書評
評者は、若者の居場所の中で、いっとき「絶望の淵」にも立ち、それでもなお真摯に生きる若者に出会ってきた。彼らは「自分自身が自分の内容となる」ための追求を続けている。そういう若者との出会いは、一般青年にとっても、通常の人間関係以上の意味をもつ。学校教育においても、愛他主義的仲間関係のある居場所において、いつもの人間関係とは異なる他者との出会いのなかで主体性を育めるよう、子どもたちを支援する必要があると考える。
レジリエンスのある親は、子どもが不登校になっても、「我が家が抱えている問題を眼に見える形で表現してくれたのだから良かった」ととらえると言う。同時に、子どもにとっての「愛他主義的仲間関係」の重要性を指摘する。これは、親の「利己主義的人間関係」とは異なる他者との、助け合う関係、励まし合う関係である。これが、レジリエンスのある人のライフラインとなる。青春期に愛他主義的仲間関係をもっている人は強いと著者は言う。
書評
加藤諦三(著)
どんなことからも立ち直れる人
−逆境をはね返す力「レジリエンス」の獲得法−
PHP新書
2019/11/16
¥1,012
著者の人生論は、1960年代から、多くの若者に生き方の指針を与えてきた。本書は、逆境での回復力を意味する「レジリエンス」について、親や教師ではなく、自らの力で獲得するものと主張する。他者から「あなたは素晴らしい」と言われて初めて「私は素晴らしい」と思える人、自分で自分の存在を確認できないで、自己同一性を他者に確認してもらうような人、他者から認められて自我の確認ができるという人は、結局は「自分自身が自分の内容となることができない」と言う。主体の成長を抜きにした安易な受容論、自己肯定論は、深い人間理解を妨げるものといえよう。
たとえば、レジリエンスのある親は、子どもが不登校になっても、「我が家が抱えている問題を眼に見える形で表現してくれたのだから良かった」ととらえると言う。同時に、子どもにとっての「愛他主義的仲間関係」の重要性を指摘する。これは、親の「利己主義的人間関係」とは異なる他者との、助け合う関係、励まし合う関係である。これが、レジリエンスのある人のライフラインとなる。青春期に愛他主義的仲間関係をもっている人は強いと著者は言う。
評者は、若者の居場所の中で、いっとき「絶望の淵」にも立ち、それでもなお真摯に生きる若者に出会ってきた。彼らは「自分自身が自分の内容となる」ための追求を続けている。そういう若者との出会いは、一般青年にとっても、通常の人間関係以上の意味をもつ。学校教育においても、愛他主義的仲間関係のある居場所において、いつもの人間関係とは異なる他者との出会いのなかで主体性を育めるよう、子どもたちを支援する必要があると考える。
書評長
著者の若者論は、過去には、多くの若者に生き方の指針を与えてきた。本書は、逆境での回復力を意味する「レジリエンス」について、親や教師の愛や支配ではなく、自らの力で獲得するものと主張している。これは教育学が重視する主体性の本質をとらえる上での重要な指摘でもあると評者は考える。本人の主体性の獲得を抜きにした教条的な自己肯定感重視論の安易な流布が、深い人間理解を妨げると評者は危惧しているからだ。
著者は言う。つらい境遇に直面しても前向きに生きていける人と、落ち込んでしまう人がいる。その差を分ける能力が「レジリエンス」であり、それは「人生の挫折に対処する能力」だと言う。挫折や落ち込みから立ち直り、ポジティブに生きられる人は、このレジリエンスを共通して持っていると言う。
逆境に強い人であるなら、有害な上司には「ああ、この人いやだ!」という直感が働く。あるいは「この人危険、気をつけよう」と注意する。そういう勘の鋭さが逆境に強い人の真骨頂である。言語的メッセージと非言語的メッセージが矛盾したときには、真実は非言語的メッセージにあるという。意識と無意識が乖離したときには、真実は無意識にある。その言語的メッセージに隠されている非言語的メッセージの内容を見抜く、相手の無意識を直感で見抜くのが、逆境に強い人である。レジリエンスのある人である。心に葛藤がある人は、言葉に囚われる。言葉の裏に隠されている非言語的メッセージの内容を見抜くことができない。このようにして、いつも悩んでいるだけの人は心理的に未解決な問題が溜まってしまうと言う。
現実を認める。現実を受けいれる。そこでレジリエンスが生じる。レジリエンスが育成される。逆境に耐える力が生まれてくる。夫が怠け者だから離婚したと言い張っている限りレジリエンスは生まれてこない。人生の苦しみから立ち直れない。神経症は治らない。現実否認はレジリエンスの敵である。だからナルシシストにはレジリエンスがない。逆境に耐えられないと言う。私は夫を嫌いだから離婚したということを認め、その過去を受けいれる。そこで自分を責めない。そこを新しい人生のスタートにする。世の中には「夫は怠け者だから離婚した」とか「夫はアルコール依存症だから離婚した」とか、自分の離婚理由を正当化する人がいる。それだけではなく、単に問題を解決しようとしているように見せるために「格好をつける」だけの人もいる。市場型パーソナリティーの人で、「そのように見えること」が人切な人たちである。
最後に筆者は「最も辛い人とは」として、次のように言う。レジリエンスのある人が最も偉大なわけではない。今苦しみながら生きている人も同じように偉大なのである。父親がアルコール依存症で暴力をふるわれてと書くと、もの凄く悲惨な家庭と思う。そこで「それなのに、彼女は立派に育った」と説明される。そのような説明をされて、こういう人がレジリエンスのある人と言われる。しかし一番悲惨な娘は、母親が慢性的にうつ病であると決まっている訳ではない。慢性的なうつ病の母親を待った娘が、世の中で最も辛いというわけではない。最も辛い立場に立たされている娘とは、母親が娘にしがみつくことで、母親自身がうつ病になることから逃れているケースである。最も悲惨な娘はそういう母親を待った娘であるかもしれない。父親がアルコール依存症で暴力をふるうと書くと、もの凄く悲惨な家庭と思う。さらに父親が自殺したというと、いかにもその子どもは大変な環境で育ったと思う。しかしもっとも辛い息子とは、息子にしがみつくことで自殺から逃れている父親を持った息子であるかもしれない。つまり父親は自分の心の葛藤を息子に外化することで、自殺を免れている。このように父親から執拗に苛められている息子は地獄である。ボールビーの言う「親子の役割逆転」などの親子関係は、周囲の人からみると恵まれている家庭の親子関係に見える。最も悲惨なのは、親が子どもに甘えて生き延びている「親子の役割逆転」をしている親子関係で成長した子どもであるかもしれない。悲惨さには眼に見える悲惨さと、眼に見えない悲惨さがある。
評者は、引きこもりの若者などと接する中で、いっとき「絶望の淵」にも立ち、今も真摯に生きる若者の「個の深み」に出会い、敬服するとともに、一般青年にとって、青年教育の場でのそのような若者との出会いは、通常の人間関係以上の意味をもつことを痛感してきた。学校教育においても、「愛他主義的仲間関係」のある居場所において、いつもの人間関係とは異なる他者との出会いのなかで、自己内対話を深められるよう子どもたちを支援したいと思う。
内容紹介
人生は毎日がピンチの連続。程度の差はあれども、乗り越えなければいけない困難は誰にでも訪れる。しかし、つらい境遇に直面しても前向きに生きていける人と、落ち込んでしまう人がいる。
その差を分ける能力が「レジリエンス」。
アメリカで論文が多数発表されるなど注目される心理学理論で、簡約すれば「人生の挫折に対処する能力」。
挫折や落ち込みから立ち直り、ポジティブに生きられる人は共通して持っているという。
本書ではこのレジリエンスを、その実例を通して理解することで、生きづらさを抱えるすべての人が「自ら幸せを得る力」を取り戻すための書である。
内容(「BOOK」データベースより)
人生は毎日がピンチの連続。程度の差はあれども、乗り越えなければいけない困難は誰にでも訪れる。しかし、つらい境遇に直面しても前向きに生きていける人と、落ち込んでしまう人がいる。その差を分ける能力が「レジリエンス」。アメリカで論文が多数発表されるなど注目される心理学理論で、簡約すれば「人生の挫折に対処する能力」。挫折や落ち込みから立ち直り、ポジティブに生きられる人は共通して持っているという。本書はこのレジリエンスを、その実例を通して理解することで、生きづらさを抱えるすべての人が「自ら幸せを得る力」を取り戻すための書である。
目次
序章「レジリエンスのある人」とはどういう人か
第1章プロアクティブとリアクティブ(「いつも悪いことが起きる人」の特徴;「いつもいいことが起きる人」と「いつも悪いことが起きる人」;逆境に強い人の特徴ほか)
第2章レジリエンスがある人の現実との向き合い方(帰ってこない夫;現実との接触;自己欺瞞ほか)
第3章仕方ないことの「断念」と「不幸の受容」が人生にもたらすもの(心のふれあい;唯一絶対の価値観;複数の視点ほか)
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