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若者論のトレンドCONCEPT

書評

 神戸連続児童殺傷事件から二〇年以上たった今、評者も、多くの若者が「リア充」を志向し、「実存的な悩み」から「すり抜けて」しまっているように思う。ぼっち、中二病、メンヘラ、コミュ障などと見られることを極度に恐れる。だが、彼らのこのようなリア充志向は「共存の作法」としては有効であっても、「生の回復と充溢」にはつながらない。このとき、「心の居場所」の一つとしての教育の役割は大きい。そこには、個人としてか、社会人としてかを超えて、充実して生きるプロセスをたどるための「第3の支援」が存在すると考える。そこでは、能力獲得目標の設定及びその到達度評価は行わないが、総括目標の設定と個々人への効果測定及び事業評価は行われるべきものと考える。肩を押してくれる、見守ってくれる、話を聞いてくれるなどの「普通でいられる」居場所的な支援が、教師の創意工夫によってどのように行われているか。これを評価し、交流・蓄積することが求められているといえよう。


子どもたちの多様な生の在り様を解読したときに、教育実践の場へそのまま送り返すのではなく、むしろ子どもの生の在り様を軸として、「教育」「学校」「家庭」「地域」「社会」「メディア」の意味がいかなるものかを問うことではないかとし、それと共に私たち大人が子どもたちと共に生きる同行者として何が豊かであるのか、何か幸せであるのかを考え続けることではないかと筆者は言う。そして、それは、同時に研究者も実践者も子どもとのかかわりにおいて自己が問い直され、絶えず自己更新され続ける営みでもあるに違いないと言う。


書評





萩原建次郎
居場所 − 生の回復と充溢のトポス
出版社: 春風社
発売日: 2018/3/9
¥ 2,500

 萩原氏は、一九九七年に起こった神戸連続児童殺傷事件を起こした少年が「犯行声明文」に書いた、「透明な存在としてのボク」という「実存的な悩み」に共感する子どもや若者が存在していたことに注目する。自己の存在感が質感・量感ともに無化している状況が、子ども・若者の世界で静かに進行していることを予感させるとし、現在の居場所をめぐる問題は、数量的データで可視的に説明しようとすると「すり抜けてしまう」次元にきていると指摘する。
 そして、もともとは三間(遊びなどの時間・空間・仲間)の減少という形で可視的にとらえられていた状況が、「心の居場所」という一人一人の目に見えない経験世界(意味世界)に踏み込まざるを得なくなってきている。言いかえれば、それまで子ども・若者の居場所がフリースペースやフリースクールといった学校以外の生きる空間(スペース)をさしていたのに対して、今では彼ら・彼女ら一人一人の「ボク」や「ワタシ」の存在理由や根拠は何か、という存在論の次元、意味の世界からそれを問わざるを得なくなってきているとしている。
 萩原氏は、教育言説のあり方について、重要な問題提起をしている。「学童保育は単なる子どもの居場所であればいいのか」という疑問から、子どもの「成長を促す教育の場」としての学童保育の意義を追求する。放課後子ども教室の取り組みに対して、「心の拠り所となる『居場所』としての機能だけではなく」、遊びを通して子どもの生きる力をはぐくむ場としての意義を追求する。氏は、子どもにとっての居場所が、意図的操作的なまなざしに満ちた教育的空間からの子どもたちの生の「逸脱」、あるいは「逃走」であったという歴史的・社会的な意味や経緯を無視して、教育的空間へと再統合し、暗黙のうちに教育言説へと回収してしまうという構図が透けて見えてくるとして、これらの教育言説を批判する。「子どもの遊び」をめぐる議論でも、「遊びのもつ教育的意味」といったように、「遊び」という生の営みが教育言説へ回収され、子どもの「発達への応用可能性」や「教育的効果」として扱われる。そこでは、遊びそれ自体が子どもの生にとっていかなる経験をもたらしているのかという視座が十分に考慮されていないのではないかと氏は危惧する。
 そして、子どもたちの多様な生の在り様を解読したときに、教育実践の場へそのまま送り返すのではなく、むしろ子どもの生の在り様を軸として、「教育」「学校」「家庭」「地域」「社会」「メディア」の意味がいかなるものかを問うことではないかとし、それと共に私たち大人が子どもたちと共に生きる同行者として何が豊かであるのか、何か幸せであるのかを考え続けることではないかと言う。そして、それは、同時に研究者も実践者も子どもとのかかわりにおいて自己が問い直され、絶えず自己更新され続ける営みでもあるに違いないと言う。
 神戸連続児童殺傷事件から二〇年以上たった今、評者も、多くの若者が「リア充」を志向し、「実存的な悩み」から「すり抜けて」しまっているように思う。ぼっち、中二病、メンヘラ、コミュ障などと見られることを極度に恐れる。だが、彼らのリア充志向は「共存の作法」としては有効であっても、「生の回復と充溢」にはつながらない。このとき、「心の居場所」の一つとしての教育の役割は大きい。そこには、個人としてか、社会人としてかを超えて、充実して生きるプロセスをたどるための「第3の支援」が存在すると考える。そこでは、能力獲得目標の設定及びその到達度評価は行わないが、総括目標の設定と個々人への効果測定及び事業評価は行われるべきものと考える。肩を押してくれる、見守ってくれる、話を聞いてくれるなどの居場所的な支援が、教師の創意工夫によってどのように行われているか。これを評価し、交流・蓄積することが求められているといえよう。

内容紹介
「居場所がない」とはどのような経験か。いじめや不登校、少年事件、「普通」でいることの生きづらさをめぐる若者たちの語りを手がかりに、「居場所」の意味を探究する。明らかとなった居場所の条件をもとに、「居場所づくり」への空間デザイン、学びのあり方、関係づくりの方法論と、これからの社会展望を論じていく。

内容(「BOOK」データベースより)
生きることの豊かさを感じられる「居場所」のために。効率と生産性重視の現代社会で漂白される「私」。見えない檻の中で「普通」でいようとすることの生きづらさ。子ども・若者の生の陰影に寄り添い、大人との関係性を見つめ、共に生きる方途を探求する。現代人の生きづらさと居場所の根源に迫る。

著者について
萩原建次郎(はぎわら・けんじろう)
1968年埼玉県生まれ。横浜国立大学教育学部生涯教育課程社会教育コース卒業、立教大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。現在、駒澤大学総合教育研究部教授。教育人間学、社会教育学専攻。子ども・若者支援ネットワークづくり、地域の子どもの居場所づくり、ユースセンター運営、若者支援施策提言などにたずさわる。

目次|contents
はじめに
第T部 居場所が問われる理由
第1章 居場所の原点とその変容
第2章 「普通」でいることの生きづらさ
第3章 若者が語る居場所の風景
第U部 居場所についての共通了解の試み
第4章 居場所の意味と成立条件
第5章 居場所の存在論
第6章 存在充溢としての学びと自己形成空間の構想
第V部 居場所が生まれる場を構想する
第7章 居場所が生まれる場の構想
第8章 居場所が生まれる空間デザインとかかわりの技法
第9章 居場所づくりとスタッフの魅力
第W部 居場所論の射程
第10章 変容する青少年問題への社会教育的アプローチ
第11章 持続可能な共生社会の構想へ
おわりに
初出一覧






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