
子育ての工夫 いろいろな本をよんだり、いろいろな人に話を聞いて、一つの答えにしぼらないようにした 近所の人が面倒をみてくれた

表3 グループ02の「親の子育て」研究中間成果
A B C D E F
親が一番苦労した時は 病気や夜泣き 病気や夜泣き 病気、怪我 病気、怪我 苦労なし 病気
親が思う子育てとは 自分の夢
忍耐と辛抱 三つ子の魂百までも(自分を犠牲にしても) 元気にすくすく育つこと 子ども第一
あいさつが命 人に迷惑をかけないように育つ 病気にかからない  一緒に子も親も成長すること
子育てしていて一番うれしかったこと 立つなど初めてのことなど 笑顔がうれしい  子どもが他の人にほめられたとき 病気が治って元気になったとき  子どもが自分自身の夢に向かって頑張っている姿を見ているとき 立ったとき、しゃべったとき、生まれた時 受験に合格したとき 夢が成功したとき  一つ一つ成長していく様子が目で確かめられること

表4 グループ03の「親の子育て」研究中間成果
A(47歳) B(46歳) CC(46歳) D(52歳) E(46歳)
出産した年齢 長女 28歳
長男 31歳
次女 36歳
三女 39歳 長男 23歳
長女 26歳 長女 23歳 長女 32歳
次女 34歳 長男 24歳
長女 26歳
次女 28歳
三女 34歳
子どもを産んでうれしかったこと 健康に育ってくれること 初めて「ママ」と呼んでくれたこと 健康に成長していってくれること 生活に張り合いがでること 生活が楽しくなったこと
学生時代何の部活にはいっていたか バスケット 卓球 卓球 バレー
いままでどのような仕事をしてきたか 銀行員 学童保育の先生 事務員 病院の受付 事務員

表5 グループ04の「親の子育て」研究中間成果
A B C D E まとめ
子どもが生れた時の気持ち とても嬉しかった ほっとした
嬉しかった 無事に生まれてよかった 嬉しかった 無事にうまれてくれて幸せな気持ち
親として責任感を感じた 子どもが生まれてきてくれて幸せになり嬉しかった
みんな望まれて生まれてきた子ども
子育てに関して最初にぶつかった壁 家事との両立が大変で睡眠不足になった ミルクを吐き続けたこと 夜泣きがひどくどうしても泣き止まなかったこと わからない 夜泣きがひどかったこと 人を育てることに戸惑いや不安を抱えとても大変だった(夜鳴き、家事との両立、ミルクのあげ方)
そのときの状況 2,3時間泣き止まなかった 母乳を飲ませた後噴水のように吐いた 抱いても母乳を与えたも、オムツをかえても泣き止まなかった わからい 抱っこやおんぶ
をしてあやせば泣き止んだ 子どもに笑っていて欲しいとか、何事もなくあってほしいと思う反面、うまくいかないときの対処法がはじめての壁では見つけられず、戸惑っている様子
そのときの心境 少しノイローゼ気味でどうしたらよいのかわからない 何かの病気かと心配だった いい加減にして欲しいとイライラした わからない 寝不足が続きイライラした その状況を見つけ、母親たちも精神的に疲れているようだ *もしかするとここで虐待の方向へいってしまうのではないか
そのときの対処法 本を読む
友だちに聞く 熱もなく良く眠っていたので特に何もしなかった 添い寝をしたり、抱っこしたまま一晩すごした わからない 日中天気の良い日は外へ出かけた
子どもが寝ているとき一緒に寝た
主人が休みのときは預けて買い物がてらに一人になれる時間をつくった 子どもと少し離れて気分転換をしたり、子ども寝顔などかわいい姿を見て「頑張ろう」としていたようだ
親の目の届かない範囲で生活しているときの心境 少し心配 先生を信頼することで特に心配はなかった
家で話を聞くことで行動がわかったので特に心配しなかった 人に迷惑をかけることをしないといいなと思っていた 安心している 楽しく過ごしているか不安だった
ご飯は好き嫌いなく食べているか心配だった 学校の先生と親がうまく信頼関係を築いたり、子どもから聞く学校での1日の出来事でとらえるものがあったようだ 
初めての学校を入学・卒業した時の心境 【入学】
嬉しい









【卒業】
嬉しい 【入学】
成長の姿が見られ大変嬉しい






【卒業】
今までのことを思い出し感無量 【入学】
どのように成長していうか不安







【卒業】
無事卒業できた安心と成長したことの喜び 【入学】
うまく学校生活が送れるか、友だちができるか、いじめにはあわないかなど心配
【卒業】
成長した子どもを見てとても嬉しく大きくなったことを再度実感した 【入学】
かわいらしい









【卒業】
立派に成長した姿に感動した 【入学】
入学ということに多少の不安や心配はあるようだが、心境は嬉しいみたいだ







【卒業】
無事に大きくなっていく子どもを見て、成長を再度実感し、嬉しく思える


 これに対して、表5により、グループ04が、各調査項目ごとの「まとめ」を試みていることがわかる。しかし、そのまとめ方には、全般的に、「共通点を見いだしてまとめる」という傾向が見いだされる。とくにQ1のまとめの「みんな望まれて生まれてきた子ども」という言葉に代表されるような予定調和的な結論の仕方については、現代学生の志向を表していると考える。
 研究を深めさせるためには、個人間の差異にもっと注目させ、学生の研究関心を引き出す必要があるだろう。さらには、そこから、調査対象個人の各項目間の回答の横断的分析まで深めさせていくことが、質的調査の発展を促すものになると考える。
 このことは、学生が社会化を達成するにあたって問題になることとも一致していると考える。すなわち、ピア・コンセプト(同輩意識)によって「群れのなかでの同質化」が進行することと、共通する答えを見いだそうとするあまり、個人間の興味深い差異を見過ごすこととは、本質的には通じていると考えられる。
 この点で、個人的事象における異なりという事実に対して、科学的態度で臨もうとする研究態度は、ピア・コンセプトを乗り越えて望ましい社会化を達成することにも資するものになると推察される。



表6 グループ01の「親の会」研究中間成果
A B C
子育てに役立つことはありましたか NO YES YES
なぜ親の会に参加しましたか 誰も手をあげる人がいなかったから仕方なく 同じ年の子どもを持つ親がいっぱいいるから、子育てについて色々聞くことができるから 同年代の子どもをもつ親と話して友だち(親の)和を広げるため 
親の会をいやだと感じたときは 集まりが多いこと 仕事の日と集まりが重なったとき 親同士の陰口があるとき
親の会をおもしろいと感じたときは なし 普段交流がない親と交流できること 子どもが学校に行っているとき、友だちになった親と食事にいったこと
親同士の友だちができたか できない できた できた

表7 グループ02の「親の会」研究中間成果
A E
PTAをしていて得したことは 学校の現場がよくわかった 学校の様子がわかった 自分自身勉強になった 他人との交流ができた 
PTAの仕事 子どもたちのすごしやすい環境づくり 学校行事の参加、企画、料理、手芸、救急法、PTA会費集金、PTA総会
PTAは必要か 学校の現場を知るには必要 親同士の交流になって子ども、学校の様子がわかるので必要 

表8 グループ03の「親の会」研究中間成果
A B C D E
PTAの経歴 小学校3年生
3年間 小学校3年
1年間 小学校5年
1年間 小学校5年
1年間
どのような役員 学級代表
選考委員 クラス委員 研修部 広報部
やった・やらなかった理由 やる人がいなかったから 1回やればやらなくてもすむから やる人がいなかったから 仕事が忙しかったから 1度はやらなければいけないから
やっておもしろかったこと 他の学年のお母さんと仲良くなれた いろいろな親との交流 先生や親同士仲良くなれた 先生と仲良くなれた
いやだったこと 人前にたたなければいけない いちいち学校に呼ばれたりする 仕事を休まなければいけない 学校にいくのがめんどくさい
子供会歴 3年間 1年間 9年間(中学でもあった)
どのような役員 子供会の企画 地区の代表
子供会の企画 会計
やった・やらなかった理由 子供会がなかった 順番
(マンションの階ごと) 1度はやらなければいけないから 順番 子供会がなかった
やっておもしろかったこと いろいろな親との交流 子供の笑顔がみられる 他の子供と一緒に遊べる
いやだったこと 人間関係 自治会の行事の手伝いなどにも時間がとられる 集まるのが面倒


6-2-2 親の会研究
 グループ01から03までの研究成果を、それぞれ表6から表8までに示した。 「親の会研究」も、「親の子育て研究」と同じ傾向が見いだされ、学生の研究と社会化を支援するに当たっての課題を示す結果になっている。
 さらに、「親の会研究」では、PTA役員(委員を含む)をやらなかった親に対して、何を調査するかという点が、学生にとっては困難な問題となった。
 このことについては、社会化支援の視点から、次のように考える。
 学生の意識のなかで、社会参画の建前だけが先行してしまう場合、親一人一人の状況や感じ方に基づいて考察し、阻害要因等を科学的に突き止めていくという作業が困難になる。
 逆に、研究活動を通して、それぞれの親のもつケースごとの分析ができるようになれば、「すべての人が、同じように積極的に参加すべき」という実現困難な「内なる教条」を乗り越えることができるだろう。「建前」を疑うことなく
表9 グループ01「親子関係にもたらすペットの意義」研究中間成果
ペットの種類 金魚 カブトムシ 犬(パグ、シーズー) 犬(雑種) 犬(雑種) 猫(ノラ) 猫(雑種) ペットなし
癒されるか YES NO YES YES NO NO YES
家族の誰が癒されるか 父 家族全員 家族全員 祖母(他の人も少し)
なぜ飼っているのか お祭りですくってきた 網戸にくっついていたから仕方なく飼った 気付いた頃からずっといる 友だちのうちで生まれた赤ちゃんをもらった 子どもの(犬)貰い手がなく仕方ない 孫がひろってきた
なぜ癒されるのか 子どもが父に冷たいから ニコニコしてペロペロしてくるからかわいい 疲れて返ってきたときに「おかえりー」と尾を振るから。 孫とよくケンカをするから
なぜ癒されないのか 昼間土の中にいて、会う機会がないから 毎日だれが散歩するのかでケンカするから 優しくするとついてきちゃうから逆に困る ペットがいなくても他のことで代用し、癒される
夫婦げんかの解決になるか NO NO YES NO(室外犬だから) NO NO
エサは何をあげてるか 金魚のえさ ゼリー、すいか ドッグフード(やわらかい) ドッグフード オリジナル あげない
(小さい頃は缶詰とミルク) 缶詰、キャットフード
正直飼いたくなかったか NO NO NO NO YES YES YES拾ってきたから仕方がない
だれが世話しているか 父 妹(母) 母 母 母 おば、おじ、祖母、いとこ
考察 ・世話をするのは家にいる時間が長い母親が多かった。
ペットに愛情をそそぐ分ペットが自分になつく(愛情がかえってくる、たしかな愛を感じる)
癒されないと感じる人は自分の愛情が足りないからである。だから雑種やノラ猫には癒されないという人は自分がその動物たちに愛がないから癒されないのであろう。
家族関係でうまくいかないことがあるときにペットに接することで癒され心をおちつかせ、穏やかな気持ちで家族に接することができるようになり、よりよい家族関係を築くことができる。
ペットを飼っていない家族は他のもので癒されているのか。

表10 グループ02「子どもを取り巻く環境」研究中間成果
  
    環境改善案1 街灯を増やそう              環境改善案2 公園をきれいにしよう
出身地 問題点1 問題点2 問題点3
栃木県A市 ・外灯が少ない ・変質者が多い ・不良のお兄さんが多い
埼玉県B市 ・歩道と車道の区別が少ない ・田んぼばかりで人気がない ・暴走族が多い
埼玉県C市 ・外灯が少ない ・死角になる所が多い ・公園など子どもが遊ぶ場所で落書きが多い
東京都D区 ・河川敷での変質者が多い ・不良外国人が多い ・犯罪率が高い
東京都E区 ・公園が少なくゲーセンが多い ・路上駐車(駐輪)が多い ・浮浪者が多い
沖縄県F市 ・タクシー(タクシーの運転手がいろいろ売りつける) ・学校の近くにラブホテルがある ・ポイ捨てがはげしい

表11 グループ03「親と子のコミュニケーション」研究中間成果
A B C D
最近どのようにコミュニケーションをとっているか 話しをしたり、遊んだり 学校のことを話したり、いろいろなことを話した 一緒にご飯を食べたり、話しをしたりした 一緒に買い物に行ったりする
どのようなコミュニケーションがあるか
話す、遊ぶ、スキンシップ メール、何でも話す メールをしたり、話したりする メール、話す
親の視点でどのようにしたらもっとコミュニケーションをとることができるか 子どもに遠慮しないで、どんどん話しかける 自分から話しかける できるだけ一緒にいる時間を増やす
できるだけ一緒にいる時間を増やす
今はメールによるコミュニケーションがあるが、それをどう思うか あまり良いとは思わない ひとつのコミュニケーションとしてよいと思う コミュニケーションの一つだと思うが、相手の表情がわからない 一つコミュニケーションとしてよいと思う
今と昔のコミュにケーションの違いは何だと思うか 個人の部屋があるので、一緒にいる時間が少ない 携帯を持つようになってメールで済ませることが多くなった 一つの部屋で家族団らんで過ごすことが多かったが、今は個人の部屋で過ごすことが増えた 昔は親に対して口ごたえができなかったが、今の子どもは普通にする

表12 グループ04「子どもが愛しくなる方法」研究中間成果
A B C D
子どもに手をあげたりしたくなったことはありますか ある ある。年齢が若いときほどおさえられなかった しつけの意味で手をたたく、おしりをたたくことはある ある
それはなぜですか 口でいってもわからないから 子育てに自信がないため、子どもの意見を聞くことより自分の意思を通すから 言葉で解らないときに行う 反省せずに口答えをしたり、いくら言っても返事をしない時など
その後なにか考えて子どもに対して改善したことはありますか なし 余裕をもって子どもの意見をきくようにした なし なし
それを通して子どもは変わりましたか 変わった 変わった子もいるが、反抗する子もいた してはいけないことは理解できたのでは 怒られたことに関しては理解したと思う
それによって子どもへの愛情が変わったと思いますか 変わらない 変わらない いつも愛情は同じ 変わらない


自明のこととして処理する彼らの教条主義とも呼ぶべき思考過程は、科学的思考法を妨げるとともに、結局は彼らを社会参画から遠ざける働きをしていると考える。なぜなら、他者に対して「社会参加すべし」という「踏み絵」を押しつけようとする者は、結局は自らの自由な参加決定をも抑圧する結果になると考えられるからである。
 これに対して、個人に対する臨床的な研究態度を養うことは、自分自身も含めて、「個人がおかれている状況のなかで、社会に対して、できる範囲で参加する」という柔軟で生産的な思考に転換することにもつながると考える。
 このことにより、自己という「個」を社会のなかで適正
に位置づけて、社会参画に意欲をもつことができるようになり、結果として望ましい社会化にも資するものになると推察される。

6-2-3 自由課題研究
 グループ01から04までの研究成果を、それぞれ表9から表12までに示した。本表から学生による「子育て支援研究」の効果について、次のように考える。
 第1に、学生自身およびその環境という「資源」の調査対象としての活用についてである。
 これは、調査の客観性の確保の面からいえば問題は多いといえるが、学生の自己客観視や、自己とは異なる他者の存在への気づきの面では、資するところが大きいともいえる。これらのことが、学生の望ましい社会化に寄与することは明らかである。
 大学教師が学生による研究活動を推進しようとする場合、学生自身の価値観や周囲の人々の存在、生まれ育った環境等が一人一人異なることに気づかせ、それらを研究対象として関心を持たせ、客観視できるように導くことが重要であろう。それは、学生の研究能力の育成としてとともに、社会化支援としても効果が大きいと考える。
 第2に、他者の意見という「事実」に対する主体的関与についてである。
 中間発表の当初、多くの学生は、被調査者が言ったことを、そのまま結論として利用しようとした。これは、今までの教育のなかで「答えを教えてもらうこと」に慣れてしまったことが原因と推察される。
 教師は、「研究においては、『Aさんはこう考えている』というデータでしかない」と助言し、自分たちの切り口を見つけて、その回答を分析するように指示した。このようにして、受け身の姿勢を改めさせ、自らの主体的思考による分析を経て、結論するようにさせることが、学生の研究能力を育てることは明らかである。
 同時に、このことは、他者に対して主体的に関与しようとする意欲と能力につながるものと考える。
 第3に、第2とも関連するが、他者の意見間および自己の意見との差異の解釈と構造的把握についてである。
 4-1-2において、他者の異なる価値観と出会い受容する「価値観ゲーム」が学生に容易に受け入れられたのに対して、他者の異なるカードをグループ化して表札をつけたり、全体を構造化したりする作業が必要になる「図解ワーク」は、学生の側に強い抵抗感があった。
 これは、自己とは異なる他者と「共存」はできても、理解の「共有」はできないという、現代学生の社会化の可能性と限界を示すものと考えられる。「人それぞれ」という言葉で簡単に片づけられてしまいがちなのである。
 表9から表12までの自由課題研究の中間発表資料においても、個人間の差異は見いだしているものの、全体をどう構造化して把握するかという面については、彼らの戸惑いがうかがわれる。
 その場合、教師が図解や類型化などによる検討を指示することは、彼らのもつ「人それぞれ」という限界を乗り越えさせ、「意味ある他者」を能動的に取り戻させるきっかけにもなると考える。
 第4に、「批評精神を働かせる」ということについてである。
 上記第2、第3の効果を実現するためには、研究において必要とされる「批評精神」が、他者の回答を分析するにあたっても重要になると考える。「人それぞれ」で終わらせてしまっては、研究は深まらないからである。
 この点に関して、現代学生の「共存志向」には、「自分が批判されたくないから他者を批判しない」という消極的な傾向もうかがわれる。
 現在、関係する諸学界において、青少年にとっての自己肯定感(Self-Esteem)の重要性が指摘されている。しかし、「批評されない」ということが、真の自己肯定感の涵養につながるとは考えられない。これに対して、研究活動において真摯な批評の方法を経験することは、「打たれ強い」、「友人と真摯に批判しあう」などの資質と能力にもつながる。その点で、安定した自己肯定感を養い、それに基づく望ましい社会化を促す効果をもつと考える。

7 討論−本教育活動の社会化効果と研究上の課題
 本稿の後半では、親の子育て研究、親の会研究、自由課題研究に関する以上の考察をとおして、学生に「子育て支援研究」を行わせる効果を具体的に検討してきた。
 その検討結果をもとに、次の3点を、総体的な社会化効果の要素として提起しておきたい。これは、親がたとえばPTAなどの親の会をとおして「子育てのまちづくり」の活動に参加するなかで成長する過程を構成する要素と一致していると考える。
 第1に、「参画」である。親は、「しぶしぶ始めたPTA」のなかで、主体的に企画するおもしろさを知り、成長していく。同様に、学生も、「授業だからいやおうなしに始めた研究」のなかで、分析する切り口を見つけ、自らが関心のもてる仮説を設定して、その仮説を検証するための研究を企画する。それがおもしろいのは必然といえよう。
 参画は、「勤勉だが、受け身で勉強する」*8 という姿勢から、「おもしろいから研究する」という姿勢に学生を転換させる効果があると考える。躾(しつけ)は社会化のための重要な行為だが、一方で個人は、「おもしろいことをしたい」などの自己の求める生き方を現実社会に適したかたちで実現する能力が求められる。「よくしつけられただけ」では、人間の場合は、社会において自己を十分には発揮できないのである。おもしろさを自らの力で見いだすことは、研究の重要な一側面であると同時に、学生が社会に主体的に参加するための必要不可欠の要素といえよう。
 第2に、「交流」である。親は、PTA役員になることにより、わが子とは学年の違う子の親などとも話す機会が増え、ときにはよその子や地域の人々と交流することにもなる。学生も、自由課題という研究目的を同じくする者同士と共同研究を行い、さらには、地域の親子や企業、店舗の人のところに行き、話をすることになる。
 ネットワーク社会においては、交流を即目的とする交流より、むしろ、特定の目的のもとに人々が交流する。研究活動に付随して、このような交流を自主的に体験することは、ネットワーク社会における人的交流能力を育てることになるといえよう。
 第3に、「世界の拡大」である。親は、PTA役員になることにより、今まで話したことのなかった学校管理職等と話す機会が多くなり、わが子の周りとしての「学校」だけでなく、社会や地域のなかでの「学校」を知るようになる。学生も、今までに知識として習っていた「対象」について、調査をとおしてその「素顔」を知り、研究をとおして社会的文脈のなかで、その対象をとらえようとするようになる。
 広い視野から自己の職業や生活を見ることができるようになることは、個人が社会のなかでの自己の位置を客観的に認識し、それをもとに行動できるようになるために不可欠の要素といえよう。

 以上の社会化効果を確かめるため、今後は、教師の課題提示(問いかけ)、指示(研究の進め方)、回答(レスポンス)等の、どの行為が、どのように、役割提供機能(研究活動)、表現支援機能(文章、話し合い、発表)、揺さぶり機能(固定概念の打破)、受容機能(学生の研究成果への評価)、課題解決機能(気づきの促進)を発揮するのか、より具体的に明らかにしていきたい。
 そのために、学生の研究成果の検討のほか、各回の学生の記述内容から気づきのキーワード分析、音声・映像による授業記録からの学生の反応の分析等を行いたい。

 子育て支援、次世代育成の重要性が叫ばれる少子化社会の今日、子ども支援者には、担当する子どもたちの担当する時間だけでなく、その親に対しても可能な限りでの子育て支援を行い、子どもの家庭や地域での環境にまで目を配り、その改善のために自分のできることは関わろうとすることが求められる。
 しかし、将来子育て支援者になろうとする学生が、そういう資質・能力をもって卒業するためには、一つの重大な問題がある。その問題とは、現代青年の社会化の困難性である。社会参画どころではない現代青年の状況がある。これは、現代社会においては「社会問題」といえよう。
 青少年が引き起こす事件があるたびに対処療法的な方策をあれこれ講じようとすることより、もっと基本的なこのような問題があることを認識し、研究を進めたい。
 「連鎖的参画による子育てのまちづくりに関する開発的研究」における学生の研究参画について、大学教師としての実践と研究をより深めて、この社会問題を打開する展望を追究していきたい。


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*1 西村美東士「ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高める授業方法」、大学教育学会『大学教育学会誌』22巻2号、pp.194-202、2000.11.
*2 同調査はメディア教育開発センター通信研修「学生による授業評価実践」の支援を受けて行った。
*3 西村美東士「学生の社会化を支援する大学授業の方法論」、徳島大学『大学教育研究ジャーナル』、pp1-19、2004.3.
*4 坂口順治『実践・教育訓練ゲーム』、日本生産性本部、pp93-100、1989.5.
*5 坂本登『社会教育の団体と行政』、日常出版、p122-123、1988.7.
*6 西村美東士「大学授業における学生の社会化過程の類型−個人化と社会化の相互関係に着目して」、大学教育学会『第24回大会発表要旨集録』、pp116-117、2002.7.
*7 前掲「学生の社会化を支援する大学授業の方法論」
*8 2003年度上智大学・学内共同研究報告書『12大学・学生調査−1997年と2003年の比較−』(平成16年4月、研究代表者武内清)は、「授業にまじめに出席」や「先生からの指導を求める」といった高校生的な生徒化傾向から脱していないことを、学生の特徴として挙げている。
構造的理解に基づく子育て学習の支援のために
−子育て支援学習における学生の社会的視野拡大の事例からの検討−


西村 美東士
(聖徳大学)

【要旨】
 子育て支援においては、「問題解決のための個人学習」→「自分の子育て行動に対する気づき」→「親の会や地域社会における仲間との出会いを基礎にした集団学習」→「親の子育てまちづくりへの参画行動」という親の子育て学習の発展過程に基づく構造的理解が求められる。そこで、女子学生に子育て支援に関するグループ研究による学習を行わせ、その成果と学習過程における記述に表れた気づきを分析した。その結果、「自己への主体的関わり」→「他者との交流」→「社会への主体的関わり」という発展過程を示唆する事例を見いだすことができた。このような仲間や他者との出会いや交流を契機とした社会的視野の拡大過程は、親の子育て学習と共通する側面が少なくないと考えられる。「わが子の問題」から出発しつつも、社会的視野の拡大に発展するよう、親の学習を支援する必要があるといえよう。


1. 研究目的
 われわれは、平成17年度から、文部科学省「私立大学学術研究高度化推進事業」の「社会連携研究推進事業」の補助を受け、大学院を中心として「連鎖的参画による子育てのまちづくりに関する開発的研究」を進めている。
 われわれは、子育て学習の構造を次のように考えている。「問題解決のための個人学習」→「自分の子育て行動に対する気づき」→「親の会や地域社会における仲間との出会いを基礎にした集団学習」→「親の子育てまちづくりへの参画行動」。
 本研究では、このような子育て学習のとらえ方を「子育て学習の構造的理解」と呼ぶことにした。この理解に基づき、第1図に示した「親の能力開発ラダー」を想定した。構造的理解によれば、ここで想定されたレベルを一段階ずつ上がっていくことが親能力開発のプロセスであると考えられる。子育て支援全般においても、このような親の社会参画にまで至る構造的理解を伴うことで本質的な問題解決にいたると考えられよう。
レベル4 子育てまちづくりへの参画


     契機(親の会や地域社会での活動)
レベル3 自分自身や家族関係に対する気づき

     契機(家族の問題解決の取り組み)
レベル2 自分の子育て行動に対する気づき
     契機(わが子の問題解決の取り組み)
レベル1 わが子のことをよく見る
第1図 親の能力開発ラダー

 しかし、このラダーは単純な一方向的なものではない。@集団学習によって、個人学習による自己や自己の子育てへの気づき効果がより高まる、A主体的、客観的条件が整った場合は、親の会や地域社会における「仲間」との活動自体が、学習活動にとどまらずに、子育てまちづくりへの参画活動そのものとして行われる、B仲間との参画活動が個人の気づきを深め、集団学習の質をレベルアップさせる、などの「循環」が想定される。
 子育て学習の構造を理解しようとする場合、一つのラダーを設定して、すべての学習の発展段階をそれに当てはめるということはできない。個人の子育て学習の局面ごとに、さまざまな循環とねじれを経て社会的視野が拡大していく状況をより詳細に検討しなければならない。子育て支援者においても、「子育て学習の構造的理解」に基づいて行動する必要があると考える。このような子育て学習の構造的理解のためには、「個人の社会的課題」の理解が重要である。なぜならば、社会参画に至る以前に、現代の若い親たちにとっては、「公園デビュー」などの、原初的ではあるが多難な社会的課題が自覚、無自覚のうちに山積し、その達成なしには、「子育てまちづくり」への参画、親の会などでの「仲間づくり」が危ぶまれる状況と考えるからである。
レベル4 子育て支援の視点をもった子ども支援者としての自覚

     契機(チームワークによる研究活動)
レベル3 子ども・家族・社会という広がりに関する気づき

     契機(親の会や地域、社会に関する研究)
レベル2 自分や仲間の「育てられ方」に関する気づき

     契機(親の子育て研究)
レベル1 自己の研究関心をよく見つめる
第2図 学生の子育て支援学習における能力開発ラダー
 そこで、本研究は、子ども支援者(保育士、幼稚園教諭、小学校教諭)をめざす女子学生に「グループによる子育て支援研究課題」に取り組ませる授業を実施した。そこでの「若い母親予備軍」としての学生の気づきを分析し、その社会的視野の拡大過程を明らかにしようとした。具体的には第2図に示すような、親の能力開発ラダーの準モデルとしての「学生の子育て支援学習における能力開発ラダー」が妥当するか否かについて確かめようとした。

2. 研究方法
(1) 研究対象
 対象は2005年度後期科目「児童学の基礎としての社会学」を受講する大学1年生297人、大学2年生39人とした。すべて女子学生で、大多数が、保育士、幼稚園・小学校教諭など、子ども支援者としての職業に就くことをめざしている。
(2) 授業方法
授業の進め方は以下のようにした。これまでの研究の成果、とくに現代学生の社会化過程における困難性の理解1)を踏まえ、次の3つの到達目標を学生に提示した。@親の気持ちがわかり、親や大人と向き合い、子育てを支援することができるようになる。A親たちが地域や親の会で積極的に活動し、主体的に参画することの意義を知っている。Bまちづくりや社会全体の観点から、子ども支援を考えることができるようになる。
本目標達成のため、学生に「子育て支援の課題」を記述させ、それに基づいて、教師から29の研究タスクを提示し、希望するタスクにより、5人程度のグループを作らせた。各グループに対して、次の課題を提示した。
@ 学習課題1【親の子育て研究】「自分たちは親にどう育ててもらってきたか」=「個人課題」としては子育て年表の作成、子育ての喜びとうれしかった時、子育ての悩みとつらかった時の把握。「グループ課題」としては、他者の「個人課題」研究成果とあわせて一覧表をつくって比較し、一致点と相違点を発見。
A 学習課題2【親の会研究】「親が組織する子育てに関わる団体活動の検討」=調査対象となるPTAなどの親の会を自己開拓させ、「わが子さえよければ」という親や「あなたまかせ」の大人たちが責任を持つようになり、親の会活動や子育てまちづくり活動に参画するようになるための気づき、自己成長の要因を検討。
B 学習課題3【自由課題研究】「学生が任意に設定した課題の検討」=見取り図、マップ、チラシ、ポスター、進行表、年間計画表、まちの人材リスト、グラフ、図解、文章化等のワーク手法により、研究を進め、その成果をプレゼン資料作成、口頭発表としてまとめる。提出物は「研究論文」とした。

 本研究では「学生による子育て支援学習の成果分析(研究1)」と、「学習過程における気づきの記述分析(研究2)」に分けて検討した。
(3) 研究1の方法
 学生の学習成果の分析は次のように行なった。各グループの次の研究成果の内容を検討した。@「自由課題に関する問題点と解決策」(図解)、A中間発表における投影資料(図表等)、B最終発表における投影資料(図表等)。提出数は66件あった。
(4) 研究2の方法
 学生の記述内容の分析は次のように行なった。授業ごとに、毎回、「授業中や研究活動中に気づいたこと」または「研究活動報告」を個人として記述させ、その記述内容を逐語的に分析した。分析対象は、保育士をめざす学生及び小学校教諭をめざす学生計185人、記述件数延べ1,921件であった。

3. 結果と考察
(1)研究1
 各学習課題に関する中間報告における投影資料を用いて検討した結果は次のとおりである2)。
学習課題1「自分たちは親にどう育ててもらってきたか」
 学生に研究成果を一覧表としてまとめさせることによって、少なくとも表面的には、親の間の共通点、差異などを、明らかにすることができた。しかし、それをどのように整理したらよいのかということが学生には難しいようだった。

項目 A B C D E まとめ
子どもが生れた時の気持ち とても嬉しかった。 ほっとした。
嬉しかった。 無事に生まれてよかった。 嬉しかった。 無事にうまれてくれて幸せな気持ち。
親として責任を感じた。 子どもが生まれてきてくれて幸せになり嬉しかった。
みんな望まれて生まれてきた子ども。
第1表 グループ01の「親の子育て研究」中間報告(抜粋)

 これに対して、グループ01のように、各調査項目ごとの「まとめ」を試みているグループもあった(第1表)。しかし、そのまとめ方には、全般的に、「共通点を見いだしてまとめる」という傾向が見いだされた。とくに学生によるまとめの言葉「みんな望まれて生まれてきた子ども」に代表されるような予定調和的な結論の仕方は、現代学生の志向を表していると考える。「ほっとした」、「無事に生まれてよかった」、「責任を感じた」などの示す出産前後の不安、責任感などの重要な要素が捨象されてしまっている。
 研究を深めさせるためには、個人間の差異にもっと注目させ、学生の研究関心を引き出す必要があるだろう。さらには、そこから、調査対象個人の各項目間の回答の横断的分析まで深めさせていくことが、質的調査の発展を促すものになると考える。このことは、学生が社会化を達成するにあたって問題になることとも一致していると考える。すなわち、ピア・コンセプト(同輩意識)によって「群れのなかでの同質化」が進行することと、共通する答えを見いだそうとするあまり、個人間の興味深い差異を見過ごすこととは、本質的には通じていると考えられる。
 この点で、個人的事象における異なりという事実に対して、科学的態度で臨もうとする研究態度は、ピア・コンセプトを乗り越えて望ましい社会的態度を獲得することにも資するものになると推察される。このようにして研究のなかで実現される個の発揮こそ、組織的目標達成と統合的に進めうるのだと考える。
学習課題2「親が組織する子育てに関わる団体活動の検討」
 学生による「親の会研究」に関する中間報告における投影資料を用いて検討した結果は次のとおりである。
 「親の会研究」も、「親の子育て研究」と同じ傾向が見いだされ、学生の研究と社会的視野の拡大を支援するに当たっての課題を示す結果になった。さらに、「親の会研究」では、PTA役員(委員を含む)をやらなかった親に対して、何を調査するかという点が、学生にとっては困難な問題となった。グループ02においては、B、C、Dの3人の親が「PTA役員を経験していない」という理由で除外されている(第2表)。そのため、PTAの肯定面は書かれているが、今後の課題は明確になっていない。

項目 A E
PTAをしていて得したことは 学校の現場がよくわかった。 学校の様子がわかった。自分自身勉強になった。他人との交流ができた。
PTAの仕事 子どもたちのすごしやすい環境づくり。 学校行事の参加、企画、料理、手芸、救急法、PTA会費集金、PTA総会。
PTAは必要か 学校の現場を知るには必要。 親同士の交流になって子ども、学校の様子がわかるので必要。
第2表 グループ02の「親の会研究」中間報告(抜粋)

 このことについては、次のように考える。学生の意識のなかで、社会参画の建前だけが先行してしまう場合、親一人一人の状況や感じ方に基づいて考察し、阻害要因等を科学的に突き止めていくという作業が困難になる。逆に、研究活動を通して、それぞれの親のもつケースごとの分析ができるようになれば、「すべての人が、同じように積極的に参加すべき」という実現困難な「内なる教条」を乗り越えることができるだろう。「建前」を疑うことなく自明のこととして処理する彼らの教条主義とも呼ぶべき思考過程は、科学的思考法を妨げるとともに、結局は彼らを社会参画から遠ざける働きをしていると考える。なぜなら、他者に対して「社会参加すべし」という「踏み絵」を押しつけようとする者は、結局は自らの自由な参加決定をも抑圧する結果になると考えられるからである。
 これに対して、個人に対する臨床的な研究態度を養うことは、自分自身も含めて、「個人がおかれている状況のなかで、社会に対して、できる範囲で参加する」という柔軟で生産的な思考に転換することにもつながると考える。このことにより、自己という「個」を社会のなかで適正に位置づけて、社会参画に意欲をもつことができるようになり、結果として望ましい社会的態度の形成にも資するものになると考える。
学習課題3「学生が任意に設定した課題の検討」
 自由課題研究の効果としては、次の4点を指摘できる。
 第1に、学生自身およびその環境という「資源」の調査対象としての活用についてである。これは、調査の客観性の確保の面からいえば問題は多いといえるが、学生の自己客観視や、自己とは異なる他者の存在への気づきの面では、資するところが大きいともいえる。グループ03は、他者の親子関係との共通点と差異について検討した(第3表)。これらのことが、学生の社会的視野の拡大に寄与すると考えられる。

A B C D
最近どのように親とコミュニケーションをとっているか 話しをしたり、遊んだりする。 学校のことやいろいろなことを話す。 一緒にご飯を食べたり、話しをしたりする。 一緒に買い物に行ったりする。
第3表 グループ03の「親と子のコミュニケーション研究」中間報告(抜粋)

 大学教師が学生による研究活動を推進しようとする場合、学生自身の価値観や周囲の人々の存在、生まれ育った環境等が一人一人異なることに気づかせ、それらを研究対象として関心を持たせ、客観視できるように導くことが重要であろう。それは、学生の研究能力の育成としてとともに、ピアコンセプトのマイナス面の克服にとっても効果が大きいと考える。
 第2に、他者の意見という「事実」に対する主体的関与についてである。中間発表の当初、多くの学生は、被調査者が言ったことを、そのまま結論として利用しようとした。これは、今までの教育のなかで「答えを教えてもらうこと」に慣れてしまったことが原因と推察される。
 教師は、「研究においては、『Aさんはこう考えている』というデータでしかない」と助言し、自分たちの切り口を見つけて、その回答を分析するように指示した。このようにして、受け身の姿勢を改めさせ、自らの主体的思考による分析を経て、結論するようにさせることが、学生の研究能力を育てることは明らかである。同時に、このことは、他者に対して主体的に関与しようとする意欲と能力につながるものと考える。
 第3に、第2とも関連するが、他者の意見間および自己の意見との差異の解釈と構造的把握についてである。過去のワークショップ型授業において、他者の異なる価値観と出会い受容する「価値観ゲーム」が学生に容易に受け入れられたのに対して、他者の異なるカードをグループ化して表札をつけたり、全体を構造化したりする作業が必要になる「図解ワーク」は、学生の側に強い抵抗感があった3)。これは、自己とは異なる他者と「共存」はできても、理解の「共有」はできないという、現代学生の可能性と限界を示すものと考えられる。「人それぞれ」という言葉で簡単に片づけられてしまいがちなのである。
 今回の研究成果においても、個人間の差異は見いだしているものの、全体をどう構造化して把握するかという面については、彼らの戸惑いがうかがわれた。その場合、教師が図解や類型化などによる検討を指示することは、彼らのもつ「人それぞれ」という限界を乗り越えさせ、「意味ある他者」を能動的に取り戻させるきっかけにもなると考える。
 第4に、「批評精神を働かせる」ということについてである。上記第2、第3の効果を実現するためには、研究において必要とされる「批評精神」が、他者の回答を分析するにあたっても重要になると考える。「人それぞれ」で終わらせてしまっては、研究は深まらないからである。この点に関して、現代学生の「共存志向」には、「自分が批判されたくないから他者を批判しない」という消極的な傾向もうかがわれる。
 現在、関係する諸学界において、青少年にとっての自己肯定感(Self-Esteem)の重要性が指摘されている。しかし、「批評されない」ということが、真の自己肯定感の涵養につながるとは考えられない。これに対して、研究活動において真摯な批評の方法を経験することは、「打たれ強い」、「友人と真摯に批判しあう」などの資質と能力にもつながる。その点で、安定した自己肯定感を養い、それに基づく望ましい教育効果をもつと考える。

(2) 研究2
 1,921件の内、研究活動の自己に与えた効果にふれた記述は761件あった。これを検討した結果、社会的視野の拡大に関する8種類の効果が抽出された。ここでは、それぞれの効果について、1件ずつ代表的な記述を列記して分析したい。
記述01 自己の将来の社会的活動に関する認識
 「発表を行ってみて、見やすさと分かりやすさに気を付けることが大切だと実感した」。他者に伝えることの重要性への気づきといえる。「私たちは連絡ノートについて調べているのだが、この研究のこれからの目標は、保護者と指導者の本音を聞き、自分たちが実際に教師になったときに、保護者の立場でも物事を考えられるようになることだと思う」。将来就くであろう子ども支援の職業において、子どもだけでなく、保護者にも目を向けた活動が重要であることに気づき始めている。「その目標に向かって、いろいろな人と接し、話を聞き、自分自身の考えを深めていきたい」。他者との交流のなかで思考を深めるようとしているととらえられる。
記述02 地域および見知らぬ他者への関心
 「私の住んでいるところはよくお祭りが開催される。私は、今研究している『地域親密化あの手この手』と結びつけてお祭りを観察してみた。今まではただお祭りを楽しみにきているだけの地元の一般市民だったが、1人の調査者としてみているといろいろなことが見えてきた気がする」。この学生が研究活動をすることによって当事者意識が芽生えたのだととらえられる。「大人にとっては、お店を出したりと、日々の生活とは違った刺激を受けられ、」。非日常性の社会的意義への気づきといえる。「子どもにとっては、地元ならではのお祭りを楽しみ、『〜くんのお母さんがおそばを売ってる』など、違う家庭の親と子の小さなやりとりが生まれるきっかけになる」。異なる家庭の親と子のやりとりへの気づきといえる。「互いに共通していることは、だれもみんな笑顔でいることだ」。「どんな形でも、小さなきっかけでも、それは地域親密化につながる1歩なんだ」。「何より『楽しさ』を考えたい。これがなければどんなすばらしい企画でも意味をなさない」。地域および見知らぬ他者に対して関心をもち、さらには、その関心が、そういう人々の「笑顔」を広げる「企画」というかたちで主体的意識にまで発展する可能性があることを示している。
記述03 メンバーとしての責任感
 「今回は、前回の授業で親に聞いてこようと決めた内容を話し合う予定だったが、私は親に聞かずに参加してしまい、みんなに迷惑をかけてしまった」。チームワークの面から自己反省をしている。「次回からはきちんと聞いてくるようにしたい」。メンバーとして必要な義務への気づきといえる。「新たな質問内容を考えた。でも、今までとは話の進み方が異なり、みんなで遠い昔話を持ち出しながら、自然な感じで質問内容を考えられた」。チームワークで研究成果を出すための効果的方法の一つといえよう。「こんなときでなければ話すことがないようなことも話題にでてくるので楽しい。たくさん話し合っていきたい」。研究メンバーの一員として責任をもつ活動のなかで、「楽しい」という言葉が適切に使われていると考える。
記述04 聴取による他者理解の意義の認識
 「親の子育て研究は、自分のことを聞くのはちょっと恥ずかしいけれど、自分が何かをしてしまった時、親がどんな気持ちだったか聞くことができる」。相手の気持ちを理解することの意義への気づきといえる。「子どもとしての自分が思っていたこと、親が思っていたことを比較してみるとおもしろい」。相手の気持ちと自分の気持ちをすりあわせてみることの意義への気づきといえる。「自分の親と友達の親に同じ質問をして、家庭によってどう違うのか比べてみるのもおもしろいと思った」。自己の家庭の子育てから、他者の家庭の子育てにまで、関心が発展している。「親の会研究は、PTAの人にインタビューをする前に、今の親が、親の会に関して、学校に関して、子どもに関して、どう思っているのか聞いてみたいと思った」。活動的な親だけでなく、一般の親に対しても関心が向き始めている。「そうすることによって、今の親の考え方を予想するのではなく、きちんと理解でき、インタビューする内容も変わってくると思う」。研究対象について自分勝手に予想するのではなく、相手から聴取して理解しようとする研究態度の重要性への気づきといえる。「研究者にはできない、学生ならではの視点から疑問点を見つけ、深く研究していきたいと思った」。現在の自分を出発点として研究を進める主体的態度として、この気づきは重要といえる。
記述05 社会的倫理感
 「安全冒険公園作りの研究については、まだ公園内の遊具の見取り図しかできてないので、遊具一つ一つの詳しい説明を書き、時間があれば立体的な公園像も作りたい」。「見取り図」といういわば「願望」を、客観性のあるものにしようとする態度は重要と考える。「私のグループには、親が小学校の内部に関わっている人がいて、頼み込めば、小学校の児童たちへのアンケートもとることができるみたいだけれど、そして私たちの研究には役立つのだろうけれど、私はあまりそういうのは好きではない。普通はとれないものなのだから、とらないほうがフェアというか、いいように思える」。研究には、自発的意思に基づく社会的倫理観が求められる。今回、各グループは、講義型の授業を受けているだけでは遭遇しないこの種類の問題にぶつかり、現実的な解決策を探し出していったと考えられる。
記述06 他者の異なる環境の認知
 「私たちの班では田舎と都会の育ってきた環境の違いについて研究している。大学には、いろいろな地方からの学生が来ている。私の地元は都会とはいえないが、少し発展した地域である。友人の中には、私よりも都会に住んでる人、田舎に住んでいる人がいる。大学に入り、地方によって環境が違うため、考え方や風習などが違うと感じた」。地域の環境の違いによる個人差への気づきといえる。「今回こういう形で研究できることがうれしい。この研究の最終目標は、都会の子供たちと田舎の子供たちが交流するイベント開催だと思っている。目標に向かって頑張りたい」。「交流イベント」を媒介として、環境の差による個人間の断絶の問題を解決しようとしているととらえられる。
記述07 他者の意見の重視
 「まだ改善すべき点が多く、そのような現状をしっかり把握して対策を考え、実行していかなければならない」。研究を計画的に進めることへの気づきといえる。「問題に対する解決策が弱いので、今回のようなグループワークを通して多くの意見を聞き、今ある考えを大きくしていきたい」。他者の多様な意見を積極的に取り入れて研究を進めるという志向が示されている。「子どものまちづくり、子育てのまちづくりがよりよい成果として出ればよいと思う。一人一人が考え、行動していくべき重要な課題であると思う」。他者の意見を重視する態度が、まちづくりの広い視点やその重視とつながっていくことが示されていると考える。
記述08 親の恩への気づき
 「今日は親の子育て研究について、先週考えたいくつかの質問をメンバーが親に聞いてきたものを一覧表にした。私の父が言ったのだが、『子を持って知る親の恩』というものがあった。この言葉の意味に思わず納得してしまった」。通常では押しつけに受け取られかねない父親から娘への言葉も、研究のための聴取というフィルターを通した場合は、異なる効果があると考える。「親たちがどんな思いで、どれだけ苦労して私たちを育ててきてくれたのか、実際に自分が親にならないとわからない。私もいつか本当の親の気持ちをわかるようになりたい」。このように今まで受けてきた自分に対する「子育て」を、研究という立場から振り返ることにより、親の恩に気づく可能性があると考える。

4. おわりに
 −親の能力開発ラダーと学生の子育て支援学習における能力開発ラダーとの関係−
以上に述べた学生の社会的視野の拡大過程の分析をもとに、親能力の構造的理解の観点から、第2図に示した学生のラダーモデルの妥当性を検討したい。ラダーモデルでは、自己の学習が、学生であれば研究仲間、親であれば子育て仲間との相互関与によってレベルアップすると想定した。そこで、(1)自己への主体的関わり、 (2)他者との交流、(3)社会への主体的関わりの3側面について、レベルアップへの影響を考えてみたい。

(1) 自己への主体的関わり
 本研究において、自己の研究課題と結びつけて祭りを観察するという目的意識が、「いろいろなことが見えて」くるきっかけになるなどの効果を指摘した。
 親は、「しぶしぶ始めたPTA」のなかで、主体的に企画するおもしろさを知り、成長していく。同様に、学生も、「授業だからいやおうなしに始めた研究」のなかで、分析する切り口を見つけ、自らが関心のもてる仮説を設定して、その仮説を検証するための研究を企画する。本授業で学生に提起した学習課題は、「勤勉だが、受け身で勉強する」という姿勢から、「おもしろいから研究する」という姿勢に学生を転換させる効果があったと考える。
(2) 他者との交流
 本研究では、とくに、「親の子育て研究」などにおいて、他者との共通点や差異に直面し、これを整理して理解することの学習効果を指摘した。
 親は、PTA役員になることにより、わが子とは学年の違う子の親などとも話す機会が増え、ときにはよその子や地域の人々と交流することにもなる。学生も、自由課題という研究目的を同じくする者同士と共同研究を行い、さらには、地域の親子や企業、店舗の人のところに行き、話をすることになる。
 ネットワーク社会においては、交流を即目的とする交流より、むしろ、特定の目的のもとに人々が交流する。研究活動に付随して、このような交流を自主的に体験することは、ネットワーク社会における人的交流能力を育てることになると考える。
(3) 社会への主体的関わり
 本研究において、子育て支援学習のなかで、地域の環境の違いによる個人差に気づき、環境の差による個人間の断絶の問題を解決したいと考えるようになった事例を指摘した。
 親は、PTA役員になることにより、今まで話したことのなかった学校管理職等と話す機会が多くなり、わが子の周りとしての「学校」だけでなく、社会や地域のなかでの「学校」を知るようになる。学生も、今までに知識として習っていた「対象」について、調査をとおしてその「素顔」を知り、研究をとおして社会的文脈のなかで、その対象をとらえようとするようになる。
 広い視野から自己の職業や生活を見ることができるようになることは、個人が社会のなかでの自己の位置を客観的に認識し、それをもとに社会に対して主体的に行動できるようになるために不可欠の要素と考える。

 以上の3つのレベルアップの契機について、先に示した親及び学生のそれぞれの能力開発ラダーにおけるレベルと関連づけて、仮説的ではあるが示しておきたい(第3図)。親の子育て学習は、将来親や子ども支援者になる学生と同様、受け身の学習よりも参画型の学習、つまり研究に近い実践的活動のなかで、より効果的に社会的視野を拡大できると推察される。

親の子育て学習 学生の子育て支援学習
レベルアップの契機 レベル レベルアップの契機 レベル
社会への主体的関わり L4=子育てまちづくりへの参画 社会への主体的関わり L4=子育て支援の視点をもった子ども支援者としての自覚
他者との交流 L3=自分自身や家族関係に対する気づき 他者との交流 L3=子ども・家族・社会という広がりに関する気づき
自己への主体的関わり L2=自分の子育て行動に対する気づき L2=自分や仲間の「育てられ方」に関する気づき
L1=わが子のことをよく見る 自己への主体的関わり L1=自己の研究関心をよく見つめる
第3図 親と学生の能力開発ラダーにおける社会的視野の拡大過程

 本研究では、想定したラダーモデルにおけるレベルアップの順序性等の妥当性について、十分に確かめるまでには至らなかった。また、ラダーモデルの想定とは異なる発展のケースも取り上げて検討する必要があるだろう。さらに、レベルアップの契機についても、以上の3側面のほかにも、より詳しく検討したい。その上で、先述の考察を踏まえ、次のような点について、今後検討を進めていきたい。
 教師が学生の研究関心を育てようとする場合、これが他者や社会との交流をとおして、社会的視野を拡大し、(卒業時までに)社会に関わる自己を位置づけるまでの高みに至ってこそ、翻って学生個人の研究関心の質も保証されるのではないか。同様に、親が「わが子の問題」から出発しつつも、他者と交流することによって社会的視野を拡大し、社会に対してより主体的に関わる展望をもってこそ、子育て学習も本質的に深まるものと考えられる。このようないわば「循環の構造」についても検討していく必要があると考える。
 今後、子育て学習の構造をより詳しく明らかにすることによって、親が「子育て支援される対象」にとどまらず、「子育てまちづくりに参画するメンバー」にまで至るような子育て学習支援の可能性を探りたいと考える。

注記・引用文献
1) 西村美東士「学生の社会化を支援する大学授業の方法論」、徳島大学『大学教育研究ジ
  ャーナル』1号、2004、pp.1-19
2) 西村美東士「学生の社会化支援の観点に立った子育て支援教育の研究−連鎖的参画に
  よる子育てのまちづくり研究の一環として」、『聖徳大学生涯学習研究所紀要』4号、
  2006、pp.49-62
3) 西村美東士「ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高
  める授業方法」、『大学教育学会誌』22巻2号、2000、pp.194-202
まちづくり推進における青少年と親の社会化支援方策
−佐野市生涯学習推進基本構想作成過程からの検討−

西村美東士
聖徳大学生涯学習研究所紀要『生涯学習研究5』(2007年3月)原稿


1 問題意識
1-1 公的課題学習優先の根拠
 筆者は1991年に「公的課題の優先」という概念を提案した*1 。
 この概念は、次の問題意識から発している。行政の行う学習プログラム提供は、自由な生涯学習を支援するためのものである。それなのに、なぜ、何を根拠に、学習課題を取捨選択するのか。これは、公的社会教育の存在理由を問う問題でもあった。その論旨は次のとおりである。

 生涯学習のネットワークは自治というよりも「個治」であり、どの学習課題も差別されない。それに対して、行政が行うべき問題提起は、ネットワーク型といえども性格を異にする。行政職員の個人の意図によってではなく、行政課題の遂行という責務のもとに行動を決定する。
 そこでは、たとえ市民の自由な生涯学習のネットワークに対する援助や問題提起であっても、その学習課題に優先順位がつけられていく。まずは、行政として考える「公的学習課題」、またはそれにつながる課題の学習を優先すべきである。
 ただし、私的課題と公的課題は、現実の世の中では混沌としている。だが、これを操作概念として使用することによって、行政が援助・提起すべき課題に優先順位がつけられる。

 本論旨によれば、「公的課題の優先」はあくまでも行政社会教育における「優先順位付け」(プライオリティ)の問題であって、市民の自由な生涯学習に対して「望ましい方向」を示すものではなかった。

1-2 個人からは「遠い問題」としての公的課題
 翌1992年7月、生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」は「現代的課題の学習」の必要性を提起した。そこでは「人々の学習への関心の現状を見ると、人々の身近な問題や実益を伴う問題についての関心が高く、比較的自分と空間的・時間的に遠い問題には、余り関心を示さない傾向が見られる」(下線引用者)として、次のように述べている。

 これからの我が国においては、人々がこのような現代的課題の重要性を認識し、これに関心を持って適切に対応していくことにより、自己の確立を図るとともに、活力ある社会を築いていく必要がある。そのためには、生涯学習の中で、現代的課題について自ら学習する意欲と能力を培い、課題解決に取り組む主体的な態度を養っていくことが大切である。

 そのため、「人々に学習機会を提供する機関は多様である」が、行政の果たすべき役割としては「特に現代的課題に関する学習機会の提供」が重要としている。
 これは、「現代的課題」(本稿では「公的課題」)の学習が、その重要性にもかかわらず、個人からは「遠い問題」であることを指摘し、生涯学習推進による解決を訴えたものと理解される。
 本稿では、これを「自己形成と社会形成の一体化」の課題としてとらえる。そして、現在に至るまで、その課題は十分には解決することなく、「遠い問題」の一般市民にとっての距離感はむしろ大きくなっているとさえ考えられる。この課題解決は、「望ましい方向」どころか、「持続可能な開発」*2 にとって「必要不可欠な方向」というべきだろう。

1-3 公的課題の学習としての「まちづくり」と、青少年と親の社会化課題
 1999年6月、生涯学習審議会答申「学習の成果を幅広く生かす−生涯学習の成果を生かすための方策について」は、「生涯学習のまちづくり」を提起し、「生涯学習のためのまちづくり」から「生涯学習によるまちづくり」への意識の

転換が必要と述べた。
 そこでは、「現代的課題の学習」の必要性について、「現在、各都道府県・市町村が抱える、ごみ処理、自然環境の保全、介護・福祉等の様々な現代的課題は、住民自らが学習し、理解し、主体的に関わろうとするときに初めて最も効果的な対処が可能となる問題であり、それだけに生涯学習の役割が大きい」と述べている。
 しかし、このような公的課題は、個人の自己形成の課題と切り離して実現することはできない。とくに青少年においては、1990年代に「仲間以外はみな風景」、すなわち、「仲間さえ大切にしていれば、外の世界はどうでもいい」(宮台真司)と分析された*3 。その親についても、同様のことがいえよう。

1-4 研究の背景と目的
 われわれは、文部科学省「私立大学学術研究高度化推進事業」の「社会連携研究推進事業」の補助を受け、平成17年度から「連鎖的参画による子育てのまちづくりに関する開発的研究」を進めている。そこでは、この課題について次のようにとらえている*4 。

 現代社会において、青少年だけ、ましてや、学生だけが、望ましい社会化を達成したり、社会参画能力を身につけたりすることはできない。
 自分の子どものことだけしか視野になく、あとは「専門機関任せ」の親たちばかり、まちづくりに無関心の市民や産業ばかりだとしたら、その地域で学生だけが自己形成と社会形成を一体化して進めることは困難である。

 公的課題の学習や、さらには、まちづくりという社会参画活動は、多くの青少年や親にとって「遠い問題」といえる。これを個人にとって「自らの課題」とするためには、「個人の社会的課題」の視点からとらえ直さなければならない。筆者は次のように考える*5 。

 子育て学習の構造を理解しようとする場合、一つのラダーを設定して、すべての学習の発展段階をそれに当てはめるということはできない。個人の子育て学習の局面ごとに、さまざまな循環とねじれを経て社会的視野が拡大していく状況をより詳細に検討しなければならない。子育て支援者においても、「子育て学習の構造的理解」に基づいて行動する必要があると考える。このような子育て学習の構造的理解のためには、「個人の社会的課題」の理解が重要である。なぜならば、社会参画に至る以前に、現代の若い親たちにとっては、「公園デビュー」などの、原初的ではあるが多難な社会的課題が自覚、無自覚のうちに山積し、その達成なしには、「子育てまちづくり」への参画、親の会などでの「仲間づくり」が危ぶまれる状況と考えるからである。

 以上のことから、「個人の社会的課題」の達成、すなわち「社会化」は、青少年や親の自己形成と、公的課題の学習としての「まちづくり」による社会形成をつなぐ重要な環であると考える。本研究では、この視点から、「公的課題学習推進」のあり方を検討したい。

 平成17年2月28日、一市二町が合併して、人口約12万7千人の新佐野市が発足した。そこで、同年8月30日、岡部正英市長から佐野市生涯学習推進協議会に対して、新佐野市における生涯学習社会の構築を図るための新しい佐野市生涯学習推進基本構想について諮問があった。
 佐野市は、現在、第1次佐野市総合計画策定基本方針を示し、将来像を「育み支え合うひとびと、水と緑と万葉の地に広がる交流拠点都市」として、市民参加を基本方針に掲げて「総合的なまちづくり」に取り組もうとしている。
 筆者は、答申の原案作成者として、次のように考えた。市民一人一人の個人としての充実とともに、その個人が新佐野市のまちづくりのなかで市民としての役割を発揮することによって、ますます個人としても新佐野市としても充実するという「自己形成と社会形成の一体化」を実現する生涯学習推進の展望を示したい。
 旧佐野市においては、平成5年4月に「佐野市生涯学習推進基本構想」を策定し、同年10月2日には「楽習のまち佐野」都市宣言を行い、「私らしさ咲かせます 楽習のまち佐野」をキャッチフレーズとして、「私」という個人をキーワードとした生涯学習のまちづくりを全市全庁的に進めてきた。それは、地域住民一人一人の「私」を最上段において、「生涯学習のまちづくり」を実現しようとしたものである。
 この成果をさらに発展させるため、中間答申作成に当たり、「私らしさ このまちに 咲かせます」というコンセプトを設定することとした。それは、「旧佐野市生涯学習推進基本構想」でいう「私」が、学びを通してまちづくりに関わり、まちづくりを通して学ぶことによる「自己形成と社会形成の一体化」の実現の方向でもある。
 以上から、本答申の作成過程は、まちづくりという「公的課題」の学習を、いかに「私らしさ」の充実という個人的課題と結びつけて推進するかという課題に直面しながら進められたということができる(資料1「中間答申作成スケジュール」、資料2「専門部会の設置」、資料3「中間答申の構成」参照)。

 そこで、本研究では、以下の3点について明らかにしようとした。

研究目的@ 青少年と親の社会化状況に関する生涯学習推
進関係者の認識
研究目的A 生涯学習推進関係者が重視する青少年と親の
社会化促進要因
研究目的B 各促進要因と「まちづくり」及びそれに伴う
「公的課題の学習」の推進方策策定結果との
関連

 このことによって、青少年と親の社会化を効果的に進める「公的課題の学習」や「まちづくり」の推進のあり方を検討したい。

2 研究方法
研究目的@、Aのため、中間答申作成過程における委員の青少年育成及び子育てのまちづくりに関する発言(全50件)の内容を分析した。分析にあたって、以下のように「社会化促進要因」を仮説的に設定して、その妥当性を確かめようとした。

A 居場所
B 参画
C 仲間づくり
D 文化や労働の伝承
E 地域の教育力
F 自然の教育力
G 教育機関の教育力
H 家庭の教育力

 第1回協議会で、筆者は、「生涯学習を個人の充実だけでなく、田中正造のような社会正義の視点から提言していきたい」、「一人一人がいつからでも始め、学びの仲間をつくって生きていくという生涯学習社会を目指す」、「市民の自主性を尊重した推進が重要」などの方向付けをした。
 その後の、青少年及び子育てまちづくりに関する各委員の発言内容は資料4のとおりである。
 資料4で、各委員については、関係団体代表者は1〜10、学識経験者は11〜17(内、公募委員は11〜15、)、学校関係者、事務局等は18〜20の番号を振った。なお、筆者自身(17)の発言は除いた。
 研究目的Bのためには、以上の研究で見出された社会化促進要因と、中間答申の起草結果を対照して、提言との関連を検討した。
 なお、本研究への協議会としての協力、及び、そのために審議内容を記録して分析対象とすることについて、協議会の席上で委員から快諾を得た。また、その発言については、筆者による記録とともに、佐野市生涯学習課事務局の多大なご努力による記録を照らし合わせて、より正確な研究データを整備することができた。ここに、協議会委員及び事務局職員の皆さんに深く感謝の意を表しておきたい。

3 研究結果
@青少年と親の社会化状況に関する生涯学習推進関係者の認識
 審議の最初から多く出された意見は、青少年や親の社会化不全に関するものであった。
 0504「(教育熱心なお母さんのため)、有名な遠い所に通う。親も子どもも地域との交流がまったくなくなっている」、0513「自分自身だけの考えで行動している。人との関わりが希薄になり、事件につながる要素がある」、0704「私らしさを取り違えると、自由奔放に何でもしていいということとなる。子どもにしつけることはもちろんだが、しつけをする若い親にしつけ方を教えるといった、世代に応じたしつけが、まちの中で必要」、1002「民主主義は、基本的に必ず責任を伴う。そういったことを、戦後教育ではあまり教えてこなかったことが、自分が自由にやればいいという環境を引き起こしている」、1203「今の若い子は何で子ども産まないのって、もう親の責任じゃないけど、社会情勢が悪いから生まないとか、今の自分たちの生活が楽しいから生まないとか、自分たちの心の貧しさがそういうことを物語っている」。
 これに関して、1003では、「子どもというのは、叱らなければ人間にならない。どうやって叱ってあげるかが問題」として、「他人のことなんかどうでもいい」という風潮に対して、「叱られて、叱られて、ぎゅっと抱きしめられることが子どもの真の幸せ」という旧佐野市「こどもの街宣言」(資料5)が掲げるしつけのあり方を支持している。

A生涯学習推進関係者が重視する青少年と親の社会化促進要因
 各回の委員の発言に表れた社会化促進要因の分布は表1のとおりであった。
 各委員の発言に表れた社会化促進要因の分布は表2のとおりであった。
 なお、本表の数字は、「青少年育成」と「子育てまちづくり」に関する発言のみ取り上げて計上したものであり、各委員の発言の活発、不活発を示すものではないことを付記しておきたい。

表1 各回の発言に表れた社会化促進要因の分布
回 A B C D E F G H 実数
03 1 1 2
05 1 1 2 6 1 1 13
07 1 3 3 3 9
09 1 1 2
10 1 1 3 3
12
1 2 1 2 4 3 13
13
4 2 1 2 1 1 2 8
計 7 4 4 6 13 1 9 12 50
注 最右列のみ発言件数(実数n=50)。他の列は各要因に関する発言の延べ出現回数(n=56)。○は起草委員会。

表2 各委員の発言に表れた社会化促進要因の分布
委員 A B C D E F G H 実数
01
1 1 1 1 5
02 1 1 1 3
03
1 1 2
04 0
05 0
06
1 3
07
1 1 1 1 2 2 4 8
08 2 1 2
09 0
10
0
11 1 1
12 1 1
13 1 1
14
1 1 2
15
2 1 1 3
16
2 1 1 1 2 6
18
3 1 2 2 4 1 9
19 1 1 3
20 1
計 7 4 4 6 13 1 9 12 50
注 最右列のみ発言件数(実数)。他の列は各要因に関する発言の延べ出現回数。○は起草委員。


図1 委員の発言に表れた社会化促進要因の出現回数

B 各要因活性化のための「まちづくり」及びそれに伴う「公的課題の学習」の推進方策
 生涯学習推進協議会の中間答申起草結果のうち、青少年と親に関わる部分は、資料6のとおりである。そのうち、社会化促進要因に関連する記述の出現回数は表3のとおりであった。

表3 起草結果に表れた社会化促進要因の分布
項目 A B C D E F G H 計
1 4 4
2 2 2
3 3 4 1 8
4 3 1 4 5 13
5 5 3 1 1 10
計 5 13 6 0 8 0 0 5 37
注 各要因に関する記述の延べ出現回数。



4 考察
@青少年と親の社会化状況に関する生涯学習推進関係者の認識
 3の@の結果から、審議で指摘された「社会化不全」の要素としては、@親子の交流不足、A地域の希薄化、Bしつけの不在、C自由と民主主義のはきちがえ、D自己中心主義と個人的快楽志向、E心の貧しさなどが挙げられる。
 とくに1003の発言は、「こどもの街宣言」が子どもを甘やかす結果になるという危惧に対してなされたものであり、社会化不全に対して、一方的に糾弾するのではなく、何らかの生産的な対応を考えようとしたものと考えられる。
 以上のことから、生涯学習推進関係者は、現在の青少年や親に関して「社会化不全」という認識を強く持っているといえる。それは、当然ながら社会化としての「しつけ復活への期待」につながる。しかし、それを繰り返し述べていても、先に示した「社会化不全要素」を解決するための展望は見えてこない。危機感だけに終始すれば、現在の青少年や親に対する不信感と可能性の否定に陥りかねない。
 ここに、「まちづくり」及びそれに伴う「公的課題の学習」の推進における青少年と親の社会化支援方策を検討することの重要性が示されていると考える。

A生涯学習推進関係者が重視する青少年と親の社会化促進要因
 3のAの結果から、地域教育力およびこれを支える家庭教育、さらに、これらの教育力を専門的に支援する学校教育、社会教育等の教育機関への期待が大きかったといえる。
 また、起草委員会に移ってから、「居場所づくり」、「参画促進」などの育成活動の具体的な展望が活発に論じられたことがわかる。

B 各促進要因と「まちづくり」及びそれに伴う「公的課題の学習」の推進方策策定結果との関連
 3のAで示された青少年と親の社会化促進要因に関する委員の発言と、3のBで示された中間答申の起草結果における「まちづくり」及びそれに伴う「公的課題の学習」の推進方策に関する記述とを対照して考察したい。

A 居場所
 居場所については、1210「考えているけど友達としてそういう話はできない居場所づくりが必要だなと感じますね。僕は自分の家を居場所にして、若者が何人か来ます」、1307「私の居場所の子どもたちは、私がついていけないくらいおしゃべりが多くて、鬱積して溜まっているものが多いんだなとつくづく感じます。そういう意味で、居場所は何らかの形で作る必要があるだろうと思う。公民館は子どもたちで借りるなんて見たことがない」という委員発言に対して、5−01「現在、多くの青少年が『自分らしさ』を大切に思い、『自分らしくいられる居場所』を必要と感じている」という起草結果になっている。
 青少年の「自己吐露要求」に対して「あるがまま」でいられる居場所の提供を提言したととらえられる。今後は、指導者のカウンセリングマインドなど、しゃべりたくなるような働きかけのあり方を具体的に明らかにする必要があると考える。
 1306「子どもが活動する場所、その確保は大人の最低の義務。さわやか指導員の若い子が来ていたので、ちょっとバスケットをやってみないかとバスケットを月1回その子に頼んだら、仲間を連れてきて子どもと遊んでくれる」、1308「どなたが考えても居場所は同じ。みんな同じなのです。基本的には、一緒にやる経験やっぱり一緒にいると楽しい、何かのときは助けてくれるとか、虫にかまれたら大丈夫と心配してくれる」、0512「子どもを育てる地域の活動地域の交流の場づくりへの子どもの参加の配慮を」という委員発言に対して、5−04「それ(居場所)は、青少年も大人も、ともに参画する『まちづくり活動』の一環として位置付けられる」という起草結果になっている。
 青少年同士の交流を図るため、居場所を「青少年も大人も、ともに参画する『まちづくり活動』の一環」として推進するよう提言したととらえられる。今後は、「まちづくり活動への参画」に至るまでの青少年同士の交流の困難について、より詳しく検討し、居場所における交流促進の働きかけについて、具体的に明らかにする必要があると考える。
 0512「子どもの居場所づくりでは、『大人のすごさ』を見せる場づくりを」という委員発言に対して、起草結果では、5−03「まちづくりに参画する大人たちが、仲間づくりをして、互いの違いを認め合いながら、それぞれの『自分らしさ』を社会に発揮する姿を(青少年の居場所において)示す」、5−05「彼らを地域に囲い込もうとするのではなく、社会に羽ばたいていく巣立ちのための巣として、居場所を提供したい」、5−07「現代は、親、大人、中高年自身が、青少年と同じように『自分らしくいられる居場所』を求めている時代とも考えられる。今まで述べてきた『子育てのまちづくり』を含む『まちづくり』の観点からは、それらの願いに対する端的な解答は『仲間との参画』と言うことができるだろう」としている。
 居場所において、大人自身が「仲間との参画」の姿を示すことによって、青少年にとっての「モデリング」の対象となるよう提言したととらえられる。居場所において、青少年に対して、「放任する」というのでもなく、「強制する」というのでもなくして、彼らの社会化を効果的に支援するためには、このような配慮は不可欠と考える。
 それでは、居場所の指導者は自らの姿を青少年にどう伝えればよいのか。今後は、指導者自身が「仲間との参画」の姿を青少年に示すための、いわば「居場所における指導者の自己アピール」のあり方を実践的に明らかにする必要があると考える。

B 参画
 子どもの参画の意義と必要については、1201「子どもたちの意見を取り入れる学校経営があってほしい」、1202「小学4年生から中学生中心で、『子ども白書』というのを作った。自分たちが遊ぶ当事者だから、そういうものは子どもの意見を直接聞いたほうが、本当に子どもが喜ぶようなものができる」、1301「中学生が中心になって子ども市民憲章を作っています。これから高浜市の中心になっていくのは中学生である。これをはっきり謳っている。まちづくりに参加させている」などの委員発言があった。
 これに対して、起草結果は、1−03「世代を越えた参画の中での合意形成が重要になる」、1−06「子どもの参画によって、子どもたち自身の意見も聞きながら『子育てのまちづくり』を進めていくことが重要である」となっている。
 年金制度の健全な運営など、重要な公的課題の解決のため、インタージェネレーション*6 による合意形成の「鍵」として、「子育てまちづくり」への子どもの参画の意義を位置づけたものととらえられる。
 「子育てまちづくり」への参画活動については、起草結果では、ほかにも次のように述べている。1−05「親が支援

される立場だけでなく、自分のできる範囲で、子育てしやすいまち、子育てしていて楽しいまちにするために力を合わせることが重要である」、3−04「わが子のことから出発して『あなた任せ』にしない子育てまちづくりへの参画」、3−06「自らが仲間をつくって、自分たちのできる範囲で支え合い、実践的な学習を通してまちづくりに参画し、その『福祉』をつくりだす主体にもなる」、3−07「親たちが仲間づくりを通して互いの子育てを支え合い、地域もそれを支えること、さらには、生涯学習やまちづくり活動を通して『子育て環境の改善のための市民参画』を行う」。
 この起草結果は、「あなたまかせ」の状態から、「わが子の子育て」をとおして「子育てまちづくり」への参画に至る親の社会化過程の概要を示したものととらえられる。そこで重要になる要素は、4-07「PTA、保護者会、子ども会、町会などの仲間との活動」と考える。これは次に述べる社会化促進要因C「仲間づくり」につながるものである。
 委員発言1306「子どもが活動する場所、その確保は大人の最低の義務。さわやか指導員の若い子が来ていたので、ちょっとバスケットをやってみないかと、バスケットを月1回その子に頼んだら、仲間を連れてきて子どもと遊んでくれる」に対して、起草結果では、1−09「現代の若者たちの一人一人に適した形での『まちづくり活動』を開発し、その活動への参画を促進するようにしたい」と述べている。
 1980年代にすでに、「青少年が地域社会のゲストから、大人とともに主体的に役割参加を進められるメンバーになることのできるコミュニティ形成」が提起されている 。しかし、その後の青少年施策のなかで必ずしもこれが実現しているとはいえない。「コミュニティ形成に対する若者の主体的な役割参加」のための実効性のある展開の一方策として、起草結果が述べているような「子育てまちづくり」への若者の参画が考えられる。
 その場合、「子育てまちづくり」の範疇を広げ、委員発言1306「仲間を連れてきて子どもと遊んでくれる」というような活動も、重要な参画活動として認識する必要があるといえよう。また、1−09「現代の若者たちの一人一人に適した形」を実現するためには、現代青年の社会化過程に関するより詳細な検討が必要と考える。
 さらに、起草結果では、次のように親教育における「達成目標」の必要性を強調している。4−09「達成目標(できれば各回ごとの)を設定し、それを明示して学習者側の理解を求め、目的意識的な学習を促進することは、むしろ『学習者主体』の考え方に基づくものだと私たちは考える」、4−10「獲得能力目標の明示された親学習プログラムとして編成する手法を開発したい。このことによって、親学習プログラムの作成における親自身の参画が可能になると考えられる」。このように、「達成目標を設定し、これを学習者に明示し、さらにはその達成目標の設定自体に学習者側の参画を取り入れていく」よう提言しているのである。
 先述の青少年と親の社会化不全の実態からいえば、このような教育側の「指導性」は不可欠といえよう。ここに「参画教育」の意義と必要性が示されていると考える。
 今後は、目標設定から、実施後の達成度の測定・評価に至るまでの手法について、具体的に明らかにする必要があると考える。

C 仲間づくり
 仲間づくりについての委員発言は、0502「わからないから学校に行く、わからないから同じ仲間と意見交換するということが大事」、1208「消防団活動、PTAの時にもそうでした集団で楽しんでいくことが、地域を愛するというふうに変わっていくような気がします」、1308「基本的には、一緒にやる経験。やっぱり一緒にいると楽しい、何かのときは助けてくれるとか、虫にかまれたら大丈夫と心配してくれる」などであった。
 これに対して、起草結果は、3−02「親の会や地域社会における『仲間』との出会いを得た場合、実践的な『集団学習』が効果的に展開される可能性がある」、3−06「自らが仲間をつくって、自分たちのできる範囲で支え合い、実践的な学習を通してまちづくりに参画」、3−07「親たちが仲間づくりを通して互いの子育てを支え合い、地域もそれを支える」などである。「まちづくり」のなかでの「仲間」の意義を強調したものになっている。
 現在の青少年と親の交友関係の延長線上で、望ましい「仲間関係」に発展するような展望を求めようとしても限界がある。これに対して、起草結果は、「まちづくり」に参画する「仲間」に、日常の交友関係とは異なる可能性を見出そうとしたものととらえることができる。
 今後は、参画活動における仲間関係の特徴と、交流発展のための方法について、より詳しく検討する必要があると考える。

D 文化や労働の伝承
 文化や労働の伝承については、0505「働くところを見学し、感じることは非常に重要」、0902「子どもたちは働きたいと思っている。昔は子どもは手伝いや仕事をよくしていた」、1211「いわゆる匠のおじさんはどれなのか、子どもからみてこのおじさんはすごいぞと」、1212「昔ながらのものをなくさないように、次世代につなげていくことが大事。そこで連帯感が生まれて、郷土愛が生まれて、付随するものがいろいろ出てきてつながっていく」などの委員発言があった。
 これに対して、起草結果では、青少年と親に関する記述としては直接にはふれていないが、伝承活動をまちづくりの一環としてとらえ、たとえば「鐙塚宮比講神楽(あぶつかみやびこうかぐら)保存会」の活動について、「活動事例」として次のように紹介している。

 会員は12名で、月3回の稽古がある。保存会は、犬伏東小学校宮比講クラブで年間15回、高萩保育園で年間3回の活動をしている。(中略)
 月3回行われている練習日に訪問してみた。駐車場に着くと、お囃子の音色が響き、別世界に来たような気がする。部屋の中では、幼児から小学生、大人まで、いっぱいで、お年寄りが指導に励んでいる。子どもたちは一生懸命で、その眼差しは強く心に感じさせるものがある。また、庭いっぱいに衣装の虫干しをしており、その衣装の古さが貴重な伝統文化であることを物語っている。
 このように鐙塚町では、町内の人々が、神楽を後世まで伝えるために一体となって、生活の一部として伝統文化を守っていこうとしている。そこには至誠、この上なく誠実なまごころを、ひしひしと感じさせるものがある。

 子どもに対する文化や労働の伝承については、まずは、大人たち自身の労働観、「匠」や郷土の文化を大切にする意識が問われると考える。そのうえでこそ、子どもの家事手伝いの復活や、職業意識や郷土意識の向上、文化伝承に関する態度変容などが期待できるといえよう。
 このことから、「町内の人々が一体となって、生活の一部として伝統文化を守っていこうとする」などの活動には、大人と子どもの両者の社会化を効果的に促進するための重要な要素が数多く含まれていると考える。

E 地域の教育力
 「ふるさと」については、0301「子どもとふるさとづくり、子どもとまちづくりという観点からの働きかけが必要」などの委員発言があった。
 これに対して、起草結果では、筆頭章に「郷土愛をはぐくみ、ふるさとを守るために」を置き、次のように述べている。

 「ふるさと」は、「他国を排斥しない愛国心」、「自然への畏敬の念」、「宗派を問わない宗教心」、「自分を育ててくれた自然、地域、人々への感謝の念」、そして、「社会の中で生きる力」につながるための「始まり」として、個人にとって格段に重要な意味をもっている。しかし、時代変化の中、とりわけ「平成の大合併」の影響を受けて、郷土、郷土愛が少しでも失われるとすれば、これは深刻な社会問題というべきである。

 市民全般にとっての「ふるさと」の重要性とともに、「平成の大合併」によって、「ふるさと意識」が衰退することのないよう提言したものととらえられる。
 そのため、起草結果では、「市民がふるさとに能動的に関わり、ふるさとを守り再生させる営み」として「まちづくりや生涯学習の活動」の意義を重視したものになっている。
 青少年と親の社会化不全および課題解決のための地域教育力への期待については、0504「小さい時から地域との交流がないと難しい」、0510「昔は町内にガキ大将がいて、親分がいて、子どもたちのなかにルールができていた」、0513「幼児期から親と子ども、親と地域との交流がなくなる。自分自身だけの考えで行動している。人との関わりが希薄になり、事件につながる要素がある」、0704「しつけを学ぶおじいちゃん、おばあちゃんの存在もいない。しつけをする若い親にしつけ方を教えるといった、世代に応じたしつけが、まちの中で必要」、0703「しつけといって抑えつけるよりも、子どもには愛情が必要。親が抱きしめれば、その暖かさから何かを学ぶ。家族愛とか子どもへの愛情が大切。愛を含めた学習を楽しむことを、まちとして何ができるか。若い方に是非考えてほしい」、1002「地域ぐるみ、まちぐるみでしつけを考える核になるのは家庭」、1303「私たちは家庭教育の中で教わった。それが地域社会に生きるための術」などの委員発言が多数あった。
 これに対して、起草結果では、4−03「今の家庭、今の大人自身のあり方に危機を感じる。私たち自身が、今の生き方を見直さなければならないと考える」とし、次のようにその方策を提言している。「親が子に、地域の店で買うことを教えることによって、地域の人々が支え合う姿勢を伝える」、2−05「アウトレットに来たお客様を、『家庭・地域に支えられる商店街』に誘導して、アウトレットの魅力とともに、佐野のまちづくりの良さを味わってもらう」。
 これは、「子育てまちづくり」が、地元商店街の活性化などの公的課題としての地域振興とともに進められるよう提言したものととらえられる。
 しかし、委員発言のなかには、0707「妻が地元の人間ではない。周りをみるとそういった方は結構いるが、地元の

コミュニティに参加しづらい」などと、ある層の市民のなかには、地域にとけ込みづらい者もいることを指摘する発言もあった。
 地域と交流しようとしない親を責めるのではなく、現在のコミュニティをどのようにしたらそういう親たちがとけ込めるようになるのか、検討を進める必要があると考える。とくに「参画」と「仲間づくり」によるまちづくり推進の観点から、その方法について検討することが重要であるといえよう。

F 自然の教育力
 自然の教育力については、0302「佐野市は合併により自然豊かな広大な地域となった」などの委員発言があった。
 これに対して、起草結果では、「河川、山林、農地等に関する学びと山村振興活動」という章を設け、まちづくりへの参画が目指すものの重要な一環として「持続可能な開発」を挙げている。そして、次のように委員発言を紹介している。

 関東平野に向かって日光連山はモミジの手のように広がっています。それで奥まっている所が、たまたま飛駒とか秋山だったり、松田のダムの地区だったりとなっています。この付け根には、前日光基幹林道という道が通っています。これは作られたものじゃなくて、まさしく自然のものなのです。その端々には、地域の人たちが頑張ってログハウスを作ったり、釣り堀を作ったり、手打ち蕎麦を作ったりしている集団がポツンポツンとあります。曲がりくねった道だけど、これが全部つながっているのですよ。自然を愛する人は必ずいます。一過性で人が集まって、テレビで流れて人気が過熱化するというのとは違った世界というものが、必ずあるのだと思います。
 そういった意味で、私は秋山という地域に力を入れてきたつもりなのです。これからの考えとしては、商店街振興だけに力点を置くのではなくて、地域の隠れた財産というものを私は大事にしたい。それを生涯学習推進やまちづくりの中で、どういった位置付けをするのか考えていきたいと思います。

 このような委員発言があったため、起草結果は、「人々が生活していける、しかも自然環境をこれ以上悪化させない山村振興」を求めるものとなっている。
 このような「山村振興活動」のプロセスと、その結果としての「守られた自然」が、青少年と親にどのような「教育力」を発揮しうるのか。また、そこで発揮される社会化機能はどのようなものか。以上の検討を進める必要があると考える。

G 教育機関の教育力
 教育機関に関しては、委員からは次のように数多く期待が述べられた。0502「(親は)わからないから学校に行くということが大事」、0706「昔の家族・学校制度の方が良かったが、今の世の中にあった形で親に受け入れてもらえるようにしたら良いのでは」、0708「身近な公民館を中心として展開していきたい」、1204「公共の施設の場所を広げていく」、1307「公民館は子どもたちで借りるなんて見たことがない」、1201「子どもたちの意見を取り入れる学校経営があってほしい」、1205「これから親になる中・高校生から親育てをしてもらう学習プログラムを提言する『親育て学習プログラム』を考えてワークショップなりを授業の一環の中に入れてもらう」。
 以上のことから教育機関への期待としては、「教育機関に実施してもらう」、「教育機関と連携して実施する」、「教育機関を拠点として(市民が)実施する」という3種類があるといえる。
 これに対して、起草結果では、「わたしたちからの呼びかけ」の章のなかの「市民の仲間たちへ」において、「追いつめられた子どもたちを出さないまちをつくろう。支持的風土と人権尊重のまちづくりの中で、若者のあこがれる大人になろう」と提言し、市民主体のまちづくりを呼びかけている。その上で、「佐野市行政へ」においては次のように提言している。

 既存施設については、「まちづくりへの市民参画」と「市民としての生涯学習」の往復運動の観点から、新たな活性化を図ってください。たとえば、旧田沼地区の地区公民館などについては、その観点から、組織変更、人員配置を含めて、「貸し施設」から「活動拠点施設」への抜本的転回を図ってください。
 職員、とりわけ専門職員に関して、市民の求める職能を分析し、それに応えることのできる資質・能力をもった職員を適正配置してください。
 公的施設の夜間ボランティア館長の導入、広報の「まちづくり」、「生涯学習」関連ページにおける市民の企画・編集など、公的部門への市民参画の機会を拡大してください。

 以上から、起草結果は、市民参画の原則に立った施設運

営と、専門職員等の指導者の必要の両者を提言したものととらえられる。さらに、「生涯学習推進構想への提言」としては、次のように述べている。

 これまで、多くの自治体の推進構想では、あくまで行政としてすべきことを計画化し、表明することを主眼としていて、市民に対する露骨な注文はややもすると抑制されてきたように感じます。しかし、佐野市生涯学習推進協議会としては「協働」の観点から次のように逆注文しておきたいと思います。
 行政として、市民の協力なしにはできないこと、市民でなければできないととらえていることは遠慮なく、はっきり示してください。まちづくり、生涯学習推進における、行政の課題、市民の課題、協働の課題のそれぞれを、官民協働で互いに検討しましょう。これが、今後の各自治体の生涯学習推進構想の本来のあり方になると私たちは考えます。

 この起草結果は、まちづくり等の公的課題の学習に対して、行政側が市民主体の姿勢を鮮明にし、なおかつ公的課題の「提起者」の一員として、行政としての主体的役割を積極的に果たすよう求めたものととらえられる。
 教育機関においても、青少年や親などの学習者側の社会化不全の実態を嘆くことにとどまらずに、まちづくり等の公的課題の提起によって、社会参画活動の推進に努める必要があると考える。
 その場合、教育機関による公的課題の提起、参画活動との連携、参画活動の拠点機能の発揮、活動支援などの方法について、より詳しい検討を進める必要があると考える。また、一般行政とは異なる独自の機能としての「教育力」を実現するためには、集団の参画活動過程における個人の社会化過程の構造を明らかにし、効果的な社会化支援の方法を実践的に明らかにする必要があるといえよう。

H 家庭の教育力
 家庭の教育力についても、次のように、委員から多くの発言があった。0507「社会を形成しているのは家庭」、0703「しつけといって抑えつけるよりも、子どもには愛情が必要。親が抱きしめれば、その暖かさから何かを学ぶ。家族愛とか子どもへの愛情が大切。愛を含めた学習を楽しむことを、まちとして何ができるか。若い方に是非考えてほしい」、0704「しつけを学ぶおじいちゃん、おばあちゃんの存在もいない。しつけをする若い親にしつけ方を教えるといった、世代に応じたしつけが、まちの中で必要になってくるのではないか」、1001「中高生が中心になって自分たちで子どものまち条例を作っているしつけを、家庭・地域・職場でやっているか、日本では疑問」、1003「わが子のことを真剣に考えているかいないかわからない親が多い中で、ましてや他人のことなんかどうでもいいやっていうのが現実」、1203「『今の自分たちの生活が楽しいから生まないんだ』とか、いろんな人が言いますが、私は、自分たちの心の貧しさがそういうことを物語ってくるのかなと感じています」、1206「家庭教育をどのように勉強し直すか、ということから入っていっていただきたい」、1303「私たちは家庭教育の中で教わった。それが地域社会に生きるための術」、0706「昔の家族・学校制度の方が良かったが、今の世の中にあった形で親に受け入れてもらえるようにしたら良いのでは」、1002「地域ぐるみ、まちぐるみでしつけを考える核になるのは家庭」、1302「居場所であるべき家庭が居場所ではなくなってきている子たちが多くなってきている。家庭はどういうふうに夫婦で築いていくものなのかということを、しっかり今の子どもたちから考えて」。
 これに対して、起草結果は、4−01「家庭教育の回復を挙げたい。親子の交流、共有、感動、絆、そして感謝の気持ち、このような大切なことが、今、失われつつある」、4−03「今の家庭、今の大人自身のあり方に危機を感じる。私たち自身が、今の生き方を見直さなければならない」と、家庭の教育力に対して委員のもつ大きな期待を反映する結果となっている。
 その上で、起草結果では、一方策として、次のように「親教育」の意義と方法について述べている。4−04「親の不安や悩みに的確に応える親学習プログラムを提供することの重要な意義が示されている」、4−10「獲得能力目標の明示された親学習プログラムとして編成する手法を開発したい。このことによって、親学習プログラムの作成における親自身の参画が可能になると考えられる」。
 従来から、青少年教育関係者のあいだでは、「子どもの問題以上に、それを育てる親に問題がある」、「社会教育で親のための学習プログラムを実施しても、学校教育のように義務教育ではないので、本当に学ぶ必要があると思われる問題のある親は参加しようとしない」ということがよく言われてきた。
 今回の起草結果は、その「閉塞状況」に転回をもたらす要素として、「子育てまちづくりへの参画」およびそれに伴う「仲間づくり」の重要性を指摘したものととらえられる。親教育も、このような公的課題への参画活動推進の一環として位置づけられているととらえることができる。
 この点については、今後、さらに検討を進め、親の社会

化過程の実態と基本的構造に的確に対応した支援の内容と方法のあり方を明らかにする必要があると考える。

4 結論
 以上の佐野市生涯学習推進基本構想作成過程の検討結果から、次の点が明らかになったと考える。

@ 「まちづくり推進」という公的課題の学習において、生涯学習推進関係者のあいだでは、青少年と親の社会化不全の状況が問題視された。
A 社会化不全状況の解決のためには、先述の「社会化促進要因」が重要であると委員に認識された。
B 「まちづくり推進」において、これらの「社会化促進要因」を活性化するための方策については、委員発言および起草結果から、「居場所」、「参画」、「仲間づくり」などに関して、実践的で有益な一定の提言が行われた。
C しかし、「地域教育力」、「家庭教育力」などに関しては、現在の「衰退」「閉塞」等の状況に対する憂慮がややもすると強く表れ、実効性のある現実的な支援方法を十分に具体的に明らかにするまでには至らなかった。

 Cに述べた問題の解決のためには、「子育てまちづくり」等の「まちづくり推進」における青少年と親の社会化過程に関する構造的理解のもとに、その支援方策を明らかにする必要があるといえよう。

5 討論−社会化過程の構造的理解
 佐野市のまちづくり推進のような公的課題学習の推進にあたって、青少年・親の社会化を効果的に支援するためには、さらに次の課題について検討する必要があると考える。
 子育てまちづくりに至るまでの学習の発展の構造は次のように考えられる(図2)。「問題解決のための個人学習」→「自分の子育て行動に対する気づき」→「親の会や地域社会における『仲間』との出会いを基礎にした集団学習」→「親の子育てまちづくりへの参画行動」。これは、親の社会化過程の構造に他ならない。
 また、青少年の社会参画活動に至るまでの学習の発展の構造も、「自分への関心」→「自己への気づき」→「他者への気づき」→「社会への参画」という同様の社会化過程が考えられる(図3)。





レベル4
子育てまちづくりへの参画
   契機(親の会や地域社会での活動)
レベル3 自分自身や家族関係に対する気づき
   契機(家族の問題解決の取り組み)
レベル2 自分の子育て行動に対する気づき
   契機(わが子の問題解決の取り組み)
レベル1 わが子のことをよく見る
図2 親の能力開発ラダー

レベル4
社会への参画
   契機(仲間づくり活動)
レベル3 他者への気づき
   契機(他者との交流)
レベル2 自己への気づき
   契機(他者との出会い)
レベル1 自分への関心
図3 青少年の社会参画能力開発ラダー

 しかし、これらの構造は単純な一方向的なものではない。@集団学習によって、個人学習による自己への気づき効果がより高まる、A主体的、客観的条件が整った場合は、地域社会における「仲間」との活動自体が、学習活動にとどまらずに、まちづくりへの参画活動そのものとして行われる、B仲間との参画活動が個人の気づきを深め、集団学習の質をレベルアップさせる、などの「連鎖」や「循環」が想定される。そのため、一つのモデルをすべての学習の発展段階や社会化過程に当てはめることはできない。個人の学習の局面ごとに、さまざまな循環とねじれを経て発展していく状況をより詳細に検討しなければならない。
 さらに、現実には、社会参画能力の獲得という「高度な社会化」に至る以前の社会化困難の状況が控えている。現代の若い親たちにとっては、「公園デビュー」などの多難な社会化課題が山積し、青少年にとっては仲間との過剰な同一化等の社会化不全による阻害要因が立ちふさがっていると考えられるのである。
 生涯学習推進施策において公的課題の学習を効果的に促進するためには、研究面では、「まちづくりへの参画」に至るまでの彼らの社会化過程を、より実態に即したかたちで構造的に理解するための研究を進める必要があると考える。


[資料1]中間答申作成スケジュール
回 内    容
01 平成17年度第1回佐野市生涯学習推進協議会
02
佐野市生涯学習推進協議会に伴う専門部会説明会
03 専門部会A「新佐野市まちづくり部会」第1回会議
04 専門部会C「わがまち発見交流部会」第1回会議
05 専門部会B「異世代の共生と参画部会」第1回会議
06 専門部会C「わがまち発見交流部会」第2回会議
07 専門部会@「推進基盤・支援体制部会」第1回会議
08 専門部会A「新佐野市まちづくり部会」第2回会議
09 専門部会C「わがまち発見交流部会」第3回会議
10 平成17年第2回佐野市生涯学習推進協議会
11 平成18年度第1回佐野市生涯学習推進協議会
12 中間答申起草委員会第1回会議
13 中間答申起草委員会第2回会議
14 中間答申起草委員会第3回会議
15 平成18年度第2回佐野市生涯学習推進協議会
注 ○は青少年育成及び子育てまちづくりに関する審議のあった回

[資料2]専門部会の設置
 資料1の02「佐野市生涯学習推進協議会に伴う専門部会説明会」において次のとおり専門部会を設置し、それぞれの柱に沿って審議を行った。同資料1の10「平成17年第2回佐野市生涯学習推進協議会」において、この専門部会は解散し、起草委員会の審議に引き継がれた。
部 会 名 基本的な柱
1 推進基盤・支援体制部会 @ 各旧市町の優れている点を、細かなことまで洗いざらい出し合って、共有する。
A 市民が「私らしさ」を社会の中でよりよく咲かせるための展望を示す。
B 市民が学び、まちづくりの主人公になるために、行政は何ができるのかという展望を示す。
C 新佐野市のすべての部署が生涯学習推進のために効果的に役割を果たすための仕組みをつくる。
D 既存の人的・物的資源を生涯学習推進のために有効に活用する仕組みをつくる。
2 新佐野市まちづくり部会 @ 各旧市町の優れている活動を、細かなことまで洗いざらい出し合って、共有する。
A 地域のすみずみの諸活動を、生涯学習及びまちづくり活動と結び付けて整理し、体系化する。
B 「あなた任せ」の市民がいなくなる市民主体の「まちづくり活動」の枠組みを示す。
C 「知らん顔」の部署がまったくなくなる「生涯学習支援」によるまちづくりの道筋を示す。
D 「『まちづくり活動』が、市民一人一人の『自分づくり』と『地球や人類の未来を守ること』につながる」ということをわが国全体にアピールする。
3 異世代の共生と参画部会 @ 各旧市町の優れている活動や施策を、細かなことまで洗いざらい出し合って、共有する。
A とくに、青少年の社会参加、成人の自分探しや社会貢献、異世代交流等については、実現可能な具体的方策を示す。
B 生涯学習推進のために、学校教育とより一層有機的に連携するための方策を示す。
C 子育て支援と家庭教育の充実のため、地域全体の子育て、青少年育成機能を活性化するための方策を示す。
D 生涯学習推進がわが国の少子高齢化ダメージの縮小につながるということをわが国に全体にアピールする。
4 わがまち発見交流部会 @ 各旧市町の人材、文化、自然、施設、設備等の「宝物」を、細かなことまで洗いざらい出し合って、共有する。
A 青少年の参画も得て、新佐野市「地域の宝物マップ」を作成・配布し、協議会の活動の成果が市民全体に共有されるようにする。
B 多地域の多様な活動が、地域ごとにますます発展するように努めるとともに、テーマごとに旧市町の枠を越えてつながり、交流できる仕組みをつくる。
C 当部会で進行中の研究の成果は、当部会の判断および他部会の要請により、随時、他部会に報告し、全体の協議研究成果のまとめに生かすようにする。
D 発見された「宝物」を全国にアピールすることによって、よその地域の人々にもっと訪れてもらえるようにする。


[資料3]中間答申の構成
 資料1及び2に示した審議の結果、中間答申の構成は最終的には次に示す構成に基づく中間答申が起草された。

資料3-1 中間答申全体の構成
見出し 頁
T はじめに
1 本中間答申までの経緯 1
2 本中間答申の背景 1
U 中間答申の趣旨
1 中間答申の趣旨 5
2 専門部会の構成と検討の基本的な柱 7
3 答申の構成 8
V 中間答申
1 まちづくりへの参画 9
(1)郷土愛をはぐくみ、ふるさとを守るために 9
(2)田中正造などの郷土の偉人の整理と提示 9
(3)少子高齢社会の問題解決 10
(4)男女共同参画によるまちづくり活動 11
(5)河川、山林、農地等に関する学びと山村振興活動 12
(6)家庭・地域に支えられる「中心市街地活性化」 14
2 子育てのまちづくり
(1)支え合う仲間との活動の重要性 15
(2)家庭教育の回復と親学習プログラムの開発 16
(3)子どもや若者の居場所をつくろう 17
(4)地域子育て宝物マップづくり
18
3 幅広い生涯学習活動の活性化 18
(1)趣味・教養分野の市民研究成果の社会還元と
 大学による支援 18
(2)健康づくりと仲間づくり 19
W わたしたちからの呼びかけ
1 市民の仲間たちへ 21
2 佐野市行政へ 21
3 生涯学習推進構想への提言 21
−資料編−
【活動事例】
(1)鐙塚宮比講神楽の伝承 23
(2)地域女性会の活動と課題 23
(3)子ども会を通した青少年健全育成の活動 24
(4)葛生における「原人祭り」等の地域おこしの活動 25
(5)老人クラブによる三世代交流事業
 「グラウンドゴルフ」の活動 27
(6)市民による「佐野市まちづくり研究会」の活動 28
(7)不登校、ひきこもりなどの子どもの
 居場所づくりの活動 29
【関連事業】
(1)青年が参画する佐野市青年団体活動促進事業
 (ちゃいるどりーむ) 31
(2)子どもの居場所づくり事業 31
(3)親学習プログラムを活用した家庭教育支援事業 32
(4)地域の子育て支援者として活動する
 家庭教育オピニオンリーダーの養成 33
(5)協働による生涯学習の推進活動「楽習出前講座」 33
(6)自然体験活動の活性化と
 インタージェネレーションによるまちづくり 34
(7)社会体育の基本方針
 「総合型地域スポーツクラブの育成」 35
【参考資料】 36
(1)平成17年度「市政に関するアンケート調査結果」
 から 36
(2)「こどもの街宣言」(旧佐野市)(平成5年) 40
(3)「佐野市協働のまちづくり推進会議」報告から 41
(4)専門部会C「わがまち発見交流部会」の作業結果 42
(5)地域立脚型から地域一体型を目指す大学
 ・短期大学の役割 43
(6)「まちづくり」を通した住民参画の先進地事例
 −「福祉でまちづくり」の愛知県高浜市と「有償ボランティアによる市民力でまちづくり」の埼玉県志木市の事例から 44
(7)市民会議を中心とした生涯学習の推進
 −埼玉県所沢市の事例から− 48

資料3-2 中間答申本体部分のキーワード
基本理念 : 私らしさ このまちに 咲かせます

番号 項目 キーワード
1-1    まちづくりへの参画 郷土愛 ふるさと
再発見 合併後の地域間
相互理解
1-2 郷土の
偉人 ボランテ
ィアの心 社会正義と参画
活動
1-3 少子高齢
社会 青少年の
社会参画 世代を超えた
合意形成
1-4 男女共同
参画 市民参画
と協働 支持的風土の
仲間づくり
1-5 山村振興 環境学習
持続可能
な開発 地域の特色を生
かした観光開発
1-6 中心市街
地活性化 土と風 家庭・地域に支
えられる商店街
「開かれた心」による学習と実践の往復運動
2-1    子育てのまちづくり 支え合う
仲間 親同士の
交流
(PTA、
育成会) 「あなた任せ」
から「子育てま
ちづくりへの参
画」へ
2-2 親学習プ
ログラム 参加型
学習 達成目標の設定
と明示
2-3 家庭教育
の回復 親子の交
流、共有、
感動、絆 勤労観の醸成
2-4 青少年の
居場所 自立
巣立ち 自己の存在を認
める他者・社会
2-5 宝物マッ
プづくり 地域の子
育て資源 子どもや親の
「心の居場所」
親も子も若者も、支え合う仲間と出会って参画する
3-1 活動の活性化
幅広い生涯学習 趣味・教
養の学習
大学によ
る支援 多数派
生涯学習
ボランテ
ィア活動 市民研究者の
成果公開
市民研究者への
大学の支援
3-2 健康と仲
間づくり 心の交流 コミュニティの
連帯感
個人的行為としての生涯学習からまちづくりへ


[資料4]関連発言の内容
回No 委員 発言内容と社会化促進要因(注)
0301 13-1 子どもとふるさとづくり、子どもとまちづくりという観点からの働きかけが必要。今までの基本構想の中にも、学校や地域、まちづくり、町会を通じての働きかけがあったが、はたしてどこまで具現化できているか。 E
0302 12-1 佐野市は合併により自然豊かな広大な地域となったことで、生涯学習の考え方も変わっていくと思う。子どもたちを主役としたふるさとづくりなど、合併という新しい情勢に答えた生涯学習活動も良いと思う。 F
0501 18-1 「こどもの街」ということは、豊かな大人の街でもある。 E
0502 18-2 子育ての段階では、それぞれの段階で必要なことがある。わからないから学校に行く、わからないから同じ仲間と意見交換するということが大事。 G、C
0503 06-1 話さない子どもは、大人が子どもに話しかけなかった。コミュニケーションがない。

0504 06-2 最近、幼稚園児からどこの幼稚園に通わせようか、教育熱心なお母さんがいる。有名な遠い所に通う。親も子どもも地域との交流がまったくなくなっている。小さい時から地域との交流がないと難しい。 E
0505 18-3 昔の人は親の姿をみじかに見られた。今は、離れてすぎていて親の存在感じられない。働くところを見学し、感じることは非常に重要。 D
0506 06-3 共有するものがない。感動することがない。ばらばら。親子で共有するものがあるといい。
0507 19-1 社会を形成しているのは家庭。家庭が集まって町内、町内が集まって、佐野ができている。1つの単位ごとに家庭教育を。 H
0508 18-4 子どもの街推進のための生涯学習としての取り組みを入れていけば、異世代の共生と参画につながるのではないか。子どもを大事にすれば、いずれ子どもは大人になり高齢者も大事にすることにつながる。立派な自立した社会人を育てるために「こどもの街宣言」の精神を入れてほしい。
0509 19-2 「こどもの街宣言」を続けることは、時代を担う21世紀、次々、継続的に担っていく、そして、成長した人が発展させていく、また、次に期待を込めて発展させるための土台作りをしていく。
0510 19-3 地域の子どもたちを育てていくとするならば、それは町内で行うべき。昔は町内にガキ大将がいて、親分がいて、子どもたちのなかにルールができていた。 E
0511 18-5 市民像の実現に向けたすべての活動は、市民参加の生涯学習。大人が子どもの成長にかかわる街・互いの幸せづくりにかかわる街。 E
0512 18-6 育成会の役割は、子どもを育てる地域の活動が中心、市子連活動は情報交換の場である。地域の交流の場づくりへの子どもの参加の配慮を。子どもの居場所づくり、子どもの安全保持活動。「大人のすごさ」を見せる場づくりを。 E、A、D
0513 18-7 遊びの質は、大人たちが環境配慮をしていかないと確保できない。「こどもの街宣言」を推進していけば、豊かな子どもを育てる。豊かな子どもを育てることは自立した大人を育てることと同じである。幼児期から親と子ども、親と地域との交流がなくなる。自分自身だけの考えで行動している。人とのかかわりが希薄になり、事件につながる要素がある。昔は、バランスがよかった。自然とかかわり人とかかわり、だから空き地があるといい。子どもの群れる場所があるといい。 E
0701 02-1 生涯学習というのは、産まれてから死ぬまでの学習だが、学齢期はどこかがやっている、中高年になると生涯学習は非常に盛んである。一番抜けているのが、子どもにしつけをする年代、学齢を終えたばかりの年代である。母親になったばかりの女性は、本当に学ぶ気にならないと学べないし、その時間もない。そういった人たちにしつけを、ただほったらかして委ねて良いのか。そうではないと思う。子どもが小学校に入る頃になると、PTAとか、母親学級とか学習の機会は結構ある。では、学齢に達するまでの若い親をどのように生涯学習に取り込んでいくのか。非常に大事な課題と思っている。子育てで忙しいなかにあって家庭に閉じこもりがちの方をどうするか。 G
0702 02-2 旧佐野市では、学習を楽習にした。学ぶことは楽しいということを実感できる生涯学習であってほしい、まず自分が楽しみ、それが佐野市の社会づくりへとつながっていくというのが旧佐野市のコンセプト。楽しくなければならない。その楽しみと「ハート」“愛”を入れたい。しつけというと、押さえつけて教えていくようだが、そうでなく、自分で学んでいく中にさらに「愛」を入れていく、今度の生涯学習の計画の中に位置付けられないだろうか。
0703 02-3 小学校に入った孫がいるが、それをきっかけに、世の中の子どもと、小さい子を持つお母さんに目がいくようになった。お母さんは、携帯をやって、1歳くらいの子がよちよち後をついてくる。昔の母親は必ず手をつないだ。今の母親は片方は荷物、片方は携帯のメールで手をつながない。それで子どもが遅れると、早く来いと手を上げる。しつけといって抑えつけるよりも、子どもには愛情が必要。親が抱きしめれば、その暖かさから何かを学ぶ。その中でしつけが必要なときはそうすれば良い。子どもが小学校に上がるまでの学習機会が少ないと前述したが、その間こそ、家族愛とか子どもへの愛情が大切。愛を含めた学習を楽しむことを、まちとして何ができるか。若い方に是非考えてほしい。 H、E
0704 08-1 今の若者を見ていて、しつけの崩壊が1番の問題になっていると感じる。若いお父さん・お母さんが家庭でしつけができない、学校の中でもしつけができない、ではどこでしつけを行えば良いのかという問題がある。若い親にしつけを教える場所もない。核家族化が進み、しつけを学ぶおじいちゃん、おばあちゃんの存在もいない。今後ますますしつけがなくなり、私らしさを取り違えると、自由奔放に何でもしていいということとなる。私らしさというのは、しつけをきちんと受けたなかで、個性を磨いていくというものが良いと思う。子どもにしつけることはもちろんだが、しつけをする若い親にしつけ方を教えるといった、世代に応じたしつけが、まちの中で必要になってくるのではないか。このような取り組みは、個人レベルではなかなか構築できないので、まちぐるみで構築する必要がある。 H、E
0705 14-1 旧佐野市においても、コミュニケーション・しつけの問題は情報発信をしていたが、飛びついて来ない。忙しい年代、仕事が忙しくて、休みがない、プラスアルファの勉強・活動ができない。決してやっていなかった訳ではなく、どうやって母親も含めて参加してもらえるかが問題。
0706 14-2 子どもの教育の基本は、家庭と学校。怖いけどやさしい親・おじいちゃんがいなくなった。昔の家族・学校制度の方が良かったが、今の世の中にあった形で親に受け入れてもらえるようにしたら良いのでは。 G、H
0707 08-2 1歳と4歳の子ども抱えているが、妻が地元の人間ではない、周りをみるとそういった方は結構いるが、地元のコミュニティに参加しづらいという問題がある。青年会議所で親業を学ぶ機会もあり、こういったものが広がっていけば、しつけるというだけでなく、本当のコミュニケーションの取り方といったような形から考えると入りやすいのではと思う。 E
0708 03-1 身近な公民館を中心として展開していきたい。子どもを面倒みてくれる人の存在が必要。または、保育園・幼稚園などに子どもが行っている間にお母さん同士集まってみるとか。 G
0709 03-2 会沢地区のコミュニティセンターには常に誰かいると聞いた。子どもの居場所づくりを始めた。交代で地区の方が詰めているようだ。 A
0901 07-1 先日の中学生の集まりのこと。中学生全員(10人)「私、住んでいるところが好き」「自然がなくなるのはいや」と言っていた。「この自然のままで、多くの情報が来ればいい」。「都会には住みたくない」。中学生同士で交流の場がないから、意見を言う場がない。以前あった中学生サミット。一日ではなくて続けてやればもっといろいろな意見が出たのではないか。子どもたちもこれからもやりたいと言っていた。「参加」ではなく「参画」。 C
0902 15-1 子どもたちは働きたいと思っている。昔は子どもは手伝いや仕事をよくしていたが、働いていたのではなく遊びの一種としてやっていた。高校生のアルバイトは、学業専念の考えから好ましくないという考えが主流だったが、容認に変化している。社会でなければ学べないこともある。お金をもらうがゆえに我慢しなければならないことがある。 D
1001 16-1 愛知県高浜市は、中高生が中心になって自分たちで子どものまち条例を作っている。子どものまち宣言も、子どもたちが中心になって考えなければいけないと思う。しつけの問題でも、ヨーロッパ等では地下鉄にお年寄りが乗ってくると、子どもたちが黙っていても席を譲る。しつけを、家庭・地域・職場でやっているか、日本では疑問。戦後の民主主義は良い面もあったが、確実なしつけをしてこなかった。 H、D
1002 16-2 民主主義は、基本的に必ず責任を伴う。そういったことを、戦後教育ではあまり教えてこなかったことが、自分が自由にやればいいという環境を引き起こしている。そこを、地域ぐるみ、まちぐるみでしつけを考えることは大切であり、その際、核になるのは家庭であろう。 E、H
1003 11-1 子どもというのは、叱らなければ人間にならない。どうやって叱ってあげるかが問題。「叱られて、叱られて、ぎゅっと抱きしめられることが子どもの真の幸せ」と言っている宣言は、決して甘やかすような表現はない。世間の大人たちも、わが子のことを真剣に考えているかいないかわからない親が多い中で、ましてや他人のことなんかどうでもいいやっていうのが現実ですから。 H
1201 07-2 子どもたちの意見を取り入れる学校経営があってほしいし、それをやってみようという先生方であってほしい。お互いに意見を言った、入れてくれた、じゃあなんとかしよう、そこから信頼関係が生まれる。よく言われる学校の図書館が、従来型のではなくてごろっと横になれて読める机なんかいらない図書館であってほしい。我々の目から思うですけど、やはりいつも暗いよう図書館です。子どもたちが学校の中でどうしてほしいかと意見を聞く場、児童会とか何か、小学校の内から自分の学校をどうしたら良いのか、愛校心を育てるにはそれかな。空き教室に物置のように物を置く。いけないですよね。第三者が行くと目につく。言っていいのか悪いのか思いながら、一から十までとはいわないけれど、そのようなものの聞く場、それも専門職ではないですが、聞いてくれる職員、窓口を設けてほしい。やはり生涯学習なんかに係わっていたりすると、異動があって、退職するまでに全部の課を回れるから、非常に職員にとってはいいが、自分が生かせる場で職員が働くことによって、それが市民に還元される。義務的に異動するのではなく、適材適所で職員を配置していただきたい。 B、G
1202 16-3 高浜市の場合、小学4年生から中学生中心で、「子ども白書」というのを作ったのですよ。先進的に子どもが中心になって、自分たちが考えるまちづくりはこうだよって。ことばづかいだけは調整して、子どもたちが言ったもの、その声をまちづくりにするような「子ども白書」を作っている。佐野も、市役所の職員、大人の目線だと、杓子定規に考えちゃう、公園など全部同じようなワンセット主義でね。子どもは場所によって、ここは野球をやりたいから他の施設・遊具はいらない。この遊び場には、どういうものが似合っているかどうか、子どもの目線のほうが確かだ。自分たちが遊ぶ当事者だから、そういうものは子どもの意見を直接聞いたほうが、本当に子どもが喜ぶようなものができる。 B
1203 01-1 今の若い子は何で子ども産まないのって、もう親の責任じゃないけど、「社会情勢が悪いから生まない」とか、「今の自分たちの生活が楽しいから生まないんだ」とか、いろんな人が言いますが、私は、自分たちの心の貧しさがそういうことを物語ってくるのかなと感じています。 H
1204 01-2 市の生涯学習の基本の中に、こういうプログラムが組まれているとすると、例えば公民館活動って言うんでしょうか、そういうところで提案して公共の施設の場所を広げていくということでしょうか。 G
1205 07-3 これから親になる中・高校生から親育てをしてもらう学習プログラムを提言すると、子どもたちが強くなる。そういった幅広い学習をしていくことによって、自分たちが親になった時に、何かできるのではないかって考えられるのではないか。親が育てられないなら、「親育て学習プログラム」を考えてワークショップなりを授業の一環の中に入れてもらう。 H、G
1206 07-4 今だからこそ、子育てを一生懸命やっていかないと、日本はダメになってしまうと思っています。家庭教育が本当に今ズタズタです。ですからその家庭教育をどのように勉強し直すか、ということから入っていっていただきたいと思っています。「こどもの街宣言」も、合併したからなくなるのではなく、あれは生かしてほしいと思っています。 H
1207 01-3 義務教育というと窮屈、嫌なことを押し付けられる感じですが、生涯学習は一生涯、生きている以上は何事も学習なんですという考え方かな。自分は何でもやってること全部そう思う。
1208 01-4 確固たるレールのようなものがなくとも、消防団活動、PTAの時にもそうでしたが、子どもを見つめたとき、わが子ばかりじゃなくて、それを通じての親の役目、どう活性化すべきか、そういう導き方をしながら、集団で楽しんでいくことが、地域を愛するというふうに変わっていくような気がします。私が原人まつりで全くその通りのことをやったつもりですけども、こういうことで、郷土愛の「ズタズタ」という言葉、なかなか使えない言葉ですけども。 C
1209 16-4 子育てに関しては、愛知県の高浜市はコンセプトがはっきりしていて、福祉でまちづくりをやっています。市長さんが「福祉特区」って言っています。その中で「子育てのまちづくり」というのを謳っている。日本のまちづくりで一番先進的な所だと思いますね。階層別にいろんなまちづくりの施策が作られてあり、例えばまだ小学校に行ってない子どもの場合は、かつて保育園の先生や、幼稚園の先生をやられた方が、有償ボランティアみたいな形で各地区3、4人にいます。お母さん方が子育てに悩んでいる場合、自分と子どもの弁当を持って、9時時頃から午後3時頃まで一緒に過ごすことによって、そういう人たちの面倒をみて、子育て支援をやってるんです。小学校、学童関係ですと、学童保育というのがありますが、各地区に「子ども館」というのがあって、そこに行くとリタイアされた高齢者が、夏休みだったらば夏休みの宿題をみてあげたり、いろんな遊びを教えてあげたりとか、各年代に分かれた形での子育てプログラムが、全部できています。 G
1210 15-2 最近の子どもは、15歳位で、「昔は」という言葉を使う。子どもは人生を長く感じている。そういう世の中に自分たちは生まれていることを、言葉ではなく感覚で肌で感じている。彼らが友情は大切だとか、友達がいて有難かったとか言いますが、社会人になっていろいろ揉まれてから、少なくとも30歳過ぎて、友達が大切だと思うのならわかるんだけども、もう15歳未満でこういうことを真剣に本当に考えてしまう。考えているけど友達としてそういう話はできない。だれがその話を聴いてくれるかというと、親では照れ臭くて言えない。昔は身近にいる先輩が話を聴いてくれたものですけど、先輩ですら自分のことで精一杯。じゃあ本当に聴いてくれるのは誰なのかという世論調査とかアンケートなんか取ると、本当の相談相手はいない。幸か不幸か僕の場合はうちに来ている生徒は個々にみんな話をしてくれるから、ある程度ストレス解消になっているかもしれない。僕のほうも自分の話をしているからストレス解消になっています。だから、居場所づくりが必要だなと感じますね。僕は自分の家を居場所にして、若者が何人か来ますけども、好きなこと喋っています。そういう場、昔は隣の家によく遊びに行ったものですけど、それができない世の中。僕の地区はちょっとおかしいのかも知れないけども、私の家が、その居場所として必要なんだと考えています。何らかの形を取っていきたい。そういう活動が僕が言っている普段の市民活動です。市民大学とか生涯教育の中で生かせていけたらいい。 A
1211 01-5 私たちの街は鉱山だから、昔名前があった山がどんどん削られて崩れてしまう。各地域の資源じゃないけども、今から15年ぐらい前から、子どもの目線でものを考えるという中に、これと同じ項目があったんですよ。いわゆる匠のおじさんはどれなのか、子どもからみてこのおじさんはすごいぞと。例えば普段の生活は厳しい生活をしていても、子どもからみるとこの人は宝物に見えたりする。 D
1212 07-5 旧佐野市では遊び場の冊子を作ってあります。それを全部探検して、遊び場マニュアルみたいのがあって。田沼も確か作っています。郷土芸能の伝承、太鼓、笛、そういったものが伝承されなくなってきている。今やっている地域は郷土芸能があるんですけど、だんだんそのなり手がいなくなって、廃れていってしまう。ついにはなくなってしまうのではないかと思うぐらいの状態にあります。小学校単位で色々、八木節や、オカリナとかはやっているんですが、郷土の芸能を伝承するスクールみたいなのを、作っていくのもひとつかなと思います。佐野に伝わるものでも何でも構わない。とにかく、昔ながらのものをなくさないように、次世代につなげていくことが大事。そこで連帯感が生まれて、郷土愛が生まれて、付随するものが色々出てきてつながっていくと思います。 D
1213 20-1 皆さんのおっしゃる通りで、今話題になっております「家庭の日」とか、そういうような活用もあるし、伝統芸能ですね、本当に大事にしなくちゃならない。
1301 16-5 高浜市の「子どもの権利部会」では中学生が中心になって子ども市民憲章を作っています。「たかはま子ども市民憲章」は中学生が中心になって作っています。これから高浜市の中心になっていくのは中学生である。これをはっきり謳っている。まちづくりに参加させている。 B
1302 07-6 居場所、いちばん子どもたち、親もほっとする、ああ、うちへ帰ってきてよかったという、あの居場所。居場所であるべき家庭が居場所ではなくなってきている子たちが多くなってきている。この現実を思うと、やはり家庭はどういうふうに夫婦で築いていくものなのかということを、しっかり今の子どもたちから考えてやっていかないと、これからの子どもたちが、今度、次世代の親になった時に何も考えられない。だから、基本が抜けていて居場所をつくりましょう、何しましょうではなくて、次の子たちのための家庭教育の実践プログラムとか、そういったものが答申の中に入ってきているという感じです。 A、H
1303 07-7 昔親が教えていたことを、道路の端っこに寄って停まってなさいとか、それから、回覧版を持っていきなさいとか、ありきたりになったものが、今は教えてられなくて、ちょっとそこを避けなさいよって言ったら、きれてブスッとやられちゃったとかね。そういったものを、私たちは家庭教育の中で教わった。だけど今の人たちには教えられていない子が今は目に付く。そういうものの、それが地域社会に生きるための術ですよね、端っこによるとか、ご近所さんと仲良くするとか、そういったものが全部含まれてた家庭という社会の中でね、それができてたものが今そうではなくて、みんなよそ様に目が行って、教育はみんな学校にお任せして、みんな学習塾にお任せしてっていうものになってきている。 H、E
1304 16-6 高浜市の子育て、子育ち政策への住民参画の取組み。ここに住民を参画させていまして、子どもの出生率もここはあがっている地区です。なぜいうと、ここは子育てが非常にしやすい。1歳、2、3歳とか階級保育ではなくて、家庭保育、グループ保育活動が中心で、かつて幼稚園、保育園の先生だった人とかを、有償ボランティアみたいな形でやっている、その地区ごとにそのお母さんたちも弁当をもってそこに行くとそこで面倒をみてくれる。子どもを一人でなく2人3人と産む。非常に子育てがしやすい仕組みを作っている。

1305 07-8 佐野地区子連としては、地区10町内の単位の子ども会の、佐野地区としてやっているものが3つあります。単位子ども会として各町内でやっているものも、事業はたくさんあります。特徴的なものがたくさんありますけど、子どもたちは80〜90%、ほとんど全員参加です。それがやらされているとか、出なくちゃいけないというものではないのですけど、自然に、子どもたちが親と一緒に活動していくというものが定着しているものですから。佐野小学校の中で通学している1〜6年生までの子どもたちの中で、全員が一緒に何かをやるというものが地区子連の事業なのです。ぐにゃぐにゃたこのデザインコンテストだとか、キャンプファイヤーとか、かるた取りとかがそれに入ります。これが30年近くやっています。他の地区がやっているものもありますが、佐野地区としてはこれがずっと途切れることなくやってきているものです。私で会長は4代目ですが、前の会長さんたちは一生懸命やってきたものを受け継いで、今私が6年継続しています。町内には子ども会長と育成会長がいます。その人たちと会議をしながら、事業を展開しているのがこの子ども会です。最後のほうに書きましたが、このような新聞を出しています。年に2回ですけど。1号目からやっていくと、手書きのガリ板刷りから始まったという歴史があります。ここに登場している子どもたちが、当時こうだったなということがわかりますので、歴史の良さ、代々受け継がれてきた伝統というものの中で、子ども会がずっと発展してきたということを訴えたいです。子ども会が果たす役割というのが大変大きくて、大きくなった子たちがこれに遊びに来たり、今30代、ちょうど小学校に上がった子どもたちの親が、「私もこれをやっていたんです。あの当時はこうでしたよね」とか話しかけてくる。それの繰り返しが、重みを感じるのです。これはなくしてはいけないものだのだなぁと。今全国ネットで子ども会が衰退しているという話は聞きますけど、私はこれをずっと続けていきたいと思っています。 E
1306 18-8 学校で子どもの居場所づくり、今は国の事業となっていますが、その前に犬伏東の子どもを育てる会というのがあって、結局子どもの安全な場所がない、安全な場所がないと子どもは育たないと思っています。放課後の件、ここずっと10年くらい考えていることですが、やはり子どもが活動する場所、その確保は大人の最低の義務だと考えています。そんなことを考えていたものですから、4年前佐野市で不審者の情報があった時にこれは地域で守らなくてはだめだということで、町会長や関係者を呼んで状況を説明して、安全確保を図ろうと、安全確保だけではつまらない、マイナスのイメージの活動になるものですからそれ同時に、能動的に子どもを育てていく、そういう中から守っていくということから始めていいと思って、遊び場所を確保しませんか、何とか地区ごとにどこか一箇所くらいあるでしょうということで、2地区出てきて、たまたま国の居場所づくり予算が来たものですから、これ幸いと始めたものです。実際活動をやって、面白い例ですが、さわやか指導員の若い子が来ていたので、ちょっとバスケットをやってみないかとバスケットを月1回その子に頼んだら、仲間を連れてきて子どもと遊んでくれる。肩車をしてくれる、じゃれ付く、活動になって、最近は中学2年生になって、「来ていい先生?」と。「あたりまえじゃない」と答える。だんだん先ほどの「好循環」になりつつあります。これが例えば小学校単位で一つずつできれば28箇所できるではないか、2箇所ならば56箇所、それがやっていけば子育ての面で誰もが子育てに参加できる。ましてや遊びの中から学ぶことができるのではということです。 A、B
1307 15-3 さっき小学校単位にして考えた地区子ども会、もちろん必要ですけども、外側から眺めてみると、参加している子どもたちというのは一体何割いるかというと、僕がみるにそんなに多くは感じない。夏祭りとか秋祭りとかに子どもたちが行けば、なんとなく多くの人に触れ合う機会を持っていることになります。そういうことも必要でしょうけれど、大人とふれあい、じいちゃんとふれあい、ばあちゃんとふれあい、近所の子どもたち・仲間とふれあう機会・話す機会、腹・頭の中にあるもの、考えているものをしゃべりたいというか。私の居場所の子どもたちは、私がついていけないくらいおしゃべりが多くて、鬱積して溜まっているものが多いんだなとつくづく感じます。そういう意味で、居場所は何らかの形で作る必要があるだろうと思う。実際は、栃木県の会議では、このような居場所はこの数年の間に3倍に増えてきました。簡単に言えば、自分の家を開放しただけですよ。これも必要なのでしょう。一時的なものにしかならない場合もある。条件が整わないとできない。賑やかになっちゃいますから近所迷惑になることもある。しかし、それはそれで良い所もある。条件環境を整えるとなると、本当はコミュニティセンターや学校の一部を開放するとか、公民館とかが望ましい。でも、大体、公民館は子どもたちで借りるなんて見たことがない。責任者がもちろん必要でしょうけど、責任者がいてそこに集まる子どもたちが何かをする。趣味のものでもいいです。スポーツ、スポーツとよく言われますけど、スポーツのできない子もいるわけですから。そういう子たちは折り紙でもいい。漫画を読む機会でもいい。今流行りのDVDでもいい。そういうものをみんなで観る機会、小映画館みたいなスペースを作ったりということも考えられるんじゃないか。 A、G
1308 18-9 どなたが考えても居場所は同じ。みんな同じなのです。基本的には、一緒にやる経験。例えば、まず、子どもの世界は命令されてやるものではないじゃないですか。今親がしゃべり過ぎだし、過保護の世代・家庭・本人というのがあるけれど、いかに問題が多岐にわたるのかがよくわかる。基本的にはしつけはすべきですね。でも、あとは自由にするべきことがなければ子どもはわからない。コントロールしすぎたら子どもは叱られるように育つ。僕は基本的には、子どもが安全で、テレビゲームとかじゃなくて、人と関われる場所が必要なんです。そして今までのように感情のやりとりの中で、これやろう、あれやろう、ダメだよ、みたいな経験があって、やっぱり一緒にいると楽しい、何かのときは助けてくれるとか、虫にかまれたら大丈夫と心配してくれる。つまりは人間同士なんだという、原初的体験が今できていない。みんなバーチャルな世界だから。それから人との言葉のやりとりを面倒くさがったりしますので。まずは、その場の確保。ある意味それだけでもいい。余り活動を作っちゃうと、「やれ」というと逆に窮屈になってしまう。 A、C
注 社会化促進要因の種類=A居場所、B参画、C仲間づくり、D文化や労働の伝承、E地域の教育力、F自然の教育力、G教育機関の教育力、H家庭の教育力

[資料5]「こどもの街宣言」(旧佐野市)(1993年)
城山の桜のように明るく 
出流原の泉のように清く
三毳山の小楢のようにみずみずしく
唐沢山の松のように雄々しく 
秋山川の流れのように 尽きることなく
こどもは伸びる こどもは 佐野の宝
水と緑と万葉のまち佐野市は
このこどもたちの未来を力強く支え見守ります 
こどものまちをつくろう 
本当の意味で こども愛するまちをつくろう
本気で こどものことを考える大人のいるまち 
毎日 こどものことを話題にするまち
遊んでいるこどもにひと声かけてくれる大人 
声かけられたら はい と素直にきけるこどものいるまち
叱られて 叱られて ぐっと抱きしめられることが
こどもの真の幸せってことがわかる大人と
こどものいるまち
人に親切 人の傷みをわかりあえるまち
こどもは毎日伸びている 
抑えるのでなく 伸ばす指導の出来るまち
苦しみ・悩みのある人に 
温かい手をそっとさしのべる勇気を出せるまち
誰か 市民が 立派なことをやったとき 
共に喜びあえるまち
受けた恩に 報いる気持ちを育てるまち  
先人の業績をしのび 祖先に感謝するまち
自然を愛し 美しいまま 
次世代にわたせるように心掛ける人の住むまち
きょうの努力が やがて報われるまち 
将来の夢を 一緒に語りあえるまち
こんなまちを つくりたい 
それは 日本一のこどもの街 佐野市です
あすの佐野市を担い支えるこどもを
親が 家庭が 学校が 地域が 社会が
見守り育て 大切にする  
日本一の「こどもの街」を宣言します。





[資料6]青少年と親の社会化に関わる中間答申起草結果
1 少子高齢社会の問題解決
1−01 わが国は、現在、少子高齢社会の問題に直面している。この点について、若手労働力人口の減少がおもに問題にされているが、私たちは、まちづくりの観点から、それとは別の次の三つの「社会問題」について指摘しておきたい。
1−02 第一に、若い世代とそれより上の世代との間に利害対立の問題がある。これが世界的にも問題になりつつあり、異世代間交流(インタージェネレーション)の重要性が叫ばれている。この問題をどうするか。佐野市では、どのような手法で、世代を越えた合意形成をしていくのか。
1−03 この点については、私たちは、まちづくりについて、世代を越えた参画の中での合意形成が重要になると考えた。たとえば、子どもから高齢者までが、地域の公園づくり計画に参加する。高齢者が「子どもが遊んでいてうるさい」と言い、若いお母さんが「年寄りがゲートボールをしていて邪魔」などと言って互いにいがみ合うのではなく、互いに納得して受け入れることのできる公園づくりを行う。このことによって世代間の利害対立を乗り越える可能性が生まれると考えられる。 B
1−04 第二に、子育て支援のあり方の問題がある。出生率向上のための出産補助金等の諸施策は悪いことではない。しかし、まちづくりへの市民参画推進の観点から言えば、これがもし、若い親たちの子育てのための主体的な意欲と能力を損ない、行政や関連専門機関等への「あなた任せ」的な態度を助長する結果に陥るとしたら、これは重大な社会的損失と言わざるをえない。
1−05 この点については、親が支援される立場だけでなく、自分のできる範囲で、子育てしやすいまち、子育てしていて楽しいまちにするために力を合わせることが重要である。たとえば、PTAや保育園の保護者会など、全国的にはかなり弱体化し、親の関心が薄くなってきている。わが子のことだけで頭がいっぱいになっている。わが子のことをよく見るということは大事なことではあるが、今回の答申では、それがさらに発展し、親たちが力を合わせて「子育てのまちづくり」に参画する方向を提案したい。 B
1−06 その場合でも、子どもの参画によって、子どもたち自身の意見も聞きながら「子育てのまちづくり」を進めていくことが重要である。「子育てのまちづくり」については、次章で改めて提言したい。 B
1−07 第三に、若者の社会意識の問題がある。出生率を高めるだけでは少子高齢社会の本質的な問題解決にはつながらない。社会的意識、社会的責任感など、社会の側から見た若い世代の質の高さが問われるのである。しかし、現実には、1990年代にすでに「仲間以外はみな風景」という若者の特徴が指摘されている。いつも一緒にいる数人の仲間だけが重要であり、それに一生懸命協調したり同化したりしようとする割には、ややもすると、社会どころか、仲間以外の他者に対してさえ無関心という傾向が見られる。
1−08 労働力人口の減少の問題だけならば、外国人労働者の受け入れ拡大などで、ある程度は解決できるかもしれない。しかし、次代の社会を支えるべきわが国の若者が、その社会に関心がないという状態が続くとすれば、これはわが国の少子高齢社会の致命的問題になりかねない。若い世代の人口比率だけが問題なのではなく、彼らがどのように社会に関心をもち、責任をもち、支えようとしてくれるのかということこそが重要といえる。


1−09 この点については、現代の若者たちの一人一人に適した形での「まちづくり活動」を開発し、その活動への参画を促進するようにしたい。そこで、社会貢献、社会参画の楽しさと、自己を社会的にうまく位置付けることができた場合の自己充実の喜びを感じさせたい。これは、少子高齢社会における抜本的な問題解決策の一つと言ってもよいだろう。 B
2 家庭・地域に支えられる「中心市街地活性化」(抜粋)
2−04 その今までの結論は、「家庭・地域に支えられる商店街」である。親が子に、地域の店で買うことを教えることによって、地域の人々が支え合う姿勢を伝える。さらには、地域の人々が消費者として、地域の店で購買行動をするというだけでなく、参画の観点からいえば、生産や流通、地域規模の商品開発にまで関わって意見を述べたり、参加・協力したりする。 E
2−05 アウトレットのような劇的な商業施設をまねようとすることよりも、私たちは、このように「家庭・地域に支えられる商店街」を目指すことのほうが、「佐野市らしい商店街振興」だと考える。そして、アウトレットとはむしろ有機的な連携を図り、アウトレットに来たお客様を、「家庭・地域に支えられる商店街」に誘導して、アウトレットの魅力とともに、佐野のまちづくりの良さを味わってもらうようにしたい。 E
3 支え合う仲間との活動の重要性
3−01 現在、少子化が進む中で、多くの若い親たちは周りや地域に支えてくれる人もいないままに、メディアや本などから得た知識を頼りに、「子ども・子育て商品」を受動的に受け取りながら子育てをしている。そのため、親の主体的、自発的な子育て意欲も萎え、子どもはその影響をまともに受けてしまっている。このままでは、少子化によるわが国のダメージは計り知れないものになる。
3−02 わが国においては、多くの親たちの子育てに関する関心事はわが子のことだけであり、そのほかのことは専門家任せ、ましてや「子育てまちづくり」などはほとんど「あなた任せ」の現状であるといえよう。しかし、「わが子の問題」が生ずると、その問題解決のための子育て学習が行われる。当初の学習は、メディアや本などからの知識を受動的に受け取る「個人学習」が中心になるだろう。その学習が効果的に行われた場合、対症療法的な問題解決方法の発見にとどまらずに、自分の子育て行動に対する気付き、さらには、自分自身や家族関係に対する気付きに発展する可能性がある。そのとき、親の会や地域社会における「仲間」との出会いを得た場合、実践的な「集団学習」が効果的に展開される可能性がある。この学習が、親の子育てまちづくりへの参画のための意欲と能力を高めることが期待できる。 C
3−03 このように想定した過程を「親学習の発展過程」として図2に示した(略)。もちろん、この過程は一方向的なものではなく、循環して発展していくことが予想される。
3−04 この想定における、「わが子」のことから出発して「あなた任せ」にしない「子育てまちづくりへの参画」に至る過程は、自己の充実のための生涯学習が、まちづくりへの参画という実践との往復運動によって発展する過程と一致するものといえよう。 B
3−05 そして、ここでも重要な要素となっているのが「仲間づくり」である。PTA、保護者会、子ども会を通した親同士の交流、さらには町会などの地域のまちづくり団体の参加、協力を得て、「あなた任せ」から脱却して、支え合う仲間を持つことが重要である。特に若い母親が、核家族化した家にわが子だけと引きこもり、「公園デビュー」におののかなければならない状況を考えると、その意義は大きいと言えよう。 C
3−06 そして、子育て支援のあり方を社会的視点からとらえた場合、PTA、保護者会、子ども会、町会などの活動を通した「子育てまちづくりへの参画」のもう一つの大きな意義が浮かび上がってくる。それは、出産補助金、駅前保育園などの福祉的施策により「支援される」だけの対象であった親たちが、自らが仲間をつくって、自分たちのできる範囲で支え合い、実践的な学習を通してまちづくりに参画し、その「福祉」をつくりだす主体にもなるということである。 B、C
3−07 もちろん、少子高齢社会においては、出生率向上のためのさまざまな福祉的諸施策が今まで以上に必要であることはいうまでもない。しかし、子育て支援の目指すべきこととして、親たちが仲間づくりを通して互いの子育てを支え合い、地域もそれを支えること、さらには、生涯学習やまちづくり活動を通して「子育て環境の改善のための市民参画」を行うことを、もう一つの重要な支援方向として指摘しておきたい。 B、C、E
4 家庭教育の回復と親学習プログラムの開発
4−01 ここでは、「子育てのまちづくり」が目指すものとして、家庭教育の回復を挙げたい。親子の交流、共有、感動、絆、そして感謝の気持ち、このような大切なことが、今、失われつつあるのではないか。 H
4−02 先に、「ふるさと」は、「他国を排斥しない愛国心」、「自然への畏敬の念」、「宗派を問わない宗教心」、「自分を育ててくれた自然、地域、人々への感謝の念」、そして、「社会の中で生きる力」につながるための「始まり」として、個人にとって格段に重要な意味をもっていると述べた。同様に、「家庭」は、それらの「始まりの始まり」だと言える。これが現代社会のなかで「ズタズタにされる」危険性を私たちは感じている。 E
4−03 他者の痛みを感じる気持ちはどうか。人に迷惑をかけないようにするという規範意識はどうか。働くということを大切にするという態度はどうか。私たちは、このような点について、子どもたちだけでなく、今の家庭、今の大人自身のあり方に危機を感じる。私たち自身が、今の生き方を見直さなければならないと考える。 E、H
4−04 しかし、このような個人の範疇に属する事柄は、押し付けや強制によって解決すべきものではない。まさに、個人の自発的意思に基づく生涯学習の中で、一人一人が自律的に考えていくべきことである。ここに、親の不安や悩みに的確に応える親学習プログラムを提供することの重要な意義が示されている。 E、H
4−05 すでに栃木県では『親学習プログラム集』を作成、配布するなどの普及に努めている。佐野市でも、そのプログラム集に基づく指導者研修に家庭教育オピニオンリーダーを派遣し、市民への普及活動に努めている。 E、H
4−06 私たちは、その一層の普及・活用を期待するとともに、次の点について提言しておきたい。
4−07 第一に、先に述べた観点から、「わが子のこと」から出発して、PTA、保護者会、子ども会、町会などの仲間との活動を通して「子育てまちづくりへの参画」に発展できるような配慮をすることである。その点で、『親学習プログラム集』において、参加型学習の手法が多く取り入れられていることなどは、高い評価に値すると考える。 B、C
4−08 第二に、学習目標の設定と提示である。これは、到達目標の達成に対して、プログラム提供者側と学習者側が相互に責任をもつという態度によるものであり、「教育の視点」とも言うことができよう。「到達目標」や「教育」と言うと、一部には、押し付けや強制という誤解に基づく反発もあるかもしれない。


4−09 しかし、達成目標(できれば各回ごとの)を設定し、それを明示して学習者側の理解を求め、目的意識的な学習を促進することは、むしろ「学習者主体」の考え方に基づくものだと私たちは考える。「子育てまちづくり」を含めて「まちづくりへの参画」における学習は、問題解決のための市民の目的意識的な学習であり、学習プログラムにおいて、その課題を実現するための目標設定が明確であることは必須条件といえる。 B
4−10 私たち生涯学習推進協議会としては、親が必要と思っている親能力を構造化して、これを獲得能力目標の明示された親学習プログラムとして編成する手法を開発したい。このことによって、親学習プログラムの作成における親自身の参画が可能になると考えられる。 B、H
5 子どもや若者の居場所をつくろう
5−01 現在、多くの青少年が「自分らしさ」を大切に思い、「自分らしくいられる居場所」を必要と感じていると言える。そして、その居場所とは、まずは「自分の部屋」であったりする。しかし、その部屋を出たときに重要なのは数人の「仲間」である。「仲間以外はみな風景」という現象については、すでに述べた。しかし、その仲間同士の関係自体も、必ずしも「居場所」と言えるものではない。「みんな、みんな」と言って同調しているように見えて、じつは「ひとりぼっち」という孤独感を感じている、すなわち「みんなぼっち状態」であるという指摘もある。また、この点については、メディア環境の影響も検討する必要があるだろう。しかし、その場合、各メディアについて一概に是非を論ずることよりも、各メディアの適性に応じたコミュニケーションのあり方を検討することのほうが生産的と言えよう。 A
5−02 ただし、現在の青少年の交友関係やメディア利用の影響によって、「いろいろな人間関係を経験しておく」という体験が欠如したまま大人になるとすれば、これは決定的な問題と言わざるを得ない。
5−03 このような青少年に対して、まちづくりに参画する大人たちが、仲間づくりをして、互いの違いを認め合いながら、それぞれの「自分らしさ」を社会に発揮する姿を(青少年の居場所において)示すことは、重要な意義をもっている。PTA、保護者会等に関わる親たちはもちろん、それ以外のまちづくりに関わる市民も、わがまちの子どもや若者たちに目を向けてほしい。 A、B
5−04 ここでは、その代表的活動として、「子どもや若者の居場所づくり」を提言したい。それ(居場所)は、青少年も大人も、ともに参画する「まちづくり活動」の一環として位置付けられる。居場所を求める青少年にとって、まず大切な居場所の条件は、「あるがままの自分でいられる」、「無条件で歓迎される」ということである。 A、B
5−05 しかし、私たちは、それを大切にした上で、まちづくりに参画する自らの姿、そこでの多様な仲間関係の魅力、社会参画の手応えを伝えていきたい。そして、彼らを地域に囲い込もうとするのではなく、社会に羽ばたいていく巣立ちのための巣として、居場所を提供したい。「自分の部屋」のたんなる延長ではなく、最終的には自立して社会に出ていくための拠点として「居場所づくり」を位置付けたい。 A、E
5−06 このことは、青少年にとって、「同化を迫る他者や社会」という認識から、「自己の存在価値を認める他者や社会」という認識に転換する貴重な機会になるだろう。また、まちづくり活動にとって、青少年は旅人と同様の「新しい風」を吹き込んでくれる存在になってくれるであろう。
5−07 現代は、親、大人、中高年自身が、青少年と同じように「自分らしくいられる居場所」を求めている時代とも考えられる。今まで述べてきた「子育てのまちづくり」を含む「まちづくり」の観点からは、それらの願いに対する端的な解答は「仲間との参画」と言うことができるだろう。 A、B、C


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*1 西村美東士『生涯学習か・く・ろ・ん−主体・情報・迷路を遊ぶ』,学文社,pp.198-202,1991.4.
*2 2002年8月の国連・ヨハネスブルグ・サミットで、日本政府と日本のNGOが共同で「国連・持続可能な開発のための教育の10年(2005年〜2014年)」を提案し、同年12月、国連総会で採択・宣言された。ユネスコによれば、「持続可能な開発のための教育(ESD)」とは、次のとおりである。
 地球温暖化や酸性雨などの「環境問題」、人権侵害や異文化間の衝突といった「社会的問題」、貧富格差をはじめとする「経済的な問題」など、わたしたちは互いに関連し合うさまざまな課題に直面し、現代社会はこのままでは持続不可能であることが明らかになっています。それらの課題を解決し、「世界中の人々や将来の世代までもが安心して暮らせる社会」を実現するには、わたしたち一人一人が、互いに協力し合いながら、さまざまな課題に力を合わせて取り組んでいくことが必要です。そうした未来へ向けた取組みに必要な力や考え方を人々が学び育んでいくことを指し、近年その必要性が強く叫ばれています。
*3  宮台真司『世紀末の作法』,リクルート社,1997.8.
*4  西村美東士「学生の社会化支援の観点に立った『子育て支援』教育の研究−『連鎖的参画による子育てまちづくり」研究の一環として』,聖徳大学生涯学習研究所『生涯学習研究』4号, p.49,1996.3.
*5 西村美東士「構造的理解に基づく子育て学習の支援のために−子育て支援学習における学生の社会的視野拡大の事例からの検討」,『日本生涯教育学会論集』27号,p.52,1996.7.
*6  草野篤子他『インタージェネレーション−コミュニティを育てる世代間交流』,至文堂, 2004.7
*7  東京都青少年問題協議会「東京都における青少年健全育成のための行動計画策定にあたっての基本的考え方と施策の方向について−自立と参加のユースコミュニティを(答申)」,東京都,1984.1.









現代青少年に関わる諸問題と
その支援理念の変遷

−社会化をめぐる青少年問題文献分析−

(研究課題番号 17530588)


平成17〜18年度科学研究費補助金
(基盤研究C)研究成果報告書












平成19年3月

研究代表者 西村美東士

聖徳大学人文学部生涯教育文化学科教授





















現代青少年に関わる諸問題とその支援理念の変遷
−社会化をめぐる青少年問題文献分析−
研究成果報告書の構成

はしがき………………………………………………………………………… 1

研究の概要……………………………………………………………………… 2

第1章 「青少年の社会化」を支援する理念とその変遷………………… 5
1.1 研究目的……………………………………………………………… 7
1.2 研究方法……………………………………………………………… 7
1.3 青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷……………… 9
1.3.1 キーワード出現の傾向…………………………………………………… 9
1.3.2 キーワード出現率の操作結果の検討…………………………………… 16
1.3.3 青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷…………………… 25
1.4 論旨の分析から見た「青少年の社会化」を支援する理念と
  その変遷……………………………………………………………… 30
1.5 「青少年教育・対策」文献に見る社会化支援理念の変遷……… 36
1.5.1 「青少年対策」に関する社会化支援理念の変遷……………………… 36
1.5.2 「青少年教育」に関する社会化支援理念の変遷……………………… 49
1.6 これまでの社会化支援理念の検討………………………………… 65
1.6.1 1990年代における「個性尊重」支援理念の検討……………………… 65
1.6.2 職業・就職支援に関する社会化支援理念の検討……………………… 80
1.6.3 ひきこもり問題に関する社会化支援理念の検討……………………… 86
1.6.4 「居場所づくり」の支援方策に関する理念の検討…………………… 91

第2章 支援理念を支える方法論…………………………………………… 95
2.1 親の社会化を支援する「子育て学習」内容編成の方法………… 97
2.1.1 研究の意義………………………………………………………………… 97
2.1.2 研究の目的…………………………………………………………………… 97
2.1.3 クドバスの概要と活用の意義……………………………………………… 98
2.1.4 学習プログラム作成結果…………………………………………………… 99
2.1.5 結果の検討と討論…………………………………………………………… 104
2.2 子育て中の親の気づき過程とその支援方法……………………… 110
2.2.1 研究の目的…………………………………………………………………… 110
2.2.2 研究の方法…………………………………………………………………… 110
2.2.3 支援内容による気づき過程の結果………………………………………… 112
2.2.4 討論―気づきの支援方法とその効果……………………………………… 121
2.2.5 結論…………………………………………………………………………… 126
2.3 大学生の子育て・出産観の形成の方法…………………………… 127
2.4 若者の友人関係の類型と社会化支援の方法……………………… 135
2.4.1 方法…………………………………………………………………………… 135
2.4.2 結果…………………………………………………………………………… 135
2.4.3 各類型の社会的有能感/無力感の特徴…………………………………… 136
2.5 学生の社会化を支援する大学授業の方法………………………… 140
2.5.1 研究1の方法………………………………………………………………… 140
2.5.2 研究1の結果と考察………………………………………………………… 140
2.5.3 研究2の目的………………………………………………………………… 144
2.5.4 研究2の方法………………………………………………………………… 144
2.5.5 研究2の結果と考察………………………………………………………… 144
2.5.6 討論…………………………………………………………………………… 145
2.6 ワークショップ型授業の構成要素とその効果…………………… 147
2.6.1 仮説の設定…………………………………………………………………… 147
2.6.2 研究の方法…………………………………………………………………… 147
2.6.3 結果と考察…………………………………………………………………… 148
2.6.4 討論…………………………………………………………………………… 151
2.7 社会化支援に関する政策決定の要素と計画化の方法…………… 155
2.7.1 研究の背景と目的…………………………………………………………… 155
2.7.2 研究方法……………………………………………………………………… 156
2.7.3 研究結果……………………………………………………………………… 156
2.7.4 考察…………………………………………………………………………… 157
2.7.5 結論…………………………………………………………………………… 163
2.7.6 討論−社会化過程の構造的理解…………………………………………… 163
2.8 宿泊型青少年教育施設における支援方法………………………… 173
2.8.1 青少年教育施設の基本的性格……………………………………………… 173
2.8.2 青少年教育施設の歴史……………………………………………………… 173
2.8.3 宿泊型施設における指導性と専門性の困難……………………………… 175
2.8.4 青少年教育施設に求められる個人化/社会化機能……………………… 176
2.8.5 団体宿泊訓練への新たな理解……………………………………………… 178

第3章 文献分析の視点からの提言………………………………………… 179
3.1 青少年教育施設における社会化支援とその成果公開のあり方… 181
3.2 社会化支援事業における効果的な事業報告の推進……………… 186
3.2.1 暗黙知の支援技能伝承の意義とその方法……………………………… 186
3.2.2 マルチメディアを用いた事業成果の公開……………………………… 187
3.3 本研究の展望………………………………………………………… 192

【資料】………………………………………………………………………… 195
資料1 1.3 青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷……………… 197
資料2 1.4 青少年問題文献における「社会性」の文脈……………………… 253
資料3 1.5 「青少年教育・対策」引用文献要旨……………………………… 278



はしがき

 青少年が重大事件を引き起こしたり、新たな青少年問題が浮上したりするたびに、社会の側は、彼らに望ましい社会化の達成を求めようとしてきた。
 しかし、わが国のいたるところで行われてきた青少年育成や青少年教育による社会化支援の実践及びそれに関する研究の成果は、十分には広く継承、発展されてこなかったと考える。さらには、青少年の社会化を効果的に促進する事業を、予算と人材を使って開発しつつある青少年教育施設が、その開発や発展の最中に廃止されてしまうという「不合理」さえ各地で行われてきたと考える。
 本研究は、これらの実践・研究の成果公開の重要なツールとしての行政資料、研究論文等(ここでは「青少年問題文献」と呼ぶ)2万件以上について、キーワードによる分析を試みた。また、そのなかでも、研究代表者の行ってきた「青少年教育」及び「青少年対策」に関する90年代以降の文献ドキュメンテーション2千件以上については、各文献の論旨を詳しく検討した。さらには、文脈からのキーワード分析によって、社会化に関する論旨を分析するための枠組みを開発した。
 本研究成果報告書が、青少年育成や青少年教育に関わる市民、行政、研究者に広く活用されるとともに、社会化支援実践やそれに関わる研究成果が広く交流され、今日の青少年問題にたえうる支援理念とその効果的な支援方策が協働のもとに確立されることを願うものである。
 なお、本報告書は、西村美東士が研究代表者として代表して執筆した。研究分担者の熱心な研究のおかげであることはもちろんのこと、多くの方々のご指導及び専門的知識の提供をいただいて完成したものである。とくに技術・技能教育研究所森和夫所長には、親身になってご指導いただいた。この場を借りて、深く謝意を表したい。


研究の概要


1. 研究組織

研究代表者  :  西村 美東士(聖徳大学・人文学部・教授)
研究分担者  :  福留 強  (聖徳大学・人文学部・教授)
研究分担者  :  清水 英男 (聖徳大学・人文学部・教授)
研究分担者  :  齋藤 ゆか (聖徳大学・人文学部・講師)
研究分担者  :  谷川 彰英 (筑波大学・理事)


2. 交付決定額

平成17年度 1,800,000円
平成18年度 1,700,000円
  総計 3,500,000円
以上すべて直接経費として利用した。


3. 研究成果概要

 キーワードに関しては、文脈まで含めて細部にわたり分析した。その分析を通して、社会化支援理念が、青少年個人の即自、対自己、対他者、対社会の気づきにどう対応しようとしてきたかを検討した。その結果、その変遷過程に一定の特徴を見いだし、より効果的な支援方策のための知見を得た。
 家族問題に関しては「ひきこもり」等の問題について、職業・就職支援に関してはフリーターやニート等の問題について検討した。その結果、行政、教育、職業能力開発、心理学、社会学等のそれぞれの文献の間に、社会化に関する論点の相違を見いだし、個人化と社会化の統合的支援や、自己形成と社会形成の一体化の実現に向けた有益な知見を得た。
 青少年対策行政機関や青少年教育機関等が発行する関連文献については、社会化支援理念を共有し、発展させるための事業成果公開のツールとしての意義を明らかにした。同時に、社会化効果の測定や、より効果的な施策・事業展開のための計画策定の指標について、また、経験知としての側面の大きい社会化支援実践に関する他メディアの活用等について、成果公開の内容と方法の改善に関する知見を得た。



4. キーワード

(1) 青少年問題
(2) 社会化
(3) 支援理念
(4) 文献分析
(5) 青少年教育
(6) 家族問題
(7) ひきこもり
(8) 職業・就職支援




5. 研究発表
(1) 学会誌等

西村美東士「学生の社会化支援の観点に立った子育て支援教育の研究」、聖徳大学生涯学習研究所紀要『生涯学習研究』4号、pp.49-62、2006年3月31日

西村美東士「構造的理解に基づく子育て学習の支援のために−子育て支援学習における学生の社会的視野拡大の事例からの検討」、『日本生涯教育学会論集』27号、pp.51-60、2006年7月31日

西村美東士「出産・子育ての自己決定能力を育む大学授業の方法と効果―女子学生(未来の母親)の社会化を支援する技法」、聖徳大学FD紀要『聖徳の教え育む技法』1号、pp.31-49、2006年12月20日

西村美東士「まちづくり推進における青少年と親の社会化支援方策」、聖徳大学生涯学習研究所紀要『生涯学習研究』5号、pp.17-35、2007年3月31日

(2) 口頭発表

西村美東士「青少年文献分析の意義と枠組−現代青少年の社会化支援の視点から」、青少年育成学会第6回研究集会研究発表、2006年7月31日

(3) その他

西村美東士「参画能力獲得から参画目標達成へ−青少年の社会化支援研究の視点から」、狛江市中央公民館『平成18年度青年教室活動記録』、pp.1-6、2007年3月31日


6. 研究成果の公開に関するその他の方法

 下図のとおり、研究成果をWEB上で公開するとともに、平成14・15・16年度日本学術振興会研究成果公開促進費(データベース)の助成を受けて構築した「青少年問題に関する文献データベース」をあわせて公開し、広く青少年育成や青少年教育に関わる市民、行政、研究者による検索と交流の便に供している。
 
 
WEB上での研究成果公開(http://mito.vs1.jp/)
 

 「青少年問題に関する文献データベース」検索画面(携帯電話用ページも開設している)
 


































第1章 「青少年の社会化」を支援する理念とその変遷



1.1 研究目的
 現代青少年に関する諸問題については、社会性の欠如や社会的不適応、非行や引きこもりなど、多くの指摘がなされてきた。この問題を解決するために、社会的にも多大な労力と費用が払われてきた。
 このような実践と研究により、個人の充実や、望ましい社会化を支援するための理念が形成されてきた。しかし、それは次の理由から、十分な社会化効果を果たすには至っていないと考える。
 
 第1に、青少年の「個人化」を、社会化とは二項対立的にとらえたため、「個人化」支援と統合された社会化支援理念を形成することが十分にはできなかった。
 第2に、青少年自身の友達関係や仲間関係の欲求を、社会化達成への萌芽的欲求として積極的にとらえ支援すること、さらには、これを望ましい社会化や社会参画能力獲得へと結びつけることが十分にはできなかった。
 第3に、青少年の社会化支援のための実践や研究で得た成果や知見の交流が十分ではなかった。そのため、その成果を検討しあい、協働によって継承、発展させることが十分にはできなかった。
 
 そこで、本研究では、これまで蓄積してきた「青少年問題ドキュメンテーション」等を活用した文献分析によって、上記3点に関する実態を明らかにし、その妥当性を確かめようとした。
 このようにして、青少年の社会化支援に関する理念の変遷を明らかにし、今後の効果的な支援のあり方について検討したい。
 
1.2 研究方法
 次の方法で文献分析を行った。本研究全体をとおしての研究方法の特徴は、各文献の「要旨」を含めて分析対象としたことにある。

方法1 キーワード分析1
(1) 分析対象
 方法1で対象とした文献は、平成14・15・16年度日本学術振興会研究成果公開促進費(データベース)の助成を受けて構築した「青少年問題に関する文献データベース」に収録した文献のうち、1978年1月から2002年12月までに発行された文献23,732件である。
 本データベースは、研究代表者の作成したドキュメンテーションのほか、総理府青少年対策本部(当時)等による『青少年問題に関する文献集』1に収録されたドキュメンテーションを、作成者の了解を得てデータベースに収録し、公開している。
 本研究では、要旨が全収録文献に対して付記されるようになった昭和53年(1978年)以降発行の資料を分析対象とした。
 収録文献のカテゴリーは、『青少年問題に関する文献集』においては、大項目では、「社会」、「文化」、「生涯学習・社会教育」、「家庭」、「職場」、「学校教育」、「意識」、「非行」、「心身の発達」の9種類である2。このように本データベースは広いカテゴリーにわたるため、その収録文献を、本研究では「青少年問題全般」文献と呼ぶ。
(2) 分析方法
 各データの題名、要旨のそれぞれについて、青少年の社会性に関するキーワードが出現した文献を抽出し、発行年による量的変化等について検討した。
(3) 本方法を活用した研究結果
 本方法による研究結果については、おもに下記の節において報告し、検討する。
「1.3青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷」

方法2 キーワード分析2
(1) 分析対象
 「青少年問題に関する文献データベース」に収録した文献のうち、本研究代表者がドキュメンテーションを作成した文献、及び本研究のために公開できる範囲内で要旨を充実させたり、新たにドキュメンテーション作成を行ったりして補完した文献、2,402件を対象として、検討を行い、キーワード出現の傾向や出現率の操作方法の妥当性を確かめた。対象文献の発行年は1990年から2004年である。ただし、2004年発行文献については、3月までに発行された文献のみ対象とした。
 本研究代表者がドキュメンテーション作成を担当した文献のカテゴリーは、『青少年問題に関する文献集』においては、大項目では、「社会」、「文化」、「生涯学習・社会教育」の3種類である。そのため、本研究は、「青少年教育」と「青少年対策(行政及び青少年育成運動)」を主対象としたものといえる。本研究では、これを「青少年教育・対策」文献と呼ぶ。
(2) 分析方法
 各データの題名、要旨のそれぞれについて、青少年の社会化支援に関するキーワードが出現した文献を抽出し、発行年による量的変化等について検討した。
(3) 本方法を活用した研究結果
 本方法による研究結果については、おもに下記の節において報告し、検討する。
「1.3青少年の社会化に関するキーワードの出現率の変遷」のうち、とくに「1.3.1キーワード出現の傾向」、「1.3.2キーワード出現率の捜査結果の検討」
 また、「青少年教育・対策」文献については「1.5『青少年教育・対策』文献に見る社会化支援理念の変遷」において、逐一、文献要旨に当たって詳しく検討した。

方法3 キーワード検索による論旨の分析
(1) 分析対象
 「青少年問題に関する文献データベース」に収録した文献のうち、「要旨」の中に「社会性」という語が含まれていて、なおかつ「社会性」に関する文脈を「要旨」から抽出できた文献、282件を対象とした。対象とした文献は、1980年4月発行から2003年3月発行までの24年間分である。
(2) 分析方法
 対象文献において使われている「社会性」のもつ意味及び文脈を、各文献の「要旨」から分析した。
 分析に当たって、各文献の個人と社会との「関係性」の認識に着目し、「社会性」に関する論旨を、次の5タイプに類型化して検討した。
 
@ 主観的社会
A 身近な他者
B 一般的他者
C 集団・組織
D 社会全体

 上記分類は、研究代表者が「学生の自己決定能力を高める授業方法」研究の一環として「ワークショップ型授業の構成要素とその効果」について研究を行った際、学生の気づきの状態を理解するために設定した次の概念に基づいている3。

 学生の気づきの状態を「即自」と「対自」と「対他」に分け、その発展上に「対自=対他」を設定した。ここでの自は自己であり、他は他者である。「即自」とは無自覚に認識できる「そのままの自分」である。ただし、「対自」や「対他」から何度も立ち戻った末の深いレベルの「即自」は、いわゆる自然体の「あるがままの自分」が想定される。「対自」とは自己を客観的に認識する「もう一人の自分」を想定している。これも表層的な自己否定から深層の自己受容に至るまで、いくつかのレベルが想定される。「対他」とは「自己とは異なる他者の存在」への気づきである。これも自己からの関わり方に数段階のレベルを想定している4。

 本研究では、上記の「即自」、「対自」、「対他」の概念を、青少年の社会化過程に沿った形で応用し、「自分自身」、「身近な他者」、「その他の他者」、「集団組織」、「社会全体」という5つのタイプを設定した。また、この5タイプが、必ずしも一方向のみのレベルアップを意味するものではないことに注意が必要である。
(3) 本方法を活用した研究結果
 本方法による研究結果については、おもに下記の節において報告し、検討する。
「1.4論旨の分析から見た『青少年の社会化』を支援する理念とその変遷」

方法4 総合的手法による支援理念の抽出
(1) 分析対象
 最近発行された文献を中心として、特定テーマに基づいて、対象とする文献を設定した。
(2) 分析方法
 方法1から3までを必要に応じて活用したほか、トピックスに応じた類型化を試みた。
(3) 本方法を活用した研究結果
 本方法による研究結果については、「1.6これまでの社会化支援理念の検討」以降で報告し、特定テーマに関する検討や最近の関連文献に関する検討を行う。

1.3 青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷

1.3.1 キーワード出現の傾向
 方法1によって、「青少年問題全般」文献におけるキーワード出現の傾向を確かめた。
 表1-1に「震災」の出現率を示した。図1-1に出現件数の変遷、図1-1-2に出現率の変遷を示した。なお、表1-1と図1-1-3では、比較のため、「地震」の出現率データを参照した。
 阪神大震災は1995年(平成7年)1月17日に起きている。そのことから、「題名に出現」については1年以内に、「要旨に出現」については1年後ぐらいにピークを迎え、その後、出現文献数が減衰していくことがわかった。「地震」についても同様の結果が得られた。
 次に「17歳」の出現率を調べ、その結果を表1-2、図1-2、図1-2-2、図1-2-3に示した。「青少年教育・対策」文献において同様の分析を行った。その結果を、表1-3、図1-3、図1-3-2、図1-3-3に示した。ともに、比較のため、「18歳」の出現率データを参照した。



表1-1 「震災」の出現率( 青少年問題全般文献 N=23,732 )
震災
の出現率
n=
23,732
出現数=
91
AVE=
0.3%
 
 
西暦
文献
総数
 
出現数
 
 
出現率
 
比較


書名に
要旨に
総合
書名に
要旨に
総合
震災
地震
78
301








79
641








80
706








81
662








82
702








83
664








84
520








85
540








86
717








87
769








88
848








89
834








90
741








91
891








92
994








93
1,055








94
1,147







0.1%
95
1,178
9
15
15
0.8%
1.3%
1.3%
1.3%
0.3%
96
1,305
6
27
27
0.5%
2.1%
2.1%
2.1%
0.4%
97
1,493
8
16
17
0.5%
1.1%
1.1%
1.1%
0.3%
98
1,469
1
9
9
0.1%
0.6%
0.6%
0.6%
0.1%
99
1,702
3
12
13
0.2%
0.7%
0.8%
0.7%
0.2%
00
1,537
2
4
4
0.1%
0.3%
0.3%
0.3%
0.1%
01
1,322

6
6

0.5%
0.5%
0.5%

02
994







0.1%
注 以下、0は空欄にした。


図1-1 「震災」の出現件数の変遷( 青少年問題全般文献 )



図1-1-2 「震災」の出現率の変遷( 青少年問題全般文献 )
 
 
 図1-1-3 「地震」の出現率と「震災」との比較( 青少年問題全般文献 )
 
表1-2 「17歳」の出現率( 青少年問題全般文献 )
17歳
の出現率
n=
23,732
出現数=
164
AVE=
0.7%
 
 
西暦
文献
総数
 
出現数
 
 
出現率
 
比較


書名に
要旨に
総合
書名に
要旨に
総合
17歳
18歳
78
301

3
3

1.0%
1.0%
1.0%
1.0%
79
641

3
3

0.5%
0.5%
0.5%
1.1%
80
706
1
6
6
0.1%
0.8%
0.8%
0.8%
0.6%
81
662

3
3

0.5%
0.5%
0.5%
1.8%
82
702

5
5

0.7%
0.7%
0.7%
0.1%
83
664

3
3

0.5%
0.5%
0.5%
0.5%
84
520

5
5

1.0%
1.0%
1.0%
0.6%
85
540
1
1
1
0.2%
0.2%
0.2%
0.2%
0.2%
86
717

3
3

0.4%
0.4%
0.4%
1.0%
87
769

3
3

0.4%
0.4%
0.4%
1.4%
88
848

8
8

0.9%
0.9%
0.9%
1.4%
89
834

12
12

1.4%
1.4%
1.4%
1.2%
90
741

10
10

1.3%
1.3%
1.3%
2.6%
91
891

6
6

0.7%
0.7%
0.7%
1.0%
92
994

7
7

0.7%
0.7%
0.7%
1.1%
93
1,055

8
8

0.8%
0.8%
0.8%
1.9%
94
1,147

6
6

0.5%
0.5%
0.5%
1.3%
95
1,178

5
5

0.4%
0.4%
0.4%
0.8%
96
1,305

11
11

0.8%
0.8%
0.8%
1.6%
97
1,493

13
13

0.9%
0.9%
0.9%
0.7%
98
1,469

9
9

0.6%
0.6%
0.6%
1.9%
99
1,702
1
12
13
0.1%
0.7%
0.8%
0.7%
1.9%
00
1,537
5
11
12
0.3%
0.7%
0.8%
0.7%
0.8%
01
1,322
3
6
7
0.2%
0.5%
0.5%
0.5%
0.4%
02
994

2
2

0.2%
0.2%
0.2%




図1-2 「17歳」の出現件数の変遷( 青少年問題全般文献 )


図1-2-2 17歳少年が起こした事件と「17歳」の出現率の変遷( 青少年問題全般文献 )


 図1-2-3 「18歳」の出現率と「17歳」との比較( 青少年問題全般文献 )
 
 
 

表1-3 「17歳」の出現率( 青少年教育・対策文献 )
17歳
の出現率
n=
4,202
出現数=
7
AVE=
0.1%
 
 
西暦
文献
総数
 
出現数
 
 
出現率
 
比較


書名に
要旨に
総合
書名に
要旨に
総合
17歳
18歳
90
102








91
168







0.6%
92
178








93
172







0.6%
94
213







0.5%
95
221







0.5%
96
255








97
287







1.0%
98
335

1
1

0.3%
0.3%
0.3%
1.5%
99
364







1.1%
00
469

1
1

0.2%
0.2%
0.2%
0.6%
01
385
2
4
4
0.5%
1.0%
1.0%
1.0%
0.5%
02
416

1
1

0.2%
0.2%
0.2%

03
475







0.6%
04
162











 図1-3 「17歳」の出現件数の変遷( 青少年教育・対策文献 )
 
 

 図1-3-2 「17歳」の出現率の変遷( 青少年教育・対策文献 )
 

 図1-3-3 「18歳」の出現率と「17歳」との比較( 青少年教育・対策文献 )


 表1-3-4 「16歳」「17歳」「18歳」の出現率の比較( 「読売新聞」全国版 )
西暦
記事総数
「16歳」
「17歳」
「18歳」


実数

実数

実数

98
118,569
168
0.14%
195
0.16%
274
0.23%
99
131,961
188
0.14%
175
0.13%
293
0.22%
00
141,404
256
0.18%
367
0.26%
313
0.22%
01
133,459
150
0.11%
198
0.15%
279
0.21%
02
131,189
153
0.12%
168
0.13%
273
0.21%
03
136,166
202
0.15%
207
0.15%
317
0.23%
04
137,822
177
0.13%
216
0.16%
331
0.24%


  
 図1-3-4 新聞に見る「16歳」「17歳」「18歳」出現率の変遷(「読売新聞」全国版)



 1977年10月30日に高校2年の息子の家庭内暴力に悩まされて、父親が息子を殺害するという開成高校生殺害事件が起こった。1983年から1984年にかけて、高校2年生などによる「いじめ復讐事件」が多発した。1989年(平成元年)3月29日、17歳少年らによる女子高生コンクリート詰め殺人事件が発覚した。
 図1-2-2からは、17歳少年が事件を起こすたびに、「17歳」という語を含む文献が増加する傾向が顕著に示されている。
 そして、2000年5月3日には、17歳の少年による「西鉄バスジャック事件」が起き、本事件の前後に17歳の少年による事件が多発したため、マスコミ等では、「キレる17歳」、「17歳問題」などと騒がれた。
 そのため、「青少年問題全般」文献においては2000年に、「青少年教育・対策」文献においては2001年に、「17歳」の出現率が一つのピークを迎える。
 反面、法制度上等では本来のターニングポイントである「18歳」の出現率が「17歳」よりも相対的に高い水準で維持されていることも、われわれが研究対象としている文献の注目すべき特徴と考える。
 マスコミと「青少年問題全般」文献との比較のため、表1-3-4、図1-3-4に、「読売新聞記事検索」による全文検索の集計結果を示した5。マスコミでは、事件のあった2000年だけ「17歳」の出現率が倍増している。また、「16歳」も引きずられてよく使われた。この点で、図1-2-3「青少年問題全般」文献との相違が認められる。
 そこには、時々の青少年が起こす「事件」に引きずられずに、青少年支援のあり方を継続的に追求しようとする「研究の姿勢」が表れていると推察される。
 また、「青少年教育・対策」文献においては、図1-3-3から、図1-3-4に示されたマスコミにおける「17歳」出現率倍増の1年後に、実数は少ないが出現率は急増したことがわかる。これは、世論が危惧する「17歳問題」に対応しようとする「教育」や「対策」の姿勢が表れたものと考える。
 
1.3.2 キーワード出現率の操作結果の検討
 次に、キーワードの出現率の数値そのものを検討するため、一般的なキーワードと考えられる「青少年」を検索語として、同様の分析を行った。なお、比較対象とした「子ども」については、要旨においては「子供」を含めて検索した。「青少年」を検索語とした表1-4以降の結果から次のことがわかる。

@ 「青少年問題に関する文献」なのであるから、ほとんどの(仮に90%以上とする)文献のキーワードとして「青少年」が含まれると考えられるが、実際には「青少年問題全般」の文献においては15.2%、「青少年教育・対策」等を主とする文献においても48.1%にすぎない。むしろ、概念上は「青少年」に含まれる「子ども」のほうが多かった。したがって、「青少年」というキーワードについては、本分析結果としての出現率に対して、「青少年問題全般」で5倍以上、「青少年教育・対策」で2倍弱の文献がこの共通のキーワードに該当していると解釈すべきだと考える。
A 上記@と同様の理由から、「青少年」をキーワードとする文献の比率が、年によってこのように変化するのは、文献本来のキーワードの現実を反映していないのではないかと推察される。これらの経年変化については、毎年発行される文献自体の変化を反映しているのではなく、資料送付者の選択やドキュメンテーション作成者の書く要旨の分量などの変化が影響していると考える。
B これらの文献分析の限界性は、われわれがこれから分析する社会化に関するキーワードについては、さらに大きな問題になると考える。出現実数が少ないため、「青少年」という語以上に上記の問題が影響を及ぼすことになるからである。

 以上から、われわれは、次の3点が分析上の阻害要因になっていると考えた。
 
@ 「要旨」の分量の不十分さ。(本来なら全文テキスト検索が理想であろう)
A 「資料収集」や「要旨」の分量に関する経年的不統一。(ドキュメンテーション作成者間の不統一も指摘できる。)
B ドキュメンテーションにおける検索語の出現率と、実際の原著のもつべきキーワードとの食い違い。

 上記Bの問題を根本的に解決するためには、充実したシソーラスを作成し、すべての原著書に対して、遡及的に、専門的判断のもとに考え得る複数さらには多数のキーワードをシソーラスから選んで付与するという作業が必要になると考える。しかし、今日のデータベース技術から考えれば、このような手間を要する作業は効率的とはいえない。
 そこで、われわれは、@については遡及的な改善が不可能、Bについては本分析方法のもつ宿命的限界ととらえ、Aの阻害要因について、悪影響を減少させる修正操作を試みた。
 すでに述べたように、年ごとの「要旨」の分量の異なりによって、表面上の出現率が左右されてしまう。
 ドキュメンテーション作業において、一般的な文献については、800字程度の「要旨」を作成することが許された場合、文献全体のキーワードをほぼ網羅できるということをわれわれは経験的に感じていた。
 そこで、当該年度の「要旨」平均文字数が800字に満たない場合、800字であればもっと出現率が増えるはずであると考え、800字を「理想的文字数」として仮に設定した。ただし、その倍率については、文字数が増えるほど一文献において重複する割合が大きくなると考え、単純な比率に対して平方根を求めることにした。そのため、当該年度の「要旨」平均文字数に対する「理想的文字数」の比を求め、その平方根を求めて倍率とした。出現率をその倍率でかけて、「操作後の出現率」とすることにして、その結果を確かめた。
 エクセルでの計算式は次のとおりである。

操作後の出現率= 元の出現率×
SQRT(800/当該年度「要旨」平均文字数)

 その結果を、表1-4以下の図表に示した。
 また、年ごとのバラツキの影響を避け、変遷の把握と可視化を図るため、グラフに多項式(6次)近似曲線を加えた。
 われわれは、以上の「操作」を加えた結果を検討した結果、主として字数制限に関する要旨作成方針の逐年変化の影響を和らげる方法として、この「操作」は妥当であると考えた。
 なお、「青少年教育・対策」文献において、2003年以降の「青少年」の出現率は、「操作後」においても落ち込みが明らかである。文献収集に偏りがあった可能性もあるが、青少年問題に関する民間の雑誌記事等に比べて、青少年行政や青少年教育施設等が行う事業数や、成果公開としての事業報告書の発行数が相対的に減少したからというのが実感である。


表1-4 「青少年」の出現率( 青少年問題全般文献 )
青少年
の出現率
n=
23,732
出現数=
4,026
AVE=
15.2%
 
 
西暦
文献
総数
 
出現数
 
 
出現率
 
比較


書名に
要旨に
総合
書名に
要旨に
総合
青少年
子ども
78
301
19
37
39
6.3%
12.3%
13.0%
12.3%
26.2%
79
641
42
78
86
6.6%
12.2%
13.4%
12.2%
29.3%
80
706
51
92
103
7.2%
13.0%
14.6%
13.0%
33.7%
81
662
56
92
105
8.5%
13.9%
15.9%
13.9%
35.3%
82
702
46
89
97
6.6%
12.7%
13.8%
12.7%
34.6%
83
664
42
96
115
6.3%
14.5%
17.3%
14.5%
38.4%
84
520
33
64
73
6.3%
12.3%
14.0%
12.3%
31.5%
85
540
36
75
80
6.7%
13.9%
14.8%
13.9%
30.0%
86
717
56
93
100
7.8%
13.0%
13.9%
13.0%
34.6%
87
769
36
100
104
4.7%
13.0%
13.5%
13.0%
27.2%
88
848
53
107
116
6.3%
12.6%
13.7%
12.6%
30.4%
89
834
51
92
101
6.1%
11.0%
12.1%
11.0%
30.0%
90
741
47
92
97
6.3%
12.4%
13.1%
12.4%
27.8%
91
891
100
185
196
11.2%
20.8%
22.0%
20.8%
31.5%
92
994
95
208
211
9.6%
20.9%
21.2%
20.9%
28.2%
93
1,055
91
169
174
8.6%
16.0%
16.5%
16.0%
25.5%
94
1,147
108
206
218
9.4%
18.0%
19.0%
18.0%
29.9%
95
1,178
111
194
206
9.4%
16.5%
17.5%
16.5%
30.8%
96
1,305
106
206
213
8.1%
15.8%
16.3%
15.8%
31.6%
97
1,493
114
240
248
7.6%
16.1%
16.6%
16.1%
30.3%
98
1,469
134
265
274
9.1%
18.0%
18.7%
18.0%
32.3%
99
1,702
148
320
334
8.7%
18.8%
19.6%
18.8%
33.3%
00
1,537
163
283
311
10.6%
18.4%
20.2%
18.4%
29.7%
01
1,322
127
194
217
9.6%
14.7%
16.4%
14.7%
25.0%
02
994
118
181
208
11.9%
18.2%
20.9%
18.2%
23.8%



 図1-4 「青少年」の出現件数の変遷( 青少年問題全般文献 )


 図1-4-2 「青少年」の出現率の変遷( 青少年問題全般文献 )



 図1-4-3 「子ども」の出現率と「青少年」との比較( 青少年問題全般文献 )

表1-5 「青少年」の出現率( 青少年教育・対策文献 )
青少年
の出現率
n=
4,202
出現数=
2,016
AVE=
48.1%
 
 
西暦
文献
総数
 
出現数
 
 
出現率
 
比較


書名に
要旨に
総合
書名に
要旨に
総合
青少年
子ども
90
102
36
54
58
35.3%
52.9%
56.9%
52.9%
43.1%
91
168
61
106
108
36.3%
63.1%
64.3%
63.1%
38.7%
92
178
59
101
103
33.1%
56.7%
57.9%
56.7%
32.6%
93
172
60
102
104
34.9%
59.3%
60.5%
59.3%
36.6%
94
213
78
140
144
36.6%
65.7%
67.6%
65.7%
44.1%
95
221
72
125
130
32.6%
56.6%
58.8%
56.6%
40.7%
96
255
74
142
145
29.0%
55.7%
56.9%
55.7%
40.8%
97
287
84
158
162
29.3%
55.1%
56.4%
55.1%
44.6%
98
335
93
172
177
27.8%
51.3%
52.8%
51.3%
46.6%
99
364
101
183
192
27.7%
50.3%
52.7%
50.3%
57.7%
00
469
130
204
225
27.7%
43.5%
48.0%
43.5%
50.5%
01
385
85
127
143
22.1%
33.0%
37.1%
33.0%
38.2%
02
416
92
144
163
22.1%
34.6%
39.2%
34.6%
29.8%
03
475
63
111
125
13.3%
23.4%
26.3%
23.4%
34.1%
04
162
17
33
37
10.5%
20.4%
22.8%
20.4%
32.7%



 図1-5 「青少年」の出現件数の変遷( 青少年教育・対策文献 )


 図1-5-2 「青少年」の出現率の変遷( 青少年教育・対策文献 )



 図1-5-3 「子ども」の出現率と「青少年」との比較( 青少年教育・対策文献 )

 
表1-6 操作後「青少年」の出現率( 青少年問題全般文献 )
青少年
の出現率【操作後】
n=
23,732
出現数=
4,026
AVE=
23.4%
平均要旨文字数
西暦
文献
総数
出現数
 
 
出現率【操作後】
 
比較



書名に
要旨に
総合
書名に
要旨に
総合
青少年
子ども

78
301
19
37
39
11.4%
22.2%
23.4%
22.2%
47.4%
245
79
641
42
78
86
10.0%
18.6%
20.6%
18.6%
44.9%
341
80
706
51
92
103
10.8%
19.4%
21.7%
19.4%
50.2%
361
81
662
56
92
105
12.4%
20.4%
23.3%
20.4%
51.8%
372
82
702
46
89
97
9.6%
18.5%
20.2%
18.5%
50.5%
375
83
664
42
96
115
9.2%
21.0%
25.2%
21.0%
55.9%
378
84
520
33
64
73
9.2%
17.9%
20.4%
17.9%
45.9%
377
85
540
36
75
80
9.7%
20.1%
21.5%
20.1%
43.5%
380
86
717
56
93
100
11.0%
18.3%
19.7%
18.3%
48.8%
401
87
769
36
100
104
6.3%
17.4%
18.1%
17.4%
36.4%
445
88
848
53
107
116
8.1%
16.3%
17.6%
16.3%
39.2%
481
89
834
51
92
101
7.9%
14.2%
15.6%
14.2%
38.5%
485
90
741
47
92
97
7.9%
15.5%
16.4%
15.5%
34.7%
513
91
891
100
185
196
14.6%
27.1%
28.7%
27.1%
41.1%
471
92
994
95
208
211
12.5%
27.3%
27.7%
27.3%
36.7%
470
93
1,055
91
169
174
10.9%
20.3%
20.9%
20.3%
32.4%
497
94
1,147
108
206
218
11.8%
22.5%
23.8%
22.5%
37.5%
510
95
1,178
111
194
206
12.1%
21.2%
22.5%
21.2%
39.7%
482
96
1,305
106
206
213
10.5%
20.3%
21.0%
20.3%
40.7%
483
97
1,493
114
240
248
9.9%
20.8%
21.5%
20.8%
39.3%
476
98
1,469
134
265
274
11.6%
22.9%
23.7%
22.9%
41.1%
495
99
1,702
148
320
334
11.2%
24.3%
25.4%
24.3%
43.0%
479
00
1,537
163
283
311
16.2%
28.0%
30.8%
28.0%
45.3%
345
01
1,322
127
194
217
18.7%
28.5%
31.9%
28.5%
48.7%
212
02
994
118
181
208
24.6%
37.7%
43.3%
37.7%
49.3%
187


 図1-6 操作後「青少年」の出現率の変遷( 青少年問題全般文献 )

 図1-6-2 操作後「子ども」の出現率と「青少年」との比較( 青少年問題全般文献 )



表1-7 操作後「青少年」の出現率( 青少年教育・対策文献 )
青少年
の出現率【操作後】
n=
4,202
出現数=
2,016
AVE=
59.0%
平均要旨文字数
西暦
文献
総数
出現数
 
 
出現率【操作後】
 
比較



書名に
要旨に
総合
書名に
要旨に
総合
青少年
子ども

90
102
36
54
58
44.2%
66.3%
71.2%
66.3%
54.0%
510
91
168
61
106
108
45.6%
79.3%
80.8%
79.3%
48.6%
506
92
178
59
101
103
40.2%
68.8%
70.2%
68.8%
39.5%
544
93
172
60
102
104
39.7%
67.5%
68.8%
67.5%
41.7%
617
94
213
78
140
144
38.2%
68.6%
70.5%
68.6%
46.0%
735
95
221
72
125
130
33.9%
58.8%
61.2%
58.8%
42.3%
740
96
255
74
142
145
29.6%
56.8%
58.0%
56.8%
41.6%
768
97
287
84
158
162
29.6%
55.7%
57.1%
55.7%
45.1%
781
98
335
93
172
177
28.4%
52.5%
54.0%
52.5%
47.6%
766
99
364
101
183
192
28.0%
50.7%
53.2%
50.7%
58.1%
788
00
469
130
204
225
33.3%
52.2%
57.6%
52.2%
60.7%
555
01
385
85
127
143
36.6%
54.7%
61.6%
54.7%
63.3%
291
02
416
92
144
163
44.0%
68.8%
77.9%
68.8%
59.3%
202
03
475
63
111
125
25.6%
45.1%
50.8%
45.1%
65.9%
214
04
162
17
33
37
20.3%
39.4%
44.2%
39.4%
63.3%
214

 
 
 図1-7 操作後「青少年」の出現率の変遷( 青少年教育・対策文献 )


 図1-7-2 操作後「子ども」の出現率と「青少年」との比較( 青少年教育・対策文献 )


1.3.3 青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷

 「青少年問題全般」文献について、青少年の社会化に関わるキーワードを下記のとおり分野別に設定し、上記の操作方法を加えてキーワード分析を行った。

@ 自己や自我に関するキーワード
自我、自己、自立、自律、自分らしさ(く)、セルフ、自己中心、孤独、疎外など。
A 個人と社会に関するキーワード
個人、個性、社会性、地域、地域社会、社会、協調、不適応など。
B 家族、親子に関するキーワード
家庭、家族、親子、兄弟、母親、父親、両親、母子、保護者など。
C しつけや規範に関するキーワード
社会化、しつけ、自由、反社会、不良、非行、少年非行、規律、規範など。
D 社会参加に関するキーワード
社会貢献、ボランティア、公共、社会参加、社会参画など。
E 交友関係に関するキーワード
人間関係、交友関係、対人、友達、友人、コミュニケーションなど。
F 仲間関係に関するキーワード
仲間、サークル、居場所、いじめなど。
G メディアに関するキーワード
携帯電話、インターネット、ネットワーク、ゲーム、テレビゲームなど。

 上のキーワード検索の結果を、巻末資料表1-9以下に示す。これらの各表に示された出現率の変化量を、分野別に調べたのちに、分野横断的にまとめた結果を図1-8-1に示す。
 本図において、2000年以降の変化は90年代に対するものである。したがって、2000年以降の「横這い」への変化は、たとえ矢印が上向きや下向きであっても、いわば「停滞」を示すものであることに注意が必要である。





注:変化パターンは、「1990年代の(80年代からの)変化」・「2000年代初頭の(90年代からの)変化」を表す。
図1-8-1 1990年代または2000年代初頭に出現率が増減したキーワード(分野横断)


表1-8-1 1990年代及び2000年初頭の出現率の増減がともに横這いだったキーワード
@自己自我
A個人社会
B家族親子
C躾け規範
D社会参加
E交友関係
F仲間関係
Gメディア
自立
社会


公共
人間関係
仲間

自我
協調






自己










 図1-8-1に示した結果から、青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷について、われわれは次のように考える。

@ 1990年代及び2000年代初頭の出現率の増減がともに横這い(不変)だったキーワード(表1-8-1)は、時代を越えて不変のテーマといえる。
A その点で、ボランティア、居場所、地域、社会参画などの増加しているキーワードが、今後、「不変」のテーマとして定着するかどうかが重要である。
B また、次のテーマについては、「不変」のテーマとしてとらえられる。これらは「時代の波」の影響を受けるべきではないテーマと考える。これらの出現率減少傾向が見られることは重要な問題といえる。
* 「自分らしさ」など、「自己形成」に関するテーマ。
* 友達、友人、交友関係など、青少年の社会化の「入り口」にあるテーマ
* 家庭、しつけ、社会化など、「自己形成」と「社会形成」を結ぶテーマ。
C 逆に、携帯電話などの「時代」のキーワードは、「テレビゲーム」などと同様に、「逆転減少」の傾向が見込まれる。これらのものは、「時代」とともに増減する種類のものととらえることができる。

 以上の観点に立ち、われわれは、それぞれの分野について次のとおり検討を行った。

@ 自己・自我
 「自分らしさ」の出現率は、90年代になって大きく増加した。また、中央教育審議会第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について−子供に[生きる力]と[ゆとり]を」(1996年7月)では、個人の「自分さがし」を援助する教育の役割について次のように述べている。
 
 教育は、子供たちの「自分さがしの旅」を扶ける営みとも言える。教育において一人一人の個性をかけがえのないものとして尊重し、その伸長を図ることの重要性はこれまでも強調されてきたことであるが、今後、[生きる力]をはぐくんでいくためにも、こうした個性尊重の考え方は、一層推し進めていかなければならない。そして、その子ならではの個性的な資質を見いだし、創造性等を積極的に伸ばしていく必要がある。こうした個性尊重の考え方に内在する自立心、自己抑制力、自己責任や自助の精神、さらには、他者との共生、異質なものへの寛容、社会との調和といった理念は、一層重視されなければならない。
 
 しかし、フリーターやニートなどの問題を意識して、各種審議会などでも「自分探しばかりしていて、いつまでも見つからない」などの否定的な意見が目立つようになる。
 1999年6月、香山リカ『〈じぶん〉を愛するということ―私探しと自己愛』(講談社新書)では、次のように述べている。
 
 「私探し」の時代──そのうち私は、「私探し」という言葉は、世紀末の日本に突然、生まれたものであるけれど、それは単なる偶然ではなく、多くの人がその誕生を待ち望んでいたところに登場したという必然性があるのではないか、と考えるようになりました。そして「私探し」が世に広まった背景には、90年代以前から連錦と続く「こころの歴史」のようなものとの関係があるのではないか、ということにも気づきはじめたのです。そうなると、大げさに言えば80年代のサブカル残党を気取る私にも責任の一端はある、ということになります。なぜ、人は「私を探そう」などと思うようになったのか。またそうやって「探したい」と思っている「私」とは、いったい何のことなのか。私は、「「私探し」探し」の旅に出てみることにしました。デイパックの中に詰め込むアイテムは、「80年代サブカルチャー」と「精神医学・心理学」のちょっとした経験と知識だけです。

 以上の前提のもとに、香山は、90年代の「自分らしさ」、「私探し」のもつもろさや危険性について警鐘を鳴らした。
 香山の主張が、「自分探しの旅」自体を否定するものでないことは当然である。
 しかし、「自分探し」を支援することによって、個人の充実を図り、望ましい社会化を支援しようとする理念は、「自分らしさ」出現率の変化から見て、その後、衰退していったことが明らかである。
 前掲中央教育審議会答申は「個性尊重の考え方に内在する自立心、自己抑制力、自己責任や自助の精神、さらには、他者との共生、異質なものへの寛容、社会との調和といった理念は、一層重視されなければならない」(下線引用者)と述べた。「個性尊重」に基づく社会化支援理念は「変わるはずのない理念」としてとらえる必要があると考える。

A 個人・社会
 90年代に入って、大きく増加した「個性尊重」の支援理念は、2000年以降大きく後退し、それに代わって「社会性涵養」の重要性が叫ばれるようになる。
 2003年4月、養老孟司『バカの壁』(新潮新書)は、第3章『「個性を伸ばせ」という欺瞞』において、臨時教育審議会答申以来の「個性尊重」理念に対して、強く異議を唱えた。
 2000年代初頭に「社会性」の出現率が大きく増加していることは、青少年の社会化に対する社会的期待の高まりを示している。しかし、その期待に応え、現実化を図るためには、社会化と「個人の充実」(個人化)を一体化して支援する理念の形成が求められていると考える。
 山崎正和は、1984年の時点で、「個別化」について次のように述べている。
 
 個別化はけっしてたんに社会の消極的な分裂を意味するものではなく、より積極的に、個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象だ、と解釈することができる。ここで働いてゐるのは、たんにさまざまの社会的紐帯が弛んだことの効果ではなく、少なくとも、ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響だ、と考へられるからである。6
 
 この点について、研究代表者は、1990年代初頭には次のように考えた7。
 
 もちろん、これは個別化のある一面であって(上では「趣味の形成」の場合)、現代社会において「個別化」の本質とは、じつは「画一化」であったりする。オーダーメイドと思っていた商品が、全部同じコンピュータのデータから作られていることもあるだろう。あるいは、その「画一化」にまきこまれることを拒否しようとして、威勢はよいけれども、じつはうわべだけの、空しい自己顕示をする者もいる。それらは、現代社会の個の弱さの表れでもある。
 山崎自身が同じ本の中で、たとえば現代人の「自己顕示」を「自我の力の誇示ではなくて、むしろ弱さと不安の表現である」ととらえている。このように、今日の「個別化」の状況は、必ずしもすべてが望ましい状況とはいえない。「個の自覚」はむしろ脆弱化する状況も見受けられるのである。
 しかし、前述のように「個人が内面的な自発性を発揮」できるような「自己固有の」趣味などを形成し始めていることも、また、一つの事実である。
 「個別化」とは、一人一人が自分にしかない「何か」をもちたいと少なくとも心の中では望むことであるといえる。今後の社会においても、この「個別化傾向」はますます強まるだろう。この「願望」を誰も否定することはできない。自分だけにしかない自分を大切にしたり、まわりから大切にされたりしたいという願いは、個の充実・確立のためには不可欠である。したがって、もしそれらの「個別化」が建設的に展開されるならば、深く充実した個別性が、静かな自信と自尊のもとに社会や集団に対して主体的に発揮されることが十分考えられる。この個別性は、「派手だが空しい自己顕示」によるものとは本質的に異なる。

 上記1991年の時点における考察について、現在の青少年の社会化支援の観点から、われわれは次のように考える。
 山崎の評価する「社会の消極的な分裂」とは異なるかたちで「ひとびとが自己固有の趣味を形成し始める」という「個別化」を、「社会化」との二項対立としてとらえるとすれば、結局は「社会の消極的な分裂」という事態は免れないといえよう。このような「個別化」を「社会化」と対照的に「個人化」としてとらえ、その両面を統合的に支援するための理念を形成する必要があると考える。
 このようにして、青少年の「個人化」と「社会化」の統合的支援が実現した場合、教育及び社会の視点からは、それを「自己形成と社会形成の一体化」と言い換えることができる。
 その場合、「個人化」とは、「個人として充実して生きていく能力を獲得すること」としたい。そして、「社会のなかでの役割を果たして充実して生きていく能力を獲得すること」としての「社会化」との相関関係を明らかにする必要があると考える。
 「青少年問題文献」においては、これまで、どちらかというと「個人化」には否定的、「社会化」には肯定的という傾向が見られた。しかし、より望ましい社会形成の基盤としての「個人化」もあれば、暴力団などの反社会的集団への帰属などの「社会化」もある。
 青少年の社会化支援においては、いったんは価値中立的に、青少年の個人化と社会化の実態を把握した上で、次に、自己形成と社会形成に関わる教育的価値の実現の視点から、その支援のあり方を明らかにする必要があると考える。
 
B 家族・親子
 90年代、2000年以降と、「父親」「母親」「両親」「母子」の出現率がともに大きく減少している。それに伴って、「保護者」が1990年代に大きく増加した(2000年以降は「保護者」の増加率は微少である)。
 親のない子にとって、「保護者」という呼称は適切といえよう。しかし、この呼称が、親の社会化及び親の子に対する社会化機能に関して、軽視するような結果にならないよう注意する必要があると考える。
 現在、家庭教育に、青少年の社会化機能の発揮が強く求められている。そのためには、青少年社会化支援理念においても、親の社会化支援、親の子に対する社会化支援能力達成のための支援として、「親教育」等の機能を積極的に位置づける必要があると考える。

C しつけ・規範
 1990年代、2000年以降と、「しつけ」の出現率がともに大きく減少している。また、「社会化」が1990年代に大きく減少した(2000年以降は「社会化」の減少率は微少である)。
 先に述べたとおり、「社会化」が「個人化」と二項対立的にとらえられる限り、両者をともに支援する理念は十分には形成されないと考える。
 「個性尊重の考え方に内在する自立心、自己抑制力、自己責任や自助の精神、さらには、他者との共生、異質なものへの寛容、社会との調和といった理念」(前掲中央教育審議会答申、1996)及び「柔らかい個人主義」(山崎、1984)の発展的継承が重要と考える。

D 社会参加
 1990年代、2000年以降と、「ボランティア」の出現率がともに大きく増加している。また、「社会参画」が2000年以降に大きく増加した。
 われわれは、職業能力開発手法「クドバス」を活用し、栃木県岩舟町の小中学生の参画を得て、図1-65に示したチャートを作成した。クドバスの方法と効果については後述する。
 このチャートは、青少年の「個人化」と「社会化」両者の統合的達成が、子どもたちでもわかるごく自然なかたちで示されていると考える。
 現在、青少年に対して、「社会参加」から「ボランティア」、さらには「社会参画」といういわば「高度な社会化」が求められている。
 



図1-65 「私たちがこのまちで楽しく生きていくために必要な能力」クドバスチャート


 
その「高度な社会化」も、たとえば1-1A「誰かに悩みを相談することができる」などの個人としての充実(本研究ではこれを「社会化」に対して「個人化」と呼びたい)から始まると考える。

E 交友関係
F 仲間関係
 現在、全国各地の青少年施策、青少年教育において「青少年の社会参画」が重視されている。
 しかし、多くの青年にとって、社会化達成の状況は、社会参画に至るまでにはほど遠い段階であると考える。
 1990年代に若者は、「仲間以外はみな風景」(宮台真司)、すなわち、「仲間さえ大切にしていれば、外の世界はどうでもいい」と分析された。それでは、その仲間の中はどうなっているのか。「島宇宙化」(宮台)して閉鎖された小さな仲間の中で、「みんな、みんな」と言ってますます仲間と同化していきながら、それゆえ、じつは孤立していく。若者が社会化以前に立ちすくんでいる現在の状況の根源として、彼らの交友関係が「みんなぼっち」の孤独な状態にあると考える。
 このような社会化困難の状況のなかでは、その解決のための入り口としての「交友関係」や「仲間関係」に関する研究が重要になる。
 交友関係の面では、交友関係、友人などの「身近な他者」に関わるキーワードの出現率が1990年代から減少している。これは、「親子」の出現率の減少とともに、社会化支援理念の変遷において、「身近な他者」との関係性の究明が不十分であることを意味していると推察される。そのことが、いわば「現代青少年に対する一足飛びの社会参画要請」につながることが懸念される。
 仲間関係の面では、「サークル」が90年代激増し、2000年代初頭激減した。「いじめ」は減少→減少であった。
 「居場所」は、「ボランティア」と並んで、90年代に激増し、2000年代初頭にさらに激増した。この場合の「居場所」とは、「青少年問題文献」の性格上、「自分の部屋」などの自然形成的な居場所よりも、「(社会化支援の目的で)意図的につくられる居場所」という意味で使用されることのほうが多い。そのため、当然、友人などの「身近な他者」ではなく、クラスや学校が違ったり、年齢が違ったりする「見知らぬ他者」との出会いが前提になる。
 本研究では、前出「仲間以外はみな風景」(宮台真司)という場合の「仲間」の意味とは別に、「サークル」(90年代激増、2000年代初頭激減)や「居場所」の中での「仲間」というキーワードがもつ意味を重視した。「身近な他者」との交流が「社会化への入り口」だとすれば、「見知らぬ他者」との出会いと仲間づくりは、「社会参画への通り道」と考えたからである。
 社会化支援の観点からは、「身近な他者との関係性」→「仲間と自己との関係性」→「社会と自己との関係性」という段階的発展や循環の過程を明らかにする必要があると考える。

G メディア
 「携帯電話」が90年代増加し、2000年代初頭激増した。「テレビゲーム」は激増→激減である。このようないわば「時代の課題」については、社会化支援において今後も対応が求められると考える。同時に、今後のメディア技術の進展とともに生活する青少年にとっての「不変」のテーマについて、次のような追究が重要と考える。
 第一に、青少年にとって「遠い所」にある地域、行政、公共の情報が、インターネットなどの情報通信技術の発展によって開かれたものになり、アクセスが容易になっている。そこでは主体的な情報摂取という「不変」のテーマが重要になる。
 第二に、電子的仮想空間が発達している。その中で、生涯学習ボランティアや情報ボランティアが創り出す空間が広がりつつある。そこでは、「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」と呼ぶべき動向を指摘することができる。
 これは、従来の財産権としての著作権やプライバシーを守るという「社会からの自己の防衛」の発想から、自らの意思でこれを広く開放し、交流したり、支え合ったりするという「社会への自己の発信」の発想への転換として注目に値すると考える。
 電子的仮想空間においては、個人が所有する手近な資材で、他者の承認や組織の決定を待たずに、自己の意思でこれができるようになった。そこで重要になる「不変」のテーマとは、「他者との相互関与」であり、「社会と自己との関係性」であると考える。
 
 
1.4 論旨の分析から見た「青少年の社会化」を支援する理念とその変遷

 われわれは、青少年の「気づき」に関する「即自」、「対自」、「対他」の分類に基づき、青少年の社会化過程に沿った形で、「主観的社会」、「身近な他者」、「(身近な他者以外の)他者」、「集団・組織」、「社会全体」という5つの類型を設定した。
 青少年問題文献において「社会性」というキーワードが、どのような文脈で使われているかを、この類型に沿って分析した。
 「身近な他者」については、原初的社会としての「家族」のほか、「友達」を含めた。
 キーワード文脈の各類型への帰属に関して、他類型への決定要因となる記述がない限りは、次の基準に基づいて処理した。
@ 「体験活動」における「社会性」については、「他者」とした。
A 学校という場における「社会性」については、「集団・組織」とした。
B 「社会奉仕」「社会参加」「社会参画」等における「社会性」については、「社会全体」とした。
 その結果を(巻末資料2)に示した。その概観を図1-68に示した。この結果から、類型別比率の経年変化の特徴を分析した。その結果を図表1-66に示す。



表1-66 「社会性」の文脈の類型別比率(操作前)
類型別比率
主観的社会
身近な他者
他者
集団・組織
社会全体

1980-1984
7
6

5
2
20
1985-1990
17
10
5
6

38
1991-1995
17
10
14
6
5
52
1996
7

4

5
16
1997
6
1
6
4
2
19
1998-2001
21
11
16
11
16
75
2002
2
2
8
4
2
18

77
40
53
36
32
238



図1-66 「社会性」の文脈の類型別比率(操作前)


 図1-68から1996年と1997年に断続的な特徴が見られたため、図表1-66に示したように、他の年とは切り離して分析した。
 次に、1996年2月、第21期東京都青少年問題協議会「青少年の自立と社会性を育むために東京都のとるべき方策について」が答申され、「社会全体」に該当する5件の文献のうち3件が、そのタイトルの紹介として出現していたため、その3件を1件として分析し直した。
 また、1996年を「1991-1996」に、1997年を「1997-2002」に組み入れて分析した。その「操作後」の結果を図表1-67に示す。
 社会性の出現率自体は2000年初頭に激増している(「1.3.3青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷」の「図1-8-1 1990年代または2000年代初頭に出現率が増減したキーワード(分野横断)」参照)ため、各時期のキーワード出現母数には大きな差があることに注意する必要がある。
 図表1-67に基づき、各時期における「社会性」の文脈の類型別比率について検討する。
 

図1-67-1 「社会性」の文脈の類型別比率の
タイプ別比較(操作後)(面グラフ)




表1-67 「社会性」の文脈の類型別比率の時期別比較(操作後)
時期別比率
主観的社会
身近な他者
他者
集団・組織
社会全体

A 1980-1984
6
4
0
5
2
17
B 1985-1990
17
10
5
6
0
38
C 1991-1996
24
10
18
6
8
66
D 1997-2002
29
14
30
19
20
112

76
38
53
36
30
233


図1-67-2 「社会性」の文脈の類型別比率の時期別比較(操作後)(棒グラフ)




 図表1-67と1-68をもとに、次の4タイプを設定した。

A 「他者」(身近な他者を除く)が少なく、「集団・組織」が多い「身近・集団」タイプ
B 「主観的社会」や「身近な他者」が多く、「社会全体」が少ない「個人・身近」タイプ
C 「他者」(身近な他者を除く)が多く、「集団・組織」が少ない「他者・社会」タイプ。
D 「他者」が「身近な他者」の倍を超え、「集団・組織」とともに「社会全体」が多い「他者・集団・社会」タイプ

 それぞれのタイプについて、巻末資料2に示した各文献の要旨に基づいて検討する。

A (1980年-1984年)
 個人の充実(の不足)に関する社会性の記述が多い。その他、社会性の涵養において、家族、親、友達、集団等のもつ意義について記述したものが多い。教育意図による「見知らぬ他者との交流」などの社会性涵養効果についての記述は見あたらない。このように「身近な他者」との関連で社会性について論じた文献が多い。「社会全体」についても、青少年の社会参加のもつ社会性涵養効果などについての記述は見あたらない。

B (1985年-1990年)
 85年6月の臨時教育審議会「教育改革に関する第1次答申」が個性重視の原則を掲げ、生涯学習体系への移行を訴えた。それ以降、「主観的社会」としての論旨は増えたが、「集団・組織」による社会性涵養効果に関する記述は少なくなった。個性重視の「集団・組織」運営理念の形成が不十分であったと推察される。
 また、「社会全体」としての言及が見あたらなかったのは、社会化支援理念において「個人主義」が未成熟だったため、「公共」を支える個人、社会形成に伴う個人の自己形成という認識にまで至っていなかったからだと推察される。
 この点について、1990年代以降、社会化支援理念は成熟に向かったといえるだろうか。ボランティア論などにおいては、個人と社会に関する追究は深まったと考える。しかし、一般的な社会化支援理念においては、臨時教育審議会の提起した「個性重視」や「個人主義」については、十分に発展しないまま衰退していったと推察される。

C (1991年-1996年)
 文献全体の動向としては、1990年代から、「保護者」を除き、「親」「兄弟」などの家族に関するキーワード出現率は激減する(「1.3.3青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷」の「図1-8-1 1990年代または2000年代初頭に出現率が増減したキーワード(分野横断)」参照)。同様に、「社会性」の文脈においても「身近な他者」に関する記述が激減する。
 「青少年問題文献」において、「子育て支援」というキーワードが最初に出現するのは、「子育て支援のための新たな児童福祉・母子保健施策のあり方について(答申)」(東京都児童福祉審議会、1992年11月)である。しかし、それ以降も、子どもに対する効果的な社会性涵養を図るための「子育て支援」という文脈をもつ文献は見あたらない。
 この時期は、「身近な他者」に代わって「(見知らぬ)他者」との関連で「社会性」を論ずる文献が激増する。具体的には、「自然体験活動」などの意図的な教育活動によって、他者や異世代の者との交流をさせようとするものが多い。
 「社会全体」については、青少年の自立(の欠如)を問題とし、これを解決して、社会に積極的に関与させるという文脈のものが多い。
 反面、「集団・組織」については記述が少なく、また、社会性涵養のための効果的運営方法まで直接的に論究しているものは見あたらない。

D (1997年-2002年)
 「社会全体」については、青少年の社会参加や社会貢献などを通した社会形成への参画活動による社会性涵養効果を重視する文献が増えた。また、集団については、教育的意図に基づく組織化による効果を重視する文献が増えた。
 「社会全体」について、「社会参加活動では、否定的な目でイメージを抱きがちな少年が新たな自分を発見し、社会性が身につく」(文献147)など、「社会奉仕」や「社会参加」に関わることによる自己肯定感の充足という文脈で、青少年の社会性涵養の意義を位置づける文献があった。
 反面、「主観的社会」や「身近な他者」という文脈での社会化に関する記述の比率は減っている。
 現代青少年に対して、一足飛びに集団適応や社会参画による社会性涵養を求めたり、即効的な社会性涵養によって、直接、集団適応や社会参画を求めたりした場合、彼らのニーズやレディネスと食い違いを生ずるおそれが大きいと考える。青少年の自己成長や交友関係の深まりなど、個人や「身近な他者」との関連による社会性の涵養にたえず目を配りながら支援を進める必要があると考える。
 効果的な社会化支援は、マクロな社会からの青少年に対する社会化要請と、青少年自身のミクロな社会のなかでの社会化願望とを関連づけることによって実現できると考える。そのための支援理念を検討し、その支援理念を実現する方法論を明らかにしていきたい。
 

図1-69 操作後「国」の出現率の変遷
 
 図1-69に「国」の出現率の変遷を示した。さらに詳しく検討するためには、「国」というキーワードが使用された文脈を文献ごとに分析する必要がある。しかし、これまで検討してきた結果と関連づけて図1-69に示された結果を検討すると、青少年自身の内にある「主観的社会」や、原初的社会としての家族、友達などの「身近な他者」へのアプローチが相対的には減少し、「一般的な他者」、「集団・組織」、「社会全体」が増加している傾向と軌を一にするものであると推察される。
 効果的な社会化支援は、マクロな社会からの青少年に対する社会化要請と、青少年自身のミクロな社会のなかでの社会化願望とを関連づけることによって実現できると考える。そのための支援理念を検討し、その支援理念を実現する方法論を明らかにしていきたい。
 

Aタイプ(1980-1984)
年 月
主観的社会
身近な他者
他者
集団組織
社会全体
1980.05
 
 
 
1
 
1980.07
1
 
 
 
 
1980.11
1
 
 
 
 
1981.05
1
 
 
 
 
1981.09
1
 
 
 
 
1981.10
 
1
 
 
 
1981.11
 
1
 
 
 
1982.03
1
 
 
 
 
1982.03
1
 
 
 
 
1982.10
 
 
 
 
1
1982.10
 
1
 
 
 
1982.12
 
 
 
1
 
1983.11
 
1
 
 
 
1984.01
 
 
 
1
 
1984.03
1
 
 
 
 
1984.03
 
1
 
 
 
1984.03
 
1
 
 
 
1984.03
 
 
 
 
1
1984.06
 
 
 
1
 
1984.07
 
 
 
1
 




注1「社会全体」に帰属させた文献の文脈は次のとおりである。90年代以降の文脈とは異なることに注意する必要がある。

1982.10
「社会性・現実性」の課題をもつ今日の「青少年指導」が「企業国家」という主体への奉仕的参画となっている。

1984.03
全体社会に鈍感であり社会性が欠如した精神的自立のできない学生。











Bタイプ(1985-1990)
年 月
主観的社会
身近な他者
他者
集団組織
社会全体
1985.01
 
1
 
 
 
1985.07
 
 
1
 
 
1986.02
 
 
 
1
 
1986.03
1
 
 
 
 
1986.03
1
 
 
 
 
1986.03
 
 
 
1
 
1986.04
 
1
 
 
 
1986.07
1
 
 
 
 
1986.07
 
1
 
 
 
1986.08
 
 
1
 
 
1986.08
1
 
 
 
 
1986.11
 
1
 
 
 
1987.03
 
1
 
 
 
1987.04
1
 
 
 
 
1987.07
1
 
 
 
 
1987.07
1
 
 
 
 
1987.09
1
 
 
 
 
1987.10
 
 
1
 
 
1987.11
1
 
 
 
 
1988.03
 
 
1
 
 
1988.03
 
 
 
1
 
1988.03
 
 
 
1
 
1988.06
 
 
 
1
 
1988.07
1
 
 
 
 
1988.09
1
 
 
 
 
1989.03
 
1
 
 
 
1989.03
1
 
 
 
 
1989.03
1
 
 
 
 
1989.03
1
 
 
 
 
1989.03
1
 
 
 
 
1989.03
 
1
 
 
 
1989.10
1
 
 
 
 
1990.02
 
1
 
 
 
1990.03
 
1
 
 
 
1990.03
 
 
1
 
 
1990.03
 
 
 
1
 
1990.03
 
1
 
 
 
1990.11
1
 
 
 
 















Cタイプ(1991-1996)
年 月
主観的社会
身近な他者
他者
集団組織
社会全体
1991.02
 
1
 
 
 
1991.03
 
 
 
 
1
1991.03
 
 
 
1
 
1991.03
 
 
1
 
 
1991.03
1
 
 
 
 
1991.03
1
 
 
 
 
1991.11
1
 
 
 
 
1991.12
 
 
1
 
 
1992.03
 
 
 
1
 
1992.03
 
 
1
 
 
1992.03
 
 
1
 
 
1992.03
 
1
 
 
 
1992.03
1
 
 
 
 
1992.03
1
 
 
 
 
1992.06
 
1
 
 
 
1992.06
 
 
 
1
 
1992.07
 
1
 
 
 
1992.10
 
1
 
 
 
1992.12
1
 
 
 
 
1993
1
 
 
 
 
1993.02
 
 
1
 
 
1993.02
 
 
1
 
 
1993.03
 
1
 
 
 
1993.07
 
 
1
 
 
1993.09
 
 
 
 
1
1993.12
 
 
1
 
 
1993.12
1
 
 
 
 
1993.12
 
 
1
 
 
1994.02
 
1
 
 
 
1994.03
 
 
1
 
 
1994.03
1
 
 
 
 
1994.04
 
 
1
 
 
1994.04
 
1
 
 
 
1994.04
 
 
1
 
 
1994.04−95.03
1
 
 
 
 
1994.07
 
 
 
1
 
1994.11
 
 
 
 
1
1995
1
 
 
 
 
1995
1
 
 
 
 
1995
1
 
 
 
 
1995.01
1
 
 
 
 
1995.03
 
1
 
 
 
1995.03
 
 
 
1
 
1995.03
 
 
1
 
 
1995.03
 
 
 
1
 
1995.03
 
1
 
 
 
1995.07
1
 
 
 
 
1995.07
1
 
 
 
 
1995.08
 
 
1
 
 
1995.11
 
 
 
 
1
1995.12
1
 
 
 
 
1995.12
 
 
 
 
1
1996
 
 
1
 
 
1996.02
 
 
 
 
1
1996.03
 
 
1
 
 
1996.03
 
 
1
 
 
1996.03
1
 
 
 
 
1996.03
 
 
1
 
 
1996.03
 
 
 
 
1
1996.03
1
 
 
 
 
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Dタイプ(1997-2002)
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注:「発行年月」の右隣から「主観的社会」、「身近な他者」、「他者」、「集団・組織」、「社会全体」
図1-68 青少年問題文献における「社会性」の文脈の概観



1.5 「青少年教育・対策」文献に見る社会化支援理念の変遷

 前掲『青少年問題に関する文献集』において研究代表者が公開してきた「青少年問題文献の動向」(1989年度〜2003年度)の研究成果をもとに、社会化支援理念の変遷を検討したい。
 なお、検索対象文献の総数は4249件で、その中から510件について検討した。検討した文献の要旨を巻末資料3に示した。

1.5.1 「青少年対策」に関する社会化支援理念の変遷
 ここでは、『青少年問題に関する文献集』に収録した文献を、「青少年問題」、「青少年対策」、「青少年育成国民運動」の3項目に分類して、文献の発行年度(4月から翌年3月まで)ごとに検討する。検討した文献の要旨を巻末資料3に示した。
 
(1) 「青少年問題」
1989年度
 子どもの生活構造に関しては、中央青少年団体連絡協議会『なかまたち』28号特集「子どもの時間の過ごし方」(文献0065)、福武書店教育研究所『モノグラフ・小学生ナウ』9巻3号特集「誕生日」(文献0014)、9巻9号特集「夕食」(文献0040)、京都大学教育学部教育人間学研究室研究報告集1『子どもたちの生活時間と日常生活』(文献1936)などの文献が発行されており、研究・啓発や調査が充実されつつあることがわかる。これらの文献により、子どもの日常生活や家庭生活の実態、遊ぶための条件や環境、一人ぼっちの状況などが明らかにされつつある。
 これに対して、青年の生活構造に関しては、大学の紀要等で一部取り上げられているが、子どもの生活構造の解明の進展と比べると、話題の範囲が限定的である。これは、現代青年の生活がますますわかりづらくなり、その構造を総体的にとらえることが難しくなっていることの表れとみることができる。
 青少年問題一般に関しては、高齢社会との関連(大阪府『青少年問題研究』第39号)(文献0068)、都市環境との関連(友田泰正『都市環境と青少年』(文献0047)、大阪大学人間科学部)の解明に見られるような、社会の新しい変化に注目して青少年問題をとらえる視点、従来のモラトリアムの変化(前出『なかまたち』26号所収、菊池龍三郎「若者たちにとって『大人になること』への条件とは」)(文献0041)の解明に見られるような、青少年の新たな実態に対応する見解、学生に語らせた旧世代に対する不信感(社会教育協会『国民』1078号)(文献0027)に見られるような青少年への新しいアプローチの方法などの発展が見られる。
 総務庁青少年対策本部の編集協力のもとに、毎月、発行されている『青少年問題』(青少年問題研究所)も、このような研究の発展を反映して、国際化やメディアの発達の影響などの考察、病院臨床などの周辺の領域や国際比較などによるアプローチなど、その内容がいっそう具体化し、深化した。
 また、「アルマナック子ども」(『モノグラフ・小学生ナウ』9巻6号)(文献0028)は、通刊100号を記念して発行されたもので、それまでの重要なデータや傾向などが掲載されている。多数の調査の蓄積に基づく文献として注目される。
1991年度
 社会問題に関しては、「東京都青少年問題調査」の個別調査として行われた「ビデオソフトの青少年に与える影響に関する調査」(文献0290)に関連する文献があった。この調査では、保護者が子どもに指導と方向づけをきちんと行うことなどが提言された。また、日本青年館青年問題研究所の「現代青年問題の研究」(文献0319)では、現代青年のフリーター的生活様式が、既存のモラトリアム観、アイデンティティ観、イニシエーション観にも、重大な影響を及ぼしうるととらえ、自己・個人の問題と家族・仲間の問題と地域・社会の問題をつなぐ可能性を模索している。どちらの文献も、今日の社会問題としての青少年問題を根本的に解決する方策として、社会のさまざまな教育的機能が重要な要素になることを主張したものであったととらえられる。
 社会保障に関しては、児童の性的虐待や、いじめなど、子どもの人権侵害に関する問題を扱った文献、あるいは逆に、子どもを対象とした人権思想の普及に関する文献があった。
1992年度
 全般を通して、子育てに関する若い親たちの個人的な不安を社会的にはどう受けとめればよいかを考えようとする動きが顕著であった。
 社会構造に関しては、出生率低下や少子化の問題が話題になり、「生みたくない」という女性の選択の自由をどう考えればよいかが議論された。
 社会保障に関しては、とくに児童相談に関する文献があった。また、東京都児童福祉審議会は「子育て支援のための新たな児童福祉・母子保健施策のあり方について」(文献0476)の答申を行ない、福祉、保健、医療にとどまらず、関係各行政分野や家庭、地域社会、企業を含めた社会全体が総合的な取り組みを行なうよう提言している。そこでの「子育て支援」の理念とは、「子どもを産み育てることは、個人の自由意思に属することが尊重されるべきものである」としつつ、「行政は都民が希望と喜びをもって子どもを産み育てたいという動機づけになるような基盤づくりと、子どもを産み育てたいと希望する人々への支援策を行なうものである」というものであった。また、出産・育児に関する不安などの適切な情報提供と発見のシステムを要する問題をも児童福祉施策の対象に含めていくべきとした。
1993年度
 社会構造に関しては、情報化社会に生きる青少年像の追求や、学校以外の家庭・地域の場での生活構造の把握などに関心が高まった。
 社会保障に関しては、子どもの権利保障や、児童相談所、児童福祉施設、出産・育児支援制度などに関する文献があった。
1994年度
 社会構造に関しては、地域での人びとの共同性を高めることによって青少年の生活空間を学校以外にも多様化すること(神奈川県青少年総合研修センター青少年関係調査研究報告書)(文献0830)、課題解決のための時間、すなわち「勉強すること」だけでなく、子ども自身に「自由に使える時間」をたっぷりと与え、「子どもが王様になれる時間と空間」の中での成長を保障すること(東京都青少年問題調査報告書)(文献0852)などへの関心の高まりが見られた。
 社会問題に関しては、交通安全や、若い女性にとっての都市生活、性生活など、社会保障に関しては、児童の権利条約、児童福祉施設などに関する文献があった。
1995年度
 社会問題に関しては、高橋勇悦監修「都市青年の意識と行動−若者たちの東京・神戸90's」(恒星社厚生閣)(文献1037)が、東京と大震災前の神戸の青年を対象にした、青年の人間関係、メディア接触行動意識の準拠枠(自己意識や価値意識)などの実証的な研究(文部省平成4・5・6年度科学研究費補助金・総合研究A)をまとめ、現代都市青年問題に関する新たな視座を提供した。ここで、高橋は、現代青年にとっての準拠集団に代わる「準拠個人」の存在意義を説いている。
 社会保障に関しては、児童の権利条約や児童福祉施設に関する文献があった。神戸市児童相談所において、教育相談はかなり増え、例年不登校相談が教育相談分野の半分以上を占めるのだが、同年度は性格相談が50%を超えた。これは震災後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)症状と思われる児童についての相談が多かったということを意味している。教護相談については大幅に減っており、このことについては、児童相談所がケース対応を充分にできなかったこと、社会全体が児童の教護まで目を向ける余裕がなかったことのほか、一方で児童自身も災害復旧等の活動に従事するなどして、社会の一員としての役割を果していたこともあると相談所では分析した。(文献1126)
1996年度
 社会保障に関しては、児童の権利条約や児童福祉施設に関する文献があった。子どもの人権に関しては、児童虐待やいじめ等も問題になっている。また、同年度のユニセフ(国連児童基金)年次報告(文献1390)で、事務局長キャロル・ベラミーは、「児童の権利条約」批准状況等の今日までの大きな前進を認めつつも、予防できるはずの人権侵害による死亡、不就学、厳しい貧しさ、その他搾取的な工場や戦場あるいは不健康な都市、とりわけ女の子への差別などの緊急な課題を提起した。
 国のエンゼルプランを受けて山梨県や摂津市が子育て支援計画を策定した。「やまなしエンゼルプラン」(文献1399)では、@子どもの視点にたった施策の展開、A安心して子どもを生み育てることができる環境づくり、B子育て支援の社会環境づくりが、「摂津市児童育成計画」(文献1395)では、@最善の利益は子どもに、A地域や社会による子育て支援、B子どもとともに育つ都市づくりが、それぞれ掲げられた。
1998年度
 社会保障に関しては、児童福祉法並びに関連諸法の改正、とくに児童福祉法の改正に対する議論(文献1850,1953)が行われた。また、ユニセフ(国連児童基金)は、同年の「世界子供白書」のテーマを教育とし、「なによりもまず学校教育は生涯学習の基礎にならなければならず、アクセス可能で、質が高く、柔軟で、ジェンダーに配慮し、女子教育を重視するものでなければならない」として、教育の権利、教育革命、人権に投資する、の3点を主張した(文献1955)。
 少子化問題に関しては、「子育て支援」の重要性の議論のほか、「季刊社会保障研究」が特集「少子化社会と社会保障」を組み、出生率低下と子育て支援政策等について論じた(文献2032)。そこでは、有配偶女性の家庭外就業が進行する一方で、家庭内役割の男女分担がほとんど進んでいないわが国では、結婚と出産・子育てにともなう高い女性の機会コストを幅広い政策的対応を通じて軽減することで、女性の仕事と家庭の両立を支援することが急務であるとした。
1999年度
 全体の特徴は、人口構造、ジェンダー、子どもの権利等に関して、青少年の現代的状況に即した研究の深まりが見られたことである。
 人口構造に関して、晩婚化、未婚化による出生力低下の問題から、その根源である若年層の親密関係行動の変化や婚姻の意味自体の変化にまで議論が進んだ(文献2200)。
 ジェンダーの問題に関しては、女性の性的欲求や能動性について肯定的な、現代青年にとって新しい形での問題が提起された(文献2307)。
 子どもの権利に関して、子どもがその主体であり、権利行使を重んずる議論とともに、「子どものオートノミー(自律・自己決定)の権利」を「自由と自律の偶像化」として疑問視する議論(森田明)(文献2395)があった。
 「子ども買春、子どもポルノ」に関して「ユニセフ・グローバルフォーラム」が開かれ、最も有害で搾取的な児童労働の一つと認識された(文献2333,2334)。
2000年度
 17歳の殺人事件に象徴される少年の凶悪犯罪が続発し、世間を揺るがせた。これまで莫大な予算と労力をかけて行われてきた施策や健全育成運動は、彼らのもとには届かないのか、それらの施策や運動に対して、青少年問題研究はこれからも実効性のある視点を提示し得ないのかという問題意識が支援者側に共有されたと考える。
 この点について、同年の施策、運動、研究の三者の動向としては、自己の限界や非力を思い知るという消極的側面と、他方で、求められている「大人=支援者としての責任」をあらためて果たそうとする積極的側面との両面を指摘できる。
 後者の取組のひとつとして、青少年にとっての社会規範や自我意識の形成過程や、その支援のあり方を実証的に検証しようとする研究があった。また、青少年施策としては総合行政としての進展、国民運動としては家庭教育を含む地域の教育的諸機能の総体としての発展など、その必要性の自覚が深まった。
 規範意識の欠如が問題視され、静岡県青少年問題協議会は「青少年・保護者の規範意識に関する調査」を実施した(文献2883)。
 青少年問題研究会発行月刊誌『青少年問題』で毎年、青少年問題を回顧してきた松本良夫が、今回はこの百年・十年・一年について総括し、成人による成人(社会)のための「青少年(問題)対策」から脱却するよう提起した(文献2783)。
 少年の凶悪事件に関連して、「優しさ」や自我意識等の面から検討がなされた。兵庫県「青少年の心の問題」ネットワーク推進会議は「17歳問題を考える」集会を開いた(文献2893)。埼玉県は「生命の大切さを訴える緊急アピール」を発して「緊急青少年非行根絶対策本部」を設置し、「彩の国教育改革会議」を発足させた(文献2905)。東京都では「心の東京革命行動プラン」を策定した(文献2666)。提唱した都知事は「昨今、心身ともに耐性を欠き、自分をコントロールできない子どもが増え続けているが、そうした子どもたちを育ててきたのは私たち大人だということを強く認識すべき」とした。国では「少年の凶悪・粗暴な非行等問題行動について当面取るべき措置」の申合せが行われた。
 児童虐待について、防止法が公布され、ソーシャルワークや非行との関連(文献2640)、心的外傷反応、心のケア、性的搾取などの研究が進んだ。海外の児童虐待防止制度(文献2621)が紹介された。仙台市では「すこやか子育てプラン」の新たな短期計画策定のため、「仙台市こどもをとりまく環境等に関する総合調査」を行った(文献2908)。
2001年度
 2001年6月に大阪教育大学附属池田小学校事件が起こり、児童虐待とあわせて、子どもが犯罪の被害者になる事態が深刻に受け止められた。さらに9月には米国同時多発テロ事件が起こり、世界規模で危機感が広がっていった。青少年施策についてもこのような社会的な不安感を背景に、青少年「問題」として議論されることが多くなった。しかし、このような時代に、「問題」に振り回されたり、対処療法に追い回されたりすることなく、「明るい未来」「無限の可能性」などの過去の青少年のイメージを、いかに議論の中で根拠立て、実践の中で再生するか、果たしてそれはそもそも可能なのか、青少年施策や国民運動の研究及び実践に問われるものは大きい。
 17歳問題については、日本青少年育成学会発足大会のシンポジウムで取り上げられた。門脇厚司は「これまであまり見られなかった不可解な事件を起す犯人たちの年齢は10歳代前半から40歳代、すなわち1960年以降に育てられた世代」とし、「17歳問題」という設定そのものに疑義を示し、社会のあり方こそ問題と主張した(文献3029)。
 規範意識の形成については、静岡県青少年問題協議会が「青少年が『個』や多様性への指向を強める中で、20年後、30年後を見据えて規範意識を育てる」よう提言した(文献3227)。
 池田小学校事件については、開放に慎重になる学校が増えていることについて憂慮する議論があった。また、中村功が「地域住民の自主的で自覚的な活動の弱体化が子どもたちに危険なまちをつくり出している」と指摘した(文献3198)。
2002年度
 規範意識に関しては、古市勝也がマツダ財団の助成を受け、規範意識の獲得と通過儀礼について、小学5・6年生と、その保護者、地域の高齢者・青少年育成指導者を対象にアンケート調査を実施し、規範意識獲得のメカニズムを研究した(文献3562)。
 社会福祉に関しては、竹内かおり他が児童養護施設に入所している子どもたちがかかえている問題と取り組みについて調査した(文献3653)。庄司順一他が、グループホームの実態と制度施行状況を調査した(文献3818)。高橋一弘が、育児の施設主義を見直し、家庭的保育を進めるよう提唱し、里親制度の活性化を訴えた。渡辺伊佐雄が児童自立支援施設(前教護院)北海道家庭学校高校生寮の取り組み、ニーズ等についてまとめた(文献3544)。西郷泰之が、子どもへのサービスの質の確保システムをめぐり、セーフティネットの一つであるオンブズマン制度を兵庫県川西市の事例から分析した(文献3543)。本間真宏他が日英比較分析を中心に、子どもの福祉と権利の法制史的研究を行った(文献3656)。小笠原恵が発達障害児・者における問題行動の研究動向を整理し、問題行動軽減のためのアプローチ法として@直接的なアプローチ法、A分化強化法、B機能的コミュニケーション訓練、C包括的な行動支援法の4点について分析した(文献3820)。木野裕美他が虐待防止や子育て支援のネットワークについて訪問調査した(文献3654)。竹中哲夫が2001〜2年の児童福祉の動きと論点を整理して、2004年法改正を展望した(文献3655)。
2003年度
 青少年が加害者になるだけでなく、被害者にもなる社会的問題や事件が多発したため、これにどう対応するかという議論が盛んに行われた。そこでは、学校等を地域住民から隔離するのではなく、むしろ子どもたちの安全を守るための行政と地域住民との協働が求められた。
 社会問題に関しては、岡本吉生がネット心中や二年前の池田小児童殺傷事件について取り上げた(文献4065)。また、伊藤忠記念財団「子どもの危機管理の実態とその改善方策に関する調査研究」は、後者の事件についても触れ、学校の防犯、地域の防犯、及び地震災害への対処に関して、行政と地域住民が協力してどのように危機管理を試みているかを検討した(文献4090)。
 社会保障に関しては、ユニセフ「2003年世界子供白書」が、@子どもの意見や見解を求め、子どもの視点を真剣に取りあげる責任、A子どもと若者が世界で正統かつ意義のある参加を育む手助けをする責任を指摘した(文献3863)。子ども参加とは、子どもに影響を及ぼす問題について、子ども自身の考えを盛り込むことを促し、それを可能にすることである。すべての子どもの多様な意見、発言の自由を保障し、子どもに影響を及ぼす決断をする際は、子どもの声を考慮することを子ども参加の原則とした。

(2) 「青少年対策」
1989年度
 東京都教育委員会の「心とからだの健康づくり」シンポジウムは、問題行動への対応を中心にすえた健全育成から、すべての子どもたちの積極的な健全育成へと視点を変え、「かかわりあい」「みとめあい」「ささえあい」の三つの視点から推進するものである(文献0079)。『かながわの青少年』における「ふれあい教育運動」は、「科学の知」による教育から「臨床の知」を基本とする教育とし、現代社会の「新しい貧しさ」の克服、「共生関係」の学習などに踏み出そうとするものである(文献0075)。『大阪府青少年白書』における「PLANET(遊星)計画」は、青少年が社会という宇宙のなかを遊星のように自由に飛び回ることを願ったものである(文献0042)。『山口県の青少年』における「たくましい防長っ子を育てる運動」は、心身ともに健全な青少年を育成しようとするもので、「みんなの子運動」は、地域の人々の輪の中で子どもを育てようとするものである(文献0015)。『宮崎の青少年』における「新ひむか企画スタッフ交流セミナー」は、対象を青年から壮年にまで拡大し、地域づくり運動のリーダーを育てるものである(文献0080)。『鹿児島の青少年』における「青少年自立自興運動」は、ともに学ぶ、たくましい心身を養う、真の友情を培う、すなおな心でけじめのある生活をするの「4つの基本理念」をもとにして、異年齢集団の中での自主的相互錬成活動、地域ぐるみの青少年育成などを行うもので、地域の伝統を意識した「朝読み夕読み」「山坂達者」などの施策が実施された(文献0034)。横浜市青少年問題協議会の「共生社会に向けての青少年の役割と活動(意見具申)」における「共生」の概念は、情報化・国際化・高齢化の進展による人間や人間関係への影響の中で、青少年の内部の成長・発達を鍵概念として、共によりよく生きていくことのできる社会の実現をめざすものである(文献0038)。「高槻市青少年育成計画」における「チャレンジ推進事業」や「街角ユースセンター(仮称)」は、「チャレンジする青少年」が自発的に活動したりエネルギーを発散したりできるように構想したものである(文献0098)。それぞれに個性のある施策が進められつつあることを示す文献が多かった。
1990年度
 各自治体で青少年関連行政の計画化・体系化が取り組まれ、その上でバラエティーに富んだ施策が展開された。
 秋田県では、「第5次秋田県青少年育成総合基本計画」が平成2年度までの計画で策定されており、青少年の発達段階の各時期に応じて、その発達課題や生活環境の課題が提起された(文献0120)。栃木県では、「いきいき栃木っ子3あい運動」(学びあい、喜びあい、はげましあおう)が推進された(文献0160)。その基本的な考え方は、従来行われている地道で貴重な期活動を掘り起こして光をあてる、多様化し細分化する諸活動について「3あい」の観点から集約化・焦点化を図る、諸活動・諸施策について相互に絡み合わせ関連づけることによって相乗的な効果と効率化を図るの3点である。千葉県では、平成3年度から「さわやかハートちば」という県民運動の中で、青少年の健全育成が県政の重要施策として位置づけられた(文献0180)。神奈川県では、昭和61年にかながわ国際青年の年推進協議会から発表された「かながわ青年行動計画」の改訂が行われた(文献0177)。そこでは、社会情勢の変化にあわせた内容の見直し、より多くの青年が共感し、ともに行動できる内容、単なる課題の提示に終わらない目標を定めた実施計画が目指された。愛知県では、「愛知県青少年健全育成計画」が平成元年2月に西暦2000年を目標として策定された(文献0159)。三重県では、同年度の青少年対策を、前年度の基本目標「時代の変化に主体的に対応できる青少年の育成」を踏襲して、同年度策定の第3次三重県長期総合計画、移行予定の文部省「新学習指導要領」や総務庁「青少年対策推進要綱」等を考慮して策定した(文献0100)。
 大阪府では、PLANET(遊星)計画を進めた(文献0176)。宮崎県では、第4次総合長期計画を策定し、その基本政策の一つに「21世紀を築く人づくり」を掲げて健全育成に取り組んだ(文献0182)。鹿児島県では、昭和55年度から「青少年自立自興運動」を推進してきたが、平成2年度から新たに「未来へはばたけ青少年運動」を展開した(文献0304)。これは、次代を担う青少年に、たくましい自立の精神を加え、幅広い国際的感覚と未知に挑戦する気概をもってほしいという意図で始めたもので、その特色としては、青少年活動を青少年自身が企画・実践する青少年主体のものとし、活動内容も国際的感覚の醸成など時代に即応したものを求めているなどがあげられる。
1991年度
 秋田県では、「秋田県新総合発展計画」の基本理念を踏まえ、「自立と連帯をめざすふきのとうユースプラン」と題した第6次秋田県青少年育成総合基本計画を策定した(文献0455)。その基本目標は、時代の変化に主体的に対応できる青少年の育成などである。群馬県では、たくましい体と優しい心をもった青少年の育成を図って、新総合計画「新ぐんま2010」を策定した(文献0352)。埼玉県では、青少年協議会が「青少年健全育成の進め方について」の意見具申を行った(文献0334)。そこでは、青少年健全育成の三つの原則として、「科学性−専門的知識や技術の活用」「計画性−長期的視点に立った目標の設定と実行」「総合性−密接な相互連帯と全人性の形成」が挙げられた。神奈川県では、昭和63年1月に策定した「かながわ青少年プラン」を推進するための行政施策を、平成3年3月決定の「かながわ青少年プラン改定実施計画」に沿って推進した(文献0305)。そのなかで、「大人のつくった社会参加観の中での活動を期待したり、青少年に特別な行為を要求したりするのでは、青少年の自主性の芽は育たない」などの指摘がされた。横浜市では、青少年問題協議会が、「こころ豊かな市民への成長をめざして」(文献0323)の意見具申を行い、今日の青少年、とくに大学生の個人化と、私化の傾向に対して、「社会への主体的な参加によって、周りの人々や社会とのかかわりから自己認識を深める」として、地域文化活動への参加による人格形成の意義を提唱した。
 愛知県では、青少年問題協議会が、「青少年の社会参加活動の促進方策について」(文献0348)を提言した。そこでは、人類の存続すら危惧されるという地球規模での危機意識をもって、目前にせまった21世紀を担う青少年の社会参加を考えることなどが検討の方向とされ、青少年に地域を知らせる、地域に青少年の受け皿やたまり場をつくる、生涯学習時代にふさわしい地域づくりをする、などの施策が提言された。京都府では、「京都府青少年プラン」(文献0478)を策定した。その視点として、大人一人ひとりが青少年を育てること、京都府の特性を活用すること、などが挙げられた。大阪府では、「大阪府青少年育成計画(プラネット計画)」の計画期間の終了に伴い、「第2次大阪府青少年育成計画(新プラネット計画)」(文献0321)を策定した。この計画作りの視点としては、おとな社会の問い直し、青少年文化の積極的評価、おとなと青少年の共育、などが挙げられた。
 島根県では、これまで昭和60年度を目標とした島根県新長期計画をもとに青少年健全育成に努めてきたが、新たに「伸びゆく島根21世紀計画」(文献0335)の中で青少年対策を県政の重点施策に位置づけて取り組んだ。宮崎県では、平成3年度に策定した第4次総合長期計画において、こころ豊かでたくましく、行動力に富んだ青少年の健全育成を基本目標に掲げた。その一環として、団体指導者の養成として「新ひむか塾長会議」(文献0358)を開始した。そこでは、県内で活動する地域づくり研究活動グループのリーダーを対象として、そのネットワーク化による新しい活動の創造を目指された。
1992年度
 山形県で、共生、融合、創造、自己実現、関係の5つをテーマとする「新アルカディア構想」に基づいて「やまがた青少年プラン」(文献0466)を策定し、@自然や人との豊かな体験の充実、A社会参加、社会貢献活動の推進、B子育て環境の整備、C個性と創造性あふれる学校づくり、D地域のリーダーや青少年育成指導者の養成、E地域の活性化と地域づくりの推進、F(遊び空間をそなえた)青少年の交流拠点の整備、G国際性豊かな青少年の育成、H家庭・学校・地域社会を結ぶネットワークづくり、の重点目標を設定した。群馬県では「群馬県青少年健全育成マスタープラン」(文献0521)を策定し、@たくましい精神と身体をもつ青少年、A自然や人とのふれあいを通して学ぶ青少年、B社会参加活動を通して豊かな心を育む青少年、C情報を選びいかす青少年、D郷土を愛し世界の仲間とともに生きる青少年、の「めざす青少年像」を掲げた。埼玉県では青少年の健全育成に関する総合計画として、「さいたま青少年育成指針」(文献0524)を策定した。富山県では、前年度から「新富山県民総合計画」(文献0671)をスタートした。そこでは、@若者の感性にあった都市や深夜まで楽しめるまちづくり等の遊環境づくりなどによる「若者の定着と流入」、A若者意見の反映などによる「若い力の発揮」、B家庭教育の充実などによる「青少年の健全育成」、が施策化された。
 「名古屋市青少年問題協議会」が設置した「青少年育成環境問題専門委員会」は、「子どもたちが生きいき育つ地域づくりをめざして」(文献0531)の報告を行ない、@地域に残る自然とのふれあい、A子どもが利用しやすい施設の整備、B子どもの遊び・スポーツ活動の工夫と遊び場の確保、C子どもの文化活動に対する援助と有害環境の浄化、D多くの青年や大人が参加する青少年育成活動、E家庭連合による学校週5日制への対応、をその「課題と方向」として挙げた。ここで「家庭連合」とは、子どもが近隣で過ごすときに、近隣の親たちの協力により、団地の駐車場を遊び場に開放したり、子どもの絵かき教室を開いたりするものである。
 「神戸市児童の健全育成のための環境づくり懇話会」は「今後の児童健全育成施策のあり方について」(文献0523)の提言を行ない、@子育てについての意識変化への対応、A子育てに対する経済的負担の軽減、B子育ての心理的負担や身体的負担の軽減、C子育てと就労の両立のための対応、D生活環境の改善、E母子保健医療対策の推進、Fひとり親家庭への対応、G保護を要する子どもへの対応、H障害のある子どもへの対応、などの必要性を主張した。
1993年度
 川崎市青少年問題協議会「青少年の豊かな人間形成のために」(文献0702)は、主要産業の担い手としての歴史を持つ川崎市の特徴として、各領域における父親の役割等も含め、市民としての企業のかかわりが存在しているが、母子一体によって父親の存在感が相対的に低くなり、受験戦争により社会体験を学ぶことなく成長してしまうことを考えると、子育てへの積極的な支援や援助が求められるという基本的認識を示し、家庭・学校・企業及び地域の役割とその相互連携について提言した。岐阜県個性を活かす社会づくり懇談会「個性を活かす社会づくりに向けて」(文献0704)は、その視点として、@個性を活かす社会づくりと教育、A自己教育力の養成、B生涯教育の体系化、C人間観の変革、D教師観の変革・教師自身に対する視点の見直しなどを提言した。これを受けて、「岐阜県個性を伸ばす青少年対策検討委員会報告書」(文献0705)は、方策推進のための基本方向として、@自主性の尊重、A知的好奇心の尊重、B発達段階に応じた対応と体験的活動の重視、C21世紀に向かう社会的潮流を見据えた展開、D役割の明確化と連携のとれた取組みなどを提起した。報告では、個性が尊重される社会とは、画一社会における欠点是正主義とは異なり、長所優先主義で、個性の多様性、異質性が尊重される社会であるとしている。
 「京都市青少年育成計画」(文献0615)は、計画策定の視点として「現代の青少年への視点−『個』の尊重(青少年の『個』の尊重)」を挙げ、従来のように青少年を『集合』としてとらえることから離れて、『個』としてみつめ、基本的人権の尊重を出発点として、個人差の大きさもそれ自身、独自の価値をもつものとして尊重するよう提言した。埼玉県青少年問題協議会「ゆとり社会における青少年の育成」(文献0707)は、@過酷な受験競争、A学校歴社会、B物質的豊かさ、C「三間」(時間・空間・仲間)の減少などの青少年を取り巻く環境と、@積極的意欲の減退、A生活体験の欠如、Bひよわなコミュニケーションの力などの青少年自身の問題や学校週5日制の問題を指摘したうえで、@ボランティア活動の促進、A国際交流活動の促進、B体験学習の充実、C環境教育の充実、D生涯学習の視点の重視などを青少年育成活動に対して提言した。東京都青少年問題協議会「青少年が主体的、創造的に生きる21世紀を」(文献0712)は、青少年の新しいライフスタイル確立のためには、自由時間を主体的・創造的に活用し、活動を展開できるような精神や態度をも含むいわば「余暇(活用)能力」が必要であるとした。また、必要な環境と制度として、青少年の余暇能力の育成と余暇活動を通じての人間的成長の視点から、既存の文化・学習施設やスポーツ・レクリエーション施設を改めて見直すこと、青少年にとってより魅力ある施設にするための再整備をはかること、青少年が「自由時間」を十分活用できるように、あるいは青少年の余暇活動を十分サポートできるように、社会システムを構築することなどを提言した。
 「鳥取県青少年育成基本構想」(文献0714)は、「柔軟な思考ができる創造力豊かな青少年」と「自分で正しく判断し自発的に行動できるたくましい青少年」を21世紀の鳥取県を担う望ましい青少年像とした。新潟県青少年問題協議会「青少年の豊かでゆとりある生活の創造について」(文献0715)は、とくに地域生活の充実に関する施策に重点を置いて具申された。山梨県青少年総合対策本部「やまなし青少年プラン」(文献0718)は、@青少年の自主性・主体性の尊重、A「教育」から「共生」への意識改革、B各領域の役割の認識と連携、C青少年問題は大人の問題、の4つをその基本方向に据えて施策を進めた。
 横浜市青少年問題協議会「青少年の主体的成長・発達をめざして」(文献0719)は、彼らの健全な発達を保障する環境づくりについて提言したうえで、青少年自身がこの世に生まれでた命を自らが誇りとすることができ、また自覚と自律心のある人間として健やかに成長することを願い、青少年に対して次のように訴えた。@君たちの心を親はわかってくれているか、A先生をバカにしていないか、Bモノをとることをどう考えているか、C社会のルールを守り、積極的に社会に参加すること、さまざまなハンディキャップをもった人と共に生きることの重要さを、君たちはどこまで理解しているか、D「いじめ」をしている君たちの心もむなしくないか、E君は自分に誇りを持てるか。
1994年度
 総務庁青少年対策本部「平成6年度版青少年白書」(文献0882)は、青少年にとってのボランティア活動の意義をとりあげて、「青少年がそのみずみずしい感性をいかして、人と人とのネットワークの中に自らの居所を求め、さらにうちなる声に衝き動かされ、そのネットワーク自身をより高くへと持ち上げようとしていくことは、21世紀に向けて真に豊かさが実感できる社会、生きがいのある社会を実現していくための重要なステップであるともいえよう」と評価した。
 富山県は青少年問題の対策に関する基本的認識として、「青少年はその時代を写し出す鏡でもある」とし、青少年問題は社会全体、とりわけ大人の姿勢の問題であるということを常に認識し、家庭、学校、職場、地域社会等、社会の各分野において大人たちが、それぞれの役割と責任を果たすよう提唱した(文献0883)。愛知県は、愛知県青少年問題協議会からの提言「青少年情報サービス体制の整備について」に基づき、「平成6年度青少年活動情報等実態調査−市町村青少年社会参加関係施策と情報提供、青少年団体の現況・活動」(文献0910)を発行した。三重県は青少年対策の基本方針の1つとして「自主的、主体的な青少年健全育成活動の促進」(文献0798)を挙げ、「青少年が本来持っているエネルギーと創造力を引き出すため、青少年が感動を覚えるような機会、自然や人と触れ合う場など、様々な体験が得られる活動を充実するとともに、自らを成長させ自立していくうえで大きな役割を果たす各種社会参加活動や国際交流活動を青少年自らが企画・運営することを重視しながら促進する」とした。岡山県青少年問題協議会意見具申「少子化社会と青少年の健全育成」(文献0912)は、「みんなと違うからこそ価値があること」などを子どもたちに伝えていくような教育を展開することによって、画一を是とすることによる弊害の解消を求めた。
 佐賀県は青少年の健全育成上の重点推進事項の1つとして「健全な家庭づくりの推進」(文献0915)を挙げ、「特に、平成6年が国際家族年であることを踏まえ、家族の役割や機能、現状と問題に対する県民の関心を一層高め、理解を深める一方、『家庭の日』の一層の定着を図るため、積極的な広報啓発活動を行う。また、家庭における養育を支援するための相談援助体制の確立、家庭教育について情報交換・相互扶助を行えるような地域交流活動の推進及び児童福祉諸施策の充実を図る。さらに、職業をもつ親が仕事と育児を両立させるという観点から、育児休業制度などの定着を図る」とした。熊本県は「平成6年度青少年健全育成施策」(文献0940)として、「家庭、学校、職場、地域の連携の下に、青少年を取り巻く健全な社会環境の整備を進めながら、青少年が成長期に感動を覚えるような社会参加活動を一層充実していくとともに、成長過程に応じた自然体験・ボランティア活動や国際交流活動等の各種活動についても積極的な推進を図っていく」とした。
 横浜市青少年問題協議会意見具申「青少年の成長・発達と家族」(文献0922)は、@ボランティア活動を促進するために、いろいろな工夫をすること、A親としての自覚を促すための施策を実施すること、B地域の相互援助ネットワークづくりを推進することの3つを重点項目とした。北九州市青少年問題協議会提言「北九州市における青少年育成の基本的あり方について」(文献0815)は、子育て環境の整備のための行政の支援として、@両親教育の早期実施、A学習機会と場の提供、B情報提供・相談機能の充実、C父親の子育て参加の促進、D共働き世帯への支援の5つを掲げた。福岡市は青少年対策の基本方向の1つとして、「子どもの生活時間・空間を全体的に見直す中で、子どもが楽しく主体的にゆとりのある時間を過ごせるよう努めるとともに、自然とのふれあいやボランティア活動、あるいは、国際交流活動等さまざまな社会参加活動ができるよう取り組んでいく」とした。
1995年度
 堺市青少年健全育成推進計画「SEED計画」(文献0800)は、「青少年対策は、青少年の営む『生活全体の質』を高めるものでなければならない。社会環境の全体を捉え、それを制御しうる積極的で、総合的な社会システムを開発していかねばならない」とした。「守口市青少年健全育成計画」(文献1025)は、「青少年が変わったとか、理解できないとか嘆くのではなく、彼らの持つ新しい感性や表現方法を積極的に理解し、認知していく」とした上で、「人間や自然との共生を図り、ゆとりとぬくもりのある豊かな都市環境をつくる」、「青少年の夢を育て、生かすという視点に立って、青少年育成の観点を組み込んだ地域環境のあり方を見直す」とした。
 このように、「青少年対策」にとどまるものではなく、現代社会の大人自身がもっと人間的に成長することや、社会自体がもっと生きやすく、他者とともに生きることのできる社会になることと重なっているという認識が示された。
 神戸市青少年育成推進本部が、「(青少年の自発的なボランティア活動への積極的参加について)今回の震災をきっかけとして、多くの青少年がみずからすすんでボランティア活動を行い、その活動に対して高い評価を得ている」として、震災後の厳しい状況の中で、若者のボランティア活動の潮流への期待を示した(文献1308)。
 埼玉県の青少年育成では、その基本理念として、「青少年問題は大人の問題」とし、「大人自身の生き方や社会のあり方を問い直し、大人一人ひとりが青少年育成に対する責任を自覚する必要がある」とした(文献1129)。東京都青少年問題協議会答申「青少年の自立と社会性を育むための基本的考え方」(文献1131)は、いじめ問題への対応について、「どうしたら社会全体に、正義が尊重され、勇気をもつことが価値とされるような文化を作り出すか、大人の姿勢が問われている。大人たちがボランティア活動にかかわる姿を一般化させ、ボランティアが日常化している社会的風土を広げることが必要である。こうして、社会全体が人にやさしい社会となる時、いじめは限りなく終息に近づくことであろう」とした。
 三重県では、いじめについて、「人権に係わる重大な問題」であることを社会全体の共通認識として位置づけるという方針のもと、父親の出番を重要な要素として受けとめるよう提唱した(文献1252)。「わかやまの青少年プラン」(文献1071)では、「大人自身が青少年とともに学び、育つ姿勢を堅持します」という視点のもと、「青少年が世代をつなぐ意思を持って自立していくために、大人もともに働き、ともに生活し、次代を育てる喜びと意味を自覚する必要があります。そのためには、大人自身が健やかに育ち、また、育とうとする努力が大切であり、新しい年齢観や世代役割を考え、創造し、ともに学び育つ姿勢を持ち続ける、いわゆる生涯学習の視点が重要」とした。福岡市の「青少年対策の基本方向」(文献1090)では、青少年の非行等問題行動への対応について、「単に対症療法的な対応や事後的措置だけでなく、大人社会の問題でもあるとの認識のもとに広く青少年の健全育成を基本とした総合的な取組を推進する必要がある」とした。
1996年度
 秋田県は、平成8年度から5ケ年間の期間で、「自主的に判断し行動する青少年を育成する」等を基本目標とする秋田県青少年プラン(文献1322)を開始した。「秋田県テレホンクラブ等営業の規制に関する条例」に関しては、これを機に、県民すべてが青少年に対する深い理解と思いやりを持つよう訴えた(文献1392)。千葉県は、「ちば新時代5か年計画」(文献1396)の初年度に当たり、いじめ対策関連事業の実施、相談機関相互の連携強化、適応指導推進研究校の指定、青少年のリーダー養成や国際交流、大学生等の青年を対象とした「青年ボランティア養成講座」の開設などの施策を展開した。「第21期東京都青少年問題協議会答申−青少年の自立と社会性を育むために東京都のとるべき方策について」(文献1249)に関して、高橋勇悦は、@対人親和性を育てる、A他人への共感性を育てる、B愛他心を発達させる、C人びとの多様性を受け入れる態度を育てる、D自己価値観を育てる、の5点を重点として挙げた。神奈川県では、青少年をめぐる新たな施策課題や時代の要請に応えるため、「かながわ新総合計画21」の個別計画として、平成9年度から展開される「かながわ青少年プラン21」(文献1370)を策定した。
 「第3次神戸市青少年育成中期計画」(文献1308)は、震災時のボランティアとして活躍した青少年の若い力に注目し、震災からの復興と21世紀への神戸のまちづくりを進める中心的担い手として、青少年の行動力と創造力に期待した。また、「青少年の心のケア」について、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に対して、既存の相談機関や震災後に設置された各種相談窓口などが情報や意見の交換を行い、連携を強めて対応し、併せて、教育、医療、福祉等様々な専門分野の人たちも一体となって長期的に取り組んでいく必要があるとした。
 岡山県青少年問題協議会は「情報化と青少年」(文献1393)について意見具申を行い、生き生きとしたコミュニケーションづくりをめざして、子どもの明日を拓く情報センターの設置を提案した。これは、「青少年が興味を持つ遊び、趣味、学び、ボランティア、アルバイト、将来の職業など、あらゆるジャンルの情報提供の拠点として、すべての青少年が自由に気軽に訪れ、集い、それぞれの思いを語りあい、情報を探索したり、その調査サービスが受けたりできるような、交流サロン、マルチメディア機器等の設備、豊かな情報、伝言板的なニューメディアの場、サポートする人材が準備されているセンターである。情報提供アドバイザーを常勤で配置するほか、大学生、主婦、高齢者等のあらゆる層のボランティアを多く募ろうとした。
 「福岡市こども育成環境づくり指針」(文献1310)は、こどもを固有の社会的存在(こども市民)としてとらえ、まち全体をあそび、活動できる場にしようと訴えた。また、地域住民が自らの目で地域のこどものための環境を見直し、そのあり方を考えていくため、限られた一部の人に任せてしまうのではなく、高校生、大学生、父親及び高齢者等の参画を得て、地域コミュニティとしてこどもの環境や活動を考え、地域社会全体の合意を作り出していくよう提起した。
1997年度
 数年の文献で散見された青少年育成に関わる社会や大人の責任を問う姿勢が普遍化し、大人自らの市民としての変革と社会風土の革新を求める論調が強くなった。
 青少年対策に関しては、国の青少年問題審議会が、4月に「『高度情報通信社会』に向けた青少年育成の基本的方向−青少年の社会参加の拡大とその課題(意見具申)」(文献1645)を提出した。東京都青少年問題協議会は「性の商品化が進む中での青少年健全育成(中間答申)」(文献1622)で、いわゆる「淫行処罰規定」は、相手方となる大人を処罰する規定であっても、行為自体を「淫行、みだらな性行為」と定義することで、青少年の性に関する行動全般を不良視し、青少年に対する心理的な抑制効果をもたらすなど、かえって青少年の性的自己決定能力を育む機会を失わせる危険性もあるという認識を示しながらも、大人を処罰する「買春等処罰規定」を設けることはやむをえないとの結論に達した。そのため、青少年の性的自己決定能力の育成を重視し、家庭、学校、地域社会それぞれが情報を発信する場となるよう提言した。
 川崎市青少年問題協議会は「青少年の健全育成に向けた社会環境健全化の具体的推進策について(意見具申)」(文献1679)で、大人の側が本腰を入れて取り組むべき具体的推進策として、カウンセリングマインドとグループワークの能力の取得(大人がまず変わるために学ばなければならない)等を挙げた。静岡県青少年問題協議会は「豊かな感性と新しい市民性をはぐくむ青少年の参加・体験活動の推進方策(意見具申)」(文献1682)で、従来ともすると学業の妨げになるなどの理由で制限されていた高校生のアルバイトについて、原則として家庭の責任においてアルバイトができるように、柔軟に対応するよう求めた。
 「札幌市青少年育成計画」(文献1541)は、青少年主体、共生社会、ノーマライゼーション、相互理解と協力の体験機会、生涯学習推進の5視点を掲げた。「青少年の自立と社会活動のための東京都行動プラン」(文献1683)は、青少年の自立と社会参加の促進、青少年をとりまく環境や条件の整備、青少年の健全育成の担い手の養成の3目標を掲げた。東京都児童環境づくり推進協議会「子どもが輝くまち東京(2期最終報告)」(文献1605)は、子どもが自由に使える時間「ノー塾デー」や、群れて安らげる場「現代版子ども宿」づくりを提言した。
1998年度
 青少年問題審議会が「青少年の問題行動への対策を中心とした西暦2000年に向けての青少年の育成方策について」を審議した(文献1980)。また、内閣総理大臣のもと、関係審議会の代表者等の有識者から成る「次代を担う青少年について考える有識者会議」が開催され、同年4月には自然体験、生活体験の重視や、学校外での青少年の居場所づくりなどを提言した。
 東京都は「青少年の自立と社会活動のための東京都行動プラン」(文献2045)を平成10年3月に策定した。横浜市議会は、社会が一体となって子どもたちが健やかに育つ街づくりを推進することを決意し、全会一致で「生き生きはまっ子都市宣言」を決議した。これを受け、横浜市青少年問題協議会が「青少年の発達と社会環境づくり」(文献1824)を意見具申した。そこでは「大人が青少年のために社会環境を改善するということの他に、青少年自身が自らの問題を解決することができるように、青少年の発言の場や活動の場を広げる必要もある」とされた。
 三重県青少年対策は、同年度の基本目標を「生きる力をはぐくむ−人に優しい心と変化する社会に主体的に働きかける力を持った青少年の育成」とし、いじめが人権に関わる重大な問題であることを社会全体の共通認識として位置づける必要があるとした(文献1823)。大阪府青少年育成懇話会は「第2次青少年育成計画(新プラネット計画)」に代わる新しい青少年育成計画の策定(平成13年)に向けた検討を行い、「共育」「コミュニティの再構築」「予防的視点の重視」「未来への対応−積極的な成長の機会の提供」の視点を提起した(文献2037)。また、青少年のニーズや意見を今後の計画づくりに反映させるため、青少年自身の参加による大阪府青年政策会議が設置された。同会議は、青少年が夢を持つためには、青少年から見て将来の夢や希望が持てるような社会が必要であり、今後、そのような社会を作り上げていく「良い大人」が必要だとした。
 岡山県青少年問題協議会は、青少年の主体的活動及び育成活動の促進等について報告し、「地域の子どもは地域で育てる」ことを提起した(文献2039)。徳島県の子ども県議会は、いじめ・非行・人権等について「子ども県議会宣言」(文献1981)を宣言した。
1999年度
 青少年対策に関しては、そのほとんどが社会や大人の現状に関して危機感を訴えた。
 青少年対策の全国的動向に関しては、第15期青少年問題審議会答申「『戦後』を超えて−青少年の自立と大人社会の責任」(文献2286)が、多元的な評価、多様な選択肢のある社会への転換等を訴え、青少年育成基本法(仮称)の制定に向けての検討を提言した。また、「青少年を非行からまもる全国強調月間」のほかに、少年サポートセンターの展開、児童買春・児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の制定、全国子どもプラン(緊急3ヶ年戦略)、学習指導要領の改訂、児童・青少年の居場所づくりの推進、児童虐待に対する取組、青少年と放送に関する調査研究会及び専門家会合の開催等が行われた(文献2345)。
 各地の青少年問題協議会の提言に関しては、釧路市「子どもプラン中間報告」(文献2418)が、あらゆる機関、組織の力を活用した体験活動などの必要性を訴えた。茨城県「21世紀青少年支援の方向性−青少年健全育成の中長期的対策について」(文献2403)は、「大人自身のあり方が厳しく問われている」とした。
 東京都では、「子どもの権利条約について−子どもの権利条約をいかす東京プログラム」(文献2230)及び「子どもたちの放課後を豊かなものにするために」(文献2428)が答申された。神奈川県「21世紀を担う青少年のために、今、取り組むべきこと」(文献2415)は、家庭、学校、地域が開かれた関係を持ち、協働して取り組むよう訴えた。横浜市「21世紀の社会を担う青少年の自立促進と社会参加」(文献2437)では、「われわれが青少年に対してその参加を求めている社会は、彼らにとって本当に魅力ある社会となっているのか」として、「健全育成」という言葉が避けられた。川崎市「共に生き共に育つ川崎をめざして−川崎市青少年プランの策定にあたって」(文献2308)は中高校生の居場所づくり、個人や集団の「個」を大切にすること等を提言した。
 新潟県「青少年健全育成に向けての提言」(文献2431)のテーマは、「子どもが子どもでいられない。子どもがいつまでも巣立てない。そんな状況を作り出したのは私たち大人」とされた。愛知県「新たな愛知県青少年健全育成計画策定の基本方向について−共に育ち合う社会をめざして」(文献2398)は、青少年の居場所づくり、青少年を支援する大人社会の在り方等を提案した。三重県「みえ・わかもの新世紀ビジョン」(文献2310)は、コミュニケーション、コーディネーション、コラボレーションの3つのCをキーワードとした。島根県「青少年を取り巻く現状・問題点・施策の方向性について」(文献2421)では、「児童生徒の意識と行動に関する調査」が実施された。広島県「地域における青少年育成活動の活性化と家庭・学校・地域社会の連携に関する指標」(文献2231)は、地域の大人の青少年育成に対する自覚と青少年の参加意識を高めていくことが大切」とした。沖縄県「おきなわ青少年育成プランの策定に当たっての基本的な考え方と施策の方向について」(文献2408)は、青少年の『自分探しの旅』に視点を置いた。
 東京都は「基本ルールを守れない子どもたちの増加は、価値バランスが崩壊した社会の反映であり、大人自身がその責任を自覚し、子どもたちを育てていく必要がある」とし、「心の東京革命」(文献2423)を提起した。「福岡市子ども総合計画−子どもが夢を描けるまちをめざして」(文献2433)は、社会がめざす目標や理念が揺らぎ、社会正義が一部で見失われ、モラルが欠如するなどの大人社会の一面を指摘した。
2000年度
 青少年問題審議会の前年度答申「『戦後』を超えて−青少年の自立と大人社会の責任」の具体化に向けて「青少年政策の総合的推進に関する研究会」(文献2790)が設置され、国の青少年行政の総合的かつ計画的な推進に社会全体として取り組んでいく上での対応の方向性や、国及び地方公共団体、企業等、地域の青少年団体、地域の自主的活動者、青少年の保護者などがそれぞれ果たすべき役割などについて報告した。
 静岡県では0歳から24歳までを対象とした「意味ある人」づくりのため、「ふじのくに青少年健全育成総合戦略提言書」がまとめられた(文献2654)。ほかに、「新青森県長期総合プラン」を基本とする「青森県青少年対策基本計画」(文献2901)、「あきた21総合計画」と連動した「第8次あきた青少年プラン」(文献2901)、「県民総ぐるみで取り組む」ための「とちぎ青少年プラン」(文献2912)、「共に育ち合う社会」を目指す「あいちの青少年育成計画21」(文献2900)、「すべての青少年が健やかに育まれるくまもとづくり」のための「くまもと青少年プラン」(文献2850)、「大分県長期総合計画(おおいた新世紀創造計画)」の部門計画としての「豊の国青少年プラン21」(文献2903)が策定された。
2001年度
 全体の文献の特徴として、1985年臨時教育審議会第1次答申以来の「個性重視」が影を潜め、前年からの17歳の殺人事件に象徴される少年の凶悪犯罪の続発以降、「社会規範」の重要性を説く議論が強まっていることが挙げられる。この議論が個人化機能と社会化機能の二項の間を無為に往復しただけの結果に終わらぬよう留意したい。この二項対立を乗り越える統合機能が実践と研究に求められていると考える。
 各自治体の青少年対策については、前年度から同年度にかけて多くの計画が策定された。「青森県青少年対策基本計画」(文献3250)は基本目標を「21世紀を自らの力で切り拓くたくましい青少年の育成」とした。「第8次あきた青少年プラン」(文献3251)は「思いやりの心を大切に持ち、生き生きと暮らす青少年」の育成を挙げた。「ふくしま青少年育成プラン」(文献3284)は、活力ある青少年を育成するために地域社会が一体となって取り組むことをめざした。「ぐんぐんぐんま子育てプラン」(文献3226)は「子どもを育てるなら群馬県」を目標に、施策の総合化を図った。「あいちの青少年育成計画21」(文献3180)は基本理念を「青少年の自立をはぐくみ、共に育ち合う社会をめざして」とした。「京都市ユースアクションプラン」(文献3258)は青少年を地域社会を構成する「若き市民」として捉え、積極的な社会参画を促した。岡山県では「おかやま青少年さんあい運動−であい、ふれあい、たすけあい」(文献3253)による県民運動をめざした。宮崎県「ひむか青少年プラン21」(文献3269)は「新時代を切り拓く心豊かでたくましく行動力に富んだ青少年」の育成を総合目標とした。鹿児島県「地域が育む『かごしまっ子』育成プラン」(文献3255)は心豊かでたくましい「かごしまっ子」の育成をめざした。
2002年度
 青少年対策に関しては、福井県が「ふくい21青少年健全育成指針」(文献3809)のもとに推進している。茨城県青少年相談員連絡協議会は社会環境県下一斉実態調査報告書を出した(文献3638)。島根県は平成13年6月の風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律の一部改正を受け、ツーショットダイヤル等営業に関する規定の整備をするため条例等の改正を行った(文献3810)。
 静岡県教育委員会は「保護者のみなさまへ」(文献3811)を発行し、「子どもの問題を、私たち自身の生き方の問題として考え、真正面から子どもに対峠してほしい」と訴えた。渡辺かよ子は米国を中心とする先進各国で青少年問題への対応に顕著な成果を上げているメンタリング・プログラムを分析した(文献3812)。メンタリングとは、成熟した年長者であるメンターと若年のメンティとが、基本的に一対一で、継続的定期的に交流し、適切な役割モデルの提示と信頼関係の構築を通じて、メンティの発達支援を目指す関係性を指すとされた。星野周弘は「非行化を促す人間関係」(文献3553)として、行動準則の個別化の容認、過保護、連帯感の弱さ、匿名性などを指摘した。
2003年度
 内閣府が、平成14年から、青少年の育成の基本的な方向等について幅広く検討する「青少年の育成に関する有識者懇談会」を開催し、平成15年4月に「青少年の育成に関する有識者懇談会報告書」(文献3865)を取りまとめた。その基本的な対応の方向はおもに次のとおりである。
 
@ 能動性を重視した青少年観への転換
A 社会的自立の支援、
B 特に困難を抱える青少年の支援、
C 率直に語り合える社会風土の醸成
 
 これを受け、平成15年6月、関係行政機関の緊密な連携をより高いレベルで図りつつ、青少年育成施策を一層強力に推進する体制として、内閣に内閣総理大臣を本部長とし、全閣僚を構成員とする「青少年育成推進本部」が設置された。同本部は、以下の3点を基本理念とする「青少年育成施策大綱」(文献4140)を発表した。
 
@ 現在の生活の充実と将来への成長の両面を支援
A 大人社会の見直しと青少年の適応の両方が必要
B すべての組織及び個人の取組が必要
 
 同大綱には、「大人社会の見直し」「率直に語り合える社会風土の醸成」など、これまでの青少年施策、実践、研究の成果を反映した側面が認められる。
 次に、青少年自身の自己形成に関しては、「現在の生活の充実と将来への成長の両面を支援」として、「青少年が、現在の生活を充実して送るとともに、将来に向かって、挑戦と試行錯誤の過程を経つつ、自己選択、自己責任、相互支援を担い、社会とのかかわりの中で自己実現を図る、社会的に自立した個人として成長するよう支援すること」という記述がある(下線は引用者、以下同じ)。
 社会参画については、次の記述がある。(抜粋、カッコ内は施策)
 
@ 社会的自立の支援
 青年期には、親の保護から抜け出し、社会の一員として自立した生活を営み、さらに、公共へ参画し、貢献していくことが重要。(人生設計、教育、職業選択、職業訓練、生活保障等に係る包括的な若者の自立支援方策を検討)
A 公共への参画の促進1=公的制度に関する情報提供・意識啓発
 選挙や税、社会保障、外交、防衛等に対する若者の関心を喚起するとともに、関係機関間の連携の下、各種の手段・方法を用いて投票参加等の呼びかけを行う。(各種広報媒体や、諸活動・諸行事等を活用した情報提供・啓発活動)
B 公共への参画の促進2=政策形成過程への参画促進
 青少年の政策形成過程への参画を促進する。特に、青少年育成施策や世代間合意が不可欠である分野の施策については、青少年の意見も適切に反映されるよう、各種審議会、懇談会等の委員構成について配慮する。
(各種審議会や懇談会等における委員の公募制の活用、意見聴取の対象としての青少年の積極的な登用等)
C 公共への参画の促進3=社会貢献活動
 すべての青少年がボランティア活動に参加できるよう基盤整備を行う。活動に関するモデル事業の実施やプログラムの開発等を行う。開発途上国における協力活動の機会を提供する。多様な文化と共に生きていく意識を向上させ、国際的な活動や地域における社会的な活動への貢献を促進する。

 本研究の視点からは、同大綱が、自己成長と社会参画に関連して、「人生設計、教育、職業選択、職業訓練、生活保障等に係る包括的な若者の自立支援方策」が検討されていることに特に注目したい。支援が「包括的」に行われることは、個人化支援と社会化支援の統合や、青少年自身の「自己形成」と青少年の社会参画による「社会形成」の一体化にもつながると考えるからである。
 
(3) 「青少年育成国民運動」
 1965年(昭和40年)9月の中央青少年問題協議会意見具申「青少年非行対策に関する意見」等を契機として、同年11月、閣議で国民運動の展開が提唱された。これを受け、国民の総意を結集した「青少年育成国民運動」の推進母体として、1966年(昭和41年)5月に青少年育成国民会議が発足した。
 この国民運動では、「親や、青少年を指導する立場にあるものはもちろん、一般国民がその姿勢を正すとともに、青少年問題についての関心を高め、積極的に青少年育成につとめるよう政府および公共団体の青少年施策の強化を求めると同時に、これに協力して十分にその効果をあげる」(昭和41年5月27日「青少年育成国民会議結成大会宣言」)ことが目指されている。運動発足と同時に青少年育成国民会議が結成され、現在では全都道府県に青少年育成都道府県民会議が、全国の約7割の市町村に市町村民会議が結成されている8。
 ここでは、同国民運動の「青少年育成」(青少年の社会化支援)に関する支援理念の変遷について検討する。
1990年度
 神奈川県では、昭和63年1月の「かながわ青少年プラン」を受けて「ふれあい教育運動」が取り組まれ、県民会議が県民行動計画を作成した(文献0121)。滋賀県では、昭和63年10月の「アクティユースプラン−滋賀県青少年育成長期構想」を受けて、「ひとの時代、活力創生の郷土づくり」(文献0183)をテーマとした湖国21世紀ビジョンの実現を目指して取り組んだ。兵庫県では、「こころ豊かな人づくり」県民運動を支援するため、自治会や子ども会などの既存組織との連携のもとに「ひょうごっ子きょうだいづくり事業」(文献0187)を行った。
 このように、県民・市町村民運動としての国民運動は、自治体の青少年行政とタイアップして行われてきた。自治体が青少年育成国民運動の発展に対して行政独自の役割を今まで以上に発揮しながらも、国民運動自体がいっそう住民の手によって自主的・自発的に活発に進められるような行政の関わり方を明らかにする必要がある。
1991年度
 住民みずからが地域の特性を活かして青少年育成に取り組んでいるものが多く見られた。たとえば、名古屋市では、小学校区域ごとと中学校区域ごとに育成組織がつくられており、それぞれが地域の実情に応じて多様な青少年育成活動を展開した(文献0297)。
1992年度
 熊本県では、県下各地の子どもたちの活動に対して補助金を交付する「わがまち大好き!もやい活動支援事業」(文献0532)を開始し、初年度は、27市町村48団体によってさまざまな活動が行なわれた。また、青少年育成国民会議は「生かそう、学校週5日制」(文献0537)を発行し、具体的条件づくりとして、@地域の育成体制の充実、Aヤル気のある指導者のネットワークづくり、B活動の場の整備・充実、C子どもたちに魅力ある活動を、D非行防止への配慮を、E安全対策と情報提供を、と提案している。さらに、同会議におかれた特別研究委員会は「21世紀に向けての青少年育成構想」(文献0538)を報告し、「少子化と青少年育成」に関して、@育児条件の整備、A子育てを社会的な視点で、B男性の育児参加、C育児に対する職場での理解、D地域の中で子育てネットワークを、と提言している。
1996年度
 青少年育成国民会議が、30周年を記念し、@青少年活動の推進、A国際化時代の青少年育成活動、B家庭生活の変化と国民運動の対応、C青少年の非行や問題行動の防止と社会環境浄化活動、D青少年育成の指導者養成、E運動の広がり−地域と中央の展開の6つの視点でこれまでの青少年育成運動をまとめた(文献1325)。さらに、子どもや若者と直接かかわる親・教師・青少年指導者や、さまざまな活動の場や機会づくりをすすめている青少年関係団体や機関などが、ともに手を携えて青少年育成に取り組む国民運動の姿を表すため、愛称「のびのびユースネット」(文献1405)の構築を始めた。
1997年度
 総務庁青少年対策本部「青少年健全育成中央フォーラム−青少年健全育成のために薬物乱用の防止を考える」(文献1432)で、和田清が、薬物乱用防止も必要だが、薬物依存は「治す」という区切りのある病気ではないとし、脱慣とその維持は、家庭、医療機関、教育機関、取り締まり機関等あらゆる所の連携的サポートなしには不可能に近いと訴えた。東京都「青少年の健全育成を推進する都民集会」(文献1693)で、加藤諦三は、「自立社会」という言葉の裏側は「中毒社会」であるとし、「大切なのは真面目さではない」と訴えた。
 神奈川県青少年問題協議会は「青少年の多様な体験活動の促進に向けたしくみづくり(報告)」(文献1620)で、「市町村レベルの青少年育成組織設立の支援」により、多様な団体や組織の参加を促進するなど柔軟で風通しのよい組織にするとともに、さまざまなレベルでのネットワークを結ぶよう提言した。
 山梨県「青少年育成フォーラム」(文献1695)では、4年目の最終年度として、「やまなし青少年プラン」実現に向けての総合的な取り組みとして、「各領域の役割の認識と連携」のテーマで、家庭・学校・地域社会・職場の在り方や相互連携の可能性を探った。5月に制定された鹿児島県「心豊かな青少年を育てる運動推進要綱」(文献1543)では、これまでの「未来へはばたけ青少年運動」の成果を継承しながら、青少年の主体的活動の促進、地域ぐるみの青少年育成、関係機関・団体が相互に連携した運動の推進の3つの取り組みを提示した。沖縄県「青少年の深夜はいかい防止県民一斉行動」(文献1660)では、青少年の夜遊びや深夜はいかいの現状に対し、全県民が生活リズムの確立を図り、大人自らが夜型社会を是正するよう求めている。
1998年度
 国際的にはエンパワーメントとして、国内では「生きる力」を育むものとして、青少年の教育およびそれへの青少年自身の参加・参画に期待する論調が強まっている。また、青少年育成に関わる社会や大人の責任を問う姿勢が定着し、親をはじめとする大人自身の生き方の見直しと社会風土の革新を求める議論が多かった。
 各地の県民会議が少年の主張等の大会を実施した。青少年育成香川県民会議は、県と一体となって、CAP(Child Assault Prevention:子どもへの暴力防止)事業や「青少年の自立支援事業」(文献2056)を実施した。
2000年度
 青少年育成国民会議は、都道府県民会議や青少年育成関係団体等の運動関係者とともに、「大人が変われば、子どもも変わる」をスローガンに掲げ、「子どもたちに積極的に声を掛け、顔見知りの関係をつくり、良いことは褒め、元気がないときは励まし、危険なことやルール違反には注意をする」などの「地域のおじさん、おばさん運動」(文献2796)を進めた。
 福岡県では、「まず、大人が意識を変えよう」に始まる「天性を見出し育成に努める−青少年アンビシャス運動100人委員会中間報告」(文献2853)を出した。「社会を明るくする運動」(文献2854)は第50回を迎え、「犯罪や非行が生まれるのは地域社会であり、また、罪を償い、更生を果たす場もまた地域社会に他ならない」という立場から、更生保護と学校との連携を図り、学校と地域社会を結びつける役割を果たしている。
2002年度
 健全育成の重要性に対する認識が深まるとともに、そのためには国民運動としての地域の活動が不可欠であることが共通認識となった。また、児童虐待等の問題が焦点となり、その解決が急がれる一方で、児童福祉等の分野で子どもたちの心の問題にまで配慮するなど、量的な面だけでなく、質的な面でのサービス向上が議論された。
 茨城県が「青少年健全育成活動実践事例調査」(文献3813)を行った。愛知県は、前年度に引き続き青少年健全育成モデル事業を実施し、健全育成事業や市町村民会議による青少年の自然体験、社会体験事業を募集し、選定のうえ、実施を委託した(文献3814)。
 国民会議が有害環境モニター報告書を発行した(文献3815)。これは、青少年にとって有害と思われる地域の社会環境の実態把握を主たる目的に、平成14年度から取り組んできたもので、主として18歳以下の子どもたちにとって好ましくないと思われる社会環境について、日常生活の中で感じたこと、見かけたこと、疑問に思ったことなどを集約するものである。国民会議では、寄せられた意見をまとめた「ニューズレター」を年2回発行した。
2003年度
 青少年育成秋田県民会議は、当年度から「青少年に夢と希望と自信を」をスローガンにした「秋田アンビシャス運動」(文献4111)を、新たに県民総ぐるみ運動として展開した。鹿児島県青少年育成国民会議は以下の事業を推進した(文献3913)。@「心豊かな青少年を育てる運動」の推進、A青少年を育てる「地域の力」の強化促進、B県民会議運営事業の推進、C青少年健全育成推進事業の推進、D青少年育成センター事業の推進、E青少年会館管理運営事業の推進等。青少年育成国民会議が提唱し、全国で展開されている「大人が変われば子どもも変わる運動」の普及にも取組んだ。
 清水英男は「地域ぐるみの青少年育成に関する一考察」(文献4139)として、「子ほめ条例」に関する先進町村の事例を分析し、その成果や課題を明らかにした。また、西村美東士は「居場所づくりと青少年育成の考え方」(文献3864)において、青少年育成への懐疑としての「居場所論」、個人化と社会化の分裂状況などについて述べ、次のように指摘した。意図的に「自分らしくいられる」居場所をつくろうとする場合は、個人として深まること(個人化)と社会的な資質・能力を身につけること(社会化)を統合的に進めるよう配慮することが、若者のニーズに的確に応えることにつながる。そのためには、居場所をとおして得られる「気づき」の構造を理解し、支援する必要がある。
 
1.5.2 「青少年教育」に関する社会化支援理念の変遷
 ここでは、『青少年問題に関する文献集』に収録した文献を、(1)「青少年教育(生涯教育・社会教育)」、(2)「指導者・ボランティア」、(3)「団体活動」、(4)「国際交流」、(5)「メディア(文化一般を含む)」の5項目の視点から検討する。
 
(1) 「青少年教育」
1989年度
 生涯教育や生涯学習の範囲を広くとらえ直した上で、その一環としての地域参加や体験活動の教育的意義をあらためて評価し、それをいっそう充実させようとする傾向が見られた。
 岡本包治編『青少年の地域参加』(生涯学習のまちづくりシリーズ5、ぎょうせい)(文献0031)では、地域に内在する教育力を、「自然」「文化」「人間」と「間接的・無意図的」「直接的・意図的」とのマトリックスから説明し、青少年を「地域の正式なメンバー」として位置づけるよう提言した。
 自然体験の重視も特徴的であった。国立オリンピック記念青少年総合センターの『自然生活へのチャレンジ推進事業事例集−フロンティア・アドベンチャー』(文献0089)は、文部省補助事業としての推進事業が全国各地で展開されていることを表しており、山奥や無人島等の大自然の中で、異年齢構成の少年50人が10泊もの長期間の原生活体験を行うことによる「欠損体験の模擬的な体験」の顕著な効果を示した。
 青年の家等に関しては、生涯学習援助の観点に立ち、青年や社会の新しいニーズに対応しようとする傾向がますます強くなっていることがわかる。全国青年の家協議会の『青年の家の現状と課題第18集−生涯学習社会の中の青年の家』(文献0091)では、利用団体の要望や実態に即したきめ細かなサービスや、「祭り」と「学習」による青年と地域との結びの場としての役割などの提言が発表された。また、国立オリンピック記念青少年総合センターの『全国青少年教育関係施設ガイド−若者と子供の活動広場』(文献0090)では、全国の施設への直接のアンケート調査に基づき、たとえば吹奏楽の練習ができるかどうかなどのそれぞれのデータを細かく掲載している。
1990年度
 「自然生活へのチャレンジ推進事業(フロンティア・アドベンチャー事業)」に関する各地の実践報告が目立った(文献0206,0208,0212,0218)。これは、文部省が昭和63年度から補助を開始しているもので、異年齢で構成される青少年に山奥や無人島などの大自然の中で10泊程度の長期の自給自足的な生活にチャレンジする機会を提供するものである。それは、さまざまな体験の不足が指摘されている現代の子どもたちにとって迫力あるものであると同時に、これまで青少年教育を進めてきた関係者全体に対しても大きなインパクトを与えた。文献も、この事業の意欲的な性格を反映して、子どもたちの意識変革、態度変容や健康管理まで含めての事前調査やフォローアップを計画的、組織的に行なった上で作成されたものが多かった。
 「青少年ふるさと学習特別推進事業」(文献0153)と「青少年科学活動促進事業」(文献0201,0217,0225,0229)に関する文献があった。前者では、青少年がふるさとについて総合的に学習し、その成果を踏まえて実践活動を展開するモデル事業が多分野の諸団体・機関との連携のもとに推進された。後者では、地域の教育力を活用して、科学に関する特定の興味・関心を自発的、かつ継続的に追求できる社会教育の特色を生かし、青少年の科学する心を育む活動を推進するために、青少年科学教室の開設のほか、科学グループの育成、科学会議の開催などが行われた。
 また、船などを利用した「旅」による教育効果をねらうプログラムも数多く見られた。関連文献は、山形県「親子ふれあいの船」(文献0226)、群馬県「ぐんま少年の船」(文献0376)、岡山県「瀬戸内時代を担う少年の船」(文献0482)、広島県「瀬戸内海少年の船」(文献0138)、広島市「瀬戸内洋上セミナー」(文献0223)、佐賀県「佐賀県少年の船」(文献0384)、鹿児島県「はばたけ青少年の旅」(文献0151)の事業報告書などがあった。
1991年度
 青少年問題を生涯学習の観点からとらえた文献が注目される。神奈川県では、生涯学習推進の広い観点から学校教育の取り組みを含めて、県が独自に全国レベルで事例を収集してとりまとめた資料(文献0283)を、滋賀県では、他の世代の生涯にわたる学習や成長に関わる事例と青少年健全育成の事例とを統合的にとらえた資料(文献0364)が発行された。
 西村美東士「生涯学習かくろん」(文献0262)は、現代社会の情報化、パソコン・パソコン通信等のハイテク化、人間の主体性の喪失、などの状況の中での、現代青年の知的活動の特徴とその援助のあり方を示した。日本青年館青年問題研究所「生涯学習と青年期教育」(文献0365)は、青年の主体形成のための生涯学習の重要性を指摘したうえで、共同学習の再評価、青年期教育から生涯見直し学習、生涯見渡し学習、生涯見通し学習への発展などを提唱した。日本青年奉仕協会「ゆたかな学びの世界」(文献0366)は、生涯学習社会において、ボランティア活動を通して豊かなこころを育む個性的な学習を自ら行うことの重要性を主張した。
 社会教育に関しては、前年度に引き続き、船などを利用した「旅」による教育プログラムや「フロンティア・アドベンチャー事業」(文献0370,0377,0393)に関する各地の実践報告が目立った。後者の事業の同年度の特徴としては、それぞれの実践がより個性的になってきた。山口県の「原始に生きる防長っ子キャンプ」(文献0399)では、自己理解、他者理解、環境理解を深め、対人関係におけるコミュニケーションと協力関係を強化するための指導法を伴う米国OBS(アウトワード・バウンド・スクール)のプログラムを展開した。
 青年の家、少年自然の家については、単年度の事業報告にとどまらない根本的な問いかけを行う文献が見られた。全国青年の家協議会「青年の家の現状と課題第20集」(文献0387)は、「魅力ある青年の家をめざして」をテーマとして、カウンセリングなどの他分野の研究から、現代青年のニーズに対応する運営のあり方について考察した。国立妙高少年自然の家所長から、少年自然の家創設当時の視点から青年の家の運営に関する提案を受けた。国立オリンピック記念青少年総合センターは、国・法人・民間機関で刊行されたさまざまな関係資料を一冊にまとめて「青少年教育データブック」(文献0379)を発行した。国立那須甲子少年自然の家は、設置20周年記念を契機に、少年自然の家の理念と構想、少年自然の家構想の具現化などをあらためて検討した「自然と子ども」(文献0382)を、国立花山少年自然の家は、先導的な事業に意欲的に取り組んできた歴史を欠落させずに実践的にまとめるため、通常の集録のほかに創設期の記録固めの意味を加えて「しゃくなげ」(文献0383)を発行した。
 西村美東士「社会教育の新しい展開からみた学校週5日制」(文献0311)が、社会教育の観点から学校週5日制の意義を考察した。これは、教師、親、大人たちが、マニュアルやひな型を与えられてから動き出すという今までの自己の非主体的な枠組をみずから乗り越え、5日制を契機として、教育・学習主体としての本来の自己を取り戻すよう提唱したものである。
1992年度
 同年9月の学校週5日制の開始にあたって、その制度を生涯教育や社会教育がどう支えるのかを強く意識した文献が目立った。
 生涯教育に関しては、全日本社会教育連合会「社会教育」誌が「生涯学習社会における学校週5日制を考える」(文献0444)を特集し、そこで岡本包治は、学校週5日制とは、地域や家庭を学校教員の勤務日数が5日間になるための「受け皿」とすることではなく、青少年の生涯学習を正式に認知することであると主張している。
 青少年教育と生涯教育の関連について、西村美東士「こころ生涯学習−いばりたい人、いりません」(文献0545)は、青少年対策や社会教育の現場で、教育者が「批判的な親の心」の固まりになってしまう傾向を批判し、青少年を管理したり保護したりしようとせずに、誰のせいにもできない自由を味わう機会を彼らに提供するよう主張した。
 社会教育に関しては、例年のように、船などを利用した「旅」による教育プログラムや「フロンティア・アドベンチャー事業」に関する各地の実践報告が数多く発行された(文献0483,0484,0491)。
 学校週5日制の実施を契機に、小・中学生の幅広い活動と異年齢集団の交流を図る「地域少年少女サークル活動促進事業」の報告書も数点発行された(文献0547,0550,0553,0562,0565,0566)。
 子どもの遊び場に関しては、国民生活センター調査研究部「子どもの生活環境としての遊び場問題」(文献0452)、東京都生活文化局「東京都の遊び場」(文献0507)等があった。これらは、都市居住者としての子どもにとっての児童遊園などの重要性とその不備や不足を訴えている。
 社会教育と学校週5日制の関連については、全日本社会教育連合会「社会教育」誌が「学校週5日制時代の家庭と子ども」(文献0467)を特集し、斎藤哲瑯が、9月12日の開始直後に実施した全国規模の調査の結果を紹介した。同誌は、「体験学習のすすめ」(文献0468)を特集し、薗田碩哉が、社会教育はもっと現実の生活の局面に接近して「体験の学習化」を進めるよう提言した。
 青年の家、少年自然の家については、国立オリンピック記念青少年総合センターが、活動内容から施設を探すなどの多様な検索目的に対応した「全国青少年教育関係施設ガイド」(文献0555)を発行した。国立那須甲子少年自然の家は、学社連携による生活科の研修を先駆的にまとめた「全国生活科担当指導者養成実践研修会実施結果報告書」(文献0559)、自然の家の活動を学習指導要領の各教科の内容と関連づけた「国立那須甲子少年自然の家の活動と学習指導要領(教科)との関連」(文献0557)、学校週5日制導入の観点に鑑みて自然の家の効果的な利用形態等を検討した「子供の心を育む研究開発事業実施結果報告書」(文献0558)などを精力的に発行した。国立花山少年自然の家は、紀要で「花山の沿革」(文献0560)を特集するとともに、学校週5日制対応事業として実施した「家族のつどい」のもつボランティア養成の実践の場としての役割などを自己分析した。また、全国青年の家協議会「新しい青年教育の展開」(文献0445)では、現代の青年像と青年教育や青年の家のあり方について、「青年の家の現状と課題第21集」(文献0563)では、学校週5日制時代の青年の家の役割について追求した。そこでは、青年の家が果たしてきた歴史的役割を評価しながらも、強制的、人工的、形式的、画一的などの青年の家運営上の従来の弊害を改革しようとする強い志向が示された。
1993年度
 前年9月から始まった学校週5日制を生涯教育や社会教育がどう支えるのかを強く意識した文献が目立った。岩淵英之他「生涯学習と学校5日制」(文献0606)は、「学校へは週6日通うものだとする考え方が改められるだけでなく、これまでの学校観を大きく変化させ、教職員・父母・地域の人びととの関係を新しく構築しなければならなくなる」という観点のもとに編集された。
 全日本社会教育連合会月刊誌「社会教育」が、青少年への「死への準備教育」等を意識しつつ外的環境と精神世界の調和を論じた「アメニティと生涯学習ライフ」(文献0689)、生きがいや自己実現のための生涯設計について学校教育や民間の就職活動準備セミナー等の事例を扱った「ライフプランと学習活動」(文献0729)、学校教育から「生涯自己発見学習」への転換を論じた「個人の成長と生涯学習論1994」(文献0647)などの特集を組んだ。青年問題研修所生涯学習委員会「生涯学習時代の青年期教育」(日本青年館)(文献0674)では、生涯学習と青年教育について、生涯という統合的実体と世代という分化的機能に着目することなどを提言している。
 社会教育に関しては、例年と同様に、船などを利用した「旅」による教育プログラムや「フロンティア・アドベンチャー事業」に関する各地の実践報告や、学校週5日制の実施を契機にして、小・中学生の幅広い活動と異年齢集団の交流を図る「地域少年少女サークル活動促進事業」(文献0730,0731,0735,0744)の報告書などが数多く発行された。
 田中治彦「社会教育概念理解(把握)の方法をめぐって−青少年教育の立場から」(文献0619)は、望んで主体形成を避けるモラトリアムや、日本と自分の存在を「加害者」としてとらえるNGOのなかでの社会改革意識など、現代青年の新しいとらえ方を提示した。西村美東士「公民館が仕掛ける出入り自由のこころのネットワーク」(文献0635)は、狛江市中央公民館青年教室における相互理解の試みから、この事業が「自分や他者への信頼」を失いつつある現代青年にとっての、心を開いて交流できる「癒し」(いやし)のネットワークであると位置づけて、その信頼感回復機能を分析した。
 日本社会教育学会「週休二日制・学校週五日制と社会教育」(文献0652)、北海道社会教育委員の会議「主体性、創造性が育つ青少年期教育の充実方策について−休日の拡大に対応した環境づくりをめざして」(文献0762)等が発行された。
 国立少年自然の家については、那須甲子は環境教育や自然体験活動の専門性を生かした報告書を、妙高は雪を媒体にした自然体験を重視したスキー指導テキストなどの資料を発行した。
 文化活動に関しては、9月に創刊された「季刊子ども学」(福武書店)(文献0640)で、ビデオゲームの特集が組まれた。そのほか、メディアとの接触に関する文献が数点あった。
1994年度
 月2回の実施を迎える学校週5日制を強く意識した文献が目立った。また、生涯教育に関しては、全日本社会教育連合会「社会教育」が「生涯学習の場としてのさまざまな『大学』を考える」(文献0808)という特集を組むなど、生涯学習機関の1つとしての大学の地域等での役割の発揮への関心が高まった。
 社会教育に関しては、例年と同様に、船などを利用した「旅」による教育プログラムや「フロンティア・アドベンチャー事業」に関する各地の実践報告、学校週5日制の実施を契機にして、小・中学生の幅広い活動と異年齢集団の交流を図る「地域少年少女サークル活動促進事業」の報告書などが数多く発行された。さらに、「不登校の児童生徒を自然の中に連れ出し、自然に触れ体を動かし、仲間とともに汗を流す」(秋田県教育委員会「平成6年度フレッシュ体験交流活動事業」)(文献0932)、「障害のある子供たちと障害のない子供たちが大自然の中で長期の共同生活を体験する」(栃木県教育委員会「青少年自然体験活動推進事業交流教育キャンプ」)(文献0963)などのかたちでの自然体験活動事業の発展が見られた。
 青森県社会教育委員の会議提言「豊かな心育てる自由時間の活用」(文献0801)は、@気軽で自由な活動空間の確保、A魅力ある多様で幅広い体験活動の提供、B子ども会等への参加の促進、C地域への愛着心を育てることなどを提言している。秋田県社会教育委員の会議答申「少年期における社会教育の望ましい在り方について」(文献0933)は、学社連携の範囲について同一学校区の範囲にとどまっている傾向にあるとし、それぞれの学校には特徴的な施設設備があり、また、様々な特技をもった教員がいることから、複数の学校区での連携は多様な活動を組める可能性があり、子どもたちにも新鮮味を与え効果的であるとした。
 東京都立教育研究所は「平成6年度生涯学習関連施設のカリキュラム編成に関する基礎的研究−青少年対象事業調査を通して」(文献0961)を発行した。西村美東士「狛プーはどうしてネオトラなのか」(文献0849)は、今後の青年教育のあり方について、市民の行政依存的な構造を崩して、人間が主体的に水平に対面するネットワーク型社会を創出するよう提唱した。
 国立青年の家・少年自然の家については、国立能登青年の家「障害児(者)の施設利用に関するアンケート調査報告書」(文献0947)、国立花山少年自然の家「平成6年度主催事業等集録集−科学する心を育てる施設間連携事業の開発と実践」(文献0948)、国立那須甲子少年自然の家「環境教育の充実をめざして」(文献0887)、国立大隅少年自然の家「集団宿泊学習における教育効果に関する調査」(文献0824)など、開発的な調査研究の要素が強くなってきた。また、国立中央青年の家「平成6年度主催事業ヤングリーダー研修」(文献0945)は、集団関係能力、対人関係能力の向上および自主性の涵養という教育目的を焦点化して、現代青年の必要課題を追究した。金沢大学教育学部体育教室「国立能登青年の家における『社会体育実習』共同報告書」(文献0872)が、大学とのカリキュラム面での連携の成果を公開した。
1995年度
 生涯教育に関しては、日本生涯教育学会年報が「大学改革と生涯学習」(文献1084)を特集とするなど、大学との関係への関心が深まった。同年度は、次の3つの展開が見られる。@欧米における大学拡張から継続高等教育への発展への注目(東北大学教育学部附属大学教育開放センター萩原敏朗等)(文献1141)。A達成型の大学開放だけでなく、日本に特有の「楽しさ」を原理とする生涯学習の再評価(日本生涯教育学会山本慶裕)(文献1084)。B自己決定、生きがい創出、信頼・共感・癒しなど、生涯学習時代に向けた高等教育内容・方法自体の転換(全日本社会教育連合会「社会教育」西村美東士)(文献1144)。
 学校開放・学社連携一般については、前掲「社会教育」が新概念の「学社融合」を掲げて特集し、山本恒夫が次の融合パターンを提起した(文献1114)。@教育活動の相互の一部取り込み、A双方の教育活動の一部取り出しと組合せ、B双方の既存の教育活動のそのままでの共有化。
 社会教育に関しては、青少年自然体験活動推進事業(チャレンジキャンプ)、地域少年少女サークル活動促進事業の報告書などが数多く発行された。また、福島県「学校適応サポートプラン」(文献1200)、千葉県「ハート to ハート・リフレッシュセミナー」(文献1192)、大分県「自然大好きチャレンジキャンプ(交流教育コース)」(文献1376)など、登校拒否児への社会教育からの自然体験活動等を重視したアプローチが注目される。岡山県社会教育委員の会議は、学校外の生活体験・自然体験のあり方について、「私たち大人が、星空の瞬きに、海岸の潮騒に、そして山々の薫りに関心を持つことができる生活態度を回復しなければならない」と提言した(文献1153)。
 「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」(西村美東士)(文献1069)は、大人たちが「せめて青少年には幸せを」と言って、自分たち自身の不幸で非主体的な状況を批判しないまま地域教育力に期待を寄せることの滑稽さを指摘した。
 国立少年自然の家が、肥満傾向の子を持つ家庭対象や科学する心を育てる施設間連携の事業(花山)などの個性的な事業を活発に展開したり、長期自然体験活動「子どもの冒険キャンプ」16年の歴史の総括(那須甲子)(文献1061)、博物館・少年自然の家等における科学教室等特別事業によるガイドブック(各所)などの開発的な資料を意欲的に発行したりした。室戸少年自然の家では、阪神の被災地の子どもたちに自施設をリフレッシュの場として開放した(文献1176)。国立オリンピック記念青少年総合センターは、プログラム事例集、主催事業事例集、調査研究報告書などの発行を行った。しかし、同年度の顕著な特徴は、この傾向が国立青年の家まで浸透したことである。
 全国青年の家協議会会長・国立中央青年の家所長の内田忠平は、施設実態調査の結果から、「青年の家は、新しい社会の流れを必ずしもうまく捉えられたと思われない。人との心の交流という青年の家が有する機能を生かしながら、青年が求める基本的な快適性の充足を考えていくべき」と提唱した(文献1187)。大雪では教える者、教えられる者という関係ばかりではない受入れ事業に意味を提起した(文献1170)。江田島では「指導系職員が見た青年の家考」(文献1156)を発行、岩手山では全国規模の青少年団体や地域の青少年団体等により組織された実行委員会による交流活動を展開(文献1173)、赤城では自然教室指導者のガイドブックを発行(文献1188)、能登では障害児者の施設利用に関する調査研究協力者会議(文献1159)、乗鞍では視覚障害者の雪とのふれあい(文献1040)、沖縄では無人島に挑む全国青年のつどいを実施した(文献1085)。そして、国立青年の家少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議が、より魅力ある施設に生まれ変わるための「多様なニーズヘの対応と柔軟な運営」などの提言をした(文献1060)。一部の突出した少年自然の家が従来から提起していた新しい経営姿勢が他施設に普遍化しつつあったと考える。
 少年教育研究では、次の3つの新しい発展があった。@体験学習の重視から、自ら望んで安全な世界から踏み出そうとする冒険教育の重視へ。A自主性の尊重から、外から与えられた課題のない自由時間の尊重へ。B群れ遊びだけでなく、独り遊びやソロビバーク等の一人でいることの意味も最評価。「狛プーの公的・現代的意義」(西村美東士)(文献1197)が、発達ばかりでなく信頼や共感をも保障する「癒しのサンマ」(時間・空間・仲間の3つのマ)の必要性を主張した。
1996年度
 生涯教育に関しては、同年4月の生涯学習審議会「地域における生涯学習機会の充実方策について(答申)」(文献1327)が、社会人の学習にふさわしい新たな教育課程の編成や履修形態の工夫を含めた「社会に開かれた高等教育機関」、特別非常勤講師制度の活用や学校に対するボランティア等の地域社会の支援を含めた「地域社会に根ざした小・中・高等学校」、学習の場や活動など学社両者の要素を部分的に重ね合わせながら、一体となって子供たちの教育に取り組む「学社融合の理念に立った事業展開」などの提起を行った。日本生涯教育学会年報が「学社融合の生涯学習」(文献1326)を特集するなど、学校教育と社会教育との連携から融合へと、生涯学習推進の観点に立って発展しつつある段階にあった。岡本包治は、栃木県上都賀地区の小中学校調査の事例や一連の著作で、学校教育における地域資源の活用の意義を訴えた。
 社会教育に関しては、学校適応サポートを含む青少年自然体験活動推進事業、ウィークエンド・サークル活動推進事業、少年の船事業の報告書などが数多く発行された。平成8年7月、「青少年の野外教育の振興に関する調査研究協力者会議」(飯田稔他)(文献1317)は、青少年の野外教育について「全人的成長を支援するための教育」ととらえ、「生きる力」の育成を図る上で極めて重要と主張した。「公立青年の家の在り方に関する調査研究協力者会議」(文献1427)は、学校・グループ等の利用形態の如何を問わず、最適であると思われる環境の整備、情報化・国際化に対応したインフラ整備を訴えた。第22期東京都社会教育委員の会議(文献1277)は、「一つの固定的な理想像を求めようとする単線型健全育成を前面に掲げる従来の青少年施設は、もはや現代の青少年にとっては魅力がない」として、出会いとやすらぎの場、体験の場、創造・自己実現の場としての、青少年の自己形成のためのユース・プラザの設置を助言した。日本社会教育学会第42回研究大会課題研究「子どもと社会教育」(文献1382)においては、@子どもの文化権と生活・地域(増山均)、A青少年社会教育実践の可能性(沼田伊久俊)、B学校週5日制と青少年の社会参加(岡田忠男)が掲載された。また、神奈川県青少年総合研修センターは「出会いと交流−青年期の新しい地域活動のあり方」(文献1278)を発行し、監修にあたった西村美東士は、@自然体の育成活動を、A地域と人間の真実に出会う、B対象から主体へ、対策よりも支援を、C不幸せな現代社会と大人たち、Dフツーの大人たちも幸せになれる育成活動、Eフツーだからこそ、ワガママだからこその、自立の地域活動、とまとめて新しい青年教育のあり方を提起した。建設省公園緑地課が「管理から場の提供者へ」を合言葉に、環境教育の場としての身近で安全な公園の役割を積極的に評価し、ワークブック等を発行した。
 国立青年の家・少年自然の家については、平成6年の、青年の家、少年自然の家などの文部省所轄の国立の社会教育施設に対する総務庁の行政監察、7年の「国立青年の家・少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議」の報告(@青少年の自主性を育てる、A学社融合を目指して、B地域の中核に)、8年の生涯学習審議会答申などのそれぞれの指摘を受け、それまで先行していた少年自然の家に加え、とくに青年の家が、資料面においても、国立という名に匹敵する質や量の報告を行うようになってきた。国立中央青年の家では、まちづくりを担う青年の役割に注目し、全国の240あまりの青年の家が教育施設としての役割を果たすようになることをねらって、「学ぶ青年全国集会」の参加者を対象にした地域活動の現状に関する意識調査などを行った(文献1445)。
1997年度
 従来の成長・発達だけではなく、「癒し」や「居場所」のための支援が必要とする議論が登場した。ネットワークやNPOの活動様式がより高く評価されるようになった。
 生涯教育に関しては、国立青年の家・少年自然の家が、教員講習会、登校拒否(不登校)児童生徒対応事業、学習指導要領との関連の提示、活動プログラム研究など、「学社融合」事業を多様に展開した。国立オリンピック記念青少年総合センター「登校拒否等青少年の問題行動に関する調査研究報告書」(文献1701)において、飯田稔は、キャンプ療法の目的は「心の居場所」を確保し、社会で生きていくのに必要な社会性を身につけることであり、学校復帰はその副産物とし、参加すればすべてが解決するといった過信は禁物と警告した。西村美東士「癒しの生涯学習」(文献1533)は、若者が癒されるためには、自己決定活動において、他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、社会貢献も含めてボランタリーに共生創造主体として生きる以外に方法はないと主張した。
 社会教育に関しては、青少年の「生きる力」を育成するため、ウィークエンド・サークル活動推進事業、アドベンチャーキャンプ、野外体験事業などが盛んに行われた。杉並区児童青少年センターでは、「中・高校生運営委員会」が設置され、事業の企画等に携わった(文献1651)。「川崎市青少年の家運営協議会研究報告書」(文献1723)は高校生や大学生自身による企画を取り入れるユースワークを提唱した。萩原建次郎が「若者にとっての『居場所』の意味」(文献1571)、久田邦明が「子どもと若者の居場所」(文献1762)を記した。野外教育の推進に関して、文部省では新たに「青少年の野外教育体験月間」を設けた(文献1578)。国立淡路青年の家「野外活動施設活性化に向けて」(文献1566)は、従来の目的のキャンプは一つの選択肢にしかすぎなくなっているとし、宇田川光雄「子どもの安全対策」(文献1600)は、大移動キャンプでは環境保護を含めたトータルセーフティどころではないと警告した。内田忠平「青年の家・少年自然の家」(文献1663)は、成功体験だけでなく、己のふがいなさを知る失敗体験の意義を主張した。
1998年度
 生涯学習社会や学校週5日制完全実施を意識し、新しい情報手段の有効活用も含めて、青少年の「心を育てる」志向が強まった。また、青少年の主体的な参加・参画を図るため、学習形態としてワークショップ方式を取り入れる事業が報告された。
 生涯教育に関しては、岡山県生涯学習審議会が「21世紀を見通した本県の生涯学習の総合的な推進方策について」(文献2061)を答申し、「少・壮・老」の三世代の県民が仲間(ぱる)として楽しく学習や交流ができるゾーンづくりを目指す岡山県生涯学習センターについて、「高校生が企画・運営に参画する講座」、「青年がまちづくりに参加できる実践的な講座」などを提言した。学社融合に関しては、国立青年の家・少年自然の家で学社融合推進のための開発事業やプログラム研究、調査等が行われた。鹿沼市「学社融合を通じた青少年の育成」(文献2064)は、「学」は学校の教育課程に基づく教育活動であり、「社」は公的機関のほか、民間の事業も含む内容あるとした。
 社会教育に関しては、中央教育審議会答申「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機」(文献1716)が、子どもたちに豊かな人間性がはぐくまれるためには、大人社会全体のモラルの低下を問い直す必要があるとした。全国青年の家協議会は、「青年の家の現状と課題」(文献2102)で「心の教育に対応した主催事業」を特集した。学校週5日制完全実施に向けては、地域において子どもたちに豊かで多彩な体験活動の機会を用意するため、文部省は平成11年度を初年度とする「地域で子どもを育てよう緊急3カ年戦略(全国子どもプラン)」(文献1966)を策定した。
 各地で青少年の体験活動、社会参加やボランティア活動などの学校外活動の推進を図るため、自然体験活動推進事業、地域教育活性化推進事業、地域社会創生事業等の取り組みが行われた。また、青少年の野外教室モデル事業や不登校児童・生徒対応事業も定着してきた。国立信州高遠少年自然の家等では、青少年とくに中学生による憂慮すべき事件などについて、子どもたちのサインを大人が見落としているのではないかということから、前年度半ばの「子どもと話そう全国キャンペーン」(文献2083)に呼応した事業を春休みに展開した。静岡県では、文部省「子どもの『心の教育』全国アクションプラン」委嘱事業として「こどもの心を取り戻す教育推進事業」(文献2099)を実施した。大阪府社会教育委員会議は、「家庭・地域社会の教育力向上に向けて」の提言で、学校、家庭、地域社会が個別化・分離化した状態でその教育機能を果たすのではなく、ともに力を合わせて活動する「協働」の領域を開拓・開発していくよう提唱した(文献1988)。兵庫県社会教育委員の会議は「子どもたちに生きる力を育む社会教育の推進」を報告した(文献2110)。神戸市須磨区の事件以来、「心の教育」の一層の充実を図ることの大切さを改めて認識し、平成10年度から、公立中学校2年生全員が、地域でボランティア体験や勤労体験等を行う「トライやる・ウィーク」推進事業等を実施した(文献2584)。これを受け、同会議は青少年の心の居場所づくりなどを提言した。また、「青年男女の共同参画セミナー」としては、国立岩手山青年の家「男女・共育・学校」事業(文献2014)、佐賀県「ウィメンズ・ライフロング・カレッジ事業」(文献2096)などが行われた。
1999年度
 中央教育審議会答申・生涯学習審議会答申及びこれを受けて開始された「全国子どもプラン」の国の政策の影響力が大きかった。とくに行政資料については、各地の文献に答申の文言が触れられ、同プランに関わる実施報告書も多かった。
 生涯教育に関しては、生涯学習審議会が6月の答申「生活体験・自然体験が日本の子どもの心をはぐくむ」において、日本の子どもの心を豊かにはぐくむためには、家庭や地域社会で、様々な体験活動の機会を意図的、計画的に提供する必要があるとし、平成14年度からの完全学校週5日制の実施に向けて、子どもたちの体験活動の充実を図る体制を一気に整備するための具体的な緊急施策を提言した(文献2255)。これを受け、子ども放送局の創設、子どもセンターの全国展開、家庭教育手帳の配付等を行う「全国子どもプラン−地域で子どもを育てよう<緊急3カ年戦略>」が始まった。各省庁との連携事業も数多く含まれた。
 「総合的な学習の時間」に関しては、社会教育実践や研究の立場からも議論が盛んになった。全国少年自然の家連絡協議会研究紀要(文献2463)は、「自主性に満ちた健全な少年の育成を図る」とした少年自然の家の教育目標と共通する部分が多いとした。
 学社融合に関しては、全国各地の国立青年の家等で自然体験活動担当教員講習会、環境教育担当教員講習会やその他の推進事業が行われた。また、国立教育研究所は、市区町村におけるその実態を調査した。
 ジェンダー問題の学習に関しては、「青年男女の共同参画セミナー」の委嘱事業(文部省生涯学習局男女共同参画学習課)が各地で行われた(文献2014,2487)。
 野外教育に関しては、青少年の野外教室モデル事業、不登校児のキャンプなどが各地で行われた。長期キャンプについては、国立室戸少年自然の家が「わんぱく子ども宿」(文献2499)を17泊18日の日程で実施した。また、国立青年の家等で「野外教育企画担当者セミナー」(文献2540,2543,2544,2545)が盛んに開かれた。これは平成9年度から文部省が始めたもので、研修を3段階のアクティビティ、プログラムデザイン、マネージメントに分け、計12日間とし、コーディネートや指導を民間の野外教育事業者に依頼し、「参加体験型学び」の手法で構成するものである。
 子どもの体験活動に関しては、文部省の委嘱を受けた青少年教育活動研究会(代表平野吉直)が、お手伝いや生活習慣、生活体験や自然体験等といった子どもたちの日常生活の実態を実証的に把握する調査を行い、その結果を発表した(文献2259)。
 社会教育委員の会議に関しては、東京都「中・高校生世代に焦点をあてた社会教育施策のあり方について−多様な自己実現を支援するために」(文献2295)、新潟県「公立青少年教育施設の今後の在り方−より充実した魅力ある活動プログラムの開発を目指して」(文献2508)、広島県「21世紀初頭に向けた社会教育の振興方策−心ゆたかな青少年を育む家庭・学校・地域社会の連携の在り方について」(文献2514)が提言された。
 青少年教育施設に関しては、各県で青少年教育施設の廃止や委託が行われ、国立青年の家・少年自然の家も独立行政法人化が決まるなか、宮本一が青少年教育施設発展の歴史をまとめ、「国公立青少年教育施設は、これまでの45年の歴史を一端閉じ、新しい姿で再発足する重要な時期にさしかかっている」とした(文献2524)。
 1999年12月、門脇厚司「子どもの社会力」 (岩波新書)が出版された。門脇は「いじめ」「学級崩壊」などの子どもたちをめぐる深刻な状況のなかで、「人と人がつながる力」「社会をつくっていく力」としての「社会力」の意味と重要性を示し、成長過程で必要な大人の働きかけや「冒険遊び場」といった地域での実践の重要性を主張した。ここで、「社会力」とは、「主体的に、好ましい社会を構想し、作り、運営し、改革していく意図と能力」とされている。第一に、子どもの対他関係の回復によって社会に主体的に働きかける能力を育てるということ、第二に、そのために地域社会の「働きかけ」が効果的であるという2点において、本研究においても重要な指摘であると考える。
2000年度
 学校教育で行われる「総合的な学習の時間」に対して、生涯学習や社会教育の観点から主体的にアプローチしようとするものが多かった。また関連して、自然体験、野外活動、冒険教育などによる学校外の体験学習のもつ教育力に着目し、これを最大限に活用しようとするものが多かった。
 「全国子どもプラン」が2年目に入り、各地で「子どもセンター」や「子ども地域活動促進事業」などの実施が報告された(文献2514,2528)。その他、生涯学習ボランティア100万人参加計画(文献2583)、「子ども読書年」を受けた「子どもの心を育てる読書活動推進事業」(文献2591)などが進められた。「21世紀教育新生プラン」(文献2930)では、奉仕活動・体験活動を推進する体制が整備され、青少年団体を助成するための「子どもゆめ基金」が創設された。
 生涯学習の観点から「総合的な学習の時間」が議論された。社会教育や青少年教育施設のもつ特性が「総合的な学習の時間」に適することが主張された。学社融合については、実質的な学校評議員制度への発展、博物館と学校とのティームティーチングによる授業の実施など、融合の度合いが深まった。廣瀬隆人は、社会教育関係者の学校教育を含めた視点の所在を問うた(文献2724)。
 子どもの体験活動研究会は国際比較調査から、日本の家庭では子どもたちのしつけが十分に行われていない、日本の子どもたちは総じてあまりお手伝いをしていない、友人との人間関係に積極的に働きかけるのを避ける、などの傾向を明らかにした(文献2382)。
 自然体験プログラムについては、ネイチャーゲーム、プロジェクトラーニングトゥリー、プロジェクトWILD、センス・オブ・ワンダー、アウトワード・バウンド・スクール、プロジェクトアドベンチャー(PA)等、海外の専門的な自然体験プログラムがさかんに紹介された。PAは多くの国立青年の家等で導入された。不登校児童生徒に対する自然体験事業の有効性が各地のプログラムで実践的に確かめられた。国立那須甲子少年自然の家が昭和55年の開設以来の「長期自然体験活動事業」参加者の追跡意識等調査を実施した(文献2954)。自然体験プログラムを指導する指導者について、社会的信頼を確保するための共通登録制度が創設された。
 生涯学習審議会社会教育分科審議会が「家庭の教育力の充実等のための社会教育行政の体制整備」を求めた(文献2823)。家庭の教育力への積極的な支援を主張する議論が強くなった。
 岡山県社会教育委員の会議「自分探しをする子どもたちへ大人社会からのアプローチ」(文献2940)は、青少年の居場所づくりや、「子どもの活動に提案をして、方向性を持たせる」よう提言した。西村美東士は行政側が教育的意図をもって、地域や公共の場に居場所をつくる必要があるとした(文献2979)。
2001年度
 学校教育の「総合的な学習の時間」「学校週5日制の完全実施」という大きな変革に対して、生涯学習、社会教育、青少年教育のそれぞれの視点を生かして「学社融合」の取組みを中心として主体的な関わりが見られた。
 青少年教育施設については大きな波が寄せた。4月に、行政改革の一環として全国の国立青年の家と少年自然の家がそれぞれ独立行政法人として再出発した。一方、都市部の自治体ではその前後に公立青年の家の移管・統廃合等が検討された。団体宿泊訓練を基本的性格とするこれまでの宿泊型青少年教育施設は、都市部の都道府県立の施設から、時代や行政改革の波に洗われた。
 このような状況の中、関係文献では、従来からの自然体験や共同生活の意義を再確認し、さらにはその新たな教育的意義を明らかにしようとする実践や研究が目立った。とくに事業報告書等では、自己点検、自己評価を行い、「成果と課題」を明示するものが増えてきた。
 「学社融合」については、越田幸洋が、図書館ボランティア制度やボランティア人材バンク制度等、各論にわたる鹿沼市の先駆的で本格的な条件整備について報告した(文献3183)。また、国立少年自然の家等では、その有する資源が「総合的な学習の時間」の効果的な実践のために、あるいは「セカンドスクール」として、いかに有効であるかをプログラム開発や調査研究によって実証した(文献2922,2924,3649)。
 国立青少年教育施設独立行政法人化については、松下倶子が、「事業のスリム化、効率の高まり、質の向上、透明性の高まり」をも目指すものであるが、このような状況のもと、「とくに近年の『生きる力』を育てるための学校外活動の充実が強調される動きの中で重視され続けなければならず、事業の確実な継続が必要」と指摘した(文献3056)。
 公立青年の家の移管・統廃合については、埼玉県は「勤労青少年を含む青少年の利用が徐々に減少」などを課題として、次年度末を目途に青年の家を廃止し、「新しいタイプの青少年教育施設」の検討を進めることになった。東京都は新たな青少年社会教育施設として「ユースプラザ整備方針」を策定したことに伴い、次年度には7カ所のうち2カ所だけ残して閉所することになった。神奈川県では県と市町村の役割分担を理由として、青少年施設を「青少年の身近な活動の場」とし、地元市町へ移譲等を進めた。名古屋市では現在の青年の家に代えて都心部に新青少年教育施設の整備を検討した。いずれも、青少年教育施設の後退や撤退に終わらせるのではなく、新しい時代に求められる施設として発展するよう追求する姿勢が求められたと考える。
 青少年の「居場所づくり」については、日本社会教育学会が課題研究「子ども・若者の自己形成空間」として取り上げた(文献3074)。また、東京都立多摩社会教育会館は「子ども・若者の『関わり・参画』の場としての居場所の構想」を提言した(文献3398)。日本青年団協議会は「子どもたちの居場所を地域に!」全国キャンペーンで、子どもの参加と協力を得た行事づくりにおけるコーディネータとしての青年の役割発揮の可能性を指摘した(文献3410)。
 不登校の児童生徒や障害のある児童生徒対象の青少年自然体験活動推進事業(ハートウォームプラン)が各青年教育施設で行われてきたが、同年は新たに「悩みを抱える青少年を対象とした体験活動推進事業」として、非行傾向の児童生徒も参加対象とする展開を見せた(文献3416,3560)。これは、青少年教育施設特有の自然体験等の教育機能が、現代の病理を映し出す青少年の悩みに対しても明るい見通しを与えうるものであることを実践的に証明する試みととらえることができる。そのため、事業報告書等においても、より実証的で緻密な評価や研究が求められる。
2002年度
 生涯学習・社会教育分野の特徴としては、体験活動のもつ教育的意義への認識が高まった。体験のなかで青少年が主体的に学ぶことの意義は、ボランティア等の社会参加、青少年自身の参画にもつながる。社会性あるいは「社会力」の育成が重視された。
 社会参加・参画に関しては、内閣府政策統括官が「青少年の社会参加活動ハンドブック」(文献3551)を発行し、アメリカの「発達資産」等の事例を紹介した。北海道教育委員会は社会参画推進事業「ステップアップセミナー」を開いた(文献3646)。水野篤夫は「京都市基本計画への青少年によるパブリックコメント」プロジェクト等を紹介した(文献3792)。
 「悩みを抱える青少年を対象とした体験活動推進事業」に関しては、文部科学省が報告書を発行した(文献3560)。
 体験活動に関しては、文部科学省初等中等教育局が「体験活動事例集−豊かな体験活動の推進のために」を発行した(文献3510)。国立教育政策研究所社会教育実践研究センターは青少年の体験活動等に対して「事前学習」プログラムを勧めた(文献3739)。森田勇造が野外文化教育の体系化に関する研究成果をまとめた(文献3597)。星野敏男が「自然体験活動の効果とその要因」において「そのままの自分自身でいられる場、こころの居場所」の必要性を主張した(文献3589)。
 長期自然体験事業に関しては、国立那須甲子少年自然の家が全国の国立少年自然の家における参加者の事業参加10年後の意識や生活観に関する追跡意識調査を行った(文献2954)。
 社会性、社会力については、こどもの城が、自己中心性から脱皮して、民主的な社会人として育つようキャンプを行った(文献3505)。JR北海道自然の村は、共同生活や行事を通じて規律と責任の大切さを悟らせると同時に日常の躾にも努めた(文献3506)。国立諫早少年自然の家は、中学生の社会性と対人関係能力をはぐくむプログラムを開発した(文献3680)。門脇厚司が「子どもの社会力は地域の教育力が育てる」とした(文献3492)。伊藤俊夫が「躾は文化伝承の第一歩」とした(文献3493)。
 通学合宿に関しては、結城光夫が地域で子どもを育てる新たな仕組みとして評価し(文献3497)、佐久間章が「我が町流通学合宿」を勧めた(文献3498)。
 「居場所」に関しては、新谷周平が公的中高生施設『ゆう杉並』のエスノグラフィーを論じた(文献3777)。西村美東士「青少年施設の居場所機能」は、指導者による指導、青少年の主体性、施設の魅力の両立という問題を設定し、近年の関連文献の動向から論じた(文献3577)。また、居場所づくりにはあえて「創り出す」という明確な意図=教育的意図が必要になるとした(文献3539)。佐川子が国分寺市立光公民館でライブ活動事業を行い、「居場所」の条件として@無理強いしない、A社会的ルールは守ってもらう、B主役は若者、を挙げた(文献3538)。
2003年度
 青少年がボランティア活動や団体活動、国際交流活動に関わる際の、青少年自身の主体的な参加・参画を重視する論調が高まった。
 生涯学習・社会教育分野の特徴としては、厳しい財政事情の中でますます緊急性を帯びてきた青少年教育について、現代的で焦点化した対応をめざす傾向が目立った。
 生涯学習振興施策に関しては、中央教育審議会生涯学習分科会が「今後の生涯学習の振興方策について(審議経過の報告)」を発表した(文献4154)。そこでは、基本的考え方として、「個人の需要」と「社会の要請」のバランス、「人間的価値」と「職業的知識・技術」の調和、「継承」と「創造」が挙げられた。また、行政内部の連携の在り方として、とくに職業能力開発分野について、文部科学省と厚生労働省との連携を強化するなど、関係各省との連携を強化し、教育委員会と首長部局の人づくり・まちづくりに関する部局等との連携により多角的な行政を展開するとされた。
 「体験活動推進事業」に関しては、秋田県「地域で育てる子ども体験活動推進事業」(様々な地域資源を活用した放課後や週末等における子どもの体験活動への支援、青少年が共同生活をしながら長期にわたり自然体験などを行う事業等)(文献3682)、福島県「豊かな自然から学ぶ体験活動推進事業(ハートウォームプラン)」(不登校の児童生徒や障害を持つ児童生徒と保護者を対象とし、福祉等を学んでいる学生ボランティアのサポートを加味)(文献3613)、新潟県「不登校児童生徒体験活動推進事業はつらつ体験塾事業」(人や自然とのかかわりを通して社会性や集団適応力をはぐくむ)(文献3922)、山梨県「青少年長期自然体験活動推進事業」(完全学校週5日制の実施に伴い、子どもの地域における様々な体験活動を充実させ、家庭教育を支援)(文献3669)などが実施され、その事業報告書が発行された。また、平野吉直は「役立つ『学力』を高める自然体験活動」において、「学力の低下」を危惧する声に対して、「知識の量=学力」という短絡的な捉え方が今日の様々な青少年問題・教育問題を生み出してきたと述べ、自然体験活動は、子どもを取り巻く現代的課題に対処しうる総合的な教育活動であり、子どもの全人的成長を支援する活動であるとした(文献3982)。
 青少年教育施設に関しては、独立行政法人国立青年の家・国立少年自然の家が、「いつでも、どんなことでもできる(学生)ボランティア活動への転換」(文献4192)、「養護学校と普通学校の児童生徒の自然体験活動を通じた交流」(文献4194)(日高)、「学校教育に生かす体験学習法」(文献3737)、「社会性をはぐくむ長期自然体験プログラム開発の意義に関する研究」(文献4177)(花山)、「悩みを抱える中学生(問題行動、不登校・不登校傾向等)対象長期生活体験・冒険体験事業」(文献4197)(妙高)、「プログラム・アクティビティ実践集の発行」(文献4005)(乗鞍)、「少年期に必要な体験活動と指導のあり方に関する研究」(文献4116)(信州高遠)、「高校生演劇ワークショップ事業」(文献4191)(淡路)などの先導的実践・研究を行った。また、北海道立青年の家・少年自然の家では、それぞれの施設が運営の重点を定めて経営し、報告書を発行した(文献4228)。
 青少年の社会的能力の育成に関しては、門脇厚司が「子どもの社会力を育み高める総合学習の試み〜地域の課題を学習テーマとした授業の実践」(文献3898)を発表したほか、「広島大学大学院教育学研究科紀要」(文献4146)が「社会的スキル」の育成に関する諸論文を掲載した。
 「居場所」に関しては、特別区社会教育主事会中央ブロックが青少年の居場所づくりに対する各区の現状を把握した(文献4221)。また、住田正樹は「子どもの発達と子どもの居場所」(文献4098)において、その条件として空間性、関係性、意味づけ(他者から受け容れられているという感覚的な意味合いの関係性への付与)の3つを指摘し、萩原健次郎は「居場所が生まれる場を構想する」(文献4103)において、「居場所は互いの存在を認め合い、感じあう関係において生まれる」とした。

(2) 「指導者・ボランティア」
1990年度
 「青少年ボランティア参加促進事業」に関する文献が多かった。この事業は、青少年及び青少年ボランティア活動の指導者に対してボランティア活動に対する知識・技術の修得及び資質の向上を図ることを趣旨として行われているもので、青少年ボランティア養成講座のほか、青少年ボランティアの集い、青少年ボランティアバンク事業などが行われた。高まりを見せたこれらの社会教育や指導者養成の事業は、ほとんどが少年または高校生を対象としたものであり、それ以上の年齢の青年に関しては、青年対象事業の近年の不振を反映して、国際交流事業を除いて文献点数も少なくなっていった。子どもにとっての「自然生活へのチャレンジ」のように、青年にとってインパクトのある事業とは何なのかを探る実践と研究が求められた。
 そのひとつは、村おこし、町づくり、社会参加活動などに主体的に関わっている青年たちの姿であった。「平成2年度秋田県青年の家紀要−青年団体の組織づくりの方策を探る」(文献0246)では、新たに組織された青年団体の事例が紹介された。事例は、農業近代化ゼミナール、地域振興、ふるさと探検隊、ふるさと創生、イベント演出集団、パーティー仕掛人集団、などである。このような新しい形の団体活動に対して、その自発性や活力を損なわないように援助するためには、社会教育はどうアプローチすればよいかを明らかにすることが課題になった。
1991年度
 「生涯学習ボランティア活動総合推進事業」に関するものが多かったが、そのほか、秋田県青少年団体連絡協議会「あすの秋田を拓く青年団体リーダー研修資料」(文献0400)では、町づくりイベントの視点が、神奈川県青少年指導者養成協議会「かながわの青少年指導者養成の新たな展開をめざして」(文献0403)では、高齢者までを含めた異世代交流、生涯学習、情報活用、国際社会、多元社会、技術革新、余暇時間増大の視点が、指導者養成の視点として重視された。
1992年度
 田中治彦が、「青少年指導者講習会(IFEL)とその影響に関する総合的研究」(文献0580)を行ない、社会教育法の形成などのさまざまな政策の橋渡しとしてのIFELの歴史的役割を究明した。ボランティア活動については、全日本社会教育連合会「社会教育」誌が「生涯学習ボランティア」を特集し、松下倶子は、その青少年の活動の意義として、集団の中での自分の立場を自覚して進んで役割をはたす行動が、さまざまに異なる他者と関わりをもちながら生きていくための体験になると主張した(文献0835)。日本青年奉仕協会は、「ボランティア白書1992年版」(文献0470)を発行し、社会奉仕を「もうひとつの教育」としてとらえ、それが共生社会の創造につながるという視点を提示した。
1993年度
 「社会教育ボランティア活動総合推進事業」の報告書が多数発行された。また、日本青年奉仕協会興梠寛「生涯学習ボランティアを検証する」(文献0666)は、自主的主体的な草の根活動としてのボランティア活動の意義を強調し、それを人間存在のための学びとして位置づけた。平野嘉昭「育ちの場としてのボランティア−青少年のボランティア活動参加の意味を考える」(文献0657)は、従来、青少年の主体性が育たなかった原因は、大人が彼らの自発的な活動をきちんと評価しなかったこと、また大人の権力によってその自発的な芽をつんできたところにあったと指摘した。
1994年度
 「生涯学習ボランティア活動総合推進事業」の報告書が多数発行されたほか、国立オリンピック記念青少年総合センターが「青少年教育施設におけるボランティアの養成と活動について(調査報告書)」(文献0897)を発行した。国立花山少年自然の家は「平成6年度主催事業青少年教育施設ボランティア養成事業実施結果報告書」(文献0948)において、社会福祉ではなく社会教育のためのボランティア養成としての花山ボランティア・スクールの16年の経緯をまとめた。埼玉県青少年問題協議会意見具申「青少年のボランティア活動の促進について」(文献0985)は、自立と社会参加の二つの資質がバランスよく調和のとれた発達を実現できるよう、社会や育成者による助力が必要であるとした。
1999年度
 「生涯学習ボランティア活動促進事業」等による社会教育からの中・高校生へのアプローチが盛んに行われた。
2000年度
 ボランティアに関しては「奉仕活動」との比較が議論された。関連して興梠寛は、現在の米国の「コミュニティ・サービス」「サービス・ラーニング」などを紹介し、ボランティア活動の持つ「教育的力」を説いた上で、「奉仕活動」の18歳義務化よりも「ボランティア学習」必修化が現実的と主張した(文献2836)。
2001年度
 指導者については、東京都における「心と身体の居場所をなくして漂う青少年への接触とアドバイス」などを行うユースワーカーシステムの概要が報告された(文献3058)。
 教職志望学生については、金沢大学等で、地域の教育委員会と連携して「フレンドシップ事業」が行われた(文献3450)。これは、地元の小学生と教員を目指す大学生が共にキャンプ生活をしながら、「自然の中でたくましく生きる力」を習得するものである。また、林幸克らが、教職希望学生対象研修会の効果に関する項目についての因子分析を行い、青少年教育施設における研修会が「集団活動やその指導の自信」等の因子の向上に有効であるとした(文献3459)。
 文部科学省では、従来にない新しい人材養成事業「野外教育企画担当者セミナー」を、民間団体との連携により、各独立行政法人の施設の協力のもとに平成9年度から実施し、同年度は7種類の研修を15会場で実施した。青少年野外教育指導者研修事業研究会による同事業の報告書には「野外教育の考え方、指導者の役割、養成事業の構成、実際の進め方」がまとめられた(文献3143)。
 ボランティアについては、神奈川県青少年総合研修センターがコミュニティサービスラーニングとその視点による「総合的な学習の時間」や地域活動等への展開の研究を報告した(文献3822)。日本総合研究所はアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、韓国の6カ国を対象に、文献調査および現地でのヒアリング調査を行い、「社会奉仕活動の指導・実施方法に関する調査研究報告書」(文献3144)をまとめた。
 山形県の高校生ボランティア活動は、学校の枠を越え、地域単位サークルとして発展してきた。この「山形方式」を全国に向かって発信するため、文部科学省委嘱事業として「ボランティアフェスティバル」を行い、青少年の社会形成力の育成を図った(文献3219)。
2002年度
 指導者に関しては、黒木宣博が英国のユースワーカーのもつマンパワーの意義から学ぶよう提唱した(文献3839)。
 ボランティア活動に関しては、大分県が県のセンターに加え、10町村に市町村青少年ボランティアセンターを開設した(文献3746)。北九州市立青少年ボランティアステーションが開設1周年を迎えた(文献3751)。国立オリンピック記念青少年総合センターが「ボランティア学習プログラムの在り方に関する調査研究」を行った(文献3689)。文部科学省が「学校と地域を通じた奉仕活動推進事業」を行った(文献3478)。国立花山少年自然の家は、東北学院大学の授業「ボランティア活動」の運営に1年間携わり、「サービスラーニング(奉仕活動を正規のカリキュラムに位置づけた教育活動)」の一環として、花山ボランティアスクールに学生が参加した(文献3491)。
2003年度
 ボランティアに関しては、大分県立生涯教育センターが、受け入れ先の施設や機関の開拓など、青少年のボランティア活動をコーディネートした。しかし、意欲的な子どもがいても、希望する活動の受け入れ先が見つからないことも少なくないため、新たな受け入れ先の拡充が必要とした(文献4014)。また、三井情報開発株式会社総合研究所が「ボランティア活動を推進する社会的気運醸成に関する調査研究報告書」を発行した(文献4242)。

(3) 「団体活動」
1989年度
 全国規模の団体の中では、中央青少年団体連絡協議会の法人化に伴う動向が重要であった。同会発行の『なかまたち』24号では、「21世紀に向けて飛躍する中青連」という特集テーマのもとに、中青連の法人化の3つの目標である「財源の確保と財政自立」、「社会的責任の認識と認知」、「国際化への対応」について説明した。とくに、「国際化」については、加盟団体の国際交流のための橋渡しや世界的なネットワークづくりなどのための国際的役割についての提言も含まれた(文献0026)。
 また、中青連特別委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」では、「個のふかみ」(個の充実)や「MAZE」(何が起こるかわからない「迷路」に挑戦する姿勢)などの新しいキーワードを示しながら、グループワーク理論の再構築、カウンセリングマインドに根ざしたコミュニケーションの創造などによる、青少年の「個」を大切にする団体運営への方向を提起している(文献0096)。
 その他、「誠実、勇気、自信及び国際愛と人道主義」を目的とするボーイスカウト日本連盟の『スカウト』『スカウティング』、「立派な品性と奉仕の精神を養う」(目的綱領より)少女教育をめざすガールスカウト日本連盟の『リーダーの友』、子ども会の指導者のための『月刊子ども会』、地域の激変の中で青年団活動をいかに運営するかを探る『青年−TheSeinen』などの各種の団体機関誌が、現代の問題状況やメンバーのニーズにマッチした形を工夫しながら、本来の団体固有の教育的目的を実現しようとした。
1990年度
 学校週5日制に関連した青少年団体の動向が注目される。中央青少年団体連絡協議会特別研究委員会は、同年度末に「学校週五日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動」という提言をまとめた。そこでは、学校が週五日制になったからといって、既成の青少年団体が安易に請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、土曜日の子育てを地域の親たちの共同作業(共働)にしようと提言された。これを同提言は「地域子育てネットワーク」と呼び、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもつ個人として生きるという意味の「個の深み」と、指導者がお膳立てしたものではないもの、見通しをもちきっていないものなどを取り入れるという意味の「MAZE」(迷路)が、前年度の提言に引き続きキーワードとして提示された(文献0248)。
 学校5日制の「受け皿」として青少年団体がたんなる数量的な拡張をするだけではなく、学校5日制をひとつの契機として、青少年団体の活動スタイルそのものを、このように時代に対応し、また学校週5日制の理念に沿って変化、発展していく姿が注目される。
1991年度
 「ピラミッド型よりもアメーバ型を好む青年」の新しいニーズに対応する青少年団体のあり方を模索する「生涯学習時代を担う日本青年館セミナー報告書」(文献0417)、「未来都市創造のために青年の声を地域社会に反映させよう」と訴える「日本都市青年会議広島大会報告書」(文献0419)などの団体自身の発行資料のほか、田中治彦によるボーイスカウト運動の歴史に関する実証的研究が注目される(文献0453)。
1992年度
 ガールスカウト日本連盟が「挑戦しつづける運動」を発行し、「世界連盟の基本」を紹介するとともに、今日的課題に対する基本姿勢を明らかにした(文献0585)。日本青年館は、青年団体活動の実践事例研究をふまえて行なわれた「生涯学習時代を担う日本青年館セミナー」の報告書を発行し、那須野隆一は、その基調講演において、従来の承り学習や世代の輪切り学習に対して反省を促している(文献0586)。
1993年度
 秋田県青年の家「秋田県の青年団体、グループ・サークルの調査とその動向を探る」(文献0778)、全国子ども会連合会「子ども会活動における子どもの成長に関する調査」などの調査結果(文献0781)が発表された。小林平造「青年自身が世界を読み取り、歴史を綴る筋道」(文献0612)は、鹿児島県青年団協議会の「青年の成長を重視する青年団構想」を、自助と連帯を事実によってさとる運動として評価している。
1994年度
 青森県総合社会教育センターが「団体(グループ・サークル)活動と青少年の意識・行動に関する調査」(文献0803)を、全国子ども会連合会が「子ども会活動等の団体活動経験者の行動特性に関する調査−ジュニア・リーダーの日常生活と意識に関する調査」(文献0997)を行った。
1995年度
 田中治彦が「ボーイスカウト−二十世紀青少年運動の原型」(中央公論社)(文献1077)を出版した。
1997年度
 仙台市青少年問題協議会「子ども会活性化方策について(報告)」(文献1799)が地域の多様な年齢層との関係の樹立による再生を、岡山県「これからのFOS少年団の在り方について(報告)」(文献2150)は家族的雰囲気による少人数団活動の工夫などを提言し、静岡県「青少年活動の活性化について(報告書)」(文献1638)は親たちや地域社会がコミュニケーションを行えるゆとりがなければならないとした。日本都市青年会議は「都市青年活動一覧」(文献1803)で全国調査結果を発表した。一方、大下勝巳が、個人としての「私」を取り戻して子どもに向き合い、大人のネットワークづくりを進めてきた「おやじの会」の報告を通して、新しい地縁社会の創造をめざすテーマ・コミュニティにおける市民の意識改革の意義を主張した(文献1554)。恒吉紀寿が、貝塚・子育てネットワークの会、こころの子育てインターねっと関西などの子育て関連のNPOを紹介した(文献1801)。
1998年度
 NPO法に関心が寄せられた。神奈川県青少年総合研修センターは「神奈川県青少年体験活動実態調査」(文献1996)で、青少年の体験活動を行う草の根の団体の網羅的な把握を試みた。横浜市港南区まちづくり塾では市民と行政のパートナーシップが目指され、「子育てまち育て塾」などが市の助成金を受けて展開された(文献1933)。
1999年度
 NPOの可能性や「生きる力」をはぐくむ青少年団体の教育力に関心が集まった。ガールスカウト日本連盟は「やくそくとおきて」を新たにし、前年の日韓両日政府による共同宣言「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」に基づく交流事業のほか、ジェンダー、インターネット等の今日的課題に盛んに取り組んだ(文献2568)。「全国子どもプラン」の一環として、全国子ども会連合会「我が家の家風とアクションプラン」(文献2558)、日本PTA全国協議会「子どもインターンシップ」(文献2563)、日本都市青年会議「子ども地域活動促進事業」(文献2355)などが行われた。
2000年度
 ガールスカウト日本連盟は「やくそくとおきて」の改定をもとにガールスカウト教育内容を見直し、「新教育プログラム」として今年度試行を開始した。そこでは、「自ら参画する姿勢」の重要性が強調された(文献3013)。
2001年度
 子どもの体験・読書活動を推進する活動とそれに役立つ教材開発を行う団体に対して助成金を交付する「子どもゆめ基金」が、前年度からスタートした(文献3221)。全国生涯学習まちづくり研究会の主催による「子どもをほめよう研究会」の第1回研究会が開かれ、子ほめ条例を制定している各地の事例が報告された(文献3177)。
2002年度
 既存の青少年団体が、社会の価値観の変化等の厳しい状況のなか、それに対応し、さらには次の時代の展望を示すような、団体特有の存在価値をあらためて生かすための模索をした。
 日本青年奉仕協会が「青年・社会人向けのボランティア活動及び社会奉仕体験活動にかかる長期参加プログラムに関する調査研究報告」(文献3835)を発行した。また、同協会は、「不登校児等支援」を目指す団体に1年間にわたる青年ボランティアを派遣し、問題解決のための支援のネットワークづくりを行った(文献3848)。ガールスカウト日本連盟・ボーイスカウト日本連盟が「地域ネットワークづくり」を行っている青少年団体、民間団体、地域団体の事例を調査した。松下倶子はこれを紹介し、@各団の自己診断、Aこれまでの実績が明確に理解されるような発信、B団体での活動を社会生活でも活かされるようにするなどを提案した(文献3335)。文部科学省が「子どもとインターネット」に関するNPO等についての調査研究報告書を発行した(文献3843)。
 江東区教育委員会が「子ども会活動事例集」(文献3845)を発行した。石井幸夫が、子ども会は「生きる力」をいかにして子どもたちに与えられるかを論じ、子ども会で育むべき具体的な能力として、@好奇心(いろいろなことに興味や関心をもったり、感動する能力)、A行動力(興味・関心をもって物事を観察したり創ったりする能力)、B表現力(自分の意見・考えをまとめ、発表したり、訴えたりする対人関係能力)を挙げた(文献3640)。
2003年度
 全国子ども会連合会が「子どもが主人公の場作りと親へのサポート事業調査報告書」(文献4132)において、家庭開放・遊び場・キャンプ場の3拠点から子どもが主人公になる居場所作りをすすめている事例研究の成果を報告した。日本キャンプ協会「キャンプ研究」(文献4109)は、「長期キャンプが参加者に及ぼす効果とその維持時間」(久保和之他)、「キャンプ実習における状態不安に関する研究−係の役割に着目して」(池畑亜由美他)などの諸論文を掲載した。日本赤十字社は「青少年赤十字活動実践事例集全国版」(文献4245)において、学校の教育目標達成のために取り入れられ、効果を上げている先進的な42の事例を紹介した。また、小川俊一は日本都市青年会議による「子ども・若者・居場所」の調査概要について紹介し、居場所としての住民施設、住民による居場所づくり、まちのたまり場、若者たちが創り出す「若者の居場所」などの意義について述べた(文献4108)。夏秋英房は「愛知県半田市の総合型地域スポーツクラブの展開と運動部活動」において、それが学校の特別活動のあり方とどのように関わるかを検討した(文献3859)。山城千秋は「沖縄における地域の共同性と青年の主体形成を促す地域文化活動に関する研究」(文献4243)において、青年会における地域文化活動、特に民俗芸能の伝承過程を考察し、経済的自立のためアルバイトで生計を立てる沖縄の青年が有する、家族、親族、地域の共同性に価値をおく志向について、今日の人間関係不全によって閉塞状況にある日本社会に対して、主体的に生きることの本質を示すものとして評価した。

(4) 「国際交流」
1991年度
 各自治体が行う青年海外派遣事業のほか、民間団体の機動力を活かした事業が注目される。神奈川県青少年協会「海外派遣団」では、タイで植林活動が(文献0423)、ガールスカウト日本連盟「開発教育プロジェクト」では、ネパールで簡易水道に水栓をつける事業が(文献0424)、新潟国際ボランティアセンター「スタディーツアー」では、タイのカンボジア国境やカオイダン難民キャンプでの活動(文献0301)などが行われた。
1993年度
 「社会教育」は、特集「内なる国際化への生涯学習事業」(文献0620)を組み、青年海外協力隊などについて、三沢昌子が、「国際協力のためボランティア活動をしている人たちの姿は、『ボランティア=奉仕』という概念から、『ボランティア=活動しながら学ぶ』ものであるという認識を新たにさせられた」と指摘した。田中治彦「NGO活動と社会教育団体の役割−開発教育を進めるYMCAのネットワーキング」(文献0608)は、社会教育と開発教育の関係について、YMCA、ガールスカウト、ユネスコ協会連盟など民間社会教育団体の取り組みが早かったのに比べて、行政社会教育は地域に密着している代わりに国際感覚には乏しかったこと、しかし、このことは逆に強みでもあり、日頃なまの国際的な情報に乏しい農村部や、都市部であっても従来あまり関心を示さなかった層に浸透していく可能性をもっていることなどを指摘した。
1994年度
 国立オリンピック記念青少年総合センターが、全国の都道府県教育委員会および青少年教育施設で行っている国際交流・国際理解事業の概況及び事例について調査して報告書を発行した(文献0828)。田中治彦「南北問題と開発教育」(亜紀書房)(文献0841)は、日本の学校教育においては「日本人」であることを強調する考え方と、「国際人」を養成すべきとする考え方が存在し、両者が整合性を持たないまま現場では同時並行的に教えられているとして、近年地球規模で解決すべき課題が多くなるにつれて、従来の民族主義と国際主義の対立を乗り超える「地球市民意識」の形成が求められると主張した。
1997年度
 例年通り青年海外派遣事業が多かったが、大橋玲子は、その目的が、事業開始当初の見聞を広めるという目的から、青年たちに自己を見つめ直し、新たなる発見をさせる場としての役割に変化しつつあると指摘した。
2001年度
 自治体主催の海外派遣事業に代わって、ガールスカウト、世界青少年交流協会、日本スポーツ少年団等の民間団体による国際交流事業が目立った。
2002年度
 国際交流に関する青少年団体の実践が目立った。修養団青年部は、フィリピンのストリートチルドレンやスカベンジャー(ゴミ捨て場で働く子どもたち)を訪問し、支援活動・交流活動を実践した(文献3549)。ガールスカウト日本連盟のUKガイド招聘事業は、実行委員を会員から募り、若い女性が企画・運営の体験を通じて力をつける機会とした(文献3853)。そのほか、川上衛が、ワーキング・ホリデー制度は「自分で決めて何でもできるが、行動は自分の責任である」という自覚が大切とした(文献3665)。文部科学省国際教育協力懇談会が「ダカール行動枠組み」に対する我が国の対応等の資料をまとめた(文献3584)。
2003年度
 「南」の子ども支援NGOネットワークが「国際協力NGOのための子ども参加実践ガイドライン2003」(文献4041)を発行し、「子ども参加はなぜ必要か」、「子ども参加の重要性を組織内でどう共有するか」などについて述べた。伊藤幸洋他は2002年度に行った「PEACE」という「総合的な学習の時間」の実践の研究成果を発表した。伊藤らは、国際理解を進めるために「その人と仲良くなりたい」思いを引き出す必要があるとして、人との出会いを通しての「学習手段」、「表現手段(コミュニケーションスキル)」、「関わり合う力」の獲得の重要性を指摘した(文献4248)。藤田克昌は「国際理解教育を進める実践的アプローチの研究−問題解決能力を高める参加型学習を通して」において、国際理解教育での参加型学習の有効性や問題点を明確にするとともに、学習資料のデータベース化について検討を行った(文献4249)。帆足哲哉は「ドイツにおける異文化間教育に関する一考察−地域社会における(学習)活動の視点から」において、「共存・共生」を見据えた地域での教育のあり方を検討した(文献4086)。

(5) 「メディア」(文化一般を含む)
1989年度
 高橋勇悦他『メディア革命と青年−新しい情報文化の誕生−』(恒星社厚生閣)(文献0093)が、新しい視角を提示した。高橋らは、今日の青少年がテレビなどを生まれたときから享受して育った初めての世代であるとの認識のもとに、青少年とテレビ、電話、ファミコン、パソコン、パソコン通信との接触を共感的に分析した上で、「青年を中心として軽いメディア文化が洗練される」として、情報化の主体としての青少年の形成に期待をかけた。小平さち子「幼稚園・保育所におけるテレビの利用」「家庭における子どもとテレビ」(NHK放送文化調査研究所『放送研究と調査』39巻6号、8号)(文献0147)、深谷和子他「電話・手紙」「テレビアニメ(ドラマ)と子どもたち」(福武書店教育研究所『モノグラフ・小学生ナウ』9巻8号、10号)(文献0053)などが、子どもをとりまくメディア環境の今日の変化を、調査にもとづいて具体的に明らかにした。
1994年度
 メディア接触、テレビゲーム、テレビ子ども番組、放送の公共性と番組内容規制などに関する議論が盛んになった。
1995年度
 電子メディア、テレビ、漫画等とのメディア接触、ジェンダーの影響などに関する文献が発行された。
1996年度
 インターネット、パソコン通信、ポケベル、メディア等の青少年に関する影響などに関する文献が発行された。
 また、若者文化の面では、西村美東士が、「何にムカツいているのか?−癒されない若者文化たち」(文献1493)において、同質の仲間集団とあわせて仲良くやっていこうとする若者のピアコンセプトの弱点を指摘し、サンマ(時間・空間・仲間の三間)で得られる「癒し」による対抗文化の意義を主張した。藤村正之は、マクロな社会現象に積極的に関与しようとはせず、ミクロな社会たる他者像も十分に結びえない若者たちに残された物語は「等身大の自己」という物語であるとし、イッキ飲みやカラオケ・ボックスで象徴的に展開される若者たちのコミュニケーション世界について「みんなぼっちの時代」と指摘した(文献1263)。
1997年度
 青少年問題審議会「高度情報通信社会に向けた青少年育成の基本的方向−青少年の社会参加の拡大とその課題」(平成9年4月意見具申)(文献1645)が提言された。西村美東士が、今日のインターネットなどの情報通信技術の発展によって現代青年にとって一番遠い所にある情報としての地域や行政の情報が開かれたものになり、電子的仮想空間における「自負できるプライバシー」および「二次利用されたい著作権」が若者に「癒し」を与える可能性を指摘した(文献1671)。
1998年度
 「全国子どもプラン」による「こども放送局」が実施された(文献1946)。総務庁青少年対策本部は「青少年とパソコンなどに関する調査研究報告書」で、利用実態や有害情報への接触実態などを明らかにした(文献1883)。民放連では、放送基準審議会を中核に「番組規制問題」および「青少年と放送」について検討を進め、番組格付けやVチップ制度について拙速を避けるよう主張した(文献1920)。
1999年度
 メディアやインターネットが青少年に与える影響については、その功罪について議論が両極化し、実証的研究が進んだ。7月に文部省は「教育情報衛星通信ネットワーク(エル・ネット)」の運用を開始した。「子ども放送局」は、これを利用し、全国子どもプランの一環として、子どもたちの夢や希望をはぐくむ番組を放送しようとした(文献2297)。
2000年度
 「子ども放送局」や「エル・ネット」等の活用が提唱された。坂井知志が、衛星通信やインターネットなどの「道具」としての可能性を訴えた(文献2711)。
 NHKと民放連共同により第三者機関「放送と青少年に関する委員会(青少年委員会)」が放送番組向上協議会に設置され、青少年有害環境問題とメディアの自律との関係が議論された(文献2876)。竹内淳は「青少年社会環境対策基本法案」による包括的メディア規制を批判し、民放界の自助努力を一定期間見守るよう主張した(文献2875)。
2001年度
 IT化、グローバル化の進行の中で、温かいコミュニケーションや、自己の社会的存在確認を志向する動向が強まった。
 携帯電話やインターネットで結ばれている若者の友人関係は、「広いが浅い」なのか「選択的」なのか、浅野智彦らによる『みんなぼっちの世界』(平成11年、恒星社厚生閣)での提起を受けて、塩森継紀「親指ネットと若者の友人関係の変容」(文献3439)などの議論が行われた。また、山本功は「現実から逃げてバーチャルな世界に没頭する若者というよりは、いわば現実のストリートにいる少年の方が『会ったことのない人』とメールでやりとりしている」とした(文献2371)。
 他方、青少年交友協会は各国の自然観や野外伝承遊びを調査し、森田勇造理事長が「科学文明社会の子どもたち」に対する野外文化教育の重要性を主張した(文献3212)。
2002年度
 IT化の是非論にとどまるのではなく、青少年にとってのその特性を理解し、望ましい対応を考えるための議論がされた。他方、メディア社会のなか、彼らにとっての読書の意義を見直し、その推進を主張する論調も強まった。
 インターネットに関して、内閣府政策統括官が「青少年を取り巻く環境の整備に関する指針−情報化社会の進展に対応して」に基づく取組等の実施状況をまとめた(文献3517)。また、「第4回情報化社会と青少年に関する調査報告書」を発行した(文献3579)。広島市青少年問題協議会が「電子メディアと子どもたち」に関する実態調査を行い、「広島発の特色を」などと提言した(文献3580)。青少年育成国民会議がホームページ上で「全国ネットシンポジウム」を開いた(文献3826)。
 国語に関しては、旺文社生涯学習検定センターが「実用日本語語彙力検定」受検者の小・中・高校生を対象に「ことばに関するアンケート」を実施し、「大半の子どもが『乱れた日本語』を自覚しながらも使用」と調査結果をまとめた(文献3606)。
 読書に関しては、福岡県が「青少年アンビシャス運動」(県民運動)の一環として「本のわくわく探検事業」を行った(文献3834)。文部科学省が「子どもの読書活動の推進について」を発行し、全国子ども読書活動推進キャンペーンや支援事業等について紹介した(文献3837)。
2003年度
 文部科学省が「子どもとテレビゲームに関するNPO等についての調査研究」を米国調査の結果も含めて報告した(文献4236)。そこでは、知的能力、学力、体力に関する研究、影響力を規定する条件を特定する研究などの必要が指摘された。


1.6 これまでの社会化支援理念の検討
1.6.1 1990年代における「個性尊重」支援理念の検討
 以上の文献分析をもとに、われわれは以下のように、1990年代における「個性尊重」支援理念についての検討を行った9。

(1) 1990年代初頭の動き
  −臨教審/個性重視/生涯学習

 1985年6月、臨時教育審議会(以下、臨教審)「教育改革に関する第1次答申」は、欧米へのキャッチアップを実現した我が国の教育改革の基本的考え方として、個性重視の原則を挙げ、生涯学習体系への移行を訴えた。「個性重視」はその後の審議でも中心課題であり、最終答申である第4次答申(87/8)は、教育の基本的在り方と視点として、@個性重視、A生涯学習、B変化への対応、を提示した。90年代の青少年教育は、この考え方に大きな影響を受けながら展開する。
 ただし、臨教審のいう「個性重視」という言葉については、第1部会では新しい教育理念として「個性主義」(個性の最大限の開発)が提起されており、これを「現状の教育の枠内での言葉に置き換えられてしまった」(第1部会委員中内功)結果のもの、すなわち妥協の産物とみることができる。ここには、社会的機能としての教育と、個人的活動としての学習との、折り合いをつけることの難しさが表れている。
 その後、生涯学習局を筆頭局として設置するなど文部省の組織の大規模な改革(88/7)や生涯学習の基盤整備を図ることを目的としたいわゆる「生涯学習振興法」の公布(90/6)があった。中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」(90/1)は、生涯学習を振興するに際して国や地方公共団体に期待される役割は、人々の学習が円滑に行われるよう、生涯学習の基盤を整備して人々の生涯学習を支援していくことであるとし、生涯学習の推進体制や地域における生涯学習推進の中心機関となる生涯学習センターの設置などの基盤整備の具体策を提言した。また、留意点として、次のように述べた。@生涯学習は、生活の向上、職業上の能力の向上や、自己の充実を目指し、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであること。A生涯学習は、必要に応じ、可能なかぎり自己に適した手段及び方法を自ら選びながら、生涯を通じて行うものであること。B生涯学習は、学校や社会の中で意図的、組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われるものであること。同審議会答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」(91/4)は、学校教育を生涯学習の一環としてとらえ、過度の受験競争など学校教育が抱えている問題点を解決するためにも、生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果を評価するような生涯学習社会を築いていくことが望まれるとした。
 生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(92/7)は、人々が生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果が適切に評価されるような生涯学習社会の構築を目指すべきであるとし、当面の重点課題として、@社会人になってからでも再び教育を受けられるリカレント教育の推進、Aボランティア活動の支援・推進、B青少年の学校外活動の充実、C環境、情報の活用等の現代的な課題に関する学習機会の提供を挙げた。
 本研究報告ですでに述べてきたように、これまでの社会化支援理念においては、臨教審が20年以上前に提起した「個人主義」、「個性重視」と社会化支援との関連づけが不十分であったと考える

(2) 大人の個が問われる
  −学校週5日制/個の深み/心を育てる

@ 大人自身の「個」の確立
 92年9月、毎月第2土曜日を休業日とする学校週5日制が実施され、2002年には完全実施されることになった。
 中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言「学校週5日制時代に向けて豊かな人間交流を−時間・空間・仲間を生かす青少年団体活動」(91/3)は、既成の青少年団体が安易に請け負い主義的に土曜日の子どもたちの面倒を見ればよいとするのではなく、土曜日の子育てを地域の親たちの共同作業(共働)にしようと呼びかけた。西村美東士は委員として、「地域子育てネットワーク」において、個人が集団に埋没することなく、個人一人ひとりがそれぞれの方向性をもつ個人として生きるという意味の「個の深み」が重要であることを文中で提起した。
 これは、学校週5日制の受け皿として青少年団体がたんなる数量的な拡張をするだけではなく、5日制をひとつの契機として、青少年団体の活動スタイルそのものを時代に対応して変化、発展させようとする提起であり、そこで問われるのは指導者や大人自身の「個の深み」の発揮である。
 京都府では「京都府青少年プラン」(91/3)が策定され、その視点として、大人一人ひとりが青少年を育てることが挙げられた。大阪府では「大阪府青少年育成計画(プラネット計画)」の計画期間の終了に伴い、「第2次大阪府青少年育成計画(新プラネット計画)」(92/1)を策定した。この計画作りの視点としては、おとな社会の問い直し、青少年文化の積極的評価、おとなと青少年の共育、などが挙げられている。「大阪府青少年白書」は、これを受け、青少年が「心の豊かさや精神的なたくましさに欠ける」とか「自立がおくれている」とかいわれていることに対して、そのような指摘のあたる面もいくつか見られるが、一方では、青少年がおとな以上に優れた感性や能力をもっている面もあるという認識から、彼らのためにいかなる環境をつくるかについての大人の責任が重大である、と提起している。
 青少年育成国民運動に関しては、93年3月、青少年育成国民会議が『生かそう、学校週5日制』を発行し、具体的条件づくりとして、@地域の育成体制の充実、Aヤル気のある指導者のネットワークづくり、B活動の場の整備・充実、C子どもたちに魅力ある活動を、D非行防止への配慮を、E安全対策と情報提供を、と提案し、同会議におかれた特別研究委員会は「21世紀に向けての青少年育成構想」を報告し、「少子化と青少年育成」に関して、@育児条件の整備、A子育てを社会的な視点で、B男性の育児参加、C育児に対する職場での理解、D地域の中で子育てネットワークを、と提言した。
 岐阜県個性を活かす社会づくり懇談会「個性を活かす社会づくりに向けて」(94/3)は、その視点として、@個性を活かす社会づくりと教育、A自己教育力の養成、B生涯教育の体系化、C人間観の変革、D教師観の変革・教師自身に対する視点の見直しなどを提言し、その青少年対策検討委員会報告書は、方策推進のための基本方向として、@自主性の尊重、A知的好奇心の尊重、B発達段階に応じた対応と体験的活動の重視、C21世紀に向かう社会的潮流を見据えた展開、D役割の明確化と連携のとれた取組みなどを提起した。報告では、一人ひとりの個性を尊重することにより、「個人の幸福」と「社会の発展」の両面の達成が可能になり、その社会は、長所優先主義で、個性の多様性、異質性が尊重されるとした。社会そのものに「個性を活かす」ことを求めたのである。
 山梨県青少年総合対策本部「やまなし青少年プラン」(94/3)は、「教育」から「共生」への意識改革を訴え、「青少年問題は大人の問題」とした。横浜市青少年問題協議会「青少年の主体的成長・発達をめざして」(同)は、彼らの健全な発達を保障する環境づくりについて提言したうえで、青少年自身がこの世に生まれでた命を自らが誇りとすることができ、また自覚と自律心のある人間として健やかに成長することを願い、青少年に対して「君たちの心を親はわかってくれているか」と呼びかけた。
 『富山の青少年』(95/1)は、青少年問題の対策に関する基本的認識として、「青少年はその時代を写し出す鏡でもある」とし、青少年問題は社会全体とりわけ大人の姿勢の問題であるということを常に認識し、家庭、学校、職場、地域社会等、社会の各分野において大人たちが、それぞれの役割と責任を果たすよう提唱した。「わかやまの青少年プラン」(95/10)は、「大人自身が青少年とともに学び、育つ姿勢を堅持します」という視点のもと、「青少年が世代をつなぐ意思を持って自立していくために、大人もともに働き、ともに生活し、次代を育てる喜びと意味を自覚する必要があります。そのためには、大人自身が健やかに育ち、また、育とうとする努力が大切であり、新しい年齢観や世代役割を考え、創造し、ともに学び育つ姿勢を持ち続ける、いわゆる生涯学習の視点が重要」とした。「守口市青少年健全育成計画」(95/4)は、「青少年が変わったとか、理解できないとか嘆くのではなく、彼らの持つ新しい感性や表現方法を積極的に理解し、認知していく」とした上で、「人間や自然との共生を図り、ゆとりとぬくもりのある豊かな都市環境をつくる」、「青少年の夢を育て、生かすという視点に立って、青少年育成の観点を組み込んだ地域環境のあり方を見直す」としている。福岡市の「青少年対策の基本方向」(95/12)は、青少年の非行等問題行動への対応について、「単に対症療法的な対応や事後的措置だけでなく、大人社会の問題でもあるとの認識のもとに広く青少年の健全育成を基本とした総合的な取組を推進する必要がある」とした。
 東京都青少年問題協議会答申「青少年の自立と社会性を育むために東京都のとるべき方策について」(96/2)は、いじめ問題への対応について、「どうしたら社会全体に、正義が尊重され、勇気をもつことが価値とされるような文化を作り出すか、大人の姿勢が問われている。大人たちがボランティア活動にかかわる姿を一般化させ、ボランティアが日常化している社会的風土を広げることが必要である。こうして、社会全体が人にやさしい社会となる時、いじめは限りなく終息に近づくことであろう」としている。「埼玉の青少年」(96/3)は、青少年育成の基本理念として、「青少年問題は大人の問題」とし、「大人自身の生き方や社会のあり方を問い直し、大人一人ひとりが青少年育成に対する責任を自覚する必要がある」と述べている。そして、「〜してはいけない」と禁止的に働きかけるのではなく「〜しよう」と積極的に関わるよう提起している。「三重県青少年対策」(96/4)は、いじめについて「人権に係わる重大な問題」であることを社会全体の共通認識として位置づけるという方針のもと、父親の出番を重要な要素として受けとめるよう提唱した。
 また、西村美東士「チ・イ・キなんかが若者の居場所になるの?」(95/9、神奈川県青少年総合研修センター「あすへの力」)は、大人たちが「せめて青少年には幸せを」と言って、自分たち自身の不幸で非主体的な状況を批判しないまま地域教育力に期待を寄せることの滑稽さを指摘し、地域の「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずる、とした。さらに、岡山県社会教育委員の会議提言「青少年の学校外活動の充実について」(96/3)は、学校外の生活体験・自然体験のあり方について、「私たち大人が、星空の瞬きに、海岸の潮騒に、そして山々の薫りに関心を持つことができる生活態度を回復しなければならない」と提言している。大人個々人の実感の乏しさにまで踏み込んで指摘されるようになったのである。
 このように、90年代中盤、青少年対策や国民運動において、その活動が単なる「青少年対策」にとどまるものではなく、現代社会の大人自身がもっと人間的に成長することや、社会自体がもっと生きやすく、他者とともに生きることのできる社会になることと深く関連するという認識が深まっていった。
A 子育て支援と「心の教育」
 日本ユニセフ(国連児童基金)協会『ユニセフ年次報告』(97/3)で、事務局長キャロル・ベラミーは、「児童の権利条約」批准状況等の今日までの大きな前進を認めつつも、予防できるはずの人権侵害による死亡、不就学、厳しい貧しさ、その他搾取的な工場や戦場あるいは不健康な都市、とりわけ女の子への差別などの緊急な課題を提起した。同「世界子供白書」(98/12)は、テーマを教育とし、「なによりもまず学校教育は生涯学習の基礎にならなければならず、アクセス可能で、質が高く、柔軟で、ジェンダーに配慮し、女子教育を重視するものでなければならない」として、教育の権利、教育革命、人権に投資する、の3点を主張した。国際的にも、子どもの加害者としての大人や社会の問題が重視され、生涯学習の意義が強調された。
 東京都児童福祉審議会は「子育て支援のための新たな児童福祉・母子保健施策のあり方について」(92/11)は、福祉、保健、医療にとどまらず、関係各行政分野や家庭、地域社会、企業を含めた社会全体が総合的な取り組みを行なうよう提言した。そこでの「子育て支援」の理念とは、「子どもを産み育てることは、個人の自由意思に属することが尊重されるべきものである」としつつ、「行政は都民が希望と喜びをもって子どもを産み育てたいという動機づけになるような基盤づくりと、子どもを産み育てたいと希望する人々への支援策を行なうものである」というものであり、出産・育児に関する不安などの適切な情報提供と発見のシステムを要する問題をも児童福祉施策の対象に含めていくべきとして、大人の生涯学習支援の性格を強めていく。また、93年11月には、東京都福祉局、衛生局、教育庁の関係職員による「児童虐待防止マニュアル作成検討委員会」が発足し、『子どもの虐待防止マニュアル』(95/3)が作成された。
 国のエンゼルプランを受け、97年3月、「やまなしエンゼルプラン」は、@子どもの視点にたった施策の展開、A安心して子どもを生み育てることができる環境づくり、B子育て支援の社会環境づくりを、「摂津市児童育成計画」は、@最善の利益は子どもに、A地域や社会による子育て支援、B子どもとともに育つ都市づくり、を掲げた。後者は、誰もが楽しく子育てができ、子育てを通じて社会参加・参画ができるよう、親とともに、地域や行政が一体となって子育てに取り組むとしている。
 これらの動きのなかで、団体活動に関しても、97年度、仙台市青少年問題協議会報告「子ども会活性化方策について」が地域の多様な年齢層との関係の樹立による再生を、岡山県FOS少年団連盟専門委員会報告が家族的雰囲気による少人数団活動の工夫などを提言し、静岡県「青少年活動の活性化について(報告書)」は親たちや地域社会がコミュニケーションを行えるゆとりがなければならないとした。大下勝巳は、個人としての「私」を取り戻して子どもに向き合い、大人のネットワークづくりを進めてきた「おやじの会」の報告を通して、新しい地縁社会の創造をめざすテーマ・コミュニティにおける市民の意識改革の意義を主張した(97/5、全日本社会教育連合会『社会教育』)。
 香川県では、「青少年の自立支援事業」やCAP(Child Assault Prevention:子どもへの暴力防止)事業を実施した。これは、ワークショップを通して県民のCAPプログラムへの理解を深めるとともに、子どもが暴力から自分の身を守る知識と手段の習得を図るものである(99/3、青少年育成香川県民会議『青少年の自立支援事業実践事例集』より)。
 これら、大人の問題を問い、大人の心の転換を求める動きを、青少年教育において結実させた答申が、中央教育審議会「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機」(98/6)である。これは、「子どもたちに豊かな人間性がはぐくまれるためには、大人社会全体のモラルの低下を問い直す必要がある。子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人が増えている。子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした『次世代を育てる心を失う危機』に直面していることこそ、根本的な問題。今後、我々大人が率先してモラルの低下を是正し、この危機を乗り越えていこう」、「悪いことは悪いとしっかりしつけよう」などと訴えた。
 学校週5日制完全実施に向けて、地域において子どもたちに豊かで多彩な体験活動の機会を用意するため、文部省は1999年度を初年度とする「地域で子どもを育てよう緊急3カ年戦略(全国子どもプラン)」を策定した。国立信州高遠少年自然の家等では、青少年とくに中学生による憂慮すべき事件などについて、子どもたちのサインを大人が見落としているのではないかということから、前年度半ばの「子どもと話そう全国キャンペーン」に呼応した事業を春休みに展開した。静岡県では、文部省「子どもの『心の教育』全国アクションプラン」委嘱事業として「こどもの心を取り戻す教育推進事業」を実施した。兵庫県社会教育委員の会議は「子どもたちに生きる力を育む社会教育の推進」を報告した。神戸市須磨区の事件以来、「心の教育」の一層の充実を図ることの大切さを改めて認識し、前年度から、公立中学校2年生全員が、地域でボランティア体験や勤労体験等を行う「トライやる・ウィーク」推進事業等を実施しているが、本会議はこれを受けて青少年の心の居場所づくりなどを提言した。
 「心を育てる」について「心を育てるといわれたとき、その指さされた心のあり方が、教育を受けるものにとって本気になれないものだとしたら、指導行為など成り立つわけがない。青少年教育において「心を育てる」ためには、「青少年対策」だけでなく、何よりも大人の個の自己確立にまで踏み込まざるをえないという認識には、90年代終わりの時点ですでに到達しているといってよい。しかし、依然として残っている課題は、青少年にとっても、それを取り巻く大人にとっても、「自らが自らの心を育てる」という個の学習を現実化するための有効な支援方策を明らかにすることであると考える。
社会化支援理念の形成においても、「こころ」というきわめて個人的なテーマにアプローチせざるを得ない状況になったと考える。

(3) 個は個別に多義的に生きている
  −自由時間/ソロ/自分さがし

@ 「個」を生かした青少年育成
 神奈川県「かながわ青少年プラン改定実施計画」(91/3)は、「大人のつくった社会参加観の中での活動を期待したり、青少年に特別な行為を要求したりするのでは、青少年の自主性の芽は育ちません」とした。青少年への大人や社会の側から期待するだけでは、青少年個人にとっては意味あるものにならないということであろう。91年度からの「新富山県民総合計画」は、若者の定着と流入のため、若者の感性にあった都市、深夜まで楽しめるまちづくり等をめざした。ただし、沖縄県ではのちに「青少年の深夜はいかい防止県民一斉行動」(95年度から)を始め、青少年の夜遊びや深夜はいかいの現状に対し、全県民が生活リズムの確立を図り、大人自らが夜型社会を是正するよう求めている。
 埼玉県青少年問題協議会意見具申「青少年健全育成の進め方について」(92/2)は、青少年健全育成の3つの原則として、@科学性−専門的知識や技術の活用、A計画性−長期的視点に立った目標の設定と実行、B総合性−密接な相互連帯と全人性の形成を挙げ、「さいたま青少年育成指針」(92/9)について、行為主体である青少年の活動の実効性や定着を図り、受け入れやすいものにするよう具申した。山形県では、共生、融合、創造、自己実現、関係の5つをテーマとする「新アルカディア構想」に基づいて「やまがた青少年プラン」(92/9)を策定し、青少年の自主性を大切にし、自立と連帯を推進する、などの視点を提示した。群馬県「群馬県青少年健全育成マスタープラン」(93/3)は、「21世紀の主役を育てる」ため、青少年の主体的、積極的な社会参加の実現をめざし、青少年の自主的な活動の促進を計画した。「行為主体である青少年」個人に対して、青少年教育はいかに関われば実効性をもつのか。
 「京都市青少年育成計画」(93/6)は、73年以降「ユース・サービス」(青少年の自己成長の援助)を青少年育成の基本理念に掲げている京都市において、成長のモデルを大人に求めることができた時代が過去のものとなり、子どもから大人へと発達課題を達成しながら成長することが困難となった今の時代にあって、青少年の立場に立った育成の理念と方向性を、新しいユース・サービスの展開として提案した。計画策定の視点は、「現代の青少年への視点−『個』の尊重」を挙げ、従来のように青少年を『集合』としてとらえることから離れて、『個』としてみつめ、基本的人権の尊重を出発点として、個人差の大きさもそれ自身、独自の価値をもつものとして尊重する、というものである。岡山県青少年問題協議会意見具申「少子化社会と青少年の健全育成」(95/3)は、画一を是とする誤解の解消として、「みんなと違うからこそ価値があること」「みんなと同じようにしないこと、あるいはできないことがあること、それこそが人間一人ひとりの尊厳であり、かけがえのない価値の証明である」ということを子どもたちに伝えていくような教育を展開するよう訴えた。
 東京都青少年問題協議会意見具申「青少年が主体的、創造的に生きる21世紀を−『自由時間』の中での成長」(94/3)は、学校に代表される計画され、整えられ、課題の用意された時間(課題のある時間)の中での成長のほかに、遊びに代表される自由な時間の中でのもうひとつの成長を重視し、「自由時間」の中での今日の青少年の成長の機会が欠けていたのではないかと指摘した。そして、青少年の新しいライフスタイル確立のためには、自由時間を主体的・創造的に活用し、活動を展開できるような精神や態度をも含むいわば「余暇(活用)能力」が必要であるとし、青少年が「自由時間」を十分活用できるように、あるいは青少年の余暇活動を十分サポートできるように、社会システムを構築することなどを提言した。これは、従来の自主性の尊重から、外から与えられた課題のない自由時間の尊重への姿勢の進展である。
 また、93年から94年にかけて、前出『社会教育』誌が、青少年への「死への準備教育」等を意識しつつ外的環境と精神世界の調和を論じた「アメニティと生涯学習ライフ」、生きがいや自己実現のための生涯設計について学校教育や民間の就職活動準備セミナー等の事例を扱った「ライフプランと学習活動」、学校教育から「生涯自己発見学習」への転換を論じた「個人の成長と生涯学習論1994」など、青少年一人一人の人生にも関わるテーマを立て続けに特集している。
 これらの動きと並行して、体験学習の分野においては、ソロ(単独行)という形での「独りでいること」の実施が試みられた。山口県野外教育活動研究会「グッド・ジョブの声が響く中で−新しい野外教育活動の取り組み」(92/1)では、3日3晩続く孤独と反省の時期として行われるソロなどを、その指導法とするOBS(アウトワードバウンド・スクール、後述)のプログラムが導入された。神奈川県中央青年の家「かもしかキャンプ実施報告書」(92/2)には、自分自身を見つめ直し、自然を認識するための、山中で一人で過ごす2泊3日のソロプログラムが含まれている。その後、ソロは、各地の文献に散見されるようになる。
 このように、個人の個別性の尊重、自由時間の評価、固有の人生への関心、さらには「独りでいられること」の意義への気づきなどの教育的な視点の深化が見られる。これは、いじめ問題やその他の社会動向にも関わって進んできたのであろうが、同時にそれは「行為主体である青少年」に対して青少年教育が実効性をもつための有力な糸口を示すものになると考える。
A 「自分さがし」における「個」の多義性
 中央教育審議会第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」(96/7)は、次のように述べた。教育は、「自分さがしの旅」を扶ける営みと言える。子どもたちは、教育を通じて、社会の中で生きていくための基礎・基本を身に付けるとともに、個性を見出し、自らにふさわしい生き方を選択していく。子どもたちは、こうした一連の過程で、試行錯誤を経ながら様々な体験を積み重ね、自己実現を目指していくのであり、それを的確に支援することが、教育の最も重要な使命である。このような教育本来の在り方からすれば、一人一人の個性をかけがえのないものとして尊重し、その伸長を図ることを、教育改革の基本的な考え方としていくべきである。
 これは「自分さがしの旅」を公教育が援助していくのだといういわば「決意表明」である。まずは個性尊重の表れとして評価できる。しかし、その功罪は考えなければならない。
 当時、初等・中等教育だけでなく、いくつかの大学でも、自分が何をやりたいかを気づかせたり、自分を見つめさせたりする授業などが試みられた。「自分さがし」とは本当にそういうものなのなのか。「本当の自分」とは、学校教育のような強固に意図的・組織的な営みのなかで支援されるべきものなのか。「本当の自分」があるとしても、それは多義的、状況的な性格を有していることに留意する必要があると考える。
 河合隼雄『子どもと悪』(97/5)は、「端的に言ってしまうと、個性の顕現は、どこかで『悪』の臭いがするのではないか」として、好きなことへの熱中による個性の発揮や集団になじめない人の創造性などについて述べた。そのうえで、大人が子どもの悪に対して「ここからは許さない」という「強い壁として立つ」よう求めた。しかし、それは「何があたってきても退かない強さであって、それが動いて他を圧迫することではない」とした。
 その点からも、インフォーマルな青少年教育の施策と理論の到達点は示唆深い。繰り返すが、それは個別性、自由時間、固有の人生、そして独りの世界の発見、さらには悪の存在である。これをまとめて「個は個別に多義的に生きている」と表現することができると考える。

(4) 固有の身体をもつ個への注目
  −臨床の知/体験と冒険/生きる力/科学

@ 「臨床の知」を育む体験と冒険
 神奈川県青少年総合対策本部「かながわの青少年」(90/3)によると、81年の知事の呼びかけに始まる県民総ぐるみの「騒然たる教育論議」に始まる「ふれあい教育運動」が取り組まれており、89年3月の提言「翔べ!神奈川のこどもたち」に至った。そこでは、「ふれあい教育」を、「科学の知」による教育から「臨床の知」を基本とする教育とし、「単に自然や人とのふれあいだけではなく、すべての教育活動の基盤であり、最も本質的な柱」と位置づけている。提言は、その基本理念に基づいて、現代社会の新しい貧しさの克服、共生関係の学習などの実践化へ向けて一歩踏み出すよう訴えた。「臨床の知」とは中村雄二郎の術語で、近代科学の<普遍性><論理性><客観性>を批判し、近代科学が排除してしまった<コスモス><シンボリズム><パフォーマンス>、すなわち<固有世界><事物の多義性><身体性をそなえた行為>の大切さを訴える言葉である。
 このように個人が固有の身体を伴って、それぞれの世界で受苦し、受動しつつ生きているという真実をまともにとらえるとき、青少年教育は、それが提供する対自然、対社会の疑似体験の意義を今まで以上に自負するとともに、疑似とはいえ、青少年個人の体や心の内面により肉薄する体験の提供を志向することになる。
 国立オリンピック記念青少年総合センターの『自然生活へのチャレンジ推進事業事例集−フロンティア・アドベンチャー』(90/3)は、88年から始まった文部省補助事業としての本推進事業が全国各地で展開されていることを表しており、山奥や無人島等の大自然の中で、異年齢構成の少年50人が10泊もの長期間の原生活体験を行うことによる欠損体験の擬似的な体験の顕著な効果を示している。
 群馬県では、登校拒否や青少年のひきこもりといった問題の増加などの状況の中、たくましい体と優しい心をもった青少年の育成を図って、新総合計画「新ぐんま2010」(92/3)を策定した。自然生活へのチャレンジ推進事業「おもいっきり冒険隊」などが、その青少年健全育成事業として位置づけられている。また、山口県教育委員会『原始に生きる防長っ子キャンプ報告書』(92/3)によると、他者理解、自然理解、自己理解、集団理解の4つの視点から、人とのふれあい、自然とのふれあい、生命体とのふれあい、文化とのふれあいを重視し、その指導目標を好奇心の活性化、不撓不屈の根性、探求心の強化、自己抑制、おもいやりの心におき、対人関係におけるコミュニケーションと協力関係を強化するための指導法を伴う米国OBS(アウトワードバウンド・スクール)のプログラムを展開した。この試みは、自然生活へのチャレンジ推進事業の新しい進展のひとつの方向を示すものとしてとらえられる。
 1994年前後の文献からは、それらの体験学習の意義が、自ら望んで安全な世界から踏み出そうとする冒険教育の意義として主張されるようになる。国立赤城青年の家『自然教室に取り組む指導者のために』(96/1)で、飯田稔は「冒険教育のすすめ」と題し、冒険のもつ4つの要素を次のように提示している。@危険を冒そうとすること。特にケガ、時には生命の危険をともなう点である。大なり小なり生命と引換えの部分を含んでいる。A自ら望んで安全な世界から踏み出そうとするエネルギー。行為者の自主性である。B新しい知識や体験に対する憧れ。ある程度の危険を冒してもそれを得ようとする意欲である。C非日常性。日常生活上のきまりや利害関係とかけ離れた行為や活動で、非日常的な状況の中で行われる。したがって、冒険の多くは一般社会にとっては無価値なもので、時には非社会的なものといえる。
 これら全国各地の「自然生活」や「自然体験」の重視の傾向の強力な先導的役割を果たしたのが、国立青年の家・少年自然の家、とりわけ少年自然の家である。一方、青年の家、少年自然の家などの文部省所轄の国立の社会教育施設に対する総務庁の行政監察(94年)ののち、国立青年の家少年自然の家の在り方に関する調査研究協力者会議報告「国立青年の家少年自然の家の改善について−より魅力ある施設に生まれ変わるために」(95/7)は、「多様なニーズヘの対応と柔軟な運営」などの提言をした。全国青年の家協議会『青春カルシウム−体験学習のすすめ』(96/3)で、全国青年の家協議会会長・国立中央青年の家所長の内田忠平は、施設実態調査の結果から、「青年の家は、新しい社会の流れを必ずしもうまく捉えられたと思われない。豊かな社会であるがゆえに、疎となりがちな人との心の交流という青年の家が有する機能を生かしながら、青年が求める基本的な快適性の充足を考えていくべき」と提唱した。同書によると、大雪では教える者、教えられる者という関係ばかりではない受入れ事業に意味を提起、江田島では「指導系職員が見た青年の家考」を発行、岩手山では全国規模の青少年団体や地域の青少年団体等により組織された実行委員会による交流活動を展開、赤城では自然教室指導者のガイドブックを発行、能登では障害児者の施設利用に関する調査研究協力者会議、乗鞍では視覚障害者の雪とのふれあい、沖縄では無人島に挑む全国青年のつどいを実施した。一部の突出した少年自然の家が従来から提起していた新しい経営姿勢が、国立青年の家などに普遍化していった。青少年個々の身体にとって過酷な疑似体験と、快適な居心地の両者がともにめざされたのである。
A 「生きる力」と科学教育
 前出、中央教育審議会第一次答申(96/7)は、「ゆとり」の中で子どもたちに「生きる力」をはぐくむことを基本に、学校の教育内容を厳選するとともに家庭や地域社会における教育を充実すること、21世紀初頭を目途に学校週5日制を完全実施すること、社会の変化に対応した学校教育の改善を図ることなどを提言した。ここで「生きる力」とは、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力、自らを律しつつ、他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性とたくましく生きるための健康や体力を指す。
 青少年の野外教育の振興に関する調査研究協力者会議(主査飯田稔)報告「青少年の野外教育の充実について」(96/7)は、青少年の野外教育について「全人的成長を支援するための教育」ととらえ、「生きる力」の育成を図る上で極めて重要と主張した。同答申を受け、97年度の文献によると、青少年の「生きる力」を育成するため、ウィークエンド・サークル活動推進事業、アドベンチャーキャンプ、野外体験事業などが盛んに行われた。文部省では同年度から新たに「青少年の野外教育体験月間」を設けた。98年度には、青少年問題審議会が「青少年の問題行動への対策を中心とした西暦2000年に向けての青少年の育成方策について」審議している。また、内閣総理大臣のもと、関係審議会の代表者等の有識者から成る「次代を担う青少年について考える有識者会議」は、98年4月、自然体験、生活体験の重視や、学校外での青少年の居場所づくりなどを提言した。99年度には、文部省は、休業となる土曜日などに、地域において子どもたちに豊かで多彩な体験活動の機会を用意していくため、2001年度までに地域ぐるみで子育てを支援する基盤を整備し、夢を持ったたくましい子どもを地域で育てるための「地域で子どもを育てよう緊急3カ年戦略(全国子どもプラン)」を始めた。
 一方、93年ごろまで、各地で「青少年科学活動促進事業」が盛んに実施されていた。これは、地域の教育力を活用して、科学に関する特定の興味・関心を自発的、かつ継続的に追求できる社会教育の特色を生かし、青少年の科学する心を育む活動を推進するために、青少年科学教室の開設のほか、科学グループの育成、科学会議の開催などを行うものである。そして、青少年の科学離れがいわれる中、95年度から文部省が「博物館、少年自然の家等における科学教室等特別事業の研究開発事業」の委嘱を開始した。
 国立オリンピック記念青少年総合センター『夏休み中学生科学実験教室報告書』(97/3)は、同事業の趣旨について次のように述べている。同センターでは、94年度から全国の中学生を対象に、寝食をともにしながら、日頃経験しない手作りの実験を通して、科学の楽しさを体験させることを目的とし、青少年教育施設としては先駆けの事業として「夏休み中学生科学実験教室」を実施してきた。中央教育審議会の答申等にも謳われているように、座学中心で知識偏重の教育を改め、様々な体験を通して「生きる力」を培うことは、21世紀に向けて、我が国の教育における最大のテーマである。科学の分野においても、いわゆる理科離れ現象が指摘される一方で、科学に興味・関心を持ち、より深く学習したい、好きな科学に思いきり打ち込んでみたいと願っている青少年に対し、そのような機会を学校外においても提供することが強く求められている。同センターは、科学実験教室を行う上で施設・設備・指導等において決して充分とはいえないが、青少年教育施設の特色を生かして、大学・高等学校・中学校との連携を図ることにより、学校の授業とは違った青少年教育事業として実施することができた。4泊5日で寝食を共にしながらの実験、講演、施設見学、レクリエーションと多彩なプログラムを用意し、特に中心となる実験については、身近にある素材を利用した手作りのものを基本に、創造することの喜びと科学することの面白さを満喫できるように心がけた。
 また、97年度には、同研究開発事業として、「同時中継おもしろ自然体験」が開始された。これは国立日高少年自然の家、国立那須甲子少年自然の家、国立室戸少年自然の家、国立諌早少年自然の家、日本余暇文化振興会の共催により企画・実施された連携・協力事業で、子どもたちが恵まれた自然の中でさまざまな体験活動を行い、そこから得た感動や思い出をパソコンで整理・表現し、自然体験活動グループごとのホームページを作成して参加者の相互交流を図り、また、テレビ会議システムを利用して親交を深めた。
 「臨床の知」や個人の身体と90年代の青少年教育との関わりについて、まずは自然生活や自然体験、さらには身体の危険をあえて自主的に冒す冒険教育に注目したい。しかし、後半に示したような科学教育の実践についても、青少年教育の面目が表れていると考える。そこに青少年個人個人の体感を通した「臨床の知」や「生きる力」につながる科学、「近代科学」とは異なる科学の存在を感じることができる。科学教育においても、個人学習者としての青少年は固有の身体をもってこれに臨むのだと考える。
 青少年の社会化支援理念において、「生きる力」が重視されるべきことは自明といえよう。今日の「学力向上」、「ゆとり教育見直し」の揺り戻しの中で、「臨床の知」よりも「形式知」、「生きる力」よりも「数値評価」に重点が移るとしたら、自己成長と社会形成の本質を見失う危険があると考える。

(5) 個は他者の個との関係のなかで生きている
  −癒し/居場所/準拠個人/第4の生活の場

@ 社会化と分断した「個人化」の進行
 横浜市青少年問題協議会意見具申「共生社会に向けての青少年の役割と活動」(89/11)は、「共生」の概念を「情報化・国際化・高齢化の進展による人間や人間関係への影響の中で、青少年の内部の成長・発達を鍵概念として、共によりよく生きていくことのできる社会の実現をめざすもの」と提起した。栃木県では、「いきいき栃木っ子3あい運動」(学びあい、喜びあい、はげましあおう)を県独自の教育運動として、90年度から2期目として引き続き推進した。秋田県では、91年度から、「自立と連帯をめざすふきのとうユースプラン」と題した第6次秋田県青少年育成総合基本計画を推進した。横浜市青少年問題協議会意見具申「こころ豊かな市民への成長をめざして」(92/1)は、今日の青少年、とくに大学生の生活が私生活優先意識に極めて強く彩られていて、個人単位の生活を追求して個人の関心や要求の充足を志向する傾向(個人化)と、公共的・社会的な関心を失って私的な生活への関心・欲求のみを肥大化させる傾向(私化)とが見いだされ、しかも彼らの生活における直接体験は希薄化の一途を進み、その反面、「個室」の中での間接的な疑似体験は拡大してきている、という問題意識のもとに、人と人との血のかよった関係を形成することや異なった価値観や生活文化を尊重しあってともに生きることが大切であるとした。
 埼玉県青少年問題協議会「ゆとり社会における青少年の育成」(94/3)は、「三間」(時間・空間・仲間)の減少などの青少年を取り巻く環境と、青少年自身の問題や学校週5日制の問題を指摘したうえで、「互いこそ人の心の輪をつくる」(共に生きる社会)などとした。第21期東京都青少年問題協議会答申「青少年の自立と社会性を育むために東京都のとるべき方策について」(96/2)に関して、高橋勇悦は、@対人親和性を育てる、A他人への共感性を育てる、B愛他心を発達させる、C人びとの多様性を受け入れる態度を育てる、D自己価値観を育てる、の5点を重点として挙げた。
 このような青少年教育の努力にもかかわらず、青少年の不登校や引きこもりは進行していく。95年度には、「地域少年少女サークル活動促進事業」(92年度開始、後出)などとともに、「不登校の児童生徒を自然の中に連れ出し、自然に触れ体を動かし、仲間とともに汗を流す」(秋田県教育委員会「フレッシュ体験交流活動事業」)、「障害のある子供たちと障害のない子供たちが大自然の中で長期の共同生活を体験する」(栃木県教育委員会「青少年自然体験活動推進事業交流教育キャンプ」)などのかたちでの自然体験活動事業の発展が見られる。
A 個人化と社会化を統合する「居場所」
 青少年教育にとって、「個人化」した現代青少年の個人個人をよりよく「社会化」するためにはどうしたらよいか。この課題に関して、90年代半ばから新たに提起された議論が、「癒し」「居場所」など、青少年を逆に「個人」としてとらえ返す視点である。
 西村美東士「公民館が仕掛ける出入り自由のこころのネットワーク」(93年8月)は、自ら年間講師を務める狛江市中央公民館青年教室「狛江プータロー教室」における相互理解の試みから、この事業が「自分や他者への信頼」を失いつつある現代青年にとっての、心を開いて交流できる癒しのネットワークであると位置づけて、その信頼感回復機能を主張した。また、前出『癒しの生涯学習』(97/4)において、引きこもり問題のカウンセラー富田富士也の言葉、「人は人によって傷つき、人によって癒される」を引き、若者が癒されるためには、自己決定活動において、他者とともに信頼・共感の居心地のよさを味わいながら、社会貢献も含めてボランタリーに共生創造主体として生きる以外に方法はないと主張した。
 第22期東京都社会教育委員の会議助言「新しい青少年社会教育施設ユース・プラザのあり方」(96/6)は、「一つの固定的な理想像を求めようとする単線型健全育成を前面に掲げる従来の青少年施設は、もはや現代の青少年にとっては魅力がない」として、出会いとやすらぎの場、体験の場、創造・自己実現の場としての、青少年の自己形成のためのユース・プラザの設置を助言した。東京都青少年問題協議会答申「大人も青少年も自立した社会づくり−青少年の自立と社会活動のための行動プラン策定に当たっての基本的考え方について」(98/2)は、自然発生的に生まれた特定の場所をもたない「第5の生活空間」に着目するとともに、青少年の「居場所」を創るよう提言した。国立オリンピック記念青少年総合センター『登校拒否等青少年の問題行動に関する調査研究報告書』(98/3)において、飯田稔は、キャンプ療法の目的は「心の居場所」を確保し、社会で生きていくのに必要な社会性を身につけることであり、学校復帰はその副産物とし、参加すればすべてが解決するといった過信は禁物と警告した。
 萩原建次郎「若者にとっての『居場所』の意味」(97/6、日本社会教育学会紀要33号)は、「若者の自己形成過程を、意図的操作的な教育意志によって教育過程に引き込んでいくことは、彼らの居場所を失わせる危険性をはらんでいる」とした。久田邦明他は『子どもと若者の居場所』(98/3、東京都教育庁生涯学習部社会教育課)において、その確保を訴えた。田中治彦「生涯学習と市民社会」(98/6、日本社会教育学会紀要34号)は、次のように述べた。「上下関係」や「肩書」がないNPOは、若者の自己形成の場であるのみならず、「肩書」や「ノルマ」に疲れた公務員や会社員の「癒し」の場でもある。NPOはかつて青年団や婦人会が地域社会で担っていた役割を、居場所が見つけにくい孤独な都会において新たに担おうとしている。
 また、『都市青年の意識と行動−若者たちの東京・神戸90's』(95/5、恒星社厚生閣)で、監修者の高橋勇悦は、現代青年にとっての準拠集団に代わる準拠個人の存在意義を説いた。
 東京都「青少年の健全育成を推進する都民集会」で、加藤諦三は、「自立社会」という言葉の裏側は「中毒社会」であるとし、次のように訴えた。中毒社会の価値観は真面目さである。しかし、真面目であるからふれあえるというものではない。ふれあいこそを価値にしないと、真面目ならすべてが許されるという価値観になってしまう。そもそも真面目でなく、いい加減な人のほうが自殺しない(98/3、東京都生活文化局『青少年問題研究』188号)。
 たとえ相手が現代青少年といえども、「社会化」や「自立」などのための教育行為をあせることなく、癒し、居場所、「準拠個人」などの個人的と思われる事項も大切にし、その個が他者の個との関係のなかでどのように生きようとしているのかにじっくりと迫るのならば、青少年教育はより効果的なものになるだろう。なぜなら、人は人によって傷つくが、「人によって癒される」と考えるからである。
B メディアという「生活の場」、「交流の場」
 それが象徴的に表れる一つとして「メディア」がある。現代青少年は、メディアを通して他者の個と関係をもつ。高橋勇悦他『メディア革命と青年−新しい情報文化の誕生』(90/3、恒星社厚生閣)は、今日の青少年がテレビなどを生まれたときから享受して育った初めての世代であるとの認識のもとに、青少年とテレビ、電話、ファミコン、パソコン、パソコン通信との接触を共感的に分析した上で、「青年を中心として軽いメディア文化が洗練される」として、情報化の主体としての青少年の形成に期待をかけた。同書で西村美東士は、パソコンの急速な普及とその文化の未成熟性について述べた上で、当時、その問題点を克服してネットワークを体現しつつあったパソコン通信に着目し、そこでの新しい「知」と「集団」の形成を指摘した。
 国の青少年問題審議会は意見具申「高度情報通信社会に向けた青少年育成の基本的方向」(97/4)で、@自分に必要な情報を主体的に探し出し、活用する能力、A送り手側からの多量な情報に流されず、自分の必要に応じて情報を選択できる能力、B悪質な情報を見分け、トラブルを回避し、身を守る判断力などを身につける必要、を強調した。また、青少年が自分の発信した情報を社会から評価されるという経験を容易にするという利点を十分に生かすためには、「バーチャル・コミュニティ」への参加者には青少年の発信した内容を公正に評価することが求められるとした。
 「青少年の自立と社会活動のための東京都行動プラン」(98/3)は、東京都青少年問題協議会答申を受け、今日の青少年の、多様化したマス・メディアによってもたらされる情報により非現実的、心理的に構成される世界を第4の生活の場として捉え、重視した。
 文部省は、98年度補正予算での「エル・ネット」(衛星通信利用による公民館等の学習機能高度化推進事業)を利用して、「全国子どもプラン」の一環として、子どもたちの夢や希望をはぐくむ番組を放送する「子ども放送局」を始めた。その目的は、子どもたちの憧れのヒーロー、ヒロインが直接子どもに語りかることにより「心の教育」に役立て、内外の一流の科学者が子どもたちに「科学技術への夢と希望」を伝えることである。
 総務庁青少年対策本部『青少年とパソコンなどに関する調査研究報告書』(98/10)は、利用実態や有害情報への接触実態などを明らかにしたが、民放連は、放送基準審議会を中核に「番組規制問題」および「青少年と放送」について検討を進め、番組格付けやVチップ制度について拙速を避けるよう主張した(99/3、日本民間放送連盟『テレビと児童・青少年に関する調査報告書』など)。
 青少年教育におけるメディアへの態度はこのように複雑な様相を呈している。メディア特性に応じた疑似体験やバーチャルにおける「生活の場」や「交流の場」については、社会化支援においても積極的にとらえ直す必要があると考える。
 佐々木玲子「若者の活字離れは進んでいるか−消費者調査からの考察」(99/11、青少年問題研究会『青少年問題』46巻11号)は、マンガやコミック誌を除く読書について好きかどうかを尋ねた結果、「好き」と「まあ好き」の20代の「愛好派」は7割を超え、各年代の中で最も高い割合を占めたと報告した。読書も、個人的で一方的ではあるが、書き手と読み手の関係性のひとつである。読み手にとって書き手は、よき「準拠個人」の一人になりうると考える。

(6) 個は共同体のなかで生きている
  −学社融合/第4の領域

@ 学社融合とコラボレーション
 文部省は89年度に「青少年ふるさと学習特別推進事業」を開始し、都道府県は、それに基づき、青少年がふるさとについて総合的に学習し、その成果を踏まえての実践活動を展開するモデル事業を多分野の諸団体・機関との連携のもとに推進した。宮崎県『宮崎の青少年』(90/3)は、団体指導者の養成として「新ひむか企画スタッフ交流セミナー」を紹介している。これは88年度から始めたもので、対象を女性や壮年層にまで広げ、地域間、異業種間、世代間交流を狙いとしている。内容は、活動事例発表、講演、夜なべ討論などである。地域づくり運動を青年たちにも担ってもらおうとしたのである。神奈川県では、91年に「かながわ青年行動計画」の改訂を行い、従来、大人に任せきりの形をとっていた「社会がなすべきこと」についても、青年自身が核となって課題解決に取り組む姿勢を示した。『秋田県青年の家紀要−青年団体の組織づくりの方策を探る』(91/3)は、新たに組織された青年団体の事例として、農業近代化ゼミナール、地域振興、ふるさと探検隊、ふるさと創生、イベント演出集団、パーティー仕掛人集団などを紹介した。日本青年館青年問題研究所『生涯学習と青年期教育』(92/3)は、青年の主体形成のための生涯学習の重要性を指摘したうえで、共同学習の再評価を主張した。92年度からは学校週5日制の実施を契機にした「地域少年少女サークル活動促進事業」の報告書が目立つようになる。これは、地域(=地域共同体、筆者注)における異年齢集団の仲間との切磋琢磨など豊富な活動体験の機会を確保し、地域の青少年活動の総合的な振興を図ることを目的としたものであった。
 93年度には、全国子ども会連合会が「子ども会活動等の団体活動経験者の行動特性に関する調査」で、子ども会会員と子ども会の非会員との比較調査において、地域の大人との関わり度合い、異年齢集団の経験度合い、年下の子の世話度合い等に統計的有意差を立証し、94年度には、青森県総合社会教育センターが、団体活動をしている青少年(会員)としていない青少年(非会員)では、対人関係、リーダー性、自己意識の高揚、社会参加、余暇の活用等、意識・行動に差異があるのではないか、などの仮説のもと、『団体活動と青少年の意識・行動に関する調査集計結果』(94/4)を報告した。
 これらの動きのなか、生涯学習審議会答申「地域における生涯学習機会の充実方策について」(96/4)は、地域社会の中で様々な学習機会を提供している機関や施設の生涯学習機能の充実方策を示し、「学校教育と社会教育がそれぞれの役割分担を前提とした上で、そこから一歩進んで、学習の場や活動など両者の要素を部分的に重ね合わせながら、一体となって子供たちの教育に取り組んでいこうとする考え方」としての新概念、「学社融合」を提起した。前出『社会教育』誌は「学社融合」を特集し(96/2)、山本恒夫が次の融合パターンを提起した。@教育活動の相互の一部取り込み、A双方の教育活動の一部取り出しと組合せ、B双方の既存の教育活動のそのままでの共有化。『日本生涯教育学会年報17号』(96/11)では、山本は、自発的組織化の視点を用いて学社融合論の理論化を試み、自発的組織化は自己組織化とは異なり、「無秩序又は一定の秩序を持つ存在が、外的又は内的条件の変化がもたらす存在内要素の相互作用によって指向性を創出し、それがもたらす要素間の相互作用によって新たな秩序を創出することである」とした。
 この新概念は前出「国立青年の家少年自然の家の改善について」(95/7)において、3本柱のひとつとして示されたもので、そこでは、青少年教育施設の教育力をフルに発揮、調査研究の充実、成果の適切な普及、長期利用への対応などが挙げられた。学社融合は、とくに国立少年自然の家が先駆的に実践してきた概念であるといえるが、より本質的には、学校教育が「実践の本場(アリーナ)を当初からかいま見させる」(2章、佐伯胖『状況に埋め込まれた学習−正統的周辺参加』訳者あとがき)ためには学社融合が不可欠であったと考える。すなわち、学社融合は、学校教育が社会教育に代表される共同体における学習のなかにあらためて取り込まれようとする動きとしてとらえることができる。
 越田幸洋は「学校と地域の連携を探る」(99/3)などで、自らの鹿沼市の学社融合の事例を紹介し、次のように述べている。その「学」は学校の教育課程に基づく教育活動を指しており、放課後のクラブ活動とか課外授業とかではなく、正規の授業そのものである。社会教育の方はすべての分野を含む。公的機関が行うものだけでなく、民間が行うものも含む幅広い内容である。
 1990年代に提起された「学社融合」は、学校、地域、団体活動等に対して、新しいコラボレーションの形を求めたものであると考える。
A 「第4の領域」における新しい共同体
 青少年個人が参加する対象としての「共同体」自体は、急激に変化しており、また、青少年教育においては、その共同体が青少年一人一人の成長にとってより望ましいものに変化するよう求めることになる。
 神奈川県青少年総合研修センター『出会いと交流−青年期の新しい地域活動のあり方』(96/6)において、西村美東士は、@自然体の育成活動を、A地域と人間の真実に出会う、B対象から主体へ、対策よりも支援を、C不幸せな現代社会と大人たち、Dフツーの大人たちも幸せになれる育成活動、Eフツーだからこそ、ワガママだからこその、自立の地域活動、とまとめて新しい青年教育のあり方を提起し、次のように述べた。
 地域は「善と悪」や「毒と薬」の混じりあう「アンビバレンツ」(両面価値)の場としてとらえられる。これが地域の現実であり、そこには現代人の生きざまの真実の姿が渦巻いている。地域には、現代社会のヒエラルキー(階層)による秩序がいまだ貫徹しきれていない側面があるから、なまの人間や、なまのできごとが、混沌と交錯している。だからこそ地域はおもしろい。そういうなまの水平な出会いによって、ひとは自己と他者の人間存在やものごとのアンビバレンツな真実にたまたま気づくこともできるのである。他者がきれいに整理した「事実」を自己の思考の枠組のなかにいくら取り込んだところで、出会いと気づきの感動は味わえない。「善と悪」「毒と薬」の入り交じったなまの出会いによって、「真実」にふれた思いがして、自己の枠組み自体が揺らぎ、拡大するからこそ、そこには深い感動が生ずるのである。真実にはだれも完璧には到達し得ないが、人間にはそれをどこまでも知ろうとする潜在的欲望がある。これが生涯学習の本当の姿であろう。「事実のインプットなんかより、真実のワンダーランドの感動を」ということである。
 前出、中央教育審議会第一次答申(96/7)は、従来の学校・家庭・地縁的な地域社会とは異なる「第4の領域」の育成を次のように提唱した。
 
 地域社会における教育力の低下が指摘される中にあって、従来の地縁的な活動から目的指向的な活動へと人々が参加意欲を移しつつある傾向がうかがえる。このような状況を踏まえ、これからの地域社会における教育は、同じ目的や興味・関心に応じて、大人たちを結びつけ、そうした活動の中で子供たちを育てていくという、従来の学校・家庭・地縁的な地域社会とは違う「第4の領域」とも言うべきものを育成する必要がある。例えば、青少年団体では、地縁的なものよりも、最近ではむしろ、スポーツやキャンプ、ボランティアといった目的指向的なものの方が人気が高いと言われているが、これなどは、ここでいう「第4の領域」の一つの例と言えよう。また、日常生活圏を離れて、豊かな自然の中で、青年の家、少年自然の家などの青少年教育施設を活用した活動や、民間教育事業者などが提供する体験学習のプログラムを利用した活動も、「第4の領域」の例と考えられ、今後ニーズが高まっていくものと考えられる。行政としては、こうした状況を踏まえつつ、目的指向的な様々な団体・サークルの育成や、日常生活圏を離れた広域的な活動の場や機会の充実、効果的な情報提供活動、民間教育事業者との連携などを通じて、「第4の領域」の育成に積極的に取り組んでいってほしい。
 
 青少年育成国民運動を担う青少年育成国民会議の『のびのびユースネットガイド』(97/3)は、従来の地域の縦割り型組織形態にとどまらず、子どもや若者と直接かかわる親・教師・青少年指導者や、さまざまな活動の場や機会づくりをすすめている青少年関係団体や機関などが、ともに手を携えて青少年育成に取り組む「のびのびユースネット」を形成するよう提起した。静岡県青少年問題協議会意見具申「豊かな感性と新しい市民性をはぐくむ青少年の参加・体験活動の推進方策」(97/12)は、従来ともすると学業の妨げになるなどの理由で制限されていた高校生のアルバイトについて、原則として家庭の責任においてアルバイトができるように、柔軟に対応するよう求めた。高校生が働く場としての地域や職場の共同体を重視する動きといえる。
 98年3月には特定非営利活動促進法(NPO法)が成立し、団体活動が新たに注目をされるようになった。横浜市港南区まちづくり塾では市民と行政のパートナーシップが目指され、「子育てまち育て塾」などが市の助成金を受けて展開された(98/10、加藤隆章「港南まちづくり塾事業における支援」、前出『社会教育』誌)。神奈川県青少年総合研修センター『神奈川県青少年体験活動実態調査』(99/1)は、青少年の体験活動を行う草の根の団体の網羅的な把握を試みた。
 西村美東士「癒しの公民館−新しき伝統」(99/3)は、同誌の「問題縁でつながる」(97/5)における斉藤学の発言、「縁というのは、それ自体危ない。血縁、地縁もあまり頼るなといいたい。これからは、問題縁である。私は魂の家族と言っている」を批判し、次のように述べた。

 こういう地域への敗北感をひっくり返して、地域こそ手始めにワンダーランドにしたい。癒される家族・地域関係を創り出したい。公民館は近代的な形での「心のやさしさ」を追求してきた。コミュニティを貫き通す問題縁が存在するはずである。公民館主事は、住民が安心して自分たちの言葉で体験を語れるようにしてほしい。子育てに悩まない親はほとんどいない。安心して語れないところでは語らないというだけのことである。

 青少年や親に対する社会化支援において、家庭、地域の教育力の回復が重要であることは自明といえよう。しかし、その場合の「回復」とは、たんなる「復古」ではなく、「第4領域」の活動とのコラボレーションによって「創造」するものでなくてはならないと考える。

(7)個は他者から認められることによって生きられる
  −カウンセリングマインド/自己決定能力

@ 社会化支援におけるカウンセリングマインド
 中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言「青少年団体活動は青少年の自己成長にどう関わるか」(90/3)は、「個の深み」などの新しいキーワードを示しながら、グループワーク理論の再構築、カウンセリングマインドに根ざしたコミュニケーションの創造などによる、青少年の「個」を大切にする団体運営への方向を提起した。
 全国青年の家協議会『青年の家の現状と課題第20集』(92/3)は、「魅力ある青年の家をめざして」をテーマとして、カウンセリングなどの他分野の研究から、現代青年のニーズに対応する運営のあり方について考察し、国立妙高少年自然の家所長五十川隆夫が、少年自然の家創設の視点から青年の家の運営に対して次のように提案した。@運営のメニューをいくつか持つこと、A青年の裁量に委ねる部分を多く用意すること、B完全週休2日制、学校5日制試行に応じ得る体制づくりをすること、C個への対応の在り方を研究・開発すること。カウンセリングマインドの評価などは、個として存在する青少年に向き合い、その個を承認することを意味しているといえる。
A 社会化支援における自己決定能力の育成
 1993年から宮台真司が「ブルセラ論戦」を始め、『制服少女たちの選択』(94/11、講談社)で次のように述べた(抜粋)。

 社会システムは、人格システムの集まりではない。心理的な問題解決(外部帰属化)は、社会的な問題解決とは何の関係もなく、個人的な正しさの信念は、社会の未来をすこしも方向づけない。「社会は個人の集まりではない」、「社会の動きは個人の動きの集まりではない」というこの命題は、社会学が練りあげてきたもっとも重要な命題のひとつである。社会システム理論は言う。親の立つ瀬があろうがなかろうが、胸がスッとしようがしまいが、『それでも社会は回り』、娘たちはパンツや肉体(のパーツ)を売りつづけるだろう」。
 その道を進むことがもたらす不可逆な感覚変容についての知識不足は、彼女たちをきわめて不自由な場所に追い込んでしまうことになる。
 
 宮台は、先に進むのがいいか、引き返すのがいいかを、いったん立ちどまって「選べる」ようにしておくという「ワクチン戦略」を提起しつつ、「わかっていながらその道を選ぶ」というのであれば、彼女たちの意思や自己決定の問題とした。
 また、宮台は、『終わりなき日常を生きろ』(95/7、筑摩書房)では、「輝かしき自分」などめざさずに「まったりと」脱力して生きることが「終わらない日常」を生きる知恵に通じるとした。このように宮台は、社会システムの優位性を打ち出し、学校、家庭、地域等の青少年個人に対する社会化役割の無力を主張した。
 しかし、多くの青少年教育が支援しようとしてきた自己決定能力とは、「わかっていながらその道を選ぶのであれば、それは自己決定なのだから」とすますような「脱力」や「虚無」などではなく、「社会システム」のなかで指導者自身も青少年とともに追求してきた「変わるはずのない理念」である。多くの青少年教育は「社会システム」に適応するばかりでなく、これをよりよく変革していく主体としての自己と青少年の自己決定能力の支援をめざしてきたはずである。実際、青少年教育の指導者のなかには、「輝かしき非日常」を日常的な活動のなかで味わって生きている大人の個人が存在し、青少年にとっての準拠個人になりうると考える。
 東京都では、97年10月、東京都青少年問題協議会中間答申「性の商品化が進む中での青少年健全育成」(97/3)を受けて、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の一部改正が成立した。これは他県の「淫行処罰規定」のようないわゆる「淫行」概念をとらず、売買春等の相手方となった大人を処罰する買春等処罰規定を導入した点などに特徴がある。中間答申は次のように述べた。

「淫行処罰規定」は、相手方となる大人を処罰する規定であっても、行為自体を「淫行、みだらな性行為」と定義することで、青少年の性に関する行動全般を不良視し、青少年に対する心理的な抑制効果をもたらすなど、かえって青少年の性的自己決定能力を育む機会を失わせる危険性もあるという認識をもちつつ、大人を処罰する「買春等処罰規定」を設けることはやむをえないとの結論に達し、青少年の性的自己決定能力の育成のために、家庭、学校、地域社会それぞれが情報を発信する場となるよう提言する。

 東京都は、個人の自己決定がきわめて尊重されるべき性に関する行動に対して、青少年育成の観点からあえて大人を処罰する法的規制に踏み込んだ。しかし、家庭、学校、地域社会それぞれが情報を発信することによって、その性的自己決定能力を育てようとしたところに、同答申のより重要な本質がある。
 川崎市青少年問題協議会意見具申「青少年の健全育成に向けた社会環境健全化の具体的推進策について」(97/4)は、大人がまず変わるために学ばなければならないとして、カウンセリングマインドとグループワークの能力の取得等を挙げた。
 そして、『<宮台真司>をぶっとばせ!』(99/1、星雲社)において、編著者の諸富祥彦は次のように述べた。

 宮台は「意味から強度へ」と、“終わりなき日常”を生きる知恵を説くのであるが、これでは、生きる意味を求めずにはいられないまじめな若者はますます追い詰められていくばかり。“闘うカウンセラー”諸富が、宮台に代わり、こんな時代にあっても“夢と希望を持って生きる”ための人生観・世界観を説く。

 自己決定能力の獲得や発揮のためには、たとえば、判断の材料としての情報提供なども大切であろう。しかし、自己決定のために情報以上に重要なのは、自他への基本的信頼であると考える。これは、それぞれの個を承認しあう関係においてのみ形成される。宮台の指摘する「仲間以外はみな風景」(筆者注:しかも、その仲間関係もピアコンセプトによって個が自己抑圧されている)という現代青少年に対して、自己が承認され、他者を承認する場を提供する青少年教育の有効性は大きい。他者からの「リスペクト」(尊敬・尊重)と他者への「リスペクト」の両方が得られてこそ、セルフ・リスペクトは成立すると考える。
 諸富は「私が、ほんとうに糾弾したかったのは、宮台ではなく、そんな宮台に誰も本気でノーを突きつけない私たち日本人の情け無さである。『もう日本は、とことん“何でもあり”になってしまっているのだから、今さら宮台がそんなことを言ったからって、どうってことないじゃない』という諦めのムードである」と述べている。
 今後の社会化支援においては、現代青少年の「個人化」に伴う「対社会ニヒリズム」をカウンセリングマインドによって共感的に受け止めつつ、ニヒリズムを越えるパワーをもった地域社会のリアリズムを青少年の目の前に対置(可視化)する必要があると考える。

(8) 個は貢献することにより生きられる
−ボランティア/青年海外派遣/情報ボランタリズム

 90年代初頭まで青少年ボランティア参加促進事業が盛んであった。この事業は、青少年及び青少年ボランティア活動の指導者に対してボランティア活動に対する知識・技術の修得及び資質の向上を図ることを趣旨として行われたもので、青少年ボランティア養成講座のほか、青少年ボランティアの集い、青少年ボランティアバンク事業などが実施された。同事業は91年から各地で生涯学習ボランティア活動総合推進事業として発展した。以後、文献における「ボランティア」のヒット率は増加し、後半には25〜30%の高率に至る。また、90年代初頭から各自治体が行う青年海外派遣事業の文献が多かったが、これに対し、民間団体の機動力を活かした事業が特徴的だった。神奈川県青少年協会「海外派遣団」はタイで植林活動を、ガールスカウト日本連盟「開発教育プロジェクト」はネパールで簡易水道に水栓をつける事業を、新潟国際ボランティアセンター「スタディーツアー」は、タイのカンボジア国境やカオイダン難民キャンプでの活動などを行った。
 愛知県青少年問題協議会「青少年の社会参加活動の促進方策について」(92/3)は、人類の存続すら危惧されるという地球規模での危機意識をもって、目前にせまった21世紀を担う青少年の社会参加を考えることなどが検討の方向とされ、青少年に地域を知らせる、地域に青少年の受け皿やたまり場をつくる、生涯学習時代にふさわしい地域づくりをする、などの施策が提言された。日本青年奉仕協会『ゆたかな学びの世界』(92/3)は、生涯学習社会において、ボランティア活動を通して豊かなこころを育む個性的な学習を自ら行うことの重要性を訴えている。
 前出『社会教育』誌が「生涯学習ボランティア」を特集し、松下倶子は、その青少年の活動の意義として、集団のなかで自分がどのような立場をとればよいかを自覚して進んで役割をはたす行動が、さまざまに異なる他者と関わりをもちながら生きていくための体験になると主張した。日本青年奉仕協会『ボランティア白書−社会奉仕から社会創造へ』(92/9)を発行し、現代社会の最大のテーマを「個人と社会の新しいあり方」、「人間としての新しい生き方」ととらえ、個人の尊厳と開かれた個人の日本だけにとどまらない共生の社会をどう作っていくのかを考えなければならないという認識のもとに、ボランティア活動の動きのなかから「人間と自然の命あるものが豊かに生きるために、どんな社会を作っていくことがよいのか」を描いた。そこで、社会奉仕を「もうひとつの教育」としてとらえ、それが共生社会の創造につながるという視点を提示した。
 田中治彦「NGO活動と社会教育団体の役割−開発教育を進めるYMCAのネットワーキング」(93/4、国土社『月刊社会教育』444号)は、社会教育と開発教育の関係について、YMCA、ガールスカウト、ユネスコ協会連盟など民間社会教育団体の取り組みが早かったのに比べて、行政社会教育は地域に密着している代わりに国際感覚には乏しかったこと、しかし、このことは逆に強みでもあり、日頃生の国際的な情報に乏しい農村部や、都市部であっても従来あまり関心を示さなかった層に浸透していく可能性をもっていることなどを示唆した。同氏は「社会教育概念理解(把握)の方法をめぐって−青少年教育の立場から」(93/6、『日本社会教育学会紀要』29号)では、望んで主体形成を避けるモラトリアム青年に対して、自己疎外を克服する形での主体形成という学習論は当てはまらないとし、日本と自分の存在を「加害者」としてとらえるNGOのなかでの社会改革意識、「もの」を大量に消費している自らのライフスタイルや生き方に目を向けるなどの、現代青年の新しい特徴を提示した。
 日本青年奉仕協会事務局長興梠寛「生涯学習ボランティアを検証する−草の根が主役の『在る』ための学びへ」(93/12、前出『月刊社会教育』誌)は、自主的主体的な草の根活動としてのボランティア活動の意義を強調し、それを人間存在のための学びとして位置づけた。同氏は「制度的評価」については、ボランティア活動は自分や社会の発見のプロセスであり、市民の自由意思による社会の改革や創造のためのプロセスなのではないか、として疑問を提起した。
 総務庁青少年対策本部『青少年白書』(95/1)は、青少年にとってのボランティア活動の意義を第1部に特集し、「青少年がそのみずみずしい感性をいかして、人と人とのネットワークの中に自らの居所を求め、さらにうちなる声に衝き動かされ、そのネットワーク自身をより高くへと持ち上げようとしていくことは、21世紀に向けて真に豊かさが実感できる社会、生きがいのある社会を実現していくための重要なステップであるともいえよう」と評価している。
 そして、95年1月の阪神大震災の救援ボランティアに全国の若者たちが駆けつけたことから、「日本の若者はしらけており、ボランティアの風土はない」という論調が崩された。むしろ、せっかくボランティアをしたい人がいるのに、社会がそれを需要と結びつけるコーディネート機能をもたないことこそ問題とされた。神戸市青少年育成推進本部「第3次神戸市青少年育成中期計画」(96/10)は、震災時のボランティアとして活躍した青少年の若い力に注目し、震災からの復興と21世紀への神戸のまちづくりを進める中心的担い手として、青少年の行動力と創造力に期待した。
 1990年代の「社会貢献論」の特徴は、個人主義や個人の自己形成に照準を合わせて論じられたと考える。社会化支援理念にとっては、その理論的継承、発展と、現実化のための方法論を明らかにすることが課題であると考える。

(9) 自己決定能力の獲得と発揮の支援
  −参画/ピアコンセプト

@ 参画活動における個性の発揮
 中央青少年団体連絡協議会特別委員会提言(90/3)は、次のように「個の深み」を提起した。個人が集団に埋没することなく、それぞれの方向性をもつ個人として生き、固有の方向に向かって深く踏み入る、踏み入ろうとする、そのことによって自らの所属する集団に対しても独自の役割を個性的に発揮することを「個の深み」としてとらえ、根本的には集団の存続より個人の存在が、そして個の深みの発揮が大切と主張し、その視点として、「何が起こるかわからない『迷路』に挑戦する姿勢」や「ケ・セラ・セラのような軽い気持ち」を挙げ、「目的志向型からMAZE(迷路)型へ」「学習→活動型から活動=学習型へ」「研修会方式からたまり場方式へ」「一括方式から選択方式へ」「既製服型から注文仕立型へ」「スローガン型から遊び心型へ」などの提言を行った。「MAZE」(迷路)は、ミスマッチ、アバウト、ジグザグ、イージーゴーイングの頭文字を合わせた言葉で、指導者がお膳立てしたものではないもの、見通しをもちきっていないものなどを取り入れるという意味である。
 鹿児島県では、80年度から「心身ともにたくましく、思いやりの心とやさしさを持つ青少年の育成」をめざし「青少年自立自興運動」を推進してきた。しかし、90年度から新たに「未来へはばたけ青少年運動」を展開した。これは、次代を担う青少年に、たくましい自立の精神と、幅広い国際的感覚と未知に挑戦する気概をもってほしいという意図で始めたもので、青少年活動を青少年自身が企画・実践する青少年主体のものとした。
 東京都杉並区では、95年、児童福祉センター職員で構成される「児童館の建設・運営の在り方」検討会が設置され、「中・高校生の居場所づくり」や「中・高校生の活動への支援」など中・高校生への取り組みが打ち出された。96年、基本設計に先立ち、関係団体推薦者や一般区民、学識経験者から成る「建設協議会」とともに、「中・高校生委員会」が設置された。その後の「中・高校生運営委員会」は、センターの規則や運営事項、講座、大会等事業に関する意見、事業の企画を行った。「福岡市こども育成環境づくり指針」(96/10)は、こどもを固有の社会的存在(こども市民)としてとらえ、まち全体をあそび、活動できる場にしようと訴えた。また、地域住民が自らの目で地域のこどものための環境を見直し、そのあり方を考えていくため、限られた一部の人に任せてしまうのではなく、高校生、大学生、父親及び高齢者等の参画を得て、地域コミュニティとしてこどもの環境や活動を考え、地域社会全体の合意を作り出していくよう提起した。
 横浜市青少年問題協議会意見具申「青少年の発達と社会環境づくり」(98/4)は、大人が青少年のために社会環境を改善するということの他に、青少年自身が自らの問題を解決することができるように、青少年の発言の場や活動の場を広げる必要もあるとした。『大阪府青少年育成懇話会報告書』(99/3)は前出「新プラネット計画」に代わる新しい青少年育成計画の策定(2001年)に向けた検討を行い、「共育」「コミュニティの再構築」「予防的視点の重視」「未来への対応−積極的な成長の機会の提供」の視点を提起した。そこでは、青少年のニーズや意見を今後の計画づくりに反映させるため、青少年自身の参加による大阪府青年政策会議が設置された。
 そして、90年代終わりには青少年教育関連文献にもワークショップという言葉が多く見られるようになり、それとあいまって青少年自身の参画がキーワードになっていく。しかし、このような個性発揮を現代青少年に求めようとする場合、ピアコンセプトという阻害要因に直面せざるを得ない。
A 参画と個性発揮の阻害要因としての「ピア」
 西村美東士『癒しの生涯学習』(97/4)は、癒されない3つの病理として、@家族関係の病理、A教育システムの歪み、B自分自身の内なるピアコンセプトを挙げた。ピアコンセプトとは仲間を大切にする意識のことである。そこには連帯感や役割意識などの肯定的側面もある。しかし、現実には、ピアは個人の主体性を自己抑圧する否定的側面としても機能する。「みんなのために」とか「みんなだって」とかいう認識が、みずからの個の発現を自己抑圧する結果につながる。
 生涯学習社会以前の学校歴偏重の上下競争社会では、一人ひとりが仲間からいつ足を引っ張られるかわからないから、仲間にあわせたふりをしていなければならないという「防衛的風土」に満ちている。この集団風土は、個々人の内面としてのピアコンセプトによって支えられる。ピアとは「なかよし仲間」のようなものである。仲間を大切にするということはよいことなのだろうが、それは自分を押さえて仲間と無理に同じようになろうとする「卑屈な自己疎外」にもつながりがちである。「友達から変と思われたらもう終わり」という彼らの叫びは、まさに「みんなぼっちの世界」の象徴と考える。
 ピアコンセプトは、ヒエラルキーの支配・服従関係から逃げ出したいという願いから発しているのだろうが、ピアだけでは残念ながら本質的な問題解決にはつながらない。かえって、現在のたての関係を下から支えたり、内部でミニ・ヒエラルキーをつくったりするだけの結果になってしまう。青少年が個性を発揮するためには、彼ら自身の内なるピアコンセプトを意識的・理性的に乗り越えなければならない。
 社会化支援は、集団への「協調」を一方的に進めるのではなく、このようなピアコンセプトの克服を助けるものでなくてはならないと考える。
 総務庁青少年対策本部『青少年健全育成中央フォーラム−青少年健全育成のために薬物乱用の防止を考える』(98/3)で、和田清は、薬物乱用防止も必要だが、薬物依存は「治す」という区切りのある病気ではないとし、脱慣とその維持は、家庭、医療機関、教育機関、取り締まり機関等あらゆる所の連携的サポートなしには不可能に近いと訴えた。そして、害知識の無力さについて次のように述べた。「薬物使用に関する大規模中学生調査」で毎年認められることだが、害知識は薬物使用経験者の方がある。誘われた時に「NO」と言えるようにする指導こそが重要である。そのためには、薬物乱用・依存者に肌で接している人たちの話や、生徒にとっては心理的に仲間に近い元乱用者のノンフィクションの話が有効である。学校教育で知識を教えたら、それを強固なものにする必要がある。
 個性重視から始まった90年代の青少年教育は、2000年を迎え、逆に個性や自己決定能力の獲得に立ち戻りつつ、青少年の「参画」というかたちで彼らの個の発揮を支援する段階に発展しつつあるといえる。そこでは、ピアコンセプトを打破し、自他への基本的信頼の集団風土をユースコミュニティのなかに形成することが必要であると考える。
 青少年の社会参画を進める社会化支援においては、「身近な他者」(1.4論旨の分析から見た「青少年の社会化」を支援する理念とその変遷)としての交友関係や仲間関係に留意する必要がある。多くの青少年は、その段階ですでに、ピアという「社会化圧力」の前に「立ちすくんでいる」と考えられるからである(2.4「若者の友人関係の類型と社会化支援の方法」参照)。
 逆に言えば、「社会参画」する仲間の関係の中での「ピアコンセプトからの自己解放」の展望を示すことができれば、「個人化」と「社会化」の統合的支援のための効果的な方法を示すことになると考える。

1.6.2 職業・就職支援に関する社会化支援理念の検討

 現在、とくに職業・就職支援理念においては、若者の「自分さがし」や「やりたいこと重視」の傾向が、結果としてはフリーターやニートにつながりかねないものとして否定的に受け止められる傾向にある。
 しかし、すでに検討してきたように、その傾向が社会化支援における「変わるはずのない理念」を変化させることとならないよう注意する必要があると考える。青少年の自己形成と自主性伸張を社会化のための不可欠な決定要因として重視する必要がある。
 むしろ、社会化支援理念においては、次のような職業・就職支援が求められると考える。

@ 「自分さがし」が現実社会に関してより正確な認識のもとに行われ、「経済社会における自己の位置決め」が適正に行われるよう支援すること。
A このようにして、「やりたいこと」への願望も、よりリアルな強い信念となり、計画的な展望を伴った「アイデンティティ」や「社会的戦略」として現実化するよう支援すること。

 2002年10月、日本産業教育学会第43回大会が徳島大学で開かれた。われわれはラウンドテーブル「最近の若者の労働観と生き方を考える」を開き、この問題について討論したうえで、その結果を検討した10。
 登壇者は次のとおりであった。
司会
西村美東士(徳島大学大学開放実践センター)
パネラー
玉井伸明(洋風居酒屋「Typhoon」店主)
正木伸一郎(徳島市公務員)
川田春夫(コミュニティFM放送局エフエムびざん)
 
(1) 本ラウンドテーブルの趣旨と方法
 このラウンドテーブルでは徳島でアクティブに活動している若者たちが「定職に就くということ」、「仕事の楽しみ」、「自分らしく生きることと仕事との関係」、「自分より若い人たちの仕事ぶり」「教育や学びと職業との関係」などについて率直に語り合った。
 本ラウンドテーブルでは、西村が各登壇者に事前にインタビューを行い、そのまとめをもとに議論を進めた。登壇者は一般的な若者ではない。むしろ彼らの生活における自己決定や主体性の発揮の状況を見ると、突出的な存在である。しかし、だからこそ多くの若者にとって憧れやモデリングの対象にもなりうる影響力の大きな存在と考えられる。そういう彼らの考え方から、一般的な若者の今後の労働観の動向を予測できると考えた。
 そのために以下の仮説を設定し、各登壇者からコメントを得た。

 〔職業生活への適応をはじめとする青少年の「社会化」は、青少年自身のニーズでもある。しかし、他方で、彼らは「できれば自分のために働きたい」という希望をもっている。自己実現や自分らしさを大切にしようとするゆえである。これらの「個人化」傾向を肯定的に理解することによって、現代青少年の望ましい社会化を支援することができる。〕

 青少年が自分自身のことを深く考えたり、あるいは自分のやりたいことを大切にしたりしようとする傾向を、若者の他者への気づきや社会化の阻害要因としてとらえ、できるだけ排除しようとする動きがあるとすればそれは妥当ではないと考える。むしろ「自己の人生を充実させたい」という彼らの思いを励まし、彼らがそれとともにもう一方でもっている社会化ニーズにつながるよう支援することこそ社会化支援のあり方だと考える。

(2) 玉井の働き方
 玉井は「いやな仕事を一生続けるのがいいこととは思えない」として次のように述べている。「私は往生際が悪かったのだと思う。この仕事にたどり着くまで10年以上かかった」。彼は36歳で今の仕事を始めた。「世界一」には興味がないが、この辺(徳島市常三島)で一番になりたい。あこがれて東京に行き、大阪に行ったからこそ、今は徳島、常三島が好きという。
 彼の生きがいは「接客」である。これを小さい範囲でやりたかった。秋田町(徳島一の繁華街)のようなところではなく、小さいところで「お山の大将」になるのが好きだ。だが、遊びでやっているように見えるかもしれないが、じつは損しないように厳密に計画している。彼にとってはそれも楽しい。
 彼は店を大きくしたり、各地に増やしたりしたいとは思っていない。それより、常三島で小さい店でもしっかりやっているといわれたい。「ほかの店にけんかを売る気もない。まあ、自己満足である」と彼はいう。
 小さい店でも町内では「しっかりやっている」といわれるようなところに彼は仕事のプライドを見いだそうとしていると考えられる。それは従来の競争社会にありがちだった「勝ち組になる」ことによるプライドとは異なる。しかし、「やさしい若者」なりに、飲食業やそこでの接客に関する自己の思い(後述「やりたいこと」)を「わが町」の範囲でアピールしようとしている。その意味では、10年以上の紆余曲折を経た上で彼自身の手でつかみとった「仕事を通した社会の中での自己の存在確認」の方法ととらえられる。

(3) 正木の働き方
 玉井と比べて安定した立場の公務員である正木は、玉井とは逆に、仕事を他の活動のための手段として割り切っている。
 彼は「自分は事務屋のため、3年ごとの異動で、何の仕事に就くかわからない状態。常に新人であり、言われたことをやるだけ」。それゆえ彼にとって仕事は、仕事以外のこと(娯楽・教養・旅行など)をするための手段でしかない。つまり仕事は収入を得るためのものである。だから彼は残業してお金を稼ぐよりも、自由な時間を大切にしたい。仕事中心になって自由な時間がつぶれるのはいや。仕事以外にやりたいことが何もないのなら仕方ないが、それより教養を身につけたい、体験したい、知りたいという。
 また、彼は徳島県立青少年センターで「コミュニケーションをしている」という。そこで子どもフェスティバルなどのイベントも手がけているから、「多少社会に協力しているといえるかもしれない」が、「人の役に立つ」とか「社会のためになる」ということには関心がないという。
 何の目的も設定せずに、「とにかく海岸で100人のバーベキュー大会を開く」ということを思い立ち、友達に呼びかけて実現させたことがある。
 個人経営なら仕事が生きがいということもあるかもしれないが、公務員の場合、何をやれるのか自分ではわからない。だから残業ばかりやっていて、他の活動をしようとしない同僚を見ていると、「そんなに仕事ばかりしていて何になるの」という気がするという。
 われわれは個人が職業を通して社会に関わるということを重視してきた。しかし、正木のいうように社会参加のチャンネルは必ずしも職業だけではなく、さまざまな活動にわたっていることを認めなければならないと考える。若者の労働観を考えるとき、余暇と職業、個人的事項と社会的事項などの二項対立の既成概念からもっと自由になる必要がある。
 公務労働の意義についてどう考えるべきかは議論の余地があるだろうが、ここで注目したいのは、玉井の仕事にせよ、正木の社会的活動にせよ、いずれにせよそれらは彼らにとって「自分がやりたいこと」の延長線上にあるということである。

(4) 川田の働き方
 川田は工業高校を卒業して夜間短期大学部に入学。その後、大学工学部電子工学科に編入した。前の二人よりやや年長である。
 彼は在学時から短期大学部の後輩とイベント企画サークルを立ち上げ、また、市社会教育課のヤングフェスティバル運営委員会に所属して活動した。これが町づくり活動へのきっかけとなり、市社会教育委員としても活動した。その後、徳島市をフィールドとして青年層の活性化や人材の育成に携わってきた。現在は、市生涯学習運動の青年ボランティアゼミ事業、生涯学習施設ボランティア、音楽の町づくり等の活動をしている。
 彼はこれらの活動を通して「今より楽しく、いろいろな価値観が認められる徳島にしたい」と考えている。そして「異分子を排除した、価値観があまり違わない、いさかいのない、個人の選択を認めない社会はいや」だという。その観点からいえば、今回の仮説についても、「社会化に対する個人化=若い人たちのわがまま」ととらえているようで疑問を感じるというのだ。むしろ若い人たちが個人として責任を持ち、社会が若い人たちにその責任を与えることができる環境づくりをすることこそが、現代青少年の社会化を支援することにつながると彼は考えている。
 一方、仕事の面では、夜間短大時は、昼は市施設課で汚水処理場の水質検査業務、県環境保健センター大気課で雨水中の重金属成分についての研究を行った。その後、大学に編入し、4年後に退学して、水質保障会社に入社し、オゾンの特性を利用した装置の販売や開発を行った。2年前、コミュニティFM放送局に入社。企画部に所属し、各種企画、放送技術、ケーブルテレビの番組表の編集を行っている。
 このように転職を重ねた彼だが、仕事の喜びについての考え方は一貫している。彼はいう。「仕事を通してお客さんに喜んでもらえることが一番の楽しみ。自分で作って営業した商品を認めてもらって、その商品を導入してもらい、その会社の業績が上がったときが一番うれしい時。販売から製作、導入までの過程を通して、お客様からわがままをいってもらってそれに対応していくのが楽しい」。評価が見える、自分の成果が確認できるということが彼にとっては大切なのだ。
 彼の考え方には、若者の個人化に対して否定的な受け止め方が見られない。しかし、同時に、彼の考える個人化は「わがまま」とは正反対の、他者や社会との相互関与の中で位置づけられているものである。「客に喜んでもらう楽しみ」が個人化の発展上に自然に位置づけられているといえる。
 個人化支援と統合された社会化支援理念を形成するにあたって、重要な考え方だといえよう。

(5) 若い人たちの仕事ぶりから自分の生き方を語る
 仕事は人生のうちの長い時間を費やす。それなのに多くの人は、いやな仕事をなんで我慢して続けているのかと玉井はいう。店を訪れる学生客を見ていても、「何とかどこかに引っかからないか」ということで就職活動をしているように見える。もし、そこで内定を受けられたとしても、彼には「とりあえずやってみたら」としかいえない。むしろ、「自分にはもうあわない」と思ったとき、模索することが大切だと彼は思っている。
 最近の就職支援の動向から見れば、まったく正反対の論議といえよう。また、最近の若者自身も、玉井のような若者が減り、「店を訪れる学生客」のような若者が増えているように思われる。
 玉井自身は、「(小さなケーキ屋で)雇い主が自分の働きを見てくれていなかった」という寂しい経験をしたことがある。そこで彼はアルバイトには売り上げを公開し、ボーナスに反映させている。彼らもやる気が出て、提案もするようになった。がんばってくれて、頭が下がる思いだという。
 また、アルバイトの人たちの「この店が好き」という気持ちを大切にしている。彼らは仕事帰りには店で食べて帰るという。アルバイトの彼らに「ここで働きたい」、「ここで働いているので、仲間の中でも鼻が高い」と思われたいので、バイト募集は、情報誌ではなく店内チラシだけで行っている。
 彼はいう。今時の若者は「やる気がない」「夢がない」と言われているが、自己の価値観の中での夢は持っていると思う。それを「夢の大小」などで測って決めつけようとするのは大人側の勝手な都合ではないか。社会に貢献せよというが、社会も個人に貢献してくれなければ釣り合いがとれない。玉井の提唱していることは、大人や社会の側にとって都合のよい若者像を求めるのではなく、今の若者たちが彼らなりにもっている夢や可能性に立脚して仕事を提供すべきということだと考えられる。
 これに対して正木は、今の若者が何を基準に仕事を選んでいるのか疑問だという。仕事だけでなく、個性を出さない、提案しないなどの傾向を感じる。これについては「やりたいこと」を見つけていないからではないかと考えている。そして、ともに活動している現在の仲間たちには、やりがいをもたずに参加している人はまずいないという。
 このように玉井や正木は「その仕事や活動をしたいかどうか」、「その店が好きかどうか」など、個人的な判断基準や嗜好を重視しているといえる。その点は川田も同じである。
 川田はいう。「働きぶり」は個人のパーソナリティによるものであり、若い人ということでひとくくりにはできないと思う。しかし、仕事のとらえ方が下手かなとは感じている。自分の価値を周りの環境や、テレビドラマやマスコミなどに左右されて過大評価したり、必要以上に矮小化したりしていると感じる。もっと自然に仕事を楽しんだらいいのではないかと思う。また仕事をしている上で、責任を持つおもしろさや人に喜んでもらう楽しさをもっと体験してほしいという。
 このように川田は他の二人と同様に若者一人一人の個人的な事柄を重視し、むしろもっと自然に「楽しさ」などを味わえばいいと考えている。しかし、責任を持つことや他者に喜んでもらうことなど、社会的にもより充実することが個人的な「楽しさ」につながるとする点が川田の発言の特徴的な点である。
 このようなことから、社会化支援においては、若者(のリーダー層)が個人化し、その結果、職業の面でも「わがまま」であることについて、そのマイナス面にばかり目を奪われないよう留意する必要があると考える。むしろ、社会化圧力に屈した結果、個人的充実だけでなく、皮肉にも川田のいうような社会的充実をも損なってしまう若者たちに対して、もっと個人化が、「社会化と統合しながら」ではあるが、深化するよう援助する必要があるといえるのではないか。

(6) 定職に就く意義の見直し
 定職とは辞書には「きまった仕事」とある。英語では、a fixed job、fixed employment、a regular occupation、a permanent jobなどとある。このことから「不変性」が定職に関する一つのキーワードになると考えられる。その場合、働き先が不変、仕事内容が不変、自分にとっての仕事の意義が不変の3種類が考えられる。これに沿って表1.6.2-1のとおり登壇者の意見を整理してみた。ただし、「自分にとっての仕事の意義が不変」については、「責任をもつ」「裁量が大きい」に置き換えて分類した。

表1.6.2-1 定職志向に対する意見
定職における「不変性」の意味
定職志向に対する肯定・否定の内容
勤め先が不変
「一生の仕事にしなければいけない」と思い込んでいるだけなのではないか。

「フリーターはいけない」というプレッシャーに流されているだけではないか。

大人は「先々困るから」というかもしれないが、それはやってみないとわからない。
仕事内容が不変
一生同じ仕事をするのがいいこととは思えない。

いやな仕事でも定年までやるのか。

「10年やればおもしろくなるかもしれない」という人もいるが、それは苦痛。
責任をもつ裁量が大きい
アルバイトだって、プロ級の仕事をする者もいる。責任から逃れようとする者ばかりではない。

自己裁量の大きい職場であれば、正社員の方がわがままがきく。(受容)

個人の力より、組織を使った方がより多くのことができる。(受容)

 3人の登壇者は共通して「定職に就く」ことを絶対視する考え方(ときにはプレッシャー)に対して異議を申し立てた。それよりも彼らは「やりたいこと」を求めて生きていくことを大切にした。このことは後で述べるように、定職に就こうとしない若者を、すべて「社会的弱者」としての問題としてとらえようとすることは、必ずしも若者の正確な理解に基づいたものとはいえないということを示していると考える。
 次に、表1の右下2段は、個性や個人の裁量の発揮のためを考えるからこそ、正社員、定職、組織につくほうが良いという指摘である。確かに、現在は、社員個人の欲求実現のために機能できるフラットな組織システムが求められている。この指摘はその動向と符合すると考えたい。
 このように、勤め先や仕事の内容が変わることには無頓着であっても、自分の裁量が大きく責任ももつということに関しては「どうでもいい」とは思っていないことに注意したい。自分にとっての意義の深さについていえば、彼らも不変性を求めているといえる。言い換えれば、自分が仕事をする意義を自分なりに見つけてそれを貫くことが本来の「定職」だとすれば、彼らはそれを強く支持し、望んでいるとさえいうことができる。
(7) 今回の仮説に関する検討
 3人の若者リーダーの話からは、本ラウンドテーブルで設定した仮説の中での、「個人化の傾向を肯定的に理解すること」の重要性は一応支持されたと考える。表2は本仮説に関わる発言内容を、個人化/社会化の視点で整理したものである。

表1.6.2-2 個人化/社会化に関する発言内容
個人化/社会化
発言内容
提起された
課題
個人化の希薄化
最近の若い人は、興味あること自体少ないのではないか。しかし、それは経験していないからだけであって、「若い人は一生懸命やらない」とは決めつけられない。
決めつけずに、経験するチャンスを与えよ。

そもそも会社には『やりたいこと』がたくさんあるはず。これに対して多くの若者が『自分の会社にはやりたいことがない』という。このことが致命的。
「やりたいこと」を会社のなかに見つけられない若者の問題。



個人化と社会化の分裂
社会におもねるのでなく、流されるのでもなく、私たちは社会の一員として生きている。そういう一人で生きることのできない人間として、若い人たちが自己実現や自分らしく生きることを大切にしたいと思うことは、個人としての当然の欲求ではないか。
当然な欲求を否定的にとらえざる得ない状況や環境こそ、変える必要あり。



社会化の空疎化
今の子どもに「将来何になる?」と聞くと「サラリーマン」と答えるというが、それだけはいやだ。小学生の時ぐらいだれでも夢を持つはずなのに。
子どもが将来の仕事に夢を持たなくなったのは大人や社会の責任。

 この結果について、次のように検討した。
 第1に、登壇者は自分より若い人たちについて、「自分のやりたいこと」をもっと大切にすることが必要と感じていることが明らかになった。すなわち、社会化圧力に負けて個人化が阻害されているという側面が指摘されたと考えられる。
 仮説では「職業生活への適応をはじめとする青少年の社会化」を、「青少年自身のニーズ」として肯定的にとらえたが、それが、たとえば「店を訪れる学生客」のように、「自分のために働きたい」という欲求を抑圧するという否定的側面を見逃していた。
 第2に、それでは「個人化の傾向」の肯定的理解を、どのように「現代青少年の望ましい社会化」の支援と統合して進めたらよいのかという課題がある。そこでは、第1の課題と関連していえば、より深い自己のなかでの「自分のやりたいこと」の追求を励ましつつ、他者や現実社会との接点の中で自己を位置づけることによって、「自分のやりたいこと」がより明確になり、より深まるよう支援する方策を明らかにすることが重要といえよう。表の「個人化の希薄化」はその必要性を示している。
 表の中段は、社会化が「おもねるのでも、流されるのでもない」個人としての当然の行為であるのと表裏一体の関係として、自己実現や自分らしさを大切にしたいという若者の欲求を、社会化が必須の個人としては当然の「自己保存本能」としてとらえている。若者の「自己実現や自分らしさを大切にしようとする」個人化傾向を肯定的にとらえようとする仮説に対し、さらに進めて、若者個人の側からはその傾向は社会化と同様に「必須」であると指摘しているのだ。
 第2の課題として挙げた個人化と社会化の統合的発展のあり方を考えるにあたって、両者を別のものとせず、個人としてはともに必須の事項であることを認識することが、現代の若者たちの正確な理解にとって重要であろう。そして、青少年の社会化は促進しようとするのに、個人化については「それを否定的にとらえざる得ない状況や環境」こそ、批判的に点検し直す必要がある。

(8) 若い人材を育てるには
 ラウンドテーブル後半の討議では、登壇者よりさらに若い人たちをどう育てるかということがとくに話題になった。この「人材育成」の話題については、自分の店のアルバイト、会社の後輩、さらには青少年活動の後継者など、対象は三者三様であっても、三者同様に強い関心が示された。その結果、次の課題が明らかになった。
 第1に働き方や生き方を教えるとはどういうことかという課題である。
 まず、今の若者たちは「自分は何をしたいか」がわからない若者が多いのではないか。
 次に挨拶ができない。それなのに、雇用側は若者をしつけきれない。むしろ雇用側が今の若者に迎合しつつあるとさえ思われる。大人の立場からもっと若者に切り込んでいってよいのではないか。
 これに対して若者の側は、「生きていて楽しい」を一番大切な要素と考えている。しかし、「自分だけで楽しがっている」状態はあまり楽しくない。このことについてわかるように教え、より深い楽しさを得る体験を提供することが大切である。
 社会や国に貢献するということについては、川田以外は「自分にはそのような意識はない」としたが、川田だけは「社会や国のことを考えたほうが、自分の枠がより広がると思うようになった」と発言した。
 社会貢献に向けた積極的態度をどのように若者に形成させるかという課題は、確かに重要である。しかし、それ以前に、「自分だけで楽しがっている」状態の若者たちに対して、それを否定して社会化に誘導しようとするのではなく、川田が指摘するように、もっと「自分の枠が広がる」社会的活動があるということを教えることこそが必要なのであろう。
 第2に、無気力な若者を「改善」するにはどうしたらよいかという課題である。育てようとする自分たち「若者」まで無力感にさいなまれるときさえあるという。
 これについては「とりえを伸ばす」ことの重要性が提起された。しかし、競争主義の立場に立たないとして、「とりえ」とは本当は何のことか。それらを明らかにする必要があるだろう。
 どんなに無気力に見える若者であっても、必ず個性はもっているはずであり、自己表現が抑制されていただけかもしれないと考えることが必要ではないか。
 第3に「フリーター問題」である。これは前述したようにフリーターであること自体に問題があるということではなく、「どうしたら生きがいを持って働いてもらえるか」という課題としてとらえる必要があるという結論を得た。
 まず、自分が好きな仕事をするのが基本ということが確認された。これに対して新しく20代になった若者は逆に定職志向が強い。しかし、それは周りにそう言われているからだけなのかもしれない。そういうなかで、「自由人」としてのフリーターをあえて選択することについては、むしろ評価されて当然ではないか。
 もちろん、「とりあえず就職」するのもよい体験になるだろう。ただしそれは遊びの中でも学べることだ。
 さらに前掲表の「やりたいことを会社のなかに見つけられない若者の問題」は、深刻な危機を表している。この状況を乗り越えて、若い人材を育てるためには、職業決定時の余計な外的圧迫をできるだけ排除すること、そして「自分のやりたいことを仕事に求めてはいけない」という自己抑圧からできるだけ解放してやることの両側面が重要であると考える。
 正木のいうような「経済的事情」から「定職に就く」ことのメリットを説くのならまだしも、「自分のやりたいこと」よりも見栄や外見を優先してフリーターをやめさせようとする大人側の行為は、今の若者から自主性を奪い、ますます真の意味で人間にとって必要な「定職」(前述「自分が仕事をする意義を自分なりに見つけてそれを貫くこと」)から遠ざける結果になりかねない。

(9) 若者の「やりたいこと」を見つけさせる職業面
での社会化支援理念の形成

 第1に「主体的フリーター」の認知について、その意義が明らかになった。
 今回のラウンドテーブルでのキーワードの一つは「フリーター」であった。しかも、それはもっぱら「定職を避けてフリーターに逃げようとする若者たち」の問題としてではなく、「フリーターであることを避けるために、好きでもない仕事に就く(登壇者より)若い世代」の問題として語られた。このように時代は「働きがいを犠牲にした定職志向」、「個人化を断念した社会化」に突入しつつあるのかもしれない。
 しかし、そのような若者の個人化面での希薄化は、今後の企業経営にとってけっして歓迎されるものではないことは明らかである。それよりも、気の利いた企業なら、登壇した3人(正木を含めて)のような者を生かす方策を考えるだろう。さらには、自分の「やりたいこと」のためにあえてフリーターであることを選ぶ若者が、一般の若者たちの尊敬の対象となっていることに注目する必要がある。
 今回の議論を通していわば「主体的フリーター」の存在が浮かび上がってきたのだといえよう。今後の職業支援は、「定職」にこだわることなく、「主体的フリーター」をも包含したところに「望ましい到達像」を設定する必要があると考える。
 第2に本ラウンドテーブルでは、社会化の大切さは「他からいわれるまでもなく若者自身が痛感している」ということが確認された。しかし、それは「職業で」とは限らないという点に、われわれは注意を払う必要がある。
 若者自身にとっては「職業かどうか」という外面的なことより、「自分がやりたいこと」であり、しかも同時に「社会的により有為な存在として自己を位置づけることができるかどうか」という内面的なことに、より関心があると考えられる。
 第3は愛社精神、さらには社会や国家への貢献といった場合、それを大人たちが過去の価値観のまま若者に押しつけようとしても効果的ではないと考えられるという点である。それよりも、「ものづくりが好き」、あるいは川田のいうような「喜ばれたらうれしい」という個人的な感覚から出発して支援する必要があるだろう。
 そして、玉井が目指し、一定程度の成功を収めている「この店が好き、マスターが好きだから働きたい」という個人的嗜好をより重視するやり方は、職業支援の大きな転換の必要性を示唆していると考えられる。従来は、会社や集団などに所属し、そこに帰属意識を持つことが社員に求められてきた。判断基準等もそこに準するので、これを「準拠集団」ということができる。
 しかし、玉井が目指しているのは、このような「準拠集団」としての店づくりではない。多くの若者が自分の好きなミュージシャンの生き方にあこがれ、その人から自分の生き方のモデルとしても学ぼうとするのと同様に、自らがいわば「準拠個人」(高橋勇悦編『都市青年の意識と行動』恒星社厚生閣、1995)としての雇用者であろうとしているのである。
 彼の目指すことは「個人としてやりたいこと」を実現するというだけでなく、「自分が準拠する個人のもとで働く」ことによってそれを実現しようとする新しい志向としてとらえられる。
 第4に、「個人がやりたいこと」を重視する3人の登壇者が奇しくも一致したキーワードに「パチンコ」(への否定的反応)がある。徳島のような地方都市に働く多くの人々にとって、パチンコは主要な娯楽場である。市内には大規模なパチンコ屋が数多く建っている。しかし、彼らの口ぶりからは「勤めとパチンコに明け暮れる自らの地方都市の日常」への反発を感じさせられた。
 3人のいう「自分のやりたいこと」にはパチンコは含まれないのである。パチンコのように一人で完結してしまうことではなく、コミュニケーションや共同作業を経て、少なくとも他者との関与によって実現するものを「自分のやりたいこと」としているのだといえる。
 いわば過去の「マイホーム主義」などに代表されるような小市民的な生き方に飽き足らないということなのだろう。ただし、だからといって彼らは「社会変革」などの活動をしようとしているわけでもない。あくまでも個人として「やりたいこと」の延長線上に、他者や社会との相互関与が存在するのである。
 地方都市の有力なレジャー産業であるパチンコを否定的にとらえることの是非については、ここではおくとしよう。しかし、少なくとも、地方都市を愛し、そこに足場を構えて、パチンコではなく、他者とともに仕事や社会的活動をしようとする彼らを支援することが必要であるといえる。
 それは地方都市に生きる若者や多くの人たちの人生にとって、個人が「より楽しくなる」もう一つの選択肢を示すことにもつながるものと考えられる。
 第5に登壇者は皆、自分より若い世代を育てることの重要性を主張していた。とくに彼らが危惧していたように「自分のやりたいこと」を模索する前からあきらめて(敗北主義)「定職」に就こうとする傾向が見え始めているとしたら、青年期の人間形成に対する青少年教育ほか、大人や社会の責任は重大である。若者が「やりたいこと」を探し当て、それを体験するチャンスを与えること、また、彼らのそういうチャレンジに対して受容的雰囲気を社会全体がもつことこそ切実に求められている。
 本大会が開かれた翌月に宮本みち子著『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社)が刊行された。そこでは久木元真吾によるフリーターの選択に関する言説の分析を引き、親も子も「やりたいこと」の呪縛にとらわれ、結果として現実逃避が続いていると指摘している。また、「安定雇用というものに魅力を感じなくなった」子どもたちにとって、日本はまだ「若い時期から実社会で活躍できる」土壌が少ないのに、「アルバイトする半労働者として、成人に達する前から、将来の保証も上昇の見通しもないまま、流動化する人生を開始しているようにみえる」として、そういう若者たちの傾向を否定的にとらえた。
 しかし、今回のラウンドテーブルにおける若者リーダーの発言からは、「やりたいこと」を社会との相互関与の中で自らつかみ取り、その「やりたいこと」については不変なものを求めて、「主体的」に流動化する若者の姿をわれわれは見てきた。「好きな店であこがれるマスターの元で」いきいきとアルバイトする学生の姿も知った。そして、むしろ、登壇者より若い世代に「やりたいこと」の模索や実現をあきらめてしまう傾向があり、そこにこそ危険があることが問題として浮かび上がってきた。
 われわれは最近の若者の仕事に関する意識やライフスタイルを理解しようとするとき、個人化/社会化の二項対立を乗り越え、現在の若者の現実に根ざして、「やりたいこと」を実現しようとする彼らの意思や、さらには個人化そのものの側面をもっと肯定的、積極的に評価する必要があるのではないか。その上でこそ、「近年のEU諸国の青年政策」に習い、「若者を社会の構成員として明確に位置づける」という宮本の提唱もより現実性のあるものになると考えられる。
 登壇した3人のような若者の予備軍はまだたくさんいるだろう。そういう若者たちの模索さえもが「現実逃避」と見なされ、彼らの行き場を奪ってしまう結果にならないようにしたい。

1.6.3 ひきこもり問題に関する社会化支援理念の検討
 
 前掲「ヨミダス文書館」によると、読売新聞全国紙における「ひきこもり」の「キーワード検索」による出現数は次のとおりである。1989年1件、92年1件、93年1件、96年1件、97年1件、98年3件、99年2件、2000年48件、2001年63件、2002年57件、2003年67件。
 この結果から、「ひきこもり」が問題視されるようになった時期を2000年前後ととらえ、その時期に発行された関連文献のドキュメンテーションを、石川良子(東京都立大学大学院・当時)に依頼した。その結果を右資料に示した。
 石川によるドキュメンテーション結果から、「青少年教育・対策」文献に見られる教育学的視点とは異なる、心理学、社会心理学、社会学等の視点を見いだすことができる。
 とくに、社会学的視点については、石川自身が社会学研究者として、若者の社会的自立をめぐる諸問題を実証的に明らかにしようとしている。石川による「『ひきこもり』に関わる人々が“現場”に居続けるための実践」11では、「“当事者/非・当事者”という境界の曖昧さ」、当事者との同質性と異質性のバランス、“ひきこもっている彼ら/ひきこもっていない私”という線引きの無効化等について、インタビューに基づいて実証的に明らかにしようとしている。
 すでに検討したように、「青少年教育・対策」文献においては、2000年に入ってから「主観的社会型」の社会性に関する記述が激減している。しかし、青少年の社会化状況の現実を把握するためには、石川の行うような、より実証的なアプローチが必要と考える。社会参画などの社会的に要請されている価値の実現を急ぐあまり、個人性あるいは原初的社会性などを軽視するとすれば、現実に対応した支援理念にはならないと考える。
 
 
 
 資料 「ひきこもり問題」ドキュメンテーション(作成 石川良子)


■番号/書名等/要旨
■0001/「ひきこもり」だった僕から、上山和樹、講談社、ym2001.12/本書の構成は以下の通りである。@プロローグ―「ひきこもり当事者」として、Aこれまで(自分へ)、Bいま(いまから)、Cエピローグ―人のつながりに賭けてみたい。著者は親の会での「カミングアウト」以来、ひきこもりに関連する活動に携わり、地域通貨の試みにも積極的に取り組んでいる。前半では、小学校時代のエピソードから雑誌での実名掲載に至るまで30余年の半生が綴られている。後半では、自らの経験に基づく独自の議論が展開されており、当事者の内面世界とそれに関わる親子関係について中心的に論じられている。ひきこもりの「核心」は「価値観の葛藤」とそれから生じる「コミュニケーションへの絶望」にある。この「葛藤」は特に経済面に顕著で、経済的自立を最優先する親と自分の倫理観、価値観を犠牲にしたくない本人との間に断絶が生じるのだという。本人にとって「お金」は「親の世界」ひいては「世間一般」を象徴するものであり、「恐怖」と「嫌悪」の対象でしかない。また、本人自身も「経済生活」と「価値観」とのジレンマに苛まれているものの、「価値観を共有できない」職場での人間関係に耐えられず苦悩を深める一方なのである。そこで、第一歩として「お金」を離れた人間関係の中で自らの「価値観」に対する「共感」を得ることが提案されている。また、ひきこもりを「性」の問題と関連づけて理解することなどは経験者ならではの論点であり興味深い。著者によれば、ひきこもりは「経済的・社会的挫折」であると同時に「性的挫折」でもあり(なお、これらを一括りにして「政治的挫折」と表現されている)、ゆえに「性的事柄」が突破口となり得る。また、「性」の問題をイメージすれば親による過干渉も緩和できるという。その他支援活動におけるジレンマ、精神科医をはじめとする専門家の位置づけ、現代社会との関連など内容は多岐にわたり、数々の論点は非常に示唆に富んでいる。
■0002/「ひきこもり」についての疑問、高岡健、星和書店、こころのライブラリー(8)ひきこもる思春期、pp.167-176、ym2002.05/筆者は「ひきこもり」を擁護する立場に立ち、以下3つの疑問を提出する。(1)「ひきこもりに関する大半の議論は、登校拒否論争において、すでに決着がつけられているのではないか」。かつて稲村博の登校拒否論が批判的に検証されたが、その論点は彼の教え子斉藤環による「ひきこもり」の議論にも継承されている。筆者は両者の共通点として、社会事象の精神医学化・単一価値に基づく治療の推奨、不当な圧力下における転帰を一般的予後とみなしている点などを挙げ、これらは既に登校拒否論争において否定されてきたものだと指摘する。(2)「『ひきこもり』は集団性からの離脱を本質とするものであり、新しいメンタルヘルス論の確立を、私たちに求めているのではないか」。「ひきこもり」とは「集団性からの孤立」と言えるが、その「孤立」を周囲及び自らが認められない時に二次症状や問題行動が生み出されると言える。したがって、必要とされるのは新たな「〈個〉と集団性のありかた」であり、「ひきこもり」において保証されるべきものは、あらゆる集団性からの離脱という新たなメンタルヘルス論であると筆者は主張する。(3)「人格障害論を中心とする反「ひきこもり」キャンペーンと対峙し、それらを解体することが、「ひきこもり」を呈する人々と向き合うための前提条件ではないだろうか」。小田晋や町沢静夫は「ひきこもり」を人格障害として位置づけているが、そうした特定の精神疾患と関連づけて「ひきこもり」を捉えようとする方法論には根拠がないと筆者は述べる。また、このような方法・立場は「ひきこもり」という行動に含まれる意味を軽視し、単なる除去すべき「症状」としてそれを捉えているが、人間にとっての「普遍的な現象」として「ひきこもり」を擁護することこそが、メンタルヘルス上の倫理であると主張する。
■0003/「ひきこもり」の現在形(『こころのライブラリー(8)ひきこもる思春期』所収)、斉藤環、星和書店、こころのライブラリー(8)ひきこもる思春期、pp.3-14、ym2002.05/本稿の構成は以下の通りである。@はじめに、A著者の立場、B「ひきこもり」の現状、C病理とその対応、Dおわりに。まず、筆者の一貫した主張が二点述べられる。第一に青少年のひきこもる権利を認めることの重要性。これは、社会が「ひきこもり」に対して寛容になることがその減少につながると予測されるため。第二に治療的援助なく「ひきこもり」から抜け出すことの困難さ。これは、その慢性化が神経症圏内の病理を引き起こすことによる。また、本人がひきこもる権利と同様、親が治療的介入を行う権利を保証すべきだと主張される。次に、数多くの批判に晒されてきた「ひきこもり人口は数十万人から百万人」という推定の妥当さが、学校基本調査や不登校の予後調査、臨床教育研究所「虹」が2001年4月に発表した調査結果、同年5月に一部発表された厚生労働所によるひきこもりの実態調査の結果などをもとに述べられる。また、筆者によれば「ひきこもり」には独身の成人男女が長期間両親と同居を続けるという日本独自の文化的背景と関連しており、その為ひきこもる青年を抱え込み家族もまた社会から孤立する、個人―家族―社会という三つのシステムが乖離することで発展していくという。したがって、筆者はその解決方法として(1)家族指導、(2)個人治療、(3)集団適応の三段階を設定する。まず、家族が正しい「ひきこもり」の知識を学習し、本人と家族との断絶を修復することが目指され、次に本人への治療に移行する。ここでは共感と信頼関係が結ばれれば概ね成功するという。最後に、たまり場やデイケア、自助グループなどを本人に紹介し、親密な友人・恋人を複数持つことができた時点で治療目標はほぼ達成される。本稿で筆者は「ひきこもり」に対する基本的立場・対応を改めて表明しているが、これは、彼が啓蒙を意図して行ってきた発言に対して向けられた様々な批判に応じたものと言える。
■0004/「ひきこもり」の支援−多くの社会資源が連携した支援システムの一員としての精神科医の役割、幸田有史、批評社、メンタルヘルス・ライブラリーFひきこもり、pp.109-140、ym2002.06/本稿の構成は以下の通りである。@「ひきこもり」について、A「ひきこもり」における精神科医の役割、B斉藤氏の著作から思うこと、C不登校のとらえ方と支援から、D「ひきこもり」は不登校の中の転帰不良の群なのか、E何が不登校を長期化させる要因なのか、F長期化の要因についてどのように考え、支援していくか、G支援システム、H不登校への対策から、「ひきこもり」への支援を考える、Iおわりに。本稿は、「ひきこもり」の支援において各社会的資源の連携がなされてこなかった状況を踏まえて精神科医が担うべき役割を検討する。まず著者は、斉藤環による議論を批判的に検討するところから始める。主要な批判点は@精神医療に偏った支援案、A発達など児童精神医学的な面の欠如、B既存の社会資源の活用やネットワーク戦略の欠如である。また、斉藤が不登校に関する既存の議論を無視していることも指摘されているが、その一方で斉藤は不登校の転帰不良群として「ひきこもり」を位置づけ、両者の連続性を強調している。そこで著者は、不登校の既存の議論や長期化・孤立化する要因を概観した上で、「ひきこもり」も同じ轍を踏まないように援助環境を整備していくことが重要だと主張する。具体的には、@問題の早期発見、A「発達障害」や「トラウマ」の診断や援助を念頭に置くこと、B学校精神保健体制の充実、C地域精神保健体制の中で児童や青年の支援を確立すること、D18歳以上で手薄になる児童福祉の青年期への拡張、E自助グループとの連携・支援、F民間社会資源や青年活動への公的な支援の強化、G児童精神医療の充実などである。「ひきこもり」を精神医学の領域に囲い込むことはこれら基盤整備を妨げることは明らかであり、むしろ精神科医は支援システムのコーディネータや他機関連携のチームリーダーを担うべきだとされる。また、このほかに、本人へ対応する際の10ステップも紹介されている。
■0005/「ひきこもり」の症状形成と時代精神−戦後50年の神経症症状の変遷の中で、衣笠隆幸、星和書店、こころのライブラリー(8)ひきこもる思春期、pp.129-142、ym2002.05/本稿の構成は以下の通りである。@はじめに、A「ひきこもり」の定義、B現代と「ひきこもり」、C時代精神の変遷と神経症症状の変化、D多彩な症状選択の背後にある無意識的葛藤、Eおわりに―ひきこもりの臨床の特徴。本稿は、「ひきこもり」の症状選択の問題を扱い、戦後における神経症や思春期青年期における様々な症状の変遷と時代背景との関係を論じた上で、「ひきこもり」の位置づけと意義について考察している。「ひきこもり」を個人病理としてだけではなく、社会との関連によって理解しようとする試みの一つといえる。症状の現れ方とは、決して個人的なものではなく、社会の雰囲気や時代精神を象徴的に反映するものであり、個人が直面する最も葛藤的な状況を察知して病理的に社会の前線の心的状況を表現したものである。この認識を前提として、まず1960年代から10年ごとに非精神病成人患者、思春期青年期の患者の症状変遷を概観し、その上で「ひきこもり」の位置づけ及びその意義が考察されている。「ひきこもり」が症状として見られるようになったのは生活が豊かになった1980年代からだという。その患者のほとんどは男性で、社会関係を拒否して職業選択に関する自己像の確立を回避するような状態は、社会的に期待される成人男子の世界からの退却として解釈されている。そして、その形として「ひきこもり」が選択されることにと、日本文化の根幹部分を形成しているものとの関連が推察されている。ただし、このように症状形成の社会的側面を指摘できる一方で、個人的側面、すなわち幼少期からの養育者との葛藤が思春期まで未解決のまま無意識の中に持続していることにも注目しなければならないと筆者は付け加える。つまり、社会の不安と病理的側面と個人の葛藤との巧妙な複合体として捉えるべきなのである。以上を踏まえ、最後には具体的な治療方針が述べられている。
■0006/「ひきこもり」問題とネットワークの課題−連携・協働の意義と可能性、長谷川俊雄、星和書店、こころのライブラリー(8)ひきこもる思春期、pp.143-152、ym2002.05/本稿の構成は以下の通りである。@「ひきこもり」状態と「ひきこもり」問題、Aネットワークの現状と課題、Bネットワークへの期待―家族・地域の新たな創造へ向けて。本稿は、保健所勤務を経て民間クリニックでソーシャルワーカーを務める筆者が、「ひきこもり」を個人・家族病理としてのみ捉える治療的対応の限界を見据えた上で、様々なレベルのネットワークの連携・協働の意義を論じたものである。最初に、援助対象・範囲の確定と有効な援助方法の開発を目指し、「ひきこもり」を“状態”と“問題”に分けて理解することが提案されている。両者は相互性を持っており、前者は「価値中立的な生活現象」、後者は前者が生み出す家族関係問題、経済問題、医療・心理的問題、社会的孤立問題などで、これが援助の対象・範囲とされる。つまり、「ひきこもり」状態から派生する多様な「生活問題=社会的困難」に照準することによって社会的解決の必要性・必然性の認識が促され、ネットワークによる問題の緩和・解決の可能性が開かれるのである。具体的なネットワークとしては、@援助職、A家族、B本人、C左記3つの接点、D市民・地域、E行政(財政的支援・社会資源整備・啓発活動等)が挙げられている。中心となるのは@〜Bで、これが交錯・交流することによってCが地域で創造され、更に一般市民を巻き込んだDへと拡大することによって「ひきこもり」のスティグマが剥がされることが望ましいと筆者は述べる。また、このように「ひきこもり」問題を医療・心理的問題に限定しないことによって、ネットワーク全体を支えるE行政の基盤整備保障の必要性を訴えることが可能になると筆者は期待する。最後に、このようなネットワークに期待されていることは、本人・家族・援助職・市民・行政が協働的な関係性をはぐくみながら、誰もが孤立しないで安定した生活を送れるような家族・地域の新たな創造であることが述べられている。
■0007/「引きこもり」から、どうぬけだすか、富田富士也、講談社、ym2001.03/本書の構成は以下の通りである。はじめに―私が20年間、2000家族の声を聞いて,@引きこもる子の声なき声,Aぬけだすきっかけ,Bふがいなさに苦悩する親たち,C閉ざされた心の悲鳴,D人は人に傷つき、人に癒される,E人間関係を育てるコミュニケーション・ワーク,F「引きこもり」家族の手記,Gもう引きこもらなくたっていい。著者は1990年代初頭から民間施設で先駆的に「引きこもり」の支援活動に携わってきた1人である。本書では、「せめぎあって、折りあって、お互いさま」という相互補完的なコミュニケーションの重要性が、「引きこもり」を肯定的に捉え抜け出していった家族の事例及び手記を通して語られている。著者は「引きこもり」を、人間関係をうまく結ぶことができず、コミュニケーション不全に陥り、社会参加したくてもできない子どもや若者の現象と捉えている。引きこもる若者たちの心理は「ふれあいたいのにふれあえない」という表現に集約することができ、人間関係への恐怖と希求が混在している。著者によれば、この心理は「喧嘩して仲直り」していくコミュニケーション・スキルが十分に身についていないことに起因しており、そしてその未熟さは彼らが生まれ育った時代背景と親子関係のあり方に関連している。上述の引きこもり傾向は1965年以降の高度経済成長期に生まれた若者に顕著で、彼らの多くは母親よりもむしろ父親とのコミュニケーションを求めているという。つまり、父親たちは高度経済成長を支えるために吐きたい弱音を抑えこんで仕事に励み、更に子どもの弱音をも拒絶してきた。こうした親子関係の希薄さが子どもたちのコミュニケーション・スキルの未熟さを招いたのである。そうしたスキルの「学習」はコミュニケーションを通してのみ可能になり、そのための第一歩となる「15の法則」も本書では紹介されている。
■0008/「引きこもり」問題への社会的支援の課題、長谷川俊雄、萌文社、『引きこもりの理解と援助』、pp.183−209、ym1999.11/本稿の構成は以下の通りである。@家族・本人のニーズから学ぶ―新聞報道の反響から,A援助の困難性―援助職のアンケートから,B家族・本人のニーズから社会的支援の創造・整備へ,Cおわりに。本稿の目的は家族・本人のニーズの把握である。ここでいう「ニーズ」とは家族・本人の希望や願いを直接に指すものではなく、それを踏まえた上での「家族・本人の解決課題」と「援助職の援助課題」を意味している。「引きこもり」問題に対するより有効な視点や援助方法を確立するためには、この「ニーズ」の把握が不可欠な作業となる。まず、家族・本人の声として朝日新聞の連載記事に寄せられた反響の一部が紹介されている。その内容をまとめると、家族は本人の訴えを真摯に受け止めてくれる援助機関及び親自身が相談できる場を、本人は苦しみを共有・理解し合える人との出会いを望んでいる。次に、1997年に行われた行政相談機関の援助職を対象としたアンケート調査に対する回答が詳細に紹介されている。ここでは「引きこもり」問題に対する援助職の関心の高さと援助の困難性を伺うことができる。以上から、「引きこもり」問題へ取り組む専門機関や自助グループが少なく、体系的な援助方法論がないまま取り組みを行わなければならない現状(当時)が明らかにされる。これを踏まえて本稿では、相談機関・医療機関における援助実践を公開し、家族・本人の「声」を受け止めた上で体系化すること、個別支援でカバーできない問題をグループ支援で補うこと、地域的な広がりを持ち様々な機関の連携によって豊かな社会的支援の方法及び資源の創造を目指すこと等が課題として挙げられている。なお、本稿は「引きこもり」の社会的認知がそれほど高くない時期に著されたものである。現在の援助体制は当時よりも整備され、その差異を考慮する必要があるが、ここで紹介されている「声」は今なお参照される価値があるだろう。
■0009/10代・20代を中心とした「社会的ひきこもり」をめぐる地域精神保健活動のガイドライン(暫定版)−精神保健福祉センター・保健所・市町村でどのように対応するか−、厚生労働省、厚生労働省、ym2001.05/本ガイドラインの構成は以下の通りである。@「ひきこもり」の概念、A問題の把握に関する基本的態度、B援助をすすめる時の原則、C援助上の具体的な技法について。本ガイドラインは厚生科学研究事業「地域精神保健活動における介入のあり方に関する研究」の平成12年度の研究成果として、保健所・精神保健福祉センター等地域の相談機関向けに作成、平成13年5月8日付で各都道府県・指定都市に通知、配布された。「治療」ではなく「地域においてまずできることは何か」ということに力点がおかれている。〈T〉「ひきこもり」は、さまざまな要因によって社会的な参加の場面が狭まり、自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態を指す。明確な精神疾患・精神障害をもつ人々と、「病気とよんでよいかわからないが、ひきこもりを続けている人々」とを分けて捉え、後者のような状態を「社会的ひきこもり」と呼び、本ガイドラインはこれについて述べたものである。これは明確な医学的診断とは言えず、一つ社会的状況を呈する人々の状態を指す言葉と考えてよい。〈U〉以上の定義を踏まえて、@生物学的な治療(薬物療法)が有効化、A暴力や危険な行為(自傷・器物破損・危険物所持)のため、緊急対応が必要か、という2点から見立てを行うことが必要である。〈V〉最初の相談は家族によるものが多いため、本人ばかりでなく家族自体を支援することが必要になる。そして、本人だけではなく家族ごと孤立している場合があるので、家族、本人の順に援助していくことがすすめられる。本人が来談したら、その気持ちを理解しようとする「待ち」の態度で臨み、他機関を紹介するなどネットワークを用いて援助することが重要である。〈W〉@初回面接時の態度、A面接の継続のために有効な技法、B緊急対応が必要な事態への対応、Cプライバシーなどの問題の4点について、詳細に述べられている。
■0010/ひきこもりケースの家族特性とひきこもり文化、近藤直司、岩崎学術出版社、青年のひきこもり―心理社会的背景・病理・治療援助、pp.39−46、ym2000.01/本稿の内容は以下の通りである。1.事例。2.ひきこもり家族文化と家族特性。おわりに。本稿では、筆者の訪問活動から明らかになった家族特性について述べられている。筆者はこれを「ひきこもり家族文化」と名づけ、具体的な特性、家族歴、家族状況を以下7点にまとめている。(1)家族同士が他の家族成員の内面に踏み込み、情緒に触れることを危険、あるいは迷惑と感じている。(2)両親双方、あるいは片方に強迫的、スキゾイド的、自己愛的な傾向が見られ、また、家族全体が社会や地域から孤立していることがある。(3)こうした家族文化には明瞭な世代間伝達がみられることが多い。(4)母親は子どもとの分離不安が強く、分離を回避するために子どもの問題を抱え込んだり、子どもの体験や行動、家族全体をコントロールしようとしたりする傾向がある。(5)母親自身の悪い自己イメージが子供に投影されることで子どもの健康的な部分が否認され、そのことが子どもの自己評価や自己形成過程に影響を与えていると考えられる。(6)子どもの行動のみに関心を寄せ、「お小遣いをやるべきかどうか」といったHow to式の質問を繰り返す傾向から、子どものネガティブな情緒に対する両親の感受性が低いことが明らかになりやすい。これは、子どもに対するコントロール喪失への不安を防衛しようとする母親に多く見られる。(7)上記のコントロール喪失に対する不安、及び分離不安の背景の一つに、「喪の仕事」が進展しないまま沈殿した母親の流産、中絶、親との死別などの対象喪失体験が隠されていることがある。ひきこもりケースにおいては、アルコール問題、虐待などの病理性の明確なものは少なく、上記のような特性を持つ家族が多いという。また、母親だけでなく、父親の葛藤回避や判断停止状態による非協力的な態度が背景要因になっているケースも少なくないことが述べられている。
■0011/ひきこもりと小さな思想、塚本千秋、批評社、メンタルヘルスライブラリーFひきこもり、pp.56-74、ym2002.05/本稿は全部で15に区切られており、@A基本的態度、B〜Gひきこもる青年Aの語りの紹介とその解釈、H〜Mひきこもる青年B子の語りの紹介とその解釈、N結論、という構成になっている。現在、しばしば青年の内省力の低下が嘆かれるが、ひきこもる青年はよく考えており、語り始めれば「かなり明瞭な社会批判・同時代批判」が展開される。そうした彼らの姿と比べると、彼らを問題視する親や援助者の方が、ずっと浅薄に感じられる。彼らが人に劣らぬ判断力を持ち、むしろ内的に豊かであることに気づけば、各々にあった配慮が自然に生まれてくるだろう。筆者はこのように前置きし、ひきこもる青年A、B子2名の語りを紹介している。両者は共に、ひきこもりつつ自らの思想を手に入れていった。特にAにおいては実際にひきこもることが彼の思想のためには必要だったし、そのように思想することがひきこもる彼に必要であったと筆者は述べる。また、B子は休学と復学を繰り返し、最終的には公務員として就職したという。このような事例から、筆者は治療的援助なくひきこもりから脱出できた例を知らないという論者に疑問を投げかける。また、明示的には述べられていないものの、青年が自らの進む道を見つけるために必要なプロセスとしてひきこもりを捉えていることが窺える。そして、ひきこもりに「なにかからの逃避」や「自己中心的なふるまい」を読み取ることは容易だが、これは現代の日本人全体を覆う心性であり、むしろ実際にひきこもっている彼らはこれらと真っ向から対峙しているのではないか、それは「潔い」とさえ思える、と本稿を締めくくっている。ひきこもりが精神医学的枠組みから治療対象として扱われがちな現在、このようなひきこもる青年の語りを紹介する論考は意義深い。また、同書には筆者と青年C氏との対話が収録されており(「ひきこもりと小さな思想―C氏との対話編」)、併せて参照されたい。
■0012/ひきこもりと犯罪行動、小畠秀悟・佐藤親次、星和書店、こころのライブラリー(8)ひきこもる思春期、pp.73-83、ym2002.05/本稿の構成は以下の通りである。@はじめに、Aひきこもりと犯罪に関する最近の知見、B事例と考察、Cまとめ。ひきこもりは1999年末から2000年にかけて立て続けに起きた犯罪報道を通じて社会的認知が高まったという経緯があり、「犯罪者予備軍」のように扱われることも少なくない。本稿は、こうした事情を背景にひきこもりの心性と犯罪心理との関連を論じたものである。ただし、必ずしも犯罪と関連しているわけではないというのが一般的な見解である。まず、ひきこもりと犯罪に関する最近の知見として、精神科医の小田晋と町沢静夫、家庭裁判所調査官らによる研究が紹介されている。小田は、最近の少年による殺人事件が従来の分類に当てはまらない新型であると述べ、その上で非行関連行動なしに突如反抗を起こす「突発型」と、ひきこもり生活が続く中で重大犯罪の形で突出する「引きこもり突発型」の2つに分類している。町沢は、引きこもることによって自尊心と自己愛が肥大化し、現実世界に適応できない挫折を、犯罪によって注目を集めることで穴埋めしようとする傾向が強いと分析している。調査官らによる事例検討では、「独特な形で守られていた自分自身の世界が破壊されそうだという危機感によって引き起こされたパニックという側面」が指摘されている。これらの共通点として、不安定な自己イメージと劣等感を抱き、鬱屈した攻撃感情を蓄積していったこと、犯罪による自己の存在感の確認という側面があることが挙げられている。次に、典型と思われる2事例を紹介し、自らの万能感を保証する内的世界とそれを脅かす外的現実との軋轢が生じたことで攻撃行動に至るタイプと、対人関係と社会参加を希求しながらも実現できず、理想的な自己と現実の自己との乖離に自己嫌悪を感じて性急な自己実現の試みとして犯罪行動に至るタイプの2つを、ひきこもりの犯罪を概観する際の中核的なパターンを想定している。
■0013/ひきこもりの家族関係、田中千穂子、講談社、ym2001.01/本書の構成は以下の通りである。序章子どもたちの心に何が起こっているか,第1章「ひきこもり」の根底にある問題,第2章人との「関わり方」が分からない,第3章「親」自信の親との関係性,第4章「対話する関係」への誘い。著者は、「ひきこもり」を「対話する関係」の喪失を底流とした人と人との関係性の原点における障害として捉えている。特に親子(母子)関係を中心に議論が進められており、本人だけではなく、親の育ち方・育てられ方という世代を超えた関係性のあり方が背後にあることが強調されている。そして、これには敗戦を機にした母性の質の変容という問題が関連しているという仮説が提示される。すなわち、戦後の復興の担い手となった親の親(第1世代)は生活水準の向上を主眼とし、食べることに直接関わりない内面の問題を切り捨てて生きてきた。だが、そうした偏った価値観の中で育った親(第2世代)は常に欠損感を抱えることになり、それを埋めるために子ども(第3世代)と濃密な情緒関係を築いていった。この第3世代がひきこもる若者たちなのだが、彼らからすれば親の過保護は自己領域への侵入であり、それから自分を守るために人との関わりを避けるようになったのではないか、と著者は説明する。また、著者は「ひきこもり」を、ただちに「悪い」もの、「治療」すべきものとしてではなく、本人にとっては自分を見直すために必要なものとして捉える視点に立ち、その時間を意味あるものとして過ごせるように努めることの重要さを説く。そのためには、親が本人の「ひきこもり」を真摯に受け止めることから始め、相手に話しかけ、かつ相手の話を聞くという「対話する関係」を築いていくことが必要になる。更に、「ひきこもり」とは、おとなの価値観に縛られて歩ませられてきた子どもたちが自分の人生を賭けて訴えようとする一つの形であり、その訴えを考え抜こうとする態度が必要だと主張されている。
■0014/ひきこもりの現状と展望−全国の保健所・精神保健福祉センターへの調査から、倉本英彦、星和書店、こころのライブラリー(8)、pp.177-189、ym2002.05/本稿の構成は以下の通りである。@はじめに、A対象と方法、Bひきこもりの実態=(1)精神保健福祉相談とひきこもり相談、(2)精神病でないひきこもりの相談、(3)ひきこもりの相談率、(4)ひきこもりに関連した問題行動、(5)ひきこもりの年齢と継続期間、(6)ひきこもりの経歴と依頼経路、Cひきこもりへの取り組み=(1)デイケア・グループ活動、(2)家族への取り組み、(3)相談・支援上の問題点、(4)今後の取り組み、Dおわりに。本稿は、社団法人青少年健康センターが厚生省(当時)の協力のもと実施した「青少年の社会的ひきこもりの実態・成因・対策に関する実証的研究」(1999年度トヨタ財団研究助成)の一部、全国の保健所・精神保健福祉センターを対象とした「ひきこもり実態調査」の概要である。調査票は2000年10月に各都道府県・政令指定都市の精神保健福祉担当主管部長を通じて送付され、回収率は保健所が約97%、精神保健福祉センターは合わせて約95%だった。公的機関のみとは言え、全国的なデータを得られたことは非常に意義深い。なお、本調査では「ひきこもり」を@6ヶ月以上自宅に引きこもって就学・就労しない状態が持続し、A精神病ではないと考えられるもの、と定義している。以下、主要な知見を列挙する。非精神病性ひきこもりは増加傾向にあると認識されていること。保健所の相談率の方が高く、かつ地域差が少ないことから、これに基づいてひきこもりの実数の計算を見込めること。本調査の結果によれば少なくとも1万人に1人はいると推測される。年齢分布は16〜30歳までが全体の7割弱を占め、36歳以上は1割に上ること。また、ひきこもり継続期間10年以上のケースは1割弱を占める。全体の3割弱が就労経験者で、4割強が小中高での不登校経験者であること。今後の取り組み課題としては連携・ネットワークの強化が挙げられていること、等々。
■0015/「ひきこもり」の社会史、オマタワイチロウ、星和書店、こころのライブラリー(8)ひきこもる思春期、pp.153-165、ym2002.05/本稿の構成は以下の通りである。@はじめに,A引きこもる「場所」,B物理的な場所から見た「ひきこもり」,C「ひきこもり」関連様態と「甘え」,D「ひきこもり」の臨床的意味合い,Eおわりに。本稿では、「ひきこもり」の背後にある原因や病態を精神医学的に分析するのではなく、引きこもる「場所」に着目して歴史(社会史・文化史)的側面からこれを考察することを目的としている。まず、一般に引きこもる場所といえば家庭の中を指すことから、「家」意識が成立した平安期以降から「ひきこもり」現象はあったと考えられる。ここで重要なのは、家をはじめとした「ひきこもりの物理的な場所」に「避難場所(アジール)」としての性格が認められることである。したがって「ひきこもり」自体も何らかの安全性を目的とする自発的・防衛的意味合いを持つ様態と考えられる。また、アジール性を「ひきこもりの物理的な場所」の要件とすれば、精神病院や学校などの施設や地域社会、国家もそれにあてはまると述べられている。次に、筆者は「ひきこもり」に伴う「自発性」の強弱に着目して、「ひきこもらせ」や「たてこもり」などの関連様態を挙げている。「自発性」という意味軸からすれば「ひきこもり」はその中間に位置し、「他動的」と「自発的」の区別の曖昧さが特徴的だという。つまり、引きこもる側(本人)は「自発的」に家庭あるいは自室に引きこもっていると同時に、「他動的」に食料や日常生活品などを与えられているのである。したがって、引きこもらせる側が必要品を供給しなければ「ひきこもり」は成立しないことから、両者間には「甘え」の関係が成立していると考えられる。このことは治療場面においても重要な意味を持ち、そうした「甘え関係」に注目した家族療法の前提的意義が最後に述べられている。
■0016/ひきこもりの社会心理的背景、小此木啓吾、岩崎学術出版社、青年のひきこもり―心理社会的背景・病理・治療援助、pp.13−26、ym2000.01/本稿の内容は以下の通りである。はじめに,@アイデンティティ拡散症候群とモラトリアム人間,A自己愛へのひきこもりとその挫折,Bシゾイド的な同調的ひきこもりとその破綻,C1.5から豊かな自閉へ,おわりに。本稿は、非精神病性ひきこもりの心理的要因と社会心理的状況との関わりについての考察を目的としている。まず、鍵概念として挙げられているのが社会的性格としてのモラトリアム心理である。かつて働かない人間は生きる価値なしとみなされてきたが、現代においては働かない人間も働く人間と同様に人権を尊重されるようになった。こうした変化の背景には心理社会的モラトリアムの変化があると考えられる。古典的な図式では、一定の年齢に達すればそれを終わらせてアイデンティティをもった大人になるのが当然だったが、現代では経済的な豊かさを背景としてモラトリアムに留まり続ける青年が増え、また制度的にもそれが認められたことによって働かない人々とそれを養う人々を同等にみなす社会心理的な図式が成立したのである。だが、いつまでも心理社会的モラトリアムの段階に停滞し、かつ、それを有意義に活用できなくなるとアイデンティティ拡散の状態に陥る。これが示す状態像は、自意識過剰、自己定義の回避、対人的な距離のとり方の失調など、現在問題とされているひきこもりの状態ともかなり重なる。したがって、ひきこもりにはモラトリアム人間社会という全体的背景があると考えられるのである。そして、そうした背景から生まれた自己愛人間、シゾイド人間、1.5の関わり等、筆者が明確にしてきた社会心理的特性が、どのようにひきこもりの病理と関わっているかが明らかにされる。特に、ひきこもりの援助においてインターネットの活用が注目されているが、1.5[人間1+ネット0.5]の関わりの展開及びそれが作り出す精神病理の探求が最新の研究課題として挙げられている。
■0017/ひきこもりの社会性、斉藤環、至文堂、現代のエスプリ403号、pp.60−68、ym2001.02/本稿の構成は以下の通りである。@「社会性」とは何か、A「ひきこもり」は治療の対象か、B治療における「社会」の意義。筆者は「ひきこもり」の代表的論者としても活躍しているが、「ひきこもり」を治療対象とみなす態度やメディアへの露出の多さなどに対して批判も多く向けられている。本稿では「社会性」の問題が論じられると同時に、そのような批判への返答として筆者自身の「社会的立場」も明らかにされている。筆者は、「社会性」とは自分の状態を肯定した上で社会を受け入れられることだと述べている。そして、その獲得(=「成熟」)は、思春期以降家族以外の他人との関係性を通じて可能になるという。また、筆者は「ひきこもり」の定義に「6ヶ月以上、社会参加していないこと」を含めているが、この場合の「社会参加」とは就労・就学に限定されず、「家族以外の親密な人間関係を持つこと」を意味する。つまり筆者は、「社会性」を喪失した状態、あるいはその獲得がなされない「未成熟」な状態として「ひきこもり」を捉えているのである。これを踏まえ、治療においては「社会性」の獲得に重点を置き、具体的な目標としては複数の親密な仲間の獲得を設定する。そして、本人がひきこもっている自分の状態を肯定できるように、「ひきこもり」の社会的認知の啓蒙に取り組むことも重要な活動の一部だと筆者は主張する。また、筆者は「ひきこもり」が診断名ではなく一つの状態像に過ぎないことを確認した上で、強いて精神医学化するならば「ひきこもり関連性障害」とするのが適切だと述べる。これによって問題行動や精神症状を「ひきこもり」という状態から二次的に派生するものとして位置づけられるからだ。そして、その「二次症状」の治療的対応が精神科医の務めであり、更にその「二次症状」は「ひきこもり」状態の解消とともに消失することから、「ひきこもり」自体を治療対象とする自らの立場の正当性を主張している。
■0018/ひきこもる、おとなたち−ひきこもりは思春期だけの問題ではない!誰にでもひきこもりは起こりうる、仲村啓(著)、長縄献(監修)、ヴォイス、ym2002.03/本書の構成は以下である。はじめに,@〈ひきこもり〉の基礎知識,A〈ひきこもり〉の分類と実態,B〈ひきこもり〉の背景,C〈ひきこもり〉の治療と対処法,D〈ひきこもり〉の意義。本書で特に重要なポイントは以下2点である。第一に、〈ひきこもり〉には多種多様なタイプが混在しているということ。まず、一時的に外界から撤退して内省的作業を行う充電期間としての「健康なひきこもり」と、本人の意志に反してその状態が悪化し長期化してしまった「病的ひきこもり」の2種類がある。そして、更に「病的なひきこもり」は統合失調症などの内因性精神疾患と、人格障害・神経症・心的外傷などが背景となっているものに分けられる。したがって、対応するにあたっては個々のケースに基づいて援助の必要の有無を見極め、援助方法を選択しなければならないと述べられている。第二に、いずれの〈ひきこもり〉も生育過程で形成された性格や、環境的な要因、それらから生じるストレスによって引き起こされた「心の病」が原因になっているということ。〈ひきこもり〉状態にある人々は、心に何らかの病を抱え、自らの意志では社会参加することができないため、深刻な“コミュニケーション不全”に陥っているのである。この「心の病」には現実の自己と理想的な自己とが乖離し、前者を直視しようとしない「病的なナルシシズム」が共通していると著者は指摘する。つまり、本書において〈ひきこもり〉は、現実の世界における人との交流の中で、自己イメージが傷つけられることを恐れるあまり人間関係から撤退した状態として理解されているのである。以上を踏まえて第4章では具体的な対処法が述べられ、最終章では高度情報化やIT技術の革新などの社会全体の「パラダイム・シフト」によるストレスの増加、モラトリアムを有効に利用できないことによる「アイデンティティの拡散」といった現代社会との関連にも触れられている。
■0019/引きこもりの文化・社会的背景、近藤直司、萌文社、引きこもりの理解と援助、pp.46-53、ym1999.11/本論文の構成は以下の通りである。(1)家族背景,(2)引きこもりの社会的背景。本論文は、引きこもりが個人の問題としては捉えきれないものであることを示唆するものと言える。(1)では、引きこもりケースに特徴的な家族特性が5点挙げられている。@「世間体」のために子どもの状態を合理化して理解したり否認したりする傾向があり、引きこもりが長期化しやすい。A成員同士が互いの内面に踏み込んだり、迷惑をかけたりすることを忌避する傾向が強く、家族に援助を求めようとしない。B子どもに対して親自身の自己不全感や劣等感が投影されていることがあり、そのことで親が子どもとの一体感を感じていることがある。また、そのことは子どものセルフ・エスティームや自己形成に影響を与える。子どもが自立しようとすると親の分離不安や喪失感が顕在化することもある。C親が子どもの情緒(特に怒りなどのネガティブなもの)を読み取って応答することが苦手である。D以上のような親子関係には世代間伝達がみられる。(2)では、引きこもりに関連していると思われる文化・社会的視点について、2つの論点が指摘される。@世代特性。現在10〜20代の若者の対人関係には、過度に互いの内面に立ち入ることを嫌うといった特性が見受けられる。これにつながる「プライバシーの尊重」が叫ばれ始めたのは親世代が10〜20代だった昭和40年代であり、また、これは地域共同体のあり方が大きく変化した時期でもある。これは、おそらく引きこもりケースの増加とも無関係ではないと推察される。A不登校との関連。不登校から引きこもりが長期化しているケースでは、「不登校=人生の落伍者」というイメージが本人から聞かれるという。この確信はパーソナリティ特性だけでなく、高学歴志向や平均化、中流意識と関連していると考えられる。最後に、筆者は引きこもりが現代社会そのものを捉え直す契機となり得ると述べている。
■0020/引きこもる若者たち、塩倉裕、ヴィレッジセンター出版局、ym1999.04/本書の構成は以下の通りである。第1部「引きこもり」の日々=@社会に出られない青年たち,A引きこもる魂,B立ちすくむ家族,C対話する関係を求めて,第2部「引きこもり」を伝える=@取材の現場から,A700通の手紙,第3部現代社会と「ひきこもり」=@「引きこもり」を考える,Aいくつかの芽―後日談として,Bこの社会を生き抜くこと。本書の元になっているのは97年2月と98年3月に朝日新聞に連載された特集記事で、第1部はそれを加筆して再構成したもの、第2部・第3部は本書のための書下ろしである。引きこもる青年及びその家族へのインタビュー、精神科医やカウンセラーなどへの取材、新聞連載に寄せられた投書、援助の取り組み、親の会について、青年サークルの試みなどで、著者の考察を交えて紹介されている。このように多岐にわたる内容の根底にあるのは、「引きこもり」には現代のコミュニケーション問題が鋭角的に表れているのではないか、という認識である。本書において「引きこもり」は、「社会や人間関係から長期間、身を引いてしまっている状態」と定義されている。ただし、本書の議論においては単に対人関係が失われていることだけではなく、「本当は社会に出たい、人と関わりたい」と望みながらもそれができないという葛藤が鍵となっている。そして、そうした葛藤を抱える青年たちと向き合わなければならない親の苦悩にも焦点が当てられている。また、引きこもる側の問題だけではなく、相談を受けて援助を行う「受け皿」の少なさや、「学校」や「会社」以外の人が社会に出て行くための「足掛かり」が準備されていないといった引きこもらせる側の問題にも随所で触れられている。本書ではこうした問題の解決の糸口として、すなわち対人関係を取り戻し、社会への「足掛かり」になる場として、青年グループの試みが紹介されている。
■0021/引きこもり、塩倉裕、ヴィレッジセンター出版局、ym2000.12/本書の構成は以下の通りである。第1部;インタビュー引きこもりを語る=インタビューについて、@不登校から引きこもりへ、A「僕は地獄行き」、B他人に害を与える存在としての私、C親の力を借りるということ、D当事者グループを立ち上げて。第2部;引きこもりを考える=@西暦2000年の新展開、A引きこもりとは何か、Bひきこもりと社会。本書は、朝日新聞記者である著者が、豊富な取材経験と前著『引きこもる若者たち』の内容を踏まえ、引きこもる青年たちの声と専門家の議論及び社会背景との双方について更に詳細な議論を展開している。青年へのインタビュー内容は定義についての議論に集約されている。著者は引きこもりを「対人関係と社会的活動からの撤退が本人の意図を超えて長期間続いている状態であり、家族とのみ対人関係を保持している場合を含む」と定義する。特筆すべきは「本人の意図を超えて」という表現で、これは引きこもりが甘え・怠惰と決めつけられやすい一方で、当人たちは必ずしも現状に甘んじているわけではないこと、「抜け出したい」という意志を持ちながらもそうできないことを強調しており、この抜け出しにくさは著者の議論の中心に位置付けられ、強い規範意識と孤立状態によって生じる悪循環の存在を指摘している。また、現代社会との関連について、引きこもりは人々が抱く潜在的不安を刺激するものであり、それが犯罪報道を契機とした社会的認知の急上昇をもたらしたと推察している。更に、社会的認知が上昇したことによって引きこもりをめぐる議論の関心は「本人と家族の利益」中心から「社会の利益」を含めたものに変化し、公的援助の本格化、加えて青年グループや親の会の活動の活発化へとつながった。著者はこうした一連の変化を以って引きこもりをめぐる状況は第二段階に入ったとし、「引きこもり、その後」の全体像が見えてくるのはこれ以降のことだと述べている。
■0022/ひきこもり概念の変遷とその心理、武藤清栄、至文堂、現代のエスプリ403号、pp.35−44、ym2001.02/本稿の構成は以下の通りである。@はじめに,A日本における「ひきこもり」概念の変遷,B世界における「ひきこもり」概念の変遷,Cひきこもりの心理と筆者の考え方,Dおわりに。まず、「ひきこもり」に関する日本の動向が概念の変遷に留まらず概観されている。「ひきこもり」という術語が心理学及び精神医学で用いられるようになったのは1980年代前半からで、当時は登校拒否とセットで取り上げられることが多く、20代以降の若者に焦点が当てられることは少なかった。独立した問題として扱われ始めたのは1990年代に入ってからで、一部の公的機関によって先駆的な支援の試みが開始されたのもこの頃である。以後、学会誌で特集が組まれるようになり、シンポジウムの開催、関連著作の出版など議論は活発化し、現在に至っている。次に、海外での「ひきこもり」概念の変遷が、主に精神分析学の系譜に位置づけられている。以上内外の文献を総合すれば、基本的にひきこもりは精神疾患の有無に関わらず対人関係に障害や不全をもつ人々なら誰しもが身につける心理的防衛として理解され、これを踏まえた上でケアに臨むことが肝要だと述べられている。筆者が所長を務める東京メンタルヘルスアカデミー(1985年開設)では1990年にひきこもる若者たちの集団生活の場「フレンドスペース」を開設し、10年間で約3000ケースに対応してきたという。その臨床経験から、筆者は以下の視点でひきこもりを捉える。@過去において何らかの心的外傷体験を持ち、現在もそれを引きずっていること、A心的外傷に対して敏感で脆弱なパーソナリティの持ち主であること、B家族をはじめとした属性集団における情緒的支援がないこと。これを踏まえ筆者は、家族間のコミュニケーションを考慮しつつ若者自身としっかり向き合い、差別・偏見を持たない人間関係を築いてくことが重要だと主張している。
■0023/ひきこもり救出マニュアル−How to rescue your child from “Hikikomori”、斉藤環、PHP研究所、ym2002.07/本書は「ひきこもり」の支援・解決法についてQ&A形式で述べられている。質問は全部で252問、20のテーマに分かれており、更に以下の5つに分けられる。@「ひきこもり」一般論、A治療について、B家庭での日常生活について、C家族の対応について、D社会参加について。なお、この他にコラム3篇(「『ひきこもり』の国際比較」「ひきこもりシステム」「『本気』ということ」)、巻末には付録として厚生労働省によって2001年に発表された『10代・20代を中心とした「社会的ひきこもり」をめぐる地域精神保健活動のガイドライン』、及び精神保健福祉センター一覧、参考文献リストが収録されている。本書に先立って出版された『社会的ひきこもり』(1998年)から3年半経過し、「ひきこもり」をめぐる状況は大きく変化した。例えば、1999年末から2000年にかけての京都小学生殺人事件、新潟少女監禁事件、佐賀バスジャック事件といった一連の犯罪報道を通じて「ひきこもり」の社会的認知が高まり、親の会や自助グループ及び支援団体の活動が活発化、また、全国の精神保健福祉センター・保健所に支援のためのガイドラインが配布されるなど、支援体制も徐々に整備されつつある。こうした変化の中で、前著における認識や説明が不十分だった部分が明らかになり、それを踏まえて著されたのが本書である。読者対象としては「ひきこもり」の当事者・家族・支援者を想定し、啓蒙を意図した前著に比べて実用性を重視したつくりとなっている。質問項目は網羅的に設定し、他の項目との関連性を十分に考慮し、専門家抜きでも「ひきこもり」から抜け出せることが最終的な目標とされる。また、本書は支援・解決のためのマニュアルとして著されたものだが、「ひきこもり」に関する全体的な状況を把握するために活用することもできる。
■0024/私がひきこもった理由、田辺裕(取材・文)・ブックマン社(編)、ブックマン社、ym2000.07/本書は、「ひきこもり」の経験を持つ15名に対するインタビューを集めたものであり、精神科医斉藤環による解説(「『わからなさ』を取り戻すために」)と、巻末資料として支援機関一覧表も収録されている。対象者は19〜39歳の男性8名と女性7名で、取材趣旨を掲載したホームページを見て応募してきた人、「ひきこもり」をテーマにしたホームページの管理者、自助グループや支援団体から紹介された人などである。インタビューは1999年12月から2000年4月までに行われた。本書では統一された「ひきこもり」の定義は設けられておらず、本人が自らを「ひきこもり」だと認識していることが対象者の条件とされている。ここに収録されている15名のインタビューから、不登校経験者が多い、優等生タイプが多い、大学志向が強いなど、他の解説書に述べられているような傾向を見出すことも可能である。しかし、実際に彼らが「ひきこもり」をめぐって語る内容は豊かであり、そうした枠で捉えきれるようなものではない。解説の中で斉藤環は、本書を当事者たちの「肉声に焦点をあてた最初の本」として高く評価できることはもちろん、彼らの語る多様なエピソードにこそ「最大の価値」があると評している。そして、彼はそこに「ひきこもり」に対する誤解や偏見を打ち砕く契機を見出す。実際は、特別な性格や特殊な家庭環境といったパターンで「ひきこもり」を説明したり、その原因を特定したりすることは難しい。しかし、「わからないもの」を性急に理解しようとするときに誤解や偏見が生じる。したがって、「わからないもの」を分からないままにしておくこと、その「わからなさ」を認めた上で議論を始めることが必要なのだと斉藤は主張する。本書は、そうした「わからなさ」の感覚を我々に取り戻させる上で非常に貴重な役割を果たすものと言える。
■0025/社会的ひきこもり−終わらない思春期−、斉藤環、PHP研究所、ym1998.12/本書の構成は以下の通りである。第1部理論編=@「社会的ひきこもり」とは、A社会的ひきこもりの症状と経過、Bさまざまな精神疾患に伴う「ひきこもり」、C社会的ひきこもりは病気か、D「ひきこもりシステム」という考え方。第2部実践編=@正論・お説教・議論の克服、A家族の基本的な心構え、B治療の全体的な流れ、C日常の生活の中で、D家庭内暴力の悲しみ、E治療そして社会復帰へ、F「ひきこもり」と社会病理。巻末には「ひきこもり対応フローチャート」が掲載されている。第1部において、「社会的ひきこもり」は@20代後半までに問題化し、A6ヵ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、Bほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの、という3点から定義される。@は、これが「思春期心性に深く根ざした問題」であることを強調。Aの「6ヵ月」とは遅すぎず早すぎない対応を促すための基準であり、また「社会」とは「ほぼ対人関係全般」を指す。Bは、他の精神疾患(例えば統合失調症など)の症状と区別するため。なお、「社会的ひきこもり」という用語は、これが個人病理では括りきれない問題であることを含意とする。また、著者の理論の中核をなすのは「ひきこもりシステム」という概念モデルである。これは、「ひきこもりの期間が長いほど、その程度が重いほど、いっそうひきこもりが強化されるという悪循環」と定義される。個人・家族・社会の3つの領域間で生じ、かつ、それぞれの領域の接点が失われることで互いに閉鎖的な状態へと陥り、それが解決を難しくさせる。著者によれば、この悪循環は他者からの適切な介入によって解消することが可能であり、治療における第一の目標として設定される。続く第2部では、主にひきこもる子どもを抱える親を対象として、このモデルに基づいた解決・支援のための具体的な方策が述べられている。
■0026/若者たちの社会的ひきこもり−そのとき親や家族はどうすればよいか、山田博(監修)・社団法人家庭問題情報センター(編著)、日本加除出版株式会社、ym2001.03/本書の構成は以下の通りである。第1章「社会的ひきこもり」と社会的背景,第2章Q&A(全20問),第3章相談・援助の実際―ひきこもりから社会復帰へ,第4章「社会的ひきこもり」事例の紹介。巻末には、社団法人家庭問題情報センター(FPIC)の概略と公的相談機関一覧が収録されている。本書の読者対象としては家族はじめ教師など相談に関わる人々が想定されており、執筆者はFPIC会員のファミリーカウンセラー、家庭裁判所調査官、精神科医、大学教員など様々である。本書において「社会的ひきこもり」は、発達障害の一種で子どもから大人へ移行する時期の心理的危機への反応として位置づけられており、次のように定義されている。@多くは不登校から始まり、社会的な役割や社会的人間関係から身を引いている、Aその状態が長期にわたって継続する、B思春期ないし青年期に始まる、C精神疾患を原因としない。第1章では上記定義や、ひきこもる若者の生活形態や心理状態、親の対応の仕方などと共に、問題の背景にある時代的・社会的要因についての知識を得ることによって親の過剰な責任感及び本人の過剰な自意識の緩和が可能になるという認識のもと、「社会的ひきこもり」の社会的背景について比較的詳しく論じられている。具体的にはモラトリアムの延長、父親の不在と母子密着、幼児期から体験する競争社会、世襲と生殖の機能が挙げられている。第2章のQ&Aは、ひきこもりの兆候とその判断、社会背景、治療・相談等の対応が主なテーマとなっている。第3章は、援助について、面接の進め方・自助グループ(親の会)による援助・親と本人双方の回復過程について述べられており、これを2つの事例に即して具体的に紹介しているのが第4章である。
■0027/性別とひきこもり、鈴木典子・小此木加江、岩崎学術出版社、青年のひきこもり―心理社会的背景・病理・治療援助、pp.54−66、ym2000.01/本稿の内容は以下の通りである。1.ひきこもりの定義。2.女性におけるひきこもり。3.問題点と要因の考察。4.ひきこもりの社会心理的な機序。むすび。本稿は、これまであまり論じられてこなかった性別によるひきこもりの質の違いについて考察を加えている。まず、筆者は「ひきこもり」という言葉が、ある人の心理状態を指す場合と、学校へ行かない・自分の部屋から出ない等の外的状態を指す場合とが明確に使い分けされてこなかったことを指摘し、前者を「ひきこもり」、後者を「ひきこもり現象」として区別する。そして、@外的には適応しているが、内的には対人関係からひきこもっているグループ、A外的な「ひきこもり現象」と内的な「ひきこもり」が並存しているグループ、Bひきこもりと同時に境界性人格障害の可能性が高いグループの3つに分けて各2事例ずつ紹介した上で、問題点と要因について三点考察している。@社会、文化的な女性の地位の変化によるアイデンティティの問題、A女性同一性獲得をめぐる葛藤の問題。これは、更に母親をモデルにすることに対する葛藤と性の自由化の問題に分けられる。B母親ばなれの悪さの問題、の3つが挙げられる。これらに共通するは現代社会を取り巻く女性の状況やアイデンティティの葛藤であり、それが女性特有のひきこもりの背景をなしていると説明されている。最後に、パーソナリティ傾向と結びついて現れない社会心理的機序について、@社会的な組織やコースに乗っていくために必要な義務と責任を果たせなくなった時の反応(例えば、進学を唯一の目的としていた学生が受験に合格することで目標喪失に陥ること)、A自己を確立させるために必要なモラトリアムとしてのひきこもり、B家族内葛藤と関連しているもの、C多様な葛藤からの回避、D人格障害。以上は男性と共通するものだが、先に述べた現代女性における各要因がこれらを増強させると考えられる。
■0028/「ひきこもり」についての相談状況調査、国立精神・神経センター精神保健研究所精神保健計画部、ym2001.03/本報告は、全国の精神保健福祉センター56ヵ所を対象に、定義、相談件数、精神保健での対応が必要な範囲、相談機関に対するニーズ、各相談機関での対応方法の5点を全国的に把握することを目的とした調査の結果をまとめたものである。研究協力者による定義についてのコメント、資料として各センターの用いる定義、対応する際のネットワークの種類、センター別相談件数、初来談者、本人との面接の有無、調査票が添付されている。質問紙の第1部は定義や対応プログラムの有無などについての施設調査票、第2部は平成12年4月1日〜9月30日までに初回相談した、精神病を背景とせずに6ヵ月以上家族以外の他者と交流しない中学生以上の事例全てについて、随伴する問題行動、初回相談後の精神医学的診断等に関する質問を含む個別調査票である。本調査結果は、「ひきこもり」相談に対する社会的ニーズと現在の対応が適合しているか否かを評価し、その改善点を考えるための資料として位置づけられる。〈第1部〉定義を用いているセンターは3割弱、「精神病を背景とせず、6ヶ月以上自宅にひきこもって他者との交流をせず、20代までに事例化している」という状態像で概ね一致しているものの、共通した定義はなかった。また、既存の相談体制では対応しきれないケースも少なくなかった。〈第2部〉合計相談数は599件で、各センターによって差が見受けられた。男性事例の方が女性事例の2.7倍だが、後者の方がより若年で(10代で来談する事例は男性約26%、女性38%。ただし、20代前半が男女とも約30%)、家族ではなく本人が来談する場合が多く、神経症などの精神医学的診断がついている割合も高かった(男性30%弱、女性45%弱)。社会参加できないこと以外の問題行動で最も割合が高かったのは男女とも「家族への暴力」(男性事例約17%、女性事例約10%で、「被害的言動」と同数値)だった。
■0029/ひきこもり−「対話する関係」をとり戻すために−、田中千穂子、サイエンス社、ym1996.07/本書の構成は以下の通りである。第1部=「ひきこもりQ&A」;全17問で、ひきこもりの全体像や対応の仕方が中心。第2部=「ひきこもりをどう考えるか」;@子どもを守るひきこもり、A関係性の障害としてのひきこもり―『対話する関係』の喪失、B乳幼児臨床の観点から、Cひきこもりからの巣立ち、D関係性の修復をあきらめに―本質を見る目をもつこと―。本書において「ひきこもり」は、人と社会の関係をめぐる問題であると同時に、「対話する関係」の喪失を底流とした人と人との関係性の原点における障害として捉えられている。「原点」とは対人関係の基盤となる親子(母子)関係のことを指しており、ここに何らかの問題があると他の対人関係にも適応することができず、ひきこもるのだという。したがって、著者は親子の関係性の修復(発達)を第一の目標として掲げる。まず、親は本人の気持ちを理解・尊重しようとする態度が必要とされる。そうして子どもが安心感を持てれば、自室に閉じこもり続けるような「かたくななひきこもり」から、家族とはコミュニケーションがとれる「ゆるやかなひきこもり」へと移行し、「対話」の可能性が開けるという。このとき、心配するあまり親が無理矢理子どもを引きずり出そうとすることは回避すべきだが、そうした無理な対応へと親が駆り立てられる要因も考慮せねばならないと著者は述べる。第一に、いい学校を卒業しないと将来はないと思い込ませる学歴偏重主義。第二に、第三者からは無為にしか見えないため、「ひきこもり」を時間の浪費と決めつける合理性・効率性重視の価値観。だが、「ひきこもり」は自分育てのための不可欠な時間である場合もある。したがって、子どもをひきこもらせる現代社会のあり方に視点を移し、「ひきこもり」の意味について問い続ける態度こそ求められているのではないかと著者は主張する。
■0030/不登校その後、松田文雄、岩崎学術出版社、青年のひきこもり―心理社会的背景・病理・治療援助、pp.47-53、ym2000.01/本稿の内容は以下の通りである。1.不登校の背景について。2.不登校のその後。3.不登校の契機となった出来事とひきこもり方の関係。4.不登校からひきこもりに至る理由。5.対応の目標。6.不登校その後のひきこもりと対応。本稿は、神経症や人格障害を背景とした不登校を経てそのまま“ひきこもり”に至るケースについて考察している。不登校の契機は大きく、@学校場面(いじめ等生徒同士の関係・学業不振や担任との関係)、A家族関係(家族不和、母親との分離不安)、B契機が不明確、という3つのタイプに分けることができる。この契機は、それぞれ対人関係や外出の範囲、期間など、その後のひきこもり方にも影響を及ぼす。また、契機だけではなく、不登校からひきこもりへの経過には、不登校の体験そのものが関係しているとも考えられる。不登校を家族や学校が放っておいた場合は自己価値感の低下や存在感の喪失を招き、脱出のエネルギーを萎えさせ、反対に無理な登校刺激を加えた場合は恐怖と不安が増強し、抵抗が強まることになる。このように、不登校とひきこもりとが連続している以上、対応の仕方にも連続性がある。当座の目標は“自分から、自分のために”今いる場所から外に出られるようになることであり、単に物理的な脱出だけではなく、心理的なものでもある。このことを踏まえた上で、まずは本人と親とがそれぞれの立場で挫折感、将来への不安、自己価値感の低下を共有することを第1歩となる。そして周囲の反応に過敏にならず、本人が動き始めるのを信じて待つ態度が重要なのである。また、インターネットが果たす役割の大きさにも注目する必要があることが最後に付け加えられている。












1.1
1.6.4 「居場所づくり」の支援方策に関する理念の検討
 文部科学省は、学校週五日制の実施に合わせ、平成11年度から、学校・家庭・地域の協働による「心の教育」や「体験活動」の充実を目指す「全国子どもプラン」を推進してきた。16年度からは、地域教育力再生プランを創設し、「地域子ども教室推進事業」を開始した12。また、平成17年11月の「今市事件」を背景に、子どもたちの安全な下校体制を整えるため、緊急に「子ども待機スペース交流活動推進事業」を実施した。さらに、平成19年度政府予算において、全国の小学校区で、放課後の子どもの安全で健やかな活動場所の確保を図る観点から、新規施策として「放課後子どもプラン」の創設が認められた。
 これは、子どもが犠牲となる犯罪・凶悪事件が相次いで発生し社会問題化したことや、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下が指摘される中、少子化対策の観点から、文部科学省の「地域子ども教室推進事業」と厚生労働省の「放課後児童健全育成事業」の放課後対策事業を、一元的に実施しようとするものである13。
 政府の「教育再生会議」は、本プランの全国的な展開を強く求めた14。文部科学省も、「本プランは、これまで実施してきた『地域子ども教室推進事業』同様、地域の方々の積極的な参画が事業の推進に欠かせない」として、次の点を強調した。

@ この取組は行政や学校だけではなく、地域の多くの方々の参画がなければ定着・促進されない取組であること
A 地域社会全体で地域の子どもたちを見守り育む気運の醸成が図られ、この取組を通した地域コミュニティの形成が、子どもを育てやすい環境の整備につながること

 また、平成19年2月に発表された「子どもを守り育てる体制づくりのための有識者会議」第一次まとめにおいては、放課後活動の重要性が指摘された。本まとめにおいて、「社会全体で子どもを育て守るためには、親でも教師でもない第三者と子どもとの新しい関係(ナナメの関係)をつくることが大切であり、地域社会と協同し、校内外で子どもが多くの大人と接する機会を増やすこと」が提言された。
 本プランの求める「放課後の安全」についても、青少年や親の社会化支援の観点から、「青少年の居場所づくり」と「子育てのまちづくり」によってこそ本質的な現実化を図ることができると考える。なぜなら、下校時までの安全を確保しても、安全な地域づくりと、「ナナメの関係」によって地域に支えられる「子どもの居場所」がなければ、帰宅後に子どもが再び地域や学校に遊びに出かけてしまえば、その時点ですでに下校時までの安全確保は意味を失うと考えるからである。
 このような意味から、「放課後子どもプラン」の政策研究に関しても、社会化支援の観点からは、「変わるはずのない理念」としての「居場所」が重要なキーワードになると考える。
 ここでは、「居場所づくり」を行う行政側の教育的意図のあり方15について検討したい。
(1) 無意図の居場所の多様性
 まず、他者による居場所づくりの意図が働いていない居場所について検討したい。
 第1に、「対自」(自分に向き合う)の居場所がある。学生に「自分らしくいられるところ」を聞くと、真っ先に「自分の部屋」という答えが返ってくる。自分の部屋では、他者に気兼ねなく過ごすことができるため、自分らしくいられるというわけである。自分の部屋にとじこもって外界との接触を断つ「ひきこもり」も、そのことによって「本当の自分」を守ろうとし、自分と対面する。長期・短期の差はあるにしても、だれにでもこのように一人になる時間が大切である。まわりに人がいても、黙想、音楽、散歩なども同様である。ここでは、一人でも安心して自分らしくいられることが、居場所成立の条件といえる。
 しかし、次の対他なしに、対自だけで自己完結させようとすると、「自分らしさ」は十分なものとは感じられなくなってしまう。また、自分との対面の結果、他罰傾向に陥れば、「自分らしさ」どころか「対自」も置き去りになってしまう。
 第2に、「対他」(他者と関わる)の居場所が考えられる。友達の部屋や放課後の教室、部室、街頭、コンビニの前などである。ここでも、本人が「自分らしくいられる」と感じる場合に居場所になる。仲間への気兼ねや対面への気後れなどから、「自分らしさ」を出していないと感じる人にとっては、居場所になりえない。しかし、そういう人でも、インターネット通信なら、対面ではないので「本当の自分」のままで発信していると感じるかもしれない。そうだとすれば、仮想的な電子空間がその人の居場所になる。ここでは、他者がいても安心して自分らしくいられることが、居場所成立の条件といえる。
 しかし、先述の対自の深まりがたがいに交流できないような空しい関係に陥ると、「自分らしさ」は感じられなくなる。
 第3に、対社会(社会に関わる)の居場所がある。たとえば、若者が地域でイベントを行ったり、地域や公共に関わる活動をしたりするとき、その仲間関係に「自分らしくいられる」雰囲気を感じ取る可能性が大いにありうる。活動の目的は自分たちの居場所をつくることではないのに、「自分にとっての居場所」という理由からそれに参加する若者も多い。
 しかし、活動目的の遂行のために個人の対自・対他の気づきや深まりを重視する余裕がなくなり、「自分らしさ」が犠牲にされるようなことがあると、その人にとっては居場所とは感じられなくなる。ただ、だからといって、必ずしもその活動が非難されるものでもない。「居場所づくり」は、その活動の一次的な目的ではないからである。

(2) つくる居場所
 上に述べたように、対自・対他・対社会それぞれの「無意図の居場所」は、居場所としての機能不全に陥りがちである。そこで、行政や、行政活動、青少年施設、地域施設、青少年育成活動等は、「無意図の居場所」の充実を期するとともに、それとは別に、次のような若者の居場所を意図的に創り出す必要があると考える。
 第1に、学習その他の特定の目的をもった事業を、参加した若者が居場所として感じられるように運営することである。もちろん参加者は、その事業目的にひかれて参加したのではあるが、同時に、「他者といても自分らしくいられる場」を潜在的に求めている。
 第2に、特定の目的のもとに若者が集まって活動するための拠点を提供したり、先の1の第3の自主的な対社会活動を支援したりすることによって、それが居場所としても機能するよう働きかけることである。
 上の2つに対しては、「本来の事業目的のため」あるいは「活動目的を同じくする仲間を見つけるため」に参加したという理由から、事業や活動拠点自体を居場所にすることについては「余計なお世話」という若者側の反発もあるかもしれない。そういう若者のスタンスは、それはそれで当然だ。行政側としては、居場所であるかないかの判断は個人に任されることをはっきりと示したうえで、わざわざ居場所をつくろうとしている理由を明示する必要があるだろう。
 第3に、特定の目的をもたずに集まる「たまり場」を提供することである。そのうちに、何かをしようという話が偶発的に持ち上がる。しかし、行政側は、そのことよりも、そのたまり場が居場所になりえているかどうかに関心をもつことになる。この場合、彼らのあいだで偶発的に沸き起こった活動テーマに対してよりも、居場所を成立させる条件としての風土に関心を払うべきだ。
 第4に、居場所であること自体を主要な目的とする狭義の「居場所」を提供することが考えられる。しかし、これは、特定の依存症に関わる自助グループなど、何らかの共通する課題に関するものでなければ、事業としては考えにくい。広く若者に対しては、会議室やロビーあるいは図書館などの施設提供において、対自、対他の居場所になりうる空間的条件を整えることが必要であろう。
 たとえ行政がつくったものだとしても、以上のような居場所が若者にとって新たな「自分らしくいられる場」と感じられれば、自他への信頼や共感の獲得の場になる可能性がある。


表1.6.4-1 「居場所」の分類

種 類

無意図の居場所
対自
自分の部屋、ひきこもり、黙想、音楽、散歩

対他
友達の部屋、街頭、インターネット通信、(家族)

対社会
地域活動、ボランティア活動、市民活動、(学校・職場)
意図された居場所
対自他・対社会
行政活動、青少年施設、地域施設、青少年育成活動等

一般的呼称
一次的目的
集まり方

主催事業
特定の事業目的
特定の事業目的にひかれて集まる。

活動拠点
特定の活動目的
集まることによって、ある目的を実現しようとする。

たまり場
偶発的な目的
集まっているうちに何かをやろうとする。

居場所(狭義)
即目的
居場所であること自体が主要な目的である。


(3) 居場所づくりの動向
 「青少年問題文献」ドキュメンテーションの要旨における「居場所」の出現率は、97年から増加した。96年までの該当文献の特徴は、地域に子どもの居場所が必要であるとする論調のほか、不登校児を対象とした居場所づくりの実践(秋田県)などが挙げられる。
 97年には、中・高校生建設委員会の基本設計による東京都杉並区児童青少年センター『ゆう杉並』が開館し、彼らの地域での居場所が目指された。
 98年4月、内閣総理大臣の下、関係審議会の代表者等の有識者から成る「次代を担う青少年について考える有識者会議」が「学校外での青少年の居場所づくり」を提言した。そこでは、「適切な指導者等の下に、子どもたちの主体性を重視した子どもにとって魅力ある活動を行うこと」等が挙げられた。
 99年3月、兵庫県社会教育委員の会議審議報告「子どもたちに生きる力を育む社会教育の推進−心の教育の充実に向けて」では、「神戸市須磨区の事件以来、『心の教育』の一層の充実を図ることの大切さを改めて認識」し、青少年の健全な育成を図るための学校外活動の展開方策のなかで、青少年の心の居場所の重要性に注目した。同年10月には、東京都社会教育委員の会議が「中・高校生の自立性・自発性を育てるためには、青少年が気軽に立ち寄り、若者文化の発信や受信ができる居場所をつくることや、中・高校生世代が主体的に参画できる機会を設けることが必要」とした。その後、翌年にかけて、川崎市青少年問題協議会、愛知県青少年問題協議会、茨城県青少年問題協議会、東京都青少年問題協議会が、「居場所づくり」が必要であるとした。
 繰り返し起こる青少年問題のなかで、青少年施策は、居場所づくりの対象として子どもだけでなく若者をも含め込み、なおかつ、「居場所が大切である」という客観的認識から「居場所をつくる」という能動的行為に進みつつあるといえる。
 このような段階においては、前出「有識者会議」のいう指導者による「指導」と、青少年の「主体性」の重視を共存させる方法が求められると考える。

(4) 対他活動としての居場所と教育的意図
 多くの若者は「自分らしくありたい」というだろうが、そこでの「自分らしさ」は、他者とのせめぎあいや折り合いが不十分のまま、あるいはそれを避けたまま、自分の閉ざされた枠組のなかで、こぢんまりと固定化させてしまっているものであり、悩みや苦しみを経た自己内対話から生まれてきたものではないと推察される。
 「自分らしさ」や「本当の自分」とは、他者や社会との相互関与によってつくられていくものであり、そのなかで自己に立ち戻り、自己の多様な側面に日々気づいて確認される、もっと流動的なものなのではないかと考える。
 そうだとすると、対他を避けたままの個性や「自分らしさ」への願望は、若者たちをかえって「自分らしさ」から遠ざける結果になりかねない。また、行政が意図的につくる居場所においても、今の若者と同様の表面だけの「許しあい、わかりあい」に走るならば、それは、「自分らしさ」を望めば望むほど「自分らしさ」を失っていく今の若者の傾向を強化することにしかならないだろう。
 以上の考察から、居場所を「つくる」教育的意図とは、居場所の中で若者たちの相互関与を深め、対他、対自、対社会の気づきの循環を支援しようとすることであると考える。
 行政側は、この意図に沿い、若者と出会い、一人一人の悩みや苦しみを大切に受けとめ、個人に自己内対話を促す問いを与え、ときには自明とされていることについて疑問を与えて揺さぶり、正答のない問いをいっしょに考えることによって、若者とともに自他への気づきを深めることが必要であると考える。

(5) 集団嫌いの若者に対する態度
 上では、対他活動の重要性について述べた。そこで、「集団になじめない若者はどうするのか」ということが問題になる。
 実際、現代学生の多くが、「自分らしさを守ることも大切だが、集団に適応できるようほどほどに」と考えている。自己と集団とが二項対立的にとらえられている。集団は苦手だが、かといって集団、とくに仲間集団(ピア)に同調しないであくまでも「自分らしく」いること、いわば「あぶれ者」になることも極度に恐れている。このダブルバインド(二重拘束)は、自己と集団の二項対立的な現状から発している。
 こういう現状のなか、現在の行政は集団になじめる若者しか相手にできていないのではないかと推察する。しかし、集団になじむことを嫌う「あぶれ者」こそ、ほかの「みんな」にはないエネルギーを秘めていることがある。「集団が苦手」というのも個人の特性にすぎず、その対他関係には長所も短所もあるはずだ。
 居場所の大きな特徴は、無理に集団になじむ必要はないということにある。これを大切にする必要があると考える。
 ただし、外界や、その中での自分が見えていないへその曲げ方は、本人にとっても不幸であり、社会にとってはただの迷惑になるだろう。だからこそ、行政がつくる教育的意図をもった居場所が期待される。「自分らしくいる」ことが尊重されることが宣言された場における対他活動によって、へそ曲がりはより立派にへそを曲げられるようになるし、他者から承認されたりもするだろう。
 そうはいっても、彼らは、「気持ちも行動もみんなで一致して」などという心境には最後まで至らないかもしれない。しかし、むしろ、そのような「みんな主義」への異議申し立てこそ、彼らの存在価値であり、居場所の要点でもある。
 参画活動や行政の場には「みんなで決めていない」ということを口実にして、異質な者の個性を集団の力で排除してしまう危険性があると考える。「居場所」をそういう場にしてはならない。
 むしろ、「みんなの気持ちが一致して、みんなで同じ行動をするなどということが本当にあるのか?」と問い続け、個人ごとの異なりを大切にするような居場所をつくることが必要である。
 また、集団嫌いの若者のほうに対しても、実体のない「みんな」に対して御託を並べたり、「みんな」に何とかしてもらおうとしたりするのではなく、その居場所を拠点として、自分の責任で思い切りやらせてもらえばよいと考えさせるようにしたい。

(6) 「自分らしさ」の内実を埋める居場所
 96年7月、中央教育審議会「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の答申は、教育を、「自分さがしの旅」をたすける営みとした。ボランティア活動についても、「本当の自分を見つける」という趣旨の発言をよく聞く。
 そして、この流れのなかで、若者たちも「自分らしく生きることが大切」という。しかし、多くの場合、それは「自分とは何か」を問い続けた結果としてではない。
 一方で、行政は、地域共同体の衰退の中で、新たな「共同性」をつくろうとしてきた。それは、結果として「集団になじむことを好む」人たちの狭い世界の「コミュニティ」と、それと行政との偏った「パートナーシップ」を生む危険があると考える。「集団になじむことを好む」ということは、えてして、「みんな」という偽善の言葉を使いつつ、じつは個を抑圧して、集団に従属したり、支配したりしようとする傾向の裏返しの表れにすぎないことが多いと考える。それは、個人の対自と対他の循環を断絶させる。
 社会化支援の理念と実践において、青少年の自己決定能力の向上が叫ばれているが、そこには上に述べた視点が必要と考える。なぜなら、現実には人は他者や社会との関係性のなかで生きているのだから、それを切り離したままの「自己決定の人生を送りたい」という願いは無茶な願望に過ぎないし、これを無批判に受け入れるとすれば、現実化しえない願望を肥大化させる結果にしかならないと推察されるからである。
 青少年の社会化支援に関わる社会的諸機能が、このようにして意図的な「居場所づくり」と、その過程における青少年の参画意欲の意図的な掘り起こしを行うならば、個人化と社会化を統合的に支援し、自己形成と社会形成の一体化を図る支援理念を現実のものとする可能性が開かれると考える。
































第2章 支援理念を支える方法論



2.1 親の社会化を支援する「子育て学習」内容編成の方法
 われわれは、上の青少年の社会化支援理念の研究において、青少年だけでなく、青少年を取り巻く大人、とくに、親の社会化の重要性が認識されつつあることを明らかにしてきた。
 しかし、これまでの親教育においては、次の点で不十分であったと考える。

@ 習得すべき能力目標が明示され、その達成が保証されたカリキュラムの編成
A 親個人の子育てニーズと、親の子育てに対する社会的要請を一体的に充足するカリキュラムの開発
B カリキュラム編成への親の参画

 上の3点を満たすため、ワークショップの方法として職業能力開発手法「クドバス」を活用し、大学授業において学生に親教育プログラムを作成させ、その効果を確かめた16。

2.1.1 研究の意義
(1) 高校生の子をもつ親への「子育て支援」
 高校生の子をもつ親は、小・中学校区でのPTAや公民館等での取り組みからも外れて、孤立して悩んでいる状況があると考える。あるいは、子が高校にまで至ると、児童期までと比べて「これ以上は変容する可能性はない」とあきらめている者も多いと推察される。
 高校生に対する親としての望ましい接し方は、けっして児童期までのそれよりも容易に習得できるわけではないことは言うまでもない。このようなことから、いわば「支援が手薄だった層」、「地域や子育て仲間から離れつつある層」としての高校生の子をもつ親に対して、「子育て支援」の一環としての学習機会提供事業を実施することの意義は大きいといえよう。そして、そのために、研究面においては、効果的な学習内容編成に関する研究が急務であると考えた。

(2) 子育て学習の内容編成作業の組織化
 子育て学習の内容編成の現場では、ほとんどの場合、一人または少人数の事業担当者がその作業にあたっていると考えられる。もちろん、担当者に研修・研究の機会が与えられ、その成果を反映させているということは大いに考えられよう。しかし、その場合でも、一番重要な学習内容編成の最終段階においては、結局は自己の経験と主観に頼って作業せざるをえないのが実践現場の現実といえよう。
 本研究では、後述の「クドバス」という手法を導入し、その作業をグループワークとして組織的に行うことを試みた。そのことによって、学習プログラムがより組織的、合目的的、系統的に組み立てられるものと考えるからである。また、このような学習内容編成作業の組織化は、学習者参画型の学習機会提供にも道を開くものとして期待できる。市民参画型の学習機会提供事業は各地で試みられているのだが、それがプログラム作成の最終段階では結局は担当者と一握りの市民の手によるものであったという結果に陥らないようにするためには、このような学習内容編成作業の組織化が必要と考える。

(3) 学習機会提供事業の到達目標の設定
 この研究では、親として獲得すべき多様な能力を構造化し、それに基づいて学習内容を編成した。そのことによって「作業の組織化」が保障されるとともに、学習プログラムのなかのそれぞれの回について、獲得すべき能力を明示化することができる。各回の目標の到達度をより適正に点検し、自己評価を行うことが可能になる。その学習プログラムのめざす「(親としての)最終的な仕上がり像」が構造化されて明らかにされることから、事業全体の到達目標の設定と評価も、より明確に行うことが期待できる。このような学習目標の明示化は、学習者に対して自覚的学習行動と、学習目標への能動的関与を促す契機になることが期待できる。

2.1.2 研究の目的
(1) 能力分析
 本研究では、「職業能力分析」の手法を援用することにより、高校生の子をもつ親に求められる能力を分解してとらえた上でこれを構造化し、各科目の到達目標及び全体の「仕上がり像」が明示化された学習内容を編成して、学習プログラムを作成する。その成果の吟味により、学習内容編成において能力分析から積み上げていくことの妥当性を検討することを本研究の目的とする。

(2) 仮説の設定
 以上から、本研究では、次のとおり仮説を設定した。
 [高校生の子をもつ親の子育て能力を、「〜を知っている」(知識)、「〜ができる」(技能)、「〜の態度がとれる」(態度)の3種類の表現のいずれかで表記して、これを構造化することにより、明確な到達目標をもった効果的な学習プログラムを編成することができる。]

(3) 研究の方法
 2004年度後期の社会教育主事課程授業「家庭教育と社会教育」において、クドバスを活用して学習内容を編成し、その成果の妥当性を検討した。作成した書類は次の7点である。
@学習プログラム作成課題シート(表2.1-1)
ACUDBASチャート(図2.1-2)
B必要能力・資質構造図(図2.1-3)
C科目別学習目標シート(表2.1-4)
Dテーマ別学習目標シート(表2.1-5)
E学習スケジュール表(表2.1-9)
F学習設備・機器・物品準備計画書(表2.1-6)
 なお、作業にあたった者は、受講女子学生3人と指導教員である筆者の4人であった。最近まで高校生であった学生のリアルな意見を組織化することができたとともに、幸いにも学生の一人は子育て支援の活動経験のある社会人(以下学生01とする)であったため、多角的に検討することができた。
 そのほか、受講学生の感想、気づき等をBBS(電子掲示板システム)で毎回集約し、検討した。

2.1.3 クドバスの概要と活用の意義
(1) クドバス開発の経緯
 クドバスの概要を、その創始者である森和夫による数点の文献からまとめれば、次のとおりである17。
 クドバス(CUDBAS=CUrriculum Development Method Based on Ability Structure)は1990年に開発されたカリキュラム開発手法である。1989年、労働省を中心に、森らはプロッツ(PROTS=Progressive Training System for Instructor)という指導技術訓練システムの開発に着手した。これは海外で技術指導にあたる指導者たちに特に必要性が高かった指導技術訓練システムを開発しようとしたものである。クドバスはその一環として開発された。

(2) クドバスの特徴
 クドバスによって、教育内容項目を具体的な行動目標として能率的に記述し、カリキュラムもしくは教育計画を立案することができる。
 森はクドバスでできることとして、次の13点を例示している。
@保有する技術・技能の評価
A職員の能力におけるウイークポイントの検索
B新規事業の立ち上げ可能性についての能力面からの検証
C職員の現状把握と経営戦略への立案、教育計画の立案
D教育システムの確立
E継続教育マニュアルの作成
FOJTマニュアルの作成
Gテキスト、教材の開発
H管理職、マネジメント教育のツールとして実施
I人事考課への活用、処遇の決定
J人事配置・プロジェクト担当チームの編成
K問題解決手法への適用
L発想法としての応用
 クドバスの特徴としては、次の6点が挙げられている。
@「早くできる」
A「手続きがシンプルで簡単である」「あまり多くの教育は必要としない」
B「小集団の意思決定によるものである」
C「第一人者であれば説得力があるものになる」「分析する内容についてよく知る人であれば誰でも参加でき、安直である」
D「分析する途中の全てのプロセスが記録に残るため、改訂や見直しができ、他者への説明にも役立つ」
E「応用範囲が広い」

(3) クドバスの進め方の概要
 進め方としては次の5つのステップを踏むことになる。これらは、参考文献やホームページなどで公開されている「マニュアル」を使って、読み上げながら実施することが可能である。
@職場の熟練者について「何ができるか」、「何を知っているか」、「どんな態度が取れるか」で1件につき1枚のカードに書き出す。
Aそれらのカードを仕事の単位でまとめていく。
B水準の順序で並べ直す。
Cカードごとの水準を書き入れる。
D能力資質リスト図に転記する。
 作業は、その職業について知る人5〜6人程度で行う。各方面からの参加が望ましい。その際の注意事項は次のとおりである。
@メンバーは同等の資格、権限で進めること。
A個人への批判や攻撃はしないこと。
B互いに協同して良いリストを作成すること。
C固定観念にとらわれず、柔軟に発想を出すこと。
 能力カード作成にあたっては、「人格的なものや性格などは除く」とされている。また、他の人との重複は気にしないで、いろいろな角度から書く。所要時間は1枚につき1分程度で、一人20枚程度が想定されている。
 書き込まれたすべてのカードを机の上に置く。同一内容のカードは重ね、類似カードは近くに置く。重ねたカードは内容を点検し、最も内容を代表するカードを一番上にする。適切なカードがなければ、新たに書き足す。確認してホチキスでとめる。ただし、少しでも違っていれば独立させる。
 次に、これらを見渡して仕事内容でグルーピングする。仕事カードの語尾は「〜をする」を使う。仕事カードごとに能力カードを右横に並べる。並んだ能力カードを重要度の高いものから順に右へ並べ直す。重要度のランクA、B、Cを決めて記入する。
 次に縦の配列を行なう。カード群を比較して重要度の高い分類から順に下へ向かって並べる。「必要能力・資質リスト」は以上で完成である。
 指導者がいなくてもできること、また、90分程度で作業が完成することが想定されていることは、学習内容編成者にとっての実用性を保障するものであると同時に、先に述べたような「学習者参画によるプログラム作成」や「学習者個人の学習目標への自己関与」を可能にする道具としても有益であると考える。

2.1.4 学習プログラム作成結果
(1) 学習プログラム作成課題シート
 結果は表2.1-1のとおりである。
 学生の参画意欲を高めるため、課題の設定自体を受講学生と相談して決定した。また、実際にこのプログラムを実施することをめざしている。そのため、次のようなBBS書き込みがあった。

 わからないながらも少しずつ形になり、その中でいろいろ学んでいる。できれば実現したい。そして手応えを得たい。せっかくのチャンスなのでいかせればと意気込んでいる。(学生01)

 この学生の記述内容からは、クドバスの参画システムとしての効力とともに、学習プログラムを実際に実施できる可能性が、クドバス作業への参加意欲との相乗効果をもたらしていると考えられる。


表2.1-1 学習プログラム作成課題シート (以下、図表番号には標題番号を付記した)
課題 下記の設定にしたがって学習プログラムを作成しなさい。




学習ニーズ
 高校生は、自分の力で充実した生活を送り、また、親と相互に生活を支えあって、社会的自立に備えることが望まれる。しかし、そのための家庭の教育力が低下していると考えられる。このため、自分の子育てに問題を感じている親が、望ましい親像を理解し、それを実践できるようにする。
講座設定
講座名称
高校生の子を持つ親のための講座

受講人数
30人

受講期間
2005年9月6日(火)〜2006年3月14日(火)10:00〜12:00(28週)


ただし12月27日と1月3日を除く。初日はアイスブレーク。

受講時間
2時間×25週=50時間
 
 
 

会場
S大学生涯学習センター(おもに50人規模の会議室を使用する)

合宿
学習時間の枠外で1泊2日の親睦旅行を行う(家族同伴可)

講座担当者
大学授業「家庭教育と社会教育」受講学生

受講対象
自分の子育てに問題を感じている高校生の子をもつ親
 
@ 学習プログラム作成課題シート
 
 
 
 
A 必要能力・資質リスト
 
 
 
 
 
B 必要能力・資質構造図
 
 
 
 
作成書類
C 科目別学習目標シート
 
 
 
 
 
D テーマ別学習目標シート
 
 
 
 
 
E 学習スケジュール表
 
 
 
 
 
F 学習設備・機器・物品準備計画書
 
 
 



(2) 必要能力・資質リスト
 結果は図2.1-2のとおりである。
 4人だけで本リスト図を作成した翌週、100人規模の授業3コマにおいて、学生に自由意思でのBBSへの能力カードの書き込みを求めた。17件の書き込みがあり、それを検討したところ、ほとんどが4人で書き出した能力カードと重複しており、1-3の1件だけを新たに加える結果になった。クドバスのスピードと手軽さという特徴が、このような「網羅性」や「普遍性」に裏打ちされていることを指摘しておきたい。
 「あまり考えこまずにカードが書けた」(学生01)などのBBSでの記述内容も、クドバスのこのような容易さと普遍性の両面に依拠したものと考えられる。ただし、重要度の判断にはやや戸惑いがあり、「高校生の子育てに必要なことを重要度に分けるのは思っていたよりも難しかった」(学生02)、「どれが一番重要か順位をつけるのは難しい」(学生03)、「どこまでAなのか決めるのは、考えているとどれも重要に思えるし、境目を決めるのが難しい」(同上)などの記述が見られた。とくに、循環関係があるカードについては迷うところが多々あったように思う。



図2.1-2 CUDBASチャート「高校生の子をもつ親に必要な能力・資質」


(3) 必要能力構造図
 結果は表3のとおりである。仕事カードとは別に科目を設定し、異なる仕事カードに所属する能力カードを横断的に組み合わせて、その科目を構成するように心がけた。そのことによって、仕事別の学習よりも動態的で魅力的な学習内容編成が可能になると考える。
 ここでは、5-2で述べた様相とは異なり、科目の設定において、アイデアやひらめきが強く求められた。「科目名を決めて、それに合うように分類するのが難しかった」(学生02)という記述もあったが、その学生は続けて「だんだん話し合いが抵抗なくできるようになってきた。次の授業でも発言するように心がけたい」(同上)と記述している。また、「多くの能力カードを含む科目名は考えるのは難しいけれど、その科目にどんな能力カードが入るか考えるのは楽しかった」(学生03)という記述があった。
 クドバスの前述の注意事項である「固定観念にとらわれず、柔軟に発想を出すこと」は、この段階ぐらいから強く求められるようになるといえよう。そして、作業をする者も、それになじんでいく過程があると考えられる。
 正解が一つだけあってそれを教わるという「承り型学習」に慣れてしまった者にとっては、難しさを感じることがあると思われる。しかし、もう一方で、この作業をとおして話し合いや発言などの「能動的学習」への意欲が生ずることにも注目しておきたい。



図2.1-3 必要能力・資質構造図


(4) 科目別学習目標シート
 結果は表2.1-4のとおりである。ここでは学習時間と学習方法を決めることが眼目になる。それ以外は今までのカードや電子ファイルを再利用、再編集するだけでよい。前述の「手続きがシンプル」、「分析する途中の全てのプロセスが記録に残る」などのクドバスのメリットは、このような要因から成り立っていると考える。
 また、前項の必要能力・資質構造図において「科目名の決定」には手こずったが、それは学習内容編成において避けてはいけない作業だけが純化されて浮かび上がったものとして解釈することができよう。

(5) テーマ別学習目標シート
 結果は表2.1-5のとおりである。
 「テーマのキャッチコピーが難しい。これだというコピーが今ひとつ挙がらないのが辛い」(学生01)という記述があった。前項と同じく、その自由奔放な時間を楽しもうとするゆとりが求められるといえよう。
 なお、本表で「キャストゲーム」とは、各キャストを受け持つチームに分かれ、代表者がパネルディスカッションを行うものである。途中、作戦タイムなどを設けて盛り上がりをねらう。自分とは異なる立場の人の気持ちや痛みへの気づきが期待できる。「ロールプレイ」、「ケーススタディ」、「お願いトレーニング」においては、そのテーマごとの学習目標を達成できるような課題を提示する。「インタビューダイアローグ」とは、担当者または受講者代表がインタビュアーとなり、対話形式で講師から話を聞き出すという講義方式である。受講者からの質問を事前に整理しておいてインタビューに反映させることもできる。


表2.1-4 科目別学習目標シート


表2.1-5 テーマ別学習目標シート




(6) 学習スケジュール表
 結果は表2.1-9示したとおりである。初級から上級へと移っていくように配慮した。また、連続して配置した方がよいテーマ、同じ科目のなかのテーマでも、時期を考慮して別々に配置した方がよいテーマなどについて配慮を加えた。
 なお、「旅行プランナー演習」では、客から家族旅行のプランニングの依頼を受け、インターネット等を活用して、それに応えるというワークショップを行う。その場合、2週目には学習目標に見合った「依頼者の家族の状況に関する新情報」を提示して目標の達成をねらうこととした。

(7) 学習設備・機器・物品準備計画書
 結果は表2.1-6のとおりである。これを作成することにより、講座開講中の資料準備や経費支出が余裕をもって計画的にできると考えられる。
 なお、第22週の「公開パネルディスカッション」では、次年度関連講座のPRのためのチラシを配布することを企画した。


表2.1-6 学習設備・機器・物品準備計画書



2.1.5 結果の検討と討論
(1) 仮説の妥当性
 本研究では、子育て能力を分解して、知識、技能、態度の3側面から表記し、これを構造化して、そのまま学習プログラムに反映させたのであるから、仮説で設定したように学習目標が明確化するのは当然の結果であったといえる。実際にも、学習スケジュール作成の段階にあっては、比較的容易に、テーマごとの学習目標を設定することができた。
 また、そこで設定された学習目標は、各回の担当者及び講師にも明確に認識されるし、他の回とは重複しないため、支援が責任をもって目的的に行われるという実践面での大きなメリットが期待できる。
 本研究で得られたこのような知見は、本論の冒頭で述べたような「子育て学習の内容編成作業の組織化」や「学習機会提供事業の到達目標の設定」の意義とあり方を示すものとしても有効であるといえよう。このことは次の学生の記述に如実に表されている。

 クドバスでは明確な目標設定に基づいて、必要な能力が重要度レベルの表記を伴って構成される。このようなものが家庭教育で使えることに驚いた。ここで編成された学習内容は、学習者としての親が、家庭教育を学びながら、そのなかで自己成長し、自己実現できるプログラムになっていると思う。なぜなら「達成できる」ことを前提にプログラムが構成されているからだ。今までの家庭教育の学習プログラムは、集団を相手にして、「(親は)こうでありましょう」という漠然としたメッセージを伝えようとするものが多かったのではないか。これに対して、クドバスの手法によって作成された学習プログラムでは、参加する親たちに、より強く「個人」を意識させることができると思う。また、自分自身にとっても、学習者が「できるようになること」を意識して学習プログラムを作成したことが良い経験になった。(学生01)

 本記述は、達成目標の明示化によって、「個人が消えない学習」が可能になることを指摘したものであり、注目に値すると考える。

(2) 子育て能力としての「自信」の達成度評価
 しかし、他方で、その学習プログラムを十分に「効果的な」ものとするためには、本研究結果では明らかにできなかった課題が残されていると考える。
 われわれは大学公開講座における子育て支援の実践から、親子関係における気づき過程とその支援について次のような知見を得た18。
 第1に、習得した知識、技能、態度を、実際の子育てに生かすためには、親の「自信」が必要になる。しかも、その自信は、学習者間の相互受容のなかで個人が埋没してしまうかたちでではなく、自己や家族に対して、個人として自覚的に向き合うかたちで形成されなければならない。
 クドバスでは、すでに述べたとおり、人格的なものや性格などは能力カードからは除かれる。しかし、人格や性格がどうであろうと、子育て実践のためには、望ましいかたちでの自信の獲得が必要といえる。そこで、その到達度を確かめるため、表2.1-10に示したとおり評価票を作成した。
 この評価票により、それぞれの学習目標に関して、そこで得られた能力を実践に結びつけられるかどうか、逐一的にその達成度と変容効果が測定できると考えた。
 なお、評価票が簡単に作成できるのも、クドバスによって子育て能力が分解して書き出されているからだと考える。

(3) 子育てに求められる統合的能力の育成
 第2に、気づきの過程がつねに循環するものだとすれば、これらの気づきを統合的に処理するためのメタレベルでの能力が必要になると考えられる。
 クドバスでは、能力を分解してカードに書き出し、それを必ず一つの仕事だけに帰属させるため、ある仕事に対して必要な能力と、関連して活用すべき他の能力が、離ればなれになる危険性がある。もちろん、科目編成において、異なる仕事から横断的に能力を組み合わせたことは、そのような問題点を少しでも解消する意義があったと考える。しかし、到達目標を他の仕事や科目と重複させないというクドバスの原則は、先述のメリットとともに、このような問題点をはらむのである。
 これについては「統合的能力の育成」として、次のような新たな学習プログラムを考えたい。それは自分のもっている数種類の能力をフル動員させて「指令」を遂行するというプログラムである。そのプログラムは、当然、参加型、体験型になるだろうから、元の講座担当者が推進するほか、受講修了者の自主グループを組織して、そこが自主的、実践的に推進することも効果的と考える。そのプログラムは、当然、参加型、体験型になるだろうから、元の講座担当者が推進するほか、受講修了者の自主グループを組織して、そこが自主的、実践的に推進することも効果的と考える。

(4) レッスンプランの作成による事業計画と達成度評価の緻密化
 第3に、クドバスの最終目的がカリキュラム開発であるため、各テーマの学習方法・内容について、そのなかのどこが十分で、どこが不十分だったかまでは、正確に評価することができないという問題が考えられる。
 その点については先述のプロッツの手法に学び、表2.1-7と表2.1-8のとおり、レッスンプランを作成した。第1週では、その後、講師は簡単な自己紹介ののち、青年期の心理的特徴について、テキストの流れに沿って1時間の講義を行う。講義内容についても、わかる範囲でこのレッスンプランに書き込む必要がある。第20週では、その後、講師は、簡単な自己紹介ののち、乱雑に散らかったキッチンとリビング、子ども部屋の写真を各グループに配付し、ワークの課題を与える。
 これらのレッスンプランの作成により、講座担当者の指導の内実を計画化し、正確な事業評価に堪えるものにできる。また、依頼した講師に対しても、講師が作成したテキスト原稿やレジメを参考にして講座担当者が原案をつくり、相談のうえ、相互関与によってレッスンプランを書き上げることが望ましいと考える。そのことによって、講師依頼の回においても、講座担当者の企画意図を反映させるとともに、講座全体をとおした指導の計画化と評価の緻密化に資することが期待できる。



表2.1-7 レッスンプラン第1週冒頭
今回の方法・テーマ
講義・インタビューダイアローグ「青年期の心理的特徴」
指導区分
時間
指導の要点
学習者の活動
本日の進行の説明
1分
担当者「みなさん、おはようございます。先週は講師の先生への質問票を提出していただきありがとうございました。これらの質問はあとでまとめて先生にインタビューしたいと思います」

1. 反抗期の理解
1-1.反抗の多様な形態
7分
担当者「みなさんの質問票のなかにも、反抗期に関するものが○○件ほどありました。親にとっては悩みの種の一つといえるのかもしれません。そこで、まず、反抗にはどんな形のものがあるか、考えてみることにしましょう。みなさんのお子さんは、どんな反抗をしてきますか?」
反抗の種類を自分の子育ての経験から考える


[5人程度を指名して、その回答を担当者が簡潔にまとめて板書する]
受講者仲間の発言を聞く


担当者「私たちのあいだではこのような結果になりました。先生、それでは、この『反抗の種類』からお話を始めていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。」



講師登壇
講師歓迎の拍手

3分
講師(反抗の多様な形態について黒板に列挙する)



表2.1-8 レッスンプラン第20週冒頭
今回の方法・テーマ
ワークショップ「家事テキパキ段取り計画作成」
指導区分
時間
指導の要点
学習者の活動
本日の進行の説明

















1 ワーク開始
(写真配付と説明)


1分





3分











担当者「みなさん、おはようございます。先週までの学習で、子どもに食事を一緒にするよう誘うことができるようになりましたでしょうか? 今週は子どもと一緒に家事をしたり、子どもに家事をさせたりできるようになることを、学習目標に設定してあります。」

「自分は家事が得意と思う方、自分は家事が不得意と思う方、自分の子どもはすでにある程度家事ができると思う方、できないと思う方、それぞれ手を挙げてください。人数を数えさせていただきます。」

(親子不得意、親子得意、親得意+子不得意、子得意+親不得意の4つのパターン別に、人数を板書する。)

担当者「私たちのあいだではこのような結果になりました。今回の最後にはそれぞれのパターンにおける最善の解決策を見いだせるとよいですね。それでは、先生、よろしくお願いします。」

講師登壇








挙手











講師歓迎の拍手









(5) 青少年に対する社会的要請の学習プログラムへの織り込み
 少子高齢社会のなかで、現在、青少年の社会参画能力の育成の必要が叫ばれている。しかし、子育てに悩む多くの親たちにとって、わが子にそのような能力を身につけさせようと思うゆとりがあるのだろうか。あるいは、親自身、大人自身のなかに、どれだけ社会参画や社会貢献をしたいと考える者がいるのだろうか。本研究で構造化した「高校生の子をもつ親に必要な能力」のなかにも、直接的にそのことに言及したカードはなかった。
 しかし、実際に「社会参画能力」をクドバスでリスト化したところ、親がわが子に身につけさせたい能力、さらには親自身が身につけたいと思っているであろう能力と、まったくといっていいほど差異はないと推察された。図2.1-11は、国立青少年教育施設職員数十人に対して「青少年の社会参画」についての1時間半の講義を行い、そのときに青年の社会参画に必要な能力を一人一枚以上で書き出してもらって、クドバスの手法でそれをリスト化したものである。
 ロジャー・ハートは、子どもの参加を8つの段階(@操りの参画、Aお飾り参画、B形式的参画、C与えられた役割の内容を認識した上での参画、D大人主導で子どもの意見提供ある参画、E大人主導で意志決定に子どもも参画、F子ども主導の活動、G子ども主導の活動に大人も巻き込む)に区分し、「参画のはしご」という評価の視点を提起した19。はしごであるから、上の段も下の段もどちらも必要である。また、大人のほうも社会に参画することが前提となっている。
 しかし、そこでも、個人の主体性、他者とのコミュニケーション、多様性の許容などの能力が必要とされている。これらは、ほとんどすべて、青少年や大人たちが自らの能力として身につけたいと思うことと一致すると考える。
 このようなことから、社会の側からの「青少年の社会化」要請と、青少年自らの社会化ニーズとがかみ合っていないといえるのではないか。もちろん青少年の側のニーズには未成熟な点もあろう。しかし、クドバスの作業結果から明らかなとおり、青少年も大人も、社会参加、社会貢献、社会参画につながる能力をいらないと思っているわけではないのである。ただし、その活動をするよう社会の側から押しつけられていると感じた場合は拒否したくなるのだと考えられる。
 「社会参画をしよう」という「漠然としたメッセージ」を伝えることよりも、ロジャー・ハートの主張するような「はしご」をシステムとして用意することのほうが重要ではないか。そして、その一環として、クドバスのような手法で青少年や親が自ら求める能力を組織化、構造化、明示化し、その能力の目的的な獲得を支援する学習プログラムの提供が望まれているのではないか。
 以上の考察から、学習内容編成において社会的要請にどう対応すべきかということについて、次のように考えたい。
 たとえ、子育て支援側がすべてを企画する講座だとしても、受講者が身につけたい能力の達成こそを目標とすべきである。しかし、逆に、たとえ、受講者参画型の講座だとしても、子育て支援側は社会的に必要な学習課題をつねに認識し、それが受講者のニーズと整合するチャンスを鋭敏に見つけ出して、提案者、問題提起者としての役割を果たすべきである。とくに公務としてその役割を担っているときはなおさらである。
 すなわち、もし、一方的な「社会的要請」があるとしたら、それをクドバスの能力カードに入れ込む行為は、クドバスの良さを台無しにしてしまうことになろう。しかし、科目やテーマの設定において、受講者のニーズと社会的要請とが整合する企画は十分可能なはずである。たとえばここで作成した学習プログラムにおいても、「子育てのまちづくり」をいくつかの能力カードと結びつけ、一般の親を引きつける科目またはテーマを提起することは可能だったのかもしれない。なぜならば、社会化ニーズは、社会の側だけでなく、個人の側にも、それとは違ったかたちで顕在化、または潜在化して存在していると考えられるからである。両者の関連づけによって、参画型の社会形成が現実化されると考える。


表2.1-9 学習スケジュール表


表2.1-10 学習目標別受講者評価票
「高校生の子を持つ親のための講座」受講者評価票
まず、あなたのことについておたずねします。あてはまるところに○をつけてください。
性別


職業経験年数
なし
3年まで
10年まで
20年まで
20年以上
現在
パート
バイト
常勤
無職
欠席された回数
0回
3回まで
6回まで
9回まで
12回まで
13回以上
つぎに、下記のうち、もっともあてはまる数字に○をつけてください。
 受講いただきありがとうございました。今後、より効果的な講座を開くため、受講前と受講後のそれぞれの学習目標についての自信の有無をお答えください。ただし、どちらかといえば自信がない場合は「@」に、どちらかといえば自信がある場合は「B」に○をつけてください。どちらともいえない場合だけ「A」に、○をつけてください。
1受講前の状態
2受講後の状態

自信がない
わからない
自信がある
自信がない
わからない
  自
  信
  が
  ある
01
人生に対して前向きな態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
02
人権を尊重する態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
03
自分が間違っていたら子に謝ることができる
1-
2
-3
1-
2
-3
04
親自身がうまくいかないとき、ヒステリックでない態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
05
家族旅行をしたとき楽しい態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
06
ほっといておくことができる
1-
2
-3
1-
2
-3
07
子のプライバシーを尊重する態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
08
知っていても知らない態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
09
子を信頼することができる
1-
2
-3
1-
2
-3
10
子にとっては家がわずらわしいことを知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
11
子の今の精神状態を知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
12
青年期は不安定な気持ちでいることを知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
13
青年期の心理的特徴を知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
14
すぐに反抗してくることを知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
15
子の生活態度を知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
16
親にうそをつくことを知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
17
子の友人関係を知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
18
彼(彼女)がいるのを知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
19
望ましい勉強方法を知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
20
子からの相談や話し合いに応ずることができる
1-
2
-3
1-
2
-3
21
何に関心があるかを知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
22
じっくり話を聞くことができる
1-
2
-3
1-
2
-3
23
わが子に注意ができる
1-
2
-3
1-
2
-3
24
子が悪いことをしたとき、き然とした態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
25
子がパニックにおちいっているとき冷静な態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
26
子が落ち込んでいるとき上手に励ますことができる
1-
2
-3
1-
2
-3
27
家では食事を一緒にするよう誘うことができる
1-
2
-3
1-
2
-3
28
わが子にあいさつができる
1-
2
-3
1-
2
-3
29
高校生に適した性教育ができる
1-
2
-3
1-
2
-3
30
子からの進路相談に応じることができる
1-
2
-3
1-
2
-3
31
現代社会の就職状況や仕事の内容について知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
32
部活のおっかけができる
1-
2
-3
1-
2
-3
33
学校の様子を知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
34
同じ高校生の子を持つ親と情報交換や相談をすることができる
1-
2
-3
1-
2
-3
35
学校側と緊密かつ自立的な連携ができる
1-
2
-3
1-
2
-3
36
家族との会話ができる
1-
2
-3
1-
2
-3
37
他愛ないおしゃべりができる
1-
2
-3
1-
2
-3
38
励ます時、子が何を食べたいかを知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
39
お願いの態度がとれる
1-
2
-3
1-
2
-3
40
そうじ、片づけを子にさせることができる
1-
2
-3
1-
2
-3
41
食事の仕度、洗たく、そうじができる
1-
2
-3
1-
2
-3
42
高校生に必要な栄養素について知っている
1-
2
-3
1-
2
-3
43
子にとっての必需品を買うことができる
1-
2
-3
1-
2
-3




図2.1-11 CUDBASチャート「現代青年の社会参画に必要な能力・資質」


2.2
子育て中の親の気づき過程とその支援方法
 親の子育ての悩みに的確に対応し、社会化支援理念を現実化するためには、親子関係における親の気づきの諸側面や、それが他の親との学習の中でたどる過程を、教育実践の具体的内容・方法と照合しながら実証的に検討する必要がある。
 この研究では、徳島大学公開講座「子育ての中の交流・コミュニケーション」における学習者の文章表現やワークショップの成果を分析し、効果的な支援方法を明らかにしようとした20。
 
2.2.1 研究の目的
 この研究では、次の仮説を設定した。[学習集団に受容的雰囲気が形成され、互いに安心して自己開示を交換することによって、対自・対他の気づきが促される]ということである。このような相互受容体験は、互いの差異を認めつつ共感や信頼を深めることになるので、親としての自己確立に資すると考えた。
 本研究の目的の第1は、学習者としての親が、講座のどの場面でどのように即自、対自、対他の気づきを得てゆくか、その過程を解明することである。第2は、気づきが子育ての悩みの主体的な解決の展望につながらない場合の阻害要因を見出すことである。第3は、主体的解決につながる気づきを促進する支援内容、支援方法、集団内関係の構成要素を導き出し、今後の子育て学習支援の課題を明らかにすることである。
 
2.2.2 研究の方法
 研究対象とした講座は、2000年度徳島大学大学開放実践センター公開講座「子育ての中の交流・コミュニケーション」である。小学校・中学校在学の子どもをもつ母親に対して、春期と冬期に週1回、1.5〜2時間、6週にわたって実施した。主として検討した春期講座は、5月16日〜6月20日に実施した。受講者は5名である。
 この講座の目的は次のとおりである。子育て問題の解決のためには、親自身が自他への信頼感や共感をとりもどすことが必要である。本講座では、主として小学校・中学校在学の子どもをもつ親同士で、子育てをしているときのうれしいことや悩んでいることなどの体験を交流した。学習方法は、ワークショップを取り入れ、受容的雰囲気のなかで安心して交流できるように配慮した。
 この他に、春期・冬期それぞれの受講者がその後も自主的に交流を続け、そのなかからパソコンを習いたいという希望が出されたため、冬期に「子育て交流のためのパソコン入門」を実施した。
 本研究は、春期講座を中心に分析した。春期講座は表2.2-1のとおり進行させた。
 分析は、@個人による文章表現ワークの成果、Aワークショップの成果、B各回終了時の個人による振り返りの文章を対象にして行なった。他に、C受講者1名に対する面接調査を行った。
 個人による文章表現ワークの成果の分析は次のように行なった。1-2終了時に文章表現1-@「心配なこと・聞いておきたいこと」、2-3終了時に2-@「自己の就労状況」、3-5終了時に3-@「絵画表現『子育ての楽しみ』説明」を、それぞれA6版1枚に記述したものを回収した。この内容を全体的傾向、個人別把握の両面から分析した。
 ワークショップ(WS)の成果の分析は次のように行なった。1-4の「第一印象ゲーム」(メモ)(2)、2-4のWS「幸せの瞬間」(図解)(3)、4-4、5-2のカード式発想法「子育てのなやみ」(図解)、6-2のカード式発想法「子育てのなやみ=期待と実像」(図解)を、各回終了後に表にまとめ直して内容を検討した。
 各回終了時の個人による振り返りの文章の分析は次のように行なった。毎回、終了時に、「どんなことでも自由に書く」という指示の上で、A6版1枚を配布し、記入後回収した。この内容を当日のWSとの関連の面から分析した。
 受講者1名に対する面接調査は次のように行った。2001年5月、現在も他の受講者と自主的に交流を続けている人1名に30分程度の面接調査を行った。会話形式で自由にしゃべってもらい、これを録音して発言のとおり文書化した(面1「当時の受講の様子」、面2「現在考える受講の意義」)。この資料を分析して、受講当時の戸惑い及びその後の自主的交流による気づきについて検討した。
 この他に、冬期講座6回のWS成果と個人の文章、パソコン講座6回の個人別発信内容を集約し、春期講座の検討に必要な部分を抜粋して比較分析した。
 
表2.2-1 各回の活動内容と支援のねらい


活動内容

気づき支援のねらい
1
1
 講師からの一方向の説明
 1-5(振り返り)のシステムについて
15
「自己決定で書くこと」の意義に気づく。「答を聞く」ではなく、「自ら表現する」意欲をもつ。

2
 講師指示型の個人による文章表現ワーク
 「心配なこと・聞いておきたいこと」
 文章表現1-@回収
5
今の気持ちを匿名で自由にカードに記入することにより、自らの今の不安や期待を確認する。

3
 講師対学習者の1対nの講義型対話
 カード記入を介した講師との一問一答
20
受講仲間の考えていることを知る。一人一人の思いに講師が応えることにより、受講当初の不安を解消し、今後の受講に期待感をもつ。

4
 講師主導型のn対nの出会いワーク
 「第一印象ゲーム」
45
他者の異質性と出会うことにより、共感を体験する。他者から見られる存在としての自己に気づく。

5
 個人文章表現による振り返り
 文章表現1-A回収
5
「個人が自己管理のもと、どんなことでも自由に書くこと」により、自己内での気づきを振り返る。
2
1
 1−Aの講師による読み上げと応答
20
異なる他者の存在に気づく。他者固有の関心が自己の関心にもつながることに気づく。

2
 個人による文章表現ワーク
 「子育て中の母親にとっての就労・社会参加」
10
一人の学習者からの求めに応じて実施。自分が働く理由、働かない理由にあらためて気づく。

3
 学習者個人からの1対nの口頭表現とn対nの交流ワーク(話し合い学習)
 文章表現2-@回収
30
他の母親にとっての子育てと就労の関係を知ることによって、子育てが自己と社会との関係性のなかで行われていることに気づく。

4
 講師主導型のn対nの共感ワーク
 「幸せの瞬間」
−「みんな違ってみんないい」を実感
55
幸福追求に関する価値観の違いを越えて共感できることに気づく。幸福に関する自己の準拠枠組の変容に気づく。両面価値を受容できるようになる。

5
 個人文章表現による振り返り
 文章表現2-A回収
5
1-5と同じ
3
1
 2−Aの読み上げ・応答
20
2-1と同じ

2
 偶発的交流
 −買い物の楽しみと罪悪感
20
席上で表明された学習者の関心に応え、「稼いでいない妻」としての知恵を交流する。

3
 学習者個人による絵画表現と1対nの口頭発表
 絵画表現ワーク「子育ての楽しみ」
20
子育てにおいて楽しかった一コマを絵で表現することにより、自己がもっている子育てのイメージに気づく。

4
 学習者個人による文章表現ワーク
20
自分の描いた絵を文章で説明することにより、自己の子育てイメージを言語化する。

5
 学習者個人からの1対nの口頭表現
 WS口頭説明「子育ての楽しみ」
 文章表現3-@回収
35
自己の描いた絵を他者に口頭で説明しあうことにより、たがいの自己表現を支えあう風土の重要性に気づく。

6
 個人文章表現による振り返り
 文章表現3-A回収
5
1-5と同じ
4
1
 3−Aの読み上げ・応答
20
2-1と同じ

2
 導入(講師による一方向の講義)
 自己表現による気づきの意義
20
なやみを話すことが、自分が本当に問題にしていることの気づきにつながることを理解する。

3
 個人による文章表現ワーク
 カード記入「子育てのなやみ」
10
なやみを言語化することにより、自分の子育てを客観的に表現する。対自の気づきを深める。

4
 カード式発想法「子育てのなやみ」
 学習者間n対nの交流
 発想法成果4-@回収
45
他者の1枚1枚の「子育てのなやみ」のカードをよく吟味しあう。交流による自他受容体験をもつ。

5
 個人文章表現による振り返り
 文章表現4-A回収
5
1-5と同じ
5
1
 4−Aの読み上げ・応答
20
2-1と同じ

2
 カード式発想法「子育てのなやみ」
 学習者間n対nの交流
 発想法成果5-@回収
155
ワークのなかで気づいた自己の「子育てのなやみ」を随時追加することによって、交流を深める。

3
 個人文章表現による振り返り
 文章表現5-A回収
5
1-5と同じ
6
1
 5−Aの読み上げ・応答
20
2-1と同じ

2
 カード式発想法「期待と実像」
 講師対学習者集団の1対nの交流
 発想法成果6-@回収
95
4-4と5-2で得た気づきを、子どもや夫の実像から整理しなおすことによって、個々の状況に応じた気づきを深める。

3
 個人文章表現による振り返り
 文章表現6-A回収
5
1-5と同じ


2.2.3 支援内容による気づき過程の結果
(1) 社会的気づきの促進期
 第1回はテーマを「出会いのワークショップ=本当の私と本当のあなたが出会う方法」とし、次のねらいで実施した。@初めて出会う受講者同士が知り合い、安心して話し合える雰囲気をつくる。A受講者同士がたがいに関心を持ち合う。B他者との出会いについて、日常の出会いの問題点に気づき、望ましいあり方を考える。
 1-@では、「ワークショップって何?」、「受講による自分自身の変化が楽しみ」、「どんな技法を使うか」、「話したことは、どこまで秘密か」、「自分にも子どもにも自信と気持ちの安定をもちたい」、「子どもに自信をつけるためには、私自身が子どもにかまいすぎる。どうしたものか」などが出された。延べ数は知識1、技能1、態度4である。
 これに対して、講師は、受動的学習方法の打破、「真実」との臨床的出会い、自己受容による自己変容、態度変容、エンカウンターグループの「文化的孤島」としての意味、本人の意思表明の尊重、「自他への信頼」と生産的構え、「かまってもらうこと」としてのストロークのあり方などについて紹介した。項目としては「態度」だが、それに関する「知識」を答えたといえる。また、1-3のまとめとして、童謡詩人金子みすゞの詩から「みんな違ってみんないい」という言葉を紹介した。
 1-3で、講師は「態度」に関する「知識」を中心に回答した。しかし、第1回の終了時に記入した1-Aにはこれらに関する記述がない。
 1-4では、『第一印象ゲーム』21を行った。堅苦しい自己紹介の代わりに、自分は第一印象でどのように見られているか、他人に対する自分の第一印象はどのぐらい当たっているか、テストした。そのあと、それぞれの人が正解(自分の好み)を発表した。笑いの絶えないワークのなかで、「同感はしなくても、共感はできる」という体験をした。
 本ワークの終了後、講師は、「このゲームをしているときの気持ちのいい笑いの正体は何なのか」と発問し、各自の思考を促した。これは「信頼と共感」の心地よさについて気づいてもらおうとしたからである。
 1-5では表2.2-3の結果を得た。1-4のゲームについての感想が多かった。そこに表れた気づき過程を分析し、その結果を図1に示した。キーワードとして、即自では「楽しい・面白い」3件、即自−対他の連動では「緊張せず思いを言葉に出す」「気持ちが自然に出てくるよう」2件、対他では「今までと違った自分表現」「皆の話楽しみ」2件がカウントできる。対自は、「頭をからっぽにして自分を信じるようになりたい」の1件である。


社会的
B
C
D
E
A
B
C
E
客体
個別的
A
D
主体
図2.2-2 1-A分析結果


表2.2-3 各回振り返りの個人文章表現と講師の応答内容


個人振り返りの内容
講師の応答内容
1
A
ゲームが楽しかった。パッと見てすぐ考えるほうにいってしまう。「頭をからっぽにして自分を信じること」ができるようになりたい。遅参して申し訳ない。
個人の事情でかまわない。不在時のフォローもする。

B
ゲームは今までと違った自分を表現できる方法。おもしろかった。自分の思いを言葉に出すのは緊張して苦手だが、今回はあまりそれもなかった。
言葉の背後には思いがある。氷山モデルを説明。

C
楽しかった。皆の子育てに関する話を聞くのが楽しみ。
知恵の交流の意義。

D
自分の心のなかにある気持ちが自然に出てくるよう。素直な自分が表現できそう。
ピアコンセプトではない安心のポイント。

E
子どもの学年、性別など知りたい。現在及び過去に働いているか、いつからか、働いていないならその理由と働く予定を知りたい。
このような個人的リクエストを自由に出してほしい。
2
A
他者の幸せなときが家族のなかにあるのに対して、私の幸せは自分中心で、家庭の外にあるかなと思った。私は変わった人かなと感じつつ、楽しい時間を過ごした。
母親、妻、社会人としての自己の存在。個人としての自由時間の意義

B
他者の話にあれこれ考えているあいだに、次の方や先生の話になり、ときどきいい話を聞き逃してしまっているように思う。何にしてもそうだが、気になることがあるとそればかりが気になり、気持ちの切り替えがうまくいかない。
個人の事情で全体の学習にストップをかけることの意義(個人の受け止め方は他者にとっても関心がある)

C
幸せの瞬間は、ほんとにそうだねー、わかるわかるー、という感じでおもしろかった。そこからどんどん交わりが深くなっていけそうな気がした。
エンカウンターグループの意味(出会いと社交辞令との違い)

D
人それぞれ幸福感があると思った。強弱はあるけれど納得するものがほとんどだった。一つだけ、「それが私にはストレスになる」と思うものもあり、とてもおもしろかった。
自己受容トレーニングの意義(アンビバレンツの受容)

E
5人中4人の人に小学2年生の子どもがいるのでびっくりした。皆の幸せの瞬間の話には共感できることがあり、おもしろかった。
同じ立場からの同感と、異なる他者への共感の差異
3
A
子どもとともに何をするでもなく、同じ空間に身をゆだねているときがいい、に同感。「何か話さなければ」「何か伝えなければ」という空気の中からは何も伝わらないし、できあがってこない。互いに自由な空気のなかで本音がいえる関係づくりが大切。
沈黙の意味、居心地のよさ

B
幼稚園生活について同じ体験をしてきたので、その気持ちがわかった。ただ、私の場合、子どもを追いつめたり比較したりすることがとてもいけないことだと十分わかっているのに、子どもが小学校になってもまだ改まらない。そのたびにかわいそうなことをしているなと思ったり、現実に学校から持って帰るテストを見てきつく言ってみたり。自己反省もしたが、みなさんの話はおもしろかった。
「自己改造」のコツ=自己否定せずに、1週間に何回という具体的目標を立てる。
悪い叱り方ワースト3=引き合い叱り、ついで叱り、感情叱り

C
「子育ての楽しみ」のコーナーは、子育てのだいご味とでもいうべきものだと思う。みなさんそれぞれに子育て=生き様という感じがした。
大人自身が「自分を知る」ことの大切さ

D
子どもとのふれあいのなかで、大人が感じること、学ぶことが、数知れずある。子どもってなんてかわいい宝物なんだろう。いつもは子どもってイライラする存在のときも多い。家に帰ったらそういうことも忘れて、また、子どもを怒っていると思う。
反省のコツ=いつもの笑顔で反省する

E
絵、説明、文章、人それぞれだったが、共通するのは我が子への愛情だと思う。
共生社会=共存+共有
親と子にとっての生きやすさ
4
A
「子どもってなんてかわいい宝物なんだろう」(3-A-04)という感じ方を、私もついこのあいだまでしていた。とてもよくわかる。「あなたたちは、パパとママの大切な大切な宝物よ」とつねに伝えてきた。でも最近は、宝物ではなく、神様からの預かり物かなと思うようになり、ふとさびしく思ったり、せつなくなったりする。宝物=いつまでも変わらない存在。神様からの預かり物=少しずつ変化し、成長していく存在。子育ての悩みはどの方の話も共感できるものがあり、自分だけじゃないと思え、少し肩の荷が軽くなったような気がする。
アンビバレンツ(子どもの自立のうれしさとさびしさ)

B
先生の子育てについてくわしく聞かせてほしい。いま自分が一番気になっている子どものことが、少しだが外に出せてよかった。
自己開示、ジョハリの窓

C
子育てのなやみのコーナーは、盛り上がっておもしろかった。これを言いたい、これが聞きたいばっかりに、この講座に参加したという感じ。来週も引き続きこの話題をふくらませるということなので楽しみにしている。
公園デビューとの違い

D
私の意見としては、子どもはどっちにしろ親の背中を見て、親と同じようにしゃべって話して怒っているような感じがする。まず自分が楽しくすごして毎日きげんよくありたい。なかなかむずかしいけれど。
親の不機嫌は子どもへの暴力

E
「何がいいのかやってみなければわからない。生きやすい生き方をしよう」(4aでの講師の発言「人間万事塞翁が馬」)というところが一番印象に残った。
ポイントは「いやな気持ちが残るか」
5
A
出席するたびに、私だけではないんだと思え、心がほだされる気がする。他者といろいろな気持ちを共感できる心地よさを感じた。自分の話を外でできたことで、少し気持ちが軽くなった。
自己開示=開きたい心を開きたいところで開く

B
とても充実した時間だった。講座では思っていることをありのまま伝えられたと思うが、皆が話しやすい雰囲気で聞いてくれてよかった。同じような思いを皆がもっていることに安心した。
受容と許容との違い

C
本音の話を聞くことができて、とても興味深かった。また、私の話を耳を傾けて聞いてもらえたことで、気持ちがすーっとした。


D
やはり子どもの存在は大きいと思うし、今の生活のなかではとても大きな位置を占めていることは事実。将来主人と二人きりになるとき、どうやって自分のなかでそれを乗り越えられるかなと思うとこわい感じがする。
いつまでたっても親は親だが・・・

E
前回に続いて今回もワークのなかでいろいろな話があり、楽しかった。

6
A
子育ての悩みを文章にしたり、言葉でしゃべったりしていくうちに、私の悩みは子育てにではなく、自分自身のなかにあったと気づいた。今まで自分を神(家族にとって)と信じていたことがとてもおろかしく思える反面、私も普通の人なんだと思い切ることのできない自分がある。みんなと一緒とか、普通って、本当はどんなことなのか。目に見えたらどんなに楽か。とりあえず神ではなくても「強い人」(やさしさも悲しさもわかる人)になりたいと感じた。よき母、よき妻より、楽しく、自分らしく生きていける「わたし」になりたい。

B
今日はいろいろ考えているうちに、自分が本当に考えていることがかえってうまくまとまらなくなってきた。子育てとは自分の内面を今までと違った角度で考えることなのかとも思う。

C
子育ての悩みについて話をすることは、結局は自分の生き方について考えることなのだなとつくづく思った。少人数の講座だったので、それがかえって活発に発言できて親密さが増した。人の話を聞くのも、自分の話を聞いてもらえるのもとても有意義で、火曜日を楽しみにしていた。

D
自分にもこうありたいという像があり、子どもに対してもこうあってほしいという像があり、私はそのどこからわいたかわからない自分の勝手な像に常に突き動かされていたように思う。実像に少し近づいていくか、近づいてもらうかによってずいぶん考え方が変わるような気がした。

E
一方的に話を聞くだけではなく、ワークショップ形式で楽しかった。子育てのなかの私には有意義な時間だった。




(2) 気づきの深化・個別化期
 第2回はテーマを「共感のワークショップ=『みんな違ってみんないい』を実感」とし、次のねらいで実施した。@一受講者のリクエストに応え、受講者同士の就労の状況等を把握しあう。A他者に対する共感的理解の可能性を実感する。B異質の他者への共感的理解により、自己の枠組変容をもたらす学びの意義に気づく。
 2-1では、本講座での交流のあり方について主に態度の側面から述べた後、その象徴として、前回取り上げた金子みすゞ「みんなちがってみんないい」の詩全文を紹介した。
 2-2では、前回の1-Aの一個人のリクエストに応え、各人が自己の就労状況をまとめた。その結果は次のとおりである。
 仕事をしている者は「留守がちであることがストレス」、かといって「開業手伝いでは社会参加の実感が得られない」、していない者は「家族に迷惑をかけないように働きたい」、「自分の世界をもつという意味で働きたい」とした。「この子は私が育てた、ということに喜びを感じていた」などの自己開示は、次の2-3での交流のなかで行われた。
 2-3では口頭発表の後、n対nの交流が行われた。そこでは次のことが話し合われた。@結婚退職・出産退職の現状。A自分の居場所・自分の世界としての労働。B自分の時間がほしい。C子育てのなかのリフレッシュが必要だが、そのための一時保育などは世間から「ぜいたく」といわれる。そのとき、「もうなれた」「私の人生なのだから」と言えるうたれ強い人と、言えないうたれ弱い人がいる。
 2-4は、ブレーンストーミングの精神に基づき、各人の「幸せの瞬間」のカードをKJ法のやり方を応用してまとめる「カード式発想法」である。
 ブレーンストーミングの批判禁止、自由奔放、質より量、結合便乗のルールは、安心して「自分らしさ」を出すために有効と考えた。これを、理性よりもそのカードのもつ情念を大切にするKJ法に基づいて、グループ分けや表札作りを行ってみせた。KJ法は、自他の感情を的確に理解し、端的な言葉で表現するために有効と考えた。
 ワークでは、1枚1枚のカードを書いた本人によって読み上げてもらい、それをもとに会話を進め、受講者同士が共感できるようにした。そして、講師主導型で、受講者にもアイデアを出してもらいながらグルーピングと表札作りを行い、別表2の成果を得た。
 ワークで受講者は、最初は「飲食関係」など、理性が勝る分け方をしようとした。しかし、講師としては、1枚1枚のカードを書いた本人がその気持ちについて話すのをもっと聴こうとし、理解するよう促した。講師も、表札を決めるに当たって、最終的には書いた本人の気持ちに従った。結果としては、「ひとりでいるときの幸せ」(8件)が「家族といるときの幸せ」(8件)に匹敵している。
 2-5では表2.2-3の結果を得た。その分析結果を図2.2-4に示した。矢印は気づきの種別の前回からの変化を表している。
 
社会的
→C
→E
→B
↑D
→E
客体
個別的
→A
↓B
↓D
↓A
↓C
主体
図2.2-4 2-A分析結果



表2.2-5 「幸せの瞬間」の分類

2-4表札
2-4幸せの瞬間(カード)

抱きついてくれた
A子どもが「ママ、抱っこしてあげる」といって、ギュッと抱きしめてくれたとき
C子どもが「お母さん大好き」といって、首に抱きついてきたとき

子どものうれしい顔
E子どもがとてもうれしい顔をしたとき

家族に喜ばれた
C夕食のとき、私が作った料理を家族が「おいしい」といって食べてくれたとき

ほのぼのしている
Dまだ片言の子どもが、おもしろい言葉を発して、長女や主人と一緒になって大笑いしたとき

他愛ないおしゃべり
B(いつもの小言などではなく)家族で他愛ない話が楽しくできたとき
同じだなあ
B主人や友人と話をしていて、同じ考えをもっているなあと思えたとき
フフフン
A家族のなかで朝一番早く目がさめて行動し、「フフフン、私ってやったらできるじゃない」と思ったとき
見つけた
A素敵な食器を見つけたとき
はまってしまって
満足
D読書やマンガをときどき読むが、好きな本を読んで、とてもおもしろく読み終えた後の爽快感で幸せを感じるとき
知ること
E講座などを受けて、知識が増えるというよりは、自分の知らないことを知ったとき
一人でゆったり
A一人でさめていない紅茶を飲むとき
自分のことだけ
考えていてよい
C自分の服をあれこれ迷いながら買い物しているとき
自分ひとりの時間
B夜、みんなが寝静まったあと、コーヒーを飲んでいるとき
D朝、子どもを送り出し、一人で家のなかでコーヒーを飲みながら、誰にも邪魔されずに、新聞を読んだり、本を読んだりしているとき
E子どもが小さくて毎日毎日24時間子どもと過ごしていたときに、子どもを預けて自分ひとりの時間がもてたとき


 第3回はテーマを「子育ての楽しみ=ほかの親の楽しみに共感し、自分の楽しみとする」とし、次のねらいで実施した。@他の親の子育ての楽しみに共感することによって、新しい楽しみを見出す。A絵画表現をとおして、自己の子育てイメージを焦点化する。B文章表現をとおして、自己の子育てイメージを言語化する。
 3-1において、前回2-Aの「一つだけ、『それが私にはストレスになる』と思うものもあり、おもしろかった」をとりあげ、書いた本人に何のことか質問し、「自分のことだけ考えていてよい=自分の服をあれこれ迷いながら買い物しているとき」についてだという返答を得た。「主人の稼いだ金で買うことへの罪悪感」が理由という。
 これについて他の受講者のあいだに共感と違和感の両方が入り混じり、偶発的に話が盛り上がった。3-2において、即自−対夫としては「買い物でストレス解消して、きれいでいてあげるのが主人にとっても幸せ」、対自−対夫では「妻に我慢されて裏で不満に思われることよりも、妻から『ありがとう』といわれることのほうが夫もうれしいのではないか」という発言があり、合意された。
 3-3では、子育てにおいて楽しかったひとこまを各自、絵にして発表した。「絵が下手なので恥ずかしい」という人もいたが、講師も含めて全員が絵を発表した。落ち着いた受容的な雰囲気で交流を行った。
 3-4では、一人一人に発表した絵についての説明文を作ってもらった。その結果は表2.2-7のとおりである。
 この結果から、家庭内で家族がともにしているときの情景や、子どもとの双方向的な場面、子どもの表情などが文章表現されたことがわかる。
 3-6では表2.2-3の結果を得た。B「子どもを追いつめたり比較したりすることがとてもいけないことだと十分わかっているのに改まらない」、D「家に帰ったらそういうことも忘れて、また、子どもを怒っていると思う」の2件を重視する必要があろう。対自の重要な気づきであると同時に、解決の展望が見えない状態を表している。その分析結果を図2.2-6に示した。

社会的
↑A
→C
→E
→B
↑C
→D
→E
客体
個別的
→B
→D
→A
主体
図2.2-6 3-A分析結果



表2.2-7 子育ての楽しみ(自己の絵画表現の文章化)


3-@子育ての楽しみ(自己の絵画表現の文章化)

A
親子ともに忙しい時間のなかで、家族4人がそろってお茶(食事ではなく!)をしている時間。そのとき、季節の花は欠かせません。テレビを消して、マンガを置いて、私の手作りのおやつをわれ先にとほおばっている子どもたちの笑顔が大好き。主人は日曜日が休みではなく、私もばたばたと毎日を過ごしているので、4人で同じ時を共有することにすごく安らぎを感じる。ふだんとは違った会話も飛び出したりして、「へーえ、子どもたちも大変なんだ」と思ったり、主人や私の仕事の話を、子どもたちが「でも、こうなんじゃない?」とか「じゃあ、こうすれば」とか受け止めてくれたりすることに、子どもをほったらかしにしている分、子どもたちは成長してきてるんだなと、うれしさとせつなさを感じます。外からはいってくる風が心地よく、楽しさだけを残してくれるような気がする。

B
家族といえば、思い浮かぶのは、居間で過ごすみんなの姿です。家にいるときはみんながこの部屋で過ごします。食事をするときも、子どもが勉強するのも、テレビを見るのも、本を読むのも、手紙を書くのも、それぞれの部屋があるのに全部この居間ですませています。怒るのも、泣くのも、笑うのも、全部この部屋であったできごとのように思います。最近、中学生になった長女が自分の部屋で過ごす時間が多くなり、4人いた部屋が3人になりました。これも成長かなと思います。

C
子どもが私に対して心のうちをそのままに話してくれたとき、子どもの気持ちにふれられたような気がするときがあります。話しても大丈夫だと信頼してくれているのだと思い、ちゃんと聞こうと思います。

D
3年間送り迎えのある幼稚園に通っていました。お迎えであるため、園の中に入って、他の親や子どもが自然に目に入るし、つきあいもするようになります。そうするうちに、自分自身や子どもと他の人とを比較して、子どもや自分自身を追いつめていく自分に気がつき始めました。子どもに「なんでこれができんの?」とか「もっといろんな子と遊びや!」とかいう自分がありました。そのうち「何か、これ違うな」「楽しくないな」と自分でも気づき始め、長女の素直な気持ち、自分の率直な気持ちをいつわってきたんだなあと、つくづく思うようになり、長女に本当に申し訳ないと思うと同時に、それを気づかせてくれた長女や、3年間の幼稚園生活がしみじみとしたものになり、子どもっていいなあとも思いました。

E
旅行に行ったとき、鯉がたくさん泳いでいる池があった。子どもがエサを与えると、鯉がたくさん寄ってきて、彼はめちゃくちゃ喜んだ。次々に「エサを買って」と要求し、こんなに喜んだ姿を見るのは初めてではないかというぐらいうれしそうな顔をしていた。今から4、5年くらい前のできごとだったが、彼のうれしそうな顔は一生忘れないと思う。



(3) 客体的理解から主体的理解への移行期
 第4回はテーマを「子育てのなやみ=『なんだ、自分だけではないんだ』と気づく」とし、次のねらいで実施した。@「なやみを表現することによって自分に気づくこと」に気づく。A文章表現をとおして、自己の子育てのなやみを言語化する。Bカード式発想法をとおして、自他の一つ一つの表現を大切に受けとめる。
 4-1での講師との雑談のなかで、次のように受講者同士の自主的な交流が進められていることがわかった。講座終了後のセンターのロビーでのおしゃべり、フィットネスルームの利用、学外のダンス教室への参加。そこで、センターとしてもロビーでの活用や、講座終了後の自主的つながりにおけるセンター教官の支援など、積極的に応援する方針であることを説明した。
 4-2では、今回のテーマ「子育てのなやみ」に関して、書いたり、発表したりして自己表現することの意義を次のように説明した。
 先日の新聞の人生相談で、子どものいない女性から「世間の人から『お子さんは何人?』などと聞かれていつも傷ついている。夫も不妊症の検査などに協力してくれない」という訴えがあり、回答者のカウンセラーが、「世間の人はじつはそのことに関心をもって聞いているわけではない。自分だったら、そんなことは聞かないけれど。それより、あなたが本当に傷ついているのは、世間の人からの言葉ではなく、夫の非協力的な態度なのではないか」と答えていた。
 このように紹介したうえで、講師は、「自分の悩みを言葉に表現するということは、今自分が本当に悩んでいることは何なのかを気づくことにもつながるのではないか。それに気づけば、問題解決にもつながるのではないか」と説明した。
 4-4では、自主的な交流による学習集団内の支持的風土に基づき、n対nのワークショップを行い、講師主導型で表札をつけた。図解作成は次回に継続することとした。
 4-5では、表2.2-11の結果を得た。その分析結果を図2.2-8に示した。なお、Aについては今回のみ「社会的」「個別的」の両方に分別した。


社会的
→A
→C
→E
↑A
客体
個別的
↓A
→B
→D
↓B
↓C
↓D
↓E
主体
図2.2-8 4-A分析結果

社会的
→A
↑B
→C
→E
↑C
↑D
↑E
客体
個別的
→D
↓A
→B
→C
主体
図2.2-9 5-A分析結果

社会的
→C
→E

客体
個別的
↓A
↓B
→D
→A
→B
↓C
↓D
↓E
主体
図2.2-10 6-A分析結果

 第5回はテーマを「子育ての知恵=自分の本当の気持ちに気づき、相手を受け入れる」とし、次のねらいで実施した。@カード式発想法をとおして、子育ての知恵を出し合う。A他者への共感と受容をとおして、問題解決の方策を見出す。B他者の子育てに関するストーリーを知ることによって、自己のストーリーを修正する。
 5-1では、4-A個人振り返りに表れた個別化、多様化に基づき、「子どもをどうとらえているか。どうあってほしいか」について、より深く自己をとらえることの意義を説明した。そのため、論理療法のABC理論による「信念」のとらえ方を紹介し、自己開示により自らの「背後の思い」に気づくことの重要性を説明した。
 5-2では、受講者の了解を得て、全体で2時間半のワークを行なった。前回のものとあわせて、表2.2-12の成果を得た。
 5-2のワークにおいては、講師は「ぐうたらすることは、どうして悪いことなのか」、「不透明の時代にどう野心をもてというのか」、「無気力になることも本人の自己保存かも」などの問いかけと、「上手な質問のコツ」、「さわやかな自己主張の方法」など知識レベルの紹介を行った。
 5-3では、表2.2-3の結果を得た。その分析結果を図2.2-9に示した。
 第6回はテーマを「子育ての悩み=期待と実像」とし、次のねらいで実施した。@自分が理想とする「子ども像」「夫像」に気づく。A各人の家族環境の現実に応じた子どもや夫の実像に気づく。B家族への期待と実像のギャップを埋めるストーリーを各人なりに生み出す。
 4-4と5-2の成果(後述)を考慮し、予定されたテーマ「子育てが楽しい社会とは−子育て支援のあり方を社会に提案する」を「子育ての悩み=期待と実像」に変更して実施した。これは、そのまま前回のテーマ「子育ての知恵」につながり、また、「子育てが楽しい社会とは」にリアルな示唆を与えるものと考えたからである。
 6-1では、「あなたはあなた、私は私」という出会いの本質を示す「ゲシュタルトの祈り」(パールズ)を紹介し、6-2への導入とした。
 6-2では、新たな発言も取り入れながら、今までの一人一人の発言を、母親が期待していた「子ども像」と子どもの実像、母親が期待していた「夫(父親)像」と夫の実像、母親がなりたかった「自分(母親)像」と自分の実像に分類・整理した。今回は講師が学習者集団に対して問いかけながら進行し、表2.2-12の成果を得た。
 6-3では表2.2-3の結果を得た。その分析結果を図2.2-10に示した。



表2.2-11 子育ての悩み
表札
回-表現者-内容 ( )は口頭説明) →は他者の発言
これ以上どうしようもない
4-A子どもがテストの成績表をもらってきて、自分が吐きそうになった。(がんばっていたのに、それでもこんなひどい成績なんて)
→子どもに「それもあなたの人生」といいつつ、順位という現実が厳しい。
→頭ではわかっていても、心は「成績優秀でいてほしい」
4-A子どもに「自分の子どもを何様だと思っているの? 勝手に期待されても困る」と言われた。
→でも、子どもが努力すればできるものをしないのはいや。
4-D前は「いい子」だった子どもに、「生まれ変われるのなら、いい子だった時代に戻って、そのときからもっとチャランポランに生き直したい」と言われた。
子どもがまわりに気を使いすぎる
4-Bまだ7歳なのに、まわりの人たちにとても気を使うし、傷つきやすい。表面ではわからないけれど、心の中ではいろいろたまっていないか。
→うちの子も、7歳どころか幼稚園時代にそういうことがあった。「そんなこともあったね」といえる日が来るのでは。
これって不登校?
4-C子どもが学校に行き渋るときがあり、「不登校」の文字が頭に点滅し、不安になる。(母親失格と感じてしまう。保育所に通わせていたから?という罪悪感も)
子育てのあと、自分に何が残るの?
4-B子どもが生きがいというわけではないが、子どもが巣立ったあとの自分には何が残るのか。もっと自然でいいんだろうけど不安になるときも。
→ご主人とどう違うか?→「(将棋など)没頭するものがない」。
4-D子どもに「ぼくはしたいことがいっぱいあるから、死にたくない」と言われた。
心を開いてくれない
4-E学校でのことを聞いてもほとんどしゃべってくれないので、学校の様子がわからない。
ぐうたらしている
5-C中3の子が勉強しない。自分の将来に対して投げやりな態度なのが心配。無気力をどうにかしたい。(「まじめにコツコツ」がダサいと思っている。)(「これでもせいいっぱいがまんして授業を受けている、部活もやっている」というが、親にはただぐうたらしているようにしかみえない。)
ぐずぐずしている
5-Eいつもグズグズしていて、注意しても同じで、毎日が同じことの繰り返しでいやになることがある。(無力感)
期待してしまう
5-C自分がどうしても「優秀な子」を追い求めてしまうことが、子どもを追いつめているとわかっていながら、その価値観を捨てきれない。
→子どもが「コックになりたい」というがミーハー的に聞こえ、「心底なりたいの?」と疑問に思う。期待があった分、もったいないと感じる。
→「とりあえず」という子どもの口癖は正しいのではないか。
→でも野心は大切。
肩に力が入りすぎる
5-B子どものことをいちいち気にしたり、口出ししたりしてきたが、それに疲れを感じてきたし、子どもにとってもいけないことかなと思う。
→あまり子どもに聞くのもどうか。子どもへの手紙にしてみたらどうか。
規範を示す。でも待つ。
→最近の17歳の事件について、夫は「社会の規範が大切。親も規範を示すべき」といっている。私もそうかなと思う。
→子どもも親も血を流す子育てが必要だと思う。私も子をたたくが、たたいた親だって痛い。いっしょになって苦しんであげることが必要だと思う。
→心配していた子どもが、自分から「高校には行きたい」と言い出した。待ってあげることも必要だと思った。
よき母、よき妻としてがんばりすぎる
5-A吐くまでがんばってしまう自分がいやになる。(起きれなかった時期がある。「せねばならない」がいやになる。でも、家族はそんな自分を受け入れてくれた。ありがとう。ただ、外では出せない。受け止めてもらえないだろうから。一方、子どもにはさせてはいけない心配だったとも思う。)
5-A私はサービス満点のホテルマンのようだ。(手抜きできないし、手抜きをしたらしたでストレスになる。)
5-Aいいところを見せようとして、むきになって弁当づくりをしてしまう。(ありがた迷惑かも。夫にはかえって負担に感じられる。)
→それが原因でカリカリすると、夫としては「火の粉が飛んできた」と思ってしまう。
本当の自分の気持ちで生きていない
5-Dつねに「〜しなければならない」という思いで行動している自分がいやになるときがある。
親密も距離もどちらもほしい
5-B同年代の女性(とくに子どもの友達のお母さんたち)とうまくつきあえない。
→この講座やお稽古事でのつきあいに転換したらよい。
→子どもの友達のお母さんたちとのつきあいはどうしてもつきまとう。
あの子がどこかに行っちゃう
5-Cこれから役に立つであろうと思って私が選んだ塾を、子どもがほんとうに自分に必要なのかと言い出した。(ほかの塾に自分で聞きに行った。それを認めるべきか迷う。)
→子どもが小さい頃はいつも一緒だったのだが、小学校後半から子どもが自分で友達を選ぶようになったことに不快を感じてしまう。
5-E今は子どもが私を必要としているけれど、将来私の手から離れると思うととてもさびしい。
外側はあるけれど中身は何もない
5-A自分は運動会のダルマだと感じるときがある。(強そうだけど中身が空っぽ)
→子どもが私の身長を抜いたとき、「もうお母さんなんか恐くないよ」と言われた。
→ところで男親はなんで平気なんだろう?
私だけのものではないんだ
5-A子どもは私の宝物ではなく、神様からの預かり物だと気づいた。子どもは成長していっている。(社会に出るまで預かっているだけ。)
→でも、子離れできない・・・。
夫が聞いてくれない
5-B子どものことで父親に相談しても、話を聞いてくれない。(とるにたらないつまらないことだと思われてしまう。)
→夫のことはわかる。子どもも私には言ってくれる。でも、私は自分の気持ちを発信していない。
やさしいから頼ってしまう
5-D子どもや主人に依存している自分がいやになるときがある。(自分で解決していないという感じ。)
→「ありがとう」といって甘えてもよいのではないか。
→夫の手のひらの上にいる感じがする。私の勝手にさせてよと思うときがある。
うちの経済、先行き不安
5-C子どもが3人もいて、将来までうちの経済、続くかしら。(コツコツ貯めていくタイプではないし)

表2.2-12 「子育ての悩み=期待と実像」(表札のみ掲載)
期待
実像
母親が期待していた「子ども像」と子どもの実像
成績は今よりいい
自分の子どもを何様だと思っているの?
そのままの自分をそのままに受け止めてほしい。
自分で考える
期待してしまう


でもこどもの可能性を信じたい

「お母さん、私はトマト(相田みつを「トマトとメロン」より)なのよ」
努力できる範囲では努力する子
ぐうたらしている
どこまで努力すればいいの?
でも、がり勉ではない。
いい子でいるのはつらい
おおらかに自己主張できる子

学校を元気に楽しむ子
したいことならいっぱいある
迷惑をかけない子
よそのどこの人が迷惑だといったの?
いろんなことを母親にしゃべってくれる子
自分から言い出したことについては、きちんと聞いてくれるとうれしい
いつまでたっても家族と喜んで外出してくれる子
親といっしょを見られるのはいや
母親の弁当に期待してくれる子
学食で食べたい
母親が期待していた「夫(父親)像」と夫の実像
親身になって相談にのってくれる夫
自分(夫)の意見を妻に尊重してほしい
やりすごしてきた→「器が大きい」という声あり→それでは娘のモデルになれない
子ども心も大人心も親心も兼ね備えた夫
ぜいたくはいえない
母親がなりたかった「自分(母親)像」と自分の実像
子どもを理想的に育てる私
家族を包み込むような私
よき母、よき妻としてがんばりすぎる
子どもをどんどん改善させていく母親
無力感を感じる
おおらかにものごとを見て、ポイントをおさえた母親
ささいなことも気になり口出しする
肩に力が入りすぎる
マリア様から家族を支えあう一人への転換
一方的にサービスする私に酔う私
子どものために親同士のおつきあいを上手にこなす母親
親密も距離もどちらもほしい
「規範」を示すことのできる私
「せねばならぬこと」をきちんとできる母親
「本当の自分の気持ち」で生きていない
子どもの自立を育む母親
「あの子がどこかに行っちゃう」
夫に頼らず自己解決できる私

自分から発信できる母親
私は受信だけの人
子どもの巣立ち後も自分らしく
幸せに生きる自分

うちの経済、先行き不安

子育てのあと、自分に何が残るの?

外側はあるけれど中身は何もない・・・私は運動会のダルマ

「私、ここにいてもいいの?」
自分自身が一人で生きていく意味はない?



2.2.4 討論―気づきの支援方法とその効果
(1) 講師対学習者の講義型対話の効果
 1-Aの結果から、講師からの「知識」中心の話は対他体験と比べて、印象が薄かったと推察される。
 冬第4回のカード式発想法「子育てのなやみ」では、講師が自らの抱える子育ての悩みから始めたところ、受講者から「悩みはなかなか次々出てくるものではないですが、先生がはじめに口火を切ってくださったので、話しやすかったです」という文章表現を得ている。講師対学習者の1対nの交流においても、知識中心より体験談中心のほうが、安心感や親密感のためには有効だと考えられる。
 ただ、「先生から知識的なことを言っていただいたおかげで、紹介していただいた本を読んでみようかな、とかなりましたし、私にはすごくよかった」という回答も得た(面-2)。講座で話された知識がそのまま気づきにつながるというよりも、知識獲得の動機付けとして有効であったといえる。
 2回目からは、最初に、前回の終わりのワーク「個人文章表現による振り返り」の成果を読み上げ、講師からの応答を行った。読み上げのねらいは、「異なる他者の存在に気づく」、「他者固有の関心が自己の関心にもつながることに気づく」である。応答については各回の「講師の応答内容」に掲げたとおり、本講座の進め方等に関する説明、関連する知識の提供、疑問の投げかけの3つが行われた。
 これらがどの程度、気づきの効果を表したかは確かめられなかったが、面-2では、「もう一度先週のことを振り返ることはよかった。そうだ、先週はこんなこと考えていたんだな、とか」という回答を得ている。前回のワークと当日のワークの仲介として有機的に連携できたかどうかが要点であるといえよう。
 その場合、「個人が自己管理のもと、どんなことでも自由に書く」という条件の功罪が問題になろう。この条件により学習者は次の感覚を得ることができると考える。第1には、どんな方向に進むかが予測できない「ライブ感覚」である。第2には、学習者の文章表現が講座で取り上げる題材、内容、方法に影響を与えているという「参与感覚」である。しかし、これらが当日のワークと有機的につながるためには、各回のカリキュラムの妥当性と当日の進行の柔軟性が必要になる。
(2) 講師指示型の個人表現ワークの効果
 本講座では、講師の指定したテーマと方法による個人表現ワークが繰り返し行われた。
 1-2「心配なこと・聞いておきたいこと」で多くの学習者が、受講による自己の態度変容への期待と関心を示した。本講座の受講者の参加動機は、知識修得や技能向上よりも、態度変容に重きが置かれていたといえる。
 この場合、次の2点の配慮が子育て支援に当たって重要と考えられる。第1は、学習者が現在までの子育ての態度を自己否定するのではなく、むしろ自己受容することによって態度変容に結びつけるよう配慮することである。第2は、学習者の今までの「生きにくい」ストーリーに代わる新しいストーリーを「与える」のではなく、支援者が学習者の今のストーリーを明らかにしながら進行することによって、学習者自らがストーリーを必要に応じて修正するよう配慮することである。態度変容に対する有効な支援のためには、この受容性と主体性の点検が必要といえよう。
 2-2文章表現ワーク「子育て中の母親にとっての就労・社会参加」では、仕事をしている人もしていない人も、「社会参加をしているという実感をもちたい」、「自分の世界をもちたい」という仕事への即自的欲求と、「子どもや家族に迷惑をかけたくない」という対他(家族)の配慮とのジレンマを表現している。「この子は私が育てた、ということに喜びを感じていた」という対自の気づきとその開示や、結婚や出産で女が退職する社会的現状への気づきは、次の2-3での交流を通じて行われた。
 このことは次のようにとらえられる。交流を経る前の個人文章表現では、即自と対他(家族)が矛盾する自己の現状を再確認する段階にとどまった。次に、口頭表現と交流をとおして、学習仲間が同じ問題を抱え、同様の感じ方をしているということに気づき、励まされることによって、次の段階へと思考を発展させることができた。すなわち、最初の個人文章表現ワークは「自分が『思っている』と前から思っていること」を表現したにすぎなかったが、対他の気づきを経て、対自(自己の気負い)や対社会(女性の社会的現状)の気づきに発展したといえる。
 3-3の絵画表現「子育ての楽しみ」と口頭発表を経た3-4の文章表現では、普段は言語化することの少ない個々人の「家族イメージ」が文章表現された。これは上に述べた口頭表現と交流の効果とともに、絵画表現のもつ特殊な効果により、個々のイメージに焦点が当てられたからだと思われる。
  池見陽は「フォーカシング」という心理療法について次のように述べている22。「自分の内側に感じられる『心の実感』に触れ続け、それが開かれるとき、アタマの知識を超える知恵が現れてくる。心理療法では、このようなプロセス、つまり実感からの発見や気づきがあるからこそ、成長や創造的な問題解決が可能なのである」。
 ここで『心の実感』は「フェルト・センス」と呼ばれる。池見は、絵画を用いての集団でのフォーカシングに触れ、個人的変化を促進する「心の構え」として、「具体性」「間」「優しさ」の3つを挙げている。
 3-3→3-4の結果からは、家族・子育てイメージの絵画化、文章化という面では「具体性」、1対nの口頭説明による相互受容という面では「優しさ」の両者について、一定の効果をあげたといえよう。相互受容については、3-Aでは、全員が受容に関連することを書いている。これらは、絵画表現によって、イメージや実感を伴った共感→受容という対他の気づきが行われたことを示している。
 しかし、一方で、B「(共感したにもかかわらず)子どもを追いつめたり比較したりすることがとてもいけないことだと十分わかっているのに改まらない」、D「家に帰ったらそういうことも忘れて、また、子どもを怒っていると思う」の2件は、上述の気づきが対自の気づきを深めることとともに、それだけでは主体的な問題解決の展望にまでは至らないことを表している。
 これは、第1には、「同感」や「共通している」という対他の気づきが対自の気づきを促したが、それがふたたび「異なる他者の内面」という対他の気づきに還流しなかったからだと考えられる。態度変容にまで至るためには、即自・対自・対他の気づきの往復が必要といえよう。
 4-Aでは、3-A-Dについて「私もついこのあいだまでしていた。とてもよくわかる」としながらも、「でも最近は、宝物ではなく、神様からの預かり物かなと思うようになり、ふとさびしく思ったり、せつなくなったりする」と述べている。これらの学習仲間同士の実感の「差異」がスムーズに交流されるよう留意する必要があった。
 第2には、自己否定から自己受容への態度変容が伴わなかったからだと考えられる。
 池見は「間をおく」ことについて次のように説明している。「気になる事柄や状況が浮かんできたら、それに伴っている実感に触れ、その実感のもつ『質』をクレヨンで画用紙に描いてみるのである。何色のモヤモヤ? どんな形で表現するとピッタリ? 参加者は時間をかけて、丁寧に、内面に感じられる気がかりの実感を絵に表現し始めた」。その絵を楽になれる場所に置くことが、「間を置く」である。気がかりな状況や事柄から「間をおく」のではなく、それらの事柄に伴う「実感」から「間をおく」ことが重要である。そのことにより、「自分で自分を肯定できるようになる」という。
 本講座のワークでは、絵画表現とその交流によって一定程度、実感レベルの気づきに至ることはできたが、次にその自らの実感とは間をおいて自己洞察を深めることができなかったため、より深い受容にまで至ることが難しかったといえる。
 「子育ての楽しみ」の文章表現に表れた「子育ての気がかり」を拾い上げて学習集団にフィードバックし、そこで自己の否定的側面を他者から受容される体験を経て、さらには個人がワークに追いまわされずに自己の実感を「間をおいて」振り返る対自の時間を設定することが必要だったと考える。このような個々人の気づきの諸側面に合わせた支援が、受容をより深いものにすると考えられる。
(3) 学習者間の相互関与を主眼とするワークショップの効果
@ 出会いワークの効果
 1-4「第一印象ゲーム」のキーワード分析の結果からは、安心感と期待感はほぼ得ることができたといえよう。しかし、本ワークのもう一方のねらいであった他者に共感する自己や、自己とは異なる他者の存在への自覚的な気づきにはあまり触れられていない。このことから、「自己紹介(見知らぬ他者との交流)は緊張するもの」という固定概念については容易に揺さぶり機能を発揮することができたが、気づきとしては即自にとどまることが多く、対他の気づきも即自的な安心や期待に類するものであったといえる。
 しかし、「頭をからっぽに」という対自の気づきに関しては、個人差の表れと見ることができる。これをWSのなかで学習者集団にフィードバックして検討する機会を与えることによって、各人の気づきをもっと深めることができたと考えられる。
A 話し合い学習の効果
 2-3「子育て中の母親にとっての就労・社会参加」では、2-2において文章表現されたジレンマが、各人の自己開示をとおして明らかになった。この即自と対他との矛盾は、メンバーの価値観の相違を越えて共通することが確認された。しかし、「母親が働くことによる家族の幸福保証」という社会参加のもつ対他の積極的側面については、経済的理由以上のものには深まらなかった。
  社会参加が即自に与えるよい影響を確認することはできたが、自己の子育てを、自己と社会との関係性のなかで行われているものとしてとらえるまでには至らなかったといえる。そのため、問題が、「うたれ強い」「うたれ弱い」という個人差に解消されてしまった。これは、ジレンマの共通性が強調されすぎて、主体ごとの異質性を追求する観点が甘くなってしまったからだとも考えられる。
B 共感ワークの効果
 2-4「幸せの瞬間」の結果を、前掲表1に示したねらいと対照させて考察すると、次のことが指摘できる。
(ア) 他者の異なる価値観への共感可能性の気づき
 一般的には、価値観が同じものに対してのみ共感できるという思い込みが強い。これに対して、本ワークによって、「幸せ」という異なる価値観に基づくテーマでも共感しあうことができたといえる。これまでのワークをとおして受容的雰囲気が形成されつつあったことも、その要因の一つとして指摘できる。
(イ) 幸福に関する自己の準拠枠組の変容の気づき
 思考や認識の自己の枠組の変容のないままの学習は、学習とはいえない。本ワークでとりあげた「幸福感」は不確かなことがらではあるが、ワークをとおして「きのうまでの自分の幸せの枠組が、少しではあるが、確かに形を変え、拡大した」という実感をもつことをねらいとした。
 しかし、ワークがそういう効果をもつためには、「他者の話にあれこれ考えているあいだに、次の方や先生の話になる」(2-A)というケースへの対応が必要であった。個人ごとの関心やペースに基づいて自己の変容を振り返り、気づきを深めることのできる対自の個人ワークを、意図的、計画的に組み込むことが必要と考える。
(ウ) アンビバレンツ(両面価値)の受容
 「家族といるとき」に幸せと感じるべきで、「一人でいるとき」に幸せと感じる自分は問題がある、というような偏狭な二項対立は本人自身も苦しめることになる。ワークでは、他者の「幸せの瞬間」に共感するによって、アンビバレンツな自己の価値観にも気づき、さらにはこれを受容するよう促そうとした。
 結果としては、対家族(家族といるとき)と即自(一人でいるとき)とが両立する成果が導き出され、そのねらいを一通りは達成することができたといえる。これは、「ほかの人も同じなのだ」という対他における「共通性」への気づきによって、一定の自己受容の効果があり、その成果を増幅したと考えられる。
 しかし、ここで、「一つだけ、『それが私にはストレスになる』と思うものもあり、おもしろかった」という表現に注目する必要がある。このような対他における「差異性」の気づきは、自他のアンビバレンツの受容の重要な契機になると考えられる。
 ブレーンストーミングの「批判禁止」のルールに基づくとすれば、「結合便乗」の提案をするということになるだろう。だが、対他をとおした対自の気づきの深まりのためには、そのルールを越えて「語り込み」が行われるよう配慮する必要があるといえる。「他者の話にあれこれ考えているあいだに」の問題についても、ワークの個別化とともに、差異性を積極的に浮き彫りにすることが有効であると考えられる。とくに成人学習の場合、ルールの遵守や時間進行への協力の意識が強いと思われるので、注意が必要といえる。
C 「子育てのなやみ」を話し合うカード式発想法の効果
 4-4「子育てのなやみ」では、4-Aの結果から、今回の学習内容・方法および自主的交流の両面の理由から共同性が高まっているにも関わらず、本人自身が重要な気づきとしてとらえるものは、個別化、多様化している傾向が指摘できる。その諸側面の要素としては、即自(「おもしろい」)、自己開示(「外に出せた」)、自己反省(「まず自分が」)、相手の成長と自分(「神様からの預かり物」)、生き方のコツ(「やってみなければわからない」)等が指摘できる。これらは、気づきの段階の差異だけでなく、方向も拡散していることを表している。これらの差異を、安易に共通性に依拠することなく、どう組織化するかという検討が求められる。
 「『なんだ、自分だけではないんだ』と気づく」というねらいは、Aの「子育ての悩みはどの方の話も共感できるものがあり、自分だけじゃないと思え、少し肩の荷が軽くなったような気がする」という言葉どおり、容易に達成できる気づきであった。計画的な気づき支援においては、むしろ上の差異性に注目し、これを明確化して、その上での「自他受容」をねらいとすることが求められると考えられる。
 5-2「子育てのなやみ」では、5-@の成果から、4-4と比較して気づきが深化していることが読み取れる。これは、5-2においては随時、文章や口頭でのカードを追加することにより、他者との受容や相互関与が深まったからだと考えられる。深化の特徴としては、第1には対子どもをとおして対自の気づきに戻っていること、第2には子どもだけではなく、夫を含めた家族全体の関係性に目が向き始めたことが指摘できる。
 しかし、5-Aの結果からは、4-5のときのような個別化、多様化が、再び減じていることがわかる。「自分の悩みを話せたし、聴いてももらえた」という自他受容の効果が顕著といえよう。しかし、Dの「やはり子どもの存在は大きい。将来主人と二人きりになるとき、自分のなかでそれを乗り越えられるかと思うとこわい」という不安は解決していない。また、他の人の「少し気持ちが軽くなった」、「同じような思いを皆がもっていることに安心」、「耳を傾けて聞いてもらえたことで、気持ちがすーっとした」などの表現も考え合わせると、次の傾向が推察される。第1には、「皆も同じ」というピアコンセプトの同質化傾向であり、第2には、日頃は言えなかった悩みを互いに語り合えたことによる一時的なカタルシスとしての傾向である。
 このことから、一定の受容効果は確かめられたと考えてよいだろうが、5-2における気づき支援の課題として次の点が挙げられる。第1に、共通性に偏りがちなときに、4-5について考察したような差異性にいかに引き戻したうえで受容を促すかということである。第2に、悩みの解決の具体的展望を各個人が獲得するために必要な対自の気づきをいかに促すかということである。
D 「期待と実像」のギャップに気づくカード式発想法の効果
 6-2「期待と実像」では、6-A(本講座の最終到達段階)の結果から、次のような成果が指摘できる。第1に、無自覚な即自のみの表明はなくなった。第2に、子育てが自分自身の問題であるという対自の気づきを深めた。
 さらには、「自分にもこうありたいという像があり、子どもに対してもこうあってほしいという像があり、私はそのどこからわいたかわからない自分の勝手な像に常に突き動かされていた」、その気づきの上で、「実像に少し近づいていくか、近づいてもらうかによってずいぶん考え方が変わる」とした文章表現も見られた。これは、主観的には現状で両立しているはずの親の即自と対子どもが、客観的・社会的には引き裂かれがちな現代社会において、あるがままの事実を受け入れる深い受容をとおして引き裂かれずに親子関係をともに育むために欠かせない主体的な気づきといえる。
 このワークでは、講師が意図的に問いかけを行いながら、学習者にカードを追加記入してもらい、講師主導で整理の合意を形成しようとした。この積極的介入の意図は「期待と実像のギャップに気づく」ということであった。
 そのため、「私も普通の人なんだと思い切ることのできない自分がある」や「自分が本当に考えていることがかえってうまくまとまらなくなってきた」などの「消化不良」も表明されたといえる。
 これに対して、冬の講座では「個々の悩みの解決までなかなかまとめきれなかったですが、大きな悩みに対する解決方法がみえたように思います。まとめきれなかったのでまとめてきていいですか」という文章表現があったため、講師はこれを支持し、次回には、数人の有志でまとめてきた成果を、当該発言者が中心になって説明した。講師主導型に対する学習者参画型であり、講師は主に評価機能(受容)を発揮した。
 その成果をすべて紹介する紙面はないが、「ありのままの自分を受け入れる」、「安心して本音を話せる人や場がある」、「何でも許せる親子関係を作る」、「人間なのだから両面価値を持って当然」、「理想を追い求めすぎない」、「その土地のマイナス面を見がちだが、プラスの面を見るようにする」などの解決方法がまとめられている。その特徴としては、第1に受容の精神に貫かれていること、第2に即自と対他・対家族の関係の楽観視、第3に実際的な展望が示されていることが指摘できる。
 冬の講座では当初からメンバー間の自己開示が進んだ。そのため、「今まで目を背けたがっていた自分に気がついた。いっしょに考えられる仲間がいたからこそ、勇気を出して悩みと向き合えたのだと思う。また泣いてしまった。あまり人に話さず、飲み込みつづけてきたものが、ここに出ているのか」という文章表現を得ている(第5回)。
 このような冬の講座の成果は、講師が当初から形成され始めたメンバー間の支持的風土を考慮して、学習者に対する受容機能や、学習者間の相互受容支援機能を中心に発揮したことが主な要因と考えられる。
 春の講座6-2における「消化不良」の表明は、これと対照的である。そこでは、講師主導型で期待と実像のギャップをあからさまにされた。そのため、「わからないことに気づかされてしまった」といえる。しかし、同時に、その「消化不良」の前者の表明者は「みんなと一緒とか、普通って、本当はどんなことなのか」、後者は「子育てとは自分の内面を今までとは違った角度で考えることなのかとも思う」としている。これは、対他、対自の気づきの深まりとしてとらえられる。
(4) 偶発的交流の効果に関する考察
 3-2偶発的交流「買い物の楽しみと罪悪感」は、講師も何のことかはわからなかった「ストレス」をテーマに展開した。そのため、知恵の交流があることは予想できても、初めから気づきのねらいなどがあったわけではないが、少なくとも夫という他者への気づきに関しては、即自や対自の気づきと循環しながら統合的に進められた。
 しかし、家族以外の社会のなかでの「稼いでいない妻」としての自己の位置づけにまで気づきが広がることはなかった。家事・育児の経済的価値の算出の動向等については情報提供はしたが、そのような知識だけでは、ここで取り上げた「ストレス」の訴えには応えられなかったと考えられる。
 冬のパソコン講座では、電子メールや電子掲示板システムを利用した交流であったため、その偶発性の要素が特段に強まった。文字入力の不慣れにより発信回数が少ないなか、「一人っ子ではかわいそう」と周りの人にいわれるという母親の悩みに関するレスポンスが第1回から4回まで大きな比重を占めた。また、最終回の文章表現でも、「素晴らしいパソコンの世界を垣間見ることができ」、「生まれて初めてこの様なパソコンに接する機会がもてて」、「毎週大学生になった様でとても嬉しかった」、「パソコンを買ったあと、すぐにメールが使えるようになれるといいな」、「パソコンを使っていろんな方と交流ができれば素晴らしい」、「最後までパソコンに振り回されていた」、「まだメール友達も少なく、メールの全く来ない日もあり寂しいかぎり」と7人全員がパソコン操作を中心とした記述を行っている。
 偶発的交流を進める場合、先に述べた「個人文章表現による振り返り」の成果の読み上げ・応答以上に、講師の機能が問われる。そこでは、「ライブ感覚」や「参与感覚」を損なわずに意図的な機能を発揮することが必要になるといえる。
 





2
3
4
5
6


2
3
4
5
6
A
社会的






客体






















個別的






主体






B
社会的






客体






















個別的






主体






C
社会的






客体






















個別的






主体






D
社会的






客体






















個別的






主体






E
社会的






客体






















個別的






主体






図2.2-13 各人の各回振り返りの文章表現に表れた気づき過程(数字は回)


(5)
気づき過程の往復とその支援
 各回の個人振り返りの文章表現の分析結果を集約して検討し、その結果を図2.2-13に示した。社会的/個別的については個人によっては固定化傾向を破れないケースが見出された。しかし、客体としての気づきと主体としての気づきについては、往復しながら主体としての気づきを深めていく過程が明らかになった。
 さらに、気づき支援の分析をとおして、次の「往復」の効果が認められたと考える。
 第1に、気づきの過程において、「悩んでいるのは私だけではない」、「皆が同じ思いをもっている」という社会的な気づきが、個人の安心や集団による共同解決につながっていった。反面、「結局は自分の生き方について考えること」、「みんなと一緒とか、普通って、どんなことなのか」という個別的な気づきが、社会的な気づきと往復して深まっていった。
 第2に、気づきの過程において、講師や他の学習者から影響を受ける客体としての気づきと、影響を与えている主体としての気づきが往復していた。講師からの知識提供では、紹介された本を読もうと思ったり、学習者間の相互関与では、「私の話を皆が聞いてくれた」、「相手が話してくれた」ということから自己内対話を深めたりする過程が見られた。
 第3に、気づき支援において、講師によって意図的に構成された学習機会のなかで、学習者主体の偶発的な交流が行われた。そして、その成果に基づいて、次の学習機会がより意図的、効果的に構成された。
 第4に、気づき支援において、講義やワークショップ等をとおして子育ての知識・態度に関する概念の提供が行われるとともに、他者の異なる受け止め方を紹介することによって、その概念の「打破」が試みられた。そのために、「自分のためのショッピング」という合意に対して、翌週には「それが私にはストレスになる」という発言を取り上げるなどの指導行為が行われた。
 これを図2.2-14に示した。上下は学習者の気づきの諸側面、左右は支援の諸側面を表している。
 
 
 
 社会的気づき
 客体として
 
意図的支援
 
 
偶発的支援
概念の提供
 
 
概念の打破
 
 個別的気づき
 主体として
 
 図2.2-14 気づき過程とその支援の往復
 
 
 この研究をとおして、安心感と緊張感、他者への気づきと自己への気づき、学習集団内の共通性と一人一人の個別性、個人の悩みの共同解決と自己解決等の往復が見られた。これらのペアを二項対立的にとらえるならば、どの気づきにはどの支援が効果的かという発想がなされよう。しかし、実際には、本研究では、現実の気づき過程は上下を往復しながら深まることが明らかになった。これに伴って、効果的な支援方策のためには、個人や集団の気づき過程を把握して、必要に応じて左右の二項を往復させ、気づき過程と交差させることが適切と考えたい。
 
2.2.5 結論
 親が、子育てに関する自他の差異や、世間でいわれる「理想の子育て」と自己の子育てとのギャップに気づいて自己否定に陥った場合、対自、対他の気づきを経るよりも、直接的に問題解決の答やストーリーを求めようとすると考えられる。
 これに対して、本講座で行われたような「他の親との相互受容のなかでの悩みの交流」は、他者や自己への気づきを循環、深化させ、その過程のなかから自らの答を見出すための一定の効果をもつことが明らかになったといえよう。
 学習集団に受容的雰囲気が形成され、互いに安心して自己開示を交換することによって、対自・対他の気づきが促されるという仮説は、部分的には検証された。また、講師がいくつかのワークショップの手法を活用することにより、同じ悩みを抱えた学習者のなかでは、受容的雰囲気は比較的容易に形成されることがわかった。しかし、同時に、「わかる」とか「同じ」などの受容をしあうことによって、逆に対自や対家族、対社会への気づきを阻害してしまう傾向を見出した。
 「自分なりの答を見つけた」と実感するためには、他者の子育てとの差異に関する個人の気づきを明確化し、学習集団のなかで組織化することによって、学習者の自他受容をより深いものにすることが重要であると考える。
 
 

2.1
2.3 大学生の子育て・出産観の形成の方法
 少子社会において、社会は若者が「家族を形成し、子どもを生み育てる」ための意欲と能力をもつことを期待する。これは社会の側からの青少年の社会化への要請の一種ととらえることができる。
 一方、青少年の側からいえば、出産、子育ては、個人の自己決定に属することであり、「社会的要請」に応えるためにそれを決意するということはとうていあり得ない。
 そのため、少子化対策のための国家政策としては、物質的、経済的環境を整え、「子育ての社会化」23を推進しようとしている。これは、「出産・子育て」による負担を少しでも軽減して、出産に向けた自己決定を促そうとするものだといえる。
 本研究の視点からは、このような「子育ての社会化」を進めるとともに、より本質的には、青少年とそれを取り巻く親や市民が、「子育てのまちづくり」という一種の社会形成の支え手として求められる自己を形成することが重要であると考える。
 とくに、未来の親となる若者については、子育てを自己の人生の大切な一環として肯定的にとらえるという面での個人としての充実と、現実社会の中でそれをうまくやっていくための展望と能力をもつという面での社会の一員としての充実の、両側面での充実が重要と考える。
 この研究では、未来の母親となる女子学生に「若い女性のための出産自己決定マニュアル」を作成させてその効果を分析した。マニュアルの作成(ここでは構成)にあたって、クドバスの手法を用いて、学生が主体的に参画し、協働するよう配慮した。この授業の過程と結果を分析することにより、彼女たちの「子育て・出産観」形成に与えた効果を検討した24。

2.3.1 問題意識
(1) 子育て支援社会連携研究と女子学生の社会化支援
 この研究は、未来の母親としての女子学生に「出産自己決定マニュアル」の内容企画をとおして研究に参画させ、「出産・子育ての自己決定能力」を育む大学授業の方法と、その社会化効果を確かめようとしたものである。
(2) 「子を産む性」をもつ女子学生にとっての社会化課題
 青年期としての女子学生においては、その多くが、将来の出産をめぐって、それが自己決定の個人的行為であることと、社会的行為でもあることとが、内面では十分には統合できないまま引きずっていかなければならないという問題を抱えていると考える 。
 これは、「個人化と社会化の統合」 という課題としてとらえることができる。ここで、個人化とは「個人としての充実」を、社会化とは「社会の一員としての充実」としておきたい。女子学生は、出産、子育てに関して、この課題に直面することになる。
 この課題は、社会的必要からの押しつけだけでは、学生とのすれ違いの繰り返しになるばかりで解決しない。出産、子育てという「大事業」を間近に控える学生に対して、内面化としての社会化を図り、「個人化と社会化の統合」を促進することが必要である。
 ここに、女子教育の象徴的課題が表れていると考える。そして、そこでは、社会化作用が、「押しつけ」ではなく、望ましい自己決定能力の獲得、すなわち、社会化と統合的に行われる個人化の「支援」として行われるという点で、教育のあるべき方法を示すものといえる。

2.3.2 研究目的
 上に述べたような社会化状況にある女子学生が、「子を産む性をもつ者」としての望ましい社会化を達成するためには、どのような授業方法が効果的であるのか。
 この研究では、クドバスを活用した「出産自己決定マニュアル」作成をとおして、「子育てまちづくり研究」に参画させることによる効果を検証しようとした。
 研究ではクドバスの次の特徴に注目した。

[参画]=学習者が獲得したい能力を、学習者がリスト化することができる。これは、本研究でいえば、「女子学生自身が出産・子育てに必要と考える能力を、学生自身の手によってリスト化することができる」ということになる。これは「参画」の行為にほかならない。このような参画型学習による、学生の社会化に向けた気づきの効果を分析したい。
[協働]=学習者同士の協働によって作業を進めることができる。これは、本研究でいえば、「学生同士の協働や、教師との対等な対話によって、作業を進めることができる」ということになる。とくに、現代青年の日頃の交友関係とは異なる、学生同士の「研究仲間関係」のもつ効果を分析したい。
[主体]=実践現場からの必要性が尊重されるシステムであるため、学習者が指導者に対して主体的に関わることができる。これは、本研究でいえば、「子を産む性をもつ女子学生自身の希望や不安をていねいに汲み上げるため、学生が『教師から答を教わる』のではなく、『わがこと』として思考し、教師と対話することができる」ということになる。

 以上の理由から、本研究では、クドバスを活用して学生に「出産自己決定マニュアル」を作成させることにより、現代青年としての女子学生の社会化状況に適合し、なおかつ「子を産む性をもつ者」として必要な社会化を促進することができると考え、その効果を確かめようとした。
 本研究の仮説は以下の通りである。〔クドバスを活用して女子学生自身の社会化欲求に対応したワークショップ型授業を行なうことによって、「子を産む性をもつ者」として必要な社会化を効果的に促進することができる。〕

2.3.3 研究方法
 研究対象とした授業は、2006年度前期児童学科生涯学習指導者コースの専門科目「学習情報の提供と相談−とくに学生や青少年の社会参画支援のために」である。受講学生は7名であった。
 本授業の半期をとおしての進行は、大きくは、次の3つの順に行なった。

A 学習情報提供、学習相談の理解と教育的意義
B クドバス「学習相談能力」リスト図作成
C クドバス活用による「若い女性のための出産
  自己決定マニュアル」構成企画

 以下、それぞれA、B、Cと呼ぶ。
 研究方法は次の@、A、Bで行った。
@ クドバス成果の検討
 Cにおいて、学生全員にスキャン式の白板の前に出て来させ、そこで学生同士が話し合いながら作成した成果「出産自己決定に必要な能力」リスト図(図2.3-1)と、これをもとにした成果「マニュアル構成」(図2.3-2)を検討した。
 学生の記述内容の検討は次のように行なった。
A 学生の記述内容の検討
 毎回、その授業で気づいたこと、感想などを、学生にインターネットをとおして書き込ませ、そのなかで積極的に記述した4人について集約した結果(表1)について、各テーマの横断的な特徴や、同一学生のテーマによる変化を分析した。その際、各記述内容に表れた学生の気づきについて、下線を引いた象徴的な言葉から、対自己(対自)、対他者(対他)に分類した。文脈から、「自分はどうするか」という意味の記述が含まれている場合は、「能動」として検討した。
B 教師の指導内容の分析
 教師の指導内容の分析は次のように行なった。
 毎回、音声記録と映像記録を撮り、教師の発言と学生の反応及び彼らの自己表現を対照して分析した。そのことによって、教師の指導行為のどこがどのように彼らの気づきに影響を与えるかを明らかにしようとした。
 また、指導行為が発揮する指導機能を、役割提供、表現支援、評価受容、課題解決、揺さぶりの5つに類型化し、それぞれの類型とその効果について検討した。
 その際、発言ごとに発言文字数と実際の秒数を算出し、5文字1秒と想定して発言にかかったと思われる時間を仮に割り出し、これを実際の秒数から差し引いたものが5秒を越える場合に、「空白時間」として記録した。
 「空白時間」は、学生同士の協働のための時間である場合と、学生個人の「自己内対話」のための時間である場合の2通りが考えられる。前掲著において、「今、何か考えがまとまりそうと思っているときに別のことを言われてわからなくなったりした」という学生の記述を取り上げ、私は、「ワークショップでの対他者の体験だけで自己を質的に高めることはできない」として、「自己内対話をどう促すかという教育的視点」の必要性を提起した。その意味から、空白時間も重視して分析した。
 本稿では、教師の指導行為については、AからBのクドバス能力リスト作成へ移行させたときの授業を取り上げ、空白時間も含めて、その効果を示した(図2.3-3)。

2.3.4 結果と考察
(1) 出産自己決定における対他者関係の位置づけ
 図2.3-1で、学生同士の協議により、「夫や親と協力する」を最重要の「仕事」として位置づける結果となった。身近な人々との協力関係を築き上げることを、自己決定のための条件として認識したことの意義は大きいといえる。


図2.3-1 出産自己決定のための「能力リスト図」

第一章「いい夫をみつける方法」
(1)夫婦の協力って何?
夫婦げんかをしないで仲良くすることができる/夫と協力して子育てをすることができる/夫に自分の体調を理解してもらう態度がとれる/夫に家事を手伝ってもらうことができる
(2)苦しいときこそチャンス!
不安を乗り越えて出産を決断できる/妊娠を望まないときには避妊するよう夫にお願いできる/夫の会社の育児休暇がどれくらいあるか知っている/自分や相手の病気に立ち向かう態度がとれる
(3)自分や夫を育ててくれた親に感謝
自分の親に協力してもらえる態度がとれる/舅姑とうまくやっていく態度がとれる
第二章「子どもを産んでますますリッチ」
(1)一人産むといくらかかるか?
出産・育児に必要なおおよその費用を知っている/出産に関する補助金を知っている
(2)子育て家計術
子どもができても家計をやりくりできる/夫が仕事を辞めないように励ますことができる/赤ちゃんの服などを売っている所を知っている
第三章「頼りは子育ての先輩、ゆっくりゆったり子育てを」
(1)医者に聞けること
妊娠や出産に関する病気について知っている/妊娠のシステムについて知っている
(2)親に聞けること
何が母子の体にとって良いか悪いか知っている
(3)近所の先輩に聞けること
自分の周りの子育て経験者から子育て情報を得ることができる
第四章「すてきなお母さんになってね」
(1)すてきなお母さんって何?
母としての自覚を持ち、責任を持ってわが子の世話ができる
(2)子育て料理術
料理がうまくできる(子どもの成長に合ったものが作れる)
(3)子育てフィットネス
出産後もスタイルを保つことができる/子育てのための体力トレーニングの方法を知っている
第五章「最強リラックス法教えます」
(1)妊婦ヒーリング〜音楽・アロマetc
自分の情緒を安定させることができる/胎教にいい曲を知っている
(2)悩みは、はきだせ!
相談できる友人を探すことができる
第六章「地域で子育てする」
(1)子育て支援って何?
出産に必要な書類作成や手続きができる/育児に関する相談窓口を知っている/育児に関する公共機関・施設を知っている
(2)大切な地域医療
家に最も近い産婦人科を知っている/子どもの病気について知っている/階段などの危険な場所を知っている
(3)仲間とつくろう子育てのまち
近くに良い公園を知っている/交通の便が良い所を知っている
図2.3-2 「若い女性のための出産自己決定マニュアル」構成
表1 学生の記述内容
番号
記 述 内 容
対自
対他
能動
01A1
情報提供の長所が多く、短所があまり出なかった。長所ではあるものの、どのような点に気をつけなくては十分な長所として情報提供が学習者に生かされないのかを考えていきたい。
 


01A2
相談者にとって、相談の窓口となる人の雰囲気はとても重要だと思いました。ただ相談窓口があるだけでなく、本当に相談したい、解決したい、という意欲をかきたてるような環境が必要だと思いました。
 


02A1
今日の授業では、生涯学習に必要な基礎知識がわかってうれしかったです。助成金をうまくゲットするコツ、みたいなのがあったら、教えて欲しいと思いました。それから、授業で言いそびれましたが、私は『生涯学習』は、「自分の人生を楽しいものにするための学問」だと思います。よく、人に「どうして生涯学習に行ったの?」とか「このボランティアに参加した動機って何?」と聞かれますが、私はもっぱら「人生楽しむため」と答えてますから。時には、同じ考えの人がいて、うれしかったりします。

 

02A2
私は、情報提供というのは1対1でやるものだと思い込んでいたので、「人数の制限を受けない」と書いてあったのが意外でした。他にも、今まで情報提供者側の視点は考えたことがなかったので、新鮮でよかったと思います。
 

 
02A3
今回の授業では、相談者と学習、その受け取り方と伝え方の難しさの違いが分かってよかったと思います。ただ、最初はその違いと言われてもピンとこず、意見を出すのが難しかったです。
 

 
03A1
「他信」と言うことばがすごく胸に響きました。相手を信用してないと自分の考えは話すことができないので、自分の気持ちを他人に話すとは勇気のいることであり、相手を信じることなんだと思いました。
 


04A1
今日気づいたことは自分の視野の狭さでした。もっと自分には可能性があると思えたし、もっといろんなことにチャレンジしようと思いました。

 

04A2
生涯学習についていろんな問いが出ていたのが多かったと思います。いろんな分野というか区別されているのもわかって勉強になりました。四つか五つにわかれていました。そんなにあるのかとびっくりしました。今度は知っていてみんなに知らせたいことも出していったりしたらおもしろいと思いました。

 

04A3
今日は質問にたいして自分の希望どおりの答えが返ってくるとはいったものの、それでは安心させるだけで、その相談される側の人の存在があんまりなくなってしまうのではないかとあとから思ってしまいました。違う考えをアドバイスするという他の人の意見に揺るがされました。でもスマイルや和やかな雰囲気はどの場所であっても大切なことだと思いました。
 


01B1
今回初めてクドバスを知りました。初めてなのに、スムーズに意見を整理できるのには驚きました。これをきっちり活用しながら授業ができるのを楽しみにしています。
 
 
 
01B2
前回のクドバスをより内容を考え、整理していきました。少人数で意見が言いやすく、整理もしやすかったと思います。

 
 
01B3
今回クドバスを使って、全ての項目をカリキュラム編成しました。求められる知識、能力をカリキュラムにすることにより、具体的になってきました。
 
 
 
01B4
前回決まった科目名をもとに、さらに細かく講座名を考えました。講座を受ける参加者だけでなく、主催者側も楽しく有意義に運営できるような内容を考えるのが、とても楽しかったです。

 

02B1
今回の授業では、クドバスを使ったこともそうですが、最後に先生が言った、「子どもを産め、と言われることをどう考えるか」というのが、一番インパクトに残りました。実は、現在レポートなどを多数抱えているため、そんなことを考える余裕があるか謎ですが、一生懸命考えたいです。

 
 
02B2
今回の授業では、セミナーを自分で作り、名前をつける、という所がよかったです。私は、最初の段階で固まってしまったため、自分の思うように名前をつけられなかったのが残念ですが、みんなの字(タイトル)を見ていると、なかなか楽しいものが多かった、というのが印象的でした。あれで実際に講座ができるのなら、やってみたいと思いました。
 


03B1
題名を考えるのって大変だなぁーって思いました。しかも仕事カードを○○するで終わらせるというので、さらに難しく感じました。
 
 
 
03B2
最近の授業はクドバスを使っていてみんなで考えて決めるのがすごく楽しいです!
 

 
03B3
〜できる〜知っているという能力を出しても、肝心の題名を作るのや順位を決めるのが大変でした。
 
 
 
03B4
科目を考えたり時間割りを考えたりとだんだんと講座ができてきました。あともう一歩。最後まで頑張りたいです。
 
 
 
04B1
今日はクドバスということばを初めて聞きました。黒板にみんなでまとめる作業は大変だったのですが、わかりやすくまとめるだけで見栄えもよくなるし、効率がいいと思いました。雰囲気づくりは非常に大事だし、スマイルは親近感があって相談しやすくなると思いました。
 

 
04B2
クドバスを使ってみんなが意見を言って、どれが一番よい並び方かをやったのですが、途中迷ってしまったときがありました。しかしこうやって整理することにより見やすくなったりするのでクドバスの勉強はとてもためになりました。
 

 
04B3
今日はクドバスの最終段階の見直しをやりました。残りのコマをあわせるのが大変でした。しかしみんなの意見を取り入れたので、いい表ができると思います。
 

 
01C1
今回は出産をするにあたって『主婦』が設定でしたので、自分自身主婦→母になるとういのではなく、仕事をしながら妻をしている→仕事をしながら母になるのが理想だったのでピンときませんでした。でも主婦でも出産の自己決定に必要な事柄が多く、仕事をしながら出産の自己決定をするのはもっと大変なことだろうというのに気づかされました。
 

 
01C2
前回に引き続き、出産の自己決定についてクドバスを整理しました。カリキュラムだけでなく、本さえもクドバスを使って内容や順番を整理できるのに驚きました。
 
 
 
01C3
半期と短い期間、クドバスを使用して2つの事柄をとりあげた。まずは個人が何が必要だと考えているのか、そしてその意見をみんなで討議し1つのものを完成させた。1人では問題が解決できなくても、みんなで力をあわせてこの場合は、と真剣に取り組めたからこそいいものができたと思う。
 


02C1
今回は出産の自己決定についてやりました。その中で、私が思ったのは、あの前提を得ることは、かなり難しいだろう、ということです。・・・というか、私はあの前提の、専業主婦にはなる気がありません。だから、今回、それについて考えろ、と言われても、イマイチ実感がわきませんでした。ただ、自分にとって大事な存在であって、なおかつ自分が好きだと思える人が自分と一緒にいたいと思ってくれるなら、結婚・出産でもいいと思っているので、そうなったら産むと思います。

 
 
03C1
妊娠に関しては産もうと決意するには誰か信用できる人物が必要だと思います。もちろんお金も大事ですが、妻:この人との子を産みたい、夫:お金は頑張って稼ぐから、って感じじゃないですかね?
 

 
03C2
出産はまわりの人の支えが重要に感じました。お金の事も大事ですけどね。子どもをおろす原因は何が一番なのでしょうか。それこそ出産に一番大事な事だと思いました。
 

 
03C3
みんなで意見を出しあって話し合うことはすごく楽しかったし勉強になりました。人の意見を取り入れることや意見を聞くということをすごく大事に感じた授業でした。
 


04C1
夫との協力も大事だし、お金のやりくりも大事だなと思う。私が一番大事だと思ったのは、気持ちの安定です。安定して元気な赤ちゃんでないとお金もかかってきてしまうし、いろいろ問題がでてしまうからです。今は子どもをうまない人もいるが、やはり生活が楽しくなくなってしまうし、淋しくなると思う。私も20代後半とかで産むのは無理かもしれなくても30代とかで産みたいです。やはり女性は子供をうんだほうが強くなれると思うからです。産みたいと思うのはちゃんと相手ができてからですが。

 
 
04C2
今週はクドバスを整理しました。出産の自己決定ということで題もつけました。そして何が一番かなど順番整理もしました。出産にはやはりまわりの人の協力そしてオカネのこともかかわってくるのだなと思いました。また前回の書き方でいいかたの違うものもあったので、それをどんなふうに伝えるかを考えるのにも苦労しました。だいたい完成してきたときは達成感がありました。これできっちりとまとまったと思います。クドバス楽しいです。
 



※ 番号の上2桁は学生別、3桁目英字は授業時期別、4桁目は記述順。



図2.3-3 教師の指導行為と「空白時間」


 学生03は、授業の進行(A→B→C)に伴い、対他の出現率が、1/1件→1/4件→3/3件と変化している。クドバスで能力リストを作成するBにおいては、余裕がなかったため、「大変」「楽しい」という「即自的」な言葉が多かったと推察される。しかし、その能力リストを活用してマニュアルを作成するCにおいて、「出産はまわりの人の支えが重要」とし、それと関連して「子どもをおろす原因」にまで考えをめぐらせようとしている。これは、「人の意見を取り入れることや意見を聞くということをすごく大事に感じた」(03C3)という記述に示されているクドバスの「協働」がもつ効果の表れとしてとらえられる。
 教師の指導行為とその機能としては、この問題ではとくに「介入」行為による「揺さぶり」機能の効果を検討しておきたい。なぜならば、すでに述べてきたことから、親以外の他者との関係づくりは、現代青年全般にとって「苦手」と考えられるからである。「自分の母親に協力してもらう態度がとれる」という能力カードを書いた学生に対して、私は次のように発言している。

 自分の母親だけにしない。お父さんにもおじいちゃんにも手伝ってもらうことがあるでしょう。自分の親にというのと、舅、姑と上手くやっていくというように。親は特に頼むことはできるだろう。夫の親はやめます。確かに夫の親に頼むというのは難しいなと思って。だから、それで、僕はこれを追加したの。自分の母親を自分の親にして、自分の親に協力してもらうと、舅、姑とうまくやっていくのと、場合によっては協力もしてくれると思うけど。どうなんだろうね。やっぱり一番やりやすいのは自分の親なんだろうね。頼むのは。でも、親って嫌がるよ。結構、疲れるんだよ、年をとると。(学生:舅、姑に頼まなくちゃいけないけど、頼むのって難しそう。)そうだよね。だから上手くやっていくぐらいかな。夫のおばあちゃんが熱心な場合も、それはそれで問題がおこるかもしれない。自分の親だったら協力してもらうということで済んでしまうけど、夫の親の場合はやり方についてもあまり文句言えないしね。そうすると、これは自分の親とは違う問題だよね。自分の親に協力してもらうのとは違う。だから、必要な能力も違ってくる。(発言95秒、空白9秒)

 空白時間は少ないが、学生に対して、「舅、姑に頼まなくちゃいけないけど、頼むのって難しそう」と、問題の所在を認識させる効果があったと考える。

(2) 自己内の対話を促進する効果
 クドバスでは、1人でおよそ20枚もの「能力カード」を書かなければならない。そのカード書きの時間は、学生に対して「自己内対話」を促す効果があると考える。
 大学授業において、教師の発言のノート録りだけに終始してしまう学生に対して、ある仕事に必要な能力を自己の思考内で「分解」して書き上げさせることは、重要な教育効果をもたらすものと考える。
 「そんなに書かなければいけないの」と言った学生に対して、私は次のように発言している。

 そう。だからあまり大きな書き方でなくて、具体的に書いたほうがいいみたい。産もうとする態度がとれるなんていうのは、大きく書いちゃうとそれだけど終わっちゃうものね。(学生1:どんなことを書いたらいいんですか。)良い産婦人科医を知っているとか。(学生1:出産にまつわること。)そうだね。知っていないと安心ができないでしょう。(学生2:料理とか。)関係があるのなら書いていいけど、関係ないように思うけど。どうして。料理が上手くできるとどうなるの。(学生2:栄養とかわかるから。)そうか、はい、はい。それはすごくいいんじゃない。でも、具体的に書いたほうがいいね。子供の成長に良い料理のしかたを知っている、良い料理をすることができるみたいな、そんなふうに書いてください。(発言66秒、空白205秒)

 次の学生の質問まで、3分以上の「自己内対話」としての空白時間が保障できたことになる。
 とくに保育士、教員を志望する学生に対しては、出産自己決定のために必要な能力として「産もうとする態度がとれる」という「正解」を書いて終わりにしてしまう態度を卒業時までに改めさせなければ、子育て支援者としての資質として問題があると言わざるを得ないと考える。
 また、職場の課題解決のための研究は、対他者体験だけでは進めることができない。ときには孤独な自己内対話が必要になるであろう。正解が与えられない課題について、職業生涯にわたってこれを研究し続けようとする態度は、専門的職業に就こうとするすべての学生にとって求められるものと考える。

(3) 課題・目標の自己設定、共同設定による効果
 クドバスでは、人から教えられた必要能力ではなく、自分自身が必要と考える能力をカードに書き込む。また、メンバー同士で職場の問題を話し合い、共通理解を図った上で、ワークがめざすべき課題を共同で設定する。
 課題設定に当たっての教師の指導行為について、検討したい。

 それでは、どうしますかね、前提。まず、未婚の母みたいな感じを1回外しちゃおうかなと思っていますが、考えてきたのは。未婚の母で出産の能力というと、自己決定というとかなり難し過ぎるかなと思って、どうしますかね。前提として考えるときに。自分が出産を自己決定するとしたら、どんな能力が必要か、しかも未婚で、結婚しないまま未婚の母になると大変かなと思って。(学生A:それはちょっと嫌。)既婚前提で、結婚して夫と協力しながら子育てするというところに配慮が向かうようなためにはどんな能力が必要かにしましょう。それで、職業はどうする。専業主婦みたいに決めちゃうか、それとも働きながら。(学生A:専業主婦。)専業主婦で決める。どうですか。なんで。(学生B:働いていると、難しそう)働いていると、働きながら、保育園の情報とかそういうことを知っていないといけないんだけど、それを1回外してみましょうか。専業主婦で。(学生C:専業主婦になりたい。)あっ、そうなの。働きたいから大学に来ているんじゃないの。違うんだ。専業主婦の方がどうしていいんだろう。(学生D:収入がちゃんと安定してあるのなら、働かないで家でいたい。)家でなにをしたいの。(学生D:家を守っていたい。家の掃除とか家事とかなら自分でもできるんじゃないかと。仕事だと逆にストレスとかたまって。)(学生E:私はそうならないと思う。)まあ、人によって違うのかもわからないけどね。(学生F:でも専業主婦だからといろいろ役員を押し付けられるらしい。)それはそれで押し付けられるのもあるし、専業主婦をあえてやって、夫にはご苦労様と言いつつ、自分ではのびのびボランティア活動などをする人もいるけどね。そういう人を知っています。夫のほうを知っているんだけどね。ある意味では仕事ですけど。収入がないから、収入がないと困るから、それは夫がやっている。(学生B:パート、バイト。)パート、バイトはまた意味が違うな。パート、バイトだって職業でしょう。(学生B;パート、バイトしている人は専業主婦とは言わないんですか。)ここでは厳密には言わない。(学生B:なんだあ。)いいだろう、パート、バイトは入れよう。主婦っていうのは忙しいよ。許されるもなにも、それよりも自己決定だよ。自己決定だね、そこのところは。専業主婦、パート、バイトを含むにしよう。よし、これで行きましょうか。あと、決めなくてはいけないことあるかな。(学生C:年齢とかは。)年齢は20台にしておくか。20代後半ぐらい。貴方が20代後半で出産。(学生C:もっと早くがいい。)それでは20代出産にしておこう。20代にしておこう。夫は会社員ね。実業家でバンバン何億も稼ぐみたいな人ではない。これで行きましょうか。(発言228秒、空白171秒)

 大学授業においても、このように、教師は課題提示という指導行為により、役割提供機能を発揮するが、ワークを行なう学生の希望に応じて柔軟に課題を設定することができる。
 学生の記述内容において、「楽しい」という言葉の出現頻度が高いのは、このようなクドバスのもつ「参画機能」に依拠するものと考えられる。

2.3.5 結論
 以上の考察から、仮説〔クドバスを活用して女子学生自身の社会化欲求に対応したワークショップ型授業を行うことによって、「子を産む性をもつ者」として必要な社会化を効果的に促進することができる。〕については、次のように考える。
 クドバスの「他者との関係や職場における自己のもつべき能力の客観的な位置づけ」、「自己内対話の促進」、「課題・目標の自己設定、共同設定」という機能の面からいえば、「子を産む性をもつ者」としての女子学生の望ましい社会化を支援するためにも、効果的な技法であることは明らかといえよう。
 しかし、学生の記述内容の分析においては、「能動」については、授業がAの講義型であったときのほうが多い(7/9件→2/13件→3/9件)。出産・子育てに関して、それを「社会的行為」として学生が能動的気づき(ここでは「自分はどうするか」)をもつよう促進するという面では、大きな課題が残されたと考える。



以下は「2.4 若者の友人関係の類型と社会化支援の方法」表2.4-3

貫徹志向非交渉型
貫徹志向
貫徹志向交渉型











非交渉
★高校部活とは異なる魅力を示す
★エステ等通いたくない自分の理解と通いたい他者の理解
★他者の音楽等の楽しみに共感させる
★携帯電話を即切りする便利さから、距離の取り方を学ばせる
★インターネットをする他者から学ぶ
★意味ある情報入手の困難性を表現させる
★真剣に話すことへの阻害要因を理解させる
★異年齢の他者と交流させる
★弱みをさらけ出す、仲直りする状況を聞かせる
★自分がわからないという気持ちを表現させる
★勉強等に真剣に取り組む人から話を聞かせる
★他者の孤立しないための戦術から学ばせる
★最も大きな出来事に友達が関わった状況を聞かせる
★日本の将来に関心を持つ人の話を聞かせる
★倫理規範を大切にする人の話を聞かせる

★高校部活での積極性を引き出す★留学の夢を開示させる★探求発見型の他者を理解させる★音楽や演劇の魅力を伝えさせる★携帯電話利用を含めたコミュニケーションの積極性を評価し、活用する★即切りされた人の寂しさを理解させる★関心や考え方が異なる者と交流させる★弱みをさらけ出す、仲直りする状況を話させる★自分がわからない人の気持ちを理解させる★今のままではいけないと思っている他者を理解させる★なぜ努力が必要か、自明とせずに言語化させる★なぜ勉強や仕事に取り組むのか、内なる動機を見つけさせる★友達から理解された体験を話させる★他者の孤立しないための戦術から学ばせる★最も大きな出来事に友達が関わった状況を話させる★尊敬するアーティストについて話させる★損得や影響の計算が重要であるという他者から話を聞かせる★日本の将来や政治等に関心ない人の話も傾聴する態度を身につけさせる★「べき論」に消極的な人の話を聞かせる




交渉

★高校運動部とは異なる魅力を示す★エステ等通いたい自分の理解と通いたくない他者の理解★探求発見型の自己を受容させる★他者の音楽等の楽しみに共感させる★携帯電話を即切りする便利さから、距離の取り方を学ばせる★インターネットをする他者から学ぶ★意味ある情報入手の困難性を表現させる★真剣に話すことへの阻害要因を理解させる★弱みをさらけ出す、仲直りする状況を聞かせる★今のままではいけないと思っている部分を他者から受容させる★友達から理解された体験を聞かせる★勉強等に真剣に取り組む人から話を聞かせる★自己の孤立しないための戦術を客観視し、その逆機能を考えさせる★最も大きな出来事に友達が関わった状況を聞かせる★日本の将来に関心を持つ同世代の話を聞かせる
★高校運動部とは異なる魅力を提示
★自分らしさに執着する他者を理解させる
★ホームページ閲覧の魅力を表現させる
★弱みをさらけ出す、仲直りする状況を話させる
★今のままではいけないと思っている部分を他者から受容させる
★友達から理解された体験を語らせる
★自己の孤立しないための戦術を客観視し、その逆機能を考えさせる
★最も大きな出来事に友達が関わった状況を話させる
★世間の評価や道徳は判断材料ではないという他者から話を聞かせる










状況対応非交渉型
状況対応
状況対応交渉型






図2.4-3 各類型に応じた社会化支援方法の検討



2.4 若者の友人関係の類型と社会化支援の方法
 われわれは、現代都市青年の友人関係や自己意識などについて質問紙調査を行った。同調査により、2002年秋に東京都杉並区と神戸市の16歳から29歳までの青年から1100標本を得た。
 友人関係は社会化の重要な要素であると同時に、ピア・プレッシャーなどの重大な問題も抱えている。本研究では、その傾向と「自分らしさ」に関する意識との関連を検討するとともに、そこで表れたそれぞれの類型の者の社会的活動等の特徴について、量的データをもとに明らかにしたい25。

2.4.1 方法
 この研究では、友人関係に対する態度を横軸に、「自分らしさ」に対する考え方を縦軸にして4領域を設定し、それぞれの特徴を分析した。
 友人関係については「友達と意見が合わなかったときには,納得がいくまで話し合いをする」、「自分らしさ」については「どんな場面でも自分らしさを貫くことが大切」を取り上げ、それぞれの肯定/否定によって4分類した。
 「合意形成への態度」としては「非交渉」と「交渉」、「自分らしさの一貫性」としては「貫徹志向」と「状況対応」に分類し、表2.4-1のとおり各類型に分類した。

表2.4-1 4類型の設定(実数)

合意形成への態度

非交渉
交渉
自分らしさ
の一貫性
貫徹志向
263
335

状況対応
272
205

2.4.2 結果
(1) 「自分らしさ」と合意形成への態度
 各類型について、他のすべての類型を合わせたものと比較し、有意差のあった項目を表2.4-2に示す。検定結果は、危険率0.05以下のものは○、0.01以下のものは●で示した。危険率が0.05より大きいものは「有意差なし」と表記した。「対自己」については、「ありのままの自分でいることが大切」に共感する者を「現存重視型」、「自分の個性や自分らしさを探求し,発見することが大切」に共感する者を「探求発見型」とした。
 表2.4-2からは、それぞれの類型に応じた社会化支援のあり方について多くの示唆を得ることができる。
 「貫徹志向交渉型」は運動部系部活歴、音楽活動、友人関係など活発で自己肯定感が強い。勉強や仕事にも真剣に取り組み、日本の将来にも関心があるという。
 「貫徹志向非交渉型」は、本人は「どんな場面でも自分らしさを貫くことが大切」と考えているのに、友達と意見が合わなかったときでも、納得がいくまで話し合いをするということはないという者たちである。
 音楽活動、携帯電話やインターネット等のメディア利用があまり盛んではなく、親友や友人とも深入りしない。自己同一感、自己肯定感が弱く、日本の将来にもあまり関心がない。
 「状況対応非交渉型」も同様に携帯電話の利用を含め、全般的に不活発である。
 携帯電話をあまり使わないから、そのかわり、フェース・トゥー・フェースのコミュニケーションが盛んになる、あるいは親友や友達との信頼関係が深まるということではないのである。
 「状況対応交渉型」は、親友・友人関係については活発である。場面によっては自分らしさを貫かないときもある。しかし、「納得がいくまで話し合う」という。
 以上から、各タイプの状況や特徴に応じた社会化支援を行うことが効果的であることは明らかである。たとえば、「貫徹志向交渉型」の若者に対しては、ピアに協調することを迫るのではなく、「趣味や関心が近いこと」、「考え方に共感できること」などの友達への考え方が、ややもするとピアとしての同化にもつながりかねないことを警告し、むしろ異質の者との交流を図る必要があるといえよう。各タイプの有為差のあった特徴に基づいた対応の方法を検討し、その結果を図2-4-3(紙面の都合から前ページに掲載)に示した。
 社会化支援が提供するこれらの交流は、現代の若者たちの日常の友人関係とは異なり、異質との出会いによる「共感」を伴うものである。この出会いこそが、「入り口としての友人関係の場面で立ち止まる」若者を、個人として深まり充実する「個人化」へと導くとともに、同時に彼らの「社会化」を促すものになると考えられる。現在、青少年教育における体験学習や、大学教育における参画型授業などが盛んになりつつあるが、それは日常にはないピアを越えた人間関係の体験を提供するところにその眼目を置くべきと考える。

2.4.3 各類型の社会的有能感/無力感の特徴
 次に、各類型の社会的有能感/無力感との関係を確かめた。
 「どんな場面でも自分らしさを貫くことが大切」なのであれば、「個人の力で社会を変えることができる」と思えなければ、「自分らしさを貫くことよりも、まわりの状況に対応することを優先」するのであれば、「みんなで力を合わせれば社会を変えることができる」と思えなければ、社会的有能感はもち得ないだろう。
 上のように考えて、「貫徹志向」の類型の者については、「個人の力だけで社会を変えることはできない」の回答により、「状況対応」の類型の者については、「みんなで力を合わせても社会を変えることはできない」の回答により、それぞれ否定を「社会的有能感」、肯定を「社会的無力感」ととらえて検討した。度数分布を表2.4-4に示す。類型ごとに有為差のあった特徴を表2.4-5に示す。この結果からは、表2.4-2に見られるような目立った特徴は多くは見られなかった。
 これは、一つには、「個人の力だけで社会を変えることはできない」や「みんなで力を合わせても社会を変えることはできない」を否定したとしても、社会的有能感というよりは建前的な判断が働いてしまったから、二つには、それゆえ、社会的有能感が、「友達と意見が合わなかったときには,納得がいくまで話し合いをする」という友達との合意形成への態度ほどにはリアルなものにはなっていないから、三つには、社会的有能感がたとえあったとしても、それが「社会的能動」の展望までにはつながっていないから、などの理由が考えられる。
 以上から、家族や友人との関係以外の、たとえば職業遂行や市民性としての「社会性」や「社会的能動」については、現代青少年はほとんど成熟していないととらえるべきだと考える。この状況は、中央教育審議会第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について−子供に[生きる力]と[ゆとり]を」(1996年7月)が提唱した「生きる力」としての「社会性」とはほど遠いものといわざるをえない。
 このことは、社会化支援にあたって、社会的能動/受動以前に、多くの若者がその入り口としての友人関係の場面で、とくにピア・プレッシャーに対して立ちすくんでいることを念頭に置かなければならないということを示すものと考える。


表2.4-2 現代青年の「自分らしさ×友人関係」各類型の特徴

貫徹志向交渉型
貫徹志向非交渉型
状況対応非交渉型
状況対応交渉型
属性
(属性関連の有意差なし)
●男>女 ●低年齢>高年齢
●女>男
(属性関連の有意差なし)


●親と同居(学生/非学生有意差なし)
○親と同居していない

部活歴
○運動部系に所属
○部活やサークルに所属しない
○文化部系に所属


●運動部系の場合、積極的活動
○文化部系の場合、非積極的
●運動部系での積極的活動しない
●運動部系の場合、非積極的

○文化部系の場合、積極的活動



文化
●演劇を観に出かける
●演劇を観に出かけない

(文化関連の有意差なし)

○ブランド品を購入
○ブランド品を購入しない



○写真・プリクラを撮る
○エステティックサロン通いたくない
○エステティックサロン通いたい



○フィットネスクラブ等通いたくない




○自己分析等の本を買わない



○留学したい
○留学したくない


音楽活動
○ラジオで音楽情報得る




○インターネットで音楽情報得る
●インターネットで音楽情報得ない

○カラオケで音楽情報得ない

●CDショップで音楽情報得る




○ディスコ等で音楽情報得る

○ディスコ等で音楽情報得ない


○フリーペーパーで音楽情報得る

○友人・知人から音楽情報得ない
○友人・知人から音楽情報得る

●好きな音楽CD購入
●好きな音楽CD購入しない



●DJブースのあるクラブに行く
○DJブースのあるクラブに行かない



●特定の音楽にくわしい
○コンサートやライブに行かない
●特定の音楽にくわしくない


●音楽は自分のライフスタイル
○音楽はまあ自分のライフスタイル
○音楽は自分のライフスタイルでない


●音楽を創るのが好き
○該当する音楽行動ない
●音楽を創るのが好きではない


●サウンドよりも歌詞

○サウンドよりも歌詞とは思わない


○気持ち変えるために選曲

○気持ち変えるための選曲しない


●他者との場に合った選曲
○他者との場に合った選曲しない



●機器の音質優先
●機器の音質優先しない
○機器の音質優先しない


●録音よりも生演奏が「本物」




●ジャケットや歌詞カード自作
●「MP3があれば」に不支持・未知



●PC等で楽曲サンプリングする

●PC等で楽曲サンプリングしない


●PC等で音楽への愛着深まる

●PC等で音楽への愛着深まらない

メディア
●携帯電話で通話
○携帯電話で通話しない
○携帯電話で通話しない



○発信番号を見ずに出る
○発信番号を見ずに出る



○固定電話で通話しない
○固定電話で通話しない


○オークション利用
●インターネット利用しない
●インターネット利用しない
○ホームページ閲覧する


○テレビゲームする
○テレビゲームする


●自分もテレビに出られる
○テレビ見ながらメールやりとり
○テレビ見ながらメールやりとり


●意味ある情報の入手可能
●意味ある情報の入手困難
●意味ある情報の入手困難

親友・友人
●親友や仲の良い友達が多い




○親友を尊敬している
○親友を尊敬しない
○親友を尊敬しない
●親友を尊敬している

●親友と真剣に話できる
●親友と真剣に話できない
●親友と真剣に話できない
●親友と真剣に話できる



●親友をライバルと思わない
●親友はライバル


○親友といても安心できない
●親友のように生きたいと思わない
●親友といると楽しい

○親友との関係満足

○親友との関係不満足


●親友に弱みさらけ出せる
●親友に弱みさらけ出せない
○親友に弱みさらけ出せない
●親友に弱みさらけ出せる

●ケンカしても仲直りできる
●ケンカしたら仲直りできない
●ケンカしたら仲直りできない
●ケンカしても仲直りできる

○職場で知り合った
○職場で知り合ったのではない
○学校で知り合ったのではない
●塾や予備校で知り合った

○サークルで知り合った
○部活等で知り合ったのではない

○インターネットで友達づくり

○友達たくさんを心がける

●友達たくさんを心がけない


●一人の方が落ち着く、はない

●一人の方が落ち着く


●互いに深入りすることがある
●互いに深入りしない
●互いに深入りしない
●互いに深入りすることあり

●友達同士を引き合わせ
●友達同士を引き合わせしない
●友達同士を引き合わせしない


●初対面ですぐ友達になる

●初対面ですぐ友達にならない
○初対面ですぐ友達になる

○遊ぶ内容で友達を使い分ける




●趣味や関心が近いこと
●年齢が自分と近いこと
○容姿や顔立ちが自分好みなこと
●年齢が近くなくてもよい

●考え方に共感できること
○同性であること
○ファッションが自分好みなこと
○同性でなくてもよい
恋人
●恋人とすべてさらけだす
●恋人がいたことがない
●恋人とすべてをさらけださない
(恋人関連の有意差なし)

○今の恋人よりいい人はいない

●今の恋人よりいい人はいる




○恋人といてうっとうしいときある

対自己
○探求発見型が少ない

●探求発見型が多い


●両方肯定型が多い
○両方肯定型が多い
●両方肯定型が少ない
●両方肯定型が少ない

●両方否定型が少ない

●両方否定型が多い
○両方否定型が多い
自己意識等
●今の自分が大好き
○今の自分が大好きではない
●今の自分が嫌い


●自分には自分らしさがある

●自分には自分らしさがない



○場面によってでてくる自分違わない
●場面によってでてくる自分違う


●自分がわからなくならない
○自分がどんな人間かわからなくなる



●まとまりがあるよう見える




○意識して自分を使い分け

●意識して自分を使い分け


●うわべだけの演技ない

●うわべだけの演技ある


●今のままの自分でいい

○今のままの自分でいいと思わない
○いいと思わない

●仲のよい友達は私を理解

●仲のよい友達でも私を理解せず
●仲のよい友達は私を理解

●勉強や仕事に真剣に取り組む
●勉強や仕事に真剣に取り組まない
●勉強や仕事に真剣に取り組まない


●経済的成功のためには個人の努力

○経済的成功のためには個人の才能


●「将来に備えるより今」肯定

●「将来に備えるより今」否定


○仕事選択で生活安定優先せず




●「孤立しても主張通す」肯定
○「孤立しても主張通す」肯定
●「孤立しても主張通す」否定
○「孤立しても主張通す」否定
影響
○最も大きな出来事親が関わり
○最も大きな出来事親が関わり
○最も大きな出来事祖父母関わらず
●祖父母が関わった

●最も大きな出来事友達関わり
○最も大きな出来事友達が関わらない
●最も大きな出来事友達関わらない
○友達が関わった

○先生が関わった




●最も大きな出来事がある
●最も大きな出来事がない


判断材料
●世間評価や道徳は材料でない


○世間評価や道徳は判断材料




●損得や影響計算は判断材料

○アーティストの発言判断材料


○アーティストは材料でない



●親友等の意見は判断材料でない
○親友等の意見は判断材料




○親の意見は判断材料
社会意識
●日本の将来に強い関心あり
●日本の将来に強い関心なし
○日本の将来に強い関心なし
(社会意識関連の有意差なし)

○政治・経済面を読む
○政治・経済面を読まない
○新聞や雑誌の占いコラムを読む


●「選挙には行くべき」支持
○「選挙には行くべき」不支持



○「目上の人には敬語使うべき」
●「敬語を使うべき」に消極的



●「ボランティア参加すべき」
○「ポイ捨てすべきでない」に消極的




●「割り込みすべきでない」に消極的





表2.4-4 4類型×社会的有能感/無力感の度数分布
 
Q25B「個人の力だけで社会を変えることはできない」
Q25C「みんなで力を合わせても社会を変えることはできない」
 
無力感
有能感
合計
無力感
有能感
合計
T
235
98
333
88
245
333
 
70.6%
29.4%
100.0%
26.4%
73.6%
100.0%
U
190
70
260
81
180
261
 
73.1%
26.9%
100.0%
31.0%
69.0%
100.0%
V
207
64
271
75
196
271
 
76.4%
23.6%
100.0%
27.7%
72.3%
100.0%
W
138
67
205
53
152
205
 
67.3%
32.7%
100.0%
25.9%
74.1%
100.0%
(注) T=貫徹志向交渉型、U=貫徹志向非交渉型、V=状況対応非交渉型、W=状況対応交渉型。
   分類と分析には太枠内のケースを使用した。




表2.4-5 社会的有能感/無力感の特徴比較 (n=回答実数)

貫徹志向交渉型
貫徹志向非交渉型
状況対応非交渉型
状況対応交渉型

「個人の力だけで社会を変えることはできない」を肯定
「みんなで力を合わせても社会を
変えることはできない」を肯定
無力感
○文化部系の場合、積極的活動n=235
○政治・経済面を読まない
○「ポイ捨てすべきでない」に消極的
n=190
○一人の方が落ち着く
○互いに深入りしない
●仲のよい友達でも私を理解せず
●日本の将来に強い関心なし
n=75
●今のままの自分でいいと思わない
n=53

「個人の力だけで社会を変えることはできない」を否定
「みんなで力を合わせても社会を
変えることはできない」を否定
有能感
○運動部系に所属
●ディスコ等で音楽情報得る
○DJブースのあるクラブに行く
○自分もテレビに出られる
n=98
○「割り込みすべきでない」に消極的
n=70
○携帯電話で通話しない
n=196
○友人・知人から音楽情報得る
n=152



2.5
学生の社会化を支援する大学授業の方法

 大学授業を行う者にとって、学生の社会化は重要課題である。
 第1に「よい授業をするため」に不可欠である。
 われわれは大学授業において、積極的に双方向要素を取り入れようとしてきた。しかし、その際、多くの学生が他者、とくに集団に対して意見を述べあうなどの相互関与をすることに対して「苦手意識」をもっており、そして、それが学生の能動的な授業参加に対する阻害要因になっていることを痛感している。
 第2に「よい人材を社会に送り出すため」の重要課題でもある。
 社会は、卒業する学生に対して、望ましい個性とともに、その個性を社会で発揮、実現するための社会的な資質・能力を求めている。社会的側面での現在の学生の欠陥を指摘し、大学教育に対処を期待する社会からの要請の声は強い。
 また、青少年施策や教育全般、青少年研究、世論、マスメディア等も、「引きこもり」等の現象を問題視し、広く現代青少年全般の社会化をますます重要な課題として認識し、対応しようとしている。
 学生たち自身も、多くは他者への関与に「苦手意識」を持ちながらも、これを少しでも改善し、社会性を身につけ、職業などの社会生活を上手にやっていきたいと思っている。
 しかし、現実には、大学授業や青少年施策等において、彼らの社会化を十分効果的に支援しているとはいえない状況にあると考える。
 大学授業においては、われわれは、その原因として、第1に、学生自身の社会化ニーズが、われわれの支援しようとする社会化の内容とすれ違いを起こしているからなのではないかと考えた。
 もちろん、学生の社会化ニーズ自体が、未成熟であり、「適切」とは限らないものではある。しかし、学習者の学習欲求から出発しなければ、教育効果は上げられない。
 第2に、われわれが彼らの社会化を支援しようとする際に、学生の社会化状況を的確に把握し、その状況に適切に対応した指導を行うという点で、不十分だったからなのではないかと考えた。それぞれの状況によって、適切な指導のあり方も異なるはずである。
 さらに、第3に、われわれに「学習は個人的事象である」26という認識が不足していたからなのではないかと考えた。大学授業のすべてに個人対応を貫くというのは困難であろう。しかし、学生の内面の社会化は、本質的に「個人的事象」としての学習の一環であることを認識した上で、授業では学生の「集団」に対するということが必要である。
 本研究では、社会化に関わる学生のニーズや状況を分析し、その類型化を試みたい。そして、これをもとに、学生の社会化を効果的に支援するための大学授業の方法と、そこでの学生指導のあり方について検討したい27。
 そのため、次の2つの研究を行った。

研究1 双方向要素を取り入れた授業の試行と
 その成果の検討
研究2 学生の社会化の段階及び類型の理解

2.5.1 研究1の方法
 2000年度後期の共通教育(教育学)「大学・市民・ボランティア」において、すべての回について学生の授業イメージを調査した28。
 授業は、「昨年当初は、半数近くの学生がこの授業を受ける理由について『単位取得以外に理由はない』とした。他方で、多くの市民が生涯学習に関心を示している。なぜ、このようなギャップが生ずるのか。市民の学びや、ボランティア活動の可能性を考えることによって、どのように学生として生きるか、市民として生きるか、他者にとって意味ある存在としての自分を発見するかという課題に対して、各人なりの答えがもてるようにする」ことを目標とした。また、ほとんどの回で「双方向要素」を取り入れた。
 授業実践と研究方法の概要は表1のとおりである。他に毎回の内容に関する課題を与えて文章を
書かせ、その記述内容を分析したが、本稿では省略する。

2.5.2 研究1の結果と考察
 調査結果の数値を表2.5-3に示す。「そう思う」を4、「ある程度そう思う」を3、「あまりそう思わない」を2、「そう思わない」を1として集計した。中間値の2.5は「どちらともいえない」を表す。また、その主な結果を図2.5-2に示す。その

表2.5-1 各回の双方向要素等とイメージ調査の項目
月日
テーマ
形態
双方向要素
授業イメージ調査(n=回答者数)
2000
10/17
@なぜこの授業を受けるのか
対教師観察型WS
「なぜ受けるか」カード式発想法
カード式発想法は講義より
n=120
10/24
Aなぜ「教育」なのか
教師主導型文章表現交流
出席ペーパー(学生の自由記述読み上げ)システム
出席ペーパーシステムは講義より
n=83
10/31
Bどう「個の深み」と出会うか
対教師観察型図解作成
「幸せの瞬間」カード式発想法
「幸せの瞬間」は講義より
n=83
11/07
C何を伝えるのか
教師の強制によるGW
「学生の特権」カード式発想法
「学生の特権」は講義より
n=70
11/14
Dフリーチャイルドを取り戻せ
個人作業による図解作成
「フリーチャイルド」図解ワーク
図解ワークはグループワークより
n=60
11/21
E「総合的な学習の時間」の意味
共同作業による図解作成
「総合的な学習の時間」図解ワーク
図解ワークは講義より
n=37
11/28
F「セックス」を考える
教師の講義とビデオ視聴
「性教育をどうする」ビデオ視聴
今日の講義は双方向授業より
n=62
12/05
G共感の時空間のつくり方
グループ内相互の自己開示
「価値観ゲーム」と話し合い
価値観ゲームは講義より
n=47
12/12
H市民活動の仲間関係
個人による沈思
「価値観ゲーム」の分析
価値観ゲームの分析は講義より
n=51
12/19
I組織や社会への対峙方法
共同作業による図解作成
自分らしさの判断基準(GW)
自分らしさの判断基準は講義より
n=22
01/09
J自分らしく生きる
共同作業によるスローガン作成
自分らしさの方法(GW)
「自分らしさの方法」は講義より
n=17
01/16
K癒しの時空間のつくり方
特定学生対教師の対話観察
インタビューダイアローグ(特定学生)
出席ペーパーシステムは講義より
n=31
01/23
L学びとは何か
学生対教師の対話(質疑応答)
インタビューダイアローグ(全員)
インタビューダイアローグは講義より
n=22
01/30
M大学/市民/ボランティア
教師による一方的講義
出席ペーパーシステム
本日の講義はグループワークより
n=36
02/06
N各自まとめ
個人による沈思
学生個人の文章表現
この授業はほかの講義型授業より
n=50


図2.5-2 おもな結果

表2.5-3 各回の双方向要素のイメージ数値結果
項目
@
A
B
C
D
E
F
G
H
I
J
K
L
M
N
AVE.
01
3.45
3.20
3.24
3.21
3.12
2.92
2.97
3.26
3.08
3.00
2.65
3.06
2.91
2.86
3.34
3.08
02
3.14
3.06
3.00
2.99
2.90
2.57
2.84
2.89
2.67
2.77
2.44
2.58
2.59
2.47
2.82
2.78
03
2.91
2.87
2.81
2.76
2.92
2.70
2.84
2.91
2.75
2.91
2.47
2.90
2.27
2.50
2.65
2.74
04
2.94
3.01
2.88
2.63
2.92
2.27
2.76
2.40
2.43
2.67
2.25
2.52
2.18
2.86
2.84
2.64
05
2.58
2.76
2.69
2.78
2.92
2.49
2.39
2.89
2.51
2.55
2.75
2.80
2.45
2.17
2.66
2.62
06
3.16
3.28
3.06
2.97
3.08
2.62
3.02
2.57
2.82
2.73
2.76
3.00
2.50
2.97
3.22
2.92
07
2.70
2.82
2.61
2.63
2.57
2.65
2.55
2.57
2.45
2.32
2.53
2.35
2.23
2.25
2.48
2.51
08
3.02
2.83
2.90
2.74
2.73
2.62
2.55
2.57
2.57
2.59
2.65
2.47
2.27
2.50
2.70
2.65
09
3.37
3.28
3.10
2.91
2.78
2.76
2.74
3.00
2.65
2.95
2.87
2.77
2.50
2.75
3.04
2.90
10
3.20
3.07
2.94
2.71
2.75
2.73
2.76
3.11
2.86
2.82
2.41
2.58
2.50
2.63
2.94
2.80
11
3.05
2.83
2.66
2.70
2.50
2.51
2.84
2.70
2.75
2.41
2.31
2.61
2.33
2.92
2.69
2.65
12
2.59
2.46
2.31
2.30
2.58
2.43
2.77
2.37
2.57
2.50
2.06
2.45
2.18
2.78
2.58
2.46
13
2.90
2.96
2.84
2.79
2.70
2.84
3.00
2.79
2.69
2.82
2.50
2.77
2.45
2.94
2.92
2.79
14
2.88
2.83
2.58
2.90
2.67
2.78
2.66
2.47
2.69
2.68
2.38
2.55
2.64
2.50
2.78
2.66
15
2.56
2.66
2.31
2.56
2.70
2.46
2.47
2.32
2.63
2.55
2.47
2.23
2.68
2.64
2.48
2.51
16
3.13
3.24
2.99
3.03
2.95
3.00
2.74
2.91
3.06
3.09
2.93
2.94
3.18
2.58
3.12
2.99
17
3.00
3.05
2.95
2.91
2.92
2.89
2.74
2.98
3.12
3.09
3.00
2.77
2.64
2.58
3.02
2.91
18
2.77
2.72
2.57
2.60
2.38
2.38
2.84
2.38
2.48
2.45
2.44
2.29
2.59
2.81
2.54
2.55
19
2.50
2.41
2.28
2.49
2.48
2.65
2.39
2.66
2.24
2.86
2.63
2.58
3.00
2.19
2.60
2.53
20
2.26
2.33
2.05
2.57
2.15
2.84
2.15
2.68
2.29
2.73
2.41
2.19
2.09
2.22
2.34
2.35
21
2.19
2.12
2.07
2.21
2.08
2.65
2.06
2.55
2.25
2.68
2.44
1.97
2.00
1.86
2.28
2.23
22
2.32
2.41
2.11
2.23
2.33
2.59
2.23
2.46
2.38
2.55
2.38
2.10
2.27
2.11
2.22
2.31
23
2.75
2.78
2.39
2.67
2.67
2.70
2.45
2.68
2.63
2.91
2.76
2.35
3.00
2.44
2.54
2.65
24
2.86
2.88
2.67
2.93
2.73
2.76
2.55
2.94
2.67
2.86
2.88
2.45
3.27
2.22
2.92
2.77
25
2.86
2.89
2.84
3.03
2.90
2.78
2.76
2.89
2.71
2.77
2.65
2.74
2.27
2.47
2.80
2.76
26
2.96
3.05
2.99
3.09
2.92
2.86
2.77
2.96
3.08
3.27
3.06
3.03
2.91
2.64
3.02
2.97
27
2.56
2.48
2.36
2.50
2.55
2.49
2.58
2.57
2.47
2.64
2.41
2.29
2.27
2.33
2.54
2.47
28
2.60
2.66
2.46
2.63
2.57
2.49
2.40
2.55
2.47
2.14
2.41
2.48
2.68
2.36
2.38
2.49
29
2.98
2.90
3.01
3.07
2.73
2.97
2.68
3.11
2.80
3.14
2.94
3.00
2.59
2.44
2.94
2.89
30
2.40
2.52
2.30
2.31
2.58
2.24
2.48
2.53
2.41
2.23
2.24
2.32
2.18
2.33
2.38
2.36
31
2.93
3.10
2.84
2.84
2.92
2.81
2.68
2.85
2.96
3.00
2.88
2.84
2.95
2.58
2.86
2.87
32
2.40
2.52
2.24
2.41
2.25
2.53
2.23
2.43
2.48
2.64
2.53
2.35
2.18
2.25
2.70
2.41
33
2.60
2.63
2.40
2.59
2.37
2.32
2.29
2.43
2.63
2.55
2.47
2.52
2.27
2.33
2.74
2.48
34
2.72
2.88
2.49
2.66
2.42
2.46
2.34
2.53
2.64
2.36
2.53
2.35
2.36
2.42
2.82
2.53
35
2.53
2.61
2.42
2.50
2.42
2.70
2.37
2.66
2.66
2.82
2.65
2.42
2.41
2.31
2.66
2.54
36
2.81
2.84
2.69
2.86
2.37
2.86
2.34
2.93
2.86
2.68
2.76
2.65
3.09
2.22
2.84
2.72
37
2.45
2.57
2.42
2.63
2.34
2.64
2.16
2.79
2.27
2.82
2.94
2.53
2.68
2.42
2.60
2.55
AVE.
2.78
2.80
2.63
2.71
2.64
2.65
2.58
2.71
2.64
2.72
2.59
2.56
2.53
2.48
2.73
2.65
注1 丸付き数字は回数である。
注2 左列の01から37は授業イメージの調査項目で、それぞれ図2.5-2に示したとおりである。


結果から以下の諸点が指摘できる。
 初回の「カード式発想法」については、「01進め方がおもしろい」、「02わくわくする」、「09授業に親しみがわく」、「10退屈しない」、「11わかりやすい」などのいわば「即自的」な項目において高い評定を得た。
 これは「なぜ、この授業を受けるのか」を各自がカードに記入して提出するWSであり、あとは教師が読み上げて黒板上で集計するのを観察していればよいというものであった。そのため、他者とのコミュニケーションが苦手な学生でも、気楽に参加することができたのだと推察される。
 第2回の「出席ペーパーシステム」についても、
「01進め方がおもしろい」、「02わくわくする」、「06自分のペースで受講できる」「09授業に親しみがわく」、「10退屈しない」などの「即自的」な項目において高い評定を得た。
 しかし、同時に、「16幅広い見方ができるようになる」、「29自分に気づける」などの対自的項目、「34友達にこのシステムについて話したくなる」などの対他的項目においても評定が高い。ラジオのディスクジョッキーに投稿するような形態での文章表現と、顔の見えない他者のそれを聴くことは、学生に適度な距離感を保証しながら対他の気づきを促す点で有効だったと推察される。
 共同作業による「図解ワーク」は、前記2項目とは対照的に即自的項目の評定が低く、「04心が安らぐ」、「30くよくよしなくなる」などに対して平均値が中間値を大きく下回っている。
 しかも、「33人の痛みがわかるようになる」も低い。ただし、「20団体で行動ができるようになる」、「21リーダーシップが身につく」、「22責任感が強くなる」に対しては肯定的である。
 このことは、チームワークが苦手な学生に対して団体行動や統率力、さらには責任感をもつようにグループワークを強制しただけでは、かえって「人の痛み」などを無視して表面的なワークに走らせる危険性があることを示唆している。
 「価値観ゲーム」については、「04心が安らぐ」ということはないものの、即自面でも「03没頭できる」「10退屈しない」という評定である。その上で、「29自分に気づける」し、「20団体で行動ができるようになる」、「36相手のよいところを発見できる」のである。
 「価値観ゲーム」とは、愛、自己実現、正義などの項目を一対比較法で順位付けし、自他の価値観を知るものである。(4)これをグループ内で発表させ、また、相手の判断基準を納得するまで質問させて、異なる価値観を受容させた。
 「対他は苦手」という学生の中には、社会化とは、先述のように自他の痛みを切り捨ててまで、組織や集団に奉仕することだと考えている学生もいると思われる。そういうタイプの学生には、望ましい社会化に向けた気づきにつながるといえよう。
 このような自他受容を促す「仕掛け」は、もっと初期の段階に配置すべきだったと考える。
 「全員インタビューダイアローグ」については、「03没頭できる」、「04心が安らぐ」、「07夢がもてる」の即自的項目のみならず、「25自分と関係のある」という対自、「32人を信頼できるようになる」、「20団体で行動ができるようになる」、「21リーダーシップが身につく」などの対他の項目でも評定がかなり低かった。反面、「19言葉をうまく使えるようになる」、「23判断力が身につく」、「24自発性が身につく」「36相手のよいところを発見できる」については他から突出して高い。
 「インタビューダイアローグ」とは、「(司会者を置かずに)参加者の代表と講師(教師)との直接対談が行われるため、参加者の理解や問題意識が高められる」(5)(カッコ内は引用者)というものである。前回の授業で有志の学生から教師にインタビューさせた後、その回は全員にマイクをまわして「できるだけ何か一つでもインタビューするように」指示したのである。
 調査結果から、次のように推察される。講義型授業だけでなく、グループワークであっても、積極的に参加しない学生がいる。周りの学生もその学生に発言を促すことまではしない。グループの成果を上げることよりは、距離を置いて衝突を避けることの方が優先されるのだろう。しかし、積極的に参加しない学生は、じつは自己内の思考さえしていないおそれがある。
 これに対して、その回は、教師がマイクをまわして発言を指示したことにより、そういう学生たちが仕方なく「自発的」に「自己の判断」を働かせて「言葉」を発し、他者にも気づいたのだろう。
 しかし、見知らぬ大勢の他者の前で、発言を強制されることは、「心が安らがない」ばかりか、少なくとも当初は、学生自身にとって納得できる意義を感じられないことであることは、教師は留意する必要があったといえよう。教師が学生に「発問」することは、しばしば見られる指導行為の一つであるだけに、それを意識することは重要である。
 しかも、その回、教師が学生に要請したことは、教師の問いに答えることではなく、教師に(「何でもいいから」ではあるが)インタビューせよということである。すなわち、問いを発するよう指示したのである。これは、「問うことを学ぶ」という学問の基本的姿勢を身につけさせるためのものであったのだが、「答えを教わる」ことに慣れてきて、しかもそれが正しい学習態度であると思い込んで安心している学生にとっては、いっそう衝撃が強かったものと推察される。
 以上に述べたように、本授業の双方向要素の一定の部分は、一部の学生にとっては、主に即自的な面での不安、不快感が強く、そのため脱落者も多かったものと思われた。そこで、翌年度からは、全出席を前提とする学生参画型授業とすることを授業の初回に公言し、そういう授業に耐えられないと思う学生は「自分自身のためにも」受講を辞退するよう要請した。
 そのため、翌年以降、受講人数は50人以下に精選され、双方向授業がやりやすくなり、学生の出席率も向上した。
 しかし、双方向授業と聞いて、初回の授業の途中ですでに、がっかりして出て行く学生の姿が、われわれには気になっていた。結果として、われわれは彼らを疎外したのではないか。教師や親の言うとおりに「まじめに」勉強し、大学側も彼らの入学を認めたのである。われわれ教師はそういう青年たちを受け入れ、「まじめな勉強」とは異なる学問の魅力を伝える必要がある。
 そして、「社会性を身につけること」が「曲がりなりにも」彼ら自身の願いでもあることを思えば、双方向授業に耐える社会性をもった青年だけを相手にするのではなく、それを恐れる学生に対しても、教師は社会化支援機能を発揮する責務があるだろう。
 そのためには、学生個人個人の即自、対自、対他の気づきの状況、すなわち各人の個人化(後述)
と社会化の状況に的確に対応した指導行為が大学授業に求められる。「十把一絡げ」では双方向授業は成立しない。

2.5.3 研究2の目的
 「社会化」と「個人化」の二項対立の問題は、個人の側面にも深刻な影を落としている。「友達から変だと思われたらもうおしまい」という言葉に象徴される「同化圧力」が指摘できる。他者との同質化というある種の社会化過程が、自己の異質性を犠牲にしてでも実現しなければならない重荷として意識される。しかも青少年の場合、同質化の対象はあくまでも「ピア」(peer:同等の者、同輩)であって、一般的な他者や社会ではないことが多い。
 このようにして、個人化と社会化はますます背反するものになっていく。そこでのキーワードは「自分らしさ」と考えられる。「自分らしさ」と社会化との背反のなかで、多くの若者の「自分らしさ」への願望と絶望感には大きなものがあると推察される。
 本研究では、「社会化」と「個人化」の関連の一側面としての「社会性を身につけること」と「自分らしく生きること」の矛盾を、学生がどのように受け止めているかを分析する。そのことによって学生の「社会化」の類型を設定する。

2.5.4 研究2の方法
 徳島大学2002年度共通教育(教育学)「大学・市民・ボランティア」において、「もし宇宙に他者がいなければ、自分らしさはもっともよく守ることができるということになってしまうのか」という教師からの「揺さぶり」の発問ののち、「自分らしさを守り育てることと、社会性を身につけることはどういう関係にあるか」について学生56人に対して文章表現を提出させ、その記述内容を分析して類型化した29。また、次の回にすべての記述を学生に示し、自分は他者のどの発言に共感したり、あこがれたりするかを回答させ、集約した。
 なお、この研究では「社会性を身につける」という言葉を使い、ニュアンスとして友人関係にとどまらない「社会」をイメージさせることによって「社会的能動/受動」の傾向を調べようとした。

2.5.5 研究2の結果と考察
 記述内容を分析した結果、以下の4つの意見が象徴的、代表的なものとして浮かび上がった。また、これらは、次の回のアンケートでも、多くの学生が「共感する」、「(自分は違うタイプだけど)あこがれる」などと回答した。

T 「自分らしく生きたい」と思っている今その全てが「自分らしさ」。社会性が身に付いていてもいなくても、それがそのまま「自分らしさ」。言葉に振り回されてはいけない。結局自分自身で認めるかどうかの問題。
U 他人と違う行為や言動で仲間から外されるという恐怖があって自分の意見を言えない。意思を押し通そうとすれば「協調性がない」と煙たがられる。自分らしさを守り育てることと、社会性を身につけることは相反する。
V 自分らしさを守り育てることは、社会性を身につけることの中に含まれる。社会性を身につけた上での、社会に受け入れられる自分らしさじゃないと価値がない。両者は同時に並行して行われなければならない。
W 自分らしさは、人と接することでさらに磨かれる。健全な両者を持つということは他者へも良い刺激となり、再び自分へつながる。よってこれら2つの関係は、お互いに盛りたてあう関係にある。木と根っこのようにも思える。

 Tを「主観的自分らしさ優先型」と名付けた。彼らにとっては自分の中にもともとある自分らしさが大切であり、たとえ社会性が身についていなくても自分らしさの存在には疑いをもたない。その点から、社会にはあまりプレッシャーを感じないままに、能動的に働きかけることができると推察される。
 Uを「同化圧力としての社会化型」と名付けた。彼らも自分の中にもともとある自分らしさを本当は大切にしたいのだが、同化圧力を敏感に感じるため、自分らしさを出すことは苦手である。とくにピア・プレッシャーが強いと考えられる。この回答自体が、広い意味での社会性ではなく、「仲間」からの圧力を前提としている。これらの点から、社会に対して基本的には受動的であると推察される。
 Vを「社会への組込まれ必然型」と名付けた。第T類型とは反対に、自分らしさも社会に受け入れられなければ価値がないとしているからだ。社会によって規定される現実を受け入れている。「社会に受け入れられる」ことを優先しているので、社会に対して受動的と推察される。
 Wを「社会と自己相互発展型」と名付けた。社会の中にあってこそ、自分らしさが磨かれるというのだ。そして、自己が社会を「盛りたてる」というところから、社会に対して能動的と推察された。
 このようなことから、図2.5-4のとおり「社会化の類型」を設定した。56人の記述分析をしたところ、Tは6人、Uは14人、Vは13人、Wは14人が該当した。価値中立または無価値型が6人いた。














図2.5-4 社会化の類型



 ところが、「共感する」、「あこがれる」発言を集約したところ、Tに対して8人、Uに対して5人、Vに対して4人、Wに対して4人が支持を表明した。
 結果として、少数派の類型に所属するTが一番支持を集めたのである。母数は小さいが、このデータの限りでは、(主観的には)社会から自由な「主観的自分らしさ優先型」が、逆にWS型授業等での学生同士の関係において他の学生によい刺激を与える可能性を示唆している。大学授業において「自己内自分らしさ型」の欠点を補いつつも、力点は彼らの長所を発揮させるところにおくことが重要と考えられる。
 このことは、われわれは経験的には感じてきたことなのだが、後述するように、大学授業の運営に生かすために実証的に教育研究を進める必要があると考える。
 各類型における社会化の特徴や問題点については、それぞれ次のように推察される。Tは自己を守ろうとする純潔さゆえに、組織や社会に対しては「仮所属」になりがち。Uは表面上は外部からの同化圧力に屈服した形をとり、主体的には社会に関わらない恐れがある。Vは過度に社会に適応しようとし、組織や社会になじめない自他の個性については否定しがち。Wは実際に自分らしさの危機に陥ったときに、それを認めようとしなかったり、挫折したりする恐れがある。
 このように、4類型でとらえてみると、それぞれの類型ごとに異なる問題を抱えていると考察される。

2.5.6 討論
(1) 大学教育としての社会化支援の課題
 以上、学生の社会化類型に応じた大学授業の可能性について検討してきた。しかし、その課題も大きい。
 第1は、「授業における社会化の達成度をどのように評価するか」という問題である。青少年教育のなかで、その必要性が盛んに叫ばれている「体験学習」については、10年前に実施した「長期自然体験活動事業」参加者の事業参加後の意識や生活観などについて調査する青少年教育施設がある30。
 大学授業についても、卒業時に社会適応できて即戦力となる人材より以上に、職業生活の中でだんだんと自己の力量を発揮できる人材を育成することを目指さなければならないのではないか。
 その観点からいえば、若い頃の多少の社会性のなさや、対他者に関する苦手意識などは、大学授業で問題にすべきことではないと考えられる。個人化(個人の充実等)と統合的に行われるような、もっと本質的な「社会化」こそが大学の人材育成の使命であり、授業評価もその観点から行われなければならないと考える。
 第2は、第1にも関わるが、「大学授業が支援すべき真の社会化とは何か」という問題である。もちろん、大学授業が、たくさんの友達をつくったり、社交性を身につけさせたりするためのものではない。そして、この研究で設定した「受動型」や「非交渉型」などの学生を、一方向的に「能動型」や「交渉型」に追いやることでもないと考える。「受動」や「諦観」は、人間が生きるにあたって、重要な哲学という側面を有しているからだ。
 このような意味から、大学教師が授業等をとおして学生に対する社会化機能を発揮する場合、教師自身の内なる社会化モデルに学生を沿わせようとするのではなく、それぞれの学生の状況とニーズに応じて、本稿でも考察したようにいわば「一人一人の持ち味を生かす」形でそれを行わなければならない。
 われわれは、授業実践とそれに関わる研究のなかで、自戒の念をこめてそう考え、また、迷い続けてきた。
(2) 大学教育研究の方法上の課題
 大学教育研究における方法上の課題としては、次の3点をあげたい。
 第1は、「授業外での個人の気づきと、それが授業での気づきに及ぼす影響を、どう明らかにするか」という問題である。
 研究の対象は各回の実施時期が1週間の間隔で離れている。その時間が学生に与える影響は大きいと考えられる。また、授業以外でも、自習時のみならず、生活、アルバイト、交友、さらには一人でいる時に思索を重ねる時間こそが学生が学生でいることの価値とも考えられる。そこでの気づきと授業での気づきの関連を把握する必要があるといえるだろう。
 第2は、「青年としての学生の『文化』をどう理解するか」という問題である。
 藤村正之は個人に及ぼされる諸効果の要素について、加齢(aging)、時代(period)に並んでコーホート(cohort)という要素を挙げ、「ほぼ同時期に生まれた者たちの集団」であり、同一年齢段階に比較的類似の経験をしていく「同時経験集団」と説明している。そして、「私たちは、『コーホート文化』として考えるべきものを、『青年文化』と概念規定していた可能性がある」と指摘している31。
 この指摘は、諸個人を生物学的年齢によって区別する「自然主義的世代概念」や、近似的な年齢の諸個人を社会的・歴史的な生活空間の中で統一体として把握する「歴史主義的世代概念」だけでは青年文化は正確には理解できないことを示唆している32。
 新しい世代としての学生の文化を分析し、学生理解を深めるためには、授業という実践の場でテンポラリーな調査を行うことによって、先行研究からは得られない知見を得ることが必要といえるだろう。
 第3は、「個人の気づきをどう数値化するか」という問題である。本研究では、授業イメージの調査項目を「即自」、「対自」、「対他」の3つに分類し、数量的な面から検討した。
 しかし、項目ごとに「即自」、「対自」、「対他」の占有率があるはずであるし、さらには、学生個人の変容に焦点を当てた場合、その占有率の変化という動的状態こそを確かめたいのである。そのことによって、学生の「即自」→「対自」→「対他」の気づきの発展プロセスや、他者への気づきが「対自」や「即自」の気づきに再び転化して深まっていく「段階を踏んだ循環」を、いっそう明らかにすることができるといえよう。
 このようなことから、学生の社会化支援に関して、われわれ大学教育研究を行う者に与えられた課題は大きいと考える。



2.6 ワークショップ型授業の構成要素とその効果

 高等教育にとって学生の自己決定能力が大事な要素であることはいうまでもない。そして、そのための大学教員の指導の研究は、青少年教育全般が行う社会化支援にとっても有益な知見を与えることが期待できる。
 この研究では、徳島大学学芸員課程科目の集中講義の機会を用いて、自己決定の生き方を自ら選択するよう導く授業方法を検討した33。学生の自己決定的な参加・参画に基づく手法であるワークショップ形態を中心にして、その指導の効果を明らかにしようとした。ワークショップは、各人の自己決定による言動が成果の共有のための必須条件として体験的に認識されると考えたからである。
 自己決定能力を効果的に育成するためのワークショップの構成要素を明らかにすることによって、個人化と社会化を統合的に支援する方法としての効果を確かめたい。

2.6.1 仮説の設定
 本研究では、学生の気づきの状態を「即自」と「対自」と「対他」に分け、その発展上に「対自=対他」を設定した。ここでの自は自己であり、他は他者である。「即自」とは無自覚に認識できる「そのままの自分」である。ただし、「対自」や「対他」から何度も立ち戻った末の深いレベルの「即自」は、いわゆる自然体の「あるがままの自分」が想定される。「対自」とは自己を客観的に認識する「もう一人の自分」を想定している。これも表層的な自己否定から深層の自己受容に至るまで、いくつかのレベルが想定される。「対他」とは「自己とは異なる他者の存在」への気づきである。これも数段階のレベルを想定している。
 従来の議論では、「対自」は「自己洞察による客観化と主体化」であり、それゆえ「対象に対するときは、自分自身もその中に参加し、自分の問題として考える主体的な構えをもつ」34とされるが、教員の実感としては、「対自」は深まっても「対他」は苦手という若者が多く見受けられる。そのため、「対自」とは別にあえて便宜上の造語である「対他」を設定して研究を進めた。
 このように想定して次の仮説を設定した。[2日間の授業の中で学生の気づきが「即自」→「対自」→「対他」と経緯する]ということである。
 この研究の目的の第1は、学生が授業のどの場面でどのように気づきを得てゆくか、その変容過程を解明することである。第2は、ワークショップ型授業の構成要素とその効果を明らかにすることである。

2.6.2 研究の方法
 研究対象とした授業は、2000年度前期学芸員課程の科目「生涯学習概論」である。受講学生42名(うち男3名)に対して8コマ2日間にわたる集中講義で実施した。
 調査及び分析は、@授業イメージに関する調査、A学生の提出した文章、Bワークショップの成果、C映像による授業記録に関する調査を対象にして行なった。
 授業イメージの変容の検討は次のように行なった。3回にわたって「この授業について」のイメージ調査を質問紙により行なった。調査の構成はa「即自」13問、b「対自」13問、c「対他」11問である。調査の実施時期は図2.6-1の1a終了時と2d終了時とした。今回の報告では調査ABを用いている。有効データ数は33である。
 学生の記述した文章の分析は次のように行なった。1a終了時に文章表現@「私はどう生きてきて、この授業に何を期待しているか」、1d終了時にA「自分の自己決定を阻害する要因」、2a終了時にB「午後の授業に、私は今は何を期待しているか」、2d終了時にC「ワークショップを終えての感想」を、それぞれA6版1枚に書くよう学生に指示した。この内容を類型化して分析を行なった。
 ワークショップの成果の分析は次のように行なった。1dのワークショップ成果@「本日の授業における出会いと自己への気づき」(図解)、2bのA「価値観ゲーム」(メモ)35、2cdのB「自己決定阻害要因排除あの手この手」(図解)を、各班で作成し提出させ、内容を検討した。


1a
 
 
1日目
11:15-12:00
教師指示型の個人文章作成
ワークショップ型授業の紹介
−私の生き方、授業への期待
12:00文章表現@授業イメージ@回収
1b
 
 
13:00-14:30
対教師観察型の図解作成
生涯学習とは何か
−自己決定活動の意義と可能性
1c
 
 
14:40-16:10
教師指示型の出会いワーク
第一印象ゲーム
−異質の他者や自分との出会い
1d
 
 
16:20-17:50
教師介入型のグループワーク
振り返りとシェアリング(成果@)
−出会いと自己への気づき
17:50文章表現A回収
2a
 
 
2日目
10:30-12:00
教師主導型の対話とグループ発表
自己決定活動の阻害要因
12:00文章表現B回収
2b
 
 
13:00-14:30
教師指示型のグループワーク
価値観ゲーム(成果A)
−ネットワークへの態度変容
2c
2d
 
 
14:40-17:50
ワークショップ(成果B)
−自己決定阻害要因排除方策
17:50文章表現C授業イメージAB回収
図2.6-1 授業の進行

2.6.3 結果と考察
(1) 授業の進行に伴う学生の気づきの変容過程
 表2.6-2に分析結果を示した。×は否定的、△は中立的、○と◎は肯定的な反応であるが、自覚的な反応は◎とした。この表によると下記の諸点が指摘できる。
 第1に、「対自」への関心は、「あなたはどう生きてきたのか」と働きかけだけで十分に引き出すことができた。具体的には、短時間の一斉指導によって、「対自」の○と◎が「即自」を上回る結果(20対32)を得た。もともと学生には「対自」に関する自覚・無自覚の関心があり、「この授業の関心はそこにある」と教師が表明するだけで成立したと考えられる。
 第2に、カード式発想法による図解のグループワーク(図1の1d)では、「対他」に関する肯定的・自覚的記述が高い。午前の文章表現では「対自」と「対他」が32対7であるのに対し、14対38と逆転している。この状況は、他学生の文章表現とそれに対する教師のコメント、第一印象ゲームにおける「その人らしさ」との交流を経ることによって生じたと考えられる。他学生の文章表現を聞くとともに、初対面の人とも安心して出会えるワークを体験できれば、他者の存在に対して関心を向けさせることができるといえよう。
 第3に、価値観ゲーム(図1の2b)では、結果や「メモ」を見る限り、上で述べたような学生の変容は見られない。本授業のワーク等が効果をもつのは、もっぱら態度の変容に関してであって、短期間で学生一人一人の価値観を変えていくものとはなっていない。
 第4に、最後のワーク(図1の2cd)では、「対他」に匹敵する「対自」の増加(39対45)が見られた。これは、2日目午前のグループごとのプレゼンテーションや午後の価値観ゲームによる他者との出会いから生じ、それが自己の存在を振り返ることにつながったと考えられる。
 第5に、○に対する◎の割合については、1日目最後のワークでは「対自」で10対4、「対他」で32対6であったのに対して、最後では28対17、23対16と増えている。特に「対他」においては、親やその他の自己決定阻害要因に対して「自己決定へのアドバイスとしてとらえる」、「相手と本気でやりあう」などの内容は注目すべきことといえる。さらに、「即自」に関しては、×と△と○の合計に対する◎の割合が、1日目午前35、1日目ワーク13に対してともに0であったものが、2日目最後のワークでは13対5に上がっている。そこでは、自己決定が運などの要因によって左右される人間の宿命を受容しつつ、しかも「他人があきれるような自分の世界を作る」などの方策が打ち出されていた。
 このように授業進行に伴う学生の気づきは、「即自」→「対自」→「対他」の単なる一方通行ではなく、「対他」に至った後「対自」に戻っている。このような、段階的に、しかも循環して深まっていく過程が明確に見出された。
(2) 授業イメージの変化
 図2.6-3は本授業に対する学生の受け止め方の水準である。「そう思う」を4、「ある程度そう思う」を3、「あまりそう思わない」を2、「そう思わない」を1として集計した。中間値の2.5は「どちらともいえない」を表している。また、標準偏差を棒グラフで示した。
 その結果の第1は、「有意義な時間である」が3.45とトップで、「そう思う」と「ある程度そう思う」の中間値(3.5)に位置している。変化量からみても、2日目のワークによってより肯定に動いたといえる。


表2.6-2 授業の進行に伴う学生の気づきの変容過程   ×否定的 △価値中立的 ○肯定的 ◎自覚的



 第2に、上位10位の内容によると、aが1、bが6、cが3で、グループワークが主体だったにも関わらずbが上位3位を占め、cは「相手のよいところを発見できる」が4位であるほかは、9、10位にとどまった。自己による教育と相互関与による教育に分けてとらえると、本授業は前者の効果の方が高かったといえる。
 第3に、「ある程度そう思う」の3.0付近の項目としては、「知識が増える」「自分と関係のある」「団体で行動ができるようになる」「わくわくする」「論理的になれる」などがある。上位の項目である自分や他者の存在への気づきに比べて、現実の日常の場で判断や行動するための知的・現実的能力については「まあまあ役立つ」と学生にはとらえられたといえよう。



    


 図2.6-3 授業イメージの変化                  表2.6-4 授業イメージの変化(ランキング)


 また、「人を信頼できる」「人の痛みがわかるようになる」「自信のもてる」はそれより少なく、2.88、2.82、2.64であり、現実の他者と接する場で上手に自己決定の生き方をするための能力が十分身につくという感覚はそれほどもててはいない。
 第4に、「効率が良い」は2.55でほぼ中立であるが、ワークショップ型よりも講義型の方が「効率が良い」と感じられるのは止むを得ないことであろう。しかし、「自分の目標をもてる」も2.61と小さい。「くよくよしなくなる」「夢がもてる」は、わずかながら否定に傾いている(2.42、2.39)。つまり、自己決定の生き方をしようと思ったとしても、どのような段取りでどういう具体的目標をめざして生きていくかといった現実場面における変容にはつながらなかったということがいえる。それゆえ「夢がもてなかった」という回答になったと推察できる。この段階までの変化のためには、互いに「自分をさらけ出す」持続的な機会の設定が必要と考えられる。
 1日目終了時と2日目終了時の本授業のイメージの変容量をランキングしたものを表2.6-4に示した。これは2日目に入ってのやや本格的なワークショップが学生にどのような変化をもたらすかを示している。その特徴は次のとおりである。
 第1に、「対自」では「感情を大切にできる」ようになり、「対他」では「気持ちを話したく」なっている。ともに同率1位を占めている。前者も「対自」とはいえ、ワークのなかで先述の思い込みが解消した結果ととらえられる。すなわち、2日目のワークは他者と出会うことについての彼らの不安・不快の予想から安心・快感に向けた固定観念の打破にとってもっとも効果的であったといえよう。
 第2に、「自分に気づける」、「自分の問題に気づける」は高く現れている。2日目のワークによる他者との相互関与がそれらの気づきを与えたといえよう。
 第3に、10位になって初めてaの「わくわくする」があがっている。ワークショップの効果は、学生の「即自」的な要求に応えるよりも、「対自」、「対他」の変容をもたらすものといえる。
 第4に、「自分と関係のある」が低い。学生にとって授業が「自分と関係のある」ものとなるためには、「講義かワークショップか」とは異なる別の授業構成要素の検討が必要と推察できる。
 第5に、微小な変容にとどまった下位5項目は、「わかりやすい」「人の痛みがわかるようになる」「授業に親しみがわく」「自分のペースで参加できる」「自分の目標をもてる」である。「人の痛みがわかるようになる」ためには、短期間のワークショップを行なうだけでは不十分といえる。しかし、「授業に親しみがわく」「自分のペースで参加できる」の低調さは、現代学生にとって対人ワークがあくまでも苦手な部類に属するということを裏付けている。
(3) 学生の文章表現における変容の検討
 ここでは、授業の過程で得られた学生の文章表現からその変容過程を検討する。
 多くの学生は、「最初はどうなることやら」と思いつつも「いろいろ意見が出てよかった」などとしている。「即自」の初期段階にある場合、ワークショップをのびのび楽しんでいる様子がみられた。これ以外の記述に重要な事項が含まれているので、ここではその事例について検討したい。
 「グループでの話し合いや皆の意見を聞いて、自分がどう生きていったらいいのかという迷いのようなものが断ち切れたような気がする」とまで書いている事例がある。授業に過大な期待をする学生にとっては、本授業は無理をしないで現実的に教育や自己成長に向かい直させる効果があったといえよう。