本文へスキップ

若者文化研究所は若者の文化・キャリア・支援を専門とする研究所です。

TEL. メールでお問い合わせください

〒165 東京都中野区・・詳細はメールでお問い合わせください

若者論のトレンドCONCEPT

書評書評薗田碩哉『遊び半分 さんさん幼児園/さんさんくらぶの子育て・まち起こし』a-Nest出版、2023/7/31

 著者は、多様な体験が子どもたちの身体と心を育てる、ケンカやトラブルも重要な教材などと述べる。また、子どもの「原体験」を保障することが重要、父親の子育て参加はまちづくりの鍵などと主張する。最終章「遊び半分」では、「遊びは文化よりも古い」と主張し、「遊び半分の人生」の意義を訴える。
 ケンカや「ワル」については、次のように述べる。ケンカは楽しいことではない。そこで子どもたちもケンカしながらケンカを克服すべく努力する。譲りあうことを覚えたり、約束事を作ったり、相手の存在を認めたりするようになる。かけひきや取引の末にルールとマナーが成立する。人間が本来持っている攻撃性をいかにコントロールするかは社会生活を円滑に進めるため欠かせない課題である。幼児のうちに思い切りケンカを体験し、攻撃性を発散しておくことが大切である。また、大人たちは「よい遊び」を推奨し、悪い遊びを撲滅しようとするが、ワルこそは子どもの生のエネルギーそのものであり、生きる力の根源とも言える。最終的には善なるものへの志向、倫理感が形成されねばならないが、それは悪を単純に否定して得られるのではなく、悪を体験し、乗り越えてこそ得られる、闇があるからこそ光の意味があると著者は言う。
 学校で「ワル」を推奨することは難しいだろうと評者は思う。しかし、子どもの頃の「悪い遊び」の意義を教師が認識しておくことは必要だろう。



書評






 著者は、30年間にわたり、地域に残された里山を遊び場に「自然の中でのびのび育てる」保育を「さんさん幼児園」で実施してきた。子どもたちの意欲と個性を土台に、子ども同士の縦の関係を重視して、自立的な子ども集団づくりを目指してきた。さらに、父母や卒園生によるネットワークをつくり、地域の文化・スポーツ・レクリエーション・ボランティア活動にも取り組んできた。閉園後は、その蓄積を生かしてNPOさんさんくらぶを結成、「遊びのまちづくり」の実践を進めている。本書は、その歩みを振り返りながら、子どもの遊ぶ権利の保障がこの国の将来にとっていかに重要なのかを訴えている。
 「さんさん幼児園が残したもの」では、多様な体験が子どもたちの身体と心を育てる、自然とのふれあいが持つ意味、ケンカやトラブルも重要な教材などと述べる。また、子どもは「ワルさ」しながら育つ、子どもの「原体験」を保障するなどと述べ、子どもたちに自由な遊びを、鍵は父親の子育て参加と主張する。
 「田んぼワンダーランド」では、なぜ田んぼ活動か(自然と人間の豊かなかかわりのなかで)、稲作の持つ意味を説明する。「生涯音楽のススメ」では、コミュニティの交流文化活性化への道として、「一生もの」の音楽、生涯音楽の重要性を指摘する。
 そして、最終章「遊び半分」では、「遊びは文化よりも古い」と主張し、「遊び半分の人生」の意義を訴える。
 著者は次のように述べる。さんさん幼児園の子どもたちはまことに「しぜんに」自然の中に飛び込んで行った。そして、それぞれの子どもたちに即した仕方で自然と楽しくつきあう術を身に付けていった。雑木林や野原での多様な遊びご早花や昆虫や小動物(カエル、ヘビ、タヌキ、モグラなど)とのつきあい、崖登りやターザンロープのような冒険遊びに至るまで、この幼児園の子どもたちの自然遊びは多彩かつダイナミックであった。そこに働いていた原理は、外にある四季折々の自然と子どもたちの身体の中にある自然とが共鳴・共振し合うことであった。
 大人のように美しい物を距離を置いて鑑賞するのではなく、美もまた好奇心の対象であり、美しいものと格闘してそれを我が物にする。美しいものだけではない自然の不思議さや面白さに貪欲につかみかかる。自然のまっただ中に入り込んで自然との距離感を縮めていくことが幼少期の自然体験のポイントと述べる。
 「ケンカと残酷体験」については、次のように述べる。子どもの心を養う上で、さらに重要な意味は自然の中での「ケンカ」と「残酷体験」の中にある。子どもの成長にとって欠かせない体験はケンカである。それぞれが自分の意志を持って主張すればぶつからないはずはない。ケンカは楽しいことではない。そこで子どもたちもケンカしながらケンカを克服すべく努力する。譲りあうことを覚えたり、約束事を作ったり、相手の存在を認めたりするようになる。かけひきや取引の末にルールとマナーが成立する。ケンカは「他者の発見」のための必須のプログラムである。ケンカを通じて相手が分かり、ケンカを越えて友だちができる。「ケンカ友だち」こそ本当の友だちなのである。また、人間が本来持っている攻撃性は高じれば相手を物理的に抹殺する行動さえ引き起こす。これをいかにコントロールするかは社会生活を円滑に進めるため欠かせない課題である。ケンカがさほど深刻にならない幼児のうちに思い切りケンカを体験し、攻撃性を発散しておくことは大切である。小さい頃に虫も殺さぬいい子であった子が、中学生になって残虐な殺人を犯したりするのは、小さい頃のケンカ不足(ケンカの抑圧)に一因があるように思えてならない。攻撃性を飼い慣らし、自らをコントロールできるようになるために、攻撃性をスポーツへ昇華させることも重要である。スポーツ好きになるためにも、小さい頃の身体遊びが大きな価値を持つわけだが、そうした遊び体験はどんどん狭められ、電子ゲームで擬似的に攻撃性を発散しているのが今の子どもたちである。そこに一種の病理を感じてしまう。
 もう一つの「残酷体験」となると、これは自然の中でこそ豊かに、しかもおおらかに味わえる。チョウチョやトンボやバッタの羽根をむしったり、カエルの肛門から息を吹き込んだりする残酷な遊びは、かつての悪童たちには日常茶飯事であった。残酷遊びは大人の禁止事項に反逆するイタズラとともに「ワル」の遊びの二大メニューだが、ワルこそは遊びの魅力に不可欠の要素であった。大人たちは「よい遊び」を推奨し、悪い遊びの撲滅を図って止まないが、ワルこそは子どもの生のエネルギーそのものであり、生きる力の根源とも言える。もちろん子どもが社会化される過程で最終的には善なるものへの志向=倫理感が形成されねばならないが、それは悪を単純に否定して得られるものではなく、むしろ悪を体験し、それを乗り越えてこそ得られる(乗り越えなければ得られない)。闇があるからこそ光の意味があるのである。
 もう一つ、ワルとは反対側にあって重要なのが「夢とファンタジー」である。昔々のおとぎ話の世界や魔法使いの森、あるいは「サンタクロースって本当にいるの?」という子どもの夢を大切にすることも心を育てる重要な教育である。夢は遊びの世界にふんだんにある。子どもたちの『ごっこ遊び』は夢と空想が成分である。砂場で上の造形をしたり、野原や森を駆け回ったりすることは、単純に身体を動かしているだけではなく、空想の世界が重ね合わされてさまざまな冒険を体験しているのである。
 「ホモ」はラテン語の人間、ルーデンスは「遊んでいる」という意味だから、「ホモ・ルーデンス」は「遊ぶ人」であり、あっさり言えぼ「遊び人」ということになる。そしてホイジンガは「遊び人」こそが人間の本質であり、遊びこそは文化の母体であると主張する。「文化は遊びの中に、遊ばれるものとして生まれた」というわけだ。よく知られているように、人間に与えられた分類学上の学名は「ホモ・サピエンス−知恵ある人」である。しかし、ホイジンガは人間が人間であることの所以を「ルーデンス=遊んでいる」という点に見い出そうとした。
 評者は考える。学校で「ワル」を推奨することは難しいだろうと評者は思う。しかし、教員は子どもの頃の「悪い遊び」の意義を認識しておくことが重要といえよう。




バナースペース

若者文化研究所

〒165-0000
詳細はメールでお問い合わせください

TEL 詳細はメールでお問い合わせください

学習目標に社会的要請を組み込む