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ブックレビューCONCEPT

廣瀬裕一「教員の資質向上」でいいのか を読む

 若者文化研究所 西村美東士

廣瀬裕一「教員の資質向上」でいいのか を読む
日本教育新聞社編集『週刊教育資料』教育公論社、1578号、pp.35-37、2020年8月

1 資質向上という言葉への違和感
 廣瀬は、"improving teacher quality"あるいは"upgrading the quality of teachers"を、我が国では「教員の資質向上」などということについて、この表現は、いつ誰が使い始めたのか知らないが、昭和22年の文部省と日教組の覚書にはすでにあるとしたうえで、次のように批判する。「資質は本来、生得的なものを意味し、向上はしない。言葉の意味は時代とともに変化もするから、今や法律上の文言ともなった『資質』が誤用であるとは言いきれないが、日本語の不適切な使用や解釈が、教員のクオリティ向上を阻害している現状がある」。
 廣瀬は、平成28(2016)年に改正された教育公務員特例法には、その前年の中央教育審議会答申「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について(副題略)」を受け、教員等の「資質」という語が頻出する。そして、それを「向上」させるために「研修」を行うこととされているとし、「校長及び教員としての資質の向上に関する指標」(22条の3)、指標を踏まえた「教員研修計画」(22条の4)、資質の向上に関する「協議会」(99一条の5)、「中堅教諭等資質向上研修」(24条)などと例示する。
 しかし、『日本国語大辞典』や『広辞苑』では、資質とは「生まれつきの性質や才能」等とされており、先天的なものというその語義からすれば、後天的に研修によって「資質」を向上させることについて違和感があると言う。
 私は、このことについて、クドバスの「能力カード」の表記ルールを想起する。クドバスの「能力カード」の表記には、「できる、知っている、態度がとれる」(技能・、知識・態度)という「縛り」があり、「資質」は書かないことになっている(技術・技能教育研究所ホームページ)クリックして参照。クドバスは教育が可能であること、現実的な教育目標(としての能力)をもとにしたカリキュラム作成手法を目指しているからである。私は、さらに、教育が、「もともとのその人らしさ」とも言うべき「資質」にまで踏み込んで教育目標を設定すること自体に大いに抵抗を感じる。

2 立法及び行財政施策と「資質向上」の呪文
 廣瀬は、「といっても、教員の〈資質〉向上が不可能なわけではない」として、国の立法や行財政施策に期待する。昭和49(1974)年のいわゆる人材確保法の制定は、教育職員給与の「優遇措置」(3条)により「すぐれた人材を確保」(1条)した。国策で教職へのインセンティブを付与し、教員全体の〈資質〉レベルを中長期的に底上げしたと言う。だが、廣瀬は、近年この優遇措置は大幅に縮減され、教員免許更新制と多忙化という負のインセンティブも加わり、志願者が減って〈資質〉レベルは中長期的に低落し、教員不足も深刻化している。これは国の大失策なのだが、「資質は研修で向上」という呪文をかけられた国民には、そのことが見えにくくなっているかもしれないと言う。
 採用時点で、すぐれた資質の者を採用することによって、資質向上は可能ということなのだろうが、厚遇を依存的に期待するだけの「成績優秀」な学生を採用したところで、教育改革は期待できないように私は思う。

3 審議会答申における「資質」等
 廣瀬は、答申で多用される養成・採用・研修の過程を通じた教員の「資質能力の向上」(昭53中教審、昭62教養審、平24中教審ほか)等の表現は、怪しいが不適切とも限らないと言う。「養成」の入試段階や「採用」選考では〈資質〉の低い者を排除できるし、「研修」で向上させるのは〈資質〉ではなく「能力」のほうである、と読めないこともない場合があるからであると言うのだ。
 しかし、「能力」をはずして単に教員の「資質の向上」(昭33中教審、昭46中教審、昭62臨教審ほか、昭57・5初中局長通知も)などと言われると、救いようがないと廣瀬は言う。その一方で、「資」を抜いて教師の「質の向上」(平17・10中教審ほか)とされたこともあり、この表現ならば納得できると付け加える。

4 法律上の「資質」
 廣瀬は、法律では最も不適切な「資質」になってしまうとして、その経緯を次のように説明する。平成11(1999)年の文部科学省設置法(現4条1項13号)等でも使われているが、教特法に登場したのは平成14(2002)年で、「十年経験者研修」を義務化し、「教諭等としての資質の向上を図るために必要な事項に関する研修」(旧20条の3)と規定した。そして、平成18(2006)年には教育基本法にまで「…必要な資質を備えた…国民の育成」(1条)という表現が加わり、辞書とは異なる「資質」の用法は広くお墨付きを得てしまったとし、冒頭に述べた平成28年の教特法改正はダメ押しであろうと批判する。

5 人格と修養
 廣瀬は、それ以上に問題なのは、教育の根幹に関わる法律用語の曲解・誤解であると言う。まず、教育基本法1条の「人格の完成」について、文部(科学)省の公的解釈は、旧法以来、一貫しておかしいと言う。
 改正法案を審議した平成18(2006)年の国会答弁で文科大臣は、「人格の完成」とは「各個人の備えるあらゆる能力を可能な限り、かつ調和的に発展させることを意味する」と述べた。これは旧法制定直後の昭和22(1947)年に、文部省訓令「教育基本法制定の要旨について」で示された定義をほぼ踏襲したものである。
 しかし、この定義は「人格」の道徳性を捨象し、能力面だけで無理に説明しており、常識と隔たると廣瀬は言う。廣瀬は、この「人格」とは自律の主体であり、この意味の人格性を有するがゆえに人間は尊厳である(カント)とし、人間だけが他の動物と異なり人権を享有することを正当化できる根拠もここにあると言う。
 さらに見落とされがちなこととして、誰の「人格の完成」を目指すのかということについて、それは教育を受ける者だけでなく、教育を施す者の、でもあると言う。人は皆不完全。教育者自身も己の人格を磨き続け、その背中を見て子は育つと言うのだ。
 廣瀬は、他の論文で、次のように述べている。近年、我が国の教育界では「豊かな人間性」という語がはやっている。しかし、教育の目的は、「豊かな人間性」ではなく、「人格の完成」である。「人格の完成を目指す」とは、教育を施す者が自らの自律性の完成を目指しつつ、教育を受ける者の自律性の完成を目指すことを意味する。人格の完成を目指すところにこそ人間の尊厳があり、この尊厳性こそが人類の特権としての人権の根拠であることを忘れてはならない(廣瀬裕一「人格の完成を目指すとは」、上越教育大学教職大学院研究紀要第1巻、平成26年2月)クリックして参照
 このことについて、私は、社会教育の指導者論を思い出す。社会教育では、「学ぶ人は教える人、教える人は学ぶ人」と言う。「教うるは学ぶの半ば」ということである。

6「研修」と「研究と修養」
 「研修」とは「研究と修養」を意味するという古典的な解説や学説も、辞書的語義とずれており、解釈を見直す必要があるとして、廣瀬は次のように言う。
 地公法は、「研修」は「任命権者が行う」(39条2項)と規定しており、職員にとっては、他律的な能力開発である。教特法も基本的に同じだが、それに加えて、自律的な「研究と修養」の責務を宣明する(21条1項)。教基法9条1項も同旨である。すなわち、他律的「研修」と自律的「研究と修養」は、内容的に重なるところはあっても同じではない。指導と学習の関係に似て、主体が異なる。そして「能力」を高める「研修」「研究」に対し、「人格」を高めるのが「修養」である。〈資質〉は何によっても高まらない。ところが、そこが整理されずにいるため、「修養」独自の意義は見失われかけていると廣瀬は述べ、教員不祥事が絶えないわけであるとしている。
 私は、ここで、「能力開発を効果的に進め、結果として対象者の能力を発揮できるような環境を整える」という「能力管理の目的」をもっと鮮明に、という森和夫の観点を想起する(森和夫『実践 現場の能力管理: 生産性が向上する人材育成マネジメント』日科技連出版社、2020年8月、西村美東士書評)クリックして参照。自律的な「研究と修養」の責務は個人にあるのだが、その環境を整える「能力管理」の責任は、組織、チームにあるのである。
 さて、廣瀬は、「人格」が「能力」に貶められ、「能力」が「資質」にすり替わり、「研修」と「研究と修養」が混同され、教員のクオリティ向上について、誰がどのように担うのか混沌とした現状に対して、「教員のクオリティ向上の6視点」を、改めて日本語本来の用法に留意して次のように整理する。
@人材確保(国):国は、立法・行財政施策により、教員としての〈資質〉能力ある人材を確保する。
A養成(大学):大学は、〈資質〉ある学生を集め、教員に必要な能力を習得させ人格を陶冶する。
B採用(教育委員会):教育委員会は、選考により、〈資質〉能力・人格にすぐれた者を教員に採用する。
C研修(教育委員会):教育委員会は、研修を計画・実施して、教員がその職務を遂行する能力を高める。
D研究(教員):教員は、研修を受けるほか、自ら研究に努め、教育者としての能力を高め続ける。
E修養(教員):教員は、教え子の人格を陶冶しつつ、自ら修養に努め、己の人格をも磨き続ける。
 廣瀬は、近年、国の施策に従い教育委員会と大学が連携した教員のA養成・B採用・C研修の一体的改革が推進されていると評価しつつ、C研修と混同されるD研究はともかく、@人材確保とE修養はなおざりになっているとし、「教育の危機、その多くはここに淵源する」と警鐘を鳴らしている。
 私は、教育政策が本質から離れて無責任に左右する状況を重要な問題だと感じている。その状況に抗して、日本語本来の用法に立ち返って、「資質」、「研修」、「人格」、「修養」を本質的に正しくとらえなおして議論しようとする廣瀬のこの主張は、大きな意義を持っていると考える。


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