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< クドバスの「仕上がり像」という言葉は上から目線か

 若者文化研究所 西村美東士


 クドバスでは「仕上がり像」(職業人像)を設定することによって、「仕上がり像」への到達を目指した個々の到達目標(必要能力)を設定できる。「仕上がり像」を明らかにしないまま教育活動をすることは、学習目的を学習者には提示しないで隠したまま、あるいは学習者一人一人の想像に任せたまま、何らかの既定の下位の目標への到達を強いるものであり、学習者の主体性を軽んじる行為であるといえる。
 大学教育においても、最近はシラバスを受講学生に公開し、教員が何を目的にその授業を行うか、という「手の内をさらす」ことがやっと常識になってきた。「素直に自分についてくること」を学生に求めてきた教員にとっては、気にいらない傾向であったと思うが・・・。
 さらにいえば、シラバスを契約書ととらえ、学生が選択し、授業の目的に共鳴して受講できる単位制の保証があってこそ、上の論理は貫徹されると考える。
 
 クドバスでは、次のように「仕上がり像」を設定する。


「CUDBASとは」より

−−−−引用始め−−−−
(職業教育にクドバスが役立つ理由の一つは)カリキュラム作成者が当事者によることです。一般にカリキュラム開発は当事者によらず行われることが多くあります。カリキュラム開発に関心があっても、事前にその方法を学習しないとできないことが一因となっています。クドバスでは仕上がり像に対する意見や見解を持ち、内容を知っている当事者であれば誰でもカリキュラム開発に参加できます。クドバスはこの作業を通して、共通の目標である「職員像」の実現に向けて立場を越えて議論し、見解をまとめ上げていきます。 −−−−引用終り−−−−

 ところが、クドバスの「仕上がり像」という言葉は「上から目線」だという批判的見解に私は遭遇した。そこでは、職業訓練を除く教育研究においては、「仕上がり像」という言葉を使用しているのは、私、西村美東士だけだとされて、名指しの批判がされている。それは以下のとおりである。

領木邦浩、新目真紀「臨教審以後の後期中等教育と今後の中等後教育におけるキャリア形成」

−−−−引用始め−−−−
Google Scholarで学術論文を検索する(2017年12月6日 13時30分実施)と、31件の結果が得られ、29件は職業能力開発に関係する論文であった。残る2件のうち、1件はメーキング、すなわちケーキ菓子のデコレーション作品の出来上がりイメージ写真の説明に“仕上がり像”の語句が1回だけ用いられていた。もう1件は西村(西村美東士:“社会形成者の育成の観点に立った生涯教育学序説(1)”,聖徳大学生涯学習研究所紀要,Vol.11 pp.1-29 2013)の生涯教育に係る論文中で、著者の業績紹介の中に、職業能力開発に関係する論文であるクドバスを活用した学習内容編成に関わるもの(西村美東士:“クドバスを活用した子育て学習の内容編成”,聖徳大学生涯学習研究所紀要,Vol.3, pp.41-54 2005)があり、その要旨の記述に職業能力分析の手法の説明として“仕上がり像”の語句が用いられていた。従って、この用例も職業能力開発に関係する論文での使用と判断できるので、結果として“仕上がり像”の語は職業能力開発の業界でしか通用しない一種の隠語と見倣すことができる。
−−−−引用終り−−−−


私は、たとえば、科研費研究報告書において、親の社会化を支援する「子育て学習」内容編成の方法について、次のように書いている。

 この研究では、親として獲得すべき多様な能力を構造化し、それに基づいて学習内容を編成した。そのことによって「作業の組織化」が保障されるとともに、学習プログラムのなかのそれぞれの回について、獲得すべき能力を明示化することができる。各回の目標の到達度をより適正に点検し、自己評価を行うことが可能になる。その学習プログラムのめざす「(親としての)最終的な仕上がり像」が構造化されて明らかにされることから、事業全体の到達目標の設定と評価も、より明確に行うことが期待できる。このような学習目標の明示化は、学習者に対して自覚的学習行動と、学習目標への能動的関与を促す契機になることが期待できる。

 つまり、私は「(親としての)最終的な仕上がり像」の明確化を、到達目標の明示にとって必要であり、それが主体的な学習を促すための要素と考えているのである。これに対して、前掲「臨教審以後の後期中等教育と今後の中等後教育におけるキャリア形成」においては、次のように「仕上がり像」という言葉を「上から目線」として批判している。

−−−−引用始め−−−−
 今日的な言い回しをすれば大変「上から目線」な言葉であり、指導員を始めとする能力開発現場またはその行政にかかわる者の倣慢さ、もう少し穏やかに言うならばその感覚に気付かない鈍感さを体現した言葉と思われる。少なくともこれらの言葉を法律用語としては残さざるを得ないとしても、自分と同じであるすべての人達に投げつけることが無いように心して慎みたいものである。
−−−−引用終り−−−−

 「自分と同じであるすべての人達」とは、学習者のことを指していて、指導者も学習者と「同じ仲間」、すなわち指導者を「ワンオブゼム」(仲間の中の一人)ととらえているのであろう。これは学習者目線のように見えるが、指導者としての、学習者とは異なる役割を見逃す考え方につながっている。

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私の「ワンオブゼム」論批判については
(参考)西村美東士「生涯学習時代における公運審の役割と課題」より

トップ・ダウン論とワン・オブ・ゼム論の双方からの脱却のためには、次のヘッドシップとリーダーシップとの違いがヒントになる。--ヘッドシップとは「組織が階層的上位者に公認している、制度上の権威に依存する指導現象」であり、リーダーシップとは「指導者個人の魅力や能力に依存する指導現象」である。(見田宗介他『社会学事典』弘文堂)--。ゆえにリーダーシップは流動的で柔軟なものであり、トップ・ダウンでもワン・オブ・ゼムでもなく、住民が自発的に支持を寄せることによって成立する、異質どうしが水平に交流するネットワークの関係であるといえる。このネットワーク型の関係を「協働」と言い換えることができる。
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 「仕上がり像」が学習者と社会の両者のニーズに基づいて明示され、自分がなりたいその「仕上がり像」に向かって(たとえ完全な到達はできなくても)、たとえば親が子育て学習をする。そして、学習目標を確実に達成する。親にとっては、そこに学習の喜びがあり、主体性があるとわたしは考える。
 このような「仕上がり像」を隠したまま、観念的な「教育目的」と、その目的には立脚していない「教育目標」を、学習者の納得なしに前提化し、その目標に到達しなければ学習者の責任に帰してしまう教育こそ、「上から目線」以外の何物でもないと考えるものである。

 しかし、「仕上がり像」という言葉のニュアンスに、商品の仕上がりとのアナロジーで「上から目線」のため反感を感じるということであれば、違う言葉への言い換えを考えてもいいかもしれない。その反感は人材育成とは異なる教育の世界の指導者に多いのかもしれない。
 クドバスでは「仕上がり像」は「求める職業人像」とほぼ一致するであろう。しかし、教育一般では、これに習えば「求める人間像」ということになってしまう。そこには、学習者側の納得なしに、それこそ上から押しつけられる恣意的な「目的」が含まれてしまう危険性がある。
 このようなことから、「仕上がり像」という言葉を避けるとすれば、どんな言葉なら代用がきくのだろうか。結局は「教育目的」というあいまいな用語になりそうだ。実際、ほとんどの(まともな)教育機関が「教育目的」という用語を使っている。「教育目的」の表記が、「仕上がり像」の言葉と同様の、「学習プログラムの提供者」としての説明責任(アカウンタビリティー)を果たすに足る「明示」をしているのなら問題はないといえよう。
 だが、現実には、「仕上がり像」という言葉を避けて「教育目的」という言葉を使うことによって、上からの恣意的な「仕上がり像」が隠された曖昧な形での学習プログラムが提供されていることが多いのではないか。だとすれば、むしろ学習者も共鳴できる「仕上がり像」を設定して、そのための達成目標を組み立てることのほうが、よっぽど学習者目線と言えるのではないかと思われる。





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