若者文化研究所 西村美東士
2015年10月日本青年館『社会教育』832号、pp.32-45
青年教育研究30年から見えてくるもの
−個人化を育む社会化支援教育の今日的課題−
聖徳大学文学科教授 西村美東士
注:【】内は関連事項参照のための検索ワードである。
はじめに
今から30年前といえば、筆者が東京都社会教育主事補として、青年教育における「押しつけがましさ」の克服と、それに代わる人間的、生活的、全面的、今日的、そして「つながり」の情報提供の必要性を指摘した頃である1。
その頃にはすでに、社会教育の頂点の一つを占めていた青年団や青年学級は衰退しており、都市化、情報化のなかで、農村部を主体とした青年教育は苦悩しつつあった。青年教育研究もこれに伴って閉塞状況に陥ったように思われた。また、90年代に入るとバブル崩壊を迎え、空騒ぎを嫌う「鬱の時代」が訪れ、その空気は今日まで引き続いているようにも思える。
だが、今日、引きこもり、ニートなどが社会問題化し、社会の多様な教育機能が手を差し伸べる必要があることは、衆目の一致するところとなっている。青年教育の衰退にもかかわらず、である。
問題は、それらの教育が、今日の若者のニーズやトレンドに適合的に行われているかどうかである。彼らは、個人化、流動化社会のなかを生きてきた。本稿でたびたび触れるように、20年前ほど前にはその兆候が見られるニーズやトレンドも多い。これに対して、青少年に対する政府等の社会化支援理念は、「自己形成」と「社会形成」を結ぶ、居場所、地域、社会参画のテーマなど、時代の波の影響を受けるべきではない「不変」のテーマに関してさえ、個性重視と社会性重視のあいだを揺れ動いてきた2。
1. 本稿の目的
20年以上前に、若者はすでに「仲間以外はみな風景」と揶揄されていた【宮台真司】。したがって、今日の若者は学校、職場、地域で、当時のそういった意識に基づく指導者、上司に「教育」や「育成」をされているといえる。そして、今の若者も、同じ場所に居合わせている他者が意味ある存在ではなく、風景の一部となっているようなふるまいが指摘される。「親密圏」の人間関係の維持運営だけで疲弊して、その外部にいる人間に対しては、もはや気を回すだけの余裕がないといわれる【土井隆義】。
本稿では、これらの傾向を「社会開放型」と対比して「個人完結型」と呼ぶことにする。われわれは、「連鎖的参画による子育てのまちづくりに関する開発的研究」3において、「個人完結型子育て観から社会開放型子育て観への転換」をキーコンセプトとした子育て支援学の構築を展望した。そこでは、個人完結型を「母親(もしくは父母)が自己の子育てに関する問題を(自らの範囲内で)解決するスタイル」、社会開放型を「地域社会の支援・協働のもとに母親(もしくは父母)が自己及び他者の子育てに関する問題を解決するスタイル」と設定し、その転換を掲げた。本稿でも、「個人完結型」を、友人・家族等の「親密圏」を含めた範囲でとらえ、社会開放型への転換の方策を探りたい。
それでは、「社会」は若者にどうとらえられているのか。後述狛プーの若者に、「君にとって社会とは」と問うたところ、「社会といわれてもわからない。世間ならわかる」と返答した。個人化(後述)の問題を挙げるとすれば、この社会との不接合にあると考える。彼らが、学校卒業時などに、「群れ」から離れて、「世間ならぬ社会」に一匹で飛び出したとき、どのような「ものの見方、考え方」をもって生きていけばよいのか。「友だちをたくさん作ろう」などの親密圏の単なる量的拡大の呼びかけは、たとえ集客アピールとしては有効であったとしても、このような問題に迫る本質的な教育目的にはならないと考える。
過去においても若者は、世間の目に苦しめられてきた。しかし、その頃は、世間を「社会」の一環として見る目ができたときに社会的視野を拡大することができた。今の若者には、いかにして社会的意識を高めることができるのか。
ここで、現在の若者の個人化傾向自体を敵視しても生産的ではない。それよりも、「親密圏vs世間」という今の若者の構図を、彼らの個人化傾向と、各タイプの特徴4に沿ったかたちで突破させ、「社会開放型」の意識と必要な能力を獲得させる支援を目指すことこそ、「社会化支援」の眼目だと言いたい。そのためには、「望ましい個人化」は、むしろ社会化と不可分であることを本稿では論じていく。
今日、青年教育5関連施策や研究の場面では、「社会貢献」「持続可能な開発」「新しい公共」などという言葉が躍っている。だが、「仲間以外はみな風景」という本人にとって、本気になって取り組める言葉なのか。新たに選挙権が認められる18歳の若者に対しても、政策上では社会参画意識の向上が叫ばれている【日本教育新聞ニュース・主権者教育】。これらは、より上の世代の一部の人々の願望を、ただ言葉にしただけのような気さえする。社会形成者としての育成は教育の究極的目的の一つではあるが【教育基本法】、熱心な若手指導者も含めて、多くの若い世代は、「社会参画」の呼びかけに本気になって応える気はないのではないか。
本稿では、青年教育の最近30年ほどの研究成果に基づき、今日の若者の状況に対応した社会化支援の課題とその解決のビジョンを示したい(図1)。
2. 個人化と社会化のとらえ直し
本稿のキーワードは「個人化」である。「個人化」は、社会学的に客観的に見れば、「これまで社会の問題としてとらえられていたことまで個人の自己責任に帰結させられ、個人を不安に陥れる」、あるいは社会に規定されて生きることよりリスキーであるという理由から、たびたびマイナス面が指摘されている【個人化&ギデンズ】【液状化&バウマン】【リスク化&ベック】。
しかし、「自立した個人」が無理矢理にでも前提とされ、選択は自由なのだからという理由で自己責任を迫られるのは、個人化社会の中では時代の必然といえる。青年教育の能動的観点からいえば、これに耐えうる社会化過程を支援することこそ、今日の課題なのだ。そして、狛プーの若者にこの話をしたところ、「世間に合わせて生きるよりは、リスキーでも自由が良い」という返答であったことも付け加えておきたい。だが、彼は、はたして「世間」で、その自由を行使できているのか。問題は「個人化」にあるのではなく、「社会の個人化、流動化のなかで、うまく個人化できない個人」にあると言ってもよいのではないか。このことについては後述する。
30年ほど前に、松下圭一は大人の集団に対して「教え育もうとする社会教育」を否定し、「成熟した市民」の文化活動に期待を寄せた【社会教育の終焉】。山崎正和は、「個別化」について、「社会の消極的な分裂」ではなく、「個人が内面的な自発性を発揮し始めた現象」、「ひとびとが自己固有の趣味を形成し始めたことの影響」と評価した【柔らかい個人主義の誕生】。このようないわば「社会化支援不要論」に基づく個人化期待は、いまだ実を結んでいないのではないか。そこでは、むしろ、個人化の未達成が指摘される。他方、個人化を敵視して、一方的に社会化を押しつけようとする教育は、若者からは「風景」としかとらえられない空しい営みであることはいうまでもない。それらの双方の見解の欠陥はどこにあるのかを、明らかにしたい。
本稿では、社会学的客観視の視点ではなく、青年教育の実践的視点から、個人化と社会化を規定し直して考察を進めたい。そのため、社会化を「社会の一員として生きるための意識変容と能力獲得過程」、個人化を「個人として生きるための意識変容と能力獲得過程」と規定し、ともに青年教育の該当事項としてとらえ直すこととする。
3. 親密圏での交流に頼る若者たち
1992年から10年ごとに3回継続してきた神戸・杉並の青年に対するわれわれの調査では、親友や仲のよい友達と知り合った場所は、2012年では「高校で」がトップで7割以上である【青少年研究会】。また、地方においても、石黒格は、東北地方の若者の東京圏への移動に関する調査結果などをもとに、地元志向の若者たちにとって、「新卒採用時に県の出身者枠を設けている企業の寮に入れば、同じ高校出身の先輩が何人もいる」などのローカル・トラック(水路付け)により移動先が東京圏と宮城県に集中していること、それでも高卒者にとっては労働現場が厳しく、仲間が次々と辞めて青森に戻っていくなかで残された者が苦悩していると指摘する【東京に出る若者たち】。
地方の青年教育にとっても、今日の若者のこのような地元志向は、手放しで歓迎できるものではない。その本質的要因として、多くの若者が、親密圏での交流に頼っており、地域社会での自己発揮には向かっていないということが挙げられよう。
青年期精神病理学専門の斎藤環は、今の若者は「ヤンキー化」していると言い、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという倫理観が融合した普遍的な文化だと説明する。コミュニケーションも、お笑い芸人のように達者で、なぜか自信をもって生きているという。斎藤は、これは非行ではないのだから、更生させる必要はないとしつつ、公共概念とセットで「個人主義」を再インストールする必要を指摘する【ヤンキー化する日本】。親密圏での交流については、いわば今日では「成功モデル」のヤンキーに対しても、社会は何らかの社会化支援機能を果たさなければならないということなのだろう。
われわれの前出調査等からは、「メディア利用によって、人間関係が希薄化している」などの言説は、今日の若者の実態からは筋違いであることは明らかである。それよりも、いくらスマホを使いこなし、友人数やおしゃべりの時間が増えて親密そうに見えても、その交流からは個も深まらず、社会に対しても開かれていかないということこそ、社会化支援が解決すべき課題なのだと考える。
4. 他者の異質性と出会う
筆者は、1992年の立上げから現在に至るまで、前出「狛プー」(狛江市中央公民館青年教室)に関わってきた。そこでは、「職業や学業があっても、プータローの自由な精神を」と呼びかけ、参加、参画、不参加の自己決定を保証したうえで(「1年に1回来ればメンバーだ」)、「面白い仲間と出会おう」と提唱した【狛プー&癒しの生涯学習】。
ただし、その頃にはすでに、過去の青年教育における「若者の集い」などの達成能力目標が設定されていない青年事業には若者が集まらなくなっており、メンバーと相談して「講師のいない料理教室」、「紙芝居教室」などのスキル習得型月替りプログラムを展開した。
それにもかかわらず、若者が実際にそこで獲得した一番の能力は、「他者と出会う能力」だといえる。筆者としては、「居場所における自然な対話」を想定していたが、それよりも、レシピを担当したメンバーの一生懸命な気持ち、紙芝居講師のおじいちゃんの指導をせずに自分の出番のための準備をする没入度、メンバーの紙芝居に入れるアドリブのセンス、そういうことへの気づきの体験が、異質と交流する態度を育てていった。そういう意味では、「無目的な居場所論」を超える「目的的な青年教育」の意義が本当はあったのだと感じる。その本質的目的とは何なのか。
筆者は、当時は、これらの成果を受け、無目的で内容・方法を定めない「空白のプログラム」【生涯学習か・く・ろ・ん】の意義を提唱したが、現在は、たとえ「空白のプログラム」であっても、そこに期待できる「ノンフォーマル教育の目的」を明確にすることのほうが重要だと考えている。そのことが、社会教育としての目標設定、内容・方法の適正な計画、達成度評価につながると思われるからである。
そこでの第一の目的は、他者の異質性と出会おうとするようになることだったのではないか。それは、多くの若者の日常の交友にはない経験であり、それだけに、目的的教育活動の効果が期待できるものと考える。
現在の狛プーでは、「狛プーで大学授業を受けよう」と呼びかけて、「自己相対視訓練」、「人生の諸問題マインドマップ」、「若者論・教育論書評解読ゼミ」などを筆者が直接の講師となってたびたび実施している【西村みとし&狛プー】。「自己相対視訓練」では、仕事、関係、生き方、見通しについて、各自の回答結果を筆者が聞き取りながら、リアルタイムで一覧表に入力して投影する。たとえば、仕事については、「生活における仕事の割合は」、「働くことはつらいことか」、「楽しい仕事はあり得ないか」、「どうだったら仕事は楽しいのか」などについて聴き取る。それはどういう効果をもたらしたのか。
親密圏の仲間関係において若者は社会からだけでなく、仲間からも「孤立」してしまうことがある【みんなぼっちの世界】。それは主観的には親密であっても、準拠枠組などの相互理解のないまま、表層の共存や同一化のために疲弊してしまうからだといえる。2012年の調査では、「とても幸せだ」とする生徒が、この10年で過去最高の増加率を示した。勉強へのモチベーションも向上した。古市憲寿は、ゆとり教育の成果と評価し、「こんなに願い通りにいい子に育っているのに、政治家は教育に対して何をしたいのか」と述べている【NHK中学生・高校生の生活と意識調査】。だが、他方で、とりわけ女子中高生については、中年サラリーマンより人間関係に疲れているという2011年のデータもあることに注意を払いたい【森永製菓&中高生】。
これらの「表層の疲れるつきあい」を続ける若者に対して、判断基準等にまで掘り下げて語り合わせることができれば、「深層のつきあい」の魅力を伝えることができるものと考える【西村みとし&第一印象ゲーム】。それはあくまでも彼らの開示内容の自己管理に任せるべきものであり、また、彼らにとっては、ふだんの親密圏での気遣いとは質的に異なるエネルギーを使う行為でもあるが、それだけに自己決定・自己責任を迫られる個人化社会における必要能力を育てる効果をもつものと考える。
「狛プーの大学授業」では、「自己への気づき」の次に「他者への気づき」が生じた6。そこで得た能力とは、自己客観視及びその言語化に関する能力であり、その能力獲得過程とは、一次的には「個人化過程」としてとらえられる。そして、二次的には、その交流によって、異質との共存だけでなく、何らかの共有もできるかもしれないという意味で、高度な「社会化過程」にもつながることが期待できる。
5. 異質の他者と出会う
第二の目的は、異質の他者と出会おうとするようになることではないか。それは、多くの親密圏志向の若者にとっては、エネルギーを使ってしまうことであり、一歩踏み出すために大変な勇気のいることである。それだけに、個人完結型の若者にとって、意識変容、態度変容といった大きなシフトチェンジを促す効果があるに違いない。
現在の狛プーには、不登校児のためのNPOコピエに今も集う若者が数人、参加している【フリースクールKOPPIE】。コピエとは、サバンナに点在する小さな岩山で、“命のとりで”と呼ばれる動物たちの安全地帯、弱肉強食の草原の中の動物たちの休息場を意味している。その名のとおり、義務教育年限を終えたメンバーにとっての大切な「戻り場」になっている。
そういう彼らが、一般の若者と交じって狛プーに参加することは、どのような意味があるのか。今は中間的就労支援のためのグループホームから通っているK君は、他の一般メンバーが、彼の人間への細やかな心遣いなどの優しさや思慮深い言動に接して、「神」と呼ぶほどの若者である。それでも、彼自身は「指示通りに働けばよいという仕事のほうがよい。今の仕事では、結局は自分で判断しなければならないことが多い。そのとき、失敗することが怖い」と言う。上司等の指示に従うことではなく、職場で自分を発揮することこそが、彼にとっては困難な課題なのだ。
そのK君に狛プー参加の成果を聞いたところ、「グループホームは経済的自立、狛プーは精神的自立に役立つ」という返答だった。もちろん、そのおおもとの「戻り場」として、彼にはコピエという存在がある。だが、コピエを主宰するカウンセラーである前田かおりさん自身が、「本当は、全国各地の公的社会教育の場で、義務教育年限を終えた若者の戻り場をつくってほしい」と言っている。彼女は、狛プーの前身の狛江市青年学級生の経験もあるからだ。
K君や前田さんの発言は、何を意味するのか。そこに、中間的就労支援や自助グループとは異なる青年教育独自の存在価値が見出されると考える。その価値とは、一言でいえば、異質の他者との出会いといえる。同じ問題を抱える者同士の交流にも、もちろん独自の意義はあるのだろうが、その多くは、結局のところ、親密圏の「個人完結型」の量的拡大にとどまらざるをえない。それを超えた異質の他者との活動が、「社会開放型」の意識と能力を育てるのだと考えたい。
ここで、いわゆる一般青年についてはどうなのかを考えておきたい。たとえば学生などに狛プーの若者のことについて話すと、「そういう種類の人たち」という言葉を使って、毛嫌いする者もいる。ネットでは、メンタルヘルスに問題を抱える人を「メンヘラ」という蔑称を使って、ヘイトメッセージを書き込む者さえいる。
筆者は、以前、そのような差別的な一般青年が狛プーに参加しないことについて、「傷つき、傷つけることを恐れて現代社会を生きているいい男といい女さえ来ればよい」と書いていた【癒しの生涯学習】。しかし、20年以上前の狛プーでさえ、看護師の仲間が職場で入手できる向精神剤の名前を言ったところ、多くのメンバーがその薬の名前を知っていて、うらやましがっていたことを思い出す。問題のないように見せている人たちと、いわゆる「そういう種類の人たち」との垣根は、じつは容易に往復できるものなのではないか。
その意味では、表面的には一般青年のように見えても、あるいは、先に述べた意味での「いい男やいい女」ではなくても、異質な他者との出会いは、自己洞察につながる重要な機会であるといえる。K君を「神」と感じた一般青年にとっては、絶望の淵にも立ち、苦悩したことがあり、今も真摯に生きるK君との出会いは、他者理解力と共感力を獲得するための意味ある出会いであったといえよう。
6. 見知らぬ他者との「ナナメの関係」を経験する
第三の目的は、見知らぬ他者と出会おうとするようになることではないか。それが職業上必要とされる者、クラブ通いの者、インカレの活動者などを除けば、親密圏を超えて見知らぬ他者と出会う経験を積み重ねている若者は少ない。多くの若者にとっては、日常の場で見知らぬ他者と出会うことには慣れやエネルギーがいるだろう。だが、青年教育という「設定された場」なら、講師などについては見知らぬ他者であることは当たり前のことである。その割には、これから述べるように「ナナメの関係」という大きな教育効果が期待できる。
現在、子どもたちが、地域の異年齢のさまざまな人と触れ合える「ナナメの関係」の意義が再認識されつつある【地域の教育力向上&ナナメ】。また、明石要一は、五千人の成人を対象としたインターネット調査をもとに、「ナナメの関係」の活動を子どもの頃に体験した成人が、社会的にも成功していることを明らかにしている【ガリ勉じゃなかった人はなぜ高学歴・高収入で異性にモテるのか】。
ここで「ナナメの関係」とは、日常の親・友人・教師といった「準親密圏」から出たところにいる「見知らぬ他者」との出会いである。教師や親は、日々、服装や髪型などの現象面ばかりに追い回され、余裕のある関係が持ちにくい。これに対して、「見知らぬ他者」として関わる一般市民などは、現象的な問題にはあまり責任をとらなくて済むからこそ、子どもたちの深いところと出会えるような対話ができる。そのため、親密圏とは違った意味から、「ものの見方・考え方」に影響を与えうる。このことは、前述の紙芝居講師の自然体のふるまいが、若者たちの好感を得たことを想起させる。
それでは、そのような子ども時代を過ごせなかった若者は、どうなるのか。中原淳と溝上慎一は、大学生調査とあわせて、2007年から追跡調査を含めて3年ごとに25歳から39歳の職業人三千人を対象にインターネット調査を行い、次の点を明らかにしている。クラブ・サークル活動やアルバイトの体験は社会的成功につながるが、「豊かな人間関係」については、異質な他者からの影響が大きく、「良好な友達づきあい」以上の質が求められる。なお、学生時代に「勉学第一」だった者は良い結果にならなかった【活躍する組織人の探究】。子ども時代は受験勉強やゲームなどに追い回されていても、若者になってからでも「ナナメの関係」の体験は間に合うのかもしれない。
去年、コピエの男子中学1年生が、狛プーのキャンプに参加した。多摩川の源流近くのせせらぎが聞こえる草原で、社会教育学を学んだ卒業生でプロのヨガ講師の白石さん【白石千晶&ヨガ】が待機していた。筆者は、バンガローにいる人たちに「ヨガを始めるよ」と声をかけた。コピエの高校生たちは、おしゃべりをしていて出てくる気配がない。その中学生だけが、地面に敷くバスタオルを持たずに最初から外に出て無言で待っていた。ヨガに関心をもちつつも、自分で実際にやるつもりはなかったのだろう。
筆者としては、それだけでも嬉しくて、彼を白石さんのところに連れて行った。すると、彼女は、「バスタオルがないとだめ」と言って、彼と一緒にバンガローに戻り、彼にタオルを持たせて出てきたのだ。そのあと、高校生たちがのそのそと出てきた。いざ講習が始まってしまうと、高校生たちも積極的にやっていたが、その男子中学生は、とりわけ一心不乱にヨガの祈りのポーズをし続けていた。
われわれであれば、彼らの発展段階に応じて、集団活動への参加度を酌量するところであろうが、ヨガに関する個人的能力の伝承しか眼中にない講師にとっては、たとえ社会教育学を学んでいても、そのような「教育的配慮」はないのである。そこに、自然体で接することのできる「ナナメの関係」の魅力がある。野外炊飯で、高校生がゴミをポイ捨てしたのを見て、彼女は「ゴミ箱に捨てなさい」と一喝し、高校生は無言でごみを拾った。このように、「ナナメの関係」なら指導もシンプルなのである。
しかし、「ナナメの関係」の持ち方には微妙な面もある。20年ほど前の狛プーの社交ダンス講習月間のとき、講師が「あなたたちは上手になる気がないのですか」と怒って説教した時がある。講習への参加者は楽しく受講していたのだが、数人は講習開始時刻後も三三五五と集まってくるし、なかには解散後のフリースペース(飲み会)までには間に合おうとして、終了時ぎりぎりに駆けつける者もいたからである。
今の若者なら講師に怒られて委縮してしまうところかもしれない。だが、当時はつわものが多く、「大人になって」神妙に説教を聞いておいて、講師が帰ってから、「あの講師は来年は依頼するのをやめよう」と決定した。1週間に1回、仲間と出会えることのほうが、社交ダンスの習得よりも重要だったからである。
社交ダンスの講師と先述の紙芝居の講師とでは、なぜこのように若者の受けが違うのか。それは、人が集まらなくても、自分の好きなことを平然とやって見せることができるかどうかにかかっている。ましてや、なかなか人が集まらないからといって、講師から文句を言われるのでは、青年集めに苦労している担当者にとってはたまったものではない。
先の社交ダンスの講師の場合は、普及目的のほうに重点が移ってしまって、教師や親の目線になってしまったのではないか。それ自体が、20年前の若者にとってさえ、うっとうしく感じられることだったのだと思う。普及のための努力をするよりも、「自分が好きだからやっている」、「自分の好きなことを夢中になってやっている」という姿を見せることこそ、「ナナメの関係」のもつ教育力といえよう。
7. 個を守り、孤独に耐える
「職業で大事なこと」について、一対比較法で優先順位を付けさせると、最近の経験では、学生も他の若者も、仕事内容や収入よりも人間関係を重視する者が多い。そこには、「上司がきちんと教えてくれる」などの前向きな気持ちも含まれている。「上司がほめてくれる」などの意味で「評価」を最優先にする者も出てきた。また、2013年度の新入社員と上司への調査でも、新入社員は「挨拶」「笑顔」「良好な人間関係」を重視していることが明らかになった【日本能率協会&会社や社会に対する意識調査】。しかし、同調査からは、育成側はむしろ行動力とリーダーシップを求めており、頻繁な相談に閉口している上司も多いという。このように、新入社員と上司のニーズのギャップがデータから示されている。
狛プーの前出「自己相対視訓練」では、「会社の上司にはいい人がいないか」という問いに、職業人全員が「いる」と答えたあと、一人から「いなけりゃ、やめる」という回答があり、居合わせたメンバー全員が「そりゃそうでしょ」と同意してしまい、相対視にならなかったことがあった。
個人完結型志向であれば、このように仕事内容よりも人間関係を重視して仕事をするということは必然的な帰結なのかもしれない。確かに、立派な経営者のなかにも、「人間関係が一番大切」という者も多い。しかし、そこには「生産的な人間関係」という縛りがある【ドラッカー&人間関係】。親密圏を超えて、組織の目的的な人間関係をつくるためには何が必要なのか。筆者は、それは、孤独に耐える力ではないかと考える。それが組織のなかで、個を守り、個を発揮することを可能にするのではないか。
前衛芸術家の篠田桃紅は、美術家団体にも属さず、「一人で自由に生きる」という指針のもとに活躍している。それは、いわゆる「無所属」の若者と通じるところがあるのだが、どこが違うのかというと、「自由と個性を尊重するから孤独かつコミュニケーションが大切」、「孤立ではなく、人と交わらないのでもなく、混じらない、よりかからない」という考え方が傑出している【一〇三歳になってわかったこと】。個人化社会で個を守って生きるためには、このような生き方が必要なのだ。
筆者は、学生に対して、「友だちに誘われてもノーという訓練」などのロールプレイを行ってきている。だが、彼らからの抵抗は非常に大きい。青少年健全育成中央フォーラムでは、10代の薬物乱用の防止に向けて、「害知識は薬物使用経験者の方がある。誘われた時にノーと言えるようにする指導こそが重要である。そのためには、薬物乱用・依存者に肌で接している人たちの話や、生徒にとっては心理的に仲間に近い元乱用者のノンフィクションの話が有効である」とかなり以前から指摘されている【青少年問題文献検索システム】。自分が疲弊してでも親密圏を守ろうとする現在の若者にとっては、このような「ナナメの関係」が効果がある。
8. 「存在確認」としてのアイデンティティの獲得
教育は若者の「自分探しの旅」を支援し、彼らのアイデンティティ(自己同一性)の確立をめざすものといわれる【1996年中教審答申】。しかし、浅野智彦は、前出青少年研究会の調査データ等に基づき、状況に応じて変化する「多元的自己」の拡大の事実を示す。その上で、これを従来の知見のように問題視するのではなく、多元的自己であっても、より生きやすい生き方や社会のために生かすことこそ重要という【若者とは誰か−アイデンティティの30年】。
松谷創一郎は、1980年代前半から2012年までの30年間の女子のコミュニケーションを、「ギャル対不思議ちゃん」の鮮明な対立構造として描き出す。しかし、「主流派に対する差異化として、つまり不思議ちゃんとして機能」しているきゃりーぱみゅぱみゅの登場と普遍化に至って、「多元的な自己を操って生きる若者たち」にとっては、多数派の渋谷系と少数派の原宿系ファッションを、その日につきあう相手に合わせてどちらも選択できるようになったという【ギャルと不思議ちゃん論−女の子たちの三十年戦争】。
だが、筆者は、現代青年のこのような「多元的自己」について、「存在確認」には至らない(親密圏での)「存在戦略」にすぎないと考える。アイデンティティ獲得を不変のテーマとする教育学的観点からは、そこにこだわらざるをえない。「多元的自己」の分析の元となったわれわれ青少年研究会の前掲調査の設問の一つ、「どんな場面でも自分らしさを貫くことが必要だ」については、肯定と否定がほぼ半分ずつに分かれた。ここで「多元的自己」と呼ばれている否定派は、20年前(2012年調査時点から、以下同じ)から10年前に13.6ポイントと大きく増加したが、10年前から2012年では3.9ポイントの増加で48.3%になったのである。これに対して、「友人と意見が合わなかったときには、納得がいくまで話し合いをする」の否定派は、10年前から13.9ポイント増加して、63.7%にまで達している 。後者の増加の大きさは、「多元的自己」の生きやすさというよりは、親密圏における他者志向の交流が、対立を回避するためのストレスフルな活動になっていることの裏返しの証左というべきなのではないか。
筆者は、これまで述べた趣旨と実際の変化量を考慮した結果、「多元的自己」という解釈を避け、それぞれの設問に対する肯定派、否定派を、自分志向−他者志向、合意形成型−対立回避型の2軸による4タイプで考え直すことが妥当と考えた。
ここで他者志向の人に「もっと自分らしさを貫け」、対立回避型の人に「もっと自分や相手を信頼してぶつかっていけ」と言うのはたやすい。
しかし、狛プーの前出K君は、「他者志向−対立回避型」であっても、一般青年から「神」と呼ばれた。大事なことは、一人一人の個人化・社会化過程のなかにある。彼は前出「自己相対視訓練」において、「仕事はどうだったら楽しいのか」という問いに「失敗をしても、メンタルを含むフォローさえあれば楽しい」と答えていた。しかし、半年後の「自己客観視訓練」では、そのことについて次のように言っている。「(当時は)失敗によって、仕事をポジティブにとらえられなくなっていた。基本は楽しいということに気づけることが大切。それは探さなくてもあるもの。自分はどっちに目を向けるかということ」。
K君は、「失敗によって、仕事をポジティブにとらえられなくなっていたため、メンタルを含むフォローを求める」という社会化の時期を経て、「基本は楽しいということに気づけることが大切。(自分が) どっちに目を向けるかということ」という個人化の時期を迎えたのだといえよう。個人化も社会化も、その両者の発展は、ともに、他者の異質性をクローズアップして突き合わせるという課題を提供した青年教育からの指導行為の効果に負うところが大きいといえる。これが、K君の言う「グループホームとは異なる青年教育による精神的自立の効果」なのである。
このように、個人化、社会化を繰り返して、若者は、社会のなかでの自己の存在確認をし、アイデンティティを獲得していく。
ここで前出「ヤンキー」の一般青年については、どうなのかを考えておきたい。彼らは(親密圏の)家族や友人を大切にして、それに合わせて生き(他者志向)、論理的な議論などをせずに(対立回避型)、愛と絆と気合で生きていこうとする。社会生活のうえでは、「とても幸せだ」と言う女子中高生(前出NHK調査)と同じく、彼らは、K君のように人間関係に生真面目に悩むこともないため、問題がないようにも見える。周りに合わせての話術も達者で、そのように合わせて楽しく生きている自分を自分らしいと思っていることだろう。だが、先に述べたように斎藤は、彼らを更生させる必要はないとしつつ、公共概念とセットで「個人主義」を再インストールする必要を指摘しているのだ。
このことについて、筆者は次のように考える。ヤンキーにも、群れから離れて社会に一匹で飛び出すという場面が訪れよう。そのとき、個人化社会では、個人がどう自己を守りつつ、社会のなかでの自己をどう位置決めするかということが問われる。そこでは、愛と絆ではなく、愛と絆と「現世利益」とが勘案すべきファクターとなるのである。職業でいえば、組織への利潤への貢献と、その対価を得ることである。そのため、彼らは親密圏を超えたこのような「経済社会」においても、自己の存在確認をし、社会におけるアイデンティティを確立する必要に迫られる。
このことについて、「中間的就労支援で経済的自立を身につけた」というK君の言葉に戻って考えてみたい。青年教育では、このような現世利益にアプローチできるのか。もちろん、職業訓練も、企業内教育も、社会で行われる教育的諸機能の一環である。だが、狭義の青年教育においても、このような支援に関心を持っておく必要があると考える。なぜならば、参加者である若者にとっては、精神面と経済面の両面でトータルに自立を獲得し、そのことによってアイデンティティを獲得するという課題があるからである。
その場合、青年教育側から見てやっかいなのは、若者一人一人の仕事内容、職場環境等に規定される「職業人像」によって、必要能力がまったく異なるということである。必要能力は、いわば「特殊解」なのである。だが、この特殊解以外の「一般解」を述べたところで、遠いことがらにすぎない。「オン・ザ・ジョブ」こそが、彼らが学習したいことがらなのである。
「職業人像」が規定される場合は、ラダーごとの必要能力の構造化、メンバーの技能評価、職業能力開発内容と方法の設定、さらにはベテランの暗黙知を含む技能分析などが可能になる【技術・技能教育研究所】。それは、残念ながら、「特殊解」に過ぎないが。
青年教育においては、関連機関とのコラボのほかにも、他者の特殊解からの学び、自己の職場の特殊解解明のための方法論の習得などの支援を考える必要があるのではないか。さらに、職業人、社会人として必要な意識も、必要能力の計画的習得の確かな基盤に基づいてこそ、形成されるものと考える。意識ばかり押しつけられることに、多くの若者はうんざりしている。彼らは、そこでは、現世利益追求型なのである。さらには、資質についてまで、若者に変えるように迫る場面も見受けることがある。意識や能力は変容・成長させることができるが、資質は変わらない。変わらないものを変えようとはしないほうがよい。個人は、その個人別の不変の資質をもとにして、成長し、自立し、アイデンティティを獲得するのである。
他方で、「ナンバーワンよりオンリーワン」、「自分らしく生きる」、「セルフエスティーム(自己肯定感)」などの言葉が、ときに無責任に流布されている。そんな言葉の表面だけを信じ込んだ若者が、群れから離れて現実社会に一匹で飛び出したとき、さんざんな目に合うのではないかと危惧される。
獲得した能力とその有用性を確かめさせ、その上で自己意識、社会意識を言語化させて、その結果を異質な他者と交流させる。それは、当事者だけに通用する「特殊解」であってもよい。そのことによって、彼らの自己肯定感に対して、社会に通用する根拠を持たせることができる。
9. 個人化を育む社会化支援教育
宮本みち子は、親も子も「やりたいこと」の呪縛にとらわれ、結果として現実逃避が続いているとし、(個人化社会における)「自己選択・自己責任」について、「何がやりたいことなのかを自問自答するなかからは、やりたいものをみつけることはむずかしい」として、「ライフコースの個人化と問題解決の私化」という傾向を批判している【若者が社会的弱者に転落する】。これは、最初に述べたように、社会学的客観視の視点からは当然の帰結といえよう。だが、本稿では、社会化の不全状況と同時に、個人化の不全状況をも見てきた。たとえば、すでに述べたように、多くの若者が、仕事内容よりも、職場の人間関係を優先しているのである。
社会も人々の意識も「個人化」するのが時代の必然だとすれば、能動的な教育学的視点からいえば、次のことこそ、今日の青年教育に求められる社会化支援の役割なのだと考えたい。それは、今の社会が個人に求める「自己選択・自己責任」に応えることのできるような「個人の自立」、彼らが求める「個人化したライフコース」を、現実社会のなかで充実して生きていくために必要な「意識と能力」を育てるということである。これは、個人化も社会化も、その不全状況を改善して、望ましい進展を遂げることができるよう支援するということにほかならない。青年教育においては、職業選択に関しても、個人のやりたいことを大切にしたいし、応援したい。
このような個人化支援の観点で、筆者が構想する若者の現状に対する支援の方向を示しておきたい(図2)。本図では、とくに、これまで見てきたように個人化が不全では、社会の望ましい形成者になりえないということに注目したい。
なお、タイプUについては、前出篠田の生き方が想起される。彼女のような「やりたいことをやる」という生き方をしようとする芸術家肌の若者がいても、正当に評価されるような社会でありたい。そして、個人化不全の若者、とくになおかつ社会化不全の若者への支援の可能性はあるのか。このことについて論じたい。
支援方法について、筆者の青年教育実践をもとに、ここまでいくつか述べてきたが、とりわけ個人化不全の若者については、段階的な支援ができるよう留意する必要がある。
その第一に癒しを挙げておきたい。それは、人間らしい喜怒哀楽の感情や自然への情緒などを取り戻して原点リセットすることである。近代個人主義の社会が前提としていた「自立した個人の自由」を、なぜ若者は現実化できないのか。それは、格差や偽装の蔓延、不透明化、流動化のなかで、自由を希求するおおもとのところにある人間らしい感情を保持できなくなっているからだと考える。
成長の節目ごとに原点回帰が求められ、それが次の個人化または社会化の段階への踏み出しにつながる。
第二は個人化である。自分を観察して、何が欠けると何が起こるのか、自分のストレスは何からくるのか、感動する自分はどこからくるか、怒る自分はどこから来るか、自分が見えることや制御できる存在は何かなどを見つけ出すことによって、個が深まる。
第三は社会化である。他者と共同作業をする、わかったこと、わからないことをグループで話し合うなどして、自分が他者との関係で生きていること、生きていくには思慮し、判断し、結論を得ることが大事だと気づくことによって、親密圏の協調・同一化とは異なる種類の社会性を獲得できる。
以前筆者が作成した図によって、その発展段階を示しておきたい(図3)。
たしかに、自己は多元的な側面を持っている。しかし、流動的かつ不透明な個人化社会において、深い意味をもつ人生を送るためには、個人化、社会化、そして癒しによる原点リセットの循環を経て、個人としての自己と、社会の中での自己を、個人内で統合するという課題を達成することが迫られる。とくに若者においては、個人化と社会化の振幅が大きいだけに、その支援は難しく、意義があり、そして面白い。
本稿で述べたことは、教育の基本であり、自明なことに過ぎないかもしれない。しかし、社会貢献のきれいごとや、社会参画の威勢のよい呼びかけを続けるのでは、若者たちの心には空しく響くだけで終始するものと思われる。今までは、このような若者への政策的な期待に影響されて、ややもすると教育的本質が忘れられがちであった。ここで一度、教育の基本に戻ってやり直すことが、個人化社会における若者の自立と青年教育の再興を促すものになると考える。
別添顔写真ファイルあり
西村美東士(にしむら みとし)
聖徳大学文学科キャリアコミュニケーションコース及び生涯教育文化学科教授。1992年から狛江市青年教室講師。ほかに、柏市生涯学習推進協議会会長、佐野市生涯学習推進アドバイザー、日本子育て学会研究交流委員長。専門は、青年教育、キャリア教育、ICT教育、生涯教育。現在は、参画型教育による個人化と社会化の一体的促進、原点回帰としての「癒し効果」、個人完結型から社会開放型への子育て観の転換について研究を進めている。著書は『癒しの生涯学習』(学文社)など。
1 西村美東士「社会教育施設に『関係』のあふれた情報提供機能を」、全日本社会教育連合会『社会教育』39巻10号、pp.73-77、1984年10月、http://mito3.jp/seika/0210.pdf
2 科研費報告書「現代青少年に関わる諸問題とその支援理念の変遷−社会化をめぐる青少年問題文献分析」(研究代表者:西村美東士)、2007年3月、http://mito3.jp/houkokusyo.pdf
3 『私立大学学術研究高度化推進事業社会連携研究推進事業平成17〜21年度研究集録』、聖徳大学、2009年12月、http://mito3.jp/seika/2820.pdf
4 西村美東士「この20年に若者の意識、生活、考え方はどう変化したか−個人化に対応する青年団体育成の方法を考える」、日本青年館『社会教育』、pp.26-33、2014年2月。
5 「青年教育」については、本稿では、社会教育の一環としてとらえる。ただし、その社会教育は、学校の教育課程以外の施設、職場(人材育成)、家庭(子育て)、地域(地域活動)等で行われる社会の教育的諸機能を幅広く範疇に置くものである【社会教育法・教育基本法】。また、青年教育を含めたすべての「教育」は、「既存の社会的価値の伝承」と「新しい社会的価値の創造」の二つの機能を有しているものであり、「能力獲得と意識変容に関する目標設定と達成のための方法の確立、評価尺度の設定を前提とする」ととらえている。なお、資質については、変容しないため、目標とはしない。
6西村美東士「ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高める授業方法」、『大学教育学会誌』22巻2号、pp.194-202、2000年11月。ワークショップ型授業によって、即自から対自へ、対自から対他者へと学生の気づきが促され、対他者から再び対自や即自のより深い気づきへと循環する過程が明らかになった。http://mito3.jp/seika/2000.pdf
若者文化研究所は若者の文化・キャリア・支援を専門とする研究所です。