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現代都市青年と情報

ヤングアダルト情報サービスの提唱

    若者文化研究所 西村美東士


現代都市青年と情報
  −ヤングアダルト情報サービスの提唱−
                               西村美東士

1987年4月西村美東士「現代都市青年と情報−ヤングアダルト情報サービスの提唱」、高橋勇悦編『青年そして都市・空間・情報』恒星社厚生閣、pp.115-156

【概要】現代都市青年の情報化不適応、青年をとりまく情報の特質、情報の限界、情報能力と情報必要の観点から「青年と情報環境」の実態を把握し、「ヤングアダルト情報サービス」の現代的意義を分析した。その上で、1青年の要求情報・必要情報、2人間の情報、3生活の情報、4連帯の情報、5地域情報と行政情報の5つの情報提供を提唱した。
はじめに

 私は、ここで、現代都市青年に対する公的情報提供の提唱をしようとしている。しかし、情報がむしろ多すぎる今日、それはいったいどんな意味をもつのであろうか。
 私自身、過去に六年間、東京都青年の家の職員として、青年と「何かをやる」楽しさを味わい、その意義も痛感してきた。主催事業を企画・運営するための実行委員会の中で、青年はぐんぐんと自己発達する。
 それに比べて、情報提供という公的サービスはいかにも「消極的」に聞こえもする。現代都市社会のさまざまな病理が、青年問題にも表れている時に、情報提供は強力な行政施策たりうるのだろうか。
 行政が青年のために価値のある講座を開こうとするならば、現代都市青年の問題状況を的確に認識していないと、テーマの設定さえおぼつかない。ところが、情報提供は原則として求めに応じて行われるものであり、行政の側が「選択」する要素は少ない。そこに、情報提供が安易に行われる危険性もひそんでいる。
 本章では、現代都市青年にとっての「情報」の特質をとらえた上で(第一節)、公的情報提供がどんな基本的意義をもつのか(第二節)、どんな情報を提供するのか(第三節)を考えていきたい。そして、「ともに育つ」をキーコンセプトとして、青年の主体性を保障し発達させ、社会的要請にも応える統一的な青年政策としての情報提供論(第四節)を展開してみたいと思う。

現代都市青年と情報

1 青年と情報環境 

1−1 現代都市青年の情報化不適応

 つい先日、「東京私学祭千駄ヶ谷駅事故」が報道された。国電千駄ヶ谷駅南口で、近くの国立競技場で開かれた「東京私学祭」に参加して帰る中・高校生数千人が改札口をめざして殺到、数カ所で将棋倒しとなり、四十六人が軽傷を負ったという事件である(昭和六十一年十月二十四日の各紙朝刊)。特に大事件だったわけではない。
 しかしこの事件は現代都市青年と情報との関係を表す象徴的事件であり、また、私には「なるほどそうだろうな。」とよくわかるところがある。それは、同駅の「情報提供」が効を奏しなかった点である。
 同駅によると、私学祭に参加した生徒たちは友人を待ったり友人同士で話をしたりして改札口に立ち止まり、駅員が「危険だから」とハンドマイクで早く駅に入るよう呼びかけても全く動こうとせず、改札口前はすぐに生徒たちで埋まってしまったという。同駅助役は「生徒たちが我々の言うことを聞いてくれなかった。」と言っている。
 「企業人」にとっては、情報は死活問題である。駅のアナウンスという「情報」に対しても直線的に反応する。「整列乗車」などにおいても、大変秩序正しい。現に何らかのトラブルによる乗車制限などがあった場合、サラリーマンたちは苦虫を噛みつぶしながらもじっと黙って改札を待っている。朝の東京駅の混雑の中でもし誰か一人がつまづいて倒れても、その情報さえすみやかに提供されれば、後ろの人々はピタッと止まるだろうと言われているぐらいである。これは、道徳性の問題だけではなく、「公共的情報」(たとえば乗車制限)という刺激(S)に対する反応(R)すなわち直線的なS−R的行動様式が形成されている表れでもある。
 現代青年はそれとまったく対照的である。普通、彼らの多くは、駅や車内などの公共性、公衆性の強いアナウンスにはほとんど応じようとしない。特に、高校生の傍若無人な振舞や言動はよく目にするところである。現代都市青年はこれらのいわばフォーマルな情報に嫌気がさし、価値を認めなくなりつつあるのではないか。
 しかし、一方では、女性ロックシンガーが「みんな、手拍子してー」とステージから呼びかけると、日本では聴衆である青年の大部分が律儀にそれに応じている。たとえその時、本人又はシンガーのノリが悪くてもつきあう。他人の迷惑も省みず、雑踏の改札口で「友人を待ったり」「友人同士で話をしたり」するのも、同じ志向の表れである。彼らは彼らなりに連帯あるいは同化を求めているのである。問題は、社会にあふれる特にフォーマルな情報に対する彼らの「無関心」である。
 情報とは「或ることがらについてのしらせ」(広辞苑)である。その中には、人間の生存と安全、さらには認識の発達や社会性の獲得などの視点から見て意味があると思われる情報も含まれている。青年には「情報人間」としての側面もあろうが、それは限られた範囲の情報に関してである。フォーマルな情報の中にも「価値ある情報」が多数、含まれているのだが、それに対してはむしろ拒否的になっている。
 「価値ある情報」の入手のために情報化の進展を「便利な道具」として使いこなすことが、情報化への「適応」といえよう。反対に、情報化社会における多量の情報の中で、青年が窒息状況に陥り拒否反応を示しているとすれば、それは情報化への不適応現象ととらえるべきである。
 「窒息」しつつある現代都市青年にとって、「息を吹きかえす」ことのできる情報とは何なのであろうか。彼らの情報化不適応に対して、情報過多の中でのあらたな情報提供は、しかもごくフォーマルな公的機能としてのそれは、どのようにすれば意味あるものになるのだろうか。

1−2 青年をとりまく情報の特質

 フォーマルな情報に対して現代都市青年は「拒否的」である。それでは逆に、実際に彼らをとりまいていて、ある程度支持されている情報はどんなものであるか。その特質は、次の六点に集約できよう。
 第一に、少なくとも町に氾濫するヤング誌を見るかぎり、実生活や生産に関わる、いわば「日常的情報」よりも、遊び、おしゃれ、音楽などの「非日常」の情報が圧倒的に多い。「日常」より「非日常」の情報である。青年が社会や経済の活動から「役割猶予」されていることが、その大きな理由となっているのであろう。
 ただし、これを青年の欲する情報のすべてとして普遍化することはできない。高校生の情報行動に関する調査によれば、「苦手な教科の成績をあげる方法」、「高校生ができそうなアルバイトの紹介」などが「高校生のほしい情報」の上位にランクされている。●(図表1)「生活情報」そのものとは言えないまでも、それに準ずる「日常的情報」の求めは、まだ、かなりある。
図

 第二に、青年向け情報は地域性を喪失し集中化されつつある。「日常」の一つとしての地域への関心が薄れている。たとえば、その一つが、テレビ番組の全国ネットワーク化である。ネットワーク化された番組は視聴者に対して、よりいっそう居住地の地域性を捨象した情報を伝える。それは、青年の歓迎するところでもある。
 しかし、逆に青年向け情報の分散化と地方化、すなわち「シティー単位」や「タウン規模」での地域性の再生にも我々は注目すべきである。「ピア」のような情報誌は、平日の夕方からでも急にその気になって映画やライブを見ることができるのが魅力の一つである。フラッと行くことのできない遠くの情報は不要である。だから「ピア」は「東京文化圏」の情報誌として発行されているのである。
 現在では、新宿、池袋のような大都会から、渋谷、原宿、六本木、あるいは山手線の外の下北沢などへと、青年の関心とユースカルチャーの発信地が移っている。そこでは、タウン規模、ハンドメイドの文化の魅力があり、それに対応したミニコミ的な情報誌が発行されて青年の支持を得ている。その他、アマチュアによるラジオ放送としてのミニFM放送局が増えつつある。これなどは、その放送範囲は半径五、六十メートルにすぎない。過密都市だからこそ、情報提供における分散化も成り立つのである。




 第三に青年の多様なニーズに対応して、情報も多様化している。たとえば雑誌が専門化、細分化されていく。「おしゃれ」も「アウトドア」もいっしょに扱う総合誌でなく、それぞれが「専門誌」として独立する。
 しかし、多様化と同時に画一化が進行する。「おしゃれ」でも「アウトドア」でも、青年一人一人の個性的なやり方よりも、発行部数を伸ばすためには「最大公約数」としてのやり方や「流行」が優先される。
 一方、これにあきたらない青年たちは、ミニFM放送局やパソコン通信などで自ら情報提供者になることによって、自己の「個性」を発揮しようとしている。
 第四に、情報が豊富に、あるいは過剰に供給されていることによって、青年の情報依存が生じている。活字媒体としての情報誌やマスメディアは、すでに充分すぎるほどある。ニューメディアが、今後それにさらに輪をかけるであろう。このような「情報都市」においては、自分の体験や身近な人からの情報(パーソナルコミュニケーション)がなくても、外からの豊富な、しかし出来合いの情報を活用すればやってゆける。「情報なしでは、動けない」という「強迫観念」にとらわれているような面さえある。これらの出来合いの情報なくしては遊ぶこともできない者もいるのである。
 その反面、情報化不適応が起きている。選択できる情報の幅は拡大しているのだが、一つ一つの情報の価値が相対的に低下し、本当に大切なそしゃくされるべき情報もあまりそしゃくされなくなっている。
 第五に、情報が「純化」しつつある。パーソナルコミュニケーションにおいては情報交流の中に「情」の交流が混じり込む。しかし、情報が商業化されると、必要な情報は金銭で得ることができる。その中には、人間関係およびそのお互いの協力、そして「情」が介在しない。その上、「意見」や「評価」も排されてくる。たとえば、「ピア」の中では、たくさんの文化・イベント情報が、ほとんど論評を加えられずにびっしりと掲載されている。情報に、「余計な情報」としての他者の意見や評価が混じらなくなっているのだ。読者からの投稿などもあるが、それは別の頁か「はみだし」(欄外)で扱われる。情報誌の「本文」はあくまでも、「純化」された情報の羅列であり、それが読者の「本命的」ニーズでもある。
 第六に、「情報離れ」が進行している。他者の意見や「情」の混じらない「純化」された情報に、人間的存在である青年がいつまでも満足できるわけではない。そこで、その新しいニーズを受けて商業レベルで、情報提供を超えた価値創造が行われる。デザイナーの「哲学」がこめられたファッション、コピーライターのコピー、そして「青年に人生を教える」ようなコミック(実際にはコミカルとは限らない)が盛んになる。それ自体は多様で「個性的」な価値ではあるが、いずれにせよ青年にとっては「他者」が作ったものである。これらが青年の支持を受けている。情報化は進展しているが、青年が自分の主張を持つために必要な情報を収集する意欲と能力は、むしろ減退しているのである。
 ただ、逆に「自ら価値を創造する」という志向に基づく「情報離れ」も一方にある。そこでは、青年は与えられた情報に対して「さめた眼」を持っている。たとえば、ボランティア活動において青年が求めているものは、情報ではない。情報は「目的」ではなく、「道具」にすぎない。本当の目的は、活動の中での実際の「手応え」である。それは、商業化された情報と違って、青年の手による新しい価値創造である。
図

 このように、現実に現代都市青年をとりまく情報には、さまざまな特質がある。これらを多面体●(図表2)として理解したい。そして、青年に対する公的情報提供とは、その多面体の現実をまったく新しく組み替えることではない。社会的にも望ましく、青年の側からも支持されるような側面をいっそう強化し、また、多面体の全体の形を整えるために「公」なりの貢献をするだけである。しかし、その貢献は大きい意義を持つ。なぜならば、このような意味での公的意図をもって行われる情報提供は、それ以外の既存の情報からはあまり望めないからである。



1−3 情報の限界

 情報が多すぎて、その不消化、あるいは不適応が起きる。そして、自分で新たな情報をつくりだす「創造性」が失われる。そう考えるならば、あらたな情報提供の提言は、その意義自体に根本的な疑念を持たれるかもしれない。
 情報はたしかに多い。しかし、「情報が充分ありすぎるから、青年は自分で考えなくてすんでしまうのだ。現代都市青年の創造性を豊かにするためには、これ以上、情報提供などしない方がよい。」と単純には言えない。
 創造といえども、現在まで人類が獲得してきた「経験」と「知識」の蓄積が基盤となっている。この蓄積を伝達するものがすなわち、情報である。その情報を取捨選択し、自己の体験と見識に基づいて再構成したものが「創造」である。創造のためには、情報は豊かにある方がよい。
 情報それ自体の善悪はいずれとも決めつけられない。それよりも、「情報の限界」をはっきり認識しておくことが必要である。「情報の限界」とは、一つには「他者の経験や知識の伝達」といっても、それが完全にはできないことと、もう一つは「自己の体験」そのものではないことである。
 たとえばテレビではどうか。番組作成のための取材の段階では、たくさんの関係する情報を知り得るだろう。しかし、実際の放映となると、ディレクターなどの意図のもとに、短い放映時間に収まるようにごくわずかの情報だけが選択され、編集される。視聴者は「他者」が厳選した情報だけを受け取るのである。
 しかも、テレビカメラを通した映像と音声自体が、事実や実物の一つの「断面」にすぎない。事実そのものではない。たとえ「虚構」を前提とする演劇であっても、でかけて行って見るならば、演じられている事実そのものを見ることができる。しかし、テレビではカメラによって二次元に翻訳され、画面のフレームによって「切り取られ」てしまう。端的に言えば、テレビ画面ではブラウン管に走査線が走っているという事実だけを、確実に見ることができる。そして、自然のすがすがしいにおい、動物のふさふさした気持の良い毛の感触、逆に動物のくさいにおい、ぬるっとした気味の悪いさわり心地、それらもテレビでは伝わらない。
 テレビはもういらないと言っているのではない。テレビの「限界」が認識されてさえいればよいのだ。ところが普通、自分が一度テレビで見たものについては、「(テレビで見たから)知っている。」と「過大評価」してしまう。テレビの画面を、事実そのものと錯覚してしまっているのである。
 情報についても同じである。情報はそれを発信する者による選択の結果であり、また、事実そのものではなく、事実のある側面からの、しかもにおいや触覚などを捨象した「切り取り」である。それゆえ、情報とは「コピーの世界」(現実環境を間接的に表現した像)(一)であり、「現地と地図」(ものごとそのものとそれを表す言葉)(二)を同一視してはならないのである。
 「コピー」や「地図」としての情報のあふれた現代都市社会において、さらに新たに情報を提供しようとする場合、その情報も、不可避的に「限界」をもっている。情報によって何でもできるという「万能感」に陥ってはいけない。情報の「限界」を青年が認識することと、情報提供側もその「限界」をわきまえることが必要である。そのことによって、情報を豊かに使いこなすことができるのである。

1−4 情報能力と情報必要(ニーズ)

 一般に情報は、受け手の個性・世代を顧みず、成長段階の順序性を無視して流通する。しかも、「好ましくない」情報に対する社会的規制も実際にはあまり有効ではなく、また、表現の自由を侵害する危険性もある。情報能力の欠如のままで、このような情報が大量に流通するならば、青年にとって「役立たない」ばかりかマイナス要因にさえなる。
 情報能力とは、情報の獲得、処理、利用、加工、生産、提供に関する知識・技術の総体に関する能力である。この情報能力は、自分で主体的な認識と判断ができるという基礎能力を必要とする。現代都市青年の情報志向は強いとしても、この情報能力は豊かとは言えないのではないか。
 それでは、青年はどのようにしてその能力を獲得することができるか。情報がいくら大量にあっても、それだけでは情報能力は育ちえない。青年自身が本当に情報を必要として、初めて、青年が自らの力で自らの能力を高めることができるのである。それでは、この情報必要(ニーズ)のさらにまた根源は何か。それはひとことで言えば、問題意識の存在である。すなわち、現在、自己や社会が直面している課題を自己の課題として主体的にうけとめていることである。
 そこには、生活、生産、趣味、生き方、社会などのあらゆる側面のものが含まれている。その中でもとりわけ社会的課題に関する情報必要は、現代青年の「非社会性」のもとではどうしても脆弱なものになってしまう。その他の課題に関しても、都市化社会におけるモラトリアムの延長、コミュニティの崩壊、パーソナルコミュニケーションの喪失は、現代都市青年からたくさんの情報必要を奪ってしまった。これらの情報必要を失ったあとに求める情報とは、自己完結的、趣味的な情報とあたりさわりのない「おしゃべり」のための情報ぐらいなのである。
 情報の多面体を全体としてより良く機能させるためには、青年の情報能力の獲得を「意図的」に援助する方策を考えなければならない。青年に対する情報提供を機械的に繰り返していても、抜本的解決にはならないだろう。根本的に青年の意識や価値観の問題に真正面から取り組む必要がある。しかし、また、そういう意図のもとに情報提供が行われるならば、その情報提供は「真正面から取り組む」ための一つの有効な「手段」にもなりうるのである。
 たとえば「情報整理」は、たくさんの情報を得た上で、それを選択し、整理するというどちらかと言えば外在的作業である。しかしそれは、情報に対処する「方法」に関する知識・技術を育てるばかりでなく、青年自身の認識を育て、青年の知的主体性を形成する。すなわち、「外在的作業」が「内在的な営み」として転化する。このように、「外」からの情報により、「内」なる問題意識も高まっていくのである。
 「外」からの公的情報提供は、そのことを期待し、しかも意識的、意図的にそれを援助する態度を基本として行われるべきである。そして、その「意図」のもとに、現在の青年に欠けている情報、「社会的情報」、「情報に対処するための情報」などに特に力を入れて情報提供することが必要である。
 青年に対する情報提供が「実のあるもの」となるための一番大きな「支え」は、青年自身の情報能力と情報必要、それ自体である。しかし、たとえそれらが今は成熟していないとしても、「意図に基づく」公的情報提供は、現代都市青年の内面の深くで情報能力と情報必要を育てる独自の機能を発揮するであろう。

2公的情報提供−ヤングアダルト情報サービスの提唱− 

2−1 情報の提供と操作

 情報は受け手にとってはタダという場合も少なくない。それだけに、他の商品のように必要なものだけが買われるのではなく、消費者が求めていないものまで、本人の属性や個性に関わりなく、流れ込んでくる。これは情報の「大衆的普及」の側面である。
 しかし、民主主義社会においては、公的情報だけでなく、これらの大小メディアなどの提供するさまざまな情報が豊かにあることが、市民の主体的な判断の基礎となっている。社会形成のための合意の基盤となるのである。これは情報の「社会的合意の形成」の側面である。
 このように情報は大衆性、社会性の側面を持っている。たとえそれが「民間の情報」であっても、その情報自体に「公共性」があるのである。
 ところが一方では、民間の情報は多かれ少なかれ、それら情報提供者の「私的な目的」に基づく「操作」の産物である。たしかに、現代社会では、特定の情報提供者が強制などの手段により、直接「情報操作」を行うことは少ない。しかし、たとえばコマーシャルは、たとえそれが事実の組み合わせであっても、購入の拡大を意図して提供されていることには変わりない。情報誌でさえ、該当する情報のすべてではなく、よく売れるように情報を選択し編集するのである。露骨な「情報操作」は排除することができても、あらゆる情報提供において「操作性」は避けることができない。
 それゆえ、新聞やテレビの「倫理綱領」などの自主規制が必要になる。これは、公的な色彩をもったゆるやかな「操作性」といえる。しかし、それをさらに行政が規制しようとすることは「情報操作」につながりかねない。基本的には情報は、公的情報を除いて、民間のさまざまな情報提供者と受け手との自由な相互作用に任されるべきである。
 行政が青年に対して情報提供する場合はどうだろうか。その場合も、同じく不可避的に「操作性」を帯びている。しかし、その「操作性」が純粋に「公共的な目的」に基づくべきであるという意味で、独特の存在である。
 その情報が文化的、政治的内容のものも多い。文化情報、政治情報の提供において、行政の「操作性」は許されるか。青年の文化活動の紹介などは、なるべく広く該当する情報を提供すればよい。しかし、時には人間の内面に深く関わる情報も扱う。たとえば、現代都市青年の健全な精神の形成をめざす情報提供などは、ややもすれば行政からの青年の価値観への介入になる危険性がある。しかし、それを恐れてその情報については避けて通るということはできない。それほど都市社会のゆがみは大きくなっている。地球規模のゆがみとして緊急に取り組まざるをえないのである。
 現代都市青年に対する行政の情報提供の目的は、「都市政策」と「青年政策」の二面性を持つと考えられる。都市計画づくりなどには、青年を含めた市民の自治能力の向上とそれによる合意の形成のための情報提供が必要である。これは、「都市政策」としての情報提供の一面である。また、青年の社会的病理現象に対処するために、青年の成長を援助するような各種の情報提供が求められている。これは、現代都市社会における「青年政策」としての情報提供の一面である。
 青年に対する公的情報提供は、この二つの「公共的目的」のために、その意味では「操作的」に行われる。問題は、それらが「操作的か、否か」ではなく、どのような具体的な「目的」を設定するのか、実際の情報提供がその目的に沿っているか、そして青年に支持されない「ひとりよがりな操作」に陥っていないかということなのであろう。

2−2 社会教育行政の役割

 社会教育についてみれば、社会教育法には国及び地方公共団体の任務として、「(国民が)自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」(第三条)こととうたわれている。社会教育を行なうのは国民であって、行政はその「環境醸成」をするのである。そして、そのために、社会教育施設の設置・運営、各種集会の開催・奨励などの他に、「一般公衆に対する社会教育資料の刊行配布に関すること」などの情報提供が具体的事務として挙げられている(第三、五、六条)。また、社会教育行政の専門的職員である社会教育主事の職務としては、「社会教育を行う者に専門的技術的な助言と指導を与える。但し、命令及び監督をしてはならない。」(第九条の三)という条項がある。このように、学習者の自主性や主体性を損なわないように配慮されているという意味で、非常に「節制的」である。
 ところが、この「節制」は、その方向を間違えると「かなしばり」として作用してしまう。たとえば、政治的情報の提供に関して、特定の政党・政派に偏しないという「節制」が必要である。一定の政策選択に導くような操作的手法は排さなければならない。しかし、ややもすると政治的情報そのものまで避けようとする「消極性」が生まれてしまうのである。
 教育基本法は「政治教育」について「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」(第八条)としている。ところが、公教育は政治的に中立であることが理想とされるため、特に政治的課題に関しては残念ながら消極的になりがちである。このようにして、援助の対象とする「学習」の範囲がどんどん狭くなってしまう。
 そのため、市民運動などへの対応も消極的なことが多い。だから、一般行政や市民も、その点では社会教育行政にあまり期待しなくなってしまっている。財政的にもごくわずかな社会教育予算より、一般行政の予算の方が魅力がある。実際、今日の都市問題をまともにとらえている都市行政担当なら、そのための効果的な出費を無駄と考えるはずがないのである。市民運動が理想的に展開すれば、それは現代的諸問題の山積する都市社会にとって「救世主」にさえなりうるのであるから。
 それでは社会教育行政は、市民運動にいかに対応すればよいのか。市民運動は、個人の生活課題と地域の課題、行政の課題、人類の課題を貫く学習の契機を内包している。市民の学習を援助する立場にある社会教育行政は、ここに注目する必要がある。「住民エゴ」などのマイナス面もあろうが、「公共的目的」に沿って「運動の側面」ではなく「学習の側面」を援助すべきである。その援助の形態の一つが情報提供である。もちろん、そこには市民との「緊張関係」があって当然である。むしろ社会教育行政が市民とはイコールでないことが、高い価値のある情報の提供につながるのである。市民とやみくもに迎合したり反目するのではなく、必要な望ましい情報を提供すべきである。
 実は、このような情報を提供する行政機関は、本来、社会教育行政であるべきだと考える。もちろん、一般行政においても必要な情報提供を怠ることはできない。しかし、それは行政セクションの該当する行政課題に沿って「限定的」に行われなければならない。
 社会教育法第八条に「教育委員会は、社会教育に関する事務を行うために必要があるときは、当該地方公共団体の長及び関係行政庁に対し、必要な資料の提供その他の協力を求めることができる。」という規定がある。講座や広報における情報提供のために、社会教育行政が独自に全体的な一般行政情報を収集できるのである。
 行政情報ならばまだしも、市民の価値観形成のための一般的な情報を行政機関が提供する場合は、特に社会教育行政がその役割を受け持つべきである。教育行政は、「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われる」(教育基本法第十条)と規定されている。一部の政治権力によって、あるいは一部の市民のために「情報操作」されては困るのである。
 たとえそのような「情報操作」には至らなくとも、もし、特定の行政セクションが行政情報に限らずに市民の価値観形成に関わるトータルな情報提供を行なうとするならば、そのセクションのもつ「現在」の行政施策の方向にどうしても縛られてしまうだろう。それではいけない。情報提供は、新たな「未来」を市民が創造するという広い意味での「学習」を援助するために行われなければならないのである。
 未来を担う青年に対しては、特にそうである。青年に対するトータルな公的情報提供は、社会教育行政の原則に従い、社会教育の特性を最大限に活かして展開されるべきなのである。

2−3 ヤングアダルトと情報の要求

 都市化社会において「青少年健全育成」の必要が叫ばれるようになって久しい。しかし、過去の押しつけ的な「対策」では、多くの青年の無益な反発を呼ぶだけである。そこで、今日の青少年健全育成施策は、その反省のもとに環境醸成など側面的援助に重きをおくようになっている。情報提供もその一環としてとらえられる。青年の自主性、主体性を尊重した「対策からサービスへ」の転換である。
 しかし、一方ではその前提としての現代都市青年の自主性、主体性そのものが欠けているということも指摘されている。この困難な条件のもとで、青年への「サービス」は意味をもつことができるのであろうか。
 カウンセリングについていえば、それは個人の心理的問題を当人が解決できるよう援助することを目的としている。そのためにカウンセラーは、「指示」をするのではなく、もっぱら「共感」と「支持」を与える。ノンディレクティブといわれているカウンセリングの手法である。そのことにより、本人自らが自己の問題に気づき、自らを変革するのである。
 このように、カウンセリングは、たとえ自己の内面に大きな心理的問題を持っている人に対してでも、その人間の「自己解決能力」に絶対的信頼を寄せて行われる。「情報提供」の姿勢も、それと同様の「信頼」が基礎となるだろう。すなわち、「本人の今の課題に関連する情報をいろいろ提供するが、選択と判断は相手に任せる」ということにより、本人自らが認識を深化させるであろうことを「信頼」するのである。
 図書館についていえば、最近、ヤングアダルトコーナーの設置が少しづつ見られるようになっている。その先進的事例が東京都立江東図書館であり、その担当司書の半田雄二氏は次のように述べている。「ふつう『読んでほしい本』と『読まれる本』は一致しないことが多いものです。しかし、大人から見れば未熟であっても、彼らには彼らなりの選択眼があり、決して無原則に手を出しているわけではありません。読まれない本には、やはりそれだけの理由があるはずです。・・・読まれている本が、すべて読者の低俗な好奇心におもねるクズばかりと決めつけるのも危険です。大人たちがまだ気づかないだけで、数年後には中堅どころとして脚光を浴びているであろう作家が隠れていたりします。・・・」(三)。そして、実際にも、オートバイやヘビーロックに関する本なども提供しているのである。
 半田氏の問題意識は、児童サービスと成人サービスの谷間にいる青年の「図書館離れ」から発している。この「図書館離れ」は、たしかに青年の知的側面での主体性の欠如の表れでもある。しかし、だからといって青年への働きかけを放棄してはいない。青年をヤングアダルト、すなわち「若い大人」、知的権利主体としてとらえている。そしてその青年の要求に合った図書を提供しているのである。
 青年の自主性、主体性は現実には欠如しているかもしれない。これは、「情報能力」および「情報必要」の未成熟にもつながっている。それらは、青年に対して行政が情報提供を行おうとする場合にも、大きな障害となるだろう。しかし、その際、図書館のヤングアダルトコーナーと同じような対応から始めることしか、方法はない。青年を「アダルト」すなわち権利主体ととらえ、まず、その情報要求に的確に応えるのである。
 私はこれを「ヤングアダルト情報サービス」として提言したい。それは、カウンセリングが本人の「自己解決能力」を信頼するのと同じように、青年の情報に関する「自己発達能力」を基本的に信頼する。そして、図書館のヤングアダルトサービスと同じように、「青年に知らせたい情報より、青年が知りたい情報を提供する」のである。

2−4 提供する情報の性格

 ヤングアダルト情報サービスが、青年の情報要求に的確に応えるとすれば、そこで提供される情報はどのような性格のものになるだろうか。
 第一に「全面的」性格である。それは一つには、あることがらについての「右から左まで」のあらゆる情報を提供することである。提供側でまずプラスマイナスの価値判断をして選択した後の情報を提供するのではない。
 また、一つには、現代都市青年の喜怒哀楽に関するさまざまなことがらについての情報を提供することである。半田氏は図書館司書として次のように言う。「すでに趣味の固定してしまった成人に較べ、自己、そして自己と他者、社会、世界との関わりに日々新たな発見の喜びをもちうる青年の関心の領域は広い、青年の要求に応えうる素材をもった資料は捜せば結構あるはずである」(四)。なんと積極的で生産的な感覚であろうか。我々も、現代都市青年の病理現象を憂えているばかりではいけない。現代の青年でも持っているはずの自己及び社会へのイノベーションの能力を尊重しなければならない。そのためには、社会の既成の「文化」の枠を押しつけるのではなく、青年、特に現代都市青年の多様な「文化」に応えるための全面的な情報提供の展開をめざす必要がある。
 第二に「今日的」性格である。過去の文化の蓄積を伝達することは必要であるが、それは学校教育や図書館などが役割を果たしている。これに対してヤングアダルト情報サービスは、現代都市青年の「今、持っている情報要求」に応えることが基本的要件になる。一次的には過去の文化の「伝達」のためのものではない。
 そのためには、新鮮な情報の収集を怠れない。現代都市における情報の動態性に対応するためには、大変な苦労を要する。「今度、どこそこで○○サークルがこんなイベントをやる」などの情報を集めても、時がたてば次から次へと無用のものとなっていく。しかし、取りこぼされがちなそれらの情報や、青年個人のレベルでは把握の困難な情報を、新鮮なうちにリアルタイムに提供することはヤングアダルト情報サービスの存在意義そのものでもある。これらは、情報化の進展から取り残され、疎外されている情報なのである。
 第三に「非文献的」である。青年の知的活動から生ずる「文献」に関する情報要求については、図書館のレファレンスサービスが専門的に対応できる。しかし、現代都市青年の興味・関心は、活字化されたものだけにとどまることは決してない。「活字信仰」にこだわるなら、すぐ青年に嫌われてしまうだろう。
 もちろん、図書館のレファレンスも、活字以外のさまざまな情報メディアが有する情報まで広く「文献」として紹介すべきである。また、ヤングアダルト情報サービスの方も、そこで知りうる「文献情報」を提供する必要がある。しかし、後者は、人や組織、生活や遊びそのものまで、紹介するのである。
 アメリカの図書館には、レファレンスサービス(参考調査)だけでなく、リファラルサービス(照会)まで行っているところもある(五)。図書や資料だけでなく、図書館以外の機関や人材などの情報を図書館が把握していて、それを紹介してくれる。そのことにより、貧しい人々や高齢者などの生活そのものを援助し、読書に不利な人々が読書できる条件を確保しようとしているのである。
 現代都市青年にもアメリカとは違った意味での、「知的貧困」、「生活的貧困」がある。青年のこの新しい「貧困」の解決のためには、文書にされた情報以上の情報が必要である。それは、たとえば青年に対して知的刺激を与えてくれたり、自己の生活を振り返らせてくれるような、機関や人材などのナマの情報である。
 最後に私は「おもしろ的」性格をあげたい。現代都市青年は社会から「おもしろおかしく生きている」と批評されている。「おもしろい」はそこではマイナスイメージである。しかし、「おもしろがる」ということは、言い換えれば知的好奇心などの人間性の発露であり、個人や社会の原動力の一つであるはずだ。
 社会の成熟化の中では、大量の物的生産に恵まれながらも、その反面、人間性や生きがいを追及する努力が、これまで以上に必要となるだろう。そこでは、「まじめさ」「勤勉さ」と並んで「おもしろく」生きられる資質も大切なのではないだろうか。今日の現代都市青年が社会の主力部隊となる頃には、労働・生活・余暇の全面においてその「おもしろがれる」資質が問われるようになるかもしれない。
 ここで言う「おもしろさ」とは、単に「瞬間芸」を見るようなおもしろさにはとどまらない。「おもしろそうだから、やってみる」という「参加性」、義務感や管理社会の束縛から逃れて「おもしろいからこそ、やる」という「自発性」が息づいているのである。
 ヤングアダルト情報サービスの魅力は、サービスをする側も青年と一緒になって「おもしろがって」進めていくところから生まれてくるのではないだろうか。

3 ヤングアダルトのための情報 
3−1 青年が要求する情報と、青年に必要な情報

 社会教育の世界では、現在、学習の「要求課題」と「必要課題」に関する論議が盛んである。
図

 NHKの学習需要調査によれば市民の学習要求はその表層だけ見れば、驚くほど、多様化、分散化している。●(図表3)こういう状況のもとでは、社会教育で講座などを開こうとしても、大部分の人が参加するような、何か素晴らしい学習テーマがあるというのは幻想でしかないのだ。といって、そんなに多岐にわたる学習要求のすべてをテーマとして取り上げることは困難であるし、無理をしてまでそんなことをしてもそれほどの意義があるとは考えられない。それよりも、公共性のある学習課題、潜在的ではあっても人間として共通に求められる学習課題(すなわち必要課題)を一番の根底に位置づけなが社会教育事業を進めるべきであるというのである。


 ただ、その実際的な方法は未だ定説があるわけではない。たとえ少ししか人が集まらなくても「必要課題」を正面からテーマに取り上げて市民に問いかけることもあってよいかもしれない。「要求課題」を配列しながらも「必要課題」に導くさまざまな方法も考えられる。あるいは「必要課題」とは学習者が自己の要求に基づく学習の過程の中で自ら気づくものであり、他者である行政が先回りして考える必要や権利はないとする者もいる。
 いずれにせよ、この「要求課題」「必要課題」の論議は、簡単に言えば社会教育をとりまく次のような環境が発端となっていると考えられる。
 今日の学習社会においては特に都市部で民間カルチャー産業が発展しており、学習要求が一定程度社会に存在すれば、その学習機会はそこが提供し、また市民も相当なお金を払ってでもそれを受講するようになっている。学習要求があるからといって、そのすべてを公的社会教育が準備し提供しなければならないという状況ではなくなったのである。
 さらに行政改革の観点から「持てる者」の「個人の利益」にとどまるような学習については、公税を支出してまでそれを保障する必要は認められないと財政当局なども考えるようになってきている。社会教育行政はきびしく「公共性」を問われているのである。
 もちろん、これらの外的要因への対処のためだけに「要求課題」「必要課題」の論議が起こってきたわけではない。公的社会教育の内実が文字どおり「公的」であるためにはどうあればよいかという理念的な問題意識、そして社会教育の現場からの「市民の多様な学習要求のすべてに対応することは不可能である。どうすればよいのか。」という実践的な問題意識から芽生えてきたのである。
 さて、現代都市青年への公的情報提供において、同様な意味で「要求(ウォント)」と「必要(ニーズ)」の概念がやはり役立つと思われるし、その上で「必要情報」の具体的内容を検討することが必要と考えられる。
 ただ、実際の情報の一つ一つを、この「要求情報」と「必要情報」に明確に区分したり、ましてやこの双方を常に相反する存在として対置してとらえることは決してできない。実際には、「必要情報」というのは、ほとんどの「要求情報」をカバーしようとするものになる。社会教育事業における講座のテーマ設定とは基本的条件が違う。
 図書館のレファレンスサービスなどでも、できるだけすべての文献に関する問い合わせに応ずることが基本となる。レファレンスを行う者は「操作性」などほとんど意識していないのが現実であり、それは正当なことである。
 しかし、ヤングアダルト情報サービスでは、青年に対してどんな情報を提供しようとするのか。そこに生ずる情報の「種類」の選択という「操作性」の正当な根拠を見出すためには「必要情報」の概念が有効である。青年に情報を提供することによって、何かをそこから学びとってほしいという、広い意味での「青年の学習」への期待の中身を明らかにするのである。逆に情報過多社会において公的機関までが正当な「操作性」を持たずして、やみくもに情報提供することは、情報過多に輪をかけることになってしまう。
 私は「必要情報」の概念は情報提供の理論構築の上でのキーになると考える。情報提供できない情報の種類(特定の党派・宗派・営利団体の利害に関するもの、医学的判断を要するものなど)をあれこれ列挙するよりも、現代都市青年への公的情報提供の根拠としての「必要」を明らかにすることの方が本質的だと思う。その上で、「必要情報」への発展の見通しを理念として持ちながら、青年のさまざまな「要求情報」に積極的に応えていく実際の展開が必要なのである。

3−2 人間の情報

 最近、写真情報誌が矢次早に創刊され、それぞれがすべて大変な売れ行きを示している。従来の写真雑誌は風景や人物の撮影により、芸術的感性に訴えるものであった。今日の写真情報誌はむしろ「報道性」がその眼目になっている。一見、現代的な情報要求への対応のように思える。しかし、それだけでは現代都市の「社会的」現象としての写真情報誌の隆盛を解説することはできない。視覚に訴える点ではテレビ、報道の素早さならテレビやラジオ、詳しさなら従来の報道雑誌などの方がよっぽど優れている。
 極端な「覗き趣味」こそ、写真情報誌の核心ではないだろうか。この写真情報誌にテレビなどでよく知っている有名人が載っているとする。しかし、それはテレビ向けの顔でない。一人のあたりまえの人間としての生きざまを「覗き見」できるのである。個人の私生活を暴露する「ワイドショー」などが視聴率を稼いでいるのと、あい通じている。
 現代都市社会の「匿名性」とは、離れ小島に一人でいることではなく、自己のあり様を隠蔽しつつも他者を見たくて見る(タウンウォッチング、マンウォッチング)ことなのではないだろうか。それは、人間が本質的に社会的存在であるがゆえに他者との関係をあがき求めていることの表れとも考えられる。ただし、人間関係が疎外される環境の中では、自己を明らかにすることが一方的不利益になるという認識があり、その「あがき」を空疎で歪曲されたものとしてしまう。
 しかし、匿名性とは自己保身のマイナス面としてだけ機能しているわけではない。一方では、過去の村落共同体の「監視」から逃れ、自由な存在としての自己を発揮する機能も果たしているし、また、他者の自由を保障する機能もある。
 現代都市青年に対して提供すべき人間情報とは、同じ人間としての他者の生き様を伝える情報である。その時、一次的には情報の提供を受ける側としての青年は「匿名」であってよい。その情報、その人間に対して非主体的であってもよい。そもそも「受け手」にとっての情報の魅力は率直に言って、それを「気軽に受け取れる」ところにある。
 しかし、言うまでもないことだが、そこでの人間情報は自己の情報を伝えられる本人が承諾しているものでなければならない。むしろ当人の「自負できる」生き様である。その面では「覗き趣味」情報とはまったく反対の性格のものである。かといって、装った表層的な言動でもない。あくまでも同じ人間としての喜怒哀楽を内に含むような「生き様」だから意味がある。そうであって初めて、情報の受け手に「共感」が期待できる。この「共感」が、人間情報を受け手にとっての「関わり」のある情報にし、人間関係を創出する能力を呼び覚まし、ひいては「匿名性」の逆機能を克服するのである。
 NHK教育テレビの幼児向けの番組の中に「パジャマでおじゃま」というコーナーがある。これは、普通の幼児が一人でパンツ姿からパジャマを着終わるまでを放映するものである。バックにはリズミカルな主題歌が流れるだけの単純な構成である。実はこれはNHKが幼児のテレビ番組への関心の示し方の実証的分析を重ねた上で開始したものであるという。大人が見てもけっこう面白いが、幼児は特に同じ年代の普通の仲間のしぐさに関心を持つ。「覗き趣味」ではなく、「共感を伴った関心」である。
 現代都市青年に対しても、青年の社会化のために直接的な「対策」をあれこれ講ずる以前に、自然にそれを形成するであろう「人間の情報」を提供することに力を尽くすべきなのである。

3−3 生活の情報

 今日、「青年がいかに生活しているかに関する情報」は大量に提供されている。それは、青年の現代社会に占める存在が大きく、また、将来の社会もその青年たちによって担われること、そして、現代都市社会における青年の社会問題が多発などの理由で、青年の情報について「社会が」関心を持たざるをえなくなっていることが理由になっている。たとえば、青年の就職状況の情報などもそうである。さまざまな調査報告がだされている。また、青年の消費動向なども企業の市場調査の重要な対象になっている。
 ところがひとたび青年自身の生活に必要な就職、消費に関する情報を探すとなると、情報社会においても意外に困難である。たとえば、ある青年が就職や転職を考えたとする。青年の全国的な就職動向などはすぐ手に入る。しかし、その青年にとって知りたい情報とは、実際に社会でその仕事をしている人がどんな労働条件で、どんな働きがいを持ってやっているのかということである。何時ごろ出社するのか。仕事はきついのか。帰りはいつも夜遅くなるのか。このようなナマの情報を求めているのである。
 そして、青年自身の要求にはなっていないが本当は必要、という情報もゆきわたっていない。最近、街頭アンケート商法、クレジット商法などで青年の被害が急激に増えている。各地の消費者センターなどが被害防止のための情報提供に努めているが、特に青年のまわりにそういう情報は少ない。青年に売るためのコマーシャルやカタログ誌などによる「商品情報」ばかりが多いのである。消費者情報などの生活関連の情報は都市化社会においての「必要情報」といえるのだが、青年とは遠い所に存在してきた。
 これらの就職や消費に関する情報を含めた総合的な意味での「生活の情報」は、「ヤングアダルトに関する」情報と対照的に、「ヤングアダルトのための」情報といえる。

3−4 連帯の情報

図

 現代の青年に尊敬する人や、期待に応えたいと思っている人を尋ねると、「親」という回答が非常に多い。しかし、「こんな人になりたい」というモデルについては、「なりたいと思う人はいない」という回答の方が多い。●(図表4)
 過去の家族においては、手伝いをずいぶんさせられたり、きびしく叱られたりして、子どもにとっては心地良いだけの場ではなかった。しかし、少子家庭が増えたことなどから、今日の子どもは「大事に」され、家庭が最も居心地の良い場にかわろうとしている。それが青年期にまで引き続いている。アルバイトはしても、それは全部、自分の小遣いとして使ってしまってよい。多くの現代都市青年にとって、家庭は「少なくとも今は、一方的に恩恵を受けることのできる場」なのである。


 「友人関係」についても趣味を同じくする者同士の「情報交換」や、気の合う者同士の他愛ないおしゃべりはある。しかし、他者の人生に踏み込んだり、それによってぶつかりあったりはしない。だから、人間に対する深い洞察には、つながらない。「情報提供と収集」のレベルの「無難」な付き合いである。
 これらのことは本来の意味での「○○し合う」人間関係の希薄化を表している。このような状況をそのままにして情報化が進み、人間関係を持たずして必要な情報が手に入るようになることは、事態をますます悪化させてしまう。
 そこで、ばらばらに「たこつぼの中にいる」現代都市青年に対して、意識的に「連帯の情報」を提供することが必要になる。そのうち最も直接的効果をもたらすと思われるものは、同世代のグループ活動や世代横断的な集団活動の紹介である。これらの集団のあり方や進め方に関する情報も必要である。
 しかし、なにがなんでも集団情報という姿勢では、青年はそっぽをむいてしまうだろう。これらの情報提供をふんだんにした上で、もっと「個人的」なつながりなどを含めた、ありとあらゆる人間関係のケースを豊かに提示することが大切である。個人レベルの連帯まで、深くカバーするきめ細かさが求められている。

3−5 地域情報と行政情報

 一般的に言えば、現代都市青年にとって、「要求情報」から一番遠い所にある「必要情報」が地域と行政の情報であろう。青年は地域という「束縛」からのがれたいと思っている。「決まりきった」地域などの日常性より、新鮮な驚きのある非日常を志向している。また、子育て中の親や、高齢者などと違って、地域やそれに関わる行政に直接、自己の生活課題が関連していると感じている青年は少ない。それらの非日常の情報志向は、青年期の独自の発達課題の一つの表れでもある。
 しかし、都市社会の再生のためには、青年が主体的な生活者、地域形成者として地域に関わり、主体的市民として行政に関わることが必要である。そこで、地域や生活などの「日常」が、むしろ実は、驚きにあふれた「冒険の国」(ワンダーランド)であることに青年が気づくよう援助するための情報提供のあり方を考えたい。
 第一に、これらの「必要情報」が現代都市青年に充分には提供されていないという現実を認識すべきである。民間情報はもちろん、行政機関からのこれらの情報提供も少ない。たとえば遊休地のリストなど、都市計画の「手の内」をもっとさらして市民の議論をまきおこした方がよいのではないか。特に青年に対しては、彼ら自身の「沈黙」のせいもあるが、おざなりである。青年向けの施設の設置なども、「青年関係者」の意見を聴くことはあっても、広く普通の青年に訴えて議論を呼びかけることは少ない。
 これらの情報提供は、青年の眼を地域や行政に向ける契機の一つになるはずである。特に十代の青年たちには、自治への発言の場がほとんど無い。自治のトレーニングの場として、ぜひ必要である。
 もちろんこれは、いやがる者に無理にその情報を押しつけることではない。広報を充実したり、問い合わせがあればそれに応える「構え」を持っていればよいのである。そのため、なかなか反応がないかもしれないが、少なくとも「害」にはならない。情報提供の「良いところ」の一つである。
 第二に、今あるこれらの情報をもっと開かれたものにしたい。地域情報、行政情報は、それぞれの地域と行政の「独自の課題」を示す情報である。しかし、それは偏狭な「地域主義」「自治体セクショナリズム」に基づくものであってはならない。「情報」の特性は、「風」となって他の地域にまでいきわたるところにある。これを活かして、地域を越える「地域情報の交流」を図る必要がある。これらの情報は常に他の情報と行き来する「開放性」があって「風」が吹いてこそ、「根腐れ」しないような生気が宿るのである。その意味では、現代都市青年が自己の地域の「閉鎖的情報」には関心を示さないことは、あながち不当とは言えない。
 たとえば幹線道路問題などがそうである。自らの地域に該当する部分を考えるだけの住民運動や自治体行政では、本当の解決にはならない。視野が狭くなって、「住民エゴ」、「地域エゴ」に陥ってしまう。他の隣接地域ではどういう問題が起きているか、どのように解決しているか、広域的にはどのような必要性と問題性があるのかを理解し、さらには自らの地域の情報も積極的に「外」に広げていくことによって、主体的判断によるいきいきとした活動ができるのである。
 今はその地域に住んでいるが、いつか転出するであろう青年たちに対しても、地域は「開放的」であってほしい。十年後、二十年後にどこかの地域のスタッフになれるよう、今の地域が青年たちの「巣立」を援助するのである。それは、「閉鎖的」地域主義に対する「開放的」地域主義といえる。
 第三に、「非日常」の魅力のある内容をもった地域情報、行政情報を、地域の中に「風」として吹きわたらせたい。
 現代都市青年は「きまりきった情報」にはあきあきしている。今日の社会では、青年だけでなく一般の住民でさえ、定型的な地域・行政情報には愛想をつかしている。過去の地域共同体における情報提供は、恒常的な共同作業の日程などを明らかにするだけで足りただろう。しかし、今日、地域社会に住民が関わる場合は「自発的行為」であることが多い。何らかの形で情報を得てから、それに魅力を感じた場合に地域に関わるのである。それは現代都市コミュニティの新しい「理想」だと思う。
 本来、地域社会はダイナミックで人間的な場である。それは現代都市社会に生きる青年にとっては「新しい非日常」になりうる。今は地域に埋もれてしまっているその魅力を拾い上げ、情報の「風」として地域に吹きわたらせることが求められている。

4 青年とともに育つ情報提供 
4−1 「ともに育つ」情報提供

 青年は行政の広報をあまり読まない。彼らは、それを「つまらない」、「役に立たない」と思っているのではないか。
 いうまでもなく、広報は市民の行政への理解と発言(広聴)を求めるために「必要」(ニーズ)である。しかし、行政自身が市民に「何とか読んでもらいたい」と思っているだろうか。「広く知らせること」が、行政にとっての切実な「要求」(ウォント)になっているだろうか。読まれようが、読まれまいが、無頓着に形式的な発行を重ねるだけでは広報の「中身」も育たないのである。
 常にコンペティション(競争)にさらされる民間誌は「読んでもらう」ことを切実な「要求」としている。読者のウォントを敏感にとらえて中身を構成し、グラビアやイラストなどの「外観」でも人の目を引こうとしている。たとえば、自分たちの意思で発行しているミニコミ紙でさえ、「いい『情報』を読んでもらうためには、その『いい情報』を少し減らしてでも、手に取って読んでもらう努力が必要です。」(六)として、その第一面の大部分をイラストで飾ったりして、親しみやすい紙面を工夫しているのである。
 民間の情報提供には、このような「市民感覚」がある。それは、フィードバックを活かして情報提供の中身をすみやかに改善することにもつながっている。こうして、情報提供側の「市民感覚」が育っていくのである。ヤングアダルト情報サービスは、この精神に習うべきである。「青年感覚」が必要なのである。
 「青年感覚」とは、現代都市青年の情報ウォントを理解できることである。そのことによって初めて、彼らに「関係のある」情報を提供することができる。それは、青年からのフィードバックを高める。最初に提供側に「市民感覚」、「青年感覚」があってこそ、その「感覚」がますます育つのである。
 それでは、公的情報提供は、「市民感覚」そのものである民間の情報提供よりも常に劣っているのが宿命なのか。決してそうではないだろう。
 民放の教育番組に関する自主的な連絡調整団体ともいうべき「民間放送教育協会」は毎年、全国大会を開催している。そこで毎回のように、フロアーのお母さん方から、「俗悪番組を少なくして、その分、教育番組を増やしてほしい。それをゴールデンタイムに放映してほしい。」との注文が出る。そして、この注文に対していつも壇上のディレクターたちは「これでも頑張っているつもりである。教育番組の低い視聴率を考えると、これでもせいいっぱいの努力である。ゴールデンタイムに放映するなど、とっても無理である。あとは、たくさんの皆さんに見ていただいて視聴率を上げるしかない。」という趣旨の受け答えをする。民放としては、放送の「公共性」という「ニーズ」に対応するために、かなりの努力をしているのである。しかし、視聴者のいうウォントに対応できたかどうかの数的評価としての視聴率にも、こだわらざるをえないのである。
 ヤングアダルト情報サービスは、これとは基本的に態度が異なる。青年のウォントに応える情報提供だけをするのではない。「必要情報」を提供することもその「本来」の責務である。そこに「民間」とは違った「公的」な意味がある。
 ただし、これらの「必要情報」の判断、収集、選択、提供においても、説得力がなければならない。「押しつけ」になってはいけない。現代都市青年の感覚と遊離した感覚で、青年にとっての「ニーズ」を社会や行政が設定しようとするならば、そこで設定された「ニーズ」と青年自身のウォントも対立してしまう。
 今日まで人類の獲得した発展の多くが、人間のなまなましいウォントから生まれたものである。「ニーズ設定」の際、今の青年のウォントをバカにしてはいけない。もちろん、大切にすべきウォントには、今までの社会にすでに形成されている行政や大人たちのウォントも含めなければならない。しかし、現代都市青年の今のウォントの中にも、将来社会のニーズがすでに「遺伝子」のように用意されている。たとえば、すでに述べたように「おもしろい情報」の要求は、「参加性」や「自発性」の原初形態であり、将来の社会のニーズになる可能性もあるのである。
 そもそも、ニーズはウォントと完全に遊離していたり、まっこうから対立したりするものではない。ニーズとは、ある意味では、ウォントが集約され、整理されて形が整えられたものである。
 ヤングアダルト情報サービスがなぜ「必要情報」を提供しようとするのかといえば、それは、青年が自ら「気づき」、「要求情報」の中でもとりわけ「必要」な情報を「要求」できるようにするためなのである。したがって、「必要情報」の提供においても、一方的に青年に「教える」のではなく、今の青年の「要求情報」を大切にして、そこから行政は学びながらも、青年に問題を提起し、彼らの自己成長を期待するという「ともに育つ」姿勢が肝要である。
 単に情報処理システムやそのための行政システムなどの、「システム論」だけを先行させるのならば、ヤングアダルト情報サービスは成功しないだろう。その前に、まず、既存のさまざまな公的情報提供を担当する職員が、もう少し現代青年の感覚を認識してくれていれば、と思われる現実が残念ながら多いのである。

4−2 ネットワーキングとインフォメーションリーダー

 情報の収集から提供にいたる作業には人間の認識を育てる作用が内包されている。したがって、ヤングアダルト情報サービスが「情報処理」の作業の「代行」をすべて請け負ってしまってはいけない。青年の「参加」が望ましいのである。行政の「青年対策」への青年自身の参加の一般的な意義とは別に、情報提供においての「青年参加」は独特の教育的意義を持っているのである。
 青年参加の具体的なシステムとしては、情報モニター制度を設けてフィードバックを図ったり、企画委員会や運営委員会などへの参加を求める方法がある。しかし、モニターや各種委員は限られた青年である。そこで「参加」する者の範囲を広くし、中身を豊かにする「鍵概念」として、「ネットワーキング」が注目される。それは、特に情報については有効な概念である。ネットワーキングそのものの「鍵」も「情報」である。
 ネットワーキングとは、それぞれの人やグループや機関が、それぞれ自立的な価値を持ちながら、連携することである。そして本来、その連携は固定的ではなく、ゆるやかで自由、自発的なものである。(七)
 質の良い新しい情報は「固定」からは生まれない。ネットワークシステムにおける青年の「流動的」参加こそ、創造的成果が期待できる。「流動的」であるから、参加する青年の顔ぶれや参加の内容、形態が常に移り変わってもよい。参加の「形式」より、参加する者の個人的な「中身」を重視するのである。
 この論には現実論からの反駁が予想される。それは、青年の無関心、主体性の喪失の中で、ごくわずかの委員を募集することでさえ容易ではないのに、そんな「不特定多数」の自立的参加が望めるわけがないというものである。
 しかし、現代の「情報」の特性は青年の参加をいざなう新しい可能性を持っていると思うのである。
 一つの可能性は「インフォメーションリーダー」ともいうべき青年たちの存在である。彼らは、情報化社会に新しく登場した情報保有者および発信者である。コミュニティの崩壊の中で、近隣関係などによるパーソナルコミュニケーションが衰退してしまった。しかし、それに代わるコミュニケーションの良き仲介者として新しいインフォメーションリーダーが誕生してきたのである。
 従来の青年リーダーは、奉仕的精神や、時には自己犠牲的精神が求められてきた。しかしインフォメーションリーダーは、「ものごと」に対して好奇心が強い者、おもしろがることのできる者である。だから新しい情報を持っている。彼らはグループリーダーそのものにはなりえないかもしれない。しかし、その開放的で先取的な性格は、インフォーマルな青年グループのアンテナとレーダーの役割を果たしているのである。
 ヤングアダルト情報サービスに魅力があると感じれば、彼らはこれに参加するだろう。彼らの自発的参加によって「青年感覚」にあふれたダイナミックな情報の収集と提供ができる。そして、彼らは、インフォーマルな「影響力」を持っているのであるから、この情報サービスのことと、そこで提供される情報は、彼らを通してインフォーマルな青年グループの中に広がっていく。それが、今まで行政には「縁がなかった」ような広い層の青年の参加をよびおこすことを期待できるのである。
 ヤングアダルト情報サービスは、インフォメーションリーダーのインフォーマルな「影響力」に期待する。彼らの「影響力」は、団体のリーダーのような「指導的」なものではない。対等な立場で他者に対しても「自立的価値」を求め、その「個人的」なつきあいの中で価値のある情報、楽しい情報を発信するネットワーカー的なものである。

4−3 パソコン通信の活用

 青年の参加をいざなう現代の「情報」の特性のもう一つの側面として、情報技術の高度な発達があげられる。中でも私は、パソコン通信に注目したい。パソコンと電話とそれをつなぐモデムがあれば、あとは通常の電話料金の負担だけで、在宅のままリアルタイムな情報の入手と検索、そしてそれ以上の魅力として「情報の発信」ができるのである。実際、現在無料で提供されているアスキーネットワークは、ホストコンピューターにつなぐ電話回線をたびたび増設しているが、それでもすぐいっぱいになるほどの利用率を誇っている。検索主体のキャプテンシステムが企業はともかく、青年にはあまり活用されていないのとは対照的である。
 他の事業の企画への参加と異なり、情報については、現代の情報技術をうまく利用すれば、それほどの「覚悟」なしに気軽に参加でき、しかも直接、主体的参加ができる。ネットワーキングが「情報」を「鍵概念」とする理由の一つも、この「情報の魅力」にあるのだと考えられる。
 だが、そうは言っても、パソコン通信で青年が発信する情報の「内容」に全面的に期待できるかというと、実は残念ながらそうではない。
 アスキーネットワークの中にはブレティンボード(掲示板)システムというのがある。これは、百八十を越えるさまざまなテーマのボードがホストコンピューターの中に設定されるものである。メンバーは、自分のパソコンから、好きなボードに自由に意見を書き込んで「掲示」する。その一つに「グッドアース」があった。地球的規模から核兵器、環境、人口爆発、エネルギーなどの問題を考えようとしたものである。ところが、半年でたった二十七件しか書き込みがなかった。これに対して喫茶店、アニメ、コミック、アイドル、SFなどは千件以上の書き込みがあり、二千件を越えるところすらあったという。青年が情報ネットワークに参加するといっても、たわいないおしゃべりが多いのである。
 「グッドアース」については、「不活発」(すなわち、ウォントが少ない)という理由からシステムオペレーターのアスキー側から閉鎖を通告された(昭和六十一年秋)。これに対してニューサーティーの関根章郎氏が、廃止反対のよびかけをボード上で展開した。それを契機に他の青年からの書き込みが増え、「こんな本が良かった。」という読書情報が交換されたり、その感想を述べあう「電子読書会」がボード上で開かれたりした。このようにして、「グッドアース」は結局、継続されることになった。(「グッドアース」の件に関しては、すべて、関根氏から筆者への私信に基づいている。)
 ヤングアダルト情報サービスにおいても、パソコン通信を活用したい。そこでは、「くだらない情報」はすべて排除しようとは思わないが、「好ましい情報」なのに反応が少ないからといってそれを排除するものでもない。「必要情報」も提起しながら、情報の中身を「ともに育てる」ところが、公的情報提供の良いところである。
 なお、関根氏によれば、アスキーは「グッドアースの廃止宣言」という「ショック療法」によって、青年が発信するふがいない通信の中身を「治療」しようとしたのではないか、とのことである。時には、このような「緊張関係の演出」も必要なのかもしれない。

4−4 ユースワーカーの役割

 現代都市青年は「情報化不適応」を起こしている。それにさらに追い討ちをかけるようなヤングアダルト情報サービスであってはならない。そのために、もう一つ、必要な要素として、情報サービスを現代都市青年につなぐ情報ユースワーカーの存在がなくてはならない。
 青年のための情報処理とは、情報をコンピューターで「交通整理」すれば済んでしまうという性格のものではない。担当者という人間の意識が介在する。その人自身に、「青年感覚」が求められる。この「感覚」を専門的資質として持っている職員がユースワーカーである。
 ヤングアダルト情報サービスにおけるユースワーカーは、青年の情報化不適応を時には支持することもあってよい。非常に人間的な機能を発揮するのである。
 たとえば、青年担当の社会教育主事、公民館主事もその一員であろう。社会教育行政におけるこれらの「専門職制度」は、一般行政からの自律性、青年への直接責任性、青年側の自由性などを、ユースワークに与えてくれるものである。
 ただし、この「自律性」とは、決して、ユースワーカー本人の趣向やそれまでの経験などに基づいて、勝手にユースワークを展開してよいということではないだろう。ユースワーカーという一人の公務員に「自律性」が保障されているというよりは、本来的にはユースワークそのものが一般行政から自律的であるべきなのではないか。一般行政施策などの「意図」に縛られずに、ワーカーと青年がユースワークを「ともに育てていける」という意味で自律的なのである。
 それでは、情報ユースワーカーは、「ともに育つ」ユースワークとしてのヤングアダルト情報サービスを実現するために、どんな役割を果たせばよいのか。
 一つには、カウンセラーとしての役割である。青年の情報摂取者としての自立を助け、都市化や情報化などによるパーソナルコミュニケーション能力の喪失の自己回復を援助することが求められるのである。そのためには、カウンセリングにおける「受容」「繰り返し」「明確化」「支持」「質問」などの技法を適切な時に有効に活用する能力が必要である。それは、純粋な心理学的技法でなく、むしろ、その「実践的変形」であってよい。
 グループワーカーとしての役割もある。一対一の関係を原則とし、しかも相手が人生の問題をかかえていることを前提とするカウンセリングよりも、むしろグループワークの方がユースワーカーの日常的役割に近い。そして、グループワークの中でも神経症者を対象とするグループ・セラピィより、健常者の自己啓発を求めての主体的参加を前提とするエンカウンター・グループのリーダーの役割に近い。
 グループ・セラピィにおいては、「セラピストは先ずメンバーの依存の対象である」。これに対してエンカウンター・グループにおいては、「(そこまで)各メンバーとのつながりはつよくない。メンバー個人よりはグループ全体とのつながりが強い。セラピストといわずファシリテーターというのはその意味である。つまりセラピストが舞台監督とすれば、ファシリテーターは舞台装置家という感じである。場面設定者という感じである」。そして「メンバーの役割もこなす」のである。(八)そこには、理念でも、実践でも、形態でも、「ともに育つ」姿勢がある。
 そもそも、エンカウンター・グループは、都市化、情報化が進んで人間どうしのナマの触れ合いが少なくなり、その能力さえ失いつつある今日の時代における危機意識に満ちた取り組みであろう。そこは「極端」なまでにホンネとホンネがぶつかり合う世界である。だから、その世界を情報ユースワークにそのまま持ち込めば良いとは言えない。
 ただ、青年の情報化不適応にきちんと応えるためには、エンカウンター・グループでいうようなファシリテーターの役割がどうしても必要なのである。なぜなら、現代都市青年の情報化不適応は、情報化社会の中での人間復活の叫びであり、情報提供によって情報が増えるだけでは、とうてい解決できないからである。人間関係創出の「舞台設定」以外にその本質的解決はないのである。

4−5 情報サービスと「教育的役割」

 情報ユースワーカーは「教育的役割」も持っている。
 すでに何度も述べたように、青年の主体的営みこそが青年の主体性をはぐくむ。だからこの場合の「教育」も決して「教え諭す」ものではない。原則としては、青年の求めに応じた「援助」であり、青年の主体性を尊重した上での「きっかけ作り」である。そのためには、良い情報提供のできる能力と、ファシリテーターとしての資質を備えていなければならない。
 しかし、それだけでは不充分である。実は、青年の主体的な情報取得と判断を援助するためには、青年の求めるままには応じないことも必要な時がある。たとえば、青年の問いに対する答えがわかっていても、情報提供側の判断によっては、それを教えない時があってよい。青年が自分で解答を見出せるように、それを調べる方法だけ教えるのである。ただし、「教えるべきか」、「教えざるべきか」の判断は決して機械的にはできない。だから、その判断ができるユースワーカーがいない場合は、わかるだけの情報をすべて機械的に提供した方が無難である。
 ユースワーカーのいる場合は、時には「回答拒否」もありうる。新聞社の人に聞くと、「ナポレオンは何年に死んだか。」などという青少年らしき者からの問い合わせがけっこう多いそうである。「当社ではそこまではお答えしていません。」と答えると、心外な様子でガチャンと電話を切ってしまうらしい。調べれば簡単にわかる宿題などを、電話の方がもっと簡単だからかけてくる。
 ヤングアダルト情報サービスにも、きっとそんな問い合わせがくるだろう。そんな時、それに巧みに付き合うこともあってよいし、「回答拒否」をしてもよい。教育的に有効と判断する方をとればよい。「拒否」をする場合は、「残念ながら当方ではそこまでお答えしていません。」という応答をするのではない。「そんなことは、自分で調べなさい。」と応じてよいのである。そのためには教育的配慮を持ち、教育的判断ができ、そして青年との関係(リレーション)をあとでフォローできるユースワーカーの存在が不可欠である。
 このように、ヤングアダルト情報サービスに情報ユースワーカーの存在があってこそ、「ともに育つ」ことが、形態だけでなく、「内実」としても保障される。「ともに育つ」ということは、青年が行政におそるおそる情報を「貰いに行く」ことでないのはもちろんだが、行政が青年にいつも「へつらっている」ことでもない。青年を「まだ子ども」だからと、見くびってこんなことを言っているのではない。青年以外の市民に対しても同じように、対等でしかも緊張した関係こそが、ともに育つ内実を豊かにするのだと思う。
 情報ユースワーカーの役割として、行政と青年をつなぐ「行政職員としての役割」をつけ加えておきたい。ユースワーカーの「自律性」を拡大解釈して、行政職員としての要素を否定しようとするよりも、行政職員としての責務と可能性をむしろ充分に発揮しようとする方が、有効で現実的だと思う。
 たとえば、ヤングアダルト情報サービスの中には、行政の立場からの「青年への情報提供」があった方がよい。そのためにユースワーカーは、都市計画などについて知っておかなければならない。逆に、青年の意思を行政に反映させるための「行政への情報提供」も必要となる。行政内の「スタッフ」として、行政に提言するのである。そのためには、その問題の行政施策全体からの位置づけを把握し、かつ、具体的な窓口やルートを知っていなければならない。
 行政と青年の間にいる職員として、両者の緊張関係を「調整」したり「演出」したりして、行政と青年を「ともに育つ」ようにつなぐことも、行政全体の視点から見た情報ユースワーカーの役割なのである。

4−6 情報と知的生産

 現代都市青年の「モノ離れ」は、善かれ悪しかれ、ソフト化社会、成熟社会において避けられない傾向であろう。モノの実用性よりも、個人の内面的な価値観や他者からの情報によって価値判断がなされる。
 たとえば、おしゃれに関する青年の「ブランド志向」は、たしかに特定ブランド商品という「モノ」への志向として表れている。しかし、その一番の価値基準は着心地ではないばかりか、「外観」ですらない。問題は、「ブランド名は何か」だけなのである。そして、そのブランドが良いかどうかは、体験ではなく他からの「情報」により決定される。モノ自体より、それを一側面から「切り取った」結果としての情報(「原宿で、はやっている」など)に判断の基準を見出すのである。そして生産者側も、物的過剰の時代において、もっと消費を拡大するためにますます情報重視の戦略に傾いていく。
 しかし、この「モノ離れ」と「情報重視」の傾向も、「多面体の一面」としてとらえなければならない。たとえば、今日の「食」は一方では大量宣伝にのったファースト・フードなどの食「文化」を生み出している。その反面、今日ほど人々が「主体的・意識的」に健康食、自然食に取り組んでいる時代は過去にないのではないか。有機農法、無農薬の食料を求める底流には、人間が食を媒介にして大地とどう関わりを持てばよいかという根源的な問いがある。自分一人の健康を守るだけのちっぽけな「健康食志向」から、地球の生態系に責任を持ち、人間らしい生き方を問う「自然食志向」のムーブメントに発展してきているのである。そこにも、人間どうしの情報の「行き来」が見出される。そして、他者からの情報を、知的、主体的に受けとめた上での、食の「文化」が形成されようとしている。
 このように「モノ離れ」と「情報重視」には積極的側面がある。その一つとして、モノの生産とは違った個人の「知的生産」を志向する傾向があげられる。梅棹忠夫氏の「知的生産の技術」によれば、「知的生産」とは、「人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合である、とかんがえていいであろう。」(九)としている。そして「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらにはしらされる、ということにもなりかねないのである。」(十)として、その著で「個人の知的武装」の意義を強調した。
 情報は、個人を管理する手段にもなるが、個人の自由な「知的生産」の道具や目的にもなるのである。
 ヤングアダルト情報サービスが関わる青年の「知的生産」とは、青年自身の手による調査・研究・開発であろう。「一斉講義型」の講座だけでは、その援助はできない。青年の「知的生産」への、もっと個別的な対応が必要になる。それが、情報提供と研究相談である。そこで生み出される情報は、青年の主体的、かつ、知的な情報である。その意味で、今日の大量の情報の中でも、青年にとってとりわけ大きな価値がある。
 それだけではない。「知的生産」は日記などを除いて、その大部分が他者に自己の知的生産物を提供する目的で行われる。形態としては「個人的行為」でありながら、その意図は「社会的」である。
 ヤングアダルト情報サービスは、この知的生産の「社会化」をさらに促進させる。それは、一つには、個々の青年の「知的生産」を結び合うネットワーキングである。もう一つは、青年のそれらの知的生産のサービス自体への還元である。さらには、青年の知的生産を、行政や広く社会全体に知らせ、つなげていく。
 青年の知的生産という創造的な営みと、そのネットワークによって、ヤングアダルト情報サービスは、「人間的」で魅力ある情報の発信源となることができるであろう。それは、現代社会がなかなか実現できなかった理想的な情報化の進展の方向を示しているのである。

結論

 「情報」の「情」には、「ありさま」という意味がある。青年が必要なさまざまなことがらの本当の「ありさま」を知らせる情報は、情報過多の都市社会においても、思いのほか少ない。そして、この「情」は、「こころ」としての「情」と決して対立的なものではない。ヤングアダルト情報サービスは、現代都市社会に欠けがちな二つの「情」の両方を豊かにする試みである。
 情報提供を「消極的すぎる」という理由で軽視し、がむしゃらに上から青年を「是正」しようとする「青年対策」が行われるとすれば、それは「強力」なようにみえても、実際には何の効果ももたらさない。青年の主体性なくして青年政策の効果はなく、今日の情報環境においては、公的情報提供なくして、その青年の主体性の確保は困難なのである。
 今日、「学習社会」が形成されようとしている。激変する社会の中で、それに対応するために、また、主体的な生き方をするためには、誰もが「学習」せざるをえない。そこでの「学習」とは、主体的に自己を啓発することである。青年自身も、学校・労働・余暇などの全生活にわたって、その新しい意味での「学習」の必要と魅力に気づきつつある。中でも「知的生産」は、とりわけ自立的な行為であり、それへの関心は注目すべき事象である。
 このような学習の「広範化」の現実と「主体性」の志向の時代に、そのすべてに行政が「直接的教育力」を発揮しようとするのは時代錯誤でしかない。
 ヤングアダルト情報サービスは、社会の側からの確かな「公的意図」をもちながらも、青年と「ともに育つ」姿勢で取り組まれる。この姿勢によって、青年行政は過去の「学習」のイメージから訣別し、今まで学習として意識されていなかった青年の全生活を通した内なる主体的な自己発達に資する情報を提供することができる。しかも、その形での援助は青年の主体性をそこなわない。そして、このようにして青年が新しい「学習」に主体的に取り組むこと自体、現代社会が青年に対してもっとも切実に要請している「社会的課題」なのである。


脚注

( 一)濱嶋朗他編 社会学小辞典 有斐閣、増補版一九八二、頁一一七
( 二)同、頁二七三、「地図と現地」は一般意味論学者コジープスキの用語。
( 三)半田雄二 「図書館職員として青年とどうつきあうか」、むさしのインフォメーションマニュアル・・・ 東京都武蔵野青年の家、一九八四、頁四八
( 四)半田雄二 「公共図書館の『青年問題』」、図書館雑誌V o l 7 5 , N o 5 、日本図書館協会、一九八一、頁二四三
( 五)リファラルサービスについてはホイットニー・ノース・シーモア J r、エリザベス・N・レイン だれのための図書館 京藤松子訳 日本図書館協会、一九八二、頁一五三〜一五七 に紹介されている。
( 六)てい談「夢を語る 青年のための情報サービス・システム」、前掲 むさしのインフォメーションマニュアル・・・ 、頁二一、ミニコミ紙「みたかきいたか」編集長 川井信良氏の発言。
【追記】サーチしていたら、次の記事が見つかった。川井しんすけさん、今でも活躍中なのだ。懐かしい・・・。印刷会社と地域活性化 ( 七)今井賢一 情報ネットワーク社会 岩波書店、一九八四、特に頁一八二
( 八)国分康孝 エンカウンター 心とこころのふれあい 誠信書房、一九八一、頁五八・五九
( 九)梅棹忠夫 知的生産の技術 岩波書店、一九六九、頁九
( 十)同、頁一八

参考文献

○ 今井賢一 情報ネットワーク社会 岩波書店、一九八四
  産業における重層的なネットワーク化に着目しながら、「高度情報化社会の光と影」について論じている。
○ 高山正也編 情報分析・生産論、講座 情報と図書館 4 雄山閣出版、一九八五
  図書館・情報学と情報業務の現実との接点から論じられている。そのため、情報の現実の姿の基本的理解に資するところが大きい。
○ 東京都企画審議室 高度情報化の進展と東京・地域社会へのインパクトと課題、一九八五
  シーズ先行型の現在の高度情報化の進展に対して、高度化・多様化する社会的ニーズへの対応を重視する立場からの報告。都民生活面への影響と問題についてもよく分析されている。
○ 梅棹忠夫 知的生産の技術 岩波書店、一九六九
  その名のとおり知的情報の生産について技術的側面から論じたものであるが、広く「現代人の実践的素養」としてそれを述べている。このように、個人の知的生活と情報の関わりの実相を明らかにしたという点で、この書は端緒を開く存在であった。
○ 高田正純 データベースを使いこなす・英語でとる世界情報・ 講談社、一九八五
  パソコン・ネットワークを個人が利用する魅力を実践的に解説している。知的興味と人間どうしのふれあいへの志向をともに充たすものとしてパソコン通信が位置づけられている。特に「文科系人間」向きの書である。
○ 高校教育研究会 高校生と情報行動、モノグラフ・高校生‘ 8 5第一五巻 福武書店、一九八五
  高校生と雑誌情報、音楽情報、友人間情報などに関する調査に基づき、その情報行動タイプの分類などを行っている。
○ 拙著 「学習情報提供事業の企画と展開」、岡本包治他編 社会教育の計画とプログラム 全日本社会教育連合会、一九八七
  社会教育行政が市民に学習情報を提供するにあたっての三つの基本的問題と十の留意点について述べた上で、その具体的な機能の図表化を試みている。



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