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若者論のトレンドCONCEPT

松尾英明『不親切教師のススメ』さくら社、2022/7/22

子どもが自分でできることに対しては手出し口出しをせずに見守り、自身の時間も大切にする。本書がいう「不親切教師」とは、家庭等のコントロールできないところまでは踏み込まないと同時に、じつは子どもの「痛み」を知り、血の通った配慮をしている教師なのだと評者は感じた。教師への評価が、過剰な親切にではなく、このような適切な「配慮」に対して行われるよう評者は望むものである。


書評


松尾英明『不親切教師のススメ』さくら社、2022/7/22

 子どもの教育に関するあれこれに気をまわして手出し口出しをし、自分のことは後回しにしてでも、身を削って相手のお世話をする「親切な教師」が多い。本書は、これに疑問を呈し、これとは真逆の「不親切教師」を勧める。子どもが自分でできることに対しては手出し口出しをせずに見守り、自身の時間も大切にする。そのことによって、子どもの主体性の向上と、教師の仕事の精選による負担軽減を目指そうというのである。゛
 「きめ細かな指導」「個に応じた指導」の流れを受けて現在の学校には度を過ぎて「親切すぎる」「丁寧すぎる」と思われる対応や習慣が数多く存在するようになってきた。授業では個別のプリントを用意し、個別に指導にあたり、個別に様々な要望を受け付ける。個別対応が当然となれば、時間外の対応も多くなる。「個に応じたきめ細かな指導」「個別最適な学び」への対応に追われる教師はもちろん苦しい。しかしこれも子どものためだと言われれば、がんばるしかない。子どもの成長結果への責任は、自分にあると考えるのだから当然である。しかし、著者は、「実はこれが、子どもや保護者の苦しみの遠因となっている」と警告する。子どもたちは、よく気を回してお世話をしてくれる教師のお陰で、その時点では何事もなく平和に過ごせるかもしれない。しかしこの子どもたちは、主体性を失って成長の機会を奪われたまま大きくなるというのだ。その保護者も同じような思考に染まっていくが、その時には気付かない。それに気付かされるのは、子どもが反抗期に入り、学習に対して無気力になったり、やたらと親のせいにするようになったりしてからである。著者は、お世話をし過ぎて子どもを依存的にさせるというのは、そういう結果まで責任を引き受けるということであると言う。教師のこのような「親切」について、著者は、ただ「がんばっている」ことの確認によって自己満足を得たい場合や、クレームを恐れての過剰サービスであることもあると指摘する。つまりは自信のなさからくる「バリア」「体面」「予防線」のような面が見え隠れしていると言う。
 著者は、何より子どもにとってより良い教育環境をつくることを目指すよう勧める。それはつまり、子どもの主体性が向上し、仕事の精選によって教師の負担が軽減されることでもあると言う。そのためには、教師が余計なお世話をし過ぎずに、子ども自身の手で成果を上げていくような教育をすることであるとして、学校教育の抱える諸問題を例に取り上げながら、不親切教師の視点でその解決策を次のように提案する。親切・丁寧・サービス満点の「楽しい授業」を捨てて、学力向上をねらう。通常の習字は個性の発揮ではないので、教室掲示をやめる。教師は美しく整った教室掲示を作らない。「してあげる」をしない。名前シール貼りを事前にしておくのは、害がある。時代おくれの根性論を排除し、真夏も真冬も体操服は同じなどの規制をやめる。個性や発達の違いを理解し、「きちんと座りましょう」より「歩いてもいいんだよ」と言う。「危ないからやらせない」が将来一番危ない。子どもの危険対処能力が育つようにする。子どもの家庭を覗かない。それこそ余計なお世話であると知る。
 そのほか、「母の日」「父の日」はスルーせよと言う。どの学級にも一定の割合で存在する母親や父親がいない子どもに対して、最優先で思いを馳せる必要があるからだ。たとえ一人でも子どもの心が傷ついたり家庭の反発を招いたりする可能性のあることについては、避けるに越したことはない。特定の宗教行事を学校で行わないのも同様の理由だと言う。2年生の生活科の学習で自分の生い立ちを調べるような単元が組まれていることがあるが、ここへの扱いも要注意だと言う。学習を進めるための持ち物に「小さかった頃の写真」などがよく出てくるのだが、これが様々な事情によって用意できない場合がある。親が離婚や再婚をしていて写真がない子、両親との離別を経験して別の人の元で育っている子、写真すら撮ってもらえずに育った子、中には火災や震災等の災害で全て消失したということもある。「どの家庭にも子どもの写真くらいはあるだろう」という甘い考えを捨てるよう著者は忠告する。
 著者は言う。時に善意が一番人を深く傷つける。悪魔をもじった「善魔」という造語がある。本人は本気で善いことをしているつもりで、相手を不幸に陥れている存在である。相手を傷つけている自覚がない分、悪魔よりも性質が悪い。母の日や小さい頃の写真の話に限らず、教師が日常で善意に基づいて当たり前にしている指導が「善魔」になっていないかは、常に自問自答すべきである。
 「早寝早起き朝ごはん」についても、親切な学校、親切な教師は、善意でこれを進めようとすると警告する。「就寝時刻」や「起床時刻」、「朝ごほんの有無」といった項目があるチェック表を渡し、毎朝、あるいは定期的に提出させる。そして、できていない子どもや家庭に対し指導をするのだが、多くは期待外れか、より悪い結果に終わる。不親切教師は、家庭の生活習慣に対する不必要な介入をしない。子どもに遅刻や欠席が多ければそれについて家庭に話を聞いて事情を理解するということはあるが、生活習慣のチェックや改善の提案のようなことはしない。ほぼ見ず知らずの他人である教師に何も言われずとも、その家庭なりに、一生懸命生きている結果が今だからであると言う。
 「早寝早起き朝ごはん」も、そんな一律の価値観の中の一つであると著者は言う。家の中がぐちゃぐちゃで、全く面倒を見てくれない親に育てられている子ども。あるいは、深夜に帰って来る親を眠らずに健気に待っている子ども。当然、親子共々朝はまともに起きられず、食事もろくにとれない。「遅寝遅起き朝飯なし」が基本の生活である。稀に子どもが自分で朝ごはんを用意しているということもあるが、話を聞けば「コーンフレーク」や「食パン一枚」のみである。しかもこれはまだましな方で、「コンビニおにぎり」だったり「スナック菓子」だったりと、食べてきているものは食糧ではあるかもしれないが到底食事と呼べるような代物ではない。そのようなご家庭に対し「早寝早起き朝ごはん」の大切さを説くことは難しい。生活そのものが厳しいのである。それでも必死に生きている結果なのである。それが人に言われてできるようなら、そもそもそのような状況にはなっていないはずなのであると著者は言う。
 家庭環境の差は大きい。教師自身と似た境遇や環境に育った子どもは理解しやすいが、そうでない子どもは理解しにくい面もある。「早寝早起き朝ごはん」は当たり前という価値観を捨てて、子どもの生活に寄り添う心構えが必要である。
 本書がいう「不親切教師」とは、家庭等のコントロールできないところまでは踏み込まないと同時に、じつは子どもの「痛み」を知り、血の通った配慮をしている教師なのではないか。その上で、子どもたちの主体性を育んでいく。教師への評価が、過剰な親切にではなく、このような本来の「教育的配慮」に対して行われるよう評者は望むものである。
【以下広告文より】

「きめ細かな指導」「個に応じた指導」が重視される学校、そして先生たち。が、度を過ぎて「親切すぎる」「丁寧すぎる」対応や習慣が多いとは思いませんか。それにより先生方もたいへんな思いをしていますが、実は、これが子どもや保護者を苦しめる原因となっているのでは……という問題提起とともに、「そもそも教師がやたらと"親切"なのはなぜなのか」の考察、教師があえて"不親切"になることで子どもたちを主体的に伸ばすことができるのだという大胆な提案まで、新進気鋭の現場教師である著者が超具体的な例を通して書き下ろしました。

出版社からのコメント
どうしてこの先生はこんなにも客観的に学校を見ることができるのだろう?
どんな職場でも20年そこで働いたら難しい、いわんや長い伝統を持つ学校現場において染まらずにいることは…。

初めて本書の原稿を読んだ時、そのナチュラルで現代的な視点に驚きました。私が子どもだった〇十年前から定着していた背の順の並び方、思い返せば小柄なK君はいつも列の先頭なのを本気で嫌がっていました。教室に掲示されたクラス全員の習字の清書の中には、発達に関する個人的な情報も見受けられるでしょう。不親切といいながら、そのじつこの本には子どもの人権に対する意識の高さが随所に見られます。
著者の曇りない視線は、見直されずに繰り返されてきた学級運営のあれこれに留まらず、加速する親切で教師も子ども保護者も疲弊している負の連鎖(監視され続ける子どもたちのつらさ! )、子どものためによかれと信じて頑張る教師の胸に巣食う承認欲求にもわたっています。
暗黙のルールに対するモヤモヤへは問題のありかを明確に示し、体操服など身近なことから保護者懇談会で示す指導方針といった大きなテーマまでどの問題にも具体的な対応例が挙げられており、「不親切教師」への一歩はすぐに踏み出せます。
個人的には習字の掲示についてのアイディアがコロンブスの卵で気に入っています。専科教員の先生とのコラボが学級をさらに良くしています。くわしくはp.50をご参照ください。

もくじ
一、「楽しい授業」をやめる
親切・丁寧・サービス満点をやめて、学力向上
サービス満点の「楽しい授業」を捨てる ほか
二、習字の掲示をやめる
教室環境をこねくりまわさない
教師が作る美しく整った教室掲示 ほか
三、「してあげる」をしない
担任がすべてを請け負わない
名前シール貼りの親切 ほか
四、「揃える」をやめる
時代おくれの根性論排除
真夏も真冬も体操服は同じ ほか
五、「きちんと座りましょう」のナンセンス
個性や発達の違いを理解する
「座りなさい」より「歩いてもいいんだよ」ほか
六、かわいい子には……
「危ないからやらせない」が将来一番危ない
子どもの危険対処能力 ほか
七、子どもの家庭を覗かない
それこそ余計なお世話であると知る
? 家庭にも不親切教育をすすめよう ほか
著者について
公立小学校教員。
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大学教育学部附属小学校等を経て研究し、現職。
単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。
学級づくり修養会「HOPE」主宰。
『やる気スイッチ押してみよう! 元気で前向き、頑張るクラスづくり』(共著)『新任3年目までに知っておきたい ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』『「あれもこれもできない! 」から…「捨てる」仕事術』『お年頃の高学年に効く! こんな時とっさ! のうまい対応』『スルー?orリアクション? 指導の本質を「見抜く」技術』『1人1台端末で起こるクラスのICTトラブルへの予防と対応』(以上全て明治図書刊)等の著書のほか、メルマガ「二十代で身に付けたい! 教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」を主催し、『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆している。


出版社 ? : ? さくら社 (2022/7/22)
発売日 ? : ? 2022/7/22

不親切教師のススメ
 学校教師は、基本的に真面日‥で親切である。子どもの教育に関するあれこれに気をまわして手出し口出しをし、自分のことは後同しにしてでも、身を削って相手のお世話をする。しかし、これが本当に教育として、そして子どもの成長にとって良いことと言えるのだろうか。
 本書が提案するのは、これとは真逆の「不親切教師」のススメである。fどもが自分でできることに対しては手出し口出しをせずに見守り、自身の時間も大切にする。
 不親切教師の目指す方向は次の二つである。
一、子どもの主体性の向上
二、教師の仕事の精選による負担軽減
 さて、なぜこの二つが大切と考えるのか。それは、現状の学校現場が、次に示すような問題を抱えているからである。
「きめ細かな指導」「個に応じた指導」の人切さが叫ばれて久しい。否どもたち。人一入の個性を生かした教育をしていこうという流れは至極当然である。
 しかしながら、この流れを受けて現在の学校には度を過ぎて「親切すぎる」「r寧すぎる」と思われる対応や習慣が数多く存在するようになってきた。授業では個別のプリントを用意し、個別に指導にあたり、個別に様々な要望を受け付ける。個別対応が当然となれば、時間外の対応も多くなる。「個に応じたきめ細かな指導」「個別最適な学び」への対応に追われる教師はもちろん苦しい。しかしこれも子どものためだと。言われれば、がんばるしかない。了どもの成長結果への責任は、自分にあると考えるのだから当然である。
 実はこれが、子どもや保護者の苦しみの遠因となっていることに気付いているだろうか。子どもたちは、よく気を回してお凹話をしてくれる教師のお陰で、その時点では何事もなく平和に過ごせるかもしれない。しかしこの子どもたちは、主休性を失って戊長の機会を奪われたまま大きくなる。自分ではできない、考えない、責任をとらない子どもが量産される。その保護者も同じような思考に染まっていくが、その時には気付かない。それに気付かされるのは、子どもが反抗期に入り、学習に対して無気力になったり、やたらと親のせいにするようになったりしてからである。依存の行き着く先は、人学を選ぶのも入学させるのも、果ては就職先までも親の責任ということになっていく。
 これは極端な例かもしれないが、お世話をし過ぎて子どもを依存的にさせるというのは、そういう結果まで責任を引き受けるということである。

 そもそも教師がやたらと「親切」なのはなぜか。子どもへの愛情という而ももちろんあるかもしれないが、その実はただ「がんばっている」ことの確認によって自己満足を得たい場合や、クレームを恐れての過剰サービスであることもある。つまりは自信のなさからくる「バリア」「体面」「予防線’一のような面が見え隠れしている。あらゆる業界において、過剰サービスに慣れた顧客は、相手への要望ばかりが高くなり、受動的かつ自己中心的になっていく。有難いはずの恩恵は、やがて当然の権利に変わっていくのである。
 学校とは、何のために存在するのか。それは、子どもの成長のためである。子ども自身が学び成長することこそが目的である。親切にしてあげることで一時的に子どもが助かった、あるいは良くなったように見えるかもしれない。その助けによって教師は「ありがとう」ごっれしい」「先生大好き」と言われるかもしれない。しかしそれが長期的に見て、子どもの成長に寄与したのか、子どもの人生において良いと言えるのかどうか。
 人は基本的に、直面した困難に対し自ら解決していくことで成長する。困った時にすぐに手助けして解決してくれる大人が常にそばにいることは、子どもにとって便利だが不幸なことである。fどもを依存的かつ他責的な入間にしている可能性がある。
このような状況を打開するのが不親切教師である。何より子どもにとってより良い教育環境をつくることを目指す。それはっまり、子どもの主体性が向上し、什事の精選によって教師の負担が軽減されることでもある。そのためには、教師が余計なお吐話をし過ぎずに、子ども自身の手で成果を上げていくような教育をすることである。
 本書では、学校教育の抱える諸問題を例に取りLげながら、不親切教師の視点でその解決策を模索し、よりよい教育のかたちを提案していく。





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