書評
評者は、筆者の主張するこのような「知的興奮と感動」の魅力に共鳴しつつも、その場を大学だけに求めることに違和感を覚える。過去の「学校歴社会」の頂点にあったものが東大である。しかし、人の生涯にわたる進展と充実が重視される「学習社会」にあっては、頂点の東大を卒業しても、「賞味期限」はせいぜい3年程度といえよう。それ以降は、「学校歴」はどうあれ、「泳ぎ回り」も含めて、科学知と人文知のスコレーとフォーラムのなかで個人の人生が充実し、地域、家庭、職場での学び合い支え合いによって社会形成者として充実を図れるかどうかこそが問われるべきであろう。
本書は「秋入学問題」「文系学部廃止問題」「英語民間試験問題」「国語記述式問題」という四つの事例について、そこで失われつつある「時間の流れ」の連続性と、「空間の広がり」の全体性を回復するために、緻密に思考を練りあげるための余暇(スコレー)と、各々が培った思考を他者と自由に交換することのできる言論の広場(フォーラム)が必要とし、知的興奮と感動に沸き立つキャンパスにおいて、東大が全国の大学の先頭に立ってその責任を果たすよう主張する。
書評
石井 洋二郎 (著)
危機に立つ東大 (ちくま新書)
筑摩書房
2020/1/7
著者は「文学作品とは汲めど尽きせぬ大海のようなものであり、作者の意図などという窮屈な思い込みに縛られることなく、誰もが多様な解釈可能性を模索しながらその中を自由に泳ぎまわる権利をもっている」と言う。だが、科学知に属する学問は客観的な根拠に裏付けられているので役に立つのにたいし、人文知に属する学問は客観的な根拠の裏付けがないので役に立たないという図式が浸透しつつあると言う。
本書は「秋入学問題」「文系学部廃止問題」「英語民間試験問題」「国語記述式問題」という四つの事例について、そこで失われつつある「時間の流れ」の連続性と、「空間の広がり」の全体性を回復するために、緻密に思考を練りあげるための余暇(スコレー)と、各々が培った思考を他者と自由に交換することのできる言論の広場(フォーラム)が必要とし、知的興奮と感動に沸き立つキャンパスにおいて、東大が全国の大学の先頭に立ってその責任を果たすよう主張する。
評者は、筆者の主張するこのような「知的興奮と感動」の魅力に共鳴しつつも、その場を大学だけに求めることに違和感を覚える。過去の「学校歴社会」の頂点にあったものが東大である。しかし、人の生涯にわたる進展と充実が重視される「学習社会」にあっては、頂点の東大を卒業しても、「賞味期限」はせいぜい3年程度といえよう。それ以降は、「学校歴」はどうあれ、「泳ぎ回り」も含めて、科学知と人文知のスコレーとフォーラムのなかで個人の人生が充実し、地域、家庭、職場での学び合い支え合いによって社会形成者として充実を図れるかどうかこそが問われるべきであろう。
書評長
国策に疑問があれば、国民の名において率直に異議を申し立て、開かれた場で議論を戦わせ、誤りがあれば毅然としてこれをただすことこそが、国立大学に委ねられた責務と本書は言う。そして、日本の「リーディング大学」である東大に、健全な批判精神をもち、時代の牽引車として国民が負託すべき大学としての姿を求める。そのテーマは、「秋入学問題」「文系学部廃止問題」「英語民間試験問題」「国語記述式問題」の4つである。
著者は、東大においても、これらの問題をめぐって目的と手段の逆転した議論が進行し、本来あるべき思考の筋道が見失われているとし、制度改革をめぐる混乱がここまで尾を曳いたのは、日本社会を透明な霧のように包む「諦念」や「忖度」の空気が、大学という学問の府にまで浸透してしまったせいではないかと言う。さらに、文学者らしく、次のように指摘する。問題発言などがあったとき、一時的に湧きあがった批判の声を受けて「誤解を招いたとすれば」「不快の念を与えたとすれば」といった仮定法の決まり文句で始まる形ばかりの謝罪が繰り返されるばかりで、真摯な反省がなされた様子は見受けられない。まるで誤解したり不快の念を覚えたりするほうが悪いとでも言わぬばかりの開き直った物言いには、ほとんど救いがたい傲慢さが露呈している。さらに、多くの場合は発言者の本音自体にひそむモラルの低さが問われることはなく、単なる慎重さの欠如だけが反省材料であったかのような決着で終わりになる、これではいつまでたっても、同様の問題発言が後を絶たないと指摘する。
また、著者は、文学者の視点から次のように言う。「文学作品とはいわば汲めど尽きせぬ大海のようなものであり、私たちは『作者の意図』などという窮屈な思い込みに縛られることなく、誰もが多様な解釈可能性を模索しながらその中を自由に泳ぎまわる権利をもっている」。しかし、ありていに言えば、科学知に属する学問は客観的な根拠に裏付けられているので社会的要請に直接応えることができる(役に立つ)のにたいし、人文知に属する学問は客観的な根拠の裏付けがないので社会的要請に直接応えることができない(役に立たない)という、いかにも単純きわまりない切り分けの図式が、いつのまにか政治や行政の場にまで浸透しつつあるように見受けられると著者は警告する。
「社会的要請に応える」ことと「役に立つ」ことは同義ではない。短期的・即時的には「役に立たない」学問であっても、長期的な射程で見れば「社会的要請に応える」分野はいくらでも存在する。ところが二つの言葉は無自覚に、かつ安易に同一視され、きわめて狭い意味に限定された近視眼的な「社会的要請」の概念が、いつのまにか独り歩きしはじめ、厳密な定義を欠いたままで科学知と人文知のあいだに深い溝を掘っているというのが、偽らざる現状と言う。
これについて著者は、次のように考えている。大学は社会の中にあって、社会によって支えられるものであり、広い意味での「社会的要請」に応えることが求められている。このことを大学は強く認識すべきである。しかし、「社会的要請」とは何であり、それにいかに応えるべきかについては、人文・社会科学と自然科学とを問わず、一義的な答えを性急に求めることは適切ではない。具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請もあれば、目には見えにくくても、長期的な視野に立って知を継承し、多様性を支え、創造性の基盤を養うという役割を果たすこともまた、大学に求められている社会的要請である。前者のような要請に応えることにのみ偏し、後者を見落とすならば、大学は社会の知的な豊かさを支え、経済・社会・文化的活動を含め、より広く社会を担う豊富な人材を送り出すという基本的な役割を失うことになりかねない。
さらに、ネットでのコミュニケーションについて、次のように警鐘を鳴らす。一回に書き込める字数が限られているため、綴られる文言はいきおい断片的になりがちだ。その結果、大半のネット言説は思考停止に近い全面的共感、もしくは脊髄反射的な無条件の反感のいずれかに収斂してしまう。人々は何か正義で何か不正義であるかを慎重に吟味する暇もないまま、同意のしるしに軽い気持ちでリツイートするか、よく考えもせずにネガティヴな感情をそのまま吐き出すかの二者択一に流れていく。とるべき立場を瞬問的に二極分化させてしまうメカニズムの強力さは恐るべきもので、どちらつかずの状態で迷っている人問はとうていスピードについていくことができず、おとなしく口をつぐむしかない。直截な断言がめまぐるしく飛び交うネット空間にあって、とまどう、ためらうなどの未決定のあいまいな態度は受け入れられない。デジタル時代に特有の現象というべきか、思考を精密化するために必要不可欠であるはずのアナログ的な「間」が失われ、今や私たちの判断そのものが2進法化されつつあるといっても過言ではない。0でも1でもない中間領域にとどまることは許されず、とにかくどちらかに決めなければネット情報の無政府的な氾濫に対応できないので、私たちはなんとなく抱いている違和感に的確な言葉を与える余裕を失い、十分な省察を経ないまま、心ならずも性急な立場決定へと駆り立てられていく。かくして言論の大衆化は、ゆったりとした人間的な「時間の流れ」を切り刻み、無機質な断片の集積へと還元してしまう。こうした状況がもたらす影響は、以上にとどまるものではない。自分にとって「正しいこと」の定義が他人に共有されれば、そこには小規模な(仮想の)共同体が形成される。しかしそれは同時に、自分と同じ価値観を共有しない別の共同体が形成されることを意味している。本来であれば、それらの共同体どうしで時間をかけた対話がなされ、時には激しい論争が繰り広げられながら、双方の主張がより強靭で精緻なものへと鍛え上げられていくのが、健全な言論空問のありようだろう。厳しい相対化の力学にさらされることのない言説は、しょせん仲間うちの「目くばせ」や「うなずきあい」にすぎず、刹那的な自己満足として自然に淘汰されていくというのが、これまでの暗黙の掟であった。ところが今や、ネット空間では対話や論争が成り立つ暇もなく、過熱した共感と反感の渦が巻き起こり、短絡的な肯定と否定の連鎖がエスカレートしていく。いわゆるサイバー・カスケード現象である。その結果、広汎な情報共有と意見交換の場であるはずのインターネットが、逆に閉ざされた共同体内での偏向した情報の集中と意見の糾合を加速させ、複数の正義どうしの分断を引き起こす。広大な開放空間であると私たちが思っているものが、実態としてはいくつもの偏狭な閉鎖空間の集合体にすぎなくなっているのだとすれば、これはいかにもアイロニカルな状況ではないか。
もちろん、ネット上でも長文の評論やエッセーを発表している人はいくらでもいるので、その限りでは新開や雑誌のような紙媒体と本質的に異なるわけではない。時には発信者どうしのあいだで、論争らしきやりとりが生まれることもあるだろう。しかしそうした主張の交換も、従来のように何か月かかけて、場合によっては何年もかけて深化したり熟成したりすることはまれであり、けっきよくはレベルの低い揚げ足取りの応酬に終始してしまうのが通例である。この事態には、もしかすると編集者の不在ということが少なからず関係しているのかもしれない。新聞や雑誌であれば、発信者と受信者のあいだに必ず編集者が介在し、多かれ少なかれメッセージの交換を調整する変圧器の役割を果たしている。目に余る個人攻撃や行き過ぎた主観の吐露はその過程でチェックされ、公表される文章について最低限の質保証がなされることになる。むろん過剰な検閲があってはならないが、不特定多数の目に触れる言葉を流通させる以上、一定のフィルターをかけてそれぞれの媒体にふさわしい商品価値を保持することは、新聞社や出版社にとって当然の社会的責務だろう。その責務がある程度まで果たされてきたからこそ、これまでは不毛な中傷合戦に堕すことのない有意義な論争が成立してきたのである。
ところが、編集者を欠いたネット上では当事者たちが直接やりとりすることになるので、そうした制御装置が働かない。双方の主張する正義は相対化の契機にさらされることなく自らを絶対化することに終始し、ひたすら一方向的に暴走したあげく、それぞれの共同体内で凝固してしまう。その結果、いくつもの正義がたがいに交わることのないまま並存し、ますます尖鋭化していくことになる。対話や論争を成立させるために不可欠の媒介者が不在であるがゆえに、いったん弾みがつくと押しとどめようのないこの現象は、いわば従来の言論空間を支えてきた知性主義の終焉を告げる徴候であり、代わって台頭しつつある反知性主義的風潮の端的な表れであるのかもしれない。敵と味方の線引きをことさら強調してみせるのは政治の常套手段だが、防御の対象と攻撃の標的をアプリオリに峻別するインターネットはその意味で、最も鮮明な形で政治化された世界であるとも言える。その中で、複数の恣意的な正義が絶え問なく分断され、公共性へと開かれるべき「空間の広がり」を阻害する要因となっているというのが、現代社会の一側面なのではないか。
本書で扱った四つの事例は、それぞれに固有の経緯や事情はあるものの、これらはいずれも言論の大衆化に端を発した「正義の分断化」という現象が、ネット空間から現実の言論空間へと逆流しつつあることを物語る事象としてとらえることができると著者は言う。その第一の特徴は、「目的と手段の逆転」である。しかしすでに見てきた通り、人間は有用性の論理だけでは生きられない動物である。最適解を選べない(あるいは選ばない)ところにこそ、その最終的な存在理由があると言ってもいい生き物なのだ。それゆえ私たちは一歩立ち止まって、「人間であること」という本来的な意味について、もう一度深く思索をめぐらせなければならない。そのためには、言論の大衆化にともなって失われつつある「時間の流れ」の連続性と、正義の分断化によって失われつつある「空間の広がり」の全体性を、ともに回復することが不可欠である。すなわち、言葉にたいして最大限の敬意を払いながら緻密に思考を練りあげるための余暇(スコレー)と、各々が培った思考を他者と自由に交換することのできる言論の広場(フォーラム)を、同時に実現することが求められる。そうしたゆとりの時間と公の空間、スコレーとフォーラムを人々に提供する場として最もふさわしいのはどこか。著者は「言うまでもなく、大学をおいてほかにない」と断言する。
そしてこの機能を保持するためには、常に時の政権や産業界とのあいだに一定の距離感を保持することが必須の条件であると言う。適正な距離を見失って対象と密着すれば、必然的に批判精神は麻疹してしまう。
法人化以降、国からの運営費交付金が毎年削減される中で、東京大学でもここ数年、「運営から経営へ」の転換が急速に進められてきた。昔はタブー視されていた「産学協同」も、今ではすでにあたりまえのことになっている。こうして学術の世界にアカデミック・キャピタリズム(大学資本主義)が浸透しつつある現在、アカデミック・フリーダム(学問の自由)という理念だけを掲げて「象牙の塔」であり続けることがもはや困難であることは確かだろう。お金がなければ何もできないのだから、昔のようにきれいごとばかり言ってはいられないというのも、たぶんその通りなのだろう。しかし先に述べた通り、大学が果たすべき本来の使命はあくまでも、思考を熟成させる静謐なゆとりの時間(スコレー)と、自由に言葉の飛び交う白熱した空間(フォーラム)を醸成し、可能な限り多くの人々に提供することである。そうでなければ、大学が大学であることの意味がどこにあるだろうか。アカデミック・フリーダムとアカデミック・キャピタリズムがせめぎあう中で、これからの大学は慎重に両者のバランスをとりつつも、変わらぬ良識と衿持の念をもって「学問の府」としての使命を果たし続けなければならない。そして知的興奮と感動に沸き立つキャンパスから、未来を切り拓く意欲にあふれた学生たちを世に送り出し続けなければならない。東大にはまさに、その牽引車たるべき責任がある。だからこそ、全国の大学の先頭に立って、「正々堂々」とその責任を果たしてほしい。それこそが言葉本来の意味において「国民の負託」に応えることにほかならないと、私は確信している。
評者は、筆者の重視する人間的な「時間の流れ」の魅力に共鳴しつつも、この「正々堂々」とした東大自負論には多少の違和感を覚えるものである。学歴社会というより、「学校歴社会」の頂点にあったものが東大である。しかし、人の生涯にわたる進展と充実が重視される「学習社会」にあっては、頂点の東大を卒業しても、「賞味期限」は3年程度ではないか。それ以降の人生は、科学知と人文知のスコレーとフォーラムを味わって個人の充実を図り、学び合い支え合いによって社会形成者としての充実を図れるかが、われわれにも青少年にも問われることになるのだと思う。
内容紹介
秋季入学構想の加速、英語民間試験をめぐる問題……日本のリーディング大学で何が起こっていたのか? 改革の経緯を見直し、大学のあるべき姿を提示する。
国策に疑問があれば、国民の名において率直に異議を申し立て、開かれた場で議論を戦わせ、誤りがあれば毅然としてこれを糺すことこそが、国立大学に委ねられた責務であろう。アカデミアとしての健全な批判精神を失ってしまったら、それこそ時代の牽引車として国民が負託すべき大学に値しない。
内容(「BOOK」データベースより)
大学という場が危機に直面している。日本のリーディング大学である東大においても、秋季入学への移行、英語民間試験の活用といった問題をめぐって目的と手段の逆転した議論が進行し、本来あるべき思考の筋道が見失われている。制度改革をめぐる混乱がここまで尾を曳いたのは、日本社会を透明な霧のように包む「諦念」や「忖度」の空気が、大学という学問の府にまで浸透してしまったせいではないだろうか。本書では、教育・入試制度改革の顛末と問題に至った経緯を見直し、大学のあるべき姿を提示する。
著者について
1951年生まれ。中部大学教授・東京大学名誉教授。専門はフランス文学、フランス思想。15年から19年春まで東京大学理事・副学長をつとめる。91年、ブルデュー『ディスタンクシオン』(藤原書店)の翻訳により渋沢・クローデル賞、01年『ロートレアモン全集』(筑摩書房)で日本翻訳出版文化賞・日仏翻訳文学賞、09年『ロートレアモン 越境と創造』(筑摩書房)で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。著書に『フランス的思考』(中公新書)、『時代を「写した」男ナダール 1820-1910』(藤原書店)、共著に『大人になるためのリベラルアーツ(正・続)』(東京大学出版会)などがある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
石井/洋二郎
1951年生まれ。中部大学教授・東京大学名誉教授。専門はフランス文学、フランス思想。15年から19年春まで東京大学理事・副学長をつとめる。91年、ブルデュー『ディスタンクシオン』(藤原書店)の翻訳により渋沢・クローデル賞、01年『ロートレアモン全集』(筑摩書房)で日本翻訳出版文化賞・日仏翻訳文学賞、09年『ロートレアモン 越境と創造』(筑摩書房)で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
目次
序章諦念の時代
集合的記憶喪失/諦念の時代
第1章秋入学問題
1秋季入学構想の加速
議論の底流/最初の新聞報道/いくつかの疑問/二度目の新聞報道2国際化をめぐる課題
懇談会の中問報告書と留学生率と大学ランキングノ教養学部の対応3思考の倒錯
文知とリペラルアーツ
第3章英語民間試験問題
1導入のプロセス
民間試験が浮上するまで/共通テストヘの導入/最初の分岐点/第二の分岐点
2迷走する東大
シンポジウムの意義/東大は民間試験を使わない?/東大、方針転換?ノワー キングーグループの答申/文部科学省の対応/東京大学の着地点
3何か問題だったのか
その後の展開/秋入学問題との相同性/「改革」という大義
言論の大衆化/分断される正義ノスコレーとフオーラムノ国立大学と国策大学
若者文化研究所は若者の文化・キャリア・支援を専門とする研究所です。