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ストーリー:若者論のトレンド 若者理解のストーリー
クリックしてください 図 ストーリー1:個人化社会における新しい教育の姿
クリックしてください 図 ストーリー2:若者の個を大切にする生き方と社会参画
クリックしてください 図 ストーリー3:友人・仲間との共存から共有への転換

【各ストーリーの概要】
図 ストーリー1:個人化社会における新しい教育の姿
 主体性を育てる教育とは何か。今や、「生涯学習」だけが主体的な学習だという議論さえ見受けられるが、これまでの人類が社会で行ってきた「社会教育」や「学校教育」の価値を軽んじることがあってはならない。過去の「集団一斉承り学習」から脱却して、文字通り「教育」として、個人化社会において必要な自己決定能力を身につけさせる教育が生まれつつある。われわれはこの動向を見逃さず、新しい教育のストーリーを編んでいく必要がある。そこでの「教育」とは、目標と目標到達方法、到達度評価方法を明示しつつ、学習者の参画と協働を育てる指導活動を指す。

ワークショップ型授業の場合、指導者の中心的行為は、課題提示(問いかけ)、紹介(読み上げ)、回答(レスポンス)、指示(ワークの進め方)であり、そのことによって、役割提供機能(ワーク)、表現支援機能(文章、話し合い、発表)、受容機能(学生の表現への評価)、課題解決機能(気づきの促進)、揺さぶり機能(固定概念の打破)を発揮していたと推察できる。
2000年11月西村美東士「ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高める授業方法」、『大学教育学会誌』22巻2号、pp.194-202
図 ストーリー2:若者の個を大切にする生き方と社会参画

 個人化は社会の必然だ。個人化社会において、若者が個人として、社会の一員として充実して生きていくためには、社会が若者に自己選択と自己決定の余地を提供する必要があるし、若者が社会で、自己責任を受け入れて選択と決定の自由を行使する必要がある。これを認めずに、若者を「守ってあげよう」とする大人の存在と、「大人に守られたい」とする若者の存在は、個の発揮や参画を押しとどめ、時代の進展を妨げる「マイナスの力」になりかねない。
 20年以上前に書いた次の論文のとおり、「まったりと」脱力して生きることが「終わらない日常」を生きる知恵という若者にとってのけだるい時代を、今の時代が乗り越えつつあることを望むものである。そして、若者にとっての準拠個人として「輝かしき非日常」を生きている大人の個人が、確かにいると私は考えている。

 宮台真司は、先に進むのがいいか、引き返すのがいいかを、いったん立ちどまって「選べる」ようにしておくという「ワクチン戦略」を提起しつつ、「わかっていながらその道を選ぶ」というのであれば、彼女たちの意思や自己決定の問題とした。
 また、宮台は、『終わりなき日常を生きろ』(95/7、筑摩書房)では、「輝かしき自分」などめざさずに「まったりと」脱力して生きることが「終わらない日常」を生きる知恵に通じるとした。このように宮台は、社会システムの優位性を打ち出し、学校、家庭、地域等の青少年個人に対する社会化役割の無力を主張した。
 しかし、多くの青少年教育が支援しようとしてきた自己決定能力とは、「わかっていながらその道を選ぶのであれば、それは自己決定なのだから」とすますような「脱力」や「虚無」などではなく、「社会システム」のなかで指導者自身も青少年とともに追求してきた「変わるはずのない理念」である。多くの青少年教育は「社会システム」に適応するばかりでなく、これをよりよく変革していく主体としての自己と青少年の自己決定能力の支援をめざしてきたはずである。実際、青少年教育の指導者のなかには、「輝かしき非日常」を日常的な活動のなかで味わって生きている大人の個人が存在し、青少年にとっての準拠個人になりうると考える。

2000年6月西村美東士「1990年代青少年教育施策と理論の文献分析−10年間の青少年問題文献ドキュメンテーションから」、『徳島大学大学開放実践センター紀要』11巻、pp.27-52

図 ストーリー3:友人・仲間との共存から共有への転換

 個性を殺して同調圧力に屈する。そして、異質の価値については、「人それぞれだから」と言って、無干渉でスルーする「共存の作法」によって、やっかいから避けようとする。このことによって、異質の価値との出会いの機会が失われ、「島宇宙」が広がる。これを価値観と感動の「共有」にまで高めるためには、対他者対話と自己内対話の双方が必要である。
 私が長年関わってきた狛江市中央公民館青年教室での青年教育実践(狛江プータロー教室:狛プー)について、自著「癒しの生涯学習−ネットワークのあじわい方とはぐくみ方」から抜粋しておきたい。

 狛プーのいつものペースだとつぎのようになる。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。ぼくなどの気の利かない幾人かの者は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べてふとん干しをしている者までいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかでは感動する。もちろん、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。
 つまり、狛プーというところは、善導とかスローガンとかの言葉とは無縁の時空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーが大切にする言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そういうなまの言葉は、受け取る相手によって、薬にもなり、毒にもなる。どちらにするかは、聞く側の自由であり、自己決定に任される。
 では、なぜ、狛プーのメンバーはそういう真実の人間存在との出会いを共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(ミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自己を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が自分を写し出す鏡になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることが魅力的なのだ。
 2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組が、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これは、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間存在が発する根源的な欲求であるといえよう。
 3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さが、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかで「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると評価することができるのである。
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