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< 若者がネットコミュニティを好む理由

 若者文化研究所 西村美東士


ネットコミュニティは、「ヤマアラシジレンマ」の若者たちにとって、質の良いコミュニケーションの場になりうる。
しかし、今日の状況を見ると、下手をすると、一部の若者にとっては、リアルコミュニケーションより緊張し、傷つく場になりかねない状況が見受けられる。
それでも、「つながり」が絶たれることを恐れて「潔い撤退」ができない若者がいる。
ネットコミュニティは、本来撤退自由なネットワーク型の集団である。
しかし、そこには、コミュニケーション力の向上が求められる。

ここでは、パソコン通信による新しい集団の形成に関する私の古い論文を挙げておきたい。
パソコン通信における「シグオペ」による統括者の存在や、新しいコミュニケーションの先達としての資質や自負が、
若者が潜在的に求めているであろうネットワーク型のネットコミュニティを実現していたのだと考えたい。
それは、SNSなどの今後のインターネットにおけるコミュニティ形成の理想像を示しているように思える。
ちなみに過去のシグオペは、今日のSNSのキーパーソンである「インフルエンサー(influencer)」ということができよう。
彼らによって、コミュニティの盛衰は決まるように思える。


1989/6/15西村美東士「パソコン・パソコン通信と青年−成熟したネットワークとは何か」、高橋勇悦編『メディア革命と青年』、恒星社厚生閣、pp.109-141

パソコン通信における新しい「集団」の誕生

 パソコン通信のネットワーカーたちは、「電子的仮想空間」を媒体とする新しい「集団」を形成している。
 すなわち、従来、集団は「人為的、単一機能的、合理的」←→「自生的、複合機能的、情緒的」という二つのパターンで代表されていたのだが、パソコン通信は、「明瞭な人為性」、「諸単一機能の交錯」、「合理性と情緒性の混在」、「個人的行為と集団的行為の混沌化」という新しい集団を形成している。このようにして、近代的機能集団の中で「ハイタッチ」を実現している。そして、「電子的仮想空間」であるから、「広域」であり、物理的・精神的に閉じ込められた狭い世界のワクを突破することができる。それでは、パソコン通信の「集団」は、どういう点で現代人に好まれる「ネットワーク型」といえるのか。
 まず、パソコン通信においては、「撤退する自由」がある。「仮想空間」であるから、撤退しても生活に響かない。「撤退する自由」の上で、論争などの他の人との「ゲーム」を行えるのである。「親しくなりたいけれども、自分は傷つけられたくない」と言って、他者が近づくと針を逆立ててしまう「山アラシのジレンマ」●2に冒された現代人にとっても、「それならやってみようか」という気を起こさせる条件を満たしている。もちろん、ネット上でのけんかもたまにあるが、それを含めてすべての「論争」は、率直にさわやかに他者を批判できる知的風土を形成するためのシミュレーションと考えられる。
 そして、このネットワークにおいては、個人主義が障害にならない。むしろ質の良い個人主義が理想とされる。「質の良い個人主義」とは、魅力的・個性的な自立的価値をもちながら、なおかつ「異質」のものと喜んで交流する志向を意味する。このようにして、予想外の異質な人から、予想外の異質なレスポンスを得ることがパソコン通信の醍醐味である。
 しかし一方で、パソコン通信の新しい「集団性」は、たとえ現代人に好まれるといっても、フェース・ツー・フェースのコミュニケーション能力を減退させ、電子上でしかコミュニケートできない人間をつくりだす危険性をもっているという批判もある。実際、「パソコン通信ばかり」している青少年もおり、そのパーソナリティー形成への影響は心配されて当然かもしれない。 「共感」や「感動」はナマの人間に対してあるのであり、情報やメディアそのものに対してあるのではない。情報から「人間」を嗅ぎとり、その人間に共感することは、仮想空間でもできるが、そこには限界があることもたしかである。この「限界」は在宅メディアすべてに通じる基本問題でもある。私は、だからといって従来の「空間的集合」による方策(たとえば集合学習など)を単純にむし返すのでは、後向きだと思う。過去の「集団」ではついていけない人、あるいはあきたりない人が現にいるのである。むしろ、フェース・ツー・フェースのコミュニケーションを模擬・増幅・補完するパソコン通信の機能を評価したい。
 最近、「パソコン通信燃え尽き症候群」が取り沙汰されている。今まで毎日のようにアクセスしていた人が、電子上では週末ぐらいしかアクセスせずに、むしろ「アイボールミーティング」(目玉であうこと=宴会・集会など)をせっせと開催し始めているというのである。●3これは、通常、「バーンアウト」によるパソコン通信離れと言われている。しかし、この「燃え尽き症候群」は、パソコン通信の「危機」ではなく、じつは可能性を表すものではないか。パソコン通信だからこそ、家族や学校や職場以外の人との「出会い」のきっかけになりうるのだ。「アイボールミーティング」などは、現代一般のコミュニケーション阻害を克服する営みの一つといえるだろう。しかも、パソコン通信に「埋没した」生活ではなく、「一般人」でもできる常識の範囲内のアクセス回数になってきているという。「燃え尽き症候群」は、むしろパソコン利用の成熟化の端緒といえるのではないか。

 パソコン通信で何が「通信」されるか、だれも計画や予想はできない。それゆえ、押し出す先の決っている「プッシュ型」の教育の観点からは、パソコン通信は関心の対象外になりがちである。行政ばかりか、「ユーザー教育」の重要性を唱えるパソコンメーカーでさえ、パソコン通信の通信内容に関しては、あまり「敬意」を払ってはいないようである。ただ、ネットワーカーたちは「自立的」であるから、メーカーに「評価」も「ユーザー教育」も求めていない。むしろ、たとえばパソコン通信サービスを行っているメーカーなどに対して、「キャリアー」(運搬者)に徹してくれればよいと言っている。
 しかし、これからますます発展するであろう情報化と人々のネットワーク化は、すでに述べたように、大きな可能性とともに、どうしても克服しなければならない問題性をもっている。その問題の克服のためには、「不易」を「体系的」に提示しながら、イロ・モノ・カネに関わるなまなましい「学習」需要もみくびることなく、それが量的にも質的にも発展するよう促す「プル型」の援助の姿勢が社会にも求められる。このような姿勢でパソコンネットワークを援助するならば、それは「学習者の現在の自発性を尊重しながら、今後の自主的能力を育成する」という、一見、「自己撞着的」な教育理念を実現するための「偉大な試み」になるのである。
●1 「活字のサーカス」、椎名誠、岩波書店、p210、1987.10
●2 「山アラシのジレンマ」、L.ベラック、小此木啓吾訳、ダイヤモンド社、1974.1、もとはショーペンハウアー。
●3 「転機に立つパソコン通信」、松岡資明、日経パソコン、1988.8.22



西村美東士「ネットワーク−ヒエラルキーからピアへ、ピアからネットワークへ」、富田英典他編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣、pp.133-134


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