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教育と学習の断絶に抗してCONCEPT

教育と学習のあいだの深くて暗い河

 若者文化研究所 西村美東士

 「なんで生きてるの?」も「ビートたけしに勝つ」と同様、授業の初回でのぼく流の発問である。ぼくが答をもっていたり自信をもっていたりするわけではないので、「せっかく信じたのに・・・」とあとでがっかりする学生もいるかもしれないが、それが双方向高等教育システムの特徴だと思って面白がってもらうほかない。その答を探し続けることが学問である。
 つぎに、なぜぼくはこの双方向高等教育システムに燃えているのか。それは、まず、職業としてとはいえ、自己決定の生涯学習やボランティアと同じく「自分のため」である。そちらの方が一方通行の授業をするより自分自身が楽しいから、気づくことができるからなのである。しかし、その場合の楽しさ、気づきの本質は何だろうか。
 就職活動が一段落した秋口に初めてぼくの授業に出てきた4年の男子大学生が、こう書いてきた。「ぼくは来年は就職浪人することが決まった。なぜなら、@大企業であること、A残業がないこと、B転勤がないこと、のぼくなりに決めた就職3条件にあう企業に採用されなかったからだ。こういう就職浪人のぼくを世間は差別の目で見るだろう。そういう差別される者の痛みは、先生のように差別されたことのない人にはわかるまい。しかし、先生はぼくが知りたいと思っている差別のことについて話しているようだ。だから、あと1回ぐらいはこの授業に出席しようと思うので、ぼくの期待に応えてほしい」。
 ぼく自身、じつは、就職浪人をしたことがあり、しかもそのときは差別の目で見られる辛さより、自立できずに親に迷惑をかけることの方が申しわけないと思ったものだ。だから、正直いって、最初はこの文章に馬鹿馬鹿しさや憤りを感じた。そのほか、知に対する安易な態度、世間を甘く見ていることなどの彼の欠点を指摘して、教師の立場から彼をへこますことはできるかもしれない。しかし、そんなことが何になるのか。彼の主体性の増大や態度変容につながらないことは明らかである。そんな説教は、教師が学生より上位者であることを確認して安心する行為にしかならないのではないか。しかし、今までの教育は意外に平気でそんなことを繰り返してきたように思う。
 教育=学習援助、すなわち当然のことながら教育は学習を援助するためにあるというのだが、それは本当か。この問題は、「教育は主体的な学習にとって役に立つか」というアポリア(行き詰まりの難問)に類するものであることから、以下のように情緒的な表現になってしまうことをお許しいただきたい。教育=学習支援の等号には深くて昏い河が流れているとぼくは思う。ぼくは、まず、この深くて昏い河の存在を伝えていきたい。つぎに、この河は、もしかしたら向こう岸にはたどり着けない河なのかもしれない。それなのに、学習援助であろうとして舟を漕ぎ続けている人が、この「上下同質競争社会」の同時代に命を燃やしている。ぼくはたどり着けないかもしれない向こう岸に向かって舟を漕ぐ姿こそ、人間としてのかわいい姿だと思う。この本では、そういう指導のあり方を探っていきたい。生き方を指導したいという人はいても、指導されたいという人はあまりいないだろう。そういう指導の困難性に立ち向かってみたい。
 たとえば、先の就職浪人が決定した彼に対して教師はどう対応すればよいのだろうか。ぼくは、指導の要素をシンパシー、ストローク、エンカウンターの3つと考えている。まず、彼の存在に対して、肯定的に関心をもち、共感的に理解しようとする態度が必要であろう(シンパシー)。考えてみれば、彼の就職の条件の@は安定した収入、Aは自由時間、Bは家族の安心を求めるもっともな願いであり、だれもそれを責めたりできないはずだ。それよりも、世間から差別の目で見られるだろうから辛いという言葉を彼なりの真実としてとらえ、そうとらえたことを伝えることのほうが大切だ(ストローク)。その上でこそ、「上下同質競争社会」に気づかないままそのなかで苦しんで生きている彼と出席ペーパーへのコメントという形で真正面から対話し、本音でぶつかりあって(エンカウンター)、自己と現実社会との関係の客観的認識(「奴隷の覚悟」<mito)と、彼自身のもっている内なる差別の存在や社会の画一的価値観の内面化への気づき(「批判の刃を自己にも向けよ」<mito)を促すことができるのである。これが、本当の意味での「自分を否定しなくてもよい」「そんなに頑張らなくてもよい」という自己受容につながり、さらには、「差別されたことのない人にはわかるまい」という絶望感を乗り越えて、「人間は共感しあうことができる」という他者受容と肯定的関心につながるかもしれないのだ。自己防衛的な就職浪人の彼は、このような癒しのプロセスを経てこそ、生きていて社会に意味を与えることのできる自己を発見しようとする元気が出てくるのではないか。(注 <はパソコン通信の発言者を表す記号の借用)
 ぼくが双方向高等教育に夢中になっていることも、この本を書きたいと思っていることも、以上の事情による。このような癒しと貢献の生涯学習が、そしてその「指導」が、現代人が不信と絶望に苦しむ上下同質競争社会において、突出的とはいえ水平異質交流の共生社会を創り出すとしたら、また、そのためにこの本がごくわずかでも役に立つことができるとしたら、それはすなわちぼくにとってのうれしい「癒しと貢献」でもあり、ぼくがこの世に存在する証拠にもなる。



【引用元】
1998年4月西村美東士『癒しの生涯学習』学文社

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