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書評 牧野篤編『社会教育新論 「学び」を再定位する』ミネルヴァ書房、¥3,080、2022年4月12日



学校の画一性が問い直されることのないまま進められる地域との連携・協働は、地域ぐるみでの子どもの「監視」や、学力や生活態度への「管理」へと向かう傾向があると本書は警告する。いまこそ、「監視」や「管理」ではなく、「教育」としての専門的見地から、「開かれた学校」において発言することが教師に求められていると評者は考える。


書評


牧野篤編
社会教育新論 「学び」を再定位する
ミネルヴァ書房
¥3,080
2022年4月12日

 現代社会においては、個人が孤立して、それが自己責任だとみなされてしまう。これが権力や権威、多数者への依存を招き、政治が容易にポピュリズムと化す。本書は、これに対抗して、地域における人々の信頼関係と自治をつくるための「社会基盤」として社会教育を位置づけようとする。
 その基盤は、住民相互の「学び」だと言う。例えば、PTAもこの「学び」を保護者を中心に組織するために、学校単位で組織されることが当初から期待されていた。このとき、「学び」とは、いわゆる知識を得ることに留まらない。人々が互いを認めあい、関係をつくることを通して、社会をつくり、経営することで改めて自分の存在を社会の中に認め、自分が他者とともに生きていることを実感し、うれしさを感じる。「学び」を媒介として、子どもと大人が交わって承認関係をつくり、社会的な居場所を自ら得るとともに、子ども自身が将来にわたって学び続ける力を身につけて、人生を切り拓き、大人自身も子どもとの交流によって、社会的な役割を担い続ける駆動力を得ることにつながると言う。
 しかし、学校の画一性が問い直されることのないまま進められる地域との連携・協働は、地域ぐるみでの子どもの「監視」や、学力や生活態度への「管理」へと向かう傾向があると本書は警告する。いまこそ、「監視」や「管理」ではなく、「教育」としての専門的見地から、「開かれた学校」において発言することが教師に求められていると評者は考える。


 著者は「行き場のない社会」として、次のように述べている。当事者のあり方は、そのまま一人ひとりが孤立して、その孤立を自己責任だとみなす論理へと転じてしまう。誰もが他人はおろか、自分のことさえわからない「無知のヴェール」に覆われていて、その「無知」な状態で、自分こそが肖事者だと主張せざるを得ない。この当事者である自己は、自分を当事者だと認めろと主張するのみで、当事者であることの承認請求先を失って、孤立してしまう。なぜなら、誰もが自分を当事者だと認めろと他者に要求するばかりで、そこにあるのは自己主張の応酬だけだからである。
 だからこそ現実には、この自己は権力や権威さらには多数者への依存を招く心性を生み出して肢しまう。政治が容易にポピュリズムと化すのであり、人々は政治によって癒やされ、『正義』を手に入れて、権力との同一化を図り、自分とは異なる人々を攻撃するようになる。
 誰にも寄り添わず、誰のことも想像せず、砂粒化した人々が、自分こそは被害者だといい募り、加害者を躊躇なく糾弾して、炎11する。しかもその加害一被害関係は、常に流動する。こういう関係ともいえない関係に子ともたちは價かれていて、自分も被害者であり、当事者なのだと、その位置を探ることに汲々としているのではないか。
 この構造は、当事者を個性と読み換えても変わらない。誰もが他者に対して自分の個性を認めろと主張しあうことで孤立して、いがみあっているのが、現実の「みんな違ってみんないい」社会なのではないか。このような社会に、子どもたちが出ていく先はあるのだろうか。
 どこに行っても「正義」を我が事とした人々によって.評価がついて回り.自分は人々に晒され続ける。こういう感覚が、子どもたちの間で、いじめをめぐっても.共有されてしまってはいないだろうか.そして、自分も実は.その「正義」によって、いじめを糾弾する側にいるが、それは、本当の当事者に寄り添い、理解し、ともに問題を解決しようとする動きにはつながらず、まっすぐな揺れ動くことのない「正義」がそのまま貫かれるかのようにして、当事者とは異なるところで、当事者がつくられ、自分のことだけをいい募ることになってはいないだろうか。
 しかし、自分を守ってくれと請求する先を、この当事者は予め失っている。すべての人々か当事者として、他者に自分を認めろ、守れと主張しているからであり、その結果、自分を当事者だと自己す張する無数の傍観者が生まれることになるのである。
 そうだとすれば、それは加害者の子どもの心性でもあるのではないか。こうして、いじめの当事者は、「正義」によっていかようにも反転し、了どもたちは本当の当事者に寄り添うことができなくなってしまう。この「正義」の主張の中に、自分を無条件に受け入れてくれる関係はつくられず、居場所はないと、子ともたちには感受されているのではないか。しかも、いつ何かの拍子に、今度は自分がその「正義」によって糾弾されかねないという不安を、彼らは抱えているのではないか。なぜなら、当事者だからだ。当事者は孤立している。
 子どもたちには社会など存在してはいない、ましてや地域など、と課題をおいたとき。見えてくるものは何なのか、このことか問われなければならない。
 筆者も含めて、私たちは軽々に地域または地域社会という言葉を使い、中央教育審議会の答申や文部科学省の政策にも、地域や地域社会という言葉が頻出する。とくに、コミュニティ・スクールが政策化され、地域学校協働活動が推奨される近年では、その傾向は強くなっている。しかし本来、地域とはどういうものなのだろうか。
 地域の後継者難だという。とくに少子高齢化・定年延長などで、地域の担い手が高齢化しまた減っていて、地域の存続が危うくなっているという。この場合の地域とは一体何なのか。それは具体的には、町内会や老人クラブ、子供会などの地縁団体や組織のことなのではないか。
 詳述はできないか。日本は明治以降、中央集権国家をつくる過程で、全国に小学校を設置し、学区を措定して、それを行政の基本単位とした。それが、戦前の町内会の基盤となった。そこに、相互扶助の隣組を重ね、青年団、消防団、婦人会、処女会を、さらに自然村にあった神社を統廃合した氏子区を重ね、今日の地域の基礎がつくられた。戦後には、ここに子供会や老人クラブが重ねられた。
 敗戦後、連合国の占領下にあって、GHQは隣組や町内会を権力的な民衆動員組織とみなして解散命令を出したが、その一方で、公民館の設置を奨励L、住民が自らの生活の基盤の上に地域経営を進める拠点として活用することを促した。社会教育法は、その方針を受けてつくられたという性格を持っている。
 しかし。例えばPTAの導入を担当したアメリカの専門家が、アメリカ流のアソシエーションとしてのPTΛの導入を進めようとしたのに対して、日本型のいわゆる学校父兄会や母の会を基盤としたPTAの組織化の動きが各地で見られたように、日本の地域とは基本的に団体または組織として構成され続け、今日に至っている。
 隣組や町内会は、占領の終了とともに、自治会として復活したが、それは草の根のアソシエーションではなく。むしろ上からの団体・組織として再編されたといっても過言ではない。日本の地域とは、個々人が住民の一員として自発的に責任を担うアソシエーション、つまり対等な関係を基盤として、自治的にその集団を超営し、治めようとするメンバーシップ集団ではなく、むしろ地緑の団体として。それぞれの役割をあてがわれる、非自発的で受動的な組織であった。それゆえに。その組織は家制度を基本として、一戸一票制であり、戸主が家を代表して議決権を持ち、議論よりは慣例を重んじるものとなっていた,。
 また、いわゆる社会についても。私たちはそれを会社や組織・機関やその連介体のようなものとして。受け止めてはいないだろうか。家庭を会社つまり社会につなげていたものが、学校であった。
 経済発展にともなって、地域社会から企業社会へと人材を吸い上げる機能を「学校」が強めるにともない、家庭が親子を基本とした核家族つまり子育てと教育さらに労働力の再生産を家庭内の空間に閉じ込める教育家庭と勤労家庭へと変化し、地域との関係が希薄になり、地域社会の基盤が動揺した。さらに近年の生活様式の変容や雇用のあり方の変化、価値観の転換によって.また家庭そのものが解体の度合いを深めることで、地緑団体である地域は担い手が不足し、持続可能性を失い、さらに人々が誇りを失うことで、自治機能を停止させてしまう事態になっている.子どもという紐帯を持つはずのPTAですら、最近では加入をめぐるトラブルを抱えるようになっている.
 その上、経済構造の変容による雇用慣行の切り替えによって、会社が家計維持の機能を削ぎ落とし、人々は.労働市場で孤立するようになり、社会的な帰属を失い、その結果、会社を基盤とした社会が崩れ落ちてきている.
 団体や組織であった地域の基本単位である家庭が解体し、地域社会が崩落し、また人々が会社から放擲され.社会が壊れることで、人々は孤立の度合いを深めていく。さらに社会的な価値評価のあり方が消費社会のそれ、つまり育成による労働力の評価ではなく、即自的かつ多元的な価値の評価へと切り替わることで.人々は常に全人格的に他者の評価に晒され、その結果、他者に対して攻撃的になり、また行政や権威に対して依存の度介いを深める孤立した存在となる。
 このような社会では、人々は時間はおろか、空間を共有することすらせず、自らがそれを担っているという感覚をも失って.相互にピリピリと気を張り詰めあう、緊張感の高い、不安定ないがみあう関係のみがつくられてしまう。自治は形成されることなく、利己的な権利の主張による要求とクレームの応酬となる。社会の信頼感が低下し、そこに個人の存在を担保する居場所はつくられなくなってしまう。
 だからこそ、人々は権威にすがり、行政に依存して、白黒はっきりした規則を求め、自ら価値判断や思考を停止してしまう。その結果の一例が、学校への一層の依存と要求の高まりやクレームの嵐であり、規則の強化と排除の論理の台頭である。
 大人にすら居場所がないのに、子どもたちに安心してその身を預けることのできる信頼感が、この社会にはあるのだろうか。このことが、子どもたちを苦しくさせているのだとすれば、子どもをとりまく社会のあり方をこそ、組み換えなけれぱならないのではないか。この社会は底が抜け始めたのではないだろうか。このような社会で、いくら個性を認めあおう、受け入れあおう、といっても、掛け声だけが虚しく響くだけなのではないだろうか。
 著者は、「信頼と自治のプロセスとしての地域」として、次のように述べる。地域社会は解体の速度をあげていて、人々の孤立は深刻化している。このことを踏まえた上で、さらに次のようなことを考えてみる。歴史を振り返りたい。なぜ、GHQは社会教育法が国会で審議未了廃案となりそうになったときに、介入して、与野党の代表者を説得して、成立させたのか。なぜ、GHQは、町内会や隣組に解散命令を出しておきながら、公民館の設置普及を奨励したのか。公民館の施設中心主義とは、一体何であったのか。また、GHQは結果的にアメリカ型のアソシェーンョンとしてのPTAの導入を断念したが、そこでは何が期待されていたのか。見据えられていたその後の日本社会の姿とは一体何だったのか。こういう歴史的な振り返りに、今日の社会のありさまを重ね合わせることで、社会のあり方を組み換える基本的な方向が明らかになるのではないだろうか。
 これからはむしろ、社会は人々の自発性と自治を基本とした、信頼感を基盤とする人々の開かれた関係として組織されることが求められているのではないだろうか。それは、お互いに顔の見える関係において、自らの社会的な存在を、他者を通して自ら認めることができるような「小さな社会」をたくさんつくることを通Lて、住民が社会をつくり、経営することへと結びつける筋道をつくりだすことなのだと思われる。そのとき、人々を結びつけて、社会をつくる紐帯となるものは、それぞれの人々がそれぞれの役割を果たし、希望を実現することの楽しさを自分事とすること、つまり社会の主役となることである。
 その基盤となるのは、住民としての人々相互の「学び」である.例えば、PTAもこの「学び」を保護者を中心に組織するために、学校単位で組織されることか期待されていた.このとき.「学び」とは、いわゆる知識を得ることに留まらず、人々が互いを認めあい、関係をつくることを通して、社会をつくり、経営する、そうすることで改めて自分の存在を社会の中に認め、自分が他者とともに生きていることを実感し、うれしさを感じる、こういう楽しさを基本とした一連のプロセスをいう。それは、「自治」でもある。それを、より其体的な行政的課題へととらえ返せば、教育行政の施策を通して。|学び」を基盤とする住民自治を改めて発明することが求められているのであり、そこでは社会教育は.地域社会を住民による楽しさを媒介とした学びのプロセスとして再構成するためにこそ、機能すべきものとなる.
 こうして.社会教育が社会基盤であるべき住民自治を鍛え続けるプロセスとして重視されることで、「学び」を媒介として、子どもと大人が交わって承認関係をつくり、社会的な居場所を自ら得るとともに、子ども自身が将来にわたって学び続ける力を身につけて、人生を切り拓き、大人自身も子どもとの交流によって、社会的な役割を担い続ける駆動力を得ることへとつながっていく.
 このような関係がつくられることで、それを基盤として、仕民一人ひとりが地域コミュニティに積極的にかかわって、社会をつくり、住民自治に定礎された堅固な団体自治を実現することとなる。その結果、住民自治がより豊かに育まれ、当事者意識に支えられた自治体が実現する。こういう自治の循環の基盤としての「学び」が、人々が社会の主役となるプロセスとして形成されることで、教育行政が一般行政に優越することの意味が改めてとらえ返される。
 地域社会は、従来のような地縁団体や組織ではなく、むしろ住民自身の互いの承認や思いの実現によってもたらされる楽しさに駆動される、信頼と自治のプロセスとLて再構成され、「学び」はその基盤をつくりだすものとなる。
 著者は、「社会教育ではない社会教育」として次のように述べている。社会教育とくに社会教育研究はこれまで、実践を重視してきたという。しかしそれは、実践から研究ループヘと展開し、さらに社会ループヘと紡がれて、社会の議論をリードすることにつながっていたのだろうか。例えば総務省の地域連営組織、厚生労働省の地域共生社会づくり、国土交通省の地域防災システム、まち・ひと・しごと創出会議の小さな拠点づくり、そして経済産業省の未来の教室などによって、いわゆる地域コミュニティが焦点化され、住民による社会教育の実践が注目を集め、公民館の活用が重視されていることに対して.真正面jから議論し、それをリードしようとしてきただろうか。
 社会教育を基盤とした人づくり・つながりづくり・地域づくりを中央教育審議会が提唱し社会教育施設の一般行政への特例的移管を提起した(中央教育審議会2018)とき、「社会教育」を地域運営組織、地域共生社会づくり、地域防災システム、小さな拠点と置き換えても違和感がないことに対して、それでも「社会教育」でなければならないという論理を社会教育研究は導き、その重要性を説き、かつ実践へと展開することができたのだろうか。
 例えば、厚生労働省は、増え続ける認知症高齢者の存在を前提にして、地域包括ケアから地域共生社会づくりへと政策を展開させ、その政策の基本的な枠組みを地域コミュニティヘの「福祉からのアプローチ」と「まちづくりからのアプローチ」とにこの両者を媒介するものとして「出会いと、学びのプラットフォーム」を形成するとしている。この施策は、「出会いと学び」を住民の中に組織し、住民自らが地域社会をつくり、担うことで、共生社会を福祉とまちづくりの双方から構成しようとするものであり、その実践的基盤は社会教育と重なり、かつ公民館を拠点とした住民によるまちづくりの実践をとおした、福祉機能の形成と向上なのである。この事例に見られるように、社会教育ではない社会教育として、それはすでに社会教育の実態を構成しているのである。
 著者は「一般行政のプラットフォームとしての社会教育」として、次のように述べている。このような事態に直面して、改めて住民自治か育ち、団体自治が支えられ、それが改めて住民自治を鍛えつつ、社会の永続性を運動として生みだすことのあり方が問われている。たとえば、公民館の設置を奨励した文部次官通牒には、次のように記されている、「国民の教養を高めて、道徳的知識的並に政治的の水準を引上げ、または町村自治体に民主主義の実際的訓練を与へると共に科学思想を普及し平和産業を振典する基を築くことは、新日本建設の為に最も重要な課題と考へられる……。この課題に応えるために「町村公民館の設置を奨励することとなった……」、「本件については内務省.大蔵省、商工省、農林省及厚生省に於て了解済である……」。
 公民館設置の奨励においては、文部省が主導するが、町村の民衆生活のあらゆる側面に対応する中央官庁、つまり当時の官制で内務省、大蔵省、商工省、農林省、厚生省が既に了解しており、その了解のもとで文部次官通牒として通達することとなったというのである。
 住民生活の様々な側面に対応した行政領域が地域社会で総合化された、中核的な機関として公民館が構想されていたことがわかる。それを敷衍すれば、社会教育はいわゆる一般行政のプラットフォームとして、また一般行政の中に浸透しているべき理念としてとらえ返すことができるのではないか。
 むすび
 戦後の社会教育とは本来、一般行政の基盤をつくるものとして、改めて構想され、それは完成することのないプロセスである民主主義の連動としての「自由」を保障する「自治」を生み出し、かつそれを基礎とするものとして営まれるべき運動だったのではないだろうか。だからこそ、社会教育は、一般行政に優越し、かつ一般行政に浸透していなければならない、「目的」のない、それそのものが住民自身による未完の民主主義の運動だということなのではないか。
 私たちには、既述のような社会教育ではない社会教育が社会教育の実態をつくらざるを得ない状況に対峙して、いま改めて、社会教育を基盤とした社会のあり方を構想し.実践することが求められている。そこでは「学び」がこの社会に改めて定位されなければならず.そのあり方が検討されなければない。これが本書編集の基本的な思いであり、本書はそのための諜題提起の試みである。
 こうしたi教育魅力化」の中でとくに重視されているのが地域との関係である。「教育魅力化」は、地域課題発見解決の学習を編成することで、これからの社会で求められる「体性や協働性を育む地域との連携・協働の教育改革であると同時に、そうした学習を通して地域の将来をつくる次世代を育て、これまでの向都市的な人の流れと価値観を転換し、「こうありたい」という地域の「意志ある未来」をつくろうとする運動でもある(第3期隠岐島前教育魅力化構想策定委員会・隠岐島i教育魅力化プロジェクト。2019)。
 本章で整理してきたように。学校と地域の関係は1980年代以降、政策の議論に上り、今月まで両者の連携のための様々な施策が整備され、各地での実践が取り組まれてきた。その背景にはいじめや不登校といった学校の|荒廃」状況があり、それは工業社会の次の段階へ移行しようとする社会の変容の中で顕在化した学校の限界として把握された。それによって、一種の文化として学校に根付いた両一性とその背後にあるみな|同じ」の人間観の抑圧性が対象化され、転換が求められることとなった。地域との連携は、こうした文脈で、学校の転換をもたらす外部の契機として位置づけられる可能性を持っていたといえる。しかし実際には。学校と地域の関係に関する議論は。学校のそうした牲質を問い直す視点に、必ずしも意識的ではなかったように思われる。本節では、そうした課題をまとめた後、地域から学校を組み換える視点を示す。
 そこでは、「画一化と競争の課題」について、次のように述べている。課題として指摘されてきたことの第一は、学校の画一性が、地域との関係においても維持される可能性である。例えば、学校と地域の連携の一環として取り組まれることも多い郷土文化の伝承は、地域の大人とのふれあいのを通して健全育成を図る教育意義の高い活動と評価される。一方で、それが全員で一斉に取り組まなければならない活動であるとき、地域との連携活動もまた従来の学校に指摘されてきた画一性の問題を生み出しかねない。伝承活動に参加したある中学生は、[どうしてこんなことをしなくてはいけないのだろう]「やりたいという気もあったけど、やっていくうちにはずかしいという気持ちかして、どうしてもこれを受け継がねぱならないという気になれなかった」という感想文を残している(比和町教育委員会、1988)。もちろんこの感想文は「また来年もやりたい」と結ばれるか、地域との連携活動で生じうる子どものこうした受けとめ方に関心が向けられることは少なかったように思われる。
 こうした事態について佐藤は、「生活体験学習の画一化と動員化という、知育偏重以上に危険なな陥穽」と指摘する。「子どもによかれとする生活体験学習が画一的に価値づけされた集団的な方法によって推進され。自由な感受性の疎外と行動の動員化、集団からの排除を招」くことか懸念されるのである。
 この指摘は、地域と学校の協働が進められる現在においても重要であるだろう。なぜなら、現在、地域と連携・協働した学習活動として取り組まれている地域をフィールドとした課題解決などにおいては、そこでは、子どもにとっての活動の意味や価値、さらには地域と結びつけたキャリアや人生観までが問われているからである。学校の画一性が問い直されることのないまま進められる地域との連携・協働は、子どもに一様な意味・価値を強いる侵襲性を帯びかねない。
 こうした課題を踏まえると、地域の大人も含めた参加と共同の「開かれた学校づくり」が重要になるが、「三者・四者協議会」の設置が問題の乗り越えに直結するとも限らない。池谷・藤田は。「開かれた学校づくり」の中で、地域の大人の参加によって自主的に取り組まれる挨拶運動が、地域ぐるみでの子どもの「監視」につながっていく[危険性]に注意を促す。また宮下によれば学校協議会を設置した当初、参加した地域の大人の議論は子どもの学力や生活態度への「管理」へと向かう傾向にあったという。これらの事例において地域は、学校の画一性を相対化するというよりはむしろ自主的に共有し、子どもへのまなざしを画一化させながら自ら学校秩序の健全化を支えようとする[生徒化装置](尾崎、1999:215)の機能を果たした可能性がある。
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 著者は、公共的な課題解決につながるから政策的に着目されるということについて、疑義を唱えている。そして、社会教育や公民館活動が活発なところほど、住民相互のかかわりが豊かで、互いに助け合う共生社会がつくられているという知見や、学びに積極的な人ほど人生に前向きであるという議論を下敷きにしていることについて、本来、論理は逆なのではないかと反論する。社会教育や公民館の活動が活発だから、住民はその活動を通した豊かな関係をつくっており、その関係の上に相互に助け合い、見守りあう共生社会をつくることができているのであって、共生社会をつくるために学んでいるわけではない。そして、学びに積極的な人々が人生を謳歌しているのであって、人生に前向きになるために学ばなければならないのではないのだと言う。
 まちづくり実践などで行うワークショップのプロセスについて、著者は次のように説明する。ここで重要な働きを見せるのが、よそ者を含めた、住民それぞれの立場からの当事者性である。それが相互にズレていることで、相互に剌激しあい、事後的に新たな関係に向けて人々を駆動することになるのである。さらにいえば、そこに作用しているのは、人々相互の受容と配慮である。こうしたものが、地域コミュニティの草の根の人々の関係において起動することで、その社会は常に人々の関係をつくりだし、自己をその関係として生み出し、組み換え続ける人々によって、不断に展開を続ける生命力を持つこととなる。このプロセスが展開していく過程で、人々はそれぞれの立場から当事者となり、その当事者性が、地域コミュニティへの新たな気づきや発見、そして意味づけや価値づけをもたらすこととなる。ここでは、相互に受け入れあうことで生まれる関係が、その都度相手に対する思いとそこから自らへ還ってくる意識との相互作用の中で、変容しつつ、常に当事者性を新たにしていく運動を見出すことができる。こういう関係こそが、地域コミュニティを駆動する。私たちが試されているのは、他者の受容と他者への配慮、それが改めて自分の身を振り返ることにつながることで、自ら判断して、他者のために何かできるのかを考え、行動できる力を人々にもたらすことなのではないだろうか。民主主義と自治の人間的基盤が問い返されているのだといってよいだろう。
 このような活動の楽しさについて、著者は「よきことを予期する」にあると言う。著者は、地域の高齢者に子どもたちがマスクを作って配る活動を例に、そのことを次のように説明する。そこには、相手のことを自分に照らして受け止め、かつ相手の中に自分を感じとること、つまり相手を好意的に受け止めることが組み込まれている。地元の高齢者のことを思い、マスクをつくって、贈るとき、そこには高齢者の健康を心配し、慮り、感染しないようにと願う自分があり、しかもうれしそうにマスクを受け取って使ってくれる高齢者の姿が想像されて、子どもたちは愉しかったのではないかと言う。
 学社融合が言われて久しい。だが、地域の人々との交流も、住民との相互作用から、その楽しさに気づき、学ぶチャンスとして充実させることが大切だと評者は考える。



【目次】

序 論 「学び」を社会に再定位する――本書の課題
1 当事者性を問い返す
2 行き場のない社会
3 地域社会とは何か
4 信頼と自治のプロセスとしての地域
5 学校教育と社会教育
6 社会教育を再考する
7 社会教育における「自由」
8 「学び」を再定位する


第I部 「学校」をかんがえる

第1章 地域から学校を組み換える
1 変革を迫られる学校
2 学校と地域の関係に関する改革動向
3 問われる地域の位置づけ
4 課題と展望

第2章 学校の「公共性」を問い返す――民間教育事業者との連携の意味
1 学校教育における「多様な担い手」の登場
2 「民間教育事業者」とは何者か
3 学校教育の「新たな担い手」としての「学習塾」の登場とその意味
4 「民間教育事業者」はいかにして学校教育の「担い手」になっていったのか
5 「学習塾」はいかにして学校教育の「担い手」に なっていったのか
6 教育学で「学習塾」はどのようにとらえられてきたのか
7 社会教育的な観点から変容する「公共性」をとらえ返す

第3章 アソシエーションは可能か――自治団体としてのPTAを考える
1 戦後PTAはなぜ導入されたのか
2 教育の分権化に向けて:PTAと地域の関係
3 自治団体としてのPTAを問い直す


第II部 「自治」をあらたにする

第4章 社会教育施設と自治の創造
1 第二次大戦後の社会教育施設
2 各施設の現在とその理念
3 集まることの意味
4 集まれない今

第5章 社会教育における仮想空間のインパクト――オンラインによるコミュニティの形成と公民館
1 社会教育における「オンライン公民館」の意味
2 公民館とはなにか
3 オンライン公民館の登場
4 対面実施とオンライン実施の相違点
5 オンライン公民館のインパクト

第6章 教育と福祉を架け橋する――学びと自治による地域のあり方
1 20年後の私たちの暮らしはどうなるのか
2 コロナ禍が露わにした「セーフティネット」の脆さ
3 社会教育と福祉の結合
4 教育と福祉の結合がつくりだす地域のセーフティネット
5 学びと自治を基盤とした地域づくり


第III部 「青年」をふりかえる

第7章 青年の職業的社会化――専門学校における学びを対象として
1 専門学校における教育・学びについての誤解
2 専門学校における教育・学びの特徴とは
3 専門学校教育における学びを通して得られるもの
4 職業的社会化概念の射程

第8章 「地方」出身の青年にとっての「地元志向」を考える
1 「地方」出身者にとっての「地元」
2 「地元志向」は避けるべき?
3 「都市」と「地方」の非対称性と「希望」としての教育
4 「希望」を具体化する「標準的」キャリアと 「地方から都市へ」の自明視
5 既存の価値観を相対化する社会教育学の方法論

第9章 闘争から共生へ――都市青年の生き方へのまなざし
1 孤立する青年の生きづらさ
2 「青年」とは何者か
3 断絶と闘争の青年観
4 青年の社会参加の実態
5 共生としての生き方


第IV部 「学び」をおきなおす

第10章 「声」の教育方法――文字・眼の普遍性・抽象性から声の具象性へ
1 教える者と教えられる者
2 書き言葉を基本とした「語り」
3 口演童話の誕生と発展
4 松美佐雄の童話論
5 子どもたちの姿
6 子どもと教師の関係
7 現代の教育への示唆

第11章 余暇(レジャー)と社会教育の関係を見直す――「シリアスレジャー」の再発見
1 公民館の利用実態
2 日本における「余暇」の流行と衰退
3 余暇観の多様性
4 シリアスレジャーを通じたself-cultivationと社会教育学

第12章 「学び」という運動――自治と当事者性の基盤として
1 当事者性のズレが生み出す駆動力
2 PDCAサイクルからAAR循環運動へ
3 ワークショップという「形式」と「ことば」を介した循環


あとがき
注 釈
引用・参考文献
人名索引
事項索引







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