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出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法CONCEPT

狛プー:出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法
 若者文化研究所 西村美東士


1997年4月西村美東士『癒しの生涯学習』学文社より抜粋

 狛プーのもっとも大きな特徴はネットワーク型運営である。しかも、その癒しのサンマは、公民館の青年教育事業として、公的なかたちで運営されている。そこでの癒しのサンマづくりの実践的な各論を探りたい。また、人びとの自己決定の癒しのサンマを公(おおやけ)が支援する根拠は何なのか。

◆ ヒエラルキーを蹴飛ばすプータローの「自由な遊び心」
 今日までの学歴社会では、多様な人間存在を、偏差値や学校歴などの画一化した物差しで上下に並べて比べる。それは、個性による逸脱を外からも内からも抑制する同質化の圧力として作用する。そして、この上下同質競争の価値観を前提とする社会システムと、その価値観を蹴飛ばせずに内面化してしまった私たちとが、社会全体としてのヒエラルキー存続に貢献してきた。そこでは、上下関係による支配と服従、多様な異質の価値の排除などがますます強化される。しかも、それは、たとえば企業活動においても大企業病等の停滞を及ぼすなど、政治、経済、社会、文化のすべてにわたってネックになりつつある。
 これから期待される生涯学習社会においては、一人ひとりの異なる個性が認められ歓迎されるはずだ。人間関係においても、ヒエラルキーの上下関係のなかでの地位・肩書きや制度上の権威などよりも、水平関係のなかでの異なる個性(個の深み)との出会いが求められる。しかし、そういう生涯学習社会を気持ちよく生きるためには、私たち自身に、内なるヒエラルキーと闘い、自由な遊び心をみずから取り戻すことによって、無知で非力な自己を受容し、自己とは異なる他者と共生しようとする精神あるいは主体性(認知、行為、評価)が求められる。狛プーがめざすプータロー精神とは、そういうことである。
 初年度の狛プーのチラシの呼びかけ文はつぎのとおりである。

 プータローとは、フーテンの寅さんのような人のことをいいます。寅さんは、自然を愛し、あたたかい隣人に恵まれ、本当の友だちをたくさんもっていて、心豊かに生きていると思います。私たちは、そんな寅さんにあこがれます。
 私たちが社会に生きていくためには、今の仕事や学業をやめてしまうわけにはいきません。でも、自由な遊び心は失いたくないのです。
 狛プーでは、プータロー精神にのっとり、豊かな時間と空間を創り出そうと話し合っています。かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために、あなたも狛プーの一員になりませんか。

 この呼びかけ文の第2段落は、ぼくとしては、ヒエラルキーの人間疎外について批判的に書いたつもりである。しかし、意外にも、このぼくの思いは、メンバーから共感できないといわれることが多い。メンバーのなかには、仕事や学業だってそれなりに個性を発揮しながら楽しんでいきたいと考えている人が多いし、実際に、ヒエラルキーのなかでの「ゲーム」を自由な遊び心でそれなりにこなしてしまう人も多いのだ。あるいは、仕事や学業については、「自分の人生」そのものとは切り離して考えている人もいるかもしれない。その場合は、本人が自覚しているかどうかはともかく、自分の人生のうちで精神的に大切な部分は「ヒエラルキー以外のところで」と考えているのだろう。後者だとしたら、社会と自己の関係のさらなる客観視という課題が、狛プーの今後のテーマとしてあげられる。
 狛プーの番外編で、自発的で自然発生的な勉強会が運営されていたことがある。通常の狛プーのプログラムとは別に、メンバー同士でじっくりおしゃべりしてみたいというのである。これなどは、現実社会における仕事や学業に対する他者の姿勢や意見に、自然なかたちでふれる機会として期待してよいだろう。
 そこで重要なことは、公民館の職員や講師が直接発問したり、教えたりすることではなく、それぞれの自己と現実社会との関係が受容的・共感的雰囲気のなかで語り合われるということである。勉強会は、公民館の担当専門職員が夜間勤務のときの夜に不定期に行われた。そこでの職員の役割は、非指示的であり、不定形である。これは、学級・講座での司会業や講師代行業などと悪口をいわれるような、現代化しすぎて型にはまってしまった社会教育的支援を、もう一度、本来のなまの人間的な営みに戻すという意味ももっている。
◆ 自分の人生をていねいに大切に生きたいという「ミーイズム」の肯定
 自己の「仕事や学業」についての狛プーの認識の現段階は以上のとおりだが、それよりもメンバーから今日まで強烈な支持を集め続けているのは、「かけがえのない自分の人生をていねいに大切に生きるために」というフレーズである。この言葉は、コマーシャルなどのふつうの世の中の感覚では当たり前すぎると感じられるかもしれないが、青年活動や青少年教育・青少年行政の世界ではけっこう目新しいことだったようだ。今でも、狛プーの限界としてミーイズム(自己中心主義−利己主義とは異なる)を指摘する青年教育関係者がいる。社会変革の主体形成のための自己教育・相互教育にならないというのだ。
 しかし、ぼくはつぎのようにいいたい。「自分の人生をていねいに大切に生きたい」と思うことがミーイズムだとしたら、ミーイズムのどこが悪いのか。狛プー=ミーイズムでけっこうである。自分の人生を大切にていねいに生きたいからこそ、学習する、仲間を見つける、社会参加する、社会変革をめざすなどに、多様かつ自発的に発展するのであって、参加した一人ひとりが、そのどこに向かって発展しようとかまわないではないか。リーダーやボランティアでさえ、「自分のためにやっている」といえることがさわやかさの条件なのである。
 あるいは、つぎのように心配する関係者もいるかもしれない。「ミーイズムが昂じて占星術や新・新宗教、偏狭な自己啓発セミナーなどにはまってしまう場合もあるのでは……」。それだって、もし本人の主体的な自己決定の一環として行われるのであれば、援助者側がその結果にまで責任を負おうとするのは、むしろ傲慢である。あとで「自分の人生をていねいに大切に生きる」につながらないと本人が考えるようになったら、そのとき本人が軌道修正を自己決定すればよい。
 何がよくて、何が悪いのかなど、具体的に教えられるものではない。私たちができることは、本人みずからの気づきのチャンスをなるべくふんだんに提供することだけなのだ。これに比べて、従来の多くの青年活動や青少年教育・青少年行政においては、援助者としての潔い諦観(「非力の自覚」または禁欲)が欠けていたのではないか。
◆ アイデアはバラバラだけれど、そのひとつひとつが宝物
 なんといっても、狛プーのチラシの一番の魅力は、メンバーたちが作る訳のわからないプログラムだ。毎月、いろんなことを、スキゾ的(分裂的)にやってしまう。過去に各地で行われていた青年学級も、今日の一般的な青年教室のようにテーマを絞って目的的に追求するなどということをしないで、高校に行かない青年たちのための総合的な学習カリキュラムを提供していた。狛プーのプログラムは、それに似てはいる。ただし、狛プーでは、メンバー個人個人が、あくまでも自分の関心・興味からバラバラなアイデアを出すのである。
 でも、それはバラバラながらも、ちゃんとほかの青年たちに通用するものである。通用しそうもないものも出るには出るが、担当職員やぼくが「えっ、それはどうかな」と言うまでもなく、発案者自身が「あっ、これはだめだな」と言って引っ込めたり、ほかの青年から「〜だから、うまくいかないんじゃない?」と言われて、発案者も「やっぱり、そう? 私もそういうふうにも思ったのよね」とか言って引っ込めてしまうことが多いのである。
 むしろ、つね日頃は自らの常識的な枠組を打ち破りたいと思っているのになかなか打ち破れないぼくなどにとっては、「なに、それ?」と思われるようなものの中に、話をよく聞いてみると、「いやあ、やっぱり面白そうだな」と心変わりしてしまうものが多かった。そういうアイデアは、とくに光っていた。「紙芝居」のアイデアが出たときは、ぼくは最初は、「そんなもの、今の青年がやりたがるものか」と内心では思っていた。しかし、あっという間に、「自転車に『狛プー紙芝居軍団』というのぼりを立てて、市民祭で練り歩こう」という所まで話は発展していて、そのときにはぼくも、すでに積極的な支持派に回っていた(ぼく以外に紙芝居反対派はいなかった)。あとになって、この「紙芝居」は、青年たちにとっての、そしてぼくにとっての、素晴らしい自己変容のチャンスのひとつになったのである。
 そのことから、ぼくは、「グループによる発想法などが企業などで研究されているけれども、そんなテクニックなんかあまり使わなくても、一人ひとりの心が解放されていて、メンバー間に受容的な雰囲気さえあれば、若者たちはいくらでもアイデアを出せるものなのだ」と思うようになった。それぞれのアイデアは素晴らしい宝石である。しかも、そのひとつひとつが色も種類も異なる宝石だ。
◆ プータローの自由のつらさ
 話を戻そう。ぼくは、呼びかけ文を書いたとき、つぎのように考えていた。「現代青年がいまもっとも求めているものは、自分たち一人ひとりがそれぞれの個性と役割を発揮できる場と、そういう場を創り出すあたたかい仲間関係なのではないか。それは支持的風土の集団ということもできるし、サンマということもできる。狛プーでなぜネットワークをつくるかといえば、本当の理由はこれではないか」。
 だが、そういうネットワークの場は、本人にとって最初はかえってつらいものになるときがある。自分の責任でその自由を行使しなければいけないからである。今まで、保護されたり、管理されたりしたことはあっても、自由になったときの恐ろしさは味わったことがないのだ。自由のつらさはプータローの宿命である。だが、このようにして苦しみながらも自由を行使したことがないと、結局は、「保護が足りない」「管理が悪い」などと言って、いつまでも社会や他人のせいにして被害者を演じて生きていく人生の構えが身についてしまう。狛プーは、一人ひとりの個性をできるかぎり尊重することによって、青年が自由の楽しさとともにその怖さを体験し、自己の非主体的な思い込みから自らを解放できるようにするためのサンマなのである。
◆ 撤退自由のネットワークにおける「潔い撤退」
 「いったん集団に入って役割を果たすことになった以上、そこから抜けることは無責任である」、ぼくにはこういう言葉が「不幸の手紙」(同じ内容の手紙をつぎの人に回さないと不幸になるというもの、チェーンレター)のような不幸の分かち合いとして感じられる。他者に対して自分や自分の帰属する集団に同一化するように迫る、ピアコンセプト(p73)の逆機能(否定的側面)そのものではないか。
 狛プーは出入り自由のネットワークとして運営されている。だから、「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」と新規参入者(ニュー・カマー)を歓迎するだけでなく、来なくなってしまった人には、「元気? たまには顔を見せてよ」と呼びかけることはあっても、撤退したそのことについての責任を問うことはしない。つまり、反復参加者(リピーター)になることを強要はしないのである。
 突然の撤退によって抜けた穴でも、残った人で何とかなるものだ。担当職員は大変だろうけれども、それは学習者の自発性を重んじる社会教育の職員の根源的なつらさである。まあ、役割分担があるのに抜けたくなった場合は、連絡ぐらいすることはネットワークのエチケット(ネチケット<パソコン通信)と思う。このようにしてルールが学習できるのも自由なネットワークだからこそなのだ。
 このように、撤退の自由がなければ、本人がそこに参加しているのもお義理になり、自発性阻害の要因になるのだから、ネットワークには撤退の自由が不可欠であるといえる。しかし、ネットワークは、撤退者にもネチケット以上のネットワーク的資質を要請する。撤退したはずの人がその後の運営に介入したり(OBによる現役支配)、現役への個人攻撃をしたりするなどの「立つ鳥跡を濁す」未練がましい行為をよく見かけるが、ぼくは本当に嫌だなあと思う。自分の未練を他人に押しつけるのは、プータローの自由な精神に反する「悪いわがまま」だ(p29)。ネットワークに撤退の自由の許容を求めるとともに、撤退する個人には潔い「良いわがまま」を求めたい。
 ちなみに、ある市の男子成人のグループF会(仮名)の「守っていること」を紹介しておきたい。@政治・宗教を持ち込まない(議員メンバーは複数いる)、A会長をおかない(対外的にはおくときもある)、B会費をとらない、C職場の肩書、社会的地位、過去の経緯を持ち込まない、D来るのも去るのも拒まない、Eさん付けで呼びあう、F多様性を尊ぶ(排他的にならず、少数意見を尊重する)、G集まるときは、自分で作ったツマミと自分の飲み物を持参する。
 このようないわゆる「親父の会」が現在、増えつつある。職場での自分だけではあき足らず、地域で他の親父たちとのまさに水平異質交流と友達づきあいを求め、そこで自分らしさの発見や町づくりなどの社会貢献の楽しみを味わうのだ。F会の「守っていること」には、メンバーの親父たちの潔さと、それゆえの楽しさがにじみ出ている。
◆ 出入り自由の淋しさを受容する
 話を戻して、狛プーのメンバーたちも、その辺のところは大丈夫のようだ。撤退するときは、内心は淋しいのかもしれないが、ニコニコして去っていく。適度のおとな心を持ち合わせているからだろう。キャンプだけ参加してあとはまったく出てこない人もいるが、その人などは最初から「みんなでキャンプに行くのが好きだから、それだけ参加します」と言って、キャンプ場では常連のように振舞っていた。
 問題は、残された仲間たちの淋しさである。これをぼくは「出入り自由の淋しさ」と呼ぶ。一人ひとりがこの淋しさとうまくつき合えないと、いつまでたってもピアコンセプトの逆機能は乗り越えられないし、ネットワーク型のコミュニケーションを創り出す主体性を身につけることができない。ところが現代青年は、へたに交流することによって相手を傷つけたり自分が傷ついたりすることを極端に恐れている。これは良い意味での自他への優しさでもあるが、その優しさは、「だからコミュニケーションしない」という敗北主義の象徴のような「山アラシジレンマ」(接近したいが、かといって、お互いの針で傷つけ合いたくはないというジレンマ)にも彼らを陥らせるのだ。
 狛プーで「出入り自由の淋しさ」を感じながらもその淋しさを受容することは、「結果を恐れるがあまり、したい交流もしない」から、「したい交流はするが、自分の期待どおりに交流してくれない他者の存在も受け入れる」人間に自己変容することにつながっていく。これがネットワーカーとしての資質である。そして、これこそが「山アラシジレンマ」を突破するための唯一の方法なのだと思う。
◆ よその地域の青年たちの意味
 狛プーの「いつでも、だれでも、よかったらおいでよ」の精神(ネットワークマインド)は、当然、狛江市外から、なかには一時間以上もかけて通ってくる青年たちの参加を増やす結果につながっている。これは「地域に根ざす社会教育であれ」というスローガンを平面的にしかとらえようとしない関係者には、好ましくない現象として映るかもしれない。「自分の地域でやればいいだろう」というわけだ。
 しかし、ちょっと待ってほしい。狛プーは、今や、現代都市青年にとって、アジールのひとつとしての役割を果たしている。アジールとはもともとは「(自治的な都市などの)不可侵の領域」という意味だが、いわば駆け込み寺であるとして理解しておけばよいと思う。職場や地域の上下同質競争の「正統派」からはじきとばされた人たち(プータロー)は、そんな自分が受容されるサンマを感覚的にかぎつけてアジールに集まってくる。そこでは、活動に加わらずにぼうっと眺めていることだって許されるが、そういう所からこそユース・カルチャー(若者文化)が生まれ、カウンター・カルチャー(対抗文化)として社会の「正統派」の文化に影響を与えて時代を進展させるのだ。だから、狛プーがアジールであるとすれば、それを擁する狛江はユース・カルチャーの発信基地のひとつと呼べるようになるわけである。これは、市全体の風土に若々しい息吹を吹き込んでくれるだろう。
 たとえば、狛プーの紙芝居は、市民祭で市内の多くの子どもたちに、そして、その親たちに歓迎された。しかし、ほんとうは、たった一カ月の練習でプロ並みの腕ができあがるわけがない。紙芝居の面白さにはまってしまった気持ちが、狛江市民の気持ちと触れ合って、市民祭の場で共感的な世界を創り上げたのである。
◆ キャンプは夜だ
 過去の青年教育においては、サークル等の目的集団に対する青年団等の生活集団の意義が叫ばれたことがある。そこでは、生活に根ざした総合的な人間交流の意義があらためて評価されていた。もし、そういう人間交流が可能になるならば、それは上下競争社会の一端に風穴を開け、人間解放のユートピアを実現することに近い。しかし、これといった具体的な到達目標を持たずに、生活のなかでの人間交流そのものを目的とする試みなどに現代青年が関心を持つだろうか。私たちのそういうためらいに答えを出してくれるのが、キャンプであり、キャンプの夜であり、キャンプの夜の「空白のプログラム」なのである。
 そこでは、気楽なおしゃべりや打ち明け話のなかに、一人ひとりの生活文化が自然にしみだしてくる。共通の文化の確認も楽しいが、異なる文化との出会いは「えっ、君っておもしろいねえ」という感じで、よりいっそう刺激的である。仲間とのつきあいの楽しさとは本当はこういうものである。キャンプは、過去の青年団活動に匹敵する新しい生活集団としての新しい教育効果を発揮してくれるのである。
 過去の青年教育にも、日中の正式のプログラムが終わって、夜、寝床で昼の議論の延長戦を行うことを寝床分科会と呼んで、その意義が注目されていたことがある。本音の交流ができるからである。この寝床分科会の意義も軽視できないとは思うが、狛プーのキャンプは分科会の延長でさえもありえない。「寝床分科会だね」なんて言われても、狛プーのメンバーはきょとんとしてしまうだろう。キャンプにつき物のカレーライスではなく、汚いロッジの中だが、ちょっとおしゃれなフランス料理やスープをつくり、ワインなどで盛り上がる一方、個人がそれまで持ってきた「文化」や「生活」そのものがポツリポツリと出される。思いもしなかった他者の枠組に出会って、自分の枠組との違いに驚き、「おもしろい奴だなあ」と感じ、しかも、「そうか。わかる、わかる」と、それなりに共感してしまうのである。
 人間は仕事や学業に追われる昼間より、夜のほうが自然体になりやすい。だからこそ、夜になると悪いこともしてしまうのだろうが、それはある意味では人間らしさの表れでもある。「人間らしさ」とは善と悪の混合体である。夜はそういう魔力があるから魅力的なのだ。
◆ 若者が自分のお金を払う時
 大学生でさえ、教科書をなかなか買ってくれない。貧乏なのかなと思うと、彼らどうしの飲み会では割り勘で気前よく払っている。正直言ってコノヤローという気もするが、巷にあふれる若者たちの飲み会は、天から降りてきたクモの糸のようなものなのだろう。ただし、そのわりには、一気飲みや瞬間芸など、それぞれの本心は大切に隠しているような、背中を向け合った淋しい飲み会のほうが主流のようだ。
 しかし、狛プーの飲み会は、それとは違っている。狛プーの終了後は、ほとんど毎回、ある飲み屋に流れていく。用事のある人や飲みたくない人は「バイバイ」と帰っていくが、酒を飲めない人でもこれを楽しみにしてジュースで参加する人もいるし、すごいのは、狛プーの終了時刻にぎりぎりにしか間に合わないので、公民館ではなく、その飲み屋に直行して待っているという人がけっこういるということだ。
 狛プーの飲み会だってお金はかかるが、それ以上の魅力があるのだろう。ぼくは、これを、飲み屋での自己解放と相互解放ととらえている。ぼく自身も、その飲み屋で、「ここにいるときが一番mitoさんらしい」とメンバーによく言われる。解放されているのだ。依存しているのかもしれない。まあ、たがいに、公的社会教育の参加者や援助者という社会的位置づけから解放されているからであろうが、もうひとつは、おたがいに自前の金を払っているからではないかと思う。
◆ 空白のプログラム
 狛プーのキャンプの魅力が空白のプログラムにあることは先に述べたが、通常のプログラムにもそのような仕掛けが配置されている。というと聞こえはよいが、ようは計画がいい加減ということなのである。しかし、いい加減はよい加減でもある。何をやるかきっちりと決まっているからこそ参加してみようかという気になる、という人たちは多いが、それでは実際には参加者は「やらされている感じ」になってしまう。過剰適応の若者などは、そういう集まりにまでうまく自分を合わせようとしてしまうので、見ていて痛々しいぐらいだ。
 これに対して、たとえば、狛プーのプログラムの中の「温泉に行こう」だの「連続お別れパーティー」だのという月は、じつは何も決まっていないに等しい。そのほか、月の切れ目、切れ目も「よい加減」に運営している。たとえば、メンバーの一人が玉乗りのプロであると知ると、さっそく翌週のプログラムは玉乗りの練習にしてしまったり、「正月だからカルタとりをやろう」と一人が言い出すと、「やろう、やろう」ということになって、言い出しっぺが百人一首を持ってくる。そのいい加減さが、参加者をその気にさせるのである。
 「せっかく来たのに、予定と違うなんて、どうなっているんだ」と目くじらを立てる人はまずいない。今の若者とはそんなものだ。狛プーのような自由な場では、現代青年でも自由を使いこなせるのである。ぼくはこれをフリースペースの治癒力・教育力だと考えている。
 ぼくは、狛プーの通年講師として、ある反省をしたことがある(講師をやっていると反省することはけっこう多い)。記録集のまとめの部分を作っていたとき、ぼくは早く完成させようとやっきになっていた。担当職員がいつものように無駄話的な茶々をしばしば入れていた。ぼくは、「おいおい、早く片づけちゃおうよ」と言った。そうしたら、その夜の飲み会で、ある女性メンバーに、「mitoさん、焦ってるんじゃない? ○○さん(担当職員)のペースのほうが私はいいわ」と言われてしまったのだ。彼女にその理由を聞いたところ、「今日は、プログラムが何も決まっていなかったから、久しぶりに飲み屋さん以外でも、おしゃべりのためのおしゃべりができると思って楽しみに来たのよ」と言う。それで、ぼくは反省したのだ。
 たしかに、効率的にまとめができあがったからといって、それが何になるのだろう。プログラムを自分で設定して、その設定に沿って参加者を楽しませる、そんな過去の社会教育の枠組に、ぼくのほうこそ縛られていたのだ。逆に、担当職員の「職員らしからぬ言動」は、彼の本領発揮、面目躍如の行為であり、さらにはユースワーカーとしての社会教育主事の存在意義そのものであったのだ。もちろん、彼は一方で、市内のすべての独身寮を調べ上げて、自転車でチラシを下足入れにまきにまわるなど、広報等のための最大限の努力はしている。
 フリースペースの創造のための職員や講師の働きかけのあり方は、簡単そうで難しいし、難しそうで簡単だ。ぼくは、狛プーで、そういう意味でもおもしろい体験をさせてもらっている。
◆ 善と悪、薬と毒の混在するアンビバレンツな人間存在への関心
 狛プーにはこれといったスローガンがない。あるとき、狛プーでキャンプに行くとき、担当者が子どもの野外活動向けの事業の文書を使ってしおりを作ってくれた。そこには「来たときよりも美しく」というキャンプ生活のうえでのスローガンが書かれていて、それを読んだぼくらはいっせいに吹き出してしまったのだ。いつもの狛プーの風土からは、そういうスローガンはかなりのミスマッチだ。
 狛プーのいつものペースだとつぎのようになる。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。ぼくなどの気の利かない幾人かの者は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べてふとん干しをしている者までいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかでは感動する。もちろん、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。
 つまり、狛プーというところは、善導とかスローガンとかの言葉とは無縁の時空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーが大切にする言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そういうなまの言葉は、受け取る相手によって、薬にもなり、毒にもなる。どちらにするかは、聞く側の自由であり、自己決定に任される。
 では、なぜ、狛プーのメンバーはそういう真実の人間存在との出会いを共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(ミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自己を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が自分を写し出す鏡になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることが魅力的なのだ。
 2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組が、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これは、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間存在が発する根源的な欲求であるといえよう。
 3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さが、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかで「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると評価することができるのである。
◆ 狛プーはスムーズな自己開示のネットワークである
 ぼくが大学のある授業で、人間の偶像崇拝的なある行為について依存の表れであると批判したところ、ある学生に「先生は傷ついたことがないんですか」と書かれてしまった。「それを信じてその人が幸せになれるのならいいではないか。だから、批判すべきではない」というのである。批判しないで、つまり批判事項だけ除いて交流するコミュニケーションの何と空疎なことよ。あるいはまた、あるボスを偶像崇拝するファシズムが表れても、ぼくたちは「その人たちが幸せになれるのなら」と言って批判を避けなければならないのか。社会とはそんなに個人がばらばらに生きていけるものではない。しかも、その優しさのわりには、自称「傷ついた人」は、ぼくが触れられたくない過去に傷ついたかどうかまで問うてくる身勝手さをも兼ね備えている。
 人間は、親に全面的に依存できる時期を過ぎて、現実原則を働かさなければいけない社会に出ていく。それを楽園追放という。そのときに、すでに、痛みは不可避的に生じるのである。痛みを経験していない人などはいない。気づかないようにしている人は、たくさんいるかもしれない。しかし、そういう痛みをつらくて乗り越えられないでいる人が、深みをもっていることを証明された人間のようにほかの人を見下し、責め、結局はなんだかかえって威張っているような今日の状況に、ぼくは異議を申し立てたい。「個の深み」とは、痛みの大きさによるのではなく、その人が自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているかによるのではないか。
 この事例にぼくは現代青年のもっている変な思考回路を感じる。快適なコミュニケーションのためには相手に心を開くこと(自己開示)が不可欠であるが、だからといって、開きたくない心まで無理に開くことはないし、また、逆に、「心を開かせることが必要だから」といって、相手の人格にまで立ち入って論じたり、過去を詮索したりすることなどは誰にもできないはずだ。その双方の暗黙の合意なしには、心を開くコミュニケーションなどできるわけがないし、山アラシジレンマに陥ってしまうことも目に見えている。若者たちの多くが、心を開きあうコミュニケーションや完全な相互理解を非主体的にでありながら、憧れすぎているために、その結果、実際には安心して自己開示できないという皮肉な結果に陥っているのではないか。
 傷ついた若者たちがもっている敗北主義は、現在、被害者を演じようとする思考回路にはまっていて、それがそれなりの自分勝手な安定感を生み出し(自動化、p52)、本当は癒されたいのに、このようにニッチもサッチもいかない状況になってしまっていると思われる。そういう現代社会において、狛プーの青年たちが培ってきたネットワークマインドの朗らかさと潔さは、とても重要な役割を果たすことができよう。ぼくは狛プーでの若者たちの自然なコミュニケーションを見ていて、つぎのように考えた。「開きたい心を開きたいときに安心して開くのが、自己開示のコツである」。狛プーの存在は、自他への信頼を失いつつある現代青年にとって、基本的信頼感を回復するための、スムーズなコミュニケーションのサンマとして機能している。
◆ 男と女の出会いのための公的サービス
 狛プーは狛江市中央公民館の青年教室事業として、つまり、公式の青年教育の一環として行われているものである。そういう場合、主催者側は、公金を支出したり専門職員等を配置したりしているのだから、その公的根拠をきちんと示せるようにしなければならない。社会教育活動自体の主人公は住民の側にあり、その自由は最大限に保障されるのだが、社会教育行政の側には、公金を支出してその事業を行うことがどんな公的意味をもつかを明らかにする義務がある。
 たとえば青年教育の場合、青年期特有の課題として、望ましい恋愛や結婚の相手を見つけるということが今まで重視されてきた。そのための援助サービスも、必ずしも一概に税金の無駄遣いと非難することはできない。それは青年期の不易の課題だし、これによって個人の幸福追求などに資することができるだろうからである。しかし、青年教育が結婚相談所やたんなるお見合いパーティーの場になってしまっていいのかという疑義は残る。個人レベルの問題解決にはとどまらず、社会創造の意義などにまで発展するからこそ、公的社会教育は他の民間サービスとは異なる独自の教育的役割を発揮できるのだから。
 狛プーの場合にも、メンバーのあいだに恋愛関係が生まれることがある。しかし、そのとたんに二人は狛プーの活動から遠ざかってしまうなどという、ほかでよく見られる「くだらないミーイズム」の現象はまったく起こらない。むしろ、その二人がますます「番外編」の仕掛け人として活発に活動したりしている。二人だけで過ごす時間も大切にするけれども、狛プーのなかで二人としての価値を発揮する時間も大切にする。みんなと過ごす時間も、二人にとってはそれはそれで充実していて楽しいからだ。これこそ「報われるミーイズム」の姿である。さらには狛プーには若い主婦だって参加している。「主婦業だけに埋没するのはいやだ。まだまだ青年として、たくさんのいい仲間たちと出会っていきたい」という彼女の参加動機は、きっとよりよい妻や、よりよい母としての自己成長という望ましい結果にもつながるだろう。それは、会社人間であった男たちの最近の変化としての家庭復帰や自分さがしと同様の意義をもっている。つまり、自分を○○さんの奥さんや○○ちゃんのお母さんと呼ばれるような固有名詞のないばらばらな存在としてではなく、ひとつの統合された自分自身(アイデンティティ)としてとらえたうえで、家庭・地域・職場でのそれぞれの自分の存在価値をバランスよく発揮しようとするのである。
 今日の社会においては、恋愛や結婚は、基本的には二人だけの幸せや不幸せの問題として自己完結しがちである。ところが、狛プーにおいては、男と女がいつのまにか一対一で出会っていると同時に、ネットワークのなかでの二人の役割発揮を味わう。反面、恋のさやあても起こりうるが、それは仕方ない。ここでいう仲間を社会に置き換えて考えてみれば、狛プーの場の提供という公的サービスが、ほかの行政分野では遂行困難な役割を実現していることが理解されよう。
 このように心地よい男女関係を実際にこの現代社会において創り出しているということは、上下競争一辺倒の学校歴偏重社会から、異なる他者をたがいに受容しあってともに生きようとする生涯学習社会に転換するという社会的課題を、ここでは男女の出会いの面から実質的に達成しつつあるということになる。それは、現状否定や告発だけに終始するような他者依存的な運動とは違って、提案型のネットワークであるといえる。ただし、もちろん、青年教室という公的社会教育に支援された突出的時空間において、という限定付きであるが……。
◆ いい男といい女さえ支援すればよい
 それにしても、恋愛問題をはじめとして、このように「いい男といい女」が期せずして狛プーに集まっているのはなぜだろうか。その積極的理由としては、狛プーが最初に述べたような「自分の人生をていねいに大切に生きたい」という彼らの心に呼びかけ続けていることと、彼らが「自由への恐怖」を突きつけられるなかで、みずからの内なる差別意識や被害者意識と闘い、たくましく自己成長し続けてきたことがあげられる。そして、本項ではつぎのことをいいたいのだが、逆に消極的理由としては、いい男やいい女ではない人、あるいはそうであろうとする気がまだわいていない人がいるとしたら、そういう人は狛プーから自然に「排除」されていくということなのである。
 たとえば、今の世の中の風潮では、「人を傷つけてもいいから、自分の傷を癒したい」という不幸な認識をもっている人たち(スパイ)は残念ながら多い。現実社会では、そういう人が幅をきかせたりしている。たとえば、相手の女性が傷ついてでも、自分のナンパが成功すればよいなどという男性は、たくさんいる。狛プーに来ている人たちは、そういう現代社会の人間関係がいやで狛プーに来ているのだから、上下同質競争社会からの「スパイ」が入ってきては困るのである。ところが狛プーでは出入り自由が原則だ。スパイの新規参入も自由なのである。そういうとき、担当の職員や講師のぼくに、そういう人の排除を頼むメンバーもいる。しかし、その排除行為をぼくらが請け負ってしまったら、狛プーの存在価値はなくなるとぼくは思う。ネットワークの支援ではなく、ファシズムになってしまうからである。
 やはり、望ましいのは、「いやだ」と思った人が「あなたの○○という行為は、私はいやだ」とさわやかに自己主張することなのだ。その人から電話がかかってくるのがいやだったら、「あなたからの電話はほしくない」ときちんというべきなのだ。ちゃんとそういうふうに主張できる人も狛プーにはいる。これが自立したネットワーカーの態度である。そのことによって、スパイたちは狛プーから自然に排除されていく。相手には弱みにつけいる隙がなく、これ以上関わるとかえって自分の内面にダメージを受けることに気づくからである。つまり、ここでの排除とは、規制や規則などによってではなく、さわやかな自己主張などをとおして個々人が内面的に排除することである。
 だから、逆にいえば、狛プーのメンバーが狛プーのサンマ以外の場でもこの世でたくましく生き抜いていくためには、スパイが単純なナンパ目的などで少しは入ってくれるのも、人びとがいがみあう現実社会のなかでどう生きるかという現実原則を学ぶ絶好のトレーニングの機会になるのだ。それに、さわやかな自己主張ができれば、それは基本的信頼を示す行為の一環でもあるのだから、もしかしたら、スパイにとっては生まれて初めてのいい体験になり、「イヤなヤツ」から「いい男いい女」への自己変容の可能性さえなくはない。人間は無限の変容の可能性をもっているのだから。どちらにせよ、いい男といい女だけが狛プーに残るという同じ結果になる。
 ここで、「いい男いい女」の定義は、まだしていない。p110に「自分自身の痛みや自分の枠組と異なる他者とどれだけ深く対面できているか」と書いたが、そのほか、「人に傷つけられることよりも、人を傷つけてしまうことを心配する人」、「被害者意識に陥らず、さわやかに主張できる人」、あるいは、「いやなときは、潔く撤退して静かに微笑んでいる人」などと定義ができるかもしれない。どの場合でも、もともと弱い存在としての人間が、それほどの徹底したいい男いい女になれるわけがないとも考えられる。人間はだれでも「ろくでなし」であることにはかわりない。だから、実際には、いい男いい女になりたいと思って生きている人、つまり変容等の対象を自分自身に向けている人たちのことを「いい男いい女」というべきかもしれない。
 学歴偏重社会に対して、それに代わる生涯学習社会の重要な指標のひとつとして、「人が多様な個性に応じて適正に評価される」ということがある。しかし、それが表面的な評価にすぎなかったり、他者を打ち負かすことを目的にした資格取得などばかりが評価されて非人間的な受験地獄が再現したりするのでは、人間の幸福追求のあり方に資するものとはいえない。狛プーなどのネットワークでは、イヤなヤツが得する目にあうのではなく、いい男やいい女こそが報われる関係を自然に創り出す評価システムを内包しているのである。
 社会教育の全国的状況からみても、前項で述べた公的サービスの存在意義を考えると、よっぽどの人的・財的余裕のない限り、いい男いい女になりたいという意思のないスパイやイヤなヤツに追従するようなサービスをする必要はないといえる。そんな余裕があるのなら、本来は社会からいい男いい女として評価されてよいはずの一部の青年たちが、現代社会では癒しのサンマを味わうことなく疎外されて生きている現実を、関係者はもっと深刻にとらえて、せめて「何とかしたい」ぐらいには思うべきである。現実には、全国の青年教育の場で、いい男いい女が集まってくれているとは思う。ただ、行政側や担当者が、「行政の公平の原則」を機械的に適用してしまって、参加者が少ないなどの理由からその事業に消極的になったり、表層的な事業展開をしたりしがちであり、そのためにせっかくのいい男いい女の参加を生かしきれていない結果に陥っていると思うのだ。いい男いい女や、そうなろうとしている人をこそ、行政は支援すべきである。
◆ 「おうち」としての狛プー(狛プーの公的・現代的意義)
 先日、見学者との交流会で、ある狛プーのメンバーが「狛プーはおうちだ」と言った。学校や職場も、疲れるときはあるけれど、それなりに楽しい。充実している。しかし、狛プーはそういう「外の世界」の延長ではなく、それらの外の世界から帰ってきて、また外に出かけていくための安心できる足場、つまり「おうち」のままであってほしいと彼はいいたかったのだと思う。
 そして、少なくともその交流会では、狛プーのメンバー全員が、「狛プー自体が全体でボランティア活動などによって社会に参加することになるとしたらいやだ」と言っていた。狛プーに関わりはじめてから、多くのメンバーが自信と元気を獲得し、自分にあったそれぞれのかたちでの多様な社会参加を、いつのまにか、ちゃっかりと、したたかに始めている。それにもかかわらず、狛プーについては「おうち」のままであったほうがいいというのだ。
 ぼくには、最初、これが意外だった。人間は元気がでてきたら社会にも主体的に関われるようになる。もうすでに何回も述べたとおり、癒しのサンマとしての狛プーの、しかも公的社会教育の一環としての意義はぼくもつくづく感じていて、狛プーが開かれる毎週木曜日の夜をぼく自身も楽しみにしているぐらいだ。しかし、「狛プー自体は社会参加しないで」というかれらの気持ちに「えっ」と思ってしまったのだ。それは、まず癒される、そうしたら次に社会参加(ボランティア、地域活動、市民活動)に発展するというような過去の社会教育指導者にありがちな固定的で図式的な思考と、狛プー自体も社会参加に発展しないかという期待が、ぼく自身のなかにもあったからだろう。
 その抑圧されてこりかたまったぼくの思考が、「狛プーはおうちだ」という言葉によってするすると解き放たれていった。そういえばおうちというのは、どんなに大人になってもいつまでも必要なものなのだ・・・・。おうちにとどまっていては発展がないというのではなく、おうちも外の世界への参加も、どちらも同時進行的に癒しと変容のサンマになればよいというだけの話なのだ。
 以前、狛プーの女子学生メンバーが、自分が受講している大学の社会教育系のゼミで狛プーの実践を発表したら、他の男子学生から「癒しのようなそんな私的なことだったら、公民館や社会教育主事に頼らずに、自分たち自身でやるべきだ」と言われたといって考え込んでいたことがあった。彼女からそれを聞いて、ぼくもその男子学生の発言が頭に引っかかっていたらしい。そのため、狛プーのメンバーの何人かが自発的に各様に社会参加するという「いまの到達段階」だけではなく、狛プー自体が社会参加して地域や社会に対して公共的役割を果たすようにならないか、などと勝手なことを思っていたのだろう。
 しかし、いま考えれば、その男子学生は、社会教育のいう「自主性の尊重」の意味をまだ生半可にしか理解できていなかったから、そして、現代社会に生きる人びとの癒しへの願望の正当性を十分には支持し得ていなかったから(私的であるという理由で!)、さらには公的社会教育がそもそも私的である個人の成長をなぜ支援するかを自分の頭で主体的にはとらえていなかったから、そんな発言をしたのではないかと思う。いまのぼくなら彼にこう言うだろう。「現在の公民館や社会教育、青年教育というのは、しかめつらをしないでもっとのびのびと楽しみ、安らげるところになりつつあるんです。そして、そういうサンマをつくることこそ、現代社会に生きる人類の幸福追求のために行政が優先して支援すべき緊急な公的課題なんですよ」。
 ひとは「おうち」すなわち癒しのサンマがあるからこそ、「外の世界」すなわち社会に出かけ、また帰ってくることができる。だから、だれにだってそういうおうちが必要である。もちろん、もしそういう居心地のよいおうちをつくれる環境を、いまの社会が十分に提供できているのなら、おうちづくりなんか自分たちで勝手にやれと突き放してもいいだろう。だが、不信と孤立の現代社会の状況を考えると、そんなに楽観的なことはとうていいえない。「自分たちでやれ」と突き放した人自身だって、現代社会では実際には不十分なおうちしかもっていないはずである。「おうち」は緊急に整備が要請されている心のインフラストラクチャー(社会的基盤)なのである。
 逆に、むしろ社会に関わる運動こそ自主的に、つまり自分たちで勝手にやるべきではないか。また、行政側が、青年や市民の一人ひとりに対して、ちゃんと社会参加につながったかどうかを気にすることも、考えてみればちょっと余計なお世話だ(行政が行政効率の向上の面からそうしたくなる気持ちはよくわかるが)。社会参加をする、しないは、ごく個人的で微妙な決断に委ねられるべき事項だからである。そんなことよりも、全国民がおのずから社会参加することを自己決定したくなるような、元気が出る自他受容と自己変容のサンマ(図表1、p9)をあちこちにつくることこそ、公的社会教育が責任をもってその社会的基盤づくりのための条件整備をし、参加者主導で進めていくことが、いま強く求められているのではないか。
◆ 癒しと成長、受容と変容の循環
 上下同質競争社会におけるキャッチアップ型教育(追い付け、追い越せの教育)は、学習者の成長・発達ばかり重視してきた。しかし、本人が生きる意味としては、本音の部分では、癒し・安らぎという要素も、成長・発達と同様に大切だ。それはなぜか。
 孔子の「川上の嘆き」はつぎのとおりである。「子、川の上に在りて曰わく、逝者は斯くの如きかな。昼夜を舎かず」。通釈は「孔子が、川の岸辺に立って言った。昼も夜も、一瞬もとどまることなく流れ続ける、この川のように、学問もまた、そうでなければならない」。ところが、駒田信二は、この通釈の後半部分をつぎのように批判している(『論語−聖人の虚像と実像』岩波書店)。

 川のほとりにたたずんで自らを嘆く孔子の姿には、人間的な大きなひろがりがある。だが、時はこの川の流れのように過ぎてゆくものゆえ、瞬時もおこたることなく学問にはげみなさい、などと教訓を垂れる孔子の姿には、それがない。「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」(伝、朱子「偶成」)という、口やかましく窮屈な、しかめつらしい顔をした、しかし、なんのなやみもなく自分の言葉に満足している先生の姿があるだけである。なんと魅力のない聖人像であろう。孔子がそんな小さな人であるはずはない。

 宇宙や人間が有限なゆえに、また愛や存在の確証がないがゆえに、宿命としての無常観や、現代社会による個の抑圧にさいなまれている人間に対して、癒しを捨象したうわべだけの教育は非力(善導やスローガンという虚偽)である。その逆に、非力(無常という真実)を自覚した教育こそが現代人に癒しをもたらす可能性をもつのである。
 開きたい心を安心して開くことのできる水平異質交流の突出的なネットワーク(p110)によって癒しのときが訪れるのならば、そのつぎには自信にあふれた成長も期待できよう。社会的に認知されてこそ、他者から愛されてこそ、自己実現は成立するのだ。もちろん、それは、逆の方向でもスムーズに作用する。ひとことでいえば、受容と変容は好循環するということである。自己や他者の弱い部分や醜い部分をあるがままを受け入れる(受容)ことによって初めて、自己の現状の枠組を自己嫌悪に陥らずに少しずつ改善する(変容)ことができるのだ。これが潔い自己決定につながる(図表1、p9)。ただし、受容は第一義の援助目標とすべきだが、変容は必ずしも必要不可欠のものとはすべきでないと思う。また、ここでの癒しのサンマは、きたるべき社会やコミュニティのあり方の予言者であり先駆者である。そういう意味から、狛プーが追求しているものは、まさに、公的課題であり、現代的課題であるといえるのだ。

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