宮台真司は、先に進むのがいいか、引き返すのがいいかを、いったん立ちどまって「選べる」ようにしておくという「ワクチン戦略」を提起しつつ、「わかっていながらその道を選ぶ」というのであれば、彼女たちの意思や自己決定の問題とした。
また、宮台は、『終わりなき日常を生きろ』(95/7、筑摩書房)では、「輝かしき自分」などめざさずに「まったりと」脱力して生きることが「終わらない日常」を生きる知恵に通じるとした。このように宮台は、社会システムの優位性を打ち出し、学校、家庭、地域等の青少年個人に対する社会化役割の無力を主張した。
しかし、多くの青少年教育が支援しようとしてきた自己決定能力とは、「わかっていながらその道を選ぶのであれば、それは自己決定なのだから」とすますような「脱力」や「虚無」などではなく、「社会システム」のなかで指導者自身も青少年とともに追求してきた「変わるはずのない理念」である。多くの青少年教育は「社会システム」に適応するばかりでなく、これをよりよく変革していく主体としての自己と青少年の自己決定能力の支援をめざしてきたはずである。実際、青少年教育の指導者のなかには、「輝かしき非日常」を日常的な活動のなかで味わって生きている大人の個人が存在し、青少年にとっての準拠個人になりうると考える。
2000年6月西村美東士「1990年代青少年教育施策と理論の文献分析−10年間の青少年問題文献ドキュメンテーションから」、『徳島大学大学開放実践センター紀要』11巻、pp.27-52
狛プーのいつものペースだとつぎのようになる。キャンプの夜が明ける。撤収の朝がきた。ぼくなどの気の利かない幾人かの者は、ぼうっとしている。しかし、ふと気がつくと、朝早くから起きて炊飯場のまきに火を起こしている者もいれば、みんなが使ったバンガローのふとんをベランダの手すりに並べてふとん干しをしている者までいる。それらの人たちは勝手にそうしている。スローガンのもとにいっせいに動くということではないのである。しかし、いろいろとやってくれているそういう仲間を見て、ぼくたちは、「ああ、○○君っていいやつだったんだ」「すてきだなあ」と心のなかでは感動する。もちろん、そのときのしおりの「来たときよりも美しく」というスローガンは、狛プーのみんなにとっては珍しいがゆえにユーモアをもって肯定的に受けとめられたということは、念のために付言しておきたい。
つまり、狛プーというところは、善導とかスローガンとかの言葉とは無縁の時空間なのである。そういう言葉には「うそくささ」をかんじてしまうからである。狛プーが大切にする言葉は、人間存在から発する真実の言葉であり、そこには善も悪も入り交じっている。人間存在の真実は、そもそもアンビバレンツ(両面価値)だからである。そういうなまの言葉は、受け取る相手によって、薬にもなり、毒にもなる。どちらにするかは、聞く側の自由であり、自己決定に任される。
では、なぜ、狛プーのメンバーはそういう真実の人間存在との出会いを共感し、重視するのか。ぼくの見たところでは、1つには、一人ひとりが自分自身に関心があるからである(ミーイズム)。自分とは何か、自分はどう生きたいのか、どうしたら幸福になれるか、どうしたら自己を実現できるか。それを知るためには、他者の真実の言葉や生き方が自分を写し出す鏡になってくれる。すべての人間は、少なくとも自分自身の生き方には関心があって生きているのだと思われる。主君のためにあえて殉死する人だってそうだ。自殺する人だってそうだ。どんな怠け者だってそうだ。自分はどう生きるか、あるいは生きれていないかを、一生懸命考えたり悩んだりしている。だからこそ、狛プーでそういう人間存在の真実に出会えることが魅力的なのだ。
2つには、「どこまでも知りたい」という真実の出会いへの限りない欲望が、人間には基本的に存在するからであろう。どこかのだれかが自己の立場や職務上の都合から発した御都合主義的な言葉などには、その人に義理でもない限りまったく興味を感じないものだが、自分が今まで経験したことのない考え方や感情の枠組が、粉飾されることなく、すぐそこに、仲間の発言として、あるいは予期される出来事として存在していることに気づいたとき、それをもっと知りたいという猛烈な欲望が生ずるのである。これは、「ひと・もの・ことへの出会い」に対する人間存在が発する根源的な欲求であるといえよう。
3つには、アンビバレンツな人間的真実との出会いを、薬にするか毒として飲むかは自己決定するのだという潔さが、狛プーのメンバーにはそれなりに育っているからであろう。そういう潔さがなければ、うえの2つの理由があっても、人間存在の真実に関わろうとするような行動には実際には結びつかないのである。こういう潔さをもつということは、かなり大変なことだ。家庭や学校で保護や管理ばかり受けてきた現代青年が、狛プーのなかで「自由への恐怖」に初めて出会い、つぎにその恐怖を受容して、自己決定の自由を行使する主体性と自信を身につけはじめていると評価することができるのである。
出入り自由の「こころのネットワーク」の運営法